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中川隆 koaQ7Jey コメント履歴 No: 100265
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[政治・選挙・NHK258] 日本の若者が極右化しているのではなく 革新=リベラルが絶望的に退潮している [橘玲の日々刻々] うまき
1. 中川隆[-11433] koaQ7Jey 2019年3月16日 09:55:23 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[564]

1970年代は科学的社会主義とかいうのが流行っていて、

唯物弁証法とかマルクスやレーニンの理論が既に科学的に証明されたと思っていたアホが沢山いたんだよ

日本共産党の話もその手のものなんだ。

赤軍派議長の塩見孝也なんか 2017年11月に死ぬまでずっと 世界同時革命とか叫んでたからね:

若松孝二 実録・連合赤軍 あさま山荘への道程 (2007年) _ 1970年代はこういう時代だった
http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/287.html
http://www.asyura2.com/19/senkyo258/msg/531.html#c1

[近代史3] 若松孝二 実録・連合赤軍 あさま山荘への道程 (2007年) _ 1970年代はこういう時代だった 中川隆
98. 中川隆[-11432] koaQ7Jey 2019年3月16日 10:05:55 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[565]

[橘玲の日々刻々]
日本の若者が極右化しているのではなく 革新=リベラルが絶望的に退潮している

若い世代の政党支持で特徴的なのは、安倍政権(自民党)への支持が高いことではなく、野党への支持が極端に低いことだ。高齢層では10%ちかくが野党第一党(旧民主党・民進党)を支持していたものの、若者のあいだでは2%に満たない。その一方で、右側の政党と見られている自民党は、左派や穏健左派の若者からもかなりの支持を得ることに成功している。

 この状況を著者たちは、「若者自体はイデオロギー軸上の真ん中に留まって、政治に関心を払ったり払わなかったりしているのだが、それと同時に、左側の選択肢に対する信頼を失っているという状況が、表面上は保守化のように見えるのであろう」と述べている。若者には棄権するか、自民党に投票するかの選択しかないため、自民党への投票割合が他の世代に比べて高くなるというのだ。

 これはたしかに説得力があるが、『朝日ぎらい』で指摘したように、若い世代では男女で自民党(安倍政権)への支持率が大きくちがう。2017年10月の日経新聞の調査では、18〜19歳の女性の自民党支持率は33%で女性の平均(36%)より低いが、男性の支持率は55%で平均(43%)を大きく上回っている。20代でもこれは同じで、女性の支持率は37%で男性は54%だ。これほど大きなちがいは、やはりなんらかの説明が必要だろう。次は「若い男性の自民党(安倍政権)支持」についても通説を検証してほしい。

日本社会は革新=リベラルが絶望的なまでに退潮している
 現代日本における政治イデオロギーを実証的に検証した『イデオロギーと日本政治』を読んで感じるのは、日本社会は保守化・右傾化しているのではなく、革新=リベラルが絶望的なまでに退潮しているということだ。革新政党を自認する共産党は、若者からは「保守政党」と見なされている。それ以外の生まれては消えていく野党も、保守かリベラルかというイデオロギー対立以前に、そもそも政治勢力として扱われていない。

 日本の「左翼」は、冷戦下に「護憲」「非武装中立」という非現実的な理想にしがみつき、冷戦が終焉してグローバル世界のルールが大きく変わっても自らの政治イデオロギーを修正することができず、エリート的な「無謬神話(自分はぜったい間違えない)」で巨大な墓穴を掘ることになった。そのなれの果てが現在の「安倍一強」だと考えれば、そこになんの不思議もない。

「リベラル」を自称するひとたちは「立憲主義を踏みにじる」安倍政権をさかんに批判するが、その声高なプロパガンダが若者たちからほとんど相手にされないのは、安倍政権を生み出したのが自分自身だという「事実(ファクト)」から目をそらせているからだろう。こうして、「民主主義を守れ」とこぶしを振り上げれば上げるほど若者たちは政治を忌避するようになる。――日本の大学では、政治の話をするとKY(空気が読めない)のレッテルを貼られて仲間外れにされるのだという。

 実証データからわかるのは、日本の若者も他国の若者たちと同じように「リベラル化」しており、変化や「革新」を求めていることだ。ところが日本の「リベラル」はそうした期待にまったくこたえることができず、憲法から築地市場移転まで「変える」ことに頑強に反対してきた。その致命的な失敗を自覚しないかぎり、日本において「リベラルの復権」はあり得ない。

『イデオロギーと日本政治』の最後で著者たちは、イタリアとの比較で、日本の政治イデオロギーの特殊性に触れている。イタリアでは冷戦時代の政党がすべて消滅するほどの大きな変化が起きたにもかかわらず、「右派」「左派」のような政治イデオロギーの指標は世代にかかわらずすべての有権者に共有されているのだ。

 このちがいを著者たちは、「多くの国では、社会的な亀裂は共通の政治体験と政治的言説を次の世代に伝達する役割を果たしている。日本においてはそのような亀裂がないため、若い有権者が政治の複雑な世界にうまく向き合いにくくなっている」と説明する。欧米は階級・宗教・地域社会、あるいは人種的な亀裂に基づいて分断されているが、日本にはそのような分断がないため、政治イデオロギーが固定せずに浮遊してしまうのだ。

 これは、「日本において民主主義の原則と制度が疑問視されていない」ということでもある。著名な国際政治学者であるイアン・ブレマーは、「大国の中で民主主義が比較的うまく機能しているのが日本だ」と述べているが、それも国民の統合度の高さから説明できるかもしれない。
https://diamond.jp/articles/print/196823
https://diamond.jp/articles/-/196823

http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/287.html#c98

[リバイバル3] 1日に3杯以上コーヒーを飲むと失明する 中川隆
7. 中川隆[-11431] koaQ7Jey 2019年3月16日 10:15:48 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[566]
興奮してもリラックス、コーヒーの作用を解明するカフェインとの賢いつきあい方(前篇)
2019.3.15(金) 漆原 次郎


コーヒー豆などにはカフェインが含まれている。豆を炒った粉を煮出したコーヒーからも、私たち人はカフェインの作用を受ける。

 眠気を覚ましたいときや、仕事で気合いを入れたいとき、コーヒーを飲む。コーヒーに含まれる「カフェイン」の作用を期待してのことだ。たしかに、コーヒーを飲んだあとは、気分が高まるような気がしないでもない。

 全日本コーヒー協会が行った「コーヒーの需要動向に関する基本調査」によると、日本における1週間のコーヒー飲用杯数は、2016年で平均11.09杯という。カフェインは、コーヒーのほか、緑茶や紅茶などの各種お茶、またエナジードリンクなどにも含まれている。量の多少はあれ、私たちは日常的にカフェインを摂取しているのだ。

 今回は、かくも身近な「カフェイン」について学び直したい。体への作用とはどういったものだろうか。「眠気覚まし」や「興奮」の効果はよく言われているが、他に言われる「リラックス」や「酔い覚まし」などの効果はあるのだろうか。

 カフェインをめぐる数々の疑問を、専門家に投げかけてみた。応じてくれたのは、元東京福祉大学教授の栗原久氏。幅広くカフェインの作用について研究し、『カフェインの科学』という著書も出している。

 前篇では栗原氏に、カフェインとはどんな物質で、どんな作用があるかを聞いてみた。乱用薬物などとは一線を画す「効き目のほどよさ」が特徴のひとつといえそうだ。後篇ではより具体的に、カフェインとの賢いつきあい方についてアドバイスを受けることにする。

人類、コーヒーの興奮作用に気づく
栗原久氏(くりばら・ひさし)氏。元東京福祉大学教授。医学博士。群馬大学大学院工学研究科応用化学専攻修士課程修了後、同大学医学部にて助手(行動医学研究施設行動分析学部門)。途中、米国ニュージャージー州立ラトガース大学心理学教室、またテキサス大学ヘルスサイエンスセンター・サンアントニオ校薬理学教室への留学を経て、1997年、群馬大学医学部助教授。2006年より東京福祉大学教授。2018年に定年退職。カフェイン研究は、1980年代に起きた咳止め薬「ブロン」乱用問題を機に本格化。著書に『カフェインの科学 コーヒー、茶、チョコレートの薬理作用』(学会出版センター刊)など。出身・在住地である群馬県への愛が深く、NPO赤城自然塾による「赤城山検定」策定などにも従事。
――カフェインとは、どのような物質でしょうか。

栗原久氏(以下、敬称略) カフェインは「アルカロイド」とよばれる、窒素の原子(N)を含み、苦みを呈する物質の一種です。コーヒーの果実、また茶葉などに含まれていて、抽出した粉末は、舐められないほどの苦味を持ちます。

――コーヒーノキなどの植物は、そもそもなぜカフェインを持っているのでしょうか。

栗原 苦みを持っていれば動物、特に昆虫に食べられにくくなります。カフェインなどの苦み成分を持つ植物が生き残り、いまに至ったわけです。

――動物が普通は避けるカフェインを、人類は積極的に摂取しているわけですか。

栗原 ええ。もともと人類は、「コーヒーチェリー」とよばれるコーヒーの果肉を食べることから、カフェイン摂取を始めたものと考えられます。

 コーヒーチェリーは熟すと赤くなり、果糖が含まれるため甘くなります。人類はこの甘い果肉を食料にしたのでしょう。同時に、この果肉を食べると気分が興奮し、身体のパフォーマンスが高まるということにも気づいたのです。

 人類は、ほぼ体毛をもたず、発汗で体温調節できることから、長時間にわたり獲物を追いかけることができます。この得意技をさらに生かすうえで、カフェイン摂取は役立ったわけです。

 ほかに、チャノキの葉からも、興奮し、パフォーマンスが高まる効果を見出していたものと思います。

コーヒーノキの果実のうち、成熟して赤紅色になったものは「コーヒーチェリー」とよばれる。果肉の中には、2個の種子が包まれており、それが「コーヒー豆」。
――果肉の中の種子であるコーヒー豆を、わざわざ炒って煮出して「コーヒーとして飲む」という習慣は、どう生じたのでしょう。

栗原 いくつか仮説があります。

 ひとつは、囲炉裏などの火があるところで果肉を食べ、種をペッと捨てたところ、種が焦げて芳ばしい香りが上がり、お湯で煮てみたら美味しく、健胃やパフォーマンス向上の効果も感じられた。それにより焙煎が始まったというものです。

 もうひとつ、果肉を貯蔵していた倉庫が火事になり、焦げ跡から芳香がしたため、豆を焙煎することを発見したという説もあります。

 果肉を食べることは何千年以上も続いてきたものと考えられますが、飲むコーヒーの利用は12世紀ごろから広まったとされます。コーヒーを飲むようにもなったのは、人類にとっての重要な転機といえます。

パフォーマンス向上、気管支拡張、強心、血管収縮・拡張、利尿・・・
――カフェインは、体にどのように作用するのでしょうか。

栗原 まず、いまお話ししたようにパフォーマンスの向上があります。眠気が取れて目が覚めたり、疲労感が軽くなったりというものです。これらは、中枢神経系(脳)に対する作用としてくくることができます。

 また、気管支を拡張させる作用もあります。気管支喘息などにカフェイン摂取は有効とされています。

 さらに、心臓を刺激して機能を活発にさせるといった強心の作用もあります。

 薬理学的に有効とされる主なものは、これら3つです。

――他の作用はいかがでしょうか。

栗原 血管を収縮させたり拡張させたりといった作用もあります。脳の血管に対しては、収縮させるほうに働きます。脳の血管が広がってズキンズキンと感じるような偏頭痛に対しては、それを抑えることになるので有効です。

 逆に、手の先などの末梢血管には、拡張させるほうに働きます。末梢の血管が広がることで、血行はよくなります。

――利尿作用についても実感するのですが。

栗原 それもあります。カフェインは心臓の働きを活発にさせ、末梢血管を拡張させもするので、腎臓を通過する血液の量が増えます。腎臓でろ過される水分の量が増えるため、それが利尿作用として現れるわけです。

 特に寒い時期には、もともと交感神経が興奮状態にあって、心臓の働きは活発で血流が増えるなどしています。そこにカフェインの作用が加わるため、尿が出やすくなります。逆に暑い時期は、汗をかいて脱水傾向になっているため、あまり影響はありません。

「恐怖を打ち消す」というリラックス効果
――巷でいわれているカフェインの作用や効果についてもお聞きします。小説などで「コーヒーを飲んで体を温めて」という表現が見られますが、こうした効果はあるのでしょうか。

栗原 多少はあるかもしれませんが、それほどではありません。たしかにカフェインには代謝を高める作用もあり、熱産生は増します。けれども、皮膚の辺りの末梢血管が広がることで、熱を逃してもいます。このふたつはほとんど打ち消しあっていることになります。

――「コーヒーを飲んでリラックスして」という表現も小説などで見かけます。脳を興奮させる作用と相反する気がしますが・・・。

栗原 たしかに矛盾しているように思われるかもしれませんね。

 けれども、「リラックス」という状態を「不安や恐怖を打ち消す」状態と考えると、そう間違ってはいません。カフェインにはそうした効果があるからです。

 動物を使った研究を紹介すると、空腹のネズミが餌を取ると電気刺激を与えられる実験があります。餌を得る「快」と、電気刺激を受ける「不快」の程度が、同じくらいになる状況を作ります。そうした中でカフェインを与えられたネズミは、餌を取る率が上がったのです。恐怖などを打ち消しているものといえます。

 リラックス効果についてはもうひとつ、コーヒーやお茶には香り成分もあります。こうした香りも、巷で言われているリラックス効果と関係していると考えられます。

――運動競技に臨む人にとってのカフェイン摂取も効果的でしょうか。

栗原 そういえます。瞬発力に関係する運動と、持久力に関係する運動のどちらでもパフォーマンスを向上させます。

 瞬発系については、反応が早くなります。たとえば、相撲の立ち合いのような、ほんの一瞬の素早さを必要とするような場面で、カフェインを摂取しておくことは有効といえます。

 持久系についても、脳が興奮するため、「疲れたからこれ以上は危険だ。もう運動するな」という脳からのブレーキがかかりにくくなります。結果、パフォーマンス向上につながるわけです。実際、長距離走やトライアスロンの選手たちの多くは給水のとき、糖分の他にカフェインも入ったドリンクを補給しています。

乱用薬物とコーヒーの違いとは
――カフェイン摂取の作用に、個人差はあるのでしょうか。

栗原 あります。カフェインは肝臓で代謝され、腎臓で排泄されるため、まず、これらに障害のある人では代謝や排泄が遅れ、相対的にカフェインの作用が強くなります。

 また、男性より女性のほうが代謝・排泄は少し遅いとされます。特に妊娠中の方は遅くなります。本人だけでなく、胎盤で通じている胎児への影響も考えると、妊婦さんは、脳に作用するような物質の摂取を控えたほうがよいでしょう。

 子どもも原則的には、強くカフェインを含むようなものは摂らないほうがよいといえます。脳の成長は18〜20歳でピークを迎えますが、その成長途上にある子どもも、脳を興奮させる物質を摂ると、感度が高まってしまう増感現象をきたすおそれがあります。

――個人を考えても、カフェインが効くときと効かないときがある気がします。

栗原 それもあります。自分がどういう状態にあるかで変わってくるのです。

 眠くて仕方ないようなときは、カフェインを摂って多少は脳を興奮させたとしても、眠気が勝って寝てしまいます。一方、眠気がほどほどのときは、カフェインの作用が上回って、眠らないで済む、あるいは眠れなくなる、といったことになります。

 私たちの体には日周リズムもあります。起床後の朝や、体温のピークを迎える午後3時過ぎは、カフェインを摂取すると、脳が興奮するなどの効き目は強くなります。

――脳の興奮作用などはあっても、覚せい剤などと違って、カフェインは日常的に摂ってよいことになっています。作用がさほど強くないからでしょうか。

栗原 そうです。覚せい剤や麻薬などの乱用薬物と、コーヒーやお茶などの嗜好品との違いは、「その物質なしにいられないかどうか」です。乱用薬物は、自分の体が壊れてでも欲してしまうものですが、嗜好品はそうはなりません。コーヒーを飲みたくて、コーヒーを盗むような人はまずいませんよね。

 嗜好品に使われるカフェインのようなものは、長い人類の歴史においてずっと利用されてきたものです。それは、人びとの人生にとってプラスになるからこそ。一時的に何かよからぬ問題が起きたとしても、全否定するものではないと思います。

(後篇へつづく)
http://jbpress.ismedia.jp/articles/-/55734  

http://www.asyura2.com/09/revival3/msg/736.html#c7

[近代史3] 若松孝二 実録・連合赤軍 あさま山荘への道程 (2007年) _ 1970年代はこういう時代だった 中川隆
99. 中川隆[-11430] koaQ7Jey 2019年3月16日 11:04:36 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[567]


街場の平成論のまえがき - 内田樹の研究室 2019-03-16
http://blog.tatsuru.com/2019/03/16_1045.html


「街場の平成論」(晶文社)
https://www.amazon.co.jp/%E8%A1%97%E5%A0%B4%E3%81%AE%E5%B9%B3%E6%88%90%E8%AB%96-%E7%8A%80%E3%81%AE%E6%95%99%E5%AE%A4-%E5%86%85%E7%94%B0%E6%A8%B9/dp/4794970374


がもうすぐ書店に並ぶ。

私が編著で、寄稿してくださったのは小田嶋隆、釈徹宗、白井聡、仲野徹、平川克美、平田オリザ、ブレイディみかこ、鷲田清一という方々である。

 「平成を回顧する」という趣向の原稿は私自身ずいぶんあちこちに書いた。そういうタイトルの書物もこれからいくつか出されるだろうと思う。他の方々はどんなふうにこの30年を総括するのかとても興味がある。

 予告編として「まえがき」を掲載しておく。


 みなさんこんにちは、内田樹です。

 本書は平成の30年間を回顧する論集です。どういう趣旨の書物であるかを明らかにするために、寄稿者たちに執筆依頼した文章をまず掲げることにします。

 みなさんこんにちは、内田樹です。

 この出だしを見て「おお、また『あれ』か・・・」と身構えた皆さん、勘いいですね。ご賢察の通りです。内田を編者にしたアンソロジーの企画をまたまた晶文社の安藤聡さんが立案しました。今回のテーマは「平成を総括する」です。これはみなさんにご寄稿をお願いするメールであります。

 この30年ずいぶんたくさんの事件があり、世界の表情はずいぶん変わりました。

 30年前、平成が始まった年、1989年のことをみなさんは覚えておいでですか。

 89年というのは、北京で天安門が起き、ポーランドで「連帯」が圧勝し、ケ小平から江沢民への世代交代があり、ドイツのホーネッカーが失脚し、ソニーがコロンビア映画を買収し、三菱地所がロックフェラーセンターを買収し、ベルリンの壁が崩れ、ルーマニアのチャウシェスクが失脚し、日経平均株価が史上最高値を記録した年でした。それに加えて、わが国では昭和天皇の崩御と、今上天皇の即位があったのです。ちなみに首相は竹下登、宇野宗佑、海部俊樹と一年間で三人を数えました。

こう列挙してみただけで、それからの30年で世の中の「空気」がずいぶん変わってしまったことに気づくはずです。

 僕たちは出来事が起きた後に回顧的に過去を振り返りますので、1989年から2018年まで、すべての出来事は因果関係に従って経時的に継起してきたと考えがちです。

 でも、ほんとうにそうでしょうか。ちょっとだけ、時計を30年戻して、1989年を思い出して下さい。みなさんはその時に「これから世界はどうなるだろう」と予測していましたか? 30年後の世界が「こんなふう」になっていると想像していましたか?

 想像していなかったと思います。

 あの年に、30年後にはロシアの市民たちがプーチンのような強権的な支配者を歓呼の声で迎え、習近平が軍事的・経済的成功を背景に毛沢東以来の個人崇拝体制を再構築し、アメリカがドナルド・トランプのような知性と倫理性にともに問題をかかえた人物を大統領に戴くことになると想像できた人なんて、ほとんどいなかっただろうと僕は思います。

 少なくとも、僕はまったく想像していませんでした。

 僕は東欧の市民革命はさらに進行するだろうと思っていました。ロシアは覇権国家としての行き方を放棄し、二度とかつての国威を回復することはないだろう。中国政府はいずれしぶしぶとではあれ民主化に譲歩して、市民社会の成熟と歩調を合わせるようにして近代化を遂げるだろう。そして、日本についてはこう考えていました。

 日本はさらに金持ちになるだろう。世界中の土地や権益を買い漁り、札びらで相手の頬を叩くようなしかたで世界各地に事実上の「植民地」を手に入れるだろう。宗主国アメリカには欲しがるだけの「小遣い」を渡してうるさい口出しを封じ、そうすることで「国家主権を金で買い戻す」という世界史上どんな国も果たし得なかった偉業を成し遂げるだろう。その成功体験は日本人すべてが自信たっぷりの厭味な拝金主義者になるという重篤な副作用をもたらすだろう。

 漠然とそんな未来を僕は予期していました。きちんと書き留めておいたわけではないので、いくらかは「後知恵」も含まれていますが、それでも「社会主義圏に強権政治が復活することはもうないだろう」、「これからは軍事力の多寡ではなくて、提示できるグローバルなヴィジョンの良否が国際関係でのイニシアティヴを決するだろう」、「日本は世界一の金持ち国になるだろう」ということについてはかなりの確信を抱いていました。

 でも、この予測はことごとく外れました。

 もちろん89年時点でも、30年後に世界がこんなふうになる「芽」のようなものはあったはずです。あったからこそ「こんなこと」になったわけですから。でも、それはほんとうに「芽」のようなものに過ぎなかった。それ以外にもっと将来性のある「芽」がたくさんあって、すでに枝葉を茂らせていて、あと少しで花を咲かせようとしていた。

 でも、30年経ってみたら、期待されていたような花は咲かず、まさかと思われた「芽」ばかりがすくすく育って、「こんなふうになるとは思わなかった」世界が現実のものとなった。

 どうして「起きてもいいこと」が現実にならず、「起きるはずがなかったこと」の方が現実になったのか?

歴史家はふつう「起きなかったこと」については「それはなぜ起きなかったのか?」というような問いは立てません。でも、「起きてもいいことが起きなかったのはなぜか?」というのは世界の成り立ちと人間の行動を根源的に考察するときに有効な問いのひとつだと僕は思っています。

 今回はみなさんには平成の30年間の総括をお願いします。どんなトピックをどんな切り口で論じて頂いても結構です。

でも、執筆者のみなさんに僕から一つだけお願いしたいことがあります。

 それは今から30年前、1989年時点に想像的に立ち戻って、まだ「未来が霧の中」だった時に、みなさんが感じていた期待や不安やときめきを思い出してほしいということです。その時点で望見していた30年後の世界と、現実の世界を並べて、少しだけの間その二つを見比べて欲しいということです。書き始める前の「儀式」として、一度だけやってみてください。僕からはそれだけです。
 どうぞよろしくお願い致します。

2018年8月1日 内田樹

 というのが、僕から寄稿者たちへの依頼の文章でした。

 今回集まった原稿を通読してみましたら、果たして全員が「1989年時点で、まだ未来が霧の中だった時点に想像的に立ち戻る」という「儀式」を済ませてから書き始めてくださっていました(そう思います)。そして、全員が「30年前にはまさかこんなことになるとは思わなかった」という感懐を抱いていたように思われました。

 まえがきとして、ここでは「どうして僕たちの未来予測はこんなに劇的にはずれてしまったのか」について考えてみたいと思います。

 本書の寄稿者の中では仲野徹先生が「予測不能性」を主題にして書かれていました。その中で1960年に当時の科学技術庁が21世紀の科学的達成を予測した書物に言及されています。予測のうち当たったのはわずか2〜3割だったそうです。

 医学分野では、感染症は根絶され、人工臓器が開発され、臓器移植は実現されず、ストレスフルなライフスタイルのせいで胃潰瘍(!)が代表的な消化器疾患になっていると予測されていましたが、現実には、根絶された感染症は天然痘だけでしたし、人工臓器開発は進まず、逆に臓器移植は長足の進歩を遂げ、胃潰瘍は特効薬が開発されて、重篤な病気ではなくなりました。

 自然科学はそれまでの達成の上に新しいものが付け加わるという直線的な開明と高度化のプロセスをたどります。世界の仕組みは科学の進歩によって間違いなくより明らかになってゆきます。「科学技術が次第に退化する」とか「重要な科学的発見がどんどん忘れられてゆく」というようなことは自然科学の分野では起こりません。それでも予測は困難なのです。ましてや、政治や経済においておや。

 というのは、政治経済領域では、政治家やビジネスマンの資質が劣化するとか、歴史的教訓が忘れられるとか、深遠な知見が打ち捨てられるとかいうことはまさに日常茶飯事だからです。開明化・高度化した場合に何が起きるかを予測しなければいけないだけではなく、迷蒙化・暗黒化したり、あらぬ彼方へ逸脱したりした場合も勘定に入れて僕たちは未来を予測しなければならない。当たるはずがありません。

 でも、外れる予測をそれでも繰り返し立てることはたいせつな仕事だと僕は思います。それは「どうして起きてもよい『あのこと』は起きなかったのか?」という問いと「どうして起きなくてもよかった『このこと』は起きてしまったのか?」という問いを組み合わせることで、僕たちの生きるこの世界はより一層複雑なものに見えてくるからです。

 ただでさえ複雑な世の中をよけい複雑にしてどうするんだと苛つく方もおられるかも知れません。でも、複雑なものを複雑なまま扱うというのも重要な知性の働きです。その作業を遂行するためにはタフな知力が要ります。

 「タフ」というのは、質はともかく丈夫であるということです。いろいろなものを詰め込める。いろいろなものを詰め込んでも壊れない頭のことです。複雑なものを複雑なまま扱うためには「よい頭」というよりはむしろ「丈夫な頭」が要るのです。

 頭のいい人は複雑なものを複雑なまま扱うことをしません。複雑な話を単純化する手際にこそ「頭のよさ」が鮮やかに示されると彼らは信じているからです。実際、頭がいいとそういうことができるのです。ややこしい話を切れ味よくすぱっと切り分けて、われわれを「なんだ、こんなに簡単な話だったのか」と得心させてくれる。読者としては知的負荷が一気に軽減するので、こんなにありがたいことはありません。ですからつい、そういう切れ味のよい仮説に飛びついてしまう。

 でも、申し訳ないけれど、「切れ味のよい仮説」の賞味期限は人々が期待するほど長くはありません。すぐにその仮説ではうまく説明できない事象が出来する。そのときに「あ、自分の仮説は間違っていた」とさくっと自説を撤回しださるといいんですけれど、なかなかそうはなりません。というのは、「頭のいい人」の頭の良さは「複雑な話を単純化する」ことと同じく「自分の間違いを間違っていなかったかのように取り繕う」手際において際立つからです。これは長く生きて来た僕が確信を込めて断言することができることの一つです。ほんとうにたいしたものです。思わず拍手したくなることさえあります。

 でも、そうやってご自身の知的体面は保ったとしても、それは集団的な知性の働きには資するところがありません。資するところがないどころか、むしろ有害です。

 うまく説明できなことは「うまく説明できないこと」として、そのままパブリックドメインに公開しておいて、誰か説明できる人の出現を待つというのが知性のほんらいのマナーではないかと僕は思っています。自分には説明できないことでも、誰か別の人や、未来の人なら説明してくれるかも知れない。ですから、その人たちが仕事をしやすいようにしておく。「この問題は解決できませんでした」、「この事象は説明できませんでした」、「こんな出来事が起きるとは予測もできませんでした」というわれわれの知性の不調についてのタグをわかりやすく、見やすいところに付けておく。

 世の中には「これ一冊読めば目から鱗が落ちて、世界のすべてのことが理解できる」という触れ込みで書かれる本もありますし、本書のように、知性の不調についての点検報告書のような本もある。

 でも、そういう作業は絶対に必要だと僕は思います。みなさんだって、自分の車を仕業点検するときには、「ブレーキの効きが悪い」とか「エンジンから異音がする」ということの方を「オーディオの音質がすばらしい」とか「シートの革の艶がみごと」ということよりも優先的に配慮しますでしょ。不調を放置しておくと命にかかわるから。こういう問題だって同じです。

 というわけで、僕がこの本の寄稿者に選んだのは「頭のいい人たち」というよりは「頭の丈夫な人」たちでした(こんなことを書くと怒られそうですけれど)。寄稿者リストを作ったときにはそんなことを考えて選考したわけではないのですけれど、集まった原稿を読んだら、そういう印象を受けました。みなさんも最後まで読んで頂ければわかりますけれど、読み終えて「なるほど、そういうことだったのか。なんだ世の中というのは思いのほか簡単なものだったのだな」と膝を打つということは絶対にありません。それは保証します。寄稿者のみなさんは、書きながらどんどん話を複雑にして、収拾のつかない難問のうちにどんどん踏み込んでいって、途中で「紙数が尽きた」で読者を放り出して終わり・・・という感じです(わりと)。

 読者サービスという点ではいささか問題がありそうですけれども、でも、「読んですっきりする」ということと「読んでどきどきする」というのはレベルの違う経験なんです。

 複雑な世界をその複雑さ込みで高い解像度で記述するというのは、なかなかたいした仕事なんです。ほんとうに。そういうものを読むことはある種の高揚感をもたらします。それは、複雑に見える世界が実はとても単純なものだったという「心安らぐお話」を聴かされてほっとするときの安堵感とは異質のものなのです。

 本書がそういう種類の高揚感をもたらすものであることを編者としてはつよく願っています。
http://blog.tatsuru.com/2019/03/16_1045.html
http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/287.html#c99

[リバイバル3] 「マイ電柱」は効果が有るのか? 中川隆
14. 中川隆[-11429] koaQ7Jey 2019年3月16日 11:24:23 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[568]

ケーブル(配線)は必要条件 - Mr.トレイルのオーディオ回り道 2019年03月16日
https://blog.goo.ne.jp/nishikido2840/e/3851f1173966908bf3230a2f678c3d5d

ステレオには@ソース機器(アナログプレーヤー・CDP他)Aアンプ(プリメイン・セパレートアンプ)Bスピーカー の3つの要素の機器が必要です。それらを電気的に繋ぐケーブル(配線)もまた絶対に不可欠な存在です。

機器にグレードの違いが有る様にケーブルにもグレードの違いが有ります。例えば電源ケーブルは、1970年代の機器には扇風機に使われているような細いケーブルが使われていました。それが1980年代になるとやや太めの線材に変わっています。1990年代になると電源ケーブルを交換出来る様にインレット式に変わって来ています。音質を考えると「より断面積の大きい線材」にした方が良いというのが判ってきた結果だと思います。

ケーブル類を今でも「アクセサリー」と捉えている方が非常に多い。個人的には「絶対必要な部品」で有ると捉えている。この辺の考え方の違いが改まらないと「音質改善」の方向性さえ怪しくなってくる。

アンプ内部の「プリント基板の半田線」の「断面積」の改善に明確に取り組んだのがパイオニアのエクスクルーシブシリーズの一連のアンプ達だと思う。かなり以前からメーカーは知っていた事になります。個人的に色々実験した結果、自分もそうだと思う。後は詰めて行くべきは材質(材料・素材)の部分で有ろうと思う。
http://www.asyura2.com/09/revival3/msg/759.html#c14

[リバイバル3] ケーブル(電線)の世界 中川隆
73. 中川隆[-11428] koaQ7Jey 2019年3月16日 11:25:08 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[569]

ケーブル(配線)は必要条件 - Mr.トレイルのオーディオ回り道 2019年03月16日
https://blog.goo.ne.jp/nishikido2840/e/3851f1173966908bf3230a2f678c3d5d

ステレオには@ソース機器(アナログプレーヤー・CDP他)Aアンプ(プリメイン・セパレートアンプ)Bスピーカー の3つの要素の機器が必要です。それらを電気的に繋ぐケーブル(配線)もまた絶対に不可欠な存在です。

機器にグレードの違いが有る様にケーブルにもグレードの違いが有ります。例えば電源ケーブルは、1970年代の機器には扇風機に使われているような細いケーブルが使われていました。それが1980年代になるとやや太めの線材に変わっています。1990年代になると電源ケーブルを交換出来る様にインレット式に変わって来ています。音質を考えると「より断面積の大きい線材」にした方が良いというのが判ってきた結果だと思います。

ケーブル類を今でも「アクセサリー」と捉えている方が非常に多い。個人的には「絶対必要な部品」で有ると捉えている。この辺の考え方の違いが改まらないと「音質改善」の方向性さえ怪しくなってくる。

アンプ内部の「プリント基板の半田線」の「断面積」の改善に明確に取り組んだのがパイオニアのエクスクルーシブシリーズの一連のアンプ達だと思う。かなり以前からメーカーは知っていた事になります。個人的に色々実験した結果、自分もそうだと思う。後は詰めて行くべきは材質(材料・素材)の部分で有ろうと思う。
http://www.asyura2.com/09/revival3/msg/757.html#c73

[近代史3] 若松孝二 実録・連合赤軍 あさま山荘への道程 (2007年) _ 1970年代はこういう時代だった 中川隆
100. 中川隆[-11427] koaQ7Jey 2019年3月16日 11:32:16 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[570]

「民安かれ」の経済学 〜 山本勝市著『社会主義理論との戦い』から 2019/03/15
https://s.webry.info/sp/blog.jog-net.jp/201903/article_3.html


■1.山本勝市博士の戦い

「社会科学とはかくも進歩しないものなのか」と、このほどKindle版として復刻された

山本勝市博士の『社会主義理論との戦い』
https://www.amazon.co.jp/%E7%A4%BE%E4%BC%9A%E4%B8%BB%E7%BE%A9%E7%90%86%E8%AB%96%E3%81%A8%E3%81%AE%E6%88%A6%E3%81%84-%E5%B1%B1%E6%9C%AC%E5%8B%9D%E5%B8%82%E5%8D%9A%E5%A3%AB-%E8%AB%96%E6%96%87%E9%81%B8%E9%9B%86-%E5%9B%BD%E6%96%87%E7%A0%94%E5%8F%A2%E6%9B%B8-No-21-ebook/dp/B07MPQ2BC1?SubscriptionId=AKIAJZPZKAA66PNS4ODQ&tag=japanonthegl0-22&linkCode=xm2&camp=2025&creative=165953&creativeASIN=B07MPQ2BC1


を読みながら思った。

 山本博士は大正末期から昭和の初めにかけて、ドイツやソ連に留学し、そこでの統制経済や共産主義の実態を見聞して、帰国後、社会主義理論の誤りを学問的に訴え続けた。大東亜戦争直前の昭和12(1937)年から始まった統制経済に反対した著書『計画経済』は革新派軍人たちから絶版を勧告され、戦時中には教職から追放された。

 戦後は一時、国会議員として活動していたが、今度は共産主義者らの策謀によって、公職追放処分を受けた。さらには追放期間に「統制経済より自由経済の方が良い」という講演をして、東京高裁から禁固8か月の判決を受けた。追放が解除された後には、自由民主党政調副会長など要職にあって、自由経済による戦後復興を導いた。

 今日においては、「統制経済より自由経済の方が良い」とは当然至極の「常識」になっていると思っていたが、その「常識」は、山本博士のような人々の体を張った言論活動のおかげで根付いたものだ、と知った。同時に、現代世界においても、山本博士の主張がまだまだ理解されていない面が多分にあることを考えさせられたのである。

■2.文在寅政権の「根本的誤謬」

 統制経済とは、商品やサービスの価格を政府が人為的に決めてしまう「価格統制」が出発点となる。たとえば、賃金は労働の「価格」であり、最低賃金を市場の賃金とかけ離れた水準に政治的に決定してしまうことは価格統制である。

 これを行っているのが、韓国の文在寅政権だ。大統領選での公約を実現しようと、2年間で約30%もの最低賃金引き上げを行った。各種の手当てを含めると時間990円相当。わが国の東北や四国、九州の760円よりはるかに高く、東京の985円すら上回る。

 山本博士は、すでに80年近くも前、昭和15(1940)年の『社会主義計画経済の根本的誤謬』の中で、最低賃金を上げる政策が「根本的誤謬」であることを、こう説明している。

__________
 他の労働者を犠牲にすることなくして労賃を高める方法は、資本の増加又は生産過程の改善によって、労働の一般的生産性を高めるといふ以外に方法はない。
もし政府が単に最低労賃の立法によって自然労賃を高めるならば、企業のうち自然労賃で漸く引合ってゐたものは損失を免れず。従って生産を縮小して労働者を解雇する外はなくなる。かくて、外部からの人為的な市場労賃引上げの結果は失業労働者の増加といふ現象となってあらはれ、・・・[1, p112]
 ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄

 山本博士の指摘通り、韓国の本年1月の失業率は4.4%と急上昇し、世界的な金融危機の影響を受けていた2010年1月の4.7%以来の最悪となった[2]。韓国最大の新聞社「中央日報」は「若者に恥ずかしい最悪の大卒失業率=韓国」と題した社説で、次のように文政権を痛烈に批判した。

__________
教育部が卒業生57万人を全数調査(2017年末基準)したところ、就職率が前年(67.7%)より1.5%ポイント下がった66.2%にとどまった。2011年以降就職率が67%以下に落ちたのは今回が初めてだ。雇用政府を前面に出した文在寅政府にもう一つの雇用惨事が追加されたわけだ。[3]
 ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄

 大学を卒業しても3人に1人が就職できないのでは、かつての日本の就職氷河期なみだ。アベノミクスで好転した日本の就職内定率98%と比べれば、天地の差がある。どうりで日本企業への就職を目指す韓国人青年が多いはずだ。

 文政権はこの「雇用惨事」をなんとか取り繕おうと、公共機関に短期バイト採用を割り当てて、「雇用粉飾」という批判まで浴びた。「価格統制」が需給のアンバランスを引き起こし、それを抑えるために、今度は「需給統制」にまで手を広げざるをえなくなっていく。こうして統制の網は限りなく広がっていくのである。


■3.市場の調整機能を無視して「介護人材が38万人不足」?

 日本も他人事ではない。「2025年には介護人材が38万人不足する」などと喧伝され、その対策として外国人労働力導入が不可欠である、というような説がまことしやかに唱えられる。これも一種の需給統制ではないか。

 経済企画庁経済研究所長などを経て、現在、大正大学地域創生学部教授の小峰隆夫氏によると、こうした労働力不足の計算は、賃金や生産性、企業の参入や撤退など、すなわち市場による調整は無視して、単純に需要と供給が現在の動向を続けたら、両者のギャップがどれだけ広がるのか、という計算をしているという。

 市場調整機能のもとでは、介護人材が不足すればその分野の賃金水準が上がり、他分野から介護分野に入ってくる人々も当然でてくる。また、企業側でも賃金上昇を吸収すべく、生産性向上に努める。介護作業におけるロボット活用などで、一人の介護士がお世話できるお年寄りの人数が増えれば、不足人数も圧縮できる。

 こういう生産性向上が進まない企業は高い賃金を払えずに、市場から退場していく。その分、生産性の高い企業が事業を拡大して、このプレーヤー交代だけで、業界の平均的な生産性も上昇し、不足人数も減る。

 こういう市場による調整機能こそ、自由経済の本来的な強みであるのに、それを無視した需給を計算しているのでは、まさに統制経済での官僚仕事そのものではないか。


■4.統制経済は人智を超えた所業

 市場の調整機能を無視した価格統制や数量統制がうまくいかない例を、山本博士は戦時中の配給制度の経験で紹介している。

__________
 過般も筆者は、山口県宇部市を訪問し、そこの肥料会社の首脳者から、肥料は倉庫に充満して仕末に困つてゐるといふ話から、統制会社の配給無能力に関する満々たる不平を聞かされた。
然るに他方農民にとつて、肥料は赤子に乳の如き状況にあることは申すまでもないのに、それがなかなか配給せられず、たまたま配給せられても、適当な時期に届かぬといふ不平は、何人もしばしば聞かされてゐる所であらう。[1, p314]
 ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄

 山本博士は、この原因が戦争中の輸送能力不足とか、統制会社の無能力ではない事を、素人にも分かりやすく説明している。輸送能力が原因ではない事は、日清戦争でも日露戦争でもこんな問題は起きておらず、ひとえに配給制度を採用した今次大戦でしか見られない現象であることから、明らかだという。

 また、原因を「統制会社の無能力」に帰するのも間違いで、そもそも厖大な商品点数、様々な生産地、消費地、流通経路を計画すること自体が、人智を超えた所業である事を、次のような例で説明する。

__________
 北海道の石炭増産計画を成功せしめるためには、横浜や門司の荷上げ人足の募集計画のみならず、荷揚げ人足の住宅計画から、其の子供の学校教室の建築計画。そのための大工、左官の計画から、木材の運搬伐採の計画。運搬人、伐採人の住宅計画から米の計画……といふ如くに、世の中にありとある一切の生産配給の計画が総合的に樹立されてゐなければならぬ。[1, p324]
 ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄

 山本博士はこうした統制経済に反対する主張をしたために、戦前戦中は革新派軍人に睨まれ、戦後は共産主義者たちの策略で公職追放処分を受けた。両者とも同じく統制経済を信奉しているからだ。


■5.「生活保護で貰ったお金をパチンコに使って何が悪い」

 統制経済の後継思想が「福祉国家」である。ソ連などで、計画経済に基づく共産主義体制の失敗が明らかになると:

__________
多くの社会民主主義者たちは、生産手段の公有制による中央集権的計画経済という手段を断念した。
 しかし、富と所得の平等分配という目的を放棄したわけではなく、・・・生産手段の私有制、市場メカニズムをそのままにして、富と所得の平等化という社会主義本来の目的を徐々に実現しようと考えるに至った。
 これがいわゆる「民主社会主義」の台頭であり、「福祉国家」の着想である。[1, p162]
 ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄

 「富と所得の平等分配」がうまくいかない、という事は、革命直後のソ連がすでに経験している。

__________
 一九一七年秋の共産革命によつて大地主、寺院等から没収された土地は、細分して土地をもたぬ農民たちに分配せられた。そして自家用としての保有穀物を除く剰余は、すべて供出せしめる方式が採られた。
ところが農民の供出成績は香(かんば)しく行かないために、都市住民の食糧不安となり、遂に、武装徴発隊を組織して強権を以て供出せしめようとしたが、至る所に農民の一揆を見たのみならず、農業生産は一路減退して、農民たちは辛うじて自家の糊口をしのぐだけを作るに止める、といふ傾向を示すに至つた。
 ここにおいて都市の食糧不安は容易ならぬ事態となり、一面では、農業の全面的社会主義化の提唱もあつたにかかはらず、レーニンが事態の打開のためにとつた政策は、社会主義化とは正反対に「中農の要求を容れて、穀物の自由取引を認むる」ことを本質とするいはゆる新経済政策であつたのである。[1, 374]
 ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄

 国が生活保護を提供するのが当たり前になりつつある現代日本では「生活保護で貰ったお金をパチンコに使って、何が悪い」というような主張をする輩までいる。それに対する明確な反論を山本博士は用意している。

__________
・・・国家が保障するとか、全体の責任だとかいっても、事実国民のある人々が受取るものは、必ず国民の他の人々から与えられねばならないのだ。[1,p164]
 ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄

 この点に気がつけば、「他人が働いて稼いだお金を巻き上げてパチンコに使うのを、君は正しいと考えるのか」と反論できよう。


■6.「国家が保障するということは、官吏の手に委ねること」

 もう一点、山本博士が指摘するのは、「国家が保障するということは、実はその配慮を官吏の手に委ねる、ということである」という点だ。

__________
 いわゆる福祉国家を追求する限り、政府の仕事は増える一方であり、歳出は増加する一方であり、従って税金は高くなる一方である。[1, p172]
 ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄

 ここから、「一般消費税の導入で財政は救えない」という博士の主張が出てくる。今日でも通ずる、いや今日では忘れられた本質的議論である。

 ただし、ここで留意すべきは、

__________
困窮者に対して国家がミニマムを保障するということの必要に関しては、原則的には何人にも異論はなく、問題は、その程度とその組織と、ことにそれを動かす精神の如何だということである。[1, p166]
 ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄

「福祉国家」という美名のもとに、官僚が一部の国民から強制的に税金を取り立て、それで他の国民の暮らしの全般の面倒を見る、という「精神」が問題だと、山本博士は言うのである。


■7.「自分の考え方は陛下のみ心に背いていない」

 山本博士自身が目指すのは、は次のような「日本型福祉社会」である。

__________
 個人の自助努力と家庭や近隣・地域社会等の連帯を基礎としつつ、効率のよい政府が適正な公的福祉を重点的に保障するといい、自由経済社会のもつ創造的活力を原動力とした我が国独自の道[1, p199]
 ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄

 これはひたすらに「民安かれ」を祈られてきた皇室の伝統を、現代経済学の用語で語った理想と言えよう。この理想を目指して、山本博士は「社会主義理論との戦い」を続けてきたのだが、その足跡を次のようにふり返っている。

__________
私は戦前、戦時を通して市場メカニズムの崩壊を憂えて文章を書いたために、著書は発禁になり、教職を追われて、ついに特高警察の監視下に置かれました。しかし、それでも勇気を失わなかったのは、近衛(文麿)さん、東条(英機)さん、その他誰よりも上に天皇がいまして、自分の考え方は陛下のみ心に背いていない、という自信でした。それが唯一の心の支えであったといっても過言ではありません。
 戦後もまた私は、占領軍から追放を受け、禁錮八カ月の刑の宣告までも受けましたが、陛下が宮中のお祭りやお歌会の行事を断たれないと聞き、また陛下が、私たちに幾倍もする御苦しみに堪えておられると思うと、追放も有罪判決も、それほど苦にはなりませんでした。[1, p304]
 ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄

 皇室の「民安かれ」の祈りをどう具現化するか、山本勝市博士の経済学は、そこを目指しているのである。
(文責 伊勢雅臣)


■リンク■

a. JOG(930) 大御宝(おおおみたから)の経済学
 国民の幸せを目指す「経済民本主義」。
http://blog.jog-net.jp/201512/article_3.html

b. JOG(834) 自立と自助の経済学 〜 澤上篤人氏の「金融の本領」
「こんな世の中を子供たちや孫たちに残してやりたい」と願う将来方向で頑張っている企業を応援する。
http://blog.jog-net.jp/201402/article_1.html


■参考■(お勧め度、★★★★:必読〜★:専門家向け)
  →アドレスをクリックすると、本の紹介画面に飛びます。

1. 山本勝市『社会主義理論との戦い(山本勝市博士 論文選集)』★★★、国民文化研究会、H31
http://www.amazon.co.jp/o/ASIN/B07MPQ2BC1/japanontheg01-22/

2. REUTERS「1月の韓国失業率は4.4%、9年ぶりの水準に悪化」
https://jp.reuters.com/article/southkorea-economy-unemployment-idJPL3N2076JK

3. 中央日報「【社説】若者に恥ずかしい最悪の大卒失業率=韓国」H301228
https://japanese.joins.com/article/586/248586.html?servcode=100§code=110

4. 小峰隆夫「無意味な人手不足の人数推計」『週刊東洋経済』H310119


https://s.webry.info/sp/blog.jog-net.jp/201903/article_3.html


http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/287.html#c100

[リバイバル3] 毎日 座ってばかりいると早死にする 中川隆
4. 中川隆[-11426] koaQ7Jey 2019年3月16日 20:05:27 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[571]

世界中で年間43万人が“座り過ぎ”で死んでいる!? あなたは大丈夫?
3/16(土) 9:08配信 FRIDAY
https://headlines.yahoo.co.jp/article?a=20190316-00010001-friday-soci&p=1


今、世界的に“座り過ぎ”が問題視されている(写真:アフロ)


今、世界中の研究者が「Sitting is killing You(座ることがあなたを殺す)」と注意を喚起している

WHO(世界保健機関)は2011年に、「“座って動かない生活”は肥満や糖尿病、高血圧、がんなどの病気を誘発し、世界で年間200万人の死因になっている」というデータを公表した。この内容を受け、2015年には世界中の研究者が集まり“座り過ぎのリスク”についての国際会議が開かれ、翌年ブラジル・サンパウロ大学の研究者から「世界中で年間43万人以上が、“座り過ぎ”が原因で死んでいる」との、より直接的な表現をした研究結果が発表された。

「座り過ぎ」とは、いったいどの程度のことをいうものなのか。デスクワークの人はどうすればいいのか。早稲田大学スポーツ科学学術院教授の岡浩一朗氏に話を聞いてみた。
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世界中で年間43万人が“座り過ぎ”で死んでいる!? あなたは大丈夫?


1日4時間以下の総座位時間を基本にした場合、8時間以上の“座り過ぎ”で「がん死亡リスク」が1.21倍に


1時間座ると余命は22分短くなり、1日に11時間以上座っている人は死亡リスクが40%高くなる

2012年にこのデータを発表したのは、オーストラリアの研究機関。オーストラリアは、このデータにショックを受け、国を挙げて座り過ぎ問題に取り組んでいるという。

「座っていると、ひざも腰も曲がり、ももの裏はギュッと押されている。そんな状態が続くと血液を心臓に戻しにくくなり、一生懸命戻そうとするので血圧が高くなるような状態を引き起こします」

5分座っていると、血流速度は急速に下がり、30分座り続けると、血流速度は70%も低下するという実験結果もある。酸素も栄養も、血液によって体のすみずみまで運ばれ、老廃物も血液にのって回収される。筋肉が動かないことで足の血流が悪くなると血液循環のリズムが乱れ、血液中に老廃物の糖や脂肪があふれ出して、ドロドロの状態になる。

座ってばかりで動かない危険性として、「エコノミークラス症候群」がよくいわれるが、同様の生活習慣が長期にわたれば、血管が詰まりやすくなって、高血圧や動脈硬化がすすみ、心筋梗塞や狭心症、脳梗塞のリスクが高まる。

「体の中でいちばん大きな筋肉は太ももにある“大腿四頭筋”です。ここが動くことで筋肉にスイッチが入って糖の代謝や脂肪の分解酵素の分泌が活発になります。ところが座りっぱなしで、この筋肉が動かない状態が続くと、糖の代謝や脂肪を分解する酵素の働きが悪くなります」

糖や脂肪が分解されないのだから、当然、糖尿病や肥満、メタボリックシンドロームの危険性も高まる。“座り過ぎ”とがんの関連についても研究が進められており、2014年、アメリカの研究チームから、1日に座っている時間が4時間未満の人の死亡リスクを1とした場合、8時間以上座っている人は1.21倍になるという報告もされている。

できれば「30分に一度3分」、少なくても「1時間に一度5分」は立って動く

こうした報告を受けて、一部の企業では立って働ける環境作りが進められている。

「ただ立っているだけでいいわけではありません。けれど、立っていると1歩踏み出しやすくなる。確認したいことがあれば、すぐ動いて聞きに行けますよね。立って仕事をすることで、さらに活動量を上げることができるのです」

仕事中座っている時間が2時間未満の男性は、6〜8時間の男性に比べて結腸がんのリスクが37%低いというオランダでの疫学研究の報告もある。

そのうえ、社員同士のコミュニケーションが活発になり、職場に活気が出て、生産性が上がるという効果もあるという。

「理想的には30分に一度立ちあがり、少しでもいいから動いてください。30分ごとがむずかしければ、1時間に一度でもかまいません。これで座り過ぎのリスクはかなり減らせます」

どの程度動けばいいのか気になるところだが、岡先生によると、トイレに行く、お茶を入れに行く、コピーをとりに行く程度でよいのだそう。

「30分に一度、“軽い強度の歩行”と、“中程度の強度の歩行”で座り過ぎを中断したとき、血糖値がどのくらい変わるかを比較実験した結果、どちらの歩行でも効果にほとんど差はないという報告があります。また、ずっとデスクワークをしていると、夕方ものすごく疲労感を感じることがありますよね。ところが、30分に一度“立ち歩く”と、その疲労感が圧倒的に改善されたというデータもあります」
.

その場でかかとを“上げ下げ”したり、少しひざを曲げる(スクワットする)だけでもOK!

席を離れることがむずかしいときは、デスクの前でまっすぐ立ち、背伸びするようにかかとを“上げ下げ”したり、少しひざを曲げる(スクワットする)だけでもいいという。

「仕事は座ってするものだと思っている人がいるかもしれませんが、メールは座っていなくても読めるし、資料だって立って読んだっていい。ぜひ“立つ”習慣をつけてほしいものです」

日ごろ座ってばかりだからと、運動不足解消のために、週末スポーツクラブに行っている人もいるだろうが、

「それで座り過ぎのリスクを十分に解消できるわけではありません。朝晩少しくらい歩いても、それ以外ずっと座っていればダメ。こまめに動くことが大事です。

固定電話しかなかった時代は、電話が鳴ると電話があるところまで歩かなくてはいけなかった。でも、今は座ったままで電話に出ることができる。照明やテレビも、リモコンや語りかけるだけでつけられる。インターネットを利用すれば買い物に行かなくてもいい。便利な時代になったからこそ、“座り過ぎ”に注意しなくてはなりません」

平均寿命が世界トップと言われている日本人だが、座っている時間が世界一長いというデータもある。いくら長生きしても、健康でなければ仕方がない。今日からスマホにアラームをセットして、忘れず1時間に5分のブレイクを入れてみよう!

岡浩一朗 早稲田大学スポーツ科学学術院教授。研究分野は健康行動科学、行動疫学。今日の日本人の身体活動(運動)不足を無理なく解消させる方法が研究テーマ。国民の健康寿命を延ばすことへの関心の高さから研究動向が注目されている。著書に「長生きしたければ座りすぎをやめなさい」(ダイヤモンド社)、「『座りすぎ』が寿命を縮める」(大修館書店)がある。


http://www.asyura2.com/09/revival3/msg/755.html#c4

[環境・自然・天文板6] 「自由人物理」とは何か〜第一は学問のパラダイム化からの自由。第二はもっと重要なことで学問のビジネス化からの自由/西村肇 短足鰐
2. 中川隆[-11425] koaQ7Jey 2019年3月17日 07:43:23 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[572]
>相対性と不確定性を「現代物理」の核心と見る見方は,今や「現代」を考える人々の間の広い常識となっています。


これがド素人の妄想なんだよ

アインシュタインは一般相対論は光速度不変の原理に反するのではないかと質問された時に

光速度不変の原理は方便として言っただけで、それ以上の意味は無い

と答えたのは有名な話


物理で重要なのは数学的なフォーミュレーションだけだからね。

相対性とか不確定性というのは数学的なフォーミュレーションを出す為に方便として使っただけだから、一度正しい数学的なフォーミュレーションがわかったら
相対性とか不確定性なんか不要になるんだよ

しかし、ド素人はそういう本質がわからないから、相対性とか不確定性が世界を決める基本原理だと妄想してしまうんだな



http://www.asyura2.com/15/nature6/msg/702.html#c2

[リバイバル3] 優良株の長期投資以外はすべてギャンブル 中川隆
7. 中川隆[-11427] koaQ7Jey 2019年3月17日 07:51:13 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[570]

2019年03月17日
外貨預金は国内預金より有利なのか?


驚きの年利50%も、だがこんなうまい話があるだろうか


画像引用:おためし外貨プラン(1ヵ月もの外貨定期預金) - 外貨預金 | 新生銀行https://www.shinseibank.com/gaika/cam/otameshi_gaika_teiki.html


高金利の外貨預金はお得か

銀行や証券会社の商品に外貨預金があり、円よりも金利が高いので根強い人気があります。

だがこの「外貨預金」という名前に問題があり、投資商品の要素が強く一般的な預金とは違っている。

銀行や郵便局にお金を預ける預金は、金利が低いが元本保証があり日本政府や日銀が価値を保証するものです。




ある日銀行預金が消失したら大変な騒ぎになるが、そうした事は起きません。

ところが「外貨預金」ではある日預金残高が減ったとか、予定した金利が受け取れないなどが頻繁に起きます。

トルコリラショックやランドショックのように新興国の通貨変動は、年何回かは起きるのが「お約束」になっています。


金利そのものも上がったり下がったり変動するので、外貨預金は最初の予定ほど受け取れない事が多いです。

例えば2018年8月10日のトルコリラショックでは8分間で7%下落し、19円台だったのが17円台になった。

もうひとつ実感がつかめないでしょうが2014年に50円台だったのが2018年に15円に下がりました。

外貨預金はお勧めできない

5年で通貨の価値が3分の1に下がったのだが、この時トルコリラで外貨預金していた人はどうなったのでしょうか。

ある銀行ではトルコリラの外貨預金を「年利50%」(1か月もの)で販売していて、10%以上もざらにありました。

100万円をリラで外貨預金して年利10%なら10年を経ずして2倍になるのですが、それはトルコリラで計算した場合です。


トルコリラそのものの通貨価値は円に対して毎年10%以上は下がっているので、円で計算すると減っている可能性があるのです。

トルコリラよりましなドルだと年利2%ほどですが、この場合もドルが円に対して2%下がると円換算では減ってしまいます。

加えて外貨預金は入出金に手数料がかかり、購入と売却で為替レートが違うのが普通です。


どういう事かというと為替レートは通常2つのレートで表され、買う時は高値になり売る時は安値になります。

空港の両替窓口でショックを受けるアレですが、外貨預金でも買う時より売る時のレートが安いのです。

たとえ手数料ゼロを明記してあっても、それを言葉通りに受け取ることはできません。
http://www.thutmosev.com/archives/79295624.html
http://www.asyura2.com/09/revival3/msg/907.html#c7

[近代史02] 株式投資の神様「ウォーレン・バフェット」の言葉を真に受けると悲惨な結果になる 中川隆
5. 中川隆[-11426] koaQ7Jey 2019年3月17日 07:51:54 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[571]

2019年03月17日
外貨預金は国内預金より有利なのか?


驚きの年利50%も、だがこんなうまい話があるだろうか


画像引用:おためし外貨プラン(1ヵ月もの外貨定期預金) - 外貨預金 | 新生銀行https://www.shinseibank.com/gaika/cam/otameshi_gaika_teiki.html


高金利の外貨預金はお得か

銀行や証券会社の商品に外貨預金があり、円よりも金利が高いので根強い人気があります。

だがこの「外貨預金」という名前に問題があり、投資商品の要素が強く一般的な預金とは違っている。

銀行や郵便局にお金を預ける預金は、金利が低いが元本保証があり日本政府や日銀が価値を保証するものです。




ある日銀行預金が消失したら大変な騒ぎになるが、そうした事は起きません。

ところが「外貨預金」ではある日預金残高が減ったとか、予定した金利が受け取れないなどが頻繁に起きます。

トルコリラショックやランドショックのように新興国の通貨変動は、年何回かは起きるのが「お約束」になっています。


金利そのものも上がったり下がったり変動するので、外貨預金は最初の予定ほど受け取れない事が多いです。

例えば2018年8月10日のトルコリラショックでは8分間で7%下落し、19円台だったのが17円台になった。

もうひとつ実感がつかめないでしょうが2014年に50円台だったのが2018年に15円に下がりました。

外貨預金はお勧めできない

5年で通貨の価値が3分の1に下がったのだが、この時トルコリラで外貨預金していた人はどうなったのでしょうか。

ある銀行ではトルコリラの外貨預金を「年利50%」(1か月もの)で販売していて、10%以上もざらにありました。

100万円をリラで外貨預金して年利10%なら10年を経ずして2倍になるのですが、それはトルコリラで計算した場合です。


トルコリラそのものの通貨価値は円に対して毎年10%以上は下がっているので、円で計算すると減っている可能性があるのです。

トルコリラよりましなドルだと年利2%ほどですが、この場合もドルが円に対して2%下がると円換算では減ってしまいます。

加えて外貨預金は入出金に手数料がかかり、購入と売却で為替レートが違うのが普通です。


どういう事かというと為替レートは通常2つのレートで表され、買う時は高値になり売る時は安値になります。

空港の両替窓口でショックを受けるアレですが、外貨預金でも買う時より売る時のレートが安いのです。

たとえ手数料ゼロを明記してあっても、それを言葉通りに受け取ることはできません。
http://www.thutmosev.com/archives/79295624.html
http://www.asyura2.com/09/reki02/msg/886.html#c5

[近代史02] 鈴木傾城 _ アメリカ株で儲けるほど簡単な事は無い 中川隆
39. 中川隆[-11425] koaQ7Jey 2019年3月17日 07:52:19 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[572]

2019年03月17日
外貨預金は国内預金より有利なのか?


驚きの年利50%も、だがこんなうまい話があるだろうか


画像引用:おためし外貨プラン(1ヵ月もの外貨定期預金) - 外貨預金 | 新生銀行https://www.shinseibank.com/gaika/cam/otameshi_gaika_teiki.html


高金利の外貨預金はお得か

銀行や証券会社の商品に外貨預金があり、円よりも金利が高いので根強い人気があります。

だがこの「外貨預金」という名前に問題があり、投資商品の要素が強く一般的な預金とは違っている。

銀行や郵便局にお金を預ける預金は、金利が低いが元本保証があり日本政府や日銀が価値を保証するものです。




ある日銀行預金が消失したら大変な騒ぎになるが、そうした事は起きません。

ところが「外貨預金」ではある日預金残高が減ったとか、予定した金利が受け取れないなどが頻繁に起きます。

トルコリラショックやランドショックのように新興国の通貨変動は、年何回かは起きるのが「お約束」になっています。


金利そのものも上がったり下がったり変動するので、外貨預金は最初の予定ほど受け取れない事が多いです。

例えば2018年8月10日のトルコリラショックでは8分間で7%下落し、19円台だったのが17円台になった。

もうひとつ実感がつかめないでしょうが2014年に50円台だったのが2018年に15円に下がりました。

外貨預金はお勧めできない

5年で通貨の価値が3分の1に下がったのだが、この時トルコリラで外貨預金していた人はどうなったのでしょうか。

ある銀行ではトルコリラの外貨預金を「年利50%」(1か月もの)で販売していて、10%以上もざらにありました。

100万円をリラで外貨預金して年利10%なら10年を経ずして2倍になるのですが、それはトルコリラで計算した場合です。


トルコリラそのものの通貨価値は円に対して毎年10%以上は下がっているので、円で計算すると減っている可能性があるのです。

トルコリラよりましなドルだと年利2%ほどですが、この場合もドルが円に対して2%下がると円換算では減ってしまいます。

加えて外貨預金は入出金に手数料がかかり、購入と売却で為替レートが違うのが普通です。


どういう事かというと為替レートは通常2つのレートで表され、買う時は高値になり売る時は安値になります。

空港の両替窓口でショックを受けるアレですが、外貨預金でも買う時より売る時のレートが安いのです。

たとえ手数料ゼロを明記してあっても、それを言葉通りに受け取ることはできません。
http://www.thutmosev.com/archives/79295624.html
http://www.asyura2.com/09/reki02/msg/895.html#c39

[近代史02] 知らぬが仏 _ FX は『ネットパチンコ』 _ 金はすべて胴元に取られる 中川隆
27. 中川隆[-11424] koaQ7Jey 2019年3月17日 07:52:41 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[573]

2019年03月17日
外貨預金は国内預金より有利なのか?


驚きの年利50%も、だがこんなうまい話があるだろうか


画像引用:おためし外貨プラン(1ヵ月もの外貨定期預金) - 外貨預金 | 新生銀行https://www.shinseibank.com/gaika/cam/otameshi_gaika_teiki.html


高金利の外貨預金はお得か

銀行や証券会社の商品に外貨預金があり、円よりも金利が高いので根強い人気があります。

だがこの「外貨預金」という名前に問題があり、投資商品の要素が強く一般的な預金とは違っている。

銀行や郵便局にお金を預ける預金は、金利が低いが元本保証があり日本政府や日銀が価値を保証するものです。




ある日銀行預金が消失したら大変な騒ぎになるが、そうした事は起きません。

ところが「外貨預金」ではある日預金残高が減ったとか、予定した金利が受け取れないなどが頻繁に起きます。

トルコリラショックやランドショックのように新興国の通貨変動は、年何回かは起きるのが「お約束」になっています。


金利そのものも上がったり下がったり変動するので、外貨預金は最初の予定ほど受け取れない事が多いです。

例えば2018年8月10日のトルコリラショックでは8分間で7%下落し、19円台だったのが17円台になった。

もうひとつ実感がつかめないでしょうが2014年に50円台だったのが2018年に15円に下がりました。

外貨預金はお勧めできない

5年で通貨の価値が3分の1に下がったのだが、この時トルコリラで外貨預金していた人はどうなったのでしょうか。

ある銀行ではトルコリラの外貨預金を「年利50%」(1か月もの)で販売していて、10%以上もざらにありました。

100万円をリラで外貨預金して年利10%なら10年を経ずして2倍になるのですが、それはトルコリラで計算した場合です。


トルコリラそのものの通貨価値は円に対して毎年10%以上は下がっているので、円で計算すると減っている可能性があるのです。

トルコリラよりましなドルだと年利2%ほどですが、この場合もドルが円に対して2%下がると円換算では減ってしまいます。

加えて外貨預金は入出金に手数料がかかり、購入と売却で為替レートが違うのが普通です。


どういう事かというと為替レートは通常2つのレートで表され、買う時は高値になり売る時は安値になります。

空港の両替窓口でショックを受けるアレですが、外貨預金でも買う時より売る時のレートが安いのです。

たとえ手数料ゼロを明記してあっても、それを言葉通りに受け取ることはできません。
http://www.thutmosev.com/archives/79295624.html
http://www.asyura2.com/09/reki02/msg/892.html#c27

[近代史3] 日本人は「狂ったアメリカ」を知らなすぎる 中川隆
28. 中川隆[-11423] koaQ7Jey 2019年3月17日 07:56:41 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[574]
2019.03.17
ジハード傭兵が失敗したシリアの体制転覆工作をICCが引き継ぐ動き

 国連の決定には関係なく​、ICC(国際刑事裁判所)はシリアのバシャール・アル・アサド大統領の起訴を目論んでいる​のだという。

 シリア軍による多くの残虐行為を目撃したというムスリム同胞団の某家族による訴えに基づき、人類への犯罪で起訴するのだという。シリアがICCに加盟していないことは無視されている。

 本ブログでも繰り返し書いてきたが、アメリカ、イスラエル、サウジアラビアの三国同盟、イギリスとフランスのサイクス・ピコ協定コンビ、当初はトルコやカタールがリビアやシリアへの侵略に参加、その手先としてムスリム同胞団やサラフィ主義者(ワッハーブ派、タクフィール主義者)を主力とする傭兵が使われてきた。シリアで住民を虐殺しているのはこの勢力だ。

 シリアより1カ月前から侵略戦争が始まったリビアでもICCの名前が出てきた。侵略を正当化するため、「人権擁護団体」、西側の有力メディア、アメリカバラク・オバマ政権などは政府が兵士にバイアグラを配布り、レイプさせているという偽情報を流していたのだが、ICCのルイス・モレノ・オカンポ主任検察官も同じ主張をしていたのだ。

 しかし、このときはリビア情勢を担当する国連人権調査団のシェリフ・バッシオウニ団長からすぐに批判された。反カダフィ派が制圧しているリビア東部を訪れた際にそうした主張を耳にしたが、首都トリポリでは政府側の人びとが同じことを話していたが、そうした話を裏づける証拠は何もないとしている。「人権擁護団体」も被害者を見つけることができなかった。

 話はこれで終わらなかった。オカンポ自身がオフィスで女性をレイプしたことが判明したのだ。ただ、検察官には起訴されない特権があるため、罪に問われていない。また、起訴した相手を脅してカネを要求していたともいう。

 オバマ大統領はイスラム諸国での政権転覆を実行するため、2010年8月にPSD-11という指針を出したが、今回、アサドを訴えたムスリム同胞団はその主力と位置づけられていた。

 カダフィ体制が倒され、カダフィ自身が惨殺された後、侵略勢力は戦闘員と武器/兵器をシリアへ移動させるが、その工作の拠点はベンガジのアメリカ領事館やCIAの施設だった。

 その領事館が2012年9月11日に襲撃され、リビア駐在のアメリカ大使だったクリストファー・スティーブンスが殺されている。​その前日に大使はCIAの担当者と会談、襲撃当日は海運会社の社員と会っていたとジャーナリストのシーモア・ハーシュは主張している​。オバマ政権がムスリム同胞団を重用することへの反発からサラフィ主義者が襲ったとする説もある。

 ムスリム同胞団とサラフィ主義者との間に対立はあるようだが、シリア人から見れば両方とも侵略者にほかならない。その侵略勢力は崩壊状態。一部はアメリカの軍や情報機関が救出、保護したり次の工作地へ運んでいるようだ。ICCはそうした勢力に替わってアサド政権を倒すつもりなのだろうか?
https://plaza.rakuten.co.jp/condor33/diary/201903170000/
http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/175.html#c28

[昼休み54] ゴーン逮捕で仏マクロンの謀略を潰した日本政府 中川隆
155. 中川隆[-11422] koaQ7Jey 2019年3月17日 08:20:32 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[575]

ゴーン前会長が様々な工作指示 報酬隠し、検察主張判明
2019年3月17日05時13分

写真・図版
ゴーン前会長の報酬額の推移
https://www.asahi.com/articles/photo/AS20190316002397.html


 日産前会長カルロス・ゴーン被告(65)をめぐる役員報酬の虚偽記載事件について、東京地検が公判で立証を予定する内容の全容が判明した。19年間にわたる実際の報酬は計約314億500万円に上るとし、「高額報酬」批判を避けるため、様々な工作を側近に指示したと主張する方針だ。無罪を主張する弁護側は証拠を精査して反論を組み立てる。

ゴーン前会長、報酬開示制度の導入阻止を指示か 特捜部
カルロス・ゴーン もたらした光と影

 地検の立証内容によると、日産取締役の報酬総額は株主総会で上限が決められ、2008年以降は29億9千万円。前会長は03年から配分を一任されていた。


___


ゴーン前会長、報酬開示制度の導入阻止を指示か 特捜部
3/17(日) 5:11配信 朝日新聞デジタル



 日産自動車の前会長カルロス・ゴーン被告(65)が役員報酬を有価証券報告書に過少記載したという金融商品取引法違反罪で起訴された事件で、役員報酬の個別開示を義務づける案を金融庁が2010年に公表した際、ゴーン前会長が導入を阻止するため、部下に金融庁への働きかけを指示していたことが、東京地検特捜部の調べでわかった。

【図】ゴーン前会長報酬、不記載とされる額は年々膨らんだ

 地検は前会長が制度導入を機に高額報酬を隠すようになったとみて、公判で経緯を立証する方針だ。

 08年のリーマン・ショックの後、高額報酬への規制が世界的に強化される中、金融庁は10年2月、1億円以上の報酬を得た役員の名前と金額を有報に個別開示するよう義務づける内閣府令の改正案を公表した。

 特捜部の調べでは、ゴーン前会長の年間報酬は来日した99年度の約3億円から08年度は約26億円に増えていた。前会長は報酬額が公になることを懸念。前代表取締役グレッグ・ケリー被告(62)=同法違反罪で起訴=や渉外担当の川口均・常務執行役員(現・専務執行役員)に金融庁などへの働きかけを指示したという。

http://www.asyura2.com/17/lunchbreak54/msg/323.html#c155

[リバイバル4] 上杉研究所 交流点火 無帰還 300B シングルアンプ U・BROS-300AH 中川隆
14. 中川隆[-11421] koaQ7Jey 2019年3月17日 08:31:24 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[576]

8 名無しさん@お腹いっぱい。2019/03/16(土) 20:19:44.09ID:xy/RNFjy

もう故人となられた某管球アンプメーカーのアンプの内部配線を自分なりに考えて見ると、材料(ケーブル・半田材等)については全くのど素人だと感じました。

「何も疑問を持たない電気技術者」を地で行っている様に感じた。

具体的に、アンプ内部の「グランドライン」は綺麗に見せる為に、むき出しの単線を多用されている。

しかし、材料や方法の分野ではほとんどど素人状態である。

何も実験をしなかったのか?疑問に思わなかったのか?・・・技術者の基本が出来ていないと感じる。

そんな方の作ったアンプが雑誌でもてはやされ、高額な値段で取引されている。

名も無い方の非常に考えて作られたアンプの方がよっぽどましだと「管球アンプ」を触っていた時に思った。

一つの機械を作る時は、4M(マン・マシン・メソード・マテリアル)で考えるのが鉄則である。その鉄則を守らない技術者がいくら見かけの良いモノを作っても「本質」は良く成らない。

オーディオの本質は「音質」である。「音質」に目標グレードを置いて開発しなければ無意味な機器を生産する事になる。
http://blog.goo.ne.jp/nishikido2840/e/8daa45309d2187061973c9c764ceb058

19 名無しさん@お腹いっぱい。2019/03/17(日) 00:40:00.62ID:k1Y4SnYf
>>8
錫メッキ線が裸で張られていたのでアースラインかと思ったら思いきり活線でビビった事がある

あと使われているコンデンサが想像以上に安物でたまげた
逆に言えば市販状態が底の音で部品を替えていくとどんどん音が良くなるアンプでもある

あとハムの低さは驚くべきレベルで下手な半導体アンプよりも静か
が、しかし余りにもハムを殺し過ぎたアンプの常で音は死んでいる
https://lavender.5ch.net/test/read.cgi/pav/1552700725/l50
http://www.asyura2.com/18/revival4/msg/121.html#c14

[リバイバル3] 株で損した理由教えてあげる 新スレ 中川隆
157. 中川隆[-11420] koaQ7Jey 2019年3月17日 08:43:15 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[577]
世界が認める景気鈍化を、なぜ日本政府だけは認めない?海外投資家は日本株を投げ売りへ=近藤駿介 2019年3月14日
https://www.mag2.com/p/money/651054


政治イベントが目白押しだが、真に注目すべきは各国が景気見通しを下方修正していることだ。世界が政策の変更を検討・実施するなか、日本だけはわが道を進んでいる。(『元ファンドマネージャー近藤駿介の現場感覚』近藤駿介)


各国が政策見直しを進めるなか、日本は変わらなくて大丈夫か?

各国が「世界経済の鈍化」を認める

英国議会でのEU離脱案の採決、最終盤を迎えた米中通商交渉。今週もその行方が注目される政治イベントが目白押しである。表の主役はこうした政治的重要イベントとなりそうだが、裏の主役を世界景気が張る可能性があることは、認識しておいた方がよさそうだ。

ここに来て、世界経済の先行きが大きな関心事となってきた。世界経済の先行きに関しては、MFやOECDなどが既に世界経済の鈍化を公表して来ており、周知の事実とはなっている。問題はそれを各国の政策当局が認め、実際に政策を見直し始めて来ていることだ。

中国は5日に開幕した全人代で2019年の経済成長見通しを、28年ぶりの低成長となった2018年の6.6%を下回る「6.0〜6.5%」へ引き下げた。中国の経済統計は日本の統計以上に信じられないものであるため、「6.0〜6.5%」という目標数字の水準自体には意味はない。2018年の経済成長率は28年ぶりの低水準となったが、目標であった「6.5%前後」に対してはニアピン賞といえるものだった。したがって、重要なことは成長率の水準ではなく、中国が公式に経済成長の鈍化を認めたことだ。

欧州でも7日のECB理事会で、「少なくとも2019年夏まで」維持するとしてきた現在0%の主要政策金利などの水準を、「少なくとも年末まで」維持する方針を明確にした。それと同時に9月に新たな資金供給制度(TLTRO 3)を開始することを表明し、昨年12月で終了した量的緩和政策を復活させることを発表した。TLTRO3に関しては技術的な要因も多分にあるが、表面的には昨年末で終了させたはずの量的緩和政策をわずか9か月で撤回し、再度量的緩和政策を復活するというのは苦渋の判断だったといえる。

ECBが「少なくとも2019年夏まで」という表現で2019年秋以降の利上げを示唆してきたのは、任期が今年の10月までのドラギ総裁が任期中に利上げの道筋をつけて後任にバトンタッチするFRBスタイルを描いていたからである。

金融政策の正常化の手本としてきたFRBスタイルを踏襲することをECBが断念せざるを得なくなったのは、経済の鈍化とそれに伴う物価の下落圧力がECBの想定を上回るものだったからに他ならない。実際にECBは2019年の域内経済成長率の見通しをこれまでの1.6%から1.1%へと大幅に下方修正している。

経済減退を見越した政策が実行され始めた

米朝首脳会談や米中通商交渉、ブレグジットといった派手な政治的イベントの陰に隠れた格好になっているが、IMFやOECDといった公的な機関ではなく、政策当局が経済見通しを下方修正して実際の政策に反映し始めたという変化を見落とさないようにしなければならない。



具体的に自国の経済見通しを引き下げたわけではないが、金融政策の見直しに動いたという点においてはFRBも同じである。昨年9月のFOMCで「金融は緩和的」という表現を削除したばかりのFRBからも、最近ではFOMCが示してきた「年内2回」という利上げ見通しや、ドットチャート公表見直しを求める発言が出て来るなど、再び「金融は緩和的」に戻ろうとする力が働き始めている。


苦しい立場のFRB

しかし、FRBは苦しい立場にある。それは、予想外の決裂した米朝首脳会談を終えたトランプ大統領が、帰国してすぐに「利上げを好み、量的引締めを好み、非常に強いドルを好む紳士がFRB内に1人いる」と、FRB批判をし始めたことだ。

すでに「漸進的利上げ」を先送りし、バランスシート縮小を年内に止めることを明言しているパウエルFRB議長にとって、ドル高を止める手立てはないのが実情だ。CMEのFed Watchでも市場が見込む年内利上げ確率は0%。それどころか、年内に利下げが実施されるという見通しが20%前後に達しており、FRBの利上げ見通しを背景にドル高が進んでいるわけではないからだ。

為替というのは所詮「物々交換」である。「物々交換」ということは、交換相手の価値によって交換レートが変動するということだ。言い換えれば為替の価値は「絶対評価」ではなく「相対評価」で決まるということ。

FRBは「漸進的利上げ」を一旦見送り、バランスシート縮小を年内に止める方針を示すなど「ハト派」色を強めてきた。しかし、米国経済に対する見通しを明確に見直したわけではなく、現時点ではあくまで「金融引締め政策の停止」に過ぎない。こうした中で中国やECBが経済成長の鈍化を認め、金融緩和姿勢を明確にし、「FRB以上のハト派」姿勢を見せたことで、ドルの「相対的価値」は高まってしまっており、それがドル高を招いている。

2月の雇用統計を始め、米中通商交渉や政府機関の一部閉鎖によるノイズによって経済指標は強弱入り乱れ、経済の正しい姿が見えにくくなっている今、FRBとしても米国経済の方向性を断言しにくい状況にある。そうした中でのトランプ大統領からの口撃は、FRBがより「ハト派」姿勢を見せることを難しくしてしまっている。明確な理由なしに金融緩和姿勢を見せてしまえば、大統領の圧力に屈した格好になってしまうからである。

日本政府はまだ「戦後最長の景気回復」と言っている

世界の主要国が経済見通しを下方修正したり、金融政策を見直したりしている中で、わが道を行くのが日本である。

1月の景気一致指数が3か月連続でマイナスとなり、機械的に景気の基調判断が「下方への局面変化」に変更されたことが大きな話題となっている。

3か月連続マイナスとなった景気一致指数は、構成する9つの指標の内、速報が公表済みの7つの指標全てがマイナスになるという完全マイナス状況になっている。さらに先行指数はすでに5か月連続でマイナスになっており、経済指標面からは景気が鈍化局面に転じていると見るのが自然な状況になっている。

それにもかかわらず、政府は「景気の回復基調は変わらない」と依然として「戦後最長の景気回復」が続いていることを強調する強気の姿勢を崩していない。



国民の8割が「戦後最長の景気回復」を実感できていないという「景況感」の悪化に加え、経済指標面でも景気後退が示され、政府だけが景気回復を実感するという摩訶不思議な状況になっている。

もちろん、「戦後最長の景気回復」の中で「異次元の金融緩和」を続けるという矛盾した政策を採り続けてきた日本に、景気が鈍化に転じたところで打ち出せる政策はほぼないのが実情である。


海外投資家は日本株を投げ売りへ

こうした現実を背景に、2018年に日本株を5兆7,449億円売り越した海外投資家は、2019年に入っても2か月間で9,805億円とほぼ1兆円に及ぶ大幅な売り越しを記録している。

10月に予定されている消費増税で内需が冷え込むことが確実なうえ、3月中にも始まる可能性のある日米貿易交渉によって外需の拡大も難しくなる可能性の高い日本株が魅力的に映らなくても不思議ではない。

その結果、日本株の買手は「景気の回復基調は変わらない」と信じ続ける政府の意向に従う日銀だけの状況になっていしまっている。

もはや日本には「円安・株高による景気回復」を演出する余力は残っていない。

MSCIが中国A株の構成比を11月に向けて段階的に引き上げるというテクニカル要因によって上海市場が大幅上昇するという一時的な追い風は吹いたが、それも一服した今、日本株には追い風は期待できない状況にある。

「合意」は株価を押し上げるのか?

近いうちに何かしらの決着を見るのが確実な米中通商交渉の最大のリスクは、「合意=歓迎」という表面的な方程式ばかりが強調され、実際に市場がどのような合意を歓迎するのか曖昧なところである。

トランプ大統領も「中国と合意すれば、株価はとても大きく上昇する」と、米中通商交渉の「合意」が株高に繋がることに期待する発言をしているが、過度な期待は禁物である。

中国が米国に譲歩し続ける交渉期間中は「合意」という言葉は市場を押し上げる魔法の言葉になり得る、交渉が何かしらの決着がついた時点で「合意」という言葉は魔法の言葉とはなり得ないからだ。

米中通商交渉が何かしらの「合意」に達した後、市場の注目は陰の主役である経済見通しや各国の政策に転じる可能性があることは念頭に置いておいた方が賢明そうだ。
https://www.mag2.com/p/money/651054



▲△▽▼

海外投資家とその他部門の売買動向
https://karauri.net/doukou/
https://www.traders.co.jp/domestic_stocks/stocks_data/investment_3/investment_3.asp

アダム・スミス2世の経済解説
7月第4週 投資部門別売買状況
http://stockbondcurrency.blog.fc2.com/blog-entry-389.html

http://www.asyura2.com/09/revival3/msg/823.html#c157

[リバイバル3] 株で損した理由教えてあげる 新スレ 中川隆
158. 中川隆[-11419] koaQ7Jey 2019年3月17日 08:50:15 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[578]

海外投資家とその他部門の売買動向
https://karauri.net/doukou/
https://www.traders.co.jp/domestic_stocks/stocks_data/investment_3/investment_3.asp

アダム・スミス2世の経済解説
http://stockbondcurrency.blog.fc2.com/

今は相場が上げているにも関わらず、海外投資家が現物株を長期的に売り続けているので本来は長期下降トレンドのなかの戻りの筈なのですが、
エリオット波動の宮田さんみたいに既に押し目完了で上げていると思っている専門家が多いですね。
http://www.asyura2.com/09/revival3/msg/823.html#c158

[リバイバル3] 魔性の歌姫 Lowther 中川隆
3. 中川隆[-11418] koaQ7Jey 2019年3月17日 09:16:35 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[579]

チューブオーディオラボ スピーカーコーナー No.5 ☆2013/12/27
http://shinkuukan2.web.fc2.com/Speaker/05/Speaker05.html

今回ご紹介するスピーカーは 《LOWTHER_》

歌姫・・・ローサーから2タイプご紹介いたします。 LOWTHER_ DX3&PM2A


◇ LOWTHER_ DX3
20cmのフルレンジですが・・・
他のスピーカーでは聴けない音が出るのですよ・・・
其れなりの箱が必要ですけどね・・・


◇ LOWTHER_ DX3
裏側、強力な・・・マグネット

◇ LOWTHER_ PM2A
DX3との違いはマグネット・・・
クリックして大きな画像へ


◇ LOWTHER_ PM2A
コーン紙は同じ・・・

◇ LOWTHER_ PM2A
でも・・・・このアルニコマグネット・・・
強力なマグネット・・・・心して掛からなければ・・・・
マトモナ音なんて・・・出ないだろう・・・


◇ LOWTHER_ PM2A
殆どが此のアルニコマグネットのお値段です。

http://shinkuukan2.web.fc2.com/Speaker/05/Speaker05.html


http://www.asyura2.com/09/revival3/msg/685.html#c3

[リバイバル3] 魔性の歌姫 Lowther 中川隆
4. 中川隆[-11417] koaQ7Jey 2019年3月17日 09:19:42 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[580]

チューブオーディオラボ スピーカーコーナー No.1 ☆2012/10/20更新版
http://shinkuukan2.web.fc2.com/Speaker/01/Speaker01.html

ローサー


● Lowther 

自称ローサークラブ(六日町)会長を自認しております。
これからどんな姿にするか・・・


P6M


● Lowther P6M

後ろから出すか・前から出すか・・・
オリジナルに近づけようか・・・


PM6A


● Lowther P6MA

とりあえず・・・

   第一弾・・・

http://shinkuukan2.web.fc2.com/Speaker/01/Speaker01.html
http://www.asyura2.com/09/revival3/msg/685.html#c4

[リバイバル3] 魔性の歌姫 Lowther 中川隆
5. 中川隆[-11416] koaQ7Jey 2019年3月17日 09:21:43 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[581]

チューブオーディオラボ スピーカーコーナー No.9 ☆2019/02版
http://shinkuukan2.web.fc2.com/Speaker/09/Speaker09.html

◇◇◇◇◇ 2019/2/13 【NEW】 ◇◇◇◇◇
 久しぶりにスピーカー紹介。一本増えました、ローサーのPM7です。


◇ 革のエッジ

 ローサーのエッジが無いリペア用スピーカーを英国から格安で・・・
北国のドクターM氏にエッジとダンパーを柔らかい革に張り替えて貰いました。

◇ PM7 

 PM7の張り替えが終り・・・送られてきましたので、取りあえずの後面解放の箱に入れて・・・

手前がPM7です・・・後ろは同じくローサーのPM6・・・
バックロードホーンが出来上がるまでの間エージングを兼ねての試聴です。

◇ 裏側

 スピーカーのフレームと大きなアルニコマグネットは塗装して無いです・・・
コーン紙の補強の入れ方も手持ちのローサーとは違います・・・色々有る様ですネ
では試聴です。
 アンプは2A3シングルプレートで・・・
平面バッフルでの感想ですが、以外に低音が出ています。


このままでも・・・良い感じです、フリーエッジの効果でしょうか・・・
バックロードホーンが楽しみです。


http://shinkuukan2.web.fc2.com/Speaker/09/Speaker09.html
http://www.asyura2.com/09/revival3/msg/685.html#c5

[リバイバル3] 魔性の歌姫 Lowther 中川隆
6. 中川隆[-11415] koaQ7Jey 2019年3月17日 09:23:49 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[582]


 ご存知の方がいるかどうか不明ですが、チューブ・オーディオ・ラボではアンプ以外にも各種スピーカーの作成も行っております。

 トランスから真空管・ライン(RCAケーブル)そして、その先の出口「スピーカー」まで、すべての相性にこだわりながら、真空管とのベストマッチなスピーカー作成にこだわっております。

 そんなスピーカー紹介のページです。

http://shinkuukan2.web.fc2.com/Speaker/Speaker.html


_____


チューブ・オーディオ・ラボ
http://shinkuukan2.web.fc2.com/index.html

http://www.asyura2.com/09/revival3/msg/685.html#c6

[議論31] 狂った宗教 イスラム教 _ 頭がおかしいのは中国人と朝鮮人だけではない 中川隆
166. 中川隆[-11414] koaQ7Jey 2019年3月17日 10:34:34 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[583]
コーランの科学的証明と為政者の名声の有為転変、ザグレブにて
高野凌(定年バックパッカー)
http://wedge.ismedia.jp/articles/-/15641


米国人IT技術者の論客、ハムザ

 3月22日。ボスニア・ヘルツェゴヴィナの首都サラエボからバスに自転車を積み込んでクロアチアの首都ザグレブに移動。ザグレブ中央駅近くの快適なホステルに投宿。

 ラウンジで数人の欧米のバックパッカーとおしゃべり。そこにNY育ちの米国人IT技術者のハムザ君がジョイン。

 ハムザはかなりの論客だ。コロンビア大学哲学専攻の米国女子と難解な数式を用いた哲学論を展開。その後ドイツ人学生と経済論を語っていた。

 シャワーの順番を待っていたので中座して、シャワーを浴びた後でラウンジに戻って来ると、ラウンジの横のキッチンでハムザが1人で夕食を作っていた。他の連中は外に食べに行ったようだ。


クロアチアの首都ザグレブ(Dreamer4787/Gettyimages)

コーランは現代の最先端科学の成果を予言していた?

 ハムザは白人系(caucasoid)の風貌である。彼の家系はトルコ系とアイルランド系とその他の混血系という。父親がイスラム教徒であり彼もイスラム教を信仰している。

 ハムザによるとコーランの教えは科学的であり、現代の最先端の科学でやっと証明されるような真実が1500年前に預言者マホメットにより語られているという。

 例えば、コーランでは宇宙の天体の運行に関して、太陽が自転していることや、月が自らは発光せず太陽の光を反射していることが書かれている。ガリレオやケプラーより遥か以前に現代の天文学の水準に達しているというのだ。

 なぜマホメットは1500年も前に天体の運行について知ることができたのか。ハムザによるとマホメットが神の啓示により科学的真実をコーランに残したからであるという。万物を創造した神だからこそ誤謬のない真実をマホメットに伝えることができたという論理である。

 さらにハムザは数学の最新研究の成果がコーランに記載されていると数式を書いて説明してくれたが、残念ながらオジサンの知識領域の圏外であった。

 25年前のイラン駐在時代にイランの英字新聞で読んだ“コーランの教えは現代科学で証明された”という連載コラムを思い出した。当時は宗教指導者のプロバガンダの一環であろうと読み飛ばしていたが、ハムザの話を聞きながら一理あるのだろうと考え直した。

ボスニア・ヘルツェゴビナは汚職国家?

 ハムザは一年半ボスニア・ヘルツェゴビナの政府機関でシステム構築の仕事をしてきた。ハムザは職務上国家の機密に触れることも多く役人との接触が多い。役人の世界は汚職が蔓延しており、私腹を肥やすことに汲々としているらしい。

 汚職取引に応じないと難癖をつけてパスポートを没収され、密室で脅された。ハムザは米国大使館に逃げ込んで保護を求めた。その後、モンテネグロに入国したが、一時警察に拘留された。
ハムザによるとそれぞれ独立国家となった現在でもセルビア、モンテネグロ、ボスニア・ヘルツェゴビナの入国管理・警察・治安組織のシステムは繋がっている。それゆえボスニア・ヘルツェゴビナにおける“要注意人物”としての記録がモンテネグロで引っ掛かったとのこと。

 どうも旧ユーゴスラビア社会主義連邦時代からの“怖いネットワーク”が人知れず残っているらしい。
http://wedge.ismedia.jp/articles/-/15641
http://www.asyura2.com/13/dispute31/msg/332.html#c166

[経世済民131] バフェット氏も現代金融理論を批判「支持する気には全くなれない」 リスク資産への恐怖を捨てるべき時だ−JPモルガン うまき
3. 中川隆[-11413] koaQ7Jey 2019年3月17日 10:46:49 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[584]
>>2
三橋貴明や藤井聡が言っているのは

財務省は日本企業の余剰資金を欧米に流す目的で意図的に日本を不景気にしているという事だよ

日本企業の余剰資金が日本国内に投資されれは、デフレが終わって非正規社員は居なくなる
http://www.asyura2.com/19/hasan131/msg/529.html#c3

[近代史3] 柏原芳恵のバイブレーター騒動 _ 宮内庁が皇太子妃候補 No.1 を引き摺り降ろした手口 中川隆
37. 中川隆[-11418] koaQ7Jey 2019年3月17日 11:06:38 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[579]

外務省に創価学会の「出先機関」 2007年7月
https://hinomoto.wiki.fc2.com/wiki/%E5%A4%96%E5%8B%99%E7%9C%81%E3%81%AB%E5%89%B5%E4%BE%A1%E5%AD%A6%E4%BC%9A%E3%81%AE%E3%80%8C%E5%87%BA%E5%85%88%E6%A9%9F%E9%96%A2%EF%BD%A3

外務省に創価学会の「出先機関」

メンバー300人の「大鳳会」

温家宝首相が衆参両議長や政党代表より長く、池田大作会長と会談した事実は創価学会の対中外交への影響力を強く印象付けた。

元外務省OBの発言として「日本の国際的な地位の低下と反比例して対中国・対ロ外交における学会の存在感は高まっている。

その学会の出先機関的存在が「大鳳会」。

公明党が政権与党の中核に位置することで創価学会の政治的影響力は飛躍的に増大。


「大鳳会」の成立事情

1960年池田大作が会長に就任。

「天下を取ろう」を合言葉に1964年公明党結党


「総体革命」

学会員の優秀な指定を官界、法曹界、経済界、マスコミ界、教育界などの各分野に送り込み、

枢要な部署を学会員で占めることを画策した。その一環として外交官の輩出にも注力し、

現在インド大使を務める学会員キャリア外交官第1号榎泰邦氏を中心に「大鳳会」が結成された。

いまや会のメンバーはキャリアから在外公館の現地採用組まで含めると300人に達するとの声もある。

「妙法の外交官」の使命は創価学会や池田会長のために働くこと。

具体的には会長の外遊のための根回しや、学会・創価大学の文化交流や教育交流のサポート、情報収集などに尽力することである。

1994年ミラノの日本領事館勤務の「大鳳会」メンバーが創価学会の依頼に応えてバチカンの動向報告書を学会本部に提出

外務省官房長小和田恒が池田会長の東南アジア外遊時の便宜供与につき国会で憲法第二十条違反だと問題となった。

「いかなる宗教団体も、国から特権を受け、または政治上の権力を行使してはならない」

この後、池田大作への便宜供与は中止されたが、それまでは皇族や総理・国務大臣などと同じ最高ランクだった。

創価学会がカルト(有害セクト)だという報告書がフランスの国会に提出されている。

創価学会はこれを取り消させることを悲願としている。

2004年夏には創価学会高野議員(元外務省キャリア)がフランスに公務出張した際、

セクト対策法を制定した元国会議員に「セクト解除」を求めたという事実がある。

もし榎泰邦氏をフランス大使に登用するという異例の人事が発令されれば当然、

学会・公明党の外務省人事への容喙が疑われるだろう。

日中国交正常化後、中国留学生を最初に受け入れた大学は創価大学。

その留学生らが中国外務省の対日部門の要職を占めるようになった。

2004年に中国の潜水艦が宮古島近海で日本の領海を侵犯した際、

日本政府の抗議を突っぱねた中国大使館の程公使は 創価大学留学第一期生。

「大鳳会のメンバーが彼らのカウンターパートとして登用される可能性は否定できない。

創価大学はモスクワ大学の留学生も多数受け入れており、

対ロシア外交においても同じことが起こる可能性がある

日本のメディアは(大手メディア限定ではあるが)ほぼ全て朝鮮の政治的影響を明確に受けている。

日本の場合、全国ネットのテレビ局や全国紙新聞にはかなり昔から

『菊と鶴のタブー』という2大タブーがある。

菊は“皇室”のことで、鶴は“創価学会”のことである。」

参考1


小和田恒氏は創価学会と関係が深い。

http:// kokkai.ndl.go.jp/SENTAKU/sangiin/134/1177/13411271177003c.html


「第134回国会 宗教法人等に関する特別委員会 第3号平成七年十一月二十七日(月曜日)」

○関根則之君 私は、きょうは宗教団体と政治のかかわり、

宗教と政治の関係はどうあらねばならないかという問題につきまして

重点を置いて質問をしたいと思っているんですよ。

(略)

それから、ちょっと外務大臣にお尋ねいたしますけれども、

実は一九八八年の一月六日付で、八八年ですから昭和六十二年ですか、

創価学会の事務総長原田稔さん、この方から当時の外務省官房長の小和田恒さんあてに、

「本年一月末より二月中旬にかけて、創価学会インタナショナル一SGI)

会長・池田大作(創価学会名誉会長)一行が教育・文化交流のため、

香港並びにアセアン三ケ国(タイ・マレーシア・シンガポール)を約二週間にわたり、

下記の日程で訪問する予定です。何卒宜しくお願い申しあげます。」ということで、

メンバーは、池田大作創価学会インタナショナル会長・創価学会名誉会長、

池田かね同夫人、池田博正同子息、創価学会副青年部長。

これは、何か奥さんと家族ぐるみで訪問をするから、外務省の官房長によろしく頼むと

言っているんですね。これに対してどう対応なさったか。まだいるんですよ、ほかにも。

原田さんという方、鈴木さん、長谷川さん、高沢さん。全部で七人。

一行七人が、一月二十七日、秋谷栄之助SGI理事長も同行しますと、

こう書いてございますから総勢八人になったんですか、そういうことでスケジュールは

一月二十八日、大阪から香港へ行きましてずっと回りまして、

成田着が二月十四日ということですから二週間以上に及ぶ旅行だと思いますけれども、

これに対して、通常の言葉でいわば便宜供与の依頼だと思うんですけれども、

どんな便宜をお与えになったのか、ちょっとその対応ぶりについてお教えをいただきたいと思います。

参考2

外務省腐敗の陰に「大鳳会」!?

学会員官僚増大で腐敗も増長

創価学会・公明党のクレージーで腐った体質が、

この国の権力機構や政治を蝕んでいることを象徴するような出来事が、最近、引き続いて起こっている。

外務省の腐敗と乱脈ぶりは、ただただ呆れるばかりだが、

その外務省には、池田大作の直弟子ともいうべき大鳳会≠フメンバーが

意欲的に送り込まれているのだ。役所の中で、

最も学会員(それも、最も濃く池田大作の薫陶を受けた会員)の占める比率が高いのが外務省である。

参考3

小和田と創価

山田:池田が昭和63年1月に東南アジア4カ国へ外遊する時、

それに先立って、現地の税関当局などに便宜を図って貰うため、

当時、外務省の小和田恒官房長に強引に頼んでいる。

聖教新聞は毎日新聞より多い550万部を発行しており、

その印刷は読売新聞の印刷工場や毎日新聞の子会社であるに委託させて刷っている。

だから"ドル箱"ということもあって学会・公明批判が全く行えない。

(※福田康夫と斎藤明(毎日新聞社長)の夫人は姉妹)

山田:かつて米CBSテレビが製作した学会批判の番組を、

提携先中のNHK衛星で放映しようとしたところ、

"横槍"が入って中止してしまったことがあった。

公明党議員がNHKの予算に注文をつけると脅したらしい。

またフジテレビの「報道2001」のあるプロデューサーは熱心な学会員で、

番組編成のスタンスは、常に学会寄りの制作ということで、局内ではよく知られており、

このようなマスコミ関係の要所々々には確りと、学会員が入り込んでいます。


週刊新潮1996.5.16

創価学会が小和田恒氏に送った「外遊特別待遇」要請書

http:// www.yuko2ch.net/mako/makok/src/1228313680069.jpg

参考4

人格否定発言直後に出た週刊ポストの記事

週刊ポスト「宮内庁対外務省」

外務省は長年皇室を政治利用してきた。

94年の天皇皇后の訪米では、真珠湾に献花させようとして大反発をくらった。

92年の訪中も、外務省と官邸が無理やり天皇皇后を中国へ行かせたが

戦争責任問題もあり国内で大論争が起きた。

以上のように皇室を政治利用する外務省に宮内庁側は、ご立腹であった。

「皇族を政治利用するとは何だと思っているんだ。皇室への侮辱だ。」

その反動から鎌倉節長官から皇族の外国訪問をセーブしだす。

天皇皇后も二年間外国へ行っていない。皇太子夫妻は八年間。

ベルギー訪問も、鎌倉氏は反対した。そしてあんの上流産の結果が出る。

ある政治家の話「将来は、外務省主導で皇室外交」

雅子妃の今後「外国で静養の可能性も充分にある。」

参考5

脱退者

創価は天皇と神道を敵として見ている。

創価学会の本尊は、ど真ん中にでっかく「南無妙法蓮華経」とあり、

いちばん 下に「天照大神」と、小さく書かれている。

創価学会の教義では、法華経 (日蓮宗でなく創価学会による独自の解釈)によって

成仏した仏や成仏途中の神々は、法華経を受持しこれを広宣流布(布教)する

創価学会の従者となって守護 せねばならない。

成仏途中の神々とは、皇祖神・天照大神をはじめ、

我が国の神道における八百万の神々も、その例外ではなく、

したがって、皇祖神の子孫である天皇も、創価学会の家来であるという。

ちなみに、他者を改宗させ、教団に入信させることを「折伏」(しゃくぶく)と

称するが、大東亜戦争のころ、黎明期の創価学会では、畏れおおくも、

昭和天皇を「折り伏せる」ことを祈念していた。

このことは、 当時の創価学会において、教徒に配布された

「勤行要典」に明記されている。

当然、政府にとっては、暴力革命を党是とする共産党と同様に、監視の対象。

子供たちに「愛国心」教育を施して、やがて国民に国家統合の象徴として天皇を

「敬愛」する心が芽生えてくるとしたら、

それは、創価イズムにおける上下の序列を ひっくり返すことを意味する、

教義と対立する教育施策にほかならず、そうした理由から、

(天皇を象徴とする)「統治機構を愛する〜」などと言い出す。

所謂、左翼が標榜する「階級闘争」とは全く異なるイデオロギーを背景としている。

創価学会の教徒でない公明党員などいない。

創価学会では、 公明党の選挙に尽力すれば「功徳」があると指導されている。

参考6

日本が半ば在日に乗っ取られているのは間違いない。

犯罪界、宗教界、政界、芸能界と 至るところ在日が主導権を握っている。

政治家の秘書として統一教会信者が百人以上も入り込み、

さらに朝鮮総連からも賄賂がいっているので、

政治家がこの問題で動くこともないだろう。

「在日は差別されている可哀想な少数民族だ」なんてとんでもない。

これは連中が広めた最大の嘘。

日本最大の産業は年間30兆円を売り上げるパチンコ産業だが、

その8割を在日が握っている。連中は税金もほとんど払っていない。

おそらく、国民のたった0・5%に過ぎない在日韓国朝鮮人たちが

年間で手にする金は、表も裏(笑)も含めて40兆円に達する。

在日は疑いもなく「世界一リッチなマイノリティー」というのが真実。

そして有り余った金を政界にばら撒いている。

だから不正融資で潰れかけた朝鮮銀行に国民の税金1兆円を平気でつぎ込んでしまう。

彼らは韓国や北朝鮮に対して土下座外交するしかない。

日本の政治家が訳が解らない取引をしているのは創価を母体とする公明党が

与党に成り上がるまでに力をつけた事にある。

宮内庁次長等に創価の一族が存在している現在では

創価を抜きにしては皇室問題を語れない。

創価は総体革命をする、と宣言している。

それを言い換えれば日本を乗っ取ると言うこと。当然皇室も入る。

創価の金融界での総体革命は恐ろしいほど進んだ。

創価が皇室に入れば大作の片腕だった教学部長・創価を命がけで守っていた

優秀な弁護士その他数々の人々が亡き者にされたように

皇室はおろか皇族方も亡き者にされるのはやり方の歴史が証明している。

拙速に「女系容認・直系長子優先」案を提出しようとしている有識者会議が発足したのは、公明党が与党に入ってから。

韓国ブームは在日が作った。あれだけ大規模なブームを作れるくらい、もう日本の中で在日の力は強い。

自分達を地獄に導いているとも知らずに毎日毎日テレビで韓国をヨイショしてくれる日本人。

韓国ブームのお陰で在日や韓国人へのマイナスイメージがプラスイメージになった。

そして日本人が韓国人や在日と結婚する数も圧倒的に多くなった。

もうあと30年で日本は完全に在日主体の社会になる。

たった100万人に満たない在日に使われる1億人の日本人。

皇太子まで 洗脳されている。雅子妃を応援しているのは、創価の女性達。

今、皇太子一家と小和田家は、創価と繋がりが出来てしまっている。

皇室典範改正を急ぐのは、公明党の力が働いている。

テレビや新聞より多くのネットの情報が正しく、

「なぜ?」と言う疑問が解ける理由に、創価学会などの朝鮮人が絡んでいる。

雅子妃は、創価学会員と同様な扱いをされている。

天皇、皇后、紀宮、秋篠宮の方が正当なことを言っているのにマスコミにたたかれる。

日教組に洗脳教育された左翼国民は救いようがない。

怖いのは愛子の婿が創価になること。 着々と外堀埋めは進行している。

連合国の思惑通りに事が進んでいる。

女系天皇の誕生は皇統の消滅と天皇家の解体を意味する。

戦後六十年、米と中共の悲願が遂に達成される。

敗戦後天皇家本家を守る為に臣籍に下った旧皇族は絶対に容認できないだろう。

あの決断の結末がどこぞの馬の骨による皇統の乗っ取り。

有識者会議のメンバーを見る限りでは有識者は誰もいない。

結論ありき。道鏡、足利義満以来の皇統危機。

創価学会が皇室解体を悲願としている。

そのためあえて知的に問題があるとも言われている愛子女帝を推進している。

とりあえず今は優秀伝説を垂れ流ししている。

秋篠宮殿下、その親王殿下というれっきとした男系男子がいるのに愛子様を…というのは不自然きわまる。

解体ではなく乗っ取り。確かにそのほうが話が早い。

創価学会(池田大作教)が 皇室をつぶしたい理由

『神道は日蓮の敵であるから邪教徒である象徴はなくさなければならない』

皇太子夫妻だけを持ち上げるのは創価とワールドメイト。

池田大作は帰化人。半田晴久は在日。

参考7

拾い物

創価と「日本語対応手話」

■自分達こそ正しいと主張する為に、

他の方法を選ぶ人たちを貶める事が一時横行し、ろう教育界が荒れたこともありました。

昨年2月秋篠宮両殿下が市川の聾学校をご視察下さったのは大変にありがたいことでした。

マスコミまで上手く誘導し、子供達の人格を否定していると非難されていた学校です。

両殿下が来てくださったことで、

手話も含めて真に教育の選択の自由があることが確認されたという思いがあります。

紀子妃殿下は、ろうあ連盟、聾教育関係者からのご進講も熱心に受けていらっしゃるそうなので

ある程度は、そういった事実もご存知であろうかと思います。

■国際ろう者会議(1991年)に秋篠宮両殿下がお見えになっていて、

紀子様が手話で挨拶や歓談されていたがとても優雅で優しかった。

優雅で柔らかだったので会場中がうっとりしていた。

「手話の普及や通訳士の育成に励んでおります」と挨拶すると笑顔で

「大変素晴らしいことです。お体にお気をつけて頑張って下さい」と手を差し出して下さった。

「こんな下の層に居る、障害者にあんな無私にお優しくして下さる方をお見初めになるなんて、

秋篠宮様は何と素晴らしい!

田舎のおじいちゃん、おばあちゃんに話したら、途端に仏壇で拝み始め、

「昭和天皇陛下がお認めになった、やはり将来お国を御守りして下さるに相応しいお方だ」と

涙を流して昭和帝の写真を拝んでいた。

■しかし、その前後から某・宗教団体に属する人が各地の手話サークルに急に入り始めた。

「あなた達のその間違った文法で話している手話を口語と同じく正しい文法に直します」

「前世での罰であなたは耳が聞こえないんですから、私がお力になります」という調子で

サークル内の雰囲気を乱したため、活動停止もしくは分裂状態に追い込まれたサークルが多かった。

「なぜ急にあんな宗教団体が関わってくるんだ?」と最初のころはその理由が分からなかったが

最近ようやく判ってきた。創価の人は

「秋篠宮紀子妃に手話を教えている人が、彼女の手話はいつまでもへたくそなのよって言っているわ」

といいふらしている。

■紀子様のは日本手話・ASL(主にアメリカなどの英語手話)がお出来になる。

手話を習い・話す上で難しい空間の表現や擬人法的な表現などがとてもお上手。

単語や言い回しは覚えられる。でも首の傾け方や表情はその人のセンス。

きちんとしたろうあ者の言語感覚や文化を知らないと出来ない。

また、口話で話しながら手話でも同じ内容を話すのは高度でなかなか通訳でもそう簡単に出来ない。

最初の頃は公務慣れしてなかったせいか、緊張でドギマギされていることはありましたが、

歓談中などはとても流暢な手話で「あなたはホントに耳が聞こえるの?」と訊かれることも。

■創価が『地位向上と手話の普及を目指して日本語対応手話を普及しましょう!』なんて急に言い出して

…手話サークル・通訳同士でギスギスした空気が…メチャクチャになった。

紀子様が御臨席になる福祉関係の行事にやたらと来たがっていたのでよくよく聞いてみると創価の影

その団体の大規模な施設や学校がある地域なのでとにかくそのような人が多くて参った。

一部の急進的なろう者]とそれに同調する聴者(全国ろう児を持つ親の会など)は、

日本語対応手話は独自の文法を持っていないので手話とはいえず、

これに対し手話という文字列を使うべきではないと主張し、

1990年代から2000年代前半にかけては「手指日本語」、「シムコム」という語を用いていた。

だが、このような排他的な主張については批判的な意見が多数であったことから、

最近では「手指日本語」、「シムコム」という用語の使用は少なく、

「(日本語)対応手話」との呼び方がほぼ定着した。

■日本語対応手話で検索するとでてくる創価がらみのブログ

やっぱり信心が足りないから声が出ない、と言っている。

手話も結局、勤行と折伏の手段でしかないのだろう。内部でも障害者を差別する宗教団体。

参考8

週刊現代1993年1月23日号

実はこの高3−大学1年の期間、雅子さんは小社がアメリカで編集制作していた

【エンサイクロペディア オブ ジャパン】(英語版日本百科事典)の編集を手伝っていた。

同事典の編集責任者、板坂元 創価女子短大教授(副学長)が、当時の雅子さんを回想してこう語る。

「彼女にお願いした仕事は、著者から送られてきた英文原稿が事実関係と合っているかどうかを調べるデータチェック。

非常におとなしい人で仕事ぶりはまじめでした。スタッフの中では最年少だったというせいもあるのでしょうが、

毎月行っていたオフィスパーティでも、目立った印象はありませんでしたね」

■板坂元(いたさか・げん):1922年〜2004年没。中国南京市生まれ。

東京大学大学院文学研究科修士課程修了。

武蔵高校、成城大学で教えた後、1957年、渡英。ケンブリッジ大学を経て、60年、ハーバード大学講師。

85年に帰国し、創価大学客員教授、創価女子短期大学教授。同大副学長も務めた。

日本文学、日本語を教える傍ら、長年の海外生活体験をふまえた鋭い文明批評で知られた。

参考9

ある宮内庁職員からの情報 二階堂ドットコム

なんと由々しき事態である。「雅子妃殿下の妹が、創価学会員である」という情報だ。

これは現役宮内庁職員からもたらされたものであり、一部の国会議員も確認している。

当サイトは確認はしていないが、事実であった場合

日本の国家の礎をなす天皇家に邪教が入り込む危険性があるため、確認なしでお届けした。


参考10

(2005)

世界水フォーラムは創価のイベント、皇太子は創価の広告塔

「世界水フォーラム」でPR活動

3月18日付「聖教新聞」「京都の世界水フォーラム SGI代表、創価大学生が参加」

「地球規模の水問題を解決策を討議する

『第3回世界水フォーラム』が、16日から京都を中心に開かれ、

SGIの代表、学生部員が参加。交流を広げている。

同フォーラムには、約180カ国から政府関係者、市民団体、国際機関など1万人以上が集う。

SGIを代表して、岩住副会長、本部国際室のジョーン・アンダーソン氏、

SGIニューヨーク国連連絡所の桜井浩行氏が出席。

主会場の国立京都国際会館の展示ブースで、

池田SGI会長の環境提言や地球憲章のポスターなどを紹介している。

同フォーラムに出席しているアンワルル・チョウドリ国連事務次長が16日、

SGIの展示スペースを訪れた。

同事務次長は『国連で“賢人会議”を開き、

池田会長の平和提言を学ぶ機会をつくるべきです。

会長の平和思想を、もっと世界に広く伝えなければならない』と語った」

昨夏の環境サミットでもSGIは展示を行い、池田氏のPRを行った。

公明党の党大会で小泉首相がこのSGIの展示を観覧し、

そこで見た池田氏撮影の写真を礼賛したことは既報の通り。

今回の世界水フォーラムでも、SGIは展示を行い、池田氏のPRに余念がない

こうした手法で創価学会は、自らのイメージアップを図るのである。


https://hinomoto.wiki.fc2.com/wiki/%E5%A4%96%E5%8B%99%E7%9C%81%E3%81%AB%E5%89%B5%E4%BE%A1%E5%AD%A6%E4%BC%9A%E3%81%AE%E3%80%8C%E5%87%BA%E5%85%88%E6%A9%9F%E9%96%A2%EF%BD%A3
http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/117.html#c37

[近代史3] 皇太子妃の雅子さんは典型的なダメダメ家庭出身者  中川隆
37. 中川隆[-11417] koaQ7Jey 2019年3月17日 11:07:20 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[580]

外務省に創価学会の「出先機関」 2007年7月
https://hinomoto.wiki.fc2.com/wiki/%E5%A4%96%E5%8B%99%E7%9C%81%E3%81%AB%E5%89%B5%E4%BE%A1%E5%AD%A6%E4%BC%9A%E3%81%AE%E3%80%8C%E5%87%BA%E5%85%88%E6%A9%9F%E9%96%A2%EF%BD%A3

外務省に創価学会の「出先機関」

メンバー300人の「大鳳会」

温家宝首相が衆参両議長や政党代表より長く、池田大作会長と会談した事実は創価学会の対中外交への影響力を強く印象付けた。

元外務省OBの発言として「日本の国際的な地位の低下と反比例して対中国・対ロ外交における学会の存在感は高まっている。

その学会の出先機関的存在が「大鳳会」。

公明党が政権与党の中核に位置することで創価学会の政治的影響力は飛躍的に増大。


「大鳳会」の成立事情

1960年池田大作が会長に就任。

「天下を取ろう」を合言葉に1964年公明党結党


「総体革命」

学会員の優秀な指定を官界、法曹界、経済界、マスコミ界、教育界などの各分野に送り込み、

枢要な部署を学会員で占めることを画策した。その一環として外交官の輩出にも注力し、

現在インド大使を務める学会員キャリア外交官第1号榎泰邦氏を中心に「大鳳会」が結成された。

いまや会のメンバーはキャリアから在外公館の現地採用組まで含めると300人に達するとの声もある。

「妙法の外交官」の使命は創価学会や池田会長のために働くこと。

具体的には会長の外遊のための根回しや、学会・創価大学の文化交流や教育交流のサポート、情報収集などに尽力することである。

1994年ミラノの日本領事館勤務の「大鳳会」メンバーが創価学会の依頼に応えてバチカンの動向報告書を学会本部に提出

外務省官房長小和田恒が池田会長の東南アジア外遊時の便宜供与につき国会で憲法第二十条違反だと問題となった。

「いかなる宗教団体も、国から特権を受け、または政治上の権力を行使してはならない」

この後、池田大作への便宜供与は中止されたが、それまでは皇族や総理・国務大臣などと同じ最高ランクだった。

創価学会がカルト(有害セクト)だという報告書がフランスの国会に提出されている。

創価学会はこれを取り消させることを悲願としている。

2004年夏には創価学会高野議員(元外務省キャリア)がフランスに公務出張した際、

セクト対策法を制定した元国会議員に「セクト解除」を求めたという事実がある。

もし榎泰邦氏をフランス大使に登用するという異例の人事が発令されれば当然、

学会・公明党の外務省人事への容喙が疑われるだろう。

日中国交正常化後、中国留学生を最初に受け入れた大学は創価大学。

その留学生らが中国外務省の対日部門の要職を占めるようになった。

2004年に中国の潜水艦が宮古島近海で日本の領海を侵犯した際、

日本政府の抗議を突っぱねた中国大使館の程公使は 創価大学留学第一期生。

「大鳳会のメンバーが彼らのカウンターパートとして登用される可能性は否定できない。

創価大学はモスクワ大学の留学生も多数受け入れており、

対ロシア外交においても同じことが起こる可能性がある

日本のメディアは(大手メディア限定ではあるが)ほぼ全て朝鮮の政治的影響を明確に受けている。

日本の場合、全国ネットのテレビ局や全国紙新聞にはかなり昔から

『菊と鶴のタブー』という2大タブーがある。

菊は“皇室”のことで、鶴は“創価学会”のことである。」

参考1


小和田恒氏は創価学会と関係が深い。

http:// kokkai.ndl.go.jp/SENTAKU/sangiin/134/1177/13411271177003c.html


「第134回国会 宗教法人等に関する特別委員会 第3号平成七年十一月二十七日(月曜日)」

○関根則之君 私は、きょうは宗教団体と政治のかかわり、

宗教と政治の関係はどうあらねばならないかという問題につきまして

重点を置いて質問をしたいと思っているんですよ。

(略)

それから、ちょっと外務大臣にお尋ねいたしますけれども、

実は一九八八年の一月六日付で、八八年ですから昭和六十二年ですか、

創価学会の事務総長原田稔さん、この方から当時の外務省官房長の小和田恒さんあてに、

「本年一月末より二月中旬にかけて、創価学会インタナショナル一SGI)

会長・池田大作(創価学会名誉会長)一行が教育・文化交流のため、

香港並びにアセアン三ケ国(タイ・マレーシア・シンガポール)を約二週間にわたり、

下記の日程で訪問する予定です。何卒宜しくお願い申しあげます。」ということで、

メンバーは、池田大作創価学会インタナショナル会長・創価学会名誉会長、

池田かね同夫人、池田博正同子息、創価学会副青年部長。

これは、何か奥さんと家族ぐるみで訪問をするから、外務省の官房長によろしく頼むと

言っているんですね。これに対してどう対応なさったか。まだいるんですよ、ほかにも。

原田さんという方、鈴木さん、長谷川さん、高沢さん。全部で七人。

一行七人が、一月二十七日、秋谷栄之助SGI理事長も同行しますと、

こう書いてございますから総勢八人になったんですか、そういうことでスケジュールは

一月二十八日、大阪から香港へ行きましてずっと回りまして、

成田着が二月十四日ということですから二週間以上に及ぶ旅行だと思いますけれども、

これに対して、通常の言葉でいわば便宜供与の依頼だと思うんですけれども、

どんな便宜をお与えになったのか、ちょっとその対応ぶりについてお教えをいただきたいと思います。

参考2

外務省腐敗の陰に「大鳳会」!?

学会員官僚増大で腐敗も増長

創価学会・公明党のクレージーで腐った体質が、

この国の権力機構や政治を蝕んでいることを象徴するような出来事が、最近、引き続いて起こっている。

外務省の腐敗と乱脈ぶりは、ただただ呆れるばかりだが、

その外務省には、池田大作の直弟子ともいうべき大鳳会≠フメンバーが

意欲的に送り込まれているのだ。役所の中で、

最も学会員(それも、最も濃く池田大作の薫陶を受けた会員)の占める比率が高いのが外務省である。

参考3

小和田と創価

山田:池田が昭和63年1月に東南アジア4カ国へ外遊する時、

それに先立って、現地の税関当局などに便宜を図って貰うため、

当時、外務省の小和田恒官房長に強引に頼んでいる。

聖教新聞は毎日新聞より多い550万部を発行しており、

その印刷は読売新聞の印刷工場や毎日新聞の子会社であるに委託させて刷っている。

だから"ドル箱"ということもあって学会・公明批判が全く行えない。

(※福田康夫と斎藤明(毎日新聞社長)の夫人は姉妹)

山田:かつて米CBSテレビが製作した学会批判の番組を、

提携先中のNHK衛星で放映しようとしたところ、

"横槍"が入って中止してしまったことがあった。

公明党議員がNHKの予算に注文をつけると脅したらしい。

またフジテレビの「報道2001」のあるプロデューサーは熱心な学会員で、

番組編成のスタンスは、常に学会寄りの制作ということで、局内ではよく知られており、

このようなマスコミ関係の要所々々には確りと、学会員が入り込んでいます。


週刊新潮1996.5.16

創価学会が小和田恒氏に送った「外遊特別待遇」要請書

http:// www.yuko2ch.net/mako/makok/src/1228313680069.jpg

参考4

人格否定発言直後に出た週刊ポストの記事

週刊ポスト「宮内庁対外務省」

外務省は長年皇室を政治利用してきた。

94年の天皇皇后の訪米では、真珠湾に献花させようとして大反発をくらった。

92年の訪中も、外務省と官邸が無理やり天皇皇后を中国へ行かせたが

戦争責任問題もあり国内で大論争が起きた。

以上のように皇室を政治利用する外務省に宮内庁側は、ご立腹であった。

「皇族を政治利用するとは何だと思っているんだ。皇室への侮辱だ。」

その反動から鎌倉節長官から皇族の外国訪問をセーブしだす。

天皇皇后も二年間外国へ行っていない。皇太子夫妻は八年間。

ベルギー訪問も、鎌倉氏は反対した。そしてあんの上流産の結果が出る。

ある政治家の話「将来は、外務省主導で皇室外交」

雅子妃の今後「外国で静養の可能性も充分にある。」

参考5

脱退者

創価は天皇と神道を敵として見ている。

創価学会の本尊は、ど真ん中にでっかく「南無妙法蓮華経」とあり、

いちばん 下に「天照大神」と、小さく書かれている。

創価学会の教義では、法華経 (日蓮宗でなく創価学会による独自の解釈)によって

成仏した仏や成仏途中の神々は、法華経を受持しこれを広宣流布(布教)する

創価学会の従者となって守護 せねばならない。

成仏途中の神々とは、皇祖神・天照大神をはじめ、

我が国の神道における八百万の神々も、その例外ではなく、

したがって、皇祖神の子孫である天皇も、創価学会の家来であるという。

ちなみに、他者を改宗させ、教団に入信させることを「折伏」(しゃくぶく)と

称するが、大東亜戦争のころ、黎明期の創価学会では、畏れおおくも、

昭和天皇を「折り伏せる」ことを祈念していた。

このことは、 当時の創価学会において、教徒に配布された

「勤行要典」に明記されている。

当然、政府にとっては、暴力革命を党是とする共産党と同様に、監視の対象。

子供たちに「愛国心」教育を施して、やがて国民に国家統合の象徴として天皇を

「敬愛」する心が芽生えてくるとしたら、

それは、創価イズムにおける上下の序列を ひっくり返すことを意味する、

教義と対立する教育施策にほかならず、そうした理由から、

(天皇を象徴とする)「統治機構を愛する〜」などと言い出す。

所謂、左翼が標榜する「階級闘争」とは全く異なるイデオロギーを背景としている。

創価学会の教徒でない公明党員などいない。

創価学会では、 公明党の選挙に尽力すれば「功徳」があると指導されている。

参考6

日本が半ば在日に乗っ取られているのは間違いない。

犯罪界、宗教界、政界、芸能界と 至るところ在日が主導権を握っている。

政治家の秘書として統一教会信者が百人以上も入り込み、

さらに朝鮮総連からも賄賂がいっているので、

政治家がこの問題で動くこともないだろう。

「在日は差別されている可哀想な少数民族だ」なんてとんでもない。

これは連中が広めた最大の嘘。

日本最大の産業は年間30兆円を売り上げるパチンコ産業だが、

その8割を在日が握っている。連中は税金もほとんど払っていない。

おそらく、国民のたった0・5%に過ぎない在日韓国朝鮮人たちが

年間で手にする金は、表も裏(笑)も含めて40兆円に達する。

在日は疑いもなく「世界一リッチなマイノリティー」というのが真実。

そして有り余った金を政界にばら撒いている。

だから不正融資で潰れかけた朝鮮銀行に国民の税金1兆円を平気でつぎ込んでしまう。

彼らは韓国や北朝鮮に対して土下座外交するしかない。

日本の政治家が訳が解らない取引をしているのは創価を母体とする公明党が

与党に成り上がるまでに力をつけた事にある。

宮内庁次長等に創価の一族が存在している現在では

創価を抜きにしては皇室問題を語れない。

創価は総体革命をする、と宣言している。

それを言い換えれば日本を乗っ取ると言うこと。当然皇室も入る。

創価の金融界での総体革命は恐ろしいほど進んだ。

創価が皇室に入れば大作の片腕だった教学部長・創価を命がけで守っていた

優秀な弁護士その他数々の人々が亡き者にされたように

皇室はおろか皇族方も亡き者にされるのはやり方の歴史が証明している。

拙速に「女系容認・直系長子優先」案を提出しようとしている有識者会議が発足したのは、公明党が与党に入ってから。

韓国ブームは在日が作った。あれだけ大規模なブームを作れるくらい、もう日本の中で在日の力は強い。

自分達を地獄に導いているとも知らずに毎日毎日テレビで韓国をヨイショしてくれる日本人。

韓国ブームのお陰で在日や韓国人へのマイナスイメージがプラスイメージになった。

そして日本人が韓国人や在日と結婚する数も圧倒的に多くなった。

もうあと30年で日本は完全に在日主体の社会になる。

たった100万人に満たない在日に使われる1億人の日本人。

皇太子まで 洗脳されている。雅子妃を応援しているのは、創価の女性達。

今、皇太子一家と小和田家は、創価と繋がりが出来てしまっている。

皇室典範改正を急ぐのは、公明党の力が働いている。

テレビや新聞より多くのネットの情報が正しく、

「なぜ?」と言う疑問が解ける理由に、創価学会などの朝鮮人が絡んでいる。

雅子妃は、創価学会員と同様な扱いをされている。

天皇、皇后、紀宮、秋篠宮の方が正当なことを言っているのにマスコミにたたかれる。

日教組に洗脳教育された左翼国民は救いようがない。

怖いのは愛子の婿が創価になること。 着々と外堀埋めは進行している。

連合国の思惑通りに事が進んでいる。

女系天皇の誕生は皇統の消滅と天皇家の解体を意味する。

戦後六十年、米と中共の悲願が遂に達成される。

敗戦後天皇家本家を守る為に臣籍に下った旧皇族は絶対に容認できないだろう。

あの決断の結末がどこぞの馬の骨による皇統の乗っ取り。

有識者会議のメンバーを見る限りでは有識者は誰もいない。

結論ありき。道鏡、足利義満以来の皇統危機。

創価学会が皇室解体を悲願としている。

そのためあえて知的に問題があるとも言われている愛子女帝を推進している。

とりあえず今は優秀伝説を垂れ流ししている。

秋篠宮殿下、その親王殿下というれっきとした男系男子がいるのに愛子様を…というのは不自然きわまる。

解体ではなく乗っ取り。確かにそのほうが話が早い。

創価学会(池田大作教)が 皇室をつぶしたい理由

『神道は日蓮の敵であるから邪教徒である象徴はなくさなければならない』

皇太子夫妻だけを持ち上げるのは創価とワールドメイト。

池田大作は帰化人。半田晴久は在日。

参考7

拾い物

創価と「日本語対応手話」

■自分達こそ正しいと主張する為に、

他の方法を選ぶ人たちを貶める事が一時横行し、ろう教育界が荒れたこともありました。

昨年2月秋篠宮両殿下が市川の聾学校をご視察下さったのは大変にありがたいことでした。

マスコミまで上手く誘導し、子供達の人格を否定していると非難されていた学校です。

両殿下が来てくださったことで、

手話も含めて真に教育の選択の自由があることが確認されたという思いがあります。

紀子妃殿下は、ろうあ連盟、聾教育関係者からのご進講も熱心に受けていらっしゃるそうなので

ある程度は、そういった事実もご存知であろうかと思います。

■国際ろう者会議(1991年)に秋篠宮両殿下がお見えになっていて、

紀子様が手話で挨拶や歓談されていたがとても優雅で優しかった。

優雅で柔らかだったので会場中がうっとりしていた。

「手話の普及や通訳士の育成に励んでおります」と挨拶すると笑顔で

「大変素晴らしいことです。お体にお気をつけて頑張って下さい」と手を差し出して下さった。

「こんな下の層に居る、障害者にあんな無私にお優しくして下さる方をお見初めになるなんて、

秋篠宮様は何と素晴らしい!

田舎のおじいちゃん、おばあちゃんに話したら、途端に仏壇で拝み始め、

「昭和天皇陛下がお認めになった、やはり将来お国を御守りして下さるに相応しいお方だ」と

涙を流して昭和帝の写真を拝んでいた。

■しかし、その前後から某・宗教団体に属する人が各地の手話サークルに急に入り始めた。

「あなた達のその間違った文法で話している手話を口語と同じく正しい文法に直します」

「前世での罰であなたは耳が聞こえないんですから、私がお力になります」という調子で

サークル内の雰囲気を乱したため、活動停止もしくは分裂状態に追い込まれたサークルが多かった。

「なぜ急にあんな宗教団体が関わってくるんだ?」と最初のころはその理由が分からなかったが

最近ようやく判ってきた。創価の人は

「秋篠宮紀子妃に手話を教えている人が、彼女の手話はいつまでもへたくそなのよって言っているわ」

といいふらしている。

■紀子様のは日本手話・ASL(主にアメリカなどの英語手話)がお出来になる。

手話を習い・話す上で難しい空間の表現や擬人法的な表現などがとてもお上手。

単語や言い回しは覚えられる。でも首の傾け方や表情はその人のセンス。

きちんとしたろうあ者の言語感覚や文化を知らないと出来ない。

また、口話で話しながら手話でも同じ内容を話すのは高度でなかなか通訳でもそう簡単に出来ない。

最初の頃は公務慣れしてなかったせいか、緊張でドギマギされていることはありましたが、

歓談中などはとても流暢な手話で「あなたはホントに耳が聞こえるの?」と訊かれることも。

■創価が『地位向上と手話の普及を目指して日本語対応手話を普及しましょう!』なんて急に言い出して

…手話サークル・通訳同士でギスギスした空気が…メチャクチャになった。

紀子様が御臨席になる福祉関係の行事にやたらと来たがっていたのでよくよく聞いてみると創価の影

その団体の大規模な施設や学校がある地域なのでとにかくそのような人が多くて参った。

一部の急進的なろう者]とそれに同調する聴者(全国ろう児を持つ親の会など)は、

日本語対応手話は独自の文法を持っていないので手話とはいえず、

これに対し手話という文字列を使うべきではないと主張し、

1990年代から2000年代前半にかけては「手指日本語」、「シムコム」という語を用いていた。

だが、このような排他的な主張については批判的な意見が多数であったことから、

最近では「手指日本語」、「シムコム」という用語の使用は少なく、

「(日本語)対応手話」との呼び方がほぼ定着した。

■日本語対応手話で検索するとでてくる創価がらみのブログ

やっぱり信心が足りないから声が出ない、と言っている。

手話も結局、勤行と折伏の手段でしかないのだろう。内部でも障害者を差別する宗教団体。

参考8

週刊現代1993年1月23日号

実はこの高3−大学1年の期間、雅子さんは小社がアメリカで編集制作していた

【エンサイクロペディア オブ ジャパン】(英語版日本百科事典)の編集を手伝っていた。

同事典の編集責任者、板坂元 創価女子短大教授(副学長)が、当時の雅子さんを回想してこう語る。

「彼女にお願いした仕事は、著者から送られてきた英文原稿が事実関係と合っているかどうかを調べるデータチェック。

非常におとなしい人で仕事ぶりはまじめでした。スタッフの中では最年少だったというせいもあるのでしょうが、

毎月行っていたオフィスパーティでも、目立った印象はありませんでしたね」

■板坂元(いたさか・げん):1922年〜2004年没。中国南京市生まれ。

東京大学大学院文学研究科修士課程修了。

武蔵高校、成城大学で教えた後、1957年、渡英。ケンブリッジ大学を経て、60年、ハーバード大学講師。

85年に帰国し、創価大学客員教授、創価女子短期大学教授。同大副学長も務めた。

日本文学、日本語を教える傍ら、長年の海外生活体験をふまえた鋭い文明批評で知られた。

参考9

ある宮内庁職員からの情報 二階堂ドットコム

なんと由々しき事態である。「雅子妃殿下の妹が、創価学会員である」という情報だ。

これは現役宮内庁職員からもたらされたものであり、一部の国会議員も確認している。

当サイトは確認はしていないが、事実であった場合

日本の国家の礎をなす天皇家に邪教が入り込む危険性があるため、確認なしでお届けした。


参考10

(2005)

世界水フォーラムは創価のイベント、皇太子は創価の広告塔

「世界水フォーラム」でPR活動

3月18日付「聖教新聞」「京都の世界水フォーラム SGI代表、創価大学生が参加」

「地球規模の水問題を解決策を討議する

『第3回世界水フォーラム』が、16日から京都を中心に開かれ、

SGIの代表、学生部員が参加。交流を広げている。

同フォーラムには、約180カ国から政府関係者、市民団体、国際機関など1万人以上が集う。

SGIを代表して、岩住副会長、本部国際室のジョーン・アンダーソン氏、

SGIニューヨーク国連連絡所の桜井浩行氏が出席。

主会場の国立京都国際会館の展示ブースで、

池田SGI会長の環境提言や地球憲章のポスターなどを紹介している。

同フォーラムに出席しているアンワルル・チョウドリ国連事務次長が16日、

SGIの展示スペースを訪れた。

同事務次長は『国連で“賢人会議”を開き、

池田会長の平和提言を学ぶ機会をつくるべきです。

会長の平和思想を、もっと世界に広く伝えなければならない』と語った」

昨夏の環境サミットでもSGIは展示を行い、池田氏のPRを行った。

公明党の党大会で小泉首相がこのSGIの展示を観覧し、

そこで見た池田氏撮影の写真を礼賛したことは既報の通り。

今回の世界水フォーラムでも、SGIは展示を行い、池田氏のPRに余念がない

こうした手法で創価学会は、自らのイメージアップを図るのである。


https://hinomoto.wiki.fc2.com/wiki/%E5%A4%96%E5%8B%99%E7%9C%81%E3%81%AB%E5%89%B5%E4%BE%A1%E5%AD%A6%E4%BC%9A%E3%81%AE%E3%80%8C%E5%87%BA%E5%85%88%E6%A9%9F%E9%96%A2%EF%BD%A3
http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/179.html#c37

[近代史3] 美智子妃も雅子妃もアメリカが皇室と天皇制を破壊する為に送り込んだスパイなのか? 中川隆
39. 中川隆[-11416] koaQ7Jey 2019年3月17日 11:07:44 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[581]

外務省に創価学会の「出先機関」 2007年7月
https://hinomoto.wiki.fc2.com/wiki/%E5%A4%96%E5%8B%99%E7%9C%81%E3%81%AB%E5%89%B5%E4%BE%A1%E5%AD%A6%E4%BC%9A%E3%81%AE%E3%80%8C%E5%87%BA%E5%85%88%E6%A9%9F%E9%96%A2%EF%BD%A3

外務省に創価学会の「出先機関」

メンバー300人の「大鳳会」

温家宝首相が衆参両議長や政党代表より長く、池田大作会長と会談した事実は創価学会の対中外交への影響力を強く印象付けた。

元外務省OBの発言として「日本の国際的な地位の低下と反比例して対中国・対ロ外交における学会の存在感は高まっている。

その学会の出先機関的存在が「大鳳会」。

公明党が政権与党の中核に位置することで創価学会の政治的影響力は飛躍的に増大。


「大鳳会」の成立事情

1960年池田大作が会長に就任。

「天下を取ろう」を合言葉に1964年公明党結党


「総体革命」

学会員の優秀な指定を官界、法曹界、経済界、マスコミ界、教育界などの各分野に送り込み、

枢要な部署を学会員で占めることを画策した。その一環として外交官の輩出にも注力し、

現在インド大使を務める学会員キャリア外交官第1号榎泰邦氏を中心に「大鳳会」が結成された。

いまや会のメンバーはキャリアから在外公館の現地採用組まで含めると300人に達するとの声もある。

「妙法の外交官」の使命は創価学会や池田会長のために働くこと。

具体的には会長の外遊のための根回しや、学会・創価大学の文化交流や教育交流のサポート、情報収集などに尽力することである。

1994年ミラノの日本領事館勤務の「大鳳会」メンバーが創価学会の依頼に応えてバチカンの動向報告書を学会本部に提出

外務省官房長小和田恒が池田会長の東南アジア外遊時の便宜供与につき国会で憲法第二十条違反だと問題となった。

「いかなる宗教団体も、国から特権を受け、または政治上の権力を行使してはならない」

この後、池田大作への便宜供与は中止されたが、それまでは皇族や総理・国務大臣などと同じ最高ランクだった。

創価学会がカルト(有害セクト)だという報告書がフランスの国会に提出されている。

創価学会はこれを取り消させることを悲願としている。

2004年夏には創価学会高野議員(元外務省キャリア)がフランスに公務出張した際、

セクト対策法を制定した元国会議員に「セクト解除」を求めたという事実がある。

もし榎泰邦氏をフランス大使に登用するという異例の人事が発令されれば当然、

学会・公明党の外務省人事への容喙が疑われるだろう。

日中国交正常化後、中国留学生を最初に受け入れた大学は創価大学。

その留学生らが中国外務省の対日部門の要職を占めるようになった。

2004年に中国の潜水艦が宮古島近海で日本の領海を侵犯した際、

日本政府の抗議を突っぱねた中国大使館の程公使は 創価大学留学第一期生。

「大鳳会のメンバーが彼らのカウンターパートとして登用される可能性は否定できない。

創価大学はモスクワ大学の留学生も多数受け入れており、

対ロシア外交においても同じことが起こる可能性がある

日本のメディアは(大手メディア限定ではあるが)ほぼ全て朝鮮の政治的影響を明確に受けている。

日本の場合、全国ネットのテレビ局や全国紙新聞にはかなり昔から

『菊と鶴のタブー』という2大タブーがある。

菊は“皇室”のことで、鶴は“創価学会”のことである。」

参考1


小和田恒氏は創価学会と関係が深い。

http:// kokkai.ndl.go.jp/SENTAKU/sangiin/134/1177/13411271177003c.html


「第134回国会 宗教法人等に関する特別委員会 第3号平成七年十一月二十七日(月曜日)」

○関根則之君 私は、きょうは宗教団体と政治のかかわり、

宗教と政治の関係はどうあらねばならないかという問題につきまして

重点を置いて質問をしたいと思っているんですよ。

(略)

それから、ちょっと外務大臣にお尋ねいたしますけれども、

実は一九八八年の一月六日付で、八八年ですから昭和六十二年ですか、

創価学会の事務総長原田稔さん、この方から当時の外務省官房長の小和田恒さんあてに、

「本年一月末より二月中旬にかけて、創価学会インタナショナル一SGI)

会長・池田大作(創価学会名誉会長)一行が教育・文化交流のため、

香港並びにアセアン三ケ国(タイ・マレーシア・シンガポール)を約二週間にわたり、

下記の日程で訪問する予定です。何卒宜しくお願い申しあげます。」ということで、

メンバーは、池田大作創価学会インタナショナル会長・創価学会名誉会長、

池田かね同夫人、池田博正同子息、創価学会副青年部長。

これは、何か奥さんと家族ぐるみで訪問をするから、外務省の官房長によろしく頼むと

言っているんですね。これに対してどう対応なさったか。まだいるんですよ、ほかにも。

原田さんという方、鈴木さん、長谷川さん、高沢さん。全部で七人。

一行七人が、一月二十七日、秋谷栄之助SGI理事長も同行しますと、

こう書いてございますから総勢八人になったんですか、そういうことでスケジュールは

一月二十八日、大阪から香港へ行きましてずっと回りまして、

成田着が二月十四日ということですから二週間以上に及ぶ旅行だと思いますけれども、

これに対して、通常の言葉でいわば便宜供与の依頼だと思うんですけれども、

どんな便宜をお与えになったのか、ちょっとその対応ぶりについてお教えをいただきたいと思います。

参考2

外務省腐敗の陰に「大鳳会」!?

学会員官僚増大で腐敗も増長

創価学会・公明党のクレージーで腐った体質が、

この国の権力機構や政治を蝕んでいることを象徴するような出来事が、最近、引き続いて起こっている。

外務省の腐敗と乱脈ぶりは、ただただ呆れるばかりだが、

その外務省には、池田大作の直弟子ともいうべき大鳳会≠フメンバーが

意欲的に送り込まれているのだ。役所の中で、

最も学会員(それも、最も濃く池田大作の薫陶を受けた会員)の占める比率が高いのが外務省である。

参考3

小和田と創価

山田:池田が昭和63年1月に東南アジア4カ国へ外遊する時、

それに先立って、現地の税関当局などに便宜を図って貰うため、

当時、外務省の小和田恒官房長に強引に頼んでいる。

聖教新聞は毎日新聞より多い550万部を発行しており、

その印刷は読売新聞の印刷工場や毎日新聞の子会社であるに委託させて刷っている。

だから"ドル箱"ということもあって学会・公明批判が全く行えない。

(※福田康夫と斎藤明(毎日新聞社長)の夫人は姉妹)

山田:かつて米CBSテレビが製作した学会批判の番組を、

提携先中のNHK衛星で放映しようとしたところ、

"横槍"が入って中止してしまったことがあった。

公明党議員がNHKの予算に注文をつけると脅したらしい。

またフジテレビの「報道2001」のあるプロデューサーは熱心な学会員で、

番組編成のスタンスは、常に学会寄りの制作ということで、局内ではよく知られており、

このようなマスコミ関係の要所々々には確りと、学会員が入り込んでいます。


週刊新潮1996.5.16

創価学会が小和田恒氏に送った「外遊特別待遇」要請書

http:// www.yuko2ch.net/mako/makok/src/1228313680069.jpg

参考4

人格否定発言直後に出た週刊ポストの記事

週刊ポスト「宮内庁対外務省」

外務省は長年皇室を政治利用してきた。

94年の天皇皇后の訪米では、真珠湾に献花させようとして大反発をくらった。

92年の訪中も、外務省と官邸が無理やり天皇皇后を中国へ行かせたが

戦争責任問題もあり国内で大論争が起きた。

以上のように皇室を政治利用する外務省に宮内庁側は、ご立腹であった。

「皇族を政治利用するとは何だと思っているんだ。皇室への侮辱だ。」

その反動から鎌倉節長官から皇族の外国訪問をセーブしだす。

天皇皇后も二年間外国へ行っていない。皇太子夫妻は八年間。

ベルギー訪問も、鎌倉氏は反対した。そしてあんの上流産の結果が出る。

ある政治家の話「将来は、外務省主導で皇室外交」

雅子妃の今後「外国で静養の可能性も充分にある。」

参考5

脱退者

創価は天皇と神道を敵として見ている。

創価学会の本尊は、ど真ん中にでっかく「南無妙法蓮華経」とあり、

いちばん 下に「天照大神」と、小さく書かれている。

創価学会の教義では、法華経 (日蓮宗でなく創価学会による独自の解釈)によって

成仏した仏や成仏途中の神々は、法華経を受持しこれを広宣流布(布教)する

創価学会の従者となって守護 せねばならない。

成仏途中の神々とは、皇祖神・天照大神をはじめ、

我が国の神道における八百万の神々も、その例外ではなく、

したがって、皇祖神の子孫である天皇も、創価学会の家来であるという。

ちなみに、他者を改宗させ、教団に入信させることを「折伏」(しゃくぶく)と

称するが、大東亜戦争のころ、黎明期の創価学会では、畏れおおくも、

昭和天皇を「折り伏せる」ことを祈念していた。

このことは、 当時の創価学会において、教徒に配布された

「勤行要典」に明記されている。

当然、政府にとっては、暴力革命を党是とする共産党と同様に、監視の対象。

子供たちに「愛国心」教育を施して、やがて国民に国家統合の象徴として天皇を

「敬愛」する心が芽生えてくるとしたら、

それは、創価イズムにおける上下の序列を ひっくり返すことを意味する、

教義と対立する教育施策にほかならず、そうした理由から、

(天皇を象徴とする)「統治機構を愛する〜」などと言い出す。

所謂、左翼が標榜する「階級闘争」とは全く異なるイデオロギーを背景としている。

創価学会の教徒でない公明党員などいない。

創価学会では、 公明党の選挙に尽力すれば「功徳」があると指導されている。

参考6

日本が半ば在日に乗っ取られているのは間違いない。

犯罪界、宗教界、政界、芸能界と 至るところ在日が主導権を握っている。

政治家の秘書として統一教会信者が百人以上も入り込み、

さらに朝鮮総連からも賄賂がいっているので、

政治家がこの問題で動くこともないだろう。

「在日は差別されている可哀想な少数民族だ」なんてとんでもない。

これは連中が広めた最大の嘘。

日本最大の産業は年間30兆円を売り上げるパチンコ産業だが、

その8割を在日が握っている。連中は税金もほとんど払っていない。

おそらく、国民のたった0・5%に過ぎない在日韓国朝鮮人たちが

年間で手にする金は、表も裏(笑)も含めて40兆円に達する。

在日は疑いもなく「世界一リッチなマイノリティー」というのが真実。

そして有り余った金を政界にばら撒いている。

だから不正融資で潰れかけた朝鮮銀行に国民の税金1兆円を平気でつぎ込んでしまう。

彼らは韓国や北朝鮮に対して土下座外交するしかない。

日本の政治家が訳が解らない取引をしているのは創価を母体とする公明党が

与党に成り上がるまでに力をつけた事にある。

宮内庁次長等に創価の一族が存在している現在では

創価を抜きにしては皇室問題を語れない。

創価は総体革命をする、と宣言している。

それを言い換えれば日本を乗っ取ると言うこと。当然皇室も入る。

創価の金融界での総体革命は恐ろしいほど進んだ。

創価が皇室に入れば大作の片腕だった教学部長・創価を命がけで守っていた

優秀な弁護士その他数々の人々が亡き者にされたように

皇室はおろか皇族方も亡き者にされるのはやり方の歴史が証明している。

拙速に「女系容認・直系長子優先」案を提出しようとしている有識者会議が発足したのは、公明党が与党に入ってから。

韓国ブームは在日が作った。あれだけ大規模なブームを作れるくらい、もう日本の中で在日の力は強い。

自分達を地獄に導いているとも知らずに毎日毎日テレビで韓国をヨイショしてくれる日本人。

韓国ブームのお陰で在日や韓国人へのマイナスイメージがプラスイメージになった。

そして日本人が韓国人や在日と結婚する数も圧倒的に多くなった。

もうあと30年で日本は完全に在日主体の社会になる。

たった100万人に満たない在日に使われる1億人の日本人。

皇太子まで 洗脳されている。雅子妃を応援しているのは、創価の女性達。

今、皇太子一家と小和田家は、創価と繋がりが出来てしまっている。

皇室典範改正を急ぐのは、公明党の力が働いている。

テレビや新聞より多くのネットの情報が正しく、

「なぜ?」と言う疑問が解ける理由に、創価学会などの朝鮮人が絡んでいる。

雅子妃は、創価学会員と同様な扱いをされている。

天皇、皇后、紀宮、秋篠宮の方が正当なことを言っているのにマスコミにたたかれる。

日教組に洗脳教育された左翼国民は救いようがない。

怖いのは愛子の婿が創価になること。 着々と外堀埋めは進行している。

連合国の思惑通りに事が進んでいる。

女系天皇の誕生は皇統の消滅と天皇家の解体を意味する。

戦後六十年、米と中共の悲願が遂に達成される。

敗戦後天皇家本家を守る為に臣籍に下った旧皇族は絶対に容認できないだろう。

あの決断の結末がどこぞの馬の骨による皇統の乗っ取り。

有識者会議のメンバーを見る限りでは有識者は誰もいない。

結論ありき。道鏡、足利義満以来の皇統危機。

創価学会が皇室解体を悲願としている。

そのためあえて知的に問題があるとも言われている愛子女帝を推進している。

とりあえず今は優秀伝説を垂れ流ししている。

秋篠宮殿下、その親王殿下というれっきとした男系男子がいるのに愛子様を…というのは不自然きわまる。

解体ではなく乗っ取り。確かにそのほうが話が早い。

創価学会(池田大作教)が 皇室をつぶしたい理由

『神道は日蓮の敵であるから邪教徒である象徴はなくさなければならない』

皇太子夫妻だけを持ち上げるのは創価とワールドメイト。

池田大作は帰化人。半田晴久は在日。

参考7

拾い物

創価と「日本語対応手話」

■自分達こそ正しいと主張する為に、

他の方法を選ぶ人たちを貶める事が一時横行し、ろう教育界が荒れたこともありました。

昨年2月秋篠宮両殿下が市川の聾学校をご視察下さったのは大変にありがたいことでした。

マスコミまで上手く誘導し、子供達の人格を否定していると非難されていた学校です。

両殿下が来てくださったことで、

手話も含めて真に教育の選択の自由があることが確認されたという思いがあります。

紀子妃殿下は、ろうあ連盟、聾教育関係者からのご進講も熱心に受けていらっしゃるそうなので

ある程度は、そういった事実もご存知であろうかと思います。

■国際ろう者会議(1991年)に秋篠宮両殿下がお見えになっていて、

紀子様が手話で挨拶や歓談されていたがとても優雅で優しかった。

優雅で柔らかだったので会場中がうっとりしていた。

「手話の普及や通訳士の育成に励んでおります」と挨拶すると笑顔で

「大変素晴らしいことです。お体にお気をつけて頑張って下さい」と手を差し出して下さった。

「こんな下の層に居る、障害者にあんな無私にお優しくして下さる方をお見初めになるなんて、

秋篠宮様は何と素晴らしい!

田舎のおじいちゃん、おばあちゃんに話したら、途端に仏壇で拝み始め、

「昭和天皇陛下がお認めになった、やはり将来お国を御守りして下さるに相応しいお方だ」と

涙を流して昭和帝の写真を拝んでいた。

■しかし、その前後から某・宗教団体に属する人が各地の手話サークルに急に入り始めた。

「あなた達のその間違った文法で話している手話を口語と同じく正しい文法に直します」

「前世での罰であなたは耳が聞こえないんですから、私がお力になります」という調子で

サークル内の雰囲気を乱したため、活動停止もしくは分裂状態に追い込まれたサークルが多かった。

「なぜ急にあんな宗教団体が関わってくるんだ?」と最初のころはその理由が分からなかったが

最近ようやく判ってきた。創価の人は

「秋篠宮紀子妃に手話を教えている人が、彼女の手話はいつまでもへたくそなのよって言っているわ」

といいふらしている。

■紀子様のは日本手話・ASL(主にアメリカなどの英語手話)がお出来になる。

手話を習い・話す上で難しい空間の表現や擬人法的な表現などがとてもお上手。

単語や言い回しは覚えられる。でも首の傾け方や表情はその人のセンス。

きちんとしたろうあ者の言語感覚や文化を知らないと出来ない。

また、口話で話しながら手話でも同じ内容を話すのは高度でなかなか通訳でもそう簡単に出来ない。

最初の頃は公務慣れしてなかったせいか、緊張でドギマギされていることはありましたが、

歓談中などはとても流暢な手話で「あなたはホントに耳が聞こえるの?」と訊かれることも。

■創価が『地位向上と手話の普及を目指して日本語対応手話を普及しましょう!』なんて急に言い出して

…手話サークル・通訳同士でギスギスした空気が…メチャクチャになった。

紀子様が御臨席になる福祉関係の行事にやたらと来たがっていたのでよくよく聞いてみると創価の影

その団体の大規模な施設や学校がある地域なのでとにかくそのような人が多くて参った。

一部の急進的なろう者]とそれに同調する聴者(全国ろう児を持つ親の会など)は、

日本語対応手話は独自の文法を持っていないので手話とはいえず、

これに対し手話という文字列を使うべきではないと主張し、

1990年代から2000年代前半にかけては「手指日本語」、「シムコム」という語を用いていた。

だが、このような排他的な主張については批判的な意見が多数であったことから、

最近では「手指日本語」、「シムコム」という用語の使用は少なく、

「(日本語)対応手話」との呼び方がほぼ定着した。

■日本語対応手話で検索するとでてくる創価がらみのブログ

やっぱり信心が足りないから声が出ない、と言っている。

手話も結局、勤行と折伏の手段でしかないのだろう。内部でも障害者を差別する宗教団体。

参考8

週刊現代1993年1月23日号

実はこの高3−大学1年の期間、雅子さんは小社がアメリカで編集制作していた

【エンサイクロペディア オブ ジャパン】(英語版日本百科事典)の編集を手伝っていた。

同事典の編集責任者、板坂元 創価女子短大教授(副学長)が、当時の雅子さんを回想してこう語る。

「彼女にお願いした仕事は、著者から送られてきた英文原稿が事実関係と合っているかどうかを調べるデータチェック。

非常におとなしい人で仕事ぶりはまじめでした。スタッフの中では最年少だったというせいもあるのでしょうが、

毎月行っていたオフィスパーティでも、目立った印象はありませんでしたね」

■板坂元(いたさか・げん):1922年〜2004年没。中国南京市生まれ。

東京大学大学院文学研究科修士課程修了。

武蔵高校、成城大学で教えた後、1957年、渡英。ケンブリッジ大学を経て、60年、ハーバード大学講師。

85年に帰国し、創価大学客員教授、創価女子短期大学教授。同大副学長も務めた。

日本文学、日本語を教える傍ら、長年の海外生活体験をふまえた鋭い文明批評で知られた。

参考9

ある宮内庁職員からの情報 二階堂ドットコム

なんと由々しき事態である。「雅子妃殿下の妹が、創価学会員である」という情報だ。

これは現役宮内庁職員からもたらされたものであり、一部の国会議員も確認している。

当サイトは確認はしていないが、事実であった場合

日本の国家の礎をなす天皇家に邪教が入り込む危険性があるため、確認なしでお届けした。


参考10

(2005)

世界水フォーラムは創価のイベント、皇太子は創価の広告塔

「世界水フォーラム」でPR活動

3月18日付「聖教新聞」「京都の世界水フォーラム SGI代表、創価大学生が参加」

「地球規模の水問題を解決策を討議する

『第3回世界水フォーラム』が、16日から京都を中心に開かれ、

SGIの代表、学生部員が参加。交流を広げている。

同フォーラムには、約180カ国から政府関係者、市民団体、国際機関など1万人以上が集う。

SGIを代表して、岩住副会長、本部国際室のジョーン・アンダーソン氏、

SGIニューヨーク国連連絡所の桜井浩行氏が出席。

主会場の国立京都国際会館の展示ブースで、

池田SGI会長の環境提言や地球憲章のポスターなどを紹介している。

同フォーラムに出席しているアンワルル・チョウドリ国連事務次長が16日、

SGIの展示スペースを訪れた。

同事務次長は『国連で“賢人会議”を開き、

池田会長の平和提言を学ぶ機会をつくるべきです。

会長の平和思想を、もっと世界に広く伝えなければならない』と語った」

昨夏の環境サミットでもSGIは展示を行い、池田氏のPRを行った。

公明党の党大会で小泉首相がこのSGIの展示を観覧し、

そこで見た池田氏撮影の写真を礼賛したことは既報の通り。

今回の世界水フォーラムでも、SGIは展示を行い、池田氏のPRに余念がない

こうした手法で創価学会は、自らのイメージアップを図るのである。


https://hinomoto.wiki.fc2.com/wiki/%E5%A4%96%E5%8B%99%E7%9C%81%E3%81%AB%E5%89%B5%E4%BE%A1%E5%AD%A6%E4%BC%9A%E3%81%AE%E3%80%8C%E5%87%BA%E5%85%88%E6%A9%9F%E9%96%A2%EF%BD%A3
http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/262.html#c39

[社会問題9] 語られ始めた皇太子「退位論」は説得力があるか・・が、語られるだけでも適応失調の天皇家! 墨染
190. 中川隆[-11415] koaQ7Jey 2019年3月17日 11:08:15 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[582]

外務省に創価学会の「出先機関」 2007年7月
https://hinomoto.wiki.fc2.com/wiki/%E5%A4%96%E5%8B%99%E7%9C%81%E3%81%AB%E5%89%B5%E4%BE%A1%E5%AD%A6%E4%BC%9A%E3%81%AE%E3%80%8C%E5%87%BA%E5%85%88%E6%A9%9F%E9%96%A2%EF%BD%A3

外務省に創価学会の「出先機関」

メンバー300人の「大鳳会」

温家宝首相が衆参両議長や政党代表より長く、池田大作会長と会談した事実は創価学会の対中外交への影響力を強く印象付けた。

元外務省OBの発言として「日本の国際的な地位の低下と反比例して対中国・対ロ外交における学会の存在感は高まっている。

その学会の出先機関的存在が「大鳳会」。

公明党が政権与党の中核に位置することで創価学会の政治的影響力は飛躍的に増大。


「大鳳会」の成立事情

1960年池田大作が会長に就任。

「天下を取ろう」を合言葉に1964年公明党結党


「総体革命」

学会員の優秀な指定を官界、法曹界、経済界、マスコミ界、教育界などの各分野に送り込み、

枢要な部署を学会員で占めることを画策した。その一環として外交官の輩出にも注力し、

現在インド大使を務める学会員キャリア外交官第1号榎泰邦氏を中心に「大鳳会」が結成された。

いまや会のメンバーはキャリアから在外公館の現地採用組まで含めると300人に達するとの声もある。

「妙法の外交官」の使命は創価学会や池田会長のために働くこと。

具体的には会長の外遊のための根回しや、学会・創価大学の文化交流や教育交流のサポート、情報収集などに尽力することである。

1994年ミラノの日本領事館勤務の「大鳳会」メンバーが創価学会の依頼に応えてバチカンの動向報告書を学会本部に提出

外務省官房長小和田恒が池田会長の東南アジア外遊時の便宜供与につき国会で憲法第二十条違反だと問題となった。

「いかなる宗教団体も、国から特権を受け、または政治上の権力を行使してはならない」

この後、池田大作への便宜供与は中止されたが、それまでは皇族や総理・国務大臣などと同じ最高ランクだった。

創価学会がカルト(有害セクト)だという報告書がフランスの国会に提出されている。

創価学会はこれを取り消させることを悲願としている。

2004年夏には創価学会高野議員(元外務省キャリア)がフランスに公務出張した際、

セクト対策法を制定した元国会議員に「セクト解除」を求めたという事実がある。

もし榎泰邦氏をフランス大使に登用するという異例の人事が発令されれば当然、

学会・公明党の外務省人事への容喙が疑われるだろう。

日中国交正常化後、中国留学生を最初に受け入れた大学は創価大学。

その留学生らが中国外務省の対日部門の要職を占めるようになった。

2004年に中国の潜水艦が宮古島近海で日本の領海を侵犯した際、

日本政府の抗議を突っぱねた中国大使館の程公使は 創価大学留学第一期生。

「大鳳会のメンバーが彼らのカウンターパートとして登用される可能性は否定できない。

創価大学はモスクワ大学の留学生も多数受け入れており、

対ロシア外交においても同じことが起こる可能性がある

日本のメディアは(大手メディア限定ではあるが)ほぼ全て朝鮮の政治的影響を明確に受けている。

日本の場合、全国ネットのテレビ局や全国紙新聞にはかなり昔から

『菊と鶴のタブー』という2大タブーがある。

菊は“皇室”のことで、鶴は“創価学会”のことである。」

参考1


小和田恒氏は創価学会と関係が深い。

http:// kokkai.ndl.go.jp/SENTAKU/sangiin/134/1177/13411271177003c.html


「第134回国会 宗教法人等に関する特別委員会 第3号平成七年十一月二十七日(月曜日)」

○関根則之君 私は、きょうは宗教団体と政治のかかわり、

宗教と政治の関係はどうあらねばならないかという問題につきまして

重点を置いて質問をしたいと思っているんですよ。

(略)

それから、ちょっと外務大臣にお尋ねいたしますけれども、

実は一九八八年の一月六日付で、八八年ですから昭和六十二年ですか、

創価学会の事務総長原田稔さん、この方から当時の外務省官房長の小和田恒さんあてに、

「本年一月末より二月中旬にかけて、創価学会インタナショナル一SGI)

会長・池田大作(創価学会名誉会長)一行が教育・文化交流のため、

香港並びにアセアン三ケ国(タイ・マレーシア・シンガポール)を約二週間にわたり、

下記の日程で訪問する予定です。何卒宜しくお願い申しあげます。」ということで、

メンバーは、池田大作創価学会インタナショナル会長・創価学会名誉会長、

池田かね同夫人、池田博正同子息、創価学会副青年部長。

これは、何か奥さんと家族ぐるみで訪問をするから、外務省の官房長によろしく頼むと

言っているんですね。これに対してどう対応なさったか。まだいるんですよ、ほかにも。

原田さんという方、鈴木さん、長谷川さん、高沢さん。全部で七人。

一行七人が、一月二十七日、秋谷栄之助SGI理事長も同行しますと、

こう書いてございますから総勢八人になったんですか、そういうことでスケジュールは

一月二十八日、大阪から香港へ行きましてずっと回りまして、

成田着が二月十四日ということですから二週間以上に及ぶ旅行だと思いますけれども、

これに対して、通常の言葉でいわば便宜供与の依頼だと思うんですけれども、

どんな便宜をお与えになったのか、ちょっとその対応ぶりについてお教えをいただきたいと思います。

参考2

外務省腐敗の陰に「大鳳会」!?

学会員官僚増大で腐敗も増長

創価学会・公明党のクレージーで腐った体質が、

この国の権力機構や政治を蝕んでいることを象徴するような出来事が、最近、引き続いて起こっている。

外務省の腐敗と乱脈ぶりは、ただただ呆れるばかりだが、

その外務省には、池田大作の直弟子ともいうべき大鳳会≠フメンバーが

意欲的に送り込まれているのだ。役所の中で、

最も学会員(それも、最も濃く池田大作の薫陶を受けた会員)の占める比率が高いのが外務省である。

参考3

小和田と創価

山田:池田が昭和63年1月に東南アジア4カ国へ外遊する時、

それに先立って、現地の税関当局などに便宜を図って貰うため、

当時、外務省の小和田恒官房長に強引に頼んでいる。

聖教新聞は毎日新聞より多い550万部を発行しており、

その印刷は読売新聞の印刷工場や毎日新聞の子会社であるに委託させて刷っている。

だから"ドル箱"ということもあって学会・公明批判が全く行えない。

(※福田康夫と斎藤明(毎日新聞社長)の夫人は姉妹)

山田:かつて米CBSテレビが製作した学会批判の番組を、

提携先中のNHK衛星で放映しようとしたところ、

"横槍"が入って中止してしまったことがあった。

公明党議員がNHKの予算に注文をつけると脅したらしい。

またフジテレビの「報道2001」のあるプロデューサーは熱心な学会員で、

番組編成のスタンスは、常に学会寄りの制作ということで、局内ではよく知られており、

このようなマスコミ関係の要所々々には確りと、学会員が入り込んでいます。


週刊新潮1996.5.16

創価学会が小和田恒氏に送った「外遊特別待遇」要請書

http:// www.yuko2ch.net/mako/makok/src/1228313680069.jpg

参考4

人格否定発言直後に出た週刊ポストの記事

週刊ポスト「宮内庁対外務省」

外務省は長年皇室を政治利用してきた。

94年の天皇皇后の訪米では、真珠湾に献花させようとして大反発をくらった。

92年の訪中も、外務省と官邸が無理やり天皇皇后を中国へ行かせたが

戦争責任問題もあり国内で大論争が起きた。

以上のように皇室を政治利用する外務省に宮内庁側は、ご立腹であった。

「皇族を政治利用するとは何だと思っているんだ。皇室への侮辱だ。」

その反動から鎌倉節長官から皇族の外国訪問をセーブしだす。

天皇皇后も二年間外国へ行っていない。皇太子夫妻は八年間。

ベルギー訪問も、鎌倉氏は反対した。そしてあんの上流産の結果が出る。

ある政治家の話「将来は、外務省主導で皇室外交」

雅子妃の今後「外国で静養の可能性も充分にある。」

参考5

脱退者

創価は天皇と神道を敵として見ている。

創価学会の本尊は、ど真ん中にでっかく「南無妙法蓮華経」とあり、

いちばん 下に「天照大神」と、小さく書かれている。

創価学会の教義では、法華経 (日蓮宗でなく創価学会による独自の解釈)によって

成仏した仏や成仏途中の神々は、法華経を受持しこれを広宣流布(布教)する

創価学会の従者となって守護 せねばならない。

成仏途中の神々とは、皇祖神・天照大神をはじめ、

我が国の神道における八百万の神々も、その例外ではなく、

したがって、皇祖神の子孫である天皇も、創価学会の家来であるという。

ちなみに、他者を改宗させ、教団に入信させることを「折伏」(しゃくぶく)と

称するが、大東亜戦争のころ、黎明期の創価学会では、畏れおおくも、

昭和天皇を「折り伏せる」ことを祈念していた。

このことは、 当時の創価学会において、教徒に配布された

「勤行要典」に明記されている。

当然、政府にとっては、暴力革命を党是とする共産党と同様に、監視の対象。

子供たちに「愛国心」教育を施して、やがて国民に国家統合の象徴として天皇を

「敬愛」する心が芽生えてくるとしたら、

それは、創価イズムにおける上下の序列を ひっくり返すことを意味する、

教義と対立する教育施策にほかならず、そうした理由から、

(天皇を象徴とする)「統治機構を愛する〜」などと言い出す。

所謂、左翼が標榜する「階級闘争」とは全く異なるイデオロギーを背景としている。

創価学会の教徒でない公明党員などいない。

創価学会では、 公明党の選挙に尽力すれば「功徳」があると指導されている。

参考6

日本が半ば在日に乗っ取られているのは間違いない。

犯罪界、宗教界、政界、芸能界と 至るところ在日が主導権を握っている。

政治家の秘書として統一教会信者が百人以上も入り込み、

さらに朝鮮総連からも賄賂がいっているので、

政治家がこの問題で動くこともないだろう。

「在日は差別されている可哀想な少数民族だ」なんてとんでもない。

これは連中が広めた最大の嘘。

日本最大の産業は年間30兆円を売り上げるパチンコ産業だが、

その8割を在日が握っている。連中は税金もほとんど払っていない。

おそらく、国民のたった0・5%に過ぎない在日韓国朝鮮人たちが

年間で手にする金は、表も裏(笑)も含めて40兆円に達する。

在日は疑いもなく「世界一リッチなマイノリティー」というのが真実。

そして有り余った金を政界にばら撒いている。

だから不正融資で潰れかけた朝鮮銀行に国民の税金1兆円を平気でつぎ込んでしまう。

彼らは韓国や北朝鮮に対して土下座外交するしかない。

日本の政治家が訳が解らない取引をしているのは創価を母体とする公明党が

与党に成り上がるまでに力をつけた事にある。

宮内庁次長等に創価の一族が存在している現在では

創価を抜きにしては皇室問題を語れない。

創価は総体革命をする、と宣言している。

それを言い換えれば日本を乗っ取ると言うこと。当然皇室も入る。

創価の金融界での総体革命は恐ろしいほど進んだ。

創価が皇室に入れば大作の片腕だった教学部長・創価を命がけで守っていた

優秀な弁護士その他数々の人々が亡き者にされたように

皇室はおろか皇族方も亡き者にされるのはやり方の歴史が証明している。

拙速に「女系容認・直系長子優先」案を提出しようとしている有識者会議が発足したのは、公明党が与党に入ってから。

韓国ブームは在日が作った。あれだけ大規模なブームを作れるくらい、もう日本の中で在日の力は強い。

自分達を地獄に導いているとも知らずに毎日毎日テレビで韓国をヨイショしてくれる日本人。

韓国ブームのお陰で在日や韓国人へのマイナスイメージがプラスイメージになった。

そして日本人が韓国人や在日と結婚する数も圧倒的に多くなった。

もうあと30年で日本は完全に在日主体の社会になる。

たった100万人に満たない在日に使われる1億人の日本人。

皇太子まで 洗脳されている。雅子妃を応援しているのは、創価の女性達。

今、皇太子一家と小和田家は、創価と繋がりが出来てしまっている。

皇室典範改正を急ぐのは、公明党の力が働いている。

テレビや新聞より多くのネットの情報が正しく、

「なぜ?」と言う疑問が解ける理由に、創価学会などの朝鮮人が絡んでいる。

雅子妃は、創価学会員と同様な扱いをされている。

天皇、皇后、紀宮、秋篠宮の方が正当なことを言っているのにマスコミにたたかれる。

日教組に洗脳教育された左翼国民は救いようがない。

怖いのは愛子の婿が創価になること。 着々と外堀埋めは進行している。

連合国の思惑通りに事が進んでいる。

女系天皇の誕生は皇統の消滅と天皇家の解体を意味する。

戦後六十年、米と中共の悲願が遂に達成される。

敗戦後天皇家本家を守る為に臣籍に下った旧皇族は絶対に容認できないだろう。

あの決断の結末がどこぞの馬の骨による皇統の乗っ取り。

有識者会議のメンバーを見る限りでは有識者は誰もいない。

結論ありき。道鏡、足利義満以来の皇統危機。

創価学会が皇室解体を悲願としている。

そのためあえて知的に問題があるとも言われている愛子女帝を推進している。

とりあえず今は優秀伝説を垂れ流ししている。

秋篠宮殿下、その親王殿下というれっきとした男系男子がいるのに愛子様を…というのは不自然きわまる。

解体ではなく乗っ取り。確かにそのほうが話が早い。

創価学会(池田大作教)が 皇室をつぶしたい理由

『神道は日蓮の敵であるから邪教徒である象徴はなくさなければならない』

皇太子夫妻だけを持ち上げるのは創価とワールドメイト。

池田大作は帰化人。半田晴久は在日。

参考7

拾い物

創価と「日本語対応手話」

■自分達こそ正しいと主張する為に、

他の方法を選ぶ人たちを貶める事が一時横行し、ろう教育界が荒れたこともありました。

昨年2月秋篠宮両殿下が市川の聾学校をご視察下さったのは大変にありがたいことでした。

マスコミまで上手く誘導し、子供達の人格を否定していると非難されていた学校です。

両殿下が来てくださったことで、

手話も含めて真に教育の選択の自由があることが確認されたという思いがあります。

紀子妃殿下は、ろうあ連盟、聾教育関係者からのご進講も熱心に受けていらっしゃるそうなので

ある程度は、そういった事実もご存知であろうかと思います。

■国際ろう者会議(1991年)に秋篠宮両殿下がお見えになっていて、

紀子様が手話で挨拶や歓談されていたがとても優雅で優しかった。

優雅で柔らかだったので会場中がうっとりしていた。

「手話の普及や通訳士の育成に励んでおります」と挨拶すると笑顔で

「大変素晴らしいことです。お体にお気をつけて頑張って下さい」と手を差し出して下さった。

「こんな下の層に居る、障害者にあんな無私にお優しくして下さる方をお見初めになるなんて、

秋篠宮様は何と素晴らしい!

田舎のおじいちゃん、おばあちゃんに話したら、途端に仏壇で拝み始め、

「昭和天皇陛下がお認めになった、やはり将来お国を御守りして下さるに相応しいお方だ」と

涙を流して昭和帝の写真を拝んでいた。

■しかし、その前後から某・宗教団体に属する人が各地の手話サークルに急に入り始めた。

「あなた達のその間違った文法で話している手話を口語と同じく正しい文法に直します」

「前世での罰であなたは耳が聞こえないんですから、私がお力になります」という調子で

サークル内の雰囲気を乱したため、活動停止もしくは分裂状態に追い込まれたサークルが多かった。

「なぜ急にあんな宗教団体が関わってくるんだ?」と最初のころはその理由が分からなかったが

最近ようやく判ってきた。創価の人は

「秋篠宮紀子妃に手話を教えている人が、彼女の手話はいつまでもへたくそなのよって言っているわ」

といいふらしている。

■紀子様のは日本手話・ASL(主にアメリカなどの英語手話)がお出来になる。

手話を習い・話す上で難しい空間の表現や擬人法的な表現などがとてもお上手。

単語や言い回しは覚えられる。でも首の傾け方や表情はその人のセンス。

きちんとしたろうあ者の言語感覚や文化を知らないと出来ない。

また、口話で話しながら手話でも同じ内容を話すのは高度でなかなか通訳でもそう簡単に出来ない。

最初の頃は公務慣れしてなかったせいか、緊張でドギマギされていることはありましたが、

歓談中などはとても流暢な手話で「あなたはホントに耳が聞こえるの?」と訊かれることも。

■創価が『地位向上と手話の普及を目指して日本語対応手話を普及しましょう!』なんて急に言い出して

…手話サークル・通訳同士でギスギスした空気が…メチャクチャになった。

紀子様が御臨席になる福祉関係の行事にやたらと来たがっていたのでよくよく聞いてみると創価の影

その団体の大規模な施設や学校がある地域なのでとにかくそのような人が多くて参った。

一部の急進的なろう者]とそれに同調する聴者(全国ろう児を持つ親の会など)は、

日本語対応手話は独自の文法を持っていないので手話とはいえず、

これに対し手話という文字列を使うべきではないと主張し、

1990年代から2000年代前半にかけては「手指日本語」、「シムコム」という語を用いていた。

だが、このような排他的な主張については批判的な意見が多数であったことから、

最近では「手指日本語」、「シムコム」という用語の使用は少なく、

「(日本語)対応手話」との呼び方がほぼ定着した。

■日本語対応手話で検索するとでてくる創価がらみのブログ

やっぱり信心が足りないから声が出ない、と言っている。

手話も結局、勤行と折伏の手段でしかないのだろう。内部でも障害者を差別する宗教団体。

参考8

週刊現代1993年1月23日号

実はこの高3−大学1年の期間、雅子さんは小社がアメリカで編集制作していた

【エンサイクロペディア オブ ジャパン】(英語版日本百科事典)の編集を手伝っていた。

同事典の編集責任者、板坂元 創価女子短大教授(副学長)が、当時の雅子さんを回想してこう語る。

「彼女にお願いした仕事は、著者から送られてきた英文原稿が事実関係と合っているかどうかを調べるデータチェック。

非常におとなしい人で仕事ぶりはまじめでした。スタッフの中では最年少だったというせいもあるのでしょうが、

毎月行っていたオフィスパーティでも、目立った印象はありませんでしたね」

■板坂元(いたさか・げん):1922年〜2004年没。中国南京市生まれ。

東京大学大学院文学研究科修士課程修了。

武蔵高校、成城大学で教えた後、1957年、渡英。ケンブリッジ大学を経て、60年、ハーバード大学講師。

85年に帰国し、創価大学客員教授、創価女子短期大学教授。同大副学長も務めた。

日本文学、日本語を教える傍ら、長年の海外生活体験をふまえた鋭い文明批評で知られた。

参考9

ある宮内庁職員からの情報 二階堂ドットコム

なんと由々しき事態である。「雅子妃殿下の妹が、創価学会員である」という情報だ。

これは現役宮内庁職員からもたらされたものであり、一部の国会議員も確認している。

当サイトは確認はしていないが、事実であった場合

日本の国家の礎をなす天皇家に邪教が入り込む危険性があるため、確認なしでお届けした。


参考10

(2005)

世界水フォーラムは創価のイベント、皇太子は創価の広告塔

「世界水フォーラム」でPR活動

3月18日付「聖教新聞」「京都の世界水フォーラム SGI代表、創価大学生が参加」

「地球規模の水問題を解決策を討議する

『第3回世界水フォーラム』が、16日から京都を中心に開かれ、

SGIの代表、学生部員が参加。交流を広げている。

同フォーラムには、約180カ国から政府関係者、市民団体、国際機関など1万人以上が集う。

SGIを代表して、岩住副会長、本部国際室のジョーン・アンダーソン氏、

SGIニューヨーク国連連絡所の桜井浩行氏が出席。

主会場の国立京都国際会館の展示ブースで、

池田SGI会長の環境提言や地球憲章のポスターなどを紹介している。

同フォーラムに出席しているアンワルル・チョウドリ国連事務次長が16日、

SGIの展示スペースを訪れた。

同事務次長は『国連で“賢人会議”を開き、

池田会長の平和提言を学ぶ機会をつくるべきです。

会長の平和思想を、もっと世界に広く伝えなければならない』と語った」

昨夏の環境サミットでもSGIは展示を行い、池田氏のPRを行った。

公明党の党大会で小泉首相がこのSGIの展示を観覧し、

そこで見た池田氏撮影の写真を礼賛したことは既報の通り。

今回の世界水フォーラムでも、SGIは展示を行い、池田氏のPRに余念がない

こうした手法で創価学会は、自らのイメージアップを図るのである。


https://hinomoto.wiki.fc2.com/wiki/%E5%A4%96%E5%8B%99%E7%9C%81%E3%81%AB%E5%89%B5%E4%BE%A1%E5%AD%A6%E4%BC%9A%E3%81%AE%E3%80%8C%E5%87%BA%E5%85%88%E6%A9%9F%E9%96%A2%EF%BD%A3
http://www.asyura2.com/12/social9/msg/352.html#c190

[昼休み53] 被差別部落出身の有名人は? 中川隆
69. 中川隆[-11414] koaQ7Jey 2019年3月17日 11:08:36 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[583]

外務省に創価学会の「出先機関」 2007年7月
https://hinomoto.wiki.fc2.com/wiki/%E5%A4%96%E5%8B%99%E7%9C%81%E3%81%AB%E5%89%B5%E4%BE%A1%E5%AD%A6%E4%BC%9A%E3%81%AE%E3%80%8C%E5%87%BA%E5%85%88%E6%A9%9F%E9%96%A2%EF%BD%A3

外務省に創価学会の「出先機関」

メンバー300人の「大鳳会」

温家宝首相が衆参両議長や政党代表より長く、池田大作会長と会談した事実は創価学会の対中外交への影響力を強く印象付けた。

元外務省OBの発言として「日本の国際的な地位の低下と反比例して対中国・対ロ外交における学会の存在感は高まっている。

その学会の出先機関的存在が「大鳳会」。

公明党が政権与党の中核に位置することで創価学会の政治的影響力は飛躍的に増大。


「大鳳会」の成立事情

1960年池田大作が会長に就任。

「天下を取ろう」を合言葉に1964年公明党結党


「総体革命」

学会員の優秀な指定を官界、法曹界、経済界、マスコミ界、教育界などの各分野に送り込み、

枢要な部署を学会員で占めることを画策した。その一環として外交官の輩出にも注力し、

現在インド大使を務める学会員キャリア外交官第1号榎泰邦氏を中心に「大鳳会」が結成された。

いまや会のメンバーはキャリアから在外公館の現地採用組まで含めると300人に達するとの声もある。

「妙法の外交官」の使命は創価学会や池田会長のために働くこと。

具体的には会長の外遊のための根回しや、学会・創価大学の文化交流や教育交流のサポート、情報収集などに尽力することである。

1994年ミラノの日本領事館勤務の「大鳳会」メンバーが創価学会の依頼に応えてバチカンの動向報告書を学会本部に提出

外務省官房長小和田恒が池田会長の東南アジア外遊時の便宜供与につき国会で憲法第二十条違反だと問題となった。

「いかなる宗教団体も、国から特権を受け、または政治上の権力を行使してはならない」

この後、池田大作への便宜供与は中止されたが、それまでは皇族や総理・国務大臣などと同じ最高ランクだった。

創価学会がカルト(有害セクト)だという報告書がフランスの国会に提出されている。

創価学会はこれを取り消させることを悲願としている。

2004年夏には創価学会高野議員(元外務省キャリア)がフランスに公務出張した際、

セクト対策法を制定した元国会議員に「セクト解除」を求めたという事実がある。

もし榎泰邦氏をフランス大使に登用するという異例の人事が発令されれば当然、

学会・公明党の外務省人事への容喙が疑われるだろう。

日中国交正常化後、中国留学生を最初に受け入れた大学は創価大学。

その留学生らが中国外務省の対日部門の要職を占めるようになった。

2004年に中国の潜水艦が宮古島近海で日本の領海を侵犯した際、

日本政府の抗議を突っぱねた中国大使館の程公使は 創価大学留学第一期生。

「大鳳会のメンバーが彼らのカウンターパートとして登用される可能性は否定できない。

創価大学はモスクワ大学の留学生も多数受け入れており、

対ロシア外交においても同じことが起こる可能性がある

日本のメディアは(大手メディア限定ではあるが)ほぼ全て朝鮮の政治的影響を明確に受けている。

日本の場合、全国ネットのテレビ局や全国紙新聞にはかなり昔から

『菊と鶴のタブー』という2大タブーがある。

菊は“皇室”のことで、鶴は“創価学会”のことである。」

参考1


小和田恒氏は創価学会と関係が深い。

http:// kokkai.ndl.go.jp/SENTAKU/sangiin/134/1177/13411271177003c.html


「第134回国会 宗教法人等に関する特別委員会 第3号平成七年十一月二十七日(月曜日)」

○関根則之君 私は、きょうは宗教団体と政治のかかわり、

宗教と政治の関係はどうあらねばならないかという問題につきまして

重点を置いて質問をしたいと思っているんですよ。

(略)

それから、ちょっと外務大臣にお尋ねいたしますけれども、

実は一九八八年の一月六日付で、八八年ですから昭和六十二年ですか、

創価学会の事務総長原田稔さん、この方から当時の外務省官房長の小和田恒さんあてに、

「本年一月末より二月中旬にかけて、創価学会インタナショナル一SGI)

会長・池田大作(創価学会名誉会長)一行が教育・文化交流のため、

香港並びにアセアン三ケ国(タイ・マレーシア・シンガポール)を約二週間にわたり、

下記の日程で訪問する予定です。何卒宜しくお願い申しあげます。」ということで、

メンバーは、池田大作創価学会インタナショナル会長・創価学会名誉会長、

池田かね同夫人、池田博正同子息、創価学会副青年部長。

これは、何か奥さんと家族ぐるみで訪問をするから、外務省の官房長によろしく頼むと

言っているんですね。これに対してどう対応なさったか。まだいるんですよ、ほかにも。

原田さんという方、鈴木さん、長谷川さん、高沢さん。全部で七人。

一行七人が、一月二十七日、秋谷栄之助SGI理事長も同行しますと、

こう書いてございますから総勢八人になったんですか、そういうことでスケジュールは

一月二十八日、大阪から香港へ行きましてずっと回りまして、

成田着が二月十四日ということですから二週間以上に及ぶ旅行だと思いますけれども、

これに対して、通常の言葉でいわば便宜供与の依頼だと思うんですけれども、

どんな便宜をお与えになったのか、ちょっとその対応ぶりについてお教えをいただきたいと思います。

参考2

外務省腐敗の陰に「大鳳会」!?

学会員官僚増大で腐敗も増長

創価学会・公明党のクレージーで腐った体質が、

この国の権力機構や政治を蝕んでいることを象徴するような出来事が、最近、引き続いて起こっている。

外務省の腐敗と乱脈ぶりは、ただただ呆れるばかりだが、

その外務省には、池田大作の直弟子ともいうべき大鳳会≠フメンバーが

意欲的に送り込まれているのだ。役所の中で、

最も学会員(それも、最も濃く池田大作の薫陶を受けた会員)の占める比率が高いのが外務省である。

参考3

小和田と創価

山田:池田が昭和63年1月に東南アジア4カ国へ外遊する時、

それに先立って、現地の税関当局などに便宜を図って貰うため、

当時、外務省の小和田恒官房長に強引に頼んでいる。

聖教新聞は毎日新聞より多い550万部を発行しており、

その印刷は読売新聞の印刷工場や毎日新聞の子会社であるに委託させて刷っている。

だから"ドル箱"ということもあって学会・公明批判が全く行えない。

(※福田康夫と斎藤明(毎日新聞社長)の夫人は姉妹)

山田:かつて米CBSテレビが製作した学会批判の番組を、

提携先中のNHK衛星で放映しようとしたところ、

"横槍"が入って中止してしまったことがあった。

公明党議員がNHKの予算に注文をつけると脅したらしい。

またフジテレビの「報道2001」のあるプロデューサーは熱心な学会員で、

番組編成のスタンスは、常に学会寄りの制作ということで、局内ではよく知られており、

このようなマスコミ関係の要所々々には確りと、学会員が入り込んでいます。


週刊新潮1996.5.16

創価学会が小和田恒氏に送った「外遊特別待遇」要請書

http:// www.yuko2ch.net/mako/makok/src/1228313680069.jpg

参考4

人格否定発言直後に出た週刊ポストの記事

週刊ポスト「宮内庁対外務省」

外務省は長年皇室を政治利用してきた。

94年の天皇皇后の訪米では、真珠湾に献花させようとして大反発をくらった。

92年の訪中も、外務省と官邸が無理やり天皇皇后を中国へ行かせたが

戦争責任問題もあり国内で大論争が起きた。

以上のように皇室を政治利用する外務省に宮内庁側は、ご立腹であった。

「皇族を政治利用するとは何だと思っているんだ。皇室への侮辱だ。」

その反動から鎌倉節長官から皇族の外国訪問をセーブしだす。

天皇皇后も二年間外国へ行っていない。皇太子夫妻は八年間。

ベルギー訪問も、鎌倉氏は反対した。そしてあんの上流産の結果が出る。

ある政治家の話「将来は、外務省主導で皇室外交」

雅子妃の今後「外国で静養の可能性も充分にある。」

参考5

脱退者

創価は天皇と神道を敵として見ている。

創価学会の本尊は、ど真ん中にでっかく「南無妙法蓮華経」とあり、

いちばん 下に「天照大神」と、小さく書かれている。

創価学会の教義では、法華経 (日蓮宗でなく創価学会による独自の解釈)によって

成仏した仏や成仏途中の神々は、法華経を受持しこれを広宣流布(布教)する

創価学会の従者となって守護 せねばならない。

成仏途中の神々とは、皇祖神・天照大神をはじめ、

我が国の神道における八百万の神々も、その例外ではなく、

したがって、皇祖神の子孫である天皇も、創価学会の家来であるという。

ちなみに、他者を改宗させ、教団に入信させることを「折伏」(しゃくぶく)と

称するが、大東亜戦争のころ、黎明期の創価学会では、畏れおおくも、

昭和天皇を「折り伏せる」ことを祈念していた。

このことは、 当時の創価学会において、教徒に配布された

「勤行要典」に明記されている。

当然、政府にとっては、暴力革命を党是とする共産党と同様に、監視の対象。

子供たちに「愛国心」教育を施して、やがて国民に国家統合の象徴として天皇を

「敬愛」する心が芽生えてくるとしたら、

それは、創価イズムにおける上下の序列を ひっくり返すことを意味する、

教義と対立する教育施策にほかならず、そうした理由から、

(天皇を象徴とする)「統治機構を愛する〜」などと言い出す。

所謂、左翼が標榜する「階級闘争」とは全く異なるイデオロギーを背景としている。

創価学会の教徒でない公明党員などいない。

創価学会では、 公明党の選挙に尽力すれば「功徳」があると指導されている。

参考6

日本が半ば在日に乗っ取られているのは間違いない。

犯罪界、宗教界、政界、芸能界と 至るところ在日が主導権を握っている。

政治家の秘書として統一教会信者が百人以上も入り込み、

さらに朝鮮総連からも賄賂がいっているので、

政治家がこの問題で動くこともないだろう。

「在日は差別されている可哀想な少数民族だ」なんてとんでもない。

これは連中が広めた最大の嘘。

日本最大の産業は年間30兆円を売り上げるパチンコ産業だが、

その8割を在日が握っている。連中は税金もほとんど払っていない。

おそらく、国民のたった0・5%に過ぎない在日韓国朝鮮人たちが

年間で手にする金は、表も裏(笑)も含めて40兆円に達する。

在日は疑いもなく「世界一リッチなマイノリティー」というのが真実。

そして有り余った金を政界にばら撒いている。

だから不正融資で潰れかけた朝鮮銀行に国民の税金1兆円を平気でつぎ込んでしまう。

彼らは韓国や北朝鮮に対して土下座外交するしかない。

日本の政治家が訳が解らない取引をしているのは創価を母体とする公明党が

与党に成り上がるまでに力をつけた事にある。

宮内庁次長等に創価の一族が存在している現在では

創価を抜きにしては皇室問題を語れない。

創価は総体革命をする、と宣言している。

それを言い換えれば日本を乗っ取ると言うこと。当然皇室も入る。

創価の金融界での総体革命は恐ろしいほど進んだ。

創価が皇室に入れば大作の片腕だった教学部長・創価を命がけで守っていた

優秀な弁護士その他数々の人々が亡き者にされたように

皇室はおろか皇族方も亡き者にされるのはやり方の歴史が証明している。

拙速に「女系容認・直系長子優先」案を提出しようとしている有識者会議が発足したのは、公明党が与党に入ってから。

韓国ブームは在日が作った。あれだけ大規模なブームを作れるくらい、もう日本の中で在日の力は強い。

自分達を地獄に導いているとも知らずに毎日毎日テレビで韓国をヨイショしてくれる日本人。

韓国ブームのお陰で在日や韓国人へのマイナスイメージがプラスイメージになった。

そして日本人が韓国人や在日と結婚する数も圧倒的に多くなった。

もうあと30年で日本は完全に在日主体の社会になる。

たった100万人に満たない在日に使われる1億人の日本人。

皇太子まで 洗脳されている。雅子妃を応援しているのは、創価の女性達。

今、皇太子一家と小和田家は、創価と繋がりが出来てしまっている。

皇室典範改正を急ぐのは、公明党の力が働いている。

テレビや新聞より多くのネットの情報が正しく、

「なぜ?」と言う疑問が解ける理由に、創価学会などの朝鮮人が絡んでいる。

雅子妃は、創価学会員と同様な扱いをされている。

天皇、皇后、紀宮、秋篠宮の方が正当なことを言っているのにマスコミにたたかれる。

日教組に洗脳教育された左翼国民は救いようがない。

怖いのは愛子の婿が創価になること。 着々と外堀埋めは進行している。

連合国の思惑通りに事が進んでいる。

女系天皇の誕生は皇統の消滅と天皇家の解体を意味する。

戦後六十年、米と中共の悲願が遂に達成される。

敗戦後天皇家本家を守る為に臣籍に下った旧皇族は絶対に容認できないだろう。

あの決断の結末がどこぞの馬の骨による皇統の乗っ取り。

有識者会議のメンバーを見る限りでは有識者は誰もいない。

結論ありき。道鏡、足利義満以来の皇統危機。

創価学会が皇室解体を悲願としている。

そのためあえて知的に問題があるとも言われている愛子女帝を推進している。

とりあえず今は優秀伝説を垂れ流ししている。

秋篠宮殿下、その親王殿下というれっきとした男系男子がいるのに愛子様を…というのは不自然きわまる。

解体ではなく乗っ取り。確かにそのほうが話が早い。

創価学会(池田大作教)が 皇室をつぶしたい理由

『神道は日蓮の敵であるから邪教徒である象徴はなくさなければならない』

皇太子夫妻だけを持ち上げるのは創価とワールドメイト。

池田大作は帰化人。半田晴久は在日。

参考7

拾い物

創価と「日本語対応手話」

■自分達こそ正しいと主張する為に、

他の方法を選ぶ人たちを貶める事が一時横行し、ろう教育界が荒れたこともありました。

昨年2月秋篠宮両殿下が市川の聾学校をご視察下さったのは大変にありがたいことでした。

マスコミまで上手く誘導し、子供達の人格を否定していると非難されていた学校です。

両殿下が来てくださったことで、

手話も含めて真に教育の選択の自由があることが確認されたという思いがあります。

紀子妃殿下は、ろうあ連盟、聾教育関係者からのご進講も熱心に受けていらっしゃるそうなので

ある程度は、そういった事実もご存知であろうかと思います。

■国際ろう者会議(1991年)に秋篠宮両殿下がお見えになっていて、

紀子様が手話で挨拶や歓談されていたがとても優雅で優しかった。

優雅で柔らかだったので会場中がうっとりしていた。

「手話の普及や通訳士の育成に励んでおります」と挨拶すると笑顔で

「大変素晴らしいことです。お体にお気をつけて頑張って下さい」と手を差し出して下さった。

「こんな下の層に居る、障害者にあんな無私にお優しくして下さる方をお見初めになるなんて、

秋篠宮様は何と素晴らしい!

田舎のおじいちゃん、おばあちゃんに話したら、途端に仏壇で拝み始め、

「昭和天皇陛下がお認めになった、やはり将来お国を御守りして下さるに相応しいお方だ」と

涙を流して昭和帝の写真を拝んでいた。

■しかし、その前後から某・宗教団体に属する人が各地の手話サークルに急に入り始めた。

「あなた達のその間違った文法で話している手話を口語と同じく正しい文法に直します」

「前世での罰であなたは耳が聞こえないんですから、私がお力になります」という調子で

サークル内の雰囲気を乱したため、活動停止もしくは分裂状態に追い込まれたサークルが多かった。

「なぜ急にあんな宗教団体が関わってくるんだ?」と最初のころはその理由が分からなかったが

最近ようやく判ってきた。創価の人は

「秋篠宮紀子妃に手話を教えている人が、彼女の手話はいつまでもへたくそなのよって言っているわ」

といいふらしている。

■紀子様のは日本手話・ASL(主にアメリカなどの英語手話)がお出来になる。

手話を習い・話す上で難しい空間の表現や擬人法的な表現などがとてもお上手。

単語や言い回しは覚えられる。でも首の傾け方や表情はその人のセンス。

きちんとしたろうあ者の言語感覚や文化を知らないと出来ない。

また、口話で話しながら手話でも同じ内容を話すのは高度でなかなか通訳でもそう簡単に出来ない。

最初の頃は公務慣れしてなかったせいか、緊張でドギマギされていることはありましたが、

歓談中などはとても流暢な手話で「あなたはホントに耳が聞こえるの?」と訊かれることも。

■創価が『地位向上と手話の普及を目指して日本語対応手話を普及しましょう!』なんて急に言い出して

…手話サークル・通訳同士でギスギスした空気が…メチャクチャになった。

紀子様が御臨席になる福祉関係の行事にやたらと来たがっていたのでよくよく聞いてみると創価の影

その団体の大規模な施設や学校がある地域なのでとにかくそのような人が多くて参った。

一部の急進的なろう者]とそれに同調する聴者(全国ろう児を持つ親の会など)は、

日本語対応手話は独自の文法を持っていないので手話とはいえず、

これに対し手話という文字列を使うべきではないと主張し、

1990年代から2000年代前半にかけては「手指日本語」、「シムコム」という語を用いていた。

だが、このような排他的な主張については批判的な意見が多数であったことから、

最近では「手指日本語」、「シムコム」という用語の使用は少なく、

「(日本語)対応手話」との呼び方がほぼ定着した。

■日本語対応手話で検索するとでてくる創価がらみのブログ

やっぱり信心が足りないから声が出ない、と言っている。

手話も結局、勤行と折伏の手段でしかないのだろう。内部でも障害者を差別する宗教団体。

参考8

週刊現代1993年1月23日号

実はこの高3−大学1年の期間、雅子さんは小社がアメリカで編集制作していた

【エンサイクロペディア オブ ジャパン】(英語版日本百科事典)の編集を手伝っていた。

同事典の編集責任者、板坂元 創価女子短大教授(副学長)が、当時の雅子さんを回想してこう語る。

「彼女にお願いした仕事は、著者から送られてきた英文原稿が事実関係と合っているかどうかを調べるデータチェック。

非常におとなしい人で仕事ぶりはまじめでした。スタッフの中では最年少だったというせいもあるのでしょうが、

毎月行っていたオフィスパーティでも、目立った印象はありませんでしたね」

■板坂元(いたさか・げん):1922年〜2004年没。中国南京市生まれ。

東京大学大学院文学研究科修士課程修了。

武蔵高校、成城大学で教えた後、1957年、渡英。ケンブリッジ大学を経て、60年、ハーバード大学講師。

85年に帰国し、創価大学客員教授、創価女子短期大学教授。同大副学長も務めた。

日本文学、日本語を教える傍ら、長年の海外生活体験をふまえた鋭い文明批評で知られた。

参考9

ある宮内庁職員からの情報 二階堂ドットコム

なんと由々しき事態である。「雅子妃殿下の妹が、創価学会員である」という情報だ。

これは現役宮内庁職員からもたらされたものであり、一部の国会議員も確認している。

当サイトは確認はしていないが、事実であった場合

日本の国家の礎をなす天皇家に邪教が入り込む危険性があるため、確認なしでお届けした。


参考10

(2005)

世界水フォーラムは創価のイベント、皇太子は創価の広告塔

「世界水フォーラム」でPR活動

3月18日付「聖教新聞」「京都の世界水フォーラム SGI代表、創価大学生が参加」

「地球規模の水問題を解決策を討議する

『第3回世界水フォーラム』が、16日から京都を中心に開かれ、

SGIの代表、学生部員が参加。交流を広げている。

同フォーラムには、約180カ国から政府関係者、市民団体、国際機関など1万人以上が集う。

SGIを代表して、岩住副会長、本部国際室のジョーン・アンダーソン氏、

SGIニューヨーク国連連絡所の桜井浩行氏が出席。

主会場の国立京都国際会館の展示ブースで、

池田SGI会長の環境提言や地球憲章のポスターなどを紹介している。

同フォーラムに出席しているアンワルル・チョウドリ国連事務次長が16日、

SGIの展示スペースを訪れた。

同事務次長は『国連で“賢人会議”を開き、

池田会長の平和提言を学ぶ機会をつくるべきです。

会長の平和思想を、もっと世界に広く伝えなければならない』と語った」

昨夏の環境サミットでもSGIは展示を行い、池田氏のPRを行った。

公明党の党大会で小泉首相がこのSGIの展示を観覧し、

そこで見た池田氏撮影の写真を礼賛したことは既報の通り。

今回の世界水フォーラムでも、SGIは展示を行い、池田氏のPRに余念がない

こうした手法で創価学会は、自らのイメージアップを図るのである。


https://hinomoto.wiki.fc2.com/wiki/%E5%A4%96%E5%8B%99%E7%9C%81%E3%81%AB%E5%89%B5%E4%BE%A1%E5%AD%A6%E4%BC%9A%E3%81%AE%E3%80%8C%E5%87%BA%E5%85%88%E6%A9%9F%E9%96%A2%EF%BD%A3
http://www.asyura2.com/13/lunchbreak53/msg/431.html#c69

[近代史3] 美智子妃殿下の実家の正田家は同和部落出身なのか? 中川隆
59. 中川隆[-11413] koaQ7Jey 2019年3月17日 11:09:22 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[584]

外務省に創価学会の「出先機関」 2007年7月
https://hinomoto.wiki.fc2.com/wiki/%E5%A4%96%E5%8B%99%E7%9C%81%E3%81%AB%E5%89%B5%E4%BE%A1%E5%AD%A6%E4%BC%9A%E3%81%AE%E3%80%8C%E5%87%BA%E5%85%88%E6%A9%9F%E9%96%A2%EF%BD%A3

外務省に創価学会の「出先機関」

メンバー300人の「大鳳会」

温家宝首相が衆参両議長や政党代表より長く、池田大作会長と会談した事実は創価学会の対中外交への影響力を強く印象付けた。

元外務省OBの発言として「日本の国際的な地位の低下と反比例して対中国・対ロ外交における学会の存在感は高まっている。

その学会の出先機関的存在が「大鳳会」。

公明党が政権与党の中核に位置することで創価学会の政治的影響力は飛躍的に増大。


「大鳳会」の成立事情

1960年池田大作が会長に就任。

「天下を取ろう」を合言葉に1964年公明党結党


「総体革命」

学会員の優秀な指定を官界、法曹界、経済界、マスコミ界、教育界などの各分野に送り込み、

枢要な部署を学会員で占めることを画策した。その一環として外交官の輩出にも注力し、

現在インド大使を務める学会員キャリア外交官第1号榎泰邦氏を中心に「大鳳会」が結成された。

いまや会のメンバーはキャリアから在外公館の現地採用組まで含めると300人に達するとの声もある。

「妙法の外交官」の使命は創価学会や池田会長のために働くこと。

具体的には会長の外遊のための根回しや、学会・創価大学の文化交流や教育交流のサポート、情報収集などに尽力することである。

1994年ミラノの日本領事館勤務の「大鳳会」メンバーが創価学会の依頼に応えてバチカンの動向報告書を学会本部に提出

外務省官房長小和田恒が池田会長の東南アジア外遊時の便宜供与につき国会で憲法第二十条違反だと問題となった。

「いかなる宗教団体も、国から特権を受け、または政治上の権力を行使してはならない」

この後、池田大作への便宜供与は中止されたが、それまでは皇族や総理・国務大臣などと同じ最高ランクだった。

創価学会がカルト(有害セクト)だという報告書がフランスの国会に提出されている。

創価学会はこれを取り消させることを悲願としている。

2004年夏には創価学会高野議員(元外務省キャリア)がフランスに公務出張した際、

セクト対策法を制定した元国会議員に「セクト解除」を求めたという事実がある。

もし榎泰邦氏をフランス大使に登用するという異例の人事が発令されれば当然、

学会・公明党の外務省人事への容喙が疑われるだろう。

日中国交正常化後、中国留学生を最初に受け入れた大学は創価大学。

その留学生らが中国外務省の対日部門の要職を占めるようになった。

2004年に中国の潜水艦が宮古島近海で日本の領海を侵犯した際、

日本政府の抗議を突っぱねた中国大使館の程公使は 創価大学留学第一期生。

「大鳳会のメンバーが彼らのカウンターパートとして登用される可能性は否定できない。

創価大学はモスクワ大学の留学生も多数受け入れており、

対ロシア外交においても同じことが起こる可能性がある

日本のメディアは(大手メディア限定ではあるが)ほぼ全て朝鮮の政治的影響を明確に受けている。

日本の場合、全国ネットのテレビ局や全国紙新聞にはかなり昔から

『菊と鶴のタブー』という2大タブーがある。

菊は“皇室”のことで、鶴は“創価学会”のことである。」

参考1


小和田恒氏は創価学会と関係が深い。

http:// kokkai.ndl.go.jp/SENTAKU/sangiin/134/1177/13411271177003c.html


「第134回国会 宗教法人等に関する特別委員会 第3号平成七年十一月二十七日(月曜日)」

○関根則之君 私は、きょうは宗教団体と政治のかかわり、

宗教と政治の関係はどうあらねばならないかという問題につきまして

重点を置いて質問をしたいと思っているんですよ。

(略)

それから、ちょっと外務大臣にお尋ねいたしますけれども、

実は一九八八年の一月六日付で、八八年ですから昭和六十二年ですか、

創価学会の事務総長原田稔さん、この方から当時の外務省官房長の小和田恒さんあてに、

「本年一月末より二月中旬にかけて、創価学会インタナショナル一SGI)

会長・池田大作(創価学会名誉会長)一行が教育・文化交流のため、

香港並びにアセアン三ケ国(タイ・マレーシア・シンガポール)を約二週間にわたり、

下記の日程で訪問する予定です。何卒宜しくお願い申しあげます。」ということで、

メンバーは、池田大作創価学会インタナショナル会長・創価学会名誉会長、

池田かね同夫人、池田博正同子息、創価学会副青年部長。

これは、何か奥さんと家族ぐるみで訪問をするから、外務省の官房長によろしく頼むと

言っているんですね。これに対してどう対応なさったか。まだいるんですよ、ほかにも。

原田さんという方、鈴木さん、長谷川さん、高沢さん。全部で七人。

一行七人が、一月二十七日、秋谷栄之助SGI理事長も同行しますと、

こう書いてございますから総勢八人になったんですか、そういうことでスケジュールは

一月二十八日、大阪から香港へ行きましてずっと回りまして、

成田着が二月十四日ということですから二週間以上に及ぶ旅行だと思いますけれども、

これに対して、通常の言葉でいわば便宜供与の依頼だと思うんですけれども、

どんな便宜をお与えになったのか、ちょっとその対応ぶりについてお教えをいただきたいと思います。

参考2

外務省腐敗の陰に「大鳳会」!?

学会員官僚増大で腐敗も増長

創価学会・公明党のクレージーで腐った体質が、

この国の権力機構や政治を蝕んでいることを象徴するような出来事が、最近、引き続いて起こっている。

外務省の腐敗と乱脈ぶりは、ただただ呆れるばかりだが、

その外務省には、池田大作の直弟子ともいうべき大鳳会≠フメンバーが

意欲的に送り込まれているのだ。役所の中で、

最も学会員(それも、最も濃く池田大作の薫陶を受けた会員)の占める比率が高いのが外務省である。

参考3

小和田と創価

山田:池田が昭和63年1月に東南アジア4カ国へ外遊する時、

それに先立って、現地の税関当局などに便宜を図って貰うため、

当時、外務省の小和田恒官房長に強引に頼んでいる。

聖教新聞は毎日新聞より多い550万部を発行しており、

その印刷は読売新聞の印刷工場や毎日新聞の子会社であるに委託させて刷っている。

だから"ドル箱"ということもあって学会・公明批判が全く行えない。

(※福田康夫と斎藤明(毎日新聞社長)の夫人は姉妹)

山田:かつて米CBSテレビが製作した学会批判の番組を、

提携先中のNHK衛星で放映しようとしたところ、

"横槍"が入って中止してしまったことがあった。

公明党議員がNHKの予算に注文をつけると脅したらしい。

またフジテレビの「報道2001」のあるプロデューサーは熱心な学会員で、

番組編成のスタンスは、常に学会寄りの制作ということで、局内ではよく知られており、

このようなマスコミ関係の要所々々には確りと、学会員が入り込んでいます。


週刊新潮1996.5.16

創価学会が小和田恒氏に送った「外遊特別待遇」要請書

http:// www.yuko2ch.net/mako/makok/src/1228313680069.jpg

参考4

人格否定発言直後に出た週刊ポストの記事

週刊ポスト「宮内庁対外務省」

外務省は長年皇室を政治利用してきた。

94年の天皇皇后の訪米では、真珠湾に献花させようとして大反発をくらった。

92年の訪中も、外務省と官邸が無理やり天皇皇后を中国へ行かせたが

戦争責任問題もあり国内で大論争が起きた。

以上のように皇室を政治利用する外務省に宮内庁側は、ご立腹であった。

「皇族を政治利用するとは何だと思っているんだ。皇室への侮辱だ。」

その反動から鎌倉節長官から皇族の外国訪問をセーブしだす。

天皇皇后も二年間外国へ行っていない。皇太子夫妻は八年間。

ベルギー訪問も、鎌倉氏は反対した。そしてあんの上流産の結果が出る。

ある政治家の話「将来は、外務省主導で皇室外交」

雅子妃の今後「外国で静養の可能性も充分にある。」

参考5

脱退者

創価は天皇と神道を敵として見ている。

創価学会の本尊は、ど真ん中にでっかく「南無妙法蓮華経」とあり、

いちばん 下に「天照大神」と、小さく書かれている。

創価学会の教義では、法華経 (日蓮宗でなく創価学会による独自の解釈)によって

成仏した仏や成仏途中の神々は、法華経を受持しこれを広宣流布(布教)する

創価学会の従者となって守護 せねばならない。

成仏途中の神々とは、皇祖神・天照大神をはじめ、

我が国の神道における八百万の神々も、その例外ではなく、

したがって、皇祖神の子孫である天皇も、創価学会の家来であるという。

ちなみに、他者を改宗させ、教団に入信させることを「折伏」(しゃくぶく)と

称するが、大東亜戦争のころ、黎明期の創価学会では、畏れおおくも、

昭和天皇を「折り伏せる」ことを祈念していた。

このことは、 当時の創価学会において、教徒に配布された

「勤行要典」に明記されている。

当然、政府にとっては、暴力革命を党是とする共産党と同様に、監視の対象。

子供たちに「愛国心」教育を施して、やがて国民に国家統合の象徴として天皇を

「敬愛」する心が芽生えてくるとしたら、

それは、創価イズムにおける上下の序列を ひっくり返すことを意味する、

教義と対立する教育施策にほかならず、そうした理由から、

(天皇を象徴とする)「統治機構を愛する〜」などと言い出す。

所謂、左翼が標榜する「階級闘争」とは全く異なるイデオロギーを背景としている。

創価学会の教徒でない公明党員などいない。

創価学会では、 公明党の選挙に尽力すれば「功徳」があると指導されている。

参考6

日本が半ば在日に乗っ取られているのは間違いない。

犯罪界、宗教界、政界、芸能界と 至るところ在日が主導権を握っている。

政治家の秘書として統一教会信者が百人以上も入り込み、

さらに朝鮮総連からも賄賂がいっているので、

政治家がこの問題で動くこともないだろう。

「在日は差別されている可哀想な少数民族だ」なんてとんでもない。

これは連中が広めた最大の嘘。

日本最大の産業は年間30兆円を売り上げるパチンコ産業だが、

その8割を在日が握っている。連中は税金もほとんど払っていない。

おそらく、国民のたった0・5%に過ぎない在日韓国朝鮮人たちが

年間で手にする金は、表も裏(笑)も含めて40兆円に達する。

在日は疑いもなく「世界一リッチなマイノリティー」というのが真実。

そして有り余った金を政界にばら撒いている。

だから不正融資で潰れかけた朝鮮銀行に国民の税金1兆円を平気でつぎ込んでしまう。

彼らは韓国や北朝鮮に対して土下座外交するしかない。

日本の政治家が訳が解らない取引をしているのは創価を母体とする公明党が

与党に成り上がるまでに力をつけた事にある。

宮内庁次長等に創価の一族が存在している現在では

創価を抜きにしては皇室問題を語れない。

創価は総体革命をする、と宣言している。

それを言い換えれば日本を乗っ取ると言うこと。当然皇室も入る。

創価の金融界での総体革命は恐ろしいほど進んだ。

創価が皇室に入れば大作の片腕だった教学部長・創価を命がけで守っていた

優秀な弁護士その他数々の人々が亡き者にされたように

皇室はおろか皇族方も亡き者にされるのはやり方の歴史が証明している。

拙速に「女系容認・直系長子優先」案を提出しようとしている有識者会議が発足したのは、公明党が与党に入ってから。

韓国ブームは在日が作った。あれだけ大規模なブームを作れるくらい、もう日本の中で在日の力は強い。

自分達を地獄に導いているとも知らずに毎日毎日テレビで韓国をヨイショしてくれる日本人。

韓国ブームのお陰で在日や韓国人へのマイナスイメージがプラスイメージになった。

そして日本人が韓国人や在日と結婚する数も圧倒的に多くなった。

もうあと30年で日本は完全に在日主体の社会になる。

たった100万人に満たない在日に使われる1億人の日本人。

皇太子まで 洗脳されている。雅子妃を応援しているのは、創価の女性達。

今、皇太子一家と小和田家は、創価と繋がりが出来てしまっている。

皇室典範改正を急ぐのは、公明党の力が働いている。

テレビや新聞より多くのネットの情報が正しく、

「なぜ?」と言う疑問が解ける理由に、創価学会などの朝鮮人が絡んでいる。

雅子妃は、創価学会員と同様な扱いをされている。

天皇、皇后、紀宮、秋篠宮の方が正当なことを言っているのにマスコミにたたかれる。

日教組に洗脳教育された左翼国民は救いようがない。

怖いのは愛子の婿が創価になること。 着々と外堀埋めは進行している。

連合国の思惑通りに事が進んでいる。

女系天皇の誕生は皇統の消滅と天皇家の解体を意味する。

戦後六十年、米と中共の悲願が遂に達成される。

敗戦後天皇家本家を守る為に臣籍に下った旧皇族は絶対に容認できないだろう。

あの決断の結末がどこぞの馬の骨による皇統の乗っ取り。

有識者会議のメンバーを見る限りでは有識者は誰もいない。

結論ありき。道鏡、足利義満以来の皇統危機。

創価学会が皇室解体を悲願としている。

そのためあえて知的に問題があるとも言われている愛子女帝を推進している。

とりあえず今は優秀伝説を垂れ流ししている。

秋篠宮殿下、その親王殿下というれっきとした男系男子がいるのに愛子様を…というのは不自然きわまる。

解体ではなく乗っ取り。確かにそのほうが話が早い。

創価学会(池田大作教)が 皇室をつぶしたい理由

『神道は日蓮の敵であるから邪教徒である象徴はなくさなければならない』

皇太子夫妻だけを持ち上げるのは創価とワールドメイト。

池田大作は帰化人。半田晴久は在日。

参考7

拾い物

創価と「日本語対応手話」

■自分達こそ正しいと主張する為に、

他の方法を選ぶ人たちを貶める事が一時横行し、ろう教育界が荒れたこともありました。

昨年2月秋篠宮両殿下が市川の聾学校をご視察下さったのは大変にありがたいことでした。

マスコミまで上手く誘導し、子供達の人格を否定していると非難されていた学校です。

両殿下が来てくださったことで、

手話も含めて真に教育の選択の自由があることが確認されたという思いがあります。

紀子妃殿下は、ろうあ連盟、聾教育関係者からのご進講も熱心に受けていらっしゃるそうなので

ある程度は、そういった事実もご存知であろうかと思います。

■国際ろう者会議(1991年)に秋篠宮両殿下がお見えになっていて、

紀子様が手話で挨拶や歓談されていたがとても優雅で優しかった。

優雅で柔らかだったので会場中がうっとりしていた。

「手話の普及や通訳士の育成に励んでおります」と挨拶すると笑顔で

「大変素晴らしいことです。お体にお気をつけて頑張って下さい」と手を差し出して下さった。

「こんな下の層に居る、障害者にあんな無私にお優しくして下さる方をお見初めになるなんて、

秋篠宮様は何と素晴らしい!

田舎のおじいちゃん、おばあちゃんに話したら、途端に仏壇で拝み始め、

「昭和天皇陛下がお認めになった、やはり将来お国を御守りして下さるに相応しいお方だ」と

涙を流して昭和帝の写真を拝んでいた。

■しかし、その前後から某・宗教団体に属する人が各地の手話サークルに急に入り始めた。

「あなた達のその間違った文法で話している手話を口語と同じく正しい文法に直します」

「前世での罰であなたは耳が聞こえないんですから、私がお力になります」という調子で

サークル内の雰囲気を乱したため、活動停止もしくは分裂状態に追い込まれたサークルが多かった。

「なぜ急にあんな宗教団体が関わってくるんだ?」と最初のころはその理由が分からなかったが

最近ようやく判ってきた。創価の人は

「秋篠宮紀子妃に手話を教えている人が、彼女の手話はいつまでもへたくそなのよって言っているわ」

といいふらしている。

■紀子様のは日本手話・ASL(主にアメリカなどの英語手話)がお出来になる。

手話を習い・話す上で難しい空間の表現や擬人法的な表現などがとてもお上手。

単語や言い回しは覚えられる。でも首の傾け方や表情はその人のセンス。

きちんとしたろうあ者の言語感覚や文化を知らないと出来ない。

また、口話で話しながら手話でも同じ内容を話すのは高度でなかなか通訳でもそう簡単に出来ない。

最初の頃は公務慣れしてなかったせいか、緊張でドギマギされていることはありましたが、

歓談中などはとても流暢な手話で「あなたはホントに耳が聞こえるの?」と訊かれることも。

■創価が『地位向上と手話の普及を目指して日本語対応手話を普及しましょう!』なんて急に言い出して

…手話サークル・通訳同士でギスギスした空気が…メチャクチャになった。

紀子様が御臨席になる福祉関係の行事にやたらと来たがっていたのでよくよく聞いてみると創価の影

その団体の大規模な施設や学校がある地域なのでとにかくそのような人が多くて参った。

一部の急進的なろう者]とそれに同調する聴者(全国ろう児を持つ親の会など)は、

日本語対応手話は独自の文法を持っていないので手話とはいえず、

これに対し手話という文字列を使うべきではないと主張し、

1990年代から2000年代前半にかけては「手指日本語」、「シムコム」という語を用いていた。

だが、このような排他的な主張については批判的な意見が多数であったことから、

最近では「手指日本語」、「シムコム」という用語の使用は少なく、

「(日本語)対応手話」との呼び方がほぼ定着した。

■日本語対応手話で検索するとでてくる創価がらみのブログ

やっぱり信心が足りないから声が出ない、と言っている。

手話も結局、勤行と折伏の手段でしかないのだろう。内部でも障害者を差別する宗教団体。

参考8

週刊現代1993年1月23日号

実はこの高3−大学1年の期間、雅子さんは小社がアメリカで編集制作していた

【エンサイクロペディア オブ ジャパン】(英語版日本百科事典)の編集を手伝っていた。

同事典の編集責任者、板坂元 創価女子短大教授(副学長)が、当時の雅子さんを回想してこう語る。

「彼女にお願いした仕事は、著者から送られてきた英文原稿が事実関係と合っているかどうかを調べるデータチェック。

非常におとなしい人で仕事ぶりはまじめでした。スタッフの中では最年少だったというせいもあるのでしょうが、

毎月行っていたオフィスパーティでも、目立った印象はありませんでしたね」

■板坂元(いたさか・げん):1922年〜2004年没。中国南京市生まれ。

東京大学大学院文学研究科修士課程修了。

武蔵高校、成城大学で教えた後、1957年、渡英。ケンブリッジ大学を経て、60年、ハーバード大学講師。

85年に帰国し、創価大学客員教授、創価女子短期大学教授。同大副学長も務めた。

日本文学、日本語を教える傍ら、長年の海外生活体験をふまえた鋭い文明批評で知られた。

参考9

ある宮内庁職員からの情報 二階堂ドットコム

なんと由々しき事態である。「雅子妃殿下の妹が、創価学会員である」という情報だ。

これは現役宮内庁職員からもたらされたものであり、一部の国会議員も確認している。

当サイトは確認はしていないが、事実であった場合

日本の国家の礎をなす天皇家に邪教が入り込む危険性があるため、確認なしでお届けした。


参考10

(2005)

世界水フォーラムは創価のイベント、皇太子は創価の広告塔

「世界水フォーラム」でPR活動

3月18日付「聖教新聞」「京都の世界水フォーラム SGI代表、創価大学生が参加」

「地球規模の水問題を解決策を討議する

『第3回世界水フォーラム』が、16日から京都を中心に開かれ、

SGIの代表、学生部員が参加。交流を広げている。

同フォーラムには、約180カ国から政府関係者、市民団体、国際機関など1万人以上が集う。

SGIを代表して、岩住副会長、本部国際室のジョーン・アンダーソン氏、

SGIニューヨーク国連連絡所の桜井浩行氏が出席。

主会場の国立京都国際会館の展示ブースで、

池田SGI会長の環境提言や地球憲章のポスターなどを紹介している。

同フォーラムに出席しているアンワルル・チョウドリ国連事務次長が16日、

SGIの展示スペースを訪れた。

同事務次長は『国連で“賢人会議”を開き、

池田会長の平和提言を学ぶ機会をつくるべきです。

会長の平和思想を、もっと世界に広く伝えなければならない』と語った」

昨夏の環境サミットでもSGIは展示を行い、池田氏のPRを行った。

公明党の党大会で小泉首相がこのSGIの展示を観覧し、

そこで見た池田氏撮影の写真を礼賛したことは既報の通り。

今回の世界水フォーラムでも、SGIは展示を行い、池田氏のPRに余念がない

こうした手法で創価学会は、自らのイメージアップを図るのである。


https://hinomoto.wiki.fc2.com/wiki/%E5%A4%96%E5%8B%99%E7%9C%81%E3%81%AB%E5%89%B5%E4%BE%A1%E5%AD%A6%E4%BC%9A%E3%81%AE%E3%80%8C%E5%87%BA%E5%85%88%E6%A9%9F%E9%96%A2%EF%BD%A3
http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/116.html#c59

[環境・自然・天文板6] 「自由人物理」とは何か〜第一は学問のパラダイム化からの自由。第二はもっと重要なことで学問のビジネス化からの自由/西村肇 短足鰐
3. 中川隆[-11415] koaQ7Jey 2019年3月17日 11:37:41 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[582]

学生運動が盛んだった 1970年代には理学部の学生にも科学的社会主義とかいうのが流行っていて、

唯物弁証法とかマルクスやレーニンの理論が既に科学的に証明されたと思っていたアホが理学部にも沢山いたんだよ

相対性と不確定性の話もその手のものなんだ。

赤軍派議長の塩見孝也なんか 2017年11月に死ぬまでずっと 世界同時革命とか叫んでたからね:


若松孝二 実録・連合赤軍 あさま山荘への道程 (2007年) _ 1970年代はこういう時代だった
http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/287.html

http://www.asyura2.com/15/nature6/msg/702.html#c3

[リバイバル3] 酷い音のインチキ・レプリカを量産して伝説の評価を落とした Goodmans Axiom80 中川隆
44. 中川隆[-11417] koaQ7Jey 2019年3月17日 12:28:52 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[580]

277: SAT-IN :2018/12/01(土) 09:56:08 HOST:195.net211007085.libmo.jp

AXIOM80 も一口にオリジナルと復刻版に分けられなくなってますね。

元々時代によってマイナーチェンジが有ったのと復刻版にオリジナルの残存パーツを使った物が有ったらしいということです。

一般的にはマグネットに貼られたシールで WENBLEY MIDDX がオリジナルで HAVANT HANTS が復刻版です。(無銘も有り)

が、しかし、オリジナルのフレームに復刻版と同じコーンが使われた個体が時折り出現します。
こういったものは古びたフレームに真新しいコーンであることから交換されたものと推測されます。

カンチレバーの厚さの違いは石アンプに対応するためという説が有ります。

理由はともあれ仕様の変更ですから、これをもって貶めるのは筋違いかと思われます。

薄いほうがフラフラして低域が出るというイメージは有りますけどね。

一番注目するのはコーンの縁の折り返しです。
切りっぱなしの復刻版より剛性が高くフレームとの隙間がせまくなり低域に有利な可能性が有ります。

この辺の検証は未だにハッキリとした形で成されていませんね。


278: SAT-IN :2018/12/13(木) 18:43:47 HOST:dcm2-118-109-190-94.tky.mesh.ad.jp


オリジナルとされる個体のカンチレバーの厚さは約0.45mmです。
復刻版とされる手持ちのは情報からみて約0.5mmくらい。

くらい、と言うのは外さないで安全に測定するのは困難だからです。
何れにしてもカンチレバー単体ではそれほどの差は無いですね。
ダンパーとの相乗作用で違いが出るものと思われます。

コーンの剛性と折り返しの効果はチャンスを逃した為に確認出来ないでいます。

280: QS :2019/01/04(金) 14:30:31 HOST:229.net211007085.libmo.jp

上のほうの MINOX について書いた自分のカキコミを見て思い出した。
シャッターブレードの交換で苦労したのが、もう17-8年前か・・・
あの頃のパーツ供給者(海外なので直接取引はしていない)を思い出して検索してみると
まだ健在のようです。


282: QS :2019/01/04(金) 18:28:31 HOST:229.net211007085.libmo.jp

調べると、コーン紙からスピーカー作ってくれるメーカーが有るんですね。
それとは別に、AXIOM80 のボイスコイル含むコーンとカンチレバーまで自作でやっている人が居て驚きます。
どこからどこまでが自作かは謎ですが、世の中広いですわ。

288: QS :2019/01/08(火) 05:43:39 HOST:174.net211007085.libmo.jp

なんにしても原点から抜けきらない所は有ります。
他の方は知りませんけど。
私の場合は明らかに貧乏性から始まったと訳ですけどね。(省)

ダブルコーン・フルレンジという甘い響きに弱いのです。

289: RW-2 :2019/01/08(火) 17:51:48 HOST:127.236.241.49.ap.yournet.ne.jp

>ダブルコーン・フルレンジという甘い響きに弱いのです


御意。メーカーによってはツインコーンとかデュアルコーンと呼んでたり。
ダブルコーンという名を嫌ってか2ウェイスピーカーってな呼称もありました。

せいせい堂々ダブルコーンで宜しい。そして貧乏性なので無駄がイヤ。折しも
エコブーム。背面の音も使う。

平面バッフルか後面開放で使うとユニットも喜ぶ。

拙者宅には平面バッフルも後面開放も鎮座。部屋が広いからね。のびのび朗々。


292: RW-2 :2019/01/09(水) 14:07:20 HOST:127.236.241.49.ap.yournet.ne.jp

拙者なんかフルレンジジジイです。シーメンス、テレフンケン、SABA、テスラ、
フィリップス、セレッション、フェランティ、ジェンセン、、マグナボックス、
アルテック、JBL、ワーフェデール、リチャードアレン等々。あと国産数十種。

今は5種エニグマに繋がってますが入替え激し。ゲンコツ親分は不動。貫録です。

293: アラン・ドロン :2019/01/09(水) 16:49:04 HOST:softbank219168067040.bbtec.net

凄い機種の数ですね。フェランティは名前も聴いた事がないです。

グッドマンのアキシオム401とかは使った事があるのですか。
30センチ口径でダブルコーンですが、短いコーンですね。
イギリスのユニットは、後ろから見ると立派に見えますね。

294: QS :2019/01/09(水) 20:34:52 HOST:139.net211007085.libmo.jp

ダブルコーンの話ばかりしましたが、実は LE-8T に代表される金属ドームタイプも好きです。
耳がリニアだった頃の現行当時はハイ落ちと感じましたが、近年に某オーディオ店で聴いたら
さしてハイ落ちとも感じなくなってました。
尤も、ささやかな音量で鳴らしてましたから、単に耳の劣化とも言いきれません。

295: 前期 :2019/01/09(水) 21:36:25 HOST:h220-215-170-060.catv02.itscom.jp

以前にも書いたかもしれませんが新宿の山水ショウルームにはよく通いました。
店長がのちに社長になって苦労された方で小生のような生意気なガキにも丁寧
に教えてくれました。LE8T の音の秘密はこの巨大な磁石にあると言っていました。
国産スピーカはマグネットをけちっていましたから立ち上がりの速い音など
望むべくもなかったでしょう。

296: QS :2019/01/09(水) 22:01:11 HOST:139.net211007085.libmo.jp

大きなマグネットにウーハー並のボイスコイル径5cmとアルミドーム・ラジエーターが効いてますね。
一般的にボイスコイル径が小さいほうが高域には有利でも低域には不利で
分割振動が出やすいのではないかと思われます。
天下の JBL さんが導きだした設計値ですから、あの時代にあれ以上は難しかったかと。
見る限り、YAMAHAの2070は 8T の進化型だと思います。
ちなみに755A〜Eもボイスコイル径は5cmでしたね。

298: 前期 :2019/01/10(木) 11:19:05 HOST:h220-215-170-060.catv02.itscom.jp

>大きなマグネットにウーハー並のボイスコイル


B&W801やOceanway Monitorなんかもそうでつね。立ち上がりが速くて
パンチの効いた音を目指すとああいう構造になるのでせう。無論その手の音
は好きじゃないという人もいるでしょうけど。

299: QS :2019/01/10(木) 14:24:36 HOST:dcm2-119-241-244-116.tky.mesh.ad.jp

あとコイルのエッジワイズ巻きも有りましたね。

300: 薬漬け :2019/01/10(木) 19:49:20 HOST:sp49-96-18-150.mse.spmode.ne.jp

私の場合は三機種。Axiom80は自分のものとして、西部の 755A と 754A はふんだくりっぱなしで返すの忘れてる(汗)
ただ西部、特に755Aは、あの精緻でリアルな音を聴くと返す気が(略)

303: ワッチ :2019/01/11(金) 10:03:00 HOST:p89247-ipngnfx01marunouchi.tokyo.ocn.ne.jp

ボイスコイルのついて、以下のサイトに詳しい書き込みがありました。
大きさと特性の関係とか材質の特性とか、なかなか興味深いです。
ttps://blog.goo.ne.jp/parc-audio/e/5343a3102cd9b3465c3456174bf11171

304: RW-2 :2019/01/11(金) 14:37:00 HOST:127.236.241.49.ap.yournet.ne.jp

読ませていただきました〜。読みやすく勉強になりました。

ボビンの解説のところ。紙やアルミボビンでは接合部に理由あって切れ目を入れてる
(隙間を空けてる)ものもあります。そのへんは割愛したのか触れてませんでしたね。

あと、昔セルロイド製かと思うボビンもありました。紙にシェラックかワニス系を含浸・
重合させたものだったのじゃないかと思ってます。捨てずに取っておきゃ良かった。

国産のボイスコイル径がバラバラなのは基にしたスピーカーもバラバラだからでしょね。
あるメーカーはローラ、あるメーカーはマグナボックス、あるメーカーはジェンセン。
資料求めたり治具機械を買ったり。あの当時はみな家内工業みたいなもんでしょうから。

>ボイスコイルのサイズ(径)を大きくすればそのユニットの音質も良い意味で太めでしっかりとした方向になります


そう思います。拙者の30cmウーハーのボイスコイル径は10cmです。重量も増えますから
強力な磁気回路が必要です。アルニコVが使われてます。最たるものは日立のHS-500の
ウーハー。22cmなのに9.7cm径のボイスコイル。案の定能率が上がらず88dB/1mなのが残念。

305: QS :2019/01/11(金) 16:10:19 HOST:dcm2-110-233-247-70.tky.mesh.ad.jp

拝見しました。
ホビン材料にベークライトが出てこないのは意外でした。
紙に分類されるのかな?
輪にした紙にフェノールを含浸させてオーブンで焼くなんてことも考えましたが
あと、カーボン繊維とかも。(これは向かないかな?)
といっても、まず自作することもないだろうし、想像してみただけです。

書き込む前に飛んだので、そんなところです。

306: RW-2 :2019/01/11(金) 17:04:41 HOST:127.236.241.49.ap.yournet.ne.jp

あ、そうか。セルロイドじゃなくベークライトだ。だからドームまで一体成型が
出来たんだ。ダイヤトーンのDUD(ボイスコイルボビンと振動板の一体構造)の原型だ。

307: アラン・ドロン :2019/01/12(土) 08:47:07 HOST:softbank219168067040.bbtec.net

ボイスコイル=振動板、リボン型と似ているのでしょうか。
全面駆動型

308: RW-2 :2019/01/13(日) 13:53:37 HOST:127.236.241.49.ap.yournet.ne.jp

>リボン型と似ているのでしょうか


全然似てません。第一リボン型にはボイスコイルが無いでしょ。ダイナミック型
であるのは同じです。松下さんはリボンが短冊じゃないのでリーフ型と称してます。

>全面駆動型

一般的にはコンデンサー型をさすと思います。ただ、リボン型を発展させたものに
マグネパンの平面スピーカーがあります。けっこうな大型です。友人が20年も使っ
てたタンノイを叩き売っての後釜に座ってます。スピーカーここに在りというよな
主張が無い。主張というかここから音が出てますという存在感が無い。なのに再生
音は素晴らしい。スピーカーの箱がいかに音を窮屈にしてるかが判ったのでした。

309: AD :2019/01/13(日) 16:29:19 HOST:210.227.19.68

んだ、んだ。スピーカーは機器マニアでなけりゃ存在感なんて要らないような。
机や壁に貼り付けて音を出すシステム(おもちゃみたいな感じのモノ)あったけど、
あれをしっかりとつくったらいいモンできんじゃないかと思う。
純粋に音楽聴きたいソフト優先志向の方にはいいんじゃないかと。(私もそのひとり)
だって日本の住宅環境ってバカでかいSPシステムなんて置けないですもん。
デッカイ豪邸、専用のオデオルームあってこそのシロモノですから、見た目より結果優先で。

そこんとこでいうとフルレンジの小型密閉形システムなんてお手頃でしょうね。
パイオニアのS-X3Uくらいの超小型(箱というより鉄の塊)スピーカでも出てくる音が
その存在感を感じさせない音量と臨場感。形はマグネパンとは両極みたいなもんですが
いい意味で存在感を忘れさせる逸品ではないでしょうか。

310: AD :2019/01/13(日) 16:34:19 HOST:210.227.19.68 ↑注釈(言い訳):

2ウェイシステムですが、フルレンジ志向の考え方として捉えてくらはい。


312: QS :2019/01/13(日) 18:49:57 HOST:dcm2-119-240-141-73.tky.mesh.ad.jp

「LIST・調所電器」でした。
スピーカーも励磁型となると大体似たような形になりますね。
今は景山式平面スピーカーを作っています。

313: アラン・ドロン :2019/01/14(月) 09:11:06 HOST:softbank219168067040.bbtec.net

私の認識不足でした。リボン型の原型は、ハイルドライバーですね。
ハイル博士という人がおりました。
ボーズ博士より知名度は低いですが。

314: RW-2 :2019/01/14(月) 11:36:40 HOST:127.236.241.49.ap.yournet.ne.jp

>「リスト」という名前です


昔は国産でもいろんなメーカーがありましたね。マグネチック型のワルツとか。
励磁型のハークとか。あちらさんのボイトとかフェランティを真似てたんでしょね。

拙者が以前裏板で紹介した励磁型のマグナボックスもフェランティも欲しい方の
熱意に負けて譲ってしまいました。酒代欲しさに売り払ったわけでは・・・。。。(略

315: QS :2019/01/15(火) 19:57:44 HOST:dcm2-49-129-186-211.tky.mesh.ad.jp

クリスキットが薦めてたのはEAS-16F10というテクニクスの6半でしたね。
見た目が LE-8T みたいなやつです。
特性図を見る限り100Hzから上が結構平坦に出ています。

316: RW-2 :2019/01/17(木) 08:05:40 HOST:127.236.241.49.ap.yournet.ne.jp

>EAS-16F10というテクニクスの6半


でっかい密閉箱で使います。王道です。

桝谷さんはスピーカーケーブルなんか 1m/100円で十分って言ってましたね。それでまともに鳴らないシステムは何を使ったってダメということでしょう。

先般亡くなった佐久間さんも配線材はアンプ内部も含めやっぱり普通の電源コードを使ってました。

317: QS :2019/01/17(木) 19:58:33 HOST:dcm2-110-233-247-195.tky.mesh.ad.jp

>でっかい密閉箱で使います

何故か6半に関しては矛盾しているようでいて、正道なんですね。
P-610なんかも4chのリアスピーカー(オマケ)みたいな箱に入れて、いい加減に扱うと、まさに 4chのオマケみたいな音(オーディオ志向的には)しか出ません。

但し、意図してそれを狙うのも有りです。
今、昔のラジオみたいな音を出すのにP-610はハイファイ過ぎるかな?


357: 薬漬け :2019/03/16(土) 20:57:55 HOST:zaq7ac404b8.zaq.ne.jp

80の「記憶にある幻の美音」を何とか出したくて、あれやこれや。

普段はアキュC280〜R120ppで鳴らしているのですが、どうもこれが記憶の美音にはちと遠い。

そこでパワーをカンノの300Bシングルにしてみると、これは最低。音に紙臭さが充満して、 我慢がなりませんでした。

それではとクォード 22+IIを SPU-GTEで鳴らしてみると、悪くはないんですがどこか古臭い。

ではと入力をアキュにして、クォード22のラジオ端子に接続し、入力だけR120ppと同じ条件で鳴らしてみると、何のことはない R120 とほぼ同じ音が出てきました。

ここまで来て、やはり40年近く前の記憶は美化されたままで置いておいて、現実と格闘するにはもはや体力がないと諦めた方が良さそうに思えてきました。

下手をしたらエンクロージャー交換まで行きそうな感じなので……。
げに手強きかな、80。

358: 前期 :2019/03/16(土) 21:27:11 HOST:h220-215-170-060.catv02.itscom.jp
>>357 薬漬けさん、今晩は。

小生はレプリカしか聴いたことがありませんので「このSPのどこがそんなに
イイのか?」という程度の印象しかありませんがマニアたちはレプリカと
オリジナルは別物だといいますからそうなのでしょう。

それはともかく先輩に質問です。どこかで80は英軍の諜報活動に使用すべ
く設計された特殊なユニットと言う話を聞いた曖昧な記憶があります。それ
は事実なのでしょうか?

359: QS :2019/03/16(土) 21:50:21 HOST:dcm2-118-109-189-10.tky.mesh.ad.

>どこかで80は英軍の諜報活動に使用


確か自分も似たようなことを書いた記憶が有ります。
「英軍の諜報活動」までは言ってないのですが、その構造から見て
集音用のダイナミックマイクとして使ったのではないか?と言う想像です。
壁に設置して盗聴目的に使えそうですからね。

大戦中の米軍は捕虜の居室に隠しマイクを仕掛けた話が有りました。
それがスピーカーだたかは分かりませんが。

R様(だったかな?)から軍用としては潜水艦内で使われた?という説も有りましたね。

360: 前期 :2019/03/16(土) 22:34:29 HOST:h220-215-170-060.catv02.itscom.jp
>>359 QSさん、今晩は。

こういう話はワクワクしますね。英国は盗み聞きが得意で第二次大戦中
捕虜にしたナチの将軍たちをTrent Houseに収容して厚遇し油断した彼等
同士が喋る会話を隠しマイクで集音してV2がペーネミュンデで開発中
であることを知りそこを爆撃して開発を遅らせたとか。

361: QS :2019/03/16(土) 23:15:02 HOST:dcm2-118-109-189-10.tky.mesh.ad.jp

ちなみにGoodmans社は今も健在でHPも有ります。
https://www.goodmans.co.uk/

見ると、実にユニークでオシャレな製品が作られています。

362: 薬漬け :2019/03/17(日) 00:12:08 HOST:zaq7ac404b8.zaq.ne.jp

>>358 前期さん、こんばんは。

私も詳しくは知らないのですが、80が高域が通る性格を利用して軍用スピーカーに(開発当初は)
使われていたとは聞いたことがあります。何せ歴史の長いユニットですから色々な使われ方をしたという想像はつきますね。
マイクとして使われたかどうかはちょっと分かりませんが……。

363: QS :2019/03/17(日) 05:01:35 HOST:dcm2-110-233-247-190.tky.mesh.ad.jp

80にも色々有るのは以前に書きましたか?

オリジナル(初期型と言うべきか)との基本的な違いはコーンの周辺処理と
カンチレバーの厚み(約0.05mm前後)で、質量と剛性の違いは不明です。

市場に出た物を見る限り、時期に依っては復刻版にも初期型のコーンが使われていたりしてクロスオーバーしているようです。

これは後から取り替えられた可能性も有りますが、少し矛盾します。
ネット上には意識的に復刻版の価値を下げたい(逆に言えば初期型の価値を上げたい)が為の意見も見受けられます。

事実がどうあれ、ハッキリした形で比較及び検証が成された事は無いと思います。

364: RW-2 :2019/03/17(日) 08:43:26 HOST:88.51.205.61.ap.yournet.ne.jp

80が紙臭い音(好き嫌いやリアリティは置いといて)なのは、当たり前ですがコーンが紙だから&サブコーンがデカいからですね。

コーン紙に円周ダンパー(波型でもスパイラルでもいいけど)とコーン全周エッジが有れば、ピストン運動の平衡と分割振動の残りを吸収・和らげてくれます。

それらが無く、硬く鳴きやすいカンチレバーでの保持ですからよけいコウルサイ。相まってサブコーンも大きく切端挙動も原因の一つ。

コーン紙交換式ですから特化した物資としての生い立ちに違いないと思います。
故障したら現場で交換。低域は捨ててますから駆逐艦や潜水艦での相手深信のためのアクティブソナー等に使われてたんじゃないかと。

後にHi-Fiを謳うようになりましたけど。
ソナーってのはビーコン発して反響して戻ってきた音。あのピ〜ン ピ〜ンってなね。

365: 前期 :2019/03/17(日) 08:53:13 HOST:h220-215-170-060.catv02.itscom.jp
>>362 薬漬けさん、おはようございます。

コメントありがとうございます。スッキリしました。
やはり開発段階では軍のなんらかの関与があったのでしょうね。

オリジナルの音を高く評価するマニアがいることは事実ですが仮に現存したとしてもそこそこクタビレているでしょうから本当の音の再現はキビスイかもしれませんね。
神話が出来上がるだけでも凄いユニットということでしょう。

366: QS :2019/03/17(日) 10:21:00 HOST:dcm2-110-233-247-190.tky.mesh.ad.jp

>そこそこクタビレているでしょうから本当の音の再現はキビスイ


敢えて書きませんでしたが、それは有りそうです。
時々出品される初期型とおぼしきジャンクのコーン紙に風化が見て取れます。
パリっと裂けているか、ポロポロと朽ちた感じです。

カンチレバーとその接合部のへたりや、ボイスコイルとの結合部もしかりです。
やはり古すぎても駄目かも知れませんね。

初期型が良いか?復刻版が良いか?と言うと劣化さえ考えなければ初期型のコーンの形状のほうが良いと思います。
折り返しの有るほうが切りっ離しの物より剛性が確保されそうですからね。
それと、直径も違うとすればフレームとの隙間も変わり、低域の出方も変わるでしょう。
この辺の検証は両方入手して比較するしかありません。

367: QS :2019/03/17(日) 10:36:00 HOST:dcm2-110-233-247-190.tky.mesh.ad.jp

あと、ヒノオーディオで直接聞いた話では使っているうちにコーンが前に出てくる傾向が有るとか。
そうなるとボイスコイルが正常な位置からズレますから定期的な調整が必要らしいです。

といっても、ネジの緩みでズレの修正ならともかく、カンチレバーの撓みまで調整で収まるかどうか疑問ではあります。
外したカンチレバーは平らではなく、松葉のように湾曲していますからね。
とにかく、替えが無くなった今はトラブルが起こると厄介なシロモノです。

368: 薬漬け :2019/03/17(日) 10:43:28 HOST:zaq7ac404b8.zaq.ne.jp
>>363
>>365

80の本当の昔の形態は知りませんが、1950年前後と推察されるユニットとその後(1960年前後?)のユニットでは、マグネット裏のエンブレムに違いがありますね。

前者は縦に長いアルファベット字体で AXIOM80 とある。

後者は比較的よく見る、ゴシック調の AXIOM80 に「WEMBLEY MIDDX」と記されたモノです。

各般の意見を綜合すると、

前者は普通にオリジナル、後者は再生産品なれど、オリジナルと同じ部品(コーン紙にカンチレバー)を使っているため、「オリジナルに準じる」「オリジナル中期」と呼ばれているようです。

部品ストックを使って再生産したのでしょう。

これに対して70年代後半?に再生産されたものは、QSさんがお書きのようにコーン紙の処理もカンチレバーの厚さも異なっており、裏のエンブレムも「HAVANT HANT」となっています。

これだけを前二者と区別する形でレプリカと呼んでいる様に思われます。

現在分かるのはこのぐらいでしょうか。


ちなみに教授のお書きになる「紙臭さ」ですが、これはドライブ次第ですね。
このユニットの神経質なところで、下手に鳴らすとモロに紙臭さが出てきますし、鳴らし方次第では紙臭さなど微塵も感じられない、力感を押し出さずにプレゼンスを見事に展開する魔性の音に豹変します。

これを一度でも聴いた者としては、往々にして「人生を誤る」のでしょう。私もその1人(汗)

……とまあ、まさに前期さんの言われる様に、神話伝説の固まりみたいなユニットですね。

369: QS :2019/03/17(日) 11:39:30 HOST:dcm2-110-233-247-190.tky.mesh.ad.jp

この機会に懐古録ならぬ健忘録として、また書いておきます。

某代理店が船便で輸入した復刻版が輸送中の高温下で調整が崩れ、そのまま販売出来ず。
それを引き取って調整し直し、販売したのが今はなきHオーディオ。

今から思うと異様に安く売られていた時期のカラクリはそれでした。
これは社長から直接聞いた話です。

社長亡き後、Hにコーンとカンチレバーの在庫が有るのを知って電話したら、店で交換するのでブツだけを売れないとのこと。

それから程なくして店が飛びましたから、修理や交換に出したら堪りませんね。


話しは変わりますが、リチャード・アレンのバスレフ箱付きがPairで5万でした。
当時はユニット(フェライト)がPairで2万でしたから箱が3万ですね。
今では考えられない安さでした。

その時買っていれば今のアルニコタイプを買っていたかどうか分からないので痛し痒しかな?
どっちが良いかは並べて聴き比べていないので不明です。

当時、店で聴いた感じでは随分とパンチの効いた図太い鳴りでした。
それが80と聴き比べた感想ですからおかしなもんです。

80は80でこれまた全く違う、妖刀村正的斬れ味の凄みにビビりましたけどね。(笑)
https://jbbs.shitaraba.net/bbs/read.cgi/music/11602/1417941619/
http://www.asyura2.com/09/revival3/msg/686.html#c44

[リバイバル4] 上杉研究所 交流点火 無帰還 300B シングルアンプ U・BROS-300AH 中川隆
15. 中川隆[-11416] koaQ7Jey 2019年3月17日 12:52:37 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[581]

Bösendorfer VC7というスピーカー(その14)


たとえば上杉アンプのコントロールアンプ、U・BROS1は、信号系の配線材の一部に鉄線が使われていることは、設計者の上杉先生がなんどか記事に書かれているから、ご存じの方も多いだろう。

上杉先生は、鉄線を使ったことについて、スイカにかける塩を例えに出される。
スイカの甘味をきわだたせるために、ほんのすこし塩をふりかけるのと同じことで、
ある箇所にほんのわずか鉄線を用いることで、音がきわだってくる、とのことだ。

刺激的な音が出てくることを、もっともきらわれる上杉先生だけに、
確信犯的な、鉄線の使い方だ。

むやみやたらに鉄線を使ったら、音が濁って、がさつくだけだろう。
どこにどれだけ使うかは、
それまでアンプを数多く造ってこられた経験則によるものであることは、容易に想像できる。

アンプに関しては、1980年ごろ登場したサンスイのプリメインアンプ、AU-D907Limitedが、
銅メッキをシャーシーだけでなくネジ一本一本にまで施すことで、
磁性体に起因する歪を排除すのを目指したころから、磁性体の排除が活発になってきた。

たしかに磁性体の排除は効果があった。
http://audiosharing.com/blog/?p=1001
http://www.asyura2.com/18/revival4/msg/121.html#c15

[近代史3] 北方領土 _ ロシアは最初から1島たりとも返すつもりはない  中川隆
23. 中川隆[-11415] koaQ7Jey 2019年3月17日 14:20:47 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[582]
北方領土4島返還はありえない〜日本人の知らない歴史的な理由 2019/03/13
http://www.1242.com/lf/articles/164186/?cat=politics_economy&pg=cozy


ニッポン放送「飯田浩司の OK! Cozy up!」(3月13日放送)に数量政策学者の高橋洋一が出演。北方領土問題について、終戦記念日の世界的な史実を交えて解説した。


ロ、在日米軍で回答要求  モスクワで記者会見するロシアのプーチン大統領(タス=共同)=2018年12月20日 写真提供:共同通信社

ロシアが北方領土で軍事演習〜交渉の対象は2島だという意思表示か

ロシア軍は3月12日、北方領土の択捉島と国後島でおよそ500人が参加する軍事演習を開始した。ロシア軍は今月6日にも軍事演習を実施していて、平和条約の交渉を進めるなか、日本側を揺さぶる狙いがあると見られている。

飯田)ロシアの通信社、インターファクス通信が伝えたものだそうです。軍事演習ですよ。

高橋)揺さぶると言うか、交渉を明確にするということだと思いますけれどね。

飯田)交渉を明確にする。

高橋)対象を明確にすると。2島だということです。それ以外はないぞと、そういうことを言って来ているだけのことです。

飯田)そうすると、国後・択捉ではなく、歯舞・色丹だと。


首脳会談を終え、共同記者発表で握手するロシアのプーチン大統領(右)と安倍晋三首相(ロシア・モスクワ)=2019年1月22日 写真提供:時事通信

世界的な常識で終戦記念日は9月2日〜ソ連の日本侵略はそれ以前のこと

高橋)もともと4島は無理筋だということは、日本の国民はあまり言いませんが、外交の専門家であれば「4島は無理です」とはっきり言っています。これは終戦記念日がいつかという話で、私もアメリカに行ったときにこっぴどくやられた経験がありますが、日本人は終戦記念日は8月15日と言うではないですか。でも世界のどこに行っても、終戦記念日は9月2日です。

飯田)9月2日。

高橋)戦艦ミズーリで調印したとき。要するに、8月15日から9月2日の間の話については、日本はやられっぱなし、それだけの話です。

飯田)グレーゾーンではあるけれども、最後に終戦条約にサインをした9月2日までは…。

高橋)OKだということです。

飯田)戦争状態のままだったということが国際法上の在り方だったのですね。

高橋)日本では、終戦記念日以降にソ連が攻め入ってどうのこうのと習いますが、それは世界では通用しません。

飯田)国際社会では通用しないと。

高橋)いくら言っても無理です。他の国では9月2日だろうと、それまでは仕方なかったと言われる。私も多少知識があるから、実は日ソ不可侵条約の後、向こうが通告して来た後に、1年間自動延長という項目もあるのですが、これはEUのときと一緒で「でも協議は整わなかっただろう」と言われてしまいます。協議が整わなかったらおしまいだよ、日本はちゃんとソ連と協議をしたかと。するような状況ではなかったから、していないのですね。結果的にはそれも通用しないのが国際常識ですよ。
こういう常識を日本国民もある程度わからないと、安倍さんが一所懸命やっていることがわからないと思います。終戦は9月2日だから、4島は有り得ない。日ソ共同宣言で、1956年のときに2島の話しか書いていないでしょう。でもこれは、実は合理的なのですよ。4島は有り得ません。
その後なぜ日本が4島と言ったかというと、アメリカのダレス国務長官が4島と言え、と。4島と言わなければアメリカは沖縄を返さないぞと言ったので、日本は仕方なく4島と言わされたのです。4島と言っているうちは、ソ連は交渉しないと知っているから。そうすると日ソは絶対に平和条約を結べないので、わざとダレス氏は言ったのですよ。

飯田)日ソが当時の東西冷戦のなかで接近するのを恐れたアメリカが…。

高橋)絶対に4島と言え、と。4島と言っている間はソ連は絶対に日本と交渉しませんからね。日ソ共同宣言に戻って、2島という本当の真面目な話をすると、国民としては失望感が出て来るのですね。でも4島と言っている間は一切交渉できない。今回初めて2島で交渉するから、ロシアの方もちゃんとした対応をして来ているのです。それだけです。本当にきちんとした交渉をしていると、こういう話になるのです。


2006年11月のAPEC首脳会議にて、日本の首相(当時)の安倍晋三(左)と(ウラジーミル・プーチン – Wikipediaより)

2島が還って来れば100点

飯田)1956年に日ソ共同宣言が出ていますけれど、それを遡った少し前にサンフランシスコ講和条約があった。そこでは千島列島は放棄すると明記している。

高橋)千島に択捉、国後は入るのが普通ですね。

飯田)南列島の千島の部分に国後・択捉は入るから、当時のソ連、現ロシアとしてはそこまでは自分たちのものだと。国際的にもそれは認められているというのが向こうの主張ですね。

高橋)世界ではそうなっています。

飯田)これをひっくり返して行くのは相当難しい。

高橋)無理でしょう。日本だけなのですよ、終戦が8月15日と言うのは。それは事実です。アメリカも絶対に言わないし、他の連合国やヨーロッパも全部9月2日です。

飯田)そうすると、歯舞群島と色丹に関してどうするかが、日露交渉のメイン。

高橋)国際法から見たらそれしかない。2島が還って来れば日本は100点満点です。ロシアのほうは0島でしょうから。

飯田)あとはそこから先も長いスパンで。

高橋)30年、50年かけてプラスがあればいいというレベルです。


http://www.1242.com/lf/articles/164186/?cat=politics_economy&pg=cozy
http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/180.html#c23

[リバイバル3] OPPO Sonica DAC _ 音楽がわからないアホ・オーディオマニアが絶賛する超お買い得品(?)だけど… 中川隆
45. 中川隆[-11413] koaQ7Jey 2019年3月17日 15:11:10 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[584]


Topping トッピング D10 USB DAC ライン 光 同軸 出力 中華 アンプ スピーカ AMP オーディオ 良質 音質 おすすめ ダック Line out Coaxial Optical|oremeca

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PCM384 & DSD256対応の高レベルスペックの超ハイコストパフォーンスDAC

D10のOPアンプにはOPA2134が装備されており、非常に良質な音を奏でますが、OPアンプソケットがあるのでOPアンプの交換が可能です。

XMOS XU208、Thesyconドライバ、ESS ES9018K2Mなど優れたHIFIパーツを使用

ヘッドホンアンプに接続して、D10をHIFIシステムの一部にすることができ、高解像度の音を再生する場合の音質を大幅に向上する事ができます。

他にDACをお持ちの場合は、D10を同軸/光出力に接続し、USBインターフェイスとしても使用できます。

オーディオフォーマットとサンプリングレートを表示します。

PC電源のON-OFFに伴うポップノイズ、切り替わり時のノイズ等はありません。

毎回、電源をON/OFFする手間が省ける便利な自動電源ON/OFF機能を搭載

商品仕様
サイズ:10.3cm x 14.6cm x 3.7cm
重さ:314g(本体のみ)
カラー:ブラック
電源入力:DC5V / 0.5A(USB電源)
入力:USB
デジタル出力:OPT / COAX
アナログ出力:LINE OUT

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DSD256 PCM 384kHz/32bit 対応 ライン 光 同軸 出力

DSD256 PCM 384kHz/32bit 対応 オペアンプを交換する事ができる高性能DAC


PCM384 & DSD256対応の高レベルスペックの超ハイコストパフォーンスDAC

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XMOS XU208、Thesyconドライバ、ESS ES9018K2Mなど優れたHIFIパーツを使用

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入力:USB
デジタル出力:OPT / COAX
アナログ出力:LINE OUT

https://store.shopping.yahoo.co.jp/oremeca/d10.html
http://www.asyura2.com/09/revival3/msg/852.html#c45

[リバイバル3] CD プレーヤーは進歩しているのか?  中川隆
61. 中川隆[-11412] koaQ7Jey 2019年3月17日 15:13:11 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[585]

アマゾン topping d10 usb dac
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▲△▽▼


Topping トッピング D10 USB DAC


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DSD256 PCM 384kHz/32bit 対応 オペアンプを交換する事ができる高性能DAC


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D10のOPアンプにはOPA2134が装備されており、非常に良質な音を奏でますが、OPアンプソケットがあるのでOPアンプの交換が可能です。

XMOS XU208、Thesyconドライバ、ESS ES9018K2Mなど優れたHIFIパーツを使用

ヘッドホンアンプに接続して、D10をHIFIシステムの一部にすることができ、高解像度の音を再生する場合の音質を大幅に向上する事ができます。

他にDACをお持ちの場合は、D10を同軸/光出力に接続し、USBインターフェイスとしても使用できます。

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商品仕様

サイズ:10.3cm x 14.6cm x 3.7cm
重さ:314g(本体のみ)
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http://www.asyura2.com/09/revival3/msg/842.html#c61

[近代史3] 雅子という女は凄い女 _ 気に入った相手とは手当たり次第という感じ _ 男性経験は20人は超えている 中川隆
15. 中川隆[-11411] koaQ7Jey 2019年3月17日 17:09:10 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[586]

雅子妃の真実2018.07.10
雅子妃|韓国人売春婦もびっくり、雅子の乱脈男性関係 よくこれで、入内できたな(笑)
http://akimasa-fushimi.sakura.ne.jp/wp/2016/12/05/2016120520161205000000/


2015年03月30日

韓国人売春婦もびっくり、雅子の乱脈男性関係よくこれで、入内できたな(笑)

皆さんお元気ですか?

今回は、今や世界中に出稼ぎする韓国人遠征売春婦もびっくりの雅子の非常に乱脈な男性関係です。

ハーバード留学時代には「白人男性と交際している」とか「日本人男性と同棲している。」という噂が絶えませんでした。

また、妃候補に登場した1987年には、アメリカ人のデビット・カオなる男性から英文で綴られた怪文書が、宮内庁に届きました。

内容は、雅子と自分の男女の関係、男性関係に奔放だった雅子のハーバート時代の告発文でした。

怪文書を解読した当時の宮内庁長官の富田朝彦氏は警察官僚出身でしたので、内閣調査室長時代の人脈をフル稼働させて、小和田雅子のアメリカ留学時代の男女関係を洗わせました。その結果、小和田雅子を妃候補から外しました。余程ひどい乱脈な男性関係だったのでしょう。

しかし、小和田―高円宮ラインは、昭和天皇崩御を待ち、先行していた妃候補たちが、結婚などで次々と消えていく中、妃候補たちの在庫がなくなるのを待って、再び雅子を妃候補に浮上させました。

そして、妃内定直後の1993年1月11日にアメリカの一般紙「シカゴ・サン・タイムズ」誌が「プリンセス雅子のトップレス写真を持っているアメリカ人男性がいる」というスクープがでました。

当の白人男性とは、先に怪文書を宮内庁に送ったデビット・カオでした。

実際にデビット・カオなる白人男性は、実在し、雅子のハーバード時代に2回パーティーで一緒だったという写真もあるそうです。

この「シカゴー」誌自体はいい加減な三流ゴシップ誌ではありません。しかし、何故か、そのスクープ記事は4日後には取り消されてしまったのです。小和田サイドから強力な圧力がかかったのでしょう。日本に帰国後も外務省時代にも常に男の噂が絶えない女でした。

ちなみに羅列すると

・デビット・カオ

・奥参事官(イラク戦争の最中、イラクで不審死を遂げる)

・外務省上司;上司との不倫を告発する怪文書が省内を駆け巡った。中絶手術の噂あり。

・外務省同僚;東大時代以来からの交際、オクスフォード留学時代に関係が深まった。しかし、イギリス留学時代には白人男性との交際も噂された。フリーカメラマンがツーショットを撮影し女性週刊誌に持ち込んだが没になった。

・大野裕主治医;結婚後もやってるんですね〜呆れるのを通り越して、性欲の強さ、貞操観念の無さに衝撃を受けました。

・国連大学総長

母方の祖父が、水俣病を広めたチッソ社長の鬼畜;江頭豊であるだけではなく、根が朝鮮女だからすぐ股を開く淫乱女です。

今回紹介した男たちは沢山ある噂の相手の中のごく一部です。

こんな下賤で淫乱な女をめとらざるを得なかったのも、皇太子自身にも問題があります。

ズバリ言って、ブ男で背が低い、男性的魅力とは縁遠い人です。

しかも軽い知的障害もある。

それが1988年がピークでしたが数多のお妃候補から逃げられた理由です。

お妃候補に挙がった途端に結婚し、1年後に離婚した人もいました。単に妃候補逃れの偽装結婚だったのでしょう。

両陛下と宮内庁は、高円宮夫婦が雅子を強力に推している間にも、有力な別候補と交渉していました。

その方が久邇晃子(くにあきこ)さんです。

香洵皇后(昭和天皇の皇后)の実家に当たり、皇太子とはふた従姉に当たります。

彼女は、旧皇族の家柄ですから、最後は私しかいないと覚悟を決めて、着物の準備をしていました。

両陛下と宮内庁もその気になってる時に、高円宮夫婦と小和田夫婦が先手を取って、皇太子と雅子の婚約電撃発表しました。

両陛下も宮内庁も追認するしかありませんでした。大変惜しかったです。

久邇さんという女性は大変優秀で、東大医学部を卒業後精神科医を開業なさってます。彼女のように皇室のしきたりのなんであるかを知りぬいた賢明な女性が、皇太子妃だったら、知恵おくれの皇太子を上手にサポートし、天皇になっても良く支えたでしょう。

しかし、結婚前は頭が弱くとも、清々しい雰囲気を持っていた皇太子が、雅子と結婚後、ただの頭が弱い男になり、人物から伝わってくるオーラも下品になってしまいました。

仮に天皇になっても国事行為は無理でしょう。雅子という霊的にも悪業を背負った女の言いなりになった皇太子と、早くも朝鮮人の業病の【火病】を発揮しだした愛子からなる東宮一家は皇室内の【魔界】となってしまいました。

もう手遅れです。秋篠宮両殿下に皇統の異動をせざるを得ないでしょう。

私は、在日や、帰化朝鮮人を除く心ある日本人は、文仁天皇、紀子皇后陛下を望んでいると信じています。
http://akimasa-fushimi.sakura.ne.jp/wp/2016/12/05/2016120520161205000000/
http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/265.html#c15

[近代史3] 皇太子妃の雅子さんは典型的なダメダメ家庭出身者  中川隆
38. 中川隆[-11410] koaQ7Jey 2019年3月17日 17:10:02 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[587]
雅子妃の真実2018.07.10
雅子妃|韓国人売春婦もびっくり、雅子の乱脈男性関係 よくこれで、入内できたな(笑)
http://akimasa-fushimi.sakura.ne.jp/wp/2016/12/05/2016120520161205000000/


2015年03月30日

韓国人売春婦もびっくり、雅子の乱脈男性関係よくこれで、入内できたな(笑)

皆さんお元気ですか?

今回は、今や世界中に出稼ぎする韓国人遠征売春婦もびっくりの雅子の非常に乱脈な男性関係です。

ハーバード留学時代には「白人男性と交際している」とか「日本人男性と同棲している。」という噂が絶えませんでした。

また、妃候補に登場した1987年には、アメリカ人のデビット・カオなる男性から英文で綴られた怪文書が、宮内庁に届きました。

内容は、雅子と自分の男女の関係、男性関係に奔放だった雅子のハーバート時代の告発文でした。

怪文書を解読した当時の宮内庁長官の富田朝彦氏は警察官僚出身でしたので、内閣調査室長時代の人脈をフル稼働させて、小和田雅子のアメリカ留学時代の男女関係を洗わせました。その結果、小和田雅子を妃候補から外しました。余程ひどい乱脈な男性関係だったのでしょう。

しかし、小和田―高円宮ラインは、昭和天皇崩御を待ち、先行していた妃候補たちが、結婚などで次々と消えていく中、妃候補たちの在庫がなくなるのを待って、再び雅子を妃候補に浮上させました。

そして、妃内定直後の1993年1月11日にアメリカの一般紙「シカゴ・サン・タイムズ」誌が「プリンセス雅子のトップレス写真を持っているアメリカ人男性がいる」というスクープがでました。

当の白人男性とは、先に怪文書を宮内庁に送ったデビット・カオでした。

実際にデビット・カオなる白人男性は、実在し、雅子のハーバード時代に2回パーティーで一緒だったという写真もあるそうです。

この「シカゴー」誌自体はいい加減な三流ゴシップ誌ではありません。しかし、何故か、そのスクープ記事は4日後には取り消されてしまったのです。小和田サイドから強力な圧力がかかったのでしょう。日本に帰国後も外務省時代にも常に男の噂が絶えない女でした。

ちなみに羅列すると

・デビット・カオ

・奥参事官(イラク戦争の最中、イラクで不審死を遂げる)

・外務省上司;上司との不倫を告発する怪文書が省内を駆け巡った。中絶手術の噂あり。

・外務省同僚;東大時代以来からの交際、オクスフォード留学時代に関係が深まった。しかし、イギリス留学時代には白人男性との交際も噂された。フリーカメラマンがツーショットを撮影し女性週刊誌に持ち込んだが没になった。

・大野裕主治医;結婚後もやってるんですね〜呆れるのを通り越して、性欲の強さ、貞操観念の無さに衝撃を受けました。

・国連大学総長

母方の祖父が、水俣病を広めたチッソ社長の鬼畜;江頭豊であるだけではなく、根が朝鮮女だからすぐ股を開く淫乱女です。

今回紹介した男たちは沢山ある噂の相手の中のごく一部です。

こんな下賤で淫乱な女をめとらざるを得なかったのも、皇太子自身にも問題があります。

ズバリ言って、ブ男で背が低い、男性的魅力とは縁遠い人です。

しかも軽い知的障害もある。

それが1988年がピークでしたが数多のお妃候補から逃げられた理由です。

お妃候補に挙がった途端に結婚し、1年後に離婚した人もいました。単に妃候補逃れの偽装結婚だったのでしょう。

両陛下と宮内庁は、高円宮夫婦が雅子を強力に推している間にも、有力な別候補と交渉していました。

その方が久邇晃子(くにあきこ)さんです。

香洵皇后(昭和天皇の皇后)の実家に当たり、皇太子とはふた従姉に当たります。

彼女は、旧皇族の家柄ですから、最後は私しかいないと覚悟を決めて、着物の準備をしていました。

両陛下と宮内庁もその気になってる時に、高円宮夫婦と小和田夫婦が先手を取って、皇太子と雅子の婚約電撃発表しました。

両陛下も宮内庁も追認するしかありませんでした。大変惜しかったです。

久邇さんという女性は大変優秀で、東大医学部を卒業後精神科医を開業なさってます。彼女のように皇室のしきたりのなんであるかを知りぬいた賢明な女性が、皇太子妃だったら、知恵おくれの皇太子を上手にサポートし、天皇になっても良く支えたでしょう。

しかし、結婚前は頭が弱くとも、清々しい雰囲気を持っていた皇太子が、雅子と結婚後、ただの頭が弱い男になり、人物から伝わってくるオーラも下品になってしまいました。

仮に天皇になっても国事行為は無理でしょう。雅子という霊的にも悪業を背負った女の言いなりになった皇太子と、早くも朝鮮人の業病の【火病】を発揮しだした愛子からなる東宮一家は皇室内の【魔界】となってしまいました。

もう手遅れです。秋篠宮両殿下に皇統の異動をせざるを得ないでしょう。

私は、在日や、帰化朝鮮人を除く心ある日本人は、文仁天皇、紀子皇后陛下を望んでいると信じています。
http://akimasa-fushimi.sakura.ne.jp/wp/2016/12/05/2016120520161205000000/

http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/179.html#c38

[近代史3] 柏原芳恵のバイブレーター騒動 _ 宮内庁が皇太子妃候補 No.1 を引き摺り降ろした手口 中川隆
38. 中川隆[-11409] koaQ7Jey 2019年3月17日 17:10:25 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[588]
雅子妃の真実2018.07.10
雅子妃|韓国人売春婦もびっくり、雅子の乱脈男性関係 よくこれで、入内できたな(笑)
http://akimasa-fushimi.sakura.ne.jp/wp/2016/12/05/2016120520161205000000/


2015年03月30日

韓国人売春婦もびっくり、雅子の乱脈男性関係よくこれで、入内できたな(笑)

皆さんお元気ですか?

今回は、今や世界中に出稼ぎする韓国人遠征売春婦もびっくりの雅子の非常に乱脈な男性関係です。

ハーバード留学時代には「白人男性と交際している」とか「日本人男性と同棲している。」という噂が絶えませんでした。

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内容は、雅子と自分の男女の関係、男性関係に奔放だった雅子のハーバート時代の告発文でした。

怪文書を解読した当時の宮内庁長官の富田朝彦氏は警察官僚出身でしたので、内閣調査室長時代の人脈をフル稼働させて、小和田雅子のアメリカ留学時代の男女関係を洗わせました。その結果、小和田雅子を妃候補から外しました。余程ひどい乱脈な男性関係だったのでしょう。

しかし、小和田―高円宮ラインは、昭和天皇崩御を待ち、先行していた妃候補たちが、結婚などで次々と消えていく中、妃候補たちの在庫がなくなるのを待って、再び雅子を妃候補に浮上させました。

そして、妃内定直後の1993年1月11日にアメリカの一般紙「シカゴ・サン・タイムズ」誌が「プリンセス雅子のトップレス写真を持っているアメリカ人男性がいる」というスクープがでました。

当の白人男性とは、先に怪文書を宮内庁に送ったデビット・カオでした。

実際にデビット・カオなる白人男性は、実在し、雅子のハーバード時代に2回パーティーで一緒だったという写真もあるそうです。

この「シカゴー」誌自体はいい加減な三流ゴシップ誌ではありません。しかし、何故か、そのスクープ記事は4日後には取り消されてしまったのです。小和田サイドから強力な圧力がかかったのでしょう。日本に帰国後も外務省時代にも常に男の噂が絶えない女でした。

ちなみに羅列すると

・デビット・カオ

・奥参事官(イラク戦争の最中、イラクで不審死を遂げる)

・外務省上司;上司との不倫を告発する怪文書が省内を駆け巡った。中絶手術の噂あり。

・外務省同僚;東大時代以来からの交際、オクスフォード留学時代に関係が深まった。しかし、イギリス留学時代には白人男性との交際も噂された。フリーカメラマンがツーショットを撮影し女性週刊誌に持ち込んだが没になった。

・大野裕主治医;結婚後もやってるんですね〜呆れるのを通り越して、性欲の強さ、貞操観念の無さに衝撃を受けました。

・国連大学総長

母方の祖父が、水俣病を広めたチッソ社長の鬼畜;江頭豊であるだけではなく、根が朝鮮女だからすぐ股を開く淫乱女です。

今回紹介した男たちは沢山ある噂の相手の中のごく一部です。

こんな下賤で淫乱な女をめとらざるを得なかったのも、皇太子自身にも問題があります。

ズバリ言って、ブ男で背が低い、男性的魅力とは縁遠い人です。

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それが1988年がピークでしたが数多のお妃候補から逃げられた理由です。

お妃候補に挙がった途端に結婚し、1年後に離婚した人もいました。単に妃候補逃れの偽装結婚だったのでしょう。

両陛下と宮内庁は、高円宮夫婦が雅子を強力に推している間にも、有力な別候補と交渉していました。

その方が久邇晃子(くにあきこ)さんです。

香洵皇后(昭和天皇の皇后)の実家に当たり、皇太子とはふた従姉に当たります。

彼女は、旧皇族の家柄ですから、最後は私しかいないと覚悟を決めて、着物の準備をしていました。

両陛下と宮内庁もその気になってる時に、高円宮夫婦と小和田夫婦が先手を取って、皇太子と雅子の婚約電撃発表しました。

両陛下も宮内庁も追認するしかありませんでした。大変惜しかったです。

久邇さんという女性は大変優秀で、東大医学部を卒業後精神科医を開業なさってます。彼女のように皇室のしきたりのなんであるかを知りぬいた賢明な女性が、皇太子妃だったら、知恵おくれの皇太子を上手にサポートし、天皇になっても良く支えたでしょう。

しかし、結婚前は頭が弱くとも、清々しい雰囲気を持っていた皇太子が、雅子と結婚後、ただの頭が弱い男になり、人物から伝わってくるオーラも下品になってしまいました。

仮に天皇になっても国事行為は無理でしょう。雅子という霊的にも悪業を背負った女の言いなりになった皇太子と、早くも朝鮮人の業病の【火病】を発揮しだした愛子からなる東宮一家は皇室内の【魔界】となってしまいました。

もう手遅れです。秋篠宮両殿下に皇統の異動をせざるを得ないでしょう。

私は、在日や、帰化朝鮮人を除く心ある日本人は、文仁天皇、紀子皇后陛下を望んでいると信じています。
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http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/117.html#c38

[昼休み53] 被差別部落出身の有名人は? 中川隆
70. 中川隆[-11408] koaQ7Jey 2019年3月17日 17:10:56 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[589]
雅子妃の真実2018.07.10
雅子妃|韓国人売春婦もびっくり、雅子の乱脈男性関係 よくこれで、入内できたな(笑)
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2015年03月30日

韓国人売春婦もびっくり、雅子の乱脈男性関係よくこれで、入内できたな(笑)

皆さんお元気ですか?

今回は、今や世界中に出稼ぎする韓国人遠征売春婦もびっくりの雅子の非常に乱脈な男性関係です。

ハーバード留学時代には「白人男性と交際している」とか「日本人男性と同棲している。」という噂が絶えませんでした。

また、妃候補に登場した1987年には、アメリカ人のデビット・カオなる男性から英文で綴られた怪文書が、宮内庁に届きました。

内容は、雅子と自分の男女の関係、男性関係に奔放だった雅子のハーバート時代の告発文でした。

怪文書を解読した当時の宮内庁長官の富田朝彦氏は警察官僚出身でしたので、内閣調査室長時代の人脈をフル稼働させて、小和田雅子のアメリカ留学時代の男女関係を洗わせました。その結果、小和田雅子を妃候補から外しました。余程ひどい乱脈な男性関係だったのでしょう。

しかし、小和田―高円宮ラインは、昭和天皇崩御を待ち、先行していた妃候補たちが、結婚などで次々と消えていく中、妃候補たちの在庫がなくなるのを待って、再び雅子を妃候補に浮上させました。

そして、妃内定直後の1993年1月11日にアメリカの一般紙「シカゴ・サン・タイムズ」誌が「プリンセス雅子のトップレス写真を持っているアメリカ人男性がいる」というスクープがでました。

当の白人男性とは、先に怪文書を宮内庁に送ったデビット・カオでした。

実際にデビット・カオなる白人男性は、実在し、雅子のハーバード時代に2回パーティーで一緒だったという写真もあるそうです。

この「シカゴー」誌自体はいい加減な三流ゴシップ誌ではありません。しかし、何故か、そのスクープ記事は4日後には取り消されてしまったのです。小和田サイドから強力な圧力がかかったのでしょう。日本に帰国後も外務省時代にも常に男の噂が絶えない女でした。

ちなみに羅列すると

・デビット・カオ

・奥参事官(イラク戦争の最中、イラクで不審死を遂げる)

・外務省上司;上司との不倫を告発する怪文書が省内を駆け巡った。中絶手術の噂あり。

・外務省同僚;東大時代以来からの交際、オクスフォード留学時代に関係が深まった。しかし、イギリス留学時代には白人男性との交際も噂された。フリーカメラマンがツーショットを撮影し女性週刊誌に持ち込んだが没になった。

・大野裕主治医;結婚後もやってるんですね〜呆れるのを通り越して、性欲の強さ、貞操観念の無さに衝撃を受けました。

・国連大学総長

母方の祖父が、水俣病を広めたチッソ社長の鬼畜;江頭豊であるだけではなく、根が朝鮮女だからすぐ股を開く淫乱女です。

今回紹介した男たちは沢山ある噂の相手の中のごく一部です。

こんな下賤で淫乱な女をめとらざるを得なかったのも、皇太子自身にも問題があります。

ズバリ言って、ブ男で背が低い、男性的魅力とは縁遠い人です。

しかも軽い知的障害もある。

それが1988年がピークでしたが数多のお妃候補から逃げられた理由です。

お妃候補に挙がった途端に結婚し、1年後に離婚した人もいました。単に妃候補逃れの偽装結婚だったのでしょう。

両陛下と宮内庁は、高円宮夫婦が雅子を強力に推している間にも、有力な別候補と交渉していました。

その方が久邇晃子(くにあきこ)さんです。

香洵皇后(昭和天皇の皇后)の実家に当たり、皇太子とはふた従姉に当たります。

彼女は、旧皇族の家柄ですから、最後は私しかいないと覚悟を決めて、着物の準備をしていました。

両陛下と宮内庁もその気になってる時に、高円宮夫婦と小和田夫婦が先手を取って、皇太子と雅子の婚約電撃発表しました。

両陛下も宮内庁も追認するしかありませんでした。大変惜しかったです。

久邇さんという女性は大変優秀で、東大医学部を卒業後精神科医を開業なさってます。彼女のように皇室のしきたりのなんであるかを知りぬいた賢明な女性が、皇太子妃だったら、知恵おくれの皇太子を上手にサポートし、天皇になっても良く支えたでしょう。

しかし、結婚前は頭が弱くとも、清々しい雰囲気を持っていた皇太子が、雅子と結婚後、ただの頭が弱い男になり、人物から伝わってくるオーラも下品になってしまいました。

仮に天皇になっても国事行為は無理でしょう。雅子という霊的にも悪業を背負った女の言いなりになった皇太子と、早くも朝鮮人の業病の【火病】を発揮しだした愛子からなる東宮一家は皇室内の【魔界】となってしまいました。

もう手遅れです。秋篠宮両殿下に皇統の異動をせざるを得ないでしょう。

私は、在日や、帰化朝鮮人を除く心ある日本人は、文仁天皇、紀子皇后陛下を望んでいると信じています。
http://akimasa-fushimi.sakura.ne.jp/wp/2016/12/05/2016120520161205000000/

http://www.asyura2.com/13/lunchbreak53/msg/431.html#c70

[近代史3] 美智子妃も雅子妃もアメリカが皇室と天皇制を破壊する為に送り込んだスパイなのか? 中川隆
40. 中川隆[-11407] koaQ7Jey 2019年3月17日 17:11:24 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[590]
雅子妃の真実2018.07.10
雅子妃|韓国人売春婦もびっくり、雅子の乱脈男性関係 よくこれで、入内できたな(笑)
http://akimasa-fushimi.sakura.ne.jp/wp/2016/12/05/2016120520161205000000/


2015年03月30日

韓国人売春婦もびっくり、雅子の乱脈男性関係よくこれで、入内できたな(笑)

皆さんお元気ですか?

今回は、今や世界中に出稼ぎする韓国人遠征売春婦もびっくりの雅子の非常に乱脈な男性関係です。

ハーバード留学時代には「白人男性と交際している」とか「日本人男性と同棲している。」という噂が絶えませんでした。

また、妃候補に登場した1987年には、アメリカ人のデビット・カオなる男性から英文で綴られた怪文書が、宮内庁に届きました。

内容は、雅子と自分の男女の関係、男性関係に奔放だった雅子のハーバート時代の告発文でした。

怪文書を解読した当時の宮内庁長官の富田朝彦氏は警察官僚出身でしたので、内閣調査室長時代の人脈をフル稼働させて、小和田雅子のアメリカ留学時代の男女関係を洗わせました。その結果、小和田雅子を妃候補から外しました。余程ひどい乱脈な男性関係だったのでしょう。

しかし、小和田―高円宮ラインは、昭和天皇崩御を待ち、先行していた妃候補たちが、結婚などで次々と消えていく中、妃候補たちの在庫がなくなるのを待って、再び雅子を妃候補に浮上させました。

そして、妃内定直後の1993年1月11日にアメリカの一般紙「シカゴ・サン・タイムズ」誌が「プリンセス雅子のトップレス写真を持っているアメリカ人男性がいる」というスクープがでました。

当の白人男性とは、先に怪文書を宮内庁に送ったデビット・カオでした。

実際にデビット・カオなる白人男性は、実在し、雅子のハーバード時代に2回パーティーで一緒だったという写真もあるそうです。

この「シカゴー」誌自体はいい加減な三流ゴシップ誌ではありません。しかし、何故か、そのスクープ記事は4日後には取り消されてしまったのです。小和田サイドから強力な圧力がかかったのでしょう。日本に帰国後も外務省時代にも常に男の噂が絶えない女でした。

ちなみに羅列すると

・デビット・カオ

・奥参事官(イラク戦争の最中、イラクで不審死を遂げる)

・外務省上司;上司との不倫を告発する怪文書が省内を駆け巡った。中絶手術の噂あり。

・外務省同僚;東大時代以来からの交際、オクスフォード留学時代に関係が深まった。しかし、イギリス留学時代には白人男性との交際も噂された。フリーカメラマンがツーショットを撮影し女性週刊誌に持ち込んだが没になった。

・大野裕主治医;結婚後もやってるんですね〜呆れるのを通り越して、性欲の強さ、貞操観念の無さに衝撃を受けました。

・国連大学総長

母方の祖父が、水俣病を広めたチッソ社長の鬼畜;江頭豊であるだけではなく、根が朝鮮女だからすぐ股を開く淫乱女です。

今回紹介した男たちは沢山ある噂の相手の中のごく一部です。

こんな下賤で淫乱な女をめとらざるを得なかったのも、皇太子自身にも問題があります。

ズバリ言って、ブ男で背が低い、男性的魅力とは縁遠い人です。

しかも軽い知的障害もある。

それが1988年がピークでしたが数多のお妃候補から逃げられた理由です。

お妃候補に挙がった途端に結婚し、1年後に離婚した人もいました。単に妃候補逃れの偽装結婚だったのでしょう。

両陛下と宮内庁は、高円宮夫婦が雅子を強力に推している間にも、有力な別候補と交渉していました。

その方が久邇晃子(くにあきこ)さんです。

香洵皇后(昭和天皇の皇后)の実家に当たり、皇太子とはふた従姉に当たります。

彼女は、旧皇族の家柄ですから、最後は私しかいないと覚悟を決めて、着物の準備をしていました。

両陛下と宮内庁もその気になってる時に、高円宮夫婦と小和田夫婦が先手を取って、皇太子と雅子の婚約電撃発表しました。

両陛下も宮内庁も追認するしかありませんでした。大変惜しかったです。

久邇さんという女性は大変優秀で、東大医学部を卒業後精神科医を開業なさってます。彼女のように皇室のしきたりのなんであるかを知りぬいた賢明な女性が、皇太子妃だったら、知恵おくれの皇太子を上手にサポートし、天皇になっても良く支えたでしょう。

しかし、結婚前は頭が弱くとも、清々しい雰囲気を持っていた皇太子が、雅子と結婚後、ただの頭が弱い男になり、人物から伝わってくるオーラも下品になってしまいました。

仮に天皇になっても国事行為は無理でしょう。雅子という霊的にも悪業を背負った女の言いなりになった皇太子と、早くも朝鮮人の業病の【火病】を発揮しだした愛子からなる東宮一家は皇室内の【魔界】となってしまいました。

もう手遅れです。秋篠宮両殿下に皇統の異動をせざるを得ないでしょう。

私は、在日や、帰化朝鮮人を除く心ある日本人は、文仁天皇、紀子皇后陛下を望んでいると信じています。
http://akimasa-fushimi.sakura.ne.jp/wp/2016/12/05/2016120520161205000000/

http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/262.html#c40

[社会問題9] 語られ始めた皇太子「退位論」は説得力があるか・・が、語られるだけでも適応失調の天皇家! 墨染
191. 中川隆[-11406] koaQ7Jey 2019年3月17日 17:11:54 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[591]
雅子妃の真実2018.07.10
雅子妃|韓国人売春婦もびっくり、雅子の乱脈男性関係 よくこれで、入内できたな(笑)
http://akimasa-fushimi.sakura.ne.jp/wp/2016/12/05/2016120520161205000000/


2015年03月30日

韓国人売春婦もびっくり、雅子の乱脈男性関係よくこれで、入内できたな(笑)

皆さんお元気ですか?

今回は、今や世界中に出稼ぎする韓国人遠征売春婦もびっくりの雅子の非常に乱脈な男性関係です。

ハーバード留学時代には「白人男性と交際している」とか「日本人男性と同棲している。」という噂が絶えませんでした。

また、妃候補に登場した1987年には、アメリカ人のデビット・カオなる男性から英文で綴られた怪文書が、宮内庁に届きました。

内容は、雅子と自分の男女の関係、男性関係に奔放だった雅子のハーバート時代の告発文でした。

怪文書を解読した当時の宮内庁長官の富田朝彦氏は警察官僚出身でしたので、内閣調査室長時代の人脈をフル稼働させて、小和田雅子のアメリカ留学時代の男女関係を洗わせました。その結果、小和田雅子を妃候補から外しました。余程ひどい乱脈な男性関係だったのでしょう。

しかし、小和田―高円宮ラインは、昭和天皇崩御を待ち、先行していた妃候補たちが、結婚などで次々と消えていく中、妃候補たちの在庫がなくなるのを待って、再び雅子を妃候補に浮上させました。

そして、妃内定直後の1993年1月11日にアメリカの一般紙「シカゴ・サン・タイムズ」誌が「プリンセス雅子のトップレス写真を持っているアメリカ人男性がいる」というスクープがでました。

当の白人男性とは、先に怪文書を宮内庁に送ったデビット・カオでした。

実際にデビット・カオなる白人男性は、実在し、雅子のハーバード時代に2回パーティーで一緒だったという写真もあるそうです。

この「シカゴー」誌自体はいい加減な三流ゴシップ誌ではありません。しかし、何故か、そのスクープ記事は4日後には取り消されてしまったのです。小和田サイドから強力な圧力がかかったのでしょう。日本に帰国後も外務省時代にも常に男の噂が絶えない女でした。

ちなみに羅列すると

・デビット・カオ

・奥参事官(イラク戦争の最中、イラクで不審死を遂げる)

・外務省上司;上司との不倫を告発する怪文書が省内を駆け巡った。中絶手術の噂あり。

・外務省同僚;東大時代以来からの交際、オクスフォード留学時代に関係が深まった。しかし、イギリス留学時代には白人男性との交際も噂された。フリーカメラマンがツーショットを撮影し女性週刊誌に持ち込んだが没になった。

・大野裕主治医;結婚後もやってるんですね〜呆れるのを通り越して、性欲の強さ、貞操観念の無さに衝撃を受けました。

・国連大学総長

母方の祖父が、水俣病を広めたチッソ社長の鬼畜;江頭豊であるだけではなく、根が朝鮮女だからすぐ股を開く淫乱女です。

今回紹介した男たちは沢山ある噂の相手の中のごく一部です。

こんな下賤で淫乱な女をめとらざるを得なかったのも、皇太子自身にも問題があります。

ズバリ言って、ブ男で背が低い、男性的魅力とは縁遠い人です。

しかも軽い知的障害もある。

それが1988年がピークでしたが数多のお妃候補から逃げられた理由です。

お妃候補に挙がった途端に結婚し、1年後に離婚した人もいました。単に妃候補逃れの偽装結婚だったのでしょう。

両陛下と宮内庁は、高円宮夫婦が雅子を強力に推している間にも、有力な別候補と交渉していました。

その方が久邇晃子(くにあきこ)さんです。

香洵皇后(昭和天皇の皇后)の実家に当たり、皇太子とはふた従姉に当たります。

彼女は、旧皇族の家柄ですから、最後は私しかいないと覚悟を決めて、着物の準備をしていました。

両陛下と宮内庁もその気になってる時に、高円宮夫婦と小和田夫婦が先手を取って、皇太子と雅子の婚約電撃発表しました。

両陛下も宮内庁も追認するしかありませんでした。大変惜しかったです。

久邇さんという女性は大変優秀で、東大医学部を卒業後精神科医を開業なさってます。彼女のように皇室のしきたりのなんであるかを知りぬいた賢明な女性が、皇太子妃だったら、知恵おくれの皇太子を上手にサポートし、天皇になっても良く支えたでしょう。

しかし、結婚前は頭が弱くとも、清々しい雰囲気を持っていた皇太子が、雅子と結婚後、ただの頭が弱い男になり、人物から伝わってくるオーラも下品になってしまいました。

仮に天皇になっても国事行為は無理でしょう。雅子という霊的にも悪業を背負った女の言いなりになった皇太子と、早くも朝鮮人の業病の【火病】を発揮しだした愛子からなる東宮一家は皇室内の【魔界】となってしまいました。

もう手遅れです。秋篠宮両殿下に皇統の異動をせざるを得ないでしょう。

私は、在日や、帰化朝鮮人を除く心ある日本人は、文仁天皇、紀子皇后陛下を望んでいると信じています。
http://akimasa-fushimi.sakura.ne.jp/wp/2016/12/05/2016120520161205000000/

http://www.asyura2.com/12/social9/msg/352.html#c191

[近代史3] 東南アジアでみんなに嫌われているベトナム人の民族性とは 中川隆
4. 中川隆[-11408] koaQ7Jey 2019年3月17日 20:12:22 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[589]

ベトナム人6人が8県で万引、被害1250万円 技能実習生として来日
3/17(日) 17:28配信 福井新聞ONLINE

福井県警が押収し、2018年10月に公表した化粧品など万引の被害品の一部(福井県警提供)


 福井県内などのドラッグストアで万引を38件(被害総額約648万円)繰り返したとして福井県警が2018年に送検したベトナム人の女が、これとは別にベトナム人男女計6人で109件(同約1258万円)の万引を福岡県など福井以外の8県で繰り返していたことが3月15日分かった。福岡県警によると、会員制交流サイト(SNS)を通じてベトナム人向けに販売していたとみられる。

 女は福岡地裁で公判中の住所不定、無職の被告(30)。福井県警は18年、窃盗容疑で3度逮捕し、10月には福井、岐阜、愛知、三重4県で38件(化粧品や医薬品など計2228点)の被害が確認されたと発表していた。大きなショルダーバッグを提げ、多いときは一度に約150点を入れて盗んでいた。

 その後、福岡県警が窃盗容疑などで3度逮捕し今月、捜査を終結した。

 福岡県警によると、同被告を含む6人は技能実習生として来日し、同被告以外の5人はいずれも男で24〜28歳。実習先を抜け出すなどした後に知り合い、18年1月から10月にかけて化粧品や衣料品の万引を繰り返した。被害は福岡、群馬、静岡、愛知、岐阜、三重、佐賀、鹿児島の8県で確認された。

 6人の中には、同被告らと共謀し、福井県敦賀市のドラッグストアで万引したとして2月に敦賀署が逮捕した被告(25)も含まれている。福井地検は化粧品など29点(販売価格合計約8万9千円)を盗んだとして今月、窃盗罪で起訴した。

 両被告とも、在留期間が過ぎた後も愛知県内に住むなどしていたとして、入管難民法違反(不法残留)の疑いで、福岡県警が今年1月、追送検した。

http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/169.html#c4

[近代史3] (小室圭問題/佳子さま盗撮) 皇室記事まとめ一気読み

2019.03.17
【小室圭問題/佳子さま盗撮】今週の皇室記事まとめ一気読み【3/11-17】
https://rondan.net/18174#comment-6449

Contents

1 小室圭問題はとうとう最終局面に

2 『女性自身』(2019.3.26号)「眞子さま焦がれる小室圭さん 初休み“電撃帰国”に」

3 『週刊大衆』(2019.3.25号)「小室母子、地元での悪評」

4 『Flash』(2019.3.26号) 「佳子さま盗撮!」

5 『週刊新潮』(2019.3.21号)「小室母は自宅に籠城中?」

6 『女性セブン』(2019.3.28・4.4号)「眞子さま拒絶「小室報告書」の絶望」

7 代理人決定!?


小室圭問題はとうとう最終局面に

今週もまたまた動きのあった小室圭問題。毎週・毎日のようにネタを提供するという疑惑の総合商社状態です。

また今週は、天皇陛下の退位儀式がはじまり、悠仁さまが小学校を卒業されるなどイベントが連続しました。これらは来週の週刊誌に載るでしょう。

↓先週の復習

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【小室圭さん御母堂に新疑惑/3人死亡】今週の皇室記事まとめ一気読み【3/4-10】
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↓「イジメ」の歴史を振り返る

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『女性自身』(2019.3.26号)「眞子さま焦がれる小室圭さん 初休み“電撃帰国”に」

今週の『女性自身』は、小室圭さんが、春休みを利用して3/16~24に電撃帰国するのではないか、という内容の報道。


借金トラブルに関しては、小室さん側は代理人弁護士を立て、元婚約者との話し合いが進んでいく可能性が濃厚なのだが、小室さんが近々、動きを見せる可能性が。

「3月16日から24日までの間、小室さんが通うロースクールは春休みに入ります。この期間に“電撃帰国”を果たして、秋穣宮ご夫妻に面会を求める可能性があると、関係者の聞で囁かれているのです。しかし、小室さんが帰国するとなると、マスコミの秋篠宮家に関する報道が過熱するのは目に見えていて、ご夫妻にとっては複雑な心境でしょう」(宮内庁関係者)

『女性自身』(2019.3.26号)「眞子さま焦がれる小室圭さん 初休み“電撃帰国”に 紀子さま重要ポスト女性職員が辞職でナーバスな日々」
しかし冷静に考えて、帰ってくる可能性はほぼゼロでしょう。帰ってきたところで何も前進しませんし、袋叩きにされるだけでしょうから。

また紀子さまが、「職員をイジメて辞めさせた」という噂が出ない様にナーバスになっているという報道。


「紀子さまは、以前から職員に対して求める仕事のレベルが高く、厳しく注意するため、辞める職員が頻繁にいて、週刊誌などでも時折、報じられていました。

そんな中、実は今年2月に、秋棲宮家の女性職員が病気を理由に辞職しました。しかもこの方は、秋穣宮家が“皇嗣家”になったあとに重要なポストを担われると言われていたのです。

さらに病気という理由で辞職したのに、わざわざ宮内庁関係者が“紀子さまによる理由で辞めたわけではない”と、ふれ回っていたそうです。

秋篠宮家の評判をなるだけ落とさないようにするための紀子さまからの指示だと思われますが、かなり“ナーバス”になられているみたいですね」(秋篠宮家関係者)


『女性自身』(2019.3.26号)「眞子さま焦がれる小室圭さん 初休み“電撃帰国”に——紀子さま重要ポスト女性職員が辞職でナーバスな日々」
いろいろと紀子さまがナーバスになられているのは事実でしょうが、やや邪推しすぎかなという内容でした。


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『週刊大衆』(2019.3.25号)「小室母子、地元での悪評」


『週刊大衆』は、小室母子は地元でも評判が悪いという内容、いつもながら信憑性の薄い伝聞記事。


暗雲垂れ込める虞子様と小室さんのご結婚だが、地元商庖衝では、もはや口にするのもはばかれる状況だという。

「あれだけ盛り上がったのに、ドロドロとした金銭トラブルなんて、小室さん親子は今や“地元の恥さらし”……。当初の盛り上がりも、なかったことにしたいぐらいです」

と、本誌記者の直撃を受けた商店街の買い物客も、肩を落としていた。
『週刊大衆』(2019.3.25号)


「小室さん一家の母子愛は、少し“異常”とも見られるものがありました。圭くんの学生時代、佳代さんも圭くんも通勤や通学に地元の大倉山駅を使っていました。そこで“別れの熱烈なハグ”を恋人同士のようにしてから、別々の電車に乗り込むんです。仲良し母子なんでしょうけど、いい年して……と正直、あきれていました」(大倉山駅利用者)
『週刊大衆』(2019.3.25号)

などと、冷静に考えてもっとインタビューするのに相応しい相手がいるだろうと(笑) 利用者の多い大倉山駅のなかから、ピンポイントで小室母子を知っている人を見つけられる可能性は高くはないでしょう。


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『Flash』(2019.3.26号) 「佳子さま盗撮!」

『Flash』は、佳子さま盗撮ネタ。インペリアルアイドルゆえの宿命でしょうか?

お忍びでダンスレッスンを受けられる佳子さまの図。



関係者の間で出回っているダンスDVDからのキャプチャーも載っています。

留学されるのか、公務に専念されるのか、進路の節目を迎えている佳子さま。


「眞子さまのように海外留学をなさるとすれば秋からでしょう。4月に進路を確定されることははなく、しばらくは進路のご準備をしながら、公務に専念なさると思います。『行事より勉学』優先が皇室の伝統ですから、たとえ御代替わりの年でも、佳子さまが海外留学なさるとなれば、ご家族や家族は快く後押しするでしょう。」(宮内庁関係者)

「ただ眞子さまと御両親のぎくしゃくが伝えられる秋篠宮家で、佳子さまは双方を取り持つことができる方。ご家族には『そばにいてほしい』という気持ちもあるはずです」(宮内庁関係者)
『Flash』(2019.3.26号)


眞子さまのようなコトになりませんよう祈っております。


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『週刊新潮』(2019.3.21号)「小室母は自宅に籠城中?」

『週刊新潮』は、小室問題について、まず美智子さまが❶「将来設計」❷「金銭感覚」❸「母親の居場所」という三点を危惧していると伝えています。

ちょっと日本語が錯綜した記事で、❷について、美智子さまは法律事務所から生活資金の貸与を受けていると知っておきながら、「ニューヨークというのは、暮らすだけでもお金がかかるところでしょう。それはどこから、どのようになさっているのかしら」と疑問の声をあげているとか書いてあります。

また、 宮内庁では「破談が規定路線」と煽っている割には、小室圭さんの「将来設計」や「金銭感覚」を美智子さまが危惧するという、ちょっと論理的にオカシナ文章まで(笑)


「皇后さまは『一体どうなっているのですか。なぜ誰も(居所を)把握できていないのですか』と、焦燥を募らせておいでです。“破談”が既定路線とはいえ、小室さんは今なお眞子さまの婚約内定者として、国内では警察の警護対象となっている。その実母であり、結婚行事が延期される原因となった佳代さんが、まるで行方不明のような状況であることをあるまじき事態だと捉え、強く憂慮なさっているのです」

「そうした状況を前に皇后さまは、おもに警察出身の側近などに『(佳代さんの)情報は入ってこないのですか』『それを集めて報告するのも、お仕事でしょう』などと、時として苛立ちを露わになさる場面も見受けられるのです」 (同じ)
『週刊新潮』(2019.3.21号)
また❸「母親の居場所」については、聞き込みにより自宅籠城説を唱えています。


さる地元の住民は、こう明かすのだ。

「圭さんが渡米後も、引き続き自宅に住み続けています。職場を休んでいるのは、外に出て騒がれたくないからで、同居する朗代のお父さんに食材などの買い物を頼み、本人はひたすら自宅に龍っているのです」

実際に、自転車に乗って買い出しに向かう佳代さんの実父の姿が、最近でもしばしば目撃されている。
『週刊新潮』(2019.3.21号) 
これは恐らく正しいでしょう。小室邸の前にはまだポリスボックスがありますし、待機しているジャーナリストたちの視線を抜けて脱出することは困難であるように思えます。


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『女性セブン』(2019.3.28・4.4号)「眞子さま拒絶「小室報告書」の絶望」

『女性セブン』は冒頭グラビアで、美智子さまから雅子さまへの「ロイヤル・バトンタッチ」を特集。雅子さまアゲアゲが続いています。

また小室圭さんの身元「報告書」が宮内庁でつくられなかった理由は、眞子さまの反対があったからであろうとの推測。


「宮内庁としては、皇室会議を経てお相手を皇室に迎え入れる男性皇族の場合はご結婚相手に関心を持ちます。しかし、眞子さまは降嫁され、小室さんは皇族になるわけではないので、小室家のプライベートへの関心は低かった。それでも、普通の親子の会話として、“彼はどんな人柄なの?どんなご家庭なの?”と尋ねることはごく自然なことです。

ただ、秋篠宮ご夫妻が、小室家についていろいろ尋ねたり、調べたりすることについて、眞子さまが拒否反応を示されたようです。そもそも、小室さんが眞子さまに正直にすべてを話していなかったので、心配されていなかったということもあります。ご夫婦も眞子さまを信用され、深くは詮索されなかったのでしょう」(秋篠宮家に近い関係者)

『女性セブン』(2019.3.28・4.4号)「眞子さま拒絶された「小室報告書」の決定的急所」 

そして、事態が事態なので、宮内庁も重い腰を上げて「報告書」を作らなければならないだろうこと、そしてもし作られれば「暴力団との関係」が明らかになるので、破談になる可能性が高いとまとめています。


婚約内定会見後、小室家については、父親や祖父の自死や借金トラブル、さらに祖母の自殺が報じられてきた。

その中でも、“報告書”の急所となりそうなのが、小室さんの祖父が亡くなったときの「遺産分割協議」だ。

母・佳代さんは小室さんに遺産を相続させるため、かつて暴力団と関係があった男性を自分の代理人にして、親族と話し合いの場を持ったという。その結果、小室さんは相当な額の現金を相続し、中高6年間で1000万円を超える学費がかかるインターナショナルスクールに進学したということは、本誌前号で詳報した。


『女性セブン』(2019.2.28・4.4号)「眞子さま拒絶された「小室報告書」の決定的急所」
ここまで報じられたからには、宮内庁、秋篠宮家、もしくは小室母子から納得のいく説明がないかぎり、国民感情は悪化の一途をたどるような…。


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美智子さまから雅子さまへの「ロイヤル・バトンタッチ」 関係が芳しくない時期もあったが…
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代理人決定!?

また最後に、小室圭さんの母・佳代さんとの間で金銭トラブルを起こしている、元婚約者に「代理人」が決定したとの朗報です。

しかし何故かその「代理人」は弁護士ではなく、50代の匿名フリー記者という謎…。なんでこう小室母子界隈は怪しさ満点なのでしょうか?


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[近代史3] (小室圭問題/佳子さま盗撮) 皇室記事まとめ一気読み 中川隆
1. 中川隆[-11407] koaQ7Jey 2019年3月17日 21:58:51 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[591]

秋篠宮家に関するデマを現在、執拗に流しているのは、創価学会、統一教会、ワールドメイト


秋篠宮家に関するデマを現在、執拗に流しているのは、創価学会、統一教会、ワールドメイト辺りが主体だと思われるが、邪教の僕や闇の生物達がいくら嘘を垂れ流しても、分かる人間には通用しないものである。

盲 人の見ざるは日月の咎にあらず、という諺があるが、太陽や月を盲人が見られないのは、太陽や月のせいではない、という意味である。誤解や偏見が多いのは秋 篠宮家にも責任がある、ともっともらしく言う人間が居そうだが、そういう愚かな人達には、上記の諺を謹んで進呈したい。

小和田家の後ろ暗さ、雅子妃の入内の経緯や、秋篠宮家についての悪質なデマを流した皇族がいたことについては、過去の記事を参照して欲しいが、秋篠宮紀子妃殿下の経験された御苦労が、いずれ大輪の花となって報われることを望む次第である。
https://blog.goo.ne.jp/teitofukkou/e/1cc3c679195b91a91fe9282dfaf9a145
http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/291.html#c1

[近代史3] (小室圭問題/佳子さま盗撮) 皇室記事まとめ一気読み 中川隆
2. 中川隆[-11406] koaQ7Jey 2019年3月17日 22:02:49 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[592]

匿名 より: 2019年3月17日 7:38 PM

全部創価の流すデマだよ

匿名 より: 2019年3月17日 8:08 PM

犯罪ですらないのに大騒ぎするのが創価学会のあくどさだな

匿名 より: 2019年3月17日 9:31 PM


小室圭問題では外務省創価グループがデマを拡散しているんだ。

創価学会とか赤軍派みたいなカルトは自己批判させたり総括させるのが好きだから
右翼・左翼の違いは有っても、やってる事は同じになってしまうんだ。


▲△▽▼

 「女の男性関係は、女の人にも問題があり常に男だけに責任があるということにはならない。女の人の場合には、身に着けるものとか動作とかに問題が表れるのであるから、そういうところをもっている人は今のうちに総括しておきなさい。そういうことがいつまでも総括できないでいると、遠山さんみたいな傾向になってしまうことになる」といって、女性たちに総括を求めた。

「あんた、可愛すぎるのよ。それにあんた、ずっと男ばかりの兄弟に囲まれて育ってきたから、男にこびる方法を無意識のうちに身につけてしまっている。だから、あんたは動作やしぐさなどなんでも男に気に入られるようにやってしまっている。このことを総括しなくちゃだめなのよ」

(永田洋子・「十六の墓標(下)」)

 「男や女が明確な基準もなしに「好きだ」という事で関係を結ぶのは、本能的な欲望に基づいたブルジョア的な男性観や女性観によるものであり、そうした関係は男女相互の共産主義化にとって障害になる、共産主義化された男女関係のためには女が革命戦士として自立する必要があり、そのためには、何よりも女が男に対して無意識に行う<女>の顕示を克服しなければならない。」
と。
(永田洋子・「氷解−女の自立を求めて」)

遠山美枝子は 「女らしさ」 を批判された

遠山さんは、他の人が発言している最中に、ブラシで髪をとかしたり、クリームを唇に塗ったり、ねそべったりしていた。私は、こうした態度を苦々しく思った。
(永田洋子・「十六の墓標(下)」)

革命左派の批判は、指輪をしている、会議中髪の毛をとかした、服装が派手、男に指示だけして自分は動かない、といったことが、戦士としてふさわしくないということであった。

 一方、森の批判は、遠山が女を売りにして男を利用していると決めつけ、過去の活動をひとつひとつそれに結びつけていくものだった。どちらの批判も、いきつくところは、遠山の 「女らしさ」 が批判の対象だったのである。


遠山美枝子は自分で自分の顔を殴った

 再び遠山が黙っていると、森が強い口調でいい出した。

「どうだ、総括できるか!」
「何とか総括します」
「総括するといっているが、自分でできるんか?(後略)」
「自分で絶対に総括をやりきります」
「自分でやるというなら、援助しないぞ。援助しないということがどういうことか判るか!」
「・・・・・」
「今までの場合は、我々が殴って総括を援助してきたが、自分でやるというなら自分で自分を殴れ!」

 実は、「援助」うんぬんではなく、森の本音は「ブルジョア的女性の解体」だった。

 遠山さんは、左右の手を拳にして自分の顔を殴り始めた。

 遠山さんが両拳で交互に顔を殴り、顔が腫れてくると、森君は、「唇を殴れ」と命じた。遠山さんが唇を殴ると、唇が切れて血が飛び散り、凄惨な状態になった。みんな、口々に、「休むな!」とか「もっと続けろ!」とか言って叱咤した。

 さらに遠山さんの正面にたっていた大槻さんや、杉崎さんや、寺林さんたちが、「どうしたのさ、もうやめるの」、「どこを殴っているのさ」などといった。

 一度しゃがみこもうとしたとき、遠山さんのまん前にいた森氏は、「もっと続けろ」といいながら、遠山さんの頭を蹴飛ばした。そのため遠山さんは少しも休むことができなかった。

 革命左派の女性メンバーは共同軍事訓練 のときからの遠山に対して厳しかったが、このときも容赦なかった。

 遠山さんは約30分、唇を殴れとか、顔を殴れとか言われるまま休みなく殴り続けた。口から血が出て、床に滴り落ち、顔はボールのように腫れ上がった。ようやく森君が、中止の命令を出した。
(坂口弘・「続・あさま山荘1972」)

■「あなたの綺麗な顔がこんなに醜い顔になった」(永田洋子)

 
 すると永田さんが鏡を彼女の前に突き出し、醜くなった自分の顔を見るように言った。遠山さんは怨めしそうに鏡の中の自分を見た。
(坂口弘・「続・あさま山荘1972」)

https://rondan.net/18174


http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/291.html#c2

[昼休み53] 被差別部落出身の有名人は? 中川隆
71. 中川隆[-11405] koaQ7Jey 2019年3月17日 22:04:06 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[593]
2019.03.17
【小室圭問題/佳子さま盗撮】今週の皇室記事まとめ一気読み【3/11-17】
https://rondan.net/18174#comment-6449

Contents

1 小室圭問題はとうとう最終局面に

2 『女性自身』(2019.3.26号)「眞子さま焦がれる小室圭さん 初休み“電撃帰国”に」

3 『週刊大衆』(2019.3.25号)「小室母子、地元での悪評」

4 『Flash』(2019.3.26号) 「佳子さま盗撮!」

5 『週刊新潮』(2019.3.21号)「小室母は自宅に籠城中?」

6 『女性セブン』(2019.3.28・4.4号)「眞子さま拒絶「小室報告書」の絶望」

7 代理人決定!?


小室圭問題はとうとう最終局面に

今週もまたまた動きのあった小室圭問題。毎週・毎日のようにネタを提供するという疑惑の総合商社状態です。

また今週は、天皇陛下の退位儀式がはじまり、悠仁さまが小学校を卒業されるなどイベントが連続しました。これらは来週の週刊誌に載るでしょう。

↓先週の復習

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【小室圭さん御母堂に新疑惑/3人死亡】今週の皇室記事まとめ一気読み【3/4-10】
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↓「イジメ」の歴史を振り返る

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『女性自身』(2019.3.26号)「眞子さま焦がれる小室圭さん 初休み“電撃帰国”に」

今週の『女性自身』は、小室圭さんが、春休みを利用して3/16~24に電撃帰国するのではないか、という内容の報道。


借金トラブルに関しては、小室さん側は代理人弁護士を立て、元婚約者との話し合いが進んでいく可能性が濃厚なのだが、小室さんが近々、動きを見せる可能性が。

「3月16日から24日までの間、小室さんが通うロースクールは春休みに入ります。この期間に“電撃帰国”を果たして、秋穣宮ご夫妻に面会を求める可能性があると、関係者の聞で囁かれているのです。しかし、小室さんが帰国するとなると、マスコミの秋篠宮家に関する報道が過熱するのは目に見えていて、ご夫妻にとっては複雑な心境でしょう」(宮内庁関係者)

『女性自身』(2019.3.26号)「眞子さま焦がれる小室圭さん 初休み“電撃帰国”に 紀子さま重要ポスト女性職員が辞職でナーバスな日々」
しかし冷静に考えて、帰ってくる可能性はほぼゼロでしょう。帰ってきたところで何も前進しませんし、袋叩きにされるだけでしょうから。

また紀子さまが、「職員をイジメて辞めさせた」という噂が出ない様にナーバスになっているという報道。


「紀子さまは、以前から職員に対して求める仕事のレベルが高く、厳しく注意するため、辞める職員が頻繁にいて、週刊誌などでも時折、報じられていました。

そんな中、実は今年2月に、秋棲宮家の女性職員が病気を理由に辞職しました。しかもこの方は、秋穣宮家が“皇嗣家”になったあとに重要なポストを担われると言われていたのです。

さらに病気という理由で辞職したのに、わざわざ宮内庁関係者が“紀子さまによる理由で辞めたわけではない”と、ふれ回っていたそうです。

秋篠宮家の評判をなるだけ落とさないようにするための紀子さまからの指示だと思われますが、かなり“ナーバス”になられているみたいですね」(秋篠宮家関係者)


『女性自身』(2019.3.26号)「眞子さま焦がれる小室圭さん 初休み“電撃帰国”に——紀子さま重要ポスト女性職員が辞職でナーバスな日々」
いろいろと紀子さまがナーバスになられているのは事実でしょうが、やや邪推しすぎかなという内容でした。


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『週刊大衆』(2019.3.25号)「小室母子、地元での悪評」


『週刊大衆』は、小室母子は地元でも評判が悪いという内容、いつもながら信憑性の薄い伝聞記事。


暗雲垂れ込める虞子様と小室さんのご結婚だが、地元商庖衝では、もはや口にするのもはばかれる状況だという。

「あれだけ盛り上がったのに、ドロドロとした金銭トラブルなんて、小室さん親子は今や“地元の恥さらし”……。当初の盛り上がりも、なかったことにしたいぐらいです」

と、本誌記者の直撃を受けた商店街の買い物客も、肩を落としていた。
『週刊大衆』(2019.3.25号)


「小室さん一家の母子愛は、少し“異常”とも見られるものがありました。圭くんの学生時代、佳代さんも圭くんも通勤や通学に地元の大倉山駅を使っていました。そこで“別れの熱烈なハグ”を恋人同士のようにしてから、別々の電車に乗り込むんです。仲良し母子なんでしょうけど、いい年して……と正直、あきれていました」(大倉山駅利用者)
『週刊大衆』(2019.3.25号)

などと、冷静に考えてもっとインタビューするのに相応しい相手がいるだろうと(笑) 利用者の多い大倉山駅のなかから、ピンポイントで小室母子を知っている人を見つけられる可能性は高くはないでしょう。


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『Flash』(2019.3.26号) 「佳子さま盗撮!」

『Flash』は、佳子さま盗撮ネタ。インペリアルアイドルゆえの宿命でしょうか?

お忍びでダンスレッスンを受けられる佳子さまの図。

関係者の間で出回っているダンスDVDからのキャプチャーも載っています。

留学されるのか、公務に専念されるのか、進路の節目を迎えている佳子さま。


「眞子さまのように海外留学をなさるとすれば秋からでしょう。4月に進路を確定されることははなく、しばらくは進路のご準備をしながら、公務に専念なさると思います。『行事より勉学』優先が皇室の伝統ですから、たとえ御代替わりの年でも、佳子さまが海外留学なさるとなれば、ご家族や家族は快く後押しするでしょう。」(宮内庁関係者)

「ただ眞子さまと御両親のぎくしゃくが伝えられる秋篠宮家で、佳子さまは双方を取り持つことができる方。ご家族には『そばにいてほしい』という気持ちもあるはずです」(宮内庁関係者)
『Flash』(2019.3.26号)


眞子さまのようなコトになりませんよう祈っております。


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『週刊新潮』(2019.3.21号)「小室母は自宅に籠城中?」

『週刊新潮』は、小室問題について、まず美智子さまが❶「将来設計」❷「金銭感覚」❸「母親の居場所」という三点を危惧していると伝えています。

ちょっと日本語が錯綜した記事で、❷について、美智子さまは法律事務所から生活資金の貸与を受けていると知っておきながら、「ニューヨークというのは、暮らすだけでもお金がかかるところでしょう。それはどこから、どのようになさっているのかしら」と疑問の声をあげているとか書いてあります。

また、 宮内庁では「破談が規定路線」と煽っている割には、小室圭さんの「将来設計」や「金銭感覚」を美智子さまが危惧するという、ちょっと論理的にオカシナ文章まで(笑)


「皇后さまは『一体どうなっているのですか。なぜ誰も(居所を)把握できていないのですか』と、焦燥を募らせておいでです。“破談”が既定路線とはいえ、小室さんは今なお眞子さまの婚約内定者として、国内では警察の警護対象となっている。その実母であり、結婚行事が延期される原因となった佳代さんが、まるで行方不明のような状況であることをあるまじき事態だと捉え、強く憂慮なさっているのです」

「そうした状況を前に皇后さまは、おもに警察出身の側近などに『(佳代さんの)情報は入ってこないのですか』『それを集めて報告するのも、お仕事でしょう』などと、時として苛立ちを露わになさる場面も見受けられるのです」 (同じ)
『週刊新潮』(2019.3.21号)
また❸「母親の居場所」については、聞き込みにより自宅籠城説を唱えています。


さる地元の住民は、こう明かすのだ。

「圭さんが渡米後も、引き続き自宅に住み続けています。職場を休んでいるのは、外に出て騒がれたくないからで、同居する朗代のお父さんに食材などの買い物を頼み、本人はひたすら自宅に龍っているのです」

実際に、自転車に乗って買い出しに向かう佳代さんの実父の姿が、最近でもしばしば目撃されている。
『週刊新潮』(2019.3.21号) 
これは恐らく正しいでしょう。小室邸の前にはまだポリスボックスがありますし、待機しているジャーナリストたちの視線を抜けて脱出することは困難であるように思えます。


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『女性セブン』(2019.3.28・4.4号)「眞子さま拒絶「小室報告書」の絶望」

『女性セブン』は冒頭グラビアで、美智子さまから雅子さまへの「ロイヤル・バトンタッチ」を特集。雅子さまアゲアゲが続いています。

また小室圭さんの身元「報告書」が宮内庁でつくられなかった理由は、眞子さまの反対があったからであろうとの推測。


「宮内庁としては、皇室会議を経てお相手を皇室に迎え入れる男性皇族の場合はご結婚相手に関心を持ちます。しかし、眞子さまは降嫁され、小室さんは皇族になるわけではないので、小室家のプライベートへの関心は低かった。それでも、普通の親子の会話として、“彼はどんな人柄なの?どんなご家庭なの?”と尋ねることはごく自然なことです。

ただ、秋篠宮ご夫妻が、小室家についていろいろ尋ねたり、調べたりすることについて、眞子さまが拒否反応を示されたようです。そもそも、小室さんが眞子さまに正直にすべてを話していなかったので、心配されていなかったということもあります。ご夫婦も眞子さまを信用され、深くは詮索されなかったのでしょう」(秋篠宮家に近い関係者)

『女性セブン』(2019.3.28・4.4号)「眞子さま拒絶された「小室報告書」の決定的急所」 

そして、事態が事態なので、宮内庁も重い腰を上げて「報告書」を作らなければならないだろうこと、そしてもし作られれば「暴力団との関係」が明らかになるので、破談になる可能性が高いとまとめています。


婚約内定会見後、小室家については、父親や祖父の自死や借金トラブル、さらに祖母の自殺が報じられてきた。

その中でも、“報告書”の急所となりそうなのが、小室さんの祖父が亡くなったときの「遺産分割協議」だ。

母・佳代さんは小室さんに遺産を相続させるため、かつて暴力団と関係があった男性を自分の代理人にして、親族と話し合いの場を持ったという。その結果、小室さんは相当な額の現金を相続し、中高6年間で1000万円を超える学費がかかるインターナショナルスクールに進学したということは、本誌前号で詳報した。


『女性セブン』(2019.2.28・4.4号)「眞子さま拒絶された「小室報告書」の決定的急所」
ここまで報じられたからには、宮内庁、秋篠宮家、もしくは小室母子から納得のいく説明がないかぎり、国民感情は悪化の一途をたどるような…。


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代理人決定!?

また最後に、小室圭さんの母・佳代さんとの間で金銭トラブルを起こしている、元婚約者に「代理人」が決定したとの朗報です。

しかし何故かその「代理人」は弁護士ではなく、50代の匿名フリー記者という謎…。なんでこう小室母子界隈は怪しさ満点なのでしょうか?


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来週もまた目が離せません!


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▲△▽▼

秋篠宮家に関するデマを現在、執拗に流しているのは、創価学会、統一教会、ワールドメイト

秋篠宮家に関するデマを現在、執拗に流しているのは、創価学会、統一教会、ワールドメイト辺りが主体だと思われるが、邪教の僕や闇の生物達がいくら嘘を垂れ流しても、分かる人間には通用しないものである。

盲 人の見ざるは日月の咎にあらず、という諺があるが、太陽や月を盲人が見られないのは、太陽や月のせいではない、という意味である。誤解や偏見が多いのは秋 篠宮家にも責任がある、ともっともらしく言う人間が居そうだが、そういう愚かな人達には、上記の諺を謹んで進呈したい。

小和田家の後ろ暗さ、雅子妃の入内の経緯や、秋篠宮家についての悪質なデマを流した皇族がいたことについては、過去の記事を参照して欲しいが、秋篠宮紀子妃殿下の経験された御苦労が、いずれ大輪の花となって報われることを望む次第である。
https://blog.goo.ne.jp/teitofukkou/e/1cc3c679195b91a91fe9282dfaf9a145

▲△▽▼

匿名 より: 2019年3月17日 7:38 PM
全部創価の流すデマだよ


匿名 より: 2019年3月17日 8:08 PM

犯罪ですらないのに大騒ぎするのが創価学会のあくどさだな

匿名 より: 2019年3月17日 9:31 PM


小室圭問題では外務省創価グループがデマを拡散しているんだ。

創価学会とか赤軍派みたいなカルトは自己批判させたり総括させるのが好きだから
右翼・左翼の違いは有っても、やってる事は同じになってしまうんだ。

▲△▽▼


 「女の男性関係は、女の人にも問題があり常に男だけに責任があるということにはならない。女の人の場合には、身に着けるものとか動作とかに問題が表れるのであるから、そういうところをもっている人は今のうちに総括しておきなさい。そういうことがいつまでも総括できないでいると、遠山さんみたいな傾向になってしまうことになる」といって、女性たちに総括を求めた。

「あんた、可愛すぎるのよ。それにあんた、ずっと男ばかりの兄弟に囲まれて育ってきたから、男にこびる方法を無意識のうちに身につけてしまっている。だから、あんたは動作やしぐさなどなんでも男に気に入られるようにやってしまっている。このことを総括しなくちゃだめなのよ」

(永田洋子・「十六の墓標(下)」)

 「男や女が明確な基準もなしに「好きだ」という事で関係を結ぶのは、本能的な欲望に基づいたブルジョア的な男性観や女性観によるものであり、そうした関係は男女相互の共産主義化にとって障害になる、共産主義化された男女関係のためには女が革命戦士として自立する必要があり、そのためには、何よりも女が男に対して無意識に行う<女>の顕示を克服しなければならない。」
と。
(永田洋子・「氷解−女の自立を求めて」)

遠山美枝子は 「女らしさ」 を批判された

遠山さんは、他の人が発言している最中に、ブラシで髪をとかしたり、クリームを唇に塗ったり、ねそべったりしていた。私は、こうした態度を苦々しく思った。
(永田洋子・「十六の墓標(下)」)

革命左派の批判は、指輪をしている、会議中髪の毛をとかした、服装が派手、男に指示だけして自分は動かない、といったことが、戦士としてふさわしくないということであった。

 一方、森の批判は、遠山が女を売りにして男を利用していると決めつけ、過去の活動をひとつひとつそれに結びつけていくものだった。どちらの批判も、いきつくところは、遠山の 「女らしさ」 が批判の対象だったのである。

遠山美枝子は自分で自分の顔を殴った

 再び遠山が黙っていると、森が強い口調でいい出した。

「どうだ、総括できるか!」
「何とか総括します」
「総括するといっているが、自分でできるんか?(後略)」
「自分で絶対に総括をやりきります」
「自分でやるというなら、援助しないぞ。援助しないということがどういうことか判るか!」
「・・・・・」
「今までの場合は、我々が殴って総括を援助してきたが、自分でやるというなら自分で自分を殴れ!」

 実は、「援助」うんぬんではなく、森の本音は「ブルジョア的女性の解体」だった。

 遠山さんは、左右の手を拳にして自分の顔を殴り始めた。

 遠山さんが両拳で交互に顔を殴り、顔が腫れてくると、森君は、「唇を殴れ」と命じた。遠山さんが唇を殴ると、唇が切れて血が飛び散り、凄惨な状態になった。みんな、口々に、「休むな!」とか「もっと続けろ!」とか言って叱咤した。

 さらに遠山さんの正面にたっていた大槻さんや、杉崎さんや、寺林さんたちが、「どうしたのさ、もうやめるの」、「どこを殴っているのさ」などといった。

 一度しゃがみこもうとしたとき、遠山さんのまん前にいた森氏は、「もっと続けろ」といいながら、遠山さんの頭を蹴飛ばした。そのため遠山さんは少しも休むことができなかった。

 革命左派の女性メンバーは共同軍事訓練 のときからの遠山に対して厳しかったが、このときも容赦なかった。

 遠山さんは約30分、唇を殴れとか、顔を殴れとか言われるまま休みなく殴り続けた。口から血が出て、床に滴り落ち、顔はボールのように腫れ上がった。ようやく森君が、中止の命令を出した。
(坂口弘・「続・あさま山荘1972」)

■「あなたの綺麗な顔がこんなに醜い顔になった」(永田洋子)

 
 すると永田さんが鏡を彼女の前に突き出し、醜くなった自分の顔を見るように言った。遠山さんは怨めしそうに鏡の中の自分を見た。
(坂口弘・「続・あさま山荘1972」)

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[社会問題9] 語られ始めた皇太子「退位論」は説得力があるか・・が、語られるだけでも適応失調の天皇家! 墨染
192. 中川隆[-11404] koaQ7Jey 2019年3月17日 22:04:39 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[594]

2019.03.17
【小室圭問題/佳子さま盗撮】今週の皇室記事まとめ一気読み【3/11-17】
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Contents

1 小室圭問題はとうとう最終局面に

2 『女性自身』(2019.3.26号)「眞子さま焦がれる小室圭さん 初休み“電撃帰国”に」

3 『週刊大衆』(2019.3.25号)「小室母子、地元での悪評」

4 『Flash』(2019.3.26号) 「佳子さま盗撮!」

5 『週刊新潮』(2019.3.21号)「小室母は自宅に籠城中?」

6 『女性セブン』(2019.3.28・4.4号)「眞子さま拒絶「小室報告書」の絶望」

7 代理人決定!?


小室圭問題はとうとう最終局面に

今週もまたまた動きのあった小室圭問題。毎週・毎日のようにネタを提供するという疑惑の総合商社状態です。

また今週は、天皇陛下の退位儀式がはじまり、悠仁さまが小学校を卒業されるなどイベントが連続しました。これらは来週の週刊誌に載るでしょう。

↓先週の復習

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↓「イジメ」の歴史を振り返る

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『女性自身』(2019.3.26号)「眞子さま焦がれる小室圭さん 初休み“電撃帰国”に」

今週の『女性自身』は、小室圭さんが、春休みを利用して3/16~24に電撃帰国するのではないか、という内容の報道。


借金トラブルに関しては、小室さん側は代理人弁護士を立て、元婚約者との話し合いが進んでいく可能性が濃厚なのだが、小室さんが近々、動きを見せる可能性が。

「3月16日から24日までの間、小室さんが通うロースクールは春休みに入ります。この期間に“電撃帰国”を果たして、秋穣宮ご夫妻に面会を求める可能性があると、関係者の聞で囁かれているのです。しかし、小室さんが帰国するとなると、マスコミの秋篠宮家に関する報道が過熱するのは目に見えていて、ご夫妻にとっては複雑な心境でしょう」(宮内庁関係者)

『女性自身』(2019.3.26号)「眞子さま焦がれる小室圭さん 初休み“電撃帰国”に 紀子さま重要ポスト女性職員が辞職でナーバスな日々」
しかし冷静に考えて、帰ってくる可能性はほぼゼロでしょう。帰ってきたところで何も前進しませんし、袋叩きにされるだけでしょうから。

また紀子さまが、「職員をイジメて辞めさせた」という噂が出ない様にナーバスになっているという報道。


「紀子さまは、以前から職員に対して求める仕事のレベルが高く、厳しく注意するため、辞める職員が頻繁にいて、週刊誌などでも時折、報じられていました。

そんな中、実は今年2月に、秋棲宮家の女性職員が病気を理由に辞職しました。しかもこの方は、秋穣宮家が“皇嗣家”になったあとに重要なポストを担われると言われていたのです。

さらに病気という理由で辞職したのに、わざわざ宮内庁関係者が“紀子さまによる理由で辞めたわけではない”と、ふれ回っていたそうです。

秋篠宮家の評判をなるだけ落とさないようにするための紀子さまからの指示だと思われますが、かなり“ナーバス”になられているみたいですね」(秋篠宮家関係者)


『女性自身』(2019.3.26号)「眞子さま焦がれる小室圭さん 初休み“電撃帰国”に——紀子さま重要ポスト女性職員が辞職でナーバスな日々」
いろいろと紀子さまがナーバスになられているのは事実でしょうが、やや邪推しすぎかなという内容でした。


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『週刊大衆』(2019.3.25号)「小室母子、地元での悪評」


『週刊大衆』は、小室母子は地元でも評判が悪いという内容、いつもながら信憑性の薄い伝聞記事。


暗雲垂れ込める虞子様と小室さんのご結婚だが、地元商庖衝では、もはや口にするのもはばかれる状況だという。

「あれだけ盛り上がったのに、ドロドロとした金銭トラブルなんて、小室さん親子は今や“地元の恥さらし”……。当初の盛り上がりも、なかったことにしたいぐらいです」

と、本誌記者の直撃を受けた商店街の買い物客も、肩を落としていた。
『週刊大衆』(2019.3.25号)


「小室さん一家の母子愛は、少し“異常”とも見られるものがありました。圭くんの学生時代、佳代さんも圭くんも通勤や通学に地元の大倉山駅を使っていました。そこで“別れの熱烈なハグ”を恋人同士のようにしてから、別々の電車に乗り込むんです。仲良し母子なんでしょうけど、いい年して……と正直、あきれていました」(大倉山駅利用者)
『週刊大衆』(2019.3.25号)

などと、冷静に考えてもっとインタビューするのに相応しい相手がいるだろうと(笑) 利用者の多い大倉山駅のなかから、ピンポイントで小室母子を知っている人を見つけられる可能性は高くはないでしょう。


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『Flash』(2019.3.26号) 「佳子さま盗撮!」

『Flash』は、佳子さま盗撮ネタ。インペリアルアイドルゆえの宿命でしょうか?

お忍びでダンスレッスンを受けられる佳子さまの図。

関係者の間で出回っているダンスDVDからのキャプチャーも載っています。

留学されるのか、公務に専念されるのか、進路の節目を迎えている佳子さま。


「眞子さまのように海外留学をなさるとすれば秋からでしょう。4月に進路を確定されることははなく、しばらくは進路のご準備をしながら、公務に専念なさると思います。『行事より勉学』優先が皇室の伝統ですから、たとえ御代替わりの年でも、佳子さまが海外留学なさるとなれば、ご家族や家族は快く後押しするでしょう。」(宮内庁関係者)

「ただ眞子さまと御両親のぎくしゃくが伝えられる秋篠宮家で、佳子さまは双方を取り持つことができる方。ご家族には『そばにいてほしい』という気持ちもあるはずです」(宮内庁関係者)
『Flash』(2019.3.26号)


眞子さまのようなコトになりませんよう祈っております。


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『週刊新潮』(2019.3.21号)「小室母は自宅に籠城中?」

『週刊新潮』は、小室問題について、まず美智子さまが❶「将来設計」❷「金銭感覚」❸「母親の居場所」という三点を危惧していると伝えています。

ちょっと日本語が錯綜した記事で、❷について、美智子さまは法律事務所から生活資金の貸与を受けていると知っておきながら、「ニューヨークというのは、暮らすだけでもお金がかかるところでしょう。それはどこから、どのようになさっているのかしら」と疑問の声をあげているとか書いてあります。

また、 宮内庁では「破談が規定路線」と煽っている割には、小室圭さんの「将来設計」や「金銭感覚」を美智子さまが危惧するという、ちょっと論理的にオカシナ文章まで(笑)


「皇后さまは『一体どうなっているのですか。なぜ誰も(居所を)把握できていないのですか』と、焦燥を募らせておいでです。“破談”が既定路線とはいえ、小室さんは今なお眞子さまの婚約内定者として、国内では警察の警護対象となっている。その実母であり、結婚行事が延期される原因となった佳代さんが、まるで行方不明のような状況であることをあるまじき事態だと捉え、強く憂慮なさっているのです」

「そうした状況を前に皇后さまは、おもに警察出身の側近などに『(佳代さんの)情報は入ってこないのですか』『それを集めて報告するのも、お仕事でしょう』などと、時として苛立ちを露わになさる場面も見受けられるのです」 (同じ)
『週刊新潮』(2019.3.21号)
また❸「母親の居場所」については、聞き込みにより自宅籠城説を唱えています。


さる地元の住民は、こう明かすのだ。

「圭さんが渡米後も、引き続き自宅に住み続けています。職場を休んでいるのは、外に出て騒がれたくないからで、同居する朗代のお父さんに食材などの買い物を頼み、本人はひたすら自宅に龍っているのです」

実際に、自転車に乗って買い出しに向かう佳代さんの実父の姿が、最近でもしばしば目撃されている。
『週刊新潮』(2019.3.21号) 
これは恐らく正しいでしょう。小室邸の前にはまだポリスボックスがありますし、待機しているジャーナリストたちの視線を抜けて脱出することは困難であるように思えます。


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『女性セブン』(2019.3.28・4.4号)「眞子さま拒絶「小室報告書」の絶望」

『女性セブン』は冒頭グラビアで、美智子さまから雅子さまへの「ロイヤル・バトンタッチ」を特集。雅子さまアゲアゲが続いています。

また小室圭さんの身元「報告書」が宮内庁でつくられなかった理由は、眞子さまの反対があったからであろうとの推測。


「宮内庁としては、皇室会議を経てお相手を皇室に迎え入れる男性皇族の場合はご結婚相手に関心を持ちます。しかし、眞子さまは降嫁され、小室さんは皇族になるわけではないので、小室家のプライベートへの関心は低かった。それでも、普通の親子の会話として、“彼はどんな人柄なの?どんなご家庭なの?”と尋ねることはごく自然なことです。

ただ、秋篠宮ご夫妻が、小室家についていろいろ尋ねたり、調べたりすることについて、眞子さまが拒否反応を示されたようです。そもそも、小室さんが眞子さまに正直にすべてを話していなかったので、心配されていなかったということもあります。ご夫婦も眞子さまを信用され、深くは詮索されなかったのでしょう」(秋篠宮家に近い関係者)

『女性セブン』(2019.3.28・4.4号)「眞子さま拒絶された「小室報告書」の決定的急所」 

そして、事態が事態なので、宮内庁も重い腰を上げて「報告書」を作らなければならないだろうこと、そしてもし作られれば「暴力団との関係」が明らかになるので、破談になる可能性が高いとまとめています。


婚約内定会見後、小室家については、父親や祖父の自死や借金トラブル、さらに祖母の自殺が報じられてきた。

その中でも、“報告書”の急所となりそうなのが、小室さんの祖父が亡くなったときの「遺産分割協議」だ。

母・佳代さんは小室さんに遺産を相続させるため、かつて暴力団と関係があった男性を自分の代理人にして、親族と話し合いの場を持ったという。その結果、小室さんは相当な額の現金を相続し、中高6年間で1000万円を超える学費がかかるインターナショナルスクールに進学したということは、本誌前号で詳報した。


『女性セブン』(2019.2.28・4.4号)「眞子さま拒絶された「小室報告書」の決定的急所」
ここまで報じられたからには、宮内庁、秋篠宮家、もしくは小室母子から納得のいく説明がないかぎり、国民感情は悪化の一途をたどるような…。


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代理人決定!?

また最後に、小室圭さんの母・佳代さんとの間で金銭トラブルを起こしている、元婚約者に「代理人」が決定したとの朗報です。

しかし何故かその「代理人」は弁護士ではなく、50代の匿名フリー記者という謎…。なんでこう小室母子界隈は怪しさ満点なのでしょうか?


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当ブログ取材班は、小室邸近辺で聞き込みをしており、大変興味深い証言が多数取れました。来週から順次アップしていく予定です。

来週もまた目が離せません!


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▲△▽▼

秋篠宮家に関するデマを現在、執拗に流しているのは、創価学会、統一教会、ワールドメイト

秋篠宮家に関するデマを現在、執拗に流しているのは、創価学会、統一教会、ワールドメイト辺りが主体だと思われるが、邪教の僕や闇の生物達がいくら嘘を垂れ流しても、分かる人間には通用しないものである。

盲 人の見ざるは日月の咎にあらず、という諺があるが、太陽や月を盲人が見られないのは、太陽や月のせいではない、という意味である。誤解や偏見が多いのは秋 篠宮家にも責任がある、ともっともらしく言う人間が居そうだが、そういう愚かな人達には、上記の諺を謹んで進呈したい。

小和田家の後ろ暗さ、雅子妃の入内の経緯や、秋篠宮家についての悪質なデマを流した皇族がいたことについては、過去の記事を参照して欲しいが、秋篠宮紀子妃殿下の経験された御苦労が、いずれ大輪の花となって報われることを望む次第である。
https://blog.goo.ne.jp/teitofukkou/e/1cc3c679195b91a91fe9282dfaf9a145

▲△▽▼

匿名 より: 2019年3月17日 7:38 PM
全部創価の流すデマだよ


匿名 より: 2019年3月17日 8:08 PM

犯罪ですらないのに大騒ぎするのが創価学会のあくどさだな

匿名 より: 2019年3月17日 9:31 PM


小室圭問題では外務省創価グループがデマを拡散しているんだ。

創価学会とか赤軍派みたいなカルトは自己批判させたり総括させるのが好きだから
右翼・左翼の違いは有っても、やってる事は同じになってしまうんだ。

▲△▽▼


 「女の男性関係は、女の人にも問題があり常に男だけに責任があるということにはならない。女の人の場合には、身に着けるものとか動作とかに問題が表れるのであるから、そういうところをもっている人は今のうちに総括しておきなさい。そういうことがいつまでも総括できないでいると、遠山さんみたいな傾向になってしまうことになる」といって、女性たちに総括を求めた。

「あんた、可愛すぎるのよ。それにあんた、ずっと男ばかりの兄弟に囲まれて育ってきたから、男にこびる方法を無意識のうちに身につけてしまっている。だから、あんたは動作やしぐさなどなんでも男に気に入られるようにやってしまっている。このことを総括しなくちゃだめなのよ」

(永田洋子・「十六の墓標(下)」)

 「男や女が明確な基準もなしに「好きだ」という事で関係を結ぶのは、本能的な欲望に基づいたブルジョア的な男性観や女性観によるものであり、そうした関係は男女相互の共産主義化にとって障害になる、共産主義化された男女関係のためには女が革命戦士として自立する必要があり、そのためには、何よりも女が男に対して無意識に行う<女>の顕示を克服しなければならない。」
と。
(永田洋子・「氷解−女の自立を求めて」)

遠山美枝子は 「女らしさ」 を批判された

遠山さんは、他の人が発言している最中に、ブラシで髪をとかしたり、クリームを唇に塗ったり、ねそべったりしていた。私は、こうした態度を苦々しく思った。
(永田洋子・「十六の墓標(下)」)

革命左派の批判は、指輪をしている、会議中髪の毛をとかした、服装が派手、男に指示だけして自分は動かない、といったことが、戦士としてふさわしくないということであった。

 一方、森の批判は、遠山が女を売りにして男を利用していると決めつけ、過去の活動をひとつひとつそれに結びつけていくものだった。どちらの批判も、いきつくところは、遠山の 「女らしさ」 が批判の対象だったのである。

遠山美枝子は自分で自分の顔を殴った

 再び遠山が黙っていると、森が強い口調でいい出した。

「どうだ、総括できるか!」
「何とか総括します」
「総括するといっているが、自分でできるんか?(後略)」
「自分で絶対に総括をやりきります」
「自分でやるというなら、援助しないぞ。援助しないということがどういうことか判るか!」
「・・・・・」
「今までの場合は、我々が殴って総括を援助してきたが、自分でやるというなら自分で自分を殴れ!」

 実は、「援助」うんぬんではなく、森の本音は「ブルジョア的女性の解体」だった。

 遠山さんは、左右の手を拳にして自分の顔を殴り始めた。

 遠山さんが両拳で交互に顔を殴り、顔が腫れてくると、森君は、「唇を殴れ」と命じた。遠山さんが唇を殴ると、唇が切れて血が飛び散り、凄惨な状態になった。みんな、口々に、「休むな!」とか「もっと続けろ!」とか言って叱咤した。

 さらに遠山さんの正面にたっていた大槻さんや、杉崎さんや、寺林さんたちが、「どうしたのさ、もうやめるの」、「どこを殴っているのさ」などといった。

 一度しゃがみこもうとしたとき、遠山さんのまん前にいた森氏は、「もっと続けろ」といいながら、遠山さんの頭を蹴飛ばした。そのため遠山さんは少しも休むことができなかった。

 革命左派の女性メンバーは共同軍事訓練 のときからの遠山に対して厳しかったが、このときも容赦なかった。

 遠山さんは約30分、唇を殴れとか、顔を殴れとか言われるまま休みなく殴り続けた。口から血が出て、床に滴り落ち、顔はボールのように腫れ上がった。ようやく森君が、中止の命令を出した。
(坂口弘・「続・あさま山荘1972」)

■「あなたの綺麗な顔がこんなに醜い顔になった」(永田洋子)

 
 すると永田さんが鏡を彼女の前に突き出し、醜くなった自分の顔を見るように言った。遠山さんは怨めしそうに鏡の中の自分を見た。
(坂口弘・「続・あさま山荘1972」)

https://rondan.net/18174


http://www.asyura2.com/12/social9/msg/352.html#c192

[議論21] 「縄文時代はよかった。」で?どうやって縄文時代のいい所を取り入れるのか? ワヤクチャ
42. 中川隆[-11406] koaQ7Jey 2019年3月18日 06:48:37 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[592]
「縄文時代、人は何を考え、何を築いてきたか」第5回〜クリが縄文人を作った、縄文人がクリを作った
http://web.joumon.jp.net/blog/2019/03/3438.html


クリと縄文社会は密接に繋がっている。

縄文中期の巨大集落、三内丸山ではくりの栽培が盛んに行われていた事は有名な話だ。今回はこのクリをテーマにどのようにクリと縄文人が繋がり相互に繁栄したかを追いかけていきたい。

今回も「縄文探検隊の記録」からの紹介ですが、少し方法を変えて、本文はこちらで書き、それを示す記事を間に入れていきます。>は著書からの抜粋です。

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クリの歴史】
クリは日本列島に1億年くらい前からずっとある植物。白亜紀の地層からクリの化石が出てきている。1億年は恐竜が闊歩していた時期で非常に長い歴史を持つ植物である。最終氷河期の終わりごろから温暖化と時期を重ねて爆発的に増えていく。
クリの利用は1万3800年頃が一番古く、1万2千年前には建物の基礎として杭の代わりに使われた。
材で利用されたのが早いかと言うとそうでもない。食用利用も1万2700年前には福井県鳥浜で確認されており、食と材、ほぼ同時期に利用が始まった事が推察される。

>クリはひょっとして、縄文人の暮らしの中でかなり重要な位置を占めていた植物ではないかと考えられるようになったのは、考古学植物学の有効性がわかりだしてからですね。

栽培に向い始めたのはいつからだろうか?】
一番古いクリの木が出る1万2000年前頃から花粉が増え、9000年前頃にどっと増える。それをどう解釈するか。気候の急激な変化に伴ってクリが一気に増えたのか、それとも定住を始めた人間が意図的に増やしたのかが焦点になる。

>植生というのはきっかけがあると変わっていくものです。最初はシイやブナのような大きな木を中心とする生態系ができて安定した状態にはなりますが、シイやブナはずっと主役ではいられない。何かアクシデントがあれば、たとえば山火事や土砂崩れのようなことが起きると、森という劇場の配役はリセットされてしまうのです。そうしたところにいち早く生える先駆主がアカマツやクリなのです。しかし、シイのような巨木になる木がまた生え始め,陰を作るようになると退場を余儀なくされます。つまり、クリは植生の遷移の中で一時的に登場する木であって、自然の森の中では永遠の主役ではないのです。
>私達の説では地球が急激に温暖化したことでクリの木も勢いづいた。それが鳥浜の縄文人の暮らしを形成した。
>狩猟採採集生活といっても、縄文時代はそこら辺が大きく違います。数世帯が必要なものを周りからかき集め、永続的に活動できるセンターを作っていた。そういう定住生活、センターを縄文の「むら」と呼んでいるのです。
>クリは人間との出会いによって繁栄のチャンスを得たといってもようように思う。
>本来クリは植生の遷移の中で消えていく木なのです。人間が森を壊したら、日当たりを好み、おいしい実のなるクリが偶々増え始めた。管理の第2段階は栽培。もっと実がたくさんほしい、もっとたくさんの木材が欲しい、その為にはクリの生長を妨げる他の木を排除する。或いは実を土に埋めて発芽させ、苗にして植える。問題は栽培はいつの時点から始まったと言えるか。私は縄文草創期から既に始まっていたと考えています。

>徐々にクリの有用性を知っていったのではなく、出合った最初から秘めている価値に気づき、すぐに栽培を試みたと考えます。彼らは定住を選択する前から自然環境の仕組みというものを熟知していた、生まれながらの観察者です。どういうふうにすれば自然は都合よく利用できるかということをわかっていたと思うのです。森を切り拓いてむらを作り始めた段階で、既にクリの有用性に気づいたと考えます。
>クリの栽培は定住の為の開発と同時期に始まった。
>大雑把な例えですが、人類の歴史を400万年とすれば、そのうちの399万年は遊動生活です。最後の1万年前から始まった定住生活は、人類の生き方の枠組そのものを完全に変えた。まさに大革命だったのです。

クリの有用性】

建材、木材としてのクリのメリット)
・成長が早い事(同じ太さを得る為にクリはスギやヒノキの約倍のスピードで生育する)
・加工のしやすさ。特に生木の時はとても細工がしやすい。石斧でも伐採しやすい、割り加工もしやすい。割裂性が非常によくてまっすぐ切れるのもクリ。
・湿気に強い事。防腐効果のあるタンニンをたくさん含んでおり、シロアリや腐朽菌におかされにくい。三内丸山の6本柱がクリでできている為、土中にあれだけの年月残ることができた。
上記に加えておいしい実もたくさんつける。縄文人にとってのクリはまさにスーパーツリーであった。

クリの木がどれほど使われていたか】

>文化財センターの研究によると、南関東の縄文遺跡では建材の8割がクリで、炉の燃え残りの炭も4割がクリだった。
>三内丸山で得られたデーターを見るとそれこそ「そこら中にクリが生えていた」

クリと縄文人の関係】
縄文人はクリをどのように扱い、この木に対する思いはどうだったのか?
c92f041beb7e0e0751cd6378257b2713

>三内丸山の巨大な柱(直径1m)から見て、統合のシンボルだったのだと思います。ひょっとするとそれぞれの集落の巨大なクリの木をここに集めたのかもしれない。
>自分達を見守ってくれる存在、クリの木が生きているうちからトーテムと位置付けていた可能性もあります。かなりの共通認識がないとあれだけの巨大なものは作れない。
>クリの木は縄文時代に津軽海峡を渡り、北海道に持ち込まれている。当時の人たちが舟で運んで移植した可能性がある。
>最終氷河期には南日本の海岸部にわずかしかなかったクリが温暖化が始まると爆発的に分布が広がった。縄文人がその分布の拡大を後押しした可能性がある。
>人とクリは出会うべくして出合った。人間活動の広がりに伴いクリの分布も広がった。
>つまり里山の起源ですね
>縄文人との共生的な関係を結んだ事によって、クリが拡散に成功したことは間違いありません。
>クリが神のような位置付けにあった可能性もあります。
>縄文人は家を解体するときに抜いた柱の穴の中に焼いたクリの実を入れています。つまり儀式です。トチの実の場合もありますが、クリが一番多い。今も神せん(供物)にクリは、はいっています。
>正月の栗きんとんもその名残か、日本人とクリの関係は今も神聖な繋がりがあるのです。
http://web.joumon.jp.net/blog/2019/03/3438.html
http://www.asyura2.com/0505/dispute21/msg/430.html#c42

[リバイバル4] 縄文時代、人は何を考え、何を築いてきたか

縄文時代、人は何を考え、何を築いてきたか

「縄文時代、人は何を考え、何を築いてきたか」第5回〜クリが縄文人を作った、縄文人がクリを作った
http://web.joumon.jp.net/blog/2019/03/3438.html

クリと縄文社会は密接に繋がっている。

縄文中期の巨大集落、三内丸山ではくりの栽培が盛んに行われていた事は有名な話だ。今回はこのクリをテーマにどのようにクリと縄文人が繋がり相互に繁栄したかを追いかけていきたい。

今回も「縄文探検隊の記録」からの紹介ですが、少し方法を変えて、本文はこちらで書き、それを示す記事を間に入れていきます。>は著書からの抜粋です。

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クリの歴史】
クリは日本列島に1億年くらい前からずっとある植物。白亜紀の地層からクリの化石が出てきている。1億年は恐竜が闊歩していた時期で非常に長い歴史を持つ植物である。最終氷河期の終わりごろから温暖化と時期を重ねて爆発的に増えていく。
クリの利用は1万3800年頃が一番古く、1万2千年前には建物の基礎として杭の代わりに使われた。
材で利用されたのが早いかと言うとそうでもない。食用利用も1万2700年前には福井県鳥浜で確認されており、食と材、ほぼ同時期に利用が始まった事が推察される。

>クリはひょっとして、縄文人の暮らしの中でかなり重要な位置を占めていた植物ではないかと考えられるようになったのは、考古学植物学の有効性がわかりだしてからですね。

栽培に向い始めたのはいつからだろうか?】
一番古いクリの木が出る1万2000年前頃から花粉が増え、9000年前頃にどっと増える。それをどう解釈するか。気候の急激な変化に伴ってクリが一気に増えたのか、それとも定住を始めた人間が意図的に増やしたのかが焦点になる。

>植生というのはきっかけがあると変わっていくものです。最初はシイやブナのような大きな木を中心とする生態系ができて安定した状態にはなりますが、シイやブナはずっと主役ではいられない。何かアクシデントがあれば、たとえば山火事や土砂崩れのようなことが起きると、森という劇場の配役はリセットされてしまうのです。そうしたところにいち早く生える先駆主がアカマツやクリなのです。しかし、シイのような巨木になる木がまた生え始め,陰を作るようになると退場を余儀なくされます。つまり、クリは植生の遷移の中で一時的に登場する木であって、自然の森の中では永遠の主役ではないのです。
>私達の説では地球が急激に温暖化したことでクリの木も勢いづいた。それが鳥浜の縄文人の暮らしを形成した。
>狩猟採採集生活といっても、縄文時代はそこら辺が大きく違います。数世帯が必要なものを周りからかき集め、永続的に活動できるセンターを作っていた。そういう定住生活、センターを縄文の「むら」と呼んでいるのです。
>クリは人間との出会いによって繁栄のチャンスを得たといってもようように思う。
>本来クリは植生の遷移の中で消えていく木なのです。人間が森を壊したら、日当たりを好み、おいしい実のなるクリが偶々増え始めた。管理の第2段階は栽培。もっと実がたくさんほしい、もっとたくさんの木材が欲しい、その為にはクリの生長を妨げる他の木を排除する。或いは実を土に埋めて発芽させ、苗にして植える。問題は栽培はいつの時点から始まったと言えるか。私は縄文草創期から既に始まっていたと考えています。

>徐々にクリの有用性を知っていったのではなく、出合った最初から秘めている価値に気づき、すぐに栽培を試みたと考えます。彼らは定住を選択する前から自然環境の仕組みというものを熟知していた、生まれながらの観察者です。どういうふうにすれば自然は都合よく利用できるかということをわかっていたと思うのです。森を切り拓いてむらを作り始めた段階で、既にクリの有用性に気づいたと考えます。
>クリの栽培は定住の為の開発と同時期に始まった。
>大雑把な例えですが、人類の歴史を400万年とすれば、そのうちの399万年は遊動生活です。最後の1万年前から始まった定住生活は、人類の生き方の枠組そのものを完全に変えた。まさに大革命だったのです。

クリの有用性】

建材、木材としてのクリのメリット)
・成長が早い事(同じ太さを得る為にクリはスギやヒノキの約倍のスピードで生育する)
・加工のしやすさ。特に生木の時はとても細工がしやすい。石斧でも伐採しやすい、割り加工もしやすい。割裂性が非常によくてまっすぐ切れるのもクリ。
・湿気に強い事。防腐効果のあるタンニンをたくさん含んでおり、シロアリや腐朽菌におかされにくい。三内丸山の6本柱がクリでできている為、土中にあれだけの年月残ることができた。
上記に加えておいしい実もたくさんつける。縄文人にとってのクリはまさにスーパーツリーであった。

クリの木がどれほど使われていたか】

>文化財センターの研究によると、南関東の縄文遺跡では建材の8割がクリで、炉の燃え残りの炭も4割がクリだった。
>三内丸山で得られたデーターを見るとそれこそ「そこら中にクリが生えていた」

クリと縄文人の関係】
縄文人はクリをどのように扱い、この木に対する思いはどうだったのか?
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>三内丸山の巨大な柱(直径1m)から見て、統合のシンボルだったのだと思います。ひょっとするとそれぞれの集落の巨大なクリの木をここに集めたのかもしれない。
>自分達を見守ってくれる存在、クリの木が生きているうちからトーテムと位置付けていた可能性もあります。かなりの共通認識がないとあれだけの巨大なものは作れない。
>クリの木は縄文時代に津軽海峡を渡り、北海道に持ち込まれている。当時の人たちが舟で運んで移植した可能性がある。
>最終氷河期には南日本の海岸部にわずかしかなかったクリが温暖化が始まると爆発的に分布が広がった。縄文人がその分布の拡大を後押しした可能性がある。
>人とクリは出会うべくして出合った。人間活動の広がりに伴いクリの分布も広がった。
>つまり里山の起源ですね
>縄文人との共生的な関係を結んだ事によって、クリが拡散に成功したことは間違いありません。
>クリが神のような位置付けにあった可能性もあります。
>縄文人は家を解体するときに抜いた柱の穴の中に焼いたクリの実を入れています。つまり儀式です。トチの実の場合もありますが、クリが一番多い。今も神せん(供物)にクリは、はいっています。
>正月の栗きんとんもその名残か、日本人とクリの関係は今も神聖な繋がりがあるのです。
http://web.joumon.jp.net/blog/2019/03/3438.html

http://www.asyura2.com/18/revival4/msg/131.html

[リバイバル3] 中川隆 _ 古代史、人類学、ハプロタイプ、民族学関係投稿リンク 中川隆
15. 中川隆[-11405] koaQ7Jey 2019年3月18日 06:53:07 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[593]
縄文時代、人は何を考え、何を築いてきたか
http://www.asyura2.com/18/revival4/msg/131.html

http://www.asyura2.com/09/revival3/msg/811.html#c15
[近代史3] トルーマン :猿(日本人)を自由と言う名の檻で我々が飼うのだ、家畜が主人である我々のために貢献するのは当然の事である

トルーマン 猿(日本人)を『自由』と言う名の檻で我々が飼うのだ、家畜が主人である我々のために貢献するのは当然の事である


トルーマンの言葉

「猿(日本人)を『虚実の自由』と言う名の檻で我々が飼うのだ。
方法は彼らに多少の贅沢さと便利さを与えるだけで良い。
そしてスポーツ・スクリーン・セックス(3S)を解放させる。
これで真実から目を背けさせる事が出来る。猿は我々の家畜だからだ。

家畜が主人である我々のために貢献するのは当然の事である。そのために我々の財産でもある家畜の肉体は長寿にさせなければならない。(化学物質などで)病気にさせてしかも生かし続けるのだ。これによって我々は収穫を得続けるだろう。これは戦勝国の権限でもある」
https://pbs.twimg.com/media/DqbZiVDU0AA6Sv0.jpg

http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/292.html

[リバイバル3] 「住宅は資産」という幻想で誰があなたをカモにするのか? 中川隆
236. 中川隆[-11407] koaQ7Jey 2019年3月18日 07:43:08 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[592]
松本明子が語る「空き家」の苦労 25年間維持費を払い続けた
https://headlines.yahoo.co.jp/article?a=20190317-00000003-moneypost-bus_all&pos=1
マネーポストWEB 3/17(日) 15:00配信 週刊ポスト2019年3月22日号


実家に関する松本明子の苦労とは


 近年は、旅立つ人がしたためた「遺言書」の意向にできるだけ応えたいと願う家族も多い。だが、その願いが、残される人の“苦労”になってしまうこともある。

 タレントの松本明子(52)は、2018年1月に香川・高松市にあった実家を売却した。2003年に父が、2007年に母が他界したが、それ以前の1994年に東京に両親を呼び寄せていたため、実に25年にわたって「空き家状態」のまま、固定資産税や水道・光熱費を払い続けていた。

「維持費がかかるのはわかっていましたが、庭の草木が伸びて、害虫や動物が住み着くのも心配でした。なぜなら、近隣に迷惑をかける可能性がある『特定空き家』と判断されると、土地の固定資産税の優遇措置が適応されなくなるんですよ。なので定期的に地域のシルバー人材センターに剪定を頼んでいました」

 さらに2011年の東日本大震災が彼女の足を鈍らせた。

「万が一の時、実家を避難場所として残しておこうと思って、リフォームしたんです。まずは水回りを整えて、床の傾きを直し、クーラーやカーテンも設置。費用は総額で600万円ほどかかりました。ただ、リフォームしたはいいものの、以降も空き家状態で一度も使用していません。

 その後、テレビ番組の企画で、不動産業者に査定してもらったんですが、買取価格はたったの200万円。“じゃあ解体するとしたらいくらですか?”と尋ねると、500万円くらいかかる、と」(松本)

 幸運にも、県が運営する「空き家バンク」でUターン予定の購入希望者が現われ、リフォーム代に相当する金額で売却できた。

「実家を売却できてよかったと思います。そのまま残しておいたら、今度は私の息子に大変な苦労を背負わせることになっていたかもしれませんしね。

 もちろん、長い間実家を残しておいたことを、失敗だったとは思っていません。ただ、事前に両親と実家の“その後”をどうするかをもう少しきちんと話し合っておいてもよかったなと思っています」(松本)
http://www.asyura2.com/09/revival3/msg/615.html#c236

[リバイバル3] 株で儲ける方法教えてあげる(こっそり) 新スレ 中川隆
185. 中川隆[-11406] koaQ7Jey 2019年3月18日 07:54:17 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[593]

2019年03月18日
株価下落時に国内投資と海外投資のどちらが有利か


こういう時は日本株と海外株のどちらがより下落するのでしょうか


画像引用:http://tokyo239snapshot.blog.fc2.com/blog-entry-58.html

リーマンショックで日経とダウはどう動いたか?

最近も米中貿易などをめぐって株価などが変動していますが、過去10年ほどので様々なできごとがありました。

リーマンショックは既に11年前ですが、いまだにその時の損失から回復していない投資家も多い。

こうした経済変動の時、国内株など日本国内に投資したほうが良いのか、海外投資したほうが良いのか悩みどころです。



海外の混乱を避けて国内投資したのに、日本株の方が大きく下落する場合も多い。

リーマンショックは2007年夏に米国のサブプライムショックをきっかけに始まった、米国発の経済ショックでした。

サブプライムショック直前の2007年7月ダウ平均は14,121ドルで、2009年3月には6,440ドルまで下落しました。


ダウ平均が再びリーマンショック前の高値を超えたのは2013年3月4日で、14,128ドルの最高値を付けました。

この後ダウ平均は一気に上昇し、2013年12月31日には16,511ドルをつけてウォール街は大いに盛り上がりました。

これをパーセントで表すとリーマン前に14,121ドルだったのが約45.6%まで下落し、回復したのは5年8ヶ月後でした。


対する日経平均株価は2007年6月20日に18,297円の最高値をつけた後サブプライムショックが始まり、2008年10月28日に6,995円まで下げました。

リーマン前の最高値を回復したのはアベノミクス後の2015年2月19日18,322円で、15年末には19,033円で引けていました。

これもパーセントに直すと2007年6月20日に18,297円だった日経平均は約38%まで下落し、回復までに7年8か月かかっています。

『有事に強いドル』は生きている

途中で東日本大震災がありましたが、震災前の数字を見てもダウより回復が遅れていました。

これはリーマンショック時の比較ですが、アジア通貨危機でも湾岸ショックでもバブル崩壊でも、同じ傾向が見られます。

すなわち経済ショックの震源地がアメリカでも日本でも、株価が大きく下げるのは日本の方で、回復が速いのはアメリカでした。


これには様々な原因が考えられますが定説はなく、ただひとつ確実なのは「経済ショック時に日本株を持っていてはいけない」という事です。

現実の投資ではこれに為替変動が加わるので、事態はもっと複雑になり投資家を混乱させます。

2007年7月のドル円は124円だったのでダウ最高値14,121ドルは175万1000円でした。


下落時の2009年3月には1ドル97円だったので、ダウ6,440ドルは79万8500円でした。

回復した2013年12月は1ドル104円だったのでダウ16,511ドルは204万7300円でした。

これをまたパーセントで表すとダウ平均は円換算で2007年7月に175万1000円だったのが45.6%に下落し、回復したのは5年6ヶ月後くらいだったようです。


ドル換算ではダウは約45.6%下落したのに対し、円に換算しても45.6%だったので、どちらでも同じ下落率でした。

という訳で経済変動ではやはりドルやアメリカ株を保有したほうが、日本株よりも有利でした。


ただ下落した底値で買うという手法なら、下落率が大きい日本株を買う方法がありますが、リスクは大きいです。
http://www.thutmosev.com/archives/79323069.html
http://www.asyura2.com/09/revival3/msg/822.html#c185

[リバイバル3] 株で損した理由教えてあげる 新スレ 中川隆
159. 中川隆[-11405] koaQ7Jey 2019年3月18日 07:54:57 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[594]
2019年03月18日
株価下落時に国内投資と海外投資のどちらが有利か

こういう時は日本株と海外株のどちらがより下落するのでしょうか


画像引用:http://tokyo239snapshot.blog.fc2.com/blog-entry-58.html

リーマンショックで日経とダウはどう動いたか?

最近も米中貿易などをめぐって株価などが変動していますが、過去10年ほどので様々なできごとがありました。

リーマンショックは既に11年前ですが、いまだにその時の損失から回復していない投資家も多い。

こうした経済変動の時、国内株など日本国内に投資したほうが良いのか、海外投資したほうが良いのか悩みどころです。


海外の混乱を避けて国内投資したのに、日本株の方が大きく下落する場合も多い。

リーマンショックは2007年夏に米国のサブプライムショックをきっかけに始まった、米国発の経済ショックでした。

サブプライムショック直前の2007年7月ダウ平均は14,121ドルで、2009年3月には6,440ドルまで下落しました。


ダウ平均が再びリーマンショック前の高値を超えたのは2013年3月4日で、14,128ドルの最高値を付けました。

この後ダウ平均は一気に上昇し、2013年12月31日には16,511ドルをつけてウォール街は大いに盛り上がりました。

これをパーセントで表すとリーマン前に14,121ドルだったのが約45.6%まで下落し、回復したのは5年8ヶ月後でした。


対する日経平均株価は2007年6月20日に18,297円の最高値をつけた後サブプライムショックが始まり、2008年10月28日に6,995円まで下げました。

リーマン前の最高値を回復したのはアベノミクス後の2015年2月19日18,322円で、15年末には19,033円で引けていました。

これもパーセントに直すと2007年6月20日に18,297円だった日経平均は約38%まで下落し、回復までに7年8か月かかっています。


『有事に強いドル』は生きている

途中で東日本大震災がありましたが、震災前の数字を見てもダウより回復が遅れていました。

これはリーマンショック時の比較ですが、アジア通貨危機でも湾岸ショックでもバブル崩壊でも、同じ傾向が見られます。

すなわち経済ショックの震源地がアメリカでも日本でも、株価が大きく下げるのは日本の方で、回復が速いのはアメリカでした。


これには様々な原因が考えられますが定説はなく、ただひとつ確実なのは「経済ショック時に日本株を持っていてはいけない」という事です。

現実の投資ではこれに為替変動が加わるので、事態はもっと複雑になり投資家を混乱させます。

2007年7月のドル円は124円だったのでダウ最高値14,121ドルは175万1000円でした。


下落時の2009年3月には1ドル97円だったので、ダウ6,440ドルは79万8500円でした。

回復した2013年12月は1ドル104円だったのでダウ16,511ドルは204万7300円でした。

これをまたパーセントで表すとダウ平均は円換算で2007年7月に175万1000円だったのが45.6%に下落し、回復したのは5年6ヶ月後くらいだったようです。


ドル換算ではダウは約45.6%下落したのに対し、円に換算しても45.6%だったので、どちらでも同じ下落率でした。

という訳で経済変動ではやはりドルやアメリカ株を保有したほうが、日本株よりも有利でした。


ただ下落した底値で買うという手法なら、下落率が大きい日本株を買う方法がありますが、リスクは大きいです。
http://www.thutmosev.com/archives/79323069.html

http://www.asyura2.com/09/revival3/msg/823.html#c159

[近代史3] トルーマン :猿(日本人)を自由と言う名の檻で我々が飼うのだ、家畜が主人である我々のために貢献するのは当然の事である 中川隆
1. 中川隆[-11404] koaQ7Jey 2019年3月18日 11:06:15 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[595]
猿の惑星


動画
https://www.youtube.com/results?search_query=Planet+of+the+Apes+1968&sp=mAEB

出演

テイラー : チャールトン・ヘストン
ノバ :リンダ・ハリソン
中国人 : オランウータン
黒人 : ゴリラ
日本人 : チンパンジー


テイラーたちが不時着した星は、猿が人間を支配する猿の惑星だった。

言葉を話す猿たちと、首輪で繋がれ家畜として扱われる人間たち。

この逆転した世界からなんとか逃げ出したテイラーが最後に見たものとは・・・


___


原作者のピエール・ブールはフランス人ながら英国軍に身を投じて戦い、結局日本軍の捕虜になった悲惨な人。

捕虜時代の恨みつらみをもとに書いたのが「クワイ川の橋」。
また日本人が月一番乗りして、ハラキリするのが「カナシマ博士の月面庭園」
でもって、黄色い連中が世界を支配する未来小説が「猿の惑星」


1 名前: O 投稿日: 02/01/24 15:11 ID:tTH+ej+C

自分はアメリカに住んどるもんなんですが
猿の惑星とは日本人をバカにして作られたということが分かった。

アメリカの知り合いが言うとったよ

「あれは日本人をバカにした映画だよ」

とあっちでは有名らしい。

日本人の前でそんなことは言えないけど俺にだけ話してくれた。

まあアメリカで反日が多かった時代に作られただけにやむおえないことだろう。

で最近新しく放映された「猿の惑星」ももしかしたら・・・

そう考えて改めて見たけど猿が着ている服も確かに日本の侍のように見える。

つまり猿(日本人)の惑星(日本)

そして猿の惑星にでてくる人間はアメリカ人ということです。


あの作品では人間よりも優れていると思いこんだ猿が人間によって人間の方が優れていると証明されますが、それを信じたくない猿との葛藤を描いていますよね?

つまり知恵遅れの猿(日本人)のくせに人間(アメリカ人)に戦争を仕掛けやがって!

という意図が込められているそうです。
http://tv.2ch.net/movie/kako/1011/10118/1011852691.html

http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/292.html#c1

[近代史3] トルーマン :猿(日本人)を自由と言う名の檻で我々が飼うのだ、家畜が主人である我々のために貢献するのは当然の事である 中川隆
2. 中川隆[-11403] koaQ7Jey 2019年3月18日 11:08:12 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[596]

西洋人の日本人観

チャーチル 「日本人は中国娘と猿との野合の末に生まれた類人猿のようなもの」
ルーズベルト「日本人は獣である」

「マンハッタン計画」をスタートさせたフランクリン・ルーズベルト大統領は、日本人を“劣等人種”として激しく差別していたことで知られている。

一般のアメリカ人の間にも、日本人に対する人種差別意識が蔓延していた。 当時のアメリカの雑誌にはこう書かれていた。

「アメリカ人はドイツ人を憎むことを学ばなければならないが、日本人に対しては憎しみが自然と湧いてくる。これはかつてインディアンたちと戦ったときと同様に自然なものだ。」


「普通の日本人は知性が低く、無知である。
たぶん人間なのだろうが、人間であることを示すような点はどこにもない。」
 

当時、トマス・ブレーミー将軍も、こう演説していた。

「諸君らが闘っているのは奇妙な人種である。
人間と猿の中間にあると言っていい。
文明存続のために我々は最後まで戦いぬかねばならない。
日本人を根絶しなければならない!」


ウィリアム・ハルゼー海軍元帥

 日本軍との戦闘に際し

「敵を殺せ!敵をもっと殺せ!猿肉をもっと作れ!」

など度々過激な発言を繰り返したことで知られている。
http://inri.client.jp/hexagon/floorA4F_ha/a4fhc700.html#ex15


ハイドパーク協定

1944(昭和19)年9月18日

フランクリン・ルーズベルト米大統領とウィンストン・チャーチル英首相が
米ニューヨーク州ハイドパークで会談し、日本への原爆投下と将来の核管理について
申し合わせた秘密協定

1972(昭和47)年に初めて公開された

ニューヨーク州ハイドパークの大統領私邸でルーズベルトと会談した英国の
ロナルド・キャンベル大使がルーズベルトから「劣等アジア人種」の品種改良と
いうとんでもない提案を受けたと本国に宛てた書簡に書き残している。

「インド系、あるいはユーラシア系とアジア系を、さらにはヨーロッパ人とアジア
人種を交配させ、それによって立派な文明をこの地に生み出していく。

ただ日本人は除外し、もとの島々に隔離して衰えさせる」


ハル・ノート:日本が対米開戦を決断した無理な米国側の要求。

米国に潜伏するソ連スパイが日米を衝突させるために作成した。
http://mikomo.hp.infoseek.co.jp/a-f2.htm#03


トルーマンのカバートへの返事

1945年8月11日

日本人の理解する唯一の言語は、彼らを爆撃することのように思われます。

獣と相対したときは、獣として扱う他はありません。
http://www.inaco.co.jp/isaac/shiryo/RE_sammuel_1945_8_11.htm


トルーマン回想録

"Japanese are beast. So are treated as"(「日本人は獣だ。だから、そのように扱った」)

アメリカからみると対独戦より対日戦の方が、はるかに「人種戦争」という面が濃厚であった。

ダワー教授によれば、アメリカ側の、日本人に対するステレオタイプの典型は「猿」であり、野蛮人、劣等人間、人間以下、害虫、と続いた。それは、個性もなく次々とわいてくるものであったという。

ところがアメリカのヨーロッパでの敵は、ドイツ人自体ではなくヒトラー一派であり、ジャーナリズムも、日本軍の残虐行為については盛んに報道したという。

ダワー教授は、このような相手を人間以下とみなす発想は、日本人に対して初めてではなく、歴史上繰り返してきた非白人に対する蔑視、具体的にはインディアンと黒人に投げつけてきた表現が噴出したものにすぎないとしている。
http://inri.client.jp/hexagon/floorA4F_ha/a4fhc700.html#ex15

原爆の対日使用は「人体実験」だった。


被爆者治療せず 50年代の米公文書

原爆投下後に広島、長崎に設置された米国の原爆傷害調査委員会(ABCC)をめぐり、米政府が「原爆は特別な兵器ではない」との主張が揺らぐのを避ける意図で、被爆者の治療をさせなかったことが50年代の米公文書で明らかになった。

ABCCは被爆者を検査してデータを収集したが治療はせず、被爆者の間に批判があった。 http://homepage.mac.com/ehara_gen/jealous_gay/atomic_bomb.html


「広島・長崎への原爆攻撃の目的は何だったのか。1つには戦後世界でのアメリカ
の覇権確立である。そしてもう1つは、原爆の効果を知るための無数の人間への
『人体実験』である。

だからこそ、占領後にアメリカ軍が行なったことは、第1に、原爆の惨状について
の報道を禁止し、『人体実験』についての情報を独占することだった。

第2に、史上前例のない火傷、放射能障害の治療方法を必死に工夫していた広島・
長崎の医者たちに治療方法の発表と交流を禁止するとともに、死没被爆者の
ケロイドの皮膚や臓器や生存被爆者の血液やカルテを没収することだった。

第3に、日本政府をして国際赤十字からの医薬品の支援申し出を拒否させることだった。たしかに、『実験動物』を治療するのでは『実験』にならない。そこでアメリカ軍は全力を尽くして被爆治療を妨害したのである。


第4に、被爆者を『治療』せず『実験動物』のように観察するABCC

(原爆障害調査委員会と訳されたアメリカ軍施設)を広島・長崎に設置することであった。加害者が被害者を観察するというその目的自体が被爆者への人権蹂躙ではなかったか。」

広島で女学生(14歳)のときに原爆にあい、現在も原爆後遺症で苦しむ詩人の橋爪文さんは、「ABCC」(原爆傷害調査委員会と訳されたアメリカ軍施設)について、次のような恐ろしい事実を述べている。


「私は広島の生き残りのひとりです。 〈中略〉 

ここで、ひとつ触れたいことは『ABCC』についてです。

これは日本でもほとんど知らされていないことですが、戦後広島に進駐してきたアメリカは、すぐに、死の街広島を一望のもとに見下ろす丘の上に『原爆傷害調査委員会』(通称ABCC)を設置して放射能の影響調査に乗り出しました。

そして地を這って生きている私たち生存者を連行し、私たちの身体からなけなしの血液を採り、傷やケロイドの写真、成長期の子どもたちの乳房や体毛の発育状態、また、被爆者が死亡するとその臓器の摘出など、さまざまな調査、記録を行ないました。

その際私たちは人間としてではなく、単なる調査研究用の物体として扱われました。

治療は全く受けませんでした。

そればかりでなく、アメリカはそれら調査、記録を独占するために、外部からの広島、長崎への入市を禁止し、国際的支援も妨害し、一切の原爆報道を禁止しました。日本政府もそれに協力しました。

こうして私たちは内外から隔離された状態の下で、何の援護も受けず放置され、放射能被害の実験対象として調査、監視、記録をされたのでした。

しかもそれは戦争が終わった後で行なわれた事実です。

私たちは焼け跡の草をむしり、雨水を飲んで飢えをしのぎ、傷は自然治癒にまかせるほかありませんでした。

あれから50年、『ABCC』は現在、日米共同の『放射線影響研究所』となっていますが、私たちはいまも追跡調査をされています。
http://inri.client.jp/hexagon/floorA4F_ha/a4fhc700.html


 
英語教育の先生が、今日本でやられている英語教育について書いていたが、南北アメリカ大陸で7000万〜8000万人いたインディアンの皆殺しをやり、残った者は同化政策で、子どもを親から切り離して寄宿舎に入れて英語教育をやり、言葉も歴史も全部奪っていったのにそっくりだと指摘している。

民族の歴史も文化も言葉も奪っていく絶滅作戦だ。

第二次大戦から「イエローモンキー」といって人間扱いではないが、それはインディアンのときから続いている。

民主主義というのは白人の為のもので、黄色人種や褐色人種を従わせるのが民主主義だ、それを受け入れるのが未開の者の務めで、従わない者は殺してもいいという考えだ。

「これは神の明白な運命」というのが、清教徒がアメリカ大陸に渡り、東部から西部に行くうえでの基本理念だ。

それでアメリカ全土のインディアンを皆殺しにし、生き残った者は囲い込む。その後太平洋まで来てハワイ、フィリピン、日本、中国と全部アメリカの基準で支配するのが使命だというのが一貫している。だからフィリピンでも相当殺された。

 この理念でフィリピン人も日本人も遊び感覚で殺しまくる。インディアンのときには「頭皮狩り」といって、戦利品として耳を切りとり、頭蓋骨を集めた者が最も偉大な民主主義者だとやってきた。

第二次大戦でも日本に対して「インディアンと同じようにやれ」とハルゼーなどがかなりやっている。

アメリカの若い兵隊はフロンティア精神とかカウボーイみたいな感覚で、日本の子どもらが逃げまどっているのに、グラマンで笑いながら撃ち殺す。

人道主義というが、ハルゼーも「捕虜はとらなくていい。とにかく殺せ」とやっている。

「死んだインディアンがいいインディアンだ」というのをもじって、

「6カ月前に死んだジャップがいいジャップだ」

といった。

これは単にハルゼー個人の考えではなく、当時アメリカのマスコミや新聞、雑誌などで強烈にやっていたことだ。

戦争体験者がテニアンに行ったときホテルに飾り物として日本人の頭蓋骨が金粉を塗られて飾ってあった。
http://www.h5.dion.ne.jp/~chosyu/genzainitudukunihonminzokuzetumetusakusen.html



http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/292.html#c2

[近代史3] 麻薬取引の黒幕は CIA

麻薬取引の黒幕は CIA


2019.03.18
麻薬取引はCIAや巨大銀行と密接な関係があり、明治維新の背後には麻薬業者


 ある音楽グループのメンバーで俳優としても活動したいた人物がコカインを摂取した容疑で関東信越厚生局麻薬取締部に逮捕されたという。その人物が薬物を使用しているという情報が昨年の秋にあり、内偵していたようだ。

 伝えられているところによると、任意同行を求めて尿検査をしたところコカインの陽性反応が出たのだが、自宅からコカインは見つからなかったという。コカインを使ったと認識した段階で任意同行を求めた可能性が高く、どのようなルートで麻薬を入手し、どこで摂取したのかも当局は知っているのだろう。

 本ブログでも指摘してきたが、麻薬取引はCIAの活動と深く結びつき、麻薬資金を巨大金融機関は扱っている。ベトナム戦争の当時、最大の非合法ケシの産地は東南アジアであり、アフガニスタンでCIAが秘密工作を始めると主要産地はパキスタンとアフガニスタンをまたぐ山岳地帯へ移動、中米で秘密工作を始めるとコカインの流通量が増えた。いずれも黒幕はCIAであり、その儲けを扱うために「CIAの銀行」が存在する。

 世界の金融システムは2008年に破綻した。リーマン・ブラザーズの倒産はその象徴にすぎない。システムが崩れそうになったのだ。この倒産を利用して欧米の支配層は庶民に破綻の尻拭いをさせた。超法規的な救済だが、その後、富が集中するはスピードは加速していく。

 この金融破綻、いわゆるリーマン・ショックを処理する際に麻薬資金も重要な役割を果たしたと伝えられている。UNODC(国連薬物犯罪事務所)のアントニオ・マリア・コスタによると、​麻薬取引で稼いだ利益3520億ドルの大半が経済システムの中に吸い込まれ、いくつかの銀行を倒産から救った可能性​があるという。麻薬資金は流動性が高く、銀行間ローンで利用されたとも言われている。

 本ブログでは繰り返し指摘してきたが、CIAはウォール街の人脈によって作られた情報機関である。同じように、イギリスのMI6(SIS)はシティと結びついている。

 イギリスに限らないが、その支配者は侵略と略奪で富を築いてきた。金や石油といった資源を盗んでいるが、19世紀には中国(清)を侵略するためにアヘンを売りつけ、戦争で利権を奪った。アヘン戦争やアロー戦争だ。

 そのときにアヘン取引で大儲けした会社のひとつがジャーディン・マセソン。インドで傭兵の武装蜂起で始まった大反乱(セポイの反乱)が終わった翌年、1859年に同社はトーマス・グラバーを長崎へ、ウィリアム・ケズウィックを横浜へ派遣した。

 グラバーは明治維新をテーマにしたドラマによく出てくる人物だが、ケズウィックの方が大物だった。ジャーディン・マセソン創立者の一族で、麻薬資金を処理していた香港上海銀行(現在はHSBC銀行)とも深く結びついている。有り体に言うと、明治維新の黒幕は麻薬業者だ。

 CIAがエル・サルバドルを含むラテン・アメリカ諸国で死の部隊を使ってアメリカの巨大企業のカネ儲けに邪魔な人物や団体を抹殺していた当時、ロサンゼルス市警の内部の麻薬担当はCIAの活動に肉薄、司法省などからの攻撃を受ける。捜査チームを追い込むために税務調査が実施され、細かい違法行為を見つけ出して刑務所へ入れると脅され、退職を余儀なくされたと言われている。

 また、CIAの手先だったニカラグアの反革命ゲリラ(コントラ)のコカイン取引を暴く連載記事を1996年に書いたサンノゼ・マーキュリー紙のゲーリー・ウェッブ記者は有力メディアから一斉攻撃を受けて退職を余儀なくされ、自殺に追い込まれた。

 今回のミュージシャン/俳優のコカイン事件を伝えているマスコミも芸能界の実態を知っているだろう。
https://plaza.rakuten.co.jp/condor33/diary/201903180000/
http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/293.html

[近代史02] 昭和天皇が戦争狂になった訳 中川隆
45. 中川隆[-11402] koaQ7Jey 2019年3月18日 12:10:45 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[598]

2019.03.18
麻薬取引はCIAや巨大銀行と密接な関係があり、明治維新の背後には麻薬業者


 ある音楽グループのメンバーで俳優としても活動したいた人物がコカインを摂取した容疑で関東信越厚生局麻薬取締部に逮捕されたという。その人物が薬物を使用しているという情報が昨年の秋にあり、内偵していたようだ。

 伝えられているところによると、任意同行を求めて尿検査をしたところコカインの陽性反応が出たのだが、自宅からコカインは見つからなかったという。コカインを使ったと認識した段階で任意同行を求めた可能性が高く、どのようなルートで麻薬を入手し、どこで摂取したのかも当局は知っているのだろう。

 本ブログでも指摘してきたが、麻薬取引はCIAの活動と深く結びつき、麻薬資金を巨大金融機関は扱っている。ベトナム戦争の当時、最大の非合法ケシの産地は東南アジアであり、アフガニスタンでCIAが秘密工作を始めると主要産地はパキスタンとアフガニスタンをまたぐ山岳地帯へ移動、中米で秘密工作を始めるとコカインの流通量が増えた。いずれも黒幕はCIAであり、その儲けを扱うために「CIAの銀行」が存在する。

 世界の金融システムは2008年に破綻した。リーマン・ブラザーズの倒産はその象徴にすぎない。システムが崩れそうになったのだ。この倒産を利用して欧米の支配層は庶民に破綻の尻拭いをさせた。超法規的な救済だが、その後、富が集中するはスピードは加速していく。

 この金融破綻、いわゆるリーマン・ショックを処理する際に麻薬資金も重要な役割を果たしたと伝えられている。UNODC(国連薬物犯罪事務所)のアントニオ・マリア・コスタによると、​麻薬取引で稼いだ利益3520億ドルの大半が経済システムの中に吸い込まれ、いくつかの銀行を倒産から救った可能性​があるという。麻薬資金は流動性が高く、銀行間ローンで利用されたとも言われている。

 本ブログでは繰り返し指摘してきたが、CIAはウォール街の人脈によって作られた情報機関である。同じように、イギリスのMI6(SIS)はシティと結びついている。

 イギリスに限らないが、その支配者は侵略と略奪で富を築いてきた。金や石油といった資源を盗んでいるが、19世紀には中国(清)を侵略するためにアヘンを売りつけ、戦争で利権を奪った。アヘン戦争やアロー戦争だ。

 そのときにアヘン取引で大儲けした会社のひとつがジャーディン・マセソン。インドで傭兵の武装蜂起で始まった大反乱(セポイの反乱)が終わった翌年、1859年に同社はトーマス・グラバーを長崎へ、ウィリアム・ケズウィックを横浜へ派遣した。

 グラバーは明治維新をテーマにしたドラマによく出てくる人物だが、ケズウィックの方が大物だった。ジャーディン・マセソン創立者の一族で、麻薬資金を処理していた香港上海銀行(現在はHSBC銀行)とも深く結びついている。有り体に言うと、明治維新の黒幕は麻薬業者だ。

 CIAがエル・サルバドルを含むラテン・アメリカ諸国で死の部隊を使ってアメリカの巨大企業のカネ儲けに邪魔な人物や団体を抹殺していた当時、ロサンゼルス市警の内部の麻薬担当はCIAの活動に肉薄、司法省などからの攻撃を受ける。捜査チームを追い込むために税務調査が実施され、細かい違法行為を見つけ出して刑務所へ入れると脅され、退職を余儀なくされたと言われている。

 また、CIAの手先だったニカラグアの反革命ゲリラ(コントラ)のコカイン取引を暴く連載記事を1996年に書いたサンノゼ・マーキュリー紙のゲーリー・ウェッブ記者は有力メディアから一斉攻撃を受けて退職を余儀なくされ、自殺に追い込まれた。

 今回のミュージシャン/俳優のコカイン事件を伝えているマスコミも芸能界の実態を知っているだろう。
https://plaza.rakuten.co.jp/condor33/diary/201903180000/  

http://www.asyura2.com/09/reki02/msg/321.html#c45

[] 「覚醒剤」
86. 中川隆[-11401] koaQ7Jey 2019年3月18日 12:13:04 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[599]
2019.03.18
麻薬取引はCIAや巨大銀行と密接な関係があり、明治維新の背後には麻薬業者


 ある音楽グループのメンバーで俳優としても活動したいた人物がコカインを摂取した容疑で関東信越厚生局麻薬取締部に逮捕されたという。その人物が薬物を使用しているという情報が昨年の秋にあり、内偵していたようだ。

 伝えられているところによると、任意同行を求めて尿検査をしたところコカインの陽性反応が出たのだが、自宅からコカインは見つからなかったという。コカインを使ったと認識した段階で任意同行を求めた可能性が高く、どのようなルートで麻薬を入手し、どこで摂取したのかも当局は知っているのだろう。

 本ブログでも指摘してきたが、麻薬取引はCIAの活動と深く結びつき、麻薬資金を巨大金融機関は扱っている。ベトナム戦争の当時、最大の非合法ケシの産地は東南アジアであり、アフガニスタンでCIAが秘密工作を始めると主要産地はパキスタンとアフガニスタンをまたぐ山岳地帯へ移動、中米で秘密工作を始めるとコカインの流通量が増えた。いずれも黒幕はCIAであり、その儲けを扱うために「CIAの銀行」が存在する。

 世界の金融システムは2008年に破綻した。リーマン・ブラザーズの倒産はその象徴にすぎない。システムが崩れそうになったのだ。この倒産を利用して欧米の支配層は庶民に破綻の尻拭いをさせた。超法規的な救済だが、その後、富が集中するはスピードは加速していく。

 この金融破綻、いわゆるリーマン・ショックを処理する際に麻薬資金も重要な役割を果たしたと伝えられている。UNODC(国連薬物犯罪事務所)のアントニオ・マリア・コスタによると、​麻薬取引で稼いだ利益3520億ドルの大半が経済システムの中に吸い込まれ、いくつかの銀行を倒産から救った可能性​があるという。麻薬資金は流動性が高く、銀行間ローンで利用されたとも言われている。

 本ブログでは繰り返し指摘してきたが、CIAはウォール街の人脈によって作られた情報機関である。同じように、イギリスのMI6(SIS)はシティと結びついている。

 イギリスに限らないが、その支配者は侵略と略奪で富を築いてきた。金や石油といった資源を盗んでいるが、19世紀には中国(清)を侵略するためにアヘンを売りつけ、戦争で利権を奪った。アヘン戦争やアロー戦争だ。

 そのときにアヘン取引で大儲けした会社のひとつがジャーディン・マセソン。インドで傭兵の武装蜂起で始まった大反乱(セポイの反乱)が終わった翌年、1859年に同社はトーマス・グラバーを長崎へ、ウィリアム・ケズウィックを横浜へ派遣した。

 グラバーは明治維新をテーマにしたドラマによく出てくる人物だが、ケズウィックの方が大物だった。ジャーディン・マセソン創立者の一族で、麻薬資金を処理していた香港上海銀行(現在はHSBC銀行)とも深く結びついている。有り体に言うと、明治維新の黒幕は麻薬業者だ。

 CIAがエル・サルバドルを含むラテン・アメリカ諸国で死の部隊を使ってアメリカの巨大企業のカネ儲けに邪魔な人物や団体を抹殺していた当時、ロサンゼルス市警の内部の麻薬担当はCIAの活動に肉薄、司法省などからの攻撃を受ける。捜査チームを追い込むために税務調査が実施され、細かい違法行為を見つけ出して刑務所へ入れると脅され、退職を余儀なくされたと言われている。

 また、CIAの手先だったニカラグアの反革命ゲリラ(コントラ)のコカイン取引を暴く連載記事を1996年に書いたサンノゼ・マーキュリー紙のゲーリー・ウェッブ記者は有力メディアから一斉攻撃を受けて退職を余儀なくされ、自殺に追い込まれた。

 今回のミュージシャン/俳優のコカイン事件を伝えているマスコミも芸能界の実態を知っているだろう。
https://plaza.rakuten.co.jp/condor33/diary/201903180000/  

http://www.asyura2.com/0310/dispute13/msg/126.html#c86

[] 経験者としての意見です。
39. 中川隆[-11400] koaQ7Jey 2019年3月18日 12:14:37 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[600]
2019.03.18
麻薬取引はCIAや巨大銀行と密接な関係があり、明治維新の背後には麻薬業者


 ある音楽グループのメンバーで俳優としても活動したいた人物がコカインを摂取した容疑で関東信越厚生局麻薬取締部に逮捕されたという。その人物が薬物を使用しているという情報が昨年の秋にあり、内偵していたようだ。

 伝えられているところによると、任意同行を求めて尿検査をしたところコカインの陽性反応が出たのだが、自宅からコカインは見つからなかったという。コカインを使ったと認識した段階で任意同行を求めた可能性が高く、どのようなルートで麻薬を入手し、どこで摂取したのかも当局は知っているのだろう。

 本ブログでも指摘してきたが、麻薬取引はCIAの活動と深く結びつき、麻薬資金を巨大金融機関は扱っている。ベトナム戦争の当時、最大の非合法ケシの産地は東南アジアであり、アフガニスタンでCIAが秘密工作を始めると主要産地はパキスタンとアフガニスタンをまたぐ山岳地帯へ移動、中米で秘密工作を始めるとコカインの流通量が増えた。いずれも黒幕はCIAであり、その儲けを扱うために「CIAの銀行」が存在する。

 世界の金融システムは2008年に破綻した。リーマン・ブラザーズの倒産はその象徴にすぎない。システムが崩れそうになったのだ。この倒産を利用して欧米の支配層は庶民に破綻の尻拭いをさせた。超法規的な救済だが、その後、富が集中するはスピードは加速していく。

 この金融破綻、いわゆるリーマン・ショックを処理する際に麻薬資金も重要な役割を果たしたと伝えられている。UNODC(国連薬物犯罪事務所)のアントニオ・マリア・コスタによると、​麻薬取引で稼いだ利益3520億ドルの大半が経済システムの中に吸い込まれ、いくつかの銀行を倒産から救った可能性​があるという。麻薬資金は流動性が高く、銀行間ローンで利用されたとも言われている。

 本ブログでは繰り返し指摘してきたが、CIAはウォール街の人脈によって作られた情報機関である。同じように、イギリスのMI6(SIS)はシティと結びついている。

 イギリスに限らないが、その支配者は侵略と略奪で富を築いてきた。金や石油といった資源を盗んでいるが、19世紀には中国(清)を侵略するためにアヘンを売りつけ、戦争で利権を奪った。アヘン戦争やアロー戦争だ。

 そのときにアヘン取引で大儲けした会社のひとつがジャーディン・マセソン。インドで傭兵の武装蜂起で始まった大反乱(セポイの反乱)が終わった翌年、1859年に同社はトーマス・グラバーを長崎へ、ウィリアム・ケズウィックを横浜へ派遣した。

 グラバーは明治維新をテーマにしたドラマによく出てくる人物だが、ケズウィックの方が大物だった。ジャーディン・マセソン創立者の一族で、麻薬資金を処理していた香港上海銀行(現在はHSBC銀行)とも深く結びついている。有り体に言うと、明治維新の黒幕は麻薬業者だ。

 CIAがエル・サルバドルを含むラテン・アメリカ諸国で死の部隊を使ってアメリカの巨大企業のカネ儲けに邪魔な人物や団体を抹殺していた当時、ロサンゼルス市警の内部の麻薬担当はCIAの活動に肉薄、司法省などからの攻撃を受ける。捜査チームを追い込むために税務調査が実施され、細かい違法行為を見つけ出して刑務所へ入れると脅され、退職を余儀なくされたと言われている。

 また、CIAの手先だったニカラグアの反革命ゲリラ(コントラ)のコカイン取引を暴く連載記事を1996年に書いたサンノゼ・マーキュリー紙のゲーリー・ウェッブ記者は有力メディアから一斉攻撃を受けて退職を余儀なくされ、自殺に追い込まれた。

 今回のミュージシャン/俳優のコカイン事件を伝えているマスコミも芸能界の実態を知っているだろう。
https://plaza.rakuten.co.jp/condor33/diary/201903180000/  

http://www.asyura2.com/0310/dispute13/msg/131.html#c39

[近代史3] 麻薬取引の黒幕は CIA 中川隆
1. 中川隆[-11399] koaQ7Jey 2019年3月18日 12:15:38 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[601]
アフガニスタンでの工作資金を捻出するためにCIAはヘロインを売る。
そのため非合法のケシを栽培する中心地は東南アジア(黄金の三角地帯)からアフガニスタンとパキスタンの山岳地帯へ移動した。
中米における工作ではコカインが使われている。

2018.09.15
米政権はイランの石油輸出を止めようとしたが、中国とインドが買い続けて失敗



 アメリカのドナルド・トランプ政権はイランの現体制を破壊しようとしている。ロスチャイルド資本と関係の深いネオコンにしろ、ウラジミール・ジャボチンスキーを祖とし、ベンヤミン・ネタニヤフにつながるリクードの人脈にしろ、この点は同じだ。


 イランでは1979年にイスラム革命で王制が倒され、その年の11月に「ホメイニ師の路線に従うモスレム学生団」を名乗るグループがアメリカ大使館を占拠、機密文書を手に入れる一方、大使館員など52名を人質にとる。


 その翌年はアメリカで大統領選挙が行われた。現職だったジミー・カーターはパレスチナ人に近すぎるとして親イスラエル派に嫌われ、反カーター・キャンペーンが展開されていたのだが、52名の人質が選挙前に解放された場合、カーターにとって追い風になって再選の可能性があった。


 そこでロナルド・レーガンやジョージ・H・W・ブッシュを支援していた共和党のグループはイスラエルのリクード政権と手を組み、人質の解放を遅らせようとする。この工作は成功し、人質が解放されたのはレーガンの大統領就任式の当日、つまり1981年1月20日のことだった。


 この工作でイランの革命政権ともパイプができ、アメリカからイランへ武器が密輸される。この密輸の儲けがニカラグアの反革命ゲリラ支援に使われ、この工作が発覚してから「イラン・コントラ事件」と呼ばれるようになる。


 この工作の背後にはズビグネフ・ブレジンスキーが始めたアフガニスタンでの秘密工作があった。ソ連軍をアフガニスタンへ誘い込み、サウジアラビアが雇い、送り込んできたサラフィ主義者(ワッハーブ派、タクフィール主義者)やムスリム同胞団を中心に編成した傭兵部隊と戦わせるという内容で、これは成功した。


 アフガニスタンでの工作資金を捻出するためにCIAはヘロインを売る。そのため非合法のケシを栽培する中心地は東南アジア(黄金の三角地帯)からアフガニスタンとパキスタンの山岳地帯へ移動した。中米における工作ではコカインが使われている。


 イスラム革命の翌年、1980年の9月にイラク軍がイランの南部を攻撃してイラン・イラク戦争が始まった。イラクのサダム・フセインはCIAの手先として権力を握った人物で、アメリカ支配層の要請を受けての行動だったのだろう。この戦争でイランはアメリカから武器を調達する必要に迫られ、イランとアメリカとの関係が接近する。


 イラン・イラク戦争は1988年8月に終了、その翌年にイラン大統領となったのはハシェミ・ラフサンジャニ。この政権は新自由主義化を進め、私有化や貿易の自由化を推進した。その結果、少数の大金持ちと多くの貧困層を生み出すことになる。


 当然、イランの庶民は激怒、マフムード・アフマディネジャドが2005年の大統領選で勝利した。新大統領はこうした状況を変えようと試み、まず欧米の金融資本と結びついたパールシヤーン銀行にメスを入れようとしたのだが、成功しなかった。この勢力に西側は期待しているのだろう。


 ハサン・ロウハーニ大統領は西側から「穏健派」、つまりラフサンジャニに近い人物だと見られていたが、西側の思惑通りには動かなかった。そこでトランプ政権による「制裁」につながる。


 イランでは1951年にムハマド・モサデク首相がイギリス系のAIOC(アングロ・イラニアン石油)の国有化を決める。この会社を通じてイギリス支配層はイランの富を盗んでいた。1950だけでAIOCが計上した利益は1億7000万ポンド、そのうち1億ポンドをイギリスへ持ち帰っている。AIOCの筆頭株主はイギリス政府で、発行済み株式の約半分を保有していた、つまりAIOCの利益がイギリスの財政を支えていたのである。イラン国民はほとんど利益を受け取っていない。


 そこでイラン政府はAIOCの国有化を決めたのだが、それに対してイギリス政府はアメリカ支配層の力を借りてクーデターを実行、モサデク政権を倒しているが、その際に米英側はイラン政府が石油をオープン・マーケットで売却することを阻止、イランは経済的に追い詰められた。そこでソ連に接近するのだが、この商談はクーデターで成功しなかった。


 トランプ大統領はこの「成功体験」を再現しようとしたのだろうが、イランの石油の約6割を買っているという中国とインドがアメリカの命令に従わない。イランの石油輸出による収入は今年3月に比べて7月は6割増になっているという。アメリカが仕掛けた経済戦争は裏目に出たようだ。
https://plaza.rakuten.co.jp/condor33/diary/201809150000/


http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/293.html#c1

[近代史3] 麻薬取引の黒幕は CIA 中川隆
2. 中川隆[-11404] koaQ7Jey 2019年3月18日 12:19:22 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[596]
2017年01月17日 世界を支配しているCIA3派とは・・・・
http://blog.livedoor.jp/wisdomkeeper/archives/52001108.html

非常に長い記事ですので一部をざっくりと訳してみました。全てをお伝えできず残念ですが、残りの部分はサイト内の本文をご覧ください。

この記事はCIAについて非常に詳細に説明してくれています。そして世界を実際に支配しているのはCIAの3派閥だとも言っています。これらの3派閥で内紛が勃発しているそうです。またCIA 対 NSAの闘争も起きているそうです。彼らの戦いが激化して共倒れすることを願うばかりです。

日本の政治家もCIAに暗殺されていますが、トランプ氏もケネディ大統領と同様に彼らに暗殺される危険性があります。CIAとは関係がなくスキャンダルも少ないトランプ氏はCIAと主要メディアと戦っていることがよくわかります。主要メディア(日本のマスコミも含め)は、大統領就任式間近の今、反トランプの情報操作を激化しています。マスコミはトランプ氏の暴言について嘲笑しながら伝えていますが、トランプ氏の暴言の内容は非常にまともで本当のことを言っています。これほど本当のことをストレートにいう政治家はいままでいなかったでしょう。
激しくののしっているように聞こえますが、トランプ氏はオルターナティブ・メディアが伝える内容をそのまま言葉にしているだけです。想像以上にアメリカの闇を知り尽くしているのでしょうね。


http://themillenniumreport.com/2017/01/exposed-cia-the-swamp-monsters/

(一部のみ)

1月14日付け


EXPOSED: CIA –The Swamp Monsters


世界を支配しているCIAの3派


By the Anonymous Patriots

The Millennium Report Exclusive


(非常に長い記事ですので、一部しかお伝えできません。ご了承ください。残りの部分はサイト内の記事をご覧ください。)

CIAの国内におけるスパイ活動は全ての米国民を標的にしている。いつ米国民がCIAに狙われ銃で撃たれてもおかしくない状況にある。

大統領選での様々なハッキング騒動は大統領選を無効にするためにCIAが行った偽旗であり、これには国を混乱に陥れているCIAの派閥争いも絡んでいる。
現在、CIAの派閥闘争及びCIAとCIAほど重要でない他の諜報機関(FBI、NSA、国土安全保障省、NIA国家情報機関、その他)の闘争が進行中である。
このような諜報機関同士のスキャンダル合戦は今に始まったものではないが。
米政府の代弁者でしかない主要メディアでさえ、米諜報機関同士の争いが起きていることを報道している。


CIAは他の全ての政府系諜報機関のトップに君臨している。
大統領令は極秘に扱われ、CIA以外の諜報機関には知らされることはない。
大統領の国際的な極秘事項に対してはCIA以外の諜報機関は部外者となる。

現在、オバマ大統領は、米議会、最高裁判所、米国民の承認を得ずに国際戦争を行っている。オバマ大統領は、NDAA(直訳:国防権限法)を修正し大統領の権限を増大させたため、米議会の承認なしに国内外で様々な戦争を行うことができるようになった。オバマはこの8年間で数々の違法な大統領令を確立させ、大統領の権限をかつてないほどに増大させた。


オバマが確立させた大統領令の下で国の安全を理由に大統領はアメリカの全資産を強奪できるようになった。

更に恐ろしいことは、CIAは、国際安全保障の名の下に大統領の上に立つことができるということだ。

CIAは、米連邦議会、大統領、米国民よりも優位な位置に自らを置き、秘密裡に何でも行えるようになってしまった。
CIAの絶大な権限で主要メディアはトランプ次期大統領に関するねつ造報道(ロシアのハッキングやロシアの脅迫など)を展開している。イギリスからこの国へ偽の調査書類が送られた。そしてCIAはトランプ次期大統領に対する


組織的誹謗中傷キャンペーンを実施している。


DNI国家情報長官のジェームズ・クラッパー氏(James Clapper)はCIAが提出した偽の調査書類に同意したことで、政府諜報機関の無能さが露呈した。

1981年にレーガ大統領が大統領令によりDNI国家情報長官を創設した主な理由は、米軍の高級将官が運営していたNSAをなくすためだった。DNIの職務はCIAの監視役として定義され、全諜報機関のトップに立った。しかし彼はCIAを支配することはできない。


国内外の情報活動に携わっている政府機関は世界各地に1271機関あり、政府から委託された民間会社は1931社存在する。つまり、85万4千人以上の職員が機密情報を取り扱っている。
諜報部員は85万4千人以上存在する。


クラッパーDNI国家情報長官は米議会で真実を話すことを宣言したにも関わらず、NSAは米国民の個人情報を収集していないと嘘をついた。
クラッパー氏はDNIに任命される前に、英軍に機密情報を提供している会社(Detica)の業務最高責任者を務めていた。同時に他の民間諜報機関(SRAとBoozAllen Hamilton)にも勤務していた。

クラッパー氏は諜報活動のための約75億ドルの年間国家予算を管理している。また彼はイギリスの元民間スパイである。それでも彼はトランプ氏に関する主要メディアのねつ造報道を見抜けなかったのである。
つまりこの男はプロの諜報部員を従えて年間75億ドルの予算を管理してるのにもかかわらず、CIAがトランプ氏を中傷するために偽の情報を流していることにさえ気づいていないのだ。
一方、我々市民は独立メディアの情報によりその真実を知っている。

法治国家であるならば、CIAによる次期大統領に関するねつ造報道は違法行為と見なされるがアメリカは法治国家ではない。


クラッパー氏は、現在、17の諜報機関(CIA、NSA、国土安全保障省、FBI、国務省、財務省、国防情報局、空軍情報局、陸軍情報局、米海兵隊情報局、沿岸警備情報局、エネルギー省、国家偵察局、麻薬取締局、国家地理空間情報局)のトップに君臨している。同時に彼は今でも3つの政府請負会社(Detica、BAE Systems、SRAインターナショナル、Booz Allen Hamilton)の取締役である。
クラッパー氏はアメリカの全ての情報機関を支配しているが、同時にアメリカの敵でもある。

彼は外国の諜報機関に所属してアメリカをスパイしていたこともある。
彼はアメリカの国家諜報機関のトップに上りつめ、全権力とカネを手に入れた。


オバマがクラッパー氏を国家諜報機関のトップに任命してから、アメリカではねつ造報道のオンパレードとなり、多国籍グローバリストの利益のために売国されるようになった。
CIAは国外の違法なハッカーを雇ってサイバー攻撃を行わせている。ヒラリーと民主党全国大会は彼らのサーバーがハッキングされた後にその調査を国外の民間会社に依頼した。しかしロシアが彼らのサーバーをハッキングした証拠は一切見つかっていない。

ほんの数人に権力が集中すると、必ず誤った方向へ進んでしまう。クラッパー氏は正確な情報を提供することに興味はない。彼はナチスの情報局と同様に単なるプロパガンダ・マシーンなのだ。
クラッパー氏は17の諜報機関を使って、彼らが流す情報は全て正しいと証拠もなしに我々に信じさせようとしている。


オバマの大統領令により、NSAは米国民と世界人類を監視することが可能となった。NSAが盗みとった個人データは全諜報機関が共有している。


スイス、ジュネーブのCIA海外本部はスイスの金融スキャンダルやCIAの犯罪活動に関わっている。


CIAのCiscoルーターやサーバーはNSAによってスパイされCIAの犯罪活動がNSAに知られてしまった。その結果、CIAと共謀したスイスの金融エリートらが逮捕された。NSAは今後もCIAに対するスパイを行っていく。

CIAのスイス本部は極秘施設であり、そこのサーバーがハッキングされたことでCIAは激怒した。
NSAに対するCIAの反撃として、CIA請負エージェントのエドワード・スノーデンを使って、NSAが米国民の個人情報を盗んでいることを示す大量のデータをリークさせた。


CIAは、CIAの3派閥を暴露したNSAがこれ以上CIAをスパイできないように対策を講じている。
クラッパー氏は米議会に呼ばれる度にNSAはスパイ活動を行っていないと嘘の証言をした。

CIAとNSAの闘争の中で、CIAはCisco SystemsやDARPAなどの活動情報をNSAに盗まれないようにした。

現在、CIA、NSAそして他の諜報機関の情報操作、情報収集合戦が進行中である。
しかしCIAは国際安全保障を担っているため国家安全保障を担当するNSAよりも優位に立っている。

CIAは国際的な紛争や事件に必ず関与している。通貨戦争、市場戦争、金融戦争、サイバー戦争、麻薬戦争そしてテロは常にCIAの関心事である。


オバマのNDAAは軍隊がテロリストと見なされた米国民を攻撃することを可能にした。愛国法により、CIAは米国民、企業、機関がテロリストでないことを証明できるまでテロリストと見なすことが可能となった。

CIAは3つの派閥に分類されており、世界中のスパイ活動を通して大きな利益を得ている。
アメリカはCIAに支配されており、ワシントンDCはCIAの泥沼の怪獣に包囲されている。
CIAは国内外で偽旗事件や非人道的犯罪を繰り返している。CIAによる殺人行為で無数の人々が犠牲になり、3兆ドルものアメリカの納税者の血税が無駄に使われた。CIAは国際戦争を勃発させるための偽旗事件を仕掛ける。またCIAはメディアを支配しサブリミナル・メッセージを流すことにより人々を洗脳している。


CIAは、元祖CIA(金に裏付けられたCIA=GB-CIA)、ブッシュCIA、Ex−CIAの3派閥に分かれている。それらの3派閥がアメリカや世界を支配してきた。

GB-CIA:Gold backed CIA

元祖CIA(OSS)は第二次世界大戦中に世界の国々から金(Gold)を盗んだ。ドイツや日本が他の国々から奪い取った金もCIAが奪った。しかしCIAは盗んだ金を返還するつもりはない。CIAが盗んだ金はアメリカには保管されておらず、フィリピンとスイスに保管されている。

GB-CIAはアメリカの国益のために海外で活動することになっているが、彼らは通貨市場、債券市場、株式市場に関与し世界中に影響をあたえている。

GB-CIAのメンバーは米財務省及びアメリカの経済政策を決めるESF経済安定資金に多く入りこんでいる。 ESFは通貨、債券、株式市場を操作し、FRBに金融政策を指示している。ESFはGB‐CIAにとってアメリカの金融市場を支配する上で最も都合の良いツールである。
GB-CIAこそがアメリカ経済を支配している。

GB-CIAは欲深く、世界中に戦争を仕掛けて富を強奪している。邪魔者は容赦なく殺害する。CIAは世界中で数々の残忍な犯罪活動を行っている。
ブッシュやクリントン周辺では、彼らに批判的な銀行のトップ、ブローカー、内部告発者が次々に不審死を遂げている。これまで数百人が殺害された。


また、GB-CIA は、彼らの性的異常行為、ピードフィリア(小児性愛犯罪)、悪魔崇拝の生贄儀式に多くの政治家や企業家を取り込んでいる。彼らは世界的な小児性愛犯罪ネットワークを構築させた。また、彼らは、難民のチャリティ団体を活用して世界最大の性奴隷の人身売買市場を運営している。また世界の麻薬密売も牛耳っており、イランーコントラ・スキャンダルやアフガニスタンのケシ栽培を行ってきた。
彼らは、麻薬、セックス、権力、支配、悪魔崇拝という通貨で絶大な権力を買っている。


Bush CIA (ブッシュ、クリントン、オバマ犯罪ファミリーとも呼ばれる):


パパブッシュが副大統領時代にブッシュCIAが正式に創設された。アメリカの16の諜報機関は国家情報長官によって支配されている。パパブッシュはCIA長官も務めたことがある。レーガン政権を支配していたのはパパブッシュである。彼はレーガンによってアメリカの外交政策の責任者に任命された。当時、パパブッシュはCIAの戦術を使ってソ連を崩壊させた。

パパブッシュ政権時代にジョージ・ソロスとレオ・ワンタが米財務省の偽の米国債を使ってロシア通貨を攻撃し不安定化した。

パパブッシュの兄(弟)は、Riggs Bankを経営しており、その傘下にVelment Bankを創設し、ロシアから奪ったお金とゴールドをロンダリングしている。一部のお金はミット・ロムニーの会社、Bain Capitalを介してロンダリングされた。
ソ連崩壊後、パパブッシュとブッシュのネオコン攻撃部隊(Vulcans)はロシア及びソ連から独立した国々から全ての資産(特に石油)を奪った。パパブッシュとキッシンジャーは、ブッシュCIAのごろつき集団の犯罪を介して個人的に巨額の富を得た。
パパブッシュはブッシュCIAのごろつき集団にホワイトハウス、司法省、国務省を取り込み、勢力を拡大した。その結果、CIAの犯罪は全て連邦判事や国務省の高官によって見逃された。


ブッシュ家はクリントン家とビル・クリントンがアーカンソー州知事になる前から親しい関係にあり、オバマの母親は元CIAエージェントである。そのためオバマは生まれた時からCIAと深い結びつきがあった。オバマは完全にCIAの創造物である。
オバマが抱える問題は、CIAの3派閥ともつながりがあることであり、どの派閥に属してよいのかわからない。彼のめちゃくちゃな政策は、GB-CIAとブッシュCIAの両派閥を満足させようとしたからに他ならない。

ピザゲートで悪名高いジョン・ポデスタ氏と彼の兄(弟)はワシントンで最も有力なロビーストであり、レーガン政権時代から米政府の小児性愛組織を牛耳ってきた。
パパブッシュはレーガン政権の事実上の権力者だったが、当時からホワイトハウスでは小児性愛犯罪が日常的に行われていた。
ホワイトハウスがこのような性犯罪を堂々と行っていたことで連邦議員らの倫理が完全に崩壊した。


パパブッシュはケネディを暗殺したCIAを当時から支配し続けており、やりたい放題のことをやってきた。誰もそれを止めることはできなかった。パパブッシュはレーガン大統領の暗殺も企てたが失敗した。

ホワイトハウスも司法省も国務省もCIAの犯罪行為に慣れてしまい、CIAや政治家の犯罪をひたすら隠蔽してきた。


ケネディが暗殺されたとき、パパブッシュはCIAエージェントだった。
当時GB-CIAは世界の地政学的領域で独占するようになり、政治リーダーの暗殺を行うことで政権を変えることが可能になったとパパブッシュは認識した。
当時、パパブッシュは外交政策の責任者としてCFR(元CIA、政府の諜報部員及び企業の諜報部員で構成されている)の命令に従って政策を実行していた。また、パパブッシュは自分が任命した政治家全員の脅迫状リストを作成し彼らに命令に従うことを約束させた。


パパブッシュはサウジ王族と非常に親しい関係を築いた。そして彼の人生の多くをサウジの宮殿で過ごすことになった。パパブッシュは世界最大の武器商人、麻薬王、マフィア、王族、金融詐欺集団と協力関係にあった。彼はどこの国を訪れてもセキュリティに引っかかることなく自由に入国を許され、彼のビジネス(犯罪活動)を世界中で展開することができた。

最終的にGB-CIAはブッシュCIAの活動に気が付き、両者間の緊張が高まった。


パパブッシュは、配下のジョージ・ソロスとレオ・ワンタがロシア通貨を崩壊させ巨額の富を得た時、ロシアから大量の
金(ゴールド)を盗んだ。
そしてその2年間でパパブッシュは絶大な権力と富を獲得し、ブッシュCIAとGB-CIAのいがみ合いが悪化した。GB-CIAはブッシュの協力を得て政府とのつながりを持ちたかった。彼らはクリントン大統領が単にパパブッシュの命令で動いていることを知っていた。


Ex-CIA:

既にGB-CIA対ブッシュCIAの対立が激化している中で、Ex-CIAがそれに参戦している。
政治家を脅迫して政権を変えることが好きなGB-CIAと非常に欲深く際限のない権力闘争に明け暮れるブッシュCIAの対立を逆手に取りEx-CIAはこれらの2派閥の戦術と利権を盗もうと考えた。多くのEx-CIAは、政府を去り、利益の多い民間の諜報機関に籍を置いている。民間諜報機関はアメリカの諜報活動の65%を行っている。

Ex-CIAは、政府、銀行、企業の最高の地位にいた元CIAエージェントたちである。また、Ex-CIAは、GB-CIA及びブッシュCIAで働いていたエージェントらによる無秩序スパイ集団として創設された。


Ex-CIAのメンバーは政府や大企業で最高の地位を獲得している。
弁護士のジミー・コメィ氏は、FBI長官になる前に、ニューヨーク南部の連邦検事、検事副総長、米最大の軍事契約企業、ロックヒードマーチン社の上席副社長、CIA関連企業の相談役、CIA銀行のHSBC及びGB-CIAの金を保管しているHSBCホールディングズの理事を務めていた。
CIAの高級エージェントはこのよう昇進の梯子を上っていく。


コメィ長官はFBIを去ったあとに別の場所で高い地位を得ることで、 彼が犯罪によって獲得した巨額の富は守られることになる。コメィ長官はCIAの3派閥の命令に従って動いていた。


ジョン・ブレナンCIA長官は、長官になる前に国土安全保障省の副補佐官、サウジアラビアのステーションチーフ、国家反テロセンターの所長、諜報ネットワークのAnalysis CorporationのCEO、National Security Allianceの会長、 Global Strategies 、GlobalIntelligence SolutionsそしてGTECの主任エージェントだった。


これらの3派閥はシリアで破壊活動を行っている。シリアでCIAはペンタゴンが支援している部隊を攻撃していることが明らかになった。

アレッポの外側でアメリカが支援している3つの集団がお互いに戦っていることが分かった。この事実を隠蔽するためにオバマはクラッパー氏に偽の情報を流すよう命令した。
それこそが、ロシアがトランプ氏を脅迫していることや大統領選でロシアがハッキング行為を行ったとするねつ造報道である。また、国土安全保障省が有権者のデータベースをハッキングしたと報道されたのはシリアにおけるオバマの個人的な戦争の実態を隠すための偽装工作である。

クラッパー氏、ブレナン氏、コメィ氏は共に17の諜報機関がメディアを介してねつ造報道を行うことに賛成した。トランプ氏に対する彼らの攻撃により、CIAの3派閥の汚職、共謀、グローバリズム・アジェンダ、反米姿勢が明らかになった。


トランプ氏はCIAに刃向かう戦士である。


トランプ氏はグローバリズムと戦い法の支配を推し進めているため、CIAの3派閥の一番の敵となった。


CIAの3派閥は法の上に君臨して権力を悪用しているが、反グローバリズム、反NWOのトランプ氏が大統領に選ばれたことで彼らはかなりの衝撃を受けている。そのため、3派閥はトランプ氏の信用を落とすためにあらゆる情報操作を行っている。また、彼らが継続的に行ってきた数々の邪悪な犯罪を隠蔽しようとしている。また、ケネディがやろうとして失敗したことをトランプ氏がやろうとしているため、それを阻止しようとしている。

トランプ氏は、CIAがCIAメンバーとCIAの利権を守るためなら容赦なく人を殺すことを知っており、彼の命が危険にさらされていることを十分認識している。
CIAはトランプ氏についての調査書類を持っておらず、彼がワイルドカードだったことをCIAは知らなかった。トランプ氏にはこれまで明らかになったスキャンダル以外は何もないのである。トランプ氏はCIAの3派閥とは一切関わり合いを持っていない。
トランプ氏はワシントンDCの関係者を一切信用していない。なぜなら彼らは既にCIAに取り込まれている恐れがあるからだ。

トランプ氏が1600ペンシルベニア・アベニューのビルにオフィスを構えることをしなかったのは賢い選択である。なぜなら、そのビルの隅々にCIAのスパイ装置が設置されているからである。
愛国者は、トランプ氏が使うことになるホワイトハウスの内装及びリフォームの費用を支援すべきである。


CIAはあらゆる手法を使ってトランプ氏を公然と攻撃しはじめた。CIAの3派閥と繋がりのあるジョージ・ソロスも世界の舞台で公然とトランプ氏を攻撃している。


ビルダーバーグや三極委員会、ボヘミアングローブ、CFRが一同に集まり会議を開いた。そこでトランプ氏を大統領にさせないための作戦を練った。世界中の邪悪なカバラ犯罪集団は神経をとがらせている。既に彼らはトランプ氏を殺害しようとした。また、彼に賄賂を贈ろうともした。彼らは他の政治家に対してならうまくいく戦術がトランプ氏にはうまくいかないことを知った。トランプ氏はCIAが日常的に行っている活動に一切関心がない。

以下省略
http://blog.livedoor.jp/wisdomkeeper/archives/52001108.html

http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/293.html#c2

[近代史3] 若松孝二 実録・連合赤軍 あさま山荘への道程 (2007年) _ 1970年代はこういう時代だった 中川隆
101. 中川隆[-11403] koaQ7Jey 2019年3月18日 12:29:47 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[597]
標記映画の動画リンク追加

若松孝二 実録・連合赤軍 あさま山荘への道程 (2007年) 動画
https://www.youtube.com/watch?v=q_uMjzQAwnM
https://www.youtube.com/watch?v=cicGFPx-4GE


▲△▽▼


<再現>日本赤軍事件 - YouTube 動画
https://www.youtube.com/watch?v=QNNokzO4u-Y
https://www.youtube.com/watch?v=3dN3r3H4mSU


重信房子独占インタビュー 1973 - YouTube 動画
https://www.youtube.com/watch?v=rXIUjCImv1M

映画『革命の子どもたち』予告編 - YouTube 動画
https://www.youtube.com/watch?v=93xiGKx5ASU


▲△▽▼


連合赤軍あさま山荘事件 完全版 - YouTube動画
https://www.youtube.com/watch?v=_7538Mapqd8

https://www.youtube.com/watch?v=JbXHqyyCvRY
https://www.youtube.com/watch?v=UgCwy_WQP60
https://www.youtube.com/watch?v=6dy2fbMgILE

<再現>連合赤軍 山岳ベース事件  - YouTube 動画
https://www.youtube.com/results?search_query=%EF%BC%9C%E5%86%8D%E7%8F%BE%EF%BC%9E%E9%80%A3%E5%90%88%E8%B5%A4%E8%BB%8D+%E5%B1%B1%E5%B2%B3%E3%83%99%E3%83%BC%E3%82%B9%E4%BA%8B%E4%BB%B6&sp=mAEB

銃撃と粛清の神話 1972年連合赤軍あさま山荘事件 - YouTube 動画
https://www.youtube.com/results?search_query=%E9%8A%83%E6%92%83%E3%81%A8%E7%B2%9B%E6%B8%85%E3%81%AE%E7%A5%9E%E8%A9%B1+1972%E5%B9%B4%E9%80%A3%E5%90%88%E8%B5%A4%E8%BB%8D%E3%81%82%E3%81%95%E3%81%BE%E5%B1%B1%E8%8D%98%E4%BA%8B%E4%BB%B6

【昭和】連合赤軍30年目の真実【大事件】 - YouTube動画
https://www.youtube.com/watch?v=VwrRJSLg7nU

連合赤軍兵士 41年目の証言 - YouTube動画
https://www.youtube.com/watch?v=fBusjiyrX78


▲△▽▼


しかし、昔の学生やインテリは随分 IQ が低かったみたいですね。

当時の日本は一億総中流で、マルクス主義の前提になる階級自体が存在しなかったので、いくら社会不安を起こしても階級闘争や革命なんか起きる筈がなかったのですけどね。


まあ、今の学生やインテリが賢くなったというのでなく

今だけ、金だけ、自分だけ

という価値観に変わっただけなのですが。


世界の国で中間層が部厚かったのは平成バブル崩壊までの日本だけです
そしてそれは、終戦直後に GHQ が農地改革、意図的なインフレと預金封鎖、極端な累進課税で人為的に所得再分配をやった結果なのです。

日本共産党や労働組合を創設させたのも GHQ なのですね。

平成バブル崩壊までの日本が世界で最も成功した社会主義国だと言われていたのは
すべて GHQ の共産化政策の結果なのです。

20年前まで大学関係者や学生が左翼とマルクス主義者ばかりだったのも GHQ の教育方針の結果でしょう。



http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/287.html#c101

[お知らせ・管理21] 2019年03月 削除依頼・投稿制限・等管理スレ。突然投稿できなくなった方も見てください。 管理人さん
24. 中川隆[-11402] koaQ7Jey 2019年3月18日 14:10:11 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[598]
赤かぶ氏は中国の工作員様なんだから特別待遇に決まってるだろ

日本はこれから中国小日本省になって、日本人は民族浄化されるんだから
赤かぶ氏に逆らわないのが自分の為だよ
http://www.asyura2.com/13/kanri21/msg/551.html#c24

[リバイバル3] 酷い音のインチキ・レプリカを量産して伝説の評価を落とした Goodmans Axiom80 中川隆
45. 中川隆[-11401] koaQ7Jey 2019年3月18日 14:18:26 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[599]

370: RW-2 :2019/03/17(日) 15:07:00 HOST:88.51.205.61.ap.yournet.ne.jp

コルゲーションが入ったコーン紙のフルレンジや、硬くて薄いコーン紙の古く
年代物のユニットは紙臭い音がするのは仕方ないですね。分割振動で高域を伸ば
してます。LE-8Tのようなユニットは紙臭さが少ない。作りが違いますでしょ。

昔の三菱や松下のコーン紙はボイスコイル接合部を分厚くし、エッジに向かって
薄く挽いてます。メカニカルフィルターですね。高域は弱くなりますが紙臭さは
ずっと少ないです。PW-201なんか古色蒼然のフルレンジみたいなユニットですが
紙臭さは少ない。P-610だとてき面に紙臭いでしょ。ただこの紙臭さは良い悪い
ではなくて好みの問題なんですよね。気にならない方は問題無しですし。

あとダブルコーンフルレンジのメガホントーン。ある周波数にて、わめいたような
音になる。聴く方が許せるか許せないかで分かれます。気にならない方は問題無し。

サブコーンが大きいほど顕著です。ユニット前面に木製かプラ製の(金属製はダメ)
スラントプレートを付ければかなり解消します。パイオニアのPIMシリーズや松下の
げんこつ系はダブルコーン端をメインコーンに接合してます。音が大人しくなり
ますけどメガホントーンは皆無。

拙者は紙臭さもメガホントーンも聴き取れますが、酷いモノは差し置いて大して問題
にしとりません。そこの部分が似非リアリティに貢献しとるのも判ってますからね〜。


371: QS :2019/03/17(日) 15:45:16 HOST:dcm2-110-233-247-190.tky.mesh.ad.jp

>コルゲーション

80のコルゲーションは初期型が前面凸の背面凹です。
復刻版は前面凸で背面は平らですから、裏まで通っておらず
あまりコルゲーションの役割を果たしていないと思われます。
この辺は違いとして音に出るかも知れません。
リチャード・アレンは8Tも10Tもコルゲーション無しです。

372: アラン・ドロン :2019/03/17(日) 16:56:38 HOST:softbank219168067040.bbtec.net

P-610DやFも、コーン紙はボイスコイル付近は厚くエッジ付近は、
薄くしているのではないのですか?

コーン紙の厚み加減の上手さと、コルゲーションの入れ方が絶妙なので
このような、素晴らしい音が出ると聞きました。

>リチャード・アレンは8Tも10Tもコルゲーション無しです。

ないと、駄目と言うわけではないのではないですか。
それぞれ、設計のコンセプトとかあると思いますが。


373: くろねき :2019/03/17(日) 19:18:00 HOST:fpoym3-vezC1pro10.ezweb.ne.jp

コルゲーションとは違いますが、BOSEのスタードライバーなんてのがありましたね。
コルゲーション以上の効果を狙い、マイカ入りのケブラーコーンを、
中央が星形に開いたラバーで覆ったものですが、
「受賞サウンド」を誇っていたのに短期間で無くなった
らしいところを見るとラバーの耐久性が気になったのか?

374: 前期 :2019/03/17(日) 21:12:35 HOST:h220-215-170-060.catv02.itscom.jp

結局生き残っている名機というのはあまり奇抜ではないということじゃない
でしょうか。
これはアンプでも同じですね。安定性や耐久性のあるものが市場で生きて
行けるのでしょう。それじゃ面白くないというお考えもありましょうが・・・


375: RW-2 :2019/03/18(月) 10:49:29 HOST:88.51.205.61.ap.yournet.ne.jp

>復刻版は前面凸で背面は平ら

見えないところは端折ったんでしょね。コストダウンです。P-610のような大量
生産品はしだいにプレス金型が鈍ってコルゲーションが甘くなります。プラモ
デルの金型と同じです。モールドが甘くなります。

>P-610DやF

復刻版はコーン紙が柔らかく若干厚い。で、チタンドーム付きメカニカル2ウェイ。
P-610A/Bより紙臭さは和らいでます。

376: RW-2 :2019/03/18(月) 11:11:44 HOST:88.51.205.61.ap.yournet.ne.jp

>集音用のダイナミックマイクとして使ったのではないか


振動板の質量が重すぎて集音マイクとしては使えないんじゃないかな。やはり
軽量振動板の無指向性マイクにホーンやパラボラでしょう。WE555ドライバー+
WE15Aホーンなら使えたんでしょかね?


377: 前期 :2019/03/18(月) 11:22:40 HOST:h220-215-170-060.catv02.itscom.jp

釈迦に説法ですがコルゲーションがコーン紙の分割振動を抑える目的である
ことは良く知られてますがこれについての理論解析はフォステクスがとても
進んでいるやうで論文も発表されてますね。難しい数式が多用されていてオ
バカな小生にはチンプンカンプンです。

https://jbbs.shitaraba.net/bbs/read.cgi/music/11602/1417941619/l50




http://www.asyura2.com/09/revival3/msg/686.html#c45

[リバイバル3] カルトの世界 中川隆
26. 中川隆[-11400] koaQ7Jey 2019年3月18日 15:49:32 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[600]
2001 年 4 月 26 日 重信房子、よど号犯、オウム真理教の深い関係
 細井 保(ジャーナリスト)
http://www.asyura2.com/sora/bd13/msg/96.html

 重信房子とよど号犯の関係

 日本赤軍最高幹部の重信房子は、平成十二年十一月に大阪で逮捕された。これまでの新聞報道によると、重信は数年前から日本への入国を繰り返し、日本から北京などにたびたび渡航していた。北京を拠点のひとつにして、偽造旅券を使って世界各地に渡航していた。使われたパスポートの偽造には、よど号犯グループが関った可能性が高い。

 日本赤軍は昭和四十六年(一九七一年)、共産主義者同盟赤軍派(共産同赤軍派)のメンバーのうち、レバノンに出国した重信房子、奥平剛士等によって組織された。結成以降、日本赤軍はパレスチナ・ゲリラと共同し、または単独で、国際テロ組織の中でも極めて活発なテロ活動を世界各地で展開してきた。彼らが起こした事件の中で最も忌しい事件は、昭和四十七年(一九七二年)五月、イスラエルのテルアビブ・ロッド空港での銃乱射事件だ。奥平剛士、安田安之、岡本公三の三人が自動小銃を乱射し、一般旅行者ら九十六人を殺傷(うち死亡二十四人)した。

 よど号グループは、同じ赤軍派の一つで、故・田宮高麿ら九人だ。彼らは昭和四十五年(一九七〇年)三月によど号をハイジャックして北朝鮮に渡った。彼らの“宿命”について、高沢皓司氏が著書『宿命−よど号亡命者たちの秘密工作』(新潮社刊)に描いている。北朝鮮で彼らの革命幻想は打ち砕かれ、彼らは北朝鮮の思想に思想改造され、北朝鮮の対外工作員に変じていく。よど号犯のうちには粛清された者、死亡した者もいるが、なお五名が現在、平壌市周辺で執筆業や貿易会社を営むなどしていると伝えられる。

 警察の発表によると、重信が使用していたパスポート二通のうち一通は、約三年前に取得されたものだ。これは、よど号犯グループの関係者が使用していた複数の偽造旅券と、旅券番号の一部が一致するなど、数多くの共通点がみられる。

 重信は偽造パスポートを使って、最近の約三年間に五回以上日本へ入国し、出国先はいずれも中国方面だった。そして、北京を拠点によど号犯グループのメンバーの関係者と接触を続けていたとみられる。関西の赤軍派支援グループのメンバーも北京などに渡航し、現地のホテルなどでひそかに会合を持っていたとみられる。

 平成八年(一九九六年)夏には、重信が当時滞在していた北京から、ひそかに北朝鮮に入国していた可能性がある。この夏、平壌で各国の革命を目指すグループの集会が開かれた。この集会に参加するため北京から北朝鮮に入ったとみられる。重信が集会前後に、よど号犯グループメンバーと接触していた可能性もある。この集会は、各国の革命家やグループなど数十人規模で、日本赤軍の新たな拠点づくりとも関連していたとみられる。参加者の中で重信は重要な役割を果たしていたとされ、この集会に参加する目的で北京を出国した可能性が高いとみられる。

 また平成十二年五月にも、重信が中国・北京に滞在していたことが、CIAによって確認されている。

 日本赤軍は近年、レバノンを活動の拠点とする一方、中東以外の地域に新たな拠点構築を目指し、世界各地で活動を展開していた。しかし、平成七年(一九九五年)、ルーマニアで浴田由紀子が逮捕され、平成八年、ペルーで吉村和江が逮捕、城崎勉がネパールで身柄拘束された。こうした中、平成九年(一九九七年)二月、レバノン国内に潜伏していた日本赤軍のメンバー五人(和光晴生、足立正生、山本萬里子、戸平和夫、岡本公三)が発見され、レバノン当局に身柄を拘束された。本拠地ともいえるレバノンにおいて、政府当局によりメンバーが逮捕されたことは、日本赤軍が最も重要な拠点を失ったことを意味している。メンバーの大量検挙と合わせて、組織として極めて大きな打撃を受けたものとみられる。そこで、重信らは日本へと目を向けてきたのではないか。

 警察の捜査によると、重信の家宅捜索では、新たな組織の構想を記した文書が押収されている。文書は「人民革命党綱領」と「綱領解説」と題されていた。

 人民革命党とは日本国内で革命を実現し権力を奪取するための組織で、平成三年(一九九一年)八月、シリア・ダマスカスで結党された。重信は相次ぐメンバーの逮捕で弱体化した組織を立て直すため、国内で人民革命党の旗揚げを目指し、党綱領をまとめ、来春から活動する計画だったとみられる。同党は運動方針などで対立している国内組織や支援者を一本化して、革命で政権を奪うことを目標にしている。
 東京地裁で先に開かれた拘置理由開示の手続きで、重信容疑者は「来春、いつ司法に身をゆだねてもよい準備を完了する予定だった」と述べた。その旗揚げの準備が完了する前に、最高幹部・重信房子を逮捕したことは、日本警察の功績だろう。

 これまでの報道を通じて、重信に関して二つの疑惑が浮かび上がってくる。よど号グループとの関係、さらに北朝鮮及び中国政府との関係である。この疑惑はオウム真理教と北朝鮮・よど号犯グループの関係に関する疑惑へとつながっていく。
http://www.asyura2.com/sora/bd13/msg/96.html


金正日の極秘指令を受けたよど号犯

 重信ら日本赤軍はよど号犯グループと昭和五十年代から提携をもってきたとみられる。もとは同じ共産同赤軍派である。よど号犯には重大な事実がある。それは、彼らは北朝鮮の指令を受けて、日本国内及び国際的にさまざまな活動をしてきたという事実である。そして、そこに浮かび上がってくるのがオウム真理教との関係なのである。

 よど号犯グループと親しいジャーナリストが高沢皓司氏である。高沢氏は長年彼らを取材してきたことをもとに著書『宿命』を書いた。この本は平成十一年度の講談社ノンフィクション賞を受賞した。

 その後、高沢氏は平成十一年八月から十月にかけて、「週刊現代」に「『オウム真理教と北朝鮮』の闇を解いた」という記事を掲載した。十一回に及ぶ連載の中で高沢氏は、オウム真理教と北朝鮮の闇の中に、赤軍派、よど号犯グループの存在があることを明らかにしている。

 連載の中で、高沢氏は驚くべき事実を公表した。氏によると、昭和五十七年(一九八一年)五月六日、よど号犯は金正日から直筆の極秘指令を受けた。その指令書は実在している。指令書の内容は金日成主義によって日本革命を準備・達成せよ、というものだ。金正日は自衛隊工作や軍事クーデターの中核的人間の育成などを指示していた。よど号犯は指令に従って、対日工作を行ってきたのだという。

 よど号犯グループは金正日から指令書を受けるより前に日本赤軍と接触していた。早くも昭和五十年代(一九七〇年代後半)から、彼らは東欧等で複数回接触していた。これは今回の重信逮捕でわかってきたことである。

 よど号犯グループは日本赤軍のために、偽造旅券を手配していた可能性が高いtp見られている。昭和五十五−五十六年(一九八〇−一九八一)ごろ、日本赤軍の戸平和夫が使用した偽造旅券は、北朝鮮に拉致された疑いの強い男性のパスポートと旅券番号などが酷似していた。

 よど号犯グループは金正日のロボットとなって対日工作を行う一方で日本赤軍との連携を深めていったとみられる。当時、日本赤軍は中東での足場を次第に失い始め、新たな活動拠点を探して東南アジアなどで広域に活動するようになった。よど号犯グループとの連携は、これ以後の日本赤軍に大きな活動力を与えただろう。その背後には金正日の存在があると推測される。

 よど号犯の日本工作活動はメンバーの相次ぐ逮捕などのために、昭和六十年代(一九八〇年代後半)に挫折した。よど号犯による工作が挫折した後、北朝鮮は、ある集団を工作の対象として目をつけた。それがオウム真理教だった、と高沢氏はみている。
http://www.asyura2.com/sora/bd13/msg/97.html


なぞの多いオウム真理教事件

 オウム裁判は進んでいる。判決も続々と出ている。しかしオウム事件にはあまりにも謎が多い。ジャーナリストの一橋文哉氏は独自の取材によってオウム事件を追及している。平成七年に月刊誌「新潮45」(新潮社刊)に、一橋氏は追跡記事を数度に亘って掲載した。その原稿をもとに平成十二年七月、単行本『オウム帝国の正体』(新潮社刊)が発刊された。

 一橋氏が書いているように、一連のオウム事件は疑惑に包まれたまま真相がほとんど明らかにされていない。オウム真理教の存在が、国民に広く知られるようになったのは、平成元年(一九八九年)十一月四日の坂本弁護士一家拉致殺人事件だ。その翌年、平成二年二月、麻原彰晃は真理党を創設し、二十五人の候補を立てて国政選挙に打って出た。しかし、それは惨敗に終わり、教団は深刻な財政危機に陥ったとみられる。ところが、その年の五月には熊本県波野村に六ヘクタールの土地を購入。そして翌三年にはロシアを訪問、エリツィン大統領の側近のロボフに面会して、「ロシア日本大学」構想を打ち上げる。麻原は平成四年には信者三百人を引き連れてロシアを訪問、政権中枢に接触して本格的な布教活動を開始した。

 一体、どこからこれだけのことをする巨額の資金が出てきたのか。その背後には、オウム真理教に資金を提供した団体があるのではないかとみられている。統一教会と創価学会が、疑惑の対象として挙がっている。また「オウムは金のなる木」として、オウムに食い込んだ暴力団の存在が浮かび上がっている。

 その後、オウム真理教は平成六年六月二十七日には、松本サリン事件、七年二月二十八日には、東京・目黒公証役場事務長逮捕監禁致死事件を起こした。そして遂に、同年三月二十日、東京都心部で地下鉄サリン事件を起こす。死者十二名、被害者五千五百名以上という大事件だった。

 これは単発のテロではない。「井上メモ」が示しているのは、オウム真理教の計画には天皇陛下が国会にお出ましになっているときに、国会の周辺で、サリンを大量に散布するというものがあった。計画は未然に防ぐことができたが、もし実行されていたらどのような結果となっていたか、慄然たるものがある。

 オウムはサリンによる無差別大量テロに続いて、国家中枢テロを行って、クーデターを起こし、さらにはアメリカ、ロシアを巻き込んだ第三次世界大戦を引き起こそうとしていたともみられている。

 オウム真理教はサリン事件の十日後、三月三十一日、国松孝次警察庁長官を狙撃する。そして四月二十四日、オウム真理教幹部の村井秀夫科学技術省大臣が、オウム本部前で刺殺された。一橋氏は一連の事件の中でも三つの事件は、特に疑問が多いとしている。つまり坂本弁護士一家拉致事件、国松長官狙撃事件、村井刺殺事件だ。一橋氏は徹底した取材によって、多くの疑問点を記している。

 そこから浮かび上がってくるのは、オウムに関っていた暴力団、疑惑のある宗教団体、そして大物政治家の存在である。この方面はある段階で「上から」捜査にストップがかかった。捜査当局はオウム事件を、オウム真理教単独による犯行として処理しようとしている。また、裁判において検察は、この方面については、ほとんど何も追及しようとしていない。重要点の多くに関係する早川は、裁判において、この領域に関しては固く口を閉ざしたままだ。

 早川はオウム真理教と北朝鮮・ロシアの関係についても明らかにしていない。毒ガス、偽ドル、麻薬、銃火器、潜水艦、軍用ヘリコプターなどオウム真理教の一連の事件は、日本史上、かつてない国際的な事件である。さらには核兵器製造に関する情報がやりとりされていた可能性もある。背後には北朝鮮や暴力団とのつながり、オウムをロシアに紹介した元代議士、その背後にいるとみられる大物政治家、ロシアにおける国際的な武器商人の暗躍等々、日本の内外を結ぶ組織的な関与が見え隠れする。これが単に噂の類ではないことは、CIAがオウム事件の調査を行い、アメリカの上院で大部の報告書が出されていることを知れば、わかるだろう。

 事件の真相は日本の警察、司法によって、ほとんど何も明らかにされていない。オウム事件は深い闇に閉ざされたまま次々に判決が出されている。徹底的に事実を追求していけば、類例を見ない大スキャンダルが暴露され、また国際的な大問題となる可能性があるのだろう。
http://www.asyura2.com/sora/bd13/msg/98.html


よど号犯、オウム工作に関与か

 オウム真理教の一連の事件の背後には、北朝鮮やロシアの影がある。高沢氏は金正日がよど号犯を使って行っていた日本破壊・攪乱工作が挫折した後、それを「ちがう筋で見事に実行したのが、オウムではなかったのか」とみている。

 高沢氏はよど号犯グループは、北朝鮮のオウム工作に関っていたことを強調する。それを明らかにするのが、北朝鮮のオウム工作員Aの存在であると、氏は書いている。同氏によると、オウムには北朝鮮の主体思想(金日成・金正日を絶対化した思想)を身につけた工作員Aが潜入していた。その頃からオウムは急激に変質・過激化した。Aは村井秀夫科学技術省大臣に重用されて武器製造に関与していた。平成七年(一九九五年)三月二十日、オウム真理教は東京で地下鉄サリン事件を起こしたが、サリンの製造責任者は村井だった。

 Aに連なる潜入工作員は複数いたことが明らかになっている。その一人、霜島隆二は医師としてオウム真理教付属医院に入り、林郁夫の下で働いていた。霜島は共産党系の病院に医師として勤務していた時にオウムに入信した。ある日突然、都内にある北朝鮮系の病院に移り、さらにオウム付属病院へ移った。霜島は以後、林の右腕となり、麻酔剤、電気ショック、LSDなどを用いて、信者に洗脳を行っていた。

 これらの方法は、高沢氏によると「北朝鮮の洗脳技術と瓜ふたつ」だ。北の毒ガス等の兵器開発と「まったく同じ軌道上にあるもの」という。しかも霜島は「教祖・麻原に対しても心理療法、あるいは催眠療法などの『イニシエーション』を行える立場にあった」とみた。それゆえ、北朝鮮のオウム工作は麻原自身に及んでいたと考えられる。

 工作員Aはオウム事件でオウムの幹部が逮捕された後にオウムを脱会し、スペインのマドリッドへ飛んだ。高沢氏はマドリッドでAを取材した。Aは一連のオウム事件当時のオウム信者である。Aは高沢氏に対し、今でも主体思想は「すばらしい思想」だと言い、主体思想の作成者の黄長Yから直接指導を受けたと明かす。マドリッドは北朝鮮の工作拠点のある街。その土地は、柴田泰弘らよど号犯とその妻たちが、北朝鮮による日本人留学生を北朝鮮に拉致する等の活動拠点としていた場所だ。中でも柴田はマドリッドにしばしば滞在して活動していた。高沢氏によると、Aは柴田と同じホテルに宿泊していたことが明らかになっている。

 柴田泰弘は昭和六十三年(一九八八年)五月に、北朝鮮帰国者の偽造旅券で日本に潜入帰国をしていた時に逮捕された。しかし、平成六年(一九九四)七月に刑を終え出所している。柴田の逮捕は、対日工作を進める北朝鮮にとって打撃だったのだろう。高沢氏の著書『宿命』によると「事態を重く見たピョンヤンからは日本潜伏中の工作員に緊急の帰国指示命令が平壌放送を通じて流された」「柴田泰弘の国内での逮捕と、その後につづく一連の事態はよど号グループにとってすべての日本潜入工作が挫折したことを意味していた。…妻たちへの緊急の帰国指令は、からくも彼女たちの国内での逮捕だけはまぬがれさせたのである」という。

 柴田は出所後も、よど号グループのスポークスマン、「自主日本の会」などの活動を活発に続けている。北朝鮮及びオウム真理教との関りも持続していたとみられる。

 北朝鮮による日本人拉致事件は、なにも解決していない。日本国政府は北朝鮮に対して非常に弱腰であり、「拉致」を「拉致」として主張すらしていない。今後、この事件を解明するには、よど号犯グループによる日本人拉致の実態を明らかにされなければならないだろう。それは、金正日と北朝鮮政府の国家的な国際犯罪を暴露することになろう。

 オウム真理教へのよど号犯の関与は、偽ドルについても考えられている。偽ドルは北朝鮮が偽造して、世界に広く使用しているものだ。

 よど号犯の一人、田中義三は平成八年(一九九六年)、タイのパタヤで偽ドル札を使用したとして起訴された。この事件については、平成十一年(一九九九年)六月に無罪になり、拘留先のタイ・バンコクから昨年六月二十八日、日本へ移送された。田中が使った北朝鮮の偽ドルは「スーパーK」だった。彼が北朝鮮から出国したとき、北京を通過した可能性が高いとみられている。

 オウムの元幹部の証言によると、早川建設省大臣はドイツから精巧な印刷機を手配し、北朝鮮の偽ドル印刷に関係していたという。その一方、オウムには、外部から多額の資金提供を受けていた疑惑がある。それは、赤軍派・よど号犯の田中義三が使用して逮捕された偽ドル、スーパーKだった疑いが濃いと、高沢氏は言う。もしそうだとすれば、赤軍派・よど号犯とオウム真理教は、北朝鮮の偽ドルへの協力という点でもつながってくる。
http://www.asyura2.com/sora/bd13/msg/99.html


オウムの北朝鮮コネクション

 オウム真理教と北朝鮮の関係についてに疑惑は、多数の死傷者を出したサリンやその他の武器にも関っている。この点において、よど号犯の関与はわかっていない。

 工作員Aがサリン製造責任者の村井に重用されていたことを再確認しておこう。
 高沢氏は言う、「オウム真理教が毒ガスや細菌兵器の開発に手を染めはじめていたのは、そこに北朝鮮の工作組織の浸透があったとすれば、けっして偶然ではないのである」と。

 金日成の著作集には、毒ガスや細菌兵器についての大量の論文。教示がある。朝鮮戦争後、北朝鮮では毒ガスや細菌兵器の研究が行われている。そして麻原らにサリンなどの知識を吹き込み、オウムを北朝鮮型の組織体系に誘導した工作組織が存在すると想定されるのだ。

 オウムと北朝鮮の関係の焦点にいるのが、早川紀代秀建設省大臣と村井秀夫科学技術省大臣だ。早川は麻原と共にオウムの前身である「オウム神仙の会」を創設した人物。オウムのナンバー・ツーといわれる大幹部だ。早川は元統一教会の信者である。それが阿含宗に入り込み、そこで麻原彰晃と巡り合い、オウム神仙の会を作った。オウム真理教の創設後も早川は統一教会の会員と会っていたという。

 早川はロシア射撃ツアーを企画したり、軍事訓練を受けたりと、非常にロシアに接近している。麻原オウムがロシアに接近しようとした最初のヒントは、恐らく、この早川によるものだろう。早川はロシアで武器の購入を行っていた。また頻繁にウクライナの首都・キエフへ行き、さらにそこを経由して北朝鮮に行っていたことがわかっている。

 一方、村井はサリン開発の責任者だった。オウム事件のなかで最も不透明で謎に満ちている事件の一つが、村井の刺殺事件だ。実行犯、徐浩行の背後には暴力団の存在があり、また同時に北朝鮮の工作組織の影が濃い。徐には数年間、北朝鮮に渡っていた形跡がある。彼は北朝鮮の「きわめて高度に訓練されたテロリストであり、工作員」と高沢氏はみる。

 村井はテレビで、オウムの資金は一千億円あると言った。また、地下鉄で使われた毒ガスはサリンではないとも証言した。とすれば、ガスの製造元はどこの国なのか。そして、さらに村井が曝け出しかねなかった秘密があったのだろう。

 その秘密は、北朝鮮と暴力団がらみの麻薬取引だった疑いもある。高沢氏は、それ以上の秘密があったのではないかと見ている。刺殺される前、村井はテレビでその秘密に触れかねない発言をしていた。そのことが、きわめて強い危惧を、北朝鮮側に抱かせたのだ。それは、日本の原子力発電所に関するものではなかったか。
 早川は頻繁にウクライナの首都・キエフへ行き、またそこを経由して北朝鮮に行っていたと先に書いた。高沢氏は、早川がロシアで武器の購入だけでなく、核燃料のプルトニウムの密輸にも関係があったのではないか、とみる。

 というのも、オウムは日本の原子力発電所に関する膨大な機密書類を手に入れていたのだ。村井らが約二百人もの作業員を潜入させて収集したものだ。専門家も初めて見るようね詳細な資料だ。こうした原発の機密資料が、早川ルートによって北朝鮮に流出していた可能性がある。そして、早川が北朝鮮の窓口としていたのは、北朝鮮の核兵器関連物資やIC機器の調達を行う部署、「第二経済委員会」だった可能性が、最も高いと、高沢氏は書いている。

 早川は、国際的な「死の商人」風のところがある。これに対し、村井は物理学の専門家であり、原発のデータを理解することができた。村井は早川とともに北朝鮮に渡航し、関係を持っていた。村井は究極の教団武装化として核開発を考えていた。北朝鮮も核開発のために、日本の技術とデータを必要としてオウムを利用していた。両者の利益は一致していたとも考えられる。

 オウムの一連の事件への「北朝鮮の関与、工作組織の存在は、村井の命を奪ってもなお、死守しなければならない機密に属していた」と高沢氏は言う。しかし、その真相は謎のままだ。北朝鮮は既に核兵器の開発を進め、既に数発の核兵器を持っているのではないかという観測がある。こうした国が連合赤軍など国際的なテロ組織とつながりを持ち、いや国際的なテロ組織を領導しようとしていたとすれば、どうだろうか。そうしたテロリストが、核兵器を掌中にしたならば、世界は震撼するだろう。勿論、掌中にあるのはサリンや生物化学兵器であるかも知れない。
http://www.asyura2.com/sora/bd13/msg/100.html


赤軍派とオウムを結ぶ線

 オウム真理教が一連の事件を起こしたのか。それとも、外国の工作や国内の諸団体の関与によって操られていたのか。

 高沢氏は北朝鮮の存在を重く見る。氏はオウムは北朝鮮に「徹底して領導され、誘導され、利用され尽くしたともいえるのでは」と高沢氏はみる。「サリンをはじめとした一連のオウム真理教のテロ事件は、日本攪乱工作(クーデター工作)の、いわば予行演習でもあり得たのである」と。首都中枢の霞ヶ関を狙ったサリン事件については、北朝鮮が「日本の危機管理のずさんさと、どのような動きが取られるのかというシミュレーションのデータを得るためにこそ、攪乱工作の第一歩は必要だった」と述べている。

 もしそうだとすると、赤軍派・よど号犯グループは、こうした北朝鮮のオウム工作にどの程度関っていたのか。そして、重信ら日本赤軍はそれを関知していたのか。

 よど号犯グループは、中国北京を重要な拠点として活動してきた。平成八年の夏、重信房子は北京からひそかに北朝鮮に入国し、平壌で開かれた各国の革命を目指すグループの集会に参加したらしい。当然、重信はよど号犯グループメンバーと接触していただろう。

 日本赤軍の重信は、よど号犯グループが北朝鮮の国際工作員となっていることを知りながら、彼らとともに活動してきた可能性がある。それは同時に日本赤軍が、北朝鮮の対日工作や世界戦略に協力する、あるいは金正日の指令に従って動いてきたということを示唆する。

 実態はまだ明らかでないが、北朝鮮という国に重信や国際的なテロリストが集まるということは、当然、北朝鮮政府・指導部は、これを承知していたとみるべきだろう。北朝鮮政府は一体、何のためにこのような国際テロリスト集会を自国で開催したのか。そして、日本赤軍に対して何を提供し、また何を求めたのか。

 重信は北京を拠点として、日本や北朝鮮などでの活動をしてきたとみられる。果たして中国政府は日本赤軍やよど号犯グループと関りはないのか。

 今後、国際的な赤軍派の活動を解明してゆけば、オウム事件とそれに関る外国勢力の存在に、ぶつかるにちがいない。そこにメスを入れるとき始めて真相が見えてくるのではないのか。これは外交問題となることは必至である。

 いずれにせよ、やがて日本の政・官界の恥部や、暴力団などの絡む闇の権力が光に曝されるだろう。日本の背骨まで蝕むガンの病巣は、皮膚の下で破裂寸前にまで膨れ上がっているからだ。

(了)

(細井 保 (ジャーナリスト) 「重信房子、よど号犯、オウム真理教の深い関係」『動向』2001年1・2月合併号より)
http://www.asyura2.com/sora/bd13/msg/101.html

http://www.asyura2.com/09/revival3/msg/215.html#c26

[昼休み52] "新喜び組"は23歳以下の美女たち! 中川隆
135. 中川隆[-11399] koaQ7Jey 2019年3月18日 15:51:05 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[601]
2001 年 4 月 26 日 重信房子、よど号犯、オウム真理教の深い関係
 細井 保(ジャーナリスト)
http://www.asyura2.com/sora/bd13/msg/96.html

 重信房子とよど号犯の関係

 日本赤軍最高幹部の重信房子は、平成十二年十一月に大阪で逮捕された。これまでの新聞報道によると、重信は数年前から日本への入国を繰り返し、日本から北京などにたびたび渡航していた。北京を拠点のひとつにして、偽造旅券を使って世界各地に渡航していた。使われたパスポートの偽造には、よど号犯グループが関った可能性が高い。

 日本赤軍は昭和四十六年(一九七一年)、共産主義者同盟赤軍派(共産同赤軍派)のメンバーのうち、レバノンに出国した重信房子、奥平剛士等によって組織された。結成以降、日本赤軍はパレスチナ・ゲリラと共同し、または単独で、国際テロ組織の中でも極めて活発なテロ活動を世界各地で展開してきた。彼らが起こした事件の中で最も忌しい事件は、昭和四十七年(一九七二年)五月、イスラエルのテルアビブ・ロッド空港での銃乱射事件だ。奥平剛士、安田安之、岡本公三の三人が自動小銃を乱射し、一般旅行者ら九十六人を殺傷(うち死亡二十四人)した。

 よど号グループは、同じ赤軍派の一つで、故・田宮高麿ら九人だ。彼らは昭和四十五年(一九七〇年)三月によど号をハイジャックして北朝鮮に渡った。彼らの“宿命”について、高沢皓司氏が著書『宿命−よど号亡命者たちの秘密工作』(新潮社刊)に描いている。北朝鮮で彼らの革命幻想は打ち砕かれ、彼らは北朝鮮の思想に思想改造され、北朝鮮の対外工作員に変じていく。よど号犯のうちには粛清された者、死亡した者もいるが、なお五名が現在、平壌市周辺で執筆業や貿易会社を営むなどしていると伝えられる。

 警察の発表によると、重信が使用していたパスポート二通のうち一通は、約三年前に取得されたものだ。これは、よど号犯グループの関係者が使用していた複数の偽造旅券と、旅券番号の一部が一致するなど、数多くの共通点がみられる。

 重信は偽造パスポートを使って、最近の約三年間に五回以上日本へ入国し、出国先はいずれも中国方面だった。そして、北京を拠点によど号犯グループのメンバーの関係者と接触を続けていたとみられる。関西の赤軍派支援グループのメンバーも北京などに渡航し、現地のホテルなどでひそかに会合を持っていたとみられる。

 平成八年(一九九六年)夏には、重信が当時滞在していた北京から、ひそかに北朝鮮に入国していた可能性がある。この夏、平壌で各国の革命を目指すグループの集会が開かれた。この集会に参加するため北京から北朝鮮に入ったとみられる。重信が集会前後に、よど号犯グループメンバーと接触していた可能性もある。この集会は、各国の革命家やグループなど数十人規模で、日本赤軍の新たな拠点づくりとも関連していたとみられる。参加者の中で重信は重要な役割を果たしていたとされ、この集会に参加する目的で北京を出国した可能性が高いとみられる。

 また平成十二年五月にも、重信が中国・北京に滞在していたことが、CIAによって確認されている。

 日本赤軍は近年、レバノンを活動の拠点とする一方、中東以外の地域に新たな拠点構築を目指し、世界各地で活動を展開していた。しかし、平成七年(一九九五年)、ルーマニアで浴田由紀子が逮捕され、平成八年、ペルーで吉村和江が逮捕、城崎勉がネパールで身柄拘束された。こうした中、平成九年(一九九七年)二月、レバノン国内に潜伏していた日本赤軍のメンバー五人(和光晴生、足立正生、山本萬里子、戸平和夫、岡本公三)が発見され、レバノン当局に身柄を拘束された。本拠地ともいえるレバノンにおいて、政府当局によりメンバーが逮捕されたことは、日本赤軍が最も重要な拠点を失ったことを意味している。メンバーの大量検挙と合わせて、組織として極めて大きな打撃を受けたものとみられる。そこで、重信らは日本へと目を向けてきたのではないか。

 警察の捜査によると、重信の家宅捜索では、新たな組織の構想を記した文書が押収されている。文書は「人民革命党綱領」と「綱領解説」と題されていた。

 人民革命党とは日本国内で革命を実現し権力を奪取するための組織で、平成三年(一九九一年)八月、シリア・ダマスカスで結党された。重信は相次ぐメンバーの逮捕で弱体化した組織を立て直すため、国内で人民革命党の旗揚げを目指し、党綱領をまとめ、来春から活動する計画だったとみられる。同党は運動方針などで対立している国内組織や支援者を一本化して、革命で政権を奪うことを目標にしている。
 東京地裁で先に開かれた拘置理由開示の手続きで、重信容疑者は「来春、いつ司法に身をゆだねてもよい準備を完了する予定だった」と述べた。その旗揚げの準備が完了する前に、最高幹部・重信房子を逮捕したことは、日本警察の功績だろう。

 これまでの報道を通じて、重信に関して二つの疑惑が浮かび上がってくる。よど号グループとの関係、さらに北朝鮮及び中国政府との関係である。この疑惑はオウム真理教と北朝鮮・よど号犯グループの関係に関する疑惑へとつながっていく。
http://www.asyura2.com/sora/bd13/msg/96.html


金正日の極秘指令を受けたよど号犯

 重信ら日本赤軍はよど号犯グループと昭和五十年代から提携をもってきたとみられる。もとは同じ共産同赤軍派である。よど号犯には重大な事実がある。それは、彼らは北朝鮮の指令を受けて、日本国内及び国際的にさまざまな活動をしてきたという事実である。そして、そこに浮かび上がってくるのがオウム真理教との関係なのである。

 よど号犯グループと親しいジャーナリストが高沢皓司氏である。高沢氏は長年彼らを取材してきたことをもとに著書『宿命』を書いた。この本は平成十一年度の講談社ノンフィクション賞を受賞した。

 その後、高沢氏は平成十一年八月から十月にかけて、「週刊現代」に「『オウム真理教と北朝鮮』の闇を解いた」という記事を掲載した。十一回に及ぶ連載の中で高沢氏は、オウム真理教と北朝鮮の闇の中に、赤軍派、よど号犯グループの存在があることを明らかにしている。

 連載の中で、高沢氏は驚くべき事実を公表した。氏によると、昭和五十七年(一九八一年)五月六日、よど号犯は金正日から直筆の極秘指令を受けた。その指令書は実在している。指令書の内容は金日成主義によって日本革命を準備・達成せよ、というものだ。金正日は自衛隊工作や軍事クーデターの中核的人間の育成などを指示していた。よど号犯は指令に従って、対日工作を行ってきたのだという。

 よど号犯グループは金正日から指令書を受けるより前に日本赤軍と接触していた。早くも昭和五十年代(一九七〇年代後半)から、彼らは東欧等で複数回接触していた。これは今回の重信逮捕でわかってきたことである。

 よど号犯グループは日本赤軍のために、偽造旅券を手配していた可能性が高いtp見られている。昭和五十五−五十六年(一九八〇−一九八一)ごろ、日本赤軍の戸平和夫が使用した偽造旅券は、北朝鮮に拉致された疑いの強い男性のパスポートと旅券番号などが酷似していた。

 よど号犯グループは金正日のロボットとなって対日工作を行う一方で日本赤軍との連携を深めていったとみられる。当時、日本赤軍は中東での足場を次第に失い始め、新たな活動拠点を探して東南アジアなどで広域に活動するようになった。よど号犯グループとの連携は、これ以後の日本赤軍に大きな活動力を与えただろう。その背後には金正日の存在があると推測される。

 よど号犯の日本工作活動はメンバーの相次ぐ逮捕などのために、昭和六十年代(一九八〇年代後半)に挫折した。よど号犯による工作が挫折した後、北朝鮮は、ある集団を工作の対象として目をつけた。それがオウム真理教だった、と高沢氏はみている。
http://www.asyura2.com/sora/bd13/msg/97.html


なぞの多いオウム真理教事件

 オウム裁判は進んでいる。判決も続々と出ている。しかしオウム事件にはあまりにも謎が多い。ジャーナリストの一橋文哉氏は独自の取材によってオウム事件を追及している。平成七年に月刊誌「新潮45」(新潮社刊)に、一橋氏は追跡記事を数度に亘って掲載した。その原稿をもとに平成十二年七月、単行本『オウム帝国の正体』(新潮社刊)が発刊された。

 一橋氏が書いているように、一連のオウム事件は疑惑に包まれたまま真相がほとんど明らかにされていない。オウム真理教の存在が、国民に広く知られるようになったのは、平成元年(一九八九年)十一月四日の坂本弁護士一家拉致殺人事件だ。その翌年、平成二年二月、麻原彰晃は真理党を創設し、二十五人の候補を立てて国政選挙に打って出た。しかし、それは惨敗に終わり、教団は深刻な財政危機に陥ったとみられる。ところが、その年の五月には熊本県波野村に六ヘクタールの土地を購入。そして翌三年にはロシアを訪問、エリツィン大統領の側近のロボフに面会して、「ロシア日本大学」構想を打ち上げる。麻原は平成四年には信者三百人を引き連れてロシアを訪問、政権中枢に接触して本格的な布教活動を開始した。

 一体、どこからこれだけのことをする巨額の資金が出てきたのか。その背後には、オウム真理教に資金を提供した団体があるのではないかとみられている。統一教会と創価学会が、疑惑の対象として挙がっている。また「オウムは金のなる木」として、オウムに食い込んだ暴力団の存在が浮かび上がっている。

 その後、オウム真理教は平成六年六月二十七日には、松本サリン事件、七年二月二十八日には、東京・目黒公証役場事務長逮捕監禁致死事件を起こした。そして遂に、同年三月二十日、東京都心部で地下鉄サリン事件を起こす。死者十二名、被害者五千五百名以上という大事件だった。

 これは単発のテロではない。「井上メモ」が示しているのは、オウム真理教の計画には天皇陛下が国会にお出ましになっているときに、国会の周辺で、サリンを大量に散布するというものがあった。計画は未然に防ぐことができたが、もし実行されていたらどのような結果となっていたか、慄然たるものがある。

 オウムはサリンによる無差別大量テロに続いて、国家中枢テロを行って、クーデターを起こし、さらにはアメリカ、ロシアを巻き込んだ第三次世界大戦を引き起こそうとしていたともみられている。

 オウム真理教はサリン事件の十日後、三月三十一日、国松孝次警察庁長官を狙撃する。そして四月二十四日、オウム真理教幹部の村井秀夫科学技術省大臣が、オウム本部前で刺殺された。一橋氏は一連の事件の中でも三つの事件は、特に疑問が多いとしている。つまり坂本弁護士一家拉致事件、国松長官狙撃事件、村井刺殺事件だ。一橋氏は徹底した取材によって、多くの疑問点を記している。

 そこから浮かび上がってくるのは、オウムに関っていた暴力団、疑惑のある宗教団体、そして大物政治家の存在である。この方面はある段階で「上から」捜査にストップがかかった。捜査当局はオウム事件を、オウム真理教単独による犯行として処理しようとしている。また、裁判において検察は、この方面については、ほとんど何も追及しようとしていない。重要点の多くに関係する早川は、裁判において、この領域に関しては固く口を閉ざしたままだ。

 早川はオウム真理教と北朝鮮・ロシアの関係についても明らかにしていない。毒ガス、偽ドル、麻薬、銃火器、潜水艦、軍用ヘリコプターなどオウム真理教の一連の事件は、日本史上、かつてない国際的な事件である。さらには核兵器製造に関する情報がやりとりされていた可能性もある。背後には北朝鮮や暴力団とのつながり、オウムをロシアに紹介した元代議士、その背後にいるとみられる大物政治家、ロシアにおける国際的な武器商人の暗躍等々、日本の内外を結ぶ組織的な関与が見え隠れする。これが単に噂の類ではないことは、CIAがオウム事件の調査を行い、アメリカの上院で大部の報告書が出されていることを知れば、わかるだろう。

 事件の真相は日本の警察、司法によって、ほとんど何も明らかにされていない。オウム事件は深い闇に閉ざされたまま次々に判決が出されている。徹底的に事実を追求していけば、類例を見ない大スキャンダルが暴露され、また国際的な大問題となる可能性があるのだろう。
http://www.asyura2.com/sora/bd13/msg/98.html


よど号犯、オウム工作に関与か

 オウム真理教の一連の事件の背後には、北朝鮮やロシアの影がある。高沢氏は金正日がよど号犯を使って行っていた日本破壊・攪乱工作が挫折した後、それを「ちがう筋で見事に実行したのが、オウムではなかったのか」とみている。

 高沢氏はよど号犯グループは、北朝鮮のオウム工作に関っていたことを強調する。それを明らかにするのが、北朝鮮のオウム工作員Aの存在であると、氏は書いている。同氏によると、オウムには北朝鮮の主体思想(金日成・金正日を絶対化した思想)を身につけた工作員Aが潜入していた。その頃からオウムは急激に変質・過激化した。Aは村井秀夫科学技術省大臣に重用されて武器製造に関与していた。平成七年(一九九五年)三月二十日、オウム真理教は東京で地下鉄サリン事件を起こしたが、サリンの製造責任者は村井だった。

 Aに連なる潜入工作員は複数いたことが明らかになっている。その一人、霜島隆二は医師としてオウム真理教付属医院に入り、林郁夫の下で働いていた。霜島は共産党系の病院に医師として勤務していた時にオウムに入信した。ある日突然、都内にある北朝鮮系の病院に移り、さらにオウム付属病院へ移った。霜島は以後、林の右腕となり、麻酔剤、電気ショック、LSDなどを用いて、信者に洗脳を行っていた。

 これらの方法は、高沢氏によると「北朝鮮の洗脳技術と瓜ふたつ」だ。北の毒ガス等の兵器開発と「まったく同じ軌道上にあるもの」という。しかも霜島は「教祖・麻原に対しても心理療法、あるいは催眠療法などの『イニシエーション』を行える立場にあった」とみた。それゆえ、北朝鮮のオウム工作は麻原自身に及んでいたと考えられる。

 工作員Aはオウム事件でオウムの幹部が逮捕された後にオウムを脱会し、スペインのマドリッドへ飛んだ。高沢氏はマドリッドでAを取材した。Aは一連のオウム事件当時のオウム信者である。Aは高沢氏に対し、今でも主体思想は「すばらしい思想」だと言い、主体思想の作成者の黄長Yから直接指導を受けたと明かす。マドリッドは北朝鮮の工作拠点のある街。その土地は、柴田泰弘らよど号犯とその妻たちが、北朝鮮による日本人留学生を北朝鮮に拉致する等の活動拠点としていた場所だ。中でも柴田はマドリッドにしばしば滞在して活動していた。高沢氏によると、Aは柴田と同じホテルに宿泊していたことが明らかになっている。

 柴田泰弘は昭和六十三年(一九八八年)五月に、北朝鮮帰国者の偽造旅券で日本に潜入帰国をしていた時に逮捕された。しかし、平成六年(一九九四)七月に刑を終え出所している。柴田の逮捕は、対日工作を進める北朝鮮にとって打撃だったのだろう。高沢氏の著書『宿命』によると「事態を重く見たピョンヤンからは日本潜伏中の工作員に緊急の帰国指示命令が平壌放送を通じて流された」「柴田泰弘の国内での逮捕と、その後につづく一連の事態はよど号グループにとってすべての日本潜入工作が挫折したことを意味していた。…妻たちへの緊急の帰国指令は、からくも彼女たちの国内での逮捕だけはまぬがれさせたのである」という。

 柴田は出所後も、よど号グループのスポークスマン、「自主日本の会」などの活動を活発に続けている。北朝鮮及びオウム真理教との関りも持続していたとみられる。

 北朝鮮による日本人拉致事件は、なにも解決していない。日本国政府は北朝鮮に対して非常に弱腰であり、「拉致」を「拉致」として主張すらしていない。今後、この事件を解明するには、よど号犯グループによる日本人拉致の実態を明らかにされなければならないだろう。それは、金正日と北朝鮮政府の国家的な国際犯罪を暴露することになろう。

 オウム真理教へのよど号犯の関与は、偽ドルについても考えられている。偽ドルは北朝鮮が偽造して、世界に広く使用しているものだ。

 よど号犯の一人、田中義三は平成八年(一九九六年)、タイのパタヤで偽ドル札を使用したとして起訴された。この事件については、平成十一年(一九九九年)六月に無罪になり、拘留先のタイ・バンコクから昨年六月二十八日、日本へ移送された。田中が使った北朝鮮の偽ドルは「スーパーK」だった。彼が北朝鮮から出国したとき、北京を通過した可能性が高いとみられている。

 オウムの元幹部の証言によると、早川建設省大臣はドイツから精巧な印刷機を手配し、北朝鮮の偽ドル印刷に関係していたという。その一方、オウムには、外部から多額の資金提供を受けていた疑惑がある。それは、赤軍派・よど号犯の田中義三が使用して逮捕された偽ドル、スーパーKだった疑いが濃いと、高沢氏は言う。もしそうだとすれば、赤軍派・よど号犯とオウム真理教は、北朝鮮の偽ドルへの協力という点でもつながってくる。
http://www.asyura2.com/sora/bd13/msg/99.html


オウムの北朝鮮コネクション

 オウム真理教と北朝鮮の関係についてに疑惑は、多数の死傷者を出したサリンやその他の武器にも関っている。この点において、よど号犯の関与はわかっていない。

 工作員Aがサリン製造責任者の村井に重用されていたことを再確認しておこう。
 高沢氏は言う、「オウム真理教が毒ガスや細菌兵器の開発に手を染めはじめていたのは、そこに北朝鮮の工作組織の浸透があったとすれば、けっして偶然ではないのである」と。

 金日成の著作集には、毒ガスや細菌兵器についての大量の論文。教示がある。朝鮮戦争後、北朝鮮では毒ガスや細菌兵器の研究が行われている。そして麻原らにサリンなどの知識を吹き込み、オウムを北朝鮮型の組織体系に誘導した工作組織が存在すると想定されるのだ。

 オウムと北朝鮮の関係の焦点にいるのが、早川紀代秀建設省大臣と村井秀夫科学技術省大臣だ。早川は麻原と共にオウムの前身である「オウム神仙の会」を創設した人物。オウムのナンバー・ツーといわれる大幹部だ。早川は元統一教会の信者である。それが阿含宗に入り込み、そこで麻原彰晃と巡り合い、オウム神仙の会を作った。オウム真理教の創設後も早川は統一教会の会員と会っていたという。

 早川はロシア射撃ツアーを企画したり、軍事訓練を受けたりと、非常にロシアに接近している。麻原オウムがロシアに接近しようとした最初のヒントは、恐らく、この早川によるものだろう。早川はロシアで武器の購入を行っていた。また頻繁にウクライナの首都・キエフへ行き、さらにそこを経由して北朝鮮に行っていたことがわかっている。

 一方、村井はサリン開発の責任者だった。オウム事件のなかで最も不透明で謎に満ちている事件の一つが、村井の刺殺事件だ。実行犯、徐浩行の背後には暴力団の存在があり、また同時に北朝鮮の工作組織の影が濃い。徐には数年間、北朝鮮に渡っていた形跡がある。彼は北朝鮮の「きわめて高度に訓練されたテロリストであり、工作員」と高沢氏はみる。

 村井はテレビで、オウムの資金は一千億円あると言った。また、地下鉄で使われた毒ガスはサリンではないとも証言した。とすれば、ガスの製造元はどこの国なのか。そして、さらに村井が曝け出しかねなかった秘密があったのだろう。

 その秘密は、北朝鮮と暴力団がらみの麻薬取引だった疑いもある。高沢氏は、それ以上の秘密があったのではないかと見ている。刺殺される前、村井はテレビでその秘密に触れかねない発言をしていた。そのことが、きわめて強い危惧を、北朝鮮側に抱かせたのだ。それは、日本の原子力発電所に関するものではなかったか。
 早川は頻繁にウクライナの首都・キエフへ行き、またそこを経由して北朝鮮に行っていたと先に書いた。高沢氏は、早川がロシアで武器の購入だけでなく、核燃料のプルトニウムの密輸にも関係があったのではないか、とみる。

 というのも、オウムは日本の原子力発電所に関する膨大な機密書類を手に入れていたのだ。村井らが約二百人もの作業員を潜入させて収集したものだ。専門家も初めて見るようね詳細な資料だ。こうした原発の機密資料が、早川ルートによって北朝鮮に流出していた可能性がある。そして、早川が北朝鮮の窓口としていたのは、北朝鮮の核兵器関連物資やIC機器の調達を行う部署、「第二経済委員会」だった可能性が、最も高いと、高沢氏は書いている。

 早川は、国際的な「死の商人」風のところがある。これに対し、村井は物理学の専門家であり、原発のデータを理解することができた。村井は早川とともに北朝鮮に渡航し、関係を持っていた。村井は究極の教団武装化として核開発を考えていた。北朝鮮も核開発のために、日本の技術とデータを必要としてオウムを利用していた。両者の利益は一致していたとも考えられる。

 オウムの一連の事件への「北朝鮮の関与、工作組織の存在は、村井の命を奪ってもなお、死守しなければならない機密に属していた」と高沢氏は言う。しかし、その真相は謎のままだ。北朝鮮は既に核兵器の開発を進め、既に数発の核兵器を持っているのではないかという観測がある。こうした国が連合赤軍など国際的なテロ組織とつながりを持ち、いや国際的なテロ組織を領導しようとしていたとすれば、どうだろうか。そうしたテロリストが、核兵器を掌中にしたならば、世界は震撼するだろう。勿論、掌中にあるのはサリンや生物化学兵器であるかも知れない。
http://www.asyura2.com/sora/bd13/msg/100.html


赤軍派とオウムを結ぶ線

 オウム真理教が一連の事件を起こしたのか。それとも、外国の工作や国内の諸団体の関与によって操られていたのか。

 高沢氏は北朝鮮の存在を重く見る。氏はオウムは北朝鮮に「徹底して領導され、誘導され、利用され尽くしたともいえるのでは」と高沢氏はみる。「サリンをはじめとした一連のオウム真理教のテロ事件は、日本攪乱工作(クーデター工作)の、いわば予行演習でもあり得たのである」と。首都中枢の霞ヶ関を狙ったサリン事件については、北朝鮮が「日本の危機管理のずさんさと、どのような動きが取られるのかというシミュレーションのデータを得るためにこそ、攪乱工作の第一歩は必要だった」と述べている。

 もしそうだとすると、赤軍派・よど号犯グループは、こうした北朝鮮のオウム工作にどの程度関っていたのか。そして、重信ら日本赤軍はそれを関知していたのか。

 よど号犯グループは、中国北京を重要な拠点として活動してきた。平成八年の夏、重信房子は北京からひそかに北朝鮮に入国し、平壌で開かれた各国の革命を目指すグループの集会に参加したらしい。当然、重信はよど号犯グループメンバーと接触していただろう。

 日本赤軍の重信は、よど号犯グループが北朝鮮の国際工作員となっていることを知りながら、彼らとともに活動してきた可能性がある。それは同時に日本赤軍が、北朝鮮の対日工作や世界戦略に協力する、あるいは金正日の指令に従って動いてきたということを示唆する。

 実態はまだ明らかでないが、北朝鮮という国に重信や国際的なテロリストが集まるということは、当然、北朝鮮政府・指導部は、これを承知していたとみるべきだろう。北朝鮮政府は一体、何のためにこのような国際テロリスト集会を自国で開催したのか。そして、日本赤軍に対して何を提供し、また何を求めたのか。

 重信は北京を拠点として、日本や北朝鮮などでの活動をしてきたとみられる。果たして中国政府は日本赤軍やよど号犯グループと関りはないのか。

 今後、国際的な赤軍派の活動を解明してゆけば、オウム事件とそれに関る外国勢力の存在に、ぶつかるにちがいない。そこにメスを入れるとき始めて真相が見えてくるのではないのか。これは外交問題となることは必至である。

 いずれにせよ、やがて日本の政・官界の恥部や、暴力団などの絡む闇の権力が光に曝されるだろう。日本の背骨まで蝕むガンの病巣は、皮膚の下で破裂寸前にまで膨れ上がっているからだ。

(了)

(細井 保 (ジャーナリスト) 「重信房子、よど号犯、オウム真理教の深い関係」『動向』2001年1・2月合併号より)
http://www.asyura2.com/sora/bd13/msg/101.html

http://www.asyura2.com/12/lunchbreak52/msg/906.html#c135

[近代史3] 若松孝二 実録・連合赤軍 あさま山荘への道程 (2007年) _ 1970年代はこういう時代だった 中川隆
102. 中川隆[-11398] koaQ7Jey 2019年3月18日 16:06:21 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[602]

なぜ連合赤軍とオウム真理教は敗北したのか
https://elkind.hatenablog.com/entry/2017/09/04/150926

戦後日本における大きな反体制組織と言えばあさま山荘事件を起こした連合赤軍と、その後に登場するオウム真理教だろう。

20世紀の喧騒を象徴する2つの組織、そしてあさま山荘事件と地下鉄サリン事件という2つの事件に関与している。

21世紀になってからは同時多発テロがアメリカで起き、その後現在のISIS系のテロが欧州で頻発しているが日本からはどこかそういった反体制運動は消滅しつつある。

むしろ日本の右傾化が進み、比較的政治的にも治安的にも安定するようにはなったというのが大きな流れだ。

連合赤軍とオウム真理教の敗北というのは、左翼の敗北、そして宗教の敗北だったと見ることもできる。「反体制」で勝つことはできないということが彼らが残した歴史的な意味合いだろう。

日本で反体制勢力は大きな戦力を持つ事ができず権力を打倒できないことに気付いたため、その後大きな動きは起きなくなっている。

結局のところ自動小銃を密造しようとしたが試作品を作ることが精いっぱいだったオウム真理教、猟銃で少数の人間が訓練することしかできず内ゲバで瓦解した連合赤軍、彼らは必然的に敗北した。

またオウム真理教は選挙に出馬するが惨敗し結局地下鉄サリン事件のようなテロリズムに走っていき、日本で左派政党が政治的に勝利することは限られた回数しかない上にやはり「政権交代」はそれぞれ敗北した。

宗教アレルギーだと言われる日本でオウム真理教が勝利することは難しく、同時に「日本の左翼はレベルが低い」と言われるように高度な政権運営を行う事は出来なかった。

自民党や官僚という体制は非常に強固であり、今後何かの革命を起こそうとするならば権力者側や体制側に活路を見出さなければならないだろう。

オウム真理教にしても連合赤軍にしてもそれほど大きなことは成し遂げることができず、簡単に体制に滅ぼされてしまった。

せいぜいちょっとした反抗期だった少年が教師や親に大人しくさせられたように、その後日本から何らかの抵抗運動は消滅する。

オウムのハルマゲドンは東京上空からヘリコプターでサリンを散布する寸前まで行ったか結局その試みは阻止され、今では「ひかりの輪」が細々と存続している程度でしかない。

連合赤軍を始めとしたあの頃の極左や学生運動というのも80年代に入れば消滅していくことになる。

東アジア反日武装戦線は三菱重工爆破事件を起こしたが、こちらの知名度は非常に低く社会的なインパクトはなかった。

その後何らかの抵抗運動といえば、ネオ麦茶事件や宮崎勤、酒鬼薔薇聖斗、秋葉原加藤とやまゆり園植松が登場するが彼らの個人的な衝動は社会を変革させることができなかった。

結局そういった抵抗は個人や地下組織では限界があり、やはり政権を掌握しなければナチス・ドイツやソビエト連邦のような事はできない。

少し爆破したり、路上で誰かを刺殺したすること程度の規模で終わってしまう。

現在ISISが自動車を使ったテロを実行しており、そちらは規模が巨大化しているがそれでも数十人が限度だ。ノルウェーでも銃を乱射したテロがあり、この時は「FPSならこのキルレシオは驚異的」と言われていたが、革命に匹敵する変革を起こすことには失敗した。

秋葉原加藤は騒がれたが、やまゆり園植松は既に風化しているように、現代からそういうった反抗や反逆を賞賛するムードは消滅しつつある。

「大人しい事」や「怒られない事」が最適解になり、連合赤軍とオウム真理教が敗北したことで誰も似たような事をやらなくなった。

更に個人的な反抗ですら今では社会に大きなインパクトを与えられなくなっており、抽象的な見方かもしれないが「熱量」自体が世の中から消えている。

かと言ってそのような行動を美化するわけではない。

大東亜戦争末期の特攻作戦を美化したところで、それは軍事的に敗北だったとしか言いようがない。特攻作戦に従事した青年や、オウム真理教の信念に共感した純粋な信者や、革命による変革に社会の理想を求めた連合赤軍構成員の個人の心意気自体はもしかしたら美しかったかもしれないが軍事作戦や革命行動としては敗北している。

またISISの散発的な自動車テロでも彼らが掲げるイスラム領土の再獲得を実現できるとは思えない。

ただ単に路上で車を暴れさせて終わりではなく、「戦車戦」や「戦略爆撃」、「本土決戦」をやる領域に入っていかなければならないと自分は考えている。個人が銃を乱射して一般市民を巻き込むという事も非常にレベルが低い話であり、そもそもテロという手段が間違っているだろう。

「もっとデカいことをやりたいけど、仕方ないからテロをする」という事例が今までの出来事であり、彼らはナチスやソ連にはなることができなかった。

モンゴル帝国、オスマン・トルコ、大英帝国、オランダ海上帝国、スペイン太陽帝国、大東亜共栄圏、ソビエト社会主義共和国連邦、ナチス・ドイツ、そして超大国アメリカ合衆国、そのレベルのことをやろうとしている人間がたかが少し一般市民を攻撃するだけのテロで終わってはいけないと自分は考えている。

しょぼいテロで終わりたいわけではなく、オウムや連合赤軍程度の小さい反抗で終わりたくもない。

ソ連やナチスドイツという虐殺国家、そしてイギリスとアメリカというアングロサクソンによる二大巨悪、スペインとモンゴルという二大畜生、日本をそのレベルに到達させようとした場合大東亜共栄圏や満州国が限度だったというのはどうしても規模が小さい。

実は日本がもっとも世界的に存在感を示したのは太平洋戦争ではなく、ジャパンアズナンバーワンに始まる1980年代の好景気の時代であり軍事よりも経済で世界を制圧した。

その理論を応用するならば次なる革命は「ペンは剣より強し」という考え方に基づき「言論」による変革、そして体制側の人間を取り入れなければならない。

そういった日本の黄金期時代を経験したことが無いバブル崩壊以降のゆとり世代としてはどうしてもそのことを寂しく感じてしまう。

明治維新を実現した幕末の世代や、戦後復興を支えた世代に比べて、「最近のゆとり」というのはどうしてもやることが小さいと言われても仕方がない。

おそらく「大日本帝国越える国作ろうぜ」と考えている自分のような人間は希少であり、そうんなことすら誰も考えていないんだろうなということに疑問を感じる。

それはおそらく中二病であるが、「デカい国」を作ろうとするような若者が台頭し始めてきたのが過去の歴史でもある。

「明治維新や昭和維新をやろうとしていた時代の若者すげぇ」と思うし、戦後昭和の世代もエネルギーも半端無い。

そういう世代を見ているとゆとり世代の一人として虚無感があり、この世代って歴史において何も残らないんだろうなという諦めにも似た感情がある。

ただ単に衰退していく日本に巻き込まれ、反抗もできず、いや抵抗すらせず大人しく消えていくのがゆとり世代なのだろうか。

情熱的になることも反抗することもダサいというひたすら大人しい世代になりつつあることに寂寥感を抱かずにはいられない。

世間的には大人しいと言われていたオタクがアニメや漫画の世界だけでは派手にやっていた時代すら終わり、最近では日常アニメに代表されるように創作の中ですら大人しくなり癒しばかり求めている。

エヴァンゲリオンやコードギアスすらなくなり、日常アニメに癒ししか求めなくなった姿を見ると日本人の情熱はどこにも存在しなくなっているだろう。

アイドルも「自分でも手が届きそう感」を重視するようになり、もはや親近感のあるユーチューバーの時代になってきている。

「その辺の普通の人たち」やありふれた日常の幸せに癒しを求める時代が到来している。

日本人の夢や希望、野心や反抗意識、そういったあらゆるものが小さく大人しくなってきている。

不良も人を殴らず窓ガラスを割らず、非行に走らず、ネットユーザーも民度が高くなりオタクは創作の中ですら大人しくなり、富や発展を求めなくなっていく。

「諦めムード」があらゆるものを支配していくのが今の日本文化なのだろう。

現実では駄目だけどアニメやアイドルには華やかなものを求めようとしていた人達すら少なくなり、自由にできる世界ですら現実や日常を求めるようになった。極左も大人しくなりシールズのようにカジュアルに騒ぎたいだけであり、過激な宗教家や新興宗教も減っている。

天理教や創価ですら深刻な信者離れや二世、三世の離脱が進んでいる。

むしろ元気なのは近隣諸国や新興国であり、日本に憧れる海外のオタクや先進文化に憧れる人々も減りつつある。仕方ないからクールジャパンと宣伝し、日本スゴイデスネーの発言を求める番組が増えているが、現実には街の綺麗さや水道水の美味しさ、治安の良さぐらいしか誇る物が無くなってきている。

その一方で中国に敵うわけがないという考えが当たり前になっており、韓流も捏造だとは言えなくなっているほど浸透している。

そしてそこに悔しさを感じる人すら減り、日本がオワコンだということを誰も疑問視しなくなる段階に入り始めている。

そんなムードの時代に「革命と戦争しようぜ、大日本帝国越えようぜ」と言ってる人間がいたとしても、電波で誰も本気に思わないのは仕方がないのだろう。

反逆に憧れず、日常で満足して、もはや想像や妄想をするエネルギーすら残されていない程に日本人は疲弊し老化しているというのが日本の現実なのだ。

みんな忙しいし革命どころじゃないし、癒しを求めるのが精いっぱいでそれすら手が届きにくくなっている。

高級車や豪邸に憧れるエネルギーも無くなっている世代が「大国の建国」という壮大なものを求めなくなるのは必然なのだろう。

バイクで暴走したり車を改造したりする気力も無くなり、実際にそれを出来る経済的な余裕も無くなっている。

しかしながら大人しい若者に罪は無く、彼ら、いや僕らが悪いと言うよりも若者から元気を奪う社会のほうが圧倒的に悪い。

その一方で社会を批判する人すらもはやいなくて、目先の癒しにしか興味がない同じゆとり世代にも違和感がある自分がいる。

社会が悪いとすら思わず、それが当たり前のことだとして受け入れている世代がとうとう現れ始めてしまった。

連合赤軍やオウム真理教は社会が悪いからそれを壊してでも変えようと考えていたが、80年代に入ってそんなこと無理だしって時代になって、21世紀はとうとう社会が悪いとすら思わなくなった。社会が悪いという事にもしかしたら薄々気づいているが、それを行ったところで仕方がないしイイネ!を押しあっていれば嬉しくなって、その不満も紛らわすことができる。

そういう時代にそりゃ革命なんて起こせないわけであり、そんな情熱持ってる暑苦しい奴なんて自分以外もはやいなくなっている。

「ワルしようぜ」と思ってる不良が一人治安のいい学校にいるとそりゃつまらないわけで、自分が世の中や最近のネットがつまらないといってるのはもしかしたらその感覚に似ているのかもしれない。

皆中三になってしまって「おまえいい加減に中三になれよ、そろそろ高校生だぜ」と中二病の少年が言われているような感覚でもある。

皆誰かのタイムライン汚したくないしドン引きされたくない、そんな奴らばっかりになったら世の中は面白くない。

しかしゆとり世代はそういった空気に特化した協調性の高い世代になりつつある。

「空気読むことや怒られないことが最も上手い世代」というのがゆとり世代論の総評なのではないか。

しらけ世代以上にしらけてる、それが僕らゆとりだ。

そういう世代論を語る人がいなくなり、それを面白いと思う人すらもいない。

「俺って変なのかな」とか「世の中間違ってるよな」と言ってる奴がもう自意識過剰で中二病扱いされる空気になっているのならば、そんな時代から歴史を変えるような強力な個人が現れるわけもない。

大人しい世代や癒しにしか興味がない世代が主流になれば日本が復活する見込みがないのは必然だと言える。

明治維新を起こした世代は「日本は列強に対抗しなければならない」と思い、戦後の高度経済成長を成し遂げた世代はひたすらに「裕福になりたい」という思いが強かった。

欲がない世代とよく言われるが、何も強い衝動が無いのがゆとり世代でもある。

いや「癒されたい」という思いが強いのかもしれない。

「公務員が一番の夢になった時代って面白くないよね」とも言えるし、じゃあユーチューバーに憧れる世代はどうなのかという問いかけも必要だろう。

逆にこれだけゆとり世代が大人しいと、今度はユーチューバーに憧れる世代が主流になれば文化的には面白くなっていく可能性を秘めている。

「安定した人生を送りたい」と考えているのがゆとり世代だとすれば、「好きなことをしていきたい」というのがこれからのユーチューバー世代なのだろうか。

そう考えるとまさにゆとり世代というのは「谷間世代」であり、日本という国が変わっていくサナギの地味な時期でもあるのかもしれない。

そしてそのサナギ状態であることや大人しいと言われることに特に不満も無いのがゆとり世代でもある。

あまりにも「これだから最近のゆとり世代は」と言われすぎて、「はいはい俺らゆとり」という状態になっており逆らう意欲すらない。それ以前に大人しいことがかっこ悪い事だとも思わなくなり、やはりそういう世代が何かをする気になれないのは必然だろう。

この世代に希望があるとすれば「ゆとりつまらないと思ってるゆとり」みたいな層をどれだけ増やしていけるかにかかっているのではないか。

大事なことは空気を読むことではなく、空気を変える事だろう。

社会に対して不満があるのならばもっとガンガン発言し、「なんかおかしいよね」という雰囲気を作っていくことが最初の第一歩なのではないか。

この空気に従っていれば気付いたときには飲みこまれてしまっているだろう。

「停滞感」を感じているならまだマシで、停滞が普通になり過ぎればもはや疑問にすら思わなくなる。

自分がいじめられていることを自覚している生徒は何らかの解決策を導き出すか反抗しようとするが、もはや「おまえいじめられてるんだぜ」と言われないと気付かない人はある意味悲しくも無く幸せなのかもしれない。

徐々にゆとり世代が、上の世代にいじめられていることに慣れ過ぎて、これがいじめだと気付かない状態になっているのではないか。

「やっぱ俺らいじめられてるわ」ってことに気付きなさないといけない時期に来た。

じゃあ「いじめの主犯格誰だよ」って言ったら、それは高齢者なわけで主犯格を一回殴り倒さないといじめは終わらない。

オウム真理教や連合赤軍はある意味若者として社会と戦おうとした。

しかし今の若者世代からそういう組織が現れてくる見込みはない。SEALDsは反逆組織のようで実はただ単に身内でイイネ!を押しあうだけの集団でしかなかった。

「一緒に酒飲めば敵の上陸防げます」と言ってるような連中の勢いがなくなっていくことはある意味当然だったと言える。

「若者なら何かできる」とか「俺らエネルギッシュな若者だし」というエネルギーすらなくなり、若いってだけで自慢するの良くないよねという風潮になってきて、高齢者や中高年層が主流になってきている。

若者が多数派だった時代にあった"調子乗り感"が今のゆとり世代からは消えつつある。

ゆとり世代といういじめられっ子がこれからどう反逆するのか、それとも「俺はイジられてるだけ」とかいじめられる日常に慣れ過ぎて何も気づかなくなるのか、今の時期はまさに世の中がどうなっていくのかとい分水嶺の時期なのではないだろうか。

連合赤軍やオウム真理教でもなければ、SEALDsでもない、そんな組織を作り上げなければ革命は実現できない。

ロシア革命の時代からちょうど1世紀が過ぎようとしている、そして後にナチスの政権掌握も訪れる。

世界史の潮流が1世紀おきに変わるのであればもうすぐ何かが起こる可能性は否定できない。

https://elkind.hatenablog.com/entry/2017/09/04/150926
http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/287.html#c102

[近代史3] 若松孝二 実録・連合赤軍 あさま山荘への道程 (2007年) _ 1970年代はこういう時代だった 中川隆
103. 中川隆[-11397] koaQ7Jey 2019年3月18日 16:52:16 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[603]

今の時代やはり暴力革命は成立しえない
https://elkind.hatenablog.com/entry/2017/09/24/145737

理想的共産主義社会の実現のために若者が革命を志していた「政治と闘争の季節」は1960年代までであり、70年代に入りカジュアルな文化や新しい庶民の生活スタイルが普及するようになると見限られるようになっていく。

サブカル文化を取り扱った番組を見て、70年代から現代の若者文化に近い潮流が始まったと知った。ものすごく簡単に言えば政治がそこまでかっこいいものじゃなくなったり、他にもっと楽しいことができたり、あまりにも暴力的で過激になり過ぎたことで若者から見放されていったというのが大きな流れだ。

他に楽しいことができたし、物凄く戦わなければならない理由も無くなった。

70年代ですら見限られて衰退していった暴力革命を今しようとしたら誰もついてこないだろう。

実際極左が多いイメージのある京都大学でもかつての中核派的な活動をしようとしていた学生が、一般学生に排斥されているようである。

結局日本の左翼というのはそういう活動の昂揚感にしか興味が無く何かに反対している興奮が好きな人が多いが、どう頑張っても少人数で細々とやり何も実現できない「左翼ごっこ」の領域を出ない結果にしかならない。

京大のような高学歴大学に進学すれば革命を志している凄い過激派がいるんだろうなという漠然とした幻想はは一般学生から白い目で見られて崩壊するのである。


日本の過激派「中核派」をフジテレビ・みんなのニュースが特集!その実態とは? - NAVER まとめ
https://matome.naver.jp/odai/2147079950621838601?&page=1

このまとめでも「反対することが多くて忙しそう」と皮肉られていたが、反安倍だの、反改憲だの反原発、反米だのやることが多すぎてしかも少数しか集まらないため結局過激な暴走に少人数だけが走るようになる。

しかしそんなものは連合赤軍が山荘において少人数が猟銃で訓練する程度にしかならず、フルオートのアサルトライフルで武装した組織には勝てないのである。

若者だけでなく多くの人が「そんなことをしてもしょうもない、第一自分の生活で忙しい」と思っており、興味もなければ情熱を抱く体力すらない程に疲弊しているのが現代日本社会だ。

更に60年代と70年代前半の極左過激派があれだけ元気だったのは、それだけ世の中が激動の時代だったという事でもある。

東西冷戦真っただ中で、いつソ連と戦争が始まってもおかしくない状況だった上にまだ沖縄も返還されていない時代だった。

沖縄に核兵器が配備されていたことに関するドキュメント番組を見たのだが、当時の冷戦の状況は今とは比較にならない程緊迫していた。

最近の若者がなぜ政治熱が無いのかといえば、状況が違うというのもあるのかもしれない。あれだけ面白い材料やニュースがあれば、それは政治熱が高まるに決まっている。

ベトナム戦争やキューバ危機が歴史の教科書に出てくる単語ではなかった時代の話なのだ。

逆に言えば今何か特別昂揚感を刺激するようなニュースがあるかと言えば、せいぜい北朝鮮がミサイルを発射するぐらいでそれすらもう日本人は感覚が麻痺して慣れ切っている。それを言えば更に日本人が血気盛んだった戦前はもっと大きな出来事のオンパレードだったため若者が情熱を持ちやすかった。

ソ連すら知らない今の世代がせいぜい北朝鮮が虚勢を張っているだけの小粒化した共産陣営に抵抗しようとも思わないし、そこに憧れを抱かないのも必然だろう。

言葉に語弊はあるかもしれないが、当時の極左は今思えば楽しかったのではないだろうか。未だに学生運動の情熱を持っている当時の世代が、今も中核派や核マル派を一応続けているらしいが当時の熱狂を忘れられない時代遅れの人々かそこに憧れる世代しかもはや存在していない。

かつて従来の既成左翼を批判した新左翼が今は旧左翼になっている、そんな皮肉もこの記事では綴られている。


高齢化し数も減少 若者から見限られる中核派・革マル派の現状|NEWSポストセブン
https://www.news-postseven.com/archives/20151226_369124.html?PAGE=1#container


そしてこの記事で旧世代の左翼を見限った新世代の左翼の代表格だったSEALDsですら結局は平和と叫んで心酔したいだけのお笑い集団でしかなかった。

全ては時代背景に行き着く問題で、今真剣に厚く語れる政治問題そのものが存在しないというのが大きい。

ソビエト連邦という総本山がありまだ社会主義への幻想があった時代とは全てが違う。ベトナム戦争でかわいそうなベトナムの人々が犠牲になっているという共感できるニュースも無い。

渋谷で暴動を起こしたり、大学を占拠したり企業のビルを爆破したり山荘に強奪した武器を持って立てこもるには相当なモチベーションと情熱、そして信念が必要だろう。

日本で革命が起きない理由はそういったモチベーションを掻き立てる物や反対するものが無いということが大きい。

大多数の日本人はなんだかんだで米軍が日本の防衛に役立っているという事をわかっているため、特に反対しようという気にもならないし、かと言って中国や北朝鮮もそれほど脅威には感じられないため憲法を改正しようという危機感も無い。

左右両方の方面で特別エネルギーを沸かせるような要因そのものが無い。

福島の原発の事があったとしても電力が必要だという現実路線が日本人の中で優先されるし、北朝鮮がミサイル実験を断行しても憲法まで変えようという気にはならない。自衛隊と安保、日米同盟で十分対処できるしそもそも攻撃してこないということを現実的に理解している。

イギリスがその場の雰囲気でなんとなく後先考えずEUを離脱したり、アメリカでトランプが就任したりする姿を見ると日本人って飛び抜けた方向にはいかないというか平均的に賢いのかもしれない。

つまり日本人自体が非常に現実的な思考をしている上に、日常に忙しくそして疲れている、そして特に強い衝動を引き起こすような出来事もないため何も起こらないというのが実情だ。

中核派の学生が演説しても今時一般学生からは白い目で見られるのと同じで、あらゆる政治活動、いやいろんな流行や現象が今は「盛り上がっているのは一部だけ」という目で見られるようになった。

昔はオリンピックに興味がないと言う人は現実ではなかなか共感してくれる人がいなかったが、今ではネットでオリンピックに興味が無い人でも集まれる。

ハロウィンが新しく文化現象になろうとしても、一部の馬鹿が騒いでいるだけということをネットで言いやすくなった。

「そんなことする体力よくあるなぁ、興味ないや」という意見が言いやすくなったし、実はそういう人たちがサイレントマジョリティだった。

一回立ち寄った喫茶店のマスターと少し政治の話をしたことがあるのだが学生運動全盛期ですら「左翼は頭がおかしい」と思っている人が大多数だったようである。

今の日本はそういった静かな少数派が力を持つ時代であり、多くの人が実は静かな少数派の一人であることを自覚している。

そしてそういうサイレントマジョリティの意見がむしろ今はむしろメジャーな意見になっている。

例えば「流行に興味がない」という人が増えたが、昔もおそらく何らかの流行に興味が無い人の方が多数派だったがそれを言いにくい空気があった。

今では逆転しており、流行に盛り上がる人の方が恥ずかしいという冷めた空気感が漂っているし、特にネットはそういう現象を叩く傾向にある。流行に興味が無い事や冷めていることが恥ずかしい事ではなくなった結果、特に大きなことも起きなくなったというのが今の時代だ。

既に日本は大きなムーブメントが発生しにくい土壌になっており、大多数がそれなりに満足できる妥協案が最も強いという民主主義の原則が支配的になっている。

日本というのは自ら変わる国ではなく外圧で変わる国でもある。

ペリー来航や欧米列強の脅威が迫らなければ今も江戸時代や徳川幕府が続いていた可能性も否定できないだろう。

実際徳川幕府は世界でも例を見ない程続いたある種の軍事政権の一つであり、天皇制の歴史も非常に長い。

余程変わらないといけない大きな理由、多くの場合は外圧がない限り日本で大きな変革は実現しえない。

変える理由がない時は変えないという当たり前の事であり、無難な日々や昨日と同じ日常を安全に迎えられることに幸せを見出してきた農耕民族でもある。

無計画でもなんでもとにかく行動して変えてやろうという強い衝動を持ちにくく、忍耐力のある民族であることは間違いない。

おそらく次の衆院選は政権交代には至らないが、かと言って改憲が可能な程与党が大勝するわけでもないというどちらとも言えない結果になるだろう。

現政権を打倒しなければならない強い理由もなければ、現政権を強化して憲法を変えるほどの脅威もやはりない。

当然ながら私設組織や地下組織が独自に武力革命を起こすこともないだろう。

また少し平和を叫んでいれば楽しくなったような気になる市民団体がちょっと出てきて話題にもならず選挙後消えていくだけでしかないはずだ。

革命

激動の時代を味わいたいとか、凄い変革を見たいという人はあまり期待しない方がいいだろう。

そういう雰囲気に熱狂する体力もないほど今の日本人は疲弊しており、まずそういう興味や衝動を持っている人が限られる。

貧しいなりに娯楽が充実していてそれなりに不満も紛らわせたり、ささやかな楽しみと最低限の安全は存在する。

「昔に比べてしょぼくなったがそれでも絶望的に悪いわけではないから仕方ない」と受け入れる、それが日本人の基本的な考え方になっている。

皆それぞれ不満はあるがそこまでして変えようと思わないぐらいには我慢できる忍耐力があるのが日本人でもある。ただしその堪忍袋の緒が切れたときには思ってもみなかったぐらいの行動を起こすが、それでも実は江戸城の無血開城を実現したり本土決戦を回避したりどこかで優しく大人しい部分はある。

今の日本は特に何かを起こさなければならない時期でもない平和な期間だともいえる。

江戸幕府がものすごく長く続いたのと一緒で、戦後日本という体制はせいぜい70年程度の物で体制という物は続く時は大きな変化も無く続く物なのである。

大きな変革や革命が起こるとするならばやはり何らかの外圧がなければならないだろう。基本的に和を尊び妥協案を探すか、大人しく忍耐する日本人が我慢できない程の何かが起きればそれは起きるかもしれない。

そういうエキサイティングな何かが見たければ海外に行くという手段もある。

チェ・ゲバラがキューバ革命を実現した後にボリビアにまた革命をしに行ったのはもしかしたらその昂揚感が目的だったのではないかと自分は思っている。

フィデル・カストロが現実的な政治を行い、ゲバラが理想とする更なる革命を実現しなかった姿を見て彼はボリビアに次なる戦場を求めた。その結果彼はこの世を去ることになるのだが、ゲバラ的なロマンチストは理想と闘争を求めずにはいられないのかもしれない。

実際日本人でも日本赤軍はパレスチナに軍事訓練に行ったり、よど号で北朝鮮に向かおうとした。彼らは海外で軍事訓練を受けて日本での革命のための準備をしようとしていたようだが、革命や理想のために頑張っているという充実感を欲するならばそれは海外にあるだろう。

ある意味今の日本で革命が起きなくてつまらないと思っていたりそれが不可能だと諦めている人たちの先駆けが彼らだったのかもしれない。

国内で余程大きな歪が生じるか、何らかの大きな外圧が起こる以外、今特に大きな変革を望む必要性は左右両方の面で存在しない。

「70年間戦争をしなくて済んだ」というのは平和主義者の常套句だが、日本の戦後の八方美人外交というのはある意味日本が国際社会で生き残るための最適解だったと数百年後歴史評論家に語られる時が来るのではないだろうか。

天下太平の世では革命など起こす必要が無い、江戸幕府発足後70年の頃に生きていた人たちはまさかアメリカの歴史並に長く続くとは思ってもいなかっただろう。

案外戦後日本の体制はこれから大きな変革も無く江戸幕府のように200年以上続く体制なのかもしれない。

https://elkind.hatenablog.com/entry/2017/09/24/145737
http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/287.html#c103

[近代史3] かぐや姫 神田川 _ 1970年代 四畳半フォークの時代 中川隆
8. 中川隆[-11396] koaQ7Jey 2019年3月18日 16:58:04 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[604]

なぜ連合赤軍とオウム真理教は敗北したのか
https://elkind.hatenablog.com/entry/2017/09/04/150926

戦後日本における大きな反体制組織と言えばあさま山荘事件を起こした連合赤軍と、その後に登場するオウム真理教だろう。

20世紀の喧騒を象徴する2つの組織、そしてあさま山荘事件と地下鉄サリン事件という2つの事件に関与している。

21世紀になってからは同時多発テロがアメリカで起き、その後現在のISIS系のテロが欧州で頻発しているが日本からはどこかそういった反体制運動は消滅しつつある。

むしろ日本の右傾化が進み、比較的政治的にも治安的にも安定するようにはなったというのが大きな流れだ。

連合赤軍とオウム真理教の敗北というのは、左翼の敗北、そして宗教の敗北だったと見ることもできる。「反体制」で勝つことはできないということが彼らが残した歴史的な意味合いだろう。

日本で反体制勢力は大きな戦力を持つ事ができず権力を打倒できないことに気付いたため、その後大きな動きは起きなくなっている。

結局のところ自動小銃を密造しようとしたが試作品を作ることが精いっぱいだったオウム真理教、猟銃で少数の人間が訓練することしかできず内ゲバで瓦解した連合赤軍、彼らは必然的に敗北した。

またオウム真理教は選挙に出馬するが惨敗し結局地下鉄サリン事件のようなテロリズムに走っていき、日本で左派政党が政治的に勝利することは限られた回数しかない上にやはり「政権交代」はそれぞれ敗北した。

宗教アレルギーだと言われる日本でオウム真理教が勝利することは難しく、同時に「日本の左翼はレベルが低い」と言われるように高度な政権運営を行う事は出来なかった。

自民党や官僚という体制は非常に強固であり、今後何かの革命を起こそうとするならば権力者側や体制側に活路を見出さなければならないだろう。

オウム真理教にしても連合赤軍にしてもそれほど大きなことは成し遂げることができず、簡単に体制に滅ぼされてしまった。

せいぜいちょっとした反抗期だった少年が教師や親に大人しくさせられたように、その後日本から何らかの抵抗運動は消滅する。

オウムのハルマゲドンは東京上空からヘリコプターでサリンを散布する寸前まで行ったか結局その試みは阻止され、今では「ひかりの輪」が細々と存続している程度でしかない。

連合赤軍を始めとしたあの頃の極左や学生運動というのも80年代に入れば消滅していくことになる。

東アジア反日武装戦線は三菱重工爆破事件を起こしたが、こちらの知名度は非常に低く社会的なインパクトはなかった。

その後何らかの抵抗運動といえば、ネオ麦茶事件や宮崎勤、酒鬼薔薇聖斗、秋葉原加藤とやまゆり園植松が登場するが彼らの個人的な衝動は社会を変革させることができなかった。

結局そういった抵抗は個人や地下組織では限界があり、やはり政権を掌握しなければナチス・ドイツやソビエト連邦のような事はできない。

少し爆破したり、路上で誰かを刺殺したすること程度の規模で終わってしまう。

現在ISISが自動車を使ったテロを実行しており、そちらは規模が巨大化しているがそれでも数十人が限度だ。ノルウェーでも銃を乱射したテロがあり、この時は「FPSならこのキルレシオは驚異的」と言われていたが、革命に匹敵する変革を起こすことには失敗した。

秋葉原加藤は騒がれたが、やまゆり園植松は既に風化しているように、現代からそういうった反抗や反逆を賞賛するムードは消滅しつつある。

「大人しい事」や「怒られない事」が最適解になり、連合赤軍とオウム真理教が敗北したことで誰も似たような事をやらなくなった。

更に個人的な反抗ですら今では社会に大きなインパクトを与えられなくなっており、抽象的な見方かもしれないが「熱量」自体が世の中から消えている。

かと言ってそのような行動を美化するわけではない。

大東亜戦争末期の特攻作戦を美化したところで、それは軍事的に敗北だったとしか言いようがない。特攻作戦に従事した青年や、オウム真理教の信念に共感した純粋な信者や、革命による変革に社会の理想を求めた連合赤軍構成員の個人の心意気自体はもしかしたら美しかったかもしれないが軍事作戦や革命行動としては敗北している。

またISISの散発的な自動車テロでも彼らが掲げるイスラム領土の再獲得を実現できるとは思えない。

ただ単に路上で車を暴れさせて終わりではなく、「戦車戦」や「戦略爆撃」、「本土決戦」をやる領域に入っていかなければならないと自分は考えている。個人が銃を乱射して一般市民を巻き込むという事も非常にレベルが低い話であり、そもそもテロという手段が間違っているだろう。

「もっとデカいことをやりたいけど、仕方ないからテロをする」という事例が今までの出来事であり、彼らはナチスやソ連にはなることができなかった。

モンゴル帝国、オスマン・トルコ、大英帝国、オランダ海上帝国、スペイン太陽帝国、大東亜共栄圏、ソビエト社会主義共和国連邦、ナチス・ドイツ、そして超大国アメリカ合衆国、そのレベルのことをやろうとしている人間がたかが少し一般市民を攻撃するだけのテロで終わってはいけないと自分は考えている。

しょぼいテロで終わりたいわけではなく、オウムや連合赤軍程度の小さい反抗で終わりたくもない。

ソ連やナチスドイツという虐殺国家、そしてイギリスとアメリカというアングロサクソンによる二大巨悪、スペインとモンゴルという二大畜生、日本をそのレベルに到達させようとした場合大東亜共栄圏や満州国が限度だったというのはどうしても規模が小さい。

実は日本がもっとも世界的に存在感を示したのは太平洋戦争ではなく、ジャパンアズナンバーワンに始まる1980年代の好景気の時代であり軍事よりも経済で世界を制圧した。

その理論を応用するならば次なる革命は「ペンは剣より強し」という考え方に基づき「言論」による変革、そして体制側の人間を取り入れなければならない。

そういった日本の黄金期時代を経験したことが無いバブル崩壊以降のゆとり世代としてはどうしてもそのことを寂しく感じてしまう。

明治維新を実現した幕末の世代や、戦後復興を支えた世代に比べて、「最近のゆとり」というのはどうしてもやることが小さいと言われても仕方がない。

おそらく「大日本帝国越える国作ろうぜ」と考えている自分のような人間は希少であり、そうんなことすら誰も考えていないんだろうなということに疑問を感じる。

それはおそらく中二病であるが、「デカい国」を作ろうとするような若者が台頭し始めてきたのが過去の歴史でもある。

「明治維新や昭和維新をやろうとしていた時代の若者すげぇ」と思うし、戦後昭和の世代もエネルギーも半端無い。

そういう世代を見ているとゆとり世代の一人として虚無感があり、この世代って歴史において何も残らないんだろうなという諦めにも似た感情がある。

ただ単に衰退していく日本に巻き込まれ、反抗もできず、いや抵抗すらせず大人しく消えていくのがゆとり世代なのだろうか。

情熱的になることも反抗することもダサいというひたすら大人しい世代になりつつあることに寂寥感を抱かずにはいられない。

世間的には大人しいと言われていたオタクがアニメや漫画の世界だけでは派手にやっていた時代すら終わり、最近では日常アニメに代表されるように創作の中ですら大人しくなり癒しばかり求めている。

エヴァンゲリオンやコードギアスすらなくなり、日常アニメに癒ししか求めなくなった姿を見ると日本人の情熱はどこにも存在しなくなっているだろう。

アイドルも「自分でも手が届きそう感」を重視するようになり、もはや親近感のあるユーチューバーの時代になってきている。

「その辺の普通の人たち」やありふれた日常の幸せに癒しを求める時代が到来している。

日本人の夢や希望、野心や反抗意識、そういったあらゆるものが小さく大人しくなってきている。

不良も人を殴らず窓ガラスを割らず、非行に走らず、ネットユーザーも民度が高くなりオタクは創作の中ですら大人しくなり、富や発展を求めなくなっていく。

「諦めムード」があらゆるものを支配していくのが今の日本文化なのだろう。

現実では駄目だけどアニメやアイドルには華やかなものを求めようとしていた人達すら少なくなり、自由にできる世界ですら現実や日常を求めるようになった。極左も大人しくなりシールズのようにカジュアルに騒ぎたいだけであり、過激な宗教家や新興宗教も減っている。

天理教や創価ですら深刻な信者離れや二世、三世の離脱が進んでいる。

むしろ元気なのは近隣諸国や新興国であり、日本に憧れる海外のオタクや先進文化に憧れる人々も減りつつある。仕方ないからクールジャパンと宣伝し、日本スゴイデスネーの発言を求める番組が増えているが、現実には街の綺麗さや水道水の美味しさ、治安の良さぐらいしか誇る物が無くなってきている。

その一方で中国に敵うわけがないという考えが当たり前になっており、韓流も捏造だとは言えなくなっているほど浸透している。

そしてそこに悔しさを感じる人すら減り、日本がオワコンだということを誰も疑問視しなくなる段階に入り始めている。

そんなムードの時代に「革命と戦争しようぜ、大日本帝国越えようぜ」と言ってる人間がいたとしても、電波で誰も本気に思わないのは仕方がないのだろう。

反逆に憧れず、日常で満足して、もはや想像や妄想をするエネルギーすら残されていない程に日本人は疲弊し老化しているというのが日本の現実なのだ。

みんな忙しいし革命どころじゃないし、癒しを求めるのが精いっぱいでそれすら手が届きにくくなっている。

高級車や豪邸に憧れるエネルギーも無くなっている世代が「大国の建国」という壮大なものを求めなくなるのは必然なのだろう。

バイクで暴走したり車を改造したりする気力も無くなり、実際にそれを出来る経済的な余裕も無くなっている。

しかしながら大人しい若者に罪は無く、彼ら、いや僕らが悪いと言うよりも若者から元気を奪う社会のほうが圧倒的に悪い。

その一方で社会を批判する人すらもはやいなくて、目先の癒しにしか興味がない同じゆとり世代にも違和感がある自分がいる。

社会が悪いとすら思わず、それが当たり前のことだとして受け入れている世代がとうとう現れ始めてしまった。

連合赤軍やオウム真理教は社会が悪いからそれを壊してでも変えようと考えていたが、80年代に入ってそんなこと無理だしって時代になって、21世紀はとうとう社会が悪いとすら思わなくなった。社会が悪いという事にもしかしたら薄々気づいているが、それを行ったところで仕方がないしイイネ!を押しあっていれば嬉しくなって、その不満も紛らわすことができる。

そういう時代にそりゃ革命なんて起こせないわけであり、そんな情熱持ってる暑苦しい奴なんて自分以外もはやいなくなっている。

「ワルしようぜ」と思ってる不良が一人治安のいい学校にいるとそりゃつまらないわけで、自分が世の中や最近のネットがつまらないといってるのはもしかしたらその感覚に似ているのかもしれない。

皆中三になってしまって「おまえいい加減に中三になれよ、そろそろ高校生だぜ」と中二病の少年が言われているような感覚でもある。

皆誰かのタイムライン汚したくないしドン引きされたくない、そんな奴らばっかりになったら世の中は面白くない。

しかしゆとり世代はそういった空気に特化した協調性の高い世代になりつつある。

「空気読むことや怒られないことが最も上手い世代」というのがゆとり世代論の総評なのではないか。

しらけ世代以上にしらけてる、それが僕らゆとりだ。

そういう世代論を語る人がいなくなり、それを面白いと思う人すらもいない。

「俺って変なのかな」とか「世の中間違ってるよな」と言ってる奴がもう自意識過剰で中二病扱いされる空気になっているのならば、そんな時代から歴史を変えるような強力な個人が現れるわけもない。

大人しい世代や癒しにしか興味がない世代が主流になれば日本が復活する見込みがないのは必然だと言える。

明治維新を起こした世代は「日本は列強に対抗しなければならない」と思い、戦後の高度経済成長を成し遂げた世代はひたすらに「裕福になりたい」という思いが強かった。

欲がない世代とよく言われるが、何も強い衝動が無いのがゆとり世代でもある。

いや「癒されたい」という思いが強いのかもしれない。

「公務員が一番の夢になった時代って面白くないよね」とも言えるし、じゃあユーチューバーに憧れる世代はどうなのかという問いかけも必要だろう。

逆にこれだけゆとり世代が大人しいと、今度はユーチューバーに憧れる世代が主流になれば文化的には面白くなっていく可能性を秘めている。

「安定した人生を送りたい」と考えているのがゆとり世代だとすれば、「好きなことをしていきたい」というのがこれからのユーチューバー世代なのだろうか。

そう考えるとまさにゆとり世代というのは「谷間世代」であり、日本という国が変わっていくサナギの地味な時期でもあるのかもしれない。

そしてそのサナギ状態であることや大人しいと言われることに特に不満も無いのがゆとり世代でもある。

あまりにも「これだから最近のゆとり世代は」と言われすぎて、「はいはい俺らゆとり」という状態になっており逆らう意欲すらない。それ以前に大人しいことがかっこ悪い事だとも思わなくなり、やはりそういう世代が何かをする気になれないのは必然だろう。

この世代に希望があるとすれば「ゆとりつまらないと思ってるゆとり」みたいな層をどれだけ増やしていけるかにかかっているのではないか。

大事なことは空気を読むことではなく、空気を変える事だろう。

社会に対して不満があるのならばもっとガンガン発言し、「なんかおかしいよね」という雰囲気を作っていくことが最初の第一歩なのではないか。

この空気に従っていれば気付いたときには飲みこまれてしまっているだろう。

「停滞感」を感じているならまだマシで、停滞が普通になり過ぎればもはや疑問にすら思わなくなる。

自分がいじめられていることを自覚している生徒は何らかの解決策を導き出すか反抗しようとするが、もはや「おまえいじめられてるんだぜ」と言われないと気付かない人はある意味悲しくも無く幸せなのかもしれない。

徐々にゆとり世代が、上の世代にいじめられていることに慣れ過ぎて、これがいじめだと気付かない状態になっているのではないか。

「やっぱ俺らいじめられてるわ」ってことに気付きなさないといけない時期に来た。

じゃあ「いじめの主犯格誰だよ」って言ったら、それは高齢者なわけで主犯格を一回殴り倒さないといじめは終わらない。

オウム真理教や連合赤軍はある意味若者として社会と戦おうとした。

しかし今の若者世代からそういう組織が現れてくる見込みはない。SEALDsは反逆組織のようで実はただ単に身内でイイネ!を押しあうだけの集団でしかなかった。

「一緒に酒飲めば敵の上陸防げます」と言ってるような連中の勢いがなくなっていくことはある意味当然だったと言える。

「若者なら何かできる」とか「俺らエネルギッシュな若者だし」というエネルギーすらなくなり、若いってだけで自慢するの良くないよねという風潮になってきて、高齢者や中高年層が主流になってきている。

若者が多数派だった時代にあった"調子乗り感"が今のゆとり世代からは消えつつある。

ゆとり世代といういじめられっ子がこれからどう反逆するのか、それとも「俺はイジられてるだけ」とかいじめられる日常に慣れ過ぎて何も気づかなくなるのか、今の時期はまさに世の中がどうなっていくのかとい分水嶺の時期なのではないだろうか。

連合赤軍やオウム真理教でもなければ、SEALDsでもない、そんな組織を作り上げなければ革命は実現できない。

ロシア革命の時代からちょうど1世紀が過ぎようとしている、そして後にナチスの政権掌握も訪れる。

世界史の潮流が1世紀おきに変わるのであればもうすぐ何かが起こる可能性は否定できない。

https://elkind.hatenablog.com/entry/2017/09/04/150926

▲△▽▼

今の時代やはり暴力革命は成立しえない
https://elkind.hatenablog.com/entry/2017/09/24/145737

理想的共産主義社会の実現のために若者が革命を志していた「政治と闘争の季節」は1960年代までであり、70年代に入りカジュアルな文化や新しい庶民の生活スタイルが普及するようになると見限られるようになっていく。

サブカル文化を取り扱った番組を見て、70年代から現代の若者文化に近い潮流が始まったと知った。ものすごく簡単に言えば政治がそこまでかっこいいものじゃなくなったり、他にもっと楽しいことができたり、あまりにも暴力的で過激になり過ぎたことで若者から見放されていったというのが大きな流れだ。

他に楽しいことができたし、物凄く戦わなければならない理由も無くなった。

70年代ですら見限られて衰退していった暴力革命を今しようとしたら誰もついてこないだろう。

実際極左が多いイメージのある京都大学でもかつての中核派的な活動をしようとしていた学生が、一般学生に排斥されているようである。

結局日本の左翼というのはそういう活動の昂揚感にしか興味が無く何かに反対している興奮が好きな人が多いが、どう頑張っても少人数で細々とやり何も実現できない「左翼ごっこ」の領域を出ない結果にしかならない。

京大のような高学歴大学に進学すれば革命を志している凄い過激派がいるんだろうなという漠然とした幻想はは一般学生から白い目で見られて崩壊するのである。


日本の過激派「中核派」をフジテレビ・みんなのニュースが特集!その実態とは? - NAVER まとめ
https://matome.naver.jp/odai/2147079950621838601?&page=1


このまとめでも「反対することが多くて忙しそう」と皮肉られていたが、反安倍だの、反改憲だの反原発、反米だのやることが多すぎてしかも少数しか集まらないため結局過激な暴走に少人数だけが走るようになる。

しかしそんなものは連合赤軍が山荘において少人数が猟銃で訓練する程度にしかならず、フルオートのアサルトライフルで武装した組織には勝てないのである。

若者だけでなく多くの人が「そんなことをしてもしょうもない、第一自分の生活で忙しい」と思っており、興味もなければ情熱を抱く体力すらない程に疲弊しているのが現代日本社会だ。

更に60年代と70年代前半の極左過激派があれだけ元気だったのは、それだけ世の中が激動の時代だったという事でもある。

東西冷戦真っただ中で、いつソ連と戦争が始まってもおかしくない状況だった上にまだ沖縄も返還されていない時代だった。

沖縄に核兵器が配備されていたことに関するドキュメント番組を見たのだが、当時の冷戦の状況は今とは比較にならない程緊迫していた。

最近の若者がなぜ政治熱が無いのかといえば、状況が違うというのもあるのかもしれない。あれだけ面白い材料やニュースがあれば、それは政治熱が高まるに決まっている。

ベトナム戦争やキューバ危機が歴史の教科書に出てくる単語ではなかった時代の話なのだ。

逆に言えば今何か特別昂揚感を刺激するようなニュースがあるかと言えば、せいぜい北朝鮮がミサイルを発射するぐらいでそれすらもう日本人は感覚が麻痺して慣れ切っている。それを言えば更に日本人が血気盛んだった戦前はもっと大きな出来事のオンパレードだったため若者が情熱を持ちやすかった。

ソ連すら知らない今の世代がせいぜい北朝鮮が虚勢を張っているだけの小粒化した共産陣営に抵抗しようとも思わないし、そこに憧れを抱かないのも必然だろう。

言葉に語弊はあるかもしれないが、当時の極左は今思えば楽しかったのではないだろうか。未だに学生運動の情熱を持っている当時の世代が、今も中核派や核マル派を一応続けているらしいが当時の熱狂を忘れられない時代遅れの人々かそこに憧れる世代しかもはや存在していない。

かつて従来の既成左翼を批判した新左翼が今は旧左翼になっている、そんな皮肉もこの記事では綴られている。


高齢化し数も減少 若者から見限られる中核派・革マル派の現状|NEWSポストセブン
https://www.news-postseven.com/archives/20151226_369124.html?PAGE=1#container

そしてこの記事で旧世代の左翼を見限った新世代の左翼の代表格だったSEALDsですら結局は平和と叫んで心酔したいだけのお笑い集団でしかなかった。

全ては時代背景に行き着く問題で、今真剣に厚く語れる政治問題そのものが存在しないというのが大きい。

ソビエト連邦という総本山がありまだ社会主義への幻想があった時代とは全てが違う。ベトナム戦争でかわいそうなベトナムの人々が犠牲になっているという共感できるニュースも無い。

渋谷で暴動を起こしたり、大学を占拠したり企業のビルを爆破したり山荘に強奪した武器を持って立てこもるには相当なモチベーションと情熱、そして信念が必要だろう。

日本で革命が起きない理由はそういったモチベーションを掻き立てる物や反対するものが無いということが大きい。

大多数の日本人はなんだかんだで米軍が日本の防衛に役立っているという事をわかっているため、特に反対しようという気にもならないし、かと言って中国や北朝鮮もそれほど脅威には感じられないため憲法を改正しようという危機感も無い。

左右両方の方面で特別エネルギーを沸かせるような要因そのものが無い。

福島の原発の事があったとしても電力が必要だという現実路線が日本人の中で優先されるし、北朝鮮がミサイル実験を断行しても憲法まで変えようという気にはならない。自衛隊と安保、日米同盟で十分対処できるしそもそも攻撃してこないということを現実的に理解している。

イギリスがその場の雰囲気でなんとなく後先考えずEUを離脱したり、アメリカでトランプが就任したりする姿を見ると日本人って飛び抜けた方向にはいかないというか平均的に賢いのかもしれない。

つまり日本人自体が非常に現実的な思考をしている上に、日常に忙しくそして疲れている、そして特に強い衝動を引き起こすような出来事もないため何も起こらないというのが実情だ。

中核派の学生が演説しても今時一般学生からは白い目で見られるのと同じで、あらゆる政治活動、いやいろんな流行や現象が今は「盛り上がっているのは一部だけ」という目で見られるようになった。

昔はオリンピックに興味がないと言う人は現実ではなかなか共感してくれる人がいなかったが、今ではネットでオリンピックに興味が無い人でも集まれる。

ハロウィンが新しく文化現象になろうとしても、一部の馬鹿が騒いでいるだけということをネットで言いやすくなった。

「そんなことする体力よくあるなぁ、興味ないや」という意見が言いやすくなったし、実はそういう人たちがサイレントマジョリティだった。

一回立ち寄った喫茶店のマスターと少し政治の話をしたことがあるのだが学生運動全盛期ですら「左翼は頭がおかしい」と思っている人が大多数だったようである。

今の日本はそういった静かな少数派が力を持つ時代であり、多くの人が実は静かな少数派の一人であることを自覚している。

そしてそういうサイレントマジョリティの意見がむしろ今はむしろメジャーな意見になっている。

例えば「流行に興味がない」という人が増えたが、昔もおそらく何らかの流行に興味が無い人の方が多数派だったがそれを言いにくい空気があった。

今では逆転しており、流行に盛り上がる人の方が恥ずかしいという冷めた空気感が漂っているし、特にネットはそういう現象を叩く傾向にある。流行に興味が無い事や冷めていることが恥ずかしい事ではなくなった結果、特に大きなことも起きなくなったというのが今の時代だ。

既に日本は大きなムーブメントが発生しにくい土壌になっており、大多数がそれなりに満足できる妥協案が最も強いという民主主義の原則が支配的になっている。

日本というのは自ら変わる国ではなく外圧で変わる国でもある。

ペリー来航や欧米列強の脅威が迫らなければ今も江戸時代や徳川幕府が続いていた可能性も否定できないだろう。

実際徳川幕府は世界でも例を見ない程続いたある種の軍事政権の一つであり、天皇制の歴史も非常に長い。

余程変わらないといけない大きな理由、多くの場合は外圧がない限り日本で大きな変革は実現しえない。

変える理由がない時は変えないという当たり前の事であり、無難な日々や昨日と同じ日常を安全に迎えられることに幸せを見出してきた農耕民族でもある。

無計画でもなんでもとにかく行動して変えてやろうという強い衝動を持ちにくく、忍耐力のある民族であることは間違いない。

おそらく次の衆院選は政権交代には至らないが、かと言って改憲が可能な程与党が大勝するわけでもないというどちらとも言えない結果になるだろう。

現政権を打倒しなければならない強い理由もなければ、現政権を強化して憲法を変えるほどの脅威もやはりない。

当然ながら私設組織や地下組織が独自に武力革命を起こすこともないだろう。

また少し平和を叫んでいれば楽しくなったような気になる市民団体がちょっと出てきて話題にもならず選挙後消えていくだけでしかないはずだ。

革命

激動の時代を味わいたいとか、凄い変革を見たいという人はあまり期待しない方がいいだろう。

そういう雰囲気に熱狂する体力もないほど今の日本人は疲弊しており、まずそういう興味や衝動を持っている人が限られる。

貧しいなりに娯楽が充実していてそれなりに不満も紛らわせたり、ささやかな楽しみと最低限の安全は存在する。

「昔に比べてしょぼくなったがそれでも絶望的に悪いわけではないから仕方ない」と受け入れる、それが日本人の基本的な考え方になっている。

皆それぞれ不満はあるがそこまでして変えようと思わないぐらいには我慢できる忍耐力があるのが日本人でもある。ただしその堪忍袋の緒が切れたときには思ってもみなかったぐらいの行動を起こすが、それでも実は江戸城の無血開城を実現したり本土決戦を回避したりどこかで優しく大人しい部分はある。

今の日本は特に何かを起こさなければならない時期でもない平和な期間だともいえる。

江戸幕府がものすごく長く続いたのと一緒で、戦後日本という体制はせいぜい70年程度の物で体制という物は続く時は大きな変化も無く続く物なのである。

大きな変革や革命が起こるとするならばやはり何らかの外圧がなければならないだろう。基本的に和を尊び妥協案を探すか、大人しく忍耐する日本人が我慢できない程の何かが起きればそれは起きるかもしれない。

そういうエキサイティングな何かが見たければ海外に行くという手段もある。

チェ・ゲバラがキューバ革命を実現した後にボリビアにまた革命をしに行ったのはもしかしたらその昂揚感が目的だったのではないかと自分は思っている。

フィデル・カストロが現実的な政治を行い、ゲバラが理想とする更なる革命を実現しなかった姿を見て彼はボリビアに次なる戦場を求めた。その結果彼はこの世を去ることになるのだが、ゲバラ的なロマンチストは理想と闘争を求めずにはいられないのかもしれない。

実際日本人でも日本赤軍はパレスチナに軍事訓練に行ったり、よど号で北朝鮮に向かおうとした。彼らは海外で軍事訓練を受けて日本での革命のための準備をしようとしていたようだが、革命や理想のために頑張っているという充実感を欲するならばそれは海外にあるだろう。

ある意味今の日本で革命が起きなくてつまらないと思っていたりそれが不可能だと諦めている人たちの先駆けが彼らだったのかもしれない。

国内で余程大きな歪が生じるか、何らかの大きな外圧が起こる以外、今特に大きな変革を望む必要性は左右両方の面で存在しない。

「70年間戦争をしなくて済んだ」というのは平和主義者の常套句だが、日本の戦後の八方美人外交というのはある意味日本が国際社会で生き残るための最適解だったと数百年後歴史評論家に語られる時が来るのではないだろうか。

天下太平の世では革命など起こす必要が無い、江戸幕府発足後70年の頃に生きていた人たちはまさかアメリカの歴史並に長く続くとは思ってもいなかっただろう。

案外戦後日本の体制はこれから大きな変革も無く江戸幕府のように200年以上続く体制なのかもしれない。

https://elkind.hatenablog.com/entry/2017/09/24/145737


http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/284.html#c8

[近代史3] 若松孝二 実録・連合赤軍 あさま山荘への道程 (2007年) _ 1970年代はこういう時代だった 中川隆
104. 中川隆[-11395] koaQ7Jey 2019年3月18日 17:47:13 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[605]

日本で極右ファシズム独裁の実現は可能か考察
https://elkind.hatenablog.com/entry/2017/09/11/122805

独裁者と言えば浮かべるイメージとしてナチスドイツとアドルフ・ヒトラー総統の典型的なイメージがある。

そして対極的な社会主義政党による一党独裁、つまりヨシフ・スターリンのような実例があり独裁と言えば極右か極左のどちらかになることが近現代史においては多い。

20世紀という時代を総括するのであれば共産主義と全体主義による独裁、そして民主主義というおおまかな3つの政治制度により歴史が形成されてきた。

帝国主義とそれを打倒する闘争、そしてかつて植民地だった国ではポスト・コロニアリズム、先進国ではポスト・モダンへの希求が論争されてきて現代に至る。

更に日本に置いては新興宗教が台頭し、現在では欧米において回教過激派もその勢力を伸ばしつつある。

その日本に置いては連合赤軍や学生運動、共産主義過激派による運動が敗北し勢力を失っていくことになり現在では過激派という言葉すら歴史上の出来事だ。

そして一時、過激派の運動は80年代の好景気とバブル景気により徐々に衰退していくが、90年代にオウム真理教が台頭し始め例の化学テロを実行することになる。

自分はこの60年代から70年代にかけての出来事と、80年代後半から90年代前半の出来事について考察する場合「左派と宗教の敗北」だと考察している。

より端的に言うのであればこの国でもはや左翼と宗教に勝ち目はない。

彼らがやったことと言えば政権の獲得を民主主義的手法によって諦め、テロに走り公安から逃げ回っただけだった。政権掌握以前にその転覆すら不可能で、公安組織から逃げ回り自衛隊といった実質的な軍事組織が出る幕もなかった。

それは必然だ、所詮連合赤軍が強奪した猟銃ではフルオートのサブマシンガンMP5やPSG1のようなドイツ製最新自動狙撃銃を配備した国家組織に敗北して当たり前なのだ。彼らの中にそういった最低限の軍事理論を身に着けている人材すら存在しなかったのだ。当時はまだMP5やPSG1は配備されていなかったが64式小銃と61式戦車は自衛隊に配備されていたため暴力革命での勝利は不可能だったことは間違いない。

それから一歩進みロシアから旧式の戦闘ヘリを密輸し自動狙撃銃を密造し、毒ガスであるサリンの製造をもくろんだオウム真理教は宗教テロ組織としては画期的だった。

しかし彼らも公安からの捜査を回避するためにサリンを手放し、わずかに残った未完成の毒ガスを地下鉄で散布することが限度だった。戦闘ヘリや戦闘車両を保有し、連日戦闘訓練を積む大規模組織、すなわち自衛隊にはたどり着くことすらなく所詮公安組織に鎮圧されるレベルでしかなかった。

こういった反体制地下組織はどうあがいても巨大な権力に打ち勝つことはできない。

まるで旧日本軍が国民総動員で武器を疲弊しながら製造していた時期に週刊空母を大量に実戦配備して来たことと同じだ。皮肉にも彼らはかつて批判していた戦前右派と同じ過ちを犯したのだ。

基本的に強い物には勝てない、テロですら弾圧される。

日本では逆らっていけない物が二つある。

それは天皇陛下とアメリカだ。

論理的に考えてこの二つには絶対に勝ち目がない。天皇制を敵視するという事は日本民族そのものを敵視することであり、本当の革命や政変を長期的に実現することはできない。

藤原道長、足利義満、織田信長ですら不可能だったのが帝、つまり天皇の打倒だ。第二次世界大戦における敗戦にも負けず存続した天皇制の日本人に対する希求性は論理を超えており、自分自身むしろ天皇統帥権を実現しようとしているほどだ。

また戦後のアメリカによる実質的な半植民地支配による戦後の体制についても打倒はできない。

どれけ反乱を起こしたとしても在日米軍に要請されれば確実にその反体制勢力は崩壊する。

結局のところインテリ層や知的階級が打倒できると思っていた天皇制やアメリカ合衆国には勝てなかったというのが戦国日本史だ。平成においてもシールズによる擬似的な反安保闘争が起きたが、その直後与党は圧勝した。

基本的に日本で左派と宗教が政治的勝利を得ることはもうありえないだろう。最盛期の学生運動やオウム真理教ですら事実上ただ公安に追われることが精いっぱいだった。その先にある自衛隊やアメリカなど遠い夢でしかなかった。

革命や政変と言えば「左派」というイメージが存在するが実はそうではない。

近現代史を遡れば右派が革命により政権を掌握したり維持したケースは多い。

1:ナチス・ドイツの政権掌握

2:イラン・イスラム革命

3:朴正煕による軍事クーデーター

4:フランシスコ・フランコによる独裁政権の維持

アドルフ・ヒトラー率いる国家社会主義ドイツ労働者党はいわゆる左翼による革命ではなく、むしろドイツ帝国以来の保守層を支持母体にしていた。ロシア革命やキューバ革命と違う部分で言えば、きわめて民主的な手法により政権を獲得し、かつての軍部や官僚の支持を得られたことで政権獲得後も政権運営が可能だった。

実はドイツは近代国家として一定の水準で確立されており、暴力革命によってナチスは政権を獲得したわけではない。そのため革命というよりも政変という言葉が相応しい。

一定の文明水準に達した国は民主的手段に打って出る必要があるという事の証左であり、戦前に日本も実は北朝鮮のような一党独裁の国ではなく長い民主主義運動の歴史があった。

次にイラン・イスラム革命だが、これは近年まれに見る保守革命の具体例の一つだ。

日本でよく「ホメイニ師」として知られる宗教指導者により大胆な保守回帰路線が実行されたのがイラン革命だ。

元々イランはアメリカや西側の路線に近い資本主義的な国家だったが、今では世界屈指の反米国家でありイスラム国家として存在地位を築いている。

日本で例えるならば大日本帝国の復活や、平安朝時代の文化の再現に成功した事例と言えるだろう。

次に朴正煕による軍事クーデーターだが、「パク・チョンヒ」と読むのか「ぼくせいき」とよむのかで世代が分かれる。いずれにせよ時代としては北朝鮮初代国家主席金日成と対峙した冷戦直下の時期であり開発独裁と反共産主義を掲げ「西側の独裁者」としては代表格的な存在だ。

アメリカ合衆国という国は民主主義を押し通すように見えて実は自分たちの利益になる国や対立構造の中で利用できる国に対してはある程度、独裁を容認する傾向がある。

かつて最貧国だった大韓民国を「漢江の奇跡」によって新興国にまで押し上げたことは軍事独裁による強硬政策による功績だ。現在でも朴正煕政権に関して韓国では評価が分かれている。いわゆるファシスト的な要素があったことも事実であり長期的な軍事独裁を敷いた。

「アメリカに支援された東アジアの独裁者」という意味では最も朴正煕が近い例だろう。

最後にスペインのフランシスコ・フランコだが、この国は米ソ東西冷戦の真っただ中で翻弄された国の一つだろう。つまり元々フランコはアドルフ・ヒトラーやベニート・ムッソリーニと近しい存在であり、ファシスト陣営の一人だったが第二次世界大戦に参戦しなかったことにより"特例"ともいえる形で許された。

米ソ冷戦終結までアメリカに支援されたスペインは一定の繁栄を謳歌したのは事実だ。

更にフランシスコ・フランコはスペインの王室制度とも対立せず、フアン・カルロス1世を自身の後継者に指名したほどだ。

つまり「西側でありながら王朝と対立せず政権を維持した独裁者」という意味でフランシスコ・フランコは歴史において類稀なるケースだと言える。

仮に日本で何らかの革命や政変を実現しようとするのであれば連合赤軍やSEALDsの敗北のように左派による革命は狙えない。

宗教も実質的に不可能であり現在において公安は監視を厳しくしており、テロリズムに走れば数回何らかの行動をすることが限度だろう。左派と宗教では戦後日本の打倒は不可能だと二つの組織が証明している。

もし何らかの革命や政変を日本で起こすのであればこれはもはや右派によってでしか実行できない上に、実際右派による政権運営は可能だと現代の政治が証明している。

現在でもわずかに過激派新興宗教の支持者や極左が残存しているが彼らを右派の路線に転向させることができれば政変の実現には近づく。つまり極左や過激派宗教組織の中に存在するインテリ層や科学技術者等に右派への転向を迫ることがまず第一歩となる。

つまり「未来永劫左翼や宗教組織をやっていても永遠に勝てない」ということをどう彼らに気付かせられるかだ。なんとなく既存の勢力に反抗していれば楽しい人生で終わるのか、本気で政権を掌握するかだ。

そもそも日本の左派のレベルが低いということにうんざりしている極左も多く、彼らのようなインテリ層が真の革命や政変の右派に転向することが合理的だという事に気付くかどうかだろう。

公安から隠れながらサリンを製造するのではなく、むしろ保護された国家組織の一員としてより強大なものを作るか。つまり歴史上の勢力が開発した毒ガスや自動小銃をただ秘密裏に製造しそれですら不完全で終わるだけで終わるのか、サリンやAK74を開発したナチスやソビエト側になるのか。

更に現在において既存の右派勢力のレベルが向上することが求められる。

現在の右派はかつての三島由紀夫のような知的文化人を欠いており、いたずらに近隣諸国を稚拙な言葉で批判するレベルに終始している。

日本衰退の現実から目を背け「日本の街は綺麗ですね、水道水が美味しいですね」という外国人観光客の言葉に一喜一憂することしか今は日本人が誇りにするものが無くなっている。

左派のレベル低下も深刻だが、そこに安心し右派のレベルの低下から目を背けてもいけない。

仮に右派による革命や政変をより高度な段階で実現するならば、まずは日本左派勢力や宗教勢力からの転向、および既存保守勢力のレベル向上が求められるだろう。
https://elkind.hatenablog.com/entry/2017/09/11/122805
http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/287.html#c104

[近代史3] 中島みゆき「世情」(1978年) _ 中島みゆき は何故 30歳以降 才能が完全に枯渇してしまったのか? 中川隆
53. 中川隆[-11394] koaQ7Jey 2019年3月18日 17:48:41 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[606]
なぜ連合赤軍とオウム真理教は敗北したのか
https://elkind.hatenablog.com/entry/2017/09/04/150926

戦後日本における大きな反体制組織と言えばあさま山荘事件を起こした連合赤軍と、その後に登場するオウム真理教だろう。

20世紀の喧騒を象徴する2つの組織、そしてあさま山荘事件と地下鉄サリン事件という2つの事件に関与している。

21世紀になってからは同時多発テロがアメリカで起き、その後現在のISIS系のテロが欧州で頻発しているが日本からはどこかそういった反体制運動は消滅しつつある。

むしろ日本の右傾化が進み、比較的政治的にも治安的にも安定するようにはなったというのが大きな流れだ。

連合赤軍とオウム真理教の敗北というのは、左翼の敗北、そして宗教の敗北だったと見ることもできる。「反体制」で勝つことはできないということが彼らが残した歴史的な意味合いだろう。

日本で反体制勢力は大きな戦力を持つ事ができず権力を打倒できないことに気付いたため、その後大きな動きは起きなくなっている。

結局のところ自動小銃を密造しようとしたが試作品を作ることが精いっぱいだったオウム真理教、猟銃で少数の人間が訓練することしかできず内ゲバで瓦解した連合赤軍、彼らは必然的に敗北した。

またオウム真理教は選挙に出馬するが惨敗し結局地下鉄サリン事件のようなテロリズムに走っていき、日本で左派政党が政治的に勝利することは限られた回数しかない上にやはり「政権交代」はそれぞれ敗北した。

宗教アレルギーだと言われる日本でオウム真理教が勝利することは難しく、同時に「日本の左翼はレベルが低い」と言われるように高度な政権運営を行う事は出来なかった。

自民党や官僚という体制は非常に強固であり、今後何かの革命を起こそうとするならば権力者側や体制側に活路を見出さなければならないだろう。

オウム真理教にしても連合赤軍にしてもそれほど大きなことは成し遂げることができず、簡単に体制に滅ぼされてしまった。

せいぜいちょっとした反抗期だった少年が教師や親に大人しくさせられたように、その後日本から何らかの抵抗運動は消滅する。

オウムのハルマゲドンは東京上空からヘリコプターでサリンを散布する寸前まで行ったか結局その試みは阻止され、今では「ひかりの輪」が細々と存続している程度でしかない。

連合赤軍を始めとしたあの頃の極左や学生運動というのも80年代に入れば消滅していくことになる。

東アジア反日武装戦線は三菱重工爆破事件を起こしたが、こちらの知名度は非常に低く社会的なインパクトはなかった。

その後何らかの抵抗運動といえば、ネオ麦茶事件や宮崎勤、酒鬼薔薇聖斗、秋葉原加藤とやまゆり園植松が登場するが彼らの個人的な衝動は社会を変革させることができなかった。

結局そういった抵抗は個人や地下組織では限界があり、やはり政権を掌握しなければナチス・ドイツやソビエト連邦のような事はできない。

少し爆破したり、路上で誰かを刺殺したすること程度の規模で終わってしまう。

現在ISISが自動車を使ったテロを実行しており、そちらは規模が巨大化しているがそれでも数十人が限度だ。ノルウェーでも銃を乱射したテロがあり、この時は「FPSならこのキルレシオは驚異的」と言われていたが、革命に匹敵する変革を起こすことには失敗した。

秋葉原加藤は騒がれたが、やまゆり園植松は既に風化しているように、現代からそういうった反抗や反逆を賞賛するムードは消滅しつつある。

「大人しい事」や「怒られない事」が最適解になり、連合赤軍とオウム真理教が敗北したことで誰も似たような事をやらなくなった。

更に個人的な反抗ですら今では社会に大きなインパクトを与えられなくなっており、抽象的な見方かもしれないが「熱量」自体が世の中から消えている。

かと言ってそのような行動を美化するわけではない。

大東亜戦争末期の特攻作戦を美化したところで、それは軍事的に敗北だったとしか言いようがない。特攻作戦に従事した青年や、オウム真理教の信念に共感した純粋な信者や、革命による変革に社会の理想を求めた連合赤軍構成員の個人の心意気自体はもしかしたら美しかったかもしれないが軍事作戦や革命行動としては敗北している。

またISISの散発的な自動車テロでも彼らが掲げるイスラム領土の再獲得を実現できるとは思えない。

ただ単に路上で車を暴れさせて終わりではなく、「戦車戦」や「戦略爆撃」、「本土決戦」をやる領域に入っていかなければならないと自分は考えている。個人が銃を乱射して一般市民を巻き込むという事も非常にレベルが低い話であり、そもそもテロという手段が間違っているだろう。

「もっとデカいことをやりたいけど、仕方ないからテロをする」という事例が今までの出来事であり、彼らはナチスやソ連にはなることができなかった。

モンゴル帝国、オスマン・トルコ、大英帝国、オランダ海上帝国、スペイン太陽帝国、大東亜共栄圏、ソビエト社会主義共和国連邦、ナチス・ドイツ、そして超大国アメリカ合衆国、そのレベルのことをやろうとしている人間がたかが少し一般市民を攻撃するだけのテロで終わってはいけないと自分は考えている。

しょぼいテロで終わりたいわけではなく、オウムや連合赤軍程度の小さい反抗で終わりたくもない。

ソ連やナチスドイツという虐殺国家、そしてイギリスとアメリカというアングロサクソンによる二大巨悪、スペインとモンゴルという二大畜生、日本をそのレベルに到達させようとした場合大東亜共栄圏や満州国が限度だったというのはどうしても規模が小さい。

実は日本がもっとも世界的に存在感を示したのは太平洋戦争ではなく、ジャパンアズナンバーワンに始まる1980年代の好景気の時代であり軍事よりも経済で世界を制圧した。

その理論を応用するならば次なる革命は「ペンは剣より強し」という考え方に基づき「言論」による変革、そして体制側の人間を取り入れなければならない。

そういった日本の黄金期時代を経験したことが無いバブル崩壊以降のゆとり世代としてはどうしてもそのことを寂しく感じてしまう。

明治維新を実現した幕末の世代や、戦後復興を支えた世代に比べて、「最近のゆとり」というのはどうしてもやることが小さいと言われても仕方がない。

おそらく「大日本帝国越える国作ろうぜ」と考えている自分のような人間は希少であり、そうんなことすら誰も考えていないんだろうなということに疑問を感じる。

それはおそらく中二病であるが、「デカい国」を作ろうとするような若者が台頭し始めてきたのが過去の歴史でもある。

「明治維新や昭和維新をやろうとしていた時代の若者すげぇ」と思うし、戦後昭和の世代もエネルギーも半端無い。

そういう世代を見ているとゆとり世代の一人として虚無感があり、この世代って歴史において何も残らないんだろうなという諦めにも似た感情がある。

ただ単に衰退していく日本に巻き込まれ、反抗もできず、いや抵抗すらせず大人しく消えていくのがゆとり世代なのだろうか。

情熱的になることも反抗することもダサいというひたすら大人しい世代になりつつあることに寂寥感を抱かずにはいられない。

世間的には大人しいと言われていたオタクがアニメや漫画の世界だけでは派手にやっていた時代すら終わり、最近では日常アニメに代表されるように創作の中ですら大人しくなり癒しばかり求めている。

エヴァンゲリオンやコードギアスすらなくなり、日常アニメに癒ししか求めなくなった姿を見ると日本人の情熱はどこにも存在しなくなっているだろう。

アイドルも「自分でも手が届きそう感」を重視するようになり、もはや親近感のあるユーチューバーの時代になってきている。

「その辺の普通の人たち」やありふれた日常の幸せに癒しを求める時代が到来している。

日本人の夢や希望、野心や反抗意識、そういったあらゆるものが小さく大人しくなってきている。

不良も人を殴らず窓ガラスを割らず、非行に走らず、ネットユーザーも民度が高くなりオタクは創作の中ですら大人しくなり、富や発展を求めなくなっていく。

「諦めムード」があらゆるものを支配していくのが今の日本文化なのだろう。

現実では駄目だけどアニメやアイドルには華やかなものを求めようとしていた人達すら少なくなり、自由にできる世界ですら現実や日常を求めるようになった。極左も大人しくなりシールズのようにカジュアルに騒ぎたいだけであり、過激な宗教家や新興宗教も減っている。

天理教や創価ですら深刻な信者離れや二世、三世の離脱が進んでいる。

むしろ元気なのは近隣諸国や新興国であり、日本に憧れる海外のオタクや先進文化に憧れる人々も減りつつある。仕方ないからクールジャパンと宣伝し、日本スゴイデスネーの発言を求める番組が増えているが、現実には街の綺麗さや水道水の美味しさ、治安の良さぐらいしか誇る物が無くなってきている。

その一方で中国に敵うわけがないという考えが当たり前になっており、韓流も捏造だとは言えなくなっているほど浸透している。

そしてそこに悔しさを感じる人すら減り、日本がオワコンだということを誰も疑問視しなくなる段階に入り始めている。

そんなムードの時代に「革命と戦争しようぜ、大日本帝国越えようぜ」と言ってる人間がいたとしても、電波で誰も本気に思わないのは仕方がないのだろう。

反逆に憧れず、日常で満足して、もはや想像や妄想をするエネルギーすら残されていない程に日本人は疲弊し老化しているというのが日本の現実なのだ。

みんな忙しいし革命どころじゃないし、癒しを求めるのが精いっぱいでそれすら手が届きにくくなっている。

高級車や豪邸に憧れるエネルギーも無くなっている世代が「大国の建国」という壮大なものを求めなくなるのは必然なのだろう。

バイクで暴走したり車を改造したりする気力も無くなり、実際にそれを出来る経済的な余裕も無くなっている。

しかしながら大人しい若者に罪は無く、彼ら、いや僕らが悪いと言うよりも若者から元気を奪う社会のほうが圧倒的に悪い。

その一方で社会を批判する人すらもはやいなくて、目先の癒しにしか興味がない同じゆとり世代にも違和感がある自分がいる。

社会が悪いとすら思わず、それが当たり前のことだとして受け入れている世代がとうとう現れ始めてしまった。

連合赤軍やオウム真理教は社会が悪いからそれを壊してでも変えようと考えていたが、80年代に入ってそんなこと無理だしって時代になって、21世紀はとうとう社会が悪いとすら思わなくなった。社会が悪いという事にもしかしたら薄々気づいているが、それを行ったところで仕方がないしイイネ!を押しあっていれば嬉しくなって、その不満も紛らわすことができる。

そういう時代にそりゃ革命なんて起こせないわけであり、そんな情熱持ってる暑苦しい奴なんて自分以外もはやいなくなっている。

「ワルしようぜ」と思ってる不良が一人治安のいい学校にいるとそりゃつまらないわけで、自分が世の中や最近のネットがつまらないといってるのはもしかしたらその感覚に似ているのかもしれない。

皆中三になってしまって「おまえいい加減に中三になれよ、そろそろ高校生だぜ」と中二病の少年が言われているような感覚でもある。

皆誰かのタイムライン汚したくないしドン引きされたくない、そんな奴らばっかりになったら世の中は面白くない。

しかしゆとり世代はそういった空気に特化した協調性の高い世代になりつつある。

「空気読むことや怒られないことが最も上手い世代」というのがゆとり世代論の総評なのではないか。

しらけ世代以上にしらけてる、それが僕らゆとりだ。

そういう世代論を語る人がいなくなり、それを面白いと思う人すらもいない。

「俺って変なのかな」とか「世の中間違ってるよな」と言ってる奴がもう自意識過剰で中二病扱いされる空気になっているのならば、そんな時代から歴史を変えるような強力な個人が現れるわけもない。

大人しい世代や癒しにしか興味がない世代が主流になれば日本が復活する見込みがないのは必然だと言える。

明治維新を起こした世代は「日本は列強に対抗しなければならない」と思い、戦後の高度経済成長を成し遂げた世代はひたすらに「裕福になりたい」という思いが強かった。

欲がない世代とよく言われるが、何も強い衝動が無いのがゆとり世代でもある。

いや「癒されたい」という思いが強いのかもしれない。

「公務員が一番の夢になった時代って面白くないよね」とも言えるし、じゃあユーチューバーに憧れる世代はどうなのかという問いかけも必要だろう。

逆にこれだけゆとり世代が大人しいと、今度はユーチューバーに憧れる世代が主流になれば文化的には面白くなっていく可能性を秘めている。

「安定した人生を送りたい」と考えているのがゆとり世代だとすれば、「好きなことをしていきたい」というのがこれからのユーチューバー世代なのだろうか。

そう考えるとまさにゆとり世代というのは「谷間世代」であり、日本という国が変わっていくサナギの地味な時期でもあるのかもしれない。

そしてそのサナギ状態であることや大人しいと言われることに特に不満も無いのがゆとり世代でもある。

あまりにも「これだから最近のゆとり世代は」と言われすぎて、「はいはい俺らゆとり」という状態になっており逆らう意欲すらない。それ以前に大人しいことがかっこ悪い事だとも思わなくなり、やはりそういう世代が何かをする気になれないのは必然だろう。

この世代に希望があるとすれば「ゆとりつまらないと思ってるゆとり」みたいな層をどれだけ増やしていけるかにかかっているのではないか。

大事なことは空気を読むことではなく、空気を変える事だろう。

社会に対して不満があるのならばもっとガンガン発言し、「なんかおかしいよね」という雰囲気を作っていくことが最初の第一歩なのではないか。

この空気に従っていれば気付いたときには飲みこまれてしまっているだろう。

「停滞感」を感じているならまだマシで、停滞が普通になり過ぎればもはや疑問にすら思わなくなる。

自分がいじめられていることを自覚している生徒は何らかの解決策を導き出すか反抗しようとするが、もはや「おまえいじめられてるんだぜ」と言われないと気付かない人はある意味悲しくも無く幸せなのかもしれない。

徐々にゆとり世代が、上の世代にいじめられていることに慣れ過ぎて、これがいじめだと気付かない状態になっているのではないか。

「やっぱ俺らいじめられてるわ」ってことに気付きなさないといけない時期に来た。

じゃあ「いじめの主犯格誰だよ」って言ったら、それは高齢者なわけで主犯格を一回殴り倒さないといじめは終わらない。

オウム真理教や連合赤軍はある意味若者として社会と戦おうとした。

しかし今の若者世代からそういう組織が現れてくる見込みはない。SEALDsは反逆組織のようで実はただ単に身内でイイネ!を押しあうだけの集団でしかなかった。

「一緒に酒飲めば敵の上陸防げます」と言ってるような連中の勢いがなくなっていくことはある意味当然だったと言える。

「若者なら何かできる」とか「俺らエネルギッシュな若者だし」というエネルギーすらなくなり、若いってだけで自慢するの良くないよねという風潮になってきて、高齢者や中高年層が主流になってきている。

若者が多数派だった時代にあった"調子乗り感"が今のゆとり世代からは消えつつある。

ゆとり世代といういじめられっ子がこれからどう反逆するのか、それとも「俺はイジられてるだけ」とかいじめられる日常に慣れ過ぎて何も気づかなくなるのか、今の時期はまさに世の中がどうなっていくのかとい分水嶺の時期なのではないだろうか。

連合赤軍やオウム真理教でもなければ、SEALDsでもない、そんな組織を作り上げなければ革命は実現できない。

ロシア革命の時代からちょうど1世紀が過ぎようとしている、そして後にナチスの政権掌握も訪れる。

世界史の潮流が1世紀おきに変わるのであればもうすぐ何かが起こる可能性は否定できない。

https://elkind.hatenablog.com/entry/2017/09/04/150926

▲△▽▼

今の時代やはり暴力革命は成立しえない
https://elkind.hatenablog.com/entry/2017/09/24/145737

理想的共産主義社会の実現のために若者が革命を志していた「政治と闘争の季節」は1960年代までであり、70年代に入りカジュアルな文化や新しい庶民の生活スタイルが普及するようになると見限られるようになっていく。

サブカル文化を取り扱った番組を見て、70年代から現代の若者文化に近い潮流が始まったと知った。ものすごく簡単に言えば政治がそこまでかっこいいものじゃなくなったり、他にもっと楽しいことができたり、あまりにも暴力的で過激になり過ぎたことで若者から見放されていったというのが大きな流れだ。

他に楽しいことができたし、物凄く戦わなければならない理由も無くなった。

70年代ですら見限られて衰退していった暴力革命を今しようとしたら誰もついてこないだろう。

実際極左が多いイメージのある京都大学でもかつての中核派的な活動をしようとしていた学生が、一般学生に排斥されているようである。

結局日本の左翼というのはそういう活動の昂揚感にしか興味が無く何かに反対している興奮が好きな人が多いが、どう頑張っても少人数で細々とやり何も実現できない「左翼ごっこ」の領域を出ない結果にしかならない。

京大のような高学歴大学に進学すれば革命を志している凄い過激派がいるんだろうなという漠然とした幻想はは一般学生から白い目で見られて崩壊するのである。


日本の過激派「中核派」をフジテレビ・みんなのニュースが特集!その実態とは? - NAVER まとめ
https://matome.naver.jp/odai/2147079950621838601?&page=1


このまとめでも「反対することが多くて忙しそう」と皮肉られていたが、反安倍だの、反改憲だの反原発、反米だのやることが多すぎてしかも少数しか集まらないため結局過激な暴走に少人数だけが走るようになる。

しかしそんなものは連合赤軍が山荘において少人数が猟銃で訓練する程度にしかならず、フルオートのアサルトライフルで武装した組織には勝てないのである。

若者だけでなく多くの人が「そんなことをしてもしょうもない、第一自分の生活で忙しい」と思っており、興味もなければ情熱を抱く体力すらない程に疲弊しているのが現代日本社会だ。

更に60年代と70年代前半の極左過激派があれだけ元気だったのは、それだけ世の中が激動の時代だったという事でもある。

東西冷戦真っただ中で、いつソ連と戦争が始まってもおかしくない状況だった上にまだ沖縄も返還されていない時代だった。

沖縄に核兵器が配備されていたことに関するドキュメント番組を見たのだが、当時の冷戦の状況は今とは比較にならない程緊迫していた。

最近の若者がなぜ政治熱が無いのかといえば、状況が違うというのもあるのかもしれない。あれだけ面白い材料やニュースがあれば、それは政治熱が高まるに決まっている。

ベトナム戦争やキューバ危機が歴史の教科書に出てくる単語ではなかった時代の話なのだ。

逆に言えば今何か特別昂揚感を刺激するようなニュースがあるかと言えば、せいぜい北朝鮮がミサイルを発射するぐらいでそれすらもう日本人は感覚が麻痺して慣れ切っている。それを言えば更に日本人が血気盛んだった戦前はもっと大きな出来事のオンパレードだったため若者が情熱を持ちやすかった。

ソ連すら知らない今の世代がせいぜい北朝鮮が虚勢を張っているだけの小粒化した共産陣営に抵抗しようとも思わないし、そこに憧れを抱かないのも必然だろう。

言葉に語弊はあるかもしれないが、当時の極左は今思えば楽しかったのではないだろうか。未だに学生運動の情熱を持っている当時の世代が、今も中核派や核マル派を一応続けているらしいが当時の熱狂を忘れられない時代遅れの人々かそこに憧れる世代しかもはや存在していない。

かつて従来の既成左翼を批判した新左翼が今は旧左翼になっている、そんな皮肉もこの記事では綴られている。


高齢化し数も減少 若者から見限られる中核派・革マル派の現状|NEWSポストセブン
https://www.news-postseven.com/archives/20151226_369124.html?PAGE=1#container

そしてこの記事で旧世代の左翼を見限った新世代の左翼の代表格だったSEALDsですら結局は平和と叫んで心酔したいだけのお笑い集団でしかなかった。

全ては時代背景に行き着く問題で、今真剣に厚く語れる政治問題そのものが存在しないというのが大きい。

ソビエト連邦という総本山がありまだ社会主義への幻想があった時代とは全てが違う。ベトナム戦争でかわいそうなベトナムの人々が犠牲になっているという共感できるニュースも無い。

渋谷で暴動を起こしたり、大学を占拠したり企業のビルを爆破したり山荘に強奪した武器を持って立てこもるには相当なモチベーションと情熱、そして信念が必要だろう。

日本で革命が起きない理由はそういったモチベーションを掻き立てる物や反対するものが無いということが大きい。

大多数の日本人はなんだかんだで米軍が日本の防衛に役立っているという事をわかっているため、特に反対しようという気にもならないし、かと言って中国や北朝鮮もそれほど脅威には感じられないため憲法を改正しようという危機感も無い。

左右両方の方面で特別エネルギーを沸かせるような要因そのものが無い。

福島の原発の事があったとしても電力が必要だという現実路線が日本人の中で優先されるし、北朝鮮がミサイル実験を断行しても憲法まで変えようという気にはならない。自衛隊と安保、日米同盟で十分対処できるしそもそも攻撃してこないということを現実的に理解している。

イギリスがその場の雰囲気でなんとなく後先考えずEUを離脱したり、アメリカでトランプが就任したりする姿を見ると日本人って飛び抜けた方向にはいかないというか平均的に賢いのかもしれない。

つまり日本人自体が非常に現実的な思考をしている上に、日常に忙しくそして疲れている、そして特に強い衝動を引き起こすような出来事もないため何も起こらないというのが実情だ。

中核派の学生が演説しても今時一般学生からは白い目で見られるのと同じで、あらゆる政治活動、いやいろんな流行や現象が今は「盛り上がっているのは一部だけ」という目で見られるようになった。

昔はオリンピックに興味がないと言う人は現実ではなかなか共感してくれる人がいなかったが、今ではネットでオリンピックに興味が無い人でも集まれる。

ハロウィンが新しく文化現象になろうとしても、一部の馬鹿が騒いでいるだけということをネットで言いやすくなった。

「そんなことする体力よくあるなぁ、興味ないや」という意見が言いやすくなったし、実はそういう人たちがサイレントマジョリティだった。

一回立ち寄った喫茶店のマスターと少し政治の話をしたことがあるのだが学生運動全盛期ですら「左翼は頭がおかしい」と思っている人が大多数だったようである。

今の日本はそういった静かな少数派が力を持つ時代であり、多くの人が実は静かな少数派の一人であることを自覚している。

そしてそういうサイレントマジョリティの意見がむしろ今はむしろメジャーな意見になっている。

例えば「流行に興味がない」という人が増えたが、昔もおそらく何らかの流行に興味が無い人の方が多数派だったがそれを言いにくい空気があった。

今では逆転しており、流行に盛り上がる人の方が恥ずかしいという冷めた空気感が漂っているし、特にネットはそういう現象を叩く傾向にある。流行に興味が無い事や冷めていることが恥ずかしい事ではなくなった結果、特に大きなことも起きなくなったというのが今の時代だ。

既に日本は大きなムーブメントが発生しにくい土壌になっており、大多数がそれなりに満足できる妥協案が最も強いという民主主義の原則が支配的になっている。

日本というのは自ら変わる国ではなく外圧で変わる国でもある。

ペリー来航や欧米列強の脅威が迫らなければ今も江戸時代や徳川幕府が続いていた可能性も否定できないだろう。

実際徳川幕府は世界でも例を見ない程続いたある種の軍事政権の一つであり、天皇制の歴史も非常に長い。

余程変わらないといけない大きな理由、多くの場合は外圧がない限り日本で大きな変革は実現しえない。

変える理由がない時は変えないという当たり前の事であり、無難な日々や昨日と同じ日常を安全に迎えられることに幸せを見出してきた農耕民族でもある。

無計画でもなんでもとにかく行動して変えてやろうという強い衝動を持ちにくく、忍耐力のある民族であることは間違いない。

おそらく次の衆院選は政権交代には至らないが、かと言って改憲が可能な程与党が大勝するわけでもないというどちらとも言えない結果になるだろう。

現政権を打倒しなければならない強い理由もなければ、現政権を強化して憲法を変えるほどの脅威もやはりない。

当然ながら私設組織や地下組織が独自に武力革命を起こすこともないだろう。

また少し平和を叫んでいれば楽しくなったような気になる市民団体がちょっと出てきて話題にもならず選挙後消えていくだけでしかないはずだ。

革命

激動の時代を味わいたいとか、凄い変革を見たいという人はあまり期待しない方がいいだろう。

そういう雰囲気に熱狂する体力もないほど今の日本人は疲弊しており、まずそういう興味や衝動を持っている人が限られる。

貧しいなりに娯楽が充実していてそれなりに不満も紛らわせたり、ささやかな楽しみと最低限の安全は存在する。

「昔に比べてしょぼくなったがそれでも絶望的に悪いわけではないから仕方ない」と受け入れる、それが日本人の基本的な考え方になっている。

皆それぞれ不満はあるがそこまでして変えようと思わないぐらいには我慢できる忍耐力があるのが日本人でもある。ただしその堪忍袋の緒が切れたときには思ってもみなかったぐらいの行動を起こすが、それでも実は江戸城の無血開城を実現したり本土決戦を回避したりどこかで優しく大人しい部分はある。

今の日本は特に何かを起こさなければならない時期でもない平和な期間だともいえる。

江戸幕府がものすごく長く続いたのと一緒で、戦後日本という体制はせいぜい70年程度の物で体制という物は続く時は大きな変化も無く続く物なのである。

大きな変革や革命が起こるとするならばやはり何らかの外圧がなければならないだろう。基本的に和を尊び妥協案を探すか、大人しく忍耐する日本人が我慢できない程の何かが起きればそれは起きるかもしれない。

そういうエキサイティングな何かが見たければ海外に行くという手段もある。

チェ・ゲバラがキューバ革命を実現した後にボリビアにまた革命をしに行ったのはもしかしたらその昂揚感が目的だったのではないかと自分は思っている。

フィデル・カストロが現実的な政治を行い、ゲバラが理想とする更なる革命を実現しなかった姿を見て彼はボリビアに次なる戦場を求めた。その結果彼はこの世を去ることになるのだが、ゲバラ的なロマンチストは理想と闘争を求めずにはいられないのかもしれない。

実際日本人でも日本赤軍はパレスチナに軍事訓練に行ったり、よど号で北朝鮮に向かおうとした。彼らは海外で軍事訓練を受けて日本での革命のための準備をしようとしていたようだが、革命や理想のために頑張っているという充実感を欲するならばそれは海外にあるだろう。

ある意味今の日本で革命が起きなくてつまらないと思っていたりそれが不可能だと諦めている人たちの先駆けが彼らだったのかもしれない。

国内で余程大きな歪が生じるか、何らかの大きな外圧が起こる以外、今特に大きな変革を望む必要性は左右両方の面で存在しない。

「70年間戦争をしなくて済んだ」というのは平和主義者の常套句だが、日本の戦後の八方美人外交というのはある意味日本が国際社会で生き残るための最適解だったと数百年後歴史評論家に語られる時が来るのではないだろうか。

天下太平の世では革命など起こす必要が無い、江戸幕府発足後70年の頃に生きていた人たちはまさかアメリカの歴史並に長く続くとは思ってもいなかっただろう。

案外戦後日本の体制はこれから大きな変革も無く江戸幕府のように200年以上続く体制なのかもしれない。

https://elkind.hatenablog.com/entry/2017/09/24/145737

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日本で極右ファシズム独裁の実現は可能か考察
https://elkind.hatenablog.com/entry/2017/09/11/122805

独裁者と言えば浮かべるイメージとしてナチスドイツとアドルフ・ヒトラー総統の典型的なイメージがある。

そして対極的な社会主義政党による一党独裁、つまりヨシフ・スターリンのような実例があり独裁と言えば極右か極左のどちらかになることが近現代史においては多い。

20世紀という時代を総括するのであれば共産主義と全体主義による独裁、そして民主主義というおおまかな3つの政治制度により歴史が形成されてきた。

帝国主義とそれを打倒する闘争、そしてかつて植民地だった国ではポスト・コロニアリズム、先進国ではポスト・モダンへの希求が論争されてきて現代に至る。

更に日本に置いては新興宗教が台頭し、現在では欧米において回教過激派もその勢力を伸ばしつつある。

その日本に置いては連合赤軍や学生運動、共産主義過激派による運動が敗北し勢力を失っていくことになり現在では過激派という言葉すら歴史上の出来事だ。

そして一時、過激派の運動は80年代の好景気とバブル景気により徐々に衰退していくが、90年代にオウム真理教が台頭し始め例の化学テロを実行することになる。

自分はこの60年代から70年代にかけての出来事と、80年代後半から90年代前半の出来事について考察する場合「左派と宗教の敗北」だと考察している。

より端的に言うのであればこの国でもはや左翼と宗教に勝ち目はない。

彼らがやったことと言えば政権の獲得を民主主義的手法によって諦め、テロに走り公安から逃げ回っただけだった。政権掌握以前にその転覆すら不可能で、公安組織から逃げ回り自衛隊といった実質的な軍事組織が出る幕もなかった。

それは必然だ、所詮連合赤軍が強奪した猟銃ではフルオートのサブマシンガンMP5やPSG1のようなドイツ製最新自動狙撃銃を配備した国家組織に敗北して当たり前なのだ。彼らの中にそういった最低限の軍事理論を身に着けている人材すら存在しなかったのだ。当時はまだMP5やPSG1は配備されていなかったが64式小銃と61式戦車は自衛隊に配備されていたため暴力革命での勝利は不可能だったことは間違いない。

それから一歩進みロシアから旧式の戦闘ヘリを密輸し自動狙撃銃を密造し、毒ガスであるサリンの製造をもくろんだオウム真理教は宗教テロ組織としては画期的だった。

しかし彼らも公安からの捜査を回避するためにサリンを手放し、わずかに残った未完成の毒ガスを地下鉄で散布することが限度だった。戦闘ヘリや戦闘車両を保有し、連日戦闘訓練を積む大規模組織、すなわち自衛隊にはたどり着くことすらなく所詮公安組織に鎮圧されるレベルでしかなかった。

こういった反体制地下組織はどうあがいても巨大な権力に打ち勝つことはできない。

まるで旧日本軍が国民総動員で武器を疲弊しながら製造していた時期に週刊空母を大量に実戦配備して来たことと同じだ。皮肉にも彼らはかつて批判していた戦前右派と同じ過ちを犯したのだ。

基本的に強い物には勝てない、テロですら弾圧される。

日本では逆らっていけない物が二つある。

それは天皇陛下とアメリカだ。

論理的に考えてこの二つには絶対に勝ち目がない。天皇制を敵視するという事は日本民族そのものを敵視することであり、本当の革命や政変を長期的に実現することはできない。

藤原道長、足利義満、織田信長ですら不可能だったのが帝、つまり天皇の打倒だ。第二次世界大戦における敗戦にも負けず存続した天皇制の日本人に対する希求性は論理を超えており、自分自身むしろ天皇統帥権を実現しようとしているほどだ。

また戦後のアメリカによる実質的な半植民地支配による戦後の体制についても打倒はできない。

どれけ反乱を起こしたとしても在日米軍に要請されれば確実にその反体制勢力は崩壊する。

結局のところインテリ層や知的階級が打倒できると思っていた天皇制やアメリカ合衆国には勝てなかったというのが戦国日本史だ。平成においてもシールズによる擬似的な反安保闘争が起きたが、その直後与党は圧勝した。

基本的に日本で左派と宗教が政治的勝利を得ることはもうありえないだろう。最盛期の学生運動やオウム真理教ですら事実上ただ公安に追われることが精いっぱいだった。その先にある自衛隊やアメリカなど遠い夢でしかなかった。

革命や政変と言えば「左派」というイメージが存在するが実はそうではない。

近現代史を遡れば右派が革命により政権を掌握したり維持したケースは多い。

1:ナチス・ドイツの政権掌握

2:イラン・イスラム革命

3:朴正煕による軍事クーデーター

4:フランシスコ・フランコによる独裁政権の維持

アドルフ・ヒトラー率いる国家社会主義ドイツ労働者党はいわゆる左翼による革命ではなく、むしろドイツ帝国以来の保守層を支持母体にしていた。ロシア革命やキューバ革命と違う部分で言えば、きわめて民主的な手法により政権を獲得し、かつての軍部や官僚の支持を得られたことで政権獲得後も政権運営が可能だった。

実はドイツは近代国家として一定の水準で確立されており、暴力革命によってナチスは政権を獲得したわけではない。そのため革命というよりも政変という言葉が相応しい。

一定の文明水準に達した国は民主的手段に打って出る必要があるという事の証左であり、戦前に日本も実は北朝鮮のような一党独裁の国ではなく長い民主主義運動の歴史があった。

次にイラン・イスラム革命だが、これは近年まれに見る保守革命の具体例の一つだ。

日本でよく「ホメイニ師」として知られる宗教指導者により大胆な保守回帰路線が実行されたのがイラン革命だ。

元々イランはアメリカや西側の路線に近い資本主義的な国家だったが、今では世界屈指の反米国家でありイスラム国家として存在地位を築いている。

日本で例えるならば大日本帝国の復活や、平安朝時代の文化の再現に成功した事例と言えるだろう。

次に朴正煕による軍事クーデーターだが、「パク・チョンヒ」と読むのか「ぼくせいき」とよむのかで世代が分かれる。いずれにせよ時代としては北朝鮮初代国家主席金日成と対峙した冷戦直下の時期であり開発独裁と反共産主義を掲げ「西側の独裁者」としては代表格的な存在だ。

アメリカ合衆国という国は民主主義を押し通すように見えて実は自分たちの利益になる国や対立構造の中で利用できる国に対してはある程度、独裁を容認する傾向がある。

かつて最貧国だった大韓民国を「漢江の奇跡」によって新興国にまで押し上げたことは軍事独裁による強硬政策による功績だ。現在でも朴正煕政権に関して韓国では評価が分かれている。いわゆるファシスト的な要素があったことも事実であり長期的な軍事独裁を敷いた。

「アメリカに支援された東アジアの独裁者」という意味では最も朴正煕が近い例だろう。

最後にスペインのフランシスコ・フランコだが、この国は米ソ東西冷戦の真っただ中で翻弄された国の一つだろう。つまり元々フランコはアドルフ・ヒトラーやベニート・ムッソリーニと近しい存在であり、ファシスト陣営の一人だったが第二次世界大戦に参戦しなかったことにより"特例"ともいえる形で許された。

米ソ冷戦終結までアメリカに支援されたスペインは一定の繁栄を謳歌したのは事実だ。

更にフランシスコ・フランコはスペインの王室制度とも対立せず、フアン・カルロス1世を自身の後継者に指名したほどだ。

つまり「西側でありながら王朝と対立せず政権を維持した独裁者」という意味でフランシスコ・フランコは歴史において類稀なるケースだと言える。

仮に日本で何らかの革命や政変を実現しようとするのであれば連合赤軍やSEALDsの敗北のように左派による革命は狙えない。

宗教も実質的に不可能であり現在において公安は監視を厳しくしており、テロリズムに走れば数回何らかの行動をすることが限度だろう。左派と宗教では戦後日本の打倒は不可能だと二つの組織が証明している。

もし何らかの革命や政変を日本で起こすのであればこれはもはや右派によってでしか実行できない上に、実際右派による政権運営は可能だと現代の政治が証明している。

現在でもわずかに過激派新興宗教の支持者や極左が残存しているが彼らを右派の路線に転向させることができれば政変の実現には近づく。つまり極左や過激派宗教組織の中に存在するインテリ層や科学技術者等に右派への転向を迫ることがまず第一歩となる。

つまり「未来永劫左翼や宗教組織をやっていても永遠に勝てない」ということをどう彼らに気付かせられるかだ。なんとなく既存の勢力に反抗していれば楽しい人生で終わるのか、本気で政権を掌握するかだ。

そもそも日本の左派のレベルが低いということにうんざりしている極左も多く、彼らのようなインテリ層が真の革命や政変の右派に転向することが合理的だという事に気付くかどうかだろう。

公安から隠れながらサリンを製造するのではなく、むしろ保護された国家組織の一員としてより強大なものを作るか。つまり歴史上の勢力が開発した毒ガスや自動小銃をただ秘密裏に製造しそれですら不完全で終わるだけで終わるのか、サリンやAK74を開発したナチスやソビエト側になるのか。

更に現在において既存の右派勢力のレベルが向上することが求められる。

現在の右派はかつての三島由紀夫のような知的文化人を欠いており、いたずらに近隣諸国を稚拙な言葉で批判するレベルに終始している。

日本衰退の現実から目を背け「日本の街は綺麗ですね、水道水が美味しいですね」という外国人観光客の言葉に一喜一憂することしか今は日本人が誇りにするものが無くなっている。

左派のレベル低下も深刻だが、そこに安心し右派のレベルの低下から目を背けてもいけない。

仮に右派による革命や政変をより高度な段階で実現するならば、まずは日本左派勢力や宗教勢力からの転向、および既存保守勢力のレベル向上が求められるだろう。
https://elkind.hatenablog.com/entry/2017/09/11/122805


http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/286.html#c53

[近代史3] 若松孝二 実録・連合赤軍 あさま山荘への道程 (2007年) _ 1970年代はこういう時代だった 中川隆
105. 中川隆[-11393] koaQ7Jey 2019年3月18日 18:03:22 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[607]

日本の左翼はなぜ自分の思想に酔っているのか
https://elkind.hatenablog.com/entry/2017/05/13/131511

左翼思想そのものの是非はともかく、自分は日本の左翼はあまり好きになれない。思想がどうかというよりも日本の左翼特有の自分の思想に酔っている感、左翼思想持ってる自分頭良いだろ感が気取っているように見えて好きではない。

あくまで思想は彼らのファッション道具の一つに過ぎず、政治運動やデモをするときもフェスに参加して「俺輝いてる」感を味わいたいだけでしかないように見える。

「平和を叫んでる自分最高に輝いてる」

「差別を批判してる私正義」

「平和活動をしてる自分が好き」

「弱者の味方してる俺かっけえ」

「左翼は頭がいい、よって自分も頭がいい」

とにかく政治や思想をファッションに使っている人が多く、まともに左翼思想や社会主義、革命などの理念を理解すらしていないのではないだろうか。現にシールズの時も憲法をまともに知らなかったり、安保の時にようやく政治に興味を持ち始めたような人が多く話にならないレベルの教養の低さをさらけ出していた。

結局お祭り騒ぎや反対運動したいだけの人が、たまたまそこに政治があったから乗っかっただけだったり自分は頭が良いと思い込みたい中二病こじらせた人間が左派よりの考え方に飛びついているだけである。

平和を標榜しておきながら攻撃的だったり、差別を批判しておきながら自分は差別的言動をしているダブスタ左翼が非常に多い。

思想の内容や本質など彼らにとってどうでもよいのである。ファッションを気取れればいいし、何かに反対しているときの昂揚感を得たいだけである。実際自分の大学時代の極左教授も学生運動の頃の興奮が欲しいだけだったり、とにかくアメリカを叩いていたいだけの教授でしかなかった。

左翼

まだそう言った教授や昔学園闘争をしていた世代、あるいは日本赤軍、連合赤軍のような極左にはまだ知識があったように思える。あの頃の左翼はまだちゃんとインテリが左翼をやっていた頃でそれなりに高学歴や知識人が多く、左翼の話している内容もレベルは高かった。

しかしながらよど号ハイジャックのときは北朝鮮についてろくに知らず行き当たりばったりの行動で行ってから後悔しており若気の至りでしかないのも実態であった。その頃の左翼ですら実はそこまで高度ではなく最終的にテロに訴えかける勢力も多かった。実は昔日本では極左テロが横行しており非常に攻撃的であった。

そして現代の左翼はその頃からさらに劣化しており、もはやただの軽いお祭り集団にしか見えず政治思想の基本もよくわかっていないような人が多い。

昔の左翼はまだ見ていて本物感があるしちゃんと頭は良かったが今の左翼は明らかに馬鹿になっている。むしろ左翼ではない自分の方が最近のファッション左翼よりも知識を持っているのではないかとすら思わせられる。

左翼思想が悪いというよりもその思想を扱う人間が悪いしすべての左翼を批判しているわけではない。ファッション平和主義者や弱者の味方気取りが嫌いなだけであって、その理念をすべて否定しているわけではない。むしろ本物の極左を自分はリスペクトしている。

よく海外の左翼は愛国者で、日本の左翼は単に日本が嫌いなだけと言われるようにこの国の左派はいわば偽左翼やファッション左翼という立ち位置に近い。彼らはなんとなく左翼は頭がよさそうに見えるから気取るために左派思想を掲げているに過ぎない。

とはいえなんとなく左翼をやっている人が多いように、右翼にもなんとなく右翼をやっている層も多く左右共に良くわかっていないような層を抱えている。

こういった良くわかっていない層は知識がないにもかかわらず行動力だけはあるため、ネットの掲示板などでも文脈を読まずいきなり政治の話をし始めるため俗に政治厨と呼ばれている。

昔は右派の方が掲示板やコメント欄などで政治の話を空気読まずに始めていたが、今は逆に左翼の方が唐突に右翼批判を始める逆転現象が起きている。いずれにせよこういった政治厨はTPOをわきまえず行動している自分に酔いたいだけなのである。そういった層が左右それぞれのイメージを著しく下げており真の左派や右派にとってはマイナス要因となっている。
https://elkind.hatenablog.com/entry/2017/05/13/131511
http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/287.html#c105

[近代史3] 若松孝二 実録・連合赤軍 あさま山荘への道程 (2007年) _ 1970年代はこういう時代だった 中川隆
106. 中川隆[-11392] koaQ7Jey 2019年3月18日 18:54:07 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[608]

単なる「革命家ごっこ」をしたいだけの平和主義者が日本には多い。
かつての革命家と同じ気分になりたい、帝国主義の打倒を掲げたい、そんな悪役と戦うシチュエーションに人というものは憧れる。
悪役に対して正義の味方として戦ってる時の快感を味わうのが日本の平和主義者だ。


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なぜ平和主義者ほど過激な人が多いのか
https://elkind.hatenablog.com/entry/2017/08/09/115512

平和主義者というのは文字通り平和を愛する人々であり、主に反戦や非戦を主張する人々を指す。特に日本では先の大戦により多くの犠牲者を出したため「平和」という言葉は崇高な概念として半ば神格化されている。

そんな平和を擁護する平和主義者だが彼らの言動を見ていると本当に平和を愛しているのか疑いたくなるような過激な言動が多い。

平和主義者ほど攻撃的であり、反差別主義者ほど自分の差別には無自覚である。

例えば自分の気に入らない政治家に対して口汚く罵り、時には彼らの生命さえ否定しようとする。そんなことを何の抵抗もなく口にできる人々が反戦や平和を掲げることに違和感を覚えずにはいられない。

彼らは平和の為なら何を言っても良いと思っている。

自分たちの正義の為なら何を言っても良い、というのは彼らが執拗に批判する全体主義者と変わらない。

「平和」「反戦」という言葉は美しく紛れもなく素晴らしい理念である。

しかしそういう言葉が暴言を吐く人々に悪用されているのも事実であり、むしろ彼らの方が反戦や平和という概念を汚している。

また彼ら自称平和主義者の言動や教養は非常に浅く、彼らが「平和」という言葉を声高に叫べば叫ぶほどその言葉が陳腐に思えてくる。自らの言動に既に矛盾が生じているのだ。

「平和を叫ぶ人はどこか怪しい」というイメージが付けば、本当に平和を望み実行しようとしている人々の活動まで疑われた目線で見られるだろう。実際に日本で左派が政治的に勝利することが少ないのは、そういった思想を掲げる人々の軽薄さが信用されていないからだろう。

本当の左派や平和主義者は存在せず、ほとんどが自分がインテリだと気取るためのファッション目的でしかないのだ。

平和、平等、反戦、そういった綺麗な言葉が品のない人々に多用されればイメージは悪化する。

こういった綺麗なフレーズは非常に便利であり、使えば自分たちを正しい主張を行っているという印象を作りやすい。それゆえに中身のない主張であっても綺麗なフレーズで着飾れば正しい主張であるかのように受け止められることがある。

逆に非常に論理的な主張であり現実を語っている主張であっても「戦争賛美者」などのレッテルを貼れば議論は有利に進む。

平和が大事だと言っていればなんとなく良い人のように見てもらえるのである。そして現実的な解決策を示そうとする人にはレッテルを貼れば悪人に仕立て上げることができる。

平和主義者

「平和叫んでる自分はかっこいい」

「いいこと言ってる私が好き」

彼らの真の目的は平和などではなく、単にその主張をして得られる昂揚感でしかないのだ。そんな人々に平和や反戦という言葉が悪用されてはならない。

単なる「革命家ごっこ」をしたいだけの平和主義者が日本には多い。

かつての革命家と同じ気分になりたい、帝国主義の打倒を掲げたい、そんな悪役と戦うシチュエーションに人というものは憧れる。

わかりやすい悪役ファシストとして右派の政治家をターゲットにして口汚く罵ればもうそれで立派な革命家ごっこが楽しめる。

戦争が大好きな悪役を仕立てげて攻撃すればそれが平和活動となる。

そしてその悪役に対して正義の味方として戦ってる時の快感を味わうのが日本の平和主義者だ。

議論の都合が悪くなれば「アイツは戦争が好きな悪い奴」と認定することで自分を正当化する。しかし彼らの言動を見れば非常に過激であり、平和主義者なはずなのに攻撃的なことが多い。

「平和」という言葉は魔法のフレーズであると同時に、危険でもある。

どんなに支離滅裂な考えも「平和」というシールを貼ればよい考えに見えるのだ。

そしてそれがこの言葉の危険な部分でもある。

色んな人がその効力を頼りこの言葉を使おうとするため当然悪用する人もいる。

間違ったことも「平和のため」と装えば綺麗に見える。

パッケージをよくすれば悪い商品でも購買意欲が上がるのと同じだ。

日本の政治議論が成熟させるためにはこういった表面的な言葉だけを投げつけあう体質を変えなければならないだろう。


https://elkind.hatenablog.com/entry/2017/08/09/115512

http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/287.html#c106

[近代史3] 若松孝二 実録・連合赤軍 あさま山荘への道程 (2007年) _ 1970年代はこういう時代だった 中川隆
107. 中川隆[-11391] koaQ7Jey 2019年3月18日 19:04:36 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[609]

なぜ最近の若者は「反体制」ではないのだろうか
https://elkind.hatenablog.com/entry/2018/02/20/142514

学生運動を体験した全共闘世代と呼ばれる人の話を聞くとよく「その頃はデモに参加することがかっこよかった」と話すことがある。

新左翼活動に参加した友人が消えることも日常茶飯事で、また長淵剛も「ロックは反体制であるべき」というようなことを語っている。

しかし今の若者はむしろ現政権を支持している人の方が多く、それが「最近の若者はなんで今の政権を支持するのかわからない」とテレビ番組のコメンテーターから不思議がられることさえある。

今の時代になぜ革命を起こせないかと言えばそれは若者に情熱が無くなっている事だけが原因ではなく、いわゆる頭の良い人たちは基本的に現体制を支持しているからである。

例えばビジネス雑誌プレジデントの読者が評価する歴代総理大臣で、反体制勢力が批判していた総理はことごとく上位に入っており優秀な人は基本的に現政権支持に回ることが多い。

つまり能力を持っている人達はある程度体制側に入ること出来るため、反逆する必要が無い。

自分はどちらかというと革命を起こしていくべきだと考えている立場だが、能力がある人たちは体制側にいるので革命勢力は烏合の衆にしかならないのが現実なのだ。


チェ・ゲバラ
https://elkind.hatenablog.com/entry/2018/02/20/142514


また反体制や何かに逆らうということ自体が今の時代やや"暑苦しい"ものになりつつある。

例えば今の若者で長淵剛に共感する人はあまりいないだろう。

機動戦士ガンダムでも昔はジオン公国が好きで、シャア・アズナブルの男としての生き様に憧れる人が多かったが今はむしろ連邦やアムロ・レイに共感する人の方が多い。

日本人には敗者の美学があり、負けた勢力に美意識を見出すことが多いが最近は結局体制が勝つということをナチュラルに理解している人の方が多くなりつつある。

世の中そんな熱くなってもどうせ上手く行かないのだからという事なかれ主義が基本的なスタンスになってきているのだ。

時代が変わり今は体制側はそこまで敵視するものではないという考え方になり、実際に自分も「現政権に反発してる人達元気だなぁ」と考えている。

反原発デモしてる人や、わざわざ沖縄まで行って反米軍基地デモをしている人を見るとどこからそのモチベーションが湧いてくるか不思議になるし熱くなれる人は羨ましくもある。

逆に左派に限らず、保守系まとめサイトのコメント欄で周辺国の批判をしている人を見ると執着心凄いなとも感じる。

自分の知っている大学の反米極左教授がいるのだが、だいぶ高齢なのに今も反米への高い情熱を維持している。

今の若い世代からするとなぜそこまで反米に熱心になれるのかわからないのだが、「何か大きなものに逆らっている昂揚感」というのは時として生きるエネルギーにもなる。

村上龍の『オールドテロリスト』という小説は高齢者がテロを起こしていくというストーリーなのだが、「老いても維持できるのは怒りという感情だけだ」という台詞がある。

まさにそれが本質で、未だに反体制デモや反米活動、反原発デモをしている人はことごとく高齢化しており、若者でそんな熱い事をしている人はあまり存在しない。SEALDsも結局解散し、安保に勝てないと悟りどこかに消えて行った。

ある意味「反体制」という物が若者の間ではすでにダサいものになっており、何かに逆らっていくようなストーリーはあまり受けることが無い。

初代ガンダムは地球連邦とジオン公国と二つの対立軸だったが、21世紀に入って初代のリメイクのような形で作られたガンダムSEEDはそのようなストーリーになっていない。

最初は連合とザフトの戦いなのだが、いつしかオーブやラクシズという新勢力が現れ、いまいちZAFTにジオンのような魅力は無い。

ガンダムファンにだけを見てもジオンを見て育った世代と、ザフトを見て育った世代では反体制への美学が異なっている。

確かに「コードギアス反逆のルルーシュ」のように巨大勢力に逆らうような話はあるのだが、そこまで広く受け入れられているとは言えず一部の厨二病のような扱いになっている。

昔は反体制がトレンドであり、政治熱が冷めて行った後の時代でも校内暴力や暴走族、更に言えば反抗期のようなものがあった。

今の若者世代にとって反逆は一部の厨二病の憧れる事であり、そこまで争いに興味が無いという人の方が多い。

アニメの嗜好も戦う事や争う事よりも、悪いキャラは出てこない仲良しグループの日常を求めるようになって来ている。

今のアニメで嫌な性格のキャラクターはなるべく出てきてはいけないし、同じアニメファンの中で対立することも避けられる。つまり何かの危険を冒したくはないし、仲よくしときたいというのが、今のトレンドでそれはLINEグループやタイムラインを荒らさないほうが嫌われないという感覚に近い。

林修が「小池百合子が"排除"という言葉を使ったのはまずかった。現代人は極度に仲間外れにされることを恐れる。」という解説をしていたのだが、体制側にいることが居心地がよく浮いた人間になりたくないというがもはや本音なのかもしれない。

アイドルグループも仲の良さが重要になり、仲が悪い事はそのグループの人気に関わる時代だ。アニメもアイドルも仲良しグループの仲の良さが最重視される時代であり、「LINEグループ化現象」がどこにおいても進んでいる。

実際自分も革命熱や政治熱のような物は減衰して来ており、男性ホルモン自体が少なくなってきている。

「危険思想の持ち主が最近少なくなって寂しい」と言いながらも、自分自身がそこまで熱心に戦いを求めなくなった。

男子の女子化が進んでおり、男性ホルモンが徐々に少なくなってきているとも言える。

実際ゆとり世代の自分からすると路上で目が合ったら喧嘩していた時代の話は信じられないし、哀川翔が原宿の竹下通りで抗争していたエピソードは素直に凄いなと感じる。

学生時代一回も肉弾戦の喧嘩をしたことが無いという男子がもう完全なる多数派になっており、今の時代仲が良いことが至上価値として育てられている人の方が多い。

そういう時代にそりゃ反体制になるわけがないのは至極当然の事なのかもしれない。

SNSで日常アニメ見て分かりやすい短いセリフを実況する事に癒しを求める人が増え、もはやLINEグループの身内ではぶられないことを最優先するという時代になっている。

これは今自分が勝手に考えた定義だがもはや「ゆとり世代」というよりも、更に「LINEグループ世代」という層が最近は登場している。

自分はギリギリ高校時代はLINEというのが無かった世代なので、正直なところLINEグループを気にするということを10代で体験することはなかった。

今はそれがナチュラルな世代になって来ており、こういう世代からもはや反体制分子が育つことはありえないだろう。

自分のようなゆとりも相当大人しいが、今の日常癒しアニメや親近感ユーチューバーを見て育っている世代は、更に何かに反発することに魅力を感じないのではないか。

ゆとり世代、LINEグループ世代、そして更にあと数年で「ヒカキン世代」という層が登場する可能性もある。

反体制に熱心な人は年齢的に高齢化して来ていて、若者の方は精神的に高齢化してきている。

若者が若者らしくなくなっているというか、夢を見ず冷めた人が多くなってきている現実はある。今の日本は高齢者の方が元気になっており、怒りだけが彼らを突き動かしている。

逆に若者の間で壮大な夢を持っている人はちょっと暑苦しがられるというか、意識高い系に思われてしまうようになって来ているのかもしれない。

長淵剛は暑苦しいし本田圭佑はちょっと意識高い系だという認識が今の若者の考え方なのではないか。

チェ・ゲバラがかっこいいと思う感性を持った10代はもう絶滅危惧種だろう。

イスラム国に憧れて川崎国を作った連中は今の若者の中では相当レアな部類で、沖縄の成人式で暴れてるような連中も普段はまともな社会人をして反体制活動をするわけではない。

育つ時代の背景や雰囲気が違うとどうしても人間というのはその影響を受ける。

政治的激動が日常であり、任侠もの映画や不良映画が流行ったり反体制がトレンドだったりした時代と今のLINEグループとSNSの時代では全てが違う。

ガンダムが1stからSEEDになり、そして今はもはやガンダムを見ない時代になった。

これが時代の思潮の変化を表しているように思えてならない。


https://elkind.hatenablog.com/entry/2018/02/20/142514
http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/287.html#c107

[近代史3] 若松孝二 実録・連合赤軍 あさま山荘への道程 (2007年) _ 1970年代はこういう時代だった 中川隆
108. 中川隆[-11390] koaQ7Jey 2019年3月18日 19:11:32 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[610]

標記映画の動画リンク追加
若松孝二 実録・連合赤軍 あさま山荘への道程 (2007年) 動画
https://www.youtube.com/watch?v=q_uMjzQAwnM
https://www.youtube.com/watch?v=cicGFPx-4GE


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<再現>日本赤軍事件 - YouTube 動画
https://www.youtube.com/watch?v=QNNokzO4u-Y
https://www.youtube.com/watch?v=3dN3r3H4mSU


重信房子独占インタビュー 1973 - YouTube 動画
https://www.youtube.com/watch?v=rXIUjCImv1M

映画『革命の子どもたち』予告編 - YouTube 動画
https://www.youtube.com/watch?v=93xiGKx5ASU


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連合赤軍あさま山荘事件 完全版 - YouTube動画
https://www.youtube.com/watch?v=_7538Mapqd8

https://www.youtube.com/watch?v=JbXHqyyCvRY
https://www.youtube.com/watch?v=UgCwy_WQP60
https://www.youtube.com/watch?v=6dy2fbMgILE

<再現>連合赤軍 山岳ベース事件  - YouTube 動画
https://www.youtube.com/results?search_query=%EF%BC%9C%E5%86%8D%E7%8F%BE%EF%BC%9E%E9%80%A3%E5%90%88%E8%B5%A4%E8%BB%8D+%E5%B1%B1%E5%B2%B3%E3%83%99%E3%83%BC%E3%82%B9%E4%BA%8B%E4%BB%B6&sp=mAEB

銃撃と粛清の神話 1972年連合赤軍あさま山荘事件 - YouTube 動画
https://www.youtube.com/results?search_query=%E9%8A%83%E6%92%83%E3%81%A8%E7%B2%9B%E6%B8%85%E3%81%AE%E7%A5%9E%E8%A9%B1+1972%E5%B9%B4%E9%80%A3%E5%90%88%E8%B5%A4%E8%BB%8D%E3%81%82%E3%81%95%E3%81%BE%E5%B1%B1%E8%8D%98%E4%BA%8B%E4%BB%B6

【昭和】連合赤軍30年目の真実【大事件】 - YouTube動画
https://www.youtube.com/watch?v=VwrRJSLg7nU

連合赤軍兵士 41年目の証言 - YouTube動画
https://www.youtube.com/watch?v=fBusjiyrX78


▲△▽▼


しかし、昔の学生やインテリは随分 IQ が低かったみたいですね。

当時の日本は一億総中流で、マルクス主義の前提になる階級自体が存在しなかったので、いくら社会不安を起こしても階級闘争や革命なんか起きる筈がなかったのですけどね。


まあ、今の学生やインテリが賢くなったというのでなく

今だけ、金だけ、自分だけ

という価値観に変わっただけなのですが。


世界の国で中間層が部厚かったのは平成バブル崩壊までの日本だけです
そしてそれは、終戦直後に GHQ が農地改革、意図的なインフレと預金封鎖、極端な累進課税で人為的に所得再分配をやった結果なのです。

日本共産党や労働組合を創設させたのも GHQ なのですね。

平成バブル崩壊までの日本が世界で最も成功した社会主義国だと言われていたのは
すべて GHQ の共産化政策の結果なのです。

20年前まで大学関係者や学生が左翼とマルクス主義者ばかりだったのも GHQ の教育方針の結果でしょう。

http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/287.html#c108

[近代史3] 若松孝二 実録・連合赤軍 あさま山荘への道程 (2007年) _ 1970年代はこういう時代だった 中川隆
109. 中川隆[-11389] koaQ7Jey 2019年3月18日 19:29:51 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[611]

あさま山荘事件ー凍える攻防
http://home.r07.itscom.net/miyazaki/bunya/#asama

突入
鉄アレイで壁を破壊しての突入。
2002年2月19日の新聞の多くが、トップであさま山荘事件30周年を報じていた。 少し前には、今ではNHKの人気番組となった「プロジェクトX」で、鉄アレイで山荘の破壊を担当した人 や大量の水をポンプアップした消防隊員が取り上げられていた。まもなく映画も封切られるという。

確かにこれらは一面ではあるが、殉職した2警官のほか射殺された民間人が1人いたことやライフルで報道関係者など27人が重軽傷を負ったこと、 この事件の最中にニクソン大統領訪中という左翼運動にとってエポックメーキングな出来事があって、母親の一人によるマイクの説得にもでてきたこと、なによりも、 連合赤軍がここに来るまで12人も(京浜安保組まで入れると14人)総括という名のリンチで仲間を殺していたことなどにまったく 触れられていないことが不思議だった。

私にとっては札幌オリンピックとセットみたいな事件だ。というのもオリンピック取材団の一人としてずっと札幌にいて、五輪の終了直後に発生した事件で、 おまえたちは寒さになれているし、装備が整っている(五輪用の防寒靴やフードつきのコートなどを着用していた)、 という理由で、カメラマンともどもオリンピック取材チームがそのまま軽井沢に向かったのである。 といっても我が家を含めて、家族は夫や息子がどこに行ったのか知らなかった。これは新聞社では普通のことだった。


一つには、この時代、電話事情が悪かったことがある。入社のときは関西から札幌に申し込むと3時間くらいたってつながった。 急ぐ時は警察電話が頼り(全国に張りめぐらされた警察電話が一番充実していて、即時だった。よくないのだろうが、県警本部 を通じて最寄警察から市内電話につないでもらった)という時代が長かった。

二つのオリンピックを経てこのころよくなったとはいえ、軽井沢の現場から本社に一度つながると、切るな、といわれていたくらい。原稿や写真電送を どんどんすませるようにしていた。取材本部にしたのも電話がある空き別荘で、所有者に連絡して明けてもらったものだ。 でも風呂には入れなかった。犯人が包囲された手がかりが、異臭を放つというのが理由だったが、機動隊ふくめてこちらも似たような事情だったのだ。


あさま山荘
このロケーションを見ても難攻不落の天然の要塞
だったことがわかる。3階に見える 白い屋根の
ところが1階部分で道路に面して玄関がある。
軽井沢というと高級別荘地を思うが、旧軽のイメージとはまるで違うところだった。場所も国鉄(当時)をはさんで反対側だし ボタ山に開けた新興別荘地といった方がいいくらい。立ち木も大きいのがなくて、せいぜい直径15センチ くらいで、あまり遮蔽物にならない。これがマスコミに怪我人を出す理由にもなった。


銃眼
一晩のうちにあけられた銃眼。
夜中、犯人がコツコツと壁に銃眼をあける音がするのだが、照明は禁じられているので、どこなのかわからない。夜明けと ともにそこからいきなりライフルを撃ってくる。1本の木の後ろに数人のマスコミが隠れているから、ひざや手が木の幹よりどうしてもはみ出す。これで射抜 かれる者が多かった。右の写真がその銃眼だが、現場にいた者にはこれが正面玄関上にあけられた銃眼で、銃口からライフルだとわかる。私はこの銃口の先の山の斜面にしゃがんで いたのだが、右後方のテレビクルーがやられた。

銃口を避けてあちこち場所を変えながら移動するのだが、山の中の一本道を山荘で遮断されているから、はるか下を迂回するか、上の山側を越えるかしかない。笹の中のちょっとした登山の連続になる。たちまちズボンがだめになった。私もはじめて ジーンズを駅前で買ったが、事情は各社同じで品切れになるほどだった。この洋品店主は東京に仕入れに行ったあと急死したが、こんな話は30年後でもどこにも出てこない。


佐々淳行
佐々淳行氏
現場はあさま山荘だが、ここには、警察は機動隊員、マスコミは若い記者とカメラマンという「手足」がいた。 作戦を練る 警察幹部や新聞のキャップなど「頭脳」にあたる人間はずっと離れたところにいた。取材の中心は警察庁の寮だった。ここには佐々淳行・警備局付警務局監察官が 後藤田正晴警察庁長官の命令で派遣されていて、その指揮所になっていた。本名は「あつゆき」というのだが、当時「さっさ・じゅんこう」と呼んでいた、 氏は、この事件を機に危機管理の専門家の道を歩む。20年ほどのち、横浜のある会合で食事をともにすることがあり、席が隣り合わせだったので、現場に居たというと、あそこ が私の原点です、といっていた。


佐々淳行さん死去

佐々淳行(さっさ・あつゆき)さんが2018年10月10日、老衰のため亡くなった。87歳だった。
佐々さんは1954年に東大法学部を卒業し、現在の警察庁に入庁。全共闘などの学生が東大・安田講堂に立てこもった69年の「安田講堂事件」では、警視庁警 備1課長として現場を指揮。72年の「あさま山荘事件」も陣頭指揮した。その後は防衛施設庁長官などを歴任し、86年に初代内閣安全保障室長に就任した。
退官後は危機管理の専門家として活動し、警察官僚時代の経験を題材にした著書も執筆。あさま山荘事件のノンフィクションは2002年に映画化された。

警察の縄張り意識は今に始まったことではない。警察の管轄はよく池や川で区切られているが、地方支局勤務のとき、こういうところで土左衛門が上がると、 竹ざおで管轄外の向こう岸に押しやるということがあった。単純な自殺などでは書類処理の手間ばかりかかるので嫌がるきらいがあった。向こう側の署もしたたかで、 同じように押し返して、結局最初に 発見された地点の警察署が処理をする羽目になったという笑い話をよく聞いた。


これくらい世間の注目を集める大きな事件だと、こっちの力で解決できるという県警側の自負と、中央から派遣された側の、そっちだけではどうにもならんだろうという意識がぶつかり合う。 装備も中央の機動隊のが優れ、銃弾に対しても県警機動隊の防御楯4枚重ねて、やっと警視庁機動隊の一枚並という気の毒な面も あった。だから、中央から派遣された警察庁、警視庁機動隊組と地元の長野県警は仲が悪 かった。無線連絡も互いには通じなくてそれぞれの上司にだけ報告が上がる。あさま山荘の中にいる犯人の割り出しも両者別々にやっているきらいがあった。 手違いで照明弾が打ち上げられたときには「あのバカが」とののしる始末で、けっしてうまくいっていたわけではない。


東京組は事件後、すぐ本を出したが県警組は不快感をあらわにした。こざかしいことだけ長(た)けているとでもいうように。 後年(平成14年)NHKが「プロジェクトX」であさま山荘事件を放映したが、主役として地元消防団員や県警幹部、モンケーンの 操縦士を取り上げたため、今度は東京組がそっぽ、といったあんばいだ。

あさま山荘のつらら
放水はたちまち凍って
全体が氷柱(つらら)で覆われた
しかし、現場は違った。
とにかく寒かった。いまマイナス20度近くになる八ヶ岳に自分の方から進んで身を置いているが、犬のおしっこがみるみる凍るのを見るたびあさま山荘を思い出すほどだ。 放水の水をキャンバス地のタンクにためるのだが、周辺部からしわしわになり始めて、やがてみるみる全面凍った。寒気に加えて山荘めがけて水をまくから周囲は氷。寒さが加速するばかりだ。 取材といったって膠着状態で、別にすることはないから、町の薪炭店で買った薪をカメラマンが張り付いている ところに運び上げて、焚き火をしてやるのが主な仕事。しびれた手足の機動隊員が、たまりかねて、「お願いします。あたらせてください」とやってくる。一緒に股火鉢で夜の明けるのを 待つ。そんな繰り返しだ。現場では東京組も県警組もない。互いに「手足」同士の連帯感が生まれていた。


4日目くらいにたまたま「大事件」を目撃した。昼ごろだったが、功名心にかられたか信越放送の記者と、画家という男が警戒線を突破して山荘に近づいた。これはすぐつかまったが、これに気を取られているうちに、 斜面を這い登ってきた別な男がいた。みんなが見守るなか道路を悠々と歩いて山荘玄関にたどりついた。新潟からきたこの30歳の喫茶店経営者は麻薬で何回もつかまったことがあり、前日「人質の身代わりにきた」 と禁止区域に入ってつかまり、夜中釈放されたばかりだったが、このときはわからない。 「赤軍さん、赤軍さん、わたしも左翼です。私は妻子と離縁してきました。医者をやっております。中へ入れてください」。 このとき中にいた坂口弘は、警察だと思って銃眼から拳銃で撃つ。


自分で立ちあがり、かけつけた警官に「おお痛え。大丈夫だ」というが朦朧としているようす。佐久病院で後頭部の弾の摘出手術を受けるが10日ほどあと死亡する。 これとて、警察の連携が十分なら捕まえた不審者を夜中に釈放するなどありえないと思うのだが、山荘を取り囲む東京組中心の機動隊が首をかしげるなかひょこひょこ 出てきた。

坂東国男
坂東国男
余談だが連合赤軍の坂東国男は逮捕された後、佐久警察署で調べられた。 40日黙秘したのち、事件中に自殺した父親の位牌を見せられると、「ありがとう。間違ったことをしてしまった。父には本当に申し訳ない」といって、12人のリンチ殺人を語り出した。この警察署も病院も、私の山小舎からすぐ下にあり、 通りがかるたびに思い出す。


機動隊とカップ麺
カップ麺を食べる機動隊員
テレビ中継は記録づくめ。突入の日などNHKは朝から11時間ノンストップ放送。民放もはじめてCMを飛ばした。視聴率89.7%は全国民が見たといっていい数字だ。おかげでわけのわからないのも、全国からあさま山荘めがけて 集まって来たのもこの事件の特色かもしれない。 東大助教授、弁護士、僧侶の4人組が赤軍と面会したいとやってきたが、安全は保証できないといわれると帰った。クルマでやってくる野次馬は3000人になった。屋台まで出始めた。


後日談だが、日清食品が発売したカップヌードルは湯を注げばいつでもどこでも食べられるのが売りだったが、「あさま山荘事件」で機動隊員が食べる風 景(写真右)がテレビで流れ、注文が殺到、今日のカップ麺隆盛のきっかけとなったのもこの事件の余波だ。

突入
あさま山荘正面玄関からの突入。逮捕は日没時までかかった。
強行突入した最後の日、2月28日は現場にいなかった。交代が来たので東京に戻っていた。久しぶりに我が家で風呂にはいって、出社した編集局のテレビで落城を見守った。あれだけ恐怖の的だったモルタル壁にあけられた銃眼がモンケーン(鉄球)の1発で吹き飛んでいた。

突入した機動隊員は警視庁組と県警組との混合部隊だった。1階は警視庁第9機動隊、2階は長野県警機動隊、3階は警視庁第2機動隊、突入のため選抜されたのも警視庁と長野県警2人ずつという配置で、 張り合う組織同士の顔が立つように配慮されていた。

顔出し
犯人がライフルを構えたまま顔を出した瞬間。
坂東と吉野弟かと思うが狙撃されることはなかった。
3階の片隅に追い込まれた犯人は射殺されないことをいいことに、鉄パイプ爆弾を投げ、ライフルを撃ちとやりたい放題。殉職者2人ほか重軽傷多数という凄惨な現場になっていた。催涙ガスと放水で息苦しくなった犯人2人が雨戸を蹴破って 顔を出した際も配置されていた狙撃手は撃たなかった。後述の警察庁長官通達のためだった。

午後6時15分、牟田泰子さんが救出され、つぎつぎ逮捕されて引きずり出される連合赤軍の連中は(自殺防止の)さるぐつわをかまされていたが、どれもずぶぬれで悪鬼のような表情だった。218時間に及ぶ「あさま山荘事件」は解決 したがこれはまだ序の口で、14人も惨殺された驚愕のリンチ殺人が白日にさらされるのはこのあとのことだった。

あさま山荘事件の経過と最後に突入し犯人逮捕の瞬間まで(ここクリックでYouTubeへ)

治安の礎
治安の礎(いしじ)のレリーフ
あさま山荘事件は昭和47年(1972)2月19日から10日間。1500人の警察官が投入され、2人の犠牲者と多数の重軽傷者を出して終わった。。翌年、殉職した 警視庁の内田尚孝警視長と、高見繁光警視正(ともに死後2階級特進)の2人の冥福を祈り、治安への決意を表す記念碑が建立された。「治安の礎(いしじ)」 といい、碑の右横にはモンケーンで突入する瞬間が描かれた銅板のレリーフがはめ込まれている。

後年ゴルフに行くことが多かったプリンスホテルの「軽井沢72(セブンツー)ゴルフ場」のそばにあり、遠くに山荘が望める場所なので時々立ち寄ったことがある。 いまも「あさま山荘」はあるものの、河合楽器から別の企業に売却されている。


*追い詰められた連合赤軍*(メモ1)

警察もマスコミもこの派手なあさま山荘事件で一連の過激派犯罪は終結したと思った。だがこれは次なる驚愕の集団リンチ殺人事件への幕 開けにすぎなかった。あまりの残酷さゆえに過激派の闘争はよりどころを失い、一気に消滅へと向かう。その狂気への経過はどういうものだ ったのか。

赤軍派はよど号ハイジャック事件をおこした集団だが、1971年(昭和46年))12月ごろ、森恒夫(当時27、大阪市立大)が率いていた。 これと永田洋子(ひろこ、当時24、共立薬科大卒)が委員長の京浜安保共闘(警察の公安用語では日共革命左派)が合流して、計29人 (うち女性10人)の連合赤軍ができた。京浜安保共闘というのは日本共産党左派神奈川県委員会(日本共産党とは無関係)から分派した もので彼らの中では「革命左派」と呼ばれていた組織。

今ではあさま山荘事件もリンチ殺人事件も連合赤軍の犯行と簡単に一まとめにされるが、赤軍派と京浜安保共闘の非公然部門が合体して連 合赤軍を結成した事実はマスコミも警察も当初は掴んでいなかった。だから、銃砲店襲撃や銀行襲撃など彼らの犯行の手配も別々の事件と して扱われていたほどだ。過激派が連合したことはあさま山荘事件の直前にようやく察知できたことだった。

《つぎつぎ逮捕》

1972年(昭和47年)2月、京浜安保共闘のアジトが群馬県伊香保町の榛名山中にあることがつきとめられた。2月14日には群馬県警機動隊が動員され、アジト 捜索が開始された。この山小屋は暮れから正月にかけて建てられたらしく、若い男女9人ほどが出入りしていたようだがすでに小屋を 焼いて撤収していた。

続く2月16日、山梨・埼玉・長野の各県警が大規模な山狩りを実施した。午後になって群馬県の妙義山中の妙義湖畔の林道で、ぬかるみにはま って動けなくなったライトバンがトラックに引っ張り出してもらっているのを捜索中の署員が目撃し、職務質問した。3人の男は逃走したが、 残る2人の男女は車の中に閉じこもって、ラジオを聞いたり、食事したり、「インターナショナル」を歌い、女も尻を出して排泄するなど の行為をした。

このため署員は車を押して、500メートルほど先の人家まで運びアジトへの出入りを目撃した地元の人に確認させたところ、赤軍メンバーら しいことがわかった。とりあえず山小屋を作るのに国有林を切った容疑で同夜逮捕した。
男女は連合赤軍のメンバーで横浜国大生、杉崎ミサ子(当時24歳)と慶大生、奥沢修一(当時22歳)と判明した。


連行される森恒夫と永田洋子
2人の逮捕を伝える当日の新聞(2月17日朝日夕刊)
森恒夫の名前がまだ分からず「連れの男」になっている。

森恒夫と永田洋子
逮捕時の森恒夫と永田洋子
さらに翌2月17日午前9時半頃、逃げていた森恒夫(当時27歳)と永田洋子(当時26歳)が妙義湖近くの山の岩場にひそんでいるのが見つかり、 機動隊員10人が近づくと、森は匕首(あいくち)を抜いて「近寄ると殺すぞ」と怒鳴ったが、隊員が3発威嚇射撃をすると同時に取り押さえた。
その前にも2人は機動隊員と出くわしていた。このときは、「東京から来た俳優です。ロケに来ました。危ないのなら引き返します」と言 って逃れていたが、引き返さずにまたも洞窟に向かったため再度出くわしての逮捕劇だった。2人の身なりは汚く、垢まみれで匂いが漂っ ていたのも手がかりだった。

ちなみに、この時森恒夫の取り調べに当たったのが当時、警察庁警備局公安第一課長補佐で、のち政界に転出した亀井静香・ 衆議院議員。自民党元政調会長など要職にあったが郵政民営化に反対して国民新党に追われたものの有力な死刑廃止論者として知られる。

森、永田という最高幹部の逮捕で残る行動メンバーは9人になっていた。彼らはラジオで2人の逮捕を知り、これで総括がなくなると喜ぶ。し かし、19日には軽井沢駅で植垣康博(当時23歳)、青砥幹夫ら男女4人が逮捕された。これも異臭をはなつのが怪しまれた。

4人は午前8時前に軽井沢駅に着き、小諸までの切符を購入した。1人は待合室の売店(今で言うキヨスク)で新聞とタバコを買ったが、こ の時店員が不審に思って駅員に知らせた。いずれも若く、薄汚れたアノラックに長靴姿で、顔や手も泥で汚れていて臭ったためだ。長 野行きの汽車の中で通報を受けた警察官に職務質問され、ピース爆弾、鉄パイプ爆弾、猟銃の散弾、登山ナイフなどを持っていたため火薬 類取締法違反で現行犯逮捕された。

これで残り5人。これがあさま山荘事件を起こすことになる。

*あさま山荘事件*(メモ2)

追われた5人はトラックを運転手ごと奪って逃げたりするが、追い詰められて、1972年(昭和47年)2月19日午後3時半ごろ、軽井沢町大字発地(ほっち)字牛道514−181番地の河合楽器の保養所「あさま山荘」(レイクニュータウン別荘番号728号)に 玄関口から土足のまま入って、管理人夫人の牟田泰子さん(当時31歳)を人質にして3階の「いちょうの間」に篭城する。これが事件の発端だった。


5人は、坂口弘(25歳/東京水産大中退/京浜安保共闘)、坂東国男(25歳/京都大卒/赤軍派)、吉野雅邦(23歳/横浜国大中退/京浜安保共闘)、加藤倫教(19歳/東海高校卒/京浜安保共闘)、その弟のM(当時16歳/東山工業高校/京浜安保共闘)だった。 加藤倫教とその弟のMには兄(能敬)がいたが、榛名山ベースでリンチによって殺害されている。また、吉野雅邦の妻・金子みちよも迦葉山ベースでリンチにより殺害されている。

牟田夫妻
牟田夫妻
あさま山荘が選ばれたのは、冬にはほとんど空き家になる中で、人が住んでいると判断したから。事実、管理人で、泰子さんの夫でもある郁夫さん(当時35歳)は、6人の宿泊客を案内してスケート場に出かけていた。この6人分の食料も役だった。入ってみてわかったことだが、道路に面した山荘の玄関は実は3階にあり、その下に2階、1階があった。 標高1169.2メートルの崖に建てられた要塞のような建物で、守りやすいということで、立てこもることで意思統一した。 このとき、連合赤軍が所持していた武器は、これ以前に栃木県真岡(もおか)市の銃砲店を襲って手に入れた、ライフル1丁、拳銃1丁、上下2連銃3丁、5連銃1丁、爆弾数個、実包約700発。


余談だが、真岡の銃砲店襲撃の前には、ハードボイルド作家の大藪春彦邸襲撃も企画した。「彼なら銃器も持っている に違いない」と大藪邸に連合赤軍の先遣隊がファンをよそおって訪れたところ、応接間に通され、お茶も出してくれて歓待された。 この恩義で襲撃先から外したという。


後藤田
後藤田正晴長官
あさま山荘事件では、後藤田正晴警察庁長官は6項目からなる指示を出している。
(1)人質牟田泰子は必ず救出せよ。
(2)犯人は全員生け捕りにせよ。射殺すると殉教者になり今後も尾を引く。国が必ず公正な裁判により処罰するから殺すな。
(3)身代わり人質交換の要求には応じない。特に警察官の身代わりはたとえ本人が志願しても認めない。殺されるおそれあり。
(4)銃器、特に高性能ライフルの使用は警察庁許可事項とする。
(5)報道関係と良好な関係を保つように努めよ。
(6)警察官に犠牲者を出さないよう慎重に。


「カミソリ後藤田」の異名をとり、後年、政界に入り副総理までつとめた人だけに、30年後の今でも適切な指示に感心する。ライフルの使用に制限を加えたのは、 二年前の瀬戸内シージャック事件の影響がある。狙撃で解決した事件だが、胸を撃たれ、デッキにゆっくりくず折れていく犯人の姿がテレビで流れ、人権派が批判していた。 中には守られなかった(死者が出た)ものもあるが、マスコミとの報道協定が成立、どちらかといえば無秩序だった取材現場(犯人が報道で警察の動きを知ることが多かった)で、 一つのルールができていくのもこのときからである。連合赤軍側が発砲したのはライフルなど104発、これに対して警察側は威嚇射撃16発だけ。殉職者2人。警察側がいかに、耐えに耐えた事件かわかる。


今ならわからないが、息子がこんなことをして申し訳ないというのが、犯人の家族の気持ちだった。指紋から割り出されて、3日目から家族が到着する。警視庁のヘリコプターで来た吉野雅邦の両親と坂口弘の母親が警備車から呼びかけを行う。 「まあちゃん、聞こえますか。牟田さんを返しなさい。世の中のために自分を犠牲にするんじゃなかったの。普通の凶悪犯と違うところを見せて頂戴。武器を捨てて出て来て。それが、本当の勇気なのよ」(吉野の母、51歳)


「牟田さんの奥さん、申し訳ありません。代わりが欲しいなら私が行きますから」(坂口の母) 「昨日、ニクソンが中国に行ったのよ。社会は変わったのです。銃を捨てて出てきなさい。森さんたちも捕まったけど無傷だった。出てきなさい。牟田さんの奥さん、元気ですか、何とお詫びしてよいか・・・」(同)


前日の21日、ニクソン米大統領が北京を訪れ毛沢東と会談し、歴史的な米中国交正常化が実現した。時代のうねりが現場でも感じられた。 零下10数度の寒風の中、マイクをしっかり握りしめて涙にむせびながら切々と訴える2人の母親たち。機動隊と報道陣の目が潤んだ。 「お母さんを撃てますか」といった母親に、吉野はためらわずに1発撃った。母の乗った特型警備車に命中した。 指紋照合で坂東国男もいることが判明。坂東の母親(当時47歳)も現場に駆けつけた。 「中国とアメリカが握手したのよ。あんたたちが言っていたような時代が来たのよ。あんたたちの任務は終わったのよ。人を傷つけるのは愚かなことです。鉄砲撃つなら私を撃っておくれ。早く出てらっしゃい」

坂口
連行される坂口弘
2月28日(10日目、Xデー当日)午前10時から、警備部隊1635人(うち警視庁からの応援部隊548人)、特型警備車輛9輌、高圧放水車4輌、10トン・クレーン車1輌での総攻撃が始まった。ガス弾と放水で抵抗力をそぎ、鉄球で 壁を粉砕して、飛び込む作戦だったが、連合赤軍側もライフル、拳銃、鉄パイプ爆弾で抵抗した。結局2人の殉職者を出し、散弾銃で失明した隊員もでた。一進一退が夕方まで続いたが、午後6時20分、突入した機動隊員が5人を逮捕、泰子さんも救出された。
あれだけ中継を続けたテレビだったが日没で、猿ぐつわをはめられて出てくる犯人を写したのはハンディカメラを持っていたフジテレビ1社だけだった。


その日、坂東の父親(51)は旅館を経営していた滋賀県大津市の自宅で自殺した。息子の責任をとっての自裁だった。現在、旅館は廃屋となり、荒れるがままになっているそうだ。

機動隊側から回顧した番組がある。日本テレビの番組「あさま山荘事件」で、氷づけのなかで暖をとる機動隊、犯人の説得に当たる母親、ライフル発射の瞬間、第2機動隊の内田尚孝隊長 殉職の画面など。日本テレビの「佐々淳行スペシャル」で、3編に分かれている。


(佐々淳行スペシャルーその1)
(佐々淳行スペシャルーその2)
(佐々淳行スペシャルーその3)

*14人総括への道すじ*(メモ3)

発掘現場
4人が埋められていた現場。報道陣も息を呑んだ。
=昭和47年3月、群馬県の山中
(クリックで大きな画像に)
2月16日に妙義山中でライトバンの中に立てこもって逮捕されていた奥沢修一が、3月7日になって「大久保清事件よりもっと恐ろしいことなのです 」と震えながら、日本中がその残忍、非情さに驚愕したリンチ殺人を自供しはじめた。全国民はふたたびテレビと新聞に釘づけになった。

奥沢の自供から群馬県警は甘楽郡下仁田町の山中で、約1bほどの深さの穴に埋められた男性の遺体を発見した。赤軍メンバー・山田孝(元京大生  27歳)のものだった。遺体は手足が縛られており、死因は凍死。衣類はナイフで切り裂かれて全裸だった。それからの1週間で12人の遺体を 掘り起こすことになる。


群馬県警の穴堀り
「山岳ベース事件」で穴掘りする群馬県警の警察官ら
(1972年3月、群馬県倉渕村))
群馬県警は前年(昭和46年)、大久保清連続殺人事件で、多くの遺体を掘り出したばかりで「穴掘り県警」と呼ばれた。群馬県はその後も殺人事件 での発掘が多く、「関東の墓場」とまでいわれた。

あさま山荘事件があったころ、すでに逮捕されていた永田洋子(ながた・ひろこ)が弁護士に「山で大変な闘争があった」「森さんにあの事は言ってはならないと伝 えてくれ」と話していたが、内部闘争くらいにとらえていてこれほどのリンチ事件とは誰も考えなかった。


山田の遺体発掘を知らされた森恒夫と永田洋子は異様な反応を示したものの自供までには至らなかった。まもなく事件の前後に逮捕されたメンバー の自供などから大量のリンチ殺人の全容がわかってきた。榛名山に集結していたメンバー29人のうち、実に12人が死刑、または総括で死亡してい たのである。12人がすでに殺されていたという報告を受けた後藤田正晴・警察庁長官は「君、そんな馬鹿な・・・」と絶句したという。

山中で殺されたのは12人だが、京浜安保共闘はその前に2人を処刑しているので連合赤軍によるリンチ殺人の被害者は14人になる。「永田のやって ることは甘っちょろい革命ごっだ。おれはこの闘争の経験を小説に書くつもりだ」」と批判して向山茂徳(20)が女性メンバーの早岐やす子(21)を連れて脱 走した。永田洋子は向山のアパートへ5人のメンバーを差し向け、「処刑」を命じ、茨城県印旛沼付近に埋めた。

早岐やす子は長崎県佐世保市出身。県立佐世保高校卒業後、上京して日大看護学院に進学。日大紛争をきっかけに過激派に出入りするようになり、 京浜安保共闘に。伊藤和子、中村愛子とともに「日大看護学院の三人娘」と呼ばれた。71年6月に小袖ベースに入山するが、7月に名古屋市の交番 襲撃の下見に向かう途中の静岡県掛川市で、パンと牛乳を買うために車を停めたところ、突然運転席の小嶋和子を突き飛ばして脱走していた。永 田洋子が怒り女性兵士全員に「なんとしてでも見つけ出して来い」と命令した。


群馬県警の説明
山中で大勢のマスコミを前に連日のように
開かれる群馬県警の説明はまるで講義のよう。
(1972年3月12日、群馬県榛名の現場))
板橋区の友人のアパートにいるところをメンバーに突きとめられ、やってきた小嶋和子の「これぐらいのこと、詫びればすむと思うわ。みんな許 してくれるわよ。向山さんも戻ってきたのよ」という言葉を信用してついていった。仲間に「もうみんなにはついて行けない」ときっぱり言った ため殴られ失神した。小嶋和子の運転するクルマで運ばれた印旛沼のほとりで、男たちが穴を掘り始めたが、やす子がいつの間にか土手の方へ逃 げ出した。男達はすぐに追いつき、毛布をかぶせて暴行を加え、ビニール紐で首を絞めて殺害し、全裸にして埋めた。

向山茂徳(20)は長野県辰野市出身で、諏訪清陵高校から新潟大学に進もうとしたが失敗、上京して早稲田ゼミナールに通った。2浪し新聞配達 店で働きながら勉強をしていたときに京浜安保共闘にオルグされた。小説家志望で、山岳ベースでの訓練などにはあまり興味はなかったらしい。 71年6月に小袖ベースに入山するが、4日ほどで下山している。

脱走したものの浪人中の身でそれほど危険を感じていなかったようですぐ居場所を突き止められ、8月10日殴られ血まみれで失神する。やはり小 嶋和子の運転で印旛沼に連れていかれたが、途中で意識を取り戻したため、車内で首を絞められ殺害され、やす子の場所から少し離れたところ に埋められた。

総括の名の下に山中で殺されたのは次の12人。

死亡メンバー


死亡日

メンバー

年齢 学籍

旧所属

総括事由

1971年12月31日  尾崎充男  22歳 東京水産大学  京浜安保  12.18の交番襲撃で積極的でなかった
1972年1月1日  進藤隆三郎  21歳 秋田高卒  赤軍派  戦士として他より遅れている
1972年1月1日  小嶋和子  22歳 市邨学園短期大学  京浜安保  加藤能敬とのキスを永田に見つかる
1972年1月4日  加藤能敬  22歳 和光大学  京浜安保  革命戦士となるべき場所で小嶋と接吻した
1972年1月7日  遠山美枝子  25歳 明治大学  赤軍派  髪を伸ばし化粧している。革命戦士に不必要だ。
1972年1月9日  行方正時  25歳 岡山大学  赤軍派  1/3の会議で不適切発言
1972年1月17日  寺岡恒一  24歳 横浜国立大学  京浜安保  「このままじゃ森と永田に皆殺されるぞ」と言った
1972年1月19日  山崎順  21歳 早稲田大学  赤軍派  寺岡の死刑に不参加だった
1972年1月30日  山本順一   28歳 北九州大学卒  京浜安保  妻、山本保子への態度が偉そうで、革命戦士の意識が低い。
1972年1月30日  大槻節子  23歳 横浜国立大学  京浜安保  60年安保の議論で「敗北」の言葉を多用したのと永田の嫉妬
1972年2月4日  金子みちよ  24歳 横浜国立大学  京浜安保  「同志とやったことがあるだろう」と永田に責められ
1972年2月12日  山田孝  27歳 京都大学  赤軍派  「組織を脱退したい」と申し出たのと薪拾いが遅い。


永田洋子
永田洋子(ながた・ひろこ)
射撃訓練で的をはずし「弾が外れてそれが原因で敗北するかもしれないのよ。革命戦士としての自覚が足りない」と自己批判を迫られるものもい た。「他の者の総括中に余計なことを口走った」(尾崎)、「妻への態度が偉そうだ。革命意識が低い」(山本)のも総括対象になった。寺岡は親友の坂口弘に「総括っておかしいと思わんか。このままじゃ俺たち全員森と永田に殺されるぞ」といったが、坂口が2人に告げ口、 ナイフを足に突き立てられるなどすさまじいリンチを受ける。森が「最後になにか言うことないか」と言うと、「おれは最初からこの風船ババアの永田が大嫌いだったんや。 お前らがリーダーなんてちゃんちゃらおかしいわい」と叫んで殺されていった。金子みちよは妊娠8ヶ月だったが「同志と やった(sex)ことがあるだろう。物への執着が強すぎる」と4日間も外に吊るされ、お腹の子とともに死んだ。

「たくさん食べすぎる」「美容院で髪をカットした」「隠れて銭湯に入った」「パンタロンをはいて、おしゃれをした」「寝そべったまま、”ちり紙を取ってくれ” と言った」…なんでも総括の理由にされた。多くは永田洋子の異常な嫉妬心、こじつけの革命論による犠牲者といえる。

たとえば永田と坂口弘は夫婦でこのころ結婚して2年余りたっていた。 資金調達のため東京に潜伏中の森と永田に、脱走者が出たことを報告しに行った坂口は、いきなり「私は森さんが好きになった。あなたと別 れて森さんと結婚する。これが共産主義化の観点から正しいことだと思う」と、一方的に離婚を申し渡されている。有無を言わさぬ態度で、坂口 はしかたなく「分かった」と答え、妙義山アジトに戻っている。

それにしても、連合赤軍内でこうした理屈も何も理解を超える残虐・非道な同志へのリンチ殺人に発展したのはなぜなのか。

確かに、はじめは革命を目指すための武闘派集団だった。その連合赤軍内で、いつしか永田、森の二人が独裁的支配をするようになり、2人の気 に入らない者は、規律違反、日和見、反共産主義的などの理由で「総括」のリンチにかけられ、殴られ、蹴られ、縛られた上、極寒の中に放置さ れて凍死させられた。

脱走した者もいたが、彼らが逮捕されると、警察に追及されてアジトの場所が知られることになるため、ついには脱走するおそれのある者まで「 総括」の対象となった。この“人民裁判”は7人の中央執行委員会によって行われた。中央執行委員長・森恒夫、副委員長・永田洋子、書記長・ 坂口弘、中央執行委員には、坂東国男、吉野雅邦、寺岡恒一、山田孝の4人が名を連ねていた。といっても、実際は、委員長の森と副委員長の永 田が“判決”を下し、他の5人はそれに同調するだけだった。拒否したりビビったりすれば、中央執行委員であっても「総括」された。実際、寺岡 と山田が“死刑”に処せられている。

「総括」と呼ばれたリンチには「芟除(さんじょ)」と「死刑」があった。「芟除」とは、刈り除くという意味で革命戦士になれなかった者に対し、全員で 顔や腹を殴りつけ1歩も歩けない状態にしアジトの外の柱に縛り付け食事を与えないままに放置して寒さと飢えで死なせた。「死刑」は文字通り、 罰してすぐに殺してしまうことである。榛名山ベースでは、12月31日から翌年1972年(昭和47年)1月17日にかけ、8人が殺害された。

それにしてもすさまじい殺され方だった。赤黒く膨れ上がった両頬、突き出した前歯、首にヒモ跡、男女の区別さえ分からなくなっている者、苦 しんで自ら舌をかんでいる者、肋骨が6本折れている者、内臓が破裂している者など、まさに凄惨を極めていた。また、女の遺体はどれも髪の毛 を刈られていた。

《犠牲者それぞれの生い立ちと総括理由》

最初の犠牲者、尾崎充男(おざき・みちお)は岡山県児島市(現・倉敷市)出身。県立児島高校から東京水産大に進学した。丹沢ベー スで公然活動のメンバーに不用意に銃の隠し場所を教えたことと総括の際坂口と殴り合い、敗北した後「ちり紙をとってくれ」と言ったことを永 田に問題視され、縛られ暴行を受けた。苦しさから死ぬ間際に舌を半分噛み切っていたが死因はアジトの外の柱に体を縛られ食事も与えられない まま放置されたことによる凍死。

進藤隆三郎は福島県郡山市出身。父親は建設会社の役員で、幼い頃は東北地方を転々とし、秋田高校を卒業後、東京・御茶ノ水のフランス語専修 の日仏学院に入学した。その後、東大闘争に関わり赤軍派に加わりM作戦にも参加。ハンサムで、女性をオルグする役割だったが横浜のドヤ街で 同棲していた元芸者の女が逮捕され、メンバーのことを喋ってしまったことや、組織と一定の距離を置いていたことで、森から「遅れている」と 見られ総括を受けた。

小嶋和子は愛知県知多郡八幡町出身。市邨学園短大卒業。日精工業に勤務していて同僚で短大の先輩である寺林真喜江にオルグされ、当時高 校生だった妹と「中京安保共闘」に加わる。組織では「小嶋姉妹」として知られた。運転免許を持っていたので運転手役を務めることも多かった。 印旛沼の同志殺しにも関与。71年7月、塩山ベースに入山。恋人だった加藤能敬とキスしているところを永田に見られ、怒りを買う。 「永田さん、いやになっちゃう。加藤が、寝ていると変なことするんだもん」と訴え出たが、永田に「あんたにも責任がある」と言われ、他の全員に 殴る蹴るなどの暴行を受け、小屋の外に放置され1月1日凍死した(享年22)。

加藤能敬(かとう・よしたか)は愛知県刈谷市出身。東海高校から一浪して和光大学文学部入学、京浜安保共闘へ。あさま山荘事件で逮捕され た加藤兄弟(倫教、M)は彼の弟達。通称「加藤三兄弟」。父親は国語教師であり、財産持ちだが、倹約家で質素な生活をこころがけ ていたが右翼的思想の持ち主で兄弟3人が反発した。小嶋和子とキスしているところを永田に見られ、最初に総括を求められた。森や永田は弟達にも兄を殴らせた。1月4日に死亡(享年22)。 2人は涙を頬に流し泣きじゃくりながら体を震わせて殴った。それは朝まで続けられ、気づいたときには死んでいた。事件を知った父親は3月3日付 で、勤務先の小学校を依願退職し、「息子が軽井沢にいるようなら、妻と刺し違えて死ぬ」と話していたという。

遠山美枝子は横浜市生まれ。県立緑ヶ丘高校から明大二部(法学部)に入学。労組幹部だった父は早くに自殺していたため学校へはキリンビール 本社で働きながら通った。在学中は重信房子と仲良くなり、揃ってブントに入る。重信の恋人に高原浩之という男がいたが、重信が田宮高麿と親 密になると、遠山が高原と付き合うようになった。すらりとした美人で赤軍派では女王のようにふるまっていたことから永田に目をつけられる。 髪を伸ばしていること、鏡を見ていたこと、化粧をしていたことなどを永田に問題とされ総括された。
行方正時(なめかた・まさとき)は滋賀県大津市出身。進学校である県立膳所高校から岡山大学理学部に進む。学園紛争の時には岡山大のリーダ ー格にかつぎあげられ、ベ平連デモや東大・安田講堂事件にも関わり逮捕される。3ヶ月後、釈放された行方は膳所高の先輩である坂東について 赤軍派中央軍に参加した。時計商の息子という坊ちゃん育ちをしたため、森に目をつけられたとされる。
寺岡恒一は東京都文京区出身。私立芝高校から横浜国立大学工学部入学。この大学は新左翼系の「東のメッカ」と言われており、赤軍派にここ の学生が多く69年の革命左派結成時から参加。杉崎ミサ子にしつこくつきまとっていたことや、「森や永田がこけたら、俺がリーダーになる。俺は 初めから風船ババア(永田)が大嫌いだったんだ。お前らがリーダーなんてちゃんちゃらおかしいや!」と言ったため総括を求められた。
順位6位の中央執行委員であったが、「こんな調子ではいつ自分がやられるか分からない」と以前から親しくしていた書記長でもある坂口弘なら分か ってくれるだろうとつい口をすべらせたのが、そのまま、森と永田の耳に入り、ナイフやアイスピックで刺され、最後には首を締められるとい う凄まじい死刑を執行された。

山崎順は東京都渋谷区出身。幼い頃、父親の仕事の関係でドイツへ。吉野と同じ都立日比谷高校から早稲田大学政経学部に入学。東大を目指して いたが、その年は入試が中止となっていた。その頃から政治運動に興味を示し始め、中核派としての活動を開始した。その後、赤軍派に移り、坂 東の直系の弟子となった。銀行襲撃(M作戦)にも積極的に加わる。寺岡処刑の時に加わらなかったことや、森から「女性をめぐるトラブルが絶えず、 組織から脱落しようとした」とされ、死刑を宣告された。肋骨6本を折られるなどの暴行を受けた後、アイスピックで数回刺され、首を絞められ て殺害された。

山本順一は愛知県岡崎市生まれ。県立岡崎北高校から北九州大学外国語学部へ。卒業後は名古屋市の日中友好商社に勤務した。保子(頼良ちゃん の母親、脱走して無事)と結婚。12月28日に親子3人で榛名山入りした。事件当時、生後2ヶ月だった長女は、その後愛知県の父親が引き取り 名前を変えて育てた。

大槻節子は神奈川県横須賀市出身。県立大津高校から横浜国立大学教育学部心理科入学。その後「婦人解放同盟」「青年共産同盟」に加入。労働 運動を目指してキャノンに入社後、革命左派組織部として活動。京浜安保共闘結成直後の米ソ大使館、羽田襲撃の際には都内各所で火炎瓶騒ぎを 起こす役をつとめ逮捕された。かなりの美人だったが、これが永田の嫉妬を受け暴行を受け、髪を刈られて殺された。

金子みちよは横浜市鶴見区出身。県立鶴見高校から横浜国立大学教育学部社会学科に進学。混声合唱団で吉野雅邦(あさま山荘立てこもり) と出会い結婚。山では「同志と肉体関係がある、物質欲が強い」などの理由で、妊娠8か月だったが手足を縛られて交代で殴られ、外の床下の 柱に縛られて凍死した。胎児をかばうようにお腹をおさえて死んでいた。胃の中は空っぽだった。
母親は娘の変わり果てた姿をみたとき、「恐ろしーい、ああ、どうしてこんなことになっちゃたの!・・・恐ろしーいッ!」と繰り返すだけだった。

山田孝は東京・大森生まれ。一家は山口県に移り、県立西高校卒業後、京大法学部に進学。その後大学院に進み政治学を専攻していた。赤軍派の 母体となった関西ブントの活動家、また京都府学連でも活動していた。ブントでは理論家として知られ、塩見孝也議長らの側近だったと言われ る。70年5月に結婚し、71年11月に子どもが誕生したが連合赤軍とともに山中へ。やがて森が実権を握るようになるが、「一国革命論」の森とは うまく噛み合うことはなく、人民裁判にかけられ死亡。最後の犠牲者。

◇ ◇ ◇

一人が逮捕されると自供でアジトが判明するので、転々と居場所を変えていた。同県沼田市の通称迦葉山(かしょうざん)ベース、碓氷郡松井田 町の妙義山ベース・・・行く先々で死体が増えた。「妻に対する態度がブルジョア的だ」という理由で殺されたのもいる。

メンバーが逮捕され、遺体が発掘されると逃亡していた連合赤軍メンバーで自首するものが出てきた。10日に名古屋・中村署に出頭してきた山本 順一の妻・保子もその一人でこのままではいつ殺されるか分からないという恐怖から長女・頼良ちゃん(当時3ヶ月)を山中に残したまま脱走した。

パレスチナの女闘士、ライラ・ハリドにちなんで命名したものだが、てっきり永田らに殺されたと思っていたようで、頼良ちゃんの面倒を見ていた看護大出身の中村愛子も脱走して千葉・市川署に出頭して子ども が無事保護されていることがわかると号泣したという。

このほか岩田平治(当時22歳)、前沢虎義(当時24歳)も各地で逮捕され、リンチ事件に関わったとされる17人が全員逮捕された。


森恒夫
前橋署に連行時の森恒夫
(1972年2月17日))
連合赤軍最高幹部の森恒夫は7月になって東京拘置所で自己批判書を書いた。
<私自身がどうして、あのときああいう風に行動したんだろう、としばしば思い返さざるを得ない。一種の “狂気” だと思っている。私 は自分が狂気の世界にいたことは事実だと思う>
翌年(昭和48年)1月1日、森恒夫は初公判を前に東京拘置所で首吊り自殺した。29歳だった。

1975年(昭和50年)8月4日、坂東国男は日本赤軍によるクアラルンプールのアメリカ大使館占拠事件の超法規的措置により海外へ出て日本赤軍と 合流、今も逃亡中だ。坂口弘の名も釈放要求の名簿にあったが、これに応じず、国際電話に対して、「君たちは間違っている。私は出ていかない 」と拒否、こののち死刑判決を受け、1993年に最高裁は永田洋子・坂口弘の上告を棄却、死刑が確定している。

総括で妊娠8ヶ月だった恋人の殺害に直面、あさま山荘事件では5人のメンバーとともに立てこもった吉野雅邦(よしの・まさひろ)は無期懲 役が確定し、千葉刑務所で服役中。

落葉焚く匂いに友をリンチせし小屋の炊事の匂いを想う                   (東京都)坂口 弘

1992年12月13日の朝日歌壇に佐々木幸綱撰で載った歌だが、獄中の坂口弘の作だ。

刺さざりし奴が居りぬと叫ぶ声吾のことかと立ち竦(すく)みおり      (朝日新聞社刊『坂口弘歌稿』)

という短歌」もある。

永田洋子が長い完黙(完全黙秘)ののち、突然、全容を話し始めたきっかけが、まんじゅうだったことが当時の取調べ担当検事のエッセーに出て いる。

「ある時、まんじゅう二個の差し入れがあった。永田容疑者は横を向いたまま、おいしそうに一つ食べ終えると、一言も話さないまま、残りの 一つを私の方へ押してよこす。『食べていいのか』と聞くと、横を向いたままうなずいた。彼女はそうすることで気持ちが変わったことを表した のだと思った。『では、遠慮なく』と食べ、しばらく二人でお茶を飲んだ。翌日から前を向き、供述を始めた。『殺してしまった人たちに対する 責任を果たす』という姿勢を貫き、順番に、きちんと、徹底的に話した」(後に検事総長をつとめた松尾邦弘氏)=2006年9月20日日経新聞夕刊「こころの玉手箱」。
永田洋子39年後の獄死

永田洋子
警視庁移送時の永田洋子(1972年5月))
死刑判決が確定していた永田洋子は2011年2月5日午後10時6分、東京・小菅の東京拘置所で病気のため死去した。65歳だった。法務検察関係者によると、死 因は脳腫瘍による多臓器不全とみられる。1984年に脳腫瘍と診断され2度の手術を受けた。2006年には脳萎縮による意識障害で寝たきりとなり、2008年には一時、危 篤状態になり家族が呼び寄せられたほどだったが持ち直した。しかし、面会者が訪れても相手が判別できない状態で視力も失い、前年9月からは誤嚥性肺炎を起こし て治療中だった。66歳の誕生日まで3日残しての死亡。

永田は昭和20年2月8日東京都文京区生まれ。父は電機会社員、母は看護師。私立調布学園中学、高校を出て1963年、共立薬科大進学後、ベトナム反戦デモや集会に参加 し、共産主義者同盟マルクス・レーニン主義派の学生組織(社学同ML派)に加盟、卒業後は就職し大学の薬局を転々とした。

次第に政治活動にのめり込み、日本共産党を除名された神奈川県の親中国派が合同した日本共産党左派神奈川県委員会立ち上げ時よりのメンバーとなる。この革命左 派(京浜安保共闘)では、石井功子、川島陽子とともに「京浜安保のおんな3戦士」と呼ばれた。


永田洋子
連合赤軍を率いた頃の永田洋子
1971年より共産主義者同盟赤軍派との連携を指導し、7月には両派の合同による「連合赤軍」(当初は「統一赤軍」)を結成し、副委員長に就任し、委員長の森恒夫 に次ぐナンバー2となった。ゲリラ闘争を掲げた連合赤軍は、「革命戦士」になるための軍事訓練を実践したが、この訓練の過程で、永田らは逃げ出したメンバー 2人を殺害、仲間に「総括」と称する自己批判を迫り、殴打や手足を縛って厳寒の野外に放置するなどのリンチを繰り返し、山岳ベース事件では同志12名がリンチ 殺害された。


永田逮捕
逮捕時の永田洋子。
(暴れたため手錠のほか
足錠までつけられている)
1972年2月17日、森と共に一度下山した後活動資金を持ってキャンプに戻ろうとしたところ、山狩り中の警官隊に発見され、激しく抵抗をした末、揃って逮捕された。

「同志殺害の原因は、当時の誤った革命理論に求められるべき」。昭和57年(1982)3月の1審東京地裁での最終意見陳述で永田はそう主張したが、判決では一顧だにされなかった。

「(事件が)組織防衛とか路線の誤りなど革命運動自体に由来するごとく考えるのは、事柄の本質を見誤ったというしかない。あくまで被告人永田の個人的資質の欠 陥と森の器量不足に大きく帰因する。永田は自己顕示欲が旺盛で、感情的、攻撃的な性格とともに強い猜疑心、嫉妬心を有し、これに女性特有の執拗さ、底意地の 悪さ、冷酷な加虐趣味が加わり、その資質に幾多の問題を蔵していた」

「女性特有の…」というくだりが女性団体から非難されたが、事件の原因を永田の資質と断じたものだった。。

公判中から事件を「総括」するためとして、手記「十六の墓標」を執筆、この本の序文を書いてもらったことを契機に、作家の瀬戸内寂聴さんと文通。瀬戸内さ んは控訴審に証人として出廷し、「被害者の一日一日を思い出し、責任を痛感している」「生きて事件の意味を考えさせてほしい」と死刑回避を訴えた。

永田獄死を聞いた瀬戸内寂聴さん(88)は「死刑ではなく、病死と聞いてほっとした。とても幼かった。何を食べたかを聞くと、喜んで朝からの食事を書き連ね、 漫画を写して送ってくることもあった。なぜ普通の女の子がそうなってしまったのか。世の中の矛盾など私たちにも責任があると感じた」


永田
怖い顔写真ばかり掲載されるが、ごく普通の女性の
一面も。第6回公判(1973年2月)時の永田洋子
連合赤軍の元メンバーで、現在は自然保護関係のNPO理事を務める愛知県刈谷市の加藤倫教(みちのり)さん(58)は19歳の時、あさま山荘事件で逮捕され、 懲役13年の刑に服した。山岳アジトでは永田に手をつかまれ、3歳年上の兄を殴るように命じられ、泣きながら殴りつけた(兄は死亡)。

「死亡に感想はない。71年夏、神奈川県内の山中のアジトで初めて会った。第一印象はニコニコしていて、優しそうな年上の女性。やがて自分と意見が食い違う人 には、攻撃的になる一面が見えるようになった。自身の活動を正当化したままだったことが残念で、憤りに近い。武力革命という大義名分を利用し邪魔になるメン バーを追い詰め、殺していった自己崩壊だった」と振り返る。裁判では共に被告席に座ったが、反省の色は見えなかったという。

赤軍派出身で93年3月まで獄中で文通していた植垣康博さん(62)=静岡市、下に近況紹介記事=は事件で懲役20年の刑を受け98年に出所した。文通では「主体的に考えられな い人間」と自己評価していたといい「男が代わる度にその男に好かれるよう振る舞う面があった。連赤時代は森(恒夫)に影響された面が大きかった」と話した。

2008年公開の映画「実録・連合赤軍 あさま山荘への道程」の若松孝二監督は「事件で学生運動もすべてだめになった。そういうことを総括せず、森に責任転嫁し たまま死んでいった」と語った。

あさま山荘事件で現場で指揮に当たった佐々淳行元内閣安全保障室長は「判決が確定して20年近くたつのに刑が執行されない日本の刑事政策はおかしい。凶悪犯ほど早く 執行すべきなのに、イデオロギー的な犯罪には手がつけられず、永田死刑囚は手術も受け、税金で生きるようにさせてきた。事件で殉職した警察官のことは全く考えられていない」 と語った。


*事件、その後*(メモ4)


あさま山荘事件とそれに続く連合赤軍リンチ殺人事件に関わった者の多くは判決が確定し獄中にいる。そうしたなか、事件から40年たち、服役 を終え社会に出ている者もいる。


植垣康博
刑期を終え静岡市でバーを
経営している植垣康博さん
その一人、多くの殺人に関わり懲役20年の判決を受けた植垣康博(2009年で60歳)の近況が紹介されている。2009年2月7日の産経新聞 企画、【さらば革命的世代】ですっかり頭も禿げ上がり、中国人の女性との間に子供をもうけ静岡市内でスナックを経営している様子が伝えられている。

「実行犯が語る37年目の連合赤軍 植垣康博さん」という記事で、ネットにも掲載されていたが、サーバーから削除されたようなので下記に再録しておいた。

植垣康博は1949年、静岡県金谷町生まれ。父親は農場長で、町の有力者だった。弘前大学理学部物理学科に入学。赤軍派として坂東隊に入り 、山崎順らと共に「M作戦」と呼ばれる一連の金融機関強盗を行った。連合赤軍となると、兵士のリーダー的存在になり山岳ベース事件にも加担 し、榛名ベースの会議の席で相思相愛を表明した恋人の死に直面している。1977年9月に日本赤軍がダッカ日航機ハイジャック事件を起こした とき、釈放要求メンバーに植垣の名前もあったが、「日本に残って連合赤軍問題を考えなければならない」として要求を拒否した。

逮捕時の植垣康博
逮捕当時
1972年2月19日、食料などを買出しに行った際、軽井沢駅で逮捕された。きっかけはものすごい臭い。軽井沢駅の売店でタバコを買っ た際に中年女性売店員が不審に思い、軽井沢警察署の署員に通報した。長野行きの普通列車で職務質問を受けたとき「長野市内幸町の友人宅へ 行く」と言ったが軽井沢署員に「そんな地名はないぞ」と言われ大立ち回りを演じた末、逮捕された。

一審、二審と懲役20年を言い渡され上告したが、1993年2月19日、最高裁も上告棄却した。1998年(平成10年)10月6日に出所。以下は新聞記事から の近況。

◇ ◇ ◇
【産経掲載の記事】「実行犯が語る37年目の連合赤軍 植垣康博さん」


静岡市役所近くの小さな雑居ビルにスナック「バロン」はあった。スキンヘッドの店主、植垣康博さん(60)は37年前の連合赤軍事件で、1 2人が殺害されたリンチ事件にかかわり、懲役20年の実刑判決を受けた。出所したのは平成10年10月。バロンは当時の彼のあだ名だ。取 材について、「私は事件から逃げることはできませんから」と言い、半生を語り始めた。

子供のころは鉱物や天文が好きな理系少年。鉱山の多い東北の土地柄にひかれて昭和42年、弘前大学理学部に入った。京大大学院への進学希望 があったが、「物理学は核や原子力に協力してもよいのか」と全共闘に加わった。弘前大全共闘には「機動戦士ガンダム」のキャラクターデザイ ンなどで知られる漫画家、安彦良和さん(61)もいた。このころまで植垣さんらは一般的なノンセクト活動家だった。

理系の知識をかわれて「爆弾をつくってほしい」と頼まれたのが赤軍派とかかわるきっかけだった。「僕なんかマルクスもろくに知らない。むし ろ右翼的な発想で『義を見てせざるは勇なきなり』という思いがあった」。上京して参加したデモで逮捕。拘置所で赤軍派の文書を読むうちに「 これからはゲリラ戦」と考えるようになった。赤軍派兵士として、銀行を襲撃して闘争資金を調達する「M作戦」などに加わった。

山中に集まったのは両派の29人。ささいなことで不協和音が生じた。革左(京浜安保共闘)のメンバーが水筒を持っていなかったことを赤軍が 「自覚が足りない」と指摘。逆に革左は赤軍の女性の化粧や指輪を問題視した。批判の矛先が次々とメンバーに向けられるなか、同志をリンチす ることで「共産主義化を進める」という理屈が生み出された。「血」の総括の始まりだった。

すでに3人が惨殺されてから合流した植垣さんは旧知の幹部、坂東国男容疑者(62)=後の超法規的措置で国外逃亡中=に「こんなことやっ ていいんですか」と言ったが「組織のためだ」といわれた。彼らにとって上の命令は絶対だった。その光景は凄惨そのものだった。「総括が 足りない」同志をみなで殴り、柱に縛ってさらに殴り続けた。リンチ死した埋葬前の遺体を「敗北死だ」とさらに殴ったこともあった。

植垣さんは会議が始まると、幹部から目をつけられないよう端に座るようにしたが、リンチが始まると前に出た。「よごれ仕事は僕のような兵士 がすべきとも思っていた」。

つい先ほどまで親しかった仲間を殴るとき、一体何を考えていたのか。植垣さんは少し間をおいてこう話した。「申し訳ない、という気持ち、で すよね。殴ったあとで柱に縛りつけながら小声で『すまない』と言ってみたり…」。一方で「問題を起こしたのだから殺されても仕方ない」とい う感覚もあったという。

次々と仲間たちが殺されるなか、植垣さんはなぜ、リンチのターゲットにならなかったのか。「運が良かったとしか言えないけど、僕は手先が器 用で大工仕事ができたからだと思う。幹部たちも僕がいないと小屋も作れない。技術が身を助けたのかもしれない」

映画やドキュメントなどでいまなお注目される連合赤軍。平成20年に公開された映画「実録・連合赤軍」で連赤側の視線で事件を描いた若松孝 二監督(72)は「集団があると権力者が生まれ、権力を握った人間はそれを守ろうと内向きに攻撃を始める。相撲部屋でリンチが起きたよう に、どんな組織にも起こりうることだと描きたかった」。

植垣さんも「周囲がより厳しい状態に追い込むことで本人が成長できるという発想は、日本的なものかもしれない。社員教育や体育会にもそう した風潮はある。あのときは制裁ではなく、教育のためという考え方に陥っていた」と話す。

平成17年、「バロン」のアルバイトをしていた33歳年下の中国人留学生、李紅梅(リ・ホンメイ)さん(27)と結婚、 今は3歳の息子「龍一」君と3人で暮らす(記事では妻子の名前は出ていない)。口の悪い連中には“これこそまさに犯罪だ”とか、“中国だったら、死刑じゃないか”なんてさんざ んイビられたそうだ。

「彼女は中国・黒竜江省出身で、語学留学生として来日し、前の店の2階に友達と下宿してた。そのうちにウチの店でバイトを始め、日々顔を合 わせてたらだんだんとふたりの距離が縮まって……。彼女に“子供ができた”って告げられたときは、さすがに心臓が止まりそうになった。こ っちは一生独身だと思ってたし、彼女が“産む”といってくれたときは、本当にうれしかったよ。ただ、彼女は大学進学を視野に入れて留学し てきたのに、パーにしてしまった。それについては申し訳ないと思ってる」

「子どもの名前は中国名で『ロンイー』と読めるいい名前。これなら向こうの親族も満足してくれるんじゃないの。今の願いは龍一が元気で育って くれることだけ。ボクが寄り道した26年8ヶ月分まで龍一には生きてガンバッて欲しいね」

取材を受けたことについて「僕は当時、幹部じゃなくて、ただの兵士。だから連合赤軍の代表みたいな顔をして話すのはおかしい、と言われるこ ともある。でも殺してしまった仲間への義理がある。事件を風化させないようにするのが僕の仕事と思っています」。

リンチ死に追いやった仲間の遺族からは「下手な反省はしないでくれ」といわれた。「安易な謝罪をされたらたまらない。一生かけて考えてく れ」という意味だと受け止めている。
http://home.r07.itscom.net/miyazaki/bunya/#asama
http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/287.html#c109

[近代史3] 若松孝二 実録・連合赤軍 あさま山荘への道程 (2007年) _ 1970年代はこういう時代だった 中川隆
110. 中川隆[-11388] koaQ7Jey 2019年3月18日 19:34:58 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[612]

26 - 赤軍派 よど号 ハイジャック事件 - 1970 - YouTube 動画
https://www.youtube.com/watch?v=Q6kpyOy14Jo&fs=1&hl=ja%5FJP&color1=0xe1600f&color2=0xfebd01


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よど号事件から30年か
http://home.r07.itscom.net/miyazaki/bunya/#asama


21世紀を直前にして、2000年11月8日、日本赤軍の最高指導者、重信房子(55)が大阪で逮捕された。長い間、全国の交番に貼り出されていた手配書でおなじみの人物だ。 それより先の6月末、よど号事件の田中義三が逃亡先のタイから送還されてきた。


田中義三の51歳という年齢を見て考えさせられた。当時21歳の確か大学生も、いまや頭ははげて見るからに中年。赤軍の女王だった重信房子だって、Vサインで連行される写真は 手配の顔写真とはまるで違っていて、そのへんのおばさんの群れにまぎれたらまずわかるまい。年頃の娘もいるというから当たり前だが、テレビをみながら別な感慨が沸いた。


彼らが30年ぶりの帰国というからには、私ども夫婦も結婚30周年になる。銀婚式が25周年だから、真珠婚式か何かにあたるわけだが気がついたのが6月では、 遅すぎてどうすることもできなかった。


昭和45年4月4日、大阪で挙式したのだが、私たちには結婚式の写真がない。なにせ突然のよど号事件。発生は少し前で、取材先の新幹線の岐阜羽島の駅のテレビで知った。 それまで聞いたこともない事件のパターンで、ハイジャックという言葉もこのとき初めて使われたのだが、よりによって私たちの結婚式とぶつかったのだ。

安田講堂事件
安田講堂めぐる攻防の
さなかに東京へ異動したのだが。
経緯を説明しておく必要があろう。昭和44年(1969)2月25日に夕刊フジが東京で創刊された。この年は日本人が高揚した気分にあった。日本のGNP(国民総 生産)が世界第2位になり、東名高速が全線開通し、「もはや戦後ではない」を合言葉に世界に向け発展しようとしていた。さらにアポロ11号が月面着陸を果たして世界から宇宙に目が向いていた。 一方では1月に東大安田講堂が水攻めで陥落、70年安保は過激派の分裂もあり挫折しつつあった。ベトナム戦争も泥沼の様相を呈していた。内外ともに騒 然とした雰囲気だった。

夕刊フジの創刊号
夕刊フジの創刊号
そんな時期に日本で最初のタブロイド新聞が創刊された。それまで産経新聞大阪本社の社会部にいて西成、阿倍野、住吉など大阪南部の7警察署を担当する「南回り」というサツ記者をしていた。天王寺動物園内にある記者クラブに寝っころがっていたとき、デスクに呼び出され「ちょっと2年ほどお江戸に行ってんか」と辞令一本で東京に異動して戦列に加わった。人事で新聞社の約束ほどあてにならないのはないのだが、2年どころかそれから30年以上東京に居つくとは思わなかった。

夕刊フジはまだ大阪で発行されていなかったので、身は東京に置いたまま岐阜羽島まで取材に行ったり、京都に来日したイギリスのアン王女を追っかけたりしていた。家内は芦屋にいた。一年生記者だから文字通り新幹線で東奔西走 していた。私の実家は大阪、家内の実家も関西、勤め先は東京、学生時代の友人の多くは札幌、そんな地縁から挙式は大阪になり、司会者と本人、それ に招待者の一部の上司や大学や仕事の仲間は東京から大阪に移動するという必要があった。このころは電話事情も悪く、新聞社は専用電話を引いていたが、一般家庭では、東西間でも申し込 んでつながるまでかなり時間がかかった。だから、たいした打ち合わせもできずもともとぶっつけ本番に近い結婚式ではあった。

前日夜遅く大阪南郊の実家に戻った。ニュースに素人の家人は、ニュースと我が家の行事とが関係するなど考えもしない。よど号の話など露ほどもなく、 九州・唐津や東北・米沢などから遠路駆けつけた親戚との昔話ばかり。家内の実家にもここ2,3日は電話もしていなかったが、どうせホテルでの着付けや髪結いのことでこちらの理解を超えている。子供じゃあるまいし、時間になれば勝手にホテルに来るだろう、と互いに連絡もしなかった。
事件発生から4日たっていたが夕刊の扱いはまだ大きくて、連日トップ。大阪本社社会部の記者がかなり動員されている様子だった。本人はいやな予感がしないでもなかったが、電話する時間もなかった。

当日、新郎は大してすることがない、はずだった。のんびり構えていたら電話が入った。司会者本人からで、新幹線に乗り遅れて遅刻する、よろしく、だと。前夜に飲みすぎたという。同じ社宅だが式の打ち合わせもしたことがなかった。全体の仕切りもこの男の役目だったが、内容も聞いていない。 そんなこと直前に新郎に言われたって・・・仕方ない、客ごと式を遅らせるしかない。

仕事がら披露宴の招待客には記者やカメラマンが多かった。ホテルの式場に行ってみると、少し招待客の数が少ない。ホテルのすぐ近くが大阪本社なので、社会部に立ち寄ってから来るのだろうくらいにしか考えなかった。いざ披露宴会場に入り、新郎席に着席すると、目の前のテーブルごとごっそり空席である。みんな、よど号を追ってソウルに飛んだという。それも今日ではなく事件発生直後からだという。 結婚式の当人だけはさすがに配慮したか、行けとは言われなかった。それだけでもめっけもんだ。

ホテルの宴会担当者が新郎の私に相談にやってきた。どうしますか、といわれたって知恵があるわけもない。テーブルごと片付けるわけにもいかない。呑ん兵衛が多いから出しとけば誰か飲むでしょうよと言うほかない。

とどめは写真だった。挙式の写真を撮るはずのカメラマンはいなくなっていた。これまたひとことの連絡もなく。ブン屋ならそれくらい察しがつかなくてどうする、といわんばかり。立つ鳥跡を汚してソウルでシャッターを切っていた。
当然披露宴の写真もない。後日パラパラと素人のスナップ写真が集まってきた。お色直しも何回かあり、家内は和洋の晴れ姿を披露したようなのだが、何も残っていないし私の記憶にもない。義母が言ったものだ。「ウチにもカメラぐらいありましたのに」。

それでも編集局の幹部は何人か式場に残っていた。記者やカメラマンをソウルに出張させた当人だが、それとて、デスクと事件の電話連絡のために中座してろくすっぽ席になどいやしない。この時代携帯電話はないからいちいちロビーの赤電話に行く。 酒を呑みに席に戻るようなもので、実のないことおびただしい。もっとも事件がなくてもこんなものだったろう。社会部は経済部や文化部より数段ガラが悪いとされていたから。

その日のうちに伊丹空港から羽田に飛び、ハワイ便に乗り換えた。羽田には東京での同僚が多数見送りに来ていた。といっても我々のためではない。この日北朝鮮が機体の返還を発表したため、今にも「よど号」が着陸するかもしれないというので、記者やカメラマンが多数、空港に配置されていた。結局は5日朝の着陸になったため、手持ち無沙汰の連中が我々の冷やかしにやってきた、というのが実態だ。 空港に張り付いていた写真部員が、我々を見かけて、ついでに撮ってくれたスナップが唯一、プロの手になる写真だ。

1週間後、新居といっても社宅だが、へとへとで戻ると、我々2人より先にすでに同僚数人が部屋に入りこんで、勝手に冷蔵庫のもので酒盛りの真っ最中。ほとんど出来上がっている連中の話題はまだよど号が続いていて、われわれのハワイの話など聞かれもしなかった。

北朝鮮で死んだのもいるが、いまだにメンバー4人や田中義三の家族までふくめると30人も暮らしているという。望郷やみがたく、みな帰国したがっているらしい。昭和13年1月、女優、岡田嘉子が愛人の演出家、杉本良吉と雪の樺太国境 (当時は樺太の大平原を横切る線が日ソの国境。歩いて越境できた)を越えてソ連に亡命した。男は共産党員で、あこがれの共産国家で歓迎されると思ったらしいが、あにはからんやスパイ容疑で 拷問にかけられた(男のほうはまもなく銃殺されたことがのちになって判明)。戦後、国交が回復してモスクワ放送で働いていた岡田嘉子が帰国したとき、やはり同じようなセリフを吐いた。


そのとき、作家であり和尚である今東光が「甘ったれるでない。向こうに骨を埋めろ」と新聞で大喝した。亡命というのは言葉は甘美だが、切ないものだ。岡田嘉子にもよど号犯たちにもいえるが、革命の大義も何かあわれをもよおす30年の歳月である。

*「よど号」ハイジャック事件(メモ1)* 

赤軍派では「フェニックス作戦」といった。3月27日の予定であったが、予約の仕方やチケットの買い方を知らないのがいて遅刻者が続出、決行は1970年(昭和45年)3月31日。 ねらわれたのは、午前7時21分、東京・羽田発福岡行き351便の日本航空ボーイング727ジェット旅客機「よど号」(乗員7人、乗客131人)。 当時は金属探知機もボディチェックもなかったため、簡単に武器を機内に持ち込むことが出来た。この事件がきっかけで、ハイジャック防止法が施行され、現在のような検査が義務づけられた。


離陸してすぐ、富士山上空を飛行中に、赤軍派の9人が日本刀やピストル、ダイナマイトのようなものを振りかざして(のちに、これらの武器は偽物とわかる)叫ぶ。 「私たちは共産主義者同盟『赤軍派』です。私たちは北鮮(北朝鮮)に行き、そこにおいて軍事訓練等々を行い、今年の秋、再度、日本に上陸し、断固として前段階武装蜂起を貫徹せんとしています」。 その後ずっと帰れなくなろうとは、考えていなかったのが分かる。


9人のメンバーは、リーダーの田宮高麿(=たかまろ/当時27歳/大阪市立大)、サブ・リーダー格の小西隆裕(25歳/東大)、田中義三(よしみ/21歳/明治大)、岡本武(24歳/京大)など、8人の大学生と高校生1人。 岡本武は1972年(昭和47年)5月30日にイスラエル・テルアビブ空港で銃を乱射、26人の死者をだした岡本公三の兄。

福岡空港
福岡空港で給油するよど号。機体の下に
潜り込んでいるのは整備士に扮装した警察官
彼らは操縦室に押し入って、機関士を縛り(当時は正副パイロットの後ろに機関士が乗っていた。のち合理化で廃止)、操縦士に北朝鮮行きを命ずる。石田真二機長(当時47歳)は、平壌(ピョンヤン)に行くには燃料不足であるとして、福岡行きを説得した。 「よど号」は機動隊1000人で厳戒態勢が敷かれた福岡・板付空港に着陸し給油する。ここで病人や女性、子どもら23人を解放して、午後1時59分、福岡空港を離陸し、北朝鮮に向かう。 そのとき、石田機長が日航の福岡空港航路課から受け取った地図は朝鮮半島の形だけがわかる白地図で、地図の上部には<航路図なし、121.5MCをつねに傍受せよ>と書かれていた。


まもなく機体マークを消した戦闘機が現れ、親指を下に向けた。高度を下げろ、というサインらしいことが分かり、下げて38度線付近あたりにさしかかったとき、 「こちらはピョンヤン、進入管制周波数134.1MCにコンタクトせよ。こちらはピョンヤン・・・」という無線が入る。指示されるままに平壌空港に着陸するが、 実はそこはソウル郊外の金浦(キンポ)空港だった。

韓国軍兵士
金浦空港で「よど号」を警戒する韓国軍兵士
韓国側は、北朝鮮兵の服装でニセの歓迎プラカードを立てて出迎えるなど偽装工作するが、赤軍派はこれを見破る。着陸直後に空港内に米軍機らしい機影を見たのと、田宮が操縦席の窓から下にいた兵士に 「Here is Seoul?」と尋ねる。何も知らない兵士は「Yes, Seoul!」と答えてしまう。そこまで手配する時間がなかったのだ。無線で交渉にあたっていた韓国側はなおも、「ここはピョンヤンだ」と言い張ったが、田宮が「金日成(キムイルソン)の 大きな写真を持って来い」と言う。あるわけなかった。


よど号機内で田宮らが、着陸地がソウルと見破ったきっかけは、手持ちのラジオに「思い出のサンフランシスコ」が流れたからだという話もある。北朝鮮の ラジオにアメリカのスタンダードナンバーが流れるわけがない。このあたり、すこしできすぎた話のような気がするが、彼らがいつか司直の手で調べられる時に明らかになるかもしれない。

よど号
よど号から開放される乗客(金浦空港)。
金浦空港では翌4月1日から日本から駆けつけた橋本登美三郎運輸大臣、自ら“身代わり”になることを名乗り出た山村新治郎運輸政務次官(当時36歳)らによる犯人学生への説得工作が続けられ、結局4月3日になって犯人たちは残りの乗客全員を解放して、 北朝鮮の平壌へ亡命することで合意に達した。

この間、日本赤十字社と朝鮮赤十字会の連絡がつく。<貴社が要請したJAL727ジェット旅客機が、朝鮮民主主義共和国北半部領域内に無事着陸できるようにし、 着陸後、乗客乗員たちの身辺の安全を人道主義の見地から保証するであろうし、また、直ちに日本に送り返されるであろうという当該機関の確答を受けたことを知らせる>

3日午後2時28分、残りの乗客99人全員とスチュワーデス4人全員が解放され、山村政務次官がその “身代わり”に搭乗した。 乗客が解放される直前、リーダーの田宮がマイクを持って立ち上がり「お別れのパーティーをやりましょう」と言って、赤軍派の1人ひとりが自己紹介をし演説をした。 再び、マイクが田宮の手に渡ると、気分を出して詩吟をうなり出した。このとき、奇妙な連帯感がうまれ、乗客の1人が別れの歌を歌った、という。
同機に乗り合わせた乗客の中に聖路加国際病院の日野原重明理事長(98)がいた。2010年3月、「よど号」乗っ取り事件から40年というので、産経新聞に寄稿し 、当時の様子を生々しく振り返っている。               
 ◇ ◇ ◇


日野原重明理事長
聖路加国際病院の日野原重明理事長
(2009.3.3撮影)

事件は、私が59歳になる半年前のことであり、当時、私は聖路加国際病院の内科医長だった。ちょうど飛行機が富士山の噴火口の真上を飛んでいたとき、日本刀 を持った一団からハイジャックの宣言を聞き、これは大変なことになったと胸騒ぎがした。自分の気持ちが動揺しているかどうか確認しようと思い、縛られた手の指 で自分の脈拍を数えてみると、平素の脈拍数70が80にもなっていた。

尊敬するアメリカの医学教育の開拓者、ウィリアム・オスラー博士の講演集『平静の心』にある「医師にとって、沈着な姿勢、これに勝る資質はありえない」とい う文章や、新約聖書にある「なぜこわがるのか、信仰の薄い者たちよ」というイエスのお言葉が頭をよぎった。私はあるがままに任せるほか仕方がないと観念した。

冷暖房が作動しない機内の温度は40度にもなり、韓国軍と赤軍側のやり取りで緊迫し、食料をめぐって騒然となったこともあった。だが、ハイジャック3日目に 機内放送があり、山村新治郎代議士が乗客の身代わりになって赤軍とともに北朝鮮へ出発することが伝えられた。

3日目の夜には、乗客の1人がハイジャックとはどういう意味かと質問をしたが、田宮(高麿)代表も答えられなかったので、私がマイクをもらって「ハイジャック する人が説明できないのはおかしい」といったところ、一同は大笑いして、座が急に明るくなった。生きるも死ぬも皆が同じ運命にあるという意識から生じたスト ックホルム症候群という敵味方の一体感に一同が酔ったといえるのかもしれない。

乗客の1人が別れの歌「北帰行」を高らかに吟じ、それに対して赤軍一同が革命歌「インターナショナル」を歌うと、学生時代に左翼運動に参加したと思われる乗 客たちが手拍子を取って一緒に歌ったりもした。

ハイジャック4日目の朝に解放されて金浦空港(韓国)の土を踏んだときの靴底の感覚を私は今でも忘れることができない。1969年にアポロの宇宙飛行士が月 飛行を終えて無事に基地に帰り、大地を踏んだときの心境に近いものではなかったかと思った。

人生を還暦前と還暦後に分ければ、私は、後半の人生を誰のためにささげるべきかを深く考えさせる大事件に出会ったわけである。国の内外を問わず、人々のために ささげる生き方を始める人生の転換が与えられたのだと感じ、その後、いつまでもその覚悟を持って生活してきた。

赤軍のよど号グループのメンバーたちは、今にして無謀なことをやったと後悔はしていようが、帰国すると刑を受けるために、残留組は意地をはっていると思う。

《40年後の詫び状》
1970年3月に発生した日航機「よど号」ハイジャック事件で、北朝鮮在住の元赤軍派メンバー4人=国外移送目的略取容疑などで国際手配=が、乗客とし て人質になった聖路加国際病院理事長の日野原重明さん(100)に事件を謝罪する手紙を親族を介して手渡していたことが26日、分かった。

共同通信の電話取材に応じたメンバーの若林盛亮容疑者(64)は「日野原先生が100歳の誕生日を迎えられたことを機に、おわびとお祝いを兼ねて何か するべきだろうという話になった」と手紙を出した経緯を説明した。

手紙の文章は小西隆裕容疑者(67)が執筆し、4人の連名を付記した。先月、訪朝した際に手紙を託された小西容疑者の母親(90)が25日に日野原さんの許 を訪れて手渡したという。(2011.10.26付産経新聞)
日野原重明さん死去 105歳
.  100歳を超えて現役の医師として活躍し、「元気に老いる」を体現した聖路加国際病院名誉院長で文化勲章受章者の日野原重明(ひのはら・しげあき)さ んが2017年7月18日、呼吸不全のため死去した。105歳。葬儀は29日午後1時、東京都港区南青山2の33の20の青山葬儀所。喪主は長男明夫(あきお)さん。

1911年山口県生まれ、京都帝大医学部卒業後、41年に聖路加国際病院に内科医として赴任し、2012年に聖路加看護大(現聖路加国際大)理事長の座を退くまで、一線で働き続けた。 同病院名誉院長、聖路加国際大名誉理事長に就任後も車いすで時折緩和ケア病棟を訪れ、患者と言葉を交わしていた。「75歳以上」の人を「新老人」と名付け、2000年には「新老人の会 」を設立。老後の新しい生き方を提唱した。

東京大空襲でも診察に当たり、薬不足などで救えなかった経験から「命と平和の尊さ」を訴え続けた。95年のオウム真理教による地下鉄サリン事件で病院長として陣頭指揮を執り、 多くの被害者を受け入れた。58歳だった70年には「よど号」ハイジャック事件に遭遇した経験もある。

 聖路加国際病院によると、日野原さんは3月20日に消化器系統が悪化。胃に直接栄養を届ける胃ろうの設置などの提案を断り、自宅で家族らの介助を受けていた。今月14日に  意思の 疎通が困難な状態に陥ったという。

 老いの在り方を説いた「生きかた上手」(01年)など一連のシリーズがベストセラーになるなど多数の著書がある。98年に東京都名誉都民、99年に文化功労者、05年に  文化勲章受章。( 2017年7月18日 毎日新聞)

 ◇ ◇ ◇

午後6時5分、赤軍派学生9人と山村次官、機長ら4人、計13人を乗せた「よど号」は金浦空港を離陸、北朝鮮の平壌へと向かうが、38度線を越える際にはみんなで「北帰行」を合唱した という。のんびりした機内に比べ、コックピットには焦りがあった。 石田機長の手元には白地図しかなく、また、日が暮れてしまって危険な状態だった。仕方なく肉眼で滑走路に見えたところに強行着陸した。真っ暗闇の中での見事なランディング。そこは、平壌の美林(ミリム)空港という廃港であった。

赤軍派の9人はそのまま、北朝鮮側に収監され、亡命は成功する。4日、北朝鮮側は非難声明を出した上で、人道主義的観点からとして、機体と乗員の返還を行うと発表し、「よど号」は山村政務次官と乗務員3人を乗せ、5日午前9時10分、羽田に到着、事件は終わった。


(よど号事件の経過をまとめた動画)=「watch on youtube」クリックでスタート

*「よど号」事件、その後の人間模様(メモ2)* 

”身代わり新治郎”の異名をとって、その後の選挙を楽勝した山村衆議院議員は22年後に悲劇に見舞われる。北朝鮮との国交正常化を目指した自民党の訪朝議員団の団長として、北朝鮮に渡り、金日成主席生誕80周年慶祝行事に参加し、 赤軍派に会って説得して帰国を勧めることを予定していたのだが、出発の前夜、1992年(平成4年)4月12日、千葉県佐原市の自宅で、高校を中退してノイローゼだった次女(当時24歳)に刺されて死亡してしまう。次女は判断能力がなかったということで不起訴になったが、4年後、自殺している。

また、石田機長は、事件のフライトの後、国際線の機長に昇格する予定だったのだが、有名になったことで、女性スキャンダルが発覚し、2年後日本航空を退社するはめになった。企業の専属パイロットや、漬物屋を始めたりしたが長続きせず、最後の勤め先の警備会社を78歳でやめてからは大阪・岸和田市でひっそりと暮らした。2006年3月韓国政府が「平壌と見せかけて金浦空港に降りたのは機長の判断」という外交文書を発表した際、「なんでそんなこというのかね。事実は違う(韓国側の工作)」と不思議がっていたという。2006年8月13日、肺がんで死去。83歳。

ハイジャックのメンバーは、当時の金日成首相の計らいで、共同生活をはじめる。政治思想である主体(チュチェ)思想の講義を受けた。望んだ軍事訓練も帰国することも許可されなかった。 やがて、共同で貿易会社を設立し、平壌市内に外貨ショップを開いた。

その後9人は、訪朝7年目の1977年頃に北朝鮮当局の指令で一斉に結婚した。相手は、日本国内で朝鮮総連の指導による主体思想(チュチェ思想)勉強会などで、学んでいた北朝鮮シンパの日本人女性だった。全員が中国経由などで北朝鮮に渡った。

1980年、自民党訪朝団が平壌を訪れた際、田宮と小西が同行の記者団の前に現れ、望郷の念を語ったりしている。 だが、そうした中、メンバーが次々と病死や事故死、こっそり帰国して逮捕などで、欠けていく。昭和60年(1985)、吉田金太郎が死亡(35歳時。結婚したかどうか、死亡の状況など詳細は不明)。昭和63年(1988)岡本武が妻とともに事故死(42歳)、金日成首相が死去した翌年の平成7年11月にはリーダーだった田宮高麿が心臓発作で死去(52歳)。現在、北朝鮮に残っているメンバーは小西隆裕、若林盛亮、赤木志郎、安部公博の4人だけとなった。

田中義三は1996年(平成8年)に、タイのパタヤで偽100ドル札を使用したとしてつかまり、2000年(平成12年)6月28日、30年ぶりに日本へ移送された。2002年(平成14年)2月、東京地裁からハイジャック事件の強盗致傷罪などで懲役12年を言い渡され、翌年刑が確定、熊本刑務所に収監された。服役中に肝臓ガンが見つかり2006年末大阪医療刑務所に移され、12月には東京高検が刑の執行を停止していたが、2007年元日未明、入院先の千葉県内の病院で死亡した。

◇ ◇ ◇ ◇
2002年3月12日、よど号事件の犯人たちのその後の姿が意外なかたちで浮かんできた。

先年、北朝鮮から帰国して成田で旅券法違反などの罪で逮捕された赤木恵美子被告(46)=旧姓、金子、犯人の一人、赤木志郎と北朝鮮で結婚した= の東京地裁での公判に検察側証人として出廷した、犯人の一人、柴田泰弘の元妻、八尾恵さん(46)が衝撃の証言をしたのだ。


神戸市出身の有本恵子さん(元神戸市外大生、当時23)がロンドン留学中の83年に北朝鮮に連れ去られたとされる事件で、「田宮高麿に指示されて私が拉致した」と詳細に供述したのだ。 警察庁は「北朝鮮による拉致容疑事案」に有本さんを追加認定し、これで8件11人と増えることから、マスコミは大きく報道した。 警視庁も、供述から組織的な拉致の疑いが強いと、結婚目的誘拐罪の適用を視野に入れて捜査本部を設置する展開となった。


実は「八尾恵」の名は事件を知っているわれわれ報道関係者の間では有名で、私もクレームを受けて、会ったことがある。彼女もよど号事件を今に引きずる被害者なのだ。 むりやり結婚させられて、現地でもうけた娘2人(長女、黎は1978年、二女、燦は1980年生まれ)をなんとか取り戻したい一心で法廷に立ったものだ。新聞テレビはこの日の法廷ではじめて 直接、拉致の供述が得られたと報道しているが、実は彼女はそれより1年以上前から同じ主旨の拉致の事実ともっとくわしい内容を供述している。有本さんの両親もこの日の証言を事前に知っていて、 ホテルで会ったとき、八尾さんは両手を突いて泣き崩れたという。


八尾さんの証言によると83年1月ごろ、平壌市内にあるよど号グループの拠点で、リーダーの田宮高麿(その後死亡)から「ロンドンで日本革命の中核となる人を発掘、獲得して欲しい。男性ばかりでなく、 女性も獲得せなあかんだろ。25歳くらいまでの若い女性がいい」と指示され、有本さんを拉致することにして、デンマークのコペンハーゲンでよど号事件のメンバーの安部公博=北朝鮮に渡った日本女性、 魚本民子と結婚=に引き合わせ、彼が北に連れ出したという。この件では結婚目的誘拐容疑で警視庁が安部公博の逮捕状を取り国際手配中である。

さらに八尾さんは、田宮高麿の妻の森順子らが男性2人を獲得した、という話を聞いたといい、「有本さんは、彼らと結婚させるための拉致だったと思う」とも証言した。 タイから日本に強制送還された田中義三の妻、水谷協子(45)=同=が、故金日成主席のチュチェ(主体)思想を教えていることや、拉致された日本人男性らと元気に暮らしていることなどを聞いた、と述べた。

その後、有本恵子さんの誘拐にかかわった詳細を明らかにした『謝罪します』(文芸春秋・1600円)を出版(2002年)、その中で、革命村にやってきた金日成首相の右腕にぶら下がって迎えた話などを披露している。

◇ ◇ ◇ ◇

八尾さんは数奇な人生を送ってきた。日本を出国し、半分観光のつもりで北京を経由して北朝鮮に入国した。ところが、入国後、二ヶ月あまり軟禁状態で思想教育を受けた後、1977年5月、よど号グループの一員である柴田泰弘(犯行時未成年)と強制的に結婚させられた。 その強いられた結婚生活は、いわゆる「ハウスキーパー」で、柴田の「慰安婦及び子生み・子育ての道具」だったと後の裁判で述べている。


その後防衛大学生を拉致するよう命令を受け、そのため横須賀に住み、接触するための場として「カフェバースクエア・おんなのことおとこのこの夢見波(ゆめみは)」という店を作った。夫の柴田もひそかに日本に入国するが、1988年5月逮捕され、彼女もまもなく 有印私文書偽造同行使で逮捕される。そのとき「北朝鮮の女スパイ」と書かれたことから「北朝鮮には行ったこともない。よど号グループとは何の関係もない」とマスコミや国、警察を相手に14件もの裁判をおこしている。私が会ったのはそのときだ。この時、多くのマスコミは敗訴した。 わが社も百何十万円払った口だ。ニュースソースの秘匿という職業上の義務があって、たとえ警察情報と分かっていても明かすことができなかったためだ。後年彼女は「真実ではないことを語り、ご迷惑をおかけしました」と謝罪したが、支払った金は戻ってこなかった。


92年になって田宮から「よど号グループの妻であることを公表するように」という指示が来る。さすがにこのあたりから、気持は北朝鮮から離反していく。何より、夫婦2人とも日本で逮捕されているのに、娘2人が北朝鮮に残されるという 状況に耐えられず、東京地方裁判所によど号事件の現在のリーダー小西隆裕に対し、彼女の2人の子供の返還を求める裁判を起こしている。97年の夏に日本の戸籍を取得している八尾恵さんの2人の娘は帰国できないでいる(その後帰国)のに、他の犯人の子女はどんどん帰国している。これでは転向ゆえの人質だというのが訴えだ。


「よど号グループ」の子どもたち(といっても全員20歳以上)は意外に多い。田宮高麿が3人、小西隆裕に2人、田中義三に3人といったぐあい。2001年4月、田宮の娘(22)小西の娘(22)、田中の娘(23)が 裁判支援などのため帰国した。「朝香」「立子」「東美」と日本風の名前なのを見ても親の望郷の念を感じる。

2001年9月帰国して逮捕された赤木志郎の妻、恵美子被告の裁判で八尾恵さんが”敵側の”検察側証人として立つまでには、娘が北朝鮮で人質同然の立場におかれているという背景があった。


麻薬・覚せい剤とニセドル紙幣が北朝鮮の経済を支えているといわれるが、よど号事件から30年余、今では彼らはニセドルの使用と日本人拉致の手先に使われているらしい断片が浮かんできている。


(2004年1月14日、2月25日、5月10日追記)


八尾恵さん(この時点で48歳)の娘の一人が平成16年1月13日ようやく帰国した。この日北京経由で6人のよど号グループの子供たち( 全員北朝鮮生まれ)が帰国したが、この中に柴田泰弘(刑期終了)と八尾恵さんの間に生まれた次女、柴田燦(あき)さん(23)が入っていた。 ほかに安部公博(55)=結婚目的誘拐などの容疑で国際手配中。北朝鮮に渡った日本女性、魚本民子と結婚=の長女(21)と次男(19)、元リーダーの故田宮高麿の長男(20)、故岡本武の次女(22)、田中義三=服役中=の次女(17)。魚本民子=51歳。旅券法違反で国際手配中=本人も2月24日、北京経由で空路帰国、警視庁に逮捕された。公安部は、夫の安部容疑者が有本恵子さん拉致事件の実行役で、魚本容疑者も欧州などで「日本人獲得工作」に関与していたとみている。


一時北朝鮮に30人以上いたよど号犯の妻子は平成13年5月、平成15年9月、平成16年1月、2月にあいついで帰国、6月13日には最後まで残されていた八尾恵さんの長女、柴田黎さん(この時点で27歳)も帰国した。


八尾さんの娘は二人とも父親の姓を名乗っているが、2004年に帰国した次女、燦(あき)さんは田宮高麿が死亡したあとリーダーをつとめていた小西隆裕が育てていたが、90年ごろ、両親が日本にいることを知らされ、94年ごろから国 際電話で話をするようになった、という。よど号グループは八尾証言をでっち上げと批判しているくらいだから、燦さんも「母が拉致に関与したかどうかは分からないが、親子の信頼関係を何度も裏切られ、大きな不信感がある」などと話し、長女も母親を裏切者と呼び非難している。八尾恵さんは空港に出迎えに来ていたが、洗脳された娘との関係修復は容易ではないことをうかがわせていた。

柴田泰弘
柴田泰弘(逮捕時)
八尾恵さんの前夫、柴田泰弘は他人名義の旅券で日本に帰国し潜伏していたが、昭和63年に逮捕され実刑が確定、平成6年に刑期を終え、釈放された。事件後4 0年というので2010年3月産経新聞がインタビューを試みている。


「もう(運動は)やりません。疲れちゃってるんで…。本当に疲れちゃってるんですよ」。大阪の下町にあるマンション、短髪に黒いサングラス姿で顔をのぞかせ た男性は、それだけ言うとドアを閉め、ガチャリと鍵をかけた。
関係者によると、釈放後は大阪・日本橋でパソコンショップを開いていた時期もあったが、すでに店をたたみグループやその家族らからも離れているという。(2010年3月29日付産経新聞) その柴田泰弘は2011年6月23日病死しているのが発見された。大阪府警などによると、連絡が取れないのを不審に思った知人が管理人に安否確認を依頼。23 日午後8時ごろ、管理人と警察官が大阪市浪速区のマンションの自室に入ったところ、死亡しているのを見つけた。死後数日が経過し、死因は病死とみられる。58歳。
◇ ◇ ◇

2002年9月17日の小泉純一郎首相と金正日総書記のトップ会談で北朝鮮側が拉致したことを認め、謝罪したあと、よど号グループ の立場は微妙なものとなった。今でもいっさい関与を認めていないのだが、八尾証言はじめ出てくる話は関与が濃厚なことばかり。拉致を認めたあとは北朝鮮にとってよど号グループはもはやお荷物に過ぎず、それが妻子のいっせい帰国につながっているようだ。


◇ ◇ ◇ ◇

(2006年6月14日追記)

北朝鮮政府は「よど号」犯と家族をもてあましているようで、2001年から毎年のように帰国させている。2006年6月現在、北朝鮮に残っているのは8人。


小西隆弘
安部公博
若林盛亮
赤木志郎
若林佐喜子(若林盛亮の妻、旧姓黒田)
森順子(よりこ。田宮高麿の妻)
北朝鮮に自分で渡った赤木志郎の妹と結婚した男(氏名不詳)
若林盛亮の次男(11歳)


よど号犯と結婚した女性は八尾恵さん含めほとんどが日本国内で「チュチェ思想研究会」のメンバーだった。森順子ら「在日」だった女性が多いが、若林佐喜子ら日本人女性もいる。彼女らの「自伝」によると、森順子は強制連行で日本にに来た朝鮮人の父と日本人の母の子として生まれ、父の遺骨を故国に返すべく北へ渡った。 若林佐喜子は群馬県伊勢崎市出身で、専門学校在学中にチュチェ思想に興味を持ち、研究会の幹部活動家になり、ヨーロッパ経由で北朝鮮に渡航したという。 2001年5月から始まった北朝鮮の”送還事業”だが、一時30人を超えていたものの最後まで残るのはメンバー4人だけということになりそうだ。


赤木邦弥
関西空港帰国と同時に逮捕された赤木邦弥。


謎の男帰国(この項2007年6月加筆)
上で「氏名不詳の男」と書いたが、突如、熊本県宇城(うき)市出身の赤木(旧姓・米村)邦弥(52)と判明した。2007年6月5日に平壌から北京経由で関西国際空港に21年ぶりに帰国、ただちに旅券法違反容疑で警視庁公安部に逮捕され、即日羽田空港に送られた。
「北朝鮮に残留する身元不詳の男」と上述したように、2004年11月の日朝実務協議で、北朝鮮側が本名を 明らかにするまで、警察当局ですら身元がつかめなかった「謎の男」だった。逮捕後、「日本で(先に帰国した)妻や娘と 一緒に暮らしたかった」と帰国の理由を語ったあと黙秘しているようだが、どうやら欧州で日本人拉致に関わってきたようである。

赤木に関する情報を、警察当局が初めて知ったのは1992年10月ごろ。よど号犯らが暮らす平壌郊外の「日本革命村」を、支援者らが訪ねた際、赤木に出会ったことがきっかけだった。よど号犯の赤木志郎(59)の妹(53)(03年4月帰国)と結婚し、2人の娘(04年9月と06年1月帰国)をもうけていた。

94年に「ジャーナリスト 小川淳」として論文を発表しはじめたが身元は分からず、97年に2人の娘の出生届が日本国内で 出された際も、父親のわからない「非嫡出子」として申請されている。

その正体が突如判明したのは04年11月、平壌での日朝実務協議。北朝鮮当局が氏名と生年月日を明らかにしたのだ。 本人も今回の帰国のため旅券を返納したが、その記録からいりいろ動きが判明してきた。 熊本県出身で、旧姓・米村邦弥。元神戸大生で昭和56年(1981)10月、大阪からパリに向け出国。当時の西独の飲食店な どで働いたが資格外活動で検挙され、国外退去処分になった。その後ウィーンに入り、反核運動のミニコミ紙「おーJAPAN」 を発行する日本人留学生らの活動に加わっている。この時ウイーンを訪れた土井たか子・元社会党委員長と小川淳として会っている写真も残っている。=右下


赤木=小川
土井たか子・元社会党委員長と
小川淳として会っている写真(赤円内)も
=「おーJAPAN」から
ウイーンには昭和60年(1985)まで滞在したが、この時よど号犯の赤木志郎の妹、美智子と知り合い、62年(1987)4月に一緒に北へ渡り、結婚している。北朝鮮に渡る前の昭和60年に日本に不法帰国し、実姉の居住地がある兵庫県内に住民登録していたことも分かった。この時期は、メンバーの一人や八尾恵さんが、組織拡大のための日本人獲得などを目的に極秘帰国した時で、日本人拉致の活動をしていたことも考えられる。

よど号犯による拉致の活動は昭和52年(1977)ごろスタートし、当初リーダーの田宮高麿 (1995年11月に死亡)らが指導していたが、昭和58年ごろには、魚本(旧姓・安部)公博容が責任者になっていた。赤木邦弥 がグループと出会ったのも、この2件の拉致の間だったとみられ、警察当局は、赤木邦弥は 欧州での日本人拉致の真相を知る“キーマン”とみて調べを続けている。

「北朝鮮にいるときは恵子のことも知っていると思うんですね。だから話して欲しいという気持ちはありますけれども。だけど、 話さないだろうと思ってます」(有本恵子さんの母・嘉代子さん)

(2009年1月加筆)
2009年1月13日、若林盛亮(もりあき)=国外移送略取などの容疑で国際手配=の次男(14) が北朝鮮から北京経由で関西国際空港に到着した。北朝鮮生まれで日本旅券のない次男は、代理人が準備した旅券に代わる渡航書を所持し、北京国際空 港で日本大使館の担当者と帰国手続きを行った。

帰国に同行した支援団体「救援連絡センター」の山中幸男事務局長によると、次男は94年に北朝鮮で生まれ、2歳で日本国籍を取得。北朝鮮では一般の 子供たちと一緒に就学し、両親から日本語を学んだ。今後は大阪市内で中学に編入して高校進学を目指すという。

実行犯の家族の帰国は2001年5月、故田宮高麿リーダーの長女らが帰国したのが最初で以来北朝鮮生まれの子供など家族26人が帰国、次男は最後の1人 だった。これで北朝鮮に残るのはメンバー4人と拉致被害者の石岡亨さんと松木薫さんに対する結婚目的誘拐容疑で国際手配中の妻2人の計6人となった。

これまでに帰国した子女26人は14〜31歳になり、それぞれ東京や大阪で大学生や会社員などとして生活しており、中には結婚し出産した者もいる。北 朝鮮の6人とは普段は電子メールなどで連絡を取り合い、長期休暇には渡朝して直接会っているという。

支援者はよど号事件から40年となる2010年までに若林佐喜子、森順子、メンバー4人の順で帰国させたい意向を表明しているが実現は難しい。2008 年6月の日朝実務者協議で北朝鮮側は、よど号グループの引き渡しに協力することを約束したが、その後、交渉に進展は見られない。また、よど号グ ループは拉致への関与を否定し、「拉致容疑での逮捕状の撤回」を帰国の条件としているためだ。残る6人は「核心部分が残った」(警視庁幹部 )かたちになる。

ついに本件の拉致で逮捕状
これまで帰国した連中は国内に入ると同時に逮捕されたが、皆平気な表情で連行された。旅券法違反などの形式犯で刑が軽いことを知っているからだ。事実ほとんどはすでにシャバに出て支援活動などをしている。しかし森・若林の二人の場合はそう簡単ではなさそうだ。2006年2月に、拉致被害者の松木薫さんの拉致に関与した疑いが強いとして、松木さんの姉の斉藤文代さん(60)が、「拉致された弟がまだ帰国できないのに、関与した2人が帰ってくるのは許せない」と逮捕監禁容疑で警視庁公安部に告発状を出して受理され、さらに2007年6月に警視庁公安部が石岡さんと松木さんを欧州から北朝鮮に拉致した結婚目的誘拐容疑で逮捕状を取り、国際手配したからだ。


よど号犯関与の証拠写真
撮影されるのを嫌ったようだが、
石岡さん拉致に若林、森の二人が関与した証拠写真。


札幌市出身の石岡亨(いしおか・とおる)さん=当時(22)=と熊本市出身の松木薫(まつき・かおる)さん=同(26)=は昭和55年(1980)4月、スペインで若林、森の2人と会い、ウィーン旅行に誘われた後に失跡した。石岡さんは日大卒業後、パン作りの技術を学ぶためバイト先で仲良くなった友人と2人で旅行中(のち動かぬ証拠となる動物園での写真はこの友人が撮影)。また松木さんは京都外大大学院を休学して語学留学中だった。松木さんには日本に将来を誓った女性がいて「あなたが一番好き。1年で帰国するから待っていてください」とマドリードから絵はがきを送っている。姿を消す理由はなかった。

森、若林らよど号犯の活動拠点は当時オーストリアのウイーンにあったが、スペイン・マドリードにアパートを借りて拉致工作を行っていた。2週間ほどのあいだにターゲットにされたのが石岡、松木さんと関西地方からこの地を訪れていた姉妹だった。姉妹はウイーン行きを断って無事だったが、拉致して子どもを産ませるため北朝鮮で誰かと結婚させようとしたと見られている。

4月16日、スペイン・バルセロナのテルミノ駅で友人と2人でいた石岡さんに森、若林が「日本の方ですか」と声を掛けて近づいてきた。4人で市内の動物園に移動して記念写真を撮った。石岡さんの友人がシャッターを押し、のち動かぬ証拠となる上の写真だが、このとき2人は嫌がるそぶりをみせたもののかえって不自然だと思ったようで一緒に収まっている。

松木さんの方はマドリードにいた。4月15日から5月20日までの宿泊記録がある。この間に石岡さんがバルセロナで写真を撮った時の友人と分かれて戻ってきた。今度 は森、若林が自分たちのアパートに石岡さんと松木さんを頻繁に招くようになった。ほとんど毎晩でこの席には前述の姉妹も招かれ、手料理で歓待されたりトランプゲ ームなどをして遊んだという。やがて「ウイーンに一緒に行きましょうよ」と誘われる。姉妹は断ったが男2人は付いていったと思われる。

石岡さんは6月3日、日本の友人に「ウイーンに滞在中ですが、マドリードで知り合った人たちと4人で共産圏を旅してきます」と手紙を送っている。姉妹は「あの4人としか考えられない」という。こうしてスペインからウイーンに誘い込まれた2人はルーマニアなど旧共産圏を旅行して、6月上旬にユーゴスラビアから北朝鮮に拉致されたと見られる。「共産圏の旅行には北の特務機関の人間が付き添うのが普通。そうして送られたのだろう」と警視庁公安部ではみている。


家族に届いた手紙
危険を冒して家族に届けられた手紙。
北朝鮮側に証拠として突きつけられた。
8年後の昭和63年(1988年)9月、突然、石岡亨さんから札幌の実家に、手紙が届く。松木さんや昭和58年7月に行方不明になった元神戸外大生の有本恵子さん (当時23歳)と北朝鮮で暮らしているというもの。8月13日付の消印からポーランドで投函されたのがわかっている。警戒が厳しい平壌で、バレたら殺される身の危険を冒してすれ違った共産圏の人に託したも のと考えられている。

この手紙で有本恵子さんの両親、有本明弘さん・嘉代子さん夫妻が外務省に陳情しても無視され相手にされない。困り果て、当時北朝鮮と親密な関係にあった社会党の 力を借りようと国会を訪れ国会内のエレベーター前で土井たか子委員長に石岡亨さんの手紙を根拠に直接陳情した。しかしけんもほろろで全く相手にされず、それどこ ろか、土井たか子氏は石岡亨さんの手紙の存在事実を事もあろうに朝鮮総連に通告したという。夫妻は今も社会党と土井たか子氏への怒りを隠さない。

この手紙は2000年の日朝国交正常化予備交渉の席で日本側から提出され、有本恵子、松木薫、石岡亨の3人の消息確認要請がされた。、2年後の小泉首相の訪朝時に回答があったが 、いずれも交通事故で死亡とか洪水で墓が流されて分からないとか欺瞞だらけの内容だった。生存とされた5人は帰国をはたした。

有本さんはデンマーク・コペンハーゲンで拉致されたが、この件ではウイーンを拠点に活動していた魚本(旧姓・安部)公博の関与が分かっていて、北朝鮮工作員 に引き合わせたしてすでに国際手配中だ。


森・若林
2人の近影
=産経新聞から
松木さんは北朝鮮に連れてこられて初めてだまされたことに気づいて激しく怒ったようだ。前述の八尾恵さんの手記『謝罪します』によると、森順子は松木さんに殴ら れたという。このとき男性メンバーが松木さんに「だまされる方が悪いんや」と言ったそうだ。2人はかなり抵抗したようで、八尾さんの証言では平壌郊外「元新里 」にあるよど号犯の拠点「日本革命村」から山をぐるっと回って小一時間のところの招待所で暮らしていたという。ここで思想教育を受けていたが「よいところと聞い ていたが、大したことはなかった」と漏らすのを同じく拉致被害者の田口八重子さんから聞いたと、帰国した地村富貴恵さんが証言している。地村さんは平壌郊外の招 待所で田口さんと一時一緒になったことがあり、ここには石岡さんと松木さんによく似た男性が1980年7月ごろから1年間生活していたと証言している。

小泉首相の訪問時に、北朝鮮は日本政府に2人の拉致を認め「石岡さんは有本恵子さんと結婚したが1963年にガス中毒で死亡、松木さんは1996年に交通 事故死した」と伝えてきている。北が提供した松木さんの遺骨というのはDNA検査で全くの別人のものと判明している。横田めぐみさん含め死亡したとして ニセ遺骨を送りつけてくる北朝鮮のことだから、はいそうですかと信じられる話ではないが、なんでまたこんなに手の込んだ拉致をする必要があったのか。金 日成主席が「代を継いで日本革命を行わなければならない」とよど号犯とその妻らに教示したため、組織拡大と結婚相手確保のため、昭和53年ごろからウイー ンなどを拠点にいっせいに日本人留学生の獲得に乗り出したとされる。マンガのような北朝鮮とその頭領だ。もっともその前に、よど号を乗っ取って北朝鮮で革命 拠点をつくると考えた連中のマンガがあるのだが。


よど号事件から40年 北朝鮮に残るメンバーが電話取材で


日航機「よど号」乗っ取り事件から2010年3月30日で40年になるのを機に、北朝鮮に残るよど号犯のメンバーが産経新聞の電話取材に応じ、「あっという間に過 ぎた40年」「よど号問題は政治的遺物」と述べた上で、「北朝鮮ではいつもお客さんと感じてきた。60歳を過ぎてお客さんとは甲斐性がない。そろそろ帰国し ないと」、などとその後の生活と心情を語っている。


若林盛亮
若林盛亮
(2002.7.9)
電話取材に応じたメンバーは、若林盛亮(もりあき)容疑者(63)を名乗り、「寂しくなった。(平壌での)商店運営など経済活動からも退いた」と述べた。 北朝鮮での40年間の生活を「苦労していない」「日本で言えば富裕層」とした上で、2009年11月に実施され、経済混乱を招いているとされるデノミネーション (通貨単位の切り下げ)を受け、「外貨が入り、得をしていた人が前より落ちた」「闇のレートがあったが、なくなった」と打撃を被った事実に触れた。

金正日総書記の三男、ジョンウン氏(28)への後継委譲については、ジョンウン氏をたたえるとされる歌の存在は知っているとした上で、「金総書記の(後継委譲 の)ときは僕らでも分かったが、そういう雰囲気は感じない。あまり国民は意識していないんじゃないか」と語った。

メンバーの日本人拉致事件への関与については「代を継いで革命をやるために結婚目的で誘拐したとされているが、そんな悠長なことはない。われわれの代が何も していないのに。まず帰国が目的。逮捕状自体認めるわけにはいかない」と述べた。

40年前の事件を振り返って「赤軍派路線自体がむちゃな路線だった。『われわれはあしたのジョーである』と言って“リング”に上がったが、やはり赤軍派み たいなやり方はダメと分かった」と、武装蜂起による日本革命やそのための国際根拠地建設論を実行犯自らが否定した。

「寂しくなったのは事実。バレーボールをやっても大人だけで2対2でやる」と若林を名乗ったメンバーは産経新聞の電話取材にそう語った。

北朝鮮に暮らすメンバーは家族を合わせ一時30人を超えたが、逮捕されたり、子供ら全員が昨年末までに帰国したため、残るのは乗っ取りと日本人拉致の両事件 で国際手配されている6人だけとなった。6人の処遇をめぐっては、2009年の日朝協議で北朝鮮側が引き渡しへの協力を表明したが、交渉に進展はなく、宙に浮い た状態のまま。

◇ ◇ ◇

この電話インタビューとは別に 彼らと最近面会した関係者にもらしたところでは、北朝鮮で200万〜300万人の餓死者が出たとされる1990年代後半の飢饉の時 は「この国は終わるんじゃないかと思った」という。


よど号メンバー
現在平壌にいるよど号メンバー。左から若林盛亮、小西隆裕、
赤木志郎」、魚本(旧姓 安倍)公博=2002.7.9=
関係者によると、平壌市郊外の「日本人革命村」で庶民とは隔絶した生活を送っている彼らだが、飢饉当時、北朝鮮で聖山とされる白頭山にドライブに出かけた。革 命村から一歩出て、急激に増えた物ごいに転落した一般市民の数に驚いたという。そのうち影響は革命村にも及んだ。自宅に電気が来なくなり、真冬に暖房が止まっ た。朝起きてネズミが凍死しているのを目にしたその瞬間、北朝鮮の最後を感じたのだという。

北朝鮮社会に大混乱をもたらしたといわれる前年のデノミについても「えらい打撃を受けた」と別の関係者に打ち明けている。外貨を自由に使える分、闇レートの利 ざやで潤っていたが、デノミ後の外貨使用禁止や闇レートの乱高下が影響したとみられる。だが、「あの(飢饉の)ころと比べれば、経済は持ち直し、生活に困る ことはない」とも関係者に話している。

「理髪店に行く以外はほとんど(現地通貨の)ウォンを使ったことがない」彼らは依然として北朝鮮で隔絶された生活を送っているが、日本の情報には敏感だ。N HKなどの衛星放送で情報を得てきたが、日本政府による北朝鮮への制裁強化とともに日本からスポーツ新聞が届かなくなった。メンバーは最近訪朝した支援組織 関係者に愚痴をこぼしたという。

メンバーは上下のしきたりは今も頑なに守り続けているという。食事の際、現リーダーの小西隆裕容疑者(65)がはしをつけるまで誰も食べ始めない。その一方 で、「田宮さんは偉かった」「田宮さんがこう言ったんだけど…」とことあるごとに平成7年に死亡したとされる田宮高麿の名前を持ち出すという。

「日本人村」での暮らしぶり公開

「よど号」ハイジャック事件で北朝鮮に渡り、欧州で日本人拉致にも関与したとして国際手配されているよど号グループが暮らす施設「日本人村」の様子が2014年5月公開 された。


日本人村のアパート
よど号事件のメンバーが暮らす日本人村アパート
書籍編集者の椎野礼仁さん(65)が4月末に現地を訪れた際に撮影したもので、日本人村は平壌中心部から約20キロ離れた大同江のほとりにある。メンバーらが生活する3 階建ての鉄筋アパートなど10棟余りが点在。現在はアパートのほか、事務所や来客用宿舎、食堂の4棟が、北朝鮮当局から貸与され、村の管理や警備にあたる専従のスタッフが 配置され、家庭菜園や来客者向けの宿舎もあった。庭木の手入れが行き届いた広大な敷地にはグラウンドや一般国民には認められていないとみられる衛星放送の受信施設もある など、事件から約45年が経過した今も北朝鮮当局による厚遇ぶりがうかがえる。


パソコンに向かう若林盛亮容疑者
パソコンに向かう若林盛亮容疑者。メールはできるがネットには繋がっていない。
若林盛亮容疑者がパソコンにむかっている写真も公開されたが IT環境は厳しく制約されていて国際電話用の通信回線も最近整備されたものの、インターネットには繋がって いない。しかしパソコンで電子メールの送受信はできる。NHKや米CNNのニュースも見ることができたという。

公安当局によると、かつては「日本革命村」と呼ばれ、ピーク時には妻子も含め計36人が暮らしたが、刑期が短くてすむ妻子はほとんど帰国、日本に戻れば刑事訴追がまぬが れない者は帰国を拒んでいる。現在、日本人村で暮らしているのは小西隆裕(69)、若林盛亮(67)、魚本(旧姓 安倍)公博(66)ら6容疑者とみられる。

平壌中心部のビルで中古車などを扱う貿易会社を運営していたとされるが、ビルは昨年7月に当局に返還されたといい、事実上の隠居生活に入った可能性があるという。

日本政府はメンバー全員の身柄引き渡しを北朝鮮に求めている。しかし、グループはハイジャック事件については事実関係を認めるものの、魚本は有本恵子拉致事件へ関与した罪 で警察庁と国際刑事警察機構から国際指名手配されている。

◇ ◇ ◇

2014年5月16日このホームページへのアクセスが1万ページビューほど上がった。この日新聞などで上記のルポが掲載されたためとみられる。事件から45年、まだ多く の人が興味を持っていることをうかがわせた。

◇ ◇ ◇
よど号グループ平壌残留組6人の近影(2014年11月11日)


ツイッターにある6人の画像
ツイッターの自己紹介欄に載せている画像。
左から魚本(安部)公博、森順子、小西隆裕、若林盛亮、
赤木志郎、若林(黒田)佐喜子の各容疑者
「よど号グループがツイッター開始。でも、帰国の希望に厳しい反応」という記事が11月11日の朝日新聞に掲載された。そこで現在の彼ら残留組の 近影が紹介されている。


北朝鮮に渡った元赤軍派メンバーと妻のグループが支援者を通じて、ツイッターでつぶやき始めた。事件から44年。元メンバーらが高齢になるなかで、帰国の希望を世論に訴え かけるのが狙いだが、厳しい反応も多い。

〈1970年、日航機「よど」をHJ(ハイジャック)して北朝鮮に来たのです。以来、ずっとこちらにいます〉〈拉致疑惑をはねかえし日本への帰国をめざして頑張ります〉
グループのツイート(つぶやき)が流れ始めたのは10月3日。北朝鮮ではインターネットの接続先が制限され、ツイッターを使えないため、日本の支援者に定期的にメールを送っ て代わりに投稿してもらっている。しかし、元メンバーらの「肉声」には国内から厳しい反応も相次いでいる。

〈歴史の生き証人の方々と会話ができることに感動を禁じえません〉と好意的なものもあるが、大半は〈止(や)むことのない望郷の念が湧くのなら潔く罪を償う覚悟で帰国されよ〉 〈能天気ですね。拉致に対する意識が希薄で不愉快です〉など厳しい声が多い。
■元メンバーらのつぶやきと主な反応(抜粋)

・小西隆裕容疑者〈こんにちは、「よど号」の小西です。と言っても、分かる人はほとんどいないでしょうね。1970年、日航機「よど」をHJして北朝鮮に来たのです 以来、ずっとこちらにいます。なぜ帰ってこないのかですって? よく聞いてくれました。それについてもこれからおいおい話していきます。よろしく〉
→《反応》〈詳しく知りたいです!〉〈カビの生えた何の役にも立たない武勇伝など聞きたくない〉〈皆さんの言葉の耐え難いほどの軽さは、存在の軽さにつながります。ご注意 下さい〉

・赤木志郎容疑者〈日本と真っ正面から取り組もうと、日本という国と民族がどれほど貴重なものか、勉強しています。いろいろ教えてください〉
→《反応》〈めでたく地上の楽園に行けたんだから帰国なんて考えなくても良いのでは?〉

・若林(旧姓・黒田)佐喜子容疑者〈在朝30余年になる、私です。「じぇじぇ!!」ですよね[ちょっと古いかな]。今、「よど号拉致」逮捕状見直しの国賠をやってます。 ここ朝鮮の地から国賠のこと、日本への思い、日常の出来事をつぶやいていきます〉
→《反応》〈能天気ですね。拉致に対する意識が希薄で不愉快です〉〈どこで暮らそうが、歳(とし)を重ねれば爺(じじ)・婆(ばば)になりますな〉
日本革命村で生まれた筋金入り子供20人が日本に帰国

よど号ハイジャック犯9人が北朝鮮に逃亡したのは1070年。彼らは「日本革命村に住み、金日成体制の主体思想による徹底的な洗脳教育を受け、この間北朝鮮で日本人妻(日本から渡った)と結婚し子供を合計20名もうけた。日本革命村の周囲には、射撃練習場、格闘技場、研究所、アパートなどがあり、金正日総書記直轄の連絡部56課の指導のもと、家族全体で日々、革命教育が行われていたという。どんな教育内容かは彼らが毎朝唱える「10の誓い」を見ればわかる

【日本革命村で毎朝唱える10の誓い】
1、我々日本革命家は、偉大な首領金日成同志の革命思想で日本を金日成主義化するため青春も生命も捧げて闘うことを誓います。
2、我々日本革命家は、偉大な首領金日成同志と親愛なる指導者金正日同志を忠誠の一心を持って高く仰ぎ戴くことを誓います。
3、我々日本革命家は、偉大な首領金日成同志の権威と威信を絶対化し、首領様を擁護、防衛するために親衛隊、突撃隊、決死隊になることを誓います。
4、我々日本革命家は、偉大な首領金日成同志の革命思想を信念化し、首領様の教示を信条化し日本革命勝利のため、社会主義・共産主義偉業のため最後の血の一滴まで捧げて闘うことを誓います。
5、我々日本革命家は、偉大な首領金日成同志の教示と親愛なる指導者金正日同志の教えを無条件、徹底して遂行し、任務を貫徹することを誓います。
6、我々日本革命家は、日本革命の指導者である田宮同志を中心とする全党の思想的意思統一と革命的団結を強化することを誓います。
  7、我々日本革命家は、偉大な首領金日成同志と親愛なる指導者金正日同志に学び、共産主義的風貌と革命的活動方法、人民的活動作風を所有、体得していくことを誓います。
8、我々日本革命家は、偉大な首領金日成同志と親愛なる指導者金正日同志から授かった政治的生命を大切に守り、首領様の高い政治的信任と配慮に高い政治的自覚によって、忠誠心で応えていくことを誓います。
9、我々日本革命家は、偉大な首領金日成同志と親愛なる指導者金正日同志の唯一的指導の下に、組織の秘密を命懸けで守りながら活動することを誓います。
10、我々日本革命家は、偉大な首領金日成同志の導きの下、日本革命の偉業を代を継いで最後まで継承し完成させていくことを誓います。
  (出典:北朝鮮に拉致された日本人を救出するための全国協議会のHPより)

帰国した妻や子女は26人に上るが、このうち革命思想教育を受け、当時10代後半から20代に育っていた子供たちは20人。2001年から次々と帰国を希望、2009年には全員が帰国した。日本の国籍法により、日本国籍の選択ができるよど号ハイジャック犯の子供たちは、親の指導もあったのだろうが全員帰国を希望した。現在、国内各地に20人が支援者の支援を受けながら暮らしている。
[よど号犯の帰国子女]
●2001年5月 田宮長女(22歳)・小西長女(22歳)・田中長女(22歳)帰国
●2002年9月 小西次女(24歳)・岡本長女(25歳)・若林長男(24歳)・赤木長女(22歳)・魚本長男(23歳)帰国
●2004年1月 田宮長男(20歳)・岡本次女(22歳)・魚本長女(21歳)・魚本次男(19歳)・田中次女(17歳)・田中三女(14歳)・柴田次女(23歳)帰国
●2004年9月 田宮次男(16歳)・赤木妹長女(16歳)帰国
●2006年6月 柴田長女(27歳)・赤木妹次女(?歳)帰国
●2009年1月 若林次男(14歳)帰国
(年齢)は帰国時。

日本にいる支援者が戸籍編製(編製とは戸籍などを新しくつくること)の手続きをし、日本で生活しているが、洗脳されて筋金入りの過激派に育ち、地方選挙に出自を隠して立候補する者も出ている。

例えば、主犯格の田宮高麿の長男、森大志は1983年北朝鮮生まれで、「日本革命村」で育てられたのち、2004年、21歳で日本に帰国した。28歳になった2011年4月に三鷹市議会議員選挙に「市民の党」から立候補して、落選している。森大志を擁立した「市民の党」のルーツは「MPD・平和と民主運動」で、MPDは、元ブント(共産党)系の活動家たちが結成した日本学生戦線から発展した組織である。その「市民の党」には元総理大臣、菅直人の資金管理団体「草志会」が2007年から合計6250万円の政治献金を行い問題になった。

子供たちが「日本革命村」で受けた教育は、「10の誓い」を見ればわかる通り「組織の秘密を命懸けで守る」ことを誓い、「代を継いで」組織のために活動し続けるというものだ。忠誠を誓う「偉大な首領金日成同志と親愛なる指導者金正日同志」のあとに現在では「金正雲」の名が加わっているのかもしれないが、現在そこまでは確認されていない。しかし、子供や孫の代まで組織のために忠誠を誓ったテロリストになるという教育を学校で受けてきたわけだから、その行動は日本国内でも推して知るべし、である。

◇ ◇ ◇ ◇


この項は重信房子が逮捕されたところから書き始めたが、2001年重信は東京拘置所から日本赤軍の解散を宣言している。
2006年2月23日には「懲役20年」の東京地裁判決が出た。日本赤軍メンバーがオランダ・ハーグの仏大使館を占拠した「ハーグ事件」で、殺人未遂や逮捕監禁など3つの罪に問われていたが村上博信裁判 長は「重要かつ不可欠な役割を担っていた」と、最大の争点だったハーグ事件での実行犯との共謀を認定。「複数の国家を巻き込もうと武器を準備したうえ組織的に 敢行された犯行」と断じ、懲役20年(求刑無期懲役)を言い渡したのだ。判決主文を聞き、重信被告は傍聴席に向かって右手の拳を上げてみせたものの、か つての闘士も、事件から30年余を経てこの時既に還暦だった。

2007年12月20日東京高裁も一審を支持、重信は上告。このとき被告席で詠んだ「いちょう舞い さざんかの咲く日に 法廷の 控訴棄却は終わりにあらず」と いう短歌に思いを託し、退廷の際、握った右手の拳を高々と挙げて「ありがとう。よいお年を」と傍聴席に声をかけている。このほかにつくった短歌は、歌集 「ジャスミンを銃口に」として発表。また活動を振り返る手記を出版するなど、拘置所でも意欲的に活動している。裁判は続くといえ、出てくる時は「80歳」である。

ハーグ事件は、当時フランス当局に逮捕されていたメンバーの奪還を計画、和光晴生、西川純、奥平純三の3人が、昭和49年(1974年)年9月13日、拳銃や手榴弾で武装してオランダ・ハーグのフランス大使館を占拠し、 大使ら11人を監禁、警察官2人に発砲してけがをさせた。和光晴生(09年で61歳)は1997年2月15日、レバノン当局が別の事件で逮捕。刑期を終えた2000年に強制 送還され、警視庁に逮捕された。殺人未遂と逮捕監禁の罪で一、二審で無期懲役判決を受け最高裁に上告したが、2009年10月上告棄却され刑が確定した。

重信房子1    重信房子2


重信房子の手配写真(左)と逮捕時の写真(右)。時を感じさせる変化だ。

重信被告は昭和20年9月、東京都生まれ。都立第一商業高を卒業してキッコーマン醤油に勤めながら、昭和40年、明治大学2部 に通っていたところを赤軍派の生みの親、塩見孝也にオルグされた。在学中に学生運動に参加。「共産主義者同盟(共産同)赤軍派」(日本赤軍)が昭和44年に結成された時か ら中央委員に就任。日本赤軍の最高幹部となった。昭和46年には「世界同時革命」を掲げ、故奥平剛士幹部と偽装結婚し中東のレバノンに渡った。ここでパレスチナ解放機構 (PLO)の内部組織「パレスチナ解放人民戦線(PFLP)」と共闘。日本赤軍は、イスラエルのテルアビブ・ロッド空港襲撃事件などにかかわったとされる。第一次大戦時の著名な女スパイに なぞらえて「ブント(共産主義者同盟のこと)のマタハリ」と呼ばれた。

ハーグ事件で昭和50年に逮捕状が出され、平成元年に国際手配。平成9年以降、日本、中国、ベトナムを他人名義の旅券で16回行き来していたが、平成12年11月、 潜伏中の大阪府高槻市で逮捕された。1991年かに日本に戻り、日本での武力革命を目指す覆面組織「希望の21世紀」をつくって、社民党(旧社会党)との連携を 計画していたようだ。


重信メイ
重信房子の一人娘、メイさん
(日本テレビの「知ってるつもり?!」
=番組はすでに終了=から)
重信房子にはパレスチナ人との間に生まれた一人娘の重信メイさん(1973年生まれ)がいる。「革命」の命から名づけたといい、平成13年(2001年)に日本国籍を 取得して「帰国」した。メイさんはレバノンで母、重信房子から日本語と日本の風習を手取り足取りおそわったという。1997年、ベイルートのアメリカン大学を卒業 後、同大学政治学科大学院に在籍。レバノン大学では、ジャーナリズムを学び、現在、日本で塾講師のかたわらパレスチナ問題を中心に、中東問題などの講演活動や 著作活動をしながら母親の支援活動をしていて、東京拘置所の独房で過ごす母親の元を週一回は訪ねているそうだが、その母親は現在、歯槽膿漏(のうろう)に悩 まされているという。

2009年6月25日の産経新聞に東京拘置所でのインタビューが掲載されている。この時重信は63歳。前年大腸がんが判明、2月に手術を受けたが体調は悪いという。


「戦場では何度も捨てては拾った命。人にはそれぞれ定められた命があると思っている。それに向かってポジティブに生きたい」

全共闘運動がわずか数年でしぼんだことについては、「学生だけの運動になっていた。現実に多くの人たちに迷惑をかけ、彼らを踏みつけにしていることに気づい ていなかった。大義のためなら何をしても良いという感覚に陥っていた」

「日本には日本の社会にふさわしい合法的に政治や社会を変えるやり方をもっと重視すべきだと思います。これは反省して海外で思ったことです。運動を離れた人を 恨む気持ちはありません。彼らが運動をやめたのは『世の中を変えられない』と思うようになったから。運動を続けている者の責任として、そういう人を受け入れ られる基盤を作れなかったという反省もある」


日本赤軍誕生の経緯
もともと重信房子を抜擢したのは過激派集団、日本赤軍の生みの親、塩見孝也・元赤軍派議長だった。重信はさらに“塩見路線”に飽き足らず海外に 飛び出したもので日本赤軍の「鬼っ子」的存在だ。塩見孝也の名前はどの事件でも出てこないが、早くに逮捕され長く獄中にあったためだ。


塩見孝也
現在は駐車場で働く
塩見孝也・元赤軍派議長
(2008年7月)
塩見孝也・元赤軍派議長は1941年、大阪・十三(じゅうそう)生まれ。広島・尾道市の中学、高校を経て、2浪して京都大学文学部に入学した。在学中 の1969年正月に東大安田講堂の攻防があった。放水で陥落し学生運動は急速に沈静化に向かったところに「こんな生ぬるい運動では70年安保は乗り越え られない」と、関西地方の学生を糾合して「「共産主義者同盟(ブント)赤軍派」を結成(1969年9月4日、東京・葛飾公会堂)、議長に就任した。革命 軍を世界に送り出し「世界同時革命」を実現するという理論で、大菩薩峠(山梨)で手製の手榴弾の投擲など軍事訓練を行なっていたところを警視庁に 察知され、早朝、警視庁機動隊に襲われ(1969.11.5)計画は壊滅した。

この事件で幹部兵士を失った塩見・元議長は、航空機をハイジャックしてキューバか北朝鮮の海外の革命拠点で本格的な軍事訓練を受け、日本に帰って 革命を実現しようと計画する。ところが、タクシーで東京・駒込のアジトから出たところを逮捕された(1970年3月15日)。一人息子の満1歳の誕生日で 会いに行こうとしたらしい。急遽、残された田宮高麿ら9人が作戦を実行することになった。これが2週間後の「よど号事件」だった。捕まっていなか ったら指揮をとって北朝鮮に渡っていたのは塩見・元議長のはずだ。

逮捕された塩見・元議長の手帳には「HJ」の文字があったが、これがハイジャックを意味すると分かったのは、事件後のことだった。爆発物取締 法、破防法などの共同正犯で刑が確定。19年9か月の獄中生活の後、1989年の暮れに出所した。北朝鮮のよど号犯とも連絡を取っていて、これまで40 回ほど北朝鮮に渡っている。最近(2007年10月)接見禁止が解かれた重信に、塩見が四半世紀ぶりに東京拘置所で面会、透明なプラスティック越しに ハイタッチしたという。

産経新聞の連載企画「さらば革命的世代」(2008年7月3日)によると、かつて「日本のレーニン」と呼ばれた男は、東京都清瀬市のシルバー人材センタ ーに登録し、月9日ほど派遣先の駐車場で働いている。


「この年になって、ようやく労働の意義を実感している。39歳のひとり息子も『親父がまともな仕事をするのは初めてだ』と喜んでいます」
それまでの生計は「カンパや講演料に頼ってきた」というが、あえて働き始めたのは昨秋、心臓を患ったのがきっかけだった。「もっと自活能力を付 けたい。地に足のついた生活をしながら革命を追求したい」と思ったという。

「僕らは、若い力で暴力革命を起こそうと本気で思っていた」と振り返りながらも、当時の手法については、「未熟だった。軍事至上主義だった」と 率直に認める。赤軍派が公然と登場したのは44年9月。東大安田講堂の落城から8カ月が過ぎており、「全共闘はすでに行き詰まっていた。最後はド ンパチをやらないと世の中は変わらないと思っていた連中が僕のところに集まってきた」。

よど号事件についは、「人民を盾にしたという点で誤った方針だった。刑事責任に問うなとか、連れてきただけとか何とか言い訳をしないで、さっさと 帰国すべきだった。いまとなってはもう遅い。時期を逸した。彼らは帰ってこないほうがよい。北に骨を埋めなさいと言いたい。仮に帰ってきたなら、 そのときは不屈に最後まで闘うと意地を見せてほしい」。

最近では自身のホームページに加え、若者に人気のインターネットの会員制サイト「ミクシィ」に熱中。ハンドルネームは「預言者」で「『ミク友』と言 うんでしょうか、ミクシィを通じた若い友達は600人以上いるね」という。

塩見孝也・元赤軍派議長が死去
 日航機よど号ハイジャック事件を計画した元赤軍派議長で、実刑判決を受けた塩見孝也(しおみ・たかや)氏が14日午後9時53分、心不全のため東京都小平市の病院で死去した。76歳。広島県出身。葬儀・告別式は未定。

 昭和48年に共産同赤軍派を結成して議長に就任した。赤軍派のメンバーが日航機をハイジャックし、北朝鮮に渡った「よど号事件」を計画したが、実行に移す直前に別の事件で逮捕された。事件後に首謀者として再逮捕され、よど号事件のほか、首相官邸襲撃を計画し、山梨県の山中に同派活動家を集めて武闘訓練をした「大菩薩峠事件」などで懲役18年の実刑判決を受け、平成元年に出所した。

 出所後は北朝鮮に残るよど号犯とも交流した。駐車場の管理人の仕事に就き、赤軍派関連の書籍も執筆。最近は沖縄の基地反対運動や反原発運動にも参加していた。平成22年には関係者を集めて自身の「生前葬」を開いた。(産経新聞2017.11.15 )
塩見孝也氏の活動と言動をまとめた週刊新潮の「墓碑銘」がわかりやすいので採録し、併せて生前葬を紹介したブログがあるのでこちらに掲載しておいた。

連合赤軍とは
こうした赤軍派の動きと並行して、「革命は銃口から生まれる」という同じような過激派理論のもと、京浜工業 地帯の労働者や学生で結成した京浜安保共闘が、米大使館や米軍基地を火炎瓶で攻撃したり、銀行強盗で資金稼ぎをしていた。71年2月には栃木県真岡市の銃砲 店を襲って、銃と銃弾を手に入れた。この京浜安保共闘と赤軍派が地下でひそかにドッキングして作ったのが「連合赤軍」だ。

国際手配中の日本赤軍メンバー

ロッド空港事件の殺人容疑で国際手配されている岡本容疑者のほか、連合赤軍によるあさま山荘事件で起訴されたが、クアラルンプール事件で超法規的に釈放、 ダッカ事件のハイジャック防止法違反容疑で逮捕状が出ている坂東国男容疑者(59)ら7人が、現在も逃亡中。

警察庁は2010年4月1日、連続企業爆破などのテロ事件に関与したとして殺人容疑などで国際指名手配している日本赤軍メンバー7人のうち男女3人について新た な写真を入手、一部の写真を差し替えた手配ポスターを配布した。

佐々木規夫(61)、奥平純三(61)の写真は平成10年ごろ、東京都千代田区有楽町の東京都旅券窓口で、実在する別人になりすまして旅券を受けた際のもの だという。大道寺は海外で外国人の名をかたって潜伏している模様。写真は、現地関係機関から提供されたものとみられる。

佐々木、大道寺は昭和49年、東京・丸の内の三菱重工本社ビルなどを相次いで爆破、8人を殺害し380人に重軽傷を負わせた連続企業爆破に関与した容疑で、 奥平は同年にオランダ・ハーグのフランス大使館を占拠した事件など4事件で殺人などの容疑でそれぞれ国際手配されている。

【国際手配中で現在逃亡中の日本赤軍】(年齢は2010年現在)

赤軍メンバー
赤軍メンバー手配A
2010年4月警察庁配布の最新の手配写真。
重信と西川が外され岡本公三が入っている。

赤軍メンバー
赤軍メンバー手配@(平成9年のもの)
 西川は1997年11月ボリビアで逮捕、公判中。
重信房子は控訴中。岡本公三だけ手配写真がない。
 岡本 公三 (62)
 奥平 純三 (61)
 佐々木規夫 (61)
 大道寺あや子(61)
 仁平  映 (63)
 坂東 国男 (63)
 松田  久 (61)


日本赤軍メンバー城崎勉37年ぶりの帰国、逮捕


城崎勉i2015
37ぶりに帰国、逮捕された城崎勉
(2015年2月20日)
1986(昭和61)年5月にインドネシアの日米両大使館に迫撃弾が撃ち込まれたジャカルタ事件で、警視庁公安部は2015年2月20日、現住建造物等放火未遂と殺人未遂の疑いで、米国から 成田空港へ強制送還された日本赤軍メンバー、城崎勉容疑者(67)を逮捕した。完全黙秘しているという。

城崎容疑者は77(昭和52)年、日本赤軍が日航機を乗っ取りメンバーらの釈放を求めたダッカ事件で、人質交換の要求に応じた日本政府(福田赳夫総理大臣)が「人命は地球よりも重い」と 「超法規的措置」で釈放したうちの一人。37年ぶりの帰国となった。


城崎勉1977
超法規的措置で釈放された時の城崎勉
逮捕容疑は86年5月14日午前11時半ごろ、インドネシアの首都・ジャカルタで日本大使館に迫撃弾を発射して人を殺害しようとしたほか、迫撃弾を発射した近くのホテルの一室に放火して証拠 隠滅を図ったなどとしている。迫撃弾が発射された室内などから、城崎容疑者の指紋が見つかり、公安部が92(平成4)年に国際手配していた。

96(同8)年9月、ネパールで潜伏中に偽造旅券容疑で身柄拘束され、米国に移送され、ジャカルタ事件で禁錮30年の判決を受けテキサス州ボーモント連邦刑務所で服役していたが、刑期短縮 され、釈放後日本に強制送還された。

城崎勉は富山県出身。徳島大学入学、共産同赤軍派に参加。M作戦に関与して逮捕され、懲役10年が確定して府中刑務所服役中の1977年にダッカ日航機ハイジャック事件で超法規的措置で釈放され 、日本赤軍に参加。その後、国際指名手配される。1992年に刑法により有期懲役の時効の15年が経過したため、服役中の日本における懲役10年の刑の時効が成立(刑の時効は公訴時効と異なり、国 外逃亡の時効停止規定がない)している。

◇ ◇ ◇

久しぶりに聞く日本赤軍の名前だったが、本人は「完黙」で通しているというからまだ闘士の気分のようだ。「超法規的措置」がなければ強盗で10年食らったザコだった。37年ぶりの帰国と言っ てもシャバにいたのは19年でほとんど刑務所暮らし。成田に着いてはじめて写真が撮られたが、ご覧のとおり、すっかり初老のおっさんで、なにか哀れをもよおす姿だった。


日本赤軍と「超法規的措置」
日本赤軍は、過激派共産同赤軍派のメンバーらが中東で結成した国際テロ組織で、72年にはイスラエルのテルアビブ空港乱射事件で100人を超える死傷者を出すなど、世界各地でテロ行為を繰 り返した。いわば日本国産初のテロ集団だったが、上述のように組織そのものは2001年に最高指導者だった重信房子が東京拘置所から日本赤軍の解散を宣言している。

しかし、当時の日本政府はテロへの対応を誤り、二度にわたって要求をのみ、「超法規的措置」をとって獄中にあった過激派を釈放した。一度目は三木武夫首相当時の1975年で、日本赤 軍が在マレーシアの米国大使館などを占拠したクアラルンプール事件の時。機動隊との銃撃戦で死者3人を出した「あさま山荘事件」の実行犯で服役中だった坂東国男、多数の死傷者を出 た1974年8月30日、東京都千代田区丸の内で発生した、東アジア反日武装戦線「狼」による三菱重工爆弾テロ事件に関与したとして服役中だった佐々木規夫らが釈放された。二度目は福田赳夫首相 当時の1977年、日本赤軍が日航機を乗っ取り、乗客との人質交換を求めたダッカ事件で、城崎勉はこのとき釈放された一人。

2度の超法規的措置で釈放された活動家らは11人を数え、いまだに逃亡中のものが7人もいる。テロへの対応を間違ったつけの数でもある。

http://home.r07.itscom.net/miyazaki/bunya/#asama
http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/287.html#c110

[近代史3] 若松孝二 実録・連合赤軍 あさま山荘への道程 (2007年) _ 1970年代はこういう時代だった 中川隆
111. 中川隆[-11387] koaQ7Jey 2019年3月18日 19:40:47 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[613]

アカシアの雨に打たれた安保
http://home.r07.itscom.net/miyazaki/bunya/#asama


60年安保は学生で、機動隊に追われる立場。70年安保は機動隊のうしろで取材する立場だった。札幌中央警察署の看板をかっぱらって、みんなで 小便をひっかけるという、なにやらマンガチックなことにうつつを抜かしていた。入学した昭和34年、北大からは唐牛健太郎(かろうじ・けんたろう)という 全学連委員長を出している手前、がんばらねばならぬ雰囲気があったが、実態は子供じみていた。

唐牛健太郎
晩年の唐牛健太郎


■唐牛 健太郎(1937−1984)
新左翼を象徴する共産主義者同盟(ブント。書記長・島成郎)が指導した60年安保全学連の伝説的な委員長。60年安保の象徴的存在。函館の湯の川温泉の芸者の子、いわゆる 庶子として生まれ、道立函館東高校入学。がり勉ではなかったが教師が「唐牛が現役で北大にはいるかどうか」で賭けをしているのを聞いて猛勉して 1956年現役で北海道大学教養部(文類)に入学。入寮資格がゲルピン(貧乏)だけだった恵迪寮(けいてきりょう)に入る。1年の夏休みに休学して上京、第二次砂川闘争に参加。そのまま学生運動に身を投じた。

翌年北海道に戻り、北大教養部自治会委員長、日本共産党北大細胞に入党。しかし、共産党が指導する安保闘争に限界を感じて、ブント書記長、島成郎が北海道まで来ての強い説得を受けて上京、昭和34年(1959)の全学連第14回定期全国大会で中央執行委員長に就任。「輝ける全学連委員長」として60年安保闘争の頂点に立った。アジテーターとして傑出した強烈な個性と卓越した指導力で異彩を放った。そのカリスマ性は「ゼンガクレン」「赤いカミナリ族」の異名とともに、外電にも載って全世界を駆けめぐった。

唐牛逮捕
羽田で逮捕される唐牛健太郎(1960.1.16)
唐牛が、「60年安保」で実際に歴史の表舞台で活動した期間は、通算3か月ほどの短期間に過ぎなかった。全学連委員長として指揮した岸訪米反対デモで逮捕された(写真右=1960年1月16日)あと、その後のけた外れの長期拘留のためで、最後に保釈されたのは、安保闘争終了の半年後であったが、周りに強い影響力を与えた。藤本敏夫(日大全共闘、歌手・加藤登紀子の夫)は、のち唐牛の追悼集で『唐牛健太郎のまわり百メートルは、いつも革命的であった』と述べている。

元自民党幹事長で、60年安保闘争当時、父が自民党代議士でありながら、全学連主流派のデモに東大時代「3回だけ参加した」経験をもつ加藤紘一は「昔なら唐牛さんは、農民運動の名指導者になっていたのではないだろうか。人間を見る目の確かさ、鋭さ、暖かさは、保守・革新の枠を超え、われら『60年安保世代の親分』と呼ぶにふさわしいものだった」と『唐牛追想集』に一文を寄せている。

評論家、西部邁も「彼の示した明るさの半分は天性のものであろうが、あとの半分は自己の暗闇を打ち消さんがための必死の努力によってもたらされたものである。彼の明るさには心の訓練によって研磨された透明感のようなものがあり、その透きとおったところが私には寂寥と感じられた。」と、同時代人の目で書いている。

闘争後、北洋漁業の漁師をしたり、太平洋横断の堀江謙一などとヨットの会社を興したり、飲み屋を営んだり、衆議院奄美群島選挙区で徳洲会・徳田虎雄の選挙にも関わったりした。また右翼の巨頭とされる田中清玄の許に身を寄せ、ゼンガクレンが資金提供を受けていたことが暴露されたりした。このため「左翼運動も左、左と行くと右になる」などと言われるなど毀誉褒貶が多かったが、弁解したことはなかった。

昭和59年(1984)3月4日、直腸ガンのため死去。青山斎場でのお別れ会では、加藤登紀子が、彼が好きであった「知床旅情」を歌った。

私は彼とはクラスメートにあたる。といっても、あちらがだいぶ上だ。当時、北大の教養部では第2外国語にフランス語を選ぶと自動的に「4組」に編入された。 彼は入学時にフランス語を取ったのだが、学生運動に忙しくてほとんど東京にいて札幌に戻ってくる時間はない。かくて、毎年ドッペって(落第して)いたのだが、 この時に自動的に一年下の「4組」に落ちてくる。こうして私と同じクラスになっただけ、一度も会ったことがない。大学に は教養4年、学部4年の計8年しかいられない。このクラスを最後にまもなくむこうさん除籍になった。

私はクラス委員をしていたが、役目は講義時間ごとに教官と交渉して休講にしてもらい、クラスをまとめてデモ隊への参加者を増やすことだった。樺美智子が死んだ ときなど、運動のピーク時にはデモ隊の先頭が大通り公園に達しても最後尾はまだ大学の正門を出ていないというほどだった。機動隊が充実されるのはその後の話で 学生に比べて圧倒的に数が少なかった。

このころのデモ隊は投石などせず、シュプレヒコールしながら時折ジグザグをやるくらい。機動隊に隊列を切断されたりすると竹ざおで殴りかかるくらいが関の山だったが、 機動隊側には少数ゆえの恐怖感があったのだと思うが、荒っぽかった。捕まったことがあるが、写真に写る腰から上は何もしていないが、下はあの固い靴で蹴り上げてきた。頭にきて殴りかかると証拠写真にはこちらの手を振り上げた姿ばかりという図式だ。

警察もまだのんびりしていて、捕まっても身元引受人がいるとすぐ釈放されるのだが、こちらは遠方から来ているから地元に知り合いなど少ない。 実は遠い親戚が2人いたがその仕事柄、学生運動などとんでもない立場だったし、もう一人、両親が仲人をした縁でよく食事に招かれたりしていた人は札幌高裁の判事をしていて、これまたとても名前を出すわけにはいかなかった。だから警察の方で扱いに困って放り出されるまでけっこう時間がかかった。下宿に戻っても誰も不審には思わなかった。運動部の合宿で留守にしていたのだろうくらいの反応である。公安が下宿に身元を調べに来た様子もなかった。要するにパクってはみたものの雑魚扱いで、興味もなかったのだろう。

安保活動はその後急速にしぼんだ。もともとデモ隊で条約の中身を知っているものなど皆無だった。私もさっさと所属していた馬術部と、ヨット部と自分でつくった探検部の活動に打ち込んで、アンポの影など周囲にまったくなくなった。

卒業後マスコミに身を投じた。地方支局に配属になり、何年か過ごして本社に戻った。所属先は大阪社会部で、取材するのが大阪の安保闘争だった。70年の安保改定まであと3、4年となり再び反対運動が盛り上がってきた。しかし過激派の分裂でデモ隊はセクトごとに動き、激しさを競ううちに、デモ隊が次第に荒れてきた。当初ヘルメットも要らなかったくらいだったのが、記者とカメラマンが投石よけの透明板、後頭部を守るひたたれつきのヘルメットで現場に立つという時代になった。
さらに、東京に異動した。創刊されるタブロイド紙「夕刊フジ」の要員として報道部にいた。60年アンポから8年、今度は70年アンポの東京のデモ隊を取材する立場に なった。セクト対立でどこがどう違うのか判然としないまま、過激派の連中が大言壮語する姿にアホらしさを感じていた。だが運動自体は荒れに荒れていく。催涙ガスにむせびながら日比谷交差点に立っていた。デモ隊はさらに先鋭化して都電や国鉄の敷石を剥がして投げるようになっていた。

「60年安保」と「70年安保」の違いはあるが、機動隊と対峙していたわが身が、わずか10年でいま、(安全な)機動隊のうしろで投石よけのひたたれがついた ヘルメットで催涙ガスのなかにいる。さすがに思想のむなしさを感じないわけにいかなかった。

◇ ◇ ◇
60年安保と70年安保
今となっては、60年安保と70年安保の違いも説明しないとわからないだろうが、大雑把に我流の解説をするなら以下のようなことだ。立場によって異論があるやも知れないが。


日本が米国占領下にあった1950年6月25日、朝鮮戦争が勃発した。これによりアメリカは日本占領政策を放棄して朝鮮半島に専念せ ざるを得なくなった。日本を自由主義陣営にとどめ、且つ自立させるために、1950年7月警察予備隊の結成を命じ(自衛隊設立は1954 年6月)、翌年には日米安全保障条約及びサンフランシスコ平和条約を締結させ、日本の再軍備と国際社会への復帰を急いだ。

1952年安保が発効したが、韓国の李承晩・初代大統領が一方的に対馬海峡に李承晩ラインを設定して日本漁船を拿捕、竹島も不法占 拠した。軍事力がない日本は何もできず、米軍もまた日本を助けなかった。このときの安保条約ではアメリカに日本を防衛する義務が なかった。


岸信介首相
(アンポから20余年後の写真)

日本の要望を受ける形で岸信介内閣は旧安保を改定、日米が共同して日本防衛にあたるとした(第5条)新安保条約を締結した。これに反対する 社会党と共産党主導の反対運動が「60年安保闘争」だ。(「60年安保闘争」の経過ではこのサイトがよくまとまっている。

1960年5月19日、自民党主流派が強行採決を行なったことで世論は反岸内閣、反安保に向かった。5月20日未明、新条約が強行採決されるや国会周辺のデモ隊は日増しに激しく、学生、労組から一般市民まで広がり内乱的様相を帯びていく。自衛隊の出動も検討された。

その可能性を記者から「蒋介石は『暴にむくいるに徳をもってする』といったが、首相の考えは『力に対し、力でむくいる』ことになるのではないか」と問われた時の岸信介元首相の答えは「いま屈したら日本は非常な危機におちいる。認識の違いかも知れぬが、私は“声なき声”にも耳を傾けなければならぬと思う。いまのは“声ある声”だけだ」と述べた。のちのちまで口の端にのぼる<声なき声>発言である。

国会前デモ
強行採決の日(1960.6.15)国会前を埋め尽くして
ぶつかり合った警官隊とデモ隊(右)。ここで樺美智子が死んだ。

樺美智子
国会前デモで
死んだ樺美智子


国会をデモ隊が取り囲んだとき、一気に表舞台に登場したのが日共から分派した新左翼で急進派の先端にあった「共産主義者同盟=ブント」 だった。ブントは全学連を組織し6月15日デモ隊を国会に突入させた。この時ブントの手伝いをしていた東大生、樺美智子さんが隊列の中で巻き込まれて圧死、安保闘争はピークを迎えた。
※ブントとは 戦後の学生運動を指導した全学連は日本共産党の指導下にあったが、ハンガリー事件やスターリン批判などを受け共産主義体制が揺らぎ、全学連は共産党批判に転じた。共産党は香山健一、島成郎ら全学連指導者を除名、武装闘争放棄に転じたため全学連主流派は反共産党派をま とめ「共産主義者同盟」を結成した。これが「共産同」とか「ブント」と呼ばれる党派。1847年ロンドンで亡命ドイツ人を中心に結成された秘密結社「共産主義者同盟」 (der Bund der Kommunisten)にちなみ、ブントは「同盟」を意味するドイツ語。60年代の学園闘争や安保闘争で新左翼を引っ張った組織だったが、1970年以降、学生運動が下 火になると四分五裂し弱体化した。

その10年後、安保条約の自動延長の期限がやってきた。これに反対する運動を「70年安保闘争」という。前年の東大安田講堂攻防事件はじめ、新宿騒擾 事件、4・28沖縄闘争(44年)等の集団武装闘争を繰り広げたが、過激派の各セクト(革マル、中核など)が乱立して火炎ビン闘争ま でエスカレートしたが、セクト間の内ゲバで組織は壊滅に瀕し、日本赤軍派のハイジャック事件、連合赤軍による凄惨な同士討ちの 連続リンチ殺人まで起し運動自体が荒廃の一途をたどって国民の支持を失い最後は三島由紀夫の憂国の諌死事件で幕を下ろす。
60年と70年、両方のデモ隊の画像があるので下に紹介した。


 
 
前が60年安保、後が70年安保の様子。
モノクロとカラー、首相の名前、デモ隊の服装など10年の時代差を感じる。

09 - 60年安保闘争 - 1960 - YouTube動画
https://www.youtube.com/watch?v=ggLGEFr-ZPk&fs=1&hl=ja%5FJP&color1=0xe1600f&color2=0xfebd01

24 - 70年安保闘争 - 1970 - YouTube動画
https://www.youtube.com/watch?v=iveB4YMJPuw&fs=1&hl=ja%5FJP&color1=0xe1600f&color2=0xfebd01


     
◇ ◇ ◇

西田佐知子の「アカシアの雨に打たれてこのまま死んでしまいたい・・・」が、安保の挫折感を代表するテーマソ ングで、たしかに気分がよく出ている。しかし、これは昭和36年に世に出た歌で、60年安保の初めにあたる昭和34、5年のデモ隊は水原弘が歌った「黒い花びら」が 愛唱歌だった。第一回レコード大賞(昭和34年)受賞曲だが、白い雪を踏みしめてキャンパスを歩きながら「黒い花びらとは妙な取り合わせだなあ」と思った。

あのとき先頭に立った社会党は、党内意見が分かれているとはいえ、 いま安保是認を党として認めようとしている。なにより社会党自身が人気がなくなってしまった。名前もいつしか社民党となった。万年野党が連合政権を担い首相を 出すや自衛隊をあっさり認めるとは誰があの時想像したろう。いまは女性を党首に立てて脱皮をはかりつつあるものの、2007年参議院選でさらに議席を 減らし劣勢覆うべくもない。テレビのモーニングショーに出てきて、事件ニュースにまでいっぱしのコメントをしている女性党首を見ると、もう歴史的使命を終えたといっ てもいいだろう。

60年安保では大学のクラス討論会にまで社会党や共産党のオルグが入ってきたものだ。それが、いわゆる「55年体制」の保革2大政党の「対立」時代は表向きで、裏では 「馴れ合い」時代だったことが、新聞記者として議会内を取材するうちにわかってくる。社会党の議員が外遊する際には自民党の領袖のもとを回って餞別を集めたという類の話が わんさと出てきて幻滅したものだ。「アンポ」はなんだったのかと思う。

いま民主党議員として口角泡を飛ばす人物の多くは少し前まで日教組や自治労から出た旧社会党議員だ。変わり身の早いことに感心するが、船が沈むときにはいち早く脱出するというネズミ を見る思いだが、相づちを打っている民主党有力議員の大半はちょっと前まで自民党右派で鳴らした人たちだ。どこに共通項を見出しているのだろうか不思議でならない。

◇ ◇ ◇
西田佐知子だ「アカシアの雨がやむとき」だといっても、何だそれはという時代になった。当時、アカシアの街、札幌に居たせいもあり、この歌も「アンポ」もごく 身近だった。こんな歌だ。


    「アカシアの雨がやむとき」
       作詞:水木かおる 
       作曲:藤原秀行


アカシアの雨がやむとき 西田佐知子 - YouTube動画
https://www.youtube.com/results?search_query=%E3%82%A2%E3%82%AB%E3%82%B7%E3%82%A2%E3%81%AE%E9%9B%A8%E3%81%8C%E3%82%84%E3%82%80%E3%81%A8%E3%81%8D+%E8%A5%BF%E7%94%B0%E4%BD%90%E7%9F%A5%E5%AD%90&sp=mAEB

 アカシアの 雨にうたれて
 このまま 死んでしまいたい
 夜が明ける 日がのぼる
 朝の光の その中で
 冷たくなった わたしを見つけて
 あの人は
 涙を流して くれるでしょうか

 アカシアの 雨に泣いてる
 切ない胸は わかるまい
 思い出の ペンダント
 白い真珠の この肌で
 淋しく今日も 暖めてるのに
 あの人は
 冷たい瞳(め)をして 何処(どこ)かへ消えた

 アカシアの 雨が止む時
 青空さして 鳩がとぶ
 むらさきの 羽の色
 それはベンチの 片隅で
 冷たくなった 私のぬけがら
 あの人を
 さがして遥(はる)かに 飛び立つ影よ

水原弘の「黒い花びら」の方も画像があるので紹介しておく。


     「黒い花びら」
       作詞:永 六輔
       作曲:中村 八大


黒い花びら 水原弘 - YouTube動画
https://www.youtube.com/results?search_query=%E9%BB%92%E3%81%84%E8%8A%B1%E3%81%B3%E3%82%89+%E6%B0%B4%E5%8E%9F%E5%BC%98


1 黒い花びら 静かに散った
   あの人は 帰らぬ 遠い夢
  俺は知ってる 恋の悲しさ
   恋の苦しさ
   だからだから もう恋なんか
   したくない したくないのさ

2 黒い花びら 涙にうかべ
  今は亡い あの人 あゝ初恋
  俺は知ってる 恋の淋しさ
  恋の切なさ
  だからだから もう恋なんか
  したくない したくないのさ


http://home.r07.itscom.net/miyazaki/bunya/#asama
http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/287.html#c111

[近代史3] 若松孝二 実録・連合赤軍 あさま山荘への道程 (2007年) _ 1970年代はこういう時代だった 中川隆
112. 中川隆[-11386] koaQ7Jey 2019年3月18日 19:42:00 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[614]

標記映画の動画リンク追加


若松孝二 実録・連合赤軍 あさま山荘への道程 (2007年) 動画
https://www.youtube.com/watch?v=q_uMjzQAwnM
https://www.youtube.com/watch?v=cicGFPx-4GE

▲△▽▼


<再現>日本赤軍事件 - YouTube 動画
https://www.youtube.com/watch?v=QNNokzO4u-Y
https://www.youtube.com/watch?v=3dN3r3H4mSU


重信房子独占インタビュー 1973 - YouTube 動画
https://www.youtube.com/watch?v=rXIUjCImv1M

映画『革命の子どもたち』予告編 - YouTube 動画
https://www.youtube.com/watch?v=93xiGKx5ASU


▲△▽▼


連合赤軍あさま山荘事件 完全版 - YouTube動画
https://www.youtube.com/watch?v=_7538Mapqd8

https://www.youtube.com/watch?v=JbXHqyyCvRY
https://www.youtube.com/watch?v=UgCwy_WQP60
https://www.youtube.com/watch?v=6dy2fbMgILE

<再現>連合赤軍 山岳ベース事件  - YouTube 動画
https://www.youtube.com/results?search_query=%EF%BC%9C%E5%86%8D%E7%8F%BE%EF%BC%9E%E9%80%A3%E5%90%88%E8%B5%A4%E8%BB%8D+%E5%B1%B1%E5%B2%B3%E3%83%99%E3%83%BC%E3%82%B9%E4%BA%8B%E4%BB%B6&sp=mAEB

銃撃と粛清の神話 1972年連合赤軍あさま山荘事件 - YouTube 動画
https://www.youtube.com/results?search_query=%E9%8A%83%E6%92%83%E3%81%A8%E7%B2%9B%E6%B8%85%E3%81%AE%E7%A5%9E%E8%A9%B1+1972%E5%B9%B4%E9%80%A3%E5%90%88%E8%B5%A4%E8%BB%8D%E3%81%82%E3%81%95%E3%81%BE%E5%B1%B1%E8%8D%98%E4%BA%8B%E4%BB%B6

【昭和】連合赤軍30年目の真実【大事件】 - YouTube動画
https://www.youtube.com/watch?v=VwrRJSLg7nU

連合赤軍兵士 41年目の証言 - YouTube動画
https://www.youtube.com/watch?v=fBusjiyrX78


▲△▽▼


しかし、昔の学生やインテリは随分 IQ が低かったみたいですね。

当時の日本は一億総中流で、マルクス主義の前提になる階級自体が存在しなかったので、いくら社会不安を起こしても階級闘争や革命なんか起きる筈がなかったのですけどね。


まあ、今の学生やインテリが賢くなったというのでなく

今だけ、金だけ、自分だけ

という価値観に変わっただけなのですが。


世界の国で中間層が部厚かったのは平成バブル崩壊までの日本だけです
そしてそれは、終戦直後に GHQ が農地改革、意図的なインフレと預金封鎖、極端な累進課税で人為的に所得再分配をやった結果なのです。

日本共産党や労働組合を創設させたのも GHQ なのですね。

平成バブル崩壊までの日本が世界で最も成功した社会主義国だと言われていたのは
すべて GHQ の共産化政策の結果なのです。

20年前まで大学関係者や学生が左翼とマルクス主義者ばかりだったのも GHQ の教育方針の結果でしょう。

http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/287.html#c112

[近代史3] 若松孝二 実録・連合赤軍 あさま山荘への道程 (2007年) _ 1970年代はこういう時代だった 中川隆
113. 中川隆[-11385] koaQ7Jey 2019年3月18日 20:27:39 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[615]
安保条約の改定反対と新左翼

(1)60-70年・安保条約の改定と反対運動 


●60年安保とは

 昭和32(1957)年2月25日に成立した岸政権の最大の課題は、アメリカの占領下で作られた日米関係を、独立国としての新しい日米関係に転換することであった。
 その観点から、昭和26(1951)年9月の講和会議の際に吉田茂政権によって締結された、日本にとってきわめて片務的な日米安保条約を、日米対等の国際条約に改定することが、岸政権にとっての最大の目玉政策であった。
 
 吉田自由党と鳩山民主党が保守合同を実現して現在の自民党が誕生したのは、昭和30(1955)年11月15日のことである。最初の自民党の首相は鳩山、石橋と続いたが、共に病気もちであり、その間の自民党・幹事長であった岸信介が首相として本格的に表舞台に登場したのは、その2年後のことであった。

 岸信介は、太平洋戦争の開戦時の東条内閣において商工大臣をつとめた、戦前の日本を代表する政治家である。

 岸の経歴は、戦前の商工省出身の所謂「新官僚」として、日本の植民地であった満州国の建国・経営に携わり、東条英機などと並んで同じく満州で名をあげた「2キ3スケ」(*)の1人に挙げられたほどの有名人であった。

 この人物が戦後の保守本流に返り咲いたわけであるから、戦争責任が厳しく追求されてきた西欧などにおいては考えられない政治的復活である。

*「2キ」とは、東条英機(満州事変後の関東軍憲兵司令官、のちに開戦時の内閣
  総理大臣となる)と星野直樹(内閣書記官長)のこと。

 「3スケ」とは、松岡洋右(近衛内閣の外務大臣)、鮎川義介(満州重工業など
  を通じて軍部と提携して満州開発を主導した実業家)そして岸信介(満州国・
  実務部次長)を指し、日本の大陸政策を代表した中心的人物のことである。

 この岸政権が、吉田政権によって占領下の時代に、アメリカの利益に大きく比重をかけて作られた日米関係を、独立国として対等の日米関係に移行させようと考えるのは、至極当然のことであった。

 その岸政権の最大の目玉は、昭和35(1960)年に改定が予定されている新安保条約の締結であった。ところが意外なことに、日本国民はこの日米関係の対等化を狙った新安保条約の実現に対して、史上に類を見ないほどの抵抗と反発を示した。

 その理由は、ひとつはアメリカと対等の軍事的関係を締結することにより、アメリカによるアジア戦争に巻き込まれることを怖れたことであり、いまひとつは戦前派の岸政権により戦後民主主義が解体されることを恐れたことにある。

 これが日本全土に繰り広げられた反安保、反岸の国民運動であり、それが60年安保反対運動の本質であった。

 この国民運動は、学生運動の参加により先鋭化し、昭和35(1960)年6月15日に2万人が参加した国会デモにおいては、遂にデモ隊が国会に突入して東大生・樺美智子さんが死亡するという事件に発展した。

 この際の機動隊による過剰警備に反発した人々は、その翌日には、女子学生の死を悼む5万人のデモとして国会をとりまいた。

 このような国民的な反対運動の高まりにもかかわらず、6月18日には、33万人の労働者、学生、市民が国会を取り巻く中、岸政権による新安保条約は自然成立した。そして、この安保反対運動の挫折が、日本の新しい歴史の出発点になった。


●戦後の現代史は60年安保から始まった!

 60年安保の国民運動の高揚とその挫折は、それから40年にわたる日本の現代政治史の出発点になった。それはこの国民運動の中心になって戦後民主主義を守るために戦った世代が、昭和20年代に生まれた戦後世代であることからくる。

 そしてその主体になった人々は、今や60歳台の老齢にさしかかっており、これから始まる時代は、戦後世代にとっては「未来史」になるわけであり、その意味では戦後世代の現代史は今終わろうとしている。

 現在の日本の安倍政権は、図らずも岸信介の孫にあたる政権であり、その政治的発言は、岸信介が40年前に言ったことに果てしなく類似している。

 その意味から、今、我々は新しい時代の始まりにいると思われる。

 昭和35(1960)年7月15日、岸政権に代わって政権の座についた池田首相は、「所得倍増」、「寛容と忍耐」を政策の冒頭に掲げた。今から考えると、この2番目の政策である「寛容と忍耐」の意味が極めて分りにくい。

 池田は、日本の「高度成長政策の創始者」として高い評価を得ている宰相である。そこに加えられた「寛容と忍耐」とはフシギな言葉である。

 実は、池田は政治面では本来、岸に負けないタカ派の政治家であった。しかし岸政権に対する国民的反感を考えると、政治的には「寛容と忍耐」で臨み、経済中心の政策に重点を移そうとした政策として考えると、この言葉の意味は良く分かってくる。

 つまり60年安保の国民運動の大きな成果は、岸政権が政治的に実現しようとした政策が40年間もの長い間、休眠せざるを得なくなったことにある。

 それは岸の孫である安倍政権により、ようやく今に至って国民の前に現われ始めたといえる。

 その一方で、60年安保の国民運動は、現代につながる日本の右翼と左翼の政治的運動に大きな影響を齎した。

 つまり「新右翼」、「新左翼」は安保反対の運動を通じて誕生してきたものである。

 右翼の運動は、本来、1人1派の政治運動であり、大きな流れは掴みにくい。

 しかし前回、このwebでとりあげた三島由紀夫の「楯の会」は、まさに60年安保の国民運動の中から誕生した新右翼の典型的な運動のひとつであり、それは自衛隊にも大きな影響を齎した。

 三島由紀夫は、60年安保の丁度10年後の70年安保が不発に終わり、そのために「楯の会」の出番が失われたことから自死の道を選んだ。

 しかし一方の左翼の運動も、60年安保の成立=挫折から70年安保までの間に、組織は4分5裂して、その内部抗争が激化し、新左翼の運動は国民の支持を失って自滅への道を歩んだ。

 そこで、あせった新左翼の一部は、さらに先鋭化して武装闘争にのめりこんでいった。武装闘争は社会革命の条件となるものであるが、高度経済成長下にあった1970-80年代の日本社会に、社会革命の条件が存在するわけはなかった。

 新左翼の政治運動における自滅化の危機意識が武装化を生み出し、それがさらに新左翼運動の衰退を決定的なものにした。

 その悲劇的な展開が、日本赤軍と連合赤軍の事件である。「日本赤軍」は、武装革命の条件のない日本を脱出して世界革命を目指した。そして「連合赤軍」は、国内の山岳に「革命」の拠点を求めて彷徨った上、「総括」と称して仲間を次々に粛清するという悲劇的な過程をへて自滅することになった。


●肩すかしをくった70年安保闘争

 昭和45(1970)年1月14日に、第3次佐藤内閣が成立した。そこで中曽根防衛庁長官は、1957年以降の「国防の基本方針」として、「外部侵略には日米安保体制を基調として対処する」方策をとり、「自主防衛」中心にする事を明らかにした。

 この自主防衛を基調にした国防計画は、70年に原案が完成し、72年から実施する4次防の柱になった。つまり70年安保の重点は、60年安保における日米の軍事協力関係の実現から、より国民的理解が得やすい日本の自主防衛に大きく切り替えられた。

 しかし3次防では5年間に2兆3千億円であった予算規模は、4次防では一挙に倍増して5兆5千億円になった。そして従来の陸上兵力を中心にしていたものから、海上自衛隊の強化が重点とされ、さらに航空自衛隊の強化に重点を移していくとされた。

 このことにより陸海空の3軍の軍事力が強化され、独立国家として必要な軍事力が装備され始めたことになる。

 当時、アメリカのニクソン政権は、泥沼化するベトナム戦争からいかにして名誉ある撤退をするかに腐心していた。そのため日本の軍事力が強化されてアメリカの軍事的負担が軽減されることは、ニクソン政権の大いに歓迎するところでもあった。
 1970年は、日米安保の見直しの年である。ここで日本の軍事力強化をアメリカに提案して、日米安保条約はそのまま自動延長にすることは、日米の双方にとって非常に好ましいことであった。

 そこで佐藤内閣は6月22日、日米安保条約の「自動延長」を決めた。60年安保の時、岸信介の実弟である佐藤栄作には、10年前の安保条約成立の日に孤独な兄に寄り添っていた記憶が、なまなましく思い出されたと思う。

 そのため佐藤首相は、70年安保の改定の際、ふたたび反安保の騒動が起こることを極度に恐れた。さらに安保を取り巻く状況自体も、この10年で大きく変わっていた。

 69年末の選挙において、社会党、共産党、新左翼は安保条約延長反対、廃棄を主張しており、安保問題、沖縄問題がこの選挙の重要な争点になった。しかし69年には沖縄は既に本土復帰を果たし、さらに70年安保条約は自動延長となった。そのため「1970年安保」を政治決戦と考えてきた社会党、共産党、新左翼系は、完全に「肩すかし」をくうことになった。

 さらに、社会党は69年末の選挙で惨敗し、江田委員長のもとで党の再建を迫られており、共産党も東京、京都で自民党を大きく引き離し、解散時の議席の3.5倍である14議席になったものの、国政レベルではもはや対決の場を失い、知事選に舞台が移っていた。

 このような段階で、70年安保の運動は、もはや国民的運動として盛り上がる基盤がすべて奪われていた。そのため過激な学生運動も、国民的な支持もなければ、自衛隊による治安出動の必要もなく、警察力だけで十分であった。

 そのことが三島由紀夫の1970年11月25日の事件になったことは、実はきわめて象徴的なことであった。
http://www.araki-labo.jp/samayoe009.htm


(2)「新左翼」の武装化(その1)

●学生運動の武装化の軌跡

 学生運動において、今では当たり前になっているゲバ棒に覆面、ヘルメット、投石用のレンガや石、火炎ビン、さらには、銃や爆弾が登場したのは何時頃からかを調べてみると、60年安保闘争の1年後あたりからのようである。

 60年安保のデモでは、かなり激しく行なわれた場合でも、学生たちはヘルメットもゲバ棒ももたず、一方的に機動隊の警棒で打たれて血を流していた。
 それがヘルメットで防御し、棍棒で武装するようになったのは、内ゲバと称する仲間同士の暴力から身を守ることが、直接的動機となって始まった。

 昭和36(1961)年7月8日に東京の両国公会堂で行なわれた全学連の第17回大会をマル学同が単独で開催した際、反対派から大会を守るために、角材によるゲバ棒が初めて登場したといわれる。

 これはその時の全学連書記長・清水丈夫のペン・ネームが「岡田新」であったことから、「岡田式暴力的衝突を含む党派闘争」と呼ばれたという。ここでゲバ棒が、内ゲバの武器として登場したことは注目に値する。

 同月の2日には、早稲田大学で革マル派と中核派の内ゲバ騒動が起こった。ここで殴りこみを掛けてきた中核派などがヘルメットに身をかため、棍棒と石で攻撃してきた。これらのことから正確には分からないが、60年安保運動の翌年あたりから、ヘルメットにゲバ棒といったスタイルが登場したと見られるのである。

 内ゲバではなくノンセクト・ラジカルが、棍棒や石を武器にして公然と機動隊に立ち向かうようになったのは、「全共闘」(全学共闘会議)が学生運動の中心になった1960年代の中頃からと見られる。

 例えば昭和39(1964)年9月14日に、法政大学において学生が機動隊と衝突した時にそれは現われ、羽田事件における暴力闘争の序幕となった。

 60年安保闘争の中で、既成政党である社会党、共産党の主導権は大きく失われていった。そしてそれに代わって「新左翼」の勢力が、特に学生運動においては主流の座についた。しかし「新左翼」の組織は1960年代を通じて4分5裂しており、そのために組織間のゲバによる殺し合いが絶えない状態になり、結局、破滅化への道を辿った。

 1960年代末葉の新左翼運動は、大きく次の3つの潮流に分かれていた。


 (1) 全国全共闘 ―全国反戦を媒体とする八派連合で、その中心は「中核派」
 (2) 共産同赤軍派や日共左派など、武装蜂起と世界革命を主張する「武闘派」
 (3) 八派の解体を路線とする「革マル派」

 ちなみに「全国全共闘」とは、全国的な各大学「全共闘」の連帯組織として東大、日大をはじめとする学園紛争が全国的な広がりを見せる中で、1969年9月5日に全国178大学の全共闘と中核派など八党派により結成された組織のことである。

 この3者中、第2の「武闘派」の潮流が「赤軍」の流れである。それは1969年に東大、日大紛争を頂点とした全共闘運動が敗北していく過程で、1969年夏頃から最も過激な武力闘争を主張して登場してきた。

●赤軍派の登場

 赤軍派は、東大紛争、日大紛争が警察力の導入により次々に解体されていく中で、共産同ブントにおける「関西(武闘路線)派」(*)が、「早急に軍隊を組織して、銃や爆弾で武装蜂起」を主張して69年5月に赤軍を結成したことに始まる。
 この際のメンバーは、京大、同志社大、立命館大を中心とする活動家400人であった。

(*)ブント(Bund)とは、ドイツ語で「同盟」を意味する言葉であり、日本では「共産主義者同盟」(共産同)のことを指す。1958年12月10日に日本共産党・東大細胞のメンバーを中心にして、日本共産党の指導体制に反発する「新左翼」のブントが結成された.

 この組織が1960年4-6月にかけての安保闘争を全学連の主流派として指導したが、安保が成立した後の8月9日に、安保の総括をめぐり、「関東のブント」は「革命の通達派」、「プロレタリア通信派」、「戦旗派」の3つに分裂した

 これに対して「関西ブント」は、独自に60年安保の総括を行い、組織的統一を維持することに成功した。これがここでいうブント「関西派」であり、このブントの「関西派」が60年代末の「赤軍」に繋がっていく。

 「赤軍派」の登場は、1969年1月の東大・安田講堂の攻防戦のあとから始まる。

 後に詳述するが、安田講堂の攻防戦の後、ブント「関西派」は1969年6月21日の「マル秘」通達により、秋の闘争において世界同時革命の展望を提起し、ここに始めて「赤軍」という言葉が登場した。

 8月26日、ブント「関西派」は、神奈川県城ヶ島のユースホステルに集まり、「共産同赤軍派」を独立させることを正式に決定した。

 議長は、京大の塩見孝也であり、これが赤軍派の原型となった。

 9月4日、日比谷音楽堂で行なわれた全国全共闘結成大会の前日、都内の葛飾公会堂において赤軍派は「大政治集会」を開いた後、上記、革マル派を除く全国の学生3万4千人が集まる全国全共闘結成大会に初めて公然と姿を現した。

 この赤軍派の赤ヘル集団が突然出現したことに、大会出席者は声を呑むほどの衝撃を受けたといわれる。

 赤軍派は、武器奪取、交番襲撃などの「大阪戦争」、「東京戦争」を9月末に展開し、10月21日の国際反戦デーには最初の鉄パイプ爆弾を登場させて、新宿駅襲撃、中野坂上のピース缶爆弾によるパトカー襲撃などを行なった。

 11月5日には首相官邸を襲撃する計画をたてており、山梨県大菩薩峠で軍事訓練を行なうために結集したところを警察側にキャッチされて、53人という大量の逮捕者を出し計画は未遂に終わった。

●武装闘争の画期となった東大紛争

 昭和44(1969)年1月は、東大紛争における最大の山場となった機動隊と全共闘による安田講堂の攻防戦で幕を開けた。

 大正14(1925)年に、財閥・安田善次郎の寄付により完成した鉄筋コンクリート造4階建てで、特徴的な時計台をもった安田講堂は、本来、「大日本帝国」におけるアカデミズムの権威を象徴する建築物であった。

 そのため、ここを占領した全共闘系の「新左翼」の学生を、8千5百人の機動隊が攻撃する大攻防戦は、全国民の注目を集めるものになった。

 1月18-19日の2日にわたる攻防戦は、NHKテレビを始め各テレビ局が48本の特別番組を組み、21時間にわたってニュースを流し続けた。そのときのNHKの視聴率は、なんと44.6%を記録したといわれる。

 19日の午後5時46分、安田講堂から流しつづけられた「時計台報送」が最後のアピールを全国の学生、市民、労働者に流し終わり、全員、ずぶ濡れになって逮捕された。これを見ていた国民の多くは、紛争の意味は分からなくても、自分の利益を越えて戦い、玉砕した若者に同情した。

 東大紛争は、いまでは殆ど忘れられているが、その発端はなんと自民党支持率が30%を超えて、東大の中でも最も保守的な学生が多い医学部から起こった。

 ちなみに当時の東大生全体の自民党支持率は18%程度である。
 東大紛争の発端は、1946年に連合軍の勧告により導入された無給のインターン(実地修練生)制度に対する改善要求から始まった。

 そしてそれが医学部生全員による学生スト、試験ボイコットに広がり、翌68年1月29日から医学部は無期限ストに突入していた。

 この東大医学部の紛争は、医学部教授連の対応の悪さから大きく拗れ、昭和43(1968)年6月15日には東大医学部全共闘と東京医科歯科大学の40人の学生が安田講堂にバリケードを作って、これを占拠するまでに発展した。

 この医学部系学生による安田講堂の占拠に対して、大河内総長が機動隊の出動を要請し、2日後に8,500人の機動隊が東大安田講堂に入り、占拠学生を排除した。
 このことから、医学部の紛争は全学的な東大紛争に拡大することになった。

 6月17日に機動隊が導入されると、直ちに各学部の学生大会においてストが可決され、20日には安田講堂前広場で機動隊の導入に抗議する「全東大人集会」が開催された。これには6,000人の学生が参加し、駒場の教養学部の学生2,000人も30台のバスを連ねてこの集会に参加した。

 この全学的な東大紛争が始まった6月28日に、大河内総長は「大衆団交」という形式を認めなかったことから、安田講堂は7月2日に再びバリケードで占拠され、占拠した学生から「開放講堂」とか「安田砦」とか呼ばれて、大学紛争による解放区の象徴的存在となった。

 占拠された安田講堂は、東大側の事実上の管理から離れて、いろいろな「反戦集会」、「労働者・市民の連帯集会」などに貸し出された。

 従って、この昭和44(1969)年1月19日における東大安田講堂の落城は、全国の学生運動の終焉を意味するほどの深刻な影響を大学紛争に与えた。

 この段階で共産同ブントの「関東派」(=穏健派)は、東大闘争や日大闘争のような「大衆的ゲバルト」を積み重ねることにより、労働者や農民を巻き込んだ広範な革命勢力が醸成されると考えていた。

 これに対して同じ共産同ブントの「関西派」(=過激派)は、京大・塩見孝也の「革命の決め手は「大衆」ではなく「軍」である」とする「塩見理論」を背景にしており、関東、関西ブントの両派は、東大の安田講堂の落城を契機にして深刻な対立関係に立つことになった。

 4月28日、「関東派」共産同ブントの「仏(きさらぎ)派」が沖縄闘争において、あくまでも「大衆闘争の勝利」を信じて全力で取り組み、再び機動隊に叩きのめされた。このことに怒った「関西派」は、6月21日、自派の活動家に武装蜂起の「マル秘」通達を送った。

 この通達の中で「今秋の闘争には世界同時革命―日本革命戦争の前段階として、爆弾、小銃、拳銃などの銃器を持って戦う武装蜂起を設定、その中から革命の展望を切り開くべきである」としている。

 ここで「新左翼」の中に、初めて「赤軍」という言葉が登場した。(角間隆「赤い雪―ドキュメント総括連合赤軍事件」226頁)

 この「マル秘」通達は、直ちに「関東派」に伝わり、関東派の議長・仏徳二は、7月2日に赤軍派を除名にする声明を出した。これにより関西、関東の両派の対立は激化し、7月5日には激しい内ゲバがおこり、それにより仏徳二が瀕死の重傷を負って警察に逮捕されるという事件が起こった。

 この際の激しい内ゲバの状況は、上掲「赤い雪」に詳述されている。この内ゲバにより、昭和44(1969)年8月26日、「関西派」は、神奈川県城ヶ島のユースホステルにおいて、「共産同赤軍派」を正式に発足させて、ここに赤軍派の原型が形作られた。


 このときの赤軍派の政治局員は、次の7人である。


     議長 塩見孝也(京都大学)
     局員 田宮高麿(大阪市立大学)―後によど号事件のリーダーとなる。
        上野勝輝(京都大学)
        堂山道生(同志社大学)
        高原浩之(京都大学)
        花園紀男(早稲田大学)
        八木健彦(京都大学)
http://www.araki-labo.jp/samayoe010.htm

(3)「新左翼」の武装化(その2)

●大菩薩峠における赤軍派中央軍の壊滅

 ▲赤軍派の誕生

 共産同ブントの「関西派」が、「関東派」から分裂してそこから「赤軍派」が誕生した。そしてその中核組織体として「中央軍」が誕生した。

 赤軍派の軍事委員会における総指揮官として中央軍を担当したのは、のちに「よど号」ハイジャック事件の主犯となる田宮高麿である。

 田宮は、東北地方まで足を伸ばして赤軍兵士の獲得につとめ、わずか1ヶ月の間に高校生29人を含む百数十人のコマンドの「徴兵」に成功した。そのため赤軍派の組織の規模は、塩見孝也議長以下、336人という大軍団になった。

 それは田宮が考える「十個連隊1万人の師団編成をもった中央軍」にはほど遠いものではあったが、その短い時間を考えると急速なピッチの拡大であった。

 昭和44(1969)年9月4日午後6時、赤軍派の高原浩之の愛人であった重信房子が借りた葛飾公会堂において「赤軍派」の旗揚げ総会が開催され、ここに初めて赤ヘルメットに「赤軍」と白地で染め抜いた赤軍の兵士たちが登場した。

 公会堂の回りは、250人の兵士たちで埋め尽くされ、そのうちの50人は「赤軍戦闘団」と書かれたカシの棒を持って入口をかためていた。

 1階ホールの窓はすべてカーテンでふさがれ、そこに女性用の黒ストッキングで覆面をした兵士たちが観客席に陣取る姿は、それまでの新左翼の集会にはない物々しい状況であったといわれる。

 その大会には逮捕を恐れて塩見、高原、田宮という最高幹部は出席せず、大会の司会は中大生の佐々木泰弘がつとめた。また「基調報告」は政治局員の八木健彦が行なったが、参加者はそれが塩見高也であると思っていた。

 この大会において「戦争宣言」が採択され、ここから赤軍派は公然と武闘路線を走り始めた。

 ▲赤軍派の前段階 ―武装蜂起の失敗

 赤軍派の「前段階武装蜂起」は、大阪戦争と東京戦争の2段階で構成されていた。

 まずその第1段は、大阪において警察署、交番を襲撃して、武器を奪う「大阪戦争」から始まる。そして第2段としてその武器をもって首都東京に攻め入り、首相官邸、国会議事堂周辺の政府機関、警視庁を襲撃する「東京戦争」にいたるというものであった。

 この第2段において東京中央を襲い、政府高官を射殺すれば、大衆は革命に向って走り出すであろうという、まさに明治の自由民権時代に匹敵するほどの、大時代的、かつメルヘン的な構想である。
 
 田宮は本気で桃山学院大学の生協事務所に軍事委員会の幹部4人を集めて、大阪戦争の計画を作成し、軍事委員会は直ちに布令を発して兵士を大阪に招集した。
 大阪における襲撃隊長の関西大学・福岡信孝に率いられた20名の兵士たちは、9月17日に大阪市東淀川区下新庄の明教寺に集まり、交番を襲撃することになった。

 ところが福岡が襲撃後の逃走資金として5千円を各人に渡そうとしたら、怖気づいた7人が集団脱落し、そのため17日の決行は不可能になった。

 福岡はあくまでも交番襲撃をあきらめず、翌18日には残る13人を堺市北署の安井町派出所近くの喫茶店に集めた。ところがこの派出所はマンモス交番であり、とても13人くらいでは歯の立たないことがわかった。

 そのため今度は2日後、福岡たちは枚方市の枚方署阪派出所を狙い、午後6時頃、近くの公園に集合した。しかし警官が何時までたっても現れない。

 実は、その日は京大全共闘の学生が大阪周辺で解放区闘争を行っており、大阪から京都に向う道路はすべて封鎖されていた。そのため警官たちはすべてそちらに動員されており、結局、10時まで待っても警官が現れないため襲撃中止になった。

 これにこりず、福岡たちは、9月22日午後6時半、大阪市内の阿倍野署・金塚交番を襲撃した。襲撃隊は、福岡以下20人であった。

 その日、交番の中には5人の警官がいた。その1人が、本署に連絡しようと真向いの果物店に飛び込んだのを見て、この警官から拳銃を奪おうとその果物店に火炎ビンを投げた。

 ところがこれが不発であり、これを見た群集が怒って赤軍派の兵士を半殺しにしてしまい、この襲撃は失敗した。

 民衆は、赤軍派の攻撃を見ても蜂起しなかったのである!これらの話は、まるで現代から遠くはなれて、明治時代の自由民権運動における話を聞くようにメルヘン的である。

 つまり日本の「赤軍派」の思想や行動は、日本の社会的現実からあまりにも遊離しており、そのことがメルヘンといえない悲劇的な事件に自らを追い込んでいった。

 「大阪戦争」に失敗した田宮は、舞台を東京に移すことにした。そこで大阪戦争の失敗に怒った重信房子など東京組は、9月30日夜、東大龍岡門近くの本富士警察署と大崎署の西五反田派出所を襲撃する計画をたてた。

 本富士署襲撃隊の隊長は明治大学の田中義三(=後によど号事件に参加)、隊員28人で高校生も混じっていた。ところが襲撃は、所長室に火炎ビンを投げ込んだものの、拳銃を奪う事は出来なかった。

 また五反田派出所の襲撃の指揮は中央委員の松平直彦、兵士は13人で、襲撃しようと交番を覗くと、公安とおもわれる私服がいたので、攻撃を中止してしまった。
 あとからこの私服の人物は、道を聞いていたただの市民とわかった。

 この2つの襲撃が失敗した後、逮捕された高校生から襲撃隊全員の名前が分かり、36人全員が逮捕されてしまい、「東京戦争」も失敗した。

 これらの失敗により、赤軍は武装蜂起に必要な武器の調達ができず、塩見孝也をはじめとする中央の大幹部はすっかり困惑していた。

 このようなときに福島医大の学生運動のリーダーで、共産同の東北地方の活動家で「みちのく赤軍」を立ち上げていた梅内恒夫が、パイプ爆弾の開発に成功したという情報が入ってきた。

 10月16日、梅内恒夫は実験室にしていた福島医大の産婦人科教室において、「鉄パイプ爆弾」を開発し、4人の仲間と阿武隈川で爆発実験を行い成功した。

 この爆弾の開発・実験の成功に狂喜した塩見孝也は、10月29日、赤軍派の拡大中央委員会を招集した。会場の東京・赤羽台団地471号棟101号室には、上野勝輝、八木健彦、松平直彦、重信房子などの幹部を中心に24名がそろった。

 ここで塩見孝也が「首相官邸武装占拠計画」を披瀝している頃、東北では梅内恒夫が弘前大学の青砥幹夫、植垣康博をアシスタントとして、青森市浦町奥野21番地の一軒家を爆弾製造工場としてパイプ爆弾の量産体制の準備に入っていた。

 10月31日の午後11時すぎ、文京区小石川2丁目17番の「富阪セミナーハウス」で赤軍派の幹部会議が開かれ、「首相官邸を襲撃する前に、兵士に武器の使い方を教えるため、11月3日から5日まで、山梨県の大菩薩峠で軍事訓練を行なう」計画を決定した。
 幹部会議の3日前の10月28日、大菩薩峠の中腹にある「福ちゃん荘」という山小屋を赤軍派の木村和夫(東大)と松平直彦(早大)の2名が訪れ、ワンダーフォーゲルの合宿として、11月3日から3晩、70人の宿泊を申し込んでいた。

 首相官邸の襲撃方法は、攻撃隊、突入占拠隊、道路防護隊など、大菩薩峠での軍事訓練を終了した精鋭部隊により、11月6日午前6時を期して行い、官邸を占拠する。占拠は3日間持てば成功であり、その間に佐藤首相を人質として政治犯の釈放を要求するとし、襲撃後の組織再建の責任者まで決めた。

 ところが、11月2日になり、11月6日には全国全共闘のデモが首相官邸をとおり、そのために警戒が厳重になることから、実行日を11月7日に延ばすことになった。この24時間の遅れが、赤軍派には致命的なものになった。

 幹部会の決定は直ちに東北、関西に伝えられ、全国から大菩薩峠を目指して赤軍派が集合した。11月3日午後6時30分、「福ちゃん荘」の2階の2部屋をぶち抜いた大広間において作戦会議が開かれ、作戦行動計画の詳細が発表された。

 ところが50数名の赤軍兵士のうち、大菩薩峠における軍事訓練の真の目的を知っていたのは10名たらずに過ぎなかった。

 あとの兵士たちは殆どその計画を知らず、死ぬかもしれないという重苦しい空気が会場を支配したという。そして作戦会議の後で、肉親などへの「遺書」を書き始めた。

 一方、その頃、下界では他のメンバーが、攻撃用のトラックを盗んだり、千葉県内に「武器庫」や「兵舎」を設営する必死の準備をすすめていた。

 「赤軍派が不気味な動きをしている」という情報はかなり早くから警察の耳に入っていた。そして殆ど信じられないことではあるが、その頃、東京都心の道路や陸橋には、大菩薩峠で軍事訓練を行なう赤軍への参加を誘うビラが張り出されていたことを、私は記憶している。

 そこにはさすがに首相官邸を襲撃するとは書いてないものの、反政府的な軍事行動が大菩薩峠で行なわれることは、東京都民にも知られるほどの大らかなものであった。それはまさに明治時代の「自由民権運動」の現代版ともいえる大時代的なものであった!

 全国の公安は、既にそれまでの学生たちの動きを厳しく観察していた。

 西千葉駅西側のアパートの2階十号室に、11月3日午前2時頃、10人余りの赤軍派のメンバーが入るのを千葉県警の特別捜査班の刑事が見つけ、尾行を開始した。
 午前9時ごろアパートを出た高校生兵士と思われる2人組みの少年は、午前11時半の松本行きの急行に乗り、塩山駅で降りた。

 駅前から裂石行きのバスに乗り、終点で降りた。これを警視庁の刑事4人がタクシーで追い、福ちゃん荘に入るのを見た。

 その夜の内に、東京、大阪、京都、神奈川、千葉、茨城など関係都府県の公安刑事に非常呼集がかけられた。11月4日には塩山署に警察本部合同の「公安捜査隊」(100人)が編成され、更に280人の武装警官隊が組織されて、大菩薩峠には厳重な警戒網が張られた。

 総攻撃は11月5日午前6時に開始され、400名近い大部隊が小屋に突入した。

 そして「福ちゃん荘」に宿泊していた53名は、1時間足らずで全員逮捕された。

 7人の政治局員のうち4人が逮捕され、塩見、田宮、高原の3人を残すのみになった。塩見、田宮にも逮捕状が出されて、残存部隊に対する警察の追及が厳しくなり、赤軍派中央軍は殆ど壊滅的な打撃を受けた。
http://www.araki-labo.jp/samayoe011.htm
http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/287.html#c113

[近代史3] 若松孝二 実録・連合赤軍 あさま山荘への道程 (2007年) _ 1970年代はこういう時代だった 中川隆
114. 中川隆[-11384] koaQ7Jey 2019年3月18日 20:34:09 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[616]
4.よど号事件とその後

(1)赤軍派による日航機よど号ハイジャック事件 

 大菩薩峠において赤軍派が大打撃を受けた1週間後の11月12日、塩見議長は赤軍国際部長の小俣昌道(京都大学全共闘議長)を、ひそかに国外の過激派との連携をつくるために羽田から出発させた。

 当時、アメリカでは、ウエザーマンとかブラック・パンサーといった新左翼系の超過激派が、銃や爆弾を使ってテロ路線を突っ走っていた。

 このようなアメリカの超過激派と国際的な連携を保ち、「あすの地球をまわす世界赤軍」を構築しようというのが塩見議長の夢であった。

 昭和45(1970)年に入り、赤軍派は新しい軍事蜂起をめざし、1月はじめに東京の赤坂東急ホテルで「中央委員会」を開いた。

 ここに重信房子を含む14人の赤軍派幹部が集まり、田宮が「フェニックス計画」(=よど号事件)と名付けた海外脱出計画を明らかにした。

 さらに1月16日には東京で560人、2月7日に大阪で1500人を集めて蜂起集会を開いた。この東京集会は、元東京都学連書紀長・前田祐一(中央大学)の率いる「長征軍」が北海道、東北、北陸、九州をまわって徴兵してきた若者を集めて、神田駿河台の全電通労働会館ホールで開いた武装決起集会である。
 
 この集会では「国際根拠地建設、70年前段階蜂起貫徹」の方針が提起され、ここで赤軍派は「世界赤軍」の名の下に、海外に救いをもとめる動きを見せ始めた。

 それは明治の自由民権運動において、国内の運動がすべて鎮圧されたとき、朝鮮半島に新しい活動の場を求めておこした「大阪事件」に似ていた。

 そこでは他にもいくつかの作戦が計画されたが、それらの殆どが例によって失敗した。それでも塩見らは海外脱出の「フェニックス計画」をあきらめず、赤軍派幹部を含む13人を「ハイジャック班」として決行することになった。

 ところがその決行の直前の3月15日に、最高指導者の塩見高也と前田祐一の2人が逮捕されてしまった。しかも小西隆裕と森清高が脱落したため、最終的には9人により日本で最初のハイジャックを実行することになった。

 その事件の概要は次のようなものである。


●よど号事件の概要

 昭和45(1970)年3月31日午前7時半すぎ、羽田を離陸して富士山上空を福岡に向かって飛行していた日本航空ボーイング727(よど号:乗員7人、乗客131人)が、乗客として乗っていた9人の赤軍派に日本刀、ピストル、爆弾で脅され、北朝鮮に行くように指示された。

 丁度、その航空空域が米軍の管制下にあったことから、この事件はただちに米軍にキャッチされた。そのためこの事件は日米韓北朝鮮の4国がからむ厄介な国際問題になり、ハイジャック事件としては解決までの時間の世界最長記録を作ることになった。

 米軍は直ちに同機に搭乗していたアメリカ人乗客を調べた。すると、聖職者とコーラ関係者の2名のアメリカ人が搭乗していることが分かった。

 このうちの聖職者マクドナルド氏が、アメリカが北朝鮮に行かれると困るCIA?にからむ人物であったふしがある。

 そのことがよど号の問題解決を、事件の裏でさらに複雑かつ困難にしたと思われる。

 その内容は、よど号事件の際に日本航空の対策本部事務局長をつとめた島田滋敏氏の著書「『よど号』事件 三十年の真実」草思社に詳しい。

 よど号は福岡空港において病人、女性、子供など23人をおろして給油し、6時間半後の午後2時前に福岡空港を離陸し北朝鮮に向った。

 この福岡においてアメリカ人をおろすことができなかったため、アメリカには、どうしてもよど号を韓国に着陸させて乗客を解放させる必要が出てきたようである。

 そのことがハイジャック事件の解決までの時間的最長記録を作る、厄介な国際問題に発展させた。

 福岡を飛び立った日航機は朝鮮半島の東の海上を北上し、朝鮮を南北に分断する休戦ラインに沿って西に転じ、板門店の北西部まできてピョンヤンに近づいた。
 そこで国籍不明の2機の戦闘機が現れ、よど号は空港に誘導された。

 機長、犯人ともに、最初はそこがピョンヤンの空港であると思ったようである。
 しかしそこは、実は偽装された韓国のソウル郊外の金浦空港であった。

 そのためハイジャック機は、そこで日米韓北鮮の軍事的、外交的、謀略的な駆け引きの真っ只中に巻き込まれた。そしてよど号は、帰国まで122時間という寿命が縮まるほどの恐ろしい経験をすることになった。
 
 ちなみに朝鮮半島において、「休戦ライン」と「38度線」とは実は全く別のものである。つまり休戦ラインは、朝鮮半島の東部においては38度線より北に入り込んでおり、西部の休戦ラインは38度線より南に入り込んでいる。このことがよど号のピョンヤンへの飛行経路に錯覚を与えたようである。

 朝鮮戦争の休戦協定により、この休戦ライン上を飛ぶ飛行機は、国籍・理由を問わず、撃墜してもよいことになっている。そのため、その上空は、民間機が絶対に飛んではならない危険な空域であった。

 当時、韓国は軍事クーデターにより政権をとった朴正煕大統領の政権下にあった。

 そのため、韓国の朴政権と北朝鮮の金日正政権とは、朝鮮戦争に続く軍事的に一触即発の戦争状態にあった。そこを日本の飛行機が、韓国の領空を犯して北朝鮮に向ったわけであり、無事に飛べたことは殆ど奇跡であった。

 韓国の上空を、ハイジャックされた日本の飛行機が北朝鮮に向かって飛ぶことは、韓国としては国家主権にかかわる重大事であり、絶対に許す事のできないことであった。そのため朴政権は、米軍の連絡を受けた段階から、ハイジャック機を韓国内で阻止し、確保することを考えたと思われる。

 韓国側は金浦空港において、北朝鮮兵の服装とニセのプラカードを持って、ハイジャック機を歓迎するように偽装して迎えた。ところが準備時間が短かかったため準備が間に合わず、空港にはノースウエスト機が停まっていたし、ラジオにはジャズが流れ、空港の近くをアメリカ車が走っていた。

 赤軍派は、ノースウエスト機には気がつかなかったが、ラジオ放送やアメリカ車に気がついて、そのウソはたちまち見破られてしまった。

 韓国側はあくまでも強行突入に拘ったが、日本側の強い意向により、4月1日に人質の身代わりになるため日本から着いた山村政務次官が赤軍派と交渉にあたり、4月3日に乗客全員はようやく開放された。

 そして山村政務次官1人が代わりに人質になり、4月3日午後6時4分、よど号はまだ日本と国交のない北朝鮮のピョンヤンに向って夕闇の中を、有視界飛行により正確な地図ももたずに飛び立った。

 事件発生から83時間後のことであった。この間における日本外交の不手際、韓国政府の強行姿勢、そして疲労が重なる乗客と日航乗務員のけなげな活動は、前掲の島田氏の著書に詳述されている。

 よど号事件の実行犯は次の9名である。

     田宮高麿(大阪市大)―その後、北朝鮮で死亡
     小西隆裕(東大)−在北朝鮮
     田中義三(明大)―タイで逮捕、日本に送還され裁判、2007年日本で死亡。
     安部公博(関西大)―在北朝鮮
     吉田金太郎(京都市立・堀河高校卒、日立造船所工員)―北朝鮮で死亡
     岡本武(京大)−北朝鮮で粛清?
     若林盛亮(同志社大)―在北朝鮮
     赤木志郎(大阪市大)―在北朝鮮
     柴田泰弘(神戸市立・須磨高校生)―1985年帰国、93年懲役5年刑、94年出所。
                      
 よど号をハイジャックした赤軍派の新しい活動は、北朝鮮に入ったところから始まった。しかしその後の北朝鮮における情報は断片的にしか入らず、その動静は闇に包まれていた。
http://www.araki-labo.jp/samayoe012.htm


2)よど号ハイジャック犯のその後

●よど号犯のその後

 よど号ハイジャック犯のリーダー・田宮高麿は、北朝鮮からさらにキューバへ飛び、その年の内にも筋金入りの「革命軍」をつれて、日本に帰国するつもりであった。

 しかしその目論見は北朝鮮への入国後、完全に外れてしまった。

 それだけでなく、彼らの北朝鮮における運命は、彼らが事前に計画していたものとはすっかり変わり、世界革命に参加するどころか、北朝鮮国家への奉仕者に作り変えられていった。

 もともと極度に民族主義的なチュチェ思想を主張する北朝鮮の指導者・金日成が、世界革命を標榜するトロツキスト集団であるハイジャック犯を受け入れるわけはなかった。ソ連にスターリンが生きている時代であれば、彼らは確実に全員処刑されたと思われる。

 しかし時代が少し遅れていたため、命は取り留めたものの、全員、招待所において北朝鮮のチュチェ思想の信奉者に作りかえられていった。

 もともと北朝鮮が、トロツキスト集団である日本の赤軍派の「世界革命の理想」に同調するはずはなかった。驚くべきことに、赤軍派は北朝鮮に対する調査もコンタクトも全く行なわないまま、国交のない北朝鮮へ向ったのである。

 そのため、その年に帰国するどころか、その後の彼らに関する動静は殆ど消されてしまい、それから30年を経てようやくその後のことが少しずつ分かり始めた。

 それを見ると、彼らを待ち受けた運命は驚くべきものであった。
 
 ハイジャック事件の当初、犯人たちの受け入れに対して北朝鮮側は寛容な姿勢を見せていた。しかしハイジャック機が、4月3日夜、山村次官1人を人質にして、ピョンヤン郊外の美林空港についてみると、彼らの態度は一変していた。

 その理由は、ハイジャック機が多数の日本人を拉致してピョンヤンに来ると思っていた北朝鮮側の期待が裏切られたことにあると、私は思う。

 今から考えて見ると、もしあのとき、多数の日本人の人質を乗せたまま、よど号が福岡から直接ピョンヤン入りを果たしていたとしたら、北朝鮮が工作員を使ってその後に行なった日本人拉致事件は大きく変わっていたと思われる。

 3月31日、福岡空港からピョンヤンに向った日航機には、108人の乗客が搭乗していた。北朝鮮はこれらの乗客は、すべて北朝鮮への不法侵入者として扱うことが出来た。彼らはこの乗客の内から、北朝鮮に役立つ人々を自由に選ぶことが出来るわけである。

 まさにこのハイジャック事件は、北朝鮮にとって鴨が葱を背負ってくるような事件であった。うまくいけばその後に特殊工作員を使って行なった、日本人に対する「拉致事件」が不要になるほどの事件であったわけである。

 ところがその北朝鮮が欲しかった日本人の人質たちは、すべて韓国でおろされてしまった。その期待が裏切られた事が、よど号が山村政務次官1人を乗せて北朝鮮に降りた時、彼らの態度が一変していた理由であると私は思う。

 しかし、よど号のハイジャック犯が北朝鮮を目指したということは、朝鮮民主主義人民共和国が、社会主義の「シャングリラ」(理想郷)であることを世界に宣伝する機会として利用できる、と金日成は思い直した。

 その様な事情から、北朝鮮に渡った赤軍派は世界革命の拠点作りはできなかったが、北朝鮮に客人として迎えられた。そして招待所においてチュチェ思想で洗脳された上で、日本人の拉致をはじめとする北朝鮮側の手先に利用されることになった。

 よど号亡命者のその後については、全共闘運動を経験したジャーナリストの高沢皓司氏が、北朝鮮に何度も渡ってよど号犯と話し合い、彼らのその後の活動を記述した力作「宿命」(新潮社、1998)に詳述されている。

 そこで同書によって彼らの足跡の概略を追いかけてみよう。

 よど号亡命者たちが、当初、北朝鮮政府に対して求めたものは、次のようなものであった。


    (1) 軍事訓練を受ける事
    (2) 今年中に帰国できる条件を整えてもらうこと。
    (3) 経済学、哲学、対日武装闘争の経験の講義を受ける事、など。


 多岐にわたっていたが、その殆どは北朝鮮側から無視され、当初、受け入れられたのは市中の散策と体力作りくらいであった。

 そして全員、市民から隔絶された招待所に軟禁され、チュチェ思想の講義と学習を一方的に受けさせられた。彼らが第一に求めた軍事訓練などは、全く受ける事は出来なかった。

 しかし彼らは、2年後の1972年元旦、金日成首相にあてて手紙を書いている。そこで彼らは寛大で革命的な「偉大なる首領」の金日成に対して、チュチェ思想をより深い内容で理解できるようになった事に、心からなる感謝を表明した。

 彼らは、原典主義により「金日成著作集」5巻を読破し、1労作ごとに体系化を行なった。そして要旨を書き抜き、その真髄や教訓について討論した。

 招待所の消灯は午後11時であったが、午前2時まで勉強するグループもあったという。(高沢皓司「前掲書」104頁)

 このよど号犯の手紙は、金日成を非常に喜ばせた。さらに、中東における日本赤軍の活躍が、彼らの取り扱いを一変させることになった。

 彼らは北朝鮮にとっての貴重な「金の卵」となり、72年4月27日に、金日成はNHK、朝日新聞、共同通信の記者との会見において、彼らのことを話題に取り上げた。


●北朝鮮に利用されたよど号犯

 1972年5月26日、イスラエルのテル・アビブ空港において、日本赤軍のコマンド3人が自動小銃と手榴弾で乗客たちを攻撃する事件が発生した。この事件では、死者25人、負傷者72人(内、25人は重体)を出し、コマンドも奥平剛士と安田安之が射殺されて、岡本公三が逮捕された。

 逮捕された岡本公三は、よど号犯の岡本武の実弟である。この事件に金日成は非常に関心をもったといわれる。そして同じ日本赤軍の田宮高麿に対して、「日本のアラブ赤軍を北朝鮮の労働党工作部に取り込め!」と指令を出した。

 金日成は、それと同じ事件をソウルの金浦空港で起こすことを考えていたと思われ、それに日本赤軍を使いたいと考えた。

 田宮高麿は、この将軍さまのアイデアを実現させるために、いくつも手紙を書いて実行を図ろうとしたが、結果的にはこの計画は実現できなかった。

 しかしそれを契機にして、よど号犯を労働党工作部の特殊工作に利用する試みが始まった。

 まずこの計画が発端となり、よど号犯たちに日本人妻をあてがい、北朝鮮に定住させ、共和国のために奉仕させようという奇妙な計画が持ち上がった。

 その結果、ヨーロッパを旅行中の多数の日本人女性が北朝鮮に拉致され、よど号犯の妻にされる事件が頻発するようになった。

 そのことによって、彼らの住所は「招待所」から「日本人革命村」に成長する。
 
 よど号犯の妻たちと、彼らが結婚して家庭を持った年を、図表-1にあげる。

図表-1
http://www.araki-labo.jp/samayoe013.htm

この表を見ると、その年が1976-77年に集中していることが分かるであろう。


 

よど号犯の妻たち よど号犯の名前 事件時年齢 妻の名前 結婚年月 妻の経歴


田宮高麿 27歳 森順子 77.5.1 強制連行で日本に行った朝鮮人の父と日本人の母の子として生まれた。父の遺骨を故国に返すべく来鮮

田中義三 22歳 水谷協子 77.5.5 愛知大学在学中から北朝鮮にあこがれ来鮮

柴田泰弘 16歳 八尾 恵 77.5.4 いろいろな仕事を転々として、渡航経歴も非常に多い。キム・ヨーチルに声を掛けられ、日本に潜入して佐藤恵子という名前で「夢見波」という店を開いているところを1988年5月、逮捕された。

小西隆裕 25歳 福井タカ子 76 東大病院の看護婦で東大紛争の頃知り合う。75年10月、自分の意思で出国し北朝鮮へ渡航。


吉田金太郎 20歳  
   
若林盛亮 23歳 黒田佐喜子 76 専門学校在学中にチュチェ思想に興味を持ち、研究会の幹部活動家になり、ヨーロッパ経由で北朝鮮に渡航。

岡本武 24歳 福留貴美子 76 四国の高校を出て、東京の警備会社の警備員になるが、保母への転職を考える。モンゴル旅行に憧れ失踪。北朝鮮に拉致されたと見られる。岡本と共に死亡?土砂崩れというが不明。

赤木士郎 23歳 金子恵美子 77 専門学校在学中にチュチェ思想に興味を持ち、研究会の幹部活動家になる。ヨーロッパ経由で渡航。

安部公博 22歳 魚本民子 76 高校の頃から学生運動に従事。プロレタリア学生同盟に入り、共労党の指示で来鮮。ピョンヤンで恋愛結婚。

 この頃になってよど号犯たちは、ようやく朝鮮労働党からある程度の信用を獲得することに成功していた。そこで彼らは、北朝鮮の工作員としての軍事訓練やスパイ活動の訓練も受けられるようになり、彼らの中から特殊工作員として海外において活躍する者も出始めた。

 ▲粛清された?岡本武

 まずテルアビブ空港における日本赤軍の岡本公三が、よど号犯の岡本武の実弟であることから、1980年代の初めに、岡本武の日本潜入工作が計画されたようである。既に、岡本武は、1970年代の末にウィーンにおいて反核運動を組織することに成功しており、更に、カナダに活動を広げようとしていた。

 その段階で、岡本武の日本潜入工作の計画が持ち上がった。ところが1980年代の初頭において、田宮をはじめとするよど号グループと岡本武は、革命路線をめぐり思想的、路線的に対立し、それが表面化してきていた。

 このような段階で、岡本による日本潜入工作の計画は不可能であった。そこでこの計画は中止になりピョンヤンに戻り、仲間から外されて招待所に戻された。

 岡本武は、1980年代末に漁船を奪取して北朝鮮から脱出を図ったものの捉えられて、収容所に入れられた。その後の岡本の消息は全く途絶えており、妻の金子恵美子ともども、死亡もしくは粛清された?と思われている。

 ▲ニセ・ドルで逮捕され、日本で死去した田中義三

 よど号犯の中でも最も行動的であった田中義三は、1996年3月、カンボジアにおいて偽造米ドルのロンダリング容疑で逮捕された。

 彼はそのとき、北朝鮮大使館の公用車に乗っており、大使館が発行した旅券では北朝鮮の外交官「キム・イルス」となっていた。

 この事件は、北朝鮮外交官とよど号犯によるニセドル疑惑として国際社会に報道された。

 彼の著書によると、田中義三がカンボジアへ行った目的は、日本に帰国するための拠点づくりにあり、1994年にカンボジアに入国した。カンボジアには、日本に帰国する方途の条件があった。しかしそこをインターポール(国際刑事機構)に察知され脱出したが、3月24日にカンボジアとベトナムの国境で逮捕された。

 そのときカンボジアにおいて田中が拠点とした児玉国際貿易の事務所からニセドル札が見つかり、そのうちの1枚からは田中の指紋が見つかったというのが逮捕の理由であった。

 その後、田中の身柄はタイ国のチョンブリ刑務所に移されたが、その間の話は、よど号事件の場合と同様に、日本、アメリカ、北朝鮮、タイ、カンボジアの国際的かつ外交的なカケヒキが錯綜していて、その実態は極めて分かりにくい。

 大体、田中は、チョンブリ刑務所に1年半もいた段階で、身分、氏名も明らかにされず、「あなたは今から望むなら韓国の人間にも、ハヤシなる人物にもだれにでもなれる」といわれていたという。(田中義三「前掲書」68頁)

 田中義三は、タイにおいて米財務省のシークレット・サービスの取調べを受けた上で、起訴され裁判にかけられた。このニセ札事件の裁判は、1999年6月に「完全無罪」の判決が下りた。しかしその裁判の経過は、彼の著書をみても極めて分かりにくい。日、米、朝鮮、タイの間の国際的陰謀とカケヒキが、この単純な事件を殆ど一般人には理解できないほど複雑な話にしている。

 翌2000年5月、日本政府からの強制送還の要求に対して田中は自主帰国を表明し、6月28日、日本に帰国。ハイジャック容疑で逮捕・起訴された。

 2002年2月、東京地裁の判決は懲役12年だった。高裁に上告したが、2003年4月30日、上告が取り下げられて刑が確定した。

 熊本刑務所に服役したが、ガンのため、大阪医療刑務所に移され、さらに、千葉の病院に移され、2007年1月1日に亡くなった。


 ▲柴田泰弘はなんと日本国内で逮捕された
 
 1988年5月、兵庫県警は東京新宿区三栄町のアパートにいた「中尾晃」という男を、偽造旅券の疑いで逮捕した。そしてその身柄はすぐに神戸に移された。
 この男の指紋を照合してみると、なんとその男は、よど号ハイジャック事件の柴田泰弘であることが分かり、公安関係者は衝撃を受けた。

 1988年は、丁度、ソウル・オリンピックの直前の時期であり、公安やマスコミは、柴田の入国は、オリンピック開催の妨害工作ではないかと考えた。

 しかしそれは「よど号犯」たちの第2次日本潜入計画であり、柴田の逮捕によってその後の計画は挫折した。柴田は、偽造旅券による旅券法違反で、懲役5年の刑に処せられた。


 ▲よど号犯たちの最大のタブー? 吉田金太郎

 吉田金太郎は、よど号犯たちの中で、柴田泰弘の次に若く、小柄で色白の好男子であった。彼は1985年9月4日、午前5時12分、急性肝萎縮症のためピョンヤン市内の病院で亡くなったとされている。

 そして翌5日にピョンヤンで火葬に付され、「よど号」の仲間たちにより葬儀が営まれた。彼の病状が深刻になった85年の8月末に、最後の面会にピョンヤンまでこられないかという手紙が、京都市祇園の彼の実家に届いた。

 吉田金太郎の遺族は、面倒な手続きをへて、10月に北京からピョンヤン入りを果たした。そして翌日、ホテルを訪ねてきたよど号メンバーから木箱に入った金太郎の遺骨と金日成から贈られたスイス製の腕時計と死亡診断書を受け取った。手紙はなかった。

 これで吉田金太郎の死は、1件落着のはずであるが、「宿命」の著者である高沢皓司氏は、そこからいくつかのフシギなことに気がついた。
 
 1993年の初冬、高沢氏はピョンヤン郊外において、よど号の妻たち全員のインタビューをした。そこで高沢氏は彼女たちに同じ質問を繰り返したが、誰からも吉田金太郎の名は一度も出ず、まるで彼は存在しない人のようであったという。

 図表-1から明らかなように、彼女たちは、すべて1976-77年に結婚している。そうだとすれば、85年までには8年の歳月があり、彼女たちが吉田金太郎について全く語らないというのは、いかにもフシギな事である。

 そして図表-1において、最も若い柴田泰弘にも妻が決まったのに、4歳年上の吉田金太郎1人だけは妻の名がないのもふしぎである。

 よど号犯たちと度重なる交流を持ってきた高沢氏は、遺族との対応の中で吉田金太郎のことが、彼らの最大のタブーであると感じるようになったという。

 そこで吉田金太郎が、いつ「革命村」から姿を消したかを調べて見ると、存在が確認できるのはなんと1973年までであることが分かった。

 1976年11月に小田実との会見に「吉田金太郎」が出席したことになっている。しかしそのときには、写真が撮られていないので彼の存在が確認できない。

 1976年は、よど号の全員の妻帯が既に決定していた年であり、吉田金太郎の妻だけが決定していて消えたのか、このとき既に吉田金太郎がいなくなっていたかのどちらかになる。

 吉田金太郎の実家は、神戸で有名な吉田金太郎商店である。しかしその実家は、その後に没落して、彼の父は京都の祇園に小さな串カツ店を開いていた。その意味で、彼自身は、「労働者」ではあるが、本来の出身は大金融業の家の御曹司である。このことは北朝鮮において、どのように評価されたのであろうか?

 
 儒教国の北朝鮮では「出身成分」分類が、大きく3つに区分されているという。


 第1は、金日成思想に忠実な忠誠心に満ちた核心階層。
 第2は、監視対象、動揺分子。
 第3は、特別監視対象。敵対分子で最下層の者、である。


 高沢氏は、吉田金太郎は、第2もしくは第3の階層に属しており、「総括」の場で彼は自分の出自を問われて、答えることが出来なかったのではないかと考える。

 そのために、「村」から消されたと推理されており、彼が死亡したのは、1985年ではなく、それより10年前の75-76年にさかのぼると思われている。

 ▲そして田宮高麿も急死した!

 最後に、よど号のリーダーの田宮高麿も急死している。1995年11月30日のことであった。死因は、「心臓麻痺」とされている。

 つまり、若かったハイジャック犯9名中、殆ど半数の4名が亡くなるという異常な死者数をみても、北朝鮮における彼らの生活がいかに過酷であったかが分かる。

 ハイジャック犯たちに北朝鮮で家庭を持たせ、北朝鮮を拠点とした北朝鮮赤軍?として日本に潜入させ利用するという金日成の構想は、彼らの半数が死んだことにより失敗に終わった。
http://www.araki-labo.jp/samayoe013.htm
http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/287.html#c114

[近代史3] 若松孝二 実録・連合赤軍 あさま山荘への道程 (2007年) _ 1970年代はこういう時代だった 中川隆
115. 中川隆[-11383] koaQ7Jey 2019年3月18日 20:44:34 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[617]
5.連合赤軍の事件

(1)「連合赤軍」の誕生 

 70年代初頭、赤軍の指導部は殆ど逮捕されており、政治局員としては高原浩之、1人を残すのみという壊滅状態になっていた。

 その高原もハイジャック事件の3ヵ月後の70年6月7日に、同事件の共同正犯の容疑で逮捕されてしまい、赤軍の中枢は公安によって完全に破壊された。
 残された大幹部の重信房子も昭和46(1971)年2月28日に、京大の奥平剛士とともにパレスチナへ脱出し、これにより日本赤軍の中枢は完全に機能を停止した。

●連合赤軍のリーダーとなった森恒夫

 壊滅状態になった日本赤軍は、昭和45(1970)年には、「PBM作戦」、つまり塩見議長の奪還、国際根拠地の建設、そして革命資金の調達のための軍事作戦を展開していた。しかしこれらが挫折してしまい、翌71年には「M作戦」(革命資金の調達)一つに絞られていた。

 「M」とは資金調達のことであり、71年初頭から7月23日の松江相互銀行米子支店の襲撃にいたる、一連の金融機関に対する襲撃・強盗事件が繰り返された。
 その一方、日本共産党革命左派神奈川県委員会(「革命左派」もしくは「京浜安保共闘」を称する)は、70年末に上赤塚交番を襲撃して、逆に柴野晴彦が殺されるという事件を引き起こしていた。

 そして71年2月17日に栃木県真岡の銃砲店を襲撃し、猟銃、銃弾の奪取に成功し、この鉄砲がその後の浅間山荘事件に使われることになる。

 戦前の日本共産党も、最後に武装闘争による銀行強盗事件を起こして社会的に顰蹙を買ったが、それと同様に瀕死状態になった過激派の組織は、その頃、なりふりかまわぬ終末期の状態に突入していた。

 このような瀕死の状態となった赤軍の中枢組織に、後に悲劇的な連合赤軍事件を引き起こす最悪の幹部として、森恒夫と永田洋子が登場してくる。

 森恒夫は、重信房子より1歳年上であり、大阪交通局の現業監督する父親のもとで、戦争末期の昭和19(1944)年12月、大阪大淀区の交通局公舎の棟割り長屋に生まれた。小学校では1番の成績であったという。

 豊崎中学から大阪府立の名門・北野高校に進んだ。定員450名の内の「100番くらいの成績」で高校に入学したのが、1960年安保騒動の年である。しかし森は学生運動には全く興味を示さず、もっぱら剣道に打ち込み、主将にまでなった。

 秀才ぞろいの北野高校では、森の学業成績も今ひとつであり、大学は外語大を第一希望としていたが、願書提出の段階で1ランク落として、大阪市立大学にしたといわれる。このことが後に森のコンプレックスとなって残ったようである。

 昭和38(1963)年4月、森は大阪市立大学・文学部に入学した。入学と同時に「大学生協」でアルバイトを始めた。その1年後、生協を支配する「社学同」委員長のポストについたのが、よど号事件のリーダーになった田宮高麿であった。

 以後、森は田宮の「腰巾着」のような存在になったといわれる。(角間隆「赤い雪―ドキュメント総括・連合赤軍事件」180頁)

 田宮高麿は、岩手県の出身、森の1級上の昭和18年1月生まれである。府立四条畷高校を卒業して、森の1年前に大阪市立大学へ入学していた。

 田宮は共産同ブントのリーダーであり、森が入学した頃の大阪市大では日共系の勢力が強く、ブントと日共系の両者は激しい新入生の争奪戦を展開していた。

 森は学生運動に興味がなく逃げ回っていたが、とりあえず「勢力の強そう」な日共系の「統社同」に籍をおいていた。それが、田宮委員長の支配権が確立すると、あっという間に社学同に鞍替えし、田宮の腰巾着になってブントの学生運動にのめりこんでいった。つまり森は目先の利く要領のいい性格のようである。

 昭和43(1968)年6月、従来の学生運動から大きく武装闘争に軌道をかえた共産同ブントのリーダーの京大生・塩見高也は、新しく武装化への準備をはじめた。

 これに同調した田宮高麿は突然、大阪の「みよし荘」アパートから姿を消し、東京中央区の月島にある「長田荘」アパートへ移った。

 突然、親分を失った森は驚いて後を追ったが、森の優柔不断な性格を知っている田宮は、この新しい政治活動に森を入れなかった。そのため、やむをえず森は成田闘争に参加して「小隊長」の地位についた。

 しかし元来、指導力のない森に成田闘争の小隊長が勤まるわけはなく、1年後にほうほうの態で成田を逃げ出した。昭和44(1969)年1月の安田講堂攻防戦を、森は千葉県成田の農家で見ていた。

 その頃、成田闘争における小隊長・森の権威は日増しに低落していた。そこで森は、成田を脱出して上京して、ふたたび田宮を頼ってきた。

 当時、共産同ブントは前に述べたように「関東派」と「関西派」に分裂しており、両者は力による対決の段階に入っていた。そのため、森は関西派に迎えられることになったが、森の優柔不断な性格は、成田闘争に参加した後も全く直っていなかった。

 そのことは次の事件からもわかる。昭和44年6月28日、明治大学構内の明治記念館で「関西派」の集会が開かれた時、其処へ向かう途中で当日の弁士である同志社大学の藤本敏夫とその司会の森が、「関東派」の学生に拉致される事件が起こった。

 そのとき、藤本は「関東派」が要求する自己批判を受け入れなかったため、人事不省に陥入るほどの暴行を受けた。ところが森は、「関東派」に這いつくばって謝り、逃げ去って無事に帰るという事件が起こった。

 これらをみると、後に起こる悲劇的な連合赤軍事件も、リーダーの森恒夫と永田洋子という最悪の組み合わせにより引き起こされた思いが強い。

●京浜安保共闘のリーダー・永田洋子

 永田洋子は、昭和20(1945)年2月8日、東京都文京区元町に生まれた。父は電気会社の玉川工場で働き、母は看護婦として働く共働きの家庭であった。

 洋子が生まれた2ヵ月後に横浜市港北区南綱島に疎開し、小学校4年までは横浜・綱島の会社の寮に住んでいた。そのため物心のついた頃から、労働運動に対しては共感を持っていたという。
 
 昭和32(1957)年4月、田園調布にある私立・調布学園中等部に入学した。同学園は、中学・高校とつづく「良妻賢母」の育成を目指す女子校であった。中学3年で60年安保の運動に遭遇し、それに関心を持ち、理解しようと悩んだという。

 昭和38(1963)年4月、私立・共立薬科大学に入学し、ワンダーフォーゲル部に入った。入学後、しばらくして社会科学班に入り、樺美智子さんの虐殺抗議集会やポラリス原潜寄航反対の集会に参加したりした。

 昭和39(1964))年1月に社学同の会議に誘われ、3月20日の金鐘泌・韓国外相の訪日反対のデモに参加し、5月には社学同ML派に加盟した。

 昭和41(1966)年2月、大学3年のときパセドー氏病と診断された。この病気は、甲状腺ホルモンの過多から起こる病いであり、首が太くなり、目が飛び出すといった症状がでてくる。

 永田はこの病気のため、男性にもてなくなることに悩んだといわれる。明治の大逆事件における菅野すがが、隆鼻術の失敗による後遺症に悩まされて、それが幸徳秋水の大逆事件への引き金になったとする説がある。

 永田の場合にも残虐な連合赤軍事件に至る原因には、この病気が大きく影響しているように私には思われる。
 
 社学同ML派が、日韓闘争の総括を巡り内部対立する中、67年3月に大学を卒業し、慶応病院の研究生となり、薬学の社会的学問分野の運動と婦人解放問題に取組んだ。

 翌68年3月、日本共産党に造反した神奈川県「革命左派」が結成されると、これに参加し、慶応病院付属病院の薬局で無給の医局員をつとめたあと、品川の三水会病院に勤めた。

 68年秋には済生会病院の薬局代表になり、夏のボーナス闘争では団交に参加するようになった。この活動において、永田は薬剤師として労働と生活に立脚した運動の立場をとらず、最初から革命左派のもとでの党派活動の立場をとり、共婦、反戦平婦の活動を優先させていたといわれる。

 昭和44(1969)年4月20日、横浜市鶴見で「京浜安保共闘」が結成され、東京水産大学の坂口弘が指導者になり、永田はこれに参加して、「女闘士」と見られるようになった。

 京浜安保共闘の坂口弘、吉野雅邦など5人は、東大闘争の挫折以来、低迷していた学生運動にカツを与えることをねらい、9月4日、愛知外相が訪米、訪ソに向かう飛行機を羽田において火炎ビンで襲撃する闘争を行い、有名になった。

 主要メンバーが逮捕されて危機的状態になった京浜安保共闘の公判闘争などを通じて、永田洋子は京浜安保共闘の組織の中枢を占めるようになった。

 さらに京浜安保共闘の吉野雅邦が、昭和46(1971)年2月17日、栃木県真岡市の塚田銃砲店に押し入り、猟銃10丁、空気銃1丁、銃弾2300発という大量の武器を入手することに成功した。

 ここで京浜安保共闘の武器と赤軍のM計画による資金が合体して、連合赤軍が誕生することになった。

●連合赤軍の誕生

 昭和46(1971)年4月21日、京浜安保共闘の幹部の坂口弘と永田洋子は、赤軍派の森恒夫に会い、今後の支援・協力を話し合うため上京した。

 23日に両者は会い、赤軍と京浜安保共闘はできるだけ早い時期に一緒になり、「統一赤軍」を作ることで合意した。そしてその年の12月3日、赤軍派の「新倉アジト」に、永田洋子の京浜安保共闘が乗り込んできた。

 京浜安保共闘が榛名山に新しい「榛名アジト」を建設し、そこで両者が正式に合体したのは昭和46(1971)年12月20日のことであった。

 京浜安保共闘の吉野雅邦が慎重に選んだ榛名アジトは、湖畔の周遊道路から徒歩で20分も入った山の斜面を開いて吉野らが建設したもので、間口7m、奥行き5m、天井高3.5m、建築面積3平米の山小屋であり、台所、堀コタツ、ガラス窓の入った本格的な建物であった。

 それは赤軍派がそれまで使用していた無人の植林小屋を占有した新倉アジトとは全く異なる規模であり、森や坂東の赤軍派は京浜安保の気迫に飲まれ、驚嘆した。

 最初の両軍の討論に参加したのは次のメンバーである。


  赤軍派 森恒夫、坂東国男、山田孝

  京浜安保(革命左派) 永田洋子、坂口弘、吉野雅邦、寺岡恒一、岩田平治、
加藤能敬、小嶋和子、尾崎充男

 12月20日夜の会議は徹夜で続けられ、森は毛沢東が指導した1927年10月の秋収蜂起から、井岡山に至る闘争において紅軍建設の柱とした「三大規律・八項注意」(中国労農紅軍の隊内規律で、大衆の物は針1本、糸1筋、奪ってはならない、言葉づかいは穏やかにする、婦人をからかってはいけない、など)理論的な話をして、今度は京浜共闘の永田のほうが、「目が醒める思いで」それを聴いた。
 
 討論は連日連夜、続けられたが、永田が「ブルジョア的な遅れている兵士の再教育」の必要性について強硬な意見を出し、28日になっても最終結論が出なかった。 
 その後の総括・虐殺に繋がる厳しい個人追及は、すでにこの最初の指導者会議の段階から始まっていた。

 それは京浜安保の12.18集会に対して、加藤、岩田の意見書が出たところから始まった。この意見書に対して、加藤能敬と小嶋和子が総括を求められた。

 さらに、26日夜には永田が、加藤と小嶋が接吻しているところを見たことから、27日未明に寺岡、坂東、吉野の3人が寝ている加藤をシュラフから出し、土間の柱にしばり気絶するまで殴打し、小嶋も柱にしばられて放置される事件が起こった。

 さらに29日には、京浜安保の銃を管理していた尾崎充男と、赤軍派で「遅れている」と思われていた進藤隆三郎の2人が、氷点下15度を越す屋外に2日2晩縛り付けられ、尾崎が死亡した。これが最初の事件になる。

 28日から京浜安保は東京、名古屋に散らばる兵士たちを、また赤軍派は新倉アジトに残る赤軍派の仲間を坂東国男が呼びに行き、兵士集めに入っていた。

 中京安保共闘の山本純一と妻保子は、生後18日の娘の頼良(ライラ)ちゃんとともに、「山の中の理想的な共産主義社会で、親子3人幸せに暮らそう」という希望に燃えて榛名山へ向った。

 この榛名山アジトに集められた人数は、双方合わせて30名くらいであったと思われる。
http://www.araki-labo.jp/samayoe014.htm

(2)連合赤軍事件

 昭和47(1972)年元旦には、榛名山のアジトは既に地獄と化していた。1月1日には、尾崎に続いて進藤も雪の中で死亡した。肋骨が6本も折られていた。

 1月2日、後に「兵士たちの連合赤軍」の著者となった弘前大学の赤軍派の植垣康博が、新倉アジトから榛名アジトに到着したときには、既に、尾崎、進藤が殺害され、土間には加藤能敬が縛られており、アジトは緊張した重苦しい空気に包まれていた。

 山田、坂東には気楽に話せる親しさがなくなっており、威圧的になっていた。また永田洋子は指導部のコタツに入り、よそよそしくなり、みんなすっかり性格が変わっていた。

 その幹部の山田も、間もなく殺害されて、連合赤軍のなかで森と永田による支配体制は、2月のはじめには確立する。その1月末から2月初めにかけて山岳アジトは榛名から伽葉山、妙義山へと移るが、そこでも総括と殺害は継続されて、そのわずか1ヶ月そこそこの間に、図表-2に挙げる多数の人材が殺害された。


図表-2 山岳アジトにおける連合赤軍事件の犠牲者
http://www.araki-labo.jp/samayoe015.htm


死亡日 名前 享年 所属 出身学校 処刑理由

1971年12月31日 尾崎充男 22歳 革命左派 東京水産大学 12.18闘争の交番襲撃において日和りみて、柴野春彦さんを死なした

1972年1月1日 進藤隆三郎 22歳 赤軍派 早大?日仏学院? 女性と話ばかりしている

1972年1月2日 小嶋和子 22歳 革命左派 市邨学院短大 神聖な場を接吻で汚した

1972年1月4日 加藤能敬 22歳 革命左派 和光大学 同上

1972年1月7日 遠山美枝子 25歳 赤軍派 明治大学 きちんと総括できない

1972年1月8日 行方正時 22歳 赤軍派 岡山大学 女性と話ばかりしている

1972年1月18日 寺岡恒一 24歳 革命左派 横浜国立大学 分派主義で死刑

1972年1月20日 山崎 順 21歳 赤軍派 早稲田大学 総括が寺岡と似ているので死刑

1972年2月5日 大槻節子 23歳 革命左派 横浜国立大学 パンタロンを買った事を隠したり、美容院でカットした

1972年2月8日 金子みちよ 24歳 革命左派 横浜国立大学 皆にだまって出産の用意をしていた

1972年2月10日 山田 孝 27歳 赤軍派 京都大学 総括しようとしていない

(出典)永田洋子「十六の墓標」、植垣康博「兵士たちの連合赤軍」、小嵐「蜂起には至らず」などから作成

●イイカゲンな理由で総括・殺害された被害者たち

 図表-2を見ると、「総括」による処刑・殺害の理由が恐ろしくイイカゲンであることが分かる。

 ただ、幹部の寺岡に対する死刑は、彼が最高指導者である塩見高也の信頼の厚かった人物であることから、森の支配確立のための政治的粛清であるし、最後の処刑になる赤軍派の中央委員である山田孝に対するものも、それに準じるようである。

 しかし殺害の理由が分からぬまま殺された犠牲者が、圧倒的に多いことがこの表からも分かる。つまり兵士たちの粛清は「総括」という名の恐怖政治により、森と永田の支配体制を確立する手段として利用されたに過ぎないと私は思う。

 たとえば金子みちよの場合、妊娠している体で山岳蜂起の活動に参加すべきでなかった、という信じられない理由で処刑されている。

 以下同様に、殆どすべての人々は理由にならない理由により、森、永田の権力確立の犠牲になって殺害された。これが「連合赤軍事件」の本質である。

 ではこのような不当な処刑に対して、他の幹部や兵士たちが何故、唯々諾々と処刑に参加したのか?ということが大きな問題として残る。

 たとえば幹部の1人の坂口弘は、「あさま山荘1972」(下)のなかで、進藤隆三郎を総括するにあたり、なかなか気絶しない進藤を皆に殴らせたと書いている。

 そのとき遠山美枝子が、「私には殴れない」と人間的な言葉を発した。そのとき、皆はだらしがないといって彼女に進藤の殴打を強制する話が出てくる。(坂口弘「あさま山荘1972」下、301頁)

 このとき一緒になぐって処刑者が死ねば、参加者は心情の如何にかかわらず、森と永田と同罪で共犯の立場になる。そして、もしそのとき徹底して反対すれば、今度は反対した自分が処刑される立場になる。

 事実、進藤の死の1週間後に、遠山美枝子自身が総括により殺されている。このような異常な心理状況を作り出し、処刑の連鎖を作ることにより、森と永田の支配体制を確立していったと考えられるのである。

 つまり連合赤軍事件は、スターリンの「血の粛清」や毛沢東や江西たち4人組による「文化大革命」と全く同質であり、イデオロギー的な組織を確立する過程において、支配者が権力を奪取していくための権力闘争の小型版であったといえる。

 そして、その愚かさと残酷さにおいて、将に、スターリン、毛沢東に負けないひどい事件であった。

 連合赤軍事件で処刑された人々は、図表-2のほかに、榛名山へ来る前の昭和46(1971)年8月に、永田が向山茂徳(20歳、予備校)と早岐(はいき)やす子(21歳、日大高等看護学院生)の2人を、組織脱落者として処刑している。

 さらに、榛名山アジトの次に移った伽葉山アジトにおいても、1月30日に山本順一(労働者、革命左派)が総括にかけられ死亡している。山本は、妻と娘の頼良ちゃんをつれて「理想の天国」を求めて榛名山へ来た人である。命の危険にさらされた妻の保子は、処刑寸前に頼良ちゃんを置いて逃走した。

 そこで図表-2の人々とあわせると全部で14人が処刑されたことになる。
 
 このような状況下にある地獄のアジトから脱出を図る人々も出てきた。まず最初に榛名山から脱出したのは岩田平治であった。彼は伊藤和子と一緒に資金集めに名古屋へいき、集めたカンパの4万円を伊藤に渡して、そのまま脱走した。

 帰ってきた伊藤から岩田の脱走を知った森と永田は、岩田から榛名山アジトとそこでの殺人事件が発覚する事を恐れて、次ぎのアジトへ移動する事を決めた。

 次に脱出したのは前沢虎議であった。前沢は、東京大田区の自動車部品メーカー「三国工業会社」の工員であった。同じ会社に工員としてもぐりこんでいた坂口弘のカリスマ的魅力にとりつかれて、京浜安保共闘に入り、榛名山アジトにやってきた。

 そこは「プロレタリアの天国」どころか、この世の地獄であった。そこで妙義山に移る段階で脱出の機会をうかがい始め、2月7日、脱走した。

 そして3月11日に親戚の人に連れられ、東京の練馬署に出頭し、死体を埋めたことを洗いざらい自供した。

 2月17日、森と永田も、2人で逃亡を計画していたとみられる尾道への「出張」から妙義山アジトへ戻る途中、群馬県警のパトロール隊に逮捕された。

 独裁者を失った連合赤軍の9人の残存部隊はそろって最後の妙義山アジトから逃亡し、そのうちの4人は軽井沢駅で列車にのったところで逮捕された。

 そして最後の5人が銃を持って軽井沢のあさま山荘に篭り、警察との間で激しい銃撃戦になったのが有名な「あさま山荘」事件である。

 森はその後、1973年1月1日、東京拘置所で自殺した。これに70年12月18日の上赤塚交番襲撃で射殺された柴野春彦を加えると、連合赤軍事件の犠牲者は16人になる。これが永田洋子の著書「十六の墓標」の表題の数字である。
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(3)あさま山荘事件

●アジトからの逃走
 伽葉山アジトにおいて
、山本順一が総括により殺害された理由というのが、驚くべきものであった。引越しの際、妻の山本保子が子供の頼良ちゃんのおしめをリュックにつめていた。それを、山本が手伝ったのを永田が見て、嫉妬したことが総括の原因といわれる。(角間隆「赤い雪―総括・連合赤軍事件」24頁)

 子供を取り上げられた上に、夫を処刑された保子は、もはや自分も助からないと思い、伽葉山から命がけの脱走をした。

 そのとき森と永田は、尾道に「出張?」しており、伽葉山アジトのリーダーは永田の元の愛人であった坂口弘が務めていた。山本保子の脱走を知った坂口は、中村愛子に頼良ちゃんをつれて尾道の森と永田のところまで、その旨を連絡に行く事を命じた。中村は看護学院にいた実績から、頼良ちゃんの面倒を見るよう命令されていたのである。

 2月7日の未明、中村愛子は生後2ヶ月の頼良ちゃんを背負い、腰まである雪の中を町まで下りて、信越線の渋川の駅前からタクシーで榛名湖畔に向った。
 タクシーの運転手は、この異様な風体の親子を見て自殺志願者と間違え、湖畔で警察に届けた。そこで彼女は警察に保護され、東京で保母をしている友人に引き渡された。

 この頃、榛名湖畔で県立公園の管理人をしている丸岡和平という人が、湖畔の森の中にフシギな足跡や、ライトバンが乗り捨てられているのを発見して、さらに焼失しているアジトの跡を見つけた。

 その通報により、群馬県警の捜査員が榛名湖アジトの焼け跡に乗り込んだのは、中村が保護された翌日の2月8日のことであった。

 ようやく事の重大さに気がついた警察は、付近の山一帯を捜索して、2月15に榛名山ベースから20キロ離れた「伽葉山ベース」を発見した。伽葉山ベースはよほどあわてて引き払ったためか、殆どそのまま残されていた。

 その遺留品を調べた警察は、手配中の赤軍派や京浜安保のゲリラ戦士たちが付近の山に潜伏していると結論し、16日朝から関東、甲信越の山々に、厳重な捜査態勢をしいた。

 このことを全く知らない森と永田は、中村愛子から坂口たちが妙義山にアジトを移したという報告を受け、2月16日にようやく妙義山にたどりついた。しかし夜の暗闇の中、妙義山アジトの位置も分からず、雪の中で一夜を過ごして、翌朝、妙義山の洞窟アジトを求めて出発したが、既にその周辺は警察に厳重に押さえられており、2人は逮捕された。

 妙義山アジトにおける11人のメンバーのうち、奥澤修一(22歳、慶応大学)と杉崎ミサ子(24歳、横浜国大)は、妙義山から出発したレンタカーの中で逮捕された。19日朝、残りの9名の半分は雪の中に洞窟を掘って待機し、そのうち4人は佐久方面に出て衣服や食糧を調達して、再度合流することが決まった。その4人は次の人々である。


   青砥幹夫  23歳 弘前大学 赤軍派
   植垣康博  23歳 弘前大学 赤軍派
   寺林真喜江 23歳 横浜国大 京浜安保共闘
   伊藤和子  22歳 日大高等看護学院 京浜安保共闘


 4人は軽井沢駅の売店で新聞やタバコを買っているうち、その異様な風体を怪しまれ、7時50分発の長野行き普通列車に乗り込んだところを逮捕された。

 この頃になると、警察は群馬県警の機動隊員470名をはじめ、長野、新潟、栃木、茨城、埼玉、神奈川など6県警の警察官合計1300名以上に動員がかけられ、各県境の山など93箇所を虱潰しに捜索が始まった。

 残る5人は、軽井沢のレイクタウンにおける雪穴の中で、軽井沢駅での4人の逮捕を聞いた。2月19日午後3時過ぎ、彼らは軽井沢町地蔵が原の新興別荘地「レイクタウン」にいるところを、15人の警官隊に襲撃された。

 20分の銃撃戦の後、5人は別荘を捨て、山の奥へ逃走した。午後4時頃、いったん神津牧場方面に逃げた5人は、其処からさらに1キロ余り離れた山腹の険しい崖のところに建つ、「河合楽器」の保養寮「あさま山荘」に飛び込んだ。

●あさま山荘・銃撃戦

 敷地630平米、木造モルタル3階建てのこの山荘は、3Fが唯一の出入り口になっており、裏は険しい崖に建っている。将に攻めるに難、守るに有利な要塞のような建物であった。

 当日は6人の宿泊客があったが、犯人たちが侵入したとき、丁度、管理人の牟田郁男は皆を連れて外出しており、留守番は妻の泰子ただ1人であった。

 彼らは泰子を3階のベッド・ルーム「銀杏の間」にビニール紐で縛って閉じ込めた。午後5時40分、犯人の1人がベランダに現れ、空き箱や畳でバリケードを作り、警官隊が呼びかけるたびに、無言で銃を乱射してきた。

 この日、昭和47(1972)年2月19日から28日までの10日間、延べ218時間45分にわたり、わが国の犯罪史上に類を見ない長い「銃撃戦」の幕が切って落とされた。

 4日目の2月22日の午前11時40分頃、突然、黒いコートの男が警察の制止を聞かず、警戒線を突破して3階の玄関口にたどり着いて中の犯人と話を始めた。

 どのように話がついたか分からないが、男は内側のバリケードの上に、前日から玄関前に放置されていた手紙の束と果物籠を置き、外に向かい「大丈夫」と言うように手をふり始めた。

 これを見て、機動隊が行動を開始し、4人の特攻隊員がドアに近づいた途端、射撃音と共に男は倒れた。男の名は田中保彦といい30歳。事件には無関係の新潟のスナック経営者であったが、8日後に病院で死亡した。

 篭城5日目の2月23日になっても、警察は犯人たちの正確な人数さえつかめないでいた。午後3時57分、警察側は一斉にガス弾を撃ち込み、犯人側も的確な射撃で打ち返してきた。

 6日目の24日になっても犯人の人数はおろか、人質になっている牟田泰子の安否さえつかめなかった。既に山荘に対する送電は第1回の総攻撃以来とめられており、その上、放水車から大量な水が注ぎ込まれていて、人質の生命も危険な状態にあった。

 そこで2月28日が総攻撃のXデーに定められた。午前10時、山荘を壊して突入するため、クレーン車と直径60センチの巨大な鉄の玉が用意された。これにより、山荘東側の洗面所の壁を破壊し始めると同時に、放水車による放水が始まった。

 鉄玉は水平打ちから垂直打ちに変わり、屋根が破壊され催涙弾が打ち込まれた。
 家の中からは、クレーンめがけてライフルによる猛烈な射撃が行なわれ、クレーンを操縦していた警官は、間一髪で難を逃れるという死闘が続いた。

 午前11時31分、鉄玉の威力で玄関の屋根が崩れ落ちた。機動隊が突入しようと立ち上がったとき、猛烈な射撃を浴びて、警視庁特科車輌隊・高見重光警部と警視庁第2機動隊長・内田尚孝警視が倒れ、その後に病院で亡くなった。

 犯人たちは3階奥の「銀杏の間」に立てこもったようであった。既に、冬の日は山の端に落ち、夕闇が迫る中を満月が昇り始めており、凄惨な現場は投光器により照らし出されていた。

 17時50分、猛烈な放水が開始され、「銀杏の間」の窓枠は吹き飛び、奔流は滝のように室内に流れ込んでいた。その中へ機動隊が突入した。午後6時21分、連合赤軍の最後の5人が逮捕されて、人質は無事に救助された。犯人は以下の5人であった。


       坂口弘  25歳
       坂東国男 25歳
       吉野雅邦 23歳
       加藤次郎 19歳
       加藤三郎 16歳


 この日のあさま山荘攻防戦はテレビで実況放映され、視聴率は98.2%という驚異的な水準に達した。

 それはまさに、映画「明日に向って撃て」の日本版であった。TVに映しだされる犯人たちに、国民の多くはポール・ニューマンやロバート・レッドフォードを重ね合わせて見ていた。そこには分からないけれど、「明日」に向っての何かがあるのではないか? でもそこには「明日の世界」など、なにもなかった!

 その後になって、山岳アジトにおける信じられない惨劇が明らかになってきた。そして赤軍派に対する国民のなにがしかの同情や共感は、完全に吹き飛んでしまった。日本国内にける新左翼運動には、その時点からシンパがまったくいなくなった。

 連合赤軍事件は、日本国民にそれほど大きな衝撃を与える事件となった。
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[近代史3] 若松孝二 実録・連合赤軍 あさま山荘への道程 (2007年) _ 1970年代はこういう時代だった 中川隆
116. 中川隆[-11382] koaQ7Jey 2019年3月18日 20:49:53 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[618]

日本赤軍のテルアビブ空港襲撃事件が世界中に大きな衝撃の理由は

イスラエルとパレスチナの紛争に、全く利害関係を持たないはずの日本の極左組織が、命を掛けて参加した理由が分からないことである。

 彼らは宗教的にイスラム教を信奉しているわけでもないし、命をかけるほどの利益があるわけでもない。

従がって、イスラエルの空港に日本赤軍と称する組織が命がけの攻撃をする理由は、西洋人は勿論、中東の人々にも理解できなかった。

何故、日本赤軍は、自分たちの命を犠牲にしてイスラエル空港を攻撃したのか? 

そしてそれに輪を掛けて理解できなかったことは、日本政府がこの襲撃事件に遺憾の意を表明して、犠牲者に100万ドルの賠償金を支払ったことである。


____

6.日本赤軍の事件

 昭和44(1969)年11月、山梨県大菩薩峠で軍事訓練を展開しようとしていた赤軍派は、大量検挙によって潰滅状態に陥った。

 この勢力が衰えた赤軍派を、海外の軍事的反体制勢力と提携して組織を再建するため、重信房子と奥平剛士は昭和46(1971)年2月、偽装結婚してパレスチナ入りした。そしてPFLP(パレスチナ解放人民戦線)の庇護、支援の下で、海外赤軍派をつくった。海外赤軍派は、当初、アラブ赤軍、赤軍派アラブ委員会といっていたが、74年以降、日本赤軍を名乗るようになった。

 1972年春、日本では連合赤軍の大量リンチ殺人事件が明るみに出て、極左武装集団に対する国民の支持は完全に失われた。そしてその頃、北朝鮮では金日成が、日本からハイジャックにより入国してきた赤軍派客人たちの利用法を考えていた。

●テルアビブ空港襲撃事件

 このような状況のもと、海外赤軍派が起死回生の思いで引き起こした事件が、テルアビブ空港襲撃事件である、と私には思われる。その結果は、世界中に大きな衝撃を与え、いろいろな意味においてこの事件は、70年代以降の反体制テロ活動の端緒となる画期になったといえる。 まず事件の経過を簡単に述べる。

 昭和47(1972)年5月30日、海外赤軍派の奥平剛士、安田安之、岡本公三らが、イスラエル・テルアビブのロッド国際空港(=現在のベン・グリオン国際空港)の旅客ターミナルを自動小銃、手投げ弾などで襲撃して、死者24人を含む100人以上を殺傷した。奥平と安田はそこで射殺され、岡本は逮捕された

 このテロ事件は、いろいろな意味で世界中に大きな衝撃を与えて、日本赤軍の名を世界中に広める事になった。

 その大きな衝撃の理由の一つは、イスラエルとパレスチナの紛争に、全く利害関係を持たないはずの日本の極左組織が、命を掛けて参加した理由が分からないことである。

 彼らは宗教的にイスラム教を信奉しているわけでもないし、命をかけるほどの利益があるわけでもない。従がって、イスラエルの空港に日本赤軍と称する組織が命がけの攻撃をする理由は、西洋人は勿論、中東の人々にも理解できなかった。

 現在、中東のゲリラで一般的に行なわれるようになった「自爆テロ」という形式の第1号が、この事件である。それはさらに、日本の「特攻隊」に原型があると私は思う。

 しかし何故、日本赤軍は、自分たちの命を犠牲にしてイスラエル空港を攻撃したのか? そしてそれに輪を掛けて理解できなかったことは、日本政府がこの襲撃事件に遺憾の意を表明して、犠牲者に100万ドルの賠償金を支払ったことである。

 このことは、国際的な理解からいえば、日本国が意識的に超過激派を海外に輸出したことを、国家自身が認識していることを表明したことになる。

 (そのことは、ハワイ大学の教授・パトリシア・スタイホフの著書「日本赤軍派」(河出書房新社、1991)の中の「日本人の責任意識」に詳述されている。)

 誰もその責任を指摘していないにも拘らず、日本政府は超過激派を海外に輸出した国の責任を、世界中に表明した。

 これは通常の国の政府にとっては理解不能のことであり、そのことが世界中の人々を驚かせた。

 そこで「偉大なる金日成首相」は、早速、北朝鮮に来ている日本赤軍のメンバーに、このフシギな中東の日本赤軍を自国に取り込む事を指示した。


 
●海外の日本赤軍とその事件

 国内の日本赤軍は、連合赤軍事件により壊滅し、1970年代の前半以降、赤軍派の勢力は急速に衰えていくが、海外においては、70-80年代にかけて日本赤軍によるテロ活動はかなり活発化する。その主要なものを図表-3にあげる。


図表-3 日本赤軍などによる海外での主要なテロ活動
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年月 事件名 事件の主体 事件の概要

72.5.30 テルアビブ空港襲撃事件 まだ日本赤軍と名乗っていない 日本赤軍の奥平剛士、安田安之、岡本公三らが、イスラエルのテルアビブの空港を自動小銃と手榴弾で攻撃、民間人100名以上を殺傷し、岡本公三は逮捕され、残りの2名は自決した事件。このときには、未だ日本赤軍を名乗っていなかった。

73.7.20 日航機ハイジャック・ドバイ空港に着陸 PFLP 丸岡修と4人のPFLPのメンバーが、パリ発・東京行きの日航機をハイジャック。ドバイ、ダマスカスを経由してリビアのベンガジ空港へ向う。ベンガジ空港で乗員・乗客141人を解放後、機体を爆破して投降した。

74.1.31 シンガポール シェル石油襲撃事件 日本赤軍とPFLP 日本赤軍の和光晴生、山田義昭とパレスチナ・ゲリラ2名が、シンガポールのシェル石油の製油所を爆破。乗員を人質にフェリー・ボートを奪取。

74.2.6 クウェート日本大使館占拠事件 PFLP PFLPのゲリラ5人がクウェートの日本大使館を占拠。大使ら16人と引き換えに和光らシンガポールのゲリラを移送させて、合流。のちアデンで投降。

74.9.13 ハーグ事件 日本赤軍 日本赤軍の西川純、奥平純三、和光晴生の3人が、オランダ・ハーグにあるフランス、アメリカの大使館を占拠して拘束されたメンバーの解放を要求。フランスは、超法規的措置として逮捕していたメンバーを釈放した。

75.8.4 クアラルンプール アメリカ大使館占拠事件 日本赤軍 マレーシアの首都クアラルンプールのアメリカ、スウェーデンの大使館を占拠し、アメリカ総領事を人質にとり、赤軍派などの釈放を要求。日本政府は超法規的措置として日本赤軍西川純、戸平和夫、赤軍派 坂東国男、松田久、東アジア反日武装戦線 佐々木規夫を釈放。赤軍派の坂口弘は釈放を拒否。

77.9.28 日航機ハイジャック、ダッカ事件 日本赤軍 日航機がインド・ボンベイ空港を離陸後にハイジャックされ、バングラデシュのダッカ空港に強制着陸。超法規的措置と日本赤軍・奥平順三、東アジア反日武装戦線・大道寺あや子と浴田由紀子、赤軍派・城崎勉、獄中組合・泉水博、仁平映を釈放。600万ドルの身代金を支払う。

86.5.14 ジャカルタ事件 日本赤軍? アメリカ大使館にロケット弾が発射され、発射元のホテルから城崎勉の指紋が検出された。

86.11.15 三井物産支店長誘拐事件 フィリピン共産党・新人民軍 三井物産支店長がフィリピン共産党の新人民軍に誘拐され、身代金を要求された。1991年に犯人たちは逮捕されたが、そのとき日本赤軍の協力があったことを供述。

87.6.9 ローマ事件 日本赤軍 ベネチアサミットの開催中、ローマのアメリカ、イギリス大使館にロケット弾が発射され、カナダ大使館で車が爆破され、「反帝国主義国際旅団」の名で声明が出された。イタリア公安当局は、日本赤軍の奥平純三の犯行と発表した。

88.4 ナポリ事件 不明 イタリア・ナポリのナイトクラブ前に駐車していた車が爆破され、民間人、アメリカ兵など5名が死亡した。日本赤軍はこの犯行を否定している。

●黄昏の「新左翼」

 1960年安保反対の国民運動の中から誕生してきた「新左翼」は、70年代の内ゲバと連合赤軍事件により国民の支持を失った。

 さらに70-80年代に繰り広げられた海外の日本赤軍の事件は、独善的な「世界革命」の視野に立っていたことから国民的支持を得る事は難しく、80年代を通じて「新左翼」の運動は根無し草のような状態に落ち込んでいった。

 このような左翼勢力の後退は、80-90年代におけるソ連を中心にした社会主義体制の崩壊により、さらに決定的なものになった。そしてそれに代わって、西欧、アメリカ、日本などにおいて、新保守主義への歩みが加速していった。
 
 日本では、1960年以降、新右翼、新左翼の流れは時と共に衰退して、保守中道の自民党系の政治勢力のみが、激動する世界の中を生き延びる結果になった。それは明治政府が、自由民権を弾圧し、最後に大逆事件により反政府運動に止めを刺したが、勝ち残った政府側も明治末年には国家破産の状態に突入していたのに似ている。
 
 そこでは政治家、官僚たちの腐敗・堕落が目を蔽うばかりに広がり、戦後に作られてきた教育、福祉をはじめとする社会的システムは、すべて劣化・崩壊の危機にさらされるようになった。

 さらに国家財政にいたっては、政府の誤った国家政策の結果、国民1人あたりの負債が1千万円に達し、1945年の敗戦時よりも悪い状態に落ち込んだ。それは、最早、自力再建は不可能といえる状態にある。

 戦後、作り上げられた議会制民主主義は完全に形骸化して、日本中で支持政党をもたない人々が最大多数を占める状態になってしまった。このような状況で、左右の政治勢力が衰退したことは、国民の将来に対する政治的期待や展望を全く失わせる閉塞的な状況になってきている。
http://www.araki-labo.jp/samayoe017.htm

http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/287.html#c116

[近代史3] 若松孝二 実録・連合赤軍 あさま山荘への道程 (2007年) _ 1970年代はこういう時代だった 中川隆
117. 中川隆[-11381] koaQ7Jey 2019年3月18日 20:56:36 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[619]
標記映画の動画リンク追加


若松孝二 実録・連合赤軍 あさま山荘への道程 (2007年) 動画
https://www.youtube.com/watch?v=q_uMjzQAwnM
https://www.youtube.com/watch?v=cicGFPx-4GE

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<再現>日本赤軍事件 - YouTube 動画
https://www.youtube.com/watch?v=QNNokzO4u-Y
https://www.youtube.com/watch?v=3dN3r3H4mSU


重信房子独占インタビュー 1973 - YouTube 動画
https://www.youtube.com/watch?v=rXIUjCImv1M

映画『革命の子どもたち』予告編 - YouTube 動画
https://www.youtube.com/watch?v=93xiGKx5ASU


▲△▽▼


連合赤軍あさま山荘事件 完全版 - YouTube動画
https://www.youtube.com/watch?v=_7538Mapqd8

https://www.youtube.com/watch?v=JbXHqyyCvRY
https://www.youtube.com/watch?v=UgCwy_WQP60
https://www.youtube.com/watch?v=6dy2fbMgILE

<再現>連合赤軍 山岳ベース事件  - YouTube 動画
https://www.youtube.com/results?search_query=%EF%BC%9C%E5%86%8D%E7%8F%BE%EF%BC%9E%E9%80%A3%E5%90%88%E8%B5%A4%E8%BB%8D+%E5%B1%B1%E5%B2%B3%E3%83%99%E3%83%BC%E3%82%B9%E4%BA%8B%E4%BB%B6&sp=mAEB

銃撃と粛清の神話 1972年連合赤軍あさま山荘事件 - YouTube 動画
https://www.youtube.com/results?search_query=%E9%8A%83%E6%92%83%E3%81%A8%E7%B2%9B%E6%B8%85%E3%81%AE%E7%A5%9E%E8%A9%B1+1972%E5%B9%B4%E9%80%A3%E5%90%88%E8%B5%A4%E8%BB%8D%E3%81%82%E3%81%95%E3%81%BE%E5%B1%B1%E8%8D%98%E4%BA%8B%E4%BB%B6

【昭和】連合赤軍30年目の真実【大事件】 - YouTube動画
https://www.youtube.com/watch?v=VwrRJSLg7nU

連合赤軍兵士 41年目の証言 - YouTube動画
https://www.youtube.com/watch?v=fBusjiyrX78


▲△▽▼


しかし、昔の学生やインテリは随分 IQ が低かったみたいですね。

当時の日本は一億総中流で、マルクス主義の前提になる階級自体が存在しなかったので、いくら社会不安を起こしても階級闘争や革命なんか起きる筈がなかったのですけどね。


まあ、今の学生やインテリが賢くなったというのでなく

今だけ、金だけ、自分だけ

という価値観に変わっただけなのですが。


世界の国で中間層が部厚かったのは平成バブル崩壊までの日本だけです
そしてそれは、終戦直後に GHQ が農地改革、意図的なインフレと預金封鎖、極端な累進課税で人為的に所得再分配をやった結果なのです。

日本共産党や労働組合を創設させたのも GHQ なのですね。

平成バブル崩壊までの日本が世界で最も成功した社会主義国だと言われていたのは
すべて GHQ の共産化政策の結果なのです。

20年前まで大学関係者や学生が左翼とマルクス主義者ばかりだったのも GHQ の教育方針の結果でしょう。

http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/287.html#c117

[リバイバル3] 卵を毎日食べるのは健康に良いのか?、悪いのか?

卵を毎日食べるのは健康に良いのか?、悪いのか?


週に3個以上の卵を摂取、心疾患のリスク増大か 米研究
2019.03.18 Mon posted at 18:28 JST
https://www.cnn.co.jp/fringe/35134378.html


週3個以上の卵や1日当たり300ミリグラムのコレステロールを摂取する人は心疾患や早死にのリスクが高まる可能性があるとの調査結果が明らかになった/Photo Illustration/Thinkstock


(CNN) 1週間に卵を3〜4個食べる人や、食事から1日当たり300ミリグラムのコレステロールを摂取する人は、そうでない人に比べて心疾患や早死にのリスクが高い――。そんな調査結果がこのほど医学誌JAMAに発表された。

論文を執筆した米ノースウエスタン大学のビクター・ゾン氏によると、卵の黄身は特にコレステロール値が高く、卵1個には大きなもので約186ミリグラムのコレステロールが含まれる。

研究チームは、2万9000人あまりについて平均で17年半にわたって追跡調査した米国内の6研究グループのデータを詳しく調べた。

その結果、心血管系の疾患を発症していたのは計5400人で、うち1302人は脳卒中(死者を含む)、1897人は心不全(同)を発症し、113人はそのほかの心疾患のため死亡していた。それ以外の原因で死亡した患者は6132人だった。

今回の調査では、食事からのコレステロール摂取が1日当たり300ミリグラム増えると、心疾患に関連したリスクは3.2%高まり、早死にする可能性は4.4%増えるという結果が出た。

卵は1日当たりの消費量が半個増えるごとに、心血管系疾患のリスクは1.1%上昇し、早死にリスクは1.9%上昇するとしている。

この結果は、過去の研究と矛盾する部分もある。その理由として、過去の研究では、卵の消費と他の不健康な行動(運動不足や喫煙、不健康な食生活など)との関係を考慮していなかった可能性が考えられる。

加えて、コレステロールの多い食品は一般的に、飽和脂肪や動物性たんぱく質も多く含まれる。

一方、今回の研究では、そうした要因も包括的に評価したとゾン氏らは述べている。

今回の研究にはかかわっていないコロラド大学医学校のロバート・エッケル氏は、医師にとっても患者にとっても、このテーマは重要だと指摘する。

同氏によると、卵の消費や食事からのコレステロール摂取と、心血管系疾患との関係は長年の論議の的になっているが、最近の研究では重要性は薄いと考えられていた。

しかし今回の研究は従来の研究に比べてはるかに包括性が高いとエッケル氏は指摘、「心臓にいい食生活に対し、卵の消費やコレステロール摂取が及ぼす悪影響を考えると、コレステロールの多い食品の摂取を制限することの重要性を見過ごすことはできない」と解説している。
https://www.cnn.co.jp/fringe/35134378.html


▲△▽▼

【一日に2個】卵を食べるべき理由と健康への9つのメリットについて
https://www.chietoku.jp/reasons-to-eat-eggs/


「卵は毎日食べてはいけない。コレステロール値が上がってしまうから!」

皆さんもこんな注意を聞いたことがあるのではないでしょうか。卵好きにとっては何ともつらい話ですが、さらに卵はダイエット中の人にもあまりよろしくないといったような話も耳にすることがあります。こんな話を聞いて、なるべく卵を食べないようにしようと気にしている人も多いはずですが、実はこういった卵の悪いうわさには科学的な根拠がありません。

最近では、むしろ健康のために卵を一日2個から3個食べるべきだという説も言われるようになってきています。


Pixabay

今回は卵を積極的に食べるべき9つの理由をご紹介します。今後はもう卵を食べることに後ろめたい思いを抱くことはなくなるかもしれません。

1. 心血管系疾患のリスクを抑える

ニワトリの卵には、およそ400mgのコレステロールが含まれています。これはもちろん決して少ない値ではありません。体内のコレステロール値が上昇すると、心臓発作や循環器系の問題を引き起こす原因となります。ところが、この話には一点大きな誤解があります。実は、例え高コレステロールの食材を食べたとしても、体内のコレステロール値がそれによって上昇するわけではないのです。むしろ、コレステロールを多く含む食材を体内に吸収することで、身体は自身のコレステロール値を抑えようと働きます。食べ物から直接血液中に溶け出すコレステロールは全体のわずか3分の1だという研究結果もあります。コレステロールは、そもそも体内で自ら作り出される成分なのです。

この内容は、アメリカ・ルイジアナ州のバトンルージュにある生医学研究所が発表した研究結果にもまとめられています。この研究では、体重過多ぎみの152人の被験者を3つの組に分けて調査を行いました。第一のグループには朝食に好きなものを食べさせ、第二のグループには毎朝卵を2つ出し、第三のグループには毎朝ベーグルを出したそうです。調査の結果が出たとき、研究者たちは驚きを隠すことができませんでした。というのも、ベーグルを食べ続けた第三のグループの参加者たちのうち減量したと回答したのは65%、またお腹周りの脂肪が減少したと認められたのは全体の35%に上ったのとともに、卵を毎日食べ続けた第二のグループの参加者たちはコレステロール値に何ら変化が認められなかったからです。

卵には多くのオメガ3脂肪酸が含まれており、これが血液中のトリアシルグリセロール値を下げるという効果も認められています。血液中のトリアシルグリセロールの値が高いと循環器系の疾患を引き起こすリスクが上がると言われています。つまり、卵を毎日食べることで心臓周りの病気のリスクを下げるという効果が期待できるというわけです。

2. 葉酸の欠乏による胎児の先天性異常のリスクを低下させる

ニワトリの卵には、1個につきおよそ0.7マイクログラム(0.0007mg)のビタミンB9が含まれています。葉酸とも呼ばれるこの栄養素は、特に妊娠中の女性が不足すると胎児の神経システムに深刻な損傷を与える可能性があることで知られています。最悪の場合胎児の脊髄や脳に奇形が生じる可能性もあるそうです。この点から見ても、卵を定期的に食べるというのは大きなメリットがあるのです。

3. アンチエイジングの効果が期待できる

ドイツ・ベルリンにある医療センターが行った研究によると、フリーレンジの卵(放し飼いで飼われたニワトリの卵)を食べることで加齢プロセスを遅らせ、皮膚がんを予防することができるそうです。この調査を行ったカロリン・へスターベルク博士とユルゲン・ラーデマン教授によると、フリーレンジの卵の黄身は黄色の色素が多く、これに加齢プロセスを遅らせる効果を持つカルテノイド(抗酸化作用を持つ成分)が入っているのだといいます。カルテノイドは人体の中で生成することのできない栄養素であり、食事から摂取する必要があるのですが、主に体内の遊離基を無害化するという働きを担ってくれます。

アンチエイジングという観点で見た場合、卵の調理法に注意が必要だとラーデマン教授は話します。「卵は火を通すと化学反応を起こし、含まれるカルテノイドの量が増えます。そのため生で食べるよりも加熱した状態で食べたほうが有効でしょう」

4. がんのリスクを抑える

「Breast Cancer Research(乳がんの研究)」というサイトで発表されたこの研究結果によると、10代の間毎日卵を食べた女性は、卵を食べなかったグループに比べ後に乳がんを発症した割合が18%も少なかったそうです。卵にはアミノ酸やミネラル、ビタミンなどの栄養素に加えて、体内にある女性ホルモンの一種エストロゲンと結合する効果が認められています。体内のエストロゲンのレベルが上昇することが乳がんを引き起こす一因と考えられていることを考えれば、少なくとも卵が乳がんの予防に何らかの効果を発揮するというのも不思議ではないかもしれません。

5. 肌や髪の毛、肝臓に良い効果を与える


卵には、ビタミンB12やビオチン、タンパク質といった栄養素が豊富に含まれています。これらの成分は、いずれも健康的な髪や肌になくてはならないものばかりです。さらに言えば、卵の黄身に含まれているタンパク質と硫黄結合物質もまた傷んだ髪をよみがえらせる効果を持っています。

卵にはまたレシチンと呼ばれる成分が豊富に含まれていますが、これは腸の調子を整え、肝臓の機能をサポートしてくれます。いわゆる天然の体内デトックス効果が期待できるというわけです。

6. 目の健康に良い効果をもたらす

卵を食べると、視力が良くなる…こんな話を聞いたことはありますか?卵にはビタミンA、ルテイン、ゼアキサンチンといった栄養素が豊富に含まれていますが、このうちビタミンAは目の光への適応力を高め、ルテインとゼアキサンチンは日中の色覚を強化し、遊離基による攻撃から目を保護してくれるのだそうです。

ルテインとゼアキサンチンのレベルが低下すると、目の組織に損傷が起きるだけでなく、加齢黄斑変性や白内障といった症状を引き起こす原因にもなるそうです。

7. ダイエットの効率が上がる


炭水化物は、タンパク質よりもGI値が高い食べ物です。GI値の高い食事を摂れば血糖値が急上昇するのは当然ですよね。血糖値が急激に上昇や下降を繰り返すことで、空腹感をずっと感じたままの状態になってしまいます。GI値の低い食材を食べるのがダイエットに適しているといわれるのはこのためです。そこで卵ですが、卵のGI値は何と「ゼロ」だというのをご存知でしょうか。まさに減量のためにあるような食べ物ですよね。さらに言えば、卵を構成するタンパク質は炭水化物や脂質と比べて消化に大きなエネルギーが必要とされるというのも、ダイエットという観点から見れば利点ということができるでしょう。

8. 脳の働きをサポートして健康的な代謝を維持する

卵に含まれている栄養素の中にコリンと呼ばれるものがありますが、これは身体の代謝、特に体脂肪に働きかける成分です。さらに、体内に吸収されたコリンはやがて神経伝達物質のアセチルコリンという物質に変わり、脳と神経システムとを繋ぐ役割を果たすようになります。そのためコリンが体内で不足すると、記憶力が低下するとともに、妊娠中の女性の場合は胎児の早産や未熟児の原因ともなることが報告されているようです。十分な量のコリンを摂取するには、1日2個の卵を食べるだけでいいそうですよ。


9. カルシウムのレベルを上昇させることで骨を丈夫にする


ビタミンDとカルシウムが骨や歯にとても重要な役割を果たす栄養素だということは良く知られています。これは、アメリカ・メリーランド州のべセスダにある国立バイオテクノロジー情報センターによる研究でも証明されています。この研究ではさらに、カルシウムとタンパク質がお互いに作用しあい、カルシウムのレベルを維持するだけでなく、骨の新陳代謝を健康な状態に保つということが分かったそうです。卵にはカルシウムにとって大切なビタミンDも含まれているため、より効率的にカルシウムを吸収することができるようになるのです。

いかがでしたか?少なくとも卵をたくさん食べることが身体に悪いことではないということが分かったと思います。ただ、いわゆる屋内のケージの中で飼われているニワトリの場合、エサに含まれる薬などが卵にも含まれてしまう可能性があるため、選択できる場合はフリーレンジ(放し飼い)で飼われたニワトリの卵を選ぶことをお勧めします。もちろん、例えば糖尿病や心疾患を患っているという人たちにとっては注意が必要です。一週間に2つ程度を目安に食べ過ぎを控えるように心がけましょう。
https://www.chietoku.jp/reasons-to-eat-eggs/
http://www.asyura2.com/09/revival3/msg/941.html

[近代史3] アイヌは何故文字を持たなかったのか?

2019年03月15日
アイヌは何故文字を持たなかったのか?
http://web.joumon.jp.net/blog/2019/03/3437.html


縄文人は文字を持ちませんでした。 現在も残存するアイヌも文字を持たない民族です。

アイヌ語で「神」のことを「カムイ」と言います。 アイヌの人々は、自分たちに生きる糧や恵みをもたらし、時に恐ろしい災いをもたらす大自然を神として万物への祈りを捧げ、祭礼を行ってきました。 また、文字を持たないアイヌは、神話や伝説などを口伝えで受け継いできました。 代表的なアイヌの口承文芸として「ユカラ」が知られています。

アイヌの人々が使うアイヌ語は、子音の数が極端に少ないなど、日本語とはまったく異なる言語です。 しかし、「ニセコ(切り立った崖)」や「知床(地の果て)」など、北海道の地名にはアイヌ語が元になったものが多く、「トナカイ」「ラッコ」「シシャモ」などもアイヌ語です。 現在、アイヌ語を母語として話すことのできる人はわずか数人とされ、ユネスコによって「極めて深刻」な消滅の危機にある言語と認定されています。

では、アイヌとはどういう民族なのか?何故アイヌは文字を持たなかったのか?

追求してみたいと想います。

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何故アイヌは文字を持たなかったのでしょうか。 それは、持つ必要が無かったからだと推測できます。

以下興味深い記事がありましたので紹介します。

アイヌはなぜ国家を作らなかったかの話 http://shidoyuuichi.hatenablog.com/entry/2016/02/01/004708

文字を必要とする民族は、管理することを目的として始めます。 簡単に言えば、税金の取り立て記録や、人員への命令の記録や、支配の正当性の記録や、貢ぎ物の記録がなければ口頭だけでは確実ではないからです。特に、命令が、伝達ゲームでは管理できません。 支配者一人の言葉は、同等に被支配者に伝わらなければ間違いや誤解によって違う結果とならないようにするために共通の合図が複雑化する中で、文字として発達していくのです。逆に言うと、管理社会でない民族には文字は必要性はないのです。ですから、文字を持たない民族や文化が劣っていて、文字を持つ文化が優秀なのではありません。統一国家のような集団を集合させるような構造を持たない民族には文字は必要ではありませんでした。

アイヌには、文字はありません。では、食料の生産能力かと言えば、それも一概に言えません。例えば、沖縄は、稲作が出来ても、大きな国家を作ることをしませんでしたし、武力も大きくなく、薩摩に征服されてしまいます。縄文後期に稲作を初めて止めてしまった縄文人もいます。

稲作という視点で見る場合には、人工の増加と言うことは重要です。アイヌ民族は、どうやら3万人程度で推移したようで、人口の大きな増加はなかったようです。ですから、国家も作らなかっただけでなく、武闘集団を作るには人工的に困難でした。

では、なぜ大和は国家を必要としたかというと人口に対して貧しかったからと言えます。つまり、生活的に困らなければ、民族は国家を必要とせず、独自の生活を維持します。困窮する民族は、略奪を求めて強い武闘集団を形成するために国家が必要です。

アイヌの生活が貧しかったというのは間違いで、物が豊富で有ると言うことと生活が豊かであると言う事は一致しません。何故なら、アイヌ民族は、他の民族から孤立していたのではありません。接していながら、見習いたいと思わなかったのです。憧れなかったのです。

大和朝廷は、遣隋使も遣唐使も使って、中国に憧れ、中国の文字を真似、律令制度を真似ることに最大の力を尽くしました。

貧しい地域ほど武闘は強かったのです。確かではありませんが古事記で言えば、九州の阿蘇山の噴火で、九州の北部・中部は痩せた土地で大変だったので豊かな土地を求めて征服の旅に出て、ついにたどり着いたのが大和朝廷の前身と言う事と読めます。征服することによって、貢ぎ物を頂く。それが国の豊かさだったのです。朝貢という貢ぎ物を古代の国家は中国にしています。同様に、国内では同じ方式で、国家は地域から貢ぎ物をさせることで成立していました。

都会に憧れる人も、憧れない人もいます。必ずしもものの豊かさが、憧れとはなりません。ものの豊かさに憧れなかったアイヌは、国家も作らず、文字も必要としませんでした。

http://web.joumon.jp.net/blog/2019/03/3437.html
http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/294.html

[近代史3] 美智子妃も雅子妃もアメリカが皇室と天皇制を破壊する為に送り込んだスパイなのか? 中川隆
41. 中川隆[-11380] koaQ7Jey 2019年3月19日 10:24:14 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[622]

小和田恒氏、その重大な罪 2018-07-01
https://blog.goo.ne.jp/bb-danwa/e/a672698e97b9e288783b63bf979afce1


まず「軟禁」と「監禁」の差を知らねばなりません。
小和田恒氏のバーゼルにおける軟禁を、監禁と取り違えて国際裁判所に
出ていたから軟禁などされていない、という擁護をする人たちがいますが、
軟禁とはそもそも、監視付きではあるがある範囲内の自由は認められています。


小和田氏の不祥事に拠る軟禁は事実です。

国際裁判所に出ていたのは事実ですが、おそらく軟禁開始の時期とかぶるかと思うのですが、裁判所を「我々にも把握できない突発事で欠席」と、裁判所がステイトメントを出した一件があり、これは過去記事で述べました。記事を探すのが億劫なので、裁判所の文言は、概略であり当時出された文言そのままではありません。

東京にいったん戻ったとされる情報もありましたが、その時すでに軟禁が解かれたのか、あるいは特例としての一時帰国が叶ったのかそこは解りません。(某所と某所からの数回に及ぶ救出作戦が功を奏したのか、あるいは小和田氏が当局の要求に応えてあるケジメをつけたか・・・・現在では軟禁は解かれて帰国、ある一件で動き始めるまではコンクリート御殿に蟄居していらっしゃいました)

情報を収集していた時の時系列がもはやうろ覚えで、過去記事に遡って検証する時間がなく申し訳ありません・・・・が過去記事には正確に記録があるので、今回は駆け足の概略で失礼します。

小和田氏(及び協力者)はひょっとしてフェイク画像使用ないしは、これは明らかに日時を捏造なさるお方です。

この画像、(6月)6日とされていますが、ありえません。なぜなら、この日付の時小和田氏は東京にいました。情報を得ています。詳細は割愛しますが、やや書けば小和田氏はその時、供も連れず一人で電車移動でした。

この画像自体が合成ではないか、という指摘も複数得ましたが、そこはブログ主には判断できません。ただ、日時に関してははっきり、「あり得ない」と断言できます。6月中、小和田氏は一歩も日本を出てはいません。
これは調査すれば足跡は知れることなので、ブログ主が当てずっぽうを書いているわけではありません。

また付随的におかしな点は、6月6日に裁判所の一室にいた設定なのに、小和田氏はハーグにおける新旧判事交代式にすら出ていらっしゃいません。考えられない非常識と非礼。(6月7日に正式退任)

以下はネットの片隅ではすでに早くから出ている情報なので、BBも書きやすいのですが・・・・隔靴掻痒ではあります・・・・。

たとえばこちら。

https://blogs.yahoo.co.jp/s_kengokeiko/28434890.html

古い記事のせいでもあるのか、上記の情報は・・・・当たらずと言えども、遠からず・・・・というレベルです。↑
事実はもうちょっと、入り組んでいる・・・・かもしれません。(”知恵”の回る小和田氏が、何のバックもなく単独で違法をやらかすような幼い真似はしません・・・・)

しかし、聞こえてくる小和田氏の最近のちょこまかした動きについては小和田氏のなした以下の、重大な日本国毀損行為に比べれば、まだましなほうかもしれません。


以下は、平成26年8月12日の拙ブログ過去記事をベースに、日本という国にとって小和田恒氏がどれほど悪辣なことをやらかしたかのまとめです。

・・・

結局慰安婦問題にもつながる、小和田恒氏は国会喚問に値するのではないか。

河野談話を批判し、河野洋平を喚問せよと主張する保守ブロガーたちが以前は
いて、拙ブログ主もそれには賛同をするものの、しかし小和田恒氏を等閑視するのは、整合性が取れぬ上、怯懦だとも思いますね。同じく東宮問題を避けて、直視する勇気のない保守論客たちも。現実を直視なさい、日本を何とかしたいのなら。

ニューヨークタイムス東京支局(所在地 朝日新聞社内)で、反日記事を発信している 田淵広子氏さえ喚問が言われていたというのに、小和田氏の果たした日本毀損の役割に比べれば、田淵某など蚊ですよ。

◆舛添要一前都知事に見られた日本の中韓へのご機嫌取り土下座外交の始まりは小和田恆外務省条約局長(当時)の答弁に端を発する。

◆日本を根本的に損ねた村山談話・河野談話の原点が小和田恒氏である。

◆翻訳上の問題点なのだが、小和田氏が国会において、サンフランシスコ講和条約における「東京裁判の判決を受諾」を「裁判を受諾」と言い換えたことが、その後の日本の行方を歪めてしまった。

つまり・・・・

日本は東京裁判の「判決は受け入れたが」「裁判そのもの」を肯定したわけではない。

にもかかわらず、それを「日本は東京裁判を受け入れた」とまやかしをやらかしたのが、小和田恒氏という男です。皇太子妃の実父です。

◆小和田恒氏のこの発言以降、日本の政治家は外務省からこの間違ったレクチャーを繰り返し受けることになり、いないはずの戦犯を蘇らせてしまいました。


◆靖国参拝問題の根っこも実に小和田恒氏が作った張本人であるということでしょう。

日本はサンフランシスコ講和条約において、東京裁判を受諾はしていない。⇒裁判自体を正当なものとして、受け止めたわけではない。

東京裁判の裁判自体ではなく、(敗戦国としてやむを得ず)刑罰の執行を続けること、それに限定して合意したに過ぎない。


ここまでで、小和田恒という男が犯した重大な過ちの内容は理解していただけたでしょうか。小和田氏が故意に誤訳したのか、単に間違えたのかそれは解りませんが、いずれにしてもその後の日本の舵取りを難破の方向へと導いてしまったのです。
誤訳なら後に深甚な謝罪と訂正が、国民にあるべきで、それがないところを見ると確信犯でしょう。

なぜ小和田氏がかくも、粗雑に祖国を扱うのか、いえもし祖国ならこうも貶めは出来ないでしょうに?

日本国にとって、小和田氏は癌細胞の一つでありそのことはすでに識者から指摘、糾弾されていることですが、皇太子妃の父という立場ゆえにでしょうか、明るみに出ません。それどころか、雅子妃の入内以来トントン拍子の出世です。福田康夫氏,山崎拓氏,加藤紘一氏らと同類の売国奴であるにもかかわらず、彼らを撃つ保守が、一人小和田恒氏のみはスルーしてしまいます。

小和田恒氏が日本を損ねたその「罪」の歴史を箇条書きします。

1 A級戦犯を戦争犯罪人として、土井たか子氏と共に断罪する。

2 女系天皇に向けて動いた形跡もあり。(万世一系皇室の破壊行為)

3 「日本ハンディキャップ論」を唱え、中国韓国へは物申さず、ひたすらお金を貢ぐことを主張。「日本の外交は、東京裁判を背負っているハンディキャップ外交である」と答弁した。⇒東京裁判を全面肯定

4 福田赳夫氏は、小和田雅子さんが子供の頃から「雅子ちゃんは皇太子妃にする」と豪語していた人物。それに乗ったのが小和田恒氏であり、単なるロマンスによる入内ではなく仕組まれたものである。

5 「日韓フォーラム」への参加者である。同席者に売国新聞朝日新聞の当時主筆であった若宮啓文(わかみや よしぶみ)の名がある。加藤紘一の名も。彼らと同類である。「韓日」合同W杯の母体となったフォーラムである。小和田恒氏が半島利権の高円宮とタッグを組んで動く。(高円宮家は韓国の三大企業+と昵懇の関係を結んだが、小和田氏にいかなるメリットがあったのだろうか)

6 創価学会が小和田恒氏に送った「池田大作特別待遇要請書」に応じた。創価学会への便宜供与である。この件は第134回国会 宗教法人等に関する特別委員会 第3号でも追求されている。

http://kokkai.ndl.go.jp/SENTAKU/sangiin/134/1177/13411271177003c.html

7 竹島に関連しての韓国寄り発言。

「自国の領土なら、わざわざ国際司法裁判所に持ち込む必要はない」と日本の提訴の動きを牽制。

(その後ハーグの国際司法裁判所所長に上り詰めたことと考えあわせると、胸が悪くなるほどの売国発言です)

8 村山談話に先駆けて、実は小和田恒氏が売国発言をしていた事実。

戦前の日本がアジア諸国への侵略や植民地支配を行ったという見解を公式に認めたのは小和田恒氏が発端。

昭和60年11月8日、衆議院外務委員会での小和田恆外務省条約局長(当時)の答弁より。

▼社会党土井たか子議員から東京裁判(極東国際軍事裁判)の訴因とされた「平和に対する罪」とサンフランシスコ条約(日本国との平和条約)第十一条の解釈を問われ、当時の小和田局長の答弁。

「極東軍事裁判の評価については学問的にはいろいろな意見がございますけれども、国と国との関係におきましては日本国政府といたしましては極東軍事裁判を受諾しているわけでございます。 ← 注;ここが事実と相違している。判決は受け入れたが、裁判そのものを認めたわけではない。

その裁判の過程におきまして「平和に対する罪」ということが起訴理由になっておりまして、その訴因の第二十七で、被告が中華民国に対し侵略戦争並びに国際法、条約、協定及び保証に違反する戦争を行ったということが挙げられておりまして、御承知のような判決が出ているわけでございますので、そういうものとして政府は受けとめておるということでございます」

それまでの日本政府とは異なる見解が、小和田恒氏によって提示されそれが
定着することとなりました。中韓ソ各々国交回復で解決済みの賠償問題をことごとく、ゾンビのごとく蘇らせたのが小和田恒氏である。

9 小和田恆氏はそれまでの政府見解をうち捨てて、日本はアジア諸国を侵略した。先の大戦が国際法、条約、協定などに違反する戦争であったという裁判の訴因をも受諾したものと解釈を変更。この国会答弁に食らいついた、政治家、マスコミ、知識人たちがその後の自虐史観へと走り、それに乗った中曽根康弘氏などが「靖国問題」などを作り上げてしまう。

10 日本の自虐史観と、その後の中韓へのヘタレ外交の素を作ったのが小和田恒氏である。

・・・・・・・・・・・・・

実に駆け足の概略でしかないのですが、詳細を述べると記事が煩瑣になるので、個々の箇条については各自お調べください。
容易に資料は拾えます。

何度も言っていますが、東宮問題が単独でそこにあるわけではありません。
日韓日中在日カルトなどと絡まり合いながら、GHQの日本弱体化政策、
皇室弱体化施策とも連動しながら、今現在の姿です。

小和田恒氏と雅子妃が親密な外務省創価学会グループ「大鳳会」の
メンバーは約50名もいます。

池田大作を大臣級扱いで海外に送り出す手配を担当し、対韓・対朝・対中の日本外交を歪めてきた張本人的組織で、そこを仕切っていたのが、小和田恒氏です。

擁護派は問題点を俯瞰で見る視野を欠いているので、あらゆる日本毀損の
勢力が小和田・東宮問題とリンクしていることが見えないでいます。

小和田恒氏は、日本国を損ねた何人かの最大「悪人」のうち、官僚としては
最大級の「極悪人」です。ネジ曲がった政治家をその後生み出す土壌となった
という意味では、それらの政治家よりワルでしょう。

安倍総理のいう「戦後レジウムからの脱却」の意味するところの一つは、
日韓、日中、日ソ間の国交回復条約を通じて、賠償金を含むすべての
請求権の相互排除を決め、全て解決済みであるとの確認事項の
再確認もそこに含まれるでしょう。

それを阻んでいるのが自民党のある政権と、民主党政府の不用意な発言、
談話、不要の謝罪などを繰り返した暗愚の歴史にありますが、
それらの「犯人」を列記すれば、鈴木善幸時代の宮沢喜一官房長官と
並んで、外務省の小和田恒条約局長がいます。

小和田氏の名は、日本新党の細川護煕首相、社会党の村山富市首相、菅直人・鳩山由紀夫の民主党両首相などの最悪な元首相たちや、河野談話
河野洋平官房長官らの名に隠れて目立ちませんが、官僚の中では最大級に
日本を損ねた人物です。本当に・・・・・こんな国家毀損者の娘が、よくまぁ
入内できたことと、当時の入内の経緯に改めて強い疑念を抱かざるを得ません。

日本の国益と名誉を著しく損ねて来たこれらの者たちの、証人喚問をして
ことの経緯を明確にすることが、戦後レジウムからの脱却には必要でしょう。
無理を承知で故意に言っているのですが。

しかし、かの村山談話の基礎を敷いたのが小和田恒氏です。

【備考】 小和田恒氏が「日本は悪者。中韓には跪き、尽くせ」という論を
唱える以前の日本の立ち位置は・・・

衆議院・平和条約特別委員会では小和田氏の大先輩である西村熊雄条約局長(当時)が次のように答弁している。(面倒な人は青字だけ読んでください)

「(平和条約)第十一條は、戦犯に関する規定であります。戦犯に関しましては、平和條約に特別の規定を置かない限り、平和條約の効力発生と同時に、戦犯に対する判決は将来に向つて効力を失い、裁判がまだ終つていない場合は釈放しなければならないというのが国際法の原則であります。

BB注 A級戦犯呼ばわりは、間もなく上皇后におなりの方です。小和田史観との連動、あるいは共同プロパガンダ。

従つて、十一條はそういう当然の結果にならないために置かれたものでございまして、第一段におきまして、日本は極東軍事裁判所の判決その他各連合国の軍事裁判所によつてなした裁判を承諾いたすということになつております」

十一月十四日の衆院法務委員会で、佐瀬昌三議員の、「戦争犯罪というものは、今回の講和條約の調印によつて、全部終了したものであるかどうか、なお逮捕とか或いは裁判とかいうような問題が残されておるかどうか、打切りになつたのであるかどうかという点を、あらかじめ承知いたしておきたい」との質問に対して、

大橋武夫法務総裁(当時)は

「戦争犯罪という問題は、わが国といたしましては、ポツダム宣言の受諾によつて引起つて来た問題である、こう考えておるわけでございます。今回の講和條約の締結によりまして、当然ポツダム宣言というものは、関係国の間で効力を失うものと存じまするので、今後調印国の間におきましては、戦争犯罪という問題は発生の余地がないものと心得ております」と答えている。更に大橋大臣は

「第十一條におきましては、これらの裁判につきまして、日本国政府といたしましては、その裁判の効果というものを受諾する。この裁判がある事実に対してある効果を定め、その法律効果というものについては、これは確定のものとして受入れるという意味であると考えるわけであります」

と答弁している。

以上で明らかなように講和条約に調印、批准したときの日本政府は、本来の国際法では平和條約の効力発生と同時に戦犯に対する判決は将来に向つて効力を失うのが原則であり、今回の講和條約の締結によって、今後は戦争犯罪という問題は発生の余地がない。

また日本は講和条約の第十一条によって極東裁判を受諾したのではなくて、その裁判の効果(注:判決)というものを受諾するとの解釈でいたのである。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・ここまで

  下皇后のお父上は、悪党福田父子のご家来

それまでの全てを覆し、世界に向けて日本を全面的な悪者に仕立てあげたのが、小和田恒氏です。動機は解りません。想像は出来ますが、想像範囲内の事なので控えます。ただ、その動機のいかんを問わず、小和田恒氏は日本破壊・弱体化勢力の首領の一人であると言えるでしょう。日本人ですか? と思わず問い詰めたいこれまでの言動です。

画像で表す小和田恒氏を基軸とした日本壊国の円環

第91代内閣総理大臣・福田康夫氏の反日。親中派。台湾から熱愛と言うほどの親日家である李登輝氏が病気治療目的で来日を希望した際、河野洋平氏とともにビザ発給に反対。

福田康夫元首相が「南京大虐殺記念館」を訪問 中国外務省「歴史を正視」と称賛 (産経)


 【北京=西見由章】上海で開かれた学術会議に出席するため訪中した福田康夫元首相は24日、「南京事件」の資料を展示する江蘇省南京市の「南京大虐殺記念館」を訪問した。中国メディアによると、福田氏は「南京大虐殺の犠牲者を深く哀悼する」と書かれた花輪を供え、同行者らとともに黙祷。「過去の事実を正確に理解しなければならない。もっと多くの日本人が記念館を参観すべきだ」と記者団に語った。

 日本の首相経験者が同館を訪れるのは海部俊樹、村山富市、鳩山由紀夫各氏に続いて4人目。

・・・・・ここまで

南京大虐殺など、中国政府の日本貶めプロパガンダに過ぎません。
そのプロパガンダに加担する連中って、本来の意味での日本人ですか?
悪辣な福田父子の家来であるのが、小和田恒氏と優美子氏です。
ジョウ皇后の下に、シモ皇后として即位なさる雅子妃のご両親です。

福田家と小和田家との密着の関係。小和田雅子入内の発端。

http://seesaawiki.jp/w/dosukono/d/%A5%BD%A5%E9%A5%DE%A5%E1

福田赳夫氏の孫娘と親密だった雅子妃。(スキー写真)

1988年3月20-21日 福田赳夫元首相の孫娘横手香代子さんと北海道スキー旅行、滝川市のホテル三浦華園に小川東洲夫妻が合流
左画像:左から小川東洲夫人、小和田雅子、ホテル女将の三浦夫人、福田元首相孫の横手香代子さん/右画像:ホテルの三浦社長、小和田雅子、横手佳代子さん

福田家に忠誠を表す帯。「福」の字が染め抜かれこれは
福田夫人とお揃い。

」」

婚約の記者会見に皇居に入るときも、大将福田氏への忠誠の福の帯。
娘入内の「感謝」のつもりか。世間が信じこまされているように
無理やり入内させられたということではなく、
以前から周到に仕組まれていた婚姻です。
雅子妃も周囲の仕組みに積極的に応えていらっしゃる。

2006年4月2日、元フジテレビ女子アナのチノパンこと千野志麻氏が福田赳夫の孫・横手真一氏結婚、その挙式披露宴に小和田優美子氏が出席。国賊級元大臣に、忠誠の小和田夫妻。

小和田氏売国の発端

福田赳夫首相の政務秘書官に迎えられて、最初に立ち会ったのが日中平和条約締結。それ以来の外務省人脈が連綿。


小和田恒ssiと福田康夫氏は官邸の秘書官室で机を並べていた。以降家族ぐるみのつきあい。


小和田ssiは東京・代沢の福田邸に雅子さんをたびたび連れて行き、福田赳夫元首相に可愛がられていた。

福田・小和田という水面下の、「もう一つの」結びつきの可能性にも留意!!
小和田・江頭の結びつきと同様に。
鳩山・・・ブリジストン創業者の娘と、その嫁との共通項・・・は。

一官僚の出版記念に、駆けつけた福田赳夫氏と宮沢喜一氏。売国2人組。

マンデラ氏の追悼式で皇太子殿下に付き添ったのは福田赳夫氏の息子の康夫氏。

↑左が韓国首相として始めて竹島に不法上陸した韓昇洙。
右が潘基文。

潘基文夫妻と。

竹島(独島)に碑文を打ち立てた韓 昇洙。
皇太子と親しく食事。

ご成婚に現れた、創価三色。

日付の嘘に準じる「虚言癖」に属することなのか? 小和田恒ssiの論文紛失事件。
外務省からオックスフォードに国費を使って研修に行ったものの、一人だけ修士号を取れずすごすご帰国した娘、雅子妃の過去と何となくかぶる、うろんさ。

何度も検証してみたことですが、雅子妃の英語力でハーバードをまともに受講は出来ません。出たことは出ています。卒論のバックにこちらも仕掛けあり。東大は出てませんので。いまだに盛り学歴の印象操作に惑わされている人たちがいますが。小泉進次郎氏の、ありえない偏差値高校からプリンストンでしたっけ、あれも
笑っちゃいますけどね・・・。要するに庶民の常識の外では「そういうこともあるげな」よ、でしょうか。饒舌な進次郎氏ですが、そう言えば英語を聞いたことがないですねえ・・・・? 雅子妃の、sigunature とautographの区別すらつかない尻尾の出し方はまだしてませんが。

後記 ⇒進次郎氏、関東学院大(1年留年)卒業後に、コロンビア大学大学院に留学。

TOEFLiBTでスコア100以上のレベルが求められるコロンビア大、大学院に?
偏差値44留年の人が?

◆小泉進次郎氏は本当に英語がしゃべれるのか検証してみた!
https://ameblo.jp/don1110/entry-11918266596.html

さて肝心の小和田ssiですが“ 船便で送った学位論文の原稿が入ったトランクが紛失したため ” 、博士号を取る機会を失った・・・・そうな。

小和田恒 | Dosuko Wiki |
http://ja.dosuko.wikia.com/wiki/%E5%B0%8F%E5%92%8C%E7%94%B0%E6%81%92

ぎっくり腰妃の母方ご実家である江頭家の、企業犯罪ともいうべき水俣病への関わりは読者さんご紹介のこのサイトが、まとまっているかも。

http://www.geocities.co.jp/SilkRoad/4444/surf18.html

“ 船便で送った学位論文の原稿が入ったトランクが紛失したため ” 、博士号を取る機会を失ったそうで、こちらに載っています。
http://ja.dosuko.wikia.com/wiki/%E5%B0%8F%E5%92%8C%E7%94%B0%E6%81%92

替えのきかない大事な論文を手元から離して船便? あり得ないでしょう。カーボン紙しかコピーが出来なかった時代に、しかも提出期限のある論文を時間のかかる船便で、トランクの中に詰めて送る?

・・・・・長過ぎましたね、記事。2つに分けるべきでした。
このところ、いよいよ時間が取れなくなっていて、書ける時間に書いておこうと合間を縫ってバンバン打って構成も考えず、すみません。

余計なこと書きついでに、最近ネットの片隅で流れている皇后陛下の御陵問題・・・・は要するに多摩御陵(武蔵野陵墓地)はお嫌だと。だから、よそにお墓が欲しいと。従来の御陵(みささぎ)忌避は理由不明。神道色をなくべく排したいお考えからか、天皇家への反感なのか・・・? 天皇陛下の御陵のそばの小さな祠でいい、などと・・・・おっしゃっていたのに(口はおきれい、なさることエグい)・・・・開発用の山を某地にお狙い、その取得のお使いにちょこまか動きまわっているのが小和田ssiだ・・・・そうで・・・・・。
バーゼルでの不祥事で顔向けできなくなったことへの挽回なのかもね・・・・ってことで。
この方「法の正義」がどうかって、退任にあたってぶち上げていなかった?
嫁の父も二枚舌、姑も・・・・。あー・・・・・孫はまた遅刻早退、欠席のスパイラルだそうで・・・・ご優秀報道のマスコミも二枚舌(sigh)これだけ学業から遠ざかっていて、ご優秀なら本当にご優秀なんでしょうね。(wry smile):-}

祓え給い、清め給え、神(かむ)ながら守り給い、幸(さきわ)え給え

無記名Unknown は読まぬままハネます。

内容要約のタイトルを入れ他とかぶる可能性のないHNを記名の上、ご参加ください。

文章の一部をHNに代用すること禁止。「匿名」「通りすがり」など
極力受け付けません。

異論反論歓迎、しかし一定の知的レベルに満たないコメントは、最初は極力公開しますが、それ以降は読まぬままハネます。

コメント (15)


小泉進次郎氏 (美しい日本)2018-07-01 13:10:33

ケアレスミスの指摘になりますが、
小泉進次郎氏は
プリンストン→コロンビア大学大学院
だと思います。
関東学院大(1年留年)卒業後に、コロンビア大学大学院に留学。


小泉進次郎氏は本当に英語がしゃべれるのか検証してみた!
https://ameblo.jp/don1110/entry-11918266596.html


美しい日本さま (BB)2018-07-01 13:31:16

時間の不自由を口実に、チェックをあちこち怠っていて、すみません。時間が出来た時の記事アップに気が急いて、細部検証を怠っています。
情報は追加しておきました。
ありがとうございます。
刑罰法規不遡及の原則 (茶どら)2018-07-01 14:06:33「平和に対する罪」は事後法では。
事後法で遡及的に処罰することは禁止されています。
それを安易に受諾するとは国益に反します。
また、元首相が南京大虐殺記念館に訪問するとは。
どいつもこいつもアチラの操り人形みたい。
望月記者? (ななしでごめんなさい)2018-07-01 16:49:51学生相手に何を話すのでしょうね。

http://www.samasemi.net/2018/special_03.html


BBさま、ありがとうございます (5)2018-07-01 22:38:05

オワッダー氏はとにもかくにも朝鮮人そのもの、と感じます。
顔 (会社員)2018-07-02 12:57:38 小和田恒の顔貌を見るにつけ、この世に悪魔がいるのだと実感する。

 宮沢、小沢、鳩山、習、、正田美智子、盆暗、小和田雅子に連なるものだ。その生涯をかけて悪巧みをしている者どもの動きを、普通の暮らしをしている者が知る由もない。
 
 それら悪魔を 寄せ付けないようにするのが、大神主の天皇であったはずが、今の体たらく。
 しかし、案外、悪魔退治は簡単かもしれない。
 本物の大神主が、真の祈りをささげることが鍵、と 思う。
 秋篠宮殿下よ、天皇陛下になってほしい!

 又、そして、3000年も遡れば、日本人は全員天皇家筋なのだ。 これは強いだろう。

悪魔ども、死霊の顔小和田恒、日本人を舐めるなよ!

恐ろしい (はれ)2018-07-02 15:55:48

こんな輩が跋扈する日本。 恐ろしい。
ただ知らなかっただけでずっとそうだったとは。

少しずつ小和田氏の悪行が見えてきました。
このブログのおかげでしょう。ブログランキングで
小和田氏の事に言及したものがあったでしょうか。
(トップ入りで)
コンパクトにまとめてしかもキチンと壺を押さえている。

ひとりでも二人でも覚醒者が増えますね。

ブログ主はこんなに日々奮闘しているのに
他の保守の方は知らないのでしょうかね。
皇室とサヨク、共産、在日、創価のつながりを探って欲しい。

「パチンコの・・・」さんのブログで韓国肥料男、シンジロウのことを顔のいいだけの石破、と
言っていたのに吹きました。
他のブログでは被っていることも多いのに、
皇室のことはあまり言わないんですよね。???

個々に特色があるから読まれるのかもしれないなぁ。
???

はれさま (BB)2018-07-02 19:46:17

>他の保守の方は知らないのでしょうかね。

知っているな・・・・と感じるブロガーさんはいらっしゃいます。知っていて、口をつぐんでいる。
どうしようもないなあ、と思うのはただ「皇室を批判している」というそのことだけで、拙ブログを「保守分断」とか謗る人。
こちらは是々非々で営んでいるので、支持している安倍総理も違うと思う点は批判してきました。
するとこれも「保守分断」と来る。
脳細胞の配列がシンプルなのでしょう。

決まり文句で斬った気になるのではなく、こちらが提示する事実がもし間違っているなら、理由を添えて明示してください、と何度も呼びかけているのですが、要するに「答えられない」のです。

欺瞞の系譜 (伊藤知昭)2018-07-03 10:30:01

BB様、皆様

救国のブログ、有り難う御座います。

ハル・ノートの張本人はノーベル平和賞。
戦前から国連が何だったのかこれで明白。

伏魔殿と言われた外務省の主軸小和田恆。
コーデル・ハルの末裔であり国政操縦者。

関連記事をウィキペディアから貼らさせていただきます。
ネットでは様々な資料が得られますが、考察の起点として使わせていただきました。

[ コーデル・ハル ] ウィキペディアより
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B3%E3%83%BC%E3%83%87%E3%83%AB%E3%83%BB%E3%83%8F%E3%83%AB

[ Cordell Hull ] From Wikipedia
https://en.wikipedia.org/wiki/Cordell_Hull

[ ハル・ノート ] ウィキペディアより
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%8F%E3%83%AB%E3%83%BB%E3%83%8E%E3%83%BC%E3%83%88

[ Hull note ] From Wikipedia
https://en.wikipedia.org/wiki/Hull_note

[ 小和田恆 ] ウィキペディアより
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B0%8F%E5%92%8C%E7%94%B0%E6%81%86

[ Hisashi Owada ] From Wikipedia
https://en.wikipedia.org/wiki/Hisashi_Owada


ハル・ノートから極東国際軍事裁判を経由して美智子妃と雅子妃の入内までは一続きの流れ。
そしてコーデル・ハルの役回りは小和田恆と相似形であり、GHQ の末裔にとって、代わりは幾らでも居た様に見えます。

[ 戦時国際法 ] ウィキペディアより
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%88%A6%E6%99%82%E5%9B%BD%E9%9A%9B%E6%B3%95

[ Law of war ] From Wikipedia
https://en.wikipedia.org/wiki/Law_of_war

[ ハーグ陸戦条約 ] ウィキペディアより
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%8F%E3%83%BC%E3%82%B0%E9%99%B8%E6%88%A6%E6%9D%A1%E7%B4%84

[ Hague Conventions of 1899 and 1907 ] From Wikipedia
https://en.wikipedia.org/wiki/Hague_Conventions_of_1899_and_1907

[ 極東国際軍事裁判 ] ウィキペディアより
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%A5%B5%E6%9D%B1%E5%9B%BD%E9%9A%9B%E8%BB%8D%E4%BA%8B%E8%A3%81%E5%88%A4

[ International Military Tribunal for the Far East ] From Wikipedia
https://en.wikipedia.org/wiki/International_Military_Tribunal_for_the_Far_East

GHQ にしてみれば、福田赳夫と福田康夫親子は諸々の執行人であり、後々の小和田恆は忠実な執事だったのではないでしょうか。
元正田美智子嬢と元小和田雅子嬢は、コーデル・ハルと戦後も優遇された戦前の反日サボり駐米日本国大使館外交官の系譜に繋がる、その延長に見えます。

例えば、米国が画策した国際紛争で、福田家に関係した越智通雄と越智隆雄親子が元小和田雅子嬢を介してイラク戦争と全く無関係ではないでしょう。
イランやアフガニスタンですら、米国の GHQ に連なる勢力は、成功体験の日本で味をしめた結果で同じパターンを繰り返した様に見えます。

小和田恆の学歴や外務省での闇の部分。
GHQ の末裔にしてみればエージェント。

度々恐れ入りますが、入力ミス等は後日対応させてください。


日本大事、天皇大事、万世一系の秋篠宮御一家による宮中祭祀が大事。

ただし、このままでは眞子内親王を除く。

文仁親王と悠仁親王の御代を目指して。

御多忙中、大変失礼致しました。
軟禁 (まほろば)2018-07-03 12:06:41誰が軟禁してるのかな?政府かな?それだと内閣ぶっ飛ぶなぁ

まほろばさん (芝山)2018-07-03 18:01:05

>誰が軟禁してるのかな?政府かな?それだと内閣ぶっ飛ぶなぁ

読解力ゼロ。どころかマイナスかな。

他コメントも、以下同文。

皇室の闇 (はれ)2018-07-04 17:11:11

BBさま
>知っているな・・・・と感じるブロガーさんはいらっしゃいます。知っていて、口をつぐんでいる。

皆が周知の事実に、確証を持てばきっと言及してくれるのでは。 噂ではなく現実に起こったこと、実証されていると考えたら気が楽になるかな。まさかどこからかの圧力、負荷はかかっていないと思いますが。

BBさまが積み上げているのは事実や報道されている事、でそれ以上でもそれ以下でもないです。それが
分かるとき、持続して現在も実を結んで行っているのはないかと思います。きっと。


はれさん・・・・ (BB)2018-07-04 18:40:01

>確証を持てばきっと言及してくれるのでは。

でもないでしょう。

確証もなにも、たとえば天皇陛下の皇室の祖先は朝鮮人ご発言は客観的事実ですが、そこは知っていて踏み込みません。

天皇陛下のご発言に狂喜した韓国人の勘違いをたしなめる形で、先祖は朝鮮人説を検証的に否定はしても、その否定形を天皇陛下ご自身に向けることに、激しい抵抗感があるように見受けます。

日本人のDNAに「畏れ多いこと」という感受性が刻印されていることに加え、天皇陛下及び内廷皇族なかんずく次期天皇でいらっしゃる皇太子殿下の、これも客観的に拾える反日発言と報道があっても、見ぬふり聞かぬふりするのは、自らの価値体系が根こそぎひっくり返されるという一種の恐怖心と共に、保守は例外なく憲法改正主義ですが、他ならぬ天皇と次期天皇が憲法改正に反対なさっている現実に直面せざるを得ないというジレンマに陥るのです。

だから、触らず。

あと改正後の憲法では、天皇を元首として仰ぐ保守が大半なのです。
が、現状天皇陛下と皇太子殿下はGHQ価値観に基づく自虐史観、いわば左翼でいらっしゃいます。
左翼の元首では、憲法改正が現在よりワースの結果を呼びます。だから触らずにいます。
が、拙ブログのスタンスは、肝心のところを覆い隠して憲法改正になった暁、日本の国体は現状よりも危うくなる。だからその危険を避けるため、皇室の暗部と腐敗部分は、今のうちに・・・・傷が深くならぬ内に、一人でも多く知らしめ、日のもとにさらしたいのです。


 >噂ではなく現実に起こったこと、実証されていると考えたら気が楽になるかな。

上記の理由で、気は楽にはなりません。
噂レベル以上の情報も、見ぬふり聞かぬふりですが。

「解っている」「知っている」ブロガーさんは、BBブログは放置・・・・です。知らんぷり。
「保守分断」の「反皇室」のといじっている人たちが、無知であるし、また自ら真実を知ろうともしないレベルであり、これは北の将軍や新興宗教の教祖への盲拝と同種の心理です。

>BBさまが積み上げているのは事実や報道されている事、でそれ以上でもそれ以下でもないです。それが
分かるとき、持続して現在も実を結んで行っているのはないかと思います。きっと。


ありがとうございます。

ただBBの発信程度で、世の中も皇室も変わることなどありません。ただ、100年後に真実を知る人が今より多く、200年後にはもっと広まるように、と願いつつ営んで来ました。
人は、いつまでも美しい勘違いのもとに、真実の埒外に放置されているべきではありません。
闇で嘲笑っている人達がいます。それを許したくないのです。たとえ、数百年の時が必要だとしても、真実は知らねばなりません。

皇太子と皇太子妃が天皇皇后に即位されたら、さすがに隠しきれない状況は出てくるので、皇室に疑問を持つ人は今に比べれば、相当数増えるかと思います。

小和田氏? (男塊世代)2018-08-14 12:54:21

動画「ポルポト・知ってるつもり」
https://www.youtube.com/watch?v=VGRNEnc4YvY

上記、動画後半(26分過ぎ)の中山太郎外務大臣の左手にいるのは小和田氏?


https://blog.goo.ne.jp/bb-danwa/e/a672698e97b9e288783b63bf979afce1
http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/262.html#c41

[近代史3] 北方領土 _ ロシアは最初から1島たりとも返すつもりはない  中川隆
24. 中川隆[-11379] koaQ7Jey 2019年3月19日 11:19:24 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[623]
日ロ交渉の真実、日本の一方的勘違いの歴史だった
日本のメディアが報じない「本当の日露交渉史」年表
2019.3.19(火) 黒井 文太郎

 日ロ首脳が会談、北方領土交渉の打開に至らず
ロシアの首都モスクワで行われた日ロ首脳会談の後、共同記者会見のため会場に入るロシアのウラジーミル・プーチン大統領(左)と安倍晋三首相(右、2019年1月22日撮影)。(c)Alexander NEMENOV / POOL / AFP 〔AFPBB News〕

(黒井 文太郎:軍事ジャーナリスト)

3月15日付のロシア大手紙「コメルサント」が、プーチン大統領がロシア財界人との会合で語った内容を報じた。「日本との平和条約交渉の速度が失われている」「日本はまず日米同盟を破棄しなければならない」「日本との対話は続けるが、ひと息つく必要もある」などである。

 ここで最重要なのは「日本はまず日米同盟を破棄しなければならない」だろう。平和条約を締結しても、日ソ共同宣言にある色丹島と歯舞群島の引き渡しには日米同盟破棄、すなわち日米安全保障条約の破棄が条件の1つだとの認識を示しているからだ。日本政府が日米同盟を破棄することはあり得ないから、2島引き渡しの可能性がゼロ%であることは明らかだ。

 これに先立ち、3月12日にはロシア大統領府のべスコフ報道官も会見で、「(日本側と)議論しているのは平和条約締結交渉で、島の引き渡しではない」と発言。ロシア政府が日本側と北方領土の引き渡しについては交渉していないことを明言した。

 対日交渉の責任者であるラブロフ外相も2月24日に「(領土問題を解決して平和条約を締結するとの安倍首相の発言に対して)その確信の理由が分からない。プーチン大統領も自分も、そんな発言の根拠は一切与えていない」と公式に語っている。

 これらロシア側の発言で、事実上の2島返還での平和条約締結を目指していた安倍首相は、完全に梯子を外された格好になった。日本政府からの対露交渉についての情報発信も、ほとんど止まってしまった。

 こうしたロシア側の冷たい態度に「ロシア国内世論の反対で、プーチン政権が態度を硬化させた」というような解説が散見される。しかし、筆者がJBpressへの寄稿記事などで再三指摘してきたように、ロシア側はこれまで一度も「2島なら返還する」などとは発言していない。プーチン大統領が「日米同盟破棄がまず必要だ」と語ったことも、けっして予想できなかったことではない。ロシア側はそうした条件を持ち出す布石を、これでまで着々と打ってきているからだ。つまり、ロシア側はもともと2島を引き渡す意思がなかったのである。

 ところが、これまで日本のメディア各社の多くは、あたかも「領土返還交渉が進展している」かのような報道を繰り返してきた。なぜそうなったのかというと、日露交渉の経緯を、日本側関係者の証言だけに基づいて報じてきたからだ。日本側でだけ報じられてきた日露交渉の経緯は、日本側関係者たちの願望そのもので、事実とはほど遠い。いわばファンタジーのようなものだ。

 では、実際の日露交渉はどういった経緯だったのか? 旧ソ連時代からの流れのポイントを年表形式で示してみよう。

北方領土交渉のこれまでの経緯
【1956年10月 日ソ共同宣言署名】

「平和条約締結後に2島引き渡し」項目が盛り込まれる。ただし、択捉・国後両島への言及がなかったため、日本側が4島返還への協議継続を主張。平和条約には至らず。当時、アメリカも反対。

【60年6月 改定日米安全保障条約・発効】

 ソ連が態度を硬化。「在日米軍撤退」を条件に加える。

【61年9月 フルシチョフ書簡】

 フルシチョフ首相が池田勇人首相に対する書簡で「領土問題はすでに解決済み」。

【90年 ソ連経済壊滅】

 日本側でだけ「カネで領土が買える」論が急浮上する。しかし、ロシア側では一切動きなし。

【91年3月 小沢一郎・自民党幹事長が訪ソ】

 巨額の経済支援と引き換えの領土返還をゴルバチョフ大統領に打診するも拒否される。

【91年4月 ゴルバチョフ訪日。日ソ共同声明】

 海部俊樹首相とゴルバチョフ大統領が会談。領土問題が明記されるが、ソ連側は日ソ共同宣言への言及を拒否(なお、これに先立ち、ソ連政府はイーゴリ・クナーゼらの学者グループに領土問題についての国際法的・歴史的経緯についての検討を指示。ソ連側の正当性を一部疑問視する報告が上げられていた)。

【91年12月 ソ連崩壊】

 ソ連・ロシア経済は困窮を極め、日本側ではますます領土返還への期待が上がる。他方、ロシア側では領土返還に関する議論・検討の動きは皆無。

【92年3月 クナーゼ提案】

 渡辺美智雄外相=コズイレフ外相会談の非公式の場で、同席していたクナーゼ外務次官がいくつかのプランの1つとして「平和条約締結後の2島引き渡し」の可能性に言及。日本側はロシア政府のプランと捉えたが、あくまでクナーゼ次官個人のプランの1つであり、ロシア政府内では検討の形跡はない。

【93年10月 東京宣言】

 細川護熙首相とエリツィン大統領の会談で、ロシア政府の正統性と日露協力を確認。4島の帰属問題が明記され、ソ連時代の条約等も引き継がれることを確認。しかし、ロシア側は返還について触れることは拒否。

【97年11月 クラスノヤルスク合意】

 橋本龍太郎首相とエリツィン大統領が経済協力プランに合意。2000年までに平和条約締結を目指すことにも合意したが、ロシアは領土返還についての言及は拒否。

【98年4月 川奈提案】

 橋本首相とエリツィン大統領が会談。「4島の北に国境線を引くが、当面の施政権をロシアに認める」との日本側の提案に対し、エリツィン大統領が「面白い」と反応。しかし、ロシア側の大統領補佐官がすかさずエリツィンに耳打ちしたことで、話が打ち切られる。

 一部の日本側関係者は「もう少しで4島の帰属を勝ち取れるところだった」と捉えているが、ロシア側では検討の形跡は一切ない。

【2001年3月 イルクーツク声明】

 森喜朗首相とプーチン大統領が会談。56年の日ソ共同宣言を「平和条約締結に関する交渉プロセスの出発点を設定した基本的な法的文書であることを確認」する。また「相互に受け入れ可能な解決に達することを目的として、交渉を活発化」と明記。

 日本側関係者の多くが「プーチン政権は2島返還で決着したがっている」と捉えたが、ロシア側は今日に至るまで、そう明言することを回避している。また、これ以降、日本側では「2島は確実。問題は2島先行か4島一括か?」という論点が中心になるが、ロシア側では2島返還すらも現実的な選択肢としては議論されていない。

【2003年1月 日露行動計画】

 小泉純一郎首相とプーチン大統領が会談。政治・経済・社会の具体的な協力を明記。領土問題に関しても言及があるが、これ以降、ロシア側は4島帰属問題を明記した東京宣言に言及することを拒否するようになる。

【2006年12月 麻生太郎外相「面積2分割論」発言】

 麻生外相が国会で発言。だが、ロシア側ではその発言に対する議論も検討も皆無だった。

【2009年2月 サハリン首脳会談】

 麻生首相とプーチン大統領が会談。ロシア側が「独創的で型にはまらないアプローチ」を提案し、合意する。日本側の一部では領土分割を期待するが、ロシア側にはそんな検討は皆無。

ロシア、北方領土に新たな軍事施設建設
北方領土の国後島を訪問し、ソビエト時代の要塞近くを歩くドミトリー・メドベージェフ大統領(当時)(2010年11月1日撮影、資料写真)。(c)AFP/RIA-NOVOSTI/KREMLIN POOL/MIKHAIL KLIMENTYEV〔AFPBB News〕

【2012年3月 プーチン大統領「引き分け」発言】

 日本側では「2島返還の意味だ」と捉えられたが、ロシア側は一切そうした説明はしていない。

【2012年7月 メドベージェフ首相「わずかでも渡さない」発言】

 プーチン大統領の完全なイエスマンであるメドベージェフ首相が、国後島を訪問した際に発言。

【2013年4月 モスクワ首脳会談】

 安倍晋三首相とプーチン大統領が会談。日本政府関係者から日本のメディア各社に「プーチン大統領が面積折半方式に言及した」とリークされ、「3.5島返還」論などが大きく報じられる。ただし、ロシア側メディアではそうした話は皆無。発言内容が漏れる可能性のある首脳会談でプーチン大統領がそうした発言をすることはほぼあり得ず、おそらく日本政府関係者の誤解もしくは虚偽。

【2015年9月 モルグロフ外務次官「領土問題は70年前に解決済み」発言】

【2016年5月 ソチ日露首脳会談】

 日本側から「新たなアプローチ」提案。以後、日本政府は領土返還要求よりも経済協力を先行させる方針に大きく転換していく。

【2016年5月、プーチン大統領「領土をカネで売り渡すことはない」発言】

【2016年12月 プーチン大統領「領土問題は存在しない」「日ソ共同宣言には2島引き渡しの条件も、主権がどちらになるかも書かれていない」発言】

【2016年12月 山口県で日露首脳会談】

 経済協力推進で合意する。だが、領土返還への言及は一切なかった。

【2018年9月 ウラジオストッで東方経済フォーラム】

 プーチン大統領が「前提条件なしでの同年中の平和条約締結」を提案。

【2018年11月 シンガポール日露首脳会談】

「日ソ共同宣言を基礎として平和条約交渉を加速」合意。これを受けて日本のメディア各社は「2島先行返還で領土返還交渉が進展か」と大々的に報じる。

 しかし、翌日、プーチン大統領が記者会見で「共同宣言には引き渡す条件も、主権がどうなるのかも一切書かれていない」と発言。日本側の期待が一気に萎む。

【2018年12月 日本外務省、日露交渉について一切ノーコメントになる】

【2019年1月 河野太郎外相=ラブロフ外相会談】

 ラブロフ外相が「日本は4島のロシア主権を認めよ」「北方領土という言葉を使うな」「日ソ共同宣言は日米安保条約改定前のもの。状況は変化している」などと発言。ロシア側が2島引き渡しすら考えていないことがほぼ明らかになる。

【2019年1月 モスクワ首脳会談】

 領土問題に触れず、経済協力関係の大幅拡大に合意。

【2019年2月 外相会談】

 一切進展なし。

【2019年6月 大阪G20サミット】

 日露首脳会談予定。

※   ※   ※

 以上が、北方領土問題に関する日露交渉の大まかな流れである。

 これまでどの時点を振り返っても、ロシア側は領土を1ミリでも引き渡すことを明言しておらず、日本側が希望的観測で勝手に期待値を上げてきたことが明らかだ。

 相手は海千山千のロシアである。希望的観測で期待して交渉しても、実は1つも得られまい。まずはロシアの意思を冷静に分析し、認識する必要がある。

 現状がどう進んでいるかというと、2島引き渡しを棚上げされたまま、一方的に4島の領土要求の放棄を公式に迫られている。しかもそれだけでなく、さらなる経済協力だけがどんどん拡大させられようとしている。

 しかし、ロシア側の意思を冷静に認識できれば、ロシアの歓心を買おうと、日本側から一方的に妥協するのは逆効果でしかないことが分かる。ロシアとの交渉はきわめてハードなもので、簡単に相手の妥協は引き出せないが、それでも少しでも日本側の利益を求めるなら、より強い態度で臨むべきだろう。
http://jbpress.ismedia.jp/articles/-/55783  

http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/180.html#c24

[近代史3] 若松孝二 実録・連合赤軍 あさま山荘への道程 (2007年) _ 1970年代はこういう時代だった 中川隆
118. 中川隆[-11378] koaQ7Jey 2019年3月19日 12:22:59 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[624]

マルクス主義者は、政府に歯向かわなければ人々を放っておく以前の君主制や夜警国家とは違って、社会のすべての側面、個々人の内面まですべて支配しようとする。


マルクス主義はなぜ全体主義化するか?
https://mikuriyan.hateblo.jp/entry/marxism-and-totalitarianism


マルクス主義は自由と平等に始まり、支配と抑圧に終わった

共産主義を目指す国家は抑圧的でした。

独裁政権による全体主義化。

民衆虐殺(デモサイド)。

共産主義は理念としてはすばらしいが、理想主義にすぎない、としばしば言われます。

あらゆる抑圧からの解放、人が人を支配することの廃絶。

そんなマルクス主義がなぜ転倒してしまうのか? 

調べてみました。


マルクス主義国家はなぜダメになるのか

The Marxist Paradox: An Anarchist Critique - Anarkismoという記事を見ていきます。著者はWayne Priceというアナーキスト。

原文はWayne氏によるRonald D. Tabor氏の大著「The Tyranny of Theory」への書評。文中に登場する「ロン」氏は彼のことです。

マルクス主義の歴史

マルクス主義の歴史は血塗られています。


共産主義はアナーキズムと同じように、19世紀の民主主義、社会主義、労働階級の解放のため運動に起源を持つ。そのゴールは資本主義、階級、国家、そしてすべての抑圧の終焉である。……

アナーキズムと共産主義はそのゴールが非常に似ています。


しかし結果はどうだったか? マルクス主義の最初の運動は、ヨーロッパやいたるところに社会民主党を生みだした。それらは資本主義を支援し、革命を防止することに終わった。既存の国家を、ブルジョワ民主主義を、西洋帝国主義と戦争を支援した。現在社会民主党は、新しい社会制度を提唱するというすべての偽善を放棄している。

日本でも日本社会党が日露戦争で浮かれて戦争支持に周り、多くの共産主義者がアナーキスト(多くは無政府共産主義)に転向しました。


レーニンやトロツキーは革命的なマルクス主義に回帰するように思われた。彼らの活動は「スターリニズム」に終わった。労働者と農家、そして数千もの共産主義者を殺した、一連の怪物的な、国家資本主義、専制君主である。現在ではこれらは伝統的な資本主義に崩壊している。

共産主義を目指す国家は資本主義国家よりも血塗られた国となることが多い 。


なぜマルクス主義は良く始まり、悪く終わるのか? 疑いなくそこには「客観的力」が存在する……。

では、その客観的力とはなんなのか。

一見完璧に見えるマルクス主義のどこに問題があるのか。

マルクス主義は全体主義である

著者は、元非正統的トロツキスト革命社会主義連盟のリーダーだったロン・テーバーの著書を参照しています。彼はマルクス主義者からさらに左に振れてアナーキストになった人です。


ロンの結論は、「マルクス主義は、今見ると、全体主義のドクトリンであり、マルクス主義者のプログラムを実現するためのあらゆる試みであり、どれだけ良い動機があろうと、権威主義と国家支配を生みだす」というものだ。

マルクス主義は全体主義のドクトリンである。それは国家を社会主義のために用いるというような計画、そしてヘーゲルに基づく哲学に根ざしているとロンは主張します。


全体主義とはやや議論の余地のある言葉だ。ロンが言いたいことは、私が思うに、資本主義システムではナチ・ドイツやスターリン下のロシアのように、国家が一連のイデオロギーとともに一党によって支配されており、社会のすべての側面を支配しようとする場合のことだ。これは政府に歯向かわなければ人々を放っておく以前の君主制や夜警国家とは異なる。

ロンは人々を管理統制するような権力の働きかけを全体主義と表現しているようです。

国家は「自発的に」崩壊しうるか?


マルクスは国家が支配階級に奉仕し、社会のその他を抑圧する本質的に抑圧的な機関であることに同意する。協働的で、自由で平等な社会は国家をことごとく廃絶するだろうと。

国家を抑圧的なものだと考えたマルクスですが、なぜか彼は国家は自発的に「存在を辞める」と考えました。


マルクスは労働者階級とその同盟は国家を、新しい国家の創造を廃止すると考えた。国家は資本家とその支持者を抑圧するだろう。労働者の国家は資本主義によって中央集権化され、安定した経済を奪取する。このことは経済のすべてまたはほとんどを中央集権化されたシステムに国有化する。(中央集権化とは少数が中心部を占め、ほとんどの人は周辺部に位置することを意味する)。ときとともに、中央集権化された国家が「国家」を辞める。それは強制的ではなく、慈悲による、「人々を管理するのではなく、物品を管理する」機関となる(まるで人々を支配せずに管理できるかのように)。


このような計画が、実際の場合は、全体主義を生みだし続ける結果になることは驚くべきことではない。ロンが言うように、もし革命的な政党が新しい国家を建設することにすべてを注ぎ、一方で国家が突然自動的に分解することを期待するならば、その結果は……国家である。

国家は自発的になくなることはありません。


クロポトキンは1910年に警告している。「国家にすべての経済生活の源泉を渡すこと……産業のすべての管理を委ねることは……新しい暴政の装置を生みだすことを意味する。国家資本主義は、官僚と資本主義の権力を増すだけである」

絶対権力を持てばどんな組織でも腐敗します。

プロレタリアート「独裁」


マルクスはコミューンの根本的な民主的構造を共産主義革命の前駆体として指示した。エンゲルスはこのことを「プロレタリアート独裁」と呼んだ。このことはしばしばマルクスのマルクス主義の自由主義的―民主主義的な側面をあらわすものとして引用される。

実は、有名な「プロレタリアート独裁“dictatorship of the proletariat"」という言葉の「独裁」は、現代的な「独裁」を意味してはいなかった。

当時は「議会による/人民による/民主主義による独裁」というような表現は肯定的に用いられた。Hal Draperによれば、マルクスとエンゲルスは同語を12回用いたが、それぞれを調べた結果、「労働者による支配」以上の意味は持たなかったようである。

この「独裁」という言葉が、ほんとうの独裁を正当化してしまったと言える。


実際、エンゲルス以降のマルクス主義者は「プロレタリアート独裁」を抑圧的な意味で解釈した。このことは特にロシア革命以降、真実であった。そこではこの言葉が、ボルシェヴィキの警察国家の正当化するものとなった。

聖書や憲法が権力者に都合の良いように解釈されるのと構造的には同じですね。

中央集権化と労働者の支配?

マルクスは独裁を認めたわけではなかった。しかし、「中央集権化された労働者の政府」というよくわからない概念を前提とした。


単一政党の独裁ではないとしても、マルクスは中央集権国家を提唱した。ロンが言うように、「中央集権化された国家が直接的民主主義的に労働者階級によって運営される……これは矛盾しているし、達成は不可能である」

自明の論理です。

理想は現実に先立つ――唯物論的歴史観

マルクスは共産主義革命の「可能性」を示唆したのではない。「必然的に」「不可避的に」起きるのであって、人類はその変革を避けられないと考えた。その根底にはヘーゲル弁証法がある。

「未来の歴史は不可避的に決定している」というイデアリズムは危険である。その理想のもとにはいかなる暴虐も許容されることになる。未来のために現代を犠牲にすることが強いられる。あらゆる抑圧が共産主義化という運命のうちに内包され、正当化されるからである。

イデオロギーが先行するとろくなことにならないのはいつの時代も同じであって、「八紘一宇」という理念のもとに動いた日本も同じ。

もっとも、「時代を方向づける」ことも重要だと著者は言う。


(マルクスの唯物論的歴史観は危険という見方もあるが)、すべては偶然によって起きるとか、理由がないとか、予測できないと考えることもまた危険である。歴史には方向性がないのだから、すべてが起こりうる。これはリベラルの考え方の基本である。何度も何度も、資本家秋級はその権力を強制されることなく放棄しないことが示されている。しかしリベラルは、まるで歴史は無意味かのように行動している。彼らはこう考える。今回こそ、資本家たちは人民の幸福のために彼らの利益を手放すだろう、と!

歴史的必然はありえないが、歴史から学び、歴史を変えようとする働きかけは重要だと著者は言う。まあ、当然のことである。

終わりに しかしマルクス主義は重要である

マルクスの主張はたしかに権威主義や全体主義傾向を内包している。共産主義を目指した国家が独裁主義に転落したのは、むしろ必然だったとも思える。

しかし、マルクスの思想はそれだけではない。


マルクスの働きには違う側面もある。……彼は国家を放棄すべき、抑圧的な階級装置であることに同意した。彼は狭量な独裁政権ではなく、民主的な労働階級の支配を信じていた。


アナーキズムとマルクス主義のもっとも重要な共通点は、労働者の階級闘争と、虐げられた労働者たちの潜在的な同盟の重要さを信じることである。これらの人々が世界を救う革命を起こすことのできる人々である。資本主義が経済崩壊や環境的大災害、核戦争を起こす前に革命が起きることは不可避なことではない。しかし、マルクスは資本主義のまさにそういった方向性のなかで、そういった諸力が起きることを実証した。私たちは間に合うだろうか? それはわからない。大事なのは絶対的知識ではなく、コミットメントにあるのである。

あらゆる思想は時代に支配される

ヨーロッパ人はキリスト教を2000年間信じてきました。しかし、現代ではキリスト教を本気で信じる人はむしろ稀になった。

だからといって、キリスト教の教えが間違っているわけではありません。間違っているところはあるが、そこから学べることは多い。

マルクス主義についても同様です。私たちはそのなかから優れたものを取りだせばよいだけ。

その結果がいくら陰惨なものであっても、マルクスが求めたのはたしかに自由や平等、抑圧のない社会でした。

思想は理想化すべきではなく、またいたずらに拒絶すべきでもないといえます。
https://mikuriyan.hateblo.jp/entry/marxism-and-totalitarianism


http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/287.html#c118

[近代史3] 若松孝二 実録・連合赤軍 あさま山荘への道程 (2007年) _ 1970年代はこういう時代だった 中川隆
119. 中川隆[-11377] koaQ7Jey 2019年3月19日 13:00:34 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[625]
60年代アメリカの左翼運動マルクス主義運動は国際金融資本が資金提供していた。


2007年12月10日
ウォール街金融資本が作り出す歴史構造 アントニー サットン 〜左翼右翼の対立、戦争etc〜

大きな対立・戦争を起こしながら動いてきた現代史。その背後にある共通した動きについて詳しく調べた人がいるので紹介したい。

アンソニー=サットン(Antony C. Sutton)、彼は事実を追求し、徹底した調査に基づいた注目すべき数々の本を出している。特に注目すべきは以下。


1.America’s Secret Establishment –

2. Wall Street and the Rise of Hitler –
(ウォール街がナチスヒトラーを勃興させた。)

3. Wall Street & the Bolshevik Revolution –
(ウォール街がレーニン、トロツキーなどに資金供与してロシア革命を成功させた。)

4 The Federal Reserve Conspiracy
(連邦準備銀行の陰謀)

アントニー サットンについて、 阿修羅 より(一部略)

////////////////////////////////////////////////////////////////////////////////////////////////////////

英国生まれ、ロンドン大学出身。米国でスタンフォード大学など第一級の大学の経済学部の教授だったが、彼がスタンフォード大のフ−バー研究所に在籍中の68年、インパクトのある研究書(3巻からなる)を刊行した。もともと経済と技術の関連を専門とする経済学者だったようだが、これらの書物で、米国の銀行がソ連(成立以来)に融資と技術の提供を一貫して行ってきたこと。ベトナム戦争時、ソ連の東欧での武器工場などは米国の融資と技術が提供され、そこで作られたソ連製武器がハノイに持ち込まれ、それにより、米国兵が殺されていたこと。これらの一見敵対する国々に米国が融資と技術提供している実態をこの書で明らかにした。その後、同じことがナチスドイツに対してもおこいていたこと等を明らかにしていった。

本来折り紙付きの第一級の学者,将来を託され嘱望されていた学者だったが、これら一連の執筆業により、過激分子とみなされ、彼は学会、大学組織から追い出され、2度と学問と教育の場に戻れなくなった。その後彼は、米国の権力機構の機微・実態を徹底した資料分析で解析し総計26冊の著書を出して昨年この世を去ったのだ。


徹底した調査によって以下のことが判明した。

1ソ連は国際金融資本によって創設され維持された。

2ナチスドイツは国際金融資本に資本と技術供与を受けていた。

3ベトナム戦争は国際金融資本のやらせだった。つまり米国ソ連の背後にいるのは同一組織だった。

4 60年代アメリカの左翼運動マルクス主義運動は国際金融資本が資金提供していた。

(分割統治)方式により、一国一社会を相反する2項対立の相克状態に持っていく基本戦略が使われた。右翼左翼という対立項は実は彼らが戦略的に作ったものであるという。言い換えれば、この視点からものを見ては彼らの思うツボであるという。大事なのは、超金持ちvs一般人この枠組みで物事を見るべきだ、という。超権力は左翼右翼という見方を推進することで、一握りの超富裕者と一般人との拮抗関係という見方を弱めようとしているわけである。(日本の60年代70年代の左右対立も実はこの仕掛けにはまった側面が強いことが推測される。)

彼は、スカボンのような秘密結社は確たる存在であり、彼らの活動の実態を理解することによって19世紀と20世紀の正確な歴史理解が初めて可能になるという認識に至った。つまり、われわれが学校で教わってきている歴史理解と、実際に進行していた事態とはおよそまったく異なるということなのである。

彼は外との関係を一切絶ち、孤独に隠遁隠棲しながら調査と執筆に専念した。尋ねてくる人間はすべて政府関係者ばかりで、かれらは何をどうしても居場所を突き止めてくるのだという。当初米国内から出版はできず(出版拒否、大手取り次ぎ会社から拒否)オーストラリアで出版していたが、米国のパパま2人でやっている小さな出版社が見るにみかねて、彼の本を出版するに至り、彼の本はほとんどここからでている。現在はアマゾンドットコム等を通じほとんど彼の本は時間がかかるが入手できるようになっている。1999年のインタビューで74才の彼は自分はキャリア的には不遇を託ったが、このような本質的な問題に挑戦でき26冊の本を世に送りだすことができた。執筆内容に一切妥協はなく真実のみを書いた、これは私の誇りとするところである、という主旨のことを語っている。

///////////////////////////////////////////////////////////////////////////////////////////////////////////////
(引用以上) 


サットンの業績は、秘密のベールに包まれていた金融資本家のネットワークを徹底的に調査し、あぶりだしてくれたことだと思う。従来“陰謀論”として、よく検証されずに葬られていた分野を科学的に検証した。

彼の業績によってロシア革命やナチス、そしてベトナム戦争の背後にある真実が見えてきた。おおよそ、現代史(戦争や革命恐慌、バブル)の背後には彼らウォール街金融資本の触手があり、彼らが何らかの狙いをもって特定の集団に資金提供して、育て上げる。それらの集団は、主義思想や愛国心に沿って動き、対立や戦争を起こしていく。その過程で莫大な投資や消費が行われ、金融資本は莫大な利益を手に入れることになる。

背後からこれらの対立を操縦することで、金融資本家は世界秩序を維持してきた。サットンは、金融資本家の支配方法について以下のように言っている。


>世界秩序は、分断して攻略するという単純なテクニックによる支配で成り立っている。

>・・・世界秩序は、世界を実体とみなすヘーゲル弁証法を採用した。これはそのほかのあらゆる力と実体を否定している。テーゼ(正)−アンチテーゼー(反)−ジンテーゼ(合)の原則に基いて機能し、前もって決められた結論(合)に向けてテーゼ(正)とアンチテーゼ(反)が対立して終わる。

>世界秩序はユダヤ人グループを組織して資金を提供する。次に、反ユダヤグループを組織して資金を提供する。また、共産主義グループを組織してこれに資金提供し、反共産主義グループを組織して資金を提供する。必ずしも世界秩序がこういうグループ同士の対立を煽る必要はない。彼らは赤外線追跡ミサイルのように相手を見つけ出し、確実に破壊しようとする。それぞれのグループの規模と資源を調節することで、世界秩序は常に前もって結果を決めておけるのだ・・・・  サットン 『連邦準備銀行の陰謀』より

※ここで世界秩序とは、金融資本による世界秩序のことをさす。

★このように見てくると、主義や主張をかざし、あるいは小さな国益をかざして、対立している人間・勢力というのは、支配者(コントローラー)である金融資本にとっては、非常に都合がよく操作しやすい。


日本でも、

・戦前スターリンとアメリカの圧迫→危機感高まった国内で右翼が台頭、陸軍と結んで戦争への道を突っ走った。

・戦後自民党に結党資金を与えたのはCIAであり、自民党の結党により左右社会党が合同し、二大政党という対立構造が生まれた。


そして現在的にも

アメリカ財閥が中国を急成長させている
アメリカの撤退が始まり中国が台頭する

中国の台頭により日本の(特に右の)危機感が高まっている。しかし、中国を急速に台頭させているのはウォール街金融資本である。僕も危機感には共感する。しかしいたずらに敵対し相手を挑発するより、真の意図を探り可能性を探る必要があると思う。

“日本を守るのに右も左もない”では、見えにくい敵、対立を煽り、歴史を操作している連中=国際金融資本(金貸し)も、徹底的に事実追求の立場から解明していきたい。サットンができなかったより深い分析(人々の意識潮流や可能性)まで含めて。

http://blog.nihon-syakai.net/blog/2007/12/000553.html
http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/287.html#c119

[近代史3] 馬渕睦夫 ウイルソン大統領とフランクリン・ルーズベルト大統領は世界を共産化しようとしていた 中川隆
3. 中川隆[-11376] koaQ7Jey 2019年3月19日 13:01:18 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[626]

60年代アメリカの左翼運動マルクス主義運動は国際金融資本が資金提供していた。


2007年12月10日
ウォール街金融資本が作り出す歴史構造 アントニー サットン 〜左翼右翼の対立、戦争etc〜

大きな対立・戦争を起こしながら動いてきた現代史。その背後にある共通した動きについて詳しく調べた人がいるので紹介したい。

アンソニー=サットン(Antony C. Sutton)、彼は事実を追求し、徹底した調査に基づいた注目すべき数々の本を出している。特に注目すべきは以下。


1.America’s Secret Establishment –

2. Wall Street and the Rise of Hitler –
(ウォール街がナチスヒトラーを勃興させた。)

3. Wall Street & the Bolshevik Revolution –
(ウォール街がレーニン、トロツキーなどに資金供与してロシア革命を成功させた。)

4 The Federal Reserve Conspiracy
(連邦準備銀行の陰謀)

アントニー サットンについて、 阿修羅 より(一部略)

////////////////////////////////////////////////////////////////////////////////////////////////////////

英国生まれ、ロンドン大学出身。米国でスタンフォード大学など第一級の大学の経済学部の教授だったが、彼がスタンフォード大のフ−バー研究所に在籍中の68年、インパクトのある研究書(3巻からなる)を刊行した。もともと経済と技術の関連を専門とする経済学者だったようだが、これらの書物で、米国の銀行がソ連(成立以来)に融資と技術の提供を一貫して行ってきたこと。ベトナム戦争時、ソ連の東欧での武器工場などは米国の融資と技術が提供され、そこで作られたソ連製武器がハノイに持ち込まれ、それにより、米国兵が殺されていたこと。これらの一見敵対する国々に米国が融資と技術提供している実態をこの書で明らかにした。その後、同じことがナチスドイツに対してもおこいていたこと等を明らかにしていった。

本来折り紙付きの第一級の学者,将来を託され嘱望されていた学者だったが、これら一連の執筆業により、過激分子とみなされ、彼は学会、大学組織から追い出され、2度と学問と教育の場に戻れなくなった。その後彼は、米国の権力機構の機微・実態を徹底した資料分析で解析し総計26冊の著書を出して昨年この世を去ったのだ。


徹底した調査によって以下のことが判明した。

1ソ連は国際金融資本によって創設され維持された。

2ナチスドイツは国際金融資本に資本と技術供与を受けていた。

3ベトナム戦争は国際金融資本のやらせだった。つまり米国ソ連の背後にいるのは同一組織だった。

4 60年代アメリカの左翼運動マルクス主義運動は国際金融資本が資金提供していた。

(分割統治)方式により、一国一社会を相反する2項対立の相克状態に持っていく基本戦略が使われた。右翼左翼という対立項は実は彼らが戦略的に作ったものであるという。言い換えれば、この視点からものを見ては彼らの思うツボであるという。大事なのは、超金持ちvs一般人この枠組みで物事を見るべきだ、という。超権力は左翼右翼という見方を推進することで、一握りの超富裕者と一般人との拮抗関係という見方を弱めようとしているわけである。(日本の60年代70年代の左右対立も実はこの仕掛けにはまった側面が強いことが推測される。)

彼は、スカボンのような秘密結社は確たる存在であり、彼らの活動の実態を理解することによって19世紀と20世紀の正確な歴史理解が初めて可能になるという認識に至った。つまり、われわれが学校で教わってきている歴史理解と、実際に進行していた事態とはおよそまったく異なるということなのである。

彼は外との関係を一切絶ち、孤独に隠遁隠棲しながら調査と執筆に専念した。尋ねてくる人間はすべて政府関係者ばかりで、かれらは何をどうしても居場所を突き止めてくるのだという。当初米国内から出版はできず(出版拒否、大手取り次ぎ会社から拒否)オーストラリアで出版していたが、米国のパパま2人でやっている小さな出版社が見るにみかねて、彼の本を出版するに至り、彼の本はほとんどここからでている。現在はアマゾンドットコム等を通じほとんど彼の本は時間がかかるが入手できるようになっている。1999年のインタビューで74才の彼は自分はキャリア的には不遇を託ったが、このような本質的な問題に挑戦でき26冊の本を世に送りだすことができた。執筆内容に一切妥協はなく真実のみを書いた、これは私の誇りとするところである、という主旨のことを語っている。

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(引用以上) 


サットンの業績は、秘密のベールに包まれていた金融資本家のネットワークを徹底的に調査し、あぶりだしてくれたことだと思う。従来“陰謀論”として、よく検証されずに葬られていた分野を科学的に検証した。

彼の業績によってロシア革命やナチス、そしてベトナム戦争の背後にある真実が見えてきた。おおよそ、現代史(戦争や革命恐慌、バブル)の背後には彼らウォール街金融資本の触手があり、彼らが何らかの狙いをもって特定の集団に資金提供して、育て上げる。それらの集団は、主義思想や愛国心に沿って動き、対立や戦争を起こしていく。その過程で莫大な投資や消費が行われ、金融資本は莫大な利益を手に入れることになる。

背後からこれらの対立を操縦することで、金融資本家は世界秩序を維持してきた。サットンは、金融資本家の支配方法について以下のように言っている。


>世界秩序は、分断して攻略するという単純なテクニックによる支配で成り立っている。

>・・・世界秩序は、世界を実体とみなすヘーゲル弁証法を採用した。これはそのほかのあらゆる力と実体を否定している。テーゼ(正)−アンチテーゼー(反)−ジンテーゼ(合)の原則に基いて機能し、前もって決められた結論(合)に向けてテーゼ(正)とアンチテーゼ(反)が対立して終わる。

>世界秩序はユダヤ人グループを組織して資金を提供する。次に、反ユダヤグループを組織して資金を提供する。また、共産主義グループを組織してこれに資金提供し、反共産主義グループを組織して資金を提供する。必ずしも世界秩序がこういうグループ同士の対立を煽る必要はない。彼らは赤外線追跡ミサイルのように相手を見つけ出し、確実に破壊しようとする。それぞれのグループの規模と資源を調節することで、世界秩序は常に前もって結果を決めておけるのだ・・・・  サットン 『連邦準備銀行の陰謀』より

※ここで世界秩序とは、金融資本による世界秩序のことをさす。

★このように見てくると、主義や主張をかざし、あるいは小さな国益をかざして、対立している人間・勢力というのは、支配者(コントローラー)である金融資本にとっては、非常に都合がよく操作しやすい。


日本でも、

・戦前スターリンとアメリカの圧迫→危機感高まった国内で右翼が台頭、陸軍と結んで戦争への道を突っ走った。

・戦後自民党に結党資金を与えたのはCIAであり、自民党の結党により左右社会党が合同し、二大政党という対立構造が生まれた。


そして現在的にも

アメリカ財閥が中国を急成長させている
アメリカの撤退が始まり中国が台頭する

中国の台頭により日本の(特に右の)危機感が高まっている。しかし、中国を急速に台頭させているのはウォール街金融資本である。僕も危機感には共感する。しかしいたずらに敵対し相手を挑発するより、真の意図を探り可能性を探る必要があると思う。

“日本を守るのに右も左もない”では、見えにくい敵、対立を煽り、歴史を操作している連中=国際金融資本(金貸し)も、徹底的に事実追求の立場から解明していきたい。サットンができなかったより深い分析(人々の意識潮流や可能性)まで含めて。

http://blog.nihon-syakai.net/blog/2007/12/000553.html
http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/145.html#c3

[近代史3] 若松孝二 実録・連合赤軍 あさま山荘への道程 (2007年) _ 1970年代はこういう時代だった 中川隆
120. 中川隆[-11375] koaQ7Jey 2019年3月19日 13:09:16 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[627]

60年代アメリカの左翼運動マルクス主義運動は国際金融資本が資金提供していた。_ 2


アントニー・C・サットン

アントニー・C・サットン(Antony Cyril Sutton、1925年2月14日 - 2002年6月17日)は、イギリス生まれのアメリカの経済学者、歴史学者、作家。


サットンはロンドン大学、ゲッティンゲン大学とカリフォルニア州立大学で学びし、英国サウサンプトン大学にてD.Sc.を取得した。

米国ロサンゼルスにあるカリフォルニア州立大学で経済学部教授として働き、1968年から1973年までスタンフォード大学フーヴァー研究所の研究員であった。

当機関に所属している間、欧米技術とソ連経済発展の関連について "Western Technology and Soviet Economic Development"(全3巻)を出版し、ソ連発足初期から欧米諸国もその発展に深く関与したことを証明した。

またサットンはソ連が持つ技術的能力や製造能力も多数の米企業の支援と、米国民が納める税から融資を受けたことも指摘した。

鉄鋼業やフォードの子会社であったGAZ自動車工場など, 複数のソ連企業は米からの技術によって作られたことや、さらにはソ連がMIRVミサイル技術を手に入れたのも、高性能ベアリング製造に必要な(米からの)工作機械によって可能となったとしている。

1973年に3冊目の原稿から軍事技術関連部分を別編として "Military Aid to the Soviet Union" のタイトルで出版し、その結果フーヴァー研究員の仕事を辞任することになった[1]。 上記問題の研究成果として、

冷戦が生んだ様々な対立が「共産主義を制覇するため」続けられたのではなく、数十億ドル規模の軍事需要を意図的に維持するためだったと強調した。

少なくとも朝鮮戦争とベトナム戦争の場合、対立の両側も直接的・間接的に米国によって武装されていた[2]。

続編として、軍事技術転写の役割について論じた"The Best Enemy Money Can Buy" を書いた。

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A2%E3%83%B3%E3%83%88%E3%83%8B%E3%83%BC%E3%83%BBC%E3%83%BB%E3%82%B5%E3%83%83%E3%83%88%E3%83%B3


▲△▽▼

ソ連成立とその成長、ナチスヒトラー勃興、ベトナム戦争、左翼運動の背後に同一一貫した組織(秘密結社)が画策し資金と技術をグループワークで提供していた。私たちが教えられ、表でみているのは、彼らの情報操作のたまものだった。
http://www.asyura.com/2003/dispute8/msg/819.html

アンソニー=サットン(Antony C. Sutton)博士が昨年6月になくなった。77才だった。英国生まれ、ロンドン大学出身。米国でスタンフォード大学など第一級の大学の経済学部の教授だったが、彼がスタンフォード大のフ−バー研究所に在籍中の68年、インパクトのある研究書(3巻からなる)を刊行した。もともと経済と技術の関連を専門とする経済学者だったようだが、これらの書物で、米国の銀行がソ連(成立以来)に融資と技術の提供を一貫して行ってきたこと。ベトナム戦争時、ソ連の東欧での武器工場などは米国の融資と技術が提供され、そこで作られたソ連製武器がハノイに持ち込まれ、それにより、米国兵が殺されていたこと。これらの一見敵対する国々に米国が融資と技術提供している実態をこの書で明らかにした。その後、同じことがナチスドイツに対してもおこいていたこと等を明らかにしていった。本来折り紙付きの第一級の学者,将来を託され嘱望されていた学者だったが、これら一連の執筆業により、過激分子とみなされ、彼は学会、大学組織から追い出され、2度と学問と教育の場に戻れなくなった。その後彼は、米国の権力機構の機微・実態を徹底した資料分析で解析し総計26冊の著書を出して昨年この世を去ったのだ。

68年の刊行物で、融資と技術の流れを突き止めたものの、彼は、なぜ敵対する国に、あるいは自国のカネと技術で自国の戦士たちがしななければならないのか、一体どうなっているのか、全く理解できなかったという。ところが80年代の初頭、彼に一通の手紙が届いた。もしあなたが興味があるなら、スカル&ボーンズという秘密結社のメンバーリストを24時間だけ供与するがどうか、と記されていた。この組織のメンバーの家族が、身内が入会していてうんざりで、実態を知って欲しいと思ってのことだったという。送付して欲しい、と了承。黒革製の2巻からなる本は一冊は故人リスト、もう一冊は現在のリストだった。この時点までかれはこの秘密結社のことなど聞いたことも思ったこともなかったという。しかし、これらのリストの人物を綿密に調査したところ、この組織はただ者ではない、と驚愕。68年刊行物で疑問に思っていたことが氷解したという。つまり、この組織の連中のネットワークが米国政策決定過程を導き、このような売国的なことが行われていることを突き止めるに及んだという。
 彼は、スカル&ボンズは、ドイツを発祥とする秘密結社イル皆ティーの連動組織である、という。徹底した調査によって以下のことが判明したという。

1ソ連は国際金融資本によって創設され維持された。
2ナチスドイツは国際金融資本に資本と技術供与を受けていた。
3ベトナム戦争は国際金融資本のやらせだった。つまり米国ソ連の背後にいるのは同一組織だった。
4 60年代アメリカの左翼運動マルクス主義運動は国際金融資本が資金提供していた。Divide&Conquer (分割統治)方式により、一国一社会を相反する2項対立の相克状態に持っていく基本戦略が使われた。右翼左翼という対立項は実は彼らが戦略的に作ったものであるという。言い換えれば、この視点からものを見ては彼らの思うツボであるという。大事なのは、超金持ちvs一般人この枠組みで物事を見るべきだ、という。超権力は左翼右翼という見方を推進することで、一握りの超富裕者と一般人との拮抗関係という見方を弱めようとしているわけである。(日本の60年代70年代の左右対立も実はこの仕掛けにはまった側面が強いことが推測される。いわゆる現今のポチ保守はこの左右対立の見方を徹底して利用し、自分たちの富裕的支配性の隠れみのにしてきた可能性がある。多くの一般日本人が、あるいは貧乏な日本人同士がやれ、お前は右だろ左だろどうせ土井支持者だろなどと滑稽にののしりあっている図が見える。これが彼らの思うツボなのだ。実際馬鹿げている。)


彼は、スカボンのような秘密結社は確たる存在であり、彼らの活動の実態を理解することによって19世紀と20世紀の正確な歴史理解が初めて可能になるという認識に至った。つまり、われわれが学校で教わってきている歴史理解と、実際に進行していた事態とはおよそまったく異なるということなのである。

彼は外との関係を一切絶ち、孤独に隠遁隠棲しながら調査と執筆に専念した。尋ねてくる人間はすべて政府関係者ばかりで、かれらは何をどうしても居場所を突き止めてくるのだという。当初米国内から出版はできず(出版拒否、大手取り次ぎ会社から拒否)オーストラリアで出版していたが、米国のパパま2人でやっている小さな出版社が見るにみかねて、彼の本を出版するに至り、彼の本はほとんどここからでている。現在はアマゾンドットコム等を通じほとんど彼の本は時間がかかるが入手できるようになっている。1999年のインタビューで74才の彼は自分はキャリア的には不遇を託ったが、このような本質的な問題に挑戦でき26冊の本を世に送りだすことができた。執筆内容に一切妥協はなく真実のみを書いた、これは私の誇りとするところである、という主旨のことを語っている。

スカボンは現在約600名がアクティブであるという。エール大学内で毎年25名が組織に入るしきたり。生涯を通じて、支配層中心メンバーとして機能するようだ。エール大学で、この組織の余りの無気味さに、排斥運動が起きた経緯もあるという。

"My senior year, I jointed Skull& Bones, a secret society, so secret I can't say anything more."

「わたしは大学4年のときスカボンに入ったんです。それは秘密結社でして、秘密であるが故に、わたしはこれ以上この組織について何もお話はできないんです。」

現大統領が最近の記者の質問にこのように答えている(これはサットンのホームページにも掲載されている。オリジナルはUSAToday紙の記事(非常に勇気ある女性ライターで当時大学生か学校出たてだったと思う。)この発言から分かることは、彼は、スカボンが1 秘密結社であり、2それが現時点で存在しており、3しかも自分がメンバーであり、4 内部情報を明かさないことがその組織の掟であること。この4点までを認めているのである。彼の、エール出身の父もこの組織のメンバーであることはよく知られており、すくなくとも父はメンバーとしては非常にアクティブだったという。ちなみにエール大学というような大学は、基本的にはアメリカの中産階層の子弟がはいれるところではまったくない。富裕層のための大学である。米国中央情報局の上層部は露骨にエール大学閥であることが知られている。

サットンのホームページ:

http://www.antonysutton.com/

彼が受けた最後のインタビュー:

http://www.antonysutton.com/suttoninterview.html

彼の代表作の一つ(スカボン本”America's Secret Establishment)

http://www.cia-drugs.com/Merchant2/merchant.mv?Screen=SFNT&Store_Code=CS&Affiliate=ctrl


1.America's Secret Establishment --

2. Wall Street and the Rise of Hitler --

ウォールストリートがナチスヒトラーを勃興させたことを証明した本。
3. Wall Street & the Bolshevik Revolution --

ウォールストリートがトロツキーなどいもふくめ資金を与え、ソ連を成立させた経緯がかかれている。


上記1についてのアマゾン書店で寄せられる読者評は以下のように最高度の星を獲得している。
http://www.amazon.com/exec/obidos/search-handle-form/002-3984047-1859263

読者のコメントをいちいち読むと非常に支持されていることがわかる。

彼の本は日本で一冊も翻訳されていないが、少なくとも
上記の3冊、最悪でも上記1について、翻訳出版されることが非常に望ましい。アメリカ理解、近現代史理解にこれらの報告書は絶対不可欠なのだ。

最高度の頭脳と調査能力を持つ彼は20世紀の知的巨人の一人であり、彼のすべての著書は近現代史を真に理解したいすべての人々、あるいは新しい歴史形成を担いたいすべての人々への贈り物であり、21世紀の知的遺産だといえる。

彼の真摯な知的営為、屈せず戦い抜いた態度に真の知識人の模範をみるものであり、最高度の敬意を払いたい。最近朝日新聞論壇で投稿されていたpublic intellectuals 公的知識人=一般人のための知識人という概念は米国由来のものであり、最近某大学でこの名前を冠する博士号Ph.D.を授与するところがでてきた。それほど、米国のいわゆる知識人は権力の走狗であることの批判からおきている現象だ。サットンこそこの敬称にふさわしい人物はいないだろう。

自分が知らない、聞いたこともない説であるゆえトンデモ本だ、などと決めつけるタイプの人々にはこれらは高踏すぎて無縁な著作郡であることは確かである。学問的訓練を経た読者に最も向くものといえる。

近現代史を専門とする人々は必読であることを強調していきたい。

http://www.asyura2.com/2003/dispute8/msg/819.html


http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/287.html#c120

[近代史3] 馬渕睦夫 ウイルソン大統領とフランクリン・ルーズベルト大統領は世界を共産化しようとしていた 中川隆
4. 中川隆[-11374] koaQ7Jey 2019年3月19日 13:10:45 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[628]
60年代アメリカの左翼運動マルクス主義運動は国際金融資本が資金提供していた。_ 2

アントニー・C・サットン

アントニー・C・サットン(Antony Cyril Sutton、1925年2月14日 - 2002年6月17日)は、イギリス生まれのアメリカの経済学者、歴史学者、作家。


サットンはロンドン大学、ゲッティンゲン大学とカリフォルニア州立大学で学びし、英国サウサンプトン大学にてD.Sc.を取得した。

米国ロサンゼルスにあるカリフォルニア州立大学で経済学部教授として働き、1968年から1973年までスタンフォード大学フーヴァー研究所の研究員であった。

当機関に所属している間、欧米技術とソ連経済発展の関連について "Western Technology and Soviet Economic Development"(全3巻)を出版し、ソ連発足初期から欧米諸国もその発展に深く関与したことを証明した。

またサットンはソ連が持つ技術的能力や製造能力も多数の米企業の支援と、米国民が納める税から融資を受けたことも指摘した。

鉄鋼業やフォードの子会社であったGAZ自動車工場など, 複数のソ連企業は米からの技術によって作られたことや、さらにはソ連がMIRVミサイル技術を手に入れたのも、高性能ベアリング製造に必要な(米からの)工作機械によって可能となったとしている。

1973年に3冊目の原稿から軍事技術関連部分を別編として "Military Aid to the Soviet Union" のタイトルで出版し、その結果フーヴァー研究員の仕事を辞任することになった[1]。 上記問題の研究成果として、

冷戦が生んだ様々な対立が「共産主義を制覇するため」続けられたのではなく、数十億ドル規模の軍事需要を意図的に維持するためだったと強調した。

少なくとも朝鮮戦争とベトナム戦争の場合、対立の両側も直接的・間接的に米国によって武装されていた[2]。

続編として、軍事技術転写の役割について論じた"The Best Enemy Money Can Buy" を書いた。

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A2%E3%83%B3%E3%83%88%E3%83%8B%E3%83%BC%E3%83%BBC%E3%83%BB%E3%82%B5%E3%83%83%E3%83%88%E3%83%B3

▲△▽▼

ソ連成立とその成長、ナチスヒトラー勃興、ベトナム戦争、左翼運動の背後に同一一貫した組織(秘密結社)が画策し資金と技術をグループワークで提供していた。私たちが教えられ、表でみているのは、彼らの情報操作のたまものだった。
http://www.asyura.com/2003/dispute8/msg/819.html


アンソニー=サットン(Antony C. Sutton)博士が昨年6月になくなった。77才だった。英国生まれ、ロンドン大学出身。米国でスタンフォード大学など第一級の大学の経済学部の教授だったが、彼がスタンフォード大のフ−バー研究所に在籍中の68年、インパクトのある研究書(3巻からなる)を刊行した。もともと経済と技術の関連を専門とする経済学者だったようだが、これらの書物で、米国の銀行がソ連(成立以来)に融資と技術の提供を一貫して行ってきたこと。ベトナム戦争時、ソ連の東欧での武器工場などは米国の融資と技術が提供され、そこで作られたソ連製武器がハノイに持ち込まれ、それにより、米国兵が殺されていたこと。これらの一見敵対する国々に米国が融資と技術提供している実態をこの書で明らかにした。その後、同じことがナチスドイツに対してもおこいていたこと等を明らかにしていった。本来折り紙付きの第一級の学者,将来を託され嘱望されていた学者だったが、これら一連の執筆業により、過激分子とみなされ、彼は学会、大学組織から追い出され、2度と学問と教育の場に戻れなくなった。その後彼は、米国の権力機構の機微・実態を徹底した資料分析で解析し総計26冊の著書を出して昨年この世を去ったのだ。

68年の刊行物で、融資と技術の流れを突き止めたものの、彼は、なぜ敵対する国に、あるいは自国のカネと技術で自国の戦士たちがしななければならないのか、一体どうなっているのか、全く理解できなかったという。ところが80年代の初頭、彼に一通の手紙が届いた。もしあなたが興味があるなら、スカル&ボーンズという秘密結社のメンバーリストを24時間だけ供与するがどうか、と記されていた。この組織のメンバーの家族が、身内が入会していてうんざりで、実態を知って欲しいと思ってのことだったという。送付して欲しい、と了承。黒革製の2巻からなる本は一冊は故人リスト、もう一冊は現在のリストだった。この時点までかれはこの秘密結社のことなど聞いたことも思ったこともなかったという。しかし、これらのリストの人物を綿密に調査したところ、この組織はただ者ではない、と驚愕。68年刊行物で疑問に思っていたことが氷解したという。つまり、この組織の連中のネットワークが米国政策決定過程を導き、このような売国的なことが行われていることを突き止めるに及んだという。
 彼は、スカル&ボンズは、ドイツを発祥とする秘密結社イル皆ティーの連動組織である、という。徹底した調査によって以下のことが判明したという。

1ソ連は国際金融資本によって創設され維持された。
2ナチスドイツは国際金融資本に資本と技術供与を受けていた。
3ベトナム戦争は国際金融資本のやらせだった。つまり米国ソ連の背後にいるのは同一組織だった。
4 60年代アメリカの左翼運動マルクス主義運動は国際金融資本が資金提供していた。Divide&Conquer (分割統治)方式により、一国一社会を相反する2項対立の相克状態に持っていく基本戦略が使われた。右翼左翼という対立項は実は彼らが戦略的に作ったものであるという。言い換えれば、この視点からものを見ては彼らの思うツボであるという。大事なのは、超金持ちvs一般人この枠組みで物事を見るべきだ、という。超権力は左翼右翼という見方を推進することで、一握りの超富裕者と一般人との拮抗関係という見方を弱めようとしているわけである。(日本の60年代70年代の左右対立も実はこの仕掛けにはまった側面が強いことが推測される。いわゆる現今のポチ保守はこの左右対立の見方を徹底して利用し、自分たちの富裕的支配性の隠れみのにしてきた可能性がある。多くの一般日本人が、あるいは貧乏な日本人同士がやれ、お前は右だろ左だろどうせ土井支持者だろなどと滑稽にののしりあっている図が見える。これが彼らの思うツボなのだ。実際馬鹿げている。)


彼は、スカボンのような秘密結社は確たる存在であり、彼らの活動の実態を理解することによって19世紀と20世紀の正確な歴史理解が初めて可能になるという認識に至った。つまり、われわれが学校で教わってきている歴史理解と、実際に進行していた事態とはおよそまったく異なるということなのである。

彼は外との関係を一切絶ち、孤独に隠遁隠棲しながら調査と執筆に専念した。尋ねてくる人間はすべて政府関係者ばかりで、かれらは何をどうしても居場所を突き止めてくるのだという。当初米国内から出版はできず(出版拒否、大手取り次ぎ会社から拒否)オーストラリアで出版していたが、米国のパパま2人でやっている小さな出版社が見るにみかねて、彼の本を出版するに至り、彼の本はほとんどここからでている。現在はアマゾンドットコム等を通じほとんど彼の本は時間がかかるが入手できるようになっている。1999年のインタビューで74才の彼は自分はキャリア的には不遇を託ったが、このような本質的な問題に挑戦でき26冊の本を世に送りだすことができた。執筆内容に一切妥協はなく真実のみを書いた、これは私の誇りとするところである、という主旨のことを語っている。

スカボンは現在約600名がアクティブであるという。エール大学内で毎年25名が組織に入るしきたり。生涯を通じて、支配層中心メンバーとして機能するようだ。エール大学で、この組織の余りの無気味さに、排斥運動が起きた経緯もあるという。

"My senior year, I jointed Skull& Bones, a secret society, so secret I can't say anything more."

「わたしは大学4年のときスカボンに入ったんです。それは秘密結社でして、秘密であるが故に、わたしはこれ以上この組織について何もお話はできないんです。」

現大統領が最近の記者の質問にこのように答えている(これはサットンのホームページにも掲載されている。オリジナルはUSAToday紙の記事(非常に勇気ある女性ライターで当時大学生か学校出たてだったと思う。)この発言から分かることは、彼は、スカボンが1 秘密結社であり、2それが現時点で存在しており、3しかも自分がメンバーであり、4 内部情報を明かさないことがその組織の掟であること。この4点までを認めているのである。彼の、エール出身の父もこの組織のメンバーであることはよく知られており、すくなくとも父はメンバーとしては非常にアクティブだったという。ちなみにエール大学というような大学は、基本的にはアメリカの中産階層の子弟がはいれるところではまったくない。富裕層のための大学である。米国中央情報局の上層部は露骨にエール大学閥であることが知られている。

サットンのホームページ:

http://www.antonysutton.com/

彼が受けた最後のインタビュー:

http://www.antonysutton.com/suttoninterview.html

彼の代表作の一つ(スカボン本”America's Secret Establishment)

http://www.cia-drugs.com/Merchant2/merchant.mv?Screen=SFNT&Store_Code=CS&Affiliate=ctrl


1.America's Secret Establishment --

2. Wall Street and the Rise of Hitler --

ウォールストリートがナチスヒトラーを勃興させたことを証明した本。
3. Wall Street & the Bolshevik Revolution --

ウォールストリートがトロツキーなどいもふくめ資金を与え、ソ連を成立させた経緯がかかれている。


上記1についてのアマゾン書店で寄せられる読者評は以下のように最高度の星を獲得している。
http://www.amazon.com/exec/obidos/search-handle-form/002-3984047-1859263

読者のコメントをいちいち読むと非常に支持されていることがわかる。

彼の本は日本で一冊も翻訳されていないが、少なくとも
上記の3冊、最悪でも上記1について、翻訳出版されることが非常に望ましい。アメリカ理解、近現代史理解にこれらの報告書は絶対不可欠なのだ。

最高度の頭脳と調査能力を持つ彼は20世紀の知的巨人の一人であり、彼のすべての著書は近現代史を真に理解したいすべての人々、あるいは新しい歴史形成を担いたいすべての人々への贈り物であり、21世紀の知的遺産だといえる。

彼の真摯な知的営為、屈せず戦い抜いた態度に真の知識人の模範をみるものであり、最高度の敬意を払いたい。最近朝日新聞論壇で投稿されていたpublic intellectuals 公的知識人=一般人のための知識人という概念は米国由来のものであり、最近某大学でこの名前を冠する博士号Ph.D.を授与するところがでてきた。それほど、米国のいわゆる知識人は権力の走狗であることの批判からおきている現象だ。サットンこそこの敬称にふさわしい人物はいないだろう。

自分が知らない、聞いたこともない説であるゆえトンデモ本だ、などと決めつけるタイプの人々にはこれらは高踏すぎて無縁な著作郡であることは確かである。学問的訓練を経た読者に最も向くものといえる。

近現代史を専門とする人々は必読であることを強調していきたい。

http://www.asyura2.com/2003/dispute8/msg/819.html

http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/145.html#c4

[近代史02] 株式投資の神様「ウォーレン・バフェット」の言葉を真に受けると悲惨な結果になる 中川隆
6. 中川隆[-11373] koaQ7Jey 2019年3月19日 15:10:26 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[629]

2019年03月19日
株価は長期で上がるか? 配当金を含めて計算

配当金を含めた株価は2012年と比べて3倍になっている


画像引用:指数情報 − 日経平均プロフィルhttps://indexes.nikkei.co.jp/nkave/index/profile?cid=7&idx=nk225tr

株価は一貫して上がるとは限らない

投資の大きな命題として、短期投資がいいか長期投資が良いかという比較があります。

短期投資は株価が変動を繰り返すのを前提にしていて、長期投資は株価は必ず上がるのを前提にしています。

言い換えると株価は長期的に必ず上がるのか、それとも必ずあがる訳ではないのかの論争です。




長期投資派の最大の根拠は米株価で、過去100年に渡って上昇を続けてきました。

100年続いたのだから今後も上昇するだろうというもので、Wバフェットなどもそう言っています。

一方で短期派が引き合いに出すのは日本株で、1990年にピークを付けた後2012年まで下落を続け、2013年から現在までは上昇しています。


1989年の日経平均最高値は約3万8900円だったのに対し、2013年以降の最高値は2018年10月2日の2万4270円でした。

アメリカ以外の株式市場では上海総合は2007年に5500だったが、2014年に2000まで下がり、現在も3000前後となっています。

株価は一貫して上昇し続けるという法則が当てはまるのはアメリカだけで、他の国はこの通りになっていません。


成長著しい中国でも当てはまらないのは、株価上昇が法則というほどではないのを示しています。

配当金は毎年蓄積されていく

だがそれでも投資手法として短期売買より保有したままの方が良いという根拠があります。

株式には配当というものがあり、例え株価が10%下落しても、10%に相当する配当を受け取れたら株主は損失を受けません。

その後株価が回復したら受け取った配当は丸儲けなので、株価が下がっても利益が出る場合があるのです。


先ほど書いたように日経平均1989年の約3万8900円から2009年には約7000円まで下落し、現在は2万1000円台です。

ところが株価に加えて配当金を加味すると様相が一変し「日経平均トータルリターン・インデックス」によると2018年10月に3万8400円に達しています。

1989年を100として計算しても、日経株価2万4000円でほぼ1989年の最高値約3万8900円を回復しています。


株価が上がらなくても配当は増え続けるので、やがて日経平均2万円以下でも、1989年に買った投資家は利益が出るようになります。

まあ買った株に利益が出るのにかかった30年という期間は長すぎますが、配当込みでは「いつか利益が出る」のは本当です。

自分が1989年の最高値で買った投資家にならないためには、投資を分散して株以外の債券や現金などに分けておく必要があります。


土地運用は一見良さそうなのだが、株価が下落すると土地も下落するので、分散する意味がなくなる事があります。

株や土地が下落する時に価値が上がるのは、それまで地味だった国債や預金で、デフレになるほど価値が上がる特性があります。

株を買うにしても一度に全額投資せず、コスト平均法を活用して期間を分散する必要があります。
http://www.thutmosev.com/archives/79341682.html
http://www.asyura2.com/09/reki02/msg/886.html#c6

[近代史02] 鈴木傾城 _ アメリカ株で儲けるほど簡単な事は無い 中川隆
40. 中川隆[-11372] koaQ7Jey 2019年3月19日 15:10:46 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[630]

2019年03月19日
株価は長期で上がるか? 配当金を含めて計算

配当金を含めた株価は2012年と比べて3倍になっている


画像引用:指数情報 − 日経平均プロフィルhttps://indexes.nikkei.co.jp/nkave/index/profile?cid=7&idx=nk225tr

株価は一貫して上がるとは限らない

投資の大きな命題として、短期投資がいいか長期投資が良いかという比較があります。

短期投資は株価が変動を繰り返すのを前提にしていて、長期投資は株価は必ず上がるのを前提にしています。

言い換えると株価は長期的に必ず上がるのか、それとも必ずあがる訳ではないのかの論争です。




長期投資派の最大の根拠は米株価で、過去100年に渡って上昇を続けてきました。

100年続いたのだから今後も上昇するだろうというもので、Wバフェットなどもそう言っています。

一方で短期派が引き合いに出すのは日本株で、1990年にピークを付けた後2012年まで下落を続け、2013年から現在までは上昇しています。


1989年の日経平均最高値は約3万8900円だったのに対し、2013年以降の最高値は2018年10月2日の2万4270円でした。

アメリカ以外の株式市場では上海総合は2007年に5500だったが、2014年に2000まで下がり、現在も3000前後となっています。

株価は一貫して上昇し続けるという法則が当てはまるのはアメリカだけで、他の国はこの通りになっていません。


成長著しい中国でも当てはまらないのは、株価上昇が法則というほどではないのを示しています。

配当金は毎年蓄積されていく

だがそれでも投資手法として短期売買より保有したままの方が良いという根拠があります。

株式には配当というものがあり、例え株価が10%下落しても、10%に相当する配当を受け取れたら株主は損失を受けません。

その後株価が回復したら受け取った配当は丸儲けなので、株価が下がっても利益が出る場合があるのです。


先ほど書いたように日経平均1989年の約3万8900円から2009年には約7000円まで下落し、現在は2万1000円台です。

ところが株価に加えて配当金を加味すると様相が一変し「日経平均トータルリターン・インデックス」によると2018年10月に3万8400円に達しています。

1989年を100として計算しても、日経株価2万4000円でほぼ1989年の最高値約3万8900円を回復しています。


株価が上がらなくても配当は増え続けるので、やがて日経平均2万円以下でも、1989年に買った投資家は利益が出るようになります。

まあ買った株に利益が出るのにかかった30年という期間は長すぎますが、配当込みでは「いつか利益が出る」のは本当です。

自分が1989年の最高値で買った投資家にならないためには、投資を分散して株以外の債券や現金などに分けておく必要があります。


土地運用は一見良さそうなのだが、株価が下落すると土地も下落するので、分散する意味がなくなる事があります。

株や土地が下落する時に価値が上がるのは、それまで地味だった国債や預金で、デフレになるほど価値が上がる特性があります。

株を買うにしても一度に全額投資せず、コスト平均法を活用して期間を分散する必要があります。
http://www.thutmosev.com/archives/79341682.html
http://www.asyura2.com/09/reki02/msg/895.html#c40

[リバイバル3] 優良株の長期投資以外はすべてギャンブル 中川隆
8. 中川隆[-11371] koaQ7Jey 2019年3月19日 15:11:13 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[631]

2019年03月19日
株価は長期で上がるか? 配当金を含めて計算

配当金を含めた株価は2012年と比べて3倍になっている


画像引用:指数情報 − 日経平均プロフィルhttps://indexes.nikkei.co.jp/nkave/index/profile?cid=7&idx=nk225tr

株価は一貫して上がるとは限らない

投資の大きな命題として、短期投資がいいか長期投資が良いかという比較があります。

短期投資は株価が変動を繰り返すのを前提にしていて、長期投資は株価は必ず上がるのを前提にしています。

言い換えると株価は長期的に必ず上がるのか、それとも必ずあがる訳ではないのかの論争です。




長期投資派の最大の根拠は米株価で、過去100年に渡って上昇を続けてきました。

100年続いたのだから今後も上昇するだろうというもので、Wバフェットなどもそう言っています。

一方で短期派が引き合いに出すのは日本株で、1990年にピークを付けた後2012年まで下落を続け、2013年から現在までは上昇しています。


1989年の日経平均最高値は約3万8900円だったのに対し、2013年以降の最高値は2018年10月2日の2万4270円でした。

アメリカ以外の株式市場では上海総合は2007年に5500だったが、2014年に2000まで下がり、現在も3000前後となっています。

株価は一貫して上昇し続けるという法則が当てはまるのはアメリカだけで、他の国はこの通りになっていません。


成長著しい中国でも当てはまらないのは、株価上昇が法則というほどではないのを示しています。

配当金は毎年蓄積されていく

だがそれでも投資手法として短期売買より保有したままの方が良いという根拠があります。

株式には配当というものがあり、例え株価が10%下落しても、10%に相当する配当を受け取れたら株主は損失を受けません。

その後株価が回復したら受け取った配当は丸儲けなので、株価が下がっても利益が出る場合があるのです。


先ほど書いたように日経平均1989年の約3万8900円から2009年には約7000円まで下落し、現在は2万1000円台です。

ところが株価に加えて配当金を加味すると様相が一変し「日経平均トータルリターン・インデックス」によると2018年10月に3万8400円に達しています。

1989年を100として計算しても、日経株価2万4000円でほぼ1989年の最高値約3万8900円を回復しています。


株価が上がらなくても配当は増え続けるので、やがて日経平均2万円以下でも、1989年に買った投資家は利益が出るようになります。

まあ買った株に利益が出るのにかかった30年という期間は長すぎますが、配当込みでは「いつか利益が出る」のは本当です。

自分が1989年の最高値で買った投資家にならないためには、投資を分散して株以外の債券や現金などに分けておく必要があります。


土地運用は一見良さそうなのだが、株価が下落すると土地も下落するので、分散する意味がなくなる事があります。

株や土地が下落する時に価値が上がるのは、それまで地味だった国債や預金で、デフレになるほど価値が上がる特性があります。

株を買うにしても一度に全額投資せず、コスト平均法を活用して期間を分散する必要があります。
http://www.thutmosev.com/archives/79341682.html
http://www.asyura2.com/09/revival3/msg/907.html#c8

[近代史3] リベラル派と保守派、脳構造に違いがあった 英研究

リベラル派と保守派、脳構造に違いがあった 英研究
2011年4月9日 14:29 発信地:ワシントンD.C./米国 [ 北米, 米国 ]
https://www.afpbb.com/articles/-/2794777?pid=7061810


米ワシントンD.C.(Washington, DC)に展示された、民主党のシンボルであるロバと共和党のシンボルであるゾウのオブジェ(2008年8月25日撮影、資料写真)。(c)AFP/Karen BLEIER

【4月9日 AFP】世界観が真っ向から対立することの多いリベラル派と保守派だが、実際、脳の構造が異なっていたとする研究成果が、7日の米科学誌カレント・バイオロジー(Current Biology)に発表された。

 英ロンドン大学ユニバーシティー・カレッジ(University College London、UCL)の研究チームは、健康で若い成人90人を対象に実験を行った。自分の政治的志向を1の「非常にリベラル」から5の「非常に保守的」まで5段階で評価してもらったあと、脳をスキャンした。

 その結果、リベラル派であるほど前帯状皮質の灰白質の容積が大きく、保守派であるほど右へんとう体の容積が大きい傾向があることがわかった。

 前帯状皮質は複雑性の理解に関連しており、不確実性や対立をチェックする機能を持つ。そのため、前帯状皮質が大きい人ほど不確実性や対立への認容性が高く、リベラルな物の見方を許容しやすくなると考えられるという。

 一方、へんとう体は恐怖心の処理に関連しており、これが大きい人ほど、反感や脅すような表情に敏感で、危機的状況に際してはリベラル派以上に攻撃的に反応する傾向があるという。

 これまで、一定の心理的特性でその人の政治的志向を予測できることは知られていた。政治的志向を脳活動と関連付けた研究はあったが、脳の構造と結びつけた研究は今回が初めて。(c)AFP .

https://www.afpbb.com/articles/-/2794777?pid=7061810
http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/295.html

[近代史3] 右翼・左翼の対立を使った分割統治政策 _ 左翼運動・マルクス主義運動は国際金融資本が資金提供していた

右翼・左翼の対立を使った分割統治政策 _ 左翼運動・マルクス主義運動は国際金融資本が資金提供していた


2018年3月31日
 あの安保闘争では、デモを指導していた全学連の上層部が、右翼の田中清玄やCIAから資金援助を受けていた。そして、彼らは後に米国に留学し、中曽根康弘の手先として自民党の御用学者となった(西部邁、香山健一、佐藤誠三郎など)。安保闘争はデモを指導していた学生がCIAに取り込まれ、ガス抜きに利用された(当時の岸信介首相は、CIA工作員)。

 学生運動や極左運動では、凄惨なリンチやテロが相次いだ。だが当時の極左指導者も、裏では公安とツーカーだった。よど号事件では、犯人が北朝鮮(旧日本軍の残地諜者が建国した国)に亡命し、人質の一人が日野原重明(笹川人脈)だった(聖路加国際病院は戦時中は空襲に遭わなかったし、地下鉄サリン事件では被害者の搬送先となった)。

重信房子は、父・重信末夫が右翼の大物で、四本義隆や佐々弘雄(佐々淳行の父)とつながりがあった。当時、数々の極左テロ事件の鎮圧を指導したのが佐々淳行と後藤田正晴だ(佐々と後藤田は、後に中曽根首相の側近となった)。冷戦期のグラディオ作戦の日本版が、日本の極左テロ事件だ(西欧で起きた数々の極左テロは、実は民衆の世論を反共へ誘導するためNATOが仕組んだもの、というのがグラディオ作戦)。

 オウム事件では、オウムは裏で統一教会や北朝鮮と関わりがあったが、当然、CIAの関与もあったはずだ(オウムが撒いたとされるサリンは、米軍製のサリンとなぜか成分が同じだ)。麻原は拘置所で薬漬けにされ、口封じされた。

 安保闘争も、学生運動や極左テロも、オウム事件も、裏では支配層が巧妙に運動や組織をコントロールしていた。そして、これらの政治的事件の顛末は、日本人に「政治には無関心でいるのが無難」という意識を植えつける、悪影響をもたらした(それが、属国日本の支配層=米国の手先の狙いだったのだから)。

https://johosokuhou.com/2018/03/30/2831/


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2007年12月10日
ウォール街金融資本が作り出す歴史構造 アントニー サットン 〜左翼右翼の対立、戦争etc〜

大きな対立・戦争を起こしながら動いてきた現代史。その背後にある共通した動きについて詳しく調べた人がいるので紹介したい。

アンソニー=サットン(Antony C. Sutton)、彼は事実を追求し、徹底した調査に基づいた注目すべき数々の本を出している。特に注目すべきは以下。


1.America’s Secret Establishment –

2. Wall Street and the Rise of Hitler –
(ウォール街がナチスヒトラーを勃興させた。)

3. Wall Street & the Bolshevik Revolution –
(ウォール街がレーニン、トロツキーなどに資金供与してロシア革命を成功させた。)

4 The Federal Reserve Conspiracy
(連邦準備銀行の陰謀)


アントニー サットンについて、 阿修羅 より(一部略)

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英国生まれ、ロンドン大学出身。米国でスタンフォード大学など第一級の大学の経済学部の教授だったが、彼がスタンフォード大のフ−バー研究所に在籍中の68年、インパクトのある研究書(3巻からなる)を刊行した。もともと経済と技術の関連を専門とする経済学者だったようだが、これらの書物で、米国の銀行がソ連(成立以来)に融資と技術の提供を一貫して行ってきたこと。ベトナム戦争時、ソ連の東欧での武器工場などは米国の融資と技術が提供され、そこで作られたソ連製武器がハノイに持ち込まれ、それにより、米国兵が殺されていたこと。これらの一見敵対する国々に米国が融資と技術提供している実態をこの書で明らかにした。その後、同じことがナチスドイツに対してもおこいていたこと等を明らかにしていった。

本来折り紙付きの第一級の学者,将来を託され嘱望されていた学者だったが、これら一連の執筆業により、過激分子とみなされ、彼は学会、大学組織から追い出され、2度と学問と教育の場に戻れなくなった。その後彼は、米国の権力機構の機微・実態を徹底した資料分析で解析し総計26冊の著書を出して昨年この世を去ったのだ。


徹底した調査によって以下のことが判明した。


1ソ連は国際金融資本によって創設され維持された。

2ナチスドイツは国際金融資本に資本と技術供与を受けていた。

3ベトナム戦争は国際金融資本のやらせだった。つまり米国ソ連の背後にいるのは同一組織だった。


4 60年代アメリカの左翼運動マルクス主義運動は国際金融資本が資金提供していた。

(分割統治)方式により、一国一社会を相反する2項対立の相克状態に持っていく基本戦略が使われた。右翼左翼という対立項は実は彼らが戦略的に作ったものであるという。言い換えれば、この視点からものを見ては彼らの思うツボであるという。大事なのは、超金持ちvs一般人この枠組みで物事を見るべきだ、という。超権力は左翼右翼という見方を推進することで、一握りの超富裕者と一般人との拮抗関係という見方を弱めようとしているわけである。(日本の60年代70年代の左右対立も実はこの仕掛けにはまった側面が強いことが推測される。)

彼は、スカボンのような秘密結社は確たる存在であり、彼らの活動の実態を理解することによって19世紀と20世紀の正確な歴史理解が初めて可能になるという認識に至った。つまり、われわれが学校で教わってきている歴史理解と、実際に進行していた事態とはおよそまったく異なるということなのである。

彼は外との関係を一切絶ち、孤独に隠遁隠棲しながら調査と執筆に専念した。尋ねてくる人間はすべて政府関係者ばかりで、かれらは何をどうしても居場所を突き止めてくるのだという。当初米国内から出版はできず(出版拒否、大手取り次ぎ会社から拒否)オーストラリアで出版していたが、米国のパパま2人でやっている小さな出版社が見るにみかねて、彼の本を出版するに至り、彼の本はほとんどここからでている。現在はアマゾンドットコム等を通じほとんど彼の本は時間がかかるが入手できるようになっている。1999年のインタビューで74才の彼は自分はキャリア的には不遇を託ったが、このような本質的な問題に挑戦でき26冊の本を世に送りだすことができた。執筆内容に一切妥協はなく真実のみを書いた、これは私の誇りとするところである、という主旨のことを語っている。

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(引用以上) 


サットンの業績は、秘密のベールに包まれていた金融資本家のネットワークを徹底的に調査し、あぶりだしてくれたことだと思う。従来“陰謀論”として、よく検証されずに葬られていた分野を科学的に検証した。

彼の業績によってロシア革命やナチス、そしてベトナム戦争の背後にある真実が見えてきた。おおよそ、現代史(戦争や革命恐慌、バブル)の背後には彼らウォール街金融資本の触手があり、彼らが何らかの狙いをもって特定の集団に資金提供して、育て上げる。それらの集団は、主義思想や愛国心に沿って動き、対立や戦争を起こしていく。その過程で莫大な投資や消費が行われ、金融資本は莫大な利益を手に入れることになる。


背後からこれらの対立を操縦することで、金融資本家は世界秩序を維持してきた。サットンは、金融資本家の支配方法について以下のように言っている。


>世界秩序は、分断して攻略するという単純なテクニックによる支配で成り立っている。

>・・・世界秩序は、世界を実体とみなすヘーゲル弁証法を採用した。これはそのほかのあらゆる力と実体を否定している。テーゼ(正)−アンチテーゼー(反)−ジンテーゼ(合)の原則に基いて機能し、前もって決められた結論(合)に向けてテーゼ(正)とアンチテーゼ(反)が対立して終わる。

>世界秩序はユダヤ人グループを組織して資金を提供する。次に、反ユダヤグループを組織して資金を提供する。また、共産主義グループを組織してこれに資金提供し、反共産主義グループを組織して資金を提供する。必ずしも世界秩序がこういうグループ同士の対立を煽る必要はない。彼らは赤外線追跡ミサイルのように相手を見つけ出し、確実に破壊しようとする。それぞれのグループの規模と資源を調節することで、世界秩序は常に前もって結果を決めておけるのだ・・・・  サットン 『連邦準備銀行の陰謀』より

※ここで世界秩序とは、金融資本による世界秩序のことをさす。

★このように見てくると、主義や主張をかざし、あるいは小さな国益をかざして、対立している人間・勢力というのは、支配者(コントローラー)である金融資本にとっては、非常に都合がよく操作しやすい。


日本でも、

・戦前スターリンとアメリカの圧迫→危機感高まった国内で右翼が台頭、陸軍と結んで戦争への道を突っ走った。

・戦後自民党に結党資金を与えたのはCIAであり、自民党の結党により左右社会党が合同し、二大政党という対立構造が生まれた。


そして現在的にも

アメリカ財閥が中国を急成長させている
アメリカの撤退が始まり中国が台頭する

中国の台頭により日本の(特に右の)危機感が高まっている。しかし、中国を急速に台頭させているのはウォール街金融資本である。僕も危機感には共感する。しかしいたずらに敵対し相手を挑発するより、真の意図を探り可能性を探る必要があると思う。

“日本を守るのに右も左もない”では、見えにくい敵、対立を煽り、歴史を操作している連中=国際金融資本(金貸し)も、徹底的に事実追求の立場から解明していきたい。サットンができなかったより深い分析(人々の意識潮流や可能性)まで含めて。

http://blog.nihon-syakai.net/blog/2007/12/000553.html



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60年代アメリカの左翼運動マルクス主義運動は国際金融資本が資金提供していた。_ 2

アントニー・C・サットン

アントニー・C・サットン(Antony Cyril Sutton、1925年2月14日 - 2002年6月17日)は、イギリス生まれのアメリカの経済学者、歴史学者、作家。


サットンはロンドン大学、ゲッティンゲン大学とカリフォルニア州立大学で学びし、英国サウサンプトン大学にてD.Sc.を取得した。

米国ロサンゼルスにあるカリフォルニア州立大学で経済学部教授として働き、1968年から1973年までスタンフォード大学フーヴァー研究所の研究員であった。

当機関に所属している間、欧米技術とソ連経済発展の関連について "Western Technology and Soviet Economic Development"(全3巻)を出版し、ソ連発足初期から欧米諸国もその発展に深く関与したことを証明した。

またサットンはソ連が持つ技術的能力や製造能力も多数の米企業の支援と、米国民が納める税から融資を受けたことも指摘した。

鉄鋼業やフォードの子会社であったGAZ自動車工場など, 複数のソ連企業は米からの技術によって作られたことや、さらにはソ連がMIRVミサイル技術を手に入れたのも、高性能ベアリング製造に必要な(米からの)工作機械によって可能となったとしている。

1973年に3冊目の原稿から軍事技術関連部分を別編として "Military Aid to the Soviet Union" のタイトルで出版し、その結果フーヴァー研究員の仕事を辞任することになった[1]。 上記問題の研究成果として、

冷戦が生んだ様々な対立が「共産主義を制覇するため」続けられたのではなく、数十億ドル規模の軍事需要を意図的に維持するためだったと強調した。

少なくとも朝鮮戦争とベトナム戦争の場合、対立の両側も直接的・間接的に米国によって武装されていた[2]。

続編として、軍事技術転写の役割について論じた"The Best Enemy Money Can Buy" を書いた。

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A2%E3%83%B3%E3%83%88%E3%83%8B%E3%83%BC%E3%83%BBC%E3%83%BB%E3%82%B5%E3%83%83%E3%83%88%E3%83%B3

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ソ連成立とその成長、ナチスヒトラー勃興、ベトナム戦争、左翼運動の背後に同一一貫した組織(秘密結社)が画策し資金と技術をグループワークで提供していた。私たちが教えられ、表でみているのは、彼らの情報操作のたまものだった。
http://www.asyura.com/2003/dispute8/msg/819.html


アンソニー=サットン(Antony C. Sutton)博士が昨年6月になくなった。77才だった。英国生まれ、ロンドン大学出身。米国でスタンフォード大学など第一級の大学の経済学部の教授だったが、彼がスタンフォード大のフ−バー研究所に在籍中の68年、インパクトのある研究書(3巻からなる)を刊行した。もともと経済と技術の関連を専門とする経済学者だったようだが、これらの書物で、米国の銀行がソ連(成立以来)に融資と技術の提供を一貫して行ってきたこと。ベトナム戦争時、ソ連の東欧での武器工場などは米国の融資と技術が提供され、そこで作られたソ連製武器がハノイに持ち込まれ、それにより、米国兵が殺されていたこと。これらの一見敵対する国々に米国が融資と技術提供している実態をこの書で明らかにした。その後、同じことがナチスドイツに対してもおこいていたこと等を明らかにしていった。本来折り紙付きの第一級の学者,将来を託され嘱望されていた学者だったが、これら一連の執筆業により、過激分子とみなされ、彼は学会、大学組織から追い出され、2度と学問と教育の場に戻れなくなった。その後彼は、米国の権力機構の機微・実態を徹底した資料分析で解析し総計26冊の著書を出して昨年この世を去ったのだ。

68年の刊行物で、融資と技術の流れを突き止めたものの、彼は、なぜ敵対する国に、あるいは自国のカネと技術で自国の戦士たちがしななければならないのか、一体どうなっているのか、全く理解できなかったという。ところが80年代の初頭、彼に一通の手紙が届いた。もしあなたが興味があるなら、スカル&ボーンズという秘密結社のメンバーリストを24時間だけ供与するがどうか、と記されていた。この組織のメンバーの家族が、身内が入会していてうんざりで、実態を知って欲しいと思ってのことだったという。送付して欲しい、と了承。黒革製の2巻からなる本は一冊は故人リスト、もう一冊は現在のリストだった。この時点までかれはこの秘密結社のことなど聞いたことも思ったこともなかったという。しかし、これらのリストの人物を綿密に調査したところ、この組織はただ者ではない、と驚愕。68年刊行物で疑問に思っていたことが氷解したという。つまり、この組織の連中のネットワークが米国政策決定過程を導き、このような売国的なことが行われていることを突き止めるに及んだという。

 彼は、スカル&ボンズは、ドイツを発祥とする秘密結社イル皆ティーの連動組織である、という。徹底した調査によって以下のことが判明したという。

1ソ連は国際金融資本によって創設され維持された。

2ナチスドイツは国際金融資本に資本と技術供与を受けていた。

3ベトナム戦争は国際金融資本のやらせだった。つまり米国ソ連の背後にいるのは同一組織だった。

4 60年代アメリカの左翼運動マルクス主義運動は国際金融資本が資金提供していた。


Divide&Conquer (分割統治)方式により、一国一社会を相反する2項対立の相克状態に持っていく基本戦略が使われた。右翼左翼という対立項は実は彼らが戦略的に作ったものであるという。言い換えれば、この視点からものを見ては彼らの思うツボであるという。大事なのは、超金持ちvs一般人この枠組みで物事を見るべきだ、という。

超権力は左翼右翼という見方を推進することで、一握りの超富裕者と一般人との拮抗関係という見方を弱めようとしているわけである。(日本の60年代70年代の左右対立も実はこの仕掛けにはまった側面が強いことが推測される。いわゆる現今のポチ保守はこの左右対立の見方を徹底して利用し、自分たちの富裕的支配性の隠れみのにしてきた可能性がある。多くの一般日本人が、あるいは貧乏な日本人同士がやれ、お前は右だろ左だろどうせ土井支持者だろなどと滑稽にののしりあっている図が見える。これが彼らの思うツボなのだ。実際馬鹿げている。)


彼は、スカボンのような秘密結社は確たる存在であり、彼らの活動の実態を理解することによって19世紀と20世紀の正確な歴史理解が初めて可能になるという認識に至った。つまり、われわれが学校で教わってきている歴史理解と、実際に進行していた事態とはおよそまったく異なるということなのである。

彼は外との関係を一切絶ち、孤独に隠遁隠棲しながら調査と執筆に専念した。尋ねてくる人間はすべて政府関係者ばかりで、かれらは何をどうしても居場所を突き止めてくるのだという。当初米国内から出版はできず(出版拒否、大手取り次ぎ会社から拒否)オーストラリアで出版していたが、米国のパパま2人でやっている小さな出版社が見るにみかねて、彼の本を出版するに至り、彼の本はほとんどここからでている。現在はアマゾンドットコム等を通じほとんど彼の本は時間がかかるが入手できるようになっている。1999年のインタビューで74才の彼は自分はキャリア的には不遇を託ったが、このような本質的な問題に挑戦でき26冊の本を世に送りだすことができた。執筆内容に一切妥協はなく真実のみを書いた、これは私の誇りとするところである、という主旨のことを語っている。

スカボンは現在約600名がアクティブであるという。エール大学内で毎年25名が組織に入るしきたり。生涯を通じて、支配層中心メンバーとして機能するようだ。エール大学で、この組織の余りの無気味さに、排斥運動が起きた経緯もあるという。

"My senior year, I jointed Skull& Bones, a secret society, so secret I can't say anything more."

「わたしは大学4年のときスカボンに入ったんです。それは秘密結社でして、秘密であるが故に、わたしはこれ以上この組織について何もお話はできないんです。」

現大統領が最近の記者の質問にこのように答えている(これはサットンのホームページにも掲載されている。オリジナルはUSAToday紙の記事(非常に勇気ある女性ライターで当時大学生か学校出たてだったと思う。)この発言から分かることは、彼は、スカボンが1 秘密結社であり、2それが現時点で存在しており、3しかも自分がメンバーであり、4 内部情報を明かさないことがその組織の掟であること。この4点までを認めているのである。彼の、エール出身の父もこの組織のメンバーであることはよく知られており、すくなくとも父はメンバーとしては非常にアクティブだったという。ちなみにエール大学というような大学は、基本的にはアメリカの中産階層の子弟がはいれるところではまったくない。富裕層のための大学である。米国中央情報局の上層部は露骨にエール大学閥であることが知られている。

サットンのホームページ:

http://www.antonysutton.com/

彼が受けた最後のインタビュー:

http://www.antonysutton.com/suttoninterview.html

彼の代表作の一つ(スカボン本”America's Secret Establishment)

http://www.cia-drugs.com/Merchant2/merchant.mv?Screen=SFNT&Store_Code=CS&Affiliate=ctrl


1.America's Secret Establishment --

2. Wall Street and the Rise of Hitler --

ウォールストリートがナチスヒトラーを勃興させたことを証明した本。
3. Wall Street & the Bolshevik Revolution --

ウォールストリートがトロツキーなどいもふくめ資金を与え、ソ連を成立させた経緯がかかれている。


上記1についてのアマゾン書店で寄せられる読者評は以下のように最高度の星を獲得している。
http://www.amazon.com/exec/obidos/search-handle-form/002-3984047-1859263

読者のコメントをいちいち読むと非常に支持されていることがわかる。

彼の本は日本で一冊も翻訳されていないが、少なくとも
上記の3冊、最悪でも上記1について、翻訳出版されることが非常に望ましい。アメリカ理解、近現代史理解にこれらの報告書は絶対不可欠なのだ。

最高度の頭脳と調査能力を持つ彼は20世紀の知的巨人の一人であり、彼のすべての著書は近現代史を真に理解したいすべての人々、あるいは新しい歴史形成を担いたいすべての人々への贈り物であり、21世紀の知的遺産だといえる。

彼の真摯な知的営為、屈せず戦い抜いた態度に真の知識人の模範をみるものであり、最高度の敬意を払いたい。最近朝日新聞論壇で投稿されていたpublic intellectuals 公的知識人=一般人のための知識人という概念は米国由来のものであり、最近某大学でこの名前を冠する博士号Ph.D.を授与するところがでてきた。それほど、米国のいわゆる知識人は権力の走狗であることの批判からおきている現象だ。サットンこそこの敬称にふさわしい人物はいないだろう。

自分が知らない、聞いたこともない説であるゆえトンデモ本だ、などと決めつけるタイプの人々にはこれらは高踏すぎて無縁な著作郡であることは確かである。学問的訓練を経た読者に最も向くものといえる。

近現代史を専門とする人々は必読であることを強調していきたい。

http://www.asyura2.com/2003/dispute8/msg/819.html


http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/296.html

[リバイバル3] 中川隆 _ 売国政治家・御用学者 関係投稿リンク 中川隆
50. 中川隆[-11370] koaQ7Jey 2019年3月19日 17:42:37 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[633]
右翼・左翼の対立を使った分割統治政策 _ 左翼運動・マルクス主義運動は国際金融資本が資金提供していた
http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/296.html

http://www.asyura2.com/09/revival3/msg/461.html#c50
[近代史3] 右翼・左翼の対立を使った分割統治政策 _ 左翼運動・マルクス主義運動は国際金融資本が資金提供していた 中川隆
1. 中川隆[-11369] koaQ7Jey 2019年3月19日 18:08:04 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[634]

ang********さん 2009/6/22 07:16:49

重信房子ってのは、戦前の大物≪右翼≫の娘だよ。

父親(重信末夫)は鹿児島県出身であり、戦前の右翼の血盟団のメンバーであり、四元義隆とは同郷の同志である。


要するに≪反体制がかっこいい≫というレベルの遺伝子の持ち主。
思想・信条は関係ない。
https://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail/q1427486559

_____


P・グラレム‏ @pinkglalem · 2014年7月7日
@mayshigenobu @cinematoday
重信末夫は、四元義隆を通じて佐々弘雄と友人関係にあった。
つまり重信房子は佐々淳行と昔から知り合いだった。

連合赤軍のテロ事件は、警視庁や日本政府と組んだ茶番だった。
オメ-ラのやり方は、昔からキッタネーなぁ...?


P・グラレム‏ @pinkglalem · 2014年7月9日
@cinematoday @mayshigenobu
ハマスは、パレスチナをイスラエルが攻撃する口実作りの為に、被害が最小限のテロを行っている。

ハマスは実はモサドが作り、支援している似非テロ組織。
その実体は日本の連合赤軍にそっくり。
https://twitter.com/mayshigenobu/status/486330664204001280

http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/296.html#c1

[近代史3] 右翼・左翼の対立を使った分割統治政策 _ 左翼運動・マルクス主義運動は国際金融資本が資金提供していた 中川隆
2. 中川隆[-11368] koaQ7Jey 2019年3月19日 18:11:19 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[635]

『未来の見えるテレビ』2011/05/23
日本の公安警察と極左団体は裏で同盟関係を結んでいる
http://oldrkblog.s17.xrea.com/201105/article_119.html


日本の街宣右翼と極左集団が裏で繋がっているという事実も大事ですが、もっと大事なのは、日本の公安警察と極左団体が裏で同盟関係を結んでいる、という事実です。


公安警察の大首領である佐々淳行のお父様の佐々弘雄は、 近衛文麿(内閣総理大臣)内閣のブレーンである『朝食会(実質はゾルゲ諜報団の下部組織)』に所属していましたが、その縁もあってか、近衛文麿の首相秘書・書生を務めていた大物右翼の四元義隆とは、共に近衛文麿を支えた同志であったことから、深い仲の友達だったそうです。

四元義隆は、極右団体『血盟団』と右翼団体『金鶏学院』に所属していましたが、四元義隆とは同郷の同志で『血盟団』(『金鶏学院』だったという説も有り)のメンバーだった男に、重信末夫という人物がいますが、重信末夫の娘は、極左集団
『赤軍派』から、極左団体『日本赤軍』の女首領になった重信房子です。


重信房子が所属していた『赤軍派』が、『革命左派』と合同して生まれた極左団体が、佐々淳行が捜査を指揮した『あさま山荘事件』を引き起こした『連合赤軍』です。

『あさま山荘事件』の最大の問題点は、佐々淳行の父親と重信房子の父親が、四元義隆を通してお仲間だった可能性が極めて高いということです。

このことからも、『あさま山荘事件』は、『9.11』と同じ、警察による内部犯行であった疑いすら見えてきます。


重信房子は佐々淳行の妹分だったのではないか?


さらに、佐々淳行の義父(妻の朝香幸子の父親)の朝香三郎は、水俣病加害企業チッソの全身である日本窒素肥料、朝鮮窒素肥料の大幹部でしたが、水俣病裁判があったのは、1970年代の真っ最中なのですが、佐々淳行が名を馳せた左翼ゲリラによるテロ事件の『東大安田講堂事件』は、1969年1月に勃発し、佐々淳行がさらに名を馳せた左翼ゲリラによるテロ事件の『あさま山荘事件』は、1972年2月に勃発しています。

少なくとも、左翼ゲリラによるテロ事件が起こったことによって、世間の注目が水俣病裁判から、左翼ゲリラによるテロ事件に移ったことで、日本窒素肥料と、その系列企業は大喜びだったはずです。

そして、最大の問題点は、朝香三郎が大幹部を務めた水俣病加害企業チッソの全身の日本窒素肥料は、 昔、朝鮮窒素肥料という子会社を構え、朝鮮半島の咸鏡南道興南(現在の北朝鮮の咸興市)に工場を持ち、そこで、核実験を行い、その核技術が、第2次世界大戦の後になると、金親子 (金日成・金正日)の手に渡ったという恐怖と、朝鮮窒素肥料に、若かりし日の文鮮明が働いていたという恐怖です。

文鮮明が、朝鮮窒素肥料の『興南工場』の跡地で、朝鮮窒素肥料の社員とその家族を洗脳していったことは、まず、間違いないでしょう。

水俣病加害企業チッソ=『統一教会』


http://oldrkblog.s17.xrea.com/201105/article_119.html

http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/296.html#c2

[近代史3] 右翼・左翼の対立を使った分割統治政策 _ 左翼運動・マルクス主義運動は国際金融資本が資金提供していた 中川隆
3. 中川隆[-11367] koaQ7Jey 2019年3月19日 18:37:11 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[636]
佐々淳行

佐々 淳行(さっさ あつゆき、1930年12月11日 - 2018年10月10日)は、日本の警察・防衛官僚。危機管理評論家。

熊本県出身の政治学者で、後に参議院議員などを務めた佐々弘雄の次男として、東京市麻布区(現・東京都港区)に生まれる。戦国武将・佐々成政の末裔の家系でもある。

6歳のとき自宅近くで二・二六事件が発生。その戒厳下の体験が危機管理人生の出発点となったという。その後ゾルゲ事件の際に疑われることを恐れた父の持ち物を焼き、のちの大東亜戦争になると父親が特高に怪しまれるようになる。

学生時代

旧制成蹊高等学校を経て[1]、1954年(昭和29年)3月に東京大学法学部政治学科を卒業。東京大学在学中は、学生研究会土曜会の中心メンバーとして活動し、若泉敬、粕谷一希らと交流を持った。

教授の堀豊彦からは助手として学問の道に進むことを打診されるが、朝鮮戦争や過激化する左翼運動といった世相の中、ウィリアム・ジェームズの『宗教的経験の諸相』に感化され、国家地方警察本部(現・警察庁)に入庁した。若泉は保安研修所(現・防衛研究所)入りし学究の道に入った。粕谷は佐々が学者、若泉が実務家の適性を持っていると思っていたため、それぞれの選択を意外に思ったという[2]。

警察官僚として

入庁後は、主に警備警察の分野を歩み、目黒署などを経て 1950年代から1970年代の

東大安田講堂事件[3]、
あさま山荘事件[3]、
ひめゆりの塔事件

など数多くの学生運動や新左翼のテロに対する警備実施を指揮した。

瀬島龍三をはじめとしたスパイ取り締まりや亡命事件などの外事も多く手がけた。

また1956年のハンガリー動乱の際に『中央公論』(1957年3月)で「民主的警察官はどうしたらよいのか - 私はブダペストの警官にはなりたくない」という痛烈な一党独裁を批判する論文を出し、当時の「進歩的文化人(左翼)」から総批判を浴びた[4]。

1964年1月よりケネディ大統領暗殺事件調査のため渡米。

その後東京オリンピック警備などを経て、1965年より外務省に出向し香港総領事館領事の命を得て駐在。

1966年12月に起きた一二・三事件や1967年5月の香港の中共系暴動、さらに1968年1月のテト攻勢などに遭遇。テト攻勢の際はサイゴンの日本大使館に籠城を余儀なくされる。

1970年11月25日の「三島事件」の際には、「君は三島由紀夫と親しいのだろ。すぐ行って説得してやめさせろ」と土田國保警備部長から指示を受けて、警務部参事官兼人事第一課長であった佐々が警視庁から現場に駆けつけたが、三島の自決までに間に合わなかった。佐々は、遺体と対面しようと総監室に入った時の様子を「足元の絨毯がジュクッと音を立てた。みると血の海。赤絨毯だから見分けがつかなかったのだ。いまもあの不気味な感触を覚えている」と述懐している[5][6]。

警視庁外事課長代理、大阪府警察外事課長、外務省在香港総領事館領事、警視庁公安部外事第一課長、同警備部警備第一課長、同警務部参事官兼人事第一課長等を経て、警察庁警務局監察官兼警備局付、警備局調査課長、同外事課長、同警備課長、三重県警察本部長、警察庁刑事局参事官を歴任。

防衛施設庁長官

その後、1977年より防衛庁に出向する。防衛庁では同長官官房長[7]などを経て、防衛施設庁長官に就任した[8]。しかし加藤紘一防衛庁長官に不満で辞めることも考えたが、1986年(昭和61年)6月に防衛施設庁長官で退官する。


初代内閣安全保障室長

1986年7月1日、第3次中曽根康弘内閣で初代の内閣官房内閣安全保障室長(兼総理府安全保障室長)に就任[9]。中曽根康弘、竹下登、宇野宗佑の3人の内閣総理大臣に仕える。安全保障会議事務局長も務める。1989年(平成元年)2月に行われた昭和天皇大喪の礼の事務取り仕切りを最後に、同年6月に退官した。

退官後

退官後は、複数の政界有力者から、いわゆる天下りや、自由民主党からの政界入りを勧められたものの、それらを辞退して個人事務所を開設し[10]、危機管理をライフワークとしてフリーで活動する道を選んだ[11]。現役官僚時代から著書が多く、退官後は多くの著書を上梓し、そのうちのいくつかはベストセラーとなり、映画化された例もある。

1990年(平成2年)の湾岸戦争では首相閣外補佐に就いた。
1996年には新官邸危機管理懇談会のメンバーに選ばれる。

また1991年(平成3年)のソ連崩壊、1995年(平成7年)の阪神・淡路大震災、地下鉄サリン事件、1996年(平成8年)の在ペルー日本大使公邸占拠事件、2001年のアメリカ同時多発テロ事件などの際にはコメンテーターとしてテレビ番組に出演。


2006年(平成18年)7月には、日本美術刀剣保存協会の第7代会長・刀剣博物館館長に就任した。同年には、祖父に当たる佐々友房が設立した熊本県立済々黌高等学校を訪れ、あさま山荘事件などの自身の体験や佐々友房について語り、同校の図書館に自身の全著書を寄贈した。

親友であった石原慎太郎が3選された2007年(平成19年)の東京都知事選挙では、石原からの要請で、石原陣営の選挙対策本部長を務めた。このときに用いられた「反省しろよ慎太郎、だけどやっぱり慎太郎」のキャッチコピーは、佐々の発案によるものである[12]。


晩年

晩年も活発な著作活動・講演活動を続けた。2018年10月10日、老衰のため東京都内の病院で死去[13]。87歳没。

年譜


1930年(昭和5年)12月11日:佐々弘雄の次男として、東京市麻布区麻布材木町で生まれる[注釈 1]。

1954年(昭和29年) 3月:東京大学法学部政治学科卒業
4月:国家地方警察本部(現・警察庁)入庁[注釈 2]
10月:警視庁目黒警察署配属[注釈 3]

1955年(昭和30年)10月:警視庁防犯部保安課[注釈 4]
1956年(昭和31年)1月:警察大学校助教授
1957年(昭和32年) 8月:警視庁警備部警備第一課
埼玉県警察本部警務部監察官

1959年(昭和34年)7月:大分県警察本部警務部長
1960年(昭和35年)7月:警視庁公安部外事課[注釈 5]
1962年(昭和37年)4月:大阪府警察本部警備部外事課長
1964年(昭和39年)1月:警察庁警備局付(外務省研修所)[注釈 6]
1965年(昭和40年) 1月:在香港日本国総領事館副領事
4月:在香港日本国総領事館領事[注釈 7]


1968年(昭和43年)
7月:警視庁公安部外事第一課長[注釈 8]
11月:警視庁警備部警備第一課長[注釈 9]


1969年(昭和44年):東大安田講堂事件など一連の第二次安保闘争に対する警備実施を指揮。

1970年(昭和45年)9月:警視庁警務部参事官兼人事第一課長

1971年(昭和46年)11月:警察庁警備局付兼警務局監察官(極左暴力集団の犯罪、及びそれに関連する警備実施を専任的に取り扱い指揮するため階級を引き上げるための冨田朝彦警備局長の是非貰いで行われた変則・特殊な人事。

当時の人事の慣例では警視正の階級では警察庁課長職にはなれないため、たまたま空きがあった課長相当の警務局監察官職に就け、実際の任務は警備局での無任所課長として、都内から離れられない警備課長の代わりに全国で多発する極左関連事件の処理に現場へ派遣された。)


1972年(昭和47年)
2月:あさま山荘事件に派遣される(後藤田警察庁長官の指示で現地に派遣された、警察庁・関東管区警察局・警視庁等の幕僚団での警備実施及び広報担当幕僚長として)。
5月:警察庁警備局調査課長
7月:警察庁警備局外事課長[注釈 10]


1974年(昭和49年)8月:警察庁警備局警備課長[注釈 11]

1975年(昭和50年)8月:三重県警察本部長

1977年(昭和52年) 1月:警察庁刑事局参事官
8月:防衛庁出向。防衛庁長官官房防衛審議官[注釈 12]

1978年(昭和53年)11月:防衛庁教育担当参事官[注釈 13]
1980年(昭和55年)6月:防衛庁人事教育局長
1982年(昭和57年)7月:防衛庁長官官房長[注釈 14]
1984年(昭和59年)7月:防衛施設庁長官[注釈 15]
1986年(昭和61年) 6月:防衛施設庁を退職。
7月:内閣官房に新設された内閣安全保障室の初代室長に就任。安全保障会議事務局長も務める[注釈 16]

1989年(平成元年)6月:内閣安全保障室長を辞職。
1990年(平成2年)8月:湾岸危機につき、首相閣外補佐を担当。
1991年(平成3年)4月:ボランティア団体・日本国際救援行動委員会(JIRAC)を設立し、理事長に就任[注釈 17]。
1993年(平成5年)4月:慶應義塾大学法学部政治学科の非常勤講師に就任。同年9月から、「日本の安全保障行政」と題する講義を開始(この後、6年間に及ぶ)。
1994年(平成6年)4月:日米文化教育交流会議(カルコン)日本側パネル委員就任。内外情勢調査会理事と日本国際フォーラム政策委員就任。
1996年(平成8年) 3月:新官邸危機管理懇談会メンバーに就任。
4月:平成国際大学法学部政治学科非常勤講師に就任。

1997年(平成9年)8月:建設省河川審議会危機管理小委員会座長に就任。
1998年(平成10年)3月:人道目的地雷除去支援の会(JAHDS)理事に就任。
1999年(平成11年) 6月:東京都移転問題専門委員会委員に就任。
8月:ハイジャック対策懇談会座長に就任。

2002年(平成14年)7月:横浜市専門委員に就任。
2007年(平成19年)9月18日:NPO法人総合危機マネジメント協会の会長・理事に就任。
2018年(平成30年)10月10日、東京都内の病院で死去。87歳没。


系譜

戦国時代の武将・佐々成政[15]、それより下って時代劇『水戸黄門』で知られる助さんのモデルとなった佐々宗淳の兄・佐々勝朗を祖先に持つ。祖父に西南戦争で西郷軍に与し、後に済々黌の創立や衆議院議員を務めた佐々友房がいる。

政治学者で参議院議員の佐々弘雄を父に持ち、兄に朝日新聞記者で作家の佐々克明、姉に日本婦人有権者同盟代表で参議院議員の紀平悌子がいる[16]。寝具メーカー西川産業の代表取締役を務める西川康行は三男にあたる[17]。


エピソード

全共闘運動への対処にあたった佐々であるが、日大紛争の発端となった当時の大学当局の腐敗には義憤を感じており、秋田明大日大全共闘議長の演説に心を打たれることもあった[18]。

1973年にドバイ日航機ハイジャック事件が発生した際、犯人はハイジャック機を使ったイスラヘルへの「特攻」が目的であり、ドバイに駐機させられた日航機が再び飛び立てば乗客乗員の命はないとの分析が日本政府で主流を占める中で、前年に発生したルフトハンザ機615便ハイジャック事件(英語版)との類似性を見抜き、身代金要求の可能性を示唆した数少ない人物であった[19]。

土田・日石・ピース缶爆弾事件の犠牲となった土田國保警視庁警務部長の妻と死亡する十数分前に電話で会話していた(土田は佐々が就任した香港領事の先々代)[6]。

異名として、「事件を呼ぶ男[20]」「さすらいのガンマン[20]」「ダーティー・ハリー[20]」「縦社会を横に生きた男(小松万豊による)[20]」「血刀下げて裸馬に乗って単身敵陣に斬り込んでいく奴(後藤田正晴による)[21]」がある。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BD%90%E3%80%85%E6%B7%B3%E8%A1%8C
http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/296.html#c3

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