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中川隆 koaQ7Jey コメント履歴 No: 100298
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[近代史3] 雅子という女は凄い女 _ 気に入った相手とは手当たり次第という感じ _ 男性経験は20人は超えている 中川隆
97. 中川隆[-10395] koaQ7Jey 2019年5月17日 18:34:05 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[1908]

2008.12.13
暴走する雅子妃と東宮職 狙われた皇室
http://koramu2.blog59.fc2.com/blog-entry-303.html

                                         
皇室問題 陛下に「様々なご心労」 宮内庁長官


羽毛田信吾 宮内庁長官 両陛下の代弁者として献身的な職務ぶりが目立つ。

ストレスが原因とされた胃腸の炎症など体調不良を訴えていた天皇陛下について、宮内庁の羽毛田(はけた)信吾長官は11日、「ここ何年かにわたり、ご自身のお立場から常にお心を離れることのない将来にわたる皇統の問題をはじめ、皇室にかかわるもろもろの問題をご憂慮のご様子を拝している」とし、陛下に「様々なご心労」があると述べた。

長官は記者会見で「私なりの所見」としたうえで、陛下が、皇太子さまや療養中の皇太子妃雅子さまの体調、公務に関して気遣っていることを説明。皇太子さまが昨年6月、十二指腸のポリープの切除手術を受けた際、人さし指の先ほどだったポリープの大きさに天皇、皇后両陛下は驚き、相当期間、検査がされていなかったことに強い不安を持ったという。両陛下は、皇太子ご夫妻が定期的に健康チェックを受けるよう願っているという。

また、雅子さまの「適応障害」との診断に関し、「皇室そのものがストレスであり、病気の原因」という意見があることについて、「皇室の伝統を受け継がれて一心に働き続けてこられた両陛下は深く傷つかれた」と述べた。

さらに、皇太子ご夫妻の公務について、皇太子さまが何度か見直す考えを示し、両陛下の依頼で歴代の宮内庁長官らが相談に乗っていることについても説明したうえで、皇太子さまから具体的な提案がないことも明かした。

陛下の公務については、天皇誕生日や年末年始など今後1カ月程度、ストレスになりそうな状況をできるだけ減らすとしている。

羽毛田長官は今年2月の会見で、陛下が愛子さまと会う機会が少ないことを「残念なこと」とし、皇太子さまが「お会いする機会を作っていきたい」と答えたことについて、「回数は増えていない」とし、「発言なされたからには実行を伴って頂きたい」と皇太子さまに苦言を呈した。(佐々木隆広)

(コメント)
今回の羽毛田長官の発言内容は、恐らく天皇皇后両陛下のご了承を得てのものだろう。雅子妃のわがままや策謀に振り回され、どれだけ多くの人達が迷惑をこうむり、傷ついてきたか、それを考えると今回の羽毛田長官の発言は遅きに失した感すらある。

強度の我がままや好き嫌いを病気と考えれば、雅子妃が主張する適応障害も確かに病状の一種と考えられるのかもしれない。しかし、好き放題に生きられる人間はごく一握りであり、大部分の人間は嫌なことも我慢して騙し騙し生きているのではないだろうか。

一部の特異な人間の我がままが尊重され、まともな人間の我慢が当たり前のように強制される。左翼やマスコミが作り上げてきた歪んだ世相が、そのまま皇室に及んでいるように感じるのは自分だけではないだろう。恵まれない人間への援助はあくまで善意であり、それを盾にした健常者への逆差別を許してはいけないと思う。ましてや、病気のふりをして特権を貪るなど、論外と言っていいだろう。

雅子妃側は何かあれば病気、病気というが、患者の自己申告と特定の医者のいい加減な文書で決まる病気も珍しい。重度のウツで薬を飲みながら会社に通っている人間もいる中、本当に精神的に病んで苦しんでいる人間からすれば、雅子妃の勝手気ままな主張は腹だたしいに違いない。本当に雅子妃が病気だというなら、少なくと東宮医師団という名の謎の医師団は、公の場で会見を開くか、入院等の今後の治療方針を明らかにするべきであろう。

なぜ、それをやらないのか、やらないのではなく出来ないのか、適当な文書ではなく、雅子妃の侍医である大野医師はキチンと顔を国民の前に出して責任あるコメントをするべきである。

雅子妃の学歴は一般のものとは異なり、但し書きが必要

帰国子女だから古くさい皇室と合わない
→小1から高1まで日本で教育を受けており、義務教育期間に外国で過ごすという厳密な意味での帰国子女にはあたらず。紀子さまの方が、幼少期に加え義務教育期間にも外国に住んでいた(小5〜中1)ので本当の帰国子女。

1981〜1985年6月:ハーバード大学経済学部(17〜21歳)
→小和田父は1979年〜1981年、ハーバード客員教授。教員子弟のコネ入学枠あり。また一学部生の卒業論文に普通関わらないような財界人(糠澤和夫・真野輝彦・榊原英資)が卒論作成の手助けをしている。
http://www.yuko2ch.net/mako/imgbbs3jik/img-box/img20070404115228.jpg

1986年4月〜1987年3月中退:東大法学部(22〜23歳)
→3年次編入のため、共通一次試験も通常の二次学科試験も受けていない。小和田恒は *東京大学の非常勤講師として25年間にわたり* 国際法、国際機構論を教える。(1963-1988年東大非常勤講師) ソース=http://www.nyulawglobal.org/events/dfls/DGFOwadaBio.htm

1986年10月:外務公務員I種試験に合格(23歳)、87年4月入省(24歳)。
→東大は中退。2000年度まで行われていた外務公務員I種試験は、通常の国家公務員I種試験と異なり、強力なコネ枠と言われる。向上心旺盛なキャリア志向の女性が、なぜ父親が重役職にある企業の縁故採用試験を?

1988〜1990年:オックスフォード大学に留学。(24〜26歳)
→外務省からの国費(税金)留学。同期留学者のうち一人だけ、修士号を取れずに帰国。週末ごとに洗濯物を抱えてパリに往復したという情報有り。小和田父は1988年〜1990年:OECD(経済協力開発機構・事務局はパリ)日本政府常駐代表。

雅子妃の高学歴キャリアウーマンとは程遠いお粗末な英会話の能力も指摘されている→マサグリッシュ

※本来、皇太子妃としての役割を果たしてくれれば過去の経歴はどうでもいい。当人及び擁護派が、役割を果たせない言い訳として華麗な過去を持ち出すので検証せざるを得ない。

公務キャンセルの当日に元気に別行動
(2007年度分のみ同日シリーズより抜粋。一部省略)

07.01.22
モザンビークのゲブーザ大統領夫妻との宮中午餐を欠席した当日、皇太子がビオラ奏者として出席した演奏会を私的に鑑賞
≪週刊女性2/13号≫

07.01.26 26〜27日
スケート国体@群馬県の公務を欠席した当日、乗馬。
≪週刊女性2/13号≫

07.03.02
東宮御所での東京都知事によるご進講の公務を欠席した当日、学習院幼稚園ひな祭り会の日のお迎えとママ友作り。
≪女性自身3/20号≫

07.03.15
東宮御所での勤労奉仕団へのご会釈は欠席した当日、オランダのウィレム・アレキサンダー王太子との午餐会には出席。

07.04.06
一家で朝早くスケートを楽しむ≪週刊女性5/8・15号≫。その当日、経済産業省製造産業局長,同生物化学産業課長のご進講(東宮御所)を欠席。

07.04.11
東宮御所での勤労奉仕団へのご会釈は欠席した当日、父・小和田恒氏がパネリストとして出席した国連大学でのロザリン・ヒギンズ国際司法裁判所(ICJ)所長講演会は夫妻で私的に聴講
≪国連大学HP配信ストリーム動画+週刊女性5/1号、読売ウィークリー5/6・13号≫

07.04.27
東宮御所での財務省国際局長によるご説明を欠席した当日、国連大学にお出かけ
≪週刊女性5/22号≫

07.07.19
雅子と愛子、幼稚園の帰りに2回目の電車(目白〜代々木乗換え〜信濃町)乗車体験、日テレとTBSがそれを報じる。同日東宮御所では、離任イスラエル大使・離任クウェート大使・離任エジプト大使との接見公務があり皇太子が単独で対応。それなりに混んだ電車に乗るだけの元気がある雅子は欠席。

07.07.22
賢所仮殿にて文武天皇千三百年式年祭の儀があったものの東宮から出席したのは皇太子のみ、雅子は祭祀を当然のごとく欠席。同日一家で日生劇場へ「小さな山神スズナ姫〜大ナマズのひみつ!〜」ミュージカル人形劇を鑑賞し複数ブログ・mixiに目撃談が書かれる。また出演者であるジェームス小野田氏が楽屋にて皇太子一家&雅子の親戚(恐らく礼子のことか?)と歓談したと、米米クラブ公式ブログにて述べている。

07.07.27-29
佐賀県行啓(高校総体)を「体調」を理由に欠席、皇太子が留守の間の27日と29日に東宮御所でプライベートな子供会を開く
≪週刊文春8/9号≫。

07.07.30
「明治天皇例祭の儀」の祭祀、ご接見の公務を欠席した当日、自宅で3回目のプライベートな「子供会」を開く
≪週刊文春8/9号≫

07.08.12
オックスフォード大学演劇協会「夏の夜の夢」鑑賞公務を欠席した当日、六本木の東京ミッドタウン内のメキシコ料理店で外務省時代の仲間と夕食≪AERA 9/10号≫,庭の見える個室にて男女三人ずつで4時間の「プライベート・ディナー」、「力強いガーリックライス」を食べたとのこと。
≪10/15夕フジニュース≫

07.10.11
ブラジルのパラナ友好経済使節団とのご接見を欠席した当日、マンダリンオリエンタル東京ホテル37階のフレンチレストラン「シグネチャー」で田園調布双葉時代友人と“同級生ランチ”
≪週刊文春11/1号≫

07.10.12 10/12-14
秋田県行啓(全国障害者スポーツ大会)を欠席中に乗馬
≪週刊女性10/30号≫。

07.10.13
八大行啓の一つである全国障害者スポーツ大会開会式を含む秋田県行啓には皇太子のみ出席(10/12-14)、欠席した雅子は愛子を連れて学習院初等科運動会見学へ元気に出かけ昨年同様マスコミカメラを呼んでロケ撮影させる。

07.10.15
皇太子は両陛下&秋篠宮両殿下とともにナミビア大統領夫妻との午餐に出席、午餐会を欠席した雅子は銀座教文館で「藤城清治 光と影展」お忍び鑑賞
≪ヤフーブログ「藤代清治 銀座 雅子さま」&『女性自身』11/6・13号≫。

07.11.3-5
第31回全国育樹祭臨席等にて皇太子ひとりぼっち熊本県行啓へ【八大行啓】。11/4に雅子は赤坂御用地内を散策≪産経ニュース皇室ウィークリー11/10≫、同日外務省北米二課同僚の欧州転勤送別会、麻布富麗華2万円コース上海蟹等3時間お楽しみ≪週刊文春11/22号≫だったとのこと。合わせて11/5には愛子内親王学習院初等科面接受験の付き添いにも出向く。
≪11/7TBSイブニング5≫

07.11.14-16
ユニバーサル技能五輪国際大会視察等にて皇太子ひとりぼっち静岡県行啓へ。11/16雅子は多摩動物公園入り口まで愛子の遠足付き添い。但しこの付き添いは行きのみで、帰りのお迎えについては「妃殿下はこの日  ご 予 定  がおありで、先に御所にお帰りになったそうです。後は他のお母さんたちやお付きの人たちに愛子を頼みます≠ニお願いされ、あえて、お迎えにも行かれなかったそうです」(宮内庁関係者)…のように人任せだったと『女性セブン』12/13号記事に書かれる。この「ご予定」が何であったかは現時点で不明。

07.11.20
国立女性教育会館で行われる「NWEC 30周年記念国際シンポジウム」への出席について、雅子の意向を侍従らが数日前になっても確認できず、内々に決めた翌日中止されたと『週刊朝日』2008/2/29号報じる。そしてこの日、雅子は国連大学訪問と皇居内馬場で乗馬の私事お楽しみをしていたとMSN産経皇室ウィークリー2008/11/24。

07.12.21
皇居宮殿での午餐(内閣総理大臣始め閣僚等)欠席。同日夕刻に一家で15分ほど恵比寿ガーデンプレイス・クリスマスイルミネーション見物≪週刊文春12/27号、12/21TVニュース≫、その後近くのホテルレストラン(地理的にウェスティンホテル「ビクターズ」か)で小和田夫妻、妹・池田礼子家族らと食事会
≪女性自身1/22号≫≪12/21日テレニュース≫

07.12.28
毎年恒例御所でのお餅つきを東宮一家直前でドタキャン≪サンデー毎日2008/1/20号≫、その日の夜に東宮夫妻とピピマリかかりつけ獣医師夫妻、銀座ミシュラン三ツ星レストラン・ロオジエにて4時間以上夕食を楽しむ
≪2007/12/28-29NNN・FNN・ANNニュース≫

孫の顔を心待ちにする義理の両親(天皇皇后両陛下)に ...

『週刊文春』2006年2月23日号、27ページより
 
「お世継ぎ」をめぐって天皇皇后と皇太子ご夫妻の間には見解の相違が存在することが顕在化したのはご成婚から三年目のことだった。皇太子ご夫妻は九四年、九五年と続けて中東諸国を歴訪されているが、そのご帰国後の九五年、天皇のお言葉に雅子さまが直接異を唱えられたことがあった。

その日、天皇は雅子さまにこう語りかけたと伝えられている。

「国民みんなが待っているからね」

すると雅子さまは色をなしてこうご返事をされた。

「私の友達にそんなことを言う人は一人もいません」
あまりのおっしゃりように、周囲は唖然としてしまったという。

(コメント)
一般の家庭でも、両親と息子夫婦の間で「早く孫の顔を見せてくれ」といった程度の会話は良く聞かれるが、千五百年以上も男系継承が続く天皇家では、子作りは一般家庭以上に必須であり、天皇皇后両陛下のお言葉はむしろ当然のことだと思う。

天皇家の男系継承が途絶えれば、日本という国にとっても大きな損失であり、未来永劫に取り返しがつかないことになる。下記の東宮職の言葉を借りれば、雅子妃は皇室の伝統と歴史を重んじているとのことだが、本当に重んじていたら子作りに拒否反応を起こすことなど考えられない。

一般の家庭でも、経済的な問題がなければ子作りに拒否反応を示す母親は極めて少数派だろう。こんなとんでもない嫁が長男のところに来てしまっては、天皇皇后両陛下のご心痛とストレスは察して余りあるものがある。

また、一部で同日シリーズとして有名な雅子妃のいい加減な行動ぶりを 2007年分に限って紹介したが、はっきり言って雅子妃がなんらかの病気であるとは考えづらい。これで雅子妃が病気であるというのなら、世間一般の人間全てが病気ということになるだろう。

皇太子ご夫妻、両陛下の心遣いに感謝 東宮大夫が会見

野村一成 東宮大夫
野村一成 東宮大夫 雅子妃の父、小和田恒の元腹心で外務省出身。外務省出身者ばかりの東宮職の長。

宮内庁の羽毛田(はけた)信吾長官が11日、天皇、皇后両陛下が皇太子ご夫妻の健康などを心配しているという「所見」を示したことについて、皇太子ご夫妻のお世話役のトップである野村一成東宮大夫は12日の定例会見で、

「(ご夫妻は)両陛下のお心遣い、お励ましを心からありがたく思っておられる」と述べた。雅子さまの「適応障害」との診断に関し、「皇室そのものがストレスであり、病気の原因」との意見があることに、羽毛田長官が「両陛下は深く傷つかれた」と語ったことに対し、野村大夫は「まさに妃殿下ご自身が深く傷つかれている点であろうと思う」とし、「皇室の伝統もご公務も大切に考えておられ、それらを十分に行うことができるようにご治療に鋭意努めておられる」と述べた。

【野村一成 東宮大夫】

元外務省ロシア大使

1960年代後半モスクワの日本大使館において小和田恒と同時期勤務(ロシアンスクール仲間)

当時から小和田恒の腹心の部下の一人で雅子妃が幼少の頃からの知り合い(野村のおじさまと呼ばれていた)

小和田恒の名を貰って息子に「恒成」と名付ける
("恒"が自分の名前の文字より前である事からその忠誠ぶりが伺われる)

息子の恒成も2世外務官僚として現在、国際法局国際法課に勤務
(小和田が勤務している国際司法裁判所はここの管轄)

息子の上司、国際法局長の結婚時の仲人も小和田恒

(コメント)
羽毛田長官の会見に対して、この野村東宮大夫の会見はどうかと思うが、経歴から見ても分かるとおり、東宮大夫は雅子妃の父、小和田恒の子飼の部下だった人物であり、彼なりの小和田恒への忠誠のつもなのかもしれない。

野村東宮大夫の主張は、控えめに見ても天皇皇后両陛下に喧嘩を売っているようにしか見えないが、皇太子夫妻の健康診断も満足に出来ないようでは、現在の東宮職の存在そのものが不必要なのではないかと疑いたくなる。立場上、皇太子夫妻を批判しにくいことは理解できるが、もう少し言い方を考えてはいかがだろうか。
http://koramu2.blog59.fc2.com/blog-entry-303.html
http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/265.html#c97

[近代史3] 皇太子妃の雅子さんは典型的なダメダメ家庭出身者  中川隆
49. 中川隆[-10394] koaQ7Jey 2019年5月17日 18:34:31 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[1909]

2008.12.13
暴走する雅子妃と東宮職 狙われた皇室
http://koramu2.blog59.fc2.com/blog-entry-303.html

                                         
皇室問題 陛下に「様々なご心労」 宮内庁長官


羽毛田信吾 宮内庁長官 両陛下の代弁者として献身的な職務ぶりが目立つ。

ストレスが原因とされた胃腸の炎症など体調不良を訴えていた天皇陛下について、宮内庁の羽毛田(はけた)信吾長官は11日、「ここ何年かにわたり、ご自身のお立場から常にお心を離れることのない将来にわたる皇統の問題をはじめ、皇室にかかわるもろもろの問題をご憂慮のご様子を拝している」とし、陛下に「様々なご心労」があると述べた。

長官は記者会見で「私なりの所見」としたうえで、陛下が、皇太子さまや療養中の皇太子妃雅子さまの体調、公務に関して気遣っていることを説明。皇太子さまが昨年6月、十二指腸のポリープの切除手術を受けた際、人さし指の先ほどだったポリープの大きさに天皇、皇后両陛下は驚き、相当期間、検査がされていなかったことに強い不安を持ったという。両陛下は、皇太子ご夫妻が定期的に健康チェックを受けるよう願っているという。

また、雅子さまの「適応障害」との診断に関し、「皇室そのものがストレスであり、病気の原因」という意見があることについて、「皇室の伝統を受け継がれて一心に働き続けてこられた両陛下は深く傷つかれた」と述べた。

さらに、皇太子ご夫妻の公務について、皇太子さまが何度か見直す考えを示し、両陛下の依頼で歴代の宮内庁長官らが相談に乗っていることについても説明したうえで、皇太子さまから具体的な提案がないことも明かした。

陛下の公務については、天皇誕生日や年末年始など今後1カ月程度、ストレスになりそうな状況をできるだけ減らすとしている。

羽毛田長官は今年2月の会見で、陛下が愛子さまと会う機会が少ないことを「残念なこと」とし、皇太子さまが「お会いする機会を作っていきたい」と答えたことについて、「回数は増えていない」とし、「発言なされたからには実行を伴って頂きたい」と皇太子さまに苦言を呈した。(佐々木隆広)

(コメント)
今回の羽毛田長官の発言内容は、恐らく天皇皇后両陛下のご了承を得てのものだろう。雅子妃のわがままや策謀に振り回され、どれだけ多くの人達が迷惑をこうむり、傷ついてきたか、それを考えると今回の羽毛田長官の発言は遅きに失した感すらある。

強度の我がままや好き嫌いを病気と考えれば、雅子妃が主張する適応障害も確かに病状の一種と考えられるのかもしれない。しかし、好き放題に生きられる人間はごく一握りであり、大部分の人間は嫌なことも我慢して騙し騙し生きているのではないだろうか。

一部の特異な人間の我がままが尊重され、まともな人間の我慢が当たり前のように強制される。左翼やマスコミが作り上げてきた歪んだ世相が、そのまま皇室に及んでいるように感じるのは自分だけではないだろう。恵まれない人間への援助はあくまで善意であり、それを盾にした健常者への逆差別を許してはいけないと思う。ましてや、病気のふりをして特権を貪るなど、論外と言っていいだろう。

雅子妃側は何かあれば病気、病気というが、患者の自己申告と特定の医者のいい加減な文書で決まる病気も珍しい。重度のウツで薬を飲みながら会社に通っている人間もいる中、本当に精神的に病んで苦しんでいる人間からすれば、雅子妃の勝手気ままな主張は腹だたしいに違いない。本当に雅子妃が病気だというなら、少なくと東宮医師団という名の謎の医師団は、公の場で会見を開くか、入院等の今後の治療方針を明らかにするべきであろう。

なぜ、それをやらないのか、やらないのではなく出来ないのか、適当な文書ではなく、雅子妃の侍医である大野医師はキチンと顔を国民の前に出して責任あるコメントをするべきである。

雅子妃の学歴は一般のものとは異なり、但し書きが必要

帰国子女だから古くさい皇室と合わない
→小1から高1まで日本で教育を受けており、義務教育期間に外国で過ごすという厳密な意味での帰国子女にはあたらず。紀子さまの方が、幼少期に加え義務教育期間にも外国に住んでいた(小5〜中1)ので本当の帰国子女。

1981〜1985年6月:ハーバード大学経済学部(17〜21歳)
→小和田父は1979年〜1981年、ハーバード客員教授。教員子弟のコネ入学枠あり。また一学部生の卒業論文に普通関わらないような財界人(糠澤和夫・真野輝彦・榊原英資)が卒論作成の手助けをしている。
http://www.yuko2ch.net/mako/imgbbs3jik/img-box/img20070404115228.jpg

1986年4月〜1987年3月中退:東大法学部(22〜23歳)
→3年次編入のため、共通一次試験も通常の二次学科試験も受けていない。小和田恒は *東京大学の非常勤講師として25年間にわたり* 国際法、国際機構論を教える。(1963-1988年東大非常勤講師) ソース=http://www.nyulawglobal.org/events/dfls/DGFOwadaBio.htm

1986年10月:外務公務員I種試験に合格(23歳)、87年4月入省(24歳)。
→東大は中退。2000年度まで行われていた外務公務員I種試験は、通常の国家公務員I種試験と異なり、強力なコネ枠と言われる。向上心旺盛なキャリア志向の女性が、なぜ父親が重役職にある企業の縁故採用試験を?

1988〜1990年:オックスフォード大学に留学。(24〜26歳)
→外務省からの国費(税金)留学。同期留学者のうち一人だけ、修士号を取れずに帰国。週末ごとに洗濯物を抱えてパリに往復したという情報有り。小和田父は1988年〜1990年:OECD(経済協力開発機構・事務局はパリ)日本政府常駐代表。

雅子妃の高学歴キャリアウーマンとは程遠いお粗末な英会話の能力も指摘されている→マサグリッシュ

※本来、皇太子妃としての役割を果たしてくれれば過去の経歴はどうでもいい。当人及び擁護派が、役割を果たせない言い訳として華麗な過去を持ち出すので検証せざるを得ない。

公務キャンセルの当日に元気に別行動
(2007年度分のみ同日シリーズより抜粋。一部省略)

07.01.22
モザンビークのゲブーザ大統領夫妻との宮中午餐を欠席した当日、皇太子がビオラ奏者として出席した演奏会を私的に鑑賞
≪週刊女性2/13号≫

07.01.26 26〜27日
スケート国体@群馬県の公務を欠席した当日、乗馬。
≪週刊女性2/13号≫

07.03.02
東宮御所での東京都知事によるご進講の公務を欠席した当日、学習院幼稚園ひな祭り会の日のお迎えとママ友作り。
≪女性自身3/20号≫

07.03.15
東宮御所での勤労奉仕団へのご会釈は欠席した当日、オランダのウィレム・アレキサンダー王太子との午餐会には出席。

07.04.06
一家で朝早くスケートを楽しむ≪週刊女性5/8・15号≫。その当日、経済産業省製造産業局長,同生物化学産業課長のご進講(東宮御所)を欠席。

07.04.11
東宮御所での勤労奉仕団へのご会釈は欠席した当日、父・小和田恒氏がパネリストとして出席した国連大学でのロザリン・ヒギンズ国際司法裁判所(ICJ)所長講演会は夫妻で私的に聴講
≪国連大学HP配信ストリーム動画+週刊女性5/1号、読売ウィークリー5/6・13号≫

07.04.27
東宮御所での財務省国際局長によるご説明を欠席した当日、国連大学にお出かけ
≪週刊女性5/22号≫

07.07.19
雅子と愛子、幼稚園の帰りに2回目の電車(目白〜代々木乗換え〜信濃町)乗車体験、日テレとTBSがそれを報じる。同日東宮御所では、離任イスラエル大使・離任クウェート大使・離任エジプト大使との接見公務があり皇太子が単独で対応。それなりに混んだ電車に乗るだけの元気がある雅子は欠席。

07.07.22
賢所仮殿にて文武天皇千三百年式年祭の儀があったものの東宮から出席したのは皇太子のみ、雅子は祭祀を当然のごとく欠席。同日一家で日生劇場へ「小さな山神スズナ姫〜大ナマズのひみつ!〜」ミュージカル人形劇を鑑賞し複数ブログ・mixiに目撃談が書かれる。また出演者であるジェームス小野田氏が楽屋にて皇太子一家&雅子の親戚(恐らく礼子のことか?)と歓談したと、米米クラブ公式ブログにて述べている。

07.07.27-29
佐賀県行啓(高校総体)を「体調」を理由に欠席、皇太子が留守の間の27日と29日に東宮御所でプライベートな子供会を開く
≪週刊文春8/9号≫。

07.07.30
「明治天皇例祭の儀」の祭祀、ご接見の公務を欠席した当日、自宅で3回目のプライベートな「子供会」を開く
≪週刊文春8/9号≫

07.08.12
オックスフォード大学演劇協会「夏の夜の夢」鑑賞公務を欠席した当日、六本木の東京ミッドタウン内のメキシコ料理店で外務省時代の仲間と夕食≪AERA 9/10号≫,庭の見える個室にて男女三人ずつで4時間の「プライベート・ディナー」、「力強いガーリックライス」を食べたとのこと。
≪10/15夕フジニュース≫

07.10.11
ブラジルのパラナ友好経済使節団とのご接見を欠席した当日、マンダリンオリエンタル東京ホテル37階のフレンチレストラン「シグネチャー」で田園調布双葉時代友人と“同級生ランチ”
≪週刊文春11/1号≫

07.10.12 10/12-14
秋田県行啓(全国障害者スポーツ大会)を欠席中に乗馬
≪週刊女性10/30号≫。

07.10.13
八大行啓の一つである全国障害者スポーツ大会開会式を含む秋田県行啓には皇太子のみ出席(10/12-14)、欠席した雅子は愛子を連れて学習院初等科運動会見学へ元気に出かけ昨年同様マスコミカメラを呼んでロケ撮影させる。

07.10.15
皇太子は両陛下&秋篠宮両殿下とともにナミビア大統領夫妻との午餐に出席、午餐会を欠席した雅子は銀座教文館で「藤城清治 光と影展」お忍び鑑賞
≪ヤフーブログ「藤代清治 銀座 雅子さま」&『女性自身』11/6・13号≫。

07.11.3-5
第31回全国育樹祭臨席等にて皇太子ひとりぼっち熊本県行啓へ【八大行啓】。11/4に雅子は赤坂御用地内を散策≪産経ニュース皇室ウィークリー11/10≫、同日外務省北米二課同僚の欧州転勤送別会、麻布富麗華2万円コース上海蟹等3時間お楽しみ≪週刊文春11/22号≫だったとのこと。合わせて11/5には愛子内親王学習院初等科面接受験の付き添いにも出向く。
≪11/7TBSイブニング5≫

07.11.14-16
ユニバーサル技能五輪国際大会視察等にて皇太子ひとりぼっち静岡県行啓へ。11/16雅子は多摩動物公園入り口まで愛子の遠足付き添い。但しこの付き添いは行きのみで、帰りのお迎えについては「妃殿下はこの日  ご 予 定  がおありで、先に御所にお帰りになったそうです。後は他のお母さんたちやお付きの人たちに愛子を頼みます≠ニお願いされ、あえて、お迎えにも行かれなかったそうです」(宮内庁関係者)…のように人任せだったと『女性セブン』12/13号記事に書かれる。この「ご予定」が何であったかは現時点で不明。

07.11.20
国立女性教育会館で行われる「NWEC 30周年記念国際シンポジウム」への出席について、雅子の意向を侍従らが数日前になっても確認できず、内々に決めた翌日中止されたと『週刊朝日』2008/2/29号報じる。そしてこの日、雅子は国連大学訪問と皇居内馬場で乗馬の私事お楽しみをしていたとMSN産経皇室ウィークリー2008/11/24。

07.12.21
皇居宮殿での午餐(内閣総理大臣始め閣僚等)欠席。同日夕刻に一家で15分ほど恵比寿ガーデンプレイス・クリスマスイルミネーション見物≪週刊文春12/27号、12/21TVニュース≫、その後近くのホテルレストラン(地理的にウェスティンホテル「ビクターズ」か)で小和田夫妻、妹・池田礼子家族らと食事会
≪女性自身1/22号≫≪12/21日テレニュース≫

07.12.28
毎年恒例御所でのお餅つきを東宮一家直前でドタキャン≪サンデー毎日2008/1/20号≫、その日の夜に東宮夫妻とピピマリかかりつけ獣医師夫妻、銀座ミシュラン三ツ星レストラン・ロオジエにて4時間以上夕食を楽しむ
≪2007/12/28-29NNN・FNN・ANNニュース≫

孫の顔を心待ちにする義理の両親(天皇皇后両陛下)に ...

『週刊文春』2006年2月23日号、27ページより
 
「お世継ぎ」をめぐって天皇皇后と皇太子ご夫妻の間には見解の相違が存在することが顕在化したのはご成婚から三年目のことだった。皇太子ご夫妻は九四年、九五年と続けて中東諸国を歴訪されているが、そのご帰国後の九五年、天皇のお言葉に雅子さまが直接異を唱えられたことがあった。

その日、天皇は雅子さまにこう語りかけたと伝えられている。

「国民みんなが待っているからね」

すると雅子さまは色をなしてこうご返事をされた。

「私の友達にそんなことを言う人は一人もいません」
あまりのおっしゃりように、周囲は唖然としてしまったという。

(コメント)
一般の家庭でも、両親と息子夫婦の間で「早く孫の顔を見せてくれ」といった程度の会話は良く聞かれるが、千五百年以上も男系継承が続く天皇家では、子作りは一般家庭以上に必須であり、天皇皇后両陛下のお言葉はむしろ当然のことだと思う。

天皇家の男系継承が途絶えれば、日本という国にとっても大きな損失であり、未来永劫に取り返しがつかないことになる。下記の東宮職の言葉を借りれば、雅子妃は皇室の伝統と歴史を重んじているとのことだが、本当に重んじていたら子作りに拒否反応を起こすことなど考えられない。

一般の家庭でも、経済的な問題がなければ子作りに拒否反応を示す母親は極めて少数派だろう。こんなとんでもない嫁が長男のところに来てしまっては、天皇皇后両陛下のご心痛とストレスは察して余りあるものがある。

また、一部で同日シリーズとして有名な雅子妃のいい加減な行動ぶりを 2007年分に限って紹介したが、はっきり言って雅子妃がなんらかの病気であるとは考えづらい。これで雅子妃が病気であるというのなら、世間一般の人間全てが病気ということになるだろう。

皇太子ご夫妻、両陛下の心遣いに感謝 東宮大夫が会見

野村一成 東宮大夫
野村一成 東宮大夫 雅子妃の父、小和田恒の元腹心で外務省出身。外務省出身者ばかりの東宮職の長。

宮内庁の羽毛田(はけた)信吾長官が11日、天皇、皇后両陛下が皇太子ご夫妻の健康などを心配しているという「所見」を示したことについて、皇太子ご夫妻のお世話役のトップである野村一成東宮大夫は12日の定例会見で、

「(ご夫妻は)両陛下のお心遣い、お励ましを心からありがたく思っておられる」と述べた。雅子さまの「適応障害」との診断に関し、「皇室そのものがストレスであり、病気の原因」との意見があることに、羽毛田長官が「両陛下は深く傷つかれた」と語ったことに対し、野村大夫は「まさに妃殿下ご自身が深く傷つかれている点であろうと思う」とし、「皇室の伝統もご公務も大切に考えておられ、それらを十分に行うことができるようにご治療に鋭意努めておられる」と述べた。

【野村一成 東宮大夫】

元外務省ロシア大使

1960年代後半モスクワの日本大使館において小和田恒と同時期勤務(ロシアンスクール仲間)

当時から小和田恒の腹心の部下の一人で雅子妃が幼少の頃からの知り合い(野村のおじさまと呼ばれていた)

小和田恒の名を貰って息子に「恒成」と名付ける
("恒"が自分の名前の文字より前である事からその忠誠ぶりが伺われる)

息子の恒成も2世外務官僚として現在、国際法局国際法課に勤務
(小和田が勤務している国際司法裁判所はここの管轄)

息子の上司、国際法局長の結婚時の仲人も小和田恒

(コメント)
羽毛田長官の会見に対して、この野村東宮大夫の会見はどうかと思うが、経歴から見ても分かるとおり、東宮大夫は雅子妃の父、小和田恒の子飼の部下だった人物であり、彼なりの小和田恒への忠誠のつもなのかもしれない。

野村東宮大夫の主張は、控えめに見ても天皇皇后両陛下に喧嘩を売っているようにしか見えないが、皇太子夫妻の健康診断も満足に出来ないようでは、現在の東宮職の存在そのものが不必要なのではないかと疑いたくなる。立場上、皇太子夫妻を批判しにくいことは理解できるが、もう少し言い方を考えてはいかがだろうか。
http://koramu2.blog59.fc2.com/blog-entry-303.html
http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/179.html#c49

[近代史3] 柏原芳恵のバイブレーター騒動 _ 宮内庁が皇太子妃候補 No.1 を引き摺り降ろした手口 中川隆
58. 中川隆[-10393] koaQ7Jey 2019年5月17日 18:35:27 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[1910]

2008.12.13
暴走する雅子妃と東宮職 狙われた皇室
http://koramu2.blog59.fc2.com/blog-entry-303.html

                                         
皇室問題 陛下に「様々なご心労」 宮内庁長官


羽毛田信吾 宮内庁長官 両陛下の代弁者として献身的な職務ぶりが目立つ。

ストレスが原因とされた胃腸の炎症など体調不良を訴えていた天皇陛下について、宮内庁の羽毛田(はけた)信吾長官は11日、「ここ何年かにわたり、ご自身のお立場から常にお心を離れることのない将来にわたる皇統の問題をはじめ、皇室にかかわるもろもろの問題をご憂慮のご様子を拝している」とし、陛下に「様々なご心労」があると述べた。

長官は記者会見で「私なりの所見」としたうえで、陛下が、皇太子さまや療養中の皇太子妃雅子さまの体調、公務に関して気遣っていることを説明。皇太子さまが昨年6月、十二指腸のポリープの切除手術を受けた際、人さし指の先ほどだったポリープの大きさに天皇、皇后両陛下は驚き、相当期間、検査がされていなかったことに強い不安を持ったという。両陛下は、皇太子ご夫妻が定期的に健康チェックを受けるよう願っているという。

また、雅子さまの「適応障害」との診断に関し、「皇室そのものがストレスであり、病気の原因」という意見があることについて、「皇室の伝統を受け継がれて一心に働き続けてこられた両陛下は深く傷つかれた」と述べた。

さらに、皇太子ご夫妻の公務について、皇太子さまが何度か見直す考えを示し、両陛下の依頼で歴代の宮内庁長官らが相談に乗っていることについても説明したうえで、皇太子さまから具体的な提案がないことも明かした。

陛下の公務については、天皇誕生日や年末年始など今後1カ月程度、ストレスになりそうな状況をできるだけ減らすとしている。

羽毛田長官は今年2月の会見で、陛下が愛子さまと会う機会が少ないことを「残念なこと」とし、皇太子さまが「お会いする機会を作っていきたい」と答えたことについて、「回数は増えていない」とし、「発言なされたからには実行を伴って頂きたい」と皇太子さまに苦言を呈した。(佐々木隆広)

(コメント)
今回の羽毛田長官の発言内容は、恐らく天皇皇后両陛下のご了承を得てのものだろう。雅子妃のわがままや策謀に振り回され、どれだけ多くの人達が迷惑をこうむり、傷ついてきたか、それを考えると今回の羽毛田長官の発言は遅きに失した感すらある。

強度の我がままや好き嫌いを病気と考えれば、雅子妃が主張する適応障害も確かに病状の一種と考えられるのかもしれない。しかし、好き放題に生きられる人間はごく一握りであり、大部分の人間は嫌なことも我慢して騙し騙し生きているのではないだろうか。

一部の特異な人間の我がままが尊重され、まともな人間の我慢が当たり前のように強制される。左翼やマスコミが作り上げてきた歪んだ世相が、そのまま皇室に及んでいるように感じるのは自分だけではないだろう。恵まれない人間への援助はあくまで善意であり、それを盾にした健常者への逆差別を許してはいけないと思う。ましてや、病気のふりをして特権を貪るなど、論外と言っていいだろう。

雅子妃側は何かあれば病気、病気というが、患者の自己申告と特定の医者のいい加減な文書で決まる病気も珍しい。重度のウツで薬を飲みながら会社に通っている人間もいる中、本当に精神的に病んで苦しんでいる人間からすれば、雅子妃の勝手気ままな主張は腹だたしいに違いない。本当に雅子妃が病気だというなら、少なくと東宮医師団という名の謎の医師団は、公の場で会見を開くか、入院等の今後の治療方針を明らかにするべきであろう。

なぜ、それをやらないのか、やらないのではなく出来ないのか、適当な文書ではなく、雅子妃の侍医である大野医師はキチンと顔を国民の前に出して責任あるコメントをするべきである。

雅子妃の学歴は一般のものとは異なり、但し書きが必要

帰国子女だから古くさい皇室と合わない
→小1から高1まで日本で教育を受けており、義務教育期間に外国で過ごすという厳密な意味での帰国子女にはあたらず。紀子さまの方が、幼少期に加え義務教育期間にも外国に住んでいた(小5〜中1)ので本当の帰国子女。

1981〜1985年6月:ハーバード大学経済学部(17〜21歳)
→小和田父は1979年〜1981年、ハーバード客員教授。教員子弟のコネ入学枠あり。また一学部生の卒業論文に普通関わらないような財界人(糠澤和夫・真野輝彦・榊原英資)が卒論作成の手助けをしている。
http://www.yuko2ch.net/mako/imgbbs3jik/img-box/img20070404115228.jpg

1986年4月〜1987年3月中退:東大法学部(22〜23歳)
→3年次編入のため、共通一次試験も通常の二次学科試験も受けていない。小和田恒は *東京大学の非常勤講師として25年間にわたり* 国際法、国際機構論を教える。(1963-1988年東大非常勤講師) ソース=http://www.nyulawglobal.org/events/dfls/DGFOwadaBio.htm

1986年10月:外務公務員I種試験に合格(23歳)、87年4月入省(24歳)。
→東大は中退。2000年度まで行われていた外務公務員I種試験は、通常の国家公務員I種試験と異なり、強力なコネ枠と言われる。向上心旺盛なキャリア志向の女性が、なぜ父親が重役職にある企業の縁故採用試験を?

1988〜1990年:オックスフォード大学に留学。(24〜26歳)
→外務省からの国費(税金)留学。同期留学者のうち一人だけ、修士号を取れずに帰国。週末ごとに洗濯物を抱えてパリに往復したという情報有り。小和田父は1988年〜1990年:OECD(経済協力開発機構・事務局はパリ)日本政府常駐代表。

雅子妃の高学歴キャリアウーマンとは程遠いお粗末な英会話の能力も指摘されている→マサグリッシュ

※本来、皇太子妃としての役割を果たしてくれれば過去の経歴はどうでもいい。当人及び擁護派が、役割を果たせない言い訳として華麗な過去を持ち出すので検証せざるを得ない。

公務キャンセルの当日に元気に別行動
(2007年度分のみ同日シリーズより抜粋。一部省略)

07.01.22
モザンビークのゲブーザ大統領夫妻との宮中午餐を欠席した当日、皇太子がビオラ奏者として出席した演奏会を私的に鑑賞
≪週刊女性2/13号≫

07.01.26 26〜27日
スケート国体@群馬県の公務を欠席した当日、乗馬。
≪週刊女性2/13号≫

07.03.02
東宮御所での東京都知事によるご進講の公務を欠席した当日、学習院幼稚園ひな祭り会の日のお迎えとママ友作り。
≪女性自身3/20号≫

07.03.15
東宮御所での勤労奉仕団へのご会釈は欠席した当日、オランダのウィレム・アレキサンダー王太子との午餐会には出席。

07.04.06
一家で朝早くスケートを楽しむ≪週刊女性5/8・15号≫。その当日、経済産業省製造産業局長,同生物化学産業課長のご進講(東宮御所)を欠席。

07.04.11
東宮御所での勤労奉仕団へのご会釈は欠席した当日、父・小和田恒氏がパネリストとして出席した国連大学でのロザリン・ヒギンズ国際司法裁判所(ICJ)所長講演会は夫妻で私的に聴講
≪国連大学HP配信ストリーム動画+週刊女性5/1号、読売ウィークリー5/6・13号≫

07.04.27
東宮御所での財務省国際局長によるご説明を欠席した当日、国連大学にお出かけ
≪週刊女性5/22号≫

07.07.19
雅子と愛子、幼稚園の帰りに2回目の電車(目白〜代々木乗換え〜信濃町)乗車体験、日テレとTBSがそれを報じる。同日東宮御所では、離任イスラエル大使・離任クウェート大使・離任エジプト大使との接見公務があり皇太子が単独で対応。それなりに混んだ電車に乗るだけの元気がある雅子は欠席。

07.07.22
賢所仮殿にて文武天皇千三百年式年祭の儀があったものの東宮から出席したのは皇太子のみ、雅子は祭祀を当然のごとく欠席。同日一家で日生劇場へ「小さな山神スズナ姫〜大ナマズのひみつ!〜」ミュージカル人形劇を鑑賞し複数ブログ・mixiに目撃談が書かれる。また出演者であるジェームス小野田氏が楽屋にて皇太子一家&雅子の親戚(恐らく礼子のことか?)と歓談したと、米米クラブ公式ブログにて述べている。

07.07.27-29
佐賀県行啓(高校総体)を「体調」を理由に欠席、皇太子が留守の間の27日と29日に東宮御所でプライベートな子供会を開く
≪週刊文春8/9号≫。

07.07.30
「明治天皇例祭の儀」の祭祀、ご接見の公務を欠席した当日、自宅で3回目のプライベートな「子供会」を開く
≪週刊文春8/9号≫

07.08.12
オックスフォード大学演劇協会「夏の夜の夢」鑑賞公務を欠席した当日、六本木の東京ミッドタウン内のメキシコ料理店で外務省時代の仲間と夕食≪AERA 9/10号≫,庭の見える個室にて男女三人ずつで4時間の「プライベート・ディナー」、「力強いガーリックライス」を食べたとのこと。
≪10/15夕フジニュース≫

07.10.11
ブラジルのパラナ友好経済使節団とのご接見を欠席した当日、マンダリンオリエンタル東京ホテル37階のフレンチレストラン「シグネチャー」で田園調布双葉時代友人と“同級生ランチ”
≪週刊文春11/1号≫

07.10.12 10/12-14
秋田県行啓(全国障害者スポーツ大会)を欠席中に乗馬
≪週刊女性10/30号≫。

07.10.13
八大行啓の一つである全国障害者スポーツ大会開会式を含む秋田県行啓には皇太子のみ出席(10/12-14)、欠席した雅子は愛子を連れて学習院初等科運動会見学へ元気に出かけ昨年同様マスコミカメラを呼んでロケ撮影させる。

07.10.15
皇太子は両陛下&秋篠宮両殿下とともにナミビア大統領夫妻との午餐に出席、午餐会を欠席した雅子は銀座教文館で「藤城清治 光と影展」お忍び鑑賞
≪ヤフーブログ「藤代清治 銀座 雅子さま」&『女性自身』11/6・13号≫。

07.11.3-5
第31回全国育樹祭臨席等にて皇太子ひとりぼっち熊本県行啓へ【八大行啓】。11/4に雅子は赤坂御用地内を散策≪産経ニュース皇室ウィークリー11/10≫、同日外務省北米二課同僚の欧州転勤送別会、麻布富麗華2万円コース上海蟹等3時間お楽しみ≪週刊文春11/22号≫だったとのこと。合わせて11/5には愛子内親王学習院初等科面接受験の付き添いにも出向く。
≪11/7TBSイブニング5≫

07.11.14-16
ユニバーサル技能五輪国際大会視察等にて皇太子ひとりぼっち静岡県行啓へ。11/16雅子は多摩動物公園入り口まで愛子の遠足付き添い。但しこの付き添いは行きのみで、帰りのお迎えについては「妃殿下はこの日  ご 予 定  がおありで、先に御所にお帰りになったそうです。後は他のお母さんたちやお付きの人たちに愛子を頼みます≠ニお願いされ、あえて、お迎えにも行かれなかったそうです」(宮内庁関係者)…のように人任せだったと『女性セブン』12/13号記事に書かれる。この「ご予定」が何であったかは現時点で不明。

07.11.20
国立女性教育会館で行われる「NWEC 30周年記念国際シンポジウム」への出席について、雅子の意向を侍従らが数日前になっても確認できず、内々に決めた翌日中止されたと『週刊朝日』2008/2/29号報じる。そしてこの日、雅子は国連大学訪問と皇居内馬場で乗馬の私事お楽しみをしていたとMSN産経皇室ウィークリー2008/11/24。

07.12.21
皇居宮殿での午餐(内閣総理大臣始め閣僚等)欠席。同日夕刻に一家で15分ほど恵比寿ガーデンプレイス・クリスマスイルミネーション見物≪週刊文春12/27号、12/21TVニュース≫、その後近くのホテルレストラン(地理的にウェスティンホテル「ビクターズ」か)で小和田夫妻、妹・池田礼子家族らと食事会
≪女性自身1/22号≫≪12/21日テレニュース≫

07.12.28
毎年恒例御所でのお餅つきを東宮一家直前でドタキャン≪サンデー毎日2008/1/20号≫、その日の夜に東宮夫妻とピピマリかかりつけ獣医師夫妻、銀座ミシュラン三ツ星レストラン・ロオジエにて4時間以上夕食を楽しむ
≪2007/12/28-29NNN・FNN・ANNニュース≫

孫の顔を心待ちにする義理の両親(天皇皇后両陛下)に ...

『週刊文春』2006年2月23日号、27ページより
 
「お世継ぎ」をめぐって天皇皇后と皇太子ご夫妻の間には見解の相違が存在することが顕在化したのはご成婚から三年目のことだった。皇太子ご夫妻は九四年、九五年と続けて中東諸国を歴訪されているが、そのご帰国後の九五年、天皇のお言葉に雅子さまが直接異を唱えられたことがあった。

その日、天皇は雅子さまにこう語りかけたと伝えられている。

「国民みんなが待っているからね」

すると雅子さまは色をなしてこうご返事をされた。

「私の友達にそんなことを言う人は一人もいません」
あまりのおっしゃりように、周囲は唖然としてしまったという。

(コメント)
一般の家庭でも、両親と息子夫婦の間で「早く孫の顔を見せてくれ」といった程度の会話は良く聞かれるが、千五百年以上も男系継承が続く天皇家では、子作りは一般家庭以上に必須であり、天皇皇后両陛下のお言葉はむしろ当然のことだと思う。

天皇家の男系継承が途絶えれば、日本という国にとっても大きな損失であり、未来永劫に取り返しがつかないことになる。下記の東宮職の言葉を借りれば、雅子妃は皇室の伝統と歴史を重んじているとのことだが、本当に重んじていたら子作りに拒否反応を起こすことなど考えられない。

一般の家庭でも、経済的な問題がなければ子作りに拒否反応を示す母親は極めて少数派だろう。こんなとんでもない嫁が長男のところに来てしまっては、天皇皇后両陛下のご心痛とストレスは察して余りあるものがある。

また、一部で同日シリーズとして有名な雅子妃のいい加減な行動ぶりを 2007年分に限って紹介したが、はっきり言って雅子妃がなんらかの病気であるとは考えづらい。これで雅子妃が病気であるというのなら、世間一般の人間全てが病気ということになるだろう。

皇太子ご夫妻、両陛下の心遣いに感謝 東宮大夫が会見

野村一成 東宮大夫
野村一成 東宮大夫 雅子妃の父、小和田恒の元腹心で外務省出身。外務省出身者ばかりの東宮職の長。

宮内庁の羽毛田(はけた)信吾長官が11日、天皇、皇后両陛下が皇太子ご夫妻の健康などを心配しているという「所見」を示したことについて、皇太子ご夫妻のお世話役のトップである野村一成東宮大夫は12日の定例会見で、

「(ご夫妻は)両陛下のお心遣い、お励ましを心からありがたく思っておられる」と述べた。雅子さまの「適応障害」との診断に関し、「皇室そのものがストレスであり、病気の原因」との意見があることに、羽毛田長官が「両陛下は深く傷つかれた」と語ったことに対し、野村大夫は「まさに妃殿下ご自身が深く傷つかれている点であろうと思う」とし、「皇室の伝統もご公務も大切に考えておられ、それらを十分に行うことができるようにご治療に鋭意努めておられる」と述べた。

【野村一成 東宮大夫】

元外務省ロシア大使

1960年代後半モスクワの日本大使館において小和田恒と同時期勤務(ロシアンスクール仲間)

当時から小和田恒の腹心の部下の一人で雅子妃が幼少の頃からの知り合い(野村のおじさまと呼ばれていた)

小和田恒の名を貰って息子に「恒成」と名付ける
("恒"が自分の名前の文字より前である事からその忠誠ぶりが伺われる)

息子の恒成も2世外務官僚として現在、国際法局国際法課に勤務
(小和田が勤務している国際司法裁判所はここの管轄)

息子の上司、国際法局長の結婚時の仲人も小和田恒

(コメント)
羽毛田長官の会見に対して、この野村東宮大夫の会見はどうかと思うが、経歴から見ても分かるとおり、東宮大夫は雅子妃の父、小和田恒の子飼の部下だった人物であり、彼なりの小和田恒への忠誠のつもなのかもしれない。

野村東宮大夫の主張は、控えめに見ても天皇皇后両陛下に喧嘩を売っているようにしか見えないが、皇太子夫妻の健康診断も満足に出来ないようでは、現在の東宮職の存在そのものが不必要なのではないかと疑いたくなる。立場上、皇太子夫妻を批判しにくいことは理解できるが、もう少し言い方を考えてはいかがだろうか。
http://koramu2.blog59.fc2.com/blog-entry-303.html
http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/117.html#c58

[近代史3] 美智子妃も雅子妃もアメリカが皇室と天皇制を破壊する為に送り込んだスパイなのか? 中川隆
68. 中川隆[-10392] koaQ7Jey 2019年5月17日 18:36:13 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[1911]

2008.12.13
暴走する雅子妃と東宮職 狙われた皇室
http://koramu2.blog59.fc2.com/blog-entry-303.html

                                         
皇室問題 陛下に「様々なご心労」 宮内庁長官


羽毛田信吾 宮内庁長官 両陛下の代弁者として献身的な職務ぶりが目立つ。

ストレスが原因とされた胃腸の炎症など体調不良を訴えていた天皇陛下について、宮内庁の羽毛田(はけた)信吾長官は11日、「ここ何年かにわたり、ご自身のお立場から常にお心を離れることのない将来にわたる皇統の問題をはじめ、皇室にかかわるもろもろの問題をご憂慮のご様子を拝している」とし、陛下に「様々なご心労」があると述べた。

長官は記者会見で「私なりの所見」としたうえで、陛下が、皇太子さまや療養中の皇太子妃雅子さまの体調、公務に関して気遣っていることを説明。皇太子さまが昨年6月、十二指腸のポリープの切除手術を受けた際、人さし指の先ほどだったポリープの大きさに天皇、皇后両陛下は驚き、相当期間、検査がされていなかったことに強い不安を持ったという。両陛下は、皇太子ご夫妻が定期的に健康チェックを受けるよう願っているという。

また、雅子さまの「適応障害」との診断に関し、「皇室そのものがストレスであり、病気の原因」という意見があることについて、「皇室の伝統を受け継がれて一心に働き続けてこられた両陛下は深く傷つかれた」と述べた。

さらに、皇太子ご夫妻の公務について、皇太子さまが何度か見直す考えを示し、両陛下の依頼で歴代の宮内庁長官らが相談に乗っていることについても説明したうえで、皇太子さまから具体的な提案がないことも明かした。

陛下の公務については、天皇誕生日や年末年始など今後1カ月程度、ストレスになりそうな状況をできるだけ減らすとしている。

羽毛田長官は今年2月の会見で、陛下が愛子さまと会う機会が少ないことを「残念なこと」とし、皇太子さまが「お会いする機会を作っていきたい」と答えたことについて、「回数は増えていない」とし、「発言なされたからには実行を伴って頂きたい」と皇太子さまに苦言を呈した。(佐々木隆広)

(コメント)
今回の羽毛田長官の発言内容は、恐らく天皇皇后両陛下のご了承を得てのものだろう。雅子妃のわがままや策謀に振り回され、どれだけ多くの人達が迷惑をこうむり、傷ついてきたか、それを考えると今回の羽毛田長官の発言は遅きに失した感すらある。

強度の我がままや好き嫌いを病気と考えれば、雅子妃が主張する適応障害も確かに病状の一種と考えられるのかもしれない。しかし、好き放題に生きられる人間はごく一握りであり、大部分の人間は嫌なことも我慢して騙し騙し生きているのではないだろうか。

一部の特異な人間の我がままが尊重され、まともな人間の我慢が当たり前のように強制される。左翼やマスコミが作り上げてきた歪んだ世相が、そのまま皇室に及んでいるように感じるのは自分だけではないだろう。恵まれない人間への援助はあくまで善意であり、それを盾にした健常者への逆差別を許してはいけないと思う。ましてや、病気のふりをして特権を貪るなど、論外と言っていいだろう。

雅子妃側は何かあれば病気、病気というが、患者の自己申告と特定の医者のいい加減な文書で決まる病気も珍しい。重度のウツで薬を飲みながら会社に通っている人間もいる中、本当に精神的に病んで苦しんでいる人間からすれば、雅子妃の勝手気ままな主張は腹だたしいに違いない。本当に雅子妃が病気だというなら、少なくと東宮医師団という名の謎の医師団は、公の場で会見を開くか、入院等の今後の治療方針を明らかにするべきであろう。

なぜ、それをやらないのか、やらないのではなく出来ないのか、適当な文書ではなく、雅子妃の侍医である大野医師はキチンと顔を国民の前に出して責任あるコメントをするべきである。

雅子妃の学歴は一般のものとは異なり、但し書きが必要

帰国子女だから古くさい皇室と合わない
→小1から高1まで日本で教育を受けており、義務教育期間に外国で過ごすという厳密な意味での帰国子女にはあたらず。紀子さまの方が、幼少期に加え義務教育期間にも外国に住んでいた(小5〜中1)ので本当の帰国子女。

1981〜1985年6月:ハーバード大学経済学部(17〜21歳)
→小和田父は1979年〜1981年、ハーバード客員教授。教員子弟のコネ入学枠あり。また一学部生の卒業論文に普通関わらないような財界人(糠澤和夫・真野輝彦・榊原英資)が卒論作成の手助けをしている。
http://www.yuko2ch.net/mako/imgbbs3jik/img-box/img20070404115228.jpg

1986年4月〜1987年3月中退:東大法学部(22〜23歳)
→3年次編入のため、共通一次試験も通常の二次学科試験も受けていない。小和田恒は *東京大学の非常勤講師として25年間にわたり* 国際法、国際機構論を教える。(1963-1988年東大非常勤講師) ソース=http://www.nyulawglobal.org/events/dfls/DGFOwadaBio.htm

1986年10月:外務公務員I種試験に合格(23歳)、87年4月入省(24歳)。
→東大は中退。2000年度まで行われていた外務公務員I種試験は、通常の国家公務員I種試験と異なり、強力なコネ枠と言われる。向上心旺盛なキャリア志向の女性が、なぜ父親が重役職にある企業の縁故採用試験を?

1988〜1990年:オックスフォード大学に留学。(24〜26歳)
→外務省からの国費(税金)留学。同期留学者のうち一人だけ、修士号を取れずに帰国。週末ごとに洗濯物を抱えてパリに往復したという情報有り。小和田父は1988年〜1990年:OECD(経済協力開発機構・事務局はパリ)日本政府常駐代表。

雅子妃の高学歴キャリアウーマンとは程遠いお粗末な英会話の能力も指摘されている→マサグリッシュ

※本来、皇太子妃としての役割を果たしてくれれば過去の経歴はどうでもいい。当人及び擁護派が、役割を果たせない言い訳として華麗な過去を持ち出すので検証せざるを得ない。

公務キャンセルの当日に元気に別行動
(2007年度分のみ同日シリーズより抜粋。一部省略)

07.01.22
モザンビークのゲブーザ大統領夫妻との宮中午餐を欠席した当日、皇太子がビオラ奏者として出席した演奏会を私的に鑑賞
≪週刊女性2/13号≫

07.01.26 26〜27日
スケート国体@群馬県の公務を欠席した当日、乗馬。
≪週刊女性2/13号≫

07.03.02
東宮御所での東京都知事によるご進講の公務を欠席した当日、学習院幼稚園ひな祭り会の日のお迎えとママ友作り。
≪女性自身3/20号≫

07.03.15
東宮御所での勤労奉仕団へのご会釈は欠席した当日、オランダのウィレム・アレキサンダー王太子との午餐会には出席。

07.04.06
一家で朝早くスケートを楽しむ≪週刊女性5/8・15号≫。その当日、経済産業省製造産業局長,同生物化学産業課長のご進講(東宮御所)を欠席。

07.04.11
東宮御所での勤労奉仕団へのご会釈は欠席した当日、父・小和田恒氏がパネリストとして出席した国連大学でのロザリン・ヒギンズ国際司法裁判所(ICJ)所長講演会は夫妻で私的に聴講
≪国連大学HP配信ストリーム動画+週刊女性5/1号、読売ウィークリー5/6・13号≫

07.04.27
東宮御所での財務省国際局長によるご説明を欠席した当日、国連大学にお出かけ
≪週刊女性5/22号≫

07.07.19
雅子と愛子、幼稚園の帰りに2回目の電車(目白〜代々木乗換え〜信濃町)乗車体験、日テレとTBSがそれを報じる。同日東宮御所では、離任イスラエル大使・離任クウェート大使・離任エジプト大使との接見公務があり皇太子が単独で対応。それなりに混んだ電車に乗るだけの元気がある雅子は欠席。

07.07.22
賢所仮殿にて文武天皇千三百年式年祭の儀があったものの東宮から出席したのは皇太子のみ、雅子は祭祀を当然のごとく欠席。同日一家で日生劇場へ「小さな山神スズナ姫〜大ナマズのひみつ!〜」ミュージカル人形劇を鑑賞し複数ブログ・mixiに目撃談が書かれる。また出演者であるジェームス小野田氏が楽屋にて皇太子一家&雅子の親戚(恐らく礼子のことか?)と歓談したと、米米クラブ公式ブログにて述べている。

07.07.27-29
佐賀県行啓(高校総体)を「体調」を理由に欠席、皇太子が留守の間の27日と29日に東宮御所でプライベートな子供会を開く
≪週刊文春8/9号≫。

07.07.30
「明治天皇例祭の儀」の祭祀、ご接見の公務を欠席した当日、自宅で3回目のプライベートな「子供会」を開く
≪週刊文春8/9号≫

07.08.12
オックスフォード大学演劇協会「夏の夜の夢」鑑賞公務を欠席した当日、六本木の東京ミッドタウン内のメキシコ料理店で外務省時代の仲間と夕食≪AERA 9/10号≫,庭の見える個室にて男女三人ずつで4時間の「プライベート・ディナー」、「力強いガーリックライス」を食べたとのこと。
≪10/15夕フジニュース≫

07.10.11
ブラジルのパラナ友好経済使節団とのご接見を欠席した当日、マンダリンオリエンタル東京ホテル37階のフレンチレストラン「シグネチャー」で田園調布双葉時代友人と“同級生ランチ”
≪週刊文春11/1号≫

07.10.12 10/12-14
秋田県行啓(全国障害者スポーツ大会)を欠席中に乗馬
≪週刊女性10/30号≫。

07.10.13
八大行啓の一つである全国障害者スポーツ大会開会式を含む秋田県行啓には皇太子のみ出席(10/12-14)、欠席した雅子は愛子を連れて学習院初等科運動会見学へ元気に出かけ昨年同様マスコミカメラを呼んでロケ撮影させる。

07.10.15
皇太子は両陛下&秋篠宮両殿下とともにナミビア大統領夫妻との午餐に出席、午餐会を欠席した雅子は銀座教文館で「藤城清治 光と影展」お忍び鑑賞
≪ヤフーブログ「藤代清治 銀座 雅子さま」&『女性自身』11/6・13号≫。

07.11.3-5
第31回全国育樹祭臨席等にて皇太子ひとりぼっち熊本県行啓へ【八大行啓】。11/4に雅子は赤坂御用地内を散策≪産経ニュース皇室ウィークリー11/10≫、同日外務省北米二課同僚の欧州転勤送別会、麻布富麗華2万円コース上海蟹等3時間お楽しみ≪週刊文春11/22号≫だったとのこと。合わせて11/5には愛子内親王学習院初等科面接受験の付き添いにも出向く。
≪11/7TBSイブニング5≫

07.11.14-16
ユニバーサル技能五輪国際大会視察等にて皇太子ひとりぼっち静岡県行啓へ。11/16雅子は多摩動物公園入り口まで愛子の遠足付き添い。但しこの付き添いは行きのみで、帰りのお迎えについては「妃殿下はこの日  ご 予 定  がおありで、先に御所にお帰りになったそうです。後は他のお母さんたちやお付きの人たちに愛子を頼みます≠ニお願いされ、あえて、お迎えにも行かれなかったそうです」(宮内庁関係者)…のように人任せだったと『女性セブン』12/13号記事に書かれる。この「ご予定」が何であったかは現時点で不明。

07.11.20
国立女性教育会館で行われる「NWEC 30周年記念国際シンポジウム」への出席について、雅子の意向を侍従らが数日前になっても確認できず、内々に決めた翌日中止されたと『週刊朝日』2008/2/29号報じる。そしてこの日、雅子は国連大学訪問と皇居内馬場で乗馬の私事お楽しみをしていたとMSN産経皇室ウィークリー2008/11/24。

07.12.21
皇居宮殿での午餐(内閣総理大臣始め閣僚等)欠席。同日夕刻に一家で15分ほど恵比寿ガーデンプレイス・クリスマスイルミネーション見物≪週刊文春12/27号、12/21TVニュース≫、その後近くのホテルレストラン(地理的にウェスティンホテル「ビクターズ」か)で小和田夫妻、妹・池田礼子家族らと食事会
≪女性自身1/22号≫≪12/21日テレニュース≫

07.12.28
毎年恒例御所でのお餅つきを東宮一家直前でドタキャン≪サンデー毎日2008/1/20号≫、その日の夜に東宮夫妻とピピマリかかりつけ獣医師夫妻、銀座ミシュラン三ツ星レストラン・ロオジエにて4時間以上夕食を楽しむ
≪2007/12/28-29NNN・FNN・ANNニュース≫

孫の顔を心待ちにする義理の両親(天皇皇后両陛下)に ...

『週刊文春』2006年2月23日号、27ページより
 
「お世継ぎ」をめぐって天皇皇后と皇太子ご夫妻の間には見解の相違が存在することが顕在化したのはご成婚から三年目のことだった。皇太子ご夫妻は九四年、九五年と続けて中東諸国を歴訪されているが、そのご帰国後の九五年、天皇のお言葉に雅子さまが直接異を唱えられたことがあった。

その日、天皇は雅子さまにこう語りかけたと伝えられている。

「国民みんなが待っているからね」

すると雅子さまは色をなしてこうご返事をされた。

「私の友達にそんなことを言う人は一人もいません」
あまりのおっしゃりように、周囲は唖然としてしまったという。

(コメント)
一般の家庭でも、両親と息子夫婦の間で「早く孫の顔を見せてくれ」といった程度の会話は良く聞かれるが、千五百年以上も男系継承が続く天皇家では、子作りは一般家庭以上に必須であり、天皇皇后両陛下のお言葉はむしろ当然のことだと思う。

天皇家の男系継承が途絶えれば、日本という国にとっても大きな損失であり、未来永劫に取り返しがつかないことになる。下記の東宮職の言葉を借りれば、雅子妃は皇室の伝統と歴史を重んじているとのことだが、本当に重んじていたら子作りに拒否反応を起こすことなど考えられない。

一般の家庭でも、経済的な問題がなければ子作りに拒否反応を示す母親は極めて少数派だろう。こんなとんでもない嫁が長男のところに来てしまっては、天皇皇后両陛下のご心痛とストレスは察して余りあるものがある。

また、一部で同日シリーズとして有名な雅子妃のいい加減な行動ぶりを 2007年分に限って紹介したが、はっきり言って雅子妃がなんらかの病気であるとは考えづらい。これで雅子妃が病気であるというのなら、世間一般の人間全てが病気ということになるだろう。

皇太子ご夫妻、両陛下の心遣いに感謝 東宮大夫が会見

野村一成 東宮大夫
野村一成 東宮大夫 雅子妃の父、小和田恒の元腹心で外務省出身。外務省出身者ばかりの東宮職の長。

宮内庁の羽毛田(はけた)信吾長官が11日、天皇、皇后両陛下が皇太子ご夫妻の健康などを心配しているという「所見」を示したことについて、皇太子ご夫妻のお世話役のトップである野村一成東宮大夫は12日の定例会見で、

「(ご夫妻は)両陛下のお心遣い、お励ましを心からありがたく思っておられる」と述べた。雅子さまの「適応障害」との診断に関し、「皇室そのものがストレスであり、病気の原因」との意見があることに、羽毛田長官が「両陛下は深く傷つかれた」と語ったことに対し、野村大夫は「まさに妃殿下ご自身が深く傷つかれている点であろうと思う」とし、「皇室の伝統もご公務も大切に考えておられ、それらを十分に行うことができるようにご治療に鋭意努めておられる」と述べた。

【野村一成 東宮大夫】

元外務省ロシア大使

1960年代後半モスクワの日本大使館において小和田恒と同時期勤務(ロシアンスクール仲間)

当時から小和田恒の腹心の部下の一人で雅子妃が幼少の頃からの知り合い(野村のおじさまと呼ばれていた)

小和田恒の名を貰って息子に「恒成」と名付ける
("恒"が自分の名前の文字より前である事からその忠誠ぶりが伺われる)

息子の恒成も2世外務官僚として現在、国際法局国際法課に勤務
(小和田が勤務している国際司法裁判所はここの管轄)

息子の上司、国際法局長の結婚時の仲人も小和田恒

(コメント)
羽毛田長官の会見に対して、この野村東宮大夫の会見はどうかと思うが、経歴から見ても分かるとおり、東宮大夫は雅子妃の父、小和田恒の子飼の部下だった人物であり、彼なりの小和田恒への忠誠のつもなのかもしれない。

野村東宮大夫の主張は、控えめに見ても天皇皇后両陛下に喧嘩を売っているようにしか見えないが、皇太子夫妻の健康診断も満足に出来ないようでは、現在の東宮職の存在そのものが不必要なのではないかと疑いたくなる。立場上、皇太子夫妻を批判しにくいことは理解できるが、もう少し言い方を考えてはいかがだろうか。
http://koramu2.blog59.fc2.com/blog-entry-303.html
http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/262.html#c68

[社会問題9] 語られ始めた皇太子「退位論」は説得力があるか・・が、語られるだけでも適応失調の天皇家! 墨染
231. 中川隆[-10391] koaQ7Jey 2019年5月17日 18:36:43 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[1912]

2008.12.13
暴走する雅子妃と東宮職 狙われた皇室
http://koramu2.blog59.fc2.com/blog-entry-303.html

                                         
皇室問題 陛下に「様々なご心労」 宮内庁長官


羽毛田信吾 宮内庁長官 両陛下の代弁者として献身的な職務ぶりが目立つ。

ストレスが原因とされた胃腸の炎症など体調不良を訴えていた天皇陛下について、宮内庁の羽毛田(はけた)信吾長官は11日、「ここ何年かにわたり、ご自身のお立場から常にお心を離れることのない将来にわたる皇統の問題をはじめ、皇室にかかわるもろもろの問題をご憂慮のご様子を拝している」とし、陛下に「様々なご心労」があると述べた。

長官は記者会見で「私なりの所見」としたうえで、陛下が、皇太子さまや療養中の皇太子妃雅子さまの体調、公務に関して気遣っていることを説明。皇太子さまが昨年6月、十二指腸のポリープの切除手術を受けた際、人さし指の先ほどだったポリープの大きさに天皇、皇后両陛下は驚き、相当期間、検査がされていなかったことに強い不安を持ったという。両陛下は、皇太子ご夫妻が定期的に健康チェックを受けるよう願っているという。

また、雅子さまの「適応障害」との診断に関し、「皇室そのものがストレスであり、病気の原因」という意見があることについて、「皇室の伝統を受け継がれて一心に働き続けてこられた両陛下は深く傷つかれた」と述べた。

さらに、皇太子ご夫妻の公務について、皇太子さまが何度か見直す考えを示し、両陛下の依頼で歴代の宮内庁長官らが相談に乗っていることについても説明したうえで、皇太子さまから具体的な提案がないことも明かした。

陛下の公務については、天皇誕生日や年末年始など今後1カ月程度、ストレスになりそうな状況をできるだけ減らすとしている。

羽毛田長官は今年2月の会見で、陛下が愛子さまと会う機会が少ないことを「残念なこと」とし、皇太子さまが「お会いする機会を作っていきたい」と答えたことについて、「回数は増えていない」とし、「発言なされたからには実行を伴って頂きたい」と皇太子さまに苦言を呈した。(佐々木隆広)

(コメント)
今回の羽毛田長官の発言内容は、恐らく天皇皇后両陛下のご了承を得てのものだろう。雅子妃のわがままや策謀に振り回され、どれだけ多くの人達が迷惑をこうむり、傷ついてきたか、それを考えると今回の羽毛田長官の発言は遅きに失した感すらある。

強度の我がままや好き嫌いを病気と考えれば、雅子妃が主張する適応障害も確かに病状の一種と考えられるのかもしれない。しかし、好き放題に生きられる人間はごく一握りであり、大部分の人間は嫌なことも我慢して騙し騙し生きているのではないだろうか。

一部の特異な人間の我がままが尊重され、まともな人間の我慢が当たり前のように強制される。左翼やマスコミが作り上げてきた歪んだ世相が、そのまま皇室に及んでいるように感じるのは自分だけではないだろう。恵まれない人間への援助はあくまで善意であり、それを盾にした健常者への逆差別を許してはいけないと思う。ましてや、病気のふりをして特権を貪るなど、論外と言っていいだろう。

雅子妃側は何かあれば病気、病気というが、患者の自己申告と特定の医者のいい加減な文書で決まる病気も珍しい。重度のウツで薬を飲みながら会社に通っている人間もいる中、本当に精神的に病んで苦しんでいる人間からすれば、雅子妃の勝手気ままな主張は腹だたしいに違いない。本当に雅子妃が病気だというなら、少なくと東宮医師団という名の謎の医師団は、公の場で会見を開くか、入院等の今後の治療方針を明らかにするべきであろう。

なぜ、それをやらないのか、やらないのではなく出来ないのか、適当な文書ではなく、雅子妃の侍医である大野医師はキチンと顔を国民の前に出して責任あるコメントをするべきである。

雅子妃の学歴は一般のものとは異なり、但し書きが必要

帰国子女だから古くさい皇室と合わない
→小1から高1まで日本で教育を受けており、義務教育期間に外国で過ごすという厳密な意味での帰国子女にはあたらず。紀子さまの方が、幼少期に加え義務教育期間にも外国に住んでいた(小5〜中1)ので本当の帰国子女。

1981〜1985年6月:ハーバード大学経済学部(17〜21歳)
→小和田父は1979年〜1981年、ハーバード客員教授。教員子弟のコネ入学枠あり。また一学部生の卒業論文に普通関わらないような財界人(糠澤和夫・真野輝彦・榊原英資)が卒論作成の手助けをしている。
http://www.yuko2ch.net/mako/imgbbs3jik/img-box/img20070404115228.jpg

1986年4月〜1987年3月中退:東大法学部(22〜23歳)
→3年次編入のため、共通一次試験も通常の二次学科試験も受けていない。小和田恒は *東京大学の非常勤講師として25年間にわたり* 国際法、国際機構論を教える。(1963-1988年東大非常勤講師) ソース=http://www.nyulawglobal.org/events/dfls/DGFOwadaBio.htm

1986年10月:外務公務員I種試験に合格(23歳)、87年4月入省(24歳)。
→東大は中退。2000年度まで行われていた外務公務員I種試験は、通常の国家公務員I種試験と異なり、強力なコネ枠と言われる。向上心旺盛なキャリア志向の女性が、なぜ父親が重役職にある企業の縁故採用試験を?

1988〜1990年:オックスフォード大学に留学。(24〜26歳)
→外務省からの国費(税金)留学。同期留学者のうち一人だけ、修士号を取れずに帰国。週末ごとに洗濯物を抱えてパリに往復したという情報有り。小和田父は1988年〜1990年:OECD(経済協力開発機構・事務局はパリ)日本政府常駐代表。

雅子妃の高学歴キャリアウーマンとは程遠いお粗末な英会話の能力も指摘されている→マサグリッシュ

※本来、皇太子妃としての役割を果たしてくれれば過去の経歴はどうでもいい。当人及び擁護派が、役割を果たせない言い訳として華麗な過去を持ち出すので検証せざるを得ない。

公務キャンセルの当日に元気に別行動
(2007年度分のみ同日シリーズより抜粋。一部省略)

07.01.22
モザンビークのゲブーザ大統領夫妻との宮中午餐を欠席した当日、皇太子がビオラ奏者として出席した演奏会を私的に鑑賞
≪週刊女性2/13号≫

07.01.26 26〜27日
スケート国体@群馬県の公務を欠席した当日、乗馬。
≪週刊女性2/13号≫

07.03.02
東宮御所での東京都知事によるご進講の公務を欠席した当日、学習院幼稚園ひな祭り会の日のお迎えとママ友作り。
≪女性自身3/20号≫

07.03.15
東宮御所での勤労奉仕団へのご会釈は欠席した当日、オランダのウィレム・アレキサンダー王太子との午餐会には出席。

07.04.06
一家で朝早くスケートを楽しむ≪週刊女性5/8・15号≫。その当日、経済産業省製造産業局長,同生物化学産業課長のご進講(東宮御所)を欠席。

07.04.11
東宮御所での勤労奉仕団へのご会釈は欠席した当日、父・小和田恒氏がパネリストとして出席した国連大学でのロザリン・ヒギンズ国際司法裁判所(ICJ)所長講演会は夫妻で私的に聴講
≪国連大学HP配信ストリーム動画+週刊女性5/1号、読売ウィークリー5/6・13号≫

07.04.27
東宮御所での財務省国際局長によるご説明を欠席した当日、国連大学にお出かけ
≪週刊女性5/22号≫

07.07.19
雅子と愛子、幼稚園の帰りに2回目の電車(目白〜代々木乗換え〜信濃町)乗車体験、日テレとTBSがそれを報じる。同日東宮御所では、離任イスラエル大使・離任クウェート大使・離任エジプト大使との接見公務があり皇太子が単独で対応。それなりに混んだ電車に乗るだけの元気がある雅子は欠席。

07.07.22
賢所仮殿にて文武天皇千三百年式年祭の儀があったものの東宮から出席したのは皇太子のみ、雅子は祭祀を当然のごとく欠席。同日一家で日生劇場へ「小さな山神スズナ姫〜大ナマズのひみつ!〜」ミュージカル人形劇を鑑賞し複数ブログ・mixiに目撃談が書かれる。また出演者であるジェームス小野田氏が楽屋にて皇太子一家&雅子の親戚(恐らく礼子のことか?)と歓談したと、米米クラブ公式ブログにて述べている。

07.07.27-29
佐賀県行啓(高校総体)を「体調」を理由に欠席、皇太子が留守の間の27日と29日に東宮御所でプライベートな子供会を開く
≪週刊文春8/9号≫。

07.07.30
「明治天皇例祭の儀」の祭祀、ご接見の公務を欠席した当日、自宅で3回目のプライベートな「子供会」を開く
≪週刊文春8/9号≫

07.08.12
オックスフォード大学演劇協会「夏の夜の夢」鑑賞公務を欠席した当日、六本木の東京ミッドタウン内のメキシコ料理店で外務省時代の仲間と夕食≪AERA 9/10号≫,庭の見える個室にて男女三人ずつで4時間の「プライベート・ディナー」、「力強いガーリックライス」を食べたとのこと。
≪10/15夕フジニュース≫

07.10.11
ブラジルのパラナ友好経済使節団とのご接見を欠席した当日、マンダリンオリエンタル東京ホテル37階のフレンチレストラン「シグネチャー」で田園調布双葉時代友人と“同級生ランチ”
≪週刊文春11/1号≫

07.10.12 10/12-14
秋田県行啓(全国障害者スポーツ大会)を欠席中に乗馬
≪週刊女性10/30号≫。

07.10.13
八大行啓の一つである全国障害者スポーツ大会開会式を含む秋田県行啓には皇太子のみ出席(10/12-14)、欠席した雅子は愛子を連れて学習院初等科運動会見学へ元気に出かけ昨年同様マスコミカメラを呼んでロケ撮影させる。

07.10.15
皇太子は両陛下&秋篠宮両殿下とともにナミビア大統領夫妻との午餐に出席、午餐会を欠席した雅子は銀座教文館で「藤城清治 光と影展」お忍び鑑賞
≪ヤフーブログ「藤代清治 銀座 雅子さま」&『女性自身』11/6・13号≫。

07.11.3-5
第31回全国育樹祭臨席等にて皇太子ひとりぼっち熊本県行啓へ【八大行啓】。11/4に雅子は赤坂御用地内を散策≪産経ニュース皇室ウィークリー11/10≫、同日外務省北米二課同僚の欧州転勤送別会、麻布富麗華2万円コース上海蟹等3時間お楽しみ≪週刊文春11/22号≫だったとのこと。合わせて11/5には愛子内親王学習院初等科面接受験の付き添いにも出向く。
≪11/7TBSイブニング5≫

07.11.14-16
ユニバーサル技能五輪国際大会視察等にて皇太子ひとりぼっち静岡県行啓へ。11/16雅子は多摩動物公園入り口まで愛子の遠足付き添い。但しこの付き添いは行きのみで、帰りのお迎えについては「妃殿下はこの日  ご 予 定  がおありで、先に御所にお帰りになったそうです。後は他のお母さんたちやお付きの人たちに愛子を頼みます≠ニお願いされ、あえて、お迎えにも行かれなかったそうです」(宮内庁関係者)…のように人任せだったと『女性セブン』12/13号記事に書かれる。この「ご予定」が何であったかは現時点で不明。

07.11.20
国立女性教育会館で行われる「NWEC 30周年記念国際シンポジウム」への出席について、雅子の意向を侍従らが数日前になっても確認できず、内々に決めた翌日中止されたと『週刊朝日』2008/2/29号報じる。そしてこの日、雅子は国連大学訪問と皇居内馬場で乗馬の私事お楽しみをしていたとMSN産経皇室ウィークリー2008/11/24。

07.12.21
皇居宮殿での午餐(内閣総理大臣始め閣僚等)欠席。同日夕刻に一家で15分ほど恵比寿ガーデンプレイス・クリスマスイルミネーション見物≪週刊文春12/27号、12/21TVニュース≫、その後近くのホテルレストラン(地理的にウェスティンホテル「ビクターズ」か)で小和田夫妻、妹・池田礼子家族らと食事会
≪女性自身1/22号≫≪12/21日テレニュース≫

07.12.28
毎年恒例御所でのお餅つきを東宮一家直前でドタキャン≪サンデー毎日2008/1/20号≫、その日の夜に東宮夫妻とピピマリかかりつけ獣医師夫妻、銀座ミシュラン三ツ星レストラン・ロオジエにて4時間以上夕食を楽しむ
≪2007/12/28-29NNN・FNN・ANNニュース≫

孫の顔を心待ちにする義理の両親(天皇皇后両陛下)に ...

『週刊文春』2006年2月23日号、27ページより
 
「お世継ぎ」をめぐって天皇皇后と皇太子ご夫妻の間には見解の相違が存在することが顕在化したのはご成婚から三年目のことだった。皇太子ご夫妻は九四年、九五年と続けて中東諸国を歴訪されているが、そのご帰国後の九五年、天皇のお言葉に雅子さまが直接異を唱えられたことがあった。

その日、天皇は雅子さまにこう語りかけたと伝えられている。

「国民みんなが待っているからね」

すると雅子さまは色をなしてこうご返事をされた。

「私の友達にそんなことを言う人は一人もいません」
あまりのおっしゃりように、周囲は唖然としてしまったという。

(コメント)
一般の家庭でも、両親と息子夫婦の間で「早く孫の顔を見せてくれ」といった程度の会話は良く聞かれるが、千五百年以上も男系継承が続く天皇家では、子作りは一般家庭以上に必須であり、天皇皇后両陛下のお言葉はむしろ当然のことだと思う。

天皇家の男系継承が途絶えれば、日本という国にとっても大きな損失であり、未来永劫に取り返しがつかないことになる。下記の東宮職の言葉を借りれば、雅子妃は皇室の伝統と歴史を重んじているとのことだが、本当に重んじていたら子作りに拒否反応を起こすことなど考えられない。

一般の家庭でも、経済的な問題がなければ子作りに拒否反応を示す母親は極めて少数派だろう。こんなとんでもない嫁が長男のところに来てしまっては、天皇皇后両陛下のご心痛とストレスは察して余りあるものがある。

また、一部で同日シリーズとして有名な雅子妃のいい加減な行動ぶりを 2007年分に限って紹介したが、はっきり言って雅子妃がなんらかの病気であるとは考えづらい。これで雅子妃が病気であるというのなら、世間一般の人間全てが病気ということになるだろう。

皇太子ご夫妻、両陛下の心遣いに感謝 東宮大夫が会見

野村一成 東宮大夫
野村一成 東宮大夫 雅子妃の父、小和田恒の元腹心で外務省出身。外務省出身者ばかりの東宮職の長。

宮内庁の羽毛田(はけた)信吾長官が11日、天皇、皇后両陛下が皇太子ご夫妻の健康などを心配しているという「所見」を示したことについて、皇太子ご夫妻のお世話役のトップである野村一成東宮大夫は12日の定例会見で、

「(ご夫妻は)両陛下のお心遣い、お励ましを心からありがたく思っておられる」と述べた。雅子さまの「適応障害」との診断に関し、「皇室そのものがストレスであり、病気の原因」との意見があることに、羽毛田長官が「両陛下は深く傷つかれた」と語ったことに対し、野村大夫は「まさに妃殿下ご自身が深く傷つかれている点であろうと思う」とし、「皇室の伝統もご公務も大切に考えておられ、それらを十分に行うことができるようにご治療に鋭意努めておられる」と述べた。

【野村一成 東宮大夫】

元外務省ロシア大使

1960年代後半モスクワの日本大使館において小和田恒と同時期勤務(ロシアンスクール仲間)

当時から小和田恒の腹心の部下の一人で雅子妃が幼少の頃からの知り合い(野村のおじさまと呼ばれていた)

小和田恒の名を貰って息子に「恒成」と名付ける
("恒"が自分の名前の文字より前である事からその忠誠ぶりが伺われる)

息子の恒成も2世外務官僚として現在、国際法局国際法課に勤務
(小和田が勤務している国際司法裁判所はここの管轄)

息子の上司、国際法局長の結婚時の仲人も小和田恒

(コメント)
羽毛田長官の会見に対して、この野村東宮大夫の会見はどうかと思うが、経歴から見ても分かるとおり、東宮大夫は雅子妃の父、小和田恒の子飼の部下だった人物であり、彼なりの小和田恒への忠誠のつもなのかもしれない。

野村東宮大夫の主張は、控えめに見ても天皇皇后両陛下に喧嘩を売っているようにしか見えないが、皇太子夫妻の健康診断も満足に出来ないようでは、現在の東宮職の存在そのものが不必要なのではないかと疑いたくなる。立場上、皇太子夫妻を批判しにくいことは理解できるが、もう少し言い方を考えてはいかがだろうか。
http://koramu2.blog59.fc2.com/blog-entry-303.html
http://www.asyura2.com/12/social9/msg/352.html#c231

[近代史3] 石平 中国共産党政権の脅威

石平氏 講演「憲法改正と中国共産党政権の脅威」(2018.11.3) - YouTube 動画
https://www.youtube.com/watch?v=uD-sF2GQDVU


特別番組「中国人の善と悪はなぜ逆さまか〜宗族と一族イズム」
石平 倉山満【チャンネルくらら・12月30日配信】 - YouTube動画
https://www.youtube.com/watch?v=OIKKE71Xp-s


特別番組「宗族を目の敵にした共産革命〜中国人の善と悪はなぜ逆さまか 宗族と一族イズム」
石平 倉山満【チャンネルくらら・1月6日配信】 - YouTube動画
https://www.youtube.com/watch?v=Oyg1XmBqWRw

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石平 - YouTube 動画
https://www.youtube.com/results?search_query=%E7%9F%B3%E5%B9%B3


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WEDGE Infinity(ウェッジ):石平
http://wedge.ismedia.jp/search?fulltext=%E7%9F%B3%E5%B9%B3


amazon 石平の本
https://www.amazon.co.jp/%E6%9C%AC-%E7%9F%B3%E5%B9%B3/s?rh=n%3A465392%2Cp_27%3A%E7%9F%B3%E5%B9%B3
https://www.amazon.co.jp/s?k=B003UWNMKU&rd=1&ref=lp_rd_SEARCH


石平 Twitter
https://twitter.com/liyonyon?ref_src=twsrc%5Egoogle%7Ctwcamp%5Eserp%7Ctwgr%5Eauthor

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石 平(せき へい、シー・ピン(中国語発音表記:Shi Ping)
(1962年〈昭和37年〉1月30日[1] - )


中華人民共和国四川省成都市出身[2]。
2007年に日本国籍を取得。
2008年4月より拓殖大学客員教授[2]。

1962年、中華人民共和国・四川省成都市で生まれる。1966年、文化大革命の最中に教師であった両親が大学から追放されて農場へ「下放」されたため、四川省の農村部で漢方医である祖父によって養育された。祖父は石に漢方医を継がせるべく、医者になるための教養として密かに「論語」を教えていたが、石が11歳の時に肺がんで死去[3]。

中学校時代、ゴミ拾いの貧しい老婆が近所に住んでいて、いつも学校帰りの石少年ら子供たちに、笑顔で「勉強頑張ってね」と声をかけていたが、ある日突然その老婆がいなくなり、「反革命分子」として政府に逮捕されたことを知った[4]。数日後、老婆はトラックに乗せられ町中の市民に見せつけるため一巡させられた後、処刑場で銃殺された[4]。この老婆が「反毛主席」の大罪で処刑された理由が、ゴミ捨て場から拾った新聞紙(毛沢東の顔写真が印刷されていた)で大根を包んでいたからということをその後知った石少年は衝撃を受けた[4]。

1980年9月に北京大学哲学部に入学し、1984年7月に卒業。北京大学在学中の1982年頃より、毛沢東暴政の再来を防ぐ目的で中国民主化運動に情熱を傾け始める。1988年4月に日本に留学し、日本語学校入学。文化大革命および1989年に勃発した天安門事件における中国共産党の党利党略ぶりへの憤怒と絶望感を抱き、「この国にはもはや用がない、何の愛着も義理も無い」と祖国である中華人民共和国との精神的決別に至った[4]。その一方、留学中の日本で、中国の古き時代の隋・唐文化を守り発展させた日本文化に魅力を感じるようになり、孔子や論語の思想が日本の精神に生き続けていると感激し、次第に「愛日主義者」となっていった[3][5]。1995年に神戸大学大学院文化学研究科博士課程修了(学位は未取得)。民間研究機関に勤務[要出典]。

2002年(平成14年)初頭に中華人民共和国国内に広がる反日感情をレポートした書物を出し、論壇デビュー。以来、『正論』、『Voice』、『WiLL』などの保守論壇誌に論考を寄稿し、日中関係・中国問題などを論じている。また、フジテレビ・読売テレビ・テレビ朝日・TBSなどの中国関連ニュース番組・討論番組でコメンテーターを務めている[要出典]。

日本へ帰化

2007年(平成19年)11月30日、日本に帰化[6]。2008年(平成20年)4月に拓殖大学客員教授に就任。夏には公式サイトを(#外部リンク)開設し、同時にまぐまぐの無料メールマガジンも発行開始した[7]。

日本名は石 平〈せき へい〉だが、石平だと日本では苗字だと思われることもあり、Twitterでは差別化を兼ねて冗談半分で「太郎」をつけて『石平太郎』と名乗っている[2][8]。

2009年(平成21年)3月より産経新聞で隔週連載コラム「石平のChina Watch」の連載を開始[9]。2009年8月14日、『私は「毛主席の小戦士」だった』の改題改訂版である


活動・主張

中国問題に関する論評では、定番の政治問題・社会問題・外交戦略以外に、経済問題を取り上げることもある。

中国崩壊論の代表的な論者とみなされることが多いが、石平本人は「崩壊するなどとは言っていない」「いつ崩壊するなどと予言したことはない。持続不可能と指摘しているだけだ」とニューズウィークのインタビューで主張している。

中国に先駆け、日本はバブル経済が弾けた時に崩壊したと主張している。


歴史認識

日本の教育については、「子供達に一方的に、日本は侵略国家だったと教えるのは止めるべきである。……道徳心や愛国心を教えるのも当然だが、歴史教科書の記述は中立でなければならない」と主張している[10]。

『日本に来るまで南京大虐殺など一度も聞いたことがなかった。中国の小学校、中学校の教科書にも南京大虐殺なんて載ってませんでした。……蒋介石自身も抗議していない。日本留学から中国に帰ったとき、南京出身の大学のクラスメイトに、「親父さんかお祖父さんから、大虐殺の噂を聞いたことがあるか」と聞いたら、やはり「ない」と言っていました。中国では、歴史的な大虐殺が何度もありました。……そういう所を掘り返すと、たしかに人骨がいっぱい出てくるんです。面白いことに、二千年前の記述でも嘘じゃなくて、必ず出てくる。しかし、南京から何十万体の骨が出てきたなんて話、一つも聞いたことがない』などと主張している[11]。

その他
2008年(平成20年)9月26日から10月2日までに台湾を訪問。台湾の民主主義を絶賛し、李登輝元総統にも会っている。李は石に対し、「あなたの本を読んで、感心していますよ」と言ったという[12]。


著作

単著

『なぜ中国人は日本人を憎むのか』PHP研究所、2002年1月16日。ISBN 4-569-62004-3。
『中国「愛国攘夷」の病理――吹き荒れる電脳ナショナリズム』小学館〈小学館文庫〉、2002年6月。ISBN 4-09-402746-7。
『数字が証す中国の知られざる正体――「21世紀は中国の世紀」のウソを暴く』日本文芸社、2002年9月。ISBN 4-537-25115-8。
『「日中友好」は日本を滅ぼす!――歴史が教える「脱・中国」の法則』講談社〈講談社+α新書〉、2005年7月20日。ISBN 4-06-272327-1。
『中国人だから見える日中の宿命』扶桑社、2006年5月。ISBN 4-594-05159-6。
『私は「毛主席の小戦士」だった――ある中国人哲学者の告白』飛鳥新社、2006年10月19日。ISBN 4-87031-761-3。 『私はなぜ「中国」を捨てたのか』ワック〈Wac bunko B-110〉、2009年8月14日、新版。ISBN 978-4-89831-610-8。 - 『私は「毛主席の小戦士」だった』の改題・改訂版。 『【新装版】私はなぜ「中国」を捨てたのか』ワック、2019年3月13日。ISBN 978-4898317914。 - 『私はなぜ「中国」を捨てたのか』に加筆した新装版。


『中国大虐殺史――なぜ中国人は人殺しが好きなのか』ビジネス社、2007年11月。ISBN 978-4-8284-1401-0。 『なぜ中国人はこんなに残酷になれるのか 中国大虐殺史』ビジネス社、2012年11月22日。ISBN 978-4-8284-1685-4。 - 『中国大虐殺史』の改題。

『論語道場 『論語』の教えが人生を教えてくれた』致知出版社、2007年12月。ISBN 978-4-88474-797-8。
『これが本当の中国33のツボ――知っているようで知らない』海竜社、2008年3月。ISBN 978-4-7593-1014-6。
石平「中国史とは虐殺の歴史だ」『拉致と侵略の真実 教科書が教えない日本被害史 完全保存版』西村幸祐 責任編集、オークラ出版〈OAK MOOK 199号 撃論ムック Vol.9〉、2008年3月。ISBN 978-4-7755-1143-5。 石平「中国史とは虐殺の歴史だ」『日本被害史 世界でこんなに殺された日本人』オークラ出版、2012年12月24日。ISBN 978-4-7755-1980-6。

『中国「悪魔の辞典」』小学館〈Clickシリーズ〉、2008年7月30日。ISBN 978-4-09-387802-9。
『2010年 中国が牙をむく』PHPパブリッシング、2008年11月。ISBN 978-4-569-70362-6。
『中国経済崩壊の現場――中国のメディアが語る』海竜社、2009年1月。ISBN 978-4-7593-1051-1。
『中国大逆流――絶望の「天安門20年」と戦慄の未来像』ベストセラーズ、2009年5月25日。ISBN 978-4-584-13162-6。
『なぜ、日本人は日本をおとしめ中国に媚びるのか』ワック〈Wac bunko B-114〉、2009年11月24日。ISBN 978-4-89831-614-6。
『謀略家たちの中国――中国四千年の悲哀』PHP研究所、2009年11月25日。ISBN 978-4-569-77523-4。
『中国の経済専門家たちが語る ほんとうに危ない!中国経済』海竜社、2010年9月。ISBN 978-4-7593-1151-8。
『日中をダメにした9人の政治家』ベストセラーズ、2011年3月25日。ISBN 978-4-584-13298-2。
『中国ネット革命』海竜社、2011年5月。ISBN 978-4-7593-1183-9。
『中国人の正体』宝島社、2011年6月17日。ISBN 978-4-7966-8174-2。 『中国人の正体』宝島社〈宝島SUGOI文庫〉、2012年2月7日。ISBN 978-4-7966-8968-7。

『【中国版】サブプライム・ローンの恐怖』幻冬舎〈幻冬舎新書 せ-1-1〉、2011年9月28日。ISBN 978-4-344-98234-5。
『わが子に教えたい日本の心 武士道精神の源流』PHP研究所、2012年3月13日。ISBN 978-4-569-79518-8。
『中国――崩壊と暴走、3つのシナリオ』幸福の科学出版、2012年5月30日。ISBN 978-4-86395-201-0。
『中国人に負けない7つの方法』宝島社、2012年7月11日。ISBN 978-4-7966-9847-4。 『中国人の嘘にだまされない7つの方法』宝島社〈宝島SUGOI文庫〉、2013年1月10日。ISBN 978-4-8002-0509-4。

石平「寄稿 中国から見た日本の天皇の不思議、そこに流れる知恵」『まんがと図解でわかる 天皇のすべて 日本人なら知っておきたい天皇のお仕事と歴史が理解できる!』所功 監修、宝島社〈別冊宝島1910〉、2012年10月12日。ISBN 978-4-8002-0163-8。
石平「“すべてが中国である”という「中華思想」は、中国人以外誰も理解できない」『領土問題、私はこう考える! 孫崎享、山田吉彦、鈴木宗男ほか識者たちの提言』畠山理仁 構成、集英社〈経営者の本棚〉、2012年11月26日。ISBN 978-4-08-781516-0。
『尖閣問題。真実のすべて』海竜社、2012年12月。ISBN 978-4-7593-1284-3。 - 山田吉彦、岡崎久彦との対談を収録。
『日中新冷戦構造』イースト・プレス〈イースト新書 003〉、2013年6月3日。ISBN 978-4-7816-5003-6。
『「歪んだ経済」で読み解く中国の謎 習近平と中国は何を狙っている?』ワニ・プラス〈ワニブックス|PLUS|新書 097〉、2013年6月8日。ISBN 978-4-8470-6062-5。
『「全身病巣」国家・中国の死に方 蝕まれた虚像の大国が悲鳴を上げる』宝島社、2013年10月21日。ISBN 978-4-8002-1681-6。 『「全身病巣」国家・中国の死に方 蝕まれた虚像の大国が悲鳴を上げる』宝島社〈宝島SUGOI文庫 Dせ-2-3〉、2014年9月4日。ISBN 978-4-8002-2714-0。 - 石 (2013d)に加筆・修正を行い改定。

『なぜ中国から離れると日本はうまくいくのか』PHP研究所〈PHP新書〉、2013年11月16日。ISBN 978-4-569-81621-0。
『なぜ中国人にはもう1%も未来がないのか』徳間書店、2014年5月23日。ISBN 978-4-19-863800-9。
『世界征服を夢見る嫌われ者国家中国の狂気 習近平体制崩壊前夜』ビジネス社、2014年6月20日。ISBN 978-4-8284-1757-8。
『中国崩壊カウントダウン 中国は崩壊の歴史を必ず繰り返す!』宝島社、2014年7月14日。ISBN 978-4-8002-2334-0。 - 文献あり。
『帰化人が見た靖国神社のすべて 日本人になった中国人 日本人は「靖国神社」にお参りしよう!』海竜社、2014年8月。ISBN 978-4-7593-1383-3。 - 年表あり。
『なぜ中国は覇権の妄想をやめられないのか 中華秩序の本質を知れば「歴史の法則」がわかる』PHP研究所〈PHP新書 979〉、2015年3月13日。ISBN 978-4-569-82485-7。
『「死に体」中国の宿命』宝島社〈宝島SUGOI文庫〉、2015年8月6日。
『中国「歴史認識」の正体 ~繰り返される歴史改ざんの大罪』宝島社、2015年7月23日。ISBN 978-4800234100。
『暴走を始めた中国2億6000万人の現代流民』講談社、2015年10月1日。
『習近平にはなぜもう100%未来がないのか』徳間書店、2015年11月28日。
『なぜ中国はいつまでも近代国家になれないのか』PHP研究所、2015年12月16日。
『韓民族こそ歴史の加害者である』飛鳥新社、2016年5月7日。ISBN 978-4864104616。
『偽装国家・中国の「歴史認識」』宝島社〈宝島SUGOI文庫〉、2016年5月10日。
『中国から帰化して驚いた 日本にはびこる「トンデモ左翼」の病理』徳間書店、2016年9月29日。ISBN 978-4198642563。
『狂気の沙汰の習近平体制 黒い報告書』ビジネス社、2016年10月15日。ISBN 978-4828419176。
『なぜ中韓はいつまでも日本のようになれないのか わが国だけが近代文明を手に入れた歴史の必然』KADOKAWA、2017年1月27日。ISBN 978-4046018700。
『トランプvs.中国は歴史の必然である 近現代史で読み解く米中衝突』産経新聞出版、2017年2月3日。ISBN 978-4819112987。
『朝鮮半島はなぜいつも地獄が繰り返されるのか 中国人ですら韓民族に関わりたくない本当の理由』徳間書店、2017年6月30日。ISBN 978-4198644253。
『中国が反論できない 真実の尖閣史』扶桑社、2017年8月2日。ISBN 978-4594077730。 石井望監修。
『教えて石平さん。日本はもうすでに中国にのっとられているって本当ですか?』SBクリエイティブ、2017年8月5日。ISBN 978-4797392920。
『冗談か悪夢のような中国という災厄』ビジネス社、2017年9月21日。ISBN 978-4828419770。
『習近平の終身独裁で始まる中国の大暗黒時代』徳間書店、2017年11月30日。ISBN 978-4198645137。
『なぜ日本だけが中国の呪縛から逃れられたのか 「脱中華」の日本思想史』PHP研究所、2018年1月17日。ISBN 978-4569837451。
『なぜ中国は民主化したくてもできないのか 「皇帝政治」の本質を知れば現代中国の核心がわかる』KADOKAWA、2018年3月24日。ISBN 978-4046022974。
『結論! 朝鮮半島に関わってはいけない 東アジアと世界のトラブルメーカー』飛鳥新社、2018年5月9日。ISBN 978-4864106078。
『中国五千年の虚言史 なぜ中国人は嘘をつかずにいられないのか』徳間書店、2018年7月26日。ISBN 978-4198646578。
『アメリカの本気を見誤り、中国を「地獄」へ導く習近平の狂気』ビジネス社、2018年10月2日。ISBN 978-4828420578。
『中国人の善と悪はなぜ逆さまか 宗族と一族イズム』産経新聞出版、2018年12月5日。ISBN 978-4819113502。
『なぜ論語は「善」なのに、儒教は「悪」なのか 日本と中韓「道徳格差」の核心』PHP研究所、2019年3月16日。ISBN 978-4569842776。

共著・編著・共編著

黄文雄、呉善花共著『売国奴』ビジネス社、2007年10月。ISBN 978-4-8284-1387-7。 呉善花、黄文雄 共著『売国奴 なぜ中韓は反日を国是とするのか』ビジネス社、2013年1月17日、新装版。ISBN 978-4-8284-1692-2。

日下公人 共著『日本と中国は理解しあえない』PHPパブリッシング(出版) PHP研究所(発売)、2008年4月1日。ISBN 978-4-569-69938-7。
日下公人 共著『中国の崩壊が始まった!』ワック〈Wac bunko〉、2008年6月28日。ISBN 978-4-89831-584-2。
ペマ・ギャルポ 共著『ならずもの国家 中国の本性――蹂躙されたチベット』ワック〈Wac bunko〉、2008年8月29日。ISBN 978-4-89831-588-0。
黄文雄、呉善花 共著『帰化日本人――だから解る日本人の美点・弱点』李白社、2008年11月。ISBN 978-4-89451-903-9。
三橋貴明 共著『中国経済がダメになる理由――サブプライム後の日中関係を読む』PHP研究所、2009年4月15日。ISBN 978-4-569-70758-7。
宮崎正弘 共著『絶望の大国、中国の真実――日本人は、中国人のことを何も分かっていない!』ワック〈Wac bunko B-102〉、2009年5月8日。ISBN 978-4-89831-602-3。
中嶋嶺雄 共著『「日中対決」がなぜ必要か――中国・建国以来の真実と影』PHPパブリッシング(出版) PHP研究所(発売)、2009年9月18日。ISBN 978-4-569-77336-0。 中嶋嶺雄『中国とは何か 建国以来の真実と影』石平 聞き手、PHPパブリッシング、2013年9月。ISBN 978-4-907440-01-5。

岡崎久彦、渡部昇一 共著『日本の歴史を解く9つの鍵 古代〜幕末編』海竜社、2009年11月。ISBN 978-4-7593-1098-6。
宮崎正弘 共著『増長し、無限に乱れる「欲望大国」中国のいま』ワック〈Wac bunko B-115〉、2010年1月15日。ISBN 978-4-89831-615-3。
西村幸祐 共著『日本よ!米中を捨てる覚悟はあるか』徳間書店、2010年5月。ISBN 978-4-19-862962-5。 『中国を捨てよ』イースト・プレス〈イースト新書 028〉、2014年4月。ISBN 978-4-7816-5028-9。 - 西村 & 石 (2010)の改題、改訂し、新規対談を加える。

加瀬英明 共著『徹底解明!ここまで違う日本と中国――中華思想の誤解が日本を亡ぼす』自由社、2010年7月10日。ISBN 978-4-915237-56-0。
有本香 共著『バブル崩壊で死ぬか、インフレで死ぬか――不動産国家・中国の行方』ワック〈Wac bunko B-134〉、2010年9月29日。ISBN 978-4-89831-634-4。
藤岡信勝、茂木弘道・加瀬英明・石平・田久保忠衛・平松茂雄・川村純彦・佐藤守・西尾幹二・高市早苗『中国はなぜ尖閣を取りに来るのか』藤岡信勝・加瀬英明 編、自由社、2010年12月。ISBN 978-4-915237-59-1。
西尾幹二、井尻千男・早瀬善彦・岩田温・平松茂雄・田中英道・南出喜久治・遠藤浩一・石平・稲田朋美・水島総・渡部昇一 共著『中国が攻めてくる! 日本は憲法で滅ぶ』総和社、2011年2月。ISBN 978-4-86286-048-4。
小林よしのり、石平・呉善花・鄭大均・ペマ・ギャルポ・ビル・トッテン・金美齢『新日本人に訊け! 帰化 ゴーマニズム対論集』飛鳥新社、2011年5月10日。ISBN 978-4-86410-084-7。
長谷川慶太郎 共著『解放軍の原爆を日本に落とさせるな』フォレスト出版、2011年7月。ISBN 978-4-89451-936-7。
高市早苗、遠藤浩一・富岡幸一郎・中村粲・斎藤吉久・ロマノ・ヴルピッタ・石平・山村明義・高森明勅『日本人なら学んでおきたい靖國問題』青林堂、2011年8月。ISBN 978-4-7926-0438-7。
福島香織 共著『中国人がタブーにする中国経済の真実』PHP研究所、2011年12月22日。ISBN 978-4-569-80213-8。
副島隆彦 共著『中国 崩壊か 繁栄か!? 殴り合い激論』李白社(出版) ビジネス社(発売)、2012年6月29日。ISBN 978-4-8284-1670-0。
宮崎正弘 共著『中国社会の崩壊が始まった! 2013年の「中国」を予測する』ワック、2012年9月21日。ISBN 978-4-89831-670-2。
黄文雄 共著『「中国の終わり」のはじまり 習近平政権、経済崩壊、反日の行方』徳間書店、2012年11月29日。ISBN 978-4-19-863521-3。
劉燕子 共著『反旗 中国共産党と闘う志士たち』育鵬社(発行) 扶桑社(発売)、2012年12月14日。ISBN 978-4-594-06747-2。
加瀬英明 共著『相手が悪いと思う中国人 相手に悪いと思う日本人』ワック〈WAC BUNKO〉、2012年12月20日。ISBN 978-4-89831-674-0。
潮匡人 ほか「第6章 日本文明の7つの特質と、あるべき戦略」『日本の国益 野蛮・中国に勝つための10の論点』幸福の科学出版、2012年12月27日。ISBN 978-4-86395-289-8。
宮崎正弘 共著『2013年後期の「中国」を予測する 習近平(ラストエンペラー)の断末魔の叫びが聞こえる』ワック〈WAC BUNKO B-176〉、2013年4月19日。ISBN 978-4-89831-676-4。
黄文雄、呉善花 共著『黄文雄(台湾)が呉善花(韓国)、石平(中国)に直撃 日本人は中国人・韓国人と根本的に違う』李白社(出版) 徳間書店(販売)、2013年4月15日。ISBN 978-4-19-863602-9。
石平 インタビュー「中国共産党【弾圧と侵略の92年史】」『マスコミが絶対教えてくれない 中国・韓国・北朝鮮』晋遊舎〈晋遊舎歴史探訪シリーズ別冊〉、2013年6月21日。ISBN 978-4-86391-786-6。
副島隆彦 共著『歴史・思想・宗教で読み解く中国人の本性(ホンセイ)』李白社(出版) 徳間書店(販売)、2013年7月25日。ISBN 978-4-19-863636-4。
黄文雄 共著『中国はもう終わっている』徳間書店、2013年9月18日。ISBN 978-4-19-863667-8。
呉善花、黄文雄 共著『日本人の恩を忘れた中国人・韓国人の「心の闇」 呉善花〈韓国〉が黄文雄〈台湾〉、石平〈中国〉に直撃』李白社(出版) 徳間書店(販売)、2013年12月11日。ISBN 978-4-19-863724-8。
宮崎正弘 共著『2014年の「中国」を予測する 中国大陸から次々と逃げ出すヒトとカネ』ワック〈WAC BUNKO B-189〉、2013年12月25日。ISBN 978-4-89831-689-4。
黄文雄、呉善花 共著『日本人は中韓との「絶交の覚悟」を持ちなさい 石平〈中国〉が黄文雄〈台湾〉、呉善花〈韓国〉に直撃』李白社(出版) 徳間書店(販売)、2014年1月27日。ISBN 978-4-19-863736-1。
呉善花 共著『もう、この国は捨て置け! 韓国の狂気と異質さ』ワック〈WAC BUNKO B-193〉、2014年2月。ISBN 978-4-89831-693-1。
古森義久 共著『自壊する中国反撃する日本 日米中激突時代始まる!』ビジネス社、2014年8月1日。ISBN 978-4-8284-1763-9。
宮崎正弘 共著『2015年中国の真実 中国は習近平に潰される?』ワック〈WAC BUNKO B-204〉、2014年9月19日。ISBN 978-4-89831-704-4。
西村幸祐 共著『「反日」の敗北』イースト・プレス、2014年6月。ISBN 978-4-7816-1174-7。
黄文雄 共著『日本に敗れ世界から排除される中国』徳間書店、2014年12月20日。ISBN 978-4-19-863890-0。
呉善花 共著『反日をやめたら成り立たない国・韓国』ワック、2015年5月18日。ISBN 978-4898317204。
黄文雄 共著『これから始まる中国の本当の悪夢: 習近平に迫る経済壊滅、政権分裂、国内大乱』徳間書店、2015年9月18日。ISBN 978-4198640118。
宮崎正弘 共著『私たちの予測した通り、いよいよ自壊する中国!』ワック、2015年10月23日。ISBN 978-4898317280。
有本香り 共著『リベラルの中国認識が日本を滅ぼす 日中関係とプロパガンダ』産経新聞出版、2015年10月30日。ISBN 978-4819112727。
ケント・ギルバート、室谷克実 共著『中国・韓国との新・歴史戦に勝つ!』悟空出版、2015年11月20日。ISBN 978-4908117176。
村上政俊 共著『最後は孤立して自壊する中国 2017年 習近平の中国』ワック、2016年5月10日。ISBN 978-4898317358。
ペマ・ギャルポ 共著『日本・インドの戦略包囲網で憤死する中国』徳間書店、2016年6月30日。ISBN 978-4198641726。
陳破空 共著『習近平が中国共産党を殺す時 日本と米国から見えた「2017年のクーデター」』ビジネス社、2016年7月30日。ISBN 978-4828419039。
百田尚樹 共著『「カエルの楽園」が地獄と化す日』飛鳥新社、2016年11月11日。ISBN 978-4864105224。
黄文雄 共著『「トランプ大統領」から始まる中国大乱』徳間書店、2016年12月22日。ISBN 978-4198643218。
ケント・ギルバート 共著『日本人だけがなぜ日本の凄さに気づかないのか』徳間書店、2017年8月31日。ISBN 978-4198644611。
黄文雄 共著『習近平の帝政復活で中国が日本に仕掛ける最終戦争』徳間書店、2018年3月28日。ISBN 978-4198645946。
豊田有恒 共著『なぜ中国・韓国は近代化できないのか: 自信のありすぎる中国、あるふりをする韓国』勉誠出版、2018年4月13日。ISBN 978-4585234043。
矢板明夫 共著『私たちは中国が世界で一番幸せな国だと思っていた』ビジネス社、2018年6月4日。ISBN 978-4828420318。
宮崎正弘 共著『アジアの覇者は誰か 習近平か、いやトランプと安倍だ!』ワック、2018年8月22日。ISBN 978-4898317815。
藤井厳喜 共著『米中「冷戦」から「熱戦」へ』ワック、2018年12月19日。ISBN 978-4898317891。
ケント・ギルバート 共著『「米中冷戦」で日本は漁夫の利を得る』宝島社、2019年3月15日。ISBN 978-4800291974。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%9F%B3%E5%B9%B3_(%E8%A9%95%E8%AB%96%E5%AE%B6)
http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/435.html

[近代史3] アメリカの大富豪は毎日何を食べているのか? _ アメリカ人には料理の味も文学も芸術も全く理解できなかった

アメリカの大富豪は毎日何を食べているのか? _ アメリカ人には料理の味も文学も芸術も全く理解できなかった


ビル・ゲイツはハンバーガーがお好き


ビル・ゲイツといえばマイクロソフト創業者で世界一のお金持ちとしても有名です。世界長者番付でずっと1位をキープしてきましたが2010年版ではメキシコの通信王であるカルロス・スリム・ヘルに抜かれ2位になってしまいました。3位は投資家で有名なウォーレン・バフェット。2011年版も順位は変わっていません。日本のIT系では、ソフトバンクの孫社長が113位、楽天の三木谷社長が182位に入っています。

ビル・ゲイツの推定資産は530億ドル(4兆2400億円)。お金持ちといっても資産として持っているマイクロソフト社の株であり、簡単に売るわけにはいきません。2006年度のビル・ゲイツの年間報酬は61万6667ドル。賞与は35万ドルで、あわせて96万6667ドル、100万ドル以下です。1ドル80円で計算すると年収8000万円。

ビル・ゲイツの8000万円はアメリカの経営者としては意外と少ないのですが、他に株の配当や銀行預金の金利がありますので毎年入ってくるキャッシュは膨大です。若い時からビル・ゲイツはお金に困らない生活をしていますが、食生活はいたって質素でハンバーガーが好物です。


昼食はドライブスルーのハンバーガー

マイクロソフトの秘書がハンバーガーを買いに来ていた

IBMと提携し、MS-DOSをひっさげ若くしてパソコン業界に君臨するビル・ゲイツ。1980年代、既にマイクロソフトの従業員が300人ほどに拡大している頃、本社の隣に「バーガーマスター」というハンバーガー屋さんがありました。今で言うドライブスルー形式ですが、一風変わったシステムでした。

駐車場に車を止めて、柱にあるメニューをチェック。注文が決まり車のライトをつけるとお店のお姉さんが注文を聞きに来るシステムです。持ち帰ってもよし車で食べてもよし、テイクアウト専門です。お昼になると毎日、このバーガーマスターへマイクロソフトの秘書がハンバーガーを買いに来ていました。これがビル・ゲイツの昼食でした。

来日しても分刻みのスケジュールをこなすビル・ゲイツ。移動中も食事はハンバーガーが定番。ただ同じはさむ食べ物ですが冷たいサンドイッチは苦手。

1992年、PCウィンドウズ・ワールド・エキスポ東京が幕張であった時、ビル・ゲイツのために事務局はふだん出すお弁当の何倍もする特上のお弁当を用意しておいたのですが、会場に来る途中でマクドナルドを見つけていたビル・ゲイツはお弁当には見向きもせずハンバーガーが食べたいと要求。あわててマイクロソフト社のスタッフが買いに行きました。

1993年、日本での発売が始まったWindows3.1。新高輪プリンスで発表会が行われましたが、ホテルがお昼に用意したのがビル・ゲイツの苦手な冷たいサンドイッチ。あわててスタッフがマクドナルドまでチーズバーガーを買いに行き、ことなきをえました。

その後、幕張で行われたイベントでは基調講演のリハーサルを終えたビル・ゲイツが控え室にいません。ビル・ゲイツがいないとスタッフが大騒ぎしていると、駅近くのマクドナルドへ自分でハンバーガーを買いに行ったビル・ゲイツがひょっこり帰ってきました。前回、幕張に来た時に店をチェックしていたのですね。それにしてもマクドナルドのレジの列にビル・ゲイツが並んでいたら皆、驚いたでしょうね。アメリカの空港待合室でもよくハンバーガーを買っているようです。


ハンバーガーをひっくり返すことがチャンスだ

アメリカの高校でビル・ゲイツが行ったスピーチ「学校では教えてくれない人生に役立つ11のルール」がインターネットで話題になりました。実際はビル・ゲイツが考えた言葉ではなく本からの引用なのですが、なかなか含蓄に富んでいます。

「先生が厳しすぎると思うなら、上司を持ってみろ。」
「人生は公平ではない。それに慣れよ。」

ビル・ゲイツらしく「オタクには親切にしよう。彼らの下で働く可能性が高い。」というのもあります。

このスピーチの中にまでハンバーガーが登場します。

「ハンバーガーを引っくり返すということは沽券にかかわることではない。君たちの祖父母はハンバーガーを引っくり返すことを別の表現を使った。それはチャンスと呼ばれた。」

数々のチャンスをモノにしてきたビル・ゲイツならではの言葉です。
https://allabout.co.jp/gm/gc/397569/


ビル・ゲイツとウォーレン・バフェットの意外な共通点――世界長者番付の上位者がよく食べるものとは? 2016/12/17


マクドナルドが好きです。

ハンバーガーとマックフライポテトが食べたくて、2日に1度くらいのペースで店に行きます。じつは、そんな自分が恥ずかしくてたまらないのです。


だって、マクドナルドってジャンクフードの代表格じゃないですか。実際、マックの商品を食べ終わったあとには、えもいわれぬ「ジャンクな香り」が全身から立ちのぼります。たとえるなら、情事のあとにシャワーも浴びずにベッドから抜け出してきたみたいで、周りの人たちに見透かされるようで、なんだか恥ずかしいのです。


マクドナルドが好きすぎる自分にすこし悩んだ時期もありました。しかし、ある事実を知ることによって、わたしは救われたのです。


ビル・ゲイツの好物はチーズバーガー

アメリカの経済誌「Forbes」は、毎年の恒例行事として世界長者番付を発表しています。


2016年版の第1位はビル・ゲイツ氏でした。資産額は約750億ドル(発表当時の為替レートで約8.5兆円)。ご存じのとおり、ゲイツ氏は、Windows、Word、Excel、PowerPointなどのソフトウェアを開発・販売しているマイクロソフト社の共同創業者です。


大富豪のゲイツ氏ですが、若いころから「ファストフード店のハンバーガー」が好きだったようです。好みは現在も変わっていないらしく、ソーシャルニュースサイト「Reddit」で開催されたゲイツ対ネットユーザーの一問一答イベント(2013年)や、海外紙「Telegraph」の取材記事(2016年)でも、あらためて「チーズバーガーが好き」であることが紹介されています。


つまり、わたしとゲイツ氏は「ジャンクフード仲間」ということになります。


うれしいです。


あの「スーパー経営者」が帰還直後に欲しがったもの

ファストフード店のハンバーガーを好んで食べたがる大富豪は、ほかにも存在します。『アイアンマン』ことトニー・スターク氏です。


スターク氏は、アメリカにおける最大手の軍需企業「スタークインダストリーズ」社のCEOです。架空の人物なので、現実のForbes誌にはランクインしていませんが、おそらく数千億円から数兆円レベルの大富豪でしょう。


映画『アイアンマン(Part.1)』の序盤において、スターク氏が死地から生還するシーンがあります。米軍の輸送機から降り立ったスターク氏が、まずはじめに欲しがったものが「チーズバーガー」でした。そのあとスターク氏は、バーガーキング製のチーズバーガー2個をペロリと平らげています。


バフェットがジャンクフードを食べ続けるワケ

ビル・ゲイツ氏にくらべて一般的な知名度が低いのですが、ウォーレン・バフェット氏は、Forbes誌における世界長者番付ランキング3位の大富豪です。伝説的な投資家であり、資産額は約600億ドル(発表当時の為替レートで約7兆円)。


有名なエピソードを紹介しましょう。


あるとき来日したバフェット氏は、日本企業が用意した高級和食にはいっさい箸をつけようとせず、そのかわりに「肉とパンだけのハンバーガー」と「チェリーコーク」を希望したというものです。


これはバフェット氏が質素な生活を好む「倹約家」であることを印象づけるものです。しかし、出典元を調べてみると、ほかにも違った見方ができるようです。


ひとつは『ウォーレン・バフェット 巨富を生み出す7つの法則』(桑原晃弥・著/朝日新聞出版・刊)の一節。


バフェットの食生活とリスク回避のスタイルは、とてもよく似ている。自分が好きなもの、理解できるもの以外には決して手を出さないのだ。

(中略)

バフェットが食べるのは、慣れ親しんでリスクのないチョコレートチップ・アイスクリームやコーラ、ハム・サンドイッチだったからだ。

(中略)

また、一流料理店の料理より、マクドナルドやウェンディーズのほうを好んだ。

(『ウォーレン・バフェット 巨富を生み出す7つの法則』から引用)


ほかにも、バフェット氏に近い人物(次男の嫁)が著したビジネス書には、次のように書いてあります。


暴食に関して言うと、ウォーレンはコーラとハンバーガーと分厚いステーキと大量のフレンチフライを主食としている。本人によれば、この取り合わせの妙は、幼少時代の誕生会で発見したそうで、これを与えてさえおけばいつもご機嫌である。

(『史上最強の投資家バフェットの教訓』から引用)


要するにバフェット氏は、「おいしい」という単純な理由からポテトやハンバーガーが大好きなのでしょう。つまり、わたしとバフェット氏も「ジャンクフード仲間」ということになります。
http://getnavi.jp/cuisine/94221/


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1日にコーラ5本? バフェットのユニークな食習慣に学ぶ「賢人」の投資戦略
Bob BryanOct. 27, 2017

ビリオネアの投資家ウォーレン・バフェットは、1日にコーラを5本飲む。


•ウォーレン・バフェットはユニークな投資家だ。
•その食習慣もユニークで、筆者は1週間、バフェットの食習慣をまねてみた。
•ウォーレン・バフェットの食事から、彼の投資戦略について3つの教訓を得た。


ウォーレン・バフェットになることは、誰にもできない。

物理的に彼そのものになることは当然だが、バフェットに匹敵するような投資能力を持つ人はまずいないし、彼が買収した企業のポートフォリオは、これからもユニークであり続けるだろう。

だが、バフェットにはもう1つ、その異彩ぶりを際立たせ、常人には継続するのが難しそうな一面がある。食習慣だ。「オマハの賢人」と呼ばれるバフェットの食事は、彼自身が認めているように、まるで「6歳の子ども」の食事だ。チェリーコークやジャンクフード、ピーナッツ・ブリトルまで、彼の食事はとにかく偏っている。筆者は1週間、同じ食事を試したが、なんとも悲惨だった。

砂糖と加工肉ばかりの1週間は、なんとも恐ろしい体験だったが、筆者はそこから2つのひらめきを得た。

1つは、バフェットの食事は本人が言うほど無節操ではなく、筋が通っているということ。もう1つは、彼の食事と投資戦略には共通点があるということだ。

目の前の数式がある日突然、自然に解けて、どの企業にどのタイミングで投資すべきか分かったと言っているわけではない。だが、バフェットの食事と投資には、3つの共通点があることに気が付いたのだ。

1. 自分が知っているものにこだわる

バフェットは、途中で道をそれることがあまりない。今も地元ネブラスカ州オマハで、同じレストランに通い続けている。ニューヨークに来た時も、同じステーキハウスへ行く。朝の株式市況にかかわらず、いつも同じ朝食を食べる。

これは、自分が通い続けるレストランを良くわかっているからだ。彼は自分が好きなもの、その食事から得られるものを探り、明確に理解している。同じ朝食を食べ始めて4日目には、私も自分が好きなものが理解できた。

自分が食事をする場所に精通するのと同様、バフェットは自分が投資する企業を徹底的に研究し、把握する。彼は読書家で、投資に乗り出す前には、膨大なリサーチを行うことでも有名だ。

2. 寛大であれ、だが、なすがままではない

食事でも投資でも、自分が求めているものが分かったら、バフェットは徹底的にそれを追求する。

チキンフライドステーキやハンバーガーをオーダーし、何にでも塩を振り、ピーナッツ・ブリトルを食べる。とにかく、バフェットの食事はヘビーで、まるで1日中、自分の胃袋を痛めつけているようだ(バフェットの食習慣を体験してからもう1カ月近くたつが、その1週間で増えた体重は最近やっと減ってきた)。

食事に対する自由なアプローチ同様、バフェットは投資に対しても大抵はフリースタイルだ。

例えば、バフェットは上場企業7社の株式、合計1億株以上を保有し、さらに全体の5%以上の株式を保有する上場企業が20社ある。他にも、2009年には440億ドルでBNSF鉄道を、2015年には372億ドルでプレシジョン・キャストパーツといった非上場企業の大規模な買収を行ってきた。

バークシャー・ハサウェイの株式ポートフォリオは比較的小さいが、バフェットが投資を仕切るときは大きく出る。シーフードタワーに2ポンド(約910グラム)のステーキ、ハッシュドポテト、ほうれん草、ココナッツケーキを1度に平らげるように。

3. 好きを極める

バフェットはとにかく大量の炭酸飲料を飲む。心からチェリーコークが好きなのだ。家族を除けば、彼が人生の中で最も長く愛し続けているのがチェリーコークだろう。

同じように、バフェットは自分が何を欲しているのかを把握するだけでなく、とにかくそれにこだわる。自身の信念に情熱を持っているからだ。

「自らの情熱に従え」2012年のインタビューでバフェットはこう述べている。「私がいつも大学生に言うのは、経済的に独立しているなら、やりたい仕事をやれということ。そうすれば、良い結果が出る」

人生のアドバイスとしてはいささか常套句のようだが、健全だと考えた投資に対するバフェットのこだわりにも、これは当てはまりそうだ。

例えば、アメリカン・エキスプレスへの投資を例に取ってみよう。バフェットは同社の17%以上の株を保有しているが、その業績は過去数年間、控えめにいっても厳しい状況にある。2014年半ばには95ドル前後だった株価は、2016年半ばには、辛うじて50ドル超えという水準まで下落した。重要な取引先の一角だったコストコを失い、カード業界のエコシステムはアメリカン・エキスプレスから遠ざかりつつあった。

だが、バフェットは1991年から続けてきた同社への投資にこだわった。むしろ先週18日(現地時間)に退任を発表した、同社CEOケネス・シュノールト(Kenneth Chenault)氏を、17年間にわたって擁護した。その結果、今でも問題を抱えてはいるが、その株価は過去最高値に近い水準まで持ち直している。

バフェットが自身の投資先を支援するのは、彼らを心から信頼しているからだ。そして好きな食べ物にこだわるのは、それを心から楽しんでいるからなのだ。
https://www.businessinsider.jp/post-106299


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ビッグマック×2、フィレオフィッシュ×2、チョコレートシェイク! トランプの定番は2420キロカロリー
2017年12月5日 ニューズウィーク日本版ウェブ編集部


同じメニューに挑戦した若い記者は苦い思いをしたようだ spflaum1-iStock.


<トランプの胃袋はどうなっているのか――>

ドナルド・トランプ米大統領の元参謀による暴露本が12月5日に発売され、その食事にまつわる衝撃的な事実が明らかになった。

2016年の大統領選挙でトランプの選対本部長を務めたコーリー・ルワンドウスキと選対本部長代理だったデービッド・ボッシーは、『Let Trump Be Trump』(トランプにはトランプらしくやらせておけ)というタイトルで、トランプの元で働いた体験を綴った本を発売。もちろん、当時のトランプ陣営の人事交代劇の裏側やトランプの素顔がテーマであるが、それ以上に注目を集めているのが「食事」だ。

専用機の「4大食品群」

同書を発売日前に入手した米紙ワシントン・ポストによると、トランプの乗る飛行機の機内食はファストフード尽くしで、「トランプの専用機には、マクドナルド、ケンタッキーフライドチキン、ピザ、ダイエットコークスという『4大食品群』があった」とさえ書かれた。

さらに強烈なのは、トランプが大好きなファストフード、マクドナルドでする注文だ。お気に入りの組み合わせは決まっている。「ビッグマック2個、フィレオフィッシュ2個、チョコレートシェイク」だ。

マクドナルドの栄養データによると、この注文の総カロリーは2420キロカロリーに達する。米国当局が推奨する成人男性の1日当たりの摂取カロリーは約2500キロカロリーだから、トランプはほぼ1食でこれに届いてしまう。

さらに細かく見てみると、この組み合わせには112グラムの脂肪が含まれている。これはトランプの年齢の男性が摂るべき目安の172%。塩分は3470ミリグラムで、1日の推奨摂取量の144%に相当する。

実際に食べてみた

米ニュースサイトのビジネスインサイダーのホリス・ジョンソン記者は早速、同じメニューを試して感想を伝えている。「想像以上に悪い」と。ジョンソン自身もマクドナルドの大ファンだと豪語していたが、トランプのお気に入りメニューはその気持ちを打ち砕く破壊力だったようだ。

それでもトランプの胃袋は底知れない。ワシントン・ポストは、クッキーなどのお菓子や軽食が途切れない環境にいることから、トランプが摂取するカロリーは本からの試算のさらに上を行く可能性を示唆している。

英ガーディアンは「トランプの口に入るものがトランプの口から出てくるものと同じくらい健全なのは、驚くべきことではない」と皮肉っている。では、トランプの「4大食品群」が正常化すれば、状況は何か変わるのだろうか。

答えは分らない。ただ目の前には、今日も元気にトランプは公務に就いているという現実がある。


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マック偏食で塩分や糖分摂り過ぎ、トランプ氏の食生活を分析
2017.12.11 Mon posted at 17:01 JST

ファストフード好きで知られるトランプ氏の栄養状態を専門家が分析


(CNN) ファストフードを愛する米国のトランプ大統領は、米食生活指針に照らし合わせると、マクドナルドで注文する1回の食事でほぼ1日分のカロリーと塩分を摂取してしまい、飽和脂肪酸は1日の限度とされる量のほぼ2倍、糖分は2.5倍を摂取していることがこのほど分かった。

トランプ大統領のファストフード好きは、2016年の大統領選当時から有名だった。機内で巨大な容器に入ったケンタッキー・フライド・チキンを食べる写真をツイッターに投稿しているほか、元選対本部長の著書によれば、マクドナルドのビッグマック2個とフィレオフィッシュ2個、チョコレートのミルクシェイクを注文するのが常だった。ただしパンは食べなかったという。

だが栄養士のリサ・ドレイヤー氏はこの食事内容について、「たとえパンの炭水化物を摂取しなかったとしても、健康な食事とはいえない」「タンパク質は半分に、飽和脂肪酸は大幅に抑えた方がいい」と指南する。

バンズを除いても、トランプ大統領が食べたマクドナルドの食事のカロリー量は1880キロカロリー以上。米国では1日の摂取量は2000カロリーが目安とされ、その日にほかのものを食べる余地はほとんどない。

トランプ大統領の身長は約190センチ、体重は約107キロ。BMIは29.5で、太り気味に分類される。検診の結果は「正常の範囲内」(主治医)とされているが、71歳でファストフードに偏った食事は健康に影響を及ぼしかねない。

「加齢とともに代謝は低くなり、血圧は高くなる。こうした食事を毎日続ければ、心疾患やがんのリスクが増す」とドレイヤー氏。大統領がどの程度頻繁にこうした食事をしているのかは不明だが、フルーツやサラダなどに入れ替えた方がいいと同氏は助言している。


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ダイエット・コークを1日12本、トランプ氏に専門家が懸念
12/12(火) 17:55配信 CNN.co.jp


ダイエット・コークに目がないというトランプ氏に対し、健康への懸念が浮上している


(CNN) トランプ米大統領はカロリー、糖分ゼロの炭酸飲料「ダイエット・コーク」が大好物で、1日12本のペースで飲んでいることが、米紙ニューヨーク・タイムズの最近の記事で分かった。専門家らは、人工甘味料などによる健康への影響に懸念を示している。

最近の研究では、人工甘味料「アスパルテーム」を使ったダイエット飲料は甘い物への欲求をかえって強めることや、体内で砂糖入り飲料と同じような生理反応を引き起こすことが分かってきた。

米パデュー大学のスーザン・スウィザース教授によると、人工甘味料で甘さを感じたのに実際には糖分が入ってこないという食い違いが繰り返されると、体は甘さにすぐ反応しないようになる。この状態で砂糖を口にすると、通常より取り過ぎてしまう恐れがある。

ダイエット飲料を飲む人は飲まない人に比べ、生活習慣にかかわる2型糖尿病や高血圧、脳卒中、認知症のリスクが大きくなると、同教授は指摘する。

ボストン医科大学が今年実施した研究では、人工甘味料入りの炭酸飲料を毎日1缶以上飲む人は飲まない人より、血栓による脳卒中と認知症のリスクがそれぞれ3倍近くに増大することが判明した。

テキサス大学の研究チームが65歳以上の年代でダイエット炭酸飲料と腹囲の変化の関係を長期的に調べたところ、ダイエット飲料を飲むと腹部の肥満が悪化し、さらに心臓病のリスクも増すとの結果が出たという。

このほか炭酸飲料に含まれる酸が歯のエナメル質を傷めたり、カフェインの取り過ぎが不眠や不安感、不整脈につながったりする可能性も懸念される。

栄養学の専門家は「トランプ氏にはダイエット・コークの少なくとも半分を水に換えるよう勧めたい」と話している。

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コーラ1日12本、一度にマック4個…トランプ米大統領、ついに体に異変発生
http://biz-journal.jp/2017/12/post_21845.html

2017.12.27 構成=編集部、協力=南清貴/フードプロデューサー、一般社団法人日本オーガニックレストラン協会代表理事 Business Journal

 アメリカのドナルド・トランプ大統領の食生活と健康不安が波紋を呼んでいる。

 ニューヨーク・タイムズによると、トランプ大統領は大好物のダイエット・コークを1日12本のペースで飲んでいるという。同飲料はカロリーや糖分がゼロだが、専門家からは人工甘味料の多量摂取による健康への影響を懸念する声も出ている。

 かねてファストフード好きを公言するトランプ大統領は、相当な偏食家だ。昨年の大統領選挙でトランプ陣営の選挙対策本部長を務めた人物の著書によれば、トランプ大統領はマクドナルドでビッグマック2個、フィレオフィッシュ2個、チョコレートのミルクシェイクを注文するのが定番だったという。

 そのため、マクドナルドでの食事1回で、ほぼ1日分のカロリーと塩分を摂取するばかりか、飽和脂肪酸は1日の限度量のほぼ2倍、糖分は2.5倍を摂取する計算になるという。

 その影響か、最近のトランプ大統領は“異変”が指摘されることが多くなっている。今年11月には発言の最中に水を求めて口の渇きを訴えるような振る舞いが波紋を呼び、12月にも演説中に同じく口の渇きを訴えたほか、ろれつが回らなくなる一幕もあったことで健康不安説が噴出している。

 ホワイトハウスのサラ・サンダース報道官は「バカげている」と健康不安説を一蹴するが、トランプ大統領は年明けに健康診断を受けることが発表された。

「世界最高の権力者」ともいわれるアメリカ大統領の食生活は世界的な関心事ともいえるが、ここまでその内容が注目されるのも珍しい。いったい、何が問題なのか。以下、フードプロデューサーで一般社団法人日本オーガニックレストラン協会代表理事の南清貴氏が解説する。

■「食事」の勝負は日本の首相に軍配?

 トランプ大統領の食生活が話題となり、彼の健康問題まで取り沙汰されています。北朝鮮やイスラエルの首都認定の問題、パリ協定離脱や核兵器禁止条約への不参加など、あくまでも独自の路線を貫こうとするトランプ大統領ですが、もっとも重大な問題は「側近に優秀な人がいない」あるいは「側近を誰も信用できない」という点にあるのでしょう。

 日本の首相もあまり優秀でないことは周知の事実ですが、それでも側近らしき人はいるようですし、首相自身も頼りにしているようです。しかし、彼らは保身ばかりを考え、忖度することが忠誠心の表れと思っており、ご機嫌をうかがうことを旨とするような人たちですから、日本もアメリカもたいした変わりはないのかもしれません。

「こっちのほうが、まだまし」とすら言えないレベルの2人のリーダーですが、こと「食事」に限定すれば、トランプ大統領のほうが劣っているのではないでしょうか。

「ファストフードが大好き」と公言してはばからないトランプ大統領ですが、大統領として以前に、ひとりの大人としての見識を疑います。いずれにしても、そうした食生活についてアドバイスする人が誰もいないようですから、なお始末が悪い状況です。

■ファストフードを食べすぎると怒りっぽくなる?

 一度の食事でハンバーガーを4個も食べ、ダイエット・コークを1日に12本も飲むというトランプ大統領の健康状態が良いものであるはずもなく、食生活を改めるに越したことはありません。

 ゼロカロリー飲料などに含まれている人工甘味料には、さまざまな種類がありますが、なかには発がん性が指摘されたものや脳腫瘍や白血病などとの関連性が強く疑われているものもあります。人工甘味料は外食や中食でも使われることが多くなっていますが、摂取すると体の免疫力低下につながることもあります。そのため、妊婦や子どもはもちろん、すべての人にとって摂取すべきでないものです。

 また、ファストフードで提供されるのは工業製品化された食品であり、人工のトランス脂肪酸が多く含まれています。アメリカ食品医薬品局は、トランス脂肪酸が悪玉コレステロールの数値を上昇させるだけではなく、善玉コレステロールの数値を低下させることを認めていますが、これは冠状動脈(心臓)や脳の血管に悪影響を与えるということを意味します。

 また、トランス脂肪酸の摂取はアルツハイマー病やパーキンソン病の原因になるという研究結果も出ているほか、米カリフォルニア大学と米ハーバード大学の研究では、それぞれ「トランス脂肪酸は、人を怒りっぽく攻撃的にする」「トランス脂肪酸を多く含む食品を好む人たちは糖尿病になりやすい」という結果が発表されています。

 当然ながら、トランプ大統領のような食生活は誰にもまねしてもらいたくないものです。ただ、支持率が歴代最低の37%、不支持率は驚異の59%(ワシントン・ポストの世論調査結果)というトランプ大統領ですから、アメリカ国民でまねする人は少ないと思われます。その点だけは、安心していいのかもしれません。

■アメリカには伝統的な食文化がない

 私たちは、食事から2つの異なる栄養素を摂取しなければなりません。ひとつは約50種類あるといわれる必須栄養素で、もうひとつは5000種類以上あるといわれる植物栄養素です。

 この2つを過不足なく体の外側から内側に摂り込むことが食事の役割ですが、ファストフードばかりを食べていれば、そうした本来の食事の役割が果たせないことくらい、誰でも想像できるでしょう。

 そして、その2つの栄養素を摂取できない状態が長く続けば、体はどうなってしまうのでしょうか。前述のように、さまざまな病気の引き金になりかねないわけですが、少なくとも株価の推移を予想するよりはるかに簡単なことだと思います。

 私たちは、食事から2つの異なる栄養素を摂取しなければなりません。ひとつは約50種類あるといわれる必須栄養素で、もうひとつは5000種類以上あるといわれる植物栄養素です。

 この2つを過不足なく体の外側から内側に摂り込むことが食事の役割ですが、ファストフードばかりを食べていれば、そうした本来の食事の役割が果たせないことくらい、誰でも想像できるでしょう。

 そして、その2つの栄養素を摂取できない状態が長く続けば、体はどうなってしまうのでしょうか。前述のように、さまざまな病気の引き金になりかねないわけですが、少なくとも株価の推移を予想するよりはるかに簡単なことだと思います。

 残念なことに、アメリカには伝統的な食文化がありません。そのため、「どのような食事が自分たちに適しているのか」という指標もないのです。そもそも、さまざまな人種が寄り集まっているために「アメリカ人全体にとってのオプティマル(最適)な食事」という全体像を示すことができないのです。従って、「食べるものなんて、なんでもいいんじゃないの」ということになり、大統領までがその考えに沿っているということなのでしょう。

 もちろん、すべてのアメリカ人がそんな浅はかな考えではなく、きちんとわかっている人もいるはずですが、少なくともトランプ大統領の周辺にはいないのでしょう。

 少しうがった見方をすれば、もしかしたら、側近たちは全部わかっていながら、あえてトランプ大統領に食生活のアドバイスをしないでいるのかもしれませんね。早めに倒れていただいて、マイク・ペンス副大統領が大統領になることを望んでいるという考え方もできます。

 要するに、「食事に関してのアドバイスなんてできないし、する意味もわからない」ということなのかもしれません。いずれにしても、その影響力の大きさからして、トランプ大統領の食生活はアメリカ人のみならず世界全体にとっての悲劇というべきなのかもしれません。

 日本の首相が本当にトランプ大統領と仲良しなのであれば、およそたいしたアドバイスもできない政治の話よりも、「もうちょっとましなものを食べたほうが身のためだぞ」といったアドバイスをしたほうがいいように思います。

■トランプの食事改善は世界平和への貢献?

 翻って、読者諸氏はいかがでしょうか。まさか、トランプ大統領のように「自分が食べるものに無頓着」などという愚かしい食生活ではありませんよね。ファストフードを一度に大量に食べたり食べ続けたりするのは、人体にとって非常に危険な行為です。

 もっと、人間にとってふさわしい食事をしましょう。それは、未精製の穀類と豆類を2対1の割合で摂る、野菜中心にする、肉類などの動物性たんぱく質を食事全体の10%程度にする、オメガ6脂肪酸とオメガ3脂肪酸を4対1の割合で摂る、という食生活です。

 トランプ大統領に、この内容を教えてあげたいものです。こうした食生活を続ければ、彼の頭脳も少しは良くなり、「正義とはなんなのか」「大統領とはどういう仕事をする人なのか」というところにも考えがめぐらされるのではないかと思います。

 それこそ、トランプ大統領の食生活を変えることは世界平和に貢献することだと思いますが、いかがでしょうか。

(構成=編集部、協力=南清貴/フードプロデューサー、一般社団法人日本オーガニックレストラン協会代表理事)

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2018-01-06
貧困層も富裕層もみんなジャンクフードの虜になる現代社会
https://www.bllackz.net/blackasia/content/20180106T0402240900.html

ドナルド・トランプ大統領は、典型的なアメリカ人で食生活はマクドナルドやステーキが主になっている。アメリカのメディアが「あまりにも身体に悪いのではないか」と特集を組むほどマクドナルド一辺倒だ。

資産家にして大統領の男がマクドナルドのようなジャンクフードを食べてコカコーラをガブ飲みするのだから、典型的なエスタブリッシュメントとはいささか雰囲気が違う。ワインを嗜み、フランス料理を食すわけではないのだ。

実は、マクドナルドとコカコーラが食生活の主軸になっている資産家はトランプ大統領だけでない。

典型的なアメリカ人は金持ちだろうが貧困層だろうがジャンクフード中毒と化している。

たとえば、ヒラリー・クリントンの夫、ビル・クリントン元大統領もまたジャンクフード中毒で、ジョギングに行くとヒラリーに嘘をついてマクドナルドに行っていた。

大統領候補だったミット・ロムニーもマクドナルド好きだが、その父親ジョージ・ロムニー元ミシガン州知事もマクドナルドが好きで、マクドナルドから特別なカードをもらってどこに行ってもマクドナルドを食べていた。


ビル・ゲイツもウサイン・ボルトもジャンクフード

マイクロソフトの創始者であるビル・ゲイツも、マクドナルド中毒で「マクドナルドを買収したい」と本気とも冗談ともつかないことを言っていた。

世界最大の投資家であるウォーレン・バフェットもジャンクフード狂で、シリアルフードにチョコレートにマクドナルドにアイスクリームにステーキで生きている。

トランプ大統領も一日12本もダイエットコークを飲んでいるのだが、ウォーレン・バフェットも一日4本はチェリーコークを飲んでいる。

細身の女優として知られているクリスティーナ・リッチもジャンクフードばかり食べており、1週間に3回もマクドナルドに通っていると自らインターネットで発言している。

スポーツ選手はジャンクフードを食べないのではないかというイメージがあるが、そうでもない。タイガー・ウッズもまたマクドナルド中毒で知られていた。

ツアー中もずっとハンバーガーを食べ続け、優勝ディナーの席でも「チーズバーガーが食べたい」と言ってまわりを呆れさせながらそれを食べていた。

人類で最も速い男であるウサイン・ボルトもマクドナルド狂で知られている。

北京オリンピック開催中もマクドナルドに通っており、中華料理を一切食べずにチキンナゲットばかり食べていた。

「最初はランチに20個、ディナーも同じ数だけ食べた。翌日の朝は40個、昼は20個、夜は40個。フライドポテトとアップルパイも食べた。1日100個は食べた。10日で1000個の計算になる」

最も、年齢がいくに従ってチキンナゲットでは体力が回復しないということを悟って、野菜中心のメニューになったのだが、トレーニングよりもチキンナゲットが食べられないのが「つらい」というほどチキンナゲットに執着している。

チキンと言えばアメリカの歌手ビヨンセもファストフードのチキンにケチャップを付けて食べるのが大好物で、アメリカのマイナーなファストフード店のチキンにケチャップをたっぷりかけて食べている。

スポーツ選手はジャンクフードを食べないのではないかというイメージがあるが、そうでもない。タイガー・ウッズもウサイン・ボルトもジャンクフード好きだ。


トランプ大統領は暗殺されるよりも心臓病で死ぬ?

太ったり痩せたりを繰り返して、最近は胃の縮小手術をして無理やり痩せたアメリカの歌手マライア・キャリーはピザに狂っているので有名だ。

この女性は一時、体重が120キロになっていたのだが、ピザばかり食べているとそうなっても仕方がない。

歌手でもあり、女優でもあるヒラリー・ダフもマライア・キャリーと同じく太ったり痩せたりを繰り返しているのだが、この女性もまたジャンクフードが大好きで、中でもフライドポテトが止められないという。

さらにブリトニー・スピアーズも、ジャンクフード好きで、サブウェイ、ドミノ・ピザ、マクドナルド、スターバックスばかりで食事をしているのが暴露されている。

セレーナ・ゴメスは以前、栄養失調と疲労で倒れたことがあったのだが、その原因はジャンクフードばかり食べて栄養が完全に偏っていたことからきていた。

その時期、セレーナ・ゴメスはアイスクリームや、チョコレートのようなものしか食べなかった。

人一倍痩せていなければならないはずのモデル業をしているカーラ・デルヴィーニュはイギリス人のはずだが、この女性もまたジャンクフード中毒で、どこに行ってもマクドナルドばかり食べている。

女優ジェニファー・ローレンスも、華やかな場所で談笑しているよりも、家でテレビでも見ながらジャンクフードを食べるのが好きだと告白している。

食事を厳しく制限し、食べ物に気遣い、健康的なものしか食べない実にストイックな生活をする人がいる反面、ジャンクフードだけで生きているような人もいることに気付く。

ジャンクフードが身体に悪いのは事実だ。ジャンクフードは肥満を生み出し、短期な性格を生み出し、味覚障害を生み出し、病気を引き寄せる。

マクドナルド狂いのドナルド・トランプ大統領の食生活を見て「トランプ大統領は暗殺されるよりも心臓病で死ぬ確率が高い」と分析する記者もいるのだが、それは的中するかもしれない。

マクドナルド狂いのドナルド・トランプ大統領の食生活を見て「トランプ大統領は暗殺されるよりも心臓病で死ぬ確率が高い」と分析する記者もいるのだが、それは的中するかもしれない。


それは、そう簡単に止められないようになっている

こうしたアメリカ人のジャンクフード好きを嘲笑って「日本食は健康だ」と日本人は言う。

しかし振り返って見ると毎日寿司や刺身ばかり食べている日本人はほとんどいない。実は、日本も凄まじいまでのジャンクフードで満ち溢れている。

ハンバーガーやピザを食べないという人でも、牛丼を食べ、カレーを食べ、コンビニでスナックを買い、インスタントラーメンを食べる。

缶ジュースを飲み、スターバックスで飲み、菓子パンを食べ、お好み焼きやタコ焼きを食べ、チョコレートを食べ、アイスクリームを食べ、ケーキを食べている。

別にマクドナルドだけがジャンクフードではない。日本人の食べているものも、かなりのものがジャンクフードになる。

日本の食環境も、カロリーが高く栄養価が低いもので満ち溢れているのだ。そういった意味で、日本もアメリカと大差ないジャンクフード大国である。

忙しい社会だ。「手早く料理できて、手軽に食べられる」ものが求められているのだから、突き詰めていけばジャンクフードに辿り着くのは仕方がない。

健康のためにはジャンクフードを排除するのが一番いいのだが、あまりにも忙し過ぎてジャンクフードが排除できない世の中になっているのである。

だから、全人類がこのスピード社会で生きるために、ジャンクフードまみれになっていく。

いずれ、このジャンクフード狂いは肥満や心臓病といったツケになって回ってくるのだが、もうそんなことは気にしていられないというべきか……。

それに、ジャンクフードは高カロリー高脂肪なので激しい依存性がある。それはドラッグと同じほどの精神的・肉体的依存を引き起こす。

健康に悪いから止めるべきと言っても、そう簡単に止められないようになっている。もしかしたら、あなたもまた知らずしてジャンクフードに依存しているかもしれない。

そうだとしたら、それを止められるだろうか。止められなければ、そのまま一直線に突き進むしかない。ドナルド・トランプが絶対にマクドナルドを手放さないように……。

健康に悪いから止めるべきと言っても、そう簡単に止められないようになっている。止められなければ、そのまま一直線に突き進むしかない。ドナルド・トランプが絶対にマクドナルドを手放さないように……。



http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/436.html

[近代史3] アメリカの大富豪は毎日何を食べているのか? _ アメリカ人には料理の味も文学も芸術も全く理解できなかった 中川隆
1. 中川隆[-10390] koaQ7Jey 2019年5月17日 21:21:28 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[1915]

ジャンクフードを食べると超絶肥満、うつ病、癌、アトピー、花粉症になる

【衝撃】 アメリカのデブが異次元すぎるwwwwww どうやったらここまで太れるんだよ
http://blog.livedoor.jp/nwknews/archives/4537088.html
https://matome.naver.jp/odai/2137949022098247301


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「デッカいことはいいことだ!」が基本のアメリカが何でもデカい件 by 高橋克明
http://www.mag2.com/p/news/350247


過去に掲載の「信じられない。日本人には到底理解できぬアメリカ人の異常な日常」などで、日本人とは全く違うアメリカでの日常を面白おかしく紹介してくださったメルマガ『NEW YORK 摩天楼便り−マンハッタンの最前線から−by 高橋克明』の著者で米国の邦字紙「WEEKLY Biz」CEOの高橋さん。今回は「デカイことは素晴らしい!」というアメリカ人の価値観にスポットをあて、エピソードを紹介しています。

今日のニューヨーカー 「デッカいことはいいことだ! アメリカンサイズに慣れたら終わり」

先日、ふと歯医者の待合室で流れっぱなしになっているプロレス中継をなんとなく眺めていて、気付いたことがあります。

ベビーフェイス(善玉)が全員、デカい! ヒール(悪役)の方がむしろ小さい。「いいモン」が筋肉ムキムキの大型レスラーに比べ、「わるモン」は、ひ弱とは言わずとも、そう強そうには見えないパターンがとにかく多いと思いました。

そういえば、昔からそうだったな。 ハルク・ホーガン然り、スティーブ・オースティン然り、ブロック・レスナー然り。 歴代のアメリカマット界の主役は基本、みんな巨漢レスラーでした。

日本は真逆でした。 馬場さんはともかく、猪木さん、藤波さん、天龍さん、長州さんと小柄なレスラーがトップをとってきた。 タッパ(身長)の高い、鶴田さん、前田さん、武藤さんですら、外国人レスラーと比べるとそう大きくはない。

もちろん欧米人に比べて体格的に恵まれていないモンゴロイドにとって「身体が小さくても、正義の味方は巨大な敵に立ち向かっていく!」というアングルは苦肉の策だったというのも理解出来ます。 戦時中の巨大空母に突っ込む零戦特攻隊のごとく。

それにしても、アメリカのプロレスシーンを見ると、デッカい善玉が、最後は許しを乞う小悪党をメッタメタにするのを見て、「ちょっと弱いものイジメしてるみたいなんですけど、、」と複雑な気持ちになったりもします。 しかも会場の観客はそれを見て、ヒートアップして、大歓声。 ストレス解消の仕方がヒドいな、、と思うのは僕だけでしょうか。 (もちろん台本アリのアメリカンプロレスでは、けちょんけちょんにやられても同情の余地ナシくらいに、悪役は悪いことを散々してきているストーリーラインが、それまでにあるのだけれど)

ともかく、この国に来て20年弱。 感じるのは「噂では聞いてたけど、ホントにアメリカ人って基本、デッカいのが好きなんだなぁ」ということ。

やれハンバーガーの大きさとか、やれリビングルームの大きさとか、よく聞く実質的な物資の話だけではありません。

プロレスのヒーローと悪役のように、精神的にも「デカい方がそりゃ良いだろう」という概念がこの国で暮らすとちょくちょく垣間見えます。

ハリウッド映画もそうでした。 僕たちが学生時代のアクションヒーローはシルベスター・スタローンに、アーノルド・シュワルツェネッガー。 今はドウェイン・ジョンソン(ロック様)に、ヴィン・ディーゼル。 それだけデカけりゃ強くて当たり前だろうな俳優がスクリーンの主役を張ります。 幼少期「一寸法師」を聞かされて育った僕たち日本人からすると、最初っからデカいなんて、ちょっと反則な気もします。

どうせ、デカくなるなら、せめて「変身」してからじゃないと認めない。 最初からデカいなんて、ウルトラマンに倒される敵(怪獣)だ。

以前、インタビューしたジャッキー・チェンが、渡米しても「僕のような大きくないアクションスターは通用しないって言われたもんだよ」と笑って言っていたのを覚えています。


とにかく、この国はフィクションの性質ですら「デカい主義」なので、日常生活の周りのものは無駄に大きいです。 いや、彼らにとっては普通で日本人の僕からすると、というエクスキューズは必要なのでしょうが。 むしろ彼らからすると日本サイズが、小さ過ぎる。

スターバックスの日本のSサイズがアメリカにないのは有名な話ですが、以前、アメリカ人の友人に日本のSサイズの写メを見せると「なに、これ〜、カワイイ〜!!!」とはしゃいでました。 いや、カワイく見せるために作ったサイズじゃないけどな。 たぶん、このサイズが一番注文が多いサイズだけどな。

「エスプレッソ用?」—、、バカにするな。

例えば、冷蔵庫。 とにかくこの国はデカいです。 無駄にデカい。 アメリカ人の不動産屋が備え付けの冷蔵庫の大きさをアピールするのを何度も聞きました。 日本人とその「不動産屋、冷蔵庫のデカさアピールあるある」で盛り上がったこともあります。

日本の家電のCMを見ると、容量の大きさをアピールすることはあっても、大きさ自体はむしろ「コンパクトで収まりやすく」を強調します。 機能においては「冷凍焼けを防ぐための乾燥おさえながらの冷却」だの、「野菜出し入れしやすい真ん中レイアウト」だの、「直接冷気を当てないうるおいガード」だの。 。 アメリカ人からすると「未来の話!?」に聞こえると思います。 感動間違いなし。 (でも、続いて「それ、ホントに必要か?」とも言うと思うけど)彼らにとって、なにはともあれ、デカいピザを、デカいチキンを何個も冷蔵できる大きさがいちばん大切。

例えば、砂糖。 先日、日本から来た友人とスーパーマーケットに買い物に行ったところ、ズタ袋に入れて売られている砂糖を見て、彼は思わず、写メを撮っていました。

「、、、業務用?」「いや、一般家庭用」「、、、、40人家族?」「たぶん、普通の核家族」「、、、、飲食店をやってるの?」「そこまでは知らねえよ」みたいな会話の前に。

家庭用の料理に使用するとして、僕たち日本人だと10年かかっても使い切れない量です。 彼らが何年で使い切るかは知らないけれど、少なくとも、もうちょっと小分けで売買してもいいはず。

でも、一気にいっぱい買った方がお得なのよ、と言うに決まってる。


こっちの映画館で売られているポップコーンを見たことがある日本人はどのくらいいるでしょう。

こっちのSサイズは、日本のLサイズ。 こっちのLサイズは日本のバケツを想像してください。 日本のSサイズは、、、こっちでは見ることはありません。

Sサイズを注文すると、必ず「Lサイズにしときなよ。 Lサイズだと、おかわり無料だよ」と提案されます。 (どうして、こいつは、LだとデカすぎてSを頼んでいる僕にとって、“おかわり” が特典だと思ったんだろう??) バケツサイズのポップコーンに、さらにバターかけ放題の機械が横に備え付けてあります。 そこにまたバケツサイズのコーラを注文し、トレイに載っけて館内に入ってきます。

で。 そんな国に慣れちゃうと、どうなるか。 日本人の僕がどうなるか。

日本の陶芸品店で見る、湯のみ茶碗が、オモチャに見える。

日本の居酒屋で出て来る突き出しの小鉢が、試食品に見える。

日本の映画館のポップコーンが、ケチ臭く見える。

そして、やっぱり、スタバのSサイズが…うん、認めたくないけど、エスプレッソ用、、、に見えてきちゃいます。

ヤバいと自覚しつつ。
http://www.mag2.com/p/news/350247


コカコーラがないと生きていけないアメリカ人

第二次世界大戦時、後にアメリカの第34代大統領となるドワイト・アイゼンハワーがまだ連合国の遠征軍最高司令官だったとき、アフリカに遠征してまず何をしたのか。

1943年6月、アイゼンハワーは遠征軍最高司令官としてアメリカ政府に正式にこのような要求を突きつけた。

「コカコーラを300万本送れ。アフリカでコカコーラが生産できるように現地に工場を作れ」

コカコーラ幹部はアメリカ政府と連合国軍最高司令官の「命令」に応え、当時のコカコーラの社長はこのように言った。

「どんなに赤字が嵩もうとも、アフリカにコカコーラを送り込んで価格もアメリカと同じにする」

コカコーラはアメリカの兵士たちには必須の飲み物であり、これがないとアメリカ軍は「生きていけない」という認識だったのである。まさに、生命維持飲料の扱いだった。

アメリカ軍がヨーロッパに上陸したら、コカコーラも一緒に上陸した。アメリカ軍が日本を打ち破って日本に上陸したら、コカコーラもまた一緒に上陸した。

コカコーラはまさにアメリカの文化の象徴であり続け、それは今もまだ続いている

アメリカ人にとって、コカコーラが買えない国は抑圧された国という定義なのだ。コカコーラが買えるようになって、はじめて文明国になるという定義だろうか。

日本も戦後になってはじめて文明国になったとアメリカ人は認識している。なぜか。戦後からコカコーラが飲めるようになったからである。
https://fullinvest.xyz/?p=5590


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ピザも真っ青! アメリカを肥満大国にした超盛りフードの数々2009年3月19日
https://www.excite.co.jp/news/article/Rocketnews24_6433/


世界で最も太っている人の多い先進国、それはアメリカ。

OECD(経済協力開発機構)の2007年の調査によると、アメリカの成年のうち「太りすぎ」(BMI=30以上)に属する人は、なんと32%を超えているという。

国民の3分の1が太りすぎっていうのはどうかと思ってしまうが、その原因として考えられるのはカロリー過多の食べ物だ。


映画『スーパーサイズ・ミー』が告発(?)したファストフードはもちろん、それ以外にもピザやタコス、ブリトーといった、カロリーてんこもりな食べ物がアメリカでは大人気。

これにメガサイズのコーラをプラスしたりすれば、1食あたりのカロリーは余裕で1000オーバー。

こんな食文化に接してたら、そりゃ太るというものだ。(一方でアメリカらしくないエコレストランも登場してきている)

そんなアメリカの度を越したカロリー文化を淡々と紹介しているブログが、最近人気を集めている。

「This is why you’re fat(だからお前はデブなんだ)」
http://thisiswhyyourefat.com/

というこのサイト、カロリーが異常に高そうなアメリカのメニューを写真+解説で紹介しているのだ。その例を挙げると・・・


■「スリンガー」
ハッシュブラウン(揚げハッシュドポテトのようなもの)にタマネギとチーズバーガーを2個、その上にフライドエッグと目玉焼きを置いて、チリビーンズをかけてトーストをトッピング。こんな風に、大量の炭水化物+大量の肉+乳脂肪系の濃いソース(またはチーズ)というのが、アメリカの「おいしさ」の基本。

■「ワカモーレ揚げ」
ワカモーレとは、アボカドをつぶして作るクリーム状の食べ物。「森のバター」と呼ばれるアボカドはすでに高カロリーなんだけど、それをさらに揚げるって……。


■「スコッチエッグ串」
スコッチエッグは、ゆで玉子に挽肉のころもをつけて揚げたもの。これを串にして、気軽に食べられるようにしたもの。こんなものを映画館なんかでパクパク食べてたら、そりゃあ……。


■「ペパロニピザ揚げ」
ペパロニは太めのソーセージ(サラミに近い)。すでにこの時点で、肉+炭水化物+チーズ。もう十分高カロリーなのに、さらに揚げてしまうのがアメリカ流。カロリーはおいしさの単位とはよく言ったものだ。


■「チーズバーガーのベーコンチリソースがけ」
メキシコ料理がベースのチリソースは、大量のクリームと豆から作られる。これにベーコンを投入して、チーズバーガーにどっさりかけてしまう。これを見て「おいしそう!」って、なるのか?


■「焼きチーズサンドイッチ揚げ」
チーズ(乳脂肪)+炭水化物をさらに揚げる。もうそれが基本なんだって分かってきたはず。もちろんそれだけじゃ物足りないから、濃いディップを添えて。それでも足りないからポテトフライを付けておく。


■「ピザコーン」
1枚のぺろっとしたピザじゃ物足りないよねー。ってことで、アイスクリームの形にしてみたよ。紙の専用トレイがあるところを見ると、別に特別なものでもなんでもなく、普通のメニューなのだということがわかる。


■「秘宝入りミートローフ」
スパム入りミートローフの中心に、塊のチーズ(これがSeacret Treasure=秘宝、らしい)。そして上にもとろけるチーズがたっぷりと。


紹介しているこちらが、胸焼けを起こしそうになるメニューの数々。もっと見たい人はこのサイトを訪れてみてほしい。


日本にも「ラーメン二郎」のような異様なメニューは存在するが、それはあくまで例外。ここで挙げられているメニューはどれも、ごく普通に「ほら、おいしそうでしょ?」というアピールをしているだけのように見える。アメリカの食文化、恐るべし。

ご存知かもしれないが、アメリカでは市販のドリンクに「お茶」のようなカロリーのないものはほとんどない(カロリーのない飲み物が欲しければミネラルウォーターを買うしかない)。

濃すぎる食事をした後には、またカロリーたっぷりの飲み物を飲むのがアメリカでのお作法なのだ。

彼氏彼女がいる人は、アメリカに行く機会があるならかなりの覚悟をもって行ったほうがいい。

なお、このブログ、あまりの人気ぶりに書籍化されることが決まったという。アメリカ人たちも、自身の食文化に少しは反省の念を抱いているということなのだろうか。それとも、単に「おいしいもの紹介!」としか考えていないのだろうか。

このブログのサブタイトルは、「Where the dreams become heart attacks」(夢が心臓発作につながる場所)。人ごととはいえ、少しは健康に気を使ってほしいものである。
https://www.excite.co.jp/news/article/Rocketnews24_6433/

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アメリカ人はジャンクフード大好き


: solong11111さん 2006/11/30 02:06:21

アメリカの食文化はなぜあれほどまでに酷いのですか?
地方で途中にあるのはファーストフード店ばかり。
日本のSAPAの方が全然いいですね。食文化は栄養面でもアジアの方が断然上ですね。


Answer : y_yama_co_ltdさん 2006/11/30 13:11:00

確かにアメリカに行くと日本の食文化の高さを思います。

ロスにホ−ムステイさせて頂いた家庭では

朝・コ−ンフレーク
昼・ピ−ナツサンド
夜・鶏肉(焼くか揚げるか)

が3週間毎日でした。
他の家庭でも似たり寄ったりだったそうです。

家庭がそうなのですから外食でも特に気にしないのだと思います。

野菜・白いフカフカのご飯・魚・美味しい和牛が食べたくて毎日夢をみていました。
https://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail/q1410126129


Question : nulbexviakmectjjngrafmxukcaxnhfさん 2013/7/23 15:21:39
アメリカの一般家庭では料理を作る習慣が無いと聞いたのですが本当ですか?
友人が言ってました。
休日くらいしか料理はせず、料理をするとしても簡単な料理で、普段はもっぱらジャンクフードばかりらしいですが。


Answer:

その家庭に依るでしょうが、日本の一般家庭程には手の込んだ’手料理作り’は期待できないかも。


▲△▽▼

何軒かの一般家庭にて。

作る、

ほとんどが肉の塊をオーブンかスロークッカー(汁と一緒に入れておくとじわじわ勝手に煮てくれる)に ぶち込むような類多し。

付け合せに野菜ざくさく切って蒸すか炒めて塩かけるだけ。

じゃが芋、皮付きのまんま半分に切ってチーズのっけてこれまたオーブンで焼くだけ。

テーブルにはおびただしい数の各種ソース、タレの類の瓶が並ぶ。

バーベキュー用のグリルがあったらステーキ焼く、アメリカなのにステーキって
家庭料理としては頻度非常に少ない。
↑ これでもかなり手作りの部類に入ります。

ジャンクフードというか、スーパーに行くと家族4人十分な量のチンするだけの夕食用冷凍食品類や出来合いチキンや具材選んでその場で作ってもらう巨大サンドイッチ、1キロ入りの各種サラダ等々

食材買って一から作るより安上がりだったりも。

温めたらそのまま食べられるシチューやポークビーンズ等の缶詰め・瓶詰めおびただしい量がストッカーに入ってる家庭ほとんど。

今日は暑いから台所で火を使うのヤダわ、で、宅配ピザやテイクアウト中華しょっちゅうだったり。

お料理上手な主婦、肉類中心にまとめて味なし煮込み作り、小分け瓶詰めし保存で1年は持つと。

食べる時は鍋にぶっこみ、テキトーに味付けするだけ。

まずキッチンツールが手の込んだ料理には不十分。

包丁はトントンと千切りやみじん切りできるような三徳包丁でない。
ほとんどの家庭、電熱のコンロだから炒め物には向いてない。

私、何度か料理作りました。 ソース添えた肉料理に付け合せ野菜、サラダにスープ。

「まるでレストランかヨーロッパ人みたいだ」とのコメントでした。

以上はれっきとした夕食の実話。

「もう、毎日食事作りに追われて大変よー」日本の主婦友のセリフここでは存在しない。
和洋中、栄養価考えて日々手作りで何品も食卓に並べる日本の食卓と比べることはできないです。
食文化が根本から全く違う。

こんなのが立派な’手作り夕食’だったりします。


その家庭に依るでしょうが、日本の一般家庭程には 手の込んだ’手料理作り’は期待できないかも。...


____


まず、アメリカ人は料理の仕方を知らない人が多いんです。

なので、仮に時間とお金を与えても、美味しい料理は作れない、つまり、頭の中に無いことは人は出来ないんですね。

掃除、洗濯、すべてまともに出来る人は少ないですよ。

これが世界一豊かなアメリカの実態です。

新自由主義が広まると、アメリカンスタイルなライフスタイルを強制されるハメになりますよ。

TPPの重要なテーマが、食料のアメリカによる支配なんです。

日本側でTPP推進の旗振りをしている代表が悪評高いモンサント社の代理人である住友化学ですからね。。。

農業関連大手モンサント社の恐怖の収穫
http://www.youtube.com/watch?v=V-ESDpUrKck

文化的な生活よりも金儲けなんですよ、アメリカという国は。

他者の幸福を奪う、他者の痛みを考えない、強欲な弱肉強食の論理がすべて。
これがアメリカです。

”生きる”ことの基本中の基本である食べ物に人間性のすべてが表れるんですよ。

アメリカの恐ろしい真実
http://eigokiji.cocolog-nifty.com/blog/2010/04/post-b3c2.html

アメリカの未承認遺伝子組み換え米実験が世界の米供給を汚染
http://eigokiji.cocolog-nifty.com/blog/2013/07/post-24c0.html

環太平洋連携協定(TPP)、アメリカが率いる過酷な自由貿易協定、1%用の大企業権力ツール
http://eigokiji.cocolog-nifty.com/blog/2013/04/tpp1-505b.html

http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/436.html#c1

[近代史3] アメリカの大富豪は毎日何を食べているのか? _ アメリカ人には料理の味も文学も芸術も全く理解できなかった 中川隆
2. 中川隆[-10389] koaQ7Jey 2019年5月17日 21:21:48 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[1916]

私が以前ホームステイさせていただいていた家庭はキッチンを汚さないものばかりでした。

テイクアウトのピザとか中華とか、ひどい時は紙皿に缶詰のビーンズ。

とにかく簡単に食べられる物がたくさんストックされていてそれを適当に食べるみたいな状態でした。

その家族は皆さんメタボでした。
https://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail/q11110708886


Question : yuto1992_1019さん 2010/9/30 12:40:19

アメリカの家庭料理について。

僕は今ホームステイをしているのですが食事にまったく味がありません。たとえばマッシュポテトでもポテトを潰しただけで何も入れないので何も味がしません。

野菜もお湯にくぐらせたものを何も味つけせずそのままです。 野菜炒めが良く出るのですが塩やコショウなどの調味料の味はせず唐辛子のようなぴりぴりとした辛さだけです。

ご飯は日本米のようなスティッキーなものですが、外にずっと放置したかのように外がパリパリです。

とにかく味がないのです。 調味料は冷蔵庫にいっぱいあるのに。

事情があってホストを何件か変えましたがどこも食事は同じように質素なものでした。

それにもかかわらずみんな100キロ以上ある巨体です(失礼ですが)。

どこであんなにカロリーを取っているのでしょうか?

もうすぐアパートに住むので我慢できますが、とても気になりました。

一般的にアメリカの家庭料理は味付けが薄いですか?

また質素な食事でなぜあんなに肥えるのでしょうか?
ヘルシー志向のホストなんでマクドナルドには行かないし、コーラなんかも飲みません。


Answers :


ご質問を読む限りで判断しますと、その家庭の料理は何か減塩を実践しているか、または基本的に料理が上手でないという印象を受けました。

お米もちゃんと料理法を知らないようですし(普通に炊いて放置すればパリパリになる事も知らないのかもしれません)。

その家族が皆太っているとありますが、もしその人たちがヘルシー志向だとするとデザートのアイスクリームなどを食べてる事はなさそうですね。

メタボが遅くて太っているのかもしれませんし、運動をしないのも原因かもしれません。しかしヘルシー志向と言いつつ平均以上に体重のある人を沢山見ていますので、質問者様のホストファミリーが特別だとは思えませんが。

私も似たような経験はあります。サンクスギビングやクリスマスの家庭料理で薄味のものが提供された事がありますし、味付け自体も何だか素っ気ないものを幾度も食べた事はあります。野菜は茹で関係は多いですね。一方で、イタリア系など食文化が豊かな系列ですと味付けもしっかりしており美味しいものが食べれるというのが私見です。

私なりの結論を申し上げますと、アメリカには多くの系統(イギリス系とかイタリア系という意味)がおりますので、一概に家庭料理が薄味であるとは言い切れないと思います。たまたま質問者様がそのような家庭に当たったという事だと思います。ただし太る事を恐れてダイエット飲料をせっせとのみ、ローソディウムの調味料などを使っているので、そういう料理を食すると味がどこか抜けている感じは否めないというのが私の意見です。

アメリカ北東部からです。


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一般にアメリカ人の食事の味付けは濃いですよ。スープなんて塩辛すぎて飲めないこともあります。

ヘルシー志向のホストならば、理解できます。塩分を控えているんですよ。
知り合いに、似たような人がいます。とうもろこしやポップコーンなんて塩なしで食べています。わたしは、「塩なしは好きじゃない」といって、自分の分だけはぱらぱらと塩をかけます。

その家のテーブルには塩と胡椒がおいてありませんか?
置いてあれば、それをかけます。

置いてなければ、”May I use salt?"と言って、返事もまたずに台所においてある塩を使っても構わないはずです。

アメリカ人はそれぞれ好みは違うもので、味が物足りなければ自分で味付けすればいいと思っているフシがあるので、あなたが塩をかけても気にしないはずです。
でも、塩をあまり使わなくても、ハーブなんかを上手く活用すると、結構美味しく出来るんですけどね。

ホストは、隠れて外でたくさん食べているんじゃないですか?


_____

アメリカからです。

私も昔ホームステイをして食事には困りました。

朝食は砂糖をかけたオートミール。日本で食べたことなっかたのでとても食べられなかったです。嫌いだからトーストに変えて欲しいと言いました。

昼はいいとして、夕食は大ざっぱなものばかり、多分料理が下手なんだっと今思います。。

多分あなたも料理が下手な家庭に当たったみたいですね。 しかしアメリカ人みんな、味がないのではないですよ 私の男友達は結構料理が好きで彼らが作るものみんな美味しいです。。

私の周りを見ても80%ぐらいのオーバーウエイトです。

食事の後の甘いデザート、食べ放題のレストラン、間食のチップスで太ったと思います。

みんなダイエットをしてますがなかなか痩せないです。
少し痩せると又もとに戻る人が多いです。諦めてまた無茶食いするケースが私の周りには多いです。

もう少しのしんぼうですね頑張ってください。

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ホストファミリーは事情で都合5件体験しましたが
(州も違ったためか?)味付けは結構幅があった気がします。

でも確かに言われて見れば、薄味で各自で塩コショウを加減して
食べることが多かったかも?朝食べる卵もどうやって調理するのか
色々訊かれた覚えがあるので、口に合うように変えてもらう、というより
自分の好みを如何にに正確に伝えるか、が重要だと思います。

味付けが薄い・・・というより素材の味を活かすためでは?
マッシュポテトは我が家ではハーフ&ハーフを入れてふわっとさせますが
味付けは各自でグレービーかけたりサワークリーム乗せたり、バルサミコ酢だったり
バターに塩コショウだったり・・・とさまざまです。
(逆に最初から味がついているようなのはイヤです・・・)

味が薄いと感じるならば、(そして調味料は冷蔵庫にいっぱいならば)
〜にはマヨネーズをつけて食べるのが好きなんだけど、とか
〜にケチャップつけると美味しいんだよね、冷蔵庫から持って来ていいかな?

と訊くのは、不満を述べるわけでも失礼に当たるわけでもないので
どんどん言ってかまわないと思いますよ? あなたの食べ方をご家族の方が
試してみて、美味しい食べ方だと感謝されるかもしれませんし・笑

質素な食事で肥える・・・は家以外の場所での間食が多いのかも?


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アメリカとオーストラリアにホームステイしたことあります。

わたしは、オーストラリア在住の方が書いておられるように、オーストラリアの料理は見かけおいしそーなのに味がしなかったです。

そして、学校英語で『 お塩とって下さい』ってフレーズあれを何で習うのかわかりました。日本ではそんなこといわないわよね。ポン酢とかケッチャップならわかるけど、なぜに塩???でもオーストラリアでは確かに必要な言葉でした。

もともと英語といっしょに食文化も渡ってきたと考えられるので、アメリカでも同じことはあるとおもいます。

アメリカではですね、 ホストも子どもたちまでとっても大きかったんですが、私は一ヶ月で6キロもやせてしまいました。

手作り料理はほぼ出なかったですね。
テイクアウトばっかりで、そちらはきちんと味がついてました。
ロス郊外だったのでメキシコ料理は味がしっかりしてるからその影響もあるかもしれませんね。

朝ごはんのオートミールを子どもと作ったのはいまでも覚えています。

それから、ラスベガスのバイキングみたいなランチでマッシュポテト食べましたが、味がなかったです。

家ではあとは、タコスは手作りして何度かたべました、私が好きだと言ったからだと思います。優しかったんですよ。一族ゴスペルシンガーで。でもご飯は2日くらい何も出ない日もありました。

今思うと、『お腹がすきました。食べるものください。』と言わなかったからだと思います。

家族はたぶんずーーと何かしらつまんでいるんだとおもいますよ。毎日3食食べないで、お肉などたべるときはものすごくたべるってことも大きくなる原因ではあるとおもいます。。

私もホストマザーに私たちはダイエットしてるからあんまりっチップスは食べないけど、食べたかったらいいなさい。と言われたけれど、まさかいえなかったし、チップスより、ごはんは〜〜〜ともいえなかった。

そして、何にも食べたないのに何であんなにって思いましたね〜。
遺伝はあると思いますけど、その体格を維持するためには絶対それなりにたべてるはずです。

なぜなら
私は主婦になり、ホームステイでアメリカ人のこれまた大きな人を受け入れましたが、とにかく間食、買い食いの要求がすごくて、お金はなくなるし、気分も悪くなってほんとにまいったんです。

でも、自分でお金をだすお昼は毎日カレーパン一個か焼きそばパン一個だって、本人がいいました。

アメリカ人の彼女は何事にも要求が通るまで何度でも、毎日言ってきます。
しかし、これもわたしが、『うちは三度の食事をきちんととることが大切だとおもっていて、お金も毎日のご飯にたくさん使っているから、買い食いするお金はだせません』とちゃんといえばよかったんです。

もしうちの子供たちがアメリカに留学することがあればよい経験になったとおもいます。


私はアメリカに行ったときはまだ16歳で、英語も出来ず、
そして何より遠慮の美徳を信じて疑いませんでした。今のあなたと同じですね。

変えてもらうように言うこと、望みを言うことがアメリカの文化じゃないかなとおもうのですがどうでしょう?

それからアメリカ人主婦の料理の感想やホームステイの感想はホームステイのカテゴリーで聞かれたほうが良いかもしれませんね。


____


ホームステイではありませんが、アメリカに駐在しています。
時々、アメリカ人のお宅におよばれするので、その感想です。

ヘルシー志向のお宅に行った時は、味なかったです。でも、そこは、塩、ケチャップなど、必要なら付けてと勧められました。

ポトラックでおよばれした時は、味の異常に濃いのや、まったく味のしないものなどさまざま。

アメリカ人も好みはさまざまです。料理は、質素というより、ピザ、ハンバーガーなどアメリカ的なものばかり。

肉も安いし、特にこちらは内陸なんで魚は冷凍もので、種類も少ないです。

ほんと肥えてますよね。ちなみに家の息子は、アメリカに来て、アメリカで肥満といわれるまでになりました。

これは、ピザ、コーラ、ハンバーガー、ポてちなどに原因があると思います。

学校は、ランチになっているし、お菓子なども売っているので、食べまくってしまうみたいです。

あと、アメリカ人は、遺伝でしょうね。アメリカ人は、ハイスクールくらいは、みんな細くって綺麗だけどそれをすぎるとぶくぶくするみたいです。一番綺麗な時期らしいですよ。

で、大抵、家族みんなデブですよね。親がデブなら子供もデブっていう感じ。

まー太っていても、洋服は、売ってるし、困らないんじゃないかな。

ホストさんは、肉食べてませんか?やっぱりアメリカは肉ですよ。


こちらはアメリカではなく、オーストラリアですが。

その昔ウチの夫(当時は婚約者)の家族のところにステイしたとき、私もマッタク同じように感じました〜!で、その後、結婚して夫となった人は私が料理して食卓に出すものすべてに、塩・コショウを振りかけてから食べようとするのです。「ちょっと待って!先に味見してからにしてよ!」とよく言ったものです・・・・

というわけで、個人の好みもあるからかも知れませんがこちらでもみなさん、各家庭の食卓で各自塩・コショウを振りかけてから食べるといった光景はよく目にしますね。

でも、夫の母親が料理するときに全く調味料を使わないかと言えばそうでもなかったです。ナツメグとかハーブ系のものはキッチンに常備してありましたし。ビーフストックなどもありました。

あ、先日、夫の同僚のお宅のディナーに招かれましたが。元看護師さんだという奥さまの手作りのラザニアは、味がありませんでした・・・・そこのご家庭は肥満することをかなり警戒しておられて、コークもシュガーレスのもの、などと徹底しており、奥さまもジム通いで大変スレンダーなのですが。

まあ個人のご家庭に招かれると、かなりの確率でそういうこと(味のない食事)ってありますね、確かに。

オーストラリア、特に田舎に行くとアメリカに負けないくらいの肥満大国だと思いますけれど、どうしてみなさんあそこまで肥えられるのでしょうねぇ・・・・私も大いに疑問です。

ただひとつ、言えることは「量が多いこと」というのは挙げられるかも知れないです。

どこへ行っても、何を注文しても、一人前が平均的アジア人体系の私には多すぎる、と感じますので。その上運動不足(家を一歩出たらどこへ行くのも車で、とか)傾向なのではないでしょうか?

かく言う私も気をつけないと。日本だったら公共交通機関を使って足も使う、という生活でしたが、こちらでは車、ですからねぇ・・・・見えないところにたくさん脂肪が付いている気がします(涙)。


アメリカで色々な州に越しましたが、アメリカは地域によって味付けが全然ちがいます。(もちろん当たり前ですが日本の家庭のように個々の家でも違いますが。)東海岸と西海岸、北部、南部では食べている食品もわりと違うんです。(確かにハンバーガーはどこにでもありますが。。) 他の方が回答されたように、体重や塩分を気にして控えているのかもしれません。それに食にあまり興味がないのかも。

体形はやはり遺伝が多い気がしますね。

でも、しょっぱくて食べれないものを出されるよりはいいと思いますよ。(経験上これはかなりきついです。) ちょうどいい機会なのでその地域の名物料理(郷土料理)のようなものがあれば調べてみてはいかがですか?

私の知り合いで南部からワシントン州(ワシントンの人ごめんね)に越したアメリカ人の友達が”どのレストランに行っても味がない!Plainだ!”と怒っていました。だから、そう思っているのは日本人であるあなただけではないと思いますよ。
https://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail.php?page=1&qid=1447884099

Questions : a_lovemiley1123さん 2010/11/30 0:55:45

アメリカ人の1日の食生活はどんな感じなんですか?
朝・昼・晩の食事(メニュー)など教えてください!


Answers :

アメリカ人といっても人によってかなり差があります。

ヴィーガンでオーガニック食品しか口にしない健康フリークから、ジャンクしか食べない肥満体の人まで、様々です。

私はアメリカ人の夫とニューヨークに在住していますが、ニューヨークの一般の会社員の食生活はおおざっぱにこんな感じです。個人差もありますが、ご参考までに。


8:00 > 至ってシンプルな朝食。シリアルにミルク、果物少々。それかパン。朝食を食べない人も。食べる時間がなく、会社に朝ごはんを持ち込む人もいます。

8:45 > 会社に行く途中でスタバに寄り、コーヒーもしくはラテを買い、会社で飲む。毎朝スタバは長蛇の列です。コーヒーと一緒にベーグルやデニッシュを買う人も。

9:00 > 始業。持ち込んだ朝ごはん、コーヒー等を飲みながら仕事を始める。事務所にキッチンのあるラッキーな人は、業務中コーヒー・お茶飲み放題。

12:30 - 13:30 > 昼ごはん。不況のあおりか、お弁当を持ち込む人が多いこの頃。お弁当は主にサンドイッチ、サラダ、パスタ等に果物。お弁当を作る時間がなかった人は外でサンドイッチ、サラダ、スープ等を買ってくる。こちらのサラダバーは充実しています。忙しく仕事をしながらデスクで昼ごはんを食べる人もいれば、外で同僚と食べる人も。時間がある人はレストランでランチをすることも。

16:00 > コーヒーブレイク。同僚を巻き込んでコーヒー屋さんに行き、テイクアウトのコーヒーを買って自分のデスクで飲む。一緒にクッキー等のお菓子を買う人も。また、得意先(もしくは上司、同僚)からの差し入れがあった日は、それをコーヒー・お茶とともにいただく。

19:00 > 残業がなく終業した平日は、家に直行(途中スーパーに寄る時も)。料理嫌いな独身男子は家に帰る前にどこかのレストランで夕飯のテイクアウト(ピザ、ハンバーガー、中華料理、日本食、等とバラエティー多数)。家で料理する人は簡単な肉・魚のグリル、パスタ、サラダ等を夕飯に食べる。

20:00 > 残業がある日は、だいたい会社近くのレストランからテイクアウト(←会社もち)の夕ごはん。うちの会社は何故かタイ料理が多いです。

21:00 > 太ると分かっていても、家でテレビを見ながらアイスクリームを食べる。


_______


職場のアメリカ人は、昼ご飯に

「食パン一斤(ブルーベリージャムを瓶ごと持参)、人参一本(ナイフ持参でスライスして、ピーナッツバターを塗ってました)、ヨーグルト1リットルを1パック、オレンジ一個」

を持参し、食べていました。

どうしても理解できませんでした。


_____


イメージですが、

朝:シリアル、サラダ、パンケーキにイチゴジャム

10時:スニッカーズ、アイスクリーム、チェリオ(グレープ)

昼:ハンバーガー、フライドポテトとケチャップ、コーラ

15時:アメリカンチェリーとクリームチーズのパイ、コーヒー

夕:ステーキ、マッシュドポテト、サラダ、パン、コーンスープ、ワイン

21時:ポテトチップス、コーラ


その昔、我が家でアメリカの女の子がホームステイしてたのですが、10時、15時、21時のおやつは毎日食べてましたね〜

夜のおやつはポテトチップス(大)とコーラ(1.5L)の組み合わせが多かったです。

かなりポッチャリした子でしたが。
10時15時はボクが仕事中なのでほとんど観察出来ず。
https://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail/q1049735765

Question : jattype2a4039さん 2011/1/20 21:25:47

アメリカ人やイギリス人は味覚音痴なのでしょうか?

アメリカ人は日本の和牛のように旨味があってやわらかい肉を好まず、 靴底みたいな噛みきれないパサパサのゴムのような肉を好むみたいですね。

「アメリカ料理」「イギリス料理」なんて聞いたことありませんし。

アングロサクソン系の人間って舌が発達してないのでしょうかね〜?

Answer : chuchuchu1232さん 2011/1/22 18:38:29

いろいろな国を訪れましたが、アメリカ人だけがパサパサのゴムのような肉を好むわけではないです。堅い肉を出されることは結構ありましたよ。それだけで味覚音痴と判断してしまうのはちょっと乱暴かもしれません。

確かにアメリカ人やイギリス人は食に関して興味がない人が多いと思います。

日本在住のアメリカ人が「アメリカ人はグルメではないです」と言い切ってました。

まずアメリカ人ですが、おいしいものを食べる、いろいろな種類の物を食べる、という感じではありません。栄養はサプリメントに任せて食事はおなかが膨れればそれでOKという感じです。

朝食はシリアルとオレンジジュースと果物、という変わりばえのしない食事を毎日続けられる人種です。

また、夕食もポテトチップスとジュースだけで済ますことも日常的です。

夕食はソーセージを焼きましょう、って本当にソーセージだけしか焼きませんでした。何本も食べさせられました。


アメリカ人ファミリーを日本のファミレスに連れて行ったら、フライドポテトとカルピスのみ注文して、それでは足りなかったみたいで再びフライドポテトを注文してました。また、ベビーフードのような缶詰の食べ物をそのまま温めてそれだけを食べる、ということもあります。

日本人が食事作りに時間をかけてるということが理解できないようです。


次にイギリスですが、これまた、貧弱で変化に乏しい食生活です。

たとえば、ポテトが好きか聞かれて好きというと、毎朝、茹でたポテトに塩をかけたものが出てきました。

いくらポテトが好きでも同じものばかりしかも調理法まで同じとなれば飽きてきますよね。せめて、ポテトサラダ、フライドポテト、ベークドポテト、スープの具などいろいろ調理法を変えてくれればいいのですが・・・

生野菜サラダでもドレッシングが数種類あれば楽しめますが、まずい大味のドレッシング一種類しか置いてなくて、それが毎日出てきました。

日本人と味覚が違うからという理由だけでは味覚音痴とは言えませんが、いろいろな国の人達の食生活と比べると、やはり食事はまずい、食に関心がない、という結論になると思います。


アメリカ料理で思い浮かぶのもはハンバーガー、ホットドッグ、ピザ、ジャンバラヤなどです。 日本人でも好んで食べる人が多いものばかりですよね。

イギリス料理はローストビーフ、フィッシュアンドチップス、ミートパイあたりがうかびますね。
https://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail/q1054105975


Question : kanedakofukuさん 2012/2/13 15:20:44

何故アメリカ人は味覚音痴?


アメリカ旅行から帰った友人が口を揃ってアメリカ人は味覚音痴だと言います。
食文化の違いなんですか?

またアメリカで美味しい物なんなんですか?

お薦めがあったら教えて下さい、よろしくお願いします。

Answer : akkiena_rest_girlさん 2012/2/13 15:59:43


昨年、米国のニュース専門放送局CNNが「世界で最も美味しい食べ物TOP50」を発表しました。

http://karapaia.livedoor.biz/archives/52028293.html

1位は、マッサマン・カレー(タイ)だったんですが、
3位:メキシコ チョコレートがランクイン。
9位:アメリカ アイスクリーム。
しかも39位:アメリカ ケチャップが堂々のランクイン。

3位と9位にお菓子、しかもケチャップは調味料。

この感覚をあなたは、どう思うかですね。

今は、どこの国もある程度お金を出せば美味しいものは食べられます。しかし、安くて美味しいものを食べられると「ああ美味しいもの食べてる国だな」と思います。

そういう意味では、アメリカの安いものは、ジャンクフード、お菓子、ファストフードになってしまうと思います。お金を出して食べたいとは思いません。

タイの屋台の焼きそばみたいなやつとかイタリアのバールのパスタとかペルーの民家のふかしたイモとか、まさに安くて美味しかったです。


Answer 2 : sakusakusaku5963さん 2012/2/13 15:54:22

日本の食生活ってアミノ酸を使った料理が多いでしょ?
代表的なのが昆布だし。

昆布に含まれているアミノ酸であるグルタミン酸とアスパラギン酸がいわゆるうま味ってやつですね。

コレを小さい頃(3歳ごろ)までに食べるといわゆる味覚が広がるって言われています。

米国の幼児食はいわゆるベビーフード。ココで味覚が養われなくなるって聞いたことあるわ〜。

確かに米国の食事は美味しくないね。
ココのオススメはやっぱりバーベキューでしょうか(笑)コレだけは美味しかったわ。
あとは皆さんご存じハンバーガー。でもコレって米国の料理じゃないよね〜。
https://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail/q1181406696

http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/436.html#c2

[近代史3] 石平 中国共産党政権の脅威 中川隆
1. 中川隆[-10388] koaQ7Jey 2019年5月17日 22:07:31 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[1917]

石平氏 講演会『習政権の国際戦略と米中対立の行方』 - YouTube
https://www.youtube.com/watch?v=2O_2EyKAKK4

平成29年6月25日、ウインクあいちにて
http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/435.html#c1

[政治・選挙・NHK260] 小室さん母の金銭トラブル 元婚約者男性の代理人が代弁「圭君は可愛いと思うが金は返して」(スポニチ) 完璧帰趙
3. 中川隆[-10402] koaQ7Jey 2019年5月18日 06:25:17 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[1916]
小室圭さん関係のスキャンダルも秋篠宮関係のデマもすべて CIA と外務省創価グループが流したデマの可能性が高いです:

秋篠宮が入江侍従長の子供だとか
秋篠宮がプチエンジェル事件の顧客名簿に載っていたとか、
宮内庁が秋篠宮が眞子と近親相姦している「パパだーいすき」という動画を探しているとか

すべて CIA と外務省創価グループが流したデマだと言われています。

自殺に見せ掛けた殺しは CIA+創価学会 のお家芸なので、秋篠宮家での三件の不審死も創価ヤクザがやった可能性が有ります。 秋篠宮家をうさん臭く思わせたかったんだろうね:


忠告しておく。層化を追求すると死人が出る ・ ・ ・ ・。

12.浅木明代市議( 創価を追及している最中に、 ビルから転落。飛び降り自殺? )

13.姉歯秀次の妻 : 熱烈な層化信者 ( 飛び降り自殺? 逃げ回っていた姉歯に対する口封じ?)

14.松岡農水大臣( 首吊り自殺?? 秘書が発見したが、 救急車が来るまでつりっぱなし )

15.伊丹十三映画監督( 層化をテーマにした映画作成中に、 飛び降り自殺???)

17.プチエンジェル運営会社社長( 事件発覚、顧客に大物政治家の名前リスト有り、口封じで練炭自殺??)


高円宮は組織の事を知り過ぎてしまったので、創価ヤクザに腹上死に見せ掛けて殺されたのかな?


紀子様の堕胎説や、川嶋教授の怒鳴り込み説なども創価ともう一つ、自分の上にある秋篠宮家を憎んでいた高円宮家が名誉会長を務めていたワールドメイトの信者が手分けして広めたデマです。

堕胎など医師の守秘義務を破ってもらす医療関係者が、全国津津浦浦に隈なく存在しているあり得なさを考えてみればよいのです。やれどこそこの院長が言っていた、婦長がここだけの話として教えてくれた、などなど冷静に考えてみればあり得ないことを信じ込まされている人達がいます。

創価大学の学生には、「東宮夫妻お出まし」のための歓迎サクラ要員募集記事がHPに載っていました。(スクショと共に記事にしました)。毎度報道されるお迎えの集団が本物なら、動員の必要はないでしょうに。

創価婦人部は複数名が一組となって電車の中で、周りに聞こえる程度のひそひそ話で「ねえ、聞いた?」「紀子さまってば」「秋篠宮殿下って実はね」として、秋篠宮家の貶め作戦を行って来ました。
同じ女たちが、別の電車で同じ芝居をしている所を目撃したというコメントを、コメ欄にかつて頂きました。

秋篠宮がプチエンジェル事件の顧客名簿に載っていたとか
宮内庁が秋篠宮が眞子と近親相姦している「パパだーいすき」という動画を探しているとか

の話も秋篠宮家を うさん臭く思わせようとしてでっち上げた話でしょう。

昔、皇太子妃候補 No.1 だった柏原芳恵がバイブレーター所持していたというデマを流した のも外務省創価グループだと言われているしね。

要するに、CIA と創価学会は

どうしても愛子を天皇にしたい、
秋篠宮家を うさん臭く思わせたい

のでしょうね。


http://www.asyura2.com/19/senkyo260/msg/837.html#c3

[近代史3] 馬渕睦夫 ウイルソン大統領とフランクリン・ルーズベルト大統領は世界を共産化しようとしていた 中川隆
13. 中川隆[-10401] koaQ7Jey 2019年5月18日 06:47:51 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[1917]
2019-05-14
国際情勢の大変動を見抜く!-12〜ロシア革命の真相を理解するカギはウィルソン大統領〜
http://www.kanekashi.com/blog/2019/05/6258.html

今回はロシア革命について。

ロシア革命というので分かりにくいが、史実は「ユダヤ革命」。ロンドンやアメリカのユダヤ人が入り込んでロマノフ王朝を潰し、ロスチャイルド主導の政府を樹立したというもの。

アレクサンドル一世以来100年に亘って抵抗し続けてきた金貸しについに乗っ取られた革命であった。レーニン→スターリンと続くソ連邦という社会主義国が誕生するが、内実はエリート独裁政権で、しっかり中央銀行(建前上は政府系銀行ですが)を設けています。

これと時を同じくして、アメリカにも連邦準備制度法が設立されて、中央銀行:連邦準備銀行が設立された。ご存知の通り株主にはロスチャイルド家。

こちらも100年前からジャクソン大統領以来一身を賭して拒否し続けてきたが、遂に陥落。

金貸しに従順な大統領を要し、側近に実質の指導者が居座る傀儡政治のパターンがここから始まる。側近として有名なのがキッシンジャーやブレジンスキー。

トランプはどうか。最初は金貸しの手先の側近を排除するほうこうに動いていたが、中国との関係を見ると現在は怪しい。それも単なる見せかけなのか?ウィルソン大統領から100年余りにも及ぶ金貸し傀儡政治の歴史から決別することが容易ではないことが見て取れる。

次回、スターリンの造反からソ連邦崩壊までの道筋を見ていきながら、トランプの今後も推察していきたい。

『世界を操る支配者の正体』(馬渕睦夫 著)
https://www.amazon.co.jp/%E4%B8%96%E7%95%8C%E3%82%92%E6%93%8D%E3%82%8B%E6%94%AF%E9%85%8D%E8%80%85%E3%81%AE%E6%AD%A3%E4%BD%93-%E9%A6%AC%E6%B8%95-%E7%9D%A6%E5%A4%AB/dp/406219175X/ref=sr_1_1?adgrpid=57028848367&hvadid=338514114426&hvdev=c&hvlocphy=1009549&hvnetw=g&hvpos=1t1&hvqmt=e&hvrand=7278385446062088875&hvtargid=kwd-334868628383&jp-ad-ap=0&keywords=%E4%B8%96%E7%95%8C%E3%82%92%E6%93%8D%E3%82%8B%E6%94%AF%E9%85%8D%E8%80%85%E3%81%AE%E6%AD%A3%E4%BD%93&qid=1556014387&s=gateway&sr=8-1


からの紹介です。

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3.ロシア革命

■それはロシアのユダヤ人を解放するための革命だった

ロシア革命について、もちろん私たちは歴史の教科書で学んだわけですが、残念ながら真実は隠されていました。そもそもロシア革命という名称自体が誤解を招く元です。ロシア革命はロシアの皇帝の圧政に苦しむロシア人が蜂起して帝政を転覆した革命では決してありません。ロシアの少数民族ユダヤ人を解放するために、国外に亡命していたユダヤ人がロンドン・シティやニューヨークのユダヤ系国際金融勢力の支援を受けて起こした革命であったのです。その意味で、ロシア革命ではなく「ユダヤ革命」と言うのが正しいのです。

イギリスの高名な知識人であるヒレア・べロックは『The Jews』の中で、ロシア革命は「ジュイッシュ・レボリューション」であると明言しています。当時のイギリスやヨーロッパ諸国では、ロシア革命がユダヤ革命であったことは常識でした。しかし、わが国では現在に至るもロシア革命の真相が教えられていません。ロシア革命で成立したソ連邦が1991年に解体されたにもかかわらずです。

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(中略)

私たちが克服しなければならないのは、共産主義は労働者を解放する人道主義思想であるという間違った思い込みです。東西冷戦時代に育った私たちの世代は、共産主義は歴史の必然であり、正義の思想であると左翼知識人などから洗脳されてきました。しかし、共産主義の真相は労働者の思想でもなく、歴史の必然でもなく、正義のイデオロギーでもありませんでした。共産主義とは、国の資源と物言わぬ大衆を効率よく搾取管理する一握りのエリート支配層のための思想なのです。であるからこそ、共産主義国が少数のエリート支配による独裁政治になるのは必然でした。

私がソ連時代の在モスクワ日本大使館勤務(1979年〜1981年)の際に目撃したのは、労働者大衆が生活物資に事欠きながらもくもくと生活を送っている一方、贅沢品に囲まれた一握りの共産党エリートたちが超然と大衆を睥睨しているという超格差社会の実態でした。超格差社会の特徴の一つは、支配される側の一般大衆の人々に生気と笑いがないということです。人々は例外なくうつむき加減に、怒りと悲しみを押さえた生のエネルギーを喪失した無表情で行き交っていました。それはあらゆる面で管理されている大衆の姿でした。共産主義とはエリートの少数者が大衆を強圧的に管理するイデオロギーなのです。

1917年の11月革命によってウラジミール・レーニンたちのボルシェビキが権力を握りましたが、ロシア民衆の支持を得たわけでも、ましてや選挙で選ばれたわけでもありません。武装闘争によって権力を奪取したに過ぎないのです。ボルシェビキ革命政権の指導部は、8割がユダヤ人によって占められていました。レーニンは4分の一がユダヤ人です。

レフ・トロッキーはアメリカ在住のユダヤ人をひきつれアメリカ政府のパスポートによってロシアに入国し、革命に従事しました。トロッキーがまず行ったことは、ロシア人から金(ゴールド)を取り上げることでした。資本の私有を禁じる共産主義にあっては金の私有は禁止されるべきだというのが表向きの理由ですが、こうして国民やロマノフ王朝から取り上げられた金銀財宝は、革命に資金援助をした国際金融資本家たちへの返済に使われたのです。

金の収奪意外に彼らがどのような政策をとったかは火を見るよりアキラかです。ロシア人に対する復習でした。皇帝ニコライ2世一家は惨殺されました。何百万というロシア人がロシア人であるという理由だけで反革命の烙印を押されて銃殺されていきました。ノーベル文学賞を受賞したアレクサンドル・ソルジェニツィンは『収容所群島』の中で、収容所の管理者であるユダヤ人の弾圧ぶりを描いています。

■ロシア革命の真相を理解するカギはウィルソン大統領

ことほど左様に、ジュイッシュ・レボリューションの実態は「人民民主主義」とはかけ離れたものでした。しかし、強力な言論統制の結果、これらの実態はあまり世界に知られることがありませんでした。アメリカのウッドロー・ウィルソン大統領に至っては、「素晴らしい民主主義国が誕生した」とソ連を賛美しているほどです。世界の情報を掌握しているはずのアメリカの大統領ともあろう人物にしてもこの有様です。

私たちは、ウィルソン大統領はアメリカ民主主義の鏡であるかのように教えられてきました。しかし、ウィルソン大統領の業績を調べれば調べるほど、優れた民主主義者ではなく無害な操り人形であることが分かってきます。ウィルソン大統領の人物像を理解することが、第一次世界大戦やロシア革命の真相を理解することにつながるのです。

ウィルソン大統領が極めて凡庸な学者であったがゆえに、今日まで続くアメリカの悲劇が開始されたのだと私は考えています。ブリンストン大学総長を務めた後、ニュージャージー州知事になっていたウィルソンに大統領候補の白羽の矢を立てたのは、国際金融資本家でした。アメリカ政治では彼らの意向を無視した大統領選びは決して起こりません。ジョークとして語り継がれているように、アメリカにおいては大統領になるよりも大統領候補になるほうが難しいのです。

その意味はこういうことです。大統領候補は共和党、民主党の予備選挙によって選ばれますが、両党の大統領候補を誰にするかを最終的に決めるのはニューヨークの国際金融家たちなのです。まず、両党の大統領候補への指名を求めるものは予備選挙に立候補しなければなりません。予備選挙にはお金がかかります。どれだけ献金を集められるかが決め手になります。資金不足のため予備選から脱落する候補が相次ぐ事になります。次に重要なのはメディアによるスクリーニングです。メディアが候補者の過去の行状や予備選中の言動を批判的に報じれば、まず生き残れません。

以上のことは何を示しているのでしょうか。資金とメディアを支配している勢力が大統領候補選出に決定的影響力を有しているということです。このようにして選出された両党の大統領候補はどちらが当選しても彼らにとっては大きな違いがないということになります。だから、両党の政治家にとっては、大統領候補になることが極めて難しいことになるわけです。大統領選挙はお祭りということになるのです。

では、ウィルソン大統領はなぜロシア革命を礼讃したのでしょうか。その理由は、彼の周囲を固めていた側近たちが皆社会主義者であったということです。ウィルソン大統領が第二の自分とまで呼んで信頼していたエドワード・マンデル・ハウス大佐は社会主義者でした。ハウス大佐は一介のユダヤ系民間人にすぎませんが、ホワイトハウス内に執務室を与えられていました。ウィルソン大統領の側近中の側近の補佐官であったのです。このように、議会の承認を必要としない、いわば令外官がアメリカ大統領に最も影響を与える地位に就くことができるのです。

この方程式は現在まで続いています。有名なヘンリー・キッシンジャー大統領補佐官は、私人の身分でニクソン大統領の外交政策を牛耳りました。カーター大統領の安全保障担当補佐官であったズビグニュー・ブレジンスキーは、オバマ大統領の外交顧問を務めたほど、長期にわたり民主党の外交政策に影響を与え続けました。

■ロシア革命とアメリカ中央銀行設立が同時期であった理由

ウィルソン大統領の「功績」として、世界が忘れてならないのはアメリカの中央銀行である連邦準備制度を成立させたことです。(1913年12月)。連邦準備制度を構成する連邦準備銀行は100パーセント民間銀行です。ロスチャイルド家などの国際銀行家が株主であることが特徴です。側近たちのアドバイスに忠実であったウィルソン大統領であったからこそ、かつてジャクソン大統領が一身を賭して拒否し続けた民間の中央銀行を認める複雑怪奇な連邦準備制度法に署名することができたのでしょう。ウィーン会議から100年にして、ここにアメリカは完全に国際銀行家たちの軍門に降ったのです。

ユダヤ人が主導するロシア革命とアメリカ中央銀行の設立がほぼ同じ時期に起こったことに注目すべきでしょう。国際銀行家たちは、アメリカとロシアの支配権をここに手中にすることができたのです。第一次世界大戦は、このアメリカとロシアの事件と密接に絡んでいます。

アメリカに民間の中央銀行ができたことは、アメリカが第一次世界大戦に参戦する金融的基盤が揃ったことを意味します。戦争には資金が必要です。しかし、この連邦準備制度のおかげで、アメリカは後顧の憂いなく戦争資金を調達する道が開けたのです。もちろん、借金することに変わりはありませんが、外国で戦費を調達するのではなく、連邦準備銀行から借りることで可能になったのです。

ここで注意していただきたいのは、連邦準備銀行から借りるというのは、株主たる国際銀行(多くは外国の銀行)から借りるのと同じですから、結局外国人から借金することと同じだということです。株主の国際銀行家たちは喜んでアメリカ政府に戦争式を融資してくれるでしょう。アメリカ政府は確実に戦費を返済することができるからです。なぜなら、連邦準備制度法と同時に連邦所得税法が成立しましたので、アメリカ連邦政府は国際銀行家たちに返済を確約できるわけです。アメリカ国民から所得税をとることが可能になったのですから。

ロシアの中央銀行はどうなったのでしょうか。ソ連邦政府は中央銀行を設立しました。アレクサンドル一世以来100年以上続いた国際銀行家への抵抗は、ここに終了することになったのです。もっとも共産主義体制下の中央銀行ですから、建前上民間の中央銀行ではありませんが、ロンドン・シティやニューヨークの金融資本家たちの代理人の政権ですから、事実上国際銀行家たちの中央銀行であったわけです。

ところが、これでひと段落した分けではありません。ソ連の歴史は資料が十分公開されていないことなどもあって、まだ全貌が明らかになっていませんが、少なくとも次の二点に関して歴史家は検証しなければならないと感じます。第一は、スターリンの評価です。第二は、ソ連はなぜ解体されたのかということです。この二点は国際金融資本家のロシア支配と関連が深いからです。
http://www.kanekashi.com/blog/2019/05/6258.html
http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/145.html#c13

[リバイバル3] 北海道の最低市町村ランキング 中川隆
202. 中川隆[-10403] koaQ7Jey 2019年5月18日 07:07:06 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[1915]

七飯の国道国道で軽乗用車が逆走 - YouTube 動画
https://www.youtube.com/watch?v=Ut9CSLmvMMM
https://www.youtube.com/watch?v=HegDjukWf5I
https://www.youtube.com/watch?v=Hv0ZcLOdjGc

軽乗用車1キロ以上逆走 七飯の国道 停止求められ逃走
05/17 22:26 更新


バスの目の前を横切る逆走車=16日午後5時10分、七飯町(時計台バス提供のドライブレコーダー画像)

 【七飯】16日午後5時ごろ、渡島管内七飯町峠下の国道で函館機動警察隊の覆面パトカーが速度違反をした軽乗用車を発見し、停止を求めた。軽乗用車は逃走し、対向車線を少なくとも1キロ以上逆走したため、パトカーは追跡を断念した。事故はなかった。同隊は道交法違反(通行区分違反、速度超過)の疑いでこの軽乗用車の行方を追っている。

 同隊によると、軽乗用車は停止を求められた後、Uターン。中央分離帯で区切られている対向車線に侵入して逆走を始めた。対向車が多数通行しており、事故が懸念されたため、パトカーは1キロほどで追跡を取りやめたという。

 時計台バス(札幌)によると、同社のバス5台が現場付近で逆走車に遭遇。バスのドライブレコーダーには他の車がぶつかりそうになる映像や乗客の驚く声が記録されていた。運転手の1人は「運転を終えた途端に足が震えた」と話したという。

 同社は「バスは十分な車間距離を取っていたので冷静に減速して衝突を免れた。もしバスや他の車が正面衝突していたら、2台絡みの事故では済まなかった」と憤っている。

http://www.asyura2.com/09/revival3/msg/588.html#c202

[近代史3] (三橋貴明×山本太郎) 絶対にTVでカットされる国債の真実 中川隆
17. 中川隆[-10402] koaQ7Jey 2019年5月18日 07:28:50 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[1916]

財務省の利己主義と戦う 2019-05-18
https://ameblo.jp/takaakimitsuhashi/entry-12462076352.html


三橋貴明

 昨日は、「日本の未来を考える勉強会」でMMTについて解説したのですが、これは大変なことになる。


 と、後で気が付きました。


 わたくしは安藤先生や藤井先生、中野先生のように上品ではないので(厳密には政治家でも学者でも官僚でもないので)、財務省をもう批判。もちろん、事実に基づき、圧倒的なマウントの位置から財務省の「嘘」を暴き続け、意外に集まった国会議員に、
「財務官僚に聞いて下さい。国債発行をすると、家計の預金は減るのですか? それとも増えるのですか?」
 と、繰り返しました。


 家計の預金が減る、と答えた場合、財務省は完全に「嘘」」をついたことになり、「嘘つき省庁」として国民に認知され、歴史に残ります。というか、認知させて、残してやる。


 預金が増える、と答えた場合、財務省は事実を語ることになりますが、「今まで嘘をついていた」ことを正式に認めることになり、「嘘つき省庁」として国民に認知され、歴史に残ります。という(略


 改めて、日本の歴史を変えかねないほど重要な図です。

【政府の国債発行と、銀行預金増加の仕組み】

http://mtdata.jp/data_63.html#yokinzou

 多分、我々はスキャンダルで潰されることになるでしょうが(いや、本気です)、この図と「国債発行=家計の銀行預金増加」だけは拡散し続けて下さいませ。


 何しろ、単なる「事実」なので、誰にでも理解でき、一度理解してしまうと、二度とひっくり返りません。


 事実を周知するだけで、財務省の嘘、財政破綻論の嘘が確定する。しかも、我々は国会議員を巻き込んでおります。なかなか、洒落にならない局面を迎えようとしているのです。(さらに、今後、夏まで凄まじいイベントが目白押し。詳細は秘密!)


 これ、どうやってオチをつけるべきなのでしょうか。


 我々がスキャンダル(絶対に来る)を乗り越えたとして、絶対に発言や拡散をやめません。となると、財政破綻論を財務省自ら否定するまで続かざるを得ません。


 あるいは、政治的には財務省に、
「国債のファイナンシングといった説明をしており、国民に『預金から借りていた』といった『誤解を与えたのは遺憾』です。いずれにせよ、『以前からの我が省の主張通り』自国通貨建て国債のデフォルトはあり得ません」
 と、説明させ、オチをつけるか。


 政治的にはそれもありかも知れませんが、繰り返しになりますが、わたくしは政治家ではありませんので。


 一応書いておきますが、わたくし共は与党議員にも野党議員にもインプットを続けています。この状況でジミンガ〜、ヤトウガ〜はやめて下さい。


 自民党にもまともな議員はいるし、野党にもまともじゃない議員はいる。というか、そもそもまともな議員が与野党共にほとんどいないというのが日本の現実でしょうが。


 グローバリズムとの戦いも同じですが、この期に及んで「ジミンガ〜、ヤトウガ〜」をやっているのでは、普通に負けます。財務省との戦いでも、我々が負け、今後も緊縮財政が継続するか確率の方が「圧倒的」に高いのですよ、残念なことに。

【歴史音声コンテンツ 経世史論 始動!】

http://keiseiron-kenkyujo.jp/apply/


※6月15日(土)まで、特別コンテンツ【MMTポリティクス〜現代貨幣理論〜第一回】をご視聴頂けます。是非、ご入会下さい。


 というわけで、まともな自民党議員。

『財政赤字を恐れるな 財政至上主義は利己主義
 現代金融理論(MMT)に関心があり、4月の参院予算委員会でも質問した。
 みなさんは「貨幣」というと金貨のようなものを思い浮かべるかもしれない。紙幣も金と交換できる兌換(だかん)紙幣として始まった。わかりやすくいえば金貨を持っている人がそれを貸すというイメージだ。
財政破綻はありえない
 しかし、現在の貨幣はそうした仕組みではない。金とは関係なく国家の信用で強制的に通用している。極端に言うと元手はゼロだ。誰かにお金を貸した瞬間に、誰かの預金残高が増える。これを信用創造と言う。
 財務省などは預金残高が減ってくると国債の引き受け手がなくなり、国債の暴落、信用危機、ハイパーインフレが起きるという議論をする。しかし、実際には国債を発行するとその分、国民の側の預金残高は増えるのだから、破綻はありえない。
 貨幣は信用によって創造されている。それなのに現実とは異なる、金と交換できるような貨幣(商品貨幣)の理屈にとらわれているのが財務省だ。財務省の言う「財政赤字」をおそれる必要はない。(後略)』

 後略部で、西田先生は、
『財務省の存在意義は財政均衡にあるのだろうが、国民が困っている時に財政を振りかざして「できない、できない」というのは利己主義だ。日本の国全体で、人が困っていても仕方ないと考えるモラルの低下が起きている。 』
 と、語っていますが、財務省は利己主義です。

 というか、財務省の存在意義が財政均衡という時点で、奇妙な話です。何しろ、政府は「何の負担もなし」で、おカネを発行できる経済主体なのです。(この辺りの話は、間もなく超人大陸から公開される、わたくしの昨日のMMT解説で)


 財務省内において、単に「緊縮財政推進が出世の条件(財務官僚の家族の幸せ)」という構造になっている。財務官僚は、自らの出世や家族との豊かな生活のために、上司の指示に従い、緊縮財政が続く。


 結果、日本のGDPは二十年超も低迷し、国民は貧困に喘ぎ、国家は小国化。このままでは、普通にアメリカの属国「兼」中国の属国で、三世代後には「中華人民共和国 倭族自治区」といったところでしょう。


 この種の悪夢の未来を避けるためには、何としても緊縮財政だけは終わらせなければなりません。社会保障の充実や、交通インフラの整備、国土強靭化、教育・科学技術復興、防衛力強化、地方創生、食料安全保障の強化などは「その後」の話です。何しろ、予算制約が続く限り、結局、何もできませんので。


 こんな大仰なことは書きたくないのですが、日本国の未来を救うというよりは、赤ちゃんにまともな日本を残すためであれば、とりあえずできることは何でもやりますよ、わたくしは。
https://ameblo.jp/takaakimitsuhashi/entry-12462076352.html
http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/298.html#c17

[近代史3] 財務省は何故日本を滅ぼそうとしているのか? 中川隆
20. 中川隆[-10401] koaQ7Jey 2019年5月18日 07:29:17 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[1917]

財務省の利己主義と戦う 2019-05-18
https://ameblo.jp/takaakimitsuhashi/entry-12462076352.html


三橋貴明

 昨日は、「日本の未来を考える勉強会」でMMTについて解説したのですが、これは大変なことになる。


 と、後で気が付きました。


 わたくしは安藤先生や藤井先生、中野先生のように上品ではないので(厳密には政治家でも学者でも官僚でもないので)、財務省をもう批判。もちろん、事実に基づき、圧倒的なマウントの位置から財務省の「嘘」を暴き続け、意外に集まった国会議員に、
「財務官僚に聞いて下さい。国債発行をすると、家計の預金は減るのですか? それとも増えるのですか?」
 と、繰り返しました。


 家計の預金が減る、と答えた場合、財務省は完全に「嘘」」をついたことになり、「嘘つき省庁」として国民に認知され、歴史に残ります。というか、認知させて、残してやる。


 預金が増える、と答えた場合、財務省は事実を語ることになりますが、「今まで嘘をついていた」ことを正式に認めることになり、「嘘つき省庁」として国民に認知され、歴史に残ります。という(略


 改めて、日本の歴史を変えかねないほど重要な図です。

【政府の国債発行と、銀行預金増加の仕組み】

http://mtdata.jp/data_63.html#yokinzou

 多分、我々はスキャンダルで潰されることになるでしょうが(いや、本気です)、この図と「国債発行=家計の銀行預金増加」だけは拡散し続けて下さいませ。


 何しろ、単なる「事実」なので、誰にでも理解でき、一度理解してしまうと、二度とひっくり返りません。


 事実を周知するだけで、財務省の嘘、財政破綻論の嘘が確定する。しかも、我々は国会議員を巻き込んでおります。なかなか、洒落にならない局面を迎えようとしているのです。(さらに、今後、夏まで凄まじいイベントが目白押し。詳細は秘密!)


 これ、どうやってオチをつけるべきなのでしょうか。


 我々がスキャンダル(絶対に来る)を乗り越えたとして、絶対に発言や拡散をやめません。となると、財政破綻論を財務省自ら否定するまで続かざるを得ません。


 あるいは、政治的には財務省に、
「国債のファイナンシングといった説明をしており、国民に『預金から借りていた』といった『誤解を与えたのは遺憾』です。いずれにせよ、『以前からの我が省の主張通り』自国通貨建て国債のデフォルトはあり得ません」
 と、説明させ、オチをつけるか。


 政治的にはそれもありかも知れませんが、繰り返しになりますが、わたくしは政治家ではありませんので。


 一応書いておきますが、わたくし共は与党議員にも野党議員にもインプットを続けています。この状況でジミンガ〜、ヤトウガ〜はやめて下さい。


 自民党にもまともな議員はいるし、野党にもまともじゃない議員はいる。というか、そもそもまともな議員が与野党共にほとんどいないというのが日本の現実でしょうが。


 グローバリズムとの戦いも同じですが、この期に及んで「ジミンガ〜、ヤトウガ〜」をやっているのでは、普通に負けます。財務省との戦いでも、我々が負け、今後も緊縮財政が継続するか確率の方が「圧倒的」に高いのですよ、残念なことに。

【歴史音声コンテンツ 経世史論 始動!】

http://keiseiron-kenkyujo.jp/apply/


※6月15日(土)まで、特別コンテンツ【MMTポリティクス〜現代貨幣理論〜第一回】をご視聴頂けます。是非、ご入会下さい。


 というわけで、まともな自民党議員。

『財政赤字を恐れるな 財政至上主義は利己主義
 現代金融理論(MMT)に関心があり、4月の参院予算委員会でも質問した。
 みなさんは「貨幣」というと金貨のようなものを思い浮かべるかもしれない。紙幣も金と交換できる兌換(だかん)紙幣として始まった。わかりやすくいえば金貨を持っている人がそれを貸すというイメージだ。
財政破綻はありえない
 しかし、現在の貨幣はそうした仕組みではない。金とは関係なく国家の信用で強制的に通用している。極端に言うと元手はゼロだ。誰かにお金を貸した瞬間に、誰かの預金残高が増える。これを信用創造と言う。
 財務省などは預金残高が減ってくると国債の引き受け手がなくなり、国債の暴落、信用危機、ハイパーインフレが起きるという議論をする。しかし、実際には国債を発行するとその分、国民の側の預金残高は増えるのだから、破綻はありえない。
 貨幣は信用によって創造されている。それなのに現実とは異なる、金と交換できるような貨幣(商品貨幣)の理屈にとらわれているのが財務省だ。財務省の言う「財政赤字」をおそれる必要はない。(後略)』

 後略部で、西田先生は、
『財務省の存在意義は財政均衡にあるのだろうが、国民が困っている時に財政を振りかざして「できない、できない」というのは利己主義だ。日本の国全体で、人が困っていても仕方ないと考えるモラルの低下が起きている。 』
 と、語っていますが、財務省は利己主義です。

 というか、財務省の存在意義が財政均衡という時点で、奇妙な話です。何しろ、政府は「何の負担もなし」で、おカネを発行できる経済主体なのです。(この辺りの話は、間もなく超人大陸から公開される、わたくしの昨日のMMT解説で)


 財務省内において、単に「緊縮財政推進が出世の条件(財務官僚の家族の幸せ)」という構造になっている。財務官僚は、自らの出世や家族との豊かな生活のために、上司の指示に従い、緊縮財政が続く。


 結果、日本のGDPは二十年超も低迷し、国民は貧困に喘ぎ、国家は小国化。このままでは、普通にアメリカの属国「兼」中国の属国で、三世代後には「中華人民共和国 倭族自治区」といったところでしょう。


 この種の悪夢の未来を避けるためには、何としても緊縮財政だけは終わらせなければなりません。社会保障の充実や、交通インフラの整備、国土強靭化、教育・科学技術復興、防衛力強化、地方創生、食料安全保障の強化などは「その後」の話です。何しろ、予算制約が続く限り、結局、何もできませんので。


 こんな大仰なことは書きたくないのですが、日本国の未来を救うというよりは、赤ちゃんにまともな日本を残すためであれば、とりあえずできることは何でもやりますよ、わたくしは。
https://ameblo.jp/takaakimitsuhashi/entry-12462076352.html
http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/151.html#c20

[近代史3] 雅子という女は凄い女 _ 気に入った相手とは手当たり次第という感じ _ 男性経験は20人は超えている 中川隆
98. 中川隆[-10400] koaQ7Jey 2019年5月18日 07:49:24 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[1918]

八幡和郎の時事解説
http://www.yawata48.com/jiji/jiji02701.htm


皇太子妃雅子さまにおける悲劇の本質と打開策


うわさ話でなく履歴だけでも分かること

 秋篠宮妃殿下のご懐妊と関連して、また雅子妃殿下についてあれやこれや議論されている。保守的な人々からの批判もあるが、妃殿下に近い人々あるいは擁護派からの積極的な発言や情報発信も盛んであり、これが状況を混迷させている面もある。

 いずれにしても皇太子妃殿下をめぐっては、いじめられて可哀想という同情論があり、一方で無責任だという批判がある。だが、これらの議論はいずれも雅子妃が類い希な優秀で能力の高い人物であるということが前提になっていることで共通している。

 だが、このホームページでも書いたように「典型的な帰国子女が旧家に嫁入りしてうまくいくことははじめから難しかったのであって、その後の展開についてはどちらが悪いともいえない」というのが正しいと思うし、この分析はそれなりに多くの方からもっともだと支持頂いている。

 だが、ここではそれはともかくとして、霞ヶ関にいた人間としての眼でもう少し詳しく雅子妃論を書いておきたい。

 といっても、生々しい具体的な証言や私自身が見聞きしたことを使って面白おかしく書くつもりはない。それは少々失礼だとも思うし、うわさ話について細かく裏を取る自信もない。むしろ、雅子妃の経歴や御家族の状況から客観的にみて論ずれば、それだけでも世の中で流布している雅子妃像がいかにいい加減かわかるのだ。

 そもそも履歴書はたいへん雄弁なものである。それなりの知識をもって読んでいけば、その人がどういう人かが、かなりくっきり明らかになる。ヨーロッパなどには「フーズ・フー」のような詳細な経歴を書いた公刊物があるし、就職するにも履歴書がたいへん重要な意味を持つのだが、日本人はこうしたものを分析するのがあまり得意でないようだ。


キャリアウーマンとしての虚像

 雅子妃について多くの日本人が持っているイメージは、「東大という日本一難しい大学の試験を通って、さらにこれも最難関の外交官試験にも合格し、キャリアウーマンとしてばりばり仕事をされていたスーパーウーマン」ということであろう。

 だがこれは少々眉唾である。まず、雅子妃は東大に学士入学で編入されているのであって、世間の人が思い浮かべる「東大入試」に合格されたのではない。

 次に、外交官試験はほかの省庁の試験と違って外務省独自の試験であったから、客観性にいささか乏しい。ほかの省庁の事務次官の子女の場合でも、事務次官ないしその候補者の子供が受験した場合にそれを落とす勇気のある人事担当者はほとんどないと思うが、少なくとも人事院が主催する公務員試験を通らないと各省庁の試験を受けられない。だが、外交官の場合はそうでない。もちろんそれなりに客観性はあるというだろうが、合格者に外交官の子供が異常に多いことはよく知られている通りであり、事務次官一歩手前だった小和田恒氏の娘がこれに合格したのが実力だけによるものであったかは立証しようもない。

 採用後については、皇太子妃候補だったという以上に、事務次官の娘として腫れ物にさわるような扱いをされていたという面もあり、少なくとも「世間の荒波に揉まれながらばりばり仕事をこなして大活躍した」といったものではない。また、英国留学とか国際機関二課、北米二課勤務というのは誰しもがうらやむ最大限に優遇された居心地のよい人事である。社長の娘が一般職で採用されてぴかぴかに美味しいポストばかりで働いているのと同じで、いささか特殊な環境である。

 雅子妃の田園調布雙葉とか、海外の学校での勉学は、外務省に限らず霞ヶ関のスノッブなエリート官僚の娘としてありふれたものである。また、雅子妃の世代なら多くのエリート官僚の娘がキャリアウーマンとしてばりばり活躍しているのであって、これも珍しくない。

 特殊なのは、父親が現役幹部である職場に就職したことである。外務省では雅子妃に先立って別の幹部の娘が就職しているから雅子妃は第二号のはずだが、いずれにしても雅子妃は父親が事務次官である役所で働く女性という霞ヶ関の歴史で初めての存在だったはずだ。


暖かい家族関係と公私混同の間にあるもの

 民間企業でも、サラリーマン社長が自分の子供を自社に就職させるのはあまり誉められないことが多い。それ以上に社員の子弟の採用をしないところもある。なぜなら、公私混同につながりやすいからだ。また、父親の会社に就職しようという女性も、自立心を持った強い性格でなく、利用できるものは利用しようといった、ちゃっかりしたタイプか、それとも親に保護して欲しいというやや甘えた性格と見るのが普通だろう。

 こうしたことを考えれば、小和田家は親子の関係が非常にウェットで、よくいえば暖かいつながりがあるお家だと推測されるし、逆に公私混同の疑いを持たれることに対してさほど神経質でないこと、雅子妃自身も独立心旺盛な人柄とはいえないことを伺わせる。

 全般的にいって、雅子妃はエリート官僚のごく普通の娘であり、特別に有能なわけでも強い性格でもなく、経済的には超リッチでないが不自由のない暮らしをされ、父親が有力者であることに甘えることにさほど躊躇してこられなかったのである。こうした客観事実から組み立てた分析は世間一般で持たれている新しい時代を象徴する自立した女性というイメージとはあまりにも違うものであろう。

 そして、このギャップこそが雅子妃の悲劇の原因なのである。

暖かい家族関係と公私混同の間にあるもの

 皇室問題を論じるとき、妃殿下たちを何か特別の人柄なり育ち方をされた人たちだという前提の議論が多すぎる。たしかに皇室に生まれたプリンセスたちは、特別の育てられ方をされたがゆえに独特で貴重なキャラクターが醸成されている。

 だが嫁いで妃殿下になられた方々は、それぞれの年代のごく普通の女性たちである。それを踏まえないで、過度に厳しい要求をしたり、反対になんでもないお仕事ぶりや家族との接触でしかないものをたねに、特別に立派な人格者だと感心してみたり、トラブルがあれば周囲の人たちがきっと悪いのだろう、というのもまったく間違った議論なのである。

 それでは、雅子さまはどうすればいいのか。あるいは国民としてどうしてあげればいいのだろうか。このことについては、先週も少し書いたところだ。また、「アエラ」のいま店頭に出ている号に私のコメントが載っているが、少し舌足らずでもあるので、補足しておく。  「アエラ」には、

1. 公務を軽く、あるいはお好みのもの中心にして差し上げる
2. 妃殿下を辞めて単なる皇太子夫人にする
3. 皇太子が皇位継承をしないことによって妃殿下の負担も軽くする
4. 離婚、といった「四つの選択肢」が論理的にある


と書いている。これは、あくまでも論理的にあるということであって、現実的にあるかどうかは別問題である。

 私は、制度論としては「2」が好ましいと思う。もはや、たまたま皇族と結婚したからと妃殿下に就職するというのはうまくいくはずがないからである。そういうのは、皇族が妃殿下としてふさわしい女性を選んで、自分の好みと関係なく結婚するのでなくてはなりたちえない。だが、この案を実現するには制度改正が必要である。

 「3」と「4」は、そういう可能性も選択肢として存在すべきだし、道を閉ざすべきでないが最後の手段である。

 となると、とりあえずは「1」しかないわけだが、これがすんなり受け入れらそうもないのは、その周辺に「国民に申し訳ない」という姿勢がないからである。ご本人の海外出張が少なすぎるという「不満」らしきご発言、殿下の「人格否定発言」、医師団の「皇室という環境」診断書、ご実家の動きなど、およそ謙虚なものではない。愛子さまの皇位継承を確実にしようという策謀も、誰が言い出したかはともかくいかにも間が悪い。

 まずは、ご実家なども含めて公務を十分に果たせないことについて、申し訳ないという姿勢の明確化、そして申し訳ないが治療上こうせざるを得ないのだ、という説明などがあればいま身勝手だといわれているようなことについての、世間の受け取り方も変わるのではないか。

 ともかく、これは重大な病気の治療の問題である。医学的観点からの最善を尽くすことが何より必要だ。

 ただし、たとえば、海外への転地療法とか、皇居での乗馬とか、たいへんな警備を伴う形でのレジャーといったものが、たとえ病気の回復のために有効だといっても皇室のあり方として適切かは難しいところだろう。それは、皇室がどの程度、税金でコストがかかる贅沢な生活をしてよいかの一般論からの議論としての問題である。
 また、そうした治療をしてもなお、将来ともに公務が十分にできないということになれば、やはり制度的な問題も含めて議論が必要なのだろう。
http://www.yawata48.com/jiji/jiji02701.htm
http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/265.html#c98

[近代史3] 皇太子妃の雅子さんは典型的なダメダメ家庭出身者  中川隆
50. 中川隆[-10399] koaQ7Jey 2019年5月18日 07:50:37 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[1919]

八幡和郎の時事解説
皇太子妃雅子さまにおける悲劇の本質と打開策
http://www.yawata48.com/jiji/jiji02701.htm



うわさ話でなく履歴だけでも分かること

 秋篠宮妃殿下のご懐妊と関連して、また雅子妃殿下についてあれやこれや議論されている。保守的な人々からの批判もあるが、妃殿下に近い人々あるいは擁護派からの積極的な発言や情報発信も盛んであり、これが状況を混迷させている面もある。

 いずれにしても皇太子妃殿下をめぐっては、いじめられて可哀想という同情論があり、一方で無責任だという批判がある。だが、これらの議論はいずれも雅子妃が類い希な優秀で能力の高い人物であるということが前提になっていることで共通している。

 だが、このホームページでも書いたように「典型的な帰国子女が旧家に嫁入りしてうまくいくことははじめから難しかったのであって、その後の展開についてはどちらが悪いともいえない」というのが正しいと思うし、この分析はそれなりに多くの方からもっともだと支持頂いている。

 だが、ここではそれはともかくとして、霞ヶ関にいた人間としての眼でもう少し詳しく雅子妃論を書いておきたい。

 といっても、生々しい具体的な証言や私自身が見聞きしたことを使って面白おかしく書くつもりはない。それは少々失礼だとも思うし、うわさ話について細かく裏を取る自信もない。むしろ、雅子妃の経歴や御家族の状況から客観的にみて論ずれば、それだけでも世の中で流布している雅子妃像がいかにいい加減かわかるのだ。

 そもそも履歴書はたいへん雄弁なものである。それなりの知識をもって読んでいけば、その人がどういう人かが、かなりくっきり明らかになる。ヨーロッパなどには「フーズ・フー」のような詳細な経歴を書いた公刊物があるし、就職するにも履歴書がたいへん重要な意味を持つのだが、日本人はこうしたものを分析するのがあまり得意でないようだ。


キャリアウーマンとしての虚像

 雅子妃について多くの日本人が持っているイメージは、「東大という日本一難しい大学の試験を通って、さらにこれも最難関の外交官試験にも合格し、キャリアウーマンとしてばりばり仕事をされていたスーパーウーマン」ということであろう。

 だがこれは少々眉唾である。まず、雅子妃は東大に学士入学で編入されているのであって、世間の人が思い浮かべる「東大入試」に合格されたのではない。

 次に、外交官試験はほかの省庁の試験と違って外務省独自の試験であったから、客観性にいささか乏しい。ほかの省庁の事務次官の子女の場合でも、事務次官ないしその候補者の子供が受験した場合にそれを落とす勇気のある人事担当者はほとんどないと思うが、少なくとも人事院が主催する公務員試験を通らないと各省庁の試験を受けられない。だが、外交官の場合はそうでない。もちろんそれなりに客観性はあるというだろうが、合格者に外交官の子供が異常に多いことはよく知られている通りであり、事務次官一歩手前だった小和田恒氏の娘がこれに合格したのが実力だけによるものであったかは立証しようもない。

 採用後については、皇太子妃候補だったという以上に、事務次官の娘として腫れ物にさわるような扱いをされていたという面もあり、少なくとも「世間の荒波に揉まれながらばりばり仕事をこなして大活躍した」といったものではない。また、英国留学とか国際機関二課、北米二課勤務というのは誰しもがうらやむ最大限に優遇された居心地のよい人事である。社長の娘が一般職で採用されてぴかぴかに美味しいポストばかりで働いているのと同じで、いささか特殊な環境である。

 雅子妃の田園調布雙葉とか、海外の学校での勉学は、外務省に限らず霞ヶ関のスノッブなエリート官僚の娘としてありふれたものである。また、雅子妃の世代なら多くのエリート官僚の娘がキャリアウーマンとしてばりばり活躍しているのであって、これも珍しくない。

 特殊なのは、父親が現役幹部である職場に就職したことである。外務省では雅子妃に先立って別の幹部の娘が就職しているから雅子妃は第二号のはずだが、いずれにしても雅子妃は父親が事務次官である役所で働く女性という霞ヶ関の歴史で初めての存在だったはずだ。


暖かい家族関係と公私混同の間にあるもの

 民間企業でも、サラリーマン社長が自分の子供を自社に就職させるのはあまり誉められないことが多い。それ以上に社員の子弟の採用をしないところもある。なぜなら、公私混同につながりやすいからだ。また、父親の会社に就職しようという女性も、自立心を持った強い性格でなく、利用できるものは利用しようといった、ちゃっかりしたタイプか、それとも親に保護して欲しいというやや甘えた性格と見るのが普通だろう。

 こうしたことを考えれば、小和田家は親子の関係が非常にウェットで、よくいえば暖かいつながりがあるお家だと推測されるし、逆に公私混同の疑いを持たれることに対してさほど神経質でないこと、雅子妃自身も独立心旺盛な人柄とはいえないことを伺わせる。

 全般的にいって、雅子妃はエリート官僚のごく普通の娘であり、特別に有能なわけでも強い性格でもなく、経済的には超リッチでないが不自由のない暮らしをされ、父親が有力者であることに甘えることにさほど躊躇してこられなかったのである。こうした客観事実から組み立てた分析は世間一般で持たれている新しい時代を象徴する自立した女性というイメージとはあまりにも違うものであろう。

 そして、このギャップこそが雅子妃の悲劇の原因なのである。

暖かい家族関係と公私混同の間にあるもの

 皇室問題を論じるとき、妃殿下たちを何か特別の人柄なり育ち方をされた人たちだという前提の議論が多すぎる。たしかに皇室に生まれたプリンセスたちは、特別の育てられ方をされたがゆえに独特で貴重なキャラクターが醸成されている。

 だが嫁いで妃殿下になられた方々は、それぞれの年代のごく普通の女性たちである。それを踏まえないで、過度に厳しい要求をしたり、反対になんでもないお仕事ぶりや家族との接触でしかないものをたねに、特別に立派な人格者だと感心してみたり、トラブルがあれば周囲の人たちがきっと悪いのだろう、というのもまったく間違った議論なのである。

 それでは、雅子さまはどうすればいいのか。あるいは国民としてどうしてあげればいいのだろうか。このことについては、先週も少し書いたところだ。また、「アエラ」のいま店頭に出ている号に私のコメントが載っているが、少し舌足らずでもあるので、補足しておく。  「アエラ」には、

1. 公務を軽く、あるいはお好みのもの中心にして差し上げる
2. 妃殿下を辞めて単なる皇太子夫人にする
3. 皇太子が皇位継承をしないことによって妃殿下の負担も軽くする
4. 離婚、といった「四つの選択肢」が論理的にある


と書いている。これは、あくまでも論理的にあるということであって、現実的にあるかどうかは別問題である。

 私は、制度論としては「2」が好ましいと思う。もはや、たまたま皇族と結婚したからと妃殿下に就職するというのはうまくいくはずがないからである。そういうのは、皇族が妃殿下としてふさわしい女性を選んで、自分の好みと関係なく結婚するのでなくてはなりたちえない。だが、この案を実現するには制度改正が必要である。

 「3」と「4」は、そういう可能性も選択肢として存在すべきだし、道を閉ざすべきでないが最後の手段である。

 となると、とりあえずは「1」しかないわけだが、これがすんなり受け入れらそうもないのは、その周辺に「国民に申し訳ない」という姿勢がないからである。ご本人の海外出張が少なすぎるという「不満」らしきご発言、殿下の「人格否定発言」、医師団の「皇室という環境」診断書、ご実家の動きなど、およそ謙虚なものではない。愛子さまの皇位継承を確実にしようという策謀も、誰が言い出したかはともかくいかにも間が悪い。

 まずは、ご実家なども含めて公務を十分に果たせないことについて、申し訳ないという姿勢の明確化、そして申し訳ないが治療上こうせざるを得ないのだ、という説明などがあればいま身勝手だといわれているようなことについての、世間の受け取り方も変わるのではないか。

 ともかく、これは重大な病気の治療の問題である。医学的観点からの最善を尽くすことが何より必要だ。

 ただし、たとえば、海外への転地療法とか、皇居での乗馬とか、たいへんな警備を伴う形でのレジャーといったものが、たとえ病気の回復のために有効だといっても皇室のあり方として適切かは難しいところだろう。それは、皇室がどの程度、税金でコストがかかる贅沢な生活をしてよいかの一般論からの議論としての問題である。

 また、そうした治療をしてもなお、将来ともに公務が十分にできないということになれば、やはり制度的な問題も含めて議論が必要なのだろう。
http://www.yawata48.com/jiji/jiji02701.htm
http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/179.html#c50

[近代史3] 柏原芳恵のバイブレーター騒動 _ 宮内庁が皇太子妃候補 No.1 を引き摺り降ろした手口 中川隆
59. 中川隆[-10398] koaQ7Jey 2019年5月18日 07:51:13 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[1920]

八幡和郎の時事解説
皇太子妃雅子さまにおける悲劇の本質と打開策
http://www.yawata48.com/jiji/jiji02701.htm



うわさ話でなく履歴だけでも分かること

 秋篠宮妃殿下のご懐妊と関連して、また雅子妃殿下についてあれやこれや議論されている。保守的な人々からの批判もあるが、妃殿下に近い人々あるいは擁護派からの積極的な発言や情報発信も盛んであり、これが状況を混迷させている面もある。

 いずれにしても皇太子妃殿下をめぐっては、いじめられて可哀想という同情論があり、一方で無責任だという批判がある。だが、これらの議論はいずれも雅子妃が類い希な優秀で能力の高い人物であるということが前提になっていることで共通している。

 だが、このホームページでも書いたように「典型的な帰国子女が旧家に嫁入りしてうまくいくことははじめから難しかったのであって、その後の展開についてはどちらが悪いともいえない」というのが正しいと思うし、この分析はそれなりに多くの方からもっともだと支持頂いている。

 だが、ここではそれはともかくとして、霞ヶ関にいた人間としての眼でもう少し詳しく雅子妃論を書いておきたい。

 といっても、生々しい具体的な証言や私自身が見聞きしたことを使って面白おかしく書くつもりはない。それは少々失礼だとも思うし、うわさ話について細かく裏を取る自信もない。むしろ、雅子妃の経歴や御家族の状況から客観的にみて論ずれば、それだけでも世の中で流布している雅子妃像がいかにいい加減かわかるのだ。

 そもそも履歴書はたいへん雄弁なものである。それなりの知識をもって読んでいけば、その人がどういう人かが、かなりくっきり明らかになる。ヨーロッパなどには「フーズ・フー」のような詳細な経歴を書いた公刊物があるし、就職するにも履歴書がたいへん重要な意味を持つのだが、日本人はこうしたものを分析するのがあまり得意でないようだ。


キャリアウーマンとしての虚像

 雅子妃について多くの日本人が持っているイメージは、「東大という日本一難しい大学の試験を通って、さらにこれも最難関の外交官試験にも合格し、キャリアウーマンとしてばりばり仕事をされていたスーパーウーマン」ということであろう。

 だがこれは少々眉唾である。まず、雅子妃は東大に学士入学で編入されているのであって、世間の人が思い浮かべる「東大入試」に合格されたのではない。

 次に、外交官試験はほかの省庁の試験と違って外務省独自の試験であったから、客観性にいささか乏しい。ほかの省庁の事務次官の子女の場合でも、事務次官ないしその候補者の子供が受験した場合にそれを落とす勇気のある人事担当者はほとんどないと思うが、少なくとも人事院が主催する公務員試験を通らないと各省庁の試験を受けられない。だが、外交官の場合はそうでない。もちろんそれなりに客観性はあるというだろうが、合格者に外交官の子供が異常に多いことはよく知られている通りであり、事務次官一歩手前だった小和田恒氏の娘がこれに合格したのが実力だけによるものであったかは立証しようもない。

 採用後については、皇太子妃候補だったという以上に、事務次官の娘として腫れ物にさわるような扱いをされていたという面もあり、少なくとも「世間の荒波に揉まれながらばりばり仕事をこなして大活躍した」といったものではない。また、英国留学とか国際機関二課、北米二課勤務というのは誰しもがうらやむ最大限に優遇された居心地のよい人事である。社長の娘が一般職で採用されてぴかぴかに美味しいポストばかりで働いているのと同じで、いささか特殊な環境である。

 雅子妃の田園調布雙葉とか、海外の学校での勉学は、外務省に限らず霞ヶ関のスノッブなエリート官僚の娘としてありふれたものである。また、雅子妃の世代なら多くのエリート官僚の娘がキャリアウーマンとしてばりばり活躍しているのであって、これも珍しくない。

 特殊なのは、父親が現役幹部である職場に就職したことである。外務省では雅子妃に先立って別の幹部の娘が就職しているから雅子妃は第二号のはずだが、いずれにしても雅子妃は父親が事務次官である役所で働く女性という霞ヶ関の歴史で初めての存在だったはずだ。


暖かい家族関係と公私混同の間にあるもの

 民間企業でも、サラリーマン社長が自分の子供を自社に就職させるのはあまり誉められないことが多い。それ以上に社員の子弟の採用をしないところもある。なぜなら、公私混同につながりやすいからだ。また、父親の会社に就職しようという女性も、自立心を持った強い性格でなく、利用できるものは利用しようといった、ちゃっかりしたタイプか、それとも親に保護して欲しいというやや甘えた性格と見るのが普通だろう。

 こうしたことを考えれば、小和田家は親子の関係が非常にウェットで、よくいえば暖かいつながりがあるお家だと推測されるし、逆に公私混同の疑いを持たれることに対してさほど神経質でないこと、雅子妃自身も独立心旺盛な人柄とはいえないことを伺わせる。

 全般的にいって、雅子妃はエリート官僚のごく普通の娘であり、特別に有能なわけでも強い性格でもなく、経済的には超リッチでないが不自由のない暮らしをされ、父親が有力者であることに甘えることにさほど躊躇してこられなかったのである。こうした客観事実から組み立てた分析は世間一般で持たれている新しい時代を象徴する自立した女性というイメージとはあまりにも違うものであろう。

 そして、このギャップこそが雅子妃の悲劇の原因なのである。

暖かい家族関係と公私混同の間にあるもの

 皇室問題を論じるとき、妃殿下たちを何か特別の人柄なり育ち方をされた人たちだという前提の議論が多すぎる。たしかに皇室に生まれたプリンセスたちは、特別の育てられ方をされたがゆえに独特で貴重なキャラクターが醸成されている。

 だが嫁いで妃殿下になられた方々は、それぞれの年代のごく普通の女性たちである。それを踏まえないで、過度に厳しい要求をしたり、反対になんでもないお仕事ぶりや家族との接触でしかないものをたねに、特別に立派な人格者だと感心してみたり、トラブルがあれば周囲の人たちがきっと悪いのだろう、というのもまったく間違った議論なのである。

 それでは、雅子さまはどうすればいいのか。あるいは国民としてどうしてあげればいいのだろうか。このことについては、先週も少し書いたところだ。また、「アエラ」のいま店頭に出ている号に私のコメントが載っているが、少し舌足らずでもあるので、補足しておく。  「アエラ」には、

1. 公務を軽く、あるいはお好みのもの中心にして差し上げる
2. 妃殿下を辞めて単なる皇太子夫人にする
3. 皇太子が皇位継承をしないことによって妃殿下の負担も軽くする
4. 離婚、といった「四つの選択肢」が論理的にある


と書いている。これは、あくまでも論理的にあるということであって、現実的にあるかどうかは別問題である。

 私は、制度論としては「2」が好ましいと思う。もはや、たまたま皇族と結婚したからと妃殿下に就職するというのはうまくいくはずがないからである。そういうのは、皇族が妃殿下としてふさわしい女性を選んで、自分の好みと関係なく結婚するのでなくてはなりたちえない。だが、この案を実現するには制度改正が必要である。

 「3」と「4」は、そういう可能性も選択肢として存在すべきだし、道を閉ざすべきでないが最後の手段である。

 となると、とりあえずは「1」しかないわけだが、これがすんなり受け入れらそうもないのは、その周辺に「国民に申し訳ない」という姿勢がないからである。ご本人の海外出張が少なすぎるという「不満」らしきご発言、殿下の「人格否定発言」、医師団の「皇室という環境」診断書、ご実家の動きなど、およそ謙虚なものではない。愛子さまの皇位継承を確実にしようという策謀も、誰が言い出したかはともかくいかにも間が悪い。

 まずは、ご実家なども含めて公務を十分に果たせないことについて、申し訳ないという姿勢の明確化、そして申し訳ないが治療上こうせざるを得ないのだ、という説明などがあればいま身勝手だといわれているようなことについての、世間の受け取り方も変わるのではないか。

 ともかく、これは重大な病気の治療の問題である。医学的観点からの最善を尽くすことが何より必要だ。

 ただし、たとえば、海外への転地療法とか、皇居での乗馬とか、たいへんな警備を伴う形でのレジャーといったものが、たとえ病気の回復のために有効だといっても皇室のあり方として適切かは難しいところだろう。それは、皇室がどの程度、税金でコストがかかる贅沢な生活をしてよいかの一般論からの議論としての問題である。

 また、そうした治療をしてもなお、将来ともに公務が十分にできないということになれば、やはり制度的な問題も含めて議論が必要なのだろう。
http://www.yawata48.com/jiji/jiji02701.htm
http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/117.html#c59

[社会問題9] 語られ始めた皇太子「退位論」は説得力があるか・・が、語られるだけでも適応失調の天皇家! 墨染
232. 中川隆[-10397] koaQ7Jey 2019年5月18日 07:52:00 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[1921]

八幡和郎の時事解説
皇太子妃雅子さまにおける悲劇の本質と打開策
http://www.yawata48.com/jiji/jiji02701.htm



うわさ話でなく履歴だけでも分かること

 秋篠宮妃殿下のご懐妊と関連して、また雅子妃殿下についてあれやこれや議論されている。保守的な人々からの批判もあるが、妃殿下に近い人々あるいは擁護派からの積極的な発言や情報発信も盛んであり、これが状況を混迷させている面もある。

 いずれにしても皇太子妃殿下をめぐっては、いじめられて可哀想という同情論があり、一方で無責任だという批判がある。だが、これらの議論はいずれも雅子妃が類い希な優秀で能力の高い人物であるということが前提になっていることで共通している。

 だが、このホームページでも書いたように「典型的な帰国子女が旧家に嫁入りしてうまくいくことははじめから難しかったのであって、その後の展開についてはどちらが悪いともいえない」というのが正しいと思うし、この分析はそれなりに多くの方からもっともだと支持頂いている。

 だが、ここではそれはともかくとして、霞ヶ関にいた人間としての眼でもう少し詳しく雅子妃論を書いておきたい。

 といっても、生々しい具体的な証言や私自身が見聞きしたことを使って面白おかしく書くつもりはない。それは少々失礼だとも思うし、うわさ話について細かく裏を取る自信もない。むしろ、雅子妃の経歴や御家族の状況から客観的にみて論ずれば、それだけでも世の中で流布している雅子妃像がいかにいい加減かわかるのだ。

 そもそも履歴書はたいへん雄弁なものである。それなりの知識をもって読んでいけば、その人がどういう人かが、かなりくっきり明らかになる。ヨーロッパなどには「フーズ・フー」のような詳細な経歴を書いた公刊物があるし、就職するにも履歴書がたいへん重要な意味を持つのだが、日本人はこうしたものを分析するのがあまり得意でないようだ。


キャリアウーマンとしての虚像

 雅子妃について多くの日本人が持っているイメージは、「東大という日本一難しい大学の試験を通って、さらにこれも最難関の外交官試験にも合格し、キャリアウーマンとしてばりばり仕事をされていたスーパーウーマン」ということであろう。

 だがこれは少々眉唾である。まず、雅子妃は東大に学士入学で編入されているのであって、世間の人が思い浮かべる「東大入試」に合格されたのではない。

 次に、外交官試験はほかの省庁の試験と違って外務省独自の試験であったから、客観性にいささか乏しい。ほかの省庁の事務次官の子女の場合でも、事務次官ないしその候補者の子供が受験した場合にそれを落とす勇気のある人事担当者はほとんどないと思うが、少なくとも人事院が主催する公務員試験を通らないと各省庁の試験を受けられない。だが、外交官の場合はそうでない。もちろんそれなりに客観性はあるというだろうが、合格者に外交官の子供が異常に多いことはよく知られている通りであり、事務次官一歩手前だった小和田恒氏の娘がこれに合格したのが実力だけによるものであったかは立証しようもない。

 採用後については、皇太子妃候補だったという以上に、事務次官の娘として腫れ物にさわるような扱いをされていたという面もあり、少なくとも「世間の荒波に揉まれながらばりばり仕事をこなして大活躍した」といったものではない。また、英国留学とか国際機関二課、北米二課勤務というのは誰しもがうらやむ最大限に優遇された居心地のよい人事である。社長の娘が一般職で採用されてぴかぴかに美味しいポストばかりで働いているのと同じで、いささか特殊な環境である。

 雅子妃の田園調布雙葉とか、海外の学校での勉学は、外務省に限らず霞ヶ関のスノッブなエリート官僚の娘としてありふれたものである。また、雅子妃の世代なら多くのエリート官僚の娘がキャリアウーマンとしてばりばり活躍しているのであって、これも珍しくない。

 特殊なのは、父親が現役幹部である職場に就職したことである。外務省では雅子妃に先立って別の幹部の娘が就職しているから雅子妃は第二号のはずだが、いずれにしても雅子妃は父親が事務次官である役所で働く女性という霞ヶ関の歴史で初めての存在だったはずだ。


暖かい家族関係と公私混同の間にあるもの

 民間企業でも、サラリーマン社長が自分の子供を自社に就職させるのはあまり誉められないことが多い。それ以上に社員の子弟の採用をしないところもある。なぜなら、公私混同につながりやすいからだ。また、父親の会社に就職しようという女性も、自立心を持った強い性格でなく、利用できるものは利用しようといった、ちゃっかりしたタイプか、それとも親に保護して欲しいというやや甘えた性格と見るのが普通だろう。

 こうしたことを考えれば、小和田家は親子の関係が非常にウェットで、よくいえば暖かいつながりがあるお家だと推測されるし、逆に公私混同の疑いを持たれることに対してさほど神経質でないこと、雅子妃自身も独立心旺盛な人柄とはいえないことを伺わせる。

 全般的にいって、雅子妃はエリート官僚のごく普通の娘であり、特別に有能なわけでも強い性格でもなく、経済的には超リッチでないが不自由のない暮らしをされ、父親が有力者であることに甘えることにさほど躊躇してこられなかったのである。こうした客観事実から組み立てた分析は世間一般で持たれている新しい時代を象徴する自立した女性というイメージとはあまりにも違うものであろう。

 そして、このギャップこそが雅子妃の悲劇の原因なのである。

暖かい家族関係と公私混同の間にあるもの

 皇室問題を論じるとき、妃殿下たちを何か特別の人柄なり育ち方をされた人たちだという前提の議論が多すぎる。たしかに皇室に生まれたプリンセスたちは、特別の育てられ方をされたがゆえに独特で貴重なキャラクターが醸成されている。

 だが嫁いで妃殿下になられた方々は、それぞれの年代のごく普通の女性たちである。それを踏まえないで、過度に厳しい要求をしたり、反対になんでもないお仕事ぶりや家族との接触でしかないものをたねに、特別に立派な人格者だと感心してみたり、トラブルがあれば周囲の人たちがきっと悪いのだろう、というのもまったく間違った議論なのである。

 それでは、雅子さまはどうすればいいのか。あるいは国民としてどうしてあげればいいのだろうか。このことについては、先週も少し書いたところだ。また、「アエラ」のいま店頭に出ている号に私のコメントが載っているが、少し舌足らずでもあるので、補足しておく。  「アエラ」には、

1. 公務を軽く、あるいはお好みのもの中心にして差し上げる
2. 妃殿下を辞めて単なる皇太子夫人にする
3. 皇太子が皇位継承をしないことによって妃殿下の負担も軽くする
4. 離婚、といった「四つの選択肢」が論理的にある


と書いている。これは、あくまでも論理的にあるということであって、現実的にあるかどうかは別問題である。

 私は、制度論としては「2」が好ましいと思う。もはや、たまたま皇族と結婚したからと妃殿下に就職するというのはうまくいくはずがないからである。そういうのは、皇族が妃殿下としてふさわしい女性を選んで、自分の好みと関係なく結婚するのでなくてはなりたちえない。だが、この案を実現するには制度改正が必要である。

 「3」と「4」は、そういう可能性も選択肢として存在すべきだし、道を閉ざすべきでないが最後の手段である。

 となると、とりあえずは「1」しかないわけだが、これがすんなり受け入れらそうもないのは、その周辺に「国民に申し訳ない」という姿勢がないからである。ご本人の海外出張が少なすぎるという「不満」らしきご発言、殿下の「人格否定発言」、医師団の「皇室という環境」診断書、ご実家の動きなど、およそ謙虚なものではない。愛子さまの皇位継承を確実にしようという策謀も、誰が言い出したかはともかくいかにも間が悪い。

 まずは、ご実家なども含めて公務を十分に果たせないことについて、申し訳ないという姿勢の明確化、そして申し訳ないが治療上こうせざるを得ないのだ、という説明などがあればいま身勝手だといわれているようなことについての、世間の受け取り方も変わるのではないか。

 ともかく、これは重大な病気の治療の問題である。医学的観点からの最善を尽くすことが何より必要だ。

 ただし、たとえば、海外への転地療法とか、皇居での乗馬とか、たいへんな警備を伴う形でのレジャーといったものが、たとえ病気の回復のために有効だといっても皇室のあり方として適切かは難しいところだろう。それは、皇室がどの程度、税金でコストがかかる贅沢な生活をしてよいかの一般論からの議論としての問題である。

 また、そうした治療をしてもなお、将来ともに公務が十分にできないということになれば、やはり制度的な問題も含めて議論が必要なのだろう。
http://www.yawata48.com/jiji/jiji02701.htm
http://www.asyura2.com/12/social9/msg/352.html#c232

[近代史3] 内閣官房参与をクビにされた藤井聡先生、遂に本音を語る 中川隆
19. 中川隆[-10396] koaQ7Jey 2019年5月18日 07:59:19 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[1922]

「日本の未来を考える勉強会」ーMMTの真実〜日本経済と現代貨幣理論〜
ー令和元年5月15日 講師:京都大学大学院教授 藤井 聡氏 - YouTube
https://www.youtube.com/watch?v=s2Uj-_RolsY
http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/140.html#c19
[近代史3] 中野剛志 _ アメリカで大論争の「現代貨幣理論」とは何か 中川隆
16. 中川隆[-10398] koaQ7Jey 2019年5月18日 08:20:16 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[1920]

「日本の未来を考える勉強会」ーMMTの真実〜日本経済と現代貨幣理論〜
ー令和元年5月15日 講師:京都大学大学院教授 藤井 聡氏 - YouTube
https://www.youtube.com/watch?v=s2Uj-_RolsY
http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/314.html#c16
[政治・選挙・NHK260] 検証が必要 財務省がたたく「MMT」はトンデモ理論なのか? それでもバカとは戦え(日刊ゲンダイ) 赤かぶ
2. 中川隆[-10397] koaQ7Jey 2019年5月18日 10:14:00 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[1921]
「日本の未来を考える勉強会」ーMMTの真実〜日本経済と現代貨幣理論〜
ー令和元年5月15日 講師:京都大学大学院教授 藤井 聡氏 - YouTube
https://www.youtube.com/watch?v=s2Uj-_RolsY
http://www.asyura2.com/19/senkyo260/msg/841.html#c2
[文化2] ゆとり教育を推進した三浦朱門の妻 曽野綾子がした事 _ これがクリスチャン 中川隆
189. 中川隆[-10399] koaQ7Jey 2019年5月18日 10:53:22 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[1919]

論理は跳躍する - 内田樹の研究室 2019-05-18
http://blog.tatsuru.com/2019/05/18_0922.html

少し前に「すばる」でも教育についてのインタビューを受けた。そのときに「論理国語」について話したことがテープ起こしされて戻ってきたので、加筆してここに掲げる。

 今度、兵庫県の国語の先生たちの集まりで講演をするのですが、その打ち合わせに来た先生たちに伺うと、現場の話題はやはり学習指導要領の改訂で登場した「論理国語」のようです。いったい何なの、とみなさん疑問に思っていらした。本当にわからないらしい。

 そのときに「論理国語」に準拠した模試の問題の現物を見せてもらいました。驚きました。生徒会の議事録と生徒会の規約を見せて、年度内に生徒総会を開催することは可能かどうかを問うものだったんです・・・。

 契約書や例規集を読める程度の実践的な国語力を「論理国語」という枠で育成するらしい。でも、模試問題を見る限り、これはある種の国語力を育てるというより、端的に文学を排除するのが主目的で作問されたものだと思いました。

「論理国語」を「文学国語」と切り離して教えることが可能だと考えた人たちは、文学とは非論理的なもので、何か審美的な、知的装飾品のように思っているんじゃないですか。だから、そんなもののために貴重な教育資源を割く必要はないと思っている。現にそう公言する人は政治家とビジネスマンには多くいますから。自分たちは子どもの頃から文学に何も関心がなかったけれど、そんなことは出世する上では何も問題がなかった。現に、まったく文学と無縁のままにこのように社会的成功を収めた。だから、文学は学校教育には不要である、と。たぶんそういうふうに自分の「文学抜きの成功体験」に基づいて推論しているんだと思います。政治にもビジネスにも何の役にも立たないものに教育資源を費やすのは、金をドブに捨てているようなものだ、と。そういう知性に対して虚無的な考え方をする人たちが教育政策を起案している。これは現代の反知性主義の深刻な病態だと思います。

「論理国語」という発想に対して僕が懐疑的なのは、試験問題を作る場合、「正解」がわかっていて、受験生は論理的にそれをたどってゆくと「すらすらと」結論に達するというプロセスが自明の前提されていることです。たぶん、彼らの考える「論理」というのは、そういうものなんでしょう。でも、論理的にものを考えるということを実際にした経験のある人ならわかると思うけれど、論理的に思考するというのは、平坦な道を歩くようなプロセスじゃない。むしろ、ある種の「深淵」に直面して、それを跳び越えるという「命がけ」のプロセスなんです。

 僕は子どもの頃にエドガー・アラン・ポウやアーサー・コナン・ドイルを読んで「論理的にものを考える」ということがどういうことかを学びました。「論理的にものを考える」というのはオーギュスト・デュパンやシャーロック・ホームズ「のように考える」ということだと最初に刷り込まれた。それは今でも変わりません。

 名探偵の推理こそ「論理的にものを考える」プロセスの模範だと思いますけれど、ここには「正解」を知っていて「作問」している人はいません。登場人物が現場に残された断片から推理して、その帰結として正解を「発見」するんです。名探偵の行う推理というのは、ひとつひとつの間に関連性が見出しがたい断片的事実を並べて、それらの断片のすべてを説明できる一つの仮説を構築することです。その仮説がどれほど非常識であっても、信じがたい話であっても、「すべてを説明できる仮説はこれしかない」と確信すると名探偵は「これが真実だ」と断言する。それは「論理」というよりむしろ「論理の飛躍」なんです。
 
 それは実際に学術的な知性がやっていることと同じです。

 カール・マルクスや、マックス・ウェーバーや、ジーグムント・フロイトはいずれもすばらしい知的達成をなしとげて人類の知的進歩に貢献したわけですけれど、彼らに共通するのは常人では真似のできないような「論理の飛躍」をしたことです。目の前に散乱している断片的な事実をすべて整合的に説明できる仮説は「これしかない」という推理に基づいて前代未聞のアイディアを提示してみせた。「階級闘争」も「資本主義の精神」も「強迫反復」もいずれも「論理の飛躍」の産物です。同じ断片を見せられて、誰もが同じ仮説にたどりつく訳じゃない。凡庸な知性においては、常識や思い込みが論理の飛躍を妨害するからです。
  
 例外的知者の例外的である所以はその跳躍力なんです。彼らの論理的思考というのは、いわばこの跳躍のための助走なんです。こうであるならこうなる、こうであるならこうなる・・・と論理的に思考することによって、思考の速度を上げているんです。そして、ある速度に達したところで、飛行機が離陸するように、地面を離れて跳躍する。そうやって、ただこつこつと理屈をこねている限りは絶対に到達できないような高みに飛び上がることができる。

「論理的にものを考える」というのはこの驚嘆すべきジャンプにおける「助走」に相当するものだと僕は思います。そこで加速して、踏切線で「常識の限界」を飛び越えて、日常的論理ではたどりつけないところに達する。

 でも、凡庸な知性は、論理的に突き詰めて達した予想外の帰結を前にして立ちすくんでしまう。論理的にはそう結論する他ないのに、「そんなことあり得ない」と目をつぶって踏切線の前で立ち止まってしまう。それこそが「非論理的」ということなんです。

 フロイトの『快感原則の彼岸』は20世紀で最も読まれたテクストの一つですけれど、フロイトはここで症例研究から、そのすべてを説明できる仮説として「反復強迫」さらには「死への衝動」という驚嘆すべきアイディアを取り出します。これは「跳躍」です。フロイト自身は「思弁」と呼んでいます。これは論理的にものを考えるということの本質的な力動性について書かれた重要な言葉だと思います。フロイトはこう述べています。

「次に述べることは思弁である。誰もが、それぞれの見地から価値をみとめたり、あるいは軽視したりするかもしれな行き過ぎた思弁にもなる可能性がある。つまりそれは、ある理念がどんな結論をみちびき出すかという好奇心から、その理念を首尾一貫して利用しつくそうという試みである。」(フロイト、「快感原則の彼岸」、『フロイト著作集6』、井村恒郎他訳、人文書院、1970年、163頁)
 論理的にものを考えるというのは「ある理念がどんな結論をみちびきだすか」については、それがたとえ良識や生活実感と乖離するものであっても、最後まで追い続けて、「この前提からはこう結論せざるを得ない」という命題に身体を張ることです。

 ですから、意外に思われるかも知れませんけれど、人間が論理的に思考するために必要なのは実は「勇気」なのです。

 学校教育で子どもたちの論理性を鍛えるということをもし本当にしたいなら「論理は跳躍する」ということを教えるべきだと思います。僕たちが「知性」と呼んでいるのは、知識とか情報とか技能とかいう定量的なものじゃない。むしろ、疾走感とかグルーヴ感とか跳躍力とか、そういう力動的なものなんです。

 子どもたちが中等教育で学ぶべきことは、極論すれば、たった一つでいいと思うんです。それは「人間が知性的であるということはすごく楽しい」ということです。知性的であるということは「飛ぶ」ことなんですから。子どもたちだって、ほんとうは大好きなはずなんです。
 
 今回の「論理国語」がくだらない教科であるのは、そこで知的な高揚や疾走感を味わうことがまったく求められていないことです。そして、何より子どもたちに「勇気を持て」という論理的に思考するために最も大切なメッセージを伝える気がないことです。

 そもそも過去四半世紀の間に文科省が掲げた教育政策の文言の中に「勇気」という言葉があったでしょうか。僕は読んだ記憶がない。おそらく文科省で出世するためには「勇気」を持つことが無用だからでしょう。

 官僚というのは「恐怖心を持つこと」「怯えること」「上の顔色を窺うこと」に熟達した人たちが出世する仕組みですから、彼らにとっては「勇気を持たなかったこと」が成功体験として記憶されている。だから、教育の中でも、子どもたちに「恐怖心を植え付ける」ことにはたいへん熱心であるけれど、「勇気を持たせること」にはまったく関心がない。それは彼ら自身の実体験がそう思わせているのです。「怯える人間が成功する」というのは彼ら自身の偽らざる実感なんだと思います。だから、彼らはたぶん善意なんです。善意から子どもたちに「怯えなさい」と教えている。「怯えていると『いいこと』があるよ。私にはあった」と思っているから。

 でも、知性の発達にとっては、恐怖心を持つことよりも勇気を持つことの方が圧倒的に重要です。

「勇気」というのは、知性と無縁だと思う人がいるかも知れませんけれど、それは違います。スティーヴ・ジョブスはスタンフォード大学の卒業式で、とても感動的なスピーチをしました。いまでもYoutubeで見ることができますから、ぜひご覧になってください。その中でジョブスはこう言っています。

The most important is the courage to follow your heart and intuition, because they somehow know what you truly want to become.

「最も重要なのはあなたの心と直感に従う勇気を持つことである。なぜなら、あなたの心と直感はなぜかあなたがほんとうに何になりたいのかを知っているからである。」

 ほんとうに大切なのは「心と直感」ではないんです。「心と直感に従う勇気」なんです。なぜなら、ほとんどの人は自分の心と直感が「この方向に進め」と示唆しても、恐怖心で立ち止まってしまうからです。それを乗り越えるためには「勇気」が要る。

 論理的に思考するとは、論理が要求する驚嘆すべき結論に向けて怯えずに跳躍することです。

「論理が要求する結論」のことを英語ではcorollaryと言います。日本語ではこれを一語で表す対応語がありません。僕はこの語を日本の思想家では丸山眞男の使用例しか読んだ記憶がありません。でも、これはとても重要な言葉だと思います。それがどれほど良識を逆撫でするものであっても、周囲の人の眉をひそめさせるものであっても、「これはコロラリーである」と言い切る勇気を持つこと、それが論理的に思考するということの本質だと僕は思います。
http://blog.tatsuru.com/2019/05/18_0922.html
http://www.asyura2.com/09/bun2/msg/492.html#c189

[近代史3] 中野剛志 _ アメリカで大論争の「現代貨幣理論」とは何か 中川隆
17. 中川隆[-10401] koaQ7Jey 2019年5月18日 11:05:53 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[1917]

 官僚というのは「恐怖心を持つこと」「怯えること」「上の顔色を窺うこと」に熟達した人たちが出世する仕組みですから、彼らにとっては「勇気を持たなかったこと」が成功体験として記憶されている。

 凡庸な知性は、論理的に突き詰めて達した予想外の帰結を前にして立ちすくんでしまう。論理的にはそう結論する他ないのに、「そんなことあり得ない」と目をつぶって踏切線の前で立ち止まってしまう。

_____


論理は跳躍する - 内田樹の研究室 2019-05-18
http://blog.tatsuru.com/2019/05/18_0922.html


少し前に「すばる」でも教育についてのインタビューを受けた。そのときに「論理国語」について話したことがテープ起こしされて戻ってきたので、加筆してここに掲げる。

 今度、兵庫県の国語の先生たちの集まりで講演をするのですが、その打ち合わせに来た先生たちに伺うと、現場の話題はやはり学習指導要領の改訂で登場した「論理国語」のようです。いったい何なの、とみなさん疑問に思っていらした。本当にわからないらしい。

 そのときに「論理国語」に準拠した模試の問題の現物を見せてもらいました。驚きました。生徒会の議事録と生徒会の規約を見せて、年度内に生徒総会を開催することは可能かどうかを問うものだったんです・・・。

 契約書や例規集を読める程度の実践的な国語力を「論理国語」という枠で育成するらしい。でも、模試問題を見る限り、これはある種の国語力を育てるというより、端的に文学を排除するのが主目的で作問されたものだと思いました。

「論理国語」を「文学国語」と切り離して教えることが可能だと考えた人たちは、文学とは非論理的なもので、何か審美的な、知的装飾品のように思っているんじゃないですか。だから、そんなもののために貴重な教育資源を割く必要はないと思っている。現にそう公言する人は政治家とビジネスマンには多くいますから。自分たちは子どもの頃から文学に何も関心がなかったけれど、そんなことは出世する上では何も問題がなかった。現に、まったく文学と無縁のままにこのように社会的成功を収めた。だから、文学は学校教育には不要である、と。たぶんそういうふうに自分の「文学抜きの成功体験」に基づいて推論しているんだと思います。政治にもビジネスにも何の役にも立たないものに教育資源を費やすのは、金をドブに捨てているようなものだ、と。そういう知性に対して虚無的な考え方をする人たちが教育政策を起案している。これは現代の反知性主義の深刻な病態だと思います。

「論理国語」という発想に対して僕が懐疑的なのは、試験問題を作る場合、「正解」がわかっていて、受験生は論理的にそれをたどってゆくと「すらすらと」結論に達するというプロセスが自明の前提されていることです。たぶん、彼らの考える「論理」というのは、そういうものなんでしょう。でも、論理的にものを考えるということを実際にした経験のある人ならわかると思うけれど、論理的に思考するというのは、平坦な道を歩くようなプロセスじゃない。むしろ、ある種の「深淵」に直面して、それを跳び越えるという「命がけ」のプロセスなんです。

 僕は子どもの頃にエドガー・アラン・ポウやアーサー・コナン・ドイルを読んで「論理的にものを考える」ということがどういうことかを学びました。「論理的にものを考える」というのはオーギュスト・デュパンやシャーロック・ホームズ「のように考える」ということだと最初に刷り込まれた。それは今でも変わりません。

 名探偵の推理こそ「論理的にものを考える」プロセスの模範だと思いますけれど、ここには「正解」を知っていて「作問」している人はいません。登場人物が現場に残された断片から推理して、その帰結として正解を「発見」するんです。名探偵の行う推理というのは、ひとつひとつの間に関連性が見出しがたい断片的事実を並べて、それらの断片のすべてを説明できる一つの仮説を構築することです。その仮説がどれほど非常識であっても、信じがたい話であっても、「すべてを説明できる仮説はこれしかない」と確信すると名探偵は「これが真実だ」と断言する。それは「論理」というよりむしろ「論理の飛躍」なんです。
 
 それは実際に学術的な知性がやっていることと同じです。

 カール・マルクスや、マックス・ウェーバーや、ジーグムント・フロイトはいずれもすばらしい知的達成をなしとげて人類の知的進歩に貢献したわけですけれど、彼らに共通するのは常人では真似のできないような「論理の飛躍」をしたことです。目の前に散乱している断片的な事実をすべて整合的に説明できる仮説は「これしかない」という推理に基づいて前代未聞のアイディアを提示してみせた。「階級闘争」も「資本主義の精神」も「強迫反復」もいずれも「論理の飛躍」の産物です。同じ断片を見せられて、誰もが同じ仮説にたどりつく訳じゃない。凡庸な知性においては、常識や思い込みが論理の飛躍を妨害するからです。
  
 例外的知者の例外的である所以はその跳躍力なんです。彼らの論理的思考というのは、いわばこの跳躍のための助走なんです。こうであるならこうなる、こうであるならこうなる・・・と論理的に思考することによって、思考の速度を上げているんです。そして、ある速度に達したところで、飛行機が離陸するように、地面を離れて跳躍する。そうやって、ただこつこつと理屈をこねている限りは絶対に到達できないような高みに飛び上がることができる。

「論理的にものを考える」というのはこの驚嘆すべきジャンプにおける「助走」に相当するものだと僕は思います。そこで加速して、踏切線で「常識の限界」を飛び越えて、日常的論理ではたどりつけないところに達する。

 でも、凡庸な知性は、論理的に突き詰めて達した予想外の帰結を前にして立ちすくんでしまう。論理的にはそう結論する他ないのに、「そんなことあり得ない」と目をつぶって踏切線の前で立ち止まってしまう。それこそが「非論理的」ということなんです。

 フロイトの『快感原則の彼岸』は20世紀で最も読まれたテクストの一つですけれど、フロイトはここで症例研究から、そのすべてを説明できる仮説として「反復強迫」さらには「死への衝動」という驚嘆すべきアイディアを取り出します。これは「跳躍」です。フロイト自身は「思弁」と呼んでいます。これは論理的にものを考えるということの本質的な力動性について書かれた重要な言葉だと思います。フロイトはこう述べています。

「次に述べることは思弁である。誰もが、それぞれの見地から価値をみとめたり、あるいは軽視したりするかもしれな行き過ぎた思弁にもなる可能性がある。つまりそれは、ある理念がどんな結論をみちびき出すかという好奇心から、その理念を首尾一貫して利用しつくそうという試みである。」(フロイト、「快感原則の彼岸」、『フロイト著作集6』、井村恒郎他訳、人文書院、1970年、163頁)

 論理的にものを考えるというのは「ある理念がどんな結論をみちびきだすか」については、それがたとえ良識や生活実感と乖離するものであっても、最後まで追い続けて、「この前提からはこう結論せざるを得ない」という命題に身体を張ることです。

 ですから、意外に思われるかも知れませんけれど、人間が論理的に思考するために必要なのは実は「勇気」なのです。

 学校教育で子どもたちの論理性を鍛えるということをもし本当にしたいなら「論理は跳躍する」ということを教えるべきだと思います。僕たちが「知性」と呼んでいるのは、知識とか情報とか技能とかいう定量的なものじゃない。むしろ、疾走感とかグルーヴ感とか跳躍力とか、そういう力動的なものなんです。

 子どもたちが中等教育で学ぶべきことは、極論すれば、たった一つでいいと思うんです。それは「人間が知性的であるということはすごく楽しい」ということです。知性的であるということは「飛ぶ」ことなんですから。子どもたちだって、ほんとうは大好きなはずなんです。
 
 今回の「論理国語」がくだらない教科であるのは、そこで知的な高揚や疾走感を味わうことがまったく求められていないことです。そして、何より子どもたちに「勇気を持て」という論理的に思考するために最も大切なメッセージを伝える気がないことです。

 そもそも過去四半世紀の間に文科省が掲げた教育政策の文言の中に「勇気」という言葉があったでしょうか。僕は読んだ記憶がない。おそらく文科省で出世するためには「勇気」を持つことが無用だからでしょう。

 官僚というのは「恐怖心を持つこと」「怯えること」「上の顔色を窺うこと」に熟達した人たちが出世する仕組みですから、彼らにとっては「勇気を持たなかったこと」が成功体験として記憶されている。

だから、教育の中でも、子どもたちに「恐怖心を植え付ける」ことにはたいへん熱心であるけれど、「勇気を持たせること」にはまったく関心がない。それは彼ら自身の実体験がそう思わせているのです。「怯える人間が成功する」というのは彼ら自身の偽らざる実感なんだと思います。だから、彼らはたぶん善意なんです。善意から子どもたちに「怯えなさい」と教えている。「怯えていると『いいこと』があるよ。私にはあった」と思っているから。

 でも、知性の発達にとっては、恐怖心を持つことよりも勇気を持つことの方が圧倒的に重要です。

「勇気」というのは、知性と無縁だと思う人がいるかも知れませんけれど、それは違います。スティーヴ・ジョブスはスタンフォード大学の卒業式で、とても感動的なスピーチをしました。いまでもYoutubeで見ることができますから、ぜひご覧になってください。その中でジョブスはこう言っています。

The most important is the courage to follow your heart and intuition, because they somehow know what you truly want to become.

「最も重要なのはあなたの心と直感に従う勇気を持つことである。なぜなら、あなたの心と直感はなぜかあなたがほんとうに何になりたいのかを知っているからである。」

 ほんとうに大切なのは「心と直感」ではないんです。「心と直感に従う勇気」なんです。なぜなら、ほとんどの人は自分の心と直感が「この方向に進め」と示唆しても、恐怖心で立ち止まってしまうからです。それを乗り越えるためには「勇気」が要る。

 論理的に思考するとは、論理が要求する驚嘆すべき結論に向けて怯えずに跳躍することです。

「論理が要求する結論」のことを英語ではcorollaryと言います。日本語ではこれを一語で表す対応語がありません。僕はこの語を日本の思想家では丸山眞男の使用例しか読んだ記憶がありません。でも、これはとても重要な言葉だと思います。それがどれほど良識を逆撫でするものであっても、周囲の人の眉をひそめさせるものであっても、「これはコロラリーである」と言い切る勇気を持つこと、それが論理的に思考するということの本質だと僕は思います。
http://blog.tatsuru.com/2019/05/18_0922.html

http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/314.html#c17

[リバイバル3] 自分の中に毒を持て―あなたは“常識人間"を捨てられるか 中川隆
102. 中川隆[-10400] koaQ7Jey 2019年5月18日 11:06:27 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[1918]


 官僚というのは「恐怖心を持つこと」「怯えること」「上の顔色を窺うこと」に熟達した人たちが出世する仕組みですから、彼らにとっては「勇気を持たなかったこと」が成功体験として記憶されている。

 凡庸な知性は、論理的に突き詰めて達した予想外の帰結を前にして立ちすくんでしまう。論理的にはそう結論する他ないのに、「そんなことあり得ない」と目をつぶって踏切線の前で立ち止まってしまう。

_____


論理は跳躍する - 内田樹の研究室 2019-05-18
http://blog.tatsuru.com/2019/05/18_0922.html


少し前に「すばる」でも教育についてのインタビューを受けた。そのときに「論理国語」について話したことがテープ起こしされて戻ってきたので、加筆してここに掲げる。

 今度、兵庫県の国語の先生たちの集まりで講演をするのですが、その打ち合わせに来た先生たちに伺うと、現場の話題はやはり学習指導要領の改訂で登場した「論理国語」のようです。いったい何なの、とみなさん疑問に思っていらした。本当にわからないらしい。

 そのときに「論理国語」に準拠した模試の問題の現物を見せてもらいました。驚きました。生徒会の議事録と生徒会の規約を見せて、年度内に生徒総会を開催することは可能かどうかを問うものだったんです・・・。

 契約書や例規集を読める程度の実践的な国語力を「論理国語」という枠で育成するらしい。でも、模試問題を見る限り、これはある種の国語力を育てるというより、端的に文学を排除するのが主目的で作問されたものだと思いました。

「論理国語」を「文学国語」と切り離して教えることが可能だと考えた人たちは、文学とは非論理的なもので、何か審美的な、知的装飾品のように思っているんじゃないですか。だから、そんなもののために貴重な教育資源を割く必要はないと思っている。現にそう公言する人は政治家とビジネスマンには多くいますから。自分たちは子どもの頃から文学に何も関心がなかったけれど、そんなことは出世する上では何も問題がなかった。現に、まったく文学と無縁のままにこのように社会的成功を収めた。だから、文学は学校教育には不要である、と。たぶんそういうふうに自分の「文学抜きの成功体験」に基づいて推論しているんだと思います。政治にもビジネスにも何の役にも立たないものに教育資源を費やすのは、金をドブに捨てているようなものだ、と。そういう知性に対して虚無的な考え方をする人たちが教育政策を起案している。これは現代の反知性主義の深刻な病態だと思います。

「論理国語」という発想に対して僕が懐疑的なのは、試験問題を作る場合、「正解」がわかっていて、受験生は論理的にそれをたどってゆくと「すらすらと」結論に達するというプロセスが自明の前提されていることです。たぶん、彼らの考える「論理」というのは、そういうものなんでしょう。でも、論理的にものを考えるということを実際にした経験のある人ならわかると思うけれど、論理的に思考するというのは、平坦な道を歩くようなプロセスじゃない。むしろ、ある種の「深淵」に直面して、それを跳び越えるという「命がけ」のプロセスなんです。

 僕は子どもの頃にエドガー・アラン・ポウやアーサー・コナン・ドイルを読んで「論理的にものを考える」ということがどういうことかを学びました。「論理的にものを考える」というのはオーギュスト・デュパンやシャーロック・ホームズ「のように考える」ということだと最初に刷り込まれた。それは今でも変わりません。

 名探偵の推理こそ「論理的にものを考える」プロセスの模範だと思いますけれど、ここには「正解」を知っていて「作問」している人はいません。登場人物が現場に残された断片から推理して、その帰結として正解を「発見」するんです。名探偵の行う推理というのは、ひとつひとつの間に関連性が見出しがたい断片的事実を並べて、それらの断片のすべてを説明できる一つの仮説を構築することです。その仮説がどれほど非常識であっても、信じがたい話であっても、「すべてを説明できる仮説はこれしかない」と確信すると名探偵は「これが真実だ」と断言する。それは「論理」というよりむしろ「論理の飛躍」なんです。
 
 それは実際に学術的な知性がやっていることと同じです。

 カール・マルクスや、マックス・ウェーバーや、ジーグムント・フロイトはいずれもすばらしい知的達成をなしとげて人類の知的進歩に貢献したわけですけれど、彼らに共通するのは常人では真似のできないような「論理の飛躍」をしたことです。目の前に散乱している断片的な事実をすべて整合的に説明できる仮説は「これしかない」という推理に基づいて前代未聞のアイディアを提示してみせた。「階級闘争」も「資本主義の精神」も「強迫反復」もいずれも「論理の飛躍」の産物です。同じ断片を見せられて、誰もが同じ仮説にたどりつく訳じゃない。凡庸な知性においては、常識や思い込みが論理の飛躍を妨害するからです。
  
 例外的知者の例外的である所以はその跳躍力なんです。彼らの論理的思考というのは、いわばこの跳躍のための助走なんです。こうであるならこうなる、こうであるならこうなる・・・と論理的に思考することによって、思考の速度を上げているんです。そして、ある速度に達したところで、飛行機が離陸するように、地面を離れて跳躍する。そうやって、ただこつこつと理屈をこねている限りは絶対に到達できないような高みに飛び上がることができる。

「論理的にものを考える」というのはこの驚嘆すべきジャンプにおける「助走」に相当するものだと僕は思います。そこで加速して、踏切線で「常識の限界」を飛び越えて、日常的論理ではたどりつけないところに達する。

 でも、凡庸な知性は、論理的に突き詰めて達した予想外の帰結を前にして立ちすくんでしまう。論理的にはそう結論する他ないのに、「そんなことあり得ない」と目をつぶって踏切線の前で立ち止まってしまう。それこそが「非論理的」ということなんです。

 フロイトの『快感原則の彼岸』は20世紀で最も読まれたテクストの一つですけれど、フロイトはここで症例研究から、そのすべてを説明できる仮説として「反復強迫」さらには「死への衝動」という驚嘆すべきアイディアを取り出します。これは「跳躍」です。フロイト自身は「思弁」と呼んでいます。これは論理的にものを考えるということの本質的な力動性について書かれた重要な言葉だと思います。フロイトはこう述べています。

「次に述べることは思弁である。誰もが、それぞれの見地から価値をみとめたり、あるいは軽視したりするかもしれな行き過ぎた思弁にもなる可能性がある。つまりそれは、ある理念がどんな結論をみちびき出すかという好奇心から、その理念を首尾一貫して利用しつくそうという試みである。」(フロイト、「快感原則の彼岸」、『フロイト著作集6』、井村恒郎他訳、人文書院、1970年、163頁)

 論理的にものを考えるというのは「ある理念がどんな結論をみちびきだすか」については、それがたとえ良識や生活実感と乖離するものであっても、最後まで追い続けて、「この前提からはこう結論せざるを得ない」という命題に身体を張ることです。

 ですから、意外に思われるかも知れませんけれど、人間が論理的に思考するために必要なのは実は「勇気」なのです。

 学校教育で子どもたちの論理性を鍛えるということをもし本当にしたいなら「論理は跳躍する」ということを教えるべきだと思います。僕たちが「知性」と呼んでいるのは、知識とか情報とか技能とかいう定量的なものじゃない。むしろ、疾走感とかグルーヴ感とか跳躍力とか、そういう力動的なものなんです。

 子どもたちが中等教育で学ぶべきことは、極論すれば、たった一つでいいと思うんです。それは「人間が知性的であるということはすごく楽しい」ということです。知性的であるということは「飛ぶ」ことなんですから。子どもたちだって、ほんとうは大好きなはずなんです。
 
 今回の「論理国語」がくだらない教科であるのは、そこで知的な高揚や疾走感を味わうことがまったく求められていないことです。そして、何より子どもたちに「勇気を持て」という論理的に思考するために最も大切なメッセージを伝える気がないことです。

 そもそも過去四半世紀の間に文科省が掲げた教育政策の文言の中に「勇気」という言葉があったでしょうか。僕は読んだ記憶がない。おそらく文科省で出世するためには「勇気」を持つことが無用だからでしょう。

 官僚というのは「恐怖心を持つこと」「怯えること」「上の顔色を窺うこと」に熟達した人たちが出世する仕組みですから、彼らにとっては「勇気を持たなかったこと」が成功体験として記憶されている。

だから、教育の中でも、子どもたちに「恐怖心を植え付ける」ことにはたいへん熱心であるけれど、「勇気を持たせること」にはまったく関心がない。それは彼ら自身の実体験がそう思わせているのです。「怯える人間が成功する」というのは彼ら自身の偽らざる実感なんだと思います。だから、彼らはたぶん善意なんです。善意から子どもたちに「怯えなさい」と教えている。「怯えていると『いいこと』があるよ。私にはあった」と思っているから。

 でも、知性の発達にとっては、恐怖心を持つことよりも勇気を持つことの方が圧倒的に重要です。

「勇気」というのは、知性と無縁だと思う人がいるかも知れませんけれど、それは違います。スティーヴ・ジョブスはスタンフォード大学の卒業式で、とても感動的なスピーチをしました。いまでもYoutubeで見ることができますから、ぜひご覧になってください。その中でジョブスはこう言っています。

The most important is the courage to follow your heart and intuition, because they somehow know what you truly want to become.

「最も重要なのはあなたの心と直感に従う勇気を持つことである。なぜなら、あなたの心と直感はなぜかあなたがほんとうに何になりたいのかを知っているからである。」

 ほんとうに大切なのは「心と直感」ではないんです。「心と直感に従う勇気」なんです。なぜなら、ほとんどの人は自分の心と直感が「この方向に進め」と示唆しても、恐怖心で立ち止まってしまうからです。それを乗り越えるためには「勇気」が要る。

 論理的に思考するとは、論理が要求する驚嘆すべき結論に向けて怯えずに跳躍することです。

「論理が要求する結論」のことを英語ではcorollaryと言います。日本語ではこれを一語で表す対応語がありません。僕はこの語を日本の思想家では丸山眞男の使用例しか読んだ記憶がありません。でも、これはとても重要な言葉だと思います。それがどれほど良識を逆撫でするものであっても、周囲の人の眉をひそめさせるものであっても、「これはコロラリーである」と言い切る勇気を持つこと、それが論理的に思考するということの本質だと僕は思います。
http://blog.tatsuru.com/2019/05/18_0922.html

http://www.asyura2.com/09/revival3/msg/564.html#c102

[近代史3] 内田樹:全面的な対米従属、アメリカの企業に対する市場開放と、日本の公共財の切り売りさえしておけば政権は延命できる 中川隆
2. 中川隆[-10399] koaQ7Jey 2019年5月18日 11:08:10 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[1919]


 官僚というのは「恐怖心を持つこと」「怯えること」「上の顔色を窺うこと」に熟達した人たちが出世する仕組みですから、彼らにとっては「勇気を持たなかったこと」が成功体験として記憶されている。

 凡庸な知性は、論理的に突き詰めて達した予想外の帰結を前にして立ちすくんでしまう。論理的にはそう結論する他ないのに、「そんなことあり得ない」と目をつぶって踏切線の前で立ち止まってしまう。

_____


論理は跳躍する - 内田樹の研究室 2019-05-18
http://blog.tatsuru.com/2019/05/18_0922.html


少し前に「すばる」でも教育についてのインタビューを受けた。そのときに「論理国語」について話したことがテープ起こしされて戻ってきたので、加筆してここに掲げる。

 今度、兵庫県の国語の先生たちの集まりで講演をするのですが、その打ち合わせに来た先生たちに伺うと、現場の話題はやはり学習指導要領の改訂で登場した「論理国語」のようです。いったい何なの、とみなさん疑問に思っていらした。本当にわからないらしい。

 そのときに「論理国語」に準拠した模試の問題の現物を見せてもらいました。驚きました。生徒会の議事録と生徒会の規約を見せて、年度内に生徒総会を開催することは可能かどうかを問うものだったんです・・・。

 契約書や例規集を読める程度の実践的な国語力を「論理国語」という枠で育成するらしい。でも、模試問題を見る限り、これはある種の国語力を育てるというより、端的に文学を排除するのが主目的で作問されたものだと思いました。

「論理国語」を「文学国語」と切り離して教えることが可能だと考えた人たちは、文学とは非論理的なもので、何か審美的な、知的装飾品のように思っているんじゃないですか。だから、そんなもののために貴重な教育資源を割く必要はないと思っている。現にそう公言する人は政治家とビジネスマンには多くいますから。自分たちは子どもの頃から文学に何も関心がなかったけれど、そんなことは出世する上では何も問題がなかった。現に、まったく文学と無縁のままにこのように社会的成功を収めた。だから、文学は学校教育には不要である、と。たぶんそういうふうに自分の「文学抜きの成功体験」に基づいて推論しているんだと思います。政治にもビジネスにも何の役にも立たないものに教育資源を費やすのは、金をドブに捨てているようなものだ、と。そういう知性に対して虚無的な考え方をする人たちが教育政策を起案している。これは現代の反知性主義の深刻な病態だと思います。

「論理国語」という発想に対して僕が懐疑的なのは、試験問題を作る場合、「正解」がわかっていて、受験生は論理的にそれをたどってゆくと「すらすらと」結論に達するというプロセスが自明の前提されていることです。たぶん、彼らの考える「論理」というのは、そういうものなんでしょう。でも、論理的にものを考えるということを実際にした経験のある人ならわかると思うけれど、論理的に思考するというのは、平坦な道を歩くようなプロセスじゃない。むしろ、ある種の「深淵」に直面して、それを跳び越えるという「命がけ」のプロセスなんです。

 僕は子どもの頃にエドガー・アラン・ポウやアーサー・コナン・ドイルを読んで「論理的にものを考える」ということがどういうことかを学びました。「論理的にものを考える」というのはオーギュスト・デュパンやシャーロック・ホームズ「のように考える」ということだと最初に刷り込まれた。それは今でも変わりません。

 名探偵の推理こそ「論理的にものを考える」プロセスの模範だと思いますけれど、ここには「正解」を知っていて「作問」している人はいません。登場人物が現場に残された断片から推理して、その帰結として正解を「発見」するんです。名探偵の行う推理というのは、ひとつひとつの間に関連性が見出しがたい断片的事実を並べて、それらの断片のすべてを説明できる一つの仮説を構築することです。その仮説がどれほど非常識であっても、信じがたい話であっても、「すべてを説明できる仮説はこれしかない」と確信すると名探偵は「これが真実だ」と断言する。それは「論理」というよりむしろ「論理の飛躍」なんです。
 
 それは実際に学術的な知性がやっていることと同じです。

 カール・マルクスや、マックス・ウェーバーや、ジーグムント・フロイトはいずれもすばらしい知的達成をなしとげて人類の知的進歩に貢献したわけですけれど、彼らに共通するのは常人では真似のできないような「論理の飛躍」をしたことです。目の前に散乱している断片的な事実をすべて整合的に説明できる仮説は「これしかない」という推理に基づいて前代未聞のアイディアを提示してみせた。「階級闘争」も「資本主義の精神」も「強迫反復」もいずれも「論理の飛躍」の産物です。同じ断片を見せられて、誰もが同じ仮説にたどりつく訳じゃない。凡庸な知性においては、常識や思い込みが論理の飛躍を妨害するからです。
  
 例外的知者の例外的である所以はその跳躍力なんです。彼らの論理的思考というのは、いわばこの跳躍のための助走なんです。こうであるならこうなる、こうであるならこうなる・・・と論理的に思考することによって、思考の速度を上げているんです。そして、ある速度に達したところで、飛行機が離陸するように、地面を離れて跳躍する。そうやって、ただこつこつと理屈をこねている限りは絶対に到達できないような高みに飛び上がることができる。

「論理的にものを考える」というのはこの驚嘆すべきジャンプにおける「助走」に相当するものだと僕は思います。そこで加速して、踏切線で「常識の限界」を飛び越えて、日常的論理ではたどりつけないところに達する。

 でも、凡庸な知性は、論理的に突き詰めて達した予想外の帰結を前にして立ちすくんでしまう。論理的にはそう結論する他ないのに、「そんなことあり得ない」と目をつぶって踏切線の前で立ち止まってしまう。それこそが「非論理的」ということなんです。

 フロイトの『快感原則の彼岸』は20世紀で最も読まれたテクストの一つですけれど、フロイトはここで症例研究から、そのすべてを説明できる仮説として「反復強迫」さらには「死への衝動」という驚嘆すべきアイディアを取り出します。これは「跳躍」です。フロイト自身は「思弁」と呼んでいます。これは論理的にものを考えるということの本質的な力動性について書かれた重要な言葉だと思います。フロイトはこう述べています。

「次に述べることは思弁である。誰もが、それぞれの見地から価値をみとめたり、あるいは軽視したりするかもしれな行き過ぎた思弁にもなる可能性がある。つまりそれは、ある理念がどんな結論をみちびき出すかという好奇心から、その理念を首尾一貫して利用しつくそうという試みである。」(フロイト、「快感原則の彼岸」、『フロイト著作集6』、井村恒郎他訳、人文書院、1970年、163頁)

 論理的にものを考えるというのは「ある理念がどんな結論をみちびきだすか」については、それがたとえ良識や生活実感と乖離するものであっても、最後まで追い続けて、「この前提からはこう結論せざるを得ない」という命題に身体を張ることです。

 ですから、意外に思われるかも知れませんけれど、人間が論理的に思考するために必要なのは実は「勇気」なのです。

 学校教育で子どもたちの論理性を鍛えるということをもし本当にしたいなら「論理は跳躍する」ということを教えるべきだと思います。僕たちが「知性」と呼んでいるのは、知識とか情報とか技能とかいう定量的なものじゃない。むしろ、疾走感とかグルーヴ感とか跳躍力とか、そういう力動的なものなんです。

 子どもたちが中等教育で学ぶべきことは、極論すれば、たった一つでいいと思うんです。それは「人間が知性的であるということはすごく楽しい」ということです。知性的であるということは「飛ぶ」ことなんですから。子どもたちだって、ほんとうは大好きなはずなんです。
 
 今回の「論理国語」がくだらない教科であるのは、そこで知的な高揚や疾走感を味わうことがまったく求められていないことです。そして、何より子どもたちに「勇気を持て」という論理的に思考するために最も大切なメッセージを伝える気がないことです。

 そもそも過去四半世紀の間に文科省が掲げた教育政策の文言の中に「勇気」という言葉があったでしょうか。僕は読んだ記憶がない。おそらく文科省で出世するためには「勇気」を持つことが無用だからでしょう。

 官僚というのは「恐怖心を持つこと」「怯えること」「上の顔色を窺うこと」に熟達した人たちが出世する仕組みですから、彼らにとっては「勇気を持たなかったこと」が成功体験として記憶されている。

だから、教育の中でも、子どもたちに「恐怖心を植え付ける」ことにはたいへん熱心であるけれど、「勇気を持たせること」にはまったく関心がない。それは彼ら自身の実体験がそう思わせているのです。「怯える人間が成功する」というのは彼ら自身の偽らざる実感なんだと思います。だから、彼らはたぶん善意なんです。善意から子どもたちに「怯えなさい」と教えている。「怯えていると『いいこと』があるよ。私にはあった」と思っているから。

 でも、知性の発達にとっては、恐怖心を持つことよりも勇気を持つことの方が圧倒的に重要です。

「勇気」というのは、知性と無縁だと思う人がいるかも知れませんけれど、それは違います。スティーヴ・ジョブスはスタンフォード大学の卒業式で、とても感動的なスピーチをしました。いまでもYoutubeで見ることができますから、ぜひご覧になってください。その中でジョブスはこう言っています。

The most important is the courage to follow your heart and intuition, because they somehow know what you truly want to become.

「最も重要なのはあなたの心と直感に従う勇気を持つことである。なぜなら、あなたの心と直感はなぜかあなたがほんとうに何になりたいのかを知っているからである。」

 ほんとうに大切なのは「心と直感」ではないんです。「心と直感に従う勇気」なんです。なぜなら、ほとんどの人は自分の心と直感が「この方向に進め」と示唆しても、恐怖心で立ち止まってしまうからです。それを乗り越えるためには「勇気」が要る。

 論理的に思考するとは、論理が要求する驚嘆すべき結論に向けて怯えずに跳躍することです。

「論理が要求する結論」のことを英語ではcorollaryと言います。日本語ではこれを一語で表す対応語がありません。僕はこの語を日本の思想家では丸山眞男の使用例しか読んだ記憶がありません。でも、これはとても重要な言葉だと思います。それがどれほど良識を逆撫でするものであっても、周囲の人の眉をひそめさせるものであっても、「これはコロラリーである」と言い切る勇気を持つこと、それが論理的に思考するということの本質だと僕は思います。
http://blog.tatsuru.com/2019/05/18_0922.html

http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/398.html#c2

[政治・選挙・NHK260] 小室圭さん 3カ月夏休みにナゼ「帰国せず」 金銭トラブル解消チャンスも…(スポニチ)「この機会に帰国しないのは理解に苦し… 完璧帰趙
3. 中川隆[-10398] koaQ7Jey 2019年5月18日 12:54:50 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[1920]
小室圭さん関係のスキャンダルも秋篠宮関係のデマもすべて CIA と外務省創価グループが流したデマの可能性が高いです:


秋篠宮が入江侍従長の子供だとか

秋篠宮がプチエンジェル事件の顧客名簿に載っていたとか、

宮内庁が秋篠宮が眞子と近親相姦している「パパだーいすき」という動画を探しているとか

すべて CIA と外務省創価グループが流したデマだと言われています。

自殺に見せ掛けた殺しは CIA+創価学会 のお家芸なので、秋篠宮家での三件の不審死も創価ヤクザがやった可能性が有ります。 秋篠宮家をうさん臭く思わせたかったんだろうね:


忠告しておく。層化を追求すると死人が出る ・ ・ ・ ・。

12.浅木明代市議( 創価を追及している最中に、 ビルから転落。飛び降り自殺? )

13.姉歯秀次の妻 : 熱烈な層化信者 ( 飛び降り自殺? 逃げ回っていた姉歯に対する口封じ?)

14.松岡農水大臣( 首吊り自殺?? 秘書が発見したが、 救急車が来るまでつりっぱなし )

15.伊丹十三映画監督( 層化をテーマにした映画作成中に、 飛び降り自殺???)

17.プチエンジェル運営会社社長( 事件発覚、顧客に大物政治家の名前リスト有り、口封じで練炭自殺??)


高円宮は組織の事を知り過ぎてしまったので、創価ヤクザに腹上死に見せ掛けて殺されたのかな?


紀子様の堕胎説や、川嶋教授の怒鳴り込み説なども創価ともう一つ、自分の上にある秋篠宮家を憎んでいた高円宮家が名誉会長を務めていたワールドメイトの信者が手分けして広めたデマです。

堕胎など医師の守秘義務を破ってもらす医療関係者が、全国津津浦浦に隈なく存在しているあり得なさを考えてみればよいのです。やれどこそこの院長が言っていた、婦長がここだけの話として教えてくれた、などなど冷静に考えてみればあり得ないことを信じ込まされている人達がいます。

創価大学の学生には、「東宮夫妻お出まし」のための歓迎サクラ要員募集記事がHPに載っていました。(スクショと共に記事にしました)。毎度報道されるお迎えの集団が本物なら、動員の必要はないでしょうに。

創価婦人部は複数名が一組となって電車の中で、周りに聞こえる程度のひそひそ話で「ねえ、聞いた?」「紀子さまってば」「秋篠宮殿下って実はね」として、秋篠宮家の貶め作戦を行って来ました。
同じ女たちが、別の電車で同じ芝居をしている所を目撃したというコメントを、コメ欄にかつて頂きました。

秋篠宮がプチエンジェル事件の顧客名簿に載っていたとか
宮内庁が秋篠宮が眞子と近親相姦している「パパだーいすき」という動画を探しているとか

の話も秋篠宮家を うさん臭く思わせようとしてでっち上げた話でしょう。

昔、皇太子妃候補 No.1 だった柏原芳恵がバイブレーター所持していたというデマを流した のも外務省創価グループだと言われているしね。

要するに、CIA と創価学会は

どうしても愛子を天皇にしたい、
秋篠宮家を うさん臭く思わせたい

のでしょうね。
http://www.asyura2.com/19/senkyo260/msg/850.html#c3

[近代史3] アメリカの演奏家は何故みんな演奏技術だけ凄くて中身ゼロなのか

アメリカの演奏家は何故みんな演奏技術だけ凄くて中身ゼロなのか


1月20日は、ミッシャ・エルマンの誕生日です。


◆昔のヴァイオリニストです。美音でした。


Mischa Elman plays Brahms - Hungarian Dance No. 7
http://www.youtube.com/watch?v=GSlI6cNtkqg


しばしば、昔のヴァイオリニストは、個性的で、いまのジュリアードで習った人達はテクニックはあるけど、 つまんない、というような、ことを言います。

それほど、単純では無いと思います。今のヴァイオリニストでも、「あ、これは・・・」と音を聴いて分かる人、 弾き方の特徴(曲の解釈上の個性とでもいうのでしょうか)で、「あ、これは○○だ」と言う人はいます。

ただ、今の方が、世の中がギスギスしているのと、みんなテクニックがどんどん向上していくので、 つい、そちらの方に演奏者も聴き手も気を取られて、何だか少しカリカリしている気がします。

特にコンクールとなると、本来の演奏会じゃなくて、皆同じぐらい上手いので、ミスをした方が負け、のような(実際はそれほど単純じゃないでしょうが)状況ですから、ピリピリしています。

でも、少しぐらい間違えたっていいですよね。全部デタラメでは、お話になりませんけど。

そのようなことを、ロシア生まれのアメリカの往年のヴァイオリニスト、ミッシャ・エルマン(1891-1967)の小品集を聴いていると、感じます。

エルマンの美しい音は「エルマン・トーン」と呼ばれた、と言われています。

私は生で聴いたことがないので、本当はどういう音だったのか、分かりませんが、 そんなの今更どうしようもないんですから、ムキになることはない。


いや、失礼。


何を独りで怒っているかというと、

Wikipediaでミッシャ・エルマンの項
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%9F%E3%83%83%E3%82%B7%E3%83%A3%E3%83%BB%E3%82%A8%E3%83%AB%E3%83%9E%E3%83%B3


を読んだら、 要するに上手かったのは、若い頃で、晩年はテクニックも衰えて、音色も、さほど大したことはなかったと、 珍しく情緒的な説明だったので、何かエルマンに恨みでもあるのか? と少々不愉快だったからです。

失礼を致しました。

◆エルマンより今の日本の若い人の方がテクニックはあるかも知れませんが・・・。


純粋に早いのを正確に弾けるかとか言うことで言ったら、それは今の学生さんの方が、 これからお聴き頂く晩年のエルマンより上手いでしょう。


そこが、逆に貴重でして、エルマンのヴァイオリンを聞くと、音楽家というのは、テクニックは身につけなければいけませんが、上手ければ良いというものではない、ということが分かります。


◆【音楽】アンコール集 エルマン(vn)セイガー(p) より。


CDは、AmazonでもHMVでもTowerRecordでも買えますが、Amazonだけ試聴できないので、 HMVのアンコール集 エルマン(vn)セイガー(p)と、 Towerのヴァンガード名盤選38::ヴィルトゥオーゾ・ヴァイオリン・マスターピースにリンクを貼っておきます。


ガヴォット(ゴセック)
http://www.youtube.com/watch?v=EqkRbC4EC-8
http://www.youtube.com/watch?v=y3ztkHOYtDc


エルマン先生、1拍目から弾かないで、前の拍のウラからシンコペーションにして弾いてます。

たしか、楽譜はそうなっていないはず。でも良いんです。これぞ「エルマン節」なんです。


今時、こういう可愛い小品を弾いてくれる、プロのヴァイオリニストっていませんよね。

或る意味では、大変怖いかも知れません。プロを目指して所謂「英才教育」を受けた子など、小学校に入学する前に弾けていたと思います。易しい曲ですから、誰でも弾けます。素人ですら、兎に角弾くだけなら弾けます。そういう曲を大勢の前で弾くのは、間違えたらすぐにバレますから。


2曲目はこれまた泰西名曲、ドヴォルザークの「ユーモレスク」です。

N響の第1ヴァイオリンで30年弾き続けた鶴我裕子さんは、仕事ではやれ、マーラーだ、ブルックナーだ、ショスタコーヴィッチだ、バルトークだ、と難しいのを弾いておられたのに、著書「バイオリニストは肩が凝る」の中で、エルマンの「ユーモレスク」を聴くと、ホッとする、と書いています。プロですらそうなのか、と、何だかこちらもホッとしたことを思い出します。


ユーモレスク 変ト長調 Op. 101 No. 7 (ドヴォルザーク--編曲:アウグスト・ヴィルヘルミ)
http://www.nicovideo.jp/watch/sm7897609
http://www.youtube.com/watch?v=20xtbVx8sn8
http://www.youtube.com/watch?v=MrdrXJ73Xa4

エルマンが来日した時、日比谷公会堂かどこかで、リサイタルがあり、アンコールでエルマンは、この「ユーモレスク」を弾いたそうで、それを実際に見て、聴いた人によると、今の若いヴァイオリニストだったら、照れちゃってこんなの弾きませんが、エルマンは、実に気持ちよさそうに楽しそうに弾いたそうです。


ベートーヴェン 「ト長調のメヌエット」
http://www.youtube.com/watch?v=TwjzTHF2jgw
http://www.youtube.com/watch?v=iwE_40PrJ0c
http://www.youtube.com/watch?v=n7tuuEzLvBg


お聴きになれば、「ああ、あれか。」と思われる筈です。


ここまでの曲、いずれも「ヴァイオリンが歌っ」ています。その「歌心」が、聴き手の心の琴線を震わせます。


以上は技術的には易しい曲ばかりです。このレコードは1958年にエルマンのアメリカデビュー50周年を記念して作られたとか。


エルマンの晩年ですが、Wikipediaで批判的な文章を書いている人物は「チゴイネルワイゼンに至っては、技術が衰えているため、難しいところは思い切りテンポを落として弾いている」という意味のことを書いていますが、私はそれはどうかな?と思います。

聴いて頂きましょう。


サラサーテ:ツィゴイネルワイゼン
http://www.youtube.com/watch?v=eFtNt0d7KHo


ハイフェッツと比べたら、それは確かにテンポは遅いです。最後モルト・ヴィヴァーチェ。ハイフェッツは一番速いところでは、テンポ180近い。全盛期のハイフェッツと比較したら気の毒です。

岩城宏之さんの「棒振りのカフェテラス」という本に書いてありますが、ハイフェッツですら最晩年は、小品すら通して弾くことができず、編集でつないでいたそうですから。


エルマン先生は思いきり遅いですが、音質は乱れていないし、音を飛ばすこともない。

左手ピチカートもきちんと鳴らしている。曲の最後の最後ではアッチェレランドをかけて非常に高いポジションの音程が狂っていない。ただ、何度も出てくる、和音が三つ続くところで、あまりにテンポを落とすし、演りたい放題なので、これは伴奏者、ジョセフ・セイダー氏の健闘を讃えるべきでしょう。


最後です。


マスネー:歌劇「タイス」 - 第2幕 瞑想曲
http://www.youtube.com/watch?v=nYsSrhamhb0
http://www.youtube.com/watch?v=eL9xlJqd0zQ
http://www.youtube.com/watch?v=eaonFKJKG7U
http://www.youtube.com/watch?v=3dL3Ozdn1SE


全体としてお分かり頂けたかと思いますが、エルマンの音は決して、刺激的に鳴らないのです。

録音が古いこととは無関係だと思います。奏者が常に「美しい音」をイメージいていなければ、ヴァイオリンのみならず、どんな楽器でも良い音が出せるようにはなりませんし、それを維持できない。

エルマン氏は、一生、理想の音を追い続けていたのかも知れません。

好き好きですが、このCDはお薦めです。とにかくエルマン聴いたこと無い、じゃ、問題外でっせ。

コメント

しばしば、言われることですが、昔のヴァイオリニストって、本当に音に個性があるのですよね。

音を聴いて、「あ、○○の音だ!」とすぐ分かるような音色や、歌い方の個性は、何故か技術の進歩と共に埋没してしまいます。

ゴセックの「ガヴォット」やドヴォルザークの「ユーモレスク」など、素人でも弾くだけなら弾ける曲でなおかつ、聴衆を魅了するということは、プロコフィエフやショスタコーヴィッチのヴァイオリン協奏曲で高度なテクニックで人を「驚かせる」よりも難しいことだと思います。

今の時代にエルマンを愛好して下さる方がいらっしゃって、とても嬉しく思いました。
投稿: JIRO | 2011.04.18 23:12


昨日、私もエルマンのジュビリーアルバムとクライスラー愛想曲集を買い、同じように、ガボットの快活さに舌を巻き、音の素晴らしさに酔っていました。そして、同じくWikipediaの分かったような解説に腹を立てていたところです。
こんなに素晴らしい小品集は他にないと思います。
投稿: kuma | 2011.04.16 23:57
http://jiro-dokudan.cocolog-nifty.com/jiro/2010/01/12018911967-566.html

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ヴァイオリン(Vn)教師の四方山話ーヴァイオリンを教えるとは


名指導者とは

 さる音楽談話例会における話題の中で、「名選手必ずしも名指導者にあらず」と言っていたが、 同じ事が音楽にも言えるのではないかと思う。

 ヴァイオリン(以下、Vn)の世界では、レオポルド・アウアー、エネスコやエルマン等は、一世を風靡した 歴史に残る超一流のソリストであったが、その弟子も一流のソリストに育てている。

   特にレオポルド・アウアーに至っては、弟子にジンバリスト、エルマン、ミルステイン、 ハイフェッツとくれば、これはもう驚きである。・・・歴史的な名ヴァイオリニストがずらりと並んでいる。日本では江藤俊哉がその範疇に入る様に思われる。

 しかしVn界全体を通して眺めて見た場合、自分自身はソリストとして前者ほど華々しく 脚光を浴びていない人物が、指導者として、超一流のソリストを育てている場合が、意外と多い様に 思われる。

 日本では鈴木鎮一や鷲見三郎がその範疇に入るのではないだろうか!

ジュリアードのガラミアンとディレイ

 アメリカではジュリアード音楽院のイワン・ガラミアンやドロシイ・ディレイであるが、共に 素晴らしい名ソリストを数多く育てている。ざっとあげてみると次のようになる。


イワン・ガラミアン
ズーカーマン。渡辺茂人。マイケル・レビン。
パールマン。チョンキョンファ。・・・Etc


ドロシー・ディレイ
パールマン。原田孝一郎。竹澤恭子。五嶋みどり。
諏訪内晶子。ギル・シャハム。アン・アキコマイヤーズ。
シュロモ・ミンツ。漆原朝子。チョーリヤン・リン。
チー・ユン。サラチャン。神尾真由子。数住岸子。
前橋汀子。加藤知子。ナイジェル・ケネディ。奥村智弘。・・Etc

(年長の生徒はドロシーがガラミアンの助手をしていたために共通の生徒がいる。)


 このようにして、Vnの指導を受けるのはジュリアードに限る、それもガラミアンや ドロシー・ディレイの指導を受けることが、ヴァイオリニストとしてのステイタスにもなっている ばかりでなく、実際に世界を席巻するソリストが、続々と送り出されている。

 ガラミアンの教育法は古い権威主義と呼ばれていた様に独自の指導法で、誰に対しても同じ方法で 徹底して指導したが、生徒は細部まで、正確に徹底した練習を求められ、テクニックの習得に重点が 置かれていたと言う。

 先生の指示する弓使い、指使いに従わない生徒には容赦をすることがなかった。

 特にガラミアンは運弓の名手と言われたカペーの弟子であっただけに運弓にはうるさく、後に ガラミアンのトレードマークになるが、大きく弓を使いいい音を出すことを徹底して訓練した。

   後にガラミアンは石ころでも立派に磨き上げて、ヴァイオリニストを創ることが出来たと評されている。

 これに対してドロシー・ディレイには固執する教授法はない。

 機械的に反復練習ばかりをさせる事はなく、この生徒のどこに問題があるのかを並み外れた洞察力で もって見い出す事に重点を置き、その生徒に必要なものは何かを的確に指摘した。

 そして生徒と徹底的に話し合い、やがては生徒自身が問題点を見つけ出せるところまで指導すると 言ったものである。

 また生徒の良い点は徹底して褒めて褒めて伸ばしていくと言う教育法をとった。従って生徒は気が付かない間に問題点を克服し、その子が知らない間に弾けなかったところが、いつの間にか弾けている と言う具合であった。

 従ってドロシイの生徒は画一的な教育法でないため、自分に合った様に、自由に成長していった。


 話はそれるが、かつて渋谷天外が藤山寛美を育てるとき、欠点はさておき褒めて、褒めて一流の 芸人に育て上げた教育法に似た感じがするが、しかしその生徒の数、レヴェルを考えるとき、 ドロシー・ディレイは実に天才的な指導者であったと言わざるを得ない。

 ただこれだけ優れた有名な指導者になると、教えを乞う生徒も莫大な数になり、そのいずれもを 平等にレッスンをすることは難しく、やはり才能のある生徒に重点を置かざるを得ないと言う悩みは あったようである。

 そのためか、単に一度か二度レッスンを受けたとか、公開レッスンに参加をしただけで、 ドロシー・ディレイに師事をしたと言う人がいるそうである。

 これはドロシーもよく知っていたが、その生徒がマネージャーとの交渉とか、後々の仕事がうまく行くのならばと言うことで、苦笑いしながらも黙認する事があったと言う。

ヴァイオリン(Vn)教師の逸話二題

 その一つは、地下鉄の駅の入り口でいつもVnを弾く、いわばホームレスがいた。足下には 「投げ銭」をもらうためにVnのケースを開けたままで置いてある。その傍をラヴエルが 通りかかり、

「こんな下手な演奏は今まで聞いたことがない、全くひどくて話にならん」

と通り過ぎた。

 次の日またラヴェルが通りかかったら、今度はVnケースの横に「ラヴェルに師事」と 書いてあったと言う。


   もう一つは、ある時ドロシー・ディレイが飛行機に乗っているとき、Vnを抱えた学生が 乗り込んでディレイの席のそばを通った。

 「まあVnを習ってらっしゃるの、すてきね〜、先生はどなた?」

と尋ねたところ、その学生は困った顔をしてディレイ先生です、と答えたという。


 これらは笑い話であるが、事実このような話はいくらでもあるようだ。

 日本でも、よくある事と考えられる。単に一度公開講座を受けただけで、誰々先生に師事と演奏会の パンフレットに書いてある。百歩譲ってそれでもよかろうと思うが、聡明な聴衆は決して騙される事は ない。聴衆は良い演奏とそうでないものはちゃんと聞き分けているものである。  演奏家はそのことを肝に銘ずるべきである。
http://chauchaw.web.fc2.com/hafuna-48-4.html

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イヴァーン・ガラミアン(Ivan Galamian, 1903年1月23日 – 1981年4月14日)

1903年1月23日アルメニア人の両親の下に、ペルシア(現イラン)のタブリッツで生まれた。

1905年2歳のとき家族でモスクワに移転。彼は早くからVnに興味を抱き、両親はそれを伸ばした。

1916年13歳のときモスクワ・フィルハーモニック・スクールに入学し、アウアーの弟子であるコンスタンティン・モストラに師事した。

1917年ロシア革命後、父が実業家として成功していたため、ガラミアンは投獄された。しかし、当時ボリショイ劇場管弦楽団の団員であったことから、釈放された。

1922年パリに移住し、運弓法の権威であったパリ・コンセルヴァトワール教授ルシアン・カペーに師事した。

1924年パリでリサイタルを開いてデビューした。

このころからパリのロシア音楽院でヴァイオリンを教え始めた。

1937年ニューヨークに移住し、ヴァイオリンを教えた。

1944年にジンバリストの招きでカーチス音楽院の教授となる。

1946年ジュリアード音楽院の教授となり、1948年からドロシー・ディレイが助手となった。

ガラミアンの指導は、技術の習得を最優先した厳しいものだった。特に「弓使い」が専門で優れていた。

1970年にはディレイと仲違いをしたと言われている。

マイケル・レビン、パールマン、チョン・キョンファ、ズッカーマン等を輩出。
http://blogs.yahoo.co.jp/senninnehan/15169841.html


▲△▽▼

ガラミアンのスケールブックについて
http://www.youtube.com/watch?v=O6r0f7_JFo4

ヴァイオリン奏法と指導の原理 イヴァン ガラミアン (著)

・真面目にヴァイオリンを習得しようとした場合
・真面目にヴァイオリンを教えなければならない場合

きちんとした理論が欲しくなりますが、この本はそうしたきちんとした理論の代表格のようなものです。

値段は大変高く、訳も古く、本の体裁もとてもお堅いですが、ヴァイオリン教育業界では知らぬ者のないイヴァン・ガラミアンの著作とあれば、当てはまる人は参照して研究するべきでしょう。
http://www.amazon.co.jp/%E3%83%B4%E3%82%A1%E3%82%A4%E3%82%AA%E3%83%AA%E3%83%B3%E5%A5%8F%E6%B3%95%E3%81%A8%E6%8C%87%E5%B0%8E%E3%81%AE%E5%8E%9F%E7%90%86-%E3%82%A4%E3%83%B4%E3%82%A1%E3%83%B3-%E3%82%AC%E3%83%A9%E3%83%9F%E3%82%A2%E3%83%B3/dp/4276144523

アイザック・スターン曰く、

「ガラミアンは教師としてずば抜けた才能を持っていました。
ガラミアンは、まず初めは楽器を弾きこなすことが先決であり、そのために全てのテクニックの練習曲をさらうこと、
次に、テクニックを付けるための曲を弾くことが大切だと感じていました。」


ピーター・ウンジン曰く、

「人は、ガラミアン先生は石ころからでもヴァイオリニストを作ることが出来ると、いつも噂しました。

ガラミアン先生は右腕の移動の方法を知り尽くしていました。
ヴァイオリンの構造をよく理解していたのです。

生徒達は、数週間ごとに新しいコンチェルトを勉強するように言われました。
全ての指使いとボウイングを教え、それを生徒が間違いなく弾けば、その曲の学習が終わったことになります。もし、スピッカートが下手ならば、スピッカートのたくさん入った曲を練習させるのです。」


パールマン曰く、
「完璧に弾かねばなりませんでした。
さもなければ、先生の目がギラギラと睨みつけ、この世の終わりという感じでした。」


スタインハート曰く、
「私がもう学生ではなくなった時、先生は親しく口をきいて下さいました。
時々チェスをご一緒しました。ゲームの時はいつもウォッカのグラスを持ち、
『一杯目はおいしい。二杯目はもっとおいしい。三杯では足りないね。』
と言うのが口癖でした。」
http://blogs.yahoo.co.jp/senninnehan/15169841.html


http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/437.html

[近代史3] アメリカの演奏家は何故みんな演奏技術だけ凄くて中身ゼロなのか 中川隆
1. 中川隆[-10400] koaQ7Jey 2019年5月18日 13:20:58 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[1919]

ジュリアード音楽院に留学した天才少年ヴァイオリニスト 渡辺茂夫の喜劇(悲劇?)


渡辺茂夫(1941年6月26日 - 1999年8月15日)


Shigeo Watanabe plays the violin
http://www.youtube.com/watch?v=6uMdz9HeREI

Schubert's Ave Maria Violin and Piano - Shigeo Watanabe
http://www.youtube.com/watch?v=qzaQJuVmJlI

Tchaikovsky Violin Concerto in D, Op.35 - Violin: Shigeo Watanabe - Japan - Miyajima
http://www.youtube.com/watch?v=UxEuFi6RpSo

Niccolò Paganini - Le streghe Op.8, MS19 - Violin - Shigeo Watanabe
http://www.youtube.com/watch?v=9kdSBAhki40

Felix Mendelssohn - Auf Flügeln des Gesanges ( On Wings of Song ) - Violin: Shigeo Watanabe
http://www.youtube.com/watch?v=HdLo_OUj6lo

Frédéric Chopin - Nocturne No.20 in C-sharp minor - Violin: Shigeo Watanabe
http://www.youtube.com/watch?v=XbEp4W5Z-dE

戦後日本に彗星のごとく現れた天才少年ヴァイオリニスト渡辺茂夫。

4歳半よりアウアー流派の教授法を研究した父季彦氏より薫陶を受け、13歳で来日していたハイフェッツに才能を高く評価される。

その後ハイフェッツによる熱心な推薦で無試験でジュリアード音楽院へ入学し、ガラミアンに師事。

アメリカでもその才能は高く評価されるも、ガラミアンとの意見の不一致や戦後間もない日米間の微妙な空気などから精神不安となり1957年自殺未遂、演奏活動の続行は不可能となった。

この悲劇的かつ伝説的な神童の演奏は渡米前、渡米中の録音がいくつか残されており、その類稀な音楽性を窺い知ることができる。演奏活動を続けていれば間違いなく世界的なヴァイオリニストに成長したと思われ、残念この上ないことである。
http://www.fstrings.com/player/detail.asp?id=68

渡辺 茂夫は少年時代に戦後復興期の日本で活躍したヴァイオリニスト。いわゆる伝説的な音楽的神童のひとり。

音楽家一家に生まれ、茂夫の生母・鈴木満枝はヴァイオリニストだった。4歳より、母方の叔父の渡辺季彦が経営する音楽教室(渡辺ヴァイオリン・スタジオ)でヴァイオリンを学び始める。その翌年、両親の離婚にともない、そのまま渡辺家の養子となった。


天才少年の誕生
1948年(7歳)に芝白金小学校に入学するが、早くもこの年に、巌本真理より音楽的才能を絶賛され、12月に最初のリサイタルを、翌年以降も毎年1回の定例コンサートを行う。また、1949年にはヴァイオリンを弾く少年役として映画「異国の丘」に出演している。早くも創作面にも関心を示し、音楽理論を石桁真礼生に師事しながら作曲活動や詩作にも着手し、小学校の最終年次にヴァイオリン協奏曲、オペラ、ヴァイオリン・ソナタを作曲。その作品はクラウス・プリングスハイムによって高く評価された。


渡米
1954年(13歳)に暁星中学校に進学。同年、イギリスの名指揮者マルコム・サージェントの指揮により、東京交響楽団とチャイコフスキーの協奏曲を演奏。来日したダヴィッド・オイストラフを訪ねて演奏を行う。5月、渡辺季彦の奔走により、帝国ホテルにおいて、来日中のヤッシャ・ハイフェッツに面会し、演奏を披露、ハイフェッツに深い感銘を与え「百年に一人の天才」と評される。

6月にハイフェッツからの招待を得て、両親に促されて渡米が決まる。1955年3月、ジュリアード音楽院院長より、「ハイフェッツ氏の熱心な推薦により」無試験入学が許可される。各方面の支援者(アメリカ軍属、朝日新聞社、その他の個人)から経済的援助を受け、期限は2年間、演奏旅行には連れ出さないとの条件により、7月に飛行機で渡米。


輝かしい未来
(14歳)カリフォルニア州で語学研修を受けるかたわら、奨学金を得て地元の夏季音楽講習会にも参加する。早くも天才ぶりと品のよい物腰から脚光を浴び、とりわけハンガリー人ピアニストのジェルジ・シャンドールに目をかけられた。

8月末にはモーリス・アブラヴァネルの指揮でベートーヴェンの協奏曲を演奏して、サンタバーバラ市の地元紙で絶賛される。講習会の告別演奏会にも出席して、自作のヴァイオリン・ソナタを披露する。9月にニューヨークに到着し、ジュリアード音楽院でペルシャ出身のヴァイオリニストイワン・ガラミアン(アイヴァン・ガラミアン)に師事することが決定。日系人の家庭にホームステイを始めるが、後にガラミアン宅に同居する。


最後の栄光
1956年(15歳)からニューリンカーンのハイスクールに通学。この頃から日本への連絡が途絶えがちになる(一説には、日本や日本語に対する嫌悪感があらわれたと言われる)。職業音楽家を集めたプライベートの演奏会において、ハイフェッツの伴奏者として知られるエマヌエル・ベイのピアノにより、ブラームスのヴァイオリン・ソナタ、ヴィエニャエフスキの≪協奏曲 第1番≫を演奏。出席者には、レナード・バーンスタイン、ピアティゴルスキー、レナード・ローズらの顔ぶれがあり、ハイフェッツのお気に入りの指揮者アルフレッド・ウォーレンスタインからは、世界一の演奏家になるとのお墨付きを得た。

新学期の9月には、ジュリアード音楽院で史上最年少の奨学生に選ばれ、さらに半額と規定されていた奨学金も全額支給される。秋にガラミアン教授宅を出て、ホームステイ先を変更。すでにガラミアンと折り合いが合わなくなっていた。

青春の終わり・悲劇の幕切れ
1957年2月、情緒不安定を訴え精神科に通院。春にふたたびホームステイ先を変更する。4月より助手としてジュリアード音楽院に残り、研究のかたわら治療を続ける。夏のヴァカンスでカリフォルニア州に行き、恩人ハイフェッツを訪ね、激賞された。9月にジュリアード音楽院に再入学するが、乏しい報酬と心もとない支援金により耐久生活を余儀なくされており、劣悪な住環境しか見つからなかった(身元引受先のジャパン・ソサエティによる配給額が適切でなかったためとされる)。

異国の地で人間嫌いと疎外感がつのるようになり、自殺願望をほのめかすようにもなると、両親は茂夫の急変を察知。ジャパン・ソサエティに緊急帰国を要請するも、同協会は茂夫の治療優先の方針を崩さなかった。ついに11月2日、茂夫は未成年が購入禁止とされているはずの睡眠薬を大量に服用する。11月5日に日本の家族に危篤を告げる電報が届いた。一命はとりとめたものの、不幸にも脳障害が残り、意識を回復する見込みはなかった。翌年1月、家族の要請により日本に送還され、その後四十年以上に渡って在宅療養を続けた。

演奏の特徴
茂夫の演奏は、ガラミアンにつく前にすでにある程度の完成の域に入っていた、と養父・季彦はいう。アウアー奏法を基本として技術的にも優れた才を示していたにもかかわらず、ガラミアンがそれに理解を示さず、独自の厳しい指導でもって自身の奏法へ転換させようとした重圧に茂夫は苦しみ続けたといえる。

茂夫の養父、渡辺季彦 (1909年 - 2012年6月10日[2]) はヴァイオリン教師であり、門下生の多くが国内の各地や海外で、ソリストや楽団員として活動している。渡辺季彦は、カール・フレッシュの理論書やレオポルト・アウアーの著作をひも解きながら、独自のメソッドを編み出しており、小野アンナと同様、早期教育の重要性を説いていた。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B8%A1%E8%BE%BA%E8%8C%82%E5%A4%AB

渡辺茂夫は10代に満たない頃すでに国内では神童として名が通っていた。その評価が決定的になったのは、来日したハイフェッツに高く評価され、ジュリアード音楽院への留学を強く推薦されたことだった。

茂夫にヴァイオリンの手ほどきを施した父季彦氏はハイフェッツの師アウアーの教授法の熱心な研究者で、その最も偉大な門下生、ハイフェッツの推薦は決定を意味していた。しかしこのことが悲劇の幕開けとなるとはこの時、誰も思わなかった。

ジュリアードで茂夫が師事したガラミアンは、近代的合理奏法を推し進めた教育者である。そのため、アウアー流派を強く信奉し、既に完成したスタイルを確立していた茂夫とは奏法上の意見が折り合わなかった。

次第に茂夫はアメリカに来た意味を見失い始める。折りしも戦後間もない微妙な時期で、敗戦国からやってきたこの少年に対する周囲の目も相当に冷たいものであったともいう。こうして彼は演奏ができない体になって日本に戻った。時代と巡り合わせによる悲劇という他ない。

 彼は10代に満たない頃から既に深い音楽的洞察を行っている。これは残された録音からも明らかである。この天才を授かったわずか10歳そこそこの少年は、メニューインの来日時の演奏を日記中に評して「深みのない演奏だった」と述べている。実演がどうだったかはひとまずおいて、彼がこの感想を抱くだけの確立した音楽を自身の中に持っていたことは間違いない。

彼の音色は私の知るすべての日本のヴァイオリニストの中でもっとも個性的で、そして最も美しい。その上、天性に他ならない自然で優雅なフレージングを持っている。もし、演奏活動を続けていれば、と思わずにはいられない。
http://www.fstrings.com/player/

神童 渡辺茂夫

音楽の世界では、しばしば神童が現れます。古典的にはモーツァルトやメンデルスゾーン、現代では、ヴァイオリン奏者のヤッシャ・ハイフェッツや五嶋みどりが有名です。ところが、日本にもう1人まだ音楽活動を続けていたならば、演奏面のみならず作曲面でも歴史に留められたであろう神童がいました。

昭和20年代後半に若干10歳を少し越えて国内の演奏家として確固たる評価を受け、14歳で世界を睨んで、米国のジュリアード音楽院に留学した渡辺茂夫です。

残念ながら彼は留学中の昭和32年に自殺未遂をおこしその輝ける才能は16歳にして終焉をむかえます。両親をはじめ多くの関係者から世界の音楽家として一身に期待を受けていた茂夫でしたが、すでに音楽家としての「渡辺茂夫」は完成されていました。それでも彼が留学したのは、当時の日本では彼と共演できるレベルの音楽家が少なかったこと、それに最高を目指すにはやはり世界の舞台に立つ必要があったからです。

しかし、茂夫の音楽性を理解していた人たちは、それでもなぜまだ幼い時期に留学の必要があったのかと顧みます。今回は、神童の出現、渡米、そして自殺未遂まで、なぜ日本の偉大な才能が失われるに至ったかを考察します。

神童が生まれるまで

神童には2つのパターンがあります。生まれながらにしての天才、そして努力を重ねた結果の天才。モーツァルトを前者とすれば、茂夫は明らかに後者です。

養父の渡辺季彦はオーケストラのヴァイオリン奏者としても、また音楽教育者としても一流の人でした。自らの経験から音楽教育は幼いうちから徹底して行うべきだと、茂夫にも5歳のころからスパルタ式でヴァイオリンを教え込んでいきました。

毎日7〜8時間、幼い子供には地獄ともいえる特訓を施したのです。彼の完ぺきなまでのテクニックは父の指導のもと完成していき、そして彼の天賦の才能が加味して、後に「天上の音楽」とも呼ばれた、他にはまねの出来ない演奏を行うようになりました。7歳の小品の初リサイタルから、小学6年生の時にはすでにベートーヴェンのヴァイオリン協奏曲の共演まで神童にふさわしい音楽活動を続けました。

神童は神童を知る

ヤッシャ・ハイフェッツ茂夫がジュリアードへ留学するきっかけとなったのは、世界的なヴァイオリニスト、ハイフェッツとの出会いでした。茂夫の才能に惚れ込んだ彼は、最年少でジュリアード音楽院のスカラシップに推薦します。

ハイフェッツ自身、15歳の時ベルリンフィルと共演して、「100年に1人の天才」と呼ばれた人物です。非常にプライドの高い彼は、茂夫をして「25年に1人の天才」と称賛しました。これはハイフェッツにとっては最大の賛辞なのです。

また一方、茂夫は作曲の方面でも非凡な才能を発揮しました。茂夫が試作するソナタやオペラを見て、彼を指導した武蔵野音大教授プリングスハイムは最大級の賛辞を惜しみませんでした。もし、彼が作曲を続けていたならば、演奏家としてだけではなく、作曲面でもクライスラー以上の成功が約束されていたでしょう。茂夫の音楽にはそれほどの美しさが宿っていたのです。

ガラミアン学校
イワン・ガラミアン教授茂夫を推薦したハイフェッツには大きな誤算がありました。

父、季彦が茂夫に伝授した奏法はかつてハイフェッツも師事したレオポルド・アウアーの流れを含むものです。一方、ハイフェッツが推薦したガラミアン(Ivan Galamian 1903-1981)は当代最高の音楽教師でしたが、茂夫の演奏法には否定的でした。

ガラミアン学校では後にパールマンやズッカーマンなど今日では巨匠と呼ばれている演奏者を輩出します。しかしながら、厳格な彼の教育法はすでに完成されたスタイルを持つ茂夫には不適切で、才能を伸ばすよりむしろ混乱を与えたようです。感受性の高い思春期の子供への教育としてよく見られる傾向ですが、褒めることよりも厳格な指示による教え方は、かえって反発を買い、本人の才能を縮める結果となります。

特に感受性の高い茂夫にとっては、ガラミアンのレッスンは、本人の人格まで否定しかねなく、彼は徐々に情緒不安定に陥っていきます。彼の変化は単に反抗的になっただけではなく、人間嫌いになり、また自分自身を否定するような日本語拒否反応を示すようになります。この結果、周りからも疎外されていき、ますます孤独に陥るようになっていきます。さらにひどいことに、本来援助されるべき茂夫の生活費が、当時身元引受先であったジャパン・ソサエティから生活に必要な半分も支給されず、生活は惨めなものでした。


神童の悲劇
茂夫は未成年者が買えない睡眠薬をどこからか買って、それを大量に飲んで、自殺を図ります。それ以前に自殺を匂わす言動がしばしば見られましたが、残念ながら誰も真摯になって彼を顧みるひとはいなかったのです。一命を取りとめましたが、彼の脳細胞は薬の影響で破壊され、音楽家としての偉大な才能も失われました。
http://www.mozartant.com/Jordan/Classic/Shigeo_watanabe.htm

渡辺茂夫(天才バイオリニスト)の晩年の40年間の介護 2012/08/27

2012年6月10日、驚異のバイオリン教師、渡辺季彦氏が103才で亡くなられた。

 昭和21年(1946年)渡辺季彦、美枝夫妻にもとに美枝の妹、鈴木満枝の妹と長男の茂夫が同居を始めた。

 茂夫の実母の満枝もバイオリニストだったため、養父の季彦は5才から茂夫にレッスンをほどこしたが、

「最初は他の生徒と比べ、ダントツの下手さで馬鹿じゃないか、と思った」

という不器用さだったが、季彦の猛特訓に耐え、

「一年ほどたって、上達してきた」。


 それが7才で交響楽団と共演のリサイタル、だから驚くしかない。

 8才での名古屋交響楽団との共演では、日記に「交響楽団が全くついてこれないので苦労した」と書くほどだった。

 渡辺茂夫はジュリアード音楽院(NY)に授業料全額免除の破格の待遇でハイフェッツの推薦で入学。

 バイオリンは人の声に最も近い音を出す楽器という。

茂夫の演奏は門外漢が聞いても、まさに天上からの情感に満ちた、もしや人の声?
ではとさえ思わせる音色、演奏。

 8歳頃か、名古屋交響楽団と共演の際、楽団メンバーだった後述の若井一朗氏は

「いざ、本番、真剣勝負となると、まるで天から神様が降り立ったようだった」

と述べている。

  渡辺茂夫の天才ぶりは米国ジュリアード音楽学院時代の在学女性(米国人)も

「シゲオは現代のモーツァルトだった」

と感歎をこめて(番組で)語っていた。


 さて、渡辺茂夫は当時としては夢のまた夢の渡米してのジュリアード音楽院入学。だが、この渡米が天才バイオリニスト渡辺茂夫を潰してしまった。

ジュリアードの帝王、イワン・ガラミアンに惚れ込まれ、ガラミアン邸(ウェストサイドのマンション)に一室に住まわされた。だが、養父の季彦に教えられて完成の域の奏法を変えられてしまい、迷路に彷徨うハメになってしまった、のが最大の不運だった。

この点について、渡辺季彦氏は

 「ガラミアンのように、全て分かっているはずの人が自分の流儀に強引に変えさせるなんて、彼は結局、本当の芸術家じゃなかったんですね」

と憤懣やるかたない、のである。

 なおジュリアードでガラミアンにバイオリン奏法を変えさせられた被害者!に桐朋学園大教授のバイオリニストの小林健次氏もいて、番組でコメントされている。

 米国留学の必要は(あの時点で)、全くなかった。
来日した(1954年)ハイフェッツとの前での演奏が結果として命を奪った。

 クラシックの留学先としてアメリカは何か不適な面がある。
ヨーロッパが当然ベストだが第二次大戦での疲弊が激しかった。

 すでに完成していた奏法を強引に変えられ、生活面でも葛藤が多かったようだ。ガラミアン亭を出て一人暮らし、を始めてからは金欠の傾向が出てきた。

それはまさに経済的な困窮だった。留学に際して渡辺家は三条件の一つに「アルバイトはしない」を挙げていた。しかしあまりの茂夫の窮状をみかねたガラミアンは「週三回のオーケストラでのバイト」を提示した。
ギャラは月収75ドルでこれは当時の水準でも安い。

 ガラミアンの紹介したオーケストラは「National Orchestra association」で全米の演奏家の登竜門だった。 同時期にジュリアードにいた小林健次もこのバイトをしていたが、この中では小林、渡辺は抜群の実力だった。

 だが、このオーケストラにJudieという茂夫より年長の可憐な白人の少女がいた。16才になっていた茂夫はジュディにぞっこんになった。 茂夫は英文日記で

 「今、ジュディに電話しようかと迷っている。彼女は忙しく、僕のことなどに構ってくれないだろう。この夏は彼女によく逢えた。そして心を乱された。ジュリアードでは同じクラスを僕は繰り返し、幸福ではなかった。言葉も十分でなく、意思の疎通の出来ず、トラブルが多かった。生活も混乱した。他人の感情に悩まされてはいけな(ジュディを除いて)」

 小林健次によれば

「確かジュディという少女はいたように記憶しています。
まだ彼女も十代でした。派手でなく可愛い人でした。オーボエだったか、バ
イオリンだったか、」

 ともあれ、この頃の多感な茂夫が他生年上の少女に恋した、のも無理からぬことだった。だがしょせん、友情としか思っていないジュディは茂夫の苦しみの原因になった。

 日記「ああ、今すぐ、ジュディに逢えたら、と思う。彼女を忘れられない。
彼女のことで頭が一杯だ。この二日間、誰とも話していない。
ジュディがいないと寂しくなる。生きる希望を失っていた僕に希望を与えてくれたのだ」

 「この夏、ジュディに逢ったとき、人生で初めての幸せを感じた。だが、今
はそうではない」

 ジュディを知って逆に週三回のバイトが楽しみになった。

米国でも「二十世紀のモーツァルト」、「比べる者もない演奏」と評されても、・・・・・16才で終わりました、では悔やんでも悔やみきれない損失と言うしかない。

 「今の僕の考えは危険なものになりつつある。誰も親身になって気づか
ってくれないのだ。
 僕は一つの結論に達した。ジュディはもう僕などに関心はない。だが僕
は変われない。ジュディに聞きたい。僕をどう思っているのか。はっきりさせ
てほしい。もう逃げるしかない。全てが終れば何も感じないだろうから」

 「ああ、僕は間違っていた。僕を助けてほしい。ジュディだけが僕を助けてくれる。僕は疲れてしまった。今の僕は何も出来ない。もう数週間したら、・・・」

 十月下旬、茂夫はジュディへの手紙をオーケストラノメンバーに託した。
だが、返事はなかった。いくら待っても返事がないことに茂夫は絶望した。

 ・・・・実は手紙を託されたメンバーが忘れてジュディに渡さなかったのだ。
これが運命を決めてしまった。

 「僕はジュディに声をかけた。だが返事はなかった。もうジュディに頼らな
いことにする。僕はもう疲れてしまった。」

 「僕を本当に思ってくれる方へ
 策や彼女に別れを言って、全てが決まった。この夏、全く希望などなか った。僕自身、すべてを忘れようとして、いろんなことをやった。ただ幸福になりたくて友人をたくさん持ちたいと思った。しかし、心の中のどこかでこの世から逃げ出すことを決めていた。(中略)
NYに戻ったとき、人生が恐ろしかった。しかし再びジュディと逢った。気持が戻った。その後、いつもジュディに惹かれていた。彼女こそ僕を幸せに出来るただ一人の存在だ。核心は、僕は全てをジュディに捧げた。が彼女は僕を見ようともしない。もう何も考えないことにしよう」

 茂夫の悲劇が起こって手紙を託されて忘れたメンバーは後悔に苛まれ
た。

 下宿先の女性には自画像「鎖でベッドに足をつながれて演奏している自らの姿」を書いて見せていた。

 1957年11月1日、茂夫は日米協会を訪れた。いあわせたオーバートン事務局長に
「僕はたいへんなご負担になっている、と思います、日本に帰ろうと思うんです」

 日ごろの茂夫の日本嫌いを知っていた事務局長は驚いた。だから
「 無理に帰国させたら自殺のおそれもある」
と精神科の医師も言っていたのだ。それが突然の翻意だ。

 「今帰国したら皆、おかしいと思うよ」

 「そうでしょうか」茂夫は首をかしげた。

 翌、二日後もまた茂夫が現れた。
「もう身許保証人になっていただかなくていいです。すぐ日本に帰らせてください」

 翌日の三日は茂夫は終日、部屋にこもっていた。

 この日の午後、2階の小林健次の部屋を米国人がノックした。

 「建次、ちょっと心配なんだ。いま廊下で茂夫は私に錠剤を見せて
『これを飲んで死んでやる』
なんて言ってるんだ。大丈夫かな。私は仕事があるので見ていてやれないが」

 小林健次は茂夫の茶目っ気と思った。本気で死ぬ人間がそんなものを人に見せるだろうか。小林は、どうすべきか、思案していた。

 その夜、12時近く、うとうとしていた小林健次は誰かが激しくノックする音で目が覚めた。

 「建次、起きろ!茂夫が大変だ!」

 「何があった?」

 「茂夫が自殺したんだ」

 小林ははねおきて4階の茂夫の部屋に走っていったがすでに茂夫は運びだされていた。

 ニューヨーク市警に報告が入ったのは午後11時45分。パトカーが到着した時は既に誰かがセント・ルークス病院に運んでいた。

 市警の報告書

 「男性、16才、黄色人種。シゲオ・ワタナベは特定できない睡眠薬を飲んで明らかに自殺を計った。個人的にセントルークス病院に運ばれた。
 ジャパンソサイアティによれば本人は重体で面会謝絶。医師はスコポラミンとメサフィリンを服用したのが原因としている。この大量摂取は危険である。失恋で精神がめいっていた、との証言もある。要望で捜査は打ち切る」

 ただちに全力を挙げての茂夫の治療が始まった。意識不明で瞳孔散大 。
自律神経失調で発汗しない。そのため体温は急上昇して40度を超えていた。全身は反り返っていた。胃の洗浄したが薬物は既に吸収されていた。
呼吸困難が始まった。痙攣が顕著。服毒から治療開始まで7時間経過。

 小林健次も病院に来たが、
「口も利けず私が誰かもわからない。言葉も話せない」


 外務省にNY総領事館からの報告

 「目下、当地でバイオリン研修中の渡辺シゲオは米国人娘に失恋し、それを苦にして、昨日3日夜m多量の睡眠薬で自殺を企て、重体になっているところを発見され、直ちにセント・ルークス病院に搬送された。あらゆる治療がなされたが、午後にいたっても危篤状態は変わらず、担当医師の話では、回復の見込みはなく、命は取りとめても脳が破壊されているため通常の生活はおろか、寝たきりになって精神機能もないであろう、ということである」

 渡辺季彦はこれを信じることはなく、終始一貫、自殺など責任逃れであって、何者かの陰謀によるものだ、と信じて疑がわなかった。

 茂夫の治療費は莫大になっていった。協会の茂夫のためのお金はすぐに枯渇した。若井一朗は米国が責任を持って面倒見るべき、と主張した。

 結局、それは無理と分かり、茂夫を帰国させる、こととしたが、この重体の半死半生の患者をどうやって遠路はるばる帰国させるか、が問題になった。

 若井は協会会長に掛け合って渡辺茂夫基金を創設することを認めさせた。茂夫が生涯に得る金額は想像を絶する大金だろう。それだけの金があれば茂夫を帰国させても療養生活を余裕を持って送れる、と踏んで若井は自ら付きそって帰国させることとした。

 日本航空は断った。ノースウェストが受諾した。コクピットの後ろの特等席にある四つのベッドの一つに茂夫を固定した。若井が付き添っていた。 鼻にはvチューブ尿を取るカテーテル、他の乗客は何事か、と怪訝な顔をしていた。

 機内で茂夫は暴れ、わめき、他の客は必死で耐えた。

 昭和33年1月16日、羽田に到着した。そして渡辺季彦などの待つ自宅に到着した。・・・・・・

 テレビ朝日の番組では

 若井氏いわく「脳の表面が壊れてしまっていて、喜怒哀楽はかろうじてあるようだったが、四肢も動かせず全く動けなくなっていた.全身は硬直し、けいれんが続いていた」

 ・・・・脳の表面が壊れていた、・・・とは開頭したのだろうか。・・・・
睡眠薬多量服用のためとされる。

 だが養父の渡辺季彦氏は生涯、その死の原因を追究し続け、
「茂夫が自殺なんかするはずないじゃないですか。NYの新聞記者によれば茂夫はギャングの陰謀に巻き込まれたんですよ.。これは、はっきりしていることなんですよ」
(89才のとき、テレビ朝日放送番組で)

 ・・・・・渡辺季彦氏は鎌倉でバイオリン教師(レッスン)の傍ら91才まで茂夫が58才で亡くなるまで40年間、必死の介護、リハビリを行い、最後は何とか支えたら歩けるていどにまで回復させた。しかし帰国後、言葉を発したことは一度もなかった。

 TV]で放送されたその時の茂夫と風呂に入れて食事もさせる季彦氏(当時89才)のそのに気丈な姿。あまりに愛情に満ちて献身的な季彦氏である。

 なおこの時、番組スタッフが茂夫氏に何度かコンタクトを計り、最初は茂夫氏も警戒心を示していたが、徐々に完全に打ち解けてくれたそうである。

テレビ朝日で放送された茂夫死去2年まえの番組のゲストとして出演されていた服部克久先生が

 「さらに経験を積んで上達し、彼が最高の名器で、そして現在の録音技術の中で演奏していたら、どれほど素晴しいものが出来ていたことか。日本はまさに宝を失った、ということなんです」

 は、まさに至言と思われます。

 それにしても半生半死の状態で帰国、動けず、言葉もなく、感情も失せた茂夫を必死の介護で支えた養父の季彦は茂夫が1999年8月15日、58才で亡くなるまで二人で41年間、肩を寄り添って鎌倉で生きたのである。
http://madonna-elegance.at.webry.info/201208/article_28.html

http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/437.html#c1

[近代史3] アメリカの演奏家は何故みんな演奏技術だけ凄くて中身ゼロなのか 中川隆
2. 中川隆[-10399] koaQ7Jey 2019年5月18日 13:22:43 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[1920]

まあ、渡辺季彦みたいに気が小さくて意気地無しだったら大成できる筈も無いんですけどね。

ガラミアンには何ら責任は有りません。

欧米では か弱い女性でもこの自己主張の強さですからね:


ナージャ・ソレルノ・ソネンバーグ。

Nadja Salerno-Sonnenberg Plays Mendelssohn's Violin Concerto on the Tonight Show
http://www.youtube.com/watch?v=ROWnNIVgVyA


知っている人は知っている。私と同い年らしい。

1960年生まれのアメリカのヴァイオリニストで聴いて頂きますが、この人とんでもない「じゃじゃ馬」だったようです。

ヴァイオリン教師の神様のような伝説的存在、カーティス音楽院の故・イワン・ガラミアンに習ったのですが、全然、言うことをきかなかった。ガラミアンはおっかない先生で「イワン雷帝」というニックネームで呼ばれる厳しい人でした。とにかく基礎から徹底的に絞る。おかげでパールマンとかものすごく優秀な弟子が才能を伸ばしました。

ガラミアンの

Cry now. Play later.(今、泣いて、後で弾け)

という有名な言葉があります。今はとにかくテクニックを身につけろ。上手くなれるだけ、なれ。

音楽的にどうだとか、そう言うのは後で良い。と、まあ乱暴に言うと、そのような意味です。

以前、日記に書いたので、お読み下さい。

2004年01月07日(水) Cry now. Play later."―今、泣いて、後で弾け。― イワン・ガラミアン=ヴァイオリン教師

さて、今日お聴き頂くメンデルスゾーンのソリスト、ナージャ・ソレルノ・ソネンバーグという人。前述のとおり、並の変わり者ではないようです。

イワン・ガラミアンの生徒は大抵、先生に逆らうことなど恐ろしくて出来ませんが、ナージャは、言っちゃうんですね。ガラミアンがナージャの弓の持ち方がなっていない、と指導すると、

「どうして?他の子にはそれでいいかもしれないけど、私は嫌だわ」

一時が万事で、とうとう、ガラミアンは匙を投げたそうです。


その後、我流で練習していたらしいのですが、14歳の時に、やはりヴァイオリン教師の神様みたいな、ジュリアード音楽院のドロシー・ディレイという先生の門下生となるのですが、ディレイ先生も最初はひっくり返ったそうです。

ブルッフという作曲家のヴァイオリン協奏曲の一部を弾いて見せたら、ディレイ先生、ナージャの完全に我流のボーイング、楽器の構え方を見て、

「あんな弾き方でどうしてこんな演奏ができるのか、全く信じられない」

唖然としたらしい。それでも弟子にしたのは、音楽的な才能の片鱗をナージャに見出したのでしょう。

しかしながら、ナージャはディレイ先生のレッスンでも大変だったそうで・・・。

ディレイ先生、基礎からやり直させようとしたら、ナージャは、私には前のやり方が合っているし、第一、ちゃんと弾けています。教えなきゃいけないことだけ教えて下さい!

と反論したそうな。相当なもんだね。普通破門だけど、ドロシー・ディレイ先生、辛抱強く説得したんです。すると、ナージャ・ソレルノ・ソネンバーグはもともとバカじゃないから、先生の言うことの合理性が次第に理解出来て、教えに従うようになったと。

それで落ちつくかと思ったら、また大変でした。1981年にあるコンクールに出てナージャは優勝するのですが、その前、何がどう気に入らないのか、何と7ヶ月もの間、レッスンに楽器を持たずに現れては、ディレイ先生と話をするだけ、という「レッスン」が続いたそうな。ディレイ先生、半年は何とか我慢したが、ついにキレて、

7ヶ月目、
来週楽器を持ってこなかったら、破門にする。更にジュリアードも退学にする。
と、激怒して宣言したのです。それでやっとナージャ・ソレルノ・ソネンバーグは目が覚めて、コンクールまで1日13時間練習したそうです。で二ヶ月でコンクールに優勝したのだから、やはり才能あるんでしょうね。

芸術家に変わり者が多いのは、世間にも知られていることですが、最近の音楽家でこれほど、異端児は珍しい。演奏にも現れてます。
http://www.enpitu.ne.jp/usr8/bin/day?id=89954&pg=20090313

http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/437.html#c2

[近代史3] アメリカ人には音楽は理解できない _ 天才ピアニスト ヴァン・クライバーンとは何だったのか?

アメリカ人には音楽は理解できない _ 天才ピアニスト ヴァン・クライバーンとは何だったのか?


ヴァン・クライバーン 動画
http://www.nicovideo.jp/tag/%E3%83%B4%E3%82%A1%E3%83%B3%E3%83%BB%E3%82%AF%E3%83%A9%E3%82%A4%E3%83%90%E3%83%BC%E3%83%B3
http://www.youtube.com/results?search_query=Van+Cliburn+&oq=Van+Cliburn+&gs_l=youtube-reduced.3..0.72235.74106.0.74453.2.2.0.0.0.0.133.249.0j2.2.0...0.0...1ac.1.j8mKnwV7CUo
http://www.youtube.com/results?search_query=%E3%83%B4%E3%82%A1%E3%83%B3%E3%83%BB%E3%82%AF%E3%83%A9%E3%82%A4%E3%83%90%E3%83%BC%E3%83%B3&oq=%E3%83%B4%E3%82%A1%E3%83%B3%E3%83%BB%E3%82%AF%E3%83%A9%E3%82%A4%E3%83%90%E3%83%BC%E3%83%B3&gs_l=youtube-reduced.3..0l2.2092.2092.0.2825.1.1.0.0.0.0.287.287.2-1.1.0...0.0...1ac.8-JJirE_CYk

Kabalevsky Rondo 1958 Competition Finale Van Cliburn Rec 1958.wmv
http://www.youtube.com/watch?v=VF1mZZPtl54

The Van Cliburn Collection
An interview with Van Cliburn as he discusses highlights from his personal collection to be offered 17 May 2012 in New York.
http://www.youtube.com/watch?v=a5WqZqMcNrc

チャイコフスキー/ピアノ協奏曲第1番変ロ短調OP.23
ヴァン・クライバーン(Pf) キリル・コンドラシン指揮シンフォニー・オーケストラ1958.5.30、ニューヨーク、カーネギーホール
http://www.nicovideo.jp/watch/sm14114510
http://www.nicovideo.jp/watch/sm20214185

チャイコフスキー:ピアノ協奏曲第1番 変ロ短調
キリル・コンドラシン 指揮 モスクワ・フィルハーモニー管弦楽団
1962年 モスクワ
http://www.nicovideo.jp/watch/sm15623235
http://www.nicovideo.jp/watch/sm15623471

ラフマニノフ:ピアノ協奏曲第2番ハ短調 Op.18
ヴァン・クライバーン(Pf) フリッツ・ライナー指揮 シカゴ交響楽団
録音:1962年3月31日、4月2日、シカゴ、オーケストラホール
http://www.nicovideo.jp/watch/sm17994733

ラフマニノフ:ピアノ協奏曲2番 ハ短調 作品18
http://www.nicovideo.jp/watch/sm1750709
http://www.nicovideo.jp/watch/sm1750930
http://www.nicovideo.jp/watch/sm1751185

Van CLIBURN plays RACHMANINOV 3d Concerto VIDEO Moscow 1958
http://www.youtube.com/watch?v=apNTq-Tgf4w
http://www.youtube.com/watch?v=V6bOffYLYlM
http://www.youtube.com/watch?v=xGDMXQGpHzo
http://www.youtube.com/watch?v=hBuSHK2tAEQ
http://www.youtube.com/watch?v=lV9bmcE7d5Y

プロコフィエフ:ピアノ協奏曲第3番ハ長調作品26
ワルター・ヘンドル(指揮) シカゴ交響楽団
1960年10月22,24日 シカゴ・シンフォニー・ホール
http://www.nicovideo.jp/watch/sm20215627

ベートーヴェン:ピアノ協奏曲第5番 『皇帝』
キリル・コンドラシン 指揮 モスクワ・フィルハーモニー管弦楽団
1962年 モスクワ
http://www.nicovideo.jp/watch/sm16256259
http://www.nicovideo.jp/watch/sm16256585

シューマン:ピアノ協奏曲イ短調 Op.54   
フリッツ・ライナー(指揮)シカゴ交響楽団
1960年4月16日/シカゴ・オーケストラ・ホール
http://www.nicovideo.jp/watch/sm20215384

Piano Concerto No 1 Op 11 in Em - Chopin (Van Cliburn)
http://www.youtube.com/watch?v=G5lClCK06xg


ショパン(Chopin)「12の練習曲 Op.10 第12番 ハ短調『革命』」
映像は1972年のモスクワ・リサイタルからです。 
http://www.nicovideo.jp/watch/sm14109183

Van Cliburn plays Chopin Ballade
http://www.youtube.com/watch?v=k9D2aHiFpdk
http://www.youtube.com/watch?v=GaojdMtvVc4

Chopin Nocturne No.17 (Van Cliburn, piano)
http://www.youtube.com/watch?v=3mMjs-wa1O8


スクリャービン(Scriabin)
12の練習曲 Op.8 第12番 嬰ニ短調 『悲愴』
映像は1972年のモスクワ・リサイタルからです。
http://www.nicovideo.jp/watch/sm14109056

ドビュッシー(Debussy)『ベルガマスク組曲 第3番 月の光 変ニ長調』
http://www.nicovideo.jp/watch/sm10566272

Liszt Sonata in B Minor - Van Cliburn 1960
http://www.youtube.com/watch?v=kRNdPgZ0Y-4

Van Cliburn Plays Hungarian Rhapsody No.12
http://www.youtube.com/watch?v=mwMYHgQpKSE

【訃報】ヴァン・クライバーン(アメリカ合州国のピアニスト)

ピアニストのクライバーン氏死去 冷戦下にソ連で優勝、米の英雄に

 【ニューヨーク共同】冷戦下の1958年にソ連で開催された第1回チャイコフスキー国際コンクールで優勝した米国のピアニスト、バン・クライバーン氏が27日、南部テキサス州の自宅で死去した。78歳だった。米メディアが伝えた。最近は骨がんの治療を受けていたという。

 1934年、南部ルイジアナ州生まれ。ニューヨークのジュリアード音楽院で学んだ。チャイコフスキー国際コンクールの優勝で一躍、国民的英雄に。ニューヨーク・タイムズ紙(電子版)によると、ニューヨーク・マンハッタンで帰国後に行われたパレードには約10万人が詰め掛けた。
2013/02/28 06:08 【共同通信】
http://www.guardian.co.uk/world/2013/feb/27/van-cliburn-pianist-moscow-dies

中村紘子著「チャイコフスキー・コンクール」
http://www.amazon.co.jp/%E3%83%81%E3%83%A3%E3%82%A4%E3%82%B3%E3%83%95%E3%82%B9%E3%82%AD%E3%83%BC%E3%83%BB%E3%82%B3%E3%83%B3%E3%82%AF%E3%83%BC%E3%83%AB%E2%80%95%E3%83%94%E3%82%A2%E3%83%8B%E3%82%B9%E3%83%88%E3%81%8C%E8%81%B4%E3%81%8F%E7%8F%BE%E4%BB%A3-%E4%B8%AD%E5%85%AC%E6%96%87%E5%BA%AB-%E4%B8%AD%E6%9D%91-%E7%B4%98%E5%AD%90/dp/4122018587


に、一介の「田舎のピアニスト」だった彼が、チャイコフスキーコンクールの第一位になり、文字通りの「アメリカン・ドリーム」を実現するまでと、その後の停滞と挫折までが、アメリカのクラシック事情と共に詳しく述べられている。

ピアニストの中村紘子は近年の来日公演に関して

「その演奏はもはや正面きってどうのこうの、といえるような対象ではありませんでした。」

と論じつつ、

「彼が芸術家として成熟することなく終わってしまったのは、結局アメリカのこの豊かさ、楽しい生活に問題があったのではないか、と考えたものです。」
と述べている。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%B4%E3%82%A1%E3%83%B3%E3%83%BB%E3%82%AF%E3%83%A9%E3%82%A4%E3%83%90%E3%83%BC%E3%83%B3


リヒテルの「人生表も裏もある。簡単に信じるな」と言わんばかりの屈曲した名演に比べ、将来を楽観し切った疑いを知らぬ若きヤンキーの演奏。

その後、短期金儲け主義の興行主の言うままに毎晩のようにチャイコを弾き、腕の筋肉を潰し、ピアニストとして終わった(中村紘子「チャイコフスキーコンクール」)クライバーンの運命を予言していたかのよう。
http://www.hmv.co.jp/artist_Tchaikovsky-Rachmaninov_000000000025861/item_%E3%82%AF%E3%83%A9%E3%82%A4%E3%83%90%E3%83%BC%E3%83%B3%EF%BC%8F%E3%83%81%E3%83%A3%E3%82%A4%E3%82%B3%E3%83%95%E3%82%B9%E3%82%AD%E3%83%BC%EF%BC%86%E3%83%A9%E3%83%95%E3%83%9E%E3%83%8B%E3%83%8E%E3%83%95%EF%BC%9A%E3%83%94%E3%82%A2%E3%83%8E%E5%8D%94%E5%A5%8F%E6%9B%B2%EF%BC%88%E3%83%8F%E3%82%A4%E3%83%96%E3%83%AA%E3%83%83%E3%83%89%EF%BC%B3%EF%BC%A1%EF%BC%A3%EF%BC%A4%EF%BC%89_1830252/ref/history_3

ヴァン・クライバーンさん死去 2013年2月28日 (木)

さる2月27日、アメリカの名ピアニスト、ヴァン・クライバーンさんが、進行性の骨ガンのためテキサス州の自宅で亡くなられました。78歳でした。心よりご冥福をお祈り申し上げます。

【プロフィール】
ホロヴィッツが「この若者は、他の人間の2倍の音を持っている」と称え、リヒテルがチャイコフスキー国際コンクールで満点を与えたピアニスト、ヴァン・クライバーン(本名ハーヴィー・レイヴァン・クライバーン・ジュニア)は、1934年7月12日、ルイジアナ州シュリーヴポートの生まれ。

 クライバーンは3歳からリストの直系の弟子でもあった母からピアノを習い始め、翌年には公衆の前で演奏、6歳でテキサス州に移ってからはさらに腕を上げ、12歳のとき、州のコンクールに優勝してヒューストン交響楽団と共演しています。

 この共演で注目を集めることとなったクライバーンは、ジュリアー度音楽院に進んでロジーナ・レヴィーンに師事、在学中にもいくつもの賞を受賞しています。

 そして1958年、23歳のときに第1回チャイコフスキー国際コンクールで優勝して、全米の注目を集めることとなり、コンクール直後に録音されたチャイコフスキーのピアノ協奏曲第1番はわずか2週間で100万枚の売上を記録、ビルボード誌アルバム・チャートで7週連続1位という凄まじい人気となりました。
 この成功により、世界各地で演奏活動をおこなうようになったクライバーンは、1966年には日本も訪れ、以後、たびたび公演をおこなっています。

 また、冷戦時代の一大トピックともなったクライバーンの優勝を記念し、1962年からはその名を冠した「ヴァン・クライバーン国際ピアノ・コンクール」が開催されています。

 クライバーンの現役時代の芸風は、優れたテクニックと美しい音に恵まれたもので、端正な解釈をスケール大きく表現する手腕は実に見事なものでした。しかし、コンクール優勝後の異常なまでの多忙さは繊細なクライバーンにはこたえたようで、幾度もの休養を余儀なくされ、やがて1978年には44歳の若さで引退を表明、以後は何度かの例外的公演を除き、事実上の隠遁状態にあったとされています。
(HMV)
http://www.hmv.co.jp/news/article/1302280024/


ヴァン・クライバーン Van Cliburn はアメリカ合州国のピアニスト。1934年、アメリカ合衆国ルイジアナ州生まれで、本名はハーヴィー・ラヴァン・クライバーン・ジュニア Harvey Lavan Cliburn Jr.。

ロジーナ・レヴィーン Rosina Lhévinne に師事した後、1958年、23歳で第1回チャイコフスキー国際コンクールで優勝。冷戦下のソ連のイベントに赴き優勝したことにより、一躍国民的英雄となる。


彼の演奏を生で聴いたことはないし、録音も数回聴いた程度。したがって、彼の演奏をどうこうと振り返る資格も意欲もない。
彼がその名を轟かせることになったのは、上掲記事にもあるように、チャイコフスキー国際コンクールでの優勝によってである。

1958年といえば(私は生まれていないが)、米ソ両超大国による冷戦の真っ最中。すでに5年前にスターリンは死去しており、後を継いだフルシチョフは「雪解け」外交を展開しつつあったが、そんなことで直ちに緊張が緩和されるはずもない。前年にはスプートニク1号の打ち上げ成功もあり、ソ連脅威論が大いに喧伝されていた時である。

実際なにがどうなっていたのか、真実が明らかになることはないし、今となっては不要でもある。結果として、よりによって南部の「テキサス」人が、芸術の本場であるヨーロッパ(ロシアではあるが)のコンクールで、敵国首相を前にコンクールで優勝した、という凄まじい熱狂が残った。凱旋将軍よろしく、ニューヨークをパレード(音楽家としては史上初)したりもしている。

その後、特に大きな話題になることもなく、アメリカ国内でリサイタルを開催する程度だった。
チャコフスキー国際コンクール以前にも出場したコンクールの殆どで優勝し、また20歳にならないうちにニューヨーク・フィルハーモニックとも共演を果たしている。下手ではなかったのは間違いないだろうが、本人の思いとは別に、世界が彼を引き摺り回した面もあっただろう。

報道によれば、愛する家族に囲まれての死だったという。余人がとやかく言うのとは別に、本人としては納得できる人生だったのではなかろうか。
http://blog.livedoor.jp/minhir3151/archives/51253129.html

ヴァン・クライバーンを悼む 2013年02月28日

「米国のピアニスト、ヴァン・クライバーン氏、27日骨ガンのため死去、享年78歳」とのニュース。

私と同世代ながら、30年以上前に引退、隠遁生活に入ってしまったが、私にとっては忘れ得ぬ伝説的と言っていいピアニストである。

クライバーンは、1958年、モスクワで行われたチャイコフスキー・ピアノ国際コンクールで、審査委員に入ったリヒテルがクライバーンには満点をつけ、他の候補には全て零点を付けたという逸話を残して優勝した。当時は、米ソ冷戦時代、米国は熱狂して彼の凱旋を讃えた。一躍、時の寵児となったクライバーンは多忙を極め、練習もままならぬ状態で、いつしか演奏の質も落ちて行った。そして成熟期を迎えぬまま44歳で引退してしまった。

辻井伸行さんが日本人初の優勝を果たしたヴァン・クライバーン・ピアノ国際コンクールは、クライバーンが優勝した4年後にそれを記念してできたのだが、斯様なほどに周りの熱が高くそれに翻弄されてしまったことが、早い引退に繋がったと言えるのではないか。

引退後、公衆の前に殆ど姿を見せなかったというクライバーン、晩年の想いは何処に向けられていたのだろう。
http://blog.goo.ne.jp/nakano_s88/e/f24e71fb1704e04e583321f4d0c6a250

__________

クライバーン 英雄の末路 2011/7/12(火)

 ヴァン・クラーバーン、僕が初めてこの人の名前を知ったのは比較的早い時期だった。たぶん中学生になって間もない頃ではなかったろうか。チャイコフスキーコンクールに優勝した時ではなく、その後の活躍ぶりを示すレコードやラジオ・テレビの音源からである。

彼は、ジュリアード音楽院でロジーナ・レヴィーンに師事している。はて・・・と思ったらやっぱりそうだった。中村紘子の先生だった人だ。最初にこの人の話をしておくことにしよう。
 
 ロジーナ・レヴィーンは、ウクライナのキエフにうまれたピアニストでモスクワ音楽院を卒業した。夫のヨゼフ・レヴィーンと一緒に1919年にアメリカに亡命した。夫の死後、ジュリアード音楽院の教授に請われて、1976年に亡くなるまで32年間もピアノ科で数々の優秀な音楽家を育てた。あのジョン・ウイリムズも弟子だった。

 もっと面白いことがある。このロジーナ・レヴィーンは優秀な演奏家でありながら自分自身の演奏活動を公にすることはなかったのだが、75歳の時にソリストとして再デビューしている。その後、1963年レナード・バーンスタイン指揮、ニューヨーク。フィルハーモニー・オーケストラとショパンのピアノ協奏曲第1番を演奏した。82歳だった。そのとき使った楽譜は65年前にモスクワ音楽院を金メダルで卒業した時のものだった。

  さて、肝心のクライバーンだが、ウィキペディアによれば以下のようになる。

  ヴァン・クライバーン(Van Cliburn, 1934年7月12日 - )は、アメリカ・ルイジアナ州生まれのピアニスト。本名はハーヴィー・ラヴァン・クライバーン・ジュニア(Harvey Lavan Cliburn Jr.)。

  ロジーナ・レヴィーンに師事した後、1958年、23歳で世界的に権威のある第1回チャイコフスキー国際コンクールで優勝。冷戦下のソ連のイベントに赴き優勝したことにより、一躍国民的英雄となる。
(なお、このコンクールに審査員として参加していたスヴャトスラフ・リヒテルは、クライバーンに満点の25点を、他の者すべてに0点をつけた)

凱旋公演では、コンクール本選で指揮を担当したキリル・コンドラシンを帯同させている(ちなみに、コンドラシンの海外デビューである)。この優勝を祝してヴァン・クライバーン国際ピアノコンクールが1962年より開催されている。1966年には初来日も果たしていて、日本での人気も高い。

  こんなバカげた話がある。ヴァン・クラーバーンが決勝のラフマニノフの協奏曲第2番を弾き終わると、スタンディン・オベーションがおき、拍手は8分もの間鳴り止まなかったという。そのときの審査委員長は、会場にいる共産党第一書記ニキタ・フルチョフにいかがでしょうとお伺いを立てると、

「やつが、一番なのか」フルチョフは聞き返す。

「そうです」と答えると、一言

「それならば賞をやれ!」

って言ったらしい。それで決まり。
(本当かどうかは分からないがあり得る話です)


  チャイコフスキー・コンクールで優勝したクライバーンは一躍アメリカの英雄になった。紙吹雪の舞う中ニューヨークに凱旋した。

当時のアメリカとソビエトはとんでもない緊張状態にあった。核兵器の数を、宇宙への一歩を、科学の粋を集めて競っていた。「一番じゃなきゃだめなんですか」なんて悠長なことを言っていられる時代ではない。スパイ合戦、目に見えない場所での小衝突は数限り無いが、すべては闇から闇に葬り去られる。折しも、核弾頭搭載ミサイルの基地がキューバに建設されるや一触即発のきな臭い時代だった。

そんな時にルイジアナ生まれの23歳の若者がロシアで主催されたコンクールで優勝したのだ、大騒ぎにならないわけがない。笑ってしまうのは、タイム誌の表紙にクライバーンが載ったことだ。そのタイトルがまたふざけている。

          黄色の帯「テキサス人ロシアを征服」19,May1958,


 初来日の時には日本でもレコードが売れまくっていたようで、僕の記憶にも薄ぼんやりと残っている。コンドラシンは結局その後亡命してアムステルダム・コンセルトヘボウの永久指揮者として迎えられているが、そのコンドラシンとのレコードはポップスアート部門で7週連続第1位だったというからどんなにクライバーンが持てはやされていたかが分かろうというものだ。その後のラフマニノフの2番と3番のコンチェルトもアルバムチャートで10位など破格の記録を打ち立てた。こういうことはクラシック界では、あることではなかった。


  様々な音楽コンクールに優勝すると数々のご褒美がついてくる。いや、きたと書くべきだろう。レーベルとの契約、数回の記念演奏会、マスコミの取材、等々である。これらは今いろいろ見直されている。演奏家を保護する意味合いからだ。

たとえば、このクライバーンという一人の片田舎の若者が、ある日いきなりアメリカを代表する人間になり、日々演奏会やレコーディング、数々のマスコミの取材やらで自分の時間も持てないほどのスケジュールをこなしていく。やがて、目に見えない疲労が蓄積されていく。そして、それは極限状態に向かっていく。

  ・・・そのとある日、何かかが起きると緊張の糸がぷっつりと切れ、燃え尽き症候群を引き起こす。彼の場合父親の死がそれを引き起こした。そして、表舞台からぷっつりと姿を消した。

しばらくして、来日した時の公演に関して中村紘子はこんなことを言っている。
「その演奏は、もはや正面切ってどうのこうの、と言えるような対象ではありませんでした」
と言うのだ。さらに、
「彼が芸術家として成熟すること無く終わってしまったのは、結局アメリカの豊かさと、楽しい生活に問題があったのではないかと考えたものです」
と言っている。(2003NHK)

 中村紘子氏が言うように、コンクールで賞を取るということは容易なことではないが、そうしたことに押しつぶされず、自分の行くべき道をいつでも地道に成熟していく道を探すことは難しい。これは、音楽関係者はもちろん、聴衆やマスコミの問題でもある。

 自分という名もなき人間ですら、名もなく清く美しく生きたいと熱望しながらも惰性や諦めや屈辱の中で、時折挫折しそうになるではないか。況(いわん)や、天才をや!


 ※1958年とはどんな年だったか

前年10月に打ち上げられたスプートニクが大気圏に突入、
アメリカ初の人工衛星、エクスプローラー1号打ち上げ、
ナンシー梅木が日本人初のアカデミー助演女優賞を受賞
巨人・長嶋茂雄選手、4打席4三振デビュー。
日本コカ・コーラ、炭酸飲料「ファンタ」を日本で発売。2008年には発売50周年を迎えた。
富士重工業が「スバル・360」を発売。
シチズン時計が目覚まし付き腕時計「アラーム」を発売。
本田技研工業が「スーパーカブ」を発売。
日清食品が「チキンラーメン」を発売。
早稲田実業の王貞治投手の巨人軍入団決定。
朝日麦酒が日本初の缶入りビールを発売。
鎌田商会が「洋服タンス用 パラゾール」を発売。
三菱鉛筆が「ユニ」を発売。
東京タワー竣工。
巨人・川上哲治選手、引退。
宮内庁、皇太子・明仁親王と正田美智子の婚約を発表、ミッチー・ブームはじまる。
新1万円札発行。- 東京タワー完工式。
http://blogs.yahoo.co.jp/taroimofavor/5008222.html


ヴァン・クライバーン、進行性の癌で自宅療養中。 2012年9月 4日
ヴァン・クライバーンが進行性の骨のガンで、どうやら危ないようだ。78歳。

1958年、記念すべき第1回チャイコフスキー国際コンクールの覇者。クライバーンと言えば、私たちピアノを学んだ人間にとっては、必ず避けては通ることの出来ない、特別な存在だ。

ショスタコーヴィチにメダルを授与される写真や、ニューヨークでの歴史的な凱旋パレードの写真は、もちろん私はその出来事のはるか後年になって見たわけだが、脳裏に深く焼き付いており、今でも容易に、紙吹雪の舞うその写真を思い浮かべる事が出来る。

だがその実演に触れた人は多くないと思う。私も何枚かのCDと、DVDとでしか知らない。大きな存在だったが、巨匠と言われたわけではない。時代の寵児となり、振り回され、疲弊し、コンサートピアニストとしての華々しい活動とも縁遠くなって長い。

パートナーと共にテキサスのフォートワースに長らく住み、同地で開催される、自身の名前を冠したコンクール、それが遠く日本に住む我々との接点のほぼ全てだった。(最近では盲目のピアニスト辻井伸行が、このコンクールでハオチェン・チャンと優勝を分け合った。それによりこのコンクールの存在は一般にも知られるようになった。)

1996年に来日し協奏曲を弾いた時、演奏に対する評価はその頃も高くはなかったが、演奏を聴きに行った桐朋の私の友人が
「感動のあまり涙を堪えきれなかった」
と言ったのを印象深く覚えている。蛇足ながらこの友人は後日、ヴァン・クライバーン・コンクールに参加。クライバーン本人と話をする機会を得たそうだ。

地元の新聞、フォートワース・スター・テレグラム紙には、彼のパブリシストのコメントが掲載されている。

「彼は自宅におり、極めて平静にしている。精神状態もよい。どうか彼をそっとしておいて欲しい」。

また同紙には、近影を含む写真16枚が掲載されているが、衰えたその姿を見て、私はなんとももの哀しい気分になった。


クラシック音楽史上初めて、アルバムのミリオン・セラーを達成した人。トルーマンからオバマまで歴代の大統領全員の前で演奏を行った人。その人の生が、終わりに近づいている(もちろん、"奇跡的に回復"という可能性もあるのかもしれないが)。

一つの時代が終わりを告げようとしている。そしてクライバーンの名前は、ゆるやかに忘れ去られていく事になるのだ。

■ フォートワース・スター・テレグラム紙 2012年8月29日付の記事:
Van Cliburn diagnosed with advanced bone cancer
http://www.star-telegram.com/2012/08/27/4209871/van-cliburn-diagnosed-with-advanced.html

http://www.musashino-culture.or.jp/weblog/2012/09/post-132.html


http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/438.html

[近代史3] アメリカ人には音楽は理解できない _ 天才ピアニスト ヴァン・クライバーンとは何だったのか? 中川隆
1. 中川隆[-10398] koaQ7Jey 2019年5月18日 13:34:37 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[1921]
チャイコフスキー:ピアノ協奏曲第1番、ラフマニノフ:ピアノ協奏曲第3番、他 
クライバーン、コンドラシン&モスクワ・フィル


・チャイコフスキー:ピアノ協奏曲第1番変ロ短調 作品23
・ラフマニノフ:ピアノ協奏曲第3番ニ短調 作品30
・カバレフスキー:ロンド イ短調 作品59

 ヴァン・クライバーン(ピアノ)
 モスクワ・フィルハーモニー管弦楽団
 キリル・コンドラシン(指揮)

 録音:1958年4月11日、モスクワでの第1回チャイコフスキー国際コンクール本選のライヴ(モノラル)


HMV レビュー

テスタメント・レーベル日本語解説付き日本プレス盤
第1回チャイコフスキー国際コンクール本選ライヴ

冷戦時代のアメリカとロシアを音楽の力だけで結びつけてしまったピアニスト。
底知れぬ芸術の力を思い知らされる究極のライヴ!

第1回チャイコフスキー国際コンクールのファイナルの模様を収録した初登場音源。このコンクールの凱旋リリースとなった、同じくコンドラシンとのチャイコフスキー:ピアノ協奏曲第1番のリリースは、ビルボードのポップアルバムチャートで7週連続1位を獲得するという驚異的な記録を打ち立てたことで知られていますが、今回のこの録音は、「凱旋公演」ではなく、まさにコンクールの最終選考演奏を記録した歴史的なものなのです。

 冷戦まっただ中、ソ連が国の威信を誇示するために企画した第1回チャイコフスキー・コンクール。そこに現れたのは、最大のライヴァル国アメリカからやってきたひとりの青年でした。24歳のクライバーンです。

驚くことに、リヒテルやショスタコーヴィチを筆頭にロシア側も完全に納得するかたちで、記念すべきこの第1回の優勝はクライバーンが勝ち取ることとなるのです。この一大事件は、ソ連とアメリカの国交にまで影響を与えたといわれ、武器ではなく音楽が、世界平和に貢献するという事実を全世界に知らしめることとなりました。

この歴史的快挙により、前述したように彼のアルバムはビルボード・ポップチャートをも席捲し、音楽家としての成功を超え、クライバーンは時代のヒーローとまでなったのです。


 そうした熱狂が、逆にクライバーンの演奏史には負の影響を与え、その後のキャリアは悲運ともいえるものとなりますが、だからといって彼の芸術性と超絶技巧を否定することはできません。この歴史的大快挙といえるコンクール本戦の録音には、敵対国民すら魅了した、音楽芸術の持つ絶大な力を聴いてとれます。(ユニバーサルIMS)
http://www.hmv.co.jp/artist_%E3%83%81%E3%83%A3%E3%82%A4%E3%82%B3%E3%83%95%E3%82%B9%E3%82%AD%E3%83%BC%EF%BC%881840-1893%EF%BC%89_000000000018904/item_%E3%83%81%E3%83%A3%E3%82%A4%E3%82%B3%E3%83%95%E3%82%B9%E3%82%AD%E3%83%BC%EF%BC%9A%E3%83%94%E3%82%A2%E3%83%8E%E5%8D%94%E5%A5%8F%E6%9B%B2%E7%AC%AC%EF%BC%91%E7%95%AA%E3%80%81%E3%83%A9%E3%83%95%E3%83%9E%E3%83%8B%E3%83%8E%E3%83%95%EF%BC%9A%E3%83%94%E3%82%A2%E3%83%8E%E5%8D%94%E5%A5%8F%E6%9B%B2%E7%AC%AC%EF%BC%93%E7%95%AA%E3%80%81%E4%BB%96%E3%80%80%E3%82%AF%E3%83%A9%E3%82%A4%E3%83%90%E3%83%BC%E3%83%B3%E3%80%81%E3%82%B3%E3%83%B3%E3%83%89%E3%83%A9%E3%82%B7%E3%83%B3%EF%BC%86%E3%83%A2%E3%82%B9%E3%82%AF%E3%83%AF%E3%83%BB%E3%83%95%E3%82%A3%E3%83%AB%EF%BC%88%E6%97%A5%E6%9C%AC%E8%AA%9E%E8%A7%A3%E8%AA%AC%E4%BB%98%EF%BC%89_2787435

ヴァン・クライバーンのチャイコフスキーコンクール・ファイナル 2009年1月10日

1958年4月11日、20世紀のクラシック音楽演奏史上有数の事件がモスクワで起こりました。この年に始まった、冷戦時代真っ只中のソ連の首都で、国の威信を懸けてロシアの若き演奏家の素晴らしさを知らしめようと開催したこの大会で、テキサスから乗り込んできてファイナルに残った23歳のピアニストが、いわば超完全アウェイの状況で、リヒテルをはじめとするいかにもクセの強そうな審査員にひねくれた絶賛を投げさせ、そして何よりホールを埋めた聴衆をわずか数十分のうちに熱狂のただ中に巻き込んだのでした。そして彼のこの演奏は一つの社会現象と言える状況を生みだし、政治的な意味でも時代の寵児というべき存在へと彼自身も祭り上げられてしまうことになったわけです。

ヴァン・クライバーン、アメリカ人のクラシックファンで彼の名を知らない人はいないと言ってもいいほどですが、それ以外の人にとっては、ピアノコンクールの名前になっている人、ということで終わってしまっているかも知れません。彼のスターとしての時代ははなはだ短く、それでも地元を中心に音楽活動を続けてはいるのですが、かつてミリオンセラーを生んだほどの熱狂というのはもはや戻ってくることはないのであります。

このディスクは、その4月11日のファイナルの演奏を収録したものであるようで、チャイコフスキー、ラフマニノフ、それにコンクールの課題曲であったカバレフスキーのロンドをアンコールとして演奏しています。

オケはコンドラシンが指揮するモスクワフィルなのですが、チャイコフスキーの有名な冒頭の、何とも「お仕事」って感じの、実に無粋でおざなりな音で始まりながら、その後クライバーンのゆったりとしかし弛みのない素晴らしいテクニック、そして絶妙にコントロールされた深みのあるロマンティシズムに、オケの音が次第に変わっていくのがわかります。恐らくホール自体の空気もどんどんと熱が上がっていたのでしょう。

チャイコフスキーの2楽章のPrestissimoあたりではオケのノリが随分と変わってきて、曲の終わりは、生で聞くか、あるいは現在の音響で聞けばさぞかし壮麗な音になっていただろうと思わせる音楽になっています(モスクワ音楽院のホールの音はあまり豊かと言えるものではない。また録音が1958年のソ連録音的水準であるからある程度はイメージで補わざるを得ないのは事実だ)。

これがラフマニノフに入るとまさにオケが興奮しながら演奏している、という感じになり、最後のコーダになるともう「このまま曲終わらんといてくれ〜」とでも言うように熱く歌います。そこに流れるクライバーンのピアノが、がっちりとした美しさを湛えつつそれでもどこかクールな部分も残しています。

若々しくカリスマ性を備えたこの演奏、ラフマニノフのあとの凄まじいほどの喚声に、一人のスターが誕生したことを確認できるのです。この後、米国に帰った彼は圧倒的な歓呼の声に迎えられ、RCAの同曲録音、と続いていきます。

音質云々よりも、50年前の歴史的記録として、是非聴いておきたい録音です。
http://bbrsun.blog.eonet.jp/bbr/2009/01/post-74b3.html


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クライバーン/チャイコフスキー&ラフマニノフ:ピアノ協奏曲(ハイブリッドSACD)


HMV レビュー

・チャイコフスキー:ピアノ協奏曲第1番
 ヴァン・クライバーン(p)  キリル・コンドラシン(指揮) RCA交響楽団
 1958年 カーネギー・ホールでの録音【3トラック録音】

・ラフマニノフ/ピアノ協奏曲 第2番
 ヴァン・クライバーン(p) フリッツ・ライナー(指揮) シカゴ交響楽団
 1962年 シカゴ・オーケストラ・ホールでの録音【3トラック録音】

ゆりぞう | 兵庫県 | 不明 | 2011年02月16日

本音源に愛着があり、良い音質のCDを入手したい人や、アナログから乗り換えを考えている人は、本盤ではなく、XRCD−SHM仕様をすすめます(どうしてもマルチに拘る人や併録のラフマニノフもほしい人は別にして)。XRCDに比べると本盤はまるでサロンミュージックのように軽く聴こえますので。


やっちゃん | 坂出市 | 2008年01月14日
”昔聴き潰した青春の思い出がこもる盤。
チャイコも力演だが、ラフマニノフの明るく甘い音を思い出した。リヒテルの「人生表も裏もある。簡単に信じるな」と言わんばかりの屈曲した名演に比べ、将来を楽観し切った疑いを知らぬ若きヤンキーの演奏。

その後、短期金儲け主義の興行主の言うままに毎晩のようにチャイコを弾き、腕の筋肉を潰し、ピアニストとして終わった(中村紘子「チャイコフスキーコンクール」)クライバーンの運命を予言していたかのよう。”
http://www.hmv.co.jp/artist_Tchaikovsky-Rachmaninov_000000000025861/item_%E3%82%AF%E3%83%A9%E3%82%A4%E3%83%90%E3%83%BC%E3%83%B3%EF%BC%8F%E3%83%81%E3%83%A3%E3%82%A4%E3%82%B3%E3%83%95%E3%82%B9%E3%82%AD%E3%83%BC%EF%BC%86%E3%83%A9%E3%83%95%E3%83%9E%E3%83%8B%E3%83%8E%E3%83%95%EF%BC%9A%E3%83%94%E3%82%A2%E3%83%8E%E5%8D%94%E5%A5%8F%E6%9B%B2%EF%BC%88%E3%83%8F%E3%82%A4%E3%83%96%E3%83%AA%E3%83%83%E3%83%89%EF%BC%B3%EF%BC%A1%EF%BC%A3%EF%BC%A4%EF%BC%89_1830252

クライバーン / チャイコフスキー:ピアノ協奏曲第1番(XRCD)

RCA秘蔵のオリジナルマスターで鮮烈に復活!

・チャイコフスキー:ピアノ協奏曲第1番変ロ短調 op.23
 1 Allegro non troppo e molto maestoso [20:48]
 2 Andantino Simplice [07:04]
 3 Allegro con fuoco [06:54]
 ヴァン・クライバーン(ピアノ)
 キリル・コンドラシン(指揮)交響楽団
 録音:1958年 ニューヨーク、カーネギー・ホール(ステレオ)

ゆりぞう | 兵庫県 | 2011年02月16日

スバラシイの一言。これを聴くと、同じ音源のSACDがいかにも作り物っぽく感じられるてしまう。SACDではクライバーンのピアノが浮ついたサロン・ピアニストのようである。

本盤は音が深い。オケともども実在感がある。本音源の好きな人は本盤が廃盤になる前にぜひとも購入されることを強くおすすめする(SACDはラフマニノフも付いていてお得などといったことはまったくポイントにならない。私はそれで先にSACDを購入したが、何となく気になって、少々勿体ない気もしたがこちらも購入した。けちくさいことを考えずに本当によかった)。・・・過去の音源のXRCD化はもう終りなのでしょうか?
http://www.hmv.co.jp/artist_%E3%83%81%E3%83%A3%E3%82%A4%E3%82%B3%E3%83%95%E3%82%B9%E3%82%AD%E3%83%BC%EF%BC%881840-1893%EF%BC%89_000000000018904/item_%E3%83%94%E3%82%A2%E3%83%8E%E5%8D%94%E5%A5%8F%E6%9B%B2%E7%AC%AC1%E7%95%AA%E3%80%80%E3%82%AF%E3%83%A9%E3%82%A4%E3%83%90%E3%83%BC%E3%83%B3%EF%BC%88p%EF%BC%89%E3%82%B3%E3%83%B3%E3%83%89%E3%83%A9%E3%82%B7%E3%83%B3%EF%BC%86%E4%BA%A4%E9%9F%BF%E6%A5%BD%E5%9B%A3-XRCD_1969840/ref/58204_1

ヴァン・クライバーンのチャイコフスキーとラフマニノフの協奏曲 2005.5.4

◎チャイコフスキー ピアノ協奏曲第1番
 ラフマニノフ   ピアノ協奏曲第2番

   ヴァン・クライバーン(ピアノ),
   コンドラシン指揮,RCA交響楽団(チャイコフスキー),
   ライナー指揮,シカゴ響(ラフマニノフ)

   米RCA 828766 61392 2 (SACD Hybrid)

 クライバーンといえば,1958年の第1回チャイコフスキーコンクールにおいて,地元ソ連勢やその他の強豪を抑えて見事に優勝を果たし,アメリカへの凱旋帰国の際はアイゼンハワー大統領が空港まで出迎え,ホワイトハウスで祝賀パーティ,コンクールファイナルで指揮をしたコンドラシンを迎えてのカーネギーホールでのコンサート,さらには紙吹雪が舞う中での5番街のパレードと,まさに一夜にしてヒーローとなったのでした。

 このCDに収録されているチャイコフスキーのピアノ協奏曲第1番は,帰国直後にカーネギーホールでコンドラシンの指揮により収録されたもので,発売後2週間でミリオンセラーとなったものです。以後,クライバーンはRCAに盛んにレコーディングを行うようになり,ラフマニノフのピアノ協奏曲第2番はシカゴのオーケストラホールで録音されたものです。

 これらの録音はいずれもLP時代からの周知の名演とはいえ,SACD化によってどんな音で聴けるか大変楽しみだったのですが,実際に聴いてみると,いっそう緻密でスケール感があって自然な音であり,何よりもピアノの響きに実在感があって,演奏の姿をより明瞭に聴き取ることができるようになったと思います。

 そして何よりもこのハイブリッド盤を聴いて印象深いことは,CDとSACDとではその演奏の印象がかなり異なることで,CDで聴くクライバーンの演奏は,音に輝きがあって,華麗でドラマチックな演奏を繰り広げた文句なしの名演と感じられるのに対し,SACDで聴くとクライバーンの演奏の姿がより露わになっているように思えます。

 この印象の違いは,チャイコフスキーの協奏曲においていっそう顕著で,クライバーンは優れたテクニックでピアノを十二分に鳴り響かせ,十全なスケール感と率直でストレートな表現の一方で,細やかな表現にも欠けることもなく,さすがに名演として名高いだけのものを聴かせています。

 しかしながら,この録音を聴いていて気になって仕方がないのは,テクニックには全く問題がないにもかかわらず,1つ1つのタッチに力が入りすぎていて柔軟性に乏しく,余裕のない,切羽詰まったような演奏になっていることで,これはコンクール優勝後の目の回るような忙しさの中で,心身のリフレッシュを行う余裕もなく,それでも自らの最善を尽くしての無我夢中の演奏であったのでしょうか。

 また,この演奏でのコンドラシン指揮のRCA響は,実に快活で積極果敢な演奏を行っており,その表現はあっけらかんとしすぎている感すらあるのですが,一方でクライバーンのソロを力強く支え,鼓舞している面もあるように思えます。

 その意味では,これはコンクール優勝後の華々しい凱旋録音というよりも,この録音当時のクライバーンの,とまどいとプレッシャーの中で必死に演奏する姿が記録されたドキュメンタリーというべきなのかもしれないなと,聴きながら思ってしまいました。

 一方のラフマニノフの方は,クライバーンの演奏の持ち味,特色が無理なく表れているように思え,音には磨き上げられたクリヤーさはないにしても,リリカルで余韻が美しく,雑念を持たずに自ら作品と対話し感じたままに演奏しており,そのナイーブで率直な歌い口は聴いていて胸打たれる思いがします。

 この演奏を聴いていると,クライバーンは堂々たるテクニックで印形付けるというのではなく,自らの感性を大切にした率直な演奏を心がけているように思えますし,ここではライナー指揮のシカゴ響が,いつものシャープな演奏から一変して,大変デリケートにソロを支えているのがことさら印象的です。

 こうして収録された2つの録音を聴いてみましたが,なんといってもチャイコフスキーでの異様ともいえる演奏の姿が露わになっていることに驚嘆してしまいました。この録音はクライバーンの代表的名演の1つとされているというのに,SACDになってその演奏の姿が初めて明らかになったということなのでしょうか。あるいは私が単なる勘違いをしているに過ぎないのでしょうか。

 一方のラフマニノフは,クライバーンの優れたテクニックとナイーブな感性とによってこの作品の大変に優れた名演を聴かせてくれており,SACDではそれが惚れ惚れとするような美しさで聴くことができました。

 この録音はいずれも定盤中の定盤ですし,私もSACDになってよりよい音質で楽しもうと思ったに過ぎないのですが,いざ聴いてみると,全く予想外の感想を抱くことになってしまいました。その意味では定評ある名演を堪能するというのとは異なってしまいましたが,いずれにせよ実に印象深い演奏が聴けることは疑いなく,良好な音質ともども,一聴の価値があると思います。
http://homepage1.nifty.com/classicalcd/cdreviews/2005-1/2005050401.htm

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ヴァン・クライバーン・リサイタル1959(2CD)(日本語解説付)

【収録情報】
・英国国歌
・モーツァルト:ピアノ・ソナタ第10番ハ長調K.330
・ショパン:スケルツォ第3番嬰ハ短調作品39
・ショパン:バラード第3番変イ長調作品47
・ショパン:幻想曲ヘ短調作品49
・ベートーヴェン:ピアノ・ソナタ第23番ヘ短調作品57『熱情』
・プロコフィエフ:ピアノ・ソナタ第6番イ長調作品82
・リスト:ハンガリー狂詩曲第12番嬰ハ短調♪世界初発売
 ヴァン・クライバーン(ピアノ)


HMV レビュー
ずばぬけた技巧と豊かな音楽性が共存!
クライバーン・リサイタル1959

自らの名を冠したコンクールの若き受賞者によって今ふたたび脚光を浴びる事となったクライバーン。類まれなるピアニズムが結晶となった彼の絶頂期の素晴らしいコンサートライヴがここに登場しました。究極のテクニックをもちながら、技術に翻弄されること無く常にその根底には豊かな音楽性が根づいていたクライバーンの真価が刻まれた録音です。世界初発売。日本語解説付き。
(ユニバーサルIMS)


【解説書より抜粋】
夏の暑い午後、筆者はハリウッドスターの一団が混じる満員の聴衆の中でたぐいまれな個性と能力から紡ぎ出される、話術に長けた演奏を目の当たりにした。思い出をたどり、サウスバンク史上最も卓越したリサイタルの1つに数えられる演奏を今一度聴くとき、ある言葉が鮮明に心に浮かび上がる。その言葉は「雄弁(eloquence)」。

かつてないほどにその技巧に見合う音楽的な意思や響きを持たないピアニストであふれている、それが音楽界の現実だ。クライバーンのテクニックは、その圧倒的な幅、色彩、響きにおいて単なる技巧をはるかに超越しており、ずばぬけた技巧を持ちながらその演奏は常に豊かな精神に満たされ、素晴らしい音楽を称え、分かち合うことだけに捧げられた。リサイタルを通して、クライバーンは自身だけが持つ響きと意思を持って「語り」続けた。・・・・中略・・・・

このリサイタルがクライバーンの若き栄光の頂点であった。世界中の過大なまでの注目と賞賛を浴び、特にロシアと母国アメリカの熱狂はすさまじかった。しかし間もなくクライバーンは容赦なく注がれるスポットライトに疲れてしまう。華やかさは次第に薄れ、絶え間なく忙しすぎる仕事に追われ、クライバーンは自信を失い、隠遁と心の平安を強く求めるようになる。・・中略・・・

こうした試練と生来の傷つきやすいナイーブさが災いし、何度も休養期間を取り、過去の栄光の名残にすぎない演奏を残し、そして最終的には全くの沈黙に至ったのだろうか?

クライバーンはその後二度とロンドンでリサイタルを行わなかった。ここで抗し得ず言えば、もしクライバーンのキャリアがこれほど無責任に悪意を持って翻弄されなければ、彼はそのレパートリーを広げ、若き日の頂点にとどまったまま演奏活動を続け得たであろう。しかし、それはそれとして1959年のリサイタルに立ち返れば、その演奏は長く記憶され愛でられるべき伝説的な域に達していることがわかる。短い活動期間ではあったが、クライバーンは同世代の中で最も天賦の才に恵まれた不世出のピアニストといえるだろう。
http://www.hmv.co.jp/artist_%E3%83%94%E3%82%A2%E3%83%8E%E3%83%BB%E3%82%B3%E3%83%B3%E3%82%B5%E3%83%BC%E3%83%88_000000000230513/item_%E3%83%B4%E3%82%A1%E3%83%B3%E3%83%BB%E3%82%AF%E3%83%A9%E3%82%A4%E3%83%90%E3%83%BC%E3%83%B3%E3%83%BB%E3%83%AA%E3%82%B5%E3%82%A4%E3%82%BF%E3%83%AB%EF%BC%91%EF%BC%99%EF%BC%95%EF%BC%99%EF%BC%88%EF%BC%92%EF%BC%A3%EF%BC%A4%EF%BC%89%EF%BC%88%E6%97%A5%E6%9C%AC%E8%AA%9E%E8%A7%A3%E8%AA%AC%E4%BB%98%EF%BC%89_3646436

ヴァン・クライバーンのロンドン・ライヴ 2010.1.31


◎英国国歌
 モーツァルト ピアノ・ソナタ第10番 K330
 ショパン   スケルツォ第3番
        バラード第3番
        幻想曲
ベートーヴェン ピアノ・ソナタ第23番「熱情」
プロコフィエフ ピアノ・ソナタ第6番
リスト     ハンガリー狂詩曲第12番

   ヴァン・クライバーン(ピアノ)

   英TESTAMENT JSBT2 8445 (2CD)


 英TESTAMENTの新譜で,ヴァン・クライバーンが第1回チャイコフスキー・コンクールで優勝した翌年にロイヤル・フェスティバルホールで行った,最初で最後のロンドン公演のライヴ録音が発売になりました。

 これは,チャイコフスキー・コンクールの優勝後,無我夢中で演奏活動を行っていた時期のライヴ録音ですが,それがどのような演奏であったのか,興味が持たれるところです。

 さっそく聴いてみると,拍手の後に,おもむろに英国国歌が弾き始められ,事に気付いた聴衆が急いで起立するゴソゴソといった音が聴かれます。当時の演奏会での慣習はよく知らないのですが,解説書には

「これは英国民に対する極めてテキサス的な過剰なまでの(現代の外交用語で言えば「その特別な関係」に対する)讃辞だった。」

と書かれています。

 最初のプログラムのモーツァルトのソナタは,端正で粒立ちの良い演奏であり,その繊細で瑞々しい表現には,聴いていて心洗われる思いがする一方で,当時24歳のピアニストの演奏にしては未成熟な演奏ではないかと思われ,このあたりをどう感じるかによって演奏に対する評価が変わってくるのではないかと思われます。

 続いてショパンの作品が3曲演奏されているのですが,いずれもテクニックの面では余裕があり,明快かつ細やかで,ソノリティも美しいですし,フレッシュな魅力に溢れた演奏を聴くことができるのですが,明快さの反面で,クライバーン自身が演奏に込めた主張,あるいは詩情や情感といった面が希薄であることが気にならないでもありませんでした。

 次のベートーヴェンの熱情ソナタは,切れの良いタッチと,高い集中度によって,シリアスで正攻法な表現をつくり出しており,その若々しく果敢な演奏の姿には,聴くものを惹き付ける真摯さを感じますし,この作品の克明かつ誠実な演奏ではないかと思うのですが,この作品の演奏としてはやや線が細く,力感やエモーションはいまひとつではないかと感じてしまいました。

 プロコフィエフのソナタでは,克明でダイナミックな演奏となっており,高域の華やかさの加わったブリリアントな響きを聴かせ,メカニカルな印象のあるこの作品からフレッシュな表現を引き出しているところは大変に見事ですし,聴いて満足度の高い演奏ではないかと思いました。あえて難をいうとするなら,ガツンとしたエネルギー感や,求心的なシリアスさがあれば更に良かったということでしょうか。

 最後にアンコールのリストのハンガリー狂詩曲第12番が収録されていますが,これが実に目覚ましい演奏で,鮮やかなテクニックに加え,自信と活力が漲っており,まさに聴くものを圧倒する演奏で締め括っていました。

 こうして聴いてみると,当時のクライバーンの演奏の姿を如実に感じ取ることができ,鮮やかなテクニックと,フレッシュではち切れんばかりの若々しい魅力のほとばしる演奏によって,聴衆を熱狂させていたいたことが窺い知れます。

 しかしながら,私自身,この演奏を聴いて楽しめたか,あるいは感動できたかというと実はそうではなく,優れたテクニックと真摯な演奏姿勢は認めるものの,表現内容に乏しい未熟な演奏ではないかと思えてなりませんでしたし,さらには,クライバーン自身の必死の葛藤が感じられたのでした。

 しかも,その未熟さというのが「鈍感な未熟さ」であればまだよかったのですが,実際には「傷つきやすいナイーヴな未熟さ」であり,時間をかけて自己の演奏表現を深めていく余裕もなく,ある意味,見せ物的なテクニックを頼りに演奏活動に明け暮れていては,早晩行き詰まることとなるのは必定で,そのことに対する周囲の配慮も足りなかったのか,その懸念は現実のものとなってしまいました。

 もちろんこれは,半世紀後の私の耳で聴いてそう感じられたということであり,後知恵的な見方に過ぎないのですが,いずれにせよ,結果としてクライバーンはその演奏を過大評価され,賞賛され続けることによって,前途が閉ざされてしまうこととなったように思えてなりません。

 このCDは,秀逸な音質と相まって,当日の演奏会の姿を生々しく体験することができたのですが,当時のクライバーンの演奏に関して,すでに内面の危機が露わになっているなどという批評には,寡聞にして目にしたことがありません。私はかつてクライバーンの代表的な録音であるチャイコフスキーのピアノ協奏曲第1番のSACDを聴いたときにも同様の感想を抱いていたのですが,実は単なる思い込み,勘違いかもしれません。

 いずれにしても,これはクライバーンが最も充実した演奏活動を行っていた時期の,魅力的で鮮やかな演奏を堪能できるものであり,後は各々がこれを聴いてどのような印象を抱くかだろうと思いますし,その意味でもぜひとも一聴をお薦めしたい1枚ではないかと思います。
http://homepage1.nifty.com/classicalcd/cdreviews/2010-1/2010013101.htm

http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/438.html#c1

[近代史3] アメリカ人には音楽は理解できない _ 天才ピアニスト ヴァン・クライバーンとは何だったのか? 中川隆
2. 中川隆[-10397] koaQ7Jey 2019年5月18日 13:35:43 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[1922]

終ってみれば唯の三流ピアニストだったヴァン・クライバーンの一時の成功の背景は?

ロシア人になることを夢見たピアニストのヴァン・クライバーン氏死去

米国の有名なピアニストで社会活動家だったヴァン・クライバーン氏(78)が2月27日、苦しい闘病の末、死去した。

生前のクライバーン氏と個人的に付き合いのあった音楽評論家でプロデューサーのヨセフ・ホロヴィツ氏は氏の死去の知らせをうけてVORからのインタビューに次のように語った。

「彼はロシア人になることを夢見ていたひとりだった。1958年にもこの夢をかなえ、冷戦最中にモスクワに来ると、チャイコフスキー記念コンクールで優勝を果たした。
ニューヨークでロシア人教師のロージナ・レーヴィナ女史に師事していたクライバーンはチャイコフスキー、ラフマニノフを独自の解釈で演奏し、万人の度肝を抜いた。あの時代の一流の演奏家はスヴャトスラフ・リヒテルをも含め、クライバーン氏の演奏には何か超自然的なものがあると認めていた。」

ロシア人にとってはクライバーン氏の死去は伝説との別れを示す。ヴァン・クライバーン、あるいはファンがつけた「ヴァーニャ」というロシア的な愛称はこの先も永遠に残ることだろう。この「ヴァーニャ」という愛称は58年、第1回チャイコフスキー国際コンクールで優勝をさらった際に彼に与えられた。クライバーン氏の勝利は単なる優勝をはるかに超える意味があった。米国人をソ連のコンクールで最優秀者として認めるということは、誇張なしに政治的意味をもち、冷戦の最中にあって米ソの氷が溶け出したことに等しかった。

クライバーン氏の最後となった訪露は2011年。この際、クライバーン氏には、長年に当たってチャイコフスキー・コンクールの組織委員会に「ヴァーニャ」の演奏に感銘を受けたファンから届いた膨大な量の手紙が手渡された。クライバーン氏は感激し、心底「生涯最後の日まで私はロシアを愛し続けるでしょう」と語ったという。
http://japanese.ruvr.ru/2013_02_28/106459161/

ヴァン・クライバーンは、ジュリアード音楽院でロジーナ・レヴィーンに師事している。
 
 ロジーナ・レヴィーンは、ウクライナのキエフにうまれたピアニストでモスクワ音楽院を卒業した。夫のヨゼフ・レヴィーンと一緒に1919年にアメリカに亡命した。夫の死後、ジュリアード音楽院の教授に請われて、1976年に亡くなるまで32年間もピアノ科で数々の優秀な音楽家を育てた。

このロジーナ・レヴィーンは優秀な演奏家でありながら自分自身の演奏活動を公にすることはなかったのだが、75歳の時にソリストとして再デビューしている。その後、1963年レナード・バーンスタイン指揮、ニューヨーク。フィルハーモニー・オーケストラとショパンのピアノ協奏曲第1番を演奏した。82歳だった。そのとき使った楽譜は65年前にモスクワ音楽院を金メダルで卒業した時のものだった。

  ヴァン・クライバーン(Van Cliburn, 1934年7月12日 - )はロジーナ・レヴィーンに師事した後、1958年、23歳で世界的に権威のある第1回チャイコフスキー国際コンクールで優勝。冷戦下のソ連のイベントに赴き優勝したことにより、一躍国民的英雄となる。
http://blogs.yahoo.co.jp/taroimofavor/5008222.html


要するに、チャイコフスキー国際コンクールでの演奏はすべてロジーナ・レヴィーンの指示にそっくりそのまま従っただけのものだったのですね。

ヴァン・クライバーンは唯の才能の有る良い子で、ロジーナ・レヴィーン先生の言う事を何も疑わずに100%そっくりそのまま守る優等生だったのでしょう。

しかし、国民的英雄となった『天才ピアニスト』ヴァン・クライバーンに楽譜の読み方や音楽の意味を手取り足取り教えてくれる人はもう誰もいなくなってしまったのです。

自分の頭では何も考えられない若きヤンキーは今度は興行主の言うままに毎晩のようにチャイコを弾き、腕の筋肉を潰し、ピアニストとして終わってしまったのです。

まあ、20才の天才作曲家は沢山居ますが、20才の天才ピアニストは一人も存在しないんですね。 20才の『天才ピアニスト』の背後にはパペットを操る … が隠れていると思った方がいいです。

http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/438.html#c2

[近代史3] アメリカ人には音楽は理解できない _ 天才ピアニスト ヴァン・クライバーンとは何だったのか? 中川隆
3. 中川隆[-10396] koaQ7Jey 2019年5月18日 13:37:11 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[1923]

2010/6/7 22:19:02
クライバーンって、永遠の青年なのよね。(とうの昔に60歳すぎてますが。笑)


デビューから10年弱、本当に魅力的だったと思います。モスクワで熱狂的に受け入れられたのは、たぶんラフマニノフの再来みたいなピアニストだったからでしょう。大きな手、繊細な表現、バランスのとれた構成感など、現代のピアニストが必要とされる要素を過不足なく持っていました。
・・・が、アメリカン・ドリームの実現者としてコキ使われる日々が続き、才能をすり減らしてしまいます。60年代後半には早くも録音からは輝きが消えうせ、機械的に音を並べているような印象が出てきます。

ちなみに、クライバーン・コンクールの優勝者は、クライバーンと同じ運命が待っている、というジンクスがあります。怖いです。

現在の演奏活動ですが、実は日本でときどきリサイタルを行っています!

ジュリアードのレヴィン門下でいっしょだった中村紘子さんがプライベートでも親しい関係だそうで、彼女の著書やインタビューでいろいろ出てきます。


「あんなに素晴らしいピアニストはいなかった」

「でも繊細すぎる彼には耐えられない仕事」

「今でも気遣いや立ち居振る舞いは超一流。でもアメリカ国民が望むであろうクライバーンを演じているようにしか見えず、痛々しい。」・・・
http://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail/q1441918389

2012年11月30日
中村紘子『チャイコフスキー・コンクール ピアニストが聴く現代』新潮文庫、2012年。

 この本について語るときに聴いていたいのは、ヴァン・クライバーンの演奏によるチャイコフスキーのピアノ協奏曲第一番変ロ短調だ。変ロ短調だのなんだのと書くとまるで得体の知れない呪文のように見えるかもしれないが、じつはだれでも聴いたことのある、とりわけその第一楽章の序奏が有名な曲である。

 ヴァン・クライバーンというアメリカ人ピアニストは、この曲を超有名曲にした立役者とでもいうべき人物で、彼は1958年にモスクワで初めて開催された国際音楽コンクール、第一回チャイコフスキー・コンクールの優勝者なのだ。

わたしがいま聴いているのは、彼がアメリカに凱旋帰国した際の優勝記念演奏会、カーネギー・ホールでのライヴ盤である。当時のソ連が国家の威信をかけて開催したコンクールで優勝をかっさらったこのアメリカ人青年は、冷戦下という時代背景もあって一挙に国民的スーパースターと化し、このライヴ盤のCDは発売後わずか二週間足らずで100万枚も売れたそうだ。

 クライバーン以来、国際コンクールというものはスーパースターを生みだす装置として一般的関心を集めるようになったという。だが、そんなふうにして生まれたスーパースターたちの運命は、今も昔もほとんど変わらない。クライバーンの辿った道筋はスーパースターの典型とでもいうべきもので、じつに象徴的だ。


「彼の栄光が輝かしいものになっていけばいくほど、クライバーンの演奏そのものは不調に陥っていった。

アメリカという社会は、スターに決して休息の間を与えない。一日休めばその間にライヴァルが現れてチャンスを奪いとることを、みな知っているからである。それゆえスターは、まるでくるくる廻るコマのように、休むことなく人々の前に登場し続けることになる。

クラシック音楽のスーパースター、クライバーンとてもこの例外ではなかった。いつ何処に行っても大衆は、クライバーンにチャイコフスキーのピアノ協奏曲を要求した。彼には新しいレパートリーを勉強する時間もなかったし、また、そんなものに関心をもってくれる人は、ごく少数であった。

批評家たちは彼を「どれもこれも速く弾きすぎる」とこきおろし、同業者のピアニストたちは「ヴァンはこの頃どれもこれもゆっくり弾きすぎる」とあざ笑うようになった。彼は青ざめ、不安に満ちた眼差しで、おどおどと人を見つめるようになった」(27ページ)


 そんなことを踏まえてみると、この1958年のライヴ盤もずいぶんちがった響きを帯びてくるものである。

 中村紘子による本書は、彼女が審査員を務めた第八回(1986年)の大会の模様を中心に、コンクールというものが本質的に抱える問題点や現代ピアニズムの方向性などを記したノンフィクションだ。新潮文庫に入ったのは今年のことだが、1991年にはすでに中公文庫に入っており、そもそもの親本は大会のわずか二年後、1988年に刊行されたものである。

「今から十五年前、ニューヨーク・タイムズ紙上で四半世紀にわたって卓抜な音楽評論の筆を揮ってきたハロルド・ショーンバーグが初めて来日し、私を案内人にして、東京の演奏会のハシゴをしたことがあった。さまざまな演奏を聴きながら、彼は膝の上に拡げたプログラムに盛んにメモしていたが、時々ニヤッとして私にそのメモを示すことがあった。ミッキー・マウスがうまく描けたときであった。

 コンクールの一ヵ月間、私も審査用紙によく愛猫タンクの絵を描いた。隣の審査員がのぞきこんで尻尾にリボンをつけ足し、うしろからのびた鉛筆が眼鏡を描き込んだりした。

 しかし、審査用紙に書いたのはもちろん猫だけではなかった。以下、私が記すのは、いわばその審査用紙に書き込んだメモ、そしてそれに連なるもの想いである」(4ページ)

 世界に音楽コンクールは数あれど、ことピアノに関して言えば、なかでも圧倒的権威を持つといわれるのはショパン・コンクール、エリザベス・コンクール、そしてこのチャイコフスキー・コンクールの三つである。

ワンランク下のコンクールとなるとその数は膨れあがり、さらにまた下位となると収拾がつかないほどの数となる。しかし、コンクールという場で実施されていることはどこの場合でもきわめて似通っていて、その特徴は1890年に行われた史上初の国際的大コンクール、第一回アントン・ルビンシュタイン・コンクールにてすでに表れていたそうだ。


「最初の国際的大コンクールである第一回アントン・ルビンシュタイン・コンクールの優勝者は、かのイタリアのフェルッチョ・ブゾーニであった。

そして第二回は五年後の1895年に行われ、モスクワ音楽院の学生で二十歳のジョセフ・レヴィンが一位の栄冠を得た。

先に登場したヴァン・クライバーンの育ての親であり、私のジュリアード音楽院における恩師でもあったロジーナ・レヴィン夫人の未来の結婚相手である。

 このときのプログラムは記録を見ると、すでに「国際コンクール」というものの趣旨と目的とスタイルとが、この時点ではっきりと出来上っていることに気づく。

 即ち、五年に一度の開催、古典から現代曲に至るまで、小品から大作、独奏曲から協奏曲に至るまでのピアノの主要作品を網羅した課題曲、名誉だけでなく多額の賞金とそして多くの演奏契約を含む賞の内容。百年後の今日私たちが行っているものと、何ひとつ変るところがない」(52ページ)

 課題曲の範囲の広さから、コンテスタントたちはどんな作曲家の作品でも、ひととおり平均点以上の演奏ができることを求められている。なかでも大きな比重がかかっているのはロマン派、とりわけショパンの作品だ。

「ピアノにおけるコンセルヴァトワールの具体的意味が十九世紀ロマンティシズムの継承であるということは、

「ショパン(あるいはロマン派の作品)を聴くまで、その才能に決定的評価を下すのは待て」

 という言葉によく象徴されている。

 この言葉は、かつて私が教えを受けたロジーナ・レヴィンやニキータ・マガロフのような、ヴェテラン教育者であると同時に優れた演奏家でもあった人々が実によく口にする言葉であった。即ち、ショパンが弾ける者にはバッハもベートーヴェンもあるいはいっそジョン・ケージまで弾ける可能性があるが、その反対はまず起らない、と」(66〜67ページ)

「好むと好まざるとにかかわらず、ピアニスト修業の仕上げの過程においてロマン派を多く勉強せざるを得ないのは、ピアノという楽器自体の発展と一体化して成熟していったロマン派の奏法を身につけることによってこそ、ピアノの表現能力の多彩さ、そしてその制御方法を知ることになるからである。そしてそのなかに、あたかもロマン派ピアノ音楽の核を成しているかのように存在するのが、フレデリック・ショパンである。

 「ショパンはピアニストの試金石」といわれる意味は、まさにここにある。

 ショパン・コンクールが、そのプログラムの内容をショパンという作曲家の作品に限定しているにもかかわらず、何故チャイコフスキー・コンクールやエリザベス・コンクールなどといった大コンクールと同様に重要視されているのかは、もうここでその理由を改めて述べるまでもないことであろう。

 また、チャイコフスキー・コンクールにしても、その課題曲は古典から現代曲までと幅広いが、しかしその中心となっているのは十九世紀ロマン派の作品と、そしてチャイコフスキーからラフマニノフにつながるロシア・ロマン派の作品であることも当然といえよう」(70〜71ページ)

 ここに書かれているとおり、ロマン派というのはなにも19世紀の作曲家たち、すなわちショパンやリスト、シューマンやメンデルスゾーンのみを指した言葉ではないのだ。その流れはとりわけロシアにおいて長く継承され、チャイコフスキーやリムスキー=コルサコフ、さらにはリヒャルト・シュトラウスやラフマニノフらを輩出した。コンクールと関連してじつにおもしろいのは、このロシア・ロマン派の最後の継承者と言われたピアニスト、ウラディミール・ホロヴィッツに対する審査員たちの評価である。

「コンクールにおける審査には「コンセルヴァトワール」に象徴される或るオーソドックスな価値判断の基準があり、その基準とはよい音楽を生むためのさまざまな具体的な要素の集積として採点される現実性を或る程度までもっている(そうでなければ、コンクールは成立しない)。

ところが、一見唐突のようではあるが、そういった価値基準を総合し、つきつめていったところには、コンクールの現実とはかけ離れた理想のピアノ音楽、理想のピアニストとでも呼ぶべきものがあるわけで、そういった理想のいわば典型が、現在ではホロヴィッツとリヒテルに代表されるのである。

 たとえばどこのコンクールにおいても、審査をしながら審査員たちが、思わず冗談半分にぼやく言葉がある。

 「こんなに厳しい審査では、仮にホロヴィッツが受けたとしても、とうてい受かりっこないだろうね」

 これは大体、一つのミスもせず難曲を速いテンポで弾きのけ、にもかかわらず結局落選という結果に終ったコンテスタントたちの点数を眺めたりしているときに出る冗談である。ところがそうぼやく彼らが、ではピアニストの中でいったい誰を一番尊敬しているかといえば、異口同音に、「ホロヴィッツ」という答が返ってくるのだ」(59〜60ページ)


 クラシック音楽が好きなひとにはわざわざ言うまでもないことだが、ホロヴィッツというのは逸話の多い人物で、いまでもじつにたくさんの人びとに愛されている。そのことがよくわかるのは彼についてなにかが語られるときで、そういうときの語り口はたいてい、ちょうど親しい友人の話をしているときのような、語っているひとの微笑みが目に浮かんでくるような愛情のこもったものなのだ。本書でもハロルド・ショーンバーグはこんなことを言っている。

「ホロヴィッツに、ネコの脳ミソほどの知性も期待してるやつはいないよ。しかし、彼の演奏は素晴しい」(234ページ)。

同時代のピアニスト、こちらもまた圧倒的技巧で知られる、スヴャトスラフ・リヒテルとの対比もじつに興味深い。

「端的に言ってホロヴィッツは、ピアニズムからいうとラフマニノフで頂点を極めた十九世紀ロマン派的ロシアン・スクールの、現代における唯一の継承者といえよう。彼が現代最高のテクニシャンである(あった?)ことは知られているが、しかしその魅力の最大の特徴は、実はディテイルの扱い方にひそんでいる。

たとえば、ショパンのマズルカなどにおけるさり気ないメロディの歌い方、ムソルグスキーの組曲「展覧会の絵」の二曲目などの内声部のゆらめきなど、何気ないものが彼によって突如ズームレンズのように拡大されたり、遠くにふっと突き放されたりする。メロディやベースを美しく魅惑的に弾くピアニストは沢山いるが、ホロヴィッツのように内声にひそむさまざまなメロディを、あたかも第三本目の手が備わっているかのように自由奔放に弾きのけるピアニストは他にいない。

 興味深いことに、そういった彼の最も魅惑的なディテイル、例えば或る一音を強調する為にハーモニーを崩して弾いたり、構成上当然大きく盛り上ってしかるべき個所を、むしろ逆に弱音におとして心理的な効果を一層高めるというようなことは、大抵の場合、アカデミックな演奏解釈の約束事においては「やってはならない」とされていることが多い。

即ちホロヴィッツの演奏には、世のまじめな先生方が「真似をしてはいけませんよ」と生徒に諭すものの典型が「きらきらと」溢れているのである」(61〜62ページ)

「リヒテルの演奏は、すべてのピアニストから尊敬され、勉強の手本とされる。しかし、「リヒテルのようなピアニストを目指して頑張ろう」と本気で思うピアニストは少ない。というところがまた、極めて興味深い点であろう。

 一方ホロヴィッツの演奏は、すべてのピアニストから憧れられるが、実際に勉強の手本にしたら一巻の終りだと広く信じられている。まるでセレーネかローレライといった感じであるが、しかし、「ホロヴィッツのようになりたい」と心密かに思ったことのないピアニストはいない」(62〜63ページ)

 コンクールという場においては、ホロヴィッツのような異常な天才は求められていないのだ。求められていない、というのは言いすぎかもしれないが、たとえば特定の作曲家の作品だけを抜群にうまく弾ける、といった類の個性的なピアニストは、コンクールの膨大な課題曲を前にしては勝ち抜くことができない。必然的に、オールラウンダータイプのピアニストばかりが駒を進めることになるのだ。

「コンクールの参加年齢の制限は、簡単に言うと、コンクールというものが、クラシック音楽の普及とその大衆化という社会基盤の発展の上に成立したことに関係する。

 クラシック音楽の普及と大衆化とは、即ち音楽教育の普及と制度化ということでもあるが、それは言いかえると、優れたピアニストが広く組織的に育てられることを可能にする一方で、思いもかけぬ神童が突如として未知の領域に生れる、そしてしかも三十歳過ぎまで埋れたまま終る、などということはほぼあり得ない、という状況を「常識」としてもたらしたと思われるのである。言ってみれば、コンクールとは極端に早熟、或いは極端に晩成の異常な天才のためにあるものでなく、あくまでも正常な才能のための定期的発掘装置とでもいうべきものなのだ。

 言うまでもなくこれは、なんだか少し淋しいような常識である。とりわけ早熟の天才を期待しないという意味を持つ下限制限の方は、夢に欠けるであろう。そこで興味深いことには、むしろそのアンチテーゼのように、欧米には神童モーツァルトの六歳でのデビュー以来、まことに根強い「神童出現願望」のようなものがあって、それはそれで伝統化されている感じさえある」(44〜45ページ)

「このような形でふるいにかけられると、結果は当然のこととして、「万能型」のピアニスト、しかもロマン派音楽の演奏において「ヴィルチュオジティ」をふるうタイプのピアニストが、一般に有利になる傾向になる。

82年、86年と二度にわたって、私が審査員として見聞したチャイコフスキー・コンクールに限っていっても、たとえば或るピアニストがモーツァルトやバッハ、あるいはドビュッシー、ラヴェルといったロシア物以外の或る特定の作曲家の作品において、仮に圧倒的な出来映えを披露しようとも、そういったいわば異能奇才型よりも、満遍なく一応すべてのピアノのレパートリーを水準以上に演奏し、バランスよく能力を披瀝する優秀な“凡才”の方が、はるかに勝ち残る可能性をもつということがいえるのである」(160ページ)

 中村紘子は審査員として、万能型ではないという理由でコンクールを去っていった、優秀なピアニストたちのことを想う。

「第一次予選の百十一人のなかには、本当に素晴しい才能に恵まれた若者が、少なからずいた。ある者はバッハを、ある者はベートーヴェンを、実に深い味わいと共に演奏した。しかし、ラフマニノフやリストやショパンで失敗し、ステージから消えていった。その姿を思うと、私の心は痛む。

チャイコフスキーのあの華やかなピアノ協奏曲が弾けなくとも、あのように美しく知的なバッハが弾けるなら、それもまた素晴しい人生ではないだろうか、と、私の心は恐らくはもう二度と聴くチャンスは廻ってこないであろうランダルのバッハを懐かしむ」(175〜176ページ)

「あの、ランダルをはじめとするいわば万能型ではない、しかし素晴しい才能に恵まれた若者たちの中から、未来のミケランジェリやベルマンが育つだろうか。そしてその特異な才能を発揮させられる場に十分恵まれるだろうか。

そんなことをふと想像するとき、私は、人が人を選ぶコンクールというものの虚しさ哀しさ、とでもいったような感情が、一瞬私の心の中深くを通り過ぎていくのを感じるのだった」(176〜177ページ)


 もちろん、コンクールだけがピアニストとしてデビューするための道というわけではない。上に名前が挙がっているミケランジェリやベルマンというのは、エリザベス・コンクールで失敗をしながら、その後世界的な名声を築きあげたという稀有な例である。

とはいえ、そういった人びとがやはり幸運な例外であるということも忘れてはならない。そうでなければ、こんなにも厳しいコンクールをわざわざ受ける人間などいないだろう。幸運を求めるピアニストたちのエピソードとして、以下のルービンシュタインに関する逸話には衝撃を受けた。中村紘子が演奏会前の楽屋に、挨拶に行ったときの話である。

「そのとき、私たちの横を黙ってすり抜けて楽屋を出ていく三人の若者がいた。あとで知ったのだが、なんと彼らは高齢のルービンシュタインの万が一を狙って自主的に現れ待機していた無名のピアニストたちだったのである。

彼らは、老ルービンシュタインにとっては気の毒なことだが彼らにとっては千載一遇の幸運になるかもしれないこと、の勃発を期待していたわけだ。もっとも、そんな若者が目の前をウロチョロしていたにもかかわらず、この当時すでに八十六歳の老巨匠は若者顔負けのエネルギーと艶やかさをもって、ショパンとベートーヴェンの協奏曲を二曲演奏し、更に余裕たっぷりにアンコールを三曲弾きのけて、悠々とステージを退場したのであった」(56ページ)

 おとなしくコンクールを受けて研鑽を積むことにしたピアニストたちの道も、一筋縄ではいかない。コンクールの乱立と課題曲の構成の類似は、「プロフェッショナル・ファイナリスト」と呼ばれる人びとを生みだしてしまったのだ。

「近年、国際コンクールの席上でしばしばささやかれていることとして、大物の新人が見当らなくなったこと、一位が登場しても芸術家として大成しなくなったこと、などがあるということは既に述べた。今改めて思うことだが、若いピアニストが、乱立するコンクールという場で例の「プロフェッショナル・ファイナリスト」としてあちらで三位、こちらで二位と経験を積み重ねていく過程において、何か芸術家にとって大変に大切なものをすり減らしていっているということが確かにあるのではないだろうか。

 今回のチャイコフスキー・コンクールにおいても、その甚だしい例として、世界の主だったコンクールを十数ヵ所受けて、みなそれぞれに二位や三位や六位や七位を獲得したというキャリアをもつ猛者がいた。しかしそれは彼の演奏の平均点の高さを示して人々を感心させる効果よりも、彼のピアニストとしての資質のなかで、何か決定的な魅力が欠如しているのではないかという疑惑、いや確証につながってしまうことになった。コンクールのヴェテランたちの演奏を聴く時、ふと私は、若い才能を聴く喜びよりも未来を憂う重い気持にさせられてしまうことがある」(303ページ)

「彼らは必ずしも優勝を狙ってくるわけではないのですよ。彼らのなかには、ただよい聴き手の前で演奏するチャンスが欲しくてくる、いわば永遠のアマチュア・ピアニストがいるんです。彼らには弾くチャンスがない。たとえあったとしても、よい聴き手、彼らが信頼するに足るような聴き手に聴いてもらうチャンスなど、全くない。コンクールにくれば、少なくとも審査員たちは真面目に聴いてくれますからね」(308〜309ページ)

 これは、とても淋しいことだ。

「プロの演奏家と学生の演奏との相違はなにか。それは、他者の耳と心に曝された体験の多さと深さで決まる。他者の耳と心に曝されることによって、プロはしたたかにたくましく、より複雑に成長をとげていく」(123ページ)

 クラシック音楽界における需要と供給のアンバランスはじつに深刻な問題で、「コンサートよりもコンサートに出たいピアニストの数の方が上廻る」のである(301〜302ページ)。そのくせ乱立するコンクールはたくさんのコンクール優勝者を輩出し、それらに片っ端から挑戦する「プロフェッショナル・ファイナリスト」のような人びとを生みだしてしまう。問題はあまりにも根深い。

「クライバーンのようにずば抜けた才能が参加していないときには、コンクールというのはまことに判定が難しくなる。そんな場合、特に審査員が多い大コンクールとなると評価は極端にまちまちとなり、そうした中で突如幸運に見離される者が出るかと思えば、風向きがくるりと変って幸運を手にする者も出てくる。

一位もそうだが、特に二位以下の判定は曖昧にならざるを得ない。すなわちコンクールであるからには、それがどの程度のものであれ一位にはそれなりの意味がある。しかし、一位以外であるならば二位も十位も、あるいは三位も六位も、その才能や技術には数字で表されるほどの違いはないといっていい」(172ページ)

「どこのコンクールでも、古典から現代曲に至るまでのピアノ独奏曲の主要作品を中心に課題曲が構成されており、違いといえば、モスクワではチャイコフスキーを、スペインのコンクールではアルベニスを弾かされるといったこと、また場合によってはセミ・ファイナルで他の器楽と室内楽を演奏させられる、といった程度でしかない。そして、しかもその課題プログラムは、現代では質量共にますます重くなって、時には「いったいこのコンクールは、何を目的としてこんなに多大な量のプログラムを参加者たちに要求するのだろうか」と、半ば呆れさせられてしまうことさえある。

これでは、まるでピアノ演奏のトライアスロンではあるまいか。実際のところ、参加者たちは、音楽的才能や芸術的感性がいかに優れているかなどということよりも先に、一にも二にも人並みはずれて強靱な肉体、体力と、そして何事にもたじろがない図太い神経を持ち合せていなければ、こうしたタフな長丁場を勝ち抜いてはいけなくなる。「悩める青白きインテリタイプの病的芸術家」ふうなどでは、とてもピアニストとして生きていくことはできないといった有様になっているのである」(281〜282ページ)

 ところで、コンクールの本選ではオーケストラとの協奏曲が課題となることが多いが、協奏曲においては経験がものを言うのだそうだ。プロとしてデビューする前のコンテスタントたちに、オーケストラと協演する機会などそうそうあるものではないだろうから、これはじつに苛酷な課題といえるだろう。なぜ経験が重要なのか、中村紘子は自身のピアニストとしての体験から、とても貴重なことを書いてくれている。

「一般的にいっても、普通の演奏会の場合、オーケストラとソリストが合せるチャンスは、滅多に上演されることのないような難曲大曲あるいは現代物の初演などということでもない限り、大抵は前日と当日の会場練習との二回限り、というのが国際的にも習慣となっているようである。

 もちろん、その作品をオーケストラと合せた経験がない場合は、私たちソリストはオーケストラ・スコア片手にレコードを聴いたりするのはもちろんのこと、友人などに頼んでオーケストラの部分をピアノで弾いて貰って二台のピアノで一緒に合せたりして、事前にオーケストラ・サウンドに馴染んでおこうと努力する。

 具体的に言うと、ここでティンパニーを三拍聴いて、四拍目に一緒に出る、次は主題がチェロに移って、ピアノは半拍ずつズレながらそれに合せる、そして、という具合に、協演のポイントをチェックし、ピアノ譜に注意マークを書き込んだり、あれこれと詳しく分析をしたりする訳だが、ところが、ああ、なんということだろう、いざ、オーケストラと一緒に弾き始めてみると、どういう訳かレコードでは手にとるように聴こえていたチェロが、実際にはさっぱり響いてこない、などといった事態が必ず、それも一つや二つならず発生するのだ。

そのため、あのチェロを合図にこちらが弾き始めればいい、などと頼りにしていると、とんでもないことになったりして、それでカーッとあがってしまって、あとはもう……といったような苦い味わいを、ソリストならば誰しもが一度は体験しているであろう」(252〜253ページ)


「オーケストラにぐるりと囲まれて座ってみて初めて知るのだが、あの中には響きの時差とでもいうようなものも存在するし、自分の近くに座って演奏している楽器の響きに消されてしまって、遠くにある楽器の音が聴きとり難くなるなどということは、むしろ当然のことである。例えばベートーヴェンのピアノ協奏曲第五番に「皇帝」というニックネームで知られた名曲があるが、その最終楽章のそれこそ一番最後の部分に、十四小節にわたってピアノとティンパニーだけが二人で演奏する個所がある。だんだん音を弱めテンポもゆるやかになっていって、そのあと華やかに一気に駆けのぼるフィニッシュを「嵐の前の静けさ」ふうに強調する部分なので、とても緊張感に満ちているのだが、この部分はコンサートホールの響きによっては、オーケストラの最端部に陣取っているティンパニーと最前列中央のピアノとの間に時差が生じて合せにくくなるのだ。お互いに見合ったりして合せようとすると、音はかえってズレたりする。

こんなときは、ほとんどカンに頼る他はない。何故、指揮者という存在が原則として皆より一段高い所に上って、しかも立ちっ放しでいることになっているのかが、突如として納得させられたりもする。私のやや強引な一人合点によれば、あれでは恐らく背のひどく高い指揮者とひどく低い指揮者では、それが良いか悪いかはべつとして、聴こえてくる音響の世界は相当に違ったものとなっているに相違ない」(253〜254ページ)

 これからコンクールを受けようと思っている日本人ピアニストは、中村紘子の著作の存在を喜ぶことだろう。がんばれ。日本人ピアニストといえば、こんな記述もあった。

「国際的なコンクールなどの場では何故か今でも依然として、日本人のピアニストといえば

「一つのミスもなく平然と演奏するが、機械のように無表情である」

「きちんと弾くが、個性に乏しい」

といった評判を耳にする。今回のチャイコフスキー・コンクールにおいても、善戦した岡田氏や小川さんに対して、むしろ予想以上に厳しく醒めた反応があったのも、このような先入観によるところがあるのではないかと思われる。こうした印象は、ワーカホリックでエコノミック・アニマルとされる例の日本人の既成流通イメージと重なって、一般論としては何やらもっともらしい説得力さえ帯びてくる感じがある。そしてコンクールの場で私が一番つらくもの思いに沈むのは、実にこの点に他ならない」(222ページ)

 がんばれ。

 それから、クラシック音楽の演奏家、とりわけピアニストを育む土壌についても、印象的な文章があった。これはなにもクラシック音楽にかぎったことではなく、おもしろいものに溢れている現代ではすべての芸術に共通の困難なのではないかと思う。

「極端に乱暴で大雑把な言い方になるが、クラシックの演奏家、特にピアニストは、要するに他に面白いことがいっぱいある社会では成熟しにくいのではあるまいか、と私はかねがね考えてきた。

経済的にも豊かで、多元的な価値観のもと、文化的にも技術的にも次々と新しい知的冒険と刺激が生まれ、多様なライフ・スタイルが試みられる社会では、長時間に亘る持続的で精妙な鍛錬を必要とするピアニストの育つ土壌は極めて限られるのではないか。

逆に言えば、或る程度貧しく、固定された価値観のもとにあって、保守的で時の歩みの遅い種類の国の方がピアニストにはよろしい……」(360ページ)

 でも、そのぶん続けることにも価値が生まれるのだ。

 中村紘子の文章はユーモラスで、ひとつの大きなテーマがあると、じつに楽しく言葉を紡いでいってくれる。テーマが、などと余計なことを書いたのは、じつはこの本よりも先に、同じ著者の『ピアニストという蛮族がいる』を読んでいたからだ。これについては、いずれこの本を紹介するときに書こうと思っている。

 ぐんぐん進んでいける読みやすさや現実特有のおかしみなど、ノンフィクション作品の持つ楽しさに溢れた一冊で、すばらしい読書時間を過ごせた。これはおすすめ。
http://blog.livedoor.jp/nina313/archives/2012-11.html


2009/06/15

中村紘子『コンクールでお会いしましょう』(中央公論社)とヴァン・クライバーン・コンクール


アメリカのヴァン・クライバーン・コンクールで、辻井伸行さん(20)が1位となった先週のニュースは、彼が生まれながらの全盲というハンディキャップを背負っていることもあり、大々的に報じられ、帰国後の公演やコンクール前に録音されたCDも大変なセールを記録しているという。

ヴァン・クライバーンといえば、冷戦時代のソ連で開催された第1回チャイコフスキーコンクールを何と仮想敵国人でありながら(またはそれゆえに)圧倒的な好評で優勝し、その凱旋はアメリカン・ヒーローそのもので、彼の録音したチャイコフスキーやラフマニノフの協奏曲は(現在も現役盤として立派に通用する水準だが)、当時のアメリカで大々的なベストセラーとなった。

我が家にはそのヴァン・クライバーンが、いわゆるショーマンではないピアニストとして脱皮しようと試みた頃の、ベートーヴェンのいわゆる三大ピアノソナタのLPがあり、私にとっては、これがこれらの曲への入門音盤となったということでも恩を感じているピアニストである。

このLPのジャケット写真を以前このブログで紹介したことがあるが、
http://kniitsu.cocolog-nifty.com/zauber/2006/05/8lp__c2b4.html

そのまさにプロフィール(横顔)を見ても、彼がそのような華やかな栄誉や過大な期待を背負うようなギラギラとしてタフな野心家ではない雰囲気が窺がわれる。

一夜明ければ有名人そのままに、その後彼は厳しい批評にさらされ、彼は心身の調子を崩し、ピアニストとしては大成しないまま引退し、その後、ヴァン・クライバーンの名を冠したコンクールの名誉主催者としての地位にあるといい、先日の辻井氏の1位のときにも、暖かいコメントを寄せている。

ヴァン・クライバーンとチャイコフスキー・コンクール、ヴァン・クライバーン・コンクールそのものについて、さすがの筆致で書かれているのが、表題の中村紘子女史による

『コンクールでお会いしましょう ---名演奏に飽きた時代の原点』
http://www.amazon.co.jp/%E3%82%B3%E3%83%B3%E3%82%AF%E3%83%BC%E3%83%AB%E3%81%A7%E3%81%8A%E4%BC%9A%E3%81%84%E3%81%97%E3%81%BE%E3%81%97%E3%82%87%E3%81%86%E2%80%95%E5%90%8D%E6%BC%94%E3%81%AB%E9%A3%BD%E3%81%8D%E3%81%9F%E6%99%82%E4%BB%A3%E3%81%AE%E5%8E%9F%E7%82%B9-%E4%B8%AD%E5%85%AC%E6%96%87%E5%BA%AB-%E4%B8%AD%E6%9D%91-%E7%B4%98%E5%AD%90/dp/4122047749


だが、ここで、ヴァン・クライバーン・コンクールについて、その優勝者達が、その後のリーズ国際で優勝したあのラド・ルプー以外に世界的ピアニストとして大成した人がいないという不可思議な事実を記している(単行本 P.85)。

この優勝者に与えられる法外なリサイタル契約が、せっかくのその才能を早い段階ですりつぶしてしまうのではないかというような趣旨のことが書かれていた。特に、あのカーネギー・ホールでのリサイタルが鬼門だという。

だから、辻井氏の優勝(1位)には快挙だとは思いながらも、素直に喜べない部分がある。既に、日本のマスコミやプロダクションは、中村紘子女史という大御所が書いたこのような基本的な情報を棚上げにして、辻井氏の才能を消費しようとしているかのように感じて、少しうそ寒い感じがする。

コンクール出身者としては、ポリーニにしろ、ツィメルマンにしろ、ショパンコンクールでの優勝は、演奏家人生の入り口に立っただけだということを自覚してか、それからさらに研鑽を積んだ上で、改めて世に出たという実例もある。

是非、賢明な諸氏は、音楽コンクールの優勝は、オリンピックや世界選手権の金メダルが象徴する世界のその時点でのトップということとは違い、たまたまそのコンクールに参加したプロ演奏家志望の演奏者の中で1位になったに過ぎないということをもっと知るべきだ(ほとんど中村女史の受け売りだが)。


盲目の鍵盤楽器奏者としては、高名なチェンバリストであり、オルガニストだったヘルムート・ヴァルヒャの存在を忘れることはできない。また、日本のピアノ界でもヴァン・クライバーン・コンクールよりもさらに権威のあるコンクール、ロン・ティボーで2位を獲得した梯剛之(かけはし たけし)氏や、ヴァイオリニストでは、和波孝禧(わなみ たかよし)氏など、障害をものともせずに活躍している演奏家もいる。

祝福の輪が広がることは結構なことだが、まだ20歳の学生でもあり、じっくりとレパートリーを広げるだけの研鑽の時間がもてるように周囲が配慮してあげて、稀有とされる才能が消費されるのは避けてもらいたいものだと思う。
http://app.m-cocolog.jp/t/typecast/37182/37411/58525926


ヴァン・クライバーン・コンクール

******* Mr.ビーハイブ楽師のコメント  *******


  最近盲目の辻井伸行君という若いピアニストが優勝したと言う事で、騒がしいことである。

 メディアもヴァン・クライバーン・コンクールの事はあまりわかっていなくて、どのTVも新聞も、そして雑誌もショパンコンクール、チャイコフスキーコンクールに並ぶ、権威あるコンクールで優勝した・・・これは素晴らしい事だと騒ぎ立てている。

これは誤解である。

ショパンコンクールやチャイコフスキーコンクールと同等なものではないが、わかっていない人はそう思ってしまうようである。NETではあまり評判が良くない。

 私はファイナルを聴いたが、これで、優勝は無いよ!と言う話や、はじめからわかっているのになぜレヴェルの低いヴァン・クライバーン・コンクールを受けに行ったの?

 さらにヴァン・クライバーン・コンテストで優勝した人の中で、名をなした人は一人もいない、いわばレヴェルの低いコンクールなのに・・・と言った始末である。

そしてその理由として、優勝すれば3年間で100回の演奏会の権利をもらえるとは言うもの、実際には言いなりに動かなくてはならないので、つぶれてしまうと言うものである。


 ヴァン・クライバーンという人は、第一回のチャイコフスキーコンクールに優勝した。本来ならばロシアのピアニストが優勝すべきだったのに、鉄のカーテンの向こうのアメリカから来た、ヴァン・クライバーンによって優勝をさらわれてしまう。アメリカは大喜びで、彼を国民的英雄として迎える。

 その時私は、映画館のニュースで、(当時はテレビが無かった)その状況を見たが、紙吹雪の中オープンカーでパレードをやるし、ホワイトハウスで演奏するなど大騒ぎになったらしい。このクライバーンはその後あちらこちらと引っ張り回されているうちに、崩れてしまう。

 確かにチャイコフスキーコンクールで優勝した頃はすごく良かったそうである、審査員の一人であったリヒテルはヴァン・クライバーンに5点入れたが他のピアニストにはすべて0点を入れたと言うし、中村紘子さんの著作である、チャイコフスキーコンクールの中では、彼は本当に素晴らしかったと言っている。しかし酷使されてすぐに押しつぶされてしまった・・・と記述している。

 今回の優勝でも3年間で100回の演奏会が保証されているという(100回は少し自信は無いが、すごく多い回数は確か)3年間で100回というと月に3回の演奏会をこなこなさなければならない。

同じ曲目なら物理的に可能かも知れない。しかしそうは行かない。勉強する暇は無いのである。こんな状況で基礎的な音楽を勉強する暇もないまま進んでしまうと。押しつぶされてしまうのでは無いか・・・

クライバーンはこの様にしてつぶされてしまった。今ではあまり派手な活動が出来ないばかりか、若い人の中には彼の名前を知らない人もいる。

 辻井伸行君のスケジュールをテレビで一寸写ったが、日本での凱旋演奏会はおびただしい数である。

加えて今後3年間果たして勉強するいとまがあるのだろうかと心配する。ましては盲目というハンデを抱えている。彼がヴァンクライバーンの二の舞にならないことを祈るのみである。

 ショパンコンクールで優勝したポリーニは審査員であったルビンシュタインが我々審査員の中で彼より上手く弾ける人がいるだろうか・・と言ったと言うが、彼は優勝後すぐに演奏活動に入らずに勉強に勉強を重ねて十分に成熟してから演奏活動に入った、今や世界で屈指のピアニストである。

日本の諏訪内晶子さん(Vn)もチャイコフスキーコンクールに優勝した後ジュリアードでVnを勉強し直して、デビューをしている。


本来このようにあるべきでは無いかと、私は考えている。コンクールとは音楽家の登竜門であるはずである。

 ただ心配なのはクライヴァーンだけで無く、エイヴェックスがマネジメントをしている様に思われるので、よほど自分をしっかりと捉えないと、もみくちゃにされてしまう可能性もある。 

長文になったついでに現在のヨーロッパにおけるコンクールの位置付けを見てみると、必ずしも優勝した人が、将来伸びているわけでは無く、2位3位のいわゆる個性のある人たちが伸びることが多いために、コンクールはあまり重視されていないと、聞いている。

一方コンクールこそいい手がかりであり、それから飛躍をしていこうと考えている人もいる。
http://chauchaw.web.fc2.com/hafuna-04-16.html

http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/438.html#c3

[近代史3] アメリカ人には音楽は理解できない _ 天才ピアニスト ヴァン・クライバーンとは何だったのか? 中川隆
4. 中川隆[-10395] koaQ7Jey 2019年5月18日 13:44:16 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[1924]

「あんなに素晴らしいピアニストはいなかった」

「でも繊細すぎる彼には耐えられない仕事」

「今でも気遣いや立ち居振る舞いは超一流。でもアメリカ国民が望むであろうクライバーンを演じているようにしか見えず、痛々しい。」・・・


まあ、本物の芸術家や天才で先生の言い付けを守ったり、期待される人間像を演じようとする人は存在しないですからね。

良い子は芸術家には向かないという事でしょう。




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本物の天才とはこういうもの

『ピアニストという蛮族がいる』(中村紘子)
http://www.amazon.co.jp/%E3%83%94%E3%82%A2%E3%83%8B%E3%82%B9%E3%83%88%E3%81%A8%E3%81%84%E3%81%86%E8%9B%AE%E6%97%8F%E3%81%8C%E3%81%84%E3%82%8B-%E4%B8%AD%E5%85%AC%E6%96%87%E5%BA%AB-%E4%B8%AD%E6%9D%91-%E7%B4%98%E5%AD%90/dp/4122052424


 「この私自身をも含めてこのピアニストという種族について、気取っていえば神話的感慨、社会的公正を期していうならば、洗練された現代の人間とはまこと異質な、言ってみれば古代の蛮族の営みでも見るみたいな不思議な感慨、を、或る感動と哄笑と共に催すことがある」(Kindle版 No.18)


 古今東西の大ピアニストを取り上げ、その数奇な人生や奇妙なエピソードを語ってくれる素晴らしく面白いエッセイです。登場するピアニストは奇人変人というべき変わった方が多いのですが、それも無理はないのだと最初にこう断りを入れています。

 「大体みんな、三、四歳の時から一日平均六、七時間はピアノを弾いているのだ。たった一曲を弾くのに、例えばラフマニノフの「ピアノ協奏曲第三番」では、私自ら半日かかって数えたところでは、二万八千七百三十六個のオタマジャクシを、頭と体で覚えて弾くのである。それもその一音一音に心さえ必死に籠めて・・・。すべてが大袈裟で、極端で、間が抜けていて、どこかおかしくて、しかもやたらと真面目なのは、当たり前のことではないだろうか」(Kindle版 No.21)

 この一文を書くためにだけに28,736個の音符を数え上げた著者がいうのだから説得力があります。そういうわけで、著名なピアニスト達のエピソード満載なのですが、これがまた。

 「滅多にコンチェルトを弾かなかったホロヴィッツは、理由を訊かれて「オーケストラは邪魔だから」と答えた」(Kindle版 No.2952)

 「ホロヴィッツはただ一度、パリでルービンシュタイン夫妻を夕食に招待したことがあり、あまりにも珍しい出来事であったのでルービンシュタインはわざわざオランダから夜行列車でパリに戻ったのだが、なんとホロヴィッツは、その約束をすっぽかして競馬に行ってしまった」(Kindle版 No.209)

 「「世界のピアニストには三種類しかない。ユダヤ人とホモと下手糞だ」と放言してニヤリと笑ったのはかのホロヴィッツだった」(Kindle版 No.339)

 と、最初のホロヴィッツだけでもお腹いっぱい。蛇足ながら、もちろんホロヴィッツはユダヤ人で同性愛者でした。

 24歳にもなってからチェルニーの教則本で本格的に練習し始めたという異常に遅いスタートから、ほぼ一日おきのコンサートをこなしながらなんと毎日17時間の猛練習をやり抜き、米国だけでも1500回以上の演奏会を行い、500万人の聴衆を魅了した挙げ句、うっかり独立ポーランドの初代首相となり、ヴェルサイユ和平会議の席上で「あの有名なピアニストが今やポーランド首相とは。お気の毒に、なんたる転落か」と嘆かれたという、イグナッツ・ヤン・パデレフスキー。

 四歳で最初のコンサートを開き、七、八歳の頃にはペルシャの宮廷ピアニストになり、十一歳で千回記念リサイタルを開いたというラウル・フォン・コサルスキー。「ひとくちに千回というけれども、これは四歳のデビュウから十一歳までほとんど休みなく2.555日に一度ぐらいの割合で演奏会をしていた勘定になる」(Kindle版 No.2325)

 住む家もない鉱山労働者のテントの中で生まれ、草原で拾ったカンガルーの子供を唯一の友とし、素足で野山を駆けめぐり、ボロ同然の服を一年中着ていたというのに、ピアノに出会うや奇跡的な才能を示し、一躍ロンドン音楽界の寵児となって、やがて映画スターになったアイリーン・ジョイス。

 「ショパンを弾きながら途中を忘れて盛大に間違え、自分で即興的に「作曲」して弾き終わったあと、聴衆に向かって、この方がいいのだ、と演説した」(Kindle版 No.2732)ウラディミール・ド・パッハマン。

 「不充分な演奏をしたら、聴衆に申し訳ない」(Kindle版 No.2916)と大真面目に主張して演奏会をドタキャンしまくったり、「拍手が少ないのに憤然とした余り、ステージの上から静かな客席に向かって一言「ブタに真珠よ」と捨てゼリフを吐いた」(Kindle版 No.3065)り、八十九歳のときにずっと年下のイタリア娘と結婚し九十六歳にして二時間の演奏会を平然とこなしてしまったり、ピアニストにまつわる面白い話には種切れというものがありません。

 中でも白眉は、日本最初のピアニストでもある幸田延、その弟子である久野久の二人の伝記でしょう。日本における西洋音楽の黎明期に活躍した二人の女性ピアニストの苦難の物語は涙なくして読めません。特に久野久に関する記述には力がこめられています。

 「久にはピアニストになるための音楽的条件と音楽的必然性が何ひとつ備わっていなかった。にもかかわらず、運命は彼女にピアノ以外の何物をも与えることを拒否するのである」(Kindle版 No.1609)

 「彼女と音楽との出逢い、関わり合いには何一つ豊かなもの幸せなものはなく、あるのは不安とつらさばかりであった。そして音楽に身を打ち込めば打ち込むほどにその不安は広がって、彼女から音楽はますます遠くへだたっていくのを彼女は知っていた」(Kindle版 No.1876)

 「名古屋での演奏会では、演奏の途中で指が裂け、血が吹き出してキイがまっ赤に染まってもなお弾き続け、聴衆を圧倒したという。きゃしゃで色白の足の不自由な娘が物の怪に憑かれたように全身全霊をこめてピアノに立ち向かう。満身の力をこめてピアノを叩くと、結い上げた髪はパラバラと肩に落ち、さしていたかんざしはどこかにすっ飛び、帯までもがゆるゆるとほどけていく・・・」(Kindle版 No.1296)

 大いなる悲劇へと向かう彼女の凄絶な人生を劇的に語りながらも、「同じピアニストとして私は、一体どうやったら「指先が破れて血がほとばしり出る」ような奏法になるのか、理解に苦しむ」(Kindle版 No.1792)と冷静に演奏技術の未熟さを指摘するところなど、さすがピアニスト。

 けっこう辛辣な文章が多いのも特徴的で、例えばこんな描写が。

 「ちょっと目の表情のきょとんとした、やや蓮っ葉な感じの極めて愛想の良い人だが、失礼ながら知性や教養といったものには程遠いタイプの人という印象であった」(Kindle版 No.1223)

 「日和見主義者で権力志向で酒飲みで、ときに音楽家としてもイイカゲンな、一言にいってヤな奴らだったようである」(Kindle版 No.2228)

 「女性ピアニストというのは、どうしても性格的には勝ち気で負けん気で強情でしぶとくて、神経質で極めて自己中心的で気位が高く恐ろしく攻撃的かつディフェンシヴで、そして肉体的には肩幅のしっかりとした筋肉質でたくましい、というタイプになってしまう」(Kindle版 No.3038)

 というわけで、出てくる伝記とエピソードが強烈な印象を残し、また文章から感じられる「勝ち気で負けん気で(中略)たくましい」パワーに魅了される、そんな傑作エッセイです。あまりの面白さに一気読みしてしまいました。
http://babahide.blog.so-net.ne.jp/_pages/user/iphone/article?name=2013-02-06


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本物の天才と紛い物の天才がどれ位違うかは以下を聞き比べて下さい:

ホロヴィッツのチャイコフスキーピアノ協奏曲第1番 1943年
http://www.nicovideo.jp/watch/sm6847048
http://www.nicovideo.jp/watch/sm6847082
http://www.nicovideo.jp/watch/sm6847152

トスカニーニ&ホロヴィッツ 《チャイコフスキーピアノ協奏曲第1番1941》
http://www.nicovideo.jp/watch/sm17329798

チャイコフスキー/ピアノ協奏曲第1番変ロ短調OP.23
ヴァン・クライバーン(Pf) キリル・コンドラシン指揮シンフォニー・オーケストラ1958.5.30、ニューヨーク、カーネギーホール
http://www.nicovideo.jp/watch/sm14114510
http://www.nicovideo.jp/watch/sm20214185

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チャイコフスキー ピアノ協奏曲第1番 変ロ短調 作品23
ピアノ:ホロヴィッツ トスカニーニ指揮NBC交響楽団
録音:1941年5月6日、14日、カーネギーホール


これは70年前の録音です。70年前! 当然モノラルで、オーディオ的にはその後に登場した数々の録音には遠く及びません。であるにもかかわらず、この演奏を知っているがために、私はどのような名人の演奏を聴いても満足できなくなってしましました。ほかのピアニストの演奏でもある程度のカタルシスが得られますが、70年も前の録音から得られるカタルシスは比類がありません。ある意味では不幸な出会いなのですが、この演奏を知らないより知っていた方が良かったと思います。

 そもそもこれほどのピアノの巨人がこの世に実在したこと自体が驚異です。ここではその絶頂期の演奏にノックアウトされます。冒頭から圧倒的なパワーによる雷鳴のような音、華麗で目も眩むほど鮮やかなタッチ。文字通り度肝を抜かれます。

演奏は協奏曲というよりひとり舞台に近いものがあります。ホロヴィッツのピアノはそれこそ自由奔放、唯我独尊、傍若無人です。ちょっと自由奔放・・・・というのでもなく、激しく自由奔放、激しく唯我独尊、激しく傍若無人です。こんな演奏はほかにありません。第3楽章の最後の最後までホロヴィッツ節のオンパレードで、私は興奮を抑えきれません。スピーカーに向き合って聴いていてなお、立ち上がって拍手したくなります。何という臨場感でしょうか。

 伴奏をつけている指揮者とオーケストラも凄い。本気でぶつからなければたったひとりのピアニストに押しつぶされてしまいます。そのため、オーケストラからも切迫感のある猛烈な音が聴けます。それでもなお、ホロヴィッツはオーケストラを威圧し、完全にリードしています。トスカニーニ指揮のNBC交響楽団だからついて行けたのでしょうが、普通のオーケストラでは途中で崩壊していたでしょう。

 ホロヴィッツは晩年には晩年の良さがありますが、ここに聴くホロヴィッツは圧倒的な輝きを放っている大スターです。こうした演奏だと、演奏を耳にできるだけでありがたいと思います。録音の古さなど全く気になりません。名盤の条件に、音質の良さ、例えば良好なステレオ録音でなければならない、などということは不要です。

 また、ライブ録音でなければ熱い演奏が聴けないということもありません。ムラヴィンスキーのチャイコフスキーもそうでしたが、ホロヴィッツの録音もいわゆるスタジオ録音に分類されます。「ライブならでは」というのは使い勝手が良い都合のいい言葉ですが、経費を節減するためのライブより、しっかりとしたスタジオ録音の方がよほど充実した演奏が聴けると思います。もっとも、1941年当時、演奏家たちは録音という行為に対して現代とは比較にならないほど真剣であったと考えられます。それが演奏にも色濃く反映されていると考えて差し支えないでしょう。

 チャイコフスキーのピアノ協奏曲に関しては、この1枚があれば足りると言いたいところですが、そうはいきません。ホロヴィッツには同じ組み合わせによるライブ録音があるからです。

チャイコフスキー ピアノ協奏曲第1番 変ロ短調 作品23
ピアノ:ホロヴィッツ トスカニーニ指揮NBC交響楽団
録音:1943年4月25日、カーネギーホールにおけるライブ

 これは1941年盤同様自由奔放、唯我独尊、傍若無人なピアノです。聴衆は第1楽章から熱狂していて(当然です)、第1楽章が終わるやいなや激しい拍手が待っています。

 RCAは放送した録音を元にマスターテープを作って商品化したようですが、その過程でかなり苦労をしたらしく、ライブであるにもかかわらず1941年の録音と音質的に大きく遜色がない点もすばらしいです(好き嫌いの差はあるでしょうが)。国内盤が入手しやすいであろう1941年盤とこの43年盤があればホロヴィッツのチャイコフスキーは堪能できるでしょう。


 参考に、もう1枚挙げておきます。MUSIC & ARTSの1948年盤です。

チャイコフスキー ピアノ協奏曲第1番 変ロ短調 作品23
ピアノ:ホロヴィッツ ワルター指揮ニューヨークフィルハーモニー管弦楽団
録音:1948年4月11日、ライブ


 これは最も新しい録音である割に、音は最も貧弱です。しかし、これまた聴き始めると音質など気にならなくなります。超絶的に優れた演奏を前にすると、音質のことなどどうでも良くなるのですね。第1楽章の後、盛大な拍手が入るのは1943年盤と同様です。この演奏で拍手がない方がどうかしていると私は思いますが。第3楽章の終わり方は凄すぎて何回聴いても笑いがこみ上げてきます。

 この圧倒的な才能、それこそ太陽のような輝きを持つピアニストがいなくなった後、我々にはどのような演奏が選択肢として残されているのでしょうか。
http://www.kapelle.jp/classic/greatCDs/horowitz.html


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上に ホロヴィッツ +トスカニーニ の二種類の演奏のリンクを貼りましたが、この二つでは 1943年4月25日のライブ録音の方が断然優れています。 録音は極端に悪いのですけどね。
録音が良い1941年版の方がいいと思った方は音楽が全然わからないと思って下さい。

こういう音楽がわからない人が多いのでヴァン・クライバーンの録音が良いだけのどうしようもない演奏が空前のベストセラーになったのですね:


私の音楽ライブラリですが、二人の競演のCDを次の3種類持っています。
いずれも、

  独奏:ウラディミール・ホロヴィッツ
  指揮:アルトゥーロ・トスカニーニ
  演奏:NBC管弦楽団

の演奏で、モノラルの録音です。


 【1】1941年5月6,14日、ニューヨークのカーネギー・ホールでのスタジオ録音
http://www.amazon.co.jp/exec/obidos/ASIN/B000V2RWCG/nrsnn999-22/ref=nosim/

私が最初に買って良く聴いていたLPはこの演奏でした。
聴きやすいスタジオ録音です。 演奏もスタジオ録音の割には熱気を帯びています。

 【2】1943年4月25日のカーネギー・ホールでのライブ録音
http://www.amazon.co.jp/exec/obidos/ASIN/B00005EGZ2/nrsnn999-22/ref=nosim/
http://www.amazon.co.jp/dp/B000003EYF/ref=as_li_tf_til?tag=19741216-22&camp=243&creative=1615&linkCode=as1&creativeASIN=B000003EYF&adid=09WEDTXR736D7K5EFFDV&&ref-refURL=http%3A%2F%2Fclassicalmusic.livedoor.biz%2Farchives%2F52238846.html

二人の凄まじい熱気に、第1楽章が終わったところで聴衆が拍手をしています。
感動的な演奏ですが、残念なことに録音がよくありません。
本当に聴きにくいのが残念です。

 【3】1941年4月19日のカーネギー・ホールでのライブ録音

案外、このCDが一番よい演奏かも知れません。
ダイソーからホロヴィッツさんの演奏した協奏曲のCDが2種類でたので、即購入(1枚100円)しました。

実は、いつのどういった演奏か分からずに購入したのですが、 その後、1941年のライブ録音と分かって、お買い得な1枚だったと改めて感激したものです。
http://pub.ne.jp/akichi/?entry_id=3559009

トスカニーニとホロヴィッツによる共演でのチャイコフスキーピアノ協奏曲第1番は3種類の録音があります。すべてNBC交響楽団との演奏


・1941年4月19日(カーネギーホール、ライヴ録音)Naxos 、Music & Artsから出ています。

・1941年5月6、14日(カーネギーホール、スタジオ録音)RCA正規盤

・1943年4月25日(カーネギーホール、ライヴ録音)RCA正規盤(1959年初発売ホロヴィッツが発売の許可与えた。)


♪チャイコフスキーピアノ協奏曲 第1番は、1943年4月25日、カーネギーホール、第1回「戦争債券募集特別演奏会」ライヴ録音。

このときのプログラムはオール・チャイコフスキーで「くるみ割り人形」組曲、交響曲第6番「悲愴」、そしてピアノ協奏曲第1番でした。

そのピアノ協奏曲第1番は2年前にスタジオ録音がありますがホロヴィッツもトスカニーニも演奏録音に満足してなかったようです。しかしながら41年の録音はかなりストレートな演奏でトスカニーニ主導の中で進められて入るものの、その中でホロヴィッツ縦横に鍵盤を駆け巡る指の鮮烈な技巧をみせていますね。まさに「炎の名演」で勢いがあります。スタジオ録音であるためかしっかり音が取れている録音です。

43年の演奏は、ライヴ録音で41年で見せたストレートな演奏からやや第1楽章の最初のほうのテンポを抑えめにして丁寧に聴かせています。(アメリカらしく?第1楽章が終わると拍手あります。)


♪なぜチャイコフスキーピアノ協奏曲 第1番二回録音(コンサートをしたか)したのかのエピソード♪

1941年におこなわれたものは、これはニューヨークのカーネギーホールが1891年に柿落としをした際に、ここに訪れたチャイコフスキーの来訪50周年記念演奏会(1941年4月19日のコンサートのこどですかね?)の直後にレコード録音されたもので、レコードもすぐ発売されてうる。しかし指揮者とソリストとがうまく一致してない、ミスタッチがある、さらには音質的にも問題があるとして当時あまり評価になにず、逆に1933年(1932年と思われます。)に録音されたホロヴィッツのライヴァルともいうべきルービンシュタインの「1932年バルビローリ指揮ロンドン響(EMI)との共演盤」レコードの評価を高めることになってしまった。

これを気を悪くしたトスカニーニは、早速ホロヴィッツを自宅に呼び付け、蓄音機のヴォリュームを一杯にあげて、その演奏のまずい個所について徹底的に分析したということでした。そしてその2年後の1943年にふたたびチャイコフスキーピアノ協奏曲 第1番を共演し、この日ラジオでも実況中継されたチャイコフスキーピアノ協奏曲は大成功で、トスカニーニにとってもホロヴィッツとっても大変満足いく成果を納めた。
http://blogs.yahoo.co.jp/rboarder30/44074029.html

2011年06月22日
ホロヴィッツ&トスカニーニのチャイコフスキー:ピアノ協奏曲第1番(1943年ライヴ)/ホロヴィッツのムソルグスキー:展覧会の絵(1951年ライヴ)
http://www.amazon.co.jp/Tchaikovsky/dp/B000003EYF%3FSubscriptionId%3D175BC0N2BCT0X4DAZG82%26tag%3Damebablog-a411407-22%26linkCode%3Dxm2%26camp%3D2025%26creative%3D165953%26creativeASIN%3DB000003EYF


 クラシック演奏史における伝説の指揮者とピアニストによる競演が実現した、ドリーミーなアルバムだ。この演奏は1943年に録音されたが、もう一枚1941年のものが存在するらしい。僕は両者について詳しいことは知らないけれど、トスカニーニの娘がホロヴィッツと結婚した事実を鑑みると、良い関係だったのだろう。

 さて、このアルバムは最高にエキセントリックでおもしろい。やりたい放題演奏するホロヴィッツに、トスカニーニが正面から張り合っている。一般的に協奏曲ではオケとソリストが助け合うことが理想的な関係なのだろうが、この演奏からはそのような思いやりはあまり感じ取れない。むしろついてこれるかと挑発し、互いを振り落とそうとしているかのようだ。

 第一楽章の冒頭からして、狂っている。鍵盤を激しく打ち鳴らすホロヴィッツに、応酬するトスカニーニ。ニ頭の竜が激しく争いながら天を駆け上っていくような力強さがある。何もそんなお互い意固地にならんでも、と可笑しくなるくらいだ。

第二楽章はさすがに休戦状態、お互い和やかな雰囲気で進んでいく。しかしそれはあくまでも次の戦いへの準備にすぎないのだ。

第三楽章は、予想どおり再びぶつかり合いが始まる。ホロヴィッツはテンポをがんがんあげ、トスカニーニも堂々とそれを受け止める。崩壊しそうでしない独特の緊張関係の上にこの演奏は成り立っている。もうわけのわからない圧倒的な迫力が生まれている。
 
 別に喧嘩し合っているわけではない。互いの限界を演奏の中で引き出し合うような、実に高度な掛け合いが繰り広げられているのだ。最後のクライマックスにおけるスケールの大きさは、間違いなく伝説上の二人だからこそ作り上げることができたのだろう。

 協奏曲のあるべき姿はこのアルバムにあらわれていると思う。協奏曲とは馴れ合いではない。互いの限界のギリギリを追求していく実に挑戦的な形態であるのだ。

 この演奏は先日発売したボックスに収録されている他、単品でも手に入る。際物好きにはたまらない逸品かと思います。
http://classicalmusic.livedoor.biz/archives/52238846.html

ホロヴィッツ&トスカニーニのチャイコフスキー:ピアノ協奏曲第1番(1943年ライヴ)/ホロヴィッツのムソルグスキー:展覧会の絵(1951年ライヴ)


ホロヴィッツが岳父トスカニーニと共演したチャイコフスキーはこの曲を語るときに決して忘れることの出来ない名盤である。

筆者の考えではこの名作の現在までの最高の演奏であると同時に、ホロヴィッツが残した膨大な量の録音の中でも、その頂点にランクされる名演である。

ホロヴィッツは、驚嘆すべき技巧、鋭いタッチで圧倒するばかりでなく、ホロヴィッツ特有のアクセントの付け方が、ここではすべて曲の内的論理に適っており、聴き手の心に一音一音が突き刺さってくる。

かなり速めなテンポが設定されたこの演奏では、ホロヴィッツがそれを少しも苦にせずに唖然とするような快演を展開しているが、トスカニーニとの極限まで緊迫した対話から生まれる白熱的な緊張感は、この演奏そのものが作品を高濃度のエネルギー体に昇華させているかのような印象さえも抱かせる。

フィナーレなどは、とくに時間が一瞬に凝縮されたと思えるほどの燃焼度を示しており、信じられないような熱気を放っている。

ホロヴィッツの《展覧会の絵》には1947年のスタジオ録音もあり、演奏の完成度ではそちらをとるべきかもしれないが、より彼らしい白熱した演奏はこちらの1951年のカーネギー・ライヴであろう。

ヴィルトゥオーゾ・スタイルを貫きながら、変幻自在のタッチによってそれぞれの絵をまるで手に取るように表現していく。

そこには空疎感は微塵もなく、聴き手は彼の自由に飛翔するファンタジーにただ心を奪われるばかりだ。

最後の〈キエフの大門〉では自ら編曲を加え、より演奏効果が上がるように工夫されている。
http://classicalmusic.livedoor.biz/archives/52238846.html


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Vladimir Horowitz 1947 / Mussorgsky Pictures at an Exhibition
http://www.nicovideo.jp/watch/sm8991917
https://www.youtube.com/results?search_query=Vladimir+Horowitz+1947+%2F+Mussorgsky+Pictures+at+an+Exhibition+


Vladimir Horowitz 1951 Live Mussorgsky: Pictures At An Exhibition
https://www.youtube.com/results?search_query=Vladimir+Horowitz+1951+Live+Mussorgsky%3A+Pictures+At+An+Exhibition+


http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/438.html#c4

[近代史3] アメリカ人には音楽は理解できない _ 天才ピアニスト ヴァン・クライバーンとは何だったのか? 中川隆
5. 中川隆[-10394] koaQ7Jey 2019年5月18日 13:45:10 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[1925]

本物の天才と紛い物の天才と何が違うかというと:


ウラディミール・ホロヴィッツ(VLADIMIR HOROWITZ、1904〜1989、ロシア)

呼称:鍵盤の魔術師

孤高の天才ピアニスト・ウラディミール・ホロヴィッツは、悪魔に魂を売りそれと引き換えに超絶技巧を譲り受けたという伝説さえ産んだヴァイオリニスト・パガニーニのピアニスト版とも言えるでしょう。作曲家でピアニストでもあったセルゲイ・ラフマニノフとも深い親交があり、彼のヴィルトゥオーゾ・スタイルの流れを受け継いだ巨匠としても尊敬を集め、とても有徳の人とは思えない悪魔的な鍵盤の魔術師として、20世紀最高の巨匠として君臨した大ヴィルトゥオーゾでした。

ホロヴィッツを聴くということはまず第一に彼の並外れたパワーによる超絶技巧を聴くということでしょう。消え入るような最弱音から雷のようなフォルテッシモまで音量を自在に操り、88鍵を完全支配するテクニックはまさに驚異的です。その意味で彼と度々比較され並び称された巨匠ルービンシュタインとは全く性格の異なるピアニストです。

ホロヴィッツのレパートリーは決して広くはなく、レコードではまとまった録音をあまり残していないようですが、オムニバス形式でのライブ盤など、彼の持ち味がいかんなく発揮された超絶的な名演奏が多いです。とくに彼はその超絶技巧を誇示するために既存の作品に独自のアレンジを施して、ピアニスティックな装飾を随所にちりばめ、演奏会で好んで取り上げていたようです。とくに傑作なのはスーザ作曲ホロヴィッツ編曲の「星条旗よ永遠なれ」で、これはどう聴いても腕2本で弾ける曲ではないように思えます(腕3本で弾いているように聞こえる)。

ホロヴィッツ自身は非常に神経質な人だったそうで、ピアニストの奇人変人伝説には必ずと言ってよいほど登場します。演奏スタイルも彼独自の信念に基づいたもので、一時の気の緩みも許されないほどの緊迫感に満ちています。演奏中、常識ではおよそ考えられないようなアゴーギクやデュナーミクを酷使するため、次の瞬間起こるであろう出来事の予測が難しく、常に強い緊張を強いられます。演奏中随所にただならぬ気配を感じさせる音の運びをし、どーっと雷を落とす彼の演奏スタイルは彼独自のもので、この人の演奏がツボにはまると、他の誰の演奏からも体験することのできない、恐怖に満ちたスリリングな感動を味わうことができます。
http://www10.plala.or.jp/frederic3/pianist/horowitz.html

   改めて「ホロヴィッツが好きなピアニストです」と言うのはなんとも気恥ずかしいのだが、やはり取り上げない訳にはいかないピアニストであろう。ホロヴィッツの伝記的内容や演奏論等は山のようにあり、ホロヴィッツ一本でHPを運営されている方もいらっしゃるのでここでは極めて個人的な体験としてのホロヴィッツを書くことにする。

 ホロヴィッツは若い頃から怜悧な超絶技巧を身につけていたのは古いEMI録音を聴けばわかることだが、実際その超絶技巧が我々の思っている程のものであったのかは微妙なような気がする。勿論指捌きが悪いなどという事はないが、むしろホロヴィッツの美質はその研ぎ澄まされた鋭い音色にあり特に小さな音による速いパッセージでの彼独特の鍵盤をはじく様なノンレガートによる奏法−これは人間の聴覚にはあたかもレガートのように聴こえる−にあると私は思っている。ホロヴィッツの爆音は伝説であるが、爆音は小さな音が磨き抜かれてこそ爆発するのである。

 極端な言い方をすればホロヴィッツにとって音楽の真髄などどうでもいいことで、いかに人間の聴覚を騙し(言葉が悪ければ錯覚させ)その作品の音符を音響的に磨きあげるか、という事がホロヴィッツトーンの謎をとく最大の秘密ではなかろうかと思う。そして彼の神経過敏症−それは演奏活動を中断するほどの病的なものであったが−気質と密接に関係があるといえる。

ホロヴィッツのライヴ盤、ヒストリックリターンでもいいのだが、を聴くとまず他のピアニストの演奏から聴くことの出来ない神経症的な緊張感、それはほとんどその場から逃げ出したくなるようなギリギリの精神状態が聴き手に伝わってくるのである。

ホロヴィッツはルービンシュタインを軽視しルービンシュタインは非常に気を悪くしたということだが、ホロヴィッツにとってルービンシュタインの余裕のある安定した安心して聴ける音作りこそが批判の的だったのではないかと私は思う。ホロヴィッツはあくまで音楽は聴覚的なものであることに拘ったピアニストであったと言うのが私の見解である。
 
    勿論、現実のホロヴィッツが上記のようなことを言っていた訳ではないのであくまで私の感想なのだが、このことは多くの人が少なからず感じているのではないだろうか。

 しかし、残されたホロヴィッツの録音は一部不調時の時のものを除いて本当に素晴らしい(不調時の時でさえその素晴らしさは伝わってくる)。中でも私はRCAでの録音が最もホロヴィッツの翳りのある鋭い音質感覚を想像する事ができるように思う。それに比べCBSでの録音は録音優秀ではあるが調整が入っているのかあまりホロヴィッツの音をとらえ切れていないように思う。

 最後に一つ。SonyからCBS録音の紙ジャケット仕様オリジナル盤のCDが復刻されたがRCAも見習ってもらいたい。せめてLP時代に出たRCAの「ホロヴィッツコレクション」レベルのジャケットデザインにならないものだろうか。「生きながらにして伝説と化したピアニスト」ホロヴィッツをこれほど端的に表現したジャケットは無いのではなかろうか(左写真)?
http://www.ne.jp/asahi/yagi/piano/music/pianist/pianist8/pianist8.htm


要するに、鬼気迫るオーラが有るかどうかが天才と秀才の違いなのですね。

そしてそのホロヴィッツも天才であったのは 1938年頃からコンサート活動を引退した 1953年までの僅か15年間で、それ以降は完全におまけの人生でした。

http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/438.html#c5

[近代史3] アメリカ人には音楽は理解できない _ 神童メニューインは何故只の人になったのか

アメリカ人には音楽は理解できない _ 神童メニューインは何故只の人になったのか

十で神童 十五で才子 二十過ぎれば只の人


ユーディ・メニューイン(Yehudi Menuhin, 1916年4月22日ニューヨーク - 1999年3月12日ベルリン)

メニューインが正真正銘の大天才だった10代の頃のレコードも沢山残ってるんですね。
それ以降は『昔の名前で出ています』になっちゃうんだけど:


Menuhin - YouTube
http://www.youtube.com/results?search_query=+Menuhin+&oq=+Menuhin+&gs_l=youtube.12...0.0.1.11.0.0.0.0.0.0.0.0..0.0...0.0...1ac..11.youtube.iZJWJn-xhKE

メニューイン ‐ ニコニコ動画(原宿)
http://www.nicovideo.jp/tag/%E3%83%A1%E3%83%8B%E3%83%A5%E3%83%BC%E3%82%A4%E3%83%B3

Yehudi Menuhin plays Fiocco Allegro
Oakland, California, 15/03/1928
http://www.youtube.com/watch?v=QosO7n7VQU4

Yehudi Menuhin - Handel "Prayer" (Gebet)
recording 1929. Menuhin was 13 years old
http://www.youtube.com/watch?v=bV5rW5SK_mE
http://www.youtube.com/watch?v=jCILYu5GN4s

Yehudi Menuhin(13 years old) plays Beethoven Violin Sonata No 1
Rec. 12 November 1929
http://www.youtube.com/watch?v=ufz5Uia2hlM&list=PL58EE5156B99A1F07
http://www.youtube.com/watch?v=SeKNSUBzSwc&list=PL3C23F2919B72137D
http://www.youtube.com/watch?v=nV_31nVJsXc

Yehudi Menuhin Ravel Tzigane Rapsodie de concert
George Enescu taught him this piece. Possibly recorded when he was 12 or 15http://www.youtube.com/watch?v=PhbySudKMLk

Yehudi Menuhin plays Bruch's Violin Concerto 1rst Mvt
Rec. 25 November 1931
http://www.youtube.com/watch?v=rTZHd-nUrHc

Yehudi Menuhin - Paganini / Kreisler - Caprice No. 24 - 1932
http://www.youtube.com/watch?v=dnkfc6eoFBY

Yehudi Menuhin (1916-1999) plays Wieniawski Scherzo-Tarantelle Rec.1932 A.Balsam (piano)
http://www.youtube.com/watch?v=wtiQ3X6-Q2w

Menuhin/Enescu play Bach Double Concerto in D minor
Recorded: June 4, 1932
http://www.youtube.com/watch?v=GVEXGAZVZPk&list=PLcf3ffiFjW29R03WRDxO8UE_cejdaOR6P
http://www.youtube.com/watch?v=b5h1zMtxSC4&list=PLcf3ffiFjW29R03WRDxO8UE_cejdaOR6P

Mehunin 1916-1999 & Elgar 1857 - 1934 Sir Edward Elgar.wmv
1. Concerto for Violin in B minor, Op. 61 Recording Date 7/1932
2. Variations on an Original Theme, Op. 36 "Enigma" Recording Date 1926
http://www.youtube.com/watch?v=n4eHlsdEqFo


Yehudi Menuhin _Chausson ; "Poeme" op.25 (1933)
http://www.youtube.com/watch?v=i_h3aOZrUZs
http://www.youtube.com/watch?v=tONG73g2LJU

Young violonist (17 years old) Yehudi Menuhin (1916-199) plays Ernest Chausson (1855-1899) poeme Opus 25 with Paris Symphony Orchestra conducted Menuhin's Georges EnescuRecorded at Studio Albert, Paris, 21 June 1933

Yehudi Menuhin, early recording - "Abodah" (God's Worship) by Ernest Bloch
http://www.youtube.com/watch?v=Keac2o-GAZQ


Jehudi Menuhin Mozart Violin concerti no 3 & 7 early recordings
http://www.youtube.com/watch?v=xyRURXZIhtA

Yehudi Menuhin, Mozart Violin Concerto n°3 in G Major KV 216, Mv II 19/12/1935
http://www.youtube.com/watch?v=YSVlzTDP7_E
http://www.youtube.com/watch?v=ivrLSTJNgqw


The Young Yehudi Menuhin Encore
http://www.youtube.com/watch?v=4kySfTlSaNg&list=PL5E5CEB8B036B18AA
http://www.youtube.com/watch?v=QVLZkE9YOiY
http://www.youtube.com/watch?v=JAbM8cl82SE
http://www.youtube.com/watch?v=eYW0Bf25fdU
http://www.youtube.com/watch?v=AqD4DmRmA70


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 メニューインは7歳で神童ヴァイオリニストとしてデビュー。

強靱な技巧と輝かしい音色、高度な芸術性を兼ねそろえ、戦前は10代にして大ヴァイオリニストと認められる。戦前録音のほとんどは名演である。

 戦後は戦中の500回を超える慰問公演、離婚、ナチの収容所の惨状を見たことによるショック等によりスランプに陥り、演奏の出来不出来が激しくなる。さらに1950年代後半以降は脊椎の手術の影響のためかボウイングが衰え始める。

音色の線が細くなり、音程やリズムに難がある録音も少なくない。

 このため戦後やステレオ以降のメニューインはあまり人気があるとは言えず、全否定する向きもある。彼の膨大な録音では不調時の凡演の方が多いというのが実状である。1960年代後半から1970年代半ばまでの録音のほとんどは音色の魅力を欠く凡演と言ってもいい。

晩年はヴァイオリンは引退し、指揮活動に専念していたが1999年3月ドイツで死去。
http://www.toshima.ne.jp/~menuhin/ym2.html
http://www.toshima.ne.jp/~menuhin/ym0.html


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イェフディ・メニューインは1916年4月、ニューヨークに生まれた。

両親はユダヤ系ロシア人である。

シグモント・アンカーとルイス・パーシンガー、後にはジョルジュ・エネスコとアドルフ・ブッシュに師事したが、ヴァイオリンの技巧は独学で体系的には学ばなかったという。

本人はハイフェッツのアコースティック期のレコードを聴いて同じように弾こうと猛練習したら実現した、そしてあまりにも簡単に身に付いたので、失われるのも速かったと語っている。

実際、戦前の神童期の録音を聴くとハイフェッツ張りの強靱な技巧に圧倒される。

戦後スランプを経験し、カール・フレッシュの教本をさらうなど改めて体系的な技巧を身に付けようとしたそうだが、1950年代後半以降の録音に若い頃の超絶技巧が見られないのも事実である。


 メニューインは神童ヴァイオリニストとして、7歳でデビューした。

1927年(11歳)にはカーネギー・ホールでフリッツ・ブッシュ指揮のニューヨーク・フィルとコンサートを行い、

1929年(12歳)にはブルーノ・ワルター指揮のベルリン・フィルと共演して、バッハ、ベートーヴェン、ブラームスの協奏曲を演奏した。このコンサートは圧倒的な成功をおさめ、なかば伝説と化している。

このコンサートを聴いた物理学者アインシュタイン(自身趣味でヴァイオリンを弾いていた)は

「神が存在することを確信した。」

と語ったという。またクラウディオ・アラウは

「あれは、これまで聴いた演奏のなかで、最大の経験の一つです。」

と語っている(J.ホロヴィッツ 野水瑞穂訳『アラウとの対話』)。

 メニューインの最初の録音は1928年3月(11歳)に行われた米ビクターへの4曲の小品である。米ビクターには1929年2月にも8曲の小品を録音している。(伴奏はパーシンガー)。これは後述のブルッフの協奏曲第1番との組み合わせでBiddulphから復刻されている。("The Early Victot Recordings" LAB031)。

大恐慌の影響で米ビクターはクラシックの録音を休止したため、英HMVに移籍し、11月には最初の大曲バッハ:無伴奏ソナタ第3番を録音した。1931年には専属契約を結び、ブルッフの協奏曲第1番を録音し、1932年には作曲者指揮でエルガーの協奏曲を録音した。

 エネスコに師事したために、1930年からメニューインはフランスに住むことになる。メニューインはエネスコから最も強い影響を受けたと語っている。エネスコやピエール・モントゥー、ジャック・ティボー、アルフレッド・コルトーらと私的に室内楽を演奏し、エネスコの指揮で数多くの演奏会や録音を行っている。
エネスコは無償でレッスンを行い、『エネスコ回想録』(松本小四郎・富田弘共訳)に

「十歳の彼が弾くショーソンの『詩曲』には、三十歳のヴァイオリニストのような深みがあった。しかも、その驚嘆すべき技巧もさることながら、彼のヴァイオリンには、詩情と恍惚の境まで高揚するような情熱が溢れていたのである。
かつての神童は、今や卓抜したヴァイオリニストになっている。その精神は今も昔も同じままである。情愛の深さ、その寛大さも昔のまま。恩師に対する熱意のこもった崇拝の念も、その忠誠心も昔のままである。
私はこれまで一度たりと、彼に失望したことがなかった。それどころか、時が経つにつれ、彼に感動することが幾度もあった。」

と書いている。

 メニューインはポール・パレーやウィレム・メンゲルベルク、アルトゥーロ・トスカニーニらの名指揮者やアルトゥール・シュナーベルとも共演している。特にトスカニーニとの交友には多くの逸話がある。メニューインはトスカニーニの招きに何度も応じ、私的に演奏した。ミラノではモーツァルトの協奏曲第7番の緩徐楽章を演奏中に電話が鳴り、憤ったトスカニーニは壁から電話線をむしり取って「これでもう邪魔なしに音楽を楽しむことが出来る。」と言ったという。また、伴奏ピアニストの譜めくりを買って出たこともある。

 1935年には世界ツアーを行い、12月から1936年11月にかけて膨大な数の録音を行っている。1936年から約1年間演奏活動を中断したが、1937年12月、カーネギー・ホールでのシューマンのヴァイオリン協奏曲のアメリカ初演で復帰した。(10月にサン・フランシスコで世界初演をする予定だったが、ナチの声明によって中止に追い込まれた。)復帰後もハンサムな青年ヴァイオリニストとして人気はますます高まり、ハリウッドから映画出演の依頼もあったという。

 この時期の演奏は強靱な技巧、輝かしい音色と火のでるような情熱に加えて高度な芸術性を感じさせる。協奏曲やソナタの両端楽章では白熱した演奏を行い、緩徐楽章やバッハの無伴奏曲では遅いテンポでじっくりと歌う。

あらえびすは『名曲決定盤』で

「メニューインを一度聴いた人たちは、その重厚な気品と、高邁な気魄に敬服せざるはない。」

と述べている。また野村光一は、1947年頃撮影され日本では1951年に上映された映画「巨星メニューヒン」(ブルーノ・モンサンジョンによるドキュメンタリー"Yehudi Menuhin -The Violin of the Century" EMI にその一部が収録されている。)について

「彼が弓を大きく使い、悠々迫らざる態度で古典曲を熱演している時は、まるで野球選手がホームランをかつとばす時のように爽快味を痛感させる。(中略)あんな迫力のある端的な演奏は今の世の如何なるヴァイオリニストも成し得ぬところであろう。あれはベーブ・ルースのホームランに匹敵する。」

と書いている。(『芸術新潮』1951年10月号「メニューヒンのテクニック」)。
これは戦前録音のほとんどと1940年代の好調時の録音の特徴を見事に言い表している。ただ、1935年頃からの録音には、量産したためか若干緻密さに欠けた演奏も含まれている。

 第2次世界大戦にアメリカが参戦すると、メニューインは連合軍と赤十字の慰問公演を行うことになる。1日に3回演奏することもあり、全部で500回を超えたそうである。1943年には爆撃機に乗ってイギリスを訪れ、イギリス全土で演奏会を開いた。その際自由フランス政府のためにも演奏を行い、ド・ゴール将軍からロレーヌ十字賞を贈られている。1944年には解放直後のブリュッセル、アントワープ、パリで演奏会を開き、1945年にフランスのレジヨン・ドヌール勲章を受賞した。

慰問公演の過労のせいか、最初の結婚の失敗のためか、このころから演奏の出来不出来の差が激しくなる。

出来の悪い時は遅いテンポで大味な演奏になるか、せかせかしたテンポで暴走してしまう。また、技巧的には問題ないがどこか生気のない演奏も多い。

ただ、曲や演奏会の前半は不出来だが、後半になって興が乗ってくると別人のように素晴らしい演奏をすることがある。最後の数小節だけを完璧に感動的に弾いたとか、アンコールだけ良かったという逸話もある。

大味な演奏の例としてラロのスペイン交響曲(2)(1945年)とブラームスの協奏曲(1) (1943年放送録音)等が挙げられる(後者は戦前の録音がないだけに全盛期のスタイルを伝える貴重な記録、と最近評価を改めた)。

暴走する演奏では同曲(3)(1947年)の第3楽章や1951年日本録音の小品集が挙げられる。

生気のない演奏ではフルトヴェングラー/ルツェルン祝祭o.とのベートーヴェンの協奏曲やブラームスのソナタ第3番(2)(1947年)などがある。


最後にメニューインの音色について述べることにする。

この時期(1950年代半ばまで)のメニューインの音色はカンポーリやパールマン、オイストラフに近い、硬質で線の太い非常に輝かしい音である。

ところが、不調時には楽器が鳴らない痩せた音になることがある。

その例として前述のブラームスの協奏曲や1944年録音の「亜麻色の髪の乙女」(p:バラー、RCA)、フリッチャイ指揮RIAS so.とのチャイコフスキーの協奏曲の1949年ライヴ(DG)などが挙げられる。メニューインの音色についてはメニューインについて(2) 1950年代以降でも触れる予定である。
http://www.toshima.ne.jp/~menuhin/ym1.html


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1999年3月12日、ベルリンで急性心不全のため82歳の生涯を閉じたユーディ・メニューインは、4歳の誕生日を迎えてからシグムント・アンカーにヴァイオリンを学び、7歳のときにはベリオの「パレエの情景」をはじめて聴衆の前で演奏するほど、めざましい才能を発揮している。

メニューインは1927年2月(メニューイン10歳の時)にはパリでポール・バレー指揮のラムルー管弦楽団と『スペイン交響曲』とチャイコフスキーの協奏曲を演奏して圧倒的な成功をおさめた後、彼がサンフランシスコ時代から憧れていたジョルジュ・エネスコに師事する。エネスコはメニューインの非凡な才能を愛し、「私が彼に教えるのと同じだけ私に教えてくれる」といってレッスン代を取らなかったし、メニューインもエネスコから芸術面だけでなく人間的にも多大な影響を受けたのである。

神童メニューインの名前は(エネスコを師とした修行と活躍により)世界的になったが、それを決定的にしたのは1929年4月12日(メニューイン、この時、12歳)のベルリン・フィルへのデビューだった。メニューインはブルーノ・ワルターの指揮で三大B(バッハの第2番、ベートーヴェン、ブラームス)を演奏し、稀にみる成功をおさめたのである。

終了後、感動と興奮で騒ぐ聴衆を静めるために警察を呼ぶほどであり、聴衆の一人だったアインシュタインは興奮して

『今、私は神の存在を信じる』

と語り、ワルターは回想記に

『驚いたのは、メニューインが技巧的に見事だったということではなく、彼が(齢12歳にして既に)精神的にも成熟した演奏を示したということである。その点にこそ奇跡はあったのだ』

と書いている。 (その後も世界的神童として活躍し)1934年には神童嫌いで有名なトスカニーニと競演して例外的に気に入られたという。(気難しがり屋のトスカニーニに気に入られるのはとてつもなく難しいことです)。おそらく当時のメニューインほどセンセーショナルな成功をおさめた神童はいないだろう。実際、当時の録音はとても10代の少年とは思えぬほど音楽的にも成熟した優れた演奏が多い。
http://nekodayo.livedoor.biz/archives/815400.html


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巨匠に学ぶ

UAEを含む血管内治療だけでなくあらゆる手技・手術は楽器の演奏に似ています。私は5歳よりヴァイオリンを習い、いまでも時々楽器に触れます。

共通していることは基本がもっとも大切ということです。

ヴァイオリンの巨匠ヤッシャ・ハイフェッツは、3オクターブのスケールを弾かせれば技量がわかるといっています。音階が基本であり音階をきちんと弾けるかどうかということです。

興味深い実話があります。ユーディ・メニューインという天才ヴァイオリニストがいました。10代前半でベートーベン、ブラームス、バッハの協奏曲をオーケストラと共演するほどでした。

その10歳そこそこのメニューインは母親に連れられて当時の巨匠、ウジェーヌ・イザイの元にやってきました。ウジェーヌ・イザイはヴァイオリンの皇帝といわれたほどの巨匠でした。当然多くの若き天才ヴァイオリニストが皇帝の下にレッスンを受けにやってきました。

イザイは幼少のメニューインがブラームスやチャイコフスキーの協奏曲を非常な完成度で演奏できることには関心を示さず、まず、3オクターブの分散和音を弾いてほしいといいました。

メニューインはこれができなかったのです。これでレッスンは終了で親子は逃げるようにイザイの元を去っていったと伝えられています。ヴァイオリンの愛好家であれば後年のメニューインの演奏がどうであったか知っていると思います。

外科手術はアッぺにはじまりアッペに終わるといいます。

UAEをはじめとする血管内治療でもきちんと穿刺ができ、シース、カテーテルを挿入することができ、確実に止血ができるという基本中の基本が大切です。
http://uae-ivr.blogspot.jp/2011/12/blog-post.html


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戦前から戦争直後の1950年頃まで(即ち、SPレコード全盛の時代)、大家・中堅・新進を問わず、およそレコード評論家と名のつく人のほとんどが、ユーディ・メニューインの未来像をフリッツ・クライスラーに次ぐ20世紀のヴァイオリン界の帝王として描いた。

ヴァイオリニストとしてのみならず、音楽家としても20世紀屈指の存在であったジョルジュ・エネスコすらも、「メニューインの師=育ての親」としてのみ知られていた時代が長く続いたのである。

ハイフェッツに優るとも劣らない演奏技術と、バッハの《無伴奏ヴァイオリン・ソナタとパルティータ(全6曲)》の録音を20歳そこそこの青年時代に完成してしまったというレコード界空前の偉業を目の前にすれば、未来の帝王の姿をこのアメリカ生まれ、凛々しくも童顔の少年に想い描かない方がどうかしていたと言っていいだろう。

「メニューイン神話」はそういう次元の、しかも超弩級の実例であった。

生まれながらの資質だけでパガニーニ、サラサーテの難曲を煙の如く弾き去ってしまう天才少年の後ろ姿に、世間の評判とは裏腹の

「ヴァイオリニストとしての将来性はない。もう手遅れだ」

と痛烈な烙印を押したのは巨匠イザイである。 師として彼にヨーロッパ音楽の伝統を伝授したエネスコもブッシュも、メニューイン坊やの天与の資質に目をくらまされて、彼がヴァイオリンという楽器を生涯の友とするために不可欠な職人的基礎訓練(例えば音階とアルペジオ奏法の完璧な習得)を欠いているということに気付かなかった。

同じユダヤ系でも、ハイフェッツやミルシテインなどのロシア学派(レオポルド・アウアー門下)は、生涯にわたり「世紀のヴァイオリニスト」として栄光を保ち続けた。

余りにも才能に恵まれ過ぎたが故に基礎訓練を怠り、負債(ツケ)を壮年期以降払い続けなければならなくなったこの偉大な人物の心中は如何ばかりであったか…、だが、そのことを彼自身は終生口にしなかった。

彼が恐るべき天才少年であった頃の録音を聴けば、いまどきの才能とは質を異にしていたぐらいのことは誰にも判る。
http://classicalmusic.livedoor.biz/archives/53255821.html

http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/439.html

[近代史3] アメリカ人には音楽は理解できない _ 神童メニューインは何故只の人になったのか 中川隆
1. 中川隆[-10393] koaQ7Jey 2019年5月18日 14:13:11 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[1926]

メニューイン戦前・神童時代のCD紹介 (1928年〜1939年)

メニューインの神童時代はいつまでなのかは色々議論がある。

15、6歳位まで、または1936年にいったん演奏活動を休止するまでという意見もあるが、とりあえずこのページでは1939年までの録音を扱う。

理由は1938年の復帰後の録音もそれ以前と遜色なく見事なものであるということである。そして1940年以降の録音は復刻CDで聴く限り別人のように生気がなく、鈍く大味な演奏になっているのである。


 バッハ:無伴奏ヴァイオリン・ソナタ&パルティータ
・全曲 1934〜1936年 EMI 7243 5 67197 2 9(artリマスタリング) 旧盤 EMI CHS 7 63035 2
・5曲 1934〜1936年(無伴奏ソナタ第2番以外) Naxos Historical 8.110918、8.110964

・無伴奏ソナタ第1番 1933年録音 未CD化
・無伴奏ソナタ第3番 1929年録音 Naxos Historical 8.111127、Biddulph LAB 032
・無伴奏ソナタ第2番〜アンダンテ 1932年録音 Naxos Historical 8.110965
・無伴奏パルティータ第1番〜サラバンデ 1933年録音 未CD化
・無伴奏パルティータ第3番〜プレリュード 1938年録音 未CD化

全曲盤はEMIからCD化されている。もともと全集として録音されたものではなく、個別の曲がSPとしてリリースされた。ソナタ第2番はSPが発売されなかったためNaxos HistoricalのCDには収録されていない。

音質は現行輸入盤EMIのartリマスタリング盤がEMI旧盤やNaxos盤よりも優れている。
演奏はシェリングや最近のヴァイオリニストに比べると緻密さには欠けるが、もの凄い気迫と輝かしい音色で弾かれている。全曲としては最古の録音だが全く古さを感じない。シャコンヌが特に感動的である。

この全曲CDはソナタ第3番とパルティータ第2番が1934年、ソナタ第1番とパルティータ第1番が1935年、ソナタ第2番とパルティータ第3番が1936年録音である。

メニューインはそれ以前、1929年にソナタ第3番を、1933年にソナタ第1番を録音している。前者はLP転写盤の全曲盤に1934年の再録音の代わりに収録されていた。
ビダルフのCDはLPに比べて音に迫力がなかったが、ナクソス盤はそれよりはましな音である。
演奏は師匠アドルフ・ブッシュの影響が強く重厚なボウイングで古めかしく弾かれている。再録音とは別人のような演奏で技巧的に優れている。わずか13歳の時の録音である。

ソナタ第1番の旧盤は未復刻(第1楽章冒頭のみメニューイン50歳記念LPに収録されていた)で、SPを聴いた感想だが、再録音と同一スタイルながら、音がうわずったりすることなくより優れた演奏であった。

他に断片を3種戦前に録音しているが、いずれも全曲とは別の録音である。ソナタ第2番〜アンダンテはナクソスのバッハ:ヴァイオリン協奏曲のCDに収録されている。 無伴奏パルティータ第1番〜サラバンデとパルティータ第3番〜プレリュードは未CD化で前者はヴァイオリン協奏曲第2番のSP(HMV DB2003/5)の最終面に収録されていた。
後者はエネスコ指揮メンデルスゾーンのヴァイオリン協奏曲の米ビクター盤のSP(16169〜72、オートチェンジャー)の最終面に収録されている。


 バッハ:ヴァイオリン協奏曲
・ヴァイオリン協奏曲第1番 1936年、第2番 1933年(エネスコ指揮)、二つのヴァイオリンのための協奏曲 1932年(エネスコ、モントゥー指揮)パリ交響楽団
Naxos Historical 8.110965
EMI 7243 5 67201 2 1(artリマスタリング)、旧盤 EMI CDH 7 610182

断然ナクソス盤のCDの音質が優れている。マーストン復刻でライナーノートによるとイギリス盤、フランス盤、ドイツ盤、オーストラリア盤のSPも聴いたが断然米Victor盤の音質が優れていて、復刻も米VictorのSPが使われているとのことである。前述の無伴奏ソナタ第2番〜アンダンテとの組み合わせである。
EMIでは旧盤の方がいい音だった。どちらもシャコンヌとの組み合わせだが、これは全曲盤と同一の演奏である。artリマスタリング新盤のシャコンヌは同じEMI新盤の全曲盤よりも音質が落ちる。

演奏は20歳の時の第1番はスケールが大きくなっていて輝かしい。10代の時の2曲は優しさを感じさせる。いずれも緩徐楽章の深みはなかなかのものだが、全体に戦前のメニューインの録音の中では大したものではない。

 モーツァルト:ヴァイオリン協奏曲
・モーツァルト:ヴァイオリン協奏曲第3番 1935年、第7番 1932年(エネスコ指揮)、アデライデ協奏曲 1934年(モントゥー指揮) パリ交響楽団
Biddulph LAB 004
EMI CDH 7 63718 2

上に挙げた2種のCDは現在は入手困難かもしれない。他の復刻が現在手に入るようだが、筆者は聴いていない。
ビダルフ盤が絶美の音質である。EMIも悪くない復刻だ。

演奏では第7番が戦前のメニューインのベストパフォーマンスである。疑作なのであるがまるでモーツァルト自身が弾いているかのようである。
アデライデ協奏曲も名演である。この曲は20世紀に入ってからの完全な偽作である。
第3番はかなりロマンティックな演奏で抵抗を感じる。

なお断片として下の演奏も存在する。
・モーツァルト:ヴァイオリン協奏曲第3番からアダージョ 1929年(パーシンガー、ピアノ) Biddulph LAB 031、MALIBRAN CDRG 135

ビダルフ盤はパーシンガー伴奏の最初期の小品集とブルッフのヴァイオリン協奏曲第1番との組み合わせである。MALIBRANは1928年から1938年までの小品集。どちらも良質な復刻。
http://www.toshima.ne.jp/~menuhin/MenuhinCD1.html


バッハ:ヴァイオリン協奏曲第1番、同第2番、
2つのヴァイオリンの為の協奏曲、
無伴奏パルティータ第2番よりシャコンヌ
ジョルジェ・エネスク(vn&cond.)/ピエール・モントゥー(cond.)/イェフディ・メニューイン(vn) [EMI CDH 7 610182 2]

メニューインはエネスクとブッシュといふ大家を師に持つ20世紀を代表するバッハ弾きである。様式からバッハを捉へるのではなく、感情の投影をバッハに見出し、音に精神を吹き込む。
当盤はメニューイン神童時代の輝ける記録であり、ヴァイオリン協奏曲の第1番と第2番は師エネスクの指揮のもと、2つのヴァイオリンの為の協奏曲では、エネスクのヴァイオリンを交へての師弟共演となつてゐる。
メニューインの特徴は強いアクセントと粘つた感情表現であり、熱のこもつたバッハ像を打ち立ててゐる。これに対し、渋く詫びた音楽を奏でるエネスクは老巧で、第2楽章の内面追求は流石である。(2005.8.16)


フランク:ヴァイオリン・ソナタ、ルクー:ヴァイオリン・ソナタ、ショーソン:詩曲/パリ交響楽団/ジョルジェ・エネスク(cond.)/ヘプツィバー・メニューイン(p)/イェフディ・メニューイン(vn) [Biddulph LAB 058]

少年メニューインはエネスクを師と仰ぎ拝して教へを乞ふた。
そして、ヴィブラートの奥義を譲り受けた。
師が得意とした近代フランスの楽曲からは、時にエネスクかと錯覚するくらゐ似た音が聴こえてくる。特にショーソンは瓜二つである。だが、所詮は真似事で、楽器を超越したエネスクの侘び寂びを知つた感情表現を求めることは出来ない。

エネスクの録音が残らないフランクとルクーは価値がある。しかし、フランクのソナタはティボーやデュボアらの御家藝と並べると音楽が脂ぎつてゐて困る。増してや、妹ヘプツィバーをコルトーやマースと比べるのは酷であらう。聴くべきは名曲ルクーのソナタだ。グリュミォーと並ぶ名盤として知られた録音で、情熱的なメニューインの直向きな演奏が犇と迫る。(2009.4.17)


シューベルト:華麗なるロンド、
シューマン:ヴァイオリン・ソナタ第2番、
ピツェッティ:ヴァイオリン・ソナタ
ヘプツィバー・メニューイン(p)/イェフディ・メニューイン(vn) [Biddulph LAB 067]
少年期のメニューインを代表する録音集で、最も輝かしい名演はシューベルトである。冒頭から感情が溢れんばかりに投入されてをり圧倒される。師エネスクと見紛ふばかりの振幅の大きいヴィブラートは偉大なエスプレッシーヴォの音楽を奏でる。主部に入つてからの熱気は尋常ではなく、強いアタックと躍動するリズムが終止途切れることなく炎上する様は鬼気迫る。この激情がシューベルトの音楽に相応しいかを云々することは最早下らぬことにすら思へる。

シューマンも同様の名演だが、この曲には彼岸に到達したエネスクの神にも等しい名演がある為、比較すると力尽くの情熱で押し切つた青二才の演奏に聴こえて仕舞ふ。

ピツェッティのソナタはエネスクの第2ソナタを想起させる玄妙で内省的な作品だ。妹ヘプツィバーの神秘的なピアノが魅力的で、異教的な官能美を振りまくヴァイオリン共々深い感銘を残す逸品だ。(2006.9.7)
http://www.h6.dion.ne.jp/~socrates/violin.html


Yehudi Menuhin clip - Bach ciaccona (Chaconne) d minor
http://www.youtube.com/watch?v=cN6LGPRGnLI
http://www.youtube.com/watch?v=julBoaxI10g


ユーディ・メニューイン(1956−57年録音/EMI盤) 

子供のころから「神童」ともてはやされたメニューインは、ある専門家によれば、デビュー前にマスターしておかなければならないヴァイオリニストとしての基礎技術が欠けていたそうです。

それでは大人になってからは、豊饒な音も持たず、確かな技術も無いとなると、何が特徴かということになりますが、月並みな表現ですが、この人には「精神」が有ったと思います。

この演奏も、聴き始めは音程の不安定さと汚い音に耳を覆いました。第1番のフーガなどは、「のこぎりを引いているのではないか」と思ったぐらいです。

ところが聴き進むうちに、それでもバッハの偉大な音楽に真正面から必死で立ち向かう姿が浮き上がってくるのです。それは、燃えさかる炎の中に人を助けに飛び込んでゆくような、人間の意思を超えた何か壮絶なものを感じずにいられません。

決してリファレンスの演奏にはなり得ませんが、「凄いものを体験した」という聴後感は、シゲティ以上かもしれません。
http://harucla.cocolog-nifty.com/blog/2012/04/bwv10016-c297.html

▲△▽▼


やはり生徒のメニューインより先生のエネスクとブッシュの演奏の方が遥かにいいですね:


The famous Chaconne of Bach played by Adolf Busch.Rec. 1929
http://www.youtube.com/watch?v=t8Im6z30nQo

Enescu plays Bach - Partita No. 2 in D minor, Recorded: 1948-1949
http://www.youtube.com/watch?v=2-kmvrDYyFE


Yehudi Menuhin plays Bach Chaconne
Very excellent recording from around 1935.
http://www.youtube.com/watch?v=lm1q3gadv50
http://www.youtube.com/watch?v=rMTCuaJaBwY


http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/439.html#c1

[近代史3] アメリカ人には音楽は理解できない _ 神童メニューインは何故只の人になったのか 中川隆
2. 中川隆[-10392] koaQ7Jey 2019年5月18日 14:13:48 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[1927]

イェフディ・メニューインのページ
http://www.toshima.ne.jp/~menuhin/ym0.html
http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/439.html#c2
[近代史3] アメリカの演奏家は何故みんな演奏技術だけ凄くて中身ゼロなのか 中川隆
3. 中川隆[-10391] koaQ7Jey 2019年5月18日 14:15:20 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[1928]

アメリカ人には音楽の陰影が理解できない


オーディオ談義〜フルレンジSPユニットの聴き比べ〜 - 「音楽&オーディオ」の小部屋


・リチャードアレン(写真右側)とアルテック403A(写真左側)から試聴。


アルテックの方をはじめに鳴らしてみた。

音を目方で表現するのも何だが、実に軽快そのものの音には驚いた。スカッと抜けきっていて、単純明快で隠し事のない音。人生バラ色、悩みなんて一切ありませんという印象がしてまさに典型的に陽気なアメリカ人を思わせる。

これはこれでいいんだろうが、もっと陰影が欲しい気もする。好き嫌いがはっきり分かれそうな音だ。


・これに比べるとリチャードアレンはまったく正反対でひとひねりも、ふたひねりもした音。音に適度の湿り気があって陰影がそこはかとなく漂ってくる。

人生を慎み深く、そして思慮深く生きていくイギリス人という感じ。

こういう音でないと表現できない音楽もたしかにある
http://blog.goo.ne.jp/jbltakashi/e/12f18fe300c6b753750512890609680d?fm=entry_awp

http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/437.html#c3

[近代史3] アメリカの演奏家は何故みんな演奏技術だけ凄くて中身ゼロなのか 中川隆
4. 中川隆[-10390] koaQ7Jey 2019年5月18日 14:18:21 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[1929]

ヴィスコンティ 熊座の淡き星影 Vaghe stelle dell'orsa
https://www.youtube.com/results?search_query=Vaghe+stelle+dell%27orsa

制作 65年 イタリア

キャスト クライディア・カルディナーレ,ジャン・ソレル,マリー・ベル 等々

使われた音楽 セザール・フランク作曲「前奏曲・コラールとフーガ」

使われた意図 ヨーロッパの精神世界の迷宮


かなり昔・・・もう10年以上前になるかな?それとも5年くらい前かな?
あのギリシャで大きな地震がありました。それを伝えた民放のニュース番組でこのように言っていました。

「あの有名な観光地のパルテノン神殿も被害を受けました!!」

私もその番組の正確な言葉は忘れてしまいましたが・・・
実際のところはパルテノン神殿の被害はそれほどなかったはずだし・・・
ダテに大昔から建っているわけではありませんよね?

しかし、地震そのものよりも私の心を揺さぶったのは、「観光地のパルテノン神殿」という言葉です。

これは驚きでしょ?

本来ならギリシャ政府からクレームが来てもおかしくないくらいですよ!
あの「パルテノン神殿」を「東京ディズニーランド」と同じ観光地扱いとは?!

ただ遊ぶだけだったら、「ディズニーランド」の方が楽しいでしょう。パルテノン神殿は遊ぶというより、過去と対話する場所ですよね?より的確な言葉だと、文化遺産という言葉になるでしょう。

しかし、パルテノン神殿だって、残された遺物から、その当時の人間の営みを連想できないような人には、単なるオブジェであり、まさに観光地なんですね。

過去を持たない人間や過去を考えることのない人間はつまらない。しかし、過去を振り返らない姿勢は、別の言い方をすると、未来志向とも言えるのかも?そのように肯定的に捉えることもできるでしょう。

しかし、すべての人間がそんなに簡単に過去を捨て去ってしまっていいの?

ウィーンの作家のフーゴ・フォン・ホフマンスタールは手紙の中で書いています。

「人間は生きるためには、過去を忘れ、過去を捨てないといけない。しかし、人間の尊厳は、過去を忘れないこと、過去を捨てないことにかかっている。」

前向きに生きるというと、印象はいいのですが、人間の尊厳から外れることにもなりかねないわけ。

だから、過去にこだわる人間は、過去を簡単に捨ててしまうような人間を軽蔑し、敵意を持ったりする。

この「過去にこだわるもの」と「過去を捨て去ってしまうもの」・・・その間に横たわる無理解と対立が、描かれている作品、それがヴィスコンティ監督の「熊座の淡き星影」という作品です。


映画のあらすじは以下のようなもの。

イタリア人女性とアメリカ人男性の夫婦がアメリカに住んでいる。ちなみに、イタリア人女性には弟がいて、ロンドンに住んでいる。その姉弟の父親はユダヤ人。第2次大戦中に非業の死を遂げた父親の記念のための記念碑の除幕式のために、夫婦は妻のイタリアの故郷に戻ってくる。

実家に戻った妻は弟に再会し、かつての日々の思い出に囚われ、そこから逃れられなくなってくる。

そんな妻の姿をアメリカ人の夫は理解できない。
やがて・・・

さてさて、ここで「映画の中のクラシック音楽」を考えてみましょう。

使われている音楽はセザール・フランク作曲の「前奏曲・コラールとフーガ」というもったいぶったタイトルのピアノ曲です。その曲が最初に演奏されるのはジュネーヴでのサロンでのこと。女性ピアニストが演奏いたします。

しかし、これはヘンな選曲だ!

お酒が伴うようなサロンでピアニストが弾く曲が何故にセザール・フランクなの?
これをヘンと思わない人は、あの作品を理解したことにはならないでしょう。

だって、サロンでピアニストが弾く曲だったら、常識的にはショパンでしょ?

次に考えられるのはリストとか・・

この映画は第2次大戦が終わってかなり経った時代を舞台としています。いわば、当時の現代ものといえるでしょう。つまり舞台は1960年頃のこと。だから当時のサロンで弾かれる曲としては、ドビュッシーでもラヴェルでもいい。またモーツァルトでもいいわけです。エスプリがある人だったらフォーレの初期作品とか、すごく「粋」な人だったらクープランをもってくるとか・・・

あるいは、ヴィスコンティの最後の作品「イノセント」では、ショパンとモーツァルトとリストという選曲でした。まあ、これがサロンにおける「普通」の選曲。

いずれにせよ、フランクの曲をサロンで演奏するのは場違いなんですね。だからサロンに集まっている人は、ピアノの演奏を聞いていないわけ。

大体、フランクの曲は華やかな響きもないし、甘いメロディーもない・・・いわば晦渋な音楽です。それにその曲のタイトルや、音楽のオルガン的な響きでわかるように宗教的な音楽。

私は、「山猫」という作品でのヴィスコンティの音楽の使い方・・・つまり、あえてミスマッチな「椿姫」の音楽を使用することによって、演奏者の知性の欠落を表現した例・・・について書いていますが、ここでも、敢えて映像の流れとは「合わない」音楽を演奏させていることになるんです。

そう!

ヴィスコンティはショパンの音楽が鳴らされるのにふさわしい場所で、晦渋で迷宮に満ちたセザール・フランクの音楽を演奏させることによって、これから展開されるストーリーの「前奏曲」としているわけですね。

「さあ!これから、晦渋で、精神的なお話が始まりますよ!!」というわけです。
映像から簡単に推測されるショパンと、実際に演奏されているフランクの対比・・・これはこの作品を理解するのに重要になるわけです。

大体、フランクのピアノ・ソロの曲なんて、生演奏で聴いたことがある人は何人いるでしょうか?
いや!プロのピアニストだって一生フランクのソロ・ピアノ曲なんて演奏せずにキャリアを終わる人の方が多いんじゃないですか?

フランクの曲は、例の「交響曲」と「ヴァイオリン・ソナタ」くらいしか、一般的には演奏されませんし・・・
演奏する側にとってもあまり面白くない・・・演奏家としての技量が発揮させにくい音楽といえるわけです。そのくせ音楽性の欠落は聞き手にわかってしまう。損な音楽なんですね。

聞き手にとっても、そう。
聞いていて面白くはない。目立つフレーズが出てくるわけではない。
聞きながら色々と考えなくてはならない音楽と言えるわけです。気軽に聞くことができない。

ショパンを演奏しておけば、ピアニストの音楽性が多少欠落していても、目立つフレーズでごまかすこともできるし、聞き手も楽しい。
フランクを演奏することは、芸術的に難しいことであると同時に、興行的にみてもリスクを伴うものと言えるわけです。

ですからサロンでショパンが演奏されていたら、「ごく一般的」のサロンであると言えますし、その場所がヨーロッパなくても成立いたしますが、フランクが演奏されるサロンはヨーロッパ以外にありえない。ヨーロッパ世界の晦渋さと迷宮が、このフランクの曲で象徴されているわけです。

ちなみに、このフランクの曲は、ジュネーヴのサロンで演奏されるだけではありません。一種の映画音楽としてピアノの演奏シーンのないところでも流されています。
例えば、妻の実家に向けてヨーロッパをドライブしているシーンで、このフランクの曲が流されるわけ。

オイオイ?!
これはムチャクチャですよ!

太陽の光を浴びながらオープンカーでドライブしているシーンに、どうしてフランクの重苦しい晦渋な曲が流れるの?
もっと「軽い」音楽の方がいいに決まっていますよね?別にクラシック音楽でなくてもいいわけだし。だって、たかがドライブの時の伴奏音楽でしょ?
フランクの曲なんて、一番「場違い」の曲ですよ!
まだ、ストラヴィンスキーの「春の祭典」の方が景気いいというもの。

しかし、このような「場違い」によって、これから起こり行く「重苦しく」「晦渋」なドラマを予感させているわけ。
ヨーロッパの精神世界の迷宮に向かって、「堕ちていく」メタファーといえるわけです。

ここで、ちょっとクラシック音楽から離れてみましょう。

この作品を理解するためのチェックポイントのひとつとして、アメリカ人の男性はいつも「8mmカメラ」を持っているというのがあります。まあ、この作品は、65年の古い作品(モノクロ)なので、今のように「8mmヴィデオ」というわけにはいかない。またこの夫婦はたいそうブルジョワなので、写真を撮るだけの「ただのカメラ」でもないわけ。「65年当時の8mmカメラ」なんですね。

ご主人はイタリアの珍しい「観光地」を、その「8mmカメラ」で一生懸命撮っている。
おお!まさに一時代前の典型的アメリカ人観光客ですね。今日の映画制作において、このカメラを手放さない観光客の役回りが、アメリカ人から別の国の人に変更されているのは、皆さんもご存知のとおり。

しかし、さすがに、妻のイタリア人はそんなことはしない。もともと自分の故郷なんだし・・・名家の育ちだし、今更ね。

エトルリア時代の遺跡を見ても、それを「観光地」と捉えて、「フィルムに収めて満足する」アメリカ人と、「過去の世界」に思いをはせるイタリア人。
アメリカ人の必須アイテムの「8mmカメラ」によって、この対比が明確に表現されているわけです。

また別のチェックポイントとして、そのイタリア人の妻が部屋のドアを開けるシーンがあります。そのシチュエーションが実に多いわけ。そんなことを書くと、
「今更、人間が『部屋のドアを開けるシーン』が映画的に見て意味があるのか?」
と疑問を持たれる方も多いでしょう?

ヴィスコンティ監督の「熊座の淡き星影」では、「部屋のドアを開ける」という行為は、過去を解き明かす・・・あるいは、「心の迷宮に分け入る」・・ということのメタファーになっているわけです。

だから、「部屋のドア」を開けるのは、常にイタリア人の妻の方で、アメリカ人の夫ではないわけ。アメリカ人は「積み重なる過去の問題」や「心の迷宮」などに分け入る気持ちはさらさらないというわけです。

イタリア人は・・・いやヨーロッパ人は、「過去の迷宮」に入らざるを得ない。まさに妄執に執りつかれたように、部屋へ部屋へと入り込んでいきます。さながら「青ひげ公」におけるユーディットのように・・・

ドアを開け、部屋に入っていくとそこから立ち上る毒に「魅了され」次々と、他の部屋に入っていくことになる。いわば「毒が毒を呼ぶ」状態。
こうして、イタリア人の妻は多くの部屋のドアを次々開けていき、その迷宮から逃れられなくなっていくわけです。

このようにヨーロッパ人は過去にとらわれている。しかし、ヨーロッパ人すべてが過去にとらわれているわけではありません。
やっぱり過去などにこだわらない人も多くいる。
この作品で、ジラルディーノというオヤジが登場しています。この姉弟は、そのオヤジさんをやたら嫌っている。映画の中では、自分たちの父親の非業の死に関係があると思っていることになっています。
しかし、本当かな?
このジラルディーノはそんなに悪い人なの?

そうでもないんですね。このジラルディーノのキャラクターについては、実に上手に描かれています。
アメリカ人の夫が主催した晩餐の席でのこと。
ジラルディーノは料理に手をつけ、その後で料理に粉チーズをかけ、ソースのような調味料もかけている。

今の日本では、このような食べ方を的確に表現する言葉があります。
「汁だく」という言葉。
そんな食べ方は、お世辞にも上品な食べ方とはいえないでしょ?
しかし、「汁だく」愛好家が権謀術数をめぐらす悪人である例はないでしょう。

このあたりのキャラクター描写は、それこそ「山猫」において、わざわざ「場違い」な、「椿姫」の音楽を演奏した農民出身のオルガン奏者と、描写の雰囲気が共通しています。
そんな人たちは、つまらない人かもしれませんが、決して「悪い人」ではないでしょ?

そんなこと、その姉弟くらいの知性があれば、スグにわかることです。
つまりこの姉弟が抱いているジラルディーノへの反感は、「過去を軽んじる」ものへの反感なんですね。

ジラルディーノは良くも悪くも「前向きに生きる人」。だからアメリカ人の夫とも話があう。
しかし、「過去にこだわる」キャラクターを持つ人間、たとえば、この映画における姉弟にしてみれば、軽蔑すべき存在に写る。
いわば、ソフォクレスの「エレクトラ」におけるクリテムネストラの役回りは、このジラルディーノが担っているといえるでしょう。「本来は自分たちの過去にこだわり、その遺産を受け継ぐべきイタリア人のクセに、どうしてそんなに過去を捨ててしまっているのか?」そのような近親憎悪的な反感があるわけ。

ご存知のように、ソフォクレスの「エレクトラ」を、ホフマンスタールが翻案した戯曲もあります。ホフマンスタール版の方は、エレクトラが過去にこだわる女性で、クリテムネストラが過去を忘れる女性というキャラクターの対比の作品でした。「本来は、あの人も、自分と同じように過去に拘るべきなのに・・・」そう思うからこそ、エレクトラがクリテムネストラへ寄せる憎悪は深まるわけです。

姉弟は過去にこだわるがゆえに、結びつく。過去を忘れないという尊厳ゆえに結びつくわけ。その姉弟をイタリア人女優と、フランス人俳優が演じているのは、全くの偶然とはいえないでしょう。
フランスという国もイタリアという国も、同じ祖先を持つものですからね。

ヴィスコンティのような「迷宮に満ちたヨーロッパ」という考えは、今現存している映画作家ですと、ラース・フォン・トリアーが一番です。ラース・「フォン」・トリアーとルキノ・「ヴィスコンティ」。まさに迷宮に満ちた宮廷政治の後継者というわけですね。

彼らは、アメリカのすがすがしい清潔さの価値を認めながら、毒に満ち満ちたヨーロッパを愛しているわけです。フォン・トリアーもヴィスコンティもアメリカ人の単純さを軽蔑している・・・ヴィスコンティが見つめる「過去を持たぬもの」と「芳醇な過去」を持つものの対比の構図は、63年の「山猫」や、この「熊座の淡き星影」以降に顕著に現れてきます。

ちなみに、この「熊座の淡き星影」はヴィスコンティ唯一のミステリーなんだそうな・・・
この作品で、この「姉弟の過去に何があったか?」とか「姉弟の父親の殺害したものは誰か?」ということについて真実は最後まで明らかにされません。だってそんなことはどうでもいいことなんですからね。

過去に何か事件があって、謎が謎を呼ぶ、それで十分なんです。事件の内容が重要なのではない・・・解決されていない謎が存在する・・・そのことが重要なんですね。

つまり最大のミステリーはヨーロッパの精神世界そのものと言えるわけです。
http://movie.geocities.jp/capelladelcardinale/old/03-09/03-9-23.htm

http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/437.html#c4

[近代史3] アメリカの演奏家は何故みんな演奏技術だけ凄くて中身ゼロなのか 中川隆
5. 中川隆[-10389] koaQ7Jey 2019年5月18日 14:19:54 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[1930]

ダンサー・イン・ザ・ダーク
http://www.nicovideo.jp/watch/sm1145854
http://www.nicovideo.jp/watch/sm1145942
http://www.nicovideo.jp/watch/sm1146010
http://www.nicovideo.jp/watch/sm1151705
http://www.nicovideo.jp/watch/sm1146139

http://www.nicovideo.jp/watch/sm1146197
http://www.nicovideo.jp/watch/sm1146237
http://www.nicovideo.jp/watch/sm1146419
http://www.nicovideo.jp/watch/sm1146549
http://www.nicovideo.jp/watch/sm1150997


制作 00年 デンマーク

監督 ラース・フォン・トリアー

使用された音楽 ワーグナー「ニーベルングの指環」  (無光での冒頭という形で)

使用された意図 ヨーロッパの聖と毒


このメールマガジン「映画の中のクラシック音楽」では、以前にアニメの「新世紀エヴァンゲリオン」の劇場版における音楽の使用の意図を考えました。そして、そこでの引用方法は「無音」という形での引用でした。

5分間の実質的な無音部分を作り、これを強調することで、マーラーの交響曲第2番を引用していたわけ。


今回のラース・フォン・トリアー監督の映画「ダンサー・イン・ザ・ダーク」では「無音」ではなく、「無光」というスタイルでの引用です。

映画「ダンサー・イン・ザ・ダーク」では、劇場版においては、スクリーンに何も写っていない状態から、静かに音楽が立ち上ってくるわけです。

言うまでもなく、このような冒頭はワーグナーの舞台祭典劇の「ニーベルングの指環」の第1作目、つまり序夜の「ラインの黄金」の冒頭部分と同じです。

ちなみに、このような手法は劇場でしか使えませんね。

家庭内での鑑賞を前提としたヴィデオとかDVDで、このような真っ暗な中から音楽が立ち上ってくる・・・ということは不可能ですからね。

家庭内の照明は、映画の監督が指示できるものではありません。ヘタをすれば、「これは不良品だ!」などと、せっかちな人からクレームがついたり、ヴィデオの早送りでさっさと処理されるのがオチでしょう。

ということで、劇場版では無光だったのが、ヴィデオ版では単純な映像がついています。

しかし、冒頭の音楽そのものは、弦楽器の低い音にホルンが絡んでくる・・・という音響で、音響そのものも「ラインの黄金」と同じですね。

逆に言うと、監督が劇場のライトを指定できる劇場版においては、ヴィデオ版とは違った表現をしているわけ。その部分にこだわりがないのなら、劇場版でも、ヴィデオ版と同じように、単純な映像をつけるでしょう。

フォン・トリアーは、あえて、光のない劇場から、音響が立ち上ってくるという状況を作り出しているわけです。

ということで、ラース・フォン・トリアー監督は、意識的にワーグナーを引用しているわけです。

ラース・フォン・トリアー監督は重症のワグネリアンですよね。
「タンホイザー」の音楽は、確か別の作品でも使っています。

では、彼にとってワーグナーの音楽とは何でしょうか?

それは「聖」と「毒」の絡み合った世界ということなんだろうと思います。

実際に、ワーグナーの音楽には「毒」がありますよね?
モーツァルトとかベートーヴェンの音楽には「毒」なんてなく、「聖」なるものしかありませんよ。モーツァルトもベートーヴェンも、いっそのことドビュッシーもウェーベルンも、その音楽を毒々しいとはいえないでしょ?

そして、ワーグナーの音楽には「聖」なるものもたっぷりありますよね?
劇音楽らしい、作られた「聖」と言えるのかもしれませんが、「毒」と一緒に存在することによって、「聖」の部分も、より一層際立つといえるんだと思います。

このように、「聖」と「毒」が一緒にあるために、「ワグネリアン」なるワーグナー信者が生まれ、社会に多大な影響を与えることになる。
「聖」なるものだけでは、人を惑わすことはできませんし、「毒」だけでも無視されちゃいますよ。

この「聖」と「毒」が一緒に存在する世界・・・

このようなワーグナーの世界は、ある意味において、ヨーロッパの精神世界そのものと言えるでしょう。

この「ダンサー・イン・ザ・ダーク」と同じラース・フォン・トリアー監督の「キングダム」という作品の冒頭のモノローグは「この魑魅魍魎の渦巻く沼地の上に建てられた、近代科学の粋を集めた病院」という言葉でしたが、この言葉はヨーロッパの精神の比喩そのものでしょ?

「神」による「聖」なるもの、それに対する「毒」、あるいは「近代科学」・・・すべてあってこそヨーロッパと言えるのだとフォン・トリアー監督は考えているようですね。

この「ダンサー・イン・ザ・ダーク」の冒頭の、全く光のない劇場に弦楽器とホルンによって立ち上ってくる音響は、ワーグナーの引用であり、この映画が「聖なるもの」と「毒々しいもの」を含んだ「ヨーロッパの精神」をテーマにした作品であることを聴き手?に印象つけるわけです。

しかし、この「ダンサー・イン・ザ・ダーク」に舞台はアメリカですよね?
主人公のセルマはチェコからの移民ですが・・・

つまり、この作品の設定は、「アメリカの中のヨーロッパ人」そして「アメリカ文化?の中のヨーロッパ精神」になっているわけです。

「ニーベルングの指環」を使って観客にワーグナー・・・ひいてはヨーロッパ精神を印象つけたフォン・トリアー監督ですが、別の音楽も引用しています。

クラシック音楽ではありませんが、皆さん御存知の音楽であるミュージカルの「サウンド・オヴ・ミュージック」です。主人公のセルマが映画作品中で上演の練習をいたします。一種の劇中劇となっているわけ。

この「サウンド・オヴ・ミュージック」という作品は、皆さん御存知のとおり、ナチスに反対しヨーロッパを逃れ、アメリカに渡ったフォン・トラップファミリーの話。

ヨーロッパとアメリカの対立?というテーマがここでも喚起されているわけです。

先ほど書きましたが、ヨーロッパには「聖」と「毒」がある。少なくともフォン・トリアー監督はそう考えているようです。


では、アメリカ精神には何があるの?

それは「正義」と「悪」ですね。
アメリカにはこの世を越えた「聖」はなくても、この世の規範である「正義」はあるでしょ?

自らを蝕む「毒」はない代わりに、他者を裁く「悪」がある。

この「ダンサー・イン・ザ・ダーク」では、そのようなヨーロッパの「聖」と「毒」が明確に描かれています。

「聖」なるものの代表例は言うまでもなく、教会です。

この「ダンサー・イン・ザ・ダーク」では不思議なくらいに教会が出てこない。
共産圏から移住してきたセルマが教会に行かないのは、分からないでもありませんが、その他の人が教会に行くシーンもありません。

これが単に映画の尺の関係ではないことは、刑務所での死刑の場面を思い起こせばスグわかります。

通常このような死刑のシーンにつきものの、聖職者(牧師とか神父)がいないでしょ?

映画における普通の死刑のシーンでは、刑の執行される前に聖職者と会話するシーンがつきものです。一番感動するシーンですからね。では、どうしてないの?

この「ダンサー・イン・ザ・ダーク」では、このような「聖」を思い起こすような人物は注意深く避けられているわけです。

キリスト教関係でいうと、セルマが刑務所のダクトから聞こえる賛美歌と、囚人の部屋にある1枚のキリストの肖像くらいです。

ダクトから聞こえる賛美歌・・・この賛美歌は一体どこから聞こえるのでしょうか?


他の人には聞こえない賛美歌・・・

セルマの心にしか聞こえない音楽・・・

これはヨーロッパから聞こえる・・・

と言えるでしょう。勿論、物理的には無理ですが、心では聴こえているわけ。

つまり賛美歌を喜んで聴くセルマにもかかわらず、死刑において神父の立会いもない・・・

これくらいアメリカには「聖」から距離がある・・・とフォン・トリアー監督は言っているわけです。


では、ヨーロッパの「毒」とは?

それはまさにこの「ダンサー・イン・ザ・ダーク」では、遺伝性の病気として示されているわけです。

「遺伝することがわかっているのに、何故に子供を作ったのか?」という疑問は、「毒に満ちて閉塞感の漂うヨーロッパ文化を伝承することに、価値や意味があるのか?」という、監督のフォン・トリアーの自問でもあるわけです。

毒に満ちた文化を伝承することによって、その「毒」も伝承される。

その価値と覚悟・・・

それがラース・フォン・トリアー監督が、この作品で言いたかったことでしょう。


ヨーロッパの持っている出口のない状況と、未来一杯のアメリカ。
シリアスなヨーロッパの表現と、能天気なミュージカル仕立てのアメリカ風表現。

精神主義のヨーロッパと、商業主義から抜け出せないアメリカ家族。
約束を守るヨーロッパ人と、約束を無視するアメリカ家族。


勿論のこと、映画の中での区分けですので随分ステレオタイプな分け方ですが、この作品においての、ヨーロッパとアメリカとの切り分けはこのようなところです。

例の事件のあった家族の庭に星条旗がはためいているのは偶然ではないわけ。
あの家族がアメリカ人の典型だ!とフォン・トリアー監督は言っているわけです。

あるいは、あの家における知性の欠落は、本棚を見ればスグわかるようになっています。
何かの全集ものがキレイに並んでいるんですね。
本棚の本がズラーと並んでいて、外見上もキレイなのは、本を読んでいない証拠。
これは映画上ではよくある表現です。

勿論、アメリカ人にも善意はありますよ。問題はそれ以外の部分ですね。

そうそう、この「ダンサー・イン・ザ・ダーク」という作品は「息子を守る母の強い愛!!!」とかのキャッチコピーで宣伝されましたが、今まで書いてきたように、フォン・トリアー監督の意図は別のところなんでしょう。

ただ主役を演じたビョークにしてみれば、やっぱり「母の愛」の方が興味があったでしょうね。フォン・トリアー監督とビョークは、撮影中に随分ぶつかったそうですが・・・

まあ、映画作品は監督の思惑どおりに行き過ぎると面白くない面もあったりします。

特にフォン・トリアー監督はちょっと「頭」で映画を作るようなところもありますしね、他の作品などに見え隠れします。

また、この作品ではカトリーヌ・ドヌーヴ演じるキャシーがいい効果を生んでいます。

作品中ではこのキャシーがどこの国から来たのか?

生粋のアメリカ人なのか?

示されてはいません。いわば、すべての国の人と言うことなんでしょう。

彼女は観客の代弁者なんですね。
映画を見ている観客が思っていることを、その都度、観客の代わりに映画の中で言っているわけです。

ヘンな話、ドヌーヴ演じるキャシーなんていなくても、ドラマの上では問題はないわけです。
そもそもキャシーなんて名前は、ドヌーヴの名前カトリーヌを英語読みしただけでしょ?

ただ、観客の代弁者が常にスクリーンでがんばっているので、観客はドラマに入りやすい。
俗に言う「オイシイ」役と言えますよね。

というわけで、フォン・トリアー監督の割には、観客に配慮している作品と言えます。まあ、だからヒットしたんでしょう。

ただ、フォン・トリアー監督がワーグナーのオペラや「サウンド・オヴ・ミュージック」を引用したり、あるいは「聖なるものの象徴としての教会」を排除してドラマを作っている意味も考えると、「母の愛」以外の面も見えてくるわけです。


まあ、フォン・トリアー監督がアメリカの単純さに距離を置く人であることは明白ですね。

まあ、「あんなに単純で生きられたらラクだろうなぁ・・・」と思っているのかな?
http://movie.geocities.jp/capelladelcardinale/old/03-12/03-12-16.htm

http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/437.html#c5

[近代史3] アメリカの演奏家は何故みんな演奏技術だけ凄くて中身ゼロなのか 中川隆
6. 中川隆[-10388] koaQ7Jey 2019年5月18日 14:23:18 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[1931]

NOと言えないアメリカ人
http://amairisuki.blog.fc2.com/blog-entry-6.html


just_say_yes

よく洋物は「Oh Yes! Fuck me〜」の連呼でスポーツみたいでつまらない、なんて事を仰る方がいらっしゃいます。

別にこれは外人がスポーツみたいなSEXが好きだからではなくて、そうでもしないと北米ではポルノの制作販売が出来ないと言う裏の事情が有るからです。

今回はその辺りのお話です。



アメリカは「表現の自由」が建前なんですが、同時にプロテスタントの国でもあります。この多分にキリスト教原理主義的倫理観を有する集団は大きな力を持っておりまして、ポルノ産業の根絶を目指して絶えず強力な圧力をかけ続けてきました。これにフェミニズム運動なども自己の発言力アップの為に乗っかかりまして、結果として色々と細かい規制が設けられています。

一番大きなものは「レイプ及びそれを想起させる暴力表現の禁止」と言うモノでして、女優さんは行為の最中は絶対に「NO」とは言えません。これは、どんなプレイであっても女性の側が合意し求めているという証明の為です。

ですから「Oh Yes! Fuck me〜」と「喜んで」SEXしないといけない訳です。某居酒屋のホール係みたいですが(笑)

ともかく、この辺りが「スポーツみたいな」印象を受ける一番大きな理由となります。


余談ですが、実はこれを逆手に取った男がいます。それがこのカウボーイハットのおっさん、Max Hardcoreです。


Max Hardcore 白人優越、男尊女卑丸出しの古き良き南部の伝統(笑)を体現した様なおっさん。プロテスタントの国アメリカに在りながらロリの尻穴を徹底的に犯したいと言うド直球な姿勢は、世界中に数多くの信者とアンチを生んだ。

このおっさんは契約上「NO」と言えない事を良い事に、右も左も分からない新人女優を連れて来てはロリ服を着せて、ゲロ吐くまでイラマしたかと思うと尻とマムコにクスコ突っ込んだ挙句に中に放尿、フィストでいたぶった上に尻穴犯し倒して顔射した後に口をこじ開けて口内放尿、とまあやりたい放題のビデオを量産していました。

新人時代のBriana Banksがこれに引っかかりまして、マジ泣きしながら「Oh Yes. Fuck Me My Master〜」と言っているシーン等は個人的には非常に萌えるモノがありましたです。はい(笑)

好事魔多し、と言うか自業自得と言った方が良いのでしょうか、1998年ついにロサンゼルス市が動きます。罪状は「児童ポルノみたいなのを作った事」という言いがかりに近い物だったのですが、出演女優の数人が検察に有利な証言をした為に起訴されました。

実は私、この数年前に彼の有料オフィシャルサイトのメンバーだった事があるのですが、そのせいか突然Maxからこんな内容のメールが来て驚いた事があります。

「よう、ダチ公! 実は俺様が使ってやった糞ビッチ共が、その恩も忘れてポリ公に告げ口しやがって、ロスのクソ役人共に裁判を起こされたんだ。悪いんだが裁判費用の捻出の為にもう一度メンバー登録してくれないか?」

とまあ、要約するとこんな感じなんですが、全編ビッチだクソだのオンパレードでMaxの円満な人柄が垣間見えるメールでした(笑)

結局、この裁判では無罪になったのですが、民主党のクリントンから共和党のブッシュに政権が移った後の2005年に突然、今度はFBIが動きます。

Maxの外遊中に家宅捜索に入ったFBIは彼のサーバーを押収し、中のデータの5つの作品が幾つかの連邦法に抵触するとして彼を起訴、判決は全て有罪で24ヶ月の服役を命じられます。即時控訴しますが、2年後にMaxの控訴は棄却され2009年に服役します。

2年後の2011年に出所したMaxは「もっと世の中のためになる事をしたい」と言い残すと…

max_new_official

新しいオフィシャルサイトを立ち上げてポルノ販売業に復帰しましたとさ(笑)

全然懲りてねぇよ、このジジイ(笑)


さてさて、寄り道が長くなってしまいましたが話を戻しましょう。

北米は規制が厳しいと言っても全土で均一ではありません。州によっては比較的寛容な所もあります。北米ポルノの殆どがカリフォルニア州ロサンゼルス界隈で制作されている事と、このエリアがカソリックや移民が多く比較的リベラルな民主党の地盤である事と無関係ではありません(ちなみにポルノ業界人の大半は民主党支持者)。

とは言え、商業面を考えると連邦政府の意向を無視した無茶な物を作る訳は行かず、結果として他国の人間から見ると奇形的な形で発展して来ました。

一例を上げると、SM関係はそのままなら完全にアウトなんですが、これが女優の側が望んだ事なら可能になります。だからと言って、嗜虐シーンで「Oh Yes!〜」なんてやられたら興醒めしてしまいますよね?

で、どうするかと言うと、まず本編の前に女優さんのインタビューを入れます。そこで「私は前から、トイレの中で男達に拉致されてアジトの中で緊縛されて穴と言う穴を輪姦されるのが夢だったの!」てな事を言わせる訳ですね(笑)

さらに、本編の後に又インタビューが入り、それがどれだけファンタスティックでエキサイティングな体験だったかを長々と語らせる訳です(笑)

アメリカ人はよく日本のモザイクを嘲笑するのですが、こんなの見せられるとおかしいのはどっちだと言いたくなりますね(笑)


ヨーロッパの場合はプロテスタント国のイギリス以外は北米ほど厳しい規制は無いのですが、市場としての北米を無視できない為にこれに準じたフォーマットで制作されています。まあ、オランダやドイツやロシアとかは結構好き勝手にやってますが(笑)

但し、どの国でも獣姦モノは児ポと並んでアウトで、今世界で獣姦モノを作ってるのは日本とブラジルくらいになります。

ですから日本の獣皇シリーズなんかは世界中に愛好家がいたりします(笑)
実は、規制の面から見ると日本はとても良い国なんですよ。


一口に規制と言っても国ごとに細かい違いがあるのですが、プロテスタント系のアメリカと英連邦の厳しさはちょっと異常なものを感じます。
特にアメリカは表現の自由と宗教的倫理観が常に対立していて、多分に分裂症的な感じがします。

ちょっと乱暴な言い方をすると、この2つの利害が対立する時に前者を優先するのが民主党、後者を優先するのが共和党と言えるかも知れません。

ところで、このアメリカの対立する2つの利害が一致する事柄が一つあります。
それが「自由と平等の為に異教徒共を始末する」事です(笑)

アメリカ最大の産業が戦争だと言われるのは、こう言う所に一因があるかもしれません(笑)
http://amairisuki.blog.fc2.com/blog-entry-6.html
http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/437.html#c6

[近代史3] アメリカの演奏家は何故みんな演奏技術だけ凄くて中身ゼロなのか 中川隆
7. 中川隆[-10387] koaQ7Jey 2019年5月18日 14:26:40 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[1932]

NHK交響楽団の首席指揮者に着任したパーヴォ・ヤルヴィがつい最近、ヒラリー・ハーンとの対談(@フランクフルト)でとても興味深いことを語っている
→動画(3分40秒あたりから)。


Interview mit Hilary Hahn und Paavo Järvi zum hr-Sinfoniekonzert am 21.3.14 - YouTube

「現在世界で未だにブルックナーの音楽が演奏され、愛されているのはドイツと日本だけ。

そして面白いことに日本でブルックナーを演奏すると、会場には男性客しかいないんだ!
ラヴェルとかチャイコフスキーなどロマンティックで美しい曲を演奏したら女性客や子どもたちが来てくれるんだけどね」

それに対してヒラリーは

「じゃあブルックナーは日本の成人男性のために作曲したのね!」だってさ。

特にアメリカでブルックナーは全く人気がなく、演奏される機会も滅多にない。
http://opera-ghost.cocolog-nifty.com/blog/2017/02/post-470a.html

http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/437.html#c7

[近代史3] アメリカの演奏家は何故みんな演奏技術だけ凄くて中身ゼロなのか 中川隆
8. 中川隆[-10386] koaQ7Jey 2019年5月18日 14:29:13 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[1933]

トランプ大統領がシリアにミサイル攻撃した理由2017年4月11日


トランプ政権は完全に機能不全に陥っていた。法案は議会を通らず、政権内部は混乱している。トランプ大統領は何らかの打開策を見つけなければならない。この状況の原因となっている政策は何か? バノン氏やフリン氏の親ロシア政策である。ではその政策は政権にどのようなメリットをもたらしているのか?

大統領選挙の時からトランプ氏の演説を追っている読者があれば映像を覚えているかもしれないが、「他国の政権転覆をやめる」という主張は、トランプ氏の演説のなかで支持者からの反応が最も薄かった主張の一つである。

アメリカ国民とは、アメリカが「世界で最も偉大な正義の国」であると本当に信じている人々である。その彼らに「アメリカは他国の政権転覆をやめるべき」などと言えば、アメリカの歴史そのものが悪だと言うようなものである。


ドナルド・トランプ氏は本当はアメリカが嫌いなのではないか?
http://www.globalmacroresearch.org/jp/archives/4076


だから、トランプ氏が演説でこの主張をしたときの支持者の反応は、賛同から程遠い当惑だった。

アメリカの政治介入は悪だったのか? 

イラク戦争は正義ではなかったのか? 

部外者から見れば何の正当性もないものが、アメリカ人には正当に映る。
彼らはそう教育されているのである。


何度も言うが、アメリカ人とは広島長崎への原爆投下が正義の行いだったと本気で信じている国民である。

個人の銃所有が治安向上のためになると全米ライフル協会が主張すればそれを信じ、

ブッシュ大統領のイラク侵略の口実となったイラクによる大量破壊兵器の所有が全くの嘘でたらめだったと明らかになっても気にさえ留めない、

政治的に非常に操作しやすい、頭の無い人々である。


だからこそトランプ氏は、政権転覆という表現よりも中東での軍事支出を減らすという主張に重点を置いた。「アメリカ人にとって正しいこと」は「世界にとって正しいこと」よりも先にあるものだと明確に述べた。上記で引用した通りである。


トランプ大統領の決断

親ロシア政策による利益とコストは明白だった。
政治的コストはあまりに大きく、利益はアメリカ国民にも議会にも理解されない。

そこでトランプ大統領が何を決断したのか、もう読者にもお分かりだろう。

彼の言う「世界にとって正しいこと」を選挙と議会における票のために犠牲にしたのである。

フリン氏は辞任させられ、そしてロイターによれば、トランプ政権内ではバノン氏の更迭が検討されているという。

トランプ政権内の反グローバリズムは風前の灯火である。


そしてシリア爆撃をアメリカ国民がどう捉えたかと言えば、トランプ大統領の支持者は言うまでもなく、彼に反対していたはずのリベラルのアメリカ国民でさえ、このミサイル攻撃を支持している。

CBSの世論調査(原文英語)によれば、共和党支持者のシリア爆撃支持率は84%、そしてトランプ大統領を毛嫌いする民主党支持者でさえ、40%が爆撃を支持しているという。

以前伝えたように、この爆撃の口実となったシリア政府による化学兵器の使用はシリア政府自身は否定しており、ロシアは「アメリカによるこのような大規模なミサイル攻撃は口実となった事件よりもかなり以前から準備を進める必要があったはずだ」と主張している。また、シリアの国営放送はアメリカによる攻撃で民間人が死亡したと主張している。


米国トランプ政権がシリアをミサイル攻撃、各国の反応まとめ
http://www.globalmacroresearch.org/jp/archives/5987


個人的には状況の認識についてシリア側の見解にも西側諸国の見解にも与するつもりはない。しかし仮に西側諸国の言う通り、シリア側の化学兵器使用が事実であったとしても、全く関係のないアメリカがシリアにミサイルを打ち込む理由になると信じられるのは、西側諸国の教育を受けた人間だけである。

アメリカ人は諸手をあげて攻撃を支持している。
日本人は、どれだけの数がそれに同意出来るだろうか。


結論

第二次世界大戦における原爆投下を「戦争の早期終結に繋がり、結果的に多くの人命を救った」行為として正当化することを含め、アメリカ人は教えられれば何でも信じる人種である。

西洋はそうして戦争を行なってきた。

キリスト教の布教を理由に全く関係のない国々を植民地化し、戦後は「自由でオープンな価値観」の布教を理由に人殺しを行なってきたのである。

特にアメリカ人は政治家にとって御しやすい。

日本人やヨーロッパ人よりも単純であり、思想のコントロールが容易だからである。

トランプ氏はそこから外れた価値観を政治に持ち込もうとしたが、結局は有権者の理解がなければどうにもならない。要するに、誰が大統領になろうとも、アメリカ人は所詮アメリカ人だったということである。

ただ、トランプ大統領にとっても、これまでの主張をすべて覆すようなシリア爆撃を結論するのは容易ではなかったはずである。だからトランプ大統領の決断にはもう一つ重要な要因が必要となった。この点についてはまた別の記事で書きたいと思っている。
http://www.globalmacroresearch.org/jp/archives/5999

http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/437.html#c8

[近代史3] アメリカの演奏家は何故みんな演奏技術だけ凄くて中身ゼロなのか 中川隆
9. 中川隆[-10385] koaQ7Jey 2019年5月18日 14:29:45 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[1934]

世界一豊かなアメリカはこんな国  
▽3100万人の国民が飢えている。

▽4500万人が医療保険に入っていない(国民健康保険制度がない)

▽国民の8人に1人が貧困レベル以下(2人家族で年収140万円以下)の暮らし振り。

▽貧困児童数は先進国でもっとも多い1300万人。

▽乳児死亡数は1日あたり77人。

▽国内に350万人のホームレスがいる(そのうち50万人が退役軍人)。

▽国内には約2億3000万丁の銃がある。

▽銃によって死ぬ子どもは1日平均13人。

▽選挙では不正が横行(黒人投票者を露骨に排除など)。

▽大学に行けなかった者は一生のあいだ時給5ドル(あるいはそれ以下)の仕事にしか就けない。

▽成人の4人に1人が自分の名前程度しか読み書きできない。

▽処女懐胎を、アメリカの成人の8割が信じている。

▽ブッシュ政権が1期目で実施した大型減税は、総額の半分以上が超富裕層のトップの1パーセントの懐に入った。
http://www.amazon.co.jp/gp/product/4875252307/ref=sr_11_1/503-0687016-2159947?ie=UTF8


1.スーパーのレジが異様に遅い。(日本の5倍くらいはかかってるw)

2.ファーストフードのセットメニューを頼むと、時々一品抜けてる。(3品しかないのにねw)

3.まともな運行時刻表すらないアメリカのバス・電車。(アメリカでは新幹線なんてとてもムリw)

4.殆どのアメリカ人って、外国に行った事も無い、外国語も話せない。要は、無知な田舎者w

5.レディーファーストなんてカッコつける割には、旦那の暴力が社会問題&驚異的な離婚率w

6.アメリカ人の運転マナーの悪さ・自分勝手度合い・・・ 日本人には『想定外』の連続ですw

7.何かを発注したとき、まず守られない納期。稀に納期を守る会社があるとビックリするw

8.議論は長いが何の結論も出ないアホな会議が、実は日本より多いw

9.必ず下らないギャクを入れるプレゼン。アメリカ人はプレゼン上手だと勘違いしてる模様w

10.テメーの稼ぐ金よりも、多くの金を浪費してる国・国民。愚かな・・・(以下省略w

11.コミュニケーションという言葉が好きみたいだが、要はペチャクチャ話して仕事せずw

12.自由を守る!テロとの戦いだ!などと他国に騒いでるが、要は、親米か反米か、それだけw

13.ミーティングでは“No Problem. We can do that” し か し・・・行動が伴わないw

14.ゴミの分別などお構いなし。誰も居ない週末のオフィスでも冷房ガンガン。環境を語る資格ナシw

15.駐車場で白線内にクルマを停めない馬鹿が多過ぎw、世間の程度が知れるw

16.セクハラ訴訟で何百億円、タバコ訴訟で何千億円・・・素晴らしい常識の国だよw

17.国民総肥満w、何食ってどれだけ怠惰に生活すれば、あんな肥満になるのか誰か教えてくれw

18.いまだにアメリカだけポンド・ガロン・インチ・・・の世の中w ま、彼らに国際単位系への変更なんて理解不能かw

19.終わってる製造業w 武器以外に輸出できるようなモノって一体何があるの?誰か教えてくれw

20.たかだか二百数十年の『アメリカ史』w なんせ白人は人々が暮らしているのにアメリカ大陸“発見”だからw

皮肉な事に、日本の負け組みに限って渡米希望w


◆米国民の知的劣化 

これは、米国民が、知的に劣化したせいだと考えられるのです。

 とにかく、米国の成人の5人に1人は天動説を信じていますし、26%しか進化論を信じていません。そもそも、高卒以下の人々の約45%は聖書に書かれていることはすべて真実だと信じています。

それどころか、白人の原理主義的(evangelical)キリスト教徒の60%は、議会ではなく、聖書に拠って米国の法律が制定されるべきだと考えているのです。

 また、成人のたった57%しか年間に1冊以上ノンフィクションの本を読んでおらず、若い成人の3分の2はイラクがどこにあるか地図上で示すことができず、成人の3分の2は米国の3権を列挙することができず、同じく3分の2は1人の最高裁判事の名前も挙げることができません。

15歳の数学の力はOECD加盟29カ国中24位ですし、2007年の研究では読む力が男女とも、しかも教育レベルの相違にかかわらず、低下気味であることが明らかになっています。
http://www5.plala.or.jp/kabusiki/kabu181.htm

http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/437.html#c9

[近代史3] アメリカの演奏家は何故みんな演奏技術だけ凄くて中身ゼロなのか 中川隆
10. 中川隆[-10384] koaQ7Jey 2019年5月18日 14:30:27 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[1935]

狂ったアメリカ人の精神構造  


キリスト教原理主義

キリスト教原理主義の本質は、主に米国が過去に行った過失を正当化できるからこそ普及しているのであり、キリスト教よりもユダヤ教の亜種に近い性質を帯びている。

プロテスタントといえば、多くの日本人はルター派とカルバン派しか思いつかないだろうが、英米のプロテスタントの多くは、英国国教会の亜種である。

英国国教会は、設立当初から血塗られている。

ローマ教会が離婚を許さないのを理由に、ローマ教会を離脱して英国王が首長となる教会を設立したのであるが、そのヘンリー8世は6人の妻を持ち、2番目の妻アン・ブーリンと5番目の妻キャサリン・ハワードを姦通罪で処刑している。6人のうち死別は3番目の妻ジェーン・シーモアのみである。
英国国教会の成立には、ローマ教会を通して仏の影響力を廃したかったのもあるだろう。アビニョン捕囚(1309〜77)の影響でフランスはローマ教会への影響力を強化していた。

また、ローマ教会自体が各国の王の上に己の存在を置く状態であり、英国内の反発があるからこそ、英国国教会は存続したのだろう。

つまり、設立自体が、エゴイズムとナショナリズムが動機である。
そのため、エリザベス一世時代に英国国教会から清教徒が反発して分離するのだが、彼らがローマ教会へ戻らずに新しい諸派を建てていった理由も、ナショナリズムによるローマ教会への反発があった。

もちろん、当時のローマ教会は相当腐敗していたのも事実だ。

つまり、英米のプロテスタントの場合、ルター派とカルバン派ほど純粋な動機とは言い難い部分が元来強かったのである。


ローマ教会を離れた時に、教皇に替わる宗教的権威は、何になるか。

自派内のヒエラルキーの頂点である。
古い宗派の中で頂点を極めることは難しいが、新派を建てれば己自身が頂点になりうる可能性がある。

「英国人は六十の宗派を抱えているが、料理のソースは一つだ」というイタリアの諺があるほど、英米のプロテスタントは多数の派がある。
己が宗教的権威になりたいという我欲こそが、多数の派が存在する理由の最大の要因ではないかと憶測している。

一番の問題は、聖書無謬性という偏向なのだが、これはルター派が聖書中心主義を唱えた影響から英米のキリスト教原理主義に多い。
キリスト教において本来一番大切なのは、イエス=キリストの言葉であった筈だが、イエス=キリストの言葉と矛盾する見解を米国人が頻繁に出すのは、聖書無謬性の影響ではないかと思う。

聖書無謬性、というよりも、旧約聖書無謬性こそが、キリスト教原理主義の中心に存在するのではないか。

旧約聖書は、無謬どころか矛盾だらけだが、キリスト教原理主義で重要視されているのは、旧約聖書の内容とヨハネの黙示録なのである。
ヨハネの黙示録の諸派にとって都合の良い解釈することと、旧約の内容が、キリスト教原理主義の根本のようだ。
これでは、キリスト教というよりも、選民思想が極端に強いユダヤ教の亜種である。


まず、北米インディアンの土地を奪ったことについては、「アメリカは約束の地である」と説明する。

鉄砲隊に向かって「特攻」を続けた北米インディアンを、虐殺し続けるのに当たって、「北米インディアンは聖書に書かれていない。だから、あれらは人間ではない」と説明する。

奴隷貿易の中心は実は英国だったが、「黒人は聖書に書かれていない。だから、あれらは人間ではない」と同様に説明している。

聖書の無謬性という信仰を利用することによって、自分達のエゴイズムや貪欲な物欲、選民思想を合理化できるのだ。

どんな人間だとて、異民族でも多数の人間を無差別虐殺すれば、潜在的に罪悪感を感じるものである。
もちろん、本物の「見せかけだけの善人」ならば、潜在的にも罪悪感を感じないだろうが。

米国人の心に在った潜在的罪悪感や不安感を薄れさせ、自らの虐殺・軍事的及び経済的侵略を正当化するために、聖書無謬性は、実に利用価値の高い説なのである。

聖書無謬性は、選民思想を強化し、エゴイズムの発現と経済侵略を正当化する。

だから、英国は「死の商人」として長年成功できたのだろう。日本で有名なグラバーも、英国の武器商人である。

第二次世界大戦後、英国の国土は荒廃していた。

戦争の被害のない米国が「世界の中心」となったのは必然であるが、その世界の中心とは、「世界の武器工場」なのである。この情けない地位は、この先当分揺るぎそうにない。

人殺しで儲ける「商売」は、私は世界中で最も卑しい職業だと思う。

殺傷兵器を多数生産することにも、自己正当化と合理化が必ず必要になる。
「我々は、民主主義を世界に普及するために武器を製造しているのである」とか工場で合理化の言葉を言わなければ、現場の労働意欲が必ず低下していく筈だからだ。


米国で武器を多数製造しなくても、たくさんある別の産業に大半を転換すればいいだけの筈だ。日本は、戦後ちゃんとできたのだから。
だが、恐らく、最早不可能だろう。

なぜなら、米国は「民主的な豊かな社会」から「憎悪と恐怖の対象」「言論を弾圧する強国」へと変質して行っているからである。
報復を恐れて先制攻撃し、無差別攻撃するために、他国民の憎悪と怒りが増し、死を賭しても抵抗を表したいという人々をどんどん増やしているという、ごく当たり前の論理が、米国人には理解できないようだ。

恐らく、欧米人以外の人々を、無意識下で「人間」と認めていないからである。

世界中から恨まれ憎まれていることを、米国人の大半が9.11まで気づかずに済めたのは、エバンジェリカルが米国民が潜在的に持つ罪悪感や不安感を合理化し、選民思想を強化してくれているためである。

戦争があるたびに、米国内のエバンジェリカルは信者数を増していく。
今や、聖書無謬性を信じる米国人が半数以上なのではないか。

例え、神が言ったことが正しかったとしても、転記を続けた古代ユダヤ人が自分達に都合の良い内容に書き換えなかったと何故信じられるのかは、理解に苦しむ。
古代ユダヤ人の知っている世界しか書かれていないからといって、それ以外の土地に住むのは人間ではない、あるいは被差別民族だと信じられるのは、何故なのか。

「木を見る西洋人 森を見る東洋人」に従えば、西洋人の世界観があまりに単純だからと説明できるだろう。

そんなに、世の中、単純なわけなかろうが。
あらゆる物事は、複雑に絡み合っている。
人体の一部が悪くなれば、全体に影響が及ぶようにだ。

潜在的罪悪感を引きずるからこそ、米国は犯罪大国になったのではないか。


エバンジェリカルは「核戦争を待望する人びと―聖書根本主義派潜入記 朝日選書」によると、ヨハネの黙示録の「ゴグとマゴク」、つまりイスラエルに進攻して戦う二つの大国とは、ロシアと中国だと教えているそうだ。

信者を増やすために、「核戦争はすぐ来る」とエバンジェリカルが米国民の恐怖を煽れば煽るほど、「どうせ先はないんだから」と自暴自棄の心境に陥り、犯罪に走る者は増えていったのだろう。

潜在的罪悪感や不安感は、潜在的犯罪者を増加させていき、米国民の人心を荒廃させて行ったのである。

「人のふり見て我がふり直せ」と言う。
経団連が武器輸出を求めた結果、内閣が勝手に、当座米国にのみミサイルを輸出することに決めてしまったが、これは米国の轍を踏むことになるだろう。
潜在的罪悪感を合理化する装置としての宗教は、日本において国家神道と靖国である。

次第に国粋主義者が再度増えて行っている現状を、よく考えてほしい。
米国の事実上支配下に入っている日本では、精神的には戦後の混乱が続いたままなのである。
恐らく、潜在的罪悪感や社会の矛盾を合理化するために、日本人の多数が、再び自発的に国家神道と靖国に縋り始めたのである。

それを否定する者に対して、「非国民」扱いが始まっている。
戦後の精神的混乱を「日教組の偏向が」等とする、安易な合理化を続けているようでは、昭和初期と同じ状況を自ら作り出してしまうだろう。

そして、潜在的罪悪感と社会の矛盾を合理化するのに、靖国では駄目だと考える人々が新・新興宗教に縋っていくのである。
この状況が長く続けば、オウムのような極端な教義を必要とする人々が増えていくはずだ。

武器輸出は、第二・第三のオウムを作り出し、アーレフを強化する。
エゴイズム、利己主義と物質主義、利益優先主義、選民思想などの、「アメリカナイゼーション」が「グローバリズム」の名で一層進行していけば、犯罪発生率が増加するのは当然である。


物事は連鎖していると考えるのは、東洋的発想らしいが、過去の清算が充分に済まないならば、潜在的罪悪感や不安感が、国を誤った方向へと導くのは避けがたいだろう。

良い商品を世界に供給するのを止めて、死の商人への道を進むのが、日本国の将来のために素晴らしいことと思いますか。
経済的論理のみを追求すれば、犯罪発生率は高まり、要人暗殺や報道機関への武力攻撃等の右翼テロが頻発する時代をもたらすだろう。
その先にあるのは、五‐一五事件(1932年犬養毅首相暗殺)、二‐二六事件(1936年陸軍クーデター)のような時代が来るだろう。

貴方は、奥田経団連会長や小泉首相が、そういうことまで考えて武器輸出を決めたと思いますか。

重要案件が国会の議決を経ないで決まる事態は、民主主義の形骸化の進行です。
「誰がなっても変らない」と賢しらに言う人々が多数日本にはいますが、本来、日本の未来を選ぶのは、国民の一票の筈です。

貴方は、どんな未来を選びたいと考えていますか?
何もせずに他人(政治家や官僚)のせいにするというのも、一つの選択であり、その選択に相応しい未来が待っているはずです。


【福音派】聖書の外典・偽書と「聖書の絶対不可謬性」

キリスト教史の中で、旧約聖書が正式に聖典の扱いを受けるようになった歴史は意外に浅く、トリエント公会議(1545)の時である。
2世紀には既に旧約聖書を認めない派が存在し、それに反対するためにも4世紀に聖書のラテン語訳が始まり、397年「正典」が一応決まった。

特に、ヨハネの黙示録を新約に残すかどうかで、随分揉めたらしい。
東方正教会は、長く認めていなかったという。

1世紀末に書かれたもので、「ヨハネによる福音書」「ヨハネの手紙」の著者とは別人が書いているが、今でも諸説あり、作者が福音書作者でないと文献学等で否定されていることを聞くと激怒する宗派もあるらしい。

どの文書が聖書として認められるべきか否かで、長く揉めて来た歴史というのは、大抵の宗教にあることだ。例えば、「北伝仏教の経典の多数は偽書である」という研究もある(「梅原猛の授業 仏教」をご参照下さい)

そんな歴史があるのに、特に、キリスト教原理主義者達を中心に「聖書の絶対不可謬性」を固く信じているキリスト教徒が結構いるのだそうだ。

聖書の中には、これを聖書に含めるかで揉めた文書があるという歴史等を、清教徒は全く知らなかったらしい。そのため、アメリカを中心に「聖書の絶対不可謬性」という、珍奇な教義をもつ教団が多いのだそうだ。

しかも、彼らが「間違いがない」と主張するのは、大抵、本来は聖典ではなかった旧約聖書のほうで、新約と違って間違いだらけの書物だ。


旧約聖書は盲信されると、世界の迷惑になる話が多すぎるのだ。

聖書と言っても旧約聖書は、基本的に泊付けのために導入されたものであり、どう考えても新約聖書の「神」と矛盾している。
旧約聖書の「神」は、所詮民族宗教の神なので、イエスと違い、人を幸福にすることのない神なのだ。

その「神」とイエスが三位一体であると言ったものだから、それから、キリスト教の神は相当残虐な「神」に変化し、教会の教えも残虐なものに変質してしまったのかもしれない。

ローマカトリックが新教の発生と共に今までの教会のあり方を見直して現在に至るのと対照的に、「自分達こそ、(旧教の輩と違って)汚れなき者である」と主張し続けて来た人々は、随分人殺しが好きな人々になっていき、全く自分達の行動を振り返ろうとはしない。

「神に選ばれた」とか「(自分達だけは)清浄なるものである」とか、「アメリカは『神の国』である」とか言うのは、明らかな(誇大)妄想である。
民族宗教の神ならともかく、キリスト教の神が、そんなに驕り高ぶり尊大で、「自分達は選ばれているから何をやっても許される」といった論理で他国民を無差別虐殺するような信者を、そんなに高く評価するだろうか。

「汝の敵のために祈れ」と言った神がだ。

聖書を書き記したのは所詮古代ユダヤ人であり、聖書の中にサハラ以南の黒人、インド以東のアジア人、北米南米・オーストラリア・ミクロネシアの現地人の存在が書かれていないのは、単に、当時の古代ユダヤ人の知識が足らなかっただけである。


ところが、「聖書の絶対不可謬性」を盲信する人々は、聖書に出て来ない人々を「人間として認めてはならない」という、見解になりがちだ。

清教徒が最初にこの考え方を米国に伝え、英国の清教徒が奴隷貿易を擁護した。自分達は清い名を名乗り、その行動は実に血なまぐさい。

聖書が誤っていることを認めぬ代わりに、世界や現実のほうを自分達の信念に合わせようとすると、随分多数の人々の人権を侵害し、戦争を次々起こし、多数の国を弱体化させ、...たくさんの異教徒をアジア・アフリカ・南北アメリカで殺さなければならない。
実際に、合わせようと今まで努力してきたのが、アメリカ合衆国という国の「裏の歴史」ではないのだろうか。

「キリスト教原理主義のアメリカ」(p.94)では、「聖書の絶対不可謬性」を信じる信者の割合を表示している。

 ユニタリアン・ユニバーサリスト        6%
 統一キリスト教会              12%
 アメリカン・福音ルーテル教会        21%
 エビスコーパル・チャーチ(聖公会)     22%
 統一長老派教会               25%
 統一メソディスト教会            34%
 エホヴァの証人               51%
 チャーチ・オブ・クライスト         55%
 サザン・バプティスト会議          58%
 チャーチ・オブ・ナザレン          58%
 アセンプリーズ・オブ・ゴッド        65%
 ユナイテッド・ペンテコスタイル・チャーチ  69%
 チャーチ・オブ・ゴッド           80%
http://hoffnungenlied.cocolog-nifty.com/kaizen/cat1966234/index.html

http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/437.html#c10

[近代史3] アメリカの演奏家は何故みんな演奏技術だけ凄くて中身ゼロなのか 中川隆
11. 中川隆[-10383] koaQ7Jey 2019年5月18日 14:31:27 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[1936]

回心者ブッシュの演説に聞き入る「十字軍」兵士達

アメリカには「ポーン・アゲン」を なのり、そう呼ばれる人びとがいる。 人生の道半ばで、神に、キリスト に、聖書に出会い、キリスト教徒とし て新しく生まれ変わった人びとであ る。改宗ではなくて、回心と再生を誓 う、プロテスタント教会のなかの行動 的な一派である。


◆40歳にして「回心再生」

ブッシュニ世はボーン・アゲンのひ とりになった。飲酒にふけって、安易 な生活を送っていたのが、名高い伝道師の説教を聞いてからは、四十歳にし て酒を断ち、回心再生の人となった。

朝は祈りと聖書の読誦にはじまり、閣議も祈りではじまる。

演説には聖書 のことばがちりばめられている。

「ア メリカに昧方しないやつは敵だ」というブッシュニ世の人物を特色づける発 言も聖書からでている。

「わたしの側 に立たない者はわたしに逆らう者、わたしと共に集めない者は散らす者である」


神仏の信仰を問わず、ボーン・アゲ ンの宗教体験をもつ人びとのおおく は、個人の内面の間題として回心をうけとめている。

ところが、アメリカの 「生まれ変わり」は異様に猛烈である。かれらは公の場で回心の体験を声高 に語って、人間は罪を負って生まれた存在であるから回心しなさい、改俊しなさいと、説得と折伏の活動に訴えることを神に奉仕する使命と信じている。

その特徴は徹底した二元論である。人間は神に選ばれて救われる者と、救 われない者に分かれている。回心者に は永遠の平和、福音に耳ふさぐ者は悪魔の子で永遠の地獄が待っている。

善と悪、神と悪魔、味方と敵、白と黒、光と闇が現世を二分して戦ってい るという論理を用いて、迷える小羊に選択をせまるのである。

原理主義(ファンダメンタリズム) はイスラムの 「専売」のように思われて いるが、この 言葉と運動は はじめて一九 二〇年代アメ リカの白人プロテスタントの環境からうまれた。

ボーン・アゲンは原理主義の三つの 教条を継承している。

聖書に書かれてあることはすべて神の言葉であって、解釈や考証はゆるされない。

人間は神によってつくられた被造物で、サルから進化したなどという「妄説」はゆるされない。

やがてキ リストがこの世に再臨して至福の千年 が始まるから、神への奉仕にいそしまなければならない。


◆悪魔うけいれる土壌

最近のギャラップ世論調査による と、アメリカ人の48%は神が人間をつ くったと信じ、28%が進化論に傾いている。そして、悪魔の存在を68%が信 じている。

テロリズムも「九・一一」の悲劇も、バグダッドに巣食う悪魔の仕業だ という圧倒的な政治宣伝がたやすくう けいれられる精神的土壌がそろっている。 プロテスタント教会の少数派であっ たボーン・アゲン原理主義と、帝国を夢みる新保守覇権主義の二つの特殊な 潮流と人脈が、アメリカ政治の中枢を乗とってしまった。

神の下なる道義の国アメリカの指揮 官ブッシュニ世は、「万軍の王の王、主の主」(ヨハネ黙示録)として、神の御業を実践する十字軍に立つのであ る。

しかし、利得の追求を宗教的熱狂で紛飾した十字軍は、中東のみならず、 世界の現状にひそむ限りない複雑さ と、そして、人間の惨害を無視して強行されるのだから、前途には、とほうもない魔の陥弊が待っている。


現在の狂ったアメリカ人の精神構造を探るには、アメリカを覆っているキリスト教原理主義的教義が分からないと理解できない。

回心再生と言ったって何のことか分からない。

回心再生して神に仕え、そうでない福音に耳を塞ぐ者たちを、悪魔の子として永遠の地獄に突き落とすことが、彼らの使命なのだ。


このようなキリスト教原理主義の教義が分かっていれば、ラムズフェルドの冷酷さも理解できる。

彼はアフガニスタンの戦場における、タリバン兵の捕虜達をクンドゥスに集め、爆撃して皆殺しにした。悪魔の子として地獄に突き落としたわけだ。

彼らにとっては異教徒は人間とはみなさないのだ。
http://www.asyura2.com/0304/bd25/msg/114.html

▲△▽▼

 フィラデルフィアで林間学校に参加していた16歳の時だった。ラジオで原爆投下を知った。周囲の子どもたちは歓声を上げた。私は我慢できず、一人で森の中に入り数時間戻らなかった。

もっと衝撃を受けたのは、ポルノ映画との触れ込みで50年代にボストンで上映された「ヒロシマ」という題の映画で、被爆者が沸騰した川に飛び込む映像を見ながら、観客が大笑いしていた光景だ。
http://www.asyura2.com/0505/idletalk14/msg/428.html

http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/437.html#c11

[近代史3] アメリカの大富豪は毎日何を食べているのか? _ アメリカ人には料理の味も文学も芸術も全く理解できなかった 中川隆
3. 中川隆[-10382] koaQ7Jey 2019年5月18日 14:33:06 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[1937]

アメリカ人が飲む「コーヒー」は麦茶を薄めたような出がらしこーひー。


NY在住の日本人社長が断言「日本は世界有数のコーヒー先進国だ」2017.10.04
『NEW YORK 摩天楼便り−マンハッタンの最前線から−by 高橋克明』
http://www.mag2.com/p/news/279417


毎日何気なく飲んでいるコーヒー。コーヒーショップチェーンや喫茶店、コンビニの100円コーヒーと、どれもそれなりに美味しいですよね。

今回のメルマガ『NEW YORK 摩天楼便り−マンハッタンの最前線から−by 高橋克明』は、著者で米国の邦字紙「WEEKLY Biz」CEOの高橋克明さんが、先日の日本出張でコンビニコーヒーの美味しさに衝撃を受け、日本のコーヒーのクオリティを絶賛しています。

高橋さんは、アメリカこそ後進国と語り、日本のコーヒー店がNYに進出すれば間違いなくチャンスはあると断言しています。


僕が思う世界に通用する日本製

ここ最近、日本からNYへの進出企業が非常に顕著になってきました。 特に飲食業会に関しては、ここで例を上げるにはキリがないほどのお店がこの街で出店続きです。

一風堂、ゴーゴーカレー、大戸屋の成功に続けとばかり「ホルモンふたご」「いきなりステーキ」「EAKラーメン」「麺屋二郎」「とらふぐ亭」「屯ちん」等、(ラーメン屋率高過ぎるだろ)

前回の日本出張時に感じたのは、「コーヒー屋さんが出て(進出して)来ないかな」ということ。 具体的な店名(ブランド)までは考えていません。 というか、日本のコーヒー専門店なら、どこでもいい。 きっと通用すると思います。

もちろんマンハッタンで商売するには、「当たる(客が入る)」「当たらない(客が入らない)」は二の次。 レント(家賃)を含め、どれだけコストを抑えられるか、リースを長く契約できるか、流通販路を確保できるか、など、他の要素が日本以上に非常に重要になってくることは、以前このメルマガでも書きました。

商品(コーヒー)の素材(豆など)をどこから仕入れるか等、簡単にはいかないことを前提としての話です。 ただ単純にプロダクトのクオリティーが圧倒的なところから、客足は絶えないだろうなぁという、素人レベルの単純な話ですが、日本のコーヒー(全般)がニューヨーカーを夢中にさせるとうことは想像に難くありません。


日本の人に、この街のことでいちばん誤解されるのは「コーヒー先進国」だというところ。

「セックス&ザ・シティで、主人公たちが毎朝コーヒー片手に出勤してるから」などの理由から、「NYはコーヒーが美味しい街」というイメージがあるそうです。

完全なる間違いです。 この街は、というかアメリカ合衆国自体、完全なる「コーヒー後進国」です。

いまでこそ「Blue Bottle Coffee」など味で勝負する店も出て来て、ここ数年、かなりマシになりましたが、僕が渡米した頃には「スタバ」くらいしかなく、購買反対運動をしょっちゅう目にするくらい、緑の人魚マークが市場を独占していました。 スターバックスが創業したのは約45年前。

でも北米全土に拡大しきったのは約25年ほど前。 つまり、この四半世紀です。 それまで、アメリカ人はたぶん「ラテ」だの「マキアート」だの聞いたこともなかったはずです。

アメリカ人にとっての「コーヒー」とは「ダイナー」と呼ばれる大衆食堂で、エプロンしたおばちゃんウエイトレスが注いでくれる、麦茶を薄めたような出がらしこーひー。

そんなアメリカのコーヒー文化を変えた「スターバックス」ですら、あまりに従業員の接客態度の悪さに、今、ニューヨークではかなり問題になっています。

従業員の態度はもう諦めていますが、肝心のコーヒー、プロダクト自体も、日によって出来のクオリティーがバラバラ。

もともとのコーヒーの美味しさをわかっていないスタッフが作るので、一定の美味しさをキープするなんて最初から無理。 日によって当たり外れがヒドいことは、もう僕たちの間では普通になっています。

「シャちょー、今日はまだ美味しいですよ」と先に購入したスタッフの意見を聞いてから買いに行く。 だからといってその店の豆を新しく入れ替えたタイミングだったり、数時間前に作ったスタッフが休憩に入っていたりすると、ハズレになることも珍しくあません。 日本だと考えられないことだと思います。 日によって、どころか、時間帯によってクオリティーがバラバラの飲食店なんて。


今回の日本出張でいちばん驚いたことは、「コンビニのコーヒー」のクオリティーです。 ローソンだと MACHI CAFÉって言うんだよね。 初めて飲みました。

最初にローソンのを試して、あまりの美味しさと安さに驚き、連日通い。

ホテルを移動するといちばん近いファミリーマートのコーヒーを飲んでは、あの美味過ぎるローソンより美味しい!と驚き、続いてホテルを移動した先の最寄りのセブンイレブンのコーヒーを試しては、あの驚くほど美味しいローソンより美味しいファミマより、さらに美味しい!!!と感動すらしました。 それが160円とか(?だっけ?安すぎて忘れた)。

もうコーヒー屋さん、いらないじゃん。

コンビニでこのクオリティを確報できるんだから。

ハッキリ言って、このクオリティのコーヒーは、全米のどこに行っても飲めません。 ハッキリ言って、この安さでコーヒーは、全米のどこに行っても飲めません。

日本国内でもコスパを考えれば、ドトールやスタバより上だと思います。 ということは(コーヒーに限らずすべての製品がそうだと思いますが)製品のクオリティー、プラスアルファで勝負するしかない。 大切なお客さんとの商談や、彼女とデートで、いくら安くて美味しくてもコンビニで済ますわけにはいかない。 製品のクオリティーだけなら、もうスタバもドトールもいらないってなりかねないからです。

前述したように、豆の流通経路とか、一杯あたりのベネフィット、原料コストなど、詳しくはない僕が簡単には言えませんが、クオリティーさえ維持できれば、ニューヨーカーには絶対当たると思います。 特にスタバ独占状態が落ち着きを見せ、ニューヨーカーでやっとコーヒー本来の美味しさを理解し始めた今だからこそ。 今が絶好のタイミングだと思います。

どうぞ日本のコーヒー屋さん(カフェに限らず、昔ながらの喫茶店など)ニューヨークに進出してきてください! 出来ることであればなんでも協力するから。
http://www.mag2.com/p/news/279417

http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/436.html#c3

[近代史3] アメリカの大富豪は毎日何を食べているのか? _ アメリカ人には料理の味も文学も芸術も全く理解できなかった 中川隆
4. 中川隆[-10381] koaQ7Jey 2019年5月18日 14:35:05 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[1938]

以前、日本マクドナルドの社長(日本人です)がテレビか雑誌で次のような事を言っていた事があります。

「私はマクドナルドのハンバーガーが美味しいと思ったことはありません。あれを美味しいと言いながら何度も繰り返し食べてくれる今の日本人の味覚を疑います。・・・」

彼が言っていたことは以下の様なことです。細かい点は間違っているかも知れません。
マクドナルドはハンバーガーを売る企業ですが、基本は場所を提供するということです。

喫茶店をもっと利用しやすくした形がマクドナルドです。
300円400円でコーヒーを飲むのとハンバーガーとコーラを飲むのは同じ事なのです。

マクドナルドは場所を提供するビジネスなのです。

そしてマクドナルドの顧客としてのメインターゲットは15才くらいまでの子供達です。

人間の味覚は10才から12才くらい迄にほぼ決まると言われています。だから子供のうちからハンバーガーを食べて育った大人は死ぬまでハンバーガーを食べ続けてくれます。

そしてハンバーガーで育った大人は抵抗なくその子供にもハンバーガーを
食べさすことでしょう。

つまり、子供達にハンバーガーを食べさせることは、将来の固定客を掴むことになり、多くの大人に食べてもらうよりずっと大きな市場になるのです。

だから、多くのマクドナルドの店には子供の欲しがるオモチャを置いていたり、子供連れの大人が利用しやすいように遊具施設を置いたりして、子供という顧客を掴もうとしているのです。

10年後20年後を睨んだマクドナルドの戦略はそこにあるのです。
そこには「食文化」を広めるという事は二の次で、ビジネス(つまりお金儲け・マクドナルドの利益)をより大きくしようという企業論理が中心です。
http://www.ka-mato-ru.com/mac.html


子供の時にマクドナルドを食べてジャズやロックを聴いていると、大人になってから幾ら努力しても食べ物の味や音楽が わからなくなってしまうのですね。

http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/436.html#c4

[近代史3] マスコミの偽情報 _ CIA は有力メディアを情報操作のために使っている 中川隆
11. 中川隆[-10380] koaQ7Jey 2019年5月18日 14:49:29 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[1939]
2019.05.18
西側の支援する反シリア政府軍が化学兵器を使った事実をOPCWが隠したと判明

 アメリカ、イギリス、フランスの3カ国は2018年4月14日にシリアを100機以上の巡航ミサイルで攻撃した。ロシア国防省の説明によると、そのうち71機をシリア政府軍は撃墜したという。

 この攻撃を正当化するため、攻撃側は政府軍がドゥーマで4月7日に化学兵器を使用したと宣伝していた。その情報源はSCD(シリア市民防衛/通称白いヘルメット)やアル・カイダ系武装集団のジャイシュ・アル・イスラム。

 この武装集団はCIAの影響下にあり、アル・カイダ系のアル・ヌスラと連携(タグの違い)、イギリスの特殊部隊SASやフランスの情報機関DGSEのメンバーが指揮しているとも報告されている。

 ミサイル攻撃の直前、国連の専門機関であるWHO(世界保健機関)は化学兵器の使用で多くの犠牲者が出ているとする声明を出したが、その情報源はWHOがパートナーと呼ぶ団体。その中に含まれているMSFはSCDを訓練している。独自の調査をしたわけでなく、アル・カイダ系勢力の宣伝をそのまま主張しただけだ。攻撃はOPCW(化学兵器禁止機関)の調査チームが現地へ入る直前でもあった。

 OPCWは今年、ドゥーマで化学兵器が使用されたが、武装勢力によるものだということを示す証拠は見つからなかったと報告している。

 しかし、ここにきて​OPCWで専門家の中心的な存在であるイラン・ヘンダーソン名義の文書​が表に出てきた。この文書が本物であることは確認されている。その中で、化学物質が入っていた筒状の物体は航空機から投下されたのではなく、証拠は人の手で地面に置かれていたことを示唆している。つまり、SCD、あるいはジャイシュ・アル・イスラムが化学兵器を使ったことを示している。この事実をOPCWの上層部は隠したわけだ。

 ドゥーマでシリア政府軍が化学兵器を使ったというアメリカ政府などの主張を西側の有力メディアは垂れ流していたが、当初から疑問の声が挙がっていた。そうした疑問は有力メディアの中からも出ている。

 イギリスの​インディペンデント紙が派遣していたロバート・フィスク特派員​は攻撃があったとされる地域へ入り、治療に当たった医師らを取材、その際に患者は毒ガスではなく粉塵による呼吸困難が原因で担ぎ込まれたという説明を受けている。毒ガス攻撃があったことを示す痕跡はないという。

 また、アメリカのケーブル・テレビ局​OAN​の記者も現地を調査し、同じ内容の報告をしている。​ロシア系のRT​は西側の有力メディアが化学兵器の被害者だとして報道した子どもとその父親を取材、やはり化学兵器が使用されたという話を否定している。

 化学兵器が使われたと宣伝する際にSCDが使った映像がでっち上げであることを否定できなかった西側の有力メディアだが、それでも政府軍による化学兵器の攻撃はあったと主張していた。

 本ブログでは繰り返し書いてきたが、アメリカ政府が軍事侵攻を正当化する口実として化学兵器を言い始めたのは2012年8月のこと。シリアに対する直接的な直接的な軍事介入の「レッド・ライン」は生物化学兵器の使用だとバラク・オバマ大統領が宣言したのだ。

 この頃、アメリカ軍の情報機関​DIA​からシリア情勢に関する報告書がホワイトハウスへ提出されている。その中にはシリアの反政府軍の主力がサラフ主義者やムスリム同胞団だと記述されていた。また武装組織としてアル・カイダ系武装集団のAQI(アル・ヌスラと実態は同じだと指摘されていた)の名前が挙げられていた。当時、オバマ大統領は反政府軍のうち「穏健派」を支援していると主張していたが、そうした集団は存在しないことを伝えていたのだ。

 それだけでなく、DIAはオバマ政権の政策がシリアの東部(ハサカやデリゾール)にサラフ主義者の支配地域を作ることになるとも警告していた。ダーイッシュの出現を見通していたわけだ。それはオバマ政権の作戦だったとも言える。

 2012年12月になると、国務長官だったヒラリー・クリントンがシリアのバシャール・アル・アサド大統領は化学兵器を使う可能性があると語る。

 そして2013年1月29日付けのデイリー・メール紙には、オバマ政権がシリアで化学兵器を使ってその責任をアサド政権に押しつける作戦をオバマ大統領が許可したという記述がイギリスの軍事関連企業ブリタム防衛の社内電子メールの中に書かれているとする記事が載った。(同紙のサイトからこの記事はすぐに削除された)

 その後、シリア政府軍が化学兵器を使ったとする話を西側の政府や有力メディアは何度か主張するが、本ブログでも指摘してきたように、いずれも嘘が明らかにされてきた。今回、明らかにされた文書もアメリカの影響下にある国際機関の実態を暴くものだと言えるだろう。
https://plaza.rakuten.co.jp/condor33/diary/201905180000/
http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/330.html#c11

[近代史3] マスコミは何時からフェイクニュースを流す様になったのか 中川隆
14. 中川隆[-10379] koaQ7Jey 2019年5月18日 14:50:27 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[1940]
2019.05.18
西側の支援する反シリア政府軍が化学兵器を使った事実をOPCWが隠したと判明

 アメリカ、イギリス、フランスの3カ国は2018年4月14日にシリアを100機以上の巡航ミサイルで攻撃した。ロシア国防省の説明によると、そのうち71機をシリア政府軍は撃墜したという。

 この攻撃を正当化するため、攻撃側は政府軍がドゥーマで4月7日に化学兵器を使用したと宣伝していた。その情報源はSCD(シリア市民防衛/通称白いヘルメット)やアル・カイダ系武装集団のジャイシュ・アル・イスラム。

 この武装集団はCIAの影響下にあり、アル・カイダ系のアル・ヌスラと連携(タグの違い)、イギリスの特殊部隊SASやフランスの情報機関DGSEのメンバーが指揮しているとも報告されている。

 ミサイル攻撃の直前、国連の専門機関であるWHO(世界保健機関)は化学兵器の使用で多くの犠牲者が出ているとする声明を出したが、その情報源はWHOがパートナーと呼ぶ団体。その中に含まれているMSFはSCDを訓練している。独自の調査をしたわけでなく、アル・カイダ系勢力の宣伝をそのまま主張しただけだ。攻撃はOPCW(化学兵器禁止機関)の調査チームが現地へ入る直前でもあった。

 OPCWは今年、ドゥーマで化学兵器が使用されたが、武装勢力によるものだということを示す証拠は見つからなかったと報告している。

 しかし、ここにきて​OPCWで専門家の中心的な存在であるイラン・ヘンダーソン名義の文書​が表に出てきた。この文書が本物であることは確認されている。その中で、化学物質が入っていた筒状の物体は航空機から投下されたのではなく、証拠は人の手で地面に置かれていたことを示唆している。つまり、SCD、あるいはジャイシュ・アル・イスラムが化学兵器を使ったことを示している。この事実をOPCWの上層部は隠したわけだ。

 ドゥーマでシリア政府軍が化学兵器を使ったというアメリカ政府などの主張を西側の有力メディアは垂れ流していたが、当初から疑問の声が挙がっていた。そうした疑問は有力メディアの中からも出ている。

 イギリスの​インディペンデント紙が派遣していたロバート・フィスク特派員​は攻撃があったとされる地域へ入り、治療に当たった医師らを取材、その際に患者は毒ガスではなく粉塵による呼吸困難が原因で担ぎ込まれたという説明を受けている。毒ガス攻撃があったことを示す痕跡はないという。

 また、アメリカのケーブル・テレビ局​OAN​の記者も現地を調査し、同じ内容の報告をしている。​ロシア系のRT​は西側の有力メディアが化学兵器の被害者だとして報道した子どもとその父親を取材、やはり化学兵器が使用されたという話を否定している。

 化学兵器が使われたと宣伝する際にSCDが使った映像がでっち上げであることを否定できなかった西側の有力メディアだが、それでも政府軍による化学兵器の攻撃はあったと主張していた。

 本ブログでは繰り返し書いてきたが、アメリカ政府が軍事侵攻を正当化する口実として化学兵器を言い始めたのは2012年8月のこと。シリアに対する直接的な直接的な軍事介入の「レッド・ライン」は生物化学兵器の使用だとバラク・オバマ大統領が宣言したのだ。

 この頃、アメリカ軍の情報機関​DIA​からシリア情勢に関する報告書がホワイトハウスへ提出されている。その中にはシリアの反政府軍の主力がサラフ主義者やムスリム同胞団だと記述されていた。また武装組織としてアル・カイダ系武装集団のAQI(アル・ヌスラと実態は同じだと指摘されていた)の名前が挙げられていた。当時、オバマ大統領は反政府軍のうち「穏健派」を支援していると主張していたが、そうした集団は存在しないことを伝えていたのだ。

 それだけでなく、DIAはオバマ政権の政策がシリアの東部(ハサカやデリゾール)にサラフ主義者の支配地域を作ることになるとも警告していた。ダーイッシュの出現を見通していたわけだ。それはオバマ政権の作戦だったとも言える。

 2012年12月になると、国務長官だったヒラリー・クリントンがシリアのバシャール・アル・アサド大統領は化学兵器を使う可能性があると語る。

 そして2013年1月29日付けのデイリー・メール紙には、オバマ政権がシリアで化学兵器を使ってその責任をアサド政権に押しつける作戦をオバマ大統領が許可したという記述がイギリスの軍事関連企業ブリタム防衛の社内電子メールの中に書かれているとする記事が載った。(同紙のサイトからこの記事はすぐに削除された)

 その後、シリア政府軍が化学兵器を使ったとする話を西側の政府や有力メディアは何度か主張するが、本ブログでも指摘してきたように、いずれも嘘が明らかにされてきた。今回、明らかにされた文書もアメリカの影響下にある国際機関の実態を暴くものだと言えるだろう。
https://plaza.rakuten.co.jp/condor33/diary/201905180000/
http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/119.html#c14

[近代史3] アメリカ人には音楽は理解できない _ ジャズなんか音楽じゃない

アメリカ人には音楽は理解できない _ ジャズなんか音楽じゃない


ようつべ動画に往年の名指揮者ブルーノ・ワルターの

「ジャズは低俗だ」

という発言がUPされていて物議をかもしていた。


「漫画を書くにも才能が要るが、それは芸術ではない」

とも言っているみたいだった。
http://chitekizaisan.blog28.fc2.com/blog-entry-1316.html

▲△▽▼


Welcome to MEG JAZZ NET
http://www.meg-jazz.com/

「感動は 最初の一度だけ 」 クラシック喫茶 「バロック 」で教わったこと
http://scherzo111.blog122.fc2.com/blog-entry-275.html

吉祥寺駅東口から線路沿いに西荻窪方面に戻るヨドバシカメラ裏手横丁の一角にこの名曲喫茶「バロック」はある。隣は存在しながらも既に伝説となっているジャズ喫茶「MEG(メグ)」。

吉祥寺といえばかつてはJAZZ喫茶が盛んだった場所。

今回取り上げる名曲喫茶バロックには並んで<Meg>という、これまた有名なJAZZ喫茶があり、もう何十年もここへ通っていた。オーディオが売り物だったが、ロクな音で鳴っていたことはなく、いつも帰りには入店したことを後悔していた。

ある時、入店前から以前の記憶が蘇り、ふらっとバロックの扉を開けたのは、割と最近の事。席に座ってびっくりした。

<ここいい音ですね>

わざわざ吉祥寺まで出向いて、うんざりしていた自分は何だったのか?http://r.tabelog.com/tokyo/A1320/A132001/13050946/dtlrvwlst/

▲△▽▼


60年代のアングラ文化であるジャズ喫茶は今や絶滅危惧種です。
今から思うと大音量で流れるジャズを一人で聞きにいくなんて根の暗
い行為は自己満足の陶酔の世界以外のなにものでもないですね〜。

私がこういうところに出入りしていたのは10代〜20代の初頭。
生意気盛りのガキだったころですよ〜。おっさんらに交じって難解なジャズ
をわかったようなわからんような顔して意気がって聴いてましたっけ。(笑)
http://border7.exblog.jp/22034843/


ジャズはアホ音楽で中身なんか最初から何も無いんだけど、中身が無いものを必死に理解しようと頑張ると、難解だから自分の能力では理解できないと思ってしまうんですね。

最近はジャズを聴く人も殆どいなくなりましたね。中身の無いものが淘汰されるのは当然でしょう。


▲△▽▼


ジャズが難解に聞えるのは中身が無いから

ヱヴァンゲリヲン新劇場版:Q 公式サイト│ムービー
http://www.evangelion.co.jp/trailer.html


2012年11月21日

突出した難解さと中身のなさ──エヴァQ非ネタバレ感想

エヴァンゲリオンQが公開されました。

劇場で僕がエヴァQがに対して抱いた感想は以下の3つだけです。


つまらない。

意味がわからない。

しかも、わざとそう作っている。


新劇から入った人で「つまらない」「意味がわからない」という感想に反対する人は恐らく少ないでしょう。

Qはまぎれもなく意味不明の、つまらないアニメでした。


どこかで見たような凡庸な新キャラクター、ダサさ満点の新エヴァや新兵器、全く何の説明も挟まれないまま進む不条理なストーリー、合理性の欠片もないキャラクターの行動、両手の指で収まらないほどの過剰な新語、そして全く回収されない伏線に意味不明のまま終わるラスト。


まごうことなきつまらない作品です。
「つまらない作品」というタイトルをつけて美術館に飾りたいほどのものです。


エヴァQのつまらなさは群を抜いています。「凡庸」とか「駄作」とかそういう域を超えて、テレビの砂嵐程度の娯楽性しかありません。確かに巨大ロボットやキャラやピアノがぬるぬる動くのは楽しいですが、そいつらが何故動いているのかが全くわからないわけですから、テレビの砂嵐以上アリの行列以下といった所が適切な評価ではないでしょうか。


では何故こうもつまらないのか。


ここで「納期が足りなかった」とか「庵野監督の才能が枯渇した」という安易な答えは選びたくありません。というか、仮に予算が1/10で監督がそこらへんの映像学科の大学生でも、もっとマシなものは作れます。エヴァQは「駄作」という枠を大いにはみ出すほどの、それほど本当に、徹頭徹尾、完全無欠に、つまらない作品です。


ですのでこれを「頑張ったけど失敗した」作品とみなすのは恐らく間違っています。庵野監督がその溢れる才能全てを費やし、意図的につまらないものを作っているんだ、と考えるのが妥当な考え方でしょう。


ではなぜ庵野監督はこんなにつまらないゴミを作ったのか。


それはエヴァQを見て「な、難解だ!これでこそエヴァだ!」と大喜びで騒いでいる、あなたたちに対する怨嗟と憎悪ゆえではないかと僕は思うのです。


「エヴァは難解だ」という今や常識とも言えるテーゼは、EOE以降に広まりました。

その後15年間、「エヴァ」はその内容ではなく、むしろその難解さをもって語られてきたように思えます。「文学的」「難解で哲学的」などといった陳腐なエヴァ評を僕は15年間で腐るほど見てきました。


そしてオタク業界もエヴァを真似た無駄に難解な(しかし中身のない)アニメ・漫画・ゲームを量産してきました。

現にインターネットではエヴァQの解読が花開いてます。猫も杓子も、作中でこれ見よがしに示された意味深な新語や登場人物の一挙手一投足にナンヤカンヤと説明をつけています。

全体の無内容さを指摘すれば

「それは読み込みが足りない」

などという鼻息荒いウエメセ発言が飛んでくる始末です。

「良くも悪くもこれこそエヴァ」などという台詞も散見されます。


というわけでエヴァQを大真面目に解釈しようとしてる謎豚のみなさん。糞で顔を洗って目を覚ましましょう。エヴァQは明らかに、内容のない、難解なだけの、つまらないアニメです。
http://blog.livedoor.jp/omaenoteki/archives/20168180.html

現代アートは新興宗教。そして、それらが難解なのは中身がないからだ。12年1月20日

日本を代表する現代アート作家として村上隆がいる。彼の巨大なフィギュアは約16億円で落札された。ルイ・ヴィトンの商品に使われたお花キャラクターなどのポップな作品群は一般にも知られている。

一目で分かるが、それらは日本のオタク文化をコピーしたもので打ち震えるほどの斬新さはない。にもかかわらず彼は、自分の母体のオタク文化を含む「クールジャパン」を、朝日新聞紙上で、海外ではまったく認知されない文化で、広告会社が公的資金を得るための流言だと切り捨てていた。

私は、クールジャパンが流言か虚像かなどどうでもよい。何故なら、現代アート自体も虚像だからだ。村上隆が朝日新聞紙上で展開した「クールジャパン」批判は馬鹿が馬鹿をののしっているようで滑稽だった。

一般の多くの人が素直に感動できるものが芸術だ。感動できないものは芸術ではない。だから現代アートは芸術ではない。私の定義では、アニメも立派な芸術だ。そのオタク文化をつまみ食いして認められながら、オタク文化を馬鹿にしている村上隆がオタクたちに敵視されているのは当然過ぎる帰結だろう。オタク文化は美術評論家が賛辞して生まれたのではない。多くの一般人が良いと思うから良いので、それが真の芸術であるゆえんだ。

私は現代アートは新興宗教だと思っている。キリスト教、仏教、イスラム教などの大宗教は、人間の本質から生まれ、その教義は誰でも素直に理解できる。しかし、新興宗教は違う。奇をてらったり、恐怖心を煽ったりして人心を取り込もうとする。新興宗教の教祖である作家も似たことをしている。昔、村上隆のドキュメンタリーを見たことがある。彼の制作の現場は、まさしくオームのサティアンで、盲従する多くの若い弟子たちを恫喝し洗脳し、見ていて気分が悪くなった。

その新興宗教の神殿は美術館や有名画廊で、神官は画商で、教典を作り上げる学僧たちは美術評論家だ。実際の新興宗教との違いは神官たちが絶大な力を持っていることだ。具体的には、ニューヨークのユダヤ人画商たちがその神官にあたる。

現在世界に現代アート作家を目指している者が80万人ほどいて、斬新で良い作品を産み出せる作家は5000人程だ。その中から、ニューヨークの神官たちは年間一人か二人の教祖を選ぶ。選ぶ基準は、理論武装がしっかりしているとか、カリスマ性があるとかで、美術評論家の助言とユダヤ商人の直感で適当に選ばれる。その時、彼らが最高の芸術家である必要はない。5000人の候補者たちはそれぞれ実力があり、誰が選ばれても、口先巧みな美術評論家たちによって巨匠に仕立て上げられる。

北斎も、歌麿も、写楽も、江戸市民の熱烈な支持から生まれた。対して、現代アートの大家たちは大衆の支持によって生まれた訳ではない。現代アートの作家たちは、画商と美術評論家の共同作業で仕立て上げられている。

逆に言うと、作家志望の若者たちはニューヨークの神官に詣で、目立つパフォーマンスを繰り返す必要がある。その姿は、オーストラリアの青いプラスチック片や小枝でオブジェを作ってメス鳥の気を惹くオス鳥の行動と酷似している。村上隆たちはそれを芸術活動だと勘違いしているが・・・

かくて偶然に選ばれた作家は、神官が豊富な財力を駆使して、神殿に新たな教祖として祭り上げられる。先の村上隆もその運の良い一人だ。選ばれた作品は莫大な財力を持ったユダヤ人グループが保証する有価証券化し、強欲な投機家たちが争って買うことになる。実際、選ばれた作品が数年で倍に高騰することは珍しくない。このシステムは政府がお札の価値を保証しているシステムと似ている。違いは、作品は年々価値が上がるお札で、金持ちたちにとって、こんなに好都合な投資対象は他にない。だから、現代アートはうさん臭い錬金術に奉仕する新興宗教に過ぎない訳だ。

そうは言っても、村上隆の作品を良いと思う人はいる。なぜなら無数にいる同程度の作家たちが人目に触れることがないからだ。もし、消えて行く膨大な作品群を目にする機会があったら、認められている現代アートがいかに凡庸であるかすぐに気づくはずだ。

内容空疎な新興宗教である以上、教祖は様々な手を使って権威を保とうとする。村上隆が朝日新聞でクールジャパンを批判するのもその一つの行動だ。しかし、作品の中身が空疎なことは作家自身が薄々気づいている。だから常に突っ張って権威を保とうとする。しかし、空っぽのものを中身が詰まっているように理論武装し戦い続けるのは大変なストレスだろう。その状況には同情を禁じ得ない。

最後に、鑑賞する側はどのように現代アートに接したら良いか。マネーゲームに明け暮れる米国の神官や信者たちに同調せず、それぞれが自由な審美眼を持つべきだ。そうすることで、自然に本物の現代アートが生まれるはずだ。

本当の所、芸術に誰が一番などと序列をつけることは不可能だ。スポーツなら誰が一番早いか明快に決められる。数学や科学もどれが優れた発見かは明快に分かる。しかし、芸術には物差しがない。勝手に誰かを一番にしても、世の中にとって何の不都合もない。
http://m4s.cocolog-nifty.com/blog/2012/01/12120-db1e.html


要するに、

ドストエフスキーやチェーホフは誰にでも理解できるけど、アホ・アニメのエヴァQ が何を言いたいのかは天才が何年も思索しないとわからない。

モーツァルトやベートーヴェンは誰にでも理解できるけど、ジャズはジャズ・オタクでないとその良さがわからない

という事ですねwwww



▲△▽▼

クラシックの作曲家の殆どはアル中でしたが
ジャズやロックのミュージシャンはアル中ではなく麻薬中毒でした。

ジャズやロックは元々、マリファナや覚醒剤とセットになっているんです。
ジョン・レノンやポール・マッカートニーも重度の麻薬中毒者でした:


射殺、転落死…薬物に溺れた「ジャズの巨人」たちの悲劇 2016.03.08

 日本でも芸能界、スポーツ界のスーパースターたちの薬物汚染のニュースが世間を賑わせているが、そんなのはまだまだ「超絶甘い!!」といいたくなるような人々がいた。“ジャズの巨人”たちである!

 ジャズ界のスーパープレイヤーたちの歴史を紐解けば、ドラッグに溺れに溺れたとんでもない巨人たちがワンサと登場してくるのだ! いやもうその状況は『ジャズの巨人』というよりも『シャブの巨人』といってもいいくらいの壮絶なラインナップ!!

 しかも、彼らは決してドラッグの力で音楽を創造していたわけでもなんでもない。ほとんどのミュージシャンが、栄光の後にドラッグの泥沼に引きずり込まれ、往年のプレイは影をひそめ、あまりにも悲惨な結末を迎えている。

 以下、小学館の隔週刊CD付きマガジン『ジャズの巨人』に記されている、そんな彼らの生きざまである。

 あまりにもクスリをやり過ぎるので、あのジョン・コルトレーンがマイルス・デイヴィス・グループをクビになったのはつとに有名な話。そもそも当のマイルスもクスリで複数回逮捕されており、そのマイルスにクスリでクビにされるって、どんだけ大量にやってんだよ、って話。

“モダンジャズ創造主”といわれたサックス奏者のチャーリー・パーカーは、ドラッグで精神錯乱を起こし、療養施設に入所しカムバックを目指すが、35才の若さで死去。

 夭折の天才トランペッター、リー・モーガンはドラック治療に1年を費やすも、34才で亡くなる。死因はなんと内縁の妻からの射殺だ! しかも楽屋で!! 更にその場には本妻もいた!!!

 アート・ペッバー。このアルトサックス奏者は、ドラッグ所持による逮捕と収監を何度となく繰り返し、しまいには体がボロボロになって脾臓破裂! どうにか一命は取り止めた後、3年にも及ぶ矯正施設でのリハビリを行い、奇跡的なカムバックを果たすが、56才の時に脳溢血死。

 一番とんでもないのは、トランペッターのチェット・ベッカー。母国アメリカでドラッグ所持で逮捕された後、レコーディングで訪れたイタリアでも逮捕。出所直後に今度はイギリスでも逮捕され国外退去。かと思いきや、ギャングに襲われトラッペッターの命ともいえる前歯を折られるトラブルにまで巻き込まれる。

 そして最終的には、58才でアムステルダムのホテルから転落死。それもホテルの2階からの転落である。もう一度書く。ただの2階からの転落で死亡!! どれだけ骨が、内臓が、そして全身が、それどころか精神までもがボロッボロだったかわかるようなエンディングである。

 薬物というものが、どれだけ恐ろしく人間を蝕んでいくかわかるような巨人たちの悲劇である。巨人に憧れた番長への警鐘でもある。
https://www.news-postseven.com/archives/20160308_392240.html?PAGE=1

そもそも、ジャズ・ロックは原始民族が集団でトランス状態に入る為に行う儀式で奏する音楽そのものです。

毒キノコ、マリファナや LSD の様な 幻覚剤を飲んで、音楽と踊りで異世界に入っていくのです。



http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/440.html

[リバイバル3] 中川隆 _ 音楽関係投稿リンク 中川隆
39. 中川隆[-10378] koaQ7Jey 2019年5月18日 17:36:28 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[1941]

アメリカ人には音楽は理解できない _ ジャズなんか音楽じゃない
http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/440.html
http://www.asyura2.com/09/revival3/msg/450.html#c39
[近代史3] アメリカ人には音楽は理解できない _ ジャズなんか音楽じゃない 中川隆
1. 中川隆[-10377] koaQ7Jey 2019年5月18日 17:39:21 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[1942]

音楽がわからないアホがジャズやロックに熱狂する理由


プロテスタントのある宣教師は、クリスチャンに改宗した原住民たちにロックを聞かせてみたところ

「これは悪霊を呼び出す音楽である」

と言ったといいます。

彼らは、以前、自分たちが暗闇の悪魔的霊界と接触するときに使ったサイキックな刺激と同じものをロック・ミュージックの中に感じ取ったというのです。


 一般的にロックというと、その衣装・風体は実に異常であり異様です。これは何に通じるかというと、サタン、つまりサタニズムに通じるのです。そして、このサタニズムとドラッグは、昔から密接に結びついているのです。

 マヤ文明では、ペヨーテなどの幻覚剤を使って、生け贄を捧げる宗教的儀式を行っていたのです。また、古代の神官たちは、ドクニンジン、ヒヨス、アヘン、ベラドンナなどの麻薬の恍惚感のうちに霊との交信を行って“神託”を述べ、ときとして身体を傷つけたりしています。

 ロックのコンサートは、この神官の儀式に非常に似ているところがあるのです。ですから、これとドラッグが結びつき、そこに悪霊が入り込んできても少しも不思議はないのです。

 聖書には「魔術」ということばがよく出てきます。これは原典のギリシャ語では「フェルマキア」英語の「ファーマシイ」「薬局」の語源はこれなのです。つまり「魔術」とはドラッグを意味し、魔術とドラッグは同意語であり、つねに表裏一体の関係にあるのです。ですから、ロックがドラッグと結びつき、それがサタニズムと関連を深めても何ら不思議はないのです。


 ビートルズでは、全員がドラッグを使っていたそうですが、とくにジョン・レノンが多く使っており、生き延びるために不可欠だったとの証言もあります。このように、1960年代後半、ドラッグはビートルズが先導役となって、ロックの世界に浸透し、ヒッピー運動とともに若者の間に広がっていったのです。


ロック・フェスティバルでは、何が行われているのでしょうか。それは、とても音楽のコンサートとは思えないほど異常なものです。

 ロックは、心臓の鼓動の持つ自然なリズムと全く逆のリズムをとるため、聴く者の内蔵を打ち、繰り返しの反復によって脳にそれが叩き込まれるのです。 人間が苦痛を感ずる音量は約100デジベルからであるといわれます。ロックコンサートにおけるエレキギターの音は約190デジベルもあるので、苦痛に感ずるほどうるさい音なのです。

 絶えず激しく律動するビートは、高いボリュームで長時間続けられると、いつしか催眠術的な効果が生じてきます。どうしてかというと、神経組織が高音で繰り返し襲われるので、通常の聴覚がマヒしてしまうからです。そうすると超越瞑想のようになって、音楽が醸し出すイメージと歌詞のメッセージに対する深い被暗示性が生まれてくるのです。

 こういう状態になると、音楽という催眠術がかかりやすくなるので、人々は音楽の持つメッセージとイメージをまともに受け入れてしまいます。その場に、目もくらむようなレーザー光線やスクリーンに映し出されるデモーニッシュな映像があれば、乾いた土が水をまたたく間に吸収するように心の中にしみ込んでしまうのです。

 ここにサタニズムが入り込んでくるのです。ロック・ミュージシャンのあの異様な服装や行動は、こういうことと無関係ではありません。ロック・グループの中には、公然とサタン礼拝を打ち出しているものもあるのです。
 

 1970年2月13日の金曜日にハード・ロックのブラック・サパスというグループがデビューし、アルバム「黒い安息日」を発表して、魔術を曲の中に打ち出してきたのです。これと同時期に、ブラック・ウイドウズというグループが「サクリファイス」(生贄)というアルバムを発表したのですが、この頃にはドラッグと黒魔術は強く合体し、ハード・ロックの世界に定着していったのです。

このブラック・サパスとブラック・ウイドウズはともに黒魔術を曲の中に取り入れたのですが、前者は精神的なものとして取り入れたのに対し、後者はイメージカラー的な演出面で黒魔術を活用したのです。


 このようにして、ハードロックの世界に悪魔主義は完全に入り込み、その精神を受け継ぐディープ・パープル、イーグルス、ジューダス・プリースト、シン・リジィ、スコーピオンズといったグループが次々と誕生してきたのです。

 この1970年代を過ぎて1980年代に入ると、ハード・ロックは、ヘビー・メタルに移行していきます。しかし、その間の一時期に「パンク・ロック」というのが流行します。 パンク・ロックというのは、体制に反発する音楽イデオロギーのことをいうのですが伝統の崩壊、秩序の破壊、既成社会への反抗の叫びをヒステリックに主張し、日常の欲求不満をすべて音楽にぶつけたものをいうのです。

 セックス・ピストルズ、クラッシュ、ダムド、チェルシーなどは、パンク・ロックグループですが、彼らはきわめて異常な風体をしていたのです。世紀末風のファッション鋲つきの皮ジャンにチェーン、髪は逆立てて極彩色に染め、死人のような青ざめたマスカラの隈どりといえば、ピンとくると思います。

 しかし、彼らに決定的に欠けていたのは演奏力であり、長時間のコンサートには耐えられなかったのです。時代の異端児としては注目されたものの、演奏レベルの低さに人気は長続きせず、当然の帰結として、出現の瞬発力と同じスピードで姿を消してしまうのです。しかし、あの奇妙な風体だけは、若干姿を変えて次のヘビー・メタルに受け継がれることになります。

 さて、ヘビー・メタルとは何でしょうか。

 ヘビー・メタルとは、そのサウンドを表現するものです。どういうことかというと、ギター・コードの激しく鳴り響く音がデトロイトの自動車工場で、鋼鉄から車の部品をプレスする流れ作業場の、耳をつんざくような騒音と似ているところから、そう命名されたのです。

 その特徴はといえば、研ぎすまされた粗野でストレートな表現力、他の追随を許さぬスピード感にあるといえます。そして、当然のことながら、より悪魔主義と一体になっていきます。

 アイアン・メディアン(鉄の少女)というグループは、悪魔の数字といわれる666を前面に打ち出した曲「獣を野に放て、666、ナンバー・オブ・ビースト」という曲を演奏し、悪魔主義運動を起こし、ヘビー・メタルの先頭に立ちます。

 そして、ヴェノム、サタン、デーモン、ウィッチファンド、エンジェルウィツチなどのバンドが誕生するのです。まるで、地下教団的な秘密組織みたいですね。こういうヘビー・メタルのファンの56%は17歳以下の青少年なのです。・・・
http://intec-j.seesaa.net/category/4751327-1.html

新時代の寵児オノ・ヨーコ 『某業界情報紙』(一九九一年 十月 発行)より転載。


 オノ・ヨーコ は、一流銀行家の娘である。子供の頃から、学習院や三井アカデミーなどブルジョア学校で学び、皇族の一人とも親交を結んだ。

 一九五二年、二度目の渡米生活の時、ニューヨークのサラ・ローレンス大学に入学し、勃興しつつあったアバンギャルドの「ビートニック」の洗礼を受けた。大学時代に麻薬を覚え、何回かの中絶をするなど乱れた男女関係を経た後、一柳俊というニューヨークのジュリアード音楽院の学生と結婚した。

二人は麻薬の巣窟、グリニッジ・ビレッジのジャズ界に入り浸りとなった。

その結婚生活もヨーコが、自殺未遂で精神病院から退院したばかりのホモの作家といい仲になったことから破局を迎えた。


 一九六二年になって、ヨーコの家族は娘をこのすさんだ生活から救おうとして日本に呼び戻したが、ヨーコはまたもや自殺をはかり、東京の精神病院に収容された。その精神病院からヨーコの脱出の手助けをしたのが、もう一つ輪をかけた悪のトニー・コックスというアメリカの麻薬売人である。コックスは、とある●●ヤ教司祭の息子と手を結んで麻薬の製造と密売を行った男で、ニューヨークにおけるLSD−25の売人第一号である。ヨーコの友人にも手広くLSDを売りさばき、FBIとマフィアの追及から逃れて日本に渡ってきた時、ヨーコと再開し結婚する。

 その時点で法的には、ヨーコは未だに最初の夫の妻だったにもかかわらずである。ニューヨークに舞い戻った二人は、幻覚症状を催す麻薬とアバンギャルド芸術の世界に憂き身をやつすことになる。

 トニーとヨーコは赤貧洗うがごとき生活を送り、夫婦喧嘩も絶えなかった。一九六六年にはロンドンに行き、アバンギャルド会議に出席した後、一年ほど滞在し、麻薬とロックとセックスの裏文化の中にどっぷりつかることになった。

当時の裏文化のメッカはインディカ・ギャラリーのかいわいであり、このインディカ・ギャラリーと称するカフェ兼アート・センターを始めたのが、ジョン・ダンパーとその妻のロック・スター歌手のマリアン・フェイスフル、およびビートルズのメンバーのポール・マッカートニーであった。

 そこでヨーコはジョン・レノンに紹介される。その数ヶ月後、ロンドンのあたりでレノンと遊び回るうちに、ヨーコはすでに妻子ある身のこの花形ロック・スターをまるめ込んでしまう。レノンはヨーコとつきあう以前からすでにLSD−25の常用者だった。ヨーコと一緒になったレノンはローリング・ストーンズなどのロック・ミュージシャンを巻き込んで手当り次第にいろいろな麻薬を試すようになった。当然のことながら、レノンもヨーコも麻薬中毒患者に転落した。

 その頃になると、ヨーコはオカルトに夢中になり、専属のタロット占い師を雇うまでになった。七〇年代後半には、コロンビアのカルタヘナ島に行き占い師の会社、リナ・ザ・ウィッチ【←おや?】に一週間通った。

 長年における麻薬とオカルトへの異常な関心の結果、一九八〇年のジョン・レノン暗殺事件の当時は、ヨーコは新時代の退廃的な哲学に夢中になっていた。相変わらず手の施しようもない麻薬中毒であった。進んで麻薬・ロック・セックスの裏文化に入り、今やその道にかけては世界的に有数な伝道者とも言える人物になっている。ヨーコこそ、まさに日本の新時代の寵児と言えよう。
http://asyura.com/sora/bd11/msg/26.html

http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/440.html#c1

[近代史3] アメリカ人には音楽は理解できない _ ジャズなんか音楽じゃない 中川隆
2. 中川隆[-10376] koaQ7Jey 2019年5月18日 17:40:22 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[1943]

要するに、ジャズやロックは音楽というよりこういうものに近いと考えた方がいいのですね:


仏教タントラではブラフマン(創造神)とアートマン(真我)の合一を体験することをサマジー(三昧耶)・・・暝想の極致という。

ダンマ(真理)に接近しこれと合一する(即身成仏)ことを目的にした、究極的な高度で、深い暝想のはてに、浄化がある。


○想像力は目にみえないものを見させる

 ハワイのフラダンスは、もともと神に奉げれていた神舞であった。フラの巫女には、女神ペレのマナ(霊力)が感応してくる。ハワイ語でマナとはスピリチャル・パワーのことだという。そこで、もともとフラは神霊との交流の儀式であった。

 始めに、詔(みことなり)や、リズムと歌で、神々しい雰囲気と聖なる場を整える。「真如」の導入である。

次に、フラのダンサーは、そのリズムで踊りながら陶酔し、やがて「没我」となる。そこに、神霊が「感応」する。恍惚が踊り手を支配する。すると、神からの返答が現れ、「天恵」が現象化する。

こうしたプロセスをもつ古代儀式は、世界中に普遍的にある。ダンスがそもそも交霊術であることを示してくれる明確な例はスーフィのダンス、鎌倉時代に起きた一遍の「踊念仏」などが上げられよう。不乱の舞は、「没我」に至るには欠かせなかったのだろう。


 古代的な交霊は、表面的にしか物事を見ない人々には理解できない。エンタテインメント化されたショウとしてのフラよりも、マナ(スピリチャル・パワー)と一体になったフラは偉大で神聖である。ハワイ島では、古代と同じ”のり”で女神ペレへの感謝のフラが、今でも行われている。これが奇跡なのだろう。

 なんであれ、音楽とダンスとは一体であり、それは神楽(かぐら)だった。日本の祭の神輿(みこし)の”のり”が、それなのだろうか。洸惚感、あの陶酔感は、御輿(御神体)を担ぐことによって、はじめて感じることができる。神輿を担ぐことは、スピリチャル・ダンスだった。

真の芸能には、「真如」「天応」「没我」「天恵」の4つのプロセスが必ず組み込まれている。だからこそ喜びと生きる力を与えていた。現代では、真のイベントは少なく、その一部か、残り物だけとなってしまっている。それは、大音響のロックの陶酔感とはあきらかに違うものである。
http://hwbb.gyao.ne.jp/akione-pg/Japanese/008.html

ぞくぞくっとするような。あのチベット密教の寺院にこだまする読経の声こそ深くこの世の世界から天界へと意識をトリップさせるためのマントラのパワフル極まりないエネルギーに満ちたものだった。

そのことは僕が実際に女性とのセックスをしたときにBGMがチベット密教の寺院で読経された音源だったからこの身をもって体感した。
http://sexbody.exblog.jp/8834718/

密教には 仏教には存在しない多くの呪法が数多く存在する。

それらは タントリズム行者たちが執り行った呪法をそのまま採用したものが大部分であり 硬直法・隠身法・招入法・恫喝法・粉砕法・呪殺法・解毒法・治病法といったこれら呪法は 本来仏教とは無縁ではある。

しかし実際仏教タントリズムが誕生する以前の初期仏教において呪法への依存から人々を遠ざけようとしたこと自体 密教時代 俗信・呪法が仏教の中に流れ込んでいた証拠と考えられる。

呪法自体はタントリズム以前の初期密教の時代から存在するものであり 遙か太古に遡る原始的心性に基づくシャーマニズムだ。

それら過去における禁止された呪法は 仏教タントリズム展開の過程で世間的・実践的重要な部分に値し 大衆の要求に合致したタントラ密教の思想の下敷きであることは間違いない。

こうして タントラ密教は 俗信や白魔術・黒魔術的な呪法を取り入れた新たな組かえと編集により変化してゆく。

密教には 仏教には存在しない多くの呪法が数多く存在する。

それらは タントリズム行者たちが執り行った呪法をそのまま採用したものが大部分であり 硬直法・隠身法・招入法・恫喝法・粉砕法・呪殺法・解毒法・治病法といったこれら呪法は 本来仏教とは無縁ではある。

しかし実際仏教タントリズムが誕生する以前の初期仏教において呪法への依存から人々を遠ざけようとしたこと自体 密教時代 俗信・呪法が仏教の中に流れ込んでいた証拠と考えられる。

呪法自体はタントリズム以前の初期密教の時代から存在するものであり 遙か太古に遡る原始的心性に基づくシャーマニズムだ。

それら過去における禁止された呪法は 仏教タントリズム展開の過程で世間的・実践的重要な部分に値し 大衆の要求に合致したタントラ密教の思想の下敷きであることは間違いない。

こうして タントラ密教は 俗信や白魔術・黒魔術的な呪法を取り入れた新たな組かえと編集により変化してゆく。


ガナ曼荼羅は,定まった日 ある特定の場所を選んで行なわれる集会(儀礼)である。

八人の瑜伽(ヨーガ)女と釈尊の役を演じる阿闍梨の合計九名が最少必要人員とされ現実態としての曼荼羅を実践する。

入檀希望の新たな弟子との飲食と性の饗宴をもってその実態とする。

動員される八人の女性はヘーヴァジュラ曼荼羅の八女尊に相応する生身の瑜伽女である。


阿闍梨が弟子を曼荼羅に引き入れ目を布で覆う。

次に弟子に曼荼羅を見ることが許される。

ガナ曼荼羅では 弟子は金剛阿闍梨によって受認される。


▼人身供犠

ところで中世インド社会では特異な儀礼内容の集会を行う瑜伽(ヨーガ)女たちの魔女集団が存在した。

へーヴァジュラの徒、瑜伽女たちは 節会をもち人身供犠を行う儀礼の集会日を月の満ち欠けによってを定めた。

ヘーヴァージュラ瑜伽女集団にとって人身供犠 つまり人間の殺害儀礼において 輪廻転生を前提とする仏教タントリストの論法により 「犠牲の合意のもと」集会へ招待する。

自己犠牲となったものから提供される丸薬は成仏の因として扱われ犠牲となった者は 輪廻転生から逃れ最終解脱を果たす。


また人身供犠の犠牲七生人(7回目の輪廻転生)の選別では 男女問わず話す声が麗しく 切れ長の眼に濁りなく麝香か樟脳のごとき芳香を持ち 同様に大いなるオーラの具え 影が7つとして存在するものである。

これを七生人と印づけ 吟味した上で丸薬を作りそれを食することで「虚空行」を果たす。(虚空行=空中飛翔)これらの儀礼は、ヨーロッパ古代ギリシア ローマへ入ったオリエントの密儀宗教の崇拝を想起させる。

瑜伽女たちの集会が人身供犠を伴うことは仏教徒外部からの影響と考えられるのではないだろうか。

以上後期密教としてのタントラ密教は その後ヒンドゥー教の隠された異端によって受け継がれていく。
http://d.hatena.ne.jp/mminazuki/20050619/1119188314

中期密教ではヒンドゥー教の隆盛に対抗できなくなると、理論より実践を重視した後期密教が誕生した。
後期密教では仏性の原理の追求が図られた。

ヒンドゥー教シャークタ派のタントラやシャクティ(性力)信仰から影響を受けて、男性原理(精神・智・方便・金剛界)と女性原理(肉体・感・般若・胎蔵界)との合体(性交)を修行する無上瑜伽も後期密教の特徴であり、男尊(男性原理)と女尊(女性原理)が性交する歓喜仏も多数登場した。

ヨーガ・タントラの修行方法が探究されるにつれて、下半身のチャクラからプラーナを頭頂に導くこと(ジョル)が最上とされ、性交がその最も効果的な方法とされた。

しかし男性僧侶が在家女性信者に我が身を捧げる無上の供養としてセックスを強要したため、仏教徒の間には後期密教を離れて戒律を重視する部派仏教(上座部仏教)への回帰もみられた。

また僧侶の破戒に対する批判を受けて、無上瑜伽も実際の性行為ではなくクンダリニー・ヨーガによる性的な瞑想へと移行する動きも生じた。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%AF%86%E6%95%99

中世のインドでは、ヒンドゥー教、仏教、ジャイナ教という宗教の枠を超えて、性を重要なテーマとする宗教「タントリズム」が爆発的に流行した。

つまり後期密教がこの方向に走ったのは時代の潮流がその背景にあったということだ。


性的ヨーガ

仏教徒が輪廻からの解脱を実現する方法として、努力して少しずつ煩悩を排除してゆくという一般的方法をあえて採らず、ある秘密の技法によって一気に解脱に達しようとする方法が性的ヨーガ。

タントラとは、密教経典、とくに性的ヨーガの実践を主張する経典のこと。
それはつまり、「無上瑜伽タントラ」のことだ。

ある高名なタントラの成就者は、タントラの道について、それは選ばれた者だけが知ることができるのであって、余人に知らしめてはならぬという意味の文を書き残したそうだ。

「無上瑜伽タントラ」は「父(ふ)タントラ」「母(も)タントラ」「双入不二タントラ」に分けられ、それぞれにまた複数のタントラが存在する。

父タントラには敵を調伏する修法が多く、母タントラは性的ヨーガの実践に積極的だった。

双入不二タントラは父・母両タントラを統合止揚しようとするもの。

後期密教では、人間の体の中に「霊的な器官」があると思われていた。


身体論を導入したものとして大日経の「五字厳身観」がある。
これは、地水火風空を象徴するア・ヴァ・ラ・ハ・カの5字を身体の5箇所に観想する。

この5字に加持された行者の身体は大日如来の五輪塔となり、清浄な仏の身体に転化する。

このような身体の中の特別な場所は、後期密教ではチャクラと呼ばれるようになる。

「ヘーヴァジュラ・タントラ」では4つのチャクラが説かれ、それらは身体の臍・心臓・喉・頭頂にあり、そのうちの3つが如来の応身・法身・報身に対応する。
チャクラは蓮華の形をしていて、花弁の数はチャクラによって異なる。

また身体にはチャクラの他に脈管がある。
脊髄のそばに1本、その左右に各1本。

並行して走るこの3本は、上端・下端とチャクラの部分でだけ接合している。
これが当時のインドの生理学説で、「四輪三脈」説という。
脈管の中はそれぞれ精液、血液、その混合物が通る。

母タントラでは精液が「世俗の菩提心」と呼ばれ重視された。
精液は快感の源であり、これを脈管の下端から次第に上のチャクラへと送る。

それぞれのチャクラで得られる快感には名前が付けられ、4つ目の「倶生歓喜」を成就することが生理学的ヨーガの課題とされた。

前述のように精液は菩提心なので、射精は菩提心の放棄でありタブーだった。
行者は睡眠中の夢精すら許されなかった。

なお、上述の快感が下から上へ行く説の他に、上から下へ降りるとする説もあった。

一番下のチャクラは会陰部にあり、これはまだ性的な力にすぎない。
この力を順次上のチャクラに送り、次第に浄化し、頭頂にある最上のチャクラに送ると修行者は解脱するという。

現代では実際に性的な行為をするのでなく、観想によって精神的に修行するそうだ。

しかし8−10世紀頃のインドでは修行者が実際に女性と性交することでヨーガを実践していたらしい。


後期密教の灌頂はそれ以前のものよりも複雑になっている。
それは4つに分かれていて、まず瓶灌頂は、瓶から香水を取り出し受者の頭頂に灌ぐのでこの名が付いている。
この瓶灌頂では受者の本尊も決める。
またそれ以外にも複雑な儀礼が付加されている。

瓶灌頂は中期密教の灌頂の内容を継承したものになっており、もともと国王の即位式を真似たものだった。
そういえばキリスト教の洗礼ともどこか似ている。ここまでなら私にも納得できる。

ところが後期密教は、この国王の即位式を真似た最高の儀礼であるはずの瓶灌頂を格下げして灌頂の第1段階とし、その先におぞましいものを持ってきた。

第2の灌頂である秘密灌頂から先は、後期密教になって付け加えられた灌頂だ。


秘密灌頂では受者が阿闍梨に女性を献ずる。

あるいは阿闍梨が瞑想に入り女性を観想する。

阿闍梨はこの女性と交わり、「金剛杖の中の菩提心」つまり精液を取り出し、指でつまんで受者の口に入れる。

これで「菩提心を授けた」ことになる。

なお、精液だけでなく赤白二滴(経血と精液の混合物)を授けるとする文献もある。

次の般若智灌頂では、こんどは受者は阿闍梨から与えられた女性と交わる。

女性と交わりつつ受者はヤブユムの本尊の境界を悟る。

受者は射精を我慢して究竟次第の4つの歓喜を体験しなければならない。

そして受者が射精を我慢できなくなった時は女性の体内に菩提心を放出し、赤白二滴(経血と精液の混合物)を服用する。

最後の第4灌頂は、阿闍梨が受者に「言葉によって」大切な教えを授ける。


人は死ぬと「中有」になる。 最大で四十九日間。

中有はやがて未来の父母の性行為の場面に遭遇する。

それを見て失神し、赤白二滴(経血と精液)の中に吸着される。

父母の性行為をまのあたりにして
父に愛欲を起こして母に嫉妬すると中有は女になり、
母に愛欲を起こして父に嫉妬すると男になる。
http://blueclouds.blog.so-net.ne.jp/archive/c2300688127-1

[3.85 射精し終わるや、ゆっくりと、適正に精液を吸い上げることを習熟すべし。

男性はもちろん、女性でもヴァジローリーに熟達することができる。]
(『ハタ・ヨーガ・プラディーピカー』より。)


ヴァジローリー(性器による吸引)に関しては「実際見せてもらったことがある」というスナックのママさんの話を聞いたことがあります。

曰く、温泉場で同伴した長年ヨーガを実践している女性が性器から湯を吸い上げたり、吐き出したりすることを自在にやって見せたそうです。

私は当時沖正広師の著作を読んでいたので、周囲の人ほど驚くこともなく聞いていましたが、ほとんどの人は話そのものを信じていない様子でした。

ただし、この女性はおそらくこれを「性技」として活用しているのだと思われました。

私の考えでは、ヴァジローリーとは、修練すれば性器でさえ自在にコントロールすることができる証しなのだと思うわけです。

もう少し突っ込んでいうなら、交接時に「受け身」である女性は性器を巧みに絞ったりゆるめたりすることで、男性の射精を適宜操ることができるのです。そしてこれは「女性の修行法」に相当します。


[3.88 ヨーガの道を心得た人は、かようにしてビンドゥを保全して、死を克服する。ビンドゥを漏らすことによって死があり、ビンドゥを保全することによって生がある。]

[3.90 人間の精液は心に依存し、生命は精液に依存する。それ故に、精液と心の保全につとめなければならない。]


「ビンドゥ」は精液と同義のようです。

「接して漏らさず」的な考え方がここにも表れています。


[3.98 ヨーギニー:男子が適正な行法を巧みに行なってビンドゥを回収した時、婦人がヴァジローリーをもってラジャスを保全するならば、彼女はヨーギニー(女行者)である。]


「ラジャスとは、ここでは交接時の女性の分泌物であろう」

との佐保田師の解説があります。

3.101には「ラジャスを回収し保全するならば、空中を歩むことができる」という記述もあります。

そしてこの部分も「女性の修行法」に相当すると思われます。

これはこの著作の際だって特異な記述です。

つまり、ヴァジローリーはともかくとして、女性も男性同様に「もらさない(下世話にいえば、イカナイ。多量の愛液をもらさない)」ことが健康法レベルでの禁欲的な実践になるのでしょう。

そしてヴァジローリーができない限りは、「絶頂感」は男女ともに慎んでおくべきなのです。
http://redsnake.seesaa.net/article/94566521.html

http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/440.html#c2

[近代史3] アメリカ人には音楽は理解できない _ ジャズなんか音楽じゃない 中川隆
3. 中川隆[-10375] koaQ7Jey 2019年5月18日 17:41:35 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[1944]

かつてドラッグは神に近づくための道具だった。

「源氏物語」に、アヘンの吸引を暗示する場面が出てくるのを、ご存じだろうか。

「葵」の巻で、出産を控えた光源氏の妻・葵の上が、物の怪に取り憑かれる場面である。苦しむ葵を救おうと、光源氏は祈祷師を呼ぶ。場面変わって、離れた場所にいる源氏のかつての恋人・六条御息所は、葵を苦しめている霊が、自分の生霊であることを知る。髪を洗っても着物を替えても、体から芥子の匂いが消えないからだ。それは、祈祷師が護摩を焚く炎に投じた芥子の匂いだった。

当時、密教僧が祈祷の際に護摩焚きの炎に芥子や胡麻などの「焼供」を投じる習慣があったことは知られている。この芥子の実とは、何を隠そうアヘンやヘロイン、モルヒネの原料である。

かつての祈祷師たちは、アヘンの煙を吸って恍惚状態になり、病気治療に超人的な「霊力」を発揮したのではないか。国際日本文化研究センターの山折哲雄教授(宗教学)は、そんな仮説を持つ。

「幻覚剤の使用は、世界の宗教に普遍的に見られる現象です」

山折教授はそう説明する。

「古来、幻覚剤は神や天国に近づくための手段だった。ところが科学が発達して神の存在が否定され、幻覚剤は快楽のためだけの『悪魔の薬』になってしまった」

インド最古の神話「リグ・ベーダ」には、祭礼参加者が飲む幻覚剤「ソーマ」が出てくる。このソーマの正体には、大麻、幻覚キノコなど諸説がある。中南米では、幻覚キノコや幻覚サボテンが祭礼に使われた。

十六世紀にメキシコのアステカ王国を侵略したスペインの従軍僧サワグンは、ペヨーテというサボテンや、テオナナカトルというキノコを食べると「ものすごい色のついた幻覚に襲われる」と記している。先住民族は、これらを死地に赴く兵士や、神への生け贄に捧げる人間に与えたという。

民族薬理学者で、名古屋学院大学教授だった石川元助氏(故人)は、六五年にメキシコ先住民の「聖なるキノコの祭典」で幻覚キノコを食べた時の様子を次のように記している。

「私は完全に意識を失い、色彩だけのあの世へ行った。金、銀、赤、オレンジ、ブルー、緑、黒など美しい七色が、渦を巻いたり滝のように流れたりした…」

先住民族は「神の声を聞くために」このキノコを使っていた。

日本文化にも似た現象はある。「今昔物語」には、山中でキノコを食べ、恍惚と歌い踊る尼僧たちの話が出てくる。このキノコは、食べると幻覚に陥り、踊り狂うので「マイタケ」と呼ばれたが、今では「ベニテングタケ」らしいことが分かっている。 北欧ラップランドやカムチャッカ半島の先住民族にも、ベニテングタケを宗教儀式に使った形跡があるそうだ。

ドラッグが文学に残した貢献も計り知れない。ギリシア時代の詩人ホメロスの「オデッセイア」には「すべての苦しみ、怒り、悲しみを忘れさせる」アヘンらしき陶酔剤が歌われている。
http://ugaya.com/private/repo_32.html


脳にはA10と呼ばれる神経があります。 医学的には、恍惚神経とか快楽神経と呼ばれているそうです。 動物のA10神経はとても貧弱ですが、人間はこれがものすごく発達していて強力です。 わくわくしたり楽しくなったりするときには、この神経が興奮します。

実は麻薬でもこの神経が興奮することが知られています。 麻薬でこの神経が興奮して「意識の拡大」という色々な神秘的な現象が起きます。 でも、麻薬を使用し続けると、神経がボロボロになってだんだん楽しくなくなり、やがて廃人になってしまいます。

瞑想を行うと、脳内麻薬物質がこの神経の周りに分泌されます。
20種類以上ある脳内麻薬物質のうち、「β−エンドルフィン」は、なかでも非常に強力で、鎮痛作用はモルヒネの6.5倍もあるそうです。 「β−エンドルフィン」は死ぬときにも分泌され、おそらく苦痛を和らげるために出るのではないかと言われています。

ランナーズハイでも分泌され、マラソン選手が走っていて突然苦しさがなくなり恍惚とした状態になる・・・というのは、脳内麻薬物質が分泌されているからです。

麻薬は分解されませんが、脳内麻薬物質は完全に分解されるので一切害はありません。 脳内麻薬物質は普段大量に分泌されることはありません。 死ぬときとか、マラソンですごく苦しかったときに分泌されるのですが、それ以外で大量に分泌されるのが瞑想です。 瞑想をして修行が進むと大量に分泌され、とても気持ちがよくなるそうです。

でも、もっと修行が進むと、前回お話したように、鬼が出てきたり、悪魔が幻覚として出てきたりして、怖い目に逢うことがあるようです。 逆に、神様や天使、精霊などに逢うこともあります。 幻覚の中で、神様や仏様に出会って会話をしたりすると、けっこうまともな会話になったりするそうです。 現実の生活の悩みが解決されることもあるそうです。

ここで気をつけなければいけないのが、「自分はすごいレベルまで到達した!」とか「ついに「悟り」を開いた」と思ってしまうことです。 修行を極めた方々が一様に言うことは、「幻覚が出てきて神様や悪魔に会うという状況は、まだまだものすごく低いレベルの話で、「悟り」などよりはるかに遠いレベルだ」ということです。 それを知らない人は、「悟り」を開いたと錯覚して舞い上がってしまうのだそうです。

本格的に舞い上がってしまうと、そのまま精神病になってしまうことがあります。 ですから、それは脳内麻薬物質による幻覚なのですから、冷静に落ち着いて映画でも見るような気分でグッドトリップを楽しむ必要があるのです。

瞑想法、呼吸法、座禅などのごく普通の修行法も、やり方を間違えると大変危険なのだそうです。 やり方を間違えて、廃人や精神病になった例は数多く報告されています。 ですから、これらの東洋的な修行法は、必ずしっかりとした指導法にもとづいて、確かな指導者について十分注意して実行することが必要だと思います。

気功法では、このような危険な障害を「偏差」というそうです。禅では、幻覚の中で悪魔が出てきたり鬼が出てきたりすることがあるようですが、これらを「魔境に入る」という呼び方をしています。 ですから、これらの偏差を体験したり、魔境に入ったことを、精神的なものではなく、神秘体験だと錯覚する方も多いようです。
http://72.14.235.104/search?q=cache:awrxoWDLDRYJ:clover.h555.net/u/stone-field/%3Fy%3D2006%26m%3D2%26d%3D%26ca1%3D+%E9%AD%94%E5%A2%83+%E7%B2%BE%E7%A5%9E%E7%97%85&hl=ja&ct=clnk&cd=10&gl=jp


幻覚剤を服用することで自我への執着が喪失して、全体的な共有感が醸成されるという。そうすることで癌患者のうつ、強迫神経症、寿命末期不安、外傷後ストレス症候群とドラッグかアルコール依存症を治療することができるという。

ブッダが悟りを開いた瞬間はまさしく幻覚状態であった。宗教の根源にやはり幻覚が存在することのこれは証である。後世神学者が宗教に神学的要素を加えてわけのわからないぼやけた状態にしたが、初期の宗教は明らかに幻覚から誕生していた。

個人としての絶対的自由と真理を得る理想は、ヨガにより体験できるとし、家族から去り、悟りを求めて全ての社会的絆と責務を放棄し、隠遁生活に入ることであった。紀元前538年頃シッダッタ ゴータマという青年は、ベナレスの北160kmにあるカピラヴァストゥにある豪奢な屋敷や美しい妻や息子を捨てて、托鉢行者になった。煩悩の惨状に驚愕しながら、彼の周囲の全てに見ることができる苦痛の存在を終わらせることができる方法を必死に探し求めた。

6年間ヒンズー僧達を訪問し、贖罪に身を置いたが、得るものは何もなかった。高僧の教義も彼に訴えるものがなく、苦行は絶望をもたらすだけであった。ある夜 実行すべき方法がすっかりなくなり、自立心を捨て無我の状態になっていたら、忽然と悟りの境地が見えてきた。

それは全宇宙が退けられ、地球が揺れ動き、天国から花々が落下し、何とも言えぬ芳香が漂い、天国にいる仏達が歓喜している世界だった。それは仏達と自然と人類が大慈悲によって一体になった世界であった。

これは煩悩からの解放に対する新たな希望であり、涅槃への到達による煩悩からの解脱であった。そしてゴータマはブッダになった。
http://meimai.cocolog-nifty.com/twgt/2010/04/post-bf1b.html

仏教の創始者であるブッダは菩提樹の下で命がけの座禅をした。 何日も何日も断食をし、不眠不休の座禅。彼は精神と肉体を極限まで追い込んでいた。 それもこれも悟りを開き、人類を救済しようという大義のためだけに。

座禅瞑想の果てにブッタは遂に魔境にたどり着いた。 そこには魔羅というとてつもない力を持つ魔界の王が居たのである。

実はブッタは悟りを開く前に魔境の支配者である魔羅(マーラー)と戦っている。 一説によれば魔羅はブッタの闇の部分と言われているが彼は見事に魔羅に勝利し己の闇を克服した。 そしてブッタは深い瞑想状態から覚醒し、見事に悟りを開いたのである。 このように悟りを開こうとするものは己の中にいる魔物と戦わなければならない。

精神分析者のユングは己の中にいる魔物をシャドー(影)と言っていた。 つまり涅槃の境地を体得したいのであれば己の中に潜む魔を退治しなければならないのである。
http://religion.dot.thebbs.jp/1070291638.html


鈴木秀子さん (国際文学療法学会会長。文学博士。)が1977年不慮の事故で臨死体験をした時の描写です。 鈴木秀子さんは 愛の極致と至福感に包まれながら 生きた光からメッセージを受け取ります。

一瞬のうちに高さの極みに飛翔し、私は今まで見たことのないような美しい光に包み込まれました。白っぽい金色の輝きに満ちた、一面光の世界にいたのです。まばゆい輝きでしたが、まぶしすぎるとは感じませんでした。

それは人格を持つ命そのものの光であり、深い部分で、自分とつながり、交流している生きた光なのでした。これが至福なのだ、完全に自由なのだ、と私は感じていました。
http://blog.livedoor.jp/seitai227/archives/51655830.html
http://blog.livedoor.jp/seitai227/archives/51656333.html


臨死体験=脳内現象説

 臨死体験=脳内現象説は、臨死体験は死ぬ間際の人間が脳の作用によってみるただの幻覚の一種だという主張です。 これに関して、1920〜1940年代にアメリカの脳神経学者ペンフィールドが行った興味深い実験があります。

ペンフィールドはてんかん患者を治療するために頭蓋骨を切り開き、どこの部位を切除すれば機能が回復するかをテストしようとしました。 このとき、ペンフィールドは電気で側頭葉を刺激すると、患者が「自分の体が浮かび上がっているように感じる」 などということに気がつきました。これを聞いて学術的興味深々のペンフィールドさん。「面白いオモチャを見つけた」とばかりに患者の脳をいじくりまくります。

ぐりぐりぐりぐり。 てんかんの治療はどうしたんでしょうか?

 まず、側頭葉のある部位を刺激すると、「浮遊体験」が感じられ、別の部位を刺激すると、「自分の魂が体から離れていっている」という感覚に襲われることが判明しました。もしかしたらこの患者だけなのかもしれないので、念のためとばかりにペンフィールドは、同様の実験を他の患者にも試し、脳をぐりぐりぐりぐり。 同じような言動をすることを確認。

 また、側頭葉のシルヴィス溝を刺激された者の中には対外離脱だけではなく、神に逢ったと主張する者もいました。

 そういえば、日本で「悪魔を祓うために体を清める」と称し、いとこを殺害して体を塩で清めたという悪魔祓い殺人事件では、側頭葉てんかんを持った男が「神の声を聴いた」と主張したのが始まりでした。 側頭葉には神様が住んでいるのかもしれません。

 臨死体験=脳内現象説の理論はこれだけではありません。 もしあなたが自転車に乗っていたら、ドカンと車にぶつかってみましょう。 あなたの人生が一瞬にして早送りで再生されるはずです。

そうです、走馬灯です。

 この別名「映画フィルム式思考」と呼ばれる、死に直前で自分の一生が一瞬で思い出されるという体験は、クスリの服用でも体験できます。 クスリの名前はセントロフェノキシンという、スマートドラッグとしてアメリカでかなり出回っている代物。 これを服用すると、突然数十年前の思い出が鮮明に甦ってくることがあるのです。

 他には、LSDなどの麻薬で体験する幻覚には、


長いトンネルの映像、
まばゆい光、
別世界の住人、
生死を問わず様々な友人や家族


が登場します。  いくつかの薬物が臨死体験に酷似した幻覚を生み出すことは以前から指摘されていました。

臨死体験が脳内物質や脳内現象による幻覚であると仮定するならば、それと同様の薬物を投与することで臨死体験と同様の体験ができ、そのメカニズムと解明されることになります。

 1980年の時点で既に、精神薬理学者のロナルド・シーゲルにより、臨死体験と薬物による幻覚の類似性が指摘され、亜酸化窒素やエーテル、ケタミン、フェンシクリジン(PCP)、ヘロインなどの薬物の名が挙げられています。

 さらに、オークランド大学のイェンセン教授は、

「人間が死に瀕したとき、脳内の神経細胞を酸欠状態から防ぐために、エンドサイコシンという物質が大量に放出される。 これが臨死体験を引き起こすのだろう」

という説を発表した。

この説はあくまでも仮説であり確証はありませんが、人間が極限状態に陥ると、脳内麻薬が発生することは昔から知られていました。 死の直前というのは究極の極限状態ですから、脳内麻薬が大量に発生し、それが脳内に幻覚を生み出すのは十分に考えられます。

 大脳酸素欠乏症説というのもあります。

 肉体が危篤状態になったり、ほんの一瞬でも心臓が止まると、大脳の酸素が欠乏します。 この大脳酸素欠乏は、短時間であっても重大な損害を脳に与えます。

 この大脳酸素欠乏状態に陥ったとき、最初に幸福感や全能感がやってきて、
さらに酸素欠乏が進むと現実判断能力が失われ幻覚が生じます。  日本の武道の場合、柔道の絞め技などで「おちる」瞬間は非常に気持ちいいと言われています。

 これらは、直接 臨死体験=あの世 を否定するわけではありませんが、人間の脳に刺激を与えたり、ドラッグを服用することで擬似的な臨死体験をすることができるのは事実です。
http://psychology.jugem.cc/?eid=19

ドラッグの場合、幻覚にすぎないと本人も自覚していますが、「瞑想」の場合には、自分が「悟り」を開いた、と勘違いをして舞い上がってしまう人がおおぜいいます。
・・・・・・これは、とても危険な状態です。・・・・・・

 本格的に舞い上がってしまうと、そのまま精神病になってしまうことがあります。  新興宗教の教祖には、この程度のレベルで徹底的に舞い上がって、しかも精神がおかしくなっている人がおおぜいいます。

そんな教祖でもそれなりにカリスマ性があり、常人より「超能力」が高く、たとえば「手かざし治療」ができたりしますが、入信した人はえらい目にあうのがオチでしょう。

 ユングは、この危険性について、次のように述べております。

――― 人間が「無意識」を経験することは、本当に素晴らしいことなのですが、そこにはひとつの大きな危険性が立ちはだかっております。

 ヨーガの修行が進むと、人はいろいろと不思議な体験をします。こういった体験を自己と一体化するのを避けて、あたかも人間領域の外側にあるかのように扱うのが賢明でしょう。 もし同一化すると、あなたは魂の膨張(一種のエクスタシー的昂揚状態)に陥り、まったく道を誤ってしまうでしょう。 膨張というのは、まさしく小さな形の狂気、狂気の緩和された形なのです。

 そして、もしあなたが、完全な膨張状態まで燃え上がってしまうと、精神分裂病になります。瞑想によって見えるものも、また霊能力によって見えるものも、その見えたものに固執することはとても危険なことである。
http://sakuragainouta13.seesaa.net/archives/20060819-1.html

脳を分析しても”真我(アートマン)”の実体(実態)は出てこない。 出てくるのはせいぜい脳の一部の刺激によって記憶が消えたり(”私(自我)”という記憶が消えたり)現われたり、色や音を感じたり、幻想を見たり、怒ったり、泣いたり、不愉快になったり、快楽を感じたり、等、生命の個々の属性が現われたり消えたりするだけだ。

瞑想や荒行、座禅、護摩、加持祈祷、他力、等で”悟り”といわれるもののほとんどはこの手合いで事前に本や教科書や先輩や師匠などから吹き込まれた段階的な”悟り” と称するイメージを幻想として見て、”私(自我)”も悟ったと錯覚しそれをまた後輩に吹き込むということを繰り返して広まってゆく。

特にこれらで得られる快感は脳に対する無理で不自然な刺激よるので薬や催眠の中毒と同じように慢性化し (癖になり)、特定の音楽を聴いたり特定の匂いや視覚やしぐさ等で容易にはまり込んでしまうし、その快感を求めて再びはまり込みたくなってしまう (常習化する)。

極端になるとヨガ等の経典に出てくる空中遊泳とか物体の素通りだとか透明になるとかのいわゆる荒唐無稽な”通力”を本当に信じこむようになり極度のトランス状態(脳の痙攣)にまでなって、飛び跳ねたり手足をバタバタさせて、はたから見ると異常だが当人にとっては快感となっている。

この快感は極度の運動 (祭りやスポーツ等)などで得られるもの(いわゆる”真っ白になる”)と何ら変らないものだが、極度のトランス状態のもとでは脳に対する無理な作用、不自然な刺激によるものなので薬物と同様、後遺症、精神的副作用(人格、精神異常、意識障害等)などを伴う。

__________


何処までが正気でどこまでが狂気なのか、この判断はむずかしい。

まるでメビウスの輪のように、正気と思って走っているうちにいつのまにか、狂気になっていたり、狂気な行動が後世に正気として評価されたりするからだ。

狂気を演出する、これは正気でなければできない。

正気と思いつつも、いつのまにか狂気の世界に入り込んでしまうこともある。一般大衆の思考から離れてしまう。

それが、100年先の考えであれば天才であり、単に少し離れただけなら変わり者か変態で終わるが、接点が無くなるほど離れてしまい一般大衆と永遠に交われなくなれば、人はその人を狂人と呼ぶ。

信仰というのは怖いもので、最初正気ではじめたのが信仰がすすむにつれていつしか強信ならず狂信の世界に突入する。

やがて拝んでいるうちに祈祷性精神病になる。


真言密教の坊主には頭の狂ったのが圧倒的に多いがその理由は不思議な超能力を身につけるべく行う、求聞持聡明法・日輪観・月輪観・加持祈祷などにある。祈りをかけて祈りを叶えようとすると、祈りが叶えばそれでよいが、もし叶わざる場合には自分が壊れてしまうのだ。


熱心に祈り続けると、あるとき突然にお客様が”おいで”になる、

そうすると一人で泣き出す者、飛び跳ねる者、にやにや笑い出す者、

もうあっちの世界に飛んでしまったのだ。

こっちの世界にそれでも、もどれる者もいるが戻れなくなる者もいる。


禅の修業でも勝手に座禅などやると、現実と空想の区別がつかなくなり、あっちとこっちの世界の間に彷徨うことになる。これを空病という。

導師とはこのことを良く知り、現実に引き戻してやるための存在なのだ。
現実に戻さないでさらに背中を押してあっちの世界に追いやるのが悪の宗教であり、邪教なのだ
http://blog.livedoor.jp/nakasugi_h/archives/53904826.html

124:名無しさん@お腹いっぱい。:2006/09/20(水) 17:52:41 ID:otuwJkA3

気功やヨガは自己流でやるのは本当に危険だ。

私は脳波の研究で、健常者や精神分裂病、気功前と気功後の脳波の違いを比較する作業を行っていた
(苦痛で1年でやめたけどね)

禅病(瞑想時の魔境)にかかっている人の脳波は、精神病患者の脳波に限りなく近くなっている。

指導者が偏差や禅病の知識と対処法を教えることが必要だ。
ヨガにいたっても同じこと。

身体と精神面での準備が出来ていない状況でクンダリニーが上がってしまうと着実に精神異常をきたすよ。
http://2chnull.info/r/kampo/1149962009/101-200


つまり、幻覚剤や宗教やジャズ・ロックには深入りしない方がいいという事ですね。

クラシックでもそうですが、大音量でクラシックを聴く事自体が音楽の事を理解していない証拠なのです。 間違ってもジャズ喫茶で使っている様なスピーカーは家庭に持ち込んではいけないのですね。

居間で38cmウーハーのスピーカーなんか使っているのはアホだけでしょう。 あの凄まじいフォルティッシモで有名なフルトヴェングラーやクナッパーツブッシュもカラヤンやバーンスタインやショルティよりはずっと小さな音しか出さなかったんですね。 演奏の凄まじさや壮大さと音量とは全く関係が無いという事です。

一方、ジャズやロックは耳を劈く大音量で聴かないとジャズやロックになりません。 トランス状態に入るのを目的とする音楽だから仕方無いですね。

http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/440.html#c3

[近代史3] アメリカ人には音楽は理解できない _ ジャズなんか音楽じゃない 中川隆
4. 中川隆[-10374] koaQ7Jey 2019年5月18日 17:45:52 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[1945]

【「ボブ・ディラン」の変人伝説】 
経歴詐称でデビュー、ビートルズにマリファナ指南、日本の担当者との面会は18年間でわずか30秒、歌詞の無断引用も 2018/10/19
https://headlines.yahoo.co.jp/article?a=20181019-10000013-shinchos-ent


 2016年10年「ノーベル文学賞」を受賞したボブ・ディラン。12月に行われた受賞式を「先約のため」欠席するなど話題を呼んだが、この人の遍歴を見ればむべなるかな。「常識」では計り知れない、シャイで気まぐれな天才シンガーの「変人伝説」を紹介する。

 ***

 ノーベル賞の歴史で、辞退を申し出たのは4人だけである。哲学者のサルトル(文学賞)もその1人だが、「神聖化されるのを望まない」というのが、断った理由のひとつだった。

 10月13日、ボブ・ディラン(75)に対するノーベル文学賞授与を発表したスウェーデン・アカデミーは、「5人目」が出るかも知れないと心配したに違いない。なにしろ、受賞を告げようにも連絡が取れたのはディランのエージェントとツアーマネージャーだけ。本人とは話ができずじまいで、なにより、ディランから歓迎のメッセージが発表されなかったからだ。

 受賞のニュースが流れたその時間、ディランはラスベガスのホテル「ザ・コスモポリタン・オブ・ラスベガス」にいた。1988年から続けている「ネバー・エンディング・ツアー」に出演するためだ。

 この時、ホテルの外の巨大スクリーンに〈受賞おめでとう! 〉との映像が流れたが、直前までチケットが売れ残っていたという。

 午後8時、会場に現れたディランは普段より上気しているように見えた。

「薄いグレーのタキシードに紐ネクタイ姿でディランがステージに現れると観客は、一斉に立ち上がって拍手で迎えました。そして、最初の曲を歌い終えるとまた拍手の嵐。彼は、何か話したそうに見えましたが、結局、マイクに向かって歌い続けたのです」(コンサート会場にいたジャーナリスト)――。

(「週刊新潮」2016年10月27日掲載。※データは全て当時のもの)
https://headlines.yahoo.co.jp/article?a=20181019-10000013-shinchos-ent


http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/440.html#c4

[近代史3] アメリカ人には音楽は理解できない _ ジャズなんか音楽じゃない 中川隆
5. 中川隆[-10373] koaQ7Jey 2019年5月18日 17:49:46 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[1946]

ビートルズと薬 ‐ ニコニコ動画(原宿)
http://www.nicovideo.jp/watch/sm3011883


新時代の寵児オノ・ヨーコ 『某業界情報紙』(一九九一年 十月 発行)より転載。

 当編集局は、ソニーがコロンビア映画を、松下電器がMCAを買収した際にも、このままでは日本が邪悪な親イ●●エ●・マフィアの牛耳るハリウッドの「文化産業」に取り込まれてしまうと警告した。今や、ソフトコアポルノ・ロックのスター歌手、マドンナが日本のテレビで大もてである。彼女のミュージック・ビデオはキリスト教への冒涜であるとひんしゅくを買った代物であり、日本の若者たちの憧れの対象となる資格は持ち合わせていない。マドンナに輪をかけた悪が、日本の尻軽女、オノ・ヨーコだ。

 当年とって五十八才のヨーコは、一流銀行家の娘である。子供の頃から、学習院や三井アカデミーなどブルジョア学校で学び、皇族の一人とも親交を結んだ。

 一九五二年、二度目の渡米生活の時、ニューヨークのサラ・ローレンス大学に入学し、勃興しつつあったアバンギャルドの「ビートニック」の洗礼を受けた。大学時代に麻薬を覚え、何回かの中絶をするなど乱れた男女関係を経た後、一柳俊というニューヨークのジュリアード音楽院の学生と結婚した。二人は麻薬の巣窟、グリニッジ・ビレッジのジャズ界に入り浸りとなった。その結婚生活もヨーコが、自殺未遂で精神病院から退院したばかりのホモの作家といい仲になったことから破局を迎えた。

 一九六二年になって、ヨーコの家族は娘をこのすさんだ生活から救おうとして日本に呼び戻したが、ヨーコはまたもや自殺をはかり、東京の精神病院に収容された。その精神病院からヨーコの脱出の手助けをしたのが、もう一つ輪をかけた悪のトニー・コックスというアメリカの麻薬売人である。コックスは、とある●●ヤ教司祭の息子と手を結んで麻薬の製造と密売を行った男で、ニューヨークにおけるLSD−25の売人第一号である。ヨーコの友人にも手広くLSDを売りさばき、FBIとマフィアの追及から逃れて日本に渡ってきた時、ヨーコと再開し結婚する。

 その時点で法的には、ヨーコは未だに最初の夫の妻だったにもかかわらずである。ニューヨークに舞い戻った二人は、幻覚症状を催す麻薬とアバンギャルド芸術の世界に憂き身をやつすことになる。

 日本を発つ直前に、ヨーコは「グレープフルーツ」と題する詩集を出版した。その中に次のような一節がある。

「愛した男のすべてを殺せ。遺骨は箱に詰め、花を付けて海に流せ」

【英文(これ、英国調ですか?)では:


"Kill all the men you have slept with / Put the bones in a box and sent it out to sea in a box with flowers"】


 トニーとヨーコは赤貧洗うがごとき生活を送り、夫婦喧嘩も絶えなかった。一九六六年にはロンドンに行き、アバンギャルド会議に出席した後、一年ほど滞在し、麻薬とロックとセックスの裏文化の中にどっぷりつかることになった。当時の裏文化のメッカはインディカ・ギャラリーのかいわいであり、このインディカ・ギャラリーと称するカフェ兼アート・センターを始めたのが、ジョン・ダンパーとその妻のロック・スター歌手のマリアン・フェイスフル、およびビートルズのメンバーのポール・マッカートニーであった。

 そこでヨーコはジョン・レノンに紹介される。その数ヶ月後、ロンドンのあたりでレノンと遊び回るうちに、ヨーコはすでに妻子ある身のこの花形ロック・スターをまるめ込んでしまう。レノンはヨーコとつきあう以前からすでにLSD−25の常用者だった。ヨーコと一緒になったレノンはローリング・ストーンズなどのロック・ミュージシャンを巻き込んで手当り次第にいろいろな麻薬を試すようになった。当然のことながら、レノンもヨーコも麻薬中毒患者に転落した。

 その頃になると、ヨーコはオカルトに夢中になり、専属のタロット占い師を雇うまでになった。七〇年代後半には、コロンビアのカルタヘナ島に行き占い師の会社、リナ・ザ・ウィッチ【←おや?】に一週間通った。

 長年における麻薬とオカルトへの異常な関心の結果、一九八〇年のジョン・レノン暗殺事件の当時は、ヨーコは新時代の退廃的な哲学に夢中になっていた。相変わらず手の施しようもない麻薬中毒であった。進んで麻薬・ロック・セックスの裏文化に入り、今やその道にかけては世界的に有数な伝道者とも言える人物になっている。ヨーコこそ、まさに日本の新時代の寵児と言えよう。

★ジョン・レノンが、最初に絵の展示会でオノ・ヨーコの絵を見て「ひらめいた」のだそうで、それは麻薬の幻覚に由来しているのではないか、なんて思っていますけど。

「この絵を描いた女は、オレと同じ幻覚を見ている、」っていうか。

LSD中毒患者の博物館には、自分たちが使ったお気に入りの麻薬や注射器が展示してないって?

博物館の売店には、LSD−25錠剤やらの「ドラックお試し詰め合わせセット」を置いてないって?

博物館までの路上では、得体の知れない外国人がやたらにアクセサリ類を売っていないって?

上の話がウソかどうか、本人に血液や毛髪検査したらたちどころにわかるって?

LSD中毒患者が大勢集まってきそうな埼玉新都心って、きっと麻薬と乱交パーティの楽園になるのかな。

ワクp(^ー^ )qワク

http://asyura.com/sora/bd11/msg/26.html

「60年代には僕にとってひどいことがたくさんあったが,

僕らは−まあいつも麻薬をやってたからだろうが

−ベッドに横になっては一体どうなるんだろうかと考え,偏執狂的にくよくよしたりしたもんだ。

そんなある晩,僕は母親の夢を見た。 彼女は僕が14歳のとき死んだから,彼女の声は長いことぜんぜん聞いていなかった,だからとってもうれしかった。それで僕は力が湧いてきて

『僕が一番みじめなときにメアリー母さんが僕のところへ来てくれた』

って文句が思いうかんだ。僕はジョンやパパが出てくる夢も見るが,不思議なことだ。まるで魔法みたいだ。もちろん,彼らに会っているわけじゃなくて自分自身かそれとも何かほかのものに出会っているんだけれどね…」

(『ブラックバード ポール・マッカートニーの真実』ジェフリー・ジュリアノ著 伊吹 徹訳 音楽の友社刊 p141-142 より)

http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/440.html#c5

[近代史3] アメリカ人には音楽は理解できない _ ジャズなんか音楽じゃない 中川隆
6. 中川隆[-10372] koaQ7Jey 2019年5月18日 17:54:16 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[1947]

ビートルズは麻薬を売るための洗脳ミュージックだった!? 2010年10月15日


ビートルズは麻薬販売促進のため、タヴィストック研究所が仕掛けたプロパガンダ作戦であり、イギリス、アメリカの情報機関がその計画に沿って動いていたのだと言われてます。

ではなぜ、一般には無名のイギリスのタヴィストック研究所がそのようなことができたのか?

その研究所の名誉会長はイギリス女王であり、有力な貴族や世界を動かす権力者(要するにユダヤ勢力)がメンバーであるからだとか。アメリカ側には、あの麻薬王パパ・ブッシュも名を連ねているそうな。この顔ぶれは意外なようで意外ではない。イギリスはあへん戦争を起こした国であるし、パパ・ブッシュはもちろんその方面で、知らぬ人も知っている有名人。

ビートルズが作詞作曲したとされる数々のオリジナル曲は、実はすべて提供されたもので、メンバーが作詞作曲し始めたのは、バンドとしての活動も終盤となってからであるという。


解散後のジョン・レノンの反戦活動、反権力的思想は厄介のタネであり、イギリス、アメリカの諜報機関の監視下にあった。そこでチャップマンに催眠術をかけ、暗殺者に仕立てて、レノンを殺させたのであるという。


チャップマンは報道とは違って、別に狂信的なレノンファンではなかった。

射撃訓練のためか? 金もないはずなのに、レバノンやハワイの暗殺訓練キャンプへ行っている。

チャップマンは、レノン殺害の一週間前に「ダブルファンタジー」を初めて買ったのだという。ファンどころか、レノンそのものも全然知らなかったのであるらしい。


●ビートルズは、初め楽譜も読めなかったし、弾けるギターのコードも4つだけだったというのは聞いたことがあります。ポールは

「(名曲といわれる)イエスタデイは僕が作ったんだ。レノンは何にもやっちゃいない」

と言ってたことがあった、そういえば。

それにビートルズは、シェーンベルク(ユダヤ人作曲家)が始めた12音技法で無調の曲などを演っていますが、そういえばこれも不可解。

コードを4つしか知らなかったにしては成長が目覚ましいのです。まあ先生がいるんだろう、とは思ってましたが。

こういう音楽を聞いてると、知らず知らず洗脳されて、麻薬をやりたくなるんだそうな。


●Lucy in the Sky with Diamonds (The Beatles)
http://il.youtube.com/watch?v=A7F2X3rSSCU&feature=related
http://www.youtube.com/watch?v=wk9cnEKsGBg&feature=related

タイトルの頭文字がLSDとなって、麻薬はハイになれるよ、というメッセージを暗示している曲といわれているのは有名。

アニメも洗脳ムードたっぷり。

冒頭の部分が無調の曲調。サビの微妙に明るい不協和音のハーモニーはビートルズ音楽の特徴。


The Beatles - Strawberry Fields Forever  
http://www.youtube.com/watch?v=cG2gNvqGJVU


これも無調の曲。退廃ムードにあふれています。大学一年のころだったか、よく聞いてましたが、ここは田舎だし、私は別に麻薬が欲しくはなりませんでした。この頃はシンセサイザーがでる数年前ですから、電子音楽というよりテープ音楽なのですが、ビートルズはいち早くポップスに取り入れていたわけです。これらがタヴィストック研究所の洗脳作戦? そういえば思い当たらないでもない。

ビートルズから、ロックに堂々と平均律のハーモニーが使われるようになったのでした!


抱きしめたい  ビートルズ
http://www.youtube.com/watch?v=a_csEEI4PFE
http://www.nicovideo.jp/watch/sm9104027
http://www.nicovideo.jp/watch/sm6007032

たとえばこれ。ラストの、明るいけど濁っているハーモニ―は平均律によるハーモニー。こういうのはクラシックでは絶対に使わないが、当時は新時代が来たという感じでした。平均律というのは、別に洗脳目的の音階ではないのですが、そういうふうに使えばできないことはないかもしれない?


●音階というのは、実はタケノコみたいに、その調それぞれ高音へ行くほど、ほんのわずかですが狭くなっていくのです。純正律といいますが、だから、オカリナの宗次郎が演奏するとき、たくさんオカリナを脇に置いて、曲によってサッと取り替えていますね?

さてそれで今から300年ぐらい前ですが、ピアノという大型の幅広い音階を持つ鍵盤楽器ができたときに、どのようにするか、これが問題となりました。音階のタケノコを横に並べるようなわけにはいかない。かといって、やれそれと音階ごとのピアノは用意できない。オカリナじゃないんですから。

そこで打開策として、ピッチを階段みたいに一律の幅にすることにしたのです。当時はバッハのすぐ後の時代で、ハーモニーというものが発見されたばかり。あまりハーモニー重視の曲はなかったのでした。

いやありますが、パッヘルベルのカノンなどはピアノは入っていませんね?


それが平均律というものは、1オクターブ内だったらあまり分かりませんが、それ以上のハーモニーになると歴然! 音が濁ってしまうのです。今でもピアノの演奏会などに行くと、曲調が変わるごとにいちいち調律をしていますが、あれはそのためなのです。しかし平均律は悪いことばかりでもなくて、幅広い音階の曲が演奏できるし、移調するのも簡単にできます。そのまま調子をずらせばいい。しかしシンセサイザーなどはボタン一つで純正律にもできますから、エンヤなどはちゃんと濁らないハーモニーを作り出していますね?

●とにかく平均律の濁ったハーモニーを堂々とメジャーにしたのはビートルズであると言えるでしょう。

ビートルズが来日したのは、私が高校二年の時でしたが、レコードと同じ演奏で、へえ! ビートルズって上手いんだなあと感心しましたが、いま気がついた!

あれは絶対口パク! なるほどね。テレビでよくやってますが、2コーラスに編集カットしたテープ曲に合わせていたのでしょう。なるほどなるほど、そうであったか!

いま考えると思い当たるところはたくさんあります。

ジョージハリソンは活動末期になってやっとソロの曲を出したけれども、すぐ盗作で訴えられたし(それまで作曲したことがなかったのだ!)、リンゴスターはドラム演奏がヘタクソで、他のメンバーからいろいろブーイングがあったと聞いたこともあります。ドラムの口パクができなかったということかな?

そういえばビートルズって、ライブバンドじゃなくて、録音編集レコードバンドですね。いや初期のライブ盤があるとか聞いたことはあるけど? ま、単純なコードの曲ばかりなのでしょう。

●とにかく何が麻薬販売促進に使われているか分からない。

前にも書きましたが、世界的な禁煙運動が麻薬促進のテクニックだという説は、案外ウソではないのかもしれませんよ?

ベトナム戦争も、実は麻薬調達が目的であり、戦死した兵士の体内に隠して麻薬が持ち込まれていたんだそうです。そして、マスコミはウソばっかり! いかにも麻薬撲滅に成功したようなことを言いふらしている。マスコミには一切載らないけれども、麻薬は裏で、昔よりも多額の売り上げがあるらしいですよ。
http://iwayasynryo.sblo.jp/article/41302654.html

▲△▽▼

タビストック人間関係研究所(Tavistock Institute of Human Relations)は、研究、コンサルティング及びプロフェッショナル・デベロップメントを行う非営利組織である。

タビストック人間関係研究所は、1947年9月にタビストック・クリニックのエリオット・ジャックスらによって正式に設立された。英国における精神分析理論の拠点の一つとしても知られている。精神病理学、臨床心理学の分野で著名なタビストック・クリニックは研究所の母体である。

エリオット・ジャックスは経営学の分野ではグレーシャー計画で知られる。


ジョン・コールマンらの下記関連書によると、次のようなものである。


タビストック人間関係研究所は、1922年(実質設立年)にイギリスに設立された研究機関。タビストック研究所とも呼ぶ。CFR(外交問題評議会)ないしロックフェラーの系列の機関であり、CIAとも協力関係にある。配下に多くの研究所、財団を持ち、アメリカ全体での資産規模は実質的には600 - 700億ドルに達する。

表向きは、人間管理、心理学等の研究所であるが、実質的にはロックフェラーと彼に追従するイギリス支配階級のための国際諜報機関である。

最終目的は、英米覇権維持のための国際的な大衆プロパガンダおよび完全な人間の心理コントロールの追求であり、その手段・技術の研究を行い、成果を実践することであり、現在に至るまで数多くの各種の大衆洗脳工作の実施に関与していると言わる。一説では、人間の行動制御も可能な技術を保持しており、それらはすでに諜報活動にて実地に応用されているとも言われ、目的のためには反社会的な手段の活用も辞さないとされる。 MKウルトラ、脳内音声兵器など。

20世紀後半のアメリカ社会文化の急激な変質と、世界各国の地域的文化と政治観念の変質破壊ないしアメリカ化は、同研究所の研究を利用して意図的に促進されたと言う。麻薬や同性愛をファッションとして流行させる作戦にもCIAなどとともに関与しているとされ、世界各国の大衆を音楽、薬物、婚外セックスによって政治的に麻痺させ体制迎合的に洗脳するという作戦目標は順調に達成されている。

またビートルズに始まる1960年代から1980年代までのイギリス製、アメリカ製ポップ・ソングの国際的流行は、同研究所の作戦のひとつであったとも言う。1990年代以降のアメリカ黒人音楽・ファッションの急激な一般大衆への浸透についても関与を疑われると言う。

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%BF%E3%83%93%E3%82%B9%E3%83%88%E3%83%83%E3%82%AF%E4%BA%BA%E9%96%93%E9%96%A2%E4%BF%82%E7%A0%94%E7%A9%B6%E6%89%80

●入念に仕組まれた陰謀「ビートルズ現象」の汚い共犯者エド・サリバン


 タヴィストック研究所がビートルズを合衆国に連れてきた時、ビートルズの後に続く事になる文化災害を誰も想像出来なかった。ビートルズは『水瓶座の陰謀』の絶対不可欠の一部分であった。この陰謀は生命をもった有機体で『人間イメージの変革』から発生したものである。

 ビートルズ現象は若者の旧社会制度に対する自発的な反抗ではない。そうではなくて、それは高度に破壊的で巧妙な要素を、むりやり変化させる目標とされた大きな個体群の中に、正体不明の陰謀団によって持ち込むという、入念に仕組まれた陰謀だったのである。

 新しい単語や言い回し??タヴィストック研究所によって作られた??が、ビートルズと一緒にアメリカに紹介された。音楽用語としての「ロック」や「ティーンエージャー」「クール」「ディスカバード(発見された)」それに「ポップミュージック」といった単語は麻薬の仲間入りを意味して、ビートルズの赴く所どこでも付いて廻り、「ティーンエージャー」によって「発見される」事になる偽装された暗号用語だったのである。

 因みに「ティーンエージャー」という言葉は、ビートルズがタヴィストック研究所のお陰で登場する直前まで使われた事はない。つまりこの現象も、ストリート・ギャング抗争の場合でと同じく、マスコミ、とりわけテレビ・ラジオの協力なしで何も成し遂げられなかっただろう。特に、口汚いエド・サリバンの協力は不可欠だった。彼は自分の果たすべき役割について謀略家共に前もってコーチを受けていた。溢れかえる程の報道に登場する事がなければ、リバプール出身のガラクタ連中と、その後に続く12音無調達様式[シェーンベルクが調和拘束性を断ち切る為に創案した無調音楽の一種]の”音楽”に大して注意を払う者はなかっただろう。

一二音無調様式は強勢の反復音からなり、テオドール・アドルノ[1903?69、フランクフルト学派の泰斗で、「否定弁証法」の思想家・ユダヤ系]によってディオニソス密儀及びパール神官の音楽から借用され、英国女王という事はつまり300人委員会のこの特別友人アドルノよって「現代的」風味を添えられたものであった。

 タヴィストック研究所とスタンフォード研究所は、「ロック音楽」とそのファンの周辺でその後広く使われる様になる誘発語を作った。誘発語が主として若い個体群に紛れもない新たな離脱を引き起こした。彼等は、社会工学と社会的調節剤によって、ビートルズこそ本当に自分達の大好きなグループなのだと言いくるめられたのである。「ロック音楽」との関連で考案された誘発語は全て、新たに目標にされた群、自由主義国の若者達を集団支配する為に構想されたものなのである。

 ビートルズは完璧な仕事をした。というより恐らく、タヴィストック研究所とスタンフォード研究所は完璧な仕事をしたと言う方が、もっと正確だろう。ビートルズは只「友人達からちょっとした手助けを借りて」??麻薬を使用し「クール」にやる為の暗号用語??訓練されたロボットの様に反応しただけである。

ビートルズは大いに目立つ「ニュータイプ」??別のタヴィストック用語??となり、かくして程なくこのグループは新しいスタイル(衣服や髪型や言葉遣いの流行)を作った。これには年上の年代は狼狽した。まさしく目論見通りであったのである。これはウィリス・ハーモンとその社会科学者及び遺伝子工学の鋳掛け屋共のチームによって練り上げられ実行に移された「乖離?不適応」過程の一部だったのである(この為にビートルズは女王から勲章を頂いたかもしれない。当時は世界的に有名になってレコード売り上げを貢献したからと聞いていたが!忍)。

 我々の社会でマスコミが果たした役割は、大きな個体群の洗脳を成功させる為に決定的であった。1966年にロサンゼルスでストリートギャング抗争が終息したのは、マスコミが取り上げなくなったからである。ロサンゼルスで今進行中のストリート・ギャング抗争の波にも同じ事が起こる筈である。マスコミの集中報道がトーンダウンし、それから完全に取り上げなくなると、ストリートギャング共は実を結ばずにしぼむだろう(そうとは限らない。後ろに後見の人がいれば、力は残っているだろう。只、マスコミが取り上げないと青少年の好奇心が無くなる事は事実だけど。言葉が知らなければ頭が浮かばないから。只、今現在は戦略的にマスコミが取り上げない問題が沢山ある。嘘の報道が戦略的に行っている!忍)。1966年の時の様に、事件は「燃え尽きて」しまうことになっている。ストリート・ギャング予備群は騒動を起こし、不安を醸成する目的に役立った事になるだろう。厳密に同じパターンが「ロック音楽」の場合にも起こるだろう。マスコミの関心を失って、結局は歴史に記載されるだけになるであろう。


●麻薬、ヒッピー、フラワーチルドレンとテオドール・アドルノ


 タヴィストック研究所の手で偶然に編成されたビートルズに続いて、英国製ロックグループが他にもやって来た。それらのグループは、ビートルズと同じく、テオドール・アドルノに異教的な歌詞を作詞してもらい、”音楽”の全てを作曲して貰った。

 歌詞とか音楽という美しい単語を「ビートルズ狂」との関連で使うのを私は遺憾に思う。というのも、「愛する人」という単語が如何に間違って使われているかを私に思い出させるからである。豚のエサの中で絡み合う二人のホモ(これは、不自然な性的な行為である。素直に女性を求めればよいのである。自然の法則は、+と?は引き合うが、+と+又は?と?は反発し合う。だから素直ではないと言っているのである。神の法はあく迄も一夫一婦制である。独身の人が、独身の異性を求めるのは悪ではない!忍)の不潔な行為を指すのに使われているのである。従って、「ロック」を音楽と呼ぶのは侮辱である。同じく「ロックの歌詞」に使われている言葉も侮辱である(音楽と歌詞とは、人間の感性を育てる物である。其処に悪魔が利用されるのである。殺人を善だと感じる感性(人殺し又は麻薬を使って廃人なるのを見るのを喜ぶ感性)を育てるにはどうすれば良いのかと考えて出来た音楽はやはり悪魔の音楽である。ロックの人達は麻薬との繋がりがあるので、保守派は警戒するのである!忍)。 

 タヴィストック研究所とスタンフォード研究所は、300人委員会に委託された作業の第2段階に乗り出した。この新段階はアメリカに社会変化を熱をかき立てた。

 ビートルズが自由主義国という舞台に登場した時と同じ様に、急速に「ビート世代」が登場した。それは社会を分離・分裂させる為に構想された誘発語である。マスコミは今度は「ビート世代」に関心を集中した。やはり、タヴィストック研究所が新造した単語がどこからともなく出て来た。「ビートニク」「ヒッピー」「フラワーチルドレン」が自由主義国語彙の一部となった。「ドロップアウト」して、汚いジーンズを着け、洗わない長髪で歩き回る事がはやった(意味不明。道徳はあく迄も心の問題で服装で判断する人は下に属する。社会に対して何を行うのかの方向性で判断する必要がある。あく迄も宇宙大自然との共存共栄の方向であるかどうか!忍)。かくて「ビート世代」はアメリカの本流から独立した。彼等は、先行のまだ清潔だったビートルズと同じくらい悪名高くなったのである。
 新たに作られたグループとその「ライフスタイル」が、自由主義国の若者を流行へと押し流した。自由主義国の若者は気付きさえしないで過激な変革を経験した。その間、年上の世代はなすすべもなく傍観した。危機の原因を割り出す事が出来ず、為に危機の現れに対して適応不良の態度で反応したのである。

 危機の現れとは、あらゆる種類の麻薬、マリファナ、そして後には、リゼルグ酸つまり「LSD」であった。LSDはスイスの製薬会社サンドスによって手軽に供給された。それは同社の化学者の一人アルバート・ホフマンが強力な精神変化薬である合成エルゴタミンの製法を発見した結果だったのである。300人委員会は、彼等の銀行の一つS・C・ウォーバーグを通じて同社のプロジェクトに融資した。そして藥は、哲学者オルダス・ハックスリー[1894? 1963、英国の小説家・批評家]によってアメリカに持ち込まれた。この新しい「特効薬」は直ちに「試作品(サンプル)」大の包みで配布され、合衆国中の大学のキャンパスやロックコンサートで無料で配給された。ロックコンサートは藥の使用を激増させる為の主要な手段となった。

 答を求めて大声で質される人がいるかもしれない??「麻薬取締局(DEA)は当時何をしていたのか?」と。だがDEAは、進行している事を知りながら何もするなと命令されていた事を示す有力な状況証拠がある。
 非常に多くの新しい英国ロックバンドが合衆国(自由主義国)にやって来るようになると、ロックコンサートはアメリカ(自由主義国)の若者の社交予定表で恒例行事と化した。これらのコンサートと連携して若者の間での麻薬使用は比例的に高まった。

 呪わしい狂気沙汰である調子外れの強勢ビートサウンドが聴く者の精神を麻痺させるので、彼等はやすやすとその気になって新薬を試した。「みんなやっている」という理由を付けて。仲間の集団の圧力は非常に強力な武器である。「新しい文化」はお先棒かつぎのマスコミに最大限に取り上げられた。それには謀略家共の懐はただの一銭も痛まなかった。

 大勢の市民指導者や教会関係者の大いなる怒りが、この新しい熱狂に向けられた。しかし彼等のエネルギーは、進行する事態の結果に誤って振り向けられ、その原因には立ち向かわなかった。ロック熱を批判する者達も禁酒法時代[1920〜33年]に犯されたと同じ過ちを繰り返した。彼等は法執行機関や教師、両親、誰でも彼でも非難したのである。但し謀略家(一番の原因である)共を除いて。 

http://ameblo.jp/syuugyousya/entry-10088505980.html


支配階級が被支配階級をコントロールするには、洗脳することがもっとも有効な手段です。英米はそのために大衆プロパガンダ、人間心理コントロールの技術の研究を行い、実際その研究成果を実施してきたと言われています。

簡単に言うとモノを考えない人間を作ることです。

20世紀に入ると米国では麻薬、同性愛、音楽、セックスをファッション化し、脳を麻痺させて支配階級に迎合させる作戦が実施され順調に達成させられたといわれています。

その作戦の一役を担ったのがビートルズとも言われています。

まずその手段のひとつがバックワード・マスキング手法です。

バックワード・マスキング手法は簡単に言うと「言葉の逆回し」です。

りんご→ごんり や しんぶんし→しんぶんし 同じかッ(笑)

バックワード・マスキング手法は、19世紀末に活躍した有名な黒魔術師のアイレスター・クロウリーによって広く知られるようになりました。

あのマイケル・ジャクソンもバックワード・マスキング手法を使っていたと言われますが、最も熱心にやっていたのがビートルでした。

その証拠に「サージェント・ペパーズ・ロンリー・ハーツ・クラブ・バンド」のジャケットにアイレスター・クローリーが登場しています。 上段の左から2人目の坊主頭の方です。この画像では分かりにくいので実際のジャケットでご確認下さい。

では、次に曲の中で実際に使われているバックワード・マスキングによるサブリミナルテクニックですが、


まずは「アビー・ロード」

アビー・ロードをよ〜く聞いているとなんと言っているか分からない箇所があります。その箇所を逆回しにすると「Let me out Let me out Let me out」と言っています。

また「レボリューションNo.9」という曲では「No.9、No.9」と繰り返している箇所がありますが、この部分を逆回しにしてみると「Turn me on dead man turn me on dead man」と言っているのが分かります。 アルバムを持っている方は要チェックです!

ジョン・レノンの声は「1/fのゆらぎ」という特殊な波動を持っていると言われています。日本人では美空ひばりさん、宇多田ヒカル、森本レオなどが有名です。 1/fのゆらぎとは、人に快感やヒーリング効果を与えると言われており、自然界での具体事例は小川のせせらぎ、木漏れ日、蛍の光などが挙げられます。 このような状態になると人間はα波が出始め、催眠術にかかったのと同じ状態になります。この状態の時になにか指令が出たとすると簡単に洗脳されてしまうことは理にかなっています。

http://www.asyura2.com/09/reki02/msg/447.html


序章 世界洗脳の手先ビートルズ

 ザ・ビートルズ。

 1964年、突如世界の舞台に飛び出し、一気にスターダムにのし上がったスーパー・アイドル。

 アメリカの人気番組、エド・サリヴァン・ショーへの出演をきっかけに、その人気は頂点に達した。
 世界中の若者がビートルズに熱狂し、彼らの虜となった。 そんなビートルズに対してデイヴィッド・ノーベルは、

 心理作戦を得意とする政治家が、ビートルズの音楽を利用して若者を催眠術にかけ、将来に計画されている破壊分子制御に従わせようとしている。

 この組織的計画の目的は、若い世代を、精神的には病める状態に、感情的には情緒不安定な状態にすることなのである。

と指摘している。 多くの人々は、あまりのビートルズの人気に対するひがみだと思って聞き流すかもしれない。

 しかし、彼の見解は正しかったのである。 実は、今から100年も昔にまとめられた『プロトコール』という文書にこう書かれてある。


第十三議定書

「彼らが自分で何かを考案せぬように、我々は享楽や、遊戯や、音楽や、性欲や、民衆倶楽部等の方面を煽って誘導しなければならない。これによって、大衆の頭を其の方へ外れさせねばならない」


 ビートルズに熱狂した若者たちは、自分たちの行動を旧社会制度に対する自発的な反抗だと考えていた。
 しかし、若者たちの行動は、世界を自分たちの意のままに動かす集団、「影の政府」によって、100年も前から計画されていたのである。

 「彼ら」の陰謀は成功し、音楽用語としての「ロック」や「ティーンエイジャー」、「クール」、「ポップ・ミュージック」といった新しい単語やいい回しがビートルズとともに世界に広められ、世界中の若者がその虜となった。

 その結果、若者たちは享楽的な生活に埋没し、「影の政府」の陰謀に立ち向かうどころか、「彼ら」の存在にすら気づくことはなかったのである。


 この陰謀の中核となったのが「影の政府」の下部組織であるタヴィストック研究所とスタンフォード研究所である。 タヴィストック研究所は、イギリスにある世界最大規模の洗脳研究施設である。

 このタヴィストック研究所が1946年、アメリカに設立したのがスタンフォード研究所である。

 ビートルズの音楽を作詞作曲したのも、彼らの一員である思想家、テオドール・ヴィーゼングルント・アドルノであった。 そして、エド・サリバンによって綿密にマスコミの使用法が検討され、電波に乗って全世界に報道されたのである。


 それでは、「影の政府」とは何ものなのか。そのヒントは、「彼ら」が作り上げたビートルズに隠されている。


 ビートルズのアルバム、"Sgt. Peppers Lonley Hearts Club Band"(サージェント・ペパーズ・ロンリー・ハーツ・クラブ・バンド)のジャケットには、SF作家として有名な、H.G.ウェルズがいる。

 また、哲学者のオルダス・ハックスレー。

 このウェルズとハックスレーは、タヴィストック研究所やスタンフォード研究所を裏からコントロールする「影の政府」の一組織、「三百人委員会」のメンバーだったのである。


 さらに、推理小説作家として有名なエドガー・アラン・ポーは、「三百人委員会」に連なる秘密結社、フリーメーソンのメンバーである。 また、フリーメーソンの下部組織「黄金の暁(Golden Dawn)」に参入していた20世紀最大の黒魔術師、アレイスター・クロウリー。


 "Sgt. Peppers Lonley Hearts Club Band"のジャケットは、今まで闇の世界から歴史を動かしてきた「影の政府」が、いよいよ表の舞台に躍り出るという宣言だったのである。

 それでは、「影の政府」の目的とは何か。

 それは、ビートルズのメンバー、ジョン・レノンの“イマジン”にみることができる。


  想像してごらん、国なんかないと
  それに宗教もないと  ("Imagine") 


 この"イマジン"は、若者の間で圧倒的な支持を受けた。 現在でも争いを産み出す原因である国家や宗教を糾弾する反体制、反戦争のシンボルとして歌われ続けている。

 しかし、真実は異なる。

「影の政府」こそが近代におけるあらゆる戦争や飢餓を引き起こしてきたのであり、あらゆる国家は「彼ら」に操られてきたのである。


 そして今、「影の政府」は、若者たちに国家や宗教を破壊させようとしている。
 その後に、「影の政府」の意のままになる超管理社会、統一世界政府を樹立しようともくろんでいるのである。
 このイマジンは、そんな「彼ら」の情報操作の一環だったのである。
http://rerundata.net/aum7/2/oz2/oz200.html


▲△▽▼


●ビートルズはドラッグの伝導者?(EJ第400号)2008年02月25日

 
 さて、みなさんは、ロックの元祖的存在は誰だとお思いになりますか。実は、ロックの起源については諸説があり、はっきりしていないのです。 ロック音楽が音楽市場で日の目を見たのは1950年代とされており、この説が正しいとすると、その元祖は、エルヴィス・プレスリーということになります。

そうです。あのロックン・ロールがロックの元祖的存在なのです。

 プレスリーの名前を世界的に広めたのは、当時の米国の超人気番組「エド・サリバン・ショー」への出演なのです。プレスリー以前のロックは、ジャズ、黒人霊歌、カントリー・ウェスタン、リズム・アンド・ブルースなど既成の音楽の混合物のようなものであり、典型的な演奏スタイルというものはなかったのです。 エルヴィス・プレスリー、ビル・ヘイリーによって火のついたロックン・ロールは、その後、リトル・リチャード、ビル・ハーレ、チャック・ベリーという強烈なロックン・ローラーを生むことになります。 そして、1963年になると、英国でビートルズが登場し、その後すぐにローリング・ストーンが現れます。この両者は、ロックの2大バンドとして君臨します。そして、やがてアニマルズが頭角を現して三番手につけるのです。

 さて、本来「ロック」という言葉は「ロックン・ロール」を略した言葉なのですが、ビートルズにより代表されるロックとプレスリーによって代表されるロックン・ロールとは、次第に音楽的に内容が変化して行ったのです。

 ごく大まかにいってしまうと、ロックン・ロールはビートルズが登場する1964年以前のものであり、ロックはビートルズ以降のものを指すことになります。 そして、ロックは、次のようなさまざまな音楽形式を持つ音楽として確立していくことになるのです。

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       1.ハード・ロック  7.クラシカル・ハード・ロック
       2.ヘビーメタル   8.スラッシュ・メタル
       3.パンク・ロック  9.スピード・メタル
       4.デス・ロック  10.ブラック・メタル
       5.神秘ロック   11.グランジ・ロック
       6.デス・メタル

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 ロックの元祖ビートルズも、1964年2月にエド・サリバン・ショーに出演したのですが、日曜夜のゴールデン・アワーの時間帯で94%という驚異的な視聴率を獲得したのです。世界は、これをキッカケにして、空前絶後のビートルズ・ブームに突入していくのです。

 この時代の米国は社会的混迷期に当り、ケネディ大統領、キング牧師の暗殺事件をはじめ、それにベトナム戦争の泥沼化が加わり従来の価値観を崩壊させる泥沼の時代になっていったのです。 そして、ベトナム敗退、経済不況、失業者の増大と続くなかでその時代を担っていたのは、ヒッピーを中心とした若者でしたが彼らは、マリファナ、LSD、麻薬などと結びつき、サイケデリック革命なども起こったのです。

 そういう若者のあいだに芽生えた感覚主義は、実存主義、コミューン思想、社会主義、神秘主義などに受け継がれ、その中でとくに神秘主義は根強く浸透していくことになります。心霊術、超能力、超心理学、東洋神秘思想、宇宙との交信術、占星術、魔術古代、宗教など多岐にわたり、それがひとつの宗教のようなかたちになっていったのです。ビートルズが登場したのは、そうした時代の変動期のはじまりであり、“毒”を含んだ新しい時代の幕開けだったのです。

 こうした時代を背景として、ロック・ミュージックは、自らのアイデンティティを求めて強烈な自己主張を行い、それは精神の広がりもたらすドラック(幻覚剤)と結びついていくのです。 ロック・フェスティバルというと、一見宗教的なシンボルやコスチューム、荒々しく陶酔を誘う強いビートと旋律、ドラックの使用、狂乱的なダンスがつきもの・・。これは、参加者にひとときの精神の解放、浄化作用をもたらす効果があったといえます。

 興味のある話があります。プロテスタントのある宣教師は、クリスチャンに改宗した原住民たちにロックを聞かせてみたところ

「これは悪霊を呼び出す音楽である」

といったといいます。彼らは、以前、自分たちが暗闇の悪魔的霊界と接触するときに使ったサイキックな刺激と同じものをロック・ミュージックの中に感じ取ったというのです。

 さて、1960年代後半のドラックといえばLSDです。これを世界中の若者たちに奨励し、それを浸透させる推進力になったのはビートルズであるという説があります。

 「そんな、馬鹿な!」という人がいるかも知れませんが、ビートルズの曲の歌詞をていねいに読むと、それを否定できなくなります。ほとんどの人は、歌詞なんて聞いていないし、注目していないと思います。

          


●トゥモロー・ネバー・ノウズ(EJ第401号)2008年02月26日


 ロックの話をはじめています。その1回目の昨日、ビートルズはLSDの奨励をしていると書きました。ビートルズはある意味ではドラッグ文化の予言者であり、ドラッグ賛美のアーティストなのです。それは、ビートルズの曲の歌詞に色濃くあらわれています。例をあげてみましょう。

 ビートルズの「トゥモロー・ネバー・ノウズ」という曲を知っていますか。

Tomorrow Never Knows
http://www.youtube.com/watch?v=rTMOSCh7aJU
http://www.nicovideo.jp/watch/sm16253864


 この歌の前半には、次のような歌詞があります。

−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
      「肩の力を抜いて無心になり、気持ちを鎮めてごらん
      それは死ではない それは死ではない
      何も考えず 虚無に身をまかせてごらん それは輝いている
      内なるものも意味がおのずと見えてくるかも知れない
      それは確かな存在 確かな存在」
                (「ビートルズ全詩集」内田久美子訳)
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−

 この曲は、LSDの感覚的な世界を歌ったもので、巧妙に精神世界を歌っているように作られていますが、実はドラッグを啓蒙した曲なのです。

 この曲の歌詞は、ティモシー・リアリー著の『チベットの死者の書』から取られています。この本は、LSDを服用することによって精神的に啓蒙されることを説いたハンドブックなのです。

 この本の著者であるティモシー・リアリーは、LSDなどのドラッグを精神拡張の物質として信奉しており、これによってバッドトリップしないためには、ここを暗唱しなさいと説いている部分が本の中にあるのですが、その部分が「トゥモロー・ネバー・ノウズ」の歌詞として使われているのです。ですから、明らかにこの歌は、ドラッグを奨励している歌であるといってよいと思います。

 この本には、なぜドラッグを使うのかが書かれています。それは、物質第一の世の中から超越した価値観を得ることであるというのです。つまり、時間というものが機械的にどんどん経過していくという物理的な考え方から逃れ、西欧的なゲーム、すなわちお金というものの不遜さからも逃れ、安定的な精神的領域を得たいという価値観です。

 ジョン・レノンは、自らが追い求めていた超越の幸福感をこの曲で音色に出すことに成功しています。そこにいたるまで、彼がどれだけドラッグによってバッドトリップを経験したか、それは誰にも分かりませんが、彼がドラッグの常習者であったことは、明らかなのです。

 この歌は、音的な色とイメージをコラージュするために非常に手のこんだことをしています。それは、テープを操作することでギター・ソロを逆回転させているのです。これは、時間の流れを逆回転させて、ただよう流れの中にいる自分を表現しているのだそうです。そしてジョンの歌い方は感情を排して、原始的なサウンドを目指しています。

 それは、超越の境地に聴き手を導こうとしているように思われます。ドラッグ体験者でないとわかりませんが、この超越の境地は、ドラッグ服用初期の曖昧模糊とした恍惚感をあらわしていると思われます。そして、もうひとつの現実として、ジョンは次のような世界を歌っているのです。


−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
      「愛こそすべて、愛こそすべての人々
      それが目覚め、目覚め
      無知と憎しみが死者をいたむこともある
      それが信ずること、信じること
      でも、夢の色に耳をすましてごらん
      それは生きることじゃない、生きることじゃない
      それともゲームの本質を最後までとことんプレイしてごらん
      何かがはじまる最後まで
      はじまりの最後まで」
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−


 とにかく一風変わった曲なのですが、一度聴いて見ていただきたいと思います。現在ビートルズの曲は、全曲CD化されており、CDショップで求めることができます。

 さて、ビートルズはそうではありませんが、一般的にロックというと、その衣装・風体は実に異常であり異様です。これは何に通じるかというと、サタン、つまりサタニズムに通じるのです。そして、このサタニズムとドラッグは、昔から密接に結びついているのです。

 マヤ文明では、ペヨーテなどの幻覚剤を使って、生け贄を捧げる宗教的儀式を行っていたのです。また、古代の神官たちは、ドクニンジン、ヒヨス、アヘン、ベラドンナなどの麻薬の恍惚感のうちに霊との交信を行って“神託”を述べ、ときとして身体を傷つけたりしています。

 ロックのコンサートは、この神官の儀式に非常に似ているところがあるのです。ですから、これとドラッグが結びつき、そこに悪霊が入り込んできても少しも不思議はないのです。

 聖書には「魔術」ということばがよく出てきます。これは原典のギリシャ語では「フェルマキア」英語の「ファーマシイ」「薬局」の語源はこれなのです。つまり「魔術」とはドラッグを意味し、魔術とドラッグは同意語であり、つねに表裏一体の関係にあるのです。ですから、ロックがドラッグと結びつき、それがサタニズムと関連を深めても何ら不思議はないのです。

●ロック音楽は何を狙っているか(EJ第403号) 2008年02月28日


ビートルズには、LSDとはっきりと関わっている曲があります。それは、「ルーシー・イン・ザ・スカイ・ウィズ・ダイヤモンド」という曲です。

http://il.youtube.com/watch?v=A7F2X3rSSCU&feature=related
http://www.youtube.com/watch?v=wk9cnEKsGBg&feature=related

 この曲は、LSDを服用して、幻覚のうちにジョンが作曲したものとされています。

「イエロー・サブマリン」が大人も歌える子供の歌であるのに対し、この歌は子供のことを歌った大人の歌であるといえます。とにかくこの歌は、題名それ自体の中にLSDという文字が隠されているのです。

−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
          ・      ・    ・
          LUCY IN THE SKY WITH DIAMOND
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 ビートルズでは、全員がドラッグを使っていたそうですが、とくにジョン・レノンが多く使っており、生き延びるために不可欠だったとの証言もあります。このように、1960年代後半、ドラッグはビートルズが先導役となって、ロックの世界に浸透し、ヒッピー運動とともに若者の間に広がっていったのです。

 EJでは、今年の2月頃に、あのノストラダムスの預言のフォローをやったことがあります。恐怖の大王が降ってくるはずの、1999年7月が何事もなく過ぎて、現在では、あの預言は結局的中しなかったとされているのですが、実はそうではなく、別の意味で的中していて、世の中は文字通りの破局に向かって目下進行中であるということを明らかにしました。実は、その進行中の重要な仕掛けの中にロック音楽が組み込まれているのです。いずれも、若者を対象としたもので、ひとつはゲームマシン、そしてもうひとつがロック音楽というわけです。

 事実について述べましょう。ノストラダムスのいう1999年7月のことですが、7月23日から3日間にわたって、ニューヨーク郊外のウッドストックで、ロック・フェスティバルが行われているのです。このウッドストックは、あのロックフェラーの所有地であるとのことです。

 大会のタイトルは、「ウッドストック99/ワン・ワールド」というのです。注目すべきは、この「ONE WORLD」 ということばです。これは「世界政府」という意味であり、場所がフリーメイソンにゆかりのロックフェラーの所有地であるところから、この「ONE WORLD」は、 フリーメイソンの目標である「世界政府の設立」という意味にとれるのです。

 ウッドストック・フェスティバルといえば、30年前にも同じ場所で行われているのです。これは、ロック史上に燦然と輝くコンサートとなり、自由と解放という名のもとに、ロック界にサタニズム(悪魔主義)が定着したイベントになったといわれているのです。この大会では、ドラッグがハード・ロックのリズムの中で謳歌され、3日3晩、40万人の人々がこの饗宴に参加したといわれています。

 この7月23日から3日間行われた「ウッドストック99/ワン・ワールド」を皮切りに、この種のロック・フェスティバルは世界中で行われることになっており、もちろん日本でもそれは行われています。1999年8月7日〜8日の2日間、富士急ハイランドで開催された「フジ・ロック・フェスティバル99」がそれです。このときは、米国からゲストとして、マリリン・マンソンが出演しているのです。


 こういうロック・フェスティバルでは、何が行われているのでしょうか。それは、とても音楽のコンサートとは思えないほど異常なものです。

 ロックは、心臓の鼓動の持つ自然なリズムと全く逆のリズムをとるため、聴く者の内蔵を打ち、繰り返しの反復によって脳にそれが叩き込まれるのです。 人間が苦痛を感ずる音量は約100デジベルからであるといわれます。ロックコンサートにおけるエレキギターの音は約190デジベルもあるので、苦痛に感ずるほどうるさい音なのです。

 絶えず激しく律動するビートは、高いボリュームで長時間続けられると、いつしか催眠術的な効果が生じてきます。どうしてかというと、神経組織が高音で繰り返し襲われるので、通常の聴覚がマヒしてしまうからです。そうすると超越瞑想のようになって、音楽が醸し出すイメージと歌詞のメッセージに対する深い被暗示性が生まれてくるのです。

 こういう状態になると、音楽という催眠術がかかりやすくなるので、それによって人を操ることは簡単にできます。ビートはただの騒音ではなく、精神を虜にするリズムとなり、観客は心身ともに魅了し、ロボットになるまでそのリズムで操作することができるのです。

 この状態になると、人々は音楽の持つメッセージとイメージをまともに受け入れてしまいます。その場に、目もくらむようなレーザー光線やスクリーンに映し出されるデモーニッシュな映像があれば、乾いた土が水をまたたく間に吸収するように心の中にしみ込んでしまうのです。

 ここにサタニズムが入り込んでくるのです。ロック・ミュージシャンのあの異様な服装や行動は、こういうことと無関係ではありません。ロック・グループの中には、公然とサタン礼拝を打ち出しているものもあるのです。
 

●『ヘイ、ジュード』の謎を解く(EJ第402号)2008年02月27日

The Beatles-Hey Jude

http://www.youtube.com/watch?v=clZLEM7By2A&feature=related
http://www.youtube.com/watch?v=aueurQ1t31Y&feature=related
http://www.nicovideo.jp/watch/sm1589954
http://www.nicovideo.jp/watch/sm4526252

Hey Jude -- by Marta Kubišová
http://www.youtube.com/watch?v=g9QLFJKqaMw
http://www.youtube.com/watch?v=SfU5wdoBpGM

「ヘイ、ジュード」はポール・マッカートニーの作品であり、1966年のシングル・レコードのナンバー・ワンとなった大ヒット曲です。 この曲にはいくつかの謎があります。昨日お話しした「トゥモロー・ネヴァー・ノウズ」はドラッグを賞賛していることは確かなのですが「ヘイ、ジュード」についてはどちらともいえないとする評論家が多いようです。

 まず、「ジュード」とは何でしょうか。

 「ジュード」とは英語読みですが、ラテン語に直すと「ユダ」になります。ウィルソン・ブライアン・キイ教授の著書『メディア・レイプ』によるとこの歌の「ジュード」は間違いなくキリストを裏切ったあのユダであるといっています。この件については、同教授の専門である「サブリミナル理論」とともに号を改めて取り上げる予定です。

 つまり、ここでいう「ジュード」とは、中毒になるまでは友達のフリをし、中毒者になってから初めて裏切られたことがわかるヘロイン(ドラッグ)を象徴していると主張する研究家がいるのです。何はともあれ、歌詞を見ていきましょう。 この歌の前半の歌詞は次のようになっています。

−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
      「ジュード!そんなにくよくよするなよ
      悲しい歌でも気分ひとつで明るくもなるさ
      あの娘をきみの心の中に受け入れるんだ
      そうすれば、また楽しい日々がやってくる

      ジュード!尻ごみしていちゃダメさ
      あの娘を手に入れられるのはきみだけだぜ
      あの娘をその腕で抱きしめるだけでいい
      その瞬間から、きみの世界は明るくなる」
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−


 これだけを見ると、何かで落ち込んでいる男を親友が励ましている歌にとれます。ビートルズの評論家によると、この曲はジョン・レノンが前妻シンシアと離婚が決まった頃の作品であり、時期的にポールがジョンを励ますための歌ととることができます。 

そうすると、ジュードはジョンのことであり、歌の中で歌われている「娘」とは、オノ・ヨーコのことになります。しかし、そうとらないで、ここでいう「娘」はヘロインのことであると主張する研究家がいるのです。確かに、そのことを頭において歌詞を読んで見ると、そのようにも取れるのです。


 歌詞の「あの娘をその腕で抱きしめるだけでいい」という部分は、次の英語になっていますが、何となく注射器を肌に刺すというという雰囲気があります。


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       The minute you let her under your skin.
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 とくにこの歌の後半部分には、意味のとりにくい次のフレーズが出てくるのです。

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       A.So let out and let it in.
       B.You are waiting for someone to perform with.
       C.The movement you need is on your shoulder.
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−

 Aについては、「それを外に出して、それを中に入れる」という意味もドラッグを連想させるといえるし、Bは「君は相手役を探しているのさ」と訳してありますが、「パフォーム」は麻薬の「トリップ」と同意義という説もあります。そうすると、

「一緒にパフォームしてくれる人を待っている」

というぜんぜん違う意味になってしまいます。

 何よりも意味不明なのはCです。訳では、

「君に必要な行動はきみの肩にかかっている」

となっているのですが、かなり苦しい訳であるといってよいと思います。 実は、このCのフレーズについては、ポールの著書に次の記述があるので、ご紹介しましょう。

−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−


『ジョンとヨーコに(「ヘイ、ジュード」を)聞かせたのを覚えている。で、ぼくは

「この歌詞はいずれちゃんとするつもりだけどね」っていったんだ。

「The movement you need is on your shoulder.」
(「君に必要な行動はきみの肩にかかっている」)

というところがあって、ジョンは

「そこ最高だよ!」

っていうんだ。で、ぼくは

「おかしいよ、ぜんぜん意味が通じないもの」

っていったんだ。そしたら彼は

「そんなことない。通じるよ。最高だ」ってね』。

(ポール・マッカートニー著『ポール・マッカートニー/ヒズ・オウン・ワーズ』P23)

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 ポール本人が書いているのですから、これが本当だとは思いますが、これは「注射を刺す場所(肩)」のことをいっているという説があるのです。いまこのようにいうと、いかにも異様ですがビートルズにまつわるいろいろな話を総合すると、いちがいに否定できなくなってしまうのです。
 

●再びヘイ・ジュードについて(EJ第408号)2008年02月29日


 EJ402号について何本かご意見が寄せられています。402号では、ビートルズの「ヘイ・ジュード」についてお話ししたのですが、さすがビートルズについてはファンが多く、EJ402号で示した解釈について異論が出たのです。 ご指摘の内容は、

そもそも「ヘイ・ジュード」という曲は、ジョン・レノンと彼の前妻であるシンシアとの間に生まれたジュリアン・レノンを励ますためにポール・マッカートニーが作った曲ではないかというものです。

「ジュード」という名前は、ジュリアンのことであるというのです。 

ティム・ライリー著/岡山徹訳『ビートルズ全曲解説』によると、次のように書いてあります。


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『もともとこの曲は、ジョンとシンシアの間に生まれたジュリアン・レノンをある日、ポールが車で家に送るときに、彼をはげますために即興でつくった歌だった。ジョン夫妻は離婚が決まり、急に宙ぶらりんになった子供にたいして、ポールの思いやりは向けられている。歌詞が完成しないままで、彼はこの歌をもち込んでジョンに聞かせている』。

(ティム・ライリー著/岡山徹訳『ビートルズ全曲解説』P282)

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 この本の著者であるティム・ライリーは、1960年に生まれたピアニストであり作曲家ですが、現在はボストンのFM局WBURで音楽の解説者として活躍中です。 とくに、その著書『ビートルズ全曲解説』は419ページに及ぶ大著であり、ひとつずつの曲の解説は実に懇切であり、その曲が誕生するいきさつについても詳細です。とくに「ヘイ・ジュード」については、5ページ半を割いて詳しく解説しています。 

ですから、「ヘイ・ジュード」の生まれたいきさつも本当のことだと思います。しかし、歌詞の内容は子供のジュリアンを励ます内容とは考えられないのです。

 しかし、ビートルズ評論家の説とはぜんぜん別の角度からこの曲を取り上げているのは、ウィルソン・ブライアン・キイという教授なのです。キイ教授はサブリミナル(潜在意識)研究の第一人者であり、次の2つの本で独特のサブリミナルの研究成果を発表しているのです。題名が強烈なのでご存知の方もおられるのではないかと思います。


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       『メディア・セックス』
        ・W・B・キイ著、植島啓司訳 リブロボート刊
       『メディア・レイプ』
        ・W・B・キイ著、鈴木晶・入江良平訳 リブロボート刊
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 キイ教授は、『メディア・セックス』において、「サブリミナル・ロック」という章を設けて、ポピュラー音楽に仕掛けられているサブリミナル・テクニックについて解説しています。サブリミナル・メッセージは、比較的に単純な歌詞や音楽上のイリュージョンの中に隠されているとしています。

 キイ教授は、ビートルズについては、本来の歌詞の裏に別の意味が隠されているとして、次のように述べているのです。EJ402号で私が述べた説は、このキイ教授の説なのです。質問もありましたので、少し長くなりますが、本から引用します。


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『「レボルーション」は政治を題材により、ジョン・レノンによって歌われた。――彼はビートルズの中で象徴的な父親の役割を演じていた。そして、母親役がポール・マッカートニーで「ヘイ・ジュード」を歌い、苦悩からの逃避をドラッグという形で示し、スピリチュアルな支えとなった。

「ジュード」の2つの意味が、やはり象徴的に隠されている。

つまり、ジュードは、見せかけの友情のもとで、キリストを裏切ったユダを指示しているのだ。たしかにヘロインは、後に使用者を裏切って中毒にさせるまでは友達と思えるものである。

第二の可能性は、道徳的に乱れた社会で偽善的に生きるキリスト教徒たちに警告を発した使徒ジュードである。マッカートニーの心を惹く声は

「彼女をきみの心の中に入れなさい」

と歌うが「彼女」とはドラッグを意味し、「心」とはドラッグを血液中に循環させるポンプを指している――

そうすれば、「きみはもっとうまくやれるだろう」』。

(『メディア・セックス』W
      ・B・キイ著、植島啓司訳 P198、リブロボート刊)
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 この歌をポールがジョンに聞かせたとき、ジョンは

「あ、これはぼくのことだろ」

といったという記録があります。ポールはそれに対して

「いやあ、ぼく自身のことだよ」

といったそうです。しかし、歌詞から判断すればこれはジョンを指していると考えられます。 ジョンがヨーコにのめり込み、シンシアと離婚した時期に、ちょうどポールも長年付き合っていた恋人で女優のジェーン・アッシャーと別れているのです。したがって、ポールは「ぼくのことさ」と反論するのもわかるのですが・・・。


 さて、「ジュード」は英語読みですが、これをラテン語読みにすると「ユダ」になることは事実です。しかし、いくらなんでもこれはキイ教授の深読み過ぎでしょう。キイ教授のいいたいことは、ビートルズは、世界中のティーンエイジャーたちの間に幻覚を引き起こすドラッグを広めたということです。つまり、ドラッグの使用をポピュラーソングを通じて大衆に訴えるというということをやったのは、ビートルズをもってはじめとするとキイ教授はいうのです。

 ついでながら、キイ教授は、ポール・サイモンとアート・ガーファンクルの名作「明日にかける橋」についても、そういうサブリミナル・テクニックが使われているといっていますが、これについては、号を改めて取り上げることにします。
            

●バックワード・マスキングとは何か(EJ第409号)2008年03月03日


 アイレスター・クロウリーという人をご存知でしょうか。クロウリーは、19世紀末から今世紀にかけて活躍した高名な黒魔術師です。彼は、魔術的秘密結社「黄金の夜明け」団の後継者に選出されたのですが、そこから離反し、独自に「銀の星」という結社を作って、ありとあらゆる邪悪な黒ミサや黒魔術を行ったとされています。

 作家のサマセット・モームは、クロウリーをモデルにした小説『魔術師』の中で彼のことを次のように記述しています。


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『ウソつきで、みっともないほど大言壮語する男だったが、奇妙なのは、そのように豪語していたことを本当にやってのける こともあった、という点である』。
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 クロウリーは、多くの魔術書を書き残しており、現在の黒魔術に大きな影響を与えています。これらの魔術書の中に「バックワード」(ことばの逆回し)ということが書いてあるのです。

 クロウリーはひとびとに逆法則の実践を勧めたのです。反対に歩き、話し、考え、読むことを教育と称して盛んにやらせたのです。そして、未来を見るためには、レコードを逆回転させて聞くよう勧めています。なぜ、そんな馬鹿なことをするのかといわずにしばらく読んでいただきたいのです。クロウリーは魔術書に次のように書いています。


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       ・もし悪魔の力を欲しければバックワードを聞け!
       ・その者にバックワードの書き方を学ばせよ!
       ・フォノグラフ、レコードを逆回転で聞かせよ!
       ・その者に逆さまに話すことを実践させよ!
       ・その者に逆さまに読むことを実践させよ!
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 実はロック・ミュージシャンたちは、このクロウリーの魔術書の影響を受けて実践している者が多いのです。マイケル・ジャクソンなどもそれに影響されて、舞台上で若者に後歩きして歩くよう勧めています。中でもそれを最も熱心にやっていたのが、あのビートルズなのです。

 そんな馬鹿なというなかれ、「サージェント・ペパーズ・ロンリー・ハーツ・クラブ・バンド」のアルバムのジャケットの裏表紙にはわざわざクロウリーの顔を出しているほどなのです。このアルバムには多くの人が写っているのですが、左上から2番目にクロウリーの顔が出ています。

ビートルズの中でも、とくにジョン・レノンはクロウリーの魔術とオカルトに魅かれ、本棚にはその著書をずらりと並べていたほどであるといいます。


 さて、バックワードの話に戻りましょう。これは正確にいうとバックワード・マスキングというのです。これをサブリミナル・テクニックとして、ビートルズはレコードの宣伝・広告に活用しています。それが、当時全世界のビートルズ・ファンに衝撃を与えたポール・マッカートニー死亡説なのです。

 「ポールが死んだらしい」という噂が全世界に広まったことがあります。確かに、当時ポールは人前に姿を現していなかったので、新聞もポールの生死を問う見出しを掲げたものです。

 「マジカル・ミステリー・ツァー」というEPに収録されている「ストロベリー・フィールズ・フォー・エバー」という曲の最後の部分に聞き取りにくい部分があります。何といっているか分からないのですが、注意深く再生して見ると「俺はポールを埋葬した」とつぶやいているのです。

 1969年に出た「アビー・ロード」とLPのジャケットは少し変わっています。そこには、イギリスのアビー・ロードの横断歩道を歩いているビートルズの4人の写真が写っているのですがなぜか、ポール・マッカートニーだけが裸足なのです。

 バックの風景の左側にフォルクスワーゲンが写っています。そのナンバープレートをよく見ると、「28IF」とあります。ナンバープレートまでは読み取れないと思いますが、添付ファイルにジャケットの写真をつけておきます。

 このナンバープレート「28IF」は「もし、ポールが生きていれば28歳だった」という意味なのです。さらに、この「アビーロード」の曲の中には、意味不明の音が入っているのですがこの部分を逆回ししてみると、次のような地の底から響いてくるような弱々しい声が聞こえてくるのです。


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      「Let me out、Let me out、Let me out…」
      「出してくれ!出してくれ!出してくれ!」
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と墓の底から叫んでいるような声が聞こえるのです。

 また、「ホワイト・アルバム」のアルバムに入っている「レボリューションNo.9」では、 えんえんと「ナンバーナイン、ナンバーナイン・・・・」という気味のわるい声で繰り返している部分があります。実は、ここにバックワード・マスキングが使われているのです。

 この部分を逆回転して聞いてみると、地の底から噴き出すような声で次のようにいっているのです。

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      Turn me on,dead man,turn me on,dead man…
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 これは「死人を生き返らせてくれ!」といっているのです。また、同じ「ホワイト・アルバム」の中の「アイム・ソー・タイアード」の中にも同じような部分があるのですが、省略します。

 これは、噂が噂を呼んで、大変な話題となり、ビートルズのアルバムはめちゃくちゃに売れたのです。問題は、これがアルバムを売るためのテクニックではなく、自分たちが予言者であることを誇示していることです。実際に、ビートルズは当時のサタニストやオカルティストに一目置かれていたことは事実なのです。
                 

●ロックに潜むサブリミナル(EJ第410号)2008年03月04日


そもそもサブリミナルとは、意識と潜在意識の境界線の領域を意味するのです。たとえば、夜寝るとき私たちはいつ眠ったか覚えていませんね。そのあいまいな境界線を「識閾(しきいき)」と呼び、サブリミナルとは、その「識閾下」のことをいうのです。

 サブリミナルというと必ず出てくる有名な話があります。米国のニュージャージー州の映画館の話です。その映画館ではそのとき「ピクニック」という映画を上映していました。あのウイリアム・ホールデンが主演をした名画です。

 映画は1秒間に24コマ動くのですが、5秒ごとに、「ポップコーンを食べよう」と「コカコーラを飲もう」という文字のスライドをはさんでこの映画を見せたのです。もちろんこれらの文字のスライドは人間の目には見えず、ただ「ピクニック」のシーンが展開されていくだけなのですが、無意識下ではそのスライドを読み取っているのです。

 この映画は6週間上映され、45000人の観客が見たのだそうですが、その間ポップコーンが58%、コカコーラが18%の売上増になったというのです。映画の間中無意識下に「ポップコーンを食べよう」と「コカコーラを飲もう」と働きかけられた結果本当にポップコーンを食べ、コカコーラを飲みたくなった人が大勢いるということになります。

 これは視覚によるサブリミナル効果ですが、いまEJで問題にしているのは、聴覚によるサブリミナルです。聴覚のサブリミナル技術のことを、「サイコ・アコースティック」といいます。

 ホラー映画というのはかなりどぎつい細工をしているといわれます。映画「エクソシスト」では、殺される豚の叫び声を音楽に挿入し、そのサブリミナル技術によって人々を恐怖に陥れているといわれます。ホラー映画を音声を消して映像だけで見てごらんなさい。ぜんぜん怖くないのです。音がいかに人々を恐怖に陥れるかの証明といえます。

 このサイコ・アコースティックは生理反応にも敏感です。ある科学実験では、「気をつけろ!大変だ!」というパニックした声を1万4000キロヘルツに変調して人間に聞かせたのです。1万4000キロヘルツといえば、聞こえる音は「キーン」という響きだけで内容は聞き取れないのです。

 ところがこの音を人間に聞かせると、人が驚いたときに反応するGSR(皮膚電流)の数値が高くなるのです。聞こえるのは「キーン」という音だけですが、識閾下ではその意味をちゃんと読み取っているのです。

 これを発展させたものが「サブリミナル・マスキング」です。これは、ある音を他の音の音量や周波数を調節することによって覆い隠してしまうことをいいます。あるデパートでこれを使って万引きを防止することを目的とした実験をやりました。

 まず、「私は正直です。不正なことはしません」とか「盗みは不正な行為です。私は絶対にいたしません」といったメッセージを録音します。これを音量や周波数を調節してBGMの中にマスキングします。つまり、ちょっと聞いた感じでは普通のBGMなのですが、サブリミナルに働きかけるメッセージが巧みにマスキングされているのです。

 これを9ヶ月間にわたって実験した米国東海岸のデパート6店舗では、万引きと窃盗が37.5%減少し、約1億円以上の損失を防ぐことができたというのです。これは、サブリミナル・マスキングがよい方に使われた例です。

 ロック音楽には、サブリミナル・マスキングがよくない目的で使われているといわれているのです。ロック音楽の音が異常に高いのは、このサブリミナル・マスキングをやっているせいであるという説もあります。昨日のEJでお話したバックワードというのは、高度なサブリミナル・マスキングなのです。

 「ドッグ・イズ・ナタス」という歌詞があったとします。何の意味かわかりませんがこれが何回も繰り返されるとします。そうすると、意味不明のままその歌詞を覚えてしまうことになります。これを英語で書いてみましょう。


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          DOG IS NATAS.  →  SATAN IS GOD.
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 「ドッグ・イズ・ナタス」は、逆回転すると「サタンは神である」という意味になります。これがバックワード・マスキングです。これが一般に知られるようになったのは1982年のことです。CBSニュースでキャスターのダン・ラザーが「ロック・スターたちは、レコードや歌の中に、逆さに潜在的にサタンの情報を伝えることによって、彼らのメッセージを広め、サタンを崇拝している」として、テレビでそれを実験して見せてからです。

 実は、そのときダン・ラザーは、例の DOG IS NATAS. を紹介したのです。これはジム・ダンデイ・マングルムが、「電灯がアルカンサスにやってきたとき」という曲の中で、しゃっくりのような声を立てて「ナタス、ナタス」と歌うのです。そして「ヘカテ」と呼びかけます。このヘカテは、地上と冥府を支配する女神サタンのことです。

これらのワードを逆回転すると「サタン、サタンよ、彼は神である」となるのです。

 それでは、サタニストはなぜバックワードという手法を使うのでしょうか。それは、彼らは昔から神を冒とくする方法として、逆十字架、逆キリスト像など、すべてを逆さまにする方法をとってきたからです。冒とくと同時に反対にして地に向けることで「地獄を向く」とか「動物の本能に近づく」という意味を持たせ神聖なるものを逆方向に置き換えるのです。そうして、キリスト教の常識を覆そうとするのです。

 ロック音楽によって若者たちのマインドを麻痺させ、本人の知らない間に巧妙に悪魔崇拝にもっていき、気がついたときは魂を抜き取られ悪魔の奴隷になっている。これはもしかしたら、現在多発している17歳の犯罪と関係があるかも知れません。彼らは悪魔に魂を抜き取られているとしか思えないからです。
                   


●ハードロックとヘビー・メタル(EJ第411号)2008年03月05日


 今朝は次の展開のために、ロックの知識を少し覚えていただきたいと思います。 最初に覚えていただきたいのが「リフ」ということばです。例えば、ロック好きの若者は次のように「リフ」ということばを使います。


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       『リフがダセえと曲がパアなんだよな』
       『リフ自体はわるくないけど、サウンドがねぇ』
       『〜のリフは最高にイカしてるよな。イントロが流れるとブルっちまうぜ』
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 「リフ」というのは、イントロやエンディングなどに繰り返しあらわれる印象的なフレーズ・パータンのことです。要するに、クラシックやジャズのテーマに該当するものがシンプルなロックの場合、リフと考えてよいでしょう。 ロック・バンドにとって、このリフは重要であり、リフづくりのうまいバンドは人気が高く、カッコイイのです。キンクス、ストーンズ、ツェッペリン、パープル――これらのグループはリフづくりが巧みであり、歴史に残る名リフも数多く生み出しているのです。リフのポイントは「シンプルなカッコよさ」なのです。

 1960年代後半に英国を中心にあらわれた特徴のあるサウンドを持つロック・グループがあります。クリーム、ディープ・パープル、レッド・ツェッペリン、ブラック・サパス、ユーライア・ヒープなどがそうです。

 これらのグループは、ヘヴィなリフの反復と、曲の中間に登場する、やや長めのギター・ソロを特徴とする形式を持っているのですが、これらのグループが演奏するロックのことを「ハード・ロック」というのです。実は、サタンとの関わりが深いのは、このハード・ロックのグループになのです。

 1969年2月にレッド・ツェッペリンというグループが衝撃的にデビューします。このグループはハード・ロックですが、その作品の中に「天国への階段」というロック史上不朽の名作といわれる曲があるのです。


Led Zeppelin - Stairway To Heaven
http://www.nicovideo.jp/watch/sm7425701
http://www.nicovideo.jp/watch/sm5189246


 この曲は実はいわくのある曲で、その中には邪悪なメッセージが隠されていますし、バックワード・マスキングも施されているのです。これについては、いずれ詳しく述べます。

 このレッド・ツェッペリンがデビューした同じ年の8月に、ニューヨーク郊外のウッドストックで、40万人が集まって3日間にわたり、ロック・フェスティバルが行われたことは前にも述べましたね。この頃からロック・グループはサタンとの関わりを深めていくことになります。

 1970年2月13日の金曜日に、同じくハード・ロックのブラック・サパスというグループがデビューし、アルバム「黒い安息日」を発表して、魔術を曲の中に打ち出してきたのです。これと同時期に、ブラック・ウイドウズというグループが「サクリファイス」(生贄)というアルバムを発表したのですが、この頃にはドラッグと黒魔術は強く合体し、ハード・ロックの世界に定着していったのです。このブラック・サパスとブラック・ウイドウズはともに黒魔術を曲の中に取り入れたのですが、前者は精神的なものとして取り入れたのに対し、後者はイメージカラー的な演出面で黒魔術を活用したのです。


 このようにして、ハードロックの世界に悪魔主義は完全に入り込み、その精神を受け継ぐディープ・パープル、イーグルス、ジューダス・プリースト、シン・リジィ、スコーピオンズといったグループが次々と誕生してきたのです。

 この1970年代を過ぎて1980年代に入ると、ハード・ロックは、ヘビー・メタルに移行していきます。しかし、その間の一時期に「パンク・ロック」というのが流行します。 パンク・ロックというのは、体制に反発する音楽イデオロギーのことをいうのですが伝統の崩壊、秩序の破壊、既成社会への反抗の叫びをヒステリックに主張し、日常の欲求不満をすべて音楽にぶつけたものをいうのです。

 セックス・ピストルズ、クラッシュ、ダムド、チェルシーなどは、パンク・ロックグループですが、彼らはきわめて異常な風体をしていたのです。世紀末風のファッション鋲つきの皮ジャンにチェーン、髪は逆立てて極彩色に染め、死人のような青ざめたマスカラの隈どりといえば、ピンとくると思います。

 しかし、彼らに決定的に欠けていたのは演奏力であり、長時間のコンサートには耐えられなかったのです。時代の異端児としては注目されたものの、演奏レベルの低さに人気は長続きせず、当然の帰結として、出現の瞬発力と同じスピードで姿を消してしまうのです。しかし、あの奇妙な風体だけは、若干姿を変えて次のヘビー・メタルに受け継がれることになります。

 さて、ヘビー・メタルとは何でしょうか。

 ヘビー・メタルとは、そのサウンドを表現するものです。どういうことかというと、ギター・コードの激しく鳴り響く音がデトロイトの自動車工場で、鋼鉄から車の部品をプレスする流れ作業場の、耳をつんざくような騒音と似ているところから、そう命名されたのです。

 その特徴はといえば、研ぎすまされた粗野でストレートな表現力、他の追随を許さぬスピード感にあるといえます。そして、当然のことながら、より悪魔主義と一体になっていきます。

 アイアン・メディアン(鉄の少女)というグループは、悪魔の数字といわれる666を前面に打ち出した曲「獣を野に放て、666、ナンバー・オブ・ビースト」という曲を演奏し、悪魔主義運動を起こし、ヘビー・メタルの先頭に立ちます。

 そして、ヴェノム、サタン、デーモン、ウィッチファンド、エンジェルウィツチなどのバンドが誕生するのです。まるで、地下教団的な秘密組織みたいですね。こういうヘビー・メタルのファンの56%は17歳以下の青少年なのです。・・・
http://intec-j.seesaa.net/category/4751327-1.html

http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/440.html#c6

[近代史3] アメリカ人には音楽は理解できない _ ジャズなんか音楽じゃない 中川隆
7. 中川隆[-10371] koaQ7Jey 2019年5月18日 18:01:01 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[1948]

2019.01.15
支配層はショー・ビジネスを人心を操る重要な道具として使っている

 人心を操作する上でショー・ビジネスは重要な役割を果たしてきた。その影響力を西側の支配層が知ったのはベトナム戦争当時だろう。


 ベトナムでテト攻勢があった1968年当時、ローリング・ストーンズのブライアン・ジョーンズやミック・ジャガー、ビートルズのジョン・レノン、ドアーズのジム・モリソン、あるいはジミー・ヘンドリックスやジャニス・ジョプリンなどのロック・スターも戦争に反対する意思を示していた。


 こうした人々が戦争反対で連携した場合、支配層は侵略戦争の継続が困難になる可能性が高かったのだが、こうした支配層にとって幸運なことに、平和を訴えるスターたちは次々に死んでいく。


 例えば、レノンやヘンドリックスにグループを結成しようと持ちかけていたというジョーンズは1969年7月にプールで死亡(殺人の目撃証言がある)、その5ヶ月後にはオルタモントで音楽フェスティバルでローリング・ストーンズ演奏中にメレディス・ハンターという若者が銃を構えながらステージに登るという出来事もあった。


 1969年にはマフィアがヘンドリックスを誘拐、マネージャーになった元MI6(イギリスの対外情報局)マイク・ジェフリーが自身のマフィア人脈を使って救出したとされているが、ジェフリーが誘拐を計画したとも疑われている。ヘンドリックスを麻薬漬けにしたのはジェフリーだともいう。モリソンが変死した2ヶ月後、ヘンドリックスは問題のマネージャーを解雇、その翌日にヘンドリックスは死亡した。1970年には反戦コンサートへの参加を計画してジョプリンがヘロインの過剰摂取で死亡している。


 1970年代に活動を休止していたレノンは1976年にビートルズの再結成に向けて動き始め、1980年10月にはシングル曲「スターティング・オーバー」をまた、11月には「ダブル・ファンタジー」というアルバムを発表して本格的に音楽活動を再開させた。


 新曲を発表する前年、1979年12月にNATOは83年にパーシング2ミサイルをNATO加盟国に配備することを決定、核戦争を懸念する声が世界的に高まり、反戦/反核運動が盛り上がっていた。そのタイミングでレノンが復活することを支配層が恐怖したことは想像に難くない。レノンは1980年12月、マーク・チャップマンに射殺された。


 モリソンは別の側面でも注目されている。父親のジョージ・ステファン・モリソンはトンキン湾事件当時、アメリカ海軍の空母ボノム・リシャールの艦長としてそのトンキン湾にいたのだ。


 フランク・ザッパの父親、フランシス・ザッパが情報機関の仕事をしていたことも知られている。化学戦の専門家だったのである。


 親イスラエル派として有名なトニー・ブレアはイギリスの首相になる前、1994年1月に妻のチェリー・ブースとイスラエル政府の招待で同国を訪問、帰国して2カ月後にはロンドンのイスラエル大使館で富豪のマイケル・レビーを紹介された。その後、レビーはブレアの重要なスポンサーになる。


 そのレビーは音楽業界で成功した実業家。1960年代から70年代にかけて興行主として活動、マグネット・レコードを創設、後に会社を売って資産を築いている。


 ハリウッドや有力メディアと情報機関との関係は本ブログでも繰り返し書いてきたが、アメリカの音楽業界にも情報機関のネットワークが張り巡らされている。1977年にリリースされたイーグルスの「ホテル・カリフォルニア」の中に「1969年からスピリッツはない」という歌詞がある。アメリカ音楽会の状況と理解することも可能だ。


 日本も似たような状況になっているだろう。
https://plaza.rakuten.co.jp/condor33/diary/201901150000/


▲△▽▼


死の直前、ジョン・レノンは、プレイボーイ誌のインタビューに答えてこう言った。

「我々は、LSDのゆえにCIAと軍に感謝を忘れてはならない。彼らは、人々をコントロールするためにLSDを発明し、我々に自由を与えてくれた。LSDに関する政府の報告書を見てほしい…」

レノンは、さらに、ビートルズが薬物に関する心理的実験のモルモットにされていたことに気づいたと述べた。また、ビートルズやビートルマニア現象が、グローバリストの「社会操作と心理実験」の一つであることも示唆した。

・・・同じインタビューの中で、オノ・ヨーコは

「70年代に起こったことは、ナチズムのもとでユダヤ人家庭に起こったことと比較できると本当に思っている。彼らを引き離したのは外部からではなく、内部の力による。」

と述べた。
http://web.archive.org/web/20030805225305/members.shaw.ca/illuminaticonspiracy3/wkjl.html

Henry Makow Ph.Dによると、レノンは、ビートルズがタヴィストック研究所(ロスチャイルドやロックフェラーの資金提供により大衆心理操作について研究している)によって作られたと述べたという。

殺害される1週間前に、ジョン・レノンはニューヨークのラジオインタビュー(私は数回聴いた)で、次のように語った。すなわち、

ビートルズは、新しいパラダイムを作り出し、若者に伝統的な価値観を捨てさせ、セックス・麻薬・ロックに染まらせるためにタヴィストック研究所が作り出したものである、

と。ジョンは、もう隠れるのはやめて、秘密の計画全体を暴露するつもりだと述べた。

http://www.thebirdman.org/Index/Others/Others-Doc-ConspiracyTheory&NWO/+Doc-ConspiracyTheory-WhoAreTheNewWorldOrderlies/HitlerWasABritishAgent-HenryMakowReviewsGregHallettBook.htm

ジョン・レノンの暴露を恐れたグローバリストは、彼の殺害を決定したという。

この後、新世界秩序のトップであり、グローバリスト、CIA長官、タヴィストックの走狗、副大統領ジョージ・ブッシュ・シニアが、ニューヨークにおいてレノン暗殺を命じた。

http://web.archive.org/web/20030805225305/members.shaw.ca/illuminaticonspiracy3/wkjl.html

レノン暗殺は、マインドコントロールによる政府の間接殺害であるという。

犯人のマーク・チャップマンは、マインドコントロールにより殺害を誘導された。

情報公開法により開示された書類によれば、合衆国連邦政府の様々な部署が、数十年にわたってある技術の開発に関わっていたことが分かる。

その技術とは、無実の個人を秘密裏に操作することによって、ターゲットとなった人物を暗殺させる技術である。

http://web.archive.org/web/20030805225305/members.shaw.ca/illuminaticonspiracy3/wkjl.html

同じ手口は、ロナルド・レーガン大統領暗殺にも利用された。

レノン暗殺の数ヵ月後、新しく大統領になったロナルド・レーガンがジョン・ヒンクリーによって暗殺されかかった。

ジョンの父親デンバー・ヒンクリー(コロラド州)は、ジョージ・ブッシュ・シニア一家の非常に親しい個人的な友人であった。

レーガン暗殺未遂事件前の数週間、ヒンクリーはニューヨークの通りを歩いた。彼は、ジョン・レノン殺害前にマーク・チャップマンがたどったであろう足跡をできるだけ正確になぞろうとした。チャップマンもヒンクリーも暗殺後の逮捕時に、JDサリンジャーの小説『ライ麦畑でつかまえて』を携帯していた。

JDサリンジャーには、アメリカの諜報機関、とくにCIAとの間に長期間にわたって太いパイプがあった。

http://web.archive.org/web/20030805225305/members.shaw.ca/illuminaticonspiracy3/wkjl.html

ビートルズのニューエイジ運動により、世界は60年代を境に180度変わった。

ニューエイジ運動は、悪魔崇拝者グローバリストの計画によって生み出され、人々にキリスト教価値観を捨てさせ、悪魔を崇拝するように導いてきた。

このニューエイジの世界悪魔化計画を阻止するのは、クリスチャンの祈りと勇気ある行動である。


悪魔に立ち向かいなさい。そうすれば、悪魔はあなたがたから逃げ去ります。(ヤコブ4・7)

http://tak0719.web.infoseek.co.jp/qanda3/83N1uMn6hqklk74283.htm


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ジョン・レノンが殺された意味 2007.05.14.Mon


ジョン・レノン・・・ビートルズを創ったロッカーであり、「イマジン」を代表とする音楽によって、オノ・ヨーコと共に世界中の人々に平和へのメッセージを送った彼であるが、ビートルズやその楽曲についてはよく知っていたとしても、我々はその死について一体どれだけのことを知っているのだろうか?・・・

1980年12月8日に一人の男によって射殺された事実は知っているだろう、しかしなぜ彼が殺されなければならなかったのか?、その「死」によって一体何がもたらされ、そこにどんな意味があったのか?・・・

アメリカという国の歴史や事件をリアルタイムで目撃し、より知るようになった今・・・例えば9・11の事件について様々な疑問が提示されているという事実を考え併せた時、あらためてジョン・レノンが殺された意味を考えると、そこには決して偶然ではない様々な「闇」が横たわっていることに気付く。

アメリカ史の中の暗殺事件、直ぐに思いつくのはJ・F・ケネディ、マルコムX、キング牧師・・・。彼らが標榜したものは政治的公正、社会的正義、人種差別撤廃、白人至上主義への対抗など・・・彼ら自身がその象徴であり、その一方でいわゆる「リベラル」とは逆の立場に位置する人たちの暗殺事件があまり思い浮かんでこないことを考えると、このバランスの悪さが単なる偶然ではないことは自明のことだと思う。さらに、先に挙げた暗殺事件のいずれもが、CIAやFBIの関与が噂されながら、真相がはっきりとはしていないのだ。

権力機構の謀略について、一般市民が想像もつかないようなことが日常茶飯事に行われているということは古今東西どこの国でも同じだろう。謀略を軽視したような論評は、単に表面的に提示されている事象を判断しているだけのことでしかなく、謀略があるところでは逆に表面的に提示された事象自体が意図されたものであり、逆の意味を持ちうるという認識が欠落している。事実に対して意図的な捏造を単純に提示するだけで、事実と虚飾とは同等に扱われ、事実の信憑性は理不尽にも半減してしまうというあまりにもシンプルなトリックがあるということを我々はよく認識すべきだ。大量破壊兵器が存在しているというイラク戦争の大義名分も実は捏造であった・・・注意深くニュースを追っていればそんな風説が堂々とマスコミで流されているという事実、意図された情報操作に気付くことであろう。それが「普通」なのだ。

ジョン・レノンの暗殺についても、犯人はジョン・レノンの熱狂的なファンであったとかいうような説が流れているが、それが事実に反することであるにも関わらず、流布された風説は今だに多くの人の固定観念に座り続けていたりする。

ジョン・レノンを殺害しなければならない・・そう犯人が確信していたことは分かる。

では何故、殺害の対象がジョン・レノンでなければならなかったのか・・・

その部分についてまったく「闇」の中と言ってよい。超大国アメリカには世界的な有名人はいくらでもいる(いた)だろうし、本当の意味での偽善者もいくらでもいる(いた)ことだろう。・・・しかし敢えてジョン・レノンは対象に選ばれた。ドラッグなどで命を落としたミュージシャンは数多くいるが、暗殺されたミュージシャンをどれだけ挙げることが出来るだろうか?そこには政治的な意図を持った明確な意志が存在していたと考えるほうが自然だと思うのだ・・・。


レノン・レジェンド ~ザ・ヴェリー・ベスト・オブ・ジョン・レノン ジョン・レノン (2003/10/29)

http://www.amazon.co.jp/exec/obidos/ASIN/B0000DCVE3/fc2blog06-22/ref=nosim/


このDVDを観て、「ジョン・レノンが殺された意味」をリアルに認識することとなった・・・

予想に反してかなり興味深く、衝撃的な内容であった。2003年に発売され、ジョンレノンの代表曲を並べた映像作品であるが、ジョン・レノンの生前の姿にはやはり感慨深いものを感じざるおえなかった。

自分がジョン・レノンの曲の中で一番好きな曲は「マインド・ゲーム」なのだが、その曲の映像に使われていたジョンのコミカルなダンスを観て、彼が死んでしまったことにはじめて悲しみを覚えた。自分の中でのジョン・レノンは、最初から既に殺されてしまった人であり、もっと世代が上の人たちのように、リアルタイムでビートルズやベトナム反戦運動、そしてジョン・レノンの死を体験してきたわけではなかったからだ。

イマジネーションあふれ、どこかノスタルジックでもある「マインド・ゲーム」をBGMに、野外ステージで一人でコミカルなダンスをするジョン。その姿を見て、ああ〜、彼は多くの人に本当に愛され、ウィットに富んだスターだったんだな〜と思わずにはいられなかった。それは哲学的な姿でもなく、反戦運動のリーダー的姿ででもなく、気難しい芸術家の姿でもなく、型にはまったミュージシャンの姿でもなく・・・観衆を楽しませようとする茶目っ気たっぷりなポップスターとして、何か驚くようなことをやってくれそうな庶民の期待の星として、あれだけ多くの人たちに愛されたのだとはじめて理解した。それゆえに彼が殺されてしまったという事実に泣けてきた。

●LENNON LEGEND 公式サイト
http://www.lennonlegend.com/


※サンプル映像はトップページの[ENTER]ボタンでFLASHのメニューを表示させ、その中から[THE DVD]を選択し、さらに[VIDEO PREVIEWS]を選択することで各曲のサンプル映像につながるリンク [High / Low] を表示することが出来る。

サンプル曲のトップには「Happy Xmas(War Is Over)」が掲載されていた。その映像を一番見てもらいたいと制作側が意図しているということだと思う。

イラク戦争が泥沼化し、犠牲者が増え続ける中、オノ・ヨーコ、そしてジョンレノンとともにベトナム反戦運動に関わった人たちは「ジョンが生きていれば・・・」そう思ったに違いない。ジョンが生きていれば間違いなくイラクから軍隊を撤退するよう行動を起こし、音楽を作り、街頭に出たことだろう。それはもう叶うことのない夢であった・・・。

しかしオノ・ヨーコ、そしてジョン・レノンの願いを受け継いでいった人たちはこのDVDによって、その叶うことのない夢を少しでも現実に近づけようとしたのではないかと思う。DVD収録の最期の曲「Give Peace A Chance」では、ベトナム戦争当時、街頭で反戦デモをする市民、そして学生たちの抗議集会、ニューヨークでも、ロスでも、シカゴでも、全米のいたるところで巻き起こった反戦デモの映像が取り上げられていた。

そしてその先頭で「Give Peace A Chance」を歌うジョン・レノンとオノ・ヨーコ。その映像を見ながら、「ああ〜ジョン・レノンが殺された意味ってそういうことだったんだな〜」と理解した・・・。

ジョン・レノンの死に関することをもっと詳しく知りたい・・・そう思ってまず読み始めたのがこの本だ。


誰がジョン・レノンを殺したか? (1990/10) フェントン ブレスラー
http://www.amazon.co.jp/exec/obidos/ASIN/4276234700/enurou-22/ref=nosim

この本を読んでいて興味深いところは、1980年にジョン・レノンが暗殺されるまでの数ヶ月の動き、共和党のレーガンが大統領に就任したこと、数年に渡る音楽活動停止から復活し、気力に満ちたジョンレノンが再びアルバムを出したことなど、なぜ事件が1980年12月に起こらなければならなかったのか、先に挙げた動きとの連動を想起させるところだ。

また、筆者は事件の犯人であるマーク・チャップマンについて、ジョン・レノンの熱心なファンでもなければ、マークがジョン・レノンだと思い込んでいた異常者でもなかったという事実を提示している。マークは何故ジョン・レノンを殺害しなければならなかったのか・・・その背景を探るのがこの本の主題であり、そのことについて筆者はマインド・コントロールの成果ではなかったかとの説を唱えている。 綿密な取材を行い、世間に流布されているこの事件に関するさまざまな誤りを一つ一つ指摘していく筆者の主張には説得力がある。ジョン・レノンが早い時期からFBIの監視対象となっていたことは周知の事実であり、彼のような主張と影響力を持った者であるならば米国では当然のごとく監視対象となることだろう。

http://enurou.blog96.fc2.com/blog-entry-57.html
http://enurou.blog96.fc2.com/blog-entry-56.html
http://enurou.blog96.fc2.com/blog-entry-53.html
http://enurou.blog96.fc2.com/blog-entry-54.html

ジョン・レノン暗殺に関する2冊目の本を読み終えた。

フィル・ストロングマン&アラン・パーカー著、小山景子訳の

『ジョン・レノン暗殺―アメリカの狂気に殺された男』
http://www.amazon.co.jp/%E3%82%B8%E3%83%A7%E3%83%B3%E3%83%BB%E3%83%AC%E3%83%8E%E3%83%B3%E6%9A%97%E6%AE%BA%E2%80%95%E3%82%A2%E3%83%A1%E3%83%AA%E3%82%AB%E3%81%AE%E7%8B%82%E6%B0%97%E3%81%AB%E6%AE%BA%E3%81%95%E3%82%8C%E3%81%9F%E7%94%B7-%E3%83%95%E3%82%A3%E3%83%AB-%E3%82%B9%E3%83%88%E3%83%AD%E3%83%B3%E3%82%B0%E3%83%9E%E3%83%B3/dp/4902800012

ジョン・F・ケネディ暗殺やロバート・F・ケネディ暗殺についての様々な矛盾点、暗殺と米国保守権力との関わり、そしてまたベトナム戦争でのソンミ虐殺事件、エルサルバドルでのアメリカ人修道女虐殺事件など、米国現代史における負の事件とその背景を指摘していった怒りの告発本ともいうべき内容だった。

ジョン・F・ケネディ、キング牧師、ロバート・F・ケネディ、ジョン・レノン、彼らはみんな名誉を傷つけられている。死人に口なしと言われるとおり、彼らが誰かを告訴することはもうできない以上、これほど無防備で狙いやすい標的もないだろう。我々は、汚いやり口の”暴露証言”にまんまと乗せられないよう用心すべきだし、暴露の仮面をかぶった卑劣な攻撃について、その情報源を徹底的に追求すべきだ。例えばイギリスでは、レノンの死とアメリカ情報関連機関とのつながりを初めて正面から論じた著作としてフェントン・ブレスラーの『誰がジョン・レノンを殺したか?』が出版された時、評論家のマイルズ・コープランドが大手新聞に、この本を目茶苦茶にこき下ろす記事を載せた。しかし、コープランドの父親がCIAの共同設立者の一人だったという重要な事実は、もちろんこの記事には一言も書かれていない。権力機関に関わる調査報道やノンフィクションに対する誹謗中傷を見たならば、その背景を注意深く考える必要がある。

・・・その『誰がジョン・レノンを殺したか?』について、最期までジョン・レノン暗殺にCIAが関与していたという直接的な証拠が提示されることはなかった。しかしジョン・レノンを殺したチャップマンについて、ビートルズマニアでも、ジョン・レノンマニアでもなかったこと、一匹オオカミでも精神的な異常者でもないということ、殺人の動機について説得力ある動機が何一つ提示されていないこと、ジョン・レノンを殺すまでのチャップマンの軌跡には、中東のベイルートに滞在して何らかの体験をしたり、共産圏を含めた世界一周の旅に出たりと、資金的な面を含めていくつもの不可解な点があるということ、そしてジョンを殺すため、わざわざハワイから飛行機に乗って二回もニューヨークへ来ており、二回目にニューヨークへ向かう際、シカゴに滞在したことが隠蔽されていたことなど、これまで世間一般に広まっていた諸説を否定する事実が記載されていた。

フェントン・ブレスラーは、チャップマンによるジョン・レノンの暗殺はCIAによるマインド・コントロールの結果ではなかったかと世に訴えたわけだが、その説は何も突拍子なく驚くような話ではないということを、いろいろ調べていくうちに知ることとなった。

本書は米国の「狂気」の現代史をつづるとともに、ビートルズ、そしてジョン・レノンの軌跡を時系列に従って追っていたものである。その中でもジョン・F・ケネディ暗殺、ロバート・F・ケネディ暗殺については、ジョン・レノン暗殺につながるエポック的な事件として、ストーリーの軸に据えられている。

この本は米国の現代史を解説することによって、フェントン・ブレスラー著『誰がジョン・レノンを殺したか?』を補完するような内容となっている。著者はジョン・レノン暗殺を・・・”CIAのMKウルトラという高度な戦略を完成させる最期の事件”・・・と仮説を立てている。MKウルトラとは1950年代に始まったCIAによるマインドコントロールの実験であり、そのような実験が実際に成され、犠牲者も出ていることは公式な記録として残っている。(以下参考サイト例)


●リンク:Wikipedia「Project MKULTRA」
http://en.wikipedia.org/wiki/MKULTRA


ロバート・F・ケネディ暗殺の犯人とされたサーハン・べシャラ・サーハンはマインドコントロールをかけられていた・・・など、本書は米国の影の歴史に免疫がない者にとってはかなり衝撃的な内容となっていると思うのだが、その中でも、自分が最も衝撃を受けたのはマインドコントロールに関する以下の記述であった。

1994年、メキシコの大統領候補コロシオが、”一匹狼”のアブルトという男に暗殺された。アブルトは、コロシオが自分に近づいて来るまで、彼を殺したいとは思わなかったと供述し、自分の心の中からコロシオを撃てと命令する声が聞こえたとも言った。警察署長は、アブルトが自分の自由意志だけで行動したはずはないと確信した。さらに、その日のガンマンはアブルトだけではなかったはずだと考えた。ところがアブルトが何者かに銃殺されて、警察の捜査は行き詰まった。メキシコ政府の公式調査委員会は、おそらくマインド・コントロールの専門家と共謀した暗殺者がコロシオを暗殺したと結論づけた。この殺人は陰謀によるものであり、この陰謀を強力に支援する存在があるようだが、メキシコ警察は真相を追究できないでいると報告した。

CIAのような諜報機関がマインドコントロールについて実験を重ねるというのは容易に想像がつくことではあるのだが、しかしメキシコとは言え、実際にマインドコントロールによって要人が殺害されたという、政府の公式記録があるというのには少なからず驚いた。マインドコントロールによる暗殺事件・・・何か突拍子もないことのように思えるが、突拍子もなく思うのは単にそう思う人が世界の現代史について無知であるからだ・・どうやら我々はそんなふうに言わざるおえないような状況の中で生きているのかもしれない。

このノンフィクションは、ジョン・レノン殺害の罪でアッティカ刑務所に服役しているマーク・チャップマンに対し、200時間を超えるインタビューを行い、加えてチャップマン夫人や関係者の証言をもとにして、レノン暗殺までのチャップマンの道のりを再現し、さらに服役中の彼について書かれたものだ。刊行は1992年とされている。

前述したフェントン・ブレスラーの『誰がジョン・レノンを殺したか?』などとは異なり、レノン殺害に関するCIAやFBIの関与については一切記載されてはいない。タイトルにあるとおり、本書の主役はあくまでチャップマンであり、彼の視点による犯行前後の状況、子供時代から歩んできた道のり、そして服役中の様子を描くことが目的となっている。この物語の中では、ジョン・レノンはあくまでも脇役に過ぎない。

では、そんなチャップマンの物語の中でレノン殺害の動機は一体どう描かれているのだろうか? その点に注目して本書を読み進めていったのだが・・・

レノンが殺害された1980年、ハワイでレノン殺害の計画を立てるまで、チャップマンの人生の中にレノンの名前が出てくることはほとんどなかった。子供時代に『ミート・ザ・ビートルズ』のアルバムを聴きながら、想像の産物である”リトル・ピープル”と楽しんだとか、「イマジン」の歌詞を変えて ”想像してみろ、ジョン・レノンが死んだならと”と替え歌を歌ったとかいう(かなり胡散臭い)エピソードぐらいではないだろうか。

そんなチャップマンが何故レノン殺害計画を立てるようになったのか・・・動機となりそうな話は1980年のホノルル市立図書館でのエピソードの中で突然登場してくる。当時何を探すでもなく図書館の本をランダムに読んでいたというチャップマンは、たまたまアンソニー・フォーセットの『愛と芸術 革命家ジョン・レノン』を手にしたという。その本を読み、「財産などないと想像してみろ」と歌っておきながら大金持ちの暮らしをしているレノンに対し、「いんちき(フォーニー)」として激しい憎しみを覚えたというのだ。

取って付けたようなエピソードが突然登場してくるわけだが、「いんちき(フォーニー)」と呼ばれる人は世に五万といるであろうが、何故憎しみの対象がジョン・レノンに特化されなければならなかったのか・・・その部分について辻褄の合う話はどこにも書かれていない。レノンの音楽に傾倒するあまり人生を狂わされてしまったというような具体的な事例が書かれているならまだしも、それどころかレノンのソロ時代のアルバムについてはどうやらその図書館で初めて聴いたような記述すらされているのだ(278P)。

つまり、1980年にホノルル市立図書館に行くまでレノンについて無知であったチャップマンが、レノンのことを「ぼくにとっては反体制の人であり、カウンターカルチャーの人であり、英雄だった人」と証言するのは余りにも矛盾に満ちている。逆の視点で見れば、この期間に、何らかの力によってレノンへの憎しみを植え付けられたとも見えるのだ。

チャップマンが「いんちき(フォーニー)」と感じた人であるなら、殺害の対象は誰でもよかったようにも思える。しかしその対象はあくまでもレノンであった。彼はそのために、妻を残し、母を残し、一人ハワイから飛行機に乗った。ニューヨークで弾丸が手に入らなかったことからアトランタまで出向き、再びニューヨークへ戻ったがそのままハワイへ帰ることとなる。そして執念深くも再びハワイからニューヨークへ出向き、ホテルに滞在し、根気強く何時間もレノンを待ち続け、その計画を果たすこととなった。・・・その動機から考えるにあまりに馬鹿げた話ではないか。


事件を起こした当時について、チャップマンは

”(自分自身が)まるで暴走列車で止めようがなかった”

とか、

”何者かになりかった”

とか、

”自分の中の「子供」の叫び声が大きくなって必死でやめさせようとした「大人」は姿をくらました”


とか、内面の分裂状態について述べている。期間的にも、資金的にも、簡単には実行できないであろう計画的犯行でありながらこの内面の矛盾は一体どう説明すればいいのだろうか?

さらに驚くべきことに、裁判開始後、事件を起こした動機は、サリンジャーの『ライ麦畑で捕まえて』を多くの人に読んでもらいたいからという理由に変わってしまうのだ。

ホノルル市立図書館で火が点いたレノンに対する憎悪という動機は一体どこへ行ってしまったのだろうか? 

本当にレノンを憎悪し、確信犯的に犯行を犯したとすれば、逮捕後も、そして裁判が始まってからも、レノンの「偽善者」ぶりについて世に訴え、自分の行為を正当化するはずではないだろうか?・・・

しかし憎悪どころか犯行当日に彼は、レノンからアルバム「ダブル・ファンタジー」にサインをもらい、嬉しさのあまりそのままハワイへ帰ってしまおうかと考えたほどなのだ。さらにチャップマンは、著者に対するインタビューの中で、レノン殺害については間違ったことであるとも認識しており、刑に服している間チャップマンを英雄視して送られてくる手紙に対し、情けないものを感じるとも述べているのだ。

このようにチャップマンの犯行の動機について、整合性のある動機が何一つ存在していないことから、精神学的なものを含め、裁判の過程でさまざまな説が提示されることとなった。それらの説は真相を究明する目的というより、裁判を進めるために生み出されたものであり、事実関係を誤ったまま述べられているものも多く、今なおウソや誤解が定着してしまっている元凶ともなっている。

チャップマンの証言を素直に解釈するなら、彼の内面には、レノンを殺したくはない自分と、レノンを殺さなければならなくなった自分の二つが存在していたことととなり、彼はその葛藤で揺れていたのだ。・・・

依然として究明されていないその動機、そして米国の闇の歴史とレノンを消すことによってもたらされる「社会的効果」を考え併せた時、フェントン・ブレスラーの説のようにCIAによってマインドコントールされた結果という説もあながち外れてはいないように思えるのだ。そうとでも言わなければ、チャップマンのモチベーションについて、まったく説明がつけられない。これだけは確信を持って言えることは、少なくともチャップマンが事件を起こした背景には、なんらかの組織なり団体なりが関与していたことは間違いなく、それがCIAなのかどうなのかまではわからないが、矛盾に満ちたチャップマンの証言、犯行までの資金的側面を考えれば、単独犯行ではないことは明らかであろう。

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誰がジョン・レノンを殺したか?


 先日、BS-Japan で放映された「ザ・ラストディ〜誰がジョン・レノンを殺したか」という番組をたまたま視た。なかなか興味深い番組だった。基本的にはジョン・レノン殺害陰謀説に基づく推論を中心とした番組だったが、TVというメディアでこの種のテーマで長時間番組を放映することは余りなかったような気がする。 内容の大筋はこうだ。

 ジョン・レノンを殺害したマーク・チャップマンは、当時ジョン・レノンの熱狂的なファンといわれ、事件はこの「熱狂的ファン」による凶行と全世界に報じられたが、その後の検証ではチャップマンは、ジョンのファンはなく、レコードを収集していた事実もなかったことがわかった(彼はトッド・ラングレンのファンだった)。また、事件後も現場から逃げようとはせず、警察が駆けつけるまでその場に座り込んでサリンジャーの『ライ麦畑でつかまえて』を読み続けるという異常な行動をとっていた。警察の取調べにもジョン・レノン殺害の動機について、「『ライ麦畑でつかまえて』を読めばすぐわかるよ」などと意味不明なことをいい、警察官もまるで何ものかにコントロールされているようだという印象をもったという。

 番組はいくつかの検証をおこない、結果としてCIA陰謀説を主張する。5年間音楽活動を休止して子育てに専念していたジョンが復帰したことについて、タカ派のレーガン政権はその反戦運動の政治的影響力に危機意識をもっていた。実際、CIAがジョン・レノンの活動を調査し続けていたことは、ジョン・レノン・ファイルの存在によって広く知られている。1981年にはジョンがアメリカ国籍を正式に取得することが可能となる予定だったのだ。

 マーク・チャップマンとCIAの関係については、YMCAの介在をあげている。チャプマンはかつてYMCAに加入してその一員として活動していたが、YMCAはCIAの活動の拠点となることが多いらしく、両者は密接な関係にあるようだ。このことは、元CIAのフランク・チャーチーという人が『CIA・ダイアリー』 という暴露本に書いているのだそうだ。ところで、チャップマンは、犯行の数日前、住んでいたハワイから、シカゴへ飛び、そこで3日間を過ごしていたはずなのだが、シカゴ到着後すぐニューヨークへ飛んだようにみせる旅券によって、シカゴでの3日間の消息がな何者かによって隠蔽されている。シカゴで一体何があったのだろうか。誰が虚偽の旅券を用意したのだろうか。ここでもCIAの存在が疑われることになる。

 ジョン・レノンの殺害については、CIAによるマインドコントロール説が主張される。『ライ麦畑でつかまえて』はマインドコントロールのキーワードなのであり、相手をあやつる引き金となるものだったのではないかということだ。実際、この当時、CIAは、「MK・ウルトラ計画」 「アーティーチョーク・プロジェクト」 という、催眠・洗脳・暗殺などの実験を行っていたようであり、事件後にチャップマンを精神鑑定を行った医師、ジョリー・ウエストは、その「MK・ウルトラ計画」 に従事していたのではないかとの疑惑がある。 ウエストは、ロバート・ケネディー暗殺の犯人サーハン・サーハンや、J.Fケネディ殺害犯のオズワルドを殺したジャック・ルピーの精神鑑定もしているというのだから、疑惑はさらに深まる。

 最後に新事実が提示される。チャップマンが使ったのは5連発のリボルバーだったはずだが、銃弾は7発あったというのだ。 しかも、銃痕はチャップマンが撃った方向からのものではなかった。 ジョン・レノンを撃った人物として、レノン夫妻が住んでいた 「ダコタハウス」 の門番が疑われる。そしてこの 門番のホセ・ベルドーモもまた、CIAと関係が深い人物だというのである。
http://watercolors.blog.ocn.ne.jp/watercolors/2010/12/post_26fd.html
http://ameblo.jp/kirimarukun/entry-10730269116.html


 1980年12月8日、ジョン・レノンが射殺された日のことは私もおぼろげながら覚えている。真っ先に感じたのは『これは暗殺ではないか?』という漠然とした直感だった。

レノンがアメリカに在住の間、FBIの厳重な監視下に置かれていたことは有名だ。

射殺犯チャップマンが即座に海軍病院に連行されたことも腑に落ちない。

そのチャップマンの仮釈放で、復讐を誓う暗殺志望者が続出していることは残念であり、憤りさえ感じる。レノンほど暴力を嫌ったミュージシャンはなかった。ファンとして故人の意志を尊重するならば、復讐なぞもってのほかであろう。彼の死を悼むなら、まずあの忌まわしい事件の背後関係を調べるべきなのだ。


 チャップマンはたびたびYMCAに出入りしていた。そのYMCAは諜報機関の隠れ蓑として、CIAも利用していた。表向きとは裏腹に、YMCAは戦闘的な反共組織としても知られている。 元CIAフィリップ・エイジーは著書「CIA日記」において

「エクアドル首都キリーのYMCAは諜報機関の連絡基地だった」

と記している。そしてキトー自身そこで主事をしている。南米が国際的テロ・ネットワークの雛型になっているのではないか?とした昨日の日誌にも繋がっていく、かも知れない。同時に、CIAは「MKウルトラ」と呼ばれるマインド・コントロールを推進してきたことを考え合わせるとき、おのずとチャップマンの役割が浮き彫りになってくる。当時アメリカのメディアはチャップマンを「狂信的なファンの単独犯行」として扱っていたが、サリンジャー著「ライ麦畑でつかまえて」を肌身離さず持っていたチャップマンの言葉に注意を払うことはなかったようだ。

彼は「なぜレノンを殺したのか?」との問いにこう答えたのだ

「ライ麦畑でつかまえて、を読めば分かる」と・・・

★911、ジョン・レノン、陰謀のセオリー
MKウルトラ計画


洗脳によって、ごくふつうの人間を暗殺者にするCIAと国防総省が市民をモルモットとして行った言われる洗脳実験。この事実はCIAの存在意義が最も問われた1973年から1976年にかけて長官を務めた、ウィリアム・コルビーが国の指導者に対する暗殺計画について公の場で証言した。ジョンレノンの反戦活動は石油企『業・軍事産業・政府団体などその恩恵を受ける政治家にとって有害な人物で有った。


★暴露された「MKウルトラ」(韋駄天迷宮より)

 1975年、CIA局長ウィリアム・コルビーは、上院・諜報委員会で証言を行った。コルビーはCIAの「財源」について暴露した。それによってCIAが何十年に亙って行っていたマインド・コントロール「MKウルトラ」と呼ばれる秘密実験の存在が明らかとなった。

MKウルトラ要員は何百ものLSD-25を全米に流した。CIAの洗脳計画では、ロンドンのタヴィストック研究所、そして他のイギリス諜報機関がそうした人々を集めていた。タヴィストックのスタッフは第二次世界大戦中、イギリス軍に組み込まれ、イギリス軍・心理局を形成した。タヴィストック研究所の前身、タヴィストック医院は1922年、イギリス軍・心理学者によって設立され、彼らはここで帰還イギリス兵の「ショック・トラウマ」を研究したのである。

第二次世界大戦後、タヴィストック研究所は「心理軍隊」(ジョン・ローリングス・リーズ所長の言葉)を世界中に派遣した。それは社会を一定方向に向け、洗脳し、世界政府を作り上げるためであった。CIAのMKウルトラに直接関わっていた人物として、エウィン・カメロン博士、ウィリアム・サーガント博士を挙げることができる。アメリカ人心理学者ルイス・ジョリオン・ウェスト博士も、MKウルトラに加わる前、タヴィストックで訓練を受けていた。

オルダス・ハックスレー博士は麻薬を心理学に持ち込み、ハックスレーも秘密諜報計画に加わっていた。ハックスレーは1957年初頭、ウェストとの共同研究を開始し、ハンフリー・オズモンド博士への手紙で、若きウェストについて「極めてきれる若者」と評している。ちなみにオズモンドも、MKウルトラで中心的役割を果たした心理学者である。

http://oriharu.net/gabana_n/zaakan/hibi0409/hibi-niisi-040928.htm


1980年12月8日午後10時50分

ダコタアパートの前で

「レノンさんですね?」

とレコーディングから帰宅したジョンは呼び止めらる。ジョンが振り返ると銃を構えた一人の男(マーク=デイヴィッド=チャップマン)から2発の銃弾を受け、2発とも背中に当たり体が回転した。 血が噴出したジョンにさらに3発撃ち込む。2発は肩に、1発はダコタアパートの正面玄関の窓ガラスを砕いた。

(CIAによってマインドコントロールされた犯人によるとする陰謀説もある。)
 
ジョンはほぼ致命傷だったが必死の思いでアパートのフロントまで歩き

「I’M SHOT! I’M SHOT!!」

と、うめき、床に倒れた。この声を聞いたフロントマンのジェイ・ヘイスティングスは冗談と思っていた。なぜならジョンはビートルズ時代からオーヴァーなジョークが好きで有名だったから。。。


しかし、すぐにヨーコがヒステリックな声で「ジョンが撃たれた!」と駆け込んできて現実と気付く。ヘイスティングスはジョンに近付き、鼻に刺さっていたガラスの破片を取り除き、自らの上着をジョンにかけた。ネクタイを外し止血を試みるが、何処を押さえて良いか分からないほどジョンの体は血に染まっていた。

ローズベルト病院に運ばれたときにはジョンの体は背中への2発の銃弾が肺を貫通していて3発目の銃弾は左肩の骨を砕いていて、
4発目は大動脈と気管を切断していた。ジョンの手術に立ち会ったローズベルト病院の医師はこう語る。


「どんな方法を使っても蘇生は不可能でした。胸部に3箇所、背中には2箇所、左肩には2箇所の銃創がありました。
全身のおよそ80%の血液が失われてました」と。


時間は少しさかのぼるが、この日ジョンは最後のレコーディングの休憩中にプロデューサーのジャック・ダグラスにこんな話をしている。


「自分は早死にするだろう。残された人生は僅かだが、死ぬ覚悟はできている。 そして、自分の死後の評価はエルビス・プレスリーを超えるだろう」と。


【犯人チャップマンの角度から】


1980年10月チャップマンは雑誌「Esquire」の「John Lenon,Where Are You?」を読んでいる。内容はというと、ジョンレノンは労働者階級とは程遠く、牧場、大邸宅、いくつもの会社を所有していて銀行には1億5000万ドルもの蓄えがあるただの裕福な実業家に過ぎないというものだった。チャップマンにとってのジョンは口だけで愛と平和を説く偽善者にしかすぎなかったのだ。1980年10月27日チャップマンは妻にこう告げている。

「ニューヨークに行ってくる。これで何もかも変わる。」

事件から一ヶ月ほど前の話だ。これだけでもチャップマンが計画的にジョンを殺害したことがうかがえる。しかし11月9日ジョン殺害を計画していたチャップマンは、その2日後には思いとどまり妻のいるハワイに戻り計画の全貌を話している。妻への愛が計画を思いとどまらしたらしい。…ほんまかいな?

しかし11月の下旬またも態度を変え再びニューヨークに向かった。そして事件の前日12月7日チャップマンは落ち着かない様子でダコタアパートの前をうろついていた。前日で気持ちが高ぶったのか夕食後に売春婦を自分の泊まっていたホテルの部屋に呼んでいる。


12月8日午前11時頃に目覚め「ライ麦畑でつかまって」を購入し扉ページに「これがオレのメッセージ」と書いた。その後、ダコタアパートのドアマンに「今日はジョンに会ったか?」と尋ねている。その日の夜遅く、ショーン(ジョンの息子)と乳母ヘレン・シーマンが帰宅。(その時チャップマンは「今まで見た中で一番可愛い子供だ。」と話し掛けている。)ジョン殺害前に息子に接触…想像しただけでゾッとする話だ…。
そして10時50分、ダコタアパートに到着した車から先にヨーコが降り、その後ジョンが降りた。チャップマンはジョンの背後から近付き、あの忌まわしい一言を言い放った。
       
「レノンさんですね?」
http://gore.arcam-b.com/syohyou/JohnLennon.htm

▲△▽▼

(参考)


CIAの洗脳実験


CIAは、マインドコントロールを施したエージェントを使い、LSDを使った実験を行ったという。だが陰謀研究者は、これまで考えていたよりもっと大きなスケールだったと考えている。

CIAは1960年代の若者による運動をコントロールするために、ヒッピーや左翼活動家を餌に、サイケデリックドラッグを広範囲にばら撒いたのは本当なのか。またCIAは、洗脳で人間を暗殺ロボットに仕立て上げるという研究を長年行っていた


1975年、米 政府は博士がCIAの秘密実験に携わっていたとして遺族に75万ドルを支払った。

バカウヨは創価学会や統一教会、幸福の科学等のカルト系や旧御用暴力団工作員の影響をもろに受けている。工作員の背後にはアメリカがおり、CIAが関与していることは周知の事実である。日本の無知な大衆を洗脳して属国支配を続けることがCIAの目的である。

アメリカ自体、国民は洗脳されている。洗脳しているのは巨大財閥である。茶番の2大政党制に不満を漏らさないのが洗脳の証拠である。

http://d.hatena.ne.jp/warabidani/20090921/p2

393 名前: 名無しさん@1周年 投稿日: 2001/03/20(火) 15:00

広告代理店の洗脳マニュアルみたいなものは、科学的に研究されたもので、ある特定の人物を新興宗教の教祖様にすること位は、お茶の子さいさいだそうだ。

どういう種類や宗派の集団を作るかということについても、詳しく研究されているとか。

たとえば、「ユダヤ教系、イスラム系、クリスチャン系、カトリック系、日蓮系、真言宗系、悪魔崇拝系、宇宙人崇拝系、その他いろいろ。」

とにかく、アングラな科学として凄いものらしい。俺も、具体的な内容までは聞いてないけどね。

大川隆法は、少し霊感と霊媒的能力があることで、日本人大衆を洗脳するテストケースとして選ばれたのだ、とある宗教ジャーナリストは言っているようだ。

397 名前: 名無しさん@1周年 投稿日: 2001/03/21(水) 11:15

393氏の言っていることは、広告代理店が大川隆法を使ったという意味ではなく、ある外国の組織が大川を日本人大衆を洗脳する実験台として利用する過程において、広告代理店に協力を求めたということでしょう。

私も、その話しは某ジャーナリストから聞いたことがあります。代理店に支払われた多額の金は、宗教団体(幸福の科学だけではないらしい)だけでなく、外国のどこかからも支払われたことは事実のようです。

代理店が使った新興宗教の教祖様を作り上げる技法は、米国の某カルト団体が研究したものと酷似していたそうです。

それと、これは確かな証拠はありませんが、彼らの不祥事を裏で処理する連中がいるようですが、あれは幸福の科学が発足する当初から存在したようですが、それは元々、大川隆法らを持ち上げた組織によって用意されていたものではないでしょうか? そう考えないと、不自然です。


428 名前: 名無しさん@1周年 投稿日: 2001/03/24(土) 14:31

洗脳(マインドコントロール)を受けることの怖さは、自分でそれを意識できないことだよ。

何が正しくて何が間違っているかを、常識的・客観的に考えることができなくなる。

幸福の科学は、まさにそれに成功した一例だね。本当は、「洗脳の科学」だろう。

彼らを裏から支えていた、外国の洗脳科学研究組織(オームと同じだと言う人もいる)と日本の広告代理店(電通)は、非常に勝ち誇った気持ちだろうね。

しかし、悪いのは大川達だけじゃない。あんなものに引っかかるアホな、自分だけよけりゃいいと思っている、そして自分達の考えを綺麗な宗教的教義のベールをまとって正当化することを恥とも思わない、そんな教養のない日本人が多数いることの方が大きな問題だと思う。
http://mentai.2ch.net/psy/kako/972/972070616.html


父は人体実験の犠牲になった (単行本)

ハービー・M. ワインスタイン (著), Harvey M. Weinstein (原著), 苫米地 英人 (翻訳)

内容(「BOOK」データベースより)
オウム真理教は、洗脳技術の核心をここから得ていた…!?20年間アメリカ政府が隠し続けたCIA機密プロジェクト“MKウルトラ”。国家の犯罪をめぐる、衝撃のノンフィクション。

内容(「MARC」データベースより)
国家機関による人体実験の犠牲になった父のために、政府とCIAを相手に闘いを起こした精神科医。20年間アメリカ政府が隠し続けた機密プロジェクトをめぐり、国家犯罪と人間の正義・倫理を鋭く問うノンフィクション。


権力の名の下に洗脳が行われたとき, 2001/6/19 By tomotta

「洗脳」この言葉が世間に広く知られるようになったのはオウム事件後ではなかっただろうか。しかしそれ以前に組織的な洗脳実験が行われており、それと同様の手法でオウムは信者に洗脳を行っていたのだ。洗脳とは新たなことを信じ込ませると思われがちだが、その前にはそれまでの思考、行動パターン、記憶などを消去してしまうことから始まる。今までの自分が築き上げてきたものの否定、それは人格の荒廃を意味する。秩序だった洗脳方法に対しては対抗するすべは見あたらないのか。精神科医でもある筆者が、洗脳を受けた父の姿を通してCIAが行った”実験”を明らかにする。洗脳を詳しく知るためにも是非読んでいきたい一冊。

http://www.amazon.co.jp/CIA%E6%B4%97%E8%84%B3%E5%AE%9F%E9%A8%93%E5%AE%A4%E2%80%95%E7%88%B6%E3%81%AF%E4%BA%BA%E4%BD%93%E5%AE%9F%E9%A8%93%E3%81%AE%E7%8A%A0%E7%89%B2%E3%81%AB%E3%81%AA%E3%81%A3%E3%81%9F-%E3%83%8F%E3%83%BC%E3%83%93%E3%83%BC%E3%83%BBM-%E3%83%AF%E3%82%A4%E3%83%B3%E3%82%B9%E3%82%BF%E3%82%A4%E3%83%B3/dp/4925140183


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CIA洗脳実験室―父は人体実験の犠牲になった

作者: ハービー・M.ワインスタイン, Harvey M. Weinstein, 苫米地英人
出版社/メーカー: デジタルハリウッド出版局 発売日: 2000/04


「洗脳」は、Brain washの直訳で、朝鮮戦争で中国の捕虜となったアメリカ兵が、共産思想を植え付けられて帰ってきたことから、一般的になったのだけど、この実験を 国家レベルで民間人を実験台にしていたという内容が本書だ。

洗脳というとわかりやういけど、ここで行われていることは、大学の心理学概説には必ず出てくる実験の応用なのだ。いわゆるパターンおよびデ・パターンについての実験。被験者をベッドに横にして、目、耳、指先、など知覚できる器官を覆い放置すると、パターン認識が崩壊して、人の言うことを受け入れやすくなるという実験。この実験を考案した学者は、数日であまりの効果におそろしくなってやめたが、それを何年も断続的に続けた科学者がいた。

 カナダの認知心理学の権威である彼は、軽いうつの患者を無理矢理、被検者にして感覚遮断=洗脳の実験をした。その結果、何人もの人間が廃人となり、家族が崩壊した。作者もその一人である。彼は父の崩壊する様子をなすすべも無く、治るようにとマッド・サイエンティストのもとへ父を通わせていたのだ。

 この不条理な状況がカナダ精神医学界の重鎮がおこない、アメリカの情報機関CIAが資金援助していた事実。しかも、効果はあげられずプロジェクトは終了し、科学者も裁かれることなくこの世を去った。

 まあ、話を敷衍すると、この感覚遮断=洗脳の方法っていまや、自己開発セミナーとか、宗教儀式に緩用されているんだよね。 「あたらしい自分を見つけた!」なぞほざく前に、こういう歴史をよく見といたほうがいい。脳を洗う恐ろしさを。

http://www.ryotsunoda.net/?p=512

この本は、父親が精神科医のキャメロンの治療を受けてボロボロ状態になった苦闘の歴史と、やがて著者であり、息子であるハービー・ワインスタインが精神科医になり、ある日、情報公開法に基づき、機密文書を入手したライターの記事を目にして、父親が人体実験されたことを知り、立ち上がる。

しかし、相手はカナダ政府であり、アメリカのCIAであるために、筆舌に尽くしがたい苦労と妨害、裁判や弁護費用などの困窮と戦いながら、最後に和解し、不十分ではあるが補償金を得るまでの記録です。

○私(藤森)の深層心理の研究に、良くも悪くも参考になる部分や私の考えが裏付けられた部分が多かったために、人体実験の強烈な部分を多く掲載しました。少々衝撃的なために、気分が悪くなったら、途中で止める準備をしながらお読みください。

●「はじめに・・・・・苫米地英人(この本の翻訳者)」

・・・・本書に登場するユーイン・キャメロンという精神科医の異常な医療行為は、我々日本人にとって、決して絵空事の出来事ではない。宗教の皮を被ったテロ組織、オウム真理教(現・アレフ)の内部でも同様の行為がなされていたからだ。

それが行なわれた理由として、オウム真理教付属医院の医師であった林郁夫は、自著「オウムと私」(文芸春秋刊)の中で、信者の記憶を消す方法を考えろという麻原教祖の命令から、「拷問と医者」(ゴードン・トーマス著、朝日新聞社刊)というユーイン・キャメロンにつて記した本を参考に、信者に電気ショックを与えたと記している。

オウム真理教で行なわれていた医療的洗脳行為は、「拷問と医者」に書かれた内容より、はるかに詳細なレベルで再現されていた。また、CIAの洗脳手法と○○○の洗脳手法には類似点が多い。○○○は夫婦でデトロイトに出張していたそうだが、洗脳テクニックについての関連本を入手するためだったのかもしれない。

いずれにせよ、○○○における洗脳テクニックは、たんに○○が信者をコントロールする方法として利用していただけでなく、○○自身がLSDによって人格崩壊したことを考え合わせても、○○○の○○○○が一つの洗脳実験室であったような、○○○全体が、キャメロンの運営していたカナダの病院であり、信者一人一人が実験台にされた患者であったような印象も受ける。それほどキャメロンの実験と、○○○の洗脳テクニックは、類似点が多い。

・・・・・これもまた、キャメロンの「デパターニング(パターン崩し)」という、チオペンタールと電気ショック(ECT)を組み合わせたテクニックと酷似している。この方法も当時、思考や行動パターンを変更させるために被験者の記憶がなくなるまで、あるいは、反抗心が完全に除去されるまで、繰り返し行なわれていた。

キャメロンはこういったテクニックのほかに、「感覚遮断」についても実験を重ねていた。人は何もない真っ暗な部屋に長時間拘束されていると、聴覚、視覚、触覚、味覚、知覚を遮断され、変性意識状態に陥り洗脳されやすくなる。○○○だけでなく自己啓発セミナーなどでもその方法は応用して使われており、長時間同じ部屋に参加者をずっと座らせておくことで、変性意識状態にトレーナーが導いている。

また、○○○信者がよく被っているPSI(Perfect Salvation Initiation)と呼ばれる電極付きヘッドギアも、「根絶治療」と呼ばれるテクニックの変形であると考えられる。その治療は、イタリアの精神科医ルシオ・ビニによって開発された。彼は、食肉処理される豚が頭部に電気ショックを与えられ従順になる様子を見て、それを患者に実験し、同様の効果があることを発見した。PSIも、一定の電流を頭部に流すことで、信者を従順にする効果を狙っているのだと考えられる。また脳の側頭葉への強い電気ショックは、記憶を消去させる。キャメロンも当時、これらのテクニックを実験に導入していた。

キャメロンは様々な洗脳手法の情報を収集し、患者を試験台にしてそれらを一つの体系にまとめあげた。それをそのまま日本人に対して実験したのが、○○○○○教の医師たちであった。被験者は三千人以上、、おそらくキャメロンをはるかに凌ぐ数字であろう。

アメリカでは、究極の洗脳薬とされるLSDを使ってバッドトリップさせ、地獄を見せると、どんなに意志の強い人間でも子供のようになってしまうことが知られている。○○○は、明らかにその情報をどこからか仕入れ、応用したのではないか。・・・・

私(訳者)が気になるのは、○○○の内部で精神医学や薬物を使った最先端の非倫理的な洗脳が行なわれていたという事実が、いつのまにか社会のなかで、忘れ去られてしまっていることである。最近の報道(注:この本の出版は2000年4月)も、ごく普通の宗教的な「マインド・コントロール」と呼ばれるような行為を行なっていたにすぎない団体のように○○○を表現しているし、法廷でもそんなレベルの組織として捉えられ、話が進められているのではないかと感じる。

それは間違いである。どんなカルトよりも、もっと具体的で危険な洗脳が行なわれていたという事実を、読者の皆さんには再認識していただきたい。また、それをきちんとした形で記録に残しておく必要がある。

さらに危惧すべき点は、○○○の狂気的な洗脳テクニックが、過去カナダの病院でキャメロンが行なった洗脳実験に似ている事実に、ほとんど誰も気づいていないことである。これは歴史的事実として、多くの日本人に知ってほしい事柄である。

最後になるが、これは冷戦時代(1950年代半ばから60年代前半)の出来事である。現在でもなおCIAが、このような実験や研究を行なっているとは考えがたい・・・・・私のしるNSA研究員たちは、皆きわめて正義感が強く信頼できる人物で、もしかりにそのような事実があるとするなら、そのような行為を彼らは絶対許さないだろう。

●「序文・・・・・ロバート・ジェイリ・リフトン(医学博士)(強制的説得と全体主義の研究の第一人者>

・・・・・アメリカの最初の核兵器開発計画であるマンハッタン・プロジェクトは、ナチの脅威に応えるかたちで始まった。キャメロンが精神操作に興味をもったのも同じ理由からだ。

医師は、政治力と結びついた破壊的図式にとくにはまりやすい。ナチの医師はその極端な例だが、ほかにも例はある。

死亡証明書を偽造し、公然と行なわれている残虐行為を隠蔽するのに手を貸した南アフリカの一部の白人医師。

アムネスティ・インターナショナルによって最近報告された、チリで拷問を行なっている医師、

南米ガイアナの人民寺院に協力して毒(シアン化合物を粉末の清涼飲料水に混ぜたもの)を用意し、自殺他殺合わせて九百五十名もの人々を死に至らしめた理想主義者の若い医師・・・・・。

医師は、生と死に神秘的な力をおよぼすというある種のシャーマニズム的な遺産を受け継いでいて、それは政治に熱中する人々にそくざに提供され、利用される。

●「プロローグ・・・・・・以下著者」

人間の行動を変える方法を探るという、アメリカ中央情報局(CIA)の(MKウルトラ>と名づけられたプロジェクトには、1957年から61年にかけ、カナダのモントリオールにあるマッギル大学付属アラン記念研究所のユーイン・キャメロン博士によって実施されたサブプロジェクトも含まれていた。

(MKウルトラ>計画は、1940年代にCIAの前身によって始められた仕事のいわば副産物で、尋問を迅速に行なえるようにする薬物、いわゆる自白薬の開発を含んでいた。それがのちに、人々の思考や行動の仕方を変えるという試み、いわゆる洗脳へと発展していったのだ。

モントリオールで実施されたプロジェクトでは、さまざまな理由で入院した精神科の患者に対し、試薬の処方、強力なショック療法、感覚遮断、数週間にわたる強制睡眠、そしてテープレコーダーに録音された声を何時間も聞かせるといった一連の行動改革処置がほどこされた。

しかし、これらの処置は患者に新しい人生をもたらすどころか、それまでの人生を破壊したにすぎなかった。なかにはこれらの処置によって人格が一変してしまい、親しい人たちにはまったく別人としか思えなくなってしまった人々もいた。
私(著者)の父もそのひとりだった。


●「4.歌を忘れた(アル・ジョルソン>」
・・・・・・・・

その後の五年間、精神医学療法の世界を覗き見て、私(著者)はさまざまな言葉を学んだ。

ショック療法は、ページ=ラッセル療法もしくは集中的電気ショック療法と言われる強力なものも含め、私の生活と切り離せないものになった。時がたつにつれ、ほかの言葉も耳にするようになった。患者を何週間も眠らせたりする睡眠療法。患者が考えたり、話したり、人間らしい振舞いをいっさいできないようにするデパターニング(非パターン化)。

そしてサイキック・ドライビング(精神操縦)と呼ばれるもの。これは、患者はテープに録音された(ドライビング・メッセージ>もしくは(ドライビング・ステートメント>と呼ばれるもの、すなわち患者の考え方や生き方を変えるためのメッセージを何週間かぶっつづけに聞かされるものだ。

●「8.実験」
・・・・・・
インシュリン昏睡療法は、オーストリアのマンフレート・ザーケルによって1928年に開発され、長いあいだ、重度の精神病患者の興奮状態を抑えるのに使用された。ロボトミーは1935年に、ポルトガルのエガス・モニスとアルメイダ・リマによって初めて行なわれた。これは、情緒を司ると思われる脳の部分の神経線維を切るもので、こうすると情緒反応に著しい変化が見られ、緊張が蓄積しなくなり、行動異常がなくなるのだ。

ECTは、1938年にイタリアのU・ツエルレッティとL・ビニによって考案された。ECTは、少ない副作用でインシュリン昏睡療法をより効果的なものにするための試みだ。具体的には、七十から百三十ボルトの電圧で0.1秒から0.5秒、脳に通電する。
・・・・・・・

こうした身体的治療法の多くは、今では野蛮に思えるが、1930年代、40年代には抗精神病薬がまだ登場していなかったことを忘れてはならない。

・・・・・精神科医はそうした人々をなんとか助けようと、よい治療法があると聞けばそれを試そうとした。今世紀前半においては、身体的治療法は最高の治療法だったのだ。
だが、知識の増加と、最初の抗精神病薬クロルプロマジン(ソラジン)の登場で、こうした過激な治療法は急速にすたれてしまった。

1956年、キャメロンは「サイキック・ドライビング(精神操縦)」と題する論文のなかで、1953年以来開発していた技術について初めて報告している。・・・・・

ひとつは自己サイキック・ドライビングで、患者は自分の声を聞く。もうひとつは他者サイキック・ドライビングで、患者が示唆した感情的内容に基づき、他人が録音したものを聞く。・・・・・・

またキャメロンは、患者の心的防衛を弱め、メッセージを聞かせるようにするには、患者を脱抑止する必要があるとしている。具体的には、アミタール、刺激薬(アンフェタミン)を投与して患者を長時間眠らせたうえで、一日十時間から十二時間のドライビングを十日間から十五日間行なう。

なにより驚くべきことには、その間、患者は心理的に孤立させられる。暗い部屋におかれ、ゴーグルをはめられ、よけいな音が聞こえないようにされ、身体への刺激をいっさい奪われる。
脱抑止を起こすための手段として、最後にキャメロンはLSDを挙げている。・・・・・・

その後、キャメロンはドライビングの技術を改良した。まず、ヘッドフォンを使うようになった。こうすると患者は自分の頭のなかから声が聞こえてくるような錯覚を覚える。・・・・・・・

さらにひどいのは、こうしたきわめて侵略的な方法は重症でない患者にも用いられたことだ。以前は最後の手段だった治療が、キャメロンのもとで、またたくまに現場の最前線で行なわれるようになったのだ。
・・・・・・・・

・・・だが、このころキャメロンは、マッギル大学の心理学科から生まれたある方法を応用した。
世界的に著名な心理学者D・O・ヘッブは、当時、マッギル大学心理学科長だった。彼の研究グループは、感覚の刺激が動物の成長、とくに精神的成長と学習能力にもたらす影響に関心を示し、一連の実験が行なわれた。それはいかに人間が環境からの刺激、すなわち環境によってもたらされ、人間の精神作用を活性化させる刺激に頼っているかを調べるものだった。この研究は、感覚遮断研究時代の幕開けとなるある実験へとつながった。

一日二十ドルの報酬で有志の大学生がつのられ、部分的に防音装置がほどこされた小部屋に入れられた。彼らはベッドに寝かされ、目を半透明の(光りはわかるが、物の形はわからない)プラスチック製のシールドで覆われ、手は触覚が使えないように筒のなかに入れられ、耳にはイヤホンをさせられた。イヤホンからはつねにブーンという音がし、頭と耳をすっぽり包むU字形のフォームラバーのクッションが枕代わりに使われた。学生たちは、食事とトイレに行くとき以外はこの状態におかれた。

ほとんどの学生が二、三日しかもたず、最高でも六日だった。
実験は二十三名の男子学生に対して行なわれ、結果は驚くべきものだった。最初は退屈していたのが、しだいに落ち着きや集中力がなくなり、問題解決能力が損なわれ、幻視や身体意識障害が起こるようになった。自分の体から離脱しているような感じ、つまり(離人症>が表れた。
(まさに被験者のアイデンティティが崩壊しはじめた>とヘッブは記している。

その後の研究で、この状態におかれた学生は、ふだんならばかにして聞かないようなこと、たとえばオカルトに関することに耳を貸そうとすることがわかった。
こうした奇妙な事柄への関心がずっと失せなかった被験者もいる。

感覚遮断に関するさらなる研究は、おもにアメリカ合衆国でつづけられた。アメリカで関心が高かった理由は、宇宙飛行がパイロットに与える影響が懸念されていたこと、人工呼吸器が取りつけられ刺激に乏しい患者の問題や、尋問において感覚遮断をどのように利用できるかが議論されていたことなどがある。

アメリカ空軍の宇宙飛行会議のために用意された1960年5月付けの論文のなかで、キャメロンは、隔離に関する初期の研究が、アラン記念研究所の彼のグループによってどのように応用されたかについて述べている。


それによれば、三種類の実験が行なわれた。

ひとつは目、耳、手による外部の刺激を減らす実験。

二つ目は、感覚受容器(外界からのメッセージを受け取る神経単位の末端器官)から脳へ刺激が伝わるのを阻止することで、感覚の入力を減らす実験。

三つ目は、患者が刺激に反応しなくなるよう、患者の意識の程度をさげる実験だ。

第二の実験は、体内での刺激の伝達を抑えることに焦点をおいている。この研究では、試薬のセルニールが使われた。結果は、無感情、不安、身体像障害、非現実感、離人症、思考障害、組織崩壊、幻覚、妄想症、
緊張病などだ。


・・・・キャメロンはまたしても意味深いコメントをしている。

(ある種の宗教や政治体制に見られるような、瞑想、自己批判、評価の形態との相似が表われはじめている>

このコメントは、中国共産党が1949年に大陸を支配して以来、国民の意識・行動変革に利用していた方法のことを言っているとしか思えない。

また、朝鮮戦争の最中に、アメリカ人捕虜が無理やり嘘の自白をさせられたときに使われた技術のことを言ってもいるのだろう。とにかく偶然の一致とは思えない。

・・・ある会見のなかで、キャメロンの元同僚のひとりが言った。

「大勢の人間がナンセンスだと感じていた。だが、我々はどうすることもできなかった」

彼はこうも言っている。
「(キャメロンは)いい治療と、お粗末な治療の違いがわかっていなかった・・・・。ドクター・キャメロンは、たまにひらめくことはあっても、基本的には恐ろしく凡庸な人間だった・・・・」

キャメロンの研究についてよく知っているほかの元同僚は、「反対意見はたくさんあった・・・・が彼の前では言わなかった・・・・。誰もキャメロンに面と向かって意見を述べようとしなかった」と述べている。
・・・・・・・

マッギル大学の精神医学史についての1982年付けのある論文で、キャメロンの後任のR・A・クレッグホーンはこうコメントしている。
(キャメロンの起業家的手腕は、教育施設や訓練施設では遺憾なく発揮されたが、研究にはあまり向かないものだった>

D・O・ヘッブは、1985年夏の最後のインタビューでこう語っている。

(キャメロンは無責任で・・・・犯罪的なまでに愚かだった・・・。なんらかの成果が得られたとはとても思えない・・・。彼は有名になりたかった。だからあんな無鉄砲なことをしたのだ・・・。知りたかったのではない。ひたすら地位が欲しかっただけだ>


●「9.需要と供給」

・・・・・本来機能すべき対処装置が機能しなくなるほど不安にさせられた捕虜は、人格の分裂から逃れたいと思うあまり、尋問者を友人、救済者として見るようになる。捕虜を独房へ監禁し、眠らせず、情報を与えず、そのうえ巧みな尋問を行なうと、ほとんどの場合、望みどおりの結果が得られる。この方法は当初ソ連で開発され、中国ではさらに手が加えられて集団の圧力という要素が加わる。

ある仲間集団(ピアグループ・・・年令・地位などが等しく、同じ価値観をもつ集団)の物の見方に順応させるというのは、中国共産党が本土掌握以来行なってきた国民思想改造計画の一環をなすものだ。この技術はアメリカの捕虜に対してきわめて効果的であったことがのちに判明する。

●「19.その後」

・・・・私たちは医師にも弱点があることに気づいている。そのことに気づくということは、医学の世界も開かれ、進歩してきたということだが、それでもまだ医学の世界はかなり権威主義的だ。昔から医学には、指導者や研究者を高い地位におき、必ずしもそうでないのに賢人、高潔な人間として崇めたてまつる傾向がある。当然、下っ端の医師は意見を差し控えるだろうし、異議は出ないだろう。

哲学者や神学者など医学関係でない学者が、バイオエシックス(生命倫理)の研究に深く関わっている理由のひとつに、医師が伝統的な父権主義から脱却できないということがあるのかもしれない。カナダ精神医学会がキャメロンの研究を否認したがらなかった理由は、それ以外に説明のしようがない。

有名なアメリカの精神医学者に手紙を書き、協力を訴えたとき、キャメロンは偉大な指導者であり、キャメロンを否定するようなことはなにも言えないという返事をもらった。それも同じ理由からだろう。

●「対談・・・洗脳実験の病理が潜む日本社会」(苫米地英人(脳機能学者)・宮崎哲弥(評論家)>


苫米地・・・電話で精神を操作することは、もちろん技術的に可能。「洗脳原論(苫米地著、春秋社)」では、それはアンカーと呼んでいる手法ですが。

エリクソンの本を読むと、何十年も経ったアンカーが効いている例というのがあります。自分の女学生の弟子に、「将来、握手したら眠る」というアンカーをかけておいた。その後何十年かして、その女学生が有名な先生になったときに、あるとき学会でエリクソンと会って握手したら、本当に寝てしまったということです。だからエリクソン級のうまい催眠は、それぐらいの長さで効くわけです。

それどころか、日本のある有名なカルトは、同じような手法を使っているんではないかと。あるとき某国から指令が下ると、その信者が一斉蜂起して、自殺的な攻撃に出ることも考えられます。

もっと言えば、反カルト団体を装って、じつはそのカルトがコントロールしているという例がアメリカではある。信者自身は解けたと思わされて、実際信者を脱会させたかもしれない。でもアンカーを解かずに表面だけ脱会させて一般市民に戻しているとしたら、アンカーを作動させるような指令が出たとき、いきなり過激な行動に出たりしても不思議ではないですね。

苫米地・・・・・「洗脳原論」のひとつの結論として、とりあえず日本では、メジャーレリジョンである仏教を信じたらどうだろうかと思いました。宗教の世界には、それなりに縄張りがありますよね。・・・日本は今、ほとんどロシアのように宗教的縄張りがない状態に等しい。

宮崎・・・・・そこに力の空白があるわけですね。ヴァキュームになっているから、カルトでもオカルトでも何でもかまわず吸引してしまう。だから、その真空を別のもので充填してしまえばよいのです。

苫米地・・・・・じゃあ何で充填しようかというときに、・・今の日本社会では精神科医よりも、お坊さんのほうがその役割を果たせると思いますね。変なお坊さんもなかにはいるから、一概には言えないけど。

宮崎・・・・・文化の伝承性や親和性を考えれば、やはり仏教が有望でしょうね。日本人の行動様式や行動文法の基本は、やはり仏教的世界観です。まあ仏教といっても、私の信奉する「縁起と空の仏教」というよりは、「山川草木悉有仏性(さんせんそうもくしつうぶっしょう)」的なアニミズムと無常の時間観念が主流ですけどね。

苫米地・・・・・いちばん怖いのは、宗教の空白。それを埋めるものであったら、社会の伝統宗教のなかで、メジャーなものを受け入れることに何の問題もありません。

宮崎・・・・・まあ仏教でいえば、やはり根本に立ち戻れ、開祖ブッダや大乗八宗の祖ナーガールジュナにかえれ、というのが私の立場です。
そのうえで、個々人の精神の中核に生じた空洞を埋めていくことができれば、やがて社会を安定状態に導くことができるのではないでしょうか。
http://www005.upp.so-net.ne.jp/jikokaifuku/kotoba36.htm


http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/440.html#c7

[近代史3] アメリカ人には音楽は理解できない _ ジャズなんか音楽じゃない 中川隆
8. 中川隆[-10370] koaQ7Jey 2019年5月18日 18:02:45 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[1949]
天才が持つ共感覚を手軽に得る方法と、言ってはいけない事
https://darkness-tiga.blogspot.jp/2012/01/20120122T2313000900.html


「共感覚」という言葉をご存知だろうか。天才と言われる人たちや、一瞬見たものをすべて記憶できるという劇的な記憶力を持つ人たちサヴァン症候群の人たちに共通する感覚がこの「共感覚」である。

これは、「ひとつの感覚刺激が別の感覚を引き起こす」と説明されるの現象である。

つまり、こういうことだ。

数字を見れば、数字ひとつひとつに特定の色が見えて絵が見える。音を聞けば、音の高さによって特定の色が見える。


共感覚が記憶の強化に結びつく

単語を見れば、単語の文字列の長さによって特定のイメージが湧く。数式を見れば、やはり数字の色と公式の形でよって特定の形が浮かんできたり、特定の味がする。

他にもいろんな「共感覚」があるのだが、そういった「ひとつの感覚刺激が別の感覚を引き起こす」感覚を持った人が世の中にはいて、それが記憶の強化に結びつくのだと言われている。

音を聞けば色が見えるのが、なぜ記憶の強化に結びつくのかと言うと、感覚を総動員してその音を脳裏に刻みこむことになるからだ。

たとえば、"aroy"という単語があったとする。これはタイ語で「おいしい」という意味のものだ。

これを覚えなければならないとき、「おいしい」という意味を単に記憶するのが普通の人の記憶方法だ。

しかし、「共感覚」を持った人は、"aroy"という単語を見た瞬間に舌においしいものを食べた感覚を蘇らせることができる。

共感覚を持った人は、おいしいものを食べたときにだけ聞こえる音もあったりするから、そんな音が聞こえる。

さらには、おいしいものを食べたときにだけ見える色もあったりするから、"aroy"という単語を見た瞬間に特定の色まで見える。

さて、あなたは"aroy"という単語を見た瞬間に、味を感じ、音を聞き、色を見るだろうか?

そんな感覚を持っていたら、それが共感覚を持っているということだ。もちろん、普通の人はそんな感覚など何も持っていない。

だから、"aroy"という単語を見たところで、何ら感慨も思い浮かばないし、ましてや何度覚えても忘れるし、覚えたことすらも覚えていない状態になる。

しかし、共感覚を持っている人は、たちどころにそれを記憶することができる。あまりにも「感覚が鋭敏」すぎて、「覚えざるを得ない」というのである。


音を聞くと、色が見える。音が色を感じさせる。共感覚は、ある感覚が別の感覚を呼び起こす。

共感覚は天才の入り口

なぜ単語を見て、そんなたくさんの感覚が一度に感じられるのか、普通の人はまったく分からない。

「そんなたくさんの感覚が湧き上がったら、毎日疲れてしょうがない」と思うかもしれないが、どうやらそれは当たっている。

実際、ありとあらゆるイメージがどんどん入り込んでくることになるので、共感覚を強く持つ人は非常にナイーブで、自閉症的な症状もあって最初から意思疎通も難しい人たちである。

サヴァン症候群の人たちも共感覚を持っていると書いたが、まさに意思疎通が非常に困難な「天才たち」なのである。

ここに1個のリンゴがあるとする。彼らの見ているリンゴは、私たちの見ているリンゴの数十倍にも数百倍にも拡大されたものであり、すべての感覚が総動員されて迫ってきているはずだ。

リンゴを見ただけで、味から色からイメージから喜怒哀楽まですべてが再現されていたら、たしかに共感覚も度が過ぎれば日常生活が送れなくなるのもうなずける。

もっとも、共感覚を持っていたからサヴァン症候群になったのか、それともサヴァン症候群だったから共感覚を持つのかは何も分かっていない。

自閉症は、その原因はまだ詳しく解明されたものではないようだ。しかし、興味深いものではある。

普通の人が、ほどほどにそのような共感覚を持っていたら、恐らく「天才」だと絶賛されるはずだ。

特定の日の曜日をたちどころに言え、一瞬見ただけの風景を書き起こすことができ、一度聞いただけの曲をピアノで弾くことができ、円周率を延々と暗唱することができ、複数の外国語を覚えることができるようになる。

共感覚は天才の入り口なのである。

よく、物を覚えるときは音読すればいいと言われる。これも共感覚を使った記憶になるからだと考えられている。

見て、それを声に出して、それを聞くのである。ただ黙読するよりも3倍の感覚を使っている。効果があるのは当然だ。


数字や数式に色がつき、味がつき、音がつき、イメージがつく。共感覚は、数字を見ても何も感じない一般人には想像もつかないが……。

ルーシー・イン・ザ・スカイ・ウィズ・ダイアモンズ

ところで、記憶とは何かを調べているうちに出会ったこの「共感覚」という言葉や現象をはじめて見た時、私は「ああ、あれのことか」と思いながら読み進めていた。

私は一般人であり「共感覚」など持っていないし、そんな能力の欠片もない。しかし、共感覚がどんなものだか知っている。

それが「共感覚」という言葉で表す現象だということを知らなかっただけで、実は共感覚というものがどんな感覚で、どうやれば手に入れることができるのか、知っているのである。

もちろん、あなたも「共感覚」を試してみることができる。

答えは"Lucy in the sky with diamonds"(ルーシー・イン・ザ・スカイ・ウィズ・ダイアモンズ)だ。


Lucy In The Sky With Diamonds - The Beatles (lyrics) - YouTube
https://www.youtube.com/watch?v=eKXfqpg-Q-k


自分の描いた絵の中の、川に浮かぶボートの中
タンジェリンの木と、ママレードの空

『ルーシー・イン・ザ・スカイ・ウィズ・ダイアモンズ』はビートルズの名曲中の名曲だ。

この意味のわからない不思議な世界と、サイケデリックな映像を見ていると分かると思うが、これはいかにも「共感覚」を現している。

空には色があってマーマレード
女の子の目は万華鏡
空に女の子とダイヤモンド

この歌が歌われたのは1967年。アメリカではサイケデリック・ロックが盛んなときだった。


共感覚は、これで手に入れることができる

1943年の春。スイスのある研究所でアルバート・ホフマンという研究者が麦角アルカロイドについて研究していた。1938年、研究を進めていたホフマンは合成したこの薬をLSDと命名した。

LSDは期待された薬効成分としてあまり効果がなかったので一時的に研究は中止された。

しかし、改めて1943年にこの合成薬は取り出されて研究されることになった。

その研究中に、アルバート・ホフマンはこの薬を誤って自ら吸引してしまったのである。

途中で気分が悪くなったアルバート・ホフマンは研究を中止して、めまいがする中で休んでいたとき、「幻覚」が爆発した。

物が歪み、万華鏡のような光が渦巻き、幻想的な光景が次から次へと浮かんでは消えていく。

これに驚いたアルバート・ホフマンは、今度は幻覚を見るために、改めて自分を臨床実験にした。

最初の気分の悪さが消えると、そのあとから浮かんで来るのは「信じがたい多幸感」と「見たこともないような鮮明で、美しく、幻想的な世界だった」というのである。

LSDを摂取すると、ほとんどの人に現れるのが視覚の変容だ。光が幸せなシャワーのようになだれ込んできて、それが例えで言うと、まさに「万華鏡」の世界なのである。

Lucy in the sky with diamonds(頭文字はL.S.D)の空飛ぶ女の子ルーシーの目も「万華鏡」だと歌われている。

「LSD-幻想世界への旅」ではアルバート・ホフマンはこのように言っている。


視界は環状と螺旋状が開いては閉じ、あたかも色彩の噴水のようであり、絶え間ない流れの中に新しい配列と交差が形作られ、戸の掛け金の音や自動車の音とともに視覚的世界が変容し、それぞれの音にふさわしい色と形で生き生きと変化に富んだ形象となった。
ここで注目して欲しい。「それぞれの音にふさわしい色と形で生き生きと変化に富んだ形象となった」と書かれているのが分かる。

それぞれの音にふさわしい色?
それぞれの音にふさわしい形?

これはまさに「共感覚」であると、誰もが認めるはずだ。そうなのだ。つまり、LSDを取るだけで、「共感覚」を手に入れることができるのである。


枠を打開するためにLSD

結論から言えば、あなたが共感覚というものがどんなものなのかどうしても手に入れたいと思うのであれば、LSDを試してみればいいということになる。

これほど手軽で共感覚を手に入れることができる手段を他に知らない。LSDは規制され、違法となっているが、感覚を増幅させるパワーはあまりにも強烈過ぎるからだろう。

しかし、このクスリがまだ違法ではなかった1965年までは、多くの人たちがLSDを試して、その幻覚の素晴らしさに酔い、爆発的にLSDの幻覚音楽が生まれた。

このときの音楽をサイケデリック・ロックというが、音楽史上、これほど芳醇の時代はなかった。

まさに「共感覚」がそれを生み出していたので当然だ。

LSDを得て、共感覚を手に入れたミュージシャンは、まさにみんなまとめて「天才」にまで増幅されていたのである。

ミュージシャンには、マリファナも、LSDも与えられていたが、このふたつは幻覚や多幸感には必須なのだ。そして、一般の感覚に煮詰まったミュージシャンは、枠を打開するためにLSDを切望する。

LSDで共感覚を得たミュージシャンとそうでないミュージシャンの差は圧倒的に違う。

感覚が「共感覚」となって増幅されているほうは、もはや「音符に書き表せない」まで「超越」していく。

言葉ではよく分からないというのであれば、「音符を超越した音楽」、すなわち「共感覚」が産み出した音楽を「見て」ほしい。

アメリカ国家をここまで素晴らしく表現できるミュージシャンは、ジミ・ヘンドリックスの前にも後にも登場していない。


あなたは何も発言しないほうがいい

共感覚は普通を簡単に超えさせる。LSDは共感覚を生み出す。だから、結論から言えば、LSDを取れば誰でも簡単に共感覚が得られる。

知覚が変化し、感情が変化し、意識が変化し、視覚が変化する。LSDを取れば、あなたも簡単に常識を超えることができるのである。

ミュージシャンはその共感覚が音楽に活かせる。

あなたが、何に活かせるのかは分からない。もしかしたら、あなたの何らかの天才性は、LSDで常識を超えるかもしれない。共感覚が常識を超える感覚を現すのだから、そうなって当然だ。

今でも、LSDなどは、どこでも手に入るドラッグなのだが、いかんせん違法であり、逮捕されれば人生を棒に振ることになる。

アルコールで共感覚は得られない。共感覚どころか、感覚のすべてが「鈍感」になるだけである。鈍感になった感覚から素晴らしいものは生まれてこない。

LSDはその逆だ。強烈なまでの鋭敏な感覚、万華鏡のような多彩な光を得て、新しいものが生み出される確率が高い。

本当はアルコールを麻薬指定して厳禁とし、かわりにLSDを解禁すれば、共感覚を得た人たちが才能を爆発的に開花させるので文化をさらに深化させることができる可能性もあった。

共感覚を得るLSDは禁止された。
多幸感を得る大麻は禁止された。

そして、その代わりに「禁止されなかった」のは何だったのか。それは、酒とタバコだ。

感覚を鈍感にさせる酒は与えられた。
病気を引き起こすタバコは与えられた。

あなたは才能を伸ばすLSDを厳禁されて、かわりに鈍感になるアルコールが与えられている。アルコールならどこにでも手に入って、どんどんあなたの感覚を鈍らせる。

あなたは多幸感を得て治療薬にもなっていた大麻を厳禁されて、かわりに病気になるタバコが与えられている。タバコならどこにでも手に入って、どんどんあなたを病気にさせる。

なぜ国際社会や国家が、人々を愚鈍にさせる酒と病気にさせるタバコを許して、才能や多幸感を与えるLSDや大麻を禁止したのか分からない。

まるで、国民を天才にしたり、幸せな感覚を味わせるのは、絶対に許さないと叫んでいるかのようだ。

そして、人々はLSDも大麻も禁止されたので、自分が何を禁止されたのか、それを最初から知らない。

あなたが禁止されたのは、才能と多幸感だ。あなたが与えられたのは、鈍感と病気だ。

しかし、それに気がついても、あなたは何も発言しないほうがいい。それを指摘すると、「反社会的だ」「危ない人間だ」と後ろ指を指されることになる。

http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/440.html#c8

[近代史3] アメリカ人には音楽は理解できない _ ジャズなんか音楽じゃない 中川隆
9. 中川隆[-10369] koaQ7Jey 2019年5月18日 18:03:45 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[1950]

2012-01-27
インターネットを生んだ軍事組織、脳を拡張する兵器を開発中

インターネットの前身はARPA-NET(アーパ・ネット)と呼ばれているもので、これは軍事技術を民間に転用したものであることはよく知られている。

実は、共感覚を生み出して、人間を天才にする可能性のある能力を秘めたドラッグであるLSD-25(通称LSD)を調べているうちに、奇妙な裏の事実が分かってきた。

LSDとインターネットは、「ある組織」で結びついていたのである。その組織とはアメリカの国防総省の研究組織「アメリカの国防総省国防高等研究計画局」という。


国防総省国防高等研究計画局

アメリカの国防総省国防高等研究計画局
Defense Advanced Research Projects Agency

この頭文字を取ると「DARPA」になるので、この組織は通称「ダーパ」と呼ばれている。この組織の名前から「国防」の Defense を取ると、アーパになる。

この組織は一時、単に「高等研究計画局(アーパ)」と呼ばれていたので、アーパ・ネットはその名残りで「アーパ」が用いられた(現在はダーパ)。

インターネットの前身である ARPA-NET とは、要するに「高等研究計画局ネットワーク」だったということになる。

DARPAは核戦争が起きて米国が攻撃されるケースを想定していた。時は1969年で、アメリカはベトナム戦争の泥沼に足を取られた頃だ。

このベトナム戦争は共産主義国家ソ連との代理戦争であり、アメリカはかなり深刻に核戦争を想定していた。

もし仮に核戦争が起きて米国が攻撃された場合、軍隊へ命令が送れないとアメリカ軍は任務を遂行することができなくなる。

だから、軍隊の命令系統が途切れないようなネットワークを構築するのは国防総省としては切実な要望であり、それが高等研究計画局(アーパ)に託された。

軍用技術は民間技術と違って実践で使えるか使えないかが第一であって、賞を取るためのものではない。だから、技術は荒削りであっても、使える技術を生み出すのが得意だ。

この高等研究計画局(アーパ)は実は基礎研究を実用化するために、ありとあらゆるものを発見しているが、たとえばコンピュータで使うマウスも、アーパの資金を得たダグラス・エンゲルバート氏が発明したものだった。


すべての目的は「戦争に勝つ」ため

アーパは優れた基礎研究を軍用に転換するために多くの大学の科学者に協力を求め、資金を提供し、そして数々の技術革新を生み出してアメリカの軍事的優位性を生み出した。

核攻撃されても生き残るネットワークの研究では、一箇所が死んでも他の網を迂回して最終的にはどこにでもパケット(命令)を送り出すというアイデアで、このアイデアは見事に成功した。

成功したばかりか、この技術が世の中を激変させていったのは私たちもよく知っている。

現在、私たちが使っているコンピュータ、マウス、そしてインターネットはすべてこの高等研究計画局(アーパ)が産み出したものなのである。

マイクロソフトやアップルやグーグルは、アーパが産み出した技術を民間に広めるために貢献したのであって、基礎研究をしてコンピュータを生み出してのではない。

本来であれば、これほどの技術革新を成し遂げたのだから、実に賞賛すべき組織ではあるが、アーパ(後に改名してダーパ)はノーベル賞を得ようとか、世の中を変えようと思って仕事をしていたわけではない。

すべての目的は「戦争に勝つ」ために研究されたものなのである。

アーパ・ネットを生み出したあと、アーパはダーパに改名されて、そのあとも「戦争に勝つ」ため、ありとあらゆるアイデアが出されては実現できるものを探し出していた。

アーパ・ネットが研究所の中で生み出されていた1969年、巷では反戦運動が引き起こされていて、ヒッピー・ムーブメントが猛威をふるっていた。


ジャニス・ジョプリン。ヒッピー・ムーブメントの落とし子。

人間をマインド・コントロールする手段

このヒッピー文化の思想が、反政府・反戦争・反道徳だった。そのために、運動の中では道徳を破壊するためにドラッグとセックスの自由が祀り上げられて、人々は髭を伸ばし、髪を伸ばして、ドラッグを吸った。

ここで使われていたドラッグはマリファナとLSDで、特にLSDは人々の意識を覚醒させるための起爆剤になっていた。

このLSDの爆発的大流行を、ダーパ(DARPA)は非常に複雑な目で見つめていたはずだ。なぜなら、LSDは彼らの「研究対象」だったからである。ダーパはこのLSDをどんな軍事的目的で使おうとしていたのか。

最初は自白剤としてである。LSDを取ると意識が変容し、多幸感が増し、そして人を大いに開放的にしていく。だから、これを自白剤として使えば、ロシアのスパイも軍事機密をペラペラとしゃべるのではないかと期待された。

ところが、LSDは共感覚を引き起こすので、話す内容が論理的ではなく、それが正確な自白を引き出せないことが判明した。自白剤として使うよりも、むしろ敵を混乱させるために使うべきものだったのである。

そういった試行錯誤をしているときに、社会ではどんどんLSDが拡散していっており、アメリカは1965年にそれを違法としていたが、実は軍用では研究がなされていたのである。

いったいダーパは何を目指していたのか。それは、人間をマインド・コントロールする手段を探していたのである。

軍事目的のために人間をマインド・コントロールするというのはどういうことか。それは、無敵の兵士を作り出すためだ。

・戦場で兵士が恐怖やためらいを感じないようにする。
・戦場で寝ないで24時間でも戦える兵士を作り出す。
・兵士が外気に合わせて体温を調整できるようにする。
・傷ついた兵士が傷を自己修復できるようにする。

こういった「超人」的な兵士を作り出すために、インターネットを生み出したこの組織は研究を重ねて来ており、最終的には次のようなことを目指している。

・兵士をロボットのように上官が扱えるようにする。


米国防総省が目指しているのは「超兵士」の存在。

脳を支配する技術

ダーパ(DARPA)は同時並行で多くの軍用技術を生み出している。

人間をマインド・コントロールするための研究を重ねる間に、たとえば、以下のような「史上最高級」とも言われるレーダーに映らない戦闘機(ステルス戦闘機)や、無人の戦闘機(無人戦闘機)と言った軍事革新を生み出し続けてきている。

そうやって成果を出しながら、今この組織が向かっているのは、「人間の脳を支配する」技術を生み出すことなのである。

2001年にアメリカは同時多発テロに見舞われて、アフガン・イラクに侵攻していったが、そのときダーパ(DARPA)は軍事的戦略として今後何を目指しているのかを2003年2月の「戦略計画」で明らかにした。

「思考を行動に変換する方法を発見し、開発することができるなら、それが、防衛に及ぼす長期的な影響たるや、巨大なものになる。想像して欲しい。単に考えるだけで遠距離から作戦をおこなうことができる米軍兵士を……」

何が言いたいのか。それはこうだ。「上官が考えるだけで、最前線の兵士が動く技術を発見し、開発したい……」

これは、他人を将棋やチェスの駒のように動かす技術を開発しているということなのである。

2003年にダーパ(DARPA)はそのように明言しており、マインド・コントロールの技術、脳を支配する技術が、どんどん研究されている。

インターネットを発明し、ステルス戦闘機を発明し、無人戦闘機を発明した軍事機関が、いよいよ、「他人の脳を支配する技術」を発明しようとしている。


マッハ20で飛ぶ超高速軍用機もDARPAの研究だ。

人間の脳は他人によっていじられる

さらに、敵に対する攻撃方法としても「非致死性兵器」として脳を破壊する技術まで研究されている。

破壊と言っても、単純に破壊するのであれば殺してしまえばいい。

しかし、ダーパ(DARPA)が考えている破壊とはそのようなものではなく、たとえば「記憶を消してしまう」ものであったり、「別の記憶を埋め込む」ものであったりする。脳の記憶を「改変」してしまうのだ。

自国の兵士を最強軍団に変えるために「脳を改良」するというのは、逆に言えば、他国の軍隊を「脳を改悪」すればいいということになる。

記憶障害を治療することができるということは、逆に記憶障害を起こすこともできるわけである。

脳を強化する技術と、脳を破壊する技術が、同時並行で進んでいる。医学に転用されれば、革新的な技術なるものがある反面、軍用で実践されたら、破壊的な技術にもなる。

どちらの結果になるにしろ、人間の脳は他人によって、めちゃくちゃにいじられる時代がやってくる。遠い未来ではない。もう研究所の中では何かが実現されているかもしれない。

ある時、グーグルの創始者のひとりであるラリー・ペイジはラスベガスの国際家電市こう言ったことがあった。

「グーグルを脳に移植したい」

多くの人は冗談だと思って笑っていたかもしれないが、冗談ではないかもしれない。

実はダーパ(DARPA)では損傷した脳にチップを埋め込んで、脳の機能を肩代わりさせるという研究もしている。

実現するかどうかは分からない。もし実現したらどうなるのか。このチップがBluetoothのようなもので外部で接続されたとき、ラリー・ペイジの語った夢は実現する可能性も見えてくる。

チップと脳のニューロンをどのように融合するのかは研究が進められているのだろうが、未来が恐ろしくないだろうか。LSDで夢を見るくらいで進化がとまっていればよかったと思う。


Googleを脳に移植するのは冗談ではない可能性も。
https://darkness-tiga.blogspot.jp/2012/01/20120127T0447000900.html

http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/440.html#c9

[近代史3] アメリカ人には音楽は理解できない _ ジャズなんか音楽じゃない 中川隆
10. 中川隆[-10368] koaQ7Jey 2019年5月18日 18:04:44 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[1951]

アフガニスタンのケシの裏側にいた「何者か」は?

アメリカ軍がCIAと結託して様々な秘密工作を行っているのは、レーガン大統領時代のイラン・コントラ事件を見ても分かる通りだ。

2000年代のブッシュ政権時代はアフガニスタンで、カルザイ大統領を送り込んで、アフガニスタンを裏側から支配していたのもアメリカだった。

カルザイ大統領は汚職にまみれた男だったが、この男こそがアフガニスタンの「ケシ」の利権を一手に掌握していた元締めだったと言われている。

2011年にはカンダハルで「麻薬王」と呼ばれた男が自宅で射殺されるという事件が起きていたが、その男の名前はアフメド・ワリ・カルザイと言った。

まさしく、カルザイ大統領の「弟」であった。

(アメリカが衰退しているのは、「アフガニスタンの呪い」だ)
http://www.bllackz.net/blackasia/content/20131011T0129320900.html


アフガニスタンのケシ畑から上がった阿片を、カルザイの弟が買い上げ、それをカルザイ大統領が「何者か」にそれを売りつけ、「何者か」がそれを全世界にばらまいていた。

中央アジア経由で、そのような巨大なドラッグ・ルートがあったことはよく知られている。

ケシは阿片となり、阿片はヘロインとなる。ヘロインは高額で売れる商品である。これが闇ルートで全世界に大量に流されていた。

カルザイ大統領の裏にいた「何者か」は、まさかとは思うが噂ではCIAであったと言われている。全世界に流通しているヘロインの90%は中央アフリカから流れているものである。

この巨大な「産業」を担うルートは未だに解明されていないが、その物量からして、巨大な組織が関わっていることだけは分かっている。

中央アフリカで巨大な物量をさばける能力がある組織は、ただひとつ、アメリカ軍だけである。そのため、CIAと米軍がヘロインの密輸に関わっているのではないかという噂は10年近く流れ続けていたのだった。

もちろん、噂だ。誰も真実は分からない。誰かがCIAとアメリカ軍に罪を押し付けているのかもしれない。

カルザイ大統領は汚職にまみれた男だったが、この男こそがアフガニスタンの「ケシ」の利権を一手に掌握していた元締めだったと言われている。


クルマンベク・バキエフという男の裏側

ところで、ケシ栽培と言えば、アフガニスタンと共にキルギスでも行われていた。誰も知らない、誰も見ない、国際社会から完全に忘れ去られている「見えない国」の裏側でケシ畑が延々と広がっていた。

噂によると相当な規模でケシ畑が広がり、それを粗末な小屋でヘロインに精製していたようだ。これが南部の都市であるオシに集められ、そこから首都ビシケクに運ばれていた。

このヘロインを国外に持ち出すには国境を越えなければならない。

アフガニスタンのヘロインはイラン・ルートを越えてヨーロッパに運ばれていると言われているが、果たしてキルギスの麻薬はどうだったのだろう。

その前に、この秘かに製造されていたヘロインは、いったい誰が押さえていたのだろうか。

ここにもひとつの噂があった。2000年からバキエフは首相という地位に就いて着々と権力を継承していたのだが、アメリカはこの男に注目して裏で取引をしていた形跡があるというのだ。

すなわち、権力の座を与える代わりに、見返りを要求していたのである。その見返りというのがキルギスに「米軍基地を継続的・長期間に使用させること」ということだと言われている。

果たして2005年、アメリカの資金が反政府運動に使われて、アスカル・アカエフ大統領は追放、クルマンベク・バキエフが新大統領となった。

そして、この男とアメリカは「米軍基地」という拠点で深く、危険に結びついていく。

バキエフ大統領がその地位に就けたのは、まさにアメリカの資本であり、この男がその後の独裁を強めることができたのも、やはりアメリカの資本だった。

バキエフはその権力を持って私服を肥やしていくことになるのだが、その利権ビジネスのひとつとして国内で作られたヘロインの密売があると言われているのである。

バキエフ大統領がその地位に就けたのは、まさにアメリカの資本であり、この男がその後の独裁を強めることができたのも、やはりアメリカの資本だった。


これはきっと、何かの「偶然」に違いない……

ベトナム戦争時、アメリカの傀儡となった南ベトナムのグエン・バン・チュー政権もドラッグの密売をしていたというニュースがあった。

戦争のあるところになぜかドラッグがあり、そしてそこにアメリカ軍がいて、アメリカ軍基地がある。南ベトナムもサイゴンにタンソンニュット空軍基地を抱えていた。

状況が似ているように思わないだろうか。

あるいは、ベトナム戦争時のタイ首相タノーム、副首相プラパートが、麻薬の密売をしていたというニュースとも似ているように思わないだろうか?

当時のタイにも、国内の数十箇所にアメリカの空軍基地が作られて、そこからB52機のような大型機がベトナムに向けて飛んでいた。

当時のタイは、例のゴールデン・トライアングルに世界最大のケシ畑を所有していたのではなかったか?

このベトナム戦争時のアメリカ国内には、カウンター・カルチャーを代表するヒッピーがマリファナをふかしていたはずだが、あのマリファナはどこから来ていたのだろうか?

「偶然」だと思うが、アメリカ軍のいるところには、なぜか麻薬が存在しているのだ。

キルギスもまたその例に漏れなかった。

国内でヘロインが作られていて、独裁者がそれを掌握していて、アメリカ空軍基地がそこにある。そういう図式だ。

まさか「世界の警察」であるアメリカが、自らの傀儡政権を海外に作って麻薬を作らせ、それを米軍基地に運ばせていたとか、そんなことがあるのだろうか。

それはきっと単なる「偶然」に違いない。

1970年代、ベトナムに麻薬が蔓延していて、アメリカの傀儡政権があって、アメリカ空軍基地があったのは「偶然」だろう。まさかアメリカが軍を使って麻薬を運ぶわけがない。

同時期のタイにも世界最大のケシ畑があって、アメリカの傀儡政権があって、アメリカ空軍基地があったのも「偶然」だ。まさかアメリカが軍を使って麻薬を運ぶわけがない。

2000年代のアフガニスタンにも世界最大のケシ畑があって、アメリカの傀儡カルザイ政権があって、アメリカ空軍基地があったのも、これまた「偶然」だ。まさかアメリカが軍を使って麻薬を運ぶわけがない。

世界最大のコカイン生産地であるコロンビアにもアメリカ空軍基地があったのも、これまた「偶然」だ。まさかアメリカが軍を使って麻薬を運ぶわけがない。

そして、「見えない国」キルギスにも誰にも注目されないケシ畑があって、アメリカの傀儡だった政権があって、アメリカ空軍基地があったのも、これまた「偶然」だ。まさかアメリカが軍を使って麻薬を運ぶわけがない。

これはきっと、何かの「偶然」に違いない……。

見渡す限り広がる中央アジアのケシ畑。これがヘロインの原材料になる。そして、それは「誰か」が世界に流通させなければならない。誰かがそれをしている。
http://www.bllackz.net/blackasia/content/20150910T0140500900.html

http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/440.html#c10

[近代史3] アメリカ人には音楽は理解できない _ ジャズなんか音楽じゃない 中川隆
11. 中川隆[-10367] koaQ7Jey 2019年5月18日 18:07:13 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[1952]

2017年01月17日 世界を支配しているCIA3派とは・・・・
http://blog.livedoor.jp/wisdomkeeper/archives/52001108.html


ソ連崩壊後、パパブッシュとブッシュのネオコン攻撃部隊(Vulcans)はロシア及びソ連から独立した国々から全ての資産(特に石油)を奪った。パパブッシュとキッシンジャーは、ブッシュCIAのごろつき集団の犯罪を介して個人的に巨額の富を得た。

ヘンリー・キッシンジャー、サイラス・バンス、ジェームズ・ベイカーが国務長官だったときに副次官補を務めたスティーブ・パチェニクはWikiLeaksについて、クーデターを阻止しようとしている情報機関内のグループが作り上げたのではないかと推測している。

___


非常に長い記事ですので一部をざっくりと訳してみました。全てをお伝えできず残念ですが、残りの部分はサイト内の本文をご覧ください。

この記事はCIAについて非常に詳細に説明してくれています。そして世界を実際に支配しているのはCIAの3派閥だとも言っています。これらの3派閥で内紛が勃発しているそうです。またCIA 対 NSAの闘争も起きているそうです。彼らの戦いが激化して共倒れすることを願うばかりです。

日本の政治家もCIAに暗殺されていますが、トランプ氏もケネディ大統領と同様に彼らに暗殺される危険性があります。CIAとは関係がなくスキャンダルも少ないトランプ氏はCIAと主要メディアと戦っていることがよくわかります。主要メディア(日本のマスコミも含め)は、大統領就任式間近の今、反トランプの情報操作を激化しています。マスコミはトランプ氏の暴言について嘲笑しながら伝えていますが、トランプ氏の暴言の内容は非常にまともで本当のことを言っています。これほど本当のことをストレートにいう政治家はいままでいなかったでしょう。
激しくののしっているように聞こえますが、トランプ氏はオルターナティブ・メディアが伝える内容をそのまま言葉にしているだけです。想像以上にアメリカの闇を知り尽くしているのでしょうね。


http://themillenniumreport.com/2017/01/exposed-cia-the-swamp-monsters/

(一部のみ)

1月14日付け


EXPOSED: CIA –The Swamp Monsters


世界を支配しているCIAの3派


By the Anonymous Patriots

The Millennium Report Exclusive


(非常に長い記事ですので、一部しかお伝えできません。ご了承ください。残りの部分はサイト内の記事をご覧ください。)

CIAの国内におけるスパイ活動は全ての米国民を標的にしている。いつ米国民がCIAに狙われ銃で撃たれてもおかしくない状況にある。

大統領選での様々なハッキング騒動は大統領選を無効にするためにCIAが行った偽旗であり、これには国を混乱に陥れているCIAの派閥争いも絡んでいる。
現在、CIAの派閥闘争及びCIAとCIAほど重要でない他の諜報機関(FBI、NSA、国土安全保障省、NIA国家情報機関、その他)の闘争が進行中である。
このような諜報機関同士のスキャンダル合戦は今に始まったものではないが。
米政府の代弁者でしかない主要メディアでさえ、米諜報機関同士の争いが起きていることを報道している。


CIAは他の全ての政府系諜報機関のトップに君臨している。
大統領令は極秘に扱われ、CIA以外の諜報機関には知らされることはない。
大統領の国際的な極秘事項に対してはCIA以外の諜報機関は部外者となる。

現在、オバマ大統領は、米議会、最高裁判所、米国民の承認を得ずに国際戦争を行っている。オバマ大統領は、NDAA(直訳:国防権限法)を修正し大統領の権限を増大させたため、米議会の承認なしに国内外で様々な戦争を行うことができるようになった。オバマはこの8年間で数々の違法な大統領令を確立させ、大統領の権限をかつてないほどに増大させた。


オバマが確立させた大統領令の下で国の安全を理由に大統領はアメリカの全資産を強奪できるようになった。

更に恐ろしいことは、CIAは、国際安全保障の名の下に大統領の上に立つことができるということだ。


CIAは、米連邦議会、大統領、米国民よりも優位な位置に自らを置き、秘密裡に何でも行えるようになってしまった。
CIAの絶大な権限で主要メディアはトランプ次期大統領に関するねつ造報道(ロシアのハッキングやロシアの脅迫など)を展開している。イギリスからこの国へ偽の調査書類が送られた。そしてCIAはトランプ次期大統領に対する


組織的誹謗中傷キャンペーンを実施している。


DNI国家情報長官のジェームズ・クラッパー氏(James Clapper)はCIAが提出した偽の調査書類に同意したことで、政府諜報機関の無能さが露呈した。


1981年にレーガ大統領が大統領令によりDNI国家情報長官を創設した主な理由は、米軍の高級将官が運営していたNSAをなくすためだった。DNIの職務はCIAの監視役として定義され、全諜報機関のトップに立った。しかし彼はCIAを支配することはできない。


国内外の情報活動に携わっている政府機関は世界各地に1271機関あり、政府から委託された民間会社は1931社存在する。つまり、85万4千人以上の職員が機密情報を取り扱っている。
諜報部員は85万4千人以上存在する。


クラッパーDNI国家情報長官は米議会で真実を話すことを宣言したにも関わらず、NSAは米国民の個人情報を収集していないと嘘をついた。
クラッパー氏はDNIに任命される前に、英軍に機密情報を提供している会社(Detica)の業務最高責任者を務めていた。同時に他の民間諜報機関(SRAとBoozAllen Hamilton)にも勤務していた。


クラッパー氏は諜報活動のための約75億ドルの年間国家予算を管理している。また彼はイギリスの元民間スパイである。それでも彼はトランプ氏に関する主要メディアのねつ造報道を見抜けなかったのである。
つまりこの男はプロの諜報部員を従えて年間75億ドルの予算を管理してるのにもかかわらず、CIAがトランプ氏を中傷するために偽の情報を流していることにさえ気づいていないのだ。
一方、我々市民は独立メディアの情報によりその真実を知っている。

法治国家であるならば、CIAによる次期大統領に関するねつ造報道は違法行為と見なされるがアメリカは法治国家ではない。


クラッパー氏は、現在、17の諜報機関(CIA、NSA、国土安全保障省、FBI、国務省、財務省、国防情報局、空軍情報局、陸軍情報局、米海兵隊情報局、沿岸警備情報局、エネルギー省、国家偵察局、麻薬取締局、国家地理空間情報局)のトップに君臨している。同時に彼は今でも3つの政府請負会社(Detica、BAE Systems、SRAインターナショナル、Booz Allen Hamilton)の取締役である。
クラッパー氏はアメリカの全ての情報機関を支配しているが、同時にアメリカの敵でもある。

彼は外国の諜報機関に所属してアメリカをスパイしていたこともある。
彼はアメリカの国家諜報機関のトップに上りつめ、全権力とカネを手に入れた。


オバマがクラッパー氏を国家諜報機関のトップに任命してから、アメリカではねつ造報道のオンパレードとなり、多国籍グローバリストの利益のために売国されるようになった。
CIAは国外の違法なハッカーを雇ってサイバー攻撃を行わせている。ヒラリーと民主党全国大会は彼らのサーバーがハッキングされた後にその調査を国外の民間会社に依頼した。しかしロシアが彼らのサーバーをハッキングした証拠は一切見つかっていない。

ほんの数人に権力が集中すると、必ず誤った方向へ進んでしまう。クラッパー氏は正確な情報を提供することに興味はない。彼はナチスの情報局と同様に単なるプロパガンダ・マシーンなのだ。
クラッパー氏は17の諜報機関を使って、彼らが流す情報は全て正しいと証拠もなしに我々に信じさせようとしている。


オバマの大統領令により、NSAは米国民と世界人類を監視することが可能となった。NSAが盗みとった個人データは全諜報機関が共有している。


スイス、ジュネーブのCIA海外本部はスイスの金融スキャンダルやCIAの犯罪活動に関わっている。


CIAのCiscoルーターやサーバーはNSAによってスパイされCIAの犯罪活動がNSAに知られてしまった。その結果、CIAと共謀したスイスの金融エリートらが逮捕された。NSAは今後もCIAに対するスパイを行っていく。

CIAのスイス本部は極秘施設であり、そこのサーバーがハッキングされたことでCIAは激怒した。
NSAに対するCIAの反撃として、CIA請負エージェントのエドワード・スノーデンを使って、NSAが米国民の個人情報を盗んでいることを示す大量のデータをリークさせた。


CIAは、CIAの3派閥を暴露したNSAがこれ以上CIAをスパイできないように対策を講じている。
クラッパー氏は米議会に呼ばれる度にNSAはスパイ活動を行っていないと嘘の証言をした。

CIAとNSAの闘争の中で、CIAはCisco SystemsやDARPAなどの活動情報をNSAに盗まれないようにした。

現在、CIA、NSAそして他の諜報機関の情報操作、情報収集合戦が進行中である。
しかしCIAは国際安全保障を担っているため国家安全保障を担当するNSAよりも優位に立っている。

CIAは国際的な紛争や事件に必ず関与している。通貨戦争、市場戦争、金融戦争、サイバー戦争、麻薬戦争そしてテロは常にCIAの関心事である。


オバマのNDAAは軍隊がテロリストと見なされた米国民を攻撃することを可能にした。愛国法により、CIAは米国民、企業、機関がテロリストでないことを証明できるまでテロリストと見なすことが可能となった。

CIAは3つの派閥に分類されており、世界中のスパイ活動を通して大きな利益を得ている。
アメリカはCIAに支配されており、ワシントンDCはCIAの泥沼の怪獣に包囲されている。
CIAは国内外で偽旗事件や非人道的犯罪を繰り返している。CIAによる殺人行為で無数の人々が犠牲になり、3兆ドルものアメリカの納税者の血税が無駄に使われた。CIAは国際戦争を勃発させるための偽旗事件を仕掛ける。またCIAはメディアを支配しサブリミナル・メッセージを流すことにより人々を洗脳している。


CIAは、元祖CIA(金に裏付けられたCIA=GB-CIA)、ブッシュCIA、Ex−CIAの3派閥に分かれている。それらの3派閥がアメリカや世界を支配してきた。


GB-CIA:Gold backed CIA

元祖CIA(OSS)は第二次世界大戦中に世界の国々から金(Gold)を盗んだ。ドイツや日本が他の国々から奪い取った金もCIAが奪った。しかしCIAは盗んだ金を返還するつもりはない。CIAが盗んだ金はアメリカには保管されておらず、フィリピンとスイスに保管されている。

GB-CIAはアメリカの国益のために海外で活動することになっているが、彼らは通貨市場、債券市場、株式市場に関与し世界中に影響をあたえている。

GB-CIAのメンバーは米財務省及びアメリカの経済政策を決めるESF経済安定資金に多く入りこんでいる。 ESFは通貨、債券、株式市場を操作し、FRBに金融政策を指示している。ESFはGB‐CIAにとってアメリカの金融市場を支配する上で最も都合の良いツールである。
GB-CIAこそがアメリカ経済を支配している。


GB-CIAは欲深く、世界中に戦争を仕掛けて富を強奪している。邪魔者は容赦なく殺害する。CIAは世界中で数々の残忍な犯罪活動を行っている。
ブッシュやクリントン周辺では、彼らに批判的な銀行のトップ、ブローカー、内部告発者が次々に不審死を遂げている。これまで数百人が殺害された。


また、GB-CIA は、彼らの性的異常行為、ピードフィリア(小児性愛犯罪)、悪魔崇拝の生贄儀式に多くの政治家や企業家を取り込んでいる。彼らは世界的な小児性愛犯罪ネットワークを構築させた。また、彼らは、難民のチャリティ団体を活用して世界最大の性奴隷の人身売買市場を運営している。また世界の麻薬密売も牛耳っており、イランーコントラ・スキャンダルやアフガニスタンのケシ栽培を行ってきた。
彼らは、麻薬、セックス、権力、支配、悪魔崇拝という通貨で絶大な権力を買っている。


Bush CIA (ブッシュ、クリントン、オバマ犯罪ファミリーとも呼ばれる):


パパブッシュが副大統領時代にブッシュCIAが正式に創設された。アメリカの16の諜報機関は国家情報長官によって支配されている。パパブッシュはCIA長官も務めたことがある。レーガン政権を支配していたのはパパブッシュである。彼はレーガンによってアメリカの外交政策の責任者に任命された。当時、パパブッシュはCIAの戦術を使ってソ連を崩壊させた。


パパブッシュ政権時代にジョージ・ソロスとレオ・ワンタが米財務省の偽の米国債を使ってロシア通貨を攻撃し不安定化した。

パパブッシュの兄(弟)は、Riggs Bankを経営しており、その傘下にVelment Bankを創設し、ロシアから奪ったお金とゴールドをロンダリングしている。一部のお金はミット・ロムニーの会社、Bain Capitalを介してロンダリングされた。
ソ連崩壊後、パパブッシュとブッシュのネオコン攻撃部隊(Vulcans)はロシア及びソ連から独立した国々から全ての資産(特に石油)を奪った。パパブッシュとキッシンジャーは、ブッシュCIAのごろつき集団の犯罪を介して個人的に巨額の富を得た。
パパブッシュはブッシュCIAのごろつき集団にホワイトハウス、司法省、国務省を取り込み、勢力を拡大した。その結果、CIAの犯罪は全て連邦判事や国務省の高官によって見逃された。


ブッシュ家はクリントン家とビル・クリントンがアーカンソー州知事になる前から親しい関係にあり、オバマの母親は元CIAエージェントである。そのためオバマは生まれた時からCIAと深い結びつきがあった。オバマは完全にCIAの創造物である。
オバマが抱える問題は、CIAの3派閥ともつながりがあることであり、どの派閥に属してよいのかわからない。彼のめちゃくちゃな政策は、GB-CIAとブッシュCIAの両派閥を満足させようとしたからに他ならない。


ピザゲートで悪名高いジョン・ポデスタ氏と彼の兄(弟)はワシントンで最も有力なロビーストであり、レーガン政権時代から米政府の小児性愛組織を牛耳ってきた。
パパブッシュはレーガン政権の事実上の権力者だったが、当時からホワイトハウスでは小児性愛犯罪が日常的に行われていた。
ホワイトハウスがこのような性犯罪を堂々と行っていたことで連邦議員らの倫理が完全に崩壊した。


パパブッシュはケネディを暗殺したCIAを当時から支配し続けており、やりたい放題のことをやってきた。誰もそれを止めることはできなかった。パパブッシュはレーガン大統領の暗殺も企てたが失敗した。

ホワイトハウスも司法省も国務省もCIAの犯罪行為に慣れてしまい、CIAや政治家の犯罪をひたすら隠蔽してきた。


ケネディが暗殺されたとき、パパブッシュはCIAエージェントだった。
当時GB-CIAは世界の地政学的領域で独占するようになり、政治リーダーの暗殺を行うことで政権を変えることが可能になったとパパブッシュは認識した。
当時、パパブッシュは外交政策の責任者としてCFR(元CIA、政府の諜報部員及び企業の諜報部員で構成されている)の命令に従って政策を実行していた。また、パパブッシュは自分が任命した政治家全員の脅迫状リストを作成し彼らに命令に従うことを約束させた。


パパブッシュはサウジ王族と非常に親しい関係を築いた。そして彼の人生の多くをサウジの宮殿で過ごすことになった。パパブッシュは世界最大の武器商人、麻薬王、マフィア、王族、金融詐欺集団と協力関係にあった。彼はどこの国を訪れてもセキュリティに引っかかることなく自由に入国を許され、彼のビジネス(犯罪活動)を世界中で展開することができた。

最終的にGB-CIAはブッシュCIAの活動に気が付き、両者間の緊張が高まった。


パパブッシュは、配下のジョージ・ソロスとレオ・ワンタがロシア通貨を崩壊させ巨額の富を得た時、ロシアから大量の
金(ゴールド)を盗んだ。
そしてその2年間でパパブッシュは絶大な権力と富を獲得し、ブッシュCIAとGB-CIAのいがみ合いが悪化した。GB-CIAはブッシュの協力を得て政府とのつながりを持ちたかった。彼らはクリントン大統領が単にパパブッシュの命令で動いていることを知っていた。


Ex-CIA:


既にGB-CIA対ブッシュCIAの対立が激化している中で、Ex-CIAがそれに参戦している。
政治家を脅迫して政権を変えることが好きなGB-CIAと非常に欲深く際限のない権力闘争に明け暮れるブッシュCIAの対立を逆手に取りEx-CIAはこれらの2派閥の戦術と利権を盗もうと考えた。多くのEx-CIAは、政府を去り、利益の多い民間の諜報機関に籍を置いている。民間諜報機関はアメリカの諜報活動の65%を行っている。

Ex-CIAは、政府、銀行、企業の最高の地位にいた元CIAエージェントたちである。また、Ex-CIAは、GB-CIA及びブッシュCIAで働いていたエージェントらによる無秩序スパイ集団として創設された。


Ex-CIAのメンバーは政府や大企業で最高の地位を獲得している。
弁護士のジミー・コメィ氏は、FBI長官になる前に、ニューヨーク南部の連邦検事、検事副総長、米最大の軍事契約企業、ロックヒードマーチン社の上席副社長、CIA関連企業の相談役、CIA銀行のHSBC及びGB-CIAの金を保管しているHSBCホールディングズの理事を務めていた。
CIAの高級エージェントはこのよう昇進の梯子を上っていく。


コメィ長官はFBIを去ったあとに別の場所で高い地位を得ることで、 彼が犯罪によって獲得した巨額の富は守られることになる。コメィ長官はCIAの3派閥の命令に従って動いていた。


ジョン・ブレナンCIA長官は、長官になる前に国土安全保障省の副補佐官、サウジアラビアのステーションチーフ、国家反テロセンターの所長、諜報ネットワークのAnalysis CorporationのCEO、National Security Allianceの会長、 Global Strategies 、GlobalIntelligence SolutionsそしてGTECの主任エージェントだった。


これらの3派閥はシリアで破壊活動を行っている。シリアでCIAはペンタゴンが支援している部隊を攻撃していることが明らかになった。

アレッポの外側でアメリカが支援している3つの集団がお互いに戦っていることが分かった。この事実を隠蔽するためにオバマはクラッパー氏に偽の情報を流すよう命令した。
それこそが、ロシアがトランプ氏を脅迫していることや大統領選でロシアがハッキング行為を行ったとするねつ造報道である。また、国土安全保障省が有権者のデータベースをハッキングしたと報道されたのはシリアにおけるオバマの個人的な戦争の実態を隠すための偽装工作である。

クラッパー氏、ブレナン氏、コメィ氏は共に17の諜報機関がメディアを介してねつ造報道を行うことに賛成した。トランプ氏に対する彼らの攻撃により、CIAの3派閥の汚職、共謀、グローバリズム・アジェンダ、反米姿勢が明らかになった。


トランプ氏はCIAに刃向かう戦士である。


トランプ氏はグローバリズムと戦い法の支配を推し進めているため、CIAの3派閥の一番の敵となった。


CIAの3派閥は法の上に君臨して権力を悪用しているが、反グローバリズム、反NWOのトランプ氏が大統領に選ばれたことで彼らはかなりの衝撃を受けている。そのため、3派閥はトランプ氏の信用を落とすためにあらゆる情報操作を行っている。また、彼らが継続的に行ってきた数々の邪悪な犯罪を隠蔽しようとしている。また、ケネディがやろうとして失敗したことをトランプ氏がやろうとしているため、それを阻止しようとしている。


トランプ氏は、CIAがCIAメンバーとCIAの利権を守るためなら容赦なく人を殺すことを知っており、彼の命が危険にさらされていることを十分認識している。
CIAはトランプ氏についての調査書類を持っておらず、彼がワイルドカードだったことをCIAは知らなかった。トランプ氏にはこれまで明らかになったスキャンダル以外は何もないのである。トランプ氏はCIAの3派閥とは一切関わり合いを持っていない。
トランプ氏はワシントンDCの関係者を一切信用していない。なぜなら彼らは既にCIAに取り込まれている恐れがあるからだ。

トランプ氏が1600ペンシルベニア・アベニューのビルにオフィスを構えることをしなかったのは賢い選択である。なぜなら、そのビルの隅々にCIAのスパイ装置が設置されているからである。
愛国者は、トランプ氏が使うことになるホワイトハウスの内装及びリフォームの費用を支援すべきである。


CIAはあらゆる手法を使ってトランプ氏を公然と攻撃しはじめた。CIAの3派閥と繋がりのあるジョージ・ソロスも世界の舞台で公然とトランプ氏を攻撃している。


ビルダーバーグや三極委員会、ボヘミアングローブ、CFRが一同に集まり会議を開いた。そこでトランプ氏を大統領にさせないための作戦を練った。世界中の邪悪なカバラ犯罪集団は神経をとがらせている。既に彼らはトランプ氏を殺害しようとした。また、彼に賄賂を贈ろうともした。彼らは他の政治家に対してならうまくいく戦術がトランプ氏にはうまくいかないことを知った。トランプ氏はCIAが日常的に行っている活動に一切関心がない。

以下省略
http://blog.livedoor.jp/wisdomkeeper/archives/52001108.html

http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/440.html#c11

[近代史3] アメリカ人には音楽は理解できない _ ジャズなんか音楽じゃない 中川隆
12. 中川隆[-10366] koaQ7Jey 2019年5月18日 18:10:00 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[1953]

John Lennon (ジョン・レノン) Imagine (イマジン)
https://www.youtube.com/results?search_query=John+Lennon+%E3%80%80Imagine+


Imagine there's no Heaven
It's easy if you try
No Hell below us
Above us only sky
Imagine all the people
Living for today...

想像してみて 天国は存在しないと
それは簡単なことだよ
僕達の下に地獄はない
僕達の上にはただ空があるだけさ
想像してみて 全ての人が
今日を生きているだけだって


Imagine there's no countries
It isn't hard to do
Nothing to kill or die for
And no religion too
Imagine all the people
Living life in peace

想像してみて 国が存在しない世界を
それは難しいことじゃないよ
なにかのために殺すことも死ぬこともない
そして宗教もない
想像してみて 全ての人が
平和の中で暮らす世界を

You may say I'm a dreamer
But I'm not the only one
I hope someday you'll join us
And the world will be as one

君は僕のことを夢想家だというかもしれない
でも僕はたったひとりじゃないよ
いつの日か君も僕達に加わって欲しい
そして世界をひとつにしよう

Imagine no possessions
I wonder if you can
No need for greed or hunger
A brotherhood of man
Imagine all the people
Sharing all the world

想像してみて 個人の持ち物がない世界を
それはちょっと難しいことかもしれない
奪い合う必要も飢餓もない
人は皆、兄弟なんだ
想像してみて 全ての人が
世界を共有することを

You may say I'm a dreamer
But I'm not the only one
I hope someday you'll join us
And the world will live as one

君は僕のことを夢想家だというかもしれない
でも僕はたったひとりじゃないよ
いつの日か君も僕達に加わって欲しい
そして世界をひとつにしよう

http://stimaro.seesaa.net/article/181433286.html

http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/440.html#c12

[近代史3] アメリカ人には音楽は理解できない _ ジャズなんか音楽じゃない 中川隆
13. 中川隆[-10365] koaQ7Jey 2019年5月18日 18:11:00 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[1954]

ポール・マッカートニー(Sir James Paul McCartney, 1942年6月18日 - )


Paul McCartney Yesterday - YouTube
https://www.youtube.com/results?search_query=Paul+McCartney++yesterday


Paul McCartney - Let It Be - YouTube
https://www.youtube.com/results?search_query=Paul+McCartney++Let+It+Be


Paul McCartney Hey Jude - YouTube
https://www.youtube.com/results?search_query=Paul+McCartney++Hey+Jude

http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/440.html#c13

[番外地6] アホが書いた日本国憲法 中川隆
30. 中川隆[-10364] koaQ7Jey 2019年5月18日 19:35:11 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[1955]
日米開戦直後に作成されていた天皇利用の間接統治計画: 書評 『9条入門』 著・加藤典洋 (長周新聞)
http://www.asyura2.com/19/senkyo260/msg/860.html


長周新聞 2019年5月16日

 5月3日の憲法記念日、安倍首相が日本会議系の改憲集会などにビデオメッセージを送り、「令和元年という新たな時代のスタートライン」に立って改憲議論を進め、「憲法を改正して来年に施行」すると意気込んだ。一方護憲勢力はおもに「憲法9条への自衛隊明記」を批判する集会を全国各地でおこない「平和憲法を護れ」と訴えた。天皇代替わりと改元直後の憲法論議ではあるが、「憲法第一章」(象徴天皇制)は争点になっていない。この点で目につくのは、おもに「護憲派」「進歩派」といわれる著名人のなかから、「平成天皇は、憲法9条を護るために努力し、象徴天皇としての務めを果たした」と称賛する声が聞こえることである。 
 
 『朝日新聞』(5月3日付)は、「安保法制」や憲法への自衛隊明記を批判してきた憲法学者の樋口陽一氏が「元号とは、国民がその名で天皇を歴史の中に記憶すること」だから、「無責任な介入」をすべきではなかったとして安倍首相を批判する発言を大きくとりあげた。象徴天皇制を主権在民の要として、平和と民主主義のために尽くす「名君」(優れた天皇)を護ることの重要性を強調するものである。 
 
 文芸評論家の加藤典洋(早稲田大学名誉教授)は、最近出版した『9条入門』(創元社)で、「戦争放棄」を定めた憲法9条は「ただすばらしいもの、手をふれてはいけないもの」といって「有り難がるだけ」では、「憲法9条に負けてしまう」という観点をうち出している。それは9条が「アメリカの占領政策のなかから誕生した」ものであり、第1条の「天皇は、日本国の象徴であり日本国民統合の象徴」という規定とともに、GHQの天皇免罪政策の帰結であったことを明確にする立場からである。 
 
 戦後の憲法論争では、改憲勢力が「押しつけられた憲法」といって「自主憲法」をとなえるのに対して、護憲論の多くが「押しつけられたものではない」といって九条の成立過程に立ち入ることを拒むという構図が形成されてきた。それがアメリカの対日占領政策、さらには「安保条約」下の対米従属社会について、踏み込んで論議し平和運動を強めることを妨げる要因になってきたといえる。 
 
 加藤は本書で、憲法の成立過程から「たしかに憲法9条は押しつけられた」といえることを史実に即して明確にしている。 
 
 マッカーサーは、厚木に到着する以前から、「天皇の権威を利用した間接統治による占領管理をめざしていた」。また、「終戦時に天皇の指令のもと、ほぼ乱れることなく国内外の数百万の日本軍がいっせいに武装解除に応じるのを見て、天皇の力というものに強い印象を受けていた」。 
 
 1945年9月2日の降伏文書調印式以降、マッカーサーが真っ先にとりかかったのは、「天皇を使った間接占領にむけての助命・免罪工作」であった。GHQの天皇免罪工作は、まず敗戦翌年(1946年)1月1日の「人間宣言」として実現した。しかし、当時の国際情勢においては、昭和天皇の戦争犯罪を糾弾する世論が圧倒的であった。マッカーサーはこの困難を克服する決定打として、日本政府に「天皇から政治権力を奪い(第1条)、軍事力も放棄(第9条)する、新しい憲法の制定」を超法規的な力で要求(押しつけ)した。 
 
 GHQが憲法草案を日本側に渡すさい、「これを受け入れれば、天皇の立場は安泰(アナシーラブル)になる」と説得した。GHQとしては、天皇を護りたいのだが、護りきれないかもしれない。この天皇の主権剥奪、日本の戦争放棄の2点を明記した憲法が受け入れられれば、「これを盾にして、国際社会の天皇糾弾者たちの要求をはねのけ、権力をもたない、象徴としての天皇を護ることができるだろう」と。そのため、「国体護持」(天皇制・皇室の存続)を第一に懇願していた日本政府は「昭和天皇を護るため」の憲法改正案をやむなく受け入れることになった。 
 
■押しつけ憲法を平和の糧に 問われる主体性 
 
 加藤は一方で、「国家主権の放棄」という側面を持つ憲法九条は、戦争で肉親、家財を失い塗炭の苦しみを強いられた日本国民に支持されたとして、次のように書いている。 
 
 「国にだまされ、戦場に送られ、あるいは家族を戦場に駆り出され、あるいは国内で空襲に逃げまどうことになったこれら多くの人びとの経験が、国の要職につく人とははっきりと違う、新しい受けとめ方を生み出した」 
 
 「こうして憲法9条は、これを国の主権制限条項と考えて否定的に受けとめる人びとと、国の平和追求の原理を定めたものと考えて肯定的に受けとめる人びととの間で戦後の日本人を二分する大問題になっていく」 
 
 加藤は、そこからこの間たたかわれてきた「押しつけ憲法」論とかかわって、「“押しつけられた”原理を、押しつけた側と押しつけられた側のどちらが、より必要としているか。わがものとしているか」が問われているという。 
 
 「そこに(憲法9条に)埋め込まれた可能性を十全に受けとめ、発揮できるのは、これを押しつけたマッカーサー、占領軍(GHQ)、アメリカ(米国)の側ではなく、これを押しつけられ、その押しつけられたものを、自分たちに必要なものとして学びとろうとしている自分たちのほうなのだ」 
 
 加藤典洋はこうして、憲法九条の草案者の野望と意図を見抜くとともに、9条に内在する可能性を、恒久平和を真に願う国民が主体的に発揮しみずからの力を強大にしていく糧にしていくことの大切さを強調している。  
 
■間接支配の為天皇を保護 明白な歴史真実 
 
 本書が明らかにしているアメリカによる天皇制をめぐる戦後処理と憲法制定過程については、すでに幾多の歴史学者が先行して発表してきたものである。 
 
 中村政則(一橋大学名誉教授)は『象徴天皇制への道』(岩波新書、1989年)で、「天皇制を残せば日本がふたたび天皇を中心として、軍国主義を復活させ、世界支配の野望に立ち上がるかもしれないと危惧する国際世論からの不安」をとり除く保証として、「考案されたのが憲法九条の戦争放棄規定であった。いわば第1条と第9条はワンセットの関係にあった」とのべていた。 
 
 また、マッカーサーが天皇の「人間宣言」後に大統領にあてた機密電報で、「天皇を廃除すれば、占領軍の大幅増強は絶対不可欠となり、最小限にみても百万の軍隊が必要となり、無期限にこれを維持しなければならない」という理由で、天皇を東京裁判に付すことに反対する強い意志を示していたことを明らかにしている。 
 
 さらに、スチムソン米陸軍長官が戦後、日本に対する「天皇制保持による間接統治」を達成するために「二枚の切り札を持っていた」と回想している事実もとりあげている。スチムソンは「(切り札の)一つは、日本皇軍にたいして威力をもつ天皇であり、もう一つは原爆であった。この原爆によって、天皇およびその側近たちをして、無条件降伏をよぎないものと感じさせ、天皇の日本国民に対する測りしれない力をもって、日本軍部をしてわれわれの命令に従わせるということを達成すべきだと考えた」と書いていた。 
 
 このように、マッカーサーやスチムソンらは早くから、「天皇を日本国民統合の象徴として利用し間接支配する」という日本占領政策を共有していた。加藤哲郎(一橋大学名誉教授)は『象徴天皇制の起源』(平凡社新書、2005年)で、アメリカが日米開戦(真珠湾攻撃)直後から、天皇制を利用して、日本の軍部を排除した立憲君主制資本主義国家とし再建する計画(「日本計画」)を作成しており、その半年後には天皇を「平和のシンボル(象徴)として利用する」との最終草稿をまとめていたことを明らかにしている。 
 
 アメリカがこのような対日戦略をもって、「真珠湾攻撃」を機に第二次世界大戦に参入し、当初から天皇を「平和主義者」として軍部と区別し、東京大空襲でも皇居の攻撃を避けたことにも示された。その一方で、沖縄戦、全国空襲から広島・長崎への原爆投下によって何の罪もない一般市民を大量に虐殺したのである。昭和天皇はそれを理由に、アメリカにひれ伏すことを正当化することができた。 
 
 「“令和”改元を機に自主憲法の制定を」と叫ぶ勢力が国民的な支持基盤を持たないのは、また、アメリカ型の民主主義を賛美する「護憲勢力」が力を欠いているのは、両者ともこうした厳然たる歴史的事実と向き合うことができないからだといえる。

https://www.chosyu-journal.jp/wp-content/uploads/2019/05/091bd01886c9b05ab95027798239af76.jpg
この一冊で、すべての憲法論議は終わる
あらゆる政治的立場から離れた本当の9条の物語 その「出生の秘密」から「昭和天皇」「日米安保」との相克まで
(創元社発行、「戦後再発見」双書、B6判・348ページ、1500円)

https://www.chosyu-journal.jp/review/11737  

http://www.asyura2.com/13/ban6/msg/613.html#c30

[近代史02] 君はアジアを解放する為に立ち上がった昭和天皇のあの雄姿を知っているか? 中川隆
167. 中川隆[-10363] koaQ7Jey 2019年5月18日 19:35:36 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[1956]
日米開戦直後に作成されていた天皇利用の間接統治計画: 書評 『9条入門』 著・加藤典洋 (長周新聞)
http://www.asyura2.com/19/senkyo260/msg/860.html


長周新聞 2019年5月16日

 5月3日の憲法記念日、安倍首相が日本会議系の改憲集会などにビデオメッセージを送り、「令和元年という新たな時代のスタートライン」に立って改憲議論を進め、「憲法を改正して来年に施行」すると意気込んだ。一方護憲勢力はおもに「憲法9条への自衛隊明記」を批判する集会を全国各地でおこない「平和憲法を護れ」と訴えた。天皇代替わりと改元直後の憲法論議ではあるが、「憲法第一章」(象徴天皇制)は争点になっていない。この点で目につくのは、おもに「護憲派」「進歩派」といわれる著名人のなかから、「平成天皇は、憲法9条を護るために努力し、象徴天皇としての務めを果たした」と称賛する声が聞こえることである。 
 
 『朝日新聞』(5月3日付)は、「安保法制」や憲法への自衛隊明記を批判してきた憲法学者の樋口陽一氏が「元号とは、国民がその名で天皇を歴史の中に記憶すること」だから、「無責任な介入」をすべきではなかったとして安倍首相を批判する発言を大きくとりあげた。象徴天皇制を主権在民の要として、平和と民主主義のために尽くす「名君」(優れた天皇)を護ることの重要性を強調するものである。 
 
 文芸評論家の加藤典洋(早稲田大学名誉教授)は、最近出版した『9条入門』(創元社)で、「戦争放棄」を定めた憲法9条は「ただすばらしいもの、手をふれてはいけないもの」といって「有り難がるだけ」では、「憲法9条に負けてしまう」という観点をうち出している。それは9条が「アメリカの占領政策のなかから誕生した」ものであり、第1条の「天皇は、日本国の象徴であり日本国民統合の象徴」という規定とともに、GHQの天皇免罪政策の帰結であったことを明確にする立場からである。 
 
 戦後の憲法論争では、改憲勢力が「押しつけられた憲法」といって「自主憲法」をとなえるのに対して、護憲論の多くが「押しつけられたものではない」といって九条の成立過程に立ち入ることを拒むという構図が形成されてきた。それがアメリカの対日占領政策、さらには「安保条約」下の対米従属社会について、踏み込んで論議し平和運動を強めることを妨げる要因になってきたといえる。 
 
 加藤は本書で、憲法の成立過程から「たしかに憲法9条は押しつけられた」といえることを史実に即して明確にしている。 
 
 マッカーサーは、厚木に到着する以前から、「天皇の権威を利用した間接統治による占領管理をめざしていた」。また、「終戦時に天皇の指令のもと、ほぼ乱れることなく国内外の数百万の日本軍がいっせいに武装解除に応じるのを見て、天皇の力というものに強い印象を受けていた」。 
 
 1945年9月2日の降伏文書調印式以降、マッカーサーが真っ先にとりかかったのは、「天皇を使った間接占領にむけての助命・免罪工作」であった。GHQの天皇免罪工作は、まず敗戦翌年(1946年)1月1日の「人間宣言」として実現した。しかし、当時の国際情勢においては、昭和天皇の戦争犯罪を糾弾する世論が圧倒的であった。マッカーサーはこの困難を克服する決定打として、日本政府に「天皇から政治権力を奪い(第1条)、軍事力も放棄(第9条)する、新しい憲法の制定」を超法規的な力で要求(押しつけ)した。 
 
 GHQが憲法草案を日本側に渡すさい、「これを受け入れれば、天皇の立場は安泰(アナシーラブル)になる」と説得した。GHQとしては、天皇を護りたいのだが、護りきれないかもしれない。この天皇の主権剥奪、日本の戦争放棄の2点を明記した憲法が受け入れられれば、「これを盾にして、国際社会の天皇糾弾者たちの要求をはねのけ、権力をもたない、象徴としての天皇を護ることができるだろう」と。そのため、「国体護持」(天皇制・皇室の存続)を第一に懇願していた日本政府は「昭和天皇を護るため」の憲法改正案をやむなく受け入れることになった。 
 
■押しつけ憲法を平和の糧に 問われる主体性 
 
 加藤は一方で、「国家主権の放棄」という側面を持つ憲法九条は、戦争で肉親、家財を失い塗炭の苦しみを強いられた日本国民に支持されたとして、次のように書いている。 
 
 「国にだまされ、戦場に送られ、あるいは家族を戦場に駆り出され、あるいは国内で空襲に逃げまどうことになったこれら多くの人びとの経験が、国の要職につく人とははっきりと違う、新しい受けとめ方を生み出した」 
 
 「こうして憲法9条は、これを国の主権制限条項と考えて否定的に受けとめる人びとと、国の平和追求の原理を定めたものと考えて肯定的に受けとめる人びととの間で戦後の日本人を二分する大問題になっていく」 
 
 加藤は、そこからこの間たたかわれてきた「押しつけ憲法」論とかかわって、「“押しつけられた”原理を、押しつけた側と押しつけられた側のどちらが、より必要としているか。わがものとしているか」が問われているという。 
 
 「そこに(憲法9条に)埋め込まれた可能性を十全に受けとめ、発揮できるのは、これを押しつけたマッカーサー、占領軍(GHQ)、アメリカ(米国)の側ではなく、これを押しつけられ、その押しつけられたものを、自分たちに必要なものとして学びとろうとしている自分たちのほうなのだ」 
 
 加藤典洋はこうして、憲法九条の草案者の野望と意図を見抜くとともに、9条に内在する可能性を、恒久平和を真に願う国民が主体的に発揮しみずからの力を強大にしていく糧にしていくことの大切さを強調している。  
 
■間接支配の為天皇を保護 明白な歴史真実 
 
 本書が明らかにしているアメリカによる天皇制をめぐる戦後処理と憲法制定過程については、すでに幾多の歴史学者が先行して発表してきたものである。 
 
 中村政則(一橋大学名誉教授)は『象徴天皇制への道』(岩波新書、1989年)で、「天皇制を残せば日本がふたたび天皇を中心として、軍国主義を復活させ、世界支配の野望に立ち上がるかもしれないと危惧する国際世論からの不安」をとり除く保証として、「考案されたのが憲法九条の戦争放棄規定であった。いわば第1条と第9条はワンセットの関係にあった」とのべていた。 
 
 また、マッカーサーが天皇の「人間宣言」後に大統領にあてた機密電報で、「天皇を廃除すれば、占領軍の大幅増強は絶対不可欠となり、最小限にみても百万の軍隊が必要となり、無期限にこれを維持しなければならない」という理由で、天皇を東京裁判に付すことに反対する強い意志を示していたことを明らかにしている。 
 
 さらに、スチムソン米陸軍長官が戦後、日本に対する「天皇制保持による間接統治」を達成するために「二枚の切り札を持っていた」と回想している事実もとりあげている。スチムソンは「(切り札の)一つは、日本皇軍にたいして威力をもつ天皇であり、もう一つは原爆であった。この原爆によって、天皇およびその側近たちをして、無条件降伏をよぎないものと感じさせ、天皇の日本国民に対する測りしれない力をもって、日本軍部をしてわれわれの命令に従わせるということを達成すべきだと考えた」と書いていた。 
 
 このように、マッカーサーやスチムソンらは早くから、「天皇を日本国民統合の象徴として利用し間接支配する」という日本占領政策を共有していた。加藤哲郎(一橋大学名誉教授)は『象徴天皇制の起源』(平凡社新書、2005年)で、アメリカが日米開戦(真珠湾攻撃)直後から、天皇制を利用して、日本の軍部を排除した立憲君主制資本主義国家とし再建する計画(「日本計画」)を作成しており、その半年後には天皇を「平和のシンボル(象徴)として利用する」との最終草稿をまとめていたことを明らかにしている。 
 
 アメリカがこのような対日戦略をもって、「真珠湾攻撃」を機に第二次世界大戦に参入し、当初から天皇を「平和主義者」として軍部と区別し、東京大空襲でも皇居の攻撃を避けたことにも示された。その一方で、沖縄戦、全国空襲から広島・長崎への原爆投下によって何の罪もない一般市民を大量に虐殺したのである。昭和天皇はそれを理由に、アメリカにひれ伏すことを正当化することができた。 
 
 「“令和”改元を機に自主憲法の制定を」と叫ぶ勢力が国民的な支持基盤を持たないのは、また、アメリカ型の民主主義を賛美する「護憲勢力」が力を欠いているのは、両者ともこうした厳然たる歴史的事実と向き合うことができないからだといえる。

https://www.chosyu-journal.jp/wp-content/uploads/2019/05/091bd01886c9b05ab95027798239af76.jpg
この一冊で、すべての憲法論議は終わる
あらゆる政治的立場から離れた本当の9条の物語 その「出生の秘密」から「昭和天皇」「日米安保」との相克まで
(創元社発行、「戦後再発見」双書、B6判・348ページ、1500円)

https://www.chosyu-journal.jp/review/11737  

http://www.asyura2.com/09/reki02/msg/312.html#c167

[近代史3] 日本人と日本古来の文化を滅ぼそうとしているクリスチャンでグローバリストの天皇一族 _ 天皇は何人で何処から来たのか? 中川隆
44. 中川隆[-10362] koaQ7Jey 2019年5月18日 19:36:14 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[1957]
日米開戦直後に作成されていた天皇利用の間接統治計画: 書評 『9条入門』 著・加藤典洋 (長周新聞)
http://www.asyura2.com/19/senkyo260/msg/860.html


長周新聞 2019年5月16日

 5月3日の憲法記念日、安倍首相が日本会議系の改憲集会などにビデオメッセージを送り、「令和元年という新たな時代のスタートライン」に立って改憲議論を進め、「憲法を改正して来年に施行」すると意気込んだ。一方護憲勢力はおもに「憲法9条への自衛隊明記」を批判する集会を全国各地でおこない「平和憲法を護れ」と訴えた。天皇代替わりと改元直後の憲法論議ではあるが、「憲法第一章」(象徴天皇制)は争点になっていない。この点で目につくのは、おもに「護憲派」「進歩派」といわれる著名人のなかから、「平成天皇は、憲法9条を護るために努力し、象徴天皇としての務めを果たした」と称賛する声が聞こえることである。 
 
 『朝日新聞』(5月3日付)は、「安保法制」や憲法への自衛隊明記を批判してきた憲法学者の樋口陽一氏が「元号とは、国民がその名で天皇を歴史の中に記憶すること」だから、「無責任な介入」をすべきではなかったとして安倍首相を批判する発言を大きくとりあげた。象徴天皇制を主権在民の要として、平和と民主主義のために尽くす「名君」(優れた天皇)を護ることの重要性を強調するものである。 
 
 文芸評論家の加藤典洋(早稲田大学名誉教授)は、最近出版した『9条入門』(創元社)で、「戦争放棄」を定めた憲法9条は「ただすばらしいもの、手をふれてはいけないもの」といって「有り難がるだけ」では、「憲法9条に負けてしまう」という観点をうち出している。それは9条が「アメリカの占領政策のなかから誕生した」ものであり、第1条の「天皇は、日本国の象徴であり日本国民統合の象徴」という規定とともに、GHQの天皇免罪政策の帰結であったことを明確にする立場からである。 
 
 戦後の憲法論争では、改憲勢力が「押しつけられた憲法」といって「自主憲法」をとなえるのに対して、護憲論の多くが「押しつけられたものではない」といって九条の成立過程に立ち入ることを拒むという構図が形成されてきた。それがアメリカの対日占領政策、さらには「安保条約」下の対米従属社会について、踏み込んで論議し平和運動を強めることを妨げる要因になってきたといえる。 
 
 加藤は本書で、憲法の成立過程から「たしかに憲法9条は押しつけられた」といえることを史実に即して明確にしている。 
 
 マッカーサーは、厚木に到着する以前から、「天皇の権威を利用した間接統治による占領管理をめざしていた」。また、「終戦時に天皇の指令のもと、ほぼ乱れることなく国内外の数百万の日本軍がいっせいに武装解除に応じるのを見て、天皇の力というものに強い印象を受けていた」。 
 
 1945年9月2日の降伏文書調印式以降、マッカーサーが真っ先にとりかかったのは、「天皇を使った間接占領にむけての助命・免罪工作」であった。GHQの天皇免罪工作は、まず敗戦翌年(1946年)1月1日の「人間宣言」として実現した。しかし、当時の国際情勢においては、昭和天皇の戦争犯罪を糾弾する世論が圧倒的であった。マッカーサーはこの困難を克服する決定打として、日本政府に「天皇から政治権力を奪い(第1条)、軍事力も放棄(第9条)する、新しい憲法の制定」を超法規的な力で要求(押しつけ)した。 
 
 GHQが憲法草案を日本側に渡すさい、「これを受け入れれば、天皇の立場は安泰(アナシーラブル)になる」と説得した。GHQとしては、天皇を護りたいのだが、護りきれないかもしれない。この天皇の主権剥奪、日本の戦争放棄の2点を明記した憲法が受け入れられれば、「これを盾にして、国際社会の天皇糾弾者たちの要求をはねのけ、権力をもたない、象徴としての天皇を護ることができるだろう」と。そのため、「国体護持」(天皇制・皇室の存続)を第一に懇願していた日本政府は「昭和天皇を護るため」の憲法改正案をやむなく受け入れることになった。 
 
■押しつけ憲法を平和の糧に 問われる主体性 
 
 加藤は一方で、「国家主権の放棄」という側面を持つ憲法九条は、戦争で肉親、家財を失い塗炭の苦しみを強いられた日本国民に支持されたとして、次のように書いている。 
 
 「国にだまされ、戦場に送られ、あるいは家族を戦場に駆り出され、あるいは国内で空襲に逃げまどうことになったこれら多くの人びとの経験が、国の要職につく人とははっきりと違う、新しい受けとめ方を生み出した」 
 
 「こうして憲法9条は、これを国の主権制限条項と考えて否定的に受けとめる人びとと、国の平和追求の原理を定めたものと考えて肯定的に受けとめる人びととの間で戦後の日本人を二分する大問題になっていく」 
 
 加藤は、そこからこの間たたかわれてきた「押しつけ憲法」論とかかわって、「“押しつけられた”原理を、押しつけた側と押しつけられた側のどちらが、より必要としているか。わがものとしているか」が問われているという。 
 
 「そこに(憲法9条に)埋め込まれた可能性を十全に受けとめ、発揮できるのは、これを押しつけたマッカーサー、占領軍(GHQ)、アメリカ(米国)の側ではなく、これを押しつけられ、その押しつけられたものを、自分たちに必要なものとして学びとろうとしている自分たちのほうなのだ」 
 
 加藤典洋はこうして、憲法九条の草案者の野望と意図を見抜くとともに、9条に内在する可能性を、恒久平和を真に願う国民が主体的に発揮しみずからの力を強大にしていく糧にしていくことの大切さを強調している。  
 
■間接支配の為天皇を保護 明白な歴史真実 
 
 本書が明らかにしているアメリカによる天皇制をめぐる戦後処理と憲法制定過程については、すでに幾多の歴史学者が先行して発表してきたものである。 
 
 中村政則(一橋大学名誉教授)は『象徴天皇制への道』(岩波新書、1989年)で、「天皇制を残せば日本がふたたび天皇を中心として、軍国主義を復活させ、世界支配の野望に立ち上がるかもしれないと危惧する国際世論からの不安」をとり除く保証として、「考案されたのが憲法九条の戦争放棄規定であった。いわば第1条と第9条はワンセットの関係にあった」とのべていた。 
 
 また、マッカーサーが天皇の「人間宣言」後に大統領にあてた機密電報で、「天皇を廃除すれば、占領軍の大幅増強は絶対不可欠となり、最小限にみても百万の軍隊が必要となり、無期限にこれを維持しなければならない」という理由で、天皇を東京裁判に付すことに反対する強い意志を示していたことを明らかにしている。 
 
 さらに、スチムソン米陸軍長官が戦後、日本に対する「天皇制保持による間接統治」を達成するために「二枚の切り札を持っていた」と回想している事実もとりあげている。スチムソンは「(切り札の)一つは、日本皇軍にたいして威力をもつ天皇であり、もう一つは原爆であった。この原爆によって、天皇およびその側近たちをして、無条件降伏をよぎないものと感じさせ、天皇の日本国民に対する測りしれない力をもって、日本軍部をしてわれわれの命令に従わせるということを達成すべきだと考えた」と書いていた。 
 
 このように、マッカーサーやスチムソンらは早くから、「天皇を日本国民統合の象徴として利用し間接支配する」という日本占領政策を共有していた。加藤哲郎(一橋大学名誉教授)は『象徴天皇制の起源』(平凡社新書、2005年)で、アメリカが日米開戦(真珠湾攻撃)直後から、天皇制を利用して、日本の軍部を排除した立憲君主制資本主義国家とし再建する計画(「日本計画」)を作成しており、その半年後には天皇を「平和のシンボル(象徴)として利用する」との最終草稿をまとめていたことを明らかにしている。 
 
 アメリカがこのような対日戦略をもって、「真珠湾攻撃」を機に第二次世界大戦に参入し、当初から天皇を「平和主義者」として軍部と区別し、東京大空襲でも皇居の攻撃を避けたことにも示された。その一方で、沖縄戦、全国空襲から広島・長崎への原爆投下によって何の罪もない一般市民を大量に虐殺したのである。昭和天皇はそれを理由に、アメリカにひれ伏すことを正当化することができた。 
 
 「“令和”改元を機に自主憲法の制定を」と叫ぶ勢力が国民的な支持基盤を持たないのは、また、アメリカ型の民主主義を賛美する「護憲勢力」が力を欠いているのは、両者ともこうした厳然たる歴史的事実と向き合うことができないからだといえる。

https://www.chosyu-journal.jp/wp-content/uploads/2019/05/091bd01886c9b05ab95027798239af76.jpg
この一冊で、すべての憲法論議は終わる
あらゆる政治的立場から離れた本当の9条の物語 その「出生の秘密」から「昭和天皇」「日米安保」との相克まで
(創元社発行、「戦後再発見」双書、B6判・348ページ、1500円)

https://www.chosyu-journal.jp/review/11737  

http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/102.html#c44

[近代史3] GHQ とユダヤ金融資本は戦後の日本を共産化しようとして農地改革、人為的インフレ生成、預金封鎖、日本国憲法制定を行った 中川隆
9. 中川隆[-10361] koaQ7Jey 2019年5月18日 19:37:00 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[1958]
日米開戦直後に作成されていた天皇利用の間接統治計画: 書評 『9条入門』 著・加藤典洋 (長周新聞)
http://www.asyura2.com/19/senkyo260/msg/860.html


長周新聞 2019年5月16日

 5月3日の憲法記念日、安倍首相が日本会議系の改憲集会などにビデオメッセージを送り、「令和元年という新たな時代のスタートライン」に立って改憲議論を進め、「憲法を改正して来年に施行」すると意気込んだ。一方護憲勢力はおもに「憲法9条への自衛隊明記」を批判する集会を全国各地でおこない「平和憲法を護れ」と訴えた。天皇代替わりと改元直後の憲法論議ではあるが、「憲法第一章」(象徴天皇制)は争点になっていない。この点で目につくのは、おもに「護憲派」「進歩派」といわれる著名人のなかから、「平成天皇は、憲法9条を護るために努力し、象徴天皇としての務めを果たした」と称賛する声が聞こえることである。 
 
 『朝日新聞』(5月3日付)は、「安保法制」や憲法への自衛隊明記を批判してきた憲法学者の樋口陽一氏が「元号とは、国民がその名で天皇を歴史の中に記憶すること」だから、「無責任な介入」をすべきではなかったとして安倍首相を批判する発言を大きくとりあげた。象徴天皇制を主権在民の要として、平和と民主主義のために尽くす「名君」(優れた天皇)を護ることの重要性を強調するものである。 
 
 文芸評論家の加藤典洋(早稲田大学名誉教授)は、最近出版した『9条入門』(創元社)で、「戦争放棄」を定めた憲法9条は「ただすばらしいもの、手をふれてはいけないもの」といって「有り難がるだけ」では、「憲法9条に負けてしまう」という観点をうち出している。それは9条が「アメリカの占領政策のなかから誕生した」ものであり、第1条の「天皇は、日本国の象徴であり日本国民統合の象徴」という規定とともに、GHQの天皇免罪政策の帰結であったことを明確にする立場からである。 
 
 戦後の憲法論争では、改憲勢力が「押しつけられた憲法」といって「自主憲法」をとなえるのに対して、護憲論の多くが「押しつけられたものではない」といって九条の成立過程に立ち入ることを拒むという構図が形成されてきた。それがアメリカの対日占領政策、さらには「安保条約」下の対米従属社会について、踏み込んで論議し平和運動を強めることを妨げる要因になってきたといえる。 
 
 加藤は本書で、憲法の成立過程から「たしかに憲法9条は押しつけられた」といえることを史実に即して明確にしている。 
 
 マッカーサーは、厚木に到着する以前から、「天皇の権威を利用した間接統治による占領管理をめざしていた」。また、「終戦時に天皇の指令のもと、ほぼ乱れることなく国内外の数百万の日本軍がいっせいに武装解除に応じるのを見て、天皇の力というものに強い印象を受けていた」。 
 
 1945年9月2日の降伏文書調印式以降、マッカーサーが真っ先にとりかかったのは、「天皇を使った間接占領にむけての助命・免罪工作」であった。GHQの天皇免罪工作は、まず敗戦翌年(1946年)1月1日の「人間宣言」として実現した。しかし、当時の国際情勢においては、昭和天皇の戦争犯罪を糾弾する世論が圧倒的であった。マッカーサーはこの困難を克服する決定打として、日本政府に「天皇から政治権力を奪い(第1条)、軍事力も放棄(第9条)する、新しい憲法の制定」を超法規的な力で要求(押しつけ)した。 
 
 GHQが憲法草案を日本側に渡すさい、「これを受け入れれば、天皇の立場は安泰(アナシーラブル)になる」と説得した。GHQとしては、天皇を護りたいのだが、護りきれないかもしれない。この天皇の主権剥奪、日本の戦争放棄の2点を明記した憲法が受け入れられれば、「これを盾にして、国際社会の天皇糾弾者たちの要求をはねのけ、権力をもたない、象徴としての天皇を護ることができるだろう」と。そのため、「国体護持」(天皇制・皇室の存続)を第一に懇願していた日本政府は「昭和天皇を護るため」の憲法改正案をやむなく受け入れることになった。 
 
■押しつけ憲法を平和の糧に 問われる主体性 
 
 加藤は一方で、「国家主権の放棄」という側面を持つ憲法九条は、戦争で肉親、家財を失い塗炭の苦しみを強いられた日本国民に支持されたとして、次のように書いている。 
 
 「国にだまされ、戦場に送られ、あるいは家族を戦場に駆り出され、あるいは国内で空襲に逃げまどうことになったこれら多くの人びとの経験が、国の要職につく人とははっきりと違う、新しい受けとめ方を生み出した」 
 
 「こうして憲法9条は、これを国の主権制限条項と考えて否定的に受けとめる人びとと、国の平和追求の原理を定めたものと考えて肯定的に受けとめる人びととの間で戦後の日本人を二分する大問題になっていく」 
 
 加藤は、そこからこの間たたかわれてきた「押しつけ憲法」論とかかわって、「“押しつけられた”原理を、押しつけた側と押しつけられた側のどちらが、より必要としているか。わがものとしているか」が問われているという。 
 
 「そこに(憲法9条に)埋め込まれた可能性を十全に受けとめ、発揮できるのは、これを押しつけたマッカーサー、占領軍(GHQ)、アメリカ(米国)の側ではなく、これを押しつけられ、その押しつけられたものを、自分たちに必要なものとして学びとろうとしている自分たちのほうなのだ」 
 
 加藤典洋はこうして、憲法九条の草案者の野望と意図を見抜くとともに、9条に内在する可能性を、恒久平和を真に願う国民が主体的に発揮しみずからの力を強大にしていく糧にしていくことの大切さを強調している。  
 
■間接支配の為天皇を保護 明白な歴史真実 
 
 本書が明らかにしているアメリカによる天皇制をめぐる戦後処理と憲法制定過程については、すでに幾多の歴史学者が先行して発表してきたものである。 
 
 中村政則(一橋大学名誉教授)は『象徴天皇制への道』(岩波新書、1989年)で、「天皇制を残せば日本がふたたび天皇を中心として、軍国主義を復活させ、世界支配の野望に立ち上がるかもしれないと危惧する国際世論からの不安」をとり除く保証として、「考案されたのが憲法九条の戦争放棄規定であった。いわば第1条と第9条はワンセットの関係にあった」とのべていた。 
 
 また、マッカーサーが天皇の「人間宣言」後に大統領にあてた機密電報で、「天皇を廃除すれば、占領軍の大幅増強は絶対不可欠となり、最小限にみても百万の軍隊が必要となり、無期限にこれを維持しなければならない」という理由で、天皇を東京裁判に付すことに反対する強い意志を示していたことを明らかにしている。 
 
 さらに、スチムソン米陸軍長官が戦後、日本に対する「天皇制保持による間接統治」を達成するために「二枚の切り札を持っていた」と回想している事実もとりあげている。スチムソンは「(切り札の)一つは、日本皇軍にたいして威力をもつ天皇であり、もう一つは原爆であった。この原爆によって、天皇およびその側近たちをして、無条件降伏をよぎないものと感じさせ、天皇の日本国民に対する測りしれない力をもって、日本軍部をしてわれわれの命令に従わせるということを達成すべきだと考えた」と書いていた。 
 
 このように、マッカーサーやスチムソンらは早くから、「天皇を日本国民統合の象徴として利用し間接支配する」という日本占領政策を共有していた。加藤哲郎(一橋大学名誉教授)は『象徴天皇制の起源』(平凡社新書、2005年)で、アメリカが日米開戦(真珠湾攻撃)直後から、天皇制を利用して、日本の軍部を排除した立憲君主制資本主義国家とし再建する計画(「日本計画」)を作成しており、その半年後には天皇を「平和のシンボル(象徴)として利用する」との最終草稿をまとめていたことを明らかにしている。 
 
 アメリカがこのような対日戦略をもって、「真珠湾攻撃」を機に第二次世界大戦に参入し、当初から天皇を「平和主義者」として軍部と区別し、東京大空襲でも皇居の攻撃を避けたことにも示された。その一方で、沖縄戦、全国空襲から広島・長崎への原爆投下によって何の罪もない一般市民を大量に虐殺したのである。昭和天皇はそれを理由に、アメリカにひれ伏すことを正当化することができた。 
 
 「“令和”改元を機に自主憲法の制定を」と叫ぶ勢力が国民的な支持基盤を持たないのは、また、アメリカ型の民主主義を賛美する「護憲勢力」が力を欠いているのは、両者ともこうした厳然たる歴史的事実と向き合うことができないからだといえる。

https://www.chosyu-journal.jp/wp-content/uploads/2019/05/091bd01886c9b05ab95027798239af76.jpg
この一冊で、すべての憲法論議は終わる
あらゆる政治的立場から離れた本当の9条の物語 その「出生の秘密」から「昭和天皇」「日米安保」との相克まで
(創元社発行、「戦後再発見」双書、B6判・348ページ、1500円)

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[近代史3] 憲法九条と GHQ のニューディーラーが考えていた事 _ アメリカ合衆国憲法も常備軍の存在は認めていない 中川隆
3. 中川隆[-10360] koaQ7Jey 2019年5月18日 19:37:44 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[1959]
日米開戦直後に作成されていた天皇利用の間接統治計画: 書評 『9条入門』 著・加藤典洋 (長周新聞)
http://www.asyura2.com/19/senkyo260/msg/860.html


長周新聞 2019年5月16日

 5月3日の憲法記念日、安倍首相が日本会議系の改憲集会などにビデオメッセージを送り、「令和元年という新たな時代のスタートライン」に立って改憲議論を進め、「憲法を改正して来年に施行」すると意気込んだ。一方護憲勢力はおもに「憲法9条への自衛隊明記」を批判する集会を全国各地でおこない「平和憲法を護れ」と訴えた。天皇代替わりと改元直後の憲法論議ではあるが、「憲法第一章」(象徴天皇制)は争点になっていない。この点で目につくのは、おもに「護憲派」「進歩派」といわれる著名人のなかから、「平成天皇は、憲法9条を護るために努力し、象徴天皇としての務めを果たした」と称賛する声が聞こえることである。 
 
 『朝日新聞』(5月3日付)は、「安保法制」や憲法への自衛隊明記を批判してきた憲法学者の樋口陽一氏が「元号とは、国民がその名で天皇を歴史の中に記憶すること」だから、「無責任な介入」をすべきではなかったとして安倍首相を批判する発言を大きくとりあげた。象徴天皇制を主権在民の要として、平和と民主主義のために尽くす「名君」(優れた天皇)を護ることの重要性を強調するものである。 
 
 文芸評論家の加藤典洋(早稲田大学名誉教授)は、最近出版した『9条入門』(創元社)で、「戦争放棄」を定めた憲法9条は「ただすばらしいもの、手をふれてはいけないもの」といって「有り難がるだけ」では、「憲法9条に負けてしまう」という観点をうち出している。それは9条が「アメリカの占領政策のなかから誕生した」ものであり、第1条の「天皇は、日本国の象徴であり日本国民統合の象徴」という規定とともに、GHQの天皇免罪政策の帰結であったことを明確にする立場からである。 
 
 戦後の憲法論争では、改憲勢力が「押しつけられた憲法」といって「自主憲法」をとなえるのに対して、護憲論の多くが「押しつけられたものではない」といって九条の成立過程に立ち入ることを拒むという構図が形成されてきた。それがアメリカの対日占領政策、さらには「安保条約」下の対米従属社会について、踏み込んで論議し平和運動を強めることを妨げる要因になってきたといえる。 
 
 加藤は本書で、憲法の成立過程から「たしかに憲法9条は押しつけられた」といえることを史実に即して明確にしている。 
 
 マッカーサーは、厚木に到着する以前から、「天皇の権威を利用した間接統治による占領管理をめざしていた」。また、「終戦時に天皇の指令のもと、ほぼ乱れることなく国内外の数百万の日本軍がいっせいに武装解除に応じるのを見て、天皇の力というものに強い印象を受けていた」。 
 
 1945年9月2日の降伏文書調印式以降、マッカーサーが真っ先にとりかかったのは、「天皇を使った間接占領にむけての助命・免罪工作」であった。GHQの天皇免罪工作は、まず敗戦翌年(1946年)1月1日の「人間宣言」として実現した。しかし、当時の国際情勢においては、昭和天皇の戦争犯罪を糾弾する世論が圧倒的であった。マッカーサーはこの困難を克服する決定打として、日本政府に「天皇から政治権力を奪い(第1条)、軍事力も放棄(第9条)する、新しい憲法の制定」を超法規的な力で要求(押しつけ)した。 
 
 GHQが憲法草案を日本側に渡すさい、「これを受け入れれば、天皇の立場は安泰(アナシーラブル)になる」と説得した。GHQとしては、天皇を護りたいのだが、護りきれないかもしれない。この天皇の主権剥奪、日本の戦争放棄の2点を明記した憲法が受け入れられれば、「これを盾にして、国際社会の天皇糾弾者たちの要求をはねのけ、権力をもたない、象徴としての天皇を護ることができるだろう」と。そのため、「国体護持」(天皇制・皇室の存続)を第一に懇願していた日本政府は「昭和天皇を護るため」の憲法改正案をやむなく受け入れることになった。 
 
■押しつけ憲法を平和の糧に 問われる主体性 
 
 加藤は一方で、「国家主権の放棄」という側面を持つ憲法九条は、戦争で肉親、家財を失い塗炭の苦しみを強いられた日本国民に支持されたとして、次のように書いている。 
 
 「国にだまされ、戦場に送られ、あるいは家族を戦場に駆り出され、あるいは国内で空襲に逃げまどうことになったこれら多くの人びとの経験が、国の要職につく人とははっきりと違う、新しい受けとめ方を生み出した」 
 
 「こうして憲法9条は、これを国の主権制限条項と考えて否定的に受けとめる人びとと、国の平和追求の原理を定めたものと考えて肯定的に受けとめる人びととの間で戦後の日本人を二分する大問題になっていく」 
 
 加藤は、そこからこの間たたかわれてきた「押しつけ憲法」論とかかわって、「“押しつけられた”原理を、押しつけた側と押しつけられた側のどちらが、より必要としているか。わがものとしているか」が問われているという。 
 
 「そこに(憲法9条に)埋め込まれた可能性を十全に受けとめ、発揮できるのは、これを押しつけたマッカーサー、占領軍(GHQ)、アメリカ(米国)の側ではなく、これを押しつけられ、その押しつけられたものを、自分たちに必要なものとして学びとろうとしている自分たちのほうなのだ」 
 
 加藤典洋はこうして、憲法九条の草案者の野望と意図を見抜くとともに、9条に内在する可能性を、恒久平和を真に願う国民が主体的に発揮しみずからの力を強大にしていく糧にしていくことの大切さを強調している。  
 
■間接支配の為天皇を保護 明白な歴史真実 
 
 本書が明らかにしているアメリカによる天皇制をめぐる戦後処理と憲法制定過程については、すでに幾多の歴史学者が先行して発表してきたものである。 
 
 中村政則(一橋大学名誉教授)は『象徴天皇制への道』(岩波新書、1989年)で、「天皇制を残せば日本がふたたび天皇を中心として、軍国主義を復活させ、世界支配の野望に立ち上がるかもしれないと危惧する国際世論からの不安」をとり除く保証として、「考案されたのが憲法九条の戦争放棄規定であった。いわば第1条と第9条はワンセットの関係にあった」とのべていた。 
 
 また、マッカーサーが天皇の「人間宣言」後に大統領にあてた機密電報で、「天皇を廃除すれば、占領軍の大幅増強は絶対不可欠となり、最小限にみても百万の軍隊が必要となり、無期限にこれを維持しなければならない」という理由で、天皇を東京裁判に付すことに反対する強い意志を示していたことを明らかにしている。 
 
 さらに、スチムソン米陸軍長官が戦後、日本に対する「天皇制保持による間接統治」を達成するために「二枚の切り札を持っていた」と回想している事実もとりあげている。スチムソンは「(切り札の)一つは、日本皇軍にたいして威力をもつ天皇であり、もう一つは原爆であった。この原爆によって、天皇およびその側近たちをして、無条件降伏をよぎないものと感じさせ、天皇の日本国民に対する測りしれない力をもって、日本軍部をしてわれわれの命令に従わせるということを達成すべきだと考えた」と書いていた。 
 
 このように、マッカーサーやスチムソンらは早くから、「天皇を日本国民統合の象徴として利用し間接支配する」という日本占領政策を共有していた。加藤哲郎(一橋大学名誉教授)は『象徴天皇制の起源』(平凡社新書、2005年)で、アメリカが日米開戦(真珠湾攻撃)直後から、天皇制を利用して、日本の軍部を排除した立憲君主制資本主義国家とし再建する計画(「日本計画」)を作成しており、その半年後には天皇を「平和のシンボル(象徴)として利用する」との最終草稿をまとめていたことを明らかにしている。 
 
 アメリカがこのような対日戦略をもって、「真珠湾攻撃」を機に第二次世界大戦に参入し、当初から天皇を「平和主義者」として軍部と区別し、東京大空襲でも皇居の攻撃を避けたことにも示された。その一方で、沖縄戦、全国空襲から広島・長崎への原爆投下によって何の罪もない一般市民を大量に虐殺したのである。昭和天皇はそれを理由に、アメリカにひれ伏すことを正当化することができた。 
 
 「“令和”改元を機に自主憲法の制定を」と叫ぶ勢力が国民的な支持基盤を持たないのは、また、アメリカ型の民主主義を賛美する「護憲勢力」が力を欠いているのは、両者ともこうした厳然たる歴史的事実と向き合うことができないからだといえる。

https://www.chosyu-journal.jp/wp-content/uploads/2019/05/091bd01886c9b05ab95027798239af76.jpg
この一冊で、すべての憲法論議は終わる
あらゆる政治的立場から離れた本当の9条の物語 その「出生の秘密」から「昭和天皇」「日米安保」との相克まで
(創元社発行、「戦後再発見」双書、B6判・348ページ、1500円)

https://www.chosyu-journal.jp/review/11737  

http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/229.html#c3

[近代史3] アメリカ人には音楽は理解できない _ ジャズなんか音楽じゃない 中川隆
14. 中川隆[-10359] koaQ7Jey 2019年5月18日 19:39:57 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[1960]

麻薬取引の黒幕は CIA


2019.03.18
麻薬取引はCIAや巨大銀行と密接な関係があり、明治維新の背後には麻薬業者


 ある音楽グループのメンバーで俳優としても活動したいた人物がコカインを摂取した容疑で関東信越厚生局麻薬取締部に逮捕されたという。その人物が薬物を使用しているという情報が昨年の秋にあり、内偵していたようだ。

 伝えられているところによると、任意同行を求めて尿検査をしたところコカインの陽性反応が出たのだが、自宅からコカインは見つからなかったという。コカインを使ったと認識した段階で任意同行を求めた可能性が高く、どのようなルートで麻薬を入手し、どこで摂取したのかも当局は知っているのだろう。

 本ブログでも指摘してきたが、麻薬取引はCIAの活動と深く結びつき、麻薬資金を巨大金融機関は扱っている。ベトナム戦争の当時、最大の非合法ケシの産地は東南アジアであり、アフガニスタンでCIAが秘密工作を始めると主要産地はパキスタンとアフガニスタンをまたぐ山岳地帯へ移動、中米で秘密工作を始めるとコカインの流通量が増えた。いずれも黒幕はCIAであり、その儲けを扱うために「CIAの銀行」が存在する。

 世界の金融システムは2008年に破綻した。リーマン・ブラザーズの倒産はその象徴にすぎない。システムが崩れそうになったのだ。この倒産を利用して欧米の支配層は庶民に破綻の尻拭いをさせた。超法規的な救済だが、その後、富が集中するはスピードは加速していく。

 この金融破綻、いわゆるリーマン・ショックを処理する際に麻薬資金も重要な役割を果たしたと伝えられている。UNODC(国連薬物犯罪事務所)のアントニオ・マリア・コスタによると、​麻薬取引で稼いだ利益3520億ドルの大半が経済システムの中に吸い込まれ、いくつかの銀行を倒産から救った可能性​があるという。麻薬資金は流動性が高く、銀行間ローンで利用されたとも言われている。

 本ブログでは繰り返し指摘してきたが、CIAはウォール街の人脈によって作られた情報機関である。同じように、イギリスのMI6(SIS)はシティと結びついている。

 イギリスに限らないが、その支配者は侵略と略奪で富を築いてきた。金や石油といった資源を盗んでいるが、19世紀には中国(清)を侵略するためにアヘンを売りつけ、戦争で利権を奪った。アヘン戦争やアロー戦争だ。

 そのときにアヘン取引で大儲けした会社のひとつがジャーディン・マセソン。インドで傭兵の武装蜂起で始まった大反乱(セポイの反乱)が終わった翌年、1859年に同社はトーマス・グラバーを長崎へ、ウィリアム・ケズウィックを横浜へ派遣した。

 グラバーは明治維新をテーマにしたドラマによく出てくる人物だが、ケズウィックの方が大物だった。ジャーディン・マセソン創立者の一族で、麻薬資金を処理していた香港上海銀行(現在はHSBC銀行)とも深く結びついている。有り体に言うと、明治維新の黒幕は麻薬業者だ。

 CIAがエル・サルバドルを含むラテン・アメリカ諸国で死の部隊を使ってアメリカの巨大企業のカネ儲けに邪魔な人物や団体を抹殺していた当時、ロサンゼルス市警の内部の麻薬担当はCIAの活動に肉薄、司法省などからの攻撃を受ける。捜査チームを追い込むために税務調査が実施され、細かい違法行為を見つけ出して刑務所へ入れると脅され、退職を余儀なくされたと言われている。

 また、CIAの手先だったニカラグアの反革命ゲリラ(コントラ)のコカイン取引を暴く連載記事を1996年に書いたサンノゼ・マーキュリー紙のゲーリー・ウェッブ記者は有力メディアから一斉攻撃を受けて退職を余儀なくされ、自殺に追い込まれた。

 今回のミュージシャン/俳優のコカイン事件を伝えているマスコミも芸能界の実態を知っているだろう。
https://plaza.rakuten.co.jp/condor33/diary/201903180000/  


▲△▽▼



アフガニスタンでの工作資金を捻出するためにCIAはヘロインを売る。
そのため非合法のケシを栽培する中心地は東南アジア(黄金の三角地帯)からアフガニスタンとパキスタンの山岳地帯へ移動した。
中米における工作ではコカインが使われている。
2018.09.15
米政権はイランの石油輸出を止めようとしたが、中国とインドが買い続けて失敗



 アメリカのドナルド・トランプ政権はイランの現体制を破壊しようとしている。ロスチャイルド資本と関係の深いネオコンにしろ、ウラジミール・ジャボチンスキーを祖とし、ベンヤミン・ネタニヤフにつながるリクードの人脈にしろ、この点は同じだ。


 イランでは1979年にイスラム革命で王制が倒され、その年の11月に「ホメイニ師の路線に従うモスレム学生団」を名乗るグループがアメリカ大使館を占拠、機密文書を手に入れる一方、大使館員など52名を人質にとる。


 その翌年はアメリカで大統領選挙が行われた。現職だったジミー・カーターはパレスチナ人に近すぎるとして親イスラエル派に嫌われ、反カーター・キャンペーンが展開されていたのだが、52名の人質が選挙前に解放された場合、カーターにとって追い風になって再選の可能性があった。


 そこでロナルド・レーガンやジョージ・H・W・ブッシュを支援していた共和党のグループはイスラエルのリクード政権と手を組み、人質の解放を遅らせようとする。この工作は成功し、人質が解放されたのはレーガンの大統領就任式の当日、つまり1981年1月20日のことだった。


 この工作でイランの革命政権ともパイプができ、アメリカからイランへ武器が密輸される。この密輸の儲けがニカラグアの反革命ゲリラ支援に使われ、この工作が発覚してから「イラン・コントラ事件」と呼ばれるようになる。


 この工作の背後にはズビグネフ・ブレジンスキーが始めたアフガニスタンでの秘密工作があった。ソ連軍をアフガニスタンへ誘い込み、サウジアラビアが雇い、送り込んできたサラフィ主義者(ワッハーブ派、タクフィール主義者)やムスリム同胞団を中心に編成した傭兵部隊と戦わせるという内容で、これは成功した。


 アフガニスタンでの工作資金を捻出するためにCIAはヘロインを売る。そのため非合法のケシを栽培する中心地は東南アジア(黄金の三角地帯)からアフガニスタンとパキスタンの山岳地帯へ移動した。中米における工作ではコカインが使われている。


 イスラム革命の翌年、1980年の9月にイラク軍がイランの南部を攻撃してイラン・イラク戦争が始まった。イラクのサダム・フセインはCIAの手先として権力を握った人物で、アメリカ支配層の要請を受けての行動だったのだろう。この戦争でイランはアメリカから武器を調達する必要に迫られ、イランとアメリカとの関係が接近する。


 イラン・イラク戦争は1988年8月に終了、その翌年にイラン大統領となったのはハシェミ・ラフサンジャニ。この政権は新自由主義化を進め、私有化や貿易の自由化を推進した。その結果、少数の大金持ちと多くの貧困層を生み出すことになる。


 当然、イランの庶民は激怒、マフムード・アフマディネジャドが2005年の大統領選で勝利した。新大統領はこうした状況を変えようと試み、まず欧米の金融資本と結びついたパールシヤーン銀行にメスを入れようとしたのだが、成功しなかった。この勢力に西側は期待しているのだろう。


 ハサン・ロウハーニ大統領は西側から「穏健派」、つまりラフサンジャニに近い人物だと見られていたが、西側の思惑通りには動かなかった。そこでトランプ政権による「制裁」につながる。


 イランでは1951年にムハマド・モサデク首相がイギリス系のAIOC(アングロ・イラニアン石油)の国有化を決める。この会社を通じてイギリス支配層はイランの富を盗んでいた。1950だけでAIOCが計上した利益は1億7000万ポンド、そのうち1億ポンドをイギリスへ持ち帰っている。AIOCの筆頭株主はイギリス政府で、発行済み株式の約半分を保有していた、つまりAIOCの利益がイギリスの財政を支えていたのである。イラン国民はほとんど利益を受け取っていない。


 そこでイラン政府はAIOCの国有化を決めたのだが、それに対してイギリス政府はアメリカ支配層の力を借りてクーデターを実行、モサデク政権を倒しているが、その際に米英側はイラン政府が石油をオープン・マーケットで売却することを阻止、イランは経済的に追い詰められた。そこでソ連に接近するのだが、この商談はクーデターで成功しなかった。


 トランプ大統領はこの「成功体験」を再現しようとしたのだろうが、イランの石油の約6割を買っているという中国とインドがアメリカの命令に従わない。イランの石油輸出による収入は今年3月に比べて7月は6割増になっているという。アメリカが仕掛けた経済戦争は裏目に出たようだ。
https://plaza.rakuten.co.jp/condor33/diary/201809150000/


http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/440.html#c14

[近代史3] ウインザー公とシンプソン夫人の恋 _ シンプソン夫人はナチスのスパイだった?

ウインザー公とシンプソン夫人の恋 _ シンプソン夫人はナチスのスパイだった?


2017.3.17
お坊ちゃんだったが故、ウォリスとの出会いで人生が流転…
https://forzastyle.com/articles/-/51211


"世界には想像の遥か上を行く、お洒落な偉人たちがいた"。彼らのスタイルや生き方を学ぶことこそ、スマフォー(スマートな40代)への近道と考えた編集部員たちは『MEN'S CLUB』『Gentry』『DORSO』など、数々のファッション誌の編集長を歴任した大先輩である服飾評論家 林 信朗氏を訪ね、教えを乞うことに。新連載二回目は、イタリア人でも憧れる英国ファッションのアイコン、ウインザー公についてたずねます。

ヤナカ:う〜ん、ウインザー公のお洒落力、ちょっと圧倒されちゃいますねえ。まさにお洒落に生きた人生、そういう感じがしますよ。だってカッコ悪いウインザーの写真って一枚もないですものね。


林:とくに王子時代は、服に国家予算をふんだんにつかえたわけだし(笑)、従者たちもそのためにとにかく懸命に働いたんでしょうね。

ヤナカ:でもね、先輩、いつだったか先輩がオススメになっていたNetflixの「ザ・クラウン」のシーズン1をぼくも観たんですが、退位してからのウインザー公のことを好意的には描いていませんね。悪巧みをしたり、お金にも困っていたというか、年金の額を増やせとか(笑)、わりとセコイ話がでてきたり。

林:ははは、あったね。取材でもお金とるとかね(笑)。でもね、そのあたりを知るのも大切なんだよ。たとえば、英国人とウインザーについて話す場合も、ファッション以外については、けっこう微妙だよ。ひとつには、政治的に、ウインザーはナチシンパ、ヒトラーシンパだと存命時から思われていたというのがあるね。


ヤナカ:そりゃあ、ヤバイんじゃないですか(笑)。

林:ヤバイ、ヤバイ。英国にとって第二次世界大戦最大の敵ですからね。

ヤナカ:それがまたどうして? ハニートラップとか(笑)。

林:もともとウインザー家というのは、ハノーヴァー・サクス・コバーグ・ゴータ家というのが本名なんだ。英国っぽい名前じゃないでしょ? おじいちゃんであるエドワード7世から始まったドイツ系の王朝なんです。エドワード7世のお父さんのアルバートも、お母さんのヴィクトリア女王もドイツ系だから。だけどあまりにドイツっぽいからって名前を変えたわけ。その間もドイツは敵だったり味方だったりしたけれど、ウインザー公は基本的にドイツ贔屓、それがまずかった。

ヤナカ:まさかドイツと通じていたとか……?


林:そう思われてもしかたがないんだよ。なにしろ1937年、英国王を一年足らずで退位した翌年ですね、ウインザー公とシンプソン夫人はだなあ、あ、もうシンプソン夫人はおかしいな、ウォリスは、非公式ではあるがドイツを訪問、大歓迎を受け、ヒトラーと仲良く記念写真におさまっている。英国王室に徹底的に嫌われたシンプソン夫人もドイツに暖かく迎えられて舞い上がっちゃったんじゃないか。しかも、ウォリスは、駐英ドイツ大使で、後にナチス政権の外務大臣になったリッベントロップとデキていた。性的な関係もあったのです。だから、あなたハニートラップってさっき言ったけど、逆ハニートラップですよ。

ヤナカ:凄まじいダークヒストリーですね!

林:ヒトラーは、どうやら、この二人を利用しようとしたんだね。戦況がドイツ寄りになったら、ウインザーを王にもどし、英国を間接支配しようと。この事実ね、王室の人間がヒトラーの陰謀に加担していたというのは、ほんとにまずいから、戦後チャーチルはこのあたりの情報をすべて隠蔽するんだが、結局ひとの口に戸はたてられない。現在の英国のメディアには、ナチシンパ・ウインザーの話は数限りなく出回ってるんだよね。

日の名残り (ハヤカワepi文庫) カズオ イシグロ著
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ヤナカ:なんだかカズオ・イシグロの『日の名残り』にでてくるあのドイツと宥和しようとする貴族のようですね。ちょっと悲しいなあ。

林:どうだろうね、ウインザーは、甘やかされて育ったお坊ちゃんだから、悪気はないでしょう。ウォリスとの出会いが彼の人生を狂わせたような気もするな。


©gettyimages

ヤナカ:先輩、こういっちゃなんですけど、ウォリスって、プレイボーイのウインザーが夢中になるほどの美人ですか? 

林:いやあ、ごらんのとおり、特別美人というわけでもないでしょう。スタイルだって欧米の感覚からすれば貧弱だよな。服やアクセサリー、インテリアなどのセンスは天下一品ではあるが。


©gettyimages

ヤナカ:そういうセンスや趣味的なところがウインザーと気があった、と見るべきですかね。

林:それもあるだろう。二度の離婚など人生経験豊富だから、ウインザーの相談にもいろいろのってあげたんでしょう。でもね、ベッドのほうでもウォリスはたいへんなものだったとチャールズ・ハイアムという作家が書いているんだよ。若いころ香港の娼館で男として自信のない男性をリラックスさせ、喜ばせるテクニックを体得したのだと。ウインザーはモテるのは最高にモテるんだけど、そちらの方面ではコンプレックスがあったらしいから、ふたりはうまくいったんだろうね。


©gettyimages

ヤナカ:それだったら別れられないですよね。王位を捨ててまで彼女を選んだ理由、なんとなく理解できるような気がします。

林:いや、もちろんウインザーは退位なんかしたくなかったんだよ。ウォリスもものすごい上昇志向の女性だから、なにがなんでも英国王室に入りたかった。だけど、王室も、英国教会も、政府もそれだけはゆるさなかったわけだよ。ヤナカ君も観た『ザ・クラウン』では、退位してパリ郊外に住んでいるウインザー公夫妻が登場するんだが、あの二人の王室への恨み節がアチコチにでてくるでしょう? 


©gettyimages

ヤナカ:はい。王室は王室で、この夫婦が悪しき前例をつくり、王室を傷つけたという恨みがあるから、できるだけ避けよう避けようとしているというか。

林:まあ、それでもウインザーは死ぬまで好きな女性と過ごせたわけだし。シンプソン夫人も好きなファッションや社交の世界で、驚くほどスタイリッシュな生活をしてたわけだからね。

ヤナカ:ほんとだ、すごくお洒落な家ですね。適度に英国っぽくって。

『The Windsor Style』Suzy Menkes著
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林:そう、これはスージー・メンケスというファッションジャーナリストの”The Windsor Style”という本だよ。ウォリスのスタイルブックと言ってもいいかな。もちろんウインザーのファッションについても詳しく書かれているよ。


ヤナカ:ぼくがまとめるのはヘンかもしれませんが(笑)、パリでこんなお洒落な生活ができるなら、いいじゃないですか。歴史的にみても、ウインザーさんがヒトラーのスパイになって連合国側の情報を漏らしてもらったら困るし(笑)、国王にはマジメな弟のほうが適任だったようですし。

林:そこらへんはね、『英国王のスピーチ』と『クイーン』という映画もセットで観るといいよ。英国王室の近代史が見事に集約されているからね。
https://forzastyle.com/articles/-/51211
http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/441.html

[近代史3] ウインザー公とシンプソン夫人の恋 _ シンプソン夫人はナチスのスパイだった? 中川隆
1. 中川隆[-10358] koaQ7Jey 2019年5月18日 20:15:55 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[1962]

ウィンザー公エドワード8世「世紀の恋」

イギリス国王エドワード八世が、王位を捨て二度も離婚歴のあるアメリカ女性
ウォリス・シンプソンと結婚した。それは「王冠を賭けた恋」と一大スキャンダルとなった。

 離婚歴のある女性との前代見聞のスキャンダルに王室関係者は眉をひそめた。
 写真家のセシル・ビ−トンはウォリス・シンプソンのことを「愛嬌のあるブス」と形容した。
 傲慢な性格で二度の離婚歴のある女性にどんな魅力があったのか?


皇太子には、性的な欠陥があり、それをウォリスが克服させた。

「なぜ皇太子が、美人でもないシンプソン夫人にあれほどご執心なのか」

という疑問に、答えられる者は誰もいなかった。

答えは、シンプソン夫人のベッド・テクニックに皇太子が参ってしまったから。

彼女が海軍士官夫人だったころ、夫の赴任先である上海にしばらく住んでいたことがある。
このときに習得した中国式の閨房術によって、エドワードの早漏を治したというのである。
http://www.ebookbank.jp/hochi/ep/item/1-39832/


 「王冠を捨てた恋」の真実が暴露されたのは21世紀に入ってからだった。イギリスの諜報部の資料から、シンプソン夫人はエドワード8世との交際と同時進行で年下のセールスマンとも付き合っていた事実や、ナチスのリッペンドロップとも深い関係にあった事などが次々に暴露されたのだった。

「王冠を捨てた恋」でシンプソン夫人の結婚による王室入りにイギリス政府が難色を示した本当の理由は離婚歴ではなく、シンプソン夫人の正体はナチスの手先で、エドワード8世との結婚によってイギリスがナチス融和路線に転じて国の進路を誤るのではないかと危惧したという事であった。

「王冠を捨てた恋」のロマンスの背後にはヒトラーの影があった。ヨーロッパでナチスドイツの進撃盛んな頃にカリブ海に夫妻が追いやられたのも、イギリス政府がシンプソン夫人の背後にいるナチスを警戒したためであった。
 
 その事実をエドワード8世は知る事はなかったものの、シンプソン夫人との夫婦仲は冷え切っており、それでも意地で外では仲の良い世紀のロマンスのカップルを演じ続けなければいけない苦しさ。「王冠を捨てた恋」はエドワード8世とシンプソン夫人を死ぬまで縛り続け、世間の目を気にして2人は離婚も出来ず、別の伴侶と恋愛の自由を謳歌も出来ず、これなら結婚などせずに愛人関係のままの方がどんなに良かったろうと思った時もあったのではないか。
http://www.geocities.jp/showahistory/history02/11c.html


「ドイツ外交文書集1918−45(Documents on German foreign policy 1918-1945)」という本があります。中身は、第2次世界大戦後ドイツを占領したイギリス軍によって押収され、編集を加えた上で戦後すぐ刊行されたドイツの外交文書です。しかし、その中の、ある文書を出版するとウィンザー公とナチスドイツとの「淫靡な関係」が明らかになろうとしたので、イギリス政府がその部分を抑えたのでした。

ところが、その後60年たって押収されたあと隠されていたその文書の一部が明らかになり、国王エドワード8世のイギリスへの背信行為が白日の下にさらされることになったのです。

そしてさらに、21世紀に入った2002年にアメリカのFBI文書の公開によって、さらに明らかになったことは、実は退位してウィンザー公となった彼の「最愛の妻」シンプソン夫人は、ドイツ諜報部の職業的工作員だったという事実でした。しかもヒトラーの外務大臣リッペントロップのエージェントで、愛人でもあったのです。

ウィンザー公とつまりエドワード8世がハニートラップにあって、国王自身がドイツ外務省のエージェントに成り果てようとしていた。そのことをイギリスのスパイ摘発機関が嗅ぎつけて、それを国王に突きつけたのです。たとえ国王であっても国を裏切る者は許さない、この峻厳さが数百年にわたるあの国の存立と繁栄を支えるものでした。だからこそ、これを「悲恋物語」に仕立てて、王位を去らせたのです。

しかし例え、「王室を守るため」であっても、歴史の真実を独占することは許されません。イギリス政府の隠蔽にも拘わらず、60年後の1995年11月、イギリスの有名な新聞「ガーディアン」が「カイザー・エドワード」と題してウィンザー公と、つまりエドワード8世はドイツのスパイだった、という記事を掲載し、同じく「オブザーバー」は「ウィンザー王室の恥−ナチスとの協力」と題し、60年ぶりに歴史の真実の一端を報じました(それぞれ11月12日、同13日付)

悲恋物語はウソだったのです。しかし、それでもイギリス政府はいまだに隠し続けています。エドワード8世の裏切りに関するイギリス側の公文書の公開は「2044年まで非公開」という決定が下されている。つまり「100年ルール」が適用されることが明らかにされているわけです。このエピソードは。「歴史は誰のものか」を考える意味で、いくつかの重要な問題を含んでいます
http://piano-music-life.blog.eonet.jp/default/2009/05/post-0984.html

http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/441.html#c1

[近代史3] イギリス人は味覚音痴

Question : jattype2a4039さん 2011/1/20 21:25:47

アメリカ人やイギリス人は味覚音痴なのでしょうか?

アメリカ人は日本の和牛のように旨味があってやわらかい肉を好まず、 靴底みたいな噛みきれないパサパサのゴムのような肉を好むみたいですね。

「アメリカ料理」「イギリス料理」なんて聞いたことありませんし。

アングロサクソン系の人間って舌が発達してないのでしょうかね〜?


Answer : chuchuchu1232さん 2011/1/22 18:38:29

いろいろな国を訪れましたが、アメリカ人だけがパサパサのゴムのような肉を好むわけではないです。堅い肉を出されることは結構ありましたよ。それだけで味覚音痴と判断してしまうのはちょっと乱暴かもしれません。

確かにアメリカ人やイギリス人は食に関して興味がない人が多いと思います。

日本在住のアメリカ人が「アメリカ人はグルメではないです」と言い切ってました。

まずアメリカ人ですが、おいしいものを食べる、いろいろな種類の物を食べる、という感じではありません。栄養はサプリメントに任せて食事はおなかが膨れればそれでOKという感じです。

朝食はシリアルとオレンジジュースと果物、という変わりばえのしない食事を毎日続けられる人種です。

また、夕食もポテトチップスとジュースだけで済ますことも日常的です。

夕食はソーセージを焼きましょう、って本当にソーセージだけしか焼きませんでした。何本も食べさせられました。


アメリカ人ファミリーを日本のファミレスに連れて行ったら、フライドポテトとカルピスのみ注文して、それでは足りなかったみたいで再びフライドポテトを注文してました。また、ベビーフードのような缶詰の食べ物をそのまま温めてそれだけを食べる、ということもあります。

日本人が食事作りに時間をかけてるということが理解できないようです。


次にイギリスですが、これまた、貧弱で変化に乏しい食生活です。

たとえば、ポテトが好きか聞かれて好きというと、毎朝、茹でたポテトに塩をかけたものが出てきました。

いくらポテトが好きでも同じものばかりしかも調理法まで同じとなれば飽きてきますよね。せめて、ポテトサラダ、フライドポテト、ベークドポテト、スープの具などいろいろ調理法を変えてくれればいいのですが・・・

生野菜サラダでもドレッシングが数種類あれば楽しめますが、まずい大味のドレッシング一種類しか置いてなくて、それが毎日出てきました。

日本人と味覚が違うからという理由だけでは味覚音痴とは言えませんが、いろいろな国の人達の食生活と比べると、やはり食事はまずい、食に関心がない、という結論になると思います。


アメリカ料理で思い浮かぶのもはハンバーガー、ホットドッグ、ピザ、ジャンバラヤなどです。 日本人でも好んで食べる人が多いものばかりですよね。

イギリス料理はローストビーフ、フィッシュアンドチップス、ミートパイあたりがうかびますね。
https://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail/q1054105975

Question : kabongo10さん 2007/4/28 18:41:18

イギリス人は味音痴ですか?それともおいしいものを食べることに
そもそも興味がないんですか?


Answer : onlytheyoungunderstandさん 2007/4/28 19:58:33

というより日本人よりはるかに質素な気がします。
メイン料理も缶詰や冷凍食品で済ますことが多いようです。

朝食:トーストにスクランブルエッグを乗せたもの
昼食:中身がチーズだけのサンドイッチにリンゴがひとつの弁当
夕食:スパゲティや魚料理、冷凍食品のおかず

こんな印象です。


Answer 2 : xxxabout_mexxxさん 2007/4/28 18:48:34

>それともおいしいものを食べることにそもそも興味がないんですか?


私もそう思います。
食に対して日本ほど興味がないんだと思いますよ。

食卓ではクタクタと煮込まれた野菜に味はグレービーソースがすべてにかかった料理を食べますし

食事の内容より誰と食べるか?のほうが重要な気がします。

子供たちのお弁当を見てもわかりますね。
サンドウィッチにバナナ、チョコバーと毎日同じが普通ですし。

日本ほど、テレビをつければどっかのチャンネルで食に対するグルメ番組がやっているというのは確かに異様かもしれませんが、それほど日本人は食に対する興味やこだわりが高いのだと思います。

Answer 3 : jeshioriさん 2007/4/29 00:37:54

環境の違いが大きいと思う。イギリスは表土が少なくその下は石。
冬に食べられる食物といえば、肉とジャガイモ、たまねぎくらい。

フランスは南の方から野菜など豊富に取り寄せることが出来るけれど
イギリスは土地が痩せていたから味覚も発達しなかった。
あと、宗教もプロテスタントが多い。
https://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail/q1211443532


2010-11-22 イギリスの食事はなぜ不味いか調べてみた


世界三大「美食の国」、皆さんはご存知ですか?

1.中国

誰もがお馴染み中華料理。四川料理や広東料理なんかは有名ですね。

2.フランス

これまた料理のイメージが強く、美的意識に長けてそうなお国、フランス。味や高級感の認知度からも納得です。

3.トルコ

あまり知らない人もいるのではないでしょうか。トルコ。美食三大国に数えられることは知っていたのですが、トルコ料理店というものにお目にかかったことがなく、少し調べてみることに。。。


トルコというのは、アジアとヨーロッパの中間に位置し、首都イスタンブールではボスポラス海峡をはさんで西がヨーロッパ、東がアジアという面白い地理環境になっているため、トルコにはヨーロッパ的要素とアジア的要素の2つが融合した独自の文化が築かれています。

料理とてその例外ではなく、小麦粉で作ったナンや、羊肉が多いこと、ヨーグルト・ナッツを使用する点は中央アジアの食文化ですし、オリーブオイルを多用する点は地中海沿岸地域に見られる食文化です。こういった東西の多様な食材や調理法が組み合わさっているところがトルコ料理の特徴らしいです。


といってもイメージがあまりつかめないので今度都心に出かけたときにでも食べてみることにします。池袋にあるトルコ料理レストラン DENIZに。


とまあ、そんな美味かつ豊富な種類の料理が確立された国がある一方で、「料理が不味い」と世界的に認知されている国があります。

その国の名は、イギリス。

よくネットで「吐きそうになった」「美味しい材料でわざと不味く作る」「イギリス料理(笑)」等と散々な言われようのイギリス君。

この不味さに定評のあるイギリス料理をちょっと調べてみようと思います。

私のようにイギリス料理の知識ゼロ人間からすれば、少し信じられないんですよね。

イギリスって恵まれてないわけじゃないじゃん。経済的にも文化的にもヨーロッパの中で遅れを取っているとは思えないし、美食国のフランスの近くだし、島国だし。漁業とか盛んそうじゃん。日本と同じ島国なんだから。OSUSHI や SASHIMI的な something の一つや二つすぐに生み出せそうじゃん!

とかいった風に感じたので、早速ググってみることに。


Wikipediaより。


 イギリス料理にはフランス料理やイタリア料理と比べると、料理の種類が少なく、なおかつ、世界的に「不味い料理」というイメージが定着してしまっており、当のイギリス人たちでさえ食事の不味さをジョークとして自虐的に口にするほどである。

大体において、「○○国の料理は不味い」といっても、その国の食習慣に外国人が馴染めないだけであり、その国の人にとっては美味しい料理であるという場合が多い。しかし「イギリス料理が不味い」というのは、そのような事とは意味合いが本質的に異なる。イギリス料理が不味いのは、イギリス人自身が認める所なのである。

また、なぜこれほどにまで不味いと言われるのかというと、

野菜は本来の食感がわからなくなるほど茹でる、
油で食材が黒くなるまで揚げる

などといった、イギリスでよく行われる、食材本来の味を残さないほど加熱する調理法が他国人には好まれないからである。

しかも食べる人の好みに応じて塩や酢などで味付けされることを前提としているため、調理の段階で味付けらしい味付けはされないことも多く、不慣れな旅行者は味のない料理に困惑することになる。

結果としてイギリス料理で美味しく食べられるものは、せいぜいローストビーフやステーキ程度という評判が定着してしまった。


この他に調べた中で信憑性のありそうな理由をまとめてみました。


理由1.地理的に農業に向かない。

国の文化を調べるなら、地理・歴史から。

イギリスは北緯50〜60°に位置し、加えて東部では降水量も少なく乾燥しています。イギリス農業の3分の2は羊・牛などの畜産物、3分の1が小麦・大麦・ジャガイモなどの穀物。

地中海付近の温暖な地域に比べると、獲れる作物の量や種類が劣るのでしょうね。

ただし、自国で栽培できないなら他国から輸入すればいいだけのこと。一時期は大英帝国とまで呼ばれたイギリスがそれでも食の快楽を追求しなかった理由があります。

理由2.宗教的に禁欲主義。

イギリスの宗教といえばイギリス正教会ですが、プロテスタントに分類されます。プロテスタントは質素倹約をモットーとしており、食欲に対しての快楽を求めない傾向があります。

個人的に一番説得力が高いと思うのがこれです。同じプロテスタントであるオランダやドイツも食事が不味いことで有名ですし、逆にカトリックを信仰しているラテン系の民族はみな美食国です。フランス然り、イタリア然り、スペイン然り。またカトリックの人々は食だけでなく、性に対しておおらかで美意識なども高そうですね。ファッションモデルもフランス・イタリアが多いですし、これら全てカトリックの特徴に起因していると思います。

あと、こんなものも

理由3.アングロサクソン人だから。

ヒトの舌には食べ物の味を感じる味蕾(みらい)と呼ばれるセンサーがあり、味蕾の数が多いほど様々な味覚の認知できます。アングロサクソン人はこの味蕾の数が少なく、人種的に味盲だそうです。

理由4.調理法

まあ、何を述べようと最終的に行きつくのはここですね。
1〜3は料理が不味い理由というよりは、イギリスの食文化が洗練されなかった理由です。
不味さの直接的理由は、やはり食材の調理法にアリ!


イギリス料理の調理法の基本は「焼く」「ゆでる」。

その「ゆでる」が尋常ではなく、野菜を30分〜1時間ほどゆで続けるらしいです。

野菜の味の成分は全て煮汁に流れ、その煮汁は全部流しに捨てられます。

わざわざ長い時間をかけ味や栄養分を台無しにしてくれるこの調理法がイギリスでは徹底されていたのです。(もっとも今はそんなことないらしいのですが…)

このようなステップを経てできた料理が食卓に並べられるのですが、もちろん下味があるわけありません。

あるのはシナシナとした食感のみ。これを普通に食べても美味しいわけがなく、イギリス人たちはどうしているのかというと、同じく食卓に置かれてある調味料を使って自分の裁量で味付けするのです。

イギリスでは料理人は食事を作ることが仕事であり、それをどんな味付けで食べるかは食す側の責任だという考え方が根付いているのです。

だからこそ、イギリスでは変に味が残らないように、野菜を長時間ゆでたりするんでしょうね。

こうして色々調べてみると、そりゃ不味くもなるわ!と思わざるをえませんね。
ちなみに今ではだいぶ改善されたらしく、美味しい店も段々ふえてきているそうです。

で、書いている途中にふと疑問が。

イギリスといえば紅茶が有名でお菓子類も美味だとききますが、それはいったい何故なんでしょう??もし機会があれば調べてみます。
http://d.hatena.ne.jp/elru/20101122/1290433197



http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/442.html

[近代史3] イギリス人は味覚音痴 中川隆
1. 中川隆[-10357] koaQ7Jey 2019年5月18日 20:24:11 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[1963]

2017-03-08
ヴィクトリア朝庶民の暮らし
http://peoplesstorm.hatenablog.com/entry/2017/03/08/210218


1.はじめに

一般的に優雅で安泰のイメージが持たれる─『シャーロック・ホームズ』や漫画の『エマ』などがいい例である─ヴィクトリア朝イギリス(19世紀-20世紀初頭)であるが、その実庶民の暮らしは過酷そのものであった。我々はどうしてもメイドや執事、そして貴族などの華やかなイメージを持ってしまうが、その裏腹に食品偽装は横行し、産業革命によって花開いた近代的労働は殺人的領域まで達していた。本稿ではヴィクトリア朝イギリスにおける庶民の暮らしにスポットライトを当て、簡潔に解説していきたい。

2.横行した食品偽装について

食品を保護する法律などがなかった当時、食品偽装は大変大規模に行われていた。代表的なのがコーヒーや紅茶などであるが、その他の食品の偽装も盛んであり、高い安全な商品を買えない労働者は常に食品から有害物質を摂取する危険性にさらされていた。

a.コーヒー

コーヒーにおける食品偽装の大半はチコリーによるものであった。我々の身近ではコカ・コーラ社の爽健美茶に含まれている。つまり、コレ自体は有害なものではなかったが、多くの店で「コーヒー」として売られている製品のうち、本物のコーヒー豆は1/2以下であり、また混ぜ者入りの表記はなされていなかった。中には炒った小麦が混入されている場合もあった。

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(チコリー入りのコーヒー)

b.紅茶

イギリスが誇る紅茶にも不正が行われていた。多くがグラファイト、プルシアンブルー色の顔料、ウコン粉、およびチャイナ粘土であって着色されており、これらは人体に有害なものもあった。「着色に使われる物質はしばしば高度に有毒であって、多くの場合にシナ人が使っているものよりもより反対すべきであるし有害である。」*1また、「紅茶」自体が。お茶の葉からできているのではなく身近で手に入る雑草などの場合さえあった。

c.黒砂糖

砂糖は多くの製品がダニ、カビの胞子、石、砂で汚染されていた。穀物の粉が混入されている製品もあり、これはかさ増しのためであった。

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(砂糖中のダニ)

d.野菜

大半の野菜が銅で汚染されていた。「(検査した野菜のうち)27標品は多かれ少なかれ銅が沁み込んでいた」*2。加えてこれらの銅汚染は深刻なものもあった。これらの銅は野菜を新鮮で「いい色」にするために使われていた。

e.砂糖菓子

多くの菓子が有害な金属による無機顔料で着色されていた。多く使われていた色は黄色、ピンクと緋色を含む赤、褐色、紫、青色、および緑色であった。加えて、砂糖のかさ増しのために硫酸カルシウムが広く用いられていた。

f.ビール

ビールの不正の多くは水を加える水増しであった。この処理のために風味がビールから損なわれる事となるが、それを隠すために粗悪な砂糖(粗糖)を混入している例が多かった。この処理でビールの度数は約半分となっていた。

g.たばこ

タバコの不正はタバコ以外の葉を混ぜることで行われていた。また、嗅ぎたばこの場合は鉛を加えている場合もあった。鉛の混入は非常に悪質かつ広範囲で行われており、鉛中毒を発症する場合さえあった。

3.過酷な労働環境

労働者階級は閉鎖的で堅固な社会構造のように見えるものの、独自の排他的な世界を構築していた。これらの試みの意味は一部は、現実世界の過酷さからの脱出であり、一部は工業都市の匿名コミュニティを作り出すものだった。究極的には、教育と民主主義の発展、生活水準の向上、労働条件、住居、食べ物や服装によって、労働者階級は社会の参加者になったが、ほとんどの期間[1820 -1920]彼らは政府が高らかに謳う「公的生活」から除外されていた。

a.ストリートセラー

ストリートセラーは路上で何かを売る人たちを指した言葉である。1800年代後半には、おそらく約30,000人のストリートセラーがロンドンにいて、それぞれが手押し車やカートから商品を売っていた。売っているものはカキ、ウナギ、エンドウ豆のスープ、揚げた魚、パイとプリン、ピクルス、ジンジャーブレッド、焼き芋、クランチ、咳止め、アイス、ビール、ココア、ペパーミント水だけでなく、衣類、中古の楽器、本、生きている鳥などでさえあった。破損した金属、ボトル、骨や水切り、壊れたろうそく、シルバースプーンなどの「台所用品」などの廃棄物を購入する業者も存在した。

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(アイスを売るストリートセラー)

b.マッドラーク

「Mudlark」と呼ばれる人たちはテムズ川の汚泥の中から物品を回収し、売る仕事である。金品はもちろんそのまま売ることができたし、他の一見役に立たなそうなものも買い取る専門業者が存在した。より良いものを求めるために深いところまで足を踏み入れ溺死する者もいた。また、テムズ川は大変汚染されており、これも危険な職業であった。

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(Mudlarkを描いた絵)

c.ワークハウス(救貧院)

新救貧法発令から特にそうだが、救貧院は貧困者を収容するいわば「貧困層の収容所」であった。ここでは単純労働を主に収容者に課していたが、それらは花崗石を砕く、糸を紡ぎ続けるなどの「技能もいらない仕事」であって、収容者の自立には繋がらなかった。家族が救貧院に収容された場合、もう一度会う手段はなく、陸の孤島と化していた。職場の食事は、飢えから守るだけの程度のものしか出されなかった。衣服もときどき洗われる程度のものだった。子どもたちは何らかの初頭教育を受ける権利があったが、これはしばしば職場の看守によって無視された。

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(「棺のベッド(coffin bed)」で寝る救貧院の収容者たち。キリスト教圏であるイギリスでこのような棺で眠るという行為は、非キリスト教圏の我々が想像する以上に悪い意味があった。)

d.港湾労働

造船所やロンドンと北東部の新しい港湾では巨大な労働力が必要だったが、需要は予測できなかった。毎朝、数ペンスで1日の作業を行うために集まる男性達が見られた。需要が不規則なため、造船所が注文不足や苦しい天候によってたびたび閉鎖され、慈善団体もなかったため、労働は不規則でこれだけで食べていくのは不可能であった。

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(日雇い労働のために集まる労働者)

e.売春

多くの女性が売春をしていたのは驚くべきことではなかった。ロンドンのスラム街の通りには売春婦が住んでいた。売春を行う少女らは性感染症によって早死していった。大きな病院のいくつかは性病治療専門の病棟があったことからその規模が窺い知れる。しかし当時最も恐ろしい性感染症の梅毒の治療法は知られていなかった。W.T.ステッドが13歳の処女を簡単に路上で買えたという報告をしており、売春がいかに低年齢で、広範に行われていたかを物語っている。

f.児童労働

ヴィクトリア朝の「一家族」は子沢山であり(その分多くの子供が餓死や病死した。多産多死であったのだ。)、その分「要らない子」も数多く発生した。そんな彼らを「雇用」したのが児童労働であった。Climbing boyと呼ばれた子供の煙突掃除夫は、子供というサイズを活かして煙突に潜り込んだが、煙突から燻る煙で焼死・窒息死することも多くあった。Crossing-sweeperと呼ばれた子供の路上掃除夫は路上に溢れるゴミ、汚物を掃除する仕事であった。子供ゆえの小ささを活かして、鉱山の小さな洞穴でトロッコ引きをする子供らもいた。彼らはこれらの労働で貧しい家計を支えたが、児童故に得られるのは僅かな小銭であり、仕事によっては死亡率が大人の数倍にも登った。

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(業者に子供を売り渡す貧困家庭を描いた図)

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(鉱山でトロッコ引きをする少女)

g.社会保障

労働者が雇用を失ったとき、彼らは友好的な社会、労働組合、労働組合、地元の店主、その隣人や友人、牧畜業者、または貧困者の法律に基づく信用組合による補填があり、これは現在「社会保障」と呼ばれている唯一あった 。彼らが老後になったときや虚弱になったときには、先の信用組合は生活費の一部しかカバーしていなかったため、子供の助けがなければ生活していけなかった。政府の社会保障が事実上完全に欠如しているという事実は、今の我々から見たら理解不能であると思われる。

この他にも数多くの労働が存在したが、労働規制などない時代故にどれも過酷な労働であることは変わりなかった。搾取労働も盛んであり、女性を「お針子」として長時間拘束し、たった数ペンスの稼ぎだけで労働させるような「搾取工場(sweatshop)」が存在するなど、労働者の身分はいまと比べて著しく低かった。

4.ヴィクトリア朝の生活

a.家庭での食事

ヴィクトリア朝は英国の伝統の食事が破壊された時期であった。農村社会から切り離された労働者達は子供の頃から働き、料理を覚える暇など無く、かつ燃料が高騰していたのもあって凝った調理法はできず、単純な「茹でる」「焼く」程度しかできなかった。調味料の値段も高く、必然的に塩味だけの茹でたじゃがいもだけという料理が横行し、英国伝統の食事は労働者たちからは失われた。

b.医療・衛生

医療は19世紀に多く邁進したが、その恩恵に預かれるのは医者にかかることができ、その時間も有る中流階級以上のものだった。下流階級では多くの民間医療が残っており、「バターと蜘蛛を一緒に食べる」などの根拠不明な医療が行われていた。衛生状態も悪くジョン・スノウの調査によれば、下水道が流入したテムズ川下流の企業から水を購入した家庭が、下水道が流入してない上流にある会社の水を買う人より14倍も(コレラによる)死亡率が高いなど、汚染は深刻なレベルであり、一般庶民は食生活のみならずあらゆる面で危険に接していた。加えて1875年の公衆衛生法で衛生状態を改善する試みが試されたが、初期の段階で恩恵を受けれたのはやはり中流階級以上であった。

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(当時市販されていたランベス社の水の微生物を描いた図)

この当時の「医療」による麻薬汚染もひどかったが、それについては下記の記事を参照のこと。


peoplesstorm.hatenablog.com

c.余暇

悪いことばかりを述べてきたヴィクトリア朝であるが、そんななかでも庶民に娯楽は存在した。オルガンライダーと呼ばれた人たちはオルガンによって路上で演奏し、チップを貰っていた。このようなストリート・ミュージシャンは数多くおり、写真も残されている。また、鉄道の発達は庶民でも気軽に遠出ができることを意味しており、比較的裕福な労働者は夏の間海に行って遊ぶなどの行為もできた。

しかし、多くの貧しい子供たちはおもちゃや余暇のためのお金はなかった。彼らは路地を除いて遊ぶ場所はなかったし、仕事をしなければならなかった。だけれども、貧しい子供たちは幾つか楽しいことができた。彼らは見つけられたものは何でも活用し、川で遊んだり、樹木やランプポストに登るなどの「お金の掛からない」遊びをしていたと考えられている。

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(1870年代に撮影されたストリート・ミュージシャン)

5.終わりに

本記事ではヴィクトリア朝の庶民の生活を紹介したが、この他にも多く語らなければならないことがある。それらはまた別の記事で紹介したい。メイドや執事のイメージで語られるヴィクトリア朝であるが、このように庶民にとっては非常に厳しい時代でもあった。その辛い暮らしの一部でも紹介できたらならば幸いである。

この時代にもっと興味があるならば、下記に上げたWebサイトは無料で閲覧できるのでおすすめです。

参考文献

・ハッサル・アーサー・ヒル『食品の混ぜ物処理』

・BBC - Primary History - Victorian Britain

・Victorian Occupations: Life and Labor in the Victorian Period

・ヘンリー・メイヒュー『ヴィクトリア時代 ロンドン路地裏の生活誌〈上〉〈下〉』


*1:ハッサル・アーサー・ヒル『食品の混ぜ物処理』

*2:同上
http://peoplesstorm.hatenablog.com/entry/2017/03/08/210218


2017-04-18
イギリス料理はなぜ「まずい」のか─産業革命と二度の大戦から
http://peoplesstorm.hatenablog.com/entry/2017/04/18/212350


1.はじめに

イギリス料理=まずいというステレオタイプは日本において根強く有る。ツイッター、mixi、2ちゃんねる…あらゆるところで毎日のようにネタにされる。しかしなぜイギリス料理はまずいのだろうか。ここではイギリス料理がなぜまずいと言われるようになったかを簡単に論及していきたい。

2.産業革命以前の料理

14世紀に書かれたイギリス料理のレシピ集『The Forme of Cury』を見れば数多くの料理がいきいきと書かれているのに気づくはずだ。当時まだ貴重品だった砂糖も1/3の料理に使われるなど非常に豪華なメニューが載っている。加えてナツメグやクローブなどの香辛料もふんだんに使われているなど「先進的」なレシピも多数あった。また、イギリスには中世以前から続く豊かな食文化があった。800年頃に開発されたブラック・プディングは血を入れたソーセージで独特の味わいがある。13世紀年頃のパスティは牛肉や玉ねぎを入れたいわばパイで、具材から出るエキスの香ばしさとサクサクとした生地を楽しめる。スコッティーケーキはケーキという名前に反して、重量感のあるパンだが、中に色々な具材を入れることで多様な味を生み出している。シチューはどの国にも有る伝統料だがイギリスにも存在し、うさぎの肉を使い香辛料で臭みを消したスパイシーな料理方法が残されている。

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(伝統的パスティ)

このようにイギリス料理は決してネットで吹聴されるような「ただ茹でただけの野菜」を出すような貧相な食文化ではなく、気候故に取れる野菜は少ないものの、現地で入手できる様々な食材と輸入される希少な香辛料などを使って豊かな食文化を作り出していたのがわかる。

この食文化の拡充は18世紀まで順調に続く。17世紀の料理本『Cooks Guide』ではフランス料理の影響も垣間見え、フランス料理の命とも言える「ソース」のレシピをイギリス流にアレンジしたものが乗っている。18世紀になってもジェームス・ウッドフォードの『Diary of a Country Parson 』によれば、チキン煮や甘いケーキにブラン・マンジェ、アーティチョークを大いに食べ、加えて食後に果物を食べたという旨が乗っている。つまり確実にここまではイギリス料理は順調に発展を遂げていたことがわかる。この時期、伝統的料理にフランスなどの大陸に影響を受けた料理まで様々な料理が存在した。もちろん、庶民は新しい料理(特に香辛料を使ったものなど)は気軽に楽しめなかっただろう。彼らは身近にある素材で作れる中世以来の伝統的料理が主だったのは忘れてはならない。いくつかの旅行記に「イギリス料理はまずかった」という記載*1があるにしろ、この時点では順調に発達してしてきていたのだ。庶民の伝統的料理にも胡椒が使われるなどささやかな変化があっただろう。しかしこの図式が崩れるのが産業革命期、そうヴィクトリア朝である。

3.ヴィクトリア朝による料理の衰退

産業革命期はイギリス料理のその後を決定づけた。一体何が起こったのだろうか?

まず産業革命期と同時に起きたエンクロージャー(囲い込み運動)*2である。この動きは大きく第一次と第二次に分けられる。特に第二次エンクロージャーは食糧増産のために行われたが、この結果イギリスの穀物生産量は増大した。一方農民は農地から追い払われて都市生活者となりこれらが工場労働者の母体となった。かつて農民は農地と隣接してある森林を使って様々な生産活動を行えた。例えばヨーロッパ全域で広く行われた共有地である森林に豚を放して豚に落ちているどんぐりなどを食わせて肥え太らせ、冬前に解体することで冬季の食料にするなどである。また、森林では野鳥などを捕まえることもできた。加えて農村に流れる川、または海からは魚介類を得ることもできただろう。エンクロージャーによって無理やり都市部に追い払われた農民はかつてのように無料で畜肉を手に入れるのが不可能になった。このため僅かな金銭しか得られない下層市民達は肉を食べるのは非常に稀な機会となってしまった。

産業革命はこのような農村から出てきた農民を工場労働者として働くことでなりたっていたが、前述したようにこのような市民は僅かな銭しか得られなかった。彼らが買えるのは低価格なじゃがいも、ストリートセラーが売る低価格の出し物であって、ここで伝統的な農村(=森林からの恵みを得られる)と密接して成り立っていた料理は崩壊した。例えばブラック・プディングなどはかつては自家製で各村で作られていたが、ヴィクトリア朝期には購入するしかなくなり、次第に市民は口にする機会が減ったことだろう。また、ヴィクトリア朝期には生きていくためには家庭全員で働く必要があった。彼らは十分な初等教育も受けぬまま、また今で言う「家庭科の知識」=料理の知識を得られぬまま育っていった。加えて当時薪の枯渇から燃料費は増大の一歩となっていた。このために調理方法も凝った方法はできずに、沸かした湯で短時間じゃがいもを茹でる、などのシンプルな料理方法にならざるを得なかった。このような結果として、産業革命の到来とともに中世以来の豊かなイギリス食文化は崩壊を迎えたのであった。

ここまでを約言するとエンクロージャーによって農村を負われた農民は都市の工場労働者となった。彼らは幼いうちから働く必要があったたために充分な料理の教養を得られなかった。加えて森林からの恵みを得られないことによる食糧費の増大は家計を圧迫し食材の品質や品数を低減させ、燃料費の増大は調理方法までシンプルなものにせざるを得なくなった。これらの事情からイギリス料理は我々がステレオタイプで知っているような「ただ茹でる」「ただ焼く」だけとなっていったのである。

このような「茹でるだけ・焼くだけ」の極地がネットで盛んに話題にされるウナギのゼリー寄せである。そもそも魚のゼラチンを利用したゼリー寄せは世界各国にあり、ことさらイギリスにおけるウナギのゼリー寄せだけをネタにするインターネットの動向はどうかと思うのだが、とにかくウナギのゼリー寄せはうなぎをただ茹でただけの料理であった。私見であるが、この料理は「意図的に固まらせた」というよりストリートセラーなどが道端でうなぎを茹でたのを売っている内に、冷えて勝手にうなぎとその煮汁がゼリーのように固まってしまったのが本当の例だと思われる。ストリートセラーが売る「ただ茹でた」「ただ焼いた」ものは他にも有り、牡蠣やじゃがいも、魚介類などを茹でたり焼いたりして売っていた。

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(ウナギのゼリー寄せ)

これらの事情の他にも食材の偽装も食文化の衰退に拍車をかけた。先述したブログに書いてあるように当時のイギリスは食品偽装のオンパレードであり、あらゆる食材が有害な化学物質、あるいは無害だが不衛生的な混ぜものに汚染されていた。これらの食材は低価格だったため、労働者が必然的に頼るようになりこれも料理の味の低下を齎したであろう。

これらのヴィクトリア朝期の食文化衰退は、中流階級までもを襲った。そもそもイギリスの上流階級はフランスなどの料理人を雇って、フランス流の料理を熱心に食べていたが、新興した中流階級も上流階級の真似事として料理人を雇ってその料理を食べるようになった。しかし中流階級が雇える使用人というのは労働者階級の出の貧しい少女や少年であって、今まで述べてきたように彼らは料理の教育を受けてこなかった。彼らが作れる料理というのは労働者階級の料理─ただ茹でる・ただ焼く─だけであって、結果として中流階級も我々から見たら貧しく・美味しくない料理を食べていたことになる。いずれにしろ、農民などの口伝でつたわってきた豊かなイギリス食文化はここで一度の崩壊を迎えることになった。

ここで疑問が浮かぶ方も多いのではないか。「なぜ産業革命をした国でイギリスだけが食文化の崩壊に至ったのでは」と。ここで、『エコノミスト』のコラムではこう答えている。「工業化の前に、彼はイギリスの料理はヨーロッパで最高だったと主張する。しかし、英国が工業化する最初の国であったため、冷蔵庫はまだ発明されていなかった。このように、英国人は現代の食料保存技術の恩恵を受けずに農場を去ることになったのだ。彼らは食材の策源から遠く離れて、缶詰の野菜、保存された肉、根野菜などに頼って、少なくともこれらを魅力的なものにするために揚げたのだった。技術によって新鮮な果物や野菜が利用可能になった後でさえ、英国人の口の中は軽くて脂っこい食事に設定されていた。」*3つまり、イギリスは産業革命が最初の国だったために発達した食料保存技術の恩恵を受けられずに、缶詰の野菜や干し肉などしか手に入れられなかったとしているのである。もし食品保存技術でより安価により質のいい食材がイギリスより遅れて産業革命が到達した各国で手に入ったのならば、その分だけ食文化の崩壊は避けられることになる。加えて、イギリスのように深刻な燃料不足が併発して起こっていなければ更に食文化崩壊の危険性は低くなるのである。「産業化の時代には、世界が持てるものと持たざるものにはっきりと分かれていた。工業化社会では食料供給の問題は解決された」*4というようにイギリスより後発に産業革命を迎えた国は食料供給の問題を解決していたのである。もっとも、個人的にはどの国も産業革命によって農村から切り離されたことで食文化の少なからぬ崩壊は訪れていると思われる。程度問題というわけである。

4.さらなる苦難─第一次世界大戦と第二次世界大戦

ヴィクトリア朝期に食文化の崩壊が始まったとは言え、徐々に労働者の地位や給与が増大してくるに従っていくらかの改善が見られるようになった。それは1845年に初版が刷られ、ベストセラーとして20世紀まで重版が重なった『Modern Cookery for Private Families』などでも伺える(もっともこの本が刷られた当時の労働者にはこのような本を読む技術も、買うお金もなかったのだが。この本が労働者階級に流行りだすのは20世紀にはいってからである。)。

20世紀に入ると、労働者の待遇も改善され、燃料費の増大も落ち着き、また食品保存技術の拡大で新鮮な野菜や肉や魚が簡単に手に入るようになっていった。これに伴って、多くの料理本が発売されるなど食文化の崩壊は一旦歯止めがかかったに見えた。

しかし、そんなイギリスを待っていたのは第一次世界大戦と第二次世界大戦であった。第一次世界大戦はドイツの食糧不足が有名だがイギリスも少なくない食糧不足に悩まされた。かつて食卓を彩っていた様々な野菜や果物、肉類などは姿を消して再び粗雑で簡単な料理─さながらヴィクトリア朝期のように─にならざるを得なかった。この苦難は第一次世界大戦終了後の戦間期には改善されるが、すぐに第二次世界大戦がやってくるのである。第二次世界大戦ではバナナ、タマネギ、チョコレートなどの食べ物は市場から消え、乾燥卵、乾燥ジャガイモ、クジラの肉、スパム(缶詰)、snoekと呼ばれる「嫌な」輸入魚などの珍しいものが食卓に現れた。バター、砂糖、卵、小麦粉は欠乏し、パイやケーキなどの英国料理は伝統的なレシピで作ることが難しくなった。結論として、この時期は我が国で太平洋戦争中に代用食材が流行ったように代用品が横行し、著しく料理のクオリティは下がることになった。この時期にイギリスに駐留したアメリカ兵などはイギリス料理はまずいと感じ、本国に帰ってそれを広めたであろう。現代的な「イギリス料理はまずい」というステレオタイプは根源的にはこの時代の料理から来ているのだと予想される。

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(WW2中イギリスで配給された缶詰の中でも最も有名なスパム缶)

結果的に、イギリス料理は何度も崩壊を迎えた。まずはじめにヴィクトリア朝期、次に第一次世界大戦、最後に第二次世界大戦である。この期間にイギリスを訪れた者たちが口にした料理は今の我々が偏見抜きに食べたとしてもまずかったに違いない。このときの風評が今になってもステレオタイプとして保存されているのである。

5.イギリス料理の再生と進展─第二次世界大戦終結後

第二次世界大戦後、しばらく経つとまた食文化は再生をし始めた。手に入らなかった新鮮な肉や魚、卵などは輸入品を取り入れたこともあって市場に流れ始め、イギリスは再び伝統的な料理を作れるようになった。それだけではない。世界中が流通網で密接に結ばれ、新たなイギリス料理も誕生し始めた。今までは自国で生産できなかった数々の野菜や魚などを利用した新しい料理である。もともと植民地を通じて得ていた多文化主義的料理も更に飛躍を遂げ、多くのバリエーションを生み出している。もはや我々が知る「まずい」とされるイギリス料理は過去のものとなりつつ有る。海外のフォーラムに寄せられたコメントを引用して言えば「(イギリス料理の)ステレオタイプを受け入れないでください。英国に行き、料理を自分で試してみてください。あなたは失望しませんよ」*5ということだ。食文化は常に発展する。逆風によって挫けようと時が経てば、また逆風が止めば、また回復・進展するのである。現代のイギリス料理の美味しさはまさにこれを物語っているのである。

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(現代的イギリス料理、「ホワイトハート」。各国から輸入される食材で構成されている。)

6.おわりに

ここではイギリス料理の簡単な歴史となぜ美味しくなくなったかを簡潔に論じた。産業革命期に衰退したイギリス食文化であるが、他国の食文化も産業革命期にどのようになったかは気になるところであるが、私は外国語の才がなく、ドイツ語やフランス語を理解できる方にぜひ研究してほしいところである。日本の食文化も戦後一旦崩壊しているので(そばなどがいい例である)、そこと比べてみるのも興味深いだろう。

この短い論考でぜひイギリス料理への偏見がなくなれば嬉しいところである。料理はアイデンティティであり、民族の誇りである。その誇りやアイデンティティをステレオタイプで雑に語って言いわけがない。みなさんもぜひイギリスに飛んで、または日本の専門料理店で現代の、または伝統的なイギリス料理を味わってみてください。


*1:『生活の歴史10 産業革命と民衆』にもそのような文が記載されている

*2:囲い込み運動とは農民の解放農地を取り上げ、そこに柵を立てて=囲い込みし、羊などを放すことである。第一次は地主によって行われたが、第二次は政府や議会主体で行われた。

*3:http://www.economist.com/blogs/freeexchange/2006/12/british_food

*4:フェリペ・フェルナンデス=アルメスト著『食べる人類誌』

*5:Why is British food often perceived to be terrible? - Quora
http://peoplesstorm.hatenablog.com/entry/2017/04/18/212350

http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/442.html#c1

[近代史3] ジョン・コルトレーン 名演集

ジョン・コルトレーン 名演集

John Coltrane - YouTube
https://www.youtube.com/results?search_query=John+Coltrane


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ジョン・コルトレーン(John Coltrane, 1926年9月23日 - 1967年7月17日)は、アメリカ、ノースカロライナ州生まれのモダンジャズのサックスプレーヤー。愛称はトレーン(Trane)。

長い間無名のままでいたため、第一線で活躍した期間は10年余りであったが、自己の音楽に満足せずに絶えず前進を続け、20世紀ジャズの巨人の一人となった。

主にテナー・サックスを演奏したが、活動最初期はアルト・サックス[1]、1960年代よりソプラノ・サックス、最晩年にはフルートの演奏も残している。活動時期は、1950年代のハード・バップの黄金時代から1960年代のモード・ジャズの時代、さらにフリー・ジャズの時代にわたり、それぞれの時代に大きな足跡を残した。

1940年代にチャーリー・パーカーらが確立した4ビート・バップ・ジャズのアドリブ方法論を、現代的に再構築した功績は大きい。コルトレーンの構築したアドリブ方法論は4ビート・ジャズだけでなく、ロックなど、他ジャンルのサウンドにもそのまま通用するものだった。このため、コルトレーンの影響は、他のプレイヤーにも及んでいる。

短い活動期間にも関わらず、アルバムに換算して200枚を超える多数の録音を残した。現在でも多くのジャズ愛好家たちに愛され、彼の残したレコードはほとんどが廃盤にはならずに(あるいは一旦廃盤になっても再発売される形で)、2012年現在でも流通し続けている。さらに、死後40年以上経過した現在でも未発表テープが発掘され、新譜として発表される状況が続いている。


略歴

前期(1958年まで)

13歳でクラリネットを始める。後にアルト・サックスに転向し、1946年よりプロとして活動開始。1949年にディジー・ガレスピーのバンドに参加し、その後テナー・サックスに転向。ほとんど無名のままいくつかのバンドを転々とした。レコーディングの機会にもあまり恵まれず、この時期のコルトレーンの録音はごくわずかしか残っていない。

1955年に、マイルス・デイヴィスのグループに入る。マイルスはすでに[注釈 1]ジャズの大スターであったため、マイルスバンドに抜擢[注釈 2]されたコルトレーンもその名前が知られるようになり、マイルスバンド以外のレコーディングの機会も多くなる。しかしこの時期のコルトレーンの演奏は決して評判[注釈 3]の良いものではなかった。

1957年に、一旦マイルスバンドを退団[注釈 4]。その後はセロニアス・モンクのバンドに加入し、モンクから楽理の知識を授かる[注釈 5]と共に音楽的修業に一層打ち込む。また、同時期に麻薬中毒も克服。同年3月に、マイルスバンド時代の同僚であったピアニストのレッド・ガーランドの紹介でプレスティッジ・レコードと契約[注釈 6]。5月には、初リーダー・アルバム『コルトレーン』の吹き込みを行っている。

同年7月に、ニューヨークのライブハウス「ファイブ・スポット」にモンクバンドとして出演。コルトレーンはこの月「神の啓示」を得たと語っている[注釈 7]。「神の啓示」が本当に意味するところは本人にしか分からないが、この月以前に録音されたトレーンの演奏はどこか不安定でぎこちなさが残っていたのに対し、この月以降に録音された演奏はどれもが自信に満ちたものに変わっており、本人の内面に何らかの大きな精神的変化[注釈 8]が訪れたものと考えられる。いずれにせよ、1957年7月は20世紀を代表する一人のジャズの巨人が誕生した月として記憶されるべき月となる。9月にはブルーノート・レコードにて初期の代表作『ブルー・トレイン』[注釈 9]を吹き込んでいる。

1958年、モンクの元を離れ[注釈 10]、マイルスバンドに再加入。マイルスはこの時期、コルトレーンをソニー・ロリンズと並ぶ2大テナー奏者として高く評価した。また、音楽評論家のアイラ・ギトラーは、同年『ダウン・ビート』誌において、音を敷き詰めたようなコルトレーンの演奏スタイルを「シーツ・オブ・サウンド」[注釈 11]と形容。以後、この形容は初期コルトレーンの奏法の代名詞となる。一方、コルトレーンのソロはいつも長かった[注釈 12]。また、常にフォルテッシモで速いパッセージばかり吹き続けたため、彼の演奏はぶっきらぼうで怒っているように聴こえたことから、Angry Young Tenor Man(怒れる若きテナーマン)と揶揄されることもあった(「怒れる若者たち(Angry Young Men)」のもじり)。

中期(1959年から1961年)

1959年、マイルスの『カインド・オブ・ブルー』収録に参加した。またアトランティック・レコードに移籍し、中期の代表作『ジャイアント・ステップス』を録音した。この頃から、単なるハード・バップ・テナー奏者から脱却すべく独自の音楽性を模索する試みが始まる。自作自演の曲が増え、また同じ曲の録音でありながら、異なるサイドメンを起用してテイクを重ねること[注釈 13]などを試行している。

1960年春、マイルスバンドを脱退した。その後マッコイ・タイナー、エルビン・ジョーンズらと自身のレギュラー・バンドを結成してツアーに出ている。10月には、自身のレギュラー・バンドで大規模なレコーディングを敢行した。このときのセッションからは『マイ・フェイヴァリット・シングス』、『プレイズ・ザ・ブルース』、『コルトレーンズ・サウンド(邦題:『夜は千の目を持つ』)』などのアルバムが発表されている[注釈 14]。アルバム『マイ・フェイヴァリット・シングス』のタイトル曲「マイ・フェイヴァリット・シングス」は、コルトレーンの最初のヒット曲となった。この演奏に現れる「3拍子+マイナー・メロディ+ソプラノ・サックス[注釈 15]」という組み合わせは、以後コルトレーンの定型パターンとして繰り返し用いられている[注釈 16]。またソプラノ・サックスは、コルトレーンに採り上げられたことを契機[注釈 17]に楽器としての魅力が広く認知され、以後ジャズ・フュージョン系のサックス奏者達の"必修科目"として盛んに用いられるようになる。

1961年、アトランティックを離れ、インパルス!レコードに移籍。3月にはマイルスのアルバム『サム・デイ・マイ・プリンス・ウィル・カム(邦題:『いつか王子様が』)』の録音にゲストとして参加[注釈 18]。その後、新進気鋭のリード奏者エリック・ドルフィーを自己のバンドに加えるとともに、アレンジャーとしても起用し、大型ブラスセクションによる録音に取り組む。この録音からはインパルス最初のアルバムとして『アフリカ・ブラス』『アフリカ・ブラス・セッション vol. 2』の2枚が発売された。その直後に、アルバム『オーレ!コルトレーン』も録音している。これはアトランティックから発売された。 また秋には、ニューヨークのライブハウス「ヴィレッジ・ヴァンガード」にほぼ連日出演したり、ヨーロッパツアーにも出ている。これらの演奏の様子は、後年『ライヴ・アット・ザ・ヴィレッジ・ヴァンガード』を初めとする数多くのライブ・アルバムで聴くことができるようになってきている。

後期(1962年から1964年)

1962年、エリック・ドルフィー退団。以後コルトレーンは、マッコイ・タイナー、ジミー・ギャリソン(ベース)、エルヴィン・ジョーンズというほぼ不動のメンバー[注釈 19]によるカルテットと共に活動、バンド全体が一体となって演奏を繰り広げるという表現方法を確立。コンサートでは、1曲の演奏時間が30分から1時間に及ぶこともざらであった。

このように、ステージでの演奏は激烈を極める一方だったが、レコーディング・スタジオではインパルス!レコードの看板アーティストとしてレコードの売り上げにも関心を示し、デューク・エリントンとの共演(『デューク・エリントン&ジョン・コルトレーン』、1962年録音)、スローバラードばかり取り上げた『バラード』(1962年録音)、ジャズ・ボーカルをメインに据えた『ジョン・コルトレーン&ジョニー・ハートマン』(1963年録音)のような企画物レコードの作製にも取り組んだ。

1964年、夭折したドルフィーの両親から遺品のバスクラリネットとフルートを譲り受ける。年末、『至上の愛』を録音。また1965年に入ると、コルトレーンのモード・ジャズは極限にまで達し、特定の調性にとらわれず、あらゆるスケールを縦横無尽に使うことによって「無調性音楽」の色彩が強くなっていく。


フリー・ジャズ期(1965年から1967年)

1965年6月、コルトレーンはついにアルバム『アセンション』を発表し、フリー・ジャズに傾倒する。コルトレーンはこの時期、マイルスと並んでジャズの指導者的地位にいたが、そのような権威ある人物がフリー・ジャズを支持したことは、それまでフリー・ジャズの音楽的意義を理解せず、その価値を認めようとしてこなかった保守的ジャズ・ファンに大きな衝撃を与えた。またコルトレーンは、同じテナー奏者の ファラオ・サンダースを加入させ、動のサンダースに対して静のコルトレーンという対比をうまく作り出すことに成功。コルトレーンのフリー・ジャズは激烈さの中に静謐さが同居するもので、瞑想的と表現されることが多い。

1965年頃まで、コルトレーンはサックスを吹く際ほとんどヴィブラート奏法を用いなかったが、晩年になると強烈ヴイブラート・ワークを用いる奏法に変化していく。同年12月にマッコイ・タイナーがバンドを離れ、アリス・マクレオド(1966年にジョンと結婚)が加入。1966年3月にはエルヴィン・ジョーンズも退団し、ラシッド・アリをドラマーとして加入させる。

1966年7月に来日。9都市を回るという大がかりなツアーであった。記者会見で「10年後のあなたはどんな人間でありたいと思いますか?」という質問に対し「私は聖者になりたい」と答えたというエピソードがある。 また、同記者会見にて「最も尊敬する音楽家は?」という質問に対し、オーネット・コールマンの名前を挙げたといわれる。

1967年5月7日、ボルチモアで最後のコンサートを行う。7月17日、肝臓癌で亡くなる。


私生活


コルトレーンが住んでいた家ピアニストのアリス・コルトレーンを妻に、サックス奏者のラヴィ・コルトレーンを次男に、サックス・クラリネット奏者のオラン・コルトレーンを三男に持つ。また、エレクトロニカで知られる、フライング・ロータスことスティーヴン・エリソンは彼の甥である。
甘党で虫歯だらけだったが、歯医者嫌いだったという。
ペンシルベニア州フィラデルフィアには、1958年までコルトレーンが住んでいた家が史跡として保存されている。

ディスコグラフィ

1957年『コルトレーン』 - Coltrane(1957年5月録音)(Prestige) 1957年
レッド・ガーランド・トリオと共同名義, 『ジョン・コルトレーン・ウィズ・レッド・ガーランド・トリオ』 - John Coltrane with the Red Garland Trio(1957年8月録音)(Prestige) 1958年
『ブルー・トレイン』 - Blue Train(1957年9月録音)(Blue Note) 1957年
セロニアス・モンク・クインテッドとの共同名義, 『ライヴ・アット・カーネギー・ホール』 - Thelonious Monk Quartet with John Coltrane at Carnegie Hall(1957年11月録音)(Blue Note) 2005年
1958年『ソウルトレーン』 - Soultrane(1958年2月録音)(Prestige) 1958年
ウィルバー・ハーデン(英語版)の『メイン・ストリーム1958』 - Mainstream 1958(1958年3月録音)を共同名義で再発, Countdown (Savoy) 1976年
ウィルバー・ハーデンと共同名義, 『タンガニカ・ストラット』 - Tanganyika Strut(1958年5月、6月録音)(Savoy) 1958年
ウィルバー・ハーデンと共同名義, 『ジャズ・ウェイ・アウト』 - Jazz Way Out(1958年6月録音)(Savoy) 1958年
1959年ミルト・ジャクソンと共同名義, 『バグス・アンド・トレーン』 - Bags & Trane(1959年1月録音)(Atlantic) 1961年
『ジャイアント・ステップス』 - Giant Steps(1959年4月〜12月録音)(Atlantic) 1960年
1960年ドン・チェリーと共同名義, 『アヴァンギャルド』 - The Avant-Garde(1960年6月、7月録音)(Atlantic) 1966年
『コルトレーン・ジャズ』 - Coltrane Jazz(1959年3月、11月、12月、1960年10月録音)(Atlantic) 1961年
『マイ・フェイヴァリット・シングス』 - My Favorite Things(1960年10月録音)(Atlantic) 1961年 『コルトレーン・サウンド(夜は千の目を持つ)』 - Coltrane's Sound(1960年10月録音)(Atlantic) 1964年
『ジョン・コルトレーン・プレイズ・ザ・ブルース』 - Coltrane Plays the Blues(1960年10月録音)(Atlantic) 1962年

1961年『オーレ!コルトレーン』 - Olé Coltrane(1961年5月録音)(Atlantic) 1961年
『アフリカ・ブラス』 - Africa Brass(1961年5月、7月録音)(Impulse!) 1961年。
のち『ファースト・セッション・フォー・インパルス・プラス(コンプリート・アフリカ・ブラス)』(MCA) 1991年 - The Complete Africa/Brass Sessions (Impulse!) 1995年。
『ライヴ・アット・ザ・ヴィレッジ・ヴァンガード』 - "Live" at the Village Vanguard(1961年11月録音)(Impulse!) 1962年。(「ヴィレッジ・ヴァンガード」におけるライヴ) 『ヴィレッジ・ヴァンガードのコルトレーンとドルフィー』 - The Other Village Vanguard Tapes(1961年11月録音)(Impulse!) 1970年。
『コンプリート1961ヴィレッジ・ヴァンガード・レコーディングス』 - The Complete 1961 Village Vanguard Recordings (Impulse!) 1997年。(CD 4枚組)

1962年『コルトレーン』 - Coltrane(1962年4月、6月録音)(Impulse!) 1962年。
のち『コルトレーン(デラックス・エディション)』 - Coltrane (Deluxe Edition) (Impulse!) 2002年。 (CD 2枚組)
デューク・エリントンと共同名義, 『デューク・エリントン&ジョン・コルトレーン』 - Duke Ellington & John Coltrane(1962年9月録音)(Impulse!) 1964年
『バラード』 - Ballads(1961年、1962年9月、11月録音)(Impulse!) 1963年。
のち『バラード(デラックス・エディション)』 - Ballads Deluxe Edition (Impulse!) 2002年。(CD 2枚組)
1963年『ザ・ロスト・アルバム』 - Both Directions at Once: The Lost Album(1963年3月録音)(Impulse!) 2018年
ジョニー・ハートマンと共同名義, 『ジョン・コルトレーン&ジョニー・ハートマン』 - John Coltrane & Johnny Hartman(1963年3月録音)(Impulse!) 1963年
『インプレッションズ』 - Impressions(1961年11月、1963年4月録音)(Impulse!) 1963年(「ヴィレッジ・ヴァンガード」におけるライヴを含む)
『ライヴ・アット・バードランド』 - Live at Birdland(1963年3月、10月、11月録音)(Impulse!) 1964年(1963年10月のライヴとスタジオ録音)
1964年『クレッセント』 - Crescent(1964年4月、6月録音)(Impulse!) 1964年
『至上の愛』 - A Love Supreme(1964年12月録音)(Impulse!) 1965年。
のち『至上の愛(デラックス・エディション)』 - A Love Supreme Deluxe Edition(1965年7月録音を追加)2002年。(CD 2枚組)
のち『至上の愛:コンプリート・マスターズ』 - A Love Supreme: The Complete Masters (Impulse!) 2015年。(CD 3枚組)
1965年『ワン・ダウン、ワン・アップ:ライヴ・アット・ザ・ハーフ・ノート』 - Live at the Half Note: One Down, One Up(1965年3月、5月7日録音)(Impulse!) 2005年(ライヴ。CD 2枚組。)
『ジョン・コルトレーン・カルテット・プレイズ』 - The John Coltrane Quartet Plays Chim Chim Cheree, Song of Praise, Nature Boy, Brazilia(1965年2月、5月17日録音)(Impulse!) 1965年
『ディア・オールド・ストックホルム』 - Dear Old Stockholm(1963年4月、1965年5月26日録音)(Impulse!) 1993年(ロイ・ヘインズ参加曲コンピレーション)
『トランジション』 - Transition(1965年5月26日、6月10日録音)(Impulse!) 1970年
『リヴィング・スペース』 - Living Space(1965年6月10日、16日録音)(Impulse!) 1998年
『神の園』→(改題)『アセンション』 - Ascension(1965年6月28日録音)(Impulse!) 1966年
アーチー・シェップと共同名義, 『ニュー・シング・アット・ニューポート』 - New Thing at Newport(1965年7月2日録音)(Impulse!) 1965年(「ニューポート・ジャズ・フェスティバル」におけるライヴ)
『マイ・フェイヴァリット・シングス:コルトレーン・アット・ニューポート』 - my favorite things: COLTRANE at newport(1963年7月、1965年7月2日録音)(Impulse!) 2007年(「ニューポート・ジャズ・フェスティバル」におけるライヴ)
『サン・シップ』 - Sun Ship(1965年8月録音)(Impulse!) 1971年
『ファースト・メディテーション』 - First Meditation(1965年9月2日録音)(Impulse!) 1977年
『ライヴ・イン・シアトル』 - Live in Seattle(1965年9月30日録音)(Impulse!) 1971年(ライヴ。CD 2枚組。)
『オム』 - Om(1965年10月1日録音)(Impulse!) 1968年
『セルフレスネス・フィーチャリング・マイ・フェイヴァリット・シングス』 - Selflessness: Featuring My Favorite Things(1963年7月、1965年10月14日録音)1969年(「ニューポート・ジャズ・フェスティバル」におけるライヴとスタジオ録音)。のち廃盤。
『クル・セ・ママ』 - Kulu Sé Mama(1965年6月、10月14日録音)(Impulse!) 1966年
『メディテーション』 - Meditation(1965年11月録音)(Impulse!) 1966年
1966年『ライヴ・アット・ザ・ヴィレッジ・ヴァンガード・アゲイン』 - Live at the Village Vanguard Again!(1966年5月録音)(Impulse!) 1966年(「ヴィレッジ・ヴァンガード」におけるライヴ)
『ライヴ・イン・ジャパン』 - Live in Japan(1966年7月録音)(Impulse!) 1991年。(新宿「東京厚生年金ホール」、大手町「サンケイホール」におけるライヴ)
のち『『ライブ・イン・ジャパン(完全版)』 - Live in Japan Deluxe Edition (Universal/Impulse!) 2011年。(CD 5枚組)
1967年『ステラ・リージョンズ』 - Stellar Regions(1967年2月15日録音)(Impulse!) 1995年
『惑星空間』→(改題)『インターステラー・スペース』 - Interstellar Space(1967年2月22日録音)(Impulse!) 1974年
『エクスプレッション』 - Expression(1967年2月15日、3月録音)(Impulse!) 1967年
『オラトゥンジ・コンサート:ザ・ラスト・ライヴ・レコーディング』 - The Olatunji Concert: The Last Live Recording(1967年4月録音)(Impulse!) 2001年(ライヴ)
没後アリス・コルトレーンと共同名義, 『コズミック・ミュージック』 - Cosmic Music(1966年2月、1968年1月録音)(Impulse!) 1968年
『インフィニティ』 - Infinity (Impulse!) 1972年(リミックス)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B8%E3%83%A7%E3%83%B3%E3%83%BB%E3%82%B3%E3%83%AB%E3%83%88%E3%83%AC%E3%83%BC%E3%83%B3

http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/443.html

[近代史3] カウント・ベイシー 名演集

カウント・ベイシー 名演集


Count Basie - YouTube
https://www.youtube.com/results?search_query=Count+Basie  


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ウィリアム・“カウント”・ベイシー(William "Count" Basie、1904年8月21日 - 1984年4月26日)は、アメリカのジャズピアノ奏者、バンドリーダー。グレン・ミラー、ベニー・グッドマン、デューク・エリントン等と共にスウィングジャズ、ビッグバンドの代表奏者に挙げられる。


経歴

ビッグバンド以前

ニュージャージー州の小都市レッドバンク生まれ。母親から教わったピアノの腕を生かし、1924年よりブルース歌手の伴奏とソロ演奏を主にプロ活動を開始する。その際、仕事で訪れたミズーリ州カンザスシティで多くのジャズミュージシャンと出会う。ウォルター・ペイジ率いる「ブルー・デビルズ」に参加、その後1929年に加わったベニー・モーテン楽団で、リーダーのベニー・モーテンが1935年に亡くなると、自らがバンドリーダーとなりジャズオーケストラを結成し、このころから「カウント・ベイシー」の愛称を用いるようになる。また同じ頃、ベニー・グッドマンとその友人でジャズ評論家のジョン・ハモンドに評価されたことで注目されることとなる。

オールド・ベイシー

1936年末にシカゴのクラブを経てニューヨークへ活動拠点を移し、自身のビッグバンド“カウント・ベイシー・オーケストラ”を結成。1937年にデッカ・レーベルから発売された「ワン・オクロック・ジャンプ」をはじめ、アルバムでそのシンプルかつ絶妙なサウンドが好評を博し、一躍国際的名声を得る。ポール・ホワイトマンに「オール・アメリカン・リズム・セクション」と絶賛された、強力なリズムセクションをバックに従え、「プレス」ことレスター・ヤング(T.Sax)(愛称の“プレス”はサックスの大統領という意味で、恋仲だったビリー・ホリディが名付け親)、ハーシャル・エバンス(T.Sax)、アール・ウォーレン(A.Sax)、バック・クレイトン(Tp)、ハリー・“スウィーツ”・エディソン(Tp)(スウィーツの名付け親は“プレス”ことレスター・ヤング)、ディッキー・ウェルズ(Tb)らのソリスト陣がバトルを繰り広げ、「オールド・ベイシー」と呼ばれる初期の黄金時代を築いた。妻キャサリンと結婚したのもこのころ(1942年)である。又この頃には専属シンガーとして「ミスターブルース」「シャウター」のあだ名を持つジミー・ラッシング、「レディ・デイ」の愛称を持つビリー・ホリディ(レディ・デイの名付け親もレスター・ヤング)、ヘレン・ヒュームスがいる。この時代の曲はヘッドアレンジを生かし、ブルースナンバー・リフナンバーが多かったが、ベイシー特有のジャンプするリズムで大変「スウィング」していたといわれる。

ニュー・ベイシー

1940年代後半から末にかけて、第二次世界大戦後の不況でバンドの興行的経営が成り立たなくなったことやビッグバンドスタイルそのものの低迷も相まって、数々のビッグバンドが活動休止や解散に追い込まれる。カウント・ベイシー・オーケストラも例外ではなく、バンドは一時解散となり、ベイシーもジャズ・コンボでの活動を余儀なくされた。しかし、1951年にオールドベイシー時代の盟友フレディ・グリーン(Gt)と共にビッグバンドを再結成、新たにサド・ジョーンズ(Tp)、フランク・フォスターらを迎えて活動を再開する。後にヴァーヴ・レコードと契約し、ニール・ヘフティやクインシー・ジョーンズら新進気鋭のアレンジャーを起用して数々の名盤を残す。初期の「オールド・ベイシー」に対して「ニュー・ベイシー」と呼ばれるのがこの時代である。

1968年には米国空軍バンドのアレンジャーであったサミー・ネスティコを迎え、カンザスシティ・ジャズの伝統をベースにしつつモダンなアレンジが再び高い評価を得る。このころジョー・ウィリアムズやエラ・フィッツジェラルド、フランク・シナトラらのボーカリストなどとの競演も果たす。

1984年4月26日の早朝、膵臓がんにより、フロリダ州のハリウッドにある病院にて死去。79歳没。


代表作

April in Paris
ニュー・ベイシー時代の代表作の一つ。収録曲の一つである "Dinner with Friends"は日本のバラエティ番組「人志松本のすべらない話」に用いられている。
E=MC² - 単に「Basie」とも呼ばれる。通称"Atomic Basie"。ジャケットに原爆の爆発時の写真が用いられたことによる(E=mc²は原子爆弾のエネルギー源を説明する式)。


Basie in London
"London"と名付けられているが、実際に収録されたのはスウェーデンでのライブである。


Basie Straight Ahead
タイトル曲を始めとして収録されている曲のいずれもが、アマチュアビッグバンドのバイブルとなっている。


Chairman of the Board
ジャケット写真の後ろに並んでいるメンバーは、左からフランク・ウェス、フランク・フォスター、サド・ジョーンズ、フレディ・グリーン、マーシャル・ロイヤル。正面は当然、カウント・ベイシー。


First Time!
デューク・エリントン楽団とのジョイント
This Time by Basie - クインシー・ジョーンズが編曲を手がけた1960年代の傑作。


ピアノスタイル

ベイシーのピアノスタイルは、ファッツ・ウォーラーに師事したこともあり、ストライドピアノスタイルであり、その腕はかなりの物だったと言われる。ビッグバンド演奏の中ではストライドピアノを封印し、「ワンノートスタイル」と呼ばれるシンプルな演奏方法で、「節約奏法」とも揶揄された、音楽的に必要な場所だけピアノを「叩く」スタイルに変わっていった。

名前について

カウント(Count)は伯爵を意味する。メディアでは「カンサス・シティのラジオ・アナウンサーがカウント・ベイシーと呼んだ事に発している」と伝えられる。(ベイシー自身が名付けたという説もある。) 当時は、キング(王様)・オリヴァー、ファッツ(太った)・ウォーラー、デューク(公爵)・エリントン、ディジー(くらくらする)・ガレスピーなど、ニックネームを公式名称として活動するジャズ・ミュージシャンが多かった。


備考

カウント・ベイシー・オーケストラのリズム・セクションはフレディ・グリーン(Gt)、ジョー・ジョーンズ(Dr)、ウォルター・ペイジ(Bs)、カウント・ベイシー(P)で構成され、「オール・アメリカン・リズム・セクション」と称されるほどの実力を誇った。

初期のメンバーは楽譜が読めない者が多く、耳に頼ってアンサンブルを構成することも多かった。そのため現在でも一部の楽譜には、はっきりと音階が記入されていないものもある。

2010年2月には、結成75周年を記念した来日ツアーを開催する。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%AB%E3%82%A6%E3%83%B3%E3%83%88%E3%83%BB%E3%83%99%E3%82%A4%E3%82%B7%E3%83%BC
http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/444.html

[近代史3] 哀愁のヨーロピアン・ジャズ

哀愁のヨーロピアン・ジャズ


Django Reinhardt Djangology - YouTube 動画
https://www.youtube.com/results?search_query=Django+Reinhardt+++Djangology+&sp=mAEB


les swingle singers JAZZ SEBASTIEN BACH - YouTube 動画
https://www.youtube.com/results?search_query=les+swingle+singers++JAZZ+SEBASTIEN+BACH&sp=mAEB


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【ヨーロピアン・ジャズ事始め】

 ジャズといえば、コンクリート・ジャングルで寂しくトランペットが泣いてる、または地下の酒場からドラムがドカスカ爆裂してくる、そういう抑圧された黒人の脂ぎった臭いが充満したもののように思われている。いや、私もそう思っていました。ところが20世紀も終わりになって、ヨーロッパのジャズが凄く面白いことにようやく気が付きました。ジャズが都会のカオスを演出するとすれば、今のヨーロッパほど混沌とした地域もないのでは?と思えてきたのです。

 しかしそれ以前にもヨーロッパのジャズ・プレイヤーに興味がなかったわけではありません。

 最初の波はジャンゴ・ラインハルト。そう戦前ジャズの大御所で、ジプシー・ギターの伝統を背景に、イギリスのユダヤ系ヴァイオリニストのステファン・グラッペリと強力タッグを組んで、ギターとヴァイオリン、ウッドベースだけのフランス・ホット・ファイブという五重奏団を組み、飛び切り上質なジャズを聴かせてくれる。有名な「ジャンゴロジー」というアルバムは戦後のイタリアで録音されたが、ここではエレキに持ち替え甘い最後の時間を記録している。

 ふたつ目の波はスウィングル・シンガーズで、60年代に活躍したフランスの男女8人組のアカペラ・コーラス・グループ。「ジャズ・セバスチャン・バッハ」というアルバムで、バッハの名曲をスキャットにアレンジして、シュビシュビダバダバとこれまた上品にスウィングする。

 このふたつのアルバムで私の場合は完全にノックアウトで、逆にいうとそれ以外のものをあまり受け付けないところがありました。キース・ジャレットで有名なECMレーベルさえ知らなかったのです。


【哀愁というキーワード】

 なぜかヨーロピアン・ジャズには哀愁という言葉がよく似合う。そう自分では信じている。多分、アングラな酒場をハシゴするというよりは、陽の当たるカフェでの恋愛のやりとりが似合うからだろう。その意味でヨーロピアン・ジャズは太陽の光を十分に浴びた健康的なものが多い。そこでの哀愁というキーワードの本質は、東西冷戦の終結後に現われた行き場のない叫びのようなものが、場末のジャズとして音になってからのような気がする。私にとってのヨーロピアン・ジャズの第三の波は1990年代から始まってるようだ。

 最初にその混沌の情況を知ったのはCDからではなく、なぜか映画からだった。ハンガリーのフェリケ・イボヤ監督「カフェ・ブダペスト」に出てくるロシア人サックス男のやるせないプレイが、ハンガリーの街をバックに静かに流れていく。それがなんとも切なく、そしてかっこいいのだ。その強烈な印象を頼りに「哀愁」というキーワードでヨーロピアン・ジャズを斬ってみたくなった。さてセンチメンタルでノスタルジアなヨーロッパ・ジャズの世界に旅立とう。


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「C Minor」(2006年)
ジョバンニ・ミラバッシ&アンドレィ・ヤゴジンスキ・トリオ
澤野工房/AS063

イタリアのジャズピアニストとポーランドのトリオが組んだ異色作で、ポーランド側のリーダーはアコーディオンに持ち替えての出演である。およそフランス・ミュゼットのような儚い感じがある一方で、サーカスの曲芸団のような不思議なバランスが異次元に誘う。舌に心地良いがアルコール度の強い酒で知らず知らず深酔いしてしまうような感覚。表面的なノスタルジーを装った辛辣なユーモアが聴き手をすっぽり包んでしまう音楽である。

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「プラハ」(2003年)
木住野佳子
GNPインターナショナル/UCGJ-7002

このCDをジャズという分類で割り切るのは難しい。ピアノ・トリオとストリングスという構成はイージー・リスニングのそれを想起させる。しかしストリングにモードを任せた止めどないトリオの流れは、あくまでも即興という枠組みのなかで展開されたもの。中世からの古い市街地の広がるプラハの街並みに触発された曲の凛々しいノスタルジアが心地良い。ストリングスの合間を縫って良質なベース音を繰り出すプラハのジャズメンのツボの押さえどころも聞き物。


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「Very Swedish」(2001年)
Sweet Jazz Trio
Spice of Life/SOLJ-0001

このトリオはコルネット、ギター、ベースという変わった構成をしている。このCDではスウェーデン民謡を取り上げつつ、全編mpの静かなインタープレイが展開される。しかしラッセ・トゥーンクヴィストが奏でるコルネット、この蜂蜜パイのような甘さは反則ワザである。1935年生まれというから録音当時65歳でもう既に老人なのだが、この哀愁ただよう甘美な色気は尋常ではない。


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「カフェ・ブダペスト」(1996年)
フェテケ・イボヤ(監督)・ユ−リ・フォミチェフ、イーゴリ・チェルニヴィケ、他
IMAGICAエンタテインメント/IMBC-136

この映画に出てくるロシア人サックス吹きのやるせない感じがたまらない。テクニシャンではないが朴訥(ぼくとつ)とした男の哀愁がただよう。アルトサックスが尺八のように無常を訴える。そう、時代が平安末期の混乱と似ているのだ。ソヴィエトという荘園制が崩壊した跡の風のすさびは、仄かな色気をともなって肌に伝わってくる。私にとってヨーロピアン・ジャズの哀愁の入り口となった作品である。映画が辛辣なだけに、にわかサックス吹きとぎこちない西欧被れがオーバーラップして独特のテイストが感じられる。


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「ケルン・コンサート」(1975年)
キース・ジャレット
ECM/UCCU5003

ケルンのオペラハウスで行われたピアノソロ・インプロヴィゼーション。延々と76分に渡り繰り広げられた演奏は、リハーサルをせずにケルンの街を歩きながら長い思索の後に一気に画かれたもの。身を切るような切なさと希望の光を求めようとする祈りに似た展開がいとおしい。ヨーロピアン・ジャズ録音でも画期的なECMトーンを明確に打ち出した名盤。


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「想いのままに…」(1962年)
ステファン・グラッペリ
アトランティック・レコーディング/AMCY-1150

ジャンゴ・ラインハルトのスタイルをパリのジャズメンと共に吹き込んだ録音。この人は大変長生きで、1990年にも日本に来日して美音を響かしてくれた。ジャンゴは当の昔に死んでいて、10年置きにこのような企画で呼ばれて録音するが、あまり嫌な顔をせず楽しんでいる感じがする。メロウなジャズ・ヴァイオリンの第一人者による、壮年期の円熟した演奏が聴ける点でも貴重な盤だ。アトランティック盤だが、音はフィリップスのような暖色系。


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「三文オペラ(抜粋)」(1930年)
ルイス・ルス・バンド、ロッテ・レーニャ他、オリジナル・キャスト
TELDEC/9031-72025-2

ヴァイマール共和国時代にブレヒト/ヴァイルの放った当時の問題作。ジャズ・イディオムでギャングと市民を巻き込み商業主義を皮肉った左翼思想のため、ナチスにより退廃芸術の烙印を押された。しかしこの情況が今のヨーロッパの危険な香りと同種のものだと判るのにそれほど時間は掛からない。若いロッテ・レーニャは蓮っ葉で向こう見ずなティーン世代の象徴を演じきっており、デビュー当時は非難囂々でこき下ろしのターゲットになった。スウィング、タンゴ、バラードなどがスナップ写真のように切り取られており、都会的で怪しげなものが全てジャズだった当時のジャズ感の典型が聴ける。


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【未完成のパズル】

 EUで統合されたヨーロッパといっても、実は多民族の寄合いで、そのテイストは巨大なエニグマ(謎)に満ちている。ヨーロピアン・ジャズをひときわ面白くしているのは、この多民族の対話というステージである。そのプレイに秘められたテイストは人生の流儀そのものを反映しており、それをアンサンブルで統合するのは知的なパズルに似ている。それがほぐれたとき、個人の力量を超えたところの愛情が芽生えてくるから不思議である。

 こうしたパズルを解く前に、フランス映画のヌーベル・ヴァーグが行ったジャズ的手法が忘れられない。最初は難解に思えた映画も、日常のハプニングを切り取っていくといつしかメモリアルな映画となってしまうことに、なんとなく感動したものだ。とはいっても、よく判ったというより体験したという類のものである。そのハプニングひとつひとつの映像が耽美的表現に満ちており、一場面一場面が走馬燈のように焼付けられていくのだ。それはスチール写真で全編が構成されたSF短編映画「ラ・ジュテ」で美しい最後を遂げるのだが。ハードバップから影響を受けたようなヌーヴェル・バーグだが、ヨーロピアン・ジャズはハプニングが水晶玉のように転げ落ちる瞬間を追求しているように思う。

 実はヨーロッパのジャズプレイヤーは、アメリカのそれに比べて音数が少ない。それを平凡とみるか、洗練とみるかで大きく印象が異なる。たしかにフランスのプレイヤーには洗練という言葉がよく似合う。先の先を読んだスタイリッシュな構築性まで魅せてくれる場面が多い。しかしもっとややこしいのが、北欧圏や東欧圏のプレイヤーの渋い印象である。プレイヤーが音数を制限することで、一音一音の意味を凝縮した感じに聞こえてくれば、ある種のもやもやが晴れた情況になる。つまり何を鳴らしたかではなく、何を弾かずに我慢したかの引き算が判らないと、ただ朴訥とした音楽が延々と続くだけである。それだけに聴き手に強い参加意識がないと困難な作品に度々出合うことになるのだ。それをジャズの閉塞と混迷と受け止めるか、混迷のなかから生まれた予定調和とみるかで、意見を真っ二つに分断する要素が残されていく。腕の無いミロのビーナス、2楽章で終わったシューベルトの交響曲、いつ終わったのか判らないサガンの小説、冗舌になる一歩手前で存在する美の追究は留まることがない。


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「黒猫の歩み」(2002年)
アヌアル・ブラヒム
ECM/UCCE-1027

どうしてこのCDを買ったのか全く憶えてない。多分ジャケ買いして後悔したので記憶からわざと抹消してしまったのかもしれない。内容はチェニジアのウード奏者と、フランス人のピアノ+ミュゼットという風変わりなコラボレーションである。4分音を含むウード特有の音調を頼りに、静謐な音楽がただひたすら流れていく。ECMの迷プロデューサー マンフレート・アイヒャー好みの音楽の最前線にあり、商業主義が全く付け入る隙の無い世界が収められる瞬間に感じる、この人のニヤリとしたユーモアはいつもながらブラックだ。ジャズがモードによる対話を楽しむ音楽だとすると、この演奏は崩壊ギリギリのモードが内省的に展開される彼岸の音楽だといえる。その生命が途絶える瞬間を録ろうと必死にマイクを構えているようなのがブラックと思える最大の要因である。やがてピアノの和音のうねりにまで耳を寄せると、深海に漂う夜光虫のような生命の営みに気付かされる。

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「Cosiderations」(2001年)
Jean-Philippe Viret、Edouard Ferlet、Antonie Banville
Sketch(澤野工房)/SKE333016

フランスのピアノトリオ作品だが、その建築にも似た構成力に驚かされる。ミニマルな打音の連なりから和音の壁に展開する手際はなかなかのもの。トリオ・ジャズの新世代を告げる非常にクレバーな演奏である。スタイッシュなスプラインで彩られたジャケも美しい。


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「スタンダーズ」(2001年)
トータス
Thrill Jockey/TKCB-72059

なんだアメリカじゃん?なんて言わないでほしい。トータスはProtoolを駆使したハードディスク編集を取り入れたプログレ・バンドで、シカゴ音響派なる抽象的かつ構成主義的なサウンドを繰り出すことで知られる。だがこのCDの演奏で展開されるリリシズムにあふれたエレガントなプレイは、タイトル名にあるとおりモードへの回帰を謳ったものだ。

ジャスパー・ジョーンズ風のジャケが物語るように、彼らの時代のアメリカ的風景は既に様々な人の意見で装飾し尽くされた人口的なモノであり、音楽のスタンダードもまた単純なキー進行で言い表すことができる人工物である。そのルールにあえて巻かれようとしたのが、面白い効果を生みだしている。つまりスタンダードの要素だけを取り出してコンピュータ上で再構成された製品がこれなのだ。アメリカ的なミュージック・シーンからの決別を精神的に成し遂げた彼らの自負は、ヨーロッパ人以上にスノッブでエレガントに響く。


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「ムース・オウ・ショコラ」(2000年)
ベント・エゲルブラダ・トリオ
Berndt Egerblidt Purodaction(澤野工房)/AS017

スウェーデンのジャズピアニストによる晩年のリーダー作。とてもアットホームな北欧ジャズだ。それほど大袈裟に打鍵を叩かずにクールに収めていく演奏は、この人のリリシズムの現われで、心地よいベルベッドの毛布に包まれるような感覚に誘われる。ソフトタッチながら不動の信念が伺えるインタープレイが見事。プロダクションが個人名義なのは澤野工房の自主録音で、著作権をプレイヤーに全面付与したからと思われる。この馴れ合いのような雰囲気が独特のテイストを生み出した録音でもある。


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「ロゴス」(1982年)
タンジェリン・ドリーム
Virgin/7243 8 39445 2 1

ドイツが生んだ純シンセサイザー・バンドのロンドン公演。46分に渡る演奏は基本的にプログレだろうが、リーダーのエドガー・フローゼは元はフリージャズの演奏者なので、その進化形とみて差し支えないだろう。いや、そう聴くべきなのだ。リズムセッションはシーケンサー、それに3人の奏者がサウンドを吹き込んでいくスタイル。そのサウンドをキース・ジャレットのソロ・コンサートと聴き比べれば判るだろう。ふたつは同じ精神のうちに宿った双子なのである。翌年にフランクフルトで行った映画監督ライナー・ヴェルナー・ファスビンダー追悼公演では、同じモチーフを使った違うバージョンが聴ける。この録音もステージ上で曲想を練るキーボーディストたちのの長い道のりに立つひとつの哩標石であったことが判る。


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「ジャズ・セバスチャン・バッハ」(1963、1968年)
スイングルシンガーズ
フィリップス/POCF-1033、POCF-1034

正確無比でクールな感触のアカペラ・スキャット。そこからパリの男女の群像が浮き上がる。1963年のレモンスカッシュのように爽やかな初録音から、1968年の枯葉を踏みしめるような冷めた表情の対比も面白い。人によっては前者の希望に溢れた歌唱が好きだろうが、私は断然後者のほうが好きである。スキのない男女がクールな仮面を被りながら恋の鞘当てをするのはスリリングでさえある。モンドリアン風の抽象絵画のジャケも美麗。

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【ラテン・コロニアルという罠】

 実はジャズのうえでラテン系のテイストは個人的に凄く好きである。カフェといえばボッサという印象さえある。このラテン・テイストはスペイン・ポルトガルの植民地文化で、逆にジャズの源流はイギリスの植民地文化である。最近になってモード変奏の取り扱いは、スコッチ・アイリッシュ移民の讃美歌に源流をもつという説が出ているが、こうした文化的なミクスチャーを乗り越えていくパワーがジャズの足場であるように思う。その意味ではラテン音楽もジャズも同じコロニアル・ミュージックなのだ。


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「コン・アルマ」(2003年)
チャノ・ドミンゲス・トリオ
ヴィーナスレコード/TKCV-35328

スペイン出身のチャノ・ドミンゲスの初リーダー作。既にいくつかのフラメンコ・ジャズのプロジェクトで脇を固めていたが、日本のヴィーナスレコードが正面から取り上げることになったのが本作。初っ端からラテンテイストが爆裂するのが聞き所で、最初の掴みが最高なら、その後のスタンダードに行ってもそのまますんなりと聴いてしまう。本来は鋭いリズム感覚で全体に無駄のない職人的な手応えをもつピアニストだが、他の2人がラテン・アレンジでやる気満々のようで抑えるのが大変そうだ。


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「タンゴ・ゼロアワー」(1986年)
アストル・ピアソラ
クラーヴェ/WPCS5100

ジャンルとしてはタンゴだがジャズ・ファンには是非聴いてもらいたい代物。全編が緊張感みなぎる演奏で、「天使のミロンガ」の優しくそして危険な香りは、十分にアヴァンギャルドなジャズのエッセンスに満ちている。ここではセンティメンタルという言葉が記号として飛び交う都会の空虚さも表現されていて、演奏者のパッションとそれを吸い取ってしまう都会の冷気とが常に交錯するスリリングさがある。ニューヨークに突然現われて地雷を置いてったような最高傑作。


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「イパネマの娘」(1963年)
アントニオ・カルロス・ジョビン
ヴァーヴ/UCGU7038

ボッサ・ノヴァ元年を飾ったジョビンの秀作。Withストリングスの伝統をもつヴァーヴが放った金字塔でもある。ジョビンの天性の飄々としたピアノが、かえって爽やかな風を運んでくれて全く無駄がない。以後、ジャズのボッサの関係はずっと蜜月が続いている。

http://quwa.fc2web.com/Audio-07.htm#memory
http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/445.html

[近代史3] 哀愁のヨーロピアン・ジャズ 中川隆
1. 中川隆[-10356] koaQ7Jey 2019年5月18日 23:03:58 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[1968]

Köln January 24, 1975 - YouTube 動画
https://www.youtube.com/results?search_query=K%C3%B6ln+January+24%2C+1975&sp=mAEB


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【ジャズ再生の裏路地】


 ここでは私の試聴システムを紹介します。


1)機器のラインナップ


なぜかサッカー中継
なにせヨーロピア〜ン♪ですから



-私の試聴システム-

CDT CEC TL51X(相島技研改造)
DAC CEC DX51 mk.II
SAGE音響 STI-1227
DJミキサー RANE MP2016
イコライザー ORAM HD-Def35
パワーアンプ Boulder 250AE
スピーカー 富士通テン TD51


 ジャズに興味を持ったもうひとつの切っ掛けは、私の所有している富士通テンのスピーカー愛用者にジャズ奏者が意外に多かったことです。マイケル・ブレッカー氏や木住野佳子さん、あとドラマーも数人いたかと思います。あと澤野工房の社長さんも。おまけでもらったTDサンプラーCDもなぜかジャズのオムニバスでした。私のシステム全体もやはりスピーカーの持ち味を生かすように編成されているので、自然とそういう感じになっていたのかもしれません。

 CDはCEC社のお家芸であるベルト・ドライヴ方式のトランスポートを、相島技研さんがクロック交換や基盤の制振処理などしたチューンナップ品。音調は柔らかいのに音の立ち上がりが鋭いという不思議なバランスのCDプレイヤーです。
 DACは2種類ありますが、CECはナチュラルでクール、SAGE音響は真空管式で表情がホットな感じです。

 DJミキサーはどちらかというと真空管のようなウォームなトーンで、かつマッシヴな吹き上がり感がありクラブDJに人気があるもの。

 イコライザーはスピーカーの音調を整えるもので、録音スタジオで使う精度の良いものです。位相歪みや音質劣化が少ないストレートな音がします。

 アンプはアメリカのスタジオ用で、中音域が太くてタイトな立ち上がりのするアンプです。

 スピーカーはフルレンジなので再生レンジは狭いものの、高域がナチュラルで100Hz〜5kHzの帯域で出音のタイミングがピッタリ合ってる。デザイン的には70年代のスペース・エイジを意識していて、とても変っています。

 このなかでヨーロッパ製の機器は無味着色のイコライザーのみ。他は外掘から和製、アメリカンと攻めている。これもそれなりに意味があるようで、入口と出口を日本製の清楚で生真面目な音で締めて、アメリカ製のミキサーとパワーアンプで内なるエモーションを演出し、イギリス製のイコライザーで音調の味付けを行う感じです。このような機材で奏でるヨーロピアン・ジャズは、クールな表情からパッションを燻し出す感じで、プレイに秘められた表と裏を画く感じがします。このアウト・フォーカスな雰囲気が私はとても好きです。

2)音調をパステルトーンに

 ヨーロピアン・ジャズがアメリカンと違うトーンを明確に打ち出したのは、ドイツのECMというレーベルが出した「ケルン・コンサート」(1975)からだと言われます。

もちろん内容的にアメリカン・ジャズの亜流から独立したという意味もあるが、ここでは録音方式の問題に焦点を当てたいと思います。それはブルーノート・レーベルでジャズ・サウンドを完成させたルディ・ヴァン・ゲルダーの近接マイクとは異なる、遠目のマイク設置でホール感を一緒に収録するというものでした。

この録音が出始めた70年代中頃は、ちょうどジャズそのものが衰退期にあり、黒人ミュージシャンの多くがファンクやソウルに活路を見出していた矢先のことで、当時は録音の存在そのものを巡ってジャズ演奏論の是非が議論されたそうです。ちょうどビル・エヴァンス以降のインタープレイが成熟し、ジャズが個人のスタンドプレーからトリオによるアンサンブルの妙技を聴かせる時代のことで、録音方式もアンサンブル全体を客観視することで演奏の質を味わおうとしていたと思われます。録音としてもモノラルのように凝縮した音から、ステレオによる自然なサウンド・ステージがマルチマイクで構築できるようになった時代です。こうしてヨーロピアン・ジャズは淡いパステルトーンのスケッチのようなものになり、プレイそのものの繊細さを拾いだす能力とサウンド・ステージの描きだしの客観性を必要とします。問答無用に押し迫るジャズ的な録音と少し距離を置くようになったというべきでしょう。

 しかし録音で使われたマイクは、ヨーロピアン・ジャズでもアメリカと変わりなく、ほぼ例外なくノイマン社の大型ダイヤフラムのコンデンサー・マイクが用いられていました(A図)。もちろんこれが全てのヨーロピアン・サウンドの源流です。このマイクはほぼフラットな特性のなかに中高域に幾分の輝きのあるキャラクターをもたせてありますが、これは精度の良い金属箔を用いたダイヤフラムを2way化することによって高域を持ち上げているからで、深く伸びた低音と明瞭な高域が得られ、大型ダイヤフラムだけがもつ、2kHzにあるリッチな艶はアナログテイストの代名詞として今も愛されています。一方で、低域の回り込みによるブーミーな膨れあがりや、中高域でのカサカサした音などを過敏に拾う癖もありました。

 この他に使われたマイクは、高域により繊細な輝きのあるAKG社、タイトな打楽器の音圧に強いセンハイザー社、ラテン系の打楽器に暖かみのあるベイヤーダイナミック社のマイクが使われたりしていますが、ベイヤーダイナミックス社以外はノイマン型の特性をもっています。いわばノイマン社の音調は古典落語のようなもので、この辺がスタンダード・ジャズと通じるところです。

 こうしたドイツ製マイクの特性を考慮してニュートラルな音調に整えるには、以下の方法が有効です。ひとつは実際の収録音圧と再生音圧の差分を補うためにラウドネス補正を掛けること、ふたつめはコンデンサー・マイクの近接効果をキャンセルして音調をスマートに収めることです。初期のHi−FiはB図のように音圧差のみを補正したカーブを使っていました。これに距離の差を加えてマイクに特徴的な近接効果(中低音が膨れあがる現象)を補正して聴感上フラットにしたのがC図です。(このことに関する仔細なデータはAES研究部会のBruce Bartlett氏の論文参照) 

 C図から判ることは、一般にフラットなままの特性ではプレゼンスが強すぎて中高域がうるさく、逆に8kHz以上のアンビエンス成分が薄く感じられ音がくぐもることが判ります。実はヨーロッパ・トーンの最後の仕上げは、中高域の抑えた表情と高域の空気感にあり、両者のバランスが生命を分けるところがあります。B図のようにアメリカが中高域に強いアクセントがあるのとは反対ですが、これを逆手にとってステレオ初期のエラートやフィリップスは高域をブーストした(位相が反転するくらい)ブリリアントな録音が残されています。この方法で調整すると、柔らかさと天上の抜けの良さの両立が感じられ、アンサンブルの綾は絶妙になります。ヨーロピアン・ジャズの哀愁という色合いをさらにノスタルジックなパステル調にするのに、このノーマライズされた音調がどうしても必要です。


 ノイマン社製コンデンサー・マイクの正面特性
若干高域に癖がある



等感度曲線の110dB→80dB差分の補正カーブ
これはリボンマイクの時代に多いアメリカン・サウンド


http://quwa.fc2web.com/Audio-07.htm#memory


ノイマン社製マイクの近接効果と
ラウドネス補正を考慮したカーブ



周波数 <80Hz 200Hz 800Hz 3.5kHz 6kHz >9kHz
  +0dB +2dB +1dB −4dB −3dB −2dB

私の聴感で決めたイコライザー補正例
 (100Hz以下の減衰はTD512の特性による)


3)ジャズ再生の王道の逆手を取る

 一般にジャズ再生の王道は生音の迫力を伝えることにあるので、イコライザー処理を加えずに録音し、上のB図のような音調で再生するのがベストです。JBLのD130とアルテック802Cとの組合せはそうしたサウンドの妙味を知らしめてくれました。しかしこれは同じ近接録音と近接試聴という関係で、音圧だけの違いで聴いているときに成り立つものです。もちろん機器と録音の時代の整合性が合うということもあるかもしれません。

 一方でヨーロピアン・ジャズの場合は、これに距離の違いが加わってきます。つまり近接マイクで録った音を少し離れて鳥瞰するという行為が生じるので、C図のような補正カーブになるのです。これは単純にはクラシック録音と同じです。

 最近はジャズの鋭角的なエッセンスを強化するアイテムは沢山あります。例えば高域の位相補正をして、パルス性の立ち上がりを鋭くしようとする機器があります。Aphexのオーラルエキサイター、BBEのソニックマキシマイザーなどです。あるいはコーン型に比べトランジェットの早いホーン型のツイーターを選ぶのもひとつの方法です。

 逆にヨーロピアン・ジャズの場合は、アンサンブルの綾を明確に出すためにトランジェットの要求されるのは中域のほうで、高域は残響に包まれたアンビエンス成分として拡散されます。高域のトランジェットが早くても、本来のクリアネスは保持できず残響の渦に呑み込まれるのです。それがヨーロピアンと思われる一方で、ジャズ的なエモーションの聴き取りにくくなる原因にもなります。これはこれで意味のあることですが、ここは裏路地に入ってみたわけです。

 ヨーロッパ製のスピーカーでも、最近のDynaudio、ATC、PMCなどはミッドレンジの開発から始まったメーカーで、3wayともなるとかなり通好みのものになりますが、こういうゴマカシの効かないところでのトランジェットの保証が卓越しています。私の場合は富士通テンTD512ですが、かなりコスト的な理由と折衷主義でこうなったという感じです。しかしツボを押さえてるものはあると思いまして、その辺が脱Hi-Fiの妙味ともいえます。

 あとDACをCEC(オペアンプ)からSAGE音響(真空管)に変えただけでも、ジャズ本流の熱血漢の湯気がメラメラと増えていくのが判ります。真空管は帯域毎の音調の変化が古典的で、中低域がファット、中高域が艶々、高域はサラサラという感じです。これは好みなのでしょうが、ヨーロッパのプレイヤーには必死な感じが似合わないように感じてます。つまりクールなオペアンプが良いのです。

 話は飛びますが、最近のジャズ・レーベルで最も元気のあるのは日本であり、澤野工房、ヴィーナスレコードなど、日本のジャズファンに応えてCD吹込みを行うジャズ・レーベルも少なくありません。それも演奏としては新規性はなくても、長年クラブ出演で磨いてきた熟年のジャズメンが日本でリコメンドされて、欧米で人気が出るという現象まで起きています。ここ10年の間に日本のジャズ・ミュージシャンも、つとに世界で活躍するようになりました。そういう意味でも日本にマスターテープが残る確率も高くなり、日本のオーディオの質を高めていくのではないかと期待しています。新鮮なマスターテープでプレスされるCDは、エンドユーザーに音楽の活力を伝えてくれる最も有効な手段です。

 紹介したCDはあえて新しい順番から並べました。これは普通のジャズ・ファンが辿る歴史を語るためのものではなく、常にジャズが今という時代あってのものと思ってのことです。新しい物好きというより、自分の生きている時間とへその尾がつながったものから関わるのがジャズとして健全と思えます。

http://quwa.fc2web.com/Audio-07.htm#memory
http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/445.html#c1

[近代史3] 哀愁のヨーロピアン・ジャズ 中川隆
2. 中川隆[-10355] koaQ7Jey 2019年5月18日 23:05:54 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[1969]

ジャズを聴くなら JBL よりパルメコの方が遥かに上

ロンドンウェスタン直系BBC放送局用パルメコ・スピーカー


生演奏みたいなジャズ PARMEKO (パルメコ)LS/1で聴く - YouTube 動画
https://www.youtube.com/watch?v=hTw4Q4KA2EY

PARMEKO (パルメコ)LS/1 - YouTube 動画
https://www.youtube.com/results?search_query=PARMEKO++LS%2F1&sp=mAEB

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オレのガマンもこれまでだ「身の丈再生音って、ナニ?」の巻

オーディオシステムの再生音は使用する人の可聴帯域に則ったものであるべきだと、気付かせてくれたのは友人のお店で聴いたパルメコのスピーカーでした。 

1950年代に英国BBCの検聴用として用いられたもので、その再生音は全帯域に亘ってフラットでありながら、その音の内側に入れば信号に含まれたあらゆる音を聴き分けることが出来るのです。 その音を、全て聴き分ける事の出来る人がどれだけいるのか。 若く、恐ろしく耳の良い人でなければ、このパルメコの再生音の真の力を聴きとることは困難であり、音楽な暖かさとか、そういうものは期待するほうが野暮という完全プなロ仕様です。 

高価でもありますが、正直いって聴覚的に無理が伴います。 私自身の耳は全くついて行けず、ただ聴くしかありませんでした。 

その音は嘗ての JBL4350、4343等と似ていますが、それよりずっと上質で、JBL のスピーカーが時々聴かせる無機質感は微塵もなく、人間的な響きと格調高く涼やかな音です。 

IMG_0161真のモニタースピーカーの再生レンジは、聴覚能力の高い人が使ってこそ、真価が生かされる事にも気付かせてくれました。 検聴用のスタジオモータースピーカーを使っているユーザーで、実際に最低音域と最高音域を聴きとる事が出来るのは本当にわずかな人にすぎないと思います。 個人の聴覚レベルに合っていれば身の丈再生音こそ大切で、欲張りは避けるべきでしょう。 以上T氏
http://blog.livedoor.jp/thorens/archives/51620721.html

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サウンドポイント55 
http://www.geocities.jp/soundpoint55/newpage3.html


パルメコ 38cm同軸2WAY LS−1     

2ペアー在庫  写真1,2,3 ¥63万

 
(初代BBCモニター、WE系の特注品と思われる構造です。ドライバーは713か?)
 
(残念ながらコーン紙に破れ補修が御座いますが音質には問題御座いません。)
 
(超ヘビー級のユニットでコーン紙はジェンセンより遥かにパンパン、ロレンツのツイーターを付けて3WAYにしてBBCで使われました。あのアビーロードスタジオ、アメリカのバンガードのスタジオでも採用されてました。)


ビンテージの中でも最高に位置するユニット群です。
アルテック、JBL、TANNOYに愛想をつかした方御試聴ください。  
http://www.geocities.jp/soundpoint55/newpage3.html

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 米国がウェスタンエレクトリックなら英国はロンドンウェストレックス、ドイツはクラングフィルムになります。

一口に云ってロンドンウェストレックス(ロンドンウェスタン)はアメリカのウェスタンエレクトリックとは多少異なります。初期のロンドンウェスタンはアメリカ本国よりシステムを持ちこんでスタートでしたが英国の国策として海外からの輸入に制限を設けたためこのシアターシステムも対象になりロンドンウェスタンのシステムは自国での設計生産になったと思われる。

 

ロンドンウェスタン直系スピーカー

 初期のロンドンウェスタンは多分米国ウェスタンの改良型を使用したシステムでしたが私の憶測と情報ではその後ウェスタンエレクトリックからのシステムの供給はやめてイギリス本国での製品開発が行われたと推測されます。英国はアメリカと違って大変保守的なお国柄で海外から輸入するよりも自国で開発して販売する方法を取っていた、

 日本や米国と違ってロンドンウェスタンの立ち上げに当たってイギリス国内のスピーカーメーカーの第一線級のエンジニアが集まってロンドンウェスタンをスタートさせたと思われる。

当時のスピーカーメーカーと云えばシアター専門のヴァイタボックス、民生用のグッドマン、ローラ、タンノイ、パルメコ等メーカーのエンジニアが共同開発に当たったのではないだろうか、この辺が米国のメーカーや日本のメーカーとは事情が異なる。

 開発終了に伴い英国本土のすべてのシアターに供給するには生産量が問題になってくる。当時はヴァイタボックス社やタンノイ社では絶対数の生産ラインの供給システムがまだ確立されていなかった、

 当時のスピーカーメーカーではグッドマン社が大掛かりな生産ラインを有していたから多分ユニットはグッドマン社が中心となって製造していたのではないだろうか、

 当時の技術集団が開発した初期モデル(1950年代)のスピーカーユニットはすべてロンドンウェスタン直系のスピーカーになるので音質音色は同じである。またロンドンウェスタンのシステムには低域用にグッドマン、高域用はタンノイ、ケリー、ヴァイタボックスなどでの組み合わせによる混成システムが多かったのでは、

 実際ロンドンウェスタンの2080,2090Aのシステムとパルメコ、私が所有しているユニット等は音質や音色は良く似ており私が聴かさせて頂いた三上先生宅のロンドンウェスタンと瓜二つの音に安堵感を覚えた、

 また米国のウェスタンエレクトリックはすべて業務用でしか販売されなかったがロンドンウェスタンは家庭用のシステムも販売されていたがほとんど日本には入って来なかったからロンドンウェスタンを含めてロンドンウェスタン直系のスピーカーは幻のユニットと云える。

 ロンドンウェスタンのスピーカーのサウンドは皆さんご存知のアルテック、JBL、タンノイ等のスピーカーと比較してまったく異なる音質、音色を持っているのがロンドンウェスタンの特徴でもある。私も沢山の英国ヴィンテージユニットを聴いてきたが今回手に入れたロンドンウェスタン直系のユニットはこれらの音とは違っていた、

 ロンドンウェスタンのパルメコは初代BBC放送局のモニタースピーカーに採用されていたが有名なアルテックの604Eと外観的に非常によく似ているが音質音色は全く違う、

パルメコはもっと浸透力があり音味は大変美味しいエレガントな音ですがアルテックの604Eは残念ながら上手く調教された音を一度も聴いた経験がありませんので比較するのは無理かも知れません。

 またアルテックやJBLなどアメリカのスピーカーはジャズ向きと云われているがスピーカー開発者にとってこれはジャズ向きこれはクラシック向きとして設計はしていないはずですからやはり鳴らし方に問題がありそう、私の個人的な意見としてジャズが鳴ればクラシックも必ず鳴るはず、クラシックが上手く鳴らないのならジャズも鳴らない、ジャズが本当に上手く鳴れば大人のジャズサウンドになるはずだ、
https://www.kit-ya.jp/etc/club/audio/y-027

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パルメコスピーカーはBBC放送局の検聴用に使用されたスピーカーで製作本数は数百本しか作られなかったと云われる数の少ない幻のユニットになる。ほとんどの方は音も勿論だがパルメコスピーカーの存在すら知らない方が多いのではないだろうか、ウェスタン系をやっている方やオーディオを長くやっている方はパルメコスピーカーを知っているはずだがこのユニットは巷には出てこないのでほとんど聴く機会は少ないと思う、

 私が知る限りでは名古屋では西山氏、関西では今田氏と今回ご紹介する笹本氏の三人がこのユニットを所有していますが全国を探せばまだ使っている方は沢山いると思う、

 本来このスピーカーにロレンツのツィーターとリークのアンプを内蔵したシステムでBBC放送局に納入されていたらしい、パルメコスピーカーは写真でもおわかりですがコアキシャルタイプですが外観はアルテック604Eのホーン部分が大変似ておりますが振動板はウェスタンと同じものを使用しています。

 このユニットのホーン部分の形状が似ているのは皆さんご存知のアルテック604Eですが音味はまったく異なります。604Eは上手く鳴らされていない方が多いので残念ながら比較はできません。アルテックの604Eは38cmのコアキシャルですがパルメコはもう一回り大きい40cmのコアキシャルになります。

またマグネットは強力なアルニコマグネットを使いクロスオーバーは多分1KHZぐらいと思われる。このパルメコのエンジニアもロンドン・ウェストレックスの開発に協力したと思われそのサウンドは本家のロンドンウェスタンと瓜二つの音色、音質を持っている。
https://www.kit-ya.jp/etc/club/audio/y-030

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オーディオのパラレルワールド

パラレルワールドとは今の世界と平行したもう一つの世界をパラレルワールドと云います。

オーディオで云うならば皆さんが使っているアルテック、タンノイ、JBLや現代の代表的なスピーカーは一般的な(A)の世界の音ですが(B)の世界はこのようなスピーカーとは隔絶したもう一つの世界の音である。

 私が聴いた限り上手く鳴らされていたウェスタンエレクトリックのカールホーンを使ったホーンシステム、オイロダインやロンドンウェスタン及び直系の音こそ現代のサウンドとは異なる次元の違う(B)の世界と云えよう、


現代のシステムは駄目とは云わないが(B)の世界の音を聴くとオーディオ観も音楽観も変わるような気がする。


正面に鎮座しているWE−15Bホーンで聴くチェロは現代のサウンドとは全く異なるこれこそパラレルワールドのサウンドであった、


正面に設置してあるのが有名なシーメンスオイロダインシステム、このサウンドもWEやロンドンウェスタンとは少し系統が違うが見事なサウンドを聴かせて頂いた、


ロンドンウェスタン2080A、2090A

 最後に拝聴させて頂いたのは幻のスピーカーシステムでロンドンウェスタンだ、

このロンドンウェスタンの音は言葉では云えない一種独特のサウンドで現代の一般的なHiFiサウンドとは異なりこれこそパラレルワールドの音だ、

 ヴァイオリンの響きは電気臭くない木の香りすら漂ってくるのがわかる。

オーディオを追求していくと最後はこの音に魅了されるのは私だけではないはず、    
このロンドンウェスタンのサウンドを聴くと現代のHiFiサウンドは申し訳ないが長く聴いていると時間の経過と共につまらなくなり飽きが来てしまうがロンドンウェスタン系はオーディオマニア、音楽マニアを引き付ける魅力たっぷりのスピーカーと云えよう、

ただこのような音を出すには相当レベルの高いアンプと高度なテクニックと肥えた耳を持っていないと上手く鳴らないのではないか、

 ヴィンテージショップなどでウェスタンやその他ヴィンテージスピーカーを鳴らして店主は能書きばかりでまともに良い音で鳴っていないのが多いのと

すべてヴィンテージスピーカーだからパラレルワールドのサウンドと思ったら大間違いである。

やはりマニア宅で上手く鳴らされているのを聴くのがベスト、「百聞は一聴にしかず!」

 確かにオーディオは進歩しているが最終的に判断するのは聴く人の感性と鳴らし方ではなかろうか、またパラレルワールドのサウンドは装置を忘れてじっくりと音楽が聴ける。
https://www.kit-ya.jp/etc/club/audio/y-028

http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/445.html#c2

[近代史3] 哀愁のヨーロピアン・ジャズ 中川隆
3. 中川隆[-10354] koaQ7Jey 2019年5月18日 23:25:33 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[1970]

ヨーロピアン・ジャズを鳴らすアンプはアメリカ製ではなくスイス製やフランス製がいいですね:

FM ACOUSTICS  FM801 比較試聴 2011/2/6
https://blogs.yahoo.co.jp/supt11g/7572357.html

ヨーロッパ系ジャズなんかをおしゃれに楽しく再生するには最高なのではないかと感じました。TADでこの手のおしゃれなジャズを聴く人にはおススメのアンプです。

音が柔らかくて美音、いわゆる艶のある音がする
中高域は出来の良い真空管アンプのような感じ。
だが真空管アンプにありがちな解像度の低下や低域のふくらみを感じない。


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昨日、ここのところ仕事が忙しくてご無沙汰していたGTサウンドに久しぶりに顔を出しました。そこでちらほら店内を見ていると珍しいアンプを発見です。

それはFM ACOUSTICS(以下FM)のFM801でちょうど修理が完了したものでした。


https://blogs.yahoo.co.jp/supt11g/GALLERY/show_image.html?id=7572357&no=0


このアンプはFMの業務用だそうでコンシューマーのFM711と同等の能力だそうです。有名どころでは稲毛のキャンディにも置いてあるようですね。

私もFMのアンプは世間での評判や訪問宅で聴いたことがありますが、実際にじっくり聴きくらべはしたことがありませんでした。「お願〜い、聴かせて〜ん」と甘えさせてもらい、ゆっくり比較試聴をさせてもらいました。

比較するパワーはアキュフェーズのM-6000,プリはC-3800といういつものラインナップです。

簡潔にM-6000と比べると

利点

音が柔らかくて美音、いわゆる艶のある音がする(使用者によると通電してから2時間までは落ち着かないらしい)。

中高域は出来の良い真空管アンプのような感じ。
だが真空管アンプにありがちな解像度の低下や低域のふくらみを感じない。

個人的には高録音のヨーロッパ系ジャズなんかをおしゃれに楽しく再生するには最高なのではないかと感じました。


https://blogs.yahoo.co.jp/supt11g/GALLERY/show_image.html?id=7572357&no=1


TADでこの手のおしゃれなジャズを聴く人にはおススメのアンプです。


欠点

まずファンがかなりうるさいです。
またそれなりの味付けを感じるので、長期間使っているうちに鼻につくかもしれません。

音的には事前の世間の評価そのままという感じです。

ぱっと聴くと美音なのでお!っと魅かれるのですが、どうもそのお上品さ加減が気に障るというか音の本質をごまかしているような感じも無くはないです。

ですがこれが大好きという人の気持ちもわかる音色ではあります。


さて一通り試聴を終えた後はかつて代理店であったGT店主のオーディオ歴史話(FM暗黒史)がはじまったのですが、問題ありすぎてここでは書けません(笑う   

残念!!!


https://blogs.yahoo.co.jp/supt11g/GALLERY/show_image.html?id=7572357&no=2

貴重な801のパンフレットまでもらっちゃいました。


結論としては、音以外の全てに問題ありすぎるメーカーなので個人的には全く使う気は起こりませんが、TADやレイオーディオのユーザーでパトロン気質がある大金持ちの人にはおススメです。

さすがかつて推奨アンプに選ばれただけのことはありますよ。

コメント(6)


>ありがちな解像度の低下や低域のふくらみを感じない


本論から外れますがこれを気がつかない人が意外に多くいることに驚きます
2011/2/6(日) 午後 10:10 flattwin

そうですね、人によって注意が行くところはずいぶん違うときがあるようです。
2011/2/6(日) 午後 11:53 [ しんた ]


私は Resolution Series を使ってるのですが、FM の音は好みで別れると思います。
Resolution Series はパワーを生かすにはFMのプリを使うと本来の音が聴けるでしょう。

価格が高いのと修理代が高いので一般には薦められませんが、はまると病みつきです。
2011/2/8(火) 午前 0:08 [ 大佐 ]

Syuさん、こんにちは。私もFMの音は素晴らしいな〜と思いました。
ただ値段とアフターが厳しすぎますね。

私は基本ずぼらなのでメンドクサイもの、不安定なものは選択しないんですよ。
趣味としてはFMのアンプも十分ありだとは思うんですけど…
2011/2/8(火) 午前 10:30 [ しんた ]
https://blogs.yahoo.co.jp/supt11g/7572357.html


FM ACOUSTICS の詳細は

ボッタクリ アンプ _ FM Acoustics の世界
http://www.asyura2.com/09/revival3/msg/754.html


http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/445.html#c3

[近代史3] 哀愁のヨーロピアン・ジャズ 中川隆
4. 中川隆[-10353] koaQ7Jey 2019年5月18日 23:29:32 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[1971]

ヨーロピアン・ジャズを鳴らすアンプはアメリカ製ではなくスイス製やフランス製がいいですね _ 2:


●FM Acoustics FM266 2005-12-27


 FM Acousticsは、今年2005年のインターナショナル・オーディオ・ショーでlumen white diamond lightとのセットでの実演を聴いた。甘ったるい音という印象だった。ディテールまで分析的に聴かなかったし、それがFM Acousticsの音なのかlumen whiteの音なのかも分からなかったが、とにかく甘ったるい音という強い印象を持った。思えば贅沢なセットであった。

 ヌルッとしたあま〜い音。この日の試聴も先入観が手伝ってか、第一印象は同じような音に聴こえた。そうかこの甘さはFM Acousticsの音だったのか、そう思った。何がどう甘いのかよく聴いてみる。

 まず、それぞれの音の出だしがエッジのないヌルッとした出かた、そしてそのままヌルヌルッと長く尾を引く。楽器にローションを塗ったかのようだ。音にアタック感がなく、切れが悪く、そのせいかテンポがゆっくりと聴こえる。まるで別アレンジの曲を聴いているような気になる。体の力が抜け、けだるくなるような音。寝る前に聴くにはいいかもしれないが、朝一番には聴きたくない音。

 しかし、しばらく聴いて慣れてくると、悪い印象は薄れ、なんとも艶やかに聴こえてきた。ヴァイオリンの弦の響きなどは、まるで光沢を放っているかのようにツヤツヤと美しく心地よい。コーラスの声も若々しく張りがありツルツルだ。だんだん聴き惚れてくる。

 ヌルヌル、ツヤツヤ、ツルツルといった印象だが、何かごまかしているということではなく、解像度もあり、微弱音の表現もしっかりしていて、密度が高い。

 場がにぎやかな感じがするのだが、Metronome PA1 Signatureと比較すると分かりやすいだろうか。PA1は、倍音成分の響きが多く、霧のように場全体を満たす。FMは主音に伴う倍音よりもむしろ残響音が長く尾を引く。霧のような感じではなく、いく筋もの水の流れがそこにあるよう。音と無音がはっきりとしてノイズフロアは低い。かえって分かりにくい比較かな?

 ここで頭に入れておきたいのは、マスタークロックOCXの設定が176.4kHzであることと、P-03がPCMをDSDにコンバートし、D-03にてDSDをDA変換している点だ。つまり、音が高密度になり、ツルツル感が倍増されていると考えられる。その分は割り引いて聴かないといけない、けどそんなこと難しいか。

 とにかくFMはハマると抜け出せなくなるような麻薬的な魅力、ということがよく分かった。自分はお金持ちじゃない、という意識をしっかり持っていれば大丈夫なハズだ!

 エキシビションのFM Acousticsにちょっと力が入ってしまったが、いよいよ本戦に望もう。

 その前にちょいと余談。最初、JM Lab Altoは久しぶりの音出しで、SPがまだ硬いとのことであった。確かにウーファーの動きが鈍いようで、低域の音がボワボワ。それを指摘すると、ちょっと待てとのことで、ベースを強調した曲を1曲、相当な大音量で再生し始めた。見ているとウーファーが2〜3cmほども動いている。すごい。こんな大音量、うちのマンションでは到底出せない。

 1曲終わった後試聴に戻ったが、驚くほど低域のスピードが速く軽やかに変わっていた。低域ばかりか高域も引っかかりが取れスムーズ。エイジングとか暖機運転とか大切なんだなぁ。新品のSPで早く音出しをしたいときは、指でエッジをマッサージすると効果があるなどと教えていただいた。へぇ〜。
http://hei30per.blog34.fc2.com/blog-entry-27.html

http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/445.html#c4

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