「12歳の時、4000元で売られた」28歳女性の告発
証拠不十分で立件されず…しかし、戦い続ける決意は固く
世界鑑測 北村豊の「中国・キタムラリポート」
2017年3月10日(金)
北村 豊
2月28日付の北京紙「新京報」は、『重慶市巫山(ふざん)県の“童養?”:12歳のあの年、私は4000元で売られた』と題する記事を報じた。“童養?”とは、「息子の嫁にするために、幼時に買ったり、もらったり、拾ったりして育てる女の子」を意味する。主人公の女性は1988年3月生まれだから、彼女が12歳になったのは2000年3月であり、その頃に彼女は4000元(約6万6000円)で売られて“童養?”にされたのだという。
監視8年、逃亡4回目で成功したが…
この“童養?”の話が報じられたのは今回が初めてではない。北京紙「京華時報」は、2016年5月26日に『【“童養?”エレジー】12歳で性的暴行を受け、14歳で娘を産んだ重慶市の女性、8年で逃亡4回』と題する記事で彼女の悲惨な人生を報じていた。その概要は以下の通り。
【1】重慶市の女性“馬?艶(ばはんえん)”は今年28歳。彼女の父親は母親と結婚後、彼女を含めて3人の娘をもうけた。その後、母親は夫の長期間にわたる家庭内暴力に耐え兼ね、1997年に鍬(くわ)で夫を殺害した。母親が警察に連行された後、村の幹部たちは馬家三姉妹の扱いを協議し、長女の“馬?珍(ばはんちん)”と次女の馬?艶は“伯父(父親の兄)”に引き取られ、三女の“馬?輝(ばはんき)”は“姑父(父親の姉妹の夫)”に引き取られた。一方、母親は精神分裂症を患っていたことが証明されて刑事責任を免れたが、ほどなくして家を出て行方知れずになった。
【2】伯父の家での生活が1年も続かないうちに、姉の馬?珍は13歳で嫁に出された。2000年、12歳になった馬?艶もまた29歳の“陳学生”という名の男に無理やり嫁がされた。馬?艶は陳学生に性的暴行を受け、警察に通報したが、警察は家庭内事件として取り合ってもくれなかった。陳学生は馬?艶を厳しく管理し、トイレに行くのさえも誰かに監視させて、彼女の逃亡を防ごうとする始末だった。2002年、馬?艶はわずか14歳で女児を産んだ。
【3】2002年、妹の馬?輝は12歳で“姑父”によって24歳の“羅品金”に嫁がされた。2005年、15歳の馬?輝は男児を出産した。2007年、19歳の馬?艶は男児を出産して二児の母親となった。2008年以前に馬?艶は陳学生の所から3回逃亡を試みたが、いずれも成功しなかった。
【4】2008年、馬?艶は妹の馬?輝が広東省へ出稼ぎに行っていることを聞くと、姉の馬?珍から1000元(約1万6500円)を借りて陳家を逃げ出し、南下して広東省へ向かった。馬?艶は陳学生に男児を産んでいたので、陳家も敢えて馬?艶を捜そうとはしなかった。馬?艶は妹の馬?輝一家と広東省で合流し、普通の“打工妹(若い女性の出稼ぎ労働者)”になったのだった。馬?艶は、「結婚も出産も強制されたもので、自分が望んだものではなかったから、自分が産んだ子供に対して親としての感情がそれほどあるわけではない」と述べた。
【5】2013年、馬?輝は湖北省の母親の実家がある地域の派出所経由で、失踪してから16年が経過した母親を探し出した。一方、8年間の出稼ぎ生活を送った馬?艶には求愛する者が少なからずいたが、この間に彼女は自分の婚姻について何らの手続きも行っていなかった。彼女にあるのは2011年に陳学生と結婚したことを示す「結婚登録」で、この記録のために新たな家庭を築くことはできなかった。
【6】2016年5月4日、馬?艶は重慶市の北東部に位置し、湖南省との省境に所在する巫山県の“巫山県人民法院(下級裁判所)”へ陳学生との離婚を求める訴訟を提起した。馬?艶はこれと同時に公安局に対し未成年であった自分を強姦したとして陳学生を告発した。これに対して公安局は強姦罪の訴追期間は10年間であり、すでに時効が成立しているため立件できないとした。また、離婚要求について、陳学生は馬?艶が子供の養育費として10万元(約165万円)を自分に支払わない限り離婚には応じないと述べた。
法的に禁止されたが、今も公然と
ところで、1949年の中華人民共和国の成立以前、すなわち中国共産党が言う解放前の旧中国では、“童養?”は特別な風習ではなく、社会一般で行われていた。“童養?”は、“待年?(何年か待って嫁)”あるいは“養?(養い嫁)”とも呼ばれ、”婆家(夫の家)”で赤ん坊あるいは幼時から育てられ、14〜15歳の女として生理的に十分な年齢に達したら息子と結婚させて家の嫁にするというものだった。この風習は旧中国で社会が貧困にあえぎ、貧しい庶民が嫁を娶る余裕がない時代に、人々が貧困な農村や被災地区に出かけて生活に苦しむ人々から女児を二束三文のカネで買い付ける、あるいは路傍に捨てられた女児を拾うなどして自宅に連れ帰り、家族の一員として育てた後に、息子の嫁にしたのである。そうした経緯から女児たちの扱いは奴隷同然であったケースも多く、常に虐待を受けていたという悲しい話が数多く伝えられている。
“清華大学”社会学部教授の“張小軍”が1996年に発表した論文『女性と宗族』によれば、福建省“南平市浦城県”にある“陽村”の資料には、1951年時点で陽村の女性人口1190人の中に“童養?”の既婚者が129人、未婚者が73人おり、“童養?”の比率は17%に達していたとある。同書によれば、1949年に中華人民共和国を成立させた中国共産党は“童養?”とされていた女性たちに「“回娘家(実家へ帰れ)”」と命じる指令を出すと同時に、法的に“童養?”を禁止したが、今なお福建省中南部の“蒲田市”周辺や重慶市の一部地域では依然として“童養?”が公然と行われているという。
さて、話は2月28日付で「新京報」が報じた馬?艶の記事に戻る。馬?艶は1988年3月10日に四川省巫山県<注1>の“双龍鎮金花村”に生まれた。父親を殺害した母親が精神分裂症で刑事責任を免れて失踪した後、馬?珍と馬?艶の姉妹は同じく金花村に住む伯父の“馬正松”に引き取られた。しかし、馬正松の家は彼の妻が精神病患者であるだけでなく、2人の老人を扶養していたから、ただでも貧しい生活は姉妹を引き取ったことでより困窮を深めた。当時、12歳の馬?珍と9歳の馬?艶は小学校を中退させられ、炊事、草刈り、柴刈り、豚の餌作りと、朝早くから夜遅くまでこき使われた。しかし、姉妹がどんなに働いても限度がある。そこで馬正松が生活防衛のために止むを得ず採った手段が姉妹を“童養?”を求める人たちに売り渡すことだった。それ以降の概要は以下の通り。
<注1> 巫山県は1997年に重慶市が四川省から分かれて直轄市になった際に、重慶市に区分けされた。
売られ、襲われ、知らぬ間に「既婚」に
(1)1998年、13歳の馬?珍は馬正松によりちびで貧乏な30歳の男の家に“童養?”として2500元(約4万1000円)で売られた。2000年末、12歳となっていた馬?艶が柴刈りから戻ると、貧相で体格が悪い陳学生という29歳の男が馬正松の家を訪れていた。その時、馬正松は陳学生に馬?艶を16歳だと言って紹介した。これを聞いた馬?艶は馬正松に「私は12歳よ」と強く反発したが、馬正松に「両親がいないので、お前は自分の年齢も分からないのか」と叱り付けられた。これは自分を陳学生に嫁がせようとしていると察知した馬?艶は、金花村の幹部に「まだ嫁に行きたくない」と訴えたが、返って来たのは「父は死亡し、母は精神異常なのに、お前は伯父に一生面倒をかけるのか」という言葉だった。
(2)2000年12月、馬?艶はトラックに乗せられて陳学生が住む同じ双龍鎮の“烏龍(うりゅう)村”へ連れて行かれた。この日、同行したのは馬正松ほか親戚一同で、陳学生の家では宴を張って馬家の一行をもてなし、両家は馬?艶を陳家の“童養?”とし、後に陳学生の妻とすることで合意し、陳家は馬正松に4000元(約6万6000円)を支払った。2001年の正月に馬?艶は烏龍村の陳家へ迎え入れられた。1月24日の“春節(旧正月)”が過ぎると、陳学生は馬?艶を帯同して福建省へ出稼ぎに出た。
(3)出稼ぎ先で陳学生と1室での同居を余儀なくされた馬?艶は肉体関係を強要され、強く拒否したが強姦された。その日は馬?艶の13歳の誕生日だった。その日、馬?艶は陳学生から逃亡を図ったが、強引に連れ戻された。馬?艶の逃亡を防ぐため、陳学生は出稼ぎを止め、彼女を連れて故郷の烏龍村へ戻った。2001年4月、叔母に伴われて公安局の“双龍鎮派出所”へ出向いた馬?艶は、陳学生を強姦罪で告発すると同時に、“双龍鎮衛生院(診療所)”で検査を受けた。しかし、診療所の検査結果を示しても派出所の警察官は家庭内の事として真面目に取り合おうとせず、事件として立件することもなかった。
(4)2002年10月26日、馬?艶は自宅で3日間も難産で苦しみ、母体が危険と考えた人々は医院へ搬送すべきだと提案したが、陳学生の父親は「カネのかかる医院には行かせない」と反対した。最終的にはその日、馬?艶は女児を出産したが、陳学生の父親は「女の子か」と落胆した様子を見せただけだった。2007年に19歳の馬?艶は医院で男児を産んだが、生まれた子供に愛情を感じず、何度も子供を捨てようとして看護師に阻止された。2人目の子供が生まれた後、馬?艶は陳学生に連れられて双龍鎮派出所へ行き、身分証明書の手続きを行った。この時、手続きに必要だとして写真屋で陳学生と並んだ写真を撮ったが、それが唯一2人で一緒に撮った写真だった。
(5)後に、陳学生はこの2人で一緒に撮った写真を使って婚姻申請を行い、2011年に陳学生と馬?艶の結婚は認可され、2人の写真が張られた結婚証明書が発行された。これによって、馬?艶は名実共に陳学生の妻となり、戸籍簿上も、陳学生が“戸主(世帯主)”となり、馬?艶の欄には「既婚」と明記された。しかし、馬?艶は婚姻申請について何も知らされておらず、彼女が知らぬ間に結婚させられ、自分が既婚者になっていたのを知ったのは、それからずっと後の事だった。
告発事案はいずれも立件されず
(6)2008年、馬?艶は最後の逃亡を敢行した。彼女は身分証を持って陳家から逃げ出し、巫山県の県庁所在地で店員として2か月間働き、1000元(約1万6500円)を稼いだ。彼女はこのカネで子供の粉ミルクや衣類を買い、密かに烏龍村へ戻るとそれらの品物を陳家の門口に置くと、陳家を後にして広東省へ逃げ延びた。その後、陳学生は馬?艶を捜そうとせず、馬?艶は自分が陳家に2人の子供を産んでやったので、彼女の役目は終わったと考えた。
(7)広東省“深?市”で働いていた馬?艶は、同僚から自力で不幸から抜け出すべきだと激励され、自分の人生をもてあそんだ人々に復讐することを決意する。2015年4月5日の“清明節(墓参りをする節句)”前に、馬?艶は陳学生に対し離婚を要求する旨の通知を行い、2016年5月4日に巫山県人民法院へ陳学生との離婚を求める訴訟を提起した。同年6月3日、巫山県人民法院は『“民事調解書(民事調停書)”』を発行し、同法院の調停の下で、馬?艶と陳学生の離婚が成立し、馬?艶は“浄身出戸(丸裸で家を出る)”形で自由の身となった。今や、馬家の三姉妹は全員が離婚している。
(8)2017年2月19日、馬?艶と妹の馬?輝は出稼ぎ先の広東省から故郷の巫山県へ戻った。今回の帰郷で2人は彼女たちに“童養?”となることを強制し、望みもしない男の子供を産ませた人々の責任を追及する積りだった。当然ながら、一部の地元民にとって馬?艶は歓迎されない人物であった。昨年、馬?艶の境遇がメディアによって報じられると、ある人は彼女が巫山県の恥をさらけ出したと非難したのだった。5日後の2月24日、“巫山県人民政府”は、馬?艶に関連する状況について声明を発表して次のように述べた。すなわち、いわゆる「巫山県童養?事件」の中で、馬?艶が告発した強姦罪、不法監禁、派出所への通報はいずれも立件されておらず、証拠は全て不十分である。しかし、馬?艶の結婚証明は手続き違反であり、当地“民政局”の局員を“党内厳重警告処分(中国共産党員に対する厳重警告処分)”とした。
(9)結婚証明の手続き違反とは、2007年10月に陳学生が地元の民生局に結婚申請を行った際、担当した民生局局員の“劉忠輝”(すでに退職)は馬?艶の年齢が法定年齢<注2>に達していないことを発見し、提出された申請書類を保留とした。ところが、2008年1月25日に劉忠輝は保留としていた申請書類を思い出し、陳学生も馬?艶も不在で、両者の署名がなく、両者の有効な身分証明書の提示がないにもかかわらず、独断で婚姻手続きを行った。結婚登録はそれから3年後の2011年に承認されたのだが、劉忠輝の行為は『婚姻登記条例』の規定に違反したものだった。2016年8月8日、劉忠輝は“巫山県紀律検査委員会”によって“党内厳重警告処分”を受けたのだった。
<注2>中国の法定結婚年齢は、男22歳、女20歳となっている。
(10)巫山県人民政府の声明に対して馬?艶は、絶対受け入れることができないとして、「上部機関に対し訴えを継続し、徹底的に戦う」と公言した。2月27日に記者が“巫山県公安局”刑事警察大隊の“胡錦平”に電話を入れて話を聞いたところ、同氏は政府の声明が出されたから事件は終結ということではなく、我々は現在も調査を継続しているが、何分にも古いことなので証拠固めが難しい」と述べた。
(11)なお、この事件が全国に報じられる前に、馬?艶は巫山県の報道関係者に協力を要請したが、彼はこれを婉曲に断ったという。記者がこの人物にその理由を尋ねると、彼は「当地では12〜14歳で結婚するのは普通のことで、それは馬?艶1人に止まらず、1000人以上に上るはずだ。自分の姉も15歳で結婚したし、中学時代の同級生は30歳の時にすでに15歳の子供がいた。従い、当地の農民の多くは今回のことを事件とは思っていない」と答えた。
徹底的に戦い続ける決意
上述した馬?艶の“童養?”事件はメディアにより全国に報じられて大きな話題となった。陳学生との離婚が認められて、新たな人生を歩み始めた馬?艶は自分の好きな人と結婚をして子供を産むことを夢見ている。しかし、彼女は自分の幸せだけでなく、自分と同様に“童養?”として幼くして結婚・出産している人たちをその不幸な境遇から救出するためにも、上部機関に対する訴えを継続して、徹底的に戦う決意を固めているのである。
“童養?”はかつて中国全土で普遍的に行われていた。中国を代表する作家“魯迅”(1881〜1936年)の小説『祝福』の主人公“祥林嫂(祥林ねえさん)”は“童養?”であったし、著名な女流作家“冰心”(1900〜1999年)の小説『最後的安息』の主人公“翠児”も“童養?”であった。今なお福建省や重慶市の一部地域で“童養?”が公然と行われている事実を考えると、急速な経済発展を遂げた中国の陰で生きる貧困な農民たちの存在が見え隠れするように思える。伯父の馬正松も多少なりとも生活に余裕があれば、馬?珍と馬?艶の姉妹を“童養?”として他家へ売り渡すことはなかったのではないだろうか。“童養?”が中国から消滅する日はいつ来るのか。その日が少しでも早く到来することを期待したい。
このコラムについて
世界鑑測 北村豊の「中国・キタムラリポート」
日中両国が本当の意味で交流するには、両国民が相互理解を深めることが先決である。ところが、日本のメディアの中国に関する報道は、「陰陽」の「陽」ばかりが強調され、「陰」がほとんど報道されない。真の中国を理解するために、「褒めるべきは褒め、批判すべきは批判す」という視点に立って、中国国内の実態をリポートする。
http://business.nikkeibp.co.jp/atcl/opinion/15/101059/030800091
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