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中川隆 koaQ7Jey コメント履歴 No: 100295
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[近代史3] 癌は発酵黒ニンニクで治そう 中川隆
2. 中川隆[-10350] koaQ7Jey 2019年5月11日 16:31:47 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[1757]

ニンニクでアレルギー!? その症状と原因
https://mamamoru.com/allergy/%E3%83%8B%E3%83%B3%E3%83%8B%E3%82%AF%E3%82%A2%E3%83%AC%E3%83%AB%E3%82%AE%E3%83%BC/


 ニンニクといえば、免疫力を高める、殺菌作用があるなど、体に良いイメージを持つ方も多いのではないでしょうか。ですが、牛乳や卵ほど頻繁に見られるわけではありませんが、ニンニクでアレルギー症状を発症してしまう人もいます。

 パスタやステーキなどの主に西洋の料理には欠かせないニンニク。ニンニクアレルギーとはどのような症状なのか、また、原因は何なのか、ニンニクアレルギーと判断されたときの対策などをまとめてみました。

注意したい!ニンニクアレルギー

 ニンニクに含まれる成分「アリニン」は、酵素と反応すると「アリシン」という成分に変化します。このアリシンは、コレステロールを抑制する作用や抗がん作用、肝臓の細胞活性化、免疫力を高める作用、抗菌・殺菌作用などの優れた効果をたくさん持つ成分ですが、効果が強い分、刺激も強く、体質や体調によっては好ましくない影響を与えてしまうこともあります。

 例えば、ニンニクを摂取すると胃に痛みを感じたり、下痢や腹痛が起こったりすることもあります。少量では特に不快な症状を感じなくても、普段摂取する以上のニンニクを摂取すると、お腹が痛くなったり、頻繁にトイレに通うようになったりすることがあるかもしれません。また、体調が良くないときにニンニクを食べると、急に体がだるくなったり、お腹を刺すような痛みを覚えたりすることもあるでしょう。

ニンニクアレルギーの症状

 ニンニクアレルギーはどのような症状となって表れることがあるのでしょうか。代表的な症状として次のものを挙げることができます。

◾皮膚や粘膜の腫れ、かゆみ、じんましん
◾咳、くしゃみ、鼻水、喘息
◾腹痛、下痢、吐き気、嘔吐
◾頭痛
◾貧血、めまい


ニンニクアレルギーの原因は?

 では、なぜニンニクを摂取すると、かゆみや吐き気、腹痛、頭痛などのアレルギー反応が生じることがあるのでしょうか。

ニンニクから生成される成分「アリシン」

 ニンニクを代表する成分とも言えるアリニンから生成されるアリシンは、強い抗菌・殺菌作用を持ちます。特に、生のままのニンニクを食べると、体質やそのときの体調によっては、胃腸への刺激が強すぎて胃痛や腹痛、下痢などを引き起こすことがあります。また、痛みなどの反応が強すぎて、頭も痛いように感じることもあるでしょう。

 また、アリシンには血液をサラサラにする作用があります。そのため、動脈硬化の予防や血行促進の目的でニンニクを食べる人もいます。もちろん、動脈硬化予防や血行促進などの効果も期待できますが、血流を良くし過ぎることで血液中の赤血球に含まれるヘモグロビンの作用を減少させ、貧血を起こしてしまうという可能性もあります。ニンニクをたくさん食べた後に、「めまいがする」「なんとなく気分が優れない」と感じたら、ニンニクの持つ血液サラサラ効果が好ましくない方向に働いたと考えることができるでしょう。

 さらに、アリシンは硫黄と結びつき「ジアリルジスルフィド」という硫黄化合物を発生します。このジアリルジスルフィドは、アレルギーを引き起こす物質であるアレルゲンになることもあり、皮膚のかゆみや湿疹などを発症するアレルギー性皮膚炎を引き起こします。

ニンニクに含まれるたんぱく質

 また、アリシン以外にも、ニンニクに含まれるたんぱく質がアレルギーの原因になることも考えられます。ニンニクが人間の体内に取り込まれると、ニンニクのたんぱく質を排除しようと免疫細胞が活発に活動し、そのためかゆみや発疹などのアレルギー反応を発症してしまうのです。

 この反応がアレルギー性の気管支炎として発現すると、咳やくしゃみ、喘息などの症状が見られるようになります。症状が重篤化すると、呼吸困難や意識障害などのアナフィラキシーショックとして表れることもありますので注意が必要です。

ニンニクアレルギーの対処法

 ニンニクアレルギーが出やすい人、もしくは体調が弱っていて身体が過敏に反応する可能性がある人は、どのようにニンニクアレルギーに対処することができるでしょうか。

胃腸の弱い人はニンニクを控えめに!

 お腹がごろごろしやすい人や食べ物によって下痢などの反応がでる人等の普段から胃腸の弱い人は、ニンニクの摂取を意識的に控えるようにする方がいいでしょう。腹痛や吐き気などのはっきりとしたアレルギー症状が出ないとしても、胃腸への刺激によって消化器系の調子を崩すことになるかもしれません。

食べ方にも工夫が必要

 加熱調理された料理にニンニクが使われている場合に一度もアレルギー症状を出したことがない人でも、生のニンニクを食べると腹痛や嘔吐、下痢などのアレルギー性と思われる症状が出てしまうことがあります。不安な場合はなるべく加熱されたニンニクを取るように、生ニンニクは避けるようにすることが勧められます。

 また、加熱調理してある場合でも注意が必要です。すりおろしたニンニクやみじん切りしたニンニクなら特にアレルギーと思われる反応が出なくても、分厚くスライスしたニンニクや切っていないニンニクを食べると、かゆみやくしゃみといった反応が出ることがあります。普段ニンニクを積極的に食べていない人は、なるべく大きな塊のニンニクは避けるようにする方が良いかもしれません。

ニンニクの風味を活かす

 ニンニクが料理に使用されると香りによって食欲が刺激されますし、独特の辛味は料理を一段複雑なものへと昇華させます。ですが、ニンニクに対してアレルギー反応が出る恐れのある人や胃腸の弱い人、幼い子どもや高齢者などの刺激に弱い人は、調理油にニンニクの香りをつけることで、直接ニンニクを食べずにニンニクの風味や辛味を味わうことができます。
 
 ニンニク風味の油を作ることは簡単です。油をなべやフライパンに適量注ぎ、スライスしたニンニクを細かい泡が出てくるまで煮込みます。後は、香りが立ったらニンニクを取り除いて完成です。ニンニクに香りをつける方法として、生ニンニクを一定期間加熱していない油に入れるという方法もあります。ですが、この方法で香りをつけると、生のニンニクが使用されますので、ニンニクに対してアレルギーを感じやすい人には刺激が強すぎる可能性があります。

アレルギー症状かなと思ったら検査を!

 腹痛や下痢などの症状が表れたとき、少し安静にしていることで症状が緩和されることもあります。もちろん、そのときはそれ以上のニンニク摂取は止めておきましょう。ニンニクの摂取を止めることである程度症状が改善されたのなら、腹痛や下痢を引き起こした原因はニンニクにあると考えられます。体調が回復したら、内科やアレルギー科などの医療機関でアレルギー検査を受け、アレルギーの有無を確認しておきましょう。

 腹痛や下痢などの消化器官における症状ではなく、気管支炎などの呼吸器官における症状が出た人は注意が必要です。症状が悪化しアナフィラキシーショックが出ると、生死にかかわることもありますので、必ず医療機関を受診してアレルギーの有無を確認しましょう。アレルギー検査は内科やアレルギー科だけでなく、病院によっては皮膚科や呼吸器科、耳鼻科でも検査できます。毎日の食事などの日常生活にも関わることですから、医師に相談することをおすすめします。

お菓子や加工品にも注意!

 ニンニクアレルギーとわかったら、もちろんニンニクを摂ることは控えます。自分で調理をするときは避けられますが、お菓子や加工品の中にもニンニクが使われていることが少なくないので注意してください。ポテトチップなどのスナック菓子の香り付けに使用されている場合もあります。容器に表示されている成分表を確認するようにしましょう。

 ニンニクを食べ過ぎた場合、抗菌・殺菌作用の強い刺激により、腹痛や下痢、吐き気、あるいは頭痛などの症状が表れることがあります。そのような症状が表れるようでしたら、ニンニクの摂取を控えるようにしましょう。

 ニンニクの含有するたんぱく質や、ニンニクから生成される成分のアリシンがアレルゲンとなる場合は、腹痛や下痢などの症状ばかりでなく、アレルギー性気管支炎やアレルギー性皮膚炎を発症し、アナフィラキシー症状なども引き起こしてしまう可能性があります。きちんと医療機関でアレルギー検査を受け、医師に相談することをおすすめします。

まとめ

 アレルギーと言う言葉は頻繁に使われる言葉ですので、ともすると甘く見てしまうことがあります。ですが、呼吸器官に異常が出ると呼吸困難などの生命に関わる重篤な症状へと発展してしまうこともありますので、注意の上にさらに注意を重ねることが求められます。何らかの異常が見られた人はすぐに医療機関を受診し、食生活からなるべくニンニクを排除していくような工夫をしていきましょう。

http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/418.html#c2

[お知らせ・管理21] (再掲)いまだ執拗にイスラムヘイトを繰り返すナチスの信奉者 HIMAZIN
30. 中川隆[-10349] koaQ7Jey 2019年5月11日 17:15:48 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[1758]
ムスリム女性はグループセックスがお好き?(ドイツの反応)

マレーシアでは1年以上前から「世界イフワーン一夫多妻クラブ」という従順なイスラム女性の協会が存在し、

「イスラムセックスよ、ユダヤ人と戦い世界にイスラムセックスを呼び戻せ」

というお題目の元、自身のセックス相手を公表している。ユダヤ人がなぜここに出てくるのかは皆目不明だが、彼女たちがマレーシアに来る前、ムスリムの亭主には4人の妻がいて、彼女たちは亭主が浮気しないよう、売春婦のようにふるまい、グループセックスをしていた。

ドイツの新聞(Frankfurter Allgemeine Zeitung)が推測するところによると、イスラム亭主の結婚生活はローテーションシステムに似ているという。

一番年増な妻は選び出され、離縁される。そして若い妻がベットに呼ばれる。こうしてハーレムに残る妻は平均してぴちぴちになるわけだ。
http://blog.livedoor.jp/trans_vienna/archives/4893525.html

http://www.asyura2.com/13/kanri21/msg/556.html#c30

[近代史3] 風邪は 強酸性温泉水 と ドクダミ で治そう

風邪は 強酸性温泉水 と ドクダミ茶(ジュウヤク) で治そう

強酸性温泉水は飲むのではなく、喉の炎症部に霧吹きでスプレーして消毒するのに使います。


喉の炎症に効く強酸性温泉水


@ 栃木県 鶏頂山鉄鉱水(栃木県藤原町)
https://keichyo.wixsite.com/tekkousui/home-c18jj
http://www.mizuhiroba.jp/shop/products/detail/541

A 山梨県 金峰泉

2L入りペットボトルで1500円。全国に宅配可。

金峰泉本舗
〒404-0013山梨県山梨市牧丘町窪平883

0553-35-2270/FAX35-2371
http://life.ge3.jp/modules/news/index.php?storytopic=0&start=0
http://ameblo.jp/kazgensensui6/entry-11595954656.html


因みに、強酸性の温泉水が歯に付くと歯が溶けるので、喉の炎症部にスプレーした後に必ず歯をゆすがないといけないのですね。


詳細は:

恐怖の玉川温泉 _ 本当に怖いのは強酸性のお湯ではなく玉川温泉信仰
http://www.asyura2.com/09/revival3/msg/308.html

http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/419.html

[近代史3] 風邪は 強酸性温泉水 と ドクダミ で治そう 中川隆
1. 中川隆[-10348] koaQ7Jey 2019年5月11日 17:23:52 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[1760]

鶏頂山鉄鉱水や金峰泉は用途としては飲むより


・切り傷、やけど等の患部に塗る

・耳掃除に酸性温泉水を付けた綿棒を使う

・喉の炎症部にスプレーする


の方が一般的です。

飲む場合は時は水で 3倍以上に薄めます。

http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/419.html#c1

[近代史3] 風邪は 強酸性温泉水 と ドクダミ で治そう 中川隆
2. 中川隆[-10347] koaQ7Jey 2019年5月11日 17:27:43 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[1761]

煎じたドクダミ茶(ジュウヤク)は風邪の特効薬

2リットル飲めば半日で治る


【第3類医薬品】山本漢方 ジュウヤク 500G
https://www.amazon.co.jp/%E5%B1%B1%E6%9C%AC%E6%BC%A2%E6%96%B9%E8%A3%BD%E8%96%AC-%E3%80%90%E7%AC%AC3%E9%A1%9E%E5%8C%BB%E8%96%AC%E5%93%81%E3%80%91%E6%97%A5%E5%B1%80-%E3%82%B8%E3%83%A5%E3%82%A6%E3%83%A4%E3%82%AF-500g/dp/B004XLJ6PM
https://www.kenko.com/product/item/itm_8812258072.html
http://ec.sundrug.co.jp/catalog/category/0/4979654008129/


▲△▽▼

ドクダミをハチミツに漬けて発酵させたドクダミワインというのも有りますが、
ドクダミワインは水虫や痔の患部に塗って皮膚疾患の治療に使うケースが多いです:


ドクターワイン(どくだみ100%)山梨薬研醸造
http://eemise.com/page105.html
https://www.amazon.co.jp/%E3%83%89%E3%82%AF%E3%82%BF%E3%83%BC%E3%83%AF%E3%82%A4%E3%83%B3-%E3%83%89%E3%82%AF%E3%83%80%E3%83%9F%E3%81%AE%E5%8A%9B-%E3%80%90%E5%81%A5%E5%BA%B7%E9%85%92%E3%80%91%E3%80%90%E5%81%A5%E5%BA%B7%E7%B3%BB%E3%83%AF%E3%82%A4%E3%83%B3%E3%80%91%E3%80%90%E4%BF%9D%E5%AD%98%E6%96%99%E7%84%A1%E6%B7%BB%E5%8A%A0%E3%80%91/dp/B005EWYV86

どくだみ健康酒「琳瑯(りんらん)」- ハービーWEBSHOP
http://shop.herbie-117.com/?pid=42689314


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どくだみは皮膚トラブルの万能薬!ニキビや虫刺されや水虫の効果も
http://lettre-du-nature.com/archives/2485


どくだみは強烈なニオイと強い繁殖力から嫌われ者の雑草ですが、昔から外用の万能薬として使われていました。

虫刺されや水虫などにも効果があり、夏に起こりがちなさまざまな皮膚のトラブルをしっかりと解消してくれる優れものの薬草なんです。

是非、どくだみを活用して皮膚トラブルとはおさらばしていきましょう!

どくだみは皮膚トラブルの万能薬!


古くから民間薬として使われていたどくだみ。

名前からして毒がある植物なのかと思っていましたが、どうやらどくだみが「毒下しや痛み止め」に効果があることかた言葉が変化して「どくだみ」と呼ばれるようになったとか。

お茶として内服するよりも、皮膚トラブルの治療のための外用薬としての使用の方が歴史は古く、「傷や痒みにはどくだみ」といった具合に、その効能が高く評価されていたようです。

どくだみの独特の強いニオイの元は、「デカノイルアセトアルデヒド」や「ラウリンアルデヒド」で、これらこそがブドウ球菌や水虫を引き起こす白癬菌を強力にやっつけてくれるのです。

どくだみを触るとあまりのキツイニオイに本当に毒が入っているのかと思ってしまいますが、実は有効成分だったんですね〜

それだけではなく、どくだみの「クロロフィル(葉緑素)」が皮膚組織の再生を促し、傷口を素早く修復し、膿(毒)を吸い出してくれるので、皮膚トラブルの回復が早くなるんです!

強いニオイや凄まじい繁殖力で忌み嫌われがちなどくだみですが、実はこんなにもスーパー万能薬だったんですね。

どくだみはどんな皮膚のトラブルに効果がある?


肌トラブル

切り傷・擦り傷

うっかり作ってしまった切り傷や擦り傷には、どくだみが効果的。

傷から進入する細菌を殺菌し、皮膚を修復して再生を早めてくれるため、治りが早くなります。

どくだみの生葉をよく揉んで、傷にあて、包帯などで固定しておきましょう。
痛みも和らぐのがとても早いですよ^^

おでき・できもの

毛根から雑菌が侵入し、腫れ上がってとっても痛いおでき。
痛くないおできもあるようですが、ほっとくと化膿が進み、皮膚深くまで浸透すると毒素が体中にめぐってしまって大変なことになることもあるんです。
地味に怖いですよね。
おできは出来始めたら早期の対処が必要です。

どくだみの生葉をすり鉢ですりつぶして、ペースト状にしたものを包帯に塗り患部に当てて固定しておきます。
そうするとどくだみがおできの毒を吸い出してくれますよ。

治るまで何回も根気よく続けてくださいね。

虫刺され

毎年夏になると必ず数カ所は虫刺されで痒い思いをしますよね。
どくだみはの抗菌作用と皮膚の再生作用で、虫刺されにも効果的。
生葉の汁を刺されたところに塗りつければ、スッと痒みがひくのが実感できますよ^^

水虫

特に梅雨から夏にかけて高温多湿になると、悩ましいのが水虫。。
しかも市販薬がなかなか効きにくいし、治ったかのように見えてもすぐに再発するという厄介ものです。

どくだみの薬効に優れた抗菌作用があり、どんなしつこい水虫もしっかりと抑えてくれる作用があります。

生のどくだみに含まれる「デカノイルアセトアルデヒド」という成分が、白癬菌の繁殖を抑えてくれることが分かっています。

どくだみの生葉をすりつぶしたエキスを、患部に直接塗って治療します。
また、お風呂に生葉を入れて入浴剤として使うのも効果的です。

ニキビ・吹き出物

ニキビも非常に悩ましい肌のトラブルですよね。

触れても痛いですし、何よりも顔にできたニキビは目立ちますし気分もブルーになってしまいます。

ニキビは皮脂が炎症を起こし細菌がたまっている状態ですので、こちらもどくだみの強い抗菌作用が役立ってくれます。

どくだみエキスを直接ニキビに塗ったり、エキスを希釈して洗顔後どくだみ化粧水のように使うのもおすすめです。

また、ニキビは体内の毒素が十分に排出されないことでも起こりますので、デトックス効果のあるどくだみ茶として服用するといいですね。

あせも・じんましん

赤ちゃんや子供にできやすいあせもやじんましんは、早期の対処が大切です。

痒がって何度も掻いてしまうと、さらに悪化し痛痒くかなり辛い思いをさせることになります。

どくだみは肌を修復する効果もあり、荒れた肌を保護してくれる働きもあるので、肌の弱い赤ちゃんや子供にも安心ですね。

どくだみをお風呂に入れて入浴すると良いでしょう。

アトピー性皮膚炎

どくだみは民間薬として、アトピー性皮膚炎に効果があるとされています。
どくだみの青汁や煎じ汁を飲んだり、茎や葉を入浴剤として使った風呂に入るなどすると効果的です。

どくだみでアトピー性皮膚炎が改善される詳しいメカニズムは分かっていませんが、どくだみの効能としての、血行の改善、毛細血管の強化、新陳代謝の活発化が進められ、皮膚近くでの毛細血管の血行が良くなって肌に潤いが生まれ、アトピー性皮膚炎が改善されると考えられています。

蓄膿症

風邪などをひくと蓄膿症を引き起こすことがあります。
副鼻腔に膿がたまり、鼻がつまってとても息苦しい症状です。
ほっとくと頭痛がしたり目や歯まで痛くなってきたりします。

こちらも鼻の奥に細菌がたまっている状態なので、どくだみの殺菌作用が存分に発揮されます。

少し荒治療のようですが、どくだみの生葉を少し揉んで、そのまま丸めて鼻の穴に詰めて使います。

ほんの数分ですぐに効果が現れますので、ちょっとカッコ悪いのも少しのガマンで苦しさから開放されますよ^^

どくだみを生薬として使うには?


どくだみの使い方は、生葉を使う方法と乾燥させたものを使う方法の2つの用途があります。

・ 生葉を使う → 外用として使用。患部に直接塗ったり当てたりする。
・ 乾燥させて使う → 内服する場合。どくだみ茶や粉末にして料理に使ったりなど。

それぞれ期待される効果が異なり、目的によって使い分けていきます。
どくだみの生葉に含まれる「デカノイルアセトアルデヒド」と「クロロフィル」という成分は、強い殺菌作用と皮膚の再生作用がありますが、こちらは乾燥させると失われてしまうので、乾燥葉は外用には使いません。

乾燥葉はどくだみ茶を作って飲むと体の中の毒素を排出してくれます。


生葉の外用としての使用法ですが、

1. 生葉をそのまま揉んで貼り付ける

よく洗って水気をとった生葉を揉んで汁を出し、柔らかくなったら患部に直接貼り付けます。

2. 生葉を蒸し焼きにして軟膏状にして使う

アルミホイルに包んだ生葉をフライパンで蒸し焼きにすると、ドロドロの軟膏状になります。

3. 生葉ををすり鉢ですりつぶしてエキスを取り出す

よく洗って水気をとった生葉をすり鉢に入れてすりつぶし、ガーゼで絞ってエキスを取り出します。

ただ、作ってから時間がたってしまうと有効成分が飛んでしまいますで、作り置きするときは生葉の成分をアルコール液に抽出し、どくだみの生薬チンキを作っておくといいでしょう。

どくだみがすぐに手に入らなかったときも使うことができるので便利ですね。

■■どくだみチンキの作り方

1. どくだみの葉をよく洗って水気をとる。
2. 煮沸消毒したガラスの保存瓶に生葉を入れる
3. アルコール(果実酒用のホワイトリカーやウォッカなど)を生葉が浸るほどに入れる
4. そのまま1ヶ月以上冷暗所で保存

出来上がったチンキは葉っぱを取り除いて使用します。

詳しくはどくだみ関連記事からどうぞ〜
http://lettre-du-nature.com/archives/2485

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原爆症に効くドクダミ茶(十薬)

爆心からの距離700メートル2人、1,000メートル2人、1,500メートル1人、1,800メートル1人、2,300メートル1人、2,500メートル1人、即ち1,000メートル以内は4名となっている。使用した患者11名のうち距離の不明なものは三名であった。
この報告された11名には死亡者はいないが、それは、効果があって生存している方からの報告が主体となっているからであって、無効または死亡した人の報告は集まらなかったものと思われる。生存者は皆効果があったということである。


症例(1)姉17歳、妹14歳


共に1,000メートルの街路上で被爆したが、幸い大きな火傷、外傷はなかった。
姉は即日、鼻出血と共に高熱を出し、3日間意識不明であったという。覚めてから母親に毎日ドクダミを服用させられ、約1年つづけた。

現在、広島大学原医研の外科に看護婦として勤務しているが、妹は元気であったので、ドクダミものまずにいたが、九月初旬、突然発熱、脱毛、下痢、咽喉頭炎、下血などの放射能症を発し、12月下旬には死亡したが自分はドクダミ服用の効果があって、現在まで元気に生きていられると思います。

大学でも一般の医師達はこの方面に無関心ですが、先生は、このような民間薬のことを理解して下さることは有り難いと思いますので、お電話致しました、というのである。


症例(2)久米登氏談(『広島原爆医療史』より)

原爆症についてこういう実例があります。


「私の姪が基町の連隊区司令部(700メートル)に於いて下敷きとなり、はい出て3日目に帰ってきました。そのとき相当弱っていまして、すぐ豊田郡安登村に疎開しましたが、そこの医者は、薬はあるがドクダミをお茶代わりにどんどん飲んだ方が良いと言ったそうです。

その後、歯鮫炎、脱毛、発熱がありましたが、田舎で食べた新鮮な野菜とドクダミを飲んだお蔭で元気になり、現在では結婚して子供が1人おります。

ところがその妹が、コンクリートの建築の銀行集会所(240メートル)の室内で電話交換手をしていましたが、岩国の海軍病院に入院し、経過は良いといわれていたのが、8月11日には発症し、8月17日には死亡しました。病院に収容されたものが死亡し、田舎の医者にみてもらったものが元気なんです。やはり田舎で養生したのが良かったのでしょう」とこのように言っています。

ところが、この死亡した姪を含め同じ職場の9人はすべて岩国病院に入院し、白血球数が算定されてあったわけです。(『広島・長崎の原爆災害』83頁)。


即ち被爆後6・7日目の白血球はすべて400〜150であり、その後約1週間後には9人共に死亡しているという最重症例の中に入っています。

私はこのように被爆後6・7日目で白血球数が500以下というような重症例にはドクダミ煎茶だけでは効果はなかったのではないかと思います。

救われた姪のように3日後から服用したことがよかったように思われます。それによって放射能障害が軽かったので救命されたのでしょう。


 症例(1)も3日後から服用している。

http://web.mac.com/two_shi/Ogawa_Arata_Shin-Lon/%E5%8E%9F%E5%AD%90%E7%88%86%E5%BC%BE%E5%82%B7%E3%80%81%E7%89%B9%E3%81%AB%E6%94%BE%E5%B0%84%E8%83%BD%E7%97%87%E3%81%AE%E6%B0%91%E9%96%93%E7%99%82%E6%B3%95%E3%80%8C%E4%BC%9D%E6%89%BF%E3%81%AE%E8%8B%B1%E6%99%BA%E3%80%8D.html


http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/419.html#c2

[近代史3] 風邪は 強酸性温泉水 と ドクダミ で治そう 中川隆
3. 中川隆[-10346] koaQ7Jey 2019年5月11日 17:29:57 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[1762]
鶏頂山鉄鉱水
http://www.mizuhiroba.jp/shop/products/detail/541

PH2.7 無色無臭で酸味、鉄味を有する。

酸性-アルミニウム・鉄(3)-硫酸塩冷鉱泉(酸性低張性冷鉱泉)

*陽イオン・・・ 水素イオン、ナトリウムイオン、カルシウムイオン 、マグネシウムイオン、アルミニウムイオン、第一鉄 、第二鉄など

*陰イオン・・・ 塩素イオン、硫化水素イオン、硫酸イオン、フッ素イオン、など
成分総計1,784/kg(療養泉規定によりこの鉱泉は療養泉です)

その他微量ながらリチウム、バナジウム、コバルト、ゲルマニウムなどの希有元素も含まれる。


この鉱泉は栃木県北部鶏頂山の山頂付近に湧出ている。明治27年(1894年)地元の住民、大塚房吉(万延元年生まれ)によって発見された。鶏頂山神社の御神託により発見したと伝えられている。

以来地元の住民に「火傷、切り傷によく効く」と長く愛用され、台所などに常備して使用された。昭和初期頃より東京帝国大学医学部物療内科三澤教授などが中心となり、飲泉による貧血患者に対しての臨床実験がなされ、その効果が確かめられている。さらに昭和18年には栃木県より「売薬部外品免許第788号」(現代は自然湧出物の許可制度が廃止になっている)を受け、その効果はゆるぎないものとなった。
http://www.geocities.jp/tekkousui2005/right.html


鶏頂山鉄鉱水

酸性のアルミニウム・鉄―硫酸塩冷鉱泉から採水している。アトピー性皮膚炎やガン、糖尿病・胃腸病などに効いたという報告例もあり、古くから知られていた。鉄イオンは1L中に79mgも含まれており、貧血にもいい健康によい水である。
http://mizu.1pun.net/010/


ここの水は、胃腸病によく効くというので、山の奥地なのにかかわらず、たくさんの人が1日がかりで汲みに行くという。

「栃木県・鶏頂山の鉄鉱水 万病に効くと24時間行列ができた」(注1)

・・・実は、この水の効能は藤原町では昔から有名で、ブームになる前から切り傷ややけどの治療に用いられてきたのです。元々は飲用ではなく外用に用いられていました。

しかし、「ガンが治った」とある医学博士が発表して以来この水を飲む人が急増。 胃腸病から育毛まで効く鉄鉱水」


はげに効いた、
かぶれが治った、
胃腸病がよくなった、
血糖値が下がった、


などの体験談の他、

「・・・慢性の皮膚病、慢性の婦人科疾患、月経障害、更年期障害、筋肉・関節痛、糖尿病などに有効です。・・・」

日本温泉療法医会会長 植田理彦(談)も書かれています


高血圧に効く名泉

血圧が下がった体験、かぶれが治った体験が書かれています。

「・・・風呂上りに荷はこの源泉水を化粧水代わりに顔につけると、きれいになるんです。手にもつけるとハンドクリームはいらない。」・・・中略・・・

「もう10年くらいになりますか。洗面器に半分くらいの量を(お風呂に)入れると、色が赤っぽくなりますが、温泉そのものです。

よく温まり、上がってからポカポカします。夜のトイレにも起きません。

あせもやふきでもの知らず。冬の乾燥機の体がかゆい症状もありません。

主人もふしぶしの痛みが出ないですね。・・・」
http://www.geocities.jp/tekkousui2005/hon.html


私が子供の頃、母はリューマチで寝たきりの状態だったのを温泉(鶏頂山鉄鉱水)で治し、本人も本当に喜んでいました。

兄が仕事で手をサックリ切ったとき、主人が釘を足裏にグッサリ刺したとき、母がお風呂釜のガスで火傷をしたとき、全て温泉水で治したものです。
http://www.a-spa.co.jp/tuki-repo.htm


我家で魔法の水と、呼んでいるのは、鉄鉱水と言うものです。


13年位前でしょうか? 鶏頂山付近の山中へ、鉄鉱水を汲みに行きました。

岩の間から、ホースが数ヶ所出ていて 場所によって味が、多少違い一番渋味が強いホースの所に、行列ができました。渋味が強く とても最初は、飲みづらいです。今では、とれないので、大切に両親が飲んでいます。

10年以上前の水を、現在飲んでも腐敗、変質はなく、その効能にも劣化が、みられず、永久不変で、この不思議な事実についても科学的な解明か、されていないそうです。

知人で、この水を飲んで、胃潰瘍、痔などが治った人が、います。

ケガした所に、この水をつけると血がとまる。流れた血が固まってしまう

喉が、痛い時うがいすると良くなる。

その他色々


何でも効果がある 魔法の水なのです。

ゲルマニウムの効果?    なぞばかり‥‥‥
http://www9.ocn.ne.jp/~kome2001/mizu/mizu.html


栃木県・鶏頂山鉄鉱水(『医者もおどろく奇跡の温泉』)は、pH2.7の酸性泉だ。

 Sさん(74)は、就寝前に、この源泉水を5倍に薄めたものを100t飲んでいるという。

 「以前は血圧が高く上が200を超え、下が90台でめまいがありました。降圧剤を飲んでも血圧の上がり、下がりが激しかった。この鉄鉱水を飲み始めてからは上145〜150、下70〜75で安定しています。

20年以上使い続けてきた人工膀胱の洗浄液としても利用しています。以前は尿が直接皮膚にふれるため、ひどいかぶれに悩まされましたが、これで洗うようになったら、殺菌力もあるのかまったくかぶれなくなった。この水は手放せません」
http://blog.livedoor.jp/kouketuatucom/archives/120941.html


鶏頂山の頂上近くから自然湧出している水は、鉄イオンを多量に含み、貧血に効果的だそうです

また、ハゲていたのに飲用とこの水をつけてのマッサージで髪が生えた!という体験談もあります

PH2.5という強酸性ですから、飲むと酸っぱい感じで沢山は飲めないように思います

飲むだけでなく、強い酸性の水ですから、患部に浸けることで皮膚病・切り傷にも効果があるそうです
http://water-1.seesaa.net/article/51803305.html


髪の毛が生えてくる温泉水


最近は、生え際と頭頂部が不安になってきました。

さて、数年前に、日刊ゲンダイで見た記事です。 鶏頂山鉄鉱水(栃木県日光市藤原)を扱っていました。

1894年の発見以来、地元の人々に薬水として飲まれてきました。 でも、もうひとつの効用があったのです。 感想では

「以前はハゲていたのですが、風呂上がりにこの水を頭につけてマッサージしたら、3か月くらいで産毛がはえてきたのです。今は髪の毛になっています」
 

とのことでした。 飲用もOKですから、試す価値はあると思います。


先日書きました、髪の毛が生えてくるという温泉水。 早速注文してみました。

取り寄せ先の鶏頂山鉄鉱水本舗の話によると、当たり前ですが、もともとは、入浴用とのことです。

飲泉もできますが、鉄分が多く癖があるので、少しづつ飲んだほうがいい、と言っていました。

髪の毛のことを聞いてみると、個人差があるのでと、想定内の答えでしたね。 でも、実際にご主人も風呂上がりにつけているとのことです。
抜け毛は明らかに減った、と言っていました。 鉄分が、血液の循環を良くするのではないかと。

ただ、「新しい毛が生えてくるというのは、どうでしょうかね〜。」 との弁です。

3か月は様子をみてもらいたい、とのことですし、飲んでもいいので注文することにしました。
http://ameblo.jp/mitubati1/theme-10033088584.html

http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/419.html#c3

[近代史3] 風邪は 強酸性温泉水 と ドクダミ で治そう 中川隆
4. 中川隆[-10345] koaQ7Jey 2019年5月11日 17:31:23 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[1763]
あの伝説の湯治宿『金峰泉』は今…

旅館 金峰泉(休業中)

〒404−0013 山梨県山梨市牧丘町北原塩水4139―1

TEL 0553-35-4144

1泊2食1万1,970円(税込)〜。外来入浴700円。


金峰泉は、創業大正二年。山梨県北部の海抜1,400メートルの高さに位置します。
町の喧騒を離れ、クリスタルラインに車を走らせること約25分。ぐんぐんと山を登っていった頂上付近の乙女湖のほとりにあります。現在、東京電力琴川ダムが建設され、金峰泉の周りは水を貯められ、三方を湖に囲まれまさしく湖上に浮かぶの宿となります。
春になると萌えるような若緑色の芽が一斉に山々を被い。夏には雄大な山々が美しく、秋には紅葉に染まりそれはそれは見事です。琴川ダム(乙女湖)と、山々と、他には澄んだ空気だけ。ほんとに静かな山の一軒宿です。
http://www.kinposen.com/


『万病に効く』と言われ昔から日本全国にファンの多い湯治場金峰泉

山梨は、宝石が出土することで有名ですが、ここ金峰泉の周辺にも昔、水晶鉱山がありました。そのころはトロッコで麓まで水晶を運び、帰りにそのトロッコで湯治場のお客さんを運んでいました。

湯治客のお客さんにはこの鉱泉は大変好評で、当時の納涼地十選にも何度も選ばれました。その評判をお聞きになりこのような山奥ですが、当時の知事さんが表敬訪問に来られるほどでした。

この鉱泉金峰泉は明治時代からあり、湯治旅館としては大正二年にオープンしました。

その昔から、金峰泉は万病に効くと言われ、不妊症・C型肝炎・高血圧・糖尿病・・・・

アトピーにも効いたと、お客様から大変評判をいただき、今日に至っております。
http://www.kinposen.com/ofuro.html


金峰泉は、2006年春リニューアルオープンしました。

昭和7年頃 旧金峰泉と乙女湖にボートを浮かべて遊ぶ人たち 鉱泉は明治時代からありました。金峰泉の創業は大正二年です。近年は琴川ダム建設計画が持ち上がり、以前の金峰泉は琴川ダム(乙女湖)の底に沈んでしまうことなりました。ダム建設のため、何年も休業しなければなりませんでしたが、ダム建設も終盤を迎え2006年春、湯治旅館として現在の場所に移転して営業を再スタートしました。
何年も私共の再スタートを心待ちにしてくださっていたお客様もいらっしゃいまして、皆様に支えられてのオープンとなりました。

ダムには2007年より水が湛えられはじめ、三方を湖に囲まれた金峰泉は、まさに『湖上の宿』となります。ダムの工事はそれだけに留まらず、周辺の整備も行われるため自然の中を散策でき、湯治場としてはこの上ないるとてもすばらしい場所となります。
http://www.kinposen.com/shisetsu.html


アクセス&マップ
http://www.kinposen.com/info.html
http://map.yahoo.co.jp/maps?lat=35.805962860356&lon=138.65169502233&layer=1&ac=19205&mode=map&size=s&pointer=on&z=16
http://maps.google.co.jp/maps?hl=ja&lr=lang_ja&um=1&ie=UTF-8&q=%E5%B1%B1%E6%A2%A8%E7%9C%8C%E5%B1%B1%E6%A2%A8%E5%B8%82%E7%89%A7%E4%B8%98%E7%94%BA%E5%8C%97%E5%8E%9F%E5%A1%A9%E6%B0%B4%E3%80%804139-1&fb=1&gl=jp&hq=%E5%B1%B1%E6%A2%A8%E7%9C%8C%E5%B1%B1%E6%A2%A8%E5%B8%82%E7%89%A7%E4%B8%98%E7%94%BA%E5%8C%97%E5%8E%9F%E5%A1%A9%E6%B0%B4%E3%80%804139-1&sa=X&ei=s4u1UIveOsqVmQXd2oHoBQ&ved=0CHsQtgM


山田屋・金峰泉・自由人発売…
投稿者:ONKEN21 投稿日: 7月26日(水)00時13分39秒    

>おかざきさん
  実は1989年に発行され、今も手元にある徳間書店発行「スカイラインの旅」で古き金峰泉の宿泊レポを読んでいます。昔から注目しながらも当時は雁坂トンネル開通前で遠すぎて実際に行けなかったのでした。

参考までにその本の「大粥峠越え」の中で紹介されている金峰泉の記事p.132 を抜粋してみましょう。


●金峰泉

大正2年創業という『金峰泉』は、川上牧丘林道に面して建つたった1軒の宿。

焼山峠から道を下ったとはいえ、標高は1470m。
カラマツとシラカバに包まれた温泉宿だ。
静かな温泉宿で、今日の疲れをゆっくりいやそう。

約20種類のイオンやゲルマニウムなどを含んだ鉱泉は、つかるのはもちろん、飲用としても有名で、昔から1升ビンにつめられて、売られていたほど。
現在も1升1500円で売られている(現在は2Lペットボトルでの販売)
ヒノキが漂う風呂にも、飲用にカメの入った鉱泉が、ひしゃくとともに用意されている(現在はない)

料理にも満足できるはず。メインのとりのたたき鍋は繊細な味わい。
ひいたトリ肉をたたいたものをトリのスープに浮かせて、旬の山菜と一緒に味わう。
湯と料理で満たされた気持ちを胸に、明日の林道ランへ思いを馳せて床に就く。

料金:大人6000円、小人5000円
(料理・料金は17年前のもの)


  なお、本の地図には焼山峠の牧丘側の麓に「金峰泉の泉源」があって、以下のように記述されています。

いくつかのカーブを過ぎて、金峰泉の泉源が左にある。源泉といっても小さな囲いの中にあるので、地中から温泉が湧き上がるのを見ることができない。

  多分、そこが飲用泉源でしょう。今はダム資材運搬路のため通行止めです。
http://www.asahi-net.or.jp/~ue3t-cb/bbs/bbs06/bbs060721_0731.htm


販売源泉「金峰泉」

泉質:酸性-鉄(U)-硫酸塩泉/泉温:9.5℃/pH2.2/硬度30.9
総ヒ素(メタ亜ヒ酸)0.006mg/kg 1998年調査


  内用効能に胃ガンや糖尿病があったのには驚き。詳細を宿の方に訪ねるとイオン水と鉱泉水の他、第3の源泉・飲用源泉をお持ちで2Lペッドボトル1500円で販売していました。どうやら、これがガンなど万病に効く鉱泉らしいです。


知る人ぞ知る「万病に効く金峰泉の飲泉」。

こちらは金峰泉本舗(旅館でも販売)で販売している酸性泉で胃がんや乳がん、糖尿病など万病に効くとされています。かなり酸っぱく琥珀色しています。
2L入りペットボトルで1500円。全国に宅配可。


ちなみに金峰泉ではイオン水、鉱泉、販売用酸性泉の3種のお湯があります。


(問合先)金峰泉本舗
〒404-0013 山梨県山梨市牧丘町窪平883
TEL 0553-35-2270

■直販・通販(2L×6本)1万2,000円(送料込)


(住宅地図)
http://www.its-mo.com/map/top_z/128658640_499378520_16//
https://maps.google.co.jp/maps?ie=UTF8&cid=9077415382183417996&q=%E9%87%91%E5%B3%B0%E6%B3%89&iwloc=A&gl=JP&hl=ja


実を言いますと、浴用の源泉は酸っぱくなく、飲用だけが酸っぱいのです。その飲用源泉は宿の飲泉所みたいなところで飲むことはできないんです。あくまで 2L 1500円販売用ペットボトルのみですので注意して下さいね。知り合いや家族に胃の具合の悪い方がいるとでも話されれば試飲させてもらえるかも知れません。
http://www.travelog.jp/user/report_j/report.php3?page=2&userid=ONKEN21&seqno=10


試しに試飲してみましたら、酸っぱいのにビックリ。群馬・奥多野で言うなら浜平源泉みたいなんでしょうか。そして色が琥珀色をしているんです。両親がガンでしたし、この味からしてタダモノでない気がしたので、思い切って一本衝動買いしました(^_^;)。なお、ご主人によると、この源泉は別の沢筋にあって大変貴重みたいで、イオン水や鉱泉のように宿での浴用・飲用水としては利用されていないとのことです。朝夕コップ半分ずつ飲むと良いとのことです。
http://www.asahi-net.or.jp/~ue3t-cb/bbs/bbs06/bbs060721_0731.htm


ナチュラルミネラルウォーターの『金峰泉』2ℓ入り

“薬水”という表現がぴったりの、酸っぱ渋い味わいの名泉である。
かつての皇室の御料地内の洞窟に湧く。施錠され厳重に保護・管理された源泉の入り口まで、代表の雨宮綾子さん自らが運転する車で連れていってもらったが、そのことをここで詳しく書くことはできない。
飲んでよし、つけてよし。万病に効く『金峰泉』の利用者の体験談は後述します。ご期待ください。
http://kazu.cool.coocan.jp/report.html


中川注記
pH2.2 の金峰泉をそのまま飲むと歯が溶けます。
酸性泉の飲み方については下記を参照下さい:

恐怖の玉川温泉 _ 本当に怖いのは強酸性のお湯ではなく玉川温泉信仰
http://www.asyura2.com/09/revival3/msg/308.html


金峰泉 2005/07/12(Tue)

昨夏から少しずつ、やったりやらなかったりしてきたお蔵の片付けがもう一歩で終わるというので気を抜いてしまったのか、古いボロボロの箪笥を潰していたときにうっかり錆びた釘を踏んでしまった。

「古釘だけは気をつけろ」とはよく言われる話で、化膿するのは朝飯前で、破傷風にもなり易いという。地球上に存在するなかで破傷風の菌は二番目に強力な菌らしい。

これは恐い、というかヤバイので、裸足になって傷口を叩いて古血を絞り出して、おじいさんのところへ行った。応急処置などは昔の人ほどよく知ったもので、医者に行くより確実・適切なこと、まことに多く、まさに智慧袋。戦争体験者のおじいさんはまさに生きる事典。

すると今回は、切り傷・火傷に抜群の威力を発揮するという奇蹟の源泉「金峰泉」に漬けると良いというので、その恩恵にあずかることに。

黄金色の源泉は通称「ゲルマ」と呼んでるそうで、どうやらゲルマニウム温泉水らしい。切り傷なんかした時にこのゲルマに浸せば、出血がたちまちにして収まり、キズの治りも驚くほど早いという。

困ったときの「マムシの焼酎漬け」と「ヘビ苺」と「ビワの葉の焼酎漬け」に、今回加わった「金峰泉」。

昔の人は、やっぱりすごい。
衣食住、生きるための備えみたいなものに揺らぎがまったく無い。
キズは、夜寝る前にも小一時間浸して、それで大丈夫ということ。

果たして破傷風は如何に。
発病が3日? 21日後らしいけど、しかし、もうすっかり忘れてたなぁ。
http://grape.blog8.fc2.com/blog-entry-58.html


金峰泉 自然湧水の薬水 2012/08/15 水曜日

泉質は単純酸性ー鉄冷鉱泉(低張性酸性冷鉱泉)とある。

126.9p 体に良い水としてのGe3値
2L x 6 本 ¥12,000

これを単純に良い水といって紹介しても良いのかどうか・・・
いや、体に良いとの自信が無いと言う意味でなく、その反対だ。

体にはとにかく良い。
疲れた時にコップ半分くらいで速攻で元気になる。

こんなモノをこんな値段で売っても良いのか・・・
紹介しても良いのか・・・という自信が無いのだ。

飲んでみるとチョット酸っぱい。
でも飲めない程の酸っぱさではない。
この味で思い出すモノがある。
某社の○○ライザーと同じ味なのである。
Ge3値も同じなのは・・・私には確信が持てない理由でもある。
疲労回復、体調を整える為には有効だと思う。

これはお勧めだ。
http://120club.ge3.jp/modules/rankin/?p=794


乙女高原の帰り道。さる御仁に偵察を命じられていた金峰泉に。
特に妖しい事も無く、受付を済ませる。
浴室は狭いが、清潔で気持ちが好い。
窓の外には琴川のダム湖が見える。

源泉は2種類あり、循環の普通の浴槽の手前に小判形の木の風呂桶が置いてある。
こちらは、全くの水。
だが、細かい湯の花が、たくさん漂っていて、いかにも効きそうだ。
冷たいのに耐えて、首まで浸かってみた。


売店で売っている源泉水は、2リットルで1,500円と不気味に高い。
血液の浄化に効果があり、戦前は公に梅毒などの薬として指定されていたという。

一口飲んでみたら…
強烈な味と刺激。いかにも薬効がありそうだ。


コメント

2ℓで1,500円!
不気味処か霊感商法系か?

ちょっと驚きました(笑
2008/8/24(日) 午後 4:07


たけさん。浴室では汲めないのです。
それでも欲しければ。といった感じの言い値ですね。

効能に余程自信があるのでしょう。
複数の知人が、定期的に購入しています。

私ですか?また、買うかも知れません(笑
2008/8/24(日) 午後 4:29


温泉に行ったら 最後は必ず水風呂に入りますよ
身が引き締まります
2008/8/24(日) 午後 8:09
http://blogs.yahoo.co.jp/coyote8989/56275292.html


金峰泉本舗 雨宮綾子(あまみや あやこ )代表

金峰泉本舗 代表。昭和5(1930)年生まれの82歳。

お顔の色艶のいいのに驚かされる。 左膝の調子がよくないと言いながらも、トレードマークのハンチング姿で颯爽と現れた。 直近の健康診断のすべての項目が基準値内に収まるという健康体。その秘訣は、もちろん40数年来飲み続けている『金峰泉』にある。

最近は、朝起きると朝湯に入る。その時、湯呑に1杯の『金峰泉』を入浴しながら飲む。夜も入浴して朝の半分くらいの量を飲むという。


旅館 金峰泉

以前の有名な鉱泉湯治宿『金峰泉』がなくなり、その跡地をも“飲み込んで”しまった琴川ダム。そのダムによってできた乙女湖のほとりに平成18年(2006)年4月、新たな旅館「金峰泉」が開業した。

この旅館のために新しく掘削した源泉は、カルシウム・ナトリウム―硫酸塩・塩化物冷鉱泉の泉質である。入浴によって慢性消化器病、慢性皮膚病、動脈硬化症、神経痛、筋肉痛など多くの症状に適応する療養泉(治療に供し得る泉質)。
本格的な茶室にも利用できる、広くゆったりとした部屋の造り。温泉に浸かり、山菜料理や地鶏の水炊き鍋を味わえば、身も心も癒されること間違いなしである

(*周辺の道路工事などのため現在休業中)。
http://kazu.cool.coocan.jp/report.html


林道をぐんぐんと険しい道を登って山を越え、奥の奥のまたまた奥・・・。

ほんとうの秘境とはこいう場所を言うのでしょう。
昔から、『万病に効く』と言われている鉱泉が湖のほとりにあります。

琴川ダムの建設工事のため、しばらく休業していましたが、2006年4月21日、ダムの湖底に沈む昔からの場所から、新しい場所に移転してリニューアルオープンしました。

冬季は、道路凍結などため休業いたします。
春のオープンはお電話でお確かめください。

2006年秋10月、塩山から牧丘を経て林道杣口線(クリスタルライン)をドライブしました。ぐんぐん上る林道に驚きながら、目の前が開けた場所にでると遠くの富士山を下に見るように錯覚させられます。そこからまだしばらく山を越えて進むと、広い場所に出ます。ダム工事をしていました。

「大きなダムだねぇ〜」と言いながらダムを回り込みほどなく「金峰泉」が・・・。ちらっと見ると和風の素敵なところ・・・。

「こんなところに温泉?」。

結局ドライブは、以前にご紹介している「増富の湯」方面から須玉インターに出たのですが、どうしてもこの温泉が気になる・・・気になり出したら止まらない・・・う〜〜ん

で、早速「山梨の温泉」へ掲載交渉!OKはもらったものの、どんな湯か、前知識が無い・・・。しかし実際お話を伺いに改めて訪れててみると、その湯のすばらしさと歴史に大感激!「山梨の温泉」を紹介してきたナビィスタッフの感も冴えてきたようです。


ナビィシティー「近所の湯」20弾

今回は、「温泉」ではなく「鉱泉」です。が、これがただものではない!

昔から「万病に効く」と評判の「鉱泉」で、飲泉としても全国発送され、また某漢方薬品店でも販売されている。

ただこれが成分が強くまずい!

なかなか飲めるものではないけれど、それでも病気に良いということで大評判だそうです。また、先ほども言ったように鉱泉の成分が強いので、最初に訪れた人は、勝手にお湯には入らない方が良い。その人の症状にあった入り方があるとのことで、ちゃんとご主人の指導を受けてから入ることをお勧めします。

今回は、ご主人の小嶋光生さんにお話を伺いました。昔の話・・・今の話・・・
楽しいお話に時間はあっという間にすぎて行きました。


Qナビィスタッフ : 和風の建物が素敵ですが、最近建てられたんですか?

Aご主人 : ここをリニューアルしたのは今年ですが、実は鉱泉は明治時代からありました。

Qナビィスタッフ : そんなに古いんですか?

Aご主人 : そうですね、当時はこの付近に水晶鉱山がありまして、そこで働く人たちの疲れを癒すために利用されていました。当時は無料だったそうです。

Qナビィスタッフ : 湯治場として利用されていたということですね?

Aご主人 : はい、大正2年に現在のような形となって、湯治客の皆さんに利用していただくようになりました。

Qナビィスタッフ : しかし、ここまで山を越えてくるのは大変だったでしょうね。

Aご主人 : 水晶鉱山のある頃には、トロッコで麓まで水晶を運び、帰りにそのトロッコで湯治場のお客さんを運んでいました。湯治客のお客さんにはこの鉱泉は大変好評で、当時の納涼地十選にも何度も選ばれました。その評判をお聞きになりこのような山奥ですが、当時の知事さんが表敬訪問に来られるほどだったんですよ。
(と写真を見せてくださいました こちら≫)

Qナビィスタッフ : すっごいですね!写真もちゃんときれいに残ってますね。バックの建物が金峰泉なんですね。歴史を感じますね!

Aご主人 : 近年は、琴川ダム建設の計画が持ち上がって、以前の金風泉は琴川ダム・・・乙女湖のことですが・・・それが底に沈んでしまうということにになって、ダム建設のためしばらく休業していたんです。そして今年の春に湯治旅館として現在のこの場所に移転して営業を始めました。

Qナビィスタッフ : ほんとにスタートして間もないのですね!

Aご主人 : はい、琴川ダムは来年2007年度に完成予定ですが、ダム完成後にはダムの水が溜まると乙女湖が再び現れ、この金峰泉の周りも湖となり、湖畔の宿となります。

Qナビィスタッフ : なんか、すごくロマンティックですね・・・・。よりいっそう素敵な風景が窓から見晴らせるようになるんですね!

Qナビィスタッフ : 成分や効能についてお聞きしたいのですが・・・

Aご主人 : 源泉は二つあります。
まず一つ目はカルシウム・ナトリウム・硫酸塩・塩化物冷鉱泉
そしてもう一つは、酸性・鉄・硫酸塩素 旧泉質名・酸性緑礬泉 です。

源泉は薄茶色に濁っていて、黄土色の湯の花が湯の中に舞っています。
湯上り後は、体の心から強烈にほてってくる源泉です。

Qナビィスタッフ : 強烈にほてってくるというのはすごいですねぇ〜
ぽかぽかするとか、芯から温まるというのではなく、強烈ってのはびっくりです。それだけ成分が濃いというか強いというか・・・なんですね!

Aご主人 : はい、お風呂には浴槽が二つありますが、お客様の症状に合わせて入浴方法をアドバイスすることも出来ます。

Qナビィスタッフ : 成分が強いだけに、勝手に入らず個々にあわせて効果的に入る方法を教えてくれるんですね!

Qナビィスタッフ : ところで、飲むことができるとお聞きしましたが・・・

Aご主人 : はい、飲泉は『金峰泉本舗』やこの旅館でも販売している酸性泉で、胃がんや乳がん、糖尿病など万病に効くとされています。かなり酸っぱくて琥珀色をしています。(2Lペットボトルで1500円。全国に宅配可)

Qナビィスタッフ : 万病に効くというのはすごい魅力ですね!飲みにくくてもがんばれちゃいそうです。

Qナビィスタッフ : 最後になってしまいましたが、『金峰泉』の特徴やコンセプトなどありましたがお伺いしたいのですが・・・

Aご主人 : はい・・
私どもの施設は他の施設と違い、温浴・湯治を目的とした施設ですので、お客様に合わせた入浴方法やお食事・運動などの過ごし方をアドバイスしています。


1.温浴・湯治を出来るだけ高めていただくために、各分野の専門家を
 そろえています。また、必要に応じて専門の大学病院の先生にも
 意見を伺える体制を整えています。

2.また、お風呂の温度も温浴・湯治に効果的な温度に合わせています。

3.たとえば、海抜も1400mになりますと散歩するのにも麓とはずいぶん
 変わってきますので、出来るだけ効果的なアドバイスをしています。


Qナビィスタッフ : ほんとに治療を目的としたお客様が多いことが良くわかりました。
本日は、お忙しい中、取材にお付き合いいただきありがとうございました。

A女将さん : こちらこそ!こんな山奥ですが、また来てくださいね。
http://www.navi-city.com/yu/kinpousen/index.html


湯治旅館「金峰泉」 ONKEN21 2006年7月25日(火)

 先日は奥秩父・雁坂トンネルを越えて、山梨市牧丘町の焼山峠近く琴川ダム・乙女湖のほとりに今年4月21日に移転オープンしたばかりの「金峰泉(きんぽうせん)」に日帰り入浴しに行ってきました。

創業は大正2年(1913年)と古く、飲用温泉はガンなど万病に効くと全国のファンから注目されていましたが、琴川ダムの建設に伴い、近年は麓に飲用温泉の本舗を残して休業、3ヶ月前に塩水沢上流部に復活したばかりの伝説の秘湯・名湯であります。

  帰りは金峰泉から埼玉F市までR140皆野寄居バイパス(410円)・雁坂トンネル(710円)を経由して 114km、2.5時間。行きは鬼石・神流・志賀坂峠・八丁峠を経由し、秩父市大滝の中津川温泉(中津川村キャンプ場)の源泉地を見学、温泉をtake out。

赤茶色い析出が壮観で、青森・古遠部や山形・広河原間欠泉・八ヶ岳本沢内湯を思い起しそうです。秩父では鉄分系はここだけですが、後で訪れる金峰泉(鉱山があるということは共通)やこの前の小海リエックスや海の口も同じ系統かと思われます。

  雁坂トンネルを越え、道の駅牧丘から室伏トンネル一本を越え、右折。東京・甲府方面からは窪平トンネルを越え左折。林道杣口線(クリスタルライン)を登ります。林道と言ってもダム道路としてきちんと舗装されています。鼓川温泉・塩平方面から焼山峠までの川上牧丘林道はダム資材運搬のため現在通行止。約11kmで金峰牧場へ。焼山峠方面へ左折、柳平大橋を渡り、柳平トンネルを越え、塩水沢にかかる橋の手前に新生「金峰泉」がありました。雁坂トンネル山梨側料金所から33.2km、45分。

  入浴料700円を払い食事のできる休憩所の先の浴室に案内されます。トイレ洗浄水やカランのシャワーの流れた跡が真っ茶色に染まっているのにはビックリ。ただならぬ水であることがすぐにわかりました。

浴室は塩水沢や橋や周りの山々を望む眺めの良い風呂です。6人くらい可の「ジャグジー浸し湯」と一人用の桶風呂あり。

全国初を謳うひたし湯は意味不明。無色透明無味無臭で投入と吸込あり、オーバーフローなしの循環。女将さんの話によると真湯ですが、この水は厨房にも使われているイオン成分の多いおいしい天然水とのこと。帰りに水汲みを希望したら、厨房の蛇口のイオン水をペットボトルに汲んでいただけました。

  一方、桶風呂はややぬるく薄茶色く濁っており、黄褐色の浮遊物が舞っています(写真)。吸込・注入・塩素臭すべてなしのため湯。蛇口から加熱湯を入れることができます。

女将さんに聞いたところ、これが鉱泉でシャワーやカラン(他に便所の洗浄水、つくばい)にも使用してるとのこと。確かにカランやシャワーを冷たくするとやや発泡し白濁、うっすらとサビや硫黄のにおいがします。桶風呂はややヒヤっとする温度で夏は気持ちいいです。この桶風呂を上がり湯にしたら体の芯から強烈に火照るのを感じました。やはり、ウワサ通り金峰泉はスゴイお湯だなと感じたのでした。

  内用効能に胃ガンや糖尿病があったのには驚き。詳細を宿の方に訪ねるとイオン水と鉱泉水の他、第3の源泉・飲用源泉をお持ちで2Lペッドボトル1500円で販売していました。どうやら、これがガンなど万病に効く鉱泉らしいです。

受付には飲泉関係では著名な朝倉一善氏の「飲泉力」(主婦と生活社)のp.144-147を抜粋した冊子が置いてありました。その冊子によると泉質は以下の通りです。

泉質:酸性-鉄(U)-硫酸塩泉/泉温:9.5℃/pH2.2/硬度30.9
総ヒ素(メタ亜ヒ酸)0.006mg/kg 1998年調査
※分析データはやませみさんデータと一致。

  試しに試飲してみましたら、酸っぱいのにビックリ。群馬・奥多野で言うなら浜平源泉みたいなんでしょうか。そして色が琥珀色をしているんです。両親がガンでしたし、この味からしてタダモノでない気がしたので、思い切って一本衝動買いしました(^_^;)。

なお、ご主人によると、この源泉は別の沢筋にあって大変貴重みたいで、イオン水や鉱泉のように宿での浴用・飲用水としては利用されていないとのことです。朝夕コップ半分ずつ飲むと良いとのことです。

  以上、まとめるとこの宿には以下の3種類の源泉があるそうです。

1.イオン水(浸し湯大浴槽、厨房の水として使用の天然水・鉱泉、くせもなく飲みやすい)
2.鉱泉水(桶風呂、カラン・シャワー・玄関先つくばい、トイレの洗浄水、サビ臭あり、茶褐色に染まる)
3.販売水(飲用・宅配用として販売のみ。)

分析書は1.2.はなくて(脱衣所は鉱泉の効能のみ掲示)、3.は「飲泉力」の本にあるのみとのことです。1.か2.は水質検査書がフロント脇にありました。

  全体として確かに付近には道路や橋しかない山奥の一軒宿ですが、鄙びた湯治宿の雰囲気はなくなり、真新しい風流な旅館になったような感じがします。ここも山形県の広河原・湯ノ沢間欠泉みたいに「日本秘湯を守る会」に新規加入する可能性もあるでしょうか?将来的には琴川ダムが完成し、乙女湖が誕生すると金峰泉は湖畔の宿になるみたいです。

  さらに、女将さんは非常に愛想よく気さくに振る舞い、好感を持ちました。日帰り入浴にも関わらず玄関先まで送って下さいました。家庭的な雰囲気が感じられます。山奥の秘湯+旅館情緒(将来は湖畔の宿)+効能高い源泉+家庭的なおもてなしを求める方にオススメできると思います。
http://www.asahi-net.or.jp/~ue3t-cb/bbs/bbs06/bbs060721_0731.htm


金峰泉、復活! 2006年07月
http://www.travelog.jp/user/report_j/report.php3?seqno=10&userid=ONKEN21
http://www.travelog.jp/user/report_j/report.php3?page=2&userid=ONKEN21&seqno=10


桶風呂の源泉は薄茶色に濁り、黄土色の湯花が大量に舞っています。
湯上り後体の芯から強烈にほってってくる源泉です。

実を言いますと、浴用の源泉は酸っぱくなく、飲用だけが酸っぱいのです。その飲用源泉は宿の飲泉所みたいなところで飲むことはできないんです。あくまで2L 1500円販売用ペットボトルのみですので注意して下さいね。
http://www.travelog.jp/user/report_j/report.php3?page=2&userid=ONKEN21&seqno=10


秘境の秘湯へ連れて行っていただきました・・・創業大正二年の旅館『金峰泉』です。

乙女湖に作られたダム湖畔にある旅館なのですが、海抜1400m、麓から車で45分くらい? クリスタルラインという整備された道路があるので車さえあればアクセスはそれほど難しくないと思うのですが、麓の景色がこんな感じに遠く見えるほどの山奥です→
(しかもまだこれ途中ですw)

上にあるどんよりしたグレーの雲は、おそらく雪雲なのですよ。あとで登山者の方に聞いたところ、金峰山(2599m)はこの日、雪が降ったそうで、私たちが『金峰泉』にいるときには雹も降りました!

さてそんな山奥にある老舗旅館なのに、意外にも(失礼)新しくて綺麗で驚きました。ダム建設のためしばらく休業されていて、2006年春にリニューアルオープンされたのだそう。食堂の方に「湯上がりに昼食をいただきたいです」とお願いした後、早速お風呂へ。

左が男湯(無人だったので覗かせてもらいました)、右が女湯で左右対称の造り、かと思いきや、女湯の小さな樽のような湯船(ひたし湯というらしい)には、源泉の蛇口が付いてないです。

逆光で見づらいですが、奥の浴槽は無色透明(カルシウム・ナトリウム−硫酸塩・塩化物冷鉱泉)、ひたし湯は金色の湯の花たっぷり(酸性−鉄−硫酸塩泉(旧泉質名は酸性緑礬泉))です。

どちらも冷鉱泉で、ひたし湯は非加熱のため、まず奥の加温浴槽で温まってから、ひたし湯へ。


10月初旬なのに雹や雪が降るほどの山の上ですし、源泉温度も9.5度と低温のため、いくら水風呂好きでも温まってからじゃないと風邪ひきそうでしたが、気温が低いのに、ひたし湯に入った後は不思議と身体が寒くなかったです。

カルシウム・ナトリウム−硫酸塩・塩化物冷鉱泉の分析書は撮っていたのですが、酸性−鉄−硫酸塩泉の分析書は撮り忘れたのかも〜。
HPに掲載されている写真を見ると、以前は“ひたし湯”の小さな湯船は無く、奥の浴槽のうち右の広い方が無色で、左の狭い方が金色だったようで、どうりで奥の浴槽や洗い場付近も茶色に変色していましたが、途中で使い方が変わったのでしょうね。

湯上がりに、オーナー様のお心遣いにより、『金峰泉』を試飲させていただけました♪(2L入 1本 1500円)

貯めてある“ひたし湯”と違って、薄茶色のクリアな源泉です(ペットボトルが茶色いのは、おそらく遮光のための茶色いラベル)。
酸性泉なので酸っぱい・・・と思いきや、確かにちょっと酸っぱいのですが、それよりも甘みが強い!

濃いのでごくごく飲める味というわけではないですが、ほの甘酸っぱくて美味しい・・・なんでこんなに甘いんだろう???
それに「たくさん飲んでも大丈夫かな?」と不安になるほど、何か効きすぎそうな気がする味です(笑)

後で忍者さんから説明していただきましたが、今回飲ませて頂いたのは、新鮮な金峰泉だそうで、時間の経過と共に酸化して、甘みよりも酸味や渋みが増してくるそう。つまり一番美味しい状態で飲ませていただいたわけですね♪

玄関には岩塩みたいな大きな結晶(湯の花)が置いてありました。金峰泉で源泉は黄金色なのに、湯の花は金色じゃないんだ?! と思ったけど、カルシウム・ナトリウム−硫酸塩・塩化物冷鉱泉の方の湯の花かな?

玄関入ってすぐのお部屋は休憩室があり、湖畔を眺められました。ウッドデッキもあって素敵です。食堂で湖を眺めながら頂くお食事もとても美味しかった!
いつかゆっくりお泊まりで訪れたい旅館です。
http://1010on1000.blog42.fc2.com/blog-entry-642.html


ちょっと残念 (金峰泉)
Zarusaruさん [入浴日:2009年6月]

知る人ぞ知る「万病に効く金峰泉の飲泉」。
難病が治ったと云う方に教えられ、奈良田の里を昼に出発、源泉水を売る本舗に3時着。本舗の80歳になるお婆ちゃんの血色の良いこと驚きです。

ここから約30分、足を伸ばしてダム湖畔の旅館へ日帰り入浴。

飲泉の効能が強烈なので入浴も期待し過ぎたかも。
誠に残念な評点になってしまった。ここは泊まりで楽しむ処ですかね。
http://onsen.nifty.com/cs/kuchikomi/onsen_255/list/aid_onsen008235/1.htm


お  し  ら  せ

日頃より、ご愛顧を賜り、ありがとうございます。

『旅館金峰泉』は、都合によりしばらくの間休業いたします。
よろしくお願い申し上げます。
http://www.kinposen.com/

http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/419.html#c4

[近代史3] 重信房子、北朝鮮、オウム真理教の深い関係 中川隆
6. 中川隆[-10344] koaQ7Jey 2019年5月11日 18:02:51 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[1764]

  アジアとの「友好」を言い出す連中には、何となく胡散臭い人物が結構いる。会長の頭山興助もその一人で、聞くところによると、彼は重信メイの後見人になっているそうだ。

彼女は日本赤軍のテロリスト重信房子の娘で、父親はレバノン人である。

実際、どんな経緯でメイの後見人になったのか解らないが、一説によると、重信房子の父親「重信末夫」が金雞学院の門下生で、頭山満の息子である秀三と関係があったらしい。そこで、秀三の息子である興助がメイを支援することになったそうだ。

確かに、母親が極左テロリストであっても、その娘がテロリストになるわけじゃない。
だが、メイの精神が健全で日本を愛する心があるのかどうか、疑問である。だいたい、パレスチナ解放戦線のゲリラやテロリストに囲まれて育った娘が、カタギの大人になって普通の生活を送るのか?

長いこと無国籍状態だったメイは、日本の左翼弁護士の尽力で日本国籍を取得し、憧れの日本にやって来たというが、その頭が日本的とは限らない。


  メイは中東に詳しいジャーナリストの看板でマスコミに登場したが、母親の気質に染まっていたので、その根本思想は左翼である。

案の定、メイは極左の片鱗を現し、特定秘密法案が提出されると、左翼ジャーナリストと一緒になって反対を表明した。

「知る権利の侵害だ !」と騒いだのは、ほとんどが札付きの左翼分子。

例えば、テレ朝の寵愛を受ける青木理、大谷昭宏、川村晃司、荻原博子、田原総一朗、山田厚史、吉永みち子、高野孟、鳥越俊太郎、

TBSの「報道特集」でキャスターを務める金平茂紀、

「サンデー・モーニング」でお馴染みの岸井成格、

支那人と裏で繋がっている富坂聰、作家の佐野眞一、

ジャーナリストの江川紹子、安田浩一、

左巻き作家の澤地久枝、左翼に戻った小林よしのり、元同志社大学の黒ヘルが自慢の小川和久、作曲家のなかにし礼、

頭がおかしい精神科医の香山リカ、左翼俳優の菅原文太、セクハラ疑惑で早稲田大学を去った元日経新聞の田勢康弘、『万引き家族』の監督を務めた是枝裕和、

陰湿な歴史家の保阪正康、NHKと昵懇で安倍・中川の政治介入を言い立てた本田雅和、元酌婦で親共産党の室井佑月、英国からやって来たビルマ系ユダヤ人のピーター・バラカンなど、朱色から深紅まで様々だ。
http://kurokiyorikage.doorblog.jp/archives/68765229.html
http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/300.html#c6

[近代史02] 弥生人の起源 _ 自称専門家の嘘に騙されない為に これ位は知っておこう 中川隆
198. 中川隆[-10343] koaQ7Jey 2019年5月11日 18:10:24 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[1765]

日本人のガラパゴス的民族性の起源
15-31. 新石器時代後期の中国北部がシナ‐チベット語族の起源らしい!
http://garapagos.hotcom-cafe.com/15-31.htm


  Natureの2019年4月25日付けの論文で、シナ−チベット語族の起源が中国北部との「中国北部起源説」を支持する旨の系統発生学的な証拠がそろったとの 内容が発表されました。シナーチベット語族の分岐は5900年前頃で黄河域で生じた、と説明している。

しかもシナ語族とチベット−ビルマ語族の分離は西方のチベットと南方のミャンマーに移動した集団と、 東方と南方に移動して漢民族となった集団に分岐した時だったと考えられるらしい。 これは縄文系の兄Y-DNA遺伝子集団であるチベット民族の起源にも触れるため、記事にしました。

  これとY-DNA調査によるガラパゴス史観を当てはめると、
1.揚子江流域で発展した稲作農耕の長江文明集団(Y-DNA「O1」)が、陸稲文化だった
  黄河文明系集団(Y-DNA「O2」)に敗れ、中原から追い出され、北方と南方に逃げた
  ことと一致する。南方に逃げた集団(オーストロアジア語系/越系:Y-DNA「O1b1」
  となった)は現代のベトナムからインドに分布し、稲作農耕民として生活している。
  一方北方に逃げた集団(オーストロアジア語系/呉系:Y-DNA「O1b2」となった)は
  満州あたりまで逃げそこから稲作適地を求め南下し朝鮮半島を経由し日本列島に入り
  弥生系文化集団となり、現代に続く日本人と朝鮮人の稲作農耕民の祖先となっている。
  東方に逃げ台湾に入った集団(オーストロネシア語系/楚系:Y-DNA「O1a」になっ
  た)も存在するが、同時代かどうかはまだわかっていません。

2.この時、西方のチベットに逃げ込んだ集団がチベット語族となったようですが、
  そうすると縄文系日本人Y-DNA「D1b」の兄遺伝子Y-DNA「D1a」を持つチベット人
  (後代に移住してきた漢族は除く)はその当時まで中原付近に居住していたことになり
  ます。
  ところが人類学の最新の研究では現代チベット人やシェルパ族の高地適応はデニソワ人
  から受け継いだと説明しています。そうするとその当時までデニソワ人はチベット
  高原に生き延びていたことになりますが.......?
  もしくは、四川文明は蜀の先祖/古蜀の古代文化と考えられますが、チベット系は中国
  大陸の中部から西部チベット高原に古代から既に広く拡大していたのかもしれません。
  日本語とチベット語の関係はまだ解明されていませんが、民話は、姑娘民話とかぐや
  姫民話など、一部共通するものがありますので、言語学者が古代チベット語を系統発生
  学で研究すると縄文語との近縁性が解明されるかもしれません。
  過去に学習院大学の大野教授が日本語の祖先はドラヴィダ人のタミール語であると発表
  し、今は死説となりましたが、Y-DNA「O1b1」のモンゴロイド系稲作農耕民が現代
  でも70%以上を占める部族がドライダ人集団内にいるため、この死説は弥生人が使っ
  ていた長江系稲作農耕関連の語彙が、遠くドラヴィダ人内に今でも残っていることを
  証明した事になるため、結果として極めて貴重な学説となりました。

3.この時に東方と南方に拡大したのが後の漢民族の母体となるY-DNA「O2」遺伝子集団
  と考えられます。この遺伝子集団は周辺の他の遺伝子集団と積極的に混じり合ったらし
  く、極東アジアのみならず、インドネシアなどのスンダ列島やニューギニアまで、
  東南アジアからオセアニアまで広く分布しています。これぞ極めつけの極東アジア人
  遺伝子のY-DNA「O」は、古代ではかなり活動的な集団だったのではないかと推測でき
  ます。


=======================
それでは、Nature論文のabstructを転記します。興味のある方は原著を是非お読みください。

Nature Letter | Published: 24 April 2019

Phylogenetic evidence for Sino-Tibetan origin in northern China in the Late Neolithic

 The study of language origin and divergence is important for understanding the history of human populations and their cultures.
 The Sino-Tibetan language family is the second largest in the world after Indo-European, and there is a long-running debate about its phylogeny and the time depth of its original divergence.
 Here we perform a Bayesian phylogenetic analysis to examine two competing hypotheses of the origin of the Sino-Tibetan language family: the ‘northern-origin hypothesis’ and the ‘southwestern-origin hypothesis’.
 The northern-origin hypothesis states that the initial expansion of Sino-Tibetan languages occurred approximately 4,000?6,000?years before present(bp; taken as ad 1950) in the Yellow River basin of northern China and that this expansion is associated with the development of the Yangshao and/or Majiayao Neolithic cultures.
 The southwestern-origin hypothesis states that an early expansion of Sino-Tibetan languages occurred before 9,000?years bp from a region in southwest Sichuan province in China or in northeast India, where a high diversity of Tibeto-Burman languages exists today.
 Consistent with the northern-origin hypothesis, our Bayesian phylogenetic analysis of 109 languages with 949 lexical root-meanings produced an estimated time depth for the divergence of Sino-Tibetan languages of approximately 4,200?7,800?years bp, with an average value of approximately 5,900?years bp.
 In addition, the phylogeny supported a dichotomy between Sinitic and Tibeto-Burman languages.
 Our results are compatible with the archaeological records, and with the farming and language dispersal hypothesis of agricultural expansion in China.
 Our findings provide a linguistic foothold for further interdisciplinary studies of prehistoric human activity in East Asia.
========================
和訳です。

新石器時代後期の中国北部にシナ‐チベット語族の起源があることの系統発生の証拠。

 "言語起源と相違の研究は、人間の集団と彼らの文化の歴史を理解することにとって重要です。
"
 シナ‐チベット語族の言語族はインド‐ヨーロッパ語族の後で世界で2番目に大きいです、そして、 その系統発生とその最初の拡散の時期についての長い年月にわたる議論があります。

 "ここでは、シナ‐チベット語族の言語族の起源の2つの拮抗している仮説、すなわち『北部起源仮説』と『南西部起源仮説』、 を調べるために、我々はベイズ的な系統発生の分析を行います。 "

 北部起源説は、シナ‐チベット語族の最初の拡大が中国北部の黄河流域で、4000〜6000年前に生じ、 そしてこの拡散は新石器時代文化の仰韶(ヤンシャオ)文化 and/or 馬家窯(マジャヤオ)文化の開発と関連している、と説明しています。

 南西部起源説は、シナ‐チベット語族の初期の拡大は、今日でも高い多様性のチベット-ビルマ語族が居住している 中国四川省の南西部もしくはインド北東部で9000年前頃に生じたと説明しています。

 949の語彙の根源的な意味の統計解析による109の言語に対する我々のベイズ的な系統発生の分析は、 シナ‐チベット語族の分岐はおよそほぼ4,200〜7,800年前で平均は、北部起源仮説と一致しておよそ5900年前であった。

 "これに加えて系統発生は、シナ-チベット語族が、シナ語とチベット-ビルマ語族に二分されることを支持しました。
"
 我々の結果は、考古学的な記録と、そして、中国における農業と言語による農業の分散仮説と一致しています。

 我々の調査結果は、東アジアでの有史以前の人間の活動のより学際的な研究に、言語学的な足掛かりを提供します。
 http://garapagos.hotcom-cafe.com/15-31.htm
http://www.asyura2.com/09/reki02/msg/547.html#c198

[近代史3] コーカソイドだった黄河文明人が他民族の女をレイプしまくって生まれた子供の子孫が漢民族 中川隆
16. 中川隆[-10342] koaQ7Jey 2019年5月11日 18:12:43 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[1766]

日本人のガラパゴス的民族性の起源
15-31. 新石器時代後期の中国北部がシナ‐チベット語族の起源らしい!
http://garapagos.hotcom-cafe.com/15-31.htm


  Natureの2019年4月25日付けの論文で、シナ−チベット語族の起源が中国北部との「中国北部起源説」を支持する旨の系統発生学的な証拠がそろったとの 内容が発表されました。シナーチベット語族の分岐は5900年前頃で黄河域で生じた、と説明している。

しかもシナ語族とチベット−ビルマ語族の分離は西方のチベットと南方のミャンマーに移動した集団と、 東方と南方に移動して漢民族となった集団に分岐した時だったと考えられるらしい。 これは縄文系の兄Y-DNA遺伝子集団であるチベット民族の起源にも触れるため、記事にしました。

  これとY-DNA調査によるガラパゴス史観を当てはめると、
1.揚子江流域で発展した稲作農耕の長江文明集団(Y-DNA「O1」)が、陸稲文化だった
  黄河文明系集団(Y-DNA「O2」)に敗れ、中原から追い出され、北方と南方に逃げた
  ことと一致する。南方に逃げた集団(オーストロアジア語系/越系:Y-DNA「O1b1」
  となった)は現代のベトナムからインドに分布し、稲作農耕民として生活している。
  一方北方に逃げた集団(オーストロアジア語系/呉系:Y-DNA「O1b2」となった)は
  満州あたりまで逃げそこから稲作適地を求め南下し朝鮮半島を経由し日本列島に入り
  弥生系文化集団となり、現代に続く日本人と朝鮮人の稲作農耕民の祖先となっている。
  東方に逃げ台湾に入った集団(オーストロネシア語系/楚系:Y-DNA「O1a」になっ
  た)も存在するが、同時代かどうかはまだわかっていません。


2.この時、西方のチベットに逃げ込んだ集団がチベット語族となったようですが、
  そうすると縄文系日本人Y-DNA「D1b」の兄遺伝子Y-DNA「D1a」を持つチベット人
  (後代に移住してきた漢族は除く)はその当時まで中原付近に居住していたことになり
  ます。
  ところが人類学の最新の研究では現代チベット人やシェルパ族の高地適応はデニソワ人
  から受け継いだと説明しています。そうするとその当時までデニソワ人はチベット
  高原に生き延びていたことになりますが.......?
  もしくは、四川文明は蜀の先祖/古蜀の古代文化と考えられますが、チベット系は中国
  大陸の中部から西部チベット高原に古代から既に広く拡大していたのかもしれません。
  日本語とチベット語の関係はまだ解明されていませんが、民話は、姑娘民話とかぐや
  姫民話など、一部共通するものがありますので、言語学者が古代チベット語を系統発生
  学で研究すると縄文語との近縁性が解明されるかもしれません。
  過去に学習院大学の大野教授が日本語の祖先はドラヴィダ人のタミール語であると発表
  し、今は死説となりましたが、Y-DNA「O1b1」のモンゴロイド系稲作農耕民が現代
  でも70%以上を占める部族がドライダ人集団内にいるため、この死説は弥生人が使っ
  ていた長江系稲作農耕関連の語彙が、遠くドラヴィダ人内に今でも残っていることを
  証明した事になるため、結果として極めて貴重な学説となりました。

3.この時に東方と南方に拡大したのが後の漢民族の母体となるY-DNA「O2」遺伝子集団
  と考えられます。この遺伝子集団は周辺の他の遺伝子集団と積極的に混じり合ったらし
  く、極東アジアのみならず、インドネシアなどのスンダ列島やニューギニアまで、
  東南アジアからオセアニアまで広く分布しています。これぞ極めつけの極東アジア人
  遺伝子のY-DNA「O」は、古代ではかなり活動的な集団だったのではないかと推測でき
  ます。


=======================
それでは、Nature論文のabstructを転記します。興味のある方は原著を是非お読みください。

Nature Letter | Published: 24 April 2019

Phylogenetic evidence for Sino-Tibetan origin in northern China in the Late Neolithic

 The study of language origin and divergence is important for understanding the history of human populations and their cultures.
 The Sino-Tibetan language family is the second largest in the world after Indo-European, and there is a long-running debate about its phylogeny and the time depth of its original divergence.
 Here we perform a Bayesian phylogenetic analysis to examine two competing hypotheses of the origin of the Sino-Tibetan language family: the ‘northern-origin hypothesis’ and the ‘southwestern-origin hypothesis’.
 The northern-origin hypothesis states that the initial expansion of Sino-Tibetan languages occurred approximately 4,000?6,000?years before present(bp; taken as ad 1950) in the Yellow River basin of northern China and that this expansion is associated with the development of the Yangshao and/or Majiayao Neolithic cultures.
 The southwestern-origin hypothesis states that an early expansion of Sino-Tibetan languages occurred before 9,000?years bp from a region in southwest Sichuan province in China or in northeast India, where a high diversity of Tibeto-Burman languages exists today.
 Consistent with the northern-origin hypothesis, our Bayesian phylogenetic analysis of 109 languages with 949 lexical root-meanings produced an estimated time depth for the divergence of Sino-Tibetan languages of approximately 4,200?7,800?years bp, with an average value of approximately 5,900?years bp.
 In addition, the phylogeny supported a dichotomy between Sinitic and Tibeto-Burman languages.
 Our results are compatible with the archaeological records, and with the farming and language dispersal hypothesis of agricultural expansion in China.
 Our findings provide a linguistic foothold for further interdisciplinary studies of prehistoric human activity in East Asia.
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和訳です。

新石器時代後期の中国北部にシナ‐チベット語族の起源があることの系統発生の証拠。

 "言語起源と相違の研究は、人間の集団と彼らの文化の歴史を理解することにとって重要です。
"
 シナ‐チベット語族の言語族はインド‐ヨーロッパ語族の後で世界で2番目に大きいです、そして、 その系統発生とその最初の拡散の時期についての長い年月にわたる議論があります。

 "ここでは、シナ‐チベット語族の言語族の起源の2つの拮抗している仮説、すなわち『北部起源仮説』と『南西部起源仮説』、 を調べるために、我々はベイズ的な系統発生の分析を行います。 "

 北部起源説は、シナ‐チベット語族の最初の拡大が中国北部の黄河流域で、4000〜6000年前に生じ、 そしてこの拡散は新石器時代文化の仰韶(ヤンシャオ)文化 and/or 馬家窯(マジャヤオ)文化の開発と関連している、と説明しています。

 南西部起源説は、シナ‐チベット語族の初期の拡大は、今日でも高い多様性のチベット-ビルマ語族が居住している 中国四川省の南西部もしくはインド北東部で9000年前頃に生じたと説明しています。

 949の語彙の根源的な意味の統計解析による109の言語に対する我々のベイズ的な系統発生の分析は、 シナ‐チベット語族の分岐はおよそほぼ4,200〜7,800年前で平均は、北部起源仮説と一致しておよそ5900年前であった。

 "これに加えて系統発生は、シナ-チベット語族が、シナ語とチベット-ビルマ語族に二分されることを支持しました。
"
 我々の結果は、考古学的な記録と、そして、中国における農業と言語による農業の分散仮説と一致しています。

 我々の調査結果は、東アジアでの有史以前の人間の活動のより学際的な研究に、言語学的な足掛かりを提供します。
 http://garapagos.hotcom-cafe.com/15-31.htm

http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/306.html#c16

[昼休み52] 日本人女性2人、リゾート地・セブ島で知り合った韓国人の男2人と飲酒→集団強姦される…フィリピン 中川隆
302. 中川隆[-10341] koaQ7Jey 2019年5月11日 18:34:23 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[1767]

2019年05月11日
韓国フードデリバリー(宅配)配達員 2万人以上が年収600万円以上

一見そんな風に見えないが、平均年収600万円以上だという


画像引用:http://www.kfoodtimes.com/news/photo/201806/5540_8467_27.PNG

韓国で「ひとり飯」はあり得ない

日本は空前の人手不足だが韓国は逆に就職難で、平均失業率は5%で若者は10%とされています。

集計に含まれない未労働者はもっと多く、就職しても低賃金労働をしている人が多い。

だが韓国でも超人手不足になっている業界があり、それが宅配ドライバーです。



日本でも最近フードデリバリーが走り回ったり、ネット通販の宅配需要で配達ドライバー不足が言われています。

失業率が高い筈の韓国で、なぜ宅配ドライバーだけ不足するのかは、韓国独自の事情がありそうです。

まず韓国では外食店の料理を自宅に配達してもらうフードデリバリーが日本より盛んだが、韓国文化が関係している。


ソウルのような大都会ではそうでもないが、地方都市や田舎では1人で外食することは少ない。

店には横並びのカウンターや一人用のテーブル席はなく、4人以上で座るような大テーブルが並んでいる。

あったとしても2人席だが、そこに一人で座って食事をすると人生の落後者のような目で見られる。


韓国で「あいつ一人で食事している」と言えば人格否定もので、日本のような「おひとり様」文化はない。

日本人が1人で入店すると断られることがあるが、これは日本人だからではなく「一人客お断り」の場合がほとんどです。

カウンターがないのでテーブルに一人客が座ると団体客が座れなくなり、店の売り上げが落ちるから入店拒否します。


なので韓国人が日本に来て、みんな一人で外食しているのを見ると、カルチャーショックを受けます。

中小企業正社員の2倍以上の報酬

韓国では(特に女性は)一人で外食したら近所中の噂になり、社会落後者にされてしまうので、解決策として宅配が利用される。

韓国における宅配サービスはひとり飯を救う重要な役割を占めていて、バイクなどで配達する配達員をする人が多い。

配達員の需要が配達で働きたい人を遥かに上回り、デリバリーサービスで配達員の争奪戦が起きています。


韓国のフードデリバリーは1回3500から4千ウォン(約340から390円)ほどの料金を払い、90%が配達員の取り分になる。

日本の場合は1回500円から1000円以上(距離などで違う)の手数料を払い、400円から600円以上が配達員の取り分になる。

日本のほうが1回あたりの手数料、配達員の報酬共に多いが、それだけ韓国の方が競争が激しいと言える。


宅配大手のCJ大韓通運が発表した2018年の宅配ドライバー収入は、韓国の人々に衝撃を与えた。

全体の4.6%に当たる559人が年1億ウォン(1000万円)以上の報酬を受け取り、22.5%は年間所得8000万ウォン(約800万円)以上だった。

さらに全体の71.5%が年間所得6000万ウォン(約600万円)以上で、全ドライバーの平均は6937万ウォン(約667万円)だった。


これは韓国労働者(正社員)の平均年収(3475万ウォン(約349万円))(中央値は2720万ウォン(約255万円))を遥かに上回っている。

全体の4.6%が559人なので総数1万2000人以上もの配達員が、正社員労働者の2倍以上の年収を得ている。

ソウルでは年4億ウォン(約4000万円以上)も稼いだ配達員が居て、驚くほかない。


調査したCJ大韓通運はフードデリバリーで48.2%のシェアを持ち、ここから韓国の全配達員は約2万5千人であると分かる。

それだけ儲かるのなら若者全員が配達員になりそうだが、相変わらず若者の失業率は高い。

韓国の若者は「デリバリーなんかより無職のほうが良い」と考えているようだ。
http://www.thutmosev.com/archives/79799646.html
http://www.asyura2.com/12/lunchbreak52/msg/334.html#c302

[リバイバル3] 月山スキー場 中川隆
11. 中川隆[-10340] koaQ7Jey 2019年5月11日 18:38:57 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[1768]

リフト緊急停止で160人宙づり ロープや脚立で救助(19-05-11) - YouTube
https://www.youtube.com/watch?v=EVTCVl5pQ7c


 11日午前10時半ごろ、山形県西川町の月山スキー場でリフトが止まり、乗っていた約160人のスキーヤーが宙づりとなりました。

スキーヤーたちはロープや脚立で1人ずつゲレンデに降ろされ、約2時間後に全員が無事に救助されました。

スキー場の運営会社によりますと、午前10時半ごろ、降り場付近で乗客の荷物かウェアが引っ掛かって緊急停止した後、動かなくなったということです。リフトの動力は電気で、モーター関連の故障とみられています。
http://www.asyura2.com/09/revival3/msg/867.html#c11

[昼休み54] 中国人のチベットでの民族浄化の手口 中川隆
12. 中川隆[-10339] koaQ7Jey 2019年5月11日 18:44:15 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[1769]
チベット民族平和蜂起60周年記念日におけるロブサン・センゲ主席大臣の声明(ダライ・ラマ法王日本代表部事務所)
http://www.asyura2.com/17/asia23/msg/768.html
http://www.tibethouse.jp/news_release/2019/190310_Statement_JP_20190310.html


2019年3月10日


中国人民解放軍は、列を成してチベットの地に初めて足を踏み入れたとき、チベットとその人々に「平和と繁栄」をもたらす「道」を築くと約束しました。しかし、その「道」が築かれた途端、銃を手にした人民解放軍の兵士が戦車で次々となだれ込み、チベット高原を占拠しました。

1959年、60年前の本日、チベット本土に暮らすチベット人たちは、チベットを占拠する中国軍に対し、立ち上がりました。拳を頭上高く掲げた勇敢なチベット人たちは、スノーランドはチベットの土地であると主張して、デモ行進を行いました。チベットはチベット人のものだと、声高く訴え、一致団結し、私たちチベット人の導師であり最も敬愛する指導者であるダライ・ラマ法王14世の御身をお守りしました。

過去60年にわたって、北京の中国政府はチベット人を激しく弾圧し、基本的人権を否定して、チベットの言語、文化、独自のアイデンティティ、宗教を消し去ろうと組織的な活動を続けてきました。中国はチベットの文明をこの地球上から抹消しようと手を尽くしてきたのです。

ヒューマンライツ・ウォッチの今年の年次報告書では、中国当局が「全国規模の防犯運動」の名のもとに、ダライ・ラマ法王に少しでも傾倒する疑いのある者がいれば、その地域の住民がその者を告発することを奨励していると報告されています。

さらに、近年では人権保護活動に対する弾圧が激化しています。言語保護活動家のタシ・ワンチュク氏は、中国の刑務所に懲役5年の刑で現在も服役中です。犯したとされる罪は、チベット人の子どもたちのために、チベット文化と言語の権利を提唱していたことのみです。これらの権利は中国憲法で保障されているはずです。ところが中国政府は最近では、チベット人の子どもたちに地域の僧院で行われる非公式のチベット語講座に出席することさえも禁じました。

世界規模の監視ネットワーク管理をもくろむ中国は、その手始めにチベットをハイテク監視システムの試験地区に利用しています。中国共産党は「グリッド監視システムによる社会管理」を導入して電子機器と監視員を配置し、隅々まで徹底した管理体制を敷いています。2008年からは市街地や郊外のあらゆる主要道路のほか、チベット高原の僻地にまで、バリケードや検問所が設置されています。チベット自治区では、平均でチベット人20人に対しひとり以上の担当官が政府から配置されています。こうした政策の結果、息子が父親を、娘が母親を、兄弟同士で監視しあうような悲惨な状況が起こっています。

「世界の第三極」としても知られるチベット高原には、北極と南極を除いて世界最大の氷河があり、アジア最大の河川群の水源として、数十億人の暮らしを支えています。そのため、チベット高原で気温が上昇するとアジアで数百万人の生活が危機にさらされるほか、世界中の気候変動に影響が及びます。中国は誤った環境政策のもと、資源の豊富なチベット高原で鉱業とダム建設を大規模に展開し、事態をさらに悪化させています。

チベットの土地や住民に対する弾圧はあらゆる方面から行われてきました。200万人を超えるチベットの農民や、特に遊牧民たちが、祖先から受け継いだ土地を奪われ、大規模な居住区に移住を強いられました。そこには個人が伝統を重んじた尊厳をもった暮らしを送る余地はありません。

チベット本土で起こる厳しい抑圧政策に対し、2009年以降、153名のチベット人が焼身抗議を行いました。一番最近の焼身抗議は、2018年11月4日に起こった、ドポという23歳の青年によるものでした。焼身抗議者の大半は、チベットの自由の回復と、ダライ・ラマ法王のチベットご帰還を求めていました。

フリーダムハウスが発表した2019年の報告書では、チベットは4年連続で、シリアに次いで最も不自由な国に挙げられています。国境なき記者団は「報道の自由が組織的に侵害されていることに怒りを覚える」と表明しました。ジャーナリストがチベットに入るのは北朝鮮に入ることより難しいというのです。

世界中に暮らす私たちチベット人は、チベットの歴史の中でも最も暗い時代を体験していますが、あらゆる障害を乗り越えて、多くのものを共に勝ち得てきました。これまでの60年は、希望を忘れず、屈することなく抵抗する、そうした旅路でした。

1950年代の初頭より、中国による弾圧に対し、チベット人たちは、確固たる姿勢できわめて平和的に抵抗運動を行ってきました。1959年3月のチベット民族平和蜂起、獄中や強制収容所での勇敢な抵抗運動を行った1960年代と1970年代、大規模デモを行った1980年代。チベット人たちは一致団結して、権利と自由、正義を求めて闘い続けてきました。

2008年には、新しい世代のチベット人たちが中国の占拠に対してチベット全土で蜂起し、自由と尊厳を求めるチベット人たちの揺るぎない勇気を世界中に示しました。彼らはこう宣言しました。「我々の声を抑えることはできない。我々の活動を止めることはできない」この確固たる抵抗運動は続いていきます。

亡命したチベット人たちも同様に、チベット人社会を立て直すだけにとどまらず、コミュニティは発展し繁栄するまでになりました。私たちの祖父母の世代がインドに60年前に到着したときには、明日どうなるのかもわからない状況でした。しかし、ダライ・ラマ法王のご指導のもと、チベット人たちは復興に尽力しました。土を掘り、ひとつひとつ煉瓦を積み、家を建て、学校を作り、僧院、尼僧院、居住区を建設し、家庭が集まって社会を築き、トウモロコシ畑に希望の種を蒔きました。伝統的な敷物を織る技術を発展させながら、子どもたちのためにより良い未来を敷いていきました。

こうして造り上げた施設や社会で、私たちはチベット人としての言語、文化、精神的伝統、そして私たちの最も大切なアイデンティティを復興させました。私たちには奥深い歴史、伝統、思想、芸術があり、犠牲者としての物語を、逆境に屈しない者たちの物語に変えることができました。私たちの主張は真実であり、また私たちは様々なプロジェクトを実現し、成功させる実績を数十年にわたって積み重ね、世界中の支援者や支援団体から大きな評価を勝ち得てきました。

ダライ・ラマ法王のご指導のもと、中央チベット政権は亡命先の社会で、法治主義、男女平等主義、普通選挙権に基づく民主主義を発展させました。2011年、ダライ・ラマ法王は、その政治的指導者の立場を、チベット人が民主的に選出した指導者に委譲されました。今日、中央チベット政権は世界40か国に広がるチベット人社会を代表する組織となり、13か国に置かれたチベット代表事務所がその連携の役割を担っています。

中央チベット政権の任務として、チベット人居住区71カ所、僧院・尼僧院276カ所を統括するほか、68校の学校施設ではおよそ2万人が学び、南アジア、東南アジアの大半の国々より高い識字率を誇り、病院、診療所、老人施設も管理しています。すべて、インド、ネパール、ブータンに暮らす亡命チベット人たちのニーズに応える施設です。

私たちの成功は、地域社会だけに留まってはいません。日本では、超党派議員90名から成る日本チベット国会議員連盟が結成されました。チェコで結成されたチベットのための国会議員団は、ヨーロッパ大陸最大の国会議員団で、上院、下院から合わせて50名以上の議員で結成されています。40か国を超える国々で、国の支援グループが設立され、54か国でチベット支援団体が活動を行っています。

2018年の国連人権理事会では、加盟国のなかでも強大な影響力のある国々が、中国に対し、チベットでの人権侵害を中止するよう要請しました。オーストラリア、オーストリア、ベルギー、カナダ、デンマーク、フランス、ドイツ、日本、ニュージーランド、スウェーデン、スイス、イギリス、アメリカは、中国の第3会期の普遍的定期審査のなかでチベットへの支持を表明し、私たちは大変感銘を受けています。

もう一つ特筆すべきこととして、2018年12月、アメリカは、「チベット相互入国法」を可決し、前例のない一歩に踏み切りました。この法律は、中国当局がアメリカ政府高官やアメリカ人報道関係者のチベット立ち入りを禁止した場合、中国当局者の訪米を拒否するというものです。また、ドナルド・トランプ大統領は「アジア再保障イニシアチブ法案」を発効させ、チベット支援を強化しました。これはチベットの文化、教育、環境の保護と発展に対するアメリカの経済的支援を保障するものです。

中国政府が「協力」や「対話」などという言葉を使うときはリップサービスであると私たちはよく知っています。「世界平和は協働により実現が可能である」ということが中国の真意であるなら、ダライ・ラマ法王の代表団との対話を再開すべきです。何度も表明していますが、私たちは中道のアプローチに基づいてチベット問題を対話により解決する用意は整っています。

中国政府は、チベットで60年続く抑圧を終わらせるどころか、「0と100政策」を打ち出しました。この新しい政策では、国際メディアと亡命チベット人からの情報がチベット本土に流入するのをゼロにし、チベットに関する公式ニュースの100%を中国政府が管理し諸外国や亡命チベット人に普及させる、というものです。

中国政府はチベット問題が時間とともにやがて風化していくと考えてきました。しかし、私たちは50年以上にわたるあらゆる経験から、その逆の現象が起こっていると考えます。チベット本土で暮らす若い世代のチベット人たちは、抑圧と抵抗を経験していますが、一方で亡命先の地で暮らす若いチベット人たちは、自由と民主主義を経験しています。チベット本土のチベット人たちと亡命社会のチベット人たちは、共に協力して、真実と正義を求めようとしています。この新しい世代のチベット人たちは、チベット人の独自のアイデンティティと尊厳を守ろうと行動しています。また、その活動のバトンを次の走者に、チベット問題が解決するまでつないでいこうとしています。結局は、チベット人が自分たちやチベットの運命を決めるのは、チベット人自らのためなのです。

60年にわたって私たちチベット人を支援してくださった各国の皆様に謝意を伝えるために、2018年を「感謝の年」とし、「サンキュー・インド」にはじまる謝恩プログラムを、新旧のチベット支援者の皆さまのために各国で開催し、「サンキュー・アメリカ」で締めくくりました。インドをはじめ、世界中の親愛なる友人の皆さまに、ここに再度、謹んでお礼申し上げます。

チベットの悲劇を考えると、すべきことがまだ山積していることを思い知らされます。チベット占拠とチベット人弾圧は60年にもわたって続いています。そこで、内閣(カシャック)は、チベットの自由を求める活動を前進させるために、今年を「行動の年」とすることを、本日ここに宣言します。世界中の自由を愛する皆様に、チベット本土での弾圧を終わらせ、正義のために闘うことを呼び掛けたいと思います。各地のチベット人の皆様、正義のために行動を続けましょう。チベット本土で自由に同胞たちと集えるよう、屈しない姿勢を強くしていきましょう。ダライ・ラマ法王14世に、本来住まわれるべきポタラ宮へお戻りいただけるよう、行動していきましょう。

ダライ・ラマ法王万歳!チベット万歳!


http://www.asyura2.com/17/lunchbreak54/msg/282.html#c12

[リバイバル3] 苗場スキー場の元高級リゾートマンションが遂に10万円になった 中川隆
530. 中川隆[-10338] koaQ7Jey 2019年5月11日 19:35:49 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[1770]

ポツンと一軒家 - YouTube 動画
https://www.youtube.com/results?search_query=%E3%83%9D%E3%83%84%E3%83%B3%E3%81%A8%E4%B8%80%E8%BB%92%E5%AE%B6


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東海アマブログ 我々は、本当に必要な数百倍もの浪費生活を強いられていること 2019年05月11日
http://tokaiama.blog69.fc2.com/blog-entry-739.html


 「ポツンと一軒家」というTV番組を見てると、とても考えさせられる。
 90歳を超えたような老人が、人里遠く離れた山中に暮らしている。そこは、集落から数十分車で恐ろしい林道を走り、さらに徒歩で数十分も山道を歩いて行かねばたどり着けない。

 いわゆる「限界集落」では、高齢老人たちばかりになった集落が、集落としての機能を失って、人々が山を下りて、全体が廃屋化してゆくのだが、「ポツンと一軒家」では、たった一軒取り残された生家で、死ぬまで淡々と生活を続ける老人たちの姿が描き出されている。

 これを視聴していると、山暮らしの想像力をかき立てる柳田国男の「山の人生」を思い起こさざるをえない。


柳田国男「山の人生」
https://www.aozora.gr.jp/cards/001566/files/52505_50610.html

 「ポツンと一軒家」には、多くの場合、電気は来ているが、水道も下水道も、プロパンもない。だからエネルギーは、周囲にある大自然の恵みである薪を利用している家が多い。

 水は、自然の表流水や井戸を用い、食料の多くが畑作による自給自足である。

 実は、このところ、エネルギー問題を考えていて、これから日本では、どのようなエネルギーを利用すべきかという立場で、もちろん強硬な反原発の私は、再生可能エネルギーを考えていたのだが、ポツンと……を見ていると、何か、自分の考えに、とんでもない間違いがあるような気がして、エネルギー問題を哲学的に根底から考え直さざるをえなくなったのである。

 本当のエネルギー問題を考えて行くと、実は、資本主義における、我々の生活の浪費問題こそ、もっとも必要な視点ではないかと確信するに至った。
 ポツンと……の生活は、実に合理的である。これまで見てきた範囲で、クーラーが敷設された家は確認できなかった。

 森を吹き抜ける自然の風があれば、人工的な冷風は無用であり、クーラーというものは、大都市のなかで他人の廃熱から身を守るために必要なものであろうと思った。

 山の上だから厳冬期は猛烈に寒い。ほとんどの家に薪ストーブがあり、家の外には大きな薪小屋があって、大量のストックがあった。秋までに、せっせと近所の木を切って薪を確保乾燥しておくのである。(普通は乾燥に2シーズンかける)

 私も薪ストーブを利用しているので、大きな森林環境のなかでは、ほぼ無限に薪が供給可能であることを知っている。

 調理も、プロパンガスなどではなく、薪ストーブを調理器具として利用している場合が多かった。

 確かに、ストーブ上には一つの煮炊き口しかないが、昔の食生活を考えれば、決して不便はないように思える。囲炉裏を併設している場合も多く、この場合は二つ使える。

 ポツンと……に登場する多くの老人たちに不満、不便、不自由は見えない。生まれたときから繰り返してきた日常生活を死ぬまで続けるだけのことだ。

 排泄物も、昔通りに肥だめに入れて発酵させてから畑に散布する。水洗便所もEM菌も必要としていない。

 たぶん電気も、灯火に使いテレビを見る程度で、停電しても、灯油ランプでもあれば十分で、大きな困難は起きないだろう。

 NHKの集金人も、大きなコストのかかるポツン家には来ないだろう。
 こういう環境で生活していると私のようなビチグソでなく、トイレ紙も必要としないほどの立派な固形便が出るようになるから、「お尻シャワシャワ」も必要ないのだ。

 自然に包まれ、自然の恵みを最大に活用する省エネ生活を見ていると、我々の生活エネルギーの数十分の一以下しか使っていないように思え、生活全体の無駄を考えると、おそらく我々の標準的な「文化生活」の数百分の一の消費なのではないかと思った。
 逆に言えば、我々の生活は、ポツンと……の数百倍、無駄が積み上げられているようにさえ思えるのである。

 最大の理由は、商品を手に入れ販売店に簡単にゆけないということだ。多くの場合、月に数回、町に出て必需品を買う人が多いが、ほとんどの人が自給自足体制を確保しているので、購買内容も非常に少ないだろう。

 逆に、いつでも簡単に資本主義商品を購買できる我々は、その安易さゆえに、本当に必要ないものまで、宣伝による洗脳によって無理矢理買わされているような気がする。

 我々は、生活に必要ないものまで「買わされている」という、資本主義社会、競争主義の原理に支配されていることに気づく必要があると思う。
 資本主義社会というのは、企業の金儲けだけが社会最大の価値と信仰される社会のことである。それは、「我々の生活の必要にして十分なニーズ」を満たすのではなく、一円でも多くの金儲けを求めて、消費者を騙してでも、たくさん、高価な、無駄なものを買わせることが本質になっている。

 「必要ないものまで買わされる」とは、どういうことだろう?

 それは、メディアを利用して、「買いたい、買わねばならない」と製造企業が洗脳工作を繰り返していることで、例えば、朝のモーニングショーなどを見ていると、購買を刺激する商品紹介のオンパレードで、これは生活の必要情報ではなく、買わせるための洗脳工作と言ってもよいほどだ。

 我々の潜在意識は、資本主義競争による、この種の洗脳工作の餌食となり、必要のないものまで買わされる生活をしている。

 それが、ポツンと……では、そうはならない。家に戻るのに、イノシシや熊の徘徊する大変な道を、無駄なモノをたくさん担いで登るわけにいかないから、本当に必要な最低限のモノしか買うことができないのである。

 このことが、購買欲洗脳メディアの陰謀から解放されるために大切な条件になる。私は、月の生活費が5万円程度なので、「できるだけ安くあげる」を至上命題として商品を購入し、「必要ないものには手を出さない」という原則を守る生活をするようになって、少しは「資本主義の呪い」から、我が身を守ることができるようになったと思うが、最近のシングルマザーや年金生活者たちは、どこも生活が大変で、スーパーの値引き販売に殺到するような人たちは、やはり資本主義浪費の呪いから抜け出すことができるようになっているように思える。

 今、スーパーで値引き品ばかり購入するライフスタイルになってみて、これまで、どれだけの無駄を重ねてきたか身につまされる感覚が出てきて、メディアの購買欲を刺激するような商品には一切手を出さなくなった。

 すると、生活費もずいぶんと節約できるようになった。買う前に「おっ、良さそう」ではなく「これが本当に必要か?」を先に考えるのである。

 私の家は、水道・下水道は利用していない。水は井戸で十分だが、ラドンが含まれているので、飲料用だけは安いペット水を利用している。

 排泄物は、すべてEM菌で処理して畑に流しているが、このEM菌がひどく高くつくのが悩みの種だ。毎月、モルトだけで2160円もかかる。

 問題は電気だ。太陽光パネルを購入して設備を作ったのだが、超高価な交流転換装置が簡単に壊れて、おまけにバッテリーの寿命が短く(4年程度)、供給電力に太刀打ちできないのである。ずいぶん無駄な浪費をしてしまった。

 もっとも、本当に必要な電力は、灯火と井戸ポンプ程度で、巨大震災で電力供給が止まっても、それほど深刻な事態にはならないと思う。

 ポツンと……でも、電力が停止して本当に困る家は少ないだろう。

 私は、エネルギー問題を考える上で、もっとも基本的な問題点は、スケールメリットという資本主義の発想になると思う。

 人間社会の進化という哲学的命題を考えると、これからの進化・合理化は、反スケールメリット・反金儲け主義にあると考える必要があると思う。

 例えば、スケールメリット=大量生産・大量消費というシステムが、技術の進化と価格の低下を保証するという発想によって、近代エネルギー産業が成立し、原子力発電も、そうしたスケールメリットを前提に作られている。

 だから原発は、社会のニーズに応じた出力調整ができず、いつでも一定の熱量を製造するという前近代的なシステムである。これに対し、火力は、ニーズに応じて生産調整が可能であり、水力は、降水量という制限のなかで出力を確保できる。

 太陽光は、太陽の出ているときだけ発電可能で、これも原発と同様の課題を抱えていて、風力も、風が吹いているときしか発電できない。

 原発が、一定の出力しか生産できない巨大な足枷を抱えている事情によって、昼間のニーズ増大時に必要な電力供給源として、揚水発電所が建設されているが、これは、日本の場合、実働効率は、わずか7%前後で、このダムは経産省の官僚たちの箱物利権によって造られたに過ぎないのである。

 なぜ利用効率が極端に悪いかというと、揚水発電の効率が25%しかなく、原発で製造した電気の7割以上をドブに捨てる仕組みになっているからである。
 https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%8F%9A%E6%B0%B4%E7%99%BA%E9%9B%BB

 揚水発電こそは、究極の無駄、無用の長物施設、官僚腐敗の象徴といえるだろう。
 このような無駄、不合理の極みのような電力調整システムに換わるものがあるかというと、実は、ほとんどないともいえる。

 今、経産省官僚たちが大声で推進しているのは、水素・燃料電池発電であり、夜間の原発余剰電力と昼間の太陽光余剰電力を利用して、水を電気分解して酸素と水素を製造し、これを燃料電池の燃料にして発電するという考え方で、この場合、発電効率が60%程度あるので、一見合理的に見えるが、実は大きな落とし穴がある。

 水素の化学的活性が強すぎて機器を腐食させるため、燃料電池発電機の耐久性が10年程度しかないという問題で、これは致命的である。
 http://rechargeable-battery.asia/fuelcell/know/merit.php

 実は私も、燃料電池、水素発電システムこそ、人類救済の電力であると数十年前から信じていたのだが、これが原理的に間違っていたことが分かってきた。

 社会の進歩という哲学的観点から見ると、エネルギーは、スケールメリット、大量生産から分散製造・分散消費、つまり、「エネルギーの必要な場所で、必要に応じて発電する」という向きに発展してゆくのが必然で、これはエントロピーと同じ必然性と考えてもよい。

 この切り札が燃料電池だと信じていた。それは、燃料電池コジェネレーションというものが、スケールメリットに依存しない本質を持っていたからだが、家庭用の場合は、わずか10年で高価な機器を交換してゆかねばならないというのなら普及は不可能である。

 いわゆる現場発電「必要な場所で、必要なだけ発電する」というシステムに使えるのは、今のところ原動機発電だけである。
 これは、スケールメリット発電が、巨大な送電ロスを抱えている事情から考えると、ロスの分だけ有利なのだが、それでも燃料が高すぎて、スケールメリットに勝てないのだ。
 https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%80%81%E9%9B%BB

 (直流送電がロスが少ないというが、非破壊検査に携わった者なら、直流がどれほど恐ろしいか身にしみて分かっているので、これを送電に使うと何が起きるか想像がつき、とても実現不能だと知っている。

 直流では、致命的な電解腐食が起きるのである。送電塔の厚さ10ミリのアングルが、わずか数年で腐食して倒壊してしまうのだ。これは絶縁を越えた漏洩電流によるものなので、アースなどで対応できる問題ではない。)

 そこで、冒頭に紹介した「ポツンと一軒家」の生活を思い起こしていただきたい。

 我々の生活には、無駄が多すぎるのである。電灯だって、本当に生活の必要な光で十分ではないか?

 浪費に満ちた生活水準を維持しようと考える前に、もっと自然界のエネルギー=薪炭や太陽光、風を活用することを考える必要がある。

 今から明治時代の生活に戻れとはいわないが、もっと自然に依存した合理的なライフスタイルがないか、きちんと調べ直した方がいい。

 節約できるものは節約し、自然エネルギーに転換できるものは転換すべきである。
 薪を採れば自然破壊になるか? というと逆である。

 現在の山林は、昔のように薪炭利用しないせいで、老廃木が増えて、森が荒れ、これがイノシシなど野生動物の増加を招いている。

 薪を消費することで、森は整理されて合理的な姿へと変わるのである。また、採取のエネルギーを考えれば、不必要な薪の浪費もできなくなるだろう。

 自然界に人間の管理が及ぶようになり、手入れされた美しい森に変えることができる。

 こうした実例は、ポツンと一軒家の周辺の自然環境から学ぶことができるだろうと私は思う。
http://tokaiama.blog69.fc2.com/blog-entry-739.html


http://www.asyura2.com/09/revival3/msg/565.html#c530

[近代史3] 柳田国男 山の人生

柳田国男 山の人生
https://www.aozora.gr.jp/cards/001566/files/52505_50610.html


自序


 山の人生と題する短い研究を、昨年『朝日グラフ』に連載した時には、一番親切だと思った友人の批評が、面白そうだがよく解らぬというのであった。ああして胡麻ごまかすのだろうという類の酷評も、少しはあったように感じられた。もちろん甚だむつかしくして、明晰めいせきに書いてみようもないのではあったが、もしまだ出さなかった材料を出し、簡略に失した説明を少し詳しくしてみたら、あれほどにはあるまいというのが、この書の刊行にあせった真実の動機であった。ところが書いているうちに、自分にも一層解釈しにくくなった点が現れたと同時に、二十年も前から考えていた問題なるにもかかわらず、今になって突然として心づくようなことも大分あった。従ってこの一書の、自分の書斎生活の記念としての価値は少し加わったが、いよいよ以もって前に作った荒筋の間々へ、切れ切れの追加をする方法の、不適当であることが顕著になった。しかしこれを書き改めるがために費すべき時間は、もうここにはないのである。そのうえに資料の新供給を外部の同情者に仰ぐためにも、一応はこの形をもって世に問う必要があるのである。なるほどこの本には賛否の意見を学者に求めるだけの、纏まとまった結論というものはないかも知れぬが、それでも自分たち一派の主張として、新しい知識を求めることばかりが学問であることと、これを求める手段には、これまで一向に人に顧みられなかった方面が多々であって、それに今われわれが手を着けているのだということと、天然の現象の最も大切なる一部分、すなわち同胞国民の多数者の数千年間の行為と感想と経験とが、かつて観察し記録しまた攻究せられなかったのは不当だということと、今後の社会改造の準備にはそれが痛切に必要であるということとは、少なくとも実地をもってこれを例証しているつもりである。学問をもって文雅の士の修養とし、ないしは職業捜索の方便と解して怪まなかった人々は、このいわゆる小題大做たいさに対して果していかなる態度を取るであろうか。それも問題でありまた現象である故に、最も精細に観測してみようと思う。

(大正十五年十月)
[#改丁]

一 山に埋もれたる人生あること

 今では記憶している者が、私の外には一人もあるまい。三十年あまり前、世間のひどく不景気であった年に、西美濃みのの山の中で炭を焼く五十ばかりの男が、子供を二人まで、鉞まさかりで斫きり殺したことがあった。

 女房はとくに死んで、あとには十三になる男の子が一人あった。そこへどうした事情であったか、同じ歳くらいの小娘を貰もらってきて、山の炭焼小屋で一緒に育てていた。その子たちの名前はもう私も忘れてしまった。何としても炭は売れず、何度里さとへ降りても、いつも一合の米も手に入らなかった。最後の日にも空手からてで戻ってきて、飢えきっている小さい者の顔を見るのがつらさに、すっと小屋の奥へ入って昼寝をしてしまった。

 眼がさめて見ると、小屋の口一ぱいに夕日がさしていた。秋の末の事であったという。二人の子供がその日当りのところにしゃがんで、頻しきりに何かしているので、傍へ行って見たら一生懸命に仕事に使う大きな斧おのを磨といでいた。阿爺おとう、これでわしたちを殺してくれといったそうである。そうして入口の材木を枕にして、二人ながら仰向あおむけに寝たそうである。それを見るとくらくらとして、前後の考えもなく二人の首を打ち落してしまった。それで自分は死ぬことができなくて、やがて捕えられて牢ろうに入れられた。

 この親爺おやじがもう六十近くなってから、特赦を受けて世の中へ出てきたのである。そうしてそれからどうなったか、すぐにまた分らなくなってしまった。私は仔細しさいあってただ一度、この一件書類を読んで見たことがあるが、今はすでにあの偉大なる人間苦の記録も、どこかの長持ながもちの底で蝕むしばみ朽ちつつあるであろう。

 また同じ頃、美濃とは遙かに隔たった九州の或る町の囚獄に、謀殺罪で十二年の刑に服していた三十あまりの女性が、同じような悲しい運命のもとに活いきていた。ある山奥の村に生まれ、男を持ったが親たちが許さぬので逃げた。子供ができて後に生活が苦しくなり、恥を忍んで郷里に還かえってみると、身寄りの者は知らぬうちに死んでいて、笑い嘲あざける人ばかり多かった。すごすごと再び浮世に出て行こうとしたが、男の方は病身者で、とても働ける見込みはなかった。

 大きな滝の上の小路を、親子三人で通るときに、もう死のうじゃないかと、三人の身体を、帯で一つに縛りつけて、高い樹きの隙間すきまから、淵を目がけて飛びこんだ。数時間ののちに、女房が自然と正気に復かえった時には、夫おっとも死ねなかったものとみえて、濡ぬれた衣服で岸に上って、傍の老樹の枝に首を吊つって自ら縊くびれており、赤ん坊は滝壺たきつぼの上の梢こずえに引懸ひっかかって死んでいたという話である。

 こうして女一人だけが、意味もなしに生き残ってしまった。死ぬ考えもない子を殺したから謀殺で、それでも十二年までの宥恕ゆうじょがあったのである。このあわれな女も牢を出てから、すでに年久しく消息が絶えている。多分はどこかの村の隅すみに、まだ抜ぬけ殻がらのような存在を続けていることであろう。

 我々が空想で描いて見る世界よりも、隠れた現実の方が遙かに物深い。また我々をして考えしめる。これは今自分の説こうとする問題と直接の関係はないのだが、こんな機会でないと思い出すこともなく、また何ぴとも耳を貸そうとはしまいから、序文の代りに書き残して置くのである。

二 人間必ずしも住家を持たざること

 黙って山へ入って還って来なかった人間の数も、なかなか少ないものではないようである。十二三年前に、尾張瀬戸町にある感化院に、不思議な身元の少年が二人まで入っていた。その一人は例のサンカの児こで、相州の足柄あしがらで親に棄すてられ、甲州から木曾きその山を通って、名古屋まできて警察の保護を受けることになった。

 今一人の少年はまる三年の間、父とただ二人で深山の中に住んでいた。どうして出てきたのかは、この話をした二宮徳君も知らなかったが、とにかくに三年の間は、火というものを用いなかったと語ったそうである。食物はことごとく生なまで食べた。小さな弓を造って鳥や魚を射て捕えることを、父から教えられた。

 春が来ると、いろいろの樹の芽を摘んでそのまま食べ、冬は草の根を掘って食べたが、その中には至って味の佳よいものもあり、年中食物にはいささかの不自由もしなかった。衣服は寒くなると小さな獣の皮に、木の葉などを綴つづって着たという。

 ただ一つ難儀であったのは、冬の雨雪の時であった。岩の窪くぼみや大木のうつろの中に隠れていても、火がないために非常に辛つらかった。そこでこういう場合のために、川の岸にあるカワヤナギの類の、髯根ひげねのきわめて多い樹木を抜いてきて、その根をよく水で洗い、それを寄せ集めて蒲団ふとんのかわりにしたそうである。

 話が又聞またぎきで、これ以上の事は何も分らない。この事を聴いた時には、すぐにも瀬戸へ出かけて、も少し前後の様子を尋ねたいと思ったが、何分なにぶんにも暇がなかった。かの感化院には記録でも残ってはいないであろうか。この少年がいろいろの身の上話をしたということだが、何かよくよくの理由があって、彼の父も中年から、山に入ってこんな生活をしたものと思われる。

 サンカと称する者の生活については、永い間にいろいろな話を聴いている。我々平地の住民との一番大きな相違は、穀物果樹家畜を当てにしておらぬ点、次には定まった場処に家のないという点であるかと思う。山野自然の産物を利用する技術が事のほか発達していたようであるが、その多くは話としても我々には伝わっておらぬ。

 冬になると暖かい海辺の砂浜などに出てくるのから察すると、彼らの夏の住居は山の中らしい。伊豆へは奥州から、遠州へは信濃しなのから、伊勢の海岸へは飛騨ひだの奥から、寒い季節にばかり出てくるということも聴いたが、サンカの社会には特別の交通路があって、渓たにの中腹や林の片端かたはし、堤つつみの外などの人に逢あわぬところを縫うている故に、移動の跡が明らかでないのである。

 磐城いわきの相馬そうま地方などでは、彼らをテンバと呼んでいる。山の中腹の南に面した処に、いくつかの岩屋がある。秋もやや末になって、里の人たちが朝起きて山の方を見ると、この岩屋から細々ほそぼそと煙が揚がっている。ああもうテンバがきているなどという中に、子を負うた女がささらや竹籠たけかごを売りにくる。箕みなどの損じたのを引き受けて、山の岩屋に持って帰って修繕してくる。

 土地の人とはまるまる疎遠そえんでもなかった。若狭わかさ・越前などでは河原に風呂敷ふろしき油紙の小屋を掛かけてしばらく住み、断ことわりをいってその辺の竹や藤葛ふじかずらを伐きってわずかの工作をした。河川改修が河原を整理してしまってからは、金を払って材料の竹を買う者さえあった。しかも土着する者は至って稀まれで、多くは程ほどなくいずれへか去ってしまう。路の辻つじなどに樹の枝または竹をさし、しるしを残して行く者は彼らであった。小枝に由よって先へ行った者の数や方角を、後から来る者に知らしめる符号があるらしい。

 仲間から出て常人に交わる者、ことに素性と内情とを談かたることを甚はなはだしく悪にくむが、外から紛れてきてサンカの群に投ずる常人は次第に多いようである。そうでなくとも人に問われると、遠い国郡を名乗るのが普通で、その身の上話から真の身元を知ることはむつかしい。大体においおい世間なみの衣食を愛好する風を生じ、中には町に入って混同してしまおうとする者も多くなった。それが正業を得にくい故に、おりおりは悪いこともするのだが、彼らの悪事は法外に荒いために、かえって容易にサンカの所業なることが知れるという。

 しかも世の中とこれだけの妥協すらも敢てせぬ者が、まだ少しは残っているかと思われた。大正四年の京都の御大典ごたいてんの時は、諸国から出てきた拝観人で、街道も宿屋も一杯になった。十一月七日の車駕しゃが御到着の日などは、雲もない青空に日がよく照って、御苑ぎょえんも大通りも早天から、人をもって埋うずめてしまったのに、なお遠く若王子にゃくおうじの山の松林の中腹を望むと、一筋ひとすじ二筋の白い煙が細々と立っていた。ははあサンカが話をしているなと思うようであった。もちろん彼らはわざとそうするのではなかった。

三 凡人遁世のこと

 かつて羽前の尾花沢おばなざわ附近において、一人の土木の工夫が、道を迷うて山の奥に入り人の住みそうにもない谷底に、はからず親子三人の一家族を見たことがある。これは粗末ながら小屋を建てて住んではいたが、三人ともに丸裸まるはだかであったという。

 女房がひどく人を懐なつかしがって、いろいろと工夫に向かって里の話を尋ねた。なんでもその亭主ていしゅという者は、世の中に対してよほど大きな憤懣ふんまんがあったらしく、再び平地へは下らぬという決心をして、こんな山の中へ入ってきたのだといった。

 工夫は一旦その処ところを立ち去ったのち、再び引き返して同じ小屋に行ってみると、女房が彼と話をしたのを責めるといって、縛り上げて折檻せっかんをしているところであったので、もう詳しい話も聞きえずに、早々に帰ってきて、その後の事は一切不明になっている。

 この話は山方石之助やまがたいしのすけ君から十数年前に聴いた。山に住む者の無口になり、一見無愛想ぶあいそうになってしまうことは、多くの人が知っている。必ずしも世を憤って去った者でなくとも、木曾の山奥で岩魚いわなを釣っている親爺おやじでも、たまたま里の人に出くわしても何の好奇心もなく見向きもせずに路みちを横ぎって行くことがある。文字に現わせない寂寞せきばくの威圧が、久しうして人の心理を変化せしめることは想像することができる。

 そうしてこんな人にわずかな思索力、ないしはわずかな信心があれば、すなわち行者ぎょうじゃであり、或いは仙人せんにんであり得るかと思われる。また天狗てんぐと称する山の霊が眼の色怖おそろしくやや気むつかしくかつ意地悪いものと考えられているのも、一部分はこの種山中の人に逢った経験が、根をなしているのかも知れぬ。

 近世の武人などは、主君長上に対して不満のある場合に、無謀に生命を軽かろんじ死を急ぎ、さらば討死うちじにをして殿様に御損を掛け申すべしと、いったような話が多かった。戦乱の打ち続いた時世としては、それも自然なる決意でありえたが、人間の死ぬ機会はそう常にあったわけでもない。死なずに世の中に背くという方法は必ずしも時節を待つという趣意でなくとも、やはり山寺にでも入って法師とともに生活するのほかはなかった。のちにはそれを出離の因縁とし、菩提ぼだいの種と名づけて悦喜えっきした者もあるが、古来の遁世者とんせいしゃの全部をもって、仏道勝利の跡と見るのは当をえないと思う。

 その上に山に入り旅に出れば、必ずそこに頃合ころあいの御寺があるというわけでもなかった。旅僧の生活をしようと思えば、少しは学問なり智慧ちえなりがなければならなかった。なんの頼むところもない弱い人間の、ただいかにしても以前の群とともにおられぬ者には、死ぬか今一つは山に入るという方法しかなかった。従って生活の全く単調であった前代の田舎いなかには、存外に跡の少しも残らぬ遁世とんせいが多かったはずで、後世の我々にこそこれは珍しいが、じつは昔は普通の生存の一様式であったと思う。

 それだけならよいが、人にはなおこれという理由がなくてふらふらと山に入って行く癖のようなものがあった。少なくとも今日の学問と推理だけでは説明することのできぬ人間の消滅、ことにはこの世の執着しゅうじゃくの多そうな若い人たちが、突如として山野に紛れこんでしまって、何をしているかも知れなくなることがあった。自分がこの小さな書物で説いて見たいと思うのは主としてこうした方面の出来事である。これが遠い近いいろいろの民族の中にもおりおりは経験せられる現象であるのか。はたまた日本人にばかり特に、かつ頻繁ひんぱんに繰り返されねばならぬ事情があったのか。それすらも現在はなお明瞭めいりょうでないのである。しかも我々の間には言わず語らず、時代時代に行われていた解釈があった。それがある程度まで人の平常の行為と考え方とを、左右していたことは立証することができる。我々の親たちの信仰生活にも、これと交渉する部分が若干はあった。しかも結局は今なお不可思議である以上、将来いずれかの学問がこの問題を管轄すべきことは確かである。棄てて顧みられなかったのはむしろ不当であると思う。

四 稀に再び山より還る者あること

 これは以前新渡戸にとべ博士から聴いたことで、やはり少しも作り事らしくない話である。陸中二戸にのへ郡の深山で、猟人が猟に入って野宿をしていると、不意に奥から出てきた人があった。

 よく見ると数年前に、行方不明になっていた村の小学教員であった。ふとした事から山へ入りたくなって家を飛び出し、まるきり平地の人とちがった生活をして、ほとんと仙人になりかけていたのだが、或る時この辺でマタギの者の昼弁当を見つけて喰くったところが急に穀物の味が恋しくなって、次第に山の中に住むことがいやになり、人が懐かしくてとうとう出てきたといったそうである。それから里に戻って如何したか。その後の様子は今ではもう何ぴとにも問うことができぬ。

 マタギは東北人およびアイヌの語で、猟人のことであるが、奥羽の山村には別に小さな部落をなして、狩猟本位の古風な生活をしている者にこの名がある。例えば十和田とわだの湖水から南祖坊なんそぼうに逐おわれてきて、秋田の八郎潟はちろうがたの主ぬしになっているという八郎おとこなども、大蛇になる前は国境の山の、マタギ村の住民であった。

 マタギは冬分は山に入って、雪の中を幾日となく旅行し、熊を捕とればその肉を食い、皮と熊胆くまぎもを附近の里へ持って出て、穀物に交易してまた山の小屋へ還かえる。時には峰づたいに上州・信州の辺まで、下おりてくることがあるという。

 こんな連中でも用が済すめばわが村へ戻り、また山の中でも火を焚たき米を煮て食うのに、教員までもしたという人が、友もなくして何年かの間、このような忍苦の生活をなしえたのは、少なくとも精神の異状であった。しかもそれが単なる偶発の事件でなく、遠く離れた国中の山村に、往々にして聞くところの不思議であったのである。

 マタギの根原に関しては、現在まだ何ぴとも説明を下しえた者はないが、岩手・秋田・青森の諸県において、平地に住む農民たちが、ややこれを異種族視していたことは確かである。津軽の人が百二三十年前に書いた『奥民図彙おうみんずい』には、一二彼らが奇習を記し、菅江真澄すがえますみの『遊覧記』の中にも、北秋田の山村のマタギの言葉には、犬をセタ、水をワッカ、大きいをポロというの類、アイヌの単語のたくさんに用いられていることを説いてある。

 もちろんこれに由って彼らをアイヌの血筋と見ることは早計である。彼らの平地人との交通には、言語風習その他になんの障碍しょうがいもなかったのみならず、少なくとも近世においては、彼らも村にいる限りは附近の地を耕し、一方にはまた農民も山家に住む者は、傍かたわら狩猟に因って生計を補うた故に、名称以外には明白に二者を差別すべきものはないのである。

 ただ関東以西には猟を主業とする者が、一部落をなすほどに多く集まっておらぬに反して奥羽の果はてに行くとマタギの村という者がおりおりある。熊野・高野を始めとして霊山開基の口碑こうひには猟師が案内をしたといい、または地を献上したという例少なからず、それを目して異人仙人と称していて、通例の農夫はかつてこの物語に参与しておらぬのを見ると、彼ら山民の土着が一期だけ早かったか、または土着の条件が後世普通の耕作者とは、別であったかということだけは察せられる。

 しかも猟に関する彼らの儀式、また信仰には特殊なるものが多い。万次万三郎の兄弟が、山の神を助けて神敵を退治し、褒美ほうびに狩猟の作法を授けられたなどという古伝もその一例である。東北ではシナの木のことをマダといい、山民は多くその樹皮を利用する。マタギ村でも盛んにこれを採取しまた周囲にこれを栽培するが、そのマダとは関係がないといっている。或いは二股ふたまたの木の枝を杖つえにして、山中を行くような宗教上の習慣でもあって、こんな名称を生じたのではないかとも思うが、彼ら自身は何と自ら呼ぶかを知らぬから、いまだこれを断定することができぬのである。

 八郎という類の人が山中に入り、奇魚を食って身を蛇体に変じたという話は、広く分布しているいわゆる低級神話の類であるが、津軽・秋田で彼をマタギであったと伝えたのには、何か考うべき理由があったろうと思う。

五 女人の山に入る者多きこと

 天野信景のぶかげ翁の『塩尻しおじり』には、尾州小木こき村の百姓の妻の、産後に発狂して山に入り、十八年を経てのち一たび戻ってきた者があったことを伝えている。裸形にしてただ腰のまわりに、草の葉を纏まとうていたとある。山姥やまうばの話の通りであるが、しかも当時の事実譚じじつだんであった。

 この女も或る猟人に逢って、身の上話をしたという。飢うえを感ずるままに始めは虫を捕って喰っていたが、それでは事足ことたらぬように覚えて、のちには狐きつねや狸たぬき、見るに随したがい引裂いて食とし、次第に力づいて、寒いとも物ほしいとも思わぬようになったと語る。一旦は昔の家に還ってみたが、身内の者までが元もとの自分であることを知らず、怖おそれて騒ぐのでせん方かたもなく、再び山中の生活に復かえってしまったというのは哀れである。

 明治の末頃にも、作州那岐山なぎのせんの麓ふもと、日本原にっぽこうげの広戸の滝を中心として、処々に山姫が出没するという評判が高かった。裸にして腰のまわりだけに襤褸ぼろを引き纏い、髪の毛は赤く眼は青くして光っていた。或る時も人里近くに現われ、木こりの小屋を覗のぞいているところを見つかり、ついにそこの人夫どもに打ち殺された。しかるにそれをよく調べてみると、附近の村の女であって、ずっと以前に発狂して、家出をしてしまった者であることが分った。

 女にはもちろん不平や厭世えんせいのために、山に隠れるということがない。気が狂った結果であることは、その挙動を見れば誰にでも分った。羽後と津軽の境の田代岳たしろだけの麓ふもとの村でも、若い女が山へ遁にげて入ろうとするのを、近隣の者が多勢追いかけて、連れて戻ろうと引き留めているうちに、えらい力を出して振り切って、走り込んでしまったという話を狩野亨吉かのうこうきち先生から承うけたまわったことがある。

 山に走り込んだという里の女が、しばしば産後の発狂であったことは、事によると非常に大切な問題の端緒たんちょかも知れぬ。古来の日本の神社に従属した女性には、大神の指命を受けて神の御子を産み奉たてまつりし物語が多い。すなわち巫女みこは若宮の御母なるが故に、ことに霊ある者として崇敬せられたことは、すこぶるキリスト教などの童貞受胎の信仰に似通うたものがあった。婦人の神経生理にもしかような変調を呈する傾向があったとすれば、それは同時にまた種々の民族に一貫した宗教発生の一因子とも考えることを得る。しかしもちろん物のついでなどをもって、軽々に取扱うべき問題ではないから、今は単に一二の類例を挙げて置くに止めるが、その一つは三百余年前に、因幡いなば国にあった話で、少し長たらしいが原文のままを抄出する。『雪窓夜話せっそうやわ』の上巻に書いてある話である。

「寛永年中のこと也なり。安成久太夫やすなりきゅうだゆうといふ武士あり。備前因幡国換くにがへの時節にて、未いまだ居おる屋敷も定まらず、鹿野かの(今の気高けたか郡鹿野町)の在ざいに仮に住みけり。或夜山に入りけるに、月の光も薄く、木立も奥暗き岨陰より、何とも知らぬ者駆け出で、久太夫が連れたる犬を追掛け、遙かの谷に追落して、傍なる巌窟がんくつにかけ入りたり。久太夫不思議に思ひ、犬を呼返して其穴に追入れんとするに、犬怖おそれて入らざれば若党に命じてかの者を探り求めしむ。人のたけばかりなる猿さるの如ごときものなり。若党引出さんとするに、力強く爪つめ尖とがりて、若党の手を掻破かきやぶりけるを、漸ようやくに引出したり。久太夫葛かずらを用ゐて之これを縛り、村里へ引出し、燈をとぼして之を見るに髪長く膝に垂たれ、面相全く女に似て、その荒れたること絵にかける夜叉やしゃの如し。何を尋ねても物言ふこと無く、只ただにこ/\と打笑ふのみ也、食を与ふれども食はず水を与ふれば飲みたり。遍あまねく里人に尋ぬれども、仔細しさいを知る者無し。一村集まりて之を見物す。其その中に七十余の老農ありて言ふには、昔此この村に産婦あり。俄にわかに狂気して駆け出でけるが、鷲峰山しうぶせんに入りたり。親族尋ね求むと雖いえども、終ついに遇あふこと無しと言ひ伝へたり。其年暦を計るに凡およそ百年に余れり。もしは此者このものにてもあらんかと也。久太夫速すみやかに命を助け山に追ひ返しけるに、その走ること甚だ早し。其後又之を見る者無しといへり。」

 佐々木喜善君の報告に、今から三年ばかり前、陸中上閉伊郡かみへいぐん附馬牛つくもうし村の山中で三十歳前後の一人の女が、ほとんと裸体に近い服装に樹の皮などを纏いつけて、うろついていたのを村の男が見つけた。どこかの炭焼小屋からでも持ってきたものかこの辺でワッパビツと名づける山弁当の大きな曲まげ物ものを携え、その中にいろいろの虫類を入れていて、あるきながらむしゃむしゃと食べていたという。遠野の警察署へ連れてきたが、やはり平気で蛙などを食っているので係員も閉口した。その内に女が朧気おぼろげな記憶から、ふと汽車の事を口にし、それからだんだんに生まれた家の模様、親たちの顔から名前を思い出し、ついには村の名までいうようになったが、聴いて見ると和賀わが郡小山田こやまだ村の者で七年前に家出をして山に入ったということがわかった。やはり産後であって、不意に山に入ったというのであった。親を警察へ呼び出して連れて行かせたが、一時はこの町で非常な評判であった。なお同じ佐々木君の話の中にこの附近の村の女の二十四五歳の者が、夫おっととともに山小屋に入っていて、終日夫が遠くに出て働いている間、一人で小屋にいて発狂したことがあった。のちに落着いてから様子を尋ねて見ると、或る時背の高い男が遣やってきて、それから急に山奥へ行きたくなって、堪えられなかったといったそうである。

六 山の神に嫁入すということ

 羽後の田代岳に駆け込んだという北秋田の村の娘は、その前から口癖のように、山の神様の処ところへお嫁入りするのだと、いっていたそうである。古来多くの新米しんまいの山姥やまうば、すなわちこれから自分の述べたいと思う山中の狂女の中には、何か今なお不明なる原因から、こういう錯覚を起こして、欣然きんぜんとして自ら進んで、こんな生活に入った者が多かったらしいのである。

 そうすると我々が三輪式みわしき神話の残影と見ている竜婚・蛇婚の国々の話の中にも、存外に起原の近世なるものがないとは言われぬ。例えば上州の榛名湖はるなこにおいては、美しい奥方は強しいて供の者を帰して、しずしずと水の底に入って往いったと伝え、美濃の夜叉やしゃヶ池の夜叉御前ごぜんは、父母の泣いて留めるのも聴かず、あたら十六の花嫁姿で、独ひとり深山の水の神にとついだといっている。古い昔の信仰の影響か、または神話が本来かくのごとくにして、発生すべきものであったのか、とにかくにわが民族のこれが一つの不思議なる癖であった。

 近ごろ世に出た『まぼろしの島より』という一英人の書翰集しょかんしゅうに、南太平洋のニウヘブライズ島の或る農場において、一夜群衆のわめき声とともに、頻しきりに鉄砲の音がするので、驚いて飛び出して見ると、若い一人の土人が魔神に攫つかまれて、森の中へ牽ひいて行かれるところであった。魔神の姿はもとより何ぴとにも見えないが、その青年が右の手を前へ出して踏止ふみとどまろうと身をもがく形は、確かに捕われた者の様子であった。他の土人たちは声で嚇おどし、かつ鉄砲をその前後の空間に打ち掛けて、悪魔を追い攘はらおうとしたがついに効を奏せず、捕われた者は茂みに隠れてしまった。

 翌朝その青年は正気に復して、戻って常のごとく働こうとしたけれども、仲間の者は彼が魔神と何か契約をしてきたものと疑い、畏おそれ憎んで近づかず、その晩のうちに毒殺してしまったと記している。わが邦くにで狐や狸に憑つかれたという者が、その獣らしい挙動をして、傍の者を信ぜしめるのと、最もよく似た精神病の兆候である。

 猿の婿入むこいりという昔話がある。どこの田舎に行ってもあまり有名であるために、かえって子供までが顧みようとせぬようになったが、じつは日本にばかり特別によく成育した話で、しかも最初いかなる事情から、こんな珍しい話の種が芽をくむに至ったかは、説明しえた人がないのである。三人ある娘の三番目がことに発明で、一旦は猿に連れられて山中に入って行くが、のちに才智をもって相手を自滅させ、安全に親の家に戻ってくることになっているのは、もとは明らかに魔界征服譚せいふくだんの一つであった。今でも落語家の持っている王子の狐、或いは天狗の羽団扇はうちわを欺あざむき奪う話などと同様に、だんだんに敵の愚かさが誇張せられて、聴く人の高笑いを催さずには置かなかったのは、武勇勝利の物語に、負けて遁にげた者の弱腰を説くのと、目的は一つであって、つまりは猿の婿も怖おそるるに足らずという教育の、かつて必要であったことを意味している。餅を搗ついて臼うすながら猿に負わせたり、臼を卸おろさずに藤の花を折らせたり、いろいろと無理な策略をもって相手を危地に陥おとしいれた話であるが、地方によっては瓢箪ひょうたんと針千本とを、親から貰もらい受けて出て行ったことになっているのは、すなわち蛇神退治の古くからの様式で、猿の方にはむしろ不用なことであった。変化か混同かいずれにしても、竜蛇の婿入の数多い諸国の例がこれと系統の近かったことだけは察せられるので、ただ山城蟹旛寺かにはでらの縁起えんぎなどにおいては、外部の救援が必要であったに反して、こちらはかよわい小娘の智謀一つで、よく自ら葛藤かっとうを脱しえた点を、異なれりとするのみである。

 大和の三輪みわの緒環おだまきの糸、それから遠く運ばれたらしい豊後の大神おおみわ氏の花の本の少女の話は、土地とわずかな固有名詞とをかえて、今でも全国の隅々すみずみまで行われているが終始一貫した発見の糸口は、衣裳いしょうの端に刺した一本の針であった。ところが後世になるにつれて、勝利は次第に人間の方に帰し蛇の婿は刺された針の鉄気に制せられ、苦しんで死んだことになっている例が多い。糸筋いとすじを手繰たぐって窃ひそかに洞穴の口に近づいて立聴たちぎきすると。親子らしい大蛇がひそひそと話をしている。だから留めるのに人間などに思いを掛けるから命を失うことになったのだと一方がいうと、それでも種だけは残してきたから本望だと死なんとする者が答える。いや人間は賢いものだ、もし蓬よもぎと菖蒲しょうぶの二種の草を煎せんじてそれで行水ぎょうずいを使ったらどうすると、大切な秘密を洩もらしてしまったことにもなっている。たった一つの小さな昔話でも、だんだんに源みなもとを尋ねて行くと信仰の変化が窺うかがわれる。もとは単純に指令に服従して、怖しい神の妻たることに甘あまんじたものが、のちにはこれを避けまたは遁のがれようとしたことが明らかに見えるのである。しかも或いは婚姻慣習の沿革と伴うものかも知らぬが、猿の婿入の話には後代の蛇婿入譚とともに、娘の父親の約諾ということが、一つの要件をなしている。そうでなくとも堂々と押しかけてきて一門を承知させたことになっていて、大昔の神々のごとく夜陰やいん密ひそかに通かよってきて後に露顕したものではなかった。そうして天下晴れて連れて還かえったことに話はできている。すなわち山と人界との縁組は稀有けうというのみで、想像しえられぬほどの事件ではなかったが、おいおいにこれを忌み憎むの念が普通の社会には強くなり、百方手段を講じてその弊害を防ぎつつ、なお十分なる効果を挙げえないうちに、国は次第に近世の黎明れいめいになったのである。

 狒々ひひという大猿が日本にも住むということはもう信ずることがむつかしくなった。出逢であった見たという話は記事にも画にも残っているものが多いが、注意してみると、まるまる幻覚の産物でなければ、必ずただの老猿を誤ってそう呼んだまでである。従って岩見重太郎、もしくは『今昔物語こんじゃくものがたり』のちゅうさんこうやのごとき例は、すこしでも動物学の知識を損益するところはないわけである。しかも昔話にまでなって、このように弘く伝わっているのを見ると、猿の婿入は恐らくある遠い時代の現実の畏怖いふであった。少なくとも女性失踪しっそうの不思議に対する、世間普通の解釈であった。どうしてそんな愚かしい事が、信じえられたかと思うようであるが、他に真相の説明がつかなかった時代だから仕方がない。一種の精神病というがごとき漠然ばくぜんたる理由では、今日でもまだ承知する者は少ないのである。正月と霜月しもつきとの月初めの或る日を、山の神の樹かぞえなどと称して、戒めて山に入らぬ風習は現に行われている。もしこの禁を犯せばいかなる制裁があるかと問えば、算かぞえ込まれて樹になってしまうというもあれば、山の神に連れて行かれるなどともいっているところがある。その山の神様はもとより神官の説くがごとき、大山祇命おおやまつみのみことではなかったのである。狼おおかみを山神の姿と見た言い伝えも多いが、猿はその一段の人間らしさから、かつては信仰の対象となっていた証拠もいろいろある。中世なんらか特別の理由があって、その地位は動揺したものらしい。その歴史を今少し考えて見ない以上、多くの昔話の意味がはっきりとせぬのも、やむをえざる次第である。

七 町にも不思議なる迷子ありしこと

 北国筋すじの或る大都会などは、ことに迷子まいごというものが多かった。二十年ほど前までは、冬になると一晩ひとばんとしていわゆる鉦かね太鼓たいこの音を聞かぬ晩はないくらいであったという。山が近くて天狗てんぐの多い土地だから、と説明せられていたようである。

 東京でも以前はよく子供がいなくなった。この場合には町内の衆が、各一個の提灯ちょうちんを携えて集まり来たり、夜どおし大声で喚よんで歩くのが、義理でもありまた慣例でもあった。関東では一般に、まい子のまい子の何松なにまつやいと繰り返すのが普通であったが、上方辺かみがたへんでは「かやせ、もどせ」と、ややゆるりとした悲しい声で唱となえてあるいた。子供にもせよ紛失したものを尋ねるのに、鉦太鼓でさがすというはじつは変なことだが、それは本来捜索ではなくして、奪還であったから仕方がない。
 もし迷子がただの迷子であるならば、こんな事をしても無益なかわりに、たいていはその日その夜のうちに消息が判明する。二日も三日も捜しあるいて、いかにしても見つからぬというのが神隠かみかくしで、これに対しては右のごとき別種の手段が、始めて必要であったのだが、前代の人たちは久しい間の経験によって、子供がいなくなれば最初からこれを神隠しと推定して、それに相応する処置を執ったものである。

 神隠しをする神はいかなる悪い神であったか。近世人の思想においては、必ずしもごく精確に知られてはなかった。通例は天狗・狗賓ぐひんというのが最も有力なる嫌疑者けんぎしゃであったが、それはこのように無造作なる示威運動に脅かされて、取った児こをまた返すような気の弱い魔物ともじつは考えられていなかった。

 狐もまた往々にして子供を取って隠す者と、考えられている地方があった。そういう地方では狐のわざと想像しつつも、やはり盛んに鉦太鼓を叩たたいたのであるが、今では単に狐はしばらくの間、人を騙だまし迷わすだけとして、これを神隠しの中にはもう算かぞえない田舎がだんだんに多くなって行くかと思う。近年の狐の悪戯いたずらはたいていは高が知れていた。誰かが行き合わせて大声を出し、または背中を一つ打ったら正気がついたという風ふうで、若い衆やよい年輩の親爺までが、夜どおし近所の人々に心配をかけ、朝になって見ると土手の陰や粟畠あわばたけのまん中に、きょとんとして立っていたなどということも、またすでに昔話の部類に編入せられようとしているのである。

 しかし寂しい在所ざいしょの村はずれ、川端かわばた、森や古塚の近くなどには、今でも「良くない処ところだ」というところがおりおりあって、その中には悪い狐がいるという噂うわさをするものも少なくはない。神隠しの被害は普通に人一代ひといちだいの記憶のうちに、三回か五回かは必ず聴くところで、前後の状況は常にほぼ一様であった。従って捜索隊の手配路順にも、ほぼ旧来のきまりがあり、事件の顛末てんまつも人の名だけが、時々新しくなるばかりで、各地各場合において、大した変化を見なかったようである。

 しかも経験の乏しい少年少女に取っては、これほど気味の悪い話はなかった。私たちの村の小学校では、冬は子供が集まると、いつもこんな話ばかりをしていた。それでいて奇妙なことには、実際は狐につままれた者に、子供は至って少なく、子供の迷子は多くは神隠しの方であった。

 子供のいなくなる不思議には、おおよそ定きまった季節があった。自分たちの幽かすかな記憶では秋の末から冬のかかりにも、この話があったように思うが、或いは誤っているかも知れぬ。多くの地方では旧暦四月、蚕かいこの上簇じょうぞくや麦苅入むぎかりいれの支度したくに、農夫が気を取られている時分が、一番あぶないように考えられていた。これを簡明に高麦のころと名づけているところもある。つまりは麦が成長して容易に小児の姿を隠し、また山の獣などの畦あぜづたいに、里に近よるものも実際に多かったのである。高麦のころに隠れん坊をすると、狸に騙だまされると豊後ぶんごの奥ではいうそうだ。全くこの遊戯は不安心な遊戯で、大きな建物などの中ですらも、稀まれにはジェネヴィエバのごとき悲惨事があった。まして郊野こうやの間には物陰が多過ぎた。それがまたこの戯れの永ながく行われた面白味おもしろみであったろうが、幼い人たちが模倣を始めたより更に以前を想像してみると、忍術にんじゅつなどと起原の共通なる一種の信仰が潜んでいて、のち次第に面白い村の祭の式作法になったものかと思う。

 東京のような繁華の町中でも、夜分だけは隠れんぼはせぬことにしている。夜かくれんぼをすると鬼に連れて行かれる。または隠かくし婆ばあさんに連れて行かれるといって、小児を戒める親がまだ多い。村をあるいていて夏の夕方などに、児こを喚よぶ女の金切声かなきりごえをよく聴くのは、夕飯以外に一つにはこの畏怖いふもあったのだ。だから小学校で試みに尋ねてみても分わかるが、薄暮に外におりまたは隠れんぼをすることが何故に好よくないか、小児はまだその理由を知っている。福知山ふくちやま附近では晩に暗くなってからかくれんぼをすると、隠し神さんに隠されるというそうだが、それを他の多くの地方では狸狐といい、または隠し婆さんなどともいうのである。隠かくし婆ばばあは古くは子取尼ことりあまなどともいって、実際京都の町にもあったことが、『園太暦えんたいりゃく』の文和二年三月二十六日の条に出ている。取上とりあげ婆ばばあの子取りとはちがって、これは小児を盗んで殺すのを職業にしていたのである。なんの為にということは記してないが、近世に入ってからは血取ちとりとも油取あぶらとりとも名づけて、罪なき童児の血や油を、何かの用途に供するかのごとく想像し、近くは南京皿なんきんざらの染附そめつけに使うというがごとき、いわゆる纐纈城こうけちじょう式の風説が繰り返された。そうしてまだ全然の無根というところまで、突き留められてはいないのである。

 しかし少なくともこの世評の大部分が、一種の伝統的不安であり、従って話であることは時過ぎて始めてわかった。例えば迷子が黙って青い顔をして戻ってくると、生血を取られたからだと解して悲んだ者もあったが、そんな方法のありえないことがもう分って、だんだんにそうはいわなくなった。秩父ちちぶ地方では子供が行方不明になるのを、隠かくれ座頭ざとうに連れて行かれたといい、またはヤドウカイに捕られたというそうだが、これなどは単純な誤解であった。隠れ座頭は弘ひろく奥羽・関東にわたって、巌窟の奥に住む妖怪ようかいと信ぜられ、相州の津久井つくいなどでは踏唐臼ふみからうすの下に隠れているようにもいっていた。すなわち普通の人の眼に見えぬ社会の住民ではあったのだが、これを座頭としたのは右のごとき地底の国を、隠かくれ里さとと名づけたのが元もとである。隠れ里本来は昔話の鼠ねずみの浄土じょうどなどのように、富貴具足ふうきぐそくの仙界せんかいであって、祷いのれば家具を貸し金銭を授与したなどと、説くのが昔の世の通例であったのを、人の信仰が変化したから、こんな恐ろしい怪物とさえ解せられた。多分は座頭の職業に若干の神秘分子が、伴うていた結果であろう。

 それからヤドウカイはまたヤドウケと呼ぶ人もあった。文字には夜道怪と書いて子取ことりの名人のごとく伝えられるが、じつはただの人間の少し下品な者で、中世高野聖こうやひじりの名をもって諸国を修行した法師すなわち是これである。武州小川の大塚梧堂ごどう君の話では、夜道怪は見た者はないけれども、蓬髪ほうはつ弊衣へいいの垢あかじみた人が、大きな荷物を背負うてあるくのを、まるで夜道怪のようだと土地ではいうから、大方おおかたそんな風態の者だろうとのことである。実際高野聖は行商か片商売かたしょうばいで、いつも強力ごうりき同様に何もかも背負うてあるいた。そうして夕方には村の辻に立って、ヤドウカと大きな声でわめき、誰も宿を貸しましょと言わぬ場合には、また次の村に向って去った。旅に摺すれて掛引かけひきが多く、その上おりおりは法力を笠かさに着て、善人たちを脅おびやかした故に、「高野聖に宿やどかすな、娘取られて恥かくな」などという、諺ことわざまでもできたのである。だんだんこんな者が村に来なくなってから、単に子供を嚇おどかす想像上の害敵となって永く残りその子供がまた成人して行くうちに、次第に新しい妖怪の一種にこれを算えるに至ったのは注意すべき現象だと思う。我々日本人の精神生活の進化には、こういう村里の隠し神のようなものまでが、取り残されていることはできなかったのである。

八 今も少年の往々にして神に隠さるること

 先頃さきごろも六つとかになる女の児が、神奈川県の横須賀から汽車に乗ってきて、東京駅の附近をうろついており、警察の手に保護せられた。大都のまん中では、もとより小児の親にはぐれる場合も多かったろうけれども、幼小な子供が何ぴとにも怪まれずに、こんなに遠くまできていたというは珍しい。故に昔の人もこれらの実例の中で、特に前後の事情の不可思議なるものを迷子と名づけ、冒涜ぼうとくを忌まざる者は、これを神隠しとも呼んでいたのである。

 村々の隣に遠く野山の多い地方では、取分とりわけてこの類の神隠しが頻繁ひんぱんで、哀れなることには隠された者の半数は、永遠に還かえって来なかった。私は以前盛んに旅行をしていたころ、力つとめて近代の地方の迷子の実例を、聞いて置こうとしたことがあった。伊豆の松崎で十何年前にあったのは、三日ほどしてから東の山の中腹に、一人で立っているのを見つけだした。そこはもう何度となく、捜す者が通行したはずだのにと、のちのちまで土地の人が不思議にした。なおそれよりも前に、上総の東金とうがね附近の村では、これも二三日してから山の中の薄すすきの叢くさむらの中に、しゃがんでいたのをさがしだしたが、それから久しい間、抜ぬけ殻がらのような少年であったという。

 珍しい例ほど永く記憶せられるのか、古い話には奇抜なるものが一層多い。親族が一心に祈祷きとうをしていると、夜分雨戸にどんと当あたる物がある。明けて見るとその児が軒下にきて立っていた。或いはまた板葺いたぶき屋根の上に、どしんと物の落ちた響がして、驚いて出てみたら、気を失ってその児が横たわっていた、という話もある。もっとえらいのになると、二十年もしてから阿呆あほうになってひょっこりと出てきた。元もとの四よつ身みの着物を着たままで、縫目ぬいめが弾はじけて綻ほころびていたなどと言い伝えた。もちろん精確なる記録は少なく、概して誇張した噂のみのようであった。学問としての研究のためには、更に今後の観察を要するはもちろんである。

 愛知県北設楽きたしだら郡段嶺だみね村大字豊邦字笠井島の某という十歳ばかりの少年が、明治四十年ごろの旧九月三十日、すなわち神送かみおくりの日の夕方に、家の者が白餅しろもちを造るのに忙しい最中、今まで土間どまにいたと思ったのが、わずかの間に見えなくなった。最初は気にもしなかったが、神祭を済ましてもまだ姿が見えず、あちこちと見てあるいたが行方が知れぬので、とうとう近所隣までの大騒ぎとなった。方々捜しあぐんで一旦いったん家の者も内に入っていると、不意におも屋の天井てんじょうの上に、どしんと何ものか落ちたような音がした。驚いて梯子はしごを掛けて昇ってみると、少年はそこに倒れている。抱いて下へ連れてきてよく見ると、口のまわりも真白まっしろに白餅だらけになっていた。(白餅というのは神に供える粢しとぎのことで、生なまの粉を水でかためただけのものである。)気の抜けたようになっているのを介抱して、いろいろとして尋ねてみると少年はその夕方に、いつのまにか御宮おみやの杉の樹きの下に往いって立っていた。するとそこへ誰とも知らぬ者が遣やってきて彼を連れて行った。多勢おおぜいの人にまじって木の梢こずえを渡りあるきながら、処々方々の家をまわって、行く先々で白餅や汁粉しるこなどをたくさん御馳走ごちそうになっていた。最後にはどこか知らぬ狭いところへ、突き込まれるようにして投げ込まれたと思ったが、それがわが家の天井であったという。それからややしばらくの間その少年は、気が疎うとくなっていたようだったと、同じ村の今三十五六の婦人が話をしたという(早川孝太郎君報)。

 石川県金沢市の浅野町で明治十年ごろに起こった出来事である。徳田秋声君の家の隣家の二十歳ばかりの青年が、ちょうど徳田家の高窓たかまどの外にあった地境じざかいの大きな柿の樹の下に、下駄げたを脱ぎ棄すてたままで行方不明になった。これも捜しあぐんでいると、不意に天井裏にどしんと物の堕おちた音がした。徳田君の令兄が頼まれて上って見ると、その青年が横たわっているので、背負うて降してやったそうである。木の葉を噛かんでいたと見えて、口の端を真青まっさおにしていた。半分正気づいてから仔細しさいを問うに、大きな親爺おやじに連れられて、諸処方々をあるいて御馳走を食べてきた、また行かねばならぬといって、駆けだそうとしたそうである。尤もっとも常から少し遅鈍な質たちの青年であった。その後どうなったかは知らぬという(徳田秋声君談)。

 紀州西牟婁むろ郡上三栖みすの米作という人は、神に隠されて二昼夜してから還かえってきたが、その間に神に連れられ空中を飛行し、諸処の山谷を経廻へめぐっていたと語った。食物はどうしたかと問うと、握にぎり飯めしや餅菓子もちがしなどたべた。まだ袂たもとに残っているというので、出させて見るにみな柴しばの葉であった。今から九十年ほど前の事である。また同じ郡岩田の万蔵という者も、三日目に宮の山の笹原の中で寝ているのを発見したが、甚だしく酒臭かった。神に連れられて摂津の西ノ宮に行き、盆ぼんの十三日の晩、多勢の集まって酒を飲む席にまじって飲んだといった。これは六十何年前のことで、ともに宇井可道翁の『璞屋随筆ぼくおくずいひつ』の中に載せられてあるという(雑賀さいが貞次郎君報)。

 大正十五年二月の『国民新聞』に出ていたのは、遠州相良さがら在ざいの農家の十六の少年、夜中の一時ごろに便所に出たまま戻らず、しばらくすると悲鳴の声が聞えるので、両親が飛び起きて便所を見たがいない。だんだんに声を辿たどって行くと、戸じまりをした隣家の納屋なやの中に、兵児帯へこおびと褌ふんどしをもって両手足を縛られ、梁はりから兎うさぎつるしに吊つるされていた。早速引卸ひきおろして模様を尋ねても、便所の前に行ったまでは覚えているが、それから先のことは少しも知らぬ。ただふと気がついたから救いを求めたといっていた。奇妙なことには納屋には錠じょうがかかって、親たちは捻ねじ切って入った。周囲は土壁で何者も近よった様子がなかったという。警察で尋ねてみたら、今少し前後の状況が知れるかも知れぬと思う。

 不意に窮屈な天井裏などに入って倒れたということは、とうてい我々には解釈しえない不思議であるが、地方には意外にその例が多い。また沖繩の島にもこれとやや似た神隠しがあって、それを物迷いまたは物に持たるるというそうである。比嘉春潮ひがしゅんちょう君の話によれば、かの島でモノに攫さらわれた人は、木の梢や水面また断崖絶壁のごとき、普通に人のあるかぬところを歩くことができ、また下水げすいの中や洞窟どうくつ床下ゆかした等をも平気で通過する。人が捜している声も姿もはっきりとわかるが、こちらからは物を言うことができぬ。洞窟の奥や水の中で発見せられた実例も少なくない。こういう狭い場処や危険な所も、モノに導かれると通行ができるのだが、ただその人が屁へをひるときはモノが手を放すので、たちまち絶壁から落ちることがある。水に溺おぼれる人にはこれが多いように信じられているそうである。備中賀陽かやの良藤という者が、狐の女と婚姻して年久しくわが家の床下に住み、多くの児女を育てていたという話なども、昔の人には今よりも比較的信じやすかったものらしい。

九 神隠しに遭いやすき気質あるかと思うこと

 変態心理の中村古峡こきょう君なども、かつて奥州七戸しちのへ辺の実例について調査をせられたことがあった。神に隠されるような子供には、何かその前から他の児童と、ややちがった気質があるか否か。これが将来の興味ある問題であるが、私はあると思っている。そうして私自身なども、隠されやすい方の子供であったかと考える。ただし幸いにしてもう無事に年を取ってしまってそういう心配は完全になくなった。

 私の村は県道に沿うた町並まちなみで、山も近くにあるのはほんの丘陵であったが、西に川筋かわすじが通って奥在所おくざいしょは深く、やはりグヒンサンの話の多い地方であった。私は耳が早くて怖こわい噂をたくさんに記憶している児童であった。七つの歳としであったが、筋向すじむかいの家に湯に招かれて、秋の夜の八時過ぎ、母より一足さきにその家の戸口を出ると、不意に頬冠ほおかむりをした屈強な男が、横合よこあいから出てきて私を引抱ひっかかえ、とっとっと走る。怖おそろしさの行止まりで、声を立てるだけの力もなかった。それが私の門までくると、くぐり戸の脇わきに私をおろして、すぐに見えなくなったのである。もちろん近所の青年の悪戯いたずらで、のちにはおおよそ心当りもついたが、その男は私の母が怒るのを恐れてか、断じて知らぬとどこまでも主張して、結局その事件は不可思議に終った。宅ではとにかく大問題であった。多分私の眼の色がこの刺戟しげきのために、すっかり変っていたからであろうと想像する。

 それからまた三四年の後、母と弟二人と茸狩きのこがりに行ったことがある。遠くから常に見ている小山であったが、山の向うの谷に暗い淋さびしい池があって、しばらくその岸へ下おりて休んだ。夕日になってから再び茸をさがしながら、同じ山を越えて元もと登った方の山の口へきたと思ったら、どんな風にあるいたものか、またまた同じ淋しい池の岸へ戻ってきてしまったのである。その時も茫ぼうとしたような気がしたが、えらい声で母親がどなるのでたちまち普通の心持こころもちになった。この時の私がもし一人であったら、恐らくはまた一つの神隠しの例を残したことと思っている。

 これも自分の遭遇ではあるが、あまり小さい時の事だから他人の話のような感じがする。四歳の春に弟が生まれて、自然に母の愛情注意も元ほどでなく、その上にいわゆる虫気むしけがあって機嫌きげんの悪い子供であったらしい。その年の秋のかかりではなかったかと思う。小さな絵本をもらって寝ながら看みていたが、頻しきりに母に向かって神戸には叔母おばさんがあるかと尋ねたそうである。じつはないのだけれども他の事に気を取られて、母はいい加減な返事をしていたものと見える。その内に昼寝をしてしまったから安心をして目を放すと、しばらくして往いってみたらもういなかった。ただし心配をしたのは三時間か四時間で、いまだ鉦かね太鼓たいこの騒ぎには及ばぬうちに、幸いに近所の農夫が連れて戻ってくれた。県道を南に向いて一人で行くのを見て、どこの児だろうかといった人も二三人はあったそうだが、正式に迷子として発見せられたのは、家から二十何町離れた松林の道傍みちばたであった。折よくこの辺の新開畠しんかいばたにきて働いていた者の中に、隣の親爺がいたために、すぐに私だということが知れた。どこへ行くつもりかと尋ねたら、神戸の叔母さんのところへと答えたそうだが、自分の今幽かすかに記憶しているのは、抱かれて戻ってくる途みちの一つ二つの光景だけで、その他はことごとく後日に母や隣人から聴いた話である。前の横須賀から東京駅まできた女の児の話を聴いても、自分はおおよそ事情を想像し得る。よもやこんな子が一人でいることはあるまいと思って、駅夫も乗客もかえってこれを怪まなかったのだろうが、外部の者にも諒解しえず、自身ものちには記憶せぬ衝動があって、こんな幼い者に意外な事をさせたので、調べて見たら必ず一時性の脳の疾患であり、また体質か遺伝かに、これを誘発する原因が潜んでいたことと思う。昔は七歳の少童が庭に飛降って神怪驚くべき言を発したという記録が多く、古い信仰では朝野ちょうやともに、これを託宣と認めて疑わなかった。それのみならず特にそのような傾向ある小児を捜し出して、至って重要なる任務を託していた。因童よりわらわというものがすなわちこれである。一通りの方法で所要の状態に陥らない場合には、一人を取囲んで多勢で唱となえ言ごとをしたり、または単調な楽器の音で四方からこれを責めたりした。警察などがやかましくなってのちは、力つとめて内々にその方法を講じたようだが、以前はずいぶん頻繁にかつ公然と行われたものとみえて、今もまま事と同様にこれを模倣した小児の遊戯が残っている。「中なかの中の小坊主こぼうず」とか「かアごめかごめ」と称する遊びは、正まさしくその名残である。大きくなって世の中へ出てしまうと、もう我々のごとく常識の人間になってしまうが、成長の或る時期にその傾向が時あって顕あらわれるのは、恐らくは説明可能なる生理学の現象であろう。神に隠されたという少年青年には、注意してみれば何か共通の特徴がありそうだ。さかしいとか賢いとかいう古い時代の日本語には、普通の児のように無邪気でなく、なんらかやや宗教的ともいうべき傾向をもっていることを、包含していたのではないかとも考える。物狂いという語なども、時代によってその意味はこれとほぼ同じでなかったかと思う。

一〇 小児の言によって幽界を知らんとせしこと

 運強くして神隠しから戻ってきた児童は、しばらくは気抜けの体ていで、たいていはまずぐっすりと寝てしまう。それから起きて食い物を求める。何を問うても返事が鈍く知らぬ覚えないと答える者が多い。それをまた意味ありげに解釈して、たわいもない切れ切れの語から、神秘世界の消息をえようとするのが、久しい間のわが民族の慣習であった。しかも物々しい評判のみが永く伝わって、本人はと見ると平凡以下のつまらぬ男となって活いきているのが多く、天狗てんぐのカゲマなどといって人がこれを馬鹿にした。

 この連中の見聞談は、若干の古書の中に散見している。鋭い眼をした大きな人が来いといったからついて往った。どこだか知らぬ高い山の上から、海が見えた里が見えたの類の、漠然ばくぜんたる話ばかり多い。ところがこれとは正反対にごくわずかな例外として、むやみに詳しく見てきた世界を語る者がある。江戸で有名な近世の記録は、『神童寅吉とらきち物語』、神界にあって高山嘉津間たかやまかつまと呼ばれた少年の話である。これ以外にも平田派の神道家が、最も敬虔けいけんなる態度をもって筆記した神隠しの談がいくつかあるが記録の精確なるために、いよいよ談話の不精確なことがよく分る。各地各時代の神隠しの少年が、見てきたと説くところには、何一つとして一致した点がない。つまりはただその少年の知識経験と、貧しい想像力との範囲より、少しでも外へは出ていなかったのである。

 故に神道があまり幽冥道ゆうめいどうを説かぬ時代には、見てきた世界は仏法の浄土や地獄であった。『続鉱石集ぞくこうせきしゅう』の下の巻に出ている「阿波国不朽ふきゅう物語」などはその例で、その他にも越中の立山、外南部そとなんぶの宇曾利山うそりざんで、地獄を見たという類の物語も、正直な人が見たと主張するものは、すべてみなこの系統の話である。

『黒甜瑣語こくてんさご』第一編の巻三に曰いわく、「世の物語に天狗のカゲマと云いふことありて、爰ここかしこに勾引こういんさるゝあり。或は妙義山に将もて行かれて奴やっことなり、或は讃岐さぬきの杉本坊の客となりしとも云ふ。秋田藩にてもかゝる事あり。元禄の頃仙北稲沢いなさわ村の盲人が伝へし『不思議物語』にも多く見え、下賤げせんの者には別して拘引さるゝ者多し。近くは石井某が下男は、四五度もさそはれけり。始はじめは出奔しゅっぽんせしと思ひしに、其者そのものの諸器褞袍おんぽうも残りあれば、それとも言はれずと沙汰さたせしが、一月ひとつきばかりありて立帰れり。津軽つがるを残らず一見して、委くわしきこと言ふばかり無し。其後一年ほど過ぎて此男このおとこの部屋へや何か騒がしく、宥ゆるして下されと叫ぶ。人々出て見しに早くも影無し。此度このたびも半月ほど過ぎて越後えちごより帰りしが、山の上にてかの国の城下の火災を見たりと云ふ。諸人委しく其事を語らせんとすれども、辞を左右に托たくして言はず。若もし委曲いきょくを告ぐれば身の上にも係かかわるべしとの戒いましめを聞きしと也なり。四五年を経て或人に従ひ江戸に登りしに、又道中にて行方ゆくえ無くなれり。此度は半年ほどして、大阪より下くだれり」と云う。

 右の話の始めにある『不思議物語』という本は、この他にもたくさんの珍しい記事を載せてあるらしい。二百数十年前の盲人の談話ときいて、ことに一度見たいと思っている。江戸の人の神に隠された話は、また新井白石も説いている。『白石先生手簡』、年月不明、小瀬復菴おぜふくあんに宛あてた一通には、次のごとく記してある。

「正月七日の夜、某旧識きゅうしきの人の奴僕ぬぼく一人、忽たちまちに所在を失ひ候そうろう。二月二日には、御直参ごじきさんの人にて文筆共とも当時の英材、某多年の旧識、是これも所在を失し、二十八日に帰られ候。其事の始末は、鬼の為に誘はれ、近く候山々経歴し見候みそうろう。此外このほか二三人失せし者をも承うけたまわり候へ共ども、それらは某見候者にも無く候。たしかに目撃候間あいだ、如此かくのごときの事また候へば云々うんぬん」(末の方は誤写があるらしい)。

『神童寅吉物語』は舞台が江戸であっただけに、出た当時からすでに大評判となり、少なからず近世のいわゆる幽界研究を刺戟しげきした。今でも別様の意味において貴重なる記録である。知っている人も多いと思うが、大正十四年の四月に、周防宮市すおうみやいちの天行居てんこうきょから刊行した『幽冥界ゆうめいかい研究資料』と題する一書は、この類の珍本のいくつかを合わせて覆刻ふっこくしている。『嘉津間答問かつまとうもん』四巻附録一巻は、すなわち前にいう寅吉の談話筆記で、平田翁の手を経て世に公おおやけにせられたものであるが別にそれ以外に『幸安仙界物語こうあんせんかいものがたり』三巻、紀州和歌山の或る浄土寺じょうどでらの小僧が、白髪の老翁に導かれてしばしば名山に往来したという話であり、『仙界真語せんかいしんご』一巻は、尾州の藩医柳田泰治の門人沢井才一郎という者が、遠州秋葉山に入って神になったという一条で、いずれも十七歳の青年の異常なる実験を、最も誠実に記述したものである。高山嘉津間の方は、七歳の時から上野うえのの山下で薬を売る老人につれられ、時々常陸ひたちの或る山に往来していたと語っているが実際にいなくなったのは十四の歳としの五月からで、十月とつきほどして還ってきていとも饒舌じょうぜつに霊界の事情を語っていた。遍あまねく諸州を飛行したそうだが、本居ほんきょは常陸の岩間山の頂上にあった。紛れもなく天狗山人の社会で方式にも教理にも修験道しゅげんどうの香気が強かったが、あの時代の学者たちは一種の習合をもって自派の神道の闡明せんめいにこれを利用した。それでも不用意なる少年の語の中には、あまりなる口から出まかせがあって、指摘し得べき前後の矛盾さえ多かったのだが、それは記憶の誤りだろう隠すのだろう、或いは何か凡慮に及ばぬ仔細しさいがあるのだろうと、ことごとく善意に解しようとした跡がある。非常なる骨折ほねおりであった。これに比べると紀州の幸安の神隠しは、三十年余も後の事であるが、この期間の日本の学問の進歩は、早はや著しくその話の内容に反映している。幸安はまず和歌山近くの花山というに登り、それから九州某地の赤山というところに往ったと語ったが、赤山の住侶じゅうりょはいずれも仙人せんにんで、おのおの『雲笈七籖うんきゅうしちせん』にでもあるような高尚な漢名を持っていた。天狗などは身分の低いものだと大いにこれを軽蔑けいべつしている。また支那にも飛べば北亜細亜アジアの山にも往ったとあって、その叙説の不精確さは正まさに幕末ごろの外国地理の知識であった。よくもこんな話が信じられたと、今の人ならば驚くのが当然だが、道教の神秘も日本の固有信仰がこれを支配し得るかのごとく、曲解し得るだけ曲解するのが、言わばあの時代の学風であったので、すなわちたくさんの夢語ゆめがたりも、やはり平田翁一派の研究以外へは一足だって踏出してはいないのである。

 名古屋の秋葉大権現あきばだいごんげんの神異に至っては、話が更に一段と単純になっている。これは前にいう紀州の事件よりも、また十五年も後のことであるが、これに参加した人たちが学問に深入ふかいりしなかった故に、古風な民間の信仰の清らさを留とどめている。すなわち神隠しの青年は口が喋々ちょうちょうと奇瑞きずいを説かなかったかわりに、我々の説明しえないいろいろの不思議が現われ、それを見たほどの者は一人として疑い怪しむことができなかった。そうして多くの信徒の興奮と感激との間に、当の本人は霊魂のみを大神おおかみに召されて、若い骸むくろを留めて去ったのである。およそ近代の宗教現象の記録として、これほど至純なる資料はじつは多くない。身み親したしくこの出来事を見聞した者の感を深め信心を新たにしたことも、誠に当然の結果のように思われる。ただ我々の意外とすることは、こういう珍しいいろいろの実験をならべてみて、一方が真実なら他方は誤りでなければならぬほどの不一致には心づかず、幽界の玄妙なる、なんのあらざる事あらんやと、一切の矛盾を人智不測の外に置こうとした、後世の学徒の態度であった。もし盲信でなければ、これは恐らく同種の偽物にせものに対する寛容であって、やがては今日のごとき鬼術横行の原因をなしたものとも言いえられる。

 江戸の高山嘉津間、和歌山の島田幸安等の行末ゆくすえはどうであったか。今なら尋ねて見たらまだ消息が知れるかもしれぬ。もし彼らの行者生活が長く続いていたとすれば、これらの覚書おぼえがき類は時の進むとともに、幾たびかその価値を変化しているはずである。少なくとも口で我々にあんなことを説いて聞かせても、もう今日では耳を傾ける者はあるまい。故に書物になって残っているというだけで、特段にこれを尊重すべき理由はない道理である。

一一 仙人出現の理由を研究すべきこと

「うそ」と「まぼろし」との境は、決して世人の想像するごとくはっきりしたものでない。自分が考えてもなおあやふやな話でも、なんどとなくこれを人に語り、かつ聴く者が毎つねに少しもこれを疑わなかったなら、ついには実験と同じだけの強い印象になって、のちにはかえって話し手自身を動かすまでの力を生ずるものだったらしい。昔の精神錯乱と今日の発狂との著しい相異は、じつは本人に対する周囲の者の態度にある。我々の先祖たちは、むしろ怜悧れいりにしてかつ空想の豊かなる児童が時々変になって、凡人の知らぬ世界を見てきてくれることを望んだのである。すなわちたくさんの神隠しの不可思議を、説かぬ前から信じようとしていたのである。

 室町時代の中ごろには、若狭わかさの国から年齢八百歳という尼が京都へ出てきた。また江戸期の終りに近くなってからも、筑前の海岸に生まれた女で長命して二十幾人の亭主を取替えたという者が津軽方面に出現した。その長命に証人はなかったが、両人ながら古い事を知ってよく語ったので、聴く人はこれを疑うことができなかった。ただしその話は申合もうしあわせたように源平げんぺいの合戦かっせん、義経よしつね・弁慶べんけいの行動などの外には出なかった。それからまた常陸坊海尊ひたちぼうかいそんの仙人になったのだという人が、東北の各地には住んでいた。もちろん義経の事蹟じせき、ことに屋島やしま・壇だんの浦うら・高館たかだて等、『義経記』や『盛衰記』に書いてあることを、あの書をそらで読む程度に知っていたので、まったくそのために当時彼が真の常陸坊なることを一人として信用せざる者はなかったのである。

 今日の眼から見れば、これを信ずるのは軽率のようであり、欺あざむく本人も憎いようだが、恐らくは本人自身も、常陸坊であり、ないしは八百比丘尼びくになることを、何かわけがあって固く信じていたものと思われる。それも決してありえざることではない。参河みかわの長篠ながしの地方でおとらという狐に憑つかれた者は、きっと信玄や山本勘助の話をする。この狐もまた長生で、かつて武田合戦を見物していて怪我けがをしたという説などが行われていたために、その後憑かれた者が、みなその合戦を知っているような気持にならずにはおられなかったのである。

 若狭の八百比丘尼は本国小浜おばまの或る神社の中に、玉椿たまつばきの花を手に持った木像を安置しているのみではない。北国は申すに及ばず、東は関東の各地から、西は中国四国の方々の田舎いなかに、この尼が巡遊したと伝うる故跡こせきは数多く、たいていは樹を栽うえ神を祭り時としては塚つかを築き石を建てている。それが単なる偶合ぐうごうでなかったと思うことは、どうしてそのように長命をしたかの説明にまで、書物を媒介とせぬ一部の一致と脈絡がある。つまりは霊怪なる宗教婦人が、かつて巡国をしてきたことはあったので、その特色は驚くべき高齢を称しつつ、しかも顔色の若々しかった点にあったのである。人はずいぶんと白髪の皺しわだらけの顔をしていても、八百といえば嘘だと思わぬ者はないであろうに、とにかくにこれを信ぜしめるだけの、術だか力だかは持っていたのである。それが一人かはた幾人もあったのかは別として、京都の地へも文安から宝徳のころに、長寿の尼が若狭から遣やってきて、毎日多くの市民に拝まれたことは、『臥雲日件録がうんにっけんろく』にも書いてあれば、また『康富記やすとみき』などにもちゃんと日記として載せてあるから、それを疑うことはできないのである。尤もっともこの時代は七百歳の車僧のように、長生を評判にする風は流行であった。然しからば何か我々の想像しえない方法が、これを証明していたのかも知れぬが、いずれにしても『平家物語』や『義経記』の非常な普及が、始めて普通人に年代の知識と、回顧趣味とを鼓吹したのはこの時代だから、比丘尼の昔語りは諸国巡歴のために、大なる武器であったことと思う。ただ自分たちの想像では、単なる作り事ではこれまでに人は欺きえない。或いは尼自身も特殊の心理から、自分がそのような古い嫗おうなであることを信じ、まのあたり義経・弁慶一行の北国通過を、見ていたようにも感じていた故に、その言うことが強い印象となったのではなかろうか。越中立山の口碑では、結界けっかいを破って霊峰に登ろうとした女性の名を、若狭の登宇呂とうろの姥うばと呼んでいる。もしこの類の山で修業した巫女みこが自身にそういう長命を信じている習ならいであったら、のちに説こうとする日向小菅岳ひゅうがこすげだけの山女が、山に入って数百年を経たと人に語ったというのも、必ずしも作り話ではないことになるのである。やたらに人の不誠実を疑うにも及ばぬのである。

 常陸坊海尊の長命ということは、今でもまだ陸前の青麻権現あおそごんげんの信徒の中には、信じている人が大分だいぶあって、これを疑っては失礼に当るか知れぬが、じつはこの信仰には明らかに前後の二期があって、その後期においては海尊さまはもう人間ではなかったのである。これに反して足利時代の終りに近く、諸国にこの人が生きていたという話の多いのは、正しく八百比丘尼と同系統の現象であった。事のついでに少しくあのころの世間の噂を比較してみると、例えば会津あいづの実相寺じっそうじの二十三世、桃林契悟禅師とうりんけいごぜんじ号は残夢、別に自ら秋風道士とも称した老僧はその一人であった。和尚おしょうは奇行多くまた好んで源平の合戦その他の旧事を談ずるに、あたかも自身その場にいて見た者のごとくであった。無々という老翁の石城いしき郡に住する者、かつて残夢を訪ねてきて、二人で頻しきりに曾我そがの夜討ようちの事を話していたこともあった。しかも曾我とか源平合戦とかがもうちゃんと書物になっていることを知らず、あまり詳しいので喫驚びっくりするような人が、まだこの地方には多かったらしいのである。年を尋ねると百五六十と答え、強しいて問いつめるとかえって忘れたといって教えなかった。然らば常陸坊海尊だろうと噂したというのは、恐らくはこのころすでにかの仙人がまだ生きてどこかにいるように評判する者があったからであろう。また別の伝えには福仙という鏡研かがみとぎがきた。残夢これを見て彼は義経公の旗持ちだったというと、福仙もまた人に向って、残夢は常陸坊だと告げたともいうが、そんな事をすれば露あらわれるにきまっている。しかも和尚は天正四年の三月に、たくましい一篇の偈げを留とどめて円寂えんじゃくし、墓もその寺にあるにかかわらず、その後なお引続いて、常陸坊が生きているという説は行われた。『本朝故事因縁集ほんちょうこじいんねんしゅう』には、「海尊遁にげ去りて富士山に入る、食物無し、石の上に飴あめの如き物多し、之を取りて食してより又飢うること無く、三百年の久しき木の葉を衣として住む。近代信濃の深山に岩窟がんくつあり、之に遊びて年未だ老いず」とある。山におりきりの仙人ならば、こんな歴史も伝わらぬ道理で、やはり時々は若狭の尼のように人間の中に入ってきていたのである。能登の狼煙のろし村の山伏山やまぶしやまでは、常陸坊はこの地まできて義経と別れ、仙人になってこの山に住んだ、おりおりは山伏姿で出てきたと『能登国名跡志のとのくにめいせきし』に書いてあるが、それでは高館たかだて・衣川ころもがわの昔話をするのに、甚だ勝手が悪かったわけである。加賀には残月という六十ばかりの僧、かつて犀川さいかわと浅野川の西東に流れていた時を知ってるといった。越後の田中という地にきて、小松原宗雪なる者と同宿し、穀を絶ち松脂まつやにを服して暮していたが、誰言うともなく残月は常陸坊、小松原は亀井六郎だと評判せられた。人が『義経記』を呼んで聴かせると覚えず釣込まれてそのころの話をしたと『提醒紀談ていせいきだん』巻一にあるが、亀井と馬が合うたとすれば能登で別れてしまったのではなさそうだ。『広益俗説弁こうえきぞくせつべん』巻十三には、海尊かいそん高館の落城に先だって山に遁のがれ、仙人となって富士・浅間・湯殿山ゆどのさんなどに時々出現するとあるが、羽前最上もがみ郡古口ふるくち村の外川とかわ神社の近くにも、海尊仙人が住んでいたという口碑あり、また陸前気仙けせん郡の唐丹とうにの観音堂の下にも、昔常陸坊が松前まつまえから帰りがけにこの地を通って、これは亀井の墓だと別当山伏の成就院じょうじゅいんに、指さし教えたと伝うる墓があった。永い年月には何処へでも往ったろうが、それにしてもあまりに口が多く、また話が少しずつ喰違っているのは、やはりたくさんの同名異人があったためではなかったか。ことに寛永の初年に陸中平泉ひらいずみの古戦場に近い山中で、仙台の藩士小野太左衛門が行逢ゆきあうたというのは、よほど怪しい常陸坊であった。源平時代の見聞を語ること、親しくこれを歴へた者の通りであった故に、小野はただちに海尊なることを看破し、就ついて兵法を学び、また恭うやうやしく延年益寿の術を訊たずねた。異人答えて曰く、もと修するの法なし、かつて九郎判官ほうがんに随従して高館にいるとき、六月衣川ころもがわに釣つりして達谷たっこくに入る。一老人あり招きて食を供きょうす。肉ありその色は朱しゅのごとく味美なり、仁羮じんこうと名づく。従者怪みて食わず、これを携えて帰る。その女子これを食いまた不死であったが、天正十年までいていずれへか往いってしまったと語った。この話は若狭・越中その他の地方において、八百比丘尼の長生の理由として、語り伝うるものと全然同じで、仁羮はすなわち人魚の肉であった。日本の仙人が支那のように技術の力でなく、とうてい習得しがたい身の運のようなものを具えていたことを、説明しようとする昔話に過ぎぬのだが、これをさえ受売うけうりするからには仙翁でもなかったのである。しかるにもかかわらず、小野太左衛門はその説に感歎して、これを主人の伊達政宗だてまさむねに言上ごんじょうし、後日に清悦せいえつ御目見おめみえの沙汰さたがあった。清悦とはこの自称長寿者ののちの名で、現今行われている『清悦物語せいえつものがたり』の一書は、彼が『義経記』を一読してこれは違っているといい、自ら口授したところの源平合戦記であった。『吾妻鏡あずまかがみ』や『鎌倉実記』と比較して、一致せぬ点が多いというのは当り前以上である。しかし出来事の評判は非常であったと見えて、寛永以後なお久しい間、清悦の名は農民の頭から消えなかった。岩切の青麻権現の岩窟に出現したのは、それからおよそ五十年の後、ちょうど『清悦物語』が世に出てから、十五年目の天和二年であったという。鈴木所兵衛という、信心深い盲人が、彼に教えられて天に祷いのり、目が開いたという奇跡もあった。その時は気高い老人の姿で現れて、われは常陸坊海尊、今の名は清悦である。久しく四方を巡って近ごろ下野の大日窟にいたが、これからはここへきて住もう。この窟には何神を祭ってあるかと尋ねるので、大日・不動・虚空蔵こくうぞうの三尊だと答えると、それは幸いのことだ、自分の念ずるのも日月星、今より三光穴と名づくべしといって、すなわち岩窟に入って鉄※(「金+樔のつくり」、第4水準2-91-32)てっさをもって上下した。これが人魚を食べた常陸坊のまた新たなる変化であった。ただしこの縁起えんぎはそれから更に八十余年を経て、再びこの社が繁昌はんじょうしたのちのもので、以前の形のままか否かは疑わしい。近年になっては一般に、常陸坊は天狗だと信じられていた。常陸国の阿波あばの大杉大明神だいみょうじんも、この人を祭るという説があり、特別の場合のほかは姿を見ることができなかった。しかも一方には因縁がなお繋つながって、おりおりは昔の常陸坊かも知れぬという老人が、依然として人間にまじって遊んでいた。

 話が長過ぎたがやはり附添つけそえておく必要がある。青麻権現の奇跡と同じころに、同じ仙台領の角田かくだから白石しろいしの辺にかけて、村々の旧家に寄寓きぐうしてあるいた白石しろいし翁という異人があった。身のたけ六尺眼光は流電のごとく、またなかなかの学者で神儒しんじゅ二道の要義に通じていた。この翁の特徴は紙さえ見れば字をかくことと、それからまた源平の合戦を談ずることとであった。年齢は言わぬが誰を見てもセガレと呼び、角田の長泉寺の天鑑てんがん和尚などは百七つまで長命したのに、やはりセガレをもって交まじわっていた。或る時象棋しょうぎをさしていて、ふと曲淵まがりふち正左衛門の事を言いだしたが、この人は二百年前にいた人であった。身元が知れぬのでいろいろの風説が生じ、或いは甲州の山県昌景かといい、信玄の次男の瞽聖こせい堂の子かともいい、或いはまた清悦であろうともいった。元禄六年の二月十八日に、白石在の某家でたしかに病没したのだが、それから十何年ののち、或る商人が京都に旅行して、途中で白石翁を見たという話も伝わっていたから、かりに海尊であったとしても理窟だけは合うのである(以上『東藩野乗とうはんやじょう』下巻および『封内風土記』四)。
 さてこれらの話を集めてみて、結局目に立つのは、常に源平の合戦を知っていることが長命の証拠になったという点である。東北地方の旧家のことに熊野神社と関係あるものは、最も弁慶や鈴木・亀井の武勇談を愛好し、なるたけ多く聴きたいという希望が、ついに『義経記』のごとき地方の文学を成長せしめたのだ。これに新材料を供与する人ならば、異常の尊敬を受けたのは当然である。それも作り事と名乗っては、人が承知せぬのが普通であった。すなわち座頭の坊の物語が夙はやくから、当時実際に参与した勇士どもの霊の、託言または啓示なることを要した所以ゆえんである。常陸坊は高館落城の当時から、行方不明と伝えられていた故に、後日生霊いきりょうとなって人に憑つくにさしつかえはなく、また比較的重要でない法師であって、観みていた様子を語るには都合がよかった。だから、一時的には吾われは海尊と名乗って、実歴風に処々の合戦や旅行を説くことは、いずれの盲法師めくらほうしも昔は通例であったかと思うが。それがあまりに巧妙で傍かたわらの者が本人と思ったか、はたまた本人までが常陸坊になりきって、いわゆる見てきたような嘘うそをついたかは、今日となってはもう断定ができぬ。それから第二の点は支那の寒山拾得かんざんじっとくの話のごとく、残夢は無々と語り福仙と相指あいゆびざし、残月は小松原宗雪と同宿し、清悦は小野某を伴ない、また白石翁が天鑑和尚を倅せがれと呼んだこと、これも多分は古くからの方式であったろうと思う。陸中江刺えさし郡黒石くろいしの正法寺しょうぼうじで、石地蔵が和尚に告げ口をしたために常陸かいどうの身の上が露あらわれた。帰りにその前を通ると地蔵がきな臭いような顔をしたので、さてはこやつが喋しゃべったかと、鼻をねじたといって鼻曲はなまがり地蔵がある。これは紛れもなく海神わたつみの宮の口女くちめであり、また猿の肝きもの昔話の竜宮りゅうぐうの海月くらげであって、こういう者が出てこないと、やはり話にはなりにくかったのである。だから眼前のただ一つの例を執とって、不思議を説明しようとするのは誤った方法である。近くは天明の初年に、上州伊香保いかほの木樵きこり、海尊に伝授を受けたと称して、下駄灸げたきゅうという療治を行ったことが、『翁草おきなぐさ』の巻百三十五にも見えている。彼も福仙と同じく義経の旗持ちであったのが、この山に入って自分もまた地仙となったという。下駄だの灸だのという近代生活にまで、なお昔の奥浄瑠璃おくじょうるりの年久しい影響が、痕あとを留とどめているのはなつかしいと思う。

一二 大和尚に化けて廻国せし狸のこと

 話が山から出てきたついでに、おかしな先例を今少し列挙して見たい。関東各府県の村の旧家には、狐や狸の書いた書画というものがおりおり伝わり、これに伴うて必ず不思議な話が残っている。たいていは旅の僧侶そうりょに化けて、その土地にしばらく止とどまっていたというのである。どうしてその僧の狸であることを知ったかといえば、後日少しくかけ離れた里で、狗いぬに噛殺かみころされたという話だからというものと、その僧が滞在をしている間、食事と入浴に人のいるのをひどく厭いやがる。そっと覗のぞいてみたら食物を膳ぜんの上にあけて、口をつけて食べていたからというのがあり、また湯殿ゆどのの湯気ゆげの中から、だらりと長い尻尾しっぽが見えたからというのもある。書や画は多くは乱暴な、しかも活溌かっぱつな走り書きであった。

 この化の皮の露れた原因として、狗に殺されたはいかにも実際らしくない。もし噛まれて死んでいたものの正体が狸であれば、果してあの和尚か否かがわからず、和尚の姿で死んでおれば、狸とはなおさらいわれない。要するに山芋やまいもと鰻うなぎ、雀すずめと蛤はまぐりとの関係も同じで、立会たちあいのうえで甲から乙へ変化するところを見届けぬかぎりは、真の調書は作成しえなかった道理である。おそらくはじつは和尚の挙動、或いはその内々の白状が、この説の基礎をなしたものであったろうと思う。

 いわゆる狸和尚の話は、鈴木重光君の『相州内郷うちごう村話』の数ページが、最も新しくかつ注意深い報告である。同君の居村附近、すなわち小仏峠こぼとけとうげを中心とした武相甲の多くの村には、天明年間に貉むじなが鎌倉建長寺の御使僧ごしそうに化けたという話とともに、描いて残した書画が多く分布している。鈴木君が自身で見たものは、東京府南多摩みなみたま郡加住かすみ村大字宮下にある白沢はくたくの図、神奈川県津久井つくい郡千木良ちぎら村に伝わる布袋ほてい川渡りの図であったが、後者は布袋らしく福々しいところは少しもなく、なんとなく貉むじなに似た顔にできていた。書は千木良の隣の小原町の本陣、清水氏にも一枚あった。形は字らしいが何という字か判わからなかった。それよりも更に奇怪きっかいなことは、この僧が狗に噛み殺されて、貉の正体を顕あらわしたと伝うる場処が、或いは書画の数よりも多いかと思うくらい方々の村にあることである。また建長寺の方でもこの事件は否定せぬそうだ。ただし貉が勧化かんげの使僧を咬かみ殺して、代ってこれに化けたというかちかち山式風説は認めず、中途で遷化せんげした和尚の姿を借りて、山門再建の遺志を果したという他の一説の方を執とっており、現に寺にもその貉の書いたものが、二枚も蔵しまってあるというのは、すこぶる次に述べる文福茶釜ぶんぶくちゃがまの話と似ている。

 右と同様の話はなおたくさんあるが、今記憶する二つ三つを挙げて見ると、『静岡県安倍あべ郡誌』には、この郡大里村大字下島の長田氏には、これも建長寺の和尚に化けて、京に上ると称して堂々と行列を立て、乗り込んできたという貉の話あり、その書が今に残っている。横物の一軸いちじくに「※(「りっしんべん+里」、第3水準1-84-49)」というような変な字が一字書いてある。ムジナすなわち狸だという幽かすかな暗示とも解せられる。隣区西脇の庄屋萩原氏にも宿泊し、かの家にも一枚あったがそれは紛失した。そうしてやはりのちに安倍川の川原で、犬に喰殺されたと伝えられる。信州下伊那しもいな郡泰阜やすおか村の温田ぬくたというところにも、狸のえがくという絵像のあることが、『伝説の下伊那』という書に報ぜられてある。人の顔に獣の体を取りつけたような不思議な画姿えすがたであったという。ただしこれは和尚ではなくて、由よしある京都の公家くげという触込ふれこみで、遠州路から山坂を越えて、この村に遣ってきて泊った。出入ともに駕籠かごの戸を開かず、家の者も見ることをえなかったが、翌朝出発の時に礼だと称して、こんな物を置いて去ったという。この狸はそれから柿野という部落に入って同じことをくりかえし、だんだんと天竜筋てんりゅうすじを上って行くうちに、上穂うわぼの光善寺の飼犬に正体を見現わされ、咬み殺されてしまったというが、その光善寺の犬は例のヘイボウ太郎で、遠州見附みつけの人身御供ひとみごくう問題を解決した物語の主人公だから、どこまでが昔話か結局は不明に帰するのである。

『蕉斎筆記しょうさいひっき』にはまた次のような話が出ている。三州亀浜かめはまの鳴田又兵衛という富人の家へ、安永の初年ころに、京の大徳寺の和尚だというのがただ一人でふらりと遊びにきて、物の三十日ほども滞在し、頼まれて額がくだの一行物だのを、いくらともなく書いて還かえった。あとから挨拶あいさつの状を京に上のぼせると、大徳寺の方では和尚一向にそんな覚えがないとある。ただしもとこの寺に一匹の狸がいて、夜分縁先えんさきにきて法談を聴聞ちょうもんしていたが、のちに和尚の机の上から石印を盗んでいずれへか往ってしまった。其奴そやつではなかろうかといっていると、果して後日の噂には江州大津の宿で、駕籠を乗替えようとして犬に喰殺された狸だか和尚だかが、その石印を所持していたそうである。三州の方には屏風びょうぶが一つ残っていた。見事な筆蹟であったという。しかしこれだけの材料を綜合して、狸が書家であったと断定することは容易でない。やはり最初から、旅僧の中には稀まれには狸ありという風説が、下染したぞめをなしている必要はあったのである。狐の書という話も例は多いが、『塩尻しおじり』(帝国書院本)の巻六十八および七十五にも、これと半分ほど似た記事がある。美濃安八あはち郡春近はるちかの井上氏に、伝えた書というのがそれであって、その模写を見ると鳥啼花落ちょうていからくと立派に書いて、下に梅菴ばいあんと署名してある、本名は板益亥正、年久しく井上家の後園に住む老狐であって、しばしば人間の形をもって来訪した。筆法以外医道の心得こころえもあり、また能よく禅を談じたが、一旦中絶して行方が知れず、どうした事かと思っていると、或る時村の者が京に上る途みちで、これも大津の町で偶然にこの梅菴に行逢ゆきあうた。もう年を取って死ぬ日が近くなった。日ごろ親しくした井上氏と、再会の期もないのは悲しいと落涙し一筆認したためてこれを托し、なお井上が子供にもよく孝行をして学問を怠らぬようにと、伝言を頼んで別れたそうである。梅菴は野狐にして僧、長斎一食なりとあって、何だか支那の小説にでもありそうな話だが、現に鳥啼花落が遺のこっているのだからしかたがない。しかし『宮川舎漫筆みやがわのやまんぴつ』巻三には、早同じ話に若干の相違を伝え、公表せられた狐の書というものにも、野干坊元正やかんぼうげんせいと麗々れいれいと署名がしてあった。

 実際この類の狐になると、果して人に化けたのやら、もしくは人の形になりきっているのやら、その境目さかいめがもうはっきりしてはいなかった。それ故にかえって本人の方から、たとえ露骨には名乗らぬまでも、やや自分の狐であることを、暗示する必要があったと見える。空菴くうあんという狐が自ら狐の一字を書したことは『一話一言いちわいちげん』にあり、また駿州安倍郡の貉は狸という字に紛わしい書を遺した。しかも他の一方においては、人が狐に化けたという話も近世は存外に多かった。物馴ものなれた旅人が狐の尻尾を腰さげにして、わざとちらちらと合羽かっぱの下から見せ、駕籠屋かごや・馬方うまかた・宿屋の亭主に、尊敬心を起こさせたという噂は興味をもって迎えられ、甚だしきはあべこべに、狐を騙だましたという昔話さえできている。だから私は村々の狸和尚が、いずれも狸の贋物にせものであったとはもちろん言わぬが、少なくともいかにしてこれを発見したかは、考えてみる必要があると思うのである。

 狐狸の大多数が諸国を旅行する際に、武士にも商人にもあまり化けたがらず、たいてい和尚や御使僧になってきたのも曰いわくがあろう。上州茂林寺もりんじの文福茶釜を始めとしてかつて異僧が住してそれがじつは狸であり、いろいろと寺のために働いて、のちにいなくなったというのみならず、何か末世の手証てあかしとなるものを、遺して往ったという例はたくさんにある。禅宗の和尚たちはこれを怪奇として斥しりぞけず、むしろ意味ありげに語り伝えるのが普通であった。会津の或る寺でも守鶴西堂しゅかくせいどうの天目てんもくを什宝じゅうほうとし、稀有けうの長寿を説くこと常陸坊海尊同様であったが、その守鶴もやはり何かのついでに微々として笑って、すこぶる自己のじつは狸なることを、否定しなかったらしい形がある。東京の近くでは府中の安養寺あんようじに、かつて三世の住職に随逐ずいちくした筑紫三位という狸があって、それが書いたという寺起立の由来記を存し、横浜在の関村の東樹院とうじゅいんには、狸が描くと称する渡唐天神の像もあった(『新篇風土記稿』二十四および二十八)。建長寺ばかりではないのである。
 それからまた有用無害の狐狸がいたという話は、今では多く寺々の管轄の下に帰し、かつは仏徳の如是畜生にょぜちくしょうに及んだことを証しているようだが、最初はその全部が僧たちの親切に基づいた因縁話でもなかったらしい。今日の思想から判はんずれば、狐はこれ人民の敵で、人は汲々乎きゅうきゅうことしてその害を避くるに専もっぱらであるけれども、祭った時代にはいろいろの好意を示し、また必ずしも仏法の軌範の内に跼蹐きょくせきしていなかった。例えば越後の或る山村では、正月十五日の宵よいに山から大きな声を出して、年の吉凶を予言し、または住民の行為を批判した。『東備郡村誌』によれば、岡山市外の円城村に老狸あり、人に化けて民間に往来し、能よく人の言語を学んでしばしば附近の古城の話をした。その物語を聴きかんと欲する者、食を与えてこれを請こう時んば、一室を鎖とざしてその内に入り、諄々じゅんじゅんとして人のごとくに談じた。しこうして人を害することなし、尤もっとも怪獣なりとある。三河みかわの長篠ながしののおとら狐に至っては、近世その暴虐ことに甚だしく住民はことごとく切歯扼腕せっしやくわんしているのだが、人に憑つくときは必ず鳶巣城とびのすじょうの故事を談じ、なお進んでは山本勘助の智謀、川中島の合戦のごとき、今日の歴史家が或いは小幡勘兵衛の駄法螺だぼらだろうと考えている物語までを、事も細かに叙述するを常とした。単に人を悩ます者がおとらであり、おとらは歳とし久しき狐なることを証明するためならば、それほど力を入れずともよいのであった。おそらくはこれも昔はその話を聴くために、狐を招いてきてもらった名残であって、同時にまた諸国の狸和尚、ないしは常陸坊・八百比丘尼の徒が、或いは自分もまた多くの聴衆と同じく、憑いた生霊、憑いた神と同化してしまって、荘子そうじの夢の吾われか蝴蝶こちょうかを、差別しえない境遇にあった結果ではないかを考えしめる。

 近ごろでも新聞に毎々出てくるごとく、医者の少しく首を捻ひねるような病人は、家族や親類がすぐに狐憑きにしてしまう風が、地方によってはまだ盛んであるが、なんぼ愚夫愚婦でも理由もなしに、そんな重大なる断定をするはずがない。たいていの場合には今までも似たような先例があるから、もしか例のではないかと、以心伝心に内々一同が警戒していると、果せるかな今日は昨日よりも、一層病人の挙動が疑わしくなり、まず食物の好みの小豆飯あずきめし・油揚あぶらあげから、次には手つき眼つきや横着なそぶりとなり、此方でも「こんちきしょう」などというまでに激昂げっこうするころは、本人もまた堂々と何山の稲荷いなりだと、名を名乗るほどに進んでくるので、要するに双方の相持あいもちで、もしこれを精神病の一つとするならば、患者は決して病人一人ではないのだ。狸の旅僧のごときも多勢で寄ってたかって、化けたと自ら信ぜずにはおられぬように逆にただの坊主を誘導したものかも知れぬ。

 佐渡では新羅しらぎ王書と署名した奇異なる草体の書が、多くの家に蔵せられ、私もそのいくつかをみた。古い物ではあるが、もちろん新羅という国が滅びてのち、すでに四五百年以上もしてからの作に相異ない。天文年間に漂着したともいい、或いはもっと後のことともいっている。とにかくかつて他処からきた実在の異人であった。のちには土地の語を話し、土地の人になってしまった。書ばかり書いている変な人だったというが、現にその子孫という家もあって、とにかくに詐欺師さぎしではなかった。自分でも新羅王だと思っており、それをまた周囲の人が少しも疑わなかったために、このようなありうべからざる歴史が成り立ったものである。

 神隠しの少年の後日譚、彼らの宗教的行動が、近世の神道説に若干の影響を与えたのは怪しむに足らぬ。上古以来の民間の信仰においては、神隠しはまた一つの肝要なる霊界との交通方法であって、我々の無窮に対する考えかたは、終始この手続を通して進化してきたものであった。書物からの学問がようやく盛んなるにつれて、この方面は不当に馬鹿にせられた。そうして何が故に今なお我々の村の生活に、こんな風習が遺っていたのかを、説明することすらもできなくなろうとしている。それが自分のこの書物を書いて見たくなった理由である。

一三 神隠しに奇異なる約束ありしこと

 神隠しからのちに戻ってきたという者の話は、さらに悲しむべき他の半分の、不可測なる運命と終末とを考える材料として、なお忍耐して多くこれを蒐集しゅうしゅうする必要がある。社会心理学という学問は、日本ではまだ翻訳ばかりで、国民のための研究者はいつになったら出てくるものか、今はまだすこしの心当こころあてもない。それを待つ間の退屈を紛らすために、かねて集めてあった二三の実例を栞しおりとして、自分はほんの少しばかり、なお奥の方へ入りこんで見ようと思う。最初に注意せずにおられぬことは、我々の平凡生活にとって神隠しほど異常なるかつ予期しにくい出来事は他にないにもかかわらず、単に存外に頻繁ひんぱんでありまたどれここれもよく似ているのみでなく、別になお人が設けたのでない法則のごときものが、一貫して存するらしいことである。例えば信州などでは、山の天狗に連れて行かれた者は、跡に履物はきものが正しく揃そろえてあって、一見して普通の狼藉ろうぜき、または自身で身を投げたりした者と、判別することができるといっている。そんなことは信じえないと評してもよいが、問題は何故に人がそのようなことを言い始めるに至ったかにある。

 或いはまた二日とか三日とか、一定の期間捜さがしてみて見えぬ場合に、始めてこれを神隠しと推断し、それからはまた特別の方法を講ずる地方もある。七日を過ぎてなお発見しえぬ場合にもはや還らぬ者としてその方法を中止する風もある。或いはまた山の頂上に登って高声に児の名を呼び、これに答うる者あるときは、その児いずれかに生存すと信じて、辛かろうじて自ら慰める者がある。八王子の近くにも呼ばわり山という山があって、時々迷子まいごの親などが登って呼び叫ぶ声を聴くという話もあった。町内の附合つきあいまたは組合の義理と称して、各戸総出そうでをもって行列を作り、一定の路筋みちすじを廻歴した慣習のごときも、これを個々の事変に際する協力といわんよりは、すこぶる葬礼祭礼などの方式に近く、しかも捜査の目的に向かっては、必ずしも適切なる手段とも思われなかった。この仕来しきたりには恐らくは忘却せられた今一つ根本の意味があったのである。それを考え出さぬ限りは、神隠しの特に日本に多かった理由も解わからぬのである。

 全体にこの実例はおいおいと少なくなって、今では話ばかりがなお鮮明に残っている。神隠しという語を用いぬ地方もすでにあるが、狐に騙だまされて連れて行かれるといいまたは天狗にさらわれるといっても、これを捜索する方法はほぼ同じであった。単に迷子と名づけた場合でも、やはり鉦かね太鼓たいこの叩たたき方は、コンコンチキチコンチキチの囃子はやしで、芝居で「釣狐つりぎつね」などというものの外には出でなかった。しかもそれ以外になお叩く物があって、各府県の風習は互いによく似ていたのである。例をもって説明するならば、北大和やまとの低地部では狐にだまされて姿を隠した者を捜索するには、多人数で鉦と太鼓を叩きながら、太郎かやせ子かやせ、または次郎太郎かやせと合唱した。この太郎次郎は子供の実名とは関係なく、いつもこういって喚よんだものらしい。そうして一行中の最近親の者、例えば父とか兄とかは、一番後に下さがってついて行き、一升桝いっしょうますを手に持って、その底を叩きながらあるくことに定きまっており、そうすると子供は必ずまずその者の目につくといっていた(『なら』一八号)。紀州田辺地方でも、鉦太鼓を叩くとともに、櫛くしの歯をもって桝の尻を掻かいて、変な音を立てる風があった(雑賀君報)。播磨はりまの印南いんなん郡では迷子を捜すのに、村中松明たいまつをともし金盥かなだらいなどを叩き、オラバオオラバオと呼ばわってあるくが、別に一人だけわざと一町ばかり引き下って桝を持って木片などで叩いて行く。そうすると狐は隠している子供を、桝を持つ男のそばへ[#「そばへ」は底本では「そぱへ」]ほうり出すといっていた。同国東部の美嚢みの郡などでは、迷子は狐でなく狗賓ぐひんさんに隠されたというが、やはり捜しにあるく者の中一人が、その子供の常に使っていた茶碗ちゃわんを手に持って、それを木片をもって叩いてあるいた。越中魚津でも三十年余の前までは、迷子を探すのに太鼓と一升桝とを叩いてあるいた。桝の底を叩くと天狗さんの耳が破れそうになるので、捕えている子供を樹の上から、放して下すものだと信じていたそうである(以上『土の鈴』九および十六)。

 右のごとき類例を見て行くと、誰でも考えずにおられぬことは、今も多くの農家で茶碗を叩き、また飯櫃めしびつや桝の類を叩くことを忌む風習が、ずいぶん広い区域にわたって行われていることである。何故にこれを忌むかという説明は一様でない。叩くと貧乏する、貧乏神がくるというもののほかに、この音を聴いて狐がくる、オサキ狐が集まってくるという地方も関東には多い。多分はずっと大昔から、食器を叩くことは食物を与えんとする信号であって、転じてはこの類の小さな神を招き降おろす方式となっていたものであろう。従って一方ではやたらにその真似まねをすることを戒め、他の一方ではまたこの方法をもって児を隠す神を喚よんだものと思う。俵藤太たわらとうだが持ってきた竜宮の宝物に、取れども尽きぬ米の俵があって、のちに子孫の者がその俵の尻を叩くと白い小蛇こへびが飛びだして米が尽きたと称するのも、もし別系統でなければ同じ慣習の変化だとみてよろしい。いずれにしても迷子の鉦太鼓が、その子に聴かせる目的でなかったことだけは、かやせ戻せという唱となえ言ごとからでも、推定することが難くないのである。

 加賀の能美のみ郡なども、天狗の人を隠した話の多かったことは、近年刊行した『能美郡誌のみぐんし』を見るとよくわかる。同じ郡の遊泉寺村では、今から二十年ほど前に伊右衛門という老人が神隠しに遭あった。村中が手分けをして探しまわった結果、隣部落と地境じざかいの小山の中腹、土地で神様松という傘かさの形をした松の樹の下に、青い顔をして坐すわっているのを見つけたという。しかるに村の人たちがこの老人を探しあるいた時には、鯖さば食った伊右衛門やいと、口々に唱えたという話だが、これはいつでもそういう習わしで、神様ことに天狗は最も鯖が嫌いだから、こういえば必ず隠した者を出すものと信じていたのである(立山徳治君談)。琉球で物迷ものまよいと名づけて物に隠された人を探すのにも、部落中の青年は手分けをして、森や洞窟などの中を棒を持ち銅鑼どらを叩き、どこそこの誰々やい、赤豆飯あかまめまいを食えよと大きな声で呼びまわるという。よく似た話だがこれも神霊がこれを悪にくむのか否かは分らぬ。内地の小豆飯はむしろこの類の神の好むところと考えられている。鯖という魚の信仰上の地位は、詳つまびらかに調べてみる必要があるのだが、今までは誰も手をつけていなかった。

 不思議な事情からいなくなってしまう者は、決して少年小児ばかりではなかった。数が少なかったろうが成長した男女もまた隠され、そうして戻ってくる者も甚だわずかであった。ただし壮年の男などはよくよくの場合でないと、人はこれを駆落ちまたは出奔しゅっぽんと認めて、神隠しとはいわなかった。神隠しの特徴としては永遠にいなくなる以前、必ず一度だけは親族か知音の者にちらりとその姿を見せるのが法則であるように、ほとんといずれの地方でも信じられている。盆とか祭の宵とかの人込みの中で、ふと行きちがって言葉などを掛けて別れ、おや今の男はこのごろいないといって家で騒いでいたはずだがと心づき、すぐに取って返して跡を追うて見たが、もうどこへ行っても影も見えなかった、という類の例ならば方々に伝えられている。これらは察するところ、樹下にきちんと脱ぎそろえた履物などと一様に、いかに若い者が気紛きまぐれな家出をする世の中になっても、なおその中には正しく神に召された者がありうることを我々の親たちが信じていようとした、努力の痕跡こんせきとも解しえられぬことはない。

『西播怪談実記せいばんかいだんじっき』という本に、揖保いぼ郡新宮しんぐう村の民七兵衛、山に薪まき採りに行きて還らず、親兄弟歎き悲みしが、二年を経たる或る夜、村のうしろの山にきて七兵衛が戻ったぞと大声に呼ばわる。人々悦よろこび近所一同山へ走り行くに、麓ふもとに行きつくころまではその声がしたが、登ってみると早はや何処どこにもいなかった。天狗の下男にでもなったものかと、村の内では話し合っていたが、その後この村から出て久しく江戸にいた者が東海道を帰ってくる途みちで、興津の宿とかで七兵衛に出逢った。これも互いに言葉を掛けて別れたが家に帰って聞くとこの話であった。それからはついに風のたよりもなかったということである。すなわちたった一度でも村の山へきて呼ばわらぬと、人はやはり駆落ちと解する習いであった故に、自然にこのような特徴が出てきたのである。

『九桂草堂随筆きゅうけいそうどうずいひつ』巻八には、また次のような話がある。広瀬旭荘ひろせきょくそう先生の実験である。「我郷わがさと(豊後日田ひた郡)に伏木という山村あり。民家の子五六歳にて、夜啼なきて止やまず。戸外に追出す。其傍そのかたわらに山あり。声稍※(二の字点、1-2-22)やや遠く山に登るやうに聞えければ驚きて尋ねしに終ついに行方知れず。後のち十余年にして、我同郷の人小一と云ふ者、日向の梓越あずさごえと云ふ峯を過ぐるに、麓ふもとより怪しき長たけ七八尺ばかり、満身に毛生じたる物上のぼり来る。大いに怖れ走らんとすれども、体痺しびれて動かず。其物近づきて人語を為し、汝なんじいづくの者なりやと問ふ。答へて日田といふ。其物、然らば我郷なり。汝伏木の児こ失せたることを聞きたりやと謂いふ。其事は聞けりと答ふ。其物、我即ち其児なり。其時我今仕つかふる所の者より収められて使役し、今は我も数山の事を領せりと謂ひて、懐ふところより橡実とちのみにて製したる餅様もちようの物を出し、我父母存命ならば、是これを届けてたまはれと謂ふ。何いずれの地に行きたまふかと問ふに、此これより椎葉山しいばやまに向ふなりと言ひて別れ、それより路みち無き断崖に登るを見るに、その捷はやきこと鳥の如しといふ。話は余よ少年の時小一より聞けり。是れ即ち野人なるべし。」

一四 ことに若き女のしばしば隠されしこと

 女の神隠しにはことに不思議が多かった。これは岩手県の盛岡でかつて按摩あんまから聴いた話であるが今からもう三十年も前の出来事であった。この市に住んで醤油の行商をしていた男、留守の家には女房が一人で、或る日の火ともしごろに表おもての戸をあけてこの女が外に出て立っている。ああ悪い時刻に出ているなと、近所の人たちは思ったそうだが、果してその晩からいなくなった。亭主は気ちがいのようになって商売も打棄うちすてて置いてそちこちと捜しまわった。もしやと思って岩手山の中腹の網張あみはり温泉に出かけてその辺を尋ねていると、とうとう一度だけ姿を見せたそうである。やはり時刻はもう暮近くに、なにげなしに外を見たところが、宿からわずか隔たった山の根笹ねざさの中に、腰より上を出して立っていた。すぐに飛びだして近づき捕えようとしたが、見えていながらだんだんに遠くなり、笹原づたいに峯の方へ影を没してしまったという。

 またこれも同じ山の麓の雫石しずくいしという村にはこんな話もあった。相応な農家で娘を嫁に遣やる日、飾り馬の上に花嫁を乗せて置いて、ほんのすこしの時間手間取てまどっていたら、もう馬ばかりで娘はいなかった。方々探しぬいていかにしても見当らぬとなってからまた数箇月ものちの冬の晩に、近くの在所の辻つじの商あきない屋やに、五六人の者が寄合って夜話よばなしをしている最中、からりとくぐり戸を開けて酒を買いにきた女が、よく見るとあの娘であった。村の人たちは甚だしく動顛どうてんしたときは、まず口を切る勇気を失うもので、ぐずぐずとしているうちに酒を量らせて勘定をすまし、さっさと出て行ってしまった。それというので寸刻も間を置かず、すぐに跡から飛びだして左右をみたが、もうどこにも姿は見えなかった。多分は軒の上に誰かがいて、女が外へ出るや否や、ただちに空の方へ引張り上げたものだろうと、解釈せられていたということである。

 単なる偶然からこの地方の話を、自分はまだいくつとなく聴いて記憶している。それが特に他の府県に比べて、例が多いということを意味せぬのはもちろんである。同県上閉伊郡の鱒沢ますざわという村で、これも近世の事らしいからもっと詳しく知っている人があろうが、或る農家の娘物に隠されて永く求むれども見えず、今は死んだ者とあきらめていると、ふと或る日田の掛稲かけいねの陰に、この女のきて立っているのをみた人があった。その時はしかしもうよほど気が荒くなっていて、普通の少女のようではなかった。そうしてまたたちまち走り去って、ついに再び還ってこなかったといっている。『遠野物語』の中にも書いてある話は、同郡松崎村の寒戸さむとというところの民家で、若い娘が梨なしの樹の下に草履を脱いで置いたまま、行方知れずになったことがあった。三十何年を過ぎて或る時親類知音の者が其処に集まっているところへ、きわめて老いさらぼうてその女が戻ってきた。どうして帰ってきたのかと尋ねると、あまりみんなに逢いたかったから一寸ちょっときた。それではまた行くといって、たちまちいずれへか走り去ってしまった。その日はひどい風の吹く日であったということで、遠野一郷の人々は、今でも風の騒がしい秋の日になると、きょうは寒戸の婆ばばの還ってきそうな日だといったとある。

 これと全然似た言い伝えは、また三戸さんのへ郡の櫛引くしびき村にもあった。以前は大風の吹く日には、きょうは伝三郎どうの娘がくるべと、人がことわざのようにしていっていたそうだから、たとえば史実であってももう年数が経過し、昔話の部類に入ろうとしているのである。風吹かぜふきということが一つの様式を備えているうえに、家に一族の集まっていたというのは、祭か法事の場合であったろうが、それへ来合きあわせたとあるからには、すでに幾分の霊の力を認めていたのである。釜石地方の名家板沢氏などでは、これに近い旧伝があって毎年日を定め、昔行き隠れた女性が、何ぴとの眼にも触れることなしに、還ってくるように信じていた。盥たらいに水を入れて表おもての口に出し、新しい草履を揃えて置くと、いつのまにかその草履も板縁いたべりも、濡れているなどと噂せられた。この家のは娘でなくて、近く迎えた嫁女であった。精密な記憶が家に伝わっており、いつのころよりか不滅院量外保寿大姉という戒名かいみょうをつけて祀まつっていた。家門を中心とした前代の信仰生活を、細かに比較研究したうえでなければ断定も下されぬが、恐らくはこれが神隠しに対する、一つ昔の我々の態度であって、かりにただ一人の愛娘まなむすめなどを失うた淋しさは忍びがたくとも、同時にこれによって家の貴とうとさ、血の清さを証明しえたのみならず、さらにまた眷属けんぞく郷党きょうとうの信仰を、統一することができたものではないかと思う。

 伊豆では今の田方たがた郡田中村大字宗光寺の百姓惣兵衛そうべえが娘はつ十七歳、今から二百十余年前の宝永ごろに、突然家出をして行方不明であった。はつの母親が没して三十三回忌の日、還ってきて家の前に立っていた。近所の者が見つけて声をかけると、答えもせずして走りだしまたいずれかへ往ってしまった。その後も天城山に薪まきを樵きこり、又は宮木を曳ひきなどに入った者がおりおりこの女を見かけることがあった。いつも十七八の顔形で、身には木の葉などを綴つづり合わせた珍しい衣服を纏まとうていた。言葉をかけると答えもなく、ただちに遁にげ去るを常としたと『槃遊余録はんゆうよろく』の第三編、寛政四年の紀行のうちに見えている。甲州では逸見へんみ筋浅尾村の孫左衛門を始めとし、金御岳かねのみたけに入って仙人となったという者少なからず、東河内領の三沢村にも、薬を常磐山に採って還かえらなかった医者がある。今も時としてその姿を幽谷の間に見る者があって、土人は一様にこれを山男と名づけているが、その出身の村なり家なりでは、永ながくその前後の事情を語り伝えて、むしろ因縁の空むなしからざることを感じていたようでもあった。

一五 生きているかと思う場合多かりしこと

 少なくとも血を分けた親兄弟の情としては、これが本人ただ一人の心の迷まよいから出たものと解してしまうことが昔はできなかった。一人ではとうてい深い山の奥などへ、入って行くはずのない童子や女房たちが、現に入って行き、また多くは戻って来ぬのだから、誰か誘うた者があったことを、想像するに至ったのも自然である。実際また山の生活に関する記録の不完全、多くの平野人の法外な無識を反省してみても、かつてそういう奪略者が絶対になかったとは断言することをえない。問題はただかくのごとき想像の中で、果してどこまでは一応根拠のある推測であり、またどの点からさきが単に畏怖いふに基づいたる迷信、ないしは誤解であったろうかということである。

 しかも自分たちの見るところをもってすれば、右の問題の分堺線ぶんかいせんとても、時代の移るにつれて始終一定していたわけでもないようである。例えば天狗さまがさらって行くということは、ことに児童少年については近世に入ってから、甚だ頻繁ひんぱんに風説せられるようになったけれども、中世以前には東大寺の良弁ろうべん僧正のように、鷲わしに取られたという話の方が遙かに多く、その中にもまた稀まれには命を助かって慈悲の手に育てられ、ついには親の家へ戻ってきた者さえあるように、『今昔物語』などには語り伝えている。それから引続いてまた世上一般に、鬼が人間の子女を盗んで行くものと、思っていた時代もあったのである。

 鎌倉期の初頭あたりを一つの堺さかいとして、その鬼がまた天狗にその地位を委譲したのは、東国武士の実力増加、都鄙とひ盛衰の事情を考え合わせても、そこでなんらかの時勢の変化を暗示するものがあるように思う。その天狗の属性とてもゆくゆく著しく変遷して、もとより今をもって古いにしえを推すことはできぬが、鬼の方にもやはり地方的に、または時代に相応した特色ともいうべきものがあったらしいのである。例えば在原業平ありわらのなりひらの悠遊ゆうゆうしていたころには、鬼おに一口ひとくちに喰くいてんけりといったが、大江山の酒顛童子しゅてんどうじに至っては、都に出でて多くの美女を捕え来り酌しゃくをさせて酒を飲むような習癖があったもののごとく、想像せしめた場合もないではなかった。天狗ばかりは僧形であっただけに、感心に女には手を掛けないようだと話がきまると人は別にまた山賊さんぞくの頭領という類の兇漢きょうかんを描き出して、とにかくにこの頻々ひんぴんたる人間失踪しっそうの不思議を、説明せずにはおられないようであった。しかも実際は小説・御伽草子おとぎぞうし・絵巻物えまきもの以上に的確に真相を突留つきとめることは、求めたからとてできることではなかった。

 別離を悲しむ人々の情からいえば、いかなる場合にもまだどこかの谷陰たにかげに、活いきて時節を待っているものと、想像してみずにはいられなかったでもあろうが、単にそのような慾目よくめからでなくとも、現実に久しい歳月を過ぎてのち、ひょっこりと還ってきた先例もあれば、またたしかに出逢であったという人の話を、聞きだした場合も多かったのである。単に深山に女の姿を見たというだけの噂ならば、その他にもまだいろいろと語り伝えられていた。たとえそれがわが里でいなくなった者とは何の関係もなく全然見ず知らずの別の土地の事件であっても、とにかくに人居を遠く離れた寂寞せきばくたる別世界にも、なお何か人間の活きて行く道があるらしいという推測は、どのくらい神隠しの子の親たちの心を、慰めていたかわからぬので、それがまた転じてはこの不思議の永く行われ、気の狂うた者の自然に山に向う原因ともなったのは、是非もない次第であった。

 かつては天狗に関する古来の文献を、集めて比較しようとした人がおりおりあったがこれは失望せねばならぬ労作であった。資料を古く弘ひろく求めてみればみるほど輪廓りんかくは次第に茫漠ぼうばくとなるのは、最初から名称以外にたくさんの一致がなかった結果である。例えば天狗とは一体どんなものかと聞いてみるとき、今日誰しも答えるのは鼻のむやみに高いことであるが、これとても狩野古方眼かのうこほうげんが始めて夢想したという説もあって、中古には緋ひの衣ころもに羽団扇はうちわなどを持った鼻高様はなたかさまは想像することができなかったのである。そのうえに何々坊の輩下はいかという天狗だけは、口が嘴くちばしになり鼻は穴だけがその左右についている。同じ一類で一方は人のごとく、他方は翼があって鳥に手足を加えたもののごとくなることは、ほとんとありえざる話であるが、人は単に変形自在をもってこれを説明して、しからば本来の面目めんもく如何いかんという点を、考えずに済ましていたのである。それなら実際の行動の上に、何か古今を一貫した特色でもあるかというと、中世の天狗はふらりときて人に憑つくこと野狐のごとく、或いは左道の家に祭られて人を害するは、近世の犬神オサキのごとくであったが、今は絶えてその類の非難を伝えない。或いは智弁学問ある法師の増上慢ぞうじょうまんが、しばしば生きながら天狗道に身を落さしめたという話もある。平田先生などは特にこの点ばかり、仏者の言を承認しようとしているが、これさえ近世の天狗はもう忘れたもののごとく、むしろしばしば人間の慢心を懲こらし戒めたという実例さえあって、自慢を天狗という昔からの諺ことわざも、もはや根拠のないものになろうとしている。それというのが時代により地方によって、名は同じでも物が知らぬまに変っていたからである。書物はこういう場合にはたいていはむしろ混乱の種であった。学者ばかりがひとりで土地の人々の知らぬことを、考えていた例は多かった。なるほど天狗という名だけは最初仏者などから教わったろうが奇怪きっかいはずっと以前から引続いてあったわけで、学者に言わせるとそんなはずはないという不思議が、どしどしと現れる。日本で物を買うような理窟りくつには行かなかったのである。天狗をグヒンというに至った原因もまだ不明だが、地方によってはこれを山の神といい、または大人おおひと・山人ともいって、山男と同一視するところもある。そうして必ずしも兜巾ときん篠懸すずかけの山伏姿やまぶしすがたでなく特に護法と称して名ある山寺などに従属するものでも、その仏教に対する信心は寺侍てらざむらい・寺百姓以上ではなかった。いわんや自由な森林の中にいるという者に至っては、僧徒らしい気分などは微塵みじんもなく、ただ非凡なる怪力と強烈なる感情、極端に清浄を愛して叨みだりに俗衆の近づくを憎み、ことに隠形自在にして恩讎おんしゅうともに常人の意表に出でた故に、畏おそれ崇あがめられていたので、この点はむしろ日本固有の山野の神に近かった。名称のどこまでも借り物であって、我々の精神生活のこれに左右せられた部分の存外に小さかったことは、これからだけでも推論してよいのである。山中にサトリという怪物がいる話はよく方々の田舎で聴くことである。人の腹で思うことをすぐ覚さとって、遁にげようと思っているななどといいあてるので、怖おそろしくてどうにもこうにもならぬ。それが桶屋おけやとか杉の皮を剥さく者とかと対談している際に、不意に手がすべって杉の皮なり竹の輪の端が強く相手を打つと、人間という者は思わぬことをするから油断がならぬといって、逃げ去ったというのが昔話である。それを四国などでは山爺の話として伝え、木葉の衣を着て出てきたともいえば、中部日本では天狗様が遣やってきて、桶屋の竹に高い鼻を弾はじかれたなどと語っている。その土地次第でこういっても通用したのである。オニなども今では角つのあって虎とらの皮をたふさぎとし、必ず地獄に住んで亡者もうじゃをさいなむ者のごとく、解するのが普通になったらしいが、その古来の表現は誠に千変万化でまた若干はこれに充あてたる漢語の鬼の字によって、世上の解説を混乱せしめている。しかも諸国の山中に保存せられた彼らの遺跡、ないしは多くの伝説によって考えると、少なくとも或る時代には、近世天狗と名づけた魔物の所業の大部分を、管轄していたこともあるのである。いずれにしても我々の畏怖には現実の基礎があった。単に輸入の名称によって、空に想像し始めたものではなかったのである。

 不在者の生死ということは非常に大きな問題であった。どうせいないのは同じだと、言ってすませるわけには行かなかった。生者と死者とでは、これに対する血縁の人々の仕向しむけが、正反対に異ならねばならなかったからである。生きている者の救済も必要ではあるがこれは徐おもむろに時節を待っていることもできる。これに反して死者は魂が自由になって、もう家の近くに戻ってきているかも知れぬ。処理せられぬ亡魂ほど危険なものはなかった。或いは淋しさのあまりに親族故旧を誘うこともあり、または人知れぬ腹立ちのために、あばれまわることもしばしばあった。その予防の手段は仏教以前から、いろいろ綿密に講究せられていたのである。しこうしてその手段は通例甚だ煩わずらわしい。かつ誤まって生者のためにこれを行うときは、その害もまた小さくなかった。故に単なる愛惜の情からでなくとも、一日も早くなんらかの兆候を求めて隠れてもなお生存していることを確めておく必要があったのである。アンデルセンが「月の物語」の初章に、深夜に谷川に降くだって燈ともしびを水に流し、思う男の安否を卜ぼくせんとしたインドの少女が「活いきている」と悦よろこんで叫んだ光景が叙のべてある。普通は生死を軽く考える東洋人が、この際ばかり特に執着の切せつなる情を表わす理由は、全く死に伴うた厳重の方式があったためで、旅の別れの哀れな歌にも、かつはこの心元こころもとなさがまじっていたのである。夢というものの疎おろそかにせられなかった原因もここにある。互いに見よう見えようという約束が、言わず語らずに結ばれていたのである。それが頼みにしにくくなってのち、書置かきおきという風習が次第に行われた。神隠しだけはこういう一切の予定を裏切って、突如として茫漠ぼうばくの中に入ってしまうのだが、しかも前後の事情と代々の経験とによって、一応はやや幸福の方の推測を下すことが、存外にむつかしくなかったらしいのである。

一六 深山の婚姻のこと

 昔話の中にもおりおり同じ例を伝えているために、かえって信じうる人が少なかろうかと思うがこれはすでに十七八年も以前に筆記しておいた陸中南部の出来事であってこの小さな研究と深い因縁がある故に、今一度じっと考えて見ようと思うのである。或る村の農家の娘、栗を拾いに山に入ったまま還かえって来ず、親はもう死んだ者とあきらめて、枕まくらを形代かたしろに葬送をすませてしまって、また二三年も過ぎてからの事であった。村の猟人かりうどの某という者が、五葉山ごようざんの中腹の大きな岩の陰において、この女に行逢ゆきあって互いに喫驚びっくりしたという話である。

 あの日に山で怖ろしい人にさらわれ、今はこんなところにきて一緒に住んでいる。遁にげて還ろうにも少しも隙すきがない。そういううちにもここへくるかも知れぬ。どんなことをするか分らぬというので碌ろくに話も聞かずに早々に立退たちのいてしまったということである。その男というのは全体どんな人かと猟人が尋ねると、自分の眼には世の常の人間のように見えるが、人はどう思うやらわからぬ。ただ眼の色が恐ろしくて、せいがずんと高い。時々は同じような人が四五人も寄り集まって、何事か話をしてまたいずれへか出て行く。食べ物なども外から持って還るのをみると、町へも買物に行くのかも知れぬ。また子どもはもうなんべんか産んだけれども、似ていないから俺おれの児ではないといって、殺すのか棄すてるのか、みないずれへか持って行ってしまったと、その女が語ったそうである。

 山が同じく五葉山であるから、一つの話ではないかとも思うが或いはまた次のように話す者もあった。女は猟人に向かって、お前とこうして話しているところを、もしか見られると大変だから、早く還ってくれといったが、出逢であってみた以上は連れて還らねばすまぬと、強しいて手を取って山を下り、ようやく人里ひとざとに近くなったと思うころに、いきなり後から怖ろしい背の高い男が飛んできて、女を奪い返して山の中へ走り込んだともいっている。維新前後の出来事であったらしく、まだその娘の男親だけは、生存しているといって、家の名まで語ったそうである(佐々木君報)。これだけ込入こみいったかつ筋の通った事件は、一人の猟人の作為に出たと思われぬはもちろん、よもや突然の幻覚ではなかろうと思うが、それを確認させるだけの証拠も、残念ながらもう存在せぬのである。ただ少なくとも陸中五葉山の麓ふもとの村里には、今でもこれを聴いて寸毫すんごうも疑い能あたわざる人々が、住んでいることだけは事実である。そうして彼らがほぼ前の話を忘れようとするころになると、また新たに少し似たような話が、どこからともなく伝わってくることに、これまではほとんときまっていたのである。

 右の珍しい実例の中でことに自分たちが大切な点と考えるのは、不思議なる深山の婿の談話の一部分が女房にも意味がわかっていたということと、その奇怪な家庭における男の嫉妬しっとが、極端に強烈なものであって、わが子をさえ信じえなかったほどの不安を与えていたこととである。すなわち彼らはもし真の人間であったとしたらあまりにも我々と遠く、もしまた神か魔物かだったというならば、あまりにも人間に近かったのであるが、しかも山の谷に住んだ日本の農民たちが、これを聴いてありうべからずとすることができなかったとすれば、そは必ずしも漠然ばくぜんたる空夢ではなかったろう。誤ったにもせよなんらかの実験、なんらかの推理のあらかじめ素地そじをなしたものが、必ずあったはずと思う。現代人の物を信ぜざる権利は、決してこれによって根強い全民衆の迷信を、無視しうるまでの力あるものではないのである。

 かつて三河の宝飯ほい郡の某村で、狸たぬきが一人の若者に憑ついたことがあった。狐などよりは口軽く、むやみにいろいろのことをしゃべるのが、この獣の特性とせられているが、この時も問わず語りにおれはこの村の誰という女を、山へ連れて往って女房にしているといった。でたらめかとは思ったが、実際ちょうどその女がいなくなって、しきりに捜している際であった故に、根ほり葉ほりして隠しておくという場処を問いただし、もしやというので山の中を捜して見ると果して岩穴の奥とかにその娘がいたということである。還ってきてから本人が、どういう風に顛末てんまつを語ったか。この話をしてくれた人も聞いてはおらず、また強いて詳しくその点を究めるまでもないか知らぬが、風説にもせよ世を避けて山に入って行く若い女を一種の婚姻のごとく解する習わしは弘く行なわれていうので、それが不条理であればあるだけに、底に隠れた最初の原因が、ことに学問として尋ねて見る価値を生ずるのである。猿の婿入むこいりの昔話は、前にすでに大要を叙のべておいたが、これにも欺き終おせて無事に還ってきたという童話式のもののほかに、とうとう娘を取られたという因縁話も伝わっている。竜蛇の婚姻に至っては末遂すえとげて再び還らなかったという例がことに多い。黒髪長くまみ清らかなる者は何ぴともこれを愛好する。齢よわい盛さかりにして忽然こつぜんと身を隠したとすれば、人に非あらずんば何か他の物が、これを求めたと推断するが自然である。特に山男の場合に限って、目もくするに現実の遭遇をもってする理由はないのかも知れぬ。ましてや世界の諸民族に共通なる、いわゆるビートス・エンド・ビウティーの物語の、これが根原の動機をなすかのごとく、説かんとすることは速断に失するであろう。また今日までの資料では、強いてその見解を立てるだけの勇気は、自分たちにもまだないのだが、ただ注意してもよいことは日本という国には、近世に入ってからもこの類の話が特に数多く、またしばしば新たなる実例をもって、古伝を保障しようとしていたことである。普通の場合には俗に「みいられた」とも称し、女が何かの機会に選定を受けたことになっており、伊豆の三宅島みやけじまなどには山に住む馬の神がみいったという話もあって、過度に素朴なる口碑は諸国に多く、そうでなければ不思議な因縁がその女の生まれた時から附纏つきまとい、または新たなる親の約束などがあって、自然にその運命に向わねばならなかったように、語り伝えているに反して、別に我々が聴きえたる近年の例は、全く偶然の不幸から掠奪せられて山に入っている。そうしていかにも人間らしい強い執着をもって、愛せられかつ守られていたというのである。それを単なる昔話の列に押並おしならべて、空想豊かなる好事家こうずかが、勝手な尾鰭おひれを附添つきそえたかのごとく解することは、少なくとも私が集めてみたいくつかの旁証ぼうしょうが、断じてこれを許さないのである。

一七 鬼の子の里にも産まれしこと

 母は往々にして不当に疑われた。似ておらぬからわが子でないという単純に失した推断は必ずしも独ひとり五葉山中の山人のみの専売でもなかったのである。至って平和なる里中にも親に似ぬ子は鬼子という俚諺りげんは、今もって行われていて、時々はまたこれを裏書うらがきするような事件が、発生したとさえ伝えられるのである。

「日本はおろかなる風俗ありて、歯の生はえたる子を生みて、鬼の子と謂いひて殺しぬ」と、『徒然慰草つれづれなぐさみぐさ』の巻三には記してある。江戸時代初め頃の人の著述である。なおそれよりも遙かに古く、『東山往来』という書物の消息文の中にも、家の女中が歯の生えた児を生んだ。これ鬼なり山野に埋うずむるにしかずと近隣の者が勧すすめるが、いかがしたものだろうかという相談に答えて、坊主にするのが一番よろしかろうといっている。すなわち以前は相応に頻々ひんぴんと、処々にこのような異様の出来事があったかと思われるのである。

 けだし人はとうてい凡庸を愛せずにはおられなかった者であろうか。前代の英雄や偉人の生い立ちに関しては、いかなる奇瑞きずいでも承認しておりながら、事こと一ひとたび各自の家の生活に交渉するときは、寸毫すんごうも異常を容赦することができなかった。近世に入ってからも、稀まれには歯が生えて産れるほどの異相の子を儲もうけると、たいていは動顛どうてんして即座にこれを殺し、これによって酒顛童子しゅてんどうじ・茨木童子いばらきどうじの如き悪業の根を絶った代りには、一方にはまた道場法師や武蔵坊弁慶の如き、絶倫の勇武強力を発揮する機会をも与えなかった。これ恐らくは天下太平の世の一弱点であったろう。

 しかも胎内変化の生理学には、今日なお説き明かしえない神秘の法則でもあるのか。このような奇怪な現象にも、やはり時代と地方とによって、一種の流行のごときものがあった。詳しく言うならば、鬼を怖れた社会には鬼が多く出てあばれ、天狗を警戒していると天狗が子供を奪うのと同様に、牙きばありまた角つのある赤ん坊の最も数多く生まれたのは、いわゆる魔物の威力を十二分に承認して、農村家庭の平和と幸福までが、時あって彼らによって左右せられるかのごとく、気遣きづかっていた人々の部落の中であった。

 鬼子の最も怖ろしい例としては、明応七年の昔、京の東山の獅子ししが谷たにという村の話が、『奇異雑談集きいぞうだんしゅう』の中に詳しく報ぜられている。『玄同放言げんどうほうげん』三巻下には全文を引用しているが、記事にはあやふやな部分がちっともなく、少なくとも至って精確なる噂の聞書ききがきである。その大要のみを挙げると、この家の女房三度まで異物を分娩ぶんべんし四番目に産んだのがこの鬼子であった。生まれ落ちたとき大きさ三歳子のごとく、やがてそこらを走りあるく故に、父追いかけて取りすくめ膝ひざの下に押しつけてみれば、色赤きこと朱しゅのごとく、両眼の他に額ひたいになお一つの目あり、口広く耳に及び、上に歯二つ下に歯二つ生えていた。父嫡子ちゃくしをよびて横槌よこづちを持ってこいというと、鬼子これを聞いて父が手に咬かみつくのを、その槌をもって頻しきりに打って殺してしまった。人集まりてこれを見ること限りなしとある。その死骸しがいは西の大路真如堂おおじしんにょどうの南、山際の崖がけの下に深く埋めた。ところがその翌日田舎の者が三人、梯子はしごをかたげてこの下を通り、崖の土の少しうごもてるを見て、土竜鼠むぐらもちがいるといって朸おうこのさきで突いて見ると、ひょっくりとその鬼子が出た。三人大いに驚いてこれは聞き及んだ獅子が谷の鬼子だ。ただ早く殺すがよいと、朸を揮ふるうて頻に打ち、ついにこれを叩き殺した。それを惨酷ざんこくな話だが、繩をつけて京の町まで曳ひいてくると途中多くの石に当ったけれども、皮膚強くして少しも破れずとまで書いてある。この事常楽時の栖安軒琳公せいあんけんりんこう幼少喝食かつしきの時、崖の下にて打ち殺すをまのあたり見たりといえりとあって、事件の当時から約九十年後の記述である。

 何故に親が大急ぎで、牙の生えた赤子を殺戮さつりくせねばならなかったかは、じつは必ずしも明瞭ではない。家の外聞とか恥とかいうのも条理に合わなかった。殺してこれを清める望みはなかったのみならず、匿かくし終おせた場合さえ少なかった。しからば活いかして置いて何が悪いかと尋ねてみると、これまた格別のことはなかったのである。兇暴きょうぼう無類の評ある大江山の酒顛童子、その子分か義兄弟のごとく考えられた茨木童子なども、単に今まで見ず知らずの他人に対して残忍であったというのみで、翻ひるがえってその家庭生活を検すれば、思いのほかなるものがあった。『越後名寄えちごなよせ』巻三十三その他の所伝によれば、酒顛童子はこの国西蒲原郡砂子塚いさこづか、または西川桜林村の出身と称しておのおのその旧宅の址あとがあった。附近の和納わのうという村にも後に引越してきたといって今なお榎の老木ある童子屋敷、下名さげなを童子田どうじたと呼ぶ水田もあった。童子幼名を外道丸と名づけられ美童であった。父の名は否瀬善次兵衛俊兼、戸隠山九頭竜権現くずりゅうごんげんの申し児であって、母の胎内に十六箇月いたというだけが、親に迷惑をかけたといえばかけたのである。和納の楞厳寺りょうごんじで文字を習い、国上くがみの寺に上って侍童となるまでは不良少年でも何でもなかった。茨木童子の故郷も摂津にある方が正しいのかも知れぬが、これまた越後にも一箇処あって、今の古志こし郡荷頃にごろ村大字軽井沢、茨木善次右衛門はその生家と称し、連綿として若干の記憶を伝えていた。例えば家の背後に童子が栖すんだという岩屋、それは崩れてその跡に清き泉湧わき、流の末には十坪ばかりの空地あって、童子出生の地と称して永く耕作をさせなかった。悪人に対する記念ではなかったのである。

 摂州川辺かわべ郡東富松の部落においては、すでに茨木童子の家筋いえすじは絶えたかわりに、更に一段と心を動かすべき物語が残っていた。『摂陽群談せつようぐんだん』巻十に曰う。童子生まれながらにして牙生い髪長く、眼に光あって強盛なること成人に超えし故に、一族畏怖いふしてこれを茨木の辺に棄すてたところ、丹波千丈岳せんじょうがだけの強盗酒顛童子拾い還りて養育して賊徒となす云々。しかも両親がのちに病に罹かかって同じ枕に寝ているのを、術をもって遙かにこれを知り、心配をして見舞に還ってきたというのは、やはり松崎の寒戸さむとの婆などの例であろう。ただいまは京都に留まって、東寺の辺に安住している。人に怖ろしい姿を見せぬように、急いで還ろうと飛んで往ったという田圃路たんぼみちに、安東寺の字名あざななどが残っており、その時親が悦よろこんで団子だんごを食わせた記念として、毎年同じ日に村では団子祭をするといっている。

 戦いがなくなり国中が統一してしまうまでは、こういう義理固い無茶者は、求めても養って置く必要が時としてはあった。いわば百姓の家に生まれたのが損だったのである。肥後の川上彦斎かわかみげんさいの伝を見てもそう思うが、江戸幕府の初頭に刑せられたあぶれ者、大鳥一兵衛などについてはことにその感が深い。ほんのもう四十年か五十年早く生まれていたら、彼は大名になったかも知れぬのである。一兵衛自身の身の上話というのは、『慶長見聞集けいちょうけんもんしゅう』巻六に出ている。「武州大鳥といふ在所に利生りしょうあらたかなる十王まします。母にて候そうろふ者子無きことを悲み、此十王堂に一七日籠こもり、満ずる暁あかつきに霊夢の告つげあり、懐胎して十八月にしてそれがし誕生せしに、骨柄こつがらたくましく面の色赤く、向ふ歯あつて髪はかぶろなり。立つて三足歩みたり。皆人是これを見て悪鬼の生れけるかと驚き、既に害せんとせし処に、母之これを見て謂ひけるやうは、なう暫く待ちたまへ思ふ仔細しさいあり、是は十王への申し児なれば、其そのしるし有りて面の色赤し云々と申されければ、我を助け置き幼名を十王丸と謂へり」とある。祈る仏も多くあった中に、特に閻魔えんまに児を申したというのは、別に近代の母親の相続せざる、一種戦国時代相応の理想があったためかと思う。そうではないまでも大王が事を好み、余計な迷惑を信徒に与えんとしたのでないことだけは、一般にこれを認めていたように見えるが、しかもそれは京都とその附近で、盛んに牙ある赤子を撲殺ぼくさつした時代よりも、またずっと後年の田舎の事であった。
 内田邦彦くにひこ君の『南総之俚俗なんそうのりぞく』の中に、東上総ひがしかずさの本納ほんのう辺の慣習として、鬼子が生まれると歳神様としがみさまへ上げた棒で叩たたくとある。これとよく似たことで今日弘く行われているのは赤ん坊があまり早く例えば一年以内にあるき始めると、大きな餅もちを搗ついてこれを脊負わせ、それでもなおあるくと突き倒したりする親がある。鬼子というのは多分歯が生えて産れる子のことであろうが単に殺すことを許されぬ故にこんな方法をのちに代用したものとみても、なお歳神の棒ということには、考え出さねばならぬ深い意味がある。或いは本来はこのうえもない立派な児であるけれども凡人の家にとっては善過よすぎるために、その統御を神に委ねるの意味ではなかったか。いずれにもせよ後世の民家で、怖れて殺したほどの異常なる特徴は、同時にまた上古の英傑勇士名僧等の奇瑞として、尊敬して永く語り伝えたものと一致し、さらに常理をもって判断しても、それがことごとく昔の個人生活の長処ばかりであったことを考えると、野蛮な風習だから大昔からあったろうと、手軽に推断することもできぬようである。人間の畸形きけいにも不具と出来過ぎとが確かにある。大男も片輪かたわのうちに算かぞえるのは、いわゆる鎖国時代の平民の哀れな遠慮であろう。蝦夷のシャグシャインやツキノイ、南の小島では赤蜂本瓦あかぶさほんがわらや与那国よなくにの鬼虎おにとらのごとき、容貌魁偉かいいなる者は多くは終りを全まっとうしなかった。それを案じて家にこのような者の生まれるを忌んだのはおそらくは新国家主義の犠牲であった。部曲が対立して争闘してやまなかった時代には、いわゆる鬼の子はすなわち神の子で、それ故にこそ今も諸国の古塚を発あばくと、往々にして無名の八掬脛やつかはぎや長髄彦ながすねひこの骨が現れ、もしくは現れたと語り伝えて尊信しているのである。

 沖繩の『遺老説伝いろうせつでん』には次のような話がある。「昔宮古島川満かわまの邑むらに、天仁屋大司あめにやおおつかさといふ天の神女、邑むらの東隅なる宮森に来り寓ぐうし、遂ついに目利真按司めりまあんじに嫁して三女一男を生む。夫死して妻のみ孤児を養ふに、第三女真嘉那志さかなし十三歳、忽たちまち懐胎して十三月にして一男を坐下ざかす。頭には双角そうかくを生じ眼は環たまきを懸かくるが如く、手足は鷹たかの足に似たり。容貌ようぼう人の形に非あらず。故に之を名づけて目利真角嘉和良めりまつのかわらと謂ふ。年十四歳の時、祖母天仁屋及び母真嘉那志に相随あいしたがひて、倶ともに白雲に乗りて天に升のぼる。後年屡※(二の字点、1-2-22)しばしば目利真山に出現して、霊験を示す。邑人むらびと尊信して神岳と為なす」と。ツカサは巫女を意味しまた多くは神の名であった。カワラは沖繩の按司あんじと同じく、また頭目とうもくのことである。先島の神人には角を名につくものが他にもある。すなわち神の子であり、のちまた神に隠されたる公けの記録が、かの島だけにはこれほど儼然げんぜんとして伝わっているのである。殺すということは少なくとも、古代一般の風習ではなかった。

一八 学問はいまだこの不思議を解釈しえざること

 嘘かとは思うが何郡何村の何某方と固有名詞が完全に伝わっている。今から三十年ほど以前に、愛媛県北部の或る山村で、若い嫁が難産をしたことがあった。その時腹の中から声を発する者があって、おれは鬼の子だが殺さぬなら出て遣やる。もし殺すならば出て遣らぬがどうだと言う。活かして置くのは家の名折れとは思ったが、いつまでも産れないでは困る故に、皆で騙だまして決して殺さぬという約束をした。そうして待構えていて茣蓙ござで押えて殺してしまった。角の長さが二寸ばかり、秘密にしていたのを遠縁の親類の女が知って、ついにこの話の話し手にしゃべったのが私にも聴えた。ただしどうしてまたそのような怖ろしい物を孕はらんだかは、今に至るまで不明であるが、この近傍には鬼子の例少なからず、或る村の一家のごときは鬼の子の生まれる少し以前に、山中に入って山姥やまうばのオツクネという物を拾い、それから物持ものもちになったかわりに、またこういう出来事があったという。オツクネとは方言で麻糸の球のこと、山姥の作ったのは人間の引いたのとは違って、使っても使ってもなくならぬ。すなわちいわゆる尽きぬ宝であった。

 また大隅海上の屋久島やくのしまは、九州第一の高峯を擁して、山の力の今なお最も強烈な土地であるが、島の婦人は往々にして鬼の子を生むことありと、『三国名勝図会さんごくめいしょうずえ』には記している。「山中に入りたる時頻しきりに睡眠を催し、異人を夢みることあれば必ず娠はらむ。産は常の如くにしてたゞ終りて後のち神気快からずと雖いえども死ぬやうなことは決して無い。生れた児は必ず歯を生じ且つ善よく走る。仍よって鬼子とは謂いふ也」とある。かくのごとき場合には、柳の枝をその児の口にくわえさせて、これを樹の枝に引懸ひっかけて置くと、一夜を過ぐれば必ず失せてなくなるといっていた。普通の赤ん坊ならば無論活きているはずはないのだが、島の人々は或いは父方に引き取って、養育しているもののごとく考えていたものらしい。前後の状況は甚だしく相違するが、とにかくにこれも一種の神隠しではあった。

 日向南部の米良山めらやまの中にも、入って働いている女の不時に睡ねむくなるというところがあった。そういう際にはよく姙娠することがあって、これを蛇の所業のごとく信ずる者もあったという。現に近年も某氏の夫人、春の頃に蕨わらびを採りに往ってその事があったので、もしや蛇の子ではないかと思って、産をしてしまうまで一通りならぬ心痛をしたそうである。古い書物に巨人の跡を踏み、或いは玄鳥の卵を呑のんで感じて身ごもることありと記したのも、多分はこういう事情を意味したものであろう。気高い若人が夜深く訪ねてきたという類の話にも、最初に渓川たにがわの流に物を洗いに降りて、美しい丹塗にぬりの箭やが川上から泛うかんできたのを、拾うて還って床の側かたわらに立てて置いたという例があるのを見ると、また異常なる感動をもって、母となる予告のごとく解していた、昔の人の心持が察せられる。ただ村民の信仰がおいおいに荒すさんできてこういう奇瑞の示された場合にも、怖畏ふいの情ばかり独ひとり盛んで、とかくに生まれる子を粗末にした。大和の三輪みわの神話と豊後の尾形氏の古伝とは、或いはその系統を一にするかとの説あるにもかかわらず、後者においては神は誠に遠慮勝ちで、岩窟がんくつの底に潜んで永く再び出でなかった。その他の地方の多くの類例に至っては、銕かねの針に傷きずつけられて命終るといい、普通には穴の口に近よって人が立聴きするとも知らず蓬よもぎと菖蒲しょうぶの葉の秘密を漏した話などになっており、嫗岳うばたけの大太童だいだわらわのごとく子孫が大いに栄えたという場合は、今ではこれを見出すことがやや難くなっているのである。『作陽志さくようし』には美作みまさか苫田とまだ郡越畑こしはたの大平山に牛鬼と名づくる怪あり。寛永中に村民の娘年二十ばかりなる者、恍惚こうこつとして一夜男子に逢う。自ら銕山の役人と称していた。のちに孕はらんで産むところの子、両牙長く生おい尾角ともに備わり、儼げんとして牛鬼のごとくであったので父母怒ってこれを殺し、銕の串くしに刺して路傍に暴さらした。これ村野の人後患を厭えんするの法なり云々とあって、昔はさしも大切に事つかえた地方の神が、次第に軽ぜられのちついに絶縁して、いつとなく妖怪変化ようかいへんげの類に混じた経路を語っている。そうしていずれの場合にも、銕という金属が常に強大な破壊力であった。屋久島などでもことに鍛冶かじの家が尊敬せられ、不思議な懐胎には必ず銕滓かなくそを貰もらってきて、柳の葉とともに合せ煎せんじて飲むことになっていたそうである。

 山に入って山姥のオツクネなるものを拾った故に、物持にもなったかわり鬼子も生まれたという話には更に一段と豊富なる暗示を含んでいるらしい。山姥はなるほど多くの神童の母であり、同時にまた珍しい福分ふくわけの主ぬしでもあったことは、次々にもなお述べるように、諸国の昔からの話の種であったが、特に常人の女性に角ある児を産ましめるために、彼女が干渉すべき必要はなかったはずである。察するところ本来この不可思議の財宝は、むしろ不可思議な童子に伴うて神授せらるべきものであったのを、人が忘却してこれを顧みぬようになってから、山中の母ばかりが管理をすることとなったのであろう。この想像を幾分か有力にするのは、ウブメ(産女)と称する道の傍かたわらの怪物の話である。支那で姑獲こかくと呼ぶ一種の鳥類をこれに当てて、産で死んだ婦人の怨魂えんこんが化成するところだの、小児に害を与えるのを本業にしているのと、古い人たちは断定してしまったようだが、それでは説明のできない著しい特徴には、少なくとも気に入った人間だけには大きな幸福を授けようとしていた点である。すなわちウブメ鳥と名づくる一種の怪禽かいきんの話を別にして考えると、ウブメは必ず深夜に道の畔あぜに出現し赤子あかごを抱いてくれといって通行人を呼び留める。喫驚びっくりして逃げてくるようでは話にならぬが、幸いに勇士等が承諾してこれを抱き取ると、だんだんと重くなってしまいには腕が抜けそうになる。その昔話はこれから先が二つの様式に分かれ、よく見ると石地蔵であった石であったというのと、抱き手が名僧でありウブメは幽霊であって、念仏または題目の力で苦艱くかんを済すくってやったというのとあるが、いずれにしても満足に依託いたくを果した場合には、非常に礼を言って十分な報謝をしたことになっている。仏道の縁起に利用せられない方では、ウブメの礼物は黄金の袋であり、または取れども尽きぬ宝であった。時としてその代りに五十人百人力の力量を授けられたという例も多かったことが、佐々木君の『東奥異聞とうおういぶん』などには見えている。『今昔物語』以来の多くの実例では、ウブメに限らず道の神は女性で喜怒恩怨が一般に気紛きまぐれであった。或る者はこれに逢うて命を危くし、或る者はその因縁から幸運を捉とらえたことになっている。後世の宗教観から見るときは甚だ不安であるためにだんだんと畏怖の情を加えたのだが、神に選択があり人の運に前定があったと信じた時代には、これもまた祷いのるに足りた貴き霊であったに相違ない。つまりは児を授けられるというのは優れた児を得るを意味し、申し児というのは子のない親ばかりの願いではなかったのである。そうして山姥のごとき境遇に入ってでも、なお金太郎のごとき子を欲しがった社会が、かつて古い時代には確かにあったことを、今はすでに人が忘れているのである。

一九 山の神を女性とする例多きこと

 人の女房を山の神という理由としては、いろはの中ではヤマの上かみがオクだからなどと馬鹿げた説明はすでに多い。或いは里神楽さとかぐらの山の神の舞に、杓子しゃくしを手に持って出て舞うからというなどは、もっともらしいがやや循環論法じゅんかんろんぽうの嫌きらいがある。何の故に山の神たる者がかくのごとく、人間の家刀自いえとじの必ず持つべきものを、手草たぐさにとって舞うことにはなったのか。それがまず決すべき問題だといわねばならぬ。杓子はなるほど山中の産物であって、最も敬虔けいけんに山神に奉仕する者が、これを製して平野に持ち下る習いではあったが、ただそれのみでは神自らこれを重んじ、また多くの社においてこれを信徒に頒与するまでの理由にはならぬ。岐阜県の或る地方では以前は山の神の産衣うぶぎぬと称して長さの六七尺もある一ひとつ身みの着物を献上する風があったというが、今はいかがであろうか。これに対しては子育ての守まもりとして、巨大なる山杓子を授けた社もあったという。越前湯尾ゆのお峠の孫杓子を始めとし、今でも杓子には小児安全の祈祷きとうを含むものが多い。山と女性または山と産育というがごとき、一見して縁の遠そうな信仰が、かつてその間に介在しなかったならば、とうてい我々の家内の者に、そのようないかめしい綽名あだなを付与するの機会は生じなかったはずである。

 山の神は通例諸国の山林において、清き木清き石について、臨時にこれを祀まつり、禰宜ねぎ・神主かんぬしの沙汰さたはない場合が多いが、これを無格社以上の社殿の中に斎いつくとすれば、すなわち神の名を大山祇命おおやまつみのみこと、もしくは木花開耶姫尊このはなさくやひめのみことといい、稀まれにはその御姉の岩長姫命とも称となえて、何とかして「神代巻」に合致させようとするのが、近世神道の習わしである。しかもこれは単に山神が或る地では男神であり、また他の地方では姫神であったことを語る以外に、いささかも信仰の元の形を、跡づけた名称ではないのである。公認せられない山神の久しい物語には、今はおおよそ忘れたからよいようなものの、なかなかに尊き大山祇の御名を累すべきものが多かった。木樵きこり・草苅くさかり・狩人かりうどの群が、解しかつ信じていた空想は粗野であった。それを片端かたはしから説き立てることは心苦しいが、わずかに山の神に産衣を奉納したという点だけを考えてみても、自分たちはこれを岩長姫の御姉妹に托することの、由よしなき物好ものごのみであったことを感ずるのである。十八九年前に自分は日向の市房山に近い椎葉しいばの大河内という部落に一泊して、宿主の家に伝えた秘伝の「狩之巻かりのまき」なるものを見せてもらったことがある。その一節の山神祭文猟直りょなおしの法というのは、大よそ次のごとき素朴なる神話であった。不明の文字があるから、むしろ全文を書留めて置く方がよいと思う。

一、そも/\山の御神、数を申せば千二百神、本地薬師如来ほんちやくしにょらいにておはします。観世音菩薩かんぜおんぼさつの御弟子阿修羅王あしゅらおう、緊那羅王きんならおう、摩※羅王まこうらおう[#「月+侯」、U+26788、188-1]と申す仏は、日本の将軍に七代なりたまふ。天あまの浮橋うきはしの上にて、山の神千二百生れたまふ也。此この山の御神の母御名を一神いちがみの君きみと申す。此神産をして、三日までうぶ腹を温あたためず。此浮橋の上に立ちたまふ時、大摩の猟師毎日山に入り狩をして通る時に、山の神の母一神の君に行逢ゆきあひたまふとき、われ産をして今日三日になるまでうぶ腹を温めず、汝なんじが持ちしわり子を少し得さすべしと仰せける。大摩申しけるは、事やう/\勿体もったいなき御事おんこと也。此割子わりこと申すは、七日のあひだ行を成し、十歳未満の女子にせさせ、てんから犬にもくれじとて天じやうに上げ、ひみちこみちの袖そでの振合ふりあいにも、不浄の日をきらひ申す。全く以もって参らすまじとて過ぎにけり。其あとにて小摩の猟師に又行逢ひ、汝高をいふもの也。我こそ山神の母なり、産をして今日三日になるまで、産腹うぶはらを温めず。山の割子を得さすべしと乞こひたまふ。時に小摩申しけるは、さてさて人間の凡夫ぼんぷにては、産をしては早くうぶ腹をあたゝめ申すこと也。ましてや三日まで物をきこしめさずおはす事のいとをしや。今日山に入らず、明日山に入らずとも、幸ひ持ちし割子を、一神の君に参らせん。かしきのうごく、白き粢しとぎの物をきこしめせとてさゝげ奉る。其時一神の君大に悦び、いかに小摩、汝がりう早く聞(開?)かせん。是より丑寅うしとらの方にあたつて、とふ坂山といへるあり。七つの谷の落合おちあいに、りう三つを得さすべし。猶なほ行末々ゆくすえずえたがふまじと誓ひて過ぎたまふ。急々如律令きゅうきゅうにょりつりょう。敬白けいはく。

 右の話が天つ神の新嘗にいなめの物忌ものいみの日に、富士と筑波と二処の神を訪れて、一方は宿を拒み他方はこれを許したという物語、巨旦将来こたんしょうらい・蘇民そみん将来の二人の兄弟が、款待かんたいの厚薄によって武塔むとう天神に賞罰せられた話、世降くだっては弘法大師が来って水を求めた時、悪い姥うばはこれを否いなんで罰せられ、善き姥は遠く汲んでその労を報いられたという口碑などと同じ系統の古い形であることは、誰人たれひともこれを認め得る。かりに山の神の母に托した物語が日向ばかりの発明であったとしてもその意味は深いと思った。しかるについ近ごろになって、佐々木君の『東奥異聞』には遠く離れた陸中の上閉伊郡と、羽後の北秋田郡のマタギの村とに、同じ話が口伝くでんとなって残っていたことを報告している。羽後の方では八人組十人組という二組のマタギ、一方は忌いみを怖おそれてすげなく断ったに反して、他の一方では小屋の頭かしらがただの女性でないと見て快く泊め、小屋で産をさせて介抱をした。陸中の山村では猟人の名を万治磐司ばんじばんじといい、磐司がひとり血の穢けがれを厭いとわず親切に世話をすると、十二人の子を生んだと伝えている。いずれも山神がその好意をめでて、のちのち山の幸を保障したことは同じであった。

 猟師は船方ふなかたなどとは違い、各自独立した故郷があって、互いに交通し混同する機会は決して多くない。それが奥州と九州の南端と、いつのころからかは知らぬがこれだけ類似した物語を伝えているのは必ず隠れた原因がなければならぬ。その原因を尋ね求めることは、今からではもうむつかしいであろうか否か。自分の知る限りにおいては、同じ古伝の破片かと思うものが、中部日本では上古以来の北国街道、近江から越前へ越える荒乳あらち山にもあった。『義経記』巻七に義経の一行が、この峠を越えなずんで路の傍に休んだ時、アラチという山の名の由来を、弁慶が説明したことになっている。今の人が聴けば興の覚さめるような話だが、加賀の白山しらやまの山の神女体こうのりゅうぐうの宮、志賀の辛崎からさき明神と御かたらいあって、懐姙すでにその月に近く、同じくはわが国に還って産をなされんとして、明神に扶たすけられてこの嶺を越えたもう折に、にわかに御催おんもよおしあって、山中において神子誕生なされた。荒血をこぼしたもうによって荒血山とはいうとある。『義経記』全篇の筋とは直接の交渉なき插話そうわだから、作者の新案とは考えられぬ。多分はこの書が成長をした足利時代中期に、まだ若干の物知りの間に、記憶せられていた口碑かと思う。しかも猟人かりうどの神を援助した話は、ここではこれと結びついていた痕跡こんせきがない。二国に分れ住む陰陽の神が、境の山の嶺に行き逢いたもうということは、大和と伊勢との間でも、信濃と越後の境でも、今なお土地の民はこれを語り伝えている。それと各地の道祖乢さえのたわの驚くべく粗野なる由来記とは、もちろんいずれが本もと、何れが末とはきめにくいが、脈絡は確かにあったので、従って深山の誕生というがごとき荒唐なる言い伝えも、成立ちうる余地は十分にあった。ただ記録以前にあっては話し手の空想がわずかずつ働いて、始終輪廓りんかくが固定しなかったというのみである。

 例えば浄瑠璃じょうるりの「十二段草子そうし」は、ほとんと『義経記』と同じころに今の形が整うたものかと思うのに同じ話がもう別様べつように語り伝えられ、志賀の辛崎からさき明神を志賀寺の上人すなわち八十三歳で貴女に恋慕したという珍しい老僧の後日譚ごじつだんにしてしまった。その時京極の御息所みやすどころは年十七、上人三たびその御手をとってわが胸に押し当てたので、すなわち懐胎なされたというのは、同じ近江国手孕村の古伝の混淆こんこうであるが、やはりまた荒乳の山中にして産の紐ひもを解きたもうといい、取上げたる若子わかごは面は六つ御手は十二ある異相の産児にして、ただちに都率天とそつてんに昇り住したまい、のちに越前敦賀つるがに降ってけいたい菩薩ぼさつと顕あらわれ、北陸道を守護したもうなどと、大変なでたらめをいっている。もちろんこの通りの話が一度でも土地に行われていたわけではなく、単に愛発あらちの関が上古以来、北国往還の衝しょうにあったために、他の辺土に比べてはこの口碑が一層弘く、かつ一層不精確に流布るふしたことを、推定せしめるに過ぎぬのである。山姥が坂田公時さかたのきんときの母であり、これを山中に養育したという話が、特に相州足柄あしがらの山に属することになったのも、また全然同じ事情からであろうと思う。江戸時代中期の読み本として、『前太平記ぜんたいへいき』という書物が世に現れるまでは、山姥の本場は必ずしも、明るい東海のほとりの山でなかった。信州木曾の金時山きんときやまなどでは、現に金時母子の棲すんだという巌窟がんくつ、金時が産湯うぶゆをつかったという池の跡のほかに、麓の村々の石の上にはこの怪力童子の足跡なるものがいくらもあって(『小谷口碑集』)、むしろ山姥が自由自在に山また山を山巡やまめぐりするという、古い評判とも一致するのであるが、これを頼光四天王の一人に托するに至って、足柄ばかりが有名になったのみならず、前後ただ一度の奇瑞のごとく解せられて、かえって俗説の遠い由来を、尋ねる途みちが絶えようとするのである。

『臥雲日件録がうんにっけんろく』などを読んでみると、山姥が子を生むという話は少なくとも室町時代の、京都にもすでに行なわれていた。しかもおかしい事には一腹に三人の四人も、怖ろしい子を生むというのである。従ってそれが山神の産養いという類の猟人等が言い伝えと、元もとは果して一つであるか否かも、容易に決断することはできぬのだが、山姥の信仰が今ほど雑駁ざっぱくになった上はいたしかたのないことである。近世の山姥は一方には極端に怖ろしく、鬼女とも名づくべき暴威を振いながら、他の一方ではおりおり里に現れて祭を受けまた幸福を授け、数々の平和な思い出をその土地に留とどめている。多くの山村では雪少なく冬の異常に暖かな場合に、ことしは山姥が産をするそうでといっていた。阿波の半田の中島山の山姥石は、山姥が子供をつれて時々はこの岩の上にきて、焚火たきびをしてあたらせるのを見たと称してこの名がある。遠州奥山郷の久良幾くらき山には、子生嵶こうみたわと名づくる岩石の地が明光寺の後の峯にあって、天徳年間に山姥ここに住し三児を長養したと伝説せられる。竜頭峯りゅうずほうの山の主ぬし竜筑房、神之沢の山の主白髪童子、山住奥の院の常光房は、すなわちともにその山姥の子であって、今も各地の神に祀られるのみか、しばしば深山の雪の上に足痕あしあとを留め、永く住民の畏敬を繋つないでいた。『遠江国風土記伝とおとうみのくにふどきでん』には平賀・矢部二家の先祖、勅を奉じて討伐にきたと誌しるしてはあるが、のちに和談成って彼らの後裔こうえいもまた同じ神に仕えたことは、秋葉山住やまずみの近世の歴史から、これを窺うかがうことができるのである。

 山住は地形が明白に我々に語るごとく、本来秋葉の奥の院であった。しかるにいつのころよりか二処の信仰は分立して、三尺坊大権現だいごんげんの管轄は、ついに広大なる奥山には及ばなかったのである。海道一帯の平地の民が、山住様に帰伏する心持は、なんと本社の神職たちが説明しようとも、全く山の御犬おいぬを迎えてきて、魔障盗賊ましょうとうぞくを退ける目的の外に出なかった。今こそ狼おおかみは山の神の使令として、神威を宣布する機関に過ぎぬだろうか、もし人類の宗教にも世に伴う進化がありとすれば、かつては狼をただちに神と信じて、畏敬祈願した時代があって、その痕跡は数々の民間行事、ないしは覚束おぼつかない口碑の中などに、たどればこれを尋ね出すことができるわけである。山に繁殖する獣は数多いのに、ひとり狼の一族だけに対しては、産見舞さんみまいという慣習が近頃まであった。遠江・三河には限ったことではないが、諸国の山村には御犬岩などと名づけて、御犬が子を育てる一定の場処があった。いよいよ産があったという風説が伝わると、里ではいろいろの食物を重箱に詰めて、わざわざ持参したという話は珍しくない。ただし果して狼の産婦が実際もらって食べたか否かは確かでない。津久井つくいの内郷うちごうなどでは赤飯の重箱を穴の口に置いてくると、兎うさぎや雉子きじの類を返礼に入れて返したなどともうそろそろ昔話に化し去らんとしているが、秩父ちちぶの三峯山みつみねさんでは今もって厳重の作法があって、これを御産立おこだての神事というそうである。『三峯山誌』の記するところによれば、御眷属ごけんぞく子を産まんとする時は、必ず凄然せいぜんたる声を放って鳴く。心直すぐなる者のみこれを聴くことを得べし。これを聴く者社務所に報じ来れば、神職は潔斎けっさい衣冠いかんして、御炊上おたきあげと称して小豆飯あずきめし三升を炊き酒一升を添え、その者を案内として山に入り求むるに、必ず十坪ばかりの地の一本の枯草もなく掃き清めたかと思う場所がある。その地に注連しめを繞めぐらし飯酒を供えて、祈祷して還るというので、これまた産の様子を見たのではないが、この神事のあった年に限って、必ず新たに一万人の信徒が増加するとさえ信じていた。

 しかもこの話が単に山神信仰の一様式に過ぎなかったことは、いわゆる御産立の神事が年を隔てて稀に行われていたのを見ても察せられる。狼は色欲の至って薄い獣だという説もあり或いはこの獣の交るを見た者は、災があるという説があったのも、つまりは山中天然の現象の観察が、かくのごとき信仰を誘うたものではなく、かねて山神の子を産むという信仰があったために、かかる偶然の出来事に対しても、なお神秘の感を抱かざるをえなかったことを意味するかと思う。狼が化けて老女となりもしくは老女が狼の姿をかりて、旅人を劫おびやかしたという話は西洋にも弘く分布しているらしいが、日本での特色の一つは、これもまた分娩ということとの関係であった。ことに阿波・土佐・伊予あたりの山村においては、身持の女房がにわかに産を催し、夫おっとが水を汲みに谷に降っている間に、狼の群に襲われたという話を伝え、または山小屋に産婦を残して里に出た間に、咬かみ殺されたという類の物語があって、或いはこの獣が荒血の香を好むというがごとき、怪しい博物学の資料にもなっているようだが実事としてはあまりに似通うた例のみ多く、しかもその故跡には大木や厳いわおがあって、しばしば祟たたりを説き亡霊を伝えているのを見ると、これも本来同一系統の信仰が、次第に形態を変じて奇談小説に近づこうとしているものなることを、推測することができるのである。

 ただし実際この問題はむつかしくて、もうこれ以上に深入するだけの力もないが、とにかくに自分が考えて見ようとしたのは、何故に多くの山の神が女性であったかということであった。山中誕生の奇怪なる昔語りが、かくいろいろの形をもって弘くかつ久しく行われているのは、或いはこの疑問の解決のために、大切なる鍵かぎではなかったかということである。日向の椎葉山しいばやまの「猟人伝書かりうどでんしょ」に、山神の御母の名を一神の君と記しまたは安芸と石見を境する亀尾山の峠において、御子を生みたもうと伝うる神が、市杵島姫命いちきしまひめのみことであったというのも、自分にとっては一種の暗示である。イチは現代に至るまで、神に仕える女性を意味している。語の起こりはイツキメ(斎女)であったろうが、また一の巫女みこなどとも書いて最も主神に近接する者の意味に解し、母と子とともにあるときは、その子の名を小市こいちともまた市太郎とも伝えていた。代を重ねて神を代表する任務を掌つかさどっているうちに、次第にわが始祖をも神と仰いで、時々は主神と混同する場合さえあったのは、言わば日本の固有宗教の一つの癖であった。故に公の制度としては斎女の風は夙つとに衰えたけれども、なお民間にあっては清くかつ慧かしこしい少女が、或いは神に召されて優れたる御子を産み奉るべしという伝統的の空想を、全然脱却することをえなかったのかと思う。信仰圏外の批判をもってすれば、これを精神疾患の遺伝ともいうことができるが、平和古風の山村生活にあってはまったく由緒ある宗教現象の一つであった。ことにまた深山の深い緑、白々とした雲霧の奥には、しばしばその印象と記憶を新たにするだけの、天然の力が永くのちのちまで潜んでいたのである。

二〇 深山に小児を見るということ

 日向の猟人の山神祭文にも、山の神千二百生まれたもうということがあるが、山を越えて肥後の球磨くま郡に入ると、近山太郎、中山太郎、奥山太郎おのおの三千三百三十三体と唱えて、一万に一つ足らぬ山の神の数を説くのである。算かぞえた数字でないことはもとよりの話だが、この点はすこぶる足柄山の金太郎などと、思想変化の方向を異にしているように思われる。いわゆる大山祇命おおやまつみのみことの附会が企てられた以前、山神の信仰には既に若干の混乱があった。木樵きこり・猟人かりうどがおのおのその道によって拝んだほかに、野を耕す村人等は、春は山の神里に下って田の神となり、秋過ぎて再び山に還りたもうと信じて、農作の前後に二度の祭を営むようになった。伊賀地方の鉤曳かぎひきの神事を始めとし、神を誘い下す珍しい慣習は多いのであるが、九州一帯ではこれに対して山ワロ・河ワロの俗伝が行われている。中国以東の川童が淵池ごとに孤居するに反して、九州でミズシンまたはガアラッパと称する者は、常に群をなして住んでいた。そうして冬に近づく時それがことごとく水の畔を去って、山に還って山童やまわろとなると考えられ、夏はまた低地に降りくること、山の神田の神の出入と同じであった。紀州熊野の山中においてカシャンボと称する霊物も、ほぼこれに類する習性を認められている。寂寥せきりょうたる樹林の底に働く人々が、わが心と描き出す幻の影にも、やはり父祖以来の約束があり、土地に根をさした歴史があって、万人おのずから相似たる遭遇をする故に、かりに境を出るとたちまち笑われるほどのはかない実験でもなお信仰を支持するの力があった。ましていわんやその間には今も一貫して、日本共通の古くからの法則が、まだいくらも残っていたのである。

『西遊記さいゆうき』その他の書物に九州の山童として記述してあるのは、他の府県でいう山男のことであって、その挙動なり外貌がいぼうなりは、とうてい川童の冬の間ばかり化してなる者とは思われぬのであるが、別にこれ以外に谷の奥に潜んで小さな怪物のいるという言い伝えはあったので、山童はもと恐らくはこの方に属した名であった。壱岐の島では一人の旅人が、夜通しがやがやと宿の前を海に下って行く足音を聴いた。夜明けて訊たずねるとそれは山童の山から出てくる晩であった。或いはまた山の麓の池川の堤つつみに、子供のかと思う小さな足痕あしあとの、無数に残っているのをみて、川童が山へ入ったという地方もある。秋の末近く寒い雨の降る夜などに、細い声を立てて渡り鳥の群が空を行くのを、あれがガアラッパだと耳を峙そばだてて聴く者もあった。阿蘇あその那羅延坊ならえんぼうなどという山伏やまぶしは、山家に住みながら川童予防の護符を発行した。すなわち夏日水辺に遊ぶ者の彼らの害を懼おそるるごとく、山に入ってはまた山童を忌み憚はばかっていた結果かと思われるが、近世に入ってからその実例がようやく減少した。大体にこの小さき神は、人間の中の小さい者も同じように、気軽な悪戯いたずらが多くて驚かすより以上の害は企てえなかった。注意をすればこれを防ぐことができたために、のち次第に人がその威力を無視するに至ったのである。『観恵交話かんけいこうわ』という二百年ほど前の書物には、豊後の国かと思う或る山奥に、せこ子こと称する怪物がいる話を載せている。形は三尺から四尺、顔の真中まんなかに眼がただ一つであるほか、全く人間の通りで、身には毛もなくまた何も着ず、二三十ずつ連れだってあるく。人これに逢えども害を作なさず、大工の持つ墨壺すみつぼを事の外ほかほしがれでも、遣れば悪しとて与えずと杣そまたちは語る。言葉は聞えず、声はひゅうひゅうと高く響く由なりといっている。

 眼が一つということは突然に聞けば仰天するが、土佐でも越後でも、また朝鮮でも、或いは遠く離れてヨーロッパの多くの国の田舎でも、こんな境遇の非類の物には、おりおり附いて廻る噂である。どうしてそういう風に目に見えたかは、残念ながらまだ明白に判わからぬというまででまずは怪物の証拠とでもいうべきものであった。大和・吉野の山中においては、また木の子と名づくるおよそ三四歳の小児ほどの者がいた。身には木の葉を着ているとある。これは『扶桑ふそう怪談実記』の誌すところであって、その姿ありともなしとも定まらずなどと至って漠然たる話ながら、山働きの者おりおり油断をすると木の子に弁当を盗まれることがあるので、木の子見ゆるや否や棒をもってこれを追い散らすを常とすともあれば、少なくとも多数の者が知っていたのである。このほかにも秋田の早口沢はやくちざわの奥に鬼童という者の住むことは、『黒甜瑣語こくてんさご』三編の四に見え、土佐の大忍おおさい郷の山中に、笑い男という十四五歳の少年が出て笑うことが、『土州淵岳志どしゅうえんがくし』に書留めてある。それが誇張でありもしくは誤解なることは、細かに読んで見ずとも断定してよいのであるが、こういう偶然の一致がある以上は、誤解にもなお尋ぬべき原因があるわけである。

 その上にまた時としては、誤解とも誇張とも考えられぬ場合もある。これは南方熊楠みなかたくまぐす氏の文通によって知ったのだが、前年東部熊野の何とか峠を越えようとした旅人、不意に路傍の笹原の中から、がさがさと幼児が一人這はい出してきたのを見てびっくりして急いで山を走り降った。それから幾日かを経て同じ山道を戻ってくると、今度はその子供が首を斬きられて同じあたりに死んでいたのを見たという。頭も尻尾もなく話はただこれだけだが、その簡単さがむしろこの噂の人の作った物語でないことを感ぜしめる。南方氏の書状はこれにつけ加えて、インドは地方によって狼の穴から生きた人間の赤児を拾ってきた事件が今でも新聞その他におりおり報ぜられる。この国は狼の害甚だ多く、小児の食われる実例が毎年なかなかの数に達し、狼に食われた子供の首飾くびかざり・腕飾の落ちたのを、山をあるいては拾い集める職業さえある。最近のロミュルスはすなわちこの連中によって発見せられるので、狼が飽満して偶然に食い残した子供が、無邪気に食を求めて狼の乳を吸い、自然に猛獣の愛情を喚起して狼の仔とともに育てられるのだ。或る孤児院へ連れてきた童子などは、四よつ這ばいをして生肉のほかは食わず、うなる以外に言語を知らず、挙動が全然狼の通りであったと報告せられていると示された。ただしこの種の出来事は必ず昔からであろうが、これに基づいて狼を霊物とした信仰はまだ聞かぬに反して、日本の狼は山の神であっても子供を取ったという話ばかり多く伝わり、助け育てたという実例はないようである。故に性急にこの方面から山の赤子の説明を引出そうとしてはならぬのである。

二一 山姥を妖怪なりとも考えがたきこと

 山姥・山姫は里に住む人々が、もと若干の尊敬をもって付与したる美称であって、或いはそう呼ばれてもよい不思議なる女性が、かつて諸処の深山にいたことだけは、ほぼ疑いを容いれざる日本の現実であった。ただしこれに関する近世の記録と口承とは、甚だしく不精確であった故に最も細心の注意をもって、その誤解誇張を弁別する必要があるのはもちろんである。自分が前に列記したいくつかの見聞談のごとく、女が中年から親の家を去って、彼らの仲間に加わったという例のほかに、別に最初から山で生まれたかと思われる山女も往々にして人の目に触れた。これも熊野の山中において、白い姿をした女が野猪やちょの群を追いかけて、出てくることがあると、『秉穂録へいすいろく』という本に見えている。土佐では槙山まきのやま郷の字筒越つつごしで、与茂次郎という猟師夜明よあけに一頭の大鹿の通るのを打留うちとめたが、たちまちそのあとから背丈せたけ一丈じょうにも余るかと思う老女の、髪赤く両眼鏡のごとくなる者が、その鹿を追うてきたのを見て動顛どうてんしたと、寺石氏の『土佐風俗と伝説』には誌してある。

 猪を追う女の白い姿というは、或いは裸形のことを意味するのではなかったか。薩摩の深山でも往々にして婦人の姿をした者が、嶺を過ぐるを見ることがある。必ず髪を振り乱して泣きながら走って行くと、この国の人上原白羽という者が、『今斉諧きんせいかい』の著者に語っている。それがもし実験者の言に基づくものならば、泣きながらとは多分奇声を発していたことをいうのだろう。『遠野物語』に書留められた山中深夜の女なども、待てちゃアと大きな声で叫んだといっている。他の地方にも似たる例は多く、たいていは背丈がむやみに高かったことを説いているが、怖しくて遁にげて来た者の観察だから、寸法などは大ざっぱなものであろうと思う。それよりも土地を異にし場合を異にして、おおよそ形容の共通なるもの、例えば声とか髪の毛の長く垂れていたとかいう点の同じかったのは注意に値する。山で大きな女の屍体したいを見たという話は、これもいくつかの類例が保存せられてあるが、なかんずく有名なのは夙はやく橘南谿の『西遊記』に載せられた日向南部における出来事である。

「日向国飫肥おび領の山中にて、近き年菟道弓うじゆみにて怪しきものを取りたり。惣身そうしん女の形にして色ことの外ほか白く黒髪長くして赤裸なり。人に似て人に非あらず。猟人も之を見て大いに驚き怪み人に尋ねけるに、山の神なりと謂いふにぞ。後の祟たたりも恐ろしく取棄とりすてもせず、其そのまゝにして捨置きぬ。見る人も無くて腐りしが、後の祟りも無かりしとぞ。又人のいひけるは、是は山女と謂ふものにて、深山にはまゝあるものと云いへり」云々。この菟道弓のウジというのは、野獣が踏みあけた山中の通路である。同じ処を往来する習性があるのを知って、かかればひとりでに発するようにウジ弓を仕掛けておくのである。それにきて斃たおれたというのはいくら神でなくとも驚くべき不注意であって、珍しい事件であったに相違ないが、都に住む橘氏ならばとにかく、土地の猟人が始めて名を知ったというのは、やや信じにくい話である。ことにこの方面は今でも山人の出現が他に比べては著しく頻繁ひんぱんであり、現にこの記事以後にも、いろいろの珍聞が伝えられているのである。八田知紀はったとものり翁の『霧島山幽界真語きりしまやまゆうかいしんご』の終りに、次のような一話が載せてある。

「おとゞし(文政十二年)の秋、日向の高岡たかおか郷(東諸県ひがしもろかた郡)にものしける時、籾木村なる郷士、籾木新右衛門と云へる人の物がたりに、高鍋たかなべ領の小菅岳こすげがたけといふ山に、高岡郷より猟に行通ふ者のありけるが、一日罠わなを張り置けるに、怪しき物なんかゝりたりける。さるは大方おおかたは人の形にて、髪いと長く、手足みな毛おひみちたり。さてそれが謂ひけるは、私はもと人の娘なり。今は数百年の昔、世の乱れたりし時、家を遁のがれ出てこの山に兄弟共に隠れたりけるが、それよりふつに人間の道を絶ちて、朝夕の食ひ物とては、鳥獣木の実やうのものにて有り経しかば、おのづから斯こう形も怪しくは成りにけり。今日しも妹の在る処に通はんとて、夜中に立ちて物しけるに、思はんやかゝる目に遭はんとは。いかで/\我命をば助けよかしと涙おとして詫わびけれど(その言語今の世の詞ことばならで、定さだかには聴取りかねしとぞ)、いといぶかしくや思ひけん、其儘そのまま里へ馳はせ還りて、友あまたかたらひ来て其女を殺してけり。さて其男は幾程いくほども無く病み煩わずらふことありて死にけりとか。こは近頃の事なりとて、男の名も聞きしかど忘れにけり。」

 小山勝清かつきよ君の外祖母の話であった。明治の初年、肥後球磨郡の四浦ようら村と深田村との境、高山の官山の林の中に、猟師の掛けて置いた猪罠ししわなに罹かかって、是も一人の若い女が死んでいた。丸裸であったそうだ。これを附近の地に埋めたが、のちに祟りがあったという話である。我々の注意するのは、以上三つの話が少しずつ時を異にし、またわずかばかり場処をちがえていずれも霧島市房きりしまいちふさ連山の中の、出来事であったという点である。ただし猪罠の構造を詳しく知らねばならぬが、かかった女が身の上を語ったという小菅岳の一条には、甚だしく信じにくいものがある。姉と妹とが別れ別れに住んでいて、時あって相訪あいとうということは話の様式の一つであり、乱を避けて山に入ったというのも、この地方の人望ある昔談むかしがたりにほかならぬ。言葉が古風で聴取りにくかったという説明とともに、必ず仲継者の潤飾が加わっているかと思う。それよりも大切な点はわずかな歳月、わずかな距離を隔てて似たような三つの事件が起りしかもそれぞれ状況を異にして、真似た痕跡のないことである。自分は必ず今にまた新しい報告の、更に附加せらるべきことを予期している。

 他の地方の類例はまた熊野の方に一つある。長たけ八尺ばかりな女の屍骸しがいを、山中において見た者がある。髪は長くして足に至り、口は耳のあたりまで裂け、目も普通よりは大なりと記している。それから『越後野志えちごやし』巻十八には、山男の屍骸の例が一つある。天明の頃、この国頸城くびき郡姫川ひめかわの流れに、山男が山奥から流れてきた。裸形にして腰に藤蔓ふじづるを纏まとう。身のたけ二丈余とある。ただし人恐れてあえて近づかず。ついに海上に漂い去るといって、寸尺は測って見たのではなかった。しかも二丈余というのはかねてこの地方で言うことと見えて、同じ書物の他の条にもそう書いてある。

 ただし山男の身長の遙かに尋常を超えていたことは、他の多くの地方でも言うことで或いは事実ではないかと思う。このついでにほんの二つか三つ実例を挙げてみるならば、『有斐斎剳記ゆうひさいさつき』に対馬つしま某という物産学者、薬草を採りに比叡山ひえいざんの奥に入って、たまたま谷を隔てて下の方に、一人の小児の岩から飛び降りてはまた攀よじ登って遊んでいるのを見た。村の子供がきて遊ぶものと思っていたが、後日そこを通ってみるに、岩は高さ数仞すうじんの大岩であった。それから推して見ると小児と思ったのは、身の丈たけ一丈もあったわけで、始めて怪物ということに気がついた。石黒忠篤いしぐろただあつ君がかつて誰からか聴いて話されたのは、幕末の名士川路左衛門尉かわじさえもんのじょう、或る年公命を帯びて木曾に入り、山小屋にとまっていると、月明らかなる夜更にその小屋の外にきて高声に喚よぶ者がある。刀を執って戸を開いて見るに、そこには早はや影も見えず、小屋の前の山をきわめて丈の高い男の下って行く後姿が、遠く月の光で見えたそうだ。山男であろうとその折従者に向かっていわれたが、他日ついに再びこれを口にせず、先生の日記にも伝にも、その事を記したものはなかったという。山中笑やまなかえみ翁が前年駿州田代川たしろがわの奥へ行かれた時、奥仙俣おくせんまたの杉山忠蔵という人が、その父から聴いたといって語った話の中に、若い時から猟がすきで、毎度鹿を追うて山奥に入ったが、真に怖ろしくまた不思議だと思った事は、生涯に二度しかない。その一度は山中の草原が丸太でも曳ひいて通ったように、一筋ひとすじ倒れ伏しているのを怪しんで見ているうちに、前の山の樹木がまた一筋に左右に分かれて、次第に頂上に押し登って行ったこと、今一度は人の足跡が土の上にあって、その大きさが非常なものであった。かねてこんな場合の万一の用意に、持っている鉄の弾丸を銃にこめて、なお奥深く入って行くと、ちょうど暮方くれがたのことであったが、不意に行く手の大岩に足を踏みかけて、山の蔭かげへ入って行く大男の後姿を見た。その身の丈が見上げても目の届かぬほどに高かった。あまり怖ろしいので鉄砲を打ち放す勇気もなく還ってきたと語ったそうである。昨今は既に製紙や枕木のために散々に伐きり荒されたから事情も一変したが、以前はこの辺から大井の川上にかけては、山人に取っての日高の沙留さるともいうべく、最も豊富なる我々の資料を蔵していた。安倍郡大川村大字日向ひなたの奥の藤代山などでも、かつて西河内にしこうちの某という猟師が、大きな人の形で毛を被かぶった物を、鉄砲で打ち留めたことがあった。『駿河国新風土記するがのくにしんふどき』巻二十には、なんでも寛政初年の事であったらしく記している。打ち留めたものの余りの怖ろしさに、そのままにして家に帰り、それが病の元もとになって猟師は死んだ。その遺言ゆいごんに一年も過ぎたなら、こうこうした処だから往って見よとあったので、その通りに時経てのち出かけて捜して見ると、偉大なる脛すねの骨などが落ち散り、傍にはまた四五尺あるかと思う白い毛が、おびただしくあったと伝えられる。そのように長いならば髪の毛だろうと思うが、何分多くは何段かの又聞きであったため、満身に毛を被るという記事がいつも精確でなく、ことにこの地方では猿さるの劫こう経たものとか、狒々ひひとかいう話が今でも盛んに行われて、一層人の風説を混乱せしめる。新聞などを注意していると、四五年に一度ぐらいはそういう噂が必ず起こり、その実じつ打ち取ったのはやや大形の猿であり、ただその話と寸法とのみが以前の山男の方に近くなっている。つまりはうそであり誇張ながらも、由って来たるところだけはあるのである。なお最後に今一つ、どうでも猿ではなかった具体的の例を出して置く。これは『駿河志料』巻十三、『駿河国巡村記』志太しだ郡巻四に共に録し、前の二つの話よりは少しく西の方の山の、やはり百余年前の出来事であった。

「大井川の奥なる深山には山丈やまじょうといふ怪獣あり。島田の里人に市助といふ者、材木を業として此山に入ること度々なり。或時谷畠たにはたの里を未明に立ち、智者山ちしゃやまの険岨けんそを越え、八草やくさの里に至る途中、夜既に明けんとするの頃ころ深林を過ぐるに、前路に数十歩を隔てゝ大木の根元に、たけ一丈余の怪物よりかゝるさまにて、立ちて左右を顧みるを見たり。案内の者潜ひそかに告げて言ふ。かしこに立つは深山に住む所の山丈と云ふもの也。彼に行逢へば命は測り難し。前へ近づくべからず又声を揚あぐべからず、此林の茂みに影を匿かくせと謂ふ。市助は怖れおびえて、もとの路に馳せ返らんと言へど、案内の者制し止め、暫時の間に去るべければ日の昇るを待てと言ふまゝに、せんすべ無く只ただ声を呑みてかたへに隠る。其間にかの怪物、樹下を去りて峯の方へ疾走す。潜かに之を窺うかがふに、形は人の如く髪は黒く、身は毛に蔽はれたれど面は人のやうにて、眼きらめき長き唇くちびるそりかへり、髪の毛は一丈余にてかもじを垂れるが如し。市助は之を見て身の毛立ち足の踏みどを知らず。されど峯の方へ走り行くを見て始めて安堵あんどの思ひを為なし、案内と共にかの処に来りて其跡を閲けみするに、怪獣の糞ふん樹下にうづたかく、その多きこと一箕いっきばかりあり、あたりの木は一丈ほど上にて皮を剥むきさぐりたる痕あり。導者曰ふ。これ怪物があま皮を食ひたる也。怪物は又篠竹しのたけを好みて食ふといへり。糞の中には一寸ばかりに噛かみ砕ける篠竹あり。獣の毛もまじりたりしとかや、按あんずるに是は狒々と称するものにて、山丈とは異なるなるべし」(以上)。この話はいかにも聴いた通りの精確な筆記のようだが、やはりよく見ると、文人の想像が少しはまじっていること、あたかも噛み砕いた篠竹のごとくである。例えば長き唇反そり返るとあるのは、支那の書物に古くからあることで、じつはどんな風に長いのか、日本人には考えもつかぬ。とうてい夜の引明けなどに眼につくような特徴ではなかったのである。山丈のジョウは高砂の尉と姥などのジョウで、今の俗語のダンナなどに当るだろう。すなわち山人の男子のやや年輩の者を、幾分尊んで用いた称呼にして、正しく山姥と対立すべき中世語であった。

二二 山女多くは人を懐かしがること

 全体に深山の女たちは、妙に人に近づこうとする傾向があるように見える。或いは婦人に普通なる心弱さ、ないしは好奇心からではないかと、思うくらいに馴々なれなれしかったこともあるが、それにしては彼らの姿形の、大きくまた気疎けうとかったのが笑止である。

 山で働く者の小屋の入口は、大抵たいていは垂蓆たれむしろを下げたばかりであるが、山女夜深く来たってその蓆をかかげ内を覗のぞいたという話は、諸国においてしばしばこれを聞くのである。そういう場合にも髪は長くして乱れ、眼の光がきらきらとしているために喰いにでも来たかの如く、人々が怖れ騒いだのである。或いはまた日が暮れて後のち、突然として山小屋に入り来たり、囲炉裏いろりの向うに坐って、一言も物を言わず、久しく火にあたっていたという話も多い。豪胆な木挽こびきなどが退屈のあまりに、これに戯れたなどという噂のあるのは自然である。羽後の山奥ではこんな女をわざわざ招き寄せるために、ニシコリという木を炉に燃す者さえあると『黒甜瑣語こくてんさご』などには記しているが、それは果してどういう作用をするものか、その木の性質と共になお尋ねて見たいと思っている。

 今から三十年あまり以前、肥後の東南隅の湯前ゆのまえ村の奥、日向の米良めらとの境の仁原山に、アンチモニイの鉱山があった。その事務所に住んでいた原田瑞穂という人が夜分少し離れた下の小屋に往って、人足たちと一緒になって夜話をしていると、時々ぱらぱらとその小屋の屋根に小石を打ちつける音がする。少し気味が悪くなってもう還ろうと思い、その小屋を出てうしろの小路をわずかくると、だしぬけに背の高い女が三人横の方から出て、その一人が自分の手を強く捉えた。三人ながらほとんと裸体であった。何か頻しきりに物を言うけれども怖ろしいので何を言うか解らなかった。その内に大声に人を喚んだ声を聞いて、小屋から多勢の者がどやどやと出てきたので、女は手を離して足早あしばやに嶺の方へ上ってしまった。これも小山勝清君の話で、経験をした原田氏は、そのころまだ若かった同君の叔父である。

 自分はこの鉱山のあった仁原山が、前に挙げた獣のわなに山女の死んでいた三つの場処の、ほぼまん中である故に、ことにこの話に注意をする。もし山人にも土地によって、気風に相異があるものとすれば、南九州の山中に住む者などは、とりわけ人情が惇樸じゅんぼくでかつ無智であったように思われるからである。

 この類の実例はゆくゆくなお追加しうる見込みがある。前にいう仁原山は市房山と白髪岳との中間にある山だが、その白髪岳の山小屋でも近年山の事業のためにしばらく入っていた某氏が、夜になると山女がきて足を持って引張るので、なにぶんにも怖ろしくて我慢ができぬといって還ってきたこともあった。球磨郡四浦ようら[#ルビの「ようら」は底本では「ようち」]村の吉という木挽が、かつて五箇庄ごかのしょうの山で働いていた時に、小屋へ黙って入ってきた髪の毛の長い女などは、にこにことしてしきりに自分の乳房をいじっていた。驚いて飛びだして銕砲てっぽうなどを持って、多勢で還ってきてみるともうその辺にはいなかったそうである。単に遠くから姿を見たというだけの話なら、まだこの附近にも近頃の例がいくつかある。東北地方では会津の磐梯山ばんだいさんの入山などにも、山女らしい話がおりおり伝えられる。『竜章東国雑記りゅうしょうとうごくざっき』の第六集に、「文化の初め頃、山麓某村の農民二人、川※(「くさかんむり/弓」、第3水準1-90-62)せんきゅうといふ薬草を採りに、此山西北の谿たにに入って還ることなり難く、流ながれに傍そうた大木の虚洞うつろに夜を過すとて、穴の外に火を焚たいて置くと、たけ六尺ほどで髪の長さは踵かかとを隠すばかりなる女が沢蟹さわがにを捕へて此火に炙あぶつて食ひ、又両人を見て笑った」と記している。「これ俗に山ワロと謂ひ野※(「けものへん+爰」、第3水準1-87-78)やえんの年とし経たるもの也。奥羽の深山にはまゝ居る由にて、よく人の心中を知れども人に害を為すことなし」などとあって、土地でも詳しいことは知らぬのである。また『老媼茶話ろうおうちゃわ』には猪苗代いなわしろ白木城の百姓庄右衛門、同じく磐梯山の奥に入って、山姥のかもじと称するものを見つけたことを載せている。「長さ七八尺にして白きこと雪の如く、松の大木の梢にかゝつて居た」とあって其末に、「世に謂ふ山姥は南蛮国なんばんこくの獣なり。其形老女の如し。腰に皮ありて前後に垂れ下りたふさぎの如し。たま/\人を捕へては我住む岩窟がんくつに連れゆき、強ひて夫婦のかたらひを求む。我心に従はざるときは其人を殺せり。力強くして丈夫に敵す。好みて人の小児を盗む。盗まれし人之を知り、多勢集まり居て山姥が我子を盗みしことを大音に罵ののしり恥しむるときは、窃ひそかに小児を連れ来り、其家の傍に捨て置き帰るといへり」などといっている。実際の遭遇がようやく稀まれになって雑説はいよいよ附け加わるので、これなども支那の書物の知識が、もう半分ばかりもまじっているようである。

 或いは単に人間の炉の火を恋しがって出てくるものとも想像しうる場合がある。冬の日に旅をした人ならこの心持は解るが、たとえ見ず知らずの人が焚火たきびをする処でも、妙に近づいて見たくなるものである。夜分に人の家の火が笑語の声とともに、戸の隙間すきまから洩もれるのを見ると、嫉ねたましくさえなるものだ。無邪気な山の人々もこの光に引きつけられてくるのかも知らぬ。『秉穂録へいすいろく』にはまた熊野の山中で炭焼く者の小屋へ、七尺余りの大山伏おおやまぶしの遣ってくることを録している。ただし「魚鳥の肉を火に投ずるときは、その臭気を厭いとうて去る」というのは、少しく前の沢蟹の話とは一致せぬが、火に対する趣味などにも地方的に異同があるのだろう。前に引用した『雪窓夜話せっそうやわ』の上巻には、また次のような一件も記してある。すなわち因州での話である。

「西村某と云ふ鷹匠たかじょうあり。鷂たかを捕らんとて知頭ちず郡蘆沢山あしさわやまの奥に入り、小屋を掛けて一人住みけり。夜寒の頃なれば、庭に火を焚たきてあたり居けるに、何者とも知れず、其たけ六尺あまりにて、老いたる人の如くなる者来りて、黙然とかの火によりて、鼻をあぶりてつくばひたり。頭の髪赤くちゞみて、面貌めんぼう人に非ず猿にも非ず、手足は人の如くにして、全身に毛を生じたり。西村は天性剛なる男なれば、更に驚くこと無く、汝なんじは何処に住む者ぞと問ひけれども、敢て答へず。暫くありて立帰る。西村も其後に沿ひて出でけれども、夜甚だ暗くして、其行方を知らずなりぬ。其後又来りて、小屋の内を覗のぞくことありしに、西村、又来たか、今宵こよいは火は無きぞと言ひければ、其まゝ帰りけると也。里人に其事を語りければ、山父と云ふもの也。人に害を為す者に非ず。之を犯すことあれば、山荒るゝと謂ひけると也。」

 スキーで近頃有名になった信越の境の山にも、半分ほど共通の話があって、『北越雑記ほくえつざっき』巻十九に出ている。断って置くがこれら二つの書物は共に写本であって流布も少なく、一方の筆者は他の一方の著述の存在をすらも知らなかったのである。それを自分たちが始めて引き比べて見る処に、学問上の価値が存するのである。「妙高山・焼山・黒姫山くろひめやま皆高嶺にて、信州の飯綱いづな・戸隠とがくし、越中の立山まで、万山重なりて其境幽凄ゆうせいなり。高田の藩中数十軒の薪まきは、皆この山中より伐出す。凡およそ奉行ぶぎょうより木挽こびき・杣そまの輩やからに至るまで、相誓ひて山小屋に居る間、如何いかなる怪事ありても人に語ること無し。一年升山某、役に当りて数日山小屋に在ありしが、夜は人々打寄りて絶えず炉に火を焚きてあたる。然るに山男と云ふもの、折ふし来ては火にあたり一時ばかりにして去る。其形人に異なること無く、赤髪裸身灰黒色にして、長たけは六尺あまり、腰に草木の葉を纏まとふ。更に物言ふこと無けれども、声を出すに牛のいばふ如く聞ゆ。人の言語はよく聞分くる也。相馴あいなれて知人の如し。一夕升山氏之に向ひて、汝木葉を着るは恥ることを知るなり。火にあたるは寒さを畏おそるゝなり。然らば何ぞ獣の皮を取りて身に纏はざるやと言ひしに、つく/″\と之を聞きて去れり。翌夜は忽ち羚羊かもしか二疋ひきを両の手に下げて来り、升山の前に置く。其意を解し、短刀もて皮を剥はぎて与ふれば、山男は頻しきりに口を開き打笑ひ、悦よろこびて帰りぬ。すでにして又来たるを見れば、さきの皮一枚は、藤を以て繋つなぎ合せて背に負ひ、他の一枚は腰に巻き付けたり。されど生皮なまかわを其のまゝ着たる故、乾くにつれて縮みより硬こわばりたり。皆々打笑ひ、熊の皮を取り、十文字にさす竹入れ、小屋の軒に下げて見せ、且つ山刀一梃いっちょうを与へて帰らしむ。其後数日来ずと謂へり」(以上)。これなどは秘密を誓約した人々の抜け荷だから、若干の懸値かけねがあっても吟味をすることが困難である。

二三 山男にも人に近づかんとする者あること

 山人も南九州の山に住む者が、特に無害でありまた人なつこかったように思われる。山中をさまようて危害の身に及ぶに心づかず、しばしば里の人の仮小屋かりごやを訪問して、それほどまでに怖れ嫌われていることを知らなかったという例は、主として霧島連峯中の山人の特質であった。なお同じ方面の出来事として、水野葉舟君からまた次のような話も教えられた。

 日向南那珂ひゅうがみなみなか郡の人身上千蔵君曰く、同君の祖父某、四十年ばかり以前に、山に入って不思議な老人に行逢うたことがある。白髪にして腰から上は裸、腰には帆布ほぬののような物を巻きつけていた。にこにこと笑いながら此方を向いて歩んでくる様子が、いかにも普通の人間とは思われぬ故に、かねて用心のために背に負う手裏剣しゅりけん用の小さい刀の柄つかに手を掛け、近く来ると打つぞと大きな声でどなったが、老翁は一向に無頓着むとんちゃくで、なお笑いながら傍へ寄ってくるので、だんだん怖ろしくなって引返して遁にげてきた。ところがそれから一月ばかり過ぎてまた同じ山で、村の若者が再び同じ老人に逢った。一羽の雉子きじを見つけて鉄砲の狙ねらいを定め、まさに打ち放そうとするときに、不意に横合よこあいから近よってこの男の右腕を柔かに叩く者があった。振向いて見ればその白髪の老人で、やはりにこにこと笑って立っている。白髪の端はしには木の葉などがついていたという。これを見ると怖ろしさのあまり気が遠くなり、鉄砲を揚あげたままで立ちすくんでいたのを、しばらくしてから村の人に見つけられ、正気になってのちにこの話をしたそうだ。眼の迷いとかまぼろしとか、言ってしまうことのできない話で、しかも作り話としては何の曲もなく、かつ二度の実見が一致していた。何かは知らずとにかくにそんな人が、この辺の山には正しくいたのである。

 山人が我々を目送したという話もおりおり聞く。そうして甚だ気味の悪いことに、これを解説するのが普通であった。気味の悪くないこともあるまいが、彼らは元来が真の有閑階級だから、じつははっきりとした趣意もなく、ただ眺めていた場合もあったかも知れぬ。ただし少年や女には、これを怖れる理由は十分にあった。前年前田雄三君から聴いた話は、越前丹生にう郡三方みかた村大字杉谷の、勝木袖五郎という近ごろまで達者でいた老人、今から五十余年前に十二三歳で、秋の末に枯木を取りに村の山へ往った。友だちの中に意地の悪い者があって、うそをついて皆は他の林へ往ってしまい、自分一人だけ村の白山神社の片脇の、堂ヶ谷というところで木を拾っているとき、ふと見れば目の前のカナギ(くぬぎ)の樹にもたれて、大男の毛ずねがぬくと見えた。見上げると目の届かぬほどに背が高い。怖ろしいからすぐに引返して、それからほど近い自分の家に戻り、背戸口に立って再び振り返って見ると、その大男はなおもとの場所に立ち、凄すごい眼をしてじっと此方を見ていたので、その時になって正気を失ってしまったそうである。この堂ヶ谷は宮からも人家からも、至って近い低い山であった。こんなところまで格別の用もないのに、稀まれには山人が出向いてきて人を見ていたのである。神隠しの風説などの起りやすかったゆえんである。

 それから少なくとも我々に対して、常に敵意は持ってはいなかったという証拠もある。小田内通敏おたうちみちとし氏の示された次の一文は、何かの抄録らしいが元もとの書物は同氏も知らぬという。津軽での話である。

「中村・沢目・蘆谷あしのや村と云ふは、岩木山の※ふもと[#「山+卑」、U+5D25、217-8]にして田畑も多からねば、炭を焼き薪を樵きこりて、活計の一助となす。此里に九助といふ者あり。常の如く斧おのを携へて山奥に入り、柴立しばだちを踏分け渓水たにみずを越え、二里ばかりも躋のぼりしが、寥廓りょうかくたる平地に出でたり。年頃としごろ此山中を経過すれども、未だ見たること無き処なれば、始めて道に迷ひたることを悟り、且かつは山の広大なることを思ひ、歎息してたゝずみしが、偶※(二の字点、1-2-22)たまたまあたりの谷蔭に人語の聴えしまゝ、其声を知るべに谷を下りて打見やりたるに、身の長たけ七八尺ばかりの大男二人、岩根の苔こけを摘み取る様子なり。背と腰には木葉を綴つづりたるものを纏まとひたり。横の方を振向ふりむきたる面構つらがまへは、色黒く眼円く鼻ひしげ蓬頭ほうとうにして鬚ひげ延びたり。其状貌じょうぼうの醜怪しゅうかいなるに九助大いに怖れを為し、是や兼かねて赤倉に住むと聞きしオホヒトならんと思ひ急ぎ遁げんとせしが、過ちて石に蹶つまずき転び落ちて、却かえりて大人の傍に倒れたり。仰天し慴慄しゅうりつして口は物言ふこと能あたはず、脚あしは立つこと能はず、唯ただ手を合せて拝むばかり也。かの者等は何事か語り合ひしが、やがて九助を小脇こわきにかゝへ、嶮岨けんそ巌窟がんくつの嫌ひなく平地の如くに馳せ下り、一里余りも来たりと思ふ頃、其まゝ地上に引下して、忽たちまち形を隠し姿を見失ひぬ。九助は次第に心地元に復し、始めて幻夢の覚さめたる如く、首を挙げて四辺を見廻みめぐらすに、時は既に申さるの下りとおぼしく、太陽巒際らんさいに臨み返照へんしょう長く横たはれり。其時同じ業の者、手に/\薪を負ひて樵路しょうろを下り来るに逢ひ、顛末を語り介抱せられて家に帰り着きたりしが、心中鬱屈うっくつし顔色憔悴しょうすいして食事も進まず、妻子等色々と保養を加へ、五十余日して漸く回復したりと也。」

二四 骨折り仕事に山男を傭いしこと

 ただし山中においては、人は必ずしも山人を畏れてはいなかった。時としてはその援助を期待する者さえあったのである。例の橘氏の『西遊記』にもよく似た記事があるが、別に『周遊奇談しゅうゆうきだん』という書物に、山男を頼んで木材を山の口へ運ばせたという話を載せている。どのくらいまでの誇張があるかは確かめがたいが、まるまる根のない噂とは考えられぬのである。

 豊前中津なかつ領などの山奥では、材木の運搬を山男に委託することが多かった。もっとも彼ら往来の場処には限かぎりがあるらしく、里までは決して出てこない。いかなる険阻も牛のごとくのそりのそりと歩み、川が深ければ首まで水に入っても、水底を平地のようにあるいてくる。たけは六尺以上の者もあって、力が至って強い。男は色が青黒く、たいていは肥えている。全身裸であって下帯したおびすらもないが、毛が深いので男女のしるしは見えぬ。ただし女は時に姿を見せるのみで出て働こうとはしない。そうして何か木の葉木の皮ようの物を綴って着ている。歯は真白まっしろだが口の香が甚だ臭いとまでいっている。労賃は握にぎり飯めしだとある。材木一本に一個二本に二個。持って見て二本一度に担かつげると思えば、一緒にして脇わきへ寄せる。約に背いて例えば二本に握り飯一つしか与えなかったりすると、非常に怒って永くその怨うらみを忘れない。愚直なる者だと述べている。

『西遊記』にいうところの薩摩方面の山わろなども、やはり握り飯を貰もらって欣然きんぜんとして運送の労に服したが、もし仕事の前に少しでも与えると、これを食ってから逃げてしまう。また人の先に立って歩むことを非常に嫌う。つまりは米の飯が欲しいばかりに出て働くらしいので、時としては、山奥の寺などに入ってきて、食物を盗み食うことがある。ただし塩気しおけのある物を好まぬといっている。以上二種の記録は少しずつの異同があり、材料の出処の別々なることを示している。これ恐らくは信用すべき一致であろうと思う。

 同じ『周遊奇談』の巻三には、また秋田県下の山男の話を記して、九州の例と比較がしてある。ただし著者自分で見たという点が安心ならぬ故に、特に原文のまま抄出して置く。

「出羽国仙北より、水無銀山阿仁みずなしぎんざんあにと云ふ処へ越ゆる近道、常陸内ひだちないと云ふ山にて、路を踏み迷ひ炭焼小屋に泊りし夜、山男を見たり。形は豊前のに同じけれども力量は知れず。木も炭も石も何にでも負ひもせず。唯折々おりおり其小屋へ食事などの時分を考へ来るとなり。飯なども握りて遣つかはせば悦びて持ち退く。人の見る処にては食せず。如何いかにも力は有りさう也。物は言はず。たゞのさ/\立廻りあるくばかり也。尤もつとも悪きことはせず。至つて正直なる由よしなり。此処ここにては山女は見ず。又其沙汰さたも無し」。

 山男はまた酒がすきで酒のために働くという話が、『桃山人夜話とうさんじんやわ』の巻三に出ている。「遠州秋葉の山奥などには、山男と云ふものありて折節おりふし出づることあり。杣そま・山賤やまがつの為に重荷を負ひ、助けて里近くまで来りては山中に戻る。家も無く従類眷属けんぞくとても無く、常に住む処更に知る者無し。賃銭を与ふれども取らず、只ただ酒を好みて与ふれば悦びつゝ飲めり。物ごし更に分らざれば、唖おしを教ふる如くするに、その覚り得ること至つて早し、始も知らず終も知らず、丈の高さ六尺より低きは無し。山気の化して人の形と成りたるなりと謂ふ説あり。昔同国の白倉しらくら村に、又蔵と云ふ者あり。家に病人ありて、医者を喚よびに行くとて、谷に踏みはづして落ち入りけるが樹の根にて足を痛め歩むこと能はず、谷の底に居たりしを、山男何処よりとも無く出で来りて又蔵を負ひ、屏風びょうぶを立てたるが如き処を安々やすやすと登りて、医師の門口かどぐちまで来りて掻き消すが如くに失せたり。又蔵は嬉しさの余りに之に謝せんとて竹筒ささえに酒を入れてかの谷に至るに、山男二人まで出でて其酒を飲み、大いに悦びて去りしとぞ。此事このこと古老の言ひ伝へて、今に彼地にては知る人多し」(以上)。又蔵が医者の家を訪れることを知って、その門口まで送ってくれたという点だけが、特に信用しにくいように思うけれども、酒を礼にしたら悦んだということはありそうな話であった。

二五 米の飯をむやみに欲しがること

 山人が飯を欲しがるという話ならば、他の諸国においてもしばしば耳にするところである。土屋小介君の前年知らせて下さった話は、東三河の豊川上流の山で、明治の初めごろに官林を払い下げて林の中に小屋を掛けて伐木していた人が、ある日外の仕事を終って小屋に戻ってみると、背の高い髭ひげの長い一人の男が、内に入って自分の飯を食っている。自分の顔を見ても一言の言葉も交えず、したたか食ってからついと出て往ってしまった。それから後も時折りはきて食った。物は言わず、またその他には何の害もしなかったという。盗んだというよりも人の物だから食うべからずと考えていなかった様子であった。

 次に鈴木牧之ぼくしの『北越雪譜ほくえつせっぷ』にある話は、南魚沼うおぬま郡の池谷村の娘ただ一人で家に機はたを織っていると、猿のごとくにして顔赤からず頭の毛の長く垂れた大男が、のそりと遣って来て家の内を覗いた。春の初めのまだ寒いころで、腰に物を巻きつけて機にかかっていたために、怖ろしいけれども急に遁げることができず、まごまごとするうちに怪物は勝手元かってもとへまわり、竈かまどの傍に往って、しきりに飯櫃めしびつを指さして欲しそうな顔をした。かねて聞いていることもあるので、早速に飯を握って二つ三つ与えると、嬉しい顔をしてそれを持って去った。それから後も一人でいる時はおりおりきた。山中でもこれに出逢ったという人がそのころは時々あったが、一人でも同行者があると決して来なかったそうである。

 また同国中魚沼郡十日町とおかまちの竹助という人夫は、堀之内へ越える山中七里の峠で、夏の或る日の午後にこの物に行逢うたことがある。白縮しろちぢみの荷物を路ばたに卸おろして、石に腰かけて弁当をつかっていると、やはり遣ってきたのが髪の長い眼の光る大男で、その髪の毛はなかば白かったという。石の上に置いた焼飯をしきりに指さすので、一つ投げてくれると悦んで食った。そうして頼みはせぬのにその荷物を背負って、池谷村の見えるあたりまで、送ってきてくれたという話である。

 そこで改めて考えて見るべきは、山丈やまじょう・山姥やまうばが山路に現われて、木樵きこり・山賤やまがつの負搬ふばんの労を助けたとか、時としては里にも出てきて、少しずつの用をしてくれたという古くからの言い伝えである。これには本来は報酬の予想があり恐らくはそれが山人たちの経験であった。『想山著聞奇集しょうざんちょもんきしゅう』などに詳しく説いた美濃・信濃の山々の狗賓餅ぐひんもち、或いは御幣餅ごへいもち・五兵衛餅とも称する串くしに刺した焼飯のごときも、今では山の神を祭る一方式のように考えているが、始めてこの食物を供えた人の心持は、やはりまたもっと現実的な、山男との妥協方法であったかも知れぬ。中仙道は美濃の鵜沼うぬま駅から北へ三里、武儀むぎ郡志津野しづのという町で、村続きの林を伐ったときに、これは山というほどのところでもなく、ことに老木などの覆おおい繁しげったものもない小松林の平山だから狗賓餅にも及ぶまいと思って、何の祭まつりもせずに寄合って伐り始めると、誰も彼もの斧の頭がいつのまにかなくなり、道具もことごとく紛失していた。これはいけないとその日は仕事を中止し、改めて狗賓餅をして山の神に御詫びをしたら失せた道具がぼつぼつと出てきた。また同じ国苗木なえぎ領の二つ森山では、文政七八年のころ木を伐出す必要があって、十月七日に山入して御幣餅を拵こしらえたのはよいが、山の神に上げるのを忘れて、自分たちでみな食ってしまった。そうすると早速さっそく山が荒れ出して、その夜は例の天狗倒てんぐだおしといって、大木を伐倒す音が盛んにした。この時も心づいて再び餅を拵えて詫びたので、ようやく無事に済んだといっている。この地方では狗賓餅をするには、定きまった慣習があった。まず村中に沙汰さたをして老若男女山中に集まり、飯を普通よりはこわく炊かしぎ、それを握って串に刺し、よく焼いてから味噌をつける。その初穂はつほを五六本、木の葉に載せて清い処に供えて置き、それから一同が心のままに食うのである。甚はなはだうまい物だがこの餅をこしらえると、天狗が集まってくると称して村内の家では一切焼かぬようにしていた。故に一名を山小屋餅、江戸近くの山方やまかたでは、古風のままに粢餅しとぎもちと呼んでいた。今日我々が宗教行為というものの中には、まだ動機の分明せぬ例が多い。ことに山奥で天狗の悪戯などと怖れた災厄には、こういう人間味の豊かな解除手段もあったことを考えると、存外単純な理由がかえって忘却せられ、実験のようやく稀になるにつれて、無用の雑説が解説を重苦しくした場合を、推測せざるをえないのである。

 少なくとも焼飯の香気には、引寄せられる者が山にはいた。食物を供えて悦ぶ者のあることを、里人の方でもよく知っていた。そうして双方が正直で信を守ることは、昔は別段の努力でもなんでもなかった。従ってまず与えると働かずに遁げてしまうというのを、あたかも当世の喰遁げ同様に非難しようとしたならば誤っている。以前は山人はなんの邪魔もしなければ御幣餅をもらうことができ、またそれをくれぬ時にはあばれてもよかった。特に出てなんらかの援助を試みたのは、いわば好意でありまた米の味に心酔した者の、やや積極的な行動でもあった。もし私たちの推測を許すならば、それは或いは山人の帰化運動の進一歩であったのかも知れぬ。次の章に述べようとする飛騨のオオヒトの場合のごとく、人は単に偶然に世話になった場合にも、謝礼に握り飯を贈れば相手の喜ぶことを知り、相手はまた狸兎の類を捕ってきて、これを答礼にして適当なりと考えたのも、やがては異種諸民族間の貿易の起原と同じかった。こうしてだんだんに高地の住民が、次第に大日本の貫籍かんじゃくに編入せられて行ったことは、自他のために大なる幸福であった。

 越後南魚沼の山男が、猿に似て顔赤からずと伝えられるのは、一言の註脚を必要とする。これは単に猿ほどには赤くなかったというまでであったらしく、普通はこれと反対に顔の色が赤かったという例が少なくない。顔ばかりか肌膚全体が赤かったという噂さえ残っている。近世の蝦夷地えぞちに、いわゆるフレシャム(赤人)の警いましめを伝えた時、多くの東北人にはそれが意外とも響かなかったのは、古来の悪路王あくろおうや大竹丸おおたけまるの同類に、赤頭太郎などと称して赤い大人おおひとが、たくさんにきたという話を信じていたからである。それがひとり奥羽に限られなかった証拠は、例えば弘仁七年の六月に弘法大師が、始めて高野の霊地を発見した時にも、嚮導きょうどうをしたという山中の異人は、面赤くして長八尺ばかり、青き色の小袖こそでを着たりと、『今昔物語』には記している。眼の迷いとしても現代になるまで、大人は普通は赤い者のように、世間では考えていた。もっとも豊前中津領の山ワロのように、男は色青黒しという異例も伝えるが、此方には比較すべき傍証が多くない。また赤頭というのは髪の毛の色で、それが特に目についた場合もあろうが、顔の色の赤いというのもそれ以上に多かったのである。或いは平地人との遭遇の際に、興奮して赤くなったのかということも一考せねばならぬが、事実は肌膚の色に別段の光があって、身長の異常とともに、それが一つの畏怖いふの種たねらしかった。地下の枯骨ばかりから古代人を想定しようとする人々に、ぜひとも知らせておきたい山人の特質である。

二六 山男が町に出で来たりしこと

 これを要するに山にこういう人たちのいるということは、我々の祖先にとっては問題でもまた意外でもなかった。ただ豊前・薩摩の材木業者以上に、意識して彼らと規則立った交通をする折が乏しかったために、例えば禁止時代の切支丹伴天連きりしたんばてれんに対するごとく、甚だ精確ならざる風評と誇張とが、ついて廻ったのを遺憾とするばかりである。いわゆるヤマワロ(山童)の非常に力強かったこと、これは全く事実であったろうと認める。そうして怒ると何をするかわからぬというのも、また根拠ある推測であった。なおまた彼らが驚くべく足が達者だといったのも、通例平地の人々と接することを好まぬ以上は、急いで林木の茂みの中に、避け隠れたとすれば不思議はない。野獣を捕って食物としておれば、そのためには女でも足が速くなければならない。不思議はむしろ何かという場合に、かえって我々に近づこうとする態度の、明瞭に現れていたことである。しかもしばしば不幸なる誤解があって、人がその真意を酌くむことをえない場合がいかにも多かった。

『東武談叢とうぶだんそう』その他の聞書ききがきに見えているのは、慶長十四年の四月四日、駿府城内の御殿の庭に、弊衣へいいを着し乱髪にして青蛙あおがえるを食う男、何方いずかたよりともなく現れ来る。住所を問うに答なく、ただ手をもって天を指ざしたのは、天からきたとでもいうことかと謂った。家康は左右の者がこれを殺さんとするのを制止し、城外に放たしめたるに、たちまちその行方を知らずとある。この怪人は四肢ししに指がなかったともあるが、天を指さしたというからは甚だ信じがたい事であった。それからまた三十年余り、寛永十九年の春であった。土佐では豊永とよなが郷の山奥から、山みこと称する者を高知の城内へつれてきた。年六十ばかりに見える肉づきの逞たくましい大男で一言も物いわず、食を与うれば何でも食った。二三日の間留めておいてのちに元の山地へ放ち返したと、当時のいくつかの記録に載せてある。いずれも多くの人がともに見たのだから、まぼろしとは認めがたい話である。ことに「山みこ」という語が、すでにあの時代の土佐にあったとすれば、必ずしも稀有けうの例ではなかった。ミコはどう考えても神に仕える人のことで、天狗と同じく彼らを山神の使者、もしくは代表者のごとく見る考えが、吉野川上流の村にはあったことを想像せしめる。

 この前後は土着開発に急なる平和時代で、その結果は山と平地との間に、人知らぬ攪乱こうらんがあったかと思われ、山人出現の事例がたくさんに報ぜられている。尾州名古屋というような繁昌はんじょうの土地にも、なおいずこからか異人が遣ってきて捕えられたといっている。太い綱で縛っておいたにもかかわらず、夜の間に逃げてしまい、しかもなんらの報復をもしては行かなかった。仙人などと違って存外に智慮もなく、里近くをうろうろしていたのをみると、やはり食物か配偶者か、何か切せつに求むるものがあったためで、半なかばはその無意識の衝動から、浮世の風に当ることにはなったのである。ことにその或る者が日向や越後の例のごとく、白髪であったと聴くに至っては、悠々ゆうゆうたるかも人生の苦、彼らはたこれを免れえなかったのである。

 名古屋で異人を捕えたという話は、『視聴実記しちょうじっき』巻六に出ている。年代は知れぬが江戸の初期であろう。本文のままを次に抄録する。

「飯沼林右衛門は広井に住す。夜話の帰りに僕しもべの云ふには、南の路より御帰りなさるべし。それは道遠し。何故にさは云ふかと叱しつすれば、御迎おむかえに来るとき、東光寺の壁の下に、小坊主の一人立ちて在るを見しが、一目見て甚だ戦慄せんりつせし故に、かく申す也と答ふ。林右衛門笑ひながら、さあらばいよ/\行きて見るべしとて行くに、果して十二三ばかりの小僧あり。物を尋ぬれども答へず。之を捉とらへ引立てんとするに、甚だ力強し。されど林右衛門も強力なれば、漸ようやくに之を引立て、程ほど近ければ我家に連れ帰り、打擲ちようちやくをすれども曾かつて物を言はず、且つ杖つえの下痛める体も無く、何とも仕方無ければ、夜明けて再び糾明きゆうめいすべしとて、厩うまやに強く縛り附け置きしに、朝になりて見れば、何処へ行きけん其影も見えざりき。或は云ふ打擲の間に只ただ一声、あいつと云ひし故、其頃世間にては之を『あいつ小僧』と謂ひたりとなん。」

 山男が市に通うということは、前の五葉山の猟人の話にもあったが、これまた諸処に風説するところである。津村正恭の『譚海たんかい』巻十一に、

「相州箱根に山男と云ふものあり。裸体にて木葉樹皮を衣とし、深山の中に住みて魚を捕ることを業とす。市の立つ日を知りて、之を里に持来りて米に換ふる也。人馴なれて怪しむこと無し。交易の外ほか多言せず。用事終れば去る。其跡あとを追ひて行く方を知らんとせし人ありけれども、絶壁の路も無き処を、鳥の飛ぶ如くに去る故、終ついに住所を知ること能はずと謂へり。小田原の城主よりも、人に害を作なす者に非ざれば、必ず鉄砲などにて打つことなかれと制せらるゝ故に、敢て驚かさずと云ふ。」

 こうあるけれどももちろん噂話で、必ずしも小田原の御城下まで、この連中がうろうろしていたことを意味するのではあるまい。第一に川魚はこの海辺では交易にもならず、木の葉を着ていたら、なんぼでも人馴れて怪まずとは行くまい。ただこの人中にも一人や二人はいるかも知れぬという程度に、輿論よろんが彼らを尋常視していたことは窺うかがわれる。岩手県海岸の大槌おおつちの町などでも、市の日に言葉の訛なまりの近在の者でない男が、毎度出てきて米を買って行った。背は高く眼は円くして黒く光っていた。町の人が山男だろうといったそうである。しかしこれから奥地の山々には、今でもずいぶんと遠国から、炭竈すみがまに入って永く稼かせいでいる者が多い。言語風采の普通でないばかりに、一括してこれを山人に算入するのは人類学でない。ただ市という者の本来の成立なりたちが、名を知らぬ人々と物を言う点において、農民に取っては珍しい刺戟しげきであった故に、例えばエビスというがごとき神をさえ祭り、ここに信仰の新しい様式を成長せしめたのである。信州南安曇あずみでは新田しんでんの市、北安曇では千国ちくにの市などに、暮の市日いちびに限って山姥が買物に出るという話があった。山姥が出ると人が散り市が終りになるともいったが、一方には山姥が支払に用いた銭には、特別の福分があるようにも信じられた。ようやく利欲というものを実習した市人が、いかに注意深くただの在所の婆様ばばさまたちを物色していたかは、想像してみても面白い。その為でもあろうか今も昔話の一つに、山姥が三合ほどの徳利とっくりを携えて、五升の酒を買いにきたというのがある。笑った物は罰せられ、素直すなおにいう通りに量って遣ると、果して際限もなく入ったといい、またはこれにあやかって金持になったともいう。つまりは俵藤太たわらとうだの取れども尽きぬ宝などと、系統を同じくした歴史的空想である。

 筑前甘木あまぎの町の乙子おとこ市、すなわち十二月最終の市日にも、山姥が出るという話が古くからあった。正徳四年に成る『山姥帷子記やまうばかたびらき』という文に、天正のころ下見村の富人大納言だいなごんなる者の下僕木棉綿もめんわたを袋に入れてこの日の市に売りに出で、途中に仮睡して市の間に合わなかった。眼が覚めてみると袋の綿はすでになく、そのかわりに一枚の帷子が入っていた。地じ麁あらくして青黄黒白の段染だんぞめであった。これも山姥の物と認められて、宝物として二百年を伝えたという話を書留めている。

 それからこのついででないともう他にいう折はないが、絵かきたちだけの今でも遊んでいる空想境に、天狗の酒買い狸の酒買いなどという出来事がある。白鳥の徳利や樽たるに通かよい帳ちょうを添えて、下げて飛んでいる場面は後世風だが、由ってくるところは甚だ久しいようである。自分は別に今日の酒樽の原型として、瓢ひさごの盛んに用いられた時代を推測し、許由以来の支那の隠君子等が駒こまを出したり自分を吸込ませたり終始この単純なる器具を伴侶はんりょとしているには、何か民俗上の理由があるらしいことを、考えて見ようとしているのであるが、それは広大なる未解の課題だとしても、少なくとも山の人の生活に、この類の僅かな用具が非常なる便益であり、従って身を離さずに大切にしているのをみて、我々の祖先までがこれを重んじ、何か神怪の力でも具そなうるかのごとく、惚ほれこみ欲しがり、貰えば宝物にしようとしたことだけは、説かずにはおられぬような感じがする。『落穂余談おちぼよだん』という書の巻二に、「駿河の山に大なる男あり。折々おりおりは見る者もあり。鹿しか猿さるなどを食する由なり。久世太郎右衛門殿物語くぜたろうえもんどのものがたりに、前方此男出でけるに、腰に何やらん附けて居る故、或者あるもの近く寄りてそれを取り、還りて見れば高麗こうらいの茶碗ちゃわんなり。今に其子の方に持伝へて居おりける由。丙寅へいいん八月、宇右衛門殿物語り。甚兵衛殿も聞及ぶの由、同坐どうざにて語る」とある。これなどは山姥から、褒美ほうびにもらったというのと反して、手もなく山男から掠奪りゃくだつしたのであるが、最初どうしてこのような品を、彼らが拾い取りまたこれを大事にしていたかを考えると、小説家でない我々にも、いろいろな珍しい光景が空想せられる。例えば盗賊が始末に困って、山中に隠して置いたとか、大百姓の家が退転して、荒屋敷あれやしきになっているところへ、のそのそと来かかった山男が、光るから手に取上げて嗅かいだり嘗なめたりしていたとしたら、彼らの排外的なる社会にまでも、浸しみ入らずにはおかなかった異種文明の勢力の大きさの、想像に絶したものがあることが考えられる。

 かつて旧知の鈴木鼓村君から、またこんな話を聴いたこともある。鈴木君は磐城亘理わたり郡小鼓こつづみ村の旧家の出で、それで号を鼓村こそんといっているが、今から百二十年ほど前の鈴木君の家へ、おりおりもらいにくる老人があった。人と物をいわず、物を遣ると口の中で唱となえ言ごとをするが、何をいうのか少しも聴取れない。飯は両手に受けて副そえ物ものもなしに、髯ひげだらけの顔をよごして食う。酒は大好きで、常に一斗二三升も入るかと思う大瓢箪おおひょうたんを携え来り、それに入れて遣るとすぐに持って帰る。衣類は着けているが、地合じあいも縞目しまめも見えぬほど汚れていた。生なまの貝をもらって、石の上で砕いて食ったといって、人は戯れにこれをアサリ仙人せんにんと呼んでいた。何処に住む者とも知れず、七日も十日も連日くるかと思えば、二月も三月も絶えてこぬこともあった。帰る際にその跡をつけた者があったが、山に入ると急に足早になり、たちまちにその影を見失った。小鼓こつづみは阿武隈あぶくまの川口であって、山は低いけれども峯は遠く連っている。このアサリ仙人は或る日の朝、鈴木氏の玄関の柱にその大瓢箪をくくりつけて置いて、それっきり永久に遣ってこなくなった。この話には誤伝がないともいえぬが、瓢箪だけは最近に至るまで、この家の宝物の一つであった。口は黄金ですこぶる名瓢であったという。

 仙人を見縊みくびるのは本意でないが、これくらいの仙人ならば、まだ山男にも勤まると思う。ただ鈴木氏の永年の恩誼おんぎは厚かったにしても、最後に人知れずその瓢をくくりつけて去ったという一点だけが、彼らのとうてい企てえまいと思うロマンチックであった。この地方の山人が里に親しみ、山で木小屋の労働者を驚かすに止らず、往々村人の家を訪ねて酒食を求め、村人もまたこれを尊敬していたことは、次のオオヒトの条下に確からしい一例を掲げる。そうするとこれもまた同化帰順の一段階であって、瓢箪のごときもじつはあまりに大きいので、何か手ごろの容器とただそっと取り替えて往ったのかとも考えられる。

二七 山人の通路のこと

 今日のいわゆるアルプス連れんなどは、どういう風にしているか知らぬが、猟師・木挽らのごとくたびたび山奥に野宿せねばならぬ人々は、久しい経験から地形に由って、不思議の多かりそうな場処を知って力めてこれを避けていた。おりおりこれは聴く話であるが、深山の谷で奥の行止まりになっているところは無事であるが、嶺みねが開けて背面の方へ通じている沢は、夜中に必ず怪事がある。素人しろうとは魔所などといえば、往来不可能の谷底のように考えるけれども、事実はかえって正反対であるという。或いはまた山の高みの草茅くさかやの茂みの中に、幽かすかに路らしいものの痕跡こんせきを見ることがあると、老功な山稼人やまかせぎにんは避けて小屋を掛けなかった。即ち山男・山女の通路の衝しょうなることを知るからである。国道・県道という類の立派な往還でも、それより他に越える路のないところでは、夜更けて別種の旅人の、どやどやと過行く足音を聴いた。峠の一つ屋などに住む者は、往々にしてそんな話をする。もちろん或る場合には耳の迷いということもありうるが、山人とても他に妨げさえなくば、向うの見通される広路を行く方を、便利としたに相異ないのである。

 百五十年ほど前に三州豊橋の町で、深夜に素裸すっぱだかではだしの大男が、東海道を東に向って走るのを見た者がある。非常な速歩はやあしで朝日の揚あがるころには、もう浜名湖の向うまで往っていた。水中に飛込んで魚を捕え、生のままで食っているのを見て始めて怪物なることを知ったと、『中古著聞集ちゅうこちょもんじゅう』という豊橋人の著書には書いてある。彼らに出逢ったという多くの記事には、偶然であった場合に限って、彼らの顔にもやはり驚駭きょうがいの色を認めたといっている。畏怖も嫌忌も恐らくは我々以上であって、従って必要のない時にはたいてい繁しげみ隠れなどから注意深く平地人の行動を、窺っていたのであろうと想像する。

 菅江真澄すがえますみの『遊覧記』三十二巻の下、北秋田郡の黒滝の山中で路に迷った条に、「やゝ山頂とおぼしき処に、横たはる路のかたばかり見えたるに、こは路ありあな嬉しと言へば、案内の者笑ひて、いづこの嶺にも山鬼さんきの路とて、嶺の通路はありけるもの也。此道を行かば又何処とも無く踏迷ひなんとて、尚なお峯に登る云々」とあった。故伊能嘉矩氏の言には、陸中遠野地方でも山の頂の草原の間に、路らしいものの痕迹こんせきあるところは、山男の往来に当っていると称して、露宿の人がこれを避けるのが普通だったとの話である。阪本天山翁、宝暦六年の『木曾きそ駒こまヶ岳たけ後一覧記のちのいちらんき』に、前岳まえだけの五六分目、はい松の中に一夜を明す。ここに止宿のことは村役人・人足までも不承知にて、かれこれと申すにつきその趣旨を尋ねて見ると、すべてかようの山尾根先おねさきは天狗の通路であって、樵夫きこりの輩やから一切夜分やぶんは居らぬことにしていると述べた。しからば村方むらかたの者どもは、山の平に廻って止宿せよと申聞け、自分だけ其場に止宿したと記している。紀州熊野でも山中に小屋を掛ける人たち、谷の奥が行抜けになって向う側へ越えうる場所はこれを避け、奥の切立って行詰まりになった地形を選定するのを常とした。その理由は行抜けのできる谷合たにあいは、通り物の路みちに当っているからだと、南方熊楠氏に告げた者があるそうだ。
 そうかと思うと一方には、人が開いた新道を、どしどし彼らが利用している場合もあるらしい。秋田から仙北郡の刈和野かりわのへ越える何とか峠には、頂上に一軒家の茶店があった。秋田の丹生氏がかつてこの家に休んだ時、わたしらももう何処かへ引越したいと、茶屋の主がいうので、どういうわけかと訊ねてみると、じつは夜分になると、毎度のように山男が家の前を通る。太平山たいへいざんから目々木めめきの方へ越えて行くらしく、大きな声で話をしてどやどやと通ることがある。この峠は疑なく山鬼の路らしいから、永くはおられませぬと答えたそうである。遠野でも町から北へ一里ばかり入って、柏崎の松山の下を曲がる辺に、路が丁字に会してその辻に大きな山神石塔を立ててある。近い年或る人が通行していると、山から下りてくる足音がするのを、何の気なしに出逢うて見たところが、赤い背の高い眼の怖ろしい、真裸の山の神であった。はっと思うなり飛退とびのいてしまって、自身はそこに気絶して倒れた。石塔はすなわちその記念の為であった。『遠野物語』にもその話は筆録しておいたがかなり鋭敏な鼻と耳との感覚を持ち、また巧みに人を避けるらしい山人にも、なお人間らしき不注意と不意打とはあったのである。第一昼間人間の作っておく路などを、降りてきたのは気楽過ぎていた。

 山鬼さんきという話は安芸の厳島いつくしまなどでは、久しく天狗護法てんぐごほうの別名のごとく考えられている。或いは三鬼とも書いてその数が三人と解する者もあったらしい。御山みせんの神聖を守護して不浄の凡俗のこれに近づくを戒め、しばしば奇異を示して不信者の所業を前もって慎つつしましめようとしていた。最も普通の不思議は廻廊の板縁いたべりの上に、偉大なる足跡を印して衆人に見せることである。或いは雪の朝に思いがけぬ社の屋おくの上などにこれを見ることもあった。その次は他の地方で天狗笑いまたは天狗倒しともいうもので、山中茂林の中に異常の物音を発し、或いはまた意味不明なる人の声がすることもあった。これを聴いて畏れおののかぬ者のなかったは尤もである。秋田方面の山鬼ももとは山中の異人の汎称はんしょうであったらしいのが、のちには大平山上に常住する者のみをそういうことになり、ついには三吉大権現だいごんげんとも書いて、儼然げんぜんとして今はすでに神である。しかも佐竹家が率先して夙つとにこれを崇敬すうけいした動機は、すぐれて神通力という中にも、特に早道はやみち早飛脚はやびきゃくで、しばしば江戸と領地との間に吉凶を報じた奇瑞きずいからであった。従って沿道の各地でも今なお三吉様が道中姿で、その辺を通っていることがあるように考え、ことにその点を畏敬いけいしたのであった。神を拝む者はぜひともその神の御名みなを知らなければならぬというのは、ずいぶん古くからの多くの民族の習性であった。天狗がいよいよ超世間のものと決定してから、太郎坊・三尺坊等の名が始めて現れたことは、従来人の注意せざるところであった。どういう原因でそんな名前が始まったかを考えてみたら、また多くの新たなる答が出てくることであろう。

二八 三尺ばかりの大草履のこと

 また山男の草履ぞうりを見たという話がある。夏冬を打通して碌ろくな衣裳いしょうも引掛けていなかった者に、履物はきものの沙汰さたもちとおかしいとは思うが、妙にその噂が東部日本の方には拡がっている。信州木曾辺はことにこれを説く者が多い。出羽の荘内の山中でも杣人そまびとがこれを拾ってきて、小屋の入口の柱に吊つるして置くと、夜のうちに持って還ったか、見えなくなったなどといっている。上州の妙義みょうぎ・榛名はるなでも猟師・木樵の徒、山中でこの物を見るときは畏れてこれを避けたと、『越人関弓録えつじんかんきゅうろく』という書には説いてある。

 その草履の大きさは三四尺、これを山丈の鞋わらじと称すとある。『四隣譚叢しりんだんそう』などによれば、信州は千隈川ちくまがわの水源川上村附近の山地においても、山姥の沓くつの話を信じている。藤蔓ふじづるを曲げ樹の皮をもって織ってあるなどと、なかなか手のこんだもののように言い伝えているのである。大きいと言えばすぐに長さ三尺の四尺のと書かなければ承知せぬが、かりにこれに相応するような大足の持主があるにしても、そんな物を履はいて山の中があるけたものでない。我々風情ふぜいの草履ですらも、野山を盛んに飛廻っていた時代には、アシナカ(足半)と称するものを用い、または単に繩なわで足の一部分を縛しばって、たいていは足一杯の草履は履かなかった。すなわち足趾そくしのつけ根の一番力の入る部分を、保護するだけをもって満足したのであった。

 ただしこの類の話などは、誇張妄誕こちょうもうたんといわんよりも、むしろ幻覚であったかと思う。見たかと思ったらすぐになくなっていたというようなもので、確かな出来事ではなかったかと思う。いろいろ製法や材料配合の話はあっても、なおどこかで採集してきて博物館にでも陳列せられぬ限り、自分たちはこれをもって一種の昔話としておきたいのである。もちろん話にしたところで根原がなければならぬ。作って偽を説く者はあっても、そうみなが信ずるはずはないからである。ただ話ならば少しずつ成長して行くことはあるかも知れぬ。陸中二戸にのへ郡の浄法寺じょうほうじ村などで、深山に木を伐る者の発見したというのは、例のマダの樹の皮で作った大草履で、その原料のマダの皮が、およそ馬七頭につけて戻るくらいの分量であったと話している。面白いといって聴くのはよいが、全体に今ではもう話になりすぎている。それというのが風説のみ次第に高く、実際に見た出逢ったという人の例が、だんだん少なくなって行く結果である。

 山丈・山姥の鞋という話は、我々の持っていた沓掛くつかけの習俗、すなわち浅草仁王門の格子こうしの木にむやみな大わらんじの片足をぶらさげた行為などと比較して考えて見るべきものかと思う。現在各地の街道筋に、沓掛という地名のあるところには、通例は道の神の森または老樹があって、通行の人馬の古沓ふるぐつなどが引掛けてある。或いは下から高く投げ上げて占うらないをしたという地方もあり、または支那でいう鮑魚神ほうぎょしん同然にその草鞋の喬木きょうぼくの梢にあるを異として、神に祀った話もある。霊山の麓などでは山の土を遠く持ちだすことを山神悪にくみたもうという信仰もあって、必ず登山の鞋を脱いで行く場処もあるのだが、別に神々に新たなるものを製して献上する例も弘く行われていた。山の神は一本足だと称して、大きな片足だけを供える。竈かまどの神は馬でありもしくは馬に乗ってくるというので、新しい馬の沓を上げていた根原は、おそらく絵馬えまなども同様に、これを召しておわしませ、これを召して立たせたまえと、神昇降の時刻を暗示する趣旨かと思うが、もちろん信仰はだんだんに変化している。ことに路の傍や辻境つじざかいなどに偉大な履物を作って置いた動機には、明白に魔よけの意味が籠こもっていた。いつの世から始まったことか知らぬが、こんな大きな草履を用いる者が、この村にはいるから馬鹿にしてはいけないということを、勝手を知らぬ外来者、すなわち鬼や疫病神やくびょうがみに知らしめるために、一種の示威運動としてこうするように、解釈している者も少なくはないのである。敵に対しては詐術さじゅつも正道と、つい近ごろまで我々も信じていた。そうかと思うと海南の小島においては、潮に漂うて海の外から、そんな大草履が流れてきたといって、畏れ慎んでいた話もあった。この方が多分一つ前の俗信で、つまりは己おのれの心に欲せざるところを、人に向かって逆用しようとしたものであるらしいのだ。

 だから第二の仮定説としては、山人の大草履も自分のためには必要でないが、世人を畏嚇いかくする目的でわざわざこれを作り、なるべく見られやすいところにおいたものとも考えられぬことはない。しかしそのような気の利いた才覚は、ついぞ彼らの挙動から見出したことがないから、今ではまだそれまで買いかぶることができないのである。もっとも深山の奥に僅少の平和を楽む者が、いや猟人かりうどだの岩魚釣いわなつりだの、材木屋だの鉱山師だの、また用もない山登りだのと、毎々きて邪魔をすることは鬱陶うっとうしいには相違ない。やめて欲しいと思っていることは、此方からでも想像することができた。そこに単独の約束が起こり法則が生じて、のちようやく宗教の形になって行くことは、いずれの民族でも変りはなかった。しかも冷淡なる第三者の目をもって判ずればそは単に一方だけの自問自答であって、果して此方の譲歩が先方の満足と相当ったか否かは、確かめたわけではないのである。深山の中でも特に不思議の多い部分を我々は魔所または霊地と名づけてあえて侵さなかった。それが自然に原住土人にとっての一種のレザーヴとなったことは、原因ともどちらとでも解せられる。いわゆる入いらず山に強しいて入った者の、主観的なる制裁は多様であった。最も惨酷なるものは空へ引きあげて、二つに割さいて投げおろすといった。或いは何とも知れぬ原因で躓つまずいたり落ちたりして傷きずつきまたは死んだ。永遠に隠されてしまって親兄弟を歎かしめることもある。およそ尋常邑里ゆうりの生存において予知すべからざる危難は、ことごとく自ら責め深く慎むべき理由としてこれを認めたのが山民の信仰であった。

 それ以外にも予告警戒のごときものはいくらもあった。天狗の礫つぶてと称して人のおらぬ方面からぱらぱらと大小の石の飛んできて、夜は山小屋の屋根や壁を打つことがあった。こんな場合には山人が我々の来住を好まぬものと解して、早速に引きあげてくるものが多かった。こればかりは猿さえもするから、或いは山人の真の意趣に出たものと考えてもよいが、それがいつでも合図に近くして、かつてこれによって傷いたという者を知らず、石打の奇怪事は都邑の中にも往々にして起こり、別に或る種の隠れた原因があるらしいから、まだなんとも断定はできない。それから足音や笑い声の類は、偶然にこれを聴いた者がおじ恐れたというだけで、もとよりそのような計画のあったことを、立証することは容易でない。ことに最も有名なる天狗倒しの音響に至っては、果して作者が彼らであったかということさえ、なお疑わなければならぬのであった。或いは狸の悪戯などという地方もあるが、本来跡方あとかたもない耳の迷いだから、誰の所業と尋ねてみようもない。深夜人定まってから前の山などで、大きな岩を突き落す地響がしたり、またはカキンカキンと斧の音が続いて、やがてワリワリワリワリバサアンと、さも大木を伐きり倒すような音がする。夜が明けてからその附近を改めて見ると、一枚の草の葉すら乱れてはいなかった、などというのが最も普通の話で、こういう出来事があまり毎度繰り返されると、山が荒れると称して人が不安を感じ始め、ついにはその谷を「よくないところ」の一つに算かぞえて、避けて入らぬようにもなるのである。しかし多勢が一度に聴いても幻覚はやはり幻覚である。或いは同じ物音をともに聴いたと思っても、甲の暗示が乙を誘い、また丙の感じを確かにしたのかも知れぬ。東京あたりの町中でも深夜の太鼓馬鹿囃子たいこばかばやし、或いは広島などでいうバタバタの怪、始めて鉄道の通じた土地で、汽笛汽鑵車きかんしゃの響を狐狸こりが真似するというの類、およそ異常に強烈な印象を与えたものが、時過ぎて再びまぼろしに浮ぶ例は、じつは他にも数限りがないので、たまたま山の生活と交渉のある場合ばかりこれを目に見えぬ山の人の神通に托するがごときは、むしろ我々の想像の力の致すところであったかも知れぬ。

 ただしこれをも我々の実験の中に算えて、見た出逢ったというのと同じ程度の、信用を博している物語は多いのである。少なくともその二三の例は、のちの研究者のために残しておく必要があると思う。

『白河風土記しらかわふどき』巻四に、「鶴生つりう(福島県西白河郡西郷村大字)の奥なる高助たかすけと云ふ所の山にては炭竈すみがまに宿する者、時としては鬼魅きみの怪を聴くことあり。其怪を伐木坊きりきぼう又は小豆磨あずきとぎと謂ふ。伐木坊は夜半に斧伐ふばつの声ありて顛木てんぼくの響を為す。明くる日其処を見るに何の痕あとも無し。小豆磨は炭小屋に近づきて、中夜に小豆を磨する音を為す。其声サク/\と云ふ。出でて見るに物無し、よりて名づくといへり。」

『笈埃随筆きゅうあいずいひつ』巻一に、「途中にて石を撃たるゝこと、土民は天狗の道筋に行きかゝりたるなりと謂ふ。何いずれの山にても山神の森とて、大木二三本四五本も茂り覆ひたる如くなる所は其道なりと知ると言へり。佐伯了仙と言ふ人、豊後杵築きづきの産なり今は京に住めり。此人の云ふ。国に在りし時、雉子きじを打ちに夜込よごみに出でたり。友二三人と共に鳥銃ちようじゆうを携へて山道にかゝりしに、左右より石を投げたり。既に当りぬべく覚えて大に驚きたる中に、よく心得たる者押静おししずめ、先づ下に坐ざせしめて言を交へずしてある程に、大石の頭上に飛びちがふばかりにて其響夥おびただしかりしが、暫くして止みければ、立上りて行きける。其友の謂ふやう、此は天狗礫てんぐつぶてと云ふものなり。曾かつて中あたるものには非ず。若もし中れば必ず病むなり。又此事に遭へる時は必ず猟無し。今夜は帰るには道遠ければ是非なく行くなりと曰ふ。果して其朝は一ひとつも獲物なくして帰りたりといへり。」

『今斉諧きんせいかい』巻二に、「加賀金沢の士篠原庄兵衛、或時深山に入り、人跡絶たえたる谷川の岸を行きしに、水辺には蘆あしすき間も無く茂りたるが、其あなたに水を隔てゝ、人のあまた対坐して談笑する声聞ゆ。篠原之これを怪しみ、自ら行きて見んとすれど水に遮さえぎられて渡ることを得ず。連れたる犬にけしかけたれど亦また行かず。因つて其犬の四足を捉とらへ、力を極めて之を蘆原の彼方かなたへ投げたるに、向ふよりも直ちに之を投げ返す。之を見て畏おそれを抱いだき家に帰る。犬には薬など飲ませたれど、終に死したり。」

『北越奇談ほくえつきだん』に、「神田村に鬼新左衛門と云ふ者あり。殺生せつしようを好む。村の十余町奥なる山神社の下の渓流に水鳥多し。里人は相戒めて之を捕りに行くことなかりしを此男一人雪の中を行き、もち繩なわを流して鳥を取ること甚だ多し。一夜又行きしも少しも獲物無きことあり。暁あかつきに及び、何者とも知れず氷りたる雪の上を歩む音あり。新左衛門小屋の中より之を窺うかがふに、長たけ一丈余りの男髪は垂れて眼を蔽へり。新左衛門のすくみ居たるを、小屋の外より箕みの如き手を出して攫つかみ上げ、遙かに投げ飛ばしたりと思へば気絶す。翌朝女房より村長に訴へて谷々を捜せしに、谷二つ隔てゝ北の方に新左の雪中に倒れたるを見付けたり。其後生き返り殺生は止めたれど、三年ばかりにして死したりと云ふ。深山の奇測り難し。」

 次も同じく越後の事であるが、これは会津八一あいづやいち氏の話を聴いたのである。妙高山の谷には硫黄いおうの多く産する処があるが、天狗の所有なりとして近頃までも採りに行く者は無かった。ところが先年中頸城なかくびき郡板倉いたくら村大字横町の何右衛門とかいう者、これに眼を着けて十数名の人夫を引率し、この山に入って谷間に小屋を掛け日中は硫黄を採取し夜はこの小屋に集まって寝た。或る夜深更に容易ならぬ物音がして小屋も倒れんばかりに震動したので、何右衛門を始め人夫一同も眼をさまし先ず寒いから火を焚たこうとしていると、戸口の方から顔は赤く白い衣物で背の高い人が入って来た。皆の者は怖しさに片隅かたすみに押しかたまり、蒲団ふとんを被かぶって様子を伺っていると、かの者はずかずかと板の間まに上って来たようであったがその後の事はわからず。夜の明けるのを待って見れば、かの何右衛門だけは首を後向うしろむきに捻ねじ切られてつめたくなっていたと謂う。今でもこの谷に入って若し硫黄の一片でも拾おうとする者があれば、必ず峰の上から大声で、そこ取んなアとどなる者があると謂い、また首を捻じられるからと少しでも侵す者は無いそうだ。またこの辺の村に往って天狗などはこの世に無いものだとでも言おうものなら、必ずこの何右衛門の話を聞かされる。この時の人夫の一人に、近い頃まで生きていたのであって、その老人から直接にこの話を聴いた者は幾人もあったのである。

二九 巨人の足跡を崇敬せしこと

 山人の丈たけの高いということは、古くからの話であったと見えて、オオヒトという別名も久しく行われていた。これもオオヒトというからには、ちっとやそっとでは承知ができず、見上げるような高い樹の幹に、皮を剥はいだ痕があったとか、五六尺もある萱原かやはらに、腰から下だけが隠れていたとか、または山小屋を跨またいでゆさぶったとか、いろいろな珍しい話を伝えているかと思うと、一方には我々とたいてい同じくらいの、やや頑丈がんじょうなる体格であったといい、六尺より低いのは見たことがないという類の、穏健なる記録もまたいくらもあったので、きのこか何かででもない以上は、そのような大小不揃ふぞろいの物があるわけはないから、すなわちこれも又聞またぎきの場合の掛値かけねであったことを、想像しえられるのである。

 或いは雨後の泥の上や雪中に印した足跡を見て、その偉大なのに驚いたとも伝えられる。なかにはあんまりえらい大股おおまたであるくのを、やはり大昔から人が想像している通り、一本足で飛びまわるのが真まことらしいと考えていた人さえあった。それらの観察の精確を欠いていることは、論のない話であるが、もともと大きいが故にこれを山男の足跡だろうといった人があるとすれば、すなわち迷信の原因は別にすでにあったものと認めなければならぬ。

 しかも日本は古くから、足跡崇敬の国であった。神明仏菩薩ぼさつ勇士高僧の多くが岩石などの上に不朽の跡を遺して、永く追慕を受けている国であった。いわば山人思想の宗教化ということには、正しく先蹤せんしょうがあったのである。我々平民の祖先は、国土平定というごとき記念すべき大事業を、太古の巨神の功績に帰していたのみならず、諸国の地方神に随従して神徳を宣伝したという眷属けんぞくの小神にも、また大人の名を附与してその遺跡と口碑とを保存し、さらにオオヒトが山にいる異種人の別名なることを知った場合でも、なお単なる畏怖の念以上のものをもって、その強力の跡を拝もうとしていたのである。

 東部日本の諸県において、オオヒトといったのは山人のことであった。もちろん大きいからの大人であろうが、その大きさが驚くべく一様でなかった。見た人が次第に少なく、語る人ますます多かりし証拠である。今に至っては実状を確かめることはむつかしいが、区々の異説は及ぶ限りこれを保存しておかねばならぬ。

一 陸奥と出羽との境なる吾妻山の奥に、大人と云ふものあり。蓋けだし山気の生ずる所なり。其長たけ一丈五六尺、木の葉を綴りて身を蔽ふ。物言はず笑はず。時々村の人家に入来る。村人之を敬すること神の如く、其為に酒食を設く。大人は之を食はず、悉ことごとく包みて持帰る也。村の子供時として之に戯るゝことあれども、之を怒りて害を作なせしことを聞かず。神保甲作の話なり(『今斉諧』巻四)。

二 上野黒竜山不動寺は、山深く嶮岨けんそにして、堂宇どうう其間に在り。魔所と言ひ伝へて怪異甚だ多し。山の主ぬしとて山大人と云ふものあり。一年に二三度は寺の者之を見る。其坐ざするとき膝ひざの高さ三尺ばかりあり。偶※(二の字点、1-2-22)たまたま足跡を見るに五六尺もありて、一歩に十余間を隔つと云へり(『日東本草図彙』)。
三 高田の大工だいく又兵衛と云ふ者、西山本に雇はれありしが、一夜急用ありて一人山道を還りしに、岨路そばみちの引廻りたる処にて図らずも大人に行逢ゆきあひたり。其形そのかたち裸身にして、長は八尺ばかり、髪肩に垂れ。眼の光星の如く、手に兎うさぎ一つ提さげて静かに歩み来る。大工驚きて立止れば、かの大人もまた驚けるさまにて立止りしが、遂に物も言はず、路を横ぎりて山に登り走りしとぞ(『北越雑記』巻十九)。
四 飛騨の山中にオホヒトと云ふものあり。長は九尺ばかりもあるべし。木の葉を綴りて衣とす。物をも言ふにや之を聞きたる人無し。或猟師山深く分け入りて獣多き処を尋ねけるが思はず此物に逢ひたり。走り来ること飛ぶが如し。遁るべきやうなければせん方かた無くせめては斯かくもせば助からんかと、飢うえの用意に持ちたる団飯にぎりめしを取出とりいで、手に載せて差出せしに、取食ひて此上無く悦べる様なり。誠に深山に自ら生れ出でたる者なれば、かの洪荒こうこうと云ふ世の例も思ひ出でられてかゝる物食ひたるは始めての事なるべしと思はる。暫くありて此者狐きつね貉むじな夥おびただしく殺しもて来り与へぬ。団飯の恩に報いる也けり。猟師労無くして獲物多きことを悦び、それよりは日毎ひごとに団飯を包み行きて獣に換へ帰りたり。然るを隣なる猟師之を怪み、窃ひそかに窺うかがひ置きて、深夜に彼に先だち行きて待つに、思はず例の者に行逢ひたり。鬼とや思ひけん弾たまこめて打ちたり。打たれて遁げければ猟師も帰りぬ。前の猟師此事を聞きて、あな不便の事やとて、猶なお山深く尋ね入り峰より下を見たるに、此者谷底に倒れ伏し居たるを、同じ様なる者の傍に添ひたるは介抱するなるべし。若し近づきなば他に打たれし仇あだを、我に怨みやせんと怖しくなりて止やみぬ。斯かくて後には死にたるなるべしと、後に此事を人に語りしを、人の伝へたりし也。深き山にはかゝる者も有りけるよとて、細井知慎ほそいともちか語れり(『視聴草みききぐさ』第四集巻六所録「荻生徂徠手記」)。

 巨人の足跡を見て感動した例は、決して支那の昔話だけでない。小田内通敏君が聴いてきて教えてくれた話には、秋田市楢山に住む丹生某氏、狩が好きで方々をあるき、或る年仙北郡神宮寺山の麓の村で、人の家に一泊したところ、一つの紙袋に少しの砂を入れたのが、神棚に載せてあった。主人にそのわけを尋ねると、つい近いころに、山の下を流れる雄物川の岸で草を苅っていると、不意に大きな物音がして、山から飛降りた者がある。よく見たら山男であった。怖ろしいから茅かやの蔭に隠れていて、のちにその場所に行って見れば、川原に甚だ大きな足跡があった。あまり珍しいこと故、村の人たちを呼んできて見せると、一同は崇敬のあまり、その足跡の砂を取分けて各自の家に持還もちかえり、こうして神棚に上げておくのだと答えたそうである。

 雪の上に大きな足跡を見たという話はまだ沢山ある。その二三をあげてみると、

一 遠州奥山おくやま郷白鞍山しらくらやまは、浦川の水源なり。大峰を通り凡おおよそ四里、山中人跡稀まれなり。神人住めり。俗に山男と云ふ。雪中に其跡を見て盛大なることを知る。其形を見る者は早く死す(『遠江国風土記伝』)。

二 駿河安倍あべ郡腰越こしごえ村の山中にて、雪の日足跡を見る。大きさ三尺許ばかり、其間九尺ほどづゝ三里ばかり、小路に入りて続けり。又此村の手前に小川あり。此川を一跨ひとまたぎに渡りしと覚えしは、其川向かわむこう二三間げんにも足跡ありしと。之を山男と謂ひ、稀には其糞ふんを見当ることあるに鈴竹すずたけといふ竹葉を食する故糞中に竹葉ありといふ。右の村々は大井川の川上なり。府中江川町三階屋仁右衛門話したり(『甲子夜話かつしやわ』)。

三 小虫倉山、虫倉明神、公時きんときの母の霊を祭る。因つて阿姥おうば明神社とも云ふ。山姥の住めりしといふ大洞二つあり。近年下の古洞に、山居の僧住せしより、山女之を厭いとひ去ると謂ふ。其以前は雪の中に、大なる足跡を見たり(『信濃奇勝録』巻二)。

四 文政中、高岡たかおか郡大野見おおのみ郷島の川の山中にて、官より香蕈こうじんを作らせたまふとき雪の中に大なる足跡を見る、其跡左のみにて一二間を隔て、又右足跡ばかりの跡ありこれは一つ足と称し、常にあるものなり。香美かみ郡にもあり(『土佐海』続編)。

 土佐では山人を一般に山爺やまじいと呼んでいる。一本足でおまけに眼も一つだと信じ、これにあったという人さえあった。紀州熊野の深山でも、一たたら、または一本踏鞴たたらなどと伝え、かつて勇士に退治せられた話がある。その他の府県でも、山に一本足の怪物がいるという説は多いが、単に雪の上の足跡から、推測しうべきことではもちろんなかった。すなわち実験以前から、そういう言い伝えがすでにあったので、誤信ながらもそれにはまた、別途の説明があったのである。

 また雪の上ではなくとも、足跡の不思議は久しい以前から、我々の祖先を驚かしていた。信州戸隠でも大雨ののち、畑などの土に二三尺の足跡のあるのをたびたび見たといい、越後の苗場山なえばやまでも雨後に山上に登れば、長さ尺余の足跡を見ることがあると、『越後野志えちごやし』巻六に書いている。播州揖保いぼ郡黒崎の荒神山に、萩原孫三郎の墓と伝うる古塚があって、石の祠ほこらが安置してあった。嘉永の初年とかに、或る人この辺を拓ひらいて畑としたところが、一夜の中に踏荒ふみあらして大きな人の足跡があった。そうしてその家は全家発狂してしまったと、『西讃府志せいさんふし』巻五十一に書いている。

『仙梅日記せんばいにっき』には駿州梅うめヶ島しま・仙せんヶ俣またの旅行において、一人の案内者が山中さんに話した。雪の後に山男の足跡を見ることがある。二尺ほどの大足である。門野かどのというところの向う山には、山男が石に歩みかけた足跡がある。岩が凹へこんで足の形を印している。いかほどの強い力だろうかといったそうである。

 こういう人々の心持では、巌石の上に不朽の痕跡こんせきを止めることも、大人ならば不可能でないと思ったのであろうが、親しく実際についてみると、ほとんとその全部が山男たちの関与するところではなかった。大人足跡という口碑は、すでに奈良朝期の『常陸風土記ひたちふどき』大櫛岡おおくしおかの条にもある。丘壟おかの上に腰かけて大海の蜃おおうむぎを採って食ったといい、足跡の長さ四十余歩、広さは二十余歩とある。

『播磨風土記はりまふどき』の多可郡の条にも巨人が南海から北海に歩んだと伝えて、その踰こゆる迹処あとどころ数々あまた沼を成すと記してある。そこで問題は我々の前代の信仰に別に大人と名づけた巨大の霊物があって、誤ってその名を山人に付与したのではないかということになるが、もしそうならばこれとともに足跡に関する畏敬いけいの情までも、移して彼に与えたことになるのである。すなわち羽後の農民などが足跡の砂を大切にしたのはむしろ山人史末期の一徴候で、事蹟が不明になったためにかえって一層これを神秘化したものでないかとも思われるのである。

 現在の大人足跡は中国に最も多く、四国・紀州等はこれに次ぎ、いずれも地名となって各国数十百を算する。しかし他の地方とても決して絶無ではなく、ことに偉大な足跡は到るところに散在しているが、その或るものは単純にこれを鬼の足跡ともいい、或いはまた大太法師とも唱えている。関東の各地でダイラボッチ、もしくはデエラ坊の話というのもこれで、多くはいわゆる足跡に伴なう伝説である。東京の近郊などにも現にいくつかあるが、全国を通じて大体にこれを二様に区別することができる。その一つは前の駿州仙ヶ俣の場合のごとく、岩石の上に跡を印したもので、不思議は主として石のごとく堅いものを踏み窪くぼめたという点にあり、従って独り山人のみにあらず古来の偉人勇士例えば弁慶・曾我五郎という類の人々までが作者である故に、その形はさして大きくない。そうしてその石はたいてい崇拝せられている。これに反して第二の種類にはいくらでも大きなものがあって、従って鬼物巨霊にのみ托せられる。東京近くでは、京王電車の代田だいだという停留所の辺には、昔大太法師が架けたという橋があり、それからわずか南東にある足跡は、足形こそしてはいるが、面積は約三町歩、内部は元もと杉林であったが、今では文化住宅でも建っているかも知れぬ。踵かかとにあたるところには地下水の露頭があり、その傍には小さな堂もあった。それからまた東南方には二ヶ処の足跡あり、駒沢村にあるものは更に偉大であった。いずれも泉の噴出に起因する窪地で、形状は足跡とも見られぬことはなかった。上総の鶴枝つるえ村で見たものは、小川を隔てて双方の岡の上にあった。その一つはすでに崩れているが、他の一つは約一畝歩せぶ、四周の樹林地の中にこれだけが土地台帳で別筆となって、その分を開いて麦か何かが播まいてあった。甲州信州辺のデエラボッチャも、たいていは孤立した湿地であったが、そうでない足跡もあるようである。何にしても附近と地形が違って、それがほぼ足形をしておれば、大人の跡といったのである。

 大人は富士を脊負うて、いずれへか持って行こうとしたり、または一夜に大湖を埋めようとして簣きを以て土を運んだ。その簣の目をこぼれた一塊が、あの塚だこの山だという話はどこにでもある。つまりは古くからの大話の一形式であるが、注意すべきはことごとく水土の工事に関聯し、ところによっては山を蹴開けびらき湖水を流し、耕地を作ってくれたなどと伝え、すこぶる天地剖析ほうせきの神話の面影を忍ばしむるものがある。古い言い伝えには相違ないのである。大きい行止まりは加賀国の大人の足跡、東は越中境栗殻山くりからやまの打越に一つ、次には河北郡木越きごしの光林寺の址あとという田の中、次には能美郡波佐谷はさだにの山の斜面、すなわちこの国を三足であるいた形である。いずれも指の跡までが分明で、下に岩でもあるものか、田の中ながらそこだけは草も生えない。それから壱岐の島の国分の初丘にあるもの、爪先つまさき北に向かって南北に十二間、幅は六間で踵のところが二間、これを大の足跡と呼んでいる。大昔に大という人、九州から対馬へ渡ろうとして、この中間の島に足を踏立てた。その跡であるという。少し窪んで水が出ている。こんなところは附近に多いと『壱岐名勝図誌いきめいしょうずし』には記している。

 大人は九州の南部では、大人弥五郎と称し、また大人隼人はやとなどともいっている。八幡神社の眷属けんぞくのようにもいえば、また昔この大神に治伐せられた兇賊のごとくにも伝えて一定せぬが、一方には山作りや足跡の話もあれば、他の一方には祭の時に、人形に作って曳ひきあるいている。そうして隼人はまたこの地方では、征服せられたる先住民の総称である。隼人が上代の被征服者であるために、これを大人隼人などと呼んでいるのならば、我々の伝えんと欲する山の人も、オオヒトという別名をえた理由が別になおあったかも知れぬ。しかし考えて行くほどかえってだんだんにむつかしくなるらしいから、もうこの辺で一旦いったんは話をやめておこう。

三〇 これは日本文化史の未解決の問題なること

 ここで打切ってはもちろんこの研究は不完全なものである。最初自分の企てていたことは、山近くに住む人々の宗教生活には、意外な現実の影響が強かったということを、論証してみるにあったのだが、残念ながらそれにはまだ資料が十分でない。後代の篤学者はなお多くの隠れたるものを発掘することであろう。しかしただ一つほぼ断定してもよいと思うことは、中世以後の天狗思想の進化に著しく山人に関する経験が働いていたことである。単に眼が光る色が赤い、背が高いなどの外形のみではない。仏法方面の人からは天魔の扱いを受けつつも、感情があり好意悪意があって、或いは我々に近づき或いはまた擯斥ひんせきし、機嫌きげんにも時々のむらがあって、気に向けば義侠的に世話をしてくれるなど、至って平凡なる人間味の若干をまじえていることは、それが純然たる空想の所産でないことを思わしめる。

 彼らはまた時として我々から、ひどくやっつけられたという話もある。天狗の神通じんずうをもってして、不覚千万ふかくせんばんのようではあるが、かの杉の皮で鼻を弾はじかれて、人間という者は心にもないことをするから怖ろしいといった昔話などは、少なくともかつて人間と彼らとの間に、対等の交際があったという偶然の証拠である。欺くに方法をもってするならば、天狗必ずしも恐るるに足らずとする考えは、我々の世渡りには大切なる教訓でありまた激励であった。故に或いは自分だけは筍たけのこを喰い、相手には竹を切って煮て食わせて見たとか、また白い丸石を炉の火で焼いて、餅を食いにきた山人に食わせたら、大いに苦しんで遁げ去ったとかいうがごとき詐謀をもってこれを征服した物語が、諸国に数多く伝わっているので、しかもその古伝の骨子をなす点が、主として火の美感であり、穀物の味であり、いずれも山人と名づくるこの島国の原住民の、ほとんと永遠に奪い去られた幸福であったことを考えると、山の人生の古来の不安、すなわち時あって発現する彼らの憤怒ふんぬ、ないしは粗暴をきわめた侵掠しんりゃくと誘惑の畏れなども、幾分か自然に近く解釈しえられるかと思われ、これと相関聯する土地神の信仰に、顕著な特色の認められるのも、畢竟ひっきょうはこの民族の歴史が、これを促したということになるのである。

 最後になお一つ話が残っている。数多ある村里の住民の中で、特別に山の人と懇意にしていたという者が処々にあった。その問題だけは述べておかねばならぬ。天狗の方にも名山霊刹れいさつの彼らを仏法の守護者と頼んだもの以外に、尋常民家の人であって、やはり時としてかの珍客の訪問を受けたという例は相応にあった。その中でもことに有名なのは、加賀の松任まつとうの餅屋もちやであったが、たしか越中の高岡にも半分以上似た話があり、その他あの地方には少なくとも世間の噂で、天狗の恩顧を説かるる家は多かったのである。今ではほとんと広告の用にも立たぬか知らぬが、当初は決してうかうかとした笑話でなかった。訪問のあるという日は前兆があり、またはあらかじめ定まっていて、一家戒慎かいしんして室を浄きよめ、叨みだりに人を近づけず、しかも出入坐臥ざが飲食ともに、音もなく目にも触れなかったことは、他の多くの尊い神々も同じであった。災害を予報し、作法方式を示し、時あって憂うれいや迷まよいを抱く者が、この主人を介して神教を求めんとしたことも、想像にかたくないのであった。すなわちただ一歩を進むれば、建久八年の橘兼仲のごとく、専門の行者となって一代を風靡ふうびし、もしくは近世の野州古峰原こぶがはらのように一派の信仰の中心となるべき境まできていたので、しかもその大切なる顕冥けんめい両界の連鎖をなしたものが、単に由緒久しき名物の餡餅あんもちであったことを知るに至っては、心窃こころひそかに在来の宗教起原論の研究者が、いたずらに天外の五里霧中に辛苦していたことを、感ぜざる者は少なくないであろう。

 始めて人間が神を人のごとく想像しえた時代には、食物は今よりも遙かに大なる人生の部分を占めていた。餅ほどうまい物は世の中にはないと考えた凡俗は、これを清く製して献上することによって、神御満足の御面おんおもざしを、空に描くことをえたろうと思ううえに、更にその推測を確かめるにたるだけの実験が、時あって日常生活の上にも行われたのである。我々の畏敬してやまなかった山の人も、米を好みことに餅の香を愛したのであった。特別なる交際が餅をもって始まったという話は、もちろん話であろうが今に方々に伝わっている。これを下品だとして顧みないような学者は、いつまでも高天原たかまがはらだけを説いているがよい。自分たちは今ある下界の平民の信仰が、いかに発達してこうまで完成したかを考えてみようとするのである。前に話した馬に七駄のマダの皮で、草履を作っていたという陸中浄法寺の村で、或る農夫は山に行って山男に逢った。昼弁当の餅を珍しがるから分けてやると、非常に喜んでこれを食った。お前の家ではもう田を打ったか、いやまだ打たぬというとそんだら打ってやるから何月何日の晩に、三本鍬くわと一緒に餅を三升ほど搗ついて田の畔あぜに置けという。約のごとくにして翌日往って見ると、餅はなくなり田はよく打ってあったが、大小の田の境もなく一面に打ちのめしてあった。それからも友だちになって、山に行くたびに餅をはたられて困った。その山男がまた彼に向かって、おれは誠によい人間だが、かかアは悪いやつだから見られないように用心せよとたびたび言って聴かせたという話もあって、六七十年前の出来事のように考えられている(『郷土研究』一ノ九、佐々木君、次も同じ)。この地方の昔話の「山はは」は実際怖ろしい。鬼婆・天あまのじゃくのした仕事が、ここでは皆山ははの所業になっている。

 また閉伊へい郡の六角牛ろっこうし山では、青笹村の某が山に入ってマダの樹の皮を剥いでいると、じっと立って見ていた七尺余りの男があった。おれもすけてやるべとさながら麻を剥ぐようにたちまちにしてもうたくさんになった。それから傍の火にあぶっておいた餅を指ざし、くれというから承知をすると、無遠慮にみな食ってしまった。来年の今ごろもまた来るかと聞く故に、後難を恐れてもう来ないと答えると、そんだら三升の餅をいついつの晩に、お前の家の庭へ出しておいてくれ、一年中のマダの皮を持って往ってやるからというので、これもその通りにして見ると翌年は約束の日の夜中に、庭でどしんと大荷物をおく音がした。およそ馬に二駄ほどのマダの皮であったという。それから以後は毎年同じ日に、この家の庭上でいわゆる無言貿易は行われたのだが、今の主人の若年のころから、どうしたものか餅は供えておいても、マダの皮は持って来ぬようになったといっている。

『津軽旧事談つがるくじだん』に『弘藩明治一統志こうはんめいじいっとうし』その他を引いて、岩木山の大人と親善だったと記しているのは、麓の鬼沢村の弥十郎という農夫であった。これはのちに自分もまた、大人となって行方を知らずとも伝えられる。彼は最初薪まきを採りに入って偶然と懇意になり、角力すもうなどを取って日を暮し、素手すでで帰ってくると必ず一夜の中に、二三日分ほどの薪が家の背戸せどに積んであった。或いはまた大人が弥十郎を助け、新たにこの土地を開発したのだともいい、また赤倉の谷から水を導いて村の耕地に灌漑かんがいしたのも、同じ大人の力であったと称して、その驚くべき難土木の跡について、逆さかさ水の伝説を語っている。村の名の鬼沢と産土うぶすなの社の名の鬼ノ宮とは果して今の口碑の結果であるか、はた原因であるかを決しかねるが後々までも村に怪力の人が輩出したといい、或いはまた大人が鎮守ちんじゅを約諾して、そのかわりには五月の節供せっくに菖蒲しょうぶを葺ふかず、節分に豆をまくなかれと言ったとあって、永く正直にこの二種の物を用いなかったのは少なくとも近代の雑説ではなかった証拠である。大人が弥十郎の妻に姿を見られたのを理由にして、再び来なくなったというのにも何か仔細しさいがありそうだ。その折記念に遺して去った蓑笠みのかさは鬼ノ宮に、鍬は藤田という家に伝わっているそうだが、藤田は多分弥十郎の末ですなわち草分くさわけの家であったろう。南部の方でも三戸さんのへ郡の荒沢不動に、山男の使った木臼きうすが伝わっていることを『糠部五郡小史ぬかのぶごぐんしょうし』には録している。これで橡実とちのみを搗ついて食っていたという話は疑わしくとも、昔かつて彼らと交際のあったことを信じていたことだけは推察せられる。

 津軽の山人は角力を取ったというのみで餅をどうしたという話は残ってないが、秋田の方へ越えてみると、この二つの事件も結びついている。これも小田内通敏氏の談であるが、五城目ごじょうのめ近在の木樵でかねて田舎相撲の心得ある某、或る日山で働いて木を負うて立とうとすると不意に山男が出てきて相撲を取ろうと言うて留めた。そこで荷を再び下に卸して力を角かくし一番はまず彼を投げたら強いと褒ほめてくれた。二番目にはわざと勝を譲って還ろうとしたが、山男は少し待ってくれと言って、更に二三人の仲間を連れてきて取らせたので、いずれも一番は勝ち一番は負けて別れてきた。それが縁になってその後もおりおり出会ううちに、或る時いつ幾日にはその方の家へ遊びに行く。家の者を外へやり、餅を搗いて待っていよというのでその通りにして一斗ほどの餅を振舞うと、数人の山男が悦んで終日遊んで帰った。それはよかったがその後もおりおりやってきて、酒を飲ませろの何のと言うために、ついにはその煩しさに堪えず、これを気に病んで久しく寝ているようなことになった。村の人たちはこれを見て、山男などと附合つきあいをするのは、いずれ身のためには好よくないことだと話し合っていたそうであるが、もしこの樵夫にせめて松任の餅屋ほどの気働きばたらきがあったら、神経衰弱などにはならずにすみそうなものであった。しかも因縁ばかり永く続いて人に信心のやや薄れた場合に、尋常一様の手段では元もと奉仕した神と別れることが難むつかしかったということは、しばしば巫術ふじゅつの家について言い伝えられた話であった。餅が化して白い小石になったということと、石を火に焼いて怪物を攻めたということとは、ともに古くからある物語には相異ないが、山人の場合には二つの話が合体して、あまり毎晩餅ばかり食いにくるので、のちには閉口して白い丸石を囲炉裏いろりに焼き知らぬ顔をして食わせて見ると、火焔かえんを吹いて飛びだして去ったとか、またはその祟たたりで大水が出たのが年代記にあるところの白髭水しらひげみずだなどと、いずれも皆一旦の好意とその後の不本意な、絶縁とを伝説する地方が多いのは、或いは何かこの方面の信仰の次々の変化を暗示するものではないかと思う。

 角力によって山男と近づきになったというのもまた偶然ではなかったようである。今日中央部以西の日本において、やたらに人と相撲を取りたがるのは、川童かっぱと話がきまっている。土佐ではシバテンといって芝天狗しばてんぐの略称かとも考えるが、挙動はほとんと川童と同じである。見たところ小児のごとくいかにも非力であるが、勝つと何遍でも今一番というので、うるさくてしかたがない。わざと負けてやるとキキと嬉しそうに鳴いて、また仲間をうんと喚よんでくる。何にしても厄介やっかいな相手で、彼らに挑まれた為に夜どおし角力を取り、後には気狂のようになったという話が九州などには多い。それでいて必ずしも狐狸こりのごとく騙だますつもりではないらしいのである。川童にせよ何にせよ、どうしてまたこんな趣意不明なる交渉が始まったというか。それには角力そのものの歴史を、今少しく遡さかのぼって考える必要があるようである。朝廷の相撲召合すもうめしあわせは七月を例とし、古い年中行事の一つではあったが、いわゆる唐制の模倣でもなければ、また皇室専属の儀式でもなかったらしい。おそらくは中央文化の或る段階において、民間の風習を採用して国技とせられたらしいことは、力士の諸国から貢進せられたのを見てもわかる。すなわちいわゆる田舎相撲の方が起原においては一つ前である。佐渡では今も村々を代表する選手があり名乗なのりを世襲し、会津の新宮権現でも、祭の日には村々の名を帯びた力士が出て、勝った村ではその年は仕合せ好よしと信ぜられたこと、歩射馬駆ぶしゃうまかけなども同じであった。すなわち祈願祈祷を専らとし怪力を神授と考え、部落互いに技を競うほかに、常に運勢の強弱とも言うべきものを認めていたのは、背後に大いに頼むところの氏神、里の神の御威光があったためで、しかも彼らは信心の未熟によってこれを傷けんことを畏おそれていたのである。時代がようやく進んで全民族の宗教はいよいよ統一し、小区域の敵愾心てきがいしんなどは意味もないものになったが、それでも古い名残は今だって少しは認められる。いわんや土地ごとに守り神を別にし、家門にはそれぞれの信仰があった際である。豊後の日田の鬼太夫の系図が、連綿として数百年に及ぶがごとく力の筋を神の筋に帰し、これをもって郷党の信望を繋ぎまたは集注せしめた者が、すなわち神人であったものかと思われる。山男に名ざされ、また川童に角力を挑いどまれるということは、言いかえればその者が不思議を感じやすく、神秘の前に無我になりやすい性質を具えていたことを意味し、一方には鞍馬くらまの奥僧正谷おくそうしょうたにの貴公子のように、試煉をへてその天分の怪力を発揮しうるのみならず、他の一方には目に見えぬ世界の紹介者として、また大いに神霊の道を社会に行うことをえたはずであったが、不幸にして国はすでに事大主義、宣伝万能の世となっていたために、割拠したる小盆地の神々は単なる妖怪をもって遇せられ、いまだ十分にその感化を実現せぬ前に有力なる外来の信仰に面してことごとくその光を失い、神が力を試みるというせっかくの旧方式も、結局無意味な擾乱じょうらんに過ぎぬことになったのである。
 自分の見るところをもってすれば、日本現在の村々の信仰には、根原に新旧の二系統があった。朝家の法制にもかつて天神地祇ちぎを分たれたが、のちの宗像むなかた・賀茂かも・八幡・熊野・春日かすが・住吉すみよし・諏訪すわ・白山はくさん・鹿島かしま・香取かとりのごとく、有効なる組織をもって神人を諸国に派し、次々に新たなる若宮わかみや今宮を増設して行ったもののほかに、別に土着年久しく住民心をともにして固く旧来の信仰を保持しているものがあった。荘園の創立は以前の郷里生活を一変し、領主はおおむね都人士の血と趣味とを嗣ついでいたために、仏教の側援そくえんある中央の大社を勧請かんじょうする方に傾いていたらしく、次第に今まであるものを改造して、例えば式内しきないの古社がほとんとその名を喪失したように、力つとめてこの統一の勢力に迎合したらしいが、これと同時に農民の保守趣味から、新たな社の祭式信仰をも自分の兼かねて持つものに引きつけた場合が少なくはなかったらしい。また右の二つの系統が時としては二つの層をなし、必ずしも一郷の八幡宮、一村全体の熊野社の威望を傷けることなくして、屋敷や一つの垣内かいとだけで、なお古くからの土地の神に、精誠せいぜいをいたしていた場合も多かった。頭屋とうやの慣習と鍵取かぎとりの制度、社家相続の方法等の中を尋ねると今とてもこの差別の微妙なる影響を見出すこと困難ならず、ことに永年にわたって必ずしも官府の公認するところとならずとも、家から家へまたは母から娘へ、静かに流れていた信仰には、別に中断せられた証跡もない以上は、古いものが多く伝わると見てよろしい。それというのが信仰の基礎は生活の自然の要求にあって、強しいて日月星辰せいしんというがごとき荘麗にして物遠いところには心を寄せず四季朝夕の尋常の幸福を求め、最も平凡なる不安を避けようとしていた結果、夙つとに祭を申し謹み仕えたのは、主としては山の神荒野の神、または海川の神を出でなかったのである。導く人のやはり我わが仲間であったことは、或いは時代に相応せぬ鄙ひなぶりを匡ただしえない結果になったか知らぬが、そのかわりにはなつかしい我々の大昔が、たいして小賢こざかしい者の干渉を受けずに、ほぼうぶな形をもって今日までも続いてきた。例えば稚わかくして山に紛まぎれ入った姉弟が、そのころの紋様もんようある四よつ身みの衣を着て、ふと親の家に還ってきたようなものである。これを笑うがごとき心なき人々は、少なくとも自分たちの同志者の中にはいない。
[#改丁]

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[リバイバル3] 中川隆 _ 心理学、大脳生理学、文化人類学、文化関係投稿リンク 中川隆
69. 中川隆[-10337] koaQ7Jey 2019年5月11日 20:03:44 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[1772]
柳田国男 山の人生
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[近代史3] 柳田国男 山の人生 中川隆
1. 中川隆[-10336] koaQ7Jey 2019年5月11日 20:08:02 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[1773]

柳田國男 山人考 
大正六年日本歴史地理学会大会講演手稿
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 私が八九年以前から、内々山人の問題を考えているということを、喜田きだ博士が偶然に発見せられ、かかる晴れがましき会に出て、それを話しせよと仰おおせられる。一体これは物ずきに近い事業であって、もとより大正六年やそこいらに、成績を発表する所存をもって、取掛かったものではありませぬ故に、一時は甚だ当惑しかつ躊躇ちゅうちょをしました。しかし考えてみれば、これは同時に自分のごとき方法をもって進んで、果して結局の解決をうるに足るや否やを、諸先生から批評していただくのに、最も好よい機会でもあるので、なまじいに罷まかり出でたる次第でございます。

 現在の我々日本国民が、数多の種族の混成だということは、じつはまだ完全には立証せられたわけでもないようでありますが、私の研究はそれをすでに動かぬ通説となったものとして、すなわちこれを発足点といたします。

 わが大御門おおみかどの御祖先が、始めてこの島へ御到着なされた時には、国内にはすでに幾多の先住民がいたと伝えられます。古代の記録においては、これらを名づけて国くにつ神かみと申しておるのであります。その例は『日本書紀』の「神代巻」出雲の条に、「吾やつかれは是これ国つ神、号なは脚摩乳あしなずち、我妻号わがつまのなは手摩乳てなずち云々」。また「高皇産霊神たかみむすびのかみは大物主神おおものぬしのかみに向ひ、汝若いましもし国つ神を以もて妻とせば、吾われは猶なお汝疎うとき心有ありとおもはん」と仰せられた。「神武紀」にはまた「臣やつかれは是これ国つ神、名を珍彦うずひこと曰いふ」とあり、また同紀吉野の条には、「臣は是れ国つ神名を井光いひかと為なす」とあります。『古事記』の方では御迎いに出た猿田彦さるたひこをも、また国つ神と記しております。

 令りょうの神祇令じんぎりょうには天神地祇という名を存し、地祇は『倭名鈔わみょうしょう』のころまで、クニツカミまたはクニツヤシロと訓よみますが、この二つは等しく神祇官において、常典によってこれを祭ることになっていまして、奈良朝になりますと、新旧二種族の精神生活は、もはや名残なく融合したものと認められます。『延喜式えんぎしき』の神名帳には、国魂郡魂くにたまこおりたまという類の、神名から明らかに国神に属すと知らるる神々を多く包容しておりながら、天神地祇の区別すらも、すでに存置してはいなかったのであります。

 しかも同じ『延喜式』の、中臣なかとみの祓詞はらえことばを見ますると、なお天津罪あまつつみと国津罪との区別を認めているのです。国津罪とはしからば何を意味するか。『古語拾遺こごしゅうい』には国津罪は国中人民犯すところの罪とのみ申してあるが、それではこれに対する天津罪は、誰の犯すところなるかが不明となります。右二通りの犯罪を比較してみると、一方は串刺くしざし・重播しきまき・畔放あはなちというごとく、主として土地占有権の侵害であるに反して、他の一方は父と子犯すといい、獣犯すというような無茶なもので明白に犯罪の性質に文野の差あることが認められ、すなわち後者は原住民、国つ神の犯すところであることが解わかります。『日本紀』景行天皇四十年の詔みことのりに、「東夷ひがしのひなの中蝦夷うちえみし尤もっとも強こわし。男女交まじり居おり父子かぞこ別わかち無し云々」ともあります。いずれの時代にこの大祓の詞というものはできたか。とにかくにかかる後の世まで口伝えに残っていたのは、興味多き事実であります。

 同じ祝詞のりとの中には、また次のような語も見えます。曰く、「国中に荒振神等あらぶるかみたちを、神かみ問とはしに問はしたまひ神かみ掃はらひに掃ひたまひて云々」。アラブルカミタチはまた暴神とも荒神とも書してあり、『古語拾遺』などには不順鬼神ともあります。これは多分右申す国つ神の中、ことに強硬に反抗せし部分を、古くからそういっていたものと自分は考えます。

 前九年・後三年の時代に至って、ようやく完結を告げたところの東征西伐は、要するに国つ神同化の事業を意味していたと思う。東夷に比べると西国の先住民の方が、問題が小さかったように見えますが、豊後・肥前・日向等の『風土記ふどき』に、土蜘蛛つちぐも退治の記事の多いことは、常陸・陸奥等に譲りませず、更に『続日本紀しょくにほんぎ』の文武天皇二年の条には太宰府だざいふに勅ちょくして豊後の大野、肥後の鞠智きくち、肥前の基肄きいの三城を修繕せしめられた記事があります。これはもとより海※かいこう[#「寇」の「攴」に代えて「攵」、U+21A25、272-6]の御備えでないことは、地形を一見なされたらすぐにわかります。土蜘蛛にはまた近畿地方に住した者もありました。『摂津風土記せっつふどき』の残篇にも記事があり、大和にはもとより国樔くずがおりました。国樔と土蜘蛛とは同じもののように、『常陸風土記』には記してあります。

 北東日本の開拓史をみますると、時代とともに次々に北に向って経営の歩を進め。しかも夷民の末と認むべき者が、今なお南部津軽の両半島の端の方だけに残っているために、通例世人の考えでは、すべての先住民は圧迫を受けて、北へ北へと引上げたように見ていますが、これは単純にそんな心持がするというのみで、学問上証明を遂とげたものではないのです。少なくとも京畿以西に居住した異人等は、今ではただ漠然と、絶滅したようにみなされているがこれももとよりなんらの根拠なき推測であります。

 種族の絶滅ということは、血の混淆こんこうないしは口碑の忘却というような意味でならば、これを想像することができるが、実際に殺され尽しまた死に絶えたということは「景行天皇紀」にいわゆる撃てばすなわち草に隠れ追えばすなわち山に入るというごとき状態にある人民には、とうていこれを想像することができないのです。『播磨風土記』を見ると、神前かみさき郡大川内、同じく湯川の二処に、異俗人三十許口みそたりばかりありとあって、地名辞書にはこれも今日の寺前・長谷二村の辺に考定しています。すなわち汽車が姫路に近づこうとして渡るところの、今日市川と称する川の上流であって、じつはかく申す私などもその至って近くの村に生れました。和銅・養老の交まで、この通り風俗を異にする人民が、その辺にはいたのであります。

 右にいう異俗人は、果していかなる種類に属するかは不明であるが、『新撰姓氏録しんせんしょうじろく』巻の五、右京皇別佐伯直さへきのあたいの条を見ると、「此家の祖先とする御諸別命みもろわけのみこと、成務天皇の御宇ぎょうに播磨の此地方に於て、川上より菜の葉の流れ下るを見て民住むと知り、求め出し之を領して部民と為す云々」とあって、或いはその御世から引続いて、同じ者の末であったかも知れませぬ。

 この佐伯部は、自ら蝦夷の俘ふの神宮に献ぜられ、のちに播磨・安芸・伊予・讃岐および阿波の五国に配置せられた者の子孫なりと称したということで、すなわち「景行天皇紀」五十一年の記事とは符合しますが、これと『姓氏録』と二つの記録は、ともに佐伯氏の録進に拠られたものと見えますから、この一致をもって強い証拠とするのは当りませぬ。おそらくは『釈日本紀しゃくにほんぎ』に引用する暦録れきろくの、佐祈毘(叫び)が佐伯と訛なまったという言い伝えとともに、一箇の古い説明伝説と見るべきものでありましょう。

 サヘキの名称は、多分は障碍しょうがいという意味で、日本語だろうと思います。佐伯の住したのは、もちろん上に掲げた五箇国には止とどまりませぬが、果して彼らの言の通り、蝦夷と種を同じくするか否かは、これらの書物以外の材料を集めてのちに、平静に論証する必要があるのであります。

 国郡の境を定めたもうということは、古くは成務天皇の条、また允恭天皇の御時おんときにもありました。これもまた『姓氏録』に阪合部朝臣さかあいべのあそん、仰おおせを受けて境を定めたともあります。阪合は境のことで、阪戸さかと・阪手さかて・阪梨さかなし(阪足)などとともに、中古以前からの郷の名・里の名にありますが、今日の境の村と村との堺さかいを劃かくするに反して、昔は山地と平野との境、すなわち国つ神の領土と、天あまつ神の領土との、境を定めることを意味したかと思います。高野山の弘法大師などが、猟人の手から霊山の地を乞こい受けたなどという昔話は、恐らくはこの事情を反映するものであろうと考えます。古い伽藍がらんの地主神じぬしがみが、猟人の形で案内をせられ、また留とどまって守護したもうという縁起えんぎは、高野だけでは決してないのであります。

「天武天皇紀」の吉野行幸の条に、※(「けものへん+臈のつくり」、第3水準1-87-81)者かりびと二十余人云々、または※(「けものへん+臈のつくり」、第3水準1-87-81)者之首などとあるのは、国樔くずのことでありましょう。国樔は「応神紀」に、其為人そのひととなり甚はなはだ淳朴也などともありまして、佐伯とは本来同じ種族でないように思われます。『北山抄ほくざんしょう』『江次第ごうしだい』の時代を経て、それよりもまた遙か後代まで名目を存していた、新春朝廷の国栖くずの奏は、最初には実際この者が山を出でて来り仕え、御贄みあえを献じたのに始まるのであります。『延喜式』の宮内式くないしきには、諸もろもろの節会せちえの時、国栖十二人笛工五人、合せて十七人を定としたとあります。古注には笛工の中の二人のみが、山城綴喜つづき郡にありとあります故に、他の十五人は年々現実に、もとは吉野の奥から召されたものでありましょう。『延喜式』のころまでは如何かと思いますが、現に神亀三年には、召出されたという記録が残っているのであります。

 また平野神社の四座御祭、園神そのがみ三座などに、出でて仕えた山人という者も、元は同じく大和の国栖であったろうと思います。山人が庭火の役を勤めたことは、『江次第』にも見えている。祭の折に賢木さかきを執とって神人に渡す役を、元は山人が仕え申したということは、もっとも注意を要する点かと心得ます。

ワキモコガアナシノ山ノ山人ト人モ見ルカニ山カツラセヨ

 これは後代の神楽歌かぐらうたで、衛士えじが昔の山人の役を勤めるようになってから、用いられたものと思います。ワキモコガはマキムクノの訛なまり、纏向穴師まきむくのあなしは三輪の東に峙そばだつ高山で、大和北部の平野に近く、多分は朝家の思召おぼしめしに基もとづいて、この山にも一時国樔人の住んでいたのは、御式典に出仕する便宜のためかと察しられます。

 しからば何が故に右のごとき厳重の御祭に、山人ごときが出て仕えることであったか。これはむつかしい問題で、同時にまた山人史の研究の、重要なる鍵かぎでもあるように自分のみは感じている。山人の参列はただの朝廷の体裁装飾でなく、或いは山から神霊を御降し申すために、欠くべからざる方式ではなかったか。神楽歌の穴師の山は、もちろんのちに普通の人を代用してから、山かずらをさせて山人と見ようという点に、新たな興味を生じたものですが、『古今集』にはまた大歌所おおうたどころの執とり物ものの歌としてあって、山人の手に持つ榊さかきの枝に、何か信仰上の意味がありそうに見えるのであります。

 山人という語は、この通り起原の年久しいものであります。自分の推測としては、上古史上の国津神くにつかみが末二つに分れ、大半は里に下って常民に混同し、残りは山に入りまたは山に留まって、山人と呼ばれたと見るのですが、後世に至っては次第にこの名称を、用いる者がなくなって、かえって仙という字をヤマビトと訓よませているのであります。

 自分が近世いうところの山男山女・山童山姫・山丈山姥などを総括して、かりに山人と申しておるのは必ずしも無理な断定からではありませぬ。単に便宜上この古語を復活して使って見たまでであります。昔の山人の中で、威力に強いられ乃至ないしは下くだされ物を慕うて、遙に京へ出てきた者は、もちろん少数であったでしょう。しからばその残りの旧弊な多数は、ゆくゆくいかに成り行ゆいたであろうか。これからがじつは私一人の、考えて見ようとした問題でありました。

 自分はまず第一に、中世の鬼の話に注意をしてみました。オニは鬼の漢字を充あてたのはずいぶん古いことであります。その結果支那から入った陰陽道おんようどうの思想がこれと合体して、『今昔物語』の中の多くの鬼などは、人の形を具そなえたり具えなかったり、孤立独往して種々の奇怪きっかいを演じ、時としては板戸に化けたり、油壺あぶらつぼになったりして人を害するを本業としたかの観がありますが、終始この鬼とは併行して、別に一派の山中の鬼があって、往々にして勇将猛士に退治せられております。斉明天皇の七年八月に、筑前朝倉山の崖がけの上に踞うずくまって、大きな笠を着て顋あごを手で支えて、天子の御葬儀を俯瞰ふかんしていたという鬼などは、この系統の鬼の中の最も古い一つである。酒顛童子しゅてんどうじにせよ、鈴鹿山すずかやまの鬼にせよ、悪路王・大竹丸・赤頭にせよいずれも武力の討伐を必要としております。その他吉備津の塵輪じんりんも三穂さんぼ太郎も、鬼とはいいながらじつは人間の最も獰猛どうもうなるものに近く、護符や修験者しゅげんじゃの呪文じゅもんだけでは、煙のごとく消えてしまいそうにもない鬼でありました。

 また鬼という者がことごとく、人を食い殺すを常習とするような兇悪な者のみならば、決して発生しなかったろうと思う言い伝えは、自ら鬼の子孫と称する者の、諸国に居住したことである。その一例は九州の日田附近にいた大蔵氏、系図を見ると代々鬼太夫などと名乗り、しばしば公おおやけの相撲の最手ほてに召されました。この家は帰化人の末と申しています。次には京都に近い八瀬の里の住民、俗にゲラなどと呼ばれた人々です。このことについては前に小さな論文を公表しておきました。二三の顕著なる異俗があって、誇りとして近年までこれを保持していました。黒川道祐などはこれを山鬼の末と書いています。山鬼は地方によって山爺のことをそうもいい眼一つ足一つだなどといった者もあります。一方ではまた山鬼護法と連称して、霊山の守護に任ずる活神いきがみのごとくにも信じました。安芸の宮島の山鬼は、おおよそ我々のよくいう天狗と、する事が似ていました。秋田太平山の三吉権現も、また奥山の半僧坊はんぞうぼうや秋葉山の三尺坊の類で、地方に多くの敬信者を持っているが、やはりまた山鬼という語の音から出た名だろうという説があります。

 それよりも今一段と顕著なる実例は、大和吉野の大峯山下の五鬼ごきであります。洞川どろかわという谷底の村に、今では五鬼何という苗字みょうじの家が五軒あり、いわゆる山上参りの先達職せんだつしょくを世襲し聖護院しょうごいんの法親王御登山の案内役をもって、一代の眉目びもくとしておりました。吉野の下市の町近くには、善鬼垣内ぜんきかいとという地名もあって、この地に限らず五鬼の出張が方々にありました。諸国の山伏やまぶしの家の口碑には、五流併立を説くことがほとんと普通になっています。すなわち五鬼は五人の山伏の家であろうと思うにかかわらず、前鬼後鬼ぜんきごきとも書いて役えんの行者ぎょうじゃの二人の侍者じしゃの子孫といい、従ってまた御善鬼様などと称して、これを崇敬した地方もありました。

 善鬼は五鬼の始祖のことで、五鬼のほかに別に団体があったわけではないらしく、古くは今の五鬼の家を前鬼というのが普通でありました。その前鬼が下界と交際を始めたのは、戦国のころからだと申します。その時代までは彼らにも通力があったのを、浮世の少女と縁組をしたばかりに、のちにはただの人間になったという者もありますが、実際にはごく近代になるまで、一夜の中に二十里三十里の山を往復したり、くれると言ったら一畠ひとはたの茄子なすをみな持って行ったり、なお普通人を威服するに十分なる、力を持つ者のごとく評判せられておりました。

 とにかくに彼らが平地の村から、移住した者の末ではないことは、自他ともに認めているのです。これと大昔の山人との関係は不明ながら、山の信仰には深い根を持っています。そこでこの意味において、今一応考えてみる必要があると思うのは、相州箱根・三州鳳来寺、近江の伊吹山・上州の榛名山、出羽の羽黒・紀州の熊野、さては加賀の白山等に伝わる開山の仙人の事蹟であります。白山の泰澄大師たいちょうだいしなどは、奈良の仏法とは系統が別であるそうで、近ごろ前田慧雲師はこれを南洋系の仏教と申されましたが、自分はいまだその根拠のいずれにあるかを知らぬのであります。とにかくに今ある山伏道も、溯さかのぼって聖宝僧正以前になりますと、教義も作法もともに甚だしく不明になり、ことに始祖という役小角えんのおづのに至っては、これを仏教の教徒と認めることすら決して容易ではないのです。仙術すなわち山人の道と名づくるものが、別に存在していたという推測も、なお同様に成立つだけの余地があるのであります。

 土佐では寛永の十九年に、高知の城内に異人が出現したのを、これ山みこという者だといって、山中に送り還した話があります。ミコは神に仕える女性もしくは童子どうじの名で、山人をそう呼んだことの当否は別として、少なくとも当時なおこの地方には、彼らと山神とのなんらかの関係を、認めていた者のあったという証拠にはなります。山の神の信仰も維新以後の神祇官じんぎかん系統の学説に基づき、名目と解釈の上に大なる変化を受けたことは、あたかも陰陽道が入ってオニが漢土の鬼になったのと似ております。今日では山神社の祭神は、大山祇命おおやまつみのみことかその御娘の木花開耶姫このはなさくやひめと、報告せられておらぬものがないというありさまですが、これを各地の実際の信仰に照してみると、なんとしてもそれを古来の言い伝えとはみられぬのであります。

 村に住む者が山神を祀まつり始めた動機は、近世には鉱山の繁栄を願うもの、或いはまた狩猟のためというのもありますが、大多数は採樵さいしょうと開墾の障碍なきを祷いのるもので、すなわち山の神に木を乞う祭、地を乞う祭を行うのが、これらの社の最初の目的でありました。そうしてその祭を怠った制裁は何かというと、怪我けがをしたり発狂したり死んだり、かなり怖ろしい神罰があります。東北地方には往々にして路の畔ほとりに、山神と刻んだ大きな石塔が立っている。建立の年月日人の名なども彫ってありますが、如何して立てたかと聴くと、必ずその場処に何か不思議があって、臨時の祭をした記念なること、あたかも馬が急死するとその場処において供養を営み、馬頭観音ばとうかんのんもしくは庚申塔こうしんとうなどを立てるのと同じく、しかも何の不思議かと問えば、たいていは山の神に不意に行逢うた、怖ろしいので気絶をしたという類で、その姿はまぼろしにもせよ、常に裸の背の高い、色の赭あかい眼の光の鋭い、ほぼ我々が想像する山人に近く、また一方ではこれを山男ともいっているのであります。

 天狗てんぐを山人と称したことは、近世二三の書物に見えます。或は山人を天狗と思ったという方が正しいのかも知れぬ。天狗の鼻を必ず高く、手には必ず羽扇を持たせることにしたのは、近世のしかも画道の約束みたようなもので、『太平記』以前のいろいろの物語には、ずいぶん盛んにこれを説いてありますが、さほど鼻のことを注意しませぬ。仏法の解説ではこれを魔障とし善悪二元の対立を認めた古宗教の面影を伝えているにもかかわらず、一方には天狗の容貌服装のみならず、その習性感情から行動の末までが、仏法の一派と認めている修験しゅげん・山伏やまぶしとよく類似し、後者もまたこれを承認して、時としてはその道の祖師であり守護神ででもあるかのごとく、崇敬しかつ依頼する風のあったことは、何か隠れたる仔細しさいのあることでなければなりませぬ。恐らくは近世全く変化してしまった山の神の信仰に、元は山人も山伏も、ともに或る程度までは参与していたのを、平地の宗教がだんだんにこれを無視しまたは忘却して行ったものと思っております。
 今となってはわずかに残る民間下層のいわゆる迷信によって、切れ切れの事実の中から昔の実情を尋ねて見るのほかはないのであります。一つの例をあげてみますれば、山中には往々魔所と名づくる場処があります。京都近くにもいくつかありました。入って行くといろいろの奇怪があるように伝えられ、従って天狗の住家すみかか、集会所のごとく人が考えました。その奇怪というのは何かというと、第一には天狗礫てんぐつぶて、どこからともなく石が飛んでくる。ただし通例は中あたって人を傷きずつけることがない。第二には天狗倒し、非常な大木をゴッシンゴッシンと挽ひき斫きる音が聴え、ほどなくえらい響を立てて地に倒れる。しかも後にその方角に行って見ても、一本も新たに伐きった株などはなく、もちろん倒れた木などもない。第三には天狗笑い、人数ならば十人十五人が一度に大笑いをする声が、不意に閑寂の林の中から聴える。害意はなくとも人の胆きもを寒くする力は、かえって前二者よりも強かった。その他にやや遠くから実験したものには笛ふえ太鼓たいこの囃はやしの音があり、また喬木きょうぼくの梢こずえの燈の影などもあって、じつはその作者を天狗とする根拠は確実でないのですが、天狗でなければ誰がするかという年来の速断と、天狗ならばしかねないという遺伝的類推法をもって、別に有力なる反対者もなしに、のちにはこうして名称にさえなったのであります。
 しかも必ずしも魔所といわず、また有名な老木などのない地にも、やはり同様の奇怪はおりおりあって、或る者は天狗以外の力としてこれを説明しようとしました。例えば不思議の石打ちは、久しく江戸の市中にさえこれを伝え、市外池袋の村民を雇入れると、氏神が惜んでこの変を示すなどともいいました。また伐木坊きりきぼうという怪物が山中に住み、毎々大木を伐倒す音をさせて、人を驚かすという地方もあり、狸たぬきが化けてこの悪戯をするという者もありました。深夜にいろいろの物音がきこえて、所在を尋ねると転々するというのは、広島で昔評判したバタバタの怪、または東京でも七不思議の一つに算かぞえた本所の馬鹿囃子ばかばやしの類です。単に一人が聴いたというのなら、おまえはどうかしていると笑うところですが、現に二人三人の者が一所にいて、あれ聴けといって顔を見合せる類のいわゆるアリュシナシオン・コレクチーブであるために、迷信もまた社会化したのであります。

 私の住む牛込の高台にも、やはり頻々ひんぴんと深夜の囃子の音があると申しました。東京のはテケテンという太鼓だけですが、加賀の金沢では笛が入ると、泉鏡花君は申されました。遠州の秋葉街道で聴きましたのは、この天狗の御膝元おひざもとにいながらこれを狸の神楽と称し現に狸の演奏しているのを見たとさえいう人がありました。近世いい始めたことと思いますが狸は最も物真似に長ずと信じられ、ひとり古風な腹鼓はらづつみのみにあらず、汽車が開通すれば汽車の音、小学校のできた当座は学校の騒ぎ、酒屋が建てば杜氏とじの歌の声などを、真夜中に再現させて我々の耳を驚かしています。しかもそれを狸のわざとする論拠は、みながそう信ずるという事実より以上に、一つも有力なものはなかったのです。

 これらの現象の心理学的説明はおそらくさして困難なものでありますまい。常は聴かれぬ非常に印象の深い音響の組合せが、時過ぎて一定の条件のもとに鮮明に再現するのを、その時また聴いたように感じたものかも知れず、社会が単純で人の素養に定まった型があり、外から攪乱こうらんする力の加わらぬ場合には、多数が一度に同じ感動を受けたとしても少しもさしつかえはないのでありますが、問題はただその幻覚の種類、これを実験し始めた時と場処、また名づけて天狗の何々と称するに至った事情であります。山に入ればしばしば脅かされ、そうでないまでもあらかじめ打合せをせずして、山の人の境を侵すときに、我と感ずる不安のごときものと、山にいる人の方が山の神に親しく、農民はいつまでも外客だという考えとが、永く真価以上に山人を買い被かぶっていた、結果ではないかと思います。

 そこで最終に自分の意見を申しますと、山人すなわち日本の先住民は、もはや絶滅したという通説には、私もたいていは同意してよいと思っておりますが、彼らを我々のいう絶滅に導いた道筋についてのみ、若干の異なる見解を抱くのであります。私の想像する道筋は六筋、その一は帰順朝貢に伴なう編貫へんかんであります。最も堂々たる同化であります。その二は討死うちじに、その三は自然の子孫断絶であります。その四は信仰界を通って、かえって新来の百姓を征服し、好条件をもってゆくゆく彼らと併合したもの、第五は永い歳月の間に、人知れず土着しかつ混淆こんこうしたもの、数においてはこれが一番に多いかと思います。

 こういう風に列記してみると、以上の五つのいずれにも入らない差引残さしひきざん、すなわち第六種の旧状保持者、というよりも次第に退化して、今なお山中を漂泊しつつあった者が、少なくとも或る時代までは、必ずいたわけだということが、推定せられるのであります。ところがこの第六種の状態にある山人の消息は、きわめて不確実であるとは申せ、つい最近になるまで各地独立して、ずいぶん数多く伝えられておりました。それは隠者か仙人かであろう。いや妖怪か狒々ひひかまたは駄法螺だぼらかであろうと、勝手な批評をしても済むかも知れぬが、事例は今少しく実着でかつ数多く、またそのようにまでして否認をする必要もなかったのであります。

 山中ことに漂泊の生存が最も不可能に思われるのは火食の一点であります。一旦その便益を解していた者が、これを抛棄ほうきしたということはありえぬように思われますがとにかくに孤独なる山人には火を利用した形跡なく、しかも山中には虫魚鳥小獣のほかに草木の実と若葉と根、または菌類きのこるいなどが多く、生なまで食っていたという話はたくさんに伝えられます。木挽こびき・炭焼すみやきの小屋に尋ねてきて、黙って火にあたっていたという話もあれば、川蟹かわがにを持ってきて焼いて食ったなどとも伝えます。塩はどうするかという疑いのごときは疑いにはなりませぬ。平地の人のごとく多量に消費してはおられぬが、日本では山中に塩分を含む泉至いたって多く、また食物の中にも塩気の不足を補うべきものがある。また永年の習性でその需要は著しく制限することができました。吉野の奥で山に遁げこんだ平地人が、山小屋に塩を乞いにきた。一握ひとつかみの塩を悦んで受けてこれだけあれば何年とかは大丈夫といった話が、『覊旅漫録きりょまんろく』かに見えておりました。

 それから衣服でありますが、これも獣皮でも樹の皮でも、用は足りたろうと思うにかかわらず多くの山人は裸であったといわれております。恐らくは裸体であるために人が注意することになったのでしょうが、わが国の温度には古今の変は少なかろうと思うのに、国民の衣服の近世甚だしく厚くるしくなったのを考えますと、馴ならせば無しにも起臥きがしえられてこの点はあまり顧慮しなかったものと見えます。不思議なことには山人の草鞋わらじと称して、非常に大形のものを山中で見かけるという話がありますが、それは実用よりも何か第二の目的、すなわち南日本の或る海岸の村で、今でも大草履おおぞうりを魔除まよけとするごとく、彼ら独特の畏嚇法いかくほうをもってなるべく平地人を廻避した手段であったかも知れませぬ。

 交通の問題についても少々考えてみました。日本は山国で北は津軽の半島の果から南は長門の小串こくしの尖さきまで少しも平野に下り立たずして往来することができるのでありますが、彼らは必要以上に遠くへ走るような余裕も空想もなかったと見えて、居るという地方にのみいつでもおりました。全国の山地で山人の話の特に多いところが、近世では十数箇処あって、互いに隔絶してその間の聯絡れんらくは絶えていたかと思われ、気をつけてみると少しずつ、気風習性のごときものが違っていました。今日知れている限りの山人生息地は、北では陸羽の境の山であります。ことに日本海へ近よった山群であります。それから北上川左岸の連山、次には只見川ただみがわの上流から越後秋山へかけての一帯、東海岸は大井川の奥、次は例の吉野から熊野の山、中国では大山山彙さんいなどが列挙しえられます。飛騨は山国でありながら、不思議に今日はこの話が少なく、青年の愛好する北アルプスから立山方面、黒部川の入いりなども今はもう安全地帯のようであります。これに反して小さな離島はなれじまでも、屋久島はいまなお痕跡があり、四国にも九州にももちろん住むと伝えられます。四国では剣山の周囲ことに土佐の側には無数の話があり、九州は東岸にやや偏して、九重山くじゅうさん以南霧島山以北一帯に、最も無邪気なる山人が住むといわれております。海が彼らの交通を遮断しゃだんするのは当然ですが、なお少しは水を泳ぐこともできました。山中にはもとより東西の通路があって、老功なる木樵・猟師は容易にこれを認めて遭遇を避けました。夜分やぶんには彼らもずいぶん里近くを通りました。その方が路みちが楽であったことは、彼らとても変りはないはずです。鉄道の始めて通じた時はさぞ驚いたろうと思いますが、今では隧道トンネルなども利用しているかも知れませぬ。火と物音にさえ警戒しておれば、平地人の方から気がつく虞おそれはないからであります。
 山男・山姥が町の市日いちびに、買物に出るという話が方々にありました。果してそんな事があったら、衣服風体なども目に立たぬように、済ましてただの田舎者の顔をするのだから、山人としては最も進んだ、すぐにも百姓に同化しうる部類で、いわば一種の土着見習生のごときものであります。それ以外には力つとめて人を避けるのがむしろ通例で、自分の方から来るというはよくよくの場合、すなわち単なる見物や食物のためではなかったらしいのです。しかも人類としては一番強い内からの衝動、すなわち配偶者の欲しいという情は、往々にして異常の勇敢を促したかと思う事実があります。

 もっとも山人の中にも女はあって、族内の縁組も絶対に不可能ではなかったが、人が少なく年が違い、久しい孤独を忍ばねばならぬ際に、堪えかねて里に降って若い男女を誘うたことも、稀ではなかったように考えます。神隠しと称する日本の社会の奇現象は、あまりにも数が多く、その中には明白に自身の気の狂いから、何となく山に飛び込んだ者も少なくないのですが、原因の明瞭めいりょうになったものはかつてないので、しかも多くは還って来ず、一方には年を隔てて山中で行逢うたという話が、決して珍しくはないから、こういう推測が成立つのであります。世中よのなかが開けてからは、かりに著しくその場合が減じたにしても、物憑ものつき物狂ものぐるいがいつも引寄せられるように、山へ山へと入って行く暗示には、千年以前からの潜んだ威圧が、なお働いているものとみることができます。

 それをまた他の方面から立証するものは、山人の言語であります。彼らが物を言ったという例は、ほとんとないといってよいのであるが、平地人のいわゆる日本語は、たいていの場合には山人に理解せられます。ずいぶんと込み入った事柄でも、呑込のみこんでその通りにしたというのは、すなわち片親の方からその知識が、だんだんに注入せられている結果かと思います。それでなければ米の飯をひどく欲しがりまた焚火たきびを悦び、しばしば常人に対して好意とまではなくとも、じっと目送したりするほどの、平和な態度をとったという話が解せられず、ことに頼まれて人を助け、市に出て物を交易するというだけの変化の原因が想像しえられませぬ。多分は前代にあっても最初は同じ事情から、耕作の趣味を学んで一地に土着し、わずかずつ下流の人里と交通を試みているうちに、自他ともに差別の観念を忘失して、すなわち武陵桃源ぶりょうとうげんの発見とはなったのであろうと思います。

 これを要するに山人の絶滅とは、主としては在来の生活の特色のなくなることでありました。そうして山人の特色とは何であったかというと、一つには肌膚の色の赤いこと、二つには丈たけ高く、ことに手足の長いことなどが、昔話の中に今も伝説せられます。諸国に数多き大人おおひとの足跡の話は、話となって極端まで誇張せられ、加賀ではあの国を三足であるいたという大足跡もありますが、もとは長髄彦ながすねひこもしくは上州の八掬脛やつかはぎぐらいの、やや我々より大きいという話ではなかったかと思われます。北ヨーロッパでは昔話の小人というのが、先住異民族の記憶の断片と解せられていますが、日本はちょうどその反対で、現に東部の弘い地域にわたり、今もって山人のことを大人と呼んでいる例があるのです。
 私は他日この問題がいますこし綿密に学界から注意せられて、単に人類学上の新資料を供与するに止らず、日本人の文明史において、まだいかにしても説明しえない多くの事蹟がこの方面から次第に分ってくることを切望いたします。ことに我々の血の中に、若干の荒い山人の血を混じているかも知れぬということは、我々にとってはじつに無限の興味であります。

https://www.aozora.gr.jp/cards/001566/files/52505_50610.html
http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/420.html#c1

[近代史3] 柳田国男 山の人生 中川隆
2. 中川隆[-10335] koaQ7Jey 2019年5月11日 20:52:50 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[1774]

底本:「遠野物語 山の人生」岩波文庫、岩波書店
   1976(昭和51)年4月16日第1刷発行
   2010(平成22)年3月5日第50刷発行

底本の親本:「定本柳田國男集 第四巻」筑摩書房
   1963(昭和38)年4月25日

初出:山の人生「アサヒグラフ 第四巻第二号〜第五巻第七号」朝日新聞社
   1925(大正14)年1月7日〜8月12日発行
   山人考「大正六年日本歴史地理学会大会講演手稿」
   1917(大正6)年11月18日
http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/420.html#c2

[近代史3] 柳田国男 遠野物語

柳田国男 遠野物語
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この書を外国に在る人々に呈す


この話はすべて遠野とおのの人佐々木鏡石君より聞きたり。昨さく明治四十二年の二月ごろより始めて夜分おりおり訪たずね来きたりこの話をせられしを筆記せしなり。鏡石君は話上手はなしじょうずにはあらざれども誠実なる人なり。自分もまた一字一句をも加減かげんせず感じたるままを書きたり。思うに遠野郷ごうにはこの類の物語なお数百件あるならん。我々はより多くを聞かんことを切望す。国内の山村にして遠野よりさらに物深き所にはまた無数の山神山人の伝説あるべし。願わくはこれを語りて平地人を戦慄せしめよ。この書のごときは陳勝呉広ちんしょうごこうのみ。

 昨年八月の末自分は遠野郷に遊びたり。花巻はなまきより十余里の路上には町場まちば三ヶ所あり。その他はただ青き山と原野なり。人煙の稀少きしょうなること北海道石狩いしかりの平野よりも甚はなはだし。或いは新道なるが故に民居の来たり就つける者少なきか。遠野の城下はすなわち煙花の街なり。馬を駅亭の主人に借りて独ひとり郊外の村々を巡めぐりたり。その馬は黔くろき海草をもって作りたる厚総あつぶさを掛かけたり。虻あぶ多きためなり。猿さるヶ石いしの渓谷は土肥こえてよく拓ひらけたり。路傍に石塔の多きこと諸国その比を知らず。高処より展望すれば早稲わせまさに熟し晩稲ばんとうは花盛はなざかりにて水はことごとく落ちて川にあり。稲の色合いろあいは種類によりてさまざまなり。三つ四つ五つの田を続けて稲の色の同じきはすなわち一家に属する田にしていわゆる名処みょうしょの同じきなるべし。小字こあざよりさらに小さき区域の地名は持主にあらざればこれを知らず。古き売買譲与の証文には常に見ゆる所なり。附馬牛つくもうしの谷へ越ゆれば早池峯はやちねの山は淡く霞かすみ山の形は菅笠すげがさのごとくまた片仮名かたかなのへの字に似たり。この谷は稲熟することさらに遅く満目一色に青し。細き田中の道を行けば名を知らぬ鳥ありて雛ひなを連つれて横ぎりたり。雛の色は黒に白き羽まじりたり。始めは小さき鶏かと思いしが溝みぞの草に隠れて見えざればすなわち野鳥なることを知れり。天神の山には祭ありて獅子踊ししおどりあり。ここにのみは軽く塵ちりたち紅あかき物いささかひらめきて一村の緑に映じたり。獅子踊というは鹿しかの舞まいなり。鹿の角つのをつけたる面を被かぶり童子五六人剣を抜きてこれとともに舞うなり。笛の調子高く歌は低くして側かたわらにあれども聞きがたし。日は傾きて風吹き酔いて人呼ぶ者の声も淋さびしく女は笑い児こは走れどもなお旅愁をいかんともする能あたわざりき。盂蘭盆うらぼんに新しき仏ある家は紅白の旗を高く揚あげて魂たましいを招く風ふうあり。峠とうげの馬上において東西を指点するにこの旗十数所あり。村人の永住の地を去らんとする者とかりそめに入りこみたる旅人とまたかの悠々ゆうゆうたる霊山とを黄昏たぞがれは徐おもむろに来たりて包容し尽したり。遠野郷には八ヶ所の観音堂あり。一木をもって作りしなり。この日報賽ほうさいの徒多く岡の上に灯火見え伏鉦ふせがねの音聞えたり。道ちがえの叢くさむらの中には雨風祭あめかぜまつりの藁人形わらにんぎょうあり。あたかもくたびれたる人のごとく仰臥ぎょうがしてありたり。以上は自分が遠野郷にてえたる印象なり。

 思うにこの類の書物は少なくも現代の流行にあらず。いかに印刷が容易なればとてこんな本を出版し自己の狭隘きょうあいなる趣味をもって他人に強しいんとするは無作法ぶさほうの仕業しわざなりという人あらん。されどあえて答う。かかる話を聞きかかる処ところを見てきてのちこれを人に語りたがらざる者果はたしてありや。そのような沈黙にしてかつ慎つつしみ深き人は少なくも自分の友人の中にはあることなし。いわんやわが九百年前の先輩せんぱい『今昔物語』のごときはその当時にありてすでに今は昔の話なりしに反しこれはこれ目前の出来事なり。たとえ敬虔けいけんの意と誠実の態度とにおいてはあえて彼を凌しのぐことを得うという能わざらんも人の耳を経ふること多からず人の口と筆とを倩やといたること甚だ僅わずかなりし点においては彼の淡泊無邪気なる大納言殿だいなごんどのかえって来たり聴くに値せり。近代の御伽百物語おとぎひゃくものがたりの徒に至りてはその志こころざしやすでに陋ろうかつ決してその談の妄誕もうたんにあらざることを誓いえず。窃ひそかにもってこれと隣を比するを恥とせり。要するにこの書は現在の事実なり。単にこれのみをもってするも立派なる存在理由ありと信ず。ただ鏡石子は年わずかに二十四五自分もこれに十歳長ずるのみ。今の事業多き時代に生まれながら問題の大小をも弁わきまえず、その力を用いるところ当とうを失えりという人あらば如何いかん。明神の山の木兎みみずくのごとくあまりにその耳を尖とがらしあまりにその眼を丸くし過ぎたりと責せむる人あらば如何。はて是非もなし。この責任のみは自分が負わねばならぬなり。

おきなさび飛ばず鳴かざるをちかたの森のふくろふ笑ふらんかも

柳田国男
[#改ページ]

   題目(下の数字は話の番号なり、ページ数にはあらず)

地勢
一、五、六七、一一一
神の始
二、六九、七四
里の神
九八
 カクラサマ
七二―七四
 ゴンゲサマ
一一〇
家の神
一六
 オクナイサマ
一四、一五、七〇
 オシラサマ
六九
 ザシキワラシ
一七、一八
山の神
八九、九一、九三、一〇二、一〇七、一〇八
神女
二七、五四
天狗
二九、六二、九〇
山男
五、六、七、九、二八、三〇、三一、九二
山女
三、四、三四、三五、七五
山の霊異
三二、三三、六一、九五
仙人堂
四九
蝦夷の跡
一一二
塚と森と
六六、一一一、一一三、一一四
姥うば神
六五、七一
館たての址
六七、六八、七六
昔の人
八、一〇、一一、一二、二一、二六、八四
家のさま
八〇、八三
家の盛衰
一三、一八、一九、二四、二五、三八、六三
 マヨイガ
六三、六四
前兆
二〇、五二、七八、九六
魂の行方
二二、八六―八八、九五、九七、九九、一〇〇
まぼろし
二三、七七、七九、八一、八二
雪女
一〇三
川童
五五―五九
猿の経立ふったち
四五、四六

四七、四八
狼おいぬ
三六―四二

四三

六〇、九四、一〇一
色々の鳥
五一―五三

三三、五〇
小正月の行事
一四、一〇二―一〇五
雨風祭
一〇九
昔々
一一五―一一八
歌謡
一一九
[#改丁]


一 
遠野郷とおのごうは今の陸中上閉伊かみへい郡の西の半分、山々にて取り囲かこまれたる平地なり。新町村しんちょうそんにては、遠野、土淵つちぶち、附馬牛つくもうし、松崎、青笹あおざさ、上郷かみごう、小友おとも、綾織あやおり、鱒沢ますざわ、宮守みやもり、達曾部たっそべの一町十ヶ村に分かつ。近代或いは西閉伊郡とも称し、中古にはまた遠野保とおのほとも呼べり。今日郡役所のある遠野町はすなわち一郷の町場まちばにして、南部家なんぶけ一万石の城下なり。城を横田城よこたじょうともいう。この地へ行くには花巻はなまきの停車場にて汽車を下おり、北上川きたかみがわを渡り、その川の支流猿さるヶ石川いしがわの渓たにを伝つたいて、東の方へ入ること十三里、遠野の町に至る。山奥には珍しき繁華の地なり。伝えいう、遠野郷の地大昔はすべて一円の湖水なりしに、その水猿ヶ石川となりて人界に流れ出でしより、自然にかくのごとき邑落ゆうらくをなせしなりと。されば谷川のこの猿ヶ石に落合うもの甚はなはだ多く、俗に七内八崎ななないやさきありと称す。内ないは沢または谷のことにて、奥州の地名には多くあり。


○遠野郷のトーはもとアイヌ語の湖という語より出でたるなるべし、ナイもアイヌ語なり。


二 
遠野の町は南北の川の落合おちあいにあり。以前は七七十里しちしちじゅうりとて、七つの渓谷おのおの七十里の奥より売買ばいばいの貨物を聚あつめ、その市いちの日は馬千匹、人千人の賑にぎわしさなりき。四方の山々の中に最も秀ひいでたるを早池峯はやちねという、北の方附馬牛つくもうしの奥にあり。東の方には六角牛ろっこうし山立てり。石神いしがみという山は附馬牛と達曾部たっそべとの間にありて、その高さ前の二つよりも劣おとれり。大昔に女神あり、三人の娘を伴ともないてこの高原に来たり、今の来内らいない村の伊豆権現いずごんげんの社あるところに宿やどりし夜、今夜よき夢を見たらん娘によき山を与うべしと母の神の語りて寝たりしに、夜深く天より霊華れいか降ふりて姉の姫ひめの胸の上に止りしを、末の姫眼覚めさめて窃ひそかにこれを取り、わが胸の上に載せたりしかば、ついに最も美しき早池峯の山を得、姉たちは六角牛と石神とを得たり。若き三人の女神おのおの三の山に住し今もこれを領したもう故ゆえに、遠野の女どもはその妬ねたみを畏おそれて今もこの山には遊ばずといえり。

○この一里は小道すなわち坂東道ばんどうみちなり、一里が五丁または六丁なり。

○タッソベもアイヌ語なるべし。岩手郡玉山村にも同じ大字おおあざあり。

○上郷村大字来内、ライナイもアイヌ語にてライは死のことナイは沢なり、水の静かなるよりの名か。

三 
山々の奥には山人住めり。栃内とちない村和野わのの佐々木嘉兵衛かへえという人は今も七十余にて生存せり。この翁おきな若かりしころ猟をして山奥に入りしに、遥はるかなる岩の上に美しき女一人ありて、長き黒髪を梳くしけずりていたり。顔の色きわめて白し。不敵の男なれば直ただちに銃つつを差し向けて打ち放せしに弾たまに応じて倒れたり。そこに馳かけつけて見れば、身のたけ高き女にて、解きたる黒髪はまたそのたけよりも長かりき。のちの験しるしにせばやと思いてその髪をいささか切り取り、これを綰わがねて懐ふところに入れ、やがて家路に向いしに、道の程にて耐たえがたく睡眠を催もよおしければ、しばらく物蔭ものかげに立寄りてまどろみたり。その間夢ゆめと現うつつとの境のようなる時に、これも丈たけの高き男一人近よりて懐中に手を差し入れ、かの綰ねたる黒髪を取り返し立ち去ると見ればたちまち睡ねむりは覚めたり。山男なるべしといえり。


○土淵村大字栃内。

四 
山口村の吉兵衛という家の主人、根子立ねっこだちという山に入り、笹ささを苅かりて束たばとなし担かつぎて立上らんとする時、笹原の上を風の吹き渡るに心づきて見れば、奥の方なる林の中より若き女の穉児おさなごを負おいたるが笹原の上を歩みて此方へ来るなり。きわめてあでやかなる女にて、これも長き黒髪を垂れたり。児を結ゆいつけたる紐ひもは藤の蔓つるにて、着きたる衣類は世の常の縞物しまものなれど、裾すそのあたりぼろぼろに破れたるを、いろいろの木の葉などを添えて綴つづりたり。足は地に着つくとも覚えず。事もなげに此方に近より、男のすぐ前を通りて何方いずかたへか行き過ぎたり。この人はその折の怖おそろしさより煩わずらい始はじめて、久しく病やみてありしが、近きころ亡うせたり。

○土淵村大字山口、吉兵衛は代々の通称なればこの主人もまた吉兵衛ならん。


五 
遠野郷より海岸の田たノ浜はま、吉利吉里きりきりなどへ越ゆるには、昔より笛吹峠ふえふきとうげという山路やまみちあり。山口村より六角牛ろっこうしの方へ入り路のりも近かりしかど、近年この峠を越ゆる者、山中にて必ず山男山女に出逢であうより、誰もみな怖おそろしがりて次第に往来も稀まれになりしかば、ついに別の路を境木峠さかいげとうげという方に開き、和山わやまを馬次場うまつぎばとして今は此方ばかりを越ゆるようになれり。二里以上の迂路うろなり。

○山口は六角牛に登る山口なれば村の名となれるなり。

六 
遠野郷にては豪農のことを今でも長者という。青笹村大字糠前ぬかのまえの長者の娘、ふと物に取り隠されて年久しくなりしに、同じ村の何某という猟師りょうし、或ある日山に入りて一人の女に遭あう。怖ろしくなりてこれを撃たんとせしに、何おじではないか、ぶつなという。驚きてよく見れば彼かの長者がまな娘なり。何故なにゆえにこんな処ところにはおるぞと問えば、或る物に取られて今はその妻となれり。子もあまた生うみたれど、すべて夫おっとが食い尽つくして一人此のごとくあり。おのれはこの地に一生涯を送ることなるべし。人にも言うな。御身も危うければ疾とく帰れというままに、その在所をも問い明あきらめずして遁にげ還かえれりという。

○糠の前は糠の森の前にある村なり、糠の森は諸国の糠塚と同じ。遠野郷にも糠森・糠塚多くあり。


七 
上郷村の民家の娘、栗くりを拾いに山に入りたるまま帰り来きたらず。家の者は死したるならんと思い、女のしたる枕まくらを形代かたしろとして葬式を執行とりおこない、さて二三年を過ぎたり。しかるにその村の者猟をして五葉山ごようざんの腰のあたりに入りしに、大なる岩の蔽おおいかかりて岩窟のようになれるところにて、図はからずこの女に逢いたり。互いに打ち驚き、いかにしてかかる山にはおるかと問えば、女の曰いわく、山に入りて恐ろしき人にさらわれ、こんなところに来たるなり。遁にげて帰らんと思えど些いささかの隙すきもなしとのことなり。その人はいかなる人かと問うに、自分には並なみの人間と見ゆれど、ただ丈たけきわめて高く眼の色少し凄すごしと思わる。子供も幾人か生みたれど、我に似ざれば我子にはあらずといいて食くらうにや殺すにや、みないずれへか持ち去りてしまうなりという。まことに我々と同じ人間かと押し返して問えば、衣類なども世の常なれど、ただ眼の色少しちがえり。一市間ひといちあいに一度か二度、同じようなる人四五人集まりきて、何事か話をなし、やがて何方どちらへか出て行くなり。食物など外より持ち来たるを見れば町へも出ることならん。かく言ううちにも今にそこへ帰って来るかも知れずという故、猟師も怖ろしくなりて帰りたりといえり。二十年ばかりも以前のことかと思わる。

○一市間は遠野の町の市の日と次の市の日の間なり。月六度の市なれば一市間はすなわち五日のことなり。

八 黄昏たそがれに女や子供の家の外に出ている者はよく神隠かみかくしにあうことは他よその国々と同じ。松崎村の寒戸さむとというところの民家にて、若き娘梨なしの樹きの下に草履ぞうりを脱ぬぎ置きたるまま行方ゆくえを知らずなり、三十年あまり過ぎたりしに、或る日親類知音の人々その家に集あつまりてありしところへ、きわめて老いさらぼいてその女帰り来たれり。いかにして帰って来たかと問えば人々に逢いたかりし故帰りしなり。さらばまた行かんとて、再び跡あとを留とどめず行き失うせたり。その日は風の烈はげしく吹く日なりき。されば遠野郷の人は、今でも風の騒がしき日には、きょうはサムトの婆ばばが帰って来そうな日なりという。

九 
菊池弥之助やのすけという老人は若きころ駄賃だちんを業とせり。笛の名人にて夜通よどおしに馬を追いて行く時などは、よく笛を吹きながら行きたり。ある薄月夜うすづきよに、あまたの仲間の者とともに浜へ越ゆる境木峠を行くとて、また笛を取り出して吹きすさみつつ、大谷地おおやちというところの上を過ぎたり。大谷地は深き谷にて白樺しらかんばの林しげく、その下は葦あしなど生じ湿しめりたる沢なり。この時谷の底より何者か高き声にて面白いぞーと呼よばわる者あり。一同ことごとく色を失い遁げ走りたりといえり。

○ヤチはアイヌ語にて湿地の義なり、内地に多くある地名なり。またヤツともヤトともヤともいう。


一〇 
この男ある奥山に入り、茸きのこを採るとて小屋を掛かけ宿とまりてありしに、深夜に遠きところにてきゃーという女の叫び声聞え胸を轟とどろかしたることあり。里へ帰りて見れば、その同じ夜、時も同じ刻限に、自分の妹なる女その息子むすこのために殺されてありき。


一一 
この女というは母一人子一人の家なりしに、嫁よめと姑しゅうととの仲悪あしくなり、嫁はしばしば親里へ行きて帰り来ざることあり。その日は嫁は家にありて打ち臥ふしておりしに、昼のころになり突然と倅せがれのいうには、ガガはとても生いかしては置かれぬ、今日きょうはきっと殺すべしとて、大なる草苅鎌くさかりがまを取り出し、ごしごしと磨とぎ始めたり。そのありさまさらに戯言たわむれごととも見えざれば、母はさまざまに事を分わけて詫わびたれども少しも聴かず。嫁も起き出いでて泣きながら諫いさめたれど、露つゆ従したがう色もなく、やがて母が遁のがれ出でんとする様子ようすあるを見て、前後の戸口をことごとく鎖とざしたり。便用に行きたしといえば、おのれみずから外より便器を持ち来たりてこれへせよという。夕方にもなりしかば母もついにあきらめて、大なる囲炉裡いろりの側かたわらにうずくまりただ泣きていたり。倅せがれはよくよく磨とぎたる大鎌を手にして近より来たり、まず左の肩口を目がけて薙なぐようにすれば、鎌の刃先はさき炉ろの上うえの火棚ひだなに引ひっかかりてよく斬きれず。その時に母は深山の奥にて弥之助が聞きつけしようなる叫び声を立てたり。二度目には右の肩より切きり下さげたるが、これにてもなお死絶しにたえずしてあるところへ、里人さとびとら驚きて馳はせつけ倅を取とり抑おさえ直に警察官を呼よびて渡わたしたり。警官がまだ棒を持ちてある時代のことなり。母親は男が捕とらえられ引き立てられて行くを見て、滝のように血の流るる中より、おのれは恨うらみも抱いだかずに死ぬるなれば、孫四郎は宥ゆるしたまわれという。これを聞きて心を動うごかさぬ者はなかりき。孫四郎は途中にてもその鎌を振り上げて巡査を追い廻しなどせしが、狂人なりとて放免せられて家に帰り、今も生きて里にあり。

○ガガは方言にて母ということなり。


一二 
土淵村山口に新田乙蔵にったおとぞうという老人あり。村の人は乙爺おとじいという。今は九十に近く病やみてまさに死しなんとす。年頃としごろ遠野郷の昔の話をよく知りて、誰かに話して聞かせ置きたしと口癖くちぐせのようにいえど、あまり臭くさければ立ち寄りて聞かんとする人なし。処々ところどころの館たての主ぬしの伝記、家々いえいえの盛衰、昔よりこの郷ごうに行おこなわれし歌の数々を始めとして、深山の伝説またはその奥に住める人々の物語など、この老人最もよく知れり。

○惜おしむべし、乙爺は明治四十二年の夏の始めになくなりたり。

一三 
この老人は数十年の間山の中に独ひとりにて住みし人なり。よき家柄いえがらなれど、若きころ財産を傾け失いてより、世の中に思いを絶たち、峠の上に小屋こやを掛け、甘酒あまざけを往来おうらいの人に売りて活計とす。駄賃だちんの徒とはこの翁を父親ちちおやのように思いて、親したしみたり。少しく収入の余あまりあれば、町に下くだりきて酒を飲む。赤毛布あかゲットにて作りたる半纏はんてんを着て、赤き頭巾ずきんを被かぶり、酔えば、町の中を躍おどりて帰るに巡査もとがめず。いよいよ老衰して後、旧里きゅうりに帰りあわれなる暮くらしをなせり。子供はすべて北海道へ行き、翁ただ一人なり。


一四 
部落ぶらくには必ず一戸の旧家ありて、オクナイサマという神を祀まつる。その家をば大同だいどうという。この神の像ぞうは桑くわの木を削けずりて顔かおを描えがき、四角なる布ぬのの真中まんなかに穴を明あけ、これを上うえより通とおして衣裳いしょうとす。正月の十五日には小字中こあざじゅうの人々この家に集まり来きたりてこれを祭る。またオシラサマという神あり。この神の像もまた同じようにして造り設もうけ、これも正月の十五日に里人さとびと集まりてこれを祭る。その式には白粉おしろいを神像の顔に塗ることあり。大同の家には必ず畳たたみ一帖いちじょうの室しつあり。この部屋へやにて夜よる寝ねる者はいつも不思議に遭あう。枕まくらを反かえすなどは常のことなり。或いは誰かに抱だき起おこされ、または室より突つき出いださるることもあり。およそ静かに眠ることを許さぬなり。

○オシラサマは双神なり。アイヌの中にもこの神あること『蝦夷えぞ風俗彙聞いぶん』に見ゆ。

○羽後苅和野の町にて市の神の神体なる陰陽の神に正月十五日白粉を塗りて祭ることあり。これと似たる例なり。


一五 
オクナイサマを祭れば幸さいわい多し。土淵村大字柏崎かしわざきの長者阿部氏、村にては田圃たんぼの家うちという。この家にて或る年田植たうえの人手ひとで足たらず、明日あすは空そらも怪あやしきに、わずかばかりの田を植え残すことかなどつぶやきてありしに、ふと何方いずちよりともなく丈たけ低ひくき小僧こぞう一人来たりて、おのれも手伝い申さんというに任まかせて働はたらかせて置きしに、午飯時ひるめしどきに飯めしを食わせんとて尋たずねたれど見えず。やがて再び帰りきて終日、代しろを掻かきよく働はたらきてくれしかば、その日に植えはてたり。どこの人かは知らぬが、晩にはきて物を食くいたまえと誘さそいしが、日暮れてまたその影かげ見えず。家に帰りて見れば、縁側えんがわに小さき泥どろの足跡あしあとあまたありて、だんだんに座敷に入り、オクナイサマの神棚かみだなのところに止とどまりてありしかば、さてはと思いてその扉とびらを開き見れば、神像の腰より下は田の泥どろにまみれていませし由よし。


一六 
コンセサマを祭れる家も少なからず。この神の神体はオコマサマとよく似たり。オコマサマの社は里に多くあり。石または木にて男の物を作りて捧ささぐるなり。今はおいおいとその事少なくなれり。

一七 
旧家きゅうかにはザシキワラシという神の住みたもう家少なからず。この神は多くは十二三ばかりの童児なり。おりおり人に姿を見することあり。土淵村大字飯豊いいでの今淵いまぶち勘十郎という人の家にては、近きころ高等女学校にいる娘の休暇にて帰りてありしが、或る日廊下ろうかにてはたとザシキワラシに行き逢あい大いに驚きしことあり。これは正まさしく男の児こなりき。同じ村山口なる佐々木氏にては、母人ひとり縫物ぬいものしておりしに、次の間にて紙のがさがさという音あり。この室は家の主人の部屋へやにて、その時は東京に行き不在の折なれば、怪しと思いて板戸を開き見るに何の影もなし。しばらくの間あいだ坐すわりて居ればやがてまた頻しきりに鼻を鳴ならす音あり。さては座敷ざしきワラシなりけりと思えり。この家にも座敷ワラシ住めりということ、久しき以前よりの沙汰さたなりき。この神の宿やどりたもう家は富貴自在なりということなり。

○ザシキワラシは座敷童衆なり。この神のこと『石神いしがみ問答』中にも記事あり。

一八 
ザシキワラシまた女の児なることあり。同じ山口なる旧家にて山口孫左衛門という家には、童女の神二人いませりということを久しく言い伝えたりしが、或る年同じ村の何某という男、町より帰るとて留場とめばの橋のほとりにて見馴みなれざる二人のよき娘に逢えり。物思わしき様子にて此方へ来きたる。お前たちはどこから来たと問えば、おら山口の孫左衛門がところからきたと答う。これから何処へ行くのかと聞けば、それの村の何某が家にと答う。その何某はやや離れたる村にて、今も立派に暮せる豪農なり。さては孫左衛門が世も末だなと思いしが、それより久しからずして、この家の主従二十幾人、茸きのこの毒に中あたりて一日のうちに死に絶たえ、七歳の女の子一人を残せしが、その女もまた年老いて子なく、近きころ病やみて失せたり。


一九 
孫左衛門が家にては、或る日梨なしの木のめぐりに見馴みなれぬ茸きのこのあまた生はえたるを、食わんか食うまじきかと男どもの評議してあるを聞きて、最後の代の孫左衛門、食わぬがよしと制したれども、下男の一人がいうには、いかなる茸にても水桶みずおけの中に入れて苧殻おがらをもってよくかき廻まわしてのち食えば決して中あたることなしとて、一同この言に従い家内ことごとくこれを食いたり。七歳の女の児こはその日外に出いでて遊びに気を取られ、昼飯を食いに帰ることを忘れしために助かりたり。不意の主人の死去にて人々の動転してある間に、遠き近き親類の人々、或いは生前に貸かしありといい、或いは約束ありと称して、家の貨財は味噌みその類たぐいまでも取り去りしかば、この村草分くさわけの長者なりしかども、一朝にして跡方あとかたもなくなりたり。

二〇 
この兇変の前にはいろいろの前兆ありき。男ども苅置かりおきたる秣まぐさを出すとて三ツ歯の鍬くわにて掻かきまわせしに、大なる蛇へびを見出みいだしたり。これも殺すなと主人が制せしをも聴かずして打ち殺したりしに、その跡より秣の下にいくらともなき蛇ありて、うごめき出でたるを、男ども面白半分にことごとくこれを殺したり。さて取り捨つべきところもなければ、屋敷の外そとに穴を掘りてこれを埋うめ、蛇塚を作る。その蛇は簣あじかに何荷なんがともなくありたりといえり。


二一 
右の孫左衛門は村には珍しき学者にて、常に京都より和漢の書を取り寄せて読み耽ふけりたり。少し変人という方なりき。狐きつねと親しくなりて家を富ます術を得んと思い立ち、まず庭の中に稲荷いなりの祠ほこらを建たて、自身京に上のぼりて正一位の神階を請うけて帰り、それよりは日々一枚の油揚あぶらげを欠かすことなく、手ずから社頭に供そなえて拝をなせしに、のちには狐馴なれて近づけども遁にげず。手を延ばしてその首を抑おさえなどしたりという。村にありし薬師の堂守どうもりは、わが仏様は何ものをも供そなえざれども、孫左衛門の神様よりは御利益ごりやくありと、たびたび笑いごとにしたりとなり。


二二 
佐々木氏の曾祖母そうそぼ年よりて死去せし時、棺かんに取り納おさめ親族の者集まりきてその夜は一同座敷にて寝たり。死者の娘にて乱心のため離縁せられたる婦人もまたその中にありき。喪もの間は火の気けを絶たやすことを忌いむがところの風ふうなれば、祖母と母との二人のみは、大なる囲炉裡いろりの両側りょうがわに坐すわり、母人ははびとは旁かたわらに炭籠すみかごを置き、おりおり炭を継つぎてありしに、ふと裏口の方より足音してくる者あるを見れば、亡なくなりし老女なり。平生へいぜい腰かがみて衣物きものの裾すその引きずるを、三角に取り上げて前に縫いつけてありしが、まざまざとその通りにて、縞目しまめにも見覚みおぼえあり。あなやと思う間もなく、二人の女の坐れる炉の脇を通り行くとて、裾にて炭取すみとりにさわりしに、丸き炭取なればくるくるとまわりたり。母人は気丈きじょうの人なれば振り返りあとを見送りたれば、親縁の人々の打ち臥ふしたる座敷の方へ近より行くと思うほどに、かの狂女のけたたましき声にて、おばあさんが来たと叫びたり。その余の人々はこの声に睡ねむりを覚さましただ打ち驚くばかりなりしといえり。

○マーテルリンクの『侵入者』を想い起こさしむ。

二三 
同じ人の二七日の逮夜たいやに、知音の者集まりて、夜更ふくるまで念仏を唱となえ立ち帰らんとする時、門口かどぐちの石に腰掛けてあちらを向ける老女あり。そのうしろ付つき正しく亡なくなりし人の通りなりき。これは数多あまたの人見たる故ゆえに誰も疑わず。いかなる執着しゅうじゃくのありしにや、ついに知る人はなかりしなり。

二四 
村々の旧家を大同だいどうというは、大同元年に甲斐国かいのくにより移り来たる家なればかくいうとのことなり。大同は田村将軍征討の時代なり。甲斐は南部家の本国なり。二つの伝説を混じたるに非あらざるか。

○大同は大洞かも知れず、洞とは東北にて家門または族ということなり。『常陸国志ひたちのこくし』に例あり、ホラマエという語のちに見ゆ。


二五 
大同の祖先たちが、始めてこの地方に到着せしは、あたかも歳としの暮くれにて、春のいそぎの門松かどまつを、まだ片方かたほうはえ立てぬうちに早はや元日になりたればとて、今もこの家々にては吉例として門松の片方を地に伏せたるままにて、標縄しめなわを引き渡すとのことなり。

二六 
柏崎の田圃たんぼのうちと称する阿倍氏はことに聞えたる旧家なり。この家の先代に彫刻に巧たくみなる人ありて、遠野一郷の神仏の像にはこの人の作りたる者多し。

二七 
早池峯はやちねより出でて東北の方宮古みやこの海に流れ入る川を閉伊川へいがわという。その流域はすなわち下閉伊郡なり。遠野の町の中にて今は池いけの端はたという家の先代の主人、宮古に行きての帰るさ、この川の原台はらだいの淵ふちというあたりを通りしに、若き女ありて一封の手紙を托たくす。遠野の町の後なる物見山の中腹にある沼に行きて、手を叩たたけば宛名あてなの人いで来くべしとなり。この人請うけ合いはしたれども路々みちみち心に掛りてとつおいつせしに、一人の六部ろくぶに行き逢あえり。この手紙を開きよみて曰いわく、これを持ち行かば汝なんじの身に大なる災わざわいあるべし。書き換かえて取らすべしとて更に別の手紙を与えたり。これを持ちて沼に行き教えのごとく手を叩きしに、果して若き女いでて手紙を受け取り、その礼なりとてきわめて小さき石臼いしうすをくれたり。米を一粒入れて回まわせば下より黄金出いづ。この宝物たからものの力にてその家やや富有になりしに、妻なる者慾深くして、一度にたくさんの米をつかみ入れしかば、石臼はしきりに自ら回りて、ついには朝ごとに主人がこの石臼に供えたりし水の、小さき窪くぼみの中に溜たまりてありし中へ滑すべり入りて見えずなりたり。その水溜りはのちに小さき池になりて、今も家の旁かたわらにあり。家の名を池の端というもその為ためなりという。

○この話に似たる物語西洋にもあり、偶合にや。


二八 
始めて早池峯に山路やまみちをつけたるは、附馬牛村の何某という猟師にて、時は遠野の南部家入部にゅうぶの後のことなり。その頃までは土地の者一人としてこの山には入りたる者なかりしと。この猟師半分ばかり道を開きて、山の半腹に仮小屋かりごやを作りておりしころ、或ある日炉ろの上に餅もちをならべ焼きながら食いおりしに、小屋の外を通る者ありて頻しきりに中を窺うかがうさまなり。よく見れば大なる坊主なり。やがて小屋の中に入り来たり、さも珍しげに餅の焼くるを見てありしが、ついにこらえ兼かねて手をさし延べて取りて食う。猟師も恐ろしければ自らもまた取りて与えしに、嬉うれしげになお食いたり。餅皆みなになりたれば帰りぬ。次の日もまた来るならんと思い、餅によく似たる白き石を二つ三つ、餅にまじえて炉の上に載せ置きしに、焼けて火のようになれり。案のごとくその坊主きょうもきて、餅を取りて食うこと昨日のごとし。餅尽つきてのちその白石をも同じように口に入れたりしが、大いに驚きて小屋を飛び出し姿見えずなれり。のちに谷底にてこの坊主の死してあるを見たりといえり。

○北上川の中古の大洪水に白髪水というがあり、白髪の姥うばを欺あざむき餅に似たる焼石を食わせし祟たたりなりという。この話によく似たり。


二九 
鶏頭山けいとうざんは早池峯の前面に立てる峻峯しゅんぽうなり。麓ふもとの里にてはまた前薬師まえやくしともいう。天狗てんぐ住めりとて、早池峯に登る者も決してこの山は掛かけず。山口のハネトという家の主人、佐々木氏の祖父と竹馬の友なり。きわめて無法者にて、鉞まさかりにて草を苅かり鎌かまにて土を掘るなど、若き時は乱暴の振舞ふるまいのみ多かりし人なり。或る時人と賭かけをして一人にて前薬師に登りたり。帰りての物語に曰く、頂上に大なる岩あり、その岩の上に大男三人いたり。前にあまたの金銀をひろげたり。この男の近よるを見て、気色けしきばみて振り返る、その眼の光きわめて恐ろし。早池峯に登りたるが途みちに迷いて来たるなりと言えば、然しからば送りて遣やるべしとて先さきに立ち、麓ふもと近きところまで来たり、眼を塞ふさげと言うままに、暫時そこに立ちている間に、たちまち異人は見えずなりたりという。

三〇 
小国おぐに村の何某という男、或る日早池峯に竹を伐きりに行きしに、地竹じだけのおびただしく茂りたる中に、大なる男一人寝ていたるを見たり。地竹にて編みたる三尺ばかりの草履ぞうりを脱ぬぎてあり。仰あおに臥ふして大なる鼾いびきをかきてありき。

○下閉伊郡小国村大字小国。

○地竹は深山に生ずる低き竹なり。


三一 
遠野郷の民家の子女にして、異人にさらわれて行く者年々多くあり。ことに女に多しとなり。

三二 
千晩せんばヶ岳だけは山中に沼ぬまあり。この谷は物すごく腥なまぐさき臭かのするところにて、この山に入り帰りたる者はまことに少すくなし。昔何の隼人はやとという猟師あり。その子孫今もあり。白き鹿を見てこれを追いこの谷に千晩こもりたれば山の名とす。その白鹿撃たれて遁げ、次の山まで行きて片肢かたあし折れたり。その山を今片羽山かたはやまという。さてまた前なる山へきてついに死したり。その地を死助しすけという。死助権現しすけごんげんとて祀まつれるはこの白鹿なりという。

○宛然えんぜんとして古風土記をよむがごとし。


三三 
白望しろみの山に行きて泊とまれば、深夜にあたりの薄明うすあかるくなることあり。秋のころ茸きのこを採りに行き山中に宿する者、よくこの事に逢う。また谷のあなたにて大木を伐きり倒す音、歌の声など聞きこゆることあり。この山の大さは測はかるべからず。五月に萱かやを苅りに行くとき、遠く望めば桐きりの花の咲き満みちたる山あり。あたかも紫むらさきの雲のたなびけるがごとし。されどもついにそのあたりに近づくこと能あたわず。かつて茸を採りに入りし者あり。白望の山奥にて金の樋といと金の杓しゃくとを見たり。持ち帰らんとするにきわめて重く、鎌かまにて片端かたはしを削けずり取らんとしたれどそれもかなわず。また来こんと思いて樹の皮を白くし栞しおりとしたりしが、次の日人々とともに行きてこれを求めたれど、ついにその木のありかをも見出しえずしてやみたり。

三四 
白望の山続きに離森はなれもりというところあり。その小字こあざに長者屋敷というは、全く無人の境なり。ここに行きて炭を焼く者ありき。或る夜その小屋の垂菰たれごもをかかげて、内を窺うかがう者を見たり。髪を長く二つに分けて垂たれたる女なり。このあたりにても深夜に女の叫び声を聞くことは珍しからず。


三五 
佐々木氏の祖父の弟、白望に茸を採りに行きて宿やどりし夜、谷を隔てたるあなたの大なる森林の前を横ぎりて、女の走り行くを見たり。中空を走るように思われたり。待てちゃアと二声ばかり呼よばわりたるを聞けりとぞ。

三六 
猿の経立ふったち、御犬おいぬの経立は恐ろしきものなり。御犬おいぬとは狼おおかみのことなり。山口の村に近き二ふたツ石山いしやまは岩山なり。ある雨の日、小学校より帰る子どもこの山を見るに、処々ところどころの岩の上に御犬うずくまりてあり。やがて首を下したより押おしあぐるようにしてかわるがわる吠ほえたり。正面より見れば生うまれ立たての馬の子ほどに見ゆ。後うしろから見れば存外ぞんがい小さしといえり。御犬のうなる声ほど物凄ものすごく恐ろしきものはなし。


三七 
境木峠さかいげとうげと和山峠わやまとうげとの間にて、昔は駄賃馬だちんばを追おう者、しばしば狼に逢いたりき。馬方うまかたらは夜行には、たいてい十人ばかりも群むれをなし、その一人が牽ひく馬は一端綱ひとはづなとてたいてい五六七匹ぴきまでなれば、常に四五十匹の馬の数なり。ある時二三百ばかりの狼追い来たり、その足音山もどよむばかりなれば、あまりの恐ろしさに馬も人も一所に集まりて、そのめぐりに火を焼きてこれを防ぎたり。されどなおその火を躍り越えて入り来るにより、ついには馬の綱つなを解ときこれを張はり回めぐらせしに、穽おとしあななどなりとや思いけん、それよりのちは中に飛び入らず。遠くより取とり囲かこみて夜の明あけるまで吠えてありきとぞ。

三八 
小友おとも村の旧家の主人にて今も生存せる某爺なにがしじいという人、町より帰りに頻しきりに御犬の吠ほゆるを聞きて、酒に酔いたればおのれもまたその声をまねたりしに、狼も吠えながら跡あとより来るようなり。恐ろしくなりて急ぎ家に帰り入り、門の戸を堅かたく鎖とざして打うち潜ひそみたれども、夜通し狼の家をめぐりて吠ゆる声やまず。夜明よあけて見れば、馬屋の土台どだいの下を掘り穿うがちて中に入り、馬の七頭ありしをことごとく食い殺していたり。この家はそのころより産やや傾きたりとのことなり。

三九 
佐々木君幼きころ、祖父と二人にて山より帰りしに、村に近き谷川の岸の上に、大なる鹿の倒れてあるを見たり。横腹は破れ、殺されて間まもなきにや、そこよりはまだ湯気ゆげ立てり。祖父の曰く、これは狼が食いたるなり。この皮ほしけれども御犬は必ずどこかこの近所に隠れて見ておるに相違なければ、取ることができぬといえり。


四〇 
草の長さ三寸あれば狼は身を隠すといえり。草木そうもくの色の移り行くにつれて、狼の毛の色も季節きせつごとに変りて行くものなり。

四一 
和野の佐々木嘉兵衛、或る年境木越さかいげごえの大谷地おおやちへ狩にゆきたり。死助しすけの方より走れる原なり。秋の暮のことにて木の葉は散り尽し山もあらわなり。向むこうの峯より何百とも知れぬ狼此方へ群むれて走りくるを見て恐ろしさに堪えず、樹の梢こずえに上のぼりてありしに、その樹の下を夥おびただしき足音して走り過ぎ北の方へ行けり。そのころより遠野郷には狼甚だ少なくなれりとのことなり。


四二 
六角牛ろっこうし山の麓ふもとにオバヤ、板小屋などいうところあり。広き萱山かややまなり。村々より苅かりに行く。ある年の秋飯豊村いいでむらの者ども萱を苅るとて、岩穴の中より狼の子三匹を見出し、その二つを殺し一つを持ち帰りしに、その日より狼の飯豊衆いいでしの馬を襲おそうことやまず。外ほかの村々の人馬にはいささかも害をなさず。飯豊衆相談して狼狩をなす。その中には相撲すもうを取り平生へいぜい力自慢ちからじまんの者あり。さて野に出いでて見るに、雄おすの狼は遠くにおりて来きたらず。雌めす狼一つ鉄という男に飛びかかりたるを、ワッポロを脱ぎて腕うでに巻き、やにわにその狼の口の中に突き込みしに、狼これを噛かむ。なお強く突き入れながら人を喚よぶに、誰も誰も怖おそれて近よらず。その間に鉄の腕は狼の腹まで入はいり、狼は苦しまぎれに鉄の腕骨を噛かみ砕くだきたり。狼はその場にて死したれども、鉄も担かつがれて帰り程ほどなく死したり。

○ワッポロは上羽織のことなり。


四三 
一昨年の『遠野新聞』にもこの記事を載せたり。上郷かみごう村の熊という男、友人とともに雪の日に六角牛に狩に行き谷深く入りしに、熊の足跡を見出でたれば、手分てわけしてその跡を※(「不/見」、第3水準1-91-88)もとめ、自分は峯の方を行きしに、とある岩の陰かげより大なる熊此方を見る。矢頃やごろあまりに近かりしかば、銃をすてて熊に抱かかえつき雪の上を転ころびて、谷へ下る。連つれの男これを救わんと思えども力及ばず。やがて谷川に落ち入りて、人の熊下したになり水に沈みたりしかば、その隙ひまに獣の熊を打ち取りぬ。水にも溺おぼれず、爪つめの傷は数ヶ所受けたれども命に障さわることはなかりき。


四四 
六角牛の峯続きにて、橋野はしのという村の上なる山に金坑きんこうあり。この鉱山のために炭を焼きて生計とする者、これも笛の上手じょうずにて、ある日昼ひるの間あいだ小屋こやにおり、仰向あおむきに寝転ねころびて笛を吹きてありしに、小屋の口なる垂菰たれごもをかかぐる者あり。驚きて見れば猿の経立ふったちなり。恐ろしくて起き直りたれば、おもむろに彼方かなたへ走り行きぬ。

○上閉伊郡栗橋村大字橋野。

四五 
猿の経立ふったちはよく人に似て、女色を好み里の婦人を盗み去ること多し。松脂まつやにを毛に塗ぬり砂をその上につけておる故、毛皮けがわは鎧よろいのごとく鉄砲の弾たまも通とおらず。


四六 
栃内村の林崎はやしざきに住む何某という男、今は五十に近し。十年あまり前のことなり。六角牛山に鹿を撃ちに行き、オキを吹きたりしに、猿の経立あり、これを真まことの鹿なりと思いしか、地竹じだけを手にて分わけながら、大なる口をあけ嶺の方より下くだり来たれり。胆潰きもつぶれて笛を吹きやめたれば、やがて反それて谷の方へ走り行きたり。

○オキとは鹿笛のことなり。


四七 
この地方にて子供をおどす言葉ことばに、六角牛の猿の経立が来るぞということ常の事なり。この山には猿多し。緒※(「てへん+裃のつくり」、第3水準1-84-76)おがせの滝たきを見に行けば、崖がけの樹の梢こずえにあまたおり、人を見れば遁にげながら木の実みなどを擲なげうちて行くなり。


四八 
仙人峠せんにんとうげにもあまた猿おりて行人に戯たわむれ石を打ちつけなどす。


四九 
仙人峠は登り十五里降くだり十五里あり。その中ほどに仙人の像を祀りたる堂あり。この堂の壁かべには旅人がこの山中にて遭いたる不思議の出来事を書き識しるすこと昔よりの習ならいなり。例えば、我は越後の者なるが、何月何日の夜、この山路やまみちにて若き女の髪を垂たれたるに逢えり。こちらを見てにこと笑いたりという類たぐいなり。またこの所にて猿に悪戯いたずらをせられたりとか、三人の盗賊に逢えりというようなる事をも記しるせり。

○この一里も小道なり。


五〇 
死助しすけの山にカッコ花あり。遠野郷にても珍しという花なり。五月閑古鳥かんこどりの啼なくころ、女や子どもこれを採とりに山へ行く。酢すの中に漬つけて置けば紫色むらさきいろになる。酸漿ほおずきの実みのように吹きて遊ぶなり。この花を採ることは若き者の最も大なる遊楽なり。

五一 
山にはさまざまの鳥住すめど、最も寂さびしき声の鳥はオット鳥なり。夏の夜中よなかに啼なく。浜の大槌おおづちより駄賃附だちんづけの者など峠を越え来たれば、遥はるかに谷底にてその声を聞くといえり。昔ある長者の娘あり。またある長者の男の子と親したしみ、山に行きて遊びしに、男見えずなりたり。夕暮になり夜になるまで探さがしあるきしが、これを見つくることをえずして、ついにこの鳥になりたりという。オットーン、オットーンというは夫おっとのことなり。末の方かすれてあわれなる鳴声なきごえなり。

五二 
馬追鳥うまおいどりは時鳥ほととぎすに似て少すこし大きく、羽はねの色は赤に茶を帯おび、肩には馬の綱つなのようなる縞しまあり。胸のあたりにクツゴコ(口籠)のようなるかたあり。これも或ある長者が家の奉公人、山へ馬を放はなしに行き、家に帰らんとするに一匹不足せり。夜通しこれを求めあるきしがついにこの鳥となる。アーホー、アーホーと啼くはこの地方にて野におる馬を追う声なり。年により馬追鳥里さとにきて啼くことあるは飢饉ききんの前兆なり。深山には常に住みて啼く声を聞くなり。

○クツゴコは馬の口に嵌はめる網の袋なり。


五三 
郭公かっこうと時鳥ほととぎすとは昔ありし姉妹あねいもとなり。郭公は姉なるがある時芋いもを掘りて焼き、そのまわりの堅かたきところを自ら食い、中の軟やわらかなるところを妹に与えたりしを、妹は姉の食う分ぶんは一層旨うまかるべしと想いて、庖丁ほうちょうにてその姉を殺せしに、たちまちに鳥となり、ガンコ、ガンコと啼きて飛び去りぬ。ガンコは方言にて堅いところということなり。妹さてはよきところをのみおのれにくれしなりけりと思い、悔恨に堪えず、やがてまたこれも鳥になりて庖丁かけたと啼きたりという。遠野にては時鳥のことを庖丁かけと呼ぶ。盛岡もりおか辺にては時鳥はどちゃへ飛んでたと啼くという。

○この芋は馬鈴薯ばれいしょのことなり。

五四 
閉伊川へいがわの流ながれには淵ふち多く恐ろしき伝説少なからず。小国川との落合に近きところに、川井かわいという村あり。その村の長者の奉公人、ある淵の上なる山にて樹を伐るとて、斧おのを水中に取とり落おとしたり。主人の物なれば淵に入りてこれを探さぐりしに、水の底に入るままに物音聞ゆ。これを求めて行くに岩の陰に家あり。奥の方に美しき娘機はたを織りていたり。そのハタシに彼の斧は立てかけてありたり。これを返したまわらんという時、振り返りたる女の顔を見れば、二三年前に身まかりたる我が主人の娘なり。斧は返すべければ我がこの所ところにあることを人にいうな。その礼としてはその方身上しんしょう良よくなり、奉公をせずともすむようにして遣やらんといいたり。そのためなるか否かは知らず、その後胴引どうびきなどいう博奕ばくちに不思議に勝ち続つづけて金溜かねたまり、ほどなく奉公をやめ家に引き込みて中ちゅうぐらいの農民になりたれど、この男は疾とくに物忘れして、この娘のいいしことも心づかずしてありしに、或る日同じ淵の辺ほとりを過すぎて町へ行くとて、ふと前の事を思い出し、伴ともなえる者に以前かかることありきと語りしかば、やがてその噂うわさは近郷に伝わりぬ。その頃より男は家産再び傾かたむき、また昔の主人に奉公して年を経たり。家の主人は何と思いしにや、その淵に何荷なんがともなく熱湯を注そそぎ入れなどしたりしが、何の効もなかりしとのことなり。

○下閉伊郡川井村大字川井、川井はもちろん川合の義なるべし。

五五 
川には川童かっぱ多く住めり。猿ヶ石川ことに多し。松崎村の川端かわばたの家うちにて、二代まで続けて川童の子を孕はらみたる者あり。生れし子は斬きり刻きざみて一升樽いっしょうだるに入れ、土中に埋うずめたり。その形かたちきわめて醜怪なるものなりき。女の婿むこの里は新張にいばり村の何某とて、これも川端の家なり。その主人人ひとにその始終しじゅうを語れり。かの家の者一同ある日畠はたけに行きて夕方に帰らんとするに、女川の汀みぎわに踞うずくまりてにこにこと笑いてあり。次の日は昼ひるの休みにまたこの事あり。かくすること日を重ねたりしに、次第にその女のところへ村の何某という者夜々よるよる通かようという噂うわさ立ちたり。始めには婿が浜の方へ駄賃附だちんづけに行きたる留守るすをのみ窺うかがいたりしが、のちには婿むこと寝ねたる夜よるさえくるようになれり。川童なるべしという評判だんだん高くなりたれば、一族の者集まりてこれを守れどもなんの甲斐かいもなく、婿の母も行きて娘の側かたわらに寝ねたりしに、深夜にその娘の笑う声を聞きて、さては来てありと知りながら身動きもかなわず、人々いかにともすべきようなかりき。その産はきわめて難産なりしが、或る者のいうには、馬槽うまふねに水をたたえその中にて産うまば安く産まるべしとのことにて、これを試みたれば果してその通りなりき。その子は手に水掻みずかきあり。この娘の母もまたかつて川童の子を産みしことありという。二代や三代の因縁にはあらずという者もあり。この家も如法にょほうの豪家にて何の某という士族なり。村会議員をしたることもあり。

五六 
上郷村の何某の家にても川童らしき物の子を産うみたることあり。確たしかなる証とてはなけれど、身内みうち真赤まっかにして口大きく、まことにいやな子なりき。忌いまわしければ棄すてんとてこれを携えて道ちがえに持ち行き、そこに置きて一間ばかりも離れたりしが、ふと思い直し、惜しきものなり、売りて見せ物にせば金になるべきにとて立ち帰りたるに、早取り隠されて見えざりきという。

○道ちがえは道の二つに別かるるところすなわち追分おいわけなり。

五七 
川の岸の砂すなの上には川童の足跡あしあとというものを見ること決して珍しからず。雨の日の翌日などはことにこの事あり。猿の足と同じく親指おやゆびは離れて人間の手の跡あとに似たり。長さは三寸に足らず。指先のあとは人ののように明らかには見えずという。

五八 
小烏瀬川こがらせがわの姥子淵おばこふちの辺に、新屋しんやの家うちという家いえあり。ある日淵ふちへ馬を冷ひやしに行き、馬曳うまひきの子は外ほかへ遊びに行きし間に、川童出でてその馬を引き込まんとし、かえりて馬に引きずられて厩うまやの前に来たり、馬槽うまふねに覆おおわれてありき。家のもの馬槽の伏せてあるを怪しみて少しあけて見れば川童の手出でたり。村中のもの集まりて殺さんか宥ゆるさんかと評議せしが、結局今後こんごは村中の馬に悪戯いたずらをせぬという堅き約束をさせてこれを放したり。その川童今は村を去りて相沢あいざわの滝の淵に住めりという。

○この話などは類型全国に充満せり。いやしくも川童のおるという国には必ずこの話あり。何の故にか。


五九 
外ほかの地にては川童の顔は青しというようなれど、遠野の川童は面つらの色いろ赭あかきなり。佐々木氏の曾祖母そうそぼ、穉おさなかりしころ友だちと庭にて遊びてありしに、三本ばかりある胡桃くるみの木の間より、真赤まっかなる顔したる男の子の顔見えたり。これは川童なりしとなり。今もその胡桃大木にてあり。この家の屋敷のめぐりはすべて胡桃の樹なり。


六〇 
和野わの村の嘉兵衛爺かへえじい、雉子小屋きじごやに入りて雉子を待ちしに狐きつねしばしば出でて雉子を追う。あまり憎にくければこれを撃たんと思い狙ねらいたるに、狐は此方を向きて何ともなげなる顔してあり。さて引金ひきがねを引きたれども火移うつらず。胸騒むなさわぎして銃を検せしに、筒口つつぐちより手元てもとのところまでいつのまにかことごとく土をつめてありたり。


六一 
同じ人六角牛に入りて白き鹿しかに逢あえり。白鹿はくろくは神かみなりという言いい伝つたえあれば、もし傷きずつけて殺すこと能あたわずば、必ず祟たたりあるべしと思案しあんせしが、名誉めいよの猟人かりうどなれば世間せけんの嘲あざけりをいとい、思い切りてこれを撃うつに、手応てごたえはあれども鹿少しも動かず。この時もいたく胸騒むなさわぎして、平生へいぜい魔除まよけとして危急ききゅうの時のために用意したる黄金おうごんの丸たまを取り出し、これに蓬よもぎを巻きつけて打ち放したれど、鹿はなお動かず、あまり怪しければ近よりて見るに、よく鹿の形に似たる白き石なりき。数十年の間山中に暮くらせる者が、石と鹿とを見誤みあやまるべくもあらず、全く魔障ましょうの仕業しわざなりけりと、この時ばかりは猟を止やめばやと思いたりきという。


六二 
また同じ人、ある夜よ山中さんちゅうにて小屋こやを作るいとまなくて、とある大木の下に寄り、魔除まよけのサンズ縄なわをおのれと木のめぐりに三囲みめぐり引きめぐらし、鉄砲を竪たてに抱かかえてまどろみたりしに、夜深く物音のするに心づけば、大なる僧形そうぎょうの者赤き衣ころもを羽はねのように羽ばたきして、その木の梢に蔽おおいかかりたり。すわやと銃を打ち放せばやがてまた羽ばたきして中空なかぞらを飛びかえりたり。この時の恐ろしさも世の常ならず。前後三たびまでかかる不思議に遭あい、そのたびごとに鉄砲を止やめんと心に誓い、氏神うじがみに願掛がんがけなどすれど、やがて再び思い返して、年取るまで猟人かりうどの業を棄すつること能あたわずとよく人に語りたり。

六三 
小国おぐにの三浦某というは村一の金持かねもちなり。今より二三代前の主人、まだ家は貧しくして、妻は少しく魯鈍ろどんなりき。この妻ある日門かどの前まえを流るる小さき川に沿いて蕗ふきを採とりに入りしに、よき物少なければ次第に谷奥深く登りたり。さてふと見れば立派なる黒き門もんの家あり。訝いぶかしけれど門の中に入りて見るに、大なる庭にて紅白の花一面に咲き鶏にわとり多く遊べり。その庭を裏うらの方へ廻まわれば、牛小屋ありて牛多くおり、馬舎うまやありて馬多くおれども、一向に人はおらず。ついに玄関より上あがりたるに、その次の間には朱と黒との膳椀ぜんわんをあまた取り出したり。奥の座敷には火鉢ひばちありて鉄瓶てつびんの湯のたぎれるを見たり。されどもついに人影はなければ、もしや山男の家ではないかと急に恐ろしくなり、駆かけ出だして家に帰りたり。この事を人に語れども実まことと思う者もなかりしが、また或る日わが家のカドに出でて物を洗いてありしに、川上より赤き椀一つ流れてきたり。あまり美しければ拾い上げたれど、これを食器に用いたらば汚きたなしと人に叱しかられんかと思い、ケセネギツの中に置きてケセネを量はかる器うつわとなしたり。しかるにこの器にて量り始めてより、いつまで経たちてもケセネ尽きず。家の者もこれを怪しみて女に問いたるとき、始めて川より拾い上げし由よしをば語りぬ。この家はこれより幸運に向い、ついに今の三浦家となれり。遠野にては山中の不思議ふしぎなる家をマヨイガという。マヨイガに行き当りたる者は、必ずその家の内の什器じゅうき家畜何にてもあれ持ち出でて来べきものなり。その人に授さずけんがためにかかる家をば見するなり。女が無慾にて何ものをも盗み来ざりしが故に、この椀自ら流れて来たりしなるべしといえり。

○このカドは門にはあらず。川戸にて門前を流るる川の岸に水を汲くみ物を洗うため家ごとに設けたるところなり。

○ケセネは米稗ひえその他の穀物こくもつをいう。キツはその穀物を容いるる箱なり。大小種々のキツあり。


六四 
金沢村かねさわむらは白望しろみの麓ふもと、上閉伊郡の内にてもことに山奥にて、人の往来する者少なし。六七年前この村より栃内村の山崎なる某なにがしかかが家に娘の婿を取りたり。この婿実家に行かんとして山路に迷い、またこのマヨイガに行き当りぬ。家のありさま、牛馬※(「奚+隹」、第3水準1-93-66)の多きこと、花の紅白に咲きたりしことなど、すべて前の話の通りなり。同じく玄関に入りしに、膳椀を取り出したる室あり。座敷に鉄瓶てつびんの湯たぎりて、今まさに茶を煮にんとするところのように見え、どこか便所などのあたりに人が立ちてあるようにも思われたり。茫然ぼうぜんとして後にはだんだん恐ろしくなり、引き返してついに小国おぐにの村里に出でたり。小国にてはこの話を聞きて実まこととする者もなかりしが、山崎の方にてはそはマヨイガなるべし、行きて膳椀の類を持ち来きたり長者にならんとて、婿殿むこどのを先に立てて人あまたこれを求めに山の奥に入り、ここに門ありきというところに来たれども、眼にかかるものもなく空むなしく帰り来たりぬ。その婿もついに金持になりたりということを聞かず。

○上閉伊郡金沢村。


六五 
早池峯はやちねは御影石みかげいしの山なり。この山の小国に向むきたる側かわに安倍ヶ城あべがじょうという岩あり。険けわしき崖がけの中ほどにありて、人などはとても行きうべきところにあらず。ここには今でも安倍貞任あべのさだとうの母住めりと言い伝う。雨あめの降ふるべき夕方など、岩屋いわやの扉とびらを鎖とざす音聞ゆという。小国、附馬牛つくもうしの人々は、安倍ヶ城の錠じょうの音がする、明日あすは雨ならんなどいう。


六六 
同じ山の附馬牛よりの登り口にもまた安倍屋敷あべやしきという巌窟あり。とにかく早池峯は安倍貞任にゆかりある山なり。小国より登る山口にも八幡太郎はちまんたろうの家来けらいの討死うちじにしたるを埋めたりという塚三つばかりあり。


六七 
安倍貞任に関する伝説はこのほかにも多し。土淵村と昔は橋野はしのといいし栗橋村との境にて、山口よりは二三里も登りたる山中に、広く平たいらなる原あり。そのあたりの地名に貞任というところあり。沼ありて貞任が馬を冷ひやせしところなりという。貞任が陣屋じんやを構かまえし址あととも言い伝う。景色けしきよきところにて東海岸よく見ゆ。

六八 
土淵村には安倍氏という家ありて貞任が末なりという。昔は栄えたる家なり。今も屋敷やしきの周囲には堀ありて水を通ず。刀剣馬具あまたあり。当主は安倍与右衛門よえもん、今も村にては二三等の物持ものもちにて、村会議員なり。安倍の子孫はこのほかにも多し。盛岡の安倍館あべだての附近にもあり。厨川くりやがわの柵しゃくに近き家なり。土淵村の安倍家の四五町北、小烏瀬川こがらせがわの河隈かわくまに館たての址あり。八幡沢はちまんざの館たてという。八幡太郎が陣屋というものこれなり。これより遠野の町への路みちにはまた八幡山という山ありて、その山の八幡沢の館の方に向かえる峯にもまた一つの館址たてあとあり。貞任が陣屋なりという。二つの館の間二十余町を隔つ。矢戦やいくさをしたりという言い伝えありて、矢の根を多く掘り出せしことあり。この間に似田貝にたかいという部落あり。戦の当時このあたりは蘆あししげりて土固かたまらず、ユキユキと動揺せり。或る時八幡太郎ここを通りしに、敵味方てきみかたいずれの兵糧ひょうりょうにや、粥かゆを多く置きてあるを見て、これは煮にた粥かといいしより村の名となる。似田貝の村の外を流るる小川を鳴川なるかわという。これを隔てて足洗川村あしらがむらあり。鳴川にて義家よしいえが足を洗いしより村の名となるという。

○ニタカイはアイヌ語のニタトすなわち湿地より出しなるべし。地形よく合えり。西の国々にてはニタともヌタともいう皆これなり。下閉伊郡小川村にも二田貝という字あり。

六九 
今の土淵村には大同だいどうという家二軒あり。山口の大同は当主を大洞万之丞おおほらまんのじょうという。この人の養母名はおひで、八十を超こえて今も達者なり。佐々木氏の祖母の姉なり。魔法に長じたり。まじないにて蛇を殺し、木に止とまれる鳥を落しなどするを佐々木君はよく見せてもらいたり。昨年の旧暦正月十五日に、この老女の語りしには、昔あるところに貧しき百姓あり。妻はなくて美しき娘あり。また一匹の馬を養う。娘この馬を愛して夜よるになれば厩舎うまやに行きて寝いね、ついに馬と夫婦になれり。或る夜父はこの事を知りて、その次の日に娘には知らせず、馬を連つれ出して桑の木につり下げて殺したり。その夜娘は馬のおらぬより父に尋ねてこの事を知り、驚き悲しみて桑の木の下に行き、死したる馬の首に縋すがりて泣きいたりしを、父はこれを悪にくみて斧をもって後うしろより馬の首を切り落せしに、たちまち娘はその首に乗りたるまま天に昇のぼり去れり。オシラサマというはこの時より成りたる神なり。馬をつり下げたる桑の枝にてその神の像を作る。その像三つありき。本もとにて作りしは山口の大同にあり。これを姉神とす。中にて作りしは山崎の在家権十郎ざいけごんじゅうろうという人の家にあり。佐々木氏の伯母が縁づきたる家なるが、今は家絶えて神の行方ゆくえを知らず。末すえにて作りし妹神の像は今いま附馬牛村にありといえり。


七〇 
同じ人の話に、オクナイサマはオシラサマのある家には必ず伴ないて在います神なり。されどオシラサマはなくてオクナイサマのみある家もあり。また家によりて神の像も同じからず。山口の大同にあるオクナイサマは木像なり。山口の辷石はねいしたにえという人の家なるは掛軸かけじくなり。田圃たんぼのうちにいませるはまた木像なり。飯豊いいでの大同にもオシラサマはなけれどオクナイサマのみはいませりという。


七一 
この話をしたる老女は熱心なる念仏者なれど、世の常の念仏者とは様さまかわり、一種邪宗らしき信仰あり。信者に道を伝うることはあれども、互いに厳重なる秘密を守り、その作法さほうにつきては親にも子にもいささかたりとも知らしめず。また寺とも僧とも少しも関係はなくて、在家ざいけの者のみの集あつまりなり。その人の数も多からず。辷石はねいしたにえという婦人などは同じ仲間なり。阿弥陀仏あみだぶつの斎日さいにちには、夜中人の静まるを待ちて会合し、隠れたる室にて祈祷きとうす。魔法まじないを善よくする故に、郷党に対して一種の権威あり。

七二 
栃内とちない村の字琴畑ことばたは深山の沢にあり。家の数は五軒ばかり、小烏瀬こがらせ川の支流の水上みなかみなり。これより栃内の民居まで二里を隔へだつ。琴畑の入口に塚あり。塚の上には木の座像ざぞうあり。およそ人の大きさにて、以前は堂の中にありしが、今は雨あまざらしなり。これをカクラサマという。村の子供これを玩物もてあそびものにし、引き出して川へ投げ入れまた路上を引きずりなどする故に、今は鼻も口も見えぬようになれり。或あるいは子供を叱しかり戒めてこれを制止する者あれば、かえりて祟たたりを受け病むことありといえり。

○神体仏像子供と遊ぶを好みこれを制止するを怒りたもうことほかにも例多し。遠江小笠郡大池村東光寺の薬師仏(『掛川志』)、駿河安倍郡豊田村曲金の軍陣坊社の神(『新風土記』)、または信濃筑摩郡射手の弥陀堂みだどうの木仏(『信濃奇勝録』)などこれなり。


七三 
カクラサマの木像は遠野郷のうちに数多あまたあり。栃内の字西内にしないにもあり。山口分の大洞おおほらというところにもありしことを記憶する者あり。カクラサマは人のこれを信仰する者なし。粗末なる彫刻にて、衣裳頭いしょうかしらの飾かざりのありさまも不分明なり。

七四 
栃内のカクラサマは右の大小二つなり。土淵一村にては三つか四つあり。いずれのカクラサマも木の半身像にてなたの荒削あらけずりの無恰好ぶかっこうなるものなり。されど人の顔なりということだけは分わかるなり。カクラサマとは以前は神々の旅をして休息したもうべき場所の名なりしが、その地に常つねいます神をかく唱となうることとなれり。

七五 
離森はなれもりの長者屋敷にはこの数年前まで燐寸マッチの軸木じくぎの工場こうばありたり。その小屋の戸口に夜よるになれば女の伺い寄りて人を見てげたげたと笑う者ありて、淋しさに堪えざる故、ついに工場を大字山口に移したり。その後また同じ山中に枕木まくらぎ伐出きりだしのために小屋をかけたる者ありしが、夕方になると人夫の者いずれへか迷い行き、帰りてのち茫然ぼうぜんとしてあることしばしばなり。かかる人夫四五人もありてその後も絶えず何方いずかたへか出でて行くことありき。この者どもが後に言うを聞けば、女がきて何処どこへか連れだすなり。帰りてのちは二日も三日も物を覚えずといえり。

七六 
長者屋敷は昔時長者の住みたりし址あとなりとて、そのあたりにも糠森ぬかもりという山あり。長者の家の糠を捨てたるがなれるなりという。この山中には五いつつ葉ばのうつ木ぎありて、その下に黄金を埋めてありとて、今もそのうつぎの有処ありかを求めあるく者稀々まれまれにあり。この長者は昔の金山師なりしならんか、このあたりには鉄を吹きたる滓かすあり。恩徳おんどくの金山きんざんもこれより山続きにて遠からず。

○諸国のヌカ塚スクモ塚には多くはこれと同じき長者伝説を伴なえり。また黄金埋蔵の伝説も諸国に限りなく多くあり。

七七 
山口の田尻たじり長三郎というは土淵村一番の物持ものもちなり。当主なる老人の話に、この人四十あまりのころ、おひで老人の息子むすこ亡なくなりて葬式の夜、人々念仏を終りおのおの帰り行きし跡あとに、自分のみは話好はなしずきなれば少しあとになりて立ち出でしに、軒の雨落あまおちの石を枕にして仰臥ぎょうがしたる男あり。よく見れば見も知らぬ人にて死してあるようなり。月のある夜なればその光にて見るに、膝ひざを立て口を開きてあり。この人大胆者にて足にて揺うごかして見たれど少しも身じろぎせず。道を妨さまたげて外ほかにせん方かたもなければ、ついにこれを跨またぎて家に帰りたり。次の朝行きて見ればもちろんその跡方あとかたもなく、また誰も外ほかにこれを見たりという人はなかりしかど、その枕にしてありし石の形と在ありどころとは昨夜の見覚みおぼえの通りなり。この人の曰く、手をかけて見たらばよかりしに、半なかば恐ろしければただ足にて触ふれたるのみなりし故、さらに何もののわざとも思いつかずと。


七八 
同じ人の話に、家に奉公せし山口の長蔵なる者、今も七十余の老翁にて生存す。かつて夜遊びに出でて遅くかえり来たりしに、主人の家の門は大槌おおづち往還に向いて立てるが、この門の前にて浜の方よりくる人に逢えり。雪合羽ゆきがっぱを着たり。近づきて立ちとまる故、長蔵も怪しみてこれを見たるに、往還を隔てて向側なる畠地の方へすっと反それて行きたり。かしこには垣根かきねありしはずなるにと思いて、よく見れば垣根は正まさしくあり。急に怖ろしくなりて家の内に飛び込み、主人にこの事を語りしが、のちになりて聞けば、これと同じ時刻に新張村にいばりむらの何某という者、浜よりの帰り途みちに馬より落ちて死したりとのことなり。


七九 
この長蔵の父をもまた長蔵という。代々田尻家の奉公人にて、その妻とともに仕えてありき。若きころ夜遊びに出で、まだ宵よいのうちに帰り来たり、門かどの口くちより入りしに、洞前ほらまえに立てる人影あり。懐手ふところでをして筒袖つつそでの袖口を垂れ、顔は茫ぼうとしてよく見えず。妻は名をおつねといえり。おつねのところへ来たるヨバヒトではないかと思い、つかつかと近よりしに、奥の方へは遁にげずして、かえって右手の玄関の方へ寄る故、人を馬鹿にするなと腹立たしくなりて、なお進みたるに、懐手のまま後あとずさりして玄関の戸の三寸ばかり明きたるところより、すっと内に入はいりたり。されど長蔵はなお不思議とも思わず、その戸の隙すきに手を差し入れて中を探らんとせしに、中の障子しょうじは正まさしく閉とざしてあり。ここに始めて恐ろしくなり、少し引き下らんとして上を見れば、今の男玄関の雲壁くもかべにひたとつきて我を見下すごとく、その首は低く垂たれてわが頭に触るるばかりにて、その眼の球は尺余も、抜け出でてあるように思われたりという。この時はただ恐ろしかりしのみにて何事の前兆にてもあらざりき。

○ヨバヒトは呼ばい人なるべし。女に思いを運ぶ人をかくいう。

○雲壁はなげしの外側の壁なり。
田尻家の平面図

八〇 
右の話をよく呑のみこむためには、田尻氏の家のさまを図にする必要あり。遠野一郷の家の建てかたはいずれもこれと大同小異なり。

 門はこの家のは北向きたむきなれど、通例は東向きなり。右の図にて厩舎うまやのあるあたりにあるなり。門のことを城前じょうまえという。屋敷やしきのめぐりは畠にて、囲墻いしょうを設けず。主人の寝室とウチとの間に小さく暗き室あり。これを座頭部屋ざとうべやという。昔は家に宴会あれば必ず座頭を喚よびたり。これを待たせ置く部屋なり。

○この地方を旅行して最も心とまるは家の形の何いずれもかぎの手なることなり。この家などそのよき例なり。


八一 
栃内の字野崎のざきに前川万吉という人あり。二三年前に三十余にて亡くなりたり。この人も死ぬる二三年前に夜遊びに出でて帰りしに、門かどの口くちより廻まわり縁えんに沿いてその角かどまで来たるとき、六月の月夜のことなり、何心なにごころなく雲壁くもかべを見れば、ひたとこれにつきて寝たる男あり。色の蒼あおざめたる顔なりき。大いに驚きて病みたりしがこれも何の前兆にてもあらざりき。田尻氏の息子丸吉この人と懇親にてこれを聞きたり。

田尻家の常居の平面図
https://www.aozora.gr.jp/cards/001566/files/52504_49667.html


八二 
これは田尻丸吉という人が自ら遭あいたることなり。少年の頃ある夜常居じょういより立ちて便所に行かんとして茶の間に入りしに、座敷ざしきとの境に人立てり。幽かすかに茫としてはあれど、衣類の縞しまも眼鼻もよく見え、髪をば垂たれたり。恐ろしけれどそこへ手を延ばして探りしに、板戸にがたと突き当り、戸のさんにも触さわりたり。されどわが手は見えずして、その上に影のように重かさなりて人の形あり。その顔のところへ手を遣やればまた手の上に顔見ゆ。常居じょういに帰りて人々に話し、行灯あんどんを持ち行きて見たれば、すでに何ものもあらざりき。この人は近代的の人にて怜悧れいりなる人なり。また虚言をなす人にもあらず。

八三 
山口の大同、大洞万之丞おおほらまんのじょうの家の建てざまは少しく外ほかの家とはかわれり。その図次のページに出す。玄関は巽たつみの方に向かえり。きわめて古き家なり。この家には出して見れば祟たたりありとて開かざる古文書の葛籠つづら一つあり。


大洞家の平面図
https://www.aozora.gr.jp/cards/001566/files/52504_49667.html


八四 
佐々木氏の祖父は七十ばかりにて三四年前に亡くなりし人なり。この人の青年のころといえば、嘉永かえいの頃なるべきか。海岸の地には西洋人あまた来住してありき。釜石かまいしにも山田にも西洋館あり。船越ふなこしの半島の突端にも西洋人の住みしことあり。耶蘇ヤソ教は密々に行われ、遠野郷にてもこれを奉じて磔はりつけになりたる者あり。浜に行きたる人の話に、異人はよく抱き合いては嘗なめ合う者なりなどいうことを、今でも話にする老人あり。海岸地方には合あいの子こなかなか多かりしということなり。

八五 
土淵村の柏崎かしわざきにては両親とも正まさしく日本人にして白子しらこ二人ある家あり。髪も肌も眼も西洋人の通りなり。今は二十六七ぐらいなるべし。家にて農業を営いとなむ。語音も土地の人とは同じからず、声細くして鋭するどし。

八六 
土淵村の中央にて役場小学校などのあるところを字本宿もとじゅくという。此所に豆腐屋とうふやを業とする政という者、今三十六七なるべし。この人の父大病にて死なんとするころ、この村と小烏瀬こがらせ川を隔てたる字下栃内しもとちないに普請ふしんありて、地固めの堂突どうづきをなすところへ、夕方に政の父ひとり来たりて人々に挨拶あいさつし、おれも堂突をなすべしとて暫時仲間に入りて仕事をなし、やや暗くなりて皆とともに帰りたり。あとにて人々あの人は大病のはずなるにと少し不思議に思いしが、後に聞けばその日亡くなりたりとのことなり。人々悔みに行き今日のことを語りしが、その時刻はあたかも病人が息を引き取らんとするころなりき。

八七 
人の名は忘れたれど、遠野の町の豪家にて、主人大煩おおわずらいして命の境に臨みしころ、ある日ふと菩提寺ぼだいじに訪い来たれり。和尚おしょう鄭重ていちょうにあしらい茶などすすめたり。世間話せけんばなしをしてやがて帰らんとする様子に少々不審あれば、跡より小僧を見せに遣やりしに、門を出でて家の方に向い、町の角かどを廻りて見えずなれり。その道にてこの人に逢いたる人まだほかにもあり。誰にもよく挨拶して常つねの体ていなりしが、この晩に死去してもちろんその時は外出などすべき様態ようだいにてはあらざりしなり。後に寺にては茶は飲みたりや否やと茶椀を置きしところを改めしに、畳たたみの敷合しきあわせへ皆こぼしてありたり。


八八 
これも似たる話なり。土淵村大字土淵の常堅寺じょうけんじは曹洞宗そうとうしゅうにて、遠野郷十二ヶ寺の触頭ふれがしらなり。或る日の夕方に村人何某という者、本宿もとじゅくより来る路にて何某という老人にあえり。この老人はかねて大病をして居る者なれば、いつのまによくなりしやと問うに、二三日気分も宜よろしければ、今日は寺へ話を聞きに行くなりとて、寺の門前にてまた言葉を掛け合いて別れたり。常堅寺にても和尚はこの老人が訪ね来たりし故ゆえ出迎え、茶を進めしばらく話をして帰る。これも小僧に見させたるに門の外そとにて見えずなりしかば、驚きて和尚に語り、よく見ればまた茶は畳の間にこぼしてあり、老人はその日失うせたり。


八九 
山口より柏崎へ行くには愛宕山あたごやまの裾すそを廻まわるなり。田圃たんぼに続ける松林にて、柏崎の人家見ゆる辺より雑木ぞうきの林となる。愛宕山の頂いただきには小さき祠ほこらありて、参詣さんけいの路は林の中にあり。登口のぼりくちに鳥居とりい立ち、二三十本の杉の古木あり。その旁かたわらにはまた一つのがらんとしたる堂あり。堂の前には山神の字を刻みたる石塔を立つ。昔より山の神出づと言い伝うるところなり。和野わのの何某という若者、柏崎に用事ありて夕方堂のあたりを通りしに、愛宕山の上より降くだり来る丈たけ高き人あり。誰ならんと思い林の樹木越しにその人の顔のところを目がけて歩み寄りしに、道の角かどにてはたと行き逢いぬ。先方は思い掛けざりしにや大いに驚きて此方を見たる顔は非常に赤く、眼は耀かがやきてかついかにも驚きたる顔なり。山の神なりと知りて後あとをも見ずに柏崎の村に走りつきたり。

○遠野郷には山神塔多く立てり、そのところはかつて山神に逢いまたは山神の祟を受けたる場所にて神をなだむるために建てたる石なり。


九十 
松崎村に天狗森てんぐもりという山あり。その麓なる桑畠くわばたけにて村の若者何某という者、働きていたりしに、頻しきりに睡ねむくなりたれば、しばらく畠の畔くろに腰掛けて居眠いねむりせんとせしに、きわめて大なる男の顔は真赤まっかなるが出で来たれり。若者は気軽にて平生へいぜ相撲すもうなどの好きなる男なれば、この見馴みなれぬ大男が立ちはだかりて上より見下すようなるを面悪つらにくく思い、思わず立ち上りてお前はどこから来たかと問うに、何の答えもせざれば、一つ突き飛ばしてやらんと思い、力自慢ちからじまんのまま飛びかかり手を掛けたりと思うや否や、かえりて自分の方が飛ばされて気を失いたり。夕方に正気づきてみれば無論その大男はおらず。家に帰りてのち人にこの事を話したり。その秋のことなり。早池峯の腰へ村人大勢とともに馬を曳ひきて萩はぎを苅りに行き、さて帰らんとするころになりてこの男のみ姿見えず。一同驚きて尋ねたれば、深き谷の奥にて手も足も一つ一つ抜き取られて死していたりという。今より二三十年前のことにて、この時の事をよく知れる老人今も存在せり。天狗森には天狗多くいるということは昔より人の知るところなり。


九一 
遠野の町に山々の事に明るき人あり。もとは南部男爵だんしゃく家の鷹匠たかじょうなり。町の人綽名あだなして鳥御前とりごぜんという。早池峯、六角牛の木や石や、すべてその形状と在処ありどころとを知れり。年取りてのち茸採きのことりにとて一人の連つれとともに出でたり。この連の男というは水練の名人にて、藁わらと槌つちとを持ちて水の中に入り、草鞋わらじを作りて出てくるという評判の人なり。さて遠野の町と猿ヶ石川を隔つる向山むけえやまという山より、綾織あやおり村の続石つづきいしとて珍しき岩のある所の少し上の山に入り、両人別れ別れになり、鳥御前一人はまた少し山を登りしに、あたかも秋の空の日影、西の山の端はより四五間けんばかりなる時刻なり。ふと大なる岩の陰かげに赭あかき顔の男と女とが立ちて何か話をして居るに出逢であいたり。彼らは鳥御前の近づくを見て、手を拡ひろげて押し戻すようなる手つきをなし制止したれども、それにも構かまわず行きたるに女は男の胸に縋すがるようにしたり。事のさまより真の人間にてはあるまじと思いながら、鳥御前はひょうきんな人なれば戯たわむれて遣やらんとて腰なる切刃きりはを抜き、打ちかかるようにしたれば、その色赭き男は足を挙あげて蹴けりたるかと思いしが、たちまちに前後を知らず。連なる男はこれを探さがしまわりて谷底に気絶してあるを見つけ、介抱して家に帰りたれば、鳥御前は今日の一部始終を話し、かかる事は今までに更になきことなり。おのれはこのために死ぬかも知れず、ほかの者には誰にもいうなと語り、三日ほどの間病みて身まかりたり。家の者あまりにその死にようの不思議なればとて、山臥やまぶしのケンコウ院というに相談せしに、その答えには、山の神たちの遊べるところを邪魔したる故、その祟たたりをうけて死したるなりといえり。この人は伊能先生なども知合しりあいなりき。今より十余年前の事なり。

九二 
昨年のことなり。土淵村の里の子十四五人にて早池峯に遊びに行き、はからず夕方近くなりたれば、急ぎて山を下り麓ふもと近くなるころ、丈たけの高き男の下より急ぎ足に昇りくるに逢えり。色は黒く眼まなこはきらきらとして、肩には麻かと思わるる古き浅葱色あさぎいろの風呂敷ふろしきにて小さき包を負いたり。恐ろしかりしかども子供の中の一人、どこへ行くかと此方より声を掛けたるに、小国おぐにさ行くと答う。この路は小国へ越ゆべき方角にはあらざれば、立ちとまり不審するほどに、行き過ぐると思うまもなく、はや見えずなりたり。山男よと口々に言いてみなみな遁げ帰りたりといえり。


九三 
これは和野の人菊池菊蔵という者、妻は笛吹峠のあなたなる橋野より来たる者なり。この妻親里へ行きたる間に、糸蔵という五六歳の男の児こ病気になりたれば、昼過ひるすぎより笛吹峠を越えて妻を連れに親里へ行きたり。名に負う六角牛の峯続きなれば山路は樹深く、ことに遠野分より栗橋分へ下らんとするあたりは、路はウドになりて両方は岨そばなり。日影はこの岨に隠れてあたりやや薄暗くなりたるころ、後の方より菊蔵と呼ぶ者あるに振り返りて見れば、崖がけの上より下を覗のぞくものあり。顔は赭く眼の光りかがやけること前の話のごとし。お前の子はもう死んで居るぞという。この言葉を聞きて恐ろしさよりも先にはっと思いたりしが、はやその姿は見えず。急ぎ夜の中に妻を伴ともないて帰りたれば、果して子は死してありき。四五年前のことなり。

○ウドとは両側高く切込みたる路のことなり。東海道の諸国にてウタウ坂・謡坂などいうはすべてかくのごとき小さき切通しのことならん。

九四 
この菊蔵、柏崎なる姉の家に用ありて行き、振舞ふるまわれたる残りの餅もちを懐ふところに入れて、愛宕山の麓ふもとの林を過ぎしに、象坪ぞうつぼの藤七という大酒呑おおざけのみにて彼と仲善なかよしの友に行き逢えり。そこは林の中なれど少しく芝原しばはらあるところなり。藤七はにこにことしてその芝原を指ゆびさし、ここで相撲すもうを取らぬかという。菊蔵これを諾し、二人草原にてしばらく遊びしが、この藤七いかにも弱く軽く自由に抱かかえては投げらるる故ゆえ、面白きままに三番まで取りたり。藤七が曰く、今日はとてもかなわず、さあ行くべしとて別れたり。四五間けんも行きてのち心づきたるにかの餅見えず。相撲場に戻りて探したれどなし。始めて狐ならんかと思いたれど、外聞を恥じて人にもいわざりしが、四五日ののち酒屋にて藤七に逢いその話をせしに、おれは相撲など取るものか、その日は浜へ行きてありしものをと言いて、いよいよ狐と相撲を取りしこと露顕したり。されど菊蔵はなお他の人々には包み隠してありしが、昨年の正月の休みに人々酒を飲み狐の話をせしとき、おれもじつはとこの話を白状し、大いに笑われたり。

○象坪は地名にしてかつ藤七の名字なり。象坪という地名のこと『石神問答いしがみもんどう』の中にてこれを研究したり。

九五 
松崎の菊池某という今年四十三四の男、庭作りの上手じょうずにて、山に入り草花を掘りてはわが庭に移し植え、形の面白き岩などは重きを厭いとわず家に担にない帰るを常とせり。或る日少し気分重ければ家を出でて山に遊びしに、今までついに見たることなき美しき大岩を見つけたり。平生へいぜいの道楽なればこれを持ち帰らんと思い、持ち上げんとせしが非常に重し。あたかも人の立ちたる形して丈たけもやがて人ほどあり。されどほしさのあまりこれを負い、我慢して十間ばかり歩みしが、気の遠くなるくらい重ければ怪しみをなし、路みちの旁かたわらにこれを立て少しくもたれかかるようにしたるに、そのまま石とともにすっと空中に昇のぼり行く心地ここちしたり。雲より上になりたるように思いしがじつに明るく清きところにて、あたりにいろいろの花咲き、しかも何処いずこともなく大勢の人声聞えたり。されど石はなおますます昇のぼり行き、ついには昇り切りたるか、何事も覚えぬようになりたり。その後時過ぎて心づきたる時は、やはり以前のごとく不思議の石にもたれたるままにてありき。この石を家の内へ持ち込みてはいかなることあらんも測はかりがたしと、恐ろしくなりて遁げ帰りぬ。この石は今も同じところにあり。おりおりはこれを見て再びほしくなることありといえり。


九六 
遠野の町に芳公馬鹿よしこうばかとて三十五六なる男、白痴にて一昨年まで生きてありき。この男の癖は路上にて木の切れ塵ちりなどを拾い、これを捻ひねりてつくづくと見つめまたはこれを嗅かぐことなり。人の家に行きては柱などをこすりてその手を嗅ぎ、何ものにても眼の先きまで取り上げ、にこにことしておりおりこれを嗅ぐなり。この男往来をあるきながら急に立ち留どまり、石などを拾い上げてこれをあたりの人家に打ちつけ、けたたましく火事だ火事だと叫ぶことあり。かくすればその晩か次の日か物を投げつけられたる家火を発せざることなし。同じこと幾度となくあれば、のちにはその家々も注意して予防をなすといえども、ついに火事を免まぬかれたる家は一軒もなしといえり。

九七 
飯豊いいでの菊池松之丞まつのじょうという人傷寒しょうかんを病み、たびたび息を引きつめし時、自分は田圃に出でて菩提寺ぼだいじなるキセイ院へ急ぎ行かんとす。足に少し力を入れたるに、図らず空中に飛び上り、およそ人の頭ほどのところを次第に前下まえさがりに行き、また少し力を入るれば昇ること始めのごとし。何とも言われず快こころよし。寺の門に近づくに人群集せり。何故なにゆえならんと訝いぶかりつつ門を入れば、紅くれないの芥子けしの花咲き満ち、見渡すかぎりも知らず。いよいよ心持よし。この花の間に亡なくなりし父立てり。お前もきたのかという。これに何か返事をしながらなお行くに、以前失いたる男の子おりて、トッチャお前もきたかという。お前はここにいたのかと言いつつ近よらんとすれば、今きてはいけないという。この時門の辺にて騒しくわが名を喚よぶ者ありて、うるさきこと限りなけれど、よんどころなければ心も重くいやいやながら引き返したりと思えば正気づきたり。親族の者寄り集つどい水など打ちそそぎて喚よび生いかしたるなり。


九八 
路の傍に山の神、田の神、塞さえの神の名を彫りたる石を立つるは常のことなり。また早池峯山・六角牛山の名を刻したる石は、遠野郷にもあれど、それよりも浜にことに多し。

九九 
土淵村の助役北川清という人の家は字火石ひいしにあり。代々の山臥やまぶしにて祖父は正福院といい、学者にて著作多く、村のために尽したる人なり。清の弟に福二という人は海岸の田の浜へ婿むこに行きたるが、先年の大海嘯おおつなみに遭いて妻と子とを失い、生き残りたる二人の子とともに元もとの屋敷の地に小屋を掛けて一年ばかりありき。夏の初めの月夜に便所に起き出でしが、遠く離れたるところにありて行く道も浪なみの打つ渚なぎさなり。霧の布しきたる夜なりしが、その霧の中より男女二人の者の近よるを見れば、女は正まさしく亡くなりしわが妻なり。思わずその跡をつけて、遥々はるばると船越ふなこし村の方へ行く崎の洞ほこらあるところまで追い行き、名を呼びたるに、振り返りてにこと笑いたり。男はとみればこれも同じ里の者にて海嘯の難に死せし者なり。自分が婿に入りし以前に互いに深く心を通わせたりと聞きし男なり。今はこの人と夫婦になりてありというに、子供は可愛かわいくはないのかといえば、女は少しく顔の色を変えて泣きたり。死したる人と物いうとは思われずして、悲しく情なくなりたれば足元あしもとを見てありし間に、男女は再び足早にそこを立ち退のきて、小浦おうらへ行く道の山陰やまかげを廻めぐり見えずなりたり。追いかけて見たりしがふと死したる者なりしと心づき、夜明けまで道中みちなかに立ちて考え、朝になりて帰りたり。その後久しく煩わずらいたりといえり。

一〇〇 
船越の漁夫何某。ある日仲間の者とともに吉利吉里きりきりより帰るとて、夜深く四十八坂のあたりを通りしに、小川のあるところにて一人の女に逢う。見ればわが妻なり。されどもかかる夜中にひとりこの辺に来くべき道理なければ、必定ひつじょう化物ばけものならんと思い定め、やにわに魚切庖丁うおきりぼうちょうを持ちて後の方より差し通したれば、悲しき声を立てて死したり。しばらくの間は正体を現わさざれば流石さすがに心に懸り、後あとの事を連つれの者に頼み、おのれは馳せて家に帰りしに、妻は事もなく家に待ちてあり。今恐ろしき夢を見たり。あまり帰りの遅ければ夢に途中まで見に出でたるに、山路にて何とも知れぬ者に脅おびやかされて、命を取らるると思いて目覚めたりという。さてはと合点がてんして再び以前の場所へ引き返してみれば、山にて殺したりし女は連の者が見ておる中についに一匹の狐きつねとなりたりといえり。夢の野山を行くにこの獣の身を傭やとうことありと見ゆ。


一〇一 
旅人豊間根とよまね村を過ぎ、夜更ふけ疲れたれば、知音ちいんの者の家に灯火の見ゆるを幸さいわいに、入りて休息せんとせしに、よき時に来合きあわせたり、今夕死人あり、留守るすの者なくていかにせんかと思いしところなり、しばらくの間頼むといいて主人は人を喚よびに行きたり。迷惑千万めいわくせんばんなる話なれど是非もなく、囲炉裡いろりの側にて煙草タバコを吸いてありしに、死人は老女にて奥の方に寝させたるが、ふと見れば床とこの上にむくむくと起き直る。胆潰きもつぶれたれど心を鎮しずめ静かにあたりを見廻みまわすに、流し元もとの水口の穴より狐のごとき物あり、面つらをさし入れて頻しきりに死人の方を見つめていたり。さてこそと身を潜ひそめ窃ひそかに家の外に出で、背戸せとの方に廻りて見れば、正しく狐にて首を流し元の穴に入れ後足あとあしを爪立つまたてていたり。有合ありあわせたる棒をもてこれを打ち殺したり。

○下閉伊郡豊間根村大字豊間根。

一〇二 
正月十五日の晩を小正月こしょうがつという。宵よいのほどは子供ら福の神と称して四五人群を作り、袋を持ちて人の家に行き、明あけの方から福の神が舞い込んだと唱となえて餅を貰もらう習慣あり。宵を過ぐればこの晩に限り人々決して戸の外に出づることなし。小正月の夜半過ぎは山の神出でて遊ぶと言いい伝えてあればなり。山口の字丸古立まるこだちにおまさという今三十五六の女、まだ十二三の年のことなり。いかなるわけにてか唯一人にて福の神に出で、ところどころをあるきて遅くなり、淋さびしき路を帰りしに、向うの方より丈たけの高き男来てすれちがいたり。顔はすてきに赤く眼はかがやけり。袋を捨てて遁げ帰り大いに煩いたりといえり。

一〇三 
小正月の夜、または小正月ならずとも冬の満月の夜は、雪女が出でて遊ぶともいう。童子をあまた引き連れてくるといえり。里の子ども冬は近辺の丘に行き、橇遊そりっこあそびをして面白さのあまり夜になることあり。十五日の夜に限り、雪女が出るから早く帰れと戒めらるるは常のことなり。されど雪女を見たりという者は少なし。

一〇四 
小正月の晩には行事甚はなはだ多し。月見つきみというは六つの胡桃くるみの実みを十二に割り一時いっときに炉ろの火にくべて一時にこれを引き上げ、一列にして右より正月二月と数うるに、満月の夜晴なるべき月にはいつまでも赤く、曇るべき月には直すぐに黒くなり、風ある月にはフーフーと音をたてて火が振ふるうなり。何遍繰り返しても同じことなり。村中いずれの家にても同じ結果を得るは妙なり。翌日はこの事を語り合い、例えば八月の十五夜風とあらば、その歳としの稲の苅入かりいれを急ぐなり。

○五穀の占、月の占多少のヴァリエテをもって諸国に行なわる。陰陽道おんようどうに出でしものならん。


一〇五 
また世中見よなかみというは、同じく小正月の晩に、いろいろの米にて餅をこしらえて鏡となし、同種の米を膳ぜんの上に平たいらに敷き、鏡餅かがみもちをその上に伏せ、鍋なべを被かぶせ置きて翌朝これを見るなり。餅につきたる米粒こめつぶの多きものその年は豊作なりとして、早中晩の種類を択び定むるなり。

一〇六 
海岸の山田にては蜃気楼しんきろう年々見ゆ。常に外国の景色なりという。見馴みなれぬ都のさまにして、路上の車馬しげく人の往来眼ざましきばかりなり。年ごとに家の形などいささかも違うことなしといえり。

一〇七 
上郷村に河ぷちのうちという家あり。早瀬川の岸にあり。この家の若き娘、ある日河原に出でて石を拾いてありしに、見馴れぬ男来たり、木の葉とか何とかを娘にくれたり。丈たけ高く面朱しゅのようなる人なり。娘はこの日より占うらないの術を得たり。異人は山の神にて、山の神の子になりたるなりといえり。


一〇八 
山の神の乗り移りたりとて占をなす人は所々にあり。附馬牛つくもうし村にもあり。本業は木挽こびきなり。柏崎の孫太郎もこれなり。以前は発狂して喪心したりしに、ある日山に入りて山の神よりその術を得たりしのちは、不思議に人の心中を読むこと驚くばかりなり。その占いの法は世間の者とは全く異なり。何の書物をも見ず、頼みにきたる人と世間話をなし、その中にふと立ちて常居じょういの中なかをあちこちとあるき出すと思うほどに、その人の顔は少しも見ずして心に浮びたることをいうなり。当らずということなし。例えばお前のウチの板敷いたじきを取り離し、土を掘りて見よ。古き鏡または刀の折れあるべし。それを取り出さねば近き中に死人ありとか家が焼くるとかいうなり。帰りて掘りて見るに必ずあり。かかる例は指を屈するに勝たえず。


一〇九 
盆のころには雨風祭とて藁わらにて人よりも大なる人形にんぎょうを作り、道の岐ちまたに送り行きて立つ。紙にて顔を描えがき瓜うりにて陰陽の形を作り添えなどす。虫祭の藁人形にはかかることはなくその形も小さし。雨風祭の折は一部落の中にて頭屋とうやを択えらび定め、里人さとびと集まりて酒を飲みてのち、一同笛太鼓ふえたいこにてこれを道の辻まで送り行くなり。笛の中には桐きりの木にて作りたるホラなどあり。これを高く吹く。さてその折の歌は「二百十日の雨風まつるよ、どちの方さ祭る、北の方さ祭る」という。

○『東国輿地よち勝覧』によれば韓国にても※(「厂+萬」、第3水準1-14-84)壇れいだんを必ず城の北方に作ること見ゆ。ともに玄武神の信仰より来たれるなるべし。


一一〇 
ゴンゲサマというは、神楽舞かぐらまいの組ごとに一つずつ備われる木彫きぼりの像にして、獅子頭ししがしらとよく似て少しく異ことなれり。甚だ御利生ごりしょうのあるものなり。新張にいばりの八幡社の神楽組のゴンゲサマと、土淵村字五日市いつかいちの神楽組のゴンゲサマと、かつて途中にて争いをなせしことあり。新張のゴンゲサマ負けて片耳かたみみを失いたりとて今もなし。毎年村々を舞いてあるく故、これを見知らぬ者なし。ゴンゲサマの霊験れいげんはことに火伏ひぶせにあり。右の八幡の神楽組かつて附馬牛村に行きて日暮ひぐれ宿を取り兼ねしに、ある貧しき者の家にて快こころよくこれを泊とめて、五升桝ますを伏せてその上にゴンゲサマを座すえ置き、人々は臥ふしたりしに、夜中にがつがつと物を噛かむ音のするに驚きて起きてみれば、軒端のきばたに火の燃えつきてありしを、桝の上なるゴンゲサマ飛び上り飛び上りして火を喰くい消してありしなりと。子どもの頭を病む者など、よくゴンゲサマを頼み、その病を噛みてもらうことあり。

一一一 
山口、飯豊、附馬牛の字荒川東禅寺および火渡ひわたり、青笹の字中沢ならびに土淵村の字土淵に、ともにダンノハナという地名あり。その近傍にこれと相対して必ず蓮台野れんだいのという地あり。昔は六十を超えたる老人はすべてこの蓮台野へ追い遣るの習ならいありき。老人はいたずらに死んで了しまうこともならぬ故に、日中は里へ下り農作して口を糊ぬらしたり。そのために今も山口土淵辺にては朝あしたに野らに出づるをハカダチといい、夕方野らより帰ることをハカアガリというといえり。

○ダンノハナは壇の塙なるべし。すなわち丘の上にて塚を築きたる場所ならん。境の神を祭るための塚なりと信ず。蓮台野もこの類なるべきこと『石神問答』中にいえり。

一一二 
ダンノハナは昔館たてのありし時代に囚人を斬きりし場所なるべしという。地形は山口のも土淵飯豊のもほぼ同様にて、村境の岡の上なり。仙台にもこの地名あり。山口のダンノハナは大洞おおほらへ越ゆる丘の上にて館址たてあとよりの続きなり。蓮台野はこれと山口の民居を隔てて相対す。蓮台野の四方はすべて沢なり。東はすなわちダンノハナとの間の低地、南の方を星谷という。此所には蝦夷屋敷えぞやしきという四角に凹へこみたるところ多くあり。その跡あときわめて明白なり。あまた石器を出す。石器土器の出るところ山口に二ヶ所あり。他の一は小字こあざをホウリョウという。ここの土器と蓮台野の土器とは様式全然殊ことなり。後者のは技巧いささかもなく、ホウリョウのは模様もようなども巧たくみなり。埴輪はにわもここより出づ。また石斧石刀の類も出づ。蓮台野には蝦夷銭えぞせんとて土にて銭の形をしたる径二寸ほどの物多く出づ。これには単純なる渦紋うずもんなどの模様あり。字ホウリョウには丸玉・管玉くだたまも出づ。ここの石器は精巧にて石の質も一致したるに、蓮台野のは原料いろいろなり。ホウリョウの方は何の跡ということもなく、狭き一町歩いっちょうぶほどの場所なり。星谷は底の方かた今は田となれり。蝦夷屋敷はこの両側に連なりてありしなりという。このあたりに掘れば祟たたりありという場所二ヶ所ほどあり。

○外ほかの村々にても二所の地形および関係これに似たりという。

○星谷という地名も諸国にあり星を祭りしところなり。

○ホウリョウ権現は遠野をはじめ奥羽一円に祀らるる神なり。蛇の神なりという。名義を知らず。

一一三 
和野にジョウヅカ森というところあり。象を埋めし場所なりといえり。此所だけには地震なしとて、近辺にては地震の折はジョウヅカ森へ遁げよと昔より言い伝えたり。これは確かに人を埋めたる墓なり。塚のめぐりには堀あり。塚の上には石あり。これを掘れば祟たたりありという。

○ジョウズカは定塚、庄塚または塩塚などとかきて諸国にあまたあり。これも境の神を祀りしところにて地獄のショウツカの奪衣婆だつえばの話などと関係あること『石神問答』に詳つまびらかにせり。また象坪などの象頭神とも関係あれば象の伝説は由よしなきにあらず、塚を森ということも東国の風なり。


一一四 
山口のダンノハナは今は共同墓地なり。岡の頂上にうつ木を栽うえめぐらしその口は東方に向かいて門口もんぐちめきたるところあり。その中ほどに大なる青石あり。かつて一たびその下を掘りたる者ありしが、何ものをも発見せず。のち再びこれを試みし者は大なる瓶かめあるを見たり。村の老人たち大いに叱しかりければ、またもとのままになし置きたり。館たての主の墓なるべしという。此所に近き館の名はボンシャサの館という。いくつかの山を掘り割りて水を引き、三重四重に堀を取り廻めぐらせり。寺屋敷・砥石森といしもりなどいう地名あり。井の跡とて石垣いしがき残れり。山口孫左衛門の祖先ここに住めりという。『遠野古事記とおのこじき』に詳つまびらかなり。

一一五 
御伽話おとぎばなしのことを昔々むかしむかしという。ヤマハハの話最も多くあり。ヤマハハは山姥やまうばのことなるべし。その一つ二つを次に記すべし。

一一六 
昔々あるところにトトとガガとあり。娘を一人持てり。娘を置きて町へ行くとて、誰がきても戸を明けるなと戒しめ、鍵かぎを掛けて出でたり。娘は恐ろしければ一人炉にあたりすくみていたりしに、真昼間まひるまに戸を叩きてここを開けと呼ぶ者あり。開かずば蹴破けやぶるぞと嚇おどす故ゆえに、是非なく戸を明けたれば入りきたるはヤマハハなり。炉の横座よこざに蹈ふみはたかりて火にあたり、飯をたきて食わせよという。その言葉に従い膳ぜんを支度してヤマハハに食わせ、その間に家を遁げ出したるに、ヤマハハは飯を食い終りて娘を追い来たり、おいおいにその間あいだ近く今にも背せなに手の触ふるるばかりになりし時、山の蔭かげにて柴しばを苅る翁に逢う。おれはヤマハハにぼっかけられてあるなり、隠かくしてくれよと頼み、苅り置きたる柴の中に隠れたり。ヤマハハ尋ね来たりて、どこに隠れたかと柴の束たばをのけんとして柴を抱かかえたるまま山より滑すべり落ちたり。その隙ひまにここを遁のがれてまた萱かやを苅る翁に逢う。おれはヤマハハにぼっかけられてあるなり、隠してくれよと頼み、苅り置きたる萱の中に隠れたり。ヤマハハはまた尋ね来たりて、どこに隠れたかと萱の束をのけんとして、萱を抱えたるまま山より滑り落ちたり。その隙にまたここを遁れ出でて大きなる沼の岸に出でたり。これよりは行くべき方かたもなければ、沼の岸の大木の梢に昇のぼりいたり。ヤマハハはどけえ行ったとて遁のがすものかとて、沼の水に娘の影の映うつれるを見てすぐに沼の中に飛び入りたり。この間に再び此所を走り出で、一つの笹小屋ささごやのあるを見つけ、中に入りて見れば若き女いたり。此にも同じことを告げて石の唐櫃からうどのありし中へ隠してもらいたるところへ、ヤマハハまた飛び来たり娘のありかを問えども隠して知らずと答えたれば、いんね来ぬはずはない、人くさい香がするものという。それは今雀すずめを炙あぶって食った故ゆえなるべしと言えば、ヤマハハも納得なっとくしてそんなら少し寝ねん、石のからうどの中にしようか、木のからうどの中がよいか、石はつめたし木のからうどの中にと言いて、木の唐櫃の中に入りて寝たり。家の女はこれに鍵かぎを下おろし、娘を石のからうどより連れ出し、おれもヤマハハに連れて来られたる者なればともどもにこれを殺して里へ帰らんとて、錐きりを紅あかく焼きて木の唐櫃の中に差し通したるに、ヤマハハはかくとも知らず、ただ二十日鼠はつかねずみがきたと言えり。それより湯を煮立にたてて焼錐やききりの穴より注そそぎ込みて、ついにそのヤマハハを殺し二人ともに親々の家に帰りたり。昔々の話の終りはいずれもコレデドンドハレという語をもって結ぶなり。


一一七 
昔々これもあるところにトトとガガと、娘の嫁に行く支度を買いに町へ出で行くとて戸を鎖とざし、誰がきても明けるなよ、はアと答えたれば出でたり。昼のころヤマハハ来たりて娘を取りて食い、娘の皮を被かぶり娘になりておる。夕方二人の親帰りて、おりこひめこ居たかと門の口より呼べば、あ、いたます、早かったなしと答え、二親ふたおやは買い来たりしいろいろの支度の物を見せて娘の悦よろこぶ顔を見たり。次の日夜よの明けたる時、家の鶏羽はばたきして、糠屋ぬかやの隅すみッ子こ見ろじゃ、けけろと啼なく。はて常つねに変りたる鶏の啼きようかなと二親ふたおやは思いたり。それより花嫁を送り出すとてヤマハハのおりこひめこを馬に載せ、今や引き出さんとするときまた鶏啼く。その声は、おりこひめこを載せなえでヤマハハのせた、けけろと聞きこゆ。これを繰り返して歌いしかば、二親も始めて心づき、ヤマハハを馬より引き下おろして殺したり。それより糠屋の隅を見に行きしに娘の骨あまた有ありたり。

○糠屋は物おきなり。

一一八 
紅皿欠皿べにざらかけざらの話も遠野郷に行おこなわる。ただ欠皿の方はその名をヌカボという。ヌカボは空穂うつぼのことなり。継母ままははに悪にくまれたれど神の恵めぐみありて、ついに長者の妻となるという話なり。エピソードにはいろいろの美しき絵様えようあり。折おりあらば詳しく書き記すべし。

一一九 
遠野郷の獅子踊ししおどりに古くより用いたる歌の曲あり。村により人によりて少しずつの相異あれど、自分の聞きたるは次のごとし。百年あまり以前の筆写なり。

○獅子踊はさまでこの地方に古きものにあらず。中代これを輸入せしものなることを人よく知れり。

橋ほめ

一 まゐり来て此この橋を見申みもうせや、いかなもをざは蹈ふみそめたやら、わだるがくかいざるもの

一 此御馬場このおんばばを見申せや、杉原七里大門すぎはらななりおおもんまで


門かどほめ

一 まゐり来て此このもんを見申せや、ひの木さわらで門立かどたてゝ、是これぞ目出めでたい白かねの門

一 門もんの戸びらおすひらき見申せや、あらの御せだい
       ○

一 まゐり来てこの御本堂を見申せや、いかな大工だいくは建てたやら

一 建てた御人おひとは御手とから、むかしひたのたくみの立てた寺也なり


小島ぶし

一 小島ではひの木さわらで門立かどたてゝ、是ぞ目出たい白金しろかねの門

一 白金の門戸びらおすひらき見申せや、あらの御おせだい

一 八つ棟むねぢくりにひわだぶきの、上かみにおひたるから松

一 から松のみぎり左に涌わくいぢみ、汲めども呑のめどもつきひざるもの

一 あさ日さすよう日かゞやく大寺おおてら也、さくら色のちごは百人

一 天からおづるちよ硯水すずりみず、まつて立たれる


馬屋まやほめ

一 まゐり来てこの御台所みだいどころ見申せや、め釜がまを釜に釜は十六

一 十六の釜で御代ごよたく時は、四十八の馬で朝草苅かる

一 其その馬で朝草にききやう小萱こがやを苅りまぜて、花でかゞやく馬屋なり

一 かゞやく中のかげ駒こまは、せたいあがれを足あがきする
       ○

一 此庭に歌のぞうじはありと聞く、あしびながらも心はづかし

一 われ/\はきによならひしけふあすぶ、そつ事ごめんなり

一 しやうぢ申せや限かぎりなし、一礼申して立てや友だつ


桝形ほめ

一 まゐり来てこの桝ますを見申せや、四方四角桝形の庭也

一 まゐり来て此宿やどを見申せや、人のなさげの宿と申もうす


町ほめ

一 参まいり来て此お町を見申せや、竪町たてまち十五里横七里、△△出羽にまよおな友たつ

○出羽の字もじつは不明なり。


けんだんほめ

一 まゐり来てこのけんだん様さまを見申せや、御町間中おんまちまなかにはたを立前たてまえ

一 まいは立町油町たてまちあぶらまち

一 けんだん殿は二かい座敷に昼寝すて、銭ぜにを枕に金の手遊てあそび

一 参り来てこの御札ふだ見申せば、おすがいろぢきあるまじき札

一 高き処ところは城しろと申し、ひくき処は城下しょうかと申す也


橋ほめ

一 まゐり来てこの橋を見申せば、こ金がねの辻つじに白金のはし


上ほめ

一 まゐり来てこの御堂おどう見申せや、四方四面くさび一本

一 扇おうぎとりすゞ取り、上かみさ参らばりそうある物

○すゞは数珠じゅず、りそうは利生か。


家ほめ

一 こりばすらに小金こがねのたる木に、水のせ懸がくるぐしになみたち

○こりばすら文字不分明。


浪合なみあい

一 此庭に歌の上じょうずはありと聞く、歌へながらも心はづかし

一 おんげんべりこおらいべり、山と花ござ是この御庭へさらゝすかれ

○雲繝縁、高麗縁なり。

一 まぎゑの台に玉のさかすきよりすゑて、是の御庭へ直し置く

一 十七はちやうすひやけ御手おてにもぢをすやく廻まわしや御庭かゝやく

一 この御酒ごしゅ一つ引受ひきうけたもるなら、命長くじめうさかよる

一 さかなには鯛たいもすゞきもござれ共ども、おどにきこいしからのかるうめ

一 正しようぢ申や限なし、一礼申て立や友たつ、京みやこ


柱懸り

一 仲だぢ入れよや仲入れろ、仲たづなけれや庭はすんげない※(二の字点、1-2-22)

一 すかの子は生れておりれや山めぐる、我等も廻まわる庭めぐる※(二の字点、1-2-22)

○すかの子は鹿の子なり。遠野の獅子踊の面は鹿のようなり。

一 これの御庭におい柱の立つときは、ちのみがき若くなるもの※(二の字点、1-2-22)

○ちのみがきは鹿の角磨つのみがきなるべし。

一 松島の松をそだてゝ見どすれば、松にからするちたのえせもの※(二の字点、1-2-22)

○ちたは蔦つた。

一 松島の松にからまるちたの葉も、えんが無なけれやぶろりふぐれる※(二の字点、1-2-22)

一 京で九貫のから絵のびよぼ、三よへにさらりたてまはす

○びよぼは屏風びょうぶなり。三よへは三四重か、この歌最もおもしろし。


めず※(二の字点、1-2-22)ぐり

一 仲たぢ入れろや仲入れろ、仲立なけれや庭すんげなえ※(二の字点、1-2-22)

○めず※(二の字点、1-2-22)ぐりは鹿の妻択つまえらびなるべし。

一 鹿の子は生れおりれや山廻る、我らもめぐる庭を廻るな※(二の字点、1-2-22)

一 女鹿めじかたづねていかんとして白山はくさんの御山かすみかゝる※(二の字点、1-2-22)

○して、字は〆しめてとあり。不明

一 うるすやな風はかすみを吹き払て、今こそ女鹿あけてたちねる※(二の字点、1-2-22)

○うるすやなは嬉うれしやななり。

一 何と女鹿はかくれてもひと村すゝきあけてたつねる※(二の字点、1-2-22)

一 笹ささのこのはの女鹿子めじしは、何とかくてもおひき出さる

一 女鹿大鹿ふりを見ろ、鹿の心みやこなるもの※(二の字点、1-2-22)

一 奥のみ山の大鹿はことすはじめておどりでき候そろそろ※(二の字点、1-2-22)

一 女鹿とらてあうがれて心ぢくすくをろ鹿かな※(二の字点、1-2-22)

一 松島の松をそだてゝ見とすれば松にからまるちたのえせもの※(二の字点、1-2-22)

一 松島の松にからまるちたの葉も、えんがなけれやぞろりふぐれる※(二の字点、1-2-22)

一 沖のと中ちゅうの浜す鳥、ゆらりこがれるそろりたつ物※(二の字点、1-2-22)


なげくさ

一 なげくさを如何いかな御人おひとは御出おいであつた、出た御人は心ありがたい

一 この代よを如何いかな大工は御指さしあた、四つ角かどて宝遊ばし※(二の字点、1-2-22)

一 この御酒を如何な御酒だと思おぼし召めす、おどに聞いしが※(二の字点、1-2-22)菊の酒※(二の字点、1-2-22)

一 此銭このぜにを如何な銭たと思し召す、伊勢お八まち銭熊野参くまのまいりの遣つかひあまりか※(二の字点、1-2-22)

一 此紙を如何な紙と思し召す、はりまだんぜかかしま紙か、おりめにそたひ遊はし

○播磨檀紙はりまだんしにや。

一 あふぎのお所いぢくなり、あふぎの御所三内の宮、内てすめるはかなめなり※(二の字点、1-2-22)、おりめにそたかさなる

○いぢくなりはいずこなるなり。三内の字不明。仮かりにかくよめり。
[#改ページ]


https://www.aozora.gr.jp/cards/001566/files/52504_49667.html
http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/421.html

[近代史3] 柳田国男 遠野物語 中川隆
1. 中川隆[-10334] koaQ7Jey 2019年5月11日 22:17:59 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[1775]

底本:「遠野物語・山の人生」岩波文庫 岩波書店
   1976(昭和51)年4月16日第1刷発行
   2007(平成19)年10月4日第47刷改版発行
   2010(平成22)年3月5日第50刷発行

※図版は、「遠野物語増補版」郷土研究社、1935(昭和10)年7月31日発行からとりました。
http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/421.html#c1

[リバイバル3] 中川隆 _ 心理学、大脳生理学、文化人類学、文化関係投稿リンク 中川隆
70. 中川隆[-10333] koaQ7Jey 2019年5月11日 22:20:59 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[1777]
柳田国男 遠野物語
http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/421.html

http://www.asyura2.com/09/revival3/msg/807.html#c70
[近代史02] 君はアジアを解放する為に立ち上がった昭和天皇のあの雄姿を知っているか? 中川隆
166. 中川隆[-10332] koaQ7Jey 2019年5月11日 22:59:04 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[1778]
3. 新共産主義クラブ[-10849] kFaLpI5ZjuWLYINOg4mDdQ 2019年5月11日 16:10:47: 1LP5PtPQlM : WFJWTkxBWm1xRVk=[6]

戦後の1951年頃、皇族の高松宮宣仁親王は、平和条約が効力を発する1952年に昭和天皇が退位し、陸軍は旧陸軍大将の下村定、海軍は旧海軍大将の野村吉三郎、政治は元朝日新聞社副社長の緒方竹虎、出版・ラジオのメディア戦略を旧同盟通信社の古野伊之助を中心にして担当させるという内容の日本の再軍備計画について言及していた。

1951年は朝鮮戦争中の時期であり、野村吉三郎、緒方竹虎は、広く知られているCIA工作員であったことから、皇族の高松宮宣仁親王は、CIAからの働きかけによって日本の再軍備構想に関与したものと推察される。


◆ 野村吉三郎

(Wikipedia, 2019/05/11 閲覧)

CIAとの関係

有馬哲夫は、野村が1947年に設立されたCIAの協力者であり、戦後に対米協力によって日本に陸だけではなく海軍の再建をするためになったとアメリカ側に海上戦力の再建許可を求めていたことから考えている。1954年の参院選では、CIAが資金提供および選挙対策で支援しており、CIA日本支局長ポール・ブルームが当選を祝福する手紙を送っている。なお、選挙資金は、藤村義朗元海軍中佐が管理した。また、野村とアレン・ダレスとの連絡役だったアメリカ対日協議会のハリー・カーン(『ニューズウィーク』外信部記者)は、CIAにも関係していた国務省企画部長フランク・ウィズナーに、野村をポスト吉田の首相候補とみなしてその当選を喜んだ。また、「われわれの機関の政治問題の情報提供者だった」として、野村がCIAや国務省への情報提供者であることを報告した[5]。

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%87%8E%E6%9D%91%E5%90%89%E4%B8%89%E9%83%8E


◆ NOMURA, Kichisaburo (III)

(CIA, U.S. Gov.)

Following the lines of SHIMOMURA Sadamu's plans for the Army and NOMURA's for the Navy, HATTORI's draft calls for, in general, an Army of 150,000 men, a Nary of 250,000 tons, and an Air Force of 2060 planes.. .Formal overall leadership of the advocates of rearmament is exercised by SHIMOMURA for the Army and NOMURA for the Navy. (ZJL-769, 3 Jan 52, [ ] "Japanese Rearmament" folder).

SHIMOMURA sadamu is the leading candidate for chief of the NPR, and NOMURA for chief of the MSB, (ZJL-797, 31 Jan 52, [ ] CE File III-32.3)

Acting on a directive from Prince TAKAMATSU, advised former Naval colleagues in October 1951 that the Emperor would abdicate when the Peace Treaty comes into effect in 1952. TAKAMATSU stated to NOMURA that the following would serve as nuclei of the rearmament movement in their respective spheres of influence: (1) Naval: NOMURA; Military: SNIMOMURA Sadamn; (3) Political: OGATA Taketora; (4) Press and Radio: FURUNO Inosuke. (ZJL -799, 2 February 1952, [ ] ??????? GC A -10.30)

On 14 Mar. 52 the Gov't announced the supplementary depurge of 843 persons.

Prominent in this seventh supplementary depurge announcement is former Adrimal NOMURA Kiehsaburo, ex-ambaesador to the U. S, at the time of the outbreak of Woad War. II. (No. FEC Daily, 15 Mar. 1952.)

https://www.cia.gov/library/readingroom/docs/NOMURA,%20KICHISABURO_0007.pdf


◆ 緒方竹虎

(Wikipedia, 2019/05/11 閲覧)

朝日新聞社副社長・主筆、自由党総裁、自由民主党総裁代行委員、国務大臣、情報局総裁、内閣書記官長、内閣官房長官、副総理などを歴任。

CIAとの協力関係

緒方はCIAの協力者であり、CIAが緒方政権擁立のために積極的な工作を行っていたとする説がある。

有馬哲夫は、CIA初代局長だとされるポール・ブルームが、高校・大学・朝日新聞時代の後輩だった笠信太郎との関係を通して緒方を協力者に引き込んだとしている[18][19]。また、1952年10月の衆院選で当選し吉田内閣の官房長官に就任した緒方はただちにCIA局員と接触を開始し、 日本政界の情報提供及び、辰巳栄一元陸軍中将の情報活動報告を条件として、 その見返りに日本版CIA設立を目的とした3万9458ドル(現在価値で約6000万円)の資金援助をCIAから受け取っており、CIAから資金提供を受けて活動した日本で初の政府高官が緒方であったと述べている[20]。

2017年に公開されたCIA機密文書(1952年6月18日機密指定)によれば、講和条約発足後に昭和天皇が退位して、緒方がかつて教師役をつとめたことがあり友好関係を持つ明仁皇太子に譲位し、それに伴い吉田茂首相も辞任、後継に緒方が首相に就任する(1953年の下旬から1954年の上旬)との見通しをCIAが持っていたことが明らかになった[22]。 しかしその情報源が、緒方に近いグループに属する日本人から聞いたという中国国籍の人物だったため、政局を有利に展開させるための緒方派による情報工作の可能性があるとして、この譲位問題に関する情報価値は未確定であるとCIAに分析されている[23]。

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%B7%92%E6%96%B9%E7%AB%B9%E8%99%8E

http://www.asyura2.com/19/senkyo260/msg/607.html#c3
http://www.asyura2.com/09/reki02/msg/312.html#c166

[近代史02] プーチン大統領は神の申し子_____小沢一郎先生はこういう人になって欲しかった 中川隆
151. 中川隆[-10331] koaQ7Jey 2019年5月12日 07:26:33 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[1779]
<安倍外交で取り返せるはずが、なかったのだ!>
森・プーチン会談でも持ち出されていた米軍基地問題の衝撃  天木直人 
http://www.asyura2.com/19/senkyo260/msg/636.html
http://kenpo9.com/archives/5937
2019-05-11 天木直人のブログ

 河野・ラブロフ外相会談が行われ、あらためて北方領土問題の解決の難しさが浮き彫りになった。

 まだこんな不毛な交渉をやっているのか、と言う思いだ。

 しかし私がここで書くのはその事ではない。

 安倍北方領土外交が決定的に頓挫したのは、プーチン大統領が北方領土に米軍基地を置かないと確約できるのか、という究極の問いかけをしたからだった。

 この問いかけを最初に受けたのは谷内正太郎安全保障局長だった。

 元外務官僚の谷内は、パブロフの犬のごとく、それは出来ない、とあっさりと答えたばっかりに、ロシア側はこれではダメだとなった。

 もし安倍首相がトランプとの信頼関係をうまく使ってトランプを説得し、よし、それでは米軍基地を置かないことにする、とプーチン大統領に約束出来ていれば、あるいは状況は全く違っていたものになっていたかもしれないが、今となってはすべて後の祭りだ。

 ところがである。

 この北方領土に米軍基地を置くか置かないかという懸案は、2001年のプーチン大統領と森喜朗首相との間でも、プーチン大統領から持ちかけられていたというのだ。

 「ヨシ、島を渡した後、米国が基地をつくらないといえるのか」と懸念を伝えたというのだ。

 きょう5月11日の日経新聞がそのことを教えてくれた。

 その時、プーチン大統領は、「ヨシ、これを見てくれ」と地球儀を上から示し、「ここが北極、そしてここがアラスカでここが米国。米国はこんなにもロシアのすぐ目の前にある脅威だ」と言ったというのだ。

 20年近くも前に、すでにプーチン大統領は同じ問題を提起していたのだ。

 それにもかかわらず、外務省は北方領土返還交渉におけるこの最大の問題について正面から議論することなく、安倍首相はあの時の森首相と同じように、日本を信じてもらうしかないと、あいまいな返事しか言えなかったのだ。

 しかも、プーチン大統領は森喜朗が好きだから交渉を続けてきたが、ウクライナ問題の制裁に賛成した安倍首相にプーチン大統領は激怒したというのだ。

 この日経新聞の記事が教えてくれたこと。

 それは、そもそも、森・プーチン外交で取り返せなかったものを、安倍・プーチン外交で取り返せるはずがなかったのだ。

 「北方領土問題解決で衆参ダブル選挙だ」という政治記事は、メディアがつくりだした世迷いごとだったのである(了)

「森・プーチン」つないだ日ロ交渉 「島に米基地」今も懸案
https://www.nikkei.com/article/DGXMZO44664470Q9A510C1EA3000/
2019/5/11 2:00 日経新聞 後段文字起こし

北方領土問題を巡りロシアの強硬派は米軍が島に基地を建設する懸念を反対理由に持ち出す。実はイルクーツク声明を出した2001年からプーチン大統領が言及していた。それでも交渉が続いた背景にはプーチン氏が森喜朗元首相に抱く「義理と人情」がある。

イルクーツク声明は01年3月25日、プーチン氏と森氏が極東のイルクーツクで署名した。「平和条約締結後に日本へ歯舞群島と色丹島を引き渡す」とした1956年の日ソ共同宣言が交渉の基本であることをプーチン氏と初めて確認した。


2001年3月、イルクーツクで会談した際の森元首相とプーチン大統領(右)=共同

このときプーチン氏は共同宣言は「義務」と表現したが、懸念も伝えていた。「ヨシ、島を渡した後、米軍が基地をつくらないといえるのか」。森氏は「そんなことはない。日本を信じてもらうしかない」と返した。

プーチン氏はクギを刺した。「ヨシ、地球儀を上からみてくれ」。プーチン氏は丸い物を使いながら説明した。「ここが北極、そしてここがアラスカでここが米国。米国はこんなにもロシアのすぐ目の前にある脅威だ」

プーチン氏の懸念はあまり表に出なかったが、森氏には強い印象を残した。森氏が安倍首相にプーチン氏との交渉をつないだときに「基地問題をどう説明するか。これをよく考えて臨まないと交渉を進めるのは難しい」と忠告したという。

それでもプーチン氏は交渉を続けてきた。背景には冷徹な計算と共に「森氏への信頼」という割り切れない部分も見え隠れする。「プーチン氏が森さんを好きだからとしかいいようがない」と外務省幹部。そう実感させる逸話も少なくない。

たとえばイルクーツク会談でのこと。日ソ交流に尽くした父・茂喜氏が分骨された墓を森氏が参拝した際、同行したプーチン氏がこう心配した。

「ヨシ、コートも手袋もなしで寒くないのか」。気温は氷点下で寒風も吹きすさぶ。森氏はこう諭した。「父親の墓だからではない。この地ではたくさんの日本人が抑留され、飢えと極寒に苦しんで亡くなっていった。どうして自分がコートや手袋を着ていられるだろうか」。これを聞いたプーチン氏はあわててコートと手袋を脱いだという。


抱き合う森元首相とプーチン大統領(左)(2005年6月、サンクトペテルブルク)=ロイター

つきあいが始まったのは2000年4月、プーチン氏の大統領就任直前だ。まだ国内外で「プーチン・フー?」といぶかられる存在だった。

そこに初めて訪ねてきた主要国首脳が森氏だ。森氏も小渕恵三首相の死去に伴い、急きょ首相に就いたばかり。同年夏に沖縄で開く主要国首脳会談のため7カ国訪問に出ていた。その最初の訪問地に選んだのがロシアだ。2人はバレエやアイスホッケーをみながら10時間近くを共に過ごした。

沖縄では首脳会談に遅刻してシラク仏大統領らに嫌みを言われたプーチン氏を森氏がかばった。14年、対ロ制裁に日本が参加したため「プーチン氏が安倍首相に激怒した」との話が伝わると、急きょモスクワに飛び、日本の立場を説明した。

ロシアで最後に会ったのは17年7月、エカテリンブルクで。深夜、森氏のホテルでサプライズが起きた。ロビーに突然プーチン氏が現れたのだ。森氏の誕生日を祝う食事の後「ホテルまで送る」と言い出し、大統領車に森氏を乗せてきた。その後も名残を惜しむようにロビーのソファで話し込んでいたという。

国家間の外交で個人の友情など幻想かもしれない。だが重要な資産でもある。6月の首脳会談に向け「安倍首相も森氏に期待している」と首相周辺。約20年の時を経た「森―プーチンライン」はどう動くのだろうか。

(モスクワ=桃井裕理)


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[近代史3] 折口信夫 鬼の話

折口信夫 鬼の話
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     一 おにと神と

「おに」と言ふ語ことばにも、昔から諸説があつて、今は外来語だとするのが最勢力があるが、おには正確に「鬼」でなければならないと言ふ用語例はないのだから、わたしは外来語ではないと思うてゐる。さて、日本の古代の信仰の方面では、かみ(神)と、おに(鬼)と、たま(霊)と、ものとの四つが、代表的なものであつたから、此等に就て、総括的に述べたいと思ふのである。

鬼は怖いもの、神も現今の様に抽象的なものではなくて、もつと畏しいものであつた。今日の様に考へられ出したのは、神自身の向上した為である。たまは眼に見え、輝くもので、形はまるいのである。ものは、極抽象的で、姿は考へないのが普通であつた。此は、平安朝に入つてから、勢力が現れたのである。

おには「鬼」といふ漢字に飜された為に、意味も固定して、人の死んだものが鬼である、と考へられる様になつて了うたのであるが、もとは、どんなものを斥サしておにと称したのであらうか。

現今の神々は、初めは低い地位のものだつたのが、次第に高くなつて行つたので、朝廷から神に位を授けられたことを見ても、此は、明らかである。即、神社の神は階級の低いものであつた。土地の精霊は、土地と関係することが深くなるに連れて、位を授けられる様になつて行つたので、其以前の神と言へば即、常世神だつたのである。

常世神とは――此はわたしが仮りに命ナヅけた名であるが――海の彼方の常世の国から、年に一度或は数度此国に来る神である。常世神が来る時は、其前提として、祓へをする。後に、陰陽道の様式が這入つてから、祓への前提として、神が現れる様にもなつた。が、常世神は、海の彼方から来るのがほんとうで、此信仰が変化して、山から来る神、空から来る神と言ふ風に、形も変つて行つた。此処に、高天原から降りる神の観念が形づくられて来たのである。今も民間では、神は山の上から来ると考へてゐる処が多い。此等の神は、実は其性質が鬼に近づいて来てゐるのである。


     二 祭りに出るおに

春の祭りには、一年中の農作を祝福するのが、普通であつた。其には、其年の農作の豊けさを、仮りに眼前に髣髴させようとした。かうした春の農作物祝福の祭りの系統を、はなまつりと言ふ。新・旧正月に通じて、今年の農作はかくの如くある様に、と具体的に示す。此春の祭りには、おにが出て来るのだ。

おには、実に訣らぬ怪物である。出雲の杵築の春祭りにも「番内バンナイ」といふおにが出て来る。此は、追儺と一緒になつて了うてゐる。歩射ホシヤの神事には、節分の日昏れ、或は大晦日の日昏れに、馬場などに的を造つて、射ることがある。此を鬼矢来の式と称するが、此は逆で、神の来る式におにやらひの式が混入し、村人のおにの信仰が変化して結びつき、こんな矛盾した形が出来たのであらう。

社々で行はれてゐる神楽には、鬼が現れてする問答がある。鬼が言ひまかされて逃げて行く処が、神楽の大事な部分である。此考へは、追儺の式と同じであるが、これにも矛盾が沢山ある。歳神と言ふのは、毎年春の初めに、空か山の上かゝら来る神で、年の暮れに村人が歳神迎へに行く。其時には、山の中の神の宿る木を見つけて、其木に神の魂を載せて帰る。かうした意味で、門松の行事の行はれてゐる地方が、沢山ある。此時神は、門松に唯一人で載つて来るのではなくて、大勢眷属を率ゐて来るのである。かうした神を祀る処は歳棚で、歳棚の供物には、鏡餅・粢シトギ・握り飯等があるが、皆魂の象徴であつたのだ。其数は、平年には十二、閏年には十三である。此は、神の眷属は大勢あるが、一个月に一人づゝ来るものと見て、此習慣が出来たのであらう。

信州下伊那郡新野ニヒノでは、正月十三日か十四日に、門松と一緒に立てかけておいたにうぎを、をがみ場所に配つて歩く。此をおにきと言ふ。其頃はちようど、歳神を送る日に当るが、其日には鬼が来ると称し、針為事を控へる。此処では歳神は鬼と似た性質を持つてゐて、やはり、眷属を連れて来る。

此と同様な事は、盆にもする。盆棚は事実、歳神の棚と同じ意味でする地方がある。精霊・わき・ともと、それ/″\区別して、棚を拵へることもする。盆の変つた行事としては、生御霊の行事がある。其は、大きな家の子方に当る人々は、盆の間に其親方の家に挨拶に行く。大きな鯖サバを携へて行き、親方の為におめでたごとを述べるのである。

此式は室町頃から続いたことで、田舎から京へ出たのだらうと思ふ。正月に朝覲行幸をせられるのも、実は此生御霊と同様な行事である。此信仰はすべて、吾々は生御霊を持つてゐるといふ考へから出たもので、吾々の身体から生御霊は離れよう/\とし、或は外物に誘はれて、出よう/\としてゐるのを、抑へなくてはならない。子方は親方の生御霊を抑へに行くのであり、祝福しに行くのである。今に用ゐる正月の「おめでたう」といふ挨拶は、其祝福の詞の固定したものである。其にしても、何故鯖サバを携へて行くのかは、訣らない。一体、神に捧げる食物と、精霊に捧げる食物とは異つてゐて、精霊に捧げるのを産飯サバと言ふが、其語が鯖に考へられたのではなからうか。後期王朝には、生御霊と死御霊と二つあつた。死御霊は常に、生御霊を誘ひ出さうとする。

琉球の石垣島の盆の祭りには、沢山の精霊が出て来た。即、おしまひ(爺)・あつぱあ(婆)が多くの眷属をひきつれて現れ、家々を廻つて、祝福をして歩く。此群をあんがまあと言ひ、大倭から来るものと考へてゐるが、其は海の彼方の理想郷からであらう。

春の初めの清明節には、まやの神と言ふ神が現れる。此は台湾の蕃人も持つてゐる信仰である。まやは即まやの国から来る神で、簑笠で顔を裹つつんで来て、やはり、家々を祝福して廻る。宮良メイラ村には、海岸になびんづうと言ふ洞穴があつて、黒また・赤またと称する二人の神が現れる。または蛇のことである。此神は、顔には面メンを被り、体は蔓で飾り、二神揃つて踊れば、村の若者も此を中心にして踊り出す。此時、若者は、若者になる洗礼を受けるのだから、成年戒の意味も含まれてゐるのである。

かうした神々の来臨は、曾て、水葬せられた先祖の霊が一処に集合してゐて、其処から来るのである、と考へたものらしく、此等の神は、非常に恐れられてゐるのを見ても、古い意味を持つてゐるのである。簑笠を著けて家に入ることの出来るのは、神のみであるから、中でも、あんがまあと言ふ祖先の霊の出る祭りは、最古い意味を持つてゐるものと思はれる。其が、盆の行事と結合して、遺つてゐるのであらう。

此信仰の源は一つであるが、三様に岐れてゐる。内地の例に当てゝ見れば、よく訣ることで、最初の考へは、死霊の来ることである。此死霊をはつきり伝へた村と、祝福に来る常世神の信仰を持ち続けた村とがある。内地では此観念が変つて、山或は空から来るものと考へる様になつてゐる。

歳神は、祖先の霊が一个年間の農業を祝福しに来るので、此を迎へる為に歳棚を作るのであるが、今は門松ばかりを樹てるやうになつて了うた。多くの眷属を伴つて来るので、随つて供物も沢山供へる。その供物自身が神の象徴なのである。古い信仰では、餅・握り飯は魂の象徴であつた。だから、餅が白鳥になつて飛ぶ事の訣もわかるのである。白鳥はもとより、魂の象徴である。

神が大勢眷属を連れて来るのは、群行の様式である。仮装の古いものに風流フリウがあり、仏教味が加はつて練道レンダウとなるが、源は皆一つで、神の行列である。初春に神の群行があるのは固有であるが、盆に来るのは、仏教と融合してゐる。徒然草に、東国では大晦日の晩に魂祭りをしたことが見える。歳神と同じであり、更に初春に来る鬼である。


     三 土地の精霊と常世神と


まきむくの穴師の山の山人と、人も見るかに、山かつらせよ

古今集巻二十に、かういふ歌がある。柳田国男先生が古今集以前に、既に、此風はあつたらしい、と言つて居られる通り、大嘗祭には、日本中の出来るだけ多くの民族が出て来たもので、穴師山の山人も其一つなのである。即、土地の神々が、祭りに参与すると言ふ考へが、かうしたしきたりを産んだのである。彼等は、彼等の神の代表者として来り加はり、神と精霊と問答をし、結局、精霊が負けると言ふ行事をすることになつて居たのだ。
此形は、あまんじやくが何でも人に反対すると言ふ事に残つてゐる。あまんじやくは即、土地の精霊で、日本紀には、天アマノ探女サグメとして其話があり、古事記や万葉集にも見える。やはり、何にでも邪魔を入れる、といふ名まへであらう。神々が土地を開拓しようとする時、邪魔をするのは、何時も天ノ探女である。即、土地の精霊なのである。此天ノ探女は、実に日本芸術の発足の源をなしてゐるものである。其為事は、

一 ものまね→芸能(舞踊)
一 人に反対すること→狂言(おどけ)

即、日本の芸術、尠くとも演芸の発生を為すものである。狂言は、江戸に入つて初めて勢力が出た。ものまねとは、ちようど反対の立場にある。

猿楽ではをかしといひ、延年舞ではもどきと称して、所謂もどき開口の儀式をする者がある。もどきが、殊に有力な働きをするのは田楽で、随つて寺院の舞踊に這入つてゐる。ひよつとこは、その最近くまで残つた形である。もどきは即「もどく」意で、反対する事を現す。日本の芸術では、歌の掛け合ひから既にもどきである。神と精霊との問答が、歌垣となつたのである。源に溯ると、あらゆる方面にもどきが現れてゐる。

能楽の面に大※(「やまいだれ+惡」、第3水準1-88-58)オホベシミと言ふのがあるが、※(「やまいだれ+惡」、第3水準1-88-58)ベシミは「へしむ」といふ動詞から出た名詞で、口を拗り曲げてゐる様である。神が土地の精霊と問答する時、精霊は容易に口を開かない。尤、物を言はない時代を越すと、口を開くやうにもなつたが、返事をせないか、或は反対ばかりするかであつて、此二つの方面が、大※(「やまいだれ+惡」、第3水準1-88-58)オホベシミの面に現れてゐるのだ。一体日本には、古くから面のあつたことを示す証拠はある。併し、外来の面が急速に発達した為、在来の面は、其影を潜めたのである。

開口は、口を無理に開かせて返事をさせる事で、其を司る者は脇役である。しては神で、わきは其相手に当る。かうしたわきの為事が分化して来ると、狂言になるのだ。勿論、狂言は、能楽以前からあつたものである。大※(「やまいだれ+惡」、第3水準1-88-58)オホベシミの面は、全く口を閉ぢてゐる貌であるが、此面には、尊い神の命令を聴くと言ふ外に、其命令を伝達すると言ふ、二つの意味がある。即、神であり、おにであるのだ。

また一方、恐怖の方面のみを考へたのが、鬼となつた。鬼と言ふ語は、仏教の羅卒と混同して、牛頭ゴヅ・馬頭メヅの様に想像せられてしまうた。其以前の鬼は、常世神の変態であるのだが、次弟に変化して、初春の鬼は、全く羅卒の如きものと考へられたのである。つまり、初めは神が出て来て、鬼を屈服させて行くのだが、後には、神と鬼との両方面を、鬼がつとめることになつて行つた。鬼が相手方に移つて行つたのである。田楽では、鬼と天狗とを扱うてゐる。一体、田楽は宿命的に、天狗と鬼とを結合させてゐる。此は演劇の発足を示すもので、初めはしてが鬼、わきがもどきであつた。

村々の大切な儀式に鬼が参加することは、今も、処々に残つてゐる重大なことである。壱岐の島へ行くと、おにやと言ふものがあるが、此は古墳に相違ない。此処には昔、鬼が棲んだと言はれてゐる。対馬へ行くと、やぼさと言ふ場所が神聖視せられてゐる。初春には、殊に大切に取り扱はねばならぬ。此処には、祖先の最古い人が住んでゐると考へられ、非常に恐れられてゐる。

昔は、海辺の洞穴に死人を葬つたが、後には其処を神の通ひ場所と考へる様になつた。沖縄の石垣イシガキ島の宮良メイラ村では、なびんづうの鬼屋オニヤに十三年目毎に這入つて行つて、若衆入りの儀式を挙げる。恐るべき鬼は、時には、親しい懐しい心持ちの鬼でもある。仏教で言ふ鬼では決してないのである。

かうした鬼を扱ふ方法を、昔の人々はよく知つてゐた。あるじと言ふ語は、まれびと即、常世神に対する馳走を意味する。日本の宴会には後世まで、古代の神祭りの儀式のなごりが、沢山遺つてゐる。武家の間で馳走の時、おにと言ふ名の役が出た事も、かうして見て初めて意味がよく訣る。

まれびとなる鬼が来た時には、出来る限りの款待をして、悦んで帰つて行つてもらふ。此場合、神或は鬼の去るに対しては、なごり惜しい様子をして送り出す。即、村々に取つては、よい神ではあるが、長く滞在されては困るからである。だから、次回に来るまで、再、戻つて来ない様にするのだ。かうした神の観念、鬼の考へが、天狗にも同様に変化して行つたのは、田楽に見える処である。


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[近代史3] 折口信夫 鬼の話 中川隆
1. 中川隆[-10330] koaQ7Jey 2019年5月12日 08:12:51 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[1780]

底本:「折口信夫全集 3」中央公論社
   1995(平成7)年4月10日初版発行

底本の親本:「古代研究 民俗学篇第二」大岡山書店
   1930(昭和5)年6月20日発行

※底本の題名の下に書かれている「大正十五年、三田史学会例会講演筆記」は省きました。
http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/422.html#c1

[リバイバル3] 中川隆 _ 心理学、大脳生理学、文化人類学、文化関係投稿リンク 中川隆
71. 中川隆[-10329] koaQ7Jey 2019年5月12日 08:13:48 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[1782]
折口信夫 鬼の話
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[近代史3] 折口信夫 鬼の話 中川隆
2. 中川隆[-10328] koaQ7Jey 2019年5月12日 08:17:19 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[1783]

折口信夫 鬼を追い払う夜
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「福は内、鬼は外」と言うことを知って居ますか。此は節分の夜、豆を撒いて唱える語コトバなのです。此日、村や町々の家々へ、鬼が入り込もうとするものと信じて居ました。それに対して、豆を打ちつけて追うのだと言います。今年はそれがちょうど、二月四日に当るのです。これは家々ですることですが、又社や寺でも、特別に人を選んで、豆撒き役を勤めさせます。

 又豆を年の数だけとって喰うこともあります。地方によっては、一つだけ余計に喰べる処もあります。これはもと一つはからだを撫でたものなのです。つまりからだについた災いを其にうつすつもりだったのです。門カドには前もって、柊の小枝を挿して置き、それに鰯の頭――昔は鰡ボラの子のいなの頭――をつき刺して出しておいたものです。

 節分は冬が行き詰って、春が鼻の先まで来て居る夜と言うことなのです。だからこれらの事柄も、夜に行われる事が多いのです。

 ちょうど、鬼打ち豆を撒いて居る頃、表の方を、「厄払いましょう厄払いましょう」と言いながら通る者があることも知っているでしょう。これは「厄払い」と言うものです。そうして、呼びかける家があると、その表口に立って、その一家が、今夜から将来サキ幸福になる唱え言を唱えて、お礼の銭を貰っては、又先へ出掛けます。

 春になる前夜の、賑やかで、そうして何処かにしんと静まった様子を想像して御覧なさい。暦を見ると、立春と言う日が、載ってありましょう。今年は、其が二月五日になります。冬が過ぎて春の来るのを迎えるについて、出来るだけ我々の生活にとってよくないものを却けて置いて、輝かしい幸福をとり入れようとするのです。昔から春と新しい年とが、同時に来るものと言う考えが、習慣の様に人々の頭にこびりついて居るので、立春が新しい春その前夜を意味する節分は、旧年の最後の夜という風に思われて居ました。だから、節分の事を「年越し」という地方も多いのです。年越しは、大晦日と同じ意味に用いる語です。

 九鬼家クキケと言う古い豪族の家では、節分の夜、不思議な事を行われると言う噂がありました。ある時、松浦伯爵の祖先の静山と謂った人が、九鬼和泉守隆国と言う人に、あなたのお家では、節分の夜には主人が暗闇の座敷に坐っていると、目に見えぬ鬼の客が出て来て、坐りこむ。小石を水に入れて吸い物として勤めると、其啜る音がすると言うではありませんかと問いますと、其は噂だけで、そんな事はありません。唯豆を打つ場合に、「鬼は内、福は内、富は内」と唱える。其上、普通にする柊と鰯とは、私の家ではしないと答えられたと言う事です。

 此は言うまでもなく、家の名が九鬼である事から、それによって縁起を祝って、家の名に関係のあるものを逐オい却ける様な事は一切しない事になったのでしょう。勿論、鬼は来るはずはありません。だが来た事もなかったとは言えません。来るのは勿論、鬼に仮装した人が出て来て、鬼となって逐われる様子をするのでした。

底本:「日本の名随筆17 春」作品社
   1984(昭和59)年3月25日第1刷発行
   1997(平成9)年2月20日第20刷発行

底本の親本:「折口信夫全集 第三十巻」中央公論社
   1968(昭和43)年4月初版発行


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[近代史3] 折口信夫 河童の話

折口信夫 河童の話
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私はふた夏、壱岐の国へ渡つた。さうして此島が、凡北九州一円の河童伝説の吹きだまりになつてゐた事を知つた。尚考へて見ると、仄かながら水の神信仰の古い姿が、生きてこの島びとの上にはたらいて居るのを覚つた。其と今一つ、私はなるべく、認識不十分な他人の記録の奇事異聞を利用する前に、当時の実感を印象する自分の採訪帳を資料とする事が、民俗の学問の上に最大切な態度であると思ふ故に、壱岐及びその近島の伝承を中心として、この研究の概要を書く、一つの試みをもくろんだのである。

この話は、河童が、海の彼岸から来る尊い水の神の信仰に、土地々々の水の精霊の要素を交へて来たことを基礎として、綴つたのである。たゞ、茲には、その方面の証明の、甚しく興味のないのを虞れて、単に既に決定した前提のやうにして、書き進めたのである。
この話の中にさしこんだ河童の図は、すべて、元熊本藩の水練師範小堀平七さんの家に伝る、河童の絵巻から拝借した。

[#改ページ]

     一 河童の女


河郎の恋する宿や夏の月

蕪村の句には、その絵に封ぜられたものが、極端に出てゐる。自由にふるまうた様でも、流派の伝襲には勝てなかつたのである。彼の心の土佐絵や浮世絵は誹諧の形を仮りて現れた。此句だつて、唯の墨書きではない。又単に所謂俳画なるものでもない。男に化けて、娘の宿を訪ふ河童。水郷の夜更けの夏の月。ある種の合巻を思はせる図どりである。かうした趣向は或は、蕪村自身の創作の様に見えるかも知れぬ。尤、近代の河童には、此点の欠けて居る伝説は多いが、以前はやつぱりあつたのである。

私は、二度も壱岐の島を調べた。其結果、河を名とする処から、河童の本拠を河その他淡水のありかと思うて来た考へが、壊れて了うた。長者原バルと言ふ海を受けた高台は、があたろを使うて長者になつた人の屋敷趾だと言ふ。其は小さな、髪ふり乱した子どもの姿だつた。其が来初めてから、俄かに長者になり、家蔵は段々建て増した。があたろが歩いた処は、びしよ/″\と濡れてゐる。畳の上までも、それで上つて来る。果ては、長者の女房が嫌ひ出して、来させない様にした。すると忽、家蔵も消えてなくなり、長者の後に立つて居た屏風は、岩になつて残つた。此は男の子らしい。

平戸には、女のがあたろの話をしてゐる。ある分限者の家に仕へた女、毎日来ては、毎晩帰る。何処から来るか、家処をあかさない。ある時、後を尾ツけて行くと、海の波が二つに開けた。通ひ女はどん/\、其中へ這入つて見えなくなつた。女は其を悟つたかして、其後ふつつり出て来なくなつたと言ふ。


「小堀平七氏蔵絵巻による」のキャプション付きの河童の図
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此二つの話で見ると、毎日海から出て来る事、家の富みに関係ある事、ある家主に使はれる事、主の失策を怨んで来なくなること、女姿の、子どもでないのもある事などが知れる。だが外に、通ひでなく、居なりの者もあつたらしい。殿川トノカハ屋敷と言ふのは、壱州での豪家のあつた処である。或代の主、外出の途中に逢うた美しい女を連れ戻つて、女房とした。子までも生んだが、ある時、屋敷内の井カハへ飛びこんで、海へ還つて了うた。其時、椀を持つたまゝ駈け出したので、井の底を覗くと、椀の沈んでゐるのが見えると言ふ。この「信田妻シノダヅマ」に似た日本の海の夫人の話を、あの島でも、もう知つた人が、少くなつて居た。此伝へで訣るのは、井の如き湧き水も、地下を通つて、海に続いて居るとした、考への見える事である。

かうした物語を伴はぬ、信仰そのまゝの形は、日本国中に残つてゐる。「若狭井」型の他界観である。二月堂の「水とり」は、若狭の池の水を呼び出すのだと言ふ。諏訪の湖ウミ・琵琶湖・霧島山の大汝オホナメの池など、懸け離れた遠方の井や湧き水に通じてゐると言ふ。不思議なのは又龍宮へ通うてゐると言ふ、井戸・清水の多い事である。規模の大きなのは、龍宮は、瀬田の唐橋の下から行けるなど言ふ。だが、龍宮に通ずる水が、なぜ塩水でないのか、説いたものはない。一年の中ある時の外、使はなかつた神秘の水のあつた事を、別の機会に書きたいと思うてゐる。神聖な淡水まみづが、海から地下を抜けて、信仰行事の日の為に、湧き出るのだと思うてゐたらしいのである。海からなぜ塩気のない水が来るか、此問題は、茲には説いて居られぬ程、長い説明がいる。神聖な地域の湖・池に通じるとする信仰も、実は、此海から来る地下水の考への変形である。

此話には、河童とは言うて居ぬ。が、井・泉から、海に行き来したものゝあることは知れる。河童が、とんでもない山野・都邑の清水や井戸から、顔や姿を表した話は、どなたも、一つや二つ聞いた気がせられるはずだと信じる。

男であれ女であれ、人の姿を仮りて、人間と通婚する伝説にも亦、其本体を水界の物としたのが多い。前の殿川屋敷のも、此側の型を河童の中へ織りこんだものらしい。


後ろ向きの河童の図
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馬の足がたゞけの溜り水があれば、河童が住んでゐると言ふ分布の広い諺も、地下水の信仰から、水の精霊は、何処へでも通ふものと考へたのである。厠の下から手を出して、いたづらをしたものは、大抵、狸になつて了うてゐるが、猿や猫とする例も少くない。だが、厠の様式にも、歴史があつた。其変化に伴うて、適当な動物が、入り替つて来た。だが、考へると、やはり水溜りだつたので、河童の通ひ路は通トホつてゐたのである。毛だらけの手が出て、臀べたを撫でたゞけでは、よく考へると、何の為にしたのか知れない。示威運動と見るのが、普通であらうが、人を嫌ふ廃屋の妖怪には、少しとてつもない動作である。何も仰山に、厠が語義どほりの川屋で、股の間から、川水の見えた古代に遡らずとも、説くことが出来よう。だが若し、さう言ふ事が許されるなら、丹塗りの矢に化成して、処女の川屋の下に流れ寄つて、其恥ぢ処に射当つたと言ふ、第一代の国母誕生の由来も、考へ直さねばならぬ。厠の下から人をかまふ目的が、単にしりこを抜くばかりでなかつたのかも知れない。


四つん這いの河童の図
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雪隠の下の河童の覘ねらふものは、しりこだまであつた。何月何日、水で死ぬと予言せられた人が、厳重に水を忌んだが、思ひも設けぬ水に縁ある物の為に、命を失ふ話の型の中に、其日雪隠に入つて、河童にしりこを抜かれた話もある。厠の中を不似合として、手水鉢の中から出たことにしてゐる例は、筑前三井郡出身の本山三男さんから報告せられた。

殿川屋敷の井カハに沈んでゐる椀も、河童と因縁の浅からぬものなのである。他界の妻の残して行つたものゝ伝へも、段々ある。残す物にも色々あらうに、椀を残して去つたのは、水の精霊の旧信仰の破片が、こびりついて居るのである。此は河童の椀貸しの話に寄せて説きたい。


「右水虎圖依懇望乞需之以大久(久)保忠寄所藏之本模寫之者也…」のキャプション付きの河童の図
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ある家の祖先の代に、河童が来て仕へた話は、大抵簡単になつてゐる。毎夜忍んで来て、きまつた魚を残して戻る。なぜ、今では来なくなつたとの問ひを予期した様に、皆結局がついてゐる。河童の大嫌ひなものを、故意に何時もの処に置いた。其を見て、恐れて魚を搬ばなくなつたと言ふのだ。河童が離れて、ある家の富みが失はれた形を、一部分失うた事に止めてゐるのが、魚の贄ニヘの来なくなつた話である。家の中に懸けられる物は、魚も一つの宝タカラである。異郷の者が来て、贄なり裹物ツトなりを献げて還る古代生活の印象が結びついて、水界から献つた富みの喪失を、単に魚の贄ニヘを失うた最低限度に止めさせたのである。農村の富みは、水の精霊の助力によるものと信じて居た為である。家の栄えの原因は、どうしても、河童から出たものとせねばならぬ。だから、河童を盛んに使うた時代のあることを説いてゐる。河童駆使の結果は、常に悲劇に終るべきを、軽く解決したのである。昔から伝へた富み人の物語が、今ある村の大家の古事にひき直して考へられたのである。


「川太郎…」のキャプション付きの河童の図
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     二 河童使ひ

河童が、なぜ人に駆役せられる様になつたか。此には、日本国中大抵、其悪行の結果だとしてゐる。人畜を水に曳きこんだ、又、ひきこまうとしたのが、捉まつた為とするのである。

最初に結論から言はう。呪術者に役エキせられる精霊は、常に隙を覗うてゐる。遂に役者エキシヤの油断を見て、自由な野・山・川・海に還るのである。河童の贄を持つて来なくなつたのも、長者の富みを亡くしたのも、皆此考へに基いて居る。

役者エキシヤは、役霊を駆使して、呪禁ジユゴン・医療の不思議を示した。ある家の主に伝はる秘法に、河童から教へられたものとするのが多い訣である。河童の場合は、接骨の法を授けたと言ふ形が、多様に岐れたらしい。金創の妙薬に、河童の伝法を説くものが多いが、古くはやはり、手脚の骨つぎを説いたものらしい。馬術の家には、落馬したものゝ為の秘法の手術が行はれた。その本縁を説明する唱言も、共に伝つた。恐らく、相撲の家にあつたものを移して、馬との関係を深めたものと思はれる。河童に結びついた因縁は、後廻しにする。

人に捉へられた河童は、其村の人をとらぬと言ふ誓文を立てる。或は其誓文は、ひき抜かれた腕を返して貰ふ為にする様になつてゐる。腕の脱け易い事も、河童からひき放されぬ、重要な条件となつてゐた時代があつたに違ひない。其が後には、妖怪の腕を切り落す形になつて行く。柳田先生は、此を河童考の力点として居られる。羅城門ラシヤウモンで切つた鬼の腕も、其変形で、河童から鬼に移つたのだと説かれた。此鬼と同様、高い処から、地上の人をとり去らうとする火車クワシヤなる飛行する妖怪と、古猫の化けたのとの関係をも説かれた。


「寛永年中豐後國肥田ニテ所獲水虎寫眞…」のキャプション付きの河童の図https://www.aozora.gr.jp/cards/000933/files/18395_22464.html


其後、南方熊楠翁は、紀州日高で、河童をかしやんぼと言ふ理由を、火車の聯想だ、と決定せられた。思ふに、生人・死人をとり喰はうとする者を、すべてくわしやと称へた事があつたらしい。火車の姿を、猫の様に描いた本もある訣である。人を殺し、墓を掘り起す狼の如きも、火車一類として、猫化け同様の話を伝へてゐる。老女に化けて、留守を家に籠る子どもをおびき出して喰ふ話は、日本にもある。又、今昔物語以来、幾変形を経た弥三郎といふ猟師の母が、狼の心になつて、息子を出先の山で待ち伏せて喰はうとして、却て切られた越後の話などが其である。さう言ふ人喰ひの妖怪の災ひを除く必要は、特に、葬式・墓掘りの際にあつた。坊さんの知識から、火車なる語の出た順序は考へられる。江戸中期までの色町に行はれたくわしやなる語は、用法がいろ/\ある。よび茶屋の女房を言ふ事もあり、おき屋の廻しの女を斥サしても居る。くわしやを遣り手とも言うてゐるが、後にはくわしやよりも、やりてが行はれた。さうして、中年女を聯想したくわしやも、やりてと替ると、婆と合点する程になつた。くわしやの字は、花車を宛てゝゐるが、実は火車であらう。人を捉へて、引きこむ様からの名であらう。おき屋から出て、よび屋を構へたのをも、やはりくわしやと呼んだのであらう。芝居に入つて「花車形」といはれたのは、唯の女形のふけ役の総名であつた。

「右ノ圖河童寫眞深川木場ニテ捕所ノモノナリ…」のキャプション付きの河童の図
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手の抜ける水妖は、あいぬの間にもあつた。みんつちと言ふ。形は違ふが、河童に当るものである。金田一京助先生は、手の抜け易い事を、草人形クサヒトガタの変化ヘンゲであるからだ、と説明して居られた。藁人形などの手は、皆心シンは、竹や木である。草を絡んだ一本の棒を両手としてゐる。其で引けば、両方一時に抜けて来るとも言はれた。みんつちの語自身が和人シヤモのものである様に、恐らくは此信仰にも、和人の民俗を含んで居ると思ふ。

草人形が、河童になつた話は、壱岐にもある。あまんしやぐめは、人の村の幸福を呪うて、善神と争うて居た。土木に関しての伝への多い、此島の善神の名は、忘れられたのであらう。九州本土の左甚五郎とも言ふべき、竹田の番匠の名を誤用してゐる。ばんじようとあまんしやぐめが約束した。入り江を横ぎつて、対岸へ橋を架けるのに、若し一番鶏の鳴くまでに出来たら、島人を皆喰うてもよい、と言ふのである。三千体の藁人形を作つて、此に呪法をかけて、人として、工事にかゝつた。鶏も鳴かぬ中に、出来あがりさうになつたのを見たばんじようは、鶏のときをつくる真似を、陰に居てした。あまんしやぐめは、工事を止めて「掻曲放擲ケイマゲウツチヨけ」と叫んだ。其跡が「げいまぎ崎」と言はれてゐる。又三千の人形に、千体は海へ、千体は川へ、千体は山へ行け、と言うて放した。此が皆、があたろになつた。だから、海・川・山に行き亘つて、馬の足形ほどの水があれば、其処にがあたろが居る。若し人の方の力が強ければ、相撲とりながら、其手を引き抜く事も出来る。藁人形の変化だからと言ふのである。

両手が一時に抜けたとは言はぬが、あいぬのみんつちに似過ぎる程似てゐる。夏祓へに、人間の邪悪を負はせて流した人形ヒトガタが、水界に生シヤウを受けて居るとの考へである。中にも、田の祓へには、草人形を送つて、海・川へ流す。夏の祓へ祭りと、河童と草人形との間に、通じるものゝあるのは、尤である。而も、河童に関係浅からぬ相撲に、骨を脱ハヅして負ける者の多い処から、愈河童と草人形との聯想が深まつて来た、と思はれる。


嘴と翼をもつ河童の図
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古代の相撲は、腕を挫き、肋骨[#「肋骨」は底本では「助骨」]や腰骨を蹶折る、と言つた方法さへあつた様である。中古以後、秋の相撲節スマフノセチに、左方の力士は葵花、右方は瓠ヒサゴ花を頭へ挿して出た。瓠は水に縁ある物だから、水の神所属の標らしく、さうして見ると、葵は其に対立する神の一類を示すものであらう。必しも加茂とも考へられぬが、威力ある神なのであらう。瓠花も、瓢も、他の瓜で代用が出来た。

だが、なぜ後世渡来の胡瓜をば、水の精霊の好むものと考へたのだらう。恰好は、稍瓠の小形なものに似て、横に割つた截り口が、丸紋らしい形を顕してゐる。祇園守りの紋所だと言ふ地方が広い。瓜の中に神紋らしいものゝ現れて居り、ひねるとなかごが脱けて了ふ。「祇園祭り過ぎて胡瓜を喰ふな。中に蛇がゐる」との言ひ習しも、いまだに、各地に残つてゐる。祇園は異風を好んだ神である。此神の為にはかうした新渡の瓜を択ぶ風が起つた為とも考へられる。瓜に顔を書いて流す風もあつた。胡瓜に目鼻を書くと、いぼ/\の出た恐しい顔になる。この怖い顔した異国の瓜を、他界から邪悪を携へて来た神の形代として流し送る。かうした考へから、夏祓への川祭りに、胡瓜が交渉を持つ様になつたのであらう。其が次第に、水の神への供養と言ふ様に、思はれて行つたのではないか。其で、河童の好物を胡瓜とする考へが、導かれて来たと思はれる。


「全身薄墨ヌリ」のキャプション付きの河童の図
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     三 河童の馬曳き

馬も牛も、人と同じ屋根の下に起き臥しゝてゐた。田舎では、今も牛部屋、厩を分けないで居るのが多い。かうした人間の感情を稍理解する畜類に対しては、やはり一種の祓への必要を感じ出したのである。二月頃に、多くは午の日だが、縁日の日どりに従うて、外の日にする事もある。牛馬を曳いて、山詣りをする。此は御事始めの日から初まる田の行事の為に、田に使ふ畜類に、山籠りをさせる風の変化したものである。牛の方にまづ行はれた事が、馬にも及んだらしい。後には馬の用途が広まつて、馬の山詣りが殖えて来、午の日を、春祭りの縁日とする社寺を択ぶ様にもなつた。

田植ゑが過ぎると、牛には休養の時が来る。馬には、其がない。牛の※[#「牛+子」、287-5]が生れると、其足形を濡れ紙にとつて、入り口の上に貼る。既に祓へのすんだ、牛ばかりゐる標である。悪霊の入り来て、※[#「牛+子」、287-6]を犯す事を避けたのである。牛は、水に縁の濃やかな獣である。土用丑の日を以て、形式にでも、水に浸らねばならなかつた。淵や滝壺の主ヌシに、牛の説かれてゐる処もかなりにある。
馬にも、やはり川入りの日があつた。其為に、馬も亦、水神と交渉を持つ様になつた。尾張津島祭りも、一部分は、馬の禊ぎを含んで居る。この社の神人が、厩の護符を配り歩いたのは、多くの馬に代つた、神馬の禊ぎの利益に与らせようとするのである。馬は、津島の神馬である。馬の口綱をとつて居るのは、猿である。神人であることもある。猿を描いたのは、津島以外の形式が、這入つて居るのである。此は、大津東町に処を移した穴太アナホの猿部屋の信仰である。日吉山王の神猿が、神馬の口添ひとなつて、神の伴をすると考へた為である。神馬に禊ぎをさせるのも、此猿である。この猿の居る処には、神馬に障りがない。其にあやからせようと言ふのが、馬曳き猿の護符であつた。今も、途上で逢ふ事である。馬の腹掛けに、大津東町と染め出したのをつけて居る。其馬の、猿部屋の守護を受け、日吉の神馬の禊ぎに与つたものとの標である。

昔は、日本の国中、陸地に於いては、馬ほどの強さを思はせるものはなかつた。其が一歩、河に踏み入ると、水に没して居る小さな水妖の為に、引きこまれる事があると考へた。水を頂くが為に強い河童の力を、以前からある頭の皿に結びつけた。其処にある水をふりこぼされると、河童の力はなくなると言ふ様にも、合理化して考へられる様になつたのである。

日吉の使はしめの猿は、水の良否をよく見分ける。湖水近くおりて居て、水を見て居る。そして、最浄い水の到るのを待つて、神に告げて、神の禊ぎをとり行ふ。かうした信仰から、悪い水や、水の中に邪悪の潜んで居る事をも、よく悟るとせられた。此考へから、屋敷の水を讃めるのを中心にした、庭のことほぎには、猿が出て来る様になつた。其から拡つて、屋敷・建て物の祝福や、屋敷に入り来る邪悪・疫癘退散の為にも、猿を舞はせる風を生じた。

馬の脊に跨つた神を観じたのは、何時頃からか、細かな事は知れぬが、古代日本では、神の畜類に乗る事は考へなかつた。馬が尊貴の乗り物とせられて後も、さう馬に乗る事を許された神はなかつた。人乗りはじめて、此を神に及す様になつたのである。宮廷から、馬を進められる様になると、其神の資格は、高くなつたのである。祝詞にも、白き馬を寄せられる文句の見えて居り、絵馬を捧げる風の、わりに早くから行はれたのは、外に理由はあるが、此方面からも、説かねばならぬ。平安朝以後、低い神々は、心から馬を羨望して居た。馬に乗つた人が通ると、脚を止めたり、乗りてをふり落したりさせた。唯後世風に考へると、乗りうちしたのを咎める様に見えるのである。おなじ下座の神と考へられる様になつた水の神なども、馬を欲しがつて居た。其で、水に近よる馬を取らうとすると言ふ風に、推し当てに、神・精霊の心を考へた。此が、河童の馬を引きこまうとして、失敗した話の種である。さうして、人間に駆使せられる河伯と結びつけて、命乞ひに誓文し、贄を献り、秘法を知らせると言つた説明をつけたのである。

えんこ・えんこうは、猿猴から出たと言ふ考へは、誰しも信じ易い考へなるが為に、当分動す事は出来さうもない。だが、何の為にわざ/\さるを避けて、耳遠い音を択んだのか、私には判断がつかない。或は井子カハゴ・かごなど言ふ類例から推すと、「井ヰの子コ」から出たものが、聯想で、猿猴其まゝ「ゑんこう」とも発音したのかも知れない。
若し又、ゑんこうを猿猴に違ひないとすれば、水を守る神猿を、やがて水の精霊と見て、猿即河童として、水界に多くゐる方をゑんこうと言ひ別けたともとれる。

馬曳き猿を、河童の変形とする事は、猿とゑんこうと、関係の説明はついても、まだ/\出来ない。唯、此護符を貼つて、馬の災厄を除くことの出来るものとした原因だけは、わかつたと思ふ。馬術の家の伝へとても、やはり猿曳きや、馬曳き猿の信仰を述べた神人等のものと岐れる元は、一つであつたであらう。


     四 椀貸し淵

大和の水木直箭さんの作つた柳田先生の著作目録の中にも、一つの重要な項目になつてゐるものに「椀貸し塚」がある。私一己にとつては、非常な衝動を受けた研究である。今は、先生の論理の他の一面に、かうした考へ方もなり立ちさうだ、と言ふ点だけを述べて、重複を避けたいと思ふ。

椀貸し伝説の中には、河童を言はないものも多い。だが此は、塚の内部に、湧き水のある様な場処に移した話が、後には、唯の塚にまで、推し及したものと思ふ。私は、やはり水辺の洞穴や、淵などの地下水の通ひ路と考へられる処を言ふ方が、元の形に近いのではないかと思ふ。

膳椀何人前と書いた紙を、塚なり、洞なり、淵なりへ投げこんで置くと、其翌日は、必註文どほりの木具の数を揃へて、穴の口や、岩の上などに出してあつた。或時、借りた数だけ返さなかつた事があつて以来、貸してくれなくなつた、と言ふ結末が必、ついてゐる。此椀の貸し主は、誰とも言はぬ伝へが多い。中にはつきりしてゐるのは、龍宮といひ、河童・狐を言ふものである。狐でゞもなければ、そんな不思議は顕されないと考へたのは、水に縁のない山野の塚には、時々狐の出入りするのを見かけることのある為である。

今もあることだが、昔ほど激しかつた。一年に一度、数年に一度の客ぶるまひの為に、何十人前かの木具を揃へて蔵して居る家が多かつた。中には、一代一度など言ふのさへ、上流社会にはあつたものである。此話の、さう近代出来でない様子から見ても、小まへ百姓などが、木具の膳椀で、客をする夢も見なかつた頃にも既にあつたらしいことは、鑑定がつく。其では、その前の漆塗りの木具のなかつた時代には、此話はなかつたかと言ふと、其頃相応な客席の食器を考へてゐた事も考へられる。だが、其から溯ると、此が伝説でなく、生活そのものであつた時代に行き当る。

平安朝以後の公家生活には、時々行はれる大饗などが大事件であつた。高官が昇進すると、一階上の上官を正客(尊者といふ)として、大規模な饗宴を催したものである。其夕方、尊者来臨の方式がやかましかつた。宴席の様子が又、不思議なものであつた。まるで、神祭りの夜に、神を迎へる家の心持ちが充ちてゐた。私は、日本の宴会は、都が農村であつた時代から、大した変化もなくひき続いたもので、すべては、神の来る夜の儀式を、くり返してゐたものと信じてゐる。

饗宴用の食器に違ひない朱器(盃)・台盤(膳)を、何よりも大切な重宝としたのは、藤原家であつた。大きな藤原一族の族長たる氏ウヂの上カミの資格は、此食器の所在によつて定まつたのである。宮廷における三神器の意義に近い宝だつたのである。此は、藤原良房の代に作られたものだと言ふ。私は、其時を食器の歴史に革命があつて、古い物を改修した時だと考へて居る。何にしても、食器にさうした意義の生じたのは、氏の上の条件として必行ふべき饗宴があつたことを暗示してゐるからである。

あるじと言ふ語は、饗応の義から出て、饗応の当事者に及んだのである。家長の資格は、客ぶるまひを催す責任の負担から出てゐる。饗宴は、家族生活の第一義だつた。神聖な食器の保存に注意を払ふ風は、時代が遷つても、変らなかつた。唯食器にも、推移があつた。どうしても、伝来の物の代りに、近代のを用ゐねばならぬ様になつて行つた。其誘因としては、壊れたり、紛失したりする事と、伝統的な器具を持たぬ新しい家が、後から/\興つて来た事である。

客の数は、信仰の上から固定したものが多かつた。だから時代が変つても、多くは常に一定してゐた。一椀一皿が不足しても、完全な客ぶるまひは出来ない。食器の数を完備する事に苦労した印象は、新しい器を採用する様になつても残つてゐた。椀貸し穴の、椀を貸さなくなつた原因を、木具の紛失で説いたのも、此印象が去り難かつた為であらう。宴席に並んだ膳椀の数を見ても、一目に其家の富みが思はれる。此栄えは、農村経済の支配者なる水の神の加護によつて得たものである。木具の古びを見ても、此家の長い歴史が思はれる。何処に蔵つてあるとも、家族さへ知らぬ木具類が、時あつて忽然として、とり出されて来る。さうした事実をくり返し見て居る中に、椀貸しの考へは起つて来る。水の神から与へられた家の富み、其一部としては、数多い膳椀。水の神から乞ひ受けた物と言ふ風に考へる外はない。此が、稀に出現する様を見た迄は、事実であり、古代式の生活をくり返した農村全体の経験の堆積であり、疑問の歴史でもあつた。

かういふ経験が、記憶の底に沁み入つて、幾代かを経る。すると、さうした農村の大家の、富みの標となる財貨タカラを、挿話にして、逆に、其家の富みの原因を物語る話に纏つてゐた。廉々カド/\は旧い伝説の型に嵌つた説明で、現実を空想化してゐる。膳椀の忽然と出て来る理由を、時をきめて、水の精霊から借り出すと考へた事実に即した想像と、逆に精霊の助力を受けた者に考へ易い最後の破綻の聯想とが、同時に動いて来る。さうして其中間に、器具紛失・損傷の古い記憶が蘇つて来て、伝説らしい形が整ふ。すると又、紛失とするよりも、神・精霊を欺く人間の猾智の型で説明する合理欲が、此話を、一層平凡な伝説の形に、整頓して了つたのである。


金の網かゝれとてしも波の月(信章)
河童の生けどり秋を悲しむ(同)
うそ噺聞けばそなたは荻の声(桃青)
地獄のゆふべさうもあらうか(章)
飛ぶ蛍水は却つて燃え上り(青)
熊手鳶宮勢多の長橋(章)
釣瓶とり龍宮までも探すらむ(青)
亀は忽下女と現れ(章)     (江戸両吟集)


河童の聯想が尚きれないで、四句隔てた勢多の長橋に刺戟せられて復活してゐる。釣瓶とりの句も其だ。亀の下女も其だ。たゞ河童の下女を逃げたゞけである。私どもから言はせればやつぱり打ち越しである。


     五 頭の皿

水の神が、膳椀ばかり貸してくれた理由は、わかつたとしても、どこかやはり落ちつかぬ処がある。客ぶるまひの木具を貸す事になつた隠れた原因は、二つあげて置きたい。饗応を受けに来る正客は、水の神自身だつたらしいこと、河童の皿の、なぜ問題になるのかといふ事の説明である。農村の饗宴に臨む者は、色々な形に変化はしてゐても、正しい姿に直して見れば、常に、水の神及び、其一類であつた。尠くとも、ある時代まで、さう考へて迎へもし、招かれても来たのである。勿論水の精霊等は、人の仮りに扮装したものである。其が何時か、唯の人の姿で出て来る様になる。一方、又近代では、苗を束ねた人形や、役のすんだ案山子カヽシを正客とする程神を空想化してゐる処もある。水の神の為のふるまひと言ふ事を忘れて後も、何だか、水の神に関聯した行事の様に思ふ心は残つてゐる。其が、膳椀の貸してに、水の神を定めた理由である。話は逆に聞えるであらうが、此が伝説上には、正しい推理なのである。

頭の皿を言ふ前に、まづ椀貸しとの関係の結論を述べて置く。河童とまで落ちぶれない神の昔から、皿を頂いてゐると言ふ伝へがあつて、其で、水の神がさう言ふ器具を持つて居る、との考へが導かれたのだらう。膳椀は、水中に何処にあるか、其とも河童の皿の中の、無尽蔵の宝と共に這入つてゐるのか、此は後に説く。ともかく、河童の皿は、昔からあゝした小型の物と考へてゐたか。此も亦、問題である。河童は、水の神であり、又其眷属とも考へられる。其ほど、或時は霊威を発揮し、ある時はふえありいの様な、群衆して悪戯をする。或は、海の神の分霊が、水のある処に居るものとして、無数の河童を考へたのかも知れない。近代の河童から見れば、さう説かねばならぬ様である。でも私は、別の考へを持つてゐる。

河童を通して見ると、わが国の水の神の概念は、古くから乱れてゐた。遠い海から来る善神であるのか、土地の精霊なのか、区劃が甚朧げである。神と、其に反抗する精霊とは、明らかに分れてゐる。にも拘らず、神の所作を精霊の上に移し、精霊であつたものを、何時の間にか、神として扱うてゐる。河童なども、元、神であつたのに、精霊として村々の民を苦しめるだけの者になつた。精霊ながら神の要素を落しきらず、農民の媚び仕へる者には、幸福を与へる力を持つてゐると言つた、過渡期の姿をも残してゐる地方もある。

河童の皿は、富みの貯蔵所であると言ふ考への上に、生命力の匿し場の信仰を加へてゐる様である。水を盛る為の皿ではなく、皿の信仰のあつた処へ、水を司る力の源としての水を盛る様になつて来たのである。だから、生命力の匿し場の信仰は、二重になる。だから私は、皿の水は後に加つたもので、皿の方を古いものと見てゐる。

皿が小さくてもよい様に思ふのは、水の方を考へるからである。土地によつては、頭の皿は、芥子坊主の頂の剃つた痕と一つにしてゐる様である。又其処の骨が、自ら凹んでゐるとするものもある。或は、皿は髪の毛の中に隠れてゐるとも言ふ。大体は、此位の漠然とした考へ方である。

北九州の西海に面した地方は、河童の信仰の、今も最明らかな処である。皿がちやんと載つてゐると言ふ処が多い。唯、其皿について、仰向いてゐるとするのと、頭の頂に伏せられてゐると言ふのと、上下二枚の皿が合さつて蓋物の様になつてゐる、と説くものとがある。第三のは、水のこぼれを防ぐつもりの物らしく、おもしろいが、一番新しい形だと思ふ。頭の皿と言へば、仰向けか、うつ向きかは、誰にも問題にならない程、わかりきつた時代の説明省略のまゝの形を、ひき継いだ後の代には、早く皿の据ゑ様を、思ひ浮べる事が出来なくなつたのであらう。其でかう、色々に説く様になつたのである。私は恐らく、皿は伏せられて居たのであらうと思ふ。其も、今まで考へて来た様な、小さな物に限るまいと思ふ。もつと大きな物であつたかも知れぬ、と思ふ。

かうした皿を、子どもの時から嫁入る迄、被き通した姫の物語がある。「鉢かづき姫」の草子である。此には、鉢とあるのは、深々と顔まで、掩うて居たからである。おなじ荒唐無稽でも、多少合理的にと言ふので、皿より鉢の方を択んだ伝へを、書き留めたのであらう。其程大きくなくとも、不思議の力が、其皿の下に、物を容れさせたのである。鉢と言ひ、皿と言うても、大した違ひはないのである。鉢かづき姫が、御湯殿に勤めて、貴い男に逢ひ初めるくだりは、禊ぎの役を勤めた、古代の水の神女の俤がある。が、湯殿に仕へるだけでは、此以外の物語にもある様だ。唯湯殿で男にあふ点が特殊である。慶応義塾生高瀬源一さんが、鉢かづきの入水して流されて行く処が、殊に水の縁の深い事を示してゐるのではないかと問うた。鉢かづきの鉢がこはれると、財宝が堆うづたかく出て、めでたく解決がつく。かうして見ると、此姫の物語も、やはり、水の神の姿を持つてゐる。
水の神は、頭に皿を伏せて頂いてゐる。其下には、数々の宝が匿されてゐる、と考へたのである。皿が拡張すれば、笠になる。水の精霊なる田の神の神像の、多く笠を着てゐるのも、かうした理由を、多少含んでゐるかも知れぬ。大阪で育つた私どもの幼時は、まだこんな遊戯唄が残つてゐた。


頭の皿は、いつさら、むさら。
なゝさら、やさら。こゝのさら、とさら。
とさらの上へ灸ヤイトを据ゑて、
熱や 悲しや 金仏カナボトケけい。けいや。
……………………

何の意味をも失うてはゐるが、皿を数へるらしい文句である。皿数への文句としては、「嬉遊笑覧」に引いた、土佐の「ぜゞがこう」の文句が、暗示に富んでゐる。

向河原ムカヒカハラで、土器カハラケ焼ヤケば(ヤキハ?)
いつさら、むさら、なゝさら、やさら。
やさら目に遅れて、づでんどつさり。
其こそ 鬼よ。
簑着て 笠着て来るものが鬼よ。

此唄を謡ひながら、順番に手の甲を打つ。唄の最後に、手の甲を打たれた者が、鬼になる。かういふ風に書いて、此が世間の皿数への化け物の諺の出処だらう、とおもしろい着眼を示してゐる。

皿数への唄に似たものは、古くは、今昔物語にもある。女房が夫を捨てゝ、白鳥となつて去る時、書き残した歌、

あさもよひ 紀の川ゆすり行く水の いつさや むさや。いるさや むさや

下の句は、何とも訣らぬだけに、童謡か、民謡らしく思はれる。だが「いつさや むさや」は、「いつさら むさら」と関係がありさうに思ふ。皿数へ唄が、五皿六皿から始まるらしいのを考へ合せると、殊にさう思はれる。時代の新古によつて、類似民俗の前後をきめるのは、とりわけ民謡の場合、危険である。だがこの唄では、今昔に俤を残したものゝ方が古くて、皿数への方が、其系統から変化したもの、と思うてよい様である。皿数への唄一個が因で、果して皿数への妖怪を考へ出したであらうか。少々もの足らぬ感じがする。尊敬する喜多村氏の為に、其仮説を育てゝ見たい。

「いつさや むさや」時代には、大体皿の聯想のなかつたもの、と見てよからう。さうすれば、皿数への妖怪にも、交渉のあるはずがない。さやがさらとなり、いつが五イツ、むが六ムの義だ、と解せられると、「なゝさら やさら」と、形の展開して行くのは、直スグであらう。皿数への形が整ふと、物数への妖怪の聯想が起る。壱岐本居モトヰの河童の話に、門に出して干してあつた網の目を、勘定してゐるものがあるので、網に伏せて見ると、があたろであつたと言ふ。何の為に目をよんだかは、説明する人はなかつたが、妖怪には、目の多いものを恐れる習性があるといふ事は、全国的に考へてゐるから、此をよみ尽せば、もう何でもなく、其家に入ることが出来る、と考へたものと見たのだらう。物よみの妖怪に入れてよいものとしては、歌・経文をくり返し読んだ、髑髏の話などもある。

物数への怪が、こゝ迄進んで来ると、皿数への唄と、相互作用で変化して行く。皿数へに最適したものは、河童である。此に結びつけて、井戸の中から、皿を数へる声が聞えるなどゝ言ひ出したのであると思ふ。いづれ、田舎に起つた怪談であらうが、段々河童離れして、若い女の切りこまれた古井の話が、到る処に拡つた。河童が、若い女に替る理由はある。水の神の贄として、早処女サヲトメが田の中へ生き埋めになつた物語、及び其が形式化して「一イチの早処女」を、泥田の中に深く転ばす行事がある。又、水に関聯した土木事業には、女の生贄を献つた、といふ伝へが多い。此は実は、生贄ではなかつた。水の神の嫁と言うた形で、択ばれた処女が仕へに行つた民俗を、拗れさせたのである。田や海河の生贄となつた、処女の伝説が這入りこんで来ると、切りこまれたのは、若い女。皿を数へる原因は、一枚を破るか、紛失したからだと説く。皿を破つたからして、必しも、くり返し/\皿数へをするわけもない。数とりをせねばならぬ理由は、元の河童にあつたのを、唯引きついだに留つてゐる。

平戸には又、こんな伝へもあつた。ある大きな士屋敷に、下女が居た。皿を始末させたら、一枚とり落して破つた。主人が刀を抜いて切りつけると、女は走つて海へ飛びこんだ。其姿を見れば、河童であつたといふ。此話は、皿を落すのが、女河童であつて、其から直に、若い女に転化した、ときめて了ふ事の出来ない乏しい例だが、形は単純である。子供の頭の頂を丸く剃り、芥子坊主にするのは、水の神の氏子なる事を示して、とられぬ様にするのである。同様にがつそ或はおかつぱと言ふ垂髪も、河童の形である。此方は、頂を剃らない。皿の隠れて居る類の形と見たのであらう。

鬼事遊びの中には、子供専門の鬼を、中心にしてゐる事が多い。かくれんぼうなども、隠れん坊ではないかも知れぬ。薩・隅・日の三国に共通したかごと似た形に、かぐれと言ふ河童の方言がある。其以前、もつと広く行はれた時分、「かくれん坊」の語根となつたのではないか。

目隠しを言ふめなしちご・めなしどちなども、目なし子鬼の義であらう。どちはみづちの系統の語であり、ちごも、河童或は河童の好物しりこだまを意味する、福岡辺の方言である。河童の外にも、もゝんぐわ・がごじ・子とろ・めかこうなど言ふのがゐる。

     六 河童の正体

世間に言ふとほり、一口に河童として、混雑を避けて来たが、所謂河童カハワロと謂うた姿の河太郎・河童の姿を、標準と見做しておいた。だが其外に、河童と言ふに不適当な姿をしたものがあるのである。

あんなに、馬の護符を出す津島神社の四方、かなり広い範囲に亘つて、河童は居ない。みづち一類の語が、用ゐられてゐる。大抵、鼈を言ふやうである。飛び離れた処々にも、この語を使ふ地方で著しい事は、みづし・みんつち・めどち・どちなど言ふが、大抵水の主ヌシの積りで、村人は畏がつてゐる。殆、人間の祈願など聞き分ける能力のあるものではない。近づく人をとり殺すと言ふ、河童の一性情を備へて居るばかりで、大抵その正体は、空想してゐる場合が多い。だからみづちは、必しも、一定した動物を言はない様である。みづち信仰の最高位にある、山城久世の水主(ミヅシ)神社の事を考へて見たい。元来地方々々に、自然に生じたと見るよりも、此社の信仰の、宣布せられた事を考へる方が、正しいらしい。だが今では、みづちには、祠のある物すら尠い。みづちの中にも含まれてゐる鼈の類は、又、どんがめ・どんがす・がめなど謂ふ別の語で、はつきり区別して示されてゐる。

みづてんぐ・みづてんなどは、土佐に盛んに用ゐられ、又今も盛んに活躍してゐるとせられてゐる。正体は、河童と天狗との間を行く様なもので、嘴の尖つてゐる為に、かう言ふ名がある。相撲を人に強ひ、負ければ水に引きこむと言ふ。みづちよりは、稍人間に近いものである。此語、河童の多い北九州にも、曾つて行はれて水天狗の字を音読する様にもなつた。ある大家では、封国の水の神を、江戸屋敷の屋敷神としてゐたのを公開した。其後、久しくはやり神となつた。昔の誓文を固く守つて、水に由る災ひは勿論、其以外にも、信仰者には利益を下す、と言はれてゐる。

ひようすべは、九州南部にまだ行はれてゐる。此も形は、甚、漠としてゐる。河童の様でもあり、鳥の様でもある。此も、水主神と同じく、其信仰を、宣伝々播した時代があつたのである。私の観察するところでは、奈良の都よりも古く、穴師神人が、幾群ともなく流離宣教した。その大和穴師兵主神の末である。播州・江州に大きな足だまりを持つて居た。北は奥州から、西は九国の果てまで、殆、日本全国に亘つたらしい布教の痕は、後世ひどく退転して、わけもわからぬ物になつて了うたのである。


底本:「折口信夫全集 3」中央公論社
   1995(平成7)年4月10日初版発行

初出:「中央公論 第四十四巻第九号」
   1929(昭和4)年9月

※底本の題名の下に書かれている「昭和四年九月「中央公論」第四十四巻第九号」はファイル末の「初出」欄に移しました。


https://www.aozora.gr.jp/cards/000933/files/18395_22464.html
http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/423.html

[リバイバル3] 中川隆 _ 美術・文芸関係投稿リンク 中川隆
149. 中川隆[-10327] koaQ7Jey 2019年5月12日 08:26:04 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[1784]
折口信夫 河童の話
http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/423.html

http://www.asyura2.com/09/revival3/msg/452.html#c149
[リバイバル3] 中川隆 _ 心理学、大脳生理学、文化人類学、文化関係投稿リンク 中川隆
72. 中川隆[-10326] koaQ7Jey 2019年5月12日 08:26:49 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[1785]
折口信夫 河童の話
http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/423.html

http://www.asyura2.com/09/revival3/msg/807.html#c72
[文化2] ゆとり教育を推進した三浦朱門の妻 曽野綾子がした事 _ これがクリスチャン 中川隆
187. 中川隆[-10321] koaQ7Jey 2019年5月12日 08:49:25 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[1790]

ゆとり教育の成果


科学論文の引用回数 米中が各分野の1位独占 日本はなし/nhk
2019年5月12日 4時08分https://www3.nhk.or.jp/news/html/20190512/k10011913021000.html?utm_int=news-culture_contents_list-items_001

引用回数が多い科学論文の各国の割合を151の分野ごとに比較したところ、アメリカと中国が各分野の1位を独占し、日本は1位となる分野がありませんでした。集計した科学技術振興機構は、日本の研究力が相対的に下がっていると警鐘を鳴らしています。

科学技術振興機構は、引用回数で世界の上位10%に入る質の高い自然科学系の論文について、人工知能やバイオテクノロジー、天文学など151の分野ごとに各国の割合を比較し、順位の推移を分析しました。

その結果、最新の2017年までの3年間平均では、151分野のうち80分野でアメリカが1位でした。
残りの71分野は中国が1位となり、米中が首位を独占しました。

日本は1位の分野がなく、がん研究など2つの分野の3位が最高でした。

日本と中国はともに1997年までの3年間平均では1位の分野はありませんでしたが、中国は20年の間に、機械工学など産業に関わる分野を中心に大きく順位を上げ、日本を引き離す結果となりました。

また5位以内の日本の順位をみても、1997年までの3年間平均では151分野のうち83分野で日本はトップ5に入っていましたが、最新の2017年までの3年間では18分野にまで減りました。

科学技術振興機構の伊藤裕子特任研究員は「予算が突出した米中がトップになるのはある意味当然といえるが、5位以内をみても日本の研究力低下が鮮明になった。深刻に受け止めるべきだ」と警鐘をならしています。

http://www.asyura2.com/09/bun2/msg/492.html#c187

[リバイバル3] スキー場の選択は雪質だけで決めよう 中川隆
170. 中川隆[-10320] koaQ7Jey 2019年5月12日 09:20:01 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[1791]

【雪国魚沼】奥只見丸山スキー場 10号トンネル
https://mao.5ch.net/test/read.cgi/ski/1534842622/l50


325名無しさん@ゲレンデいっぱい。2019/05/08(水) 23:15:53.60>>326

奥只見でパウダーって気持ちよかったことないんだけど
春しか行かなかったから試しに12月1月の降雪時に行ってはみたけど、
第2ペア降りて平面しばし漕ぎ、ABCコース滑っても(D論外)ブナ平ヒュッテから先で平面滑走になってかったるいんだよな
結局真冬も春もあそこでスピードダウンするんだなって(ちなボーダー)
俺、Eコースのコブしか面白くねぇもん、でパークも縮小されてったから行かなくなった

326名無しさん@ゲレンデいっぱい。2019/05/09(木) 04:35:57.21
>>325
嫌みとかじゃなくて、上手い人にはつまらないかもね奥只見パウダー
そもそも俺は下手だし底ツキ無しのパウダーであれば八方や谷川の沢筋からかぐら5ロマの緩斜面、妙高の重パウまで大好物w
奥只見は確かにコースとしては物足りないけど、春に他がクローズする中まだまだリフト使えてグルグル回せるのは俺には貴重な存在
あと春の奥只見は俺の中ではシーズン終盤のイベント的要素も有る
実際、コースだけでみたら雪が激重でも須原のが面白いw
それでも毎年セカンドシーズンオープン日が気になるし、あの長過ぎるトンネル抜けたらあの雪景色が目に飛び込んで来るとテンション上がるもんな
キタああああ!!!!!!やっぱ奥只見だよなーってwww

327名無しさん@ゲレンデいっぱい。2019/05/09(木) 20:37:33.41>>331

奥只見のパウダーは重い
新潟はどこも重いけどかぐらなら軽いときあるの?


331名無しさん@ゲレンデいっぱい。2019/05/09(木) 22:28:29.61
>>327
ない
新潟は日本海からの湿った雪だから仕方ない


328名無しさん@ゲレンデいっぱい。2019/05/09(木) 21:19:59.59

かぐらは軽い時もあるけど野沢や群馬のほうが全然軽い

杉ノ原関温泉アライなどで軽かった時に当たった事はない
八海山奥只見上国岩原などでも当たったことない
東北も八甲田や夏油雫石とかあの辺の有名どころも回った事あるけど重かった

尾瀬戸倉やパルコールなどではあの標高でもう軽い感じだからやっぱ群馬は軽いと思う
でも量の面白さとアクセス楽ちんで新潟に滑りにいっちゃう

329名無しさん@ゲレンデいっぱい。2019/05/09(木) 21:37:23.94

野沢、がくらより軽いかなぁ
俺がハズレなだけ?
かぐらと同じくらいのイメージ
群馬は軽いよね

330名無しさん@ゲレンデいっぱい。2019/05/09(木) 21:53:26.30

俺が行くといつも野沢のやまびこは軽いよw
普段かぐら八海山に通ってるから、山向こうとこっち側で結構雪質違うなぁって感じる

逆に上信越界隈や白馬には行かないので、そっちはどうなんだろうって
昔は湯ノ丸とか菅平とか行ったもんだけど最近めっきり行かなくなった


332名無しさん@ゲレンデいっぱい。2019/05/10(金) 10:55:02.94>>335>>336

すっげー寒気入ったら八海山とかでも軽くなるって聞いたけど違うの?


336名無しさん@ゲレンデいっぱい。2019/05/10(金) 15:58:04.41
>>332
それはない

335名無しさん@ゲレンデいっぱい。2019/05/10(金) 12:52:37.24
>>332
そして、遭難が出る

333名無しさん@ゲレンデいっぱい。2019/05/10(金) 11:50:25.71

寒さより海からの距離だからね

334 3332019/05/10(金) 12:01:51.78>>338

寒さより海からの距離だからね
だからニセコも重い


338名無しさん@ゲレンデいっぱい。2019/05/11(土) 23:05:29.18
>>334
ニセコが重いって富良野とかと比べたらでしょ
新潟なんかより全然軽かったよ
気温も関係あるでしょ

339名無しさん@ゲレンデいっぱい。2019/05/12(日) 04:58:42.16

新潟の雪を制することができればどんな雪でも滑れる。
よって、上手くなりたければ新潟県の、しかも標高の低いスキー場で滑るべし。

ところで、さすがに今日で終わりだよな?奥丸。
来週行こうかな、歩いて。金ないし。


341名無しさん@ゲレンデいっぱい。2019/05/12(日) 06:52:10.72

26日まで営業するかぐらならまだまだ雪たっぷりあるよ
https://mao.5ch.net/test/read.cgi/ski/1534842622/l50
http://www.asyura2.com/09/revival3/msg/782.html#c170

[リバイバル3] 群馬県 丸沼高原スキー場 中川隆
4. 中川隆[-10319] koaQ7Jey 2019年5月12日 09:20:28 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[1792]

【雪国魚沼】奥只見丸山スキー場 10号トンネル
https://mao.5ch.net/test/read.cgi/ski/1534842622/l50


325名無しさん@ゲレンデいっぱい。2019/05/08(水) 23:15:53.60>>326

奥只見でパウダーって気持ちよかったことないんだけど
春しか行かなかったから試しに12月1月の降雪時に行ってはみたけど、
第2ペア降りて平面しばし漕ぎ、ABCコース滑っても(D論外)ブナ平ヒュッテから先で平面滑走になってかったるいんだよな
結局真冬も春もあそこでスピードダウンするんだなって(ちなボーダー)
俺、Eコースのコブしか面白くねぇもん、でパークも縮小されてったから行かなくなった

326名無しさん@ゲレンデいっぱい。2019/05/09(木) 04:35:57.21
>>325
嫌みとかじゃなくて、上手い人にはつまらないかもね奥只見パウダー
そもそも俺は下手だし底ツキ無しのパウダーであれば八方や谷川の沢筋からかぐら5ロマの緩斜面、妙高の重パウまで大好物w
奥只見は確かにコースとしては物足りないけど、春に他がクローズする中まだまだリフト使えてグルグル回せるのは俺には貴重な存在
あと春の奥只見は俺の中ではシーズン終盤のイベント的要素も有る
実際、コースだけでみたら雪が激重でも須原のが面白いw
それでも毎年セカンドシーズンオープン日が気になるし、あの長過ぎるトンネル抜けたらあの雪景色が目に飛び込んで来るとテンション上がるもんな
キタああああ!!!!!!やっぱ奥只見だよなーってwww

327名無しさん@ゲレンデいっぱい。2019/05/09(木) 20:37:33.41>>331

奥只見のパウダーは重い
新潟はどこも重いけどかぐらなら軽いときあるの?


331名無しさん@ゲレンデいっぱい。2019/05/09(木) 22:28:29.61
>>327
ない
新潟は日本海からの湿った雪だから仕方ない


328名無しさん@ゲレンデいっぱい。2019/05/09(木) 21:19:59.59

かぐらは軽い時もあるけど野沢や群馬のほうが全然軽い

杉ノ原関温泉アライなどで軽かった時に当たった事はない
八海山奥只見上国岩原などでも当たったことない
東北も八甲田や夏油雫石とかあの辺の有名どころも回った事あるけど重かった

尾瀬戸倉やパルコールなどではあの標高でもう軽い感じだからやっぱ群馬は軽いと思う
でも量の面白さとアクセス楽ちんで新潟に滑りにいっちゃう

329名無しさん@ゲレンデいっぱい。2019/05/09(木) 21:37:23.94

野沢、がくらより軽いかなぁ
俺がハズレなだけ?
かぐらと同じくらいのイメージ
群馬は軽いよね

330名無しさん@ゲレンデいっぱい。2019/05/09(木) 21:53:26.30

俺が行くといつも野沢のやまびこは軽いよw
普段かぐら八海山に通ってるから、山向こうとこっち側で結構雪質違うなぁって感じる

逆に上信越界隈や白馬には行かないので、そっちはどうなんだろうって
昔は湯ノ丸とか菅平とか行ったもんだけど最近めっきり行かなくなった


332名無しさん@ゲレンデいっぱい。2019/05/10(金) 10:55:02.94>>335>>336

すっげー寒気入ったら八海山とかでも軽くなるって聞いたけど違うの?


336名無しさん@ゲレンデいっぱい。2019/05/10(金) 15:58:04.41
>>332
それはない

335名無しさん@ゲレンデいっぱい。2019/05/10(金) 12:52:37.24
>>332
そして、遭難が出る

333名無しさん@ゲレンデいっぱい。2019/05/10(金) 11:50:25.71

寒さより海からの距離だからね

334 3332019/05/10(金) 12:01:51.78>>338

寒さより海からの距離だからね
だからニセコも重い


338名無しさん@ゲレンデいっぱい。2019/05/11(土) 23:05:29.18
>>334
ニセコが重いって富良野とかと比べたらでしょ
新潟なんかより全然軽かったよ
気温も関係あるでしょ

339名無しさん@ゲレンデいっぱい。2019/05/12(日) 04:58:42.16

新潟の雪を制することができればどんな雪でも滑れる。
よって、上手くなりたければ新潟県の、しかも標高の低いスキー場で滑るべし。

ところで、さすがに今日で終わりだよな?奥丸。
来週行こうかな、歩いて。金ないし。


341名無しさん@ゲレンデいっぱい。2019/05/12(日) 06:52:10.72

26日まで営業するかぐらならまだまだ雪たっぷりあるよ
https://mao.5ch.net/test/read.cgi/ski/1534842622/l50
http://www.asyura2.com/09/revival3/msg/931.html#c4

[リバイバル3] 群馬県 たんばらスキーパーク 中川隆
4. 中川隆[-10318] koaQ7Jey 2019年5月12日 09:21:00 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[1793]

【雪国魚沼】奥只見丸山スキー場 10号トンネル
https://mao.5ch.net/test/read.cgi/ski/1534842622/l50


325名無しさん@ゲレンデいっぱい。2019/05/08(水) 23:15:53.60>>326

奥只見でパウダーって気持ちよかったことないんだけど
春しか行かなかったから試しに12月1月の降雪時に行ってはみたけど、
第2ペア降りて平面しばし漕ぎ、ABCコース滑っても(D論外)ブナ平ヒュッテから先で平面滑走になってかったるいんだよな
結局真冬も春もあそこでスピードダウンするんだなって(ちなボーダー)
俺、Eコースのコブしか面白くねぇもん、でパークも縮小されてったから行かなくなった

326名無しさん@ゲレンデいっぱい。2019/05/09(木) 04:35:57.21
>>325
嫌みとかじゃなくて、上手い人にはつまらないかもね奥只見パウダー
そもそも俺は下手だし底ツキ無しのパウダーであれば八方や谷川の沢筋からかぐら5ロマの緩斜面、妙高の重パウまで大好物w
奥只見は確かにコースとしては物足りないけど、春に他がクローズする中まだまだリフト使えてグルグル回せるのは俺には貴重な存在
あと春の奥只見は俺の中ではシーズン終盤のイベント的要素も有る
実際、コースだけでみたら雪が激重でも須原のが面白いw
それでも毎年セカンドシーズンオープン日が気になるし、あの長過ぎるトンネル抜けたらあの雪景色が目に飛び込んで来るとテンション上がるもんな
キタああああ!!!!!!やっぱ奥只見だよなーってwww

327名無しさん@ゲレンデいっぱい。2019/05/09(木) 20:37:33.41>>331

奥只見のパウダーは重い
新潟はどこも重いけどかぐらなら軽いときあるの?


331名無しさん@ゲレンデいっぱい。2019/05/09(木) 22:28:29.61
>>327
ない
新潟は日本海からの湿った雪だから仕方ない


328名無しさん@ゲレンデいっぱい。2019/05/09(木) 21:19:59.59

かぐらは軽い時もあるけど野沢や群馬のほうが全然軽い

杉ノ原関温泉アライなどで軽かった時に当たった事はない
八海山奥只見上国岩原などでも当たったことない
東北も八甲田や夏油雫石とかあの辺の有名どころも回った事あるけど重かった

尾瀬戸倉やパルコールなどではあの標高でもう軽い感じだからやっぱ群馬は軽いと思う
でも量の面白さとアクセス楽ちんで新潟に滑りにいっちゃう

329名無しさん@ゲレンデいっぱい。2019/05/09(木) 21:37:23.94

野沢、がくらより軽いかなぁ
俺がハズレなだけ?
かぐらと同じくらいのイメージ
群馬は軽いよね

330名無しさん@ゲレンデいっぱい。2019/05/09(木) 21:53:26.30

俺が行くといつも野沢のやまびこは軽いよw
普段かぐら八海山に通ってるから、山向こうとこっち側で結構雪質違うなぁって感じる

逆に上信越界隈や白馬には行かないので、そっちはどうなんだろうって
昔は湯ノ丸とか菅平とか行ったもんだけど最近めっきり行かなくなった


332名無しさん@ゲレンデいっぱい。2019/05/10(金) 10:55:02.94>>335>>336

すっげー寒気入ったら八海山とかでも軽くなるって聞いたけど違うの?


336名無しさん@ゲレンデいっぱい。2019/05/10(金) 15:58:04.41
>>332
それはない

335名無しさん@ゲレンデいっぱい。2019/05/10(金) 12:52:37.24
>>332
そして、遭難が出る

333名無しさん@ゲレンデいっぱい。2019/05/10(金) 11:50:25.71

寒さより海からの距離だからね

334 3332019/05/10(金) 12:01:51.78>>338

寒さより海からの距離だからね
だからニセコも重い


338名無しさん@ゲレンデいっぱい。2019/05/11(土) 23:05:29.18
>>334
ニセコが重いって富良野とかと比べたらでしょ
新潟なんかより全然軽かったよ
気温も関係あるでしょ

339名無しさん@ゲレンデいっぱい。2019/05/12(日) 04:58:42.16

新潟の雪を制することができればどんな雪でも滑れる。
よって、上手くなりたければ新潟県の、しかも標高の低いスキー場で滑るべし。

ところで、さすがに今日で終わりだよな?奥丸。
来週行こうかな、歩いて。金ないし。


341名無しさん@ゲレンデいっぱい。2019/05/12(日) 06:52:10.72

26日まで営業するかぐらならまだまだ雪たっぷりあるよ
https://mao.5ch.net/test/read.cgi/ski/1534842622/l50
http://www.asyura2.com/09/revival3/msg/930.html#c4

[リバイバル3] 新潟県 魚沼市 奥只見丸山スキー場 中川隆
6. 中川隆[-10317] koaQ7Jey 2019年5月12日 09:21:29 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[1794]

【雪国魚沼】奥只見丸山スキー場 10号トンネル
https://mao.5ch.net/test/read.cgi/ski/1534842622/l50


325名無しさん@ゲレンデいっぱい。2019/05/08(水) 23:15:53.60>>326

奥只見でパウダーって気持ちよかったことないんだけど
春しか行かなかったから試しに12月1月の降雪時に行ってはみたけど、
第2ペア降りて平面しばし漕ぎ、ABCコース滑っても(D論外)ブナ平ヒュッテから先で平面滑走になってかったるいんだよな
結局真冬も春もあそこでスピードダウンするんだなって(ちなボーダー)
俺、Eコースのコブしか面白くねぇもん、でパークも縮小されてったから行かなくなった

326名無しさん@ゲレンデいっぱい。2019/05/09(木) 04:35:57.21
>>325
嫌みとかじゃなくて、上手い人にはつまらないかもね奥只見パウダー
そもそも俺は下手だし底ツキ無しのパウダーであれば八方や谷川の沢筋からかぐら5ロマの緩斜面、妙高の重パウまで大好物w
奥只見は確かにコースとしては物足りないけど、春に他がクローズする中まだまだリフト使えてグルグル回せるのは俺には貴重な存在
あと春の奥只見は俺の中ではシーズン終盤のイベント的要素も有る
実際、コースだけでみたら雪が激重でも須原のが面白いw
それでも毎年セカンドシーズンオープン日が気になるし、あの長過ぎるトンネル抜けたらあの雪景色が目に飛び込んで来るとテンション上がるもんな
キタああああ!!!!!!やっぱ奥只見だよなーってwww

327名無しさん@ゲレンデいっぱい。2019/05/09(木) 20:37:33.41>>331

奥只見のパウダーは重い
新潟はどこも重いけどかぐらなら軽いときあるの?


331名無しさん@ゲレンデいっぱい。2019/05/09(木) 22:28:29.61
>>327
ない
新潟は日本海からの湿った雪だから仕方ない


328名無しさん@ゲレンデいっぱい。2019/05/09(木) 21:19:59.59

かぐらは軽い時もあるけど野沢や群馬のほうが全然軽い

杉ノ原関温泉アライなどで軽かった時に当たった事はない
八海山奥只見上国岩原などでも当たったことない
東北も八甲田や夏油雫石とかあの辺の有名どころも回った事あるけど重かった

尾瀬戸倉やパルコールなどではあの標高でもう軽い感じだからやっぱ群馬は軽いと思う
でも量の面白さとアクセス楽ちんで新潟に滑りにいっちゃう

329名無しさん@ゲレンデいっぱい。2019/05/09(木) 21:37:23.94

野沢、がくらより軽いかなぁ
俺がハズレなだけ?
かぐらと同じくらいのイメージ
群馬は軽いよね

330名無しさん@ゲレンデいっぱい。2019/05/09(木) 21:53:26.30

俺が行くといつも野沢のやまびこは軽いよw
普段かぐら八海山に通ってるから、山向こうとこっち側で結構雪質違うなぁって感じる

逆に上信越界隈や白馬には行かないので、そっちはどうなんだろうって
昔は湯ノ丸とか菅平とか行ったもんだけど最近めっきり行かなくなった


332名無しさん@ゲレンデいっぱい。2019/05/10(金) 10:55:02.94>>335>>336

すっげー寒気入ったら八海山とかでも軽くなるって聞いたけど違うの?


336名無しさん@ゲレンデいっぱい。2019/05/10(金) 15:58:04.41
>>332
それはない

335名無しさん@ゲレンデいっぱい。2019/05/10(金) 12:52:37.24
>>332
そして、遭難が出る

333名無しさん@ゲレンデいっぱい。2019/05/10(金) 11:50:25.71

寒さより海からの距離だからね

334 3332019/05/10(金) 12:01:51.78>>338

寒さより海からの距離だからね
だからニセコも重い


338名無しさん@ゲレンデいっぱい。2019/05/11(土) 23:05:29.18
>>334
ニセコが重いって富良野とかと比べたらでしょ
新潟なんかより全然軽かったよ
気温も関係あるでしょ

339名無しさん@ゲレンデいっぱい。2019/05/12(日) 04:58:42.16

新潟の雪を制することができればどんな雪でも滑れる。
よって、上手くなりたければ新潟県の、しかも標高の低いスキー場で滑るべし。

ところで、さすがに今日で終わりだよな?奥丸。
来週行こうかな、歩いて。金ないし。


341名無しさん@ゲレンデいっぱい。2019/05/12(日) 06:52:10.72

26日まで営業するかぐらならまだまだ雪たっぷりあるよ
https://mao.5ch.net/test/read.cgi/ski/1534842622/l50
http://www.asyura2.com/09/revival3/msg/846.html#c6

[近代史3] 日本や中国のバブルは簡単に崩壊するけれど、アメリカのバブルだけは絶対に崩壊しない理由 中川隆
8. 中川隆[-10316] koaQ7Jey 2019年5月12日 09:42:17 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[1795]

世界経済を米中に2分し中国側を勝たせる
2019年5月10日   田中 宇
http://tanakanews.com/190510china.htm


トランプ大統領の米国は、5月11日から中国の対米輸出品への懲罰関税を引き上げる。米国と中国の貿易交渉は今後も続けるので、正式な「交渉破談」ではないが、米国はしだいに中国に厳しい態度をとるようになっている。米中交渉の破談は世界的な株価の暴落を引き起こすので、トランプは、正式な破談を宣言しないものの、かねてからやりたかった経済面の中国敵視を強めている。この傾向は今後さらに強まる。 (Trump says tariffs an 'excellent' alternative to China deal) (Trump Says China Tariffs Will Increase as Trade Deal Hangs in the Balance)

トランプ以前の米国は、軍事外交面で、南シナ海や台湾、チベット、共産党一党独裁などの問題を口実に中国を敵視する一方で、経済面は、米企業の儲けを増やし米国債を買い支えてくれる中国を大事にし、自由貿易関係を維持してきた。米中関係は「政冷経熱」の傾向だった。トランプは、従来の体制を破壊し、経済面で、中国のホアウェイなどネットワーク機器メーカーが米国の国家安全を脅かしているとか、中国の貿易慣行が不公正だと主張し始め、米国と同盟諸国が中国に対する経済面の不信感や敵視を強めるよう仕向けている。トランプは、米中を「新冷戦」の状態に追い込んでいる。 (East Asia’s decoupling)

世界経済は冷戦後、米国を中心に世界が一体的な状態(米経済覇権体制)を続けてきた。トランプの「米中新冷戦」は、この一体性を壊し、世界経済から、中国とその影響下の国々を除外し、世界経済を米国側(米国と同盟諸国。米欧日など)と、中国側(中国と非米・反米諸国)とに二分(デカップリング)して、米国側が中国側を敵視する戦略だ。この戦略はトランプの気まぐれでなく、来年トランプが大統領に再選された後までずっと続く。トランプが、中国ときちんとした貿易協定を結んで米中が和解することは今後もない。逆に、米国の経済面の中国敵視が強まっていく可能性が非常に高い。 (Bannon: We're In An Economic War With China. It's Futile To Compromise) (Day one of decoupling? The uneasy future of U.S.-China relations)

トランプの対中姿勢は表向き、米国のライバルで、一党独裁や人権侵害の問題を抱えている中国を経済制裁して封じ込める戦略だ。だが「世界の工場」であり「世界最大の消費市場」になっていく中国は、すでに世界経済の多くの勢力にとって、関係を切ることができない重要な取引相手だ。中国は、今後ますます重要な存在になる。それがわかっているので、同盟諸国は、トランプから「中国との関係を切れ」と言われても切ることができない。 (Decoupling the US from Asia)

トランプの米中新冷戦・世界経済の米中2分化は、始める前から失敗が運命づけられている。エリート系「専門家」からオルトメディアの分析者まで、みんながトランプの米中新冷戦は失敗すると忠告・警告しているが、トランプ政権は忠告を全く無視して米国と同盟諸国に中国との経済関係の断絶を強要してくる。 (US and China -- the great decoupling)

トランプは、英国など、中国のホアウェイ製のネットワーク機器を使い続ける同盟諸国に対し「機密が中国に漏れる恐れがあるので、ホアウェイを排除しない限り、諜報機関どうしの機密情報の共有をやめる」と警告を繰り返している。諜報共有は、米国の同盟体制の根幹だ。これはトランプの「覇権放棄」策の一つだ。 (America's Global Financial War Strategy Is Escalating)

加えてトランプは同盟諸国に、中国との関係を切れと言う一方で、米国との不平等条約的な貿易協定を結べと強要してくる。同盟諸国は、トランプに唯々諾々と従い続けると、経済面の国益がどんどん損なわれていく。今はまだ序の口だが、いずれトランプは、中国との関係を切らない同盟諸国を経済制裁するようになる。同盟諸国は、中国と米国のどちらか一方を選べと言われるようになる。 (As China Trade War Cools, Japan Braces for Its Clash With Trump) (中国でなく同盟諸国を痛める米中新冷戦)

従来のように、米国が圧倒的に世界最大の金融立国である状態が続く限り、同盟諸国は、中国より米国を重視する姿勢を続ける。だが実のところ米国の金融は、史上最大の金融バブル膨張の状態であり、このバブルの維持には、中国や同盟諸国が米国の債券を買い支え、ドルを基軸通貨として貯め込んでくれてきた状態が必要だった。米国のバブル維持の基盤には、米中の良好な経済関係と、同盟諸国が米国に協力する覇権体制が必要だった。トランプは、これらを破壊している。 ("Fasten Your Seatbelt" - Here's What Happens Next In The US-China Trade War) (米中どちらかを選ばされるアジア諸国)

今週から来週にかけて、トランプが中国に対する懲罰関税を強化すると、それが引き金になって米国中心の世界の株価が急落する可能性がある。トランプは最近、米連銀(FRB)に対し、これまでの金融引き締め姿勢をやめさせ、再緩和(再QE)に方向転換しろと圧力をかけ続けている。トランプは、中国への懲罰関税を強化して株価を意図的にいったん暴落させ、それによってFRBが再緩和への姿勢を強めざるを得ないように仕向けようとしている可能性もある。 (Peter Schiff: Did Trump Tank Stocks On Purpose To Force A Rate Cut?) (株はまだ上がる!?)

今後しばらくは、いったん株が暴落しても、また上昇傾向に戻る。当面、FRBが再緩和していくことによる金融市場への資金供給が続き、バブルは維持される。だが、その効果が切れると、米国のバブル崩壊・リーマン危機の再来が起こる。次のバブル崩壊時には、中国や同盟諸国からのドルや米国債券に対する買い支えが期待できない。米日欧の中央銀行は、リーマン危機以来の金融バブル延命策(QE)で疲弊し、次のバブル崩壊時にほとんど救済策を打てない。次のバブル崩壊は、ドルや米国債といった米国の覇権体制の基盤を壊すものになる。 (米国の破綻は不可避)

米国がバブル崩壊するなら、中国も同時に崩壊すると予測する人が多い。だが、米国がバブルを膨張させてきたこの数年間、中国は逆に自国のバブルを意図的に潰し続けてきた。中国当局がバブルを潰すので、中国がバブル状態であることが目立ち、中国を悪しざまに報じる傾向が強い米日などのマスコミが「中国はバブル崩壊している。もうダメだ」といった誇張報道を続けてきた。実際は、中国より米国の方がひどいバブル膨張の状態にある。米国のバブル崩壊は、中国にもある程度の悪影響を与えるが、中国の実体経済は再起できる。 (Trump’s China Brinksmanship) (中国の意図的なバブル崩壊)

米国経済は金融(バブル)に偏重しており、消費以外の実体経済が脆弱だ。対照的に、中国は製造業など実体経済が豊かで、きたるべき米国のバブル崩壊後、世界経済の中心は中国(とその傘下の一帯諸国)の実体経済になっていく。米国のバブル崩壊のプロセスはおそらく、トランプ政権の2期目(2024年まで)から、その次の政権(28年まで)にかけて起きる。トランプは、意図的にこのプロセスを発生させている。 (ドルを犠牲にしつつバブルを延命させる)

トランプの裏の意図は、世界経済を米中貿易戦争によって米国側と中国側に二分した後、巨大な金融バブルの崩壊を誘発して米国側を覇権ごと潰す一方、中国側の実体経済をできるだけ無傷で残すことで、米単独覇権体制とそれを動かしてきた軍産複合体を消失させ、世界の経済成長(バブルでない部分)を維持したまま覇権体制を多極化する「隠れ多極主義の戦略」にあると私は見ている。 (多極化の目的は世界の安定化と経済成長)
http://tanakanews.com/190510china.htm
http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/121.html#c8

[近代史02] 鈴木傾城 _ アメリカ株で儲けるほど簡単な事は無い 中川隆
42. 中川隆[-10315] koaQ7Jey 2019年5月12日 09:43:08 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[1796]

世界経済を米中に2分し中国側を勝たせる
2019年5月10日   田中 宇
http://tanakanews.com/190510china.htm


トランプ大統領の米国は、5月11日から中国の対米輸出品への懲罰関税を引き上げる。米国と中国の貿易交渉は今後も続けるので、正式な「交渉破談」ではないが、米国はしだいに中国に厳しい態度をとるようになっている。米中交渉の破談は世界的な株価の暴落を引き起こすので、トランプは、正式な破談を宣言しないものの、かねてからやりたかった経済面の中国敵視を強めている。この傾向は今後さらに強まる。 (Trump says tariffs an 'excellent' alternative to China deal) (Trump Says China Tariffs Will Increase as Trade Deal Hangs in the Balance)

トランプ以前の米国は、軍事外交面で、南シナ海や台湾、チベット、共産党一党独裁などの問題を口実に中国を敵視する一方で、経済面は、米企業の儲けを増やし米国債を買い支えてくれる中国を大事にし、自由貿易関係を維持してきた。米中関係は「政冷経熱」の傾向だった。トランプは、従来の体制を破壊し、経済面で、中国のホアウェイなどネットワーク機器メーカーが米国の国家安全を脅かしているとか、中国の貿易慣行が不公正だと主張し始め、米国と同盟諸国が中国に対する経済面の不信感や敵視を強めるよう仕向けている。トランプは、米中を「新冷戦」の状態に追い込んでいる。 (East Asia’s decoupling)

世界経済は冷戦後、米国を中心に世界が一体的な状態(米経済覇権体制)を続けてきた。トランプの「米中新冷戦」は、この一体性を壊し、世界経済から、中国とその影響下の国々を除外し、世界経済を米国側(米国と同盟諸国。米欧日など)と、中国側(中国と非米・反米諸国)とに二分(デカップリング)して、米国側が中国側を敵視する戦略だ。この戦略はトランプの気まぐれでなく、来年トランプが大統領に再選された後までずっと続く。トランプが、中国ときちんとした貿易協定を結んで米中が和解することは今後もない。逆に、米国の経済面の中国敵視が強まっていく可能性が非常に高い。 (Bannon: We're In An Economic War With China. It's Futile To Compromise) (Day one of decoupling? The uneasy future of U.S.-China relations)

トランプの対中姿勢は表向き、米国のライバルで、一党独裁や人権侵害の問題を抱えている中国を経済制裁して封じ込める戦略だ。だが「世界の工場」であり「世界最大の消費市場」になっていく中国は、すでに世界経済の多くの勢力にとって、関係を切ることができない重要な取引相手だ。中国は、今後ますます重要な存在になる。それがわかっているので、同盟諸国は、トランプから「中国との関係を切れ」と言われても切ることができない。 (Decoupling the US from Asia)

トランプの米中新冷戦・世界経済の米中2分化は、始める前から失敗が運命づけられている。エリート系「専門家」からオルトメディアの分析者まで、みんながトランプの米中新冷戦は失敗すると忠告・警告しているが、トランプ政権は忠告を全く無視して米国と同盟諸国に中国との経済関係の断絶を強要してくる。 (US and China -- the great decoupling)

トランプは、英国など、中国のホアウェイ製のネットワーク機器を使い続ける同盟諸国に対し「機密が中国に漏れる恐れがあるので、ホアウェイを排除しない限り、諜報機関どうしの機密情報の共有をやめる」と警告を繰り返している。諜報共有は、米国の同盟体制の根幹だ。これはトランプの「覇権放棄」策の一つだ。 (America's Global Financial War Strategy Is Escalating)

加えてトランプは同盟諸国に、中国との関係を切れと言う一方で、米国との不平等条約的な貿易協定を結べと強要してくる。同盟諸国は、トランプに唯々諾々と従い続けると、経済面の国益がどんどん損なわれていく。今はまだ序の口だが、いずれトランプは、中国との関係を切らない同盟諸国を経済制裁するようになる。同盟諸国は、中国と米国のどちらか一方を選べと言われるようになる。 (As China Trade War Cools, Japan Braces for Its Clash With Trump) (中国でなく同盟諸国を痛める米中新冷戦)

従来のように、米国が圧倒的に世界最大の金融立国である状態が続く限り、同盟諸国は、中国より米国を重視する姿勢を続ける。だが実のところ米国の金融は、史上最大の金融バブル膨張の状態であり、このバブルの維持には、中国や同盟諸国が米国の債券を買い支え、ドルを基軸通貨として貯め込んでくれてきた状態が必要だった。米国のバブル維持の基盤には、米中の良好な経済関係と、同盟諸国が米国に協力する覇権体制が必要だった。トランプは、これらを破壊している。 ("Fasten Your Seatbelt" - Here's What Happens Next In The US-China Trade War) (米中どちらかを選ばされるアジア諸国)

今週から来週にかけて、トランプが中国に対する懲罰関税を強化すると、それが引き金になって米国中心の世界の株価が急落する可能性がある。トランプは最近、米連銀(FRB)に対し、これまでの金融引き締め姿勢をやめさせ、再緩和(再QE)に方向転換しろと圧力をかけ続けている。トランプは、中国への懲罰関税を強化して株価を意図的にいったん暴落させ、それによってFRBが再緩和への姿勢を強めざるを得ないように仕向けようとしている可能性もある。 (Peter Schiff: Did Trump Tank Stocks On Purpose To Force A Rate Cut?) (株はまだ上がる!?)

今後しばらくは、いったん株が暴落しても、また上昇傾向に戻る。当面、FRBが再緩和していくことによる金融市場への資金供給が続き、バブルは維持される。だが、その効果が切れると、米国のバブル崩壊・リーマン危機の再来が起こる。次のバブル崩壊時には、中国や同盟諸国からのドルや米国債券に対する買い支えが期待できない。米日欧の中央銀行は、リーマン危機以来の金融バブル延命策(QE)で疲弊し、次のバブル崩壊時にほとんど救済策を打てない。次のバブル崩壊は、ドルや米国債といった米国の覇権体制の基盤を壊すものになる。 (米国の破綻は不可避)

米国がバブル崩壊するなら、中国も同時に崩壊すると予測する人が多い。だが、米国がバブルを膨張させてきたこの数年間、中国は逆に自国のバブルを意図的に潰し続けてきた。中国当局がバブルを潰すので、中国がバブル状態であることが目立ち、中国を悪しざまに報じる傾向が強い米日などのマスコミが「中国はバブル崩壊している。もうダメだ」といった誇張報道を続けてきた。実際は、中国より米国の方がひどいバブル膨張の状態にある。米国のバブル崩壊は、中国にもある程度の悪影響を与えるが、中国の実体経済は再起できる。 (Trump’s China Brinksmanship) (中国の意図的なバブル崩壊)

米国経済は金融(バブル)に偏重しており、消費以外の実体経済が脆弱だ。対照的に、中国は製造業など実体経済が豊かで、きたるべき米国のバブル崩壊後、世界経済の中心は中国(とその傘下の一帯諸国)の実体経済になっていく。米国のバブル崩壊のプロセスはおそらく、トランプ政権の2期目(2024年まで)から、その次の政権(28年まで)にかけて起きる。トランプは、意図的にこのプロセスを発生させている。 (ドルを犠牲にしつつバブルを延命させる)

トランプの裏の意図は、世界経済を米中貿易戦争によって米国側と中国側に二分した後、巨大な金融バブルの崩壊を誘発して米国側を覇権ごと潰す一方、中国側の実体経済をできるだけ無傷で残すことで、米単独覇権体制とそれを動かしてきた軍産複合体を消失させ、世界の経済成長(バブルでない部分)を維持したまま覇権体制を多極化する「隠れ多極主義の戦略」にあると私は見ている。 (多極化の目的は世界の安定化と経済成長)
http://tanakanews.com/190510china.htm
http://www.asyura2.com/09/reki02/msg/895.html#c42

[リバイバル3] 株で損した理由教えてあげる 新スレ 中川隆
167. 中川隆[-10314] koaQ7Jey 2019年5月12日 09:43:48 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[1797]

世界経済を米中に2分し中国側を勝たせる
2019年5月10日   田中 宇
http://tanakanews.com/190510china.htm


トランプ大統領の米国は、5月11日から中国の対米輸出品への懲罰関税を引き上げる。米国と中国の貿易交渉は今後も続けるので、正式な「交渉破談」ではないが、米国はしだいに中国に厳しい態度をとるようになっている。米中交渉の破談は世界的な株価の暴落を引き起こすので、トランプは、正式な破談を宣言しないものの、かねてからやりたかった経済面の中国敵視を強めている。この傾向は今後さらに強まる。 (Trump says tariffs an 'excellent' alternative to China deal) (Trump Says China Tariffs Will Increase as Trade Deal Hangs in the Balance)

トランプ以前の米国は、軍事外交面で、南シナ海や台湾、チベット、共産党一党独裁などの問題を口実に中国を敵視する一方で、経済面は、米企業の儲けを増やし米国債を買い支えてくれる中国を大事にし、自由貿易関係を維持してきた。米中関係は「政冷経熱」の傾向だった。トランプは、従来の体制を破壊し、経済面で、中国のホアウェイなどネットワーク機器メーカーが米国の国家安全を脅かしているとか、中国の貿易慣行が不公正だと主張し始め、米国と同盟諸国が中国に対する経済面の不信感や敵視を強めるよう仕向けている。トランプは、米中を「新冷戦」の状態に追い込んでいる。 (East Asia’s decoupling)

世界経済は冷戦後、米国を中心に世界が一体的な状態(米経済覇権体制)を続けてきた。トランプの「米中新冷戦」は、この一体性を壊し、世界経済から、中国とその影響下の国々を除外し、世界経済を米国側(米国と同盟諸国。米欧日など)と、中国側(中国と非米・反米諸国)とに二分(デカップリング)して、米国側が中国側を敵視する戦略だ。この戦略はトランプの気まぐれでなく、来年トランプが大統領に再選された後までずっと続く。トランプが、中国ときちんとした貿易協定を結んで米中が和解することは今後もない。逆に、米国の経済面の中国敵視が強まっていく可能性が非常に高い。 (Bannon: We're In An Economic War With China. It's Futile To Compromise) (Day one of decoupling? The uneasy future of U.S.-China relations)

トランプの対中姿勢は表向き、米国のライバルで、一党独裁や人権侵害の問題を抱えている中国を経済制裁して封じ込める戦略だ。だが「世界の工場」であり「世界最大の消費市場」になっていく中国は、すでに世界経済の多くの勢力にとって、関係を切ることができない重要な取引相手だ。中国は、今後ますます重要な存在になる。それがわかっているので、同盟諸国は、トランプから「中国との関係を切れ」と言われても切ることができない。 (Decoupling the US from Asia)

トランプの米中新冷戦・世界経済の米中2分化は、始める前から失敗が運命づけられている。エリート系「専門家」からオルトメディアの分析者まで、みんながトランプの米中新冷戦は失敗すると忠告・警告しているが、トランプ政権は忠告を全く無視して米国と同盟諸国に中国との経済関係の断絶を強要してくる。 (US and China -- the great decoupling)

トランプは、英国など、中国のホアウェイ製のネットワーク機器を使い続ける同盟諸国に対し「機密が中国に漏れる恐れがあるので、ホアウェイを排除しない限り、諜報機関どうしの機密情報の共有をやめる」と警告を繰り返している。諜報共有は、米国の同盟体制の根幹だ。これはトランプの「覇権放棄」策の一つだ。 (America's Global Financial War Strategy Is Escalating)

加えてトランプは同盟諸国に、中国との関係を切れと言う一方で、米国との不平等条約的な貿易協定を結べと強要してくる。同盟諸国は、トランプに唯々諾々と従い続けると、経済面の国益がどんどん損なわれていく。今はまだ序の口だが、いずれトランプは、中国との関係を切らない同盟諸国を経済制裁するようになる。同盟諸国は、中国と米国のどちらか一方を選べと言われるようになる。 (As China Trade War Cools, Japan Braces for Its Clash With Trump) (中国でなく同盟諸国を痛める米中新冷戦)

従来のように、米国が圧倒的に世界最大の金融立国である状態が続く限り、同盟諸国は、中国より米国を重視する姿勢を続ける。だが実のところ米国の金融は、史上最大の金融バブル膨張の状態であり、このバブルの維持には、中国や同盟諸国が米国の債券を買い支え、ドルを基軸通貨として貯め込んでくれてきた状態が必要だった。米国のバブル維持の基盤には、米中の良好な経済関係と、同盟諸国が米国に協力する覇権体制が必要だった。トランプは、これらを破壊している。 ("Fasten Your Seatbelt" - Here's What Happens Next In The US-China Trade War) (米中どちらかを選ばされるアジア諸国)

今週から来週にかけて、トランプが中国に対する懲罰関税を強化すると、それが引き金になって米国中心の世界の株価が急落する可能性がある。トランプは最近、米連銀(FRB)に対し、これまでの金融引き締め姿勢をやめさせ、再緩和(再QE)に方向転換しろと圧力をかけ続けている。トランプは、中国への懲罰関税を強化して株価を意図的にいったん暴落させ、それによってFRBが再緩和への姿勢を強めざるを得ないように仕向けようとしている可能性もある。 (Peter Schiff: Did Trump Tank Stocks On Purpose To Force A Rate Cut?) (株はまだ上がる!?)

今後しばらくは、いったん株が暴落しても、また上昇傾向に戻る。当面、FRBが再緩和していくことによる金融市場への資金供給が続き、バブルは維持される。だが、その効果が切れると、米国のバブル崩壊・リーマン危機の再来が起こる。次のバブル崩壊時には、中国や同盟諸国からのドルや米国債券に対する買い支えが期待できない。米日欧の中央銀行は、リーマン危機以来の金融バブル延命策(QE)で疲弊し、次のバブル崩壊時にほとんど救済策を打てない。次のバブル崩壊は、ドルや米国債といった米国の覇権体制の基盤を壊すものになる。 (米国の破綻は不可避)

米国がバブル崩壊するなら、中国も同時に崩壊すると予測する人が多い。だが、米国がバブルを膨張させてきたこの数年間、中国は逆に自国のバブルを意図的に潰し続けてきた。中国当局がバブルを潰すので、中国がバブル状態であることが目立ち、中国を悪しざまに報じる傾向が強い米日などのマスコミが「中国はバブル崩壊している。もうダメだ」といった誇張報道を続けてきた。実際は、中国より米国の方がひどいバブル膨張の状態にある。米国のバブル崩壊は、中国にもある程度の悪影響を与えるが、中国の実体経済は再起できる。 (Trump’s China Brinksmanship) (中国の意図的なバブル崩壊)

米国経済は金融(バブル)に偏重しており、消費以外の実体経済が脆弱だ。対照的に、中国は製造業など実体経済が豊かで、きたるべき米国のバブル崩壊後、世界経済の中心は中国(とその傘下の一帯諸国)の実体経済になっていく。米国のバブル崩壊のプロセスはおそらく、トランプ政権の2期目(2024年まで)から、その次の政権(28年まで)にかけて起きる。トランプは、意図的にこのプロセスを発生させている。 (ドルを犠牲にしつつバブルを延命させる)

トランプの裏の意図は、世界経済を米中貿易戦争によって米国側と中国側に二分した後、巨大な金融バブルの崩壊を誘発して米国側を覇権ごと潰す一方、中国側の実体経済をできるだけ無傷で残すことで、米単独覇権体制とそれを動かしてきた軍産複合体を消失させ、世界の経済成長(バブルでない部分)を維持したまま覇権体制を多極化する「隠れ多極主義の戦略」にあると私は見ている。 (多極化の目的は世界の安定化と経済成長)
http://tanakanews.com/190510china.htm
http://www.asyura2.com/09/revival3/msg/823.html#c167

[近代史3] 折口信夫 國文學の發生(第三稿)まれびと の意義

折口信夫 國文學の發生(第三稿)まれびと の意義
https://www.aozora.gr.jp/cards/000933/files/42613_17557.html


      一 客とまれびとと

客をまれびとと訓ずることは、我が國に文獻の始まつた最初からの事である。從來の語原説では「稀に來る人」の意義から、珍客の意を含んで、まれびとと言うたものとし、其音韻變化が、まらひと・まらうどとなつたものと考へて來てゐる。形成の上から言へば、確かに正しい。けれども、内容――古代人の持つてゐた用語例――は、此語原の含蓄を擴げて見なくては、釋かれないものがある。

我が國の古代、まれの用語例には、「稀」又は「rare」の如く、半否定は含まれては居なかつた。江戸期の戲作類にすら、まれ男など言ふ用法はあるのに、當時の學者既に「珍客」の意と見て、一種の誇張修辭と感じて居た。

うづは尊貴であつて、珍重せられるものゝ義を含む語根であるが、まれは數量・度數に於て、更に少いことを示す同義語である。單に少いばかりでなく、唯一・孤獨などの義が第一のものではあるまいか。「あだなりと名にこそたてれ、櫻花、年にまれなる人も待ちけり(古今集)」など言ふ表現は、平安初期の創意ではあるまい。

まれびとの内容の弛んで居た時代に拘らず、此まれには「唯一」と「尊重」との意義が見えてゐる。「年に」と言ふ語がある爲に、此まれは、つきつめた範圍に狹められて、一囘きりの意になるのである。此「年にまれなり」と言ふ句は、文章上の慣用句を利用したものと見てさしつかへはない樣である。

上代皇族の名に、まろ・まりなどついたものゝあるのは、まれとおなじく、尊・珍の名義を含んでゐるのかと思ふ。繼體天皇の皇子で、倭媛の腹に椀子マリコノ皇子があり、欽明天皇の皇子にも椀子マリコノ皇子がある。又、用明天皇の皇子にも當麻公の祖麻呂子マロコノ皇子がある(以上日本紀)。而も繼體天皇は皇太子勾マガリノ大兄を呼んで「朕が子麻呂古マロコ」と言うて居られる(紀)。此から考へると、子に對して親しみと尊敬とを持つて呼ぶ、まれ系統の語であつたのが、固有名詞化したものであることが考へられる。まれびとも珍客などを言ふよりは、一時的の光來者の義を主にして居るのが古いのである。

くすり師は常のもあれど、珍マラ人の新イマのくすり師 たふとかりけり。珍メグしかりけり(佛足石の歌)

つねは、普通・通常などを意味するものと見るよりも、此場合は、常住、或は不斷の義で、新奇の一時的渡來者の對立として用ゐられてゐるのである。まらは、まれの形容屈折である。尊・珍・新などの聯想を伴ふ語であつたことは、此歌によく現れてゐる。
まれと言ふ語の溯れる限りの古い意義に於て、最少の度數の出現又は訪問を示すものであつた事は言はれる。ひとと言ふ語も、人間の意味に固定する前は、神及び繼承者の義があつたらしい。其側から見れば、まれひとは來訪する神と言ふことになる。ひとに就て今一段推測し易い考へは、人にして神なるものを表すことがあつたとするのである。人の扮した神なるが故にひとと稱したとするのである。

私は此章で、まれびとは古くは、神を斥サす語であつて、とこよから時を定めて來り訪ふことがあると思はれて居たことを説かうとするのである。幸にして、此神を迎へる儀禮が、民間傳承となつて、賓客をあしらふ方式を胎んで來た次第まで説き及ぼすことが出來れば、望外の欣びである。

てつとりばやく、私の考へるまれびとの原の姿を言へば、神であつた。第一義に於ては古代の村々に、海のあなたから時あつて來り臨んで、其村人どもの生活を幸福にして還る靈物を意味して居た。

まれびとが神であつた時代を溯つて考へる爲に、平安朝以後、近世に到る賓客饗應の風習を追憶して見ようと思ふ。第一に、近世「客キヤク」なる語が濫用せられて、其訓なるまれびとの内容をさへ、極めてありふれたものに變化させて來たことを思はねばならぬ。大正の今日にも到る處の田舍では、ゐろりの縁の正座なるよこざ(横座)を主人の座とし、其次に位する脇の側を「客座キヤクザ」と稱へて居る。此は客を重んじ慣れた都會の人々には、會得のいかぬことである。併し田舍屋の日常生活に訪ふものと言へば、近隣の同格或は以下の人たちばかりである。若したまに同等以上の客の來た時には、主人は、横座を其客に讓るのが常である。だから、第二位の座に客は坐るものと考へられたことは、農村の家々に、眞の賓客と稱してよい者の、容易には來るものでなかつた事を示して居る。
正當に賓客と稱すべき貴人の光來の榮に接することになつたのは、凡、武家時代以後、次第に盛んになつたことゝ觀察せられる。武家は、久しい地方生活によつて、親方・子方の感情が、極めて緻密であつた。中央には、傳承が作法を生んで、久しい後までも、わりあひ自由に親密を露すことが出來た。其で、武家が勢力を獲た頃になると、中央であつたら大事件と目せられねばならない樣な臣家訪問の事實が、急に目につき出したのである。下尅上の恐怖が感じられる樣になると、懷柔の手段と言ふ意味も含められて、愈流行した。其結果、賓客と連帶して來たまれびとなる語は、到底、上代から傳へた内容を持ちこたへることが出來なくなつたのである。六國史を見ても、さうである。天子の臣家に臨まれた史實は、數へる程しかない。公式と非公式とでは違ふであらうが、内容にも屡あり得べきことではなかつた。

上官下僚の關係で見ても、さうだ。非公式には多少の往來を交して居さうな人々の間にも、公式となると、こと/″\しい形式を履まねばならぬことになつてゐた。「大臣大饗」は、此適切な例である。新しく右大臣に任ぜられた人が、先輩なる現左大臣を正客として、他の公卿を招く饗宴であるが、此は公家生活の上に於ける非常に重大な行事とせられて居た。だから、正客なる左大臣の一擧一動は、滿座の公卿の注視の的となつた。新大臣にとつては、單に次には自分の行はねばならぬ儀式の手本を見とつて置く爲の目的から、故らに行うたやうな形があつた。先輩大臣は、其だけに故實を糺して、先例を遺して置かうと言ふ氣ぐみを持つてゐた。

      二 門入り

凡、大饗と名のつく饗宴には、すべて此正客をば「尊者」と稱へて居た。壽・徳・福を備へた長老を「尊者」と言ふと説明して來て居るが、違ふ樣である。私は此には二とほりの考へを持つて居る。一つはまれびとの直譯とするのである。今一つは寺院生活の用語を應用したものと見るのである。食堂ジキダウの正席は必、空座なのが常である。此は、尊者の座席として、あけて置くのである。尊者は、賓頭盧ビンヅル尊者の略號なのである。だから、食事を主とする饗宴の正客を尊者と稱すると考へるのも、不自然な想像ではない樣である。尊者の來臨に當つて、まづ喧ましいのは門入りの儀式である。次に設けの席に就くと、列座の衆の拍手するのが、本式だつた樣である。饗膳にも亦特殊な爲來シキタりがあつた。此中、支那風・佛教風の饗宴樣式をとり除いて考へて行きたい。

奈良朝の記録には、神護景雲元年八月乙酉、參河國に慶雲が現れたので、西宮寢殿に、僧六百人を招いて齋を設けた。

是の日、緇侶の進退、復法門の趣なし。手を拍つて歡喜すること、もはら俗人に同じ。(續紀)

とある。此拍手が純國風であつたことは、延暦十八年朝賀の樣の記述を見ても察せられる。

文武官九品以上、蕃客等、各位に陪す。四拜を減じて再拜と爲し、拍手せず。渤海國の使あるを以てなり。(日本後紀)

とあるのは、天子を禮拜することの、極めて鄭重であつた國風を、蠻風と見られまいとして、恥ぢて避けたのである。だが、此も亦宴式に臨んだ正客を拜した古風の存して居たのである。手を拍つ事は、酒宴の興に乘つて拍子をとり、囃すものと思はれて來たが、後世の宴會の風から測つた誤解である。正客即尊者は拜むべきものであつた。其故、手を拍つて拜したのである。

二つの引用文は天子に關したものであるが、拍手禮拜の儀は、天子に限らない。うたげは「拍ち上げ」の融合なることは、まづ疑ひはない。併し、宴はじまつて後の手拍子を斥サすのでなく、宴に先だつての禮拜を言ふ語であつたのである。其が饗宴全體を現し、遂には饗宴の主要部と考へられる樣になつた酒宴を示す樣に移つて來たものと思はれる。後に言ふ朝覲行幸・おめでたごとと同じ系統の壻入りをうちゃげ(宛て字宇茶下ウチヤゲ)と美濃國で稱へてゐたと言ふのは、疑ひもなく拍上ウタげである。併し、壻入りの宴會を斥サすものでなく、壻が舅を禮拜する義から出てゐるのは疑ひがない。

後世、饗宴の風、其宴席の爲に正客を設け、名望ある長老を迎へる事を誇りとする樣になつたが、古代には尊者の爲の饗宴であつて、饗宴の爲の正客ではなかつたのである。だから、尊者は、饗宴の唯一の對象であり、中心であつた。他の列座の客人・宴席の飾り物・食膳の樣子・酒席の餘興などの起原に就ては、自ら説明する機會があるであらう。
尊者の「門入り」の今一つ古い式は、平安の宮廷に遺つて居た。大殿祭の日の明け方、神人たち群行グンギヤウして延政門に訪れ、門の開かれるを待つて、宮廷の巫女なる御巫ミカムコ等を隨へて、主上日常起居の殿舍を祓うて※(「廴+囘」、第4水準2-12-11)るのであつた。此神人――中臣・齋部の官人を尊者と稱することはせなかつたけれど、祓へをすました後、事に與つた人々は、それ/″\饗應せられて別れる定めであつた。かくて貴族の家々に中門チユウモンの構造が必須條件となり、中門廊に宿直人トノヰビトを置いて、主人の居處を守ることになる。平安中期以後の家屋は皆此樣式で、極めて尊い訪客は、中門から車を牽き入れて、寢殿の階に轅を卸すことが許されて居た。武家の時代になると、中門が塀重門と名稱・構造を變へて來たが、尚、普通には、母屋の前庭に出る門を中門チユウモンと稱へて來た。

田樂師デンガクシの演奏種目の中、古くからあつて、今に傳へて居る重要な「中門口チユウモングチ」と言ふのは、此「門入り」の儀の藝術化したものなのであつた。田樂法師と千秋萬歳法師との間には、どちらから影響したか問題であるが、類似が澤山ある。服裝・舞ひぶりは勿論だが、此「中門口」に到つては、殊に著しい。後世風に考へれば、「中門口」は寧、千秋萬歳の方に屬するものと見える。併し、單に門カドぼめを「中門口チユウモングチ」の主體と見ることは出來ぬ。くちを、今も「語り」の意に使うてゐる所から見ると、「中門口」の動作と言ふよりも、中門での語りを意味すると見る方が、聊かでも眞實に近い樣だ。ともかくも、尊者系統の訪れ人が、中門におとなふ民間傳承から出たものに相違はないと思ふ。此が門ぼめの形式に移つて行つたので、寧、庭中・屋内のほめの儀が重んぜられて居たものと見るべきである。何故、此樣に「門入り」の式を問題にしたものであらうか。奈良朝或は其以前に溯つても、實際の民俗にも、其傳説化した物語にも、同樣の風のあつたのがありありと見られる。

にほどりの葛飾早稻カツシカワセをにへすとも、彼ソの可愛カナしきを外トに立てめやも
誰タレぞ。此家の戸ト押オソふる。にふなみに、我が夫セを行ヤりて、齋イハふ此戸を

此二首の東歌(萬葉集卷十四)は、東國の「刈り上げ祭り」の夜の樣を傳へてゐるのである。にへは神及び神なる人の天子の食物の總稱なる「贄ニヘ」と一つ語であつて、刈り上げの穀物を供クウずる所作をこめて表す方に分化してゐる。此行事に關した物忌みが、にへのいみ、即にふなみ・にひなめと稱せられて、新甞と言ふ民間語原説を古くから持つて居る。此宛て字を信じるとすれば、なめといふ語の含蓄は、極めて深いものとせなければならぬ。

大甞オホムベは大新甞、相甞アヒムベは相新甞で、なめが獨立して居ないことは、おほなめ・あひなめと正確に發音した文獻のないことからも知れる。鳥取地方には、今も「刈り上げ祝ひ」の若衆の宴をにへと稱へて居る。羽前庄内邊で「にはない行ギヤウ(?)」と言ふのは、新甞の牲ニヘと見るより寧、にへなみの方に近い。にへする夜の物忌みに、家人は出拂うて、特定の女だけが殘つて居る。處女であることも、主婦であることもあつたであらう。家人の外に避けて居るのは、神の來訪あるが爲である。

此等の民謠は、新甞の夜の民間傳承が信仰的色彩を失ひ始めた頃に、民謠特有の戀愛情趣にとりなして、其樣子を潤色したのである。來訪者を懸想人としたのは、民謠なるが爲であるに過ぎないが、かうしたおとづれ人を豫期する心は、深い傳承に根ざして居たのである。かうした夜の眞のおとづれ人は誰か。其は刈り上げの供を享ける神である。其神に扮した神人である。

「戸おそふる」と言ひ、「外トに立つ」と謠うたのは、戸を叩いて其來訪を告げた印象が、深く記憶せられて居たからである。とふはこたふの對で、言ひかけるであり、たづぬはさぐるを原義として居る。人の家を訪問する義を持つた語としては、おとなふ・おとづるがある。音を語根とした「音を立てる」を本義とする語が、戸の音にばかり聯想が偏倚して、訪問する義を持つ樣になつたのは、長い民間傳承を背景に持つて居たからである。祭りの夜に神の來て、ほと/\と叩くおとなひに、豐かな期待を下に抱きながら、恐怖と畏敬とに縮みあがつた邑落幾代の生活が、産んだ語であつた。だから、訪問する義の語自體が、神を外にして出來なかつたことが知れるのである。新甞の夜に神のおとづれを聽いた證據は、歌に止まらないで、東の古物語にも殘つて居た。母神(御祖神ミオヤガミ)が地上に降つたのは、偶然にも新甞の夜であつた。姉は、人を拒む夜の故に、母を宿さなかつた。妹は、母には替へられぬと、物忌みの夜にも拘らずとめることにした(常陸風土記)。物語の半分は「しんどれら型」にとり込まれて居るが、前半は民間傳承が民譚化したものである。新甞の夜に來る神が、一方に分離して、御祖神の形をとることになつたのだ。

おなじく神の來る夜の民俗は、武塔フタフ神を拒み、或は宿した巨旦コタン將來・蘇民ソミン將來の民譚(備後風土記逸文)をも生んで居る。此は新甞の夜とは傳へて居ない。事實、刈り上げ祭り以外にも、神の來臨はあつたのである。此武塔神の場合に、御子ミコ神を隨へて居られるのは注意せねばならぬ。此神をすさのをの命と同じ神とする見解も古くからあるが、此は日本紀の一書に似た型の神話を止めて居るからであらう。命、高天原を逐はれた時に長雨が降つて居た。青草を以て簑笠として、宿を衆神に乞うたが、罪ある故にとめる者がなかつた。其以來、簑笠を著て他人の家に入り、又、束草を背負うて這入ることを諱んだ。犯す者には祓へを課したのが、奈良朝の現行民俗であつた。此神話は、武塔神の件との似よりから觀ると、やはり神來訪の民俗の神話化したものに違ひない。


      三 簑笠の信仰

而も尚一つ、簑笠に關する禁忌の起原を説く點である。私の考へる所では、簑笠を著て家に入つたからとて、祓へを課する訣はない。孝徳朝に民間に行はれた祓へを見ても、家を涜し村を穢したものとする樣々な口實を以てして、科料を課して居る樣子が見える。だから、束草などは説明の途のつかない間は、姑く家を汚すものと見ることも出來るが、簑笠を着てづゝと這入ることは、別途の説明をすることが出來る。婚禮の水祝ひも、實は孝徳紀によると、祓へから出發して居るのである。巫女と婚する形式になるところから婚前に祓ふべきを、事後に行うたのである。

此と同じで、簑笠を著たまゝで、他家の中に入るのは特定のおとづれ人に限る事であるのに、其を犯したから祓ふのである。が此は、一段の變化を經て居る。祓へをして簑笠を着たおとづれ人を待つ風があつたのを、其條件に叶はぬ人の闖入に對して、逆に此方法をとつたものである。決して農村生活に文化式施設を試みようとの考へから出たのではない。簑笠は、後世農人の常用品と專ら考へられて居るが、古代人にとつては、一つの變相服裝でもある。笠を頂き簑を纏ふ事が、人格を離れて神格に入る手段であつたと見るべき痕跡がある。

神武紀戊午の年九月の條に、敵の邑落を幾つも通らねば行けぬ天ノ香山カグヤマの埴土を盜みに遣るのに、椎根津彦シヒネツヒコに弊れた衣に簑笠を著せて、老爺に爲立て、弟猾オトウカシに箕を被かせて、老媼の姿に扮せしめたことが出て居る。此は二段の合理化を經た書き方で、簑笠で身を隱すと言ふより、姿が豹變するものとした考へ、第二に二人が夫婦神の姿に扮した――と言ふよりも、夫婦のおとづれ人の姿の印象が、此傳説を形づくつたと見る方が正しい――ので、神の服裝には簑笠が必須條件になつて居たことを示すものである。

此事は、尚ほ及びうらの條に詳しく解説をする。隱れ簑・隱れ笠は、正確には外來のものではない。在り來りの信仰に、佛教傳來の空想の、隱形の帽衣の觀念をとりこんで發達させたまでゞある。人間の姿がなくなつて、神と替るといふことゝ、人間の姿を隱すと言ふことゝだけの違ひに過ぎない。

又、笠神の形態及び信仰の由來する所も、其大部分は、此おとづれ人の姿から出てゐるものと見られる。今も民間信仰に、田の神或は其系統の社の神の、簑笠を著けたのが多いのは、理由のあることである。遠い國から旅をして來る神なるが故に、風雨・潮水を凌ぐ爲の約束的の服裝だと考へられ、それから簑笠を神のしるしとする樣になり、此を著ることが神格を得る所以だと思ふ樣になつたのである。簑笠で表された神と、襲オスヒ・※(「ころもへん+畢」、第4水準2-88-32)チハヤを以て示された神との、二種の信仰對象があつて、次第に前者は神祕の色彩を薄めて來たものと思はれる。神社・邸内神は後者で表されたものである。後には、簑よりも笠を主な目じるしとする樣になつて行つた。此は然るべきことで、顏を蓋ふといふ方にばかり、注意が傾いて行つたので、神事と笠との關係は、極めて深いものであつた。

大晦日・節分・小正月・立春などに、農村の家々を訪れた樣々のまれびとは、皆、簑笠姿を原則として居た。夜の暗闇まぎれに來て、家の門から直にひき還す者が、此服裝を略する事になり、漸く神としての資格を忘れる樣になつたのである。近世に於ては、春・冬の交替に當つておとづれる者を、神だと知らなくなつて了うた。或地方では一種の妖怪と感じ、又或地方では祝言を唱へる人間としか考へなくなつた。其にも二通りあつて、一つは、若い衆でなければ、子ども仲間の年中行事の一部と見た。他は、專門の祝言職に任せると言ふ形をとるに到つた。さうして、祝言職の固定して、神人として最下級に位する樣に考へられてから、乞食者なる階級を生じることになつた。

     ┌妖怪
おとづれ人┤
     └祝言職――乞食

だから、かういふ風に變化推移した痕が見られるのである。門におとづれて更に屋内に入りこむ者、門前から還る者、そして其形態・爲事が雜多に分化してしまうたが、結局、門前での儀が重大な意義を持つて居たことだけは窺はれる。此樣に各戸訪問が、門前で其目的を達する風に考へられたものもあり、又、家の内部深く入りこまねばならぬものとせられたのもある。古代には家の内に入る者が多く、近世にも其形が遺つて居るが、門口から引き返す者程、卑しく見られて居た樣である。つまりは、單に形式を學ぶだけだといふ處から出るのであらう。

      四 初春のまれびと

乞食者はすべて、門藝人の過程を經て居ることは、前に述べた。歳暮に近づくと、來む春のめでたからむことを豫言に來る類の神人・藝人・乞食者のいづれにも屬する者が來る。「鹿島のことふれ」が※(「廴+囘」、第4水準2-12-11)り、次いで節季候セキゾロ・正月さしが來る。「正月さし」は神事舞太夫の爲事で、ことふれは鹿島の神人だと稱した者なのだ。

此中、節季候セキゾロは、それ等より形式の自由なだけ、古いものと言はれる。其姿からして、笠に約束的の形を殘してゐた。此は、近世京都ではたゝきと言ふ非人のすることになつて居た。たゝきの原形だと言はれてゐる胸叩ムネタヽきと言ふ乞食者は、顏だけ編み笠で隱して、裸で胸を叩きながら「春參らむ」と言うたとあるから、「節季に候」と「春參らむ」とは、一續きの唱へ言であつたことが知れる。さうしてたゝきの正統は、誓文拂ひ位から出たすた/\坊主に接續して居る。而も、其常用文句は「すた/\坊主の來る時は、世の中よいと申します」と言ふ、元來、明年の好望なることを豫約するものであつた。

大晦日は前にも述べたとほり、節分・立春前夜・十四日年越しと共通の意味を持つた日と考へられて居た爲、かうした點にも同樣の事が行はれた。「厄拂ひ」は、右のいづれの日にか行はれるもので、節分には限らない。奈良では、「富み/\」と唱へて驅け歩く夙シユクの者の出たのが、大晦日である。たゝきと言ふ悲田院の者も、實は此夜門戸を叩いて唱へ言をして歩いたからであらう。徒然草の「つごもりの夜いたう暗きに松どもともして、夜半すぐるまで人の門たゝきはしりありきて、何ごとにかあらむ、こと/″\しくのゝしりて足を空にまどふ」とあるのゝ職業化したもので、元祿時代までも非人以外に、町内の子どもゝして歩いた樣である。而も、兼好は、東國風として、大晦日の夜に、靈祭りをする國あるを傳へて居る。

寶船を賣りに來るのも、除夜或は節分の夜である。正月二日に賣り歩くのは、變態である。元旦未明から若えびす賣りが來る事は、やはり江戸中期まではあつたことである。其からは物吉モノヨシ・萬歳が來て、門をほめ、柱をほめ、屋敷・廐・井戸をほめて※(「廴+囘」、第4水準2-12-11)る。猿※(「廴+囘」、第4水準2-12-11)しの來るのも正月で、主として廐祈祷の意を持つてゐる。京ではたゝき、江戸では非人の女太夫が鳥追ひに來るのも、小正月までの事である。又、同期間に亙つて、江戸の中頃までは、懸想文うりが出た。此は、祇園の犬神人イヌジンニンの專業であつた樣だから、常陸帶同樣、當年一杯に行はるべき氏人の結婚の豫言と見るのが適當である。さすれば、鹿島の「言觸コトフれ」の原義も辿る事が出來よう。其外にも生計上の豫言が含まれて居る。

鳥追ひの女太夫ばかりでなく、室町・聚樂の頃までは、年頭祝言に出る者に桂女カツラメがあつた。將軍家の婚禮にも、戰爭の首途にも、祝言を唱へに來た。桂女カツラメは、巫女から出て、本義は失ひながら、まだ乞食者にも藝人にも落ちきつて居ないものである。女で尚、ある時期を主とする乞食者に「姥等ウバラ」がある。此は、白河に居た者で、師走に專ら出る者であつた。上に列擧した者は、大抵門口から還るのだが、萬歳・桂女は、深く屋敷に入り、座敷までも上つて居る。

かうした職業者以外で言ふと、十月から既に來春を豫祝する意で、玄猪の行事がある。此夜は、村の子どもが群をなして、屋敷に自由に入つて來て、地を打ち固める形式をするが、共通の樣である。多くの地方で、海鼠を以て、※[#「鼬」の「由」にかえて「偃」のつくり、18-5]鼠を逐ふ儀式と信じて居る。大晦日・節分の厄拂ひも、若い衆が行ふ地方はまだある。而も、厄拂ひに似て居て、意義不明なほと/\・とのへい・こと/\など言ふ簡單な唱へ言をして、家々の門戸を歴訪し、中には餅錢などを貰ひ受け、或は不意の水祝ひを受けて、還るのもある。皆恐らくおとづれる戸の音の聲色を使ふのであつて、ほと/\と言つた古言で、おとなひを表した時代から固定した唱文であり、儀式であつたのであらう。

小正月或は元日に、妖怪の出て來るのは、主として奥羽地方である。なもみはげたか・なまはげ・がんぼう・もうこなど言ふ名で、通有點は簑を著て、恐しい面を被つて、名稱に負うた通りの唱へ言、或は、唸り聲を發して家々に踊りこんで、農村生活に於ける不徳を懲す形をして行くのである。私は、地方々々の民間語原説はどうあらうとも、なま・なもみは、玄猪の「海鼠」と語原を一つにしたもので、おとづれ人の名でなくば、其目的として懲らさうとする者の稱呼ではないかと思ふ。さうでなくば、尠くとも、我が古代の村々の、來向ふ春の祝言の必須文言であつたとだけは言はれよう。此妖怪、實は村の若い衆の假裝なのである。村の若者が人外の者に扮して、年頭の行事として、村の家々を歴訪すると言ふのは、どう言ふ意味であらうか。何にしても、不得要領なほと/\と同じ系統で、まだ其程に固定して居ないものだと言ふ事は知れる。

      五 遠處の精靈

村から遠い處に居る靈的な者が、春の初めに、村人の間にある豫祝と教訓とを垂れる爲に來るのだ、と想像することは出來ぬだらうか。簑笠を著けた神、農作の初めに村及び家をおとづれる類例は、沖繩縣の八重山列島にもあちこちに行はれてゐる。

此おとづれ人の名をまやの神と言ふ。まやは元來は國の名で、海のあなたにある樂土を表す語らしい。臺灣土民の中にも、阿里山蕃人は、神話の上に此樂土の名を傳へて居る。而も沖繩本島の西北の洋中にある伊平屋イヘヤ列島にも、古く此樂土の名を傳へてゐたことを思へば、偶發したものとは考へられない。まやを沖繩語「猫」に用ゐるところから、猫の形をした神と考へて居る村もあるのは、却つて逆で、まやの國から來た畜類と言ふ事なのであらう。蒲葵クバの葉の簑笠で顏姿を隱し、杖を手にしたまやの神・ともまやの神の二體が、船に乘つて海岸の村に渡り來る。さうして家々の門を歴訪して、家人の畏怖して頭もえあげぬのを前にして、今年の農作關係の事、或は家人の心を引き立てる樣な詞を陳べて※(「廴+囘」、第4水準2-12-11)る。さうした上で、又、洋上遙かに去る形をする。つまりは、初春の祝言を述べて歩くのである。

此は勿論、其村の擇ばれた若者が假裝した神なのである。村人の中、女及び成年式を經ない子供には絶對に知らせない祕密で、同時に状を知つた男たちでも、まやの神來訪の瞬間は眞實の神と感じ、まやの神自身も神としての自覺の上に活いて居る樣である。此樣に大切な神にも拘らず、村によつては猫の怪物と聯想して居ると言ふ風に、どこかに純化しきつた神とは言はれぬ點を交へて居る。かうして見ると、なもみはげたかとの隔りは、極めて纔かなものになつて來るのである。

おなじ八重山群島の中には、まやの神の代りににいる人ピツを持つて居る地方も、澤山ある。蛇の一種の赤また、其から類推した黒またと言ふのと一對の巨人の樣な怪物が、穗利フウリイ祭に出て來る。處によつては、黒またの代りに、青またと稱する巨人が、赤またの對に現れるのもある。此怪物の出る地方では、皆、海岸になびんづうと稱へる岩窟の、神聖視せられて居る地があつて、其處から出現するものと信じて居る。なびんづうは、巨人等の通路になつて居るのだ。

にいるすくと言ふ處が、巨人の本處であると考へて、多くの人は海底にあると説く。にいるは奈落で、すくは底だと言ふが、にいるは明らかに別の語である。にこらい・ねふすきい氏の考へでは、すくも底ではなく、此群島地方で、底をすくと言ふ事はない。やはり壘・村・國を意味して居るさうだ。つまり、にいる國と言ふ事になる。ぴつは人であるが、一種の敬意を持つた言ひ方で、靈的なものなる事を示して居るのである。

にいる人の行ふ事は、一年中の作物の豫祝から、今年中の心得、又は昨年中、村人の行動に對する批評などもある。村人の集つて居る廣場に出て踊り、其後で家々を歴訪すること、及び其に對する村人の心持ちは、まやの神と同樣である。

にいる人の出る地方の青年には、又、酉年毎に成年式が執り行はれる。一日だけではあるが、かなりの苦行を命じられる儘にせなければならない。まやの國から來る神と、にいるすくから來る靈物との間に違ふ點は、形態の差異だけしかない訣であるが、にいる人の方が、村の生活・村の運命との交渉が緻密である樣に見える。此巨人も、擇ばれた若者たちが、一體につき二人づゝ交替に這入ることになつて居る。其を男たちは知つて居て、而も敬虔感は失はないのである。

にいるすくは、海底か洋上か、其所在、頗、曖昧であるが、此は後に説くとして、先島の人々は、にいるすくを恐しい處と考へて居ることは、事實である。暴風もにいるすくから吹くと考へて居る。此は洞窟を以て、風伯の居る所とし、其海岸にあるものは、黄泉への通路として居る世界的信仰と脈絡があるのである。風とにいるとの關係に就ては、沖繩本島でも、風凪ナぎを祈るのに、にらいかないへ去れと唱へるので訣る。にいるを風の本據と見て居る證である。

にらいかないは、言ふまでもなく、にいると同じ語で、かないは對句表現である。にらいかない・じらいかない・儀來河内ギライカナイ・けらいかないなど、沖繩本島の文獻には見えて居る。本島には、にらいかないから、初夏になると、蚤が麥稈の舟に麥稈の棹をさしてやつて來るといふ信仰から來た諺がある。

沖繩本島のにらいかないは、琉球神道に於ける樂土であつて、海のあなたにあるものと信じて居る地だ。さうして人間死して、稀に至ることもあると考へられた樣である。神は時あつて、此處から船に乘つて、人間の村に來ると信じた。其が海岸から稍入りこんだ地方にも及してゐる。だから、沖繩の村は海岸から發達したことは知れる。方言では多く、其神を「にれい神カンがなし」と稱して居る。到る處の村々の祭りに海上から來る神である。

琉球王朝では、遠方より來る神を地神の上に位せしめて居た樣である。さうして、天神と海神とに區分して居る。儀來河内ギライカナイの神は、海神に屬するのである。さうして其所在地は、東方の海上に觀じて居たらしく見える。あがりの大主ウフヌシと言ふのが、一名儀來の大主ウフヌシなのである。あがりは東である。今實在の島である大東島ウフアガリジマは、實は舊制廢止以後までも、空想の島であつた。更に古くは、本島東岸の久高クタカ・津堅ツケンの二島の如きも、樂土として容易に近づき難い處と考へられた時代もあつた樣である。

琉球神道の上のにらいかないは光明的な淨土である。にも拘らず、多少の暗影の伴うて居るのは、何故であらう。今一度、八重山群島の民間傳承から話をほぐして行きたい。


      六 祖靈の群行

村々の多くは、今も盂蘭盆に、祖先の靈を迎へて居る。此をあんがまあと言ふ。考位ヲトコカタの祖先の代表を謂ふ大主前オシユマイ・妣位ヲンナカタの代表と傳へる祖母アツパアと言ふ一對の老人が中心になつて、眷屬の精靈を大勢引き連れて、盆の月夜のまつ白な光の下を練り出して來る。どこから來るとも訣らないが、墓地から來るとは言はぬらしい。小濱島では、大オホやまとから來ると言うて居るから、海上の國を斥サすのであらう。あんがまあと言ふ名稱も、私は其練り物の名ではなく、まや・にいる同樣、其本據の國の稱へであらうと思ふよしは、後に言ふ。

盆の三日間夜に入ると、村中を※(「廴+囘」、第4水準2-12-11)つて迎へられる家に入つて、座敷に上つて饗應を受ける。勿論、若い衆連の假裝で、顏は絶對に露さない。元は、芭蕉の葉を頭から垂れて、葉の裂け目から目を出して居たと言ふが、今は木綿を以て頭顏を包んで、其に眉目を畫き、鼻を作つて、假面の樣にして居る。大主前オシユマイが、時に起つて家人に色々な教訓や批難或は慰撫・激勵をするが、輕口まじりに人を笑はせることが多い。時には、隨分恥をかゝせる樣なことも言ふさうである。大主前オシユマイの默つて居る間は、眷屬たちが携へて來た樂器を鳴して、舞ひつ謠ひつ藝づくしをして歡を恣にする。家の主人・主婦等は、ひたすら、あんがまあの心に添はうと努めて居る。大主前オシユマイは、色々な食物の註文をして催促することもある。

あんがまあは「母小アモガマ」で、がまは最小賞美辭である。而も、沖繩語普通の倒置修飾格と考へる事が出來るから、「親しい母」と言ふ位の意を持つ。即、我が古代語の「妣ハヽが國」に適切に當るのである。此も後に説くが、「妣ハヽが國」も、海のあなたにあるものとして居たことは疑ひがない。我が國に多い「あくたい祭り」、即、有名な千葉笑ひ・京五條天神の「朮ウケラ祭り」の惡口・陸前鹽竈のざっとな・河内野崎觀音詣での水陸の口論の風習の起りは、此處にあるのである。

そしると言ふ語は、古くさゝやくと言ふ内容を持つたに過ぎぬが、人の惡口を耳うちすると言ふ風に替つたのは、此邊に理由があるのではないか。そしるは日・琉に通じる古語で、託宣する事である。託宣はさゝやかれるのが本式であつた。ところが、一方へ分化したのは、託宣の形を以て、人の過ち・手落ちを誹謗することが一般に行はれた處から、そしるの現用々語例が出來たものであらう。

八重山の村々で見ても、今こそ一村一族と言ふものはなくなつて、大抵、數個の門中からなつて居るが、古い形は大體一つの門中を以て、村を組織して居たのであるから、一つのあんがまあが、村中のどこの家にも迎へられることの出來る訣はわかる。さうした祖オヤの精靈の、時あつて子孫の村屋に臨み、新しい祝福の辭を述べると共に、教訓・批難などをして行つた古代の民間傳承が、段々神事の内容を持つて來る事も考へにくゝはない。
内地の祭禮の夜にあくたいの伴ふ事があるのは、悠遠な祖先の邑落生活時代に村の死者の靈の來臨する日の古俗を止めて居るのである。勿論、我が國農村に近世まで盛んに行はれた村どうしの競技に、相手の村を屈服させることが、おのが村の農作を豐かにするとしたかけあひ・かけ踊りの側の形式をとり込んでゐるのであらうが、主としての流れは、祖靈のそしりにある事と思ふ。一村が一族であるとしたら、子孫の正系が村君である。祖靈が、村の神人の口に託して、村君のやり口を難ずる事があつたとしたら、此を咎める事も出來ないはずである。かう言ふ風に、神人の爲事が、村の幸福と政治との矛盾した點に觸れることが多くなつて來るに連れて、姿は愈、隱され、聲は益、作られて、其誰とも知れない樣に努める樣になつて來るのは、當然である。「千葉笑ひ」の如きは、神人の意識的のそしりが含まれて來る訣である。ざつとなは家々を訪問する點に於てあんがまあに近い者である。

祖靈が夙く神と考へられ、神人の假裝によつて、其意思も表現せられる樣になつたのが、日本の神道の上の事實である。而も尚、神の屬性に含まれない部分を殘して居るのは、「みたまをがみ」の民間傳承である。古代日本人の靈魂に對する考へは、人の生死に拘らず生存して居るものであつて、而も同時に游離し易い状態にあるものとしてゐた。特に生きて居る人の物と言ふ事を示す爲に、いきみたまと修飾語を置く。靈祭りは、單に死者にあるばかりではなかつた。生者のいきみたまに對して行うたのであつた。さうして其時期も大體同時であつたらしい。

僞經だと言ふ「盂蘭盆經」には、盂蘭盆を年中六囘と定めて居る。「魂祭り」は中元に限るものでなかつたことを示してゐるのであらう。「魂祭り」類似の形式が「節の祭り」と融合して殘つて居る痕が見える。七夕も盆棚と違はぬ拵への地方があり、沖繩では盆・七夕を混同してゐる。八朔にも、端午にも、上巳にも、同樣な意味を示す棚飾りと、異風を殘した地方がある。正月の喰ひ積み、幸木サイハヒギ系統の飾り物には、盆棚と共通の意味が見られる。大晦日を靈の來る夜とした兼好の記述から見ても、正月に來り臨む者の特別な靈物であつたことが考へられる。

      七 生きみ靈

生き御靈の方で言はう。中世、七夕の翌日から、盂蘭盆の前日までを、いきみたま、或は、おめでたごとなる行事のある期間としてゐた。恐らく武家に盛んであつたのが、公家にも感染して行つた風俗と思はれるが、宗家の主人の息災を祝ふ爲に、鯖サバを手土産に訪問する風が行はれた。家人が主人に對してすることもあり、農村では子方から親方の家に祝ひ出ることもあつた。此は一族の長者を拜する式だつたのが、複雜になつたものらしい。おめでたごとと言ふのは、主公の齡のめでたからむことを祝福しに行くから出た語である。いきみたまと稱へる訣は、主公の體内の靈を拜して、其に「めでたくあれ」と祈つて來るからである。盂蘭盆に對して、今も之を生き盆と稱して行ふ地方もある。畢竟、元は生者死者に拘らず、此頃、靈を拜したなごりに違ひない。結局、鎭魂祭は生き御靈の爲に行はれたのが、漸次、意義を分化して、互に交渉のない祭日となつて了うたものであらう。だから、節供に靈祭りの要素のあることも納得出來る。季節の替り目にいきたまの邪氣に觸れることを避けようとしたのである。

おめでたごとから引いて説くべきは、正月の常用語「おめでたう」は、現状の讚美ではなく、祝福すべき未然を招致しようとする壽詞であると言ふことである。生き盆のおめでたごとと同じ事が、宮廷で行はれてゐた。春秋の朝覲行幸が其である。天子、其父母を拜する儀であつて、上皇・皇太后が、天子の拜を受け給ふのであつた。單に其ばかりでなく、群臣の拜賀も同じ意味から出たものであつた。

奈良朝以前は、各氏ノ上――恐らくは氏々の神の神主の資格に於て――が、天子に「賀正事ヨゴト」を奏上することになつてゐた。賀正事ヨゴトは意義から出た宛て字で、壽詞ヨゴトと同じである。古い程、すべての氏々の賀正事ヨゴトを奏したのであらうが、後は漸く代表として一氏或は數氏から出るに止めた樣である。此も家長に對する家人としての禮を以て、天子に對したのである。だから、壽詞を奏することが、服從の意を明らかに示すことになつて居たとも見られる。

古代に於ける呪言ヨゴトは、必、其對象たる神・精靈の存在を豫定して居たものである。賀正事ヨゴトに影響せられる者は、天子の身體といふよりも、生き御靈であつたと見るのが適當である。天子の生き御靈の威力を信じて居たのは、敏達天皇紀十年閏二月蝦夷綾糟エミシアヤカス等の盟ひの條に

泊瀬の中流に下り、三諸ミモロノ岳に面し、水に漱ぎ、盟ひて曰はく……若し盟に違はば、天地の諸神、及び天皇の靈、臣が種を絶滅さむ。

とあるのは、恐らく文飾ではあるまい。

正月、生き御靈を拜する時の呪言が「おめでたう」であつたとすれば、正月と生き盆との關係は明らかである。生き盆と盂蘭盆との接近を思へば、正月に魂祭りを行つたものと見ることも、不都合とは言はれない。柳田國男先生は、やはり此點に早くから眼を著けて居られる。

私は、みたまの飯の飯は、供物クモツと言ふよりも、神靈及び其眷屬の靈代だと見ようとするのである。此點に於て、みたまの飯と餅とは同じ意味のものである。白鳥が屡餅から化したと傳へられる點から推して、靈魂と關係あるものと考へて居る。なぜなら、白鳥が靈魂の象徴であることは、世界的の信仰であるから。餅はみたまを象徴するものだから、それが白鳥に變じると言ふのは、極めて自然である。みたまの飯と餅とは、おなじ意味の物である。我々は、餅を供物と考へて來てゐたが、實はやはり靈代であつたのだ。
鏡餅の如きも、神に供へる形式をとつては居ない。大黒柱の根本に此を据ゑて、年神の本體とする風、又、名高い長崎の柱餅などの傳承を見ると、どうしても供物ではなく、神體に近いものである。盆棚の供物と似た「食ひつみ」を設ける地方では、餅・飯を以て靈代とする必要がなかつた。他の農作物或は山の樹木を以て表すことが出來た。其故、固陋に舊風を墨守した村又は家では、正月餅を搗かぬ傳承を形づくつたのである(民族第一卷第二號)。

      八 ことほぎとそしりと

ことほぐ神と、そしる神とに就ては、既に述べた。さうして、藝術の芽生えがおとづれ人の手で培はれた事を斷篇的には述べて置いた。此に就て、今少し話を進める方が、靈とおとづれ人との關係を明らかにするであらう。

先島列島のあんがまあ(沖繩の村芝居)に似た風習が、沖繩本島にある。田畠のはじめの清明の節に行はれることで「村をどり」と言ふのが、此である。此は、若い衆多人數を以て組織せられた團體で、村の寄り場から、勢揃ひをして、樂器を鳴らしながら練つて來るのは、あんがまあ同樣で、此は日中であるだけが違ふ。踊り衆もあり、唐手使ひ・棒踊りの連中もこめて、一組になつて來る。順番によつて、それ/″\藝を演ずるのであるが、其「村をどり」になくてはならぬ定式の演藝がある。其は、第一「長者チヤウジヤの大主ウフツシユ」の作法と、第二「狂言」とである。

長者の大主ウフツシユは、其村の祖先と考へられて居るもので、白髯の老翁に扮してゐる。此が村をどりの先導に立つ一行の頭である。此頭が舞臺に上ると、役名を親雲上ペイチンと稱する者が迎へてもてなすのである。此は、正統の子孫の族長たる有位の人と言ふ考へに依つてゐるのである。さすれば、長者の大主に隨ふ人々は、あんがまあの眷屬と同一の者でなければならぬ。さうして、其演ずる藝もまたあんがまあの場合と同樣に見てよい。だから、琉球の演劇の萌芽なる村をどりは、遠方から來臨する祖靈及び眷屬の遊びに、其源を發して居るのである(島袋源七氏の報告に據る)。

多くの土地では、親雲上ペイチンが大主ウフツシユを迎へて後、扇をあげて招くと、儀來ギライの大主ウフヌシが登場して、五穀の種を親雲上に授けて去る。其後、狂言が始まるのだが、村によつて、皆、別々の筋を持つて居る。他の演藝は殆、同樣であるが、狂言だけは、村固有のもので、共通な處はない。茶番狂言に類する喜劇で、輕口・口眞似などを主として居る(比嘉春潮氏報告)。

此解説は、同時によごとの起原にも觸れて行く。我が國の演劇の中、長者の大主の形式と同じ形の殘つて居るものは、能樂である。翁の「神歌」を見ても、翁は農作を祝福する神の、藝術化して行く途中にある者だと言ふことは訣る。長者の大主は「翁の起原」を示して居るし、そして儀來の大主は「翁の意味」を説いてゐる。而も後者は、單に翁が二重になつて居るだけでなく、三番叟の起原をも示して居るのである。

三番叟は、おなじ老體を表して居るが、黒尉クロジヨウと稱へて黒いおもてを被つて居る。さうして必、狂言師の役にきまつてゐる。能樂に於ける狂言或は「をかし」の役者は、田樂で言へばもどきに相當する者で、「牾き」と言ふ名義どほり、して方の言語動作をまぜかへし、口眞似・身ぶりをして、ぢり/″\させながら、滑稽感を唆るものである。

此は疑ひもなく、我が國の原始状態の演劇に缺く事の出來ない要素であつた。して方と此もどき狂言との問答が、古い程重要で、此が輕んじられるに隨つて、わき役が獨立する樣になつたのである。神樂で言へば、人長に對する「才サイの男ヲ」である。して方にかうしたもどきの對立する訣は、日本の演劇が、かけあひから出發してゐるからである。
此事は、既に詳しく述べた。つまりは、して方は神、もどきは精靈であつた宗教儀式から出たからであるのだ。精靈が神に逆らひながら、遂に屈從する過程を實演して、其效果を以て一年間を祝福したのである。黒尉が狂言方の持ち役ときまつて居るのは、翁と三番叟との關係が、神と精靈との對立から出て來たものなることを示してゐるのである。

能樂師は翁を神聖視して居るが、どうしても神社に祀つてある神ではない。たとひ、翁が「春日若宮祭り」の一の松の行事に出發したと見ても、春日の神でない事は説明が出來る。況んや、これは春日の祭りとは關係のない古い宗教演劇だと言ふことが出來るのだ。思ふに、我が國の村々の宗教演劇に於て、皆かうした翁の出現して、土地の精靈を屈服させる筋を演出して居たのが、神樂には「才の男の態」となり、春日神社の猿樂師が保存した翁となつたのであらう。

翁一人でなく、高砂の尉と姥との樣な、夫婦神の來臨を言ふ事も多い。近世は、大抵、猿田彦・鈿女ノ命と説明する樣であるが、此は、やはり大主前オシユマイ・祖母アツパアの對立を以て説明すべき者であり、翁は長者の大主とおなじ起りを持つたものと見ることが出來る。さうすると、椎根津彦シヒネツヒコと乙猾オトウカシの翁嫗姿の原意も、やはり遠くより來るおとづれ人を表す者であつたことに思ひ當るであらう。

沖繩の民間傳承から見ると、稀に農村を訪れ、其生活を祝福する者は、祖靈であつた。さうしてある過程に於ては妖怪であつた。更に次の徑路を見れば、海のあなたの樂土の神となつてゐる。我が國に於ても、古今に亙り、東西を見渡して考へて見ると、微かながら、祖靈であり、妖怪であり、さうして多く神となつて了うてゐる事が見られるのである。かうした村の成年者によつて、持ち傳へられ、成年者によつて假裝せられて持續せられた信仰の當體、其來り臨む事の極めて珍らしく、而も尊まれ、畏れられ、待たれした感情をまれびとなる語を以て表したものと思ふ。私の考へるまれびとの原始的なものは、此であつた。

祖先であつたことが忘れられては、妖怪・鬼物と怖れられた事もある。一方に神として高い位置に昇せられたものもある。我が國のまれびとの雜多な内容を單純化して、人間の上に飜譯すると、驚くべく歡ぶべき光來を忝うした貴人の上に移される。賓客をまれびとと言ひ、賓客のとり扱ひ方の、人としての待遇以上であるのも、久しい歴史ある所と頷かれるであらう。

      九 あるじの原義

主人をあるじと言ふのは原義ではない。あるじする人なるが故に言ふのである。あるじとは、饗應の事である。まれびとを迎へて、あるじするから轉じて、主客を表す名詞の生じたのもおもしろい。此に暫く、あるじ側の説明をして置く必要を感じる。

たまだれの小甕ヲガメを中に据ゑて、あるじはもや。さかなまぎに、さかなとりに、小淘綾コヨロギの磯のわかめ刈り上げに(風俗)

此等になると、あるじ云々は、主人はと物色する心持ちか、馳走は何と待つ心か、兩樣にはたらく樣で、平安朝末までもあるじの用語例は動搖し、漸くあるじぶりなど言ふ風の傾きを生じかけて居る。我が國の記録には、第一義のまれびとに關しては、敍述が乏しくして、痕跡の窺はれるものがあるに過ぎないが、此方面からでなくては説けない史實が多くある。

藤原氏の氏ノ長者が持ち傳へたと言ふので、皇室の三種の神器に次ぐ樣な貴重な感情を起させた朱器・臺盤と言ふ重器は、何の爲に尊いのか、何をする物であつたか、私はまだ其説明を聞いたことがない。併し、朱器は朱の漆で塗つた盃であつたらうと言ふ事は、他の用例を見れば知れる。臺盤は食膳である。此が何の爲に、重器として傳へられる資格を持つのか。傳説では藤原冬嗣の時に新造した物と言ふ。氏ノ長者の重器とするには、歴史淺いかの觀がある。私は恐らく使用に堪へなくなつた爲に、更めて新しく造つた事を言ふのではないかと思ふ。其にしても、食器が氏ノ長者の標識となる理由は、私の此考へ方に由る外は、説明はつくまい。つまり氏ノ長者としては、是非設けねばならぬあるじを執り行ふに必要なる品で、由緒ある物なのであらう。

單純に説明すれば、氏ノ長者を繼ぐと、其披露の饗宴を催さねばならぬ。其時に名譽の歴史ある傳來品を用ゐると考へて見ることが出來る。眞に右から左へである。使ふ爲に讓られ、次に用ゐる時は、氏ノ長者は自分の手から、他に移つて居ると言ふ事になると見るのである。此見地からしても、饗宴が如何に大切であり、氏ノ長者披露のあるじが一世一代であるかゞ想像出來る。

而も、私は尚一般の推論を立てゝ居る。氏ノ上・氏ノ長者の稱は藤原氏のみの事ではない。藤原氏の勢力の陰に隱れて、他氏の氏ノ上は問題にならなくなつたが、氏ノ上披露の饗宴の器具なる故と言ふ處に力點を置いて見るならば、他氏の氏ノ上にも、早くから此と似よりの事が言はれて居るはずである。其が一つも傳はらないのは、記録の湮滅と言ふよりも、藤原氏特有の重器と言ふ事に意味が生じたのではあるまいか。

藤原氏は宮廷神の最高級の神職であつた中臣から出て、政權に與る爲に、教權を大中臣氏に委ねた家柄である。だから、其家の重器としては、宮廷神の祭祀或は中臣の祖神の爲の祭祀に關聯した器具を持ち傳へる事はあるべき事である。教權は大中臣氏に繼がせても、氏ノ長者の權威を保つ爲には、祖宗以來の重器としての祭器を傳へたことも想像出來る。私は宮廷の公祭、中臣の私祭に來り臨むまれびとの爲のあるじまうけの器具であつて、其爲に極めて貴重な物として繼承せられた事と思ふ。さうした朱器・臺盤も、果して平安朝に入つて幾度使はれたらうか。記録も其事を傳へない。藤原氏にとつて神聖な祕事であつたに違ひない。

此推論を強める一つの民間傳承がある。それは各地方に分布してゐる椀貸し塚・椀貸し穴の傳説である。多數の客を招くのに、木具のない時、ある穴の前に行つて、何人前の木具を貸し賜はれと書き付けをして還ると、翌日其だけの數が穴の前に出されてゐた。ところが、或時、狡猾な人間が一つをごまかした爲に、二度と出さなかつたと言ふ形式の話が、可なり廣く擴がつて行はれて居る。かうした物語の分布は、其處に久しい年月のあることを考へさせる。私は、まれびとを迎ふるあるじの苦勞の幾代の印象が、かうした傳説となつたので、椀貸し塚から出した木具が皆塗り物であつた點が、とりわけ朱器・臺盤との脈絡を思はせるものがある。


      一〇 神來訪の時期

繰り返へして言ふ。我が國の古代には、人間の賓客の來ることを知らず、唯、神としてのまれびとの來る事あるをのみ知つて居た。だから、甚稀に賓客が來ることがあると、まれびとを遇する方法を以てした。此が近世になつても、賓客の待遇が、神に對するとおなじであつた理由である。だが、かう言うては、眞實とは大分距離のある言ひ方になる。まれびとが賓客化して來た爲、賓客に對して神迎への方式を用ゐるのだと言ふ方が正しいであらう。まれびととして村内の貴人を迎へることが、段々意識化して來た爲に、そんな事が行はれたのだ。今までの敍述は、まれびとの輪廓ばかりであつた。此からは其内容を細かに書いて見たい。

まれびとの來る時期はいつか。私は定期のおとづれを古く、臨時のおとなひを新しいと見てゐる。不時に來臨するのは、天神或は地物の精靈の神としての資格が十分固定した後に、其等の神々の間にあつたことである。其がまれびとの方に反映したものと思はれるから、まづ春の初めに來ると考へたであらう。まれびとの來ることによつて年が改まり、村の生産がはじまるのであつた。我が國では、年の暮れ・始めにおとづれ來る者のなごりは、前に述べたとほり數へきれないほどありながら、其形式は變り過ぎる程に變化した。抽象的な畏ればかりは妖怪となり、現實のまゝ若い衆自身々々を露はにする樣な行事にもなり、其が職業化し、藝術化した。さうして、其神祕な分子は、神となつて跡の辿られぬまでになつてゐる。此は歳徳神と陰陽道風に言ひ表されてゐる年神なのである。此神は、神道以外――寧、神道以前――の神である爲、記・紀其他に其名も見えない。大年神・御年神を此だとする説はあるが、まだ定らない。私は寧、出雲系統の創造神らしい形に見えるかぶろぎ・かぶろみの神々が、此に當るのではないかと考へて居る位である。此事は後に述べる。

年神の前身である春のおとづれをするまれびとは、老人であつて、簑笠を着た姿の、謂はゞ椎根津彦・乙猾とおなじ風で來り臨んだらうと云ふ推定は出來る。これが社々の年頭の祭事にとりこまれて、猿田彦・鈿女ノ命の田植ゑ神事となつて居る。老人を一體と見たのは、翁の系統であるが、二體とするのも、段々ある。まやの神・ともまや・赤また・黒また・大主前・あつぱあの如きは、陰陽の觀念がある樣である。現今も考へてゐる年神の中には、地方によつては一體のもあるが、老夫婦二體の者として居るのも多い。柳田先生はまた、盂蘭盆に「とも御聖靈オシヤウリヤウ」として聖靈以外の未完成のものを祀ると言ふ風習もあるから、みたまの飯として、月の數だけを握つてあげるのは、眷屬たちにまで與へるものと解して居られるらしい。先に言うた樣に、餅同樣これは靈魂の象徴である。殊に、三河南設樂郡地方では、正月、寺から笹の葉に米をくるんでおたまさまと稱へてくれる(早川孝太郎氏報告)例などを見ると、愈、供物でなかつたことが察せられる。
さすれば、にう木或は鬼打木オニウチギと稱する正月特有の立て物に、木炭で月の數だけの筋をつけるのが、全國的の風俗であることも、起原は此と一つなのではあるまいか。此を古今集三木傳のをがたまの木の正體だとする説は、容易に肯定出來ないとしても、をがたまと言ふ名義を考へると、此木の用途が古今傳授の有名な木に結びつく理由だけは訣る。靈タマは言ふまでもないが、をがは「招ヲぎ」と關係あるものと見たに違ひない。さすれば、にう木にまれびとを迎へる意の含まれて居ることは推せられる。其上に、此にう木に飯・粥等を載せて供へるのも、供物ではなく、靈代だつたと見れば納得出來る。
おめでたごとに、必、鯖サバを持參した例も、恐らくさばの同音聯想から出た誤りではあるまいか。さばは「産飯」と宛て字はするが、やはり語原不明の古語で、お初穗と同義のものらしい。打ち撒きの米にのみ專ら言ふのは、後世の事らしい。さばは、他物の精靈の餌と言ふ考へで撒かれるのであるが、尚古くは、やはり靈代ではなかつたであらうか。とにもかくにも、靈代としての米のさばが、進物と考へられる樣になつて、鯖と變じたものではあるまいか。元來、米をよねと言ふのは稻と同根であらうが、神饌としての米をくまと稱する(くましねの樣に)ことは、こめの原形であらうし、其上、靈魂との關係を思はせる用例がある。供物から溯源して見た春のまれびとは、主體及び其餘の群衆を考へて居たこともあるのは明らかである。

此等の神は、恐らく沖繩のまれびとと同樣、村を祝福し、家の堅固を祝福し、家人の健康を祝福し、生産を祝福し、今年行ふべき樣々の注意教訓を與へたものであらう。民間傳承を通じて見れば、悉く其要素を具へて居るが、書物の上で明らかに言ふ事の出來る個處は、家長の健康・建築物の堅固・生産の豐饒の祝福が主になつてゐた樣である事は後に述べる。奈良朝の史書も、やはり村人の生活よりも村君・國造の生活を述べるのに急であつた爲に、まれびとの爲事の細目は傳へなかつたのであろう。而も、外來である事の證據の到底あげられない所の、古くして且、地方生活を固く結合した民間傳承の含む不明の原義を探ると、まれびとの行動の微細な點までも考へることが出來るのである。


      一一 精靈の誓約

まれびとは、呪言を以てほかひをすると共に、土地の精靈に誓言を迫つた。更に家屋によつて生ずる禍ひを防ぐ爲に、稜威に滿ちた力足を蹈んだ。其によつて地靈を抑壓しようとしたのだ。平安朝に於て陰陽道の擡頭と共に興り、武家の時代に威力を信ぜられることの深かつた「反閇ヘンバイ」は、實は支那渡來の方式ではなかつた。在來の傳承が、道教將來の方術の形式を取りこんだものに過ぎなかつたのだ。一部の「反閇ヘンバイ考」は、反閇ヘンバイの支那傳來説を述べようとして、結局、漢土に原由のないものなることを證明した結果に達して居る。字面すら支那の文獻にないものであるとすれば、我が國固有の方術を言ふ所の、元來の日本語であつたのであらう。字は「反拜」などゝ書くのを見ても、支那式に見えて、實は據り處ない宛て字なることが知れる。まれびとの力強い歩みは、自ら土地の精靈を慴伏させるのであつた。

天子出御の時、發する警蹕の聲は、平安朝では「をし/\」と呼ぶ慣ひであつた。後に、將軍に「ほうほう」、諸侯に「下に/\」を使ふ樣になつた事も事實だ。「ほう/\」は鳥獸を追ふ聲で、人拂ひをするのではなく、此語も古いのであるから、地靈を逐ふ意があつたものであらう。「をし/\」は、天子のこゝに臨ませ給ふ事を示す語であるから、逐ふつもりではあるまい。寧、天子を思ひ浮べさせる歴史的内容を持つた語なのであらう。神武天皇、倭に入られて、兄磯城エシキ・弟磯城オトシキに服從を慂めにやられる處に、

時に烏、其營に到りて鳴きて曰はく、「天つ神の子汝を召す。いざわ/\」と。兄磯城忿りて曰はく、天アメノ壓神オシカミ至ると聞きて、吾慨憤する時……。次に、弟磯城の宅に到り……。時に、弟磯城、※[#「りっしんべん+「僕」のつくり」、39-12]然として容を改めて曰はく、臣天ノ壓神至ると聞き……。(神武紀戊午年)

とあるのは、をし・おし假名遣ひの違ひはあるが、同系の語ではなからうか。「をし/\」と警蹕を寫したのは、必しも發音を糺したものとも思へないし、第一其頃、既にお・をの音韻の混同がはじまつてゐるのである。壓オシはおそはく・うしはくの義の「壓す」から出たものでなく、また「大オホシ」に通ずる忍オシ・押オシなどで宛て字するおしとも違ふ樣だ。來臨する神と言ふ程の古語ではなからうか。おしがみなる故に「をし/\」と警めるのか、「をし/\」と警めて精靈を逐ふが常の神なる故におしがみと言ふのか、いづれとも説けるが、脈絡のない語ではあるまい。

三河北設樂郡一般に行ふ、正月の「花祭り」と稱する、まれびと來臨の状を演ずる神樂類似の扮裝行列には、さかきさまと稱する鬼形の者が家々を訪れて、家人をうつ俯しに臥させて、其上を躍り越え、家の中で「へんべをふむ」と言ふ。へんべは言ふ迄もなく反閇ヘンバイである。此も春のまれびとの屋敷を踏み鎭める行儀である。陰陽師配下の千秋センズ萬歳は固より、其流なる萬歳舞も反閇ヘンバイから胚胎せられてゐるのである。千秋萬歳と通じた點のある幸若舞の太夫も反閇ヘンバイを行ふ。三番叟にも「舞ふ」と言ふよりは、寧「ふむ」と言うて居るのは、其原意を明らかに見せて居るのである。

新室を蹈靜子が手玉鳴らすも。玉の如照りたる君を、内にとまをせ(萬葉集卷十一旋頭歌)

最初の五字の訓はまだ決定して居ないが、踏んで鎭むる子の意に違ひなからう。さすれば、ふむしづめ子・ふみしづめ子など言ふよりは、ふみしづむ(しづむるの意。古い連體形)子と訓じてよからう。手玉を纒いた人が、新室の内の精靈を踏み鎭めて居る樣である。

新室ニヒムロのほかひについて言うて置かねばならぬ事は、其が臨時のものか、定例として定期に行うたものかと言ふ事である。新室と言へば、新しく建築成つた時を言ふと思はれるが、事實はさう簡單な事ではなかつた。

宮中の大殿祭は、一年に數囘あつて、神と天子とにへを共にし給ふ時の前提條件として、必、行はれることになつて居た。大殿祭によつて淨められた殿舍において、恆例の儀式が始まる訣である。だが、此祭り自體が「祓ハラへ」ではなくて、ほかひであつた。祓へは勿論、ほかひから分化した作法なのは明らかであるが、大殿祭の場合、祓へを主體と見る事は出來ない。後世こそ「神人相甞」の儀が主となつて、大殿祭は獨立した祭りとは思はれない姿をとつて居るが、以前は二者一續きの行事か、或は寧、殿ほかひの方が主部をなし、にへの方は附屬部の方であつたかも知れない。まれびとを迎へる爲の洒掃と考へるのは、まれびとの本義をとり違へて居る。ほかひの結果、祓への效力を生じさせるのは、まれびとの威力である。後には專ら、さう解釋して、神を迎へる用意として執り行ふことになつた樣だが、本來の姿は、自ら分たれねばならぬ。

奈良朝の文獻をすかして見る古代の新室のほかひは、必しも嚴格に、新築の建物を對象としては居ない樣である。其が、舊室フルムロをほかふ場合も屡ある樣である。舊室に對しても、新室ニヒムロと呼ぶことの出來た理由があるのだと思ふ。半永住的の建て物を造り出す樣になつた前に、毎年、新室を拵へた時代があることが推せられる。屋は苫であり、壁は竪薦タツゴモであつた。我々の國の文獻から溯れる限りの祖先生活には、岩窟住居の痕は見えない。唯一種――後世には形を止めなくなつた――の神社建築形式に、岩窟を利用するものがあつたゞけである。が、むろと言ふ語は、尠くとも穴を意味するものである。底と周壁とに堅固な地盤を擇んだことだけは證明が出來る。穴が段々淺くなつて、屋外に比べては屋内が掘り凹められてゐる冬期の作業場として、寒國の農村で毎年新しく作るむろ・あなぐらの形に進んで居たのが、我が國文獻時代の地方に尚存したむろであらう。牀をかいたものは、此と對立でとのと言はれた。だから、むろ・とのの混同はないはずである。新室と言ひでふ、苫を編み替へ、竪薦を吊り易へ、常は生きみ靈の止る處なる寢處トコを掃ふ位で新室になるのであらう。屋内各部の精靈がやゝ勢力を持ちかけるのを防ぐ爲に、此樣に一新するのである。だから、新室づくりの日は生きみ靈を鎭める必要がある。而も其が、徹頭徹尾、建て物と關聯して居る處から、新室のほかひと言へば、必、家人殊に家長の生命健康を祝福することになつたのである。同時に土地の精靈は固より、屋内各部の精靈に動搖せぬことを、誓約的に承諾せしめて置く必要があるのである。むろ式の住宅が段々とのに替つて來ると、新室と言ふ語のままに、或は大殿など言ふ語を冠したほかひとなる。眞の意味の新室でなく、舊建物のまゝほかひを繰りかへす。だから、ほかひとは言へ、祓ハラへの要素が勝つて來る訣である。

定期のものとして、次に生じたのは、恐らく「刈り上げ祭り」であらう。此は農村としての生活が目だつて來てからの事と思ふ。春の初めにほかひせられた結果の現じたことに對する謝禮で、ねぎと言ふ用語例に入る行事である。ねぐと言ふ動詞の内容は、單に「勞犒ネギラふ」にあるとするのでは、半分である。殘部は、新しい努力を願ふ點にある。新しいめぐみを依頼する爲にねぐのであつた。こふ・のむと違ふ所以である(語根ねに就ては、別に言ふことがある)。

刈り上げのねぎには、新しく收めた作物を、まれびとと共に喰ふ。即、新甞を行ふのである。新甞は此秋のまつりの標準語であらう。さうして、宮廷では自家のまれびとを饗應することを此語で呼び、地方に對しては「相甞アヒムベ」と稱した。相新甞の義である。而も此式は、地方の新甞の爲の豫行の儀であつて、同時に地方の村々に來るまれびとにとつては、宮廷と地方自體とから、ねぎらはれる事になる。其爲、此重複をあひを以て表したと見るのが一番適當であらう。同じ樣にして、伊勢神宮に對しては「神甞カムナメ」と言ふ。神新甞の義だ。此は神宮の最高巫女を神と見て、神どうしの新甞だからと言ふ觀念を含むのである。天照大神は最初の最高巫女だつたと見るべきであるから、天照大神自ら、神に新甞を進め給ふと見るのである。

此等の宮廷竝びに官國幣の神社の儀式は、著しく神學成立後の神道の合理化を受けて居るから、矛盾・重複などを免れない。御歳皇神ミトシスメガミ以外に、官國弊社に豐饒を祈り、感謝するのは、神の觀念が變化した爲である。いづれの神にも農産の事に與る能力があると見て居るのである。更に御歳神を以て、純然たる田の神、或は野の精靈と見る方に向つて來たことを示す。野の精靈と國土の神々と相互の協力によつて、生産が完成せられるものと考へて居るのである。

ところが、近世また現今にすら傳承する民間の信仰では、大抵、田の行事のはじまる頃から終る時分まで、山の神が里におりて田の神となると考へて居る。此には誤信を交へては居るが、生産の守護者をば、時あつては外から臨む者とし、常在する精靈と見ない處から出て居る證據である。田の精靈に祈るよりは、まづまれびとにねぐことをしたのである。


      一二 まれびとの遠來と群行の思想

既に話した奈良時代の文獻に見えた三種の新甞の夜の信仰は、田の神に對してゞなく、遠來のまれびとに對してなることは、明らかである。而も序に引いた武塔神の神話も、再、蘇民ソミン將來の家に御子神たちを連れて來られることになつて居る。其二度目のおとづれは、秋であつた。春來たまれびとの秋再おとづれると考へられることになつたのも、古い事である。まれびとの來るを機會に、新室のほかひをすることは、刈り上げ後にも行はれたと見える。

白髮天皇の二年冬十一月、播磨の國司山部ノ連の先祖伊與イヨノ來目部クメベノ小楯ヲタテ、赤石郡に於て、自ら新甞の供物を辨ず。適、縮見シヾミノ屯倉ミヤケノ首オビト、新室の縱賞ホカヒして、夜を以て晝に繼ぐに會ふ。(顯宗紀)

とあるのは、新甞にも新室が附帶する證據である。允恭紀の七年冬十二月朔日、「新室に讌す」とあるのも、時から見れば新甞の新室である。「新甞屋ニヒナベヤ」と言ふのも、別に新甞の物忌みに室を建るのではなく、新室の事を言ふのである。此點誤解し易い爲に、日本紀の舊訓も多少の間違ひをしてゐる。「當に新甞すべき時を見て、則陰ヒソかに新宮に※クソマ[#「尸+矢」、44-12]放る」(神代紀)は、にひみや或はにひみむろとでも訓むべきで、強ひてにひなめやと言ふに當らないだらう。さうして秋冬のおとづれの時にも、やはり生命健康のほかひをするのである。さすれば、定期のまれびとは、春も刈り上げにも、おなじことを繰り返すことになる。こゝに自ら時代に前後の區別が見える訣である。

臨時のおとづれは、更に遲れて出來たものであらう。まれびとによつて、ほかひせられたいと思ふ心の起るべき時に、おとづれする事になる訣だ。建築は今日から見れば、臨時の事らしく見えるが、前に言うた通りで、新造の時は定まつてゐたのである。私の考へる所では、婚禮の時・酒を釀す時・病氣の時の三つが擧げられると思ふ。尚一つ、不意の來臨を加へて考へることが出來よう。

婚禮にまれびとの來ることは、由來不明の祓へ、竝びに其から出た「水かけ祝ひ」で察せられたであらう。我々の國の文獻は既に、蕃風を先進國に知られるを恥ぢることを知つた時代に出來たのである。だから、殊に婚禮も性欲に關した傳承は見ることが出來ない。唯我が國にも初夜權の行はれたことは事實であるらしい。讃岐三豐郡の海上にある伊吹島では、近年まで其事實があつた。又、三河南北設樂の山中では、結婚の初夜は、夫婦まぐことを禁ぜられて居る。花嫁はともおかたと稱する同伴のかいぞへ女と寢ね、「お初穗はえびす樣にあげる」のだと言ふ。沖繩本島では、花婿は式後直に家を去つて、其夜は歸らない。都會では、式に列した友人と共に遊廓に遊ぶと言ふが、此には意味がない。花嫁を率寢ヰネないことは訣があるのである。

定例のまれびとの場合を見ると、家の巫女として殘つてゐる主婦・處女はまれびとの枕席に侍るのである。これが一夜づまといふ語の、正當な用語例である。沖繩で花婿が花嫁を率寢ヰネぬ第一夜の風習は、私は第二次の成女式だと考へてゐる。裳着と袴着とが、女と男と對立的に行はれるのは、實は成年式の準備儀禮であつた。男は成年の後、眞の成年式によつて、神人たる資格と共に、其重要な要素であつたところの性欲行使の解放を意味する標識を、村固有の形でもつて、からだの上にせられる。其が忘れられた後まで、若い衆入りには、性意識の訓練と、自在な發表とを與へられもし、行ひもした。

女の方でも、裳着以後も、眞の成女と認められるまでは、私にも公にも結婚は出來なかつた。女の側の破戒は、多くは男の力に由るのであるから、成女以前の女――後には月事のはじまり、又は、はぢひげの調ひを以てする――を犯した者は、穢れに觸れるのである。宗教的に見れば、重大な罪科である。我が國にも此例はあつて、今も尚信じて居る地方はある。村の神が巫女として、性生活に入る事を認め許した成女の資格をまだ持たない者が、未成女である。たとひ身は成熟してゐても。女の側にかゝつたたぶうを犯すからと言ふのではなく、男の方の資格に疵が出來るからである。神として(神人として)村の祭りに與る者は、成女即巫女として神にあふ資格ある者以外に觸れてはならないのである。成女式は、村の宗教の權威者の試みを經る事であつた。我が國古代では地方の神主(最高の神職)たる國造等が、とり行うた痕が見える(此は別に述べる)。而も其外にも、村の神人たる若者が、神としての資格で、此式を擧げることもあらう。

此第二次、或は本式の成女式が結婚の第一夜に行はれる事は、邑落生活の樣式が固定した爲であらう。成年式同樣に、きまりの年齡に達した女の、神主からの認められ樣は、結婚以前に受けて居たのを、原則とする事が出來よう。村の男の妻どひの形は、神の資格に於て、夜の闇の中に行はれた。顏も見せないで家々の娘とあふ形は、通ふ神の風が神話化した後迄も、承け繼がれた。だから、女の方の成年式は早く廢れて、痕跡を初夜權に殘し、村の繁殖の爲の身體の試驗・性教練としての合理的の意味を持つ事になつたのであらう。其以前に、祭りの夜のまれびとのひと夜づまの形で卒へられたのが、事實に於ける成女式であつた。

婚禮の夜は、新しい嬬屋ツマヤが新夫婦の爲に開かれ、新しい床に魂が鎭められねばならぬのだから、神の來訪を待つことは考へられる。其爲に、新夫婦に科する「水祝ひ」なる祓へは、飛鳥朝にも既に行はれて居た。其頃から既に幾分含んでゐた村人のほふかいな嫉妬表示の固定したものではない。まれびとを迎へる當の責任者を祓へ、二人の常在所となるべき處を清めるのである。此も元は、水をかける若者が、神の資格に於てしたことゝ思はれる。

其上に家の巫女として、處女又は主婦が對すると言ふまれびと迎への式がまじり合うて、新嬬屋の第一夜が、夫の「床避トコサり」の風を生じたものであらう。床さる・片さるなど言ふ語は、元かうして出來たものらしいが、用例は多く變じて居る。此風は、古くは、全國的に行はれて居たものであらう。唯、地方的に固いしゞまが守られて、其風が氓びて了うたものと思ふ。

時としては、既に巫女の生活をしてゐる村の娘が「神」の手を離れて「人間」の男にゆくと言ふ考へから、神になごりを惜む形式を行ひ、神の怒りを避けようとすることもある。此も後に言はうが、稍、遲れた世の解釋である。村の娘全體巫女であつた時代が過ぎてからのことであらう。故らに迎へる臨時のまれびとの他の例は「酒釀サカカみ」の場合である。我が國の奈良朝までの文獻で見ると、平時にも酒を娯しむ風は大陸文明によつて解放せられた上流の、宗教生活を忘れかけて來た階級の消閑の飮料とする風から擴つたものと見ることが出來る。單に飮み嗜む爲の「酒釀サカカみ」行事は、民間にはなかつた樣である。此にも常例のものはないではない。村の祭りに先立つて、神の爲に釀して、神人たちの恍惚を誘ふ爲にした。が多くの場合、人の生命に不安を感じる時、行ふ儀式がさかほかひであつた。酒の出來ぐあひを以て、生死を占ふのである。

此一轉化したものが、粥占である。旅行者の身の上を案ずる場合にも、此方法で問うた樣である。病氣には、其酒をくしのかみとして飮ませ、旅行者無事に歸つた時は此を酌んで賀した。さうした酒宴を酒ほかひと言ふのだと考へる人もある樣であるが、釀酒の初めに行はれる式を言ふ事は疑はれぬ。此式は占ひの方に傾いた爲に、後には神の意志は、象徴として表され、本體は來臨せぬものゝ樣に見えるが、

このみ酒キは、わがみ酒キならず。酒クシの神、常世にいます、石イハ立たす少名御神の、神壽カムホぎ壽ホぎ狂ほし、豐壽トヨホぎ壽ぎ※(「廴+囘」、第4水準2-12-11)モトホし、獻マツり來しみ酒キぞ。涸アサず飮ヲせ。ささ(仲哀記)

など言ふところから見ると、常世の神が來て、ほかひするものと信じ、其樣子を學んで、若者が刀を振り※(「廴+囘」、第4水準2-12-11)し、又は或種の神人が酒甕の※(「廴+囘」、第4水準2-12-11)りを踊りまはりしたものと言へると思ふ。

靈液クシの神カミを常世トコヨの少彦名スクナヒコナとする處から見ても、まれびとによつて酒ほかひが行はれると見たことが知れる。又、大物主オホモノヌシを以て酒ほかひの神と見たことも、少彦名・大物主の性格の共通點から見れば、等しく常世のまれびとの來臨を考へて居たのである。

      一三 まつり

春のほかひに臨むのをまれびとのおとづれの第一次行事と見、秋の奉賽の獻マツり事ツカへが第二次に出來て、春のおとづれと併せ行はれる樣になつたものと見られる。其は、秋の祭り即新甞の行事が、概して、春祭りよりは、新室ほかひを伴ふ事多く、又、其が原形だと思はれる點から言ふ事が出來る。新室ほかひは、吉事祓へとしての意味を完全に殘して居る。來年の爲の豫祝なのである。

春祭りにも新室、旅行にも新室を作るのは、神を迎へる爲の祓へに中心を移して行うた爲で、後の形であらう。併し、春祭りの樣に、今年から人となる村の男・女兒の爲の成年式は行はない。まれびと優遇の爲に、家々の巫女なる處女・家刀自の侍ることはあるが、此は別である。一年間の農業、其他家の出來事に對する批判・解説などをしたのは、春のおとづれにするよりは、刈り上げ祭りの方が適切である。

私の考へを言ふと、刈り上げ祭りと、新しい年のほかひとは、元は接續して行はれてゐたのである。譬へば、大晦日と元日、十四日年越しと小正月、節分と立春と言つた關係で、前夜から翌朝までの間に、新甞とほかひとが引き續いて行はれた。まれびとは一度ぎりのおとづれで、一年の行事を果したものであらう。其が時期を異にして二度に行はれる樣になつてからは、更に限りなく岐れて、幾囘となく繰り返される樣になり、更にまれびとなる事が忘れられて、村の行事の若い衆として、きぢの儘に考へられ、とゞのつまりは、職業者をさへ出すことになつたのである。

おとづれの度數の殖えた理由は、常世神の内容の變化して來た爲なのは勿論だが、今一つ大きな原因は、村の行事を、家の上にも移すことになつたからである。村全體の爲に來り臨み、村人すべての前に示現したまれびとが、個々の村舍ムラヤをおとづれる樣になつた。初めは、やはり村に大家オホヤケが出來た爲である。村人の心を信仰で整理した人が、大家オホヤケを作つた。此大家即村君の家に、神の來臨ある事が家屋及び家あるじの身の堅固の爲の言コトほぎの風を、段々其以下の家々にもおし擴めて行つた。併し、凡下の家に到るまで果してさうであつたかどうかは疑問である。けれども此點に問題を据ゑて、大體、時代が降る程、一般の風習となつて行つたと見てよからう。だから、或廣場、後には神地に村の人々を集めて、神意を宣つた痕跡と見るべき歌垣風の春祭り――秋にも此形を採る樣になつた地方がある――の方が、女の留守をする家々に、一人々々神及び神の眷屬の臨んで、ひと夜づまの形で婚ふ秋の祭りよりも、原始的だと言ふ事が出來る。

其に尠くとも今二つ、有力な原動力が考へられる。其は、祖先の一部分が曾て住みつき、或は經由して來た土地での農業暦である。それから、新古の來住漢人が固有して居た季節觀である。我々の祖先の有力な一部分は、南島から幾度となく渡つて來た事は疑ひがない。此種族が、わが中心民族の祖先と謂はないまでも――此に對しては、私は肯定説を持つてゐる。後に述べるであらう。――其等の南方種は、二度の秋の刈り上げをした。自然、種おろし・栽ゑつけには、暖いと暑いとの二度の春を持つてゐた。十一月の新甞祭がありながら、六月の神今食ジンコンジキの行はれた理由は、まだ先達にも、假説たり得るものすらない。私は、此をかう考へる。

陰陽道に習合せられて殘つて、其が江戸期まで行はれたものと見られる「二度正月」の心理であらう。同時に、徳政や古代の商變アキカヘしなど言ふ變態な社會政策の生み出される根柢になつたものとも思はれる。大祓への如きも、單に上元・中元に先だつ季節祓へでなく、やはり一年を二年と見た傳習から出たものと見る方がよい樣だ。一年に一度刈り上げる國土に來ても、固定した信仰行事の上では、二秋フタアキの舊郷土の俤を殘したものらしい。

支那及び其影響を受けた民族の將來してゐた傳承では、めぐり神の畏怖は、まだ具體的にはなつて居ない。が、守護神の眼の屆かぬ季節交替期、所謂ゆきあひの頃を怖れる心持ちが、深く印象せられた。我が民族の中心種族の間にも、時の替り目に魂の漂ウカれ易い事を信じて居た。其が合體して、五節供其他の形代を棄てる風が、段々成長して來た。日本に於ける陰陽道は、其道の博士たちの學問が正道を進んで居た間さへ、實行方面は歸化種の下僚の傳説的方式――必、多くの誤傳と變改とを含んだ筈の――をとり行はしめた。宮中或は豪家・官廳の在來の儀式に、方術を竝べ行ひ、又時としては佛家の呪術をさへ併せて用ゐる樣なことがあつた。其間に、呪術の目的・方法・傳説さへ混亂する樣になつた。七夕の「乞巧奠キツカウテン」の如き、「盂蘭盆會」の如き、「節折ヨヲり」の如き、皆、鎭魂・魂祭り・祓除・川祭りの固有の儀禮に、開化した解説と、文明的な――と思はれた――方式の衣を着せたものであつた。

かうした變化法・吸收法を以て、外來の傳承に融合して行つたものである。だから、季節毎の畏怖を鎭魂又は祓除によつて、散却してゐた。勿論、上巳・端午には、支那本土でも、祓除の意味があつたのだが、我が國では、節分にも、七夕にも、盂蘭盆にも、八朔にも、玄猪にも、更に又、放生會にすらも、此側から出た痕跡が明らかに見えてゐる。
鎭花祭ハナシヅメマツりには、多少外來種の色彩が出てゐるが、やはり魂ふりに努めた古風が、少分の外種を含んで出たのである。寧、歸化種の人々に及んだ影響が、あゝして現れたと見るべきであらう。二度の大祓へに伴ふ鎭魂や、上巳・端午の雛神や、盆・七夕の精靈に對してする「別れ惜しみ」の式などは、芻スウ靈や死靈の祭り以外に、生きみ魂の鎭魂の意味が十分に殘つてゐるのである。

名は同化せられて行つて、上邊ウハベは變化しながら、實は固有種と違つた意味に育たしめるのが、我が民族の外來文化に接觸の爲方であつた。だから、常識化し、傳説を紛らした道教の方式にたやすく結合して、傳承を伸して行つた。其で上元の外に、中元を考へ、季節の祓除・鎭魂を行ふことになつた。量り難く古い道教傳來の昔から、徐々にさうして進んで來て、祓除の根本思想を穢れの排除にあるとさへ古代に於ても考へるまでになつてゐた。吉事祓へが、凶事祓へに先だつてあつたことが考へられなかつたのは、全く道教の影響である。

神に扮し、又、神を迎へる爲の人及び家屋の齋戒や祓除をするのが元であつた。神としての聖キヨさを獲むが爲の人身離脱が、祓へ・禊ぎの根本觀念であることを考へぬ人が多い。凶事祓へを原とする考へ方は、祓への起原を神にあるとした、凶事祓へが主になつた時代の古傳説に囚はれてゐるのである。吉事祓へは、畢竟たぶうの内的表現で、外的には、縵・忌み衣などを以て、しるしとした。

季節のゆきあひ毎に祓除を行ふとゝもに、其附帶條件たるまれびとのおとづれを忘れなかつた。地方によつて遲速はあつても、まれびとの信仰は、ともかくも段々變化して來ずにはゐない。元々まれびとを祖先とする考へすら夙く失うて、ある地方では至上の神と考へ、又ある地方では、恐るべく、併し自分の村に對する好意は豫期することの出來る魔物とし、或は無力・孤獨な小人を神と思ひ、或は群行する神の一隊を聯想したりして來た。而も青蟲の類をすら、此神の姿とするものもあつた。行疫神をも、此神の中にこめて見る觀察も行はれて來た。

おとづれが頻繁になつて、村の公事なる祭りでなく、一家の私の祝福にも、常世神が臨む樣になる。殊に村君の大家オホヤケの力が増せば、神たちは其祝福の爲に、度々神の扮裝をせねばならぬ。其以外の小家でも、神の來臨を請ふこと頻りになつて來る。

酒は旅行者の魂に對する占ひの爲に釀されたものだが、享樂の爲に用ゐる時にも、ほかひはせねばならぬ。壽詞は昔ながらで、新釀ニヒツクりの出來のよい樣に唱へると言つた形をとつて來るわけである。家々の婚禮にも神が臨み、新室開きにも神が迎へられる。釀酒にも、新室にも、神の意識は自他倶に失はれて了うた。とようかのめにことゞふ神は、夙く大刀うち振ふ壯夫と考へられ、家あるじの齡をほぐ神は、唯の人間としての長上の尊者としてあへしらはれた。

此通りまれびとは、必しも昔の樣に、常世の國から來ると考へられた者ばかりではなくなつた。幾種類ものまれびとがあり、又、神話化し、過去のことになつたのもあると共に、知らず識らずの間に、やつした神の姿を忘れて、唯の人としてのまれびとが出來た。又、衣帶エタイの知れぬ遠處新來の神をも、まれびとに對して懷いた考へ方に容れる事になつた。一つは、新神の新にして、萎えくたびれない威力を信じ畏れた爲もある。が併し、如何なる邪神にでも、鄭重なあるじぶりと、纒綿たるなごり惜しみの情を表出して、他處へ送る風の、今も行はれて居つて、其が盂蘭盆の聖靈送りなどに似て居るのを見れば、自ら納得の行くことがあらう。其は遠來神・新渡神に對するのと、精靈に對するのとは、形の上に區別がないことである。即、常世の國から毎年新しく、稀におとづれ來る神にした通りの禮式を、色々な意味のまれびとに及したのである。決して單純に、邪神に媚び事へて、我が村に事なからしめようとするのだといふ側からばかりは、考へることが出來ないのである。

      一四 とこよ

雁をとこよの鳥としたことは、海のあなたから時を定めて渡り來る鳥だからである。同じ意味に於て、更に神聖な牲料ニヘシロなる鵠クヾヒは、白鳥と呼ばれて常世の鳥と考へられたのは固より、靈を持ち搬び、時としては、人間身をも表す事の出來るものとせられた。鵠クヾヒが段々數少くなると共に、白い翼の鳥は、鶴でも、鷺でも、白鳥と稱へられ、鵠クヾヒの持つた靈力を附與して考へられた。

我が國の古俗ばかりから推しても世界的の白鳥處女傳説は、極めて明快に説明が出來るのは、此國に民間傳承の學問が、大いに興る素地を持つてゐるのだと言へようと思ふ。富みと齡の國なる常世は、元、海岸の村々で、てんでに考へて居た祖靈の駐屯所であつた。だから、定期にまれびととして來り臨む外に、常世浪に搖られつゝ、思ひがけない時に、其島から流れて、此岸に寄る小人神があるとせられたこと、のるまん人等の考へと一つ事である。更に少彦名の漂着を言ひ、大國主の許に海の彼方から波を照して奇魂・幸魂がより來つたと言ふのは、常世を魂の國と見たからである。

常世の國は、飛鳥の都の末頃には既に醇化して、多くの人々に考へられてゐた樣であるが、此には原住歸化漢人種の支那傳來の、海中仙山の幻影が重つて來て居る。藤原の都では、常世に蓬莱の要素を十分に持つて來て居る事が知れる。けれども、言語は時代の前後に拘らず、用語例の新舊を檢査して見る必要がある。新しい時代にも、土地と人格とによつては、古い意義を存してゐるのだ。

常夜往トコヨユクと言ふ古事記の用例は、まづ一番古い姿であらう。「とこよにも我が往かなくに」とある大伴ノ坂上サカノヘノ郎女の用法は、本居宣長によれば、黄泉の意となる。此は少し確かさが足らない。が、とこよを樂土とは見て居ないやうで、舊用語例に近よつて居る。常夜・常暗トコヤミなど言ふとこは、永久よりも、恆常・不變・絶對などが、元に近い内容である。ゆくは續行・不斷絶などの用語例を持つ語だから、絶對の闇のあり樣で日を經ると言ふことであらう。而も、記・紀には、其すぐ後に海の彼方の異郷の生物を意味するとこよの長鳴鳥を出して居るから、一つゞきの物語にすら、用語例の變化した二つの時代を含んでゐることが見られる。古事記には尚、常世の二つの違うた用例を見せて居る。海龍の國を常世として、樂土を考へてゐること、浦島子の行つた常世と違はない。此は新しい意味である。たぢまもりの橘を求めた國は、實在の色彩濃いながら、やはり常世の國となつて居る。其他異色のあるのは、常陸風土記の常陸自身を常世國だと稱した事である。此は理想國の名を、如何にも地方の學者らしく、字面からこじつけ引きよせた一家言であつたのだらう。

ほをりの命と浦島子との場合の常世は、目無筐マナシカタマに入ると言ひ、魚族の居る國と傳へ(記・紀)、海中らしく見えるが、他の場合の常世の意は、すべて海の彼岸にあるらしく傳へてゐる。つまりは、古代人の空想した國、或は島であつたのだ。たぢまもりの場合は、其出自が漢種であり、現實性が多い書き方の爲に、如何にも橘を齎した國が南方支那の樣に見える。けれども、此出石イヅシ人の物語も、一種のりつぷ※(濁点付き平仮名う、1-4-84)あんゐんくる式の要素を備へてゐて、常世特有の空想の衣がかゝつてゐる。思ふに、古代人の考へた常世は、古くは、海岸の村人の眼には望み見ることも出來ぬ程、海を隔てた遙かな國で、村の祖先以來の魂の、皆行き集つてゐる處として居たであらう。そこへは船路或は海岸の洞穴から通ふことになつてゐて、死者ばかりが其處へ行くものと考へたらしい。さうしてある時代、ある地方によつては、洞穴の底の風の元の國として、常闇の荒い國と考へもしたらう。風に關係のあるすさのをの命の居る夜見の國でもある。又、ある時代、ある地方には、洞穴で海の底を潛つて出た、彼岸の國土と言ふ風にも考へたらしい。地方によつて違ふか、時代によつて異るか、其は明らかに言ふことは出來ない。なぜならば、海岸に住んだ古代の祖先らは、水葬を普通として居た樣だから、必しも海底地下の國ばかりは考へなかつたであらう。洞穴に投じたり、荒籠アラコに身がらを歛めて沈めたりした村の外は、船に乘せて浪に任せて流すこと、後世の人形船や聖靈船・蟲拂ひ船などの樣にした村々では、海上遙かに其到着する死の島、或は國土を想像したことも考へられる。事實、かういふ彼岸の常世を持つた村々が多かつたらしいのである。此二つの形が融合して、洞穴を彼岸へ到る海底の墜道の入り口と言ふ風に考へ出したものと思ふ。琉球の八重山及び小濱島のなびんづうから通ふにいるすくも、にこらい・ねふすきい氏の注意によれば、底の國ではなく、垣・村・壘などを意味する「城」の字を宛て慣はしたすくである事は既に述べた。此邊にすくを稱する離島は可なりにある。さすれば、にらい國は必しも海底の地ともきまらぬのである。事實、沖繩諸島では、他界を意味する島を海上にあるとする地方が多く、海底にあると言ふ處はまだ聞かない。大東島ウフアガリシマも明治以前は單なる空想上の神の島――あがるいの大主の居る――の名であつたのを、偶然其方角に發見して、實際の名としたのであつた。尖閣列島にも、舊王朝時代には神の島と眺められて居たものがあつた。

とにもかくにも最初は、死の常闇の國として畏怖せられて居たのが、其國の住者なる祖先及び眷屬の靈のみが、村の爲に好意を持つて、時あつて來臨するのだから、怖いが併し、感謝すべきおにの居る國といふことになつて、親しみを加へて來る。一方には畏しさの方面にのみ傾いて、すさまじい形相を具へた魔物の來臨する元の國と言ふ風に思うた處もある。にいるすくは其だ。奥羽地方のなもみの類の化け物、杵築のばんない等をはじめとして、おにといふ説の内容推移に從うて、初春のまれびとを惡鬼・羅刹の姿で表してゐる地方が多い。ところが、其等は年中の農作祝福に來るのであるから、佛説に導かれて變化した痕はありありと見える。節分の追儺に逐はれる鬼すら、やはり春の鬼としてのまれびとの姿を殘してゐる地方が段々ある。幸福は與へてくれるのだが、畏しいから早く去つて貰ひたいと古代人の考へたまれびと觀が、語意の展開と共に、之を逐ふ方に專らになつて來たからである。

代を經た祖先として、既に畏怖の念よりも、尊敬の方に傾いて來ると、男性・女性の祖先一統を代表する靈の姿が考へられて來る。其が祖先であると言ふ考へから、高年の翁・媼に想像せられたことが多い。だが、生殖力の壯んなことを望むところから、壯年のめをと神を思ひ浮べた例も多い。此夫婦神の樣式が神爭ひ・神逢遭ユキアヒなどの物語・行事の上にも影を落して、雙方の神を男女或は夫婦として配する風が成長して來た。農作に關係のある神來臨が、初春といひ、五月と言ひ、多く夫婦神であることは、一面、婚合の儀式を行うて、作物を感染せしめようとする呪術を伴うてゐたものかも知れぬ。

其他の場合のまれびとには、主神一柱の外は眷屬だけが隨うて、女性の神の來ないのが多かつたと思はれる。

まれびとが人間化する最初は、恐らく新室のほかひなどであらう。まれびととして迎へられた神なる人が、待遇は神にする樣式を改めなかつたけれど、段々人としての意識を主客共に持つ樣になつた。顯宗紀の室壽詞ムロノヨゴトに「いで、常世たち」と賓客たちに呼びかけてゐるのは、齡の久しい人と言ふ樣にもとれる。勿論、さうした祝福をこめた詞ではあるが、古代からまれびとに對して呼びかけた「常世の神たちよ」と言つた風の固定した常用句が、やはり殘つて居たものと見るべきである。

とこよが永久の齡・長壽などの用語例を持つたのは、語の方からも、祖先の靈と言ふ考への上に、よに齡ヨの聯想が働いたからである。常闇の國から、段々不死の國と言ふ風に轉じて行つたのである。而もよと言ふ語には、古代から近代まで、穀物或は其成熟の意味があつた。とこよは更に、豐饒或は富みの國なる聯想を伴ふ樣になつた。常世と一つに考へられ易いわたつみの國は、人間の富みの支配者であつた上に、時々潮に乘つて、彼岸の沃肥を思はせる樣な異樣な果實などの流れよることなどがある爲、空想は愈、濃くなり、色どられて行く。

かうした展抒は、藤原朝以前からであつた。漢種の人々の影響が具體的になつて來ると、益、海中の三仙山の壽福の姿が、常世の國の上に重つて來て、常世・仙山を接近させる樣になつた。平安朝の初期に、「標の山」の上に仙山を作つて、夫婦神を据ゑる樣にさへなつたのは、此信仰の混淆から來たのだ。

更に常世の國に就て、日漢共通の、而も獨立發生の疑ひのないものは、神婚譚がどちらにもついて※(「廴+囘」、第4水準2-12-11)つて居ることである。漢・魏・晉・唐の間の民間説話の記録なる小説は、宮廷祕事でなければ、神仙と高貴の人との媾遇を主題とした物が多い。

更に「楚辭」にも屈原の物すら、稍、此傾向のあるものがあるが、其末流なる宋玉・登徒子等の作物は、張文成の艶話の前驅とも言ふべき自敍傳體の、仙女又は貴女との交渉を記したものが多い。文成の物になると、日本・三韓あたりの念書人の鑑賞に適切な、啓蒙的な筆致と構想とを備へてゐた。而も、夙に歡び迎へられた「遊仙窟」は、仙女との間の情痴を描寫したものである。書物よりの影響は勿論、日本の文人を動して、奈良朝に出入して、既に浦島子傳・柘枝傳に辿々しい模倣の筆つきで、我が國固有の神女・人間婚合の物語を書かしめた。而も筆を以てせぬ漢種の人々の神仙譚が、人々の耳に觸れた多くの機會を想像する事が出來る。さうした事が、如何に、常世と仙山とを分ち難いものにしたことであらう。其上、國語では、男女の交情・關係をも「よ」と言ふ音で表した。常世が戀愛の無何有郷と言ふ風にも考へられた。浦島子譚と同系と見えるほをりの命の物語も、常世の富みと戀ひとを述べて居る。「齡」の方は、此方にはなくて、前者の方に説いてゐる。其浦島子の幸福を逸した愚さを、齒痒く感じた萬葉人の詞は、すべての萬葉人の仰望をこめての歎息だつたのである。

覓國使クニマギツカヒの南島を求めに出た動機には、かうした樂土への憧れを含んで居たことであらう。ちようど中世紀の歐洲人が、擧つて淨土西印度の空想をあめりかに實現した樣に、此は七島・奄美・沖繩諸島を探り得たのだ。而も其島々の荒男も、おなじくさうした樂土に憧れて居たこと、今の世の子孫が尚あるが如くであつたらう。平安朝に入つては、常世の夢醒めて、唯、文學上の用語となり、雁がねに古風な情趣を添へようとする人が、時たま使ふだけになつて了うた。まことに、海の彼方に憧れの國土を觀じた祖先の夢は、ちぎれ/\になつて了うたのである。

海については、四天王寺の西門は、極樂淨土東門に向ふが故に、淨土往生疑ひなしと信じて、水に入つた鎌倉時代の人々や、南海にあると言ふ觀世音の樂土を想うて、扁舟に死ぬまでの身を乘せて、漕ぎ出した「普陀落渡海」も、皆、水葬の古風が他家の新解説を得たまでゞ、目ざす淨土は、やはり常世の形を變へたものに過ぎなかつたのである。

時勢から見ても、常世の國は忘られねばならなかつた。常世神に仕へた村人らは海との縁が尠くなつて行つた。平野から山地にまで這入つて了うては、まれびとの來る處は、自ら變つて來る。現在或は近世の神社行事の溯源的な研究の結果と、古代信仰の記録とを竝べて考へて行くと、一番單純になりきつたのは、海濱の村の生活の印象である。こゝまで行くと、我が國土の上に在つたことか、其とも主要な民族の移住以前の故土での事か、訣らなくなる部分が出て來る。此事については、別に論じたく思ふが、此だけの事は言はれる。

ともかくも、信仰を通じて見た此國土の上の生活が、かなり古くからであつたらしい事である。尠くとも、さうした生活を始めた村が、極めて古くあつた。其上、自發したものか、他の村からとり込んだかは二の次にして、相似た生活樣式の多くが、澤山な村々の上に極めての古代に見出される。平野に深く移つて後も、尚、祭りには、海から神の來る事を信じた村もある。だが多くは、段々形を變へて、山からとし、天からと考へる樣になる。元來、天上に樂土を考へた村々もあるにはあつたらしいのである。


底本:「折口信夫全集 第一卷」中央公論社
   1954(昭和29)年10月1日初版発行
   1965(昭和40)年11月20日新訂版発行
   1972(昭和47)年5月20日新訂再版発行

初出:「民俗 第四卷第二號」
   1929(昭和4年)年1月

※底本の題名の下に書かれている「昭和二年十月稿。昭和四年一月「民族」第四卷第二號」はファイル末の「初出」欄に移しました。

https://www.aozora.gr.jp/cards/000933/files/42613_17557.html
http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/424.html

[リバイバル3] 中川隆 _ 美術・文芸関係投稿リンク 中川隆
150. 中川隆[-10313] koaQ7Jey 2019年5月12日 10:01:55 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[1798]
折口信夫 國文學の發生(第三稿)まれびと の意義
http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/424.html
http://www.asyura2.com/09/revival3/msg/452.html#c150
[リバイバル3] 中川隆 _ 心理学、大脳生理学、文化人類学、文化関係投稿リンク 中川隆
73. 中川隆[-10312] koaQ7Jey 2019年5月12日 10:02:16 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[1799]
折口信夫 國文學の發生(第三稿)まれびと の意義
http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/424.html
http://www.asyura2.com/09/revival3/msg/807.html#c73
[近代史3] 折口信夫 國文學の發生(第三稿)まれびと の意義 中川隆
1. 中川隆[-10311] koaQ7Jey 2019年5月12日 10:02:51 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[1800]

青空文庫 折口信夫 作品集
https://www.aozora.gr.jp/index_pages/person933.html#sakuhin_list_2
http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/424.html#c1
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107. 中川隆[-10310] koaQ7Jey 2019年5月12日 11:02:45 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[1801]
>管理人氏の甘い管理体制が災いして訴訟が多発し、阿修羅が閉鎖に追い込まれることを強く危惧します。


工作員は魑魅魍魎の方だろ。

原発関係の風説を流布してる魑魅魍魎をこのまま放置しておいて、訴えられたら 100%負けるよ。

実際、阿修羅原発板と東海アマブログは風説流布サイトだと既に認定されている。

Google で 阿修羅のスレがタイトルを直接、検索窓に入れない限り決して表示されなくなった経緯

東海アマブログ

上に紹介したのは右翼系メディアのスターたちである。彼らのコンテンツは、頼んでもいないのに、勝手にYouTubeの先頭に表示されるのである。

 私としては、金子勝や青木理。武田砂鉄などを視聴したいのだが、彼らはYouTubeから嫌われているようで、名前を直接、検索窓に入れない限り決して表示されない。
 これは、グーグルの検索でも同じことだ。

 このようなメディアの洗脳工作が、安倍のような阿呆政権を維持する上で、非常に大切な役割を果たしている。
 YouTube・グーグル・フェイスブック・ツイッターなどのSNSは、CIA・NSAと関係していると、スノーデンもアサンジも何度も暴露している。

 http://eigokiji.cocolog-nifty.com/blog/2017/09/cia-ceb8.html
 https://wired.jp/2010/07/30/google%E3%81%A8cia%E3%81%8C%E6%8A%95%E8%B3%87%E3%81%99%E3%82%8B%E3%80%8C%E4%B8%96%E7%95%8C%E7%9B%A3%E8%A6%96%E3%82%B7%E3%82%B9%E3%83%86%E3%83%A0%E3%80%8D/

 https://gendai.ismedia.jp/articles/-/49507?page=3

 なお、ヤフーは、グーグル以上に体制=自民党べったりで、私のブログが連絡もないまま勝手に削除されることが続いたのでFC2に移転することにした。
 ライブドアやはてな、mixiも、自民党の支持機関のようだ。


 もちろん、私のような言論も、大半の人々にとって、わざわざ検索しなければ出てこないようなブログでは、ほとんど社会的な意味を持たない。

 少しずつ、読者が増えることに期待をかけてはいるが、7万近くあったツイッターのアカウントを、まったく不可解に(5年前のツイートが自殺幇助と決めつけられて)永久凍結とされ、復活させてもらえないことで、私の力は極めて小さくなってしまった。
http://tokaiama.blog69.fc2.com/blog-entry-732.html

工作員の魑魅魍魎の為に

阿修羅原発板は風説流布サイトと認定されて、
阿修羅掲示板の記事は Google で表示されなくなった。

5ちゃんで阿修羅掲示板の記事へのリンクを貼ると掲載拒否される様になった。

もう誰も阿修羅掲示板が まともな掲示板だとは思わなくなった

http://www.asyura2.com/13/kanri21/msg/554.html#c107

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108. 中川隆[-10309] koaQ7Jey 2019年5月12日 11:11:32 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[1802]

東海アマブログ
原発、すべての核施設を即時廃止せよ

Author:tokaiama
ツイッターのアカウントは、原発運転による健康被害をとりあげた途端に永久凍結されました
http://tokaiama.blog69.fc2.com/blog-entry-732.html
http://www.asyura2.com/13/kanri21/msg/554.html#c108

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109. 中川隆[-10308] koaQ7Jey 2019年5月12日 11:31:01 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[1803]
魑魅魍魎は

日本では放射能の影響で 2016年以降に年に何百万人も死ぬ時代になる

と何度も書いていたんだから、まず

現在の日本で放射能の影響で年に何百万人も死んでいるという事実を証明しろよ
http://www.asyura2.com/13/kanri21/msg/554.html#c109

[お知らせ・管理21] (再掲)いまだ執拗にイスラムヘイトを繰り返すナチスの信奉者 HIMAZIN
31. 中川隆[-10307] koaQ7Jey 2019年5月12日 11:48:44 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[1804]

外来生物ムスリムは早く駆除絶滅させないと国を乗っ取られる


2019年05月12日
移民受け入れた先進国は出生率が高い傾向、ドイツは1年で急上昇


難民を受け入れた翌年にドイツの出生率が跳ね上がった


画像引用:https://s4.reutersmedia.net/resources/r/?m=02&d=20150902&t=2&i=1076323849&r=LYNXNPEB810BV&w=1280


移民拒否なら人口減、増やせば乗っ取り

日本は連続人口減少と出生数低下が止まらず、このままでは21世紀半ばに若者は半減する。

その後若者が急に子供を産み出生率が2.0を上回っても、21世紀末に今の半数程度の人口になる。

先進国のほとんどは出生率2.0を下回り、欧州全体では半数ほどの国が日本より出生率が低い。




欧州の中でもフランスや北欧は出生率が高く(それでも2.0以下だが)、日本は出生率が高い理由を知りたがっている。

2016年に欧州1位はフランスの1.92、2位はスウェーデンの1.85だったが、何か共通点があるでしょうか。

日本ではピンと来ないがどちらも移民受け入れに積極的で、パリやストックホルムの人口の過半数は移民とその子孫です。


というよりロンドンでもベルリンでも、今や欧州のすべての国の首都では、移民系人口が従来の住民を上回っています。

この傾向は世界中で見られ、移民を拒否している日本では、東京都で暮らす外国人は2019年1月1日時点で約55万人でした。

東京都の総人口は1385万人なので外国人比率は約4%、ですが若者に限ると20代の1割が外国人だった。


この外国人の若者が日本に定住してずっと移民が続くと、やがて東京都の1割以上が外国人になるでしょう。

新宿区は4万3068人で総人口の12.4%が外国人、おそらく20代の外国人比率は20%を上回っているでしょう。

日本全体で暮らす外国人は249万人で、日本の総人口の約2%、若者に限ると既に5%が外国人になっている可能性があります。

移民受け入れ国で出生率が急上昇していた

先進国で見ると移民が少ない国ほど出生率が低く人口減少が早く始まり、移民が多い国ほど出生率は高い傾向があった。

米国勢調査局は2017年(2017年7月1日-2018年6月30日)の、人口増加の48%が移民によるものだったと発表した。

移民が定住した後の出産や世代交代を考慮すると、アメリカの人口増加の100%が移民によるものだった可能性が高い。


移民による国外からの流入が無い場合、今後米国の半数の都市で人口減少が始まると予想されている。

欧州の出生率トップであるフランスも移民が多く、移民人口は約800万人で人口約6700万人の約12%を占めている。

これは移民1世だけであり、移民の子孫を含む総数はこの数倍、総人口の20%は超えているのではと推測されます。


デンマーク578万人のうち外国人をルーツに持つ人が77万人で、欧州4位の出生率だった。

欧州2位のスウェーデンは総人口1017万人のうち183万人が外国生まれで、1世だけで18%に達している。

3位のアイルランドも移民比率が高く、ドイツは今まで低かったが2015年以降100万人以上の難民を受け入れた。


するとドイツの出生率は2016年に前年の1.5から1.59まで跳ね上がり、移民受け入れによる効果だと言われている。

通常出生率は1年でそんなに上がらないものだが、出生数も1年で7%増加している。

移民を受け入れた国では、もともと住んでいた人々の出生率も上昇するのが知られている。


一種の競争原理が働くのかも知れないし、社会的な出産ブームが起きるのかも知れない。
http://www.thutmosev.com/archives/79803422.html
http://www.asyura2.com/13/kanri21/msg/556.html#c31

[議論31] 狂った宗教 イスラム教 _ 頭がおかしいのは中国人と朝鮮人だけではない 中川隆
169. 中川隆[-10306] koaQ7Jey 2019年5月12日 11:49:37 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[1805]

外来生物ムスリムは早く駆除絶滅させないと国を乗っ取られる


2019年05月12日
移民受け入れた先進国は出生率が高い傾向、ドイツは1年で急上昇


難民を受け入れた翌年にドイツの出生率が跳ね上がった


画像引用:https://s4.reutersmedia.net/resources/r/?m=02&d=20150902&t=2&i=1076323849&r=LYNXNPEB810BV&w=1280


移民拒否なら人口減、増やせば乗っ取り

日本は連続人口減少と出生数低下が止まらず、このままでは21世紀半ばに若者は半減する。

その後若者が急に子供を産み出生率が2.0を上回っても、21世紀末に今の半数程度の人口になる。

先進国のほとんどは出生率2.0を下回り、欧州全体では半数ほどの国が日本より出生率が低い。




欧州の中でもフランスや北欧は出生率が高く(それでも2.0以下だが)、日本は出生率が高い理由を知りたがっている。

2016年に欧州1位はフランスの1.92、2位はスウェーデンの1.85だったが、何か共通点があるでしょうか。

日本ではピンと来ないがどちらも移民受け入れに積極的で、パリやストックホルムの人口の過半数は移民とその子孫です。


というよりロンドンでもベルリンでも、今や欧州のすべての国の首都では、移民系人口が従来の住民を上回っています。

この傾向は世界中で見られ、移民を拒否している日本では、東京都で暮らす外国人は2019年1月1日時点で約55万人でした。

東京都の総人口は1385万人なので外国人比率は約4%、ですが若者に限ると20代の1割が外国人だった。


この外国人の若者が日本に定住してずっと移民が続くと、やがて東京都の1割以上が外国人になるでしょう。

新宿区は4万3068人で総人口の12.4%が外国人、おそらく20代の外国人比率は20%を上回っているでしょう。

日本全体で暮らす外国人は249万人で、日本の総人口の約2%、若者に限ると既に5%が外国人になっている可能性があります。

移民受け入れ国で出生率が急上昇していた

先進国で見ると移民が少ない国ほど出生率が低く人口減少が早く始まり、移民が多い国ほど出生率は高い傾向があった。

米国勢調査局は2017年(2017年7月1日-2018年6月30日)の、人口増加の48%が移民によるものだったと発表した。

移民が定住した後の出産や世代交代を考慮すると、アメリカの人口増加の100%が移民によるものだった可能性が高い。


移民による国外からの流入が無い場合、今後米国の半数の都市で人口減少が始まると予想されている。

欧州の出生率トップであるフランスも移民が多く、移民人口は約800万人で人口約6700万人の約12%を占めている。

これは移民1世だけであり、移民の子孫を含む総数はこの数倍、総人口の20%は超えているのではと推測されます。


デンマーク578万人のうち外国人をルーツに持つ人が77万人で、欧州4位の出生率だった。

欧州2位のスウェーデンは総人口1017万人のうち183万人が外国生まれで、1世だけで18%に達している。

3位のアイルランドも移民比率が高く、ドイツは今まで低かったが2015年以降100万人以上の難民を受け入れた。


するとドイツの出生率は2016年に前年の1.5から1.59まで跳ね上がり、移民受け入れによる効果だと言われている。

通常出生率は1年でそんなに上がらないものだが、出生数も1年で7%増加している。

移民を受け入れた国では、もともと住んでいた人々の出生率も上昇するのが知られている。


一種の競争原理が働くのかも知れないし、社会的な出産ブームが起きるのかも知れない。
http://www.thutmosev.com/archives/79803422.html
http://www.asyura2.com/13/dispute31/msg/332.html#c169

[近代史3] 日本はもうすぐ中国小日本省になる 中川隆
5. 中川隆[-10305] koaQ7Jey 2019年5月12日 11:51:29 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[1806]

外来生物は早く駆除絶滅させないと国を乗っ取られる


2019年05月12日
移民受け入れた先進国は出生率が高い傾向、ドイツは1年で急上昇


難民を受け入れた翌年にドイツの出生率が跳ね上がった


画像引用:https://s4.reutersmedia.net/resources/r/?m=02&d=20150902&t=2&i=1076323849&r=LYNXNPEB810BV&w=1280


移民拒否なら人口減、増やせば乗っ取り

日本は連続人口減少と出生数低下が止まらず、このままでは21世紀半ばに若者は半減する。

その後若者が急に子供を産み出生率が2.0を上回っても、21世紀末に今の半数程度の人口になる。

先進国のほとんどは出生率2.0を下回り、欧州全体では半数ほどの国が日本より出生率が低い。




欧州の中でもフランスや北欧は出生率が高く(それでも2.0以下だが)、日本は出生率が高い理由を知りたがっている。

2016年に欧州1位はフランスの1.92、2位はスウェーデンの1.85だったが、何か共通点があるでしょうか。

日本ではピンと来ないがどちらも移民受け入れに積極的で、パリやストックホルムの人口の過半数は移民とその子孫です。


というよりロンドンでもベルリンでも、今や欧州のすべての国の首都では、移民系人口が従来の住民を上回っています。

この傾向は世界中で見られ、移民を拒否している日本では、東京都で暮らす外国人は2019年1月1日時点で約55万人でした。

東京都の総人口は1385万人なので外国人比率は約4%、ですが若者に限ると20代の1割が外国人だった。


この外国人の若者が日本に定住してずっと移民が続くと、やがて東京都の1割以上が外国人になるでしょう。

新宿区は4万3068人で総人口の12.4%が外国人、おそらく20代の外国人比率は20%を上回っているでしょう。

日本全体で暮らす外国人は249万人で、日本の総人口の約2%、若者に限ると既に5%が外国人になっている可能性があります。

移民受け入れ国で出生率が急上昇していた

先進国で見ると移民が少ない国ほど出生率が低く人口減少が早く始まり、移民が多い国ほど出生率は高い傾向があった。

米国勢調査局は2017年(2017年7月1日-2018年6月30日)の、人口増加の48%が移民によるものだったと発表した。

移民が定住した後の出産や世代交代を考慮すると、アメリカの人口増加の100%が移民によるものだった可能性が高い。


移民による国外からの流入が無い場合、今後米国の半数の都市で人口減少が始まると予想されている。

欧州の出生率トップであるフランスも移民が多く、移民人口は約800万人で人口約6700万人の約12%を占めている。

これは移民1世だけであり、移民の子孫を含む総数はこの数倍、総人口の20%は超えているのではと推測されます。


デンマーク578万人のうち外国人をルーツに持つ人が77万人で、欧州4位の出生率だった。

欧州2位のスウェーデンは総人口1017万人のうち183万人が外国生まれで、1世だけで18%に達している。

3位のアイルランドも移民比率が高く、ドイツは今まで低かったが2015年以降100万人以上の難民を受け入れた。


するとドイツの出生率は2016年に前年の1.5から1.59まで跳ね上がり、移民受け入れによる効果だと言われている。

通常出生率は1年でそんなに上がらないものだが、出生数も1年で7%増加している。

移民を受け入れた国では、もともと住んでいた人々の出生率も上昇するのが知られている。


一種の競争原理が働くのかも知れないし、社会的な出産ブームが起きるのかも知れない。
http://www.thutmosev.com/archives/79803422.html
http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/186.html#c5

[近代史3] 財政の優等生だったドイツ、財政赤字に転落 中川隆
10. 中川隆[-10304] koaQ7Jey 2019年5月12日 11:52:16 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[1807]

外来生物は早く駆除絶滅させないと国を乗っ取られる


2019年05月12日
移民受け入れた先進国は出生率が高い傾向、ドイツは1年で急上昇


難民を受け入れた翌年にドイツの出生率が跳ね上がった


画像引用:https://s4.reutersmedia.net/resources/r/?m=02&d=20150902&t=2&i=1076323849&r=LYNXNPEB810BV&w=1280


移民拒否なら人口減、増やせば乗っ取り

日本は連続人口減少と出生数低下が止まらず、このままでは21世紀半ばに若者は半減する。

その後若者が急に子供を産み出生率が2.0を上回っても、21世紀末に今の半数程度の人口になる。

先進国のほとんどは出生率2.0を下回り、欧州全体では半数ほどの国が日本より出生率が低い。




欧州の中でもフランスや北欧は出生率が高く(それでも2.0以下だが)、日本は出生率が高い理由を知りたがっている。

2016年に欧州1位はフランスの1.92、2位はスウェーデンの1.85だったが、何か共通点があるでしょうか。

日本ではピンと来ないがどちらも移民受け入れに積極的で、パリやストックホルムの人口の過半数は移民とその子孫です。


というよりロンドンでもベルリンでも、今や欧州のすべての国の首都では、移民系人口が従来の住民を上回っています。

この傾向は世界中で見られ、移民を拒否している日本では、東京都で暮らす外国人は2019年1月1日時点で約55万人でした。

東京都の総人口は1385万人なので外国人比率は約4%、ですが若者に限ると20代の1割が外国人だった。


この外国人の若者が日本に定住してずっと移民が続くと、やがて東京都の1割以上が外国人になるでしょう。

新宿区は4万3068人で総人口の12.4%が外国人、おそらく20代の外国人比率は20%を上回っているでしょう。

日本全体で暮らす外国人は249万人で、日本の総人口の約2%、若者に限ると既に5%が外国人になっている可能性があります。

移民受け入れ国で出生率が急上昇していた

先進国で見ると移民が少ない国ほど出生率が低く人口減少が早く始まり、移民が多い国ほど出生率は高い傾向があった。

米国勢調査局は2017年(2017年7月1日-2018年6月30日)の、人口増加の48%が移民によるものだったと発表した。

移民が定住した後の出産や世代交代を考慮すると、アメリカの人口増加の100%が移民によるものだった可能性が高い。


移民による国外からの流入が無い場合、今後米国の半数の都市で人口減少が始まると予想されている。

欧州の出生率トップであるフランスも移民が多く、移民人口は約800万人で人口約6700万人の約12%を占めている。

これは移民1世だけであり、移民の子孫を含む総数はこの数倍、総人口の20%は超えているのではと推測されます。


デンマーク578万人のうち外国人をルーツに持つ人が77万人で、欧州4位の出生率だった。

欧州2位のスウェーデンは総人口1017万人のうち183万人が外国生まれで、1世だけで18%に達している。

3位のアイルランドも移民比率が高く、ドイツは今まで低かったが2015年以降100万人以上の難民を受け入れた。


するとドイツの出生率は2016年に前年の1.5から1.59まで跳ね上がり、移民受け入れによる効果だと言われている。

通常出生率は1年でそんなに上がらないものだが、出生数も1年で7%増加している。

移民を受け入れた国では、もともと住んでいた人々の出生率も上昇するのが知られている。


一種の競争原理が働くのかも知れないし、社会的な出産ブームが起きるのかも知れない。
http://www.thutmosev.com/archives/79803422.html
http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/415.html#c10

[リバイバル3] アメリカの有名大学では金で合格を買える 中川隆
10. 中川隆[-10306] koaQ7Jey 2019年5月12日 12:10:23 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[1805]

2019年5月11日
中国人富豪、不正入学に7億円


 【ロサンゼルス共同】米名門大学を舞台にした大規模な不正入学事件で、中国人の富豪が娘のスタンフォード大への入学時、ブローカー役の米国人の男=公判中=に650万ドル(約7億1千万円)を支払っていたことが11日までに判明した。米メディアによると、米国での不正入学で明らかになった賄賂としては最高額。

 富豪は「(被告から)学生の奨学金などに充てられる寄付金と説明された。だまされた」と釈明。2017年に入学した娘は既に退学処分となった。

 米連邦検察はカリフォルニア州で進学相談会社を営んでいたブローカー役のウィリアム・シンガー被告ら50人を起訴。裁判が続いている。

http://www.asyura2.com/09/revival3/msg/933.html#c10

[国際26] 非は中国にあるとするNHKサブリミナル原稿(植草一秀の『知られざる真実』) 赤かぶ
1. 中川隆[-10305] koaQ7Jey 2019年5月12日 14:18:31 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[1806]
植草一秀は中国の工作員だろ
http://www.asyura2.com/19/kokusai26/msg/397.html#c1
[近代史3] 「万世一系」の虚妄 _ 日本はなぜ「万世一系」を必要としたか 中川隆
4. 中川隆[-10304] koaQ7Jey 2019年5月12日 14:26:20 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[1807]

国際派日本人養成講座
No.1113 皇位継承危機の乗り越え方 〜 ご先祖様の叡智に学ぶ 2019/05/12
https://s.webry.info/sp/blog.jog-net.jp/201905/article_2.html


 126代の皇位継承の歴史で何度となくあった危機を、ご先祖様たちはいかに乗り越えてきたのか。


■1.いよいよ限られた皇位継承者

 先帝陛下の御譲位から新帝陛下の御即位まで恙(つつが)なく進められたのは大慶至極であるが、その過程で一つだけ気にかかった事があった。5月1日午前10時半から行われた「剣璽(けんじ)等承継の儀」では皇位継承資格のある成人皇族として立ち会いされたのが、秋篠宮殿下と常陸宮殿下のお二方だけだった事だ。

 常陸宮殿下は83歳のご高齢、秋篠宮殿下は御年53歳で新帝陛下と5歳しか違わないため、数十年後の皇位継承を考えると、実質的な皇位継承者としては現在12歳の悠仁(ひさひと)親王のみということになる。

 悠仁親王の学校の机にナイフが置かれた事件も、皇位継承者が極端に少ない、という事実が背景にあるのだろう。また、共産党の志位委員長が、急に女性天皇・女系天皇・女性宮家の議論を訴え始めたというのも、これがきっかけだろう。

 議論をするのは自由だが、その際には皇位継承の歴史事実を十分踏まえる必要がある。すでに126代にも及ぶ皇室の歴史を見れば、男系男子の皇位継承者が不在の危機は3度あり、その危機を乗り越えるための叡智もすでに用意されているからだ。

 いずれのケースも相当な遠縁から男系男子を猶子(親族からの養子)として迎え入れ、場合によっては先帝陛下の皇女や姉妹を皇后とする、という方法である。

 ちなみに、男系とは父親を遡(さかのぼ)っていくと初代・神武天皇に行き着くという事である。皇女が皇族以外の配偶者と男子をもうけても、それは女系男子であって皇位継承権はない。


■2.5代・70年ほど前に分かれた宮家から猶子として迎えられた光格天皇

 3事例のうち最も新しいケースは、明治維新の100年ほど前、江戸時代中期の第118代・後桃園天皇(御在位1770-1779年)がわずか22歳で御在位のまま崩御された時のことである。

 皇女として欣子(よしこ)内親王が遺されたが、女性天皇にはならず、閑院宮家の第6皇子で9歳の師仁(もろひと)親王が後桃園天皇の末期の猶子として迎え入れられ、急遽、即位された。これが光格天皇である。そして欣子(よしこ)内親王を皇后とされている。

 閑院宮家とは5代前の東山天皇から宝永7(1710)年に別れた宮家である。すなわち、後桃園天皇の崩御時から見れば、5代、70年ほど前に分かれた宮家の3代目の子孫が皇位を継がれたことになる。この光格天皇はその後、37年間も御在位になり、直系として仁孝天皇、孝明天皇、明治天皇から新帝陛下まで続く近代皇室の祖となられた。

 光格天皇は遠い血筋から突然、即位された故か、天皇としての在り方を深く修養された。御在位中に天明の飢饉が起きた時は、一向に動かない幕府に民の救済を訴えられている。

 身のかひは何を祈らず朝な夕な民安かれと思うばかりぞ
(自分のことで何も祈ることはない。朝な夕なに民安くあれと思うばかりである)

 光格天皇の御製(御歌)である。無為無策の幕府と、ひたすらに「民安かれ」を祈る天皇との鮮烈なコントラストから、後に明治維新として結実する尊皇倒幕の大きなうねりが始まっていった。(拙著『日本人として知っておきたい皇室の祈り」[a])

 今回の先帝陛下の御譲位は光格天皇以来、200年ぶりと言われたが、126代の皇室の歴史から見れば、わずか7代前の事である。そして皇位継承者を遠縁の宮家から猶子として迎え入れる、という方法がとられたのも、ほぼ同時代の、皇室の歴史から見ればごく最近のことであった。


■3.10代・100年も前に分かれた系統から即位した継体天皇

 先帝が皇女しか遺されなかった場合に、相当の遠縁であっても男系男子を次代天皇にお迎えし、その皇女を皇后にするという方法は、さらに1200年ほども前の、第25代武烈天皇から第26代継体天皇への継承からヒントを得たものだろう。

 武烈天皇の在位は『日本書紀』によれば西暦498年から506年。わずか18歳で崩御し、お世継ぎはいなかった。大連(おおむらじ、朝廷最高官)の大伴金村(かなむら)は群臣と諮って、応神天皇5世の末裔を越前から迎えて、継体天皇とした。応神天皇は第15代、西暦400年頃の天皇であるから、継体天皇は10代、100年ほども前に分かれた家系の子孫である。

 継体天皇が皇位に就いたのは57歳で、武烈天皇の姉妹、手白香皇女を40歳ほどの年齢の差があったにも関わらず皇后に迎え、皇位の安定を図っている。このお二人から、やがて推古天皇や聖徳太子、舒明天皇などと皇統が続いていく。

 現代の歴史研究では、継体天皇がそれまでの皇室と血縁関係のない「新王朝」だ、などと諸説取り沙汰されているが、『記紀』には「応神天皇5世の末裔」とされており、これを明確に否定しうる事実も見つかっておらず、古来からその通りに信じられてきた。

 我々のご先祖様が、「応神天皇5世の末裔」という説明で継体天皇の皇位継承の正統性を受け入れてきた、という歴史事実は重要である。直系直近の皇女よりも、はるか遠縁でも男系男子が皇位につくべき、という明確な原則が、以上の119代光格天皇、25代継体天皇のお二方の事例から窺われるのである。


■4.3代前・35年ほど前に分かれた宮家から猶子となった後花園天皇

 なお、このお二方は先帝の皇女、あるいは姉妹を皇后として迎えられたが、そのような直系の女性がいながらも皇后とされずに、遠縁の男系男子が皇位に就かれた天皇がもうお一方ある。

 南北朝合一後の第100代後小松天皇の皇子、第101代称光天皇は28歳の若さで崩御され、二人の皇女を遺されたが、男性の皇嗣は無かった。そこで9歳の伏見宮家彦仁親王が後小松天皇の猶子として迎えられて102代後花園天皇として即位された。後小松天皇は北朝では第6代であり、伏見宮家はその3代前の北朝第3代崇高天皇から別れた宮家である。

 光格天皇は5代・70年ほど前、継体天皇は10代・100年ほど前に分かれた家系から即位されたのに対し、後花園天皇は3代・35年ほど前に分かれた家系から迎えられた。この程度なら、人々の記憶も残っており、直系の皇女を皇后として迎え入れる必要もなかったのかも知れない。

 この方も、遠縁から即位された故か、君徳の涵養に努められ、飢民の流亡を座視して遊興に耽り続ける第8代将軍・足利義政に怠惰や奢侈を戒める漢詩を送るなど、「近来の聖主」と称えられた。(『国史大事典』)

 いずれにせよ、我々の先祖は、この3回の危機に際して、たとえ皇女がいても女性天皇とはせず、相当な遠縁でも男系男子を猶子として迎え入れて皇室を維持してきたのである。これが126代の皇統をお守りしてきた我らが御先祖様の叡智であった。


■5.二種類の女性天皇

 それでは歴史上、8人10代(お二方が二度即位されている)の女性天皇はなぜ生まれたのか。それは主に、次の2つの理由から「中継ぎ」として即位されたのである。

・先帝が崩御または退位された際に、幼い皇子が成人するまでの中継ぎとして・・・第41代持統天皇、第43代元明天皇、第44代元正天皇、第109代明正天皇、第117代後桜町天皇。

・先帝が崩御または退位された際に、有力後継候補が複数いて、すぐには決められない場合に、元皇后などのお立場による中継ぎとして・・・第33代推古天皇、第35代皇極天皇(重祚されて第37代斉明天皇)

 上記、7人8代の女性天皇の場合は、いずれも男系男子の後継者に皇位を譲る事が明確であり、その時期を待つための中継ぎであった。したがって、これらの女性天皇の御存在も男系男子の皇統を守るための智慧であった。

 唯一、異なる事例が、第46代孝謙天皇(重祚して第48代称徳天皇)である。第45代聖武天皇と光明皇后の皇女として生まれたが皇子の早世により、国史上初の、そして最後の女性皇太子となった。父帝崩御の後、即位してから、天武天皇の孫である第47代淳仁天皇に譲位した。ここまでは良かったが、両者の不和から兵乱が起こり、淳仁天皇は廃されて、淡路島に流された。

 第48代称徳天皇として重祚すると、看病僧・道鏡は天皇の寵愛を良いことに、宇佐八幡神の託宣と詐って皇位を狙った。この皇統史上最悪の危機を阻止したのが和気清麻呂だった。清麻呂は後に「勤皇の忠臣」として称賛され、またこの失敗からだろう、本格的な女性天皇は二度と擁立される事はなかった。

 ただ、孝謙・称徳天皇も含め、すべての女性天皇は、先帝の皇后として寡婦、あるいは生涯未婚のままで、御在位時に配偶者はいなかった。したがって女系のお世継ぎが生まれる可能性はまったくなかった。

 これに「皇女が皇族外の男性と結婚すると皇族から外れる」というルールを合わせ考えると、男系でない男子を皇族には入れない、という原則が見てとれる。女性は一般国民からでも皇族に入ることができ、皇后にもなれる。しかし、男性は完全にシャットアウトされているのである。

 これは道鏡のような野望を持つ男性を、万が一にも皇族に入れないための叡智であろう。昨今伝えられる眞子女王と小室圭氏の結婚騒動は、女性天皇論議への天の警告でもあるようだ。


■6.皇位継承の史実を整理してみれば

 以上を整理してみると、皇位継承の危機の際に、次の3つの方法が採用された。

1)「猶子」:直系の男系男子が不在の場合、たとえ皇女がいても、遠縁の男系男子を猶子として皇位継承・・・3事例とも継承成功。
2)「中継ぎ女性天皇」:後継の皇子が幼少、または有力候補が複数いて、すぐには決められない場合の女性天皇による中継ぎ・・・7事例とも継承成功。
3)「本格的女性天皇」:皇女が本格的な女性天皇として即位・・・1事例のみ。皇統最悪の危機を招く。

 これだけの史実を見れば、3)「本格的女性天皇」を理性的に是認しうる人間がいるとは思えない。いるとすれば、密かに「天皇制」廃止を目指して、確信犯的に3)を主張する輩であろう。もともと「天皇制」を否定していた共産党が、突然、女性天皇を議論しよう、などと言い出したのは、この戦略であると疑わざるを得ない。

 注目すべきは、上記の3つのいずれにおいても、「男系」そのものは完全に守られてきたことである。126代の一度たりとも.男女を問わず男系でない人間が皇位についた例はない。何故に、我々の先祖はこれほどまでに男系にこだわってきたのか?

 ここで筆者が思い起こすのは、「理性の限界」と「死者の民主主義」という二つの言葉である。「理性の限界」とは、多くの知識人が支持した共産主義が、一億人とも呼ばれる犠牲者を出した失敗からも明らかであろう。その失敗から目をそらして、未だに共産党と名のっている人々がいることも「理性の限界」の一例である。

 伝統や習慣の意義を合理的に説明できないからと言って否定するのは、自らの理性の限界を弁えない、近代人特有の理性過信である。「男女平等」などという観念から「男系の維持」を否定するのも、その一種である。

 限界ある理性を補うのが「死者の民主主義」である。男系の維持は、ほぼ2千年に及ぶ我らが御先祖様が選択してきた結果である。おそらくこれが一因となって、126代もの安定した皇位継承をもたらし、それによって中国や西洋に比べれば、我が国民ははるかに平和な、幸福な歴史を過ごしてきた。

 長い歴史を経た皇室制度などに関わる政治的決定は、我々現世代の限られた理性だけでなく、過去の皇室制度を支えてきた無数の御先祖様、すなわち「死者」たちの経験と叡智と意思に耳を傾けなければならない。これが「死者の民主主義」が示す道である。

 そして御先祖様たちがうまく解決できた問題に関しては、遠慮なくその叡智を拝借し、失敗したやり方に関してはその経験を生かさねばならない。皇位継承の問題に関しては、猶子という成功した叡智に学び、失敗しかけた本格的女性天皇の道は避ける、というのが、賢明な国民のとるべき道であろう。

「男系」へのこだわりも、猶子の智慧で維持できるのだし、そのディメリットも歴史上、一向に現れていないのだから、わざわざこの伝統を崩さねばならない合理的理由もない。


■7.皇位継承者の極端な現象は占領軍の遺制

 現代において、ご先祖様の猶子の叡智を活用して皇位継承者を増やす方法として、小堀桂一郎・東大名誉教授が次のようにまとめた提案が最も現実的だろう。

__________
・・・今後、結婚される女王様方の御配偶が、血統の上で皇統につながっており、且つ、それがなるべく近い過去に於いて、そのつながりが証示できる様な方であれば、その御当人でなくとも、その次の世代の男子(母方の血筋からしても、皇室の血を引いておられることが明らかなのであるから)が、皇位継承権を保有されることは、系譜の論理から言つて、道理に適(かな)つたものになる。[1, p54]
 ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄

 ここで言う「血統の上で皇統につながって」いる方とは、昭和22(1947)年10月14日付けで占領軍から皇籍離脱を命ぜられた旧11宮家ご出身の方々となろう。戦後の新しい皇室典範が施行されたのは、この5か月程前の5月3日であり、11宮家はそれまでの間、新皇室典範のもとでも皇籍に属しておられた。それを日本国家国民の意思とは関係なく、占領軍の指令で離脱を強制されたのである。[2, p152]

 現在の皇位継承者の極端な減少は、この占領軍の皇室弱体化政策によるものであり、憲法と同様、戦後体制の一環である。したがって、2千年の我がご先祖様の叡智に従って、これを是正していくことは現世代の責務であろう。
(文責 伊勢雅臣)

■リンク■

a. 伊勢雅臣『日本人として知っておきたい 皇室の祈り』、育鵬社、H30
http://www.amazon.co.jp/o/ASIN/4594079032/japanonthegl0-22/
アマゾン「メディアと社会」「ジャーナリズム」カテゴリー 1位(H30/2/1調べ)
万民の幸せを願う皇室の祈りこそ、日本人の利他心の源泉。

b. JOG(416) 万世一系のY染色体〜「女性天皇問題」は歴史の知恵に学べ
 我が国の歴史は、すでに解答を用意している。
http://www2s.biglobe.ne.jp/nippon/jogbd_h17/jog416.html

c. JOG(462) 皇位継承 〜 聖なる義務の世襲
 国家の中心には、ひたすら国民の安寧と国家の繁栄を祈り続ける方が必要である。
http://www2s.biglobe.ne.jp/nippon/jogdb_h18/jog462.html


■参考■(お勧め度、★★★★:必読〜★:専門家向け)
  →アドレスをクリックすると、本の紹介画面に飛びます。

1. 小堀桂一郎『象徴天皇考』★★★、明成社、H31
http://www.amazon.co.jp/o/ASIN/4905410541/japanontheg01-22/

2. 小堀桂一郎『皇位の正統性について―「万世一系の皇祚」理解のために』明成社、H18
http://www.amazon.co.jp/o/ASIN/4944219466/japanontheg01-22/


https://s.webry.info/sp/blog.jog-net.jp/201905/article_2.html
http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/411.html#c4

[近代史3] 日本人は「狂ったアメリカ」を知らなすぎる 中川隆
45. 中川隆[-10306] koaQ7Jey 2019年5月12日 15:26:58 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[1805]
2019.05.12
空母と爆撃機を中東へ派遣してイランを脅しているつもりの米政府


 アメリカとイランとの間の軍事的な緊張が高まっている。かつてイランを支配していた王室はイギリスが作り上げたものだと言える。

 アメリカ軍は空母エイブラハム・リンカーンを中東へ派遣してイランに圧力を加えようとしているが、イラン側は先頭になればミサイルで撃沈すると警告している。

 1982年のフォークランド戦争でイギリスの艦隊がアルゼンチンのエグゾセに苦しめられていることを考えると、単なる脅しではない。イランはカデルやヌールといった対艦ミサイルを保有している。

 フォークランド戦争の場合、​イギリスのマーガレット・サッチャー首相はフランスのフランソワ・ミッテラン大統領に対し、ミサイルを無力化するコードを教えるように強く求めた​とも伝えられている。教えなければブエノスアイレスを核攻撃すると脅したのだという。

 この情報の信頼度は不明だが、エグゾセにはそうした仕組みがあったとしても、イランの場合はコードで無力化することはできないだろう。ロシアの高性能ミサイルが供給されている可能性もないとは言えない。

 アメリカ軍はカタールに複数のB-52爆撃機を派遣しているようだが、空母を撃沈した場合はテヘランを核攻撃するという脅しなのだろう。空爆を試みた場合、イランの防空システムに撃墜されることもありえる。

 第1次世界大戦は終わって間もない1919年にイギリスは石油利権を手に入れるためにペルシャを保護国にする。その2年後に陸軍の一将校にすぎなかったレザー・ハーンがテヘランを占領、25年にカージャール朝を廃して「レザー・シャー・パーレビ」を名乗るようになる。

 第2次世界大戦後にイランは独立の道を歩み始め、1951年4月には議会での指名を受けて国王が首相に任命したムハマド・モサデクはAIOC(アングロ・イラニアン石油、後のBP)の国有化を決める。

 当時、イランの石油利権はイギリスを支える重要な柱になっていた。1951年10月にウィンストン・チャーチルが首相に返り咲くとイギリスはクーデターに向かって加速していく。クーデターを実行するためにチャーチルが再登場したとも言える。

 しかし、イギリスには自力でモサデクを排除することができない。そこでアメリカの力を借りることにし、ウォール街の大物、アレン・ダレスに接近する。1953年にドワイト・アイゼンハワーがアメリカの大統領に就任、クーデターを実行するための環境は整った。

 アメリカのCIAやイギリスのMI6はエージェントをイランへ送り込み、モサデク側の軍幹部を殺していく。そして1953年6月にジョン・フォスター・ダレス国務長官はモサデク政権を転覆させる準備の許可を弟のアレンCIA長官に出している。そして作られたクーデター計画が「エイジャクス作戦」。作戦遂行のための資金を動かしていたのは、後にロッキード事件でも名前が出てくるディーク社だ。

 このクーデターは成功、外国の巨大資本と結びついたパーレビ体制が復活した。その体制を守るためにSAVAKという組織がCIAやイスラエルのモサドの協力を得て創設される。拷問や尋問のテクニックはモサドから学んだのだという。

 1979年1月、ムハマド・レサ・パーレビ国王が王妃とともに国外へ脱出して王制は倒れる。アメリカなどが最も恐れたのはムジャヒディン・ハルクのようなマスクス主義勢力の体制ができること。そこでイスラム勢力と西側支配層は接触している。

 この年の11月に「ホメイニ師の路線に従うモスレム学生団」を名乗るグループがテヘランのアメリカ大使館を占拠、機密文書を手に入れる一方、大使館員など52名を人質にとった。

 アメリカでは1980年に大統領選挙が予定されていたが、人質が解放されるかどうかは選挙結果に影響する可能性がある。そこで共和党側(ロナルド・レーガン陣営やジョージ・ブッシュ陣営)はイランの革命政権に対し、人質の解放を遅らせるように働きかけた。その代償は資産凍結の解除と武器の提供。選挙ではレーガンが勝利、ブッシュは副大統領に就任した。

 イランの王制が倒された際、イスラム勢力に負けたムジャヒディン・ハルクのメンバーはイラクへ逃れ、それまでのイデオロギーを放棄する。マスード・ラジャビとマリアム・ラジャビの下、禁欲や睡眠制限などが強制され、既婚者は離婚させられるようになるなどカルト色を強めていく。現在、この組織はアメリカやイスラエルの手先として動いている。

 1980年9月にイラク軍はイランの南部を攻撃、イラン・イラク戦争が始まる。イスラム革命直後で体制がまだ安定していないころのことだ。イランはアメリカから武器を受け取っていたが、その一方でアメリカの情報機関はイラクへ軍事情報を提供していた。アメリカの支配層はイランとイラクを戦わせて両国を疲弊させようとしていたと見られている。そうした中、イランはシリアとの関係を深めていく。

 1980年代にネオコンはイラクのサダム・フセイン政権を倒して親イスラエル体制を築こうとしていた。そこで、フセインをペルシャ湾岸産油国の防波堤と見るアメリカ支配層の一部と対立することになる。この対立はイラン・コントラ事件やイラクゲート事件が発覚する原因になった。

 ネオコンはイラクを親イスラエル国にしてシリアとイランを分断、個別撃破しようと目論んでいた。当時、トルコもヨルダンも親イスラエル国と見なされていた。

 1991年、国防次官だったポール・ウォルフォウィッツはこの計画について口にし、2001年9月11日の攻撃で主導権を握ったネオコンはレバノン、リビア、ソマリア、スーダンを加えた7カ国を殲滅する計画を立てている。この計画通りにネオコンは侵略を進めてきた。

 サダム・フセインに対する見方がネオコンと同じ勢力がサウジアラビアには存在する。1979年から2001年9月1日まで総合情報庁長官を務めたトゥルキ・アル・ファイサル、ブッシュ家と近く、2005年から15年まで国家安全保障会議の議長を、また12年から14年まで総合情報庁長官を務めたバンダル・ビン・スルタンたち。オサマ・ビン・ラディンはトゥルキの下で働いていた人物だ。バンダルもアル・カイダ系武装集団などを操っていた。

https://plaza.rakuten.co.jp/condor33/diary/201905120000/
http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/175.html#c45

[リバイバル3] スキー場の選択は雪質だけで決めよう 中川隆
171. 中川隆[-10305] koaQ7Jey 2019年5月12日 15:29:52 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[1806]

343名無しさん@ゲレンデいっぱい。2019/05/12(日) 10:28:02.78

軽すぎで40センチ積もっても底付きとか
ありえるからなーかぐらは 軽すぎも考え物

そもそも北海道は新潟みたいに一晩で
30p以上とかまれだからね、
標高1500m超えるとこも少ないから
3月以降とか2000m近い新潟長野の
ゲレンデより雪質悪い

344名無しさん@ゲレンデいっぱい。2019/05/12(日) 11:22:36.46

ほんとだ ニセコってトップでも1200メートル無いんだ
http://www.asyura2.com/09/revival3/msg/782.html#c171

[リバイバル3] カルトの世界 中川隆
27. 中川隆[-10304] koaQ7Jey 2019年5月12日 19:09:29 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[1807]
166億円で自公圧勝<本澤二郎の「日本の風景」(3312)<新聞テレビは与党改憲軍拡になびく>
https://ameblo.jp/honji-789/entry-12460677238.html
2019-05-12 07:34:55 honji-789のブログ

<新聞テレビは与党改憲軍拡になびく>

 夏の衆参同時選挙が間違いなく近づいてきている。今の野党には、革命的なエネルギーが全くない。新聞テレビによる政治的効果といえるかもしれないが、それどころか自民党と公明党の改憲軍拡路線に傾斜してしまって、まともな政治評論はない。

 筆者は当初から「166億円で自公圧勝」と想定、野党の反撃を期待したが、いまだにその姿を見せようとしていない。この国は歴史の教訓を学ぼうとはしない。金・財閥と手を組んで、災いを招来させている。

 依然として自公圧勝ムードと見ていい。安倍晋三は海外旅行とゴルフ・会食三昧で、ストレスが溜まっていない?信濃町も、洗脳会員が多数を占めたままである。

<日本からジャーナリズムが消えた!>

 「読売と産経は新聞ではない。あえて新聞と呼べば、それは安倍新聞である。NHKも公共放送では全くない。財閥と安倍広報に徹している」との多くの識者の見立ては正しい。

 ともかく、改憲の場面でのテレビCMでの暴利に手を突っ込もうというのだから、これはもうジャーナリズムといえない。日本の言論の自由度は世界的にみても、ぜんぜん上位に入ってはいない。

 筆者は、ごく当たり前の言論戦を貫いているのだが、それでもライブドアに弾圧されて、数千人の読者を路頭に迷わせられてしまった。

 やむなく新しく立ち上げたライブドアのブログには、毎日10人か数十人のアクセスしかない。「ジャーナリスト同盟」通信は、歴史のある日中友好派ジャーナリストが立ち上げ、維持してきたのだが、ライブドアの横やりで3月25日でもって打ち切られてしまった。

 この国の権力の暴政のひどさを物語っている。

<学会員は池田大作本読まず>

 そうした中で、木更津のやくざ・富津出身の浜名に殺害された「木更津レイプ殺人事件」の被害者のK・T子さんが、2013年12月に発した「太田ショウコウは池田先生の裏切り者。決して許されない」の指弾に感銘を受けた。

 彼女は戦争遺児として、靖国参拝を強く拒否してきた真っ当な池田ファンだった。年齢よりも10歳、15歳も若い美人栄養士だったことから、市民に姿を変えたやくざ浜名の営業する介護施設「かけはし」に、浜名の子分のヘルパー・吉田フミエに連れ込まれて、かみ殺されて非業の死を遂げた。

 2014年4月28日に君津中央病院で、ドーカツ後の2日後に絶命した。木更津署の高木刑事二課長が捜査の責任者だ。

 「やくざの女」を強いられていたK・T子さんは、それでも戦争法の一環である特定秘密保護法を、安倍とともに強行した太田国交相に対して、怒りの一撃を加えていたのだが。浜名の強姦・性奴隷・ドーカツに抵抗できなかった。創価学会に巣食うやくざは、浜名一人であろうはずがない。恐ろしい宗教組織であることを、K・T子さんは知らなかったのだろう。110番通報もできずに、1日3時間の祈りで解決しようとしていたが、やくざの「ばらしてやる」というドーカツに屈して、戦後70年を生きて迎えることができなかった。

 悲劇のヒロインで人生の幕を閉じた。遺族も哀れ、いまだに沈黙してやり過ごそうとしている。遺族には公明新聞幹部もいるというのに、だ。

 木更津は、日本で一番有名な「やくざの街」で知られる。

<「佐藤・田原・森田は信濃町の味方」と学会員>

 最近のことである。友人から聞いた話である。「今の信濃町は谷川と原田の暗闘の舞台。山口の公明党は、池田路線を放棄して戦争法に協力、安倍とともに中国に対抗しようとしている。おかしい」という学会の内情を伝えた手紙に、K・Tさんと同年配の学会員が反論してきた。

 彼女は「週刊誌の記事は作り話」と一蹴した。谷川と原田は仲良しとも逆襲した。週刊文春の記事を全面的に否定したのである。

 そればかりか、佐藤優や森田実・田原総一郎は学会の味方、彼らの本を読みなさい、と強要してきたというから驚き。宗教による洗脳は、第三者の正論も効果などないのだ。

<谷川・原田の暗闘は作り話とも>

 週刊文春の記事の存在を事情通から聞いていたが、中身を読んでいない。谷川の暴走は、官邸との連携する中で表面化している、と承知している。

 「学会の資産は三菱UFJ銀行どころか、タックスヘイブンでの秘密口座など総計数兆円」と事情通は打ち明けるのだが、すでにこれをめぐっての抗争が始まっていると見るべきだろう。

 いずれ政界を揺るがす大事件になるだろう。したがって、会員向けには「作り話」で片づけているのだろうが、これは宗教界のM資金なのかもしれない。

 もっとも、財閥の内部留保資金は400兆円とみられているから、数兆円は小さい。

<信濃町はまだ戦える!3分の2議席で圧勝か>

 恐ろしや、宗教の洗脳力に改めで愕然とするばかりである。

 事情通は「佐藤・原田・田原はいかさま言論人で有名」と決めつけている。筆者も、彼らが本物のジャーナリスト・作家とみていない。反骨のジャーナリストであれば、出版社も新聞テレビに登場することはない。

 以上のことから、衆参同時選挙で安倍の自公は圧勝する。現時点の分析からすると、野党が弱すぎる。「166億円で自公圧勝」は現実的な分析である。無念だが、これは事実である。

 莫大な資金と新聞テレビの支援で、わずかな支持率でも、選挙制度のおかげで、自公は圧勝することになろう。枝野は弾き飛ばされてしまうだろう。経済も沈没・外交も沈没、それでも覚醒しない有権者によって、自公は圧勝するだろう。枝野が覚醒するかどうか?

2019年5月12日記(東京タイムズ元政治部長・政治評論家・日本記者クラブ会員)


http://www.asyura2.com/09/revival3/msg/215.html#c27

[近代史3] 河添恵子 中国共産党の真実


三橋TV第55・56・57回【河添恵子先生登場!中国共産党の真実】2019-02-26

三橋TV第55回【河添恵子先生登場!中国共産党の真実】
https://www.youtube.com/watch?v=u2xw-Ma9ysY(音あり)

三橋TV第56回【衝撃!ファーウェイCFO逮捕の理由】
https://www.youtube.com/watch?v=2kERghuxUf4(音あり)

三橋TV第57回【中国の属国化を回避せよ!】
https://www.youtube.com/watch?v=ebpgcI55GrM(音あり)

【馬渕睦夫・河添恵子】日本には中国のスパイが5万人いる・・・・リアルに存在するスパイとその実情について
https://www.youtube.com/watch?v=j1uki_niBA0(音あり)

http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/425.html

[近代史3] 「万世一系」の虚妄 _ 日本はなぜ「万世一系」を必要としたか 中川隆
5. 中川隆[-10303] koaQ7Jey 2019年5月12日 20:00:22 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[1809]

NHKスペシャル『日本人と天皇』 - YouTube 動画
https://www.youtube.com/results?search_query=NHK%E3%82%B9%E3%83%9A%E3%82%B7%E3%83%A3%E3%83%AB++%E6%97%A5%E6%9C%AC%E4%BA%BA%E3%81%A8%E5%A4%A9%E7%9A%87


▲△▽▼

改元特番でNHKだけが伝えた”不都合な真実”
水島宏明 | 上智大学教授・元日本テレビ「NNNドキュメント」ディレクター
5/1(水) 17:22
https://news.yahoo.co.jp/byline/mizushimahiroaki/20190501-00124418/


「日本の象徴天皇制は自然消滅する」

 ショッキングな表現でそう語っているのは改元の前夜に放送された「NHKスペシャル」に登場した古川貞二郎・元官房副長官だ。今のままでは象徴天皇制は存続し続けるかどうかわからないと警告する。番組を見ると、象徴天皇制で初めてとなる「生前退位・即位」という大きな出来事を前にして、政権の中枢にいた人物でさえ強い危機感を露わにしていることがわかる。その危機感が国民の間であまり知られていないように思う。この「NHKスペシャル」が問いかけた内容は後でくわしく述べるが、他の番組は「お祝いムード」一色で、肝心な”不都合な真実”がまったくと言っていいほど報道されていないのだ。

「5,4、3,2、1・・・令和、おめでとう!」 

 

 2019年(=平成31年)4月30日から翌日となる2019年(=令和元年)5月1日にかけて、テレビ番組は”改元”の話題一色である。連休中の人々があちこちに集まって、再び正月がやってきたようなお祝い騒ぎを繰り返している。テレビはこうしたお祭りが本当に好きで便乗して盛り上げているような感じさえある。

30日は「平成」の時代を、節目となる事件や災害、トピックスの映像とともに振り返り、そこに前天皇・皇后両陛下(現上皇・上皇后両陛下)がいかに被災地の人々らに寄り添い、「象徴としての天皇」のあり方を模索して来られたのかなどについて時間をさいて伝えていた。

 筆者は、30日夕方、テレビ各社が中継した前天皇陛下の退位のセレモニー「退位礼正殿の儀」の様子を見ていた。最後まで「象徴としての私」という言葉で「象徴」としての天皇のあり方に最後まで向き合ってきた思いをにじませていたのが強く印象に残った。立場は違っても同じ時代を生きてきた「人間の思い」が通じたように感じられて、心を揺さぶられた。

 翌1日昼、皇太子から天皇に即位されたばかりの新しい天皇陛下が「即位後朝見の儀」でお言葉で「象徴としての責務を果たす」と決意を述べられた。

一連の儀式や改元にあたっては「象徴」こそ鍵となる言葉である。

 この両日、「ニュース番組」でも通常よりも番組時間を拡大して特別編成の態勢になっていた。当然、「象徴」としての天皇のあり方についても視聴者に示唆を与えたり、現状の問題を提起したりするような報道が行われるだろうと想像していた。天皇を中心とする皇室の行儀がこれほど連続して生中継という形で長時間報道されることはかつてないからだ。

 冷静に考えれば、前天皇陛下がこれほど強調され、それを引き継いだ今の天皇陛下も口にされた「象徴」としての天皇の役割について、突っ込んで議論することがニュースなどの報道番組には求められているはずだ。

 ところがこの点で「象徴」に正面から切り込む番組は民放にはなかった。

 各局のテレビ番組を見ていると、役割・機能としての「天皇」や「皇后」と、現存する前「天皇陛下」や前「皇后陛下」があまり明確に区別されず、丁寧な言葉づかいばかり意識して不必要な敬語が乱用されている印象を受けた。

 一方で、ほとんどの民放局の報道番組が触れていなかったのが、皇位継承での「女性天皇」や「女系天皇」の可能性をめぐる議論である。

 

「象徴」とは何をする仕事なのかを真正面から追求して取材力を発揮したのが、NHKスペシャル「日本人と天皇」だ。

 「天皇」も役割としての天皇としての意味で大半をつかっていた。

 冒頭のナレーションはこう始まる。


「東京の光の海に囲まれた夜の皇居。今から4時間後に新たな天皇が即位します。これから行われる一連の儀式。天皇の知られざる伝統の姿が現れます。それは神と向き合い祈る姿です。」

 鎌倉時代から江戸時代までの即位の時に行われてきた神道と仏教の儀式も明らかにされる。そこには天皇と神と仏を一体にするサンスクリット語の呪文「ボロン」も明らかにされる。

4月30日放送のNHKスペシャル「日本人と天皇」から
4月30日放送のNHKスペシャル「日本人と天皇」から

 このように番組では天皇が行う宗教的な儀式などを撮影した映像をふんだんにつかって天皇の宗教行事の歴史的や経緯や変化などを伝えていた。

 その上で、番組の圧巻な部分は、「皇位継承」についての取材である。

 戦前の皇室典範も戦後の皇室典範も「男系男子」(男親の系譜で生まれる男子)を天皇継承の条件と定めている。これまでの歴史では女性の天皇がいた時も、「男系」(父親か祖父などが男性)の天皇であって女系はいなかった。

 この問題をめぐる取材が非常に深い。

 戦後に新しい憲法が発布されて、天皇は「象徴」という立場になり、宮家も11が廃止されて51人が皇族から民間人に身分が変わった。この

 取材班は、新憲法が発布された日に三笠宮崇仁親王(昭和天皇の末弟)が皇室典範の草案を審議していた枢密院に提出した皇室典範改正をめぐる意見書を掘り起こしたが、そこで三笠宮は以下のように書いている。


「今や婦人代議士も出るし、将来、女の大臣が出るのは必定であって、その時代になれば今一度、女帝の問題も再検討」するのは当然だと。

 進歩的な思考の持ち主だった三笠宮は、天皇にも基本的人権を認めて、場合によって「譲位」という選択肢を与えるべきとも書き残していた。

 けっきょく、三笠宮の意見書は枢密院で検討された形跡がなかったが、その後、小泉政権で「女性天皇」「女系天皇」の問題が検討の対象になる。

 平成13年(2001年)、当時の皇太子ご夫妻(現天皇皇后両陛下)に女子(愛子さま)が生まれたことで平成17年(2005年)、小泉政権で皇室典範に関する有識者会議が発足して、10ヶ月間、委員はいろいろな資料を元にして議論を進めたという。その中で委員が知った意外な事実があったという。

 これまでの125代におよぶ天皇のうち、約半分が「側室」(第2夫人、第3夫人など)の子と見られているという。戦後は「側室」という制度はない。過去400年間では側室の子どもではない天皇は109代の明正天皇、124代の昭和天皇、125代の前天皇(今の上皇陛下)の3人のみで、側室の制度がない現在においては「男系」の伝統の維持は難しいという声が多くの委員が認識したという。

 けっきょく、この有識者会議では男女の区別なく「直系の長子(天皇の最初の子ども)を優先する」という最終報告を出し、翌年(平成18年=2001年)、政府は「女性天皇」「女系天皇」の容認に舵を切った。

 

 ところがこの動きに猛反発したのが男系の伝統を重視する人たちだったと、2006年3月に日本会議が行った「皇室の伝統を守る1万人大会」

の映像が登場する。日本会議の関係者の映像がNHKスペシャルのような正統派ドキュメンタリー枠で登場するのはかなり珍しいが、NHKのスタッフは今回、番組制作にあたってこうした団体も正面から取材して放送している。

 当時の平岩赳夫衆議院議員(日本会議国会議員懇談会会長=当時)は演説で以下のように語っている。


「連帯と125代万世一系で、男系を守ってこられたご家系というのは日本のご皇室をおいて他にはありません。守らなければならない伝統や文化は断固守っていかねばならない」

 さらに國學院大學名誉教授の大原康男さんもインタビューで「女系はいまだかつてない、まったく別の王朝が生まれること」などと説明するが、けっきょく2006年秋に秋篠宮ご夫妻に長男の悠仁さまが誕生したことで棚上げとなって議論が見送られた。

 だが、有識者会議の委員の一人だった元官房副長官の古川貞二郎さんが以下のような言葉を述べるのである。

4月30日のNHKスペシャル「日本人と天皇」での古川貞二郎氏のインタビュー
4月30日のNHKスペシャル「日本人と天皇」での古川貞二郎氏のインタビュー

 


「私はね、不本意ながら、本当に日本の象徴天皇制は自然消滅するのね、そういう言葉は使いたくないけれど、そういう可能性が高いんじゃないかというふうに心配しますですね。これは。というのはお一人。いずれ悠仁親王殿下おひとりになられる。

 本当に国民が理解し支持するという案で、この象徴天皇制を継承する議論をし、取り組みをしないと、私は後生に非常に悔いを残すことになりはしないだろうか、というふうに思いますね」

 確かに、これまで125代の天皇のうち、側室から生まれていない天皇が3人しかないのであれば、側室という制度がなくなった以上、「女性天皇」を認め、「女系天皇」を認めない限りは、古川氏の言う通りで「自然消滅」してしまう可能性が高い。

 「男系」を維持すべきと訴えてきた(日本会議系の)人たちは「ある案」に期待を寄せていると、番組で紹介している。

 それは旧宮家の子孫を皇族に復帰させることで、男系が続く家の男子が女性皇族と結婚するか、皇族の養子になってもらう、という案だという。いずれにせよ、本人にその意思がなければ実現できないため、NHKの番組取材班は旧宮家の人たちに「質問状」を送って、皇族に復帰する気持ちがあるかどうかを尋ねたところ、全員が「この件はコメントをさし控えたい」という反応だった。

 番組では「仮に復帰する意思があったとしても皇室典範の改正は必要」とナレーションで説明。

 「女系」に反対する急先鋒だった平沼赳夫元衆議院議員にもインタビューしている。


(平沼赳夫元議員)

「やっぱり悠仁親王に男の子がたくさん将来お生まれになることが望ましい。」

(ディレクター」

「一般の我々にしても、女の子がずっと生まれるというのはある。天皇家だけ例外があるのかというとそれも・・・」」

(平沼、しばらく無言で考えた後で)

「誰も結論は出ないでしょうけどじっと待つしかないな。それを信じながら」

 右派の大物議員で現政権にも少なからぬ影響力を与える人物でさえ「じっと待つ」「信じる」という他にこれという妙案がないという。

 そうであればこそ、100年先、200年先でも継続するような仕組みを国民全体でどうやってつくるのか議論することが必要なテーマであるはずだ。

 この番組の最後は、戦後すぐに皇室典範に「女性天皇」「女系天皇」の余地を検討すべきだと提言していた三笠宮崇仁親王の晩年の声が登場する。2004年にNHKのラジオ番組に出演した時の肉声だ。


「女帝自体も大変だし、けれども今度は一般の人が配偶者になるということはこれは大変で、戦後、華族制度がなくなりまして、華族制度をなくすということは、いわば、天皇制の外堀を埋められたようなこと・・・。今になって考えますとね、だから女帝になっても、配偶者になる方がいないんじゃないかと思うんですね。今の日本人では・・・。今はマスコミが騒ぎすぎますねえ。あれだと本当に将来もそういう立場になるという人もおじけづくだろうし・・・。

理屈では当然、女帝であってもしかるべきだけれども、

現実問題としては、果たしてそれがどうなるのか。女帝おひとりで終わっちゃうのも困りますしね、

これはともかく大きな問題だと思いますね」

 三笠宮は皇室の行く末を案じながら、3年前に100歳でこの世を去った。

 この部分の音声には前天皇ご一家の家族写真の映像が挿入されている。

 現天皇の長女・愛子さまの他に秋篠宮ご夫妻(現皇嗣・皇嗣妃ご夫妻)の長女眞子さまや次女の佳子さまも写っている写真。眞子さまとかつて婚約を発表した小室圭さんをめぐる報道を思い出してみても、確かに将来、女帝が誕生するにしても、その配偶者になる人が現れるものだろうかと想像してみる。改めて三笠宮の慧眼には恐れ入るほかない。

 三笠宮が考えていた「持続可能性がある象徴天皇制」ということを考えると、現状ではあまりに課題が多いということをこの番組で突きつけられた気がする。

 「お祝いムード」一色に染まったテレビ番組が圧倒的に多い中で、このNHKスペシャルは長い目で見た「象徴天皇」のあり方を国民に訴える非常にすぐれたドキュメンタリー番組だったと思う。

 番組の最後のナレーションはこう終わっている。筆者自身の経験でも番組の最後のナレーションは制作者がそれこそ全身全霊をかけて書き上げるものだ。


「長い歴史の中で、伝統を受け継ぐそれぞれの時代の日本人の姿を反映した天皇をめぐる課題に、主権者である私たちはどう向き合っていくのか。新たな天皇に何を期待し、どのような時代をともに作っていくのか。その問いとともに、令和がまもなく始まります。」

 生前退位の儀式の後にNHKが放送したドキュメンタリーが突きつける課題はとても重い。お祝いムードに浮かれてばかりいるのではいけない。象徴天皇制をどうつくっていくかは、私たち一人ひとりの国民の意識なのだと訴えている言葉だ。日本人が「象徴天皇」について考えるこの数日、どうあるのが望ましいのかじっくり考えるべきだろう。
https://news.yahoo.co.jp/byline/mizushimahiroaki/20190501-00124418/
http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/411.html#c5

[近代史3] 「万世一系」の虚妄 _ 日本はなぜ「万世一系」を必要としたか 中川隆
6. 中川隆[-10302] koaQ7Jey 2019年5月12日 20:10:56 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[1810]

天皇は「男系」でなければならないと頑迷に言い張る人々の本音 2019-05-12
http://vergil.hateblo.jp/entry/2019/05/12/174357


■ 「万世一系」断絶の危機w

平成天皇明仁アキヒトから令和天皇徳仁ナルヒト(もちろんここではわざとこう呼んでいる)への代替わりに伴って、天皇位の継承に関する議論がかまびすしい。

ポイントは、皇室典範を変えて「女性天皇」や「女系天皇(女性天皇とその配偶者との間の子が天皇になること)」を認めるかどうかだ。


昭和二十二年法律第三号
皇室典範
https://elaws.e-gov.go.jp/search/elawsSearch/elaws_search/lsg0500/detail?lawId=322AC0000000003

第一章 皇位継承

第一条 皇位は、皇統に属する男系の男子が、これを継承する。
第二条 皇位は、左の順序により、皇族に、これを伝える。
 一 皇長子
 二 皇長孫
 三 その他の皇長子の子孫
 四 皇次子及びその子孫
 五 その他の皇子孫
 六 皇兄弟及びその子孫
 七 皇伯叔父及びその子孫

○2 前項各号の皇族がないときは、皇位は、それ以上で、最近親の系統の皇族に、これを伝える。

○3 前二項の場合においては、長系を先にし、同等内では、長を先にする。
https://elaws.e-gov.go.jp/search/elawsSearch/elaws_search/lsg0500/detail?lawId=322AC0000000003

この規定のままだと、現時点で若い皇位継承権者は弟秋篠宮の息子悠仁(12歳)しかいないため、悠仁に将来男子が生まれなければ継承権者はいなくなる。「万世一系」断絶の危機というわけだ。

そもそも、仮に「神武」以来王朝交代がなかったというフィクション(大嘘だが)を信じるとしても、歴代天皇の約半数が側室の子であり、過去400年では側室の子でない天皇は明正(109代)、昭和(124代)、平成(125代)の三人と男子のいない現天皇だけというのだから、側室制度を復活でもさせない限り「男系」の維持は困難だろう。

 平成13年(2001年)、当時の皇太子ご夫妻(現天皇皇后両陛下)に女子(愛子さま)が生まれたことで平成17年(2005年)、小泉政権で皇室典範に関する有識者会議が発足して、10ヶ月間、委員はいろいろな資料を元にして議論を進めたという。その中で委員が知った意外な事実があったという。

 これまでの125代におよぶ天皇のうち、約半分が「側室」(第2夫人、第3夫人など)の子と見られているという。

戦後は「側室」という制度はない。

過去400年間では側室の子どもではない天皇は109代の明正天皇、124代の昭和天皇、125代の前天皇(今の上皇陛下)の3人のみで、側室の制度がない現在においては「男系」の伝統の維持は難しいという声が多くの委員が認識したという。

 けっきょく、この有識者会議では男女の区別なく「直系の長子(天皇の最初の子ども)を優先する」という最終報告を出し、翌年(平成18年=2001年)、政府は「女性天皇」「女系天皇」の容認に舵を切った。

■ 神武のY染色体が重要、という珍説

ところが、「皇統」存続のためにどうしても必要なはずの「女性天皇」「女系天皇」を断固として認めない人たちがいる。日本会議やそれにつながる極右文化人たちだ。

なぜ「女性」「女系」ではダメなのか。その「科学的」根拠として持ち出されているのが、「神武天皇のY染色体」という怪しげな代物だ。

日本会議国会議員懇談会長の平沼赳夫元衆院議員がこんなことを書いている。


平沼赳夫オフィシャルホームページ
https://web.archive.org/web/20160306215902/http://www.hiranuma.org/new/note/note20051122_2.html#04

つまり、男系継承とは「男性天皇が血統の出発点であること」を意味し、反対に女系継承とは「女性から始まる継承」をいう。愛子内親王が天皇となり、その配偶者が皇族でないかぎり、その子が天皇になると「女系継承」が始まるのである。

 「万世一系」というと本家の血筋が永遠に続くことと誤解する人がいるが、それでは「真の一系」にはならないのだ。時には分家からも継承者が現れ、男系で継承が維持されていくことが「万世一系」の本質的意味である。

 飛鳥より遥かに時代をさかのぼった第16代仁徳天皇の男系血筋は、約80年後の武烈天皇(25)で血統が途絶えたため、家系をさかのぼって分家の男系子孫を見つけだし、継体天皇(26)が誕生したという例もある。


 では次にこの男系継承を遺伝子学的に見てみよう。

 人間の男性の染色体はXYであるのに対して、女性のそれはXXであり、それぞれ46対ある。男女が結婚して男の子ができた場合、母の23対のX染色体と父の23対のY染色体をもらう。女の子の場合は、母の23対の×染色体と父の23対のX染色体をもらう。よって男系の子孫にのみにオリジナルのY染色体が引き継がれ、女系の子孫には引き継がれない。女系では「皇統」が護持されないのである。(参考図参照)

 つまり、皇位が男系継承で引き継がれていく限り、男性天皇には間違いなく初代神武天皇のY因子が継承されるのに対し、女性天皇ではY因子の保持は約束されないのである。

 男系継承を護持することは、神武天皇だけでなく、更に遡って二二ギノミコトのオリジナルのY因子を継承することにもなり、このY因子こそ「皇位継承」の必要要件であり「万世一系」の本当の意昧なのである。
https://web.archive.org/web/20160306215902/http://www.hiranuma.org/new/note/note20051122_2.html#04

これはどこから突っ込めばいいか困惑するほど穴だらけの珍説だが、とりあえず疑問点を列挙してみると…


•Y染色体の何が重要なのかが不明

Y染色体は男系でしか伝わらないというが、Y染色体の何が「皇統」にとって重要なのか、その理由が何も示されていない。ちなみに、Y染色体の遺伝上の役割としては、性の決定以外にこれといったものは知られていないようだ。


•今の天皇と神武のY染色体が同じという保証はない

Y染色体は比較的変異を起こしやすいことが知られている。仮に「万世一系」神話を信じるとしても、125代も前の先祖のY染色体が現在までそのまま伝わっている保証はない。


•そもそも「皇祖」は女神である天照大神なのに、なぜY染色体を重視するのか?

平成天皇が退位という重大事にあたって伊勢神宮に報告のため参拝したことが示すように、天皇家の権威の源泉は「皇祖」である天照大神にある。しかし、周知のとおり天照は女神なのだからY染色体などあるはずもない。「万世一系」というならむしろ、天照から女系でだけ伝わっているはずのミトコンドリアDNAのほうが重要ではないのか。


•Y染色体が伝わっていればいいのなら、皇位継承順など無意味

天皇になる資格が神武から伝わるY染色体だというのなら、系譜を男系で辿っていって歴代天皇の誰かにたどり着く男であれば誰が天皇になっても構わないはずで、今の天皇一族に限る必要もない。

ちなみに、古事記・日本書紀には、なんとか天皇の子の誰それはなんとかの臣おみの祖、といった記述がやたらと出てくる。ならば、今の天皇家とは血縁関係のない、そうした豪族たちの末裔の誰かが天皇になってもまったく構わないはずだ。


■ 本音は単なる男尊女卑の差別意識

というわけでボロボロのY染色体説だが、日本会議のような極右がなぜこんな珍説にこだわるのか? 

実は、彼らの本音を渡部昇一が暴露してくれている。(「WiLL」2016年9月号)


 皇室の継承は、

@「種」(タネ)の尊さ、
A神話時代から地続きである

──この二つが最も重要です。

 歴史的には女帝も存在しましたが、妊娠する可能性のない方、生涯独身を誓った方のみが皇位に就きました。種が違うと困るからです。

たとえば、イネやヒエ、ムギなどの種は、どの田圃に植えても育ちます。種は変わりません。しかし、畑にはセイタカアワダチソウの種が飛んできて育つことがあります。畑では種が変わってしますので。


___


つまり、女の腹など借り物(畑)で、そこにまく男親の「種」こそが重要、というわけだ。何のことはない、バリバリの男尊女卑思想による女性差別である。

Y染色体がどうこうというのは、この差別に科学的根拠があるかのように装うための道具に過ぎない。ダーウィンの進化論(自然淘汰説)を悪用して搾取や人種差別を正当化しようとした社会ダーウィニズムと同じパターンだ。

ちなみに、天皇制自体に反対の私の立場からすれば、女系天皇が認められようが認められまいがどうでもよい。むしろ、男系に執着したあげく後継者がいなくなって天皇家が断絶するほうが望ましいくらいだ。

というわけで、(この件に関してだけは)日本会議ガンバレww

http://vergil.hateblo.jp/entry/2019/05/12/174357

http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/411.html#c6

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116. 中川隆[-10301] koaQ7Jey 2019年5月12日 20:35:30 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[1811]

僕は魑魅魍魎には何度も

風説の流布は止めろ

と警告したんだけどね:


調査報告/原子力発電所における秘密
http://www.asyura2.com/09/reki02/msg/363.html
投稿者 中川隆 日時 2010 年 6 月 04 日 22:53:53: 3bF/xW6Ehzs4I

反原発派は知恵遅れ _ 原発再稼動で温室効果ガスが減少 再生可能エネルギーの限界
http://www.asyura2.com/16/genpatu47/msg/781.html
投稿者 中川隆 日時 2017 年 4 月 16 日 07:37:25: 3bF/xW6Ehzs4I koaQ7Jey  


原発板の けろりん氏は中国の工作員か?(お知らせ・管理21 板へのリンク)
http://www.asyura2.com/16/genpatu47/msg/800.html
投稿者 中川隆 日時 2017 年 4 月 20 日 11:35:11: 3bF/xW6Ehzs4I koaQ7Jey
 

原子力発電は本当に危険なのか?
http://www.asyura2.com/17/lunchbreak54/msg/148.html
投稿者 中川隆 日時 2018 年 3 月 18 日 10:29:50: 3bF/xW6Ehzs4I koaQ7Jey

発電をすべて原子力にしなければ地球温暖化で地球の気温は250℃になる
http://www.asyura2.com/17/lunchbreak54/msg/140.html
投稿者 中川隆 日時 2018 年 3 月 16 日 15:21:51: 3bF/xW6Ehzs4I koaQ7Jey
 


太陽光発電は国家経済を破綻させ環境も破壊する
http://www.asyura2.com/17/lunchbreak54/msg/144.html
投稿者 中川隆 日時 2018 年 3 月 17 日 08:03:56: 3bF/xW6Ehzs4I koaQ7Jey


風力発電は環境を破壊するだけでなく低周波音で風車病・睡眠障害を引き起こす
http://www.asyura2.com/17/lunchbreak54/msg/145.html
投稿者 中川隆 日時 2018 年 3 月 17 日 08:59:47: 3bF/xW6Ehzs4I koaQ7Jey
 



http://www.asyura2.com/13/kanri21/msg/554.html#c116

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117. 中川隆[-10300] koaQ7Jey 2019年5月12日 20:46:18 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[1812]

僕は

魑魅魍魎の主張は典型的なパラノイアの妄想だ

というのも何十回も指摘してきたよ。
キチガイは自識が無いから、自分では自分がキチガイだと認識できないんだ:

阿修羅掲示板はパラノイアや統合失調症患者の投稿が多いので、真に受けない様に気を付けて下さい
http://www.asyura2.com/13/lunchbreak53/msg/899.html
投稿者 中川隆 日時 2017 年 12 月 19 日 18:34:43: 3bF/xW6Ehzs4I koaQ7Jey
 


アホの考えを変えようとしたり、反論したり、話し合おうとしたりするのはすべて無意味で無駄
http://www.asyura2.com/09/revival3/msg/805.html
投稿者 中川隆 日時 2018 年 2 月 13 日 10:45:01: 3bF/xW6Ehzs4I koaQ7Jey
http://www.asyura2.com/13/kanri21/msg/554.html#c117

[リバイバル3] 中川隆 _ 経済、ビジネス関係投稿リンク 中川隆
76. 中川隆[-10299] koaQ7Jey 2019年5月12日 20:58:10 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[1813]

原発関係の投稿


調査報告/原子力発電所における秘密
http://www.asyura2.com/09/reki02/msg/363.html
投稿者 中川隆 日時 2010 年 6 月 04 日 22:53:53: 3bF/xW6Ehzs4I


遂に化けの皮が剥がれた経済コラムマガジン_荒井彰のアホぶり
http://www.asyura2.com/11/hasan72/msg/749.html
投稿者 中川隆 日時 2011 年 8 月 17 日 10:59:06: 3bF/xW6Ehzs4I


経済コラムマガジンの荒井彰先生も脳動脈硬化症?
http://www.asyura2.com/11/hasan72/msg/751.html
投稿者 中川隆 日時 2011 年 8 月 17 日 14:30:58: 3bF/xW6Ehzs4I


反原発派は知恵遅れ _ 原発再稼動で温室効果ガスが減少 再生可能エネルギーの限界
http://www.asyura2.com/16/genpatu47/msg/781.html
投稿者 中川隆 日時 2017 年 4 月 16 日 07:37:25: 3bF/xW6Ehzs4I koaQ7Jey  


原発板の けろりん氏は中国の工作員か?(お知らせ・管理21 板へのリンク)
http://www.asyura2.com/16/genpatu47/msg/800.html
投稿者 中川隆 日時 2017 年 4 月 20 日 11:35:11: 3bF/xW6Ehzs4I koaQ7Jey
 

原子力発電は本当に危険なのか?
http://www.asyura2.com/17/lunchbreak54/msg/148.html
投稿者 中川隆 日時 2018 年 3 月 18 日 10:29:50: 3bF/xW6Ehzs4I koaQ7Jey


発電をすべて原子力にしなければ地球温暖化で地球の気温は250℃になる
http://www.asyura2.com/17/lunchbreak54/msg/140.html
投稿者 中川隆 日時 2018 年 3 月 16 日 15:21:51: 3bF/xW6Ehzs4I koaQ7Jey  


太陽光発電は国家経済を破綻させ環境も破壊する
http://www.asyura2.com/17/lunchbreak54/msg/144.html
投稿者 中川隆 日時 2018 年 3 月 17 日 08:03:56: 3bF/xW6Ehzs4I koaQ7Jey


風力発電は環境を破壊するだけでなく低周波音で風車病・睡眠障害を引き起こす
http://www.asyura2.com/17/lunchbreak54/msg/145.html
投稿者 中川隆 日時 2018 年 3 月 17 日 08:59:47: 3bF/xW6Ehzs4I koaQ7Jey
 


▲△▽▼

僕は
魑魅魍魎の主張は典型的なパラノイアの妄想だ

というのも何十回も指摘してきたよ。
キチガイは自識が無いから、自分では自分がキチガイだと認識できないんだ:


阿修羅掲示板はパラノイアや統合失調症患者の投稿が多いので、真に受けない様に気を付けて下さい
http://www.asyura2.com/13/lunchbreak53/msg/899.html
投稿者 中川隆 日時 2017 年 12 月 19 日 18:34:43: 3bF/xW6Ehzs4I koaQ7Jey
 

アホの考えを変えようとしたり、反論したり、話し合おうとしたりするのはすべて無意味で無駄
http://www.asyura2.com/09/revival3/msg/805.html
投稿者 中川隆 日時 2018 年 2 月 13 日 10:45:01: 3bF/xW6Ehzs4I koaQ7Jey


http://www.asyura2.com/09/revival3/msg/813.html#c76

[近代史3] 河添恵子 中国共産党の真実 中川隆
1. 中川隆[-10298] koaQ7Jey 2019年5月12日 21:16:03 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[1814]

『世界No.1親日国のポーランド事情@』河添恵子 AJER2018.10.24 - YouTube
https://www.youtube.com/results?search_query=%E3%80%8E%E4%B8%96%E7%95%8CNo.1%E8%A6%AA%E6%97%A5%E5%9B%BD%E3%81%AE%E3%83%9D%E3%83%BC%E3%83%A9%E3%83%B3%E3%83%89%E4%BA%8B%E6%83%85+%E3%80%8F%E6%B2%B3%E6%B7%BB%E6%81%B5%E5%AD%90%E3%80%80&sp=mAEB


ノンフィクション作家・河添恵子#5
「ポーランドと日本の深い絆」ポーランドを知れば日本がよく見えてくる! - YouTube
https://www.youtube.com/results?search_query=%E3%83%8E%E3%83%B3%E3%83%95%E3%82%A3%E3%82%AF%E3%82%B7%E3%83%A7%E3%83%B3%E4%BD%9C%E5%AE%B6%E3%83%BB%E6%B2%B3%E6%B7%BB%E6%81%B5%E5%AD%90%235-+%E3%80%8C%E3%83%9D%E3%83%BC%E3%83%A9%E3%83%B3%E3%83%89%E3%81%A8%E6%97%A5%E6%9C%AC%E3%81%AE%E6%B7%B1%E3%81%84%E7%B5%86%E3%80%8D


ノンフィクション作家・河添恵子#11
★日本とポーランド 2019年は国交樹立100周年!◉日本文化の理解度断トツ国! - YouTube
https://www.youtube.com/watch?v=tO3tbGlgqYg


【夜桜亭日記 #25】河添恵子さん(ノンフィクション作家)をお招きしました
[桜H28-6-12] - ニコニコ動画
https://www.nicovideo.jp/watch/so29030726

http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/425.html#c1

[リバイバル3] 中川隆 _ 経済、ビジネス関係投稿リンク 中川隆
77. 中川隆[-10297] koaQ7Jey 2019年5月12日 21:19:50 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[1815]


もうすぐ氷河時代が来る証拠
http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/202.html
投稿者 中川隆 日時 2019 年 1 月


2016年には「被爆原因」で物凄い数の人たちがバタバタ死に始める
http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/414.html
投稿者 中川隆 日時 2019 年 5 月 10 日 11:20:48: 3bF/xW6Ehzs4I koaQ7Jey


北米やユーラシア大陸で顕在化する寒冷化は日本の食糧輸入を不可能にする!食糧増産への備えを!
http://www.asyura2.com/17/lunchbreak54/msg/228.html
投稿者 中川隆 日時 2018 年 7 月 23 日 12:45:45: 3bF/xW6Ehzs4I koaQ7Jey
 

地球温暖化は嘘です。二酸化炭素が倍になったところで気温は上がりません。/それを支持するつぶやき。
http://www.asyura2.com/17/lunchbreak54/msg/239.html
投稿者 中川隆 日時 2018 年 8 月 09 日 18:34:23: 3bF/xW6Ehzs4I koaQ7Jey


《見てはいけない!!だが2012年から北極の氷は40%も増え続けている!》可能性の排除は、論理的考察を旨とする科学の放棄
http://www.asyura2.com/17/lunchbreak54/msg/234.html
投稿者 中川隆 日時 2018 年 7 月 26 日 15:56:44: 3bF/xW6Ehzs4I koaQ7Jey
 

寒冷化する地球が招き入れる食料とエネルギーの争奪戦
http://www.asyura2.com/17/lunchbreak54/msg/230.html
投稿者 中川隆 日時 2018 年 7 月 23 日 12:52:44: 3bF/xW6Ehzs4I koaQ7Jey


太陽の黒点が激減中 2030年に「ミニ氷河期」到来の可能性(日刊ゲンダイ)
http://www.asyura2.com/17/lunchbreak54/msg/229.html
投稿者 中川隆 日時 2018 年 7 月 23 日 12:50:49: 3bF/xW6Ehzs4I koaQ7Jey
 


http://www.asyura2.com/09/revival3/msg/813.html#c77

[お知らせ・管理21] 2019年05月 削除依頼・投稿制限・等管理スレ。突然投稿できなくなった方も見てください。 管理人さん
118. 中川隆[-10296] koaQ7Jey 2019年5月12日 21:21:23 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[1816]

反原発派が流した悪質なデマも纏めてあるよ:


もうすぐ氷河時代が来る証拠
http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/202.html
投稿者 中川隆 日時 2019 年 1 月


2016年には「被爆原因」で物凄い数の人たちがバタバタ死に始める
http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/414.html
投稿者 中川隆 日時 2019 年 5 月 10 日 11:20:48: 3bF/xW6Ehzs4I koaQ7Jey


北米やユーラシア大陸で顕在化する寒冷化は日本の食糧輸入を不可能にする!食糧増産への備えを!
http://www.asyura2.com/17/lunchbreak54/msg/228.html
投稿者 中川隆 日時 2018 年 7 月 23 日 12:45:45: 3bF/xW6Ehzs4I koaQ7Jey
 

地球温暖化は嘘です。二酸化炭素が倍になったところで気温は上がりません。/それを支持するつぶやき。
http://www.asyura2.com/17/lunchbreak54/msg/239.html
投稿者 中川隆 日時 2018 年 8 月 09 日 18:34:23: 3bF/xW6Ehzs4I koaQ7Jey


《見てはいけない!!だが2012年から北極の氷は40%も増え続けている!》可能性の排除は、論理的考察を旨とする科学の放棄
http://www.asyura2.com/17/lunchbreak54/msg/234.html
投稿者 中川隆 日時 2018 年 7 月 26 日 15:56:44: 3bF/xW6Ehzs4I koaQ7Jey
 

寒冷化する地球が招き入れる食料とエネルギーの争奪戦
http://www.asyura2.com/17/lunchbreak54/msg/230.html
投稿者 中川隆 日時 2018 年 7 月 23 日 12:52:44: 3bF/xW6Ehzs4I koaQ7Jey


太陽の黒点が激減中 2030年に「ミニ氷河期」到来の可能性(日刊ゲンダイ)
http://www.asyura2.com/17/lunchbreak54/msg/229.html
投稿者 中川隆 日時 2018 年 7 月 23 日 12:50:49: 3bF/xW6Ehzs4I koaQ7Jey

http://www.asyura2.com/13/kanri21/msg/554.html#c118

[近代史3] 山本太郎に「1人で国会変えられるんか?」と聴衆! 中川隆
2. 中川隆[-10295] koaQ7Jey 2019年5月12日 21:34:24 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[1817]
山本太郎を守れ 『僕にもできた! 国会議員』(山本太郎=著 雨宮処凛=取材・構成)書評 島田雅彦 (webちくま)
http://www.asyura2.com/19/senkyo260/msg/651.html

2019年5月8日更新

http://www.webchikuma.jp/mwimgs/e/5/710m/img_e5a6a1e921618b943655008b2805d31e220682.jpg
 
 
 理想主義者の代名詞に「ドン・キホーテ」というのがあるが、山本太郎ほどこの称号にふさわしい男はいない。通例、揶揄のニュアンスが付いて回るが、徒手空拳で巨悪に突撃してゆく蛮勇こそ現在の政治家に最も必要とされる素質である。その理想は憲法に忠実で、あるべき政治道徳に則り、国民に安全で健康な生活を確保しようとする高潔なものだ。国会には七百人以上の議員がいるが、山本太郎と何人かの例外を除けば、ほとんどの議員が多数派の頭数合わせと己が既得権益を守ることしか頭にない。山本太郎が理想主義者として浮いてしまうこと自体が政治の退廃、劣化の証左になっている。
 
 山本太郎の六年間の議員活動はちょうど安倍政権の悪政と重なるが、この間に悪政があまりに自明のことになってしまい、有権者のあいだに諦めムードが広がり出した。もちろん、野党議員たちは国会や委員会で政府の対応を批判し、数々の疑惑に対する真相究明を続けているが、首相はじめ政権担当者たちは呼吸するように嘘をつき、公文書の改竄と偽造は当たり前、幽体離脱したかのように当事者意識を欠き、一様に記憶喪失に陥っている。もう少し道理を知っているはずの男たちも、破綻の予感を抱きながら、傍観している。政府は実質、自分で何かを決めたことも、率先して対策を練ったこともない人々の吹き溜まりである。
 
 結果、財政破綻は秒読み、廃炉への道は遠く、放射能はアウト・オブ・コントロール、外交、安全保障政策も全て裏目に出た。無為無策の首相や子どもの使いの外相を置き去りにして、国際政治の謀略は容赦なく進行する。相手の厳しい次の一手には対応できそうもない。貧困問題もいよいよ深刻になり、生活苦を強いられた庶民のあいだから、怨嗟の声が上がる。純粋な理想主義者がムチを入れなければ、政府はピクリとも動かない。
 
 首相とその不愉快な仲間たちは官房機密費を使って、マスメディアを籠絡し、世論操作することも、内閣人事局を通じて、官僚を丸め込むことも、首相権限を振りかざして警察や司法に圧力をかけることもできるが、その絶大な権力を使って、やることといったら、自分たちの不正、失策を隠すこと、アメリカ大統領のパシリとして貢ぎ、日米安全保障条約および日米地位協定を憲法の上に置き、この国の占領状態を維持し、その利権で私腹を肥やすことだけだ。山本太郎は活動資金も限られ、官僚やマスメディアを操ることはできないが、彼には有能なブレーンがついていて、ボランティア的に彼をサポートし、戦略を授けてくれるので、国家権力を私的に濫用する極右政権相手のゲリラ戦はかなり奏功しているといっていい。そのゲリラ戦の主戦場は国会中継で、政府側が誤魔化しと嘘でしどろもどろになる中、舌鋒鋭く切り込んでゆく様子はまさに「山本太郎劇場」だ。山本太郎は質問を通じて、被災者支援等で政府に善処を促すことに成功している。
 
 有権者が無知で無関心でいる限り、悪政は続く。礼儀正しく、おとなしく、他人を攻撃せず、空気を読む。そんな人々の沈黙の同意によって、不正が見逃される。右でも左でもない中立の立場でいる限り、極右の専横は容認される。そうした「無関心な人々の共謀」をいかに打破するか、それが問題だ。もし、それに成功すれば、政権にとっては致命傷になる。待望されるのは政治の不毛を笑い飛ばしつつ、常識を覆すリベラルのトリックスターである。
 
 六年前に俳優から政治家に転身した時、彼自身が一般の無関心層と変わらない素人だった。だが、謙虚に勉強を続けるうちに堂々と無能な為政者たちに正論を突きつける市民視線の政治家になった。ここ六年間の山本太郎の軌跡は、「王様は裸だ」といえる正直者の素人にしかこの国は変えられないということを如実に示している。「山本太郎が首相になる」と聞いて、「まさか」という人は政治の本質をまだわかっていない。実際、極右マフィア政権が六年も続くという「まさか」を見てきたのだから、その反動から山本太郎首相の誕生は十分あり得ると考えなければ、やってられない
 
http://www.webchikuma.jp/articles/-/1710  

http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/412.html#c2

[近代史02] 中国大好き 中川隆
81. 中川隆[-10294] koaQ7Jey 2019年5月12日 21:46:38 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[1818]
日本人のガラパゴス的民族性の起源
15-31. 新石器時代後期の中国北部がシナ‐チベット語族の起源らしい!
http://garapagos.hotcom-cafe.com/15-31.htm

  Natureの2019年4月25日付けの論文で、シナ−チベット語族の起源が中国北部との「中国北部起源説」を支持する旨の系統発生学的な証拠がそろったとの 内容が発表されました。シナーチベット語族の分岐は5900年前頃で黄河域で生じた、と説明している。

しかもシナ語族とチベット−ビルマ語族の分離は西方のチベットと南方のミャンマーに移動した集団と、 東方と南方に移動して漢民族となった集団に分岐した時だったと考えられるらしい。 これは縄文系の兄Y-DNA遺伝子集団であるチベット民族の起源にも触れるため、記事にしました。

  これとY-DNA調査によるガラパゴス史観を当てはめると、
1.揚子江流域で発展した稲作農耕の長江文明集団(Y-DNA「O1」)が、陸稲文化だった
  黄河文明系集団(Y-DNA「O2」)に敗れ、中原から追い出され、北方と南方に逃げた
  ことと一致する。南方に逃げた集団(オーストロアジア語系/越系:Y-DNA「O1b1」
  となった)は現代のベトナムからインドに分布し、稲作農耕民として生活している。
  一方北方に逃げた集団(オーストロアジア語系/呉系:Y-DNA「O1b2」となった)は
  満州あたりまで逃げそこから稲作適地を求め南下し朝鮮半島を経由し日本列島に入り
  弥生系文化集団となり、現代に続く日本人と朝鮮人の稲作農耕民の祖先となっている。
  東方に逃げ台湾に入った集団(オーストロネシア語系/楚系:Y-DNA「O1a」になっ
  た)も存在するが、同時代かどうかはまだわかっていません。


2.この時、西方のチベットに逃げ込んだ集団がチベット語族となったようですが、
  そうすると縄文系日本人Y-DNA「D1b」の兄遺伝子Y-DNA「D1a」を持つチベット人
  (後代に移住してきた漢族は除く)はその当時まで中原付近に居住していたことになり
  ます。
  ところが人類学の最新の研究では現代チベット人やシェルパ族の高地適応はデニソワ人
  から受け継いだと説明しています。そうするとその当時までデニソワ人はチベット
  高原に生き延びていたことになりますが.......?
  もしくは、四川文明は蜀の先祖/古蜀の古代文化と考えられますが、チベット系は中国
  大陸の中部から西部チベット高原に古代から既に広く拡大していたのかもしれません。
  日本語とチベット語の関係はまだ解明されていませんが、民話は、姑娘民話とかぐや
  姫民話など、一部共通するものがありますので、言語学者が古代チベット語を系統発生
  学で研究すると縄文語との近縁性が解明されるかもしれません。
  過去に学習院大学の大野教授が日本語の祖先はドラヴィダ人のタミール語であると発表
  し、今は死説となりましたが、Y-DNA「O1b1」のモンゴロイド系稲作農耕民が現代
  でも70%以上を占める部族がドライダ人集団内にいるため、この死説は弥生人が使っ
  ていた長江系稲作農耕関連の語彙が、遠くドラヴィダ人内に今でも残っていることを
  証明した事になるため、結果として極めて貴重な学説となりました。

3.この時に東方と南方に拡大したのが後の漢民族の母体となるY-DNA「O2」遺伝子集団
  と考えられます。この遺伝子集団は周辺の他の遺伝子集団と積極的に混じり合ったらし
  く、極東アジアのみならず、インドネシアなどのスンダ列島やニューギニアまで、
  東南アジアからオセアニアまで広く分布しています。これぞ極めつけの極東アジア人
  遺伝子のY-DNA「O」は、古代ではかなり活動的な集団だったのではないかと推測でき
  ます。


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それでは、Nature論文のabstructを転記します。興味のある方は原著を是非お読みください。

Nature Letter | Published: 24 April 2019

Phylogenetic evidence for Sino-Tibetan origin in northern China in the Late Neolithic

 The study of language origin and divergence is important for understanding the history of human populations and their cultures.
 The Sino-Tibetan language family is the second largest in the world after Indo-European, and there is a long-running debate about its phylogeny and the time depth of its original divergence.
 Here we perform a Bayesian phylogenetic analysis to examine two competing hypotheses of the origin of the Sino-Tibetan language family: the ‘northern-origin hypothesis’ and the ‘southwestern-origin hypothesis’.
 The northern-origin hypothesis states that the initial expansion of Sino-Tibetan languages occurred approximately 4,000?6,000?years before present(bp; taken as ad 1950) in the Yellow River basin of northern China and that this expansion is associated with the development of the Yangshao and/or Majiayao Neolithic cultures.
 The southwestern-origin hypothesis states that an early expansion of Sino-Tibetan languages occurred before 9,000?years bp from a region in southwest Sichuan province in China or in northeast India, where a high diversity of Tibeto-Burman languages exists today.
 Consistent with the northern-origin hypothesis, our Bayesian phylogenetic analysis of 109 languages with 949 lexical root-meanings produced an estimated time depth for the divergence of Sino-Tibetan languages of approximately 4,200?7,800?years bp, with an average value of approximately 5,900?years bp.
 In addition, the phylogeny supported a dichotomy between Sinitic and Tibeto-Burman languages.
 Our results are compatible with the archaeological records, and with the farming and language dispersal hypothesis of agricultural expansion in China.
 Our findings provide a linguistic foothold for further interdisciplinary studies of prehistoric human activity in East Asia.
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和訳です。

新石器時代後期の中国北部にシナ‐チベット語族の起源があることの系統発生の証拠。

 "言語起源と相違の研究は、人間の集団と彼らの文化の歴史を理解することにとって重要です。
"
 シナ‐チベット語族の言語族はインド‐ヨーロッパ語族の後で世界で2番目に大きいです、そして、 その系統発生とその最初の拡散の時期についての長い年月にわたる議論があります。

 "ここでは、シナ‐チベット語族の言語族の起源の2つの拮抗している仮説、すなわち『北部起源仮説』と『南西部起源仮説』、 を調べるために、我々はベイズ的な系統発生の分析を行います。 "

 北部起源説は、シナ‐チベット語族の最初の拡大が中国北部の黄河流域で、4000〜6000年前に生じ、 そしてこの拡散は新石器時代文化の仰韶(ヤンシャオ)文化 and/or 馬家窯(マジャヤオ)文化の開発と関連している、と説明しています。

 南西部起源説は、シナ‐チベット語族の初期の拡大は、今日でも高い多様性のチベット-ビルマ語族が居住している 中国四川省の南西部もしくはインド北東部で9000年前頃に生じたと説明しています。

 949の語彙の根源的な意味の統計解析による109の言語に対する我々のベイズ的な系統発生の分析は、 シナ‐チベット語族の分岐はおよそほぼ4,200〜7,800年前で平均は、北部起源仮説と一致しておよそ5900年前であった。

 "これに加えて系統発生は、シナ-チベット語族が、シナ語とチベット-ビルマ語族に二分されることを支持しました。
"
 我々の結果は、考古学的な記録と、そして、中国における農業と言語による農業の分散仮説と一致しています。

 我々の調査結果は、東アジアでの有史以前の人間の活動のより学際的な研究に、言語学的な足掛かりを提供します。
 http://garapagos.hotcom-cafe.com/15-31.htm

http://www.asyura2.com/09/reki02/msg/287.html#c81

[リバイバル3] 暖炉型電気ヒーターの実用度 中川隆
7. 中川隆[-10293] koaQ7Jey 2019年5月12日 22:21:01 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[1819]

ディンプレックス 電気暖炉 2018年度フルラインナップ - YouTube動画
https://www.youtube.com/watch?v=tdh-lkPKQbA

Dimplex 電気暖炉 Gosford ゴスフォード - YouTube
https://www.youtube.com/watch?v=bwokf5up0mg

まるで炎!OptiMyst電気暖炉 疑似炎オプティミスト Dimplex ピアモント - YouTube
https://www.youtube.com/watch?v=pSf6pTlAuWc

ディンプレックス 電気暖炉 オプティミスト 「ピアモント」 - YouTube
https://www.youtube.com/watch?v=JqCEklrjWg8

電気暖炉オプティミスト ピアモント - YouTube
https://www.youtube.com/watch?v=5abHHeU_eB8
http://www.asyura2.com/09/revival3/msg/876.html#c7

[リバイバル3] 車中泊向けの軽バン、ホンダ「N-VAN」の実用度 中川隆
106. 中川隆[-10292] koaQ7Jey 2019年5月12日 22:24:22 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[1820]

橋の下で車上生活するサラリーマンの日常を追ったドキュメンタリー - YouTube 動画
https://www.youtube.com/watch?v=O_m-ifoJCpg
http://www.asyura2.com/09/revival3/msg/865.html#c106
[近代史3] 「日本人は生産性が低い」という都市伝説に騙されるな _ 生産性が低いというのは賃金が安いというだけの事 中川隆
1. 中川隆[-10345] koaQ7Jey 2019年5月13日 07:54:16 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[1806]

2019年05月13日
日本の生産性問題 お金の節約より時間の節約が重要

同じことを要領よく短時間で済ませるほど生産性があがる。

長時間頑張れば頑張るほど生産性は下がってしまう

生産性が高い人は怠け者に見られる

日本経済の問題点として、欧米先進国にくらべて生産性が低いことが度々指摘されています。

生産性は1時間あたりに生み出した価値のことで、同じ成果を出すなら長時間働くほど低下します。

ピントがずれた経営者は「生産性を高めるために残業させよう」と長時間労働させて、もっと生産性を低下させています。




短時間で仕事を終えて帰宅したほうが生産性は高まるので、頑張れば頑張るほど生産性が低下します。

今まで日本人の「努力」の方向は長時間働くことに重点が置かれ、寝ずに仕事をすると「俺寝てないんだよ」と寝てない自慢をしたりします。

それを聞いた人も「徹夜仕事ですか、すごい頑張りましたね」と褒めたたえるのが恒例になっている。


こんなとき「君は生産性が低いから定時で仕事が終わらなかったんだね」と言うような人は周囲から浮いてしまうでしょう。

だがこれからは効率よく仕事を終えて5時で帰宅する人が評価され、残業や休日出勤する人は評価されなくなるかもしれません。

アメリカのある経営者がネット上で「いつも怠けてゲームなどをしている社員を解雇したい」と相談したところ、相談を受けたほとんどが反対した。


仕事中にスマホゲームをしている社員は効率よく仕事を終えた有能で正直な人間だと評価できる。

いつも仕事をしているように見える他の社員は、要領が悪く仕事が遅いか、忙しい演技をしているだけだというのが他の人の意見でした。

実際日本の職場でも、忙しいふりをするのが上手い人が、上司や社長の評価が高いのではないでしょうか。

お金に厳しく時間に甘い日本人

優秀で生産性が高い人ほど上司から「怠け者」と見られ、仕事が遅いか忙しいふりをする人の方が得をするのです。

こんな会社で生産性が上がる筈がなく、上司や社長が目を光らせるほど、むしろ生産性は低下するでしょう。

生産性が低い職場で良く使われる言葉が「もったいない」で、鉛筆は最後まで使い切り、真夏にエアコンを切って、電気もきったりしています。


いったい社員が熱中症になるリスクと、電気代のどちらが重要なのか、こういう会社は分かっていない。

夏は汗だくで倒れそうになり、冬は凍えそうになって仕事をしている会社は、電気代を節約できるが間違いなく生産性は低い。

節約するために時間をかけて古いものを使いまわししたり、費用は安いが手間のかかる方法を取ったりしている。


例えば今でもパソコンでデータ入力するのは「手抜き」や「もったいない」と言って電卓で計算して紙に書いている大企業があるそうです。

もちろん業務ではパソコンを使うが、その会社は正式な文書は「紙と手書き」以外は絶対に認めないそうです。

パソコンソフトの代金がもったいないと言って、あえて手作業や古い方法で経理やデータ処理する会社も多い。


またお金に関しては異常に厳しいのに、他人を待たせたり時間をかけるのを何とも思わない人も多い。

例えば時給2000円の人を1時間待たせたらその人の2000円を奪っているが、そうした感覚がない。

すぐに回答が欲しいのに何日も待たせる人や企業も多く、お金に厳しく時間に甘い印象を受ける。
http://www.thutmosev.com/archives/79814355.html
http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/198.html#c1

[近代史3] チャンネル桜のアホ番組に出演する自称専門家の話は信じてはいけない 中川隆
9. 中川隆[-10527] koaQ7Jey 2019年5月13日 08:26:40 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[1759]

2013年08月02日
息を吐くように嘘をつく宮崎正弘
http://murakusai.doorblog.jp/archives/30259519.html


産経新聞のウンコ記事。 

『(略)中国事情に詳しい評論家の宮崎正弘氏は「中国で5、6年前から、日本の高級木材がブームなのは間違いない。『マイクロソフト社創業者のビル・ゲイツ氏が、別荘にヒノキ風呂を設置した』という話が広まり、お金持ちがマネをしている」といいながら、別の見方も披露する。

 「中国人は息を吐くように嘘をつく人が多い。『高級木材が欲しい』といいながら、実は水源林などの土地を狙っている可能性はある。以前、米国の鉱山会社を購入した大金持ちがいたが、まったく開発しなかった。結局、自分の隠し資産を米国に動かすための口実だった。今回の動きも、水源林確保や土地買収、資産隠匿の隠れみのかもしれない」

(略)ただ、ノンフィクション作家の河添恵子氏は、夕刊フジの連載「断末魔の中国」で、「『収益率』『儲け』に強くこだわる中国系企業が、太陽光発電の効率が悪い地域であえて積極的になる理由は『大規模な土地が二束三文で簡単に手に入るため』」と指摘した。

 そのうえで、高級木材を山林ごと購入しようという動きについて、河添氏は「間違いなく怪しい。危ない」といい、こういう。

 「熊本で『アタッシェケースに札束を詰めた中国人が森林を買いに来た』という話は聞いている。北海道では未遂に終わったが、中国資本が海岸沿いの300ヘクタールもの土地買収を計画していた。福島第1原発に近い耕作放棄地を狙っているとの情報もある。中国は着々と日本の領土を買い足している」

 狡猾な中国人には十分警戒しなければならない。』

まず、宮崎正弘の件。ネトウヨが「韓国人は息を吐くように嘘をつく」なんて馬鹿丸出しで言っているのを、自称知識人が何の躊躇なく平気で特定の民族に対して使用するのはまさに信じられない。

ここで宮崎に都合の悪い記事を引用しよう。

中国語が理解できないのに、中国事情に詳しいとやらの宮崎とは大違い、本物の中国研究者である矢吹晋によるものである。

http://www25.big.jp/~yabuki/doc11/n-ec0203.htm

『書評・宮崎正弘著『本当は中国で何が起きているか』(徳間書店、2002年2月)

著者宮崎正弘氏は、九八年一一月『人民元大崩壊――中国発「世界連鎖恐慌」の衝撃』を書いた。曰く、

「世界が恐れる人民元切下げは、確実にやってくる」
「中国経済の破綻寸前の悲惨な状況を看破、不可避の通貨暴落が世界経済と日本にどんな衝撃を与えるかを詳説」と。

見通しは的中したであろうか。人民元の「暴落」は、起こったであろうか。
答えは明らかにノーだ。狼少年もどき(狼中年か)の予測は大外れに終わった。

著者は九五年三月には『中国大分裂』を論じている。
当時流行した「ポストケ小平期の大分裂」論に便乗したものだが、現実はどうか。
ケ小平は九七年二月に死去したが、「大分裂」なるものは起こらなかった。

大きな見通しを二つも間違えたからには、土下座して読者に謝罪するのが礼儀であり、なぜ間違えたかのかを真摯に反省し、顔を洗って出直すのが筋というものだ。

著者には、「倫理観もモラルも」まるで欠如している。
恬として恥じず、顧みて他を言う、

「中国は倫理もモラルも消失した」(二八〇ページ)と。

『本当は中国で何が起きているのか』と題された本を再読しても何が起きているか、まるで分からない。「マスコミの報じない中国情報」といいながら、ほとんどすべての情報源は、内外マスコミの旧聞だ。しかも間違いだらけの引用ときている。羊頭狗肉、盗人猛々しいとはこのことだ。

何清漣著『中国的陥穽』は九八年一月に出て、評者が内山書店『中国図書』に紹介したのは九九年一月のことだ。四年前の本をいまごろ騒ぐのはどうかしている(八六ページ)。

「中国の就労階層」なるものを英『エコノミスト』誌から引用しているが(八九ページ)、原書は陸学芸主編『当代中国社会階層研究報告』(社会科学文献出版社、二〇〇二年一月、四四ページ)で、その「中国社会階層結構的演変」の孫引きだ。

何清漣と陸学芸の本をごちゃ混ぜにしたのは、一知半解の一例にすぎない。

「中国のデッド・レーシォは、(中略)韓国よりも悪い数字」(九八ページ)だという。Debt Service Ratio, Liability Ratio, Foreign Debt Ratio は『中国統計年鑑』(二〇〇一年版二七〇ページ)で公表されている。

この基本データさえ把握できずに、デタラメ引用を重ねるばかり。

「上海・花東大学」は「上海・華東大学」のはず(二一六ページ)。
「軍事委員会主任」は「軍事委員会主席」(二六四ページ)の誤り。
「徐匡迪」に「じょ・きょうゆう」とルビを振る無知(二七五ページ)。

著者のセリフ「噴飯モノ」(二七六ページ)は、本書への評語として最適であろう。』

まさに、宮崎正弘は息を吐くように嘘をついているのである。

どうでもいいが、河添恵子の意見も滑稽だ。

「中国は着々と日本の領土を買い足している」んだって。

それがどうした?所有権は中国人のものになっても、日本の領土であることに変わりはないではないか。

バブル時代、日本人はアメリカ人に同様のことを言われたことを忘れているのだろうか。そういう言説は、民族差別が原因なのだ。つまり、間違いなく河添は中国人を差別しているのだ。

違うというならその根拠を示していただきたいものだ。
最後の産経新聞のコメントも失笑もの。

「狡猾な中国人には十分警戒しなければならない。」合法的なビジネスを行っている中国人の何を警戒するのか。

経営危機に陥っている自社の状況をもっと警戒しろよと言いたい。
http://murakusai.doorblog.jp/archives/30259519.html
http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/399.html#c9

[近代史02] 弥生人の起源 _ 自称専門家の嘘に騙されない為に これ位は知っておこう 中川隆
199. 中川隆[-10526] koaQ7Jey 2019年5月13日 09:03:06 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[1760]

諏訪春雄通信 854回 (2019年5月6日更新)
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 Y 日本の女帝

邪馬台国 卑弥呼


倭人は帯方の東南大海の中にあり。山島に依りて国邑をなす旧百余国漢の時朝見する者あり。今使訳通ずる所三十国郡より倭に至るには海岸に循って水行し、韓国をへて、あるいは南し、東し、その北岸狗邪韓国に至る七千余里。


その国、本また男子を以て王となり住まること七、八十年。倭国乱れ相攻伐すること歴年乃ち共に一女子を立てて王となす。名付けて卑弥呼という。鬼道に事え能く衆を惑わす。年すでに長大なるも夫婿なく男弟あり。佐けて国を治む王となりしより以来見るある者少なく婢千人を以て自ら侍せしむ。ただ男子一人あり。飲食を給し辞を伝え居処に出入す。宮室楼観城柵厳かに設け常に人有りて兵を持して守衛す。(「魏志倭人伝」)


邪馬台国の卑弥呼は中国で三世紀ごろに編纂された歴史書『三国志』のなかの『魏志倭人伝』の上掲の記事による。しかし、その史実については議論があり、なかにはその存在自体を疑う説すらある。

たとえば、田中英道氏は

『邪馬台国は存在しなかった』(勉誠出版、2019年)
https://www.amazon.co.jp/%E9%82%AA%E9%A6%AC%E5%8F%B0%E5%9B%BD%E3%81%AF%E5%AD%98%E5%9C%A8%E3%81%97%E3%81%AA%E3%81%8B%E3%81%A3%E3%81%9F-%E5%8B%89%E8%AA%A0%E9%81%B8%E6%9B%B8-%E7%94%B0%E4%B8%AD%E8%8B%B1%E9%81%93/dp/458523408X

で、

邪馬台国も卑弥呼も『魏志倭人伝』以外に記録がない、

邪馬台国も卑弥呼も蔑称である、

『魏志倭人伝』は伝聞をもとに構成された物語である、

日本に卑弥呼を祀った神社が存在しない、ただ一つ存在する神社は昭和57年に建立された、

などの多くの理由をあげて、存在否定論を展開している。

 たしかに、『魏志倭人伝』の記述通りの固有名詞を持つ国や女王が存在したか、どうかには疑問がのこるが、このような国の制度があったことは信じられる。

 日本の女帝とヒメ・ヒコ制 
 

日本の古代に姉妹と兄弟が祭事と政治を分担する統治形態ヒメ・ヒコ制が存在した。地名∔ヒメと地名∔ヒコの名の男女が分担する。

『古事記』・『日本書紀』・『風土記』などには宇佐地方(豊国)にウサツヒコとウサツヒメ、阿蘇地方にアソツヒコとアソツヒメ、加佐地方(丹後国)にカサヒコとカサヒメ、伊賀国にイガツヒメとイガツヒコ、芸都(きつ)地方(常陸国)にキツビコとキツビメがいたことを伝えている。また『播磨国風土記』では各地でヒメ神とヒコ神が一対で統治したことを伝えている。

その史実を反映して、日本の各地に百社近くヒメ・ヒコで一対となる神社がのこされている。これらをすべて虚構と片付けることはできない。

 

 

このヒメ・ヒコ制の根底には東南アジアから東アジア一帯に広まる姉妹の霊性が兄弟を守護するオナリ神信仰がある。

沖縄にオ(ヲ)ナリ神とよばれる、兄弟を主語する姉妹の霊力に対する信仰がある。はやく伊波普猷(いはふゆう)が『をなり神の島』(楽浪書院一九三八年)で、柳田国男が『妹の力』(創元社、一九四〇年)で論じた問題であった。

オナリは、奄美、沖縄、宮古、八重山の諸地域で、兄弟から姉妹をさすことばである。姉妹から兄弟をさすときはエケリという。

オナリ神は呪詛にも力を発揮するが、多くは兄弟が危機に陥ったときに守護してくれる。航海や戦争に出発の際、姉妹は守護のしるしとして、手ぬぐいや毛髪を持たせ、兄弟が危機に陥ったときに、姉妹の霊は白鳥になって現地に飛ぶという。

姉妹は兄弟に対して霊力で守護し、他方、兄弟は姉妹に対し、日常生活で守護の役割を果たす。しかも、家族のレベルを超えたさまざまな上位の祭祀集団にもこの関係をみることができる。根神(ニーガミ)と根人(ニーッチュ)、ノロと按司(アジ)などとよばれる地域の信仰関係、聞得大君(きこえおおきみ)と王などの王権の信仰関係である。

この信仰の源流については、東南アジアに求める説が有力である。オナリ神を最初に学問の課題として体系化した柳田国男は、オナリ神の源流を日本の外に求めることはしなかったのであるが、柳田の影響下に、戦後、この問題に取り組んだ社会人類学者の馬淵東一は、東南アジアとの関係を強調した。(「沖縄先島のオナリ神」『日本民俗学』一九五五年)

さらに、馬淵の教え子の社会人類学者の鍵谷明子氏は長期のインドネシア調査を続け、その成果を『インドネシアの魔女』(学生社、一九九六年)としてまとめた。鍵谷氏は、インドネシアの小スンバ列島のなかのサブ島、ライジュア島という二つの島を二十年近く毎年訪れ、沖縄のオナリ神信仰と一致する信仰を発見した。この二つの島では、兄弟が遠い旅に出るとき、必ず姉妹に知らせ、姉妹はイカットとよばれる手織りのかすりの布を贈る。このイカットには、兄弟を守る強力な霊力があると信じられている。

馬淵・鍵谷両氏の研究によって、オナリ神信仰の源流は、確定したように思われていた。


しかし、と私は考える。日本の古代神話でも、イザナギ・イザナミの国生み神話、天地分離神話、海幸彦・山幸彦神話などの王権神話の重要なものが、東南アジア起源として説明されていたが、私は、二〇〇五年に角川書店から刊行した『角川選書 日本王権神話と中国南方神話』で、これらの神話の原型が中国長江流域の少数民族神話にあることを、多くの実例をあげて明らかにした。同じことが、オナリ神についてもいえるのではないか。

東南アジアに、日本の神話や習俗と類似するものがのこっているのは、多くの場合、中国大陸から左右対称にせり出していったものの、末端残留現象として説明できるのである。

オナリ神信仰をアジア起源とすると、説明のつかないことがある。

沖縄のオナリ神信仰と相似の信仰が本土日本のヒメ・ヒコ制である。もしオナリ神が東南アジア起源なら、本土のヒメ・ヒコ制も東南アジア起源となるのであろうか。

ヒメ・ヒコ制は、すでに説明したように、兄弟と姉妹が政治と神事を分担する統治の形態である。一般に、「地名+ヒメ」と「地名+ヒコ」の名を持つ男女が、一対となって、その地域を支配する原始的な王権のあり方であった。具体例は、『日本書紀』神武天皇即位前紀のウサの国の祖先ウサツヒコとウサツヒメを始め、日本の古代にかなりの数拾い出すことができる。その原型は、卑弥呼とその弟の関係にまでたどり着くことができる。あきらかにオナリ神信仰に一致する。

ヒメ・ヒコ制は女性の霊力に対する信仰である。このような信仰は、中国南部に過去もいまも広がって存在する。

女性が霊力を持つと信じられる理由の一つは、神がかりによる特殊な予知能力を身につけているからである。憑霊型の女性シャーマンである。日本の古代の女王であった卑弥呼、壱与、神功皇后、飯豊女王の四名ともにあきらかに憑霊型の女性シャーマンであった。長江流域には、神が巫女の身体に宿るシャーマニズムの憑霊型が盛んであり、日本の古代の巫女の女王の源流は、長江流域に存在する可能性が考えられるのである。

このようにのべてくれば、邪馬台国や卑弥呼が単なる中国歴史書の著者が創りあげた架空の物語などでないことは明らかである。古代日本に実在した国家制度の正確な記述である。
http://home.s00.itscom.net/haruo/sub50.html
http://www.asyura2.com/09/reki02/msg/547.html#c199

[近代史3] 西洋美術史の専門家だった(?)田中英道は何時から頭がおかしくなったのか? 中川隆
33. 中川隆[-10525] koaQ7Jey 2019年5月13日 09:05:44 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[1761]

田中英道は

『邪馬台国は存在しなかった』(勉誠出版、2019年)
https://www.amazon.co.jp/%E9%82%AA%E9%A6%AC%E5%8F%B0%E5%9B%BD%E3%81%AF%E5%AD%98%E5%9C%A8%E3%81%97%E3%81%AA%E3%81%8B%E3%81%A3%E3%81%9F-%E5%8B%89%E8%AA%A0%E9%81%B8%E6%9B%B8-%E7%94%B0%E4%B8%AD%E8%8B%B1%E9%81%93/dp/458523408X


邪馬台国と卑弥呼の存在否定論を展開している。


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諏訪春雄通信 854回 (2019年5月6日更新)
http://home.s00.itscom.net/haruo/sub50.html


 Y 日本の女帝

邪馬台国 卑弥呼


倭人は帯方の東南大海の中にあり。山島に依りて国邑をなす旧百余国漢の時朝見する者あり。今使訳通ずる所三十国郡より倭に至るには海岸に循って水行し、韓国をへて、あるいは南し、東し、その北岸狗邪韓国に至る七千余里。


その国、本また男子を以て王となり住まること七、八十年。倭国乱れ相攻伐すること歴年乃ち共に一女子を立てて王となす。名付けて卑弥呼という。鬼道に事え能く衆を惑わす。年すでに長大なるも夫婿なく男弟あり。佐けて国を治む王となりしより以来見るある者少なく婢千人を以て自ら侍せしむ。ただ男子一人あり。飲食を給し辞を伝え居処に出入す。宮室楼観城柵厳かに設け常に人有りて兵を持して守衛す。(「魏志倭人伝」)


邪馬台国の卑弥呼は中国で三世紀ごろに編纂された歴史書『三国志』のなかの『魏志倭人伝』の上掲の記事による。しかし、その史実については議論があり、なかにはその存在自体を疑う説すらある。

たとえば、田中英道氏は『邪馬台国は存在しなかった』(勉誠出版、2019年)で、


邪馬台国も卑弥呼も『魏志倭人伝』以外に記録がない、

邪馬台国も卑弥呼も蔑称である、

『魏志倭人伝』は伝聞をもとに構成された物語である、

日本に卑弥呼を祀った神社が存在しない、ただ一つ存在する神社は昭和57年に建立された、

などの多くの理由をあげて、存在否定論を展開している。

 たしかに、『魏志倭人伝』の記述通りの固有名詞を持つ国や女王が存在したか、どうかには疑問がのこるが、このような国の制度があったことは信じられる。

 日本の女帝とヒメ・ヒコ制 
 

日本の古代に姉妹と兄弟が祭事と政治を分担する統治形態ヒメ・ヒコ制が存在した。地名∔ヒメと地名∔ヒコの名の男女が分担する。

『古事記』・『日本書紀』・『風土記』などには宇佐地方(豊国)にウサツヒコとウサツヒメ、阿蘇地方にアソツヒコとアソツヒメ、加佐地方(丹後国)にカサヒコとカサヒメ、伊賀国にイガツヒメとイガツヒコ、芸都(きつ)地方(常陸国)にキツビコとキツビメがいたことを伝えている。また『播磨国風土記』では各地でヒメ神とヒコ神が一対で統治したことを伝えている。

その史実を反映して、日本の各地に百社近くヒメ・ヒコで一対となる神社がのこされている。これらをすべて虚構と片付けることはできない。

 

 

このヒメ・ヒコ制の根底には東南アジアから東アジア一帯に広まる姉妹の霊性が兄弟を守護するオナリ神信仰がある。

沖縄にオ(ヲ)ナリ神とよばれる、兄弟を主語する姉妹の霊力に対する信仰がある。はやく伊波普猷(いはふゆう)が『をなり神の島』(楽浪書院一九三八年)で、柳田国男が『妹の力』(創元社、一九四〇年)で論じた問題であった。

オナリは、奄美、沖縄、宮古、八重山の諸地域で、兄弟から姉妹をさすことばである。姉妹から兄弟をさすときはエケリという。

オナリ神は呪詛にも力を発揮するが、多くは兄弟が危機に陥ったときに守護してくれる。航海や戦争に出発の際、姉妹は守護のしるしとして、手ぬぐいや毛髪を持たせ、兄弟が危機に陥ったときに、姉妹の霊は白鳥になって現地に飛ぶという。

姉妹は兄弟に対して霊力で守護し、他方、兄弟は姉妹に対し、日常生活で守護の役割を果たす。しかも、家族のレベルを超えたさまざまな上位の祭祀集団にもこの関係をみることができる。根神(ニーガミ)と根人(ニーッチュ)、ノロと按司(アジ)などとよばれる地域の信仰関係、聞得大君(きこえおおきみ)と王などの王権の信仰関係である。

この信仰の源流については、東南アジアに求める説が有力である。オナリ神を最初に学問の課題として体系化した柳田国男は、オナリ神の源流を日本の外に求めることはしなかったのであるが、柳田の影響下に、戦後、この問題に取り組んだ社会人類学者の馬淵東一は、東南アジアとの関係を強調した。(「沖縄先島のオナリ神」『日本民俗学』一九五五年)

さらに、馬淵の教え子の社会人類学者の鍵谷明子氏は長期のインドネシア調査を続け、その成果を『インドネシアの魔女』(学生社、一九九六年)としてまとめた。鍵谷氏は、インドネシアの小スンバ列島のなかのサブ島、ライジュア島という二つの島を二十年近く毎年訪れ、沖縄のオナリ神信仰と一致する信仰を発見した。この二つの島では、兄弟が遠い旅に出るとき、必ず姉妹に知らせ、姉妹はイカットとよばれる手織りのかすりの布を贈る。このイカットには、兄弟を守る強力な霊力があると信じられている。

馬淵・鍵谷両氏の研究によって、オナリ神信仰の源流は、確定したように思われていた。


しかし、と私は考える。日本の古代神話でも、イザナギ・イザナミの国生み神話、天地分離神話、海幸彦・山幸彦神話などの王権神話の重要なものが、東南アジア起源として説明されていたが、私は、二〇〇五年に角川書店から刊行した『角川選書 日本王権神話と中国南方神話』で、これらの神話の原型が中国長江流域の少数民族神話にあることを、多くの実例をあげて明らかにした。同じことが、オナリ神についてもいえるのではないか。

東南アジアに、日本の神話や習俗と類似するものがのこっているのは、多くの場合、中国大陸から左右対称にせり出していったものの、末端残留現象として説明できるのである。

オナリ神信仰をアジア起源とすると、説明のつかないことがある。

沖縄のオナリ神信仰と相似の信仰が本土日本のヒメ・ヒコ制である。もしオナリ神が東南アジア起源なら、本土のヒメ・ヒコ制も東南アジア起源となるのであろうか。

ヒメ・ヒコ制は、すでに説明したように、兄弟と姉妹が政治と神事を分担する統治の形態である。一般に、「地名+ヒメ」と「地名+ヒコ」の名を持つ男女が、一対となって、その地域を支配する原始的な王権のあり方であった。具体例は、『日本書紀』神武天皇即位前紀のウサの国の祖先ウサツヒコとウサツヒメを始め、日本の古代にかなりの数拾い出すことができる。その原型は、卑弥呼とその弟の関係にまでたどり着くことができる。あきらかにオナリ神信仰に一致する。

ヒメ・ヒコ制は女性の霊力に対する信仰である。このような信仰は、中国南部に過去もいまも広がって存在する。

女性が霊力を持つと信じられる理由の一つは、神がかりによる特殊な予知能力を身につけているからである。憑霊型の女性シャーマンである。日本の古代の女王であった卑弥呼、壱与、神功皇后、飯豊女王の四名ともにあきらかに憑霊型の女性シャーマンであった。長江流域には、神が巫女の身体に宿るシャーマニズムの憑霊型が盛んであり、日本の古代の巫女の女王の源流は、長江流域に存在する可能性が考えられるのである。

このようにのべてくれば、邪馬台国や卑弥呼が単なる中国歴史書の著者が創りあげた架空の物語などでないことは明らかである。古代日本に実在した国家制度の正確な記述である。
http://home.s00.itscom.net/haruo/sub50.html
http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/206.html#c33

[近代史3] 日本人は「狂ったアメリカ」を知らなすぎる 中川隆
46. 中川隆[-10524] koaQ7Jey 2019年5月13日 09:20:03 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[1762]


2019.05.13
イラン攻撃を正当化するため、自作自演で米空母を撃沈させるのではとの懸念
https://plaza.rakuten.co.jp/condor33/diary/201905130000/


 アメリカ軍は空母エイブラハム・リンカーンと戦略爆撃機のB-52を中東へ派遣してイランに圧力を加えようとしているが、すでに空母は海軍の主役ではない。戦争になれば、ミサイルで簡単に撃沈されてしまう。今は潜水艦とミサイルの重要度が増していると言われている。

 実際、イラン側は戦闘になればミサイルで撃沈すると警告しているのだが、どうしてもアメリカにイランを攻撃させたいアメリカのシオニスト、イスラエル、サウジアラビアなどはアメリカの空母を撃沈してイランに責任をなすりつけようとしていると疑っている。

 いわゆる偽旗作戦だが、これはアメリカ支配層の常套手段でもある。例えば、1898年にキューバのハバナ港でアメリカの軍艦メインが爆沈した事件。アメリカはスペインが爆弾を仕掛けたと主張、「米西戦争」を開始、ラテン・アメリカを植民地化する。フィリピンもこの戦争で手に入れたのだが自作自演説は消えていない。

 統合参謀本部やCIAの好戦派はドワイト・アイゼンハワー政権の時代からキューバへの軍事侵攻を計画していた。当初の予定では、亡命キューバ人の部隊に奇襲攻撃をさせ、その部隊を救援するという口実でアメリカ軍が攻撃するという手順になっていたが、アメリカ軍の侵攻はジョン・F・ケネディ大統領に阻止された。

 そのケネディは1961年11月にアレン・ダレスCIA長官を、62年1月にはチャールズ・キャベルCIA副長官を、62年2月には秘密工作部門の責任者だったリチャード・ビッセル計画局長も解任している。

 好戦派のひとりであるライマン・レムニッツァー統合参謀本部議長はそれでも侵略を諦めず、1962年3月にノースウッズと名づけられた偽旗作戦を国防長官に説明、拒否されている。その後も議長は大統領を説得しようとするが失敗、1962年10月にケネディはレムニッツァーの議長再任を拒否した。

 ノースウッズに関連した資料の大半は廃棄されてしまったので詳細は不明だが、残された文書によると、キューバのグアンタナモにあるアメリカ海軍の基地をキューバ側のエージェントを装って攻撃、グアンタナモ湾に浮かぶアメリカの艦船を爆破してその責任をキューバに押しつけることが考えられている。

 また、マイアミを含むフロリダの都市やワシントンでプラスチック爆弾を爆発させてキューバのエージェントを逮捕、事前に用意していた書類を公表してキューバ政府が実行したと人びとに信じさせる計画もあった。

 また、民間旅客機の撃墜も演出しようとしていた。フロリダ州にあるエグリン空軍基地で民間機のコピー機を作り、本物の航空機は自動操縦できるようにする。

 CIAが選んだ人びとを乗せたコピー機を本物として通常のフライトのように離陸させ、途中で無人の本物と入れ替える。コピー機はエグリン基地へ降り、無人機はフライト・プランに従って飛行、キューバ上空で救助信号を出し、キューバのミグ戦闘機に攻撃されていると報告、その途中で自爆するというシナリオになっていた。

 これらはノースウッズに含まれるテロ行為の一部にすぎないのだが、好戦派がキューバ制圧にこれほど執着する理由は、当時、彼らが計画していたソ連や中国に対する先制核攻撃にあったと見るべきだろう。

 アメリカ軍が1957年に作成したドロップショット作戦では300発の核爆弾をソ連の100都市に落とすることになっていたのだが、そのために必要な戦略爆撃機やICBM(大陸間弾道ミサイル)の準備にはある程度の時間が必要。

 ​アメリカが必要なICBMを準備でき、しかもソ連が準備できていないという条件を満たすのは1963年の後半​だと考えられていた。レムニッツァーは議長でなくなっていたが、好戦派仲間のカーティス・ルメイ空軍参謀長がいる。

 そして1963年11月22日、ケネディ大統領は暗殺された。CIAはキューバ犯行説、ソ連黒幕説を流して「報復攻撃」へ誘導しようとするが、失敗した。

 ベトナムへ軍事介入する口実として使われた1964年の「トンキン湾事件」も偽旗作戦のひとつとして有名。アメリカの駆逐艦が北ベトナムの魚雷艇に砲撃されたとアメリカ政府は宣伝、1965年2月には「報復」と称して本格的な北ベトナムに対する空爆を始めているが、この事件の背後にはアメリカの特殊部隊による作戦があった。

 この特殊部隊の指揮下にあった南ベトナム軍の哨戒魚雷艇が1964年7月に北ベトナムを攻撃、北ベトナムが派遣した高速艇が到着したときには姿を消してた。そこには情報収集活動をしていたアメリカの駆逐艦、マドックスがいるだけ。北ベトナムはマドックスを「報復」として攻撃したと言われている。

 アメリカでは北ベトナムからの先制攻撃で戦闘になったとされ、議会は「東南アジアにおける行動に関する議会決議(トンキン湾決議)」を可決、1965年2月からアメリカ軍は「ローリング・サンダー作戦」を開始、ベトナムへの本格的な軍事介入になる。

 イランを攻撃するため、似たようなことをネオコンは目論んでいると疑われているのだ。

 巨大金融資本と結びついたシオニスト、いわゆるネオコンは1980年代からイラクのサダム・フセインを排除しようとしていた。イラクに親イスラエル体制を築いてトルコ、イラク、ヨルダンの親イスラエル国帯を築いてシリアとイランを分断、両国を破壊しようと考えたのだ。

 1991年、湾岸戦争が終わった直後に国防次官のポール・ウォルフォウィッツはイラク、イラン、シリアを殲滅すると口にしていたとウェズリー・クラーク元欧州連合軍(現在のNATO作戦連合軍)最高司令官は語っているが、これはネオコンが1980年代から言っていたことだ。

 1991年12月にソ連が消滅、その2カ月後にウォルフォウィッツを中心とするネオコンのグループは国防総省のDPG(国防計画指針)草稿という形で世界制覇プランを作成した。いわゆるウォルフォウィッツ・ドクトリンである。ネオコンは現在に至るまでこの作戦に執着している。

 2001年9月11日にニューヨークの世界貿易センターとバージニア州アーリントンの国防総省本部庁舎(ペンタゴン)が攻撃されるが、そのショックを利用してネオコンは一気に国内の刑務所化と国外での軍事侵略を本格化させた。

 世界貿易センターとペンタゴンが攻撃されてまもなく、国防長官の周辺は軍事侵略の予定国リストを作成する。イラク、シリア、イランにレバノン、リビア、ソマリア、スーダンを加えた7カ国だ。いずれも9月11日の攻撃とは関係なく、関係が疑われた2カ国は含まれていない。
https://plaza.rakuten.co.jp/condor33/diary/201905130000/
http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/175.html#c46

[近代史3] ケネディはヤラセの東西冷戦体制を終わらせようとしたのでユダヤ金融資本に殺された 中川隆
6. 中川隆[-10523] koaQ7Jey 2019年5月13日 09:22:05 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[1763]


 いわゆる偽旗作戦だが、これはアメリカ支配層の常套手段でもある。例えば、1898年にキューバのハバナ港でアメリカの軍艦メインが爆沈した事件。アメリカはスペインが爆弾を仕掛けたと主張、「米西戦争」を開始、ラテン・アメリカを植民地化する。フィリピンもこの戦争で手に入れたのだが自作自演説は消えていない。

 統合参謀本部やCIAの好戦派はドワイト・アイゼンハワー政権の時代からキューバへの軍事侵攻を計画していた。当初の予定では、亡命キューバ人の部隊に奇襲攻撃をさせ、その部隊を救援するという口実でアメリカ軍が攻撃するという手順になっていたが、アメリカ軍の侵攻はジョン・F・ケネディ大統領に阻止された。

 そのケネディは1961年11月にアレン・ダレスCIA長官を、62年1月にはチャールズ・キャベルCIA副長官を、62年2月には秘密工作部門の責任者だったリチャード・ビッセル計画局長も解任している。

 好戦派のひとりであるライマン・レムニッツァー統合参謀本部議長はそれでも侵略を諦めず、1962年3月にノースウッズと名づけられた偽旗作戦を国防長官に説明、拒否されている。その後も議長は大統領を説得しようとするが失敗、1962年10月にケネディはレムニッツァーの議長再任を拒否した。

 ノースウッズに関連した資料の大半は廃棄されてしまったので詳細は不明だが、残された文書によると、キューバのグアンタナモにあるアメリカ海軍の基地をキューバ側のエージェントを装って攻撃、グアンタナモ湾に浮かぶアメリカの艦船を爆破してその責任をキューバに押しつけることが考えられている。

 また、マイアミを含むフロリダの都市やワシントンでプラスチック爆弾を爆発させてキューバのエージェントを逮捕、事前に用意していた書類を公表してキューバ政府が実行したと人びとに信じさせる計画もあった。

 また、民間旅客機の撃墜も演出しようとしていた。フロリダ州にあるエグリン空軍基地で民間機のコピー機を作り、本物の航空機は自動操縦できるようにする。

 CIAが選んだ人びとを乗せたコピー機を本物として通常のフライトのように離陸させ、途中で無人の本物と入れ替える。コピー機はエグリン基地へ降り、無人機はフライト・プランに従って飛行、キューバ上空で救助信号を出し、キューバのミグ戦闘機に攻撃されていると報告、その途中で自爆するというシナリオになっていた。

 これらはノースウッズに含まれるテロ行為の一部にすぎないのだが、好戦派がキューバ制圧にこれほど執着する理由は、当時、彼らが計画していたソ連や中国に対する先制核攻撃にあったと見るべきだろう。

 アメリカ軍が1957年に作成したドロップショット作戦では300発の核爆弾をソ連の100都市に落とすることになっていたのだが、そのために必要な戦略爆撃機やICBM(大陸間弾道ミサイル)の準備にはある程度の時間が必要。

 ​アメリカが必要なICBMを準備でき、しかもソ連が準備できていないという条件を満たすのは1963年の後半​だと考えられていた。レムニッツァーは議長でなくなっていたが、好戦派仲間のカーティス・ルメイ空軍参謀長がいる。

 そして1963年11月22日、ケネディ大統領は暗殺された。CIAはキューバ犯行説、ソ連黒幕説を流して「報復攻撃」へ誘導しようとするが、失敗した。

 ベトナムへ軍事介入する口実として使われた1964年の「トンキン湾事件」も偽旗作戦のひとつとして有名。アメリカの駆逐艦が北ベトナムの魚雷艇に砲撃されたとアメリカ政府は宣伝、1965年2月には「報復」と称して本格的な北ベトナムに対する空爆を始めているが、この事件の背後にはアメリカの特殊部隊による作戦があった。

 この特殊部隊の指揮下にあった南ベトナム軍の哨戒魚雷艇が1964年7月に北ベトナムを攻撃、北ベトナムが派遣した高速艇が到着したときには姿を消してた。そこには情報収集活動をしていたアメリカの駆逐艦、マドックスがいるだけ。北ベトナムはマドックスを「報復」として攻撃したと言われている。

 アメリカでは北ベトナムからの先制攻撃で戦闘になったとされ、議会は「東南アジアにおける行動に関する議会決議(トンキン湾決議)」を可決、1965年2月からアメリカ軍は「ローリング・サンダー作戦」を開始、ベトナムへの本格的な軍事介入になる。
https://plaza.rakuten.co.jp/condor33/diary/201905130000/
http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/126.html#c6

[地域10] <娘身売りの時代>  昭和初期・東北地方 染川瀝青
8. 中川隆[-10522] koaQ7Jey 2019年5月13日 09:28:18 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[1764]
アメリカの支配層と話し合っても意味はないと言う人もいるが、それは彼らに歩み寄るという発想がなく、交渉とは自分たちの意向に従うかどうかだからだ。しかも約束を守らない。

アメリカやイギリス、つまりアングロサクソン系の国々の支配層は20世紀初頭にハルフォード・マッキンダーがまとめたハートランド理論に基づいて今でも行動している可能性が高い。


 その理論とは世界制覇のためにはロシアを制圧する必要があり、そのためにユーラシア大陸の沿岸部を支配して内陸部を締め上げていかなければならないというもの。


 つまり、西ヨーロッパ、パレスチナ(1948年にイスラエル建国を宣言)、サウジアラビア(サウード家のアラビアを意味するサウジアラビアが登場するのは1932年)、インド、東南アジア諸国、朝鮮半島をつなぐ内部三日月帯を、またその外側に外部三日月帯を想定、内陸部に圧力をかけていこうというわけだ。そうした三日月帯の西の果てがイギリス、東の果てが日本である。


 イギリスは中国(清)を侵略して富を奪うため、1840年から42年にかけてアヘン戦争、56年から60年にかけてアロー戦争(第2次アヘン戦争)を仕掛けて勝利した。麻薬を売りつけるだけが目的ではない。


 戦争の結果、清は広州、厦門、福州、寧波、上海の開港とイギリス人の居住、香港の割譲、賠償金やイギリス軍の遠征費用などの支払いを最初の戦争で認めさせられ、次の戦争では賠償金の支払い、天津の開港、九龍半島の割譲を認めさせられている。香港はイギリスによるアヘン密輸と侵略戦争の象徴だ。


 しかし、当時のイギリス軍に清の内陸部を支配する力はなかった。戦争でイギリス軍が制圧できたのは沿岸の一部地域だけ。内陸を支配するためにはそれなりの規模の地上部隊が必要だった。そこで目をつけられたのが日本だ。


 イギリスを後ろ盾とする薩摩と長州が徳川体制を倒して明治体制をスタートさせ、琉球併合、台湾への派兵、江華島での軍事的な挑発、日清戦争、日露戦争と続くが、これはイギリスの戦略に合致している。明治政府の支配層はそれが自分たちの私的な利益につながると認識していただろう。


 日本は関東大震災でウォール街に君臨していたJPモルガンの影響下に入ったが、この巨大金融資本は歴史的にイギリスのシティを拠点とする巨大資本の支配下にあった。


 アメリカでは1932年の大統領選挙でウォール街と対立していたニューディール派の大統領、フランクリン・ルーズベルトが勝利する。ルーズベルトを生んだ一族は支配層の一角を占めているが、自身が病気で下半身不随になったこともあり、その出身母体から離れたという。1933年から34年にかけてウォール街がニューディール派政権を倒そうとクーデターを計画したのはそのためだ。


 その1932年、つまりウォール街と強う結びついていたハーバート・フーバー政権の最後の年にアメリア大使として日本へ送り込まれたジョセフ・グルーはJPモルガンの総帥の妻の従兄弟。この人物は日本の政界、財界、そして皇族にも太いパイプを持っていた。第2次世界大戦後、日本の進路を決めたジャパン・ロビーの中心はジョセフ・グルーにほかならない。


 ちなみにグルーの妻は少女時代に華族女学校(女子学習院)で学んだことがあり、その曾祖父にあたるオリバー・ペリーはアメリカ海軍の伝説的な軍人で、その弟は「黒船」で有名なマシュー・ペリーだ。
https://plaza.rakuten.co.jp/condor33/diary/201903040000/




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2019.03.18
麻薬取引はCIAや巨大銀行と密接な関係があり、明治維新の背後には麻薬業者

 ある音楽グループのメンバーで俳優としても活動したいた人物がコカインを摂取した容疑で関東信越厚生局麻薬取締部に逮捕されたという。その人物が薬物を使用しているという情報が昨年の秋にあり、内偵していたようだ。


 伝えられているところによると、任意同行を求めて尿検査をしたところコカインの陽性反応が出たのだが、自宅からコカインは見つからなかったという。コカインを使ったと認識した段階で任意同行を求めた可能性が高く、どのようなルートで麻薬を入手し、どこで摂取したのかも当局は知っているのだろう。


 本ブログでも指摘してきたが、麻薬取引はCIAの活動と深く結びつき、麻薬資金を巨大金融機関は扱っている。ベトナム戦争の当時、最大の非合法ケシの産地は東南アジアであり、アフガニスタンでCIAが秘密工作を始めると主要産地はパキスタンとアフガニスタンをまたぐ山岳地帯へ移動、中米で秘密工作を始めるとコカインの流通量が増えた。いずれも黒幕はCIAであり、その儲けを扱うために「CIAの銀行」が存在する。


 世界の金融システムは2008年に破綻した。リーマン・ブラザーズの倒産はその象徴にすぎない。システムが崩れそうになったのだ。この倒産を利用して欧米の支配層は庶民に破綻の尻拭いをさせた。超法規的な救済だが、その後、富が集中するはスピードは加速していく。


 この金融破綻、いわゆるリーマン・ショックを処理する際に麻薬資金も重要な役割を果たしたと伝えられている。UNODC(国連薬物犯罪事務所)のアントニオ・マリア・コスタによると、​麻薬取引で稼いだ利益3520億ドルの大半が経済システムの中に吸い込まれ、いくつかの銀行を倒産から救った可能性​があるという。麻薬資金は流動性が高く、銀行間ローンで利用されたとも言われている。


 本ブログでは繰り返し指摘してきたが、CIAはウォール街の人脈によって作られた情報機関である。同じように、イギリスのMI6(SIS)はシティと結びついている。


 イギリスに限らないが、その支配者は侵略と略奪で富を築いてきた。金や石油といった資源を盗んでいるが、19世紀には中国(清)を侵略するためにアヘンを売りつけ、戦争で利権を奪った。アヘン戦争やアロー戦争だ。


 そのときにアヘン取引で大儲けした会社のひとつがジャーディン・マセソン。インドで傭兵の武装蜂起で始まった大反乱(セポイの反乱)が終わった翌年、1859年に同社はトーマス・グラバーを長崎へ、ウィリアム・ケズウィックを横浜へ派遣した。


 グラバーは明治維新をテーマにしたドラマによく出てくる人物だが、ケズウィックの方が大物だった。ジャーディン・マセソン創立者の一族で、麻薬資金を処理していた香港上海銀行(現在はHSBC銀行)とも深く結びついている。有り体に言うと、明治維新の黒幕は麻薬業者だ。


 CIAがエル・サルバドルを含むラテン・アメリカ諸国で死の部隊を使ってアメリカの巨大企業のカネ儲けに邪魔な人物や団体を抹殺していた当時、ロサンゼルス市警の内部の麻薬担当はCIAの活動に肉薄、司法省などからの攻撃を受ける。捜査チームを追い込むために税務調査が実施され、細かい違法行為を見つけ出して刑務所へ入れると脅され、退職を余儀なくされたと言われている。


 また、CIAの手先だったニカラグアの反革命ゲリラ(コントラ)のコカイン取引を暴く連載記事を1996年に書いたサンノゼ・マーキュリー紙のゲーリー・ウェッブ記者は有力メディアから一斉攻撃を受けて退職を余儀なくされ、自殺に追い込まれた。


 今回のミュージシャン/俳優のコカイン事件を伝えているマスコミも芸能界の実態を知っているだろう。
https://plaza.rakuten.co.jp/condor33/diary/201903180000/  

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7. 知的上級者さん[159] km2TSY_ji4mO0oKzgvE 2019年4月24日 03:17:43: VTH59AY6XQ : WWk1VDA0bXVWVGM=[79]
日本軍に限らず、どこの戦争でも強姦したくて進軍するというのがあるからな
上海でもやったし、ロシアでもやった
美人のロシア娘を見つけたら、みんなで回すもんだから
誰かが性病になっていると、部隊全員穴兄弟になって性病が蔓延する
それで731部隊に性病をなんとかしてくれという依頼があった
逆に日本でも、終戦で横浜に上陸した米兵が片っ端から強姦しまくっていた
トラックに乗り、どこに女がいるんだと、学校や病院へと強姦ツアーに出かける
品川の病院では24才の看護婦1人に27人の米兵が群がったという
そしてこれは戦争に負けたから仕方がないでは済まない話なのだ
日本はアジアで略奪した金品をフィリピンに集めていたが
そこでインゴットにしていたのはマッカーサーの父親なのだ
戦っているはずの日米は、上の方では繋がっていた
日米の国民を犠牲にして、日米の軍産が金儲けのために戦争をしていた
だからロックフェラーに資本注入された三菱の主要工場は空襲を受けていないし
東京大空襲のときは上級国民が避難してから空襲が行われている

つまり、このイカサマ戦争では天皇とマッカーサーは対等な関係だったのだ
だから天皇はマッカーサーに米兵の強姦をやめさせろと言える立場だった
天皇が朝鮮人でなかったら言ったはずだ
http://www.asyura2.com/18/warb22/msg/630.html#c7




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2019.04.03
日本が戦争の準備を進める中、中国とイタリアは一帯一路に関する覚書を交わした
 中国の習近平国家首席が3月21日から26日にかけてヨーロッパ3カ国を歴訪、最初の訪問国であるイタリアでは23日にジュゼッペ・コンテ首相と会談し、「一帯一路」での協力に関する覚書を交わしている。言うまでもなく、一帯一路とは陸のシルクロードと海のシルクロードを組み合わせ、ユーラシア大陸の東と西で交易を盛んにしようというものだ。


 習近平国家主席が訪問する直前、イタリア政府は覚書を交わすと宣言、アメリカ政府から中国との関係を強化するなと強い圧力を受けていた。その圧力をはねつけたということである。すでにEU加盟国のうちギリシャやブルガリアなど13カ国が覚書に署名しているが、G7のメンバー国としては初めてだ。


 イギリスとアメリカは遅くとも20世紀の初頭、ユーラシア大陸の沿岸部を制圧し、内陸部を締め上げるという長期戦略を立てた。おそらくこの戦略は今も生きている。ジョージ・ケナンの封じ込め政策もズビグネフ・ブレジンスキーのグランド・チェスボードもその戦略に基づいている。


 その長期戦略では大陸の沿岸部は内部三日月帯と名づけられ、その外側に外部三日月帯が想定されている。内部三日月帯はヨーロッパから中東、インド、東南アジア、そして東アジアを結び、外部三日月帯はアフリカ大陸の南部からオーストラリア、そして北アメリカへつながる。内部三日月帯の西端がイギリス、そして東端に日本がある。日本はイギリスやアメリカの支配層にとって大陸を侵略するための拠点であり、日本人は彼らの傭兵と見なされてきた。

 当初、この内部三日月地帯には大きな穴が中東にあった。そこでイギリスの支配層は1932年にサウジアラビアを、1948年にはイスラエルを作ることになる。


 イギリスの中国侵略は19世紀のアヘン戦争で本格化する。その戦争で中国(清)に勝利したイギリスだが、内陸部を占領する戦力はなかった。そこで日本が目をつけられて「明治維新」が引き起こされたと言える。徳川体制を倒し、薩長政権に資金を貸し付け、技術を供与して「近代化」させたのである。この侵略にはイギリスと同じアングロ・サクソン系のアメリカも加わっていた。


 海洋国家であるイギリスが優位だったのは、物資や人の移動は海の方が早く、運べる量も多かったこと。そこで内陸部の国は高速鉄道の建設も目論む。ロシアがシベリア横断鉄道を建設したのはそのためだ。


 ソ連を経て現在のロシアも鉄道の延長とパイプラインの建設を進めている。2011年夏にはドミトリ・メドベージェフ首相がシベリアで金正日と会談し、朝鮮がロシアに負っている債務の90%(約110億ドル)を帳消しにし、10億ドルの投資をすることで合意している。その合意から間もない2011年12月に金正日は急死するが、計画が消えたわけではなかった。韓国はロシアとの関係を強めていたので、朝鮮が鉄道やパイプラインの建設に同意すれば建設は進むはずだった。


 この金正日は列車で移動中、車内で急性心筋梗塞を起こして死亡したと朝鮮の国営メディアは伝えていたが、韓国の情報機関であるNIS(国家情報院)の元世勲院長(2009年〜13年)は暗殺されたと見ていた。


 大陸の西側でもロシアとEUがパイプラインで結びつきを強めようとしていた。そのパイプラインが通っているウクライナでバラク・オバマ政権はネオ・ナチを使ってクーデターを実行した。2014年2月のことだ。ウクライナを制圧すればNATO軍はロシアとの国境まで進むことができ、軍事的に恫喝できるとアメリカは考えたのだろう。


 ところが、重要な軍港があるクリミアの制圧に失敗、東部でも抵抗運動が続く。しかも、このクーデターでアメリカ支配層の本心を見た中国はロシアに接近、両国は戦略的な同盟関係を結んだ。それまで中国はアメリカと連携していたのだが、クーデター以降、その方針は大きく変化した。


 アメリカは陸のシルクロードを潰すため、新疆ウイグル自治区、アフガニスタン、ウクライナなどに戦闘部隊を送り込んでいる。そのために使われているのはジハード傭兵やネオ・ナチだ。今後、カフカス地域でも軍事的な緊張を高める可能性がある。


 海のシルクロードでは、中国から見て出発点である東シナ海や南シナ海で中国を封じ込めようとしている。その戦略に従って自衛隊は沖縄で拠点作りを急いでいるようだ。イタリアが戦争から経済活動へ舵を切ろうとしているのに対し、日本は明治維新以降の方針を堅持、略奪戦争を準備している。
https://plaza.rakuten.co.jp/condor33/diary/201904020000/


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2019.05.02
日本で天皇の代替わり儀式が行われる中、米政府はベネズエラでクーデターに失敗

 日本のマスコミは天皇が退位する、即位すると騒いでいる。彼らにとって天皇とは「至高の存在」なのだろう。日本は第2次世界大戦で降伏する前と同じように天皇制官僚国家であり、その元首は天皇だということである。


 しかし、徳川時代の天皇は忘れ去られた存在だった。当時の天皇は生活に困窮し、短歌を売っていたという話を聞いたこともある。徳川の拠点である江戸に住む人びとが「公方様」として意識していたのは徳川家だ。


 その忘れられた天皇を発掘し、徳川に代わる体制の象徴にしようとした人びとがいた。その人びとによって現在の天皇制、明治王朝が誕生した。その後ろ盾がイギリスの支配層だ。


 徳川から明治へ移行する時期、つまり明治維新の頃、イギリスはビクトリア女王が君臨していた。心霊術にのめり込んでいた人物として知られている。


 女王は夫のアルバート(ドイツのザクセン・コーブルク・ゴータ公の次男で、夫妻はいとこの関係)からアドバイスを受けていたとされているが、それ以上に影響力を持っていたと思われるのがネイサン・ロスチャイルド、セシル・ローズ、ウィリアム・ステッド、レジナルド・ブレット(エシャー卿)、アルフレッド・ミルナー(ミルナー卿)など。


 言うまでもなくロスチャイルドは強大な金融資本の支配者でローズのスポンサー。ステッドはジャーナリストで、ブレッドはビクトリア女王の相談相手だ。後にブレッドはエドワード7世やジョージ5世の顧問を務めることになる。


 当時のイギリスはいわゆる産業革命で生産力が上がったものの、商品が思うように売れない。国内では貧富の差が拡大、民の貧困化が深刻になる。そこで始めたのが麻薬取引と侵略戦争。中国(清)の富を奪うためにアヘン戦争を始めたのが1840年。その年にビクトリア女王とアルバートが結婚している。イギリスが「世界経済の覇者」と呼ばれるようになるのはそれ以降だ。大英帝国とは侵略と略奪で成り立っていた。


 中国より前にイギリスが植民地化していたインドでは1857年に傭兵(セポイ)が武装蜂起、一般のインド人を巻き込んで大反乱になった。鎮圧されたのは1859年。その年にアヘンと武器の取り引きで大儲けしていたジャーディン・マセソンは日本へふたりのエージェントを送り込む。ひとりは歴史小説で有名なトーマス・グラバーで、赴任地は長崎。もうひとりはジャーディン・マセソンの創設者一族に属すウィリアム・ケズウィックで、赴任地は横浜。


 明治政府は1872年の琉球併合から台湾派兵、江華島事件、日清戦争、日露戦争というように東アジア侵略を開始、その背後にはイギリスが存在していた。日本人はイギリスの支配者に操られていたと言える。


 そのイギリスは1899年からボーア戦争(南アフリカ戦争)を開始、金やダイヤモンドを産出する南アフリカを制圧する。その直前に南アフリカではダイヤモンドが発見され、その利権に目をつけたイギリスの支配者たちが引き起こした戦争だった。後に首相となるウィンストン・チャーチルもこの戦争で頭角を現している。この戦争で世界の金をイギリスが支配するようになり、金本位制を採用する国々の通貨も支配できるようになった。


 ちなみにチャーチルは貴族階級の家に生まれたが、父親のランドルフ・チャーチルは甘やかされて育ったプレーボーイで、46歳のときに梅毒が原因で死亡している。


 生前、ランドルフはネイサン・ロスチャイルドから多額の借金をしていたことでも知られ、その額は現在の価値に換算すると数百万ポンド、つまり数億円。いくらでも借りられたという。ランドルフがロスチャイルドを裏切らない限り、借金は返済する必要がなかったようだ。


 ネイサン・ロスチャイルドと親しい関係にあったジョージ・ピーボディーは銀行を経営していたが、そのパートナーがジュニアス・モルガン。その息子がジョン・ピアポント・モルガンだ。ネイサンはこの若者をアメリカにおけるビジネスの責任者にしている。そして巨大銀行のJPモルガンが生まれる。関東大震災以降の日本に大きな影響力を及ぼすことになるのはこのJPモルガン。


 この銀行が中心になり、アメリカでは1933年から34年にかけてフランクリン・ルーズベルト政権を倒し、ファシズム体制を樹立させようというクーデターが計画されている。


 そのJPモルガンが駐日大使として日本へ送り込んできたのがジョセフ・グルー。本ブログでは繰り返し書いてきたが、グルーと親しかった日本人には秩父宮、松平恒雄、徳川家達、樺山愛輔、牧野伸顕、吉田茂、岸信介、松岡洋右などが含まれる。中でも親しかったのは松岡。戦争が始まり、離日する直前にグルーがゴルフした相手は岸だ


 要するにイギリスとアメリカの金融資本はつながっているのだが、その金融資本を中心とする支配層がベネズエラの石油を狙っている。


 4月30日にもクーデターが試みられたが失敗、フアン・グアイドと反政府派の象徴になっているレオポルド・ロペス(2014年のクーデター未遂で自宅軟禁中だったが、クーデター派によって解放されていた)はスペイン大使館へ逃げ込み、クーデターに参加した兵士25名はブラジル大使館へ逃げ込んだ。


 クーデタの失敗を受け、アメリカのマイク・ポンペオ国務長官はメディアに対し、ベネズエラのニコラス・マドゥロ大統領は航空機でキューバへ逃げようとしていたが、ロシアの説得で留まったと主張している。実際はごく狭い地域で混乱があっただけで、基本的に国内は安定、逃亡するような状況ではなかった。ポンペオは失笑を買っただけ。


 アメリカ支配層が発する嘘の質が急速に劣悪化している。アメリカを中心とする支配システムの崩壊は早いかもしれない。アメリカの支配システムが崩れれば、日本の天皇制官僚制も維持できなくなる。
https://plaza.rakuten.co.jp/condor33/diary/201905010001/


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2019.05.01
元号は支配層が情報を操作する道具のひとつ

 日本の支配層が執着している現在の「元号」は一世一元、つまり天皇と一心同体の関係にある。天災、事変、祥瑞、即位などさまざまな理由で改められていた本来の元号とは異質。薩摩と長州を中心とする「明治王朝」によって作り上げられた新しいものである。


 今でも続く明治王朝とは天皇制官僚体制であり、その上にはイギリスやアメリカを支配する巨大金融資本が君臨している。その歴史は本ブログでも繰り返し書いてきた。明治王朝が築かれる過程で自由民権運動が破壊され、琉球併合を手始めに東アジア侵略をはじめている。


 その侵略を後押ししていたのがイギリスの支配層。中でも重要や役割を果たしたジャーディン・マセソンは中国(清)への麻薬密輸や武器取引で大儲けした会社だ。麻薬を売りつけるため、イギリスは1840年から42年にかけてアヘン戦争、56年から60年までアロー戦争を引き起こしている。


 彼らが扱っていた麻薬、つまりアヘンはインドから持ち込まれていた。そのインドを支配するためにイギリスの東インド会社は傭兵(セポイ)を使っていたが、この傭兵が1857年に武装蜂起、一般のインド人を巻き込んで大反乱になる。


 蜂起軍は統制されていなかったことから1859年に鎮圧されるが、その年にジャーディン・マセソンはふたりのエージェントを日本へ送り込んでいる。ひとりは某作家の歴史小説で有名なトーマス・グラバーで、赴任地は長崎。もうひとりはジャーディン・マセソンの創設者一族に属すウィリアム・ケズウィックで、赴任地は横浜。


 日本を貿易の対象と見ていただろうが、それだけでなく、傭兵の供給地にしようと目論んでいた可能性が高い。アヘン戦争やアロー戦争でイギリスは中国に勝利したが、それは海戦。内陸部を支配する兵力を持っていなかった。傭兵が必要、ということで日本が目をつけられたのだろう。だからこそ、イギリスは戦費を用立て、技術を提供している。


 明治以降は勿論だが、それ以前も日本が世界と無縁だったわけではない。そもそも「鎖国」という表現が正しくない。外国との交流はあったが、徳川体制が管理していただけである。現在も人びとが勝手に外国へ出て行ったり、外国人が勝手に日本へ入ってくれば犯罪だ。


 ところが、日本は外国と関係ない閉じた空間だという前提で歴史を考え、歴史も因果の連鎖として捉える人が少なくない。現在の内政を語る場合にも似たことが言える。少なからぬ日本人は空間的な広がりや時間的な流れで現状を見ることができない。


 日本人がそうした思考をする一因は元号にあるのではないだろうか。元号は日本独自のもので、外国の出来事との関連を考えるためには不便。歴史も寸断され、大きな流れとして捉えることには不向きだ。しかも出来事を天皇と結びつけて考えることを強いる。元号は支配層が情報操作する道具としても機能している。
https://plaza.rakuten.co.jp/condor33/diary/201905010000/


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2019.04.24
米支配層が維持しようとした天皇制官僚体制の恥部がひとつ明らかに

 インドネシアのバンカ島で日本軍の兵士は1942年2月、22名のオーストラリア人看護師を銃殺したという。海の中を行進させ、機関銃で射撃、ひとりを除いて殺害したのだが、その前に看護師は兵士から性的暴行を受けていたことを示す証拠の存在が明らかにされた。(​英語​、​日本語​)証拠を隠滅し、なかったことにするという手法は今でも使われている。NGT48のケースもその一例だが、隠しきれないこともある。


 日本のアジア侵略は1872年の琉球併合から始まるが、アメリカとの戦争は1941年12月7日の真珠湾攻撃から。1942年6月のミッドウェー海戦で日本の艦隊が敗北するまで日本側は勝ち戦だと考えていたようだ。そうした中、バンカ島での虐殺は引き起こされたことになる。


 外国へ攻め込んだ軍隊の兵士が女性を性的に暴行するという話はしばしば聞く。日本軍に限った話ではない。日本軍の特徴はブレーキがきかなくなることにあると言えるだろう。性的暴行への対策として日本軍が作り上げたのが慰安婦の仕組みだ。戦争経験者は次のような文章を残している。


 「日本軍は前線に淫売婦を必ず連れて行った。朝鮮の女は身体が強いと言って、朝鮮の淫売婦が多かった。ほとんどだまして連れ出したようである。日本の女もだまして南方へ連れて行った。酒保の事務員だとだまして、船に乗せ、現地へ行くと『慰安所』の女になれと脅迫する。おどろいて自殺した者もあったと聞く。自殺できない者は泣く泣く淫売婦になったのである。戦争の名の下にかかる残虐が行われていた。」(高見順著『敗戦日記』)


 「あえて言いますが、ほとんどの男は、とても自分の家族、自分の女房や子供たちに話せないようなことを、戦場でやっているんですよ。中国戦線では兵士に女性を●姦することも許し、南京では虐殺もした。そのにがい経験に懲りて、日本軍は太平洋戦争が始まると、そうしたことはやるな、と逆に戒めた。」(むのたけじ著『戦争絶滅へ、人間復活へ』岩波新書、2008年)


 「そこで、出てきたのが『慰安婦』というものです。その主体は朝鮮から来た女性たちでした。日本の女性も来ましたが、これは将校専用です。』(前掲書)


 「女性たちにここへ来た事情を聞くと、だまされた、おどされた、拉致された、というように、それは人によってさまざまだった。」(前掲書)


 「何人もの女性たちを船に乗せてインドネシアまで連れてくるためには、軍の了解が絶対に必要です。・・・やはり、慰安婦は軍部が一つの作戦としてやったことで、まったく軍の責任だった。」(前掲書)


 敗戦後、日本の将兵が戦場で行ったことを批判的に語るおとなもいたが、多くの「元兵士」にとって身に覚えのある話であり、口にすることはできなかっただろう。勿論、事実を否定することもできない。1945年に20歳代だった人は1975年でも50歳代だ。日本社会には戦場の記憶が鮮明に残っていた。荒唐無稽な話はできない。


 戦争経験者が少なくなるに連れ、妄想を平然と口にする人が増えてくる。メディアもそうした妄想の拡散に協力した。


 それでも慰安婦の存在を否定できないため、商売として行っているのだから問題がないと言う人もいるが、その考え方は日本人の堕落、退廃を示している。


 第2次世界大戦の前、JPモルガンの強い影響下にあった日本では新自由主義的な経済政策が採用され、庶民の生活水準は悪化し、東北地方では娘の身売りが増えた。欠食児童、争議なども社会問題になっている。こうした貧富の差を拡大させる政策を推進したのが浜口雄幸内閣だ。


 そうした政策に反発する人も少なくなかった。その結果、浜口首相は1930年11月に東京駅で銃撃されて翌年の8月に死亡、32年2月には大蔵大臣だった井上準之助が本郷追分の駒本小学校で射殺され、その翌月には三井財閥の大番頭だった団琢磨も殺された。井上は当時、日本で最もJPモルガンに近いとされていた人物。団もウォール街と緊密な関係にあった。


 その年の5月には五・一五事件が引き起こされ、1936年2月には二・二六事件だ。血盟団にしろ、二・二六事件の将校にしろ、娘を身売りしなければならないような状況を作った支配層への怒りが行動の背景にはある。


 井上が殺された1932年に駐日アメリカ大使として日本へやってきたジョセフ・グルーはJPモルガンと極めて緊密な関係にある。このことは本ブログで繰り返し書いてきた。グルーのいとこがジョン・ピアポント・モルガン・ジュニア、つまりJPモルガンの総帥と結婚していたのである。しかもグルーの妻の曾祖父の弟は「黒船」で有名なマシュー・ペリーである。


 グルーは秩父宮、松平恒雄、徳川家達、樺山愛輔、牧野伸顕、吉田茂、岸信介などと昵懇にしていたが、中でも親しかったのは松岡洋右。戦争が始まり、離日する直前にグルーが岸とゴルフしたことも有名な逸話だ。安倍晋三の祖父は大戦前からアメリカの支配層と親しかったのである。


 戦前の天皇制官僚システムはウォール街の影響下にあったわけだが、1933年から45年4月にかけての期間はウォール街と敵対関係にあったニューディール派がホワイトハウスで主導権を握った。ニューディール派の中心的な存在がフランクリン・ルーズベルト大統領だ。


 ルーズベルトが急死するとウォール街がホワイトハウスを奪還、ドイツのナチは救出され、日本の天皇制官僚システムは存続することになる。戦争責任も曖昧なまま幕引きになった。


 しかし、連合国の内部には天皇制官僚システムを破壊するべきだと考える人も少なくなかった。日本軍と直接戦ったイギリスやオーストラリア、そしてソ連。日本が降伏した直後はアメリカが日本をコントロールできる状態だったが、時間を経ればそうした国々の軍人や官僚が日本へやってきて民主化を要求、天皇制の廃止も主張する可能性が高い。それに留まらず、天皇の戦争責任は必ず問われる


 大戦後、日本占領の中枢だったGHQ/SCAP(連合国軍最高司令官総司令部)の中にも天皇を中心とする侵略戦争の象徴である靖国神社の焼却を主張した将校が多かったのだが、焼かれなかったのは、ローマ教皇庁が送り込んでいたブルーノ・ビッターが強く反対したからだという。ビッターは闇ドルにも手を出していた人物で、CIAのエージェントだったと見られている。靖国神社とCIAには何らかの関係があるのだろう。(朝日ソノラマ編集部『マッカーサーの涙』朝日ソノラマ、1973年)


 ウォール街は日本を支配するシステムとして大戦前から天皇制官僚システムを使っていた。それを戦後も存続させるため、戦争責任の追及と民主化の推進という儀式を早く終わらせる必要があった。


 そこで1946年1月に戦争犯罪を裁くとして極東国際軍事裁判(東京裁判)を設立、48年11月に判決が言い渡されている。その年の12月23日に東条英機、広田弘毅、松井石根、土肥原賢二、板垣征四郎、木村兵太郎、武藤章が処刑されているが、これは「民主化」を演出するセレモニーにすぎない。本来なら処罰されて当然であるにもかかわらず、被告席にいない人がいた。


 そして新たな憲法が制定される。その憲法は第1条から第8条で天皇制の存続を定めている。「象徴」という修飾語をつけてはいるが、天皇制の存続を謳っている。「戦争の放棄」を定めた条項はその後、第9条だ。


 戦後日本の進む方向を決めたジャパンロビーの中心にはウォール街の代理人とも言えるジョセフ・グルーがいた。内務官僚、思想検察、特別高等警察といった戦前日本の治安体制の中枢は戦後も要職に就いている。「国体」は護持されたのだ。


 バンカ島での出来事をオーストラリア政府が封印したのは日本の「国体護持」を望むウォール街の意向に沿った行動だと言えるだろう。その国体に関わる儀式が近く行われる。

(注)●は楽天による検閲
https://plaza.rakuten.co.jp/condor33/diary/201904240000/


http://www.asyura2.com/0601/ishihara10/msg/470.html#c8

[近代史3] 柳田国男 山の人生 中川隆
4. 中川隆[-10524] koaQ7Jey 2019年5月13日 10:25:33 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[1762]

諏訪春雄通信 849回 (2019年4月1日更新)
 「柳田民族学 その夢と挫折」
http://home.s00.itscom.net/haruo/sub23.html


 

4月28日の民族文化の会で私が発表する予定の話の要点です。今更、いうまでもなく柳田民俗学は、柳田国男とその弟子たちが構築した、近・現代日本を代表する学問体系です。写真は柳田国男。



しかし、柳田民俗学にはいくつかの批判が寄せられていることも事実です。たとえば柳田門下生の一人桜井徳太郎は2003年に吉川弘文館から刊行した『私説柳田国男』でそれまでに指摘されてきた柳田学の欠落として



天皇制に少しもふれていない。

被差別部落の問題を極力避けている。

セックスの問題はまったく取り上げていない。

農村や漁村、山村中心の民俗学であって、都市の民俗学に手をつけていない。



の四点をあげています。いずれも納得できる指摘ですが、さらに、私は柳田民俗学の最大の欠落として「海外との比較の視点を欠いて一国民俗学に止まったこと」を、これに付け加えます。



 柳田民俗学は、なぜ一国民俗学に止まったのか。最大の謎です。この謎が解けると、「天皇制に少しもふれていない」という問題も容易に解けるし、周辺にいた岡正雄、渋沢敬三、早川孝太郎などの、それぞれのちに一家を成した優れた弟子たちを破門したり、彼らと疎遠になったりした事情も説明できます。



 この難問を説明するために、私は今回の発表で、柳田民俗学が形成された大正末から昭和10年代までの日本の国家情勢と柳田民俗学の展開を丁寧にたどりました。そこから、はっきり見えてきたことは、柳田民俗学が描いた夢とその挫折の過程でした。



 柳田国男は、大正九年の十二月から翌年二月にかけて九州東部から琉球諸島へかけて旅をしました。「海南小記」はその折の紀行文です。この書で、日本人の祖先がまず沖縄の島々にやってきて、そこで繁栄するうちに、次第に北のほうに進出していったのではないかと推測しました。



 柳田は海外への関心がなかったのではなく、その研究生活の最初から、日本人の祖先は海外から沖縄にきたという視点を持っていたのでした。しかし、時代がこの研究の貫徹を許さなかったのです。



 柳田が民俗学の樹立に努めた大正末年から昭和初年は日本が軍国主義の道をひた走っていた時代でした。高級官僚でもあった柳田は、民俗学を一国民俗学に限定し、海外調査の夢を自己にも弟子たちにも封印せざるをえなかったのです。柳田の挫折です。それを証明する柳田の著作が前述の大正10年の「海南小記」です。この書で柳田は沖縄のさらに南の島々に対する熱い関心を吐露していました。柳田はこの方向の研究を続けると、天皇の起源を海外に求めなければならないことに気付いたのです。当時としては絶対に許されなかった視点です。



 昭和20年、終戦によって表現の自由が許される時代がきました。それから十六年を経た昭和36年、柳田の最後の著作、『海上の道』が刊行されました。柳田はその翌年に87歳で亡くなっていますので、文字通り、柳田の遺作となりました。

 

 この書で柳田は、長い間、押さえつけてきた夢を吐露しています。柳田の視線は沖縄を越えて南洋を移動した海洋民族に注がれています。日本の固有信仰を海洋文化とみて、原日本人の起源を島々に住む海民としています。この書の冒頭の「海上の道」という文で、日本人は遙か南の海から「海上の道」を通ってやって来たと論じます。日本人が風と宝貝と稲に異常な関心を示すのは、かつて日本人の祖先が遙か海の彼方から風に乗って、宝貝を求め、稲作を持って、やって来た名残だといいます。



 しかし、この書で、「年をとり気力すでに衰えて」と自らのべているように、高齢を迎えて海外調査の余力はなく、これまでの国内調査の成果だけで『海上の道』を執筆せざるをえませんでした。



 「やや奇矯に失した私の民族起源論」と、最後に自らいうように、「宝貝を求めて日本渡ってきた」という、仮説にもならないメルヘンです。



 写真は別名子安貝ともいう宝貝。



 

宝貝は子安貝ともいい、古代中国では通貨として使用されたことがあったために貨幣に関わる漢字に貝の字を当てるものがあります。南島諸島では安産などの霊力を持つとして巫女などが重用しました。柳田は日本人の祖先は、この宝貝を求めて黒潮の道を沖縄の宮古島へ移動した南方系の人たちであったと論じました。たしかに、特殊な貝ですが、熱帯、亜熱帯の産物で、その普及は限定され、中国大陸南部には存在せず、民族の大移動の原動力となる力を持ったとはとうてい考えられません。



気力と体力が充実していた昭和初年代の柳田国男に海上の道を自由に追求させていたら、どのような成果をあげていたか。残念です。「柳田民俗学の夢と挫折」です。次の民族文化の会でくわしく話します。
http://home.s00.itscom.net/haruo/sub23.html



http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/420.html#c4

[近代史3] 阿修羅掲示板のアクセス数が減ったり、Google で阿修羅のスレを検索できなくなったのは、原発板のデマ投稿にアクセスさせない為… 中川隆
4. 中川隆[-10523] koaQ7Jey 2019年5月13日 10:35:10 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[1763]

僕は魑魅魍魎には何度も
風説の流布は止めろ

と警告したんだけどね。


因みに、僕も福島原発事故が起きる迄は反原発だったんです:


調査報告/原子力発電所における秘密
http://www.asyura2.com/09/reki02/msg/363.html
投稿者 中川隆 日時 2010 年 6 月 04 日 22:53:53: 3bF/xW6Ehzs4I


遂に化けの皮が剥がれた経済コラムマガジン_荒井彰のアホぶり
http://www.asyura2.com/11/hasan72/msg/749.html
投稿者 中川隆 日時 2011 年 8 月 17 日 10:59:06: 3bF/xW6Ehzs4I


経済コラムマガジンの荒井彰先生も脳動脈硬化症?
http://www.asyura2.com/11/hasan72/msg/751.html
投稿者 中川隆 日時 2011 年 8 月 17 日 14:30:58: 3bF/xW6Ehzs4I


▲△▽▼

しかし、阿修羅原発板が流す嘘八百のデマを読んでから僕は原発擁護派に変わりました:

反原発派は知恵遅れ _ 原発再稼動で温室効果ガスが減少 再生可能エネルギーの限界
http://www.asyura2.com/16/genpatu47/msg/781.html
投稿者 中川隆 日時 2017 年 4 月 16 日 07:37:25: 3bF/xW6Ehzs4I koaQ7Jey  


原発板の けろりん氏は中国の工作員か?(お知らせ・管理21 板へのリンク)
http://www.asyura2.com/16/genpatu47/msg/800.html
投稿者 中川隆 日時 2017 年 4 月 20 日 11:35:11: 3bF/xW6Ehzs4I koaQ7Jey
 

原子力発電は本当に危険なのか?
http://www.asyura2.com/17/lunchbreak54/msg/148.html
投稿者 中川隆 日時 2018 年 3 月 18 日 10:29:50: 3bF/xW6Ehzs4I koaQ7Jey


発電をすべて原子力にしなければ地球温暖化で地球の気温は250℃になる
http://www.asyura2.com/17/lunchbreak54/msg/140.html
投稿者 中川隆 日時 2018 年 3 月 16 日 15:21:51: 3bF/xW6Ehzs4I koaQ7Jey
 


太陽光発電は国家経済を破綻させ環境も破壊する
http://www.asyura2.com/17/lunchbreak54/msg/144.html
投稿者 中川隆 日時 2018 年 3 月 17 日 08:03:56: 3bF/xW6Ehzs4I koaQ7Jey


風力発電は環境を破壊するだけでなく低周波音で風車病・睡眠障害を引き起こす
http://www.asyura2.com/17/lunchbreak54/msg/145.html
投稿者 中川隆 日時 2018 年 3 月 17 日 08:59:47: 3bF/xW6Ehzs4I koaQ7Jey
 

▲△▽▼

僕は

魑魅魍魎の主張は典型的なパラノイアの妄想だ

というのも何十回も指摘してきたよ。
キチガイは自識が無いから、自分では自分がキチガイだと認識できないんだ:


阿修羅掲示板はパラノイアや統合失調症患者の投稿が多いので、真に受けない様に気を付けて下さい
http://www.asyura2.com/13/lunchbreak53/msg/899.html
投稿者 中川隆 日時 2017 年 12 月 19 日 18:34:43: 3bF/xW6Ehzs4I koaQ7Jey
 


アホの考えを変えようとしたり、反論したり、話し合おうとしたりするのはすべて無意味で無駄
http://www.asyura2.com/09/revival3/msg/805.html
投稿者 中川隆 日時 2018 年 2 月 13 日 10:45:01: 3bF/xW6Ehzs4I koaQ7Jey



▲△▽▼

反原発派が流した悪質なデマも纏めてあるよ:

もうすぐ氷河時代が来る証拠
http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/202.html
投稿者 中川隆 日時 2019 年 1 月


2016年には「被爆原因」で物凄い数の人たちがバタバタ死に始める
http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/414.html
投稿者 中川隆 日時 2019 年 5 月 10 日 11:20:48: 3bF/xW6Ehzs4I koaQ7Jey


北米やユーラシア大陸で顕在化する寒冷化は日本の食糧輸入を不可能にする!食糧増産への備えを!
http://www.asyura2.com/17/lunchbreak54/msg/228.html
投稿者 中川隆 日時 2018 年 7 月 23 日 12:45:45: 3bF/xW6Ehzs4I koaQ7Jey
 

地球温暖化は嘘です。二酸化炭素が倍になったところで気温は上がりません。/それを支持するつぶやき。
http://www.asyura2.com/17/lunchbreak54/msg/239.html
投稿者 中川隆 日時 2018 年 8 月 09 日 18:34:23: 3bF/xW6Ehzs4I koaQ7Jey


《見てはいけない!!だが2012年から北極の氷は40%も増え続けている!》可能性の排除は、論理的考察を旨とする科学の放棄
http://www.asyura2.com/17/lunchbreak54/msg/234.html
投稿者 中川隆 日時 2018 年 7 月 26 日 15:56:44: 3bF/xW6Ehzs4I koaQ7Jey
 

寒冷化する地球が招き入れる食料とエネルギーの争奪戦
http://www.asyura2.com/17/lunchbreak54/msg/230.html
投稿者 中川隆 日時 2018 年 7 月 23 日 12:52:44: 3bF/xW6Ehzs4I koaQ7Jey


太陽の黒点が激減中 2030年に「ミニ氷河期」到来の可能性(日刊ゲンダイ)
http://www.asyura2.com/17/lunchbreak54/msg/229.html
投稿者 中川隆 日時 2018 年 7 月 23 日 12:50:49: 3bF/xW6Ehzs4I koaQ7Jey



http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/410.html#c4

[近代史3] チャンネル桜や正論で大活躍中のアホ右翼・アホ陰謀論評論家 まとめ 中川隆
5. 中川隆[-10522] koaQ7Jey 2019年5月13日 10:40:43 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[1764]
2013年08月02日
息を吐くように嘘をつく宮崎正弘
http://murakusai.doorblog.jp/archives/30259519.html


産経新聞のウンコ記事。 

『(略)中国事情に詳しい評論家の宮崎正弘氏は「中国で5、6年前から、日本の高級木材がブームなのは間違いない。『マイクロソフト社創業者のビル・ゲイツ氏が、別荘にヒノキ風呂を設置した』という話が広まり、お金持ちがマネをしている」といいながら、別の見方も披露する。

 「中国人は息を吐くように嘘をつく人が多い。『高級木材が欲しい』といいながら、実は水源林などの土地を狙っている可能性はある。以前、米国の鉱山会社を購入した大金持ちがいたが、まったく開発しなかった。結局、自分の隠し資産を米国に動かすための口実だった。今回の動きも、水源林確保や土地買収、資産隠匿の隠れみのかもしれない」

(略)ただ、ノンフィクション作家の河添恵子氏は、夕刊フジの連載「断末魔の中国」で、「『収益率』『儲け』に強くこだわる中国系企業が、太陽光発電の効率が悪い地域であえて積極的になる理由は『大規模な土地が二束三文で簡単に手に入るため』」と指摘した。

 そのうえで、高級木材を山林ごと購入しようという動きについて、河添氏は「間違いなく怪しい。危ない」といい、こういう。

 「熊本で『アタッシェケースに札束を詰めた中国人が森林を買いに来た』という話は聞いている。北海道では未遂に終わったが、中国資本が海岸沿いの300ヘクタールもの土地買収を計画していた。福島第1原発に近い耕作放棄地を狙っているとの情報もある。中国は着々と日本の領土を買い足している」

 狡猾な中国人には十分警戒しなければならない。』

まず、宮崎正弘の件。ネトウヨが「韓国人は息を吐くように嘘をつく」なんて馬鹿丸出しで言っているのを、自称知識人が何の躊躇なく平気で特定の民族に対して使用するのはまさに信じられない。

ここで宮崎に都合の悪い記事を引用しよう。

中国語が理解できないのに、中国事情に詳しいとやらの宮崎とは大違い、本物の中国研究者である矢吹晋によるものである。

http://www25.big.jp/~yabuki/doc11/n-ec0203.htm

『書評・宮崎正弘著『本当は中国で何が起きているか』(徳間書店、2002年2月)

著者宮崎正弘氏は、九八年一一月『人民元大崩壊――中国発「世界連鎖恐慌」の衝撃』を書いた。曰く、

「世界が恐れる人民元切下げは、確実にやってくる」
「中国経済の破綻寸前の悲惨な状況を看破、不可避の通貨暴落が世界経済と日本にどんな衝撃を与えるかを詳説」と。

見通しは的中したであろうか。人民元の「暴落」は、起こったであろうか。
答えは明らかにノーだ。狼少年もどき(狼中年か)の予測は大外れに終わった。

著者は九五年三月には『中国大分裂』を論じている。
当時流行した「ポストケ小平期の大分裂」論に便乗したものだが、現実はどうか。
ケ小平は九七年二月に死去したが、「大分裂」なるものは起こらなかった。

大きな見通しを二つも間違えたからには、土下座して読者に謝罪するのが礼儀であり、なぜ間違えたかのかを真摯に反省し、顔を洗って出直すのが筋というものだ。

著者には、「倫理観もモラルも」まるで欠如している。
恬として恥じず、顧みて他を言う、

「中国は倫理もモラルも消失した」(二八〇ページ)と。

『本当は中国で何が起きているのか』と題された本を再読しても何が起きているか、まるで分からない。「マスコミの報じない中国情報」といいながら、ほとんどすべての情報源は、内外マスコミの旧聞だ。しかも間違いだらけの引用ときている。羊頭狗肉、盗人猛々しいとはこのことだ。

何清漣著『中国的陥穽』は九八年一月に出て、評者が内山書店『中国図書』に紹介したのは九九年一月のことだ。四年前の本をいまごろ騒ぐのはどうかしている(八六ページ)。

「中国の就労階層」なるものを英『エコノミスト』誌から引用しているが(八九ページ)、原書は陸学芸主編『当代中国社会階層研究報告』(社会科学文献出版社、二〇〇二年一月、四四ページ)で、その「中国社会階層結構的演変」の孫引きだ。

何清漣と陸学芸の本をごちゃ混ぜにしたのは、一知半解の一例にすぎない。

「中国のデッド・レーシォは、(中略)韓国よりも悪い数字」(九八ページ)だという。Debt Service Ratio, Liability Ratio, Foreign Debt Ratio は『中国統計年鑑』(二〇〇一年版二七〇ページ)で公表されている。

この基本データさえ把握できずに、デタラメ引用を重ねるばかり。

「上海・花東大学」は「上海・華東大学」のはず(二一六ページ)。
「軍事委員会主任」は「軍事委員会主席」(二六四ページ)の誤り。
「徐匡迪」に「じょ・きょうゆう」とルビを振る無知(二七五ページ)。

著者のセリフ「噴飯モノ」(二七六ページ)は、本書への評語として最適であろう。』

まさに、宮崎正弘は息を吐くように嘘をついているのである。

どうでもいいが、河添恵子の意見も滑稽だ。

「中国は着々と日本の領土を買い足している」んだって。

それがどうした?所有権は中国人のものになっても、日本の領土であることに変わりはないではないか。

バブル時代、日本人はアメリカ人に同様のことを言われたことを忘れているのだろうか。そういう言説は、民族差別が原因なのだ。つまり、間違いなく河添は中国人を差別しているのだ。

違うというならその根拠を示していただきたいものだ。
最後の産経新聞のコメントも失笑もの。

「狡猾な中国人には十分警戒しなければならない。」合法的なビジネスを行っている中国人の何を警戒するのか。

経営危機に陥っている自社の状況をもっと警戒しろよと言いたい。
http://murakusai.doorblog.jp/archives/30259519.html

http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/228.html#c5

[近代史3] チャンネル桜や正論で大活躍中のアホ右翼・アホ陰謀論評論家 まとめ 中川隆
6. 中川隆[-10521] koaQ7Jey 2019年5月13日 10:42:13 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[1765]
2016年04月04日
屈折した日本人の心 (前編) / 高山正之は朝鮮人に似ている?
黒木頼景
http://kurokiyorikage.doorblog.jp/archives/68531273.html

白人社会への愛と憎しみ
white woman 33


  「ハートブレイカー(Heartbreaker)」という言葉は、よく歌の題名になりやすい。ちょっと記憶を辿れば、レッド・ツェッペリンやパット・ベネター、それにグランド・ファンク・レイルロードの名曲が思い浮かぶだろう。世間の歌手が恋に破れた者の気持ちをどう唄おうが勝手だが、国際政治で失恋の怨みに凝り固まって日本の国益が見えない人は困る。こんなことを言い出すのは、ちょっと前にチャンネル桜の「日いづる国より」を見ていたからだ。その番組では、コラムニストの高山正之がゲストに招かれていて、彼の発言を聞いてみたが、どうも気になって何となく違和感を覚えた。

Takayama2(左/高山正之)
  なるほど高山氏は左翼一色のマスコミ界では傑出しているが、悲しいかな、単純思考に嵌まったジャーナリスの域を出ていない。高山氏は無意識なのだろうが、白人に対して愛憎入り交じった感情を持っている。もしかしたら、ロサンジェルス勤務時代に白人ジャーナリストか、身近なアメリカ人に意地悪をされたのかも知れない。とりわけ、ジャーナリストには傲慢で卑劣なクズが多いから、高山氏はチンケな“黄色人種”と見なされたのではないか? 大した能力も無いくせに「白人」であることだけが唯一の自慢である新聞記者が、アメリカにはごまんと居るのだ。堅実な家庭に育った青年なら、ジャーナリストなんて職は選ばないだろう。それに、アジア人と似たような容姿を持つ日本人は、支那人か朝鮮人と一緒にされるからショックを受けることがある。こうした劣等民族と接して嫌な思いをしたアメリカ白人は、日本人に対しても侮蔑的な態度を無意識に取ってしまう。こう扱われれば、温和な日本人が腹を立てても当然だ。

  確かめたわけじゃないけど、普段の話し方を聞いた限り、高山氏は英語を流暢に話せるとは思えない。もしかしたら、現地のアメリカ人スタッフから馬鹿にされたんじゃないか。会社から派遣された日本人駐在員には、英語が苦手で周囲のアメリカ人にうまく反論できず、フラストレーションを貯め込む人が結構いたりする。また、たとえ英語を話すことが出来ても、アクセントおかしかったり、発音の強弱が下手でモゴモゴ話す日本人は、アメリカ人から相手にされなかったりするのだ。筆者もある大学でアメリカ人から孤立した日本人留学生を見たことがある。ある時、彼の水飴みたいにドロ〜とした英語の喋り方を聞いて納得してしまった。断っておくが、日本人は美しい日本語を話すことができれば良いのであって、英語が得意な支那人やフィリピン人になることが素晴らしいわけではない。しかし、英米に住むなら言語でハンディーキャップを背負うことになる。前もって会話で苦労することを覚悟すべきだ。それが嫌なら日本から出ない方がいい。

  筆者が何故こんなことを考えたのかと言えば、高山氏が朝鮮人的日本人に見えたからだ。朝鮮人が南鮮で日本の悪口を述べるのは彼らの自由だから構わない。朝鮮国内でぐちゃぐちゃ文句を垂れる蛙は放って置けばいいじゃないか。ただし、来日して我々を罵る朝鮮人がいたら、頭を傘バットで殴ってやれ。それが無い人は、靴下に小銭を入れて振り回し、勢いよく叩きつければかなりの効果を期待できる。でも、一般人は 「馬鹿な鮮人だ」と蔑んで相手にしないだろう。後進国から来たという事も弁えずに、勝手な理屈で日本を非難する朝鮮人は、身の程知らずの馬鹿であるからだ。日本に支えて貰っているくせに、その認識もないまま一等国民を気取る朝鮮人は、見ている我々の方が恥ずかしくなってしまう。一方、米国や西歐について辛辣に語る高山氏は、世間で好評を博す。たぶん、それは日本国民の奥底で燻る対米劣等感を癒やしてくれるからだろう。しかし、白人をことさら非難する日本人ほど、心の底で猛烈に白人を愛している。まるで、武家のご令嬢に片思いを寄せる町人か職人みたいだ。一目惚れの女から相手にされない男のヒステリーはみっともない。日本の知識人も同じだ。彼らは一生懸命歐米の学問を勉強しているから、日本に無関心だったり、日本について偏見や誤解を持っている西歐白人を目にすると、どうしても怒りが込み上げてくる。その気持ちは分かるけど、白人が日本について無知なのはしょうがない。だって、彼らが日本を勉強しなくても困ることはないじゃないか。

Burma British Colony 1Burma Vegetable_stand

(左: 植民地時代のビルマにいたイギリス人/右: 市場で物を売るビルマ人)

  ここで高山氏の見解が、どうして変なのかをいくつか例を挙げてみよう。まず、白人による植民地支配についてだ。高山氏は歐米列強がアジア・アフリカを支配したことを非難するが、それが日本にとってマイナスなのか、と問いたい。例えば、高山氏はイギリス人のビルマ支配を批判するが、日本は「植民地解放戦争」などせずに、英国のビルマ統治を継続させるべきであった。なぜかといえば、イギリス人が異民族を統治すれば、必ず民族対立が生じて無用な出費がかさむし、余計な人員をさかねばならず、植民地搾取で潤っても全体としてみれば、赤字経営になってしまう。しかも、半永久的ないざこざで常に悩まされるし、下層の白人から異人種混血が起こってイギリス人の肌が茶色くなる。強力な陸海軍を持つ日本なら、英国とビルマの仲をうまく調停する「善意のブローカー(honest broker)」を演じるチャンスが出てくるだろう。そうなれば、日本は両国に恩を売りながら、常に彼らがいがみ合うように仕組めばいいじゃないか。英国と対立するより、英国から技術や情報を貰った方がどんなに得なのか誰にでも分かるだろう。これは日露戦争で証明済み。ビルマ人が塗炭の苦しみを味わっても、我が国が有利な立場になるのなら、帝国主義を是非とも続けてもらいたい。高山氏はなぜ日本よりビルマの利益を優先するのか分からない。

white male 1white model 9Danielle Brooks 3


(左: 利用すべき白人男性/中央: 白人女性/右: 避けた方がいい黒人女性)

  日本人は米国の保守派白人を陰で支援すべきだ。高山氏は中南米移民を排斥するドナルド・トランプを賞讃せずむしろ批判的だが、日本を徹底的に制禦しようとする民衆党に比べればちよっとはマシだろう。それに、アメリカ人が人種的対立で揉めているなら、もっと騒ぎを大きくしてアメリカ社会が分裂するよう工作するのが、我が国の外政ではないのか。どうせ支援するなら、建国の民の子孫を応援し、日本人の味方につけた方がいい。白人保守派の方がメキシコ人や黒人より好ましいと思う日本人は多いはずだ。アメリカでは移民排除を主張する白人は少数派だから、なおさら日本政府は資金援助をして彼らを一大勢力にし、日本の擁護者にすれば慰安婦像撤去の運動で力強い味方となる。アメリカ人を仲間にするなら言論ではなく、札束でひっぱたくのが効果的だ。国土を神聖なものとみなす保守派は、穢らわしい朝鮮人の彫像など目障りと感じるだろう。だいたい、外交とは策略を用いるものだ。人種的亀裂を深めてやれば、白人を支援する日本人の株が上がり、日本研究を専攻する学生を確保しやすくなる。何はともあれ、アメリカ社会に日本の手下を増やすことが肝心だ。もし、アメリカ人を利用するなら、ハンサムな白人青年を見つけるべきだ。大衆は論理や演説内容で人を判断せず、外見や学歴で勝手な思い込みをするものだし、とくにオバはんのアメリカ人には色男の方が説得力をもつ。また、白人美女ならテレビ局が積極的に出演依頼をしてくるから、外務省の役人より数千倍も日本の国益を代表してくれるはずだ。高山氏のように白人を日本国内で非難したって、何の得にもならない。

  昔、アメリカ史を専門にしていた東大教授の猿谷要が、奴隷制度やインディアン撲滅を引き合いに出して、しょっちゅうアメリカ白人を非難していた。高山氏もこの左翼学者と同じような思考に染まっているのではないか。高山氏は白人がインディアンを虐殺したと騒ぐが、インディアンは無抵抗で殺されたわけではく、リトル・ビックホーンの戦いでも知られているように、勇敢に戦って敗れたのだ。皆殺しは可哀想だけれど、白人よりも強力な武器や兵力を用意しなかったのだから、負けたのはスー族やシャイアン族の不覚であろう。異文化を吸収しない戦闘民族は、戦場で惨敗しないと反省しないのだ。その点、日本は明治に近代化を成功させたから立派であった。家康がコ川家の安泰を優先させたため、日本が海軍を創設できなかったのは痛恨の極みである。幕末になって非常に苦しんだ事を思い起こせば、いかに鎖国政策がマイナスであったかが理解できるだろう。ついでに言えば、もし家康が西歐とのパイプを繋いでいれば、「グレート・ヘンリー(Henry Grace a Dieu)」とか「メアリー・ローズ(Mary Rose)」といったチューダー朝の軍艦を輸入し、日本海軍の建設が実現したかも知れない。(ヘンリー七世の建艦については別の機会に述べてみたい。興味のある方には、Geoffrey Moorhouseの「 Great Henry's Navy」という本をお勧めします。)

  日本人の研究者でも、白人入植者によるインディアンの虐殺を非難する人が多いが、日本史と違い世界史は残虐な戦争で満ちているから、アメリカ人を批判しようとすれば、たぶん世界の全民族を責めることになる。平和な日本の方が例外なのだ。高山氏は白人がインディアンの女子供を殺したことに言及するが、もしアメリカ人がインディアンの女子供を見逃していれば、再びインディアン戦士が白人に襲いかかったであろう。つまり、幼いインディアンは成長して、親兄弟の仇を討つはずだから、ジョージ・A・カスター中佐のようなアメリカ人であれば、将来の安全を確保するために鬼となるだろう。日本は同質民族というお陰で、みんな仲良く暮らしていたから、戦国時代でもそこそこ穏やかだった。敵軍を殲滅せずとも平和を保てたのだから幸せだ。「平和」とはある意味、徹底的な危険の排除である。脅威は芽のうちに摘み取ることが肝要だ。残酷なようだけど、地球ではこれが一般原則である。古代ローマを思い出せば分かるだろうが、宿敵カルタゴの土地に塩を撒いて荒れ地にしたのは、商業民族のカルタゴ人が二度とローマを攻めないようトドメを刺すためであった。また、戦地で強固な陣地を築いたのは、夜間でも安全を確保するためである。ところが、日本人ときたら鉄壁の兵営を戦地に建設しなかったし、工兵隊すらもたなかったというから呆れてしまう。安全に対する日本人の認識は甘いと言わざるを得ない。

  ただ、危機意識が低い日本人でも、戦国時代はちよっとマシで、冷徹なところがあった。家康はコ川家の将来を危うくする豊臣秀頼の存在を気にしていたから、何としても豊臣家を滅ぼす必要があったのだ。そこで難癖をつけて大阪冬の陣・夏の陣を無理やり起こし、豊臣家を徹底的に攻撃し、秀忠の将軍職を安定させたのである。戊辰戦争の時も、ちょっと残酷なところがあって、西郷隆盛はコ川慶喜の処刑にこだわっていた。大政奉還してもコ川家は依然として薩長にとり脅威で、いつ反撃されるか分からない。第一、強力な海軍力を誇る幕府軍は不安の種だ。慎重な大久保利通も慶喜の抹殺に賛成だった。しかし、勝海舟が断固として拒否したから慶喜公は命が助かったのである。高山氏は平和な日本人の感覚で白人国家を批判するが、日本の倫理基準で世界の民族を裁けば、どの民族も有罪となってしまうだろう。それでも、アメリカ白人を批判したいなら、日本人が彼らを攻撃し、アメリカ大陸から追い払うしかない。しかし、そんなことを妄想すれば、朝鮮人みたいになってしまうから、机上の空論は慎むべきだ。

アメリカが憧れだった日本人

  明治以来、日本人は妙にアジア人に肩入れし、ヨーロッパ人に反撥を覚えることが多かった。対米コンプレックスが強い高山氏も、やたらと白人優越主義を憎み、黄色人種という自己意識が根深い。しかし、日本人は白黒黄色の種族ではなく、「肌色人種」であるはずだ。外国で白人が何を言おうが、平然と構えていればいいのに、心に何らかの傷を持つ高山氏は、他の日本国民に同じような憎しみを持つよう焚きつける。日本で日本人差別が無ければ、欧米諸国やアジアの元植民地で人種差別があってもいいじゃないか。白人の縄張りで白人が威張っても当然だろう。モンゴル人がモンゴル帝國内で威張っていたり、イスラム圏でイスラム教徒が上流階級になっていても不思議ではない。レイシスト国家であるイスラエルでは、公然と黒人差別が横行し、パレスチナ人の虐殺はナチス並で、ユダヤ人とアラブ人との結婚を糾弾するラビでも普通に暮らしているのだ。しかし、日本人は気にしないだろう。白人がそんなに憎いのであれば、来日する白人を差別してやればいいじゃないか。これこそ相互主義だ。しかし、それを実行しないんだから、日本人の方が悪い。たぶん、西歐白人が来ないと寂しいから、アパルトヘイト政策を取れないんじゃないか。西歐人歌手やハリウッド俳優が来日しないと、商売が繁昌しないし、英会話講師が欲しい日本の学校も何かと困るから、ためらってしまうのだろう。

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(左: ユダヤ人 / アラブ人 / チンギス・ハン / 右: モンゴル人の朝青龍)

  日本では象牙の塔に閉じ籠もる知識人と、本音と建前を微妙に混ぜながら暮らす庶民は、色々な点で違っている。白人帝国主義を打倒して「大アジア共栄圏」をつくろうなんて幻想を抱く日本人は戦前にもいたけど、庶民はアジア人なんて本当は嫌いだった。アジア主義を唱えた頭山満や内田良平、安岡正篤(やすおかまさひろ)、細井肇(ほそいはじめ)なんかは、支那人の実態が分かっていなかったから、日本にとって有害だった。戦前は朝鮮総督府が「内鮮融和」とか「内戦一体」を謳ったが、朝鮮人の婿や嫁をとった士族などいなかったし、商人や勤め人、役人などでも朝鮮人と結婚する者はまずいなかった。朝鮮語を学ぶ者は稀だったし、総督府の役人ですら、給料の上乗せがあっても真剣に学ぶ者は少なかったのである。ましてや、ベトナム語とかマレー語を学ぶ日本人なんかいやしない。フィリピンに派遣された軍人だって、茶色のタガロク族女を好きになったからといって、婚約者にすべく郷里の両親に紹介するなんてことはきなかった。現地妻はあくまでも性慾の対象であって、実家の跡継ぎを産む母親ではない。

  日本の保守派知識人でも、戦前にアメリカ白人が日系移民を差別したことを恨んで、未だに批判する者が多い。西歐史に詳しい渡部昇一先生でも、日系移民への差別を非難していたが、肝心要な点を忘れていた。それは、日本人が自発的に米国へ渡ったという事実である。今では高齢者の日本人でも口にしないが、日系移民は出稼ぎ目的で渡米したのだ。彼らにとりアメリカは「憧れの地」あるいは「希望の国」であった。例えば、貧しい農家に生まれたニスケ・ミツモリさんは、高等学校に進学できず、授業料がタダの県立学校に進みたかったが、まだ17歳だったので入学できなかった。ところが、待っているうちに日露戦争が始まってしまい、兵隊になるのが嫌だったミツモリ氏は、進学を諦めアメリカに渡ろうと決心した。しかし、彼には明確な渡米目的はなかったという。それでも、ミツモリ氏はアメリカに着けば何とかなるだろうと楽観していたそうだ。(アイリーン・スナダ・サラソーン編『The 一世 パイオニアの肖像』 南条俊二 訳 読売新聞社 1991年15-16頁。)

  当時のアメリカは貧乏な日本と比較にならぬほど豊かで、大志を抱いた青年にとって夢を叶える国だった。リイチ・サトウ氏の父親は、若い頃かなり放蕩を重ねて財産を手放してしまったという。しかも、女房子供を抱えていたから、二進も三進も行かず地元で苦労していたらしい。そこで、彼は失ったものを取り戻すためハワイに渡って、サトウキビ畑で12年間働いたそうだ。ある程度のお金を貯めて帰国したサトウ氏の父は、失った田畑や山林を買い戻すことができた。そればかりか、彼は以前よりも財産を増やしたそうである。(上掲書 24頁。) 彼が持ち帰った2、3千ドルは、当時の日本人にとったら相当な大金で、日本に戻ってきた人は故郷で何でもできたらしい。例えば、家を建てたり田畑を買ったり、という具合。だから、アメリカに向かう人たちは期待で胸を膨らませていた。息子のリイチさんも村に残っていては埒が明かないと考え、日本より二倍の賃金がもらえるアメリカで働きたいと望んでいたそうだ。

  明治の頃の日本人は西洋の文化に驚きと魅力を感じていた。ある日、サトウ氏は村の表通りで、奥さんと赤ん坊を連れている牧師を見かけたという。その時、サトウ氏はビックリした。何と赤ん坊を抱いていたのは、一緒に歩いている奥方ではなく、旦那さん、つまり牧師の方だったからである。「そのような光景は、当時の日本では、まったく目新しく、珍しいことだったのです」とサトウ氏は語っていた。彼は家から飛び出し、その牧師を眺めたところ、「とてもモダンで西洋的、ハイカラだ」と思ったそうだ。彼はその頃から渡米を考え始めていた。儒教的倫理なら耳にタコができるほど聞かされていた日本人でも、女性に対する接し方には無頓着で、貴婦人に対する奉仕という概念が皆無だったから無理もない。今では道端でカップルがキスをしていても珍しくはないが、ひと昔前の日本人なら恥ずかしくてできないだろう。異性の友人同士が、送別会や引っ越しのときに抱き合って別れを惜しむなんてことは、普通の光景ではない。私的な体験談で申し訳ないが、筆者が学生寮を去る時、アメリカ人で女学生の友人が次々に抱きついてきて、別れを惜しんだことがある。その時、筆者は「日本とはかなり違うなぁ」と内心思った。でも、嫌じゃなかったことだけは確かだ。

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(左: 西歐人の幼児 /中央: フランス人の少女 / 右: 西欧系の白人女性)

  そういえば、明治か大正時代にフランスへ旅行をした日本人の紀行文を読んだことがある。彼がフランス人の知人宅を訪れ、その家族としばらく談笑して帰ろうとした時のことだった。この知人には幼い娘がいて、たいそう可愛らしい少女であったという。まるでフランス人形のようなこの幼女は、別れ際に客である日本人に抱きついて「さよなら」と告げたらしい。抱きつかれた日本人は、祖国では体験できぬ西洋風の行動にいささか戸惑ったようだが、まんざらでもなく、逆に感動して嬉しく思ったと述べていた。案外、日本人は西洋人の風習に好感を持っているのかも知れない。我々は支那風の偽善的な作法と歐米人の気さくな態度を比較・体験した時、どうも西歐の風習に魅力を感じる傾向がある。江戸時代までは諸文化を比較できなかったから、支那を必要以上に尊敬していたが、明治になって歐米に渡航できるようになると、両者を“比べる”ことが出来るようになった。現在の我々でも、当時の日本人が儒教文化をゴミ箱に捨てた気持ちがわかる。それに、支那人に抱きつかれたら気持ちが悪い。やはり、支那人とは離れて暮らしたいものだ。

  アメリカに移住した日本人の体験談は面白いので、次回も引き続き紹介したい。くどいようだけど後編に続きます。

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2015年06月25日23:49


日本を占領した赤いユダヤ人


占領軍に潜むニュー・ディーラー

  日本の保守派論客には、敗戦利得者の左翼を隠そうとする者がいる。この間、チャンネル桜に高橋史朗が出演し、アメリカ占領軍が我が国に対して行ったウォー・ギルト・インフォーメーション・プログラム(WGIP)について語っていた。アメリカ政府が奸計を用いて日本人に罪悪感を植え付けたのだ、と高橋氏は熱弁を振るっているが、何となく白けてしまう。もちろん原爆攻撃や焼夷弾虐殺は許しがたい。しかし、惨敗した日本に反撃のチャンスはなかったのも事実。昭和天皇は新聞記者から原爆投下について質問を受けた時、「戦争ですから」とお答えになった。さすが陛下は鋭い。核心を突いたご発言である。明治の頃から「勝てば官軍、負ければ賊軍」というのは常識だった。勝者のアメリカ軍が日本を賊軍扱いしたのは当然じゃないか。我が軍だって多くのアメリカ兵を殺したのだから、アメリカ人が日本人に復讐しようとするのは自然な感情だろう。戦国時代だと、戦に負ければ家門の取り潰しの目に遭ったし、時には家系が断絶する事さえあった。コ川家康だって大阪冬・夏の陣で勝利を収めた後、豊臣家を滅亡させている。勝利を確実なものにするため、危険な芽はすべて摘んでしまったのだ。そのうえ、参勤交代制をつくることで、有力大名の財力を削ごうと謀ったのである。コ川家は戦後支配体制を盤石なものにした。こんなことは庶民の子供だって知っている。日本の保守派がアメリカの戦後支配体制を非難するのは分かるが、戦後の罪悪史観を大切に保存したのはアメリカ人ではなく日本人の左翼であった。占領期間が終わったのに、米軍の悪行を隠匿しようと努力した日本人こそ日本の敵である。

高橋史朗2aida yuji泉井久之助Yamamoto Isoroku

(左:高橋史朗 / 會田雄次 / 泉井久之助 / 右:山本五十六)

  江藤淳などの保守派知識人はアメリカ軍批判で矛を収めるので、占領軍の背後で甘い汁を吸った左翼を見逃しているのだ。日米開戦前から我が国は狂っていた。戦争計画を作成せずに大国アメリカとの戦争を決断した閣僚は、負けた時にどうなるのか考えていなかったのだ。極悪人の山本五十六など、1、2年暴れたあとに我が国がどうなろうと知ったこっちゃない、という態度であった。第一次世界大戦で、ドイツ皇帝ウィルヘルム2世が身の危険を感じ亡命したが、天皇陛下はどこかに亡命することが出来るのか? 一般には日本が軍国主義国と思われているが、ちっともミリタリズムの国家ではなかった。敗戦を想定しなかった政府首脳は怠慢である。立派だった會田雄次・京都大学教授がある思い出を語っている。昭和16年12月8日、會田先生はラジオで対米戦争が始まったという大本営発表を聞いたそうだ。先生はいつも通り京都大の西洋史研究室に通われ、進々堂で昼食を取ったという。そこには長大なテーブルがかあって、言語学の泉井久之助(いずい・ひさのすけ)教授がある人と一緒に坐っていた。泉井先生は海軍の招待で南洋委任統治の島々を回って帰国したところである。先生は土産話をかたったそうだ。

  サイパンもよい島ですが、マルタをくりぬいて大砲のように見せかけたのを葉っぱなどで要塞のように偽装し、グアムの方を向けて並べたりしている。あんな子供だましのようなことをしてアメリカを刺戟し戦争にでもなったら大変ですぜ。(會田雄次 『歴史家の立場』 PHP研究所 1997年 p.106)

  どうやら泉井先生とその友人はラジオのニュースを聞いていなかったらしい。そこで會田先生はもう戦争が始まった事を告げたのだが、泉井先生は「そんなことを言って脅かしちゃいけません」と相手にしなかったという。進々堂には話の邪魔になるのでラジオ等の音響機材を置いていなかったのだ。そこで、會田先生は泉井先生を近くの喫茶店まで連れ出し、大本営発表を繰り返しているラジオを聴かせたという。すると、泉井先生は「あっ」と小さく叫んで顔色を変えてしまった。みんな沈黙したままで、暗澹たる気持ちになったらしい。当時は、軍人でない一般人でも我が軍の戦闘能力を分かっていたのである。大学教師が分かるのに、前線で戦う将兵が米軍の実力を知らないわけないだろう。ましてや、戦略を日夜練っている参謀将校が知らぬ訳がない。惨敗を予想しても口に出せなかったのが実情だったのではないか。

  一方、敗戦によって共産主義革命を実現させようと大東亜戦争を起こした赤い軍官僚や政治家、知識人は対米戦争に勝つことよりも、現体制の崩壊とソ連による占領を望んでいた。敗戦で一番得をしたのは日本の共産主義者である。戦前は「天皇制打倒」なんて言ったら誰もついてこないし、むしろ離反者が増えて共産党が縮小してしまう。野坂参三だってその手段は遠慮していたのだ。しかし、日本が敗戦となれば帝政ロシアと同じ状態になって、共産主義革命がしやすくなる。だから、打倒すべき帝國日本が敗れたことは、日本人共産主義者にとって天佑(てんゆう)だった。日本にとって更に不運だったのは、占領軍に大勢の赤いアメリカ人、すなわちニューディールに共鳴する左翼分子が混じっていたことである。

  敗戦によって得をした日本人を述べる前に、アメリカ軍最高司令部に棲みついていた社会主義者やソ連シンパについて紹介したい。占領軍にはフランクリン・D・ローズヴェルト大統領と同じ種類の左翼分子が大量に流れ込んでいた。憎い敵国に送り込むのだから、行政官や軍人の人格検査などしていたかったのだろう。それに、ローズヴェルト政権内部には、赤い官僚やビンクの民間人がたくさん雇われていたから、各人が仲間を引きずり込んでいたのだ。左翼は自分の地位を最大限利用し、できるだけ多くの仲間にポストを与える。こうして出来たネットワークはとても頑丈になり、誰か一人が失脚したり退職しても赤い同志がすぐ後を引き継ぐのだ。保守的で立派な人間ほど徒党を作って権力を独占しようとしない。偉人は鶏群の一鶴(けいぐんのいっかく)、つまり凡人のなかに混じっている秀才みたいなものである。秀才の群れに凡人が一人混じっているなんて非現実的だ。立派な人は普通、鷲のように凜然(りんぜん)として存在するから、鳩や雀のように群れて行動しない。アメリカ軍でも事情は同じである。

日本に有害な占領軍のユダヤ人

Courtney Whitney 1(左/コートニー・ホイットニー)
  まず、左翼的アメリカ人の伏魔殿となっていたのがGHQの民政局(Government Section/GS)だ。局長のコートニー・ホイットニー(Courtney Whitney)准将は、共和党員だったが民衆党のニューディールを支持していた左翼的人物。彼はフィリピンでゲリラ組織を拡大すべく陸軍中佐としてマッカーサーの司令部に呼ばれた法律家であった。当時のアメリカでは不況を経験した民衆党支持者が多数派で、しかもインテリの間では社会主義が流行していたのだ。ホイットニーがローズヴェルト大統領の経済政策に惹かれていても不思議ではない。だが、こうした真っ赤ではないがピンク系の法律家が、責任者に就任すると人事的災厄が広がるものだ。ホイットニー准将はチャールズ・ケーディス(Charles Louis Kades)を次長に据え、国会課長にジャスティン・ウィリアムズ(Justin Williams)、法規課長にはマイロ・ローウェル(Milo Rowell)を配置した。その他アルフレット・ハッセー(Alfred Hussey)やジャック・ネピア(Jack Napier)といった人物を配下に据えて、日本の「民主化」に取り組んだのである。ホイットニーがこうした赤い軍人を排除せずに部下にしたのは、敵国日本がどうしようもないほど野蛮で遅れた劣等国という認識があったからだろう。容共主義者には進歩派を気取る知識人が多いので、ホイットニーも共産主義を軽く考えていた弁護士だったのであろう。

  アメリカ占領軍内でもケーディス民政局次長は最も有害な人物であった。彼はニューヨーク生まれのユダヤ人で、ハーバード・ロー・スクールを出た民事担当の軍人であった。「また〜ぁ、ユダヤ人なの」と嘆くなかれ。人口比率からすれば、アメリカではユダヤ人は少数民族なのに、知識層では多数派なのだ。ケーディスは激戦を経た武人ではなく、軍隊での事務をこなす役人といった方が適切である。彼は大学を卒業した後、公共事業局(Public Works Administration)のアシスタントを経て、ローズヴェルト政権下の財務省に入ったという。ということは、あのユダヤ人長官のヘンリー・モーゲンソー・ジュニア(Henry Morgenthau,Jr.)に仕えていたということだ。類は友を呼ぶ。左翼ユダヤ人同士、磁石のように引き合ったのか、あるいは財務省に巣くう赤い官僚の手引きで入省できたのか、実情はよく分からないまま。しかし、よりにもよってこんな左翼分子が、憲法草案の実質的指揮官になっていたのだから恐ろしい。

チャールズ・ケーディス1FDR 13

(左けチャールズ・ケーディス/中央けヘンリリー・モーゲンソー/右けフランクリン・ローズヴェルト)

  ケーディスのような赤いユダヤ人が描く「民主化」と、日本を弱体化させようと目論む最高司令部の意図が合致したのだから、我が国にとっては不幸の始まりである。GHQの基本方針は日本の「民主化」にあった。その為の第一歩はポツダム宣言に盛り込まれた条項の実施。つまり、アメリカに刃向かった戦争犯罪人を処刑して、戦争協力者をすべての公職から追放する事である。公職追放は1946年1月4日、マッカーサー元帥の指令により開始され、政財官はおろか社会・大学・言論界にまで及んだのである。その後2年間で約20万人以上が追放されてしまう。注目すべきは、この追放により保守的な日本人が大勢、重要な職場から排除されたことである。戦前の日本は軍国主義に傾き、侵略を好む超国家主義が君臨していたと説明されるが、実際は共産主義に染まり、国家転覆を企む赤い軍官僚に支配されていたのだ。彼らとは別に、要職にいた者が一般的に、日本の政策を支持する国家主義者だったのは当然だ。むしろ、政府の方針に背いて邪魔をする方が異常である。

  これはドイツにも当てはまることで、ナチ党に従ったからといって、保守的なドイツ人を糾弾する戦後の風潮は間違っている。アメリカにも公職追放に該当する軍人は多かった。日本の空爆を指揮したカーチス・ルメイは大量殺戮者だったが、戦後になっても処刑されなかったし、驚くことに日本政府から叙勲される栄誉も受けたのだ。民間人大虐殺の共犯、ロバート・マクナマラはフォードの社長になって、ケネディー政権で国防長官にまで出世した。両者とも負ければ戦争犯罪人になることを自覚していたのだ。とにかく、公職追放は我が国にとって大打撃となった。優秀な保守派が粛正されて、凡庸で左翼がかった人物が後釜に坐ったのてある。彼らにとり戦後は利益をもたらす時代だから否定するはずがない。特に大学では左翼学者が伸び伸びと活躍でき、人事を独占したのだ。戦後の体制を固守しようと必死だったのは、こうした敗戦利得者であった。しかし、新聞やテレビで、占領軍の対日政策で得をした日本人のリストは一切現れない。保守派言論人でさえ、アメリカ批判で追求の手を止めているのだ。本当は、アメリカの占領政策を陰で支えた日本人こそ一番の敵である。

チャールズ・ケーディス 4Curtis_LeMay_(USAF)Robert McNamara 4

(左:晩年のケーディス/中央:カーティス・ルメイ/右:ロバート・マクナマラ)

  ケーディス率いる民政局の左翼軍人たちは、「民主化」という口実のもと、彼らの「左寄り」ないし「社会主義的」政策の邪魔になる日本人を次々と追放したのである。GHQ内部からも民政局は優秀な日本人を取り除いてしまった、という批判が噴出したくらいだ。それに民政局の公職追放には、“身内贔屓(ひいき)”があった。社会党代議士の松本治一郎は東條英機の「翼賛選挙」で推薦議員になっていたから、当然追放の対象者になっていたはずである。しかし、民政局は松本が革新系議員であるから手心を加えたという。ケーディスは追放指令を出した覚えもないとシラを切り、松本を追放するつもりもないとまで公言したそうだ。ケーディスらの「民主化」とは社会主義的体制を目指した国家改造計画である。要するに、彼らは理想社会(実際は共産主義世界)を“計画”し、実行しようとする善人と自負していたのだ。馬鹿らしいが、知識人は自分の理性で社会を設計できると自惚れているから、社会を動かせる権力を握った瞬間、飛び上がって有頂天になる。責任を取らずにすむ地位に就くと、机上の空論を実行したくなるのだ。社会主義者ではないマッカーサーが彼らを許していたのは、当初日本人を兇悪な侵略主義者と見なしていたからである。日本をよく理解していなかった元帥は、極悪な日本の国家主義者を追放し、彼らの敵となっていた共産主義者を解放することは正しい政策だと思っていた。日本統治を成功させたいマッカーサー元帥は、占領政策を進めて行くうちに、次第にこの方針が間違いであったことに気づく。

  日本で権勢をふるっていたケーディスも、1948年になるとワシントンの対日政策が変化したことで失脚することになる。ソ連との対立を深刻に考えていたペンタゴンの将校たちは、日本を赤化しようとするケーディスの手法を批判していたのだ。しかも、ケーディスには弱点があった。彼は妻子持ちなのに、日本で元子爵夫人の鳥尾鶴代(とりお・つるよ)と不倫関係にあったのだ。これは彼を日本から追放しようとする者にとっては好都合のスキャンダルであった。このケーディスが失脚したことは、我が国にとって僥倖(ぎょうこう)である。それでも、ケーディスが残した爪痕は深い。マッカーサー憲法の草案、農地改革、選挙法改正、財閥解体など、日本社会をズタズタにしてしまったのだ。とにかく、日本は「民主的」ではなく、「軍国主義的」で「封建的」な遅れた国というのが、ケーディスら進歩的社会主義者の対日認識であった。軍人が国家の中枢にいたら「軍国主義」というならアメリカも同じだし、在郷軍人組織が全米各地にあるのはどう説明するのか? 武装して国土を守る民兵(ミリシア)という伝統がアメリカにはあるが、これを進歩派はどう解釈するのか? 騎士道精神がなかったユダヤ人は、テキサスやヴァージニアなどの南部白人が嫌いで、腕力で問題を解決しようとする西歐人にしばしば反発した。ユダヤ人は武藝よりも勉強を好み、軍隊よりも法律事務所に入りたがる。要は文弱なだけ。左翼系アメリカ人やユダヤ人は、「封建制」をも憎むが、そんなこといったら歐洲の貴族は軒並み遅れた思想の持ち主になる。特に英国の名門貴族はみな中世封建領主の子孫であり、有事になれば軍隊の統率者に様変わり。彼らの上に君臨する国王陛下はガーター騎士団の総長だ。しかも、アングリカン教会の首長も兼ねているから、国家宗教の頂点に立つ最高神祇官、封建貴族を束ねる武人の棟梁である。これでは天皇陛下みたいで、イングランド国王も、古くさい遅れた国の象徴になってしまう。

  日本の民主化を掲げる左翼イデオローグは、社会主義革命のためにその尖兵となる労働者を育成しようとする。赤いGHQスタッフが労働者の権利を強く推進するのは、何も日本人を助けるためではなく、革命の下ごしらえをするためであった。共産主義者が用意した「無産労働者/プロレタリアート」は、耳にするのも汚らわしい言葉である。左翼どもは憎しみを煽る言葉を次々と生み出す。資本家による労働者の搾取とか、暗いイメージの雇用関係を築き上げるのだ。こんな言い草を聞けば、江戸時代の日本人なら眉をひそめたくなるだろう。江戸の職人は宵越しの銭を持たないその日暮らしが多かったが、貧乏長屋に住む彼らが親方から搾取されているから、幕府もろとも雇用主を打倒しよう、なんて考えなかった。渡る世間が冷たくても、誰かが温かい手を差し延べてくれたし、職人を雇う親方だって無情な雇用主というわけでもない。職人や人夫を使う親方は、私生活に至るまで彼らの面倒をよく見たし、実の親みたいに慕われていた人物もいたのだ。

  役人にも立派な人物がいて、鬼平犯科帳で有名な長谷川平蔵(通称)はその代表格。火付盗賊改方(ひつけとうぞくあらためがた)の長谷川宣以(のぶため)は、人足寄場(にんそくよせば)で、犯罪者の更生事業にも熱心だった。罪を犯した者が手に職を以て喰っていけるように再教育を施したのである。その当時の罪人も素直で、ふて腐れず真面目に技術を習得し、平蔵の温情に感謝しながら人足寄席場を出て行ったらしい。感動する江戸時代の一面である。日本人は本当に素晴らしい民族で、当時の江戸の犯罪率は信じられないくらい低かった。こんな清い日本に、あの穢らわしいユダヤ人マルクスの思想が浸透し、日本人の精神が汚染されたのだ。共産主義者は日本人の魂を腐蝕させる不逞の輩である。たとえば、皇室打倒などまともな日本人には恐ろしくて想像できなかった。昔なら、犯罪者だって「天子様がいらっしゃるぞ ! 」となれば、襟を正して土下座する。可笑しいのは、明治の日本人は営利誘拐を憎んだという。銭のために子供を攫うなんて酷え奴だ、と怒ったそうだ。たとえ犯罪者でも子供を拉致するなど不届き千万。子供は皆で大切にするのが常識以前の良識だったから、誘拐犯をとりわけ憎んだという。でも、犯罪者は元々不埒な者じゃないのか? 犯罪にも倫理を求めてしまうとは、いかにも日本人らしい。こうしたことから日本が、如何に倫理の高い国だったかが分かる。 

  脱線したから話を戻す。F.W.マーカット(F.W. Marqat)率いる経済科学局には赤いスタッフが潜んでいた。経済科学局で労働関係を担当していたアンソニー・コンスタンチーノ(Anthony Constantino)は、日本に派遣される前、長期間左翼活動を行っていた前科を持つ。米国ではアメリカ鉄鋼労働費用議会にオルグ(組織世話人)として雇われていたらしい。つまり、労働者をまとめ上げる専属活動家であったわけだ。彼は1940年から41年にかけて4回も逮捕されているのにもかかわらず、その地位に就くことができた。コンスタンチーノはその逮捕歴を隠していたらしい。こうしたセキュリティーの甘さを見れば、アメリカ軍が適当に日本を扱っていたことが分かる。日本改造が懲罰事業だったので、軍政官の人物検査が杜撰だったのだろう。1946年6月にに起こった読売新聞社のストで、コンスタンチーノはこの労働争議を沈静化するどころか、さらに悪化させたのである。ストは労使の話し合いで6月25日に解決されたのに、彼はストが再開されるようこの騒動に介入したのだ。コンスタンチーノは最高司令部の許可も無しに警察、社長、その他の関係者を喚問し、ストの実行者に総司令部の指示があるかのような幻想を持たせたのである。そのため、労働者はストを再開し、デモを繰り広げ、脅しを掛けたり暴力に訴えたりしたという。ついでに、デモの労働者たちは反米・反占領軍のプラカードを掲げたというから、GHQのお偉方も立腹。とばっちりを受けた読売新聞の社長、正力松太郎(しょうりき・まつたろう)は辞任する羽目になり、ついには戦犯指定になってしまった。(この経緯は別の機会に話す。)

  コンスタンチーノは確信的左翼だった。共産主義シンパの彼は、1946年5月に起きた日本赤十字病院の労使争議でも、スト実行者を支持するような態度に出たらしい。 彼は他の労働争議でも自分の職権を超えて、スト実行者に支持を与えたり、総司令部は彼らに介入しないだろう、という印象を与えてストを煽ったのだ。チャールズ・ウィロビー(Charles Willoughby)によれば、コンスタンチーノは日本の共産党と親密な関係にあったようだ。特に、悪名高い志賀義雄(しが・よしお)と個人的に接触していたという。コンスタンチーノに仕えていたアシスタントのスターリング・D・コレット(Staerling D. Collet)もマルキストであったらしい。その他、経済科学局で左翼的思想の人物と見なされた人物には、調査統計課のジュリア・マーガレット・ストーン、労働条件課長のレオン・ベッカー、統計研究課のハリー・ブルンナーが挙げられる。それにしても、労働問題になぜ左翼分子が多く集まるかといえば、保守的な優等生は大学で労使関係を専攻しないからだ。労働問題という分野は暗いし、第一つまらない。健康で前途有望な人物が専門にする科目じゃないだろう。常識的に考えてみて、労働関係の教科書を開いて嬉しいと思う奴がいるのか? 高貴な精神を持つ保守派青年なら、無味乾燥した内容の文章を暗記するなんて堪えられない。それなら、美しい自然の中で乗馬をしたり、愛国心に燃えて軍事訓練をした方が有意義に思える。言いづらいことだが、資本家や経営者に怨みを抱く陰湿な学生が労務関係研究者になりやすい。マルクス主義といった下品な思想に惹かれる学生は、たいてい根性が賤しい輩(やから)である。他人の懐を覗いて嫉妬するなど、躾の良い家庭の子供ならできない。

正力松太郎1馬場恒吾(左:正力松太郎/右:馬場恒吾)
  労使闘争の放火魔たるコンスタンチーノには同類の相棒がいた。経済科学局労働課長のセオドア・コーエン(Theodore Cohen)だ。1946年に読売新聞でストライキが発生した時、これを収拾すべきコーエンは逆の行動を取った。彼は警察官や馬場恒吾(ばば・つねご)社長を自分の事務所に呼びつけ、総司令部の政策と偽り、ストライキ側を奨励したというのだ。(C.A. ウィロビー『GHQ 知られざる諜報戦 ウィロビー回顧録』 延禎訳 山川出版者 2011年 p.203) コーエンに勇気づけられたストの連中は、デモを企てたうえに、暴力行為の騒ぎを起こしたという。相次いで起きたストライキやデモの背後には、コンスタンチーノとコーエンがいたらしい。ところで、社会主義に染まった労働者を煽ったコーエンとは一体何者なのか? 勘のいい方は、もう推測できますね。毎度お馴染みの回答です。そう、彼はユダヤ人でした。何か八百長のクイズ番組みたいだが、左翼にはユダヤ人が多すぎるのだ。(これって民族的病気なのか?)

  セオドア・コーエンは1939年、コロンビア大学院で日本の労働運動について論文を書き卒業した。この修士論文を買われてOSS(アメリカ諜報局)に入ったという。彼が最初に手掛けた仕事は、太平洋のマーシャル諸島やカロライナ群島海域における対日政治戦略であった。その任務を果たしたのち、ローズヴェルト政権で副大統領を務めていたヘンリー・ウォレスが直轄していた経済戦略局敵国課に、OSSから出向いて編入したのである。経済戦略局は間もなく外国経済局に編成されたのだが、コーエンはこの局内で『民政ガイド 日本に於ける労働組合と団体交渉』という戦略ペーパーを書き上げた。これが後にアメリカの対日労働戦略の基本となるのだ。驚くことに、合衆国政府はミッドウェー開戦やソロモン開戦に勝った(昭和17年)頃、既に対日戦争後の占領政策に取りかかっていたのである。コーエンの『民政ガイド』は、こうした占領政策ガイドラインの一環であった。

  日本とは直接係わりの無いコーエンだが、なぜ日本の労働運動を修士論文のテーマにしたのか? ジャーナリストの大森実のインタヴューで、コーエンは理由を述べていた。当時のアメリカで日本の労働運動についての資料を入手するなど非常に難しかったはずなのに、なぜ選んだのか? そうした大森氏の質問に答えて曰く、

  別に動機なんてありませんよ。学位をとるためには、なにかを選択せねばなりませんね。当時、日本の労働運動なんか誰も知らないテーマでした。英語で書かれた例も少ないし、まったくないといえる状態でした。・・・・研究テーマというものは、ある程度まで深く研究された問題ですと、かなりの努力が必要とされるものでしょうが、日本の労働運動は、米国でまったく研究されたことのない課題だったので、新聞のようなはっきりした公開材料でも資料として役立ったわけです。(大森実 『赤旗とGHQ』 講談社 昭和56年 p.269)

つまり、コーエンが日本の労働運動を論文テーマに選んだのは、簡単に学位が取れるという理由からだった。確かに、論文を審査する教授でさえ、彼の選んだテーマについては素人であろう。だから、少々いい加減な解釈や調査でも、修士号がもらえたのかも知れない。第一、日本語の資料など誰も読めなかったろうから、コーエンが使った資料を検証することなどできない。したがって、ちょろまかしが可能だ。これがヨーロッパの労働運動なら、膨大な資料の精読をしなければならないから大変になる。教授陣の死角を突いたコーエンは狡賢い。

  しかし、いくら楽なテーマ選んだとしても、やはり日本の労働運動に目をつけるというのは珍しい。コーエンは元々社会主義に惹かれていたから、外国の労働問題にも興味を示し、論文のテーマで日本を選んだのではないか? 赤い頭のユダヤ人だったから、社会主義に関連していれば未知なる日本でも良いと思ったのであろう。西歐人と違って、ユダヤ人は外国文化に対しての抵抗感がない。やはり、千年以上も他国にたかって暮らしてきた寄生民族は、馴染みのない文化でも調べてみようとする好奇心がある。誰も手をつけていない領域には、もしかしたらお金儲けのチャンスがあるかもしれない。だから、ユダヤ人は世界各地に進出して拠点を築き、物流や情報網を支配して大金持ちになれるのだ。片田舎でのんびり暮らすアメリカ白人は、そもそも外国文化に興味を持たない。馴染みのある生活で満足する。日本人なんか別の惑星に住むエイリアンだから、その言葉を理解しようとは考えない。怠惰なアメリカ人は、英語の姉妹語たるドイツ語やフランス語でさえ勉強を嫌がるのだ。日本語が必修科目になったらアメリカ人は全員不登校になる。だから、文法や表記がまったく異質な日本語を、自ら進んで学ぶなどあり得ない。

  こう考えると、日本語を習得するユダヤ人は特殊だ。そういえば、シカゴで育ったデーブ・スペクターが少年時代、日本の漫画に興味を持ったのもユダヤ人だったからじゃないか? 日本語を覚えたスペクター氏が、ハリウッド関連ニュースを独占的に日本で紹介し、大儲けしたのもうなづける。こうした発想はアメリカ白人に少ない。ついでにいえば、スペクターは日本人女性と結婚しているが、コーエンも日本人女性を妻に持っていた。ユダヤ人は外国人配偶者に対しても抵抗がない。有名なロック・バンド「メガデス」のギターリストだったマーティ・フリードマンは、ツアー中にも日本語を勉強して、ついに日本語を習得したという。日本に移住後、日本のテレビ番組に多数出演していたし、夫人も日本人女性だ。ハリウッドスターのスティーヴン・シガールも日本人女性と結婚していて、大阪弁も流暢に話せた。しかも当時、合気道に興味を示して習得するアメリカ人は珍しかった。彼がこの不思議な東洋武術をアメリカ人に披露して有名になった事はみんなが知っている。本当にユダヤ人は異質な文化の習得が早い。

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(左けデーブ・スペクター/中央マーティー・フリードマン/右けスティーヴン・シガール)

  日本での生活経験があるユダヤ人は、合衆国政府にとり何かと重宝な種族のようだ。戦後、国家安全保障法によって発足したばかりのCIAから日本に送り込まれたポール・ブルーム(Paul Charles Blum)もユダヤ人であった。彼はCIAから派遣された初代東京支局長である。彼の親友には、日本に帰化したドナルド・キーン教授がいた。キーン氏はアメリカ軍の諜報担当士官で、日本兵捕虜を尋問する際、通訳を務めていた経歴を持つ。キーン氏は友人ブルームの正体を知らず、国務省の外交官だと思っていたらしい。それというのも、マッカーサー元帥が占領時代の日本で、CIAの活動を認めなかったからだ。CIAとしては、マッカーサーに内緒でキャリア要員を送り込んでいたわけである。ただ、日本人で彼の正式な身分を知っている人物がいた。元海軍中佐の藤村義朗である。藤村中佐は戦時中、スイスでブルームと一緒に終戦工作に携わっていたので、ブルームが国務省の大使館員ではないことを分かっていたのだ。(春名幹男 『秘密のファイル(上) CIAの対日工作』 共同通信社 2000年 p.193)

  OSS(戦時諜報局)ベルン支局のアレン・ダレスの右腕として活躍したポール・ブルームは、横浜の外人居留地、山手に生まれたユダヤ人。父親のアンリはユダヤ系フランス人でアルザス地方の出身であったから、フランス人民戦線のレオン・ブルム首相とは遠縁に当たるそうだ。横浜のオッペンハイマー商会に務めた後、ウィトコフスキー商会の支配人になり、スイスの時計を輸入したり、絹や銀を扱っていたという。母親のローズはユダヤ系アメリカ人で、叔父の貿易商ステーツ・アイザックスを頼って来日したらしい。この叔父は根岸にある横浜競馬場を建てたことでも知られている。この両親から生まれたポールは横浜のセント・ジョセフ国際学校に通ったが、日本人の子供との交流はなかったという。当時の山手は普通の日本人と隔離されていたから、ポールは自然と日本語を学ぶことはなかった。アメリカのイェール大学を卒業後、第一次世界大戦が勃発すると、、アメリカ軍に志願し野戦衛生隊に所属したという。その後、ブルームはパリに居をを構え物書きになり、東京では三島由紀夫とも親しくなった。

Donald Keene 2(左/ドナルド・キーン)
ところが、ドイツ軍のパリ入城で、ブルームはニューヨークに逃れ羽目となり、コロンビア大学で日本語を学び直したのである。こうしたことから、偶然キーン氏に出逢ったのである。キーン氏は当時フランス文学を学んでいたが、ブルームは日本文学を薦めたという。 フランスで育ったアメリカ人はたくさんいるが、日本のことをよく知っているアメリカ人は少ないので、日本文学を専攻した方がキーン氏の将来にとって良かろう、と提案した。これまたユダヤ人らしい柔軟な発想だ。もっとも、キーン氏は日本人捕虜の尋問を行ったことで日本文学を目指したという。不気味な日本人だったのに、調べてみると繊細な感情を持つことが分かった。キーン氏は日本人青年が愚痴ばかりを手紙に記すアメリカ兵と違うことに気がついたという。彼は祖国で帰りを待つ両親を心配する一方で、国家に尽くすという純粋な気持ちに溢れた日本兵に感銘を受けたらしい。米軍が押収した日本兵の手記や手紙を読んで、キーン氏はとても感動したのだ。

  CIAの東京支局長になったものの、外交官を装っていたブルームには部下も少なかったし、マッカーサーの目を気にしながらの活動だから、どうしても情報収集には制約があった。そこで、彼は各界のリーダーと接触して、トップレベルの情報を集めようとしたのである。彼は毎月第二火曜日に著名人を集めた夕食会を開いたという。そこには、日本を代表する知識人が集まったのだが、あいにくこのメンバーは真っ赤であった。朝日新聞論説主幹の笠信太郎(りゅう・しんたろう)は、言うまでもなく近衛文麿が主催した「昭和研究会」の中心メンバーで「朝飯会」にも属していた。吉田茂に反して全面講和を主張し、日米安保闘争では岸信介に反対。絵に描いたような極左のジャーナリストである。しかも、世界連邦運動を提唱するなど、妄想もたくましく救いようのない馬鹿。日本をソ連に売り渡そうと頑張っていた頃の典型的朝日人だ。笠はまさしく左翼路線まっしぐらの黄金期を代表する人物。80歳代の朝日OBには懐かしいだろう。

松本重治2松方三郎松方正義2東畑精一 2


(左:松本重治 / 松方三郎 / 松方正義 / 右:東畑精一)

  国際文化会館理事長の松本重治は、明治の元勲松方正義の孫で、共産主義者の巣窟たる太平洋問題調査会(IPR)を通して国際活動を広げていた。彼も近衛の朝飯会に参加しており、近衛文麿や尾崎實秀、西園寺公一とも親しかったという。子だくさんの松方正義には妾の子がいて、松方三郎もその一人。共同通信社専務理事の松方もブルームの集会に顔を出していた。京都大学で河上肇の薫陶を受けたので、これまた真っ赤。彼もIPRに参加していた、国際派の隠れ共産主義者である。昭和研究会に属していた蠟山政道(ろうやま・まさみち)も、この火曜会に出席していたのだ。蠟山については以前述べたから省略。経済学者の東畑精一(とうはた・せいいち)も昭和研究会のメンバーで、社会主義かぶれの農業経済学者。戦後に活躍した経済学者はほとんどが左翼で、政治・経済での自由主義を掲げる学者などほぼ皆無だった。マルキストの大内兵衛(おおうち・ひょうべい)や都留重人(つる・しげと)など今となっては忘れ去られた過去の人で、彼らの著作は紙くず同然である。ブルームが集めた人物は左翼ばかり。ユダヤ人のブルームは任務として彼らと付き合っていたのか、それとも馬が合ったので交流していたのか、実際のところは分からない。彼は冷戦が深刻化した1950年代初期にCIAを辞めたらしい。ブルームは辞任後、親友の藤村義朗が経営する青山のジュピター社で非常勤取締役に就任したそうだ。

蠟山政道笠信太郎 2大内兵衛都留重人


(左: 蠟山政道 / 笠信太郎 / 大内兵衛 / 右: 都留重人)

  アメリカ占領軍の対日政策はソ連の台頭により、日本を懲罰することから、反共の砦にする方向へ舵が切られた。日本にとって幸運だったのは、GHQの参謀部G-IIにチャールズ・ウィロビーが配置されたことだ。左翼思想の持ち主が多いGHQの中で、反共思想を持つウィロビーは傑出していた。次回は彼について述べてみたい。
http://kurokiyorikage.doorblog.jp/archives/68531273.html

http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/228.html#c6

[近代史3] チャンネル桜や正論で大活躍中のアホ右翼・アホ陰謀論評論家 まとめ 中川隆
7. 中川隆[-10520] koaQ7Jey 2019年5月13日 10:45:24 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[1766]

今週、チャンネル桜で大東亜戦争についての討論会があったけど、出演者の知的レベルがあまりにも低いので驚いた。

とりわけ酷いのは、小堀桂一郎や高山正之、田中英道、岩田温であった。

彼らは大東亜戦争を検討するにあたり、日本の「自存自衛」を強調していたが、これは戦後になってから偽装保守が吹聴した言い訳である。

かつての大日本帝国の行いを何とかして正当化し、美化したい人たちの中には、

「米英に対する日本の戦争(大東亜戦争)は、アジア人を欧米人の頸から解放する為の戦争だった」

と今なお強弁する人もいるが、もしそうなら、蒋介石政府と事を構える必要はなく、そのまま仏印や蘭印に攻め込めばよかった訳だし、韓国には「韓国人による韓国人の為の政府」を作るように促せばよかったのだ。

一般の兵卒は、大切な家族、郷里の先輩後輩、親友、祖国、皇室のためなら歯を食いしばって戦うが、見ず知らずの南方土人を救うために、自分の命を「鴻毛」の如く考えることはない。作戦参謀や政治家が、前線の若者に向かって

「可哀想なフィリピン人やビルマ人のために、女房子供、両親兄弟を諦めて命を懸けてください」

と言えるのか?

普通の日本人がアジア人に接すれば、「何だ、こいつらは !」と生理的な拒絶反応を抱いてしまうだろう。
例えば、漢文の教科書に登場する支那人は、君子とか詩人、大人(たいじん)といった立派な人物なのに、大陸で目にする支那人は、詐欺師よりも悪質な嘘つきで、弱者に対して残酷、強者に対して卑屈であったりする。
朝鮮人の場合は、もう救いようがないアカンタレで論外。小便で洗顔し、糞で作った薬を飲むような賤民には、なるべく近寄りたくない。

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【アホ右翼の討論】もし大東亜戦争の開戦が無かったら?[桜H30-8-11] - YouTube動画
https://www.youtube.com/watch?v=mZ0_wOxSUyY

◆もし大東亜戦争の開戦が無かったら?

アホ右翼のパネリスト:
 岩田温(政治学者・大和大学政治経済学部専任講師)
 上島嘉郎(元産経新聞社『月刊正論』編集長・ジャーナリスト)
 小堀桂一郎(東京大学名誉教授)
 山正之(コラムニスト)
 田中英道(東北大学名誉教授)
 西岡力(「救う会」全国協議会会長・モラロジー研究所歴史研究室室長)
 林千勝(戦史研究家)
 宮崎正弘(作家・評論家)
司会:水島総

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無敵の太陽 高山正之の異常な怨念 - 自存自衛を掲げて隷属国となった日本 2018年08月15日
http://kurokiyorikage.doorblog.jp/archives/68729501.html


チャンネル桜の蛸壺会議
Takayama 1(左 / 高山正之 )

  保守派論客と称される知識人の中には、常識に欠ける人が珍しくない。今週、チャンネル桜で大東亜戦争についての討論会があったけど、出演者の知的レベルがあまりにも低いので驚いた。とりわけ酷いのは、小堀桂一郎や高山正之、田中英道、岩田温であった。彼らは大東亜戦争を検討するにあたり、日本の「自存自衛」を強調していたが、これは戦後になってから偽装保守が吹聴した言い訳である。もし、我が国の自存自衛を考えるなら、東南アジアにある西歐の植民地支配を攻撃せず、満洲を狙うソ連に向かって進撃すべきであった。つまり、「南進」という愚策を捨て去り、真に重要な「北進」へと舵を戻すべきであったのだ。

  ところが、小堀・高山・田中・岩田の四氏は、歐米諸国の人種差別を理由にして、日本軍の南進を正当化していたのである。南進や海軍の害悪については、中川八洋先生が『大東亜戦争と「開戦責任」』(第三章)と『山本五十六の大罪』(pp.225-253)で詳しく述べているから、ここでは立ち入らない。ただ、我々は大東亜戦争の本質を確認すべきだ。先の大戦は日本の独立や安全の為ではなく、祖国を英米とぶつけて疲弊させ、あわよくば壊滅的状態に持ち込み、共産主義革命を実現したいと願う左翼分子の画策であった。日本の軍部や政界、官界、学界などに潜む反日分子は、自分達が司令塔になって社会の隅々までをも支配したい、出来ればソ連の傘下に入って官僚主導の統制経済や全体主義を実現したいと望んでいたのだ。

  現在の日本人からすればアホらしく思えるけど、経済を知らない武闘派軍人や議会を嫌う革新官僚からすれば、自分達の命令通りに動く統制社会は素晴らしい。エリート意識の強い大蔵官僚とか観念型の中堅軍人は、自分の知能・知識で社会を設計できると思い込む。つまり、知的設計主義(intellectual constructivism)に流れる傾向が強い。共産主義に憧れる連中というのは、だいたいが試験秀才で、自惚れ屋というのが定番だ。彼らは「難しい試験に落ちた庶民は、優秀な俺たちの云う事を聞いていればいい!」という傲慢な態度に出やすい。しかし、生身の人間が暮らす社会を理性で設計なんて考えは最初から間違っている。だいたい、莫大な数の材料や商品を、役人が一つ一つ計画し、合理的に生産して流通させて行くことは現実的に有り得ず、失敗するのがオチだ。実際、ソ連の計画経済は破綻し、従った民衆が塗炭の苦しみを味わったじゃないか。

  保守派知識人の議論は本質と周辺部分をごちゃ混ぜにして議論するから、一般国民は何が何だか分からなくなる。日米開戦となった時、なるほど普通の日本人は祖国のためと思って闘ったし、アメリカの理不尽な圧力に対して怒っていたことも確かだ。しかし、その一方で、ソ連とその手先となった日本人が、日本を英米と戦わせ、漁夫の利を得ようと謀っていたのも事実である。近衛文麿や昭和研究会に集まった左翼知識人、「良識派」を装った海軍の極悪人である米内光政、陸軍の松村知勝・作戦部長、浅田三郎・情報課長などを思い出せば察しが付くだろう。本来なら、チャンネル桜に出演する言論人は、政府や軍部に蔓延る赤い人物を炙り出す役目を担っているのに、それを故意に避けているのか、それとも頭が悪くて見抜けないのか、ことさら国民の目を西歐の人種差別に向けさせる。こんな論調は一種の陽動作戦だ。

  外国人工作員にとって、反日左翼とボンクラ保守を操るのはいとも簡単。日本人が好む「エサ」を目の前にばらまけば直ちに食いつき、好きな方角に誘導できるからだ。日本人は本質的に西歐白人に憧れ、彼らと対等になりたいと望むから、その願望が打ち砕かれてしまうと、理性を失った変質者になってしまう危険性がある。戦前の日本人を見ていると、まるで「俺が愛していると告白したのに、あの女め、俺様に肘鉄を喰らわしやがった。おのれぇ〜、刺し殺して家に火をつけてやる !!」と憤慨するストーカーとそっくり。西歐人の白人至上主義とか植民地支配を非難する人ほど、白人に対する横恋慕が強い。だいたい、イギリス人やフランス人がアジアないしアフリカを征服したからといって、なぜ日本人が「解放」の天使になる必要があるのか? 何千、何万もの日本人が失う生命と、だらしないアジア人の独立が釣り合うとは思えない。たとえ、征服されたアジア人が日本の犠牲で白人支配から抜け出せても、我が国が帝國陸海軍を失い、米国の属州になってしまうのなら、何の為の戦争なのか分からなくなる。日本人は武士の伝統があるから「独立不羈」を渇望するが、アジア人は隷属が“自然状態”となっているので、独立しても少し時間が経つと、再び誰かの支配下になって元の木阿弥だ。第一、マレー人やインド人、ビルマ人、フィリピン人が真に自国の独立を望むなら、まず自分自身で強くなってから蹶起すべきで、日本人が流血を伴って支援すべき事柄ではない。

Colonial rule 1Colonial rule 2
(左: 西歐支配下のアジア人 / 右: 帝国時代のアフリカ人 )

  そもそも、安全地帯にいる作戦参謀や政治家が、前線の若者に向かって「可哀想なフィリピン人やビルマ人のために、女房子供、両親兄弟を諦めて命を懸けてください」と言えるのか? 一般の兵卒は、大切な家族、郷里の先輩後輩、親友、祖国、皇室のためなら歯を食いしばって戦うが、見ず知らずの南方土人を救うために、自分の命を「鴻毛」の如く考えることはない。機関銃を知らず鉛筆くらいしか持たない知識人は、勝手な「アジア人像」を拵えて、「アジア解放の大義に基づく聖戦」とか「東亜の新秩序」なる宣伝文句を口にするが、普通の日本人がアジア人に接すれば、「何だ、こいつらは !」と生理的な拒絶反応を抱いてしまうだろう。例えば、漢文の教科書に登場する支那人は、君子とか詩人、大人(たいじん)といった立派な人物なのに、大陸で目にする支那人は、詐欺師よりも悪質な嘘つきで、弱者に対して残酷、強者に対して卑屈であったりする。朝鮮人の場合は、もう救いようがないアカンタレで論外。小便で洗顔し、糞で作った薬を飲むような賤民には、なるべく近寄りたくない。

  日本国内で東南アジアを論じる知識人は、現地人の実態に触れず、もっぱら西歐白人に虐げられた憐れな東洋人と位置づける。しかし、実際に南方へ出向いた日本人には、違う感情が渦巻いていた。例えば、シンガポールには日本企業から派遣されたビジネスマンとか、ひと稼ぎしようと目論む商売人が結構住んでいた。当時の日本人居留者は、主に二つのグループに分かれていたという。一つは、「グダン族」と呼ばれる人々で、三井物産や台湾銀行、横浜正金銀行、日本郵船の支店などに勤めるエリート社員たちだ。もう一つは、「下町族」と呼ばれる人々で、南洋に骨を埋めるつもりでやって来た流れ者たちである。この移住者たちは、これといった学歴も無く、総領事やエリート社員たちとは違った世界に住んでいたようだ。つまり、一流企業に勤める「グダン族」とは口をきくような間柄ではなく、気心の知れた者同士で寄り添い合う庶民である。

  ただし、ほとんどの在留邦人は南洋に移り住んでも、おしなべて「日本的生き方」を貫こうとした。なぜなら、彼らは日本に帰っても幸せになれぬ人を除いて、誰しも日本に帰ることを希望していたからである。特に、エリート社員の日本人は、常日頃から「純粋なる日本人」を心掛けていたそうで、「現地の“土人”とは違うんだ」という意識が強かった。「グダン族」にはカイゼル髭を生やし、西洋帽子を被っていた者もいたらしい。中には、五つボタンが附いた詰襟の洋服を着ていた者まで居たというから驚きである。太陽が照りつけるインドシナの気候で、この服装だとかなり暑かったんじゃないか。現在でも、きちんとした服装を心掛けるサラリーマンは、真夏でも背広を着込んで山手線に乗ったりするけど、日本の気候でイギリス人紳士を真似るなんて馬鹿げている。敬虔なピューリタンでもないのに、ダーク・スーツを身に纏う日本人は滑稽だ。蒸し暑い日本なら、アロハ・シャツの方がよっぽどいい。

  もっとも、「南洋」支店に“飛ばされた”「本土族」の中には、「場末」に左遷されたと歎く者もいたそうで、日本人の見栄をかなぐり捨てて、だらしないステテコ姿になっていた人もいたようだ。しかし、選良族であれ下町族であれ、在留邦人が共通して持っていたのは、華僑や土民とはちがう「一等国民」という矜持(プライド)だった。スポーツを楽しむ時も、エリート社員はテニスやゴルフに興じ、下町族は野球や武道、相撲大会などを開いていたそうだ。確かに、立派な帝國海軍を持つ日本人には、アジア人とは違った上流意識があり、自分の身に何かあれば祖国の戦艦が助けてくれるという安心感と自慢があった。だから、「俺たちはヨーロッパ人の支配に甘んじている南洋土人なんかとは同類じゃない。日本は一等国だ。こんな茶色い連中と一緒にされては困る」と思っていた。こんな調子だったから、いくらインテリどもがアジア人との連帯を叫んでも、現地の日本人には通じなかったのである。

  世界の情勢に直面するとき、日本人の精神は矛盾と欺瞞に悩まされる。西歐列強のアジア支配に危機感を覚えてアジア民族との連携を考えるが、実際のアジア人を見ると、「こんな奴らが本当に頼りになるのか?」と不安になるし、「科学技術や生活水準で劣った民族」にしか思えないから、対等な民族とは考えない。むしろ、日本人にとって「お荷物」になる可能性の方が高いと見なしてしまう。実際、台湾は蛮族が棲息する島国だったし、朝鮮は乞食より貧乏なエタが住む後進国だった。日本の周辺を見渡すと、本当に情けない国ばかり。日韓併合なんて、腐った鶏肉を食べたようなものだ。いざ、朝鮮民族を統治してみると、支配による利益より、民度を高めるために投じた資金の方が大きく、税金の無駄遣いという後悔の方が強かった。今では常識になっているが、朝鮮半島に注ぎ込むお金があるなら、東北地方の日本人に投資した方がよっぽど有意義である。日本の議員や官僚は、幕府側についた日本人を無視するかのように、碌でなしの朝鮮に立派な学校や道路、橋、ダム、発電所など建設するんだから、冷血漢としか言いようがない。また、朝鮮に大量の税金を注ぎ込むことで、南満洲の防禦策が手薄になり、対ロシア戦略にとってマイナスとなった。

白人を憎むコラムニスト

  日本の保守派言論人は、こうした生々しいアジアを語らず、矢鱈と西歐白人に敵意を燃やす人が多い。例えば、ジャーナリストの高山正之は異様なくらいアメリカに憎悪を抱くが、日本の国益を考えればアメリカ人を味方につけた方が賢いはずだ。チャンネル桜の討論会に出演した高山氏は、セオドア・ローズヴェルト大統領が「白人の重荷」となる朝鮮を日本に押しつけたと憤る。(高山正之 / 藤井厳喜、 「新・大東亜戦争肯定論」、『WiLL』8月増刊号p.24) しかし、朝鮮半島を併合したかったのは、伊藤博文や陸奥宗光らを嫌った山縣有朋たちの一派だ。そもそも、なぜ伊藤博文が暗殺されたからといって、あの愚劣な朝鮮を吸収せねばならないのか? それに、伊藤が暗殺されたとき、兇弾の入射角度に疑問が湧き上がったが、なぜか調査は行われずうやむやにされてしまった。これはどう考えてもおかしく、普通なら納得できない。いくら何でも、総理大臣になった元勲が殺されたというのに、科学的検証が中止されたのだから、裏に何かあると思われても仕方ないだろう。筆者は陰謀論に組しないが、こうした“いかがわしい”事件が起きた場合、たいてい内部犯行という線が濃厚だ。(案外、伊藤を邪魔に思っていた山縣の差し金だったりして。)

Theodore Roosevelt 1Ito Hakubun 2Mutsu Munemitsu 1Yamagata Aritomo 1
(左: セオドア・ローズヴェルト / 伊藤博文 / 陸奥宗光 / 右: 山縣有朋 )

  高山氏は米国のフィリピン領有にも怒っていたけど、米国海軍がフィリピンに駐留することで我が国の背後が安全となったから良かったじゃないか。原始的なタガログ族とかイロカノ族を日本が統治したら、税金の浪費にしかならず、日本国民の方が搾取されてしまうだろう。でも、高山氏は日本がフィリピンを占領した方が国益に適うと考えているようだ。アメリカ白人に対し私怨でも抱いているのか、 高山氏は米国がハワイを占領・併合し、フィリピンまでも支配して、日本包囲網を構築したと述べていた。しかし、アメリカ国民に我が国への領土的野心があったのか? 合衆国政府にさえ日本占領の意思はなく、それどころか帝國海軍に対する脅威の方が強かった。日本だって米国との対決は望んでおらず、昭和天皇が英米との友好を望まれていたことは有名だ。日露戦争で苦労した帝國陸軍に至っては、ロシアが一番の敵であり、北進が伝統的な基本方針だったはず。しだかって、日本が英米を敵に回すのは愚の骨頂である。逆に、アメリカやブリテン、オーストラリアと組んでロシアに対抗するのが正論だ。「白人がアジア諸国を蹂躙したから、奴らを叩きのめせ !」というのは幼稚な書生論で、日本の国家戦略を考える大人の意見ではない。

  討論で熱弁をふるっていた高山氏は、西歐白人の植民地支配を激しく非難していたが、インドネシアやビルマ、インド、フィリピンが白人に征服されると、具体的にどんな被害が日本に及ぶのか教えてもらいたい。フランス人がベトナムを支配し、オランダがインドネシアで御主人様になってもいいじゃないか。日本の戦国時代を思い出せば分かると思うが、強い軍隊を持つ武将が他の領地に攻め込むのは当り前だった。現在の日本人は西歐列強の植民地を一方的に非難するが、植民地経営はそれほど儲からず、却って何かと出費が嵩むし、現地人の叛乱が起これば鎮圧部隊を派遣せねばならぬから、ひと苦労だ。日本人は根が真面目だから気付かないが、ビルマ人やインド人に手こずる英国の苦境は日本にとって好都合。中立的な日本が「善意の第三者」を演じて、叛乱軍と話をつければイギリス人に「貸し」を作ることができるし、現地人も非白人の日本人なら面子を保つことが出来るので妥協の余地が生まれてくる。日本の保守派知識人は無邪気にインドやビルマの独立を後押しするが、そうなると日本の重要性が減ってしまうので、我々にとってはマイナスだ。

  韓非子的な考え方になるけど、イギリス人に厄介者を持たせ続けて、「悩みの種」を増やすことは、日本人への依存度を高めることになるから、我々にとっては得策である。異民族支配に多額の税金を使う英国は、極東地域にまで艦隊を派遣する余裕が無くなるので、必然的に我が国と組もうとするはずだ。そこで、一流の諜報組織を持つ英国と昵懇になれば、日本にとって有益な情報が流れてくるから、我が軍の将兵の命が助かる場合も出てくる。また、オーストラリアを攻撃して反日感情を高めるなど暴挙としか言いようがなく、オーストラリアの白人を取り込んで英国社会に浸透する方が得である。西歐の上流社会にはお金を浪費するボンボンが多く、体面を保つためにお金で寝返る奴もいるから、そうした馬鹿を利用して人脈を開拓し、良質な情報を掴んだり、日本側にとって都合のいい情報を流すことも可能となるはずだ。「白人はケシカラン !」と興奮する高山氏は幼稚で、日本の為に友好関係を結ぶ方が遙かに賢明である。

Franklin Roosevelt 1Herbert Hoover 2Hamilton Fish 1
(左: フランクリン・ローズヴェルト / 中央: ハーバート・フーヴァー / 右: ハミルトン・フィッシュ )

  日本人は戦艦や戦闘機の製造・開発になると才能を発揮するが、宣伝戦や心理戦になると極端に能力が低下する。高山氏は合衆国政府の対日政策やアメリカのマスコミ界を糾弾するが、当時のアメリカ国民にはグローバリストが少数派で、自国優先主義に賛成する国民の方が多かった。したがって、日本政府は米国内の社会主義者や介入主義者を標的にした対外工作を実行すべきだった。日本の味方になりそうな保守派議員と民間団体を取り込み、彼らに赤いグローバリストを批判させれば対日戦争は回避できたし、米国内にジャパン・ロビーをつくれたはずだ。日米開戦となって日本兵が大量に死ぬことを考えれば、世論工作に大量の資金を投じた方が安上がりである。日本はローズヴェルト大統領や赤いニューディーラーに反対する保守的な大学生やキリスト教徒を育て、ハーバート・フーバー元大統領やロバート・タフト(Robert A. Taft)上院議員、ハミルトン・フィシュ(Hamilton Fish)下院議員、ジョン・W・ブリッカー(John W. Bricker)上院議員、ヘンリー・スタイルズ・ブリッジ(Henry Styles Bridge)上院議員などの政治家と連携すればよかった。特に、アメリカの内部には保守的な民衆党員が多かったので、ソ連を支援するようなユダヤ人官僚とか共産主義にかぶれたピンク左翼の正体を暴いて、民衆党員同士を反目させることも出来たはずである。

John Bricker 1Henry Styles Bridge 1Robert Taft 1
(左: ジョン・ブリッカー / 中央: ヘンリー・スタイルズ・ブリッジ / 右: ロバート・タフト)

朝鮮人並の感情論

  とにかく、アメリカ人やヨーロッパ人を酷評する高山氏の表情を見ていると、何らかの個人的な恨みでもあるのかと邪推したくなる。「白人だから悪い」とか「アメリカ人は根っからの悪党だ」との前提で国際政治を判断すると、物事の本質が見えなくなる。たとえ、日本人を嫌うアメリカ白人がいたとしても、どんな魂胆で反日言論を展開しているのか分からない。単に挑発的な記事や刺戟的なネタを書いて注目されたい記者かも知れないし、外国からお金をもらって故意に反日論評を書いているのかも知れないのだ。そもそも、日本人を称讃する良識的な記事より、残虐な日本人をテーマにして特集を組んだ方が編集部のウケがいい。また、アメリカの一般国民は驚くほど無知だから、嘘のような記事でも簡単に信じてしまう癖がある。

  高山氏が念頭に置く「アメリカ白人」とは、日本を貶すことで快感を得る下郎のジャーナリストか、地理を勉強したこともない底抜けの馬鹿、白人であること以外に自慢が無いクズ、「日本批判なら問題なし」と思っているリベラル派とかじゃないのか。産経新聞社時代、高山氏はロサンジェルス支局に勤めていたというが、どのようなアメリカ人と接触し、如何なる情報を貰っていたのか? 優秀なジャーナリストであれば、上質なネタを仕入れるために、ワシントンの政界やウォール街に詳しいアメリカ人と個人的に親しくなるはずだが、高山氏には何人くらい現地の友人がいたのか? もし、白人の友人が一人もいなくて、アジア系やヒスパニック、黒人ばかりだとネタが偏ってしまう危険性がある。アメリカで良質な情報を得ようとすれば、やはり上流階級にコネを持つ白人の存在が不可欠で、上院・下院議員はもちろんのこと、連邦政府の高級官僚、ペンタゴン勤務の軍人、政党の中堅職員、国際金融業界や軍需産業に顔が利くビジネスマン、大手シンクタンクの上級研究員などの人脈が必要だ。ジャーナリストが情報源を隠すのは分かるけど、高山氏は過去にどんな人物と会っていたのかを告白すべきだろう。

  これは筆者の勝手な推測だが、高山氏には個人的に親しいアメリカ白人が居なかったんじゃないか。日本での取材なら、仕事を離れた場所でも人脈を築くことができる。それに、いくら口の堅い官僚や議員といえども、長く付き合っていれば情が湧いてくるから、時折、上等なネタをリークしてくれるし、酒場で雑談しながら内部情報を聞き出すことも可能だろう。しかし、アメリカだと日本国内のように簡単ではない。まず、言葉と容姿が違うから、西歐系アメリカ人に近づくのが難しいし、たとえ接触できても親しくなるまでが大変だ。だいいち、高山氏にアメリカ人を籠絡するほどの英語力があるとは思えない。外人訛りの発音だと聞き取りづらいので、日本人と話していると鬱陶しく思うアメリカ人は結構多いのだ。でも、いくら日本人記者だからとはいえ、プロのジャーナリストであれば、「道具」としての英語は身に付けておくべきだろう。最もキツイのは、日本人に興味の無いアメリカ人を振り向かせるために、ユーモアのセンスを磨き、アメリカ人が好みそうな笑い話やジョークを予め仕込まねばならない事だ。落語家のように普段からネタ話を練習し、英語であっても流暢に披露できるよう準備せねばならない。官僚の留学なら気楽だが、民間企業から派遣される日本人は、現地で人脈を広げるために相当苦労する。

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(写真 / 貧乏時代の朝鮮人)

  これは言いづらい事だが、白人の植民地支配にケチを附ける高山氏を眺めていると、日本を激しく罵る夜郎自大な朝鮮人に見えてくる。外国の歴史や冷徹な国際政治を知らない朝鮮人は、国内で勝手な意見を吐くことで有頂天になるが、いざ日本に留学してみると、自分の愚かさと視野の狭さに気づくことがある。朝鮮の若者は同胞の教師から「日帝は朝鮮人の国土や文化、名前、言語を奪った。しかも、日本兵は朝鮮の少女を攫って性奴隷にしたんだ」と習う。ところが、先進国の日本に留学し、一次資料を調べてみると、朝鮮人教授の話が嘘っぱちだと分かる。また、アメリの名門校に留学すると、朝鮮人など全く相手にされず、朝鮮が何処にあるのかも知らないアメリカ人が多い事に驚く。朝鮮が「世界五大文明の一つ」という“歴史”は明らかな妄想である。

  日本にやって来て目が覚める朝鮮人はまだマシな方で、日本語が苦手で日本人との交流が少ない朝鮮人は、思い出に残るような喜びを味わえず、日本人の友人すら作れず日本を去ることになるる。こうした朝鮮人は、日本での孤独感や屈辱感を抱いたまま帰国するので、朝鮮に戻ってからも反日言論を繰り返し、冷たかった日本人への復讐に燃えてしまうのだ。もし、憧れの日本で優しい友人を持ち、日本人との親睦を通して朝鮮の過去を調べれば、朝鮮人の不甲斐なさに気付き、一方的な反日史観に疑問を抱くようになるだろう。高山氏はふて腐れた朝鮮人と似たような心情を抱き、邪悪なアメリカ人を主流とする合衆国を思い描いている。確かに、合衆国政府の閣僚や補佐官などには、他国を征服し、裏から操って覇権を握ろうとする連中がいるのも事実だが、その一方で、米国の介入主義と帝国主義に反対する保守派が少なくない。

Robert E. Wood 1(左 / ロバート・E・ウッド)
  とにかく、国際社会は弱肉強食の世界で、認識の甘いボンクラ国家が強国の餌食になってしまうのは常識だ。もし、米国が宣伝工作で日本の権益を脅かすなら、日本も米国社会に(第五列の)工作員を浸透させ、ワシントンの政界を攪乱すればいい。高山氏は支那人を使った反日宣伝を非難するが、それなら我が国も保守的アメリカ人を買収して、民衆党政権に反撃を企てればよかった。日本の知識人は米国の心理戦を批判するばかりで、積極的な対策や攻撃を提案しない癖がある。1930年代とか40年代には、国際介入を目論むグローバリストに反対する保守派がいたから、日本政府は国内優先主義(アメリカ・ファースト)の勢力を支援すべきだった。例えば、共和党系の軍人であったロバート・E・ウッド(Robert E. Wood)将軍、シカゴの名門家族出身で「シカゴ・トリビューン」紙の発行者であったロバート・R・マコーミック(Robert Rutherford McCormic)、毛沢東の共産党に反対していたウィリアム・ノウランド(William Knowland)上院議員、「ミスター・リパブリカン」と呼ばれたロバート・タフト上院議員、さらにネバダ州の有力者であったパトリック・マッカラン(Patrick A. McCarran)上院議員、ミシシッピー州の大物ジェイムズ・イーストランド(James Eastland)上院議員などを加えてもいいだろう。

Robert McCormic 1William Knowland 1Patrick McCarran 1James Eastland 2
(左: ロバート・マコーミック / ウィリアム・ノウランド / パトリック・マッカラン / 右: ジェイムズ・イーストランド )

  感情的にアメリカを批判する高山氏は、パワー・ポリテックスを知らない朝鮮人と同じで、もし、高山氏が軍事大学の教授や欧州貴族の外政官を前にして、自説を披露すれば大爆笑間違いなしだ。地政学や核戦略を勉強する日本人が高山氏を見れば、同胞として恥ずかしくなり、「日本では言論の自由があるので、ああいう人も存在可能なんです」と言い訳するしかない。昭和初期における日本の軍事力や経済力、ソ連の侵掠的脅威、庶民の生活水準を熟知している人は、英米との衝突を避けるべきと考えるはずだ。亡くなった岡崎久彦大使は、若い頃から歴史に詳しく、戦後ケムブリッジ大学で英国の教養人と接触した外政官だから、日英の格差をよく判っていた。しかも、特命全権大使として活躍し、自衛隊の装備や米軍との関係にも精通していたから、アングロ・サクソンとの協調が日本の安全保障になると確信していた。

  戦前もそうだったが、敗戦後の日本人は戦国時代の思考を忘れている。生死を賭けた戦(いくさ)に邁進した大名たちは、決戦はもちろんのこと、小競り合いにまで細心の注意を払い、敵陣の籠絡、情報攪乱、内部分裂の工作活動などにも熱心だった。秀吉や家康は「戦わずして勝つ」ことを狙って、他の武将を自陣に寝返らせたり、スパイを送り込んで偽情報を流していたという。心理戦に長けた秀吉は猜疑心も強く、軍師の黒田官兵衛にさえ疑念を抱き、豊臣家の安泰を考えていた。家康の方も用心深く、自分の軍事力が強大になるまで辛抱を貫いた。若い頃は今川家や織田家に服従していたし、秀吉が天下人になれば、その傘下に入って機会を伺っていたんだから狡猾だ。領地と家臣を守る為に、家康は多くの屈辱に耐え、将来を見据えていたから凄い。中国の覇者だった毛利家も「おしん」の典型で、コ川時代に領地を激減され、萩に暮らす羽目になっても爆発しなかった。コ川家のイジメによく200年以上も堪えたものである。支那事変の頃の日本人も、世界情勢を考慮して、どの国と妥協して、如何なる同盟を組み、誰を敵とするかを考えるべきだった。高山氏が好きな「植民地解放の為に西歐と戦う」という戯言(たわごと)を秀吉や家康が聞いたら、「この、たわけ者 !」と怒るに違い。戦国武将なら必ずや英米を味方につけ、ロシアの東進に対抗しようとするはずだ。戦争は国家の命運を賭けた外政だから、軽率なスローガンで始めてはならない。「歐米諸国の植民地統治を完全にひっくり返したから、政治的に勝ったのは日本だ」(上掲対談 p.21)と発言する高山氏には附ける薬が無い。米軍の補助部隊に零落れた自衛隊を毎日見る自衛官に意見を聞いてみたいもんだ。
http://kurokiyorikage.doorblog.jp/archives/68729501.html


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2018年12月29日
古谷経衡は元「ネット右翼」? / 有名になりたかった変節漢
黒木 頼景
http://kurokiyorikage.doorblog.jp/archives/68747412.html

本籍は左翼でも有名になりたいから、保守派メディアに潜り込んでくる奴は多い。中西輝政などは三重大学や静岡県立大学にいた頃、岩波の『世界』や『月刊社会党』に招かれる同志だったのに、冷戦終結間際になると「ヤバい!」と思ったのか、『正論』や『諸君!』に鞍替えして「保守派論客」に成りすましていた。

加地伸行も同類で、支那人に媚びるチャンコロ屋なのに、保守派雑誌で知られる『月曜評論』に登場し、メジャーな紙媒体である『正論』、『WiLL』、『産経新聞』に進出して「伝統保守」を名乗っていた。小粒ながら古谷氏も同系の著述家だ。


チャンネル桜を踏み台にした元「保守派」の著述家

Furuya 1  今月27日の朝、偶然テレビをつけていたらテレ朝の『モーニング・ショー』が映っていて、以前チャンネル桜に出ていた古谷経衡(ふるや・つねひら)がゲストに呼ばれていたので、「あれっ!」と少々驚いた。筆者は古谷氏の意見に興味が無かったので、彼の著作を購入したり、新聞に掲載したコラムを熱心に読んだことはない。ただ、チャンネル桜の水島社長が朝日新聞に載った彼の記事を紹介していたので、「左翼陣営に鞍替えしたんだなぁ」と思う程度だった。古谷氏がどんな著述活動を展開しようが筆者の知ったことではないが、『モーニングショー』に出演し、玉川徹を前に「ネット右翼」なるものを語っていたので、「何だ、こいつ!」と思ってしまったのが正直な感想である。

  調べてみると、古谷氏は今回の番組以外でも民放の番組に出演し、評論家としてコメントを述べているようだ。チャンネル桜の「さくらじ」でキャスターをしていた頃と比べれば、「随分有名になったんだなぁ」と思えてしまう。あの頃はまだ駆け出しの素人で、大した知識も無く、ネットで話題になった社会問題を論じるくらいだったのに、今では政治問題のご意見番を気取って、「ネット右翼」や保守派言論人を批判しているんだから大したものである。最近まで知らなかったんだけど、古谷氏は「オフィス・トゥー・ワン」というタレント事務所に所属しているそうだ。ここには久米宏とか長谷川幸洋、森永卓郎が所属しているから、古谷氏がテレ朝に出演できた理由も納得が行く。昔、久米宏がキャスターを務めていた「ニュース・ステーション」は、オフィス・トゥー・ワンが仕切っていたから、テレ朝とは今でも太いパイプがあるんだろう。古谷氏は以前からテレビの世界に憧れていたというから、こうした事務所に入ったのは当然なのかも知れない。

  古谷氏がテレビ番組に登場して何を評論しようが勝手だが、元「ネット右翼」の著述家で、保守論壇に通じているとは笑止千万だ。彼の分析によると、「ネット右翼」と呼ばれる人々は、平均年齢が40歳から50歳くらいで、零細企業の経営者とか管理職、医者などが多いらしい。一般的に想像されているような、引きこもりの若者とか低所得者のブルー・カラーではなく、比較的お金に余裕がある人々であるそうだ。どのような調査で判明したのか分からないが、「ネット右翼」の人口は約200万人くらいらしい。そして、彼らには特定の思想とか主義主張は無く、保守派知識人の言説を鵜呑みにして盲従するのが特徴であるという。古谷氏が最も強調していたのは、「ネット右翼」の「韓国、中国、朝日新聞嫌い」という点である。この三つの内、一つでも好きなものがあれば「左翼」か「パヨク」になるそうだ。

  まぁ、一生懸命お勉強して、大所高所から「ネット右翼」を批判しているんだろうげど、南鮮と支那と朝日新聞を嫌いだと「ネット右翼」になってしまうなら、健全な日本人はほとんど「ネット右翼」になってしまうだろう。ただし、パソコンを使わない人でも、この三つを嫌いな人はいるから、“ネット”右翼ではなく「通常右翼」となる。古谷氏の定義に従えば、筆者も「ネット右翼」に分類されてしまうが、筆者は根拠も無しに朝鮮人や支那人を「嫌い」なんじゃない。ちゃんとした理由があるから嫌いなだけだ。たとえ、朝日新聞の支持者から「右翼」とか「極右」と呼ばれても、不愉快な連中は“嫌い”だし、はっきりと「キライだ!」と言っても赦される日本社会は素晴らしい。

  一方、朝日新聞の社員は一般国民のように、朝日の記事を「変だ!」「偏っている!」「間違っている!」と公言できるのか? 彼らの中には、上司や重役の目を気にしながら自分の意見を押し殺し、「生活と給料の為だ」と自分に言い聞かせたり、「出世が第一」と割り切って会社の方針に隷従している者もいるはずだ。朝日の社員だって内心では「おかしい」と気付いているだろう。例えば、在日朝鮮人とか帰化鮮人が罪を犯して逮捕されたとき、テレ朝や朝日新聞は通名だけを報道し、本名を隠すことがよくあった。若い社員だと、「どうして朝鮮人には特別なんだ?」と一般人から訊かれ、答えに詰まってしまうだろう。また、テレ朝の社員は私生活で不愉快な朝鮮人とか図々しい支那人と出逢って「何だ、あの野郎!」と思っても、「朝鮮人や支那人の全員が悪い訳じゃない!」と自己抑制している。だが、自分の祖国で生まれ育ち、故郷や東京で働き、言論の自由まで保障されているのに、支那人や朝鮮人に遠慮して本音を公言できないなんておかしい。案外、テレビ朝の局員とか朝日新聞の社員の中に、支那人や朝鮮人を嫌う「ネット右翼」がいて、匿名でネットに書き込みをしているかも知れないぞ。あるいは、「ネット右翼」を装って、わざと「ヘイト文言」を書き込み、「みなさん、ヘイト・スピーチを行うネット右翼が急増中です!」とヤラセ記事を書く社員がいないとも限らない。「サンゴ事件」を想い出せば分かるだろう。

  昭和の頃、戦前の意見を戦後になって翻した「変節の知識人」というのがいた。もしかすると、古谷氏は平成の変節漢なのかも知れない。チャンネル桜に出演していた頃は、借りてきた猫よりもオドオドして、慎重に保守派路線をなぞっていたけど、チャンネル桜から離れてオフィス・トゥー・ワンに入ってからは、テレビ局が好む左翼路線に変更したようだ。彼は「ネット右翼」と訣別し、過去を反省するかのように保守派を批判する。例えば、古谷氏は小林よしのりの『戦争論』を論評したとき、作者がネタ本にしていた渡部昇一先生の『かくて昭和史は甦る』を取り上げていた。渡部先生の著書を批評するのはいいけど、「渡部史観」なるものを作り上げ、幼稚な視点で酷評していたのは赦せない。

  例えば、渡部先生が示していた朝鮮統治の評価についてである。古谷氏によると、渡部先生は日本の帝国主義的傾向と植民地支配からの利益に言及していないそうだ。明治国家にとって台湾支配は「金のなる木」であったという。例えば、台湾銀行などは植民地経営の余剰金を日本に送っていたから、日本は利益を得ていたそうだ。この若手批評家によると、朝鮮統治も同様らしい。確かに、朝鮮支配は日本からの持ち出しの方が多かったが、大陸への進出にとって重要な軍事的橋頭堡になっていたから、植民地における収奪の多寡を以て善政・悪政と判断するのは「論外」らしい。(古谷経衡「ネット右翼の『思想的苗床』となった『戦争論』と再検証する」 ネット右翼十五年史 (3) 1998年夏」、現代ビジネス・オンライン、2017年10月3日) 朝鮮統治の検証をすると長くなるので省略するが、仮に「植民地支配」であっても、支配された朝鮮人にとっては、朝鮮史に類を見ない黄金時代であり、日本人による“収奪”なんて微々たるもんだ。こんな「植民地支配」ならインド人やアフリカ人は、「俺たちの国も日本の植民地にしてくれ!」と懇願するだろう。

  古谷氏の見解に一々反論するのは馬鹿らしいけど、もう一つだけ紹介する。彼は渡部先生の歴史用語にもイチャモンをつけていた。古谷氏は次のように述べる。

  この本で渡部氏は、一貫して中国大陸の人々を「シナ人」と呼称し、冒頭の付記でも「中国という語は、東夷、西戎、北狄、南蛮といった蔑称に対する概念として用いられる美称であり、日本においては拒否されるべき」と記している。・・・この理屈は、現在のネット右翼の間でも「シナ人が〜」の呼称が一般的なように、極めて普遍的にみられる倒錯した用法である。既にこの時点で、のちにネット右翼につながる無根拠なヘイト的世界観の片鱗が存分に伺えるのである。(古谷経衡 「『日本は負けたけど勝った』 現実を見ない『自称保守』の淵源」、現代ビジネス・オンライン、2017年10月12日)

  「支那」という呼称については筆者も『支那人の秘史 朝鮮人の痴史』(第4章, pp.174〜189)で詳しく述べたから、ここでは繰り返さない。古谷氏に説明しても理解できないだろうが、そもそも日本人が「中国」と呼べば、広島や島根、山口あたりを思い浮かべるのが普通だろう。そもそも、日本人が日本の慣習で話して何が悪いのか。「中国」というのは「日本」にある地域だ。例えば、日本人のドライバーが中国自動車道を利用するからといって、パスポートを用意してクルマを運転するのか? また、「中国銀行」といっても岡山県にある“日本”の地方銀行で、決して北京や上海を拠点(本店)にする金融機関ではない。以前、関東銀行とか九州銀行があったから、中国銀行という名称もおかしくはなかった。一般国民が「支那」を蔑称と考えてしまうのは、外務官僚や左翼学者のせいで、彼らが北京政府に阿(おもね)ったからである。

  「鮮人」禁止も同じ理由で、在日朝鮮人が「チョーセン」という響きを極端に嫌ったから、マスコミや学者が「禁句」にし、何も知らない一般人が追従しただけだ。冷戦時代、東西ドイツを呼ぶ際に「西独」や「東独」という略称は許されていたのに、なぜ朝鮮に関しては「南鮮」と「北鮮」をタブーにするのか? 常識的に考えて納得できない。マスコミの鮮人贔屓は念入りで、「朝鮮語」を避けて「韓国語」を愛用しているが、言語名は国名と一致するとは限らない。例えば、イラン人が喋る言葉は「ペルシア語」だし、スイス人はフランス語やドイツ語、イタリア語を話している。ドイツ人が使っている言語は、第三帝國時代でもワイマール共和国時代でも、大正時代でも「ドイツ語」だ。ドイツに詳しかった森鷗外が「ワイマール語」と呼んだことがあるのか? オーストラリアの国民が喋っているのも「オーストリア語」じゃなく「ドイツ語」だ。「オーストリア・ハンガリー語」なんて呼ばないぞ。こんな事くらい冷静に考えれば直ぐ解るじゃないか。だいたい、朝鮮人はドイツ人と違って“どこ”が「特別」なんだ? マスコミは理由をはっきりと述べるべきだろう。

  一端の評論家気取りなんだろうが、古谷氏の言論には軽薄なところが非常に多い。例えば、最近、彼は文化放送のラジオ番組に出演し、ゲストの竹田恒泰と一緒に皇室問題について語っていた。司会者が皇位継承問題に触れたとき、古谷氏は「女系天皇でもいいんじゃないか」とか、「女性宮家の創設には賛成」と述べていた。チャンネル桜の視聴者が聞けば、「おい、何だ、その考えは!」と憤慨するだろう。こんな見解なら巷の左翼評論家と変わらないじやないか。個人的な意見だから仕方ないけど、それならチャンネル桜に出演したとき、水島社長の前で堂々と持論を表明すればよかったじゃないか、と言いたくなる。また、竹田氏が陛下の宗教的側面について言及したとき、古谷氏は「天皇は宗教的な存在なんですか?」と尋ねていた。聞くところによると、現憲法では天皇が宗教的存在との記述は無く、「国民の象徴」としか書かれていないからだという。

  もう、馬鹿らしくて反論する気にもなれない。彼に西歐の憲政史を説明しても無駄だから言わないけど、簡単に言うと、当り前過ぎることは憲法に書く必要は無いのだ。例えば、イングランドの君主がキリスト教徒であることは“当り前”だから、カトリックとかプロテスタントの宗派に関して記述しても、貴族院や士族院の議員が自国民の誤解を懸念して、制定法にわざわざ「王様はキリスト教徒なんですよ!」と明記することはない。子供だって女王陛下がアングリカン教会の首長であることは知っているし、国家元首であることも承知している。日本人だと「自衛隊は軍隊なのかなぁ?」とか「国家元首は天皇か、それとも総理大臣なのか?」と迷ってしまうが、イギリス人なら「英国軍の総帥は国王で、誰が見ても国家元首」と分かっている。占領憲法を半世紀以上も温存している国民とは違うのだ。アメリカ人だって憲法の基本は分かっている。古谷氏にアレクサンダー・ハミントンやジェイムズ・マディソンの憲法観を話しても解らないから、結局は馬の耳に念仏になってしまうだろう。それでも説明すれば、憲法に記すのは基本的な事柄に限る。日本国憲法のように、個人の結婚についてまで明記する根本法なんて異常だ。

  左翼メディアで重宝されている著述家なんて論評する価値も無い。しかし、こうした男が「若手の保守派」を装って、チャンネル桜に出ていたんだから腹が立つ。結論を言えば、水島社長は古谷氏に利用されたということだ。つまり、古谷氏は無名人から有名人になるため、テレビ番組を運営する有力者に取り入り、顔と名前が世間に知れるや、“頃合いを見計らって”ポイ捨てにした、ということだろう。昔、西部邁も宮崎哲弥に利用されていた。まだ、無名の若造だった宮崎は、有名だった西部氏に近づき、彼が喜びそうな言論を吐いて可愛がられていた。宮崎は「ジジイ殺し」のコツを摑んでいたから、西部氏に同調し、「保守派」を名乗って左翼知識人を批判していただけだろう。筆者は準備号から西部氏の『発言者』を購読していたので、いかがわしい宮崎の正体が直ぐに判った。

ちなみに、『発言者』は保守派雑誌とは程遠く、常連執筆者は三流知識人ばかり。無味乾燥な文章を書き連ねる佐伯啓思とか、「パンク右翼」を自称する福田和也、憲法学の業績が無い憲法学者の八木秀次、民主党を支持する官僚上がりの榊原英資などウンザリするような面々だった。そこに、根暗の歴史家、保阪正康が連載を持っていたんだから、雑誌が行き詰まるのも当然だ。

  チャンネル桜の水島社長は、若者を育てるつもりで古谷氏にチャンスを与えていたのだろうが、本人は水島氏を踏み台にしただけだった。

本籍は左翼でも有名になりたいから、保守派メディアに潜り込んでくる奴は多い。中西輝政などは三重大学や静岡県立大学にいた頃、岩波の『世界』や『月刊社会党』に招かれる同志だったのに、冷戦終結間際になると「ヤバい!」と思ったのか、『正論』や『諸君!』に鞍替えして「保守派論客」に成りすましていた。

加地伸行も同類で、支那人に媚びるチャンコロ屋なのに、保守派雑誌で知られる『月曜評論』に登場し、メジャーな紙媒体である『正論』、『WiLL』、『産経新聞』に進出して「伝統保守」を名乗っていた。小粒ながら古谷氏も同系の著述家だ。

  ただし、古谷氏の場合、一般的に云う「知識人」とか「言論人」とはちょっと違う。彼がテレ朝の番組に起用されるのは、「こんな若い人が朝日路線に賛同してますよ!」と視聴者に仄めかすためだ。進歩的文化人の没落と左翼知識人の老齢化に悩む朝日にしてみれば、フレッシュな左翼世代は大歓迎。有名人になりたがっている古谷氏はまさに適役だった。社会問題を取り上げるワイドショーには、教養のカケラも無い幼稚な藝人が雁首を並べているから、俄(にわか)仕込みの知識を披露する古谷氏でも結構“知的”に見える。たぶん、古谷氏は一端の「知識人」に見えるよう計算しながら喋っているのだろう。彼が出演したある番組の動画をYouTubeで見たけど、その中で彼が軍事問題を論じていたので笑いそうになった。「出演前に一生懸命お勉強したんだねぇ〜」と思えるような説明だったから反論する気にもなれなかった。まぁ、目くじらを立てずに「憧れの職業に就けたんだから良かったじゃないか」と温かく見守ってやるのが“大人の対応”なんだろう。

今回、筆者が古谷氏のようなテレビ藝人を取り上げたのは、水島社長に同情したからだ。水島社長は自分の財産と時間を使ってインターネット放送を運営し、各地で政治活動や抗議デモを行っている立派な日本人である。このような人物を利用して出世した古谷氏を一般国民はどのように考えるのか? 筆者は日本に害をなす支那人や朝鮮人をちょくちょく批判するが、もっと嫌いなのは古谷氏のような日本人の方である。
http://kurokiyorikage.doorblog.jp/archives/68747412.html


4. 中川隆[-10420] koaQ7Jey 2019年5月02日 08:51:53: b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[1670] 報告
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教科書に載せて全日本人に知らせたい現代史 支那人の卑史 朝鮮人の痴史
黒木 頼景
http://kurokiyorikage.doorblog.jp/archives/68705769.html

どのツラ下げてモノを言っているのか

  先週、チャンネル桜の『夜桜亭』を観ていたら、視聴者からの質問をSayaさんが読み上げ、水島総社長が答えるコーナーがあり、昔キャスターを務めていた古谷経衡(ふるや・つねひら)の話になった。筆者は同番組の『さくらじ』をたまに観ていたので、古谷氏を覚えていたが、番組降板後の活動は気にしていなかったので、彼が何をしていたのか知らなかった。しかし、チャンネル桜を去った後、彼が同番組と出演者に対し陰口を叩いていたことを聞いて、少々不愉快になった。そこで、ちょいとインターネットで調べてみると、傲慢不遜な発言があったので「イヤな奴だなぁ」と思った次第である。  

  古谷氏は『文藝春秋』2017年10月号で、辻田真佐憲を相手に「ネトウヨが保守論壇をダメにした」という題目で対談を行っていた。彼はインターネット上の言論に詳しいようで、「ネット右翼」と政治をネタにしていたようだ。例えば、


  新聞やテレビを見ない若者へのネットの影響力は見過ごすことはできません。ネット右翼の基本的な傾向は「嫌韓」「嫌中」「嫌マスコミ」。安倍政権が韓国に対して厳しい態度を取ると大喜びします。たとえば円とウォンの通貨スワップが継続されずに終了したときなどは「ついに安倍総理がキレた」などと大変な盛り上がりようでした。

  古谷氏が言う「ネット右翼」とやらが、朝鮮や支那を嫌いなのは何も不思議なことじゃないだろう。まともな日本人なら昔からそうだ。逆に、朝鮮人や支那人が大好きな進歩的知識人とか朝日新聞などが異常なだけ。それに、マスコミが嫌いな人は、ネットユーザー以外にも大勢いるだろう。朝から晩まで下らない「森友問題」を取り上げているマスコミに、好意を抱いている国民の方が頭がおかしいんじゃないか。安倍政権が南鮮に厳しい態度を取るのは正常行為で、もしもNHKが喜ぶような「甘い態度」を取るなら安倍政権の評価はもっと下がるだろう。そもそも、南鮮に特別な「心配り」をする議員の方がおかしく、冷たく突き放すのが良識的な日本人である。我が軍の将兵を強姦魔とか侵掠者と侮辱する民族に優しくする義理は無い。

  そもそも、「ネット右翼」って誰のことなのか? 古谷氏の定義によれば、「保守系言論人や文化人の理論に寄生する烏合の人々」らしい。しかし、不特定多数から成る「烏合の衆」なら、節操も無く誰にでもタカるだろうし、こうした大衆は気紛れだから、何かの拍子で興味を失えば蜘蛛の子を散らすように離れて行くだろう。無節操な連中というのは、左翼が勢いづけば左翼知識人の理論に寄り添うし、自民党が多数を握れば、「寄らば大樹の陰」とやらで“俄仕込み”の自民党支持層となる。信念の無い大衆は小泉劇場が人気を博せば、小泉政権支持者となり、民主党が与党になれば、「政治改革だぁ〜」と浮かれて反日議員に靡く。たぶん、「ネット右翼」なる者は、状況次第で「ネット左翼」になるんじゃないか。烏合の衆はイワシの群れと似ていて、昨日の左翼も時勢に阿って右に傾くし、風向きが左に流れれば、また左翼に戻る。希望の党を支持した者が、小池百合子の没落を目にして失望し、願望を抱えて立憲民主党に傾く、なんてのはよくあることだ。

  筆者には断定する“これ”といったデータは無いが、所謂「ネット右翼」なる名称は、主要メディア、すなわち全国紙や地上波テレビを支配する左翼分子が、危機感を募らせて創り出した用語じゃないのか? 「ネット右翼」なる人々は“偉い”論説員の主張に従わず、別の情報源で勝手に判断するから、焦った左翼ジャーナリストが「あの連中は右翼だ !」と言い放ったのが起源かも知れないぞ。「ネット右翼」なる呼称が誕生した真相を是非知りたいものだ。元々、日本の国柄や日本人の精神を改造したい極左分子は、伝統的価値観や世間の常識で判断する庶民が大嫌いだ。日本の一般人は謙虚というか、自分の判断材料に自信がないから、どうしても偉い学者や高名な専門家の意見を求めたがる。しかし、こうした知識人が一体どんな指導教授に附き、如何なる勉強をしたのか不明なんだから、最初から信じるのは危険だ。たとえ恩師が偉大でも、弟子が碌でなしという場合も多い。小室直樹先生に附いて学んでも、宮台真司や副島隆彦みたいな弟子が生まれてくるんだから。

  ところで、「私はネット右翼です」といって言論を発信する人は、具体的に誰なのか? 筆者は「ネット右翼」に疎いので、現実社会の右翼しか知らない。例えば、古くは頭山満の「玄洋社」や内田良平の「黒龍會」、昭和の「蒼龍會」などは有名で、一般人でも耳にしたことがあるはずだ。マスコミ関係者なら「一水会」の木村三浩とか鈴木邦男を思い浮かべるだろう。だが、右翼を“脱した”鈴木邦男などは誠におぞましく、本当に元「右翼活動家」だったのか、と首を傾げたくなるような人物だ。今では社民党の福島瑞穂と「仲良し」で、福島は自分の対談番組に鈴木氏を呼び、「今日は、敬愛する鈴木さんをお招きしました !」と笑顔で述べていた。これには彼の右翼仲間もさぞかし驚いたんじゃないか。要するに、鈴木は昔から左翼体質の人間なのだろう。産経新聞に入社したのも「一水会」に属したのも、愛国者を演じたかったからじゃないのか。「右翼」を辞めた鈴木が極左分子の福島と昵懇なのは、元々あった“自分らしい”姿に戻ったからだろう。

  「右翼」の定義はともかく、古谷氏が云う「ネット右翼」は、自然発生的なものらしい。彼は次のように述べていた。

  ネット右翼のそもそもの始まりは自然発生的なものでした。2002年の日韓共催のサッカーワールドカップで、韓国代表の試合で、あまりにも酷い誤審が続き、世界ランク上位のイタリアとスペインに勝った。これは審判の買収などの陰謀があったに違いないという意見がネットでは噴出しました。一方で、既存のマスコミは、そうした声を報じることは一切なく「ワールドカップ万歳」「日韓友好」で押し切った。それが今に続く「嫌韓」「嫌マスコミ」につながっていきます。

  もしも、古谷氏が説明するように「ネット右翼」が「自然発生的なもの」ならば、それは日鮮友好を“ゴリ押し”するマスコミへの“自然な”反撥なんじゃないか。電通とNHKが裏で結託し、民放各局を巻き込んで「韓流ブーム」を仕掛けたんだから、敏感な国民が反感を抱いたのも当然だろう。2008年前後はこの「ブーム」の押しつけが最も激しく、各局とも南鮮人の歌手や俳優を番組に招き、不自然なほど彼らを持ち上げていた。例えば、笑福亭鶴瓶なんかは、深夜番組の「きらきらアフロ」で何回も鮮人歌手を褒めていた。でも、あれは番組プロデューサーやフジテレビへの「ゴマすり」だと思う。全部の歌番組を調べた訳じゃないから伝聞でしかないけど、いくつかの番組では“お抱え藝人”に「韓流ファン」のフリをさせ、「提灯持ち」の役を演じさせていたようだ。

  しかしこれって、詐欺師が安物の壺とか羽毛蒲団を売りつける手口とソックリじゃないか。例えば、お金を巻き上げようと謀る詐欺師が、アホな一般人の「カモ」を高級ホテルの大広間に招く。そこには「サクラ」が仕込んであり、彼らは口々に「えぇぇぇ、安い ! 買った ! 二つくれ!」と叫ぶ。すると、何も知らない客も焦りだし、「私にも一つ頂戴 !」と言い出す。詐欺師は「しめしめ」と呟いて笑顔がこぼれる。一般人というのは、みんながこぞって買い始めると、それが必要でなくても、「買わなきゃ損 !」とか「きっとお買い得なんだわ !」と勘違いし、我先にと求めてしまうのだ。悪党どもはこうした群衆心理を上手く突いて利益を手にする。フジテレビがつまらないK-POPをイチ押ししたのは、鮮人歌手のCD販売権を持っていたからだろう。この凋落したテレビ局は、儲けを出すためになり振り構わず、必死で鮮人ミュージシャンを称讃し、ネギを背負ってやって来る日本人を絶好のカモにしてきたんだから悪質である。

  そもそも、日本人は朝鮮文化が好きなのか? TBSとかフジテレビは南鮮のダンサー歌手やアイドル・グループを招いて「今、人気沸騰中の◯◯さんでぇ〜す」と紹介していたが、本当に話題の鮮人なのかどうか判らず、何となく怪しかったのを覚えている。不思議な事に、彼らは英語、あるいは拙い日本語で歌を披露し、朝鮮語の歌詞で唄うことは少なかったと思う。筆者が知らないだけで、実際は朝鮮語の歌が流行っていたのかも知れない。しかし、一体、どれ程の日本人が朝鮮語で彼らの歌を聴き、朝鮮語で一緒に唄っていたのか? そもそも、日本人で朝鮮語を理解する者が、そんなに多いとは思えない。朝鮮ドラマだって人気があった訳じゃないだろう。例えば、TBSは2010年に『アイリス』という南鮮ドラマを夜9時台に放映したが、視聴率は惨憺たるものだった。毎回、6%から7%をうろつくだけで、良心的なサラ金業者の金利みたいだ。

  もっとも、TBSの社員だって高視聴率は期待していなかたはず。彼らも私生活で外国ドラマを観るなら、アメリカ・ドラマの『24』や『プリズン・ブレイク』の方を選ぶだろう。毎日新聞の社員も、自腹で買うなら「東スポ」か「スポニチ」なんじゃないか。産経新聞社は系列の雑誌『正論』を読者に勧めているが、産経社員でそんなつまらない雑誌を読む奴がいるとは思えない。 『正論』を買い支えているのは真面目な高齢者くらいで、若者はそっぽを向いている。せいぜい月刊雑誌の『Hanada』を買うくらいだろう。話を戻すと、筆者は「話題沸騰」の南鮮ドラマを一度も観たことはないが、世間の噂でその惨状を想像できる。BS放送では今でも下らない南鮮ドラマを垂れ流しているが、こんな番組を観ている日本人は暇を持て余して死にそうなカウチ・ポテト族くらいだろう。 おそらく、他に流すコンテンツが無いから、BS放送局は仕方なく「時間潰し」として放送しているんじゃないか。もし、有料放送局のWOWOWで週末のゴールデン・タイムに南鮮映画を流したら、苦情が殺到し、解約者が出るだろう。無料放送局の視聴率は当てにならない。

  古谷氏は「チャンネル桜」が誕生したことで、ネット右翼が増大し、中堅以下の保守系言論人が世間の注目を集めるようになったと述べていた。


  古谷 / 今振り返ると2004年は、ネット右翼にとって大きなエポックメイキングだったと思います。右派系独立放送局の「チャンネル桜」がこの年に誕生しました。そして2007、8年頃から同番組はYouTubeとニコニコ動画へ転載されるようになり、爆発的に広まっていきます。このときから保守系の言論人と自然発生的に生まれたネット右翼の共依存関係が始まったんです。それまで、保守系言論人は『正論』などに原稿を載せても大した反響をもらえなかった。ところが、YouTubeに中韓の悪口を載せると3万回再生されたり、「先生のいうことは素晴らしい」などと反響が書き込まれる。櫻井よしこさんや故渡部昇一さんのような大御所ではなく、中堅以下のほぼ無名だった「保守系言論人予備軍」たちが一躍脚光を浴びるようになっていったのです。彼らは支持を増やすためにより過激によりわかりやすい「敵」への批判を繰り返していった。

  ここで古谷氏に尋ねたいのは、「中堅以下」の「保守系言論人予備軍」とは誰なのか、ということである。一般国民からすると、「予備軍」といった曖昧な表現ではなく、具体的に実名を挙げて説明してもらいたい。渡部昇一先生よりも格下で、支持者を増やすために「中韓」を過激に批判する保守系言論人の卵って誰なのか? また、古谷氏が「支那人や朝鮮人に対する悪口」という意見も、別の人にとったら「まともな批判」ということも有り得るだろう。誰のどんな「悪口」なのか知りたいところである。

  古谷氏が言う「保守言論人」には、彼自身も含まれているんじゃないか、と思えてならない。(ただし、彼が保守派言論人であるか否かは別問題。) 彼はこう述べていた。


  ネット右翼200万人のうちの0.5パーセントでも本を買ってくれれば、1万部売れることになります。書き手も出版社も儲かるからその手の本が粗製乱造されるわけです。

  確か、古谷氏は初めての著書をチャンネル桜で宣伝していたが、彼は同局の視聴者をどんな人々と考えていたのか? たぶん、彼の対談番組を観ていた人達だけは「非ネット右翼」で、自分の著書は高品質の本だと思っているのだろう。しかし、当時、まだ駆け出しの著述家だった古谷氏は、チャンネル桜の視聴者を主要な購読者層にしていたはずだ。水島社長の支援を受けて有名になった事は明らかで、古谷氏が自分一人の力だけで本を売ったとは到底思えない。筆者は貧乏なので古谷氏の著書を買う余裕が無いが、彼の意見を信じるなら、古谷氏の著作は中身の濃い高品質な本なんだろう。

  『夜桜亭』で水島社長が呆れていたけど、古谷氏は「喧嘩別れ」をしたチャンネル桜を小馬鹿にしていたそうだ。同局の世話になった古谷氏によれば、チャンネル桜に集まった人々はたいそう知的レベルが低いそうで、「偏差値38」程度であるらしい。彼は幻冬舎の新春対談で、従来の街宣右翼が衰退し、その代替として「ネット右翼」が台頭したと述べていた。そして、ここから派生したのが、「チャンネル桜」と「在日特権を許さない市民の会」であるそうだ。ただし、古谷氏はチャンネル桜のキャスター達とは違うらしい。彼はこう述べていた。

  僕自身はと言えば、チャンネル桜とは喧嘩別れしましたし、どこが本籍地ということはありません。でも、チャンネル桜に集まった人々と何年かつきあってみて、僕が彼らを過大評価してたと思い知らされました。渡部昇一さん(上智大学名誉教授)や長谷川三千子さん(埼玉大学名誉教授)をはじめ、名の通った論客が顔を揃えているから、まともな集団だと思ってたんですよ。 ・・・・でも実際にそこで仕事をしてみると、ファクトに基づいて議論するといった、メディアとして最低限の作法も身についていない。要するに「陰謀論」と「トンデモ」の巣窟なんです。偏差値61どころじゃない、言ってしまえば偏差値38だったんですよ。

  では、古谷氏が糾弾する「陰謀論」や「トンデモ」論を吐く人物とは誰なのか? まず思いつくのは、毎日の番組を担当するキャスターの面々だろう。具体的に言えば馬淵睦夫大使や渡邉哲也、有本香、高山正之、宮崎正弘、福島香織などだ。筆者はこうしたキャスターの偏差値がどれほどあるのか判らない。古谷氏がどのような方法で彼らの「偏差値」を測定したのかも不明だが、きっと「根拠」のある尺度で測ったのだろう。水島社長は番組の中で古谷氏の出演を呼びかけていたから、高い偏差値を誇る古谷氏はキャスター討論会に出演すべきだ。是非とも、目の前に坐る「トンデモ」論客の発言を指摘し、具体的な批判を加えてもらいたい。そうすれば偏差値の低い視聴者も納得するだろう。古谷氏がどれほど深い教養を持っているのか、皆の前で堂々と披露すべきだ。その時は偏差値の低い筆者も必ず拝見する。

後編へ続く。
http://kurokiyorikage.doorblog.jp/archives/68705769.html


5. 中川隆[-10419] koaQ7Jey 2019年5月02日 08:59:28: b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[1671] 報告
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2016年08月02日
桜井誠の奇蹟 / 魂の独立記念日とチャンネル桜の魂が沈んだ日
黒木頼景
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そもそも、チャンネル桜は保守派の草莽は、既存の左翼政治が嫌で保守運動を始めたのに、集団の成功を目指すあまり、批判してきた政治家に擦り寄ってしまった。

カメレオンのように態度を変える小池氏との同衾(どうきん)では、何の為に努力してきたのか分からない。移民問題や外国人労働者の政策に関し、水島社長は小池氏の回答に満足しいていたが、実際はどうだったのか。

そういえば、安倍晋三は保守派国民にとって期待の星だった。ところが、今や移民推進派の旗手になってしまい、チャンネル桜の支援者を裏切った。もっとも、側近が左翼議員ばかりだから、仕方ないという見方もある。だが、金貨で裏切るユダは他にもごまんといた。

チャンネル桜はバック・アップした政治家に裏切られてきた。野党時代の松原仁をゲストに迎えていたが、与党になった途端、掌を返して知らぬ顔。民主党で役職に就くと顔を合わせなくなった。

以前、日本の素晴らしさを讃えていた馬渡龍治は好印象だったが、落選して細川護煕の都知事選を手伝うようになると、原発反対派になってしまった。

更に酷いのが西田昌司。レギュラー・ゲストにしてやったのに、政治的妥協から有田芳生と協調し、言論弾圧法を作ってしまったのだ。


ヘイト・スピーチへの怯え
(写真 / 秋葉原で最後の演説する桜井誠)


  東京都知事選挙が投票日を迎え、予想通り小池百合子が約291万票を獲得して当選した。案の定、増田寛也の知名度は、終盤戦に於いても絶望的なくらい低く、自民・公明党の推薦があったにもかかわらず、獲得数はたった179万票しかなかった。これは一般の自民党支持者のみならず、動員をかけられた党員にも裏切り者が多く居たということだ。表面では仕方なく増田を応援していたものの、裏ではこっそり小池氏に投票したのだろう。だいたい、増田寛也の顔を見て自民党婦人部のオバちゃんたちが奮い立つのか? ダメ亭主みたいな風貌に加えて、演説に魅力が無く、何を言っても心に響かず、退屈であくびが出てしまう。中には、「増田」という名前さえ覚えられない高齢の有権者がいたり、応援演説に立った石原伸晃まで彼の名前を「増田たくや」と間違える始末。慎太郎の愚息が名前を呼び間違えるから、他の議員も伸晃につられて、「増田タクヤをよろしく」なんて叫んでしまった。宣伝カーの上で側に立つ増田氏は立つ瀬がない。こんな調子だから、党員でもない一般都民になるともっと酷い。ある人は増田氏と握手しながら、本人に向かって「増田さんはどこ?」と尋ねるんだから参ってしまう。選挙公約云々以前の問題だ。

Koike Uriko 3Masuda 1石原伸晃石原慎太郎

(左: 小池百合子 / 増田寛也 / 石原伸晃 / 右: 石原慎太郎)

  自民党は巨大な組織だが党員は人間だ。感情が入らなければ、支援している方だって辛い。党本部からの号令で動いている連中だけど、渋々手伝っているのは傍から見ていても分かる。彼らだって増田が当選するとは信じていなかったはずだ。「弾(タマ)が悪いよなぁ〜」というのが本音だろう。だって、増田なんかどう見たって、市役所の用務員みたいじゃないか。都知事というより庶務課の係長程度だ。鳥越俊太郎に至ってはもう論外。単に原発反対と憲法遵守くらいが公約で、後は「ガンに負けない」という健康キャンペーンをしているだけ。厚労省の宣伝キャラクターにでも応募した方がいいんじゃないか。こんな二人がライバルなら、小池氏は楽勝だとほくそ笑んだはずだ。彼女は師匠の小泉純一郎を真似て、巨大な自民党に一人で立ち向かう「ジャンヌ・ダルク」を演じればいんだから。公約なんかどうでもいい。どうせテレビを見て投票を決める有権者なんか、大した見識を持っている訳じゃないから、エンターテイメントを重視すりゃOKだ。当選が決まれば彼らは紙屑同然となり、いくらでも騙せる。したがって、小池氏はテレビ映りだけを注意すればいい。竹下登じゃないけれど、演説なんか「言語明瞭、意味不明」で充分。さらしを巻いた女任侠(にんきょう)を気取って、彼女が啖呵を切れば、オッちんゃんオバちゃんらは「よっ ! 大統領。じゃなかった、小池の女将 ! やっぱり粋だねぇ〜。小池の姐(あね)さんシビれちゃう !」と感心する。あとは褌(ふんどし)かパンティーを締め直せば勝利したのも同然だ。

Sakurai Makoto 3(左 / 選挙演説中の桜井誠)
  今回の選挙で最も輝いていたのは桜井誠である。有権者に媚びず、自らの信念を貫く姿が凜々(りり)しい。久しぶりに、演説らしい演説を聴いた気分である。たぶん、明治の頃は自らの本音を真摯に語っていた代議士がいたんだろうな。しかし、敗戦後に民衆政治が強化され、国家意識よりも銭の分捕り合戦に焦点が移ったから、選挙は地盤・看板・地盤と、議員の評判を守る為だけの行事に堕ちてしまった。ところが、桜井氏の公約は福祉のバラ撒きではなくかった。東京のみならず、日本全国へ向けてのチャレンジだ。国家意識を喪失した日本人への処方箋を示したのである。さらに、その鋭い舌鋒は、日教組教育で鈍くなった日本人の魂を覚醒させたのである。マイクを握って民衆を叱責する桜井氏は沖天(ちゅうてん)の勢い。日本人が抱く支那人や朝鮮人に対する遠慮を粉砕し、日本人の利益ならびに祖先への敬意、子孫への配慮を訴えていた。自分の国を愛せない左翼が、他人への愛を説くなど笑止千万。「日本第一主義」を嘲(あざ)笑う者こそ、「私益第一主義」という魂胆を持っている。NHKの受信料が視聴者の為ではなく、優雅な生活を送るNHK職員の為になっていることを思い出せば分かるだろう。

水島社長の懸念と誤謬

Mizushima 1(左 / 水島総)
  先週、チャンネル桜の水島総社長のコーナーを視聴した。どうやら、桜井氏の選挙活動をチャンネル桜が取り上げなかった事に不満を持つ番組視聴者がいるらしい。しかし、チャンネル桜が誰を支援しようが、それはチャンネル桜の自由だ。水島社長に文句を言うのはお門違いである。同番組に不満があるなら、自ら体を動かし、桜井氏の選挙活動を支援すれはいい。ただ、番組内で水島氏が殺人鬼の植松聖(さとし)と桜井氏をダブらせていたことには異議がある。過去に行われた在特会のデモ行進で、桜井氏が「朝鮮人をぶっ殺せ ! 朝鮮人を叩き出せ!」と叫んだのは確かである。実を申せば、筆者も民主党政権時代に、在特会の反鮮デモに参加したことがあるからだ。筆者には実際に在特会がどんな集会で、如何なる人達が参加しているのかに興味があった。実態を目にすることは重要である。もちろん、朝鮮人に対する抗議の意図もあった。

  筆者が見たところ、在特会は共産党や創価学会のような鉄の掟で束ねられた組織ではなく、素人の一般人が不満や理念を持って集まるクラブみたいなものであった。在特会の幹部を別にすれば、誰でもデモに参加でき、これといった資格を要求されない緩やかな団体である。したがって、会員や参加者の中には、純粋に朝鮮人への怒りを抱く者や現状の政治を憂える者、朝鮮人への優遇を打破したい者など様々である。もちろん、オープンな市民団体だから、悪意を持った人物や下品な者ばかりではなく、朝鮮人の回し者や在特会を内部から攪乱したい左翼分子が混じってくる危険性もあった。もともと豊富な活動資金を有する政治団体ではないから、有害な人物を摘発・排除したり、密かに監視を行う幹部を持っている訳ではない。したがって、在特会はいつ人的爆弾を仕掛けられてもおかしくはない状態であった。当時、筆者は過激分子で在特会が窮地に陥るだろうと危惧していた。なぜなら、在日鮮人がこうした組織を潰したければ、送り込んだ会員に不祥事を起こさせるはずだ、と推測できたからだ。もし、鉄砲玉がちょっとでも事件を起こせば、マスコミに潜伏した同志がそれを大々的に報道するだろう。そして、事情を知らぬ大衆は、在特会を「ならず者」が集まる極右団体と見なし、決して同調しなくなる。これは多少謀略工作を学んだ者なら分かるはずだ。

  それでも、在特会は左翼マスコミに少なからずショックを与えた。なぜなら、若者がタブーとなっていた朝鮮人特権に堂々と抗議し始めたからだ。テレビと新聞、雑誌を牛耳っていた左翼は、自分たちの縄張りを超えた領域で、新たな世代が誕生したことに焦った。つまり、インターネットの普及だけは、彼らのコントロールが利かなかったのだ。テレビ番組に満足しない若者は、動画の中に毅然として朝鮮人を批判する桜井氏を目にした。それは新鮮であり、かつ衝撃的であった。桜井氏は闇に葬られた歴史を地上に引き揚げ、政府による犯罪統計を根拠とし、常識に基づく正論を貫いたのである。とりわけ、兇暴な顔つきの朝鮮人に対し、一歩も退かなかった。むしろ、自ら進んで挑戦状を叩きつけた。桜井氏が放つ言葉の槍は、朝鮮人に媚びる役所にも向けられたから、観ている者は役所の不正が分かって憤りを隠せない。一般人なら決して気づくこともない、役所の闇を明るみに出したから痛快である。例えば、役人たちは年金受給の資格無き朝鮮老人に、「生活補助金」の名目で実質的な年金を渡していたのだ。また、地方議員による理不尽な圧力や、朝鮮人や支那人といったアジア系外人に対する特別配慮も浮き彫りになった。まったく以て腹立たしいが、「人権」という名の下で、外国人に生活保護が与えられていたのだ。

  水島社長が在特会メンバーによる下品な言葉遣いや殺人教唆めいた煽動を嫌うのは分かる。だが、それを以て桜井氏と植松を同一視することには納得できない。植松に関しては様々な評論がなされており、「ヒトラー思想」を持っていたとか、フリーメイソンの信者だった、障害者を侮蔑する精神の持ち主など、次々と情報が出てきた。しかし、表に出てきた情報のみを考察すれば、この植松は単なる卑怯者で社会のクズでしかない。精神科の医師や心理学者がテレビに登場し、あれこれ専門知識やご託を並べているが、植松は“憂さ晴らし”で大量殺戮に及んだのではないか。植松は大学時代に教師を目指したが、刺青を彫ったので教員にはなれなかった。ということは、世間の常識も知らない馬鹿が教職を目指していたということで、教員になるための知識さえあったのか疑問である。しかも、在学中から脱法ハーブに手を伸ばし、挙げ句の果てに大麻にも手を出していたという。教員になれなかった植松は、運送業の会社に入って運転手をしていたそうだ。これは単に生活の為だけだろう。

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(写真 / 色々な顔の植松聖)

  本気で好きな職業ではないから長続きしなかったのも当然だ。そこを辞めて次に目指したのが、障碍者を世話する福祉施設というんだから呆れる。身体障碍者や智慧遅れ、寝たきりの老人などを看護する職業は、崇高な使命感を持つ人でなければ務まらない。西歐で修道女が養護施設やホスピスを運営できるのは、天主への信仰心が人一倍厚く、不幸な人々への愛に溢れているからだ。キリスト教会の聖職者には人に仕えるという気高い意思がある。そういえば、イエズス・キリストが殺される前に、弟子たちと食事を共にしたことがあった。その時、予想外の出来事があった。師と仰がれているイエズスは、手拭いを腰にまとい、たらいに水を汲んできて、弟子たちの足を洗ったのである。当時、このような足洗いは奴隷がやる仕事で、決して高位の人物がする行動ではない。イエズスは弟子たちの足を洗い終わると、彼らにこう告げたという。

  ・・・主であり、師である私があなたがたの足を洗ったのだから、あなたがたも互いに足を洗い合わねばならない。(ヨハネによる福音書第13章14節)

  つまり、イエズスは弟子に模範を示したということだ。偉い者が敢えて卑しい仕事をするのは、謙虚になるための試練なのかも知れない。高位のラビ(ユダヤ教徒の教師)なんかは、偉そうにふんぞり返って他人に指図するのが常で、自分は上品にタルムード(教典)のお勉強に勤しむだけ。足を洗わず赤ん坊のチンチンを吸うことくらいが趣味という奴も珍しくない。日本の女性は気持ち悪くなるが、ユダヤ教では伝統的儀式だからしょうがない。それはともかく、自活できない他人を介護するのは並大抵の決意がないとできない。それが無いと途中で心が折れてしまう。だいたい、思いつきで就職する奴が真剣に働くのか? 植松に高尚な職業倫理かあるとは思えない。給料目当てで勤めたんじゃないか。だから、嫌な仕事を続けているうちに、身体障碍者への侮蔑が芽生えてきて、「こんな奴ら生きてる価値があるのか?」と考え始めたのだろう。しかし、これは障碍者への差別ではなく、不本意な仕事しか見つからない自分への不満があったからじゃないのか? 惨めな自分を「偉人」にするために、障碍者の抹殺を思いつき、その私慾を隠すために「国家への貢献」とか「ヒトラー思想」を持ち出したんだろう。おそらく、低俗な雑誌か雑学本を読んで感激し、格好をつけたかったんじゃないか? いかにも低能児がやりそうなことだ。

Uematsu 5Uematsu 6(左写真 / 植松の刺青)
  植松が腕や背中に刺青を彫ったのも、みんなに見せびらかして自慢したかったからだろう。これといった能力の無い奴ほど、簡単なことをやらかして格好をつけるもんだ。例えば、タバコを吸って大人のふりをする中学生がそうである。タバコなんて誰だって買えるし、吸ったからとて偉くなるわけじゃない。時間が経てば誰もが二十歳になるのに、それを先に行ったからとて自慢にならないだろう。それよりも、勉強やスポーツに精魂を注ぎ、偉業を達成できるような人物になる方が素晴らしい。ただ、これは地道な努力の積み重ねが必要で、直ぐに披露できる結果に結びつかないから、意気地無しや半端者には不可能だ。植松のようなクズには理解できぬ事柄である。テレビに登場する評論家や藝人は、植松の心理や過去をあれこれ推測するが、そんなのは時間の無駄である。空っぽの頭をした単細胞が、殺人を英雄的行為と錯覚しただけの話である。しかし、この下郎はちゃんと「心神喪失」を前提に犯行を実行していた。つまり、逮捕されても精神喪失を訴えて、刑期を短くしてもらおうと企んでいた。だから、大島衆院議長へ宛てた手紙の中で、刑罰は二年くらいの懲役刑にしてください、と頼んでいたのだ。呆れた奴だが、馬鹿は馬鹿なりに計算していたのである。こんな奴は死刑にすべきで、精神鑑定など税金の浪費に過ぎない。

  水島社長が桜井氏を応援しなかったのは、チャンネル桜の方針だから構わない。しかし、水島社長が気違いの植松と立候補した桜井氏を結びつけるのは、強引な“こじつけ”としか思えず、かなり無理がある。いくら在特会に同意できぬ水島社長でも、桜井氏が「朝鮮人をぶっ殺せ」と叫んだからといって、本気で朝鮮人を殺すとは思っていないだろう。むしろ、桜井氏の周辺に集う仲間の中に過激派が潜んでいる可能性がある。もし、在特会のメンバーや賛同者が朝鮮人に危害を加えるような傷害事件を起こせば、マスコミはこぞって桜井氏との関係を報道するし、朝鮮人排除が刑事事件に結びついた点を協調するだろう。だから、水島社長は桜井氏たちの暴言に警告を発したに違いない。マスコミは国益を考える在特会の意見は無視するが、針ほどの事件を起こせば棒や電柱くらいの扱いで報道するだろう。よくマスコミはテレビ番組や新聞で使わないのに、在特会のデモを撮影したりしているが、それは在特会メンバーが事件を起こした時に特集を組むためだ。左翼は在特会が暴力集団であることを広めたいし、この鮮人差別団体が自滅するよう願っている。

辛いが「大人」の政治運動

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(左: 都知事選挙での田母神俊雄と水島社長 / 右: 小池百合子)

  水島社長が桜井氏と距離を置くのは、その過激な発言への嫌悪感だけではなく、チャンネル桜という組織を防衛するためだろう。もし、気軽に桜井氏を支援すれば、在特会や元会員が起こすかも知れない事件に巻き込まれるからだ。どんな連中が紛れ込んでいるかも分からぬ在特会に肩入れすれば、チャンネル桜へも火の粉が飛んでくるし、局の存続にも影響が出てくる。したがって、制禦できない在特会とは係わらないという水島社長の判断は妥当である。それに、今回の都知事選ではどうしても勝ち馬に乗りたくなるだろう。前回の都知事選では田母神氏を擁立し、大やけどを負ったから、もう二度と危険なギャンブルはできない。当初から桜井氏が当選できないことは明白だ。いくら一部の保守派に人気を博したからとて、東京という巨大な票田では一滴の清涼剤に過ぎない。それよりも、当選確実な小池氏を応援し、貸しを作って後で何らかのお願いを聞いて貰った方が得である。桜井氏を支援したって何の得にもならない。権力者に寄り添った方が悧巧である。

  今回、チャンネル桜で水島社長が、いきなり桜井氏の排外主義と植松の刺殺事件を関連づけたのは、桜井氏を応援しないための口実なのではないか。たぶん、チャンネル桜の視聴者から「なぜ小池氏を応援し、桜井氏を取り上げないのか」という意見が多数寄せられたのだろう。保守派のチャンネル桜としては、反朝鮮感情を持つ視聴者が多いから、彼らを納得させるため、何らかの正当な理由が必要だ。そこで、「風が吹けば桶屋が儲かる」式の論理を組み立てたのだろう。だからこそ、一部の視聴者はその“こじつけ”に気づき、チャンネル桜へ批判を送り、チャンネル桜はそれを撥ねつけながら、断固たる方針を貫いたのかも知れない。国益を重視する保守派なら誰だって、小池氏より桜井氏の主張に共感するはずだ。しかし、現実は損得計算に基づく「大人の論理」で動いている。チャンネル桜の苦悩を理解すべきだ。それに、批判のコメントの中には、チャンネル桜を困らせる絶好の機会と捉え、視聴者の攪乱や保守派の分断を狙った連中がいたから、一概に水島社長を責めることはできない。大きくなった団体を守るのは大変である。小さな組織のうちはリスクを我慢できるが、影響力を行使できるくらい大きくなった組織だと、それを運営するだけでも骨が折れる。だから、気が進まなくても小池氏を担ぎ、惨敗のリスクを回避したかったのだろう。

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(左: 安倍晋三 / 松原仁 / 馬渡龍治 / 右: 西田昌司)

  しかし、ここにジレンマがある。勝ち馬に乗れば利益が大きいが、その代わり不満が鬱積してくるからだ。そもそも、保守派の草莽は、既存の左翼政治が嫌で保守運動を始めたのに、集団の成功を目指すあまり、批判してきた政治家に擦り寄ってしまった。カメレオンのように態度を変える小池氏との同衾(どうきん)では、何の為に努力してきたのか分からない。移民問題や外国人労働者の政策に関し、水島社長は小池氏の回答に満足しいていたが、実際はどうだったのか。そういえば、安倍晋三は保守派国民にとって期待の星だった。ところが、今や移民推進派の旗手になってしまい、チャンネル桜の支援者を裏切った。もっとも、側近が左翼議員ばかりだから、仕方ないという見方もある。だが、金貨で裏切るユダは他にもごまんといた。チャンネル桜はバック・アップした政治家に裏切られてきた。野党時代の松原仁をゲストに迎えていたが、与党になった途端、掌を返して知らぬ顔。民主党で役職に就くと顔を合わせなくなった。以前、日本の素晴らしさを讃えていた馬渡龍治は好印象だったが、落選して細川護煕の都知事選を手伝うようになると、原発反対派になってしまった。更に酷いのが西田昌司。レギュラー・ゲストにしてやったのに、政治的妥協から有田芳生と協調し、言論弾圧法を作ってしまったのだ。でも、こうした例を挙げてチャンネル桜を批判するのは酷だろう。これまで築いてきた同局の功績を考えれば、政治家の裏切りなど些細な事だ。

桜井誠の栄光と伝説

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(左: 硫黄島での海兵隊員の記念碑 /右: 星条旗を掲げるアメリカ軍人)

  筆者の私的な感想で申し訳ないが、秋葉原で行われた桜井陣営の最終演説会を聴いて、心からの感銘を受けた。今まで数々のデモ行進に参加したが、桜井氏のグランド・フィナーレに集まった聴衆は格別だ。確か平成8年(1996年)頃だったと思う。筆者は竹島奪還・韓国への抗議デモに参加ししたことがある。当時はまだインターネットが普及しておらず、参加者募集も困難で、よほど熱心な保守派でない限り来ない。たまたま筆者は「国民新聞」や「月曜評論」、「動向」などを定期購読していたから、抗議デモの情報を掴んでいた。当日、筆者は大通りを行進しながら韓国への反対を叫んでいたが、デモ参加者の中には気恥ずかしそうな人も見られたし、大声を張ることに馴れていない女性もいたりで、今のような堂々としたデモ行進ではなかった。国旗を掲げることさえ躊躇する人がいたくらいである。偶然だけど、筆者は中学生の時、朝礼の国旗掲揚係を務めていたから違和感が無い。第一、戦勝国のアメリカ人が意気揚々と星条旗を振っていたのだ。これを知っていたから、いくら子供とはいえ別段恥ずかしいとは思わなかった。1980年代ならびに1990年代の左翼時代を目撃したから、チャンネル桜のデモに参加した時、みんなが当然の如く日の丸を掲げているのを見て、しみじみ「時代の変化」を感じたものだ。もちろん、桜井氏のような候補者が現れるとは予想していなかった。

Koike Uriko 12(左 / 当選した小池百合子)
  チャンネル桜の支援者や視聴者の中には、小池百合子の最終演説会が行われた池袋に赴いた人もいるだろう。しかし、彼らに本物の“感動”があったのか? なるほど、開票特番で即座に当確が出たから、支持者は歓喜に沸いたに違いない。自分の支持者が当選したから自然な反応である。でも、その感動は二、三日もすれば希薄になるんじゃないか。たぶん、勝利に酔いしれた支持者は、今は何事も無かったかのように暮らしているはずだ。 一般人は堅気の庶民だから、お祭りが終われば、いつもの仕事が待っている。一方、桜井氏のもとに馳せ参じた支援者は彼らと違う。勝ち馬が放つ権力の香りを求めたのではない。既存の候補者なら絶対に口にしない“自爆的”発言を聞きに来たのだ。桜井氏の落選は百も承知である。だが、それでも彼のもとに行きたい。何か心の底から湧き上がるものがある。我々の肉体に燻っている「情熱」だ。祖国への愛だ。これといった権力を持たない草莽は、敗北必然の桜井氏に喝采を送りたかった。当選しなくたって負けじゃない。マスメディアが無視しようが、桜井氏のオーラは消えないし、益々その輝きを増している。なぜか? それは桜井氏が日本を心から愛する草莽の心に火をつけたからだ。そして、彼らの胸にともった炎が桜井氏の雄姿に注がれたからだ。チャンネル桜と水島社長が逃したのは、この眩しい愛国的草莽の輝きである。

Sakurai Makoto akiba 1Sakurai Makoto akiba 5

(写真 / 秋葉原に集まった桜井氏の支持者)

  いかなる団体にも栄枯盛衰がある。保守派と見なされた雑誌の『諸君』は廃刊となり、生き残った『正論』や『Voice』、『WiLL』なども昔ほどの魅力は無い。『文藝春秋』に至っては菊池寛もピックするほど左傾化した。残念ながら、やがてチャンネル桜にも衰退がくるだろう。しかし、チャンネル桜の視聴者やスタッフの中に、「オレも池袋じゃなく、秋葉原に行きたかったなぁ」とか「本当は桜井の方がいいよなぁ」とつぶやく者がいたら、少しは没落を先延ばしにできるんじゃないか。繰り返すが、チャンネル桜は独立した組織だから、誰を応援するかは桜の勝手だし、小池氏を支援するのを非難することは筋違いだ。桜井氏を応援したい者は、たとえ独りでも応援すればいいじゃないか。世間は小池氏が291万票以上獲得したとはしゃいでいる。そして、左翼どもは桜井氏がたった11万4171票しか取れなかった、と言って喜んでいた。しかし、桜井氏へ票を投じた11万4171名は、彼の激しい魂に共鳴し、確信を持って投票したのだ。そして、勇気と希望を体現してくれた桜井氏に感謝したのである。「テレビによく出ていたから」とか「自民党だから」、「一番勝ちそうだから」、「女性都知事を見たいから」との理由で小池氏に投票した連中とは明らかに違うのだ。負け戦にあえて挑戦する桜井氏に票を投じた都民は、本気で日本を考える人々だった。

  桜井氏の最終演説に馳せ参じた者は、彼の「荒ぶる魂」に触れたはずだ。集まった聴衆は不甲斐ない政治に腹を立て、座して死ぬことができない庶民であろう。何の得にもならない集会なのに、桜井氏に喝采を送っていたのは、心臓の鼓動が高まったからじゃないのか。秋葉原での感動は永遠に皆の心に残るだろう。熱い感動は無益じゃない。桜井氏が喝破した「魂の独立記念日」は聴衆の心を突き刺し、彼らの脳裡に深く刻まれたはずだ。桜井氏が問いかける言葉の一つ一つは、聴衆の魂を根底から揺さぶり、日本人として生まれた事実を覚醒させ、一歩も二歩も前進させたのだ。秋葉原の駅前広場に響き渡った「魂」の歓声は、決して消滅することはない。たとえ権力者が押さえつけても、その都度浮かび上がってくる。歴史に刻まれた言葉は誰も消すことはできない。勝ち馬に喜ぶチャンネル桜の支持者は、本心から小池氏の当選に感動したのか? 駆けつけた池袋で、桜井氏の叫びを超える言葉を聞いたのか? 心が揺れたのか? 小池氏の勝利宣言は、心臓を鷲づかみにしたのか? 筆者の勝手な感想だけど、チャンネル桜は僅かに沈没した。しかし、心配ご無用。たった花びら一枚ほどの深さである。しかし、小池氏への虚しさが何万枚も降り積もれば、手のひらに感じるほどの重さとなるだろう。桜井支持派にとって秋葉原の集会は、「魂の独立記念日」になった。一方、小池支持に便乗した国民にとっては、「衰退への晩鐘」だ。チャンネル桜の魂が沈まないことを望む。
http://kurokiyorikage.doorblog.jp/archives/68565382.html


http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/228.html#c7

[政治・選挙・NHK260] 小室圭さん「新情報」報道相次ぐ…軒並み視聴率上昇(デイリー) 完璧帰趙
1. 中川隆[-10519] koaQ7Jey 2019年5月13日 11:42:59 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[1767]

2019.05.13
小室圭に「犯罪歴」 元同級生に暴行・窃盗・暴言の過去


週刊文春のスクープ

週刊文春デジタルでスクープです。

なんと、小室圭さんの小学校の頃の同級生と接触、その過去の犯罪歴が明らかとなりました。告白したAさんは、小室圭の国立音楽大学附属小学校時代の同級生とのこと。

小学校の頃に小室圭から執拗なイジメをうけ、不登校になったそうです。

眞子さまとの婚約が内定した後、過去の清算をしてもらうべく、小室圭に接触。しかし謝罪の言葉はなく、「好きにやってくれ」という趣旨の返答を受けたとのこと。

この怒りに打ち震えて、過去のいきさつについて週刊文春デジタルのインタビューに答えています。

 

Aさんの告白によれば、小室圭によるイジメは父親の死を境に始まり、徐々に苛烈化していったそうです。


関連記事小室圭“容疑者”、「イジメ問題」で開き直り 卑劣な「逃げ切り」を謀る
2019年5月13日
凄惨なイジメ

非常に長いインタビュー記事のため、その仔細はオリジナル記事を是非お読みいただければと思います。最も興味深かったのは、小室圭が過去に陰湿なイジメをし、一人の人間の人生を狂わせていたという事実です。

当時を振り返って次のようにあります。


だが、夏休みが明けると、いじめは再び始まった。内容は徐々にエスカレートし、Aさんが授業で使っていた裁縫道具やハサミなどの私物がなくなることもたびたびあったという

「僕も圭くんもガキ大将も、同じサッカー部でした。サッカーの練習をするといって、休み時間にキーパーとして僕を立たせ、至近距離から一斉にボールを蹴り込まれるということもあった。彼らとサッカーするのが嫌で、別のクラスメイトと休み時間に校庭で練習していると、教室の窓から大声で『学校来るな!』とか『キモい!』とか大声で叫ばれました。圭くんや、ガキ大将は影響力があり、同じクラスは勿論、隣のクラスの男子まで一緒になって悪口を浴びせてきた。隣のクラスの先生が注意してくれたこともありましたが、いじめが止むことはなかった。僕は学校を休みがちになりました」
週刊文春デジタル「《完全版》小室圭さん同級生が初告白「眞子さまとの婚約後も彼は『ごめんね』と言わなかった」
非常に悪質なイジメでしょう。刑事事件になってもおかしくない内容です。

謝罪は無し

Aさんは、その後もイジメの後遺症が残り、精神的に及ぼした影響は今でも消えてないそうです。なんと、大学時代にはカウンセリングに通い、医師からは「幼少期の経験が原因の可能性が高い」と診断されたそうです。

Aさんは、眞子さまとの婚約会見が発表された後に、過去の清算を求めて小室圭に連絡しましたが、その返答はまさに上から目線。


2018年3月、彼にメッセージを送ったんです。『久し振り。取材の依頼がこちらにも来ているよ』と。僕としては、当時のことを話すべきか、どうするのか、彼に直接聞いてみようと考えたところもあった。せめて今、謝ってくれればと。『謝るなら今だよ』という気持ちもあった。久し振りの呼びかけに、彼からは返信も来て、世間話をしましたが、謝る様子がまったく無かったので、ちょっと、うちの母が取材を受けるかも知れないと伝えたんです。

すると、彼は急にかしこまったようなメッセージを送ってきた。『Aのご両親にも色々とご迷惑をおかけして申し訳ない。呉々もよろしくお伝え願います。父が亡くなった時にAが手紙をくれたり、お父さんが野球に連れて行ってくださったり、お母さんはうちの母の心を支えて下さったり…今でも感謝してる。Aのお母さんのお心遣いありがたいのだけれども、そっと見守ってくれるととてもありがたいな』と返してきた。それで僕はもう単刀直入に、いじめのことを今どう思っているのか、それを伝えたんです。でも、以降のメッセージはとたんに既読スルー。やりとりは途切れてしまいました」
週刊文春デジタル「《完全版》小室圭さん同級生が初告白「眞子さまとの婚約後も彼は『ごめんね』と言わなかった」
小室圭は、もはや眞子さまの配偶者、免罪符を持った皇族にでもなったつもりなのでしょうか?

この様に過去の犯罪歴に正面から向き合えない人間が、果たして眞子さまのお相手になることが許されるのでしょうか?

暴行罪や窃盗罪の時効は10年。小室圭からすれば、時効の過ぎた犯罪に向き合う必要はないのかもしれません。元婚約者との金銭トラブルも、持久戦に持ち込んでいるようですし。
https://rondan.net/22130

2019.05.13
小室圭“容疑者”、「イジメ問題」で開き直り 卑劣な「逃げ切り」を謀る


小室家いじめ問題

眞子さまとの婚約延期が続いている小室圭さん。そんな彼に小学生時代いじめられて人生を滅茶苦茶にされた人物(Aさん)が、週刊文春デジタルのインタビューに答えています。

そのAさんの告白によれば、小室圭さんは父親の死を機に豹変、凶暴になりAさんイジメを始めたとのこと。その具体的内容は、


(いじめの)内容は徐々にエスカレートし、Aさんが授業で使っていた裁縫道具やハサミなどの私物がなくなることもたびたびあったという

「僕も圭くんもガキ大将も、同じサッカー部でした。サッカーの練習をするといって、休み時間にキーパーとして僕を立たせ、至近距離から一斉にボールを蹴り込まれるということもあった。彼らとサッカーするのが嫌で、別のクラスメイトと休み時間に校庭で練習していると、教室の窓から大声で『学校来るな!』とか『キモい!』とか大声で叫ばれました」
週刊文春デジタル「《完全版》小室圭さん同級生が初告白「眞子さまとの婚約後も彼は『ごめんね』と言わなかった」
といったもの。身体のみならず心に負った傷は計り知れないでしょう。

尾を引く幼少期のイジメ

なかには「小学校時代のイジメなんて…」と問題を矮小化して考える人もいるかもしれません。しかしイジメられた当人からしてみれば死活問題です。イジメを原因として、時として自殺者が出てしまうことは周知の事実です。

もちろんイジメの内容が苛烈であれば当然、それは犯罪です。

事実、Aさんは小室圭さんのイジメを受け、不登校になり、内部進学をあきらめ、その精神的後遺症は今でも残っているそうです。


Aさんへのいじめは卒業まで続いたという。そのまま国立音大附属の中学に内部進学する選択もあったのだが、Aさんは別の中学校に通うことを決めた。

いじめが精神的に及ぼした影響は今でも消えず、大学時代にはカウンセリングに通ったというAさん。医師からは「幼少期の経験が原因の可能性が高い」と診断されたという。
週刊文春デジタル「《完全版》小室圭さん同級生が初告白「眞子さまとの婚約後も彼は『ごめんね』と言わなかった」
まさに小室圭さんは、小室圭“容疑者”と呼ぶにふさわしい悪行の限りを尽くしたと言えるでしょう。

小室圭との対決

問題が動いたのは、眞子さまと小室圭さんの婚約内定報道があった後、その経緯を次のようにAさんは語ります。


2017年の婚約内定報道の後は、自分のもとにもマスコミが来ました。僕はこのときは何も応じなかった。でも、2018年2月に結婚が延期されると発表があった。そこで2018年3月、彼にメッセージを送ったんです。『久し振り。取材の依頼がこちらにも来ているよ』と。僕としては、当時のことを話すべきか、どうするのか、彼に直接聞いてみようと考えたところもあった。せめて今、謝ってくれればと。『謝るなら今だよ』という気持ちもあった。
同上
という想いでAさんは小室圭さんに次のようにメッセージ。


小室圭:(Aさん宅に取材依頼が来たことについて)Really? ご迷惑をおかけしてて申し訳ない(>_<)

Aさん:連絡来ること自体はしょうがないことだしお前のせいじゃないから大丈夫。

ただどう対応してほしい?

小室圭:色々とごめんな。

お任せするよ。
同上
メッセージの一部分しか掲載されていないため、文意が必ずしも明瞭ではありません。

しかし取材を受けることに「どう対応してほしい?」と迫るAさんに対し「お任せするよ」と呑気に答える小室圭さん…。事態を全く呑み込めていないようです。反省という心がおそらくないのでしょう。

より話題は本質に

一向に埒の明かない会話にAさんは次のように。


久し振りの呼びかけに、彼からは返信も来て、世間話をしましたが、謝る様子がまったく無かったので、ちょっと、うちの母が取材を受けるかも知れないと伝えたんです。
同上
次のように切り出します。


Aさん:んーと、単刀直入に言うとさ■■■は受ける気満々なわけよ。

俺はどうでもいいのね。

でも受けるメリットも俺にもわかんない。■■■■■■■■■■■■■■

お前が音少の時のことをどう記憶してるか知らないけどたぶんこっちの記憶の仕方と食い違いあると思うんだけど、それにプラスして俺らガキ同士が知ってる以上に親同士結構腹割った話してたみたいなの。

だから万が一ウチの■■■が取材受けて、それがお前らに何かしらの影響を及ぼす可能性があるならそれは違うんと思うんだ。

それなら俺は全力で■■■を止めるし。そんな可能性なくてただの俺の勘ぐりならきにしないでくれていい。
同上


 

この様に具体的な内容と突き付けられ、ようやく事の重大さに気が付いたのか、小室圭さんは、次のように急にかしこまったようなメッセージを送ってきたそうです。


小室圭:■■のご両親にも色々とご迷惑をおかけして申し訳ない。呉々もよろしくお伝え願います。

父が亡くなった時に■■が手紙をくれたり、お父さんが野球連れて行って下さったり、お母さんはうちの母の心を支えて下さったり…今でも感謝してる。

■■のお母さんのお心遣いありがたいのだけれども、そっと見守ってくれるととてもありがたいな。基本的には■■に任せるけど、よろしくお願いします!

結局、一言も謝らない小室圭さん。

こんな調子では「今でも感謝してる」という言葉も、本心なのか信じられません。

逃げ切りを謀る小室圭

以上のように、のらりくらりと責任回避する小室圭さん。さすがに業を煮やしたAさんは、単刀直入に、いじめのことを今どう思っているのか、次のように伝えたそうです。


Aさん:謝るなら謝るで謝り方違くない?

お前が本当に覚えてないのか、自覚がないのか、都合よくオブラートに包んでるのか知らないけど

お前が言ってんのは仲良くしてた時の話だよね?

その後の話してんだよね。俺は。

お前の家族に色々怒って子供ながらに俺も考えて気を使ってお前に接して。結果お前は俺が煙たくなってからのこと話してんのよ。

覚えてねーかな?最後の方俺学校行ってなかったの。わざわざ学校行く前の日に電話くれて電車の時間待ち合わせて、当時アホみたいに言われた通りの電車に1人で乗ってる俺を横の車両から見て楽しんだりしてたでしょ?

身に覚えがないならそれでいいんだけどさ。
同上
具体的なイジメの内容まで書いたメッセージに心打たれます。書いたAさん自身、昔を思い出し辛かったことでしょう。

しかし小室圭さんは、このメッセージには返信せず、既読スルー。やりとりは途絶えてしまったそうです…。

まとめ

このように、イジメ問題を突かれ、都合が悪くなると逃げ切りを謀る小室圭さん…。その無責任さに驚かれた方も多いはず。

そういえば母・佳代さんも元婚約者との400万円の金銭トラブルを、時効に向けて逃げ切りを謀っていますね。母子はどこまでいってもよく似ているようです。

にしてもAさんの人生を滅茶苦茶にした総括を果たすことなく、眞子さまとの結婚が有り得るのでしょうか?

破談一択のような。
https://rondan.net/22209
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