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肝話窮題 isyYYouHkeg コメント履歴 No: 100004
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[政治・選挙・NHK265] 安倍再改造内閣始動 辺野古移設強行の布陣だ

 小手先の人事で顔ぶれを変えても、高圧的な政権の体質は隠しようがない。

 第4次安倍再改造内閣が始動した。閣僚19人のうち17人が交代した。しかし政権発足以来、安倍晋三首相とともに内閣の中枢にとどまってきた麻生太郎副総理兼財務相、菅義偉官房長官は留任した。

 菅氏は沖縄基地負担軽減担当として沖縄の基地問題や振興ににらみを利かせてきた。新基地建設に反対する県政に冷淡な態度を取り、県民投票で辺野古埋め立て反対が7割を超えても「移設を進める考えに変わりはない」と述べ、民意を無視し続けている。

 麻生氏に至っては暴言、失言の数々を繰り返してきた。森友学園を巡る決裁文書改ざんという重大な事態が起きても辞任しなかった。

 民主的な手続きの軽視や身内への甘さなど、安倍一強と言われる長期政権にあぐらをかいたおごりが目に余る。

 特に今回は「お友達」の重用があからさまだ。

 靖国神社参拝などさまざまな面で安倍首相と思想信条を共にする側近議員で固めた布陣からは、改憲への強い意欲がうかがえる。閣僚に忠誠心を競わせ、悲願とする「戦後レジームからの脱却」へ突き進む腹積もりだろう。

 最たる人事が外相から横滑りで防衛相に就いた河野太郎氏だ。自民党内で日米地位協定の改定に意欲を示しながら、閣内に入った途端に持論を一切封印した。県が取り組む地位協定の国際比較に対して「一部を取り出して比較をすることには意味がない」とまで断じた。

 さらには会見で記者の質問に答えず「次の質問どうぞ」と繰り返すなど、相手を選んだ高飛車な態度が目立つ。

 元徴用工訴訟問題を巡っては駐日韓国大使を呼び出した上で「極めて無礼だ」と発言するなど、外交相手国への礼を失した態度を見せた。

 戦後最悪といわれるまで日韓関係が悪化したのは、河野氏の言動も大きく影響している。引き続き防衛相として起用することで日韓関係の改善は遠のき、東アジア情勢をさらに複雑にしかねない。

 強硬姿勢が顕著な河野氏を防衛相に据えたことは、何が何でも辺野古新基地建設を強行するという安倍政権の強い意志の表れと見ていい。離島住民の反対が強い南西諸島への自衛隊配備を巡っても、周辺地域との緊張を高めることもいとわず突き進むようでは危険だ。

 防衛省は地上配備型迎撃システム「イージス・アショア」の配備計画を巡り、秋田県でも結論ありきの対応で住民の反発を招いた。河野氏が高飛車な態度に出るならば、一層混迷を深めるだろう。

 新内閣の発足に対し玉城デニー知事は「真摯(しんし)に要請を重ねていく」と語った。対話の求めに内閣全体としてどのような態度を示すのか。沖縄との向き合い方をしっかりと見ていきたい。


琉球新報社説 2019年9月13日
https://ryukyushimpo.jp/editorial/entry-988820.html
http://www.asyura2.com/19/senkyo265/msg/511.html

[政治・選挙・NHK265] 「山高きが故に貴からず」「アベ長きが故に大きな迷惑」(澤藤統一郎の憲法日記) 

9月8日深夜から9日未明に、台風15号が関東を直撃した。週明けの9日(月)には首都圏一円の交通機関混乱一色の報道となり、10日以後本日(9月12日)に至るも、千葉の大規模停電と断水が大きな話題となっている。

第4次安倍再改造内閣は、このような時期を見計らったように発足した。慌てふためいて首相自ら災害地に飛んで見せ、組閣を遅らせるなどというパフォーマンスも不要とする政権の傲慢ぶりを見せつけてのことである。「何をしようが、内閣の支持率は下がらない」。そう、国民は完全に舐められている。国民は、そんな内閣の存続を許してきたのだ。

昨年(2019年)の「赤坂自民亭」事件を思い出す。7月5日夜、熊本が未曾有の水害に襲われたその最中に、安倍晋三以下の与党首脳がこぞって,赤坂の議員宿舎で酒盛りをしていたというあの事件。世人がこれを知ったのは、西村康稔なる自民党議員(当時官房副長官)がツイッターで赤い顔の安倍晋三以下のスナップをネットにアップしてのことである。言わば、証拠写真の社会への提供。その西村が、今度は経済再生担当大臣である。

さて、今回の組閣ならびに党役員人事に関して、昨日(9月11日)の首相記者会見冒頭のコメントでこう発言した。

    内政、外交にわたる各般の挑戦を進め、令和の時代の新しい日本を
   切り開いていく。そして、その先にあるのは、自民党立党以来の悲願
   である憲法改正への挑戦です。いずれも困難な挑戦ばかりであります
   が、必ずや、成し遂げていく。そう決意しています。

 「内政、外交にわたる各般の挑戦を進め、令和の時代の新しい日本を切り開いていく」は、この人らしい、まったくの無内容。要は、「自民党立党以来の悲願である憲法改正への挑戦」「困難な挑戦でありますが、必ずや、成し遂げていく。そう決意しています」とだけ言いたいのだ。

幹事社質問に対する彼の回答が次のとおりである。

   「さきの参議院選挙では、常に私は、この選挙において、しっかりと
   憲法の議論を進めていくのか、あるいは議論すらしないのか。それを
   決めていただく選挙ですとずっと訴えてまいりました。その結果、私
   どもは国民の信を得ることができたと思いますし、最近の世論調査に
   おいても、議論はしなければいけないという回答が多数を占めている
   というふうに承知をしております。正に議論は行うべきというのが国
   民の声なんだろうと考えています。

 そうではなかろう。自民党は9議席を減らしたではないか。自民党が改憲についての国民の信を得るこことができたとの強弁は見苦しい。また、共同通信社が8月17、18両日に実施した全国電話世論調査によると、安倍首相の下での改憲に反対が52・2%と、賛成の35・5%を大きく上回っている。
さらに、最近のNHK世論調査でも次の結果が出ている。
 安倍総理大臣は、9月11日に内閣改造を行います。新しい内閣が最も力を入れて取り組むべきだと思うことを、6つの選択肢をあげて聞いたところ、
 「社会保障」が28%で最も多く、次いで、
 「景気対策」が20%、
 「財政再建」が15%、
 「外交・安全保障」と、
 「格差の是正」が11%、
 「憲法改正」が5%でした。
「正に議論は行うべきというのが国民の声」も、牽強付会と言うほかはない。

選挙でお約束したことを実行に移していくことが政治の責任であり、自民党としては本日発足をした新しい体制の下で憲法改正に向けた議論を力強く推進していく考えであります。それは党四役を含め、自民党の役員あるいは自民党の議員共通の考え方だと考えています。

約束とは当事者双方の意思の合致をいう。自民党が、「改憲をお約束した」と一方的に言っても、国民の側が改憲を依頼した覚えはない。成立していない「約束」を実行に移していくことは政治の責任ではない。自分だけがやりたいことを勝手にやらせていただくと駄々をこねているだけのこと。

 なお、質問には、「党の憲法改正推進本部長にはどのような人物を起用するお考えなのでしょうか。」があったが、これには答えない。完全スルーだ。質問者も、重ねての質問をしない。これでは困ったものだ。

令和の時代にふさわしい憲法改正原案の策定に向かって、衆参両院の第一党である自民党、今後、憲法審査会において強いリーダーシップを発揮していくべきだろうと、私は考えております。

 安倍くん、今キミは首相として記者会見をしている。お分かりかね。キミは、憲法99条によって、憲法の尊重擁護義務を負っている身だ。それが、勝手に国民の声を僭称して改憲の議論を進めようとは、なんたること。少しは、自分の立場を弁えたまえ。

自民党は、既に憲法改正のためのたたき台を示しています。このたたき台については、既に党大会で承認をされた党としての意思となっていると思いますが、立憲民主党を始め、野党各党においても、それぞれの案を持ち寄って憲法審査会の場で憲法のあるべき姿について、与野党の枠を超えて活発な、国民が注視している、注目をしているわけでありますから、その期待に応えるような議論をしてもらいたいなと期待をしています。
また、国民投票法の改正案については、憲法審査会の場で、与野党でしっかりと議論していただきたいと期待をしていますが、同時に、憲法改正の、先ほど申し上げましたように、中身についても議論をしていくことが、やはり国民の皆様に求められているのではないかと、このように思います。」

 「自分の方は、憲法改正案のたたき台を作った」「だから、あなたも作るのが当然」だという、何と身勝手な世間には通用しない議論。何を焦っているのやら。

安倍首相は2019年11月には在職期間が戦前の桂太郎を超え、歴代一位となる見込みだという。東京新聞社説は、これを「長きをもって貴しとせず」といい、「国民やその代表たる国会と謙虚に向き合い、政治の信頼を回復する。そんなまっとうな政治姿勢こそ安倍政権には求められている」と結んでいる。まことにそのとおり。

 安倍晋三ほどに尊敬されざる政治家も少ない。政治の私物化、行政の私物化、ウソとゴマカシ、食言、歴史修正主義、オトモダチ優遇,上から目線、トランプ追随、詐欺的演説でのオリンピック誘致…。これほどの批判、非難にかかわらず、永らえてきたことの不思議。もう、いい加減に終止符を打ちたい。

たまたま手許に、映画『記憶にございません!』のチラシがある。チラシのトップに、「この男に任せて」
「あなたは、第127代内閣総理大臣 国民からは、史上最悪のダメ総理と呼ばれています。総理の記憶喪失は、トップシークレット、我々だけの秘密です」

もちろん架空の設定だが、「史上最悪のダメ総理」は大いに現実とかぶるところ。まことに「アベ長きがゆえに迷惑」ではないか。
(2019年9月12日)

http://article9.jp/wordpress/?p=13322
http://www.asyura2.com/19/senkyo265/msg/512.html

[政治・選挙・NHK265] 「超右翼内閣」と旭日旗(レイバーネット)
Last modified on 2019-09-12 18:37:19

昨日安倍首相は第4次改造内閣を発足させた。
ここでは多くを語らないが、
すでに多くの所から「超右翼内閣」(日本会議内閣)
という批判が起きているように、今回の内閣は明らかに
 @「9条改憲」を強行するため
 A韓国敵視政策を強行するため
の内閣である。
  
それと並行して起きている、
東京五輪に旭日旗を認めるという組織委員会の方針(9月3日)は、
きわめて密接に関係している。
これは、韓国国会の文化体育観光委員会が
旭日旗の競技会場への持ち込み禁止措置を組織委などに
求める決議を採択したことを受けたもので、
それに対し「旭日旗は日本国内で広く使用されており、
旗の掲示そのものが政治的宣伝とはならないと考えており、
持ち込み禁止品とすることは想定していない」との方針を明らかにした。
  
国内のサッカーリーグでさえ禁止されている旭日旗を
平和の祭典・五輪に持ち込み可というのだ。
   
するとネット上などでは、
「当たり前の決定。嫌なら参加するな。」
「当然!思いっきり振りかざしましょう!
 日本人の誇り」
「大朗報!さあ「韓国さ〜ん」のために空港、駅、街々に旭日旗おもてなし。
オリンピックでは堂々と旭日旗で応援しよう!」
などのコメントが飛び交うようになっている。
  
世界の常識を知らない東京五輪組織委員会は、
とんでもない決定をしたものである。
  
また、喜んでいる人たちも、
旭日旗が自分たちを再び悲劇に追い込むものだ
という事を知らずに踊らされて喜んでいる。
  
東京五輪で「旭日旗」が乱舞するようなことにでもなれば、
東南アジアや世界の人々は、
かつての「日本帝国主義」が復活したと見るようになるだろう。
  
東京五輪に「旭日旗」が許されたことは、
多くの人々が危惧していたように、
東京五輪はナチス・ベルリンオリンピックの「再現」を
もくろむものであることを内外に明らかにしたのである。
  
日本の人々は、東南アジア・世界の人々と連帯して、
「日本帝国主義」の復活を夢想する
安倍政権を倒さなければならない。
  
  
http://www.labornetjp.org/news/2019/1568281039216staff01

http://www.asyura2.com/19/senkyo265/msg/513.html

[政治・選挙・NHK265] 東京五輪の正体露呈した「旭日旗使用許可」(アリの一言) 
2019年09月14日
     

 「東京五輪・パラリンピック組織委員会」(委員長・森喜朗元首相=写真中央)が、競技会場への旭日旗の持ち込みを禁止しない(許可する)と決定(3日)し、菅偉義官房長官がそれを追認・擁護した(12日)ことは、安倍晋三首相や森元首相ら歴史修正主義者の本性をむき出しにしたものであると同時に、安倍政権が強行する「東京五輪」の正体を露呈したものと言えます。

https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/63/f6/3f7bc047c8b1bc0221e4d38dec9cc7d4.jpg

 この問題では韓国国会の文化観光委員会が、旭日旗の持ち込みを禁止する措置を東京五輪組織委に求める決議を採択(8月29日)していました。決議は旭日旗について「日本が帝国主義と軍国主義の象徴として使用した」ものであると指摘し、「侵略と戦争の象徴である旭日旗が競技場に持ち込まれ、応援の道具として使われることがないよう求める」としていました。

 これに対し組織委員会は、「旭日旗は日本国内で広く使用されており、旗の掲示そのものが政治的宣伝とはならないと考えており、持ち込み禁止とすることは想定していない」(5日付琉球新報=共同電)として韓国国会委員会の申し入れを一蹴しました。

 旭日旗が「日本国内で広く使用されている」とは驚いた言い分です。日本国内でも旭日旗を使っているのは、せいぜい陸・海自衛隊と右翼くらいです。森氏や安倍氏にはこれらの団体が大きく見えるとしても、それを一般化するのは無理な話です。

 そもそも旭日旗とは何かを改めて確認しておく必要があります。

 「海外侵略の走りであった台湾出兵(1874年)や江華島事件(1875年)でも、『日の丸』(旭日旗―引用者)は日本の力の『誇示』に使われています。…日清戦争から日露戦争、台湾割譲、南樺太割譲、そして韓国併合。日本はアジアへの膨張を進めていきますが、その先頭にはいつも『日の丸』がありました。…昭和天皇を大元帥に頂いた日本の『日の丸』は1937年7月『盧溝橋事件』を口実に、日中戦争に突入すると、またたく間に北京を占領。12月には南京を占領して『南京虐殺事件』を引き起こします。この南京城に立てた『日の丸』は虐殺のシンボルともなっています」(佐藤文明著『「日の丸」「君が代」「元号」考』緑風出版)(写真中は日露戦争の宣伝物=ソウルの植民地歴史博物館展示)

 だから韓国のハンギョレ新聞は、昨年10月、韓国主催の国際観艦式に自衛隊が旭日旗を掲げて参加しようとした際、次のような社説を掲載しました。

 「1870年に日本陸軍が最初に使った旭日旗は、日本が太平洋戦争を起こしてアジア各国を侵略する際に全面に掲げた旗だ。それ自体が日本軍国主義の好戦性を象徴している。韓国や中国など周辺国が旭日旗掲揚に反発するのもこのような理由からだ。それでも海上自衛隊は16本の光の筋が描かれた旭日旗を、陸上自衛隊は8本の筋の旭日旗を使ってきた。『侵略国家』『戦犯国家』という事実を否定する処置だ。(中略)国際社会は旭日旗に固執する自衛隊と平和憲法改正を公言した安倍晋三総理を見つめて、日本の軍国主義復活を憂慮している。日本が真に平和を望むならば、自ら旭日旗を降ろすべきである」(2018年10月2日付ハンギョレ新聞社説)

https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/66/31/7ec639c1eb249c1e081b69f9d3eeb8be.jpg
https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/3c/9f/8a46f311a62527fb567a048acc7d57fe.jpg

 韓国国会の「禁止要求」をあえて拒否し、競技場への持ち込みを公認した組織委・安倍政権の意図が、侵略戦争・植民地支配の歴史を否定するとともに、旭日旗をシンボルとする自衛隊のアピールにあることは明白です。

 それが9条への自衛隊明記を目論む安倍改憲策動と一体であることも言うまでもありません。

 安倍首相は「東京五輪」をこうした改憲策動へ向けた国際的アピールに利用しようとしているのです。それが天皇徳仁のお披露目の場でもあることも無関係ではありません。天皇と自衛隊を一体化させて改憲へ弾みをつける。それが「安倍・東京五輪」の狙いです。

 「旭日旗許可」はけっして韓国との外交問題ではありません。日本の侵略戦争・植民地支配責任にどう向き合うかという日本人自身の問題です。

https://blog.goo.ne.jp/satoru-kihara
http://www.asyura2.com/19/senkyo265/msg/531.html

[政治・選挙・NHK265] 「表現の不自由展・その後」の経過が教えるもの(澤藤統一郎の憲法日記) 
 
「表現の不自由展・その後」と銘打った企画展は、展示の機会を奪われた経歴を持つ16点の作品に、奪われた展示の機会を回復させようというコンセプトでのプロジェクトであって、それ以上のものでも以下のものでもない。日本軍「慰安婦」を連想させる「平和の少女像」や、昭和天皇を含む肖像群が燃える映像作品などが話題となったが、展示された作品群が統一された主張をもっているわけではなく、また当然のことながら、企画展の主催者がその作品のもつ政治的主張に賛同したわけでもない。飽くまで、その作品から奪われた展示の機会を回復することを通じて、近時の表現の自由のあり方についての問題提起を試みたものである。 
  
展示の機会を奪われたという経歴をもつ作品は、いずれも何らかの意味で、権力や権威、あるいは社会の多数派から疎まれ嫌われる存在なのではあろう。そのような作品であればこそ、失われた展示の機会が与えられて然るべきだとするコンセプトは、表現の自由を重んじる民主主義社会の理念によく適合したものというべきであろう。
  
ところが、この展示を敵視する側は、表現の自由一般ではなく、飽くまで個別の作品がもつ具体的な政治性に反応して攻撃する。たとえば、河村たかし名古屋市長は、「日本国民の心を踏みにじる行為であり許されない」として展示の中止を求めた。
  
企画展主催者は、表現の内容を問題することなく、多数派から排除された表現に展示の機会を回復した。これに対して、河村市長は、もっぱら表現の内容を問題とし、「日本国民の心を踏みにじるもの」などと主張したのだ。一方に、「日本国民大多数が歓迎しない表現だから展示を中止せよ」という意見があり、他方に「多数派から排斥される表現であればこそ展示の機会を与えることに意義がある」とする見解があって、議論が噛み合わぬまま対立している。
  
このような基本構造をもった問題が生じ、幾つかのフレーズ(下の※印)が、大手を振ってまかり通っているの感がある。これに反論(☆印)を試みたい。

※ 公共団体が一方的な政治的意見の表明に手を貸すべきではない。

☆「愛知県が今回の展示で一方的な政治的意見に手を貸した」というのは、誤解ないし曲解というべきでしょう。「表現の不自由展・その後」がしたことは、民主主義の土台である表現の自由が侵害されている深刻な事態を可視化して、これでよいのかと世に問うたということにほかなりません。民主主義成立のための土台の整備という事業は、公共団体がするにふさわしいものというべきです。

☆表現の自由の保障は憲法上の基本的価値なのですから、自由になされた多様な表現の共存が望ましいありかたです。ところが、現実には、「発表を妨害された表現」が少なくないのです。これでよいのか、民主主義社会のあるべき姿に照らして再考すべきではないのか。その問題提起が「表現の不自由展・その後」にほかなりません。公共団体が「発表を妨害された表現」を展示して、多様な表現の共存を回復することは、公共団体のもつ公共性に適合することではないでしょうか。

※ 少なくとも両論併記しないと、公共性が保てない。

☆「両論」という言葉遣いが、「『表現の不自由展・その後』が特定の立場の政治的見解を発信しようとしている」という前提に立つもので、誤解あるいは曲解のあることを指摘せざるを得ません。
 「特定の意見」の表明と、「表現一般の自由を保障せよという意見」の表明とを、ことさらに混同してはなりません。「表現の不自由展・その後」は、「特定の意見」を表明するものでも、特定意見に与するものでもなく、「特定の意見」の表現妨害例を紹介することで「表現一般の自由を保障せよ」と意見表明したものです。特定意見の内容に与しているのではありませんから、両論を併記せよという、批判ないし要望は的を射たものにはなっていません。

☆もしかしたら、「両論併記」要望は、こういう意見ではないでしょうか。
 「この展示は、『表現一般の自由擁護』という名目で、実質的に『国策と国民多数派の意見を批判する表現』の肩を持つことになっているではないか」「公共機関としては、国策に反する意見の肩をもつべきではない」「百歩譲っても、国策側の意見も明記しておかねばならない」。とすれば、実はこの意見は危険なものを含んでいるといわねばなりません。
 この場合の「両論」とは、「国策とそれを支える多数派の意見」と、「国策を批判する社会の小数派の意見」の対立を意味しています。考慮すべきは、この「両論」間の圧倒的な力量格差です。歴史の知恵は、民主主義の成立要件として、「少数意見の尊重」と「多数派の寛容」を求めてきました。
 妨害され排斥されて表現の場を奪われてきた「国策に反する意見」「少数派の意見」に、表現の機会を確保して少数派の意見を紹介することは、「国策」「多数派の意見」を否定することではなく、国民に選択肢を提示して議論の素材を提供するものとして、公共性の高いことというべきなのです。

※ どうして、大切な公共の税金を反日的なものに使うのか。

☆「反日」というレッテル貼りは、かつての「非国民」「売国奴」「スパイ」と同様、議論の展開を閉ざしてしまうものとして、危険な言葉と指摘せざるを得ません。
 国策や多数派の意見に反し、国民に心地よくない意見が、実は長い目では高次の国民の利益に適うものであったことは歴史上いくらもあったことで、近視眼的に「税金を『反日的』な目的に使うな」と拳を振り上げるべきではありません。

☆表現の自由は、より良い民主主義社会を形成するために不可欠なもので、意見の正否は、国民的な議論の場の中で国民自身が判断することになります。その議論の場を作るための税金の投入は、税金本来の使い方として、適切なものというべきです。「表現の不自由展・その後」のコンセプトはそのようなもので、税金本来の使い方から逸脱するものとは考えられません。

☆よく引用されるとおり、公共図書館の蔵書が好例です。税金で様々な立場の書籍が、揃えられていますが、図書館が特定の書物の見解に与するものではありません。「図書館が税金で、『反日』の本を買って怪しからん」というのは民主主義を理解しない滑稽な意見です。名古屋市長の意見は、公共図書館の蔵書の中の特定のものを「焚書」せよ、と言っているに等しいものというほかはありません。

☆かつては、「地動説」も「種の起源」も少数派の意見であり、政治弾圧も受けました。税金を投入しているから、権力や多数派の承認しない表現は受け付けない、では人類の進歩に逆行することになりかねません。

※ 「反日」と言えないまでも、結局は特定の政治的意見表明らしきものに税金を使うことに納得しがたい。

☆「表現の不自由・その後」の展示は、表現の自由保障というベーシックな民主主義的価値の現状についての訴えであり、そのことを通じての民主主義の環境整備です。仮に、作品がもつ固有の「政治性」を個人的な不愉快と考えても、その展示の公共性・公益性に照らして、受忍していただくしかありません。

☆国や自治体が税金を投入することで、特定の意見に国民を誘導することは禁じ手です。国民が正確な議論と選択ができるよう、民主主義の環境を整えることが、国や自治体のなすべきことです。「反日と言えないまでも、政治的表明らしきもの」は公的な場から追放すべきだという考え方は、結局「国策に適う多数派意見」だけを、公的な場で公費を使って表現させることになります。そのような、国策への意見の統一を望ましいとすることこそが、民主主義に反する危険な意見なのです。

※ 公共団体の一方的な政治的意見の表明で,たくさんの国民が傷ついている。

☆表現の自由の保障は、人を傷つける表現を想定してこれを許容しています。むしろ、誰をも傷つけることない、誰にとっても心地よい表現は、その自由を保障する意味がありません。

☆「平和の少女像」が訴えている日本軍「慰安婦」問題ですが、旧日本軍が組織的に慰安所を設置し、これを管理し運営したことは、厳然たる歴史上の事実です。強制性も否定することができません。日本人の心が傷つくとして、この議論に蓋をすることこそ、韓中蘭など多くの国の国民を傷つける行為ではありませんか。

☆表現が人を傷つけるのではなく、歴史的事実が人を傷つけているのです。傷ついても、苦しくても、知らねばならない歴史の真実というものがあります。これに蓋をするのではなく、向かい合ってこそ、再びの過ちを繰り返さないことができることになります。

※ こんなに反対の多い企画は,そもそもやってはならない。

☆この展示は、表現の自由侵害の現状を世に問うた立派な企画として評価しなければなりません。この企画の展示内容だけでなく、この企画への社会の対応も、今の社会が民主主義の理念から逸脱して危険な現状にあることをまざまざと示すものとなりました。この展示の企画よりは、この企画を妨害してやめさせたことの責任の方がはるかに大きいのものと考えなければなりません。
 企画に賛否の意見があることは当然としても、「ガソリンをまく」など、明らかな脅迫を手段とする威力業務妨害の犯罪行為には、毅然と対処しなければなりません。批判されるべきは、暴力的に展示を妨害した犯罪者らと、これを煽った政治家たちです。とりわけ、河村たかし名古屋市長の責任は重大です。

☆賛成が多く、反対が少ない企画だけが、許されるとすれば、「国策に沿うもの」「現政権に忖度しているもの」「社会の多数派の意見に迎合するもの」だけの展示になります。それは、少数派の意見も尊重されるべきとする表現の自由の理念から、けっして許されません。

☆また、今後の教訓とすべきは、一部勢力の表現の自由に対する組織的な妨害があることを想定しての対応だと思います。主催者は、電話の発信元を確認しすべて録音する、暴力的な電話やファクスは即時公表し、警察に告訴する。事前に、このような心構えをスタッフが共有しておくこと…などでしょうか。今の時代、表現の自由を守るには、相応の覚悟が必要となっています。本件は、そのことを教えています。

(2019年9月13日)

http://article9.jp/wordpress/?p=13324
http://www.asyura2.com/19/senkyo265/msg/532.html

[政治・選挙・NHK265] 一日も早い、「表現の不自由展」展示再開の仮処分命令を(澤藤統一郎の憲法日記) 

どうして、もっと大きなニュースにならないのだろうか。昨日、中止になっていた「表現の不自由展・その後」の展示再開を求める仮処分命令が名古屋地裁に申立てられた。中止になったのは、愛知県で開催中の国際芸術祭「あいちトリエンナーレ2019」の一部門としての企画展であり、過去に公的な施設から、表現の機会を奪われた16点の作品群の展示であるという。その再開を求める仮処分命令申立。表現の自由に関わる大事件に、ようやく司法が関わることになったのだ。申し立てた側は、記者会見で展示中止を「民主主義の決定的な危機」と訴えたという。もっと、メディアの関心が高くて然るべきであろう。

まだ、詳細な報告に接していないが、概要は次のごとくである。

 債権者(仮処分の申立人をこういう。ヘンな業界用語)は、この企画展の「実行委員会」と報道されているが、実行委員会を構成している5名の個人が共同して債権者になっているものと思われる。

 債務者(仮処分申立の相手方のこと)は、展覧会を主催する国際芸術祭実行委員会。

 申立の趣旨(求める仮処分命令の内容)は、「中止となっている企画展の各作品の展示を再開せよ」というものなのだろう。もちろん、もう少し、展示再開のための実効的で具体的な作為命令を求めているものと思われる。たとえば、展示再開にともなって当然に予想される右翼勢力からの妨害行為への対応策として必要な具体的施策なども内容とされているだろうが、詳細は把握していない。

一般に仮処分命令認容の可否に関しての最大の問題点は、被保全権利(債権者が債務者に対して有する請求権)の構成であるが、本件においてはさしたる困難はなかろう。本件の債権者は債務者に対して、作品展示に関する契約上の債権として、所定の期間中作品を安全に観客に展覧せしむる請求権を有していると考えられるからである。報道では、申立書は文化芸術基本法などに基づいた構成になっているというが、裁判所はそんな難しいことには踏み入らず、手堅く骨組みだけでの認定をするだろう。

債務者の側は、心ない右翼勢力の妨害から展示作品を守り、一般の鑑賞者に安全に鑑賞してもらうよう万全を尽くす義務を負っている。これは自明なことなのだ。

この債権者の主張に対して、債務者の側から一応はこの被保全債務の存在を否定する主張がなされることになるだろう。契約締結時とは事情が変って当該義務の履行が不可能な事態となっている、具体的には安全に展示を行う環境が喪失されている、という主張である。しかし、裁判所がこんな主張を認めるとは到底考えられない。

万が一にも、こんな債務者の主張を裁判所が認めるとすれば、表現の自由は死滅する。展覧会に対する脅迫で表現の自由を屈服させてはならない。それこそ、文明国にあるまじき、恥ずべき野蛮国家(≒ヘイト蔓延国家)への堕落である。当然のこととして、予想される混乱に対しては、展覧会主催者は、なし得る最大限の防衛策を講じなければならない。

この局面での法的問題はけっして複雑なものではない。民意がこのような展示に賛成しているか否か。あるいはその賛否それぞれ合理性があるかは、いま問題にはならない。この件の法的争点は、愛知県が最大限の防衛策を講じてもなお、展示会続行が不可能と言えるか否かという,この一点に絞られる。

いうまでもなく、「威力を用いて人の業務を妨害すること」は威力業務妨害罪を構成する犯罪である。直接の有形力を行使して展示を妨害することはもとより、電話・メール・ファクスでの害悪の告知の一切が犯罪である。会場で大声を発することさえも、犯罪たりうる。

犯罪から、市民社会の平穏を守るのが、警察の役割である。愛知県警は、表現の自由擁護のために、誠実に盡力しなければならない。

意見は多様であってよい。嫌韓の立場から、国粋の立場から、このような展示には反対という不寛容な意見もあるだろう。そのような意見の表明にも自由は保障されている。しかし、意見の表明の域を超えて、有形力を行使し、あるいは脅迫的な言辞で展示を妨害しようとすることは、犯罪として許されることではない。ことここに至っては、警察も徹底した検挙に乗り出すに違いない。右翼諸君は、このことを肝に銘じるべきである。

なお、この国際芸術祭「あいちトリエンナーレ2019」の会期は10月14日までである。企画展再開の機会はそれまでである。再開のために万全の準備も必要であろう。ぜひ、再開実現に間に合うよう、素早い仮処分命令が発せられるよう期待したい。平穏に行われていた展示が、明らかな犯罪行為と権力の圧力で中止に追い込まれたのだ。再開なくしては民主的社会の秩序が成り立ち得ない。

なお、やや気になる報道がある。申し立て後に記者会見した不自由展の実行委のメンバーらは「芸術祭実行委が対話に応じないので申し立てた。司法の力で展示期限内に再開したい」「芸術祭の実行委は話し合いに応じると言いながら、実際の協議は何も進んでいない。表現の自由を回復させるために裁判所に申し立てることを決めた」と述べたという。

展示再開の仮処分命令が発せられた後に、企画展の実施を担当するのは、県の職員ということになる。妨害からの防衛策に万全を期すべきは当然としても、それぞれの担当職員に,使命感や士気が望まれる。芸術祭実行委員会会長を務める大村秀章・愛知県知事のリーダーシップに期待したい。
(2019年9月14日)

http://article9.jp/wordpress/?p=13327
http://www.asyura2.com/19/senkyo265/msg/538.html

[原発・フッ素51] 福島原発処理水 長期保管の可能性探れ

 東京電力福島第1原発にたまり続ける処理済みの汚染水をどうするのか、判断が迫られている。

 敷地にはタンクが林立し、保管中の水は7月末時点で約110万トン。東電は2020年末までに137万トン分のタンク容量を確保する計画だが、それ以降は未定だ。

 東電は先ごろ、タンクでの保管は22年夏ごろ満杯になるとの試算をまとめた。大型化などで保管容量を増やすのは困難だという。

 原子力規制委員会は薄めての海洋放出が合理的との考えだ。試算には、放出決定を国に促す姿勢がにじむ。

 処理水が増え続けているのは、溶融核燃料を冷却する注水や、流入する地下水が次々と汚染されていくからだ。

 処理水の処分方法は政府の小委員会で検討し、地元など関係者との調整を踏まえて国が基本方針を決める。

 試算だと3年後に限界が来る。規制委の更田豊志委員長は「処分方法が決まったとしても準備に少なくとも2年はかかる。意思決定の期限が近づいていると認識してほしい」と希釈しての海洋放出を改めて求めた。

 しかし、漁業関係者は反対姿勢を強める。当然だろう。事故によって甚大な被害を受け、抑制的な操業を余儀なくされている。

 政府小委員会は8月の会合で、漁業関係者からの求めが多かった長期保管を初めて正式議題に取り上げた。

 放射性物質で汚染された地下水は除去設備で浄化される。ただ、トリチウム(三重水素)だけは取り除くことができない。

 この物質は運転中の原発でも生じ、放射線の影響が少ないとして世界で放出が認められている。しかし、たとえ生物への影響がないとしても、風評被害の懸念がある。耐え続けてきた漁業者の苦労が水泡に帰しかねない。

 処理水には韓国も目を向ける。日本に対して海洋放出計画の有無など事実関係の確認を要求。政府は、現時点では具体的な結論が出ていないと回答した。

 韓国は原発事故に関し、本県産を含め8県産の水産物の輸入を禁止。世界貿易機関(WTO)がその措置を容認しているだけに、処理水の行方は気になるところだ。

 可能な限り長期保管の道を探るべきだ。その場合、自然に放射線量が減るのを待つことになろう。原発敷地外での場所確保は本当に難しいのか政府は精査すべきだ。

 仮に海洋放出すると判断するなら、漁業者に対する国の全面的なバックアップの約束が不可欠だ。これまでの汚染水漏れや公表の遅れで信頼感を欠いている東電と漁業者の関係構築も大前提になる。


岩手日報社説 2019.09.15
https://www.iwate-np.co.jp/article/2019/9/15/64534
http://www.asyura2.com/19/genpatu51/msg/888.html

[政治・選挙・NHK265] ノモンハンの教訓 「顔」がない組織の不条理

 作家の村上春樹さんの長編小説「ねじまき鳥クロニクル」はノモンハン事件が題材だ。

 1939年、旧満州とモンゴルの境界を巡り旧日本軍の関東軍と旧ソ連・モンゴル軍が凄惨な戦いを繰り広げた局地戦争である。

 村上さんは40代前半、滞在していた米プリンストン大学の図書館で事件の本を読み込んだ。日本から2千キロも離れた大草原の戦場跡に足を運んでもいる。

 その体験と事件へのこだわりを紀行文「ノモンハンの鉄の墓場」に書いている。戦後日本の平和な「民主国家」も<表面を一皮むけば、そこにはやはり以前と同じような密閉された国家組織なり理念なりが脈々と息づいているのではあるまいか>と。

<曖昧な責任と決定>

 39年4月。関東軍は「満『ソ』国境紛争処理要綱」に基づく作戦命令を出した。

 要綱は作戦参謀の辻政信少佐が起案した。紛争が起きた場合、武力行使でソ連軍の出ばなをくじき越境しての攻撃もいとわない。国境が不明確な地域では現地司令官が国境を認定できる―。越権行為をも辞さない強硬策だった。

 内部には慎重な意見もあった。だが参謀には辻が兄のように慕う服部卓四郎中佐ら気脈を通じた人物が多く、異論を押し切った。

 紛争不拡大の方針だった東京の陸軍参謀本部は曖昧な態度に終始した。関東軍の作戦日誌には統帥が機能していなかったことを物語る記載がある。要綱には参謀本部から正式な指示や意見はなく「個人的に」2人の参謀から同意を得ただけだったというのだ。

 責任や経緯が不明確なまま重大な意思決定がなされた。

 日本側はハルハ河を国境と主張しソ連側はその東側にあると譲らない。6月、ハルハ河を越えたモンゴルの小部隊を日本側が撃退。関東軍は部隊を派遣、ソ連も正規軍を投入し衝突が拡大する。

 日本側は当初、戦いを優勢に進めた。だが戦力は歩兵が中心で明治時代の銃器を使っていた。ソ連軍は多数の戦車を動員。近代化した装備が威力を発揮した。

 さらにソ連はシベリア鉄道などを使い軍事力を欧州からノモンハンに大規模移動させていた。

 情報は在ソ日本大使館付武官が関東軍と東京の参謀本部に報告した。しかし関東軍参謀はソ連軍撃退に燃えているところに水を差す消極論と退けた。参謀本部も関心を示さず危機感は乏しかった。

 8月20日、ソ連軍の総攻撃が始まる。ソ連は23日にはドイツと不可侵条約を締結。ヒトラーの脅威をひとまず払拭したスターリンはこの戦いに傾注した。

 9月16日、停戦協定が成立。死傷者は双方合わせて約4万人に上った。国境線はソ連側の主張が通り日本は事実上敗北した。

 <日本軍はその先入観に合致するよう現実を歪曲する傾向があった。それに反する証拠は受け入れなかった>。戦後、旧日本軍人約400人をインタビューして大著「ノモンハン」を書いたアルビン・クックス(米国)の指摘だ。

<教訓学ばず破滅へ>

 上司に諌言したゆえに処分を受けたり、敗北の責任を問われ自決に追い込まれたりしたのは、死地をくぐり抜けた現場の連隊長だ。本来なら独善的な判断で兵士を犠牲にした参謀こそ厳しく処断されるべきだった。懲罰的な人事は行われたが、陸軍エリートの辻や服部らはほとぼりが冷めると大本営参謀に昇格した。

 陸軍省の研究委員会は翌40年に報告書をまとめた。最大の教訓は低水準の火力戦能力の向上と指摘しつつ「国軍伝統の精神威力をますます拡充する」としている。

 補給など兵たんや情報の軽視、根拠なき希望的観測、精神主義の偏重…。学ぶべき教訓に背を向けたまま日本軍は太平洋戦争に突入し日本を破滅させた。

 村上さんは紀行文「ノモンハンの鉄の墓場」をこう締めくくっている。僕らがそこで発見するのは僕ら自身じゃないのか、と。そして「忘れないこと」の大切さを語りかけている。

 福島原発事故で東京電力は大津波に襲われる可能性を示す子会社の試算結果を受けながら対策をとらなかった。原発を推進した国は誰も責任を取らないまま再稼働や原発輸出政策を進めている。

 「顔」がない責任の曖昧な組織の不条理はこれに限らず身近にもあろう。向き合うのは私たち自身を鏡に映すことでもある。

(9月15日)


信濃毎日新聞コラム「あすへのとびら」 2019年9月15日
https://www.shinmai.co.jp/news/nagano/20190915/KT190914ETI090006000.php
http://www.asyura2.com/19/senkyo265/msg/557.html

[政治・選挙・NHK265] 民主党政権10年 「遺産」生かし対抗軸を 
 
 10年前のきょう、民主、社民、国民新の3党連立による鳩山由紀夫内閣が発足した。総選挙で野党第1党が単独で過半数を得て政権が交代したのは戦後初めてだった。民主党政権は3年3カ月で幕を閉じたが、有権者に選択肢を示し、政治に緊張感をもたらす政権交代そのものの意義を忘れてはなるまい。

 2009年8月の衆院選は、投票率が69%に達し、民主党が308議席を獲得して圧勝した。しかし、期待は間もなく、失望に変わる。官僚を排除した政治主導は空回りし、米軍普天間飛行場の移設問題で迷走した鳩山内閣は、自身や党幹部の政治資金疑惑もあり、わずか9カ月で崩壊した。

 その後、菅直人氏、野田佳彦氏と首相が次々と代わるなか、東日本大震災と原発事故への対応に追われ、最後はマニフェストになかった消費増税の決断で党分裂に至った。

 一連の混迷の反動で政治に安定を求める民意が、今の「安倍1強」を支えている側面は否定できない。民主党政権の「失敗」のツケは大きいと言わざるをえないが、安倍首相が繰り返す「悪夢」という決めつけは一方的過ぎる。民主党政権が目指し、成し遂げたものを冷静、公平に評価しなければならない。

 例えば、社会全体で子どもを育てるという理念に基づいた、子ども手当や高校教育の無償化は、形を変えて安倍政権に引き継がれている。事業仕分けは行政事業レビューに衣替えして続く。民主党政権が看板に掲げた「全世代型社会保障」は、発足したばかりの改造内閣の最重要課題ではないか。

 一方、核持ち込みなどの日米密約の検証は、自民党政権下では難しく、政権交代あったればこその成果だろう。原発事故の後、エネルギー政策の意思決定に民意を取り込もうと、市民に討論してもらいながら意見の変化をみる「討論型世論調査」を実施し、原発ゼロ政策につなげた。これも自民党政権の発想にはなかったものだ。

 「市民が主役」を掲げて結党した民主党の政策体系の基本には、「お任せ民主主義」から「参加型民主主義」への転換があった。鳩山首相の最初の所信表明演説では、行政だけではなく、市民や企業など、地域の様々な主体が支え合う「新しい公共」の考え方が打ち出された。

 政権の挫折は、こうした理念が間違っていたことを意味しない。民主党の流れをくむ立憲民主党や国民民主党は、かつての政権運営の「遺産」を生かし、自分たちの理念を実現するための政策を磨きあげる必要がある。それこそが巨大与党に対抗する一歩となるはずだ。


朝日新聞社説 2019年9月16日
https://www.asahi.com/articles/DA3S14179017.html?iref=comtop_shasetsu_01
http://www.asyura2.com/19/senkyo265/msg/580.html

[政治・選挙・NHK265] 「政権交代」10年 野党は教訓糧に再建を 
 
 2009年9月、鳩山由紀夫氏を首相とする民主党政権が発足した。きょうで10年となる。

 「政権交代可能な二大政党制」を目指した衆院の小選挙区制導入から、5回目の選挙だった。

 戦後初の選挙による政権交代に国民は大きな期待を寄せたが、民主党政権は混乱と迷走の末に3年余りで崩壊する。明暗いずれの歩みも政治史に刻印されよう。

 現在、旧民主党勢力は立憲民主党と国民民主党に割れている。野党が「多弱」を脱し、再び政権を取る展望は開けていない。

 しかし与野党が競い合い、政権交代が起こり得るとの緊張感を欠いた政治は、議会制民主主義の衰退につながる。国会を軽視する安倍政権の下では、なおさらだ。

 再び政権を託すに足ると国民に期待される姿を追求する。その努力を野党は怠ってはならない。

 「政治主導」に固執して官僚を排除する稚拙な行政運営など、民主党政権失敗の要因はさまざまに検証されてきたが、政策の方向性自体は否定されるものではない。

 「子育てを社会で担う」との理念に基づき、子ども手当や高校無償化など現役世代への支援を手厚くする手法は、安倍政権も幼児教育無償化で取り入れている。

 核持ち込みなど日米間の密約を認定したのも、自民党政権ではできなかったことだろう。

 肝心なのは過去の分析と反省に基づき、国民の信頼を取り戻す野党再建の道筋を示すことである。

 立憲、国民両党は臨時国会から統一会派を組むことで合意した。

 両党は政権の経験を共有していながら分裂の遺恨を引きずり、主導権争いを続けた。党内抗争に明け暮れた与党時代から何を学んだのかと言わざるを得なかった。

 内向きを脱し、まずは安倍政権の隠蔽体質を厳しくただす論戦の力を強化する必要がある。しっかり使命を果たしてもらいたい。

 2年以内に衆院選が行われる。自民党に取って代わる意思が野党にあるなら、本格的な政権構想の策定が急がれる。特に結集の軸となるべき野党第1党の立憲の姿勢が問われるが、動きが鈍い。

 政権構想では、どのような国を目指すのかの理念や連立の枠組みに加え、政策の優先順位、実現までの財源や手順も示すべきだ。

 財源の裏付けを欠いたマニフェストで失敗した教訓を踏まえるなら、欠かせない要素である。

 選挙が近づいてから付け焼き刃の議論を始めても、説得力のある骨太の内容は打ち出せまい。


北海道新聞社説 2019年9月16日
https://www.hokkaido-np.co.jp/article/345068?rct=c_editorial
http://www.asyura2.com/19/senkyo265/msg/581.html

[政治・選挙・NHK265] 安倍改造内閣は天皇制強化シフト(アリの一言) 
2019年09月16日
     

 台風15号の被害をしり目に安倍晋三首相が11日行った内閣改造(第4次安倍再改造内閣)は、改憲シフトと言われていますが、もう1つの側面を見落とすことはできません。それは、今回の改造が天皇制の強化を目論む天皇制シフトだということです。

 なかでも7年間首相補佐官として安倍氏を裏で支え、安倍氏のブレーンともいわれる衛藤晨一氏が初入閣(沖縄・北方、1憶総活躍相)したことは重要な意味をもっています。

 安倍首相が思想的・政策的に強い影響を受けているのが右翼改憲組織の日本会議ですが、衛藤氏はその中心人物です(写真左・安倍氏の後ろが衛藤氏。写真中は玉城沖縄県知事と会談する衛藤氏)。

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 新内閣で安倍氏を含む19人の自民党閣僚のうち、「日本会議国会議員懇談会(日本会議議連)」のメンバーは15人(79%)。「神道政治連盟国会議員懇談会(神道議連)」メンバーは17人(89%)にのぼります(俵義文著『日本会議の全貌』掲載表から集計)。

 閣僚以外でも、新たに自民党幹事長代行に起用された稲田朋美氏、選対委員長の下村博文は両議連の中心メンバーです。

 なかでも衛藤氏は別格です。衛藤氏は日本会議議連で長年幹事長を務め、同議連の中心になってきました。日本会議(1997年5月30日結成)の前身は「日本を守る会」と「日本を守る国民会議」ですが、「日本を守る会」の中心は、「生長の家」の青年行動組織・日本青年協議会(日青協)でした。衛藤氏はもともと「生長の家」の出身で、日青協の結成(1970年11月3日)当時からの中心メンバー。他には椛島有三(現日本会議事務総長)、松村俊明(同事務局長)、百地章(同政策委員)の各氏らが同期のメンバーでした。日青協結成当初の委員長が衛藤氏で、書記長が椛島氏(故・村上正邦氏の証言。青木理著『日本会議の正体』平凡社新書より)。二人は文字通り両輪となって日青協、日本会議を牽引してきました。

 日本会議が改憲団体であることは周知の事実ですが、同時に強烈な皇国史観にもとづく天皇制賛美団体であることを見落とすことはできません。

 日本会議は「設立宣言」で、「有史以来未曾有の敗戦に際会するも、天皇を国民統合の中心と仰ぐ国柄はいささかも揺らぐことなく…発展した」と広言。「元号法制化の実現、昭和天皇御在位60年や今上陛下の御在位などの皇室のご慶事をお祝いする奉祝運動、教育の正常化や歴史教科書の編纂事業…自衛隊PKO活動への支援…新憲法の提唱など…力強い国民運動を全国において展開」(「日本会議とは」)してきたと誇示しています(写真右は「天皇奉祝運動」の一例)。

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 衛藤氏が昨年8月6日、首相補佐官でありながら、百地章氏らとともに、新元号は次期天皇(徳仁)が公布すべきだと菅官房長官に申し入れたことは記憶に新しいところです。「背景には、新元号の閣議決定前に新天皇の内諾である『聴許』を得るべきだとの考え方がある」(2018年8月7日付朝日新聞)と報じられました。

 「聴許」とは天皇が政府(首相)から報告を受けた政治事項に許可を与えることで、天皇の政治関与を禁じた現行憲法に反することは明白です。衛藤氏は首相補佐官でありながら、天皇の憲法違反行為を公然と要求したのです。

 その衛藤氏を、これまでの裏方から表舞台に出したことは、安倍首相が9条改悪とともに、「天皇元首化」(自民党改憲草案第1条)など日本会議が要求する天皇制強化へ向け新たな動きを図ろうとしているものと言えるでしょう。

https://blog.goo.ne.jp/satoru-kihara
http://www.asyura2.com/19/senkyo265/msg/582.html

[政治・選挙・NHK265] 中期症候に入った日本のファシズム化 
2019年 9月 16日
<加藤哲郎(かとうてつろう):一橋大学名誉教授>


2019.9.15

 「人権の軽視」 台風15号による千葉県や新島の被害は、深刻です。家屋や田畑が破壊され、電気が通ぜず、水道もエアコンも使えず、電話もスマホも不通。一人暮らしの老人に助けも届かず、孤独死が増えそうです。商店ばかりか、病院も学校も開けず。今月27日まで電気が復旧できない地域も。多くの人のいのちとくらしが、内閣改造イベントの裏側で、見捨てられました。
東電は、福島第一原発事故後の経営再建を電柱・配電維持費等のコストダウンで進めてきて、電柱の倒壊や倒木による復旧工事の要員不足でお手上げ、政府も千葉県も、当初対策本部さえ作りませんでした。台風後の首相や政治家の対応を追うと、 この国の政治が、いかに人命と人権をおろそかにし、老人やこどものくらしに無関心であったかがわかります。

 「団結のための敵国づくり」 安倍首相は、プーチン大統領との27回目の会談を終えたところで、首都圏直撃台風に遭遇しました。「ウラジミール」への最大限のおべっかを使ったにもかかわらず、北方領土問題では全く進展できず、ロシア側はスターリン時代にまで立論を遡る、醜態外交でした。対米・対中外交もうまくいかず、「外交の安倍」を演出するには、隣国韓国を「約束を守らない」「無礼」な敵国に仕立て上げ、徴用工請求権問題・慰安婦問題から経済制裁・安全保障にまでエスカレートして、反韓・嫌韓世論を煽り続けました。
台風下での組閣では、「無礼」な外相を防衛大臣に横滑りさせ、FTA交渉と余剰とうもろこし買付で対米忠誠度を示した前経済再生相を外相に、「対韓最強タッグ」となるとか。かつての植民地、朝鮮半島の民族統一への流れを阻止するために、戦後の歴史教育では未だに払拭できない宗主国感覚・差別意識を掘り起こし、侵略の象徴「旭日旗」を国際舞台でも復活させる算段です。

 「マスメディアのコントロール」 そうした排外ナショナリズム高揚=嫌韓世論づくりを演出したのは、内閣府と首相官邸でした。この夏の日本における韓国バッシング報道は、戦時大本営発表にいたる内務省・司法省の思想統制を想起させる、新聞雑誌・テレビ・インターネット総動員体制でした。
その総元締めであった「影の総理」今井首相秘書官は留任し、「官邸のアイヒマン」北村内閣情報官は国家安全保障局(NSS)の局長へと上り詰めました。
ジャーナリズムの魂をほとんど喪失したテレビ・メディアは、千葉県や新島の甚大災害報道には役立たず、韓国バッシングから内閣改造の目玉・環境相の芸能ニュース風追っかけに終始しました。首相に近いメディア幹部が定期的に「裸の王様」と会食し、政府批判の報道が次々とスポイルされ消えていきます。国境なき記者団が毎年発表する「言論の自由度ランキング」で、2019年は日本はG7最下位の67位、この夏日本のメディアが嗤いとばした韓国は41位でアジア最高、「あいちトリエンナーレ2019」の「表現の不自由展・その後」展示中止で、この国の言論の自由度は、世界に嗤われ軽蔑されるものとなりました。

 「身びいきの横行と腐敗」 おまけに内閣に入ったのは、ご存じ日本会議系「オトモダチ」と、派閥推薦の待機組。韓国法相任命の「身体検査」を面白おかしく報じてきたのに、とっくに解任されるべきだった財務相は留任で、日本会議国会議員懇談会幹事長がなぜか「一億総活躍担当」大臣で沖縄・北方領土担当を兼任、文部科学大臣は、かのモリカケ問題で名を馳せた教育勅語信奉者、セクハラ・パワハラからヘイトスピーチ、「反社会的勢力」がらみの金銭スキャンダル関係者まで、まともな大臣を見つけるのに苦労する腐敗と差別主義者のオンパレードです。
そういえば、首相自身が昨夏は西日本豪雨の最中にゴルフ三昧、その前の7月豪雨のさいに「赤坂自民亭」写真をツイッターに投稿した張本人が、経済再生担当大臣で初入閣というブラック。懲りない知性なき面々の、厚顔無恥内閣です。

 と、ここまで書いてきたのは、本サイトが長く掲げるローレンス・ブリット「14のファシズムの初期症候」による安倍新内閣の項目別チェック。「国家の治安に対する執着」「軍事の優先」「企業の保護」など、いくらでも診断できます。問題は、ここまで長く続き、反対意見や弱者の人権が無視され続けると、これはもはや「初期症候」ではなく、中期から完成期へのファシズムの行進ではないか、ということ。

http://chikyuza.net/wp-content/uploads/2019/08/fascism1.jpg

消費増税を控えて、日本経済の衰退はいっそう進みます。今年は秋の神道儀礼を含む「宗教と政治の癒着」が続き、「学問と芸術の軽視」「強情なナショナリズム」が、来年のオリンピックに向けて、いっそう強まりそうです。そればかりではありません。新内閣の第一の役割は、当面の災害対策でも、世論の求める景気回復や社会政策でもなく、世論調査ではほとんど期待のない「改憲」だと、「裸の王様」は公言しています。
こういう言論状況・強圧政治を、どこかでストップさせなければなりません。韓国朴槿恵政権打倒のキャンドル・デモでは、『これが国か』というプロテスト・ソングが、100万人によって歌われました。いま香港の自由を求める人々は、「願栄光帰香港(香港に再び栄光あれ)」という歌で、抵抗を続けています。you tube にありますが、格調高いプロテスト・ソングです。ファシズムに抗するには、反ファシズムの文化と運動が必要です。

 夏に松谷みよ子『屋根裏部屋の秘密』(偕成社、1988年)を読みました。こども向けの童話ですが、731部隊の隊員だった「祖父たちが償おうとしなかった罪を、孫の世代が引き受ける物語」です。関東大震災時の朝鮮人虐殺でも、広島・長崎原爆時の朝鮮人被爆者でもいいです。このような歴史認識が、被害者だった韓国・中国では引き継がれ、加害国日本では忘れ去られようとしていることこそ、韓国や香港から学ぶべきです。
「15年戦争と日本の医学医療研究会(戦医研)」で行った私の731部隊についての記念講演は、you tube に入っています。その後の研究で厳密にした学術論文「731部隊員・長友浪男軍医少佐の戦中・戦後」が、同研究会誌19巻2号(2019年5月)に発表されました。昨年から毎日新聞や朝日新聞で大きく報じられてきた、国会図書館憲政資料室「太田耐造関係文書」のゾルゲ事件関係新資料を中心にした私の最新の編纂書『ゾルゲ事件史料集成――太田耐造関係文書』 全10巻(不二出版)が発売されました。カタログが公開されています。個人では大変なセット価28万円の高価な図書館・公共機関向けの本ですので、出版社の許しを得て、ここに発売された第一巻所収の「解説ーーゾルゲ事件研究と『太田耐造文書』」を公開します。関心のある方は、これをご覧のうえ、大学図書館・公共図書館等に購入希望を出して頂けると幸いです。


初出:加藤哲郎の「ネチズン・カレッジ』より許可を得て転載 http://netizen.html.xdomain.jp/home.html
〈記事出典コード〉サイトちきゅう座http://www.chikyuza.net/
〔eye4644:190916〕

http://chikyuza.net/archives/97103
http://www.asyura2.com/19/senkyo265/msg/583.html

[政治・選挙・NHK265] 「自己有用感」という“危険思想”をすすめる教育行政(ちきゅう座 異沌憤説) 
《異沌憤説》4
「自己有用感」という“危険思想”をすすめる教育行政――役立つ人づくり教育と統治の道具化する学校では、「自己肯定感・自尊感情」じゃダメ!

2019年 9月 17日
<長谷川 孝>


 2019年の夏。小学校教科書を採択する教育委員会を傍聴して、採択の観点などの資料に目を通しながら、「キャリア教育」と「自己有用感」という用語に目が留まった。これまでこの市では使われて来なかった用語だったからだ。従来は、キャリア教育が強調されることはなく、「自己有用感」ではなく「自己肯定感」が重視されていた。でも、教育委員たちからは、これらの用語に触れる発言は、残念ながら一言も聞かれなかった。特に「自己有用感」には危険なにおいを禁じ得ないのだけれど。

■思考力・判断力、主体的・対話的で深い学びなどが消えて……■

 2017年採択(2019年度から使用)の「平成30年度使用小学校特別の教科道徳教科用図書調査研究の観点」と2019年採択(2020年度使用)の小学校道徳教科書の「観点」とを比べてみた。変化を確認したかったからだ。

 19年採択の「観点」。「教科・種目に共通な観点」が11項目。内容と構成、客観性・妥当性、発展的学習、表記・表現など、17年採択の「観点」と同様の項目が並び、11項目目に「キャリア教育の目標との関連」が加えられている。10項目までは県教委と共通だが、11項目目は市独自だという。
一方で17年「観点」から削除されている項目は、とても気になる。「難易度の妥当性」「思考力、判断力、表現力」「興味・関心」などだ。

 17年採択の「観点」の道徳に関する項目は5項目。「道徳科の目標と内容との関連」「主体的・対話的で深い学びを促す視点(質の高い指導方法の工夫)」「現代的課題への配慮」「道徳的価値の理解・促進」「話題・題材」だが、19年採択の「観点」では、「主体的・対話的で深い学び・・・」などが消えて、「道徳科の目標と内容との関連」「現代的課題への配慮」と「自己有用感」の3項目。「自己有用感」には「自己や社会の未来に夢や希望を持ったり、人としてよりよく生きる喜びや勇気を感じたりできるような内容が適切に扱われているか」と説明がついている。

 消えた言葉と新たに加えられた言葉「キャリア教育」「自己有用感」とを絡めると、何となく狙いが浮かんでくるような気がする。
「自己有用感」については後で詳しく触れるが、「キャリア」とは、いわば「誰かの(社会の)お役に立った実用的な自己の経歴」と言ってよいだろう。
消された「思考力・判断力・表現力」や「主体的・対話的で深い学び」も合わせて考えると、まさに06改悪教育基本法第2条(教育の目標)が定める5項目の「態度を養う」の具体化だ。

誰かのために役立つ人になりなさい、学校教育は世の中のために役立つ有為な人材をつくるために勉強する場所だよ! 社会の実用の役に立つ知識・技能を身に付けて、世の中のお役に立つ立派な人材に育ちなさい、という学校教育政策の現状だ。そしてさらにその背後で、《社会の役に立たない人は、生きている価値がない》という生産力主義のささやきも聞こえる気がする。

■他者の役に立ち・喜ばれる自分こそが、存在価値のある自分なのか!?■

教職経験者に聞くと「自己有用感」は、10年前ごろから学校現場でちらほら聞こえるようになったという。調べてみると国立教育政策研究所が2015年3月に、生徒指導リーフ『「自尊感情」? それとも、「自己有用感」?』を発行し、「自尊感情」(「自己肯定感」と同義)ではなく「自己有用感」を使うことが適当だと、推奨していた。

このリーフの内容の前に、ちょっとした説明をしておきたい。じつは自尊感情も自己肯定感も、自己有用感も、同じ英語のSelf-Esteem の日本語訳だ。自尊心・自己評価・自己重要感などとも訳され、「うぬぼれ」の意で使われることもあるらしい。一般的には、自己肯定感・自尊感情が広く使われている。Esteem とは「尊重する・尊敬する・高く評価する」といった意味だから、「自己有用感」と訳すには、特定の価値観を加えて一捻りする必要がありそうだ。

生徒指導リーフはまず、「社会性の基礎となる『自己有用感』」として、こう述べる。

《…(略)…例えば、「自分に自信が持てず、人間関係に不安を感じていたりする状況が見られたりする」という指摘を受け、その対策として“子供の「自尊感情」を高めることが必要”と主張される方は少なくありません。/しかしながら、日本では、児童生徒の「規範意識(きまり等を進んで守ろうとする意識)」の重要性も強調されています。それらを併せて考えるなら、「自尊感情」よりも「自己有用感」の育成を目指す方が適当と言えるでしょう。/なぜなら、人の役に立った、人から感謝された、人から認められた、という「自己有用感」は、自分と他者(集団や社会)との関係を自他共に肯定的に受け入れることで生まれる、自己に対する肯定的な評価だからです。》

さらに、「最終的には自己評価であるとしても、他者からの評価やまなざしを強く感じた上でなされるというのがポイントです」「『自己有用感』の獲得が『自尊感情』の獲得につながるであろうことは、容易に想像できます。しかしながら、『自尊感情』が高いことは、必ずしも『自己有用感』の高さを意味しません。あえて、『自己有用感』という語にこだわるのは、そのためです。」と主張している。

■他人の目⇒いいね!⇒受け狙い⇒ポピュリズム⇒忖度…「自己卑下」の態度を養う■

なぜ、これほどに、他者の役に立つことや喜ばれることを重要視しなければならないのか?
もちろん、それを否定はしないし、人の役に立ったり喜ばれたりすることは、誰にとってもうれしいことだし、自分を褒めたくなることだ。でも、他者の役に立ったり、喜ばれたりしなければ、自分の存在価値を認められないのか? 

そして、「他者」に家族や友人や隣人などが当てはまっている間はともかく、そこに国家や企業、上司や指導者、教師や監督、司令官や警察官、そして「安倍晋三」が入ったら、どういう「有用」になるか? 
こう考えると、“危険思想”と言ってもいいのではないか。
そして、他人の目にかなわなければ、自己卑下つまり自分を認めることができなくなる。

個人の尊厳、個人の価値は、人間として生まれてきた存在そのものにあり、「人身得ること難し……已に受け難き人身を受けた」(曹洞宗の経典『修証義』第1章)というべき、かけがえのない存在なのだ。
まず個人の価値がしっかり認められて、その個人がかかわり合って、人間関係が始まり、社会が形成される。
釈尊の言葉に「自己こそ自分の主(あるじ)である。他人がどうして(自分の)主であろうか? 自己を良くととのえたならば、得難き主を得る」(ダンマパダ第12章160)とある。
まず、自分(自己)をしっかりと立てなければ、他者とかかわることも難しいし、ましてや世間の役に立つのは困難だろう。

「自己有用感」を重視すると、他人の受けや目を気にしろ、ということになろう。世間体と言ってもいい。SNSのいいね!漁りや、インスタ映え欲求など、受け狙いのススメともなる。ポピュリズム思考の基盤づくりとも言える。忖度のススメと言ってもいいだろう。
教育委員会が、道徳教育の(教科書選びの)中で、「自己有用感」なるものを押し出している。ちょっとした言葉の置き換えに注意したい。これが、学校教育の実用主義化、役立つ人材づくり化につながる。実用に役立つ知識・技能優先で、人格の完成に向けて欠かせない知識・技芸・感性は軽視される。国語でも、契約書など実用の文章重視で、文学は軽んじられることになると、心配されている。これらの教育は、統治機関としての学校が担う機能というべきものだ。学校を統治行為の道具にしてはならない。

自分の価値は、人の役に立たなくても喜ばれなくても、生きてそこに居るだけで意味があり尊い。それが個人の尊厳であり、学校(教育)の基本だと、確認しておきたい。

〈記事出典コード〉サイトちきゅう座 http://chikyuza.net/
〔eye4646:190917〕

http://chikyuza.net/archives/97128
http://www.asyura2.com/19/senkyo265/msg/687.html

[政治・選挙・NHK265] 「ヘイト」憎しみはどこからやって来るのか(イミダス 時事オピニオン)
吉田徹「シネマでみる、この世界」 第4回
「ヘイト」憎しみはどこからやって来るのか
2019/09/18
吉田徹(北海道大学法学研究科教授)


 国内外を問わず「ヘイトスピーチ」や「ヘイトクライム」についての報道が随分と増えました。これらは、一般的に人種や民族、国籍や性的なマイノリティに対する差別扇動行為や犯罪行為を指します。日本でも在日朝鮮人子女などへのヘイトスピーチが横行したことに対して「本邦外出身者に対する不当な差別的言動の解消に向けた取組の推進に関する法律」(通称「ヘイトスピーチ解消法」)が2016年から施行されています。

この法律ではヘイトスピーチを、外国人であることを理由として、外国人やその子孫に対し「差別的意識を助長し又は誘発する目的」で「その生命、身体、自由、名誉若しくは財産に危害を加え」たり、「著しく侮蔑」したりする「差別的な言動」と定義しています。

 差別がなぜいけないかといえば、それは差別される人がかわいそうだからとか、理不尽だからといった理由だけではありません。それは法の支配が行き渡るためには、法のもとではすべての人が平等に扱われなければならないからです。だから、人種や国籍など、その人が自主的に選び取ることのできない属性を理由に差別や攻撃が行われるヘイトは、戒めるべき行為ということになります。

 しかし、私たちは、それまでの経験や情報に基づいて様々な類推や憶測をしなければ、判断や決断を下せません。だから偏見やステレオタイプをなくすのは困難なのです。こうしたヘイトに基づく犯罪は、世界で増加傾向にあります。アメリカ大都市部では2017年に前年と比べて132%増となり、FBI(アメリカ連邦捜査局)によれば、3年連続で増えています。ヨーロッパでも、イスラムフォビア(イスラム教徒恐怖症)や極右活動家によるヘイトクライムは、この10 年でほぼ倍増し、イギリスでは2017年に4割、フランスやイタリアでも1割ほどヘイトクライムが増えていると報告されています(*1)。最近でも、ニュージーランドのクライストチャーチで、白人男性がイスラム教のモスクを襲撃して51人を死に追いやった事件があり、アメリカのテキサス州では、移民系市民を狙って29人が死亡するなど、大規模なヘイトクライムが続いています。
(*1) Institute for the Study of National Policy and Interethnic Relations et al., Xenophobia, Radicalism, and Hate Crime in Europe, 2018

 なぜ人は、人種や属性が違うというだけで、その人や集団を憎むようになるのか。三つの映画を通じて、考えてみましょう。

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今回紹介する3作品のDVD。左から、『憎しみ』(発売元:ユニバーサル・ピクチャーズ・ジャパン)『女は二度決断する』(発売元:WOWOW)『判決、ふたつの希望』(発売元:ソニー・ピクチャーズ エンタテインメント)

■ 『憎しみ』――ヘイトが生まれる瞬間 ■

 フランスでは2005年10月に大きな事件がありました。俗に「バンリュー(郊外)」と呼ばれるパリ郊外で、二人の青年が警察の事情聴取から逃げる最中、変電所で感電死するという出来事があり、これをきっかけに、大規模な暴動が各地で発生します。時の政権は非常事態宣言を発令しましたが、各地の移民系を出自とする若年層と治安部隊が衝突し、死者二名と3000人近くの逮捕者を出す事態となりました。それ以前からバンリューの軽犯罪を繰り返す若者の不当逮捕や取り締まりが続いていたこともあり、失業した郊外の若者たちの社会に対する不満が爆発したのです。このような暴動は、現在に至っても形を変えて繰り返し起きています。

 この事件を予言したかのような映画が、1995年にカンヌ映画祭で監督賞を受賞しました。今やハリウッド俳優となった若きヴァンサン・カッセル主演する、マチュー・カソヴィッツ監督『憎しみ』です。この映画では、郊外で暴動を起こした3人の若者の翌日から翌々日の早朝までの行動が描かれています。バンリューの失業率は、全国平均の倍以上の約25%とされています。この映画でも3人の若者は、ドラッグや盗品家電の売買でその日暮らしを余儀なくされています。

 ヴァンサン・カッセル演じるヴィンツは、友達であるサイードとユベールに警官に殺された仲間の復讐を持ちかけます。彼は言います。「俺は毎日クソ野郎たちに全システムを破壊されているんだ」「俺が路上で学んだことはな、右の頬を出せば自分がヤられる。それだけだ」。彼らもまた、郊外に住む若者というだけで、マスコミから不審の目を向けられ、警察から理不尽な尋問にあいます。映画では「未来はあなたたちのもの」「世界はあなたたちのもの」という標語や商業広告が映し出されますが、彼らにとっては、うつろな言葉に映ったことでしょう。

 面白いのは、この3人は異なるエスニシティを持っていることです。ヴィンツはユダヤ系、サイードはイスラム系、ユベールは黒人ですが、彼らはそれぞれの文化的な背景に関係なく、バンリューに住む若者という共通項が絆になっています。差別されているという感覚こそが、共通のアイデンティティになっているのです。唯一異なるのは、ヴィンツが警官の落とした拳銃を拾ったことで、警官殺しに打って出ようとするのに対し、ユベールが「憎しみは憎しみを呼ぶ」といって、報復を拒否する態度にあります。

 実際、ヘイトは異民族や外国人といった、自分と異なる存在が目の前にいることだけから起きるわけではありません。あるアメリカの社会学者の研究(*2)によれば、特定集団を悪と見なすヘイトクライムは実際には全体の1%に満たず、その6割以上が自分や自分たちの力の誇示、あるいは罪を犯すというスリルを追求するために起きていると推計しています。ドメスティック・バイオレンスやパワハラも同じですが、自分よりも弱い存在に対して自分の支配力を行使したいという権力欲が、ヘイトにつながっているのです。行動心理学では、自分たちが不利な場合は異なる集団との接触を避けるものの、一端優位になると攻撃性を増すようになる、といわれています。だからこの映画のストーリーも、ヴィンツが拳銃を手にしたところから急展開していきます。
(*2) McDevitt, Levin & Bennett “Hate Crime Offenders” 2002
  
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映画『憎しみ』より

 相手が黒人だから、相手がイスラム教徒だから差別や憎しみを抱くというような古典的なレイシズムは現代社会ではあまり影響力を持たなくなってきます。これに代わっていまでは「新しいレイシズム」などと呼ばれる差別が出てきました。これは、差別のない社会であるはずにもかかわらず、なぜ自分たちは今のような恵まれない状況にあるのか、それは誰かのせいに違いない、というスケープゴート探しが差別につながるものです。いわば相手中心より、自分中心で物事をみるのが「新しいレイシズム」の特徴です。社会心理学で「公正世界仮説」と呼ばれますが、世界は正しい行いをした人には正しく報い、悪い行いをした人には罰が下されるはずだと人々は一般的に考える傾向があることがわかっています。

だから、人はいつも誰かを罰したいという誘引を持つことになります。そうでないと、この世界の道徳的規準が失われ、自分がどのように行動したらよいか、何を指針としたらよいか、わからなくなってしまうからです。

この理論を適用するならば、自分が理不尽な思いをしているという感覚こそが、他者に対するヘイトを生むことになります。そして、自分より弱い他人に罰を与えることで、自分の正しさと自分が理不尽な環境にあることを証明しようとするのです。

 ヘイトクライムが増発している現代では、もはや現実社会が人々にとっての公正を約束していないといえるのかもしれません。憎しみを抱くことを最後の最後まで拒否していたユベールは、映画の最後で驚くべき行動をとりますが、それは世界のどうしようもない理不尽さ示すことになります。

■ 『女は二度決断する』――人はわかり合えない ■

『憎しみ』の最後には、こんなナレーションが流れます――「これは崩壊した社会の物語だ。社会は崩壊しながら少しずつ絶え間なくメッセージを投げかける。ここまでは大丈夫だ。だが、問題は落下ではなく着地なのだ」。

 この「着地」に失敗し続けている社会を残酷に描くのは、ドイツの多民族社会を描き続け、世界の三大映画祭で受賞歴を持つ、自身もトルコ系のファティ・アキン監督『女は二度決断する』(2017年)です。勇ましい邦語タイトルがつけられていますが、ドイツ語の原題は現在のあてどないヘイトクライムの性質を表すかのような「Aus dem Nichts(無から)」、となっています。

 名女優ダイアン・クルーガー演じる主人公のカティヤは、トルコ系のシェケルジと服役中に結婚、その後、自営業を営みながら、幸せな家庭を築きます。しかしハンブルクのトルコ人街を狙った爆弾テロで、最愛の夫と子どもを亡くすに至ります。テロはもはやマイノリティがマジョリティに対して行うものではなくなりました。

 爆弾テロの実行犯はギリシャのネオナチ政党「黄金の夜明け」(国会に議席を持つ実在の政党)の極右思想にかぶれた若いドイツ人夫婦であることが判明し、裁判が始まります。ところが、爆弾テロは状況証拠しかなく、カティヤ自身の目撃証言も信用されなかったため、その若い夫婦には無罪判決を勝ち取ります。

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映画『女は二度決断する』より

 精神的ダメージから麻薬を服用し、自殺するところまで追い詰められていたカティヤは、ギリシャに逃れた犯人の夫婦たちに復讐を果たそうと後を追います。彼女は夫と子どもが殺された爆弾と同じ手製爆弾の作成方法をネットで入手し、夫婦が暮らすキャンピングカーに仕掛けます。作品のラスト10分の緊張感はすさまじいものがありますが、彼女はキャンピングカーにとまった小鳥をみて、爆弾を仕掛けるのをやめます。

復讐を諦めかけたかにみえる時、事件以来止まっていた生理が彼女に訪れます。そしてカティヤは、再びキャンピングカーに爆弾を仕掛け、犯人たちを巻き添えにして自死します。小動物に生命の尊さをみて殺害をやめるのも、生理がきたことで殺害に至るのも、同じ程度にリアリティがあります。カティヤは、人を殺すことの意味合いを自ら引き受けるのです。

 リストカットなどの自傷行為は、極度のストレスに起因しますが、こうしたストレスは他人への攻撃性となって表れることもあります。自分を取り巻く不条理に耐えられず、自分を愛することのできない者は、他人を否定することで、その葛藤を処理しようとするためです。

 だからもしヘイトを本当になくしたいのであれば、偏見や差別をなくせと言い募るだけではなく、自分自身を肯定できるような社会を作らなければならない――そんな手掛かりを与えてくれるのが、次に紹介する映画です。

■ 『判決、ふたつの希望』――和解への道 ■

 民族のるつぼといわれる国や地域は世界でたくさんありますが、その代表格の一つが中東にあるレバノンです。同国は、第一次世界大戦中、オスマン帝国の領土分割を決めたイギリス、フランス、ロシアによるサイクス・ピコ協定によってフランス支配下に入った地域でしたが、第二次世界大戦でフランスがナチス・ドイツに占領され、独立を果たしました。宗教的な禁忌も少なく、投資バブルに沸いている首都ベイルートは、今でこそ目覚ましい発展を遂げていますが、戦後のイスラエルとPLO(パレスチナ解放機構)の対立から、同国はシリアとイスラエル、さらにアメリカとソ連との代理戦争の地となり、「第五次中東戦争」とも呼ばれた、1970年代半ばからの20年近くにおよぶ内戦を経験します。

 内戦がかくも長く続いたのは、イスラエル対パレスチナという構図に加えて、東西冷戦、さらに細かく宗派に分かれたイスラム教徒とキリスト教徒の対立という、異なりつつも重複する分断線があったためです。こうした複雑な対立構図は映画の格好の素材ともなり、「中東のパリ」と呼ばれた首都ベイルートは『デルタ・フォース』(1986年)、『スパイ・ゲーム』(2001年)など、数々のスパイ、アクション映画の舞台ともなりました。

 このレバノンの歴史を背景に、キリスト教徒とイスラム教徒による互いの憎しみから和解への道を描くのが、レバノン人のジアド・ドゥエイリ監督『判決、ふたつの希望』(2017年)です。

 この作品はキリスト教徒でパレスチナ人に敵意を持つ自動車工トニーと、パレスチナ難民で工事監督を務めるヤーセルの二人の中年男性が主人公です。原題に『The Insult』(侮蔑)とあるように、映画は些細ないざこざから、ヤーセルがトニーに対して「クズ野郎」と罵るところから展開していきます。トニーが謝罪を求めてもヤーセルが頑なに拒否したため、トニーは「シャロン(パレスチナ強硬派だった元イスラエル首相――註)に殺されてればな」と罵り、これを聞いたヤーセルが思わず彼に拳をあげます。

 ヤーセル自らが出頭し、この暴力沙汰は裁判にかけられますが、ヤーセルがトニーの侮蔑の言葉、すなわちなぜ彼を殴ったのかの理由をなぜか最後まで明かさなかったため、訴えは棄却されます。その後、殴られた傷を押して仕事に勤しんだこともあって、症状を悪化させたトニーはヤーセルを訴え、舞台は再び法廷に戻ります。

 この時トニーが弁護士として雇ったのが、「弱者救済はブームだ」とのたまう、パレスチナ人に批判的な極右思想を持った弁護士でした。彼は「パレスチナ人の絶望を語る時、彼らだけが虐げられた人のようだ。アルメニア人、クルド人、ゲイは? 権利を奪われても殴り合いなどしない。あなたが祖国を失った難民だからといって暴力の言い訳にはならない」と、「新しいレイシズム」の論法で正義を求めます。ヤーセルにも(実はトニーの弁護士と因縁浅からぬ)人権派弁護士が付き、トニーの言こそが「ヘイトクライムに値する」と主張し、法廷はあたかもレバノンの歴史を象徴するような代理戦争の様相を呈することになります。

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映画『判決、ふたつの希望』より

 この作品で興味深いのは、異なるバックグラウンドを持ち、対照的にみえるトニーとヤーセルという人物が、実は多くの共通項を持っていることが示唆されていることです。二人ともプライドが高く、職人肌だけれども怒りっぽく、恐妻家で優柔不断な人物にみえます。物語が進むにつれて、トニーはマジョリティの中の弱者であり、ヤーセルはマイノリティの中の強者であることも次第に明らかになります。しかしこの二人の対立は法廷外に波及していき、大統領までが憂慮するまでの国内の民族的対立へと煽り立てられることで、事態は深刻なものになっていきます。

 激化する民族的対立の中で、トニーは「政治を絡めるな」と自らの弁護士に異議を唱えます。彼がヤーセルを許せないのは、彼が自国に流入してきたパレスチナ難民だからではなく、何気ない侮蔑を発したにも係らず謝罪をしないからでした。トニーを罵って殴ったのが、たまたまパレスチナ人だったわけです。

 終盤にさしかかって物語は、特定の民族に属するトニーとヤーセルではなく、個人の尊厳をかけた二人のせめぎ合いへと焦点が当たっていきます。思わぬ展開をみせる裁判でヤーセルは無罪を勝ち取りますが、最大の見せ場は、二人が民族的な立場ではなく、自分の個人としての感情を肯定することで、裁判によらない真の和解に至ることです。裁判沙汰となって社会が沸き立つことで、トニーもヤーセルも、当初自分が持っていた本当の感情が置き去りにされ、民族問題へと変化していってしまうことに嫌悪感を抱くようになっていきます。最終的にはヤーセルがトニーに自分を殴らせるという行為を通じて、二人の対立は和解へと昇華されることになります。

 ここには、ヘイトから自由になる方法が暗示されています。すなわち、相手への敵意であろうが、怒りであろうが、自分の感情を素直に認めた上で、民族や人種といった個人の属性をその敵意の理由としないこと――それがまた自分を認めるということの意味であり、和解への道となるのではないでしょうか。ヘイトクライムやヘイトスピーチをなくすヒントは、意外と身近なところにあるのかもしれません。

https://imidas.jp/cinema/?article_id=l-84-004-19-09-g452
http://www.asyura2.com/19/senkyo265/msg/688.html

[政治・選挙・NHK265] バカバカしいことが続いている(レイバーネット 渡部通信)
Last modified on 2019-09-20 11:36:31

東電の旧経営陣3人に、東京地裁は無罪判決を出した。
昨夜、包囲ネットの会議でこのことが話題になると、ある人は、
「戦争であれだけ大きな犠牲を出した天皇(最高責任者)だって
戦争責任を問われなかったのだもの」と述べた。
こうした体制が続く限り、一般ピープルは浮かばれないのだろう。

一昨日(9月18日)、安倍政権は10月22日の「即位礼正殿の儀」の
細目を決定した。それによると、天皇は一段と高い「高御座」に立ち、
国民の代表の首相らは仰ぎ見る形で「万歳三唱」をするという。
憲法学者の横田耕一・九大名誉教授は
 「神話に根差した高御座や三種の神器の剣璽は、
 天皇が神の子孫だという正統性を示すもので、
 天皇の地位は国民の総意に基づくと定めた憲法1条に反する。
 天皇が国民の上位にあるような立ち位置も、
 国民主権原則に反する」と批判している。
  (以上「朝日新聞」9月19日の記事を参考)

さらに、11月には「大嘗祭」もあるが、
これは天皇が大神(天照大神)と一体になる儀式である。
戦後、天皇は「人間宣言」をした。
しかし、また神になる儀式をやるのである。
しかも、多額の税金を使って。

安倍首相のいう「戦後レジームからの脱却」ということは、
他でもなく戦前の大日本帝国への回帰なのである。
(ただしアメリカに従属した大日本帝国)

全く国民を馬鹿にした話である。
安倍首相らは国民の真の代表ではない。
また「皇室典範特例法」を議決した国会も
真の国民の代表機関とは言えないであろう。
そこには「天皇陛下」などという言葉が使われているのである。
(1999年に天皇主権の歌「君が代」)を法制化した国会もである。)
この間、あまりにもバカバカしいことが続いている。
その下で多くの一般ピープルが、苦しみもがいている。
今の日本には、新たな啓蒙思想が必要なのであろう。
「みんな目を覚まそう!」。

http://www.labornetjp.org/news/2019/1568946990822staff01より抜粋転載
http://www.asyura2.com/19/senkyo265/msg/689.html

[政治・選挙・NHK265] NHK「あさイチ」に抗議した石垣市長・議会の狙いは何か(アリの一言)
2019年09月21日 
 沖縄県石垣市議会が17日、自衛隊配備問題を扱った情報番組「あさイチ」(写真)に関して、NHKに抗議し訂正を求める決議を賛成多数(賛成=与党11、反対=野党8)で可決しました。NHKは18日、同番組内で「誤解を招かないよう配慮すべきであり、説明が足りなかった」と釈明しました(19日付琉球新報)。この問題の核心は何でしょうか。
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 石垣市議会(与党)が問題にしたのは、8月26日放送の「あさイチ」が陸上自衛隊配備問題を取り上げたさい、配備予定地から1.6キロの川の映像に重ねて「配備予定地周辺は川などが流れる水源で、石垣島の水道水の8割をまかなっている」と音声で流したのに対し、映像の川が農業用ダムの水源であることや1.6キロ地点は周辺ではないなどとし、「事実と異なる」とクレームをつけたものです。

 議会の決議に先立ち、中山義隆市長(写真)は番組翌日の8月27日、ツイッターでNHKを批判し、同29日には東京のNHKに出向いて直接抗議するという異常な行動をとっていました。市議会与党はこれに連動して「抗議決議」を強行したものです。
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 議会が特定の番組に抗議決議をあげるとすれば、「すぐに訂正を求めないといけない切迫した事情があるなど相当に慎重な対応が求められる」(山田健太専修大教授、18日付沖縄タイムス)ことは言うまでもありません。今回の「あさイチ」の報道がそれに該当しないことは明らかです。

 陸自配備によって同島の水道水の約8割を賄う於茂登山系の水源に影響を及ぼすことは以前から地元住民が懸念しているところです。番組が映した川が同山系の川の1つであることに変わりはありません。

「1.6キロ」についても、決議の反対討論で野党議員が、「1.6キロは私にはすごく近く感じる」(18日付琉球新報)と述べたように抗議に値する問題ではありません。

 今回のNHKへの抗議・訂正要求が、中山市長と市議会与党が一体になった報道機関への圧力であることは明白です。その狙いはどこにあるでしょうか。

 「抗議決議」は「あさイチ」が、「自衛隊施設が周辺地域の水質を汚染するとの誤った前提」に立っているとし、そのうえで上記のような口実をつけて批判しています。すなわち、「自衛隊施設が周辺地域の水質を汚染する」ことを打ち消し、汚染に不安をもつ市民の声を抑え、自衛隊配備に反対する住民運動(写真)をけん制する。そこに中山氏や市議会与党の狙いがあることは明らかです。
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 したがって問題の核心は、「自衛隊施設が周辺地域の水質を汚染する」ことがはたして「誤った前提」なのかどうかです。

 自衛隊施設は言うまでもなくは軍事基地であり、なかでも石垣島に配備されようとしているのは対艦・対空ミサイル部隊です。軍事基地が周辺環境に重大な影響を及ぼし、とりわけ水資源の汚染が深刻であることは周知の事実です。

 たとえば沖縄タイムスは、「基地から汚水30万リットル 沼に流出」の見出しで、「青森県東部にある姉沼に2017年10月、隣接する米軍三沢基地から汚水30万リットルが漏れ出す事故があったことが分かった。…姉沼からは米軍が飲料水を取水している」(2月20日付)と報じました。

 沖縄の嘉手納基地においても、1998年から2015年にかけて基地内で計4万リットルのジェット燃料などの流出事故が発生していたことが、ジャーナリストのジョン・ミッチェル氏の調査で明らかになっています。

 こうした環境・水質汚染は、軍事基地が平和に逆行するだけでなく、住民生活に深刻な影響を及ぼすものであることを示しています。

 日本会議と関係が深いといわれる中山市長とその与党が「あさイチ」を攻撃した狙いは、こうした実態を隠し自衛隊基地建設を強行するところにあります。「石垣島では、自衛隊配備について今後も議論されていくことだろう。今回のようなことがボディーブローのように効いていくことを(中山氏や与党は―引用者)意図しているのではないか」(砂川浩慶立教大教授、18日付琉球新報)と指摘されるゆえんです。

 時を同じくして、自衛隊基地増強が計画されている宮古島では、下地敏彦市長が「スラップ訴訟」で市民に圧力をかけようとしました(批判を浴びて一応撤回)。石垣島と宮古島で同時に起こったこうした事態は、自衛隊基地推進派が首長や議会の立場を悪用して基地反対の世論・運動を抑圧しようとするものであり、絶対に容認することはできません。

https://blog.goo.ne.jp/satoru-kihara
http://www.asyura2.com/19/senkyo265/msg/690.html

[政治・選挙・NHK265] (東電旧経営陣業務上過失致死傷罪訴訟) 東電旧経営陣に無罪 無罪は一区切りではない 重大事故の責任不問にできぬ 安全軽視の判断は疑問 「人災」の疑問は残る 原子力ムラ擁護の判決だ 

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東電旧経営陣に無罪
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 周囲に振り回されず前向きに行動できる「鈍感力」は、単なる鈍感とは違う。ベストセラー『鈍感力』の文庫版で、作家の渡辺淳一が書いている。例えば問題を起こしても平然としている政治家。「いうまでもなく、こうした無神経で鈍感な男は、単なる鈍感でしかない」

 その定義によれば、彼らも単なる鈍感の部類か。東京電力の旧経営陣の3人である。原発事故をめぐって強制起訴された裁判で、安全に対する鈍さが目についた。
 
 国の地震予測をもとにした15メートル以上の津波予測が、2008年の時点で東電内にはあった。防潮堤工事も提案されたが、すぐ手を打とうとはしなかった。あくまで仮定にもとづく試算だったからという。
 
 ことが起きていない以上、すべては仮定のはずだが3人の認識は違うらしい。あるいは会社の利益を損なわないよう鈍感のふりをしたか。そんな無策ぶりが裁かれる判決が出るかと思いきや・・・・・・全然違った。
 
 3人が無罪になった理由は「事故前の法規制は、絶対的安全の確保を前提としてはいなかった」というものだ。当局も専門家も電力会社も、原子力業界全体が安全に鈍感だったので3人だけを責められない。そんな理屈で責任者を消してしまう手際は手品のようだ。
 
 もっとも業界には敏感な人もいた。国の地震予測を考慮に入れ、津波対策をした電力事業者もあったと裁判で証言された。3人の責任を問う根拠になりそうなのに判決では極めて軽く扱われている。裁判官に「敏感力」が欲しい。
 
朝日新聞天声人語 2019年9月22日
https://www.asahi.com/articles/DA3S14188607.html?iref=comtop_gnavi


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【東電3被告訴訟】 無罪は一区切りではない
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 原発とは、根拠もなく安全性や経済性を強調し、想定しない過酷事故を起こしても、誰も責任を取らなくてもいい事業なのだろうか。

 2011年3月の福島第1原発事故を巡り、業務上過失致死傷罪で強制起訴された東京電力の勝俣恒久元会長ら旧経営陣3被告に、東京地裁はいずれも無罪(求刑禁錮5年)を言い渡した。

 他の2人は武黒一郎元副社長と武藤栄元副社長。検察官は不起訴としたが、市民で構成する検察審査会が2度にわたり起訴すべきだと判断し強制起訴された。

 起訴状で3人は、巨大地震による大津波を予見できたのに、対策を怠り、事故で長期避難を余儀なくされた入院患者らを死亡させた罪に問われた。

 事故の予見可能性と結果を回避できた可能性の有無は、刑事裁判では厳しく問われる。裁判所もその両立を認めず、長い法廷闘争でも否定したことになる。

 ポイントとなったのは、政府の地震調査委員会が02年に公表した長期評価だ。これに基づいて計算すると、福島第1原発には最大15・7メートルの津波が押し寄せることが分かっていた。

 東電も08年に長期評価を検討している。裁判で被告の3人は「長期評価には信頼性がなく、予見できなかった」と主張し、想定されていなかった規模の地震と津波で、事故は防げなかったと訴えた。

 しかし、評価の信頼性を否定することと、対策を怠ることは別の問題ではないか。東日本大震災では津波の浸水で原発の全電源が喪失。水素爆発を起こした。

 強大な防潮堤の建設とまではいかなくとも、電源設備を高台に移すぐらいは東電ほどの大企業ならできたはずだ。実際にそうすれば過酷事故は防げたとする民事訴訟の判決や、米科学アカデミーの指摘もある。

 こうした観点から国会の事故調査委員会は12年、原発事故を自然災害ではなく、「あきらかに人災だ」と位置付けた。人災であれば、大事故を起こした当事者である東電幹部ら、個人の責任を追及する動きが出ても不思議はない。

 旧ソ連のチェルノブイリ原発と並ぶ、最悪の「レベル7」の事故である。万が一にも起こしてはならない事故は、いまだに遺族の心の傷となり、事故処理の面では国民の子孫にまで影響を及ぼす。

 3人の被告も東電も、今回の無罪判決を「一区切り」などと考える余裕はあるまい。

 むしろ市民の厳しい目を意識し続けることだ。検察の不起訴の判断よりも、検察審査会の「起訴相当」の方が市民感覚により近いだろう。裁判所の裁判員裁判も、市民の意見を取り入れる制度だ。

 原発の安全神話が崩れ、システムの核燃料サイクルも事実上、破綻している。電力会社や国は、今後も続く原発絡みの訴訟で、市民の声に真摯に耳を傾けるべきだ。

高知新聞社説 2019年09月20日
https://www.kochinews.co.jp/article/310057/


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東電旧経営陣判決 重大事故の責任不問にできぬ
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 2011年3月11日の東京電力福島第1原発事故をめぐり、業務上過失致死傷罪で強制起訴された東電旧経営陣3人にたいし、東京地裁は無罪の判決を言い渡しました。避難中に人命が失われ、いまも4万人以上が故郷に帰れず、収束も見えない未曽有の被害をもたらした事故の刑事責任が不問にされたことに、「不当判決」との批判が上がっています。

 公判では、事故を防ぐ機会があったにもかかわらず、手だてをとらなかった東電経営トップの姿が改めて浮き彫りになりました。この判決をもって東電は責任を免れることはできません。

国民の思いと隔たり
 裁判の最大の争点は、福島第1原発の敷地を超える大津波の襲来が予見できたかどうかでした。

 国の地震本部は02年、福島県沖などでマグニチュード8クラスの津波地震が30年以内に20%程度の確率で発生すると予測する「長期評価」を公表しました。

 東電の依頼を受けた子会社は08年3月、「長期評価」を取り入れて、第1原発に「最大15・7メートル」の津波が到達すると算出しています。敷地の高さ10メートルを大きく超す津波の襲来を示すこの試算について、経営陣3人は08年6月から09年春にかけて担当の社員から報告を受けていたことが、公判などで示されました。

 ところが判決は「大津波は予見できなかった」としました。長期評価については「客観的に信頼性、具体性があったと認めるには合理的な疑いが残る」などと否定しました。旧経営陣の主張を全面的に追認したものです。

 原発被害者らが各地で提起した民事訴訟では、東電に賠償を認めた判決が相次ぎ、2017年の前橋地裁判決では、東電が巨大津波の高さを試算していたことを根拠に「東電は08年には実際に津波を予測していた」とのべるなど、予見可能性を認定しています。民事と刑事の裁判の違いはあるとはいえ、今回の判決は国民の思いとあまりにかけ離れたものといわざるをえません。

 また判決は、津波という自然現象は正確な予知や予測に限界があるなどとのべ、「(津波の)あらゆる可能性を考慮して必要な措置を講じることが義務づけられるとすれば」「運転はおよそ不可能」になるが、それは困難だと断定しました。原発停止は「ライフライン」にかかわるなどという理由を持ち出して、経営優先の東電の姿勢を容認した判決は、国民の常識に反するものです。

 「絶対的安全性の確保までを前提とはしていなかった」と結論づけて経営陣を免罪したことは、事故がもたらした甚大な被害を直視したものではありません。

再稼働は許されない
 この裁判は、検察が旧経営陣を不起訴にしたことに対し、市民らでつくる検察審査会が2度にわたり「起訴すべき」と議決し、強制起訴によって始まったものです。公判の中では、東電のずさんで無責任な対応が次々と明らかになりました。

 このような東電の体質はあらたまっていません。東電が柏崎刈羽原発(新潟県)の再稼働に向けた動きを加速させていることは重大です。再稼働は断念し、被害者への賠償と、事故の収束と廃炉に真剣に取り組むべきです。

しんぶん赤旗主張 2019年9月21日
http://www.jcp.or.jp/akahata/aik19/2019-09-21/2019092101_05_1.html


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東電事故無罪 安全軽視の判断は疑問
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 東京電力福島第1原発事故を巡り、業務上過失致死傷罪で強制起訴された東電の旧経営陣3人に対し、東京地裁は無罪判決を言い渡した。厳格な立証が求められる刑事裁判ゆえの結果だろう。

 判決は、巨大な津波の襲来は「想定外」とする被告の主張を認め、予測は困難だったと認定した。

 事故を回避するためには原発の運転停止しかなかったと判断し、電力供給義務を負う被告にはそこまでの義務はなかったとした。

 しかしながら、今もなお帰還困難区域が7市町村にまたがり、約5万人が避難生活を強いられている事故の結果の重大性を考えると、安全より運転継続に重きを置いた判断と言わざるを得ない。

 民事とはいえ、全国各地で避難者が起こした損害賠償請求訴訟では東電の過失責任が認められている。刑事上の責任を問われないからといって、旧経営陣が事故の責任を免れることにはならない。

 近年、「想定外」の事故や災害が増えている。最優先されるべきは生命や身体の安全だ。想定が適切か不断の検証を怠れば、安全に関わる組織を率いる責務を果たしたことにはならない。
 判決は、国が2002年に公表した地震予測「長期評価」について信頼性がないと判断。被告も出席した08年の会議で地震予測の採用方針が了承されたという元幹部の供述調書の信頼性も否定した。

 だが、公判では、防潮堤設置などの対策を取らなかった旧経営陣の対応について、疑問視する社員の証言もあった。

 予測に基づく最大15・7メートルの津波試算結果を生かさないのであれば、何のための予測か。素朴な疑問も浮かぶ判断は、市民感覚と乖離(かいり)しているとの批判を免れまい。

 納得できないのは、3被告の姿勢だ。想定外と繰り返すばかりで、社員らの証言との矛盾を丁寧に説明したとは言いがたく、甚大な被害を招いた企業の責任者としての自覚が感じられなかった。

 責任の所在を明らかにしたいという被害者の願いはかなわなかった。辛苦を味わってきた犠牲者の遺族らにとって、今回の判決は到底受け入れられるものではない。

 判決は、事故の可能性を限りなくゼロに近づけるよう必要な措置を講じることも、社会の選択肢として考えられなくはないとも述べている。

 原発事故は、ひとたび起これば取り返しがつかない。その重篤な結果に見合った責任とは何か。考える機会とする必要がある。

北海道新聞社説 2019年09月20日
https://www.hokkaido-np.co.jp/article/346497?rct=c_editorial


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東電旧経営陣に無罪 「人災」の疑問は残る
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 東京電力の旧経営陣は「無罪」?二〇一一年の福島第一原発事故で検察審査会が強制起訴した裁判だった。本当に予想外の事故だったのか疑問は残る。

 事故の三年前まで時計の針を戻してみよう。国の地震予測である「長期評価」に基づく津波の試算が最大一五・七メートルにのぼるとの報告がなされた。東電社内の会合で元副社長に「『(津波想定の)水位を下げられないか』と言われた」?担当していた社員は法廷で驚くべき証言をした。元副社長は否定し、「そもそも長期評価は信頼できない」と反論した。

 社員は「津波対策を検討して報告するよう指示された」とも述べた。だから、その後、防潮堤を造る場合は完成までに四年を要し、建設に数百億円かかるとの報告をしている。元副社長は「外部機関に長期評価の信頼性を検討してもらおう。『研究しよう』と言った」と法廷で応じている。

 てっきり対策を進める方向と思っていた社員は「想定外の結論に力が抜けた」とまで証言した。外部機関への依頼は、対策の先送りだと感じたのだろう。実際に巨大津波の予測に何の対策も講じないまま、東電は原発事故を引き起こしたのである。

 この社員は「時間稼ぎだったかもしれないと思う」「対策工事をしない方向になるとは思わなかった」とも証言している。

 社員が認識した危険性がなぜ経営陣に伝わらなかったのか。あるいは対策の先送りだったのか。これはぬぐえぬ疑問である。

 旧経営陣の業務上過失致死傷罪の責任を問うには(1)原発事故との因果関係(2)大津波などが予見できたかどうか(3)安全対策など結果回避義務を果たせたか?この三点がポイントになる。

 東京地裁は争点の(2)は「敷地高さを超える津波来襲の予見可能性が必要」とした。(3)は「結果回避は原発の運転停止に尽きるが、原発は社会的有用性があり、運転停止だと社会に影響を与える」ため、当時の知見、社会通念などを考慮しての判断だとする。

 原発ありきの発想に立った判決ではないか。「あらゆる自然現象の想定は不可能を強いる」とも述べたが、それなら災害列島に原発など無理なはずである。

 宮城県に立地する東北電力女川原発との違いも指摘したい。女川原発が海抜一五メートルの高台に建てられたのは、八六九年の貞観地震を踏まえている。だから東日本大震災でも大事には至らなかった。

 〇八年の地震予測「長期評価」が出たときも、東北電力は津波想定の見直しを進めていた。ところが、この動きに対し、東電は東北電力に電子メールを送り、津波対策を見直す報告書を書き換えるように圧力をかけた。両社のやりとりは公判で明らかにされた。

 「危険の芽からは目をそらすな」?それは原発の事業者にとって常識であるはずだ。旧ソ連のチェルノブイリ事故が示すように、原発でいったん事故が起きれば被害は極めて甚大であり、その影響も長期に及んでしまう。

 それゆえ原発の事業者は安全性の確保に極めて高度な注意義務を負う。最高裁の四国電力伊方原発訴訟判決でも「(原発の)災害が万が一にも起きないように」と確認されていることだ。

 「最大一五・七メートルの大津波」という重要なサインが活(い)かされなかったことが悔やまれる。〇四年にはスマトラ沖地震の津波があり、インドの原発で非常用海水ポンプが水没し運転不能になった。〇五年の宮城県沖地震では女川原発で基準を超える地震動が発生した。

 これを踏まえ、〇六年には旧経済産業省原子力安全・保安院と電力会社による勉強会があった。そのとき福島第一原発に敷地高一メートルを超える津波が来襲した場合、全電源喪失から炉心損傷に至る危険性が示されている。

 勉強会が活かされたらとも悔やむ。防潮堤が間に合わなくとも電源車を高台に配備するなど過酷事故対策が考えられるからだ。福島第一原発の非常用電源は地下にあり、水没は容易に発想できた。国会事故調査委員会では「明らかな人災」と厳しく非難している。

 今回の刑事裁判は検察が東電に家宅捜索さえ行わず、不起訴としたため、市民の検察審査会が二度にわたり「起訴すべきだ」と議決したことによる。三十七回の公判でさまざまな事実関係が浮かんだ意義は大きい。

 安全神話が崩れた今、国の原発政策に対する国民の目は厳しい。歴史は繰り返す。地震の歴史も繰り返す。重大なサイン見落としによる過酷事故は、やはり「人災」にも等しい。繰り返してならぬ。苦い教訓である。

中日/東京新聞社説 2019年09月20日
http://www.tokyo-np.co.jp/article/column/editorial/CK2019092002000193.html
https://www.chunichi.co.jp/article/column/editorial/CK2019092002000137.html
 
 
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東電旧経営陣無罪 原子力ムラ擁護の判決だ
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 原子力ムラに寄り添った判決と断じざるを得ない。

 2011年3月に起きた東京電力福島第1原発事故を巡り業務上過失致死傷罪で強制起訴された東京電力の旧経営陣3被告に、東京地裁が無罪の判決を言い渡した。事故回避のために原発を止める義務を課すほどの大津波の予見可能性はなかったと判示した。

 避難者が集団で国や東電に損害賠償を求めた民事訴訟では、津波を予見でき事故を回避できたとする判決が多い。

 刑事裁判では過失立証のハードルが高い。そうだとしても、未曽有の被害をもたらした原発事故で誰も刑事責任を負わないのは納得し難い。

 国は「絶対安全」と強調し、各地で原発の設置を推進した。万全の用意があって初めてそう言える。現実には、「絶対安全」だから最高水準の対策は不要という、倒錯した理屈がまかり通った。

 原子力政策を所管する経済産業省、原発を運転する東電など、産官学から成る原子力ムラは本来、原発事故に対して連帯して責任を負わなければならない立場にある。規制等を担う国と東電は「共犯」関係にあったと言えよう。

 「事故が起きないように、また起こったとしても人体や環境に悪影響をおよぼさないよう、何重にも対策が取られています」「大きな津波が遠くからおそってきたとしても、発電所の機能がそこなわれないよう設計しています」

 文部科学省と経産省が10年に発行した小学生・中学生向けのエネルギー副読本「わくわく原子力ランド」「チャレンジ!原子力ワールド」に、このような記述がある。

 政府は、教育現場を含め、さまざまな機会をとらえて「安全神話」を植え付けようとした。

 今回の判決は、自然災害に対し、事故が絶対に起きないレベルの安全性が求められたわけではない―と指摘している。政府の主張がうそ偽りだったことを改めて浮かび上がらせた。

 「あらゆる可能性を考慮して必要な措置を義務付けられれば、法令上は認められた運転が不可能になる」とも判決は断じた。事故当時、「絶対安全」を確保しつつ原発を稼働させることなどできなかったわけだ。ここでも政府の欺瞞が浮き彫りになる。

 起訴状によると、3被告は大津波を予測できたのに対策を怠り、原発事故によって長時間の搬送、待機を伴う避難を余儀なくさせるなどして、44人を死亡させたとされる。

 電源設備を高台に移し浸水しないように適切な対策を講じていれば、事故は回避できたはずだ。遺族、被害者の無念はいかばかりだろうか。市民感覚から懸け離れた東京地裁の判決である。

 本をただせば、「絶対安全」を掲げて原発建設を推し進めた、政府の国策詐欺同然の手法にたどりつく。原子力ムラの責任を曖昧にしたままでは禍根を残す。

琉球新報社説 2019年9月21日
https://ryukyushimpo.jp/editorial/entry-993462.html
http://www.asyura2.com/19/senkyo265/msg/714.html

[政治・選挙・NHK265] 柏崎刈羽原発 姑息な東電の再稼働案 
 
 あまりの厚かましさにあぜんとさせられる。

 東京電力が、新潟県の柏崎刈羽原発の7基について「6、7号機の再稼働後、5年以内に1〜5号機の廃炉も想定したステップを踏む」との方針を表明した。

 地元・柏崎市の桜井雅浩市長は、原子力規制委員会の審査に合格した6、7号機の再稼働を認める条件として、残る5基の廃炉計画を提出するよう求めていた。

 その回答がこれだ。廃炉に渋々言及したものの、実行の言質は与えずに「まず再稼働を」と地元に迫る内容である。

 福島の悲惨な事故への反省はあるのか。地元の要望に真正面から向き合おうとしない東電の姿勢は姑息(こそく)で、不信感を禁じ得ない。

 柏崎刈羽原発は2007年の中越沖地震の際、放射性物質が原発の外に漏れ出すなど大小50件のトラブルが発生した上、東電から行政への報告が遅れ、地元住民を不安に陥れた。

 福島事故後の新規制基準の下で6、7号機の審査が行われていた17年には、東電が免震重要棟の耐震性不足を規制委に報告していなかったことも発覚している。

 こうした中で2基の審査に合格を出した規制委に対し、住民から「拙速だ」との批判の声が上がったことを忘れてはならない。

 そもそも福島の過酷事故を起こした東電が再び原発を動かすことが許されるのだろうか。桜井氏が示した7基中5基の廃炉という条件でも甘すぎるぐらいだ。

 なのに東電は「1〜5号機は現時点で必要な電源」と回答し、青森県の東通原発や千葉県の洋上風力発電など非化石燃料の代替電源を確保する、といった廃炉検討の条件を逆に突き付けた。

 これでは、なるべく廃炉はしないと言っているのも同然である。

 福島の事故後に実質国有化された東電は、2年前に国とともにまとめた経営再建計画に、柏崎刈羽1〜5号機を段階的に再稼働させる方針を盛り込んでいる。

 政府のお墨付きを得たと受け止め、「再稼働するのが当然」と勘違いしていないか。

 東電は福島第1原発の廃炉や賠償を進めるために毎年5千億円の営業利益が必要だとする。

 福島の復興を遅らせてはならないが、そのために他の原発を動かすという理屈は、国民の感覚とずれている。

 国と東電は本年度中に見直す予定の再建計画で、再稼働に頼らぬ経営の在り方を打ち出すべきだ。

北海道新聞社説 2019年9月17日
https://www.hokkaido-np.co.jp/article/345250?rct=c_editorial
http://www.asyura2.com/19/senkyo265/msg/715.html

[政治・選挙・NHK265] 「もし国が認めてもノー」 女川原発再稼働に反対の町長(朝日新聞) 
朝日新聞デジタル 2019年9月22日12時28分
聞き手・井上充昌

https://www.asahicom.jp/articles/images/AS20190911001712_commL.jpg
脱原発を主張する美里町役場の横断幕

https://www.asahicom.jp/articles/images/AS20190911001725_commL.jpg
相沢清一町長


 東北電力女川原発(宮城県女川町、石巻市)から30キロ圏内にある美里町の相沢清一町長は、女川原発再稼働への反対の姿勢を貫いている。東日本大震災から11日で8年半。原子力規制委員会の審査会合が大詰めを迎える今、改めて反対の理由を聞いた。

 ――女川原発2号機の再稼働に向けた規制委の審査が大詰めです。

 「やはり再稼働はするべきでないと思う。福島の原子力事故から8年半経った今も大勢が避難している。女川原発の30キロ圏内の住民はもとより、宮城県民が原子力の安全性を本当に信頼して再稼働に踏み切るのか、心配がある。特に宮城は『農業県』なので事故はあってはならない。もし国が認めても『ノー』と言わざるを得ない。私たちには住民の命を守る責任があり、万が一の時にはその責任がとれないからだ」

 ――特に心配な点は。

 「今、いろんな災害が起こっている。安易に環境が整ったと再稼働に踏み切るのは短絡的だ。防潮堤がしっかりしていても、テロ対策はまだ十分でない。つい先日もトラブル(2号機の冷却ポンプ停止)があった。原子炉など主要設備は対策しているだろうが、今回のような付帯設備はどうか。地震でパイプなどが崩れる恐れは大いにあるのではないか。非常に不安だ」

 ――再稼働に反対するきっかけは。

 「福島の事故が起きた。それまで『原子力は安全だ。国策で絶対心配ない』と思っていた。女川も津波があと数十センチ高かったらアウトだった。これは大変なことだと、我々は突きつけられた。自治体として町民の命を守る立場で、安易に納得してはだめだろうと考えた」

 ――万が一の場合の避難計画にも懸念があります。美里町民は山形県に避難するそうですね。

 「重大災害では、全町での県外避難を考えている。最上地方の8市町村と協定や覚書を結び、町民2万5千人の避難を受け入れてもらう」

 ――山形まで行けば大丈夫ということでしょうか。

 「福島事故を教訓に、山を越えなければいけないと考えた。ただ、物資の備蓄があるかは分からない。8市町村が準備してくれると思うが、そこまで詰めていない。改めて課題も浮き彫りになった」

 ――県内では多くの自治体が仙台市などへの県内避難を計画していますが、交通渋滞や受け入れ態勢で心配があります。

 「避難計画を突き詰めると、実態には必ず問題が出ると思う。原発事故が起きる時は、地震や風水害などとの複合災害になり、県内だと避難先も被災しているケースがある。多くの避難計画に実効性をもたせるのは到底無理。だから再稼働はだめということになる」

 ――山形の8市町村とは独自で締結したのですか。

 「もともと鉄道や道路で結びつきが強く、懇意にしていた」

 ――独自の関係がない自治体は県の差配が頼りです。

 「本来は県がやるべきだと意見を言っているが、県は全然動かない。本気で女川を再稼働させていいと考えるのなら、覚悟をもって準備しないと県民に説明できないと思う」

 ――今後、どう対応しますか。

 「30キロ圏内の『UPZ』の首長同士で会合を開いている。これから本格的に再稼働について話し合いたい。全員の総意で反対を訴えるのは難しいが、最低限、周辺自治体としての考えを東北電力などに伝えたい」(聞き手・井上充昌)

     ◇

 あいざわ・せいいち 1952年生まれ。旧小牛田町出身。小牛田町議、美里町議、美里町議会議長を経て、2014年から町長。

https://www.asahi.com/articles/ASM994DFMM99UNHB00B.html
http://www.asyura2.com/19/senkyo265/msg/716.html

[政治・選挙・NHK265] 「東電裁判」と「東京裁判」・NHKと自衛隊・危険なボランティア頼み(アリの一言 日曜日記67) 
2019年09月22日
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「東電裁判」と「東京裁判」
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 福島原発事故の東京電力・勝俣恒久元会長、武黒一郎元副社長、武藤栄元副社長のトップ責任を問うた裁判で、東京地裁は19日、全員に「無罪」判決を下した。双葉町から今も避難生活を余儀なくされている斎藤宗一さんは、「悔しい。これは人災だ。それなのに誰も責任がないなんて考えられない」(NHK中継)と怒りをあらわにしたが、まったくその通りだ。

 東電トップに責任があることは言うまでもない。だが、もっとも重大な責任を問わねばならない者たちがいる。東電の無責任体制を放置し、安全神話を振りまいて原発を推し進めてきた歴代自民党政府=国だ。しかしその責任・罪は見逃されている。

 そう考えていると、「東京裁判」が脳裏に浮かんだ。侵略戦争・植民地支配の最大の責任者である天皇・裕仁は起訴されることさえなく免罪された。マッカーサーと裕仁の共謀だ。裁きの対象になったのは政府・軍部だけだった。

 最大の責任者の責任を問うこともなく免罪する。そんな日本の無責任体質は74年たっても何も変わっていない。「東電裁判」と「東京裁判」は通底している。「東京裁判」では東条英機らに有罪判決が下ったが、「東電裁判」では勝俣氏らは「無罪」だ。無責任体質は74年前より進行しているということか。

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自衛隊を頻出させるNHKニュース
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 台風15号の被害は今も現在進行形だ。そのテレビニュースの報道を見ていて気になることがある。

 1つは、NHKのニュースに自衛隊の映像が頻繁に流れることだ。復旧・支援活動を行っているのはもちろん自衛隊だけではない。とりたてて自衛隊を映さねばならない内容でもないのに、自衛隊が“活躍”している映像がよく出る。民放と比較すると歴然だ。

 災害出動で自衛隊の好感度を上げ、9条に自衛隊を明記する改憲につなげる。それが安倍改憲の基本戦略だ。NHKの災害報道はまさにそれと符合している。

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ボランティア頼みの危険
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 もう1つは、「ボランティア活動」が賛美されすぎていることだ。

 ボランティアは確かに貴重だ。被災者にとってはまさに救世主だろう。だが、ボランティアがやっていることは本来、政治・行政がやるべきことだ。政治・行政がやらないからボランティアに頼らざるをえない。

 「国家と国民」の視点でみると、ボランティアは国民の「自助努力」ということになる。本来、国家(政治・行政)がやるべきことをやらず、災害復旧も国民の「自己責任」だといわんばかりに「自助努力」にまかせる。それは国家の怠慢だ。いや、それ自体が国家による国民支配の一環だ。

 善意の発露としてのボランティアは尊い。しかしそれは、災害対策を怠ってきた、そして被災後も被災者の復旧・支援に責任をもとうとしない国(政治・行政)への怒り・責任追及を伴ってこそ、真に価値あるものになるのではないか。

https://blog.goo.ne.jp/satoru-kihara/e/da6f305cd08b46790ef272c0fada9c72
http://www.asyura2.com/19/senkyo265/msg/717.html

[政治・選挙・NHK265] 汚染水/処理水と原発事故裁判が示す不都合な現実 議論を呼ぶ海洋放出問題。問われない東電旧経営陣の責任。原発の現実を今一度直視せよ (朝日新聞社 論座) 
米山隆一 前新潟県知事。弁護士・医学博士
論座 2019年09月23日


 9月11日の内閣改造で環境大臣に就任した小泉進次郎氏が、前任大臣の原田義昭氏が原発の汚染水・処理水について「海洋放出しか方法がない」とした発言について、福島で陳謝して事実上撤回するとともに、汚染水/処理水の問題は環境省の所管外と発言。これに対し、松井一郎・大阪市長が「科学が風評に負けてはだめだ」と述べ、科学的に安全性が証明されれば「大阪湾での放出を受け入れる」旨の考えを示すなど、トリチウムを含む福島第一原発の汚染水/処理水の問題が議論を呼んでいます。

 さらに9月19日には、東京電力旧経営陣に対して福島第一原発事故の責任を問う刑事裁判の第一審で東京地裁が無罪判決を出し、話題となりました。私は、この二つの出来事は原発事故に関する極めて不都合で、しかし重要な現実を私たちに突きつけていると思います。そこで、今回はこれを論じたいと思います。

■汚染水/処理水で海洋放出を考えざるを得ない理由■
 
 まず汚染水/処理水問題です。議論はあるでしょうが、率直に言って、この問題に対する我々の実質的な選択肢は二つしかありません。一つは「放射能が減衰するまで保管(その後、海洋放出)」、もう一つはまさに話題となっている「海洋放出」です。

 「海洋放出」と言うと抵抗がある人もいるかもしれませんが、私がこれを実質的選択肢の一つと考える最大の理由は、「汚染水/処理水が安全だから」ではありません。「今なお、汚染水の発生を止める事ができないから」です。

 最大時の三分の一になったとはいえ、汚染水は今なお1日170d(経産省資源エネルギー庁のHP)、年間で62万dも発生し続けており、止めるメドは立っていません。つまり、今なお原発事故を収束するメドは立っていないのです。

 永続的にこれだけの量の汚染水が発生し続け、無限に保管場所を増やし続けることができない以上、どこかの段階で何らかの形で放出に至らざるを得ないことは、よしあしに関わらない論理的に必然の結果であって、これを回避することは不可能です。
 
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福島第一原発に並ぶ汚染水の貯蔵タンク=2019年7月10日、福島県大熊町、本社機から
 
 幸いにしてトリチウムの半減期は12.3年と短く、50年間程保管すれば、放射能は6%にまで減衰します。東電の推計によれば、現在80万tの汚染水/処理水内のトリチウムは8.0x1014Bq、その濃度はおよそ100万Bq/ℓであり、50年後には告示濃度の6万Bq/ℓ程度と、希釈することなく放出が可能な濃度になります(ちなみに自然に存在する水のトリチウム濃度 1Bq/ℓ程度まで放射能が減衰するには、250年程かかります。)。

 ただ、そのためには、現在たまっている汚染水とこれから発生する汚染水合わせて300万立方bの貯水能力、小規模なダムひとつ分の貯水能力を有する貯水設備が必要になります。汚染水/処理水を50年間保管する費用の正確な推定は困難ですが、経産省は汚染水/処理水を地下埋設(実質的に地下に貯水するということです)した場合の費用を1200億〜2500億円としており(トリチウム水タスクフォース報告書)、おおむね2000億円程度と考えられます。

 要するに、我々が「放射能が減衰するまで保管」と言う選択肢を取るなら、ざっと2000億円程度の費用と50年程度の時間を費やすしかないのです。

■海洋放出をすれば、風評被害は必然■

 もう一つの選択肢、海洋放出について、少なくとも現時点での科学的知見によると、汚染水/処理水に含まれる放射性同位元素が基準値以下のトリチウムだけであるなら、明白な健康への害はないことを私は否定するつもりはありません。

 しかし、海洋放出推進派が喧伝するような、「大阪湾、東京湾でも放出する!」「飲んでも問題ない!」といった議論は、ナンセンスだと思います。海洋放出をすれば、ほぼ100%風評被害によって福島の海産物の売り上げが大きく下がることは不可避と思われるからです。

 ただしその理由は、海洋放出推進派が言うように、科学が風評に負けたからでも、日本の消費者が不合理だからでも、「安全と安心は違う」からでも、ましてや放射能デマに騙(だま)されているからでもなく、「人はそう言うものだから」だと私は思います。

 そもそも人は、商品を合理的に選んでいませんし、安全・安心の基準も一貫したものではありません。

 例えばマグロを買う場合、大間のマグロと佐渡のマグロと東京湾のマグロが同じ値段で並んでいたら、大半の人は大間のマグロを買うでしょう。回遊魚のマグロにとって、青森沖の大間で釣り上げられるか佐渡沖で釣り上げられるかに大差はないでしょうし、安全・安心面でもまったく異ならないでしょうが、それでも人はなんとなく美味いだろうと思って、大間のマグロを選びます。

 東京湾も、人が泳げるのですから、マグロが泳ぐにも支障なく、マグロがいくら糞便性大腸菌を飲み込んだところで菌は筋肉には侵入できず、科学的には人が食べるのになんの問題もないはずです。それでも人は、東京湾でとれた東京マグロを選びません。

 ところが、例えばそのマグロを思い切って「築地マグロ」とでも命名したら、もしかして大間のマグロをしのぐ高値がつくかもしれません。「豊洲マグロ」だとその可能性はぐっと低くなると思われますが……。

 何故、「大間」が良くて「佐渡」はだめなのか、「築地」はよくて「豊洲」はダメなのか。そ議論は極めて虚しく、しいてその問いに答えるなら、「モノが溢れている現代において、人は『気分』で消費を決めるから。」とでも言うしかないように思います。

 要するに、海洋放出によって福島の海産物の売り上げが減少するだろうことは、国民への啓蒙や説明でどうにかなるようなものでは恐らくなく、いかんともしがたい人間心理によるものなのであり、こちらもほぼ必然的に発生するものだと思われるのです。
 
■原発事故から不可避的に生じたもの■

 以上をまとめると、いま生じている状況は、
(1)我々は今なお原発事故をコントロールできておらず、汚染水は永続的に発生し続けている。
(2)そうである以上、選択肢としては実質的に@海洋放出A放射能が減衰するまで保管の二つしかない。
(3)@を選択すれば、風評被害が生じるのは人間心理上いかんともしがたく、Aを選択すれば、50年以上の時間と2000億円程度の財政負担に加えて、用地選定をはじめとして様々な困難が生じるうえ、新たな風評被害は避けられないということだと言えます。

 すなわち、汚染水/処理水問題が私たちに突きつけているのは、「汚染水を安全に処理できた」ということでも、「放射能に対する国民の理解が不足している」ということでもなく、「今なお大量の汚染水が発生し続け、我々は@かAの苦渋の選択をせざるを得ない」という、「原発事故」そのものから生じた不都合な現実なのです。

 我々はとかくその不都合から目を背け、反対派は賛成派のせい、賛成派は反対派のせいにしていがみ合いますが、繰り返すと、現在の状況は、「原発事故」そのものから不可避的に生じたものであり、賛成派のせいでも反対派のせいでもありません。

■極めて危険な東京地裁の判断■

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東京電力の旧経営陣が強制起訴された裁判の判決で「不当判決」などと掲げる福島原発刑事訴訟支援団のメンバー=2019年9月19日、東京都千代田区霞が関
 
 今あらためて認識すべきことは、「原発事故」は一度起これば、汚染水/処理水問題のようなコントロール不能な様々な事態を発生させ、そのなかで我々は否応なく苦渋の選択を迫られ、そのコストを払い続けなければならないという事実です。
 だからこそ私は、二度と原発事故が起こらないように徹底的にその原因を究明し、あらゆる可能性を想定して必要な措置を講じ、それらすべてを考慮した社会全体のコストを計算したうえでなければ、再稼働の議論はできないという方針を、新潟県知事のときに打ち出してきました。

 ところが、先般の福島第一原発事故に対する東京電力旧経営陣の責任を問う裁判で、東京地裁はあらゆる可能性を想定せず、必要な措置を講じないまま原発を運転しても責任は問われないとの判決を下しました。控訴の可能性があり、判決が確定したわけではないですし、判断されたのはあくまで刑事責任の有無に過ぎないのですが、それでも私はこの様な考え方は極めて危険だと思います。

 判決とは裏腹に、「あらゆる事態を想定し、必要な措置を講じているから絶対に事故はない」という“安全神話”のもとで運転されてきた日本の原発は、開始から50年であの過酷事故を起こしました。あらゆる事態を想定せず、必要な対策を講じることなく原発を再稼働し、運転し続けた場合、次の50年に再び事故が起こる可能性は、決して低いとものは言えません。そして再び事故が起こった時、ほぼ確実に、日本の未来は閉ざされます。

 汚染水/処理水の問題と、福島第一原発事故に対する判決を踏まえ、我々は原発事故の不都合な現実を今一度直視すべきだと思います。

https://webronza.asahi.com/politics/articles/2019092100001.html
http://www.asyura2.com/19/senkyo265/msg/744.html

[政治・選挙・NHK265] 安倍総裁4選論 独裁政治招く恐れがある

 これ以上任期が延びれば1強政治の弊害がさらに拡大し、独裁につながりかねない。

 安倍晋三首相(自民党総裁)の総裁4選論が再び浮上している。11日の自民党人事で再任された二階俊博幹事長は、新役員の記者会見で、安倍氏の総裁4選について「総裁が決意を固めたときは、国民の意向に沿う形で党を挙げて支援したい」と述べた。4選を促すような発言に危機感を覚える。政権の長期化は腐敗や堕落の元凶になるからだ。

 自民党は2017年に総裁任期を連続「2期6年まで」としていた党則を「3期9年まで」に改正し、安倍氏の総裁続投を可能にした。もしさらに改正し「4期12年まで」にし、安倍氏が続投すれば、24年9月まで任期が延びることになる。在職日数が戦後最長となった安倍首相は11月に歴代最長を更新するのはほぼ確実だ。あまりにも長すぎる。

 「安倍1強」は既に「1強独裁」の様相を強めている。森友学園を巡る決裁文書改ざんや交渉記録廃棄の問題などはその表れだ。「忖度」が横行し、行政のあるべき姿がゆがめられているのは疑いない。今回の第4次安倍再改造内閣も意のままに動く「イエスマン」を起用し、閣内で異論を許さない姿勢が鮮明だ。

 この人事に自民党内からも批判の声が上がっている。冷遇された石破派の石破茂元幹事長は「わがグループは政策に精通した人が多い。そういう人を使うのは国家、国民のためだと思う」と述べた。

 そもそも安倍氏は国民目線を欠いている。内閣再改造後の記者会見で、党主導で憲法改正論議を進めるとした上で「困難でも必ず成し遂げる決意だ」と訴えた。しかし、共同通信による改造内閣発足後の世論調査では、安倍首相の下での憲法改正に反対は47・1%で、賛成の38・8%を上回っている。

 世論調査では、同じような傾向が続いているが、こうした国民世論をくみ取る態度が見えない。同様に、米軍普天間飛行場の移設に伴う名護市辺野古の新基地建設でも、反対する沖縄の民意を無視し続けている。「辺野古が唯一」と繰り返すだけで政治が機能していない。そればかりか主権者をないがしろにする政治と言うほかない。

 民意を無視して新基地建設を強行している安倍氏が4選に向かうなら、沖縄県民にとっても不幸な事態である。安倍氏は辺野古新基地建設を失策と認め、早期に退陣するべきであって、総裁4選などもってのほかだ。

 法や党のルールで多選を制限するのは政治の私物化や汚職、組織の硬直化などを防ぐためだ。自民党も、それらにつながる権力の集中を回避しようと総裁任期を定めた。米国の大統領は2期8年、韓国は1期5年までと憲法で定められている。党のルールを変えてまで延命を図るのは暴走そのものだ。注意深く監視する必要がある。


琉球新報社説 2019年9月17日
https://ryukyushimpo.jp/editorial/entry-990703.html
http://www.asyura2.com/19/senkyo265/msg/745.html

[政治・選挙・NHK265] 日の当たる場所で、ネトウヨ策動を許してはならない。(澤藤統一郎の憲法日記) 

どんな内容のニュースなのか、急には呑みこめなかった。「『朝鮮通信使は凶悪犯罪者集団』杉並区議、本会議で発言」という見出しの朝日新聞記事のこと。

「東京都杉並区の佐々木千夏区議(46)が、区議会本会議で『朝鮮通信使』について、『女性に対する暴行、殺人、強盗を繰り返す凶悪犯罪者集団』などと発言した。」というのだ。

あまりに非常識なことを堂々と言われると面食らって、何を言っているのか理解に苦しむ。真意を推し量りかねる。聞いている方が恥ずかしさを覚える。しばらくして、ようやく無知と狂信のなせる発言だと気付くのだが、こういう輩への対応は楽ではない。

ホロコーストはなかった。南京大虐殺はでっち上げだ。日本軍「慰安婦」なんていなかった。韓国併合は韓国側からの要望だ。創氏改名の強制なんてウソ。関東大震災後の朝鮮人虐殺もデマ。徴用工は厚遇を受けていた…。歴史の歪曲には事欠かない。なにしろ、歴史修正主義派の本家本元が総理大臣を務めているこの国のことなのだから。

それにしても、朝鮮通信使を「暴行、殺人、強盗を繰り返す凶悪犯罪者集団」とは、ムチャクチャも度を越している。釜山の朝鮮通信使歴史館には2度行った。木浦に係留されている通信使船の復元船も見学した。この船は、今年(2019年)夏に、対馬から瀬戸内海を通って大阪港までの親善航海の予定だったが、日韓情勢の悪化の中で断念を余儀なくされている。残念なことだが、それに追い打ちをかけるような、ネトウヨ区議の誹謗発言。この愚かな議員は、今韓国を攻撃する発言は何でもありで許されると思い込んでいるごとくである。

荒唐無稽な非常識発言はネットの世界には氾濫している。匿名に隠れた「ネトウヨ」と名付けられた無責任な放言。佐々木千夏という人は、こともあろうに、ネトウヨの本性を持ったままの発言を、区議会の議場で行ったのだ。闇の世界にうごめいていたネトウヨの一部が、光の世界に越境を試みたというべきだろう。

この発言は、9月12日の杉並区議会本会議一般質問でのこと。朝日は、「佐々木区議は、同区で使われている社会科教科書の記載について、『朝鮮通信使が歓迎を受けたというのは、全くのうそ。女性に対する暴行や殺人を起こしている』『創氏改名も全くのうそ』などとして、副読本を配ったり、教員への勉強会を開いたりするよう求めた。区教育委員会は『文部科学省の教科書検定に合格したもの。補足説明する必要はない』と答弁した。」と報じている。

私は我慢して、同区議の一般質問の動画を閲覧した。狂信的にまくし立てる人物なのだろうとの思い込みは外れて、自信なげに,おどおどとした態度に終始していた。それでも、用意した原稿で、トンデモ狂信発言を繰り返した。

動画のマイクは議場からの発言を拾ってないが、何度も「根拠を示せ」と野次が飛んだ様子である。この狂信者はこれに対して「事実なんですから」と何度も繰り返し、「事実の根拠を示せ」という野次に、「識者がそう書いている」と言った。識者として名があがったのが、竹田恒泰・青山繁晴・百田尚樹の3人。この3人、自分たちの発言の影響力に満足しているだろうか。それとも不名誉なことと思っているだろうか。

同区議は、この発言直後の朝日新聞の取材に、「歴史的事実なので、発言を取り消すことは考えていない」と答えている。が、同じ朝日記者の続報では、9月20日に、議会事務局に対して、差別的な発言にあたると指摘された3カ所を削除する申し出をした。ただ、朝鮮通信使など歴史認識の部分については削除を申し出ていない。

同区議の削除の申し出は、次の文言を含む3カ所だという。
(1)「帰化人とか朝鮮人が中にいるから、こうした教科書がまかり通っているんです」
(2)「どうして歌舞伎町の一等地が朝鮮人のものなのでしょうか」
(3)「殴られたりいじめを受けたり、そうした相談が来ています」

いずれも、検証可能な命題。到底、検証に堪えないと考えたのだろう。朝鮮通信使など歴史認識の部分については、通説とは異なった独自の説を堂々と言ってのけたのだ。当然、自らが立証の責任を負うことを自覚せねばならない。

なお、佐々木区議は4月の区議選で、「NHKから国民を守る党」から立候補し初当選。その後、N国から除名された人物。現在は、「正理の会」に所属しているという。正理の会とは宗教団体とのこと。杉並区民のうちの2720人よ。このような狂信的人物と知って、投票したのか。

この「佐々木千夏現象」をどうみるべきか。「たまたまマグレ当選した区会議員の無知と狂信によるたわ言」と軽視してはならない。こんなトンデモ発言も、大きな声で繰りかえされれば、歴史の評価の相対化に使われる。

先月(2019年8月)、「日本兵が撮った日中戦争」写真展の企画に多少のお手伝いをした。文京区教育委員会に、その写真展の後援を申請したところ、不承認とされた。いまだに、正式には理由は明らかにされていない。が、非公式には「政治的にいろんな立場があるから」と聞かされてはいる。なぜ、「いろんな立場があるから」写真展の後援申請を不承認とするのか、そこまでの説明はないが、「いろんな政治的立場」への配慮が必要だと行政は言いたいのだ。佐々木区議流のトンデモ発言も、行政からは「政治的ないろんな立場」の一つにカウントされることになる。意見の分布は、とんでもなく右にずれることになるではないか。

徹底して、同区議の責任を追及したいものと思う。
(2019年9月22日)

http://article9.jp/wordpress/?p=13366
http://www.asyura2.com/19/senkyo265/msg/746.html

[政治・選挙・NHK265] 嫌韓とメディア 反感あおる風潮を憂う

 日韓関係をめぐる評論活動が活発になっている。摩擦が端緒とはいえ、近隣外交の論議が高まるのは結構なことだ。

 ただ、最近顕著になっている論じ方には憂慮すべき点が少なくない。とりわけ、「嫌韓」と呼ばれる韓国への反感をあおるような一部メディアの風潮は、いかがなものか。

 日本と朝鮮半島との交わりには長く深い歴史がある。文明の伝播や交易などで双方が利を得た時があれば、日本が植民地支配をした過去もあった。

 争いは双方の国際的な立場を弱め、協調すれば共栄の可能性が高まるのは必然の理である。

 ところが一部の論評では、この隣国を感情的に遠ざけるような言葉が多用されている。

 たとえば、「憤激と裏切りの朝鮮半島/日韓断絶」(文芸春秋10月号)、「202X年韓国消滅へのカウントダウン」(WiLL4月号別冊)など。

 小学館が発行する週刊ポストは今月、「厄介な隣人にサヨウナラ/韓国なんて要らない」と題した特集を組んだ。

 関係が悪化するなか、あるべき外交をさまざまな角度から提起するのはメディアの役割だ。しかし最初から相手国への非難を意図するものでは、建設的な議論につながらない。

 週刊ポストは「怒りを抑えられない『韓国人という病理』」との記事も載せた。当該論文を紹介しているとはいえ、韓国人という括りで「病理」を論じるのは民族差別というべきだ。

 テレビでも、否定的な論調が目立つ。TBS系のCBCテレビの情報番組では先月、韓国で日本人女性が髪をつかまれたとされる件にからみ、出演者が「日本男子も韓国女性が入ってきたら暴行しないといかん」と発言し、番組が謝罪した。

 もし出版物の販売促進や視聴率狙いで留飲を下げる論旨に走るのならば、「公器」としての矜持が疑われる。

 政治の責任もむろん重い。両政府とも相手を責めるのみで、問題があっても善隣関係をめざす原則は語らない。国内世論の歓心をかいたい政権とメディアの追随が、重奏音となって世論を駆り立てるのは危うい。

 戦前戦中、朝日新聞はじめ各言論機関が国策に沿い、米英などへの敵対心と中国・朝鮮などへの蔑視を国民に植え付けた。その過ちを繰り返さないためにも、政権との距離感を保ち、冷静な外交論議を促す役割がメディアに求められている。

 自国であれ他国であれ、政治や社会の動きについて批判すべき点を批判するのは当然だ。ただ論議の礎には、あらゆる差別を排し、健全な対外関係を築く視座を揺るがせてはなるまい。


朝日新聞社説 2019年9月16日
https://www.asahi.com/articles/DA3S14179020.html?iref=comtop_shasetsu_02
http://www.asyura2.com/19/senkyo265/msg/747.html

[政治・選挙・NHK265] ナチ前夜なのか?ワイマール憲法100年、ある共通点(朝日新聞) 
朝日新聞デジタル 2019年9月21日20時00分 大内悟史

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1936年のベルリン五輪で一斉に右手を上げて敬礼する観衆

https://www.asahicom.jp/articles/images/AS20190920001802_commL.jpg
ワイマール憲法の100周年を祝う2月の式典で市民とふれあうドイツのシュタインマイヤー大統領=AP

 ドイツにいま、戦前のワイマール憲法を再評価しようとの機運があります。公布・施行から今年でちょうど100年。ナチスの台頭を防ぐことができなかったと揶揄されることもあった憲法なのに、なぜ? 背景には、皮肉にも、ナチズム再来に対する警戒感があるようです。今と当時を安易に比べる必要はないという姿勢の専門家がいる一方で、ある共通点を指摘する声も出ています。

■ワイマール憲法、現大統領も「評価」する理由

 100年前の1919年、憲法制定のための国民議会が開かれたドイツ中部の都市ワイマールで今年2月、演説に立ったシュタインマイヤー大統領はこう述べました。「個人の自由を実現し、(第1次世界大戦の)戦後の危機の真っただ中に、より良い公正な社会のビジョンを生み出した」。男女普通選挙や教育の平等、生存権などを掲げ、戦後にできた基本法(憲法)に通じる民主性と先進性を備えていたワイマール憲法の「良い面」に着目し、強調した発言です。高級紙フランクフルター・アルゲマイネも「かつては呪われ、今では感謝」などの論考を載せました。

 「悪い時代の良い憲法」とも言われるワイマール憲法が注目される理由はなにか。ひとつには、2015年の難民危機以来、欧州を覆う移民や難民を排斥しようとする動きが挙げられます。ドイツでも、大連立を組む2大政党に次いで、直近の総選挙での得票率が12・6%の新興右翼政党「ドイツのための選択肢(AfD)」が今や野党第1党になりました。大統領の発言の背後には、AfDがワイマール以来の憲法が大切にしてきた人権などの理念を敵視し、ナチズムへの反省とともにあった戦後ドイツの政治文化をないがしろにしようとしていることへの懸念があるとの見方があります。新聞やラジオでは「ナチズムは再来するのか?」をテーマに歴史家や政治学者、記者らが議論。それをまとめた本(原題「ワイマール状況?」)も昨年出版され、話題になりました。

■「ナチ前夜」……こちらは有料会員限定記事です。残り:1289文字/全文:2100文字

https://www.asahi.com/articles/ASM9N6J2PM9NUCLV011.html
http://www.asyura2.com/19/senkyo265/msg/748.html

[政治・選挙・NHK265] 『帰ってきたムッソリーニ』の日本版は誰が主役? ムッソリーニの言葉が今の日本人に突き刺さる (朝日新聞社 論座) 
古賀太 日本大学芸術学部映画学科教授(映画史、映像/アートマネジメント)
論座 2019年09月20日 より無料公開部分を転載。

 
 最近は映画界でも「忖度」がはびこっているようだ。安倍政権を批判していると話題になった6月28日公開の『新聞記者』でも、2社がその制作を引き受けるのを断ったことをプロデューサーの河村光庸氏が朝日新聞の取材に答えている(https://digital.asahi.com/articles/ASM725JF0M72ULZU00L.html)が、最近、個人的に少し似た経験をした。

 9月20日公開の映画『帰ってきたムッソリーニ』(http://www.finefilms.co.jp/imback/)のプレスシートとパンフレット用の文章を配給会社から依頼されて原稿を送ると、後半の数行を削除するか直して欲しいと返事がきた。文章を読んでもらえばわかるが、『帰ってきたヒトラー』というドイツ映画もあったので、さて日本で作るとしたらどうなるだろうかと考えたくだり。昭和天皇や東条英機の名前を出した部分が問題となった。配給会社としては特に昭和天皇の名前を出すことに抵抗があったようだ。令和の時代が始まって皇室に注目が集まっていることに配慮したのだろう。

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『帰ってきたムッソリーニ』=公式サイトより

 もともとこの映画は、ムッソリーニが現代に蘇ったらという仮定で作られたものである。実は既に、ティムール・ヴェルメシュ著『帰ってきたヒトラー』(原著は2012年、邦訳は2014年)を元にドイツ映画『帰ってきたヒトラー』(デヴィッド・ヴェンド監督、2015年、日本公開は2016年)が作られている。『帰ってきたムッソリーニ』はこれをイタリアに移し替えた作品で、ヒトラー、ムッソリーニと来たら、やはり日本は誰だろうと考えるのが普通だと思ったので、文の最後にそのことに数行触れた。

 すると前述のような反応が返ってきた。最初は応じようかと思ったが、このような「忖度」を受け入れることは検閲につながると考えて、あえて文章を変えないことにした。一般観客は読まないプレスシートでは昭和天皇のくだりを省略し、パンフでは元に戻す提案もしたが、受け入れてもらえなかった。結局、原稿料は払うが載せないという先方の提案を受け入れた。あくまでエンタテインメント映画として見て欲しく、政治色は出したくないという意向だった。

 この映画は『帰ってきたヒトラー』より明らかに監督の皮肉が効いていておもしろい映画だと思う。ぜひ多くの人に見て欲しいが、このようなことがあったことは明らかにしておきたいと思った。もちろんこの重要な映画を買い付けて日本で公開した配給会社には感謝している。ここに私が送った文章を載せるのは、ぜひみなさんで映画を見てこの文章が行き過ぎかどうか考えて欲しいと思ったからである。

 またイタリアから数本のDVDを取り寄せて書いた解説なので、私の映画史的知識も含めてたぶんほかでは得られない情報もあると思う。監督がイタリア映画祭で来日した時に会場で自分で質問したり、その後直接個人的に聞いた話も含んでいるし、かなり手間をかけた文章だと自負している。以下、全文を掲載する。

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「ファシズムではなく、今のイタリアを見せた」
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 近年、ヒトラーを扱った映画はドイツを始めとして毎年のように作られるが、ムッソリーニの出る映画はイタリアでも少ない。最近だとマルコ・ベロッキオ監督の『愛の勝利を ムッソリーニを愛した女』(2009)が記憶に新しいが、これはムッソリーニよりも愛人のイーダ・ダルセルが中心だ。それ以前だとフランコ・ゼフィレッリ監督の『ムッソリーニとお茶を』(1998)があるが、題名に(原題も同じ)ムッソリーニの名前があるのに、出るのはほんの2、3分。唯一カルロ・リッツァーニ監督の『ブラック・シャツ/独裁者ムッソリーニを狙え!』(1974)はムッソリーニの末期を描いているが、そのほかはTVやドキュメンタリーを除くとこれまで10本もないのでは。
 
 一時期はヨーロッパの大半を占領し、何百万人ものユダヤ人を虐殺したヒトラーに比べたら、ムッソリーニは小さな存在だ。そのうえヒトラーは見た目も特徴がはっきりしていて、カリカチュアもしやすい。ドイツ人はヒトラーに一斉に従って、戦後は全否定した。イタリアではムッソリーニに対して当時から反対運動があったし、逆に今でも信奉者が普通にいるという。そんな曖昧な感じがあるので、容易に映画化はできないのだろう。

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イタリアを訪問、ローマでイタリア軍を閲兵するヒトラー・ドイツ総統(前列中央)。左はムッソリーニ・イタリア首相、右はイタリア国王ヴィットリオ・エマヌエーレ1938年5月

 『帰ってきたムッソリーニ』(2018)はドイツ映画『帰ってきたヒトラー』(デヴィッド・ヴェンド監督、2015)と同じくティムール・ヴェルメシュ著『帰ってきたヒトラー』(原著は2012年、邦訳は2014年)の映画化だが、監督のルカ・ミニエーロは、現代イタリアを描く喜劇の名手として知られている。日本でも『おとなの事情』(2016)や『ザ・プレイス 運命の交差点』(2017)で知られるパオロ・ジェノヴェーゼ監督と共同監督で3本を作っているが、今回の作品は、監督によればプロデューサーが彼を指名したという。

 実は彼の最初の単独監督長編『南部へようこそ』(Benvenuti al Sud、2010、日本未公開)もリメイクだった。これは2000万人以上が見たフランス映画史上最大のヒット映画『シュティの国へようこそ』(Bienvenue chez les Ch'tis、2008、日本未公開)を換骨奪胎して南イタリアに舞台を移し、その年のイタリア映画一番のヒットとなった。さらに続編の『北部へようこそ』(Benvenuti al Nord、2012)も大ヒット。

 ミニエーロ監督の「換骨奪胎」ぶりは『帰ってきたムッソリーニ』でも健在だ。ヒトラーの代わりにムッソリーニが現代に現れて、新聞店で一夜を過ごし、テレビの契約ディレクターに目をつけられてテレビ出演を果たして有名になるという大筋は同じ。その後にかつて犬を殺した映像が出てきて非難の的になるが、復権を果たす結末も。これは原作にほぼある。

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[政治・選挙・NHK265] 朝鮮戦争に日本人も戦闘参加していた―NHKBS1スペシャル(アリの一言) 
2019年09月24日
     

 NHKBS1スペシャル「隠された“戦争協力”朝鮮戦争と日本人」(8月18日放送)のビデオを先日見ました。実際の調書・写真、数々の当事者の証言をもとにした内容は、十分信用性があると思われます。
 
 そこで明らかにされた事実は、日本の戦後史を塗り替えると言っても過言ではないほど重大です。それは、「6・25戦争(朝鮮戦争)」(1950年〜53年休戦)で、日本人(少なくとも70人以上)がアメリカの部隊に加わって参戦し、武器を持ち、朝鮮人を殺害し、自らも負傷・戦死していた、という事実です。

 これまで朝鮮戦争と日本のかかわりについては、日本の米軍基地が出撃拠点になり、日本が兵器の修理・補充の後方支援を行い、さらに日本人が機雷封鎖や海上輸送に船員として加わっていたことなどが明らかになっていました。日本人が朝鮮半島で戦闘に加わっていた事実が明らかになったのは初めてでしょう。

 平和主義(前文、9条)の現行憲法下での日本(人)の戦争参加という点でも、また朝鮮半島分断の契機となった朝鮮戦争に日本(人)が文字通り直接かかわっていたという点でもきわめて重大です。

 番組の発端は、オーストラリア国立大のテッサ・モーリス・スズキ名誉教授(写真中)が朝鮮戦争の武器を製造していた日本企業を調査している中で、米軍部隊に加わっていた日本人に対する尋問調書(写真左)があることを発見したこと。

https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/3f/a2/0e1f3fa9ed60f9604fd47b3615570e60.jpg(写真中)
 
https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/45/d6/3653e686051a5096076e7afba5b3007c.jpg(写真左)

 尋問は1951年から約1年かけて、70人に対して行われ、調書は1033nに及んでいます。尋問内容は「極秘」とされ、尋問を受けた日本人は「絶対口外しない」という誓約にサインさせられたため、家族にも話さず、これまで公になることはありませんでした。

 なぜ日本人がアメリカの部隊に加わったのか。

 それは彼らが占領軍だった米軍の在日基地で働いていたからです。例えば、上野保さん(当時20歳、29歳で死去)は北九州のキャンプ・コクラで、通訳として勤務していました。朝鮮戦争勃発とともに駐留部隊の大半が出兵するのに伴い通訳として同行することにしました。朝鮮半島では日本語の通訳が必要とされる一方、日本にいたのでは収入がなくなるからです。

 ところが、戦闘が激しくなり、通訳のはずの上野さんに「カービン銃と弾薬120発」が渡されました。上野さんは米軍の尋問に、「朝鮮人を何人殺したか分からない」と答えています。

 殺したのは「北朝鮮兵士」だけではありませんでした。上野さんと同じ部隊にいた元米軍兵士は今回のNHKの取材に、「(朝鮮の)避難民たちも無差別に殺戮した」と証言しています。

 通訳のほか、炊事係として加わった日本人もいました。キャンプ・コクラのほか、キャンプ・ハカタや青森の基地からも参加しました。

 朝鮮半島の戦闘で戦死した日本人もいました。平塚重治さん(写真右)は六本木の米軍基地に勤めていましたが、家計を支えるために「手当の多い従軍」に加わり、激戦地テグに近いカサンで銃撃にあい、死亡しました。

https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/74/6b/e8cbfc3afb1573fe27fc154478b73257.jpg(写真右)

 のちに遺族はアメリカに経過を問い合わせましたが、米軍から送られてきたのは1枚の写真と1通の手紙だけでした。手紙には平塚さんが「変装して無許可で密航した」と記されていました。米軍とのかかわりを否定するため、戦死した日本人の平塚さんを犯罪者扱いしたのです。

 こうした事実はNHKの報道(しかもBS)にとどめることなく、国会でも徹底的に追及・究明される必要があります。

 そして、私たち日本人は、朝鮮戦争、その結果としての朝鮮半島の分断に、アメリカとともに(アメリカに従属して)直接かかわっていたという歴史の重大さを、1人ひとりがかみしめ、今・今後に生かしていく責任があるのではないでしょうか。

https://blog.goo.ne.jp/satoru-kihara/e/33cc5b190ac03554b839cf7ac18488f7
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[政治・選挙・NHK265] 敗北を「勝利」と思い込む革新派(ちきゅう座) 
2019年 9月 24日
<阿部治平:もと高校教師>

――八ヶ岳山麓から(291)――

7月の参院選から3ヶ月たった。第4次安倍内閣の改造も終わった。いまさら参院選について何か言うことは気が引けるが、私は野党連合・国民民主党の羽田雄一郎氏当選のために、乏しい年金の中から(ほかに革新政党がないから)村の共産党に1万円を寄付した。だが、投資効果の少なさのために「ソンした」という気持を抑えきれないので、この際あえて発言する。

◆ 

本ブログには8月14日から3回広原盛明氏の詳細な参院選総括が掲載された。氏は「(参院選の)注目点は、第1が投票率が50%を割ったこと、第2が護憲勢力が相対的に後退し、なかでも左派勢力の中心である共産と社民が大量票を失ったこと、第3が1人区において野党統一候補が善戦し改憲勢力3分の2を阻止したものの野党勢力の伸長には繋がっていないことである」といっている。

◆ 

投票率が低かったのは、無党派層のかなりが、どうせ野党勝利はないと見たからだと私は思う。「選挙なんか行かない」という親戚にわけを聞いたら、「自民党は嫌だが、野党は勝てない。世の中は変らない」といった。
 
参院選直前、安倍晋三氏が衆参同時選挙に言及したときに、立憲民主党の枝野代表は「衆院解散なら受けて立つ」と応じた。枝野氏には同時選挙の準備がないのだから空威張りである。別な友人はこれを「強がりをいってらあ」と笑った。
 
安倍晋三首相は森友・加計問題では国会審議を逃げ回っていたのに、いけしゃあしゃあと「憲法改正を議論する政党を選ぶのか、それとも議論しようとしない政党を選ぶのか」と野党を挑発した。枝野代表の答えは「国民に必要な改正なら議論する」というものだった。なぜ「森友・加計問題を議論する党を選ぶのか、逃げ回っている党を選ぶのか」と応戦しなかったのか。
 
日本では、首相は自分に有利な時、いつでも衆議院を解散できるという憲法7条の解釈がまかり通っている。なぜ枝野氏は「改憲をいうなら、まず7条解釈を変えるべきだ」と反論しなかったか。選挙論争で腰が引けていては困る。

◆ 

私が接触した人々の間には、民主党政権失政の記憶が強く残っていた。野党が伸びなかった理由のひとつである。枝野氏は3・11東電原発事故の際内閣官房長官で、放射線量について毎日「直ちには健康に影響ありません」と非科学的なことを言い続けた人物である。あの失政の影響を払拭するためには、立憲民主党は立党の功労者であっても、ゆくゆくは代表を変えたほうがよい。
 
さらに野党共闘は、参院選に臨んで憲法・原発・日米関係など基本路線がまるで違う政党が連立内閣を作ったとき、どのような姿になるのか、それを示さず、共闘によって議席を増やすことだけを考えていた。これでは万が一勝利しても、民主党政権と同じような混乱がおきると人は見るだろう。

◆ 

先月、本ブログで岩垂弘氏の紹介による「護憲団体が参院選を総括」(8月5日)を読んだ時にはためいきが出た。
 
「安保法制の廃止と立憲主義の回復を求める市民連合(市民連合)」の総括は前半で、この選挙では、多くの地域で市民と野党の共闘が実現し、32の1人区で10議席を獲得でき、改憲勢力の3分の2を打破することができた。自民党が現有議席を確保できず、参議院における単独過半数を失った、憲法改正を訴えた安倍晋三首相の路線が否定された、と述べている。
 
岩垂氏はこれを「まさに、“勝利宣言”とみて差し支えないだろう」と判断している(氏がこれに同意しているわけではない)。「九条の会」の総括も「市民連合」と同じ趣旨である。
 
選挙後の記者会見では枝野氏も共産党の志位氏も、野党共闘の成果を強調した。だが立憲民主党の議席は増えたが、国民民主党と共産党は減った。野党間で議席のやり取りをしたに過ぎない。
 
自民党は前回参院選のできがよすぎたから、議席の若干の減少は織り込み済みだった。むしろ他党派が改憲に賛同したほうが国民の支持を得やすい。改憲まであと4議席あれば足りる。??ほら、国民民主党の改憲派がすぐそばにいるではないか。

◆ 

8月末に国民民主党は参院選総括の中間報告を出し、あれこれの理由を挙げて敗北を認めた。
 
だが立憲民主党は総括をいまだやっていない。党内事情はわからないが、選挙をやったら結果を分析し教訓とするという、政党としての最低の手続きがなぜできないか。この党は国会議員のおしゃべりクラブにすぎないのか。
 
とはいえ、安倍政治を終わらせようとすれば、われわれには立憲民主党を大きくする以外に方法がない。朝日新聞の世論調査では、過去3年の安倍内閣の世代別の支持率は、18〜29歳の男性は57・5%、30代男性は52・8%。男女の全体は42・5%だった。不祥事が起きても、この世代の支持率は一時下がってすぐに回復するという。党勢拡大を図るなら、若者を引き付け、将来への夢を与える政策と活動が必須であることがわかる。
 
国会では野党議員が安倍内閣閣僚の食言を金切り声で糾弾し、揚足取りをするが、われわれはもうあきあきしている。そういう時代はすでに終ったのだ。糾弾一辺倒は、対案を提起する能力のなさの裏返しである。
 
◆ 

新しい路線は、新自由主義・アベノミクスの手直しではなく、これを画期的に転換する経済・社会政策でなければならない。またそれを一口で表現できる政治スローガンが必要である。
 
それは経済の低成長のもと、1000兆円を超す財政赤字対策、食料とエネルギー自給率の向上、年金を含めた高度の社会福祉という、解法の困難な多元方程式の解を求めることにならざるを得ない。いま立憲民主党はこの課題に急いで取りくんでほしい。
 
さらに政治路線やスローガンを決めるときは議員だけでなく、一般有権者が参加する開かれた討論をやって支持を広げてほしい。そのためには都道府県レベルで地方活動家を養成し、市町村に支部組織を作らなければならない。そうしてこそ右翼的労組に気兼ねをしない、真の国民政党へ脱皮できると思う。

◆ 

広原氏が「左派勢力の中心である共産と社民が大量票を失った」と指摘したことについて、私もひとこと言いたい。

社民党は、もはや風前の灯火である。かつてソ連や中国を礼賛して人望を失い、選挙では労組に頼りすぎたために、いま支持基盤をほとんど失っている。

共産党は、参院選の得票が2016年よりも150万票の減少、大阪では衆院補選と参院選で惨敗を重ねたというのに、その総括を避けて「健闘した」とごまかし、志位委員長ら指導者は敗北の責任をとろうとしていない。共産党幹部は堕落している。

小池書記局長の7月の党会議への報告では、2017年総選挙時30万いた党員は現在7300人減、「赤旗」読者1万5000人減、同紙日曜版7万7000人減だという。これは1960年代、70年代入党者の高齢化と自然死がつづき、若者の入党が極端に少ないのだから当然の結果である。

共産党に対する国民の支持が限られたものである最大の理由は、ソ連の崩壊と中国共産党の専制政治を目の前に見て、社会主義・共産主義に何の魅力がなくなったこと、さらに私の経験からいえば、今どきの若者は閉ざされた組織体質を好まない。

党員は党の決定と異なる意見を公表してはならないとか、下級は上級に従うべしとか、異なる支部間の意見交換は許さないとか、さらに機関紙の拡大などで党員が上からしょっちゅう尻を叩かれているのをみれば、たいがいは尻込みする。

もし共産党が社民党の運命を避けたければ、いまや賞味期限の来た党名と政治路線、組織原則をみなおすべきだと思う。

60年ほどむかし、社共両党の連合政府をゆめみたものとしては、両党の衰弱はじつに残念だ。いまこそ自らのおかれた位置をよく見て、迫りくる破局と戦うべく、体制を刷新してもらいたい。そうすれば私は生活費を削ってでも、また村の共産党に1万円を寄付するつもりである。
 
 
初出:「リベラル21」より許可を得て転載http://lib21.blog96.fc2.com/

〈記事出典コード〉サイトちきゅう座http://www.chikyuza.net/
〔opinion9019:190924〕

http://chikyuza.net/archives/97284
http://www.asyura2.com/19/senkyo265/msg/781.html

[政治・選挙・NHK265] 膨らむ内部留保 活用促す手だてが要る

 大企業が稼いだお金をため込むばかりでは困る。

 企業の利益の蓄積である内部留保が昨年度に463兆円となり、7年連続で過去最高を更新した。

 それなのに、稼ぎを従業員の賃金などに充てた割合を示す労働分配率は下がり続けている。

 世界経済の先行き不透明感から設備投資にも陰りが見える。

 大規模金融緩和がもたらす円安や、法人税減税などの優遇策で大企業の業績改善を促し、賃上げや設備投資を通じ経済の好循環を図る。安倍晋三政権はそう訴える。

 だが内部留保が積み上がるばかりで一向に賃金に回らない。賃金低迷と生活物資の値上がりで家計は節約に走り、消費が伸びない。

 これでは企業が経済の好循環を阻んでいると言わざるを得ない。

 政府は企業税制の見直しを含め、内部留保を賃金や投資に振り向ける方策を検討すべきだ。

 内部留保が増える背景には、企業が危機に備え手元の現預金を手厚くする傾向が強いことがある。

 リーマン・ショックの際に優良企業でさえ資金繰りに苦心した記憶があるのだろうが、ここまで膨らむのは度を越していないか。

 賃金を上げる、生産性向上へ設備や研究に投資する、取引先の中小企業に無理な値下げを求めず利益を適正に分け合う。それが経済の好循環を生み、自社にもプラスに働くことを忘れてはならない。

 加えて看過できないのは、企業が法人税減税の恩恵を還元せずに内部留保の積み増しに回していることである。

 法人実効税率は政権発足直後の37%から29%台に下がった。

 国の税収構造を見ると、法人税の割合が下がる一方、低所得者らの負担が重い消費税が増え続け、今や消費税収は法人税収の1・4倍を超す。10月に消費税率が上がれば、その差は一層拡大しよう。

 しかも、法人税減税は中小などの赤字企業には恩恵がない。低所得者らの負担を増やし、もうかっている大企業をこれ以上優遇することに国民の理解は得られまい。

 政府は企業の賃上げを減税で後押しする税制も続けているが、確たる成果は見当たらない。

 一体、何のための法人税減税か分からない。先の衆院選では、米国のように内部留保への課税を訴える党も出た。そうした声を政府は重く受け止める必要がある。

 政府は経営に介入することに慎重であるべきだ。しかし、偏った所得分配を税制で是正するのも政治の重要な役割ではないか。


北海道新聞社説 2019年9月16日
https://www.hokkaido-np.co.jp/article/345067?rct=c_editorial
http://www.asyura2.com/19/senkyo265/msg/799.html

[政治・選挙・NHK265] 消費税の「毒」が回る日本でいいのか 逆進性が消費と経済を委縮させ、格差を広げる(朝日新聞社 論座)
小此木潔 上智大学教授(政策ジャーナリズム論)、元朝日新聞論説委員
論座 2019年09月17日 より無料公開部分を転載。

https://image.chess443.net/S2010/upload/2019091200003_3.jpg
拡大政府税制調査会長を1990年から2000年まで務めた加藤寛氏=1993年5月14日

 「消費税には毒がある」と言い続けた政府税制調査会長がいた。故加藤寛・慶応大学教授である。税率3%の消費税を日本で初めて導入した時の立役者(間接税特別部会長)で、会長就任後は税率5%への旗振り役だった人物だ。消費税は必要だとの信念を持ちながらも、その弊害を懸念していた。いまや消費税率10%の日本で、「毒」は日本経済全体に回ろうとしている。多くの人々がその弊害を実感する段階を迎えたのである。

 加藤氏の言った「毒」とは、消費税の「逆進性」のことである。所得に対する税負担の割合が高額所得者よりも低所得者の方が高いという問題である。所得の高い人ほど高い税率で負担する「累進構造」を持つ所得税と比べてみれば、わかりやすい。しかも1989年4月の消費税導入以来、「直間比率是正」の掛け声のもと、直接税である所得税や法人税を減税し、間接税である消費税の税率を5%から8%、さらに10%と引き上げることで、逆進性の毒は一段ときつくなってきた。それなのに我々はそのことをほとんど議論しないで済ませてきた。

 ノーベル賞経済学者ジョセフ・スティグリッツ教授(米コロンビア大学)が数年前に来日した際のインタビューで、消費税について「バッド・タックス(悪い税)」と呼び、「増税するなら炭素税にすべきだ」と語ったのも、逆進性を問題視したことによる。教授の著作『公共経済学』では、逆進性について「貧しい人たちが裕福な人たちよりも高い所得割合を税金として支払う」「便益が金持ちに余分に帰する」と説明し、累進構造の所得税を主な税源としている米国のやり方が先進国にふさわしいとしている。

 消費にかかる税の逆進性をすでに19世紀に指摘したのは、シュレジエン(現ポーランド)生まれの社会主義者ラサールであった。古典的著作『間接税と労働者階級』で彼は、人より100倍も富んでいるからといってパンや肉、燃料などを100倍も消費しているわけではないという例を挙げて逆進的な税制が富裕層に有利であると指摘。「すべての間接税の総額は、個人にその資本と所得とにおうじて課せられることなく、その圧倒的に大きな部分についてみれば、国民中の無資産者や比較的貧困な階級によって支払われていることになるのです」と述べている。

■増税で強まる税制の逆進性■

 消費税率を引き上げれば富者優遇の度が増す。まして法人税や累進的な所得税を減税しながらそうしてきた日本は、税制を逆進的つまり金持ち優遇へとさらに「改革」しようとしているのである。

 世界的な不平等に関するベストセラー『21世紀の資本』を書き、税の累進構造の復活・強化を説いているトマ・ピケティ教授(パリ経済大学)が、来日した際に日本記者クラブでの会見で「消費増税に賛成しかねる」と述べたのも、当然の成り行きだったが、日本の政治家も官僚もマスメディアもほとんど耳を貸そうとはしなかったことが悔やまれる。

 逆進性という消費税の「毒」の具体的な表れは、増税分が価格に上乗せされるので、所得の低い人ほど消費を切り詰めざるをえなくなるということである。日本経済の成長力が十分にあった時代には、そうした困難も賃上げによってある程度克服されてきた。ところが、デフレ不況に加えて雇用の規制緩和や高齢化で所得の不平等化が進み、消費税の「毒」に対する抵抗力が失われてしまった。さらに安倍政権の経済政策によって、円安誘導で輸出企業の採算は好転したが、輸入物価の上昇が消費を圧迫した。2%という物価目標を実現できていないにもかかわらず、実質賃金は目減りを続けてきた。前回の消費税率引き上げで消費が落ち込み、なかなか回復しないのもこのためである。

 軽減税率を導入すれば、しない場合に比べるとましなようにも見える。しかし、税収に占める消費税の割合はますます高くなることは確かである。このため、全体として見れば、逆進性をもつ消費税の比重が増すことによって、日本の税制は逆進性がさらに強くなってしまうのである。

 振り返れば、1990年度一般会計の税収総額60.1兆円のうち、消費税収は4.6兆円にとどまり、所得税収は26.0兆円、法人税収は18.4兆円であった。つまり、税収に占める消費税収の比率は7.7%にすぎなかった。第二次安倍政権が発足した2012年度には、消費税収は10.4兆円で税収の23%を超え、2018年度には税収総額60.4兆円の内訳は所得税収19.9兆円、消費税収17.7兆円、法人税収12.3兆円で、消費税は税収全体の29.3%を占めるに至った。税率10%となれば、消費税収は20兆円を一気に超えて税収の30%以上を占め、文字通り税収の大黒柱になるはずである。

 だがそれは、決して喜ぶべき話ではない。直間比率の是正も行き過ぎて、もはや逆進性の毒が回る段階を迎えたことに危機感を抱くべきである。なぜなら、毒がもたらす影響、つまり消費の低迷や格差拡大、景気に対する下押し圧力によって日本経済は大きなダメージを受ける危険があるからだ。

https://image.chess443.net/S2010/upload/2019091200003_4.jpeg
2014年春、消費税が8%に引き上げられた前後には駆け込み需要とその反動が起きた=2014年3月31日、千葉市

■日本経済に冷水■

 消費税率10%への増税で、年5.7兆円の税収増が見込まれるが、この増税によって消費の減退、景気の悪化が懸念される。これへの対策として、政府は増税に伴う税収増をもとに、幼児教育の無償化や低所得の高齢者支援などに予算を支出することにした。さらに、ポイント還元や低所得者向け「プレミアム付き商品券」などの消費増税対策を打つ。従来の増税プランでは、増収分の8割で国債発行の圧縮を図る予定だったが、安倍首相と官邸の主導で使途を変更したという。

 そこには、教育無償化への努力を政権の実績としたいという思惑がうかがえる。また、消費税率を8%に引き上げた2014年4月の増税のあと、消費が低迷してしまったので、その轍は踏みたくないという政権の意向もありありだ。

 増税が消費や景気に及ぼす「毒」を緩和するには、こうした方策もある程度の有効性はある。しかし、安心するのは早い。その効果は時とともに薄れていくだろう。増税は本来、家計から実質的な可処分所得を奪うものだから、増収分のほとんどを消費増と格差縮小につながる歳出に充てない限り、消費の冷え込みも ・・・ログインして読む
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[政治・選挙・NHK265] 宮古島市副市長発言 民主主義履き違えている

 民主主義の本旨を履き違えている。長濱政治宮古島市副市長の発言のことである。

 不法投棄ごみ撤去事業の住民訴訟を巡り、市が原告市民から名誉毀損を受けたとして提訴を市議会に提案した件で、長濱副市長は「被害者の市に対して訴えの提起を抑制するのは反民主主義だ」と述べた。市民に損害賠償を求め提訴する議案について市は内容を精査するとして撤回したが、再提出を示唆している。

 副市長は民主主義の基本についての認識を大きく欠いている。下地敏彦市長にも認識を問いたい。市は本来、保障された市民の権利を妨げてはならず、むしろ保障すべき立場にあるということだ。

 今回の住民訴訟は公権力である自治体を監視するために地方自治法で認められた権利である。市民はその権利を行使したまでだ。裁判所は市民の訴えを認めなかったが、市民が訴える権利を否定したわけではない。この保障された権利の行使を自治体が妨げることがあってはならない。

 自治体などの公人と一般私人の関係は一般私人同士とは異なる。公人の名誉権は一般私人よりも非常に狭い。権力を持つ公人が、ある市民の表現を名誉毀損だとして都合の悪い意見や考えを排除すれば、民主主義が成立しないからだ。国家権力の不当な行使から国民の権利・自由を守るのが憲法の本旨だ。自治体はその権利を守る責務がある。

 識者は、自治体の名誉毀損が成立するのは極めて例外で、財産的損害が発生しない限り認められないと指摘する。それがない以上、今回、名誉毀損は成立しないとする。市が被害者と言うのなら、具体的にどのような被害が生じたか明示する責任がある。

 憲法15条は全ての公務員は全体の奉仕者だと定めている。名誉を毀損されたとして市民を訴える行為は市民全体の利益にかなうことか。そもそも全体の奉仕者という自覚があれば、市民を訴えるという発想は思い浮かばないはずだ。

 形式的に可能でも、自治体が市民を提訴することは本来あってはならない。争いの解決に向けて原因を是正するか、説明責任を果たすことが行政の責務である。提訴はその責務を放棄するに等しい。

 今回の場合、市がいくら意図はないと言っても、訴えられる恐怖を抱かせ市民を萎縮させるスラップ訴訟の性格は否めない。スラップ訴訟は国民の権利を恫喝で抑え付けるものだ。それこそ反民主主義的行為であって、市は被害者ではなくむしろ加害者だ。

 市が再提案する可能性があるが、いくら形式論を取り繕っても訴訟の正当性を見いだせるはずがない。国民の権利・自由を守る憲法の理念に従い、提訴を断念すべきだ。

 どうしても再提案するのなら暴走と言うほかない。それを止めるのが市議会の本来の役割だ。議会も民主主義の基本を再確認し、再提案の断念を市に促すべきだ。

 
琉球新報社説 2019年9月24日
https://ryukyushimpo.jp/editorial/entry-994978.html
http://www.asyura2.com/19/senkyo265/msg/801.html

[政治・選挙・NHK265] 「自由」の自由取り戻す

 自由という言葉からは、しなやかさを連想します。ですが最近「表現の自由」は縮こまっているように感じます。こわばりをほどく方法を考えました。

 戦後七十年の二〇一五年、本紙の取材班は一人の男性の戦後を追いました。信州大学教授だった故島田美成さん。息子にも語らなかった戦中の過去がありました。

 生活をありのままに描く指導法が「共産主義を広める」として、北海道の旭川中学の教員や教え子など二十人以上が治安維持法違反容疑で逮捕された生活図画事件。東京美術学校(現東京芸大)を卒業し、徴兵されていた同中学出身の島田さんもその一人でした。

 事件について調べている東京芸大講師の川嶋均さんが昨秋、遺族の家から一冊のノートを発掘しました。当時の取材ではつかむことのできなかった島田さんの胸の内がつづられていました。

 「汚穢(おわい)船」と題された随筆は、昭和十三年ごろ、隅田川で糞尿を運搬する船を見た思い出話で始まります。「人間が喰べるものと出すもののための労働である」。当時、二十代だった島田青年は、そんな感想を抱きながら、川べりで船を眺めていたのです。石炭も船で運搬されていました。陸地へは人がかごにいれて運んでいたのが、やがて機械が導入されたことに触れ「だんだん労働から人間を必要としなくなる時代の始めのような感じがした」と記しています。

 美校時代に描いたそれらの船や千葉・松戸の農民、水戸の海岸の漁民のスケッチはすべて「軍法会議(裁判)で没収されてしまった」とあります。「法律というものはいつでも国家のものであって、庶民のものでないと強く思うのである」

 ノートに記された日付によれば、随筆が書かれたのは一九九〇年代後半。半世紀たっても残る悔しさが生々しく伝わります。

 今夏、名古屋市で開かれていた企画展「表現の不自由展・その後」が開催から数日で打ち切りとなりました。旧日本軍の慰安婦を象徴した少女像の展示などに抗議が殺到し、その中には脅迫と思われるものも含まれていました。

 近年、憲法や戦争などにまつわる展示や講演会に、行政が「政治的中立性」を理由に後援しなかったり、作品の撤去を要請したりする事例も相次ぎます。戦前の治安維持法とは違い、一種の「空気」によって、意見の分かれる問題について考えたり議論したりする場が縮まっていきかねない風潮に懸念を覚えます。民主主義の足腰の強さにかかわります。

 第二次世界大戦が終わった一九四五年、英国人作家ジョージ・オーウェルは「ナショナリズム覚え書き」という随筆で、異論を認めぬような心のこわばりの根源を見つめようとしています。

 オーウェルは、すべての人間の活動が監視され、日記を付けることも禁止された全体主義社会を描いた小説「1984」で知られますが、行動の人でもありました。

 下級官吏の家に生まれ、名門イートン校を卒業後、英国統治下のインドの一部だったビルマで警官となります。帝国主義に幻滅して職を辞した後は、ロンドンやパリのスラム地区で暮らし、最底辺で生きる人々の苦境をルポルタージュに記しました。スペイン内戦には民兵として身を投じます。

 このスペイン内戦でオーウェルは、戦争の記憶はそれぞれの立場で都合良くとらえられ、歴史が改ざんされる危うさを感じます。

 「私たちみんなの心にあって」「その思考を誤らせるいくつかの傾向」の正体を突き止めることを目的に随筆は書かれました。ここではナショナリズムの意味は自国を愛することにとどまりません。自国を嫌うことも、他の特定の国に入れ込むことも、さらには平和主義も含まれます。当時、平和主義者を名乗っていた人たちは、必ずしも分け隔てなく暴力に非難を向けているわけではなく、特定の大国に批判を向けていると、オーウェルの目には映っていました。

 共通するのは、「個人よりも巨大な何かに仕えているという意識」によって生み出される、「自分が正しい側にいるという揺るぎない信念」です。「巨大な何か」を国家に限らなければ、大きな物語に寄り掛かって安心しようとする心のありようは程度の差こそあれ、多くの人が経験しているのではないでしょうか。

 「自由」にしなやかさを取り戻す一歩は、大きな物語の居心地よさになるべく寄り掛からず、小さな物語を自ら紡ぎ出す営みかもしれません。それは例えば隅田川でスケッチしたり、日記に思いを刻んだりするような。

 
中日/東京新聞社説 週のはじめに考える 2019年9月22日
http://www.tokyo-np.co.jp/article/column/editorial/CK2019092202000130.html
https://www.chunichi.co.jp/article/column/editorial/CK2019092202000104.html
http://www.asyura2.com/19/senkyo265/msg/802.html

[政治・選挙・NHK265] グレタさんの国連演説と日本社会(アリの一言) 
2019年09月26日

 スウェーデンのグレタ・トゥンベリさん(16)が23日(現地時間)、ニューヨークの国連「気候行動サミット」で、涙を流しながら行った演説は、胸を突くものでした。

 「私たちはあなたたちを注意深く見ている。それが、私のメッセージだ。

 …あなたたちは空っぽの言葉で、私の夢と子ども時代を奪い去った。人々は苦しみ、死にかけ、生態系全体が崩壊しかけている。私たちは絶滅にさしかかっているのに、あなたたちが話すのは金のことと、永遠の経済成長というおとぎ話だけだ。何ということだ。

 …10年間で(温室効果ガスの)排出量を半減するというよくある考え方では、(気温上昇を)1・5度に抑えられる可能性は50%しかなく、人類が制御できない不可逆的な連鎖反応を引き起こす恐れがある。…50%の危険性は私たちは全く受け入れられない。私たちはその結果と共に生きていかなければならない。

 …あなたたちには失望した。しかし若者たちはあなたたちの裏切り行為に気付き始めている。全ての未来世代の目はあなたたちに注がれている。私たちを失望させる選択をすれば、決して許さない。あなたたちを逃がさない。まさに今、ここに私たちは一線を引く。世界は目を覚ましつつある。変化が訪れようとしている。あなたたちが好むと好まざるとにかかわらず。」(25日付沖縄タイムス「グレタさん演説全文」=共同より)

 この「あななたち」とは直接的にはサミットに参加している各国首脳らでしょう。しかし、それは、私たち「おとな」全員に向けられた告発・指弾ではないでしょうか。

 とりわけ日本(人)は深刻に受け止めなければなりません。グレタさんは「2050年までに温室効果ガス実質ゼロ」というIPCC(国連気候変動に関する政府間パネル)の目標を、「よくも従来通りの取り組みと技術的な解決策で何とかなるなんて装うことができたものだ」と痛烈に批判しました。しかし日本政府は経済界の圧力によってそのIPCCの目標からさえ後退しているのです。

 サミットには日本政府から小泉進次郎環境相が、「日本の取り組みがよく理解されていない。積極的に発信する」と大言壮語して出席しましたが、演説さえ行いませんでした。「こうした日本の実情に、環境団体は『「手ぶらで」サミットに参加した』と手厳しい」(25日付沖縄タイムス=共同)声が出ているのは当然です。

 「私たちは絶滅にさしかかっているのに、あなたたちが話すのは金のことと、永遠の経済成長というおとぎ話だけだ」
 このグレタさんの言葉がとりわけ胸に迫りました。これは地球温暖化・環境問題だけではないでしょう。各国首脳だけの問題でもないでしょう。

 例えば、中東情勢についても日本のメディアは判で押したように、「日本経済、私たちの暮らしへの影響は…」、日韓貿易問題も、「日本経済にとっては…」と報じます。消費税の増税も、「増税前後の生活防衛策は…」に集中しています。
 世界情勢も国内政治も、それがどういう意味をもっているのか、その根源は何か、平和・人権擁護の立場からどうすべきか、という本質論議は棚上げして、自分(家族)の生活にとっての損得の基準でものごとを見る。そんなメディアの報道が蔓延し、それを望む市民意識でおおわれているのが、日本という国・社会ではないでしょうか。

 そんな価値観、生き方は、「けっして許さない」。グレタさんの言葉はそういう意味を含んでいるのではないでしょうか。

 ところで、グレタさんは生まれてまもなく「発達障害の一つ、アスペルガー症候群と診断」(23日付中国新聞=共同)されたそうです。医学的なことは分かりませんが、それが事実だとすれば、「発達障害」とは何なのでしょうか。グレタさんのどこが「発達障害」でしょうか。安倍首相やトランプ大統領、それを許している「おとな」にこそ「障害」があるのではないでしょうか。

https://blog.goo.ne.jp/satoru-kihara
http://www.asyura2.com/19/senkyo265/msg/827.html

[政治・選挙・NHK265] 安保局に経済班 過度な官邸主導危うい 
 
 政府が外交・安全保障政策の総合調整を担う国家安全保障局(NSS)に、経済部門を新設する方向で検討に入った。

 米中貿易摩擦や高速大容量の第5世代(5G)移動通信システムへの対応など、外交や安保とも関わる経済案件が増えていることが背景にあろう。

 特に中国は広域経済圏構想「一帯一路」を掲げて権益を拡大している。そうしたことへの危機感から、首相官邸による経済外交を強化する狙いも透ける。

 ただ、すでに政府内には経済や財政運営の基本方針を立てる経済財政諮問会議がある。規制改革推進会議などを通じ、個別の経済問題にも対応している。

 船頭多くして船山に上ることにならないか。経済政策は地域振興の視点や、社会保障費の増加を踏まえた財政バランスも重要だ。

 屋上屋を架すような経済部門新設であってはならない。

 外交・安保の重要案件を協議する組織としては、首相や閣僚でつくる国家安全保障会議(NSC)が2013年に設置され、その事務局である安保局が翌年発足した。

 現在は「総合・調整」「情報」「戦略企画」など計6班体制をとる。経済部門は新たな班を設けるか、戦略企画班を増強する形で、情報を一元化するという。

 官邸幹部は「総合調整ではなく、司令塔の役割を果たす」としている。これは安全保障の観点を優先し、官邸主導の経済政策をより進める考えを示したと言える。

 近年は安保局の影響力が拡大し続けている。さらなる権限集中には危うさを禁じ得ない。

 昨年改定された防衛大綱は安保局の意向を色濃く反映し、宇宙、サイバー、電磁波といった新領域への対応や、米国からの高額装備品購入などが進められている。

 こうした実態を見ると、予算執行を含めどんな政策も、安全保障に絡めれば、官邸の意向通りに進めることにならないか心配だ。

 各種政策は省庁の専門的視点で重層的に立案し、官邸が総合調整することでチェック機能も働く。
 しかし国家安全保障会議は議事録が非公開で、補佐する安保局を含め、意思決定の経緯が分からないブラックボックスの組織だ。

 先の内閣改造に合わせた人事では、安倍晋三首相に近い経済産業省や警察庁出身の官僚を重用するケースも目立つ。

 いま政権に求められているのは、権限の集中ではなく、政策の透明性だろう。


北海道新聞社説 2019年9月26日
https://www.hokkaido-np.co.jp/article/348380?rct=c_editorial
http://www.asyura2.com/19/senkyo265/msg/828.html

[政治・選挙・NHK265] 民放連あて要望書「政権寄りと思われる政治・選挙報道の検証を求める要望書〜2019年参院選とその後の報道を受けて〜」(2019年9月24日)(ちきゅう座) 
2019年 9月 26日
<太田光征>


2019年9月24日に「平和への結集」をめざす市民の風として日本民間放送連盟を2人で訪ね、要望書「政権寄りと思われる政治・選挙報道の検証を求める要望書?2019年参院選とその後の報道を受けて?」をお渡ししてきました。

検証対象として挙げた項目は下記の通りです。当初は参院選関係だけの予定でしたが、アポ取りが長引く間に、どんどん項目が増えてしまいました。5の反社会的政党というのはN国のことです。


           民放連あて要望書
「政権寄りと思われる政治・選挙報道の検証を求める要望書
    〜2019年参院選とその後の報道を受けて〜」
           (2019年9月24日)
http://unitingforpeace.seesaa.net/article/470473388.html

要望書(PDF):
https://unitingforpeace.up.seesaa.net/image/unitingforpeace-2019-09-26T003A343A07-1.pdf

1.表現の自由(警察による市民の拘束・排除)
2.政策争点の提示・評価の公平性(消費税ほか)
3.放映のタイミング(選挙前でなく選挙後に放映される選挙番組)、不偏不党の原則(特定議員の異様な露出度)
4.歴史改ざん発言の一方的報道
5.反社会的政党・議員の告発報道・独自取材報道の欠如
6.嫌韓キャンペーン
7.内閣改造の報道における特定議員への偏り
8.内閣改造を優先して台風災害を後回しにする報道、メディアの初動対応
9.隣国政府閣僚の不正疑惑を執拗に取り上げても東電刑事裁判(福島原発事故)は無視
10.権力者との距離

事前の打ち合わせ通り、回答を約束するものではないということで、文字通りの要望書となります。ただ幸い、今回の要望書は報道委員会の場で加盟各社に紹介していただけるとのことでした。

民放連は放送事業者で構成される業界団体ですから、連盟として各事業者に報道についての指示はできません。当然ながら報道内容については各事業者の判断となります。ただ、民放連は「国民投票運動CMなどの取り扱いに関する考査ガイドライン」なども発表しており、要望書にある通り、今日のまさに政権寄りと思われる政治・選挙報道のあり方について検証を行い、何らかの軌道修正が必要な時期ではないかと思われます。

最近、市民団体から同様の要望を受けたことがあるかどうかについてお聞きしたところ、ないとのお返事でした。市民運動としてメディアに対する働きかけがこれでよいのか甚だ心許ない気がします。

当団体は今後も報道機関・組織に対する要望活動を行っていきたいと思います。

「平和への結集」をめざす市民の風
http://kaze.fm/

〈記事出典コード〉サイトちきゅう座 http://chikyuza.net/
〔opinion9030:190926〕

http://chikyuza.net/archives/97338
http://www.asyura2.com/19/senkyo265/msg/829.html

[政治・選挙・NHK265] 大村知事、国を訴える考え 不自由展の補助金とりやめで / 「条件を整え再開目指したい」 大村知事 (朝日新聞)
 
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大村知事、国を訴える考え 不自由展の補助金とりやめで
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朝日新聞デジタル 2019年9月26日18時09分
岩尾真宏

 国際芸術祭「あいちトリエンナーレ2019」をめぐり、文化庁が採択を決めていた補助金約7800万円全額を交付しない決定をしたことに対し、愛知県の大村秀章知事は26日、法的措置を取ることを表明した。

 大村氏は記者団に対し、文化庁の決定について「正直言って驚いた。手順、手続きに従ってやってきて採択決定まで頂いている。それが抽象的な事由で一方的に不交付が決定されるのは承服できない。合理的な理由がない」と指摘。決定の取り消しを求め、国を訴える考えを明らかにした。

 大村氏は25日、中止となった企画展「表現の不自由展・その後」の再開を目指す意向を表明した。その翌日に文化庁が不交付を決定したことに、「極めて関連性があるとしか思えない。昨日の(再開意向を表明した)私の発言に対する対応と思わざるを得ない」と述べた。国への法的措置について、大村氏は「表現の自由」を保障する憲法21条を争点にする考えも強調した。(岩尾真宏)

https://www.asahi.com/articles/ASM9V5RSPM9VOIPE04F.html?iref=comtop_8_04
 
 
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表現の不自由展「条件を整え再開目指したい」 大村知事
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朝日新聞デジタル 2019年9月25日15時52分

 国際芸術祭「あいちトリエンナーレ2019」(津田大介芸術監督)で中止となっていた企画展「表現の不自由展・その後」について、芸術祭実行委員会の会長を務める愛知県の大村秀章知事は25日、「条件を整えた上で再開を目指したいと考えている」と表明した。

 この日開かれた県の検証委員会が、不自由展について「条件が整い次第、すみやかに再開すべきである」とする見解を盛り込んだ中間報告をまとめた。検証委の最後のあいさつで、大村知事は「中間報告にあるように、一連の経過を受け止め、私としても条件を整えた上で再開を目指したいと考えている」と話した。

 8月1日から始まった不自由展は、慰安婦を表現した少女像や、昭和天皇を含む肖像群が燃える映像作品などを展示したが、テロ予告や脅迫が相次ぎ、大村知事と津田氏が同3日に展示中止を決めていた。県の検証委は、津田氏や大村知事、作家や県庁職員ら30人以上からヒアリングし、中止にいたった経緯や再開にむけた議論を進めていた。

 この日まとめた報告によると、「脅迫や電凸(とつ)(電話による攻撃)等のリスク回避策を十分に講じること」や「展示方法や解説プログラムの改善・追加」を条件とすると言及。見直しの一例として、映像作品については「今の場所では作家の真意が理解されにくい。別途会場で上映し、作家に思いも語ってもらう機会を作る」と提示。少女像についても、「事前に様々な背景の説明をしたうえでガイドツアー方式で鑑賞」すると提案している。写真撮影とSNSによる拡散を防ぐルールの徹底も求めた。

 不自由展の中止をめぐっては、芸術祭参加の海外作家からも展示閉鎖や内容変更などが相次いだ。報告では、「海外作家へのコミュニケーションのやり方に留意すべき」とも指摘。「一部の作家はこれまでの海外事例に照らし、今回の中止判断がテロ対策や安全管理を表面上の理由とする実質的検閲と認識」していると分析しており、「作家からの意見聴取とその分析、的確なコミュニケーション体制が必須」としている。

https://digital.asahi.com/articles/ASM9T4RGFM9TOIPE01K.html?rm=423
http://www.asyura2.com/19/senkyo265/msg/830.html

[政治・選挙・NHK265] 辺野古ゲート前でこぼう抜きされる (イミダス 時事オピニオン) 
仁藤夢乃の“ここがおかしい”第33回
辺野古ゲート前でこぼう抜きされる 

2019/09/26
仁藤夢乃(社会活動家)


■■10代の女の子たちと沖縄へ合宿に■■

 先月、Colabo(コラボ)のシェアハウスで暮らす10代の女の子たちと、沖縄県へ合宿に行った。Colaboでは年に数回、さまざまな合宿を開催している。Colaboとつながる多くの少女たちが経験せずにきた修学旅行や家族旅行のようでもある。

 2年ぶりに開催した沖縄合宿では、初日にひめゆり平和祈念資料館に行き、彼女たちと同世代の生徒たちが、どのようにして戦地に行くことになり、どのような経験をしたのかを学んだ。2日目は、米軍基地の新設問題を抱える辺野古へ。行きの車の中で、案内してくださったノンフィクションライターの渡瀬夏彦さんに、辺野古基地新設の問題について話を聞いた。

 政府が、住宅街にあり世界一危険だと言われる普天間基地を移設するためとして、辺野古に新たな基地を作ろうとしていること。しかし、辺野古でなくてはならない理由が明確でないこと。地元住民や、沖縄県民はこれに反対し、選挙でも民意を何度も示していること。反対している人たちの想いや、基地ができることで、その地にどんな影響があるか。基地建設の過程で、さまざまなルール違反を国がしていること。

 基地建設のための工事を少しでも遅らせ、止めるために抗議を続けている人々のことなどについて聞いた女の子たちは、「基地って沖縄に作らないといけないの?」「自分の家の近くに基地があったら嫌だ。安心して生活できないじゃん」「そもそも基地って必要なの?」「工事をしている人たちは沖縄の人たちなの?」などの質問をし、沖縄にどうして米軍基地が集中しているのか、その歴史と沖縄への差別、本土に暮らす私たちの責任についてや、沖縄の人々を分断する政府のやり方にも目を向けていた。

■■辺野古で抗議行動をする人々と合流■■

 辺野古のキャンプシュワブゲート前に到着すると、抗議行動をする人々が集まっていた。人々の後ろには、閉じられたゲートがあり、その中に民間の警備会社の警備員がずらっと並んでいた。そして、ゲートの外にはたくさんの機動隊員がいた。私は2015年から5回目の訪問だが、女の子たちにとっては初めての体験なので、驚いたり、怖がったりするのではないかと思った。

 1分1秒でも工事を遅らせたい、この基地建設を必ず止めると抗議を続ける地元の方々の座り込みの様子を見ながら、「参加したい人がいたら一緒に行ってみる? 行きたい人?」と聞くと3人の女の子が「行く!」と言って、機動隊の横を通って地元の方々に合流した。

 皆さん、若者たちの参加を歓迎してくれた。この日の抗議行動の司会は、長年沖縄で性暴力被害者女性と共に闘ってこられ、Colaboの活動もよく知ってくださっている高里鈴代さんだった。彼女の司会で地元の方々と腕を組み、「座り込めここへ」「沖縄 今こそ立ち上がろう」「沖縄を返せ」などを歌った。

 歌が始まると、機動隊員が続々と私たちの目の前に集まってくる。周りは見えなくなり、見えるのは機動隊員だけ。そんな状況の中、私の隣で抗議に参加した女の子は、初めて聴く歌にもかかわらず大きな声で堂々と歌っていた。

 地元の方が「体を触られたくない人は、無理をしないで、排除が始まったらすぐに立ち上がって移動するように」と言ってくれた。これから何が起こるのだろうかと全員が身構える。その後、すぐに機動隊による強制排除が始まった。初めにColaboのメンバーが「ごぼう抜き」(ごぼうを抜くように次々と排除する、機動隊による強制排除のこと)された。


https://s3-ap-northeast-1.amazonaws.com/img.imidas.jp/topics/wp-content/uploads/2019/09/25071436/52309dceecfde3f3ed4eb819ae0675f3.jpg
抗議行動に参加した地元の人が強制排除される様子

■■こんなことが日本で起きているなんて……■■

 ただ座り込んでいる一人の市民を何人もの機動隊員が囲み、無理やりその場から連れ出していく。女性の隊員はおらず、「若い女性を触らないで!」と抗議の声がたくさん上がったが、男性の隊員たちは「自分で立ってください。立てないなら連れていきます」「自分の足で歩けないんですか?」などと言って四方から手を伸ばし、女の子たちも私も椅子ごと引きずられ、肩をつかまれたり、背中を押されたりして排除された。

 正直、怖かった。女の子たちは、もっと怖かっただろう。そう思い、女の子たちに「無理しないで」と声を掛けたが、みんなその場を動こうとしなかった。

 県民の民意を無視した違法工事に反対し、抗議の意思で座っている市民がたくさんの機動隊員に囲まれ、排除されること。税金がそのような用途に使われていること。市民を守るはずの警察が米軍や基地建設を守っていることに、女の子たちは怒りと恐怖を感じていた。それぞれが驚きとショックを受け、恐怖を感じながらも「こんなことが日本で起きていることを記録し、たくさんの人に知らせたい」と、動画や写真を一生懸命撮って抵抗していた。

 彼女たちは最後まで気丈に振る舞っていたが、目に涙を溜めていた子もいたし、機動隊に排除される時は体も表情もこわばって、自分の身を守るように両手を体の前でクロスさせておびえた様子だった。

 道路の向かい側で、座り込みには参加せず、一連の様子を心配そうに見ていた2人の女の子たちは、「機動隊に囲まれていた夢乃さんたちのことは全く見えなくなってしまい、何が起きているのかは分からなかった。外から見てるだけでも怖かった」という。後から、座り込みに参加した子の撮影した動画や写真などで、どのように強制排除が行われたのかを知って驚きながら、「次は私も座り込みに参加する」「次は体に重りを付けていこう」とか「体重の重そうな人を連れていこう」と話していた。

■■機動隊員も「心ない人」ではなかった■■

 排除された後も、機動隊員が「ここには立たないでください」「あっちに行ってください」と言うのに対し、一人の女の子は「なぜですか? 危なくないですよ」などと言い抵抗していた。

「あなたたちが移動しないと、私たちが車にひかれてしまう」と言う機動隊員に「それならあなたが別の場所に移動すればいいじゃないですか」とその子が言い返したりしていると、「どうしてもここがいいの? 今日は特別」と言って機動隊員が諦める場面もあった。それは、私たちを「今日だけ」の人だと思ったからかもしれない。
 
 また別の女の子は、強制排除された後、機動隊員に話し掛けていた。「沖縄の人なのか?」「この仕事をどういう気持ちでしているのか?」「海が埋め立てられることについてどう思うか?」「沖縄の海は好きか?」などと質問し、機動隊員も「心ない人」ではないことが分かって、複雑な気持ちになったという。

 女の子たちは、沖縄の人々を分断する国のやり方にも憤りを覚えていた。

 道路の反対側で様子を見ていた女の子に、「今朝は15分工事を遅らせることができた」と地元の方が教えてくれた。「若い女性には機動隊員も乱暴にしたり、気安く触ったりできないため、工事を遅らせることができる」と聞いて、その子は「修学旅行でみんな来たらいいのに」と言っていた。

 確かに機動隊員は若い女性である私たちには手荒なことはしなかったが、私たちの周りで抗議を続ける地元の方々に対しては、容赦なく身体ごと持ち上げて排除するなど扱いが違った。

https://s3-ap-northeast-1.amazonaws.com/img.imidas.jp/topics/wp-content/uploads/2019/09/25071527/d7abc29050f200045bf3e1ebd12227b5.jpg
ゲート前に立ちはだかる警備員や機動隊員。こんな光景が日々続いている

■■沖縄の貴重なサンゴや魚たちに感動■■

 女の子たちは、「こういうことが起きているなんて知らなかったし、学校でも教えてくれなかった」「テレビとかでももっと報道したらいいのに」「安倍さんに見せたら? 官邸前に行って映像を見せられないの?」などと言っていた。

 安倍晋三首相はもちろんこういう現状を知っており、それでも基地新設を推し進めようとしていることを知ると、とても驚いて、「安倍さんも知っててやっているなら、誰に言ったらいいの?」「10年以上前から住民の人が反対しているのに、変わらないの?」「東京には反対する議員はいないの?」などと言い、選挙の大切さを感じたり、どのように投票する人を選べばいいのか、沖縄の外に住む人々にどう伝えるかなどを自分事として考えたりしていた。

 辺野古ゲート前での抗議の後、グラスボートで大浦湾の貴重なサンゴを見せていただいた。初めて見る大きなサンゴや魚に、女の子たちは「こんなきれいな海を埋め立てようなんて、信じられない」と口々に話していた。土砂が入れられている工事現場の近くまで船で近付くと、民間の監視船が「これ以上近寄るな」と警告を出してきて、離れるまで私たちの動きを監視していた。

 その後、土砂を採掘している場所や、土砂の運び出しをしている琉球セメント桟橋前での抗議、カヌーチームの抗議の様子なども見学した。途中、休憩先でシークワーサージュースやパインかき氷、沖縄そばを食べ、抗議の後には美ら海水族館にも行って沖縄を満喫した。美ら海水族館にも、大浦湾のグラスボートで見たサンゴや魚がいて、女の子たちは辺野古の海にもたくさんの生き物たちが暮らしていることに思いを馳せていた。

 みんなクタクタになり、夕食時にはご飯を食べながら寝てしまう子もいるほどだったが、宿に帰ってからも、「どうしたら起きていることをみんなに伝えられるだろう?」「友達に話してみる」「ゲート前でキャンプできないのかな」「渋谷のスクランブル交差点で映像を流せないの?」「TikTokで流せないかな」「インスタライブで辺野古の様子を生配信したい」などと「私たちには何ができるんだろう?」と口にして、考えていた。

■■基地問題を間近に体験した少女たちは■■

 この日のことを発信する際に、伝えたいことはあるかと聞くと、彼女たちはこう話した。

「思ってたよりひどかった。メディアでも全然報道されていないし、『問題ないです』などいいところしか出てこないから現状を知らなかった。もっとみんなが真剣にこの問題を考えないといけないと思った」

「土砂を運ぶ仕事をしている人や警備員、機動隊員の中には、あのような仕事を好きでやっているわけでない人もいるだろうし、2兆円以上のお金を使って無駄なことをしている。そんなお金があるなら基地を作ることではなく、Colaboみたいな支援団体に使うとか、そういう考えで世の中を良くしてほしい。基地を作って良くなると思っているから、ああいうことをするのかもしれないけど、みんなにとっていいことをしてほしい」

「学校の修学旅行で沖縄に行ったけど、今起きてる沖縄の問題は知らなかった。基地問題はなんとなく知っていたけど、こんなひどい状況とは知らなかった。沖縄で戦争の歴史を学ぶことは大事だけど、それ以外にも今の米軍基地の問題も、全国の学校で学習として取り入れて合宿とかしてほしい」

「何がひどいと思った?」という質問には、「何の得もないのに、両方の国の偉い人たちの自己満にしか思えないし、国民が訴えているのに何年も変わってないのがひどいと思った」と話した。私自身も初めて機動隊に排除される経験をし、権力が間違った使われ方をしていることを今まで以上に実感した。

 一緒に辺野古に行った女の子たちは、この後、沖縄の海で遊んでいる時も、東京に帰ってきてからも、辺野古で起きていること、沖縄が抱えさせられている問題に対して、自分たちができることを考え続けている。

■■自分事として捉え、考え、行動できる人に■■

 辺野古訪問の報告を私のFacebookとTwitterに投稿したところ、Twitterには3000件以上のリプライがあり、ほとんどが匿名の攻撃や中傷で、実名登録のFacebookとは全く違う反応だった。女の子たちはその現状にも目を向けていて、「ネットでアンチしてる人たちも自分の目で見てみたらいいのに。そうしたら変わるんじゃない?」と言っている。

 自分が見たこと、聞いたこと、体験したことから分からないことを質問し、いろいろな意見や立場、ネットでの攻撃的なカキコミがある中で、自分はどう考えるのかを議論して、自分の頭で考えて、自分の言葉で発信する。一つひとつを、誰から言われたわけでもなく自分たちでやっている。友達に伝えてみたり、SNSで発信してみたりして、友達から「でも、仕方なくない?」「私たちに変えられることじゃないっしょ」と言われたり、関心を持ってもらえなかったりして、その反応を踏まえて、もっとできることはないか、自分事として考えてもらうにはどうしたらいいのかを考え、議論し続けている。私も、一緒にできることを考え、やれることから実践していくつもりだ。

 Colaboとつながるのは、虐待や性暴力・性的搾取被害など、さまざまな暴力の被害に遭ってきた少女たちだが、背景には多くの市民の無理解や、誰かの犠牲の上に自分の生活や幸せが成り立つことをよしとする社会/考え方がある。彼女たちが抗議に参加する様子に、沖縄の問題は「私たちの問題だ」と直感的に感じたのではないかと思った。

 彼女たちのように、さまざまな社会の問題について、自分事として捉え、痛みを分かち合い、考え、行動できる人が、今の日本社会にどれだけいるだろう。そんな人でありたい、と彼女たちを見ていて私は強く思った。

https://imidas.jp/kokogaokashii/?article_id=l-72-001-19-09-g559
http://www.asyura2.com/19/senkyo265/msg/861.html

[政治・選挙・NHK265] あいち芸術祭 萎縮を招く異様な圧力 
 
 表現行為や芸術活動への理解を欠く誤った決定である。社会全体に萎縮効果を及ぼし、国際的にも日本の文化行政に対する不信と軽蔑を招きかねない。ただちに撤回すべきだ。

 脅迫や執拗な抗議によって企画展の一つが中止に追い込まれた「あいちトリエンナーレ」について、文化庁が内定していた補助金約7800万円全額を交付しないと発表した。前例のない異常な措置だ。

 萩生田光一文部科学相は「申請のあったとおりの展示が実現できていない」などと、手続き違反や運営の不備を理由に挙げた。だが、この説明をそのまま受け入れることはできない。

 中止になった「表現の不自由展・その後」には、慰安婦に着想を得た少女像や、昭和天皇を含む肖像群が燃える映像作品などが展示されていた。「日本人へのヘイト」といった批判が持ち上がり、菅官房長官は早くも先月初めの時点で補助金の見直しを示唆する発言をしていた。

 一連の経緯を見れば、政府が展示内容に立ち入って交付の取り消しを決めたのは明らかだ。それは、「政府の意に沿わない事業には金を出さない」と内外に宣明したに等しい。

 少女像などに不快な思いを抱く人がいるのは否定しない。しかしだからといって、こういう形で公権力が表現活動の抑圧にまわることは許されない。

 その道理は、今回のトリエンナーレのあり方を検証するために愛知県が設けた委員会が、おととい公表した中間報告を読めばよく理解できる。美術館の運営や文化行政に通じた有識者、表現の自由に詳しい憲法学者らで構成された委員会だ。

 中間報告は、「不自由展」の作品説明や展示方法に不備があったとしつつ、民主社会における表現の自由の重要性を説き、▽展示が政治的色彩を帯びていても、公金の使用は認められる▽表現は人々が目を背けたいと思うことにも切り込むことがある▽ヘイト行為の一般的なとらえ方に照らしても、少女像はそれに当たらない――と指摘。展示を中止したままでは「悪しき前例や自主規制を誘発する」と述べ、環境を整えたうえでの再開を提言した。

 きわめて真っ当な内容だ。

 説明の見直しなどが再開の条件に挙げられたことに、「不自由展」の関係者や出展作家の一部から反発も出ている。だが、このまま来月14日の会期末を迎えれば、表現活動が不当な攻撃に屈して終わることになる。

 主催者と一致点を見いだし、早期の再開をめざして欲しい。圧力をはねのけ、傷ついた表現の自由を回復するために、第一歩を踏み出すことが肝要だ。

 
朝日新聞社説 2019年9月27日 
https://www.asahi.com/articles/DA3S14194876.html?iref=comtop_shasetsu_01
http://www.asyura2.com/19/senkyo265/msg/862.html

[政治・選挙・NHK265] 日米貿易協定 国益損なう拙速な合意 
 
 農業は言うに及ばず、車など工業製品でもことごとく譲歩した。国益を守ったとは到底言えまい。

 安倍晋三首相はトランプ米大統領と会談し、日米貿易協定の締結で最終合意した。

 米国産牛肉の関税を環太平洋連携協定(TPP)と同水準に下げるなど7800億円相当の農産物市場を開放する一方、米国が離脱前のTPPで約束した車と自動車部品の関税撤廃は継続協議とした。

 農業市場の開放と引き換えに工業分野などの貿易が拡大し、日本全体ではプラスになる―。政府のその説明にすら達していない。

 しかも交渉内容を伏せ続け、国民不在で合意に至り、全容もなお開示していない。極めて問題だ。

 TPP、欧州連合(EU)との経済連携協定(EPA)に続き日本の農業が犠牲を強いられる。北海道など産地への打撃が心配だ。

 政府は合意と交渉の詳細な内容を直ちに明らかにすべきである。影響の試算を早急に公表し、十分な対策を打ち出さねばならない。

 首相は会談後、「日米双方にウィンウィンの結論」と強調した。

 しかし日本車への追加関税を突きつけられて2国間交渉に応じ、大統領選再選に向けトランプ氏に成果をお膳立てしたようにしか見えない。脅しに屈し妥協を重ねるのでは通商交渉とは呼べない。

 米国が譲ったのは、日本側の譲歩一辺倒が参院選の争点とならないよう妥結を遅らせた程度だ。首相が守ったのは国益より米大統領との関係と政権の安定だろう。

 首相は米国が追加関税を課さないことをトランプ氏に確認したという。だが再選へ好景気を維持したい米政権にとり自国経済に打撃が大きい追加関税は、そもそも「切れないカード」ではなかったか。

 今回で味を占め、継続協議でもカードをちらつかせかねない。

 日本政府はコメ輸入の無関税枠見送りや日本産牛肉の低関税輸出枠拡大を成果に挙げる。ただ牛肉は複数国対象の別枠と合体して日本も使える形となり、米国にすれば低関税枠の総量は増えない。

 この合意が関税撤廃率で世界貿易機関(WTO)のルールに反するとの指摘もある。自動車を継続協議にすることでWTOの追及をかわす狙いも透けるが、ルールを軽んじた合意は正当性が問われる。

 政府は来月召集の臨時国会に承認案を提出する。農業への影響を精査し対策を打つことはむろん、政府の交渉戦略が妥当だったのかも議論が必要だ。生産者の不安を顧みぬ拙速な承認は許されない。
 
 
北海道新聞社説 2019年9月27日
https://www.hokkaido-np.co.jp/article/348814?rct=c_editorial
http://www.asyura2.com/19/senkyo265/msg/863.html

[政治・選挙・NHK265] 党統一会派  「1強」を打破できるか 

 今度こそ、巨大与党への有効な対抗軸となれるだろうか。

 来月4日に開会する臨時国会を前に、立憲民主党、国民民主党が衆参両院で統一会派を結成する。

 衆院会派「社会保障を立て直す国民会議」も加わる。参院では社民党が立民と会派を組んでいる。

 新会派の規模は衆院117(定数465)、参院61(同245)となる。衆参で170人を超える野党勢力は、2012年の第2次安倍晋三政権発足後最大となる。

 政府与党にとっては、あなどれない数である。ただ、巨大与党を監視し、国会に緊張感を生み出すには、政策や国会運営面で安倍政権に対峙できる結束力が必要だ。

 新会派は、旧民主党のメンバーが再結集したようにもみえる。野党陣営での主導権争いなどで遺恨も残るが、そこを乗り越えなければ「安倍1強」打破への展望は開けまい。

 6年半に及ぶ安倍政権には、長期ゆえのおごりや緩みが目立つ。

 それを許してきたのは、野党がばらばらで有権者の選択肢になりきれていなかったことが大きい。

 政権を担うに足る信頼を獲得しなければならない。そのためには基本政策を一致させ、何を目指す集団かを明確にするべきだ。

 年金をはじめ社会保障のあり方や経済格差、エネルギーなど、与党が見過ごしてきた分野で独自の政策を打ち出し、実現に向けた具体策を示すことが求められる。

 原発など支持団体との関係から合意が難しいテーマもある。会派で徹底的に議論し、一致点を探る努力も必要だろう。

 有権者との対話も欠かせない。7月の参院選でれいわ新選組が躍進したのは、安倍政権に対する多くの不満をすくいきれなかった野党に反省を迫る結果となった。

 従来の概念にとらわれず、多様な有権者とつながる新たな政治のあり方を探る機会ではないか。

 立民の枝野幸男代表が常々言うように「永田町の数合わせ」ではない協力関係を築き、新風を吹き込んでほしい。

 次期衆院選に向けた選挙協力も焦点となる。政権選択の選挙と位置づけられるだけに、政策の一致だけでは済まない。れいわ新選組が主張する消費税率引き下げ案への対応や、支持団体の連合が難色を示す共産党との共闘のあり方など、政権構想も問われよう。

 政権交代の選択肢となるには政府与党の批判だけでは不十分だ。課題を一つ一つこなし、問題解決力を示すことが求められる。
 
 
京都新聞社説 2019年09月26日
https://www.kyoto-np.co.jp/info/syasetsu/20190926_3.html
http://www.asyura2.com/19/senkyo265/msg/864.html

[政治・選挙・NHK265] 政府の悪辣な仕打ち。補助金不交付で表現の自由を圧迫。(澤藤統一郎の憲法日記) 

「えっ、まさか。」「そこまでやるか。」「いくらなんでも,やり過ぎだろう。」というのが第一印象だった。文化庁の「あいちトリエンナーレ補助金不交付」問題である。主催の愛知県は、上からは国の、下からは名古屋市の挟撃に苦戦の感。もちろん、「表現の不自由展」中止の責任者ではあるが、それでも、再開に向けてよく頑張っている。これを押し潰そうというのが、7800万円の補助金不交付問題。

補助金不交付は、形式的には所管の文化庁の判断ということだが、実質は官邸の意図的な「意地悪」と、誰しもが思うところ。官邸の「意地悪」は、愛知県が官邸の意向を無視しているからだ。世の中が官邸のご意向を忖度することで円滑にまわっているのに、愛知県だけはどうして忖度しないのか。この国のトップの歴史修正主義・嫌韓ヘイトの真意は周知の事実なのに、どうしてことさらに「慰安婦」や「天皇」をテーマの展示を行うのか。

官邸は、この展覧会の展示の内容が面白くない。不愉快極まるのだ。官邸に当てつけるようなこの展示を叩かずにはおられない。叩いておけば、一罰百戒の効き目があろう。忖度の普及だけでなく、文化の善導さえもできるというものだ。

ところが、憲法という邪魔者が伏在している。政府があからさまに表現のテーマや内容に立ち入るわけには行かない。だから、補助金不交付の理由は、別に拵え上げなければならない。

そこで、官邸の手先・萩生田光一のお出ましとなる。文科相としての初仕事がこれだ。加計学園問題で頭角を表した彼の特技は「厚顔」である。その特技を生かして彼はこう強調する。

   「(補助金不交付の判断材料は)正しく運営ができるかの一点であり、
   文化庁は展示の中身には関与していない。検閲にも当たらない」

これが昨日(9月26日)の記者会見での発言。

補助金交付対象の事業が事前の申告のとおりに、正しく運営ができていないではないか。愛知県は文化庁に対して、安全面に対する懸念などを事前に申告しておくべきだったのに、それがなされていなかった。これは、交付申請の手続きが「不適当」であったことを物語るもので不交付にすると判断せざるを得ない。けっして表現の内容が問題なのではない。あくまで手続の不十分、というわけだ。誰も、そう思わないが、そのようにしか言いようがない。こんなときに、「厚顔」の特技が役に立つ。

本日(9月27日)にも、重ねて文化庁による補助金を全額不交付とした理由について、
   「本来、(主催者の県が)予見して準備すべきことをしていなかった」
と説明。判断する上で展示内容は無関係だったことを改めて強調した。さらに、
   「今回のことが前例になり、大騒ぎをすれば補助金が交付されなく
   なるような仕組みにしようとは全く考えていない」 
とも語っている。さすが、厚顔。

問題は、政府の意図如何にかかわらず、 「大騒ぎをすれば補助金が交付されなくなるような仕組みにしようと考える」 集団が確実に存在することであり、ここで政府が補助金不交付を強行すれば、そのような右翼暴力集団を勢いづかせることにある。政府は、 「大騒ぎをすれば補助金交付をストップできる」 という彼らの成功体験が今後にどのような事態を招くことになるかを予見し防止しなければならない。しかし、実は政府と 「大騒ぎを繰り返して補助金交付をストップさせよう」 という集団とは一心同体、少なくとも相寄る魂なのだ。

萩生田のコメントの中に、平穏な展示会を脅迫し,威力をもって妨害した輩に対する批判や非難の言は、一言も出てこない。あたかも、これは自然現象のごとき、正否の評価の対象外と言わんばかりの姿勢。警察力を動員しても、断固表現の自由を守るという心意気はまったく感じられない。官邸や萩生田の意図がどこにあるかは、明確と言わねばならない。

昨日(9月26日)の文化庁の補助金不交付決定発表によれば、不交付とされるのは、「あいちトリエンナーレ」に対して「採択」となっていた補助金7800万円の全額であるという。文化庁はその理由として、補助金を申請した愛知県が
   「来場者を含め、展示会場の安全や事業の円滑な運営を脅かすような
   重大な事実を認識していたにもかかわらず、それらの事実を申告する
   ことがなかった」
   「審査段階においても、文化庁から問い合わせを受けるまでそれらの
   事実を申告しなかった」
と説明した。

また、同日、萩生田は
   「残念ながら文化庁に申請のあった内容通りの展示会が実現できて
   おりません。また、継続できていない部分がありますので、これを
   もって補助金適正化法等を根拠に交付を見送った」
と説明している。

ここで、補助金適正化法(正式には、「補助金等に係る予算の執行の適正化に関する法律」)が出てきたが、その理念は語られていない。

補助金予算執行の適正の理念はいくつかある。たとえば、その24条である。

「第24条(抜粋) 補助金等に係る予算の執行に関する事務に従事する国の職員は、(補助金等の交付の目的を達成するため必要な限度をこえて、)不当に補助事業者等に対して干渉してはならない。」

政府は、愛知県の行う、「あいちトリエンナーレ」の企画の内容に、不当に干渉してはならないのだ。つまり、「金は出しても、口は出さない」ことが大原則。

補助金交付対象事業の一部は8月3日夜に中止にはなったが、中止が確定したわけではない。暴力集団の妨害を排除しての展示再開に向けた努力が重ねられてきた。再開を求める仮処分命令申立の審理も進行している。9月25日には、「あいちトリエンナーレのあり方検証委員会」は中間報告案を発表、「表現の不自由展・その後」について、「条件が整い次第、速やかに再開すべきである」との方向性を示した。この助言を得て、大村知事が展示再開の意欲を表明したと報道されてもいた。

このタイミングでの文化庁の補助金不交付決定発表である。展示再開に水を差す、不当な補助金交付事業への介入というほかはない。官邸の「意地悪」というのは言葉が軽すぎる。やはり、悪辣な妨害といわねばならない。

取りあえずは、妨害を排除しての展示の再開が喫緊の課題。そのうえで、官邸の悪辣さに対する批判と法的措置が必要となるだろう。大村知事は国に対する提訴を予定しているという。

文化庁の補助金不交付の決定とは、補助金適正化法第6条による、補助金交付の決定を得ている愛知県に対して、補助金交付決定取り消しの行政処分にほかならない。原告愛知県が被告国(文化庁長官)に対してて行う訴訟は、「『補助金交付決定取り消し処分』の取消請求訴訟」となる。沖縄に続いて、愛知県よ頑張れ。安全保障問題が絡まないだけ、沖縄よりはずっと勝算が高い。

ところで、文化庁は、昨日(9月26日)こんな報道発表をした。

************************************************************

「あいちトリエンナーレ」における国際現代美術展開催事業については,文化庁の「文化資源活用推進事業」の補助金審査の結果,文化庁として下記のとおりとすることといたしました。

補助金適正化法第6条等に基づき,全額不交付とする。

【理由】

補助金申請者である愛知県は,展覧会の開催に当たり,来場者を含め展示会場の安全や事業の円滑な運営を脅かすような重大な事実を認識していたにもかかわらず,それらの事実を申告することなく採択の決定通知を受領した上,補助金交付申請書を提出し,その後の審査段階においても,文化庁から問合せを受けるまでそれらの事実を申告しませんでした。

これにより,審査の視点において重要な点である,[1]実現可能な内容になっているか,[2]事業の継続が見込まれるか,の2点において,文化庁として適正な審査を行うことができませんでした。

かかる行為は,補助事業の申請手続において,不適当な行為であったと評価しました。
また,「文化資源活用推進事業」では,申請された事業は事業全体として審査するものであり,さらに,当該事業については,申請金額も同事業全体として不可分一体な申請がなされています。
これらを総合的に判断し,補助金適正化法第6条等により補助金は全額不交付とします。

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これで納得できるわけはない。法第6条(抜粋)はこう定める。「各省各庁の長は、補助金等の交付の申請があつたときは、当該申請に係る審査及び調査により、当該申請に係る補助金等の交付が法令及び予算で定めるところに違反しないかどうか、補助事業等の目的及び内容が適正であるかどうか等を調査し、補助金等を交付すべきものと認めたときは、すみやかに補助金等の交付の決定をしなければならない。」

この決定を業界では、「採択」と呼んでいる。採択の後に所定の手続を経て補助金の交付を受けることになる。つまり、申請→審査→採択→補助金交付、という一連の流れになる。「採択」とは、補助金受給資格を有していることの確認行為というにとどまらない。6条の書きぶりからは、補助金受給権を付与する行政行為というべきだろう。愛知県は採択通知を得ているはず。原則補助金交付となる。それが、本事例では、「不交付」となったのだ。

採択の後の不交付は、取得した補助金受給権を取りあげる不利益な行政処分として、その取り消しを求める行政訴訟の対象となる。文化庁の言い分は、採択前に言うべきことだろう。

また、右翼の妨害が予想されることを、「実現可能な内容になっているか」「事業の継続が見込まれるか」に関わらせていることは、由々しき憲法問題と言わねばならない。これは、注目に値する訴訟となる。
(2019年9月27日)

http://article9.jp/wordpress/?p=13405
http://www.asyura2.com/19/senkyo265/msg/866.html

[政治・選挙・NHK265] あいちトリエンナーレ補助金不交付の支離滅裂(朝日新聞社 論座) 
 
あいちトリエンナーレ補助金不交付の支離滅裂
法的根拠も合理性もなし。法の支配を歪め、行政運営の根本も揺るがす過った決定

米山隆一 前新潟県知事。弁護士・医学博士
論座 2019年09月28日

https://image.chess443.net/S2010/upload/2019092700007_1.jpg
文化庁の前で、「表現の自由を守れ」「検閲反対」などと抗議する人たち=2019年9月26日、東京都千代田区

 「あいちトリエンナーレ2019」に対して、審査され採択を決まっていた約7800万円の補助金について、文化庁がこれを覆して全額を不交付にしたことが議論を呼んでいます。

 そもそも「表現の自由を損なう」という点で大きな問題だと思いますが、私はそれと同等かそれ以上に、「法の支配を歪める」「行政の安定的運営を損なう」という点においても極めて問題が多いと思っています。日本の行政が危機に瀕しているといっても過言ではありません。

■■表現の自由を大きく損ねる決定■■

 まず「表現の自由」についてですが、不交付決定に関して文化庁が示している“公式な理由”はさておいて、その実質的理由が、「あいちトリエンナーレ2019」の一部である「表現の不自由展・その後」で議論を呼ぶ展示がなされ、その展示に対して反対派から多数の抗議がなされると同時に、観客に危害を及ぼす旨の脅迫があり、安全上の理由から「表現の不自由展」が中止されるに至った事であるのは明白です。

 すでに多くの方々が指摘している通り、いったん公的支援を決めた展示について、その表現の内容や、それに対する抗議を理由に、後付けで補助金を交付しないという極めて不利益な決定を行政が行うことは、行政が実質的に、表現内容を理由に表現者及び関係者に不当な不利益を与えることになり、「表現の自由」への行政の不当な介入だと考えられます。

 このような行政の不当な介入が正当化されるなら、当然ながら表現は委縮します。文化庁は、事業採択の審査に当たって、必要な情報が事前に申告されなかった事を問題視していますが、表現に対する抗議などを事前に予想することはほとんど不可能です。そうした理屈が通るなら、議論を呼ぶような冒険的な展示については、事後の介入が怖くて公的補助は受けられなくなってしまいます。

 今回の文化庁の決定は、行政から見て、問題なく当たり障りのない表現だけを保護することにつながり、日本の表現の自由を大きく損ね、極めて不適当だと私は思います。

 ただ、それと同等、いやそれ以上に、私はこの不交付決定は冒頭で挙げた「法の支配を歪める」「行政の安定的運営を損なう」という点において、ゆゆしき問題をはらんでいると思います。以下、詳しく論じさせていただきます。

https://image.chess443.net/S2010/upload/2019092700007_4.jpg
展示が中止された「表現の不自由展・その後」=2019年7月31日、名古屋市東区の愛知芸術文化センター

■■あいちトリエンナーレへの補助金採択の経緯■■
 
 最初に今回の手続きを整理しましょう。

 「あいちトリエンナーレ2019」は文化庁の「日本博を契機とする文化資源コンテンツ創生事業 文化資源活用推進事業」という、いかにも安倍晋三内閣が好きそうな補助制度を活用しています。この事業の申請期間は平成31年3月1日〜11日と極めて短く、おそら予算成立間際にドタバタと作られた補助制度で、応募する側も審査する側も慌てて対応せざるを得なかったことがうかがわれます(ただし、この点はあくまで推測です)。

 愛知県は「あいちトリエンナーレ2019」でこの一次募集に応募し、遅くとも4月26日には無事採択されて通知の交付・発表がなされ(2019年度「日本博を契機とする文化資源コンテンツ創成事業(文化資源活用推進事業)」採択一覧)、募集要項の定めに従って補助金交付申請書を提出し、交付決定を待っていました。ところが、標準的期間である30日どころか開催期間である8月1日を超えても交付の決定がなされず、問題が表面化した今になって、やっと(?)不交付決定がなされたという経緯だと思われます。

 ここで、文化庁が不交付決定の根拠としている「補助金等に係る予算の執行の適正化に関する法律」通称「補助金適正化法」第6条は、次のように定めています。

  ◇補助金適正化法
   第6条
   (1)各省各庁の長は、補助金等の交付の申請があったときは、当該申請
   に係る書類等の審査及び必要に応じて行う現地調査等により、当該申請に
   係る補助金等の交付が法令及び予算で定めるところに違反しないかどうか、
   補助事業等の目的及び内容が適正であるかどうか、金額の算定に誤りがな
   いかどうか等を調査し、補助金等を交付すべきものと認めたときは、すみ
   やかに補助金等の交付の決定(契約の承諾の決定を含む。以下同じ。)をし
   なければならない。

 一見すると、条文からは、文化庁は「内容が適正であるかどうか」等を判断して、任意に補助金の交付/不交付を決定できるように見えますし、一般に補助金は、これを交付する省庁が任意に交付/不交付を定めてよいかの様に思われています。

 しかし、補助金は本来、法の支配に基づく公平・公正な行政、および法の下の平等という観点から、補助の趣旨にかなうものであれば平等に交付されるべきものです。とはいえ、現実には予算総額は限られ、一定の選別は必要です。そこで、運用として、まずは事前に「申請→審査」して、正式に補助金交付申請を出せる(受理してもらえる)適正な事業を採択したうえで、正式に補助金交付申請が出されたものについては、「法令及び予算に違反しないか」「補助事業等の目的及び内容が適正か」「金額の算定に誤りがないか」等を審査し、違反、不適正、誤りがなければ、「交付の決定(契約の承諾の決定を含む。以下同じ。)をしなければならない。」とされているものと私は理解しています。

 つまり同条は、文化庁が恣意(しい)的に補助金の交付/不交付を決定することを認めるものではなく、むしろ条件を満たす適正な申請がなされたら、補助金の交付を決定しなければならないとしているものと解されるのです。

■■文化庁が不交付を決定した理由■■

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東京芸術大学前で開かれた集会。教員や学生、卒業生らが、文化庁があいちトリエンナーレへの補助金を不交付にしたことへ反対の声を上げた。文化庁の宮田 長官頑張れという看板も=2019年9月27日、東京芸術大

 文化庁は、今般の不交付決定の理由を、愛知県が「来場者を含め展示会場の安全や事業の円滑な運営を脅かすような重大な事実を認識していたにもかかわらず、それらの事実を申告することなく採択の決定通知を受領した上、補助金交付申請書を提出し、その後の審査段階においても,文化庁から問合せを受けるまでそれらの事実を申告しなかった」ため、その事業が@実現可能な内容になっているか、A事業の継続が見込まれるか、の2点において、「文化庁として適正な審査を行うことができなかった」とし、「補助事業の申請手続きにおいて、不適当な行為であった」事としています(文化庁のHP参照)

 そこで前掲の「文化資源活用推進事業 募集案内」を見てみましょう。そこには、「審査の視点」として、

 ●実現可能な内容・事業規模になっているか。
 ●計画期間終了後も地方公共団体独自で取り組めるなど事業の継続が見込まれるか。

が挙げられています。

 つまり、文化庁は「あいちトリエンナーレ2019」は、@実現不可能な内容・事業であった A事業の継続が見込まれなかった、にもかかわらず、それについて申告せず、それゆえ適正な審査がなされなかったという手続き上の違反があったから、正式な補助金交付申請にも関わらず、補助金を不交付決定したとしているのです。

 はたして、この文化庁の説明は、補助金適正化法第6条に基づき、不交付決定をするに値する合理的なものでしょうか?

■■不交付決定に合理性なし■■

 まずもってなのですが、補助金適正化法第6条は、「手続き違反」による不交付決定を定めていません。

 仮に、「あいちトリエンナーレ」の実現性、継続性に疑問があったにもかかわらず、申請・審査時にそれが申告されなかったというのであれば、文化庁は「当該申請に係る書類等の審査及び必要に応じて行う現地調査」を行い、「補助事業等の目的及び内容が適正であるかどうか」等を調査したえで、補助金を交付すべきか否かを決定しなければならないのです。

 従って、「申請の手続き違反により(内容を見ることなく)不交付を決定した。」という文化庁の説明は、それ自体法的根拠を欠くものだと言えます。

 そうではない、手続き違反ではなく、調査のうえで決定したということだとすると、次は「あいちトリエンナーレ」は本当に実現性、継続性を欠くといえるか否かが問題になります。

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「あいちトリエンナーレ2019」メイン会場の愛知芸術文化センター。多くの来場者が訪れていた=2019年9月14日、名古屋市東区

 前述の通り、今回の企画の一部である「表現の不自由展」が、展示内容についての抗議と、観客に危害を加える旨の脅迫によって中止されたことは周知の事実です。しかしながら、「あいちトリエンナーレ」自体は、現在も実施されており、実現はもちろん可能です。2010年から3年ごと実施され、すでに4回を数えていて、継続性にもなんら問題はありません。「あいちトリエンナーレ2019」は、どう見ても、実現可能で継続性のある事業だとしか評価しようがありません。

 仮に、文化庁が「あいちトリエンナーレ」全体についてではなく、「表現の不自由展」という一部の@実現可能性A継続性について論じているとしても、それはあくまで展示そのものが評価対象です。「表現の不自由展」自体は現実に開かれ、継続の意思もあった以上、当然ですが「実現可能で継続性のある展示」だったとしか評価しようがありません。その「実現可能で継続性のある展示」が外部の妨害で中止となった場合、「展示そのものが最初から実現不可能で継続性が無かった」とするのは、明らかに評価すべき対象を誤っています。

 仮に、外部の妨害も考慮した実現可能性、継続性を評価するというのであれば、そもそも申請事項に「予想される外部からの妨害」等の項目を入れておくべきですが、公表されている申請用紙にその様な項目はありません。

■■歪められた審査基準と「法の支配」の原則■■

 つまり文化庁は、当初は「それ自体が実現可能で継続性のある事業」という審査基準だったものを、後付けで「外部からの妨害があっても尚、追加の対策を講じる必要なく、申請した『すべて』の内容(展示)が実現可能で継続性のある事業」にかえて、本来は実現可能性にも継続性にもなんの問題もない「あいちトリエンナーレ2019」全体について、決して大きくない一部である「表現の不自由展」が外部からの妨害によって中止された一事をもって、不交付決定をしたことになります。

 仮に、この不交付決定が手続き違反ではなく、調査のうえのものだとしても、その決定自体が後付けの基準による、事実に反する、非論理的で不合理なものだとしか言いようがないのです。

 法的根拠がないにもかかわらず、この様な不合理な決定により、事前の審査では「適正」と判断されて採択された事業への正式な補助金の交付申請に対して、「不交付決定」をなすことは、実質的に補助金を交付する省庁が、その裁量で恣意的に交付/不交付を決定できるようにするものであり、可能な限りで平等・公平な補助金の交付を旨としてきた従前の補助金行政の趣旨を損ない、法の支配の原則を大きく歪めるものだと、私は思います。

■■信頼関係に基づく行政の安定的運営も損なう■■

 さらにこの決定は、県と国という行政機関同士の信頼関係に基づく安定的な行政運営という観点からも、考えられないものです。


文化庁の補助金不交付の決定を巡り、記者団の取材に応じる愛知県の大村秀章知事=2019年9月26日、愛知県庁

 先に示した通り、今回使われた「文化資源活用推進事業」補助金の申請書は比較的簡単なものですが、通常こういった補助金を申請し、採択されるには、申請する自治体(この場合は愛知県)と申請された省庁(この場合は文化庁)の担当者は、正式な申請前に何度も打ち合わせをし、不明な点があれば説明を求められ、不足な書類があれば補完を促され、省庁側が求める情報を一式そろえて申請します。

 今回の補助金の申請書は、個別の展示内容の記載欄も小さく、「安全上の問題」を記載する項目はありません。審査に当たった文化庁担当者、文化庁自身がそもそも、個別の展示内容についても、安全上の問題についても、審査することは念頭になく、打ち合わせの際にも愛知県の担当者にまったくその説明・申告を求めずに申請を認め、審査し、採択したというのが実態でしょう。

 申請の結果、採択となれば、申請した県はそれを前提として予算案を作成し、議会の議決を経て、事業の現場で多数の関係者を相手に、予算を執行します。

 その一つひとつのプロセスに、県と省庁の双方が多大な人的・物的リソースを割いているのにもかかわらず、法的根拠もなく、完全に後付けでちゃぶ台返しをされてしまったら、申請する側としては、一体何のための打ち合わせであり、何のための審査だったのかと言いたくなります。

 この不交付決定は、申請する県の側から見ると、中央省庁担当者、中央省庁がいうことの何が信じられて、何が信じられないのかが、まったく分からなくしかねないものです。それは、行政機関同士の信頼関係に基づく日本の行政の安定的運営を、大きく損なうものでもあるのです。

■■過ちを改めざる、これ過ちという■■

 それ自体残念なことですが、事実として、地方自治をはじめとして日本の行政は、中央省庁からの補助金が多数設定され、補助金に依存した運営がなされています。また補助金以外でも、行政運営上、中央省庁との折衝を要することは極めて多岐にわたります。

 その日本の行政運営の実質的根幹の一つである補助金制度において、この様な恣意的で不安定な決定がなされ、法の支配が脅かされ、中央省庁に対する信頼が破壊されてしまったら、大げさでもなんでもなく、日本の行政運営が根本から揺るぎかねないと私は思います。

 ――過ちて改めざる、これ過ちという

 文化庁長官、文部科学大臣をはじめとする担当者は、ぜひ勇気をもって、職を賭してでも、この決定を撤回していただきたいと思いますし、芸術祭実行委員会の会長である大村秀章・愛知県知事はこの決定に対し、国地方係争処理委員会に申し出て徹底的に争うべきだと、私は思います。

https://webronza.asahi.com/politics/articles/2019092700007.html
http://www.asyura2.com/19/senkyo265/msg/886.html

[政治・選挙・NHK265] 補助金の不交付 明らかな権力の検閲だ 
 
 「表現の不自由展・その後」が中止された「あいちトリエンナーレ2019」を巡り、文化庁は補助金の不交付を決めた。手続きを理由としているが、明らかな権力による検閲だ。撤回を求める。

 文化庁は二十六日、交付が内定していたトリエンナーレへの補助金約七千八百万円を交付しないと発表した。実行委員会の中心で、補助金を申請した愛知県に対して「芸術祭の円滑な運営を脅かす事態を予想していたにもかかわらず、文化庁の問い合わせまで申告しなかった」と説明している。

 変な理屈だ。芸術展は基本的に「性善説」の上に成り立つ。展示作や観覧者を脅かす悪意を前提としては開けない。不自由展の再開が検討される中で、手続きを口実に狙い撃ちにしたかのようだ。

 萩生田光一文部科学相は「検閲には当たらない」と言う。しかし「退廃芸術」を排除しようとしたナチス・ドイツを持ち出すまでもなく、政治が芸術に介入するのは危険極まる。政策の基本的な計画で「文化芸術の『多様な価値』を活かして、未来をつくる」とうたう文化庁が、多様な価値観を持つ芸術家の表現活動を圧迫し、萎縮させる結果になるのではないか。

 大村秀章知事は「憲法が保障する表現の自由に対する重大な侵害だ」と強く批判し、裁判で争う意向を示した。補助金カットに伴う県財政や県民の負担を考えれば、もっともな対応といえよう。

 不自由展は、元慰安婦の象徴とされる少女像や、昭和天皇の肖像を用いた版画を燃やす作品などを展示。激しい抗議が寄せられた。「ガソリンの携行缶を持ってお邪魔する」という脅迫文さえ届き、わずか三日で中止となった。

 実行委を構成する名古屋市の河村たかし市長は「日本国民の心を傷つけた」と述べた。だが自由な民主国家である日本の名誉を傷つけ、社会と国民を圧迫するのは、むしろこうした行為ではないか。政治家や官僚は意に沿わない芸術家や作品に目を光らせるより、暴力や圧力でものごとを動かそうとする風潮こそ戒めるべきだ。

 少女像などに不快な感情を持つ人がいるのは無理もない。だが仮に像を撤去したとしても、慰安婦を巡るこの国の負の歴史まで消せるわけではない。社会の問題を誠実に問い続ける芸術家の創造活動は、私たちに都合の悪いものや直視したくないものを作品に昇華させて提出する。

 私たちが芸術展で見てとるべきは、そこにある。


中日/東京新聞社説 2019年9月28日
https://www.chunichi.co.jp/article/column/editorial/CK2019092802000116.html
https://www.tokyo-np.co.jp/article/column/editorial/CK2019092802000166.html
http://www.asyura2.com/19/senkyo265/msg/887.html

[政治・選挙・NHK265] 芸術祭補助金 不交付は表現への圧力 

 文化庁が、開催中の国際芸術祭「あいちトリエンナーレ」に対し、約7800万円の補助金全額の不交付を決めた。

 問題視したのは企画「表現の不自由展・その後」だ。元従軍慰安婦を象徴する少女像などに抗議が殺到し、中止に追い込まれた。

 文化庁は「申告すべき事実を申告しなかったという手続き上の理由」との説明に終始した。

 しかし、芸術祭の数ある企画のうち、一つの企画を理由に全額不交付とするのはあまりに乱暴だ。

 いったん補助事業に採択しながら開幕後に不交付にするのは極めて異例であり、事後的な「検閲」とみられても仕方がない。

 文化芸術活動の萎縮を懸念する声が上がるのは当然だ。文化庁は丁寧に説明を尽くす必要がある。

 不交付は補助金適正化法に基づいて決定された。文化庁は、芸術祭側が円滑な運営を脅かされる事態を予想しながら、申請時に申告しなかったことを重視した。

 事業の実現可能性などを十分審査できず、現に申請通りの展示が行われていないというわけだ。

 だが、展示を妨害したのは、意に沿わぬ表現を不当な攻撃によって排除しようとした人々だ。

 河村たかし名古屋市長が、少女像を巡って実行委会長の大村秀章愛知県知事に中止を要求し、批判を浴びるなど、政治家の言動もこれを助長する格好になった。

 その揚げ句の不交付である。結果として、事態を政府が容認したと内外に示したに等しい。

 しかも決定前日、県の設置した検証委員会が中間報告を公表し、リスク回避や展示方法の改善などの条件を整え、速やかに再開するよう提言したばかりだった。

 文化庁の決定は、再開阻止を狙った疑いが消えない。

 中間報告は、このまま閉会すれば「悪(あ)しき前例や自主規制を誘発する」とも強調した。

  展示再開を目指す大村知事は、不交付の決定は「表現の自由」の侵害に当たるとして文科省を提訴する考えを示している。

 文化事業は独立採算が難しく、各種の助成に頼らざるを得ない。攻撃による混乱を理由に補助金を不交付とする例を示したことは、企画段階での萎縮を招こう。

 それは、実質的な展示内容への介入にほかならない。

 「文化芸術立国」を目指して一昨年に改正された文化芸術基本法は、前文に「表現の自由の重要性」が初めて盛り込まれた。文化庁は、法の理念に立ち返るべきだ。


北海道新聞社説 2019年9月28日
https://www.hokkaido-np.co.jp/article/349205?rct=c_editorial
http://www.asyura2.com/19/senkyo265/msg/888.html

[政治・選挙・NHK265] 政府やメディアが刷り込んだ“消費税の目的”の嘘 (朝日新聞社 論座) 
 
政府やメディアが刷り込んだ“消費税の目的”の嘘
“社会保障の充実と安定化”のための増税という謳い文句とは正反対の現実

斎藤貴男 ジャーナリスト
論座 2019年09月20日
  
 
https://image.chess443.net/S2010/upload/2019091900001_1.jpg

10月から消費税が8%から10%に上がります。メディアでは軽減税率やポイント還元策などが話題になっていますが、ことの本質はそこなのでしょうか。長年、消費税のあり方を追及してきたジャーナリストの斎藤貴男さんが、消費税が抱える根源的な問題についてシリーズで考えます。(論座編集部)

■■全世代型社会保障改革を掲げた新内閣■■

 「新しい社会保障制度のあり方を大胆に構想してまいります」と安倍晋三首相は胸を張った。

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内閣改造について記者会見する安倍晋三首相=2019年9月11日、首相官邸

 9月12日、第4次再改造内閣発足に臨む記者会見。「全世代型社会保障改革」を新内閣の“旗”に掲げ、その担当を兼務する西村康稔経済再生相(56)を中心に、「70歳までの就労機会の確保や年金受給年齢の選択肢の拡大」などの“改革”を進めるという。

 いわゆる年金カット法(年金制度改革法)に基づくマクロ経済スライド方式の強化をはじめ、医療費や介護費用の自己負担比率増大、介護保険制度の利用者制限、生活保護の生活扶助費や住宅扶助費の減額等々、過去数年にわたって重ねられてきた社会保障の縮小あるいは削減に、よりいっそうの大ナタが振るわれていく。側近の衛藤晟一氏が担当相に起用された「1億総活躍」の国策と合わせれば、権力に近くない人間は死ぬまで働くしかない時代が見えてくる。

 ちなみに西村氏は内閣官房副長官だった2018年7月5日夜、安倍首相とその取り巻きたちによるどんちゃん騒ぎの大宴会「赤坂自民亭」の模様を、「いいなあ自民党」のコメントとともにツイートし、問題になった人物だ。翌日にオウム真理教事件の死刑囚7人の死刑執行が予定され、また中国・四国・九州地方で200人以上の死者を出すことになる西日本大豪雨がすでにその予兆を示していたそのタイミングが、今も記憶に生々しい。

■■社会保障の充実と安定化のための増税だったが……■■

 “大胆”な社会保障“改革”の実相も、それを担う人々の資質も、しかし、マスメディアは特に報じも、論じもしなかった。新閣僚の首相との距離感や、派閥の内幕については過剰なほど詳しい新聞は、国民生活を左右する政策の意図や意味には関心がないらしく、政権側の言い分をおおむねそのまま垂れ流す。「全天候型社会保障改革」に批判的な報道が皆無だったとまでは言わないが、その場合でも、なぜか、この“改革”と、ある要素との関係だけは、とことん避けて通られているようだ。

 「ある要素」とは何か。消費税増税の問題だ。

 来たる10月1日に、消費税率は8%から10%に引き上げられることになっている。そして、政府とマスメディアはこの間ずっと、“社会保障の充実と安定化”のための増税なのだと謳(うた)い続けてきた。

 それが、どうだ。現実は、まるで正反対の姿にしかなっていないではないか。

■■尻すぼみに終わった「老後2000万円問題」■■

 例の「2000万円問題」を、改めて考えてみよう。さる6月、政府の審議会が公表した報告書に、“今後の日本社会で高齢夫婦が老後を暮らすには、支給される公的年金の他に約2000万円が必要になる”旨が書かれていて、日本中が大騒ぎになった、あの問題だ。

 だからどうするべきなのか、という問題提起ではない。金融庁長官の諮問を受ける「金融審議会」の「市場ワーキンググループ」が、あくまでも金融サービス事業者向けに、だからこういう金融商品を作って売ったら儲かりまっせ、と“啓蒙”するのが狙いの文書であり、2000万円うんぬんは、その前提となるデータとして提示されていたのにすぎない。

 目的はどうあれ、それでも多くの国民は反発しかけた。官邸前の抗議集会や、デモがあった。野党も結束して追及した……かに見えた。だが、やがて尻すぼみになり、7月の参院選でも、さしたる争点にはならなかった。

 原因は明確でない。野党のだらしなさ、権力になびく一方のマスメディアといろいろあるが、それだけでは説明できない。しかし、そうなった決定的な背景が、私にはわかるような気がする。

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■■消費税率は上がれど悪化する社会保障■■

 1988年のことである。ある不動産会社が、自社商品の宣伝本を出版した。題して『パートナーシップ』。一言に要約すると、こんな内容だった。

    日本銀行の試算によれば、現役を退いた高齢夫妻の老後は公的年金
   だけでは賄えず、平均でざっと1500万円の貯蓄が必要です。だから
   皆さん、当社のワンルームマンションに投資して、安心な老後に備え
   ましょう。

 時はまさに金ピカ・バブル経済の真っ盛り。週刊誌の記者だった私は、その本を地上げ絡みのネタ元にさせてもらっていた同社幹部にプレゼントされ、思うところあって、大切に保管してきた。

 消費税が導入されたのは翌89年。“高齢化社会への対応”が前面に打ち出され、紆余曲折を経てのスタートだったが、その後も同じ理由が繰り返し掲げられ、税率が3から5、8%へと引き上げられて、ついには2桁の大台に乗ろうとしている。

 考えてももらいたい。いくらなんでも、おかしすぎはしないか。

 消費税の導入前は1500万円の不足。税率10%を目前にした現在は2000万円の不足。何も変わっていない、どころか、事態はかえって悪化している。いったい何のための消費税だったのか。

■■消費税は大企業や富裕層の減税の財源■■

 ……などと吠えてみせるのもカマトトではある。財務省の資料「法人税率の推移」によれば、88年度に42%だった法人税の基本税率は、翌年に消費税が導入されてからは減税に次ぐ減税で、現在は半減に近い23.2%だ。

 また、これも財務省のデータ「一般会計税収の推移」は、税収全体に占める税目別の割合が、消費税と法人税がほぼ反比例している様子を示している。この間には所得税の累進性もかなり緩んだ。99年からの8年間は累進の上限が年間所得1800万円超の37%。少し大きな会社の部長さんも、大財閥のオーナーも、同じ税率だった。

 財政健全化の財源にすると強調された局面もしばしばだった。けれども、この点にしたところで、消費税が導入されて以降も、財政赤字は膨らむ一方であり続けてきた。税収が増えると、増えた分だけ“土建屋政治”や“軍拡”に勤(いそ)しんできたからに他ならない。

 要するに、消費税は社会保障の充実や安定化、財政健全化のために導入されたわけでも、増税されてきたわけでもない。敢えて単純化してしまえば、それはただ、大企業や富裕層の減税の財源になった。すなわち、この間に政府やマスメディアが国民に刷り込んできた“消費税の目的”なるものは、何もかも嘘だったと断じて差し支えないのである。

■■自己責任論が強調される社会保障■■

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消費増税関連法案の成立で合意(3党合意)した野田佳彦首相、自民党の谷垣禎一総裁、公明党の山口那津男代表(右から)=2012年8月8日、国会

 もっとも、ことの善悪の一切をさて置く限り、とりわけ近年における状況は、いわば必然的な結果でもあった。民主党政権と自民、公明両党との「3党合意」で、国策「社会保障と税の一体改革」の目玉としての消費税増税が決められた2012年の冬、「社会保障制度改革推進法」が可決・成立している。その第2条の1が、社会保障を、こう定義していた。

   ――自助、共助及び公助が最も適切に組み合わさ
   れるよう留意しつつ、国民が自立した生活を営むこ
   とができるよう、家族相互及び国民相互の助け合い
   の仕組みを通じてその実現を支援していくこと。

 一般の認識とは、天と地ほどもかけ離れてはいないだろうか。

 社会保障と言えば、普通は社会保険や公的扶助、公衆衛生、医療、社会福祉などの概念をまとめたものと理解されている。1950年に当時の「社会保障審議会」が打ち出した「狭義の社会保障」の定義が、多くの人々には、なお生き続けているのだ。 いずれにせよ、今風の表現では「公助」のイメージだ。「社会保障制度改革推進法」の定義と対比されたい。

 そして、消費税率が8%に引き上げられる4カ月前の2013年12月、今度は「推進法」を具体化していくための「社会保障制度改革プログラム法」が可決・成立。同法では社会保障における政府の役割が規定されているのだが、こちらはもっと凄まじい。

   ――政府は、住民相互の助け合いの重要性を認識
   し、自助・自立のための環境整備等の推進を図る
   ものとする。

 徹底的な自己責任論であり、政府は努力義務しか持たないと定めている。書籍や雑誌の記事、講演会などの場で、私が幾度も幾度も書き、語り、批判してきたことである。

 こう書くと確実に返ってくるのは、“消費税がなければ、社会保障そのものが解体していた”などといった反論だろう。制度の“持続可能性”を錦の御旗とする政府やマスメディアが近年多用したがるロジックだが、これほどの本末転倒もない。制度だけが持続しても、国民生活を支えることができない制度なら無意味だ。

 「社会保障は国民生活に必優なものであるから、財源が足りなければ、どこからか財源を工面して、社会保障の充実に充てるのが、政治家の仕事ではないか」と、鹿児島大学の伊藤周平教授(社会保障法)は喝破してのけている(『社会保障入門』ちくま新書、2018年)。生存権を規定した憲法25条を持ち出すまでもなく、消費税は上げるが社会保障の水準は下落の一途、などという“政策”は、本来、許されてよいはずがないのである。

■■本気で怒らない国民にも責任■■

 2000万円問題がいつの間にか騒がれなくなった最大の理由は、おそらく、ここのところだ。

 消費税で社会保障が充実するなんて妄言を、実は誰も信じてなどいない。お上に何を言ってみても無駄であり、自分たちは政治権力や巨大資本の金ヅル兼労働力、ないし兵力以上でも以下でもないと、大方の日本国民は初めから諦め切っている。だから、どうせ野垂れ死にしかあり得ないとわかりきっている老後に、今さら2000万円がどうのこうのといわれても、本気で腹を立てることができない。あまり深く考えても。生きていたくなくなるだけではないか。

 そのような思考回路が、絶望が、現代のこの国には充満しているのだと、私は思う。

 安倍晋三台第4次再改造内閣のもとで、私たちの社会保障はさらに“大胆”に、切り捨てられていくのだろう。国民の生活や生命を屁とも思っていない政権の非道もさることながら、いいように騙(だま)されて、にもかかわらず誰も本気で怒り狂おうとしない、物事を自分の頭で考えるくらいなら死んだほうがマシだと思っているフシさえ感じられてしまう国民の側にも、大きな責任があると言わざるを得ない。

 近い将来にはまたぞろ、さらなる消費税増税不可避論がマスメディアに溢(あふ)れるに違いない。一時は政権批判の材料になった「2000万円問題」も、その時には消費税率の15%、20%への引き上げを正当化する“論拠”に使われることになるはずだ。

 放火魔が火事場泥棒を働く構図と言うべきか。

 そして、当然のことながら、目下の日本国民のままであれば、消費税率がたとえ30%、40%に引き上げられようと、「社会保障とは自己責任」のことなりとする政府の姿勢は、いささかも改まるまい。

 打開策があるとすれば、ただひとつ。多くの人々が消費税というものの本質を学び、理解して、怒らなければならない時は本気で怒ることである。次回は、そのための一助となる記事を書く。

https://webronza.asahi.com/politics/articles/2019091900001.html
http://www.asyura2.com/19/senkyo265/msg/891.html

[政治・選挙・NHK265] 消費税減税は左派ポピュリズム(リベラル21) 
2019.09.28  
盛田常夫 (経済学者、在ハンガリー)

 れいわ新選組の消費税減税に、共産党がいち早く同調したようだが、世論の評価は総じて低い。減税を主張すれば有権者の票を獲得できるという浅はかな期待に乗っかった政策だが、これこそ国民を見下したポピュリズムであり、国民を馬鹿にした発想である。その魂胆があまりに見え透いていて相手にされない。
 
 そもそも、消費税を廃止したり、減税したりした国を探し回り、たまたまマレーシアが廃止したことに我が意を得て、喜喜として消費税廃止へ方向を切ったようだが、比較する国が間違っている。マレーシア並みの社会保障に切り下げるなら、消費税廃止もあり得るだろう。ところが、日本的な社会保障を維持したまま、マレーシアに倣って消費税廃止という論理は、まったく説得力がない。中学生でも分かることだ。あまりのご都合主義に滑稽でもある。

 いったい日本が目指すのはアジアの中進国なのか、それとも欧州の福祉国家なのか。アメリカ的な消費生活を維持して、西欧の福祉国家を目指そうということなのか。そのことを議論せず、「消費税を廃止している国があるから」というだけで、国民を説得できるわけがない。多くの若者は将来の年金を含めた社会保障に不安を抱いている。それをポジティブに解決する道を示すのではなく、後ろ向きに解決する政策は最初から「票目当て」と勘ぐられ、支持されない。「れいわ」が多くの得票を得たと言っても、高が200万余票である。ポピュリスト政策を信じる有権者がその程度いるというだけのことだ。

 成熟した日本経済に求められているのは、個人消費と社会消費の関係をどうするかである。社会消費を増やそうとすれば、個人消費を減らすしかない。個人消費を増やしたければ、社会消費の減額を受け入れなければならない。膨大な公的債務を抱える日本が、将来の税収を担保にした借金経営を続ける限り、将来の社会保障は限りなく切り下げられる。年金の4割5割減、医療費の自己負担率の大幅引上げは最低限の要件である。これだけ深刻な問題を抱えているのに、ふつうに考えて、消費税減税が解決策になるとは誰も思わないだろう。そういう国民の意識や不安を解決する道を示さないで、当座の減税だけ提言する政策は国民の支持を得られない。

 他方、政府は軽減税率導入による煩雑な問題に国民の目を向けさせ、いったい何のための増税なのかを真正面から議論することを避けている。明らかに安倍政権は将来社会の福祉水準の維持を真剣に考えて消費税増税を決めたのではない。安倍晋三にとって、将来社会の社会保障などどうでもよいことである。これだけ財政赤字をたれ流ししてきたのだから、少々の増税は仕方がないが、それが政権支持の票を減らしては困る。それだけのことである。だから、一生懸命に、複雑な軽減税率やポイント還元政策で、目くらまし作戦を展開しているだけだ。これこそ、右派ポピュリズムの最たるものだ。

 野党が追及すべきは、法人税の取り損ないがないかを精力的に調べ、法人からの税収を増やすことだ。また、消費税軽減税率やポイント還元に右往左往するより、消費税累進税率の導入を考えるべきだ。500万円1000万円の乗用車を購入できる人であれば、30-40%の消費税であっても購入するだろう。数百万円もする宝石類を購入する人であれば、40-50%の消費税でも購入を控えることはない。奢侈品の価値はあってないようなものだから、4-5割価格が高くなっても買い控えはない。消費税が課税の不平等をもたらすと声高に叫ぶ前に、富裕者の奢侈品購入の消費税率を標準税率の5割増し10割増しにすることだ。煩雑な軽減税率導入に経費をかけるより、奢侈品の累進税率導入を考え方が良い。

 ネットを通していろいろな情報が容易に取得できる時代になった。政党の政策立案者が考えているより、国民ははるかに多くの情報にアクセスできる。前向きの実現可能な政策を練ることなく、後ろ向きの政策で、当座の支持を増やそうという見え透いた魂胆は、簡単に見破られる。安易な政策提言は党の信頼性を損なうだけである。

http://lib21.blog96.fc2.com/
http://www.asyura2.com/19/senkyo265/msg/892.html

[政治・選挙・NHK265] 旭日旗は忘れられていない(朝日新聞社 論座) 

旭日旗は忘れられていない
「韓国だけが特殊である」という誤解

清義明 ルポライター
論座 2019年09月28日 より無料公開部分を転載。


■■サッカーの世界では処分対象■■

 旭日旗について、また喧しい議論となっている。来年の東京オリンピックの組織委員会が、大会中の会場への持ち込みや掲示について、禁止する考えがないことを公式な見解として公にしたからだ。

 これについて、政府やマスメディアも含めて様々な議論が行われているが、サッカーの世界においてどのようにこれが決着したかは事実としてはっきりしている。

 過去たびたび会場内での掲示が問題となっていた旭日旗について、アジアサッカー連盟(AFC)は、「国家の起源に関する差別的シンボル、および政治的意見(discriminatory symbol relating to national origin and political opinion)」として、その意匠をサッカー会場で掲揚したことを処分対象としたのである。

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ソウルで行われたサッカーアジア杯の日韓戦で、日本サポーターが旭日旗を掲げた=2013年7月28日

 2017年に川崎フロンターレがアジアチャンピオンズリーグのアウェイでの韓国戦において、この旭日旗を応援に使用した川崎フロンターレのサポーターがおり、これに抗議する韓国サポーターとトラブルになったのが、この直接のきっかけである。これに対して、日本サッカー協会とJリーグの上位組織である、AFCは、執行猶予付きながら無観客試合を1試合、そして罰金1万5000ドル(約170万円)のペナルティを課した。これは日本のチームが国際試合で下された処分としては、前例のない重いものである。
 川崎フロンターレはこの処分を不服として上訴した。しかし、これはすぐに棄却された。よって処分は確定している。

 オリンピックはもちろんサッカーだけの大会ではない。しかしサッカー競技はオリンピックでも国際サッカー連盟(FIFA)の管轄の下に行われる。そうなれば、下位組織のAFCが下した判断は、そのままオリンピックのサッカー競技に準用される可能性が高い。AFCが下した判例はFIFAの倫理規定や懲罰規定がもとになっているからだ。

■■旭日旗に「政治的な意味はない」か■■

https://image.chess443.net/S2010/upload/2019092500005_4.jpeg
韓国人を排撃するヘイトデモでは、日の丸よりも旭日旗が好んで掲げられることが多い=2013年2月17日、東京・新大久保

 オリンピックでは、政治的な中立性を担保するために、「オリンピック開催場所、会場、他のオリンピック・エリアにおいては、いかなる種類の示威行動または、政治的、宗教的、人種的な宣伝活動も認められない」とオリンピック憲章に明記してもいる。

 一方で、「旭日旗はいかなる政治的な意味ももたない」というのが、最近の政府の見解になっているらしい。しかし、それはあくまでも日本政府の主張であり、あわせて先に川崎フロンターレ側の上訴の主張でもある。国際社会と日本の認識がズレているというのは別に珍しいことではない。そして実際にサッカーの世界ではこの日本の認識は通用しなかったということだ。

 ただし、もちろんこれは会場などで、トラブルになった場合だ。旭日旗が翻っても、問題化しなければそのまま許されることになるだろう。実際にサッカーにおいても、現在も旭日旗は普通に使われている。ただし、海外のチームとの対戦、ことに東アジアのチームとの対戦は別扱いである。このようなケースの場合、現場では日本サッカー協会もJリーグも事実上ファン・サポーターに様々な働きかけをして自粛を促しているのが実際のところである。

 さて、これまで旭日旗問題が起こるときには、韓国側からの抗議があったことを契機とするものが多かった。そのため、旭日旗を問題視するのは韓国だけというような論調が、メディアやインターネットなどをみると一般的に ・・・ログインして読む
(残り:約5182文字/本文:約6658文字)

https://webronza.asahi.com/national/articles/2019092500005.html
http://www.asyura2.com/19/senkyo265/msg/893.html

[政治・選挙・NHK265] NHK番組への圧力 公共放送の自律を脅かす 
 
 公共放送の自主自律を脅かす深刻な事態である。

 かんぽ生命保険の不正販売問題を報じたNHKの番組を巡り、NHKの経営委員会が昨年10月、日本郵政グループから抗議を受けて、「ガバナンス(企業統治)強化」の趣旨でNHK会長を厳重注意していた。

 まず指摘しなければならないのは郵政グループの不誠実な対応だ。不正販売の究明と是正に集中して取り組むべきであるにもかかわらず、報道したNHKに矛先を向けた。

 問題とされたのは、NHKが昨年4月に放送した報道情報番組「クローズアップ現代+(プラス)」だ。郵便局が保険を「押し売り」している実態を伝えた。

 続編を企画した制作現場は、情報提供を呼び掛ける動画を昨年7月上旬、ネット上に投稿する。これに対し郵政側が「組織ぐるみでやっている印象を与える」との趣旨の抗議文をNHK会長宛てに送り、動画の削除を求めた。

 言うまでもなく情報提供の呼び掛けは不正の実態解明に役立つ。郵政側が動画の削除を求めたのは、不正が次々と明るみに出る事態を避けたかったからではないのか。反省するどころか、問題を矮小(わいしょう)化し、臭い物にふたをする姿勢が透けて見える。

 NHKの対応は問題だらけだ。投稿していた動画を昨年8月上旬に削除した。「一定の役割を果たしたため」というのが理由だが、要求に屈した疑いが強い。正確な報道のためには、より多くの証言を集める方がいいからだ。

 郵政側とのやりとりの中で番組担当者が「会長は制作に関与しない」との趣旨の説明をしたため、郵政側は経営委に文書でガバナンス体制強化を要請した。NHK会長は「誤った説明だった」と郵政側に事実上謝罪した。続編の放送は今年7月までずれ込んだ。

 個別の苦情に、最高意思決定機関である経営委が動き、会長が釈明するのは異常と言うほかない。日本郵政の筆頭株主は日本政府だ。政権に近い郵政グループだから特別な対応をしたのであれば、それこそ公正さを欠いている。

 郵政側が問題視した「クローズアップ現代+」は、かんぽ生命保険の販売を巡る不正をいち早く報じた。経営委は、その社会的意義をどこまで理解しているのか。被害者に寄り添うよりも、加害者側の立場に配慮しているように見える。国民の目線とは程遠い。

 経営委は個別番組の編集に関与できない。今回の厳重注意は、ガバナンス強化の趣旨であっても、番組に対する圧力と受け取られかねない。より良い社会を築こうと奮闘する制作現場の努力を踏みにじる行為と言っていい。

 経営委に求められるのは、権力からのあらゆる圧力をはねのけ、自主自律を堅持する態度を貫くことだ。郵政側から要請があったからといって右往左往するようでは公共放送の使命は果たせない。


琉球新報社説 2019年9月28日
https://ryukyushimpo.jp/editorial/entry-997450.html
http://www.asyura2.com/19/senkyo265/msg/894.html

[政治・選挙・NHK265] (補助金不交付)あしき前例を認めるのか 

 これではテロ予告や脅迫めいた抗議で「表現の自由」を妨げた行為を政府が追認したことにならないか。

 文化庁が、企画展示の一つ「表現の不自由展・その後」が中止になった愛知県の国際芸術祭「あいちトリエンナーレ2019」に内定していた補助金約7800万円を交付しないと発表した。

 不自由展は8月1日に開幕した。従軍慰安婦をモチーフとした少女像などの展示に対し、抗議や批判が殺到。主催者が「安全な運営が危ぶまれる」と判断し、わずか3日で中止に追い込まれた。

 文化庁は、円滑な運営を脅かす事態を予想していたにもかかわらず国に申告しなかったとし、手続きの不備を不交付の理由にしている。愛知県が補助金を申請した際に十分な情報が得られず、適切な審査ができなかったという説明だ。

 萩生田文部科学相は少女像の展示は判断に影響していないとし、「検閲には当たらない」と強調する。ただ、いったん内定した補助金の不交付は異例であり、萩生田氏の発言は額面通りには受け取れない。

 日韓関係の悪化も背景に、少女像などの展示には保守系議員も批判的な声を上げていた。菅官房長官も中止前の段階で、補助金交付を慎重に判断すると表明。芸術家や憲法学者らから表現の自由への介入だと批判された経緯があるためだ。

 専門家から「内容次第で補助金交付が取りやめられるのであれば、展示が萎縮しかねない」と、表現に対する政治の「選別」を疑う声が出るのも当然だろう。

 不自由展には開幕からの1カ月で県庁などに届いた抗議が1万件を超えたという。もちろん展示への意見や反論も自由ではある。

 しかし、京都市の放火殺人事件を連想させる放火予告や、保育園などへの危害を予告するといった内容はもはや抗議の域を超えている。「暴力」で他人の表現の自由を奪うことがあってはならない。

 今回の措置は、脅しによって気に入らない展示を中止に追い込んだ「あしき前例」に政府が加担することにもならないだろうか。

 芸術家や市民、自治体に与える萎縮作用も深刻になろう。こうした前例ができれば政治的テーマが焦点となった場合、自治体が安全確保や業務への支障を理由に、当然のように施設使用や作品展示を認めないケースが広がることが考えられる。

 愛知県の大村秀章知事は検証委員会の中間報告を受け、不自由展の再開を目指すとしている。

 検証委が示した条件は、脅迫や攻撃リスクの回避、展示方法や解説の改善などハードルは高い。だが、あしき前例をそのままにしないためにも10月14日の会期末までに万全の対策で再開を実現してほしい。

 大村氏は補助金不交付に対し裁判で争う意向も示している。本来、人権や自由を擁護するのは政府や行政の責務のはずだ。政府は今回の判断を丁寧に説明する責任がある。


高知新聞社説 2019年09月29日
http://www.kochinews.co.jp/article/312436/
http://www.asyura2.com/19/senkyo265/msg/919.html

[政治・選挙・NHK265] 年配層は「侵略戦争」、若者は「やむを得なかった」 信濃毎日新聞が調べた老若の戦争観(リベラル21) 
 
2019.09.25
岩垂 弘 (ジャーナリスト)


 この9月19日付の本欄で、日本の新聞が8月15日の「終戦の日」前後に掲載した戦争に関する記事の内容について紹介したが、国会図書館で全国の日刊紙53紙に目を通していて、ひときわ私の目を引いた記事がいくつかあった。その1つが信濃毎日新聞の記事で、その中でも「昭和の戦争」に対する年配層と若者の見方を比較した記事だった。

 今夏、信濃毎日新聞の戦争に関する報道は極めて積極的だった。
 それを端的に示していたのは8月11日付朝刊の紙面だ。同社はこの日から、戦争に関する2本の続き物を同時に始めた。
 1本は第2社会面での「戦後74年 今、語らねば」である。これは、同月23日まで9回続き、元満蒙開拓団員(86歳)、インパール作戦に参加した元兵士(97歳)、長野空襲の被害者(89歳)、ソ連によるシベリア抑留者(103歳)、特攻艇隊員の生き残り(93歳)、満州(中国東北部)にあった731部隊の見習い技術員(89歳)、弟を戦争で亡くした元海軍兵士(93歳)らを登場させ、その体験を語らせていた。

 もう1本は、第1社会面での「空に問う平和 信州と日米安保」で、同月16日まで5回続いた。これは、今年5月ごろから同県の佐久地方で米軍の輸送機、南信地方で米軍のオスプレイ(垂直離着陸機)が目撃されるようになった事実を取り上げ、なぜこのようなことが起きるのかを追求したもので、日米安保条約の中身や米軍基地と隣り合わせで暮らす沖縄県民の生活を報じていた。

 これらの続き物とともに私の興味を引いたのは、同紙が8月14日付と15日付の「くらし」面で展開していた「いまどきトーク! 昭和の戦争どう思う?」という企画記事だった。
 同記事によれば、「戦後74年」を機に、若者と年配者に「今、昭和の戦争をどう思っていますか?」と尋ねた。具体的には以下のような4つの回答を示し、選んでもらった。
A 侵略戦争であり、避けるべきだった
B 国際情勢からして、やむを得なかった
C 敗れたけれども、大義名分のある戦いだった
D いろいろ評価があって、分からない

 若者については、7月17日、長野、松本両市で、16歳から30歳までの若者30人に街頭で尋ねた。一方、年配者については、「くらし」面で60代から90代の回答者を募り、応募してきた26人に尋ねた。
 その結果はどうだったか。同記事によれば、次のようだった。
<若者>B37%、A30%、D23%、C7%、どれでもない3%
<年配者>A65%、どれでもない15%、D12%、C8%、B0%

 どうやら、おおまかに言って、昭和の戦争を、若者は「やむを得なかった」、年配者は「侵略戦争」と見ているようなのだ。が、サンブルが少ないし、それに、新聞が行う世論調査のやり方(無差別抽出)とは違った調査の結果だから、若者や年配者の意識を正確に反映したものとは言えない、と反論する人がいてもおかしくない。でも、この結果から、それぞれの年代が過ぐる戦争に対してもつ見方を垣間見ることができるのではないか。

 この企画記事は、回答者から寄せられた意見の一部も載せている。年配者で「A(侵略戦争であり、避けるべきだった)」と答えた人が寄せた意見にはこんなものがあった。
 
 満州で終戦を迎えた長野市の男性(97歳)「今でもあの戦争は明らかに日本の侵略戦争であって、避けるべきだったと思っています」
 松本市の女性(69歳)「日本人はアジアの他民族に対する優越感があり、べっ視し、差別感情を持っていた。『その国土を支配してやらなければならない』という傲慢さによって、軍事力で支配してしまったと思っています」
 9歳で終戦を迎えた松本市の女性(83歳)「父は、体が弱かったので兵隊になれず、ダム工事で仕事していた。強制連行された朝鮮の人たちもいて、食事もろくにやらず働かせるので、栄養失調で亡くなる人がいたり、逃げ出す朝鮮人を殺してしまう軍人がいたりして、『なぜ、こんなひどいことを』と、父は涙ながらに語っていた」

http://lib21.blog96.fc2.com/blog-entry-4891.html
http://www.asyura2.com/19/senkyo265/msg/920.html

[政治・選挙・NHK265] 「差別を差別と非難し、デマをデマと断じることはメディアの役目。」(澤藤統一郎の憲法日記) 

またまたの典型的なスラップ訴訟のご紹介。ヘイトスピーチへの批判の新聞記事が名誉毀損とされ、地方紙の記者が訴えられた事例。いま、ヘイトとヘイト規制が熱くせめぎ合っている川崎での事件である。

まずは、神奈川新聞社会面の今日(9月25日)の記事で概要を把握いただきたい。

       「差別報じた記事、名誉毀損と提訴」「本紙記者争う姿勢」

    在日コリアンに関する講演会での自身の発言を悪質なデマなどと報
   道され、名誉を毀損されたとして、今春の川崎市議選に立候補した佐
   久間吾一氏が神奈川新聞社の石橋学記者に140万円の損害賠償を求
   めた訴訟の第1回口頭弁論が24日、横浜地裁川崎支部(飯塚宏裁判
   長)であった。石橋記者側は請求棄却を求め、争う姿勢を示した。

    訴えによると、佐久間氏は自身が代表を務める団体が同市内で主催
   した2月の講演会で、「旧日本鋼管の土地をコリア系が占領している」「
   共産革命の橋頭堡が築かれ今も闘いが続いている」と発言。この発言
   に対し、「悪意に満ちたデマによる敵視と誹謗中傷」と石橋記者に報じ
   られたことで、立候補予定者である佐久間氏の名誉が著しく毀損され
   たと主張している。

    口頭弁論で、石橋記者側は「佐久間氏の発言は事実に反している」と
   指摘。「そうした発言は在日コリアンを敵とみなし、在日コリアンを傷
   つける差別の扇動である」とした上で、「記事は、佐久間氏の言動が人権
   侵害に当たるとの意見ないし論評の域を出ていない」と反論した。

原告(佐久閨jは、排外主義を掲げる日本第一党の活動家。ヘイトの常連といってよい。
石橋記者は事後報告集会で
   「記事を書けば訴えられ、面倒に巻き込まれると萎縮効果を狙ってい
   るのは間違いない。メディアこそが先頭に立って差別をなくすべきだ
   との記事を書き続けていく。ヘイトの状況がこうなる以前にメディア
   としての役割を果たしていなかったという思いもある」
と今後の裁判に決意を表したという。

報じられている限りでだが、名誉毀損とされた表現は、以下のとおり。
   《原告(佐久閨jの「旧日本鋼管の土地をコリア系が占領している」
   「共産革命の橋頭堡が築かれ今も闘いが続いている」との発言》に関
   しての、「悪意に満ちたデマによる敵視と誹謗中傷」との記事。

この事件、原告(佐久閨j側に100%勝ち目はない。勝ち目がなくても、相手に相応の嫌がらせにはなる。その効果を狙っての提訴がスラップ訴訟というものだ。石橋記者が、「記事を書けば訴えられ、面倒に巻き込まれると萎縮効果を狙っているのは間違いない。」と言っているとおり。

名誉毀損訴訟では、名誉毀損表現を構成する「〈事実摘示〉と〈論評(ないし意見表明)〉」とを厳密に分ける。判例は、「事実摘示」の誤りには厳しいが、「論評」の自由の幅は、表現の自由の理念を意識して極めて広い。極端な人格攻撃をともなわない限り、論評の違法はないと考えてよい。

事実摘示の主要部分が真実で、記事に公共性・公益性が認められる限り、違法性はないものとされ、損害賠償請求は棄却される。

本件訴訟における「名誉毀損表現」の事実摘示は、《原告佐久閧ェ「旧日本鋼管の土地をコリア系が占領している」「共産革命の橋頭堡が築かれ今も闘いが続いている」と発言したこと》である。被告石橋記者は、この発言がなされたという事実の真実性の挙証は要求される。しかし、それで十分でそれ以上は要求されない。

念のためだが、「旧日本鋼管の土地をコリア系が占領している」「共産革命の橋頭堡が築かれ今も闘いが続いている」との佐久閧フ発言の真偽は、実は訴訟の本筋に無関係で、審理や判決に影響を及ぼさない。もちろん、石橋記者側に、これがデマであることの挙証責任の負担はない。

ところで、被告・石橋記者の代理人となっている神原元弁護士のツイートのボルテージが高い。こちらも紹介しておく。

   【拡散希望】「佐久間吾一氏・『差別扇動』裁判」第一回期日のお知らせ
   神奈川新聞記者石橋学さんは、市議候補者佐久間吾一氏の発言を扱った、
   記事『差別言動繰り返し』で訴えられました。

   佐久間氏の発言は差別扇動か否か?世紀の裁判が始まる??
   9月24日午前11時30分
   横浜地裁川崎支部1号法廷

   問題にされたのはこの記事。ヘイト団体の集会を「差別扇動」と批判し、
   佐久間吾一氏の発言を批判する内容だ。

   佐久間氏は名誉毀損だと主張しているが、「佐久間氏の発言は川崎南部に
   集住する在日コリアンに対する差別扇動だ」というのか石橋さんの主張だ。

   裁判所はどちらの主張に軍配をあげるか?

   我々石橋さんの弁護団は、川崎におけるヘイトスピーチ被害の実態や佐久
   間氏の発言の悪質性を立証し、「悪意あるデマであり、差別扇動」という
   石橋記事の正当性を主張する。

   この訴訟の勝利により、全国のヘイト団体は、川崎南部地域において差別
   扇動を決して許さない活動の力強さを、思い知るだろう。

   いよいよ今日。
   川崎におけるヘイトvs.反ヘイトの最後の決戦の火蓋が切られる。
   ここが「主戦場」だ。

   この裁判は、川崎におけるヘイトと反ヘイトの、いわば「主戦場」になるか
   もしれない。そして、川崎は全国における反ヘイトの「主戦場」である。

   したがって、川崎におけるこの裁判の勝利の効果は全国に波及するかもしれ
   ない。そして、正義は我々にある。正義は勝つだろう。

石橋学記者も、こう発信している。

   「差別を差別と非難し、デマをデマと断じることはメディアの役目。
   ヘイトを断罪する判決を勝ち取ります。」

その意気や良し、である。もちろん、メディアの役割を「客観的なできごとの伝達」に限定する立場もあろう。しかし、今の権力主導のヘイトとデマの蔓延、そして権力忖度のメディアの状況を考えるとき、石橋記者のごとき心意気をたいへん貴重なものと思わざるを得ない。私も、DHCスラップ訴訟被害者の立場として協力・応援を惜しまない。

同じ神奈川新聞の記者の下記連帯の意思表示が心強い。まことにそのとおりだ。

   「言論封じにつながりかねない今回の訴訟は、すべての記者が当事者
   と言えます。差別のない社会に向けて、差別に対して声を上げる言論
   を守らなくてはなりません。」

(2019年9月25日)

http://article9.jp/wordpress/?p=13384
http://www.asyura2.com/19/senkyo265/msg/921.html

[政治・選挙・NHK265] 月刊「文藝春秋」10月号を読んで(リベラル21) 
藤野 雅之(元共同通信社記者)
2019.09.26  


 坂井定雄氏が本欄に書かれた『朝日社説「反感をあおる風潮を憂う」を支持、でも、腰が引けていないか』(2019年9月18日付)の論の趣旨には私も大賛成で、昨今の週刊誌、新聞、テレビなどの反韓キャンペーンには怒りを禁じ得ない思いです。
 
 そんな中で、月刊「文藝春秋」10月号を私も読んで、日本が反韓・嫌韓の憂うべき状況にどっぷりと浸っていることについて、改めて考えて見たいと思いました。だが、私がこの号を買ったのは、総力特集「日韓断絶 憤激と裏切りの朝鮮半島」のためではなく、村上春樹の「バイロイト日記」のためでした。

◆ ◆ ◆
 
 私はワーグナーのオペラが好きで、バイロイトにもこの20年間で5回足を運んでいます。村上春樹氏がバイロイトのオペラを見てどう書いているかに興味があったからでした。しかし、読んでがっかりでした。この作家らしい目というものをほとんど感じることがなかったからです。
 
 私は元来、村上春樹のファンではありません。彼の作品は一種の風俗小説の範疇を出るものではないと思うからです。風俗小説が悪いというわけではありませんが…。
 
 ところで、バイロイト・ワーグナー・フェスティヴァルは、ヒトラーがワーグナー・ファンであったことから、戦時下ナチスの思想的聖地となり、戦後はその歴史から決別するために、上演スタイルを180度転換し、指揮者や出演者、演出家などを世界各地から招き、ステージもオーバーなドイツ色を極力なくして、今では実験的、前衛的な舞台表現の場となっています。この方式はリヒャルトの孫のウィーラントが戦後、資金のない中でフェスティヴァルを再興した際に編み出したものだと言われています。
 
 そして、現在ではこれが定着して世界で最もチケットが手に入りにくい音楽祭と言われるまでに発展したのです。フェスティヴァルのメインである大作『ニーベルンクの指環』は、終戦直後はウィーラントが抽象的な演出をしたのですが、1970年代にフランス人演出家パトリス・シェローが産業革命の時代に舞台を移し換えたことから、自由な演出が広まり、同時にナチス批判なども織り込まれる演出が自由になされるようになっています。
 
 そんなフェスティヴァルの歴史を見ると、あの戦争に協力した芸術が戦後、どのように転換して社会に発信していくか、戦争への反省とその体験の継承、さらにいかにその精神を失わずに現代まで持続するかという点で、今だからこそ大いに考える意味があると思うのです。
 
 こういう現況に対して、村上春樹氏がどういう見方をするかを期待したのですが、目立った意見はなかったように思ったのです。

◆ ◆ ◆
 
 総力特集「日韓断絶 憤激と裏切りの朝鮮半島」では、佐藤優氏は比較的客観的に現状を分析する姿勢を感じましたが、数学者の藤原正彦氏や前釜山総領事の道上尚文氏には、根底に反韓の姿勢が流れており、私には馴染めなかった。ことに道上氏は「日本側で心得ておいた方がよいと思うこと」として「第一に、オールジャパンでしっかり日本側の立場を発信し、説明すること」「第二には『国際スタンダードに即し、客観性のある姿勢』という日本の長所を維持すること」という。これには大いに疑問を抱きました。安倍政権の対韓政策をオールジャパンとしてみとめるというのだろうか。また、今の日本の対韓姿勢が国際スタンダードに即し、客観性があるというのだろうか。どのようにそれを証明するのかは書かれていない。 

◆ ◆ ◆
 
 あえて言えば、このあとで触れるダルビッシュの意見に共感する私としては、こういう日本政府やこれを支持する人たち至上主義とも言える見方こそ批判すべきで、日本にはもっと多様な見方があることを自覚する必要があるように思います。
 
 そして、道上氏はさらに、全米歴史学会会長グラック博士の「歴史は、民族の記憶に負けるな」をよく引用すると書く。「戦勝国も敗戦国もどの国も、自国中心の単純なストーリー、『民族の記憶』が前面に立ちやすいが、これを克服したところに歴史がある、との趣旨だ。自国中心を克服した、個性で開かれた歴史。これが国際スタンダードである」という。だが、戦後の日本の保守派には日本会議をはじめとして戦前回帰を願う人が目立つ。彼らこそが日本至上主義、自国中心主義を言ってきたようにも思うのです。そこで、この言葉を、私は道上氏にそっくり返したいと思います。
 
 「民族の記憶」に固執しているのは日本の支配層をはじめとした保守派なのではないでしょうか。

◆ ◆ ◆
 
 ただ今月の文春では、思わぬ拾い物もありました。一つは保阪正康氏と原武史氏の対談「昭和天皇『拝謁記』は超一級資料か」です。NHKがお盆に特ダネ風に報じた田島道治の手記についての評価です。もちろん、これは仏文学者の加藤恭子氏が2003年「文藝春秋」7月号で発表しており、その後の彼女の研究も学会ではすでに知られていることです。それをさも特ダネのように装って報じた一種のフェイクニュースです。フェイクという言葉は使っていませんが、言っていることはNHKのそういう意図的な報道の仕方に対する批判です。おそらくその背景には政治的な意図があると思われますが、そこまでは明らかにしてはいません。

◆ ◆ ◆
 
 もう一つ。私が感心したのは鈴木忠平というスポーツ・ジャーナリストの「ダルビッシュ有『僕は日本へ提言を続ける』」です。
 
 シカゴの球場でインタビューした内容の報告ですが、ダルビッシュが高校野球岩手大会で大船渡高の監督が決勝戦で佐々木朗希投手を出場させなかったことについて、張本勲がTBS日曜の番組で批判したのをはじめ、野球界から出すべきだったという声が広まったことに反論しているのである。いまの日本の高校野球が甲子園至上主義になっていることへの彼の批判には説得力がある。そして、ダルビッシュは、甲子園至上主義に100%近く染まってしまっていることは、選手本来の人生を歪めてしまっているともいう。甲子園で優勝し、プロ野球選手になるということにしか価値をおかないような風潮が支配しているのである。ダルビッシュは、球界がこのような形で一色に染まっていることに危機を感じているのだ。社会には多様な意見があるべきで、そのために彼は自分の考えを発言し続けるというのである。
 
 このダルビッシュの考えは、まさにいまの日本の多様な価値観の欠如による、息詰まるような狭量な社会の現実に対する批判でもある。その意味で、日本を覆う嫌韓差別意識の問題にも通じるわけです。

◆ ◆ ◆
 
 週刊誌と違って、また一色の主張に塗り固め荒れた雑誌が多い中で、文藝春秋には、半藤一利氏らが残した経験の蓄積もあると考えたいと思うのです。
 
 
<藤野雅之氏の略歴>共同通信文化部長、京都支局長など経て、KK共同通信社取締役出版本部長。2002年退職。東京経済大学、明星大学で非常勤講師。1976年、沖縄・与那国島サトウキビ刈り援農隊を呼びかけ、代表世話人として40年間続ける。著書「与那国島サトウキビ刈り援農隊 私的回想の30年」(ニライ社・2003年)

http://lib21.blog96.fc2.com/blog-entry-4892.html
http://www.asyura2.com/19/senkyo265/msg/922.html

[政治・選挙・NHK266] 「あいち」補助金不交付は、なぜ危険なのか 国家による異論の排除、その先にあるのは (朝日新聞社 論座) 
高山明 演出家
論座 2019年09月30日


 愛知県で開催中の国際芸術祭「あいちトリエンナーレ2019」に対する文化庁からの補助金の全額(約7800万円)を交付しないと、萩生田光一文部科学相が9月26日発表した。いったん採択が決まった補助金を「不交付」とする異例の事態だ。

 芸術祭の一部である「表現の不自由展・その後」が、電話による激しい攻撃にさらされて展示中止となったことを受けての対応で、文化庁は次のような内容の文書を発表した。

  ● 愛知県は会場の安全や事業の円滑な運営を脅かすような重大な
    事実を認識していたのに、それを申告せずに、採択され、補助金交
    付を申請した。

  ● その後の審査段階でも、文化庁から問合せを受けるまでそれらの
    事実を申告しなかった。

  ● よって、文化庁は、@実現可能な内容になっているか、A事業の
    継続が見込まれるか、の2点を適正に審査できなかった。これは
    補助事業の申請手続において不適当な行為だと評価した。

  ● 全事業は一体のものなので、(展示中止になった企画の分だけで
    なく)全額を不採択とする。

 文科省・文化庁は「愛知県の手続きの不備」を理由にしているが、この決定に対し、芸術関係者や多くの市民が「実質は表現内容への圧力」「萎縮を生む」と反発や怒りの声を上げている。補助金を止めることで活動しにくいようにし、表現を押さえ込むのは一種の「国家による検閲」だと受け止めて、撤回を求める運動も広がっている。

 この問題について、日本とドイツを行き来しながら、演劇と社会とを結ぶ創作活動をしている演出家の高山明さんに話を聞いた。高山さんは、「あいちトリエンナーレ」のパフォーミングアーツ部門の参加者のひとり。新たなプロジェクトを打ち出しながら、あいちトリエンナーレ実行委員会などに対して、現在閉鎖されている全ての展示の再開を働きかけ、「表現の自由」を世界に訴える国内外のアーティストたちの運動「ReFreedom_Aichi」に加わっている。   (構成 山口宏子)

■■ありえないこと。ここまで来たのか、日本は■■

https://image.chess443.net/S2010/upload/2019092800003_2.jpg
日本外国特派員協会(東京)で会見する「ReFreedom_Aichi」の参加アーティストたち。(右から)卯城竜太さん、大橋藍さん、小泉明郎さん、ホンマエリさん、高山明さん=2019年9月10日
 
 補助金不交付と聞いて、絶句しました。

 ありえないことが起きている。ここまで来たのか、日本は――それが第一印象です。何としてでも撤回させなくてはと、「文化庁は文化を殺すな」の署名運動を始めました。

 僕は1993年にドイツに留学し、そのまま、向こうの劇場で活動を始めました。98年に帰国しましたが、2011年以降は再び、ドイツと行き来しながら創作をしています。

 日本とドイツ、両方の現場に身を置く者として、「公共の場における文化」をどう考えるか。両国の間にある大きな違いを、今回のことで改めて、実感しています。

 日本では、税金を使う文化事業では、「多くの人が感動する」「みんなに喜ばれる」といった「マジョリティー(多数派)」の感情に寄り添った内容が歓迎されます。逆に、少しでも「不快だ」といった声が上がると、それが問題のある表現であるかのように見られてしまいます。

 その延長に、多数派を代表している形の時の政権が認める文化、好む表現は公的助成が受けやすく、逆に、政権にとって気に入らない「少数派」の文化は排除されてもいい、という流れが出来ます。

 でも、それは税金の使い方として正しいでしょうか。税金を納めている人の中には、政権と異なる意見の人もたくさんいるのですから。

■■小さな声こそ、公的に支えるドイツ■■
 
 税金を使うなら多数派の気に入るように。そう考えられがちな日本とは反対に、ドイツでは、多数派とは異なる意見を発表することや、小さな声を尊重するために公金を使うべきだという考え方が、社会で共有されています。

 ドイツは、検閲や弾圧によって徹底的に異論を排除したナチスの独裁がどんな結果を引き起こしたか、歴史から学びました。あの悲劇を二度と繰り返さないために、戦後は、異論を尊重する社会を作ろうとしてきました。

 少数派の、たとえそれが多数派にとって愉快でないものであっても、様々な考えや表現を発表する自由を公的なお金で支えることによって、社会の健全さを保とうと考えてきたのです。その方が社会という「身体」にとってよい。だから公金を使えるわけです。

 同じころ、日本も軍部独裁下にあったことを、僕らは忘れてはならないと思います。人々は、政治的な思想はもちろん、日常の身ぶりや言葉までコントロールされた。社会が一つの考え方に流れてゆくと、それは独裁を生み、ファシズムになる。そして一挙に解体するのが全体主義国家の常です。みんなが不幸になる。やはり、多数派とは違う声を上げることは重要ではないでしょうか。

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難民申請をするクルド人の視点で東京を見つめる企画『新・東京修学旅行プロジェクト:クルド編』の準備のため、食料品店を訪れた高山明さん(右)=2018年、埼玉県川口市
 
■■芸術の現場で「反対」の声とどう向き合うか■■
 
 僕は、2017年にドイツ・フランクルトの公共劇場のプロデュースで『マクドナルドラジオ大学』という演劇を実施しました。

 舞台はファストフード「マクドナルド」の店内。来場者はそこで、ラジオのイヤホンから流れる講義を聴くというものです。ラジオで話すのは、シリアやアフガンなどからドイツに来た難民たち。彼らは「教授」として、自分自身の体験をもとに、哲学、スポーツ、音楽、建築など多くの「科目」で、知見や思想を語りました。

https://image.chess443.net/S2010/upload/2019092800003_4.jpg
高山明さんがフランクフルトで開催したプロジェクト『マクドナルドラジオ大学』。参加者はマクドナルドの店内で、難民の講義をラジオのイヤホンで聴く=2017年、photo: Masahiro Hasunuma
 
 象徴的なグローバル企業であるマクドナルドという場で、当時爆発的に増えていた難民の話を聴くことで、世界や社会を考えてもらうプロジェクトですが、参加者からクレームもありました。劇場に通うリベラルな人たちの中には、商業主義的だとして「マクドナルド」を嫌う人が少なくない。「そんな場所で演劇を、しかも難民問題と結びつけるなんてアートの自殺だ」という激しい拒否反応もありました。

 もちろん、そうした意見に僕らは耳を傾けます。でも、苦情があったからといって企画を変更することはありません。お互い、異論もあって当然と認め合うのです。

 最近、こんな例があったと聞きました。

 公共劇場の主催で、建築家グループがフランクフルトの古い建物をめぐる町歩きツアーを企画しました。歴史的建造物がどのようにリノベーションされ、活用されているかを見学するのですが、対象となった建物はどれも、ナチス時代を思わせる「伝統的ドイツ様式」に改築されたもの。復古的な風潮が広がっていることを批判する視点で組まれたツアーだったのです。

 それに、地元議会の右翼政党の議員が抗議しました。ドイツの伝統を守る立場から、「そんなツアーはけしからん」というわけです。

 劇場はもちろん、予定通り4時間のツアーを実施しました。その上で、劇場を4時間開放して、このツアーについてのシンポジウムを開き、反対する議員や一般市民が賛否両論をぶつけ合ったのだそうです。その場で結論は出ませんが、劇場のような文化施設は多くの人の多様な声が響き合う「公共の場所」であるということが、よく分かる例だと思います。
 
■■「世間」が法律より力を持つ危うさ■■

https://image.chess443.net/S2010/upload/2019092800003_5.jpg
劇場を「ストリート」にしてラップ合戦を繰り広げ、芸術や祝祭の意味を問いかけた高山明構成・演出『ワーグナー・プロジェクト』=2017年、横浜市の神奈川芸術劇場
 
 劇場に議員が直接乗り込んでくるような「物議をかもす」企画の実現を支えているのは、「法律」です。

 ドイツの公共劇場では劇場長(責任者)と弁護士が緊密に連絡を取り合い、「いかに警察に介入されないですむか」と考えて、様々な事前準備をします。表現の自由を、法律で守っている。どんなに多数派や政治家が気に入らない表現でも、法律に違反しない限り、守るべきは守る、という姿勢です。

 それに比べて、日本では、根拠のはっきりしない「世間の声」が法律より上にあるように感じます。声の大きな人たちが「自分たちが多数派だ」「これが世間の常識だ」と主張して、異なる意見を封じこめようとする。政治権力がそれと一体化している。

 今回の「あいち」の補助金不交付では、文化庁がそういう「多数派」に寄り添う決断をしてしまった。

 政権が「世間の声」を利用し、そこに乗っかる方向で、まともに説明のできない「超法規的な判断」を押しつけてくる。「表現の自由」という憲法の中でも特に重要な項目にかかわる問題なのに、それを飛び越えて、「多数派」の声が力を持つ。これは極めて危険な状況です。

 こうした検閲の先にあるのは、一つの方向に統合され、多様な考えが許容されない社会、異なる意見や小さな声が排除される社会です。

 日本がそんな不自由な社会になってゆくことを危惧し、今回の「不交付」の決定に抗議します。僕の危惧は決して、考え過ぎではありません。現実に世界中に、そういう国はいくつもあるのですから。

https://webronza.asahi.com/culture/articles/2019092800003.html
http://www.asyura2.com/19/senkyo266/msg/119.html

[政治・選挙・NHK266] 表現の不自由展 補助金不交付 国家による圧力だ 

 文化庁は中止となった企画展「表現の不自由展・その後」を含む国際芸術祭「あいちトリエンナーレ2019」への補助金約7800万円を全額交付しないと発表した。愛知県の申請手続きに不備があったことを理由に挙げている。
 
 不自由展は元慰安婦を象徴した少女像などが物議を醸した。萩生田光一文部科学相は補助金不交付の判断に展示内容が影響したことはないと説明するが、いったん内定した補助金の不交付は異例で、「事後検閲」と受け取られても仕方がない。芸術祭の責任者で愛知県の大村秀章知事は反発し、表現の自由を争点に裁判で争う構えをみせている。

 決定を受け、国の意向に沿わない展示は難しいと文化芸術の現場に萎縮が広まることを危惧する。展示の中止の結果、補助金が出ないとなれば、その中止に追いやった卑劣な脅迫行為を追認したのに等しい。文化庁には決定の撤回を強く求めたい。

 不自由展には少女像のほか、昭和天皇の肖像が燃える映像作品などが含まれた。主催者側には過去の美術展などで非公開にされた作品を通じて憲法が保障する「表現の自由」を考える機会にする狙いがあったが、開幕直後から抗議が殺到。危害を予告したファクスが届くなど、安全上を理由に開催わずか3日で中止となった。

 手続き上の不備について、文化庁は円滑な運営ができない可能性を主催者が予想していたにもかかわらず、問い合わせをするまで報告がなかったことを挙げた。補助金申請段階で必要な情報が得られず適切に審査ができなかったと判断したという。

 とはいえ、危険が生じるほど多くの脅迫を主催者側が予想しきれていたとは思えない。ネットの拡散力によって批判も反響も予想をはるかに上回っていたのではないか。問題なのは運営を脅かす脅迫行為であり、手続きの不備は指摘すれば済むことだ。一方で、不自由展は国際芸術祭の中の一つの企画にすぎない。それを芸術祭全てに問題があったかのように、全額を不交付にするのは行き過ぎた対応だと言わざるを得ない。

 愛知県の第三者による検証委員会は25日、条件が整い次第、展示を再開すべきだとの中間報告をまとめ、大村知事も再開の意向を表明した。文化庁が補助金の不交付を決定したのはその翌日。国際芸術祭の開催中にもかかわらず、文化庁が早々と不交付を決めたことは看過できない。再開阻止への圧力を狙ったとすれば、それこそ表現の自由を損なわせる行為ではないか。

 2年前に改定された文化芸術基本法の前文は「表現の自由の重要性を深く認識」「文化芸術活動を行う者の自主性を尊重」とうたっている。文化庁は、今回の判断が法の理念に沿うものか省みる必要がある。表現者に追い打ちをかける振る舞いをやめ、全ての芸術展をいかに守るかにこそ力を尽くすべきだ。

 
愛媛新聞社説 2019年9月30日
https://www.ehime-np.co.jp/article/news201909300028


http://www.asyura2.com/19/senkyo266/msg/120.html

[政治・選挙・NHK266] 日本政府はかつて五輪応援で旭日旗不使用を呼び掛けていた(アリの一言) 
2019年09月30日
 
https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/3c/9f/8a46f311a62527fb567a048acc7d57fe.jpg

 東京五輪・パラリンピック組織委員会(会長・森喜朗元首相、写真右の中央)が旭日旗の持ち込みを許可し、安倍政権(菅義偉官房長官ら)がそれを追認している問題については、以前書きましたが(9月14日のブログhttp://www.asyura2.com/19/senkyo265/msg/531.html参照)、政府はその後も「(旭日旗は)今の日本人にとっても大事な一種の伝統的なものという位置付けだ。いろいろクレームを付けられるべきではない」(18日、外務省・大鷹正人外務報道官記者会見)などと繰り返しています。

https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/63/f6/3f7bc047c8b1bc0221e4d38dec9cc7d4.jpg(写真右)

 ところがその政府の言い分とは裏腹に、かつて日本政府自身が五輪の応援で旭日旗を使わないよう呼び掛けていた事実があります。

 2008年7月31日、北京五輪を目前にして、在北京日本大使館は、「北京五輪期間中に訪れる日本人応援客への注意事項に関する説明会を開き、会場への横断幕やスローガンの持ち込みが禁止されることを明らかにした」(2008年8月1日付日経新聞)ということがありました。

 その説明会は口頭での説明ではなく、「安全の手引き」という文書によるものでした。その「手引き」にはこう書かれていました。

   「中国では競技場やイベント会場で政治・民族・宗教的なスロー
   ガンや侮辱的な内容を含む旗や横断幕等を掲げることは禁じられ
   ています。また、過去の歴史を容易に想起させるもの(例えば「旭
   日旗」)を掲げるとトラブルを生じる可能性があります」(9月19日
   付「しんぶん赤旗」より)

 この「赤旗」の記事は、当時北京五輪を取材したスポーツ部記者の署名記事で、信頼がおけます。

 北京五輪で旗や横断幕を規制したのは主催国の中国ですが、その説明にあたり「過去の歴史を容易に想起させるもの」の例として「旭日旗」を挙げたのは日本大使館(日本政府)です。「過去の歴史」が何を意味するか「手引き」」にはさすがに書かれていなかったようですが、日本による侵略戦争・植民地支配の歴史であることは自明でしょう(写真中)。

https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/53/ec/84a64850f8c835a2b6d65bedd250bb40.jpg(写真中)

 2008年北京五輪の時は旭日旗を「過去の歴史を容易に想起させるもの」の代表例として挙げながら、2020年東京五輪では「日本国内で広く使用されており、政治的宣伝とはならない」(組織委員会)、「伝統的なもの。クレームを付けられるべきではない」(大鷹外務報道官)と言って旭日旗の持ち込み・使用を容認する。二枚舌も甚だしいと言わねばなりません。

 2008年当時の政権は、安倍晋三氏が突然政権を放り出したあとを継いだ福田康夫政権です。福田氏は安倍氏と同じ福田派(現町村派)で、安倍氏の先輩にあたります。安倍氏が福田政権のことは知らないという言い逃れは通用しません。安倍氏は11年前の福田政権のこの「手引き」についてどう釈明するつもりでしょうか。

 安倍政権が東京五輪であくまでも旭日旗の持ち込み・使用許可を強行しようとしているのは、侵略戦争・植民地支配への無反省・開き直りの露骨な証明であるとともに、旭日旗を隊旗としている自衛隊(海上自衛艦旗、陸上自衛隊旗)、さらには天皇制を誇示し、改憲へつなげようとする意図があります。五輪への旭日旗の持ち込み・使用は絶対に容認することができません。

https://blog.goo.ne.jp/satoru-kihara/e/afe74caecfb40c2a35514f3da0628546
http://www.asyura2.com/19/senkyo266/msg/121.html

[政治・選挙・NHK266] 民間の暴力による展示の妨害から、今度は権力の横暴による表現の自由の侵害(澤藤統一郎の憲法日記) + 関連キャンペーン情報 
 
本日(9月30日)仲間内のメーリングリストに、名古屋の中谷雄二弁護士からのメールが転送されて紹介されていた。彼は、「あいちトリエンナーレ」《表現の不自由展》再開を求める、仮処分申立事件の申立側弁護団長である。以下はその抜粋。

なお、仮処分は「企画展実行委」が申立てたもので、その相手方が「芸術祭実行委員会(代表・大村秀章知事)」である。

   皆様からご支援していただいていた「表現の不自由展・その後」につい
   て、本日、仮処分の第3回審尋期日で、あいちトリエンナーレ実行委員
   会と表現の不自由展実行委員会との間で、和解が成立しました。

   先週の金曜日(9月27日)の第2回審尋期日で、当方から10月1日
   従前の展示どおり再開で和解をしようと投げかけました。

   これに対して、あいちトリエンナーレ実行委員会は、本日、午前中に
   10月6日〜8日の再開を想定して和解協議をしようとの文書での申し
   入れがありました。

   これを不自由展実行委員会が受け入れる形での和解です。

   その中で、「今回は中止した展示の再開であり、開会時のキュレーション
   と一貫性を保持すること」を確認しました。

   これにより、基本的には、不自由展実行委員会の要求が基本的に容れら
   れたと判断して和解を成立させることに致しました。

   文化庁の補助金差止めというより大きな「検閲」問題が発生した時期に
   まずは、脅迫によって中止させられた展示の再開を勝ち取ることで、表
   現の自由の回復の一歩を踏み出すことができました。

   申立が9月13日ですので、全国の皆様の再開を求める運動と併せて短
   期間に再開の合意を勝ち取ることができました。

   ありがとうございました。
 
不自由展実行委員会がこだわったのは、「中止した展示そのままの再開であり、開会時のキュレーションとの一貫性の保持」であった。そのを確認ができたからの和解であり、それ故の「再開の合意を勝ち取ることができた」という評価である。

この点を、朝日デジタルは、こう報じている。

   国際芸術祭「あいちトリエンナーレ2019」で、中止になった企画
   展「表現の不自由展・その後」の実行委員会が展示再開を求めた仮処
   分の審尋が30日、名古屋地裁であり、展示を再開する方向で、芸術
   祭実行委員会側と和解した。企画展実行委の代理人・中谷雄二弁護士
   が明らかにした。再開時期は10月6〜8日で調整する予定で、早け
   れば週末から再開されることになる。

   記者団の取材に応じた企画展実行委の代理人・中谷雄二弁護士による
   と、芸術祭実行委側から30日朝に大村秀章知事が公表した再開への
   4条件の提示があった。
    @犯罪や混乱を誘発しないように双方協力する
    A安全維持のため事前予約の整理券方式とする
    B開会時のキュレーション(展示内容)と一貫性を保持し、(来場者
     に)エデュケーションプログラムなど別途実施する
    C県庁は来場者に(県の検証委の)中間報告の内容などをあらかじめ伝
     える
   ――の四つで、中谷弁護士は、「この内容で和解しましょう、と申し入れ
   ました」と説明する。

   その上で、Bのキュレーションの一貫性について、中谷弁護士は「同
   じ場所で作品を動かさないという趣旨ではなく、同じ部屋の中で個々
   の作品を動かすことはあり得るが、その範囲であって、一貫性、同一
   性を崩すことはしないと確認した」と述べた。展示は、慰安婦を表現
   する少女像や昭和天皇を含む肖像群が燃える映像作品など16作家の
   23作品が集められていたが、それらをまとめた企画展としての「一
   体性」は維持された、とみているという。

中谷メールがいうとおり、「脅迫によって中止させられた展示の再開を勝ち取ることで、表現の自由の回復の一歩を踏み出すことができた」ことをまずは、よろこびたい。しかし、「文化庁の補助金不交付というより大きな『検閲』問題が発生している」のだ。表現の自由はご難つづきである。民間の暴力による展示の妨害から、今度は権力の横暴による自由の侵害である。まさしく、自由とは、市民が闘いとり守り育てていくべきものであることを実感する。

その問題で、権力の先頭に立つのは、加計学園事件の当事者である萩生田光一文科相。本日(9月30日)、議員会館で「文化庁の決定に抗議する集会」が開かれた。自ずから、矛先は安倍晋三の手先・萩生田に集中したようだ。

この集会に私は参加できなかったが、私も参加している「表現の自由を守る市民の会」が、下記のアピールを集会に持参した。これも、宛先は、萩生田光一である。このアピールをみんなに訴えたい。ぜひ拡散していただきたい。
 

   2019年9月30日

   文部科学大臣 萩生田 光一 様

    「あいちトリエンナーレ2019」に関する補助金不交付決定の
             撤回を求める要求書

   表現の自由を守る市民の会 呼びかけ人
   池住義憲(元立教大学大学院特任教授)/岩月浩二(弁護士)/
   小野塚知二(東京大学大学院経済学研究科教授)/小林緑(国立音楽
   大学名誉教授)/澤藤統一郎(弁護士)/杉浦ひとみ(弁護士)/
   醍醐聰(東京大学名誉教授)/武井由起子(弁護士)/浪本勝年(立正
   大学名誉教授)

   私たち「表現の自由を守る市民の会」は、「多様な表現の自由を尊重し、
   発展させることを目的とし、表現の自由を侵害する公権力の介入に反対
   する運動に取り組む」(会則)市民団体です。

   文化庁は、2019年9月26日、既に所定の審査を経て本年4月に文化
   資源活用推進事業の補助対象事業として採択されていた「あいちトリ
   エンナーレ」における国際現代美術展開催事業補助金7,829万円を、
   ”適正な審査を行うことができなかった”として、補助金適正化法第6条
   等に基づき、全額不交付とする決定(以下、本件決定という。)を行い
   ました。

   萩生田文科相は、本件決定の理由は手続き上の不備だけで、展示内容
   と無関係だと強弁しています。しかし、これは明らかに展示内容に関
   係した政治介入です。公権力が表現活動の抑圧にまわることは許されま
   せん。これは憲法21条が禁じる「検閲」にあたる重大な違憲の疑いが
   ある行為です。国際芸術祭の作品展示が開始された直後の8月2日、
   河村たかし名古屋市長の言動、菅義偉官房長官の補助金見直しを示唆
   する発言を受けての決定であり、私たちはこうした経過のもとになされ
   た本件決定を容認することはできません。

   現行文化芸術基本法はその前文で「文化芸術の礎たる表現の自由の重要
   性を深く認識し,文化芸術活動を行う者の自主性を尊重すること」を明記
   し、第2条で「文化芸術に関する施策の推進に当たっては,文化芸術活動
   を行う者の自主性が十分に尊重されなければならない」と定めています。
   
   本件決定はこうした文化芸術基本法の精神に反するものであり、私たち
   は決して認めることはできません。

   文化庁の本件決定は、企画展を脅迫等によって中断に追い込んだ卑劣な
   行為を追認することになります。行政が不断に担うべきことは、公共性
   の確保・育成です。社会的少数者や、異なる地域に暮らす人々、民族を知
   る貴重な窓口を保障することです。本件決定は、これに逆行します。仮
   に本件決定に唯々諾々として従うならば、国の意見と合わない表現を許
   さない悪しき前例となり、国に忖度した無難な展示しかできなくなる恐
   れがあります。表現者、主催・開催側らの委縮を拡げ、社会全体に委縮
   効果を及ぼします。

   よって私たちは、貴大臣に対し、本件決定を直ちに撤回することを強く
   要求します。民主主義社会は、多様な表現・意見を自由に表現し、議論
   をかわす場を保障して初めて成り立ちます。補助金を交付する目的は、
   多様な文化、芸術を国民の税金で助成することであり、国の意向に沿う
   ものかどうか展示作品の内容をチェックする権限を国に与える根拠はど
   こにもないことを再度、強調しておきます。

以上
(2019年9月30日)

http://article9.jp/wordpress/?p=13420

************************************************

(関連情報 from 投稿者・肝話窮題)

change.org キャンペーン
文化庁は「あいちトリエンナーレ2019」に対する補助金交付中止を撤回してください。

https://assets.change.org/photos/7/pf/ys/yBPFyslEpzLTKNg-800x450-noPad.jpg?1569502782

発信者:ReFreedom_AICHI 
宛先:文化庁、萩生田文部科学大臣、宮田文化庁長官

文化庁が、「あいちトリエンナーレ2019」に対する補助金不交付を決定しました。私たちはこれに強く抗議し、方針の撤回を文化庁に要求します。

いったん採択された補助金を、違法性などが検証されない状態で国が取り下げるということは、 異例中の異例です。文化庁はこれを「内容に関するものではない」とコメントしていますが、多くの国民がこれを国家による検閲だと解釈しています。

文化庁は、不交付の理由として

 1)審査段階で具体的な計画がなかったこと

 2)電凸や脅迫が続いた時点で報告がなかったこと

 3)展覧会中止によって事業の継続が見込まれにくなったこと

をあげていますが、そもそもいったん適正な審査を経て採択された事業に対し、事業実施中に交付を取り消すことは、国が該当事業のみを恣意的に調査したことを意味します。

また今回、予定どおりの実施が困難になった「表現の不自由展・その後」の支出は約420万円にすぎず、約7800万円の補助金全額の不交付を根拠づけるには全く不十分です。 報告の有無についても、通常の助成金の過程では、申請者と文化庁双方からの報告や聞き取りが前提となります。今回も、文化庁は騒動時に愛知県に問い合わせをしていますし、さらには報道が過熱したことからも、騒動については周知の事実であったと考えます。

その騒動から展覧会が中止になり、事業の継続が見込まれなくなった、との理由もあまりに一方的ではないでしょうか?展示中止を迫った中には市長などの公人も含み、そして過熱したのはテロ予告や恐喝を含む電凸などです。 作品の取り下げを公人が迫り、それによって公金のあり方が左右されるなど、この一連の流れは、明白な検閲として非難されるべきものです。

また、脅迫を含む電凸をすれば一部の展示が中止され、文化庁が動き助成金を取りやめるなどということが前例化してしまえば、日本はテロと戦う気がないと全世界に発信するばかりか、文化庁が脅迫に手を貸すというメッセージにもなりかねません。

文化は、テロや脅迫とは逆の立場から、多様な人々の存在や意見をアピールするものです。そのような文化の原理原則自体と相容れない、文化庁による今回の暴力的な決定は、文化的最低限度の生活を全国民に保障する、憲法と民主主義への脅威にもなりかねません。

今回の決定は今後、公立の美術館や劇場、公的資金を導入した芸術祭や舞台芸術・映画・音楽等の創作活動、さらには教育・研究を含むすべての文化活動に、多大な悪影響を及ぼすでしょう。国際的には日本は文化的先進国から失墜し、国際社会から非難される立場にもなり兼ねません。これまで先人たちが作りあげてきた日本の文化政策、公的助成制度の根幹を揺るがす暴挙です。

民主主義の原則に則った芸術文化助成を、私たちの手に取り戻しましょう。文化庁は即刻の撤回を。 皆様のご賛同をよろしくお願いいたします。

https://www.change.org/p/%E6%96%87%E5%8C%96%E5%BA%81-%E6%96%87%E5%8C%96%E5%BA%81%E3%81%AF-%E3%81%82%E3%81%84%E3%81%A1%E3%83%88%E3%83%AA%E3%82%A8%E3%83%B3%E3%83%8A%E3%83%BC%E3%83%AC2019-%E3%81%AB%E5%AF%BE%E3%81%99%E3%82%8B%E8%A3%9C%E5%8A%A9%E9%87%91%E4%BA%A4%E4%BB%98%E4%B8%AD%E6%AD%A2%E3%82%92%E6%92%A4%E5%9B%9E%E3%81%97%E3%81%A6%E3%81%8F%E3%81%A0%E3%81%95%E3%81%84?source_location=discover_feed
http://www.asyura2.com/19/senkyo266/msg/124.html

[政治・選挙・NHK266] 安倍首相の元号政治利用(アリの一言)
2019年10月06日
「日曜日記69」より


 4日の安倍首相の所信表明演説は、日米同盟の賛美、改憲意欲の強調など内容上問題が山積していることは言うまでもないが、ALSの舩後靖彦議員をあえて取り上げたり、金子みすゞの言葉を流用するなど、見え透いた手法にも虫唾が走った。

 中でも見過ごすことができないのは、新元号「令和」を9回も連呼したことだ。「令和の時代の新しい国創り」「令和の時代にふさわしい社会保障」…といった具合だ。

 元号は天皇が時間をも支配するという皇国史観によるものだ。その元号を法律(元号法)で公認し、元号で時代を区分しようとすることは、主権在民の現行憲法に反した今日的皇民化政策に他ならない。

 さらに、国家権力にとっての元号の利用価値はそれだけではない。元号と天皇・皇室タブーを結び付けてキャンペーンし、それが「神聖不可侵」のものであるかのような社会的雰囲気をつくりあげ、国家権力(時の政権)の施策に結びつけて合理化を図る。元号の政治利用だ。

 「新元号」によって「新しい時代」を印象付け、それを改憲や社会保障改悪につなげようとした安倍の4日の演説は、その政治利用を絵に描いたように見せつけた。

 「市民」はなにげなく無意識に元号を使っても、国家権力は狡猾にそれを政治利用する。だからこそ元号は廃止しなければならない。安倍の所信表明は逆にそのことを証明した。

https://blog.goo.ne.jp/satoru-kihara(抜粋)
http://www.asyura2.com/19/senkyo266/msg/256.html

[政治・選挙・NHK266] 原発事故控訴 疑問に応える審理を

 福島第一原発の事故をめぐり東京電力の旧経営陣3人が強制起訴された裁判で、検察官役の指定弁護士が控訴した。

 無罪を宣告された者を被告の立場におき続けることの是非については、かねて議論がある。だが、東京地裁の無罪判決には承服しがたい点が多々見受けられ、指定弁護士が高裁の判断を求めたのは理解できる。

 例えば、判決は「事故を防ぐには原発の運転を停止しておくしかなかった」と断じている。指定弁護士は、防潮堤の設置や施設の浸水防止工事、高台移転などの方策にも触れ、その実現可能性について証人調べも行われた。しかし判決は、詳細に検討することなく退けた。

 結果として、社会生活にも重大な影響が及び、きわめてハードルの高い「運転停止」にまで踏み込む義務が元幹部らにあったか否かが、判決を左右することになった。被災者や複数の学者が疑問を呈し、「裁判所が勝手に土俵を変えた」との批判が出たのはもっともだ。

 原発の安全性に関する判断にも首をかしげざるを得ない。

 判決は、国の防災機関が02年に公表した「三陸沖から房総沖のどこでも、30年以内に20%程度の確率で巨大地震が起こりうる」との見解(長期評価)の信頼性を否定した。根拠として、一部に異論があったこと、電力会社や政府の規制当局が事故対策にこの見解をとり入れていなかったことなどを挙げた。

 一体となって原発を推進した国・業界の不作為や怠慢を追認し、それを理由に、専門家らが議論を重ねてまとめた知見を否定したものだ。さらに判決は、当時の法令は原発の「絶対的安全性の確保」までは求めていなかったとも述べた。

 万が一にも事故が起こらぬように対策を講じていたのではなかったのか。巨大隕石(いんせき)の衝突まで想定せよという話ではない。実際、この長期評価をうけて、東電の現場担当者は津波対策を検討して経営陣にも報告し、同じ太平洋岸に原発をもつ日本原電は施設を改修している。こうした事実を、地裁は適切に評価したといえるだろうか。

 組織や人が複雑に絡む事故で個人の刑事責任を問うのは容易ではない。有罪立証の壁の厚さは織り込み済みだったが、問題は結論に至る道筋と理屈だ。

 政府や国会の事故調査ではわからなかった多くの事実が、公判を通じて明らかになった。判決には、それらの一つ一つに丁寧に向きあい、事故との関連の有無や程度を人々に届く言葉で説明することが期待されたが、それだけの内容を備えたものになっていない。高裁でのレビューが必要なゆえんである。


朝日新聞社説 2019年10月6日
https://www.asahi.com/articles/DA3S14207659.html?iref=comtop_shasetsu_01
http://www.asyura2.com/19/senkyo266/msg/257.html

[政治・選挙・NHK266] 消費税が引き上げ 減税へ方向転換すべきだ
 
 1日から消費税が10%に引き上げられた。私たち国民は今回の増税が本当に必要だったのか、いま一度立ち止まって考える必要がある。

 今回の増税の特徴を国民目線で端的に言うと、混乱と負担増だろう。

 混乱は既に始まっている。軽減税率の導入やポイント還元制度があまりにも複雑なため、消費者だけでなく事業者にも理解が深まっていない。

 軽減税率は、お酒や外食を除く飲食料品の税率を8%に据え置く制度だが、どこまで対象なるのか分かりにくい。
 キャッシュレス決済によるポイント還元に至っては、軽減対象品目か否か、還元する店舗か否かで、3、5、6、8、10%の5種類の実質税率(小数点以下四捨五入)が存在する。複数の税率に対応せざるを得ない事業者の経理作業にも大きな負担となる。

 経済産業省によると、還元制度を増税当初から導入する店舗は対象となる中小事業者の2割強にとどまる。申請手続きの不備や締め切りに間に合わないことなどが理由で、混乱ぶりがうかがえる。事業者でさえそうなのだから、消費者にとってはなおさらだ。より安価な商品の選択方法を巡り戸惑いが広がっている。

 今回の増税は日常生活への打撃も大きい。軽減税率の対象にならない日用品や交通費、電気・水道料金など暮らしに直結する費目は軒並み値上げされる。特に低所得者層にとっては深刻だ。

 9月11、12日に共同通信が実施した世論調査では、10%引き上げ後の経済が「不安」「ある程度不安」が計81・1%に上った。経済不安は消費控えを招く。実際に負担増を実感すれば経済は滞りかねない。県内各業界の8月の景況感が前月より4・6ポイント悪化したのも、増税対応への負担感と消費減少への懸念からだ。

 そもそも消費税は低所得者ほど負担が大きくなる逆進性の側面がある。今回の増税も恩恵は高所得者層に厚いと指摘されている。軽減税率やポイント還元などの措置は、その場しのぎにすぎない。国民に広く負担を強いる今回の増税の根本には不公平感を増大させる税制の在り方がある。

 消費税は1989年の導入以来、今年まで増税を重ねている。しかし所得税はその間50%から45%に減った。法人税も40%から23・2%まで段階的に減少した。その結果、国の2019年度予算の税収に占める消費税の割合は89年の6%から31%まで拡大した。

 外国で消費税は付加価値税と呼ばれ、低所得者に配慮した軽減税率が欧米やアジア諸国で浸透している。韓国や台湾では食料品は非課税だ。

 低所得者に負担をかけない仕組みが不可欠だ。所得税で高所得者の、法人税で高収益法人の課税率を上げる方法もある。今回の混乱や負担増の教訓を、税制の根本的在り方を巡る国民的議論につなげたい。消費税は増税ではなく減税へ方向を転換すべきだ。


琉球新報社説 2019年10月1日
https://ryukyushimpo.jp/editorial/entry-999120.html
http://www.asyura2.com/19/senkyo266/msg/258.html

[政治・選挙・NHK266] 東電強制起訴、問われぬトップの責任 無罪判決を考える(朝日新聞) 
朝日新聞デジタル 2019年9月29日08時00分
(小手川太朗、編集委員・佐々木英輔、編集委員・大月規義、川田俊男、千種辰弥、阿部峻介)

https://www.asahicom.jp/articles/images/AS20190918002191_comm.jpg
水素爆発を起こした東京電力福島第一原子力発電所の4号機の原子炉建屋。壊れた壁から、事故前に定期検査ではずされていた原子炉格納容器の黄色いフタや、薄緑色の燃料交換装置が見えた=2011年11月12日、福島県大熊町、相場郁朗撮影

 原発事故で多くの人の日常が奪われても、司法は東京電力の旧経営陣3人を全員無罪とした。その責任は問えないのか。

「納得いかない。別に牢屋に入ってほしいわけじゃないけど、あれだけの事故の責任を誰も取らないというのはおかしい」

 東京電力福島第一原発事故をめぐる強制起訴裁判。原発から10キロ圏の富岡町から大阪市平野区に移った望月秀香さん(48)は、旧経営陣の被告3人をいずれも無罪とした判決にやりきれない思いを抱える。

 事故後の1カ月、避難所や親類宅を転々とし、大阪市の市営住宅に入居した。5年前、賠償金で一戸建て住宅を買い、夫(48)と高校1年の娘(16)と暮らす。中学校の給食室でパートとして働き、夫は震災前と同じ長距離トラックの運転手。富岡町の自宅は3年前に解体し、一家の人生は一変した。住民票も大阪に移そうかと考えるが、「娘から富岡の記憶がなくなってしまうのが心配で、まだ決心がつかない」と話す。

 東電は事故前、原発の安全性を強調し続けてきた。判決は「事故の結果は重大で取り返しのつかないもの」としながらも、10メートルの敷地を超える大津波は予見できなかったと判断した。さらに、「極めて高度な安全対策」までは求められていなかったとも指摘し、刑事責任を問わなかった。

 裁判で争点の一つになったのは、東電が2008年に子会社に計算させた15・7メートルの津波予測。だが、この予測は事故後も公表されず、5カ月後の11年8月の報道で明るみに出た。東電はあくまで仮定に基づく「試算」と釈明。政府の事故調査・検証委員会もこの表現を使った。

 「15・7メートルは根拠のあるものでしょうか。試算値でしょ」。昨年10月の被告人質問で、勝俣恒久・元会長(79)は声を荒らげた。

 しかし公判では、津波想定の担当部署が対策に向け動いていたことが明らかになった。当時は国が原発の地震対策の見直しを求めていた。計算のもとになった国の地震予測「長期評価」を覆すのは難しく、取り入れが避けられないことは担当者の共通認識だった。

 「取り入れないと、後で不作為であったと批判される」「津波がNGとなると、プラントを停止させないロジックが必要」。当時のメールや議事録には、原発への影響を気にする記述が残る。数値を大幅に下げるのは困難で、未対策のままでは運転停止を迫られかねないと考えていた。

 原子力部門ナンバー2だった武藤栄・元副社長(69)が出席した08年7月の会議。担当者らは資料を整え、対策に進む判断をしてもらおうと臨んだ。防潮堤の許認可や工程表、概算費用の説明を一通り聞いた武藤氏が発した言葉は、意外なものだった。

 「研究しよう。頼むとすればどこか」。対策を保留にし、土木学会に想定法の検討を委ねることが決まった。年単位の時間がかかることは明らかだった。

 「予想していなかった結論で力が抜けた」と担当者は証言した。だが誰も異論は唱えなかった。「経営判断。従うべきだと思った」と別の担当者は語った。

https://www.asahicom.jp/articles/images/AS20190925000877_comm.jpg
福島第一原発を襲った大津波。高さ10メートル超を見越した対策は取られないままだった=2011年3月11日、東京電力提供

 予測のあいまいさを理由に、組織の動きは鈍った。担当者らは対策不可避と考え続けていたものの、事故への切迫感はなかった。むしろ国や地元の反応を気にし、根回しに走った。他社に同調を求め、国の審査に携わる専門家に方針を説明。15・7メートルの数値を伏せ続け、国に伝えたのは大震災の4日前だった。

 判決は、こうした動きを「外部の意見を収集し、方針を決めていた」と肯定的に評価。専門家も国も運転停止を求めなかったとし、旧経営陣が検討状況を積極的に把握しなかったことも不問に付した。

 被害者代理人の海渡雄一弁護士は判決後の会見で「重要な計算結果を隠していた事実がこの判決からはごそっと抜けている」と批判した。「(裁判は)重大証拠をこれだけ社会に明らかにした。判決文が信頼されるのか、証拠に基づいて皆さん自身の評価、判断を示してほしい」

■■変わらぬ東電の「聖域」■■

 東京・六本木にある原子力規制委員会。昨年12月、東京電力で原発を担う「原子力・立地本部」の増井秀企・副本部長に対し、山形浩史・緊急事態対策監はこう詰問した。

 「社長は刑事でも民事でも、責任をとらないということですか」

 東電は原発事業について、社長が持つ予算や体制づくりの権限を原発事業トップに渡す「社内カンパニー制」を適用したいと同11月に規制委に申請していた。「意思決定を速くする」のを理由にした。

 かつて、東電の原発事業は原子力・立地本部の本部長がトップを担ってきた。それが2011年の福島第一原発の事故後、責任の所在のあいまいさをうんでいたと問題視され、社長直属に変わった経緯がある。

 事故前に戻るような東電の動きに、規制委側は再び責任の所在がぼやけると懸念を強めた。その2カ月前、強制起訴公判の被告人質問で、旧経営陣が「責任逃れ」を繰り返していたことが背景にあった。

 東電は新制度での責任の取り方を「ケース・バイ・ケース」とあいまいな回答を続けた。結局、受け入れられず申請を取り下げた。

 原子力・立地本部の本部長は、19日に東京地裁で無罪が言い渡された武黒一郎氏(73)、武藤栄氏(69)も務めた役職だ。事故前から、技術系の副社長級が兼務するポストだった。

 同本部の社員は全社の1割ほどだが、社内の「聖域」となっていた。火力や水力、送電事業にかかわる一般的な土木や建設、設備などの部門とは別に、「原子力土木」や「原子力設備」といった自前の部門を有した。ここだけで事業計画から用地取得、発注、建設まで完結した。

 東電関係者は「放射能を扱い、高度な地元対策も必要だったので厚遇されたが、他部門から口出しされない閉鎖性も生まれた」と説明する。

 経団連会長も務めた平岩外四氏が社長(76〜84年)のころから、「社内の幹部で原子力本部長だけが、社長とサシ(一対一)で会える特権が与えられるようになった」(元東電幹部)。

 02年夏、原発のトラブル隠し問題が発覚すると、南直哉社長や、相談役だった平岩氏らが一斉に退陣し、勝俣恒久氏(79)が社長に就いた。勝俣氏は「(不正を)しない風土」や「言い出す仕組み」を掲げ、主に原子力本部の閉鎖性の解消を試みた。

 だが、改革は進まず、07年に原発の新たなデータ改ざんが発覚した。頭の回転や判断力の速さから「カミソリ経営者」と言われた勝俣氏も、原子力本部に神経を使うようになった。

 「またかあー」。担当役員から不祥事の報告を受けた勝俣氏は、甲高い声であえて明るく振る舞ったという。元側近は「不祥事のたびに厳しく当たっていると、余計に情報が上がらなくなると気にしていた」と証言する。

 09年2月に「14メートルの津波が来る可能性」を示したリスク情報を知っても、「必要なら本部からいずれ検討結果がくる」と待ちの姿勢を貫いた。だが、その前に事故は起きた。

 組織としての責任はなかったのか。判決は一切触れず、逆に「安全確保に必要な対応を進めていた」と持ち上げた。事故後も問題が相次ぐ東電に、何の教訓も与えなかった。

■■模索続く、安全確保への道■■

 「原発事故の被害者は誰ひとり、この判決に納得していない」。東京電力福島第一原発事故を巡る強制起訴の原動力となった「告訴団」の武藤類子団長は19日の無罪判決後、記者会見で失望をあらわにした。

 「あれだけたくさんの証言や証拠があっても罪に問えないのか」

 裁判では、東電の内部資料やメールの内容が読み上げられ、武藤栄・元副社長(69)ら3人が部下の報告を受けながら、対策をとらなかった状況の一端が明らかになった。「不起訴のまま終わっていたら、証拠は闇に葬られていた」(被害者代理人)と強制起訴の意義を評価する声はある。

 ただ、技術が複雑・高度化するなか、企業が起こした事故で幹部にまで刑事上の過失責任を問うのは難しいとされる。今回も検察や裁判所内では「有罪は困難」との見方が多かった。

 ある検察幹部は「人を刑務所に入れる以上、単なる危機感や不安感では足りない。リスクが具体的に予測できたのに無視したとまで言えるのか。過失のとらえ方が違う」と話す。

 法律家のそんな「常識」に風穴を開けたのが、2009年に導入された強制起訴制度だった。市民で構成する検察審査会が2度「起訴すべきだ」と判断すれば、検察の不起訴判断を覆せるようになった。

 だが、強制起訴されたJR宝塚線脱線事故や明石歩道橋事故の裁判では、無罪や裁判を打ち切る免訴が確定。今回の一審でも高いハードルは越えられなかった。検察内からは「感情論では有罪にできない。裁判で事実を明らかにすべき、という姿勢でいいのか」との声も聞こえる。

 現行法に限界を感じ、新たな道を模索する動きも出始めている。

 19日、東京地裁の前には、宝塚線事故で一人娘を失った藤崎光子さん(79)がいた。同じように組織の安全管理が問題になった裁判の結果を見届けたいと駆けつけたが、「不当判決」と書かれた紙を目にして、立ちすくんだ。「私たちの時と同じだ」

 強制起訴されたJR西日本の歴代3社長の裁判を最高裁まで見続けた。多くの部署に責任が分散する大企業の幹部の刑事責任を問う難しさを痛感。勉強会を重ね、業務上過失事件で、法人に高額の罰金を科す「組織罰」の創設を目指すようになった。

 16年、藤崎さんら遺族は「組織罰を実現する会」を立ち上げた。12年に起きた中央道笹子トンネル事故の遺族らも加わり、昨年10月、法相に1万人以上の署名を添えて請願書を提出した。代表の大森重美さん(71)は「事故を起こしたら罰されるというプレッシャーを幹部に与えないと組織は変わらない」と言う。

 被害が大きな事故では、刑事責任の追及よりも真相解明を優先させ、再発防止を目指す立場もある。米国では航空機や鉄道の事故が起きた際、当事者が真相を語るよう、刑事責任を免除する仕組みがある。

 日本では昨年、他人の犯罪を明かせば刑罰が減免される司法取引が導入されたが、業務上過失事件は含まれない。「責任の所在をはっきりさせ、罰するべきだ」という被害者感情の強さが背景にある。

 東電旧経営陣3人の裁判は検察官役の指定弁護士が控訴すれば、引き続き高裁で争われる。現行法の下で責任を追及していくのか、別の道を探るべきなのか。武藤団長はこう投げかけて会見を結んだ。

 「私たちの犠牲から教訓を得てほしい。心からそう思っています」

 原発事故が起きた福島県の避難者は今なお、4万人を超える。

https://digital.asahi.com/articles/ASM9N63YPM9NUTIL03S.html?rm=538
http://www.asyura2.com/19/senkyo266/msg/259.html

[政治・選挙・NHK266] 「不自由展」攻撃と新天皇キャンペーン(アリの一言) 
 
本稿試食コーナー
1 「今回起きているのは憲法にある『表現の自由』よりも、特定の思想信条に対する差別の問題」(引用)
2 「『慰安婦』と『天皇』。…この二つの主題が最強の地雷となったことの意味は深い」(引用)
3 「慰安婦に群がった男たちは、皇軍の成れの果てだった」(引用)
4 「あの戦争の真の反省を回避し続け、74年後の現在なお新たな戦争を欲望する日本という国家の奇形」(引用)
5 日本のメディアは問題の本質から逃げている。それは今日における天皇タブー
6 慰安婦に群がった男たちは、皇軍の成れの果て
7 2作品に対する歴史修正(改ざん)主義者・安倍政権の攻撃が、新天皇キャンペーン(「即位後朝見の儀」から「即位礼正殿の儀」まで)のさ中に起こった

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2019年10月12日

https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/14/d4/cde631e98c47dc2ec56f0939b9a2e513.jpg
https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/54/94/d7e812c9591f3d3425c4e9192ec48377.jpg(写真中)
https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/5f/ef/09d5e4d549c9f7c41b9fc0712e884ffe.jpg(写真右)     

 「あいちトリエンナーレ2019」は今日12日閉幕します。開幕から3日で閉鎖された「表現の不自由展・その後

」は2カ月後の今月8日再開しました。最低限の修復はしたものの、問題の本質はなんら解決していません。

 この事件は多くの問題を含んでいます。たんなる「表現の(不)自由」の問題ではありません。何よりも、安

倍政権が補助金を不交付にしたことは、国家権力による検閲以外のなにものでもなく、芸術(祭)に限らず、

あらゆる分野にわたって国家に対する「萎縮効果」を狙うもので、絶対に許すことはできません。1日も早く「

不交付」を撤回させる必要があります。それなくして今回の事件の解決はありえません。

 同時に、メディアの報道が「少女像などの展示内容」として「など」の中に入れ、一貫して明言を避けてい

る問題を指摘しなければなりません。それは、今回の「不自由展」で主に攻撃されたのが、性奴隷(元慰安

婦)をモチーフにした少女像とともに、天皇裕仁・天皇制をモチーフにした作品だったことです。

 「不自由展への抗議の5割は『平和の少女像』、4割は大浦信行作品『遠近を抱えてPart U』へのもので、

それは昭和天皇を描いた版画を燃やすなどの映像を含めて構成されていたという」(豊見山和美氏・アーキ

ビスト、9月11日付琉球新報)

 「4割」の攻撃を「など」で片づけことはできません。

 そのことを攻撃者側から示しているのが、あの河村たかし名古屋市長です。河村は主催者側(実行委員

長代理)でありながら今回の事件の火付け役の1人ですが、8日には再開に「抗議」して会場前で座り込むと

いう妄動を行いました。

 その河村が手にしたプラカードにはこう書かれていました。「日本国民に問う!陛下への侮辱を許すのか

!」(写真中)。ここに攻撃の本丸があると言えるでしょう。

 「少女像」と天皇(裕仁)をモチーフにした映像の2つが主な攻撃対象だったことは、けっして偶然ではなく、

きわめて重要な意味を含んでいます。

 「今回起きているのは憲法にある『表現の自由』よりも、特定の思想信条に対する差別の問題だ。…脅迫

者の動機の根底には差別的な意図がある。それは天皇制に批判的な人への差別であり、朝鮮半島の人へ

の差別だ」(木村草太首都大東京教授、10月3日付中国新聞=共同)

 「『慰安婦』と『天皇』。…この二つの主題が最強の地雷となったことの意味は深い。慰安婦に群がった男

たちは、皇軍の成れの果てだった。両者の並ぶ美術展が、ある種の威圧で中断に追い込まれた。それは、

あの戦争の真の反省を回避し続け、74年後の現在なお新たな戦争を欲望する日本という国家の奇形が、

国際芸術祭の場でも露呈したということではないか?」(豊見山和美氏、同前)

 日本のメディアは「など」によって、木村氏や豊見山氏が指摘する問題の本質から逃げているのです。そ

れは今日における天皇タブーに他なりません

 さらに目を向ける必要があるのは、今回の「不自由展」が、徳仁天皇の「即位後朝見の儀」(写真右)から

ちょうど3カ月目に開幕し、閉幕の10日後には「即位礼正殿の儀」が行われるという事実・タイミングです。

 「性奴隷」と「天皇」をモチーフにした2作品に対する歴史修正(改ざん)主義者・安倍政権の攻撃が、新天

皇キャンペーンのさ中に起こったことはけっして偶然ではなく、天皇制の本質問題を照射しているのではな

いでしょうか。

https://blog.goo.ne.jp/satoru-kihara
http://www.asyura2.com/19/senkyo266/msg/410.html

[政治・選挙・NHK266] 表現が規制、弾圧される社会。それであなたはいいのですか? ・・・  あいちトリエンナーレ 補助金不交付 問題で表出した「公共の解体と私物化」(イミダス 時事オピニオン) 
本稿試食コーナー
1 補助金の交付を決定する採択をした外部審査委員への意見聴取を行うことなく、文化庁ないし文部科学省のトップの独断で決定
2 今回の文化庁の決定は、表現の分野に大きな萎縮効果を生み、事実上の検閲として機能する
3 オリンピックのためには「テロ等準備罪」まで新設して「テロの脅威」に備えた安倍政権が、なぜ、あいちトリエンナーレへの「テロリストの脅迫」に対しては、「テロリストの脅しには屈しない」という強い態度を取るどころか、逆に被害者であるトリエンナーレ側を厳しく罰する行為に出たのか
4 補助金交付の可否を外部の専門家委員会に委ねる仕組みは、「みんなのもの」である税金を「みんなのため」に使うために発達してきた
5 それを無視して独断で決めようという動きは、「みんなのもの」である税金を「自分のもの」にしようとすること
6 論理も手続きも議事録も欠落した補助金不交付の決定
7 「決定者による税金の私物化」
8 安倍政権下で一貫して加速してきた「公共の解体と私物化」
9 加計、森友、NHK、水道民営化、種子法……
10 なぜここまで安倍政権が平気で「公共の解体と私物化」を実行できているのか
11 世論調査の支持率がさして下がらないし、選挙でも勝ち続け

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2019/10/11
想田和弘(映画作家)


国際芸術祭「あいちトリエンナーレ2019」(19年8月1日―10月14日)。その企画展である「表現の不自由展・その後」がきっかけとなって、さまざまな騒動が巻き起こった。一部作品の公開中止と再公開。そして文化庁の補助金不交付決定……映画作家・想田和弘さんはこの問題をどう見るのか、ご寄稿いただいた。

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 あいちトリエンナーレにおける企画展の一つである「表現の不自由展・その後」(以下、「表現の不自由展」とする)が、外部からの脅迫を受けて「危機管理上の正当な理由」によって中止された。それを受けて、トリエンナーレに対して交付される予定だった補助金7820万円が、9月26日、文化庁によって突然、全額不交付と決定された。補助金の交付を決定する採択をした外部審査委員への意見聴取を行うことなく、文化庁ないし文部科学省のトップの独断で決定されたようである。

 この一連の事件は@「表現の自由」を脅かす問題であると同時に、A安倍晋三政権下で一貫して加速してきた「公共の解体と私物化」を象徴するような出来事であると、僕は考えている。本稿では、その2つの観点から補助金不交付問題を論じる。


■■あいちトリエンナーレは被害者である■■

 まず再確認せねばならないことは、あいちトリエンナーレは「ガソリン携行缶持って館へおじゃますんで」などとテロ行為をほのめかした脅迫の被害者だということである。これは、いくら強調しても強調しすぎることはない。

 10月8日からなんとか再開されたとはいえ、脅迫者や彼に共鳴する人々にとって、「表現の不自由展」が一旦中止に追い込まれたことは、それだけで大きな成果である。のみならず、文化庁は申請時に必要な情報を報告しなかったという手続きの不備を理由に、トリエンナーレ全体に対する補助金7820万円を全額不交付とした。中止された「表現の不自由展」に対する補助金は約420万円にすぎず、それ以外の展示はおおむね予定通りに行われたにもかかわらず、である。

 これが前例として通用するなら、政府の補助金に頼る文化事業の主催者にとっては、大きな脅威となる。すでに交付が決まっていた補助金さえ取り上げられるなら、事業の開催を守るため、政府の方針に少しでも反しそうな表現はあらかじめ自己検閲しようとする力が働く。少なくとも、今後税金が拠出されるイベントでは、真に自由な表現をすることが、運営上の多大なリスク要因となることは間違いない。今回の文化庁の決定は、表現の分野に大きな萎縮効果を生み、事実上の検閲として機能するであろう。

 また、脅迫者とその共鳴者の観点からすれば、文化庁の決定は望外の大金星である。なにしろテロ行為をほのめかしただけで、「表現の不自由展」を中止に追い込みトリエンナーレ全体に経済的ダメージを与えられたのみならず、日本中の文化事業から気に食わない表現を一掃できそうなのである。文化庁という役所は、今回明らかに「テロリスト」に加勢し、加担したと言える。共犯と言ってもいい。

 今回の決定は、日本政府がこれまで取ってきた「テロ」に対する態度とも、整合性が取れない。

 想像してみて欲しい。

 たとえば、オリンピックの会場で「ガソリン持ってくぞ」という脅迫がなされ、競技が一部中止になったとしたらどうか。萩生田光一文科大臣の今回のロジックを適用するなら、日本政府はその競技に対する補助金のみならず、オリンピック全体へ交付予定だった補助金を、すべて引き上げることになる。

 しかし、安倍政権がそうした措置を取ると信じる人は、たぶん誰もいないだろう。オリンピックに対して脅迫がなされた際には、安倍首相はおそらく「テロリストの脅しには屈しない」という決まり文句を述べて、警備を極限まで強化して対応するはずだ。なにしろオリンピックのための警備を理由に、国会では野党が猛反対した「テロ等準備罪(共謀罪)」を無理やり通した首相である。オリンピックは安倍首相の肝いり事業であり、脅迫によって一部の競技が中止になったとしても、補助金を不交付とすることなど到底考えられない。

 問題は、オリンピックのためには「テロ等準備罪」まで新設して「テロの脅威」に備えた安倍政権が、なぜ、あいちトリエンナーレへの「テロリストの脅迫」に対しては、「テロリストの脅しには屈しない」という強い態度を取るどころか、逆に被害者であるトリエンナーレ側を厳しく罰する行為に出たのか、である。

 ここに安倍政権の恣意的な意志を見出すことは容易である。

 「『表現の不自由展』に慰安婦を表現する『平和の少女像』などが含まれていたことが、気に入らなかったのだろう」

 本稿の大半の読者は、そう思わざるをえないのではないだろうか。

 いずれにせよ、今回の文化庁の決定が、日本国憲法第21条で保障された「表現の自由」を脅かすものであることは間違いない。

  <憲法第21条>
  集会、結社及び言論、出版その他一切の表現の自由は、これを保障する。
  2 検閲は、これをしてはならない。通信の秘密は、これを侵してはならない。

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公開中止期間中、「表現の不自由展・その後」の入口は閉じられ、#YOurFreedom(自由を奪われたこと)について入場者が書いた付箋がたくさん貼り付けられている。 撮影・イミダス編集部


■■公共とは「みんなのもの」■■

 文化庁による補助金不交付の決定は、「公共性」という観点から見て、その手続きにも大きな問題がある。

 そのことを論証するために、まずはそもそも「公共とは何か」ということについて、考えてみよう。

 「公共」とは、平たく言えば「みんなのもの」という意味である。

 たとえば公園は、公共性の高い「みんなのもの」である。したがって誰でも入れるし、特別な理由がない限り、その場から排除されたりしない。そしてその運営には、「みんなのもの」である税金が使われる。

 しかし公園が民間に払い下げられ、私有化(私物化)されたらどうなるか。所有者の気持ち一つで、入場料を徴収したり、入場の条件を決めたりすることができる。一般人の入場を禁止し、自分や近親者だけの空間にすることもできるだろう。しかしその場合、運営に「みんなのもの」である税金を使うことを正当化できなくなる。

 あいちトリエンナーレのような芸術祭に「みんなの税金」が使われるのは、芸術祭が「私物」ではなく「みんなのもの」であり、公共性が高いとみなされているからである。そしてそのような公共的な文化事業に税金を使うための法的根拠は、日本国憲法第25条に求められるだろう。

  <憲法第25条>
  すべて国民は、健康で文化的な最低限度の生活を営む権利を有する。
  2 国は、すべての生活部面について、社会福祉、社会保障及び公衆衛生
    の向上及び増進に努めなければならない。

 憲法に定められているように、「すべて国民は、健康で文化的な最低限度の生活を営む権利を有する」わけだから、国には、国民があいちトリエンナーレのような芸術祭に入場したいと望むなら、入場できるような環境を用意する責任がある。したがって国は補助金を出し、入場料を低く抑える努力を支援することで、市民が芸術祭へ入場するためのハードルを下げるわけである。

 では、そもそもあいちトリエンナーレのような芸術祭を、税金を投入すべき公共性の高い「みんなのもの」であると評価・認定するのは、いったい誰なのであろうか。

 先進国では、その評価・認定は政府が行うのではなく、「アーツカウンシル」と呼ばれる外部の専門家委員会に委ねられるのが通例である。なぜなら政府が直接認定を行ってしまうと、政府による芸術作品の恣意的な選別ないし事実上の検閲が行われやすくなり、客観性や公正さが担保しにくくなるからだ。実際、アーツカウンシルの仕組みは、ナチス・ドイツが芸術を政治的に利用した事実を踏まえて、イギリスを中心に発達したものである。

 あいちトリエンナーレへの補助金も、そのような考え方と手続きに沿って、交付が決まっていた。具体的には、「日本博を契機とする文化資源コンテンツ創成事業(文化資源活用推進事業)」の外部審査員6人の審査を経て、2019年4月25日付でトリエンナーレを含む26件の採択が決まった。そのうえで愛知県は5月30日、補助金交付申請書を提出し、文化庁は受理していた。

 したがって文化庁が補助金交付を取り消そうとするなら、当然、交付を採択した外部審査員らに再審査を委ねるべきであった。審査員を通さずに補助金交付の可否を政府が決めてしまえるなら、外部審査員の存在自体に意味がなくなり、文化行政の根幹が崩壊してしまうからである。

 外部審査員を務めた野田邦弘鳥取大学特命教授は10月2日、文化庁に外部審査員を辞任すると申し出た。野田教授は朝日新聞に対し、「一度審査委員を入れて採択を決めたものを、後から不交付とするのでは審査の意味がない」「理屈は後付けだと思う。そもそもやり方がありえない」「外部の目を入れて審査し、採択したあとに文化庁内部で不交付を決めるというやり方が定着してしまわないか、危惧している」とコメントしている。

 また、共産党の本村伸子衆議院議員が文化庁に不交付決定のプロセスを問い合わせたところ、文化庁は1日、「あいちトリエンナーレへの補助金不交付を決定した審査の議事録はございません」と文書で回答している。

 このような政治的案件を、官僚だけで決定することはありえない。宮田亮平文化庁長官か萩生田文科相、あるいは安倍首相が決めたものであることが疑われる。

 ここで強調しておきたいのは、補助金交付の可否を外部の専門家委員会に委ねる仕組みは、「みんなのもの」である税金を「みんなのため」に使うために発達してきたということである。つまりそれを無視して独断で決めようという動きは、「みんなのもの」である税金を「自分のもの」にしようとすることに等しい。

 実際、今回の論理も手続きも議事録も欠落した補助金不交付の決定は、「決定者による税金の私物化」以外に形容のしようがない。脅迫者への加担という問題に鑑みれば、「表現の不自由展」が中止されたからといって、それに対する補助金約420万円を不交付とすることも不適切だが、トリエンナーレ全体に対する7820万円を不交付とするに至っては、あまりにも恣意的で論理性を欠いている。決定者は「みんなのもの」である税金の使い道を、自分の感情や気分によって独裁的に決めたと言えるのではないだろうか。

少なくとも、公共のお金である税金の扱い方として、納税者からの精査に耐えうるものではない。


■■加計、森友、NHK、水道民営化、種子法……続々と進む「公共の解体と私物化」■■

 ここから透けて見えるのは、安倍政権下で一貫して加速してきた「公共の解体と私物化」というベクトルの存在である。

 たとえば 森友学園事件では、国有地という公共の財産=みんなのものを、安倍昭恵首相夫人と懇意にしていた森友学園に対して、8億円以上もの値引きをして払い下げたという疑いが濃厚だ。要は安倍夫妻が「お友達」のために国有地を私物化したという疑惑が持たれている。

 加計学園問題では、50年以上どこの大学にも認められていなかった「獣医学部の新設」が、安倍首相の長年の友・加計孝太郎理事長への特別の便宜として、加計学園に認められたという疑惑がある。これも事実だとすれば、大学行政という公共のプロセスやリソースの私物化である。

 ついでに森友問題では、財務省理財局による決裁文書改竄問題も発生した。財務省が国有地払い下げの経緯を記した文書を国会に提出した際、首相や昭恵夫人の関与が疑われかねない記述を削除していた問題である。これは財務省という、本来ならば「みんなのため」に仕事をすべき公僕の集団が、首相夫妻の利益のためだけに不正を働いていたことを示している。つまり財務省すらも、首相によって私物化されていたと言ってよいだろう。

 この文脈で言えば、公共放送であるNHKの私物化も忘れてはならない。第二次安倍政権が誕生して間もなく、安倍内閣はNHKの経営委員会に百田尚樹氏や長谷川三千子氏ら首相に近い人物を4人も一気に送り込んだ。すると経営委員会は、NHKの会長に籾井勝人氏を選んだ。「政府が右と言うものを左と言うわけにはいかない」と発言し、言論界から厳しく批判された人物である。以来、NHKの報道から政権に批判的な論調が激減し、「みなさまのNHK」ならぬ「安倍さまのNHK」のようになってしまっていることは、多くの人が認めるところであろう。

 安倍政権が強引に推し進めた、水道の民営化についても触れておこう。言うまでもなく、水道はあらゆる人にとって必要不可欠な「みんなのもの」であり、公共性が極めて高い。ところが安倍政権下、自治体が給水責任と施設の所有権を持ったまま、運営権を民間企業に売却する「コンセッション方式」を選択できるよう、水道法が改定された。諸外国では、水道を民営化した結果、水道料金が高騰するなどの問題が起きて、再公営化する例が増えているにもかかわらず、である。それによって誰が潤うのかはまだ定かではないが、これも「公共の解体と私物化」の流れの一環と言えるであろう。

 種子法(主要農作物種子法)の廃止も同様である。同法は、米、麦、大豆の優良な種子の生産と安定供給を「みんなのため」に必要な公共事業と位置づけ、都道府県に実務を義務づけた。そして国が必要な予算を拠出する法的根拠となってきた。ところが安倍内閣は「民間企業の参入を促す」などの理由で、2017年の国会に同法廃止法案を提出。賛成多数で可決させた。

 同法廃止を受け、代わりとなる「種子条例」を制定して従来の事業を継続する自治体が相次いでいるため、今のところ種子の生産体制は守られているようだ。しかし自治体が種子の生産をやめれば、主に外国の多国籍企業による種子の寡占が進み、農家は大企業から種子を買わざるをえなくなっていくだろう。すると種子は高騰し、農薬や化学肥料もセットで売られ、栽培法すらも企業によって指定されるようになる可能性が高い。そう考えると、種子法廃止も安倍政権による「公共の解体と私物化」のベクトルに沿うものだと言える。


■■究極の責任は私たち主権者に■■

 このように見てくると、安倍政権下、多方面で「公共=みんなのもの」が解体・私物化されつつあることがわかるであろう。あいちトリエンナーレの件は、安倍政権下で同時に進んでいる様々な動きと、ある意味でシンクロしている。いわば必然的に起きたと言えるのである。

 このまま放置しておけば、今度は税金が拠出されない表現も、規制・弾圧されていくことになるだろう。それには憲法第21条が障害となるが、今回の政府の説明が巧妙に21条問題を迂回し「手続き論」に終始したように、様々な詭弁が使われていくことになるのではないだろうか。私物化とは「貪欲」によって起きるものであり、必ずエスカレートするからである。

 日本国民のみなさんに聞きたいのは、みなさんは日本がそのような社会になっても本当によいのか、ということである。僕は外国に住んでいるが、母国が一部の人たちに所有された不自由な社会になって欲しくないので、抵抗する。今回の政府の動きも到底許容できないものだと考えている。

 容認できないのであれば、選挙で、署名活動で、路上で、オンライン上で、主権者としてその意思を示すことが肝心だ。なぜここまで安倍政権が平気で「公共の解体と私物化」を実行できているのかと言えば、それはいくら彼らが公共の私物化を進めても、世論調査の支持率がさして下がらないし、選挙でも勝ち続けているからである。

 私たち主権者にこそ、究極の責任がある。

https://imidas.jp/jijikaitai/c-40-138-19-10-g726
http://www.asyura2.com/19/senkyo266/msg/411.html

[政治・選挙・NHK266] 日本軍「慰安婦」問題の核心?池田恵理子さん「あるくラジオ」で大いに語る(レイバーネット) 
松原 明(ビデオプレス/技術担当)
Last modified on 2019-10-09 23:54:41

http://www.labornetjp.org/image/2019/100803
左からささきゆみ・池田恵理子・しまひでひろの各氏(放送後)

→アーカイブ録画(65分) https://youtu.be/MGULzqWdnDg
→「あるくラジオ」HP https://aruku-radio広告文字列により全部置換/

 10月8日の第7回「あるくラジオ」のゲストは「女たちの戦争と平和資料館」(WAM)の名誉館長の池田恵理

子さんだった。私は1990年代の「民衆のメディア連絡会」以来の古いつきあいがあった。番組収録のため、8

日午後2時に小竹向原にあるビデオプレス事務所に池田さんはやってきた。しばしの時間、パーソナリティ

のしまひでひろ・ささきゆみさん、私と四人で小テーブルでお茶を飲みながら打合せをした。

 そろそろ放送開始時間の午後3時が迫る。池田さん「ところでスタジオは奥の部屋ですか?」と聞く。私「い

えいえ部屋はここだけです。このままお茶のみスタイルでやります。すいませんがタイピンマイクが足りない

ので、池田さんは手持ちマイクでお願いします」。元NHKのディレクターの池田さんは一瞬驚いた様子だった

。ラジオ収録と聞いて防音に囲まれたプロのスタジオをイメージしていたのだろう。しかしマイクを握ると手慣

れたもので、古巣に帰ったようにマイクテストを始めた。「わたし喋ると止まらないので止めてくださいね」と

言われ、パーソナリティもちょっと緊張していた。

http://www.labornetjp.org/image/2019/100802

 軽快な音楽の乗って番組がはじまった。テーマは「記憶こそが民衆の武器〜池田恵理子さんに聞く」。つ

い先日来日した元「慰安婦」92歳のイ・オクソンさんの話から始まった。彼女たちがどんな体験をして、心と

身体に深い傷を負ったのか。何十回とアジア現地を訪ねて記録を集めてきた池田さんならではの、濃い実

証的な話が続いた。安倍政権によるNHK番組改ざん問題、「政治とメディア」「教育」など話題は縦横無尽に

広がり、日本軍「慰安婦」問題の核心に迫る1時間番組となった。

http://www.labornetjp.org/image/2019/100801

 興味深い話ばかりだったが、私は、がんで余命数か月となった松井やよりさんが全財産を投げ打って

「WAM」を立ち上げた話に感動した。松井さんだけではない。池田さんやスタッフの人たちも同じ気持ちでお

金も時間も投入して、WAMを維持・発展させてきた。しっかり歴史を刻みたい伝えたいという思いだったのだ

ろう。WAMは右翼の攻撃ターゲットになっていて、在特会の襲撃もあったり嫌がらせは今も続いているという

。しかし池田さんたちはまったく負けていない。お話を聴いてWAMの大きさを改めて感じた。正式名称は頭

に「アクティブ・ミュージアム」とつく。「アクティブ」には知るだけではなく「行動」して変えていこうという思いが

込められている。

http://www.labornetjp.org/image/2019/100804
「女たちの戦争と平和資料館」 ホームページ https://wam-peace.org/

 さて私は最後にこう質問した。「NHKからWAMまでこれだけの活動をしていた池田さんの生き方の原点は

どこにあるのですか?」と。「私は最初は政治に関心のない文学少女だった。でもベトナム戦争の生々しい

映像をみて政治にめざめた。また世界のウーマンリブ運動にも影響をうけた。それで文学少女から政治少

女になったのです。運動に関わって、おかしいと思ったのはメディアの報道。学生運動・ベトナム・沖縄・三

里塚も上から目線でおかしかったです。それで私はマスコミに入って変えようと思ったのです」と。当時NHK

に採用された女性社員はたった3人で、仕事でも女性は下に見られた存在だった。しかし、池田さんは頑張

りぬいた。初心を貫きディレクターとなり「女性・人権・戦争・教育・エイズ」そして「慰安婦」番組を8本もつくっ

た。安倍政権がもっとも嫌がる「女性ディレクター」になったのだ。
 ぜひアーカイブ放送でじっくり聞いてほしい。

http://www.labornetjp.org/news/2019/1008aruku2
http://www.asyura2.com/19/senkyo266/msg/412.html

[政治・選挙・NHK266] 消費税と軍事費 / 相次ぐ老人ホーム倒産 (アリの一言) 
日曜日記70
2019年10月13日


■■消費税と軍事費■■

 10月1日から消費税が10%に引き上げられて半月がたった。その「経済効果」つまり国民の新たな負担増は5兆7000億円だという。
 一方、来年度予算の概算要求で防衛省が要求した額、すなわち軍事費(人件費を含む)は5兆3223億円だった。
 「5兆7000億円」と「5兆3223億円」。この近似性は、たんなる偶然だろうか。

 安倍政権は消費税増税分を「幼児教育・保育無償化」や「社会保障」へ回すという。カネに色はついていない。高齢化社会で社会保障の予算が増えるのは当然だ。それを税金で賄うために政府というものがある。それをしないで「社会保障予算が足りない」といって増税する。

 では税金はどこへ回されているのか。毎年別扱いで(日米安保体制のため)増え続け、ついに5兆円を突破した軍事費、つまり戦争準備のための予算へ回している。

 消費税増税は膨張し続ける軍事費を賄うために他ならない。
 「5兆7000億円」と「5兆3223億円」はそのことを端的に、象徴的に示している。偶然ではない。
 
 
■■相次ぐ老人ホーム倒産が示すもの■■

 10月3日のNHK「クローズアップ現代+」によると、住宅型有料老人ホームの倒産が相次いでいる。約9000の事業所のうち昨年度だけで355カ所の廃業届があったそうだ。1日1カ所つぶれていることになる。

 「住宅型ホーム」の総数は7年で3倍に急増している。厳しい基準がなく届け出だけで開設できるため、運営のノウハウも分からないまま、他業種から参入するケースが多いという。参入しやすく、倒産もしやすいというわけだ。

 その犠牲を被るのは、言うまでもなく入居している老人(多くは要介護)とその家族だ。多額の金を出して入居し、終の棲家にと思っていたのに、突然その場所が奪われる。

 高齢化社会、要介護者が増加する社会で起きているこの現実・悲劇は、いったいだれの責任なのか。言うまでもなく政府・政治の責任だ。

 政府は特養老人ホームの数を制限する一方、「在宅介護」の名の下に高齢者・要介護者を施設から締め出し、「家族愛」なるものを強調して介護・看護を家族におしつける。

 しかし、「家族介護」はやれたとしても限界がある。4年間やってみて、痛感した。それでやむなく民間施設を探す。しかし入れるところは限られる。やっと入居できたと思った施設が突然倒産・閉鎖となったら…。けっして他人事ではない。

 民間施設に入居させられるだけまだいい(母のグループホームも月々20万近くかかる)。入居できない人は老々介護にならざるをえない。その結果の悲劇は後を絶たない。これからもっと増えるだろう。

 この責任は政府にある。政治を変えねばならない。日米軍事同盟を廃棄し、軍事費を高齢者介護・看護に回さなければならない。介護施設職員の待遇を改善し、数を増やさねばならない。これはすべての人々、家族の問題だ。

https://blog.goo.ne.jp/satoru-kihara
http://www.asyura2.com/19/senkyo266/msg/439.html

[政治・選挙・NHK266] 日米安保のくびき 惰性から抜け出すとき

 外交の成果が見られない。

 ロシアとの北方領土交渉、北朝鮮との拉致問題、米国とイランの対立の仲介、日米貿易協定でも。安倍晋三政権が「外交の基軸」に据える日米安全保障体制が、日本の主張、自主的な交渉の足かせになってはいないか。

 その「基軸」も、ほかならぬ米国によって揺さぶられることになるかもしれない。

■■見直し求める議会■■

 「国防権限法案の協議が行われている時期を捉え、普天間から辺野古に移る計画も国外移転に組み入れるよう訴えたい」。沖縄県の玉城デニー知事は会見で、14日からの訪米の狙いを説明した。

 国防権限法案とは、国防予算の大枠を定める法律を指す。予算を編成する米議会では上院、下院それぞれが権限法案を作り、両院の協議により一本化する。

 2020会計年度(19年10月〜20年9月)の上院案に、画期的な条項が盛られた。

 沖縄、グアム、ハワイ、オーストラリアを含む米軍再編計画を、財政効率や軍事的合理性の観点から一度見直すよう国防総省に求めている。監査機関の会計検査院にも検査報告を義務付けた。

 目を引くのは、見直しの基準の一つに、米軍基地に対する「地域社会や住民の政治的支持」があるか否かを加えたことだ。

 2月の県民投票でも国政選挙でも、沖縄県民は繰り返し普天間飛行場の辺野古移設に反対の意思を示してきた。辺野古では軟弱地盤が見つかり、工期や費用の大幅な膨張も予想される。権限法案の行方次第で、再検討の対象に上る可能性は小さくない。

 トランプ米大統領が、米国だけが日本の防衛義務を負う安保条約を「不平等だ」と言い出したのは6月だった。貿易交渉の真っ最中で、外務省は「日本の譲歩を引き出す狙い」と捉えていた。

 日本が経済力を高めた70年代から、「安保にただ乗りしている」との不満が米社会にくすぶっている。米軍の駐留経費負担への不満を、3年前の大統領選から訴えるトランプ氏は「決して特殊ではない」と識者は指摘する。

 日米安保条約は朝鮮戦争さなかの1951年に結ばれ、60年に改定された。以来、59年間条文は変わっていないのに、実態は「日本国の安全と極東の平和・安全の維持に寄与する」とした範囲を大きく逸脱している。

 冷戦終結後は「アジア太平洋地域の平和と安全」に、21世紀になるとテロや大量破壊兵器の拡散防止を視野に「世界課題への効果的な対処」へと再定義される。

■■外交原則に戻って■■

 違憲性の強い集団的自衛権の行使に道を開いた安倍政権は宇宙やサイバーへと防衛領域をさらに広げ、自衛隊と米軍の一体化を進める。軍備増強にも余念がない。

 米国の世界戦略に歩調を合わせ専守防衛を骨抜きにする日本の方策が、近隣国と新たな関係を築く芽を摘んでしまっている。

 端的に物語るのが、ロシアとの平和条約締結交渉だ。

 プーチン大統領は、1956年の日ソ共同宣言に基づき、歯舞と色丹を引き渡せば「米軍が展開する」との懸念を何度も口にする。日本が「基地は造らせない」と説いても、現状では信用できないと言っているに等しい。

 首相が北朝鮮との直接交渉に意欲を示しても、独自に回路を開けない。米国とイランの仲介を買って出ても両国のはざまで立ち往生する。唯一の被爆国でありながら核禁止条約にも参加しない。安保で依存する米国の顔色をうかがってのことだろう。

 戦後の日本外交は国連中心、自由主義諸国との協調、アジアの一員としての立場の堅持―を原則に再出発している。

 ロシアとは善隣友好を共同宣言し、中国とも「紛争を平和的手段で解決する」との平和友好条約を結んでいる。米国に倣って敵対国と見なす理由は見当たらない。

 北朝鮮に非核化を促す上でも原則に立ち返り、際限のない「米国追随」から「多国間で地域の紛争に対処する」外交へとかじを切らなくてはならない。

 キッシンジャー元米国務長官はかつて、日本を守るのは「条約があるからではなく、米国の国益が危うくなるからだ」と語った。この文脈に沿ってトランプ氏が「不平等」を訴えたのはいい機会だ。日本も国益、基地負担を強いられる住民の人権を最優先に、安全保障のあり方を考え直したい。

 日本が負担する在日米軍関係経費は6千億円を超え、5兆円余の防衛予算も年々膨らんでいる。高齢社会に直面する日本が、米国の言うままに費用を積み増すのは、財政面からも現実的でない。

 不透明な情勢下で日米安保の強化は不可欠―。そんな固定観念から抜け出すときにきている。

(10月13日)


信濃毎日新聞社説 2019年10月13日
https://www.shinmai.co.jp/news/nagano/20191013/KT191010ETI090004000.php
http://www.asyura2.com/19/senkyo266/msg/440.html

[政治・選挙・NHK266] ゲノム編集食品/「知る」「選ぶ」権利奪うな

 その食べものは、どのようにして作られたのか−。表示は消費者の選ぶ権利の「最後のとりで」だ。

 生物の遺伝子を改変したゲノム編集食品の大半について、消費者庁が表示を義務付けないことを決めた。安全性について知る手掛かりを奪う判断で、容認できない。消費者の権利を守る省庁としての責務を放棄したと言われても仕方ない。

 ゲノム編集は、従来の技術に比べて生物の遺伝子を簡単に改変できることから近年急速に開発が進んだ。外部の遺伝子を組み込んだり、遺伝子の一部を壊したりして、新しい特徴を持った野菜や家畜を作り出す。肉厚のマダイや、芽に毒のないジャガイモなどが開発されている。

 議論になっているのが特定の遺伝子を壊したタイプで、販売に向けた研究開発の大半を占める。

 消費者庁の判断理由には首をかしげる。突然変異や品種改良と、遺伝子改変の違いが、科学的に判別できないからというのだ。

 しかし、安全性が不安視されている食品である。健康への影響が疑われる事態が起きた時のために、食品表示とともに、製造から流通まで確認できる体制を整えるのが国の義務ではないか。

 厚生労働省は、自然界でも遺伝子改変と同様のことが起こりうるとして、安全性の審査も求めないとした。この点にも懸念が募る。

 消費者団体などは、厳格な審査が要求される既存の遺伝子組み換え食品と別扱いしたことを批判する。

 一般にゲノム編集食品については、遺伝子改変の「精度が高い」などと従来の技術との違いを強調する表現が見受けられる。

 だが、周囲の別の遺伝子も破壊する「オフターゲット」という問題への懸念は残る。破壊された遺伝子が持つ他の役割が失われ、思いも寄らぬ副作用が起こりうることも専門家から警告されている。

 研究が本格化してわずか数年の技術である。人の健康だけでなく、生態系への影響など未知の部分が大きいことを考えれば、今回の各省庁の対応は拙速に過ぎる。

 消費者団体や生活協同組合の強い反対の声を押し切り、消費者庁などが急ピッチで結論を示した点にも違和感が強い。日米貿易協定の最終合意を見越して「米国産農産物を輸入しやすくする狙いでは」といぶかる声もある。

 食の安全性のハードルを下げれば、安全・安心に力を入れてきた国内の生産者を脅かし、日本の農業の衰退をさらに加速させかねない。なにより、安心できる食への消費者の信頼が揺らぐだろう。政府は実施の前に国民に丁寧に説明すべきだ。


神戸新聞社説 2019/10/01
https://www.kobe-np.co.jp/column/shasetsu/201910/0012748984.shtml
http://www.asyura2.com/19/senkyo266/msg/441.html

[政治・選挙・NHK266] 戦闘機F35A、1機40億円割高で調達 検査院が報告(朝日新聞) 
朝日新聞デジタル 2019年10月18日19時00分

https://www.asahicom.jp/articles/images/AS20191018002968_commL.jpg
最新鋭の戦闘機F35A(防衛省提供)

 米国の有償軍事援助(FMS)による防衛装備品の調達状況について、国会からの要請を受けて検査をした会計検査院は18日、検査結果を国会に報告した。米国の最新鋭戦闘機F35Aの調達で、日本政府が国内企業を製造に参画させるなどしたため、1機当たりの調達価格が米国より40億円前後高くなっていたことなどが判明した。

 FMSでは、機密性が高く、高性能な米国の防衛装備品や関連の役務が調達できる。支払いは前払いで、納入後、精算される。納入まで数年かかり、原価などが非開示で検証や比較が難しい。

 検査院によると、2017年度の日本のFMS調達は3882億円で、13年度の1117億円の3倍超。F35Aやオスプレイ、イージス・システム、早期警戒機E2Dなどを調達している。米国で11年度に9位だった日本の調達額は、16、17年度に3位になった。

 検査院は、調達が増えているF35Aについて、1機当たりの日本の調達価格を契約内容から算出し、米国が公表した自国向けの調達価格との比較を試みた。

https://www.asahicom.jp/articles/images/AS20191018003736_commL.jpg
F35Aの1機当たりの調達価格の推移

 日本が完成品を調達した12年度の価格は約1・2億ドル(当時の円換算で約97・7億円)で米国より約1270万ドル(同10・3億円)高かった。それが日本企業が製造に参画した13年度には約1・5億ドル(同129・6億円)に跳ね上がり、米国との差は4倍の5610万ドル(同46億円)に拡大。翌年度以降も米国より4千万ドルほど(14年度は同38・8億円、15年度は同47・6億円)高かった。

 価格差について米国側は、仕様の違いや開発分担金のほか、日本企業がF35Aの最終組み立てや検査などに参画したことが主な原因、と検査院に説明した。日本企業は習熟度が低いため、工数が増えるなどして価格が上がるという。

 防衛省によると、日本企業の参画は、戦闘機を生産・運用する技術の育成、高度化が目的で、F35A42機の取得とともに12年に閣議決定された。調達価格の上昇分について、同省は「この目的に資する支出」としている。三菱重工業、IHI、三菱電機の3社が参画するのに必要な施設整備などに約1465億円も負担している。

 しかし政府は今年度、この参画をやめ、F35Aの完成品の調達に切り替えた。同省は昨年の概算要求までは、参画を維持し、6機を916億円(1機当たり約152億円)で調達しようとした。切り替えたことにより、6機で681億円(同113億円)と235億円(同39億円)減額された。

 変更の理由について、同省は「昨年105機の追加取得が決まり、安く早期に調達する必要が高まった。国内企業は計30機の製造に参画して習熟は進み、今後も整備を担う」と説明している。

 検査院は今回の報告で、FMS調達で1・2%加算される契約管理費について、韓国などの諸外国が米国と協定を結んで受けている減免を日本が受けていないこと▽約20年前に拠出金約4800万円が返還されたのに気付かず放置していたこと▽海上自衛隊の舞鶴弾薬整備補給所で約12億円分の弾薬整備器材の取得価格などが物品管理簿に記録されていなかったこと、なども指摘し、同省に対応を求めた。(上沢博之)

https://digital.asahi.com/articles/ASMBK3RG7MBKUTIL00Z.html?pn=6
http://www.asyura2.com/19/senkyo266/msg/558.html

[政治・選挙・NHK266] あいち芸術祭 閉幕後も山積する課題 
 
 あいちトリエンナーレが閉幕した。脅迫や執拗な抗議で中止に追い込まれた企画「表現の不自由展・その後」は、最終盤になって再開にこぎつけた。入場が抽選制になるなどの制限は残ったが、不当な圧力に屈しない姿勢を示せたのは良かった。

 一連の出来事は、表現活動をめぐる環境が極めて危うい状態にある現実を浮き彫りにした。引き続き問題の所在を探り、是正に取り組む必要がある。

 騒ぎの発端は、作品を見ることも、制作意図に触れることもないまま、断片情報に基づく批判が開幕直後に寄せられたことだった。河村たかし名古屋市長ら一部の政治家が、同じく表面的な事象だけをとらえて攻撃を加え、火に油を注いだ。

 とどめは文化芸術を守るべき文化庁だ。9月下旬になって、内定していた補助金の不交付を決めるという暴挙に出た。

 申請手続きに不備があったというのが理由だが、菅官房長官らは早々と8月初めの時点で支給の見直しを示唆している。表現そのものに圧力をかけようという意図は明白だ。補助金の審査に関わる外部専門家の意見も聞かず、再検討の経緯を記録した文書もない。行政が本来の道を踏み外し、暴力で芸術を圧殺しようとした勢力に加担した。そう言わざるを得ない。

 宮田亮平長官は東京芸術大学の前学長だ。事態の深刻さは認識しているはずだが、部下が不交付を決め、自分は関与していないと釈明する。本当であれば組織の長としての資質を欠く。文部科学相も首相も「われ関せず」を決めこんでいる。

 全てがあいまいなまま、補助打ち切りという事実だけが残ればどうなるか。「議論を呼んだり、政府ににらまれたりする恐れのある活動は控えよう」という萎縮が広がるのは必至だ。

 美術、文学、音楽を問わず、既成の概念や価値観をゆさぶる作品が、次の時代を切り開き、自由で多様な方向に世界を広げる原動力になってきた。それが否定されてしまえば、社会は閉塞状況に陥るばかりだ。

 慰安婦に着想を得た少女像や昭和天皇を含む肖像などが燃える映像作品に対して、「日本へのヘイト」との批判も飛び出した。これもあきれる話だ。

 表現の自由への過度な制約にならぬよう、規制すべきヘイト行為とは何か、社会全体で議論を重ね、定義づけ、一線を引いてきた。明らかにそれに当たらない作品をヘイトと指弾することは、蓄積を無視し、自分が気に食わないから取り締まれと言うだけの暴論でしかない。

 ゆるがせにできない課題が数多く残されている。閉幕で一件落着ということにはできない。
 

朝日新聞社説 2019年10月16日
https://www.asahi.com/articles/DA3S14218963.html?iref=comtop_shasetsu_01
http://www.asyura2.com/19/senkyo266/msg/559.html

[政治・選挙・NHK266] 愛知の企画展閉幕 朝日はヘイトを許すのか
 
 ヘイト(憎悪)表現が罷り通った愛知の企画展が終わった。

 国際芸術祭「あいちトリエンナーレ2019」の企画展「表現の不自由展・その後」である。問題のある作品が展示されたのは異様だった。

 昭和天皇の写真を何度も燃やし、最後にその灰を土足で踏みにじる動画がそうである。昭和天皇とみられる人物の顔が剥落した銅版画の題は「焼かれるべき絵」で、解説には戦争責任を「日本人一般に広げる意味合いがある」とあった。

 韓国が日本非難に用いる、「慰安婦像」として知られる少女像も並んだ。英文の解説には、史実でない「性奴隷制」とあった。

 「時代の肖像−絶滅危惧種 idiot JAPONICA 円墳−」という作品は、出征兵士への寄せ書きのある日の丸が貼り付けられていた。作品名の英文などを直訳すれば「馬鹿な(間抜けな)日本趣味の円(まる)い墓」だ。

 「日本国の象徴であり日本国民統合の象徴」である天皇や日本人へのヘイト表現といえる。だから多くの人々があきれ、憤った。

 一方で、憲法が第21条で保障する「表現の自由」を守れという主張があった。だがヘイト表現は、国民は自由と権利を濫用してはならず、「常に公共の福祉のためにこれを利用する責任を負ふ」とする憲法第12条と両立しない。


 朝日新聞は16日付社説で「『日本へのヘイト』との批判」を「あきれる話だ」と難じた。ヘイト行為に目をつむる朝日の主張には心底あきれる。社説は「規制すべきヘイト行為」は「社会全体で議論を重ね、定義づけ、一線を引いてきた」とし、「それに当たらない作品をヘイトと指弾する」のは「暴論でしかない」とした。

 どこに一線を引くかこの社説は語っていない。平成28年成立のヘイトスピーチ(憎悪表現)解消法に依拠するつもりなら乱暴な話で説得力はない。同法は、日本以外の出身者やその子孫への不当な差別的言動の解消を目指している。その解消自体は当然としても、同法には日本人を守るべき対象としていない大きな欠陥がある。

 そもそも法律以前の話でもある。左右どちらの陣営であれ、誰が対象であれ、ヘイト行為は「表現の自由」に含まれず、許されない。この当然の常識を弁えず、天皇や日本人へのヘイト行為を認める二重基準は認められない。
 
 
産経新聞社説 2019.10.18
https://www.sankei.com/column/news/191018/clm1910180002-n1.html
http://www.asyura2.com/19/senkyo266/msg/560.html

[政治・選挙・NHK266] 日本共産党は国会開会式も欠席すべきだ /「即位の礼」はなぜ憲法違反なのか (アリの一言) 

■■日本共産党は国会開会式も欠席すべきだ■■

 日本共産党の志位和夫委員長は10日の記者会見で、22日行われる徳仁天皇の「即位の礼」について、「日本国憲法を厳格に守る立場から出席しない」(11日付しんぶん赤旗)と述べました。当然のこととはいえ、評価される言明です。
 しかし、この表明には2つの疑問が残ります。

 1つは、今回の欠席表明が、「天皇の代替わりに際して行われる一連の儀式への立場について問われ…」(同「赤旗」)と、記者の質問に答えたものだということです。前日の9日にも小池晃書記局長が記者会見で同様の見解を示しましたが、それも、「一連の儀式への態度について問われ…」(10日付しんぶん赤旗)と、同じく質問に答えたものでした。

 質問されなかったら言わないつもりだったのでしょうか? なぜ自ら記者会見を開き、声明文を配布して「反対」を表明しなかったのでしょう。自分が「欠席」するだけでなく、「即位の礼は違憲だ。中止せよ」と要求しなかったのでしょうか。 

 「欠席」表明も、機関紙「赤旗」での扱いは、志位氏の場合2面3段、小池氏にいたっては2面2段(最下段)という地味な扱いです。「欠席」は表明したものの、その姿勢には大きな疑問を禁じ得ません。

 第2に、志位氏は「即位の礼」について、「日本国憲法の国民主権の原則と政教分離の原則とおよそ相いれない、こういう儀式のやりかたは改めるべきだと繰り返し求めたにもかかわらず、見直されることはなかった」(同前)と述べて「欠席」を表明しました。
 それならば当然「欠席」しなければならない儀式がもう1つあるのではありませんか。天皇が臨席して「お言葉」なるものを読み上げる国会開会式(写真中)です。

 志位氏は今年6月の「赤旗」インタビューでこう述べていました。
 「国会の開会式についていうと…国民主権の日本国憲法のもとで、国権の最高機関とされている国会の開会式が、戦前の『開院式』の形式をそのまま踏襲するものとなっていることは、大きな問題です」(2019年6月4日付しんぶん「赤旗」)

 しかし、共産党は2016年1月の国会から、従来の方針を転換して開会式に出席し始めました。志位氏自身出席し、天皇に頭を下げました(写真右)。
 この点について志位氏は、「開会式での天皇の発言に変化が見られ、この三十数年来は、儀礼的・形式的なものとなっています。天皇の発言の内容には憲法からの逸脱は見られなくなり、儀式的・形式的な発言が慣例として定着したと判断し、開会式に出席することにしました」(同前)と述べています。

 これはきわめて奇異な発言です。百歩譲って「天皇の発言の内容」に憲法からの逸脱がないとしても、「国権の最高機関」である国会で、「戦前の開院式の形式をそのまま踏襲」して「お言葉」なるものを読み上げる、まさにその「儀式・形式」こそが「憲法からの逸脱」に他ならないのではありませんか。

 現に志位氏は先の出席の弁明に続いて、「開会式の形式が戦前をそのまま踏襲するものとなっているという問題点は、現在にいたるもなんら改善されておらず、引き続き抜本的な改革を求めていく」と述べています。「戦前をそのまま踏襲」とは現在の憲法からの逸脱、すなわち違憲だということです。共産党は自ら違憲と批判する儀式に出席しているのです。

 それは重大な誤りです。そして、今回の「即位の礼」欠席表明とも矛盾していることは明らかです。
 共産党は「即位の礼」に続いて、国会開会式も欠席するよう方針を再転換すべきです。

2019年10月19日
https://blog.goo.ne.jp/satoru-kihara/e/0ec9d49a6628f8808739c10eabcded81
 

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■■「即位の礼」はなぜ憲法違反なのか■■

 政府は徳仁天皇の「即位の礼」(10月22日)を「「国民こぞってお祝いしましょう」(政府広報)などと新聞広告しています。とんでもないことです。なぜなら、「即位の礼」は明白な憲法違反だからです。天皇制に賛成か反対かという問題ではありません。
 憲法違反の儀式を「国の行事」とし、公費(総額163億円、前回=1990年11月比30%増)を支出し、国民に「祝意」を強要する。こんな暴挙は絶対に許せません。

「即位の礼」はなぜ憲法違反なのでしょうか。

★政教分離違反

「即位礼正殿の儀」は明白な宗教(皇室神道)儀式です。
 天皇が上り立つ「高御座(たかみくら)」(写真左)は、皇祖神・天照大神の座といわれ、天孫降臨神話に由来しています。天皇の横には、天照大神が授けたとされる「三種の神器」の剣と璽(勾玉)が置かれます(写真中)。天皇は「三種の神器」とともに「高御座」に上ることによって天照につながり、そこで初めて「万世一系」の天皇になるのです。

 この宗教儀式を「国の行事」とし公金を支出することが、憲法の政教分離原則(第20条、89条)に反することは明らかです。1995年の大阪高裁判決は、「違憲の疑いが否定できない」と断じました。

★国民主権違反

 「正殿の儀」では、天皇が高御座から即位を宣言する「お言葉」なるものを読み上げ、それを受けて首相が「国民を代表して」祝辞を述べ、さらに首相の音頭で参列者一同が「万歳三唱」します。首相は前回から中庭ではなく同じ正殿に立つようになりましたが、それでも天皇からは約1・5b低い位置になります(写真右)。
 天皇と首相ら三権の長の立ち位置の上下関係といい、「お言葉」と「祝辞」の関係といい、この形式が国民主権に反することは明白です。

★マニュアルは帝国憲法の「登極令」

 政府は「即位の礼」は皇室典範に明記されているから国事行為にするのは当然だといいます。確かに皇室典範には「皇位の継承があったときは、即位の礼を行う」(第24条)とあります。しかし典範にあるのはそれだけで、どのような内容・形式にするか規定はありません。では今回の「即位の礼」は何に基づいて行われるのでしょうか。

 安倍政権は「前回を踏襲する」としています。前回はどうしたか。旧皇室典範の「登極令」に基づいて行われたのです。「登極令」は大日本帝国憲法と一体の旧皇室典範の実施要項で、その基本は天皇主権です。そのため敗戦後、旧皇室典範とともに廃止されました。
 その「登極令」が「即位の礼」の実施マニュアルなのです。天皇主権・帝国憲法の再現と言わねばなりません。

 以上の3点は、「即位の礼」の違憲性として比較的知られていますが、それに加えて、より根本的な問題に目を向ける必要があります。それは「象徴天皇制」の根幹ともいえる憲法第1条違反だということです。

★憲法第1条違反

 「天皇は、日本国の象徴であり日本国民統合の象徴であって、この地位は主権の存する日本国民の総意に基づく」。これが第1条です。天皇が天皇の「地位」につくのは(つけるのは)、「主権の存する日本国民」の意思に基づくという規定です。

 ところが「正殿の儀」は、「高御座」「三種の神器」で明らかなように、天照大神によって新たな天皇が誕生(即位)するという儀式です。それが「即位礼正殿の儀」の本質です。天皇の即位から「高御座」「三種の神器」を切り離すことはできません。
 すなわち天皇は、「国民の総意」ではなく、天照大神によって天皇の「地位」につくのです。憲法第1条違反は明白です。これは現行憲法の「象徴天皇制」の根本的矛盾(問題点)です。

 この矛盾を解消する方法は2つしかありません。憲法を変えて天皇を元首にする(帝国憲法への復帰)か、憲法から天皇制を削除するかです。どちらが主権在民にそっているかは言うまでもないでしょう。

2019年10月17日
https://blog.goo.ne.jp/satoru-kihara/e/5e8b7d1dac64a626add6ec4c532ff8ca
http://www.asyura2.com/19/senkyo266/msg/583.html

[政治・選挙・NHK266] 日米貿易協議の「最終合意」をめぐる数々の疑問 (朝日新聞社 論座) 
 
日米貿易協議の「最終合意」をめぐる数々の疑問
日米政府が正式に署名した日米貿易協定。国会での本格論戦を前に中身を考える

武田淳 伊藤忠総研チーフエコノミスト
論座 2019年10月19日


https://image.chess443.net/S2010/upload/2019101700011_2.jpg
日米貿易協定の署名式で演説するトランプ米大統領=2019年10月7日、ワシントン

 今月7日、ホワイトハウスで杉山晋輔駐米大使とライトハイザーUSTR(米通商代表部)代表が日米貿易協定に正式に署名した。内容は、9月25日にニューヨークで行われた日米首脳会談で「最終合意」されたものと基本的に同じようである。

 すなわち、日本は豚肉や牛肉、オレンジ、チーズ、ワインなどの農産品の関税をTPPの範囲内で引き下げたが、コメやバター、木材、水産品は対象外とした。一方、米国は、しょうゆや切り花などの農産品のほか、工業製品では工具や楽器、自転車などの関税を撤廃ないしは引き下げることになる。ただ、日本が強く希望していた自動車および部品に対する関税は対象外とされた。

 今後、日米両国はそれぞれ法的な手続きを進め、来年初の発効を目指すとしているが、米国は大統領権限で発効が可能で議会承認は不要につき、発効に向けてのハードルは日本側の手続きのみと言って良いだろう。

■■最大の論点は合意内容の評価■■

 承認案は既に今月15日に閣議決定され、国会に提出されているが、一部の報道によると24日からの審議開始が予定されているようである。今後の国会における議論の行方が注目される。

 その中で最大の論点となるのは、もちろんのこと、今回の合意内容の評価であろう。

 野党は総じて、日本は米国に譲歩し過ぎであり、決して日米が「WIN-WIN」の結果とはなっていない、として批判を強めている。今回の合意を「最終」と表現することにも違和感があり、その点については後に詳述するとして、まずは本当に「WIN-WIN」と言えるのかどうか、合意内容を米国、日本、それぞれの視点から確認していきたい。

■■米国にとっては間違いなく勝利■■

 今回の合意内容を米国側から見た場合、日本が譲歩し過ぎだという指摘があるように、少なくともトランプ政権にとっては得るものが大きいことは間違いない。

 米国は、トランプ大統領が自ら公約として掲げたTPP離脱により、TPP加盟国との取引において関税など条件面で不利になっていた。特に農産品は、TPP加盟国中で最大の市場となる日本向け輸出において、オーストラリアやニュージーランド、カナダなどにシェアを奪われる恐れがあり、再選を目指すトランプ大統領にとって重要な米国中西部の主力生産品だけに、看過できない状況であった。

 代表的な例を挙げると、日本の牛肉の輸入量は、2019年上半期(1〜6月)に米国からは前年同期比5%程度の増加にとどまっているが、カナダは93%、ニュージーランドは46%もの大幅増となっている。それでも米国からの輸入量はカナダの6.7倍、ニュージーランドの11.5倍と圧倒的な規模の違いはあるが、増加幅に着目すれば、米国は前年同期比で6000トン弱の増加に対して、カナダは8000トン強と米国を凌駕しており、ニュージーランドでも3000トン強と半分に達しているため、米国にとっては警戒すべき動きと言える。

 農産品全体で見れば、今回の合意によって米国から日本への輸出141億ドル(約1兆5,200億円、2018年)のうち72億ドル(約7800億円)相当で関税が引き下げられ、そのうち13億ドル相当は関税が撤廃される。

 これまで、全体の約4割にあたる52億ドルが既に非関税であったが、今回の合意分を加えると、日本への農産品輸出全体の半分近く(65億ドル)が非関税となり、税率引き下げを含めると9割弱が関税面での恩恵を受けることになる。TPPでの劣勢を挽回するには十分な成果であろう。

■■TPP離脱のデメリットを取り返しただけだが……■■

 米国は、トランプ大統領就任後、NAFTA(北米自由貿易協定)の見直しや中国との貿易協議を進めてきたが、NAFTAは昨年11月にその後継となるUSMCA(米国・メキシコ・カナダ協定)に署名したもののいまだ各国の批准待ち。米中の貿易協議も紆余曲折を経て、先日、ようやく合意に向けて一歩前進した程度である。

 欧州との間では、ボーイング、エアバスへの補助金を巡り対立。米国はWTO(世界貿易機関)の承認を得て、エアバスへ補助金を出したEUに最大で年間75億ドル(約8,000億円)の報復関税を検討するなど、対立はむしろ激しさを増す方向にある。

 そうした状況下、トランプ政権にとって、貿易交渉で具体的成果を初めて得たことは大きな収穫である。もともとTPPを離脱したことで生じたデメリットを取り返しただけ、ある意味で自作自演の成果ではあるが、本人も言う通りトランプ政権にとっては大きな勝利だと評価できよう。

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日米貿易協定の署名を終えた杉山晋輔駐米大使(前列左)とライトハイザー米通商代表(同中央)、それを見守るトランプ米大統領(同右)=2019年10月7日、ワシントン

■■日本の当初の目的に照らしてみると■■

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日米貿易協定をめぐるライトハイザー米通商代表との会談を終え、取材に応じる茂木敏充外相=2019年9月23日、ニューヨーク

 日本にとってはどうだろうか。

 先述の通り、農産品や工業製品の一部で関税を撤廃・引き下げられるわけであり、勝ち取ったものは確かにある。しかしながら、それが十分な成果だったのかどうか、何らかの基準で測る必要があろう。

 一つの基準となり得るのは、当初の目標である。交渉の初期段階において、日本政府からは、トランプ政権は具体的な成果を急いでいるため強気な交渉が可能であり、農産品関税についてTPPの範囲内とすることのほか、現在、乗用車に2.5%、トラックに25%、関連部品に2.5%課せられている関税の撤廃も目指せるのではないか、という声が聞かれた。

 しかしながら、実際には後者はかなわず、協定文章の別紙に「さらなる交渉の対象となる」と記されるにとどまった。これは、継続協議とするかもしれないという程度であり、可能性がなくなったわけではないものの、勝算があるわけでもない。当初の目標に照らせば、勝利とは言い難いだろう。

■■不安を残す「現時点で」という表現■■

 自動車に関しては、トランプ大統領の伝家の宝刀と化しつつある「米国通商拡大法232条」の適用を回避できたことを勝利ととらえる向きもある。補足すると、同法は米国が安全保障上の問題があると判断する輸入に対して、高関税などによる制限を一方的に設けられるとするものであり、この法律に基づいてトランプ大統領は、自動車及び部品に最大25%の追加関税を課すかどうかの検討を今年2月に始めた。

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Raggedstone/shutterstock.com

 ちなみに、その対象は日本だけでなく、全世界である。当初は実施するかどうかを5月17日までに決めるとしていたが、期限を180日延期し、現時点では11月13日までに実施を判断することになっている。

 仮にこの追加関税が実施されれば、米国を最大の輸出先とする日本の自動車産業にとって大きな打撃になるたけでなく、マクロ的にもその影響は無視できない。

 日本の対米輸出は2018年で15.5兆円、輸出全体の19%を占めたが、そのうち部品を含めた自動車は5.5兆円、対米輸出全体の35%にも上る。この額はGDPの約1%に相当するため、仮に追加関税によって対米自動車輸出が2割落ち込むとすれば、それだけでGDPを0.2%押し下げることになる。

 さらに、原材料調達や設備投資、雇用などを通じた波及効果を加えれば、その下押し圧力は倍増する。もし、米国の追加関税による影響が東京五輪後に見込まれる景気の足踏みと重なれば、日本経済は後退局面入りする可能性も否定できない。

 先日の日米首脳会談における共同声明には、この米国通商拡大法232条に関して、今回の「協定が誠実な履行がなされている間」は「本共同声明の精神に反する行動を取らない」と明記されており、日本政府はこれを232条の適用除外を示すものとしている。

 実際、担当閣僚であるライトハイザーUSTR(米国通商代表部)代表は首脳会談後、「我々もトランプ大統領も、現時点で日本車に追加関税を課すことは考えていない」と話しており、口頭では確認できている。とはいえ、今回署名された文章には記されておらず、「現時点で」という表現とともに、一抹の不安を残す。諸手を挙げての勝利とはとても言えない状況である。

■■計量的にみた日本経済への影響■■

 少し視点を変え、今回の日米貿易協定の日本経済に対する影響を、やや計量的に考えてみよう。日本による農産品の輸入関税引き下げは、その品目の米国からの輸入を拡大させ、競合する国内農産品の生産を抑制させることで、日本経済に悪影響を与える。

 対象となる品目の輸入規模は前述の通り7800億円程度、数%から数十%の関税引き下げは一般的に同程度の割合の輸入増につながるため、同額の生産を抑制することになる。仮に10%とすれば約780億円、GDPの0.02%弱の押し下げになる。

 一方で、今回の米国による農産品や工業製品の関税引き下げは、これらの製品の米国向け輸出を拡大させることで日本経済にプラスの影響を与える。その対象範囲は、公表されている品目分類の数字を足し上げても多くて9800億円程度。実際にはその一部であり、関税の引き下げ幅も数%にとどまっている。

 とすれば、仮に平均3%引き下げられたとしても輸出は300億円未満しか増えず、農産品輸入の拡大によるマイナスの影響を埋め合わせるほどではない。そのため、日米双方の関税引き下げによる影響は、米国の方に利があると言えそうである。

 ただ、農産品価格の低下は、消費者の購買力を高めることから、新たな需要を生み出す可能性はある。政府は農業基盤強化のための財政措置を検討しており、今年度補正予算で具体化されるとみられる。それでも、関税引き下げの対象となる農産品の生産者にとって悪影響が勝ることになろうが、日本経済全体としてみれば景気下押し圧力は限定的なものにとどまろう。

■■日米の国力差を踏まえれば善戦か■■

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Ink Drop/shutterstock.com

 こうしてみると、今回の合意は、日本にも多少なりともメリットがあるという意味では「WIN-WIN」かもしれないが、日本が当初目指していた内容からみても、米国の自動車に対する追加関税のリスクを回避できたかどうかという観点からも、日本経済への影響という意味からも、米国の方に利があったという評価が妥当であろう。

 さらに、今回の合意は、日本政府が当初から説明していた通り、「物品貿易協定(TAG)」の範囲に限定したものである。今後は、サービス分野や非関税障壁にテーマの中心を移して協議が続けられる予定であり、これまで封印してきた為替相場にも協議の範囲が広がる可能性も否定できない。

 いずれにしても、そうなればまさに米国が当初から要求していたFTA交渉であり、確かに物品協定については今回が「最終」合意かもしれないが、交渉自体はむしろこれから本格化するという見方もできる。

 また、今後の協議において、日本側は自動車関税の撤廃を求める方針のようであるが、すでに一定の成果を得た米国は、自動車への追加関税適用という強力な武器を振りかざしながら、サービス分野の市場開放や薬価制度、自動車の安全基準などを標的とした非関税障壁の是正を求めるとみられる。日本にとっては厳しい戦いを強いられること必定であろう。

 だが、そもそも経済力を含めた総合的な日米の国力の差を踏まえると、対等な結果を勝利条件にすること自体に無理があるのかもしれない。そう考えると、今回はTPPの範囲内という要求が通ったばかりか、農業の中核であるコメは守ることができ、米国からも多少の関税引き下げを勝ち取り、当面とはいえ自動車の追加関税導入を回避したことを、日本の善戦と評価するべきだろう。そうした現実的な判断のもと、今回、農産品が米国の標的となった根本的な原因である日米農業の競争力格差に、少しばかり目を向けた方が建設的とも言える。

https://webronza.asahi.com/business/articles/2019101700011.html
http://www.asyura2.com/19/senkyo266/msg/584.html

[政治・選挙・NHK266] 外国人の不就学 学ぶ権利は平等だ 

 学齢期なのに、小中学校に通えない外国籍の子どもが国内に2万人近くいる可能性がある。文部科学省の初の調査で分かった。少子高齢化対策で政府が外国人労働者の受け入れを拡大し、外国籍の子は確実に増える。子どもが学ぶ権利は国籍に関係なく平等だ。国が主導し、自治体と共に早急に対策を講じるべきだ。

 文科省が「不就学」の可能性があるとした外国籍の子は1万9654人。この年代は住民基本台帳には約12万人登録されており、16%を占める。このうち、就学していないことが明らかなのは千人で、残りは状況の把握すらできていないといい、その事実が事態の深刻さをうかがわせる。実際には住民登録していない子どももいるだろう。

 日本も批准した国際人権規約は小中学校の教育を「義務的なもの」とし、「すべての者」に無償とするとしている。ただ、憲法が定める義務教育の対象は「国民」。外国人は対象外で、法律上は就学させる義務がないことが問題の背景にある。

 調査から浮かぶのは、外国人への就学案内が不親切という実情だ。多くの市区町村が、保護者の希望があれば入学させるという待ちの姿勢で、積極的に働き掛けていない。

 住民登録時に全員に就学案内をする自治体は半数。義務教育年齢の子どもを登録する「学齢簿」に準じる書類を外国人全員に作る所も半数に満たない。小学校新入学の年齢の子がいる家庭に案内を送るのは63%、中学校は48%にとどまる。多くが日本語で記しており、理解が危ぶまれる。

 驚くのは、就学状況が不明な場合の対応について、65%もの自治体が「特に実施していない」と答えたことだ。国は「通知などで対応を促してきた」というが、責任を押し付け合って済む問題ではない。文科省は今年に入ってようやく実態把握や対策を検討し始めたが、遅きに失した感がある。

 外国人が住むのは東京都、大阪府、神奈川県、愛知県など都市部が多い。人数が多い自治体は把握が不十分な一方、国際結婚などで外国人が散在する地域は受け入れの経験が少なく、人手や予算もないという課題がある。

 国がこの問題を自治体任せにしてきたために地域ごとの差が大きい。外国人労働者の多い浜松市は積極的に家庭への訪問を繰り返してきた。文科省はこうした先進事例を一刻も早く全国に紹介し、きめ細かな対応を促すべきだ。さらには制度を整え、自治体の財政支援に力を入れる必要がある。

 文科省の別の調査では、日本語指導が必要な高校生の中退率は平均の7倍以上。卒業しても就職者の40%が非正規労働で、進学も就職もしない比率も高い。日本語が不自由なまま働いたり、きょうだいの世話をしたりする子どもの将来が心配だ。

 制度からこぼれ落ちた子どもたちが犠牲になっていいわけがない。読み書きもままならずに大人になれば、貧困状態に陥る恐れが大きい。教育を受けて就職し、生活が安定すれば、結局は日本社会全体が利益を得る。

 4月の改正入管難民法施行による新たな在留資格創設で、外国人労働者とその子どもは一層の増加が見込まれる。門戸を開いた以上、国として責任を持つべきだ。こんな恥ずかしい状況を放置したままでは安倍政権は国際社会に顔向けできまい。直ちに対策を実行する必要がある。(共同通信・池谷孝司)


佐賀新聞社説 2019年10月19日
https://www.saga-s.co.jp/articles/-/443320
http://www.asyura2.com/19/senkyo266/msg/585.html

[政治・選挙・NHK266] 日韓に生まれ始めた「潮目の変化」 (朝日新聞社 論座) 
 
日韓に生まれ始めた「潮目の変化」
李首相訪日で日韓首脳会談開催への道が開けるか

牧野愛博 朝日新聞編集委員(朝鮮半島・日米関係担当)
論座 2019年10月18日


 最悪の状態に陥っていた日韓関係に変化の兆しが出てきた。契機は文在寅韓国大統領の側近だっだ国法相の辞任と政策の行き詰まりだ。

 関係者は、一番望ましいシナリオとして、李洛淵首相の訪日を契機に対話の雰囲気を盛り上げた後、11月22日に失効する期限が迫る日韓の軍事情報包括保護協定(GSOMIA)延長と、徴用工や輸出管理規制などを含む包括的な日韓協議の開始での合意を期待している。

 うまくいくかどうかは、お互いの政治判断にかかっており、目が離せない展開となりそうだ。

■■なぜ潮目が変わり始めたのか■■

 文在寅大統領は14日、台風19号の被害を受けた日本の安倍晋三首相に対し、慰労と哀悼の電報を送った。

 韓国大統領府によれば、文氏は「被害を受けた多くの日本国民が一日も早く平穏な日常を取り戻すことができるよう、心から祈っている」と語った。これは、韓国の日本専門家の間で、「両首脳間の不信感を取り除くための対話を呼びかけるメッセージだった」と受け止められている。

 日韓メディアによれば、文氏は、22日の天皇即位式に出席するために訪日する李洛淵首相に安倍氏に対する親書を託すという。朝鮮日報は、李氏が安倍氏と会談する際、11月の日韓首脳会談開催を打診する可能性があるとも報じた。日韓関係筋の1人は「どのような展開になるのか、予測が難しいが、文政権の対日政策に変化の兆しが出てきたことは間違いない」と語る。

 日本に対し、強硬一辺倒だった文在寅政権がなぜ、対話を模索するようになったのだろうか。

 大きな契機は10月3日にソウル中心部の光化門で行われた大規模な「反文在寅集会」と、同月14日の゙国法相の辞任劇だったという。

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ソウルの中心部、光化門広場で保守系野党の自由韓国党などが開いだ国法相の解任を要求する集会。「文在寅政権糾弾」のスローガンが叫ばれた=2019年10月3日、東亜日報提供

 保守派が中心となった集会には、40万人以上が参加したという。保守派の一部は過去、「太極旗集会」と呼ばれる同様の集会を週末ごとに開いてきたが、朴槿恵前大統領の釈放も同時に呼びかけてきたため、保守派の広い支持を得られずにいた。ところが、3日の集会は「反文在寅」だけを旗印に結集したため、保守系の反朴槿恵派も取り込み、一気に規模を拡大させることに成功した。

 文氏と側近たちは、この集会を目の当たりにして危機感を募らせたという。わずか3年前、自分たちが同じように光化門前に座り込み、朴槿恵政権を崩壊に追い込んだからだ。

 そして、それから11日後、゙国法相が自身や家族を巡る様々な疑惑の責任を取って辞任した。゙氏は文氏の最側近であり、場合によっては次期大統領選の有力候補にもなり得ると言われた大物だった。同時に、゙氏は結果として文政権の対日強硬政策を演出してきた張本人でもあった。

 ゙氏は、自身のフェイスブックに日本企業に韓国人元徴用工らへの賠償を命じた大法院(最高裁)判決について「否定や非難、歪曲する人は親日派(売国奴の意味)と呼ぶべきだ」と投稿してきた。自身の政治姿勢を、過去の抗日独立運動などに重ね合わせる発言も行った。

 関係筋の1人によれば、韓国大統領府内でも、こうしだ氏の言動の背景について、自身を進歩(革新系)陣営の象徴に置き換え、疑惑を覆い隠す思惑があったのではないかという見方が広がっているという。

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法相辞任を表明した後、法務省の庁舎を出る゙国氏=2019年10月14日、東亜日報提供

 文氏は、゙氏を巡る疑惑が拡大する一方だったため、゙氏を辞任させる意向をほぼ固めていたが、10月3日の集会が決定打となったという。

 これまで、文氏が゙氏を切り捨てても、逆に難局を乗り切るために、さらに日本叩きを加速させるという見方も出ていた。しかし、゙氏が「反日・抗日」の象徴となっていたため、逆に日本との和解を求める声が力を得ているようだ。

 韓国の今年の経済成長率が2%を切る見通しになるなど、経済状況が悪化していることに加え、南北政策を含む外交分野で成果が出ていないことも影響したとみられる。

■■今後の展開は?■■

 24日に予定される安倍晋三首相と李洛淵首相の会談は15分程度となる見通しだ。

 極めて短時間の会談のため、懸案を解決する展開にはなりそうもないが、親書に盛り込まれた文在寅氏のメッセージ次第では、日韓首脳会談開催への道が開ける可能性がある。

 それだけでも大きな政治的成果と言える。安倍氏と文氏の個人的な信頼関係は完全に破壊された状況が続いていたからだ。

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APECビジネス諮問委員会に臨む安倍首相。右は韓国の文在寅大統領=2018年11月17日、ポートモレスビー

 首相官邸周辺によれば、安倍氏の文在寅氏に対する感情は今年6月ごろから極度に悪化した。韓国側が大阪で開かれた主要20カ国・地域首脳会議(G20)の際に、日韓首脳会談が開けない責任を日本側に押しつけるような態度を取ったことが大きく影響し、半導体3品目の韓国向け輸出管理規制措置の強化を前倒しする結果につながった。

 安倍氏の文在寅氏に対する感情は極度に悪化したままだが、16日の参院予算委員会で、日韓関係について「対話は常に続けなければならず、機会を閉ざす考えはない」とも語った。上述した、文氏の台風19号に関する慰労電などのメッセージが多少の効果を上げているのかもしれない。

 今後の焦点は、安倍氏が「国際法違反」と位置づける、日本企業に損害賠償を求めた徴用工訴訟判決への扱いだろう。

 日本は日本企業への負担を一切認めない考えで、韓国内で有力視されている、韓国側の政府・企業と日本企業が基金を作るとした「1+1+α」案には応じない方針だ。韓国内には、該当する日本企業への徴税を減免したり、別途補助金を支給したりするなどして、事実上の「負担」を避ける案も浮上しているが、日本側には、過去のアジア女性基金や慰安婦財団などが失敗に終わった経緯もあり、基金を設ける構想自体への拒否感は強い。

 韓国政府がこの問題で無理に解決策を求めず、「対話を続ける限りは現状を維持する」として、年末にも予想される日本企業の韓国内資産の現金化を事実上凍結する道を選べば、日本側は受け入れるかもしれない。しかし、日本政府内には「単に協議をするだけでは信用できない。日韓請求権協定を順守するという前提条件をつけるべきだ」という指摘も出ている。

 しかし、文在寅大統領はこれまで、司法判断を尊重する考えを繰り返し強調してきた。元徴用工らを救済したい考えを強調すると同時に、日本の朝鮮半島統治がなければ、こうした問題は発生しなかったとも指摘してきた。上述したような結論は、文氏に政治ポリシーの変更を迫ることになる。

 一方、米国はGSOMIAの延長を韓国側に強く迫っている。南北外交がうまくいっていないなか、米韓同盟を維持する必要性は高まる一方だが、米側の要求に屈することは、米韓同盟に頼りすぎない外交を唱えてきた文氏として望ましい結果ではないだろう。

 韓国はGSOMIA破棄を決めた理由として、日本も輸出管理規制措置の強化を決めた理由に挙げた「信頼関係の破壊」を挙げた。輸出管理規制措置を巡る問題については対話を始めるとしつつ、GSOMIAは延長するというのでは、筋が通らない。事実、韓国政府はこれまで「日本が輸出管理規制措置を撤回すれば、GSOMIA延長も検討できる」という立場を取ってきた。

■■更なる知恵と工夫、お互いの歩み寄りが必要■■

 以上を考えた場合、「潮目の変化」は、不信感を募らせてきた日韓両首脳のうち、韓国側だけが姿勢の変化を見せ始めたという段階に過ぎない。

 この変化が今後、日本側の対話に向けた積極的な姿勢を引き出せるかどうかは、李洛淵首相が24日に安倍首相に渡す、文大統領のメッセージの内容にかかっている。

 そして、幸い、日韓両首脳が対話することで合意に至ったとしても、徴用工判決や輸出規制、日韓GSOMIAという複雑に絡み合った問題を解決するには、更なる知恵と工夫、お互いの歩み寄りが必要になる。

 さらに、韓国は来年4月に総選挙を控える。日本も年明けに衆院解散を予測する声がある。お互いに世論に気を取られ、簡単に譲歩できない政治状況に陥るかもしれない。最近低落傾向だった文在寅氏の支持率が今後、反転して安定的な政治指導力を発揮できるかどうかも、今しばらくの注視が必要だ。

 問題は政治判断であって、政策判断ではない。合理的・論理的な展開になるとは限らない。

 これから年末にかけ、日韓関係の改善に更なる進展があることを祈りたい。

https://webronza.asahi.com/politics/articles/2019101800007.html
http://www.asyura2.com/19/senkyo266/msg/586.html

[政治・選挙・NHK266] 陰謀論にだまされるな 

 ベルリンの壁が崩壊し来月、三十年を迎えます。冷戦による東西対立がなくなり、平和が訪れると期待しましたが、世界は新たな分断に苦しんでいます。

 壁崩壊翌年の一九九〇年に東西ドイツが統一、さらに九一年末にはソ連が崩壊しました。東欧諸国も次々と自由主義化し、欧州連合(EU)や米欧の軍事同盟、北大西洋条約機構(NATO)に加盟、世界は一枚岩になったかのようでした。しかし、そんな簡単な話ではありませんでした。

 ドイツのメルケル首相が六月から七月にかけ、来賓歓迎式典などの際、何度か、全身が震える症状に見舞われました。健康についての懸念が広がりましたが、しばらくしてネット上で、症状の“理由”が解き明かされました。

 いわく、「メルケル氏は、トカゲのような姿の宇宙人に繰られている。だから人のためにならない政治をする。宇宙からコントロール用に送られている信号に支障が生じ、震えが出た」。

 一種の陰謀論です。難民への寛容政策を進めるメルケル氏への悪意に満ちていますが、荒唐無稽な笑い話だとすぐに分かります。

 しかし、笑い話では済まない、深刻な結末をもたらした陰謀論も相次いでいます。

 今年三月、ニュージーランド・クライストチャーチのモスクで五十一人を射殺した犯人はネット上に投稿した声明で移民を「侵略者」と呼び、「白人が非白人に意図的に置き換えられている」などと犯行の動機を説明しました。

 八月、米テキサス州エルパソで銃を乱射し、二十二人を死亡させた犯人も声明で、町の人口の八割を占めるヒスパニック系住民による「侵略への対処だ」と述べていました。

 いずれも具体的な根拠はなく、憎悪(ヘイト)と不安に根差しています。

 かつて、こうした陰謀論を駆使したのがナチスでした。科学的な裏付けのない人種主義に基づいてユダヤ人を「劣等」と断じ、世界支配をもくろんでいるなどとして、絶滅を図りました。

 ソ連に侵攻した独ソ戦は、ナチスによる「世界観戦争」の一面ももっていました。敵とみなしたソ連を絶滅させ、東方にドイツ人の新たな生存圏を確保するというものでした。住民らを大量殺害、捕虜らを虐待しました。独ソ戦でのソ連側死者は約二千七百万人に上ったともいいます(大木毅氏「独ソ戦」、岩波新書)。

 ドイツが共産主義に乗っ取られるという陰謀論で脅威をあおり、先手を打った形です。

 ナチスを繰り返すまいとしてきた戦後ドイツでも、極右らが「欧州の『先住民』であるわれわれを、イスラム教徒や有色人種に入れ替えようと、移民や難民が送り込まれてくる」などと主張するようになりました。

 特に、旧東独地域で声高です。「西洋のイスラム化に反対する」と主張する団体「ペギーダ」が五年ほど前からデモを繰り広げ、欧州各地で相次いだイスラム過激派によるテロで勢いづきました。

 勢いは右派政党「ドイツのための選択肢(AfD)」で政治的に結集されました。二年前の連邦議会(下院)選挙で第三党に躍進。先月の旧東独地域二つの州議会選では第二党になりました。

 今月九日には、反ユダヤ主義者の男(27)が、ハレ市のシナゴーグ(ユダヤ教礼拝堂)付近で銃を乱射、二人が亡くなりました。

 賃金など旧西独地域との経済格差や、既成政治への不満が強まっている背景もあるのでしょう。統一のひずみは今なお、払拭(ふっしょく)されていません。

 今年六月には、比較的、寛容なはずの旧西独地域でも難民保護に関わってきた政治家が極右に射殺され、衝撃が広がりました。

 政治家のプライバシーや政治家へのヘイトはSNSで拡散されていました。ネット社会になって陰謀論はますます猛威を振るうようになっています。

 ネットで個々人の内面にまで入り込む陰謀論による社会の分断は、国単位で対立していた冷戦時代とはまた違った、対処の難しさがあります。

 「トランプ米大統領は悪と戦う救世主」と主張するネット集団「QAnon(キューアノン)」など、大国の指導者周辺からも陰謀論が発信される時代です。

 正確な情報を見極めて、冷静に判断するしかありません。われわれメディアの役割も重要だと自覚しています。

 小さなうそや風評から、暴力にまでエスカレートしかねない陰謀論の「陰謀」に欺かれないよう、自戒したいものです。


中日/東京新聞社説 2019年10月20日
「週のはじめに考える」
https://www.chunichi.co.jp/article/column/editorial/CK2019102002000104.html
https://www.tokyo-np.co.jp/article/column/editorial/CK2019102002000151.html
http://www.asyura2.com/19/senkyo266/msg/593.html

[政治・選挙・NHK266] 自衛隊の中東派遣 無用の危険を招くだけだ 
 
 米国とイランが鋭く対立する中、安倍晋三首相は中東への自衛隊派遣を検討するよう関係閣僚に指示した。軍事的側面が強い自衛隊の艦船派遣に踏み切れば、対話による緊張緩和に力を入れてきた日本政府の外交方針を大きく転換させることになる。

 日本関連タンカーへの攻撃が頻発しているわけでもなく、自衛隊を派遣する必要性がない。中東情勢の安定化に寄与するどころか友好関係にあるイラクを刺激し、自衛隊が不測の事態に巻き込まれるリスクを高めるだけだ。

 日本にとって、中東との関係は原油調達などエネルギー安全保障に関わる死活的な問題だ。中東各国との間に築いてきたパイプを犠牲にすべきではない。自衛隊の派遣は無用の危険を招くだけであり、見合わせるべきだ。

 中東情勢を巡っては、米国がイラン包囲網として、イラン沖のホルムズ海峡の安全確保を目指す有志連合への参加を日本などに要請している。一方のイランも9月の外相会談で「ホルムズ平和追求構想」を日本側に説明し、支持に期待を表明した。

 同盟国の米国、伝統的な友好国のイランとの間で板挟みとなってきた安倍首相が窮余の策で繰り出したのが、米国主導の有志連合には加わらず、独自に艦船を派遣する対応だ。自衛隊の活動はアラビア半島南部での情報収集とし、ホルムズ海峡に近づかないことでイランから敵対視される事態を避けるという。

 しかし、中東情勢は米イランの対立に加え、サウジアラビアの石油施設攻撃、トルコのシリア北部侵攻など急速に悪化する。米国にすり寄る日本政府のその場しのぎの理屈が通用するとは思えない。

 そもそも、専守防衛の自衛隊を中東に派遣する法的根拠に無理がある。

 菅義偉官房長官が説明した防衛省設置法の「調査・研究」を根拠とした派遣は、国会の承認を必要としない。憲法との整合性が問われる重大な判断を国会の審議なしに行うことなど、文民統制の観点からもあってはならない。

 自衛隊の海外活動は1991年に海上自衛隊をペルシャ湾に派遣したのを皮切りに、テロ対策や復興支援などの名目で特別措置法を制定してインド洋やイラクなどに派遣してきた。2016年に集団的自衛権の行使を認めた安全保障関連法を施行し、他国軍の後方支援を目的とした海外派遣も随時可能にした。

 「調査・研究」の名目でひとたび派遣に踏み切れば、米国のさらなる要求に従って日本の軍事的な関与が拡大していくことが懸念される。米国とイランの対立が戦闘に発展すれば、自衛隊も巻き込まれていく。政府は自衛隊員を戦地へ近づけ、危険にさらすのか。隊員の安全という観点からも許されない。

 政権の意向で際限なく広がる自衛隊の海外活動に歯止めをかける議論が必要だ。
 
 
琉球新報社説 2019年10月20日
https://ryukyushimpo.jp/editorial/entry-1011359.html
http://www.asyura2.com/19/senkyo266/msg/594.html

[政治・選挙・NHK266] 芸術祭閉幕 課題多く検証が不可欠 
 
 国際芸術祭「あいちトリエンナーレ」が閉幕した。

 作品に抗議が殺到し、開幕3日で異例の中止に追い込まれた企画展「表現の不自由展・その後」は最終盤で復活した。

 「表現の自由」への圧力に屈したまま終わることは避けられた。

 ただ、一連の混乱は、表現の自由が置かれた危うい状況を国内外に知らしめることになった。

 意に沿わない表現を力ずくで封じる動きを、政治家や行政は明確に否定せず、むしろ追認した。

 特に文化庁の補助金不交付は、憲法の禁じる検閲と同等の効果をもちかねず、禍根を残すだろう。

 これで終わらせてはならない。課題を掘り下げ、表現の自由を後退させない取り組みを進めたい。

 企画展は公の場から排除された表現を集め、議論喚起を狙った。

 だが、元従軍慰安婦を象徴する少女像をはじめ、作品の表面的、断片的な情報がSNSで広がり、「問答無用」の批判が集中した。

 企画展の中止を求めた河村たかし名古屋市長ら一部の政治家の言動が、これをあおる結果となったことは、見識が問われよう。

 文化芸術を守るはずの文化庁も、その任を果たさなかった。

 補助金不交付の決定に至る経緯には大いに疑義がある。

 「手続き上の不備」を理由に、採択にあたって専門家らを交えずに決め、議事録もないという。

 開幕直後、菅義偉官房長官が交付の是非の検討に言及しており、結論ありきとの疑いは残る。

 補助金が後付けの理由で取り消され得るならば、その恐れのある企画は自粛されかねない。

 東京芸術大前学長で、ことの深刻さを知るはずの宮田亮平長官が決定を追認したのは無責任だ。

 「手続き上の不備」は文化庁にこそ問われる。

 道内でも多くの文化芸術事業の関係者が不透明な決定を憂えている。愛知県が撤回を求める訴訟で詳細を明らかにしてもらいたい。

 救いもある。教訓を生かそうと、作家有志や市民、有識者が「あいち宣言」の草案をまとめた。

 芸術家には表現の暴力性への配慮を、鑑賞者には文脈への留意を求めるなど、表現の自由を守り育てるための規範を探ったものだ。

 再開にあたり、度を超えた抗議への対応ルールを定め、ガイドツアーによる鑑賞に限定した実行委の試みも、一定の効果があった。

 各地の芸術祭を自主規制や検閲からどう守るか、多様な文化を享受するため、幅広い議論が必要だ。


北海道新聞社説 2019年10月20日
https://www.hokkaido-np.co.jp/article/356341?rct=c_editorial
http://www.asyura2.com/19/senkyo266/msg/595.html

[政治・選挙・NHK266] 国歌・「君が代」と茨木のり子(アリの一言) 
 
日曜日記71
2019年10月20日

 「アリの一言」を書いたあと、もっとこう書けばよかった、と悔やまれることはしょっちゅうある。「ラグビーW杯・『君が代』より『ビクトリーロード』」(10月15日)もその1つだ。「ラグビーに『君が代』は似合わない」と書いたが、似合うかどうかの問題ではない。 

 そう思っている時、後藤正治著『清冽 詩人茨木のり子の肖像』(中公文庫)で、茨木をまた1つ見直した。

 茨木のり子(1926〜2006)は1990年、甥とその婚約者と、ボストン交響楽団の演奏会をNHKホールに聴きにいった。その時のことだ。

< 演奏の前、交響楽団は来日の儀礼ということであったのだろう、「君が代」を演奏した。周りのほとんどの聴衆が起立したなか、茨木はじっと座っていた。小声で、治と薫(甥と婚約者―引用者)にこういった。
「今日、私は音楽を聴きに来たのでね…。私は立たないけれど、あなたたちは好きにしなさい」>

 それから4年後の1994年、茨木は「鄙(ひな)ぶりの唄」という詩を書いた。後藤氏は「おそらくこの日(ボストン交響楽団演奏の日)のことを想起しつつしたためた詩句であろう」と解説している。

  それぞれの土から
  陽炎のように
  ふっと匂い立った旋律がある
  愛されてひとびとに
  永くうたいつがれてきた民謡がある
  なぜ国歌など
  ものものしくうたう必要がありましょう
  おおかたは侵略の血でよごれ
  腹黒の過去を隠しもちながら
  口を拭って起立して
  直立不動でうたわなければならないか
  聞かなければならないか
    私は立たない 坐っています 

  演奏なくてはさみしい時は
  民謡こそがふさわしい
  (中略)
  それぞれの山や河が薫りたち
  野に風は渡ってゆくでしょう
  それならいっしょにハモります
  (後略) 

 この詩より約20年前、天皇裕仁は記者会見(1975年10月)で「戦争責任について」聞かれ、こう答えた。「そういう言葉のアヤについては、私はそういう文学方面はあまり研究もしていないのでよくわかりませんから、そういう問題についてはお答えが出来かねます」

 この裕仁の発言への憤りを、茨木のり子は「四海波静」という詩(1975年11月)でこう書いた。

  戦争責任を問われて
  その人は言った
  (中略)
  思わず笑いが込みあげて
  どす黒い笑い吐血のように
  噴きあげては 止り また噴きあげる

  三歳の童子だって笑い出すだろう
  文学研究果さねば あばばばばとも言えないとしたら
  四つの島
  笑(えら)ぎに笑ぎて どよもすか
  三十年に一つのとてつもないブラック・ユーモア
  (後略)

 この茨木のり子にしてあの詩あり。
 国歌など必要ない。

https://blog.goo.ne.jp/satoru-kihara/e/3a02bfcdfb72789870e305561896a58f
http://www.asyura2.com/19/senkyo266/msg/596.html

[政治・選挙・NHK266] 天皇制と闘うとはどういうことか (朝日新聞社 論座) 
 
天皇制と闘うとはどういうことか
融通無下な鈍感さを許さない政治的・歴史的想像力を奪還する

菅孝行 評論家・劇作家
論座 019年10月22日


■■天皇制は日本に「不可欠」の構成要素か■■

 近代国民国家における「支配」には三つの位相がある。

 第一が市場原理、第二が<法>を正当性の根拠とする統治、第三が「幻想の共同性」である。第一は資本制、第二が政治権力、第三が、支配の正統性の「内面化」である。支配の正統性の「内面化」とは、支配階級に固有の利害や価値を主権者があたかも普遍性であるかのように受容してしまう倒錯のことだ。第三の位相の「敵」は主権者の集合が制度を支える観念自体だともいえる。

 近代国家の統治形態は、主権者が帰属する国家に抱く幻想の共同性の根拠となる権威の性格によって互いに異なる。フランス共和国は「日々の国民投票」(ルナン)による主権者の連帯であり、大英帝国は英国国教会のキリスト教信仰の共有である。アメリカ合衆国の国民の紐帯は建国精神だが、それはピュリタニズムに裏打ちされている。イスラム諸国の場合は、権力の背後にそれぞれの宗派の「神」が立つ。権威は個人を超えて主権者の集合の幻想となる。

 この幻想は市民社会に対しても規定力をもつ。市民社会は資本制に依拠している。国家の統治は、個々の国民国家の資本制を総括するものでもあるといえよう。

 天皇制は日本近代国家の統治形態の「不可欠」とされてきた構成要素である。天皇の権威は、戦前のみならず現在も、神道に担保される万世一系の神話である。天皇制と闘う目的は、最終的にはこの統治形態を変えることにある。

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「日本国憲法公布祝賀都民大会」に出席、熱狂する都民らに囲まれながら皇居に戻る昭和天皇=1946年11月3日、東京・皇居前広場

■■「明治憲法」体制での天皇の二面性■■

 明治維新から敗戦までの天皇制では、天皇は統治者であり、軍の統帥権の総覧者であり、国家の最高権威の現人神だった。維新政府は、このイデオロギーで祭政一致国家を作ろうとして失敗し、21年後、「明治憲法」体制の下で、迂回路を通って「万世一系の神の国」という神道信仰を国是の核心に据えた。

 国家の権威の根拠に宗教を据えることの必要性を伊藤博文らは海外視察の経験から痛感していた。欧米のキリスト教信仰に相当するものを彼らは天皇信仰に見出し、これを制度化した。古代を起源とする宗教的権威が世俗の近代国民国家の正統性の根拠となり、日本資本制を政治的に制御する規定力となったのである。

 国民は主権者ではなく現人神の「臣民」とされた。だが、「明治憲法」の三条には天皇の神聖不可侵が謳われている一方、四条には立憲主義原則が書き込まれている。「臣民」向けの理念は絶対不可侵、為政者の統治の実体は制限君主、という二面性がここに読み取れる。

 憲法に書き込まれた「絶対不可侵」のイデオロギーの補強装置として、軍人勅諭や教育勅語、「国体論」や家族国家観が動員され規定力を発揮した。1906年の「神社合祀令」も、習俗を政治に取り込む上で大きな力を発揮した。明治末年には修身教科書が、「臣民」は「陛下の赤子」という刷り込みを広げる手段となった。治安警察法、大逆罪、治安維持法の制定といった法的補完もぬかりなかった。

 1928年の治安維持法「改正」では、国体変革と私有財産否定が、対等に死刑の対象とされた。「国体」はこの国の私有財産制(日本資本制)の守護神ともなったのである。さらに1935年の国体明徴声明では、天皇は統治機関の一部ではなく、統治の主体そのものとされるに至った。

■■戦後へ延命した天皇制■■

 新憲法下での天皇は国政に関与する権能をもたない「象徴」と規定されている。それでもこの国は現在でも君主制国家である。君主制国家は国連加盟192カ国のうち30カ国、独立国家群の中でガラパゴス化している。

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「日本国憲法公布祝賀都民大会」に集まった人々に、帽子を振って応える昭和天皇=1946年11月3日、東京・皇居前広場

 敗戦後、天皇制が存置された決定的な原因は、アメリカの占領政策にあった。日本を統治するには、日本人の幻想の共同性の核心にある天皇崇敬を温存し、天皇に権威づけられた日本政府に占領政策を執行させるのが最善、とアメリカは判断した。

 加藤哲郎の『象徴天皇制の起源』によると、アメリカは1942年の段階から、占領後、天皇制の存置、主権の剥奪、極東軍事裁判での天皇不訴追など、実際に執行されたのとほぼ同一の占領政策を策定していた。これは「日本計画」と呼ばれた。この対日占領政策は、大戦終結後の冷戦を視野に入れた高度な地政学的判断に基づいている。

 全てはどうすればアメリカの国益に適うかによって判断された。指針ははじめは「民主化」、冷戦激化とともに「反共の防波堤」化、今日の視野から見れば、高度に発達した資本制国家となった後にも、日本が自発的にアメリカの国益に従属するしかない構造を作り出すことだった。

■■魚心・水心―日本支配層の反応■■

 「国体護持」を戦争終結の絶対条件として来た天皇と日本政府は、アメリカの構想に飛びついた。米日の野合をいち早く批判したのは、映像作家亀井文夫だった。『日本の悲劇』(1945年)には、軍服から背広に着替えて生きのびる裕仁の映像が捉えられている。GHQはこの作品を直ちに押収し、ネガを破棄した。残っていたポジフィルムから再現された映像には、豹変して延命する天皇の姿が的確に捉えられている。

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昭和天皇の「沖縄メッセージ」を批判する那覇市の街頭宣伝。昭和天皇は宮内庁御用掛だった寺崎英成を通じてアメリカに対し「沖縄を始め琉球の他の諸島を軍事占領し続けることを希望している」というメッセージを伝えていた=1989年1月12日、那覇市国際通り

 訴追を免れた天皇裕仁は、国政の権能を失った(1947年5月3日)後もなお、重大な局面で政府の「助言と承認」に基づかない行動を取った。第一が無期限に沖縄を米軍に「貸与」することをアメリカに提案した「沖縄メッセージ」(同年9月、進藤栄一が1979年に発見)である。この罪状は白井聡(『国体論 菊と星条旗』)が言うように外患誘致罪に相当する。

 裕仁はまた、全面講和(全方位)か「部分講和」(反共主義)かで国論が二分されていた講和条約について、大統領とのホットラインを通じて、繰り返しアメリカに反共政策の強化を炊きつけ、1951年には二度にわたってダレス特使を引見して、「部分講和」を力説した。裕仁は日本の反共主義を代表してアメリカの僕の役割を進んで果たしたのである。

 GHQに免責されたこともあって、裕仁は自身の戦争責任に関する認識をもたなかった。だから戦争責任を文学方面の言葉のアヤといい、原爆投下を戦時下だから致し方ないと発言した。

■■天皇免罪と大衆の鈍感■■

 天皇が免責されたことは、出征した兵士たちの戦争観に大きな影響を与えた。命令した天皇さえ訴追されないのに、命令されて従軍した自分たちに加害責任がある訳はないという感覚が蔓延した。加害者意識の不在はここに淵源する。

 また訴追されなかったことで戦勝国アメリカへの親愛感が生まれた。日本人は被害者意識さえ抱いていないのではないかという樋口陽一の指摘(拙著『天皇制と闘うとはどういうことか』所収の樋口陽一・菅の対談)は至言である。もしも、原爆投下をはじめとする米軍による被害が身に浸みていれば、不平等の極限である日米地位協定の下での基地被害を便々と容認する訳がない。膨大な「思いやり予算」、F35Aの大量購入、アメリカだけに利益をもたらす貿易協定の締結に、日本人が怒りを覚えない訳がない。だが主権者多数派はアメリカと交渉すらしない政府を黙認している。

 アメリカの占領統治は、日本が犯した戦争犯罪にもアメリカから受けた被害にも鈍感な、度し難い歴史意識(の不在)を日本人に刷り込んだ。戦後天皇制とは、この鈍感を増殖させる装置でもあった。天皇制と闘うということは、日本人がこういう融通無下な鈍感を許さない政治的・歴史的想像力を奪還することでもなければならない。

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生前退位を希望する天皇のビデオメッセージを見上げる人々=2016年8月8日、東京・新宿

■■落日のアメリカの本音と日本の<従属>■■

 戦後史においてアメリカが強大である間、日本はアメリカの核の傘の下で、軽武装と引き換えに、高度経済成長を遂げることに成功した。当時のアメリカは日本に見返りを要求しなかった。ヴェトナム戦争の敗北を引き金に始まったアメリカの凋落とともに様相が変わる。それまで餌をやって育ててきた日本というコブタに対する強請りがはじまったのである。

 とくに日米構造協議以後、大店法改訂をはじめとする外国資本参入のための規制緩和、金融自由化、思いやり予算の肥大など、譲歩に次ぐ譲歩が続いた。今や医療にも水道にも米系グローバル資本が参入を狙っている。新ガイドライン関連国内法は、アメリカの「国難」のために日本の施設と国民を総動員するための法律である。集団的自衛権合憲化も9条改憲推進も、アメリカの要請に応える措置にほかならない。

 白井聡は、天皇明仁の2016年8月8日の生前退位を求めた「おことば」の真意は、そういう「ていたらく」に立ち至った戦後過程への、主権者による再審を促すものだったのではないかと推測する(前出)。筆者とて、敗戦から74年、「つぎつぎとなりゆくいきおい(丸山真男)」の果てに、戦後日本がここまできてしまった無残さに感慨なきを得ない。他人ごとのように言うことはできない。わが同胞を説得できていないという点で、自分も埒外に居る訳ではないからだ。天皇制と闘うとは、日本人がまずこの無残さに始末をつけることにほかならない。

■■日本天皇制国家の歴史的責任■■

 日本天皇制にはガラパゴス化した君主制一般以上のトラウマがある。植民地支配と侵略戦争という消し難い事実が存在するからだ。

 満蒙は生命線とか、大東亜戦争はアジア解放の聖戦とかいう「たわ言」は、戦争目的を共有した「同盟国」ドイツが行った戦後処理を参照すれば世界に通用しないことは明らかだ。国際社会にはヴァイツゼッカー演説というユニバーサルスタンダードが存在する。これに照らす限り、日本軍の犯した主権侵害・人権侵害・殺人・暴行・略奪の歴史を美化することは禁じられている。

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欧州歴訪の旅で、ドイツの大統領府を訪れた前天皇夫妻とヴァイツゼッカー独大統領(当時)夫妻=1993年9月13日、ドイツ・ボン

 どこの国の軍隊でも慰安婦はいるとかいった「顧みて他をいう」議論は不毛である。吉見義明の『従軍慰安婦資料集』一冊で事足りる。あとは直接拘引したのが軍なのか女衒なのか、というだけのことだ。どちらも天皇制国家の国家犯罪である。 

 また、侵略行為について何度も謝ったという議論も、戦後補償の実体がドイツと全く異なる(たとえば『戦争責任・戦後責任―日本とドイツはどう違うか』所収の粟屋憲太郎論文参照)以上、信じて貰いようがない。ドイツとは補償に拠出した金額が二けたも三桁も違うのだ。天皇制と闘うということは、そういう何よりもダメな、わが同胞多数派の無自覚を清算する事でもある。

■■「まし」に見えた明仁天皇■■

 一昨年8月8日の生前退位を求めた「おことば」から推察すると、個人としての天皇明仁は裕仁と違って憲法三原則に寄り添う象徴天皇―目的は勿論、天皇制の永続だ。また天皇の「祈り」は皇室神道によって行われる―となることを自身の責務としてきたようだ。

 在位の後半は、政権が戦後国家の平和と民主主義、自由・平等の原則をかなぐり捨て、アメリカの国益に露骨に寄り添うことによって、政権の支持層の利益を図る方向に舵を切る過程に当っていた。とくに安倍政権の7年間で、政権と明仁の確執が深まった。だから、政権主流の支持基盤にとって明仁夫妻は目障りだった。八木秀次は、天皇の護憲発言は政権の政策遂行の妨げだから宮内庁は天皇を黙らせろと恫喝した(「正論」2014年5月号)。

 政府に反感を抱く勢力にとって明仁は「まし」にみえ、明仁支持の心情が広がった。明仁を反政府運動の盾にしたがる傾向さえ助長された。内田樹の天皇主義者宣言が最たるものだ。

 だが、主権者が政権に対する抵抗の「依り代」を君主に求めるのは倒錯の極致である。そもそも、どれほど天皇が「内閣の助言と承認」をかいくぐり、政府の目を盗んで行動しても、所詮天皇に国政の権能はない。その証拠に、一昨年の8月8日の放送を、内閣府に無断で段取りした宮内庁長官はただちに更迭された。憲法制定当時、三笠宮崇仁が指摘したように天皇は政府の奴隷なのである。だから私はこう発言した。

 「邪悪な天皇が邪悪な政府に寄り添おうと思えば、天皇の政治意思は貫徹します。(中略)逆に、「良心的」な天皇(現上皇)が、邪悪な政権に対して批判的たらんとして行動したとする。天皇明仁がしたことの一部は、そういうことだと思います。そして、多くの国民は天皇に希望を見出す。しかし……国政に関する権能…は政府にある。だからガス抜きにしかなり得ない。これが象徴天皇制なんです。」(「図書新聞」2019年10月12日号)

■■天皇個人の人格罵倒の不毛■■

 この種の発言には、「正統的」な反天皇制左翼はナーバスだ。いわく、一知半解だ。制度だけでなく個人としての天皇が「良心的」ということもありえない。個人としての発言もすべて欺瞞だ。政府と明仁の相剋は全て出来レースだ。云々。

 筆者の議論の筋目は、どれほど良心的な天皇がいても制度の邪悪さ・欺瞞性に阻まれるから期待するなというところにある。大切なのはそのことである。ところが、良心的な天皇が個人として存在するという言説自体に彼らは耐えられない。筆者はここに、制度だけでなく天皇個人も邪悪だと言い募っていないではいられない強迫観念を感じる。

https://image.chess443.net/S2010/upload/2019101500003_6.jpeg
改元が行われた日、「終わりにしよう天皇制」の横断幕を掲げてデモをする人々=2019年5月1日、東京・銀座

 だが、考えてみてほしい。(所詮、報道からの推測でしかないが)天皇がもし「個人」たりうる――それができないのが天皇制という制度であるのだが――と仮定するなら、折に触れてなされた明仁の韜晦された発言からでも、彼らの歴史認識や政治倫理は、与野党の国会議員や自治体首長の九割がたより優位にあると言わざるを得ないのではないか。それほどわれら同胞と「国民代表」たちの歴史意識や政治倫理は地に堕ちているのだ。

 天皇制批判者は、批判対象である私の論脈そっちのけで、明仁個人に邪悪さや欺瞞を見出すことに熱中する前に、主権者と「選良」のこの無残さにこそ思いを致すべきではないのか。

 天皇制との闘いとは、主権者の幻想の共同性との闘いである。だから天皇制と闘うには、天皇や政府や資本に幻想を抱き、嫌中・嫌韓・嫌朝で盛り上がり、外国人労働者に排除したがる主権者内部の荒廃を糺すことからはじめるべきなのではあるまいか。

 全ては主権者の排外主義と天皇への<とらわれ>の始末に懸かっている。<とらわれ>の始末には、権力や資本の垂直的な規定力を超える隣人相互の信認の形成が不可欠だ。

■■避難所から陣地へ■■

 隣人の相互信認を組織化する闘いの場はどこにあるか。

 今日、産業構造が劇的に変わり、雇用形態が短期化・流動化し、賃労働と資本の衝突する場で、労資が長期に対峙することは困難になった。だが、反照的に矛盾の発現の場は、労働の場だけでなく、労働力・生命の再生産の場所に飛び散って、至る所で闘いが可能になった。幼児保育も学童保育も、学校も医療機関も、障害者介護・高齢者介護の現場も生活相談の機能を担うカフェも、シェアハウスも、当事者と家族と現場で働く者たちの連携、相互信認の力が、資本や権力の縦の統制を凌駕できれば、そこを拠点たらしめることができる。それ以前に、難をしのぐ「アジール」(※)あるいは駆け込み寺を作ることができる。

 一見天皇制などと全く関連がないかのような活動の場で、組織者が、権威や権力や資本による幻想を凌駕する隣人相互の信認関係を作り出せるかどうかが試金石となる。

 重要なのは、人々の意識が国家や資本への崇敬・畏怖から切断されることだ。天皇制の統治は、天皇の超越性に呪縛される大衆の存在が前提なのだから、大衆が天皇に関心を抱かなくなってしまえば制度は成立しなくなる。幻想の共同性とはそういうものだ。

 グラムシが構想した「陣地戦」とは、市民社会の只中に、資本と権力の統制の利かないコミュニティを組織化し、その力で支配階級と政治権力への対抗ヘゲモニーを創り出すことだった。制度をなくす前段に不可欠なのは、まさにそういう活動なのではあるまいか。

(※)アジール 統治権力が介入できない圏域、避難所。中世史家の阿部謹也、網野善彦らの論考を参照

https://webronza.asahi.com/national/articles/2019101500003.html
http://www.asyura2.com/19/senkyo266/msg/658.html

[政治・選挙・NHK266] 政治利用されない「天皇制」って、ありですか?〜パレード延期と恩赦に思う(ちきゅう座) 
2019年 10月 21日
<内野光子(うちのみつこ):歌人>
 
 
■■「祝賀御列の儀」というパレード■■

天皇即位に伴う祝賀パレードが10月22日から11月10日に延期された。また、即位に伴う恩赦の政令が出されることになった。
ともに、10月18日の閣議で決定されたのだが、パレード延期の件は、すでに、NHKwebnewsでは、 10月17日に安倍首相は被災地の宮城県丸森町で「延期する方針で検討」と語り、延期の方針、午後3時49分付では、11月10日に延期との報道があり、新聞では18日朝刊で「政府の方針」として先ぶれ報道がなされた。
恩赦については、18日午前中の閣議で決定された後に報道されている。
 
私には、この報道の微妙な時間差を意図した政府広報、メディア・コントロールこそが天皇即位自体と関連報道を、フルに政治利用をしている場面に思えたのだ。
 
パレード延期の理由が「甚大な被害を出した台風19号の被災地に配慮」して、とのことであった。
前日までは、「淡々と進めている」と記者に答えていた菅官房長官だったが、17日の会見では「諸般の状況を総合的に勘案した」としている。
首相は、被災地のぶら下がりで、延期の方針を発表したかったのだろう。それに、あまり評判の良くない「恩赦」と同時発表は避けなければならかったにちがいない。
 
被災地への配慮というならば、直近では、15号台風の被災地、被災者の現状、さかのぼれば、東日本大震災、福島原発事故の被災地・被災者の実態を知らないわけではないだろう。11月10日に延期したところで、状況が大きく改善するわけもない。


菅官房長官は、「宮内庁と相談したが、あくまでも内閣として判断した」と会見で語っていた。しかし、報道によれば、宮内庁関係者は「突然でびっくり」ともらし(毎日新聞10月18日)、政府関係者は「台風によりパレードの警備にあたる警察官の確保が難しくなったという事情」を語ったという(東京新聞10月18日)。被災地や被災者に配慮したとは、たてまえからも実態からも大きく離れてはいないか。
さらに、国事行為として行われる内外の要人を迎えての祝宴や首相夫妻の晩餐会などの一連の行事とて、被災地や被災者を配慮するというのならば、中止して、その経費や労力を災害復旧・復興に充てるくらいの決断があってもよいのではないか。祝宴にしても晩餐会にしても、即位を利用しての政府の大判振る舞いに過ぎない。一般国民の生活に何ら寄与しないではないか。
今の憲法下で、政治的権能を有しない天皇の存在自体が、死去ないし退位、改元・即位、結婚などに伴うさまざまなイベントや活動が、時の政府に組み込まれ、加担、補完する役割を果たすことになるのは、むしろ当然の成り行きであろう。


私などからすれば、日本国憲法に「第一章」がある限り、とりあえず、天皇、皇族方には、「象徴」などというあいまいな役まわりをさぼってもいいので、ひっそりと自由に、退任でも、代替わりでも、結婚でもなさったら、よろしいのにとも申し上げたい。
そして、現代の日本にとっての「象徴天皇制」は必要なのかの問いに対峙したい。
 

■■日本は、これで法治国家?■■

政府は、都合が悪くなると、日本は「法治国家」だからといって、法律に従い、粛々と、淡々とことを進めてしまい、進めた結果の責任はだれも取らないのが、日本の法治国家の実態である。


「恩赦」は、旧憲法下では、天皇の大権事項であったが、日本国憲法下では、天皇の国事行為(7条6号)で、内閣が決定する天皇の認証事項である。
大赦、特赦、減刑、刑の免除、復権とあるが、いずれにしても、一度、裁判所が犯罪者の処罰を決めるという「司法権」に「行政権」を持つ内閣が介入して「処罰」がなかったことにする制度である。
今回は、罰金刑により制限された資格を復活させる「復権」が大半という。その対象の55万人のうち、道路交通法違反者が65.2%で三分の二を占めるが、他は過失運転死傷、傷害・暴行・窃盗の罪を犯した者、公職選挙法違反者たちが含まれるのである。
 
具体的に、今回の政令恩赦では、2016年10月21日までに罰金を納めた約55万人が対象となった。罰金刑を受けると、原則として医師や看護師など国家資格を取得する権利が5年間制限されており、こうした権利が回復する。
法務省によると、対象者の約8割が道路交通法や自動車運転処罰法などの違反。公職選挙法違反による罰金納付から3年がたった約430人の公民権なども回復されることになる(JIJI.com10月18日)。
 
しかし一定の条件をクリアしただけで「自らの過ちを悔い、行状を改め、再犯のおそれ」がなくなった者への更生の励みや再犯防止策になるという建前ながら、実態はどうなのか、疑問は尽きない。
今回も当初、法務省は、皇室の慶事による恩赦は「社会への影響が大きく、三権分立を揺るがしかねない」とその不合理性を指摘、実施すべきではないとし、また、一律の政令による恩赦でなく、対象者を個別に審査する「特別基準恩赦」のみの実施を訴えたという(朝日新聞10月19日)。
しかし、政府としては踏み切ったのである。その過程や決定の不明瞭さはぬぐえず、そもそも、内閣の恣意性が問われ、そのチェック制度がない恩赦は、実施すべきではなかったのではないか。


諸外国において、たとえば、イギリスでは、恩赦権は大法官・法務大臣の助言に従う国王大権の一つであるが、その運用にあっては、罪や刑罰を定めて一律に行う大赦は、1930年以降実施されておらず、過去20年間に行われた特赦2件、他の恩赦も厳しい条件のもとに実施されている。
フランスでは、他のヨーロッパ諸国に恩赦制度が実施されることはまれなことから、大統領選ごとに行われていた慣例的な恩赦も2007年以降実施されなくなった。
アメリカでは、大統領に恩赦権はあり、司法長官の助言を受けて実施するが、減刑や罰金刑減額などは、別の制度によるとされ、2018年度に承認した恩赦は、特赦、減刑あわせて10人であった。


日本のように、行政府が、恣意的に一律に大量に行う「恩赦」などは、もはや特異な例と言わねばならない。今後は、皇室の慶事にかこつけてなされる「恩赦」を内閣には実施させない選択を迫るべきではないか。


こうして、利用されるだけの「象徴天皇制」を少しづつでも無化するには、どうしたらいいのか。

 
<参考>

・小山春希「恩赦制度の概要」『調査と情報』No.1027
(2018年12月6日)file:///C:/Users/Owner/AppData/Local/Microsoft/Windows/INetCache/IE/JDLUCL85/digidepo_11195781_po_IB1027%20(1).pdf

・法務省のQ&A「なぜ恩赦は必要なのですか?」
http://www.moj.go.jp/hogo1/soumu/hogo_hogo10.html#02

・法務省「「復権令」及び「即位の礼に当たり行う特例恩赦基準」について」
(2019年10月18日)
http://www.moj.go.jp/hogo1/soumu/hogo08_00006.html

・晴天とら日和「恩赦に反対します」(2019年10月20日)新聞記事などのまとめあり
http://blog.livedoor.jp/hanatora53bann/archives/52334331.html


初出:「内野光子のブログ」2019.10.20より許可を得て転載
http://dmituko.cocolog-nifty.com/utino/2019/10/post-b6d866.html
〈記事出典コード〉サイトちきゅう座 http://chikyuza.net/
〔opinion9103:191021〕

http://chikyuza.net/archives/98038
http://www.asyura2.com/19/senkyo266/msg/659.html

[政治・選挙・NHK266] 戦後「恩赦」と天皇制復権強化の歴史(アリの一言) 
 
 安倍政権が22日の徳仁天皇「即位の礼」を理由に強行しようとしている「恩赦」(「政令恩赦」)は、二重の憲法原則違反だと先に書きましたが(9月23日のブログ参照)、メディアでも憲法上の疑義を指摘する識者は少なくありません。たとえば―。

   「恩赦を実施するということは、司法権が下した判断を行政権が
  ひっくり返すことを意味する。三権分立の観点から問題があり、民
  主主義の原則にも反する。実施はあくまでも例外中の例外と考えな
  ければならない。
   現在の日本国憲法は国民主権が大原則で、『象徴』と規定された
  天皇は、いわばお飾りの存在にすぎず、皇室の慶事は恩赦を実施
  できる『例外』には当たらない。今回の代替わりに伴う政令恩赦
  の実施は見送るべきだ」
  (佐々木高雄青山学院大名誉教授・憲法、9月24日付中国新聞=共同)

 にもかかわらず安倍政権が「恩赦」を強行するのはなぜか。その狙いは戦後「恩赦」の歴史から読み取ることができます。

 敗戦後、現憲法の下で行われた「恩赦」は過去に10回(常時恩赦は除く)。そのうち5回が「皇室の慶弔」を理由にしたものです。

 ●1952年11月 明仁皇太子(当時)「立太子礼」
 ●1959年4月 明仁皇太子結婚
 ●1989年2月 裕仁天皇「大喪」
 ●1990年11月 明仁天皇(当時)即位
 ●1993年6月 徳仁皇太子(当時)結婚
 (1968年11月の「明治100年記念」も実質的には天皇賛美であり、これを含めれば6回)

 端緒となったのが明仁皇太子の「立太子礼」(皇嗣としての皇太子の地位をあらためて国民に告示する儀式。写真右)ですが、この1952年というのはどういう年だったでしょうか。

  1952年4月28日 サンフランシスコ講和条約・日米安保条約が発効
  し、日本は形の上で「独立」。
 
  5月3日 皇居前広場で「平和条約発効ならびに憲法施行五周年記念
  式典」が開かれ、天皇裕仁は「この時に当たり…自らを励まして負荷
  の重きにたえん」と述べ、退位論を一蹴して引き続き天皇の座に居座
  ることを表明。
 
  11月8日(「立太子礼」2日前) 宮内庁が、翌年6月に行われる英国
  エリザベス女王の戴冠式に、明仁皇太子が裕仁の名代として出席すると
  発表。

 一方、当時の吉田茂内閣は、皇室典範には規定のない「立太子礼」を「国事行為」として強行することを閣議決定。儀式のやり方は旧皇室令に準拠しました。

 「政府は、意識して明治憲法下の伝統的制度との連続を追求したのである。この立太子礼において、『寿詞(よごと)』の結びを、吉田が『臣茂』と書いたことは、当代吉田政府のかかるねらいを象徴していたといえよう」(渡辺治氏『戦後政治史の中の天皇制』青木書店)

 裕仁をはじめとする天皇制勢力と吉田茂内閣は、日米安保条約発効を機に、戦前と連続する天皇制の復権を図ったのです。しかし、裕仁はもはやその任を果たすことはできず、代わって「戦後新時代のホープ」(吉田伸弥著『天皇への道』講談社文庫)として前面に押し出されたのが明仁皇太子にほかなりません。その画期となったのが「立太子礼」です。

 その時初めて「皇室の慶事」を理由にして行われた「恩赦」は、こうした天皇制復権強化策動の中で、天皇・皇室の権威を高める手段の1つとして行われたのでした。
 
 以後の「恩赦」もすべてこの延長線上にあります。戦争法制下、自衛隊(日本軍)の海外派兵が計画され、「天皇元首化」、9条改悪を図る安倍改憲策動の中で強行される今回の「恩赦」もけっして例外ではありません。

2019年10月21日

https://blog.goo.ne.jp/satoru-kihara/e/5c21e6b5e97ec2171519f2ce8c07e288
http://www.asyura2.com/19/senkyo266/msg/660.html

[政治・選挙・NHK266] 共済協同組合に、グローバル保険企業の魔の手が。(澤藤統一郎の憲法日記) 

私にも、顧問先の企業や団体がある。なんとなく気が合うところということだ。開業医共済協同組合が、その一つ。本日は、その第10回総代会。

これまで、総代会の都度、ブログに記事を書いてきた。下記のとおりである。

  保険業界に抗う「開業医共済協同組合」の発展を願う。
  http://article9.jp/wordpress/?p=5807(2015年10月25日)

  まず恒産を確保して、しかる後に恒心を発揮しよう
  http://article9.jp/wordpress/?p=7476(2016年9月25日)

  当協同組合の発展に祝意を、そして協同組合運動の発展に期待を。
  http://article9.jp/wordpress/?p=9374 (2017年10月23日)

  競争原理ではなく、協同・連帯の精神をこそ ― 開業医共済協同組合祝賀会で
  http://article9.jp/wordpress/?p=11328(2018年10月23日)

このタイトルをご覧いただけば、なぜ気が合うというのかお分かりいただけるだろう。私は、協同組合運動の発展を願う立場だ。企業の競争原理ではなく、社会の協同・連帯の精神が大切だと思っているからである。そして、私自身も、小規模自営業者として、共済事業の大切さがよく分かるからでもある。

この団体は開業医を組合員として組合員間の共済事業を目的とした中小企業協同組合法に基づく事業協同組合である。会員数はおよそ2000名。保団連の事業の一部門が独立した形で発足したが、その総代会も第10回を迎えた。役員諸氏の献身性に支えられて、事業は極めて健全に順調に進展していることを喜びたい。

この組合は、新自由主義的な企業万能主義に反対の立場を明確にしている。かつて、共済は保険業とは無関係に種々の相互扶助制度として社会のそこここにあった。ところが、2005年の保険業法の「改正」が、これら共済制度のすべてを保険業法の網の目に入れて規制対象とした。名目は、「共済」を隠れ蓑にしたインチキ保険商品の横行から消費者を守るためということである。
しかし、当組合はそうは見ていない。グローバリゼーションとして押し寄せたアメリカの保険企業の日本展開が、日本の相互扶助制度としての共済システムを企業展開の邪魔者と見ての圧力の結果だとの理解である。
TPPやFTAに対する警戒は、農業漁業だけではない。共済にも及んでいるのだ。

営利事業としての民間保険会社の「休業保険商品」の保険料が高額になるのは理の当然である。資本出資者への配当も、会社役員・職員の人件費も、広告宣伝費のコストも避けられない。一方、当組合の役員は、これまでのところ常勤役員以外はすべて無報酬だ。資本への配当は無用。宣伝コストも微々たるもの。ところが、アメリカの保険企業にはこのことが面白くない。これを「不当な参入障壁」として、「平等化」を求めるという。

新自由主義とは、実は「自由」を本質とするものではない。巨大企業の行動の自由に対する規制には飽くまで撤廃・緩和を要求するが、巨大企業に邪魔者となる競争の「自由」は目障りとして新たな規制を創設するものなのだ。

本年度(2019年度・第11期)基本方針のタイトルが、「開業医の生活と経営を守り、協同組合の理念に基づく共済制度の発展を」というもの。その第1項に次の一文(抜粋)がある。

「1.当組合は、国民医療向上のために、国民の協同の力で、共済制度の解体を狙うアメリカと日本の金融資本の横暴を阻止し、何よりも人間として平和と自由を希求するものである。その立場を侵そうとする政治の動きに警鐘を鳴らし、開業医の経営と生活を守り、協同の理念を広げる当組合と制度の発展に尽力する。」

「アメリカと日本の金融資本の横暴」とは、実は非常に具体的で差し迫った問題なのだ。

在日米国商工会議所(ACCJ)が「共済等と金融庁監管下の保険会社の間に平等な競争環境の確立を」との意見書を公表している。

そのホームページへの記載が以下のとおり。
https://www.accj.or.jp/viewpoints.html?lang=ja
この意見書は「2020年7月まで有効」とされている。

同会議所は、米国政府の米国通商代表部(USTR)と密接に連携しており、その意見書は米国政府の対日要求といえる。しかも、在日米国商工会議所(ACCJ)の筆頭副会頭が、アフラックから出ている。共済を潰して、その市場を保険企業に、なかんずくアフラックに明け渡せという露骨な要求なのだ。農業分野と同様、安倍政権はこの要求に「ノー」と言えない。

総代会議案書は、「安倍内閣に圧倒的影響力を持っている同会議所によるこの意見書は、JA共済をはじめ、全労済、コープ共済、県民共済、都民共済、中小企業共済すべてについて、保険会社との平等な競争条件が確立されるまでは、共済の事業拡大及び新市場への参入は許さるべきでないと主張している」と指摘している。

彼らにとっては、個人保険分野(年金保険を除く)において約30%のシェアを占めている各種共済が、目障りなのだ。しかし、共済と保険とは元来が、「似て非なるもの」であり、同じテーブルで扱うなどは論外である。わが国の全ての共済制度を維持・発展させるためにも共済団体が一つになって運動していくことが急務となっている。

本日の総代会で確認されたものが、共済団体のすべてが、アメリカの巨大保険企業と対峙せざるを得ない事態であるという認識。「共済制度の解体を狙うアメリカと日本の金融資本の横暴を阻止し、何よりも人間として平和と自由を希求するものである。」というスローガンは切実なもの。
農民・漁民だけではなく、共済組合もグローバリゼイションと闘わざるを得ないのだ。

開業医共済協同組合、これからが正念場である。
(2019年10月20日)

http://article9.jp/wordpress/?p=13586
http://www.asyura2.com/19/senkyo266/msg/661.html

[政治・選挙・NHK266] 天皇即位の儀式 権威高める手法に警戒を 
 
 天皇陛下が国内外に即位を宣言する「即位礼正殿の儀」がきょう行われる。陛下と上皇さまから「費用は極力簡素に」との意向が示されたため政府は費用削減に取り組んだ。しかし費用総額は平成の代替わり時の前回と比べて3割増の163億円に上る見通しだ。
 
 
 政府が前もってこの日を「国民の祝日」とし、国事行為として巨額の公費を投じて全国的な祝賀ムードを演出することの意味を冷静に考える必要がある。
  
 この儀式で天皇陛下は天孫降臨神話に由来する玉座に立ち「お言葉」を述べる。首相ら三権の長は仰ぎ見る形で万歳を三唱する。新憲法下で初めて行われた前回、国民主権や政教分離の原則に反しており憲法違反―との指摘があった。しかし今回、十分な憲法論議がないまま前例を踏襲することとなった。
 
 前回は、明治後半期に制定し戦後廃止された登(とう)極(きょく)令(れい)を基に催された。皇室典範では皇位継承時に「即位の礼を行う」とだけ規定されているためだ。
 
 来月行われる大嘗祭(だいじょうさい)とともに即位儀式は、室町時代から江戸時代途中までの220年余りは、京都の混迷や天皇家の財政難のため滞った。しかし明治に入り、天皇を元首とする国家づくりのために国の一大イベントとなり、大規模化した。それを政府は前回同様、今回も踏襲することを早々と打ち出した。
 
 大戦前の即位儀式は、天皇の権威を内外にアピールし、国民の崇拝意識を高め国威を発揚する狙いがあった。
 
 沖縄は天皇の権威の犠牲になる歴史を歩んだ。琉球併合に至る過程で、明治政府は、中国皇帝が琉球国王を任命する冊封をまねて天皇も任命権があるかのように振る舞い、天皇の命令に従わない琉球を「処分」した。沖縄戦では皇民化教育の下で動員された多くの住民が犠牲になった。戦後は米国による軍事占領を望む「天皇メッセージ」が米側に伝えられ、米国統治下に置かれた。
 
 こうした歴史を考慮してか、上皇さまは沖縄への思いが深いといわれる。
 
 一方で、天皇個々の思いや行動とは別に、権威を高めることにより国民統合の仕組みとして機能する象徴天皇制の在り方を考える必要がある。権威の高まりは時の権力者に利用される危うい面もある。
 
 豊見山和行琉球大教授は「象徴天皇制が持っている仕組みや機能が、一面では政治的問題や軍事基地の矛盾を見えなくしてはいないか」と本紙の識者座談会で述べた。沖縄の民意を無視して新基地建設を進める政府の圧政を埋め合わせているとの見方は説得力がある。
 
 即位儀式が持つ政治的意味を、主権者である国民の目線と、天皇制から犠牲を強いられてきた沖縄の目線の、両方で冷静に捉える必要がある。象徴と言いながら過度に権威を高める手法は警戒すべきだ。
 
 
琉球新報社説 2019年10月22日
https://ryukyushimpo.jp/editorial/entry-1012326.html
http://www.asyura2.com/19/senkyo266/msg/685.html
[政治・選挙・NHK266] 即位の礼 前例踏襲が残した課題 

 天皇陛下が即位を内外に宣言する「即位礼正殿(せいでん)の儀」が、きのう皇居で行われた。

 陛下のおことばは、憲法にのっとり、国民統合の象徴としての務めを果たすと誓うもので、昭和から平成になった際に上皇さまが述べたものとほぼ重なる内容だった。同じく国際社会の友好と平和に言及した点も、国外から多くの参列者を迎えて催された儀式であることに照らして適切といえよう。

 他方で、今回の代替わりにあたっての政府の事の進め方には大きな疑問がある。開かれた議論を避け、異論には耳をふさいで、多くを「前例踏襲」で押し通そうという姿勢だ。

 正殿の儀をめぐっても、天孫降臨神話に由来する高御座(たかみくら)に陛下が立ち、国民の代表である三権の長を見おろす形をとることや、いわゆる三種の神器のうち剣と璽(じ)(勾玉〈まがたま〉)が脇に置かれることに、以前から「国民主権や政教分離原則にそぐわない」との指摘があった。

 だが政府は「前回検討済み」として、見直しを拒んだ。前回の式典のあり方に対し、大阪高裁から疑義が表明された経緯などには目を向けず、天皇の権威を高めるために明治になって作られた形式にこだわった。

 平成流と呼ばれた上皇ご夫妻の活動を通じて、「国民に寄り添う皇室」像が支持を集めていることも踏まえ、いまの時代にふさわしい形を探ってしかるべきではなかったか。

 恩赦も実施された。要件を絞って対象者は前回の約5分の1(55万人)になったものの、司法の判断を行政が一方的に覆す措置に反対論も根強かった。まして皇室の慶弔と結びつけば、支配者が慈悲を施すかのような色彩を帯びる。犯罪被害者を守り、その思いを大事にしようという社会の要請にも反する。それでも先例が優先された。

 来月に予定されている大嘗祭(だいじょうさい)の執り行い方も同様だ。

 秋篠宮さまが昨秋の会見で、「宗教色が強い儀式を国費で賄うことが適当か」と疑問を投げかけた。公費を充てることの困難さは昭和天皇も感じていたとみられ、皇室の私的活動費である内廷費を節約して積み立ててはどうかと側近に話していたという。だがこの問題についても政府は「すでに閣議了解している」というだけで、真摯(しんし)に向きあうことはなかった。

 どれも国の基本である憲法にかかわる話だ。誠実さを著しく欠く対応と言わざるを得ない。

 上皇さまが退位の意向を示唆するメッセージを発したのは3年前だ。議論の時間は十分あったのに政治は怠慢・不作為を決めこんだ。華やかな式典の陰で多くの課題が積み残された。

 
朝日新聞社説 2019年10月23日
https://www.asahi.com/articles/DA3S14228225.html?iref=editorial_backnumber
http://www.asyura2.com/19/senkyo266/msg/686.html

[政治・選挙・NHK266] 即位の儀式 踏襲は政府の責任放棄 

 天皇陛下の皇位継承を内外に示す中心的儀式「即位礼正殿の儀」が、執り行われた。

 陛下は玉座の「高御(たかみ)座(くら)」に立ち、「国民に寄り添いながら、憲法にのっとり、象徴としての務めを果たす」と即位を宣言された。

 上皇さまは象徴として求められる役割を模索し、国民とともにある天皇像を示されてきた。「平成流」とも称される。

 陛下は新たな時代の象徴としてどんな役割を担うのか。国民一人一人が見守っていきたい。

 政府の対応には問題が残った。「正殿の儀」などは前回に引き続いて国事行為として行われた。議論を深めることなく、様式もほぼ前回を踏襲している。

 儀式には、憲法に反するという指摘が根強い。まず政教分離だ。高御座は天孫降臨神話に由来する。皇室の祖神とされる天照大神(あまてらすおおみかみ)が授けたと神話で伝わる「三種の神器」の剣と璽(じ)(勾玉(まがたま))も高御座に安置した。天皇に神話的な権威を与えかねない。

 明治以降、国家と結び付いた国家神道で天皇を神として崇拝し、天皇が治める国家への忠誠を国民に強いた。その結果、戦争で多くの国民の命が失われた。

 現憲法は国などに宗教的活動を禁止し、天皇の地位を「日本国民の総意に基く」と規定した。儀式は憲法の規定や精神に合わない。

 次に国民主権の問題だ。陛下は約1メートルの壇上から、安倍晋三首相を見下ろす形で、万歳三唱を受けた。主権は国民にある。位置関係は憲法にそぐわない。

 平成への代替わりでは、政府が首相の立ち位置を中庭から床上に変え、服装も衣冠束帯から、えんび服に変更し宗教色を薄めた。

 それでも大阪高裁は1995年の違憲訴訟の判決で、請求は退けたものの、政教分離規定違反との疑いを否定できないと指摘。首相の立ち位置も「憲法にふさわしくないと思われる」と言及した。

 儀式の骨格は、明治期の1909年に儀式の細目を定めた登極令(とうきょくれい)に基づく。現在に合っているのか検証するのが当然だ。

 上皇さまの退位に伴う今回の皇位継承は、議論の時間が十分にあった。政府は儀式を円滑に進める名目で議論を実質的に避けた。皇位継承問題に議論が広がり、自民党内や保守派に異論が根強い女性・女系天皇の問題が対象になることを懸念したのではないか。

 上皇さまが行動で示されたように、皇室の在り方は時代とともに変わっていく。前例踏襲した政府の対応は責任放棄である。

 
信濃毎日新聞社説 2019年10月23日
https://www.shinmai.co.jp/news/nagano/20191023/KT191022ETI090004000.php
http://www.asyura2.com/19/senkyo266/msg/687.html

[政治・選挙・NHK266] 本日の緊急臨時閣議における議題と閣議決定(澤藤統一郎の憲法日記) 
澤藤統一郎の憲法日記 » 本日の緊急臨時閣議における議題と閣議決定

澤藤統一郎の憲法日記

改憲への危機感から毎日書き続けています

本日の緊急臨時閣議における議題と閣議決定

第1.「安倍首相の後援会員ら数百人 税金で“おもてなし”」の件について

一昨日(10月21日)の共産党機関紙「赤旗」本紙のトップに、大要次の記事が掲載されている。

  日曜版スクープに反響 首相主催の「桜を見る会」
  安倍首相の後援会員ら数百人 税金で“おもてなし”
多額の税金が使われている安倍晋三首相主催の「桜を見る会」に、首相の後援会関係者が大量に招待されている―。「赤旗」日曜版(10月13日号)のスクープが大きな反響を呼んでいます。同会は「各界で功績、功労のあった方々を幅広く招待している」(菅義偉官房長官)といいますが、税金で首相自らの後援会関係者を“おもてなし”するという税金私物化疑惑が浮上しているのです。
桜を見る会は内閣の公的行事です。従来1万人前後だった参加者が安倍政権下で増え続け、今年は1万8200人。18年には例年の予算の3倍、5229万円が支出され国会で問題になりました。

日曜版編集部の取材に、首相の地元・山口県の複数の後援会関係者は「桜を見る会に山口県から数百人規模で参加している」「恒例の後援会旅行で、その目玉行事が、桜を見る会だった」と証言。招待者の人選は下関の安倍事務所が行い、飛行機やホテル、バスも事務所が手配するなど、詳しい経緯も判明しました。
桜を見る会には、首相の妻・昭恵氏がスキーや農業、酒造仲間を招待していたことも判明。他の閣僚や自民党幹部らも自らの後援会員を招待しています。

なお、10月16日付「朝日新聞」も次のように報じている。

立憲民主党の初鹿明博衆院議員は質問主意書で、桜を見る会には「極めて少数の一部の方が招待される」とした上で、国の予算を使う必要性について指摘。過去5年間約1766万円だった予算額が、2020年度当初予算の「概算要求で3倍の約5700万円」となっている理由を尋ねた。政府はテロ対策の強化や混雑緩和などの改善点を反映させたことで、「実態に合わせた経費を計上した」と答弁書で回答した。
予算増額については、共産党の機関紙「しんぶん赤旗」が9月に報じた。同党の志位和夫委員長は記者会見で、「桜を見る会は安倍さんのポケットマネーではない。税金が私物化されていたのではという疑惑になる」と批判していた。

 以上のごとく、首相主催の「桜を見る会」に多額の公費を支出していること、当該支出が安倍首相の私的後援会員員の“おもてなし”に使われていることに批判の声があるが、このような印象操作はきわめて危険で、放置しておくことができない。対応を間違えると、森友事件・加計事件の轍を踏むことにもなりかねない。
 
 先に、「『桜を見る会』は、内閣の公的行事であり、公費を支出すべき意義あるもの」とする答弁書を閣議決定(10月15日)したところであるが、本日これを再確認するとともに、次の理由を付加する。

 いかなる人がいかなる人に対してするものであっても、「おもてなし」こそは、日本人の歴史と伝統にのっとった称賛に値する文化的行為である。平等原則に鑑み、首相が多くの人を「桜を見る会」に招待しておもてなしすることも同様であって、何の問題もありえない。他にない国柄を反映した、この首相の立派な行為を悪し様に罵ることこそが、令和の御代を冒涜する非違行為である。

 「税金でのおもてなしは、税金の私物化ではないか」という指摘は、甚だしい悪意を持った者の印象操作に過ぎず、桜を見る会の運営と費用支出に何の問題もない。閣議によってそう決めるのだから、間違いはない。

以上のとおり、閣議決定する。

 

第2. 閣議決定のありかたについての閣議決定。
古今東西・森羅万象、ありとあらゆるものが閣議決定の対象であり、閣議決定できないことはない。とりわけ、歴史の修正には閣議決定が効果的で、多用が望まれる。
もちろん、風の向くまま気の向くままに、言語の意味内容も決定できる。
去る10月15日、既に「セクシー」とは「(考え方が)魅力的な」という意味であることを決定して,話題となってはいるが、なにも今に始まったことではない。

「そもそも」には、「基本的に」という意味がある。
首相夫人は私人である。
島尻沖縄北方担当相は、発言につまっただけで、「歯舞・色丹」という読み方を知らないという事実はない。以上に加えて、本日さらに次の事項を閣議決定する。

「云々」の読み方は、デンデンである。
「未曾有」は「ミゾユウ」と読むことにする。
安倍内閣は常に正しい。野党は常に間違っている。
憲法改正についての審議を拒否することは、議員としての職責の放棄である。
天皇は仰ぎ見るべき存在であり、不敬の言動は慎むべきである。
「テンノーヘイカバンザイ」は、主権在民にふさわしい行為である。
高御座も三種の神器も政教分離原則に違反しない。
日本は朝鮮を侵略も支配もしなかった。
日韓併合は、韓国側からの平和的要請に応じた結果である。
日韓請求権条約の締結によって、日本政府と日本企業の徴用工・従軍慰安婦に対するあらゆる債務がすべて消滅した。
歴史上、日本が他国に軍事侵略をしたことは一度もない。

以上のとおり、厳粛に閣議決定する。

(2019年10月23日)


http://www.asyura2.com/19/senkyo266/msg/688.html
[政治・選挙・NHK266] 「即位の礼」・渡辺治談話の改ざんにみるメディアの悪弊(アリの一言) 
2019年10月24日 | https://blog.goo.ne.jp/satoru-kihara/e/41492b2e1ea0c52538bd243b10e17321

     

 23日付の各紙は前日の「即位の礼」で持ち切りでしたが、その中に目を疑う記事がありました。地方紙が掲載した共同通信配信の渡辺治一橋大名誉教授の談話です。全文転記します。

 「天皇陛下が一段高いところから即位を宣言する儀式の在り方は、憲法で規定する国民主権という理念から、大きく反している。儀式を行うなら、首相が陛下の位への就任を宣言して、それを受けて陛下が国民の象徴となることを誓う形にするべきだ。平成の代替わりから30年以上たっているのに、見直しが行われなかった。今回は準備期間があったのだから、国会で憲法に沿った即位の在り方を考える超党派の委員会をつくるなどして、国民的な議論をするべきだった」

 全体の趣旨は、「即位の礼」が憲法の理念に反していることを鋭く指摘したもので、権力におもねる「談話」が多い中できわめて貴重な渡辺さんらしい談話です。が、驚いたのは、「天皇陛下」「陛下」です。渡辺さんがこんな言葉を使うはずがありません。
 畏友でもある渡辺さんに直接確かめました。渡辺さんは談話をまだ見ていなかったそうですが、「当然、『陛下』などと言うはずがない」と憤慨し、こう話しました。

 「そもそも談話の趣旨が、即位の儀式全体が国民を主権者とした憲法に反している、というものなのだから、そう言う自分が、天皇の臣としてへりくだる『陛下』などという言葉を使うこと自体があり得ない矛盾だ」

 渡辺さんは共同通信に抗議したそうです。渡辺さんは、「これは、担当記者の“常識”に基づく、“自然な”判断によるものと見られる」としてうえで、こう述べています。

 「以前も(メディアの取材で)天皇という記述を『陛下』に変えてよいかと問われたことがあるから、どの新聞社でもそれ(「天皇」を「陛下」に変える)が“常識”化しているのだろう。その時の記事では、自分以外はみな『陛下』と呼んでいてびっくりした覚えがある。
 こうしたことが、記者たちの当然の“常識”となっていること自体が、おそらく、この30年の変化であって、かえって恐ろしい」

 メディアは天皇・皇室に敬語(絶対敬語)を使うべきではない、と22日のブログに書いたばかりですが、その弊害が予想もしない形で現実化してしまいました。この問題は、渡辺さんが言う通り、一記者の問題ではありません。新聞・メディア全体の問題です。

 いやメディアだけではありません。市民の中にも「天皇陛下」「陛下」という言葉を使っている人は少なくありません。それが自らを天皇の臣下とし、支配・被支配の関係を是認し、戦前の天皇主権に通じる上下関係を表す言葉であることを、どれだけの人が自覚して使っているでしょうか。

 なにげなく使っている言葉、とくに天皇(制)にかかわる言葉にはきわめて重大な政治的・社会的意味が含まれているものが少なくありません。支配・被支配、差別を是認する天皇・皇室に対する敬語は、メディアも市民も使うべきではありません。


http://www.asyura2.com/19/senkyo266/msg/710.html
[政治・選挙・NHK266] メディアは「天皇・皇室報道」の敬語使用をやめよ(アリの一言) 
2019年10月24日 https://blog.goo.ne.jp/satoru-kihara/e/41492b2e1ea0c52538bd243b10e17321 | 

     

 「新聞週間」にあたって新聞大会が16日行われ、「新聞は、地域や世代を超えて互いに尊重し合える社会を支えていく」と決議しました。新聞倫理綱領には、「報道は正確かつ公正でなければなら(ない)」「自らと異なる意見であっても、正確・公正で責任ある言論には、すすんで紙面を提供する」とも明記されていいます。

  しかし、新聞をはじめとするメディアの現状は、この決議や倫理綱領とは程遠いと言わねばなりません。それを端的に示しているのが、「天皇・皇室報道」です。 

 9月19日、マスコミ倫理懇談会第63回全国大会が行われ、分科会で、「天皇代替わり報道」が検証されました。記者として皇室取材を経験したこともある森暢平成城大教授はこう述べました。
 「国民みんなが関心を持っているわけではないのに、全員がお祝いしている、両陛下ありがとうと言っているように見えたのが怖かった」(9月22日付沖縄タイムス) 

 さらに分科会では、「皇族の被災地訪問などで、美談ばかりが報道される理由も議論になり、通信社記者は『ネガティブな話を聞くこともあるが、直接本人に確認取材できない。そうすると美談ばかりが残ってしまう』と難しさを語った。
 福島民報社の円谷真路報道部長は、上皇ご夫妻(ママ)から『困ったことはありませんか』と尋ねられ、『ありません』と答えた東日本大震災の被災者が、実際は夜の寒さなど避難所生活に不満があったと紹介。『本音として報道する方が良いのかどうか』と問題提起した」(同沖縄タイムス)

 これ以上の報道がないので議論がさらに深まったのかどうか分かりませんが、この限りで言えば、「確認取材できない」とはなんたること。「ネガティブな話」を自ら取材して記事にするのが記者の仕事ではありませんか。「本音を報道するのが良いのかどうか」?「良い」に決まっている、いや、「本音を報道する」ことこそメディアの務めです。
 自ら検証することはもちろん必要ですが、こういうことで躊躇しているところに、メディアの「菊タブー」の根の深さが表れています。

 かつて評論家の松浦総三(1914〜2011)は、メディアの「天皇報道」は「戦前となんら変わるところがない」と指摘し、次の3点をあげました。「第一に敬語報道であり、第二に誇大報道であり、第三に大本営ばりの宮内庁による報道統制であろう」(『松浦総三の仕事@マスコミの中の天皇』大月書店1984年)

 松浦は「敬語」について、『世界大百科事典』(平凡社)の次の記述を引用しています(太字は松浦が傍点で強調した個所)。
 「本来の地盤は敬意である。敬意は、優越者・支配者の優越を是認しその支配を積極的に受け入れる態度にもとづいており、被支配の感情である。その優越関係が一つの地位また階級について固定した用語で表される場合には絶対敬語といわれる。皇室敬語や<陛下><殿下><閣下><殿>の使分けなどはその例で、これは制度によって敬意が強制されたのである

 続けて松浦はこう述べています。「傍点(太字)のところを、もう一回よく読んでいただきたい。天皇報道につかわれる敬語というのは、一言でいえば絶対敬語で、被支配者が支配者にたいして、支配をみとめて使用する言葉である」(前掲書)

 日本の「天皇・皇室報道」は抜本的に見直し改革されなければなりません。その手始めに、メディアは天皇・皇室に対する敬語の使用を直ちにやめるべきです。


http://www.asyura2.com/19/senkyo266/msg/711.html
[政治・選挙・NHK266] 関与取り消し訴訟 国追随の一方的な判決だ 

 政府の言い分だけを一方的に採用した、国追随の不当な判決だ。

 米軍普天間飛行場の名護市辺野古への移設を巡り、県の埋め立て承認撤回を取り消した国土交通相裁決の取り消しを求めた「関与取り消し訴訟」で、福岡高裁那覇支部が県の訴えを却下した。
 法をねじ曲げてでも地方の決定を押しつぶす政府の強権的なやり方に、裁判所がお墨付きを与えることになる。判決が地方自治や法治主義に及ぼす影響について重大な危惧を抱かざるを得ない。
 裁判で争われたのは、国民(私人)の権利・利益を救済するためにある行政不服審査法を、国の機関である沖縄防衛局が利用したことの適法性だった。
 公有水面埋立法は公有水面を「国ノ所有ニ属スル」と定める。国が都道府県知事から埋め立て権限を得る場合は「承認」であり、国以外の者は「免許」として別の制度とするなど、国の特別な地位を認めている。本来なら行政不服審査制度を利用できないはずの沖縄防衛局が、私人になりすまして制度を利用したことは違法だと県は訴えた。
 ところが判決は、埋め立て承認を巡り国とそれ以外で相違があることを認めておきながら、「本質部分における相違ではない」と県の主張を退けた。全く理解不能だ。
 米軍基地建設のための埋め立てという事業の目的を踏まえても、国は一般私人と異なる「固有の資格」を持つというのが当然の考え方だろう。国の立場をおもんぱかったような論理に、裁判所の存在意義を疑ってしまう。
 さらに、辺野古移設を推進する内閣の一員である「身内」同士による結論ありきの手続きという不公平性の指摘についても、判決は「審査請求人と審査庁のいずれもが国の機関となることは行政不服審査制度上当然に予定されている」と問題視しなかった。あまりの形式論だ。
 翁長県政で決定し、玉城県政へと引き継がれた埋め立て承認撤回を、どんな手段を使ってでも覆そうという意思を現政権が持っていることを裁判所も知らないはずがない。
 辺野古移設を「唯一の解決策」として埋め立てを強行する政府の手法は、法律を逸脱していないのか。行き過ぎた権力行使には歯止めをかけることが、三権分立の下で司法に課せられた役割のはずだ。
 玉城デニー知事は意見陳述で「国が一方的に決定を覆すことができる手法が認められれば、政府の方針に従わない地方公共団体の行政処分について強制的に意向を押し通すことができるようになる」と述べ、決して沖縄だけの問題ではないと強調していた。
 裁判官が時の権力におもねるような判断ばかりを示すならば、司法に対する信頼は失墜する。裁判官は良心に従い職権を行使する独立した存在であることを改めて強調しておきたい。

琉球新報社説 2019年10月24日
https://ryukyushimpo.jp/editorial/entry-1013254.html


http://www.asyura2.com/19/senkyo266/msg/714.html
[政治・選挙・NHK266] 離島に弾薬庫 強引な姿勢が目に余る 

 防衛省の強引な姿勢が目に余る。沖縄県宮古島市で地元の反対を押し切り、陸上自衛隊の弾薬庫建設を始めた。住民説明会も形だけだった。住民の信頼を失ったまま、円滑な防衛行政ができるのか。

 弾薬庫の建設地は宮古島の東南部、海岸に近い保良(ぼら)地区。防衛省沖縄防衛局は三日に地元の集会施設で説明会を開いたが、十人ほどが参加しただけだった。入り口の張り紙には「建設工事について」とあるだけ。「弾薬庫」などの文字がなく施設前まで来た約百人は抗議して入室を拒否した。

 物騒な言葉を隠せばやり過ごせると思ったのか。その不信感を解こうともせず、防衛局は四日後に着工した。建設現場で座り込みをするお年寄りらを警察官が無理やり排除する場面がここでも繰り返されている。やりきれない。

 建設地に隣接する保良、七又(ななまた)地区計二百二十世帯は八割以上の同意で弾薬庫建設反対を決定した。

 攻撃目標となることのほか、事故への不安が大きい。建設地と集落までは最短で約二百メートルしか離れていない。弾薬庫には地対艦、地対空ミサイルなどが保管予定だ。

 防衛局は火薬類取締法などに基づいて安全策を講じるとするが、防衛能力が推測されるとして保管弾薬量を明かさない。住民の生命を軽視してはいまいか。

 保良には旧日本軍も弾薬庫を置き、手榴(しゅりゅう)弾運搬中の事故で幼い子二人が亡くなる悲劇があった。そんな記憶が残る土地への対応はより誠実であるべきだろう。

 沖縄県の謝花喜一郎副知事も防衛省に工事停止と住民への十分な説明を求めている。何ら対応をしていない市は県と連携すべきだ。

 南西諸島の防衛力強化に向け宮古島の中央部にはことし三月、陸自の駐屯地が開設され三百八十人の警備部隊が配置された。防衛局への市民の不信はこのときから始まっている。「小銃などの保管庫」と説明された施設に迫撃砲弾や中距離ミサイルが保管されていたことが判明。当時の岩屋毅防衛相が国会で謝罪し、弾薬を島外に撤去する事態となった。駐屯地には本年度内にミサイル部隊も置かれる予定で、防衛局は早期の弾薬庫整備に迫られている。

 沖縄では本島の辺野古や石垣島でも災害問題を過小評価したり、負担増への反対意見を無視した基地工事が続く。本土でも地上配備型迎撃システム配備候補地でのずさんな住民対応が記憶に新しい。

 地域住民の理解なくして、防衛行政は成り立たない。


中日/東京新聞社説 2019年10月23日
https://www.chunichi.co.jp/article/column/editorial/CK2019102302000094.html
https://www.tokyo-np.co.jp/article/column/editorial/CK2019102302000134.html
http://www.asyura2.com/19/senkyo266/msg/716.html
[政治・選挙・NHK266] 123

<税を追う>ハワイ視察 実は名所巡り 総研大学長「綺麗なところ見たい」

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 先端分野の若手研究者を養成する国立大学法人「総合研究大学院大学」(本部・神奈川県葉山町)で 、長谷川真理子学長らが二〇一八年三月、国立天文台(本部・東京都三鷹市)との連携強化を目的にハワ イを視察した際、訪問先の七割が観光名所や土産店だったことが分かった。視察先の選定に当たり、長谷 川学長が「綺麗(きれい)なところを見たい」と火山見学を要望していた記録も残っていた。大学関係者は「 視察に名を借りた観光旅行だ」と問題視している。 (中沢誠)

 本紙が天文台への情報公開請求で入手した開示文書から判明した。

 視察は一八年三月二〜六日に実施。長谷川学長のほか永田敬副学長、中村幸男理事の執行部全員 と事務職員の計七人が、天文台の研究拠点のハワイ観測所などを訪ねた。七人の視察費は総額二百八万 円で、文部科学省から支給される運営費交付金を充てていた。

 天文台は、総研大生を受け入れてもらっている共同の研究機関の一つ。観測所にも総研大生一人が 在籍していることから視察した。

 開示資料によると、初日に観測所を訪問。二日目は天文台のすばる望遠鏡を見学し、三日目にハワ イ大学を視察する行程になっていた。視察費の申請書には、視察目的として「天文台との連係強化や業務 の効率化につなげる」とある。

 総研大によると、観測所や望遠鏡では総研大生や現地職員らと懇談したり、施設を見学したりして、と もに二時間ほど滞在。ハワイ大学の視察は日曜で要人との面会は行わず、学内の施設見学や庭園散策で 一時間ほど過ごしたという。

 ところが、視察では観光名所や土産店に多くの時間が割かれていた。

 総研大の藤原匡利総務課長は「学長と参加者の意向を踏まえ、天文台と調整して視察先を決めた」と 話す。総研大から天文台に送られたメールには、「火山見学について。できれば綺麗なところを見たいとの 希望がございます」「ホノルルについて。ハワイの自然があるところを見学できたらと申しております」などと 、長谷川学長の要望が伝えられていた。

 実際、長谷川学長の要望に沿うように、世界遺産に指定されているハワイ火山国立公園のキラウエア 火山や、「この木なんの木」のCMで知られるモアナルア・ガーデンなどガイドブックに紹介されるような観光 名所を訪ねていた。総研大の中村理事は「用務の途中に時間調整や休憩で立ち寄ったもので、用務の一 つと考えている」とする。

 これに対し、総研大元教員は「ハワイ観光するため、すばる望遠鏡を視察したとしか思えない」と憤る 。

◆「将来構想を策定する重要な活動」学長コメント

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 ハワイ視察について、長谷川学長=写真=は本紙の取材に大学を通じて「総研大の将来構想を策定 する上で、各基盤機関の訪問調査は最も重要な執行部活動。ハワイ視察は、この活動の一環としてとらえ ている」とコメント。「この海外拠点の視察は、総研大の国際共同研究の実態把握や学生の教育現場を肌で 感じることができ、新たな教育プログラムの構築につながった」と視察の意義を強調した。

 長谷川氏は二〇一七年四月から総研大学長を務めており、ハワイ視察は就任一年目。専門は自然人 類学で、野生のチンパンジーなどの研究を行ってきた。〇七〜一七年、国家公安委員会委員。新聞などに も寄稿している。

<総合研究大学院大学> 国内初の大学院だけの大学として、1988年に設立した国立大学法人。ノ ーベル賞をとれるような優れた研究者を養成しようという発想から生まれた。国立天文台ハワイ観測所のほ か、総研大生は国立民族学博物館や分子科学研究所など国内外にある22の共同研究拠点で研究を行い 、そこの教授らから指導を受ける。2018年度に国から受け取った運営費交付金は17億円余りで、収入全 体の8割を占める。19年5月現在、学生数は506人。



<税を追う>メールににじむ「観光気分」 総研大のハワイ視察 訪問先を綿密に相談

2018年3月3日、国立天文台のすばる望遠鏡を視察に訪れた総研大の長谷川学長ら=国立天文台提 供

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 ノーベル賞がとれるような研究者養成を目指す総合研究大学院大学の学長らが二〇一八年三月、半 ば観光のようなハワイ視察を行っていた。視察を巡る国立天文台とのメールには、「観光」について綿密に 打ち合わせする一方で、本来の視察を二の次とするようなやりとりが繰り返されていた。(中沢誠)

 「やっぱりメインは観光だったのか」。総研大の元教員が目を見張る。在職中、「学長たちがハワイに 遊びに行った」とのうわさが学内で流れていたという。

 そのうわさを裏づけるようなメールが国立天文台に残されていた。視察先のハワイ観測所やすばる望 遠鏡は天文台の研究拠点で、天文台が視察の調整を担っていた。総研大秘書室と天文台総務課、ハワイ 観測所は、視察の二カ月前から頻繁にやりとりしていた。

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 用務先以外の訪問について、総研大からは「綺麗なところが見たい」「ハワイの自然を見たい」など、 長谷川真理子学長の要望が度々伝えられていた。

 注目すべきは、視察直前の二〇一八年二月末、天文台総務課が観測所に送った依頼メールだ。

 すばる望遠鏡の視察前、人気土産店や観光名所を回るコースを「市内観光」と書いていた。メールを 送った職員は「よく覚えていない」と言葉を濁す。

 メールを受けた観測所側の回答からも、観光気分がうかがえる。「市内観光」にアロハシャツの名店も 加えるよう提案、道中で土産のチョコレートが溶けないかの心配までしていた。

 一方で、肝心の用務はどこかおざなりだ。

 視察三日目は日曜にもかかわらず、視察先に選んだのはハワイ大学だった。

 総研大は視察の二カ月も前に「先方の学長との面会は無しで大丈夫」と天文台に通知。天文台内部で 交わされたメールには「UH(ハワイ大学)はざっと見る程度でお願いしたいと伺っています」とあった。

 ハワイ大学では施設見学と庭園散策で一時間ほど滞在しただけ。その前後にはホノルルの観光名所 を訪れていた。

 観光地がめじろ押しでありながら、総勢七人という視察人数は異例だったようだ。直前にあった松山政 司・内閣府特命担当相(当時)のすばる望遠鏡視察を引き合いに出し、天文台の担当者はメールでこうつづ っている。「内閣府松山大臣に引き続き、総研大も全七名ご一行様です…。なんと係員が三名も!」

 総研大関係者は大臣並みの規模に「お供を引き連れた大名行列」と揶揄する。

 帰国後、長谷川学長が大学に提出した視察報告書は、たった二行。「国立天文台ハワイ観測所・ヒロ オフィスを訪問し、現地の視察や事務職員・学生との懇談を行った」。観光地訪問の記載は一切なかった。



<税を追う>人件費削減などで4400万円捻出 総研大、学長らは報酬増

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 若手研究者を育成する国立大学法人「総合研究大学院大学」(神奈川県葉山町)の学長らによるハワイ視察の訪問先の七割が観光地や土産店だった問題で、約二百万円の視察費は、財政悪化から職員人件費削減などで予算を見直す中で、新規に計上されていたことが分かった。 (中沢誠)

 人件費削減が進む一方、長谷川真理子学長と副学長、理事の執行部三人の報酬や賞与は増額されていたことも分かった。総研大関係者によると、ハワイ視察直後の学内の会議では、職員人件費を削って視察に行った執行部の対応に異論が出たという。

 長谷川氏は二〇一七年度に学長に就任。同年度の総研大の当初予算は前執行部が編成し、ハワイ視察費は計上されていなかった。総研大によると、一七年十一月に国立天文台との間でハワイ観測所への視察話が持ち上がったという。

 本紙が入手した総研大の内部資料によると、新執行部は年度途中に当初予算の見直しに着手。一八年一月の組み直しでは、人件費削減などで捻出した四千四百万円分の一部を、ハワイ視察費に再分配した。

 この際の組み直し予算の半分近い二千万円は、教職員の人件費削減で捻出された。多くは非常勤職員の勤務を、フルタイムから一日六時間の短時間に切り替えたことによるものだった。

 非常勤職員の人件費は一七年度末までに、前年度比17・5%減に当たる千二百七十万円をカット。一八年度はさらに七百四十万円が削られた。労働条件の悪化で退職者も相次ぎ、総研大によると、非常勤職員は一七年度だけで二十六人中十八人が退職した。人件費削減について、総研大の前田輝伸財務課長は「このままでいくと人件費の増加で、事業経費の逼迫(ひっぱく)が予想される」と説明。近年、国から国立大学の運営費交付金は減っており、収入の大半を交付金に依存する総研大も一六年度までの十年間で三億円の減収となっていた。

 学長ら執行部三人の報酬・賞与は一七年度から一八年度にかけ、長谷川学長が四十四万円増の千七百五十九万円、永田敬副学長と中村幸男理事も七十万円前後の上積みとなった。総研大は、就任一年で昇給する大学の報酬規定や人事院勧告を増額の理由としている。

◆戦略的な予算措置

<総研大の長谷川真理子学長のコメント> 学内予算編成については過去の予算編成を精査するとともに、各部局の役割分担、人員体制、業務の効率化などを検討し、年度途中での予算編成の見直しを断行することとした。その中で人件費削減の方針を打ち出し、戦略的、重点的な予算措置を行った。これらの大学業務を少ない執行部体制三人で実施することは、非常に大変なことであった。この状況に鑑み、現理事の報酬の昇給を決断した。

<総研大のハワイ視察> 国立天文台のハワイ観測所訪問を目的に2018年3月2〜6日、総研大から長谷川学長ら7人が参加。世界遺産のキラウエア火山や「この木なんの木」のCMで知られる公園などを訪れた。視察行程の調整では、長谷川学長が「綺麗(きれい)なところが見たい」などと天文台に注文を付けていた。

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<税を追う>総研大「予算がない」と人件費カット 「頑張ったのに搾取された…悔しい」元職員

 半ば観光のようなハワイ視察を行っていた総合研究大学院大学学長らは、「予算がない」と教職員に痛みを強いる裏で、自分たちの報酬や賞与を引き上げていた。「増額に相当するだけの仕事をした」と開き直る執行部。労働条件を下げられ退職せざるを得なかった元非常勤職員の女性は、悔しさをにじませる。 (中沢誠)

 視察の半年前の二〇一七年八月、神奈川県葉山町の総研大本部の講堂に教職員が集められた。右肩下がりを続ける国からの運営費交付金と、増加する人件費のグラフを示したペーパーが全員に配られた。

 今後の大学運営について一通り説明した長谷川真理子学長が、こう語り掛けた。「現在の本学の財政状況は本当に大変なことなので、ご理解いただいた上で、皆さん一緒に頑張ってほしい」。続いて登壇した財務担当の中村幸男理事は、早急な人件費削減の必要性を訴えた。 

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 説明会から間もなく、女性職員は短時間勤務への移行を聞かされた。「辞めろって言われているようなもの。これでは生きていけませんよ」。短時間勤務になると年収は三百万円から百八十万円に減る。再就職先を探すほかなかった。

 教職員に痛みを強いる一方で、ハワイ視察に出掛け、自分たちの報酬・賞与を引き上げていた学長、副学長、常勤理事の執行部三人に対し、退職した複数の元教職員からも「お手盛り」との声が上がる。

 中村理事は本紙の取材に「執行部は三人体制で、ほとんど休日も出るかたちで働いてきた。それ(増額)に相当するだけの仕事をしてきた自負がある」と主張。教職員の人件費削減については「他の研究機関では非常勤職員の短時間勤務は当たり前。総研大だけフルタイムなのは事務の効率化という意味でおかしい」と気色ばんだ。

 女性職員は総研大を辞めた後、学長らのハワイ視察の話を人づてに聞いた。「あんなにお金がない、お金がないって言ってたのに」。本紙が入手した視察の日程表を見ると絶句し、「観光地ばっかり、何のための視察なんですか。やりたい放題ですね」とため息をついた。

 「私だって、ずっと総研大で働き続けたかったですよ。でも、頑張っても搾取されるだけ」。最後は消え入るような声でつぶやいた。「…悔しい」



<税を追う>
ハワイ視察 実は名所巡り 総研大学長「綺麗なところ見たい」 2019年10月11日 朝刊
メールににじむ「観光気分」 総研大のハワイ視察 訪問先を綿密に相談 2019年10月24日 朝刊
人件費削減などで4400万円捻出 総研大、学長らは報酬増 2019年10月24日 朝刊
総研大「予算がない」と人件費カット 「頑張ったのに搾取された…悔しい」元職員 2019年10月24日 朝刊



http://www.asyura2.com/19/senkyo266/msg/760.html
[お知らせ・管理21] 2019年10月 削除依頼・投稿制限・等管理スレ。突然投稿できなくなった方も見てください。 管理人さん
234. 肝話窮題[7] isyYYouHkeg 2019年10月26日 22:38:40 : KzsKwpDjm2 : NEZCVnVxTW5zNjY=[54]
 
件名を間違えました。
下記記事の削除をお願いします。

http://www.asyura2.com/19/senkyo266/msg/760.html

http://www.asyura2.com/13/kanri21/msg/570.html#c234

[政治・選挙・NHK266] <税を追う>総研大 ハワイ視察は「観光気分」 人件費カットし学長らは報酬増(東京新聞) 

<税を追う>ハワイ視察 実は名所巡り 総研大学長「綺麗なところ見たい」

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 先端分野の若手研究者を養成する国立大学法人「総合研究大学院大学」(本部・神奈川県葉山町)で 、長谷川真理子学長らが二〇一八年三月、国立天文台(本部・東京都三鷹市)との連携強化を目的にハワ イを視察した際、訪問先の七割が観光名所や土産店だったことが分かった。視察先の選定に当たり、長谷 川学長が「綺麗(きれい)なところを見たい」と火山見学を要望していた記録も残っていた。大学関係者は「 視察に名を借りた観光旅行だ」と問題視している。 (中沢誠)

 本紙が天文台への情報公開請求で入手した開示文書から判明した。

 視察は一八年三月二〜六日に実施。長谷川学長のほか永田敬副学長、中村幸男理事の執行部全員 と事務職員の計七人が、天文台の研究拠点のハワイ観測所などを訪ねた。七人の視察費は総額二百八万 円で、文部科学省から支給される運営費交付金を充てていた。

 天文台は、総研大生を受け入れてもらっている共同の研究機関の一つ。観測所にも総研大生一人が 在籍していることから視察した。

 開示資料によると、初日に観測所を訪問。二日目は天文台のすばる望遠鏡を見学し、三日目にハワ イ大学を視察する行程になっていた。視察費の申請書には、視察目的として「天文台との連係強化や業務 の効率化につなげる」とある。

 総研大によると、観測所や望遠鏡では総研大生や現地職員らと懇談したり、施設を見学したりして、と もに二時間ほど滞在。ハワイ大学の視察は日曜で要人との面会は行わず、学内の施設見学や庭園散策で 一時間ほど過ごしたという。

 ところが、視察では観光名所や土産店に多くの時間が割かれていた。

 総研大の藤原匡利総務課長は「学長と参加者の意向を踏まえ、天文台と調整して視察先を決めた」と 話す。総研大から天文台に送られたメールには、「火山見学について。できれば綺麗なところを見たいとの 希望がございます」「ホノルルについて。ハワイの自然があるところを見学できたらと申しております」などと 、長谷川学長の要望が伝えられていた。

 実際、長谷川学長の要望に沿うように、世界遺産に指定されているハワイ火山国立公園のキラウエア 火山や、「この木なんの木」のCMで知られるモアナルア・ガーデンなどガイドブックに紹介されるような観光 名所を訪ねていた。総研大の中村理事は「用務の途中に時間調整や休憩で立ち寄ったもので、用務の一 つと考えている」とする。

 これに対し、総研大元教員は「ハワイ観光するため、すばる望遠鏡を視察したとしか思えない」と憤る 。

◆「将来構想を策定する重要な活動」学長コメント

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 ハワイ視察について、長谷川学長=写真=は本紙の取材に大学を通じて「総研大の将来構想を策定 する上で、各基盤機関の訪問調査は最も重要な執行部活動。ハワイ視察は、この活動の一環としてとらえ ている」とコメント。「この海外拠点の視察は、総研大の国際共同研究の実態把握や学生の教育現場を肌で 感じることができ、新たな教育プログラムの構築につながった」と視察の意義を強調した。

 長谷川氏は二〇一七年四月から総研大学長を務めており、ハワイ視察は就任一年目。専門は自然人 類学で、野生のチンパンジーなどの研究を行ってきた。〇七〜一七年、国家公安委員会委員。新聞などに も寄稿している。

<総合研究大学院大学> 国内初の大学院だけの大学として、1988年に設立した国立大学法人。ノ ーベル賞をとれるような優れた研究者を養成しようという発想から生まれた。国立天文台ハワイ観測所のほ か、総研大生は国立民族学博物館や分子科学研究所など国内外にある22の共同研究拠点で研究を行い 、そこの教授らから指導を受ける。2018年度に国から受け取った運営費交付金は17億円余りで、収入全 体の8割を占める。19年5月現在、学生数は506人。



<税を追う>メールににじむ「観光気分」 総研大のハワイ視察 訪問先を綿密に相談

2018年3月3日、国立天文台のすばる望遠鏡を視察に訪れた総研大の長谷川学長ら=国立天文台提 供

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 ノーベル賞がとれるような研究者養成を目指す総合研究大学院大学の学長らが二〇一八年三月、半 ば観光のようなハワイ視察を行っていた。視察を巡る国立天文台とのメールには、「観光」について綿密に 打ち合わせする一方で、本来の視察を二の次とするようなやりとりが繰り返されていた。(中沢誠)

 「やっぱりメインは観光だったのか」。総研大の元教員が目を見張る。在職中、「学長たちがハワイに 遊びに行った」とのうわさが学内で流れていたという。

 そのうわさを裏づけるようなメールが国立天文台に残されていた。視察先のハワイ観測所やすばる望 遠鏡は天文台の研究拠点で、天文台が視察の調整を担っていた。総研大秘書室と天文台総務課、ハワイ 観測所は、視察の二カ月前から頻繁にやりとりしていた。

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 用務先以外の訪問について、総研大からは「綺麗なところが見たい」「ハワイの自然を見たい」など、 長谷川真理子学長の要望が度々伝えられていた。

 注目すべきは、視察直前の二〇一八年二月末、天文台総務課が観測所に送った依頼メールだ。

 すばる望遠鏡の視察前、人気土産店や観光名所を回るコースを「市内観光」と書いていた。メールを 送った職員は「よく覚えていない」と言葉を濁す。

 メールを受けた観測所側の回答からも、観光気分がうかがえる。「市内観光」にアロハシャツの名店も 加えるよう提案、道中で土産のチョコレートが溶けないかの心配までしていた。

 一方で、肝心の用務はどこかおざなりだ。

 視察三日目は日曜にもかかわらず、視察先に選んだのはハワイ大学だった。

 総研大は視察の二カ月も前に「先方の学長との面会は無しで大丈夫」と天文台に通知。天文台内部で 交わされたメールには「UH(ハワイ大学)はざっと見る程度でお願いしたいと伺っています」とあった。

 ハワイ大学では施設見学と庭園散策で一時間ほど滞在しただけ。その前後にはホノルルの観光名所 を訪れていた。

 観光地がめじろ押しでありながら、総勢七人という視察人数は異例だったようだ。直前にあった松山政 司・内閣府特命担当相(当時)のすばる望遠鏡視察を引き合いに出し、天文台の担当者はメールでこうつづ っている。「内閣府松山大臣に引き続き、総研大も全七名ご一行様です…。なんと係員が三名も!」

 総研大関係者は大臣並みの規模に「お供を引き連れた大名行列」と揶揄する。

 帰国後、長谷川学長が大学に提出した視察報告書は、たった二行。「国立天文台ハワイ観測所・ヒロ オフィスを訪問し、現地の視察や事務職員・学生との懇談を行った」。観光地訪問の記載は一切なかった。



<税を追う>人件費削減などで4400万円捻出 総研大、学長らは報酬増

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 若手研究者を育成する国立大学法人「総合研究大学院大学」(神奈川県葉山町)の学長らによるハワイ視察の訪問先の七割が観光地や土産店だった問題で、約二百万円の視察費は、財政悪化から職員人件費削減などで予算を見直す中で、新規に計上されていたことが分かった。 (中沢誠)

 人件費削減が進む一方、長谷川真理子学長と副学長、理事の執行部三人の報酬や賞与は増額されていたことも分かった。総研大関係者によると、ハワイ視察直後の学内の会議では、職員人件費を削って視察に行った執行部の対応に異論が出たという。

 長谷川氏は二〇一七年度に学長に就任。同年度の総研大の当初予算は前執行部が編成し、ハワイ視察費は計上されていなかった。総研大によると、一七年十一月に国立天文台との間でハワイ観測所への視察話が持ち上がったという。

 本紙が入手した総研大の内部資料によると、新執行部は年度途中に当初予算の見直しに着手。一八年一月の組み直しでは、人件費削減などで捻出した四千四百万円分の一部を、ハワイ視察費に再分配した。

 この際の組み直し予算の半分近い二千万円は、教職員の人件費削減で捻出された。多くは非常勤職員の勤務を、フルタイムから一日六時間の短時間に切り替えたことによるものだった。

 非常勤職員の人件費は一七年度末までに、前年度比17・5%減に当たる千二百七十万円をカット。一八年度はさらに七百四十万円が削られた。労働条件の悪化で退職者も相次ぎ、総研大によると、非常勤職員は一七年度だけで二十六人中十八人が退職した。人件費削減について、総研大の前田輝伸財務課長は「このままでいくと人件費の増加で、事業経費の逼迫(ひっぱく)が予想される」と説明。近年、国から国立大学の運営費交付金は減っており、収入の大半を交付金に依存する総研大も一六年度までの十年間で三億円の減収となっていた。

 学長ら執行部三人の報酬・賞与は一七年度から一八年度にかけ、長谷川学長が四十四万円増の千七百五十九万円、永田敬副学長と中村幸男理事も七十万円前後の上積みとなった。総研大は、就任一年で昇給する大学の報酬規定や人事院勧告を増額の理由としている。

◆戦略的な予算措置

<総研大の長谷川真理子学長のコメント> 学内予算編成については過去の予算編成を精査するとともに、各部局の役割分担、人員体制、業務の効率化などを検討し、年度途中での予算編成の見直しを断行することとした。その中で人件費削減の方針を打ち出し、戦略的、重点的な予算措置を行った。これらの大学業務を少ない執行部体制三人で実施することは、非常に大変なことであった。この状況に鑑み、現理事の報酬の昇給を決断した。

<総研大のハワイ視察> 国立天文台のハワイ観測所訪問を目的に2018年3月2〜6日、総研大から長谷川学長ら7人が参加。世界遺産のキラウエア火山や「この木なんの木」のCMで知られる公園などを訪れた。視察行程の調整では、長谷川学長が「綺麗(きれい)なところが見たい」などと天文台に注文を付けていた。

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<税を追う>総研大「予算がない」と人件費カット 「頑張ったのに搾取された…悔しい」元職員

 半ば観光のようなハワイ視察を行っていた総合研究大学院大学学長らは、「予算がない」と教職員に痛みを強いる裏で、自分たちの報酬や賞与を引き上げていた。「増額に相当するだけの仕事をした」と開き直る執行部。労働条件を下げられ退職せざるを得なかった元非常勤職員の女性は、悔しさをにじませる。 (中沢誠)

 視察の半年前の二〇一七年八月、神奈川県葉山町の総研大本部の講堂に教職員が集められた。右肩下がりを続ける国からの運営費交付金と、増加する人件費のグラフを示したペーパーが全員に配られた。

 今後の大学運営について一通り説明した長谷川真理子学長が、こう語り掛けた。「現在の本学の財政状況は本当に大変なことなので、ご理解いただいた上で、皆さん一緒に頑張ってほしい」。続いて登壇した財務担当の中村幸男理事は、早急な人件費削減の必要性を訴えた。 

写真

 説明会から間もなく、女性職員は短時間勤務への移行を聞かされた。「辞めろって言われているようなもの。これでは生きていけませんよ」。短時間勤務になると年収は三百万円から百八十万円に減る。再就職先を探すほかなかった。

 教職員に痛みを強いる一方で、ハワイ視察に出掛け、自分たちの報酬・賞与を引き上げていた学長、副学長、常勤理事の執行部三人に対し、退職した複数の元教職員からも「お手盛り」との声が上がる。

 中村理事は本紙の取材に「執行部は三人体制で、ほとんど休日も出るかたちで働いてきた。それ(増額)に相当するだけの仕事をしてきた自負がある」と主張。教職員の人件費削減については「他の研究機関では非常勤職員の短時間勤務は当たり前。総研大だけフルタイムなのは事務の効率化という意味でおかしい」と気色ばんだ。

 女性職員は総研大を辞めた後、学長らのハワイ視察の話を人づてに聞いた。「あんなにお金がない、お金がないって言ってたのに」。本紙が入手した視察の日程表を見ると絶句し、「観光地ばっかり、何のための視察なんですか。やりたい放題ですね」とため息をついた。

 「私だって、ずっと総研大で働き続けたかったですよ。でも、頑張っても搾取されるだけ」。最後は消え入るような声でつぶやいた。「…悔しい」



<税を追う>
ハワイ視察 実は名所巡り 総研大学長「綺麗なところ見たい」 2019年10月11日 朝刊
メールににじむ「観光気分」 総研大のハワイ視察 訪問先を綿密に相談 2019年10月24日 朝刊
人件費削減などで4400万円捻出 総研大、学長らは報酬増 2019年10月24日 朝刊
総研大「予算がない」と人件費カット 「頑張ったのに搾取された…悔しい」元職員 2019年10月24日 朝刊



http://www.asyura2.com/19/senkyo266/msg/762.html
[政治・選挙・NHK266] 徳仁天皇「即位宣明」の3つの重大問題(アリの一言) 

徳仁天皇「即位宣明」の3つの重大問題

2019年10月26日
https://blog.goo.ne.jp/satoru-kihara/e/7b4eef3bd4518cd84313f6bc741857f6

     

 22日の「即位礼正殿の儀」で徳仁天皇が行った「即位宣明(お言葉)」に対し、「国民に寄り添う」「平和への決意」などと報道は賛美一色です。ハンギョレ新聞ですら、「『平和』と『憲法』を取り上げて論じたことは意味が大き(い)」(23日付社説)と評価しています。こうした賛美・評価ははたして妥当でしょうか。
 「宣明」には少なくとも3つの重大な問題があります。

 @   「正殿の儀」による「即位宣明」自体が憲法違反

 「宣明」は、「ここに『即位礼正殿の儀』を行い、即位を内外に宣明いたします」と述べました。「正殿の儀」によって正式に即位しそれを宣言する。それが「宣明」の意味であり、「正殿の儀」自体の目的もそこにあります。

  しかし、広く指摘されているように、「三種の神器」を置いた「高御座」は天照大神の座で、「天孫降臨」の神道に基づく明確な宗教儀式です。それを国事行為として国費を投じて行うことは政教分離に反する明白な憲法違反です。

 さらに、天皇が高い位置から即位を「宣明」し、それを受けて首相が壇下から「お祝い(寿詞)」を述べ、「天皇陛下万歳」を三唱するのは、「国民を主権者と明示した日本国憲法と真っ向から反する、主客転倒した儀式」(渡辺治一橋大名誉教授)にほかなりません。

 憲法違反の儀式における憲法違反の「宣明」を賛美・評価することなどできないことは明白です。

 A   憲法違反を犯しながら「憲法にのっとり」という欺瞞

 「宣明」が「憲法にのっとり」と言ったことを評価したり、「憲法を順守」と比較して論評する向きがありますが、「順守」であろうと「のっとり」であろうと、徳仁天皇が護憲を口にしたことは確かで、そのこと自体が問題です。

 前述のように徳仁天皇が行った「宣明」自体が憲法を逸脱しています。自ら憲法違反を犯しながら、「憲法にのっとり」と護憲を口にする。これほどの欺瞞はありません。
 それは、第1に「正殿の儀」の違憲性を覆い隠し、第2に天皇自らの違憲行為を隠ぺいする、二重の違憲隠ぺいと言わねばなりません。

 B   明仁前天皇の継承は、憲法逸脱、戦争責任・植民地支配責任隠ぺいの継承

 「宣明」は、「上皇陛下が30年以上にわたるご在位の間…お示しになってきたことに改めて深く思いを致し…」として、明仁前天皇の活動を引きつぐことを明言しました。これが「宣明」全体の基調です。新聞各紙あるいは多くの「識者」もその点を肯定・評価しています。これはきわめて問題です。

 明仁前天皇が在任中に行ったことは何だったでしょうか。「被災地訪問」「戦地慰霊」「福祉施設訪問」などパフォーマンスは活発でしたが、その言動の本質は2つあったといえます。

 1つは、憲法(第6条、7条)に規定されている「天皇の国事行為」を逸脱し、いわゆる「公的活動(天皇としての活動)」なるものを勝手に作り出し、拡大していったことです。その典型・帰結は、憲法違反の「生前退位」でした。
 こうした「公的活動」、天皇自身の意思による公的言動が、第6条、第7条および第2条(皇位継承)、第5条(摂政)、第4条(国政への関与禁止)などに反していることは明らかです。

 もう1つは、父・裕仁天皇の侵略戦争・植民地支配責任を一貫して隠ぺいし、逆に裕仁を擁護してきたことです。
 明仁天皇が沖縄に11回行ったことが美談のように語られていますが、11回も行きながら、裕仁が沖縄を「捨て石」にし、戦後は「国体護持」のために沖縄をアメリカに売り渡した責任について言及・謝罪したことは1度もありません。
 それどころか、明仁天皇は折に触れ(誕生日会見などで)、裕仁を「尊敬している」と擁護し持ち上げてきました。

 明仁路線を賛美し引き継ぐことは、こうした憲法違反の公的・政治的言動、戦争責任・植民地支配責任隠ぺいを引き継ぐことにほかなりません。

 明仁天皇在任中、安倍晋三首相との対比で、天皇を「平和・民主の人」と美化する論調が、いわゆる「民主勢力」の中にも少なくありませんでした。それは重大な誤りです。同じ誤りを徳仁天皇に対しても繰り返すことは許されません。


http://www.asyura2.com/19/senkyo266/msg/763.html
[政治・選挙・NHK266] 《辺野古判決》 「脱法行為」許した司法 / 国の不当性は拭えない / 地方自治の理念歪める

辺野古判決 「脱法行為」許した司法

 法の趣旨を踏みにじる政府の行いを、法を守らせるべき裁判所が追認する。とうてい納得できない判決だ。

 沖縄・辺野古の埋め立て工事をめぐり県と国が争っている訴訟で、福岡高裁那覇支部は県側敗訴の判決を言い渡した。

 昨夏、海底に軟弱地盤が広がっていることが発覚したのを受けて、県が埋め立て承認を撤回したのが発端だった。防衛当局は直ちに、埋め立て法を所管する国土交通相に対し県の措置の取り消しを求め、望みどおりの裁決を得て工事を強行した。

 このとき使われたのが、行政の誤った処分などから国民の権利・利益を守るために定められている行政不服審査法だった。まさに「奇策」というべきで、多くの行政法の研究者らから批判や疑問の声があがった。

 県側も、この法律に基づいて不服申し立てができるのは、個人や企業などの私人に限られると主張した。だが判決は、たしかに埋め立て法には私人と国とで扱いに異なる部分はあるが、本質において両者に違いはないと述べ、法の抜け穴をくぐる国のやり方を容認した。

 もう一つの争点をめぐる判断にもあきれる。県側は、同じ内閣の一員である国交相に公平中立な審査は期待できず、裁決は違法だと訴えていた。埋め立て事業は閣議決定のうえで進められており、その実現は政権の最重要課題になっている。

 これについても判決は「閣議決定があったからといって、大臣の判断を直ちに拘束するものとはいえない」として、県側の主張をあっさり退けた。

 建前はそうかもしれない。だが首相は閣僚の任免権を持つ。経緯や辺野古を取り巻く情勢を見れば、国交相に独自の判断ができないのは自明ではないか。

 判決は「首相からの具体的な指示などがなされたことをうかがわせる証拠はない」とも述べている。現実を見ず、県側に事実上不可能な立証を求めて、政府の不実を不問に付した判決。そういうほかない。br>
 今回の政府の手法が認められれば、この先、外交・防衛やエネルギー政策などの国策に関して国と地方が対立した際に、同じことが繰り返される恐れがある。決して沖縄だけの問題ではない。だからこそ玉城デニー知事は法廷で、「国と地方のあり方が正面から問われる」と訴えた。しかし裁判所がこの声に向き合うことはなかった。

 常識に照らしておかしくても、相応の理屈が通っていれば認めざるを得ないのが裁判だ、というのかもしれない。だが、物事の本質から目を背けた判断を続けていれば、司法に対する信頼は失われるばかりだ。 


朝日新聞社説 2019年10月26日
https://www.asahi.com/articles/DA3S14232027.html?iref=editorial_backnumber




沖縄辺野古訴訟 国の不当性は拭えない

 司法は沖縄にどうしろというのか。

 米軍普天間飛行場の名護市辺野古移設を巡り、国土交通相が裁決で取り消した「埋め立て承認撤回」の効力回復を求めた訴訟の判決が、福岡高裁那覇支部であった。「訴訟の対象にならない」として沖縄県の訴えを却下している。

 政府は県のルールをないがしろにし、住民の反対を押し切って工事を進めている。和解を促すでもなく、国の主張を全面的に認める判断には納得できない。

   県が昨年8月、軟弱地盤の存在などを理由に辺野古沿岸部の埋め立て承認を撤回したのが、今回の訴訟の発端だった。

 防衛省は行政不服審査制度に基づき審査を請求。国交相はすぐに撤回の効力を停止し、今年4月に正式に取り消した。

 制度は、行政の不当な権限の行使から国民を守るためにある。県は制度の乱用を主張したが、高裁は「埋め立て承認や撤回について国の機関は一般私人と同様の立場だ」として退けている。

   同じ国の機関が審査することが「直ちに違法にはならない」とも断じた。選手と審判を兼ねるような手法はいかにも不自然だ。

 日米両国は1996年、普天間飛行場を日本に返し、代替施設を用意することで合意した。もともと米軍基地内にヘリポートを新設する内容だった代替施設は、普天間にはない強襲揚陸艦の接岸機能や弾薬搭載エリアを備える「新基地」建設にすり替わった。

 安倍晋三政権は、海洋環境を守る県の規則に反してまでも工事を強行してきた。国政選挙や県民投票で繰り返し示された移設反対の民意にも耳を貸さない。

 県知事が自由に使える一括交付金を過去最低額に下げ、国が直接市町村を支援する交付金は増額して予算面でも揺さぶりをかけている。姑息(こそく)というほかない。

   沖縄が度重なる裁判で訴え続けているのは、こうした国の不当性にほかならない。

 軟弱地盤の改良が必要になったことから、当初計画の工期5年、事業費2400億円の膨張は避けられそうにない。県の試算では工期13年、費用は最大2兆5500億円となっている。国民の理解を得られるのか。

   地方自治を度外視した手法がまかり通れば、国がいったん決めたら何でも造れるという悪しき前例になりかねない。全国知事会をはじめ地方6団体は、安倍政権に強く抗議し、対話という最低限の誠意を示すよう迫るべきだ。


信濃毎日新聞社説 2019年10月25日
https://www.shinmai.co.jp/news/nagano/20191025/KT191024ETI090003000.php




辺野古で県敗訴 地方自治の理念歪める

 沖縄県が辺野古新基地建設阻止のため国を相手に起こした訴訟で、県が敗訴した。法治の規範であるべき国が、法の恣意(しい)的運用で地方自治を封じ込める−。そんな手法を認めた判決は納得し難い。

 福岡高裁那覇支部が二十三日、判決を言い渡した裁判は「国の関与取り消し訴訟」と呼ばれる。

 新基地建設を巡り、県は昨年八月、埋め立て承認を撤回。防衛省沖縄防衛局は行政不服審査法(行審法)に基づき、埋め立てを所管する国土交通相に審査請求し国交相は四月、撤回を無効にする裁決をした。これを根拠に防衛局は埋め立て工事を進めている。

   県の主張は主に (1)行審法は国民(私人)の権利救済を目的としており防衛局は審査請求できない (2)防衛局と同じ内閣の一員である国交相が申し立てを審査するのは公正さを欠く の二点。国の手続きの是非のみを争点に違法な請求に基づく裁決を取り消せと訴えた。

 高裁判決は、国の言い分を全面的に認め、県の請求を却下した。

 埋め立ては民間業者も行う事業で、県もそれと同様に許認可を判断したのだから防衛局にも民間人と同じ権利がある、国交相の権限乱用もなかった、と認定した。

   防衛局が私人とはどう考えてもおかしい。海上保安庁が立ち入りを規制する海域で基地を建設するのは、国の専権事項である防衛のため。行審法はこうした「固有の資格」を持つ国の機関は審査請求ができないと定めている。国交相の裁決も「選手とアンパイアが同じ立場」という玉城デニー知事の主張の方に利がある。

 翁長前県政時代からの県と国との訴訟は八件に上るが、国の裁決に関して判決が出たのは初めて。 

 多くの行政法学者が「法治国家に悖(もと)る」と批判した強引な法の運用で自治体の決定を覆すことが許されるなら、憲法がうたう地方自治の理念は大きく歪(ゆが)む。三権分立の観点からも司法の中立的判断が期待されたが、県の主張は退けられた。県は上告する方針だ。

 県は並行して承認撤回の正当性を問う訴訟を那覇地裁に起こしており、来月弁論が始まる。

 七割超が辺野古埋め立てに反対した県民投票結果なども審理の対象となる。今回の訴訟の上告審と合わせて司法は、沖縄の民意や地方自治の在り方に向き合って審理を尽くすべきだ。

 政府も勝訴したとはいえ、玉城氏が弁論で訴えた国と地方の「対等・協力の関係」構築に向けた努力を怠ってはならない。


中日/東京新聞社説 2019年10月25日
https://www.chunichi.co.jp/article/column/editorial/CK2019102502000110.html
https://www.tokyo-np.co.jp/article/column/editorial/CK2019102502000143.html

 


http://www.asyura2.com/19/senkyo266/msg/766.html
[政治・選挙・NHK266] 夕張山中に大量の「枯れ葉剤」 国有林に埋まる猛毒の謎(朝日新聞) 

夕張山中に大量の「枯れ葉剤」 国有林に埋まる猛毒の謎

写真・図版
林野庁空知森林管理署が立てた立ち入り禁止看板=2019年9月27日午後2時19分、北海道夕張市

写真・図版
「245T」剤が埋設された現場。雑草が生い茂った盛り土地が、鉄杭と有刺鉄線で囲まれていた=2019年9月27日午後2時2分、北海道夕張市

    写真・図版
    「枯れ葉剤の主成分の毒物が埋設された国有林の一角を視察する北九州市立大の原田和明さんら=2019年9月27日午後1時51分、北海道夕張市

    写真・図版
    北海道の国有林で枯れ葉剤(245T剤)が埋設されている市町村



     猛毒の化合物ダイオキシンを含む除草剤(枯れ葉剤)が全国の国有林に埋まっているのをご存じだろうか。1970年代、政府の手によって埋設された。何のために製造され、埋められたのか。ベトナム戦争との関係を指摘する声もある。

    雑草が生い茂る山中のくぼ地に……

     北海道夕張市南部の山中に、大量の除草剤が埋設されている――。

     こんな情報を北九州市立大国際環境工学部の職員、原田和明さん(60)から受け取った。記者は9月27日午後、原田さんの調査に同行し、国有林に入った。林野庁北海道森林管理局の許可を得て、ふだんは立ち入り禁止の未舗装道路を車で進んでいった。

     10分もたたないうちに雑草が生い茂ったくぼ地に出た。もともとは石炭の露天掘りをしていた場所で、鉄杭が刺さっているのが見えた。杭は有刺鉄線で囲まれ、立ち入り禁止の看板が2本。空知森林管理署の名で「この区域に2・4・5・T剤が埋めてありますので立入を禁止します」とある。

     林野庁などの資料では、夕張の国有林に埋められた245T剤の量は600キログラムに上る。

     245T剤とは、除草剤の一種…こちらは有料会員限定記事です。残り:2172文字/全文:2628文字。有料会員になると続きをお読みいただけます。


    http://www.asyura2.com/19/senkyo266/msg/771.html
[政治・選挙・NHK266] 北原みのり「せめて政治家を変えたい」(週刊朝日) 

北原みのり「せめて政治家を変えたい」

連載「ニッポン スッポンポンNEO」

週刊朝日
https://dot.asahi.com/print_image/index.html?photo=2019102400011_1

 

作家・北原みのり氏の週刊朝日連載「ニッポンスッポンポンNEO」。今回は安倍首相に対する辻元清美議員の質問について。


北原みのり(きたはら・みのり)/1970年生まれ。作家、女性のためのセックスグッズショップ「ラブピースクラブ」代表


イラスト/田房永子

*  *  *

 10月11日の衆院予算委員会で辻元清美議員の質問が見事だった。例によって安倍晋三首相は「久々に辻元さんのご質問を受けて緊張しております」とニヤニヤと答え、その様子に自民党議員から野卑な笑い声があがった。

 辻元さんは、なにかあれば「悪夢のような民主党政権」とか、民主党政権と比べてどれだけ経済発展したかということを喧伝(けんでん)する安倍さんに、原発を安全だと言い続け原発大国にした自民党政権の責任を問い、人類史上最悪の原発事故を味わった政権時代の経済状況を鬼の首を取ったように批判するなと釘を刺した。

 また、憲法改正に意気込みを見せる安倍さんが、実は国会の憲法審査会(調査会)に、19年間でたった一度しか出席していないことを指摘した。それも代理として顔を出しただけで、自分が発言した後は他の人の意見を聞かずにすぐに帰ったことを、辻元さんは記憶していた。

 憲法審査会で、現職の議員で最も発言しているのは笠井亮氏の358回で、辻元さん自身は239回だという。また安倍さんの盟友だった中川昭一議員は辻元さんとは全く憲法の考え方は違ったが、共にヨーロッパに憲法調査に行き議論を戦わせたというエピソードも披露した。その中川氏は憲法審査会で209回発言していたという。

 数字を明確に述べた後、辻元さんは息をはくように重々しくこう言った。

「私たちはずっとやってきたんです」

 それに対し安倍さんは「議論が大切だ」とは言うが、今までの憲法論議の積み重ね、ご理解なさってないのではないですか? ちなみに岸田文雄政調会長も一度も参加していないという。

 辻元さんは、安倍さんの憲法改正についての「考え方、立場の異なるものが議論し、合意を形成するプロセスが政治」という発言を紹介した。それでも、そのような議論を避け、違う声を力と数で潰し、女性議員を鼻で笑うようにして逃げてきたのではないか。

 この翌日、台風が来た。また多くの人が亡くなり、多くの人が生活を奪われ、多くの人が絶望の淵に立たされている。絶望の淵に立たされても、未来が見えればそこは本当の絶望ではない。でも、原発事故後の処理や、アメリカからの武器の大量輸入などで金のない日本が、もはや古い電柱をなおす余力すらなくなっていることを、自然災害の度に突きつけられている今、未来が見えない。

 東日本大震災のとき、辻元さんは首相補佐官に就任し、ボランティア担当になられた。被災地のプライバシーが大切だと、すぐに4万枚のパーテーションを避難所にも送られている。残念ながら、多くの避難所がパーテーションを放置したままで、そしていまだに日本の避難所は、全く仕切りのない寒い体育館に人々が「放置」されている状況だ。

 人の命が軽い。言葉が軽い。本当のことを言うのは誰か。ウソをついているのは誰か。本当に働いているのは誰か。

 自然災害から逃れられないのであれば、せめて政治家を変えたい。

※週刊朝日  2019年11月1日号


http://www.asyura2.com/19/senkyo266/msg/791.html
[政治・選挙・NHK266] 「即位礼」と沖縄・「皇室世論調査」が示すもの(アリの一言) 

 2019年10月27日
日曜日記72
 

 ☆「即位礼」と沖縄

 「即位礼正殿の儀」(22日)に王貞治や澤穂希、松本白鴎らが招待され、嬉々として参列したことは別に珍しくもないが、沖縄の相良倫子さん(15)が参列したことには心が痛んだ。
 相良さんは昨年の「沖縄慰霊の日」(6月23日)で「平和の詩」を読み上げた(当時中学3年)ことが“評価”されて招待された。儀式後、相良さんが「平和を祈り、願う気持ちは陛下も私も同じ」(23日付琉球新報)とコメントしたようすはテレビでも流された。;

 沖縄の青年が「陛下」(天皇への忠臣の表明)という言葉を使ってこうしたコメントをし、それを沖縄の県紙が好意的に大きく報じる。なんともやるせない。そう仕向けた「本土」の国家権力に怒りが湧いてくる。

 相良さんだけではない。NHKはこの日、朝の放送開始から深夜まで「即位礼」一色だったが、その中で何度か沖縄の国立戦没者慰霊碑と中継し、遺族代表に天皇賛美のコメントをさせた。

 明仁天皇の「在位30年記念式典」(2月24日)もそうだった。沖縄出身の三浦大知を起用し、天皇賛美の歌を歌わせた。天皇・皇室の重要な儀式があるたびに「沖縄」を引き込む。

 「沖縄」に負い目があるからだ。沖縄を捨て石にして地上戦の地獄をつくり、戦後は「天皇メッセージ」で沖縄をアメリカに売り渡したのは、天皇裕仁だ。その責任に一貫してほうかむりする一方、逆に「沖縄」を取り込もうとする。これは今日版皇民化政策にほかならない。

 琉球新報、沖縄タイムスを含め沖縄の人々がそれに疑問を持たず、むしろ歓迎しているようにみえるのはきわめて不幸なことだ。いや、そういう状況をつくりだしている「本土」の「日本人」こそ、罪が深い。

 ☆最新「皇室世論調査」が示すもの

  「即位の礼」の前日、NHKは皇室に関する世論調査結果を流した。それによれば、「皇室への親しみ」…「感じている」71%、「感じていない」27%。「皇室と国民の距離」…「近くなった」69%、「変わらない」24%、「遠くなった」3%。
  これをNHKは「7割が皇室に親しみ」との見出しで皇室が国民から親しみを持たれていると報じた。そうだろうか。

 2つの質問項目に対する回答傾向はぴったり一致している。27%の「国民」は皇室に「親しみ」を感じていない、距離も近くなったとは思っていない、ということだ。
 この数字はきわめて大きい。なにしろ、NHKはじめすべてのメディアが天皇・皇后、秋篠宮家をはじめとする皇室の動きを逐一賛美する報道を流し続けている中で、しかも「即位礼」を目前にして行われたNHKの世論調査だ。ほとんどが「親しみを感じている」と答えてもおかしくない。
 にもかかわらず約3割が「ノー」と答えた。国家・メディアがどんなに笛を吹いても、踊らない「国民」がこれだけいるということだ。

 憲法第1条は、天皇の「象徴の地位」は「主権の存する日本国民の総意に基づく」としている。「象徴天皇制」の土台だ。しかし、約3割の「国民」はそうは思っていないということだ。「親しみ」を感じられない「象徴」などありえない。少なくとも「象徴の地位」が「国民の総意」でないことは否定できない事実だ。「3割」はけっして無視できる数字ではない。「象徴天皇制」は根本から問い直されなければならない。


https://blog.goo.ne.jp/satoru-kihara/e/70f5fff6518ffb757f016ef70308ec15
http://www.asyura2.com/19/senkyo266/msg/792.html
[政治・選挙・NHK266] 《菅原経産相の辞任》 首相の任命責任は重大だ / 問われる任命責任 / 重要ポストになぜ起用 / 首相の任命責任こそ問われる / これで幕引き許されない / 辞任で幕引きは許されぬ 

菅原経産相辞任/首相の任命責任は重大だ

 9月の内閣改造で初入閣したばかりの菅原一秀経済産業相が、選挙区内の有権者に秘書が香典を渡していたと認め辞任した。後任には梶山弘志元地方創生担当相が即日就いた。

 公選法は、政治家が選挙区内の住民に金品を提供することを禁じている。例外として、本人が出席する結婚式の祝儀や葬式の香典などは認められているが、秘書らが代理で渡すのは違法となる。

 民主主義の根幹である有権者の投票行動が、カネやモノでゆがめられてはならないからだ。

 菅原氏を巡っては、カニや高級メロンなどを有権者に贈ったとされるかつての疑惑も蒸し返され、野党が国会で追及していた。

 今回の香典について「後で知った」とし、自らの指示ではないと強調した。だが、数々の公選法違反が疑われているさなかのことだ。

 秘書に法令順守を徹底していなかったとすれば認識が甘すぎる。こうした行為が常態化していたとの疑いは増すばかりである。

 閣僚を辞めて済む問題ではない。菅原氏は事実関係について国民への説明責任を果たすべきだ。

 辞任を受けて、きのう開催予定だった衆院経産委員会は取りやめとなり、菅原氏が約束していた「国会での説明」はなされなかった。

 野党の集中攻撃による政権へのダメージを最小限に抑えるため、首相官邸が早々に幕引きを図ったとみられる。

 東アジア地域包括的経済連携(RCEP)交渉など経産相が担う課題は山積する。その重要閣僚に、以前から疑惑が指摘されていた人物を充てた。関西電力役員の金品受領問題も対応が迫られる時期でもあり、安倍晋三首相の任命責任は重大だ

 菅原氏は菅義偉官房長官の側近的存在とされる。信頼する菅氏への配慮が先に立ち、閣僚の適格性をよく見極めずに起用したのなら、あまりに不用意といわざるを得ない。

 多少の問題があっても乗り切れる、というおごりがあったとすれば政権の緩みは深刻だ。

 2012年12月から続く安倍政権では、選挙区でうちわを配った松島みどり法相、不明朗な政治資金支出が発覚した小渕優子経産相、建設会社からの金銭授受疑惑が浮上した甘利明経済再生担当相(いずれも当時)ら「政治とカネ」の問題で辞任に追い込まれた閣僚が複数いる。

 政権として襟を正し、長期化とともに目立ち始めた緩みを引き締める必要がある。

 首相は「任命責任は私にある」と口にするだけでなく、自ら事実関係の解明を指示し、国民の信頼回復に努めるべきだ。

神戸新聞社説 2019年10月26日
https://www.kobe-np.co.jp/column/shasetsu/201910/0012820796.shtml



菅原経産相辞任 問われる任命責任

 有権者へ金品を配った公選法違反の疑いが浮上していた菅原一秀経済産業相が事実上、更迭された。

 週刊誌報道によると今月中旬、菅原氏の秘書が選挙区内の有権者に香典を渡した。菅原氏も事実と認めている。菅原氏は役員の金品受領問題で関電に真相解明を求めており、自らの問題に関し真相を国会で説明する必要がある。

 また、菅原氏は2006年から07年にかけて後援者らにお歳暮やお中元としてメロンやカニなどを贈っていたとの疑惑も過去に報じられており、任命した安倍晋三首相の責任も厳しく問われることになる。

 公選法は政治家が選挙区内の住民に、金銭や物品などを提供することを買収行為とみなして禁じている。例外として、本人が出席する結婚式の祝儀や葬式の香典などは認められている。しかし、秘書らが代理として渡すことは違法となり、できない。

 菅原氏の秘書が香典を渡した件はこれに該当する可能性が高い。首相官邸が菅原氏に疑いを晴らせない場合は辞任するよう求めていたのはこのためとみられる。

 菅原氏自身が公選法違反を自覚していたなら、言うまでもなく、経産相だけでなく議員辞職に値する。

 菅原氏は、秘書が代理で香典を出したことを確認せず、翌日、自身も香典を持って行き、一つは遺族から返却されたと弁明している。例外で認められている行為だと言いたいのだろう。

 しかし、国会で過去の疑惑が追及されているさなかであり、誤解を招く行為は慎むよう菅原氏が秘書に指示するのが常識ではなかったか。菅原氏が追及を深刻に受け止めていなかったのか、事務所を統率できていなかったのか。いずれにしても信じ難く、許されないケースである。

 一方、菅原氏は関電役員の金品受領問題が発覚した当初から「事実関係を徹底解明して、厳正に処する」と強調し、電気事業法に基づき関電に報告を命じるなど厳しい姿勢で臨んでいた。その矛先は今、そのまま自身に向けられている。

 菅原氏も辞任前日には「国会で説明する」と述べていた。辞任後、立憲民主党は、菅原氏が衆院経産委員会の理事会に出席し、疑惑について説明するよう求めている。

 関電には法まで持ち出して厳しい対応を求めながら自身の問題は経産相辞任で幕引きにするようでは行政の正当性が失われることになる。一閣僚、一議員の問題ではないのだ。

 そもそも、過去の疑惑が報道され、疑いが解消されていないにもかかわらず、なぜ安倍首相は菅原氏を経産相に起用したのか。「任命責任は私にあり、こうした事態になってしまったことに対して国民の皆さまに深くおわびする」と述べているが、おわびをして済む話ではない。

 安倍政権では過去、政治団体の不明朗な政治資金支出を巡り小渕優子経済産業相が、建設会社からの金銭授受問題で甘利明経済再生担当相が辞任している。

 いずれのケースでも本人から十分な説明はなされていない。都合の悪いことは辞めてうやむやにする。そんな積み重ねが今回の事態を招いているのではないか。安倍首相自身が起用した理由を明らかにするとともに菅原氏に国会で説明させるべきだ。


東奥日報時論 2019年10月26日
https://www.toonippo.co.jp/articles/-/267790
茨城新聞論説 2019年10月27日
https://ibarakinews.jp/hp/hpdetail.php?elem=ronsetu&%E3%80%90%E8%AB%96%E8%AA%AC%E3%80%91%E8%8F%85%E5%8E%9F%E7%B5%8C%E7%94%A3%E7%9B%B8%E8%BE%9E%E4%BB%BB%E3%80%80%E5%95%8F%E3%82%8F%E3%82%8C%E3%82%8B%E4%BB%BB%E5%91%BD%E8%B2%AC%E4%BB%BB
山陰中央新報論説 2019年10月27日
http://www.sanin-chuo.co.jp/www/contents/1572056708245/index.htm



[菅原経産相更迭] 重要ポストになぜ起用

 菅原一秀経済産業相はきのう、選挙区内の有権者に秘書が香典を渡したとの公選法違反の疑いを巡り、辞任した。事実上の更迭と言える。

 菅原氏は9月発足の第4次安倍再改造内閣で初入閣したばかり。経産省は関西電力役員の金品受領問題、東アジア地域包括的経済連携(RCEP)妥結など大きな課題をいくつも抱えている。そのさなかの大臣辞任である。任命した安倍晋三首相の責任は、極めて重い。

 首相は「任命責任は私にあり、国民に深くおわび申し上げる」と陳謝した。菅原氏自らが詳しい経緯を明かすのはもちろん、過去にも疑惑が取り沙汰されたことのある人物をなぜ重要閣僚に起用したのか、首相も十分説明していく必要がある。

 更迭は野党の集中砲火を浴びる前に収拾を図ったとみられる。政府としては内外に問題が山積する中、閣僚の不祥事などで国会審議が停滞するのを避ける狙いが透ける。国民の信頼を取り戻すためにも、徹底した真相の解明を求めたい。

 週刊文春によると、菅原氏の公設秘書が今月中旬、地元の東京・練馬の葬祭場に香典を持参し、事務所から故人への枕花を発注した。大型連休前後には後援会幹部にリンゴを配ったという。以前は有権者にメロン、カニなどを贈っていたとも報じられていた。

 きのうの閣議後の記者会見で、菅原氏は「結果として秘書が香典を出した」と報道内容を認めた上で、「秘書が香典を出したことは後で知った」と自らの指示でないことを強調した。

 一方、共同通信の取材によれば、菅原氏の元秘書は2006年、同氏から直接指示を受けて有権者らに向けた贈答品リストをつくった。元秘書は「法律に抵触するのではないかと思ったが、菅原氏はパワハラが激しく意見を言えば解雇される雰囲気で、言い出せなかった」という。

 菅原氏は当選6回の衆院議員である。報道の通りなら、公選法で禁じられている寄付行為に該当する。その感覚の古さ、甘さにはあきれるしかない。野党から出ている「あり得ない。50年前のようだ」といった声が、一般的な受け止め方ではないか。

 今回の内閣改造では、首相の「お友達」の登用が目立った。菅原氏は菅義偉官房長官の側近的存在である。菅氏への信用を背景に、安倍政権で存在感を増す経産省のトップに起用されたとしたら、政権の緩み、おごりを示すとも言える。

 今回の疑惑は議員辞職や刑事罰にもつながる重大な話だ。政府は国民の政治不信をぬぐい去らなければならない。菅原氏の更迭だけで幕引きとすることなく、追及に向けて積極的に協力するべきである。


南日本新聞社説 2019年10月 27日
https://373news.com/_column/syasetu.php?storyid=111758.



首相の任命責任こそ問われる

 地元選挙区でメロンやカニなどを配ったことや公設秘書が香典を届けたことが週刊誌で報じられ、公職選挙法違反疑惑が批判されてきた菅原一秀経済産業相が辞任しました。9月の安倍晋三政権の内閣改造で就任してからわずか1カ月余りです。2012年12月に発足した第2次安倍政権以降、9人目の閣僚辞任です。

 菅原氏は「私の問題で国会が停滞し、法案審議ができないことは本意ではない」と言いましたが、公選法違反疑惑については否定しています。引き続き菅原氏の疑惑をただすとともに、首相の任命責任を追及することが重要です。

閣僚辞任だけではすまぬ

 公職選挙法は、国会議員やその候補者が選挙区内で金銭や物品を配ることを、買収の罪に当たるとして厳しく禁じています(221条)。たとえ葬儀の香典でも、議員本人が出席して手渡す場合を除いて禁止しています。

 菅原氏の大臣就任後、同氏の公選法違反疑惑を取り上げたのは、『週刊文春』10月17日号です。それによれば、菅原氏は07年ごろから盆暮れが近づくと、選挙区(衆院東京9区=練馬区の一部)内の支援者や自民党内の有力者に、高級メロンやカニ、いくらなどを秘書に配らせていました。それ以外にも年の初めには町内の新年会に、年末には消防団分団の夜回りなどに、秘書が届け物をしていたといいます。同誌は、メロンを買った際の領収書や、受け取った側の礼状なども報じました。こうした疑惑は、国会でも追及されましたが、菅原氏は「調査する」というだけで言い逃れに終始しました。

 さらに24日発売の同誌31日号では、菅原氏の公設秘書が17日、選挙区内の支援者の通夜で、「衆議院議員 菅原一秀」と表書きした2万円入りの香典袋を手渡したことを写真付きで掲載しました。公選法違反が国会で大問題になっているさなかの露骨な行為は、もはや釈明の余地はありません。

 菅原氏の閣僚辞任は当然です。しかし、菅原氏の辞任の理由は国会審議に影響があるということで、秘書が香典を渡したのは、当日本人が行けなかったからで、自分が翌日行って香典を渡し、秘書が渡した分は返してもらったととってつけた言い訳をし、公選法違反の責任は「よく確認したい」というだけでした。25日予定されていた衆院の経済産業委での追及を免れるためでもあったのは明らかです。

 公選法を守らない菅原氏には、国会議員としての資格もありません。速やかに説明責任を果たし、議員も辞職すべきです。菅原氏の辞任について安倍首相は、「任命責任は私にある」と言いましたが、菅原氏に真相をただすとは言いません。いくら「任命責任」を口にしても説得力はありません。

解明へ国会の役割が重要

 安倍政権で「政治とカネ」の問題で閣僚などの辞任が後を絶たないのは、首相自身が、国有地を格安の価格で払い下げた「森友学園」疑惑や、首相の長年の友人が理事長の「加計学園」疑惑などで責任を果たしてこないことと無関係ではありません。任命した菅原氏に説明させるだけでなく、首相自らも姿勢を改めるべきです。

 菅原氏の公選法違反疑惑をはじめ、安倍政権の一連の疑惑解明に向けた、国会の役割が重要になっています。


しんぶん赤旗主張 2019年10月26日
http://www.jcp.or.jp/akahata/aik19/2019-10-26/2019102602_02_1.html



菅原経産相辞任 これで幕引き許されない

 公設秘書が地元有権者に香典を渡したとする疑惑が取り沙汰されていた菅原一秀経済産業相が事実を認め、辞任した。首相官邸が菅原氏に進退を検討するよう求めており、事実上の更迭である。

 香典以外にも、公選法が禁じる寄付行為の疑いがある事案が浮上している。菅原氏はきのうの衆院経産委員会で経緯を説明することになっていたが、辞任に伴い取りやめになった。これで、うやむやにしてはならない。

 問題に火を付けたのは週刊文春で、菅原氏の事務所が10年ほど前、選挙区内で有権者らにメロンやカニなどを贈っていたと、今月上旬に報じた。菅原氏は国会で追及され、「しっかり調べる」と答弁していた。

 秘書が香典を手渡したのは、その直後の17日。違法な寄付行為を疑われたばかりなのに、一体どういうつもりなのか。順法精神を欠いているとしか思えない。閣僚の辞任は当然だし、立法府に身を置く資格もない。

 関西電力の役員らが多額の金品を受け取っていた問題では、電力会社を所管する経産相として「言語道断でゆゆしき事態だ」と厳しく批判していた。その裏で、自身も金品を巡る問題にまみれていたことにはあきれるほかない。

 そうした人物を重要閣僚に充てた安倍晋三首相の任命責任は重い

 第2次安倍政権発足からの約7年で、閣僚の辞任は9人目となり、桜田義孝五輪相が復興軽視発言で辞任してから半年ほどしかたっていない。

 首相は、閣僚人事では派閥や有力者の推薦を丸のみしていると言われる。菅原氏は菅義偉官房長官の側近。菅氏の要請を受け、首相は安易に起用したのだろう。そこには、多少問題があっても政権は揺るがないという、おごりと緩みがあるのは間違いない。

 今回の問題で浮き彫りとなったのは、寄付行為がいまだにはびこっていることだ。

 週刊文春によると、菅原氏の事務所から故人に供える枕花を発注したり、大型連休ごろには秘書が「令和」と印字されたリンゴを後援会幹部に配ったりしていたともされる。

 元秘書は、中元や歳暮の時期に菅原氏から「この人はカニね」などと言われていたと証言している。菅原氏の指示で、有権者向けの贈答品リストも作成していたという。買収行為が常態化していたことをうかがわせる。

 第2次安倍政権以降、2014年に、小渕優子経産相(当時)が有権者にワインを贈るなどしていたほか、松島みどり法相(同)が地元の祭りで自分の似顔絵入りのうちわを配っていたことが発覚。2人とも辞任に追い込まれた。昨年も茂木敏充経済再生担当相(同)の秘書が線香などを配布し、公選法違反に当たるかどうか物議を醸した。

 金品にまつわる問題が起きるたびに政治不信が高まっていく。悪弊の根を断つことが求められる。


徳島新聞社説 2019年10月27日
https://www.topics.or.jp/articles/-/275486



菅原経産相更迭 辞任で幕引きは許されぬ

 関西電力幹部の金品受領問題で「言語道断。由々しき事態」などと非難した当の本人が、選挙区内の有権者の葬儀で秘書を通じて香典や枕花を渡していたという。しかも、過去に贈答品を提供していた疑惑の渦中でのこと。事実ならば公選法違反であり、言語道断。衆院議員も辞すべきだ。

 菅原一秀経済産業相が安倍晋三首相に辞表を提出した。首相官邸が辞任を検討するよう求めており事実上、更迭された格好だ。過去の疑惑には逃げ切れると思っていた節があるが、葬祭場で香典を渡す菅原氏の公設秘書の姿が週刊誌に報じられ、一気に更迭へと動いたとみられる。

 菅原氏はこれまで度々、スキャンダルが浮上しており、こうした人物の「身体検査」が不十分なまま閣僚に起用されたこと自体が政権の緩みにほかならない。菅義偉官房長官の側近中の側近とされ、菅氏の強い推薦で起用されたという。菅氏の責任は無論、任命権者である安倍首相の責任が大いに問われる。

 週刊誌によると、菅原氏の公設秘書が今月、地元の東京都練馬区の葬祭場に香典を持参したほか、事務所から故人への枕花を発注した疑いがある。大型連休前後には後援会幹部にリンゴを配ったとされる。これ以外にも、菅原氏は2006年から07年にかけて地元の有権者にメロンやカニなどを贈っていたとも報じられている。

 公選法は政治家が選挙区内の有権者に、金品などを提供することを買収行為とみなして禁じている。例外として本人が出席する葬儀の香典や結婚式の祝儀などは認められている。しかし、秘書らが代理として渡すことは違法だ。

 菅原氏は今回の件で、翌日、自身も香典を持って行き一つは遺族から返却されたと釈明している。例外で認められている行為だと言いたいのだろうが、国会で過去の疑惑を追及されている最中であり、信じ難い。

 問題は、秘書による香典や枕花の提供が常態化していたとも報じられていることだ。菅原氏は関電問題で「事実関係を徹底解明して、厳正に対処する」と強調。法に基づき、関電に報告を命じるなど厳しい姿勢を見せていた。その矛先は今度は自らに向けられている。辞任で幕引きすることは許されず、真相を国会で説明する必要がある。

 安倍政権では過去に、政治団体の不明朗な資金流出を巡り小渕優子経産相、建設会社からの金銭授受問題で甘利明経済再生担当相が辞任に追い込まれているが、本人による十分な説明責任は果たされていない。辞任すればうやむやにできる、そんな姿勢が国民の政治不信を増幅させてきたことを忘れてはならない。
福井新聞論説 2019年10月26日
https://www.fukuishimbun.co.jp/articles/-/961044




http://www.asyura2.com/19/senkyo266/msg/819.html
[政治・選挙・NHK266] 公開文書が不開示! 外務省の噓を生んだ闇(朝日新聞社 論座) 

公開文書が不開示! 外務省の噓を生んだ闇

「安全保障や外交に支障」のまやかし 意識改革と態勢強化が急務

藤田直央 朝日新聞編集委員(日本政治、外交、安全保障)
2019年10月27日
https://webronza.asahi.com/politics/articles/2019100800001.html

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外務省が2010年から自主的に公開している日米関係の文書(左)と、2017年の情報公開請求に対し墨塗りにした同じ文書(右)=東京・麻布台の外交史料館。藤田撮影

 「安全保障や外交に支障が出かねない」という理由で開示を拒んだ日米関係の文書は、すでに自ら公開している文書と同じ中身だった――。ウソをついたと言われても仕方がない外務省のずさんな情報公開への対応を2件、朝日新聞は10月にまとめて報じた。

 この奇怪な不手際を生んだ外務省の闇を、筆者の私がどのように探り、日本外交の足腰に危うさを覚えたか。新聞に書ききれなかった経緯と実態を報告する。(朝日新聞編集委員・藤田直央)

 「外務省、公開済み内容を不開示に 沖縄返還文書など」(10月27日付朝日新聞朝刊1面に掲載)

「すでに公開ずみです」

 きっかけは8月、日米関係史に詳しい信夫隆司・日本大学教授からの指摘だった。

 開示請求から2年4カ月も経ってやっと外務省が出してきた半世紀前の外交文書を示し、ニュース性を尋ねたときのことだ。「沖縄返還問題の進め方について」という文書に目をとめた信夫氏から、意外な反応が返ってきた。

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信夫隆司・日本大学教授(日米関係史)

 「私が驚くのは、すでに公開ずみ、それも極めて有名な文書群の中にあるものを、開示請求に対し当初墨塗りした(開示しない部分を黒く塗りつぶした)ことです。外務省の担当者が不勉強なのかどうかわかりませんが、歴史的文書の持つ重要性を全く認識していないのではないでしょうか」

 そうとは知らなかった私の「外務省ずさん不開示問題」の取材はここから始まったのだが、本論に入る前にまず、まさに紆余曲折を経たここまでの外務省とのやり取りを述べておく。話がさらに溯るが、しばしおつきあい願いたい。

 文書開示に至るこの2年4カ月の確執が、外務省自身がそこからさらに7年も前に公開していたのと同じ中身の文書を伏せたためだったという理不尽さを、読者にご理解いただきたいからだ。情報公開法に基づく文書開示請求という、多くの方にはなじみのない制度を理解する助けにもなるだろう。

2年4カ月の紆余曲折

 私は2017年3月、朝日新聞社として外務省に文書開示請求をした。対象は、1968年の日米安全保障高級事務レベル協議(SSC)に関する文書だ。SSCは今も続く日米の外交・防衛担当高官による非公開の協議の場で、私はその源流であるSSC発足当時の1960年代後半の協議に関心があった。

 当時は、中国の核開発やベトナム戦争の長期化などアジアで安全保障上の懸案が絡み合う一方、日本は高度経済成長期にあり沖縄返還を求めていた。SSCは、米国にとっては日本にアジアの安全保障でより広い役割を促す場、日本にとっては米国に核戦略や沖縄をめぐる突っ込んだ話を望む場として動き出していた。

 2001年施行の情報公開法は政府の各機関に対し、文書開示請求を受けてから原則30日以内に開示・不開示を決めるよう定めるが、特例として「相当の期間」まで延長できる。私の請求に対し外務省の決定が出そろったのは3カ月半後の2017年7月。対象文書計47点のうち「部分開示」とされた4点に、趣旨がわからなくなるほど多くの墨塗りがあった。

 その理由は、そこを明かせば「国の安全が害される」「他国との信頼関係が損なわれる」などの「おそれ」があるといった、情報公開法上の不開示事由にあてはまるというものだった。

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朝日新聞社が2017年に開示請求をした1968年の日米安保協議に関する文書について、外務省が一部を不開示とした理由を示す文書

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2017年に朝日新聞社が1968年の日米安保協議に関する文書を開示請求したのに対し、外務省が半分ほどを墨塗りにして出した「沖縄返還問題の進め方」

 決定に請求者が不服の場合は、総務省の情報公開・個人情報保護審査会に審査を求めることができる。私は2017年9月に「約50年前の文書を全て開示しても外務省の言うような『おそれ』はありえない」として審査を請求。外務省は10月に審査会に対し「対象文書の不開示事由の該当性を厳正に審査した」と反論した。

 審査結果は請求から1年9カ月後の今年6月に出た。審査会は、外務省が「部分開示」とした文書4点の不開示範囲は広すぎるとして、2点は全て開示し、2点は開示範囲を広げるよう求めた。

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2017年の朝日新聞社の文書開示請求に対する外務省の部分開示決定について、開示範囲を広げるよう求めた総務省の情報公開・個人情報保護審査会の答申書。赤線は藤田が記入

 外務省はこれに沿って今年8月に私に文書を追加開示。全て開示となった2点のうちの一つが、当初は外務省が半分ほど墨塗りにしながら、タイトルと日付は出していた5ページの「沖縄返還問題の進め方について」だった。それを信夫氏に示したところ、2010年から外務省が公開しているのと同じ中身ですよと教えられたというわけだ。

密約調査での公開情報が…

 以上の経緯があり、なぜこんなことが起きるのかと私は取材に取りかかった。最初は、米国でもあるように、いったん公開した文書の中身について国際情勢の変化などから開示基準を厳しくする対応を外務省がしたのかと思った。

 だが、そうではなかった。その文書は今も外務省HPに載っている。リンクは次の通りだ。

 外務省HP 「いわゆる『密約』問題に関する調査結果」

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 これは、外務省が2009~10年に行った、日米安全保障条約改定(1960年)から沖縄返還(1972年)にかけての対米外交文書の調査結果に関するページだ。自民党政権下の1960年代から70年代にかけてのこの時期、日米間に4つの密約があったと指摘されていたが、2009年の民主党政権への交代を機に、そうした密約の有無が岡田克也外相の主導で検証された。

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日米密約調査の対象となった文書のファイル=2009年9月、外務省。代表撮影

 その際に調査対象となった文書がここにアップされている。計331点のうち「その他関連文書(296点)」のリストを見ると、4つの密約調査の3本目の柱である「B1972年の沖縄返還時の有事の際の核持込みに関する『密約』調査」の関連文書の中に、「昭和43年7月15日 沖縄返還問題の進め方について」という文書がある。

 この文書の中身が、私の2017年の文書開示請求に対し、外務省が趣旨がわからなくなるほど墨塗りにして出した文書と同じだったのだ。

 外務省HPから密約関連の文書を見ると、手書きとタイプの文が混じり、校正の跡もある。全てタイプで書き込みのない私への開示文書と体裁は異なるが、密約関連の文書にある校正を反映させると私への開示文書と中身が同じになり、タイトルも「沖縄返還問題の進め方について (昭和)43.7.15 アメリカ局長」でそろう。

 この密約関連の文書が、私に開示された文書を仕上げる一歩手前の原稿であることは明らかだった。それは外務省として日米密約の有無を検証する上で大切な文書だったからこそ調査対象となり、2010年からずっと外務省HPで公開されてきたのだ。

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外務省が2017年の朝日新聞の開示請求に対し当初半分ほどを墨塗りにした文書「沖縄問題の進め方について」(下)と、外務省が2010年から公開を続ける同じ内容の文書(上)のそれぞれの1枚目

 私の日米関係の文書開示請求に対し、外務省自身が密約関連の文書として公開し続けている中身を不開示にしてしまった。それは、少なくとも密約調査の対象となった日米安保改定から沖縄返還にかけての日米関係文書について、どういう中身が公開されたのかが外務省の中で共有されていないかもしれないという可能性を示していた。

 だが、「日米同盟は外交の基軸」と内外に唱え続けてきた外務省で、そんなずさんなことがあるのか。私への開示文書は公開済み文書と体裁が違うので見落としたのかもしれないが、外務大臣名での不開示決定に至るまでにそうした見落としを救うチェックは働かないのか――。

 そんな疑問を知り合いの研究者らに投げかけていると、日米地位協定に関しても似た話があるという返事が8月にあった。それが上記の私のケースと合わせて、10月に朝日新聞で報じた2件目だった。

ツイッターで気付いた研究者

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ジャーナリストの布施祐仁氏

 ある若手の日米関係研究者が、ジャーナリストの布施祐仁氏がツイッターで2017年に発信していた内容を教えてくれた。布施氏は最近では南スーダンでのPKO(国連平和維持活動)に派遣された自衛隊の活動について防衛省に文書開示請求をし、自衛隊の「日報」隠蔽問題を追及したことで知られ、日米地位協定問題に関する著書も複数ある。

 その研究者いわく、「1960年の日米安保条約改定に伴い、日本での米軍の活動について定める行政協定が改定され日米地位協定ができますが、布施氏がその行政協定改定の関連文書を開示請求したら、ほとんど不開示にされたとツイートしている。でもアップされた墨塗り文書の写真を見ると、かつて外務省自身が公開したのと同じ文書だと思うんです」。

 
ジャーナリスト・布施祐仁氏の2017年のツイート

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 外交文書の研究者ともなれば、専門分野についてはタイトルと日付を見るだけで、重要文書の見当がつくのだ。私のケースでは信夫氏がまさにそうだった。日米密約調査で公開された文書を時系列でファイルしており、「墨塗りされた文書と日付が一致したので、中身が同じだと簡単にわかった」という。布施氏のケースではこの研究者が、ツイッターに出ている文書の写真がほとんど墨塗りであっても「タイトルと日付でわかった」というわけだ。

 そして、この2人の研究者はともに、外務省が過去に文書開示請求に対応した実例をふまえ、その情報公開基準のあいまいさにかねて疑問を感じていた。

 外務省は、上記の密約関連文書の公開や、情報公開法による個別の開示請求への対応とは別に、1976年から「外交記録公開」を行っている。国際的な標準である「30年ルール」に基づき、外交文書をファイルごとに原則として作成から30年で随時公開していく制度だ。

 外務省HP 「外交記録公開」

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 外務省が布施氏に対し2017年に墨塗りで出した文書について、その研究者は、外務省自身が2010年7月の外交記録公開で出した文書と同じではと指摘した。外交記録公開の対象となった文書ファイルは、霞が関の外務省から麻布台の外交史料館に移管されており、原本を閲覧できる。

 私は今年8月に布施氏と会い、経緯を聞いた。布施氏は外務省に対し2017年、行政協定改定に向けた対米交渉に関する1950年代後半の文書を開示請求したが、大半が「国の安全が害される」「米国との信頼関係が損なわれる」などの「おそれ」を理由に不開示とされた。一枚目はタイトルと日付以外ほぼ墨塗りで、「次頁以下不開示」といった紙の束が出ていた。

外交史料館で閲覧の原本と酷似

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東京・麻布台にある外務省の外交史料館

 布施氏から墨塗り文書のコピーを受け取った私は、外交史料館の閲覧室に足を運び、2010年7月の外交記録公開の対象文書ファイルを開いて照合してみた。墨塗りを免れたタイトルと日付、文章の一部だけでなく、余白への書き込みや「極秘」の印の位置まで、それと酷似した墨塗りのない文書の原本がファイルにつづられていた。

 布施氏もそのことを別途確認しており、外務省にただした。すると外務省は布施氏に対し今年9月、2017年に大半を不開示にした文書が2010年7月に外交記録公開で出した文書と同じだったと認め、全てを開示した。

 このずさんな対応は、何を意味するのだろう? 私と布施氏に関する2件が確認できたところで、外務省に説明を求める前に考えてみた。

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外務省が2017年に布施氏に対しほとんどを不開示にした、1950年代後半の日米安保条約改定に関する文書20数点が含まれるファイルの裏表紙。2010年に外務省が公開したことが記され、今も外交史料館で閲覧できる=藤田撮影

 この2件とも、外務省は2010年に自主的に公開した1950~60年代の日米安保関係の文書の中身を、2017年の個別の文書開示請求に対し不開示にしている。自主的な公開を今も続けていることを考えれば、同じ中身の文書を、安全保障や外交に支障が出かねないとして、私や布施氏に対し墨塗りにした判断は明らかに誤りだった。

 にもかかわらず、そうした奇怪な判断を2017年に外務大臣名で相次いで下し、外部から指摘を受けた最近まで続けていた。やはり、外務省において、情報公開法による文書開示請求への対応にあたり、自主的に公開してきた文書の中身とクロスチェックする仕組みに問題があったと考えざるをえなかった。

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民主党政権当時の2009年9月、日米密約調査の状況について外務省幹部に話を聞く岡田克也外相(左)=外務省。代表撮影

 さらに気になるのは、一連の判断の時期だ。外務省は民主党政権下で、2010年の日米密約関連文書をはじめ外交文書を積極的に公開した。その中身を、自民党政権下の2017年には忘れてしまったかのように、個別の文書開示請求に対し開示範囲を不当に狭めている。背後に何かあるのだろうか?

 状況を俯瞰できないかと、私は9月に波多野澄雄・筑波大学名誉教授を訪ねた。今年刊行の「日本外交の150年」を編集するなど、日本外交を文書から解き続ける波多野氏は、民主党政権下の日米密約調査では有識者委員会に参加。公文書を「民主主義の根幹を支える国民共有の知的資源」と位置づけた2009年制定の公文書管理法もふまえ、調査報告書で外交文書の管理と公開の意義を唱える章を担当した。

「説明への緊張感が後退」

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波多野澄雄・筑波大学名誉教授(日本政治外交史)

 外務省の今回のずさんな不開示について聞くと、波多野氏は悩ましげに、言葉を選びながら語った。

 「密約調査の際に対象文書を公開したことで、日米安保条約や沖縄返還交渉について不開示を続けねばならない文書はかなり減ったはずでした。外交記録を組織として継承、公開し、日本外交の説明能力を高めようという当時の緊張感に比べ、今は後退した感があります」

 外務省も今回の2件について落ち度は認めざるを得ないだろう。だが、そこから波多野氏のような問題意識がどこまで共有できるか。そんな思いで、9月に外務省の「各担当者」に取材した。

 ここで「各担当者」という言い方をするのは、情報公開法に基づく文書開示請求への対応の流れに関係がある。

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朝日新聞社が2017年に開示請求をした1968年の日米安保協議に関する文書について、一部を不開示としたことを通知する外務大臣名の文書

 外務省への請求は、まず公文書監理室で受け、それぞれの文書を管理する主管課室に回る。今回の2件はともに北米局(かつてのアメリカ局)で、私のケースは日米安全保障条約課、布施氏のケースは日米地位協定室だった。主管課室で開示・不開示を判断し、必要なら墨塗りをした文書が公文書監理室へ。公開ずみ文書が不開示にされていないかなどが最終的にチェックされ、「外務大臣之印」を押した公文書での決定通知となる。

 「各担当者」が強調したのは、とにかく現場が大変ということだった。

外務省担当者「相当苦しい」

 「正直、現場は相当苦しい」と言う日米安保条約課の担当者は、2018年度の状況を説明した。

 外務省が受けた文書開示請求609件のうち、同課は省内で最多の91件を抱えた。課内や書庫で該当文書がありそうなファイルを探し出し、数万ページの中から対象文書約1万1千ページを絞り込み、コピーして不開示部分があれば墨塗りしていく。その作業は他の仕事も兼ねる若い職員2人が主に担当し、休日出勤もあったという。

 そうした忙しさは私の開示請求に対応した2017年も同じだったと担当者は話し、こう語った。

 「限られた人員と、情報公開法が定める期間の中で(私からの)開示請求も慎重に検討し、当時妥当と考える判断をしたが、ほぼ同一の文書を以前に公開しており若干一貫性に欠ける対応があった」

 「米国の国防長官が来たらその対応とか、突発事案が起きたら何時までにブリーフ資料を持ってこいとか。情報公開への対応だけをする余裕はなく、開示請求にとうてい追いついていない」

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北朝鮮のミサイル発射を受け開かれた自民党の会議。外務省や防衛省が作った資料が配られ、国会議員らの質問に両省の幹部らが答えた=10月4日、東京・永田町の自民党本部。藤田撮影

 日米地位協定室の担当者も「現場は当時ベストを尽くしたと思うが、連日開示請求に追われ、限られた期間の中で外交記録公開の情報まで確認できなかった」と言う。

 公文書監理室では外交記録公開を主管しており、個別の開示請求に対して主管課室がくだした開示・不開示の判断について、公開ずみ文書と照合する最後の砦(とりで)とも言える。だが、担当者は「主管課室から開示期限ぎりぎりに文書が持ち込まれることもあり、見落とすこともあるかもしれない」と話した。

「人も予算も増えない」

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「行政文書の管理の在り方等に関する閣僚会議」で発言する議長の安倍晋三首相(中央)=2018年7月、首相官邸

 確かにマンパワーの不足はあるだろう。史料的価値もある外交文書について、外務省は保存を続けつつ外交記録公開などで公開を進める一方、個別に来る開示請求の内容は過去から現在に至るまで幅広く、開示・不開示を判断する際の照合は年々大変になる。しかも、その判断を担う主管課室は目の前の外交案件や国会対応に追われているのが実情だ。

 文書の管理と公開の態勢強化については、外務省に対しては日米密約調査の有識者委員会が提言し、政府全体でも森友問題での財務省の決裁文書改ざんなどで「行政への信頼が損なわれている」として、2018年に首相を議長とする閣僚会議で取り組みを確認している。それでも外務省では「人員も予算も増えていない」(公文書監理室)という。

 
首相官邸HP 「行政文書の管理の在り方等に関する閣僚会議」

 そうであれば、なおさら深刻な問題がある。開示請求に対応する主管課室の現場が公開ずみ文書に気付かないといったミスを、なぜその課室の責任者が救えないのかということだ。

 例えば私のケースで言えば、開示請求を受けた当時の日米安保条約課の課長ら責任者が、研究者なみに個々の文書についてピンと来ることは難しくても、密約関連文書の公開で表に出た中身の概要ぐらいは、安保条約の運用に関わる立場上知っておくべきではないのか。

 私への開示文書で当初墨塗りにされた部分は、米国が沖縄を返還した場合に緊急時の核の持ち込みを日本が認めるかどうかをめぐるくだりだった。それこそまさに密約調査の柱の一つであり、関連文書が公開されると大きく報じられもしたのだ。

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外務省の日米密約調査の結果を報じる2010年3月10日付の朝日新聞1面

責任者の判断を検証せず

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外務省が2010年から自主的に公開している日米関係の文書(左)と、2017年の情報公開請求に対し墨塗りにした同じ文書(右)=東京・麻布台の外交史料館。藤田撮影

 今回取材に応じた日米安保条約課の担当者も「密約調査は我々の意識の転換点だった」と語る。そうであれば、日米間の1968年の安全保障協議に関する私の2017年の文書開示請求に対し、当時の同課の責任者は密約調査での公表ずみ情報をふまえ、現場の職員に無駄な墨塗りをさせないよう助言するなり、墨塗りがされても消せるなりできたのではないか。

 だが、そのあたりについて今の同課の担当者は「当時の者がいないのでわからない」「コメントしづらい」と繰り返した。日米地位協定室や公文書監理室も、担当者は「危機感を持って再発防止に努める」と深刻に受け止めているようだが、わずか2年前に起きた私や布施氏のケースについて、当時の責任者の判断に落ち度がなかったかについてはやはりあいまいだ。

 そしてこの3つの課室は、遅くとも私と布施氏に対する外務大臣名でのずさんな不開示決定があった2017年以降、他の文書開示請求に対し同様に開示範囲を不当に狭めたケースがなかったかについて調査はしないという。「目の前の開示請求に対応するのが精いっぱい」(日米安保条約課)だといい、担当者からは「目的のわからないいたちごっこのような請求もあり、それは制度の悪用かと思う」という声すらもれた。

 つまり外務省は、情報公開法に基づく文書開示請求へのずさんな対応が相次いで発覚したことを受けて、公開ずみ文書との照合が行き届かなかった現場のマンパワー不足を強調し、また趣旨を理解しかねる請求への不満を語ることはあっても、主管課室で公開ずみ情報を咀嚼(そしゃく)した上で開示請求をさばくべき責任者のかつての判断が適切だったかを問おうとはしないのだ。

説明責任のモラルハザード

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2018年6月の衆院外務委員会。日米地位協定関連の質問への答弁を河野太郎外相はほとんど外務省北米局長に任せ、局長は紙を読み上げた=藤田撮影

 これは実に危うい。公開ずみ情報への敏感さを欠き、とにかく目下の外交や安全保障上の懸案に支障が出ないようにと場当たり的に情報を伏せるというモラルハザードが、そのうち外務省で幹部となるような課室長クラスを蝕(むしば)みかねないからだ。

 ことは文書開示請求への対応だけではない。日本外交に関する報道対応、国会答弁、諸外国への説明がどんどん後ろ向きになっていくという懸念が拭えない。

 波多野氏はこう語る。

 「外交文書の積極的公開は外交活動を内外に正しく説明する原動力であり、歴史解釈のヘゲモニー(覇権)を左右する場合もあります。米英が先行し、台湾や韓国もこの10年ほどで戦後文書の公開を進めて、対外発信力の強化に努めている。外務省の現状は心もとない」

 信夫氏も手厳しい。

 「多忙を理由に外務省でこうしたずさんな情報公開への対応が続くようなら、国立公文書館の権限を米国のように強化すべきです。作成後30年経った文書は外務省から公文書館へどんどん移し、開示請求への対応も任せた方がいいでしょう」

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東京・北の丸公園の国立公文書館

 信夫氏の指摘を極論とは思わない。

 保存すべき過去の「行政文書」を他省庁が国立公文書館に移管するのと違い、外務省は傘下の外交史料館に移管していくが、今もなお重要だとして移管しない文書もある。

 その外務省において、文書開示請求への対応の蓄積が主管課室の責任者の公開ずみ情報に対する感度を高め、現場が無駄な墨塗りに追われなくなるという好循環が生まれずに、責任者のその場しのぎの判断と現場の墨塗りの増加という悪循環を生んでいるなら、外務省に情報公開法の運用を任せる弊害が大きすぎるからだ。

 今回の2件のずさんな不開示の発覚と外務省の反応は、その悪循環の「おそれ」を浮き彫りにした。同省の中堅によると、開示請求に対応する作業が嫌になって若い職員が辞めたケースも最近あるという。ある幹部は「かなりブラックですよ」と話す。

 だが内情がどうあれ、外務省が起こした今回の2件は汚点として消えない。国民から情報公開を求められ、安全保障や外交に支障が出かねないという理由で伏せることを大臣名で決めた。しかし、その情報を外務省自身が別の形で公開し続けていた。すなわち、ウソの理由で国民に対し情報を伏せたことになるのだ。

意識改革と態勢強化を

 民主主義国家・日本の外交の土台が揺らいでいないだろうか。外務省は安易に「国家の安全に関わる」「外交上のやり取りだから」といった決まり文句で説明責任を逃れる姿勢を戒め、以下に示すこの二つの法律の理念をかみしめて、情報公開を進めるべく意識改革と態勢強化に努めてほしい。

 「この法律は、国民主権の理念にのっとり、行政文書の開示を請求する権利につき定めること等により、行政機関の保有する情報の一層の公開を図り、もって政府の有するその諸活動を国民に説明する責務が全うされるようにするとともに、国民の的確な理解と批判の下にある公正で民主的な行政の推進に資することを目的とする」(情報公開法第1条)

 「この法律は、国及び独立行政法人等の諸活動や歴史的事実の記録である公文書等が、健全な民主主義の根幹を支える国民共有の知的資源として、主権者である国民が主体的に利用し得るものであることにかんがみ、国民主権の理念にのっとり、公文書等の管理に関する基本的事項を定めること等により、行政文書等の適正な管理、歴史公文書等の適切な保存及び利用等を図り、もって行政が適正かつ効率的に運営されるようにするとともに、国及び独立行政法人等の有するその諸活動を現在及び将来の国民に説明する責務が全うされるようにすることを目的とする」(公文書管理法第1条)

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東京・霞が関の外務省


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[政治・選挙・NHK266] 「即位礼」もうひとつの憲法違反(アリの一言) 

「即位礼」もうひとつの憲法違反

2019年10月28日
https://blog.goo.ne.jp/satoru-kihara/e/d08cbd1eb91d62fa72775aba366f4dd2

  


 「即位礼正殿の儀」(22日)が政教分離、国民主権の憲法原則に抵触する宗教儀式であることは、比較的広く指摘されています。しかし、同じ日に「即位礼」の一環として行われた儀式がきわめて重大な憲法違反の場となったことはあまり知られていません。

  その儀式とは、「正殿の儀」に先立って午前9時から行われた「即位礼正殿の儀当日賢所大前(かしこどころおおまえ)の儀」です。天皇が、「三種の神器」とともに皇祖神・天照大神が祀られている「賢所」に入り、天照に「正殿の儀」を行うことを「奉告」(報告)する儀式で(写真左)、天皇が古来文字で書かれた「御告文(おつげぶみ)」なるものを読み上げます。

 「賢所」に続いて、天皇は「皇霊殿」(皇室の祖先)、「神殿」(国内の神々)でも「奉告」を行います。また、天皇に続いて、皇后、秋篠宮(皇嗣)ら皇族も同様に三殿に入ります。「御告文」に何が書かれており、どんな動作が行われるのかなど、内容はすべて秘密にされています。

 これは明らかな宗教(神道)行事(秘儀)です。さすがの政府もそれは認めざるを得ず、「正殿の儀」と違って「国事行為」とすることができず、「皇室の行事」として行われます。
 ところがこの「皇室の行事」が「国事行為」と混然一体化し、重大な憲法違反を生じています。

 第1に、この宗教儀式に安倍首相ら「三権の長」や地方自治体の代表が参加していることです。

 安倍氏らは徳仁天皇が天照大神に「奉告」する間、「賢所」の近くの軒下で、直立不動でそれを見守っていました(写真中、右)。これは「賢所大前の儀」への事実上の参列・参加と言って過言ではありません。もちろん彼らは「私人」ではなく、公人・公務として参列・参加しているのです。
 憲法第20条は「国及びその機関は…いかなる宗教活動もしてはならない」と明記しています。首相ら「三権の長」、地方自治体代表の「賢所大前の儀」への参列・参加は明白な憲法違反です。

 第2に、憲法は宗教活動への「公金その他の公の財産」の支出を禁じています(第89条)。全国の地方自治体代表が参列・参加するための旅費はもちろん公金(市民の税金)から支出されています。公金を使った「賢所大前の儀」への参列・参加が憲法に反していることは明らかです(「正殿の儀」に参列するツイデという言い訳は通用しません)。

  第3に、では安倍首相らが参列しなければ問題はないかといえば、そうではありません。「皇室の行事」(宮中祭祀)の費用は、皇室財政の中の宮廷費から支出されます。これは国の予算です。つまり、「宮廷費」という名前で宗教活動に公金が支出されているのです。憲法の原則に反することは明らかです。
 しかし、皇室財政は国の予算で賄うことは憲法で規定されています(第88条)。したがって「宮廷費」からの支出は憲法違反にはなりません。つまり、憲法は皇室に限り宗教活動への公金支出を公認しているのです。これは憲法・「象徴天皇制」の根本的矛盾、問題点です。

  以上のように、「賢所大前の儀」は重大な憲法違反の場となりましたが、それはもう終わった話だと片づけることはできません。なぜなら同じこと、すなわち明確な宗教儀式であるために「国事行為」にはできす「皇室の行事」とされながら、実質的には「国事行為」のように扱われ、メディアが報道する儀式がもうすぐ行われようとしているからです。

 それが、皇室神道行事の中でも最も重視されている(したがって最も宗教性の強い)儀式である「大嘗祭」(11月14、15日)です。その違憲性をけっして黙過・容認することはできません。


http://www.asyura2.com/19/senkyo266/msg/821.html
[政治・選挙・NHK266] 辺野古で県敗訴 国の制度乱用認めるのか 

辺野古で県敗訴 国の制度乱用認めるのか

 米軍普天間飛行場(沖縄県宜野湾市)の名護市辺野古への移設を巡り、県の埋め立て承認撤回を取り消した裁決に国土交通相が関与したのは違法だとして、県が国に裁決取り消しを求めた訴訟の判決で、福岡高裁那覇支部が訴えを却下した。

 国交相による裁決は「国の関与」に当たらず、「訴訟の対象にはならない」というのが主な理由だ。

 だが、実質的な審理もせず、形式的な法の解釈で門前払いにしたのは到底納得できない。

 県が埋め立て承認を撤回したのは、昨年8月のことである。埋め立て予定海域に「マヨネーズ並み」とされる軟弱地盤が見つかり、希少なサンゴを含む環境保全措置も不十分で、承認した当時と状況が大きく変わったためだ。

 これに対し、防衛省沖縄防衛局が行政不服審査法に基づく審査請求を申し立て、今年4月、国交相が撤回を取り消す裁決をした。

 国の機関の申し立てを国の大臣が審査し、結論を下す。玉城デニー知事が「選手と審判を同じ人物が兼ねているようなもので『自作自演』だ」と批判したのは当然だろう。

 ところが、高裁は「同じ国の機関が審査することが、直ちに違法にはならない」とした上、国交相が中立的立場を放棄していたとは言えず「権限・立場の著しい乱用もない」と断じた。

 辺野古移設を強行に推し進める内閣の一員である国交相が、どうして中立を保てると言えるのか。

 これでは、国に逆らう自治体の行為を国の判断で容易に取り消せることになってしまう。国と自治体を「対等・協力」の関係と位置付けた改正地方自治法の精神にも反しよう。決して沖縄だけの問題ではない。

 国民の権利救済を目的とする行政不服審査法を沖縄防衛局が利用したのは、制度の乱用だ。そんな県の主張も判決は退けた。

 高裁は、埋め立て承認や撤回について国の機関は一般私人と同様の立場だからだと、説明している。反対する人たちを公権力で排除しながら工事を進める機関が私人と同じとは、理解に苦しむ。

 県は上告する構えで、別の訴訟も起こしている。今後の司法の判断が注目される。

 玉城知事は法廷闘争と並行して、国との対話を求めている。安倍晋三首相と3月に会談した際、工事を中止して1カ月程度の協議の場を設けるよう提案したが、実現していない。

 国と県は故翁長雄志前知事時代の2015年、1カ月程度の集中協議を行い、決裂した。そうした経緯があるものの、意思疎通を欠いたままでは対立が深まるばかりで、解決の道は見いだせない。

 知事選、衆参両院選や今年2月の県民投票で、埋め立て反対の意思は何度も示されている。国は沖縄の民意と真摯に向き合うべきである。


徳島新聞社説 2019年10月27日
https://www.topics.or.jp/articles/-/275794


http://www.asyura2.com/19/senkyo266/msg/822.html
[政治・選挙・NHK266] 《文科相「身の丈」発言》 格差容認か 大臣として見識疑う / 独白 萩生田光一 ホンネを語る

文科相「身の丈」発言 格差容認か 大臣として見識疑う

 教育行政のトップとして教育機会の均等を図らなければならない立場である。にもかかわらず、教育格差を容認するような発言をした。大臣としての見識を疑わざるを得ない。

 大学入学共通テストの英語民間検定試験を巡り、萩生田光一文部科学相はテレビ番組で、家庭の経済状況や居住地で不利が生じると指摘され、「自分の身の丈に合わせて頑張ってもらえれば」と述べた。不利な環境を甘んじて受け入れるよう受験生に求めたと受け止められても仕方がない。公平な制度設計を進める責任のある大臣がする発言ではなく、受験生や保護者らから批判が集まるのも当然だ。

 今回の発言は大臣自らが入試の機会均等が確保されないと認識していることの証左である。英語で導入される民間試験は6団体7種類から最大2回まで受験する。受験料が2万円を超える試験があったり、会場が都市部に限られる試験が多かったりして、経済格差や地域格差といった問題が指摘されてきた。2020年4月を予定している民間試験の導入時期について、全国高等学校長協会は延期を求めている。

 萩生田氏は今月初めの記者会見でも「初年度は精度向上期間だ」と発言、受験生らから「実験台にしないと言ったのに」と抗議を受けたばかりだ。今回は「身の丈発言」のほかに「『あいつ予備校に通ってずるい』というのと同じだと思う」とも述べている。入試の公平性と予備校通学を同じように語ることはできない。いずれの発言も受験生の心情に寄り添っておらず、思慮を著しく欠いている。

 「身の丈発言」について萩生田氏は撤回し、謝罪した。その上で、民間試験を予定通り実施する方針を示している。課題があっても強引に制度を始めようとする姿勢が垣間見える。経済格差や地域格差が解消されず、受験生や関係者の不安が残ったままでの制度開始は許されないと政府は自覚するべきだ。

 大臣や政治家の問題発言が後を絶たない。河野太郎防衛相も自身の政治資金パーティーで、「私はよく雨男と言われた。防衛相になってから既に台風は三つ」と語った。その後陳謝し、趣旨は被災地支援に当たる「自衛隊の努力と処遇改善の必要性だった」と釈明した。ならば笑いが起きるような言葉は必要ない。被災者への配慮を欠き、軽率とのそしりは免れない。

 菅義偉官房長官は萩生田氏について「適材適所だ」と語り、閣僚の資質に問題はないとの認識を早々に示した。萩生田氏は首相の側近である。先に経済産業相を辞任した菅原一秀氏は菅氏の側近で、疑惑発覚から辞任まで2週間余り経過し、後手に回った印象が残る。

 「身内」に甘い対応は、政府内の緩みを助長しかねない。首相は長期政権のおごりが生む弊害を深刻に受け止め、自ら言う「任命責任」を明確な形で果たさなければならない。


愛媛新聞社説 2019年10月31日
https://www.ehime-np.co.jp/article/news201910310021



独白 ― 萩生田光一「身の丈発言」のホンネを語る。

人事の要諦は適材適所だよ。私が、文部科学大臣。これこそ理想の適材適所。安倍政権の傑作じゃないか。口さがない輩は、「加計学園にあれだけドップリ浸かって、疑惑を抱えた萩生田が文科行政のトップとはブラックジョークか」などと悪口を言うが、ためにする言いがかりで八つ当たりも甚だしい。森友・加計批判を強引に乗り切った私こそが、教育行政のトップを担うにふさわしい。一見して明白だよ。

私は、予てからの教育勅語信奉者だ。日々、勅語の精神を政治に行政に体現しようと、議員会館の私の部屋には、勅語の額が掲げてある。掲げてあるだけではない。朝に夕に勅語を拝読三唱し、明治大帝の大御心の深さの一端でも、我が心にしようと誠心誠意努力を重ねている。そんな私なのだから、子どもたちに倫理を教える文科省の大臣にもっともふさわしいんだ。

往々にして、勅語は失効しただの、アナクロニズムだのという不敬の言動にお目にかかるが、ものを知らないということは恐ろしい。勅語の最後にはこう書いてある。

「斯ノ道ハ實ニ我カ皇祖皇宗ノ遺訓ニシテ子孫臣民ノ倶ニ遵守スヘキ所。之ヲ古今ニ通シテ謬ラス、之ヲ中外ニ施シテ悖ラス。朕、爾臣民ト俱ニ拳々服膺シテ咸其コヲ一ニセンコトヲ庶幾フ」

どう? おそれいらない? つまり、勅語の精神はだね、なんたって神さまがお示しになったものだから、正しいに決まっている。「古今の歴史を通じて、また世界のどこにおいても」けっして間違っていないと書いてあるんだ。勅語が示している道は、令和の御代においても、我等臣民の永遠に守るべきものなのだから、これを信奉している私こそが文科大臣に最もふさわしいわけだ。

その私の、「身の丈」発言だ。「身の丈」で生きることって、大切なことだよ。常々思っていることを口にしただけだが、形勢不利となれば、撤回も謝罪もなんでもありだ。これも、子どもたちに教訓的だろう。

「蟹は甲羅に似せて穴を掘る」というじゃないか。蟹だってオケラだって、身の丈に合わせて生きているんだ。ましてや知恵のある人間だもの、身の丈に合わせた生き方をしなくては苦しむだけさ。「身の程」を知り、「分相応」の生き方が大切なことを、道徳の時間に改めてよく教えなくてはならない。

人の平等だの、教育の機会均等だのというのは、そりゃ建前だけのこと。ほら、皇室をご覧なさい。畏れ多くも、皇室や皇族の皆様方が、われわれ臣下と平等であるはずはない。だから、安倍晋三首相が、臣下を代表して、高御座のお上を「仰ぎ見て」、「テンノーヘイカ・バンザイ」とやったのだ。これが世の常識というもの。

そして、「テンノーヘイカ・バンザイ」をやった安倍晋三首相も、典型的な三代目政治家。下から這い上がった人ではない。麻生太郎財務大臣も同じ。何の苦労も知らないお坊ちゃんたち。このような,格差の上澄みが支配する世の中であるという現実を、しっかりと知らねばならない。それこそが教育の課題。

憲法が、人間差別の象徴としての天皇の存在を認めているとおり、人間の平等は観念論だ。現実には、人は差別を背負ってこの世に生まれ育つのだ。とりわけ、貧富の格差による差別は如何ともしがたい。この格差を無理に是正しようとすれば、共産主義の世の中になってしまう。それでもよいという覚悟はおありかな。

だから、大学入試の英語民間試験導入を巡る問題で、「お金や地理的に恵まれた生徒が有利になるのではないか」と聞かれて、私は「身の丈」が大切と答えたのだ。なにも、大学入試の英語の科目だけが教育差別というものではない。人は、生まれ落ちたときから、教育格差の中で生きているのだ。幼稚園から大学まで、すべて教育格差で貫かれた現実。自分の身の丈に合わせて勝負してもらう」以外にありようはない。

私は、「受験生に不快な思いを与えかねない説明不足な発言だった。おわびしたい」とは言った。もちろん、慎重にyle="color: #0000ff;">「受験生に不快な思いを与えた」とは認めていない。「説明不足」に過ぎなかったのだから、説明さえすればよいのだ。それで、身の丈に合わせてとは、「自分の都合に合わせて」の意味だと言ってはみた、我ながら上手くない。「身の丈に合わせて」は外部からの強制による余儀なくされた選択で、「自分の都合に合わせて」は強制性のない自発的な選択なのだから。

しかしだ、この程度のことで騒がれるのは、はなはだめんどうだ。やっぱり、教育勅語だよ。上から目線で、教育も教育行政も貫けるのだから、戦前はよかった。ここでうんと天皇の権威を高めて、政治も行政もやりやすくしてもらいたいものさ。


澤藤統一郎の憲法日記 2019年10月30日
http://article9.jp/wordpress/?p=13679


http://www.asyura2.com/19/senkyo266/msg/887.html
[政治・選挙・NHK266] 森ゆうこ議員への懲罰要求署名の格好悪さと不気味さ・米山隆一 (朝日新聞社 論座)

森ゆうこ議員への懲罰要求署名の格好悪さと不気味さ

偽りの目的を旗印に掲げた署名運動は日本の民主主義にとって極めて危険だ

米山隆一 前新潟県知事。弁護士・医学博士
論座 2019年10月29日 より無料公開部分を転載。


参院予算委で質問する自由党の森ゆうこ幹事長=2019年3月4日

 森ゆうこ参議院議員の質問通告に端を発した自称官僚アカウントによる誹謗問題と、その後の元財務官僚・高橋洋一氏の質問漏洩問題が世間を騒がせた後、今度は質問の対象となった国家戦略特区WG座長代理の原英史氏が、「国会議員による不当な人権侵害を許さず、 森ゆうこ参議院議員の懲罰とさらなる対策の検討を求めます。」という、率直にいって前代未聞の署名運動を開始しました(詳しくはこちら)。

 必ずしも世間の注目度が高いとは言えないものの、一部の耳目を集めており、個人的に看過できないと考えるので、この署名運動に対する私見を述べたいと思います。

 まず前提として、この懲罰要求署名運動は民間がやっている運動であり、それ自体は自由です。しかし、当然のことながらそれをどう感じるか、どう評価するかもまた自由であり、それゆえに私見を述べるわけですが、率直に言ってこの運動は、
@そもそも懲罰に該当しないことに対して懲罰を求めており筋違いである
A運動の発起人(※注)は懲罰に該当しないことをわかっているはずで、実現する気のない「偽」の目的を旗印に掲げた運動である
Bこのような運動が民主主義を危うくすることにあまりに無自覚である
ことから、恐縮ながら、極めて「格好の悪い」「不気味な」ものであると私は思いま
す。

※発起人
朝比奈一郎、生田與克、池田信夫、岩瀬達哉、上山信一、加藤康之、岸博幸、鈴木崇弘、橋洋一、冨山和彦、新田哲史、原英史、町田徹、八代尚宏、屋山太郎(敬称略、五十音順)

 以下、その理由について詳述します。

森ゆうこ議員の質問は懲罰に当たるのか?

 そもそもこの運動は、森議員が10月15日の参議院予算委員会で行った質問が、参議院での懲罰に該当するものであるということが前提ですが、これは本当でしょうか?

 いうまでもなく国会は自由な言論の場です。懲罰事犯(懲罰に該当する事案をこういいます)は、議長が職権で懲罰委員会に付託するか、議員から懲罰動議が出されて本会議で可決された後に懲罰委員会に付託されるかに分かれますが、懲罰委員会に付託される事案は決して多くありません。

 明確な基準があるとは聞いていませんが、過去に懲罰動議が懲罰委員会に付託されたのは、基本的に議院における暴力であるとか、垂れ幕を掲げるとか(2018年にカジノ法案の採決に際して垂れ幕を掲げた参議院の森ゆうこ議員、山本太郎議員、糸数慶子議員が議長の職権で参院懲罰委員会に付託され、審議未了で廃案となっています=朝日新聞デジタル2018年7月20日=)、規則に違反する無届の海外旅行とか、「外形的規則違反」としてはっきりしたものに限定されています。

「永田メール事件」のケース


偽メールの件で民主党両院議員総会で民主党の議員の前でおわびをした永田寿康衆院議員=2006年2月28日

 ただ、少数ながら「質疑内容」自体が懲罰の対象となった事例も存在します。その数少ない事例の一つが、2006年初めに起きた有名な「永田メール事件」です。

 この事件は、民主党の永田寿康衆院議員が、「ライブドア元社長の堀江貴文氏が、2005年8月26日付の社内電子メールで、自らの衆院選出馬に関して、武部勤自民党幹事長の次男に対し、選挙コンサルタント費用として3000万円の振込みを指示した」と指摘し、自民党の責任を追及したものですが、そもそも堀江氏は自民党公認でも推薦でもなく、自民党側は直ちに事実関係を否定しました。

 これに対し、永田氏は証拠となるメールを公開したのですが、そのメールに明らかな矛盾点が複数あることが指摘され、偽物であることがほぼ確実となりました。これを受けて永田氏は記者会見を開き、証拠として信頼性が不十分なメールを提示して疑惑を追及したことを謝罪したのですが、疑惑自体は否定せず、かつメール取得元も秘匿したために事態はその後も紛糾し、最終的に懲罰動議が提出されて民主党を含む全会一致で可決され、懲罰委員会に付託されたという経過をたどりました(本人の辞任により懲罰動議自体は廃案になっています)。

 この事案は、追及の中身が明白に(追及者自身もほんの少し注意すれば分かる程度に)事実に反していたうえ、その後の経過もあまりに無茶苦茶で、懲罰もやむなしとしか言いようがないのですが、逆に言うとここまで無茶苦茶でない限り、「質疑内容」によって懲罰はないというのが、事実上の基準であるように思われます。

事実に反することは言っていない森議員

 では、森議員の質問は、この永田メール事件に相当するようなものでしょうか?

 私は端的に「まったくその様なものではない。」と断言できます。何故なら、森議員は、大きく事実に反することは言っていないからです。

 森議員の質問をいま一度確認してみましょう(詳しくはこちら。1:32付近から)。その発言は「ワーキングが決めていない。でもね、分科会のメンバー見ると、委員会有識者、原英史、原さんが決めているんですよ、おかしいじゃないですか、分科会が、決めてるから問題ないって、利益相反じゃないですか、普通だったらこれが国家公務員だったら、あっせん利得、収賄で、刑罰を受けるんですよ」というものです。

 これに対し、分科会において「原さんが決めている」という発言は事実に反するという主張が、今般の懲罰要求運動署名の発起人のひとりでもある国家戦略特区座長の八田達也氏によってなされています(詳しくはこちら)。

 分科会における意思決定のプロセスについては資料が公開されていませんので、本当のところは分かりませんが、八田氏の言うように他の委員も多数おり、原氏が決められることではないということはもちろんありうると思います。その一方で、WG座長代理の原氏が出席している以上、大きな影響力を行使して事実上決定していたという可能性もまたありえます。

  森議員が言う「原さんが決めている」は、原さんが「決めることに関与している」から「自分で決定している」までを含む幅のある表現であり、明白に事実に反するといえるようなものではありません。また、そもそもそれ以前に原氏自身がこの部分をさほど問題視していません。

原氏が問題視する部分

 むしろ原氏が強く問題視しているのは、「これが国家公務員だったら、あっせん利得、収賄で、刑罰を受けるんですよ」の部分ですが、原氏の主張とは裏腹に、この部分は実のところ事実である場合が十分に想定できるものです。

 原氏は問題となっているコンサルティング会社から資金を受けていないことを強調していますが、原氏が国家公務員であり、事業者から請託を受けて(原氏はコンサルティングに一定の協力をしていることは認めており、「請託を受けている」と考える方が普通でしょう)、自らと関係のあるコンサルティング会社に報酬を得させていたなら、第三者供賄罪(刑法197条の2)が成立しうるからです。

 ただし、誤解して欲しくないのですが、これは、原氏自身が懲罰要求署名運動で述べているように(詳しくはこちら)、「原氏が不正行為をした」ということをまったく意味しません。単に民間人・民間企業が普通にやっていることを、公務員がやったら収賄になるということを意味しているだけなのです。

 たとえば、弁護士は顧客からお金を貰って、その顧客の権利を実現します。しかし、仮にこの弁護士が、「国民の人権を実現する公務」を担った公務員なら、特定の人からお金を貰って特定の人の人権だけを実現している時点で、収賄罪が成立しえます。

 もし、この弁護士が誰かから「あなたが公務員だったら収賄罪に該当するよ」と言われたら、「ええそうですね。お金を払ってくれたクライアントの利益を最大化するのが私の仕事ですから、公務員なら収賄罪かもしれないですね。でも、ご承知の通り私は公務員ではなく弁護士なので、収賄罪は成立しません。私は弁護士として当然のことをしています」と答えればよいだけのことなのです。

 本件のコンサルティング会社もこれと似た図式だと言えます。弁護士は補助金の獲得をはじめとして、公的セクターとの折衝を顧客から依頼されることがあります。その際、その顧客にたとえば税務の相談や何らかのコンサルティングが必要になったら、通常、普段から付き合いのある税理士やコンサルティング会社を顧客に紹介します。民間ビジネス的には持ちつ持たれつは当然であり、むしろそういった同業者同士の相互紹介網を構築することが、顧客サービス向上に繋がるからです。

 しかし、もし仮にこの弁護士が「補助金申請を審査する公務員」であったとしたら、どうでしょうか。請託を受けて、自らと関係するコンサルティング会社を紹介し、その会社に報酬を受けさせた時点で、第三者供賄罪が成立しうるのです。

「重大な人権侵害!」は過剰反応?

 つまり本件の本質は、原氏自身が報酬を受け取っていたかいないかでも、それが収賄に当たるか否かでもない。本来、公務員として公益のために厳格な公平性・公正性をもってあたるべき、国家戦略特区および事業者の選定(原氏の業者の選定への関与の度合いは前述の通り明らかではありませんが、少なくともその決定の場にはいます)という極めて公的性質の高い職務を、「民間人座長(代理)のWG」が行い、その民間人座長(代理)が民間的な感覚で自らの審査対象に自らの仕事仲間を紹介し・協力することの是非。別言すれば、安倍晋三政権においてしばしば見られる、「公務の民間委託と、そこから派生する『お仲間行政』によって行政の公益性・公平性・公正性、もしくはそれらへの信頼が損なわれること」の是非なのです。

 もちろんその質問をするに際し、森議員が用いたロジックと声色に、原氏の癇に障ったであろう、森議員一流のある種の演出効果があったことは否定しません。また、前述の通り、分科会における原氏の意思決定への関与の度合いは不明確ですし、「あっせん利得罪」については第三者供賄の規定がないために、仮に原氏が国家公務員でも成立しないことについては、おそらく森議員の側に誤解があったのではないかとも推測されます。

 しかし、森議員は何か明白に事実に反する事を言っているわけではありません。「仮に原氏が国家公務員なら」、第三者供賄罪に該当すると言っているだけであり、それ自体は間違っていません。原氏が現実に犯罪を犯したと言っているわけでも、金銭を収受したと言っているわけでもないのです。

 今回の質問では時間切れで回答できなかったようですが、原氏、もしくは北村誠吾内閣府特命担当大臣は、森議員の質問に対して、「議員ご指摘の通り、仮に私(原氏)が国家公務員なら収賄罪が成立しうるかもしれませんが、言うまでもなく私(原氏)は民間人であり成立しません。私(原氏)は、民間人として最適と思われることをしただけで、民間人として何の問題もありません。ただし、公務の公益性・公平性・公正性に対する信頼という面では問題があった可能性もあり、議員の指摘をうけ、民間委員と選定対象の亊業者との関わり方について今後整理したいと考えます。」とでも反論すればよかっただけの話であり、「不正行為をしたと言われて重大な人権侵害がなされた!」とするのは、恐縮ながら、私には過剰反応にしか見えません。

懲罰要求署名は完全に無理筋

 以上のように、森議員の質疑に明白に事実に反するところはありません。事実関係の認識については当事者である原氏と食い違っているところはありますが、食い違いがあるからこそ疑問を感じ、質問して確認するのであり、当事者と事実関係の認識が食い違っている質疑がダメだとなったら、国会で疑惑を追及することはおよそ不可能になってしまいます。この「質疑内容」での「懲罰」は、従前の参議院・国会のあり方を前提とすれば、完全な無理筋だと言わざるをえず、だからこそ、与党自民党の参議院議長も、与党自民党を含めた参議院も、国会も、この懲罰要求署名運動にはまったく反応していないのです。

 原氏をはじめとして錚々(そうそう)たる発起人の方々が、森議員の質疑における主張が正しくないと思うのであれば、正々堂々、自らが信ずるところを心ゆくまで主張し、言論によって対抗するのが筋であり、これらの方々は、それをするに十二分の学識と見識、影響力と発表の場をもっています。にもかかわらず、これだけ錚々たる方々が、そろいもそろって、従前の基準から考えてまず実現しない懲罰要求署名運動を煽動していることは、明らかに筋違いであり、極めて「格好悪い」ことだと私は評価せざるを得ません。


参院予算委で質問する国民民主党会派で自由党の森ゆうこ幹事長=2019年3月7日

偽りの目的を旗印に掲げた署名運動

 さらに、私がこの懲罰要求署名運動がより一層「格好悪い」と思うのは、発起人15人のうち、怒りに燃える原英史氏以外の14人は(もしかして原氏も)、その学識・見識からしても、衆議院・参議院の事情を知り得る人的関係を有していることからしても、ほぼ確実に、今般の森議員の質疑が懲罰に該当するようなものではないことを知っているはずだということです。

 それにもかかわらず、この錚々たる方々が、多くの人に懲罰要求の署名を求めているその真の目的はなにか。そこは推測するしかないですが、仮にそれが森議員に嫌な思いをさせるためだとすれば、そうした行為を指す適切な日本語はただ一つ、「嫌がらせ」以外にはありません。・・・ログインして読む(残り:約1502文字/本文:約7127文字)


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