韓国、慰安婦財団の解散を発表 ! 日本は、厳重抗議 ! 「合意履行を」
慰安婦・朝鮮人徴用の問題とは ?
(www.chunichi.co.jp:2018年11月22日より抜粋・転載)
中日新聞・朝刊:
韓国政府は、十一月二十一日、慰安婦問題を巡る、日韓合意に基づいて設立した「和解・癒やし財団」を、解散すると発表した。合意履行を求める、日本政府は、安倍晋三首相が、「日本は、約束を誠実に履行してきた。韓国には、責任ある対応を望みたい」と、厳重に抗議する意向を表明した。
河野太郎外相も「到底受け入れられない」と、合意の履行を求めた。
菅義偉(すがよしひで)官房長官は、記者会見で、十月の韓国大法院(最高裁)による、元徴用工訴訟判決に続き、韓国政府が、財団解散を発表したことに関して「日韓関係は、厳しい状況にある」と話した。
一方、長嶺安政駐韓大使の一時帰国など、対抗措置については、「北朝鮮に関する、高いレベルの意見交換、情報収集が、極めて重要だ」と、否定的な考えを示した。
韓国外務省は、声明で、「日韓合意の破棄や再協議は、求めない」と表明した。
「合意の根本的な趣旨と精神は、元慰安婦の名誉と尊厳の回復、傷を癒やすことで、日本が真摯(しんし)な姿勢で、努力することを期待する」とも述べた。
陳善美(チンソンミ)女性家族相は、「被害者中心主義の原則の下、さまざまな意見を聞いた結果、財団を解散する」との声明を出し、解散に向けた、法的手続きに入ると明らかにした。
手続きには、半年以上かかるとし、韓国政府は、その間に日本が拠出した、十億円の扱いを、日本側と協議したい意向である。
支給済みを差し引いた、約五億七千万円について、同省は、元慰安婦や支援団体の意見を聞いた上で、「合理的な方策をまとめる」としている。
菅官房長官は、残額について「返還を求める考えはない」とした上で、「日本政府の意向に反する形で、使用されないよう強く求める」と語った。
財団は、朴槿恵(パククネ)前政権時の日韓合意に基づき、韓国政府が、二〇一六年七月に設立。日本が拠出した、十億円から元慰安婦らに、現金を支給する事業を担った。
しかし、一部の元慰安婦や世論の反発を受け、政権交代後の二〇一七年末には、ほとんどの理事が辞職を表明した。活動は停止していた。文在寅政権は、「合意で慰安婦問題は解決できない」との立場で、今年七月には、日本が拠出した、十億円を、韓国政府予算で置き換える措置を決めた。
(ソウル・中村彰宏、妹尾聡太)
(参考資料)
T 慰安婦問題とは ?
(www.asahi.com:2014年8月5日05時00分より抜粋・転載)
朝日デジタル:慰安所と慰安婦
Q 慰安婦とは何か。
A 戦時中、日本軍の関与の下で作られた慰安所で、将兵の性の相手を強いられた女性。政府は1993年8月に河野洋平官房長官が発表した談話(河野談話)で「当時の軍の関与の下に多数の女性の名誉と尊厳を深く傷つけた問題」と指摘した。
Q どんな人々が慰安婦にされたのか。
A 日本本土(内地)の日本人のほか、日本の植民地だった朝鮮半島や台湾出身者も慰安婦にされた。日本軍の侵攻に伴い中国、フィリピン、ビルマ(現ミャンマー)、マレーシアなど各地で慰安所が作られ、現地女性も送り込まれた。
オランダの植民地だったインドネシアでは現地女性のほか、現地在住のオランダ人も慰安婦とされた。政府は38年、日本女性が慰安婦として中国へ渡る場合は「売春婦である21歳以上の者」を対象とするよう通達した。
21歳未満の女性や児童の人身売買や売春を禁じた「婦人及び児童の売買禁止条約」のためとみられる。ただ政府は25年に条約を批准した際、植民地を適用除外とした。このため植民地や占領地では売春婦でない未成年女子も対象となった。
朝鮮からは17歳、台湾からは14歳の少女が慰安婦とされたとの記録がある。
Q 何人くらいいたのか。
A 総数を示す公式記録はなく、研究者の推計しかない。現代史家の秦郁彦氏は93年に6万〜9万人と推計し、99年に2万人前後と修正。吉見義明・中央大教授(日本近現代史)は95年に5万〜20万人と推計し、最近は5万人以上と改めた。韓国や中国ではさらに多い数字をあげる人もいる。
Q 慰安所はいつ、どんな経緯で作られたのか。
A 満州事変の翌年、32年の上海事変で日本兵が中国人女性を強姦(ごうかん)する事件が起きたため、反日感情の高まりを防ぐためとして九州から軍人・軍属専用の慰安婦団を招いたとの記録がある。その後、性病蔓延(まんえん)による戦力低下や機密漏洩(ろうえい)の防止、軍人の慰安のためなどの理由が加わった。
Q どのようにして集められたのか。
A 多くの場合、軍の意向を受けた業者がまず日本国内で、さらに植民地の朝鮮や台湾で集めた。「仕事がある」とだまされたり、親に身売りされたりした場合も多いことがわかっている。
一方、フィリピンやインドネシアなど占領地では、日本軍が直接暴力的に連行したとの記録もある。フィリピン政府の2002年の報告書によると、同国で日本軍は、現地の女性を暴力的に拉致・連行して日本軍の兵営とされた教会や病院に監禁し、集団で強姦を続けた事例もあったという。
Q 慰安婦の暮らしは?
A アジア女性基金のサイトでは「(慰安所で)兵士は代金を直接間接に払っていたのはたしかですが、慰安婦にされた人々にどのように渡されていたかははっきりしません」と記す。
戦況や場所により処遇にばらつきもあったことが推定される。政府は93年、河野談話とあわせて調査結果を発表し「戦地では常時軍の管理下で軍とともに行動させられ、自由もない生活を強いられた」と説明している。
Q 慰安婦問題が国内で知られるようになった経緯は。
A 戦後まもない時期から兵士の体験談や手記で触れられていた。70年6月、作家の故千田夏光氏が週刊新潮で「慰安婦にさせられた」という女性や旧軍関係者の聞き取りを紹介。73年にルポ「従軍慰安婦」を刊行した。当時はまだ戦時下の秘史という扱いだった。
Q 日韓間の問題として認識されたいきさつは。
A 1990年1月、尹貞玉(ユンジョンオク)・梨花女子大教授が韓国ハンギョレ新聞に「挺身(ていしん)隊『怨念の足跡』取材記」の題で慰安婦問題の記事を連載。5月の盧泰愚(ノテウ)大統領訪日をきっかけに、植民地時代の朝鮮半島で日本の軍人・軍属とされた韓国人らから日本に謝罪と補償を求める声が高まった。
◆慰安婦問題の主な経緯(肩書は当時)
1991年:8月 韓国で元慰安婦が初めて名乗り出る
12月 元慰安婦が日本政府を提訴。政府が調査開始
1992年:1月 宮沢喜一首相が日韓首脳会談で謝罪
7月 政府が調査結果発表。政府の関与を認める
1993年:8月 河野洋平官房長官が談話で慰安婦の募集、移送、管理に強制性を認め「お詫(わ)びと反省」を表明(河野談話)
1994年:8月 村山富市首相が談話で慰安婦問題の解決策について「幅広い国民参加の道を探求したい」と表明
1995年:7月 政府主導で民間のアジア女性基金が発足。国民の寄付をもとに「償い金」を元慰安婦に支給するなどの「償い事業」を実施
2007年:3月 基金が解散
7月 米下院、慰安婦問題で対日謝罪要求決議を採択
2014年:6月 政府が河野談話作成過程の検証結果を公表
U 日本統治時代の朝鮮人徴用とは ?
(ウィキペディアより抜粋・転載)
◆朝鮮人徴用:
日本統治時代の朝鮮人徴用(にほんとうちじだいのちょうせんじんちょうよう)は、第二次世界大戦中の日本統治時代の朝鮮において日本が朝鮮人労務者を1944年9月[1]から労務動員したこと。
「強制連行」と表記されることもあるが、朝鮮人が日本国籍を持っていた「朝鮮系日本人」だった当時、戦時中の朝鮮人に対する動員(労務動員)や徴用を「強制連行」と表現することの妥当性については議論がある[2][3][4][5]。戦中の労務動員について朝鮮人労働者移入ともいわれる[6]。
戦後、戦時の朝鮮人徴用は歴史認識問題・歴史教科書問題、戦後補償問題として取り上げられてきた[7]。
◆概念・定義:
「強制連行#概念・定義」および「在日韓国・朝鮮人#徴用・強制連行と渡航」も参照
日本が動員・徴用、または斡旋した際に、集め方が強制的であったとして「強制連行」と呼ばれ始めたとされている[8][7]。
しかし、この「強制連行」という言葉には疑義が出されており、在日朝鮮人運動史研究家の金英達は、「定義が確立しておらず、ひとによってまちまちな受け止め方がなされている」「もともと、強制連行とは、『強制的に連行された』という記述的な用語である。
そして、強制や連行は、実質概念であり、程度概念である。その実質や程度について共通理解が確立されないまま、強制連行という言葉だけがひとり歩きして、あたかも特定の時代の特定の歴史現象をさししめす歴史用語であるかのように受けとめられていることに混乱の原因がある」と指摘している[2]。
◆戦時動員・労務動員との関連
金英達は、日本語の文脈で「強制連行」と記述する場合、ほとんどの場合は国家総動員法を制定した戦時体制下の大日本帝国政府が朝鮮半島で行った労務動員を指して使われる言葉となっていると指摘している[9]:32[3]:61。
金は、戦時中の朝鮮人の強制動員については「戦時動員」を使い、そのなかの具体的な暴力的なケースを「強制連行」とすることを提案している[2]。
また、鄭大均も朝鮮人の労務動員を「強制連行」と呼ぶのは、「日本人の加害者性や朝鮮人の被害者性を誇張しすぎている」として、当時の朝鮮人は大日本帝国の国民であり、日本人男性が戦場に送られていたのを代替するものとして朝鮮人の労務動員があったとしている[10]。
これらのほか、山田昭次立教大学名誉教授は1980年代には「朝鮮人強制連行」と論文で記していたが[11]、2005年の共著『朝鮮人戦時労働動員』(岩波書店)で「朝鮮人戦時労働動員」と呼ぶこととした[12]。
ただし、これは「強制連行」という言葉が攻撃されたからではなく、強制連行というと強制労働、民族差別の問題に目を向けなくなる恐れがあるためと述べている[13]。
山田は「戦時動員」には労働動員と軍事動員の二つがあり、同書ではこのうち軍事動員を除外した労働動員、それも日本内地に限定しこれを「朝鮮人戦時労働動員」と呼び、「強制連行・強制労働・民族差別」の三つの問題点を含めるとした[12][13]。
従軍慰安婦問題を含む一連の“強制連行”という言葉が広く紹介されるようになったのは朴慶植の著作である『朝鮮人強制連行の記録』(未来社1965)によってである。
的場光昭は自著『反日石碑テロとの闘い』(展転社)で、朴の著書において南方へ強制連行されたという人物について、北海道新聞が記事で紹介した総督府に残る資料と照合した結果、当該人物は干ばつによる飢饉を逃れて妻子とともにパラオに移住したことが判明したとして、実態は朴の著書にあるような昼夜分かたず官憲が男たちを狩り集めて連れ去ったという内容とは異なると述べている。