9. 中川隆[-7280] koaQ7Jey 2017年7月06日 22:14:48 : b5JdkWvGxs : DbsSfawrpEw[-8523]
セルゲイ・ゲンナジエヴィチ・ネチャーエフ
(ロシア語: Сергей Геннадиевич Нечаев、ラテン文字表記の例:Sergei Gennadiievich Nechaev、1847年10月2日 - 1882年11月21日
は、ロシアの革命家。ロシアのニヒリズム運動のオルガナイザー。
モスクワ郊外のイワノヴォ村に生まれる。父は貧しい労働者、母は解放農奴の娘。6歳で母を失う。1865年モスクワに移り、一年後の1866年サンクトペテルブルクに移る。独学で教師の試験に合格し、教区立学校で教え始めた。その傍らでネチャーエフは、サンクトペテルブルク大学の聴講生となり、ピョートル・トカチョフと共に学内少数派だった急進派に属し、1868年から1869年の学生運動に参加した。
ネチャーエフは、学生運動の革命化を図り、革命運動のプログラムを立案したが、それは、最終目標として1870年に社会革命を実現するというものであった。
1869年1月に自身が逮捕されたとの偽情報を流して、スイスに亡命する。
ジュネーヴでは、ペトロパヴロフスク要塞から脱獄した革命委員会の代表と僭称してバクーニンやニコライ・オガリョフに接近して信頼を得た。
さらにゲルツェンの強い反対にも関わらず、両者から資金を得ることに成功し、革命を煽動する文書を作成する。その中で一番著名なものは、1869年夏に著した『革命家のカテキズム(革命家の教理問答)』である[1]。
「革命家とは予め死刑を宣告された存在である」という言葉ではじまる『革命家のカテキズム』は革命のためのプログラムであり、秘密組織を作り、破壊活動を行なうための方法を示唆する内容を有していた[2]。
その主張は、革命という「目的は手段を正当化する」という原理で貫かれ、後に「革命のマキャベリズム」、「革命のイエズス主義」と称された。
1869年9月にモスクワに戻ったネチャーエフは、
「世界革命同盟(Vsemirnyi Revolyutsionnyi Soyus、Worldwide Revolutionary Union)」
という架空の団体のロシア代表部代表を名乗り、
「人民の裁き(Народная расправа、Narodnaya Rasprava、People's Reprisal)」
と呼ばれる秘密結社を作る。
しかし、組織内部には、相互不信による対立が渦巻くようになり、内ゲバが生じた。ネチャーエフは、構成員の一人でペトロフスキー農業大学(現在の名称はチミリャーゼフ農業大学)の学生であったイワン・イワノフを裏切り者と批判し、1869年11月21日にペトロフスキー農業大学で彼を殺害した。
11月末にネチャーエフは組織を作るためにサンクトペテルブルクに移る。
1869年12月中旬に警察当局は、イワノフ殺害事件の関係者の逮捕と秘密結社の一斉摘発を開始した。ネチャーエフは12月15日逮捕を免れ、再度スイスへ亡命したが、約300名が逮捕され、内87名が裁判の対象になった。
後にドストエフスキーは、この事件を契機に小説『悪霊』を執筆した。
亡命後ネチャーエフは再びバクーニンから資金援助を受けて、オガリョフと共に『コロコル(Kolokol)』誌、『人民の裁き』誌などを出版する。
『人民の裁き』2号に掲載されたネチャーエフの記事「将来の社会制度の基本(Главныеосновыбудущегообщественногостроя)」では彼自身の共産主義体制のビジョンを発表したが、後にマルクスとエンゲルスによって「バラック共産主義」と呼ばれた。
次第にネチャーエフは同志の間から信用を失うようになり、彼の第一インターナショナルにおける名前の乱用は、総会で公式に関係を断絶することを決議するに至った。
1870年夏には、理論の破廉恥さ、それまでの行動の原則のなさ、挑発的、策謀家的な点が批判され、バクーニンらの不信を買うに至った。
1870年9月ロンドンで雑誌の編集に当たるが、ロシアの官憲を逃れてパリ、次いでチューリヒに潜伏する。さらにカスパル・トゥルスキー(Caspar Turski)らポーランドのブランキ派に接触するが孤立し、1872年8月14日チューリヒで逮捕され、ロシア警察に身柄を引き渡された。1873年1月8日にイワノフ殺害の罪で懲役20年の判決を下された。
ペトロパヴロフスク要塞に収監されたネチャーエフは看守を説得し、1880年12月に「人民の意志」派との接触に成功した。さらに脱獄が計画されたが、1881年同派によるアレクサンドル2世暗殺事件により、革命運動に対する弾圧は強化され、さらに同じ囚人からの密告によりネチャーエフの脱獄計画も放棄された。
1882年11月21日に壊血病と水腫のため獄死した。35歳。
ネチャーエフはその勇気と革命運動における狂信的なまでの献身にもかかわらず、同志と組織を危険にさらすことによりロシアの革命運動に巨大な害毒をもたらしたとみなされている。
しかし、後にレーニンはネチャーエフの「目的は手段を正当化」する「革命のマキャベリズム」を評価し、結果としてレーニン及びボリシェヴィキの冷酷性に大きな悪影響をもたらしたと言える。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%BB%E3%83%AB%E3%82%B2%E3%82%A4%E3%83%BB%E3%83%8D%E3%83%81%E3%83%A3%E3%83%BC%E3%82%A8%E3%83%95
ネチャーエフ 伝記 2013-07-15
https://ameblo.jp/machidamachilda/entry-11573157120.html
https://ameblo.jp/machidamachilda/entry-11585544387.html
セルゲイ・ゲンナジエヴィッチ・ネチャーエフ。ロシアの革命家。オルガナイザーとある。
オルガナイザーとは上部組織から末端組織に派遣され、組合の加入や結成を働きかけ、弱体組織にあっては、その活動を援助する役割を持った人物を指す。
当時世間を席巻していたニヒリズムを究極の形で体現し、自己の理想とする革命の実現を追い求めたこのセルゲイ・ネチャーエフと言う名の革命家を知り、彼の生涯を調べようと思った動機として、ドフトエフスキーの小説「悪霊」を改めて読み返したこと、作中に登場するピョートル・ヴェルホヴェンスキーのモデルがネチャーエフであることを挙げておく。
冷めた鉄のように鈍く光り、多くの人間を自らの魅力の虜にしたセルゲイ・ネチャーエフは神秘的であり、狂乱を湛えた井戸の底にある暗い王国の国王である。彼は1847年10月2日に生まれた。父は貧しい労働者、母は農奴解放令によって解放された元農奴の娘である。彼の人生はほの暗い秘密と陰謀に彩られている。その魂に触れた者は夢中になって彼を信奉する。が、彼は自分の信者に対し、冷酷で無慈悲である。人を惹きつける魅力と,
革命実現の為に人命を軽んずる彼の思想は、<革命家のカテキズム>において顕著に表れている。それはおいおい記す。
まず当時のロシアの状況を知る必要がある。ナポレオンの軍隊を打ち破り、しばしフランスに駐屯したロシア陸軍の若い士官たちは帰国に際し、西洋の自由思想を故国に持ち帰った。自由主義は若者の胸に何を植え付けたのか。それは希望だったのか、自由への憧れだったのか。とにもかくにも彼らは帰国してすぐに「スラヴ連盟」と言う名の組織を結成する。これがロシアにおける初の革命秘密団体であると言われている。
スラヴ連盟は農奴解放を要求の一つにし、表向き慈善事業団体のような体裁を取りながら、ロアシのツァーリズム(帝政)打倒のための陰謀を着々と練っていたらしい。1825年12月に起こり、挫折した「デカブリストの反乱」は彼らの指導によって行われた。
革命と陰謀の時代、ツルゲーネフは小説「父と子」の中で初めてニヒリストと言う言葉を使う。
極端な否定を伴うこの思想はやがて絶望の行動主義を誕生させ、数多の若者をアナーキズムとテロリズムへと駆り立て、方程式の答えとして虚無を糧とした破壊衝動を導き出したのである。
1862年にはチェルヌイシュフスキーが中心となり「土地と自由}が組織され、1865年にはヨーロッパのあらゆる国王暗殺を自らの使命と任じた「オルガニザチャ」が学生たちによって設立された。「オルガザニチャ」の組織員の一人、カラコゾフは皇帝アレクサンドル2世暗殺未遂事件を引き起こした。これはロシアにおける最初の皇帝個人を標的としたテロ事件である。
こうした暗い時代、陰謀と暗殺が渦巻く革命のうねりの中でネチャーエフは育った。彼は貧しい家庭で育ち、独学で教師資格を取得する傍ら、ペテルブルク大学の聴講生になっていた。1868年大学紛争に加わり、学生運動の革命化を目指した。
その後、自らが投獄されたとの流言を流しスイスへと亡命する。この時、バクーニン、オガーリョフに接近し、革命運動のための資金を獲得するとともに前者と共同で革命を訴えるための宣伝文書をいくつか作成した。
その中でもとりわけ有名なものが「革命のマキアベリズム、革命のイエズス主義」と後世評された「革命のカテキズム」である。
「昼となく夜となく、革命家は一つの思想、一つの目的、すなわち容赦ない破壊のみを念頭に置かなければならない。・・・・革命家にとっては革命の決定的勝利に役立つものと言えばそれは革命道徳の完全なる遵守がすべてであり、革命成功を阻むものと言えばそれは、革命道徳背反及び、革命秩序に対するありとあらゆる犯罪である。」
「人民の利益となる革命形態は国家のあらゆるものを根絶し、国家の伝統、制度、階級を絶ち、後世に伝わることなきようにすること。これのみである。」
徹底した破壊の思想を己の魂に刻み、人間を蔑視し冷酷な革命指導者となるべく定めた規律の文書である。「革命家とはすでに刑を宣告された人物である。」ネチャーエフは友情も恋愛も独特も革命のためにすべて犠牲にした。いや、利用した。そして本来革命家とはそうあるべきであると説いた。この恐るべき「革命のカテキズム」についてはさらい言を費やしたいと思う。
黒光りする鉄の魂は、激動の時代に飲まれるままに人間味を失い、熱を奪われるままに冷たく輝こうとする。
《革命家とはすでに刑を宣告された人間である。》
刑の執行を待つ死刑囚のように、限られた人生を革命の実現の為に費やすネチャーエフはあらゆる人間味を犠牲にしながらニヒリズムを体現し、社会の価値を否定する。破壊のための破壊を遂行する者であった。
彼はあえて偽り、あえて裏切る。彼を批判する者は彼をして精神病者、あるいは詐欺師の類であると揶揄するが、彼が何を考え、何を理想として行動していたのかは、考えるに値する題目である。
ネチャーエフにとっての友情とは何か。革命の為に散れと命ずる人間の絆なのか。恋愛とは何か。飄々とした暗色の空に浮かぶ偽りのロマンチズムなのか。そして、道徳とは。それは恐らく安易な惰眠を貪る人間のために用意された固く冷たい寝具だったのかも知れない。
彼の生き方を考える上で、当時世間を席巻していたニヒリズムについて考える事は詩的で神秘的な趣を持つ。ここでニヒリズムと言う言葉が持つに至った哲学的、社会的な意義について書き記したい。
ニヒリズムはラテン語《ニヒルnihil(虚無)》の造語である。
既存のありとあらゆる価値あるモノ。宗教的、道徳的、社会的権威、社会的秩序とそのイデオロギーの前に冷然と立ちはだかる一つ目の巨人であり、絶対的な否定である。
価値を持つモノがあるからそれを否定する。それは無条件的であり、否定の先になにもありはしない。だからこそ虚無である。
この語が哲学的意義を持って記録に登場する一つの例は1799年F.H.ヤコビがフィヒテに宛てて送った公開書簡である。
この中でヤコビはフィヒテを観念論を指してニヒリズムであるとして非難している。
ヤコビが影響を受けた物の一つとして12世紀の神学者たちニヒリアズムが挙げられる。この一派の主張によるとキリストの人間性は偶有的なものにすぎず、《キリストは人間としてニヒルである》としている。
時代を下ってB.F.X vonバーダーの場合になるとニヒリズムはすでに哲学的な範囲を越え、教会権威による秩序を覆さんとする19世紀ヨーロッパ最大の危険思想として社会的な問題として認知されるに至っている。バーダーによればニヒリズムは近代的科学の無節操かつ際限のない発達が巻き起こした知と信の分裂ところにその根源があるとされている。
しかしニヒリズムという言葉が社会の中で一般的に認知されるに至った契機はツルゲーネフの小説『父と子』であるとされる。
この作品に登場する急進的インテリゲンチャ、バザーロフが彼の級友であるアルカージーによってニヒリストと呼ばれている。ここで言われているニヒリズムはロシアで発達した社会主義運動における反体制的立場として1855年のアレクサンドル2世の即位から70年ごろにかけて盛んであった。
現代思想においてもっとも重要かつ最も知られているニヒリズムに関するニーチェの思想であろう。ロシアのニヒリストが皇帝アレクサンドル2世を殺害し処刑された1881年、ニーチェは彼らをニヒリストと言う言葉で表現している。後の能動的ニヒリズムとなるものである。
またニーチェはドストエフスキーの『主婦』『虐げられた人々』『死の家の記録』『悪霊』などのフランス語訳を読み地下的かつ流刑者的生活者の力強い生命力や旺盛な行動力、そしてキリスト者の病的で陰鬱な心理について触れていたのである。
晩年のニーチェが考えたニヒリズムとはプラトンのイデア論以来、形而上学的な精神史を通じて人々が信じ込みあたかも真実であると仮定してきた最高の諸価値、特にキリスト的な道徳的諸価値が今やその有効性を失い、虚無的な存在と化してきている。これらは元々無価値であったものだが、人々はそれが真の実在であると信じ、そうした考えを基に自らの生活の営みを構築してきた。
今、その諸価値は根本から価値を有していなかったと暴露されつつあるが、人々はそれにも拘わらず新しい生活様式を考え出そうとせず、共同生活を構築してきた。ニーチェはその西洋の歴史が持つ倫理そのものこそニヒリズムであると考えた。
これまで目に見えない潜在的部分に潜んでいたニヒリズムの問題は今や表層的な問題となって人々の前に現れた。これがニーチェが見た現代の危機的状況である。
人々の共同生活はその根拠を失世界は権力を志向する意思が互いに相争う闘争の場であることが暴露された。ニーチェはこれを《神の死》と名付けた。
この危機的状況から逃げ出さず、これを徹底することで危機を超越しようと試みる《極端なニヒリズム》に彼の思想の核心があるとされている。
話をネチャーエフ自身に戻そう。彼の人間味を失った革命への衝動がどんなものか考えるために、彼の民衆への意見、理解の仕方を見てみよう。
《民衆が反抗の勇気を露わにする瞬間とは、彼らが受ける苦痛が限度を越えた瞬間である。だからこそ革命家は革命の遂行のために民衆が受けている苦痛をいささかも和らげてはならない。それよりはむしろこの苦痛を際限なく増加させ、ますます耐えがたいものになるよう力を尽くすべきである。》なんと恐ろしい人間蔑視の思想だろうか。命の尊厳性への配慮など微塵も感じられない。