★阿修羅♪ > dGhQLjRSQk5RSlE= > 100129
 
g検索 dGhQLjRSQk5RSlE=  
 前へ
dGhQLjRSQk5RSlE= コメント履歴 No: 100129
http://www.asyura2.com/acat/d/dg/dgh/dGhQLjRSQk5RSlE=/100129.html
[近代史3] 日本人は「狂ったアメリカ」を知らなすぎる 中川隆
97. 中川隆[-13483] koaQ7Jey 2020年3月23日 17:34:35 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[1421]
2020年03月23日
アメリカの闇 政治を金で買う超富裕層

大統領を当選させるには政党全体で2000億円は集める必要がある。
勝負を決めるのは大企業や大資産家の献金

引用:http://homepage3.nifty.com/fukuda326/obama2.jpg


金で政治や外交を販売する国

早くも2020年11月3日にアメリカ大統領選があるが、毎回両陣営は巨額の献金を集めて戦っています。

企業や投資家が選挙に投資して政治を買っているが、アメリカではそれが違法ではなく合法です。

仮に安倍晋三氏や枝野幸男氏が有名企業や資産家から多額の献金を受けて、彼らに優遇税制を作ったら日本では犯罪です。

だがアメリカではあからさまに政治献金し、見返りにその人を無税にしても、完全に合法なのです。

むし違法だったらばれたら取り締まるので問題は小さいのだが、分かっているのに誰も止められない。

調査によると過去の大統領選の政治献金の多くを、少数の資産家と企業が拠出していたそうです。


全米で上から100人の金持ちと企業を並べていけば、その人たちに間違いないでしょう。

アメリカでは有権者やスポンサーが多くの献金をしていますが、そんなのは選挙に影響しない。

最近10年ほどの選挙では民主党が圧勝を続けたが、資金集めでも圧勝していました。


オバマ大統領が2回目の大統領選で使った選挙資金は6億ドル(600億円)とされていて、この多くは例の少数の資産家と企業が出しました。

例えばビルゲイツの資産は10兆円を超えますが、4年に一度たった数十億円を寄付するだけで、あらゆる税金が免除されるのです。

オバマもヒラリーも、どんな手段を使ってでも自分のスポンサー達の資産を守るでしょう。


政治献金すれば税金免除

有名な投資家JソロスやWバフェットは民主党を支持し、ゲイツとジョブズ家も民主党を支持していました。

こうした金持ちが支持するという事は、多額の献金をするという意味でもあります。

スタバ創業者、マードック氏、フェイスブック創業者などが「公式に」民主党に寄付しています。


表向きの寄付金額は数百万円から数億円なのだが、全てを明らかにしていないのは、日本の政治献金と同じでしょう。

例えばクリントン夫妻は15年間で150億円の講演料を受け取り、年間50時間ほど講演した事になっている。

仮にヒラリーやオバマが「最近の天気の話」をしたとしても、講演料ではなく政治献金なのだから誰も文句を言わなかったでしょう。


クリントン夫妻は元大統領と現国務長官の地位を利用して、アメリカの外交を外国に販売していた。

例えばロシアの原子力企業が米政府の認可を必要としたとき、クリントン財団に2.5億円寄付したら認可された。

日本の政治家は政治パーティーを主催してパーティー券を販売しますが、アメリカでも同じ事をしています。


1枚数百万円のチケットを販売し、支援者に買ってもらって事実上の政治献金を受けています。

オバマが2回目の大統領選で6億ドル集めたと書きましたが、民主党全体では15億ドルくらい集めました。

アメリカの法律では一人が50万円くらいしか寄付出来ないし、企業献金は禁止されているが、抜け道が用意されている。


献金団体に寄付して、献金団体が民主党や共和党に寄付すれば、無制限でいくらでも献金が可能です。

献金者の名前は公表されるが、「AさんがBさんに依頼して、Cさんの名前で献金」などのテクニックで、いくらでも誤魔化せる。

大統領選だけでなく、州議会選挙から市会議員選挙まで、アメリカは全てこうであり、献金を集めなければ当選出来ない。


という事は当選した政治家は多額の献金者に借りができるので、何かの形でお返ししなければならない。

そのお返しとは資産家の納税額を低く抑えることで、大抵の資産家は税金を払っていません。

アメリカの長者番付の上位100人くらいは、まったく納税していないか、ほとんど納税していないかのどちらかです。


トランプが当選した時にも外交素人が駐日大使になったり、支援者や活動家へのご褒美を配っていました。

近年問題になったのがロシアや中国の政治関与で、こうした国々の介入で当選した大統領は彼らに便宜を払うでしょう。

http://www.thutmosev.com/archives/65502675.html

http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/175.html#c97

[近代史02] 株式投資の神様「ウォーレン・バフェット」の言葉を真に受けると悲惨な結果になる 中川隆
18. 中川隆[-13482] koaQ7Jey 2020年3月23日 17:35:26 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[1422]
2020年03月23日
アメリカの闇 政治を金で買う超富裕層

大統領を当選させるには政党全体で2000億円は集める必要がある。
勝負を決めるのは大企業や大資産家の献金

引用:http://homepage3.nifty.com/fukuda326/obama2.jpg


金で政治や外交を販売する国

早くも2020年11月3日にアメリカ大統領選があるが、毎回両陣営は巨額の献金を集めて戦っています。

企業や投資家が選挙に投資して政治を買っているが、アメリカではそれが違法ではなく合法です。

仮に安倍晋三氏や枝野幸男氏が有名企業や資産家から多額の献金を受けて、彼らに優遇税制を作ったら日本では犯罪です。

だがアメリカではあからさまに政治献金し、見返りにその人を無税にしても、完全に合法なのです。

むし違法だったらばれたら取り締まるので問題は小さいのだが、分かっているのに誰も止められない。

調査によると過去の大統領選の政治献金の多くを、少数の資産家と企業が拠出していたそうです。


全米で上から100人の金持ちと企業を並べていけば、その人たちに間違いないでしょう。

アメリカでは有権者やスポンサーが多くの献金をしていますが、そんなのは選挙に影響しない。

最近10年ほどの選挙では民主党が圧勝を続けたが、資金集めでも圧勝していました。


オバマ大統領が2回目の大統領選で使った選挙資金は6億ドル(600億円)とされていて、この多くは例の少数の資産家と企業が出しました。

例えばビルゲイツの資産は10兆円を超えますが、4年に一度たった数十億円を寄付するだけで、あらゆる税金が免除されるのです。

オバマもヒラリーも、どんな手段を使ってでも自分のスポンサー達の資産を守るでしょう。


政治献金すれば税金免除

有名な投資家JソロスやWバフェットは民主党を支持し、ゲイツとジョブズ家も民主党を支持していました。

こうした金持ちが支持するという事は、多額の献金をするという意味でもあります。

スタバ創業者、マードック氏、フェイスブック創業者などが「公式に」民主党に寄付しています。


表向きの寄付金額は数百万円から数億円なのだが、全てを明らかにしていないのは、日本の政治献金と同じでしょう。

例えばクリントン夫妻は15年間で150億円の講演料を受け取り、年間50時間ほど講演した事になっている。

仮にヒラリーやオバマが「最近の天気の話」をしたとしても、講演料ではなく政治献金なのだから誰も文句を言わなかったでしょう。


クリントン夫妻は元大統領と現国務長官の地位を利用して、アメリカの外交を外国に販売していた。

例えばロシアの原子力企業が米政府の認可を必要としたとき、クリントン財団に2.5億円寄付したら認可された。

日本の政治家は政治パーティーを主催してパーティー券を販売しますが、アメリカでも同じ事をしています。


1枚数百万円のチケットを販売し、支援者に買ってもらって事実上の政治献金を受けています。

オバマが2回目の大統領選で6億ドル集めたと書きましたが、民主党全体では15億ドルくらい集めました。

アメリカの法律では一人が50万円くらいしか寄付出来ないし、企業献金は禁止されているが、抜け道が用意されている。


献金団体に寄付して、献金団体が民主党や共和党に寄付すれば、無制限でいくらでも献金が可能です。

献金者の名前は公表されるが、「AさんがBさんに依頼して、Cさんの名前で献金」などのテクニックで、いくらでも誤魔化せる。

大統領選だけでなく、州議会選挙から市会議員選挙まで、アメリカは全てこうであり、献金を集めなければ当選出来ない。


という事は当選した政治家は多額の献金者に借りができるので、何かの形でお返ししなければならない。

そのお返しとは資産家の納税額を低く抑えることで、大抵の資産家は税金を払っていません。

アメリカの長者番付の上位100人くらいは、まったく納税していないか、ほとんど納税していないかのどちらかです。


トランプが当選した時にも外交素人が駐日大使になったり、支援者や活動家へのご褒美を配っていました。

近年問題になったのがロシアや中国の政治関与で、こうした国々の介入で当選した大統領は彼らに便宜を払うでしょう。

http://www.thutmosev.com/archives/65502675.html

http://www.asyura2.com/09/reki02/msg/886.html#c18

[近代史4] アメリカの闇 政治を金で買う超富裕層 中川隆
1. 中川隆[-13481] koaQ7Jey 2020年3月23日 17:39:19 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[1423]

2019年07月15日
アメリカのロビイストは政策立案者 官僚以上の権力

ロビイストは企業の依頼で法案を作り、政治家に「この法案を成立させたら何億ドル差し上げますよ」と働きかける

こうした行為が合法なのがアメリカ


画像引用:https://d.line-scdn.net/lcp-prod-photo/20180821_30/800000289_1534804824853fGyX1_JPEG/bookoffonline_0016899864.jpg?type=r640_trim

ロビイストの権力

アメリカの政治でもっとも理解できないのはロビー活動やロビイストではないでしょうか?

日本では政治家をホテルのロビーで待ち受けて話を聞いてもらい、市民の要望などを働きかける人と紹介されている。

これだけではどうして政治家はそんな怪しい連中の話を聞いて、要求を受け入れるのかがさっぱり分からない。


ロビイストの一番重要な部分は企業と政治家の仲介で、企業はお金を払い政治家は企業の要求を実現する。

たとえば米自動車メーカー3社が話し合って、日本車の規制を強化しようと話し合ったとします。

3社は日本車規制によって得られる利益を1兆円と計算し、そのうち1000億円を政治家に払っても良いなどと考えます。


自動車のような業界は優秀なロビイストを多数抱えていて、政治家に「この法案を通してくれたら1000億円あげるよ」と提案します。

アメリカは上院の力が強いので上院大物議員とその子分たちにお金をばらまけば、政策や法案を買う事ができます。

この時ロビイストが「この法案を通してくれたら金額はいくら」と提案するが、その時点で既に法案はまとめられています。


アメリカでは議員立法が多く、日本では国会議員が法案を作っているように誤解されますが、すべてロビイストが作っています。

日本では議員立法は非常に少なく、ほとんどの法案を官僚が作成しているが、アメリカではロビイストが作成します。

日本の官僚が絶大な権力を握っているように、法案を作成するロビイストは強大な権限を持っています。

ロビイストは企業が望む法律を実現する

アメリカでは政治家への企業献金が認められていますが、保険会社が保険金を払わずに済む法案などを大っぴらには頼めません。

そこで表に出ないようにロビイストが活動し、あたかも政治家が「市民のため」にやっているように偽装します。

例えばアメリカの医療保険や医療費、薬剤費はばかばかしいほど高額で知られ、日本の10倍はします。


こうなったのもロビー活動の成果で、医薬品メーカーや医療業界、医療団体が儲かる制度を作ったからでした。

たとえば糖尿病薬のインスリンは日本では5千円、アメリカでは5万円以上ですが、医薬品メーカーが特許を握っているため安売りできません。

インスリンの特許はとっくに切れていますが、成分の一部を変えたりカプセルを変えるだけで特許が延長される制度に変えてしまいました。


外国から安いインスリンが輸入されると困るので、外国からアメリカに輸入して販売するのを禁止しました。

保険制度も酷いもので、オバマが創設したオバマケアを利用して医療費と保険代を2倍に値上げしてしまいました。

国民皆保険になったら値上げしても「保険に加入しなくてはならい」ので、ビジネスチャンスととらえて全社一斉に値上げしたのです。


もちろんこれも事前にロビイストが準備をし、1社だけ安売りしないように立法化していました。

政治家は「国民の選択肢が増える」などまるで国民のためにやっているかのように偽装して、医療費負担を増やしました。

ちなみにオバマケアで医療費が安くなったのは1割ほどの低所得者で、他の全員の医療費は値上がりしました。
http://www.thutmosev.com/archives/80397583.html  

http://www.asyura2.com/20/reki4/msg/634.html#c1

[近代史4] アメリカの闇 政治を金で買う超富裕層 中川隆
2. 中川隆[-13480] koaQ7Jey 2020年3月23日 17:40:19 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[1424]

2019年12月26日
金持ちの嘘くさい寄付 バフェットとゲイツは無税で子供に相続

良くこんな白々しいセリフが喋れると感心するビルゲイツ
全資産を非課税で子供に相続させる。


アメリカ1位と2位の大資産家、バフェットとゲイツがともに、全資産を慈善団体に寄付すると言っている。

ところがその実体は「脱税」そのものなのです。


慈善事業という脱税


数年前、全米一の資産家のウォーレン・バフェットが全資産を慈善事業に寄付すると発表し話題になった。


バフェットの友人のビルゲイツもまた、資産の95%を慈善団体に寄付すると発表し、献身的行為として賞賛された。

またアラブの某王様が全資産20兆円以上を、やはり慈善団体に寄付すると発表した。

彼らは一様に「子供を金持ちにするほど愚かではない」「お金を持っていても意味は無い。」などと仙人のような事を言っている。


急に世界の金持ち達は自己犠牲や弱者への愛に目覚めたようです。


だが本当の目的は他にあるという先例もある。

T型フォードで有名なフォードは莫大な遺産を子供達に残したが、80年代には日本車に押されてフォードの経営は悪化していた。

金持ちにとって相続税などで子孫が代替わりするたびに資産が目減りするのは悩みの種だった。


そこでフォード一族は親族会議を開き、一族の資産を慈善団体に寄付する事にしました。

フォード財団は初代フォードが存命中に設立したが、目的は最初から脱税と相続税の免除だった。


時代を経るごとに一族は本業よりも慈善活動に力を入れるようになり、今では慈善事業が本業です。


カーネギー財団とかフォード財団などアメリカには慈善団体が多いが、目的はすべて金儲けと脱税です。


「慈善事業」という言葉の響きには誤解があり、多くの人は金持ちが自分の金を貧しい人に寄付すると思っている。

そうではなく、慈善団体は営利事業として投資を行い、利益の一部を寄付して、出資者に配当金を支払うのです。


事業そのものには税金が掛からないうえ、出資者への配当金も、ほぼ無税でしかも世襲です。

資産を相続せず、役員の役職を継ぐので代替わりしても相続税は一切掛からない。


バフェットやゲイツの「お金に興味が無くなった」という言葉は、興味が無ければドブにでも捨てたらどうなのかと思える。


バフェットの資産数兆円を慈善団体に寄付し、子供を役員にする事で非課税で全資産を相続させることができる。

役員は出資金の金額で決まり、世襲で相続されるので多くの金持ちがそうしている。

財団の利益は寄付事業をした残りが、出資比率に応じて分配される事になっている。

アメリカの大金持ちの生き方


アメリカには○○財団がやたらと多く、トンチンカンな日本の知識人は「アメリカの金持ちは募金をするが日本人はしない」と言っています。

日本人には社会に貢献する気持ちが無くて恥ずかしい、アメリカ人はキリスト教徒なので寄付で社会貢献している、などと言っていました。


アメリカ人が寄付するのは慈悲の心からではなく、金儲けの手段の一つなのです。


財団を設立して脱税する手口を始めたのは、ロックフェラーだったとも言われている。

アメリカでは大統領選の選挙資金の80%をこうした金持ちが出しているので、決して金持ちの脱税を止めたりはしません。


州議会議員や市議会議員でも、もちろんこうしたお金の恩恵を受けているので、金持ちから税金を取ることは無いのです。


例えばバフェットが全資産5兆円を財団に寄付したとします。

アメリカの法律では財団が解散すれば5兆円はそっくりバフェットに返還される事になっています。


実際にはその時には84歳のバフェットはなくなっていて、子供か孫の世代になっていますが、同じように非課税で返還されます。


解散するしないは、最大出資者のバフェット一族が、役員として決定権を握ります。

寄付したお金は自分の資産ではないので一切非課税になり、相続税や財団の資金運用にも掛かりません。

バフェットがやっているバークシャー・ハサウェイより有利な条件で資金運用できるのです。


ビルゲイツの7兆円も同じように、彼が生きているうちに「永遠の預金」に預け、子孫は配当金をずっと受け取れます。

例えば5兆円の5%が毎年分配されたとしても、毎年2500億円を受け取れる訳です。

しかもこうした財団はインフレにもデフレにも強く、元本が目減りする事はまず無い。


これは寄付ではなく日本語では「永久非課税の定期預金」に過ぎません。


因みに日本の慈善団体はこれほど優遇されておらず、世襲は上手く行かないので、日本の金持ちは寄付しません。


その代わり日本では政治団体を非課税で相続できるので、資産を寄付して息子に相続させる政治家が多い。
http://www.thutmosev.com/archives/36362336.html

http://www.asyura2.com/20/reki4/msg/634.html#c2

[近代史02] 株式投資の神様「ウォーレン・バフェット」の言葉を真に受けると悲惨な結果になる 中川隆
19. 中川隆[-13479] koaQ7Jey 2020年3月23日 17:41:04 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[1425]
2019年12月26日
金持ちの嘘くさい寄付 バフェットとゲイツは無税で子供に相続

良くこんな白々しいセリフが喋れると感心するビルゲイツ
全資産を非課税で子供に相続させる。


アメリカ1位と2位の大資産家、バフェットとゲイツがともに、全資産を慈善団体に寄付すると言っている。

ところがその実体は「脱税」そのものなのです。


慈善事業という脱税


数年前、全米一の資産家のウォーレン・バフェットが全資産を慈善事業に寄付すると発表し話題になった。


バフェットの友人のビルゲイツもまた、資産の95%を慈善団体に寄付すると発表し、献身的行為として賞賛された。

またアラブの某王様が全資産20兆円以上を、やはり慈善団体に寄付すると発表した。

彼らは一様に「子供を金持ちにするほど愚かではない」「お金を持っていても意味は無い。」などと仙人のような事を言っている。


急に世界の金持ち達は自己犠牲や弱者への愛に目覚めたようです。


だが本当の目的は他にあるという先例もある。

T型フォードで有名なフォードは莫大な遺産を子供達に残したが、80年代には日本車に押されてフォードの経営は悪化していた。

金持ちにとって相続税などで子孫が代替わりするたびに資産が目減りするのは悩みの種だった。


そこでフォード一族は親族会議を開き、一族の資産を慈善団体に寄付する事にしました。

フォード財団は初代フォードが存命中に設立したが、目的は最初から脱税と相続税の免除だった。


時代を経るごとに一族は本業よりも慈善活動に力を入れるようになり、今では慈善事業が本業です。


カーネギー財団とかフォード財団などアメリカには慈善団体が多いが、目的はすべて金儲けと脱税です。


「慈善事業」という言葉の響きには誤解があり、多くの人は金持ちが自分の金を貧しい人に寄付すると思っている。

そうではなく、慈善団体は営利事業として投資を行い、利益の一部を寄付して、出資者に配当金を支払うのです。


事業そのものには税金が掛からないうえ、出資者への配当金も、ほぼ無税でしかも世襲です。

資産を相続せず、役員の役職を継ぐので代替わりしても相続税は一切掛からない。


バフェットやゲイツの「お金に興味が無くなった」という言葉は、興味が無ければドブにでも捨てたらどうなのかと思える。


バフェットの資産数兆円を慈善団体に寄付し、子供を役員にする事で非課税で全資産を相続させることができる。

役員は出資金の金額で決まり、世襲で相続されるので多くの金持ちがそうしている。

財団の利益は寄付事業をした残りが、出資比率に応じて分配される事になっている。

アメリカの大金持ちの生き方


アメリカには○○財団がやたらと多く、トンチンカンな日本の知識人は「アメリカの金持ちは募金をするが日本人はしない」と言っています。

日本人には社会に貢献する気持ちが無くて恥ずかしい、アメリカ人はキリスト教徒なので寄付で社会貢献している、などと言っていました。


アメリカ人が寄付するのは慈悲の心からではなく、金儲けの手段の一つなのです。


財団を設立して脱税する手口を始めたのは、ロックフェラーだったとも言われている。

アメリカでは大統領選の選挙資金の80%をこうした金持ちが出しているので、決して金持ちの脱税を止めたりはしません。


州議会議員や市議会議員でも、もちろんこうしたお金の恩恵を受けているので、金持ちから税金を取ることは無いのです。


例えばバフェットが全資産5兆円を財団に寄付したとします。

アメリカの法律では財団が解散すれば5兆円はそっくりバフェットに返還される事になっています。


実際にはその時には84歳のバフェットはなくなっていて、子供か孫の世代になっていますが、同じように非課税で返還されます。


解散するしないは、最大出資者のバフェット一族が、役員として決定権を握ります。

寄付したお金は自分の資産ではないので一切非課税になり、相続税や財団の資金運用にも掛かりません。

バフェットがやっているバークシャー・ハサウェイより有利な条件で資金運用できるのです。


ビルゲイツの7兆円も同じように、彼が生きているうちに「永遠の預金」に預け、子孫は配当金をずっと受け取れます。

例えば5兆円の5%が毎年分配されたとしても、毎年2500億円を受け取れる訳です。

しかもこうした財団はインフレにもデフレにも強く、元本が目減りする事はまず無い。


これは寄付ではなく日本語では「永久非課税の定期預金」に過ぎません。


因みに日本の慈善団体はこれほど優遇されておらず、世襲は上手く行かないので、日本の金持ちは寄付しません。


その代わり日本では政治団体を非課税で相続できるので、資産を寄付して息子に相続させる政治家が多い。
http://www.thutmosev.com/archives/36362336.html

http://www.asyura2.com/09/reki02/msg/886.html#c19

[近代史3] アメリカのロビイストは政治家に「この法案を成立させたら何億ドル差し上げますよ」と働きかける 中川隆
3. 中川隆[-13478] koaQ7Jey 2020年3月23日 17:41:35 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[1426]
2019年12月26日
金持ちの嘘くさい寄付 バフェットとゲイツは無税で子供に相続

良くこんな白々しいセリフが喋れると感心するビルゲイツ
全資産を非課税で子供に相続させる。


アメリカ1位と2位の大資産家、バフェットとゲイツがともに、全資産を慈善団体に寄付すると言っている。

ところがその実体は「脱税」そのものなのです。


慈善事業という脱税


数年前、全米一の資産家のウォーレン・バフェットが全資産を慈善事業に寄付すると発表し話題になった。


バフェットの友人のビルゲイツもまた、資産の95%を慈善団体に寄付すると発表し、献身的行為として賞賛された。

またアラブの某王様が全資産20兆円以上を、やはり慈善団体に寄付すると発表した。

彼らは一様に「子供を金持ちにするほど愚かではない」「お金を持っていても意味は無い。」などと仙人のような事を言っている。


急に世界の金持ち達は自己犠牲や弱者への愛に目覚めたようです。


だが本当の目的は他にあるという先例もある。

T型フォードで有名なフォードは莫大な遺産を子供達に残したが、80年代には日本車に押されてフォードの経営は悪化していた。

金持ちにとって相続税などで子孫が代替わりするたびに資産が目減りするのは悩みの種だった。


そこでフォード一族は親族会議を開き、一族の資産を慈善団体に寄付する事にしました。

フォード財団は初代フォードが存命中に設立したが、目的は最初から脱税と相続税の免除だった。


時代を経るごとに一族は本業よりも慈善活動に力を入れるようになり、今では慈善事業が本業です。


カーネギー財団とかフォード財団などアメリカには慈善団体が多いが、目的はすべて金儲けと脱税です。


「慈善事業」という言葉の響きには誤解があり、多くの人は金持ちが自分の金を貧しい人に寄付すると思っている。

そうではなく、慈善団体は営利事業として投資を行い、利益の一部を寄付して、出資者に配当金を支払うのです。


事業そのものには税金が掛からないうえ、出資者への配当金も、ほぼ無税でしかも世襲です。

資産を相続せず、役員の役職を継ぐので代替わりしても相続税は一切掛からない。


バフェットやゲイツの「お金に興味が無くなった」という言葉は、興味が無ければドブにでも捨てたらどうなのかと思える。


バフェットの資産数兆円を慈善団体に寄付し、子供を役員にする事で非課税で全資産を相続させることができる。

役員は出資金の金額で決まり、世襲で相続されるので多くの金持ちがそうしている。

財団の利益は寄付事業をした残りが、出資比率に応じて分配される事になっている。

アメリカの大金持ちの生き方


アメリカには○○財団がやたらと多く、トンチンカンな日本の知識人は「アメリカの金持ちは募金をするが日本人はしない」と言っています。

日本人には社会に貢献する気持ちが無くて恥ずかしい、アメリカ人はキリスト教徒なので寄付で社会貢献している、などと言っていました。


アメリカ人が寄付するのは慈悲の心からではなく、金儲けの手段の一つなのです。


財団を設立して脱税する手口を始めたのは、ロックフェラーだったとも言われている。

アメリカでは大統領選の選挙資金の80%をこうした金持ちが出しているので、決して金持ちの脱税を止めたりはしません。


州議会議員や市議会議員でも、もちろんこうしたお金の恩恵を受けているので、金持ちから税金を取ることは無いのです。


例えばバフェットが全資産5兆円を財団に寄付したとします。

アメリカの法律では財団が解散すれば5兆円はそっくりバフェットに返還される事になっています。


実際にはその時には84歳のバフェットはなくなっていて、子供か孫の世代になっていますが、同じように非課税で返還されます。


解散するしないは、最大出資者のバフェット一族が、役員として決定権を握ります。

寄付したお金は自分の資産ではないので一切非課税になり、相続税や財団の資金運用にも掛かりません。

バフェットがやっているバークシャー・ハサウェイより有利な条件で資金運用できるのです。


ビルゲイツの7兆円も同じように、彼が生きているうちに「永遠の預金」に預け、子孫は配当金をずっと受け取れます。

例えば5兆円の5%が毎年分配されたとしても、毎年2500億円を受け取れる訳です。

しかもこうした財団はインフレにもデフレにも強く、元本が目減りする事はまず無い。


これは寄付ではなく日本語では「永久非課税の定期預金」に過ぎません。


因みに日本の慈善団体はこれほど優遇されておらず、世襲は上手く行かないので、日本の金持ちは寄付しません。


その代わり日本では政治団体を非課税で相続できるので、資産を寄付して息子に相続させる政治家が多い。
http://www.thutmosev.com/archives/36362336.html

http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/530.html#c3

[近代史3] 日本人は「狂ったアメリカ」を知らなすぎる 中川隆
98. 中川隆[-13477] koaQ7Jey 2020年3月23日 17:42:10 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[1427]

2019年12月26日
金持ちの嘘くさい寄付 バフェットとゲイツは無税で子供に相続

良くこんな白々しいセリフが喋れると感心するビルゲイツ
全資産を非課税で子供に相続させる。


アメリカ1位と2位の大資産家、バフェットとゲイツがともに、全資産を慈善団体に寄付すると言っている。

ところがその実体は「脱税」そのものなのです。


慈善事業という脱税


数年前、全米一の資産家のウォーレン・バフェットが全資産を慈善事業に寄付すると発表し話題になった。


バフェットの友人のビルゲイツもまた、資産の95%を慈善団体に寄付すると発表し、献身的行為として賞賛された。

またアラブの某王様が全資産20兆円以上を、やはり慈善団体に寄付すると発表した。

彼らは一様に「子供を金持ちにするほど愚かではない」「お金を持っていても意味は無い。」などと仙人のような事を言っている。


急に世界の金持ち達は自己犠牲や弱者への愛に目覚めたようです。


だが本当の目的は他にあるという先例もある。

T型フォードで有名なフォードは莫大な遺産を子供達に残したが、80年代には日本車に押されてフォードの経営は悪化していた。

金持ちにとって相続税などで子孫が代替わりするたびに資産が目減りするのは悩みの種だった。


そこでフォード一族は親族会議を開き、一族の資産を慈善団体に寄付する事にしました。

フォード財団は初代フォードが存命中に設立したが、目的は最初から脱税と相続税の免除だった。


時代を経るごとに一族は本業よりも慈善活動に力を入れるようになり、今では慈善事業が本業です。


カーネギー財団とかフォード財団などアメリカには慈善団体が多いが、目的はすべて金儲けと脱税です。


「慈善事業」という言葉の響きには誤解があり、多くの人は金持ちが自分の金を貧しい人に寄付すると思っている。

そうではなく、慈善団体は営利事業として投資を行い、利益の一部を寄付して、出資者に配当金を支払うのです。


事業そのものには税金が掛からないうえ、出資者への配当金も、ほぼ無税でしかも世襲です。

資産を相続せず、役員の役職を継ぐので代替わりしても相続税は一切掛からない。


バフェットやゲイツの「お金に興味が無くなった」という言葉は、興味が無ければドブにでも捨てたらどうなのかと思える。


バフェットの資産数兆円を慈善団体に寄付し、子供を役員にする事で非課税で全資産を相続させることができる。

役員は出資金の金額で決まり、世襲で相続されるので多くの金持ちがそうしている。

財団の利益は寄付事業をした残りが、出資比率に応じて分配される事になっている。

アメリカの大金持ちの生き方


アメリカには○○財団がやたらと多く、トンチンカンな日本の知識人は「アメリカの金持ちは募金をするが日本人はしない」と言っています。

日本人には社会に貢献する気持ちが無くて恥ずかしい、アメリカ人はキリスト教徒なので寄付で社会貢献している、などと言っていました。


アメリカ人が寄付するのは慈悲の心からではなく、金儲けの手段の一つなのです。


財団を設立して脱税する手口を始めたのは、ロックフェラーだったとも言われている。

アメリカでは大統領選の選挙資金の80%をこうした金持ちが出しているので、決して金持ちの脱税を止めたりはしません。


州議会議員や市議会議員でも、もちろんこうしたお金の恩恵を受けているので、金持ちから税金を取ることは無いのです。


例えばバフェットが全資産5兆円を財団に寄付したとします。

アメリカの法律では財団が解散すれば5兆円はそっくりバフェットに返還される事になっています。


実際にはその時には84歳のバフェットはなくなっていて、子供か孫の世代になっていますが、同じように非課税で返還されます。


解散するしないは、最大出資者のバフェット一族が、役員として決定権を握ります。

寄付したお金は自分の資産ではないので一切非課税になり、相続税や財団の資金運用にも掛かりません。

バフェットがやっているバークシャー・ハサウェイより有利な条件で資金運用できるのです。


ビルゲイツの7兆円も同じように、彼が生きているうちに「永遠の預金」に預け、子孫は配当金をずっと受け取れます。

例えば5兆円の5%が毎年分配されたとしても、毎年2500億円を受け取れる訳です。

しかもこうした財団はインフレにもデフレにも強く、元本が目減りする事はまず無い。


これは寄付ではなく日本語では「永久非課税の定期預金」に過ぎません。


因みに日本の慈善団体はこれほど優遇されておらず、世襲は上手く行かないので、日本の金持ちは寄付しません。


その代わり日本では政治団体を非課税で相続できるので、資産を寄付して息子に相続させる政治家が多い。
http://www.thutmosev.com/archives/36362336.html

http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/175.html#c98

[近代史3] 新自由主義を放置すると中間階層が転落してマルクスの預言した階級社会になる理由 中川隆
62. 中川隆[-13476] koaQ7Jey 2020年3月23日 17:42:34 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[1428]
2019年12月26日
金持ちの嘘くさい寄付 バフェットとゲイツは無税で子供に相続

良くこんな白々しいセリフが喋れると感心するビルゲイツ
全資産を非課税で子供に相続させる。


アメリカ1位と2位の大資産家、バフェットとゲイツがともに、全資産を慈善団体に寄付すると言っている。

ところがその実体は「脱税」そのものなのです。


慈善事業という脱税


数年前、全米一の資産家のウォーレン・バフェットが全資産を慈善事業に寄付すると発表し話題になった。


バフェットの友人のビルゲイツもまた、資産の95%を慈善団体に寄付すると発表し、献身的行為として賞賛された。

またアラブの某王様が全資産20兆円以上を、やはり慈善団体に寄付すると発表した。

彼らは一様に「子供を金持ちにするほど愚かではない」「お金を持っていても意味は無い。」などと仙人のような事を言っている。


急に世界の金持ち達は自己犠牲や弱者への愛に目覚めたようです。


だが本当の目的は他にあるという先例もある。

T型フォードで有名なフォードは莫大な遺産を子供達に残したが、80年代には日本車に押されてフォードの経営は悪化していた。

金持ちにとって相続税などで子孫が代替わりするたびに資産が目減りするのは悩みの種だった。


そこでフォード一族は親族会議を開き、一族の資産を慈善団体に寄付する事にしました。

フォード財団は初代フォードが存命中に設立したが、目的は最初から脱税と相続税の免除だった。


時代を経るごとに一族は本業よりも慈善活動に力を入れるようになり、今では慈善事業が本業です。


カーネギー財団とかフォード財団などアメリカには慈善団体が多いが、目的はすべて金儲けと脱税です。


「慈善事業」という言葉の響きには誤解があり、多くの人は金持ちが自分の金を貧しい人に寄付すると思っている。

そうではなく、慈善団体は営利事業として投資を行い、利益の一部を寄付して、出資者に配当金を支払うのです。


事業そのものには税金が掛からないうえ、出資者への配当金も、ほぼ無税でしかも世襲です。

資産を相続せず、役員の役職を継ぐので代替わりしても相続税は一切掛からない。


バフェットやゲイツの「お金に興味が無くなった」という言葉は、興味が無ければドブにでも捨てたらどうなのかと思える。


バフェットの資産数兆円を慈善団体に寄付し、子供を役員にする事で非課税で全資産を相続させることができる。

役員は出資金の金額で決まり、世襲で相続されるので多くの金持ちがそうしている。

財団の利益は寄付事業をした残りが、出資比率に応じて分配される事になっている。

アメリカの大金持ちの生き方


アメリカには○○財団がやたらと多く、トンチンカンな日本の知識人は「アメリカの金持ちは募金をするが日本人はしない」と言っています。

日本人には社会に貢献する気持ちが無くて恥ずかしい、アメリカ人はキリスト教徒なので寄付で社会貢献している、などと言っていました。


アメリカ人が寄付するのは慈悲の心からではなく、金儲けの手段の一つなのです。


財団を設立して脱税する手口を始めたのは、ロックフェラーだったとも言われている。

アメリカでは大統領選の選挙資金の80%をこうした金持ちが出しているので、決して金持ちの脱税を止めたりはしません。


州議会議員や市議会議員でも、もちろんこうしたお金の恩恵を受けているので、金持ちから税金を取ることは無いのです。


例えばバフェットが全資産5兆円を財団に寄付したとします。

アメリカの法律では財団が解散すれば5兆円はそっくりバフェットに返還される事になっています。


実際にはその時には84歳のバフェットはなくなっていて、子供か孫の世代になっていますが、同じように非課税で返還されます。


解散するしないは、最大出資者のバフェット一族が、役員として決定権を握ります。

寄付したお金は自分の資産ではないので一切非課税になり、相続税や財団の資金運用にも掛かりません。

バフェットがやっているバークシャー・ハサウェイより有利な条件で資金運用できるのです。


ビルゲイツの7兆円も同じように、彼が生きているうちに「永遠の預金」に預け、子孫は配当金をずっと受け取れます。

例えば5兆円の5%が毎年分配されたとしても、毎年2500億円を受け取れる訳です。

しかもこうした財団はインフレにもデフレにも強く、元本が目減りする事はまず無い。


これは寄付ではなく日本語では「永久非課税の定期預金」に過ぎません。


因みに日本の慈善団体はこれほど優遇されておらず、世襲は上手く行かないので、日本の金持ちは寄付しません。


その代わり日本では政治団体を非課税で相続できるので、資産を寄付して息子に相続させる政治家が多い。
http://www.thutmosev.com/archives/36362336.html

http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/350.html#c62

[近代史3] “独立”する富裕層  政府による所得再分配は努力して金持ちになった人の金を盗む行為だから許せない 中川隆
3. 中川隆[-13475] koaQ7Jey 2020年3月23日 17:45:38 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[1429]
2019年12月26日
金持ちの嘘くさい寄付 バフェットとゲイツは無税で子供に相続

良くこんな白々しいセリフが喋れると感心するビルゲイツ
全資産を非課税で子供に相続させる。


アメリカ1位と2位の大資産家、バフェットとゲイツがともに、全資産を慈善団体に寄付すると言っている。

ところがその実体は「脱税」そのものなのです。


慈善事業という脱税


数年前、全米一の資産家のウォーレン・バフェットが全資産を慈善事業に寄付すると発表し話題になった。


バフェットの友人のビルゲイツもまた、資産の95%を慈善団体に寄付すると発表し、献身的行為として賞賛された。

またアラブの某王様が全資産20兆円以上を、やはり慈善団体に寄付すると発表した。

彼らは一様に「子供を金持ちにするほど愚かではない」「お金を持っていても意味は無い。」などと仙人のような事を言っている。


急に世界の金持ち達は自己犠牲や弱者への愛に目覚めたようです。


だが本当の目的は他にあるという先例もある。

T型フォードで有名なフォードは莫大な遺産を子供達に残したが、80年代には日本車に押されてフォードの経営は悪化していた。

金持ちにとって相続税などで子孫が代替わりするたびに資産が目減りするのは悩みの種だった。


そこでフォード一族は親族会議を開き、一族の資産を慈善団体に寄付する事にしました。

フォード財団は初代フォードが存命中に設立したが、目的は最初から脱税と相続税の免除だった。


時代を経るごとに一族は本業よりも慈善活動に力を入れるようになり、今では慈善事業が本業です。


カーネギー財団とかフォード財団などアメリカには慈善団体が多いが、目的はすべて金儲けと脱税です。


「慈善事業」という言葉の響きには誤解があり、多くの人は金持ちが自分の金を貧しい人に寄付すると思っている。

そうではなく、慈善団体は営利事業として投資を行い、利益の一部を寄付して、出資者に配当金を支払うのです。


事業そのものには税金が掛からないうえ、出資者への配当金も、ほぼ無税でしかも世襲です。

資産を相続せず、役員の役職を継ぐので代替わりしても相続税は一切掛からない。


バフェットやゲイツの「お金に興味が無くなった」という言葉は、興味が無ければドブにでも捨てたらどうなのかと思える。


バフェットの資産数兆円を慈善団体に寄付し、子供を役員にする事で非課税で全資産を相続させることができる。

役員は出資金の金額で決まり、世襲で相続されるので多くの金持ちがそうしている。

財団の利益は寄付事業をした残りが、出資比率に応じて分配される事になっている。

アメリカの大金持ちの生き方


アメリカには○○財団がやたらと多く、トンチンカンな日本の知識人は「アメリカの金持ちは募金をするが日本人はしない」と言っています。

日本人には社会に貢献する気持ちが無くて恥ずかしい、アメリカ人はキリスト教徒なので寄付で社会貢献している、などと言っていました。


アメリカ人が寄付するのは慈悲の心からではなく、金儲けの手段の一つなのです。


財団を設立して脱税する手口を始めたのは、ロックフェラーだったとも言われている。

アメリカでは大統領選の選挙資金の80%をこうした金持ちが出しているので、決して金持ちの脱税を止めたりはしません。


州議会議員や市議会議員でも、もちろんこうしたお金の恩恵を受けているので、金持ちから税金を取ることは無いのです。


例えばバフェットが全資産5兆円を財団に寄付したとします。

アメリカの法律では財団が解散すれば5兆円はそっくりバフェットに返還される事になっています。


実際にはその時には84歳のバフェットはなくなっていて、子供か孫の世代になっていますが、同じように非課税で返還されます。


解散するしないは、最大出資者のバフェット一族が、役員として決定権を握ります。

寄付したお金は自分の資産ではないので一切非課税になり、相続税や財団の資金運用にも掛かりません。

バフェットがやっているバークシャー・ハサウェイより有利な条件で資金運用できるのです。


ビルゲイツの7兆円も同じように、彼が生きているうちに「永遠の預金」に預け、子孫は配当金をずっと受け取れます。

例えば5兆円の5%が毎年分配されたとしても、毎年2500億円を受け取れる訳です。

しかもこうした財団はインフレにもデフレにも強く、元本が目減りする事はまず無い。


これは寄付ではなく日本語では「永久非課税の定期預金」に過ぎません。


因みに日本の慈善団体はこれほど優遇されておらず、世襲は上手く行かないので、日本の金持ちは寄付しません。


その代わり日本では政治団体を非課税で相続できるので、資産を寄付して息子に相続させる政治家が多い。
http://www.thutmosev.com/archives/36362336.html

http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/701.html#c3

[近代史4] 共産主義の時代 中川隆
15. 中川隆[-13474] koaQ7Jey 2020年3月23日 17:47:09 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[1430]

アメリカの闇 政治を金で買う超富裕層
http://www.asyura2.com/20/reki4/msg/634.html

http://www.asyura2.com/20/reki4/msg/613.html#c15
[近代史3] 社会主義はそんなに悪いか 中川隆
7. 中川隆[-13473] koaQ7Jey 2020年3月23日 17:53:17 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[1431]

2020年03月23日
アメリカの闇 政治を金で買う超富裕層

大統領を当選させるには政党全体で2000億円は集める必要がある。
勝負を決めるのは大企業や大資産家の献金

引用:http://homepage3.nifty.com/fukuda326/obama2.jpg


金で政治や外交を販売する国

早くも2020年11月3日にアメリカ大統領選があるが、毎回両陣営は巨額の献金を集めて戦っています。

企業や投資家が選挙に投資して政治を買っているが、アメリカではそれが違法ではなく合法です。

仮に安倍晋三氏や枝野幸男氏が有名企業や資産家から多額の献金を受けて、彼らに優遇税制を作ったら日本では犯罪です。

だがアメリカではあからさまに政治献金し、見返りにその人を無税にしても、完全に合法なのです。

むし違法だったらばれたら取り締まるので問題は小さいのだが、分かっているのに誰も止められない。

調査によると過去の大統領選の政治献金の多くを、少数の資産家と企業が拠出していたそうです。


全米で上から100人の金持ちと企業を並べていけば、その人たちに間違いないでしょう。

アメリカでは有権者やスポンサーが多くの献金をしていますが、そんなのは選挙に影響しない。

最近10年ほどの選挙では民主党が圧勝を続けたが、資金集めでも圧勝していました。


オバマ大統領が2回目の大統領選で使った選挙資金は6億ドル(600億円)とされていて、この多くは例の少数の資産家と企業が出しました。

例えばビルゲイツの資産は10兆円を超えますが、4年に一度たった数十億円を寄付するだけで、あらゆる税金が免除されるのです。

オバマもヒラリーも、どんな手段を使ってでも自分のスポンサー達の資産を守るでしょう。


政治献金すれば税金免除

有名な投資家JソロスやWバフェットは民主党を支持し、ゲイツとジョブズ家も民主党を支持していました。

こうした金持ちが支持するという事は、多額の献金をするという意味でもあります。

スタバ創業者、マードック氏、フェイスブック創業者などが「公式に」民主党に寄付しています。


表向きの寄付金額は数百万円から数億円なのだが、全てを明らかにしていないのは、日本の政治献金と同じでしょう。

例えばクリントン夫妻は15年間で150億円の講演料を受け取り、年間50時間ほど講演した事になっている。

仮にヒラリーやオバマが「最近の天気の話」をしたとしても、講演料ではなく政治献金なのだから誰も文句を言わなかったでしょう。


クリントン夫妻は元大統領と現国務長官の地位を利用して、アメリカの外交を外国に販売していた。

例えばロシアの原子力企業が米政府の認可を必要としたとき、クリントン財団に2.5億円寄付したら認可された。

日本の政治家は政治パーティーを主催してパーティー券を販売しますが、アメリカでも同じ事をしています。


1枚数百万円のチケットを販売し、支援者に買ってもらって事実上の政治献金を受けています。

オバマが2回目の大統領選で6億ドル集めたと書きましたが、民主党全体では15億ドルくらい集めました。

アメリカの法律では一人が50万円くらいしか寄付出来ないし、企業献金は禁止されているが、抜け道が用意されている。


献金団体に寄付して、献金団体が民主党や共和党に寄付すれば、無制限でいくらでも献金が可能です。

献金者の名前は公表されるが、「AさんがBさんに依頼して、Cさんの名前で献金」などのテクニックで、いくらでも誤魔化せる。

大統領選だけでなく、州議会選挙から市会議員選挙まで、アメリカは全てこうであり、献金を集めなければ当選出来ない。


という事は当選した政治家は多額の献金者に借りができるので、何かの形でお返ししなければならない。

そのお返しとは資産家の納税額を低く抑えることで、大抵の資産家は税金を払っていません。

アメリカの長者番付の上位100人くらいは、まったく納税していないか、ほとんど納税していないかのどちらかです。


トランプが当選した時にも外交素人が駐日大使になったり、支援者や活動家へのご褒美を配っていました。

近年問題になったのがロシアや中国の政治関与で、こうした国々の介入で当選した大統領は彼らに便宜を払うでしょう。

http://www.thutmosev.com/archives/65502675.html
 



▲△▽▼

2019年07月15日
アメリカのロビイストは政策立案者 官僚以上の権力

ロビイストは企業の依頼で法案を作り、政治家に「この法案を成立させたら何億ドル差し上げますよ」と働きかける

こうした行為が合法なのがアメリカ

画像引用:https://d.line-scdn.net/lcp-prod-photo/20180821_30/800000289_1534804824853fGyX1_JPEG/bookoffonline_0016899864.jpg?type=r640_trim

ロビイストの権力

アメリカの政治でもっとも理解できないのはロビー活動やロビイストではないでしょうか?

日本では政治家をホテルのロビーで待ち受けて話を聞いてもらい、市民の要望などを働きかける人と紹介されている。

これだけではどうして政治家はそんな怪しい連中の話を聞いて、要求を受け入れるのかがさっぱり分からない。

ロビイストの一番重要な部分は企業と政治家の仲介で、企業はお金を払い政治家は企業の要求を実現する。

たとえば米自動車メーカー3社が話し合って、日本車の規制を強化しようと話し合ったとします。

3社は日本車規制によって得られる利益を1兆円と計算し、そのうち1000億円を政治家に払っても良いなどと考えます。


自動車のような業界は優秀なロビイストを多数抱えていて、政治家に「この法案を通してくれたら1000億円あげるよ」と提案します。

アメリカは上院の力が強いので上院大物議員とその子分たちにお金をばらまけば、政策や法案を買う事ができます。

この時ロビイストが「この法案を通してくれたら金額はいくら」と提案するが、その時点で既に法案はまとめられています。


アメリカでは議員立法が多く、日本では国会議員が法案を作っているように誤解されますが、すべてロビイストが作っています。

日本では議員立法は非常に少なく、ほとんどの法案を官僚が作成しているが、アメリカではロビイストが作成します。

日本の官僚が絶大な権力を握っているように、法案を作成するロビイストは強大な権限を持っています。


ロビイストは企業が望む法律を実現する

アメリカでは政治家への企業献金が認められていますが、保険会社が保険金を払わずに済む法案などを大っぴらには頼めません。

そこで表に出ないようにロビイストが活動し、あたかも政治家が「市民のため」にやっているように偽装します。

例えばアメリカの医療保険や医療費、薬剤費はばかばかしいほど高額で知られ、日本の10倍はします。


こうなったのもロビー活動の成果で、医薬品メーカーや医療業界、医療団体が儲かる制度を作ったからでした。

たとえば糖尿病薬のインスリンは日本では5千円、アメリカでは5万円以上ですが、医薬品メーカーが特許を握っているため安売りできません。

インスリンの特許はとっくに切れていますが、成分の一部を変えたりカプセルを変えるだけで特許が延長される制度に変えてしまいました。


外国から安いインスリンが輸入されると困るので、外国からアメリカに輸入して販売するのを禁止しました。

保険制度も酷いもので、オバマが創設したオバマケアを利用して医療費と保険代を2倍に値上げしてしまいました。

国民皆保険になったら値上げしても「保険に加入しなくてはならい」ので、ビジネスチャンスととらえて全社一斉に値上げしたのです。


もちろんこれも事前にロビイストが準備をし、1社だけ安売りしないように立法化していました。

政治家は「国民の選択肢が増える」などまるで国民のためにやっているかのように偽装して、医療費負担を増やしました。

ちなみにオバマケアで医療費が安くなったのは1割ほどの低所得者で、他の全員の医療費は値上がりしました。
http://www.thutmosev.com/archives/80397583.html  


▲△▽▼

2019年12月26日
金持ちの嘘くさい寄付 バフェットとゲイツは無税で子供に相続

良くこんな白々しいセリフが喋れると感心するビルゲイツ
全資産を非課税で子供に相続させる。


アメリカ1位と2位の大資産家、バフェットとゲイツがともに、全資産を慈善団体に寄付すると言っている。

ところがその実体は「脱税」そのものなのです。


慈善事業という脱税


数年前、全米一の資産家のウォーレン・バフェットが全資産を慈善事業に寄付すると発表し話題になった。


バフェットの友人のビルゲイツもまた、資産の95%を慈善団体に寄付すると発表し、献身的行為として賞賛された。

またアラブの某王様が全資産20兆円以上を、やはり慈善団体に寄付すると発表した。

彼らは一様に「子供を金持ちにするほど愚かではない」「お金を持っていても意味は無い。」などと仙人のような事を言っている。


急に世界の金持ち達は自己犠牲や弱者への愛に目覚めたようです。


だが本当の目的は他にあるという先例もある。

T型フォードで有名なフォードは莫大な遺産を子供達に残したが、80年代には日本車に押されてフォードの経営は悪化していた。

金持ちにとって相続税などで子孫が代替わりするたびに資産が目減りするのは悩みの種だった。


そこでフォード一族は親族会議を開き、一族の資産を慈善団体に寄付する事にしました。

フォード財団は初代フォードが存命中に設立したが、目的は最初から脱税と相続税の免除だった。


時代を経るごとに一族は本業よりも慈善活動に力を入れるようになり、今では慈善事業が本業です。


カーネギー財団とかフォード財団などアメリカには慈善団体が多いが、目的はすべて金儲けと脱税です。


「慈善事業」という言葉の響きには誤解があり、多くの人は金持ちが自分の金を貧しい人に寄付すると思っている。

そうではなく、慈善団体は営利事業として投資を行い、利益の一部を寄付して、出資者に配当金を支払うのです。


事業そのものには税金が掛からないうえ、出資者への配当金も、ほぼ無税でしかも世襲です。

資産を相続せず、役員の役職を継ぐので代替わりしても相続税は一切掛からない。


バフェットやゲイツの「お金に興味が無くなった」という言葉は、興味が無ければドブにでも捨てたらどうなのかと思える。


バフェットの資産数兆円を慈善団体に寄付し、子供を役員にする事で非課税で全資産を相続させることができる。

役員は出資金の金額で決まり、世襲で相続されるので多くの金持ちがそうしている。

財団の利益は寄付事業をした残りが、出資比率に応じて分配される事になっている。


アメリカの大金持ちの生き方


アメリカには○○財団がやたらと多く、トンチンカンな日本の知識人は「アメリカの金持ちは募金をするが日本人はしない」と言っています。

日本人には社会に貢献する気持ちが無くて恥ずかしい、アメリカ人はキリスト教徒なので寄付で社会貢献している、などと言っていました。


アメリカ人が寄付するのは慈悲の心からではなく、金儲けの手段の一つなのです。


財団を設立して脱税する手口を始めたのは、ロックフェラーだったとも言われている。

アメリカでは大統領選の選挙資金の80%をこうした金持ちが出しているので、決して金持ちの脱税を止めたりはしません。


州議会議員や市議会議員でも、もちろんこうしたお金の恩恵を受けているので、金持ちから税金を取ることは無いのです。


例えばバフェットが全資産5兆円を財団に寄付したとします。

アメリカの法律では財団が解散すれば5兆円はそっくりバフェットに返還される事になっています。


実際にはその時には84歳のバフェットはなくなっていて、子供か孫の世代になっていますが、同じように非課税で返還されます。


解散するしないは、最大出資者のバフェット一族が、役員として決定権を握ります。

寄付したお金は自分の資産ではないので一切非課税になり、相続税や財団の資金運用にも掛かりません。

バフェットがやっているバークシャー・ハサウェイより有利な条件で資金運用できるのです。


ビルゲイツの7兆円も同じように、彼が生きているうちに「永遠の預金」に預け、子孫は配当金をずっと受け取れます。

例えば5兆円の5%が毎年分配されたとしても、毎年2500億円を受け取れる訳です。

しかもこうした財団はインフレにもデフレにも強く、元本が目減りする事はまず無い。


これは寄付ではなく日本語では「永久非課税の定期預金」に過ぎません。


因みに日本の慈善団体はこれほど優遇されておらず、世襲は上手く行かないので、日本の金持ちは寄付しません。


その代わり日本では政治団体を非課税で相続できるので、資産を寄付して息子に相続させる政治家が多い。
http://www.thutmosev.com/archives/36362336.html


http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/702.html#c7

[近代史4] ヒトラーの共産主義との戦い 中川隆
1. 中川隆[-13472] koaQ7Jey 2020年3月23日 20:22:54 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[1432]

防共協定


防共協定(ドイツ語: Antikominternpakt)は、1936年(昭和11年)11月25日に日本とドイツの間で調印された、国際共産主義運動を指導するコミンテルンに対抗する共同防衛をうたった条約。

正文である日本語における条約名は共産「インターナショナル」ニ対スル協定
同じく正文であるドイツ語条約名は Abkommen gegen die Kommunistische Internationale。


締結当初は二国間協定である日独防共協定と呼ばれ、 1937年(昭和12年)にイタリア王国が原署名国として加盟し、日独伊防共協定と呼ばれる三国協定となり、1939年(昭和14年)にはハンガリー王国と満州国、スペインが参加したことによって6カ国による協定となった。

しかし、同年8月23日締結の独ソ不可侵条約によって事実上の空文となった。

その後、1941年(昭和16年)5月の独ソ戦開始により反共という概念が再び利用され、11月25日には本協定の改定が実施されるとともに、ブルガリア王国、ルーマニア王国、デンマーク、スロバキア共和国、クロアチア独立国、フィンランド、中華民国南京政府(汪兆銘政権)が加盟している。

1945年5月のドイツの降伏によって事実上失効した。


背景

1933年(昭和8年)に国際連盟を脱退した日本では、国際的孤立を回避するために同様に国際連盟から脱退したドイツおよびイタリアと接近するべきという主張が日本陸軍内で唱えられていた。また、共産主義国家であるソビエト連邦は両国にとって仮想敵であり、一方のソ連では1935年(昭和10年)7月に開催された第7回コミンテルン世界大会で日独を敵と規定するなど、反ソビエトという点では両国の利害は一致していると考えられた。また駐独日本大使館付陸軍武官大島浩少将は、かつて日露戦争の際にビヨルケの密約によってロシア帝国とドイツ帝国の提携が成立しかけ、背後を気にする必要が無くなったロシアが兵を極東に差し向ける恐れがあった事例をひき、ユーラシアにおけるソビエト連邦とドイツの提携を断乎排除する必要があると唱えていた[3]。

ドイツ側の対日接近論者の筆頭であったのは、総統アドルフ・ヒトラーの個人的信任を得ており、軍縮問題全権代表[4]の地位にあったヨアヒム・フォン・リッベントロップであった。リッベントロップはこの協定を、イギリスを牽制するためのものとして準備していた。国家社会主義ドイツ労働者党には、外務全国指導者のアルフレート・ローゼンベルクがいたが、日独接近は英独関係に悪影響を及ぼすと考えて躊躇していた[5]。ヒトラーはリッベントロップを将来の外相であると評価していたが、外相となるには「手柄を挙げることが必要」と考えていた[6]。

一方でドイツ外務省は、日本が建国した満州国承認も行わず対日接近には消極的で、極東情勢に不干渉の立場をとっていた。コンスタンティン・フォン・ノイラート外相は「日本は我々になにも与えることができない」と評価していた[7]上に、「第一次世界大戦において日本は、日独間に特に紛争があったわけでもないのに連合国側についた」とみなして日本に悪印象を抱いていた[8][9]。

さらには、リッベントロップが外務次官の地位を要求していたにもかかわらず、外務省側ではこれを拒否するなど両者には強い敵対関係があった[10]。このため11月26日の調印式にいたるまで、外務省はこの協定交渉を一切関知しようとしなかった[11]。また、ドイツ国防軍は伝統的に親中華民国路線であり、政府の方針とは独自の中華民国支援路線をとっていた(中独合作)。

この複数の関係機関が独自に活動している状態は、ヒトラー政権下における外交の多頭制と、複数路線制を示すものであると指摘されている[5]。実際にリッベントロップは「リッベントロップ事務所」を設立し、外務省から独立して対日交渉に臨んだ。


日独間の締結交渉

第一次交渉

リッベントロップは兵器ブローカーフリードリヒ・ハックを通じて日本との接触を図った。ハックは日本海軍と取引があり、1935年(昭和10年)1月には英・ロンドンで山本五十六軍縮会議全権とリッベントロップの会談を実現させた。リッベントロップはヒトラーと山本の面会を求め、日独接近の交渉を行った。しかし海軍の独自の動きを警戒する松平恒雄駐英大使と、武者小路公共駐独大使によってこの動きは阻止された[12]。この動きは国防軍情報部長のヴィルヘルム・カナリス中将に察知されたが、彼は「対ソ同盟」を主張しており、国防軍の大勢と異なり、リッベントロップらと協力する動きを開始した[13]。

9月13日、ハックは駐独日本大使館付陸軍武官大島浩少将に接触し、日本陸軍参謀本部の意向を確認した。大島も外務省を通じず、陸軍とリッベントロップの間で交渉を行うように要請している。11月半ばまでの間ハックと大島の間で予備交渉が行われ、大島はソ連を対象とした軍事色の強い保証協定を提案している[14]。ハックはこの提案をカナリスに伝え、カナリスは国防相ヴェルナー・フォン・ブロンベルクにこの提案を提示することにした[15]。ブロンベルクはこの提案に前向きに応じ、リッベントロップと大島の会談を促した[15]。しかしブロンベルクはこの時点で、対日接近が対中関係に及ぼす影響をまったく考慮しておらず、国防軍総局長ヴァルター・フォン・ライヒェナウをはじめとする対中接近派の意見に従うようになり[15]、具体的な軍事協定の締結には強く反対することになる[16]。カナリスは国防軍内における対日接近派の勢力拡大と、対中接近派の抑制に努めることになる[17]。

大島からの報告を受けた日本陸軍参謀本部は、参謀総長閑院宮載仁親王が「ベルリンでの作業計画」を裁可し、交渉のために参謀本部欧州課独逸班長若松只一の訪独を承認した[16]。しかし日本参謀本部の動きを察知した駐日大使館付武官オイゲン・オット大佐はこの動きを国防軍上層部に通報した。カナリスはこの動きに動揺し、オットに対し駐日ドイツ大使ヘルベルト・フォン・ディルクセン(ドイツ語版)への報告を禁じた[16]。

日本の参謀本部は提携には積極的であったが、軍事同盟には消極的であった。しかし日ソ戦の際にドイツが「好意的中立」を保ってくれることを希望していた。リッベントロップ事務所のヘルマン・フォン・ラウマーはソ連を刺激することを恐れ、協定内容を対ソ連ではなく「コミンテルンによる国際共産主義運動が自国に波及する事を防ぐ」という婉曲的な内容にしようと提案した。当時、ソ連政府はコミンテルンの活動はソ連政府と無関係であるという立場を取っており、これを逆用したものであった[11]。大島も反コミンテルン協定であるという「マント」を着せることに同意した[18]。

11月15日にはリッベントロップ邸において、リッベントロップ、カナリス、ハック、ラウマー、大島、若松が会談を行った。この席でリッベントロップは「一般的な友好協定」に「軍事上の付属紳士協定」が加えられたものを提案し、成立した協定はイギリスに通知されるべきことと、ポーランドの参加が考えられるとした[19]。

この時期になるとリッベントロップらの動きは外務省にも察知され、リッベントロップは「様々な部局、とりわけ外務省からの抵抗」に悩まされるようになった[19]。しかし11月27日にリッベントロップと面会したヒトラーは、「対コミンテルン条項は公表してもよい」「調印はベルリンで行う」という「決断」を示した[20]。11月30日にはラウマーによって協定案が完成した。「コミンテルンの危険に対する防御協力」をうたった本文と、締結国がソ連の紛争に巻き込まれた場合には一方の締結国はソ連を援助しないことを定め、ソ連との条約締結を禁止した付属協定、そして両国軍の間で締結される軍事協定から構成されていた。

しかしこの協定案提示から7ヶ月間、協定交渉は一時停滞することになる。


停滞期の交渉

この時期、イタリアのエチオピア侵攻(第二次エチオピア戦争)が勃発し、イギリスによる調停が試みられたことは、イギリス・イタリア・フランスによるストレーザ戦線が再来するのではないかという懸念がドイツ側に存在し、外交政策の再検討を行う事態となった[21]。外務省はこの機会を巻き返しの時期ととらえ、リッベントロップらの動きに抵抗した[22]。また国防軍による中華民国との交渉も大きく進展し、汪兆銘らはドイツを仲介者とした日中和平を希望するようになった[23]。ヒトラーはこの仲介に「外見上、原則的な賛意」を与え、リッベントロップも大島に、日独協定に中華民国を加えることはできないかと打診している[24]。一方で国防軍の過度な対中接近には外務省も否定的であり、ベルンハルト・ヴィルヘルム・フォン・ビューロー(ドイツ語版)外務次官は国防軍やライヒェナウの姿勢を非難している[25]。

1936年(昭和11年)1月、日本外務省欧亜局長東郷茂徳は陸軍から説明を受けて初めて協定締結交渉を察知した。東郷は協定に反対であった。また同月には日独合作映画『新しき土』の制作のためと称してハックが来日、日本の関係者と交渉を行った[26]。

2月に二・二六事件が勃発して陸軍の発言力が増大したため、日本外務省も交渉締結の路線から外れることは出来なかった。5月8日、外相有田八郎は駐独大使武者小路公共に「両国間に事項を限定しない漠然たる約束」をする趣旨の指令を行った。しかし参謀本部は大島少将に「日ソ戦が勃発した際に中立を守る」規定を盛り込むように指令した。

4月6日にはライヒェナウらの主導で、中華民国に一億ライヒスマルク借款を行うことを始めとする援助協定が成立した。これは対独接近を考えていた日本側にも大きな衝撃を与えた。ライヒェナウはこの際に日独提携と独中提携は両立しないと言明した上で、「リッベントロップ氏による日本との協定交渉は中止された」と語っている[25]。5月には国防軍が日本との提携は対ソ戦争の際に役立たないばかりでなく、イギリスやアメリカとの敵対関係も呼び込むと警告する報告書を提出した[27]。一方で援助協定のあまりの巨大さを知った外務省は、国防軍を牽制するため、対日接近に傾くようになった[28]。


再交渉

リッベントロップは1936年(昭和11年)7月に駐英大使に任命されているが、ヒトラーとのパイプを妨害されることを怖れ、ロンドンに赴任したのは10月になってからであり、その後もしばしば帰国してヒトラーと連絡を取っている[6]。7月には防共協定の案文と付属議定書がドイツ側から日本に提示された。この内容は1935年11月にラウマーが作成した案とほぼ同一のものであったと見られている[29]。日本側は協定の公表自体には反対であったが、ドイツ側は協定本文については公表することを望んだ[30]。一方でライヒェナウらはなおも強い独中協定を主張し、中独軍事同盟の成立も主張していた[30]。9月にライヒェナウは帰国するが、ヒトラーは「(ライヒェナウがヒトラーの)対日構想を台無しにしようとしている」と激怒し、「将軍たちは政治を何も理解していない」と罵った[31]。

10月23日には仮調印が行われ、日本の枢密院における審議を待つばかりとなった[32]。しかし国防軍の親中的な姿勢が伝えられるにつれ、枢密院での審議が危ぶまれるようになった。武者小路大使はドイツ側に抗議し、協定締結は不可避と考えるようになった外務省が国防軍に対中支援協定の中止を求めたことでこの動きは決着した[33]。


協定締結

11月25日、ベルリンのリッベントロップ事務所で協定の調印式が行われた[34]。日本側の全権大使は武者小路駐独大使、ドイツ側はリッベントロップが行った。協定の内容はドイツ側の提案、すなわち1935年11月のラウマー案の内容を大きく超えるものではなかったが、国防軍の主張通り軍事協定の性格はつかなかった[35]。
協定締結後には祝賀晩餐会が開かれたが、この席にはヒトラー、ヘルマン・ゲーリング、ルドルフ・ヘスといった高官の他、外務省関係者からは外相ノイラート、外務次官エルンスト・フォン・ヴァイツゼッカーらの首脳が参加したが、国防軍からはただ一人カナリスが参席していた[36]。国防軍はこの場に高官を出席させないことで不快感を示した形になり、またこのような場にカナリスのような地位の人間が出席するのは極めて異例である[36]。


協定の内容

大日本帝国政府および独逸国政府は共産「インターナショナル」(所謂コミンテルン)の目的が其の執り得る有らゆる手段に依る現存国家の 破壊及爆壓に有ることを認め 共産「インターナショナル」の諸国の国内関係に対する干渉を看過することは其の国内の安寧及び社会の福祉を危殆ならしむるのみならず世界平和全般を脅すものなることを確信し 共産主義的破壊に対する防衛の為協力せんことを欲し左の通協定せり


第一条
締結国は共産「インターナショナル」の活動に付相互に通報し、必要なる防衛措置に付協議し且緊密なる協力に依り右の措置を達成することを約す(対コミンテルン活動の通報・協議)


第二条
締結国は共産「インターナショナル」の破壊工作に依りて国内の安寧を脅さるる第三国に対し協定の趣旨に依る防衛措置を執り又は本協定に参加せんことを共同に勧誘すべし(第三国の加入要件)


第三条
本協定は日本語及び独逸語の本文を以って正文とす。本協定は署名の日より実施せらるべく且つ五年間効力を有す。締結国は右期間満了前適当の時期に於て爾後に於ける両国協力の態様に付了解を遂ぐべし(条約の期限)


附属議定書
本日共産「インターナショナル」に対する協定に署名するに当り下名の全権委員は左の通協定せり

(イ)両締約国の当該官憲は共産「インターナショナル」の活動に関する情報の交換並びに共産「インターナショナル」に対する啓発及防衛の措置に付緊密に協力すべし

(ロ)両締約国の当該官憲は国外に於て直接又は間接に共産「インターナショナル」の勤務に服し又は其の破壊工作を助長するものに対し現行法の範囲内に於て厳格なる措置を執るべし

(ハ)前記(イ)に定められたる両締約国の当該官憲の協力を容易ならしむる為常設委員会設置せらるべし。共産「インターナショナル」の破壊活動防衛の為必要なる爾余の防衛措置は右委員会に於て考究且協議せらるべし

(以上仮名を平仮名、旧仮名遣いを現代仮名遣いに修正)


秘密附属協定

日本陸軍が望んだ軍事的条約は第一条に定められた規定に盛り込まれた。この附属協定は公表されなかった。


第一条 
締約国の一方がソビエト連邦より挑発によらず攻撃・攻撃の脅威を受けた場合には、ソビエト連邦を援助しない。攻撃を受ける事態になった場合には両国間で協議する(対ソ不援助規定)。

第二条
締約国は相互合意なく、ソビエト連邦との間に本協定の意思に反した一切の政治的条約を結ばない(対ソ単独条約締結の禁止)。

第三条
この協定は本協定と同期間の効力を持つ。

秘密書簡・秘密了解事項

秘密附属協定を補則するため、秘密書簡と秘密了解事項が添付された。日独両国がすでにソビエト連邦と結んだ条約(独ソ中立条約など)は秘密附属協定の第二条の対象外となることなどが定められた。


締結直後の評価

防共協定は交渉過程において実効性をもたない骨抜きの条約となり、交渉当事者にも「『背骨無き』同盟」[34]と評価されていた。陸軍以外は協定締結に積極的ではなく、元老西園寺公望は「どうも日独条約はほとんど十が十までドイツに利用されて、日本はむしろ非常な損をしたように思われる」ともらしており、ディルクセンも日本外務省・海軍・財界の態度が冷淡であると報告している。

一方でリッベントロップは、「(同盟へと拡大されるはずであった)防共協定は、イギリス『抜き』、あるいはイギリスと『敵対』してでも広範囲にわたる(ヴェルサイユ条約)改訂政策とその後の領土拡大政策を実行できる」という見通しを得た[37]。リッベントロップはこの協定をソビエト連邦に対して用いることは考えておらず[37]、この点はヒトラーも同意見であった[37]。リッベントロップは「ジブラルタルから横浜まで」に至るユーラシア同盟によってイギリスと敵対する構想を持っていた[38]。

1937年2月には、ディルクセンが日本から勲一等旭日大綬章を受け、その他カナリス、オット、ハック、ラウマーといった交渉関係者にも叙勲が行われた。11月にはノイラートの他、「(協定締結を)終始熱心その促進に務め」たとして、ブロンベルクら国防軍関係者にも儀礼的な叙勲が行われている[39]。

協定の拡大

日本陸軍は防共協定を実質的な軍事同盟に発展させることによってイギリスおよびソ連の日中戦争介入を防ごうと考えていた[40]。1938年7月3日、板垣征四郎陸軍大臣は「時局外交に関する陸軍の希望」という文書を内閣(第2次近衛内閣)に提出した[40]。7月19日の五相会議において「日独及ビ日伊間政治的関係ニ関スル方針案」が採択され、「(ドイツに関しては)防共協定ノ精神ヲ拡充シテ之ヲ対『ソ』軍事同盟ニ導キ」という方針が確認されている[40]。このドイツとの同盟問題は当時「防共協定強化問題」と呼ばれているが[40]、これは同盟に反発する国内の抵抗を抑えるための方策であった[41]。


イギリスへの打診

日本はあくまでこの協定をソ連に対抗するものと考えており、イギリスをこの協定に参加させようとしたが、イギリス側に拒否されている[42]。また、ソ連のみを主敵とする日本側と、イギリス・フランスも敵と考えるドイツ側との構想の違いがあった[43]。

また、日本国内でも同盟成立を重視する日本陸軍は英仏を敵に加えるよう主張していたが、大英帝国の影響を怖れる海軍及び外務省はこれに反対していた[44]。重光葵のように防共をキーワードに国際同盟を構築しようとする者もいたが[45]、大きな動きにはならなかった。


イタリアの参加

1937年(昭和12年)8月21日の中華民国とソ連の中ソ不可侵条約の成立によって、イタリア王国の防共協定参加が決定的なものとなり、ムッソリーニ首相は日本の東洋平和のための自衛行動を是認するという論文を発表、ベルギー九カ国条約会議でイタリアのマレスコッチ代表は日本を支持するなどの動きを見せた[46]。会期中の1937年11月6日、イタリアが原署名国の一つとして防共協定に加盟すると規定した「日本国ドイツ国間に締結せられたる共産インターナショナルに対する協定へのイタリア国の参加に関する議定書」に調印した[2][46][47]。イタリア王国の参加により日独伊防共協定に発展し、協定の反英・反西欧的性格はさらに強まった[37]。1938年、リッベントロップは外相に就任し、以降のドイツ外交の主務者となった。しかし反英的でソ連と組むことも辞さないリッベントロップおよびドイツ外務省・海軍と、どちらかといえば親英的で、ソ連打倒を考えていたヒトラーという二つの外交路線が存在していた[48]。日本の各部首脳はヒトラーの意志のみを重視しており、後の独ソ提携で衝撃を受けることになる[49]。


満州・ハンガリー・スペインの参加

また日本の指導下によって成立した満州国は防共協定への参加を熱望していたが、将来の日独伊三国の同盟構想が決定されていないこの時期の参加は、時期尚早と見る日本の反対により加盟は実現していなかった[50]。しかしこの日本の反対はソ連を主敵とする決定が下されたことで解決し、またドイツもハンガリー王国の参加を希望することになった[51]。これにより原署名国の三国がハンガリーおよび満州国を勧誘する形で協定の拡大が行われ、1939年1月13日にハンガリーが、1月16日に満州国が参加を表明した。両国の調印は2月24日に別個に行われた[52]。

日独は一方で、スペイン内戦において勝利を固めつつあったフランシスコ・フランコ政権の防共協定参加交渉も行っていた。3月27日になってフランコ政権は防共協定への加盟を秘密裏に行っている[53][54](スペイン)。


事実上の白紙化

ところがその直後の1939年8月23日には独ソ間で独ソ不可侵条約が締結された。リッベントロップはこの際に、防共協定は反ソビエト連邦と言うよりも、反西欧民主主義国という性格を持つものだとヨシフ・スターリンに説明している[37]。これを防共協定の秘密議定書違反として日本は猛抗議し、平沼内閣は総辞職したことによって、協定は事実上消滅し、日独の提携交渉はいったん白紙となった[55]。日本外務省内では協定が事実上白紙になったという認識は示されたものの、実際には協定解消などの声も起こらず、手続きは行われなかった[56]。

しかしリッベントロップは翌月9月から再び日本に対する接近を開始した。リッベントロップは持論であるユーラシア同盟がイギリスに対抗できる手段だ説いたが、日本政府の反応は良好ではなかった[57]。しかし1940年にドイツがフランスおよびオランダを打倒してヨーロッパにおける勝利をつかみつつあると認識した日本政府は、ドイツが南アジアおよび東南アジアの植民地に進出するのではないかという危惧を抱いた[57]。リッベントロップはその危惧を払拭し、日本が南方進出に出るように働きかけ、イギリス・アメリカとの対立を深くることで、ドイツ側の陣営に日本を巻き込もうとした[57]。日本でもこの動きに追随する方向性が強くなり、1940年9月27日の日独伊三国同盟の結成に至った。また日本の松岡洋右外相もユーラシア同盟構想を抱き、1941年の欧州歴訪においてこの構想を実現しようとした。しかしヒトラーは三国同盟結成の時点で独ソ戦を決断しており、ユーラシア同盟構想はすでに崩壊していた。すでに独ソ関係が変化しているというリッベントロップや大島の言葉には耳を貸さず、1941年4月13日日ソ中立条約の締結が実現した[58]。


協定の延長と消滅

独ソ戦の開始後、防共協定自体は存続したものの、日ソ中立条約の存在もあり、対ソ連条約として有効にはならなかった。1941年11月25日には期限満了を迎える協定の5年間延長を規定した条約がベルリンで調印されているが、秘密議定書については廃止されている[59]。また同日には第二次世界大戦で枢軸側に参戦したブルガリア王国、フィンランド、ルーマニア王国、スロバキア共和国、クロアチア独立国、ドイツの占領下に置かれたデンマークが協定に参加し、また日本の指導下にあった中華民国(汪兆銘政権)も、11月25日時点での協定参加を宣言する公文を12月31日に日本政府に対して送付している[60]。

1943年にコミンテルンは解散しているが、日本の外務省条約局はコミンテルンが実際に解散したかどうかは確認できなかったとして、条約は存続していると見ている[61]。1943年9月8日にイタリア王国が降伏し、イタリア社会共和国が協定参加国となったが、1944年以降は東欧の参加国が次々と戦争から離脱し、1945年5月7日と8日にはドイツ軍が降伏してナチス・ドイツが崩壊した。条約局は5月7日をもって他の三国間条約が失効したことを確認した上で、防共協定も法律上の意味で5月7日に失効したという見方をしている[61]。

https://ja.wikipedia.org/wiki/防共協定
http://www.asyura2.com/20/reki4/msg/638.html#c1

[近代史4] ヒトラーの共産主義との戦い 中川隆
2. 中川隆[-13471] koaQ7Jey 2020年3月23日 20:28:10 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[1433]

『日独伊三国同盟』はなぜ締結されたのか?わかりやすく整理しました 2020年3月19日
https://rekishiclub.jp/nichi-doku-i-sangokudoumei/


日独伊三国同盟とは?

なぜ日本はドイツとイタリアと手を結ぶことになったの?

この記事では日本とドイツとイタリアの軍事同盟である「日独伊三国同盟」について解説します。

日独伊三国同盟とは、昭和15年(1940年)9月27日に日本、ドイツ、イタリアの三国で締結された軍事同盟のことです。

この軍事同盟では、ドイツとイタリアのヨーロッパにおける「新秩序建設」および「指導的地位」と、日本の「大東亜」における「新秩序建設」および「指導的地位」が相互に承認されました。

日独伊三国同盟の正式名称は「日本國、獨逸國及伊太利國闔O國條約」です。

「日独伊三国軍事同盟」と呼ばれる場合がありますが、どちらもは同じ同盟のことを指しています。

日独伊三国同盟の内容

日本はドイツとイタリアのヨーロッパにおける新体制を認める。
ドイツとイタリアは日本が築こうとしている大東亜共栄圏を認める。
日本とドイツとイタリアのうち1ヶ国が攻撃された場合、ほかの2ヶ国は攻撃を仕掛けた国に宣戦布告し、軍事と経済援助をする。


条約本文:『官報』昭和15(1940)年10月21日


同盟締結までには以下の4段階の経緯がありました。

経緯1.仮想敵のソ連に対抗するために、まず「独ソ防共協定」が結ばれる
経緯2.「独ソ不可侵条約」が結ばれ、事態は悪化
経緯3.ドイツ軍の快進撃で、日本国内において「ドイツブーム」が招来
経緯4.第二次近衛文麿内閣で「日独伊三国同盟」が成立


経緯1.仮想敵のソ連に対抗するために、まず「日独防共協定」が結ばれる
ドイツと日本は、ともにソ連を仮想敵国としていました。

日本は昭和6(1931)年の満州事変以降、ソ連との武力衝突の可能性があったことから、ソ連の圧倒的な軍事力に対抗する必要があったのです。

一方ドイツは、昭和8(1933)年10月に、日本に続いて国際連盟を脱退し、ベルサイユ条約の軍備制限条項を破棄し、軍備増強を進めていました。

ナチスドイツのヒトラーは、「総統」という地位を昭和9年に確立し、イタリアのファシスタ党とともにベルリン=ローマ枢軸を形成しました(参考)。
その直後にドイツと日本、両国の仮想敵のソ連に対抗するために「日独防共協定」が結ばれたのです。

さらに昭和13(1933)年にドイツは日本の傀儡国家「満洲国」を承認し、「日独防共協定」をさらに発展させた軍事同盟を築こうとし、日本との接近をはかりました。


この時期ドイツはオーストリア併合などの膨張政策によって、近隣国との対立を深めていました。

そのため、日本と同盟関係を築こうとしたのです。

ちなみにドイツによる満洲国承認のニュースは日本国内でも歓迎され、各紙面はトップ記事で大々的に報じ、程度の差はあれど歓迎の姿勢を示しています(参考)。
経緯2.「独ソ不可侵条約」が結ばれ、事態は悪化

しかし親ドイツの機運に冷や水をかけたのが、昭和14(1939)年にドイツとソ連間で結ばれた「独ソ不可侵条約」でした。

ドイツとの防共(=共産化を防ぐこと)強化に務めていた日本にとって、共産主義国家のソ連とドイツが手を結んだ事実は、衝撃的な出来事として記憶されました。


このときの平沼内閣は、「欧州の天地は複雑怪奇(ふくざつかいき)」との言葉を残し、総辞職しています。

また日本の各新聞もナチスドイツに盲目的になっていたため、独ソ不可侵条約を見抜くことができず、紙面では狼狽するにいたっています(参考)。

経緯3.ドイツ軍の快進撃で、日本国内において「ドイツブーム」が招来
しかし、昭和15(1940)年5月ごろから始まったヨーロッパ西部戦線において、ドイツが目覚ましい活躍を見せると、日本国内においてドイツブームが沸き立ちました。

同年8月に入ると、ドイツ軍によるイギリス本土爆撃が開始されますが、各紙面は「倫敦(ロンドン)・今や半身不随」といった見出しで、ドイツ空軍によってイギリスは崩壊寸前であることが伝えられます。(参考)
この時期より、日本国内ではドイツとの提携強化が叫ばれるようになります。


一方で、もともとナチス・ドイツに批判的だった有識者の意見が新聞に掲載されることはほぼありませんでした。

そのようななかで、元老の西園寺公望(さいおんじ・きんもち)や、戦後首相になった吉田茂(よしだ・しげる)らは事態を冷静に分析し、両者とも最終的に戦争に勝利するのはイギリスだろうとの観測を持っていました(参考)。
いま日本の新聞は挙つてドイツが結局において勝つやうなことをかき、ドイツに有利な宣伝を書いてゐるけれども、実際の状況はイギリスも相当にやつてをる。

(中略)

ドイツの勝利もすごぶる疑わしい。のみならず、イギリス海峡を渡ることは、どうも実際において難しいやうに思へるし、今後の戦争の成行きについては逆睹(ぎゃくと)し難い。


出典:岩村正史『戦前日本人の対ドイツ意識』、慶應義塾大学出版会、98頁、2005年。


経緯4.第二次近衛文麿内閣で「日独伊三国同盟」が成立

昭和15(1940)年9月にドイツより、ハインリッヒ・シュマーター特使が来日し、松岡洋介外相との間で同盟の交渉が始まります。

そして同月9月27日についにベルリンで日独伊三国同盟が調印されるに至りました。
当初同盟に反対をしていた日本海軍でさえも、この頃になると異議を唱える人は少なくなっていました。

三国同盟の目的

【日本の理由】アメリカを牽制(けんせい)するため
【ドイツの理由・目的】同じくアメリカの参戦を防ぐため
【イタリアの理由・目的】国際社会からの孤立を防ぐため
【日本の理由】アメリカを牽制(けんせい)するため

日本が日独伊三国同盟を結んだ理由は、大国アメリカを牽制(けんせい)するためでした。

さらに日本はソ連と軍事同盟を結ぶことで、日独伊ソ軍事ブロックを結成し、アメリカによる日本の南進政策への干渉を抑止しようと考えていたのです。

しかし結果としてアメリカの同盟国のイギリスと交戦中だったドイツと軍事同盟を結んだことにより、日米関係は悪化してしまいました。


【ドイツの理由・目的】同じくアメリカの参戦を防ぐため

ドイツも、アメリカが第二次世界大戦に参戦してくることを恐れていました。
アメリカがイギリス側につき、参戦をすればまず勝ち目がなかったからです。
そのためドイツは日本とイタリアに同盟を持ちかけたのです。


【イタリアの理由・目的】国際社会からの孤立を防ぐため

イタリアは昭和13(1936)年の国際連盟を脱退や、イギリス・フランスなどの国々から経済制裁を受けるようになったことをきっかけに、孤立を深めていました。
そのため、孤立状態を打破するためにドイツと同盟関係を組むことにしたのです。


日独伊三国同盟の影響とその後について

三国同盟が結ばれた翌年、日本は「日ソ中立条約」を結んで、ソ連との国交を調整をしています。

日独ソ伊の四カ国でアメリカを牽せいすることで、アメリカとの関係回復をはかろうとしたのです。

しかしその構想は、ドイツが独ソ不可侵条約を破ってソ連に進行したことで水の泡になってしまいます。

また日本の思惑とは裏腹に、日ソ中立条約をきっかけとして、日本に対するアメリカからの警戒心が高まっていきます。

アメリカは、日本が物資を求めてインドシナ半島など南方地域を確保しようとした「南進政策」が進行することを警戒していたのです。

この政策に対するアメリカからの反応は厳しく、在米日本人の資産が凍結されるなどの措置が取られます。

その後の歴史はご存知の通り、日本は昭和15(1941)年12月8日に真珠湾を攻撃をし、日米開戦が始まりました。


日独伊三国同盟のまとめ

アメリカとの戦争を回避するために結ばれた日独伊三国同盟でしたが、結果的にはアメリカとの戦争のきっかけとなる出来事になってしまいました。


それでは記事のまとめです。

日独伊三国同盟とは、昭和15年(1940年)9月27日に日本、ドイツ、イタリアの三国で締結された軍事同盟のこと。

日本とドイツはアメリカを牽制するため、イタリアは孤立化を防ぐために同盟が結ばれた。

日独ソ伊の四カ国でアメリカを牽せいすることで、アメリカとの関係回復をはかろうとしたが、ドイツのソ連進行で水の泡になってしまった。
また南進政策が進み、アメリカから警戒されることとなった。


【参考文献】
鳥海靖『日本の近代 国民国家の形成・挫折と発展』、放送大学教育振興会、2013年。
岩村正史『戦前日本人の対ドイツ意識』、慶應義塾大学出版会、2005年。
『官報』昭和15(1940)年10月21日。

https://rekishiclub.jp/nichi-doku-i-sangokudoumei/
http://www.asyura2.com/20/reki4/msg/638.html#c2

[近代史4] ヒトラーの共産主義との戦い 中川隆
3. 中川隆[-13470] koaQ7Jey 2020年3月23日 20:30:09 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[1434]

日独防共協定と日独伊三国同盟


 歴史をぼんやり眺めていると、日独防共協定と日独伊三国同盟は同じ延長線上にあると勘違いする。しかし、両者は全く別の物である。日独防共協定はソ連の社会主義思想が全世界に波及する事を恐れ、国家社会主義国である日本とドイツがその防波堤になろうとして結んだ同盟であった。これはイギリス、フランス、アメリカにとって好ましい条約でもあった。日本とドイツがソ連に対する楯となるからである。

 これは第二次世界大戦後も同様であった。日本と西ドイツがソ連共産主義の防波堤となったのである。どうして憲法九条がアメリカの手で作られ、そしてアメリカが日本に再軍備を要求したかもここにある。アメリカはソ連に対する防波堤として 蒋介石率いる国民党の中国に期待した。しかし、蒋介石は毛沢東率いる共産党に敗北した。そればかりではない。朝鮮でも共産党が朝鮮半島を支配すべく、南朝鮮に押し寄せたのであった。ここで朝鮮動乱が勃発する。南北朝鮮は三十八度線で休戦を結ぶが、南朝鮮(韓国)では共産主義の防波堤となる力は無い。当然、戦前と同じように日本が極東での共産主義に対する防波堤とならねばならなかった。アメリカが日本に再軍備を要求したのは当然であった。

 第一次世界大戦で敗北したドイツは、ベルサイユ条約で軍備の保持を禁止された。しかし、ヒトラーが政権の座に着くとヒトラーは日独防共協定を日本と結んだ。この日独防共協定はイギリス、フランス、アメリカにとって決して不愉快な条約では無く、むしろ好ましい条約であった。この条約でヒトラーはベルサイユ条約で規定されたドイツが軍備の保持をしない条項を、実質的にイギリス、フランスが撤廃しなければならなくなった。ヒトラーが軍備拡張できた理由は、この国家社会主義思想で反共産主義思想を表に出したことによる。日本は当然この条約はソ連を仮想敵国である条約であると考えた。しかし、ヒトラーの考えは日本政府の外交能力を凌駕していた。ヒトラーは突然、独ソ不可侵条約を結んだのである。日本政府は驚いた。そして時の首相、平沼騏一郎は「欧州情勢は複雑怪奇」という名言を残して総辞職した。即ち、この時点で日本はソ連を仮想敵国にしていた。逆に言うとイギリス、フランス、アメリカとは戦わないという姿勢であった。

 しかし、日独伊三国同盟は違う。この同盟は決してソ連のみに向けられた同盟では無かった。その矛先はイギリス、フランス、アメリカにあった。即ち日独はソ連と不可侵条約を結んだ。不可侵条約を結んだ以上、三国同盟は当然その矛先はソ連ではなくイギリス、フランス、アメリカにあった。日独伊三国同盟は独ソ不可侵条約、日ソ不可侵条約があるため、実質的に日独伊そしてソ連を巻き込んだ大規模な四国同盟とも言うべき軍事条約となっていた。

 ここでヒトラーは大きな誤算をした。ヒトラーは第一次世界大戦でドイツが敗れた原因を、西のイギリス、フランス、そして東のロシアから挟撃されたことにあることを知っていた。そして、西側諸国の最大の敵がアメリカであることも知っていた。

ヒトラーの作戦は独ソ不可侵条約で東からの脅威を取り除き、戦力を西に集中させる事、そしてアメリカに参戦の口実を与えない事であった。ヒトラーがどうしてソ連に侵攻したかは私がいくら調べても解からない。永遠の謎であろう。もし、この問題にあえて決着を付けるなら、ヒトラーがパーキンソン病に罹り、正常な判断能力を無くしていたとしか言えない。そして、もう一つのヒトラーの戦略であるアメリカをこの戦いに巻き込まないという戦略も、日本海軍の真珠湾奇襲攻撃で、ヒトラーがうかつにも結んだ三国同盟で、一気にアメリカの矛先がドイツに向かったのである。もし、三国同盟が無かったら、日本海軍が真珠湾奇襲攻撃をかけても、アメリカはドイツにその矛先を向けるという理論的根拠は無かった。三国同盟があったからこそ、日本の真珠湾攻撃でアメリカ大統領であるルーズベルトは国民にドイツと戦う事を宣言する事が出来たのである。日独伊三国同盟はヒトラーにとって最初に犯した、誤った政策であった。

 では日本にとって三国同盟はどうであったのであろう。日本政府は最初から三国同盟を重要な問題であるとは考えていなかった。平和主義を掲げる日本は日独伊ソの四国同盟を結ぶ事でアメリカが日本に侵攻できないようにした。これは日本が生んだ天才的な外交家、松岡洋祐の政治的戦略であった。しかし、その松岡洋祐の戦略もヒトラーのソ連侵攻で失敗に終わる。もはや、平和主義を唱える日本にとって日独伊三国同盟は無用の長物、いや、足かせとさえなっていた。そして、アメリカとの交渉で日米が戦わずに済むのなら、日独伊三国同盟を破棄する考えであるとアメリカに通告した。しかし、戦争を望むアメリカは日本の提案を拒否した。日本はアメリカとの交渉に行き詰まり、真珠湾奇襲攻撃を決行したのである。

 日独伊三国同盟ほど机上の空論であった同盟は無かったであろう。ヒトラーは日本を騙してソ連に侵攻し、日本はヒトラーの最も恐れたアメリカを敵に回した。そして、戦争が始まっても日独は勝手に戦った。もし、日独伊三国同盟が発揮されていたら、ヒトラーのソ連侵攻と伴に日本はシベリアに侵攻、ソ連はひとたまりも無く敗れたであろう。しかし、歴史はそうは動かなかった。

 この意味で日本から見れば第二次世界大戦と太平洋戦争とはまったく別なものであるという考えもできる。アメリカにとっては対ドイツ、日本との戦いは同一であり、第二次世界大戦として一括して考えねばならない。しかし、日本では日独伊三国同盟は名目だけのもので、決して三国同盟のために日本がアメリカに対して参戦した訳でもないし、日独伊が共同歩調でアメリカと戦った訳でも無かった。この意味で日本にとっては第二次世界大戦というより、太平洋戦争と言った方がふさわしい理由がここにある。

http://www1.clovernet.ne.jp/ponnpe/taiheiyou9.html
http://www.asyura2.com/20/reki4/msg/638.html#c3

[近代史4] ヒトラーの共産主義との戦い 中川隆
4. 中川隆[-13469] koaQ7Jey 2020年3月23日 20:40:03 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[1435]
昭和天皇を震え上がらせた共産主義の恐怖とは


昭和天皇は共産革命を極端に恐れ、1928年から危険思想を持っていそうな人間を全員逮捕・拷問・強制自白させた:


【ノモンハン戦役】 @ 治安維持法 自由はこうして奪われた





▲△▽▼



「○○狂レーニンの武器チェカー」柏原竜一 秋吉聡子【チャンネルくらら】




http://www.asyura2.com/20/reki4/msg/638.html#c4
[近代史4] ヒトラーの共産主義との戦い 中川隆
5. 中川隆[-13468] koaQ7Jey 2020年3月23日 20:41:20 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[1436]

2020年01月27日
反日罪が裁かれる日 左翼の言論はいつまでも自由ではない

大正時代は自由や民権運動が盛んで、共産主義や反日がカッコいいとされていた。
自由な時代は軍の反撃であっけなく終わった

画像引用:https://buzzap.net/images/2016/06/24/modern-girls1920/top.jpg


言論はいつまでも自由ではない

日本では自国を攻撃する反日が罪にならないが、これは世界でも少数派で、多くの国では即刑務所にぶちこまれる。

70年代から90年代に北朝鮮の日本人拉致が行われたが、国内の協力者は一人も逮捕されていない。

不審船が上陸するにも事前に情報が無くては上陸地点も「標的」も決められないので、協力者がいたはずでした。

当時も今も日本の法律では、北朝鮮の拉致に協力して情報提供しても、何ら罪に問われません。

北朝鮮を支持する人間が公然と「日本打倒」を掲げてデモ行進しても合法で、こういう国は日本以外に無い。

日本では日本を攻撃する「反日」が一種の遊び程度に考えられているが、他の国では極刑や逮捕に値する重罪です。


アメリカではベトナム戦争敗戦から自国を侮辱したり攻撃するのが流行し、反米がカッコいいとされた時期があった。

その結果起きたのが9.11同時多発テロで、この日以来「反米」は犯罪として摘発され刑務所にぶちこまれるようになった。

2000年までは「アメリカをぶっ壊す」とプラカードを掲げてホワイトハウス前を行進できたが、今は公安に連行されます。


最近はネット上で「アメリカで大きな事をやる」と書いただけで入国拒否されたという例が多く報告されている。

日本の現状は9.11以前のアメリカに近く、反日はカッコいい事で、「日本をぶっ壊す」と宣言した外国人を入国させています。

歴史上こういう事は何度も繰り返されていて、今回が初めてではありませんでした。


過去の反日ブームと弾圧

ある国で自国を攻撃する破壊活動がブームになると、それが数十年続いた後で強烈な反作用が起きることが多い。

簡単な例は日本の大正デモクラシーで、現代風に解説すると平和活動と反日活動、民主運動が高まりました。

日露戦争に勝利した日本はもう戦争は起きないとして軍縮し、現在の自衛隊と同規模の20万人程度まで軍を縮小した。


当時はハイテクは無いので人数=兵力であり、帝国陸軍は解散寸前といった状態で、消費文化や民権運動がブームでした。


日本の公安も弛緩してしまい、ソ連誕生で共産主義がブームになり、日本を共産化しようという共産運動が広まった。

昭和1桁時代には公然と日本を批判する反日もブームで、昭和12年には有名女優がソ連に亡命する事件も起きた。


後に連合艦隊司令長官になった山本五十六は「アメリカかぶれ」として有名で、アメリカに移住してアメリカ人になりたいと思っていました。

山本は武官としてアメリカに在住した事もあって、アメリカの豊かさを知り強い憧れを抱いていたようです。

こうした弛緩した空気を一変させたのが昭和6年の満州事変と、昭和11年の226事件でした。


反日ブームや共産主義、民権主義を苦々しく思っていた軍部は政治の主導権を握ると引き締めを図った。

これが昭和10年代の軍部の圧政で、例えば野球でも英語を使ってはならず、ストライクは「一本」などと言っていた。

戦争が終わるとGHQは自由化を進めたが、実は自由なのは「日本の悪口だけ」で、日本を褒める事は一切禁止した。


だから黒澤明など昭和期の映画はすべて反日映画で、日本を褒めるような内容はGHQが禁止していました。


歴史は自由と弾圧を繰り返す

欧州でも自由と弾圧はなんども繰り返されていて、フランス革命は王国時代はあらゆる言論自由で、そのせいで革命が起きました。

革命派は「パンがなければケーキを食べなさいよ」とマリーアントワネットが言ったと言いふらしたが、後にねつ造なのが判明している。

自由を求めてフランス革命を起こした連中は、革命に成功したら一切の言論を禁じ、自分を批判させないため圧政を敷きました。


ロシア革命も同様で、革命前はあらゆる言論すべて自由だったのに、革命後はソ連になり一切の自由を奪いました。

すべての「革命」の正体はこのようなもので、自由を掲げながら革命が終わったら前より不自由になります。

ギリシャ、ローマ時代から同じ事は何度も繰り返されていて、自由な時代と弾圧時代は交互にやってきていました。


今日本は自由な時代なわけですが、永遠に続く自由は無いのもまた、歴史は証明しています。

日本で最初にこうした事が起きたと記録されているのは聖徳太子から天智天皇の時代で、聖徳太子は仏教を導入し律令制度などを作りました。

聖徳太子の時代に日本は唐や百済から進んだ制度を導入し栄えたが、当然のこととして反日日本人が増えた。


唐や百済が進んでいるから導入するので、「日本なんか劣等国だよ」などという今風の左翼が増えた。

聖徳太子は仏教派だったがこれは神道派と対立し、国内で深刻な争いも起きていた。

その後に登場したのが中大兄皇子こと後の天智天皇で、645年に大化の改新という軍事クーデターを起こした。


天皇を任命したり敵対する王子を葬り去るなどやりたい放題の蘇我入鹿を、中大兄皇子が自分で切りつけたとされている。

天智天皇となった663年には百済を滅ぼした羅漢連合を成敗するため、史上初(三韓征伐を除く)の対外戦争を起こすが惨敗してしまう。

この白村江の戦いの真の目的は、対外戦争によって乱れた人心をまとめる事だったとされている。


昭和6年の満州事変では戦争を利用して軍部が権力を握り乱れた国内を引き締めたが、同じ目的だったと思われます。

対外戦争を起こすことで国家総動員体制になり、反日はカッコいいなどと抜かす連中は刑務所にぶち込めるようになります。

こうして天智天皇は実質的に初めての「日本国の天皇」になったが、大陸進出の野望は無く国内の発展に努めた。


こんな風に自由な社会で弛緩した空気は、戦争や革命やクーデーターなど、何か強い力によって終わる。

戦前の欧米ではドイツだけではなく、米英仏でも「反ユダヤ」が流行したが、今は口にしただけで逮捕される。

このように行き過ぎた自由には必ず終わりが来る。
http://www.thutmosev.com/archives/82040161.html

http://www.asyura2.com/20/reki4/msg/638.html#c5

[近代史4] ヒトラーの共産主義との戦い 中川隆
6. 中川隆[-13467] koaQ7Jey 2020年3月23日 20:43:47 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[1437]

レーニンの実像
 
ロシアではグラスノスチによって、神聖不可侵だったレーニンの実像を知る手がかりが次第に明らかにされつつある。共産党中央委員会が管理していたマルクス・レーニン主義研究所所属の古文書館に「秘密」のスタンプが押された3724点におよぶレーニン関連の未公開資料が保存されていたことも判明し、民主派の歴史学者の手によってその公開が進みつつある。

 これらの資料のうちの一部は、ソ連崩壊以前からグラスノスチ政策によって公開されていた。そのうちのひとつが、私が月刊『現代』91年10月号誌上で全文を公表した、1922年3月19日付のレーニンの秘密指令書である。改めてここでその内容を紹介しておこう(翻訳全文は拙著『あらかじめ裏切られた革命』に所収)。


 22年当時、ロシアは革命とそれに続く内戦のために、国中が荒廃し、未曾有の大飢饉に見舞われていた。そんな時期に、イワノヴォ州のシューヤという町で、ボリシェヴィキが協会財産を没収しようとしたところ、聖職者が信徒の農民たちが抵抗するという「事件」が起きた。報告を受けたレーニンは、共産党の独裁を確立する最大の障害の一つだった協会を弾圧する「口実ができた」と喜び、協会財産を力ずくで奪い、見せしめのための処刑を行い、徹底的な弾圧を加えよと厳命を下したのである。以下、その命令書の一部を抜粋する。


<我々にとって願ってもない好都合の、しかも唯一のチャンスで、九分九厘、敵を粉砕し、先ゆき数十年にわたって地盤を確保することができます。まさに今、飢えた地方では人をくい、道路には数千でなければ数百もの死体がころがっているこの時こそ、協会財産をいかなる抵抗にもひるむことなく、力ずくで、容赦なく没収できる(それ故、しなければならないのです>


<これを口実に銃殺できる反動聖職者と反動ブルジョワは多ければ多いほどよい。今こそ奴らに、以後数十年にわたっていかなる抵抗も、それを思うことさえ不可能であると教えてやらねばならない>


おぞましい表現に満ちたこの秘密書簡は、『ソ連共産党中央委員会会報』誌90年4月号に掲載され、一般に公開された。党中央委ですら、90年の時点で、レーニンが直接命じた残忍なテロルの事実の一端を、公式に認める判断を下したわけである。

 アナトリー・ラトゥイシェフという歴史家がいる。未公開のレーニン資料の発掘に携わっている数少ない人物で、同じくレーニン研究に携わっていた軍事史家のヴォルコゴーノフが、95年12月に他界してからは、この分野の第一人者と目されており、研究成果をまとめた『秘密解除されたレーニン』(未邦訳)という著書を96年に上梓したばかりだ。モスクワ在住の友人を通じて、彼にあてて二度にわたって質問を送ったところ、氏から詳細な回答を得るとともに、氏の好意で著書と過去に発表した論文や新聞インタビュー等の資料をいただいた。以下、それらのデータにもとづいて、レーニンの実像の一端に迫ってみる(「 」内は氏の手紙および著書・論文からの引用であり、< >内はレーニン自身の書いた文章から直接の引用である。翻訳は内山紀子、鈴木明、中神美砂、吉野武昭各氏による)。

まずは、ラトゥイシェフからの手紙の一節を紹介しよう。


「残酷さは、レーニンの最も本質をなすものでした。レーニンはことあるごとに感傷とか哀れみといった感情を憎み、攻撃し続けてきましたが、私自身は、彼には哀れみや同情といった感情を感受する器官がそもそも欠けていたのではないか、とすら思っています。残酷さという点ではレーニンは、ヒトラーやスターリンよりもひどい」


「レーニンはヒトラーよりも残酷だった」という主張の根拠として、ラトゥイシェフはまず、彼自身が古文書館で「発掘」し、はじめて公表した、1919年10月22日付のトロツキーあての命令書をあげる。

<もし総攻撃が始まったら、さらに2万人のペテルブルグの労働者に加えて、1万人のブルジョワたちを動員することはできないだろうか。そして彼らの後ろに機関銃を置いて、数百人を射殺して、ユデニッチに本格的な大打撃を与えることは実現できないだろうか>

 ユデニッチとは、白軍の将軍の一人である。白軍との内戦において、「ブルジョワ」市民を「人間の盾」として用いよと、レーニンは赤軍の指導者だったトロツキーに命じているのである。

「ヒトラーは、対ソ戦の際にソ連軍の捕虜を自軍の前に立たせて『生きた人間の盾』として用いました」と、ラトゥイシェフ氏は私宛ての手紙に書いている。

「しかし、ヒトラーですら『背後から機関銃で撃ちながら突進せよ』などとは命令しなかったし、もちろん、自国民を『盾』に使うことはなかった。レーニンは自国民を『人間の盾』に使い、背後から撃つように命じている。ヒトラーもやらなかったことをレーニンがやったというのはこういうことです。しかも、『人間の盾』に用いられ、背後から撃たれる運命となった人たちは犯罪者ではない。あて彼らの『罪』を探すとすれば、それはただひとつ、プロレタリア階級の出身ではなかったということだけです。しかし、そういう人々の生命を虫ケラほどにも思わず、殺すことを命じたレーニン自身は、世襲貴族の息子だったのです」


レーニンが「敵」とみなしていたのは、「ブルジョワ階級」だけではない。聖職者も信徒も、彼にとっては憎むべき「敵」だった。従来の党公認のレーニン伝には、革命から2年後の冬、燃料となる薪を貨車へ積み込む作業が滞っていることにレーニンが腹を立て、部下を叱咤するために書いた手紙が掲載されてきた。


<「ニコライ」に妥協するのは馬鹿げたことだ。――ただちに緊急措置を要する。

 一、出荷量を増やすこと。

 二、復活祭と新年の祝いのために仕事を休むことを防ぐこと。>


「ニコライ」とは、12月19日の「聖ニコライの祭日」のことである。この日、敬虔(けいけん)なロシア正教徒は――ということは当時のロシア国民の大半は――長年の習慣に従って、仕事を休み、祈りを捧げるために教会へ足を運んだに違いない。レーニンはこの日、労働者が仕事を休んだのはけしからんと述べているわけだが、そのために要請した緊急措置は、この文書を読むかぎりとりたてて過激なものではないように思える。しかし実は、この手紙は公開に際して改竄(かいざん)が施されていた。古文書館に保存されていた、19年12月25日付書簡の原文には、先のテクストの「――」部分に以下の一文が入っていたのである。


<チェーカー(反革命・サボタージュ取り締まり全ロシア非常委員会=KGBの前身の機関)をすべて動員し、「ニコライ」で仕事に出なかったものは銃殺すべきだ>

 レーニンの要請した「緊急措置」とは、秘密警察を動員しての、問答無用の銃殺だったのだ――。


 この短い書簡の封印を解き、最初に公表したのは、今は亡きヴォルコゴーノフで、彼の最後の著書『七人の指導者』(未邦訳)に収められている。ラトゥイシェフは、私宛ての手紙で『七人の指導者』のどのページにこの書簡が出ているか示すとともに、こういうコメントを寄せてきている。


「この薪の積み込み作業に動員されたのは、帝政時代の元将校や芸術家、インテリ、実業家などの『ブルジョワ』層でした。財産を奪われた彼らは、着のみ着のままで、この苦役に強制的に従事させられていたのです。彼らにとって『聖ニコライの日』は、つかの間の安息日だったことでしょう。レーニンは無慈悲にも、わずかな安息を求め、伝統の習慣に従っただけの不幸な人々を『聖ニコライの日』から一週間もたってから、その日に休んだのは犯罪であるなどと事後的に言い出し、銃殺に処すように命じたのです」


内部に胚胎していた冷血


 ひょっとすると、このような事実を前にしてもなお、以下のような反論を試みようとする人々が現れるかもしれない。


――レーニンはたしかに「敵」に対しては、容赦なく、残酷な手段を用いて戦ったかもしれない。しかしそれは革命直後の、白軍との内戦時の話だ。戦争という非常時においては、誰でも多かれ少なかれ、残酷になりうる。歴史の進歩のための戦いに勝ち抜くにはこうした手段もやむをえなかったのだ――。

 いかにも最もらしく思える言い分だが、これも事実と異なる。レーニンの残酷さや冷血ぶりは、内戦時のみ発揮されたわけではない。そうした思想(あるいは生理)は、ウラジーミル・イリイッチ・ウリヤーノフが「レーニン」と名乗るはるか以前から、彼の内部に胚胎していたのだ。

 話は血なまぐさい内戦の時代から約30年ほど昔に遡る。1891年、レーニンが21歳を迎えたその年、沿ヴォルガ地方は大規模な飢饉に見舞われた。このとき、地元のインテリ層の間で、飢餓に苦しむ人々に対して社会的援助を行おうとする動きがわきあがったが、その中でただ一人、反対する若者がいた。ウラジーミル・ウリヤーノフである。以下、『秘密解除されたレーニン』から引用する。


「『レーニンの青年時代』と題する、A・ペリャコフの著書を見てみよう(中略)それによれば、彼(レーニン)はこう発言していたのだ。


『あえて公言しよう。飢餓によって産業プロレタリアートが、このブルジョワ体制の墓掘人が、生まれるのであって、これは進歩的な現象である。なぜならそれは工業の発展を促進し、資本主義を通じて我々を最終目的、社会主義に導くからである――飢えは農民経済を破壊し、同時にツァーのみならず神への信仰をも打ち砕くであろう。そして時を経るにしたがってもちろん、農民達を革命への道へと押しやるのだ――』」


 ここの農民の苦しみなど一顧だにせず、革命という目的のためにそれを利用しようとするレーニンの姿勢は、すでに21歳のときには確固たるものとなっていたのだ。

 また、レーニンは『一歩前進、二歩後退』の中で自ら「ジャコバン派」と開き直り、党内の反対派を「日和見主義的なジロンド派」とののしっているが、実際に血のギロチンのジャコバン主義的暴力を、17年の革命に先んじて、1905年の蜂起の時点で実行に移している。再び『秘密解除されたレーニン』から一節を引こう。


「このボリシェヴィキの指導者が、(亡命先の)ジュネーブから、1905年のモスクワでの『12月蜂起』前夜に、何という凶暴な言葉で、ならず者とまったく変わらぬ行動を呼びかけていたことか!(中略)


『全員が手に入れられる何かを持つこと(鉄砲、ピストル、爆弾、ナイフ、メリケンサック、鉄棒、放火用のガソリンを染み込ませたボロ布、縄もしくは縄梯子、バリケードを築くためのシャベル、爆弾、有刺鉄線、対騎兵隊用の釘、等々)』(中略)


『仕事は山とある。しかもその仕事は誰にでもできる。路上の戦闘にまったく不向きな者、女、子供、老人などのごく弱い人間にも可能な、大いに役立つ仕事である』(中略)


『ある者達はスパイの殺害、警察署の爆破にとりかかり、またある者は銀行を襲撃し、蜂起のための資金を没収する』(中略)建物の上部から『軍隊に石を投げつけ、熱湯をかけ』、『警官に酸を浴びせる』のもよかろう」


「目を閉じて、そのありさまを想像してみよう。有刺鉄線や釘を使って何頭かの馬をやっつけたあと、子供達はもっと熟練のいる仕事にとりかかる。用意した容器を使って、硫酸やら塩酸を警官に浴びせかけ、火傷を負わせたり盲人にしたりしはじめるのだ。

(中略)そのときレーニンはこの子供達を真のデモクラットと呼び、見せかけだけのデモクラット、『口先だけのリベラル派』と区別するのだ」


彼の価値観はきわめて「ユニーク」で、「警官に硫酸をかけなさい」という教えだったのだ。

よく知られている話だが、1898年から3年間、シベリアへ流刑に処されたとき、レーニンは狩猟に熱中していた。この狩猟の趣味に関して、レーニンの妻、クループスカヤは『レーニンの思い出』の中で、エニセイ川の中洲に取り残されて、逃げ場を失った哀れなウサギの群れを見つけると、レーニンは片っ端から撃ち殺し、ボートがいっぱいになるまで積み上げたというエピソードを記している。


 何のために、逃げられないウサギを皆殺しにしなくてはならないのか?これはもはや、ゲームとしての狩猟とはいえない。もちろん、生活のために仕方なく行なっている必要最小限度の殺生でもない。ごく小規模ではあるが、まぎれもなくジェノサイドである。レーニンの「動物好き」とは、気まぐれに犬を撫でることもあれば、気まぐれにウサギを皆殺しにすることもある、その程度のものにすぎない。


「レーニンは疑いなく脳を病んでいた人でした。特に十月革命の直後からは、その傾向が顕著にあらわれるようになります。1918年1月19日に、憲法を制定するという公約を反古にして、憲法制定会議を解散させたあと、レーニンはヒステリー状態に陥り、数時間も笑い続けました。また、18年の7月、エス・エルの蜂起を鎮圧したあとでも、ヒステリーを起こして何時間も笑い続けたそうです。こうした話は、ボリシェヴィキの元幹部で、作家であり、医師でもあったボグダーノフが、レーニンの症状を診察し、記録に残しています」


 レーニンの灰色の脳は病んでいた。彼は「狂気」にとりつかれていたのだ。ここでいう「狂気」とはもちろん、陳腐な「文字的」レトリックとしての「狂気」でも、中沢氏のいう「聖なる狂気」のことでもない。いかなる神秘ともロマンティシズムとも無縁の、文字通りの病いである。

 頭痛や神経衰弱を訴え続けていたレーニンは、1922年になると、脳溢血の発作を起こし、静養を余儀なくされるようになった。ソ連国内だけでなく、ドイツをはじめとする外国から、神経科医、精神分析医、脳外科医などが招かれ、高額な報酬を受け取ってレーニンの診察を行った。そうした診察費用の支払い明細や領収書、カルテなどが、古文書館で発見されている。


 懸命な治療にもかかわらず、レーニンの病状は悪化の一途をたどり、知的能力は甚だしく衰えた。晩年はリハビリのため、小学校低学年レベルの二ケタの掛け算の問題に取り組んだが、一問解くのに数時間を要した。にもかかわらず、その間も決して休むことなく、彼は誕生したばかりの人類史上最初の社会主義国家の建設と発展のために、毎日、誰を国外追放にせよ、誰を銃殺しろといった「重要課題」を決定し続けた。二ケタの掛け算のできない病人のサイン一つで、途方もない数の人間の運命が決定されていったのである。

そしてこの時期、もう一つの重大事が決定されようとしていた。レーニンの後継者問題である。1922年12月13日に、脳血栓症の二度目の発作で倒れたあと、レーニンは数回に分けて「遺書」を口述した。とりわけ、22年1月4日に「スターリンは粗暴すぎる。そしてこの欠点は、われわれ共産主義者の間や彼らの相互の交際では充分我慢できるが、書記長の職務にあっては我慢できないものとなる」として、スターリンを党書記長のポストから解任するよう求めた追記の一節が、のちに政治的にきわめて重要な意味をもつこととなった。

 ラトゥイシェフはレーニンとスターリンの関係についてこう述べる。


「よく知られている通り、レーニンは『遺書』の中でスターリンを批判しました。そのため、レーニンは、スターリンの粗暴で残酷な資質を見抜いており、もともと後継者として認めていなかったのだという解釈が生まれ、それがスターリン主義体制は、レーニン主義からの逸脱であるとみなす論拠に用いられるようになりました。しかしこれは『神話』なのです。レーニンの『神話』の中で最も根強いものの一つです。

 レーニンがスターリンを死の間際に手紙で批判したのは、スターリンがクループスカヤに対して粗暴な態度をとったという個人的な怒りからです。スターリンがそのような態度をとったのは、衰弱の一途をたどるレーニンを見て、回復の見込みはないと判断して見切りをつけたからでした。しかしそれまではグルジア問題などで対立することはあっても、スターリンこそレーニンの最も信頼する”友人”であり、忠実で従順な”弟子”でした。レーニンが静養していたゴーリキーに最も足繁く通っていたのはスターリンであり、彼はレーニンのメッセージを他の幹部に伝えることで、彼自身の権力基盤を固めていったのです」

たしかに「遺書」では、レーニンはスターリンを「粗暴」と評しているが、別の場面では、まったく正反対に「スターリンは軟弱だ」と腹を立てていたという証言もある。元政治局員のモロトフは、詩人のフェリックス・チュエフの「レーニンとスターリンのどちらが厳格だったか?」という質問に対して、「もちろん、レーニンです」と答えている。このモロトフの言葉を『秘密解除されたレーニン』から引用しよう。


「『彼(レーニン)は、必要とあらば、極端な手段に走ることがまれではなかった。タンボフ県の暴動の際には、すべてを焼き払って鎮圧することを命じました。(中略)

彼がスターリンを弱腰だ、寛大すぎる、と言って責めていたのを覚えています。『あなたの独裁とはなんです? あなたのは軟弱な政権であって、独裁ではない!』と」


 あのスターリンを「軟弱だ」と叱責したレーニンの考えていた「独裁」とは、ではどういうものであったか? この定義は、何も秘密ではない。レーニン全集にはっきりとこう書かれている。


「独裁の科学的概念とは、いかなる法にも、いかなる絶対的支配にも拘束されることのない、そして直接に武力によって自らを保持している、無制限的政府のことにほかならない。これこそまさしく、『独裁』という概念の意味である」

 こんな明快な定義が他にあるだろうか。
 法の制約を受けない暴力によって維持される無制限の権力。これがレーニンが定式化し、実践した「独裁」である。スターリンは、レーニン主義のすべてを学び、我がものとしたにすぎないのだ。


 ラトゥイシェフはこう述べている。

「独裁もテロルも、レーニンが始めたことです。強制収容所も秘密警察もレーニンの命令によって作られました。スターリンはその遺産を引き継いだにすぎません。もっとも、テロルの用い方には、二人の間に相違もみられます。スターリンは、粗野で、知的には平凡な人物でしたが、精神的には安定しており、ある意味では『人間的』でした。彼は政敵を粛清する際には、遺族に復讐されないように、一族すべて殺したり、収容所送りにするという手段を多用しました。もちろん残酷きわまりないのですが、少なくとも彼には人間を殺しているという自覚がありました。しかし、レーニンは違う。彼は知的には優れた人物ですが、精神的にはきわめて不安定であり、テロルの対象となる相手を人間とはみなしていなかったと思われます。

彼の命令書には


『誰でもいいから、100人殺せ』とか

『千人殺せ』とか

『一万人を「人間の盾」にしろ』


といった表現が頻出します。彼は誰が殺されるか、殺される人物に罪があるかどうかということにまるで関心を払わず、しかも『100人』『千人』という区切りのいい『数』で指示しました。彼にとって殺すべき相手は匿名の数量でしかなかったのです。

人間としての感情が、ここには決定的に欠落しています。私が知る限り、こうした非人間的な残酷さという点では、レーニンと肩を並べるのはポル・ポトぐらいしか存在しません」

 ラトゥイシェフの言葉を細くすれば、レーニンとポル・ポトだけでなく、ここにもうひとり麻原彰晃をつけ加えることができる。麻原が指示したテロルには、個人を狙った「人点的」なものもあったが、最終的には彼は日本人の大半を殺害する「予定」でいたわけであり、これは「人間的」なテロルの次元をはるかに超えている。

暴力革命を志向するセクトやカルト教団の党員や信徒達は厳しい禁欲を強いられるものの、そうした組織に君臨する独裁者や幹部達が、狂信的なエクステリミストであると同時に、世俗の欲望まみれの俗物であることは少しも意外なことではない。サリンによる狂気のジェノサイドを命じた麻原は、周知の通り、教団内ではメロンをたらふく食う俗物そのものの日々を送っていたのであるが、この点もレーニンはまったく変わりはなかった。

 レーニンが麻原同様の俗物? そんな馬鹿な、と驚く人は少なくあるまい。レーニンにはストイックなイメージがあり、彼に対しては、まったく正反対の思想の持ち主でさえも、畏敬の念を抱いてしまうところがある。彼は己の信じる大義のために生命をかけて戦い抜いたのであり、私利私欲を満たそうとしたのではない、生涯を通じて彼は潔癖で清貧を貫いた、誰もがそう信じて今の今まで疑わなかった。そしてその点こそが、レーニンとそれ以外の私腹を肥やすことに血道をあげた腐った党指導者・幹部を分かつ分断線だった

 ところが、発掘された資料は、それが虚構にすぎなかったことを証明しているのである。1922年5月にスターリンにあてたレーニンのメッセージを公開しよう。


<同志スターリン。ところでそろそろモスクワから600ヴェルスト(約640キロメートル)以内に、一、二ヶ所、模範的な保養所を作ってもよいのではないか? 

そのためには金を使うこと。また、やむをえないドイツ行きにも、今後ずっとそれを使うこと。

しかし模範的と認めるのは、おきまりのソビエトの粗忽者やぐうたらではなく、几帳面で厳格な医者と管理者を擁することが可能と証明されたところだけにすべきです。

 5月19日     レーニン>


この書簡には、さらに続きがある。


<追伸 マル秘。貴殿やカーメネフ、ジェルジンスキーの別荘を設けたズバローヴォに、私の別荘が秋頃にできあがるが、汽車が完璧に定期運行できるようにしなければならない。それによって、お互いの間の安上がりのつきあいが年中可能となる。私の話を書きとめ、検討して下さい。また、隣接してソフホーズ(集団農場)を育成すること>

 


自分達、一握りの幹部のために別荘を建て、交通の便をはかるために鉄道を敷き、専用の食糧を供給する特別なソフホーズまでつくる。

こうした特権の習慣は、後進たちに受け継がれた。その結果、汚職と腐敗のために、国家の背骨が歪み、ついには亡国に至ったのである。その原因は、誰よりもレーニンにあった。禁欲的で清貧な指導者という、レーニン神話の中で最後まで残った最大の神話はついえた。レーニンは、メロンをむさぼり食らう麻原と何も変わりはなかったのである。

http://www.hh.iij4u.or.jp/~iwakami/nakazawa.htm


▲△▽▼


レーニンの大量殺人総合データと殺人指令27通
http://www2s.biglobe.ne.jp/~mike/leninsatujin.htm

4年7カ月間で最高権力者がしたこと
1918年5月13日食糧独裁令〜1922年12月16日第2回発作


http://www.asyura2.com/20/reki4/msg/638.html#c6

[近代史4] ヒトラーの共産主義との戦い 中川隆
7. 中川隆[-13466] koaQ7Jey 2020年3月23日 20:47:19 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[1438]

ソ連は1917年のロシア革命で誕生したが、伝説のように市民が蜂起した訳ではなく、ドイツの悪巧みで発生した。

当時第一次大戦で負けそうだったドイツは、対戦相手のロシアで革命を起こさせて有利にするため、レーニンを送り込んだ。


レーニンはロシア人だがドイツに亡命して国家崩壊を企む人物で、日本で言えば麻原彰晃レベルの人間でした。

普通は誰も相手にしませんが、ロシアは大戦や財政危機で国民生活が破綻しており、飢えた人々はレーニンに従った。

ロシア革命とは麻原彰晃が敗戦を利用して日本の皇帝になったようなもので、当然ながらソ連は帝政時代より凶悪な国家になった。


世界共産革命が使命


一方中華人民共和国が生まれた経緯はソ連以上に奇怪で、当時日本帝国と中華民国(今の台湾)が戦争をしていました。

中華民国は日本との戦争で疲弊してボロボロになり、そのせいで国内の対抗勢力の共産軍(毛沢東)に敗れました。

大戦終了後に、余力があった共産軍は大陸全土を支配し、中華民国は台湾島に追い払われて現在の中国ができた。


ソ連、ロシアともに成立過程を嘘で塗り固めていて、ソ連は民衆蜂起、中国は日本軍を追い払った事にしている。

両国とも本当の歴史を隠すためか、盛大な戦勝式を行って国民の結束を高めるのに利用しています。

ソ連・中国ともに共産国家であり、「全世界で共産主義革命を起こし世界統一国家を樹立する」のを国是としている。


因みに「ソビエト連邦」は実は国家ではなく、全世界共産化の勢力範囲に過ぎませんでした。

中国もまた地球を統一し共産化する事を大義としていて、だから際限なく勢力を拡大しようとします。

資本主義を倒して地球を統一する市民団体が中国やソ連で、相手が従わなければ暴力と軍事力で共産化します。


だから共産国家は必ず軍事国家で破壊的であり、平和的な共産国家は存在しません。

世界革命に賛同した国(軍事力で服従させた国)は衛星国家として従わせ、東ドイツや北朝鮮のようになります。

共産国家は勝ち続ける事が使命であり、負けることは絶対に許されず、負けは神から与えられた使命の挫折を意味します。

http://www.thutmosev.com/archives/41996082.html

http://www.asyura2.com/20/reki4/msg/638.html#c7

[近代史4] ヒトラーの共産主義との戦い 中川隆
8. 中川隆[-13465] koaQ7Jey 2020年3月23日 20:55:44 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[1439]

昭和天皇やヒトラーが信じていたユダヤ陰謀史観


ロシア革命はユダヤ人を解放したユダヤ人の革命だった〜
http://www.kanekashi.com/blog/2017/12/5578.html

今回紹介する記事は、日本の第一次世界大戦参戦の背景とその間起こったロシア革命について。

日本の第一次世界大戦への参戦は、同盟を結んでいたイギリスからの執拗な要請から止む無く承諾したものとのこと。

本文には書いていませんが、これは裏には金貸しの存在があると思われます。日本銀行開業が1882年、その12年後の1894年に日清戦争、そして10年ピッチで1904年:日露戦争、1914年第一次世界大戦と中央銀行が国家に戦費を貸し付けていくという金貸しお決まりの戦略の一貫と見ています。

ロシア革命も金貸しが深く影響しており、正史は、トロツキーを筆頭にアメリカにいるユダヤ人主導による革命とのことですが、資金はユダヤ系の金貸しがバックアップしているとのこと。

今後記事にしていきますが、ピューリタン革命以降の革命や戦争のほとんどは、金貸し勢力が仕組んだもの。

誰が利益を得たのか?を軸に見ていくと、本当の歴史が見えてくる。

以下、『世界を操るグローバリズムの洗脳を解く(馬渕睦夫著)
https://www.amazon.co.jp/%E4%B8%96%E7%95%8C%E3%82%92%E6%93%8D%E3%82%8B%E3%82%B0%E3%83%AD%E3%83%BC%E3%83%90%E3%83%AA%E3%82%BA%E3%83%A0%E3%81%AE%E6%B4%97%E8%84%B3%E3%82%92%E8%A7%A3%E3%81%8F-%E9%A6%AC%E6%B8%95%E7%9D%A6%E5%A4%AB/dp/4908117144


からの紹介です。

****************************

■イギリスの要請で日本もやむなく第一次世界大戦に参戦

話を第一次世界大戦に戻します。

第一次世界大戦には日本も巻き込まれました。日本には戦争をする理由はありませんでしたが、日英同盟を結んでいたイギリスから頼まれたため、小規模な戦闘には加わりました。

教科書では、日英同盟を理由として日本が積極的に第一次世界大戦に参戦したかのように書かれています。混乱のどさくさに紛れて参戦し、ドイツの租借地である青島と山東省の権益、ドイツ領南洋諸島を奪ったかのような書き方です。

事実は全く逆です。イギリスが参戦を要請してきたのに対して、日本としては関わりのないヨーロッパ地域のことなのでずっと断り続けていました。それでも「参加してほしい」と強く頼まれたために、日英同盟の信義を守って参加したのです。

山東省のドイツの権益と南洋諸島のドイツの権益を日本が引き受けることになったのは、参戦する前からイギリスと話し合っていた条件であり、どさくさに紛れて日本が奪い取った権益ではありません。

ご存知の方もいると思いますが、その後イギリスは地中海にまで日本の海軍を派遣するように要請してきました。この要請も断り続けていましたが、日本の客船がドイツ潜水艦の攻撃で沈没したこともあって、最終的には止むを得ず艦隊を出すことになりました。

日本海軍は、1917年3月に駆逐艦8隻を派遣。6月、マルタ島の基地に到着。788隻もの連合国側の輸送船、病院船を護送し、兵員70万人を輸送しました。最大派遣時には17隻に達しました。その間一隻が魚雷攻撃を受け大破し、艦長ほか59人の犠牲を出しました。

とはいえ、日本が積極的に関わったことは皆無で、イギリスに頼まれたために小規模な戦闘に参加したのが、日本にとっての第一次世界大戦です。

■ロシア革命はユダヤ人を解放したユダヤ人の革命だった

20世紀の歴史を総括し、21世紀の歴史を考えるためには、ロシア革命について正しく知る必要があります。

日本人が教えられてきたロシア革命は、人民による革命です。ニコライ2世の圧制に苦しめられていたロシアの人民が、反旗を翻して帝政を倒したと習ったのではないでしょうか。

しかし、実際のロシア革命は、ユダヤ人たちが起こした革命です。ロシア革命の指導者、或いは革命政府の上層部の約8割はユダヤ人でした。トロツキーはユダヤ人で、レーニンも4分の1はユダヤ人です。ロシア革命は、一言で言えばユダヤ革命です。

イギリス人が書いた本(ヒレア・ベロック)には「ジューイック・レボリューション(ユダヤ人の革命)」と明確に書かれています。ヨーロッパの人たちは、ロシア革命がユダヤ人による革命であることをみな知っています。

ロシア革命を主導したのはアメリカにいたユダヤ系の人たちです。

トロツキーはアメリカからロシアに戻って革命に参加しています。彼はアメリカのウォールストリートなどで働いていたロシア系ユダヤ人をたくさん連れてロシアに戻りました。

なぜロシア人達が蜂起して革命を起こしたのかというと、ユダヤ人がロシア帝国で迫害されていたからです。

ではなぜ、ロシアはユダヤ人を迫害していたのでしょうか。その理由はこうです。

18世紀末のポーランド分割の結果、ロシアはポーランドにいた多数のユダヤ人をロシア帝国内に抱えることになりました。

ところが、ユダヤ人はロシアに同化せずに独自の生活様式に固執しました。

また、商才を発揮して無知なロシア農民を搾取したことから、ロシア農民の間にユダヤ商人に対する反感が高まり、それが高じて集団でユダヤ人を襲うようになっていったのです。

ロシア帝国はユダヤ人排斥主義をとっており、ポグロムと呼ばれるユダヤ人殺戮を繰り返していました。これにロシア内外のユダヤ人達が立ち向かったのです。ポグロムを行うニコライ2世をユダヤ人が倒したのがロシア革命です。

一般的に用いられている「ロシア革命」という言葉は誤解を生むものであり、「ロシアでのユダヤ革命」と言うのが本来の言い方であるべきです。

ロシア革命は第一次世界大戦中に起こりましたが、ドイツが協力して革命家達をロシアに輸送していました。スイスに亡命していたレーニンは、ドイツの封印列車に乗って無事にロシアに入り込んでいます。列車が通過する国々が支援しなければできることではありません。

通過する国はみなロシア帝政を弱体化させ、ユダヤ人の革命を成功させることに協力したわけです。ユダヤ金融資本家たちは、長年の敵であるロシアの帝政を倒してユダヤ人による国をつくるために資金を出しました。ロシア革命は成功し、ユダヤ人による国がつくられました。

http://www.kanekashi.com/blog/2017/12/5578.html


http://www.asyura2.com/20/reki4/msg/638.html#c8

[近代史4] ヒトラーの共産主義との戦い 中川隆
9. 中川隆[-13464] koaQ7Jey 2020年3月23日 20:58:26 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[1440]

ユダヤ陰謀論の無責任 (2014年12月、「時事評論石川」に「騎士」名義で寄稿)

イデオロギーを優先し、事実を無視した言論――。慰安婦報道の誤りで叩かれている大新聞の話ではない。元外交官が保守系出版社から最近出した本のことである。

元駐ウクライナ大使の馬渕睦夫は『「反日中韓」を操るのは、じつは同盟国・アメリカだった!』(ワック)で、手垢にまみれたユダヤ陰謀論を縷々述べる。持ち出される数々の「証拠」は、これまで陰謀論者によって散々繰り返されてきたものばかりである。

たとえば、ロシア革命の指導者の多くはユダヤ人であり、革命を資金支援したのも米英のユダヤ系金融機関だったと馬渕はいう。しかしロシアのユダヤ人の多くは共産主義者ではなく、穏健な立憲君主制支持者だったし、共産主義を支持するユダヤ人も、その多数はレーニン率いるボルシェヴィキ側ではなく、対立するメンシェヴィキ側だったので、ソ連政権下では生き残れなかった。

資金については、歴史学者アントニー・サットンが1974年の著書で、モルガン、ロックフェラーといった米国のアングロサクソン系金融財閥が支援していたことを公式文書にもとづいて明らかにし、ユダヤ人陰謀説を否定している。

また馬渕は、米国の中央銀行である連邦準備銀行について、連邦政府の機関ではなく100%の民間銀行だと述べる。たしかに各地の地区連銀はその株式を地元の民間銀行が保有し、形式上は民間銀行といえる。しかしその業務は政府によって厳しく規制されているし、利益の大半は国庫に納めなければならない。地区連銀を統括する連邦準備理事会になると、完全な政府機関である。

馬渕はニューヨーク連銀の株主一覧なるものを掲げ、主要な株主は欧州の金融財閥ロスチャイルド系の銀行だと解説する。そこにはたとえば「ロスチャイルド銀行(ベルリン)」が挙げられているが、ベルリンには昔も今も、ロスチャイルドの銀行は存在しない。ドイツではフランクフルトにあったが、それも米連銀が発足する以前の1901年に廃業している。

前防大教授でもある馬渕はこうした嘘を並べ立てたあげく、ユダヤ人の目的はグローバリズムによって人類を無国籍化することであり、日本はナショナリズムによってこれに対抗せよと主張する。規制や関税に守られ、消費者を犠牲にして不当な利益を得てきた事業者やその代弁者である政治家・官僚にとってまことに都合のよいイデオロギーである。

約二十年前、オウム真理教が国家転覆を企てたのは、ユダヤ陰謀論を信じ、その脅威に対抗するためだった。無責任な陰謀論は、新聞の誤報に劣らず、害悪を及ぼすのである。
http://libertypressjp.blogspot.com/2017/06/blog-post_95.html

http://www.asyura2.com/20/reki4/msg/638.html#c9

[近代史4] ヒトラーの共産主義との戦い 中川隆
10. 中川隆[-13463] koaQ7Jey 2020年3月23日 20:59:47 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[1441]

ユダヤ陰謀論については


馬渕睦夫のユダヤ陰謀論はどこまで本当なのか?
http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/212.html

ディープステートとは何か
http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/416.html

馬渕睦夫 世界を支配する者達が生み出した『中央銀行』という奇形
http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/558.html

チャンネル桜関係者とアホ右翼が信じている「日銀と通貨発行権」の誤解について
http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/848.html

日本の右翼のバイブル _ 偽ユダヤ人のモルデカイ・モーゼが書いた 日本人に謝りたい
http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/494.html

これがチャンネル桜関係者とアホ右翼が信じている「ユダヤ陰謀史観」
http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/505.html

http://www.asyura2.com/20/reki4/msg/638.html#c10

[近代史4] ヒトラーの共産主義との戦い 中川隆
11. 中川隆[-13462] koaQ7Jey 2020年3月23日 21:35:30 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[1442]

ユダヤ人の「リベラル」思想とはどういうものか?
http://www.asyura2.com/09/revival3/msg/922.html

ウインザー公とシンプソン夫人の恋 _ シンプソン夫人はナチスのスパイだった?
http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/441.html

ヴィクター・ロスチャイルドはナチス・ドイツと八百長戦争をして儲けるために、親ナチス派のエドワード八世に醜聞を仕掛けて排除した 
http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/772.html

馬渕睦夫 ウイルソン大統領とフランクリン・ルーズベルト大統領は世界を共産化しようとしていた
http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/145.html

欧米諸国はイルカの人道などには厳しいが、チベットやウイグルの人道には関心を持たない
http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/608.html

▲△▽▼

ドイツ人を変えたヒトラー奇跡の演説 _ ヨーロッパの戦い こうして始まった! 
http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/352.html

『ヒトラー思想』とは何か
http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/347.html

アメリカの極秘文書が伝える天才ヒトラーの意外な素顔
http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/207.html

天才ヒトラーは薬物中毒で破滅した
http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/361.html

アフター・ヒトラー
http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/405.html


▲△▽▼


ドイツとロシアにはさまれた国々において、ヒトラーとスターリンは 1933年〜1945年に1400万人を殺害した
http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/344.html

犠牲者100万?!ナチ傀儡『クロアチア独立国』のセルビア・ユダヤ・ロマ人大量虐殺の全貌
http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/345.html

狂気の戦時医学 ナチスの人体実験
http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/348.html

世紀の捏造? ”ガス室はなかった” は本当か?
http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/346.html


▲△▽▼


ドイツにもまともな軍人はいたけど _ カナリス提督 
http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/360.html

ロンメル将軍
http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/402.html

マンシュタイン元帥 
http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/403.html

パウルス元帥
http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/404.html
 
http://www.asyura2.com/20/reki4/msg/638.html#c11

[近代史4] ヒトラーの共産主義との戦い 中川隆
12. 中川隆[-13461] koaQ7Jey 2020年3月23日 21:38:29 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[1443]

昭和天皇はウォール街のエージェントだったので、共産主義者のルーズベルト大統領と対立して対米戦争を起こした
http://www.asyura2.com/20/reki4/msg/614.html
http://www.asyura2.com/20/reki4/msg/638.html#c12
[近代史4] ナチス時代のフルトヴェングラーは一体何を考えていたのか? 中川隆
1. 中川隆[-13460] koaQ7Jey 2020年3月23日 22:38:00 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[1444]

音楽と権力 −フルトヴェングラー1933〜1935年
三石善吉
https://www.tsukuba-g.ac.jp/library/kiyou/2001/1.MITSUISHI.pdf

外国者から「ナチ」と非難され、そのためか えってナチ要人達は彼を味方と考えてしま う。他方、フルトヴェングラー自身は自己の 安全を確保するためには、亡命者達の攻撃= 非難が必要であった。かくして、ナチスも亡 命者達も、それとは知らずに、彼の真の目的 (「ドイツ音楽の保全」)達成を助けていた。 その意味で、彼はどちらからも本当に信頼さ れない「二重スパイ」の役を演じていた。

「こうして彼は何年間も、気を張り詰め、ほ とんど耐えがたいほど神経をすり減らされる 懊悩の世界に生きていた。ここにおいて音楽 家は、たんなる政治家以上のものだった。彼 はいつなんどき正体を暴かれるやも知れぬ ‘二重スパイ’だったのである」(プリーベル ク、132頁)と。 確かにナチス要人達は、後に述べるように、 フルトヴェングラーを全面的に信用していた わけではなかったが、ともかく権力をもって 強制的に取り込んだと思っていた。他方、フ ルトヴェングラー自身は断固自己の芸術至上 主義に依拠してナチス体制に反逆していると 確信していた。トーマス・マンら亡命者達は、 本国の苛烈な画一化を体験する事無く、はる か異国の「桟敷席」にあって、フルトヴェン グラーをナチスだと決め付けた。かくてナチ ス首脳も亡命者達もフルトヴェングラーを 「贖罪の山羊」とすることで、それとは知ら ずに、フルトヴェングラーの真の目的を達成 させていたのである。それにしても、両陣営 の苛烈を極める「攻撃」を耐えぬいて、自己 の目的の達成をはかろうとするフルトヴェン グラーの強靱な精神力には、その間幾多の心 の動揺があったのであるが、驚くべきものが ある。 本論文は、このフルトヴェングラーのナチ ス政権への「抵抗」の様相を(そしてこの果 敢な「抵抗」にもかかわらず彼は周囲からは ナチスに屈伏したと見做されるに至ったわけ であるが)1933年1月から1935年4月までの2年間ほどに限定して、ヒンデミット事件を 契機とする音楽界からの辞任、そして復帰に 至るまでの時間に限定して、やや詳細にたど ることにする。


2.フルトヴェングラー略伝

さて、以下ではこの天才的音楽家・演奏家 の生涯を簡単にたどっておこう。 ヴィルヘルム・フルトヴェングラー (Wilhelm Furtwängler)は1886年1月25日、 ベルリンに考古学者アドルフ・フルトヴェン グラーの長男として生まれ、7才の時ミュン ヘンに転居(父がベルリン大学からミュンヘ ン大学考古学の教授に移ったため)、初め公 立学校に通ったが、父は学校を止めさせ、当 代一流の家庭教師を付けて極めて厳格な、19 世紀的な「天才教育」をほどこす。一般教科 はワルター・リーツラー(この時ミュンヘン 大学考古学助手、後ミュンヘン大学近代音楽 史教授)とルートヴィヒ・クルティウス(著 名な考古学者)がずっと担当した。音楽教育 は最初短期間アントン・ベーア=ヴァルブル ン(作曲家)が、次いで2年足らずの間ヨー ゼフ・ラインベルガー(著名な音楽教育家) が、その後13年間マックス・フォン・シリン グス(ミュンヘン大学卒、後プロイセン芸術 アカデミー総裁)が教えた。これらの教師か らフルトヴェングラーは保守的・ドイツ的で あること、祖国への義務感、無定見、優柔不 断、単純愚直といった性格を植え付けられ た。 ヴェルナー・テーリヒェン『フルトヴェン グラーかカラヤンか』(原書1978)には「そ の出身も教養も全く一九世紀の伝統に根ざし ていた」とある。それは上に述べた家庭教師 たちの影響によるπ。特に、後、熱烈なナチ ストになるマックス・フォン・シリングスに 13年間も師事したことは留意されてよい。フ ルトヴェングラーが基本的に保守的・「ドイツ的」、さらに言うならば「右翼的」思想を 持っていたことは、確認されて良いことであ る。 1906年10月、フルトヴェングラーはミュン ヘンのカイム管弦楽団の指揮者としてデビュ ーし、ブレスラウ、チューリヒで指揮した。 ところが1907年10月父がキリシャで客死し、 長男のフルトヴェングラーは無理遣りミュン ヘンに呼び戻され、指揮者として一家を支え ることになる。1907年〜09年ミュンヘンで指 揮、1911年リューベック・オペラの監督、 1915年マンハイム国立劇場の指揮等を経て、 1922年ライプチヒ・ゲバントハウス管弦楽団 とベルリン・フィルハーモニー管弦楽団の常 任指揮者となり、ドイツ最高の指揮者、世界 でも3、4人の大指揮者と認められる。1924 年ロンドンのロイヤル・フィルハーモニー、 1927年、ウィーン・フィルハーモニーの指揮 者、1927、28年とワイマル共和制下の憲法記 念祭で指揮した。1931年〜32年バイロイト音 楽祭の音楽監督となる。ところで彼がワイマ ル憲法記念祭に如何なる理由で指揮台に立っ たか、後のナチス期の思想と行動を知る手が かりになろう(後述) 。 1933年1月30日、ヒトラー政権が成立する。 1933年3月21日、春分の日、1871年ビスマル クが最初のドイツ国会を開いた由緒ある日、 62年を隔ててヒトラー連立政権の第1回国会 が開かれる日、この記念すべき日をゲッベル スは「国民総決起の日」と宣言し、盛り沢山 の記念行事を挙行した∫。フルトヴェングラ ーはこの日の夜、国立歌劇劇場で『マイスタ ー・ジンガー』を指揮した。 ナチスが政権を取ると、新聞には全てむっ とするような扇動的ムードや攻撃的命令口調 が氾濫して、ケストナーが言うように「ジャ ムつきパンまで」全体主義が沁みわたり、文 化全体がナチスの意のままに操られることに なった(ヴェスリンク、362頁)。トーマス・ マンは『日記』に「そのうえフルトヴェングラーは‘お上’から今日の喜びの日のために 命じられた《マイスターシンガー》を指揮し ている。従僕根性の卑屈な奴らだ」。この 「ポツダムの日」は、後の者からみれば確か に「第三帝国の創立記念日」ではあるが、そ の時・その状況に置かれた者からみれば、ワ イマル時代の連続に見えたとのプリーベルク の指摘(90頁)には留意すべきであろう。 フルトヴェングラーは1933年9月15日ゲー リングの強制でプロイセン枢密顧問官(1934 年12月5日まで) 、1933年11月15日には帝国 音楽院副総裁(1934年12月5日まで。総裁は 1935年7月13年までリヒャルト・シュトラウ ス)に就任する。(戦後、「非ナチ化委員会」 でこの就任が問題となった)。 1934年12月5日、フルトヴェングラーは、 以下に述べる「ヒンデミット事件」に憤慨し て、ゲッベルスとゲーリングに宛てて辞職願 いを提出し公職から退くが、1935年4月25日 には、熱狂した聴衆の大歓迎をうけつつ『エ グモント』・『田園』・『第五番』を指揮し てベルリン・フィルハーモニーに復帰した。 ところが、1938年9月30日、ゲーリングとロ ーゼンベルクに後押しされた、25歳の天才フ ォン・カラヤン(1933年4月8日と5月1日 に入党、党員番号1607525と3430914の二重登 録)が、国立歌劇場で《フィデリオ》を指揮 して、聴衆の圧倒的な称賛を得、以後ドイツ 音楽界はこの両派に真っ二つに分かれるので ある。ゲッベルスはフルトヴェングラーが 「われわれの最高の指揮者」と考えており、 カラヤンに対する過度の称賛を抑えさせた (プリーベルク、420、438頁)。1942年2月28 日、ゲッベルスは日記に「指揮者は民族的愛 国心でみなぎっている」「彼を手に入れるた めに何年も争ってやっと成功を手にした」 (プリーベルク、505頁)と書いたが、これは ゲッベルスの認識不足であって、フルトヴェ ングラーの戦い方が巧妙になったからにすぎ ない。1945年2月7日スイスに亡命、1946年12月17日「非ナチ化」裁判で無罪判決をうけ、 1947年5月25日ベルリン・フィルハーモニー を率いて戦後初のコンサートをベートーヴェ ン・プログラムで飾った。1954年11月30日 バーデンバーデンにて肺炎で没す。享年68 歳。


3.フルトヴェングラーの原点:「サー カス」と「芸術至上主義」 。

われわれはフルトヴェングラーをナチスへ の協力者ではなく、また「国内亡命者」でも なく、単なる「精神的抵抗者」や「良心的拒 否者」でもなく、ナチスへの最も勇気ある 「抵抗」を敢行した、卓越した「芸術家」と 考えている。さて、ナチス期におけるフルト ヴェングラーの生きざまを知るには、それ以 然のフルトヴェングラーを知らなければなら ない。そこで次には、彼の2つのエピソード を取り上げる。最初のエピソードは、「抵抗」 とは係わりはないが、彼の愛すべき「指揮ぶ り」の紹介、もう一つは彼の「指揮の思想」 つまり音楽と政治権力との関係を示すもので ある。 若きフルトヴェングラーの指揮の様子につ いて、リューベック時代(1911〜15年)のこ とであるが、「指揮台の上で髪振り乱し暴れ まくる」・「サーカス」のフルトヴェングラ ーについて次のような証言がある(ヴェスリ ンク、135頁) 。 彼の動きは…せかせかとせわしなく、時 にはめまぐるしいほどだった。なんとか 格好をとろうと絶えず四苦八苦している 男の、手の振り、足の踏みならし、その 他もろもろは、一見すると奇異にさえ思 える。あちらこちらから苦笑がもれた。 だが、ひとたびはっとさせられるや、リ ューベックの人々はこの大音楽家のなか に、ただならぬものを感じ取ったのであ る。…腕を風車のようにぶうんと回して振りおろし、物凄いしかめっ面をします。 足は足で勝手に動いているものだから、 全体を見ると、なにかバタバタ大暴れし ているみたいです。でも、耳に入ってく るものを聞くと、すべて赦し、忘れられ るのです。…フルトヴェングラーは回を 追うごとに成長し、わたしたちみんなを 魅了しています。彼の身振りも、今では 整然と明快になり始めました。ただ言葉 では表現しようのないのが、彼の左手で す。おいでおいでと手招きしたり、まあ まあと宥めたり、その指先はまるで蝶が 羽を震わせるように、かすかに震えてい ます。その上しばしば、この世のものと も思えぬ神々しい表情をします。心の内 面の光明に照らされているのでしょう。 この天才芸術家の与える感銘のもとで は、すっかり虜にさせられてしまいま す。 さて、ワイマル期、フルトヴェングラーは 自己の演奏=音楽と政治との関係をどう考え ていたのか。彼の「指揮」の「思想」を物語 る、興味ある一つのエピソードを示そう。 1927年夏、ドイツ政府、プロイセン州政府お よびベルリン市は8月11日の「憲法記念祭」 の前と後にベルリン・フィルを指揮してほし いとフルトヴェングラーに申し入れた。フル トヴェングラーはこの時41歳、すでにドイツ で最も著名な指揮者、「ドイツ音楽の法王」 とみなされていた。音楽はミランダ (miranda)としてその荘厳さ・秩序感などに よって、主催者に対する支持・信頼感を高め るだろう。共和国の政治家たちはそれをよく 心得ていて、「法王」フルトヴェングラーを ここで起用しようとしたのである。ところで ここで言う「憲法」とはもちろん「ワイマル 憲法」であり、社会民主党主導の下に制定さ れ、国民主権、民主主義の原理に立った、自 由権のみならず生存権の保証や国民投票とい う直接民主制、私企業の公有化の可能性などをも規定した極めて理想的な憲法であった。 しかもこの時、フルトヴェングラーのベルリ ン・フィルは運営費が捻出できず、政府と市 当局から助成金を受けていた。その政府・市 当局からの直接依頼である。 「音楽は政治と関係ない」と確信している フルトヴェングラーは、念のため、秘書を通 じてベルリン市会議員・ドイツ国家人民党の エミール・ベルントの意向を打診する。ベル ント夫人は「私の夫はフルトヴェングラー氏 と同意見で、芸術は政治と関わりがないと考 えております。ですからフルトヴェングラー 氏は憲法記念祭でなんの懸念もなく指揮をな される、との考えでおるわけです。そうした 行為が政治的な態度表明になることは決して ありません」と回答してきた。安心したフル トヴェングラーはこの日、ワグナー、シュー ベルト、ベートーヴェン、フーゴー・カウン の「故郷への祈り」を指揮した(プリーベル ク、63〜65頁)。フルトヴェングラーは次の 年(1928年)の憲法記念祭にも指揮台に立っ たが、ワイマル期の政治的行事に登場したの はこの2回だけであった。(政治色の強い) 「建国祭」などには自らは決して出場しなか った。 さて、この「憲法記念祭」に出場したフル トヴェングラーをわれわれはどう理解したら 良いであろうか。理想的憲法の記念祭だから 許されるのであろうか。「政治と芸術は無関 係」だから許されるのであろうか。政府から 補助金を受けている以上当然なのであろう か。もっと広く、国民の義務として国家から 要請があれば国家の行事に参与するのは当然 なのであろうか。そしてもし、この政府が自 分の主義・心情に反する政府であって、しか もこの時政府から補助金を受けていた場合、 果たしてこの依頼を断れるであろうか。以上 のような疑問を念頭に置きながら、われわれ はヒトラー政権出現後、フルトヴェングラー がこの政権に対していかなる思想と行動を取ったのか追跡してみることにしよう。時期と して、ヒトラー政権が成立して後の2年間ほ ど、「強制的画一化Gleichschaltung」が進行す るナチ政権の初期に焦点を合わせることにする。


4.ナチス政権の成立−仮借なき「画一化」の進行とドイツ国民の大量「転向」

ヒトラーが首相となった1933年1月30日も それ以降も、フルトヴェングラーのベルリ ン・フィルハーモニー管弦楽団はこれまでと 全く同じ多忙なプログラムに追いまくられ、 政治とはいささかの関係もない日々を送って いた。ヒトラーの権力獲得計画・「強制的画 一化」は首相に就任した1933年1月30日から 同7月14日の「新党結成禁止令」にいたる約 6ヵ月に完成するのであるが、ヨアヒム・フ ェストªは、1933年3月24日の「全権賦与法」 までを「権力掌握の第一段階」とし、その特 色を一方では共産党や社会民主党への徹底し た弾圧、他方では極めて「控え目な、市民的 身振り」・極めて露骨な「市民階級に対する 求愛」の時期と規定した。それ以降7月14日 までを「権力掌握の第二段階」とし、その特 色を言わば仮借なき画一化期としている。こ の6ヵ月間に起こった、ドイツの政治家やド イツ国民の、ナチスへの「全面的降伏」を理 解するには、政治的現象面のみならず、ドイ ツの人の精神的・心理的面をも考慮にいれな ければならないとフェストは主張している。 いま、フェストの記述に従って、この双方の 面から、特にこの第二段階の前後に焦点を合 わせて見ると次のようになる。 1933年3月5日の夜、総選挙の結果が判明 した。2月28日の国会放火事件を共産党の陰 謀として、これを非合法化した直後であり、 大勝利間違いなしとのナチス党の楽観的予想 が見事に外れて、ナチス党は絶対多数である全議席647の3分の2も取れなかった。獲得 議席288、得票率43.9%、友党の国家人民党 の52議席、得票率8%を加えても340議席、 3分の2の432議席に達しない。この時ドイ ツ市民階級の理性はまだ健全であったといえ る。しかし、ヒトラーは一方では突撃隊を使 って各州の政府を退陣に追込み、また共産党 員、社会民主党員やそのシンパを逮捕殺害し、 他方、3月13日ゲッベルスを民族啓蒙宣伝相 に任命し、壮麗なスペクタクルを演出させて 新政権のイメージを高めようとする。その極 め付きが、ゲッベルスの演出する3月21日の 「ポツダムの日」であった。フリートリヒ大 王の地下の墓地の上、ポツダムの守備隊教会 で行われた「国民総決起の日」の儀式……行 進する隊列の正確な秩序、花束を持って路傍 に立つ子供達、礼砲の発射、過去の輝かしい 戦争に参加した白髪の老兵の列、閲兵行進、 オルガン演奏、これは、ドイツ国民に圧倒的 感動的な印象を与えた。正午12時、ヒンデン ブルクはヒトラーと守備隊教会の階段で会っ て、握手をかわした。教会には皇太子と大統 領ヒンデンブルク、副首相パーペンや閣僚、 国会議員、突撃隊指導者、将軍達、外交官達 が出席していた。ヒンデンブルクの演説は短 く、「この霊廟の古き霊」が「自由で誇り高 いドイツ」を祝福してくれるようにと願った。 ヒトラー(47歳)も、ヒンデンブルク(68歳) に敬意を捧げた後に、荘厳に、「われわれ民 族の自由と偉大のために戦う人間」として神 の摂理を願った。 この「ポツダム感動喜劇」の締め括りが、 この日の夜、国立歌劇劇場で演ぜられたフル トヴェングラー(47歳、ヒトラーよりは9ヵ 月若い)の《マイスター・ジンンガー》であ った。劇場の貴賓席には首相ヒトラーとその 全閣僚が並び、突撃隊、親衛隊、大勢の各界 著名人、芸術家、学者、政治家も顔を見せて いた。第1幕が終わったところで、ヒトラー の「ご機嫌伺い」があった。ヒトラーはたった今終わったばかりの演奏について、あらん かぎりの賛辞を送った。「フルトヴェングラ ーさん、あなたはなんと素晴らしい、腕の確 かな音楽家なのでしょう。いったい世界中の どこに、これほど均質なアンサンブルがある でしょう。…わたしは誇らしい気持ちです。 どうかいつまでもこの誇りを、わたしに抱か せてください」と感動の涙さえ浮かべて語り、 フルトヴェングラーの顔も「興奮のあまり蒼 白」になっていたと歌手のボッケルマン(ナ チストである)は感動的に書き留めていた。 しかしフルトヴェングラーから見れば、この 日たまたまカゼのために「蒼白」に見えたに すぎなかったのだが(ヴェスリンク、365頁) 、 フルトヴェングラーの真意とは全く別に、ナ チス首脳たちの、観客達の面前での「見事な 演出」やナチス体制下の報道の在り方によっ て、フルトヴェングラーは次第に体制側に取 り込まれていくと見えた。 さて、この日(3月21日)の儀式を境に、 ドイツ国民の感情・心理面から見ると極めて 重要な事実が浮上してきた。ヒトラーを首班 とするナチス党は、今や、ヒンデンブルクを 戴く国粋的保守主義に完全に取り込まれ、無 害化したと見えた。フェストは書いている。 「この芝居の暗示的な効果から逃れ得た者は、 ほんの少数にすぎなかった。そして3月5日 にはまだヒトラーに反対票を投じた多くの 人々は、こうなってみると、自分の判断に明 らかに不安を持ちはじめた。いろいろな論拠 に物言わせるかぎりでは、まったく素知らぬ 顔をした多くの役人、将校、国粋的な考えを 抱く市民階級の人々が、ナチ体制によって国 民的感動を味わった瞬間にそれまでの不信を 一躑した」のである。つまり、いわゆる「3 月の投降者」の続出である。1933年1月30日 から入党制限の行われた5月1日までの、た った3ヵ月の間に、ナチス党員は85万人から 160万人に、突撃隊員は50万人から450万人 に膨れ上がった。いわゆる「中産階級」の投降現象が爆発的に発生したのである。このた め人々は2日後の3月24日の「全権賦与法」 がワイマル議会立法権の終焉とナチス一党独 裁の幕開けを告げているのを気付かなかった のである。こうして、フェストの言うヒトラ ー政権奪取の「第二段階」が始まる。 他方、政治的事件は極めて解りやすく進行 した。1933年3月24日、『フェルキッシャ ー・ベオバハター』紙が、「歴史的な日であ る。議会制度は新ドイツの前に屈した。ヒト ラーは4年間、必要と考えることを何でもす ることが出来るであろう。必要なこととは、 消極的にはマルクス主義のあらゆる破壊的な 力の根絶であり、積極的には、新しい民族共 同体の建設である」と宣言したその方向であ る。次の一連の措置を見ただけで、その意図 ははっきりする。つまり5月1日のメーデー を国民の祝日と定め、突撃隊と親衛隊が取り 仕切ってこれを乗っ取り、全ドイツの労働組 合を弾圧、そのリーダーを大量に逮捕した。 5月10日、社会民主党の全ての事務所、新聞、 財産を没収した。この日にはまた有名な「焚 書」が行われた。6月21日鉄兜団を禁止、6 月22日社会民主党を禁止、7月4日バイエル ン人民党を禁止、7月5日最後にカトリック 中央党を禁止、そして締め括りが7月14日の 「新党結成禁止令」である。この間、これと 平行して工業、商業、手工業、農業の諸利益 団体が強制的に画一化され、突撃隊による反 ユダヤ主義の暴力行為が荒れ狂いはじめた。 またヒトラー政権の閣僚も、当初首相ヒト ラー、内相フリック、無任所相ゲーリングの 3名だけであったナチス党員が、3月に新設 の民族啓蒙宣伝相にゲッベルスが入り、4月 には労働相ゼルテがナチス党に鞍替えし、6 月27日反ヒトラーの中心人物、経済相兼農相 フーゲンベルクが辞任に追い込まれ、6月29 日代わってナチス党のクルト・シュミットが 経済相に、同じくナチス党のヴァルター・ダ レーが食料農相に、さらに総統代理のルドルフ・ヘスが閣議に加わり、結局ナチス党は全 8名になった。「第一段階」ではまだ連立内 閣でヒトラーを押さえ込めるはずであった が、この「第二段階」ではナチス党8名に対 し、非ナチス党は副首相パーペン、外相ノイ ラート、蔵相クロージク、法相ギュルトナー、 国防相ブロンベルク、郵便兼運輸相リューベ ナハの6名である。5ヵ月の間にナチス対非 ナチスの比率が3対8から8対6に逆転し た。しかもすでにパーペン等にはヒトラーを 抑制する勇気はなく、ブロンベルクに至って は、ヒトラーの人をそらさぬ魅力にうつつを ぬかしている始末である。 こうして、フェストによれば、「疫病のよ うに蔓延していく合流の欲求に逆らう人の数 は目に見えて少なくなり、見る見るうちに孤 立して…不満と孤独な不快さを心のなかにし まいこんだ。古いものは死に、未来は現体制 のものであるようにおもわれた。…勝ち誇る もの特有の吸引作用が強い説得力を発揮し、 それに抵抗できる人間はほどんといなかっ た。たしかにテロと不法行為が気づかれぬま まに終わったのではない。しかし…ますます 多くの人々が、歴史をも事件をもわがものと したように見える連中の側についた。こうい う事情に幸いされて、ナチス体制は権力に引 き続き、人間をも手に入れることに着手した のである」。果たして権力はフルトヴェング ラーその人を「手に入れること」が出来るで あろうか。


5.「芸術のための芸術」と「政治の芸 術化」−1933年4月11日

「ポグロムpogrom」に似た、ナチス党底辺 の党員によるユダヤ人に対する残酷な敵対行 動は、早くも1933年3月中旬から始まりº、 直ちに音楽界にも波及する。ベルリン音楽大 学の教授グスタフ・ハーヴェマンはナチスの 政策に迎合して、1933年3月13日、ベルリン・フィルの経営首脳陣に対してユダヤ人楽 団員と秘書のガイスマール女史(ユダヤ系) との解雇を要求した。またこの月、強制的画 一化を実行するために特命委員ルドルフ・シ ュミチェク博士がフルトヴェングラーのもと に送り込まれてきた。ハーベマンの要求は通 らず、しかもこの特命委員がベルリン・フィ ルに理解を示してしまったので、今や自分が 「ドイツ音楽界の最高の仲裁者」と確信して いるフルトヴェングラーは、自己の芸術至上 主義の立場からきわめて大胆に政府とユダヤ 人の間を仲裁しようとする。 フルトヴェングラーはベルリン芸術週間の プログラムには、「ユダヤ人であろうとなか ろうと出演者の質は維持」したいと強く希望 していたが、1933年4月3日にはブルーノ・ ワルターとクレンペラーの演奏が中止とさ れ、フルトヴェングラーは「ひどく激昂して、 何か手を打たねば」と決意するΩが、結局、 優れたユダヤ系演奏家を欠いた芸術週間はお 粗末なものになってしまった。しかもその直 後、4月上旬のこと、アメリカの何人かの演 奏家がユダヤ人やマルクス主義者の演奏を中 止させたことでヒトラーを強く非難したが、 当局は4月6日に、この中止を正当なものと するとの通達を出した。フルトヴェングラー はこの通達を大いに不満として、この日の内 に、4月26日に予定されていたマンハイムで の演奏会を反ユダヤ主義の扇動が激しいとい う理由で断り、同時にゲッベルスに宛てて、 以下に示すような手紙を書いた。手紙は4月 7日に民族啓蒙宣伝相のもとに届いた。 フルトヴェングラーの真意は、新政権の反 ユダヤ主義政策が外国の新聞で非難されてい るのを絶好のチャンスと見て、ゲッベルスや 政府首脳にこの政策の緩和を迫るものであっ た。他方ゲッベルスは、フルトヴェングラー の意図を完全に見抜き、彼の手紙を利用して 国際世論を静め、国内世論をさらなる画一化 に導く絶好のチャンスと判断した。画一化を強行しようとする者とこれに抵抗しようとす る者との正面衝突である。ゲッベルスはフル トヴェングラーからその手紙の公開の許可を 得て、1933年4月11日の『フォス新聞』にフ ルトヴェングラーの手紙を、それに対する自 分の反論を同じ4月11日の『ベルリーナー・ ローカルアンツァイガー』紙に掲載させたの であるæ。 フルトヴェングラーの手紙は「拝啓 帝国 国務大臣どの ドイツの公的な場におけるわ たしの長年の活動と、ドイツ音楽に対するわ たしの内的きずなとにかんがみ、あえて音楽 界内部の不祥事について貴下のご注意を促し たいと思います」と書き出され、問題の核心 部分は以下の箇所である。 「わたしは究極のところ、ただ一つの境界 線しか認めません。すなわち、よい芸術か悪 い芸術かということです。ところが、当人の 政治的態度になんら非難すべきところがない 場合でも、ユダヤ人と非ユダヤ人の間に、理 論的に仮借なき厳格さで境界線が引かれてい るのに対し、われわれの音楽活動にとって長 い目で見れば極めて重要な、いや、決定的と 言ってもいいもう一つの境界線、つまりよい 芸術か悪い芸術か、があまりにもおざなりに されているのです」、それは「文化活動の利 益になりません」。 そして最後に、「わたしたちの闘いはあく まで根底のない、腐敗させ皮相化させる破壊 的な精神に対して行われるべきものであり、 断じて真の芸術家に……人がその芸術をどう 評価しようと、その流儀においてつねに形成 者であり、またそのようなものとして建設的 に活動している本当の芸術家に向けられるべ きものではありません。この意味においてわ たしは貴下に対し、あるいは取り返しのつか ぬかもしれない不祥事のおこらぬよう、ドイ ツ芸術の名において訴えるものであります」 と結ぶ。 これは明白な挑戦状である。つまり、もし「ユダヤ人芸術家の迫害という不祥事が起こ ったら、それはあなたの責任だ」と詰め寄り、 事のついでに、ナチズムを「根底のない、腐 敗させ皮相化させる破壊的な精神」と規定し、 「わたしたち」はそれに対して「闘うぞ」と 脅迫したのである。ゲッベルスはこの挑戦に どう応えたであろうか。 ゲッベルスの返事は「拝啓 音楽総監督ど の あなたのお手紙をもとに、わたしのほう からも、芸術一般やとりわけ音楽を生みだす ための生命力には、国家的制約を受けた、ド イツ固有なものがあるという考え方について ご説明できるのを、光栄に思います」と書き 出されている。さて、この長文の反論の核心 は次の部分にある。すなわち、「あなたが自 己を芸術家として感じ、ものごとを徹頭徹尾、 芸術家の見地からごらんになるのはあなたの 勝手です。しかしだからといって、今ドイツ で起こっている全体の進展に、あなたが非政 治的態度で臨んでよいということにはなりま せん。政治もまた芸術であり、おそらく最高 の、もっと包括的な芸術であります。芸術と 芸術家の使命とは、ただ単に結びあわせるだ けでなく、さらにそれを越えて形成し、形を 与え、病んだものを取り除き、健康なものに 道を拓いてやることなのです。したがってわ たしはドイツの芸術家として、あなたが認め ようとなさる境界線……つまりよい芸術か悪 い芸術か……だけを承認するというわけには まいりません。芸術はよくなくてはならない ばかりか、民族に適しているという条件をみ たしていなければならないのです」。 そして最後に、「本当に何事かをなすこと ができ、しかも芸術外におよぼすその作用が 国家、政治、社会の基本的な規範にふれない 芸術家であれば、過去において常にそうであ ったように、将来もわれわれのもとで、ごく 好意的に奨励され、支援されていくでしょう。 わたしはこの機会に貴殿、敬愛する音楽総監 督どのに、わたしの感謝の念を表明したいと思います。あなたは本当に教化的で、偉大で、 時によっては感動的な芸術のひとときを、こ のわたしに、多くの政治上の友人に、そして また何十万という善良なドイツ人に、たくさ ん用意してくださったのですから。あなたが わたしの見解に率直に耳を傾けてくださり、 ご理解を示してくだされば幸いです。あなた の忠実なるドクトル・ゲッベルスより」。 ゲッベルスはフルトヴェングラーの「芸術 至上主義」論を全く認めず、政治は「芸術」 しかも「最高の包括的な芸術」だと述べた。 「芸術のための芸術」も大変結構な話ではあ るが、芸術はより包括的である芸術つまり政 治に服するものだ、ナチスの規範から逸脱し ないかぎり大目にみてやるが、そうでない時 はしっかり「沈黙」を強制するぞと威嚇した のである。おまけにゲッベルスは、フルトヴ ェングラーがナチスの「根底のない、腐敗さ せ皮相化させる破壊的精神」と闘いますぞと 宣言したのに、わざと素知らぬふりをして、 「根底のない破壊的な、いかさまだの、味気 ない名人芸だのによって堕落した芸術式」と 意図的に読み替えて、それに対して「われわ れと共に闘う」のを歓迎するとやったのであ る。見事なすり替えではないか。 ゲッベルスはヒトラーからじきじきに厚く お礼を言われた。何日もの間、ゲッベルスは 地方の、中央の、ナチ迎合者達から絶賛を浴 び続けた。「畏れ多くも独裁政権の閣僚とも あろう人が、一介の芸術家に対し、口輪をは めて言論統制するのではなく、芸術や政治に ついて共に語り合っておられるのだ」と言う わけである。ゲッベルスは満足気にこのよう な称賛を独り占めにしたø。他方、フルトヴ ェングラーも全ドイツから「雪崩のような勢 いで次々と賛意を伝えてくる感謝の手紙」に 埋められた。「唯一あなただけが、ドイツに おける今日の文化生活の管財者たちと反対の 道をとる勇気をしめされました」と。フルト ヴェングラーは、かくして、自分が広範な賛同に支えられていること、自分の行動が正し かったことを知った。ナチスの強制的画一化 に反対する国民=一般大衆が大量に存在して いるのである。 さてどちらも己れの陣営から絶賛を浴びて 自信をもった。フルトヴェングラーはそこで ゲッベルスの忠告=威嚇を無視して、己れの 信ずるところに基づいて、少なくとも音楽の 分野でナチスの反ユダヤ主義政策を骨抜きに しようと決意する。1933年5月下旬の事であ る。ゲッベルスもフルトヴェングラーがその 絶大な影響力によって反ナチスの「結晶作用 の核」になり得ること、従っていかなる手段 を使ってでも、「この一匹狼、頑固一徹者を ナチスの側にひっぱりこむ」事こそ自分の腕 の見せ所と確信していた¿。ゲッベルスのラ イバル、ゲーリングは1933年5月、フルトヴ ェングラーをベルリン国立歌劇場の管弦楽団 の首席指揮者に任命して彼を取り込んだと見ていた。


6.フルトヴェングラーの抵抗−2段作 戦の第1段:ユダヤ人演奏家の招待

フルトヴェングラーはその決意を、2段構 えの作戦に練りあげる。彼がプロイセン枢密 顧問官や帝国音楽院の副総裁に就任するの も、この2段作戦の過程で転がり込んできた 偶然の副産物にすぎない。ならば、この2段 構えの作戦とはなにか。 第1段、反ユダヤ主義を実質的に無効にす るため、ユダヤ人演奏家をドイツに招き ベルリン・フィルと共演させる。 第2段、奇襲作戦とも言うべきもので、ヒ トラー総統に直接会見してベルリン・フ ィルの財政援助とユダヤ人芸術家の保護 を依頼する。 反ユダヤ主義こそナチス政権の根幹政策で ある。フルトヴェングラーはこのナチスの 「逆鱗」に芸術至上主義の立場から敢えて触れようとしている。しかも相手とするのは、 ナチス政権の下っ端役人ではなくて、この政 策を作り出した張本人達、ナチス政権の最高 首脳達、ヒトラー、ゲーリング、ゲッベルス に対して、この政策の緩和あるいは特例を認 めさせようというのである。他方、彼ら最高 首脳達のフルトヴェングラー包囲網は、ゲー リング(無任所相、1933年4月11日からパー ペンを継いでプロイセン州首相となってい る)、ゲッベルス(民族啓蒙宣伝相)、アルフ レート・ローゼンベルク(ドイツ文化闘争同 盟の指導者)の3つの機関が競合するかたち で、しかも同時平行的にこれを進行させてい た。この3重の包囲網を突破しようとする、 フルトヴェングラーの戦略に果たして成算は あるのか。以下ではこの間の状況をやや詳し く述べよう。 フルトヴェングラーはナチスのユダヤ人追 放政策のために優れた演奏家が確保できない 事を最も憂慮した。音楽活動の質的水準を保 つべく、フルトヴェングラーはプロイセン州 首脳や国家首脳に働き掛け、この問題を解決 しようとする。言うまでもなく、プロイセン 州の首相はゲーリングであり、プロイセン文 化省の大臣はルストである。1933年6月4日 フルトヴェングラーのルスト宛の要求案が出 来上がる。それは、 A政府は今後いかなる芸術家も人種や国籍 を問わずドイツで演奏出来る。 Bこれによって国際交流も好転しボイコッ トも無くなろう。 C音楽界の秩序を維持するため、公的に近 い監査委員会を設ける。 付帯文書として D1933年5月23日に解雇されたシェーンベ ルク復職の依頼(そのほか数名の救援依頼) も含んでいた。この要求書は6月8日ルスト のもとに届き、6月28日にはほぼフルトヴェ ングラーの、上記A、Bを含む、原案どうり の画期的な省令、「プロイセンのコンサート活動に関する省令」が出された。上に示した フルトヴェングラーの2段作戦の第1段の部 分に関して、この省令は次のように規定して いた(プリーベルク、143〜158頁) 。 共演アーチスト(ソリスト、歌手など) についても同様に、まず第一にドイツ人 アーチストを起用し、彼らにドイツの音 楽活動を担い維持してもらうよう招聘す ることを原則とする。しかしながら、音 楽においての他はあらゆる芸術と同じ く、能力がつねに決定的要因となるとい うことは強調しておかなければならな い。すなわち、能力主義に対しては、必 要とあれば他の観点は後回しにされると いうことである。本当の芸術家ならだれ もがドイツで活動し、その力量に応じて 正当な評価をうけることができなくては ならない。大臣により設置されたこの諮 問委員会は、将来プロイセン音楽活動の プログラム問題に関する唯一の決定機関 となるであろう。 いささか回りくどい表現であるが、フルト ヴェングラーの狙いである、能力ある芸術家 をドイツに招聘して演奏活動を行わせるとの 意図が見事に条文化されている。追放された 優れたユダヤ人演奏家は、この省令によって、 堂々とドイツで演奏できるはずである。これ こそナチスのユダヤ人排斥計画を、純芸術の 面から骨抜きにする爆弾であった。フルトヴ ェングラーは勇躍として、追放され亡命をは かった、優れたユダヤ人演奏家達に手紙を書 き、自分の主催する演奏会への参加を呼び掛 ける。もちろんこの1933年5月の時点で、す でに、ナチス官憲の検閲によって「信書の秘 密」は存在しない。マークされた、要注意人 物の私信の検閲は当然の事になっている。し たがって、フルトヴェングラーはナチスのユ ダヤ人政策を骨抜きにしようという自分の真 の意図を手紙に書けない。上記省令の新聞の 切り抜きを同封して、ただひたすら、自分の演奏会に共演してほしいと強く依頼するしか ない。こうして、6月末から7月末までフル トヴェングラーは精力的に手紙を書き続ける。


7.第2段作戦−奇襲作戦・ヒトラーと の直接会談、1933年8月9日夜

彼の第1段作戦は成功しただろうか。実は 見事に失敗したのである。優れた亡命演奏家 達は彼の計画の真意を見抜けず、全く話に乗 ってこなかったのである。7月18日の段階で、 フルトヴェングラーのこの画期的な・爆弾計 画はほぼ絶望的となった。がっかりしてしま ったフルトヴェングラーを勇気づけるため に、秘書のガイスマールと特命委員ルドル フ・シュミチェクは、フルトヴェングラーの 第2段階の作戦の実現を急ぐ。フルトヴェン グラーを監視するはずの特命委員は今や完全 にフルトヴェングラーの味方となり、フルト ヴェングラーの途方も無い反ナチス計画に協 力している¡。 丁度この時、プロイセン首相のゲーリング が電報で「貴下をプロイセン枢密顧問官に任 命する」と一方的に通告してきたのである¬。 このニュースは7月20日、新聞に公表された。 「音楽にまるで目のない」ゲーリングは自分 のライバル(ゲッベルス)よりも支配権を強 めようと、この顧問委員会をぶち上げ、フル トヴェングラーを取り込んだのである。他方 フルトヴェングラーは「発言力が強まる」と 考えてこれを受けた。どちらも自分の都合の 良いように理解したわけである。 フルトヴェングラー自身はその肩書きでど こまで「専門的助言」が可能なのか不明なま ま、直ちに、第2段階の作戦「奇襲作戦」に 取り掛かる。今やすっかり彼の右腕になって しまったシュミチェクを7月26日バイロイト に派遣する。そこに滞在するヒトラーと直接 会見をする段取りを取り付けるためである。

フルトヴェングラーは3条件からなる覚え書 きをシュミチェクに手渡した。それはAナチ スの非難攻撃を受けているプロイセン国立劇 場の総支配人ティーチェンの救済、Bベルリ ン・フィルの国家による財政的援助45万ライ ヒスマルクの依頼、C「音楽界におけるユダ ヤ人駆除方法」の3条件を記した覚え書きで ある(プリーベルク、178〜79頁) 。 上記のCの見出しだけを見れば、フルトヴ ェングラーはナチスに屈伏して「ユダヤ人駆 除」に同意したかのように見える。たしかに、 その提言には、ドイツにおけるユダヤ人排斥 は国外音楽界における広域なボイコットを招 いているので、「ユダヤ民族に対する闘争を、 正当なやり方で行うことが必要であります」 とあるが、すぐ続けて、 例えば 今日、カール・フレッシュのよ うなクラスのヴァイオリン教育者をドイ ツから追い出してしまうとすれば、物理 的な損失ばかりでなく、われわれが芸術 を問題にしていないという非難にさらな る根拠をあたえてしまうことにもなりま す。私はこの件が外交政策上きわめて重 大な意義をもつものと考えます。同様に また、作曲家アルノルト・シェーンベル クほどの人物の解雇に対する物理的弁済 が妥当なやり方でなされることも、外交 政策上の理由から必要なことと考える次 第であります。望ましくは、そうした特 別な事例が法律や官庁の所定の手続きの 枠外で、あるいは帝国首相どのご自身に より、その外交上の意義をご勘案のうえ 処理願えれば、と存じます。 これではどう見ても、ユダヤ人芸術家の 「駆除」ではなくて「保護」である。たしか に、これはフルトヴェングラー苦心の、レト リックを尽くした文章であった。彼は自分の 信念でありかつ持論であるところの芸術至上 主義の立場から、婉曲にかつ大胆にユダヤ人 芸術家追放政策の緩和あるいは特例を「帝国首相どのご自身」に求めたのである。ヒトラ ーはBの巨額な援助金に驚き、ゲッベルスに 「はっぱをかけた」が、ゲッベルスは直ぐに は動かない。もちろん一つにはフルトヴェン グラーを焦らすためであったが、もう一つ、 遠大な計画があったからである。他方、シュ ミチェクはバイロイトでなんとかフルトヴェ ングラーのためにヒトラーとの単独会見の約 束を取り付けた。フルトヴェングラーは1933 年8月9日17時にオーバーザルツブルク駅に つき、ヒトラーが休暇を過ごしているヴァッ ヘンフェルス館に車で向かった。フルトヴェ ングラーはヒトラーとの会見のために詳細な メモを準備して持っていった。この時の会見 の模様をこれまで何度も依拠してきた二人の フルトヴェングラー伝から引いてみよう。 まず、ベルント・ヴェスリンク『フルトヴ ェングラー』 (1985)から。 ヒトラーのオーク材作りのティーテーブ ルで、激論が闘わされた。どうやら話は 文化問題全般に及んでしまったらしい。 やっと最後に、二時間もたってから、ベ ルリン・フィルの窮状が話題にのぼっ た。ヒトラーは不承不承、今回にかぎり 財政を援助することに同意した。また当 面のあいだは、例の〈アーリア人条項〉 を楽団員に適用しない、とも約束した。 フルトヴェングラーはほっと胸をなでお ろして帰路に着いた(386頁) 。 次いで、フレート・プリーベルク『巨匠 フルトヴェングラー』(1986)から。 フルトヴェングラーは自分の考えを半分 も上奏することが出来なかった。相手は 彼をさえぎり、一人で勝手にしゃべりは じめてしまったのだ。フルトヴェングラ ーは、オープンに耳を傾けてもらえぬと 気づいたにちがいないが、それでも頑と して自説を主張した。語調はいやがうえ にも強まっていく。この口答えはヒトラ ーを攻撃的にしてしまい、彼は話の本題からそれて、大声で政治を弁じだすしま つである。合意に達するどころの騒ぎで はなくなってしまった。オーバーハウゼ ンからの帰途、ミュンヘンでフルトヴェ ングラーは自分の秘書に電話し、総統と いう人間がよく分かったから話はやめだ と報告した(203頁) 。 ヴェスリンクはヒトラーが譲歩したとみた。 プリーベルクは合意に達しなかったとみた。 しかし、奇襲作戦=ヒトラーとの単独会見は 全く別の面から効果を発揮することになっ た。ヒトラーはフルトヴェングラーと会見後、 バイロイトにいたゲッベルスを呼び付け、ベ ルリン・フィル再建に45万ライヒスマルクも かかることに驚き、「以前確かに大丈夫と請 け合ったではないか」とはっぱをかけたので ある。果たして、ゲッベルスはいかなる再建 案を用意したのであろうか。


8.フルトヴェングラーの屈伏か−1933 年11月15日、帝国音楽院副総裁となる

プリーベルクが分析したように、フルトヴ ェングラー自身は奇襲作戦が失敗したと考え ていた。そこで、再び第1段作戦に戻る。ま るで出演拒否の手紙など無かったのごとく に、フルトヴェングラーはペンを執り、出演 を依頼し、ユダヤ人芸術家の救済を精力的に 行ったりしたのである。フルトヴェングラー のこのような一連の行動は、ナチス側から見 れば、「彼がユダヤ人の味方をしていい気に なっている」(プリーベルク、263頁)と見え た。1933年8月18日ローゼンベルクの許に 「フルトヴェングラーが今でもユダヤ人芸術 家を優遇しており、とくに最近その傾向が顕 著であることは、芸術家たちのあいだでもっ ぱらの噂となっています」(プリーベルク、 207頁)という密告があったが、このての密 告はひきもきらなかったのである。しかし、フルトヴェングラーは全くわが道を行く。 1933年秋から34年にかけての演奏会では依 然、ユダヤ人演奏家を起用し、指揮について も北欧や日本(近衛秀麿)からも招き、プロ グラムには才能あるユダヤ人作曲家の名前 も、メンデルスゾーン(ユダヤ人)の『真夏 の夜の夢』も堂々と演奏した。これは極めて 挑発的な行為であった。 ゲーリングは1933年9月15日、新しく任命 したプロイセン枢密顧問官の就任式を大々的 に挙行し、フルトヴェングラーを己れの陣営 に取り込んだことを世界に知らしめた。他方、 ようやく楽団の財政問題も解決する。1933年 10月16日、ベルリン市長のドクトル・ザーム と宣伝省次官フンクとの間に会談がもたれ、 「ナチ党の息のかかった」15人の楽団員の解 雇(ユダヤ系楽団員はまだ解雇されていない) とベルリン・フィルを宣伝省の直轄する帝国 楽団とする事で財政問題は片がついたのであ る。しかしながらこれは、喜ぶべき事とは言 い難かった。それはゲッベルスの構想する文 化芸術の「強制的画一化」の一環としてであ ったからである。2ヶ月後の1933年11月15 日、「帝国文化院Reichskulturkammer」が宣伝 省の下部機関として発足し、映画、音楽、演 劇、マスコミ、著作、造形芸術、放送の七部 門に分かれ、音楽部門には「帝国音楽院 Reichsmusikkammer」が置かれた。ゲッベル スは本人の意向を打診する事無く、この日 「帝国音楽院」の総裁にリヒヤルト・シュト ラウスを、副総裁にフルトヴェングラーを任 命したのである。こうして全ての文化芸術は 人も組織も含めて全てゲッベルスの手に落ち たかに見えた。 フルトヴェングラーは一体なぜ、副総裁の 地位を受けたのか。戦後になって、フルトヴ ェングラーはクルト・リースにこう語った。 「そのような、ある程度公的基盤に立ってい たほうが、私人としてより自分の意見をとお せると、当時思っていたからです。あの頃のドイツでは、よくこんなふうに信じられてい ました。まっとうな人達がみんな臆病に責任 を回避してしまったら、ナチスがのさばり放 題になってしますと」。リヒャルト・シュト ラウスも、シュテファン・ツヴァイクへの手 紙に「私は総裁の職をいろんな困った事態を 防ごうと思ったから引き受けたのです」と書 いていた√。われわれはここで、リヒャル ト・シュトラウスやフルトヴェングラーが 「帝国音楽院」を引き受けた事を全く非難し ない。彼らは動機は異なれ、その地位からす る影響力の行使に期待していたからである。


9.ヒンデミット事件勃発1934年11月 25日−フルトヴェングラーの勝利か

次にわれわれはフルトヴェングラーがナチ ス首脳達と完全に対立し、国立歌劇場の管弦 楽団の首席指揮者=オペラ監督、音楽院副総 裁ƒ、ベルリン・フィルの常任指揮者という 公の職務を辞任するにいたった事件を取り上 げなければならない。いわゆる「ヒンデミッ ト事件」であるが、これこそフルトヴェング ラーの芸術至上主義的抵抗の勝利を物語るも のである。 1934年3月12日、フルトヴェングラーはヒ ンデミットの交響曲『画家マチス』を指揮し た。きわめて好評であった。しかし同年10月 になると事態は急変した。ナチスの機関紙が 一斉に「堕落の旗手」ヒンデミットを非難し 始めたのである。フルトヴェングラーはヒン デミットへの誹謗が根拠のないものである事 を明らかにしようと、ヒンデミットを救済す る反論を書き、『ドイチェ・アルゲマイネ・ ツァイトゥンク』に送った。新聞社からの問 い合わせに対し、フルトヴェングラーは「自 分がどんな危険を冒しているかはよく承知し ている。自分にとって重要なのはヒンデミッ トと新音楽だけでなく、芸術家としての個人 の自由なのだ」と答えた(プリーベルク、250〜53頁)。こうして1934年11月25日(日 曜)の『ドイチェ・アルゲマイネ・ツァイト ゥンク』紙の第1面にフルトヴェングラーの 「ヒンデミット事件」という論文がのった。 ここでフルトヴェングラーは、ヒンデミット とユダヤ人とはいささかも関係がないこと、 彼の作品はドイツ的であること、彼は一度も 政治的に活動したことがないこと、にもかか わらず、その彼を攻撃しドイツから追い出そ うとしているが、「ヒンデミットのようなす ぐれた音楽家をあっさりあきらめてしまうよ うなことは決してしてはならないのである」 と文を結んだ。≈ 「当時にすれば信じがたいほどに大胆な論 文」(ヴェスリンク、406頁)を載せたこの日 の新聞は直ちに売りきれ、3度も増刷された。 「早く行って、今日の『ドイチェ・アルゲマ イネ・ツァイトゥンク』を買い給え」が挨拶 がわりになった∆。この論文はモスクワ、ニ ューヨーク、パリ、東京などの何十という新 聞に掲載された。 翌日、月曜日(11月26日)、フィルハーモ ニーの総試演があった。フルトヴェングラー が指揮台に上がると、聴衆は一斉に立ち上が り、拍手や歓声は20分あまりも続いた。人々 は芸術の独立と国家の暴政への反抗の勇気を 褒めたたえたと考えられる。 この同じ月曜日、ローゼンベルクは激怒してヒトラーを訪ねた。ヒトラーは予定されて いたフルトヴェングラーとの会見を取り消し て、全ての新聞は直ちに反抗的な枢密顧問官 に対して攻撃を開始せよと命じた(プリーベ ルク、254頁)。ナチス系の新聞は一斉に「わ れわれが克服したと信じていた反動的風潮が ……ふたたびのさばり始めた」と激しい論調 で一方的に非難した。しかし、いくつかの新 聞は両陣営の言い分を並べて客観的に(つま り反ナチス的にという事である−三石)報道 した。諸外国の新聞はフルトヴェングラーを 擁護した。ドイツ国内でも勇気ある新聞、『ドイチェ・ツークンフト』1934年12月2日 号は「あたかも新鮮な一陣の風のように、こ れらの言葉は最近の不愉快な出来事を吹き飛 ばしてくれる。……意気揚々と希望に満ちて、 われわれはこの未来に向かって歩み続けるの だ」と書いた(プリーベルク、258頁) 。 この記事の出た12月2日(日曜日)の夜 (プリーベルク、258頁)、フルトヴェングラ ーは国立歌劇場で《トリスタンとイゾルデ》 を指揮した。ゲーリングもゲッベルスも姿を 見せていた。切符は完全に売り切れとなった。 フルトヴェングラーがオーケストラ・ピット に現れたとたん、聴衆は総立ちとなり、何時 止むとも知れない歓呼の嵐が劇場を圧倒し た。すばらしい演奏が終わると、カーテン・ コールは、なんと、40分間も続いたのである。 ゲーリングもゲッベルスもこの拍手が一体何 を意味するのか当然理解した。怒りにわれを 忘れたゲーリングは、ヒトラーにフルトヴェ ングラーは政府の権威を失墜させていると告 げた(ヴェスリンク、406頁)。


10.フルトヴェングラーの辞任1934年12 月4日。ただし亡命せず。

フルトヴェングラーは、(1934年)11月25 日以降の事件の展開にいささか慌てた。彼は 問題が芸術の問題から政治問題に発展してし まったことを理解した。そこで12月1日、彼 はゲーリングと会談し、あらゆる政治的官職 から退きたいと申し出た。つまり政治と音楽 は別と考えているから、政治的な役職を辞め ればよい、演奏はこれまでどうり続けるとい う意味である。ゲーリングは何もそこまでし なくても良かろうと慰留した。12月3日午後、 ヒトラー、ゲーリング会談があり、ゲーリン グはヒトラーを押さえ、フルトヴェングラー が個人的に謝罪すれば現職にとどまっていて 良い、謝罪の期限は翌日の正午と決定した。 しかし、同日夕方6時、ヒトラー、ゲーリングにゲッベスルが加わった3者会談で、条件 は一気に厳しくなった。ヒトラーは「この気 難しい男を徹底的に打ちのめそうと」して、 フルトヴェングラーの「生き甲斐である」楽 団を取り上げてしまう腹だった。それにゲッ ベルスが乗り、ゲーリングを押さえた。事態 の急変を知らないフルトヴェングラーは、あ っさりと、「どうぞ解任してください」と言 った。その直後、初めてフルトヴェングラー はゲーリングから音楽上の職こそが処分の対 象になっていることを知って愕然とする。政 治と音楽は截然と分けられないのであった。 約束の期限12月4日正午、事態を知ったフル トヴェングラーの苦渋に満ちた2通の辞表が 届けられた。一つはゲッベルス宛にベルリ ン・フィルーモニー管弦楽団の首席指揮者お よび帝国音楽院の副総裁としての、もう一通 はゲーリング宛てに国立歌劇場の音楽監督と しての辞表である。翌日の12月5日ゲッベル スは辞表を正式に受理した。 ベルント・ヴェスリンクはゲッベルスの 「もしフルトヴェングラーがなんとしても辞 職する決意なら(つまり謝罪しないのならの 意−三石)、おれはあいつを完全に破滅させ てやる」という言葉を引き、フルトヴェング ラーはこの挑戦を受けて立ったと論じた (407頁)。フルトヴェングラー自身、大きな 誤算があり、そんなに威勢のいいものではな かったが、行き掛かり上ゲッベルスの挑戦を 受けて立った形になった。 翌日、12月6日、ゲッベルスは、芸術は国 家の道徳的、社会的、国家的原理と結びつい たものでなくてはならない、フルトヴェング ラーの世界観の逸脱を若気の至りと片付ける わけにはいかぬと非難した。同じ日、ローゼ ンベルクは、ヒンデミット=フルトヴェング ラー事件は、「自由主義的19世紀の世界観と 国家社会主義的20世紀の世界観」との対立で あり、ヒンデミットが「ドイツ音楽の悪質き わまる低俗化」を行っている以上、彼を締め出すのは当然であると論じた。ところが、4 日後の12月10日、後任人事にいき悩んだゲ ーリングは、全く逆に「客演指揮者として貴 殿を私の歌劇場にお迎えできるかもしれぬと の希望を抱いております」とフルトヴェング ラーの翻意をうながす有名な手紙を書き送っ た(プリーベルク、261頁)。他方ゲッベルス はフルトヴェングラーにさらに追い打ちをか けた。辞任から「何週間後」、ゲッベルスは フルトヴェングラーを呼び付け、取り上げた 彼のパスポートを返しながら、「フルトヴェ ングラーさん、亡命されるもご自由です。そ の代わり二度とドイツの土を踏むことは許さ れません。ご承知のとうり、私たちが打ち樹 てたのは千年王国なのですから」と«。もし 亡命したら、お前が死んでも(千年の間!) ドイツの土は踏ませぬぞと威嚇したのであ る。 この時フルトヴェングラーは何故亡命しな かったのであろうか。亡命する政治的理由は 沢山あった。外国でも報酬の良い活動場所は 沢山あった。フルトヴェングラー自身早くも 12月10日にはすでにミュンヘン、チューリヒ、 ジェノバ、アレクサンドリアという亡命ルー トを確認している。フレート・プリーベルク は彼が最終的に亡命を断念したのは「心理的 理由」に因ろうと推測している。つまりフル トヴェングラーの考える音楽芸術は徹底的に 「ドイツ的なもの」であり、彼はここドイツ に根を下ろし、ここを馴染み深い・ふるさと の・我が家であり、どうしても棄てがたいと 言う強い意識を持っていた。ゲッベルス=ヒ トラーが外国旅行を禁止し、彼のパスポート を取り上げたことも、その心理を強めたろう。 「何週間後」にゲッベルスが嫌味たっぷりに パスポートを返してくれて、もし亡命したら 二度とドイツの土を踏ませぬぞと脅迫した時 には、彼の亡命の意志はすでに凋んでいたと (プリーベルク、270〜75頁)。このプリーベ ルクの見解は説得力がある。彼の言う、「馴染み深い・ふるさとの・我が家」に「根づい てる」という感情、つまり「ドイツ的である こと」こそ、フルトヴェングラーがここドイ ツに、ここドイツにおいてのみ、われわれの 言う「安らぎ=オーティウムotium」に満ち た「アルカディーア(歌の共同体)」を見い だしている事を示している。フルトヴェング ラーはこの「アルカディーアArkadia」なる根 拠地をしっかりと守って、魂を売り渡さない。 芸術至上主義の立場をしっかり堅持して、ナ チス最高首脳の脅迫に耐えている。 フルトヴェングラーの辞職はいかなる反響 を巻きおこしたであろうか。プリーベルクに 拠れば、外国の新聞は一斉にナチス政権を非 難し、数多くのポスト提供の手紙が舞い込ん だ。フルトヴェングラーの演奏会の定期会員 が続々と会員券の解約をはじめ、ほぼ30万ラ イヒスマルクに及び、フルトヴェングラーを 応援する手紙が山のように届いた。ベルリン のシャルロッテンブルク音楽大学ではフルト ヴェングラー復職を請願する署名集めまで行 われたという。通説によれば、ナチスの強制 的画一化は1933年7月14日の「新党結成禁止 令」で完成するとされているが、フルトヴェ ングラーを支えるこれら市民の行動は、明ら かにドイツ国内でのナチス政権に反対する 「良心的拒絶conscientious refusal」の行動であ る。つまり、この1934年12月に至ってもまだ、 多くのドイツ市民が「強制的画一化」を決然 と、しかし静かに拒否していることを示して いる。ドイツ市民階級の「理性」はまだ滅び てはいなかったのである。 一番窮地に追い込まれたのがゲッベルスと ローゼンベルクである。フルトヴェングラー の偉大さが赤字30ライヒスマルクという数字 にはっきり現れてしまった。この数字はフル トヴェングラーの年俸のほぼ8年分に当たる 巨額である。彼らは、早くも12月始め、以前 フルトヴェングラーをあれほど罵ったことを 綺麗に忘れ、今や厚かましくも彼に「飴」を差し出す。1935年1月4日、ローゼンベルク は「純粋で自然に成長していき、自由と法、 感情と形態がその中で結合した新しい音楽に 対しては、必ず反響が起こるであろう。ヴィ ルヘルム・フルトヴェングラーが、国家社会 主義のドイツにおける彼の役割を、義務と必 要条件と認識するなら、彼も指揮者として将 来この反響をあてにすることができよう」と 述べて、転向するなら受け入れてやると先ず 懐柔策を示し、続けて次にはもちろん「鞭」 をもって、「ドイツ芸術の清浄化は、まだ始 まったばかりだ。ドイツ音楽界は優れた天分 で溢れているから、いわゆる一連の国際的著 名人が欠落しても、わが国の音楽文化は全体 的地位に何ら影響を及ぼさない」と言い、た とえフルトヴェングラーらが居なくてもやっ ていけるぞ、と強がってみせたのである。し かし、フルトヴェングラー辞任にともなう諸 外国からの非難に加えて、市民の演奏会ボイ コットを受けてベルリン・フィルの赤字は目 を覆うものがあった。 1935年2月28日ついに民族啓蒙宣伝相のゲ ッベルスはフルトヴェングラーとの会談を許 可した。2人の間に際どい話が続いた。ゲッ ベルスは何時ドイツを離れてもいいと脅か す。フルトヴェングラーは、全く正直に、栄 誉と理念が傷つけられなければ亡命しないと 語る。すかさずゲッベスルは、ヒトラーに対 する服従宣言を行えと圧力をかける。フルト ヴェングラーはきっぱりとそれを拒否し、自 分を政治宣伝に利用しないことを条件に帝国 音楽界に復帰すると約束する(プリーベルク、 304頁)。果たしてこの約束はナチス政権への 屈服=降伏だろうか。作家のうちで一体誰が、 公然とヒトラーへの忠誠宣言を拒否し、自分 の名誉と信念が守られれば、国内にとどまっ てやると言えたであろうか。


11.フルトヴェングラーの復帰1935年4月25日−援軍に囲まれた「抵抗者」

とまれ、こうして、1935年3月1日の新聞 にはフルトヴェングラー自身の、復帰の弁明 文が掲載された。ヒンデミットに関するフル トヴェングラー自身による、1934年11月25 日の新聞の文章は、「音楽の専門家として、 音楽の立場から音楽問題を取り扱うという目 的で書いたにすぎない。……とくにこのコメ ントによる帝国芸術政策の指導へ介入する意 図は全くなかったと」報道された(プリーベ ルク、305頁)。翌日の3月2日、トーマス・ マンは日記に「フルトヴェングラーの屈伏、 お情けで拾い上げられる。聴衆からも受け入 れられるのか」と書き付けた»。マンの反応 はドイツ国内で進行している苛烈な画一化の 過程を経験していない、いささか観念的な非 難ではあるまいか。 さて、しかし、新聞にそのように報道され たからといって、フルトヴェングラーの復帰 がすんなりと実行されたわけではない。ゲッ ベルスは不満であり、ローゼンベルクは3月 5日、フルトヴェングラーが依然「国民社会 主義組織を批判する政治的な攻撃に対し謝 罪」していないと非難した。ローゼンベルク の非難は当たっていた。フルトヴェングラー は自分が正しくナチスの文化政策が間違って いると確信しているから謝罪などするはずが ない。 フルトヴェングラーの復帰問題は、しかし ながら、諸外国との関係で早急に結論を出さ なければならなくなる。つまり、ベルリン・ フィルは、この年(1935年)ウィーン、ブダ ペスト、ロンドン、パリで演奏することをす でに年間契約で決定していた。もしフルトヴ ェングラーが復帰できず、それらの地で演奏 ができなかった場合、損害賠償は誰が支払う のであろうか。契約破棄の責任は誰がとるの であろうか。フルトヴェングラーはそれは国 家=ナチス政権が支払い、かつ責任をとるべ きだと判断した。4月4日フルトヴェングラ ーはヒトラーに手紙を出した。「私は私人として、法的に言えば、私から結んだ契約を撤 回することはできません。この場合において 私がとる唯一の方法として、不可抗力のせい にすることが貴方の意志ですか、そして政府 は外国に対してこれらの措置に対して完全な 責任(税制的と当然道徳的にも)を追うおつ もりですか、それとも私が結んだ契約を守っ てもよいでしょうか」(プリーベルク、307 頁) 。 フルトヴェングラーの復帰問題はゲッベル ス、ゲーリング、ローゼンベルク、そしてヒ トラーというナチス最高首脳を巻き込んで振 りまわした。4月9日、フルトヴェングラー とローゼンベルクの秘密会談が持たれた。こ の会議の模様は、プリーベルクによれば、ロ ーゼンベルクは依然上に述べたフルトヴェン グラーの「国家社会主義組織を批判する政治 的攻撃」にこだわり、どうしても謝罪させよ うとしたらしい。フルトヴェングラーはなん とか言を左右して回避しようとしたが、外国 との演奏契約も迫っており、結局渋々これを 認めたようである。その翌日4月10日、ヒト ラー・フルトヴェングラー会談が持たれた。 この会議の模様も余りはっきりしないが、と もかく、ヒトラーはフルトヴェングラーの復 帰を認めた。 さてこのヒンデミット事件を契機にフルト ヴェングラーは、1934年12月5日から音楽界 を去っていたが、それからほぼ5ヶ月後の 1935年4月25日(木曜日)に、初めて正式に 公衆の前で指揮をした。この間の事情を知ら ない多くの人々は二つの見解に分かれた。一 つは、結局フルトヴェングラーは権力に屈伏 したと見た。他の見解は全く逆にフルトヴェ ングラーが政治的に勝利したと見た。トーマ ス・マンは3月2日、すでに見たように、ナ チスに「屈伏」したフルトヴェングラーは聴 衆からも見離されるだろうと予言した。果た して聴衆は、ドイツ市民は、フルトヴェング ラーの復帰にどう反応したであろうか。

4月25日、フルトヴェングラーは復帰後の 第一声をベートーヴェン・プログラムで飾っ た。『エグモント序曲』、『田園』 、 『第五番』で ある。この日のコンサートは大事件だった。 午後7時には聴衆がフィルハーモニー・ホー ルに次々と集まり始めた。車寄せには車が引 きも切らずに往復した。全席完全に売り切れ た。午後8時、フルトヴェングラーが到着す ると、「熱狂した群衆の最初の大歓迎を受け た。通路でもホールの中でも、人々は興奮に わきたっていた。ヨーロッパじゅうのあらゆ る言語が飛び交う。刻一刻とすぎていく。や がて控え室のドアから指揮者が出てくると、 指揮台へむかった。ほとんどヒステリックな ほどの喝采が、この馴れ親しんだ風貌を迎え る。突如として雷が落ちたかのように大きな どよめきが起こった。フルトヴェングラーが 指揮台にあがったのだ。その喝采たるや、筆 舌には尽くしがたい。ある者は盛んな拍手を おくり、ある者は座席をドンドン叩く。歓声 の声は、いつ果てるとも知れなかった。一度 ならず、フルトヴェングラーは、振り上げた 指揮棒をふたたび降ろさなくてはならなかっ た」(ヴェスリンク、413頁)。曲の合間にも 嵐のような拍手が沸き起こった。長い休憩の 間、聴衆はこの指揮者を花で埋め尽くした。 演奏会が終わった後でも、ファンの熱狂のど よめきが30分も続いた。出席したローゼンベ ルク、フンク、ベルリン市長ザーム、フリッ クらは、この熱狂が反ナチス的な政治的デモ ンストレーションに他ならないことをはっき りと感じ取った(ヒトラーにも招待状が出さ れたが、所用があって出られなかった)。 8日後の5月3日、フルトヴェングラーは 聴衆の要望に応えて、再度、ベートーヴェ ン・プログラムを指揮した。聴衆の熱狂ぶり は前回と全く同じである。ただ、いささか違 っていたとすれば、前回出席できなかったヒ トラー、ゲーリングとその夫人、ゲッベルス もその最前列に出席していたことである。ヒンデミット=フルトヴェングラー事件の直接 の当事者がこうして全員揃った。彼らもフル トヴェングラーに対する熱狂的歓迎を、その 恐るべき政治的デモンストレーション振りを つぶさに味わった。しかも、フルトヴェング ラーは控え室から指揮棒を右手に持って振り ながら指揮台に上がった。ところどころで上 がる「ハイル・ヒトラー」の声を全く無視し て、大歓声に謝意を示しながら、直ぐにオー ケストラに向き直った。つまりフルトヴェン グラーはヒトラーの前でヒトラーを黙殺し、 無視し、「ハイル・ヒトラー」の「ドイツ式 挨拶」をしなかった。指揮棒を右手に持ち、 振りながら登場すれば、右手で敬礼はできな い。それこそ、彼が転向しなかったことを全 会場の、全聴衆に、そしてヒトラー、ゲッベ ルス、ゲーリングにはっきりと示した彼の芸 術的な非転向宣言であった。ヒトラーはこの 侮辱に耐えて、笑顔を返した。のみならず終 演の拍手喝采のとき、わざわざ指揮台に歩み 寄り、握手をし、バラの花束を手渡した。こ の瞬間はもちろんカメラに納められ、その写 真は広く公表され、フルトヴェングラーがナ チスに「屈伏」した証拠と理解された(プリ ーベルク、310頁) 。 「名曲の名演奏は、束の間であるにせよ私 たちの気分を盛り上げ、いっさいの煩わしさ から解放し、ショウペンハウアーがこの体験 について述べたように‘すべての苦悩から完 全に’逃れさせてくれるのだ」…と言う説が ある。だが、果たして、名演奏を聴くことで、 人々は「ほんの少しの間、安らぎの領域へ逃 避」し、「生きる苦しみから解放される」の であろうか(156頁)。あるいはまた、ナチス 政権のドイツ国民は「安らぎ」や「慰め」を 与える文芸作品を読むことで現実から「逃避」 し、束の間の安らぎを求めたのであろうか。 フルトヴェングラーの名演奏を聴くことで、 「安らぎ」の世界に逃避し、抵抗力を失い、 ナチスを支持するようになるのであろうか。

精神医学者のアンソニー・ストーはそうで はないと断言する。優れた演奏のわれわれに 与える「安らぎ」は「逃避」の感情ではなく て、「もっと遠くまで跳ぶためにあとずさり する」事だという。彼は述べている。「私た ちが音楽を演奏したり、うっとりするような 演奏を聴くとき、一時的に外から刺激が入っ てくることから守られる。そのとき、私たち は世間から隔絶した特殊な世界、秩序が支配 していて不調和は閉め出されている世界には いりこむのである。本来、これは有益なもの である。それは退行の現れではなく‘もっと 遠くまで跳ぶためあとずさりする’、つまり 心の内で再び調整しなおすプロセスを促す一 時的退却であって、外界からの逃げ道を用意 するのではなく適応を助けることになる。… …情緒的に不安定な人や精神に傷害のある人 の生活に生きがいを与える」ことになるのだ と(168、170頁)。つまり、フルトヴェング ラーの音楽は、画一化を拒否する、心ある一 般国民に「安らぎ」・「慰め」を与え、かつ、 さらなる・静かな勇気を持ってこの悪魔の支 配する帝国内に生き抜く力を与えたのであ る。 ナチス政権下でのフルトヴェングラーの演 奏はナチスに協力するものであったのではな い。フルトヴェングラーの演奏はドイツ国民 に「安らぎ」と「諦観」を与え、ナチス承認 に人々をいざなったものでもない。全く逆に、 上記復帰の日の観衆の反応が示すように、 人々の反ナチスの心情を鋭く喚起させたので ある。ナチスが権力を掌握して以降、フルト ベングラーは芸術と政治とは無関係であると 確信し、芸術至上主義の立場から事あるごと に権力に「抵抗」し、ヒトラーやゲッベルス やゲーリングを困らせ、激怒させてきた。ヒ ンデミット事件はほんのその一例にすぎな い。ドイツの良識ある市民たち、彼の良き聴 衆たちは彼のそのような抵抗精神を敏感に感 じ取っていた。彼の演奏会での熱狂はそのことを極めて雄弁に物語っていた。「強制的画 一化」を拒否するドイツ良識派の「良心的拒 否」である。フルトヴェングラーはナチスへ の協力者であるどころか、ナチスにとっては 獅子身中の虫であった。そのことを誰も理解 できず、プリーベルクがいみじくも「二重ス パイ」と呼んだような事態が発生し、トーマ ス・マンは日記に彼を「屈伏」したと書き付 けたのである。これこそ「二重スパイ」(!) の悲劇でなくてなんであろうか。 フルトヴェングラーは何故かくも強靱にナ チス権力に抵抗し得たのであろうか。繰り返 し言えば、彼がもっとも単純明快な芸術至上 市主義の立場に立っていたからである。「芸 術は政治と無関係」という立場こそが、ナチ スの強制的画一化に抵抗し得る最も強力な武 器となったのである。もちろん今日われわれ 国民国家に生存する者にとって、芸術と政治 とは無関係だと言い難い事は知っている。ゲ ッベルスが力をこめて主張した「政治の芸術 化」とはそのことを指している。政治が舞台 上の芸術として観客を動員し感銘させること に、つまり異なった見解の「統合」にその本 質がある以上、たしかに政治は「最高の、も っと包括的な芸術」なのである。しかし、に もかかわらず、ナチス体制という全体主義的 国家体制下にあっては、むしろ、この芸術至 上主義の信念こそが政治的「統合(=画一化) 」 の枠を突き破る「抵抗力」の源泉となったの である。フルトヴェングラーの聴衆が彼の演 奏に共感を示したのも、その感情を共有する ものであった。彼ら聴衆はフルトヴェングラ ーの行動を知り、彼の権力への「異議申し立 て」を感じ取り、彼の演奏に思想的に共鳴し、 演奏会に出ることでみずからの精神的抵抗の 姿勢を表明したのである。フルトヴェングラ ー夫人が「戦時の演奏会は異常な緊張をはら んでいました。そしてこの緊張は強まる一方 でした。聴衆の大半は、こういう言葉を使っ てよろしければ、同志の方がたでした……フルトヴェングラーの演奏会に足を運んだのは 抵抗の立場に立った人たち」でした(166頁) と語ったのはその証拠である。クルト・リー スも、「ヒットラー時代にフルトヴェングラ ーの演奏会に行き、溺れる者が命からがら陸 地に泳ぎつくように、この演奏会に救いを見 いだした人々の意思表明であった」(270頁) と語っている。


〈注〉
(注1)フレート・プリーベルク『巨匠フルトヴェングラ ー ナチ時代の音楽闘争』香川檀・市原和子訳、音楽 の友社、1991(原書1986) 、17〜21頁。本書は緻密な 資料分析に特色があり新事実が発掘されている。以下 本文中では頁数のみ示す。

(注2)ベルント・ヴェスリンク『フルトヴェングラー 足跡−不滅の巨匠』香川檀訳、音楽の友社、1986(原 書1985) 、82〜87頁。本書はフルトヴェングラーの生 家、幼少年時代も含めた詳細な伝記に特色がある。以 下本文中では頁数のみ示す。ヴェルナー・テーリヒェ ン『フルトヴェングラーかカラヤンか』高辻知義訳、 音楽の友社、1988、8頁。

(注3)ヨアヒム・フェスト『ヒトラー』¿、赤羽竜夫・ 関楠生・永井清彦・鈴木満訳、河出書房新社、1975 (原書1973) 、29頁。

(注4)以下フェストからの引用は、上掲書『ヒトラー』 ¿ 、26〜 42頁を参照。なおゲッベルスの ‘Reichsminister für Volksaufklärung und Propaganda’は 「民族啓蒙宣伝省」「国民啓発宣伝省」の訳がある。ク ルト・リース『ゲッベルス−ヒトラー帝国の演出者』 西城信訳、図書出版社、1971、111頁。当時の雰囲気 からすれば、「民族啓蒙」の訳がよい。

(注5)H - J・デッシャー『水晶の夜 ナチ第三帝国にお けるユダヤ人迫害』小岸昭訳、人文書院、1990(原書 1988) 、21〜23頁。

(注6)クルト・リース『フルトヴェングラー 音楽と政 治』八木浩・芦津丈夫訳、みすず書房、1966(原書 1953) 、76頁。

(注7)二人の文章はヴェスリンク、368頁以下。脇圭平・芦津丈夫『フルトヴェングラー』(岩波新書、1984、 25頁以下)にこの間の事情が簡潔に述べられている。

(注8)プリーベルク、上掲書、101頁。以下のフルトヴェ ングラーへの賛辞もプリーベルク、上掲書、106頁参 照。

(注9)プリーベルク、上掲書、124頁。下文のゲーリング の打った手についても、プリーベルク、上掲書、130 頁。

(注10)プリーベルク、上掲書、172〜174、284頁。シュ ミチェクは、フルトヴェングラー協力のかどで、1934 年12月22日事務長の職を馘になった。謎の人物でプ リーベルクも追跡不能であったようである。

(注11)クルト・リース『フルトヴェングラー 音楽と政 治』八木浩・芦津丈夫訳、みすず書房、1966(原書 1953) 、95〜96頁。プロイセン枢密顧問官法。1933年 7月8日成立。首相の任命する50名以下の人々(第2条)、名誉職、鉄道乗車はただ、月に1000マルクの 給与、正式任命は7月20日、開会式は9月15日。こ の枢密顧問官就任について、戦後フルトヴェングラー はクルト・リースになぜ顧問官に就いたのかと聞か れ、「私はこれが何を意味するものなのかまるでわか らなかった」 (95頁)と答えている。任命直後にはそ うであったろうが、彼は直ちに「専門的助言」を行い 得るものとして、過大ながら、その機能を理解した。

(注12)『リヒャルト・シュトラウス』安益泰・八木浩、音楽の友社、1988(原書1964)頁104。なおフルトヴェ ングラーが、なぜ、帝国音楽院の副総裁を引き受けた かについては、クルト・リース、上掲書、95頁、およ びヴェスリンク、上掲書、390頁参照。

(注13)国立歌劇場管弦楽団主席指揮者の職は、1934年1 月16日、プロイセン首相ゲーリングとの間に契約が 結ばれ、期限は向こう5年間、年俸は3600ライヒス マルクである。またプロイセン枢密顧問官の年俸は 6000ライヒスマルクであった。

(注14)ヴェスリンク、上掲書、402頁、およびフルトヴェ ングラー『音と言葉』芦津丈夫訳、白水社、1979(原 書1954) 、97頁以下に全文収録。

(注15)エリザベート・フルトヴェングラー『回想のフル トヴェングラー』仙北谷晃一訳、白水社、1982(原書 1979)、頁157。なお当時の『朝日新聞』 、 『毎日新聞』 に当たってみたがフルトヴェングラーに関する記事は 発見できなかった(待再捜) 。

(注16)エリザベート・フルトヴェングラー、上掲書、158 頁。

(注17)『トーマス・マン 日記1935〜1936』森川俊夫訳、 紀伊国屋書店、1988、頁75。 (注18)アンソニー・ストー『音楽する精神 人はなぜ音 楽を聞くのか?』佐藤由紀・大沢忠雄・黒川孝文訳、 白揚社、1995年、頁155。本文中の括弧内の数字は本書の頁数である
https://www.tsukuba-g.ac.jp/library/kiyou/2001/1.MITSUISHI.pdf

http://www.asyura2.com/20/reki4/msg/639.html#c1

[近代史4] ナチス時代のフルトヴェングラーは一体何を考えていたのか? 中川隆
2. 中川隆[-13459] koaQ7Jey 2020年3月23日 22:40:50 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[1445]

ヒンデミット事件


ヒンデミット事件(Der Fall Hindemith)は、1934年のドイツ楽壇で起こった政治的な作曲家排斥事件と、それに伴って「ドイツ一般新聞」(ドイッチェ・アルゲマイネ・ツァイトゥング Deutsche Allgemeine Zeitung)に掲載された指揮者ヴィルヘルム・フルトヴェングラーの新聞投稿のタイトルである。

事件の経過

1934年当時、ドイツは国家社会主義ドイツ労働者党(ナチス)の一党支配下にあり、強制的同一化政策が推し進められつつあった。その頃、世界に冠たる名門オーケストラベルリン・フィルハーモニー管弦楽団とベルリン国立歌劇場の音楽監督の地位にあったヴィルヘルム・フルトヴェングラーは、当時のドイツの新進作曲家であったパウル・ヒンデミットの新作オペラで画家のマティアス・グリューネヴァルトを題材にした『画家マティス』の初演の準備を進めるとともに、そのオペラの音楽素材を用いて作曲された交響曲『画家マティス』を同年3月12日にベルリンのフィルハーモニーホールで初演した。

演奏会は大成功で、ベルリン・フィルハーモニー管弦楽団の団員の多くも、次のシーズンにこの曲をプログラミングすることに大賛成だった。しかし、ヒンデミットは当時の帝国音楽院の顧問であり、シャルロッテンブルク音楽大学の教授であったが、ユダヤ人音楽家と弦楽三重奏を組んでレコーディングしたりするなど、ナチスにとっては目の上のたんこぶとも言うべき人物だった。アドルフ・ヒトラーはヒンデミットの歌劇『その日のニュース』において女声歌手のヌードシーンがあることを快く思っておらず、ヒンデミットに対して厳しい措置を取ることにし、フルトヴェングラーがベルリン国立歌劇場で初演しようとしていた歌劇『画家マティス』は上演禁止を通達された。

フルトヴェングラーはこれに怒り、ヒンデミットを擁護するために辞任も辞さない構えをとり、さらに11月25日、「ドイツ一般新聞」に「ヒンデミット事件」と題する論評を載せた。

その論評(全文がフルトヴェングラーの著書『音と言葉』に収録されている)の中でフルトヴェングラーは、ヒンデミットを排斥しようとする動きを根拠のない言いがかりと断じ、ヒンデミットは現代ドイツの音楽において必要不可欠な人物であり、これを容易に切り捨てることは、いかなる理由があろうとも許されるべきではない、と強力にヒンデミットを擁護した。

この論評はドイツ国内外でセンセーションを起こし、ベルリンのフィルハーモニーホールや国立歌劇場ではフルトヴェングラー支持のデモンストレーションが起こっていた。

ナチス政府の宣伝相であったヨーゼフ・ゲッベルスはこの事態に対し、断固たる対抗措置を取ることにした。フルトヴェングラーは(以前から彼自身が望んでいたことでもあったが)帝国枢密顧問官を辞任させられ、さらにベルリン・フィル及びベルリン国立歌劇場の監督をも辞任させられた。ベルリン・スポーツ宮殿では、名指しではないにせよ、「無調の騒音製造者」に対して攻撃的な講演会が行われ、ナチス寄りの新聞は一斉にヒンデミットとフルトヴェングラーを批判した。

ヒンデミットは帝国音楽院の顧問を辞し、音楽大学の教授職を休職した上でトルコに渡った。この事態を受けてベルリン国立歌劇場の第一楽長の地位にあった指揮者のエーリヒ・クライバーも亡命した。

フルトヴェングラー辞任後、ベルリン・フィルハーモニーの技量は落ち込み、また世界的な指揮者フルトヴェングラーがドイツ楽壇の表舞台から去ったことによるイメージダウンを恐れたナチスがフルトヴェングラーに歩み寄りを見せ、1935年3月に両者は和解し、フルトヴェングラーは指揮台に復帰することになる。

しかし、これでフルトヴェングラーはナチスに忠誠を誓ったわけではなく(もっとも、国際社会はフルトヴェングラーがナチスに屈服したとみなした)、内外でナチスに対して反抗的な態度をとり、ユダヤ人の亡命をも手助けしたりしたので、戦争末期には彼に個人的恨みを抱くハインリヒ・ヒムラー率いるゲシュタポに命を狙われ、結局はスイスに亡命することになる。

参考文献

『指揮台の神々―世紀の大指揮者列伝』ルーペルト・シェトレ著、喜多尾道冬訳(2003年音楽之友社)
『音と言葉 《新装版》』ヴィルヘルム・フルトヴェングラー著、芦津丈夫訳(1996年白水社)
『カラヤンとフルトヴェングラー』中川右介著、(2007年幻冬舎〈幻冬舎新書〉) ISBN 9784344980211

https://ja.wikipedia.org/wiki/ヒンデミット事件
http://www.asyura2.com/20/reki4/msg/639.html#c2

[近代史4] ナチス時代のフルトヴェングラーは一体何を考えていたのか? 中川隆
3. 中川隆[-13458] koaQ7Jey 2020年3月23日 22:43:03 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[1446]

前代未聞・空前絶後の大指揮者フルトヴェングラーとは何であったのか?


芸術というものは、「切れ目」があるもの。音はつながっていても、その流れの中に明確な「切れ目」がある。だって、そもそも芸術作品というものは、創作する人間に神の言葉が降り降りたから、永遠に残る作品になったわけでしょ?

その瞬間は、人間の発想の「流れ」は、切れますよ。

逆に言うと、だら〜とつながっている「流れ」を持つ作品は、たとえ音に切れ目があっても、人間の思考の範疇にあるわけ。

以前にマルグリット・デュラスの「インディア・ソング」を考えた際に触れましたが、「最適化とまり」の作品と言えるわけ。そんな作品は、「夜明け」に到達できないnormalな量産品ですよ。


最適化の作業を超えた神の声。そんな瞬間には、時間の流れが止まってしまうもの。

だから、「切れ目」が発生することになる。音がつながっていても、「流れ」が切れるわけ。


もちろん、音楽作品において、そんな「切れ目」があれば、音が一端切れることもありますし、音楽の音色の変化となるケースもありますし、テンポが変わるパターンもある。音楽の表情の変化には色々なパターンがあるもの。

しかし、音楽を聞いていて「ああ!この箇所で、単に音が変化したのではなく、世界が変わったなぁ・・・」と思うこともあるでしょ?

表現された「世界の切れ目」は、現実的には、音楽の流れにおいても切れ目となる。だから、音楽の切れ目に注目すれば、表現された「世界の変化」あるいは、その作品に現れた創造者の声も、見えてくる。日頃から創造的な日々を送っていれば、そんな「切れ目」に対する反応が鋭くなるわけですし、ルーティーンな日々を送っていれば、明確な切れ目があっても、見過ごしてしまう。


今回取り上げるのは、音楽映画「フルトヴェングラー その生涯の秘密」と言うもの。
芸術的な映画と言うより、記録映画に近い映画です。この映画を元に、フルトヴェングラーという人を考えて見たいと思っているわけ。

フルトヴェングラーと言う人は、第2次大戦を挟んでベルリン・フィルの指揮者だった人でした。1954年にお亡くなりになっています。没後50年以上経っているのに、今でも崇拝者はいたりしますよね?

フルトヴェングラーは当代随一の大指揮者であったとともに、作曲も、しました。

第2次大戦という困難な時代に、よりにもよって、ベルリン・フィルの指揮者だったため、ナチとの関係が色々と指摘されることになる。その映画でも、そんなシーンが出てきます。ナチとの関係は、後で考えてみます。とりあえず、ここで考えてみるのは、切れ目の問題です。


実は、このDVDの解説が、結構面白い。日本の音楽関係者さんが解説をなさっておられるようですが・・・

「切れ目」への反応が・・・何と言うか・・・うーん・・・と言わざるを得ないもの。

実は、このDVDの終わりの方に、第2次大戦の終結前にフルトヴェングラーがワーグナーの「マイスタージンガー」の前奏曲を指揮するシーンがあります。フルトヴェングラーとオーケストラはコンサート会場(と言っても体育館かな?)で演奏している。そこにはナチのカギ十字の旗が掛かっている。軍需工場の慰問の意味もあるのかな?

そして映画では聴衆が映っているわけです。フルトヴェングラーとオーケストラの演奏シーンがあって、聴衆が真剣に聞いている映像が流れて、そしてまた演奏シーンがあって、そして、聴衆のシーン・・・と繰り返される。映っている聴衆は、実に、真剣な、表情。

DVDの解説では、「スゴイ演奏だ!だから、聴衆がこんなにも真剣に聞いている!」なんて書かれていますが、読んだ私はその言葉にビックリ。

映像を見れば疑問に思うはずですが、フルトヴェングラーとオーケストラによる演奏シーンと、真剣に聞く聴衆のシーンって、同時に収録したものなの?

聴衆のシーンは別撮りじゃないの?
そして、後で編集したのでは?

同時収録の聴衆もいるでしょうが、全部が全部同時収録なの?

映っている聴衆に当たっている光の具合って、実際のコンサート会場ではありえない場合がある。それに聴衆と演奏家が一緒に映っているシーンがほとんどない。聴衆の映像に、音楽が流れるだけ。それに、フルトヴェングラーのコンサートなのに、それに特に正装している服装ではないのに、まあ、映っている聴衆の周囲がスカスカで、一人しか映っていない場合もある。安い席なら、もっと聴衆を詰め込むでしょ?ただでさえ希望者が多いんだから・・・


真剣な表情で音楽に聞き入っている聴衆の姿って・・・まあ、演技のプロなら当然ですよ。そもそも当時のドイツは純然たる独裁国家。そのイベントを収録した映像に映っている人物が、まるっきりのカタギと言うわけには行かないでしょ?

それこそ今だったら、北朝鮮政府が映した映像で映っている「一般国民」が、どんな素性の「一般国民」なのか?ちょっと考えればわかるはず。それに当然のこととして、当時のカメラは巨大なもの。ゴダールの「勝手にしやがれ」のように手持ちカメラでの撮影と言うわけにはいかない。自分の目の前にそんな巨大なカメラがあったら、落ち着いて演奏を聞くどころではないでしょ?

そして、当然のこととして、相当の光を当てないと、当時の感度の低いフィルムには収められませんよ。映っている「聴衆」にも、相当の光が当たっていたはず。それに、当時の政治体制を考えれば、聴衆だって「ミスは許されない」状態。こりゃ、「真剣」にもなりますよ。命が掛かっているもん。


「一般の聴衆が、こんなに真剣な表情で!」
・・・なんて・・・素直ないい子だねぇ・・・


何も私はその「解説」を失笑しているわけではありませんヨ。シーンの切れ目に対する反応の鈍さについて考えているだけです。

演奏シーンがあって、聴衆のシーンへと続く・・・

その「切れ目」に何があり、どんな意図があったのか?

日頃から創造的なことをやっている人だったら、そんな切れ目を見逃すはずはないんですね。逆に言うとルーティーンな日々を送っている人は、そのような「切れ目」に反応することは難しいんでしょう。これはしょうがない。日本の音楽現場と言うものは創造現場とは距離があるんでしょうね。

創造的な瞬間、人間の思考が途切れる絶対的な瞬間・・・

そんな瞬間とは無縁なんでしょう。申し分のない立派な市民と言えるんでしょうが、芸術家とは言えませんね。まあ、その「解説」は切れ目への反応の鈍さの実例。逆に、切れ目への反応の鋭さの実例というと、実は、このDVDで典型的な箇所があります。

映画に登場しているドイツの音楽研究者さんがフルトヴェングラーが演奏したバッハのブランデンブルク協奏曲の第5番について考えている箇所。その演奏が持つ切れ目がすばらしい。

フルトヴェングラー指揮による、バッハのブランデンブルク協奏曲・・・そんな組み合わせの方に、21世紀に生きる我々は失笑してしまう・・・そんなものでは?

フルトヴェングラーが活動していた時代から、バッハの演奏スタイルは大きく変わってしまいましたからね。実際に、この演奏でもチェンバロではなくピアノが鳴り響く。現代的と言うか、古いというか・・・

しかし、これがまたビックリするくらいに面白い。単に、古楽器による演奏に馴れた我々の耳に、逆に新鮮に響く、と言うものではなく、音楽の「切れ目」が生きている。

音楽の切れ目から、神からの霊感そのものが、鮮やかに浮かび上がる。

「ああ!ここでバッハに、神から霊感があったんだなぁ・・・」って、誰だってわかるのでは?

私はその「切れ目」の部分で、魂が身体からスーと抜けて行く感じがしたくらい。演奏スタイルが古いとか正統的とかの議論よりも、創作者に降り降りた神の言葉を再現することの方が重要でしょ?

フルトヴェングラーの演奏を聞いていると、その切れ目から、まさに「神の言葉」が聞こえてくる。創造的な音楽は、音楽の流れの中に、たまたま切れ目があるのではなく、切れ目をつなぐために、メロディーがある、むしろそっちのスタイルに近いもの。

それこそフルトヴェングラー指揮の有名なバイロイトでのベートーヴェンの第9交響曲の演奏ですが、あの「歓喜に寄す」のメロディーが、「入ってくる」その切れ目のすばらしさ・・・

それは誰だって認めるでしょ?全体が問題ではなく、切れ目が問題と言えるのでは?

神は切れ目に宿るわけ。切れ目への鋭い反応。そしてそれを再現する技量。フルトヴェングラーが、確かに、当代随一の指揮者であったのも、よくわかりますよ。

さて、前にも書きましたが、このフルトヴェングラーは、ナチとの関係が色々と指摘されたりします。多くの芸術家がドイツを後にしたのに、ドイツ国内に留まった。もちろん、彼もナチに対して抗議の声を上げたのだけど、どうも「あいまい」な態度。あるいは、このDVDに登場する画家のココシュカの言い方をすると、「とまどう」態度。

駆け出しの演奏家ならいざ知らず、指揮者としては当代随一の人だったんだから、生活の問題はないはず。心情的にはナチにシンパシーを持っていたのでは?

そんな指摘が、ナチの蛮行が本格化する前から、フルトヴェングラーに寄せられていたわけ。それに対し、

「音楽は政治とは関係ない!」

「私はドイツ音楽に忠誠を誓っているのであって、ナチに忠誠を誓っているのではないんだ!」

「ドイツ音楽を守るためにも、ドイツに残る。」


彼はそのような発言をしたわけ。「芸術と政治は関係ない!」という主張は、別の言い方をすると、「政治と芸術の間には切れ目がある。」と言う主張とも言えるでしょう。

その主張はともかく、もっと明確な態度でもよかっただろうし、取ることもできたのでは?

政治と関係ないと積極的に思うのなら、政治的な場所から切れて、積極的に距離を置けばいいだけ。ただ、その動乱の時代の当事者でない部外者が、もっともらしくコメントしても意味がない。

ただ、ナチとの関係が「あいまい」であったとは言えるでしょう。だって、他の多くの音楽家は、もっと明確な態度で臨んだわけですし、そのような断固とした態度をフルトヴェングラーに勧めた人も大勢いた。つまりフルトヴェングラーには他の選択肢を知っていて、その選択の可能性もあったわけ。

いっそのこと、ナチに忠誠を誓っても、それは個人の政治信条の問題。ナチに反対して、さっさと亡命して、他の国から「ナチからの解放」を呼びかけるのも、立派な態度。フルトヴェングラーは、「あいまい」なんですね。

しかし、フルトヴェングラーの「あいまいさ」って、ナチとの関係だけではない。音楽家にとって、もっと重要な問題においても、実にあいまい。

音楽家であることはいいとして、演奏家なのか?作曲家なのか?

その問題と真摯に向き合ったりはしない。

「ボクは本当は作曲家なんだ!」

なんて言うのはいいとして、実際に作曲をするわけではない。作曲する時間があっても、何とかして逃げ出そうとする。第1次大戦において、それこそ若いフルトヴェングラーは率先して兵役に付こうとしたらしい・・・

せっかく、徴兵検査で不合格になったのに・・・志願するなんて・・・

愛するドイツのため・・・は、いいとして、そのドイツの芸術を発展させることの方が、創作活動をする者の重要な仕事でしょ?

「ベートーヴェンやブラームスを産んだ祖国を守る!」

なんてお題目はいいとして、だったら、なおのこと自分が作曲することでベートーヴェンやブラームス以上の作品を残した方が祖国ドイツにとっても価値があるのでは?


フルトヴェングラーは、作曲の時間ができると、何かに首を突っ込んで、その作曲できる時間をつぶしてしまう。そんなことの繰り返し。その点は、ナチとの「あいまい」な関係で非難された作曲家のR.シュトラウスとは全然違っている。

シュトラウスは、要は自分が作曲できて、自分の作品が上演されれば、それでいい・・・と、割り切っている。ナチに対しても、いつの時代にも存在する、単なる「よくある障害物」くらいの認識。気に入らないヤツらだけど、明確には敵にする必要はない・・・それよりも、アイツらを、うまく使ってやれ!

シュトラウスはナチとはあいまいであっても、音楽活動に対しては、実に明確なんですね。シュトラウスが取ったこのような態度は、分野は違っていますが、ロケット開発のフォン・ブラウンとも共通しています。

自分が本当にやりたいことがわかっているものの発想。これこそが天才というものですよ。それに対しフルトヴェングラーは、「あいまい」な態度ということでは首尾一貫している。ナチともあいまい。作曲活動もあいまい。

あるいは、フルトヴェングラーのライヴァル関係であったトスカニーニとの関係もあいまい。トスカニーニを嫌いなら嫌いでいいわけですが、「敵にしたくない!」「嫌われたくない!」あるいは、「嫌ってはいけない!」なんて心情が見えてくる。

いつだって誰に対してだって判断保留の状態。

トスカニーニにして見れば、フルトヴェングラーは、指揮者としては偉大。政治的には無能。友人とはいえない。と明確。トスカニーニだって他の指揮者についての評価や関係についてウジウジ考えているヒマなんてありませんよ。どうせ共演するわけでもないし・・・割り切って前に進むしかないでしょ?

フルトヴェングラーの行動なり発言を読んでいると、「で、アンタ・・・いったいどうしたいの?」なんて思ってしまう。

フルトヴェングラーに対するトスカニーニなり、F.ブッシュの怒りも、そのあたりなのでは?

もちろん、「芸術と政治は関係ない!」という正論は正論。現実は、そんなものじゃないけど・・・

しかし、「芸術は政治とは関係ない」と言う理屈はいいとして、そうなると、芸術作品に対する理解ってどうなるの?

そう思いませんか?

だって、ナチの活動なんて、共感できないのはいいとして、考える価値のあるものですよ。たとえば、ナチの活動を見ながら、「愛を断念することによって、世界の支配をもくろむ」アルベリヒを連想しなかったのかな?

復讐だけがそのアイデンティティとなったハーゲンを連想しないのかな?

好人物であるがゆえに利用されたグンターと、ヒンデンブルク大統領の相似性を考えなかったのかな?

というか、悪企みの「弾除け」にされた好人物グンターの役回りを、フルトヴェングラーはどう思ったのだろう?

ヒンデンブルク大統領とは別に、この役回りを見事に演じた人が、まさに、いたわけでしょ?

フルトヴェングラーはグンターのことを「自分の背景で悪企みが進行しているのに気がつかないなんて・・・バッカだなぁ・・・コイツ!」なんて思ったのかな?

ナチは自分たちのことをジークフリートに例えていたのでしょうが、むしろアルベリヒやハーゲンにそっくりですよ。そして、最後のカタストロフも、オペラのまま。


ヒトラーと初めて会って話をしたフルトヴェングラーは、ヒトラーのことを「取るに足らない人物」と評したそう。そんな単純な見解って、人に対する洞察力が、いちじるしく劣ると言うことでしょ?

だって、その直前に、フルトヴェングラーは、ジークフリート・ワーグナーの未亡人でありバイロイトでの覇権を目指すヴィニフレート・ワーグナーと衝突しました。

ヴィニフレートは音楽について、明確な知識もない人間なのに、指揮者に色々と指図して、フルトヴェングラーは「もう、やっとれんわいっ!」とブチ切れたわけ。

バイロイトの主人として、バイロイトを盛り立てる・・・その意欲は意欲としていいのですが、音楽面でフルトヴェングラーに指図してもしょうがないでしょ?


しかし、コンプレックスの強い人間ほど、そんな無用な指図をやりたがるもの。それだけ自分を実態以上に「大きく」みせようとするわけ。そして自分自身から逃避したいわけ。そんなヴィニフレードとの衝突の後で、ヒトラーと会談して、ヒトラーとヴィニフレートとのメンタル的な共通性を感じなかったのかな?


芸術の分野も、政治の分野も、その主体は人間でしょ?

その間には明確な「切れ目」なんて無いんですね。芸術作品に登場する人物の心理を理解できても、実際の人間のキャラクターはまったく理解できないって、やっぱりヘン。
実際の人間も、オペラなどでの描かれている人間も、似たキャラクターの場合って多いものでしょ?


この点について、実に笑える話があります。第2次大戦の終結の後、ナチとの関係を理由に裁判にかけられるフルトヴェングラー。その証人として、とあるオペラ歌手が出てきたそう。そのオペラ歌手は、フルトヴェングラーとナチとの関係について、ウソ八百ならべて、フルトヴェングラーを陥れようとしたらしい・・・

しかし、そのオペラ歌手には、フルトヴェングラーとの間に過去に個人的な「いさかい」があり、その個人的な感情で、フルトヴェングラーに嫌がらせをしたんだそう。それは「マイスタージンガー」のベックメッサーの役をやりたくて応募したけど、フルトヴェングラーがその歌手を採用しなかったので、その「恨み」を持っていて、それを裁判という場違いな場でぶつけたわけ。

いやぁ!ベックメッサーになれなかった歌手の、見事なベックメッサー振り。芸術作品を理解するのに、最良の資料は、自分たちの目の前にあるものなんですね。

あるいは、教養人とされるフルトヴェングラーですが、ヒトラー,ゲッペルス,ゲーリングのナチの3巨頭のキャラを、フランス革命のロベルピエール,マラー,ダントンの3巨頭とのキャラとの関連で、見るようなことはなかったのかな?

禁欲主義者,マスコミ対応,享楽家と、組み合わせもちょうど合っている。教養人フルトヴェングラーの教養って何だろう?


書かれた楽譜なり、本での記述は理解していても、実際の人間を洞察するのには、何もできない。フルトヴェングラーって「ブンカジン」だなぁ・・・と思ってしまう。

まあ、そんな実際の人間に対する洞察力が著しく劣っていても、演奏家としては何とかなるんでしょう。それこそブルッックナーのような作品を演奏するのだったら、それでもいいのかも?

しかし、そんな人が、作曲などの新しい作品を作ることができるの?

ゼロから創作することができるの?

現実を見る目がそんなにない状態から、ゼロから創作するインスピレーションなんて、沸き起こって来るの?

フルトヴェングラーは、楽譜から「神の言葉」を読む取る能力はすばらしいけど、神の言葉を直接聞ける人間なのかな?

R.シュトラウスが要領よく立ち回ったのは、それだけ「人を見る目」があったからでしょ?

逆に言うと、そんな目がないとオペラなんて書けませんよ。フルトヴェングラーが言う


「時間がなくて、作曲できない・・・」

は、理由としてポピュラーですが、作曲なんて基本的にはアタマの中でやるものでしょ?

電車で移動している最中にもできるじゃないの?

あるいは、アルキメデスのようにお風呂に入った時にすばらしいアイデアなんて浮かばなかったの?

そのようなアイデアをしっかりコンポーズするには、まとまった時間も必要でしょうが、アタマの中でラフスケッチくらいはできますよ。それなのに、どうして20年以上も作曲に手をつけないの?

それって、「どうしても曲にまとめ上げたい!」という霊感やアイデアがなかったからでしょ?

だって、目の前にいる実際の人間に対する洞察力が、これだけ劣る人なんだから、霊感なんて来ませんよ。もし霊感があったら、とりあえずは、小さな作品からでも、作曲するでしょ?

まずは小さい規模の作品を制作しながら、自分自身の本当の霊感なり、作品にする問題点を自覚できるわけでしょ?

その後、大規模な作品に進んでいけばいいじゃないの?

作曲活動それ自体が、そして自分が作った「小さな作品」それ自体が、自分自身がやりたい作曲活動の方向性を教えてくれることがあるわけ。いきなり大規模な作品を制作って、ヘンですよ。


彼の作曲した作品ですが・・・

DVDの映像では、カイルベルトとバレンボイムが、肯定的な評価をしています。しかし、どうしてコメントがカイルベルトとバレンボイムによるものなの?
実は、この映画には、もっと適役が登場しています。それは、テオドール・アドルノ。

シェーンベルクに作曲を習い、マーラー以降のドイツ音楽について一家言以上のものを持つフランクフルト学派の哲学者アドルノが、フルトヴェングラーが作曲した音楽を、「理詰め」で絶賛すれば、この私などは「ははぁ!わかりました!わかりました!もうわかったから勘弁してよ!」って泣きを入れますよ。


ところがアドルノは、フルトヴェングラーの指揮を絶賛しても、作曲した作品には何も語らない。当然のこととして、この映画を制作した人は、アドルノに対して、作曲家としてのフルトヴェングラーについて聞いたはずです。カイルベルトやバレンボイムにも聞いたくらいなんですから、当然でしょ?

アドルノは、まあ、その話題を避けたんでしょうね。ウソは言えないし、故人を冒涜するようなことはしたくないし・・・

まあ、アドルノが言いたくないレヴェルの作品というわけなんでしょう。技術的な問題はともかく、「どうしてもこれを表現したい!」という気持ちが入っていないと、それ以前の問題ですよ。彼の作曲した音楽からは「どうしてもこれを表現したい!」「これだけでもわかってほしい!」という強い意志が感じ取れない。

しかし、彼の「指揮した」演奏を聞いて、「どうしてもこれを表現したい!」という強い意志が聞きとれない人はいないでしょう?

そして、演奏には、明確な「切れ目」もある。その切れ目が、人間の発想から、神の発想への「切れ目」となっている。そして、その「切れ目」を通ることによって、音楽の高みが、「より」高みへと通じ、深みが「より」深みへとなっていく。彼が指揮した音楽が作り出す「切れ目」を、彼と一緒にくぐることによって、我々聞き手も「より」深淵へと、到達できる。


『ここで作曲者に神の言葉が降り降りたんだ!』

って、フルトヴェングラーの指揮した音楽からは明確にわかる。彼は演奏家としては、あいまいさからは無縁。彼としては、演奏している時だけが、自分になれた・・・というより、完全なオコチャマになれた・・・のでは?

それ以外の時は、周囲に配慮しすぎですよ。


完全なオコチャマになり、幼児のように心を虚しくしているので、まさに天国の門は開かれる。


「オレは本当は指揮者ではなく作曲家なんだ!」

「本当は指揮などをしている場合じゃないんだ!」

「作曲をしないと行けない!」


と思っているので、指揮そのものは一期一会になる。フルトヴェングラーにしてみれば指揮は禁忌のものなんですね。禁忌のものだからこそ、なおのこと惹かれるって、人間誰しもそんなもの。おまけにそっちの才能は人並み外れているんだし・・・やってはいけないものだからこそ、火事場のバカ力も出たりする。

だからますますやっていて楽しい。火事場のバカ力なので、精神的に落ち着くと、周囲に配慮した「いい子」になってしまう。自分に自信がない人は人から誉められることを渇望するもの。それだけ自分自身が本当にしたいことがわからないので、人からの評価に依存してしまうわけ。

しかし、「いい子」では、逆に神の言葉は聞けないでしょ?

だって、「心を虚しくしている」幼児は、決して「いい子」ではないでしょ?

「いい子」って、それだけ外面的なことにこだわっているということ。人の評価に依存しているということ。それだけ神からは遠いわけ。


フルトヴェングラーの父親は、なんとアドルフという名前らしい・・・考古学の教授をなさっておられました。そのアドルフさんは、息子の才能を認め、サポートした・・・のはいいとして、息子の意見を聞いたの?フランクな会話があったの?

どうも、そのアドルフさんは厳格な人だったらしい。厳格と言っても様々なヴァリエーションがあります。自分に厳しいというパターンから、問答無用で強圧的というパターンまで。息子のウィルヘルム・フルトヴェングラーが極端なまでに「いい子」でいようとしたことからみて、まあ、問答無用の父親のパターンでしょうね。

そうなると、一般的に子供は抑圧的になってしまう。自分で自分を抑圧するようになるわけ。まさに「いい子」でいなきゃ!って強迫的に思ってしまう。

彼も、自分の父親アドルフの問題を真剣に考えればいいのでしょうが、どうもそこから逃げている。父親アドルフの問題から逃げていれば、総統アドルフの問題を考えることからも逃げるようになりますよ。だから眼前にどんな事件があっても、鈍い反応しか示せない。

自分が一番よく知っている人物の問題から逃避する人は、眼前にある具体的な人物や事例から考えることを逃避してしまうものなんですね。それこそ、フェミニズム運動をなさっておられる女性たちは、自分の父親の問題については絶対に言及しないものでしょ?

一番よく知っている男性の問題を考えなくて、男女の問題云々もないじゃないの?


同じように、フルトヴェングラーは、一番よく知っている人間の問題から逃避して、具体的な現実の人間の問題から次々と逃避しだす。そして、最後には指揮台に追い込まれ、もう逃げようがないとなると、爆発してトランス状態になり火事場のバカ力が出る・・・


普段は逃げ回っている作曲家フルトヴェングラーなり、人間フルトヴェングラーも、指揮台に上るという「切れ目」を経ると、「あいまいさ」から解き放たれ、神懸かりとなって、神の言葉が聞けてしまう。指揮台に上るという「切れ目」を経ることによって、「切れ目」を作り出すことができる芸術家になる。

指揮台に上る前は、アドルフから逃げ、アドルフの言葉を聞く状態。

指揮台に上ったら、神の言葉が聞こえる。


そういう意味で、作曲から逃げ出すこと自体が、神懸かり的な演奏をするエネルギーになる。しかし、そんな彼は、本当に、「作曲をしなくてはならない。」という状況になったら、どこに逃げるんだろう?

フルトヴェングラーにとっては、演奏は、仕事でもなく使命でもなく、いわば治療とか療法に近いもの。しかし、だからこそ、彼にとっては必然でもある。作曲では彼は救済されないわけ。

個人的なことですが、私が彼の演奏のレコードを聞いたのはシューベルトの長いハ長調の交響曲の録音。オケはベルリン・フィル。その演奏を聞いて、まずは最初のホルンにビックリしたものです。

「これが20年後に、パリのオーケストラよりもラヴェルらしいラヴェルがやれると自慢されてしまうオケの姿なのか?」

最初もビックリですが、第1楽章の最後の部分にもビックリ。オケのメンバーが、気が狂ったように演奏しているのがよくわかる。


オーケストラのメンバーや聴衆に「感動」を与えられる指揮者は結構いるでしょうが、オーケストラのメンバーや聴衆を「発狂」させるのは、ハンパじゃありませんよ。とてもじゃないけど、人間業ではできないこと。


そして、そのシューベルトの演奏を聞いていると、この演奏家が、死に場所を探して暴走していることがスグにわかる。彼は逃げて、逃げて、死に場所を探して暴走し、その暴走がオーケストラや聴衆に伝わる・・・


死に場所を探すエネルギーが、演奏のエネルギーになり、生きるエネルギーになる・・・って、矛盾しているようですが、まあ、芸術・・・特にドイツ芸術って、そんな傾向があったりするでしょ?


ドイツ精神主義なんて言葉もありますが、フルトヴェングラーの音楽を聞いていると、そんな主義主張よりも、彼岸にあこがれる心情の方が強いのでは?

しかし、彼岸に憧れ続ける心情が何をもたらすか?

そんな一期一会の絶妙な均衡が、彼の音楽をかけがえのないものにしている・・・

演奏専従だったら、演奏だってルーティーンなものになってしまって、一期一会にはならないわけですからね。この点は、他の演奏家にはないこと。彼は演奏家になりきれなかったから、偉大な演奏家になった・・・

あるいは、職業としての演奏家としては不十分であったために、一期一会の演奏は達成できた。相変わらずの、反語的な言い回しですが、偉大な表現者って、反語的な存在なんですね。

http://movie.geocities.jp/capelladelcardinale/new/07-11/07-11-01.htm

「作曲家としてのフルトヴェングラー」


彼は、ある意味において、実に面白い人物。私ごときが指揮者としての彼の能力を語ることはできるわけがない。天才の発想なんて読めませんよ。

しかし、指揮台に上がっていない彼の、普段の行動なり作曲家としての彼のスタイルは、意外なほどに「読みやすい」もの。よく、彼の行動を評して

「どうしてナチに対してあいまいであったのか?」とか

「どうして大した才能もないのに、作曲家であることにこだわったのか?

そもそも大作曲家の作品に親しんでいる彼なんだから、自分の作品のデキについてわからないわけがなかろう?」


どうしてなんだろう?そんな疑問が提示されたりするものでしょ?


ナチや自分の作品の価値についても、ちょっとでも自分で判断すれば、結論を出すことは難しくはない。しかし、世の中には判断することから逃避するような人間もいたりするもの。フルトヴェングラーがその典型だとすると、彼の行動も、簡単に理解できてしまう。

判断を間違ったのではなく、判断することから逃避する人間のタイプなんですね。


以前にエルフリーデ・イェリネクさん原作の「ピアニスト」と言う作品を考えた際に、抑圧と言う言葉を多く用いました。表現者としては、「自分がやりたいこと」、あるいは「表現者として人々に伝えたいことは何だろうか?」その問題意識が重要でしょ?


自分自身を抑圧すると、そのようなことを考えることから逃避するようになってしまう。そんな人は、「何を伝えるのか?」と言う問題から逃避して、「どうやって伝えるのか?」と言う問題にすり替えてしまうんですね。

自分がどうしてもやりたいこと、あるいは自分がどうしても伝えたいこと・・・それはいわばWHATの問題。

どうやって伝えるのかの問題は、いわばHOWの問題。

自分自身に抑圧を課す、それなりに知性のある人間は、自分自身のWHATの問題から逃避して、あらゆることをHOWの問題にしてしまう。なまじっか、それなりに知識があり、HOWの問題について語ることができるので、WHATの問題から逃避していることが、自分でも気が付かない。自分からの逃避と言う状態においても、それなりに洗練されてしまうわけ。

さて、フルトヴェングラーの逃避の問題ですが、この映画で実に典型的なシーンが出てきます。青年時代のフルトヴェングラーが、家庭教師と一緒にイタリアのフィレンツェに旅行をした。ミケランジェロの作品に圧倒的な印象を受けた青年フルトヴェングラーは、その場から離れ、一人でその印象を楽譜にしたためていたらしい・・・

映画においても、その「圧倒的な印象から逃げて・・・」なんて言われちゃっています。もうこの頃から、逃避傾向があるわけです。と言っても、皆さんは思うかもしれません。

「せっかく、ミケランジェロの彫刻からすばらしい印象を受けたのだから、それを音楽作品にまとめようとするのは、作曲家志望の青年としては当然のことではないのか?」

その感想は、ある意味において、正しいでしょう。しかし、圧倒的な印象を受けたのなら、それをその場で楽譜に残す必要はないんですね。だって、圧倒的な印象だったら、いつまで経っても忘れませんよ。何もその場で音楽作品にする必要なんてない。むしろ、アタマの中で寝かせておいて、その印象が充実してくるようにした方が、適切な方法。アタマの中でその時の印象と別の機会での体験を組み合わせたり、他の経験と共通性を考えたり、当然のこととして、その表現方法だって色々と考えられる。

素材をどう広げるのか?
あるいはまとめるのか?
どのようにコンポーズするのか?

それを考えるのが作曲家でしょ?

その時点で音楽にして楽譜に書いてしまうと、もう考えなくてもよくなってしまう。ただ、アタマの中での試行錯誤は、結構シンドイもの。常に考えなくてはならないわけですから、精神的に負担になるんですね。

それこそ、コンピュターのメモリーで常にアクセスできる状態のようなもの。引き出しやすいけど、電力は常に使う状態なのでスウィッチは切れない。

それに比べて、ハードディスクに保存すると、保存性はよくなるけど、アクセスは出来にくい。だから加工は難しい。これが紙にプリントアウトしてしまうと、もういじれない。しかし、だからこそ精神的にはラクと言える。


フルトヴェングラーだって、本当に作品を作れる人間だったら、そんな強い印象を受けたのなら、スグに楽譜にまとめることなんてしないはず。スグに楽譜にメモしなくてはならないのは、むしろ小ネタの方。だってちょっとしたネタだったら、それこそスグにメモならないと忘れちゃうでしょ?


「あの部分の切り返しのところは、このような方法にしよう!」とか、「ちょっとしたエピソードとして、こんなネタを挟もう!」なんて、ちょっとしたアイデアも、作品を作る上では必要ですよ。そんな小ネタだったら忘れないようにメモらないとね。

よく「引き出し」なんて言い方がありますが、そんな小ネタもやっぱり必要なもの。
それこそ引き出しにしまっておかないと。しかし、自分にとって最重要な問題、いわば大ネタは、忘れるわけがないから、メモる必要もない。

スグにまとめちゃうということは、アタマの中で寝かして試行錯誤し続ける精神的な負担に耐え切れない心の弱さを表しているものなんですね。ミケランジェロからの印象を、さっさと楽譜にまとめてしまう態度では、「強い」作品にはならないわけ。

こんなことを書くと、いまだに現存するフルトヴェングラーの崇拝者の方はご立腹なさるでしょうが、今ここで私が考えているのは、作曲家としてのフルトヴェングラーであって、指揮者としてのフルトヴェングラーではありません。


指揮者としては、あれほど圧倒的な音楽を作れるのに、どうして作曲家としては「いい子」、あるいは規格品とまりなの?と言うか、それこそ、作曲なんて止めてしまって指揮者専業でも何も問題ないはず。作曲をすること自体を楽しむことができる人間だったら、それこそミケランジェロから受けた強い印象をアタマの中で色々といじって、長く検討して行くものでしょ?

スグに作品にまとめるって、「イヤなことは、早く忘れたい!」「つらいことから、早く逃げ出したい!」そんな心情が、無意識的にあるということ。

自己への抑圧と言うものは、そのような自己からの逃避というスタイルになることが多いんですね。自分自身のWHATから逃避するわけ。

自分が何をしたいのか?

何を人に伝えたいのか?

それについて考えないようになってしまう。

そのような傾向は、強圧的な父親の元で育ったアダルトチルドレンに典型的なもの。問答無用の環境だったので、自分がしたいことを抑圧するようになるわけ。

実は、フルトヴェングラーの行動も、抑圧的なアダルトチルドレンの習性がわかっていると、簡単に予想できてしまう。発想が常に減点法。人から嫌われてはいけない。よい子でいないといけない。もちろん、親に迷惑が掛かってはいけない。そんなことを常に考えている。減点を意識しているので、自分で判断できない。

彼の場合は、それが特に深刻で、共依存状態にある。「共依存」とは、相手に依存「させる関係」に依存すると言うもの。「共依存」と言う考え方は、夫婦間でドメスティック・ヴァイオレンスに陥ったり、あるいは若い人たちがボランティアに入れ込むようになる心理を説明する際におなじみのものです。

あるいは、「ウチの子はいつまでも経っても甘えんぼうで・・・ずっと、ワタシがついていないとダメだわ!」なんて言うバカ親の心理もこれですよね。

あるいは、もっと深刻だとストーカーの心理もこれです。ストーカーは「オレにはアイツが必要だ!」と自分で『認識』しているのではなく、「アイツにはオレが必要だ!」と勝手に『認定』しているわけ。

自分自身の精神状況の自覚ではなく、相手の幸福のスタイルを勝手に認定しているわけ。だからタチが悪い。当人としては善意で相手に付きまとっている。だから周囲が何を言ってもダメ。バカ親の心理もそうですが、基本的にはアダルトチルドレンに典型的な症状です。それだけ、自分自身が何をしたいのか?自分でもわかっていない。そしてわかろうとしないし、自分から逃避しようとする。精神的に自立していない。だから他者との関係性に依存せざるを得ない。

こんな心理を持っていたら、たとえナチスに共感がなくても、ドイツから離れられませんよ。だって、共依存症状にある人にしてみれば、ナチス支配下のドイツなんて天国ですよ。だって、自分を頼ってくる人がいっぱいいるわけですからね。

つまり自分の役割について自分で考えなくてもいいわけ。簡単に自己逃避できるわけでしょ?

何もフルトヴェングラーの人格に対し攻撃しようなんて思っているわけではありませんよ。芸術家なんて、その作品がすべてですよ。それこそ画家のカラヴァッジョや作曲家のジェズアルドや劇作家カルデロンのように人殺しまで居るのがアーティストの業界。

たかがアダルトチルドレンくらい・・・まだまだ甘いよ。いや!「あいまい」ですよ。


前回でフルトヴェングラーは首尾一貫して「あいまい」という点を書きました。「あいまい」であると言うことについては、実に「あいまい」ではないわけ。

この点は、彼の作曲した音楽にも明確に見えてくるでしょ?

彼の交響曲第2番はCDになっていて、まさしく彼の演奏で聞くことができます。
これが、また、「あいまい」な音楽。

何も、時代に合わせてモダンな12音技法でないとダメとか、ショスタコーヴィッチばりのポストモダンな引用技法が展開されていないといけないとか・・・そう言うことを申し上げているわけではありません。

「これだけはどうしてもわかってほしい!」とか、

「消しようがないほどに明確な音響イメージがあって、それを表現したい!」

なんて強い意志なり、覚悟がある音楽なの?

と言うことなんですね。

自己表現が目的と言うより、自己弁護の音楽。

えーとぉ・・・ボクはこんな事情があって・・・

色々と面倒なことがあったから、作曲できなくて・・・

まあ、ちゃんと作曲もやっているでしょ?

サボっているわけじゃあないよ。そんな弁解がましい表情が延々と続く音楽。


音響的にはフランクやショーソンの交響曲のような感じで、ブルックナーの交響曲から「聞いたことがある」音響が出てくる。なんともまぁ・・・

フルトヴェングラーが作曲した作品は聞き手に真摯な緊張を要求する・・・
そんな音楽なんだから、だからオマエはその価値や内容がわからないんだよ!
そうとも言えるでしょうが・・・

どんな小難しい音楽でも、後世まで残る作品には「これっ!」という瞬間があって、その決定的な瞬間から、全体の理解もだんだんと深まっていくモノ。

ところが、フルトヴェングラーの交響曲には、「これっ!」と言う「切れ目」がない。これは楽章の切れ目云々ではなく、音楽の流れに切れ目がないため、神の言葉が降り降りた瞬間が出てこないんですね。

演奏においてなら、「切れ目」の大家と言えるフルトヴェングラーなのに、作曲した作品には「切れ目」がない。つまり神の言葉ではなく、人間の言葉が支配している「音楽」といえるわけ。自分の存在証明ではなく、自分の正当性の証明に近い。

しかし、正当性を証明しようとするほど、芸術家としての存在証明から遠くなる。なぜなら人間の言葉で正当性を証明するほど、神の言葉から遠くなるもの。

幼児のように、心を虚しくして、神の言葉を受け入れたときに、芸術家としての存在証明になる・・・芸術作品とはそんなものでしょ?

神の言葉を伝えるのが、芸術家の使命でしょ?

天才は自分の正当性などと言った弁解のための仕事などはしないもの。

弁解が通用しない世界・・・それが修羅場でしょ?

フルトヴェングラーにとって指揮台こそが、その修羅場。だから指揮においては、弁解のための仕事はせずに、神の言葉を直接聞くことができて、それを伝えることができる。しかし、作曲をしている時には、精神的に余裕があって、修羅場ではない・・・だから弁解ばかり。


フルトヴェングラーが作曲した作品は、実に人間的な音楽とも言えますが、逆に言うと人間とまり。あるいは、まさしく最適化止まり。これでは作曲していても、面白くないでしょう。たしかに、25年以上も作曲から遠ざかることを、事実上選択するわけですよ。


しかし、作曲の才能がなくても、創作の霊感が訪れなくても、何も問題はないはずでしょ?

当代随一の指揮者と言う称号があるんだから、それでいいんじゃないの?

そもそも、フルトヴェングラーさんよ!アンタは作曲が好きなの?

そんな根本的な疑問をもってしまう。

作曲を好きなのに才能がないのか?

そもそも好きでないのに、自分を押し殺して作曲したのか?

「ボクは本当は作曲家なんだ!」と言うのはいいとして、25年以上も作曲から遠ざかり、やっと作曲したら、自己弁護に終始。使命感を持って作曲している人がやることではありませんし、そんな音楽ではありませんよ。

逆に言うと、特に才能があるわけでもないし、使命感があるわけでもないし、好きでもないし、実際の作曲活動はしないのに、どうして「ボクは本当は作曲家なんだ!」なんて言うの?

フルトヴェングラーは、子供の頃から音楽の才能を発揮して、周囲から、「将来は偉大な作曲家に!」なんて言われたそう。これはDVDに出てきます。家族も、その才能に惜しみない援助を与え、教育の機会を与えた・・・


そう言う点では、「作曲家」フルトヴェングラーは実に恵まれている。作曲家になるに当たって、こんなに周囲から物心両面からのサポートを受けることなんて滅多にありませんよ。一般的には、「ボクは作曲家になりたいんだ!」なんて言おうとしたら、「何を、夢みたいなことを言っているんだ!カタギの仕事をしろ!」と言われるのがオチ。

しかし、少年フルトヴェングラーは家族から励まされる環境。それこそ、父親との間にこんなシーンがあったのでは?


少年フルトヴェングラーと、父親アドルフが、冬の夜に空を見上げる。


「おい!ウィルヘルム!
北の空にひときわ大きく輝く星があるだろう!
あの星はドイツ作曲家の星だ!
バッハ、モーツァルト、ベートーヴェン、ブラームス、ワーグナー、ブルックナー・・・

オマエも将来、あの星になるんだ!」


「父さん!わかったよ!
ボクはドイツ音楽の星になるんだ!ボクはやるよ!」

・ ・・拳を握りしめ、瞳から炎がメラメラと・・・このシーンのBGMは当然・・・


輝くドイツ音楽の星。それもバッハやベートーヴェンやワーグナーなどに並ぶ地位に。


「さあ!これが、ドイツ音楽作曲家養成ギブスだ!」

「これをつけて親子一緒にガンバロウ!」


そんな感じで言われちゃったら、子供の頃はともかく、実際に作曲するにあたってはプレッシャーになるんじゃないの?

しかし、フルトヴェングラーが音楽活動を始めた頃は、その星々につながる意志を持っていたのは明白。彼が1906年の指揮者としてのデビューで取り上げた曲は、後に交響曲第1番の第1楽章となった自作の「ラルゴ ロ短調」と、ブルックナーの第9交響曲の組み合わせでした。ブルックナー最後の未完の交響曲なんて・・・デビューの曲目にしては荷が重いだろう・・・と思うのは誰でもでしょうが、この「組み合わせ」・・・あるいは、以前書いた言い方でモンタージュは、簡単にその意図が読めますよね?


それはこれ。

「ブルックナーが完成させられなかったドイツ音楽の系譜を、このボクが完成させるんだ!」

まあ、その心意気や良し!・・・なんですが・・・

系譜につながることは結果であって、目的ではないでしょ?

それこそブルックナーだって、先輩作曲家ベートーヴェンを尊敬していたでしょうが、その列につながるために作曲をしたわけではないでしょ?

自分自身の霊感を永遠に残すために作曲したわけでしょ?

曲のまとめ方などに当たって、当然のこととして先輩の方法を参考にする・・・
だから、結果としてドイツ音楽の作曲家の系譜になる。

そんなものでしょ?

まずは、自分がどうしても表現したいものは何なのか?
その自問自答の方が先でしょ?

しかし、フルトヴェングラーは、ドイツ音楽の作曲家の系譜が強く意識されてしまっているので、

「ボクもそのレヴェルでないと行けない!」
「巨匠たちの名誉を汚さぬように!」
「あんな音楽を書かなきゃ!」

なんて強迫的に思ってしまう。いわば、形から入る状態。形から入っているので、フルトヴェングラーが作曲した作品って、交響曲とかの立派なジャンルばかりですよね?

そして長さも結構ある。まさに立派な外観をもっている。しかし、外観はいいとして、中身はどうなの?

そもそも芸術作品にとってジャンルとか外観は、二の次でしょ?

マーラーの交響曲が、交響曲なのか?歌曲でしかないのか?そんなことを議論する人もいますが、それ以前に中身の問題が重要でしょ?

マーラーの音楽は中身で勝負できる。しかし、フルトヴェングラーの作品の中身っていったい何?

逆に言うと、中身で勝負できないから、ますます外観にこだわらざるをえない。それでは自分なりの作曲なんてできないでしょ?

作曲家フルトヴェングラーは伝統的な芸術の系譜を意識するあまり、芸術の伝統の系譜からは外れてしまった。「伝統的な芸術の系譜」と「芸術の伝統の系譜」なんて、言葉としては似ていますが、中身は全然違うモノ。

それこそベートーヴェンだって、彼自身は「伝統的な芸術の系譜」ではなく、「芸術の伝統の系譜」の一員と言えるでしょ?

まあ、作曲の才能が「全く」ないのなら、まだ、「しょうがない」で済みますが、フルトヴェングラーの場合は、最初は神童扱いだったわけですし、周囲からのサポートを受け期待もされた。作曲から逃げる理由がないわけ。しかし、逃げる理由がないからこそ、懸命になって逃げざるをえない。


そもそも、やっぱり作曲家という存在は、音楽家の中では最高位でしょ?

だからこそ、作曲家であることをあきらめることは、序列的に下に安住することを意味しますよね?

「父さん!ボクは作曲なんてしたくはないんだ!指揮の方が好きなんだ!」

なんて言っても、心の中にいる父親がこう言うでしょう。


「どうしてオマエは、そんなに自分に甘いんだ!

自分は才能が無いなんて言葉は、努力放棄の言い訳に過ぎない!バカモノ!」

そして「北の空を見よ!ひときわ輝く星がオマエの目指すべきドイツ音楽の星だ!」

とお説教の声。そんな父親の言葉が心の中で響いてしまう。だから周囲には「ボクは本当は作曲家なんだ!」と、言い訳をしなくてはいけない。

フルトヴェングラーはなまじ指揮者なんだから、タチが悪い。彼がピアニストとかヴァイオリニストだったら、作曲活動にも、距離を取りやすい。作曲をしなくても、誰も不思議に思わない。しかし、指揮なんて、そもそもが作曲家の仕事の一部だったわけでしょ?

しかし、才能はないし・・・それだけでなく、ドイツ音楽の星としての要求される「基準」もある。あのレヴェルの曲を書かないといけない!

これでは、自分なりに作曲するなんてことはできないわけ。

さあ!どうする?

と言うことで、作曲しなくてもいいように、余計なことに首を突っ込むわけ。

「あそこに困っている人がいるから・・・」
「ボクが助けないとダメだ!」
「あの人たちを助けられるのはボクだけ・・・」

と言うことで、ますます共依存症状が進行することになる。そもそも指揮者フルトヴェングラーが作品に向き合う際には、「作曲された音楽が作曲される前の状態まで考え、それを再構成する」のがフルトヴェングラー。

そんな発想は、まあ、私には実に親近感がある。だからそんな態度を、フルトヴェングラーの「作品」に適用しているだけです。創作者の発想を読みながら演奏したフルトヴェングラー自身の発想を、この私が読んでいるだけです。

重要なことは作品を評価することではなく、その前の霊感を考えることでしょ?


逆に、ナチスは「芸術家にとって作品などは、どうでもいい!人格が問題なんだ!」と言ったそう。

その人格と言ってもナチスに対する忠誠となるんでしょう。人格で作品を否定するなんて、それこそがナチスですよ。しかし、その人格重視のナチスがワーグナーを賞賛ってのも、また矛盾なんですが。そもそもアーティストなんてオコチャマなのがデフォルト。その瞬間に充足し、次には、その充足を破壊していく・・・

「わあ!これって、おもしろいなぁ!」それがすべて。そんなオコチャマこそが芸術家のメンタリティ。

逆に言うと、フルトヴェングラーは、アダルトチルドレンだけあって、ある意味オトナ。この面でもあいまい。あまりに周囲に配慮しすぎ。発想が減点法。


別の言い方をすると、「いい子」。彼の行動も、作曲した作品も、まさに「いい子」がやりそうなものですよ。

自己の確立していないアダルトチルドレンは、往々にして権威主義。その価値を自分自身で説明することができないので、人々が「権威ある」と認めるものに乗っかろうとするわけ。

実は、このような点で、フルトヴェングラーとゲッペルスは、腹の底では共感しあっていたようです。フルトヴェングラーは何か相談事があると、まずゲッペルスを訪ねたようです。ゲッペルスもフルトヴェングラーのことは、気にかけていたそう。いわばカウンターパートナーの間柄。フルトヴェングラーもゲッペルスも、「何を言うのか?」と言うWHATの問題よりも、「どう伝えるのか?」つまりHOWの問題の大家ですよね?

それに、権威ある思想に乗りかかって自己を表現するスタイルも共通。序列思考が強く、族長的な存在に盲目的に従おうとする。彼らは、いわば隷従することが好きなタイプ。以前に取り上げたエルフリーデ・イェリネクさんの「ピアニスト」を考えた際に用いた言い方をすると、「犬」のタイプ。

ゲッペルスに対して、

「アナタはヒトラーの犬じゃないか?」なんて言っても、

「ああ!そうだよ!何か文句でもあるかい?」

なんて言われるだけでしょ?

ゲッペルスは、ヒトラーに最後まで付き従いましたよね?

その点ではゲーリングやヒムラーよりも忠犬。たぶん、ゲッペルスの父親も強圧的な人だったのでは?

同じように、フルトヴェングラーに対して「アンタはベートーヴェンの犬じゃないか?」なんて言ったらフルトヴェングラーはどう答えるのでしょうか?

やっぱりゲッペルスと同じじゃないの?「ああ!そうだよ!何か文句でもあるかい?」

ゲッペルスは、信念を持って、アドルフに隷従していたわけ。フルトヴェングラーも深層心理的にアドルフに隷従していたわけですが、彼の場合はアドルフと言っても、ヒトラーではありませんが。ベート−ヴェンの犬なんて言葉はともかく、フルトヴェングラーはそれでいいと思っていたでしょう。立派なベートーヴェンの音楽を人々に伝えるのが、自分の使命だ!

そう考えることは、立派なこと。しかし、作曲家志望だったら、そんな崇め奉るだけではダメでしょ?

立派な権威としてベートーヴェンを見るのではなく、すばらしい業績を残した先輩として見る必要もあるのでは?

第2次大戦が終結した後で、フルトヴェングラーはR.シュトラウスを訪ねた。R.シュトラウスは、ワーグナーの「トリスタンとイゾルデ」の楽譜を見ながら、「ファゴットの使い方がすばらしいねぇ!」と言ったそう。

こんな言葉から、R.シュトラウスは、ワーグナーをすばらしい業績を上げた先輩と見ていることがわかりますよね?

作品を受けてのリアクションにおいて、意味ある細部を指摘できるのは、全体がわかっている証拠。そして自分自身についてもわかっているからできること。シュトラウスとしては同じ作曲家仲間として、ワーグナーの作品を参考にする・・・そんな態度が見えてくるわけ。他の人の作品を見るにあたっても、普段からの自分の問題意識が反映されることになる。だから具体的な細部の各論を中心に見ることになる。

「自分だったら、どうするのか?」

「今、自分は、ちょっと壁にぶち当たっているけど、この人はどんな解決をしたんだろう?」

そんな発想が常に存在しているわけ。フルトヴェングラーの場合は、尊敬すべき先輩というより、ひれ伏さざるを得ない権威としてベートーヴェンやワーグナーを見ているのでは?

あるいは、規範として見ている。そうとも言えるでしょう。つまり作曲家としての問題意識がない状態で、他の作曲家の作品を見ている。そのような見方は、指揮者としては問題なくても、作曲家としては問題でしょ?

規範として見るような発想は、「それ以外を認めない」と言うことになり、ある意味、自分で考えることから逃避できる。これはエルフリーデ・イェリネクさんの「ピアニスト」でのエリカもそうでした。音楽を聞く際においても、ベートーヴェンを規範としてみたり、あるいは演奏家としてのフルトヴェングラーを規範として見ることは、聞き手の自己逃避の一種なんですね。規範を重視と言うか、形から入る・・・いわば、「形と中身の乖離」となると、ブラームスがいます。

フルトヴェングラーも、そのような観点において、ブラームスを同類と認識していた面もあるようです。しかし、ブラームスは、中身と形式の乖離の問題はありますが、逆に言うと中身がある。しかし、フルトヴェングラーの作品には中身があるの?

乖離云々以前に中身がないのでは?

伝えたいと思う中身と、伝えるに際し用いた形式の間に乖離があると言うより、彼が伝えたいという中身って何?

抑圧状況に陥ると、まさにその問題を自問自答することから逃避するようになってしまう。以前取り上げたギリシャのテオ・アンゲロプロス監督の「ユリシーズの瞳」の冒頭に掲げられたプラトンの言葉は

「魂でさえ、自らを知るために、魂を覗き込む。」と言うもの。

「魂を覗き込む」ことから逃避している人間が、創造なんてできるわけがない。

そのようなアンゲロプロスの問題意識が、あの作品にあったわけですし、そのもっとも典型的な実例が作曲家フルトヴェングラーなのでは?

自分自身を見つめることができる人だからこそ、自分の魂を覗き込むことができる人だからこそ、そんな人には「世界の声」「神の声」が集まってくる。つまり自分自身の魂の声を聞くことによって、結果的に世界の声が聞ける。ユングの言う「元型」に近いものが見えるわけ。

自分から逃避している人には、世界の声も降り降りてこない・・・
だから、結局は「世界の声」も表現できない

フルトヴェングラーは「他人の魂は覗きこめるけど、自分の魂は覗きこめない。」

これでは創作なんてできませんよ。

「ベートーヴェンの気持ちが理解できるのはオレだけ!
ブルックナーの創造性が理解できるのは自分だけ!」

そう思うのはいいとして、じゃあ、自分自身の気持ちや創造性をどのように理解していたの?

自らの魂の中にあるWHATから逃避していくので、どんどんと「どのように伝えるのか?」というHOWの問題に逃げ込んでしまうわけ。しかし、「何を伝えるのか?」という問題意識から逃避してしまっているので、作曲することで作品を制作しても「じゃあ、結果として伝わったのか?」と聞かれると返答ができない。だって受け手は何をわかればいいの?

そもそも伝えたいものが、自分でもわかっていないから、結局は伝わらない。本来なら、「この点は誤解されたけど、最重要なこの点は伝わったようだから、まあ、とりあえずよしとしようか・・・」なんて考えることができるはずですよね?

あるいは伝わらなくても「まっ、そもそもアイツにはどうせわからないよ!」なんて言えるでしょ?

それは、自分が伝えたいWHATがわかっているからできること。しかし、そのWHATが自分でもわかっていなくて、発想が加点法ではなく減点法なんだから、そのようには考えられない。結果的に思うような結果が得られないので、そんな抑圧傾向の人は、「上手く行かない理由」「減点の原因となったもの」としての犯人を捜すようになるわけ。それに抑圧傾向の人は、日頃から発想が加点法ではなく減点法なので、減点への反応はそれなりに鋭いものがある。だからスグに逆上する傾向が強い。

「アイツのせいで、ダメだったんだ!」

あるいは

「あの施設がないせいで、上手く行かなかったんだ!」
「これが足りないせいで、失敗した!」
「政治が悪い!時代が悪い!」

そんな言葉を聞かされると、「じゃあ、何をわかればいいの?」「そもそもアンタは何をしたいの?」と思ってしまうものでしょ?

アンゲロプロス監督の描くギリシャの人たちもそんな感じでしたよね?

というか、そもそも当時のドイツがそんな感じでしょ?

あるいは実に顕著に見られるのが、韓国人の発言ですよね?
韓国人の発言は、自分で自分を抑圧しているものの典型なんですね。日本人の我々としては、韓国人の言動を聞いても「で、アンタたちは結局は何をしたいの?何を言いたいの?」そう思うことって多いでしょ?

あるいは、上記の言い訳と犯人探しのスタイルは、音楽関係者の発言にも典型的に見られるでしょ?

「どう伝えるのか?」の問題に拘ることは、「何を伝えるのか?」という問題からの逃避のケースが多いわけ。「何を伝えるのか?」が自分でも明確ではないので、そんな人はコミュニケーション能力がヘタ。だからコミュニケーションが対等の会話ではなく、命令と服従の上下関係しかなくなってしまう。だから常に「どっちが上か?下か?」という序列を基に考えるようになる。韓国人がまさにそうですし、いわゆる音楽批評の世界でもおなじみの文言でしょ?

本来なら表現と言うものは、対象となるもの、と言うか、表現したいWHATに、「どこから光を当てるのか?」そして「どのような視点から表現するのか?」そのような問題が重要でしょ?

しかし、抑圧が進んでしまうと、個々の多彩な思考を理解する意欲もなくなるので、「どっちが上か?下か?」の序列問題ですべて解決しようとするわけ。ベストワンとか、最高傑作などの文言が登場してしまう。表現におけるWHATが消失してしまうわけ。そして減点部分だけに目が行って、反論されると逆上。

他人による様々な表現を通じて自分自身の問題を考えていく・・・表現を受けても、そんな発想にならないわけ。他者の作品から自分自身を逆照射することはできない。むしろ様々な作品を順番にならべて、「どっちが上か?下か?」と決定してオシマイとなる。他者の順番だけの問題にしてしまうことは、要は自己逃避なんですね。


以前に、イェリネクさんの「ピアニスト」という作品を考えるに当たって、演奏家という存在と精神的抑圧の強い相関関係について考えて見ました。特に中間領域の演奏家からは抑圧された精神が明確に見えて取れることが多い。人々に伝えたいものが明確に自覚できているのなら、何も演奏というスタイルではなくても、作曲という手段で伝えてもいいわけですし、素人的でも文章を書いたり、美術作品を制作すると言う方法だってあるでしょ?

伝えたいこと、やりたいことが自覚できないがゆえに、権威あるものに隷従し、HOWの問題だけに逃避する。そして上手く行かなくなると犯人さがし。抑圧的な人間はそんな行動をするものです。ナチスがそうですし、韓国人もそんなパターンですし、音楽批評もそんなパターンでしょ?

いわば抑圧状況の典型なんですね。ナチスが台頭する背景として、ドイツ全体のそんな精神状況もあったわけ。ナチスはいいところを突いているんですね。その抑圧的な状況の中での知的エリートがゲッペルスであり、フルトヴェングラーなのでは?

フルトヴェングラーだって、自分自身の抑圧を客体化することができれば、それを作品にすることもできたでしょう。それこそイェリネクさんが小説としてまとめあげたように。あるいは、共依存症状によるストーカー行為だって、それを客体化できれば、ベルリオーズのように交響曲にできる。しかし彼は抑圧された人間そのものとして生きた。

「自分は何をしたいのか?」と言う問題から逃避しているので、自分の目の前の状況が判断できない。常に『いい子』願望があって、人から否定されることを極端に怖がる。

「いい子」って、要は減点法でしょ?

いい子が成し得た成果って、歴史上ないでしょ?


フルトヴェングラーに関する本などを読んでいると、私などは忸怩たる思いに陥ってしまいます。

「どうしてゲシュタボの連中はフルトヴェングラーを追い込まなかったのだろう?」

「私に任してくれたら1年以内に必ず自殺させることができるのに・・・」

まあ、ゲシュタボも真正面からは追い込んだようですが、フルトヴェングラーのような共依存症状の人間に、真正面からプレッシャーを掛けて、困難な状況を作っても、むしろ「生きる張合い」になるだけ。それこそ人助けがいっぱいできるわけだから、喜んでそっちに逃避してしまう。ストーカーに対して、正面から力による解決を図ってもますます善意を持ってストーキングするだけでしょ?

「こんな困難な状況の中でアイツを救ってやれるのはオレだけ!」そのように、より強く思い込むだけ。そして当人の『善意』が、より熱くなるだけ。

まあ、ゲシュタボも所詮はドイツ人なんでしょうね。素朴で人がいいよ。人を精神的に追い込むことに関しては、むしろフランス人の方が上でしょう。あるいはロシア人とか・・・

まあ、ゲシュタボがフランス人の著作から拷問のノウハウを学ぶ必要があったのもよくわかりますよ。フルトヴェングラーを追い込むのは実に簡単なんですね。

彼のような頭がよくて、プライドがある人は言葉で追い込めるから、追い込むのもラク。オバカさんのように逆上することもできないのだから、あっという間に追い込めますよ。たとえば作品を委嘱すれば、それでOK。

「ドイツ音楽の栄光を表現する立派な交響曲を作曲してくれ!」

「時間は十分に上げるから・・・」

「キミは本当は、それをしたかったんだろう?」

なんて言えば、自分で勝手に追い込まれていきますよ。何と言っても作曲は自分自身と真摯に向き合わないとできないことでしょ?

フルトヴェングラーはそれが出来ない人なんですからね。もし、それこそ交響曲第2番のような作品が出てきたとしたら、

「ふんっ、なにこれ?」

「アンタは、本当にこれをドイツ音楽の栄光だと思ってるの?」

「へぇ・・・これがドイツ音楽の栄光の成れの果てなんだねぇ・・・」

なんて薄目を開けて鼻の先で笑えば済む話。あるいは、

「アナタのおかげで、アウシュビッツで多くのユダヤ人を殺すことができました!ありがとう!」

なんて感謝してみなさいな。アウシュビッツの写真などを一枚一枚見せながらね。そして、最後に決めセリフ。

「君の父上もさぞよろこんでいるだろうよ!」。

もうこうなると、ドイツ芸術の守護者としての彼のアイデンティティが崩壊して、あっという間にドッカーンですよ。まあ、1週間以内でことが終了するでしょうね。

あるいは、前回言及した「ニーベルングの指環」のグンターのバカぶりを、描写してもいいわけでしょ?

「グンターってバカだよな!
だって、こんなこともわからないだからさっ。
君もそう思うだろ?グンター君!」

といって、指で額でもつついて上げればどうなるかな?

いずれにせよ、1週間あれば十分ですよ。相手の一番弱いところはどこなのか?

そこを瞬時に見つけ出し、そこをチクチクとニヤニヤと突いていく楽しみをドイツ人はわかっていないねぇ・・・

「いい子」と言う存在は、一番追い込みやすいもの。結局は、「人から自分はどう見られるのか?」という面にこだわってしまって、自分自身が本当にしたいことが自分でもわかっていないわけ。と言うか、そこから逃避している。

前も書きましたが、そんな精神状況では、作曲はできませんよ。それこそR.シュトラウスはナチとの関係で、戦争終結後になってモメましたが、シュトラウス自身は実に明確。自分がやりたいことが自分でもわかっている。

ナチから頼まれると、ナチの役職には就いたり、あるいは手紙にも「ハイル!ヒトラー!」なんて平気で書いたりしていますが、彼自身はナチに対して協力的ではない。

というか、戦争が終結する直前に、負傷した人たちがシュトラウスの山荘に逃げてきたそう。そんな命からがら逃げてきた人たちに対しシュトラウスは、

「おい!アンタたち、作曲のジャマだから出て行ってくれよ!」

なんて言ったそう。そんな対応をナチから怒られたシュトラウスは、

「いやぁ・・・オレが戦争を始めたわけじゃないんだから・・・そんなこと知るかよ!」

なんて言ったらしい。いやぁ・・・外道だねぇ・・・

シュトラウスの発想は、ナチを支持するしない以前に、人間的に外れていますよね?

まあ、「猫」的と言えるのかも?「アンタはアンタ、ワタシはワタシ」の精神。しかし、そんなシュトラウスだからこそ、あの混じり気なしのオーボエ協奏曲が書けるわけでしょ?

傲岸不遜で周囲の人間の犠牲を踏み越えて、自分の創作を推し進めるR.シュトラウスと、人助けに逃げ込んで、自分では創作しないフルトヴェングラーの関係は、ルキノ・ヴィスコンティ監督の「ルードヴィッヒ」におけるリヒャルト・ワーグナーとルードヴィッヒの関係と同じ。


ルードヴィッヒだって、芸術家をサポートして喜んでいるよりも、ヘタはヘタなりにオペラの台本でも書けばいいじゃないの?

彼も、「立派な作品でないといけない!」なんて思っていたのでしょうね。だからとりあえず手をつけてみると言うことができない。しかし、だからこそ、自分を表現することができず、ますます自分から逃避してしまう。ルードヴィッヒもフルトヴェングラーもプライドが高い人ですが、逆に言うと、腰を曲げても実現したいものがないと言うことでしょ?

その点、リヒャルトは、手段を選ばず、周囲のことなどお構いなしに、どんどんと創作活動。フルトヴェングラーだったら逆立ちしても出来ませんよ。共依存症状のフルトヴェングラーだったら、シュトラウスのような事態になったら、喜んで人助けしますよ。

他者から依存される関係に依存する、この共依存状態では、自分単独で作曲することなんて出来ませんよ。しかし、この症状は、作曲には不適でも、演奏にはフィットしていますよね?

「アイツにはオレが必要なんだ!」「アイツのことを理解できるのはオレだけ!」なんて勝手に思ってストーキングするのは大迷惑ですが、

「ブルックナーにはオレが必要なんだ!」
「ベートーヴェンのことを理解できるのは、このオレだけ!」

そう思うくらいの思い込みはいいのでは?

それが演奏することの使命感につながるわけでしょ?

そんな使命感があるのなら、本来なら、指揮者専業で行けばよかったのでしょうが、そんな判断から逃げるのが抑圧的なアダルトチルドレン。だから自分が何をしたいのかわからずに、他者との関係性に依存するようになる。こんな態度ではプロの演奏家というか、職業としての演奏家としては失格ですよ。

しかし、逆に言うと、それくらいの「思い込み」がないと、芸術的な演奏にはならないでしょ?

そんな依存があるがゆえに、他人である作曲家との緊密な関係が築けたともいえるんでしょうね。抑圧が創造性につながった稀有な例と言えるのかも?

抑圧も極限まで進行し、ブレークスルーを経ることによって、ある種、突き抜けた境地になってしまう。この点は、フルトヴェングラーだけでなく、ゲッペルスもそのパターンなのでは?

自己を徹底的に抑圧することによって、自己解放を実現する。それが、フルトヴェングラーにとっての演奏。それは幸運な成果なの?

確かにその「成果」を、聴衆である我々は楽しむことができた。しかし、それって、まさにホフマンスタールの言う「私のこの苦しみから甘い汁を、吸おうとしたっただめだよ!」そのものでしょ?

もしかしたら、フルトヴェングラーは、そのセリフの意味を、R.シュトラウス以上にわかっていたのかも?

しかし、「だったら、それを作品にしなよ!」ってやっぱり思ってしまうのは無理なことなのかな?

http://movie.geocities.jp/capelladelcardinale/new/07-11/07-11-08.htm

アーノルド・シェーンベルク モーゼとアロン (1954年 初演)


新・ウィーン楽派の元締めと言えるアーノルド・シェーンベルクが台本を書き、作曲もしたオペラ「モーゼとアロン」です。第2幕までは1932年に完成させ、第3幕は結局は未完に終わった作品。このオペラをご存知のない方でも、旧約聖書にあるモーゼとアロンの兄弟の軋轢の話は、ご存知でしょう。

この「モーゼとアロン」というオペラを、「理解者と協力者の乖離」という観点からみることは、「アラベラ」よりも、はるかに容易ですよね?

何と言っても、アロンはモーゼの言葉を理解していない。しかし、モーゼが受けた神からの言葉を広めるのに当たって最大の協力者である・・それくらいは、簡単に読めること。自分のことや言っている中身を理解していないアロンに頼らないといけないモーゼは、それゆえに苦悩する。

シュトラウスとホフマンスタールの「アラベラ」が、洗練された外観を持ちながら、内容的には悲痛な心情を含んでいる。いや、悲痛な面を持っているのはホフマンスタールの台本だけかな?

それに対し、シェーンベルクの「モーゼとアロン」は、シリアスな外観を持っていますが、ギャグ満載の爆笑オペラなんですね。20世紀のオペラで、これほど笑える作品って、他にあるのかしら?


オペラ「モーゼとアロン」ですが、基本的なストーリーは旧約聖書のモーゼとアロンのエピソードによっています。簡単にまとめると、下記のとおり。


1. モーゼが神から言葉を受ける。

2. その言葉を自分で直接民衆に伝えようと思っても、うまく伝えることができない。

3. だから、言葉を上手に伝える能力を持っている、モーゼの兄のアロンと一緒に活動することになる。

4. アロンは見事にモーゼの言葉を語る。

5. 民衆は、モーゼよりアロンの方を絶賛し、「これぞ!奇跡だ!」

6. 民衆より絶賛を受けたアロンは、「その気」になって、どんどんと民衆を喜ばせる方向に、言葉を変えて行ってしまう。

7. モーゼは「まっ、とりあえずアロンに任せておくか・・・」と、引っ込んでしまう。

8. 民衆の期待に応えたアロンは、乱痴気騒ぎの大集会。

9. こうなると、本来のモーゼの言葉は、どこかに行ってしまう。

10. ここでモーゼが乗り込んできて、

「こらぁ!ええ加減にせんかい!」
「ワシの言葉を忠実に伝えろよ!」


11. アロンは、

「だってぇ・・・だってぇ・・・そもそもアンタが、民衆から離れすぎているのがいけないんじゃないか!」

と反論。


12. モーゼは

「じゃかぁしいんじゃ!最後にはワシの方が勝つんじゃ!」


基本的なあらすじは、こんなところ。いやぁ・・・笑える。

モーゼにとっては、アロンは重要な協力者。しかし、理解者とは言えない。だから、どうしても、このような齟齬が起こってしまう。


さて、このオペラ「モーゼとアロン」の台本を書き、作曲をしたシェーンベルクは、基本的には作曲家。作曲家にとって、親類とも言える身近な存在で、重要な協力者と言えるけど・・・残念なことに、理解者とは、とても言えない存在って、何?

それは演奏家でしょ?

作曲家が作曲した作品を、実際に音にし、多くの人に聞いてもらうに当たって、演奏を本職とする演奏家の協力は、現実的には、不可欠。

しかし、演奏家は、その作品の本当の意味がわからないので、どうしても民衆の好みに合わせてしまう。おまけに音楽家の中でマジョリティーなのは演奏家の側であって作曲家ではない。演奏家は自分たちの常識が、音楽界の常識と思ってしまうわけ。

それに演奏家は直接聴衆と接するので、「結果」が出やすい。それに、演奏家と作曲家ではどちらが、「実際的な力」を持っているのか?

それについては言うまでもないことでしょ?

音楽界の常識は、往々にして演奏家の常識であって、作曲家の常識ではないわけ。演奏家と作曲家が分業して以来、音楽史においては、そんな作曲家と演奏家のぶつかり合いって、よく出てきますよね?

まあ、批評家のような存在は、作曲家にとっては、そもそも理解者でも協力者でもなく単なるオジャマ虫なんだから、扱いがラク。しかし、演奏家は、作曲家にとって必要な協力者であっても、理解者ではない・・・だからこそ扱いが難しいわけ。

作曲家も演奏家も、本来は、同じ音楽の神を父とする兄弟同士なんだから、最初は一緒に行動するけど、方向性の違いから、やがては諍いとなってしまう。

あらまあ!なんとコミカルな悲劇だこと!!

この「モーゼとアロン」というオペラにおいて、モーゼを作曲家、アロンを演奏家としてみると、ツボを押さえたギャグ満載のオペラになるわけ。基本的には、こんな調子。


1. 作曲家が神から霊感を受ける。

2. 作曲家は自分では自分の曲をうまく演奏できない。

3. と言うことで、演奏が本職の演奏家が登場。とりあえず一緒に活動することになる。

4. 演奏家は見事に演奏する。

5. 見事な「演奏」に民衆は感激!

「感動した!これぞ奇跡だ!」


6. 民衆から絶賛されて「その気」になった演奏家は、もともとの作品にどんどんと手を入れ、ますます民衆を喜ばせる方向に向かってしまう。

7. 作曲家は、

「まっ、とりあえず演奏家に任せておくか・・・」

と、引っ込んで、新たな作曲活動。


8. 民衆の絶賛を浴びた演奏家は、大規模な演奏会を主催して、ますます民衆を喜ばせる。

9. そうなると、もともとの作曲家の意図が完全にどこかに行ってしまう。

10. とんでもない状態になっていることに気が付いた作曲家は、演奏家の元に乗り込んできて、

「こらっ!ええ加減にせんかい!

ものには限度というものがあるんじゃ!

楽譜に忠実に演奏しろよ!」


11. 作曲家の立腹に対し、演奏家は

「そもそもアンタの作品が民衆の理解からかけ離れすぎているのが悪いんじゃないか!」

と反論。


12. 演奏家からの反論を受けながら、

「最後に業績が残るのは作曲家の方なんじゃ!」

と締める。


私個人は作曲家でも演奏家でもありませんが、まあ、上記のようなやり取りって、音楽創造の現場では、ありがちなことではないの?

逆に、そんなぶつかり合いもない状態だったら、創造現場とは言えないでしょ?

オペラに限らず作品の解釈に当たっては、一義的ではないでしょう。受け手の様々な解釈も許容される・・・原理的にはそのとおり。

しかし、ここまでツボを押さえているのだから、作曲をした・・・と言うか台本を書いたシェーンベルクが、モーゼ=作曲家、アロン=演奏家 という役割を考えなかったわけがないでしょ?


そもそも、シェーンベルクはウィーンに生まれたユダヤ人ですが、もともとはユダヤ教徒ではありませんでした。もともとはキリスト教徒だったわけ。だからユダヤ教徒歴よりも作曲家歴の方が長いわけ。シェーンベルクは、まずは、作曲家なんですね。

もちろん、このオペラには、旧約聖書におけるユダヤ人の信仰の問題もあるでしょう。ユダヤ人のアイデンティティの問題だってないわけがない。音楽創造現場の問題とユダヤ人の信仰の問題のどっちがメインのテーマなのかは別として、モーゼとアロンというユダヤの有名人が出てくるんだから、信仰の問題がないわけがない。しかし、ユダヤの問題をメインに扱った作品と考えるには、かなり無理がある。

この「モーゼとアロン」というオペラは、どうして、その歌詞がドイツ語なの?

ウィーン生まれのシェーンベルクにしてみれば、ドイツ語はいわば母国語。自分の考えをまとめたり、歌詞を一番書きやすい言語。だからドイツ語でオペラの歌詞を書いた。それはそうでしょう。しかし、ユダヤ人の信仰の問題を主に扱うのなら、どうせならヘブライ語にした方がいいでしょ?

ドイツ語で台本を書いて、後でヘブライ語に翻訳して、それに音楽をつける・・・

この流れでオペラを作っていけば、たとえヘブライ語が母国語でなくても、台本を書き作曲もできるでしょ?

どうせドイツ語のままだって、演奏頻度が高くなるわけではないでしょ?

そもそもユダヤ人の問題を扱うに当たって、ドイツ語なんて、一番微妙な言語でしょ?

むしろドイツ語だけはやめておく・・・そう考えるのが自然じゃないの?

何と言っても、台本を書き始めた1930年代は、ナチスの台頭などがあったわけですからね。ドイツにおけるユダヤ人差別って、身に染みていた頃でしょ?

あるいは、どうせなら、ドイツ語ではなく、英語にする方法だってあるわけですしね。シェーンベルクは後にアメリカに亡命したわけですから、後になってオペラの歌詞を英語に変更するくらいわけがないでしょう。最初の構想はともかく、ドイツ語のままで台本を書き、作曲を進め、後で修正もせずに、そのまま初演を行うということは、明らかにヘンなんですね。初演は1954年で、シェーンベルクはもうお亡くなりになっていましたが、初演までは結構時間もあったわけですし、翻訳作業は人に任せることもできるでしょ?

翻訳作業を協力してくれる人はいっぱいいますよ。よりにもよって、第2次大戦直後に、苦難に満ちたユダヤ人のドラマをドイツ語で歌い上げられても、それこそがお笑いですよ。せめて、英語ヴァージョンを別に用意して、ドイツ語以外でも歌えるようにしておくのがマトモでしょ?

だから、ユダヤの信仰の問題や苦難に満ちたユダヤ人の問題は、決して、このオペラ「モーゼとアロン」のメインのテーマではないわけ。しかし、この「モーゼとアロン」というオペラが、「理解者と協力者の乖離」という一般論、孤高の人と大衆迎合の人との対立、超越的な存在と、現世的な存在の対比。あるいは、音楽創造の現場における「作曲家と演奏家の対立」というテーマから見れば、ドイツ語の歌詞で何の問題もない。

まさにドイツオペラのおなじみの伝統的なテーマであり、「モーゼとアロン」はその変奏に過ぎないわけ。シェーンベルクは台本を書きながら、

「あのヤロー!よくもあの時はオレの作品をムチャクチャに演奏しやがったな!」

と特定の演奏家なり、演奏のシーンを思い出して台本を書いていたのでは?

まあ、台本を書きながら、アタマから湯気が出ているのが簡単に想像できますよ。アロンの歌詞に付けられた多彩な音楽表情には、自分が作曲した作品を演奏される際に、心ならずも「付けられてしまった」トンチンカンな音楽表情が具体的に反映しているのでは?

それこそ作曲しながら、

「あの時は、よくも・・・よくも・・・オレの曲に余計な表情をつけて・・・」

と、髪を掻き毟りながら作曲していたのでは?これはちょっと想像できないけど・・・

まあ、演奏において、多少はトンチンカンな表情もしょうがないところもあるけど、やっぱり限度があるでしょ?

しかし、民衆から絶賛を浴びて「巨匠」の気分になっている演奏家は、どんどんと暴走して行くばかり。しかし、民衆の趣味に合っているがゆえに、ますます民衆から絶賛を浴びる。そうして大規模な演奏会へ!

第2幕の有名な黄金の子牛のシーンおいて、70人の長老たち語る言葉があります。

「人々は至福の境地だが、奇跡が示したのは、酩酊や恍惚がなんたるかということだ。

変わらぬものはいない。皆が高められている、感動せぬものはいない、皆が感動している。

人間の徳が再び力強く目覚めた・・・」


このセリフって、コンサートと言うか演奏家を絶賛する批評の言葉そのものでしょ?

皆さんだって、上記のような批評の文章を読んだことがあるでしょ?

まったく、ツボを押さえまくり。ギャグ満載ですよ。まあ、延々と饗宴が続く黄金の子牛のシーンって、ザルツブルグ・フェスティヴァルのようなものをイメージしているのでは?

だからこそ、モーゼつまり作曲家が、アロンつまり演奏家に「オマエなんて、所詮は、民衆の側じゃないか!」なんて言い渡す。

気持ちが入ったギャグだねぇ・・・

まあ、オペラにおけるモーゼの持っている石版を楽譜にして、アロンが持っている杖を、指揮棒にする・・・そのように演出しても、何の違和感もないでしょ?

シェーンベルクも恨み骨髄だねぇ・・・こりゃ、確かに、晩年でないと発表できませんよ。これほどわかりやすいメタファーなんだから、本来なら誰でもわかるはずなのに・・・


私個人はそんなことを書いてある解説を見たことがありません。まあ、作曲家の方々なら、簡単にわかるんでしょうが、おおっぴらには言えないのかな?

まさに諸般の事情というか大人の事情があるんでしょうね。ちなみに上記の歌詞は、作曲家でもあるピエール・ブーレーズが指揮したCDから取っています。そのCDに添付されている解説書で

「アナタはご自身を、モーゼだと思う?アロンだと思う?」

なんて質問しているインタビューがあります。いやぁ・・・エゲツナイ。

ブーレーズは、当然のこととして、お茶を濁したような回答。

「つーか・・・よりにもよって、このオレに、そんなこと聞くなよ!」

と思ったのでしょうね。シェーンベルクだけでなくブーレーズだって怒っちゃうよ。

もちろん、この作品において、シェーンベルクが単純に、「演奏家への恨み」をオペラにしたわけではないでしょう。自分が神からの霊感を受けて作曲した作品をメチャクチャに演奏する演奏家に向かって、

「勝手にオレの曲に手を入れるなよ!ええ加減にせんかい!このタコ!」

と、心の中で怒鳴っているシェーンベルクに対して、

「タコはオマエだろう!」

そんな言葉も言う人もいるんじゃないの?

たとえばシュテファン・ゲオルゲやライオネル・マリア・リルケ。

ゲオルゲやリルケが、神からの霊感を受けて文学作品にしたのに、それに勝手に音楽をつけたのは、いったい誰?

後から付けられた音楽が、詩人の意に沿ったものなの?

と言うか、リルケなんて挿絵すらいやがりましたよね?

自分の詩に音楽を付けるなんて絶対に容認しないと思うけどなぁ・・・

まあ、デーメルのような三流詩人に音楽を付けるのはともかく、ゲオルゲのような一流の詩に勝手に音楽をつけてはダメでしょ?

音楽を付けた分だけ、「広まりやすい」とは言えますが、それが本当に詩の本質を伝えることに役に立っているの?

そうなんですね!

シェーンベルクは作曲家として、演奏家が勝手につけてしまう不適切な音楽表情に抗議する側、つまりモーゼのような立場であるとともに、作曲に当たって題材とした文学作品の作者から、抗議される側、つまりアロンでもあるわけ。

「ああ!オレもタコだったんだぁ〜!」

これは色々な意味でそのとおり。しかし、まさにアロンのように、

「だってぇ、だってぇ・・・こうすると、みんなにわかってもらいやすいしぃ・・・みんなも喜んでくれているしぃ・・・」

と言わざるを得ない。しかし、本当に民衆にわかってもらえるの?

民衆との間に、共通の認識・・・いわゆる「理解」と言う次元に到達できたの?

表現において、発し手が想定しているとおりに、受け手が理解する・・・そんなことは実にレアケース。

神から霊感を受けて文章を書いて、それに音楽をつけると、最初の霊感からズレてしまう。それを演奏したら、演奏家の理解によって、ますますズレてしまう。

それを一般聴衆がどう聞くの?

もう、とんでもない伝言ゲーム状態。

最初に創作者が受けた神の言葉はどこに行ってしまったの?

最初の意図が伝わらないのなら、表現っていったい何?

「おお!言葉よ、言葉、私に欠けているのはおまえなのだ!」

第2幕最後にあるモーゼの有名なセリフです。


この場合の「欠けている言葉」は、狭義で言うと、まさに演奏能力となる。もう少し一般化すると表現能力というか伝達能力になるわけ。しかし、そのセリフの前の部分

「想像を超える神よ!

語ることはできない意味あまたなる想念よ!」

と言う言葉と組み合わせてみると、別の面も見えてくる。言葉が欠けているのではなく、言葉によって生み出される関係性が欠けている・・・そう言えるわけ。

言葉、あるいは表現によって、発し手と受け手で認識を共有できる。その共有化された認識がモーゼには欠けていて、アロンには備わっている。
いや!

備わっているというより、アロンはそもそも民衆の側なんだから、「見ているもの」も、民衆と共通している。しかし、モーゼは民衆と見ているものが元から違っているわけ。言葉そのものは同じでも、その意味するところが違っている。だから、言語によって関係性が生み出されることはない。

そのような意味で、この「モーゼとアロン」の台本を書き、作曲をした1874年にウィーンに生まれたユダヤ人のシェーンベルクは、言語表現に懐疑のまなざしを向けた「チャンドス卿の手紙」の作者・・・1874年にウィーンに生まれたユダヤ系のホフマンスタールと全く共通しているわけ。そして、その共通性は、

「語りえぬことについては、沈黙しなくてはならない。」

と言う命題を持つ「論理哲学論考」の作者である哲学者ウィットゲンシュタインと全く共通しています。

「語りえぬことについては、沈黙しなくてはならない。」

と言うウィトゲンシュタインの言葉と、

「想像を超える神よ!語ることはできない意味あまたなる想念よ!」

というシェーンベルクの言葉って・・・笑っちゃうほどよく似ている。


ウィットゲンシュタインは、1889年にウィーンで産まれたユダヤ人。ちなみに、彼の父親はプロテスタント。母親はカトリックです。

シェーンベルクは前に書いたようにユダヤ人なのに、当初はカトリックで後にプロテスタントに改宗、その後になって、今度はユダヤ教に改宗。

それにホフマンスタールが、ユダヤ系なのにカトリックだったことも・・・ご存知でしょ?

そのようなマイノリティは、コミュニケーションに対する無条件の信頼が、もともとないわけ。表現によって、自分の意図が人々に理解され、関係性が広がっていく・・・とは単純に考えない。もちろん、このようなことは言語の向こうにある心理を読もうとした1856年のウィーンに生まれたユダヤ人フロイトにも見られることでしょ?

言語によって関係性、あるいは相互理解が生み出されないという点においては、

「もし、ライオンが言葉を話せても、言っていることは我々にはわからないだろう。」

というウィットゲンシュタインの「言葉」が見事に語っています。真に創造的な領域では、人の言葉ではなく、神の言葉が支配する。だから表現によって、民衆との間に新たなる関係性が生み出されることはない。

じゃあ、どうして表現するの?

アンタが言うように語らないのが本来の姿じゃないの?

どうせ語ってもわかってくれないんだし・・・

まったくもって、おっしゃるとおりなんですが・・・

それがわかっていながら作品を作る、いや!わかっているからこそ、作品を作るわけ。目の前の人よりも、自分が知らない人に宛てて、作品という形で自分の認識を伝えようとする。語りえぬものだからこそ、語る必要があるわけでしょ?

これは別の言い方をすると、受け手が理解できないものだからこそ、作品にする必要があるとも言えますよね?

このことは作品を作る際には、難しく、わかりにくく書くという問題ではないわけ。

何を語るのか?(=WHAT)と言う点において語りえぬものであって、どう語るのか?(=HOW)の問題ではないわけ。

わかりやすく語っていても、語りたい中身そのものが受け手に受け入れられない、というか、多くの人には見えないもの。しかし、だからこそ、語る必要がある。受け手が見えないとわかっているものを、何とかして語ろうとするわけ。

しかし、だからこそ、ますます閉塞する。そして、自分が直面しているそんな閉塞を打破する協力者がほしい。

しかし、協力者であっても理解者ではないので、そんな協力者との共同作業によって、結局は、傷つき、ますます閉塞してしまう。

そのような点でモーゼも、シェーンベルクも、ホフマンスタールも、そして映画「ソフィーの選択」におけるソフィーやネイサンも、そして映画「ウィットゲンシュタイン」におけるウィットゲンシュタインもまったく同じ。

いやぁ!苦笑いせずにはいられない。

「モーゼとアロン」というオペラは、古代のユダヤが舞台と言うより、まさに当時のウィーンの芸術創造現場を、そしてその閉塞感を反映しているわけ。
ああ!ウィーンって街は、何て閉塞が似合う街なんだろう!


そのように見てみると「モーゼとアロン」は実に笑えるオペラでしょ?

このような気持ちが入ったギャグって、笑うだけでは済まないけど。まあ、このような悲痛で自虐的なギャグは、ユダヤ的なギャグの典型ですよね?

そう言う意味では、この「モーゼとアロン」というオペラは、まさにユダヤ的なオペラと言っていいのかも?

http://magacine03.hp.infoseek.co.jp/new/07-09/07-09-27.htm

http://www.asyura2.com/20/reki4/msg/639.html#c3

[近代史4] ナチス時代のフルトヴェングラーは一体何を考えていたのか? 中川隆
4. 中川隆[-13457] koaQ7Jey 2020年3月23日 22:48:18 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[1447]

リヒャルト・ワーグナー「ワルキューレ」


芸術家とは、神から出でた存在であり、神からの霊感を一般の人間に伝え、後生に残すのがその使命。

逆に言うと、ドラマにおいて、神からの言葉を伝えている存在は、芸術家としての自分自身を描いているケースが多いわけ。しかし、神からの言葉を語るがゆえに、一般の人間には理解されない。それゆえに、神からの言葉を受けたものは、一般社会の中で孤立し、苦悩することになる。

孤立の中で、自分の理解者を必死で探したり、神からの言葉を伝えようと、自分の協力者を得ようとして無理をして、その無理によってますます孤立してしまう。結局は、その苦悩がますます深くなる。しかし、一般社会からの孤立ゆえに、神からの霊感は、特定の人や集団を相手とする直接的な語りではなく、客観的な作品として結実することになる。

さて、そんな流れを持つオペラ(正式には舞台祭典劇)の「ワルキューレ」を考えて見ましょう。

題材としては、ゲルマン神話を元にしているわけですが、そのテーマとしては、芸術家としての意識という点から見ると、実に理解しやすいわけ。このオペラの主要人物であるジークムントのキャラクターなり、ドラマにおける役割・・・それがまさに芸術家の姿そのままなんですね。さて、そのジークムントは、神々の長であるヴォータンの血を引いている。つまり、神から出でし存在。

そして、そのヴォータンからの使命を果たすべく、行動することになる。つまり、神からの言葉を実現させる存在。しかし、ヴォータンからの使命を実現させようとするがゆえに、周囲と諍いが起こる。つまり、神からの言葉を実現させようとすると、周囲の一般人とモメることになる。

ジークムントは、自分と同じように神から出でし存在であるジークリンデに入れ込む。

つまり、芸術家は同類同士だと実に理解が早い。

一番困った時に、ヴォータンからの剣ノートゥングが現れる。つまり、芸術家が真に苦悩した時こそ、神からの霊感が訪れる。ジークムントとジークリンデとの結びつきに対し、一般人のフンディングがジャマをする。

つまり、芸術家同士の結びつきには、一般人からの妨害がつきもの。結局は、ジークムントは、一般人であるフンディングにやられてしまう。つまり、芸術家は、一般人には、この世では勝つことができない。

しかし、ジークムントとジークリンデは、ジークフリートを残すことになる。つまり、芸術家が死んでも、その後まで作品は残ることになる。そのジークフリートには、ヴォータンの娘であるブリュンヒルデが助ける。

つまり、芸術家による作品は、芸術的なルーツを持つ同類のサポートによって、世界に出て行くことになる。ジークフリートによって、この世界が浄化される。つまり、芸術家の作品によって、世界が堕落することを防ぐことになり、まさに神の意思が実現される。

と、まあ、芸術家の苦悩と成果と言う視点で見ると、実にツボを押さえた設定になっている。作者であるワーグナーが、自分自身の苦悩なり、芸術家としての意識や役割を踏まえた上で、台本を書いたのがよくわかる。

神からの言葉を語るがゆえに、この一般社会からは理解されないとなると、以前にシェーンベルクのオペラ「モーゼとアロン」を考えております。シェーンベルクは、神からの言葉を直接的に聞くモーゼに自分自身を重ねている。
しかし、一般社会に神の言葉を伝えるためには、神の言葉を直接的に聞くことができない一般人であるアロンを協力者にしなければならない。この「モーゼとアロン」というオペラの場合は、台本を制作した作曲家のシェーンベルクにしてみれば、モーゼ=作曲者,アロン=演奏家 の役割を負っていることはすぐにわかること。

神からの言葉を直接聞くものは、その言葉を多くの人たちに伝えなければならないという使命感と、対象とする一般人の理解力の低さの間の齟齬で苦悩する。そんな苦悩は、歴史を紐解けば、いくらでも出てきますよ。

それこそ、キリストだって、まさにそのパターン。

あるいは、画家のゴッホとかミケランジェロとか、レンブラントとか・・・ほとんどがそのパターンでしょ?逆に言うと、一般人と上手に付き合うことができたルーベンスが、芸術家の立ち位置の理想形として、ウィーダの「フランダースの犬」に出てくることになる。それだけレアケースというわけ。

芸術家は、神からの言葉を聞くがゆえに、一般人から迫害され、殺される。しかし、その言葉は後世まで残ることになる。

神からの言葉に執りつかれた人間は、本当の意味での自由意思はない。神からの言葉は、当人にとって圧倒的な存在であるがゆえに、それ以外の存在が霞んでしまう。

だから、遮二無二行動して、どうしても一般人とのやり取りがうまく行かない。

それこそ、この「ワルキューレ」の中のジークムントのセリフを取り上げてみましょう。

「♪・・・私は人に会う限り、何度でも飽きずに、友を求めたり、女を得ようとしたのですが、私はただ追放されるばかりでした。

何か不吉なものが私の上にありました。私が正しいと考えるものが、他人には悪いことのように思われたのです。私には悪いと思えることを、ほかの人は好んでしたのでした。どこへ行っても反目の中に落とされ、私の行く先々で怒りに襲われたのです・・・♪」 
 
この言葉を、そのままゴッホの伝記に入れても、何も違和感がないでしょ?
あるいは、ベートーヴェンでもOK。
ミケランジェロでも、基本的には、OKでしょうが、まあ、ミケランジェロは「女を得よう」とはしなかったでしょうね。しかし、彼もトラブルを巻き起こしてばかりでしょ?

しかし、それでも作品は残る。自分の死後も残るものを作る・・・それが芸術家の使命。

神よりも、一般人を向いていたら、神の言葉はもう降りてこない。神は嫉み深いもの。

一般社会から疎外された極限の状態にこそ、ノートゥングが現れ、作品のキーとなる霊感が訪れる。しかし、その神の言葉ゆえに、この社会では生きることができない。

結局は、神からの言葉をまとめた作品を制作する創作者だけでなく、その作品を守ろうとした人間までが迫害されてしまう。まるで、ブリュンヒルデが炎に幽閉されたように。しかし、そんな幽閉された芸術家を解き放つのも、神からの言葉をまとめあげた作品。芸術の歴史とは、見方を変えると、まさにこんな感じになっているものでしょ?
http://magacine03.hp.infoseek.co.jp/new/07-12/10-04-26.html
http://www.asyura2.com/20/reki4/msg/639.html#c4

[近代史4] ユダヤ人は性格が悪い _ 大指揮者ブルーノ・ワルターの場合 中川隆
1. 中川隆[-13456] koaQ7Jey 2020年3月23日 23:11:56 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[1448]



ヨハン・シュトラウス 2世 『皇帝円舞曲』
http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/878.html


Bruno Walter /VPO - Johann Strauss : Emperor Waltz 皇帝円舞曲 (1937)


 

http://www.asyura2.com/20/reki4/msg/640.html#c1
[リバイバル3] 中川隆 _ 音楽関係投稿リンク 中川隆
134. 中川隆[-13455] koaQ7Jey 2020年3月23日 23:14:35 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[1449]

世紀末のヨーロッパは芸術も文学も思想も爛熟し絶頂に達した時代
http://www.asyura2.com/20/reki4/msg/632.html

ナチス時代のフルトヴェングラーは一体何を考えていたのか?
http://www.asyura2.com/20/reki4/msg/639.html

ユダヤ人は性格が悪い _ 大指揮者ブルーノ・ワルターの場合
http://www.asyura2.com/20/reki4/msg/640.html
http://www.asyura2.com/09/revival3/msg/450.html#c134

[近代史4] ユダヤ人は性格が悪い _ 大指揮者ブルーノ・ワルターの場合 中川隆
2. 中川隆[-13454] koaQ7Jey 2020年3月23日 23:23:18 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[1450]

アントニン・ドヴォルザーク 交響曲第9番 ホ短調 作品95 『新世界より』
http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/872.html  


ドヴォルザーク 交響曲第9番 ホ短調 「新世界より」 Op. 95, B. 178
ブルーノ・ワルター 指揮 ロサンゼルス・スタンダード交響楽団













ロサンゼルス・スタンダード交響楽団 - Los Angeles Standard Symphony Orchestra
ブルーノ・ワルター - Bruno Walter (指揮)
録音: 16 July 1942

http://www.asyura2.com/20/reki4/msg/640.html#c2
[近代史4] ヒトラーの共産主義との戦い 中川隆
13. 中川隆[-13453] koaQ7Jey 2020年3月24日 07:16:17 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[1451]

ララ・アンデルセン 『リリー・マルレーン』


1939 Lale Andersen - Lili Marlene (original German version)





Original 78rpm issued on Electrola 6993 - Lied eines Jungen Wachtpostens (Lili Marlen) (Schultze-Leip) by Lale Andersen with Bruno Seidler-Winkler Orch. & Chorus, recorded August 2, 1939






▲△▽▼


"Lili Marleen" (Lale Andersen, 1942 [English Version])







▲△▽▼
▲△▽▼


リリー・マルレーン【訳詞付】- Marlene Dietrich







Marlene Dietrich - Lili Marleen





▲△▽▼
▲△▽▼


歌詞の内容は、戦場の兵士が故郷の恋人への思いを歌ったものである。


(ドイツ語詞)


Vor der Kaserne vor dem großen Tor
Stand eine Laterne
Und steht sie noch davor
So wollen wir da uns wiedersehn
Bei der Laterne wollen wir stehen
Wie einst Lili Marleen Wie einst Lili Marleen


Unsre beiden Schatten sahen wie einer aus;
Dass wir so lieb uns hatten
Das sah man gleich daraus
Und alle Leute sollen es sehen
Wenn wir bei der Laterne stehen
Wie einst Lili Marleen Wie einst Lili Marleen


Schon rief der Posten: Sie bliesen Zapfenstreich;
Es kann drei Tage kosten
Kam'rad, ich komm ja gleich
Da sagten wir auf Wiedersehn
Wie gerne würd' ich mit dir gehn
Mit dir Lili Marleen Mit dir Lili Marleen


Deine Schritte kennt sie
Deinen schönen Gang
Aller Abend brennt sie Doch mich vergaß sie lang
Und sollte mir eine Leids geschehn
Wer wird bei der Laterne stehn
Mit dir Lili Marleen? Mit dir Lili Marleen?


Aus dem stillen Raume
Aus der Erde Grund
Hebt mich wie im Traume dein verliebter Mund
Wenn sich die späten Nebel drehen
Werd' ich bei der Laterne stehen
Wie einst Lili Marleen Wie einst Lili Marleen





兵営の前、門の向かいに
街灯が立っていたね
今もあるのなら、そこで会おう
また街灯のそばで会おうよ
昔みたいに リリー・マルレーン


俺たち2人の影が、1つになってた
俺たち本当に愛しあっていた
ひと目見ればわかるほど
また会えたなら、あの頃みたいに
リリー・マルレーン


もう門限の時間がやってきた
「ラッバが鳴っているぞ、遅れたら営倉3日だ」
「わかりました、すぐ行きます」
だから俺たちお別れを言った
君と一緒にいるべきだったのか
リリー・マルレーン


もう長いあいだ見ていない
毎晩聞いていた、君の靴の音
やってくる君の姿
俺にツキがなく、もしものことがあったなら
あの街灯のそばに、誰が立つんだろう
誰が君と一緒にいるんだろう


たまの静かな時には 
君の口元を思い出すんだ
夜霧が渦を巻く晩には
あの街灯の下に立っているから
昔みたいに リリー・マルレーン

http://www.asyura2.com/20/reki4/msg/638.html#c13
[近代史4] ヒトラーの共産主義との戦い 中川隆
14. 中川隆[-13452] koaQ7Jey 2020年3月24日 07:17:20 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[1452]

『リリー・マルレーン』(Lili Marleen)は、第二次世界大戦中に流行したドイツの歌謡曲。

1915年にロシアへの出征を前にドイツの詩人ハンス・ライプ(Hans Leip)が、ベルリンのある兵営の営門に歩哨に立った時に創作した詩集『Das Lied eines jungen Soldaten auf der Wacht』(邦題・港の小さな手風琴)に収録されていた詩を原典として、第二次世界大戦直前の1938年に、作曲家ノルベルト・シュルツェ(Norbert Schultze)が曲をつけた。歌手のララ・アンデルセンの1939年2月に録音したレコードが、有名になった。


大戦下での流行

1939年に発売した当初、アンデルセンのレコードは60枚しか売れなかったと言われている。しかし、販売店に山積みになっていた売れ残りのレコードから、店員がドイツ軍の前線慰問用レコード200枚の中に2枚紛れ込ませた。それが1941年の秋に初めて流され、それ以後も放送で繰り返しかけられて人気を得た[1]。

第二次世界大戦下の一時期、21時57分にベオグラードのドイツ軍放送局から流れたこの歌に、多くのドイツ兵が戦場で耳を傾けて故郷を懐かしみ、涙を流したといわれている。また、ドイツ兵のみならずイギリス兵の間にも流行したため、北アフリカ戦線のイギリス軍司令部は同放送を聞くことを禁じた。アンデルセンも慰問で人気者になったが、長くは続かなかった。1942年夏、アンデルセンと親しい関係にあったロルフ・リーバーマンがユダヤ人であったことが当局に知られてアンデルセンは歌手活動が禁止され、アンデルセンの録音したレコードの原盤は廃棄される事態となる。「リリー・マルレーン」の歌と曲自体は、ヨーゼフ・ゲッベルス宣伝相の指示により別バージョンが作られた。

女性歌手によって歌われることが多い。日本ではベルリン出身のハリウッド女優、マレーネ・ディートリヒの持ち歌として知られている。第二次世界大戦当時、ナチス政権下のドイツを離れ、アメリカの市民権を得ていたディートリヒは進んで連合軍兵士を慰問し、この歌を歌った。そのため、ドイツでのディートリヒは敵側の人間(反逆者)と見なされ、戦後も不人気であった。
https://ja.wikipedia.org/wiki/リリー・マルレーン


ララ・アンデルセン(Lale Andersen , 本名リーゼロッテ・ヘレネ・ベルタ・ボイル、1905年3月23日 - 1972年8月29日)は、ドイツの歌手・女優。

第二次世界大戦中に歌った「リリー・マルレーン」は世界的なヒットとなった。

ララは1905年北ドイツの港町ブレーマーハーフェンに生まれた。
17歳で画家パウル・エルンスト・ヴィルケ(1894年 - 1971年)と結婚、3人の子供(ビョルン、カルメン・リッタ、ミヒャエル)が生まれるが、3人目の子が生まれてすぐ結婚は破綻した。1929年、24歳のララは子供たちを家族に預けてベルリンへ行き、ドイツ劇場の俳優養成学校に通ったと言われている。

1931年に正式に離婚すると、ベルリンのキャバレーなどのステージに立つようになったが、当時の芸名は「リゼロット・ヴィルケ」であった。1933年から1937年まで、チューリッヒの劇場に出演していた際、生涯の友人となる作曲家ロルフ・リーバーマン(1910年 - 1999年)と出会う。

1938年以降は、ミュンヘンのキャバレーや小劇場に出演し、ドイツ民謡(Volkslied)、シャンソン、流行のヒット曲などを歌っていた。この頃の芸名は「ララ・アンデルセン」となっている。

1937年にハイデルベルクでピアニストのカール・フリードリヒ・パッシェと知り合い、その後6年間、舞台やレコード録音の際のピアノ伴奏を任せている。1943年にパッシェが出征した後、ララは結局パッシェ以上のピアニストにはめぐり会えなかった。

ララとリリー・マルレーン

1939年、ミュンヘンのキャバレーに出演していた際にララはひとつの歌に出会った。
ハンス・ライプ(1893年 - 1983年)の詩にノルベルト・シュルツェ(1911年 - 2002年)が曲をつけた歌「リリー・マルレーン」である。
ララはこの曲をレコーディングするが、当時は約700枚がリリースされただけであり、60枚しか売れなかったと言われている。しかし、販売店に山積みになっていた売れ残りのレコードから、店員がドイツ軍の前線慰問用レコード200枚の中に2枚紛れ込ませた。それが1941年の秋に初めて流され、以後放送で繰り返しかけられて人気を得た[1]。ナチス・ドイツ占領下のベオグラードラジオが所蔵する数少ないレコードの中の1枚であった。

しかし、恋人たちの別離を歌った陰鬱な歌詞が士気に悪影響を及ぼすとして、ナチス政府の宣伝相ゲッベルスはこの曲を嫌悪し、ラジオ放送を禁止とする処分を下した。それでも戦地での兵士の人気は一向に衰えず、なぜラジオで流れないのかという問い合わせが多数寄せられたため、ベオグラード・ラジオは放送終了直前、毎晩21時57分に「リリー・マルレーン」を流す決定をした。毎晩21時57分になると、戦場ではドイツ軍、連合国軍を問わず、兵士たちはラジオをつけて聴いていた。

「リリー・マルレーン」を取り上げられ、チューリッヒで親しくなったリーバーマン初め多くの音楽家たちがユダヤ人であったこともあり、ララは歌手活動を禁じられてしまい、自殺を図るが未遂に終わる。9ヶ月後、歌手活動の再開を許可されたものの、ララは帝国文化院(Reichskulturkammer)の監督下に置かれ、「リリー・マルレーン」を歌うことは許されなかった。

ゲッベルスの命令で「勇壮なドラム伴奏を付けた軍歌版」の「リリー・マルレーン」を新たに作ったほか、終戦までの活動としてはプロパガンダに関するものばかりで、映画への出演が1本と英語で何曲か歌うのみであった。しかし「リリー・マルレーン」は、マレーネ・ディートリヒが曲をカバーして米軍を慰問したこともあり、アメリカにも広まっていった。

再婚と歌手への復帰

終戦の直前、ララは北海に浮かぶ東フリースラント諸島のランゲオーク島に移住して、歌手としては引退するが、1949年にスイス人作曲家アルトゥール・ボイル(1915年 - 2010年)と再婚した。1952年、ララは自分で作詞しボイルが作曲した歌で歌手に復帰し、1956年にはある映画の中で「リリー・マルレーン」を歌っている。1960年代にはヨーロッパとアメリカ、カナダのコンサート・ツアーを敢行したほか、1970年になるとテレビ番組に多数出演して活躍した。夫ボイルはララのために約20曲の歌を作り、ララ本人も作詞を手がけている(作詞時のペンネームはニコラ・ヴィルケ)。1969年と1972年に本を出版、1972年の自伝は当時のベストセラーになったが、その出版直後、ウィーンで死亡した(死因については心臓発作か肝臓癌か不明)。67歳。遺体はランゲオーク島に埋葬されている。


映画『リリー・マルレーン』

『リリー・マルレーン』1981年公開。監督ライナー・ヴェルナー・ファスビンダー、主演ハンナ・シグラ。
歌「リリー・マルレーン」と主人公ヴィリーが戦争に翻弄される悲劇を描くが、ララと思しき主人公など登場人物の背景には事実と異なる点が多い。


ララ・アンデルセンの著書
Wie werde ich Haifisch? – Ein heiterer Ratgeber für alle, die Schlager singen, texten oder komponieren wollen(1969年)
Der Himmel hat viele Farben(1972年)

https://ja.wikipedia.org/wiki/ララ・アンデルセン

http://www.asyura2.com/20/reki4/msg/638.html#c14

[近代史02] LPの音をSPの音に変える魔法のスピーカ タンノイ オートグラフ _ 2流オケの音もウイーン・フィルの響きに変える奇跡 中川隆
142. 中川隆[-13451] koaQ7Jey 2020年3月24日 07:33:30 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[1453]

オークション情報〜栄枯盛衰〜 2020年03月24日 | オークション情報
https://blog.goo.ne.jp/jbltakashi/e/70420e03632f1746d78da3010bf63f7c


今や多くのオーディオ愛好家にとってなくてはならないものがネットオークションだろう。

若い頃に欲しくて欲しくてたまらなかった憧れの機器が、ごく身近な存在になり手が届く範囲にあるという喜びは何物にも代えがたいが、その一方で「落ちた偶像」のようにあまり落ちぶれた姿を見たくないという複雑な思いも先に立つ。

たとえていえば容色の衰えた女優をテレビで観るようなものかな(笑)。

つい「平家物語」の冒頭の一節が蘇る。

「祇園精舎の鐘の声、諸行無常の響きあり。沙羅双樹の花の色、盛者必衰の理をあらはす。奢れる人も久しからず、ただ春の夜の夢のごとし。猛き者も遂にはほろびぬ、偏ひとへに風の前の塵におなじ。」

今回は最近のオークションで気になった物件を3件ほどメモしておこう。

言わずと知れたタンノイのウェストミンスターだが、今どきどのくらいの値段で落札されるんだろうと野次馬根性でウォッチリストに入れていたところ、落札額は「50万7千円」だった。

ユニットのエッジが風化していたので要修理品だったがそれにしても安っ。今昔の感がありますなあ。

我が家で購入したのは今から30年ほど前になるが、購入することを妻に言いそびれてしまい実際に運び込む前夜になって告白、そして1週間ほど口を聞いてもらえなかった苦〜い記憶がある(笑)。

今となっては少々「持て余し気味」という皮肉な結果に終わっているが、まあ、腐れ縁というところですかね。

図体が大きいし重たいしで都会のマンション向きではないことも人気が無い原因の一つだろう。

個人的にはオーディオで一番難しいのは「低音対策」だと思っているが、それこそいろんなアプローチがあるものの、箱の力(バックロードホーン)を利用したものとしてはこれが最右翼でしょう。

小さな箱からは絶対に出ない低音を味わえるが、歳を取るにつれ「こじんまりとした音」に傾いていくのはいったいどうしたことか(笑)。


3件目は「AXIOM80」。

かなり希少なユニットなのに、常に途切れることなくオークションに出品されているのはいったいどういうわけか?。

いったん手に入れたものの、とても神経質で鳴らし方が難しいので手放す方が多いような気がする。

このユニットと付き合うには「根気との勝負」に尽きますね。このくらいオーディオを勉強させてくれるユニットはないと思う。

たとえば、ユニットの後ろ側に放出される逆相の音の処理の仕方に伴う「箱のツクリ」方、相性のいいアンプの選択、コード類から電源対策などありとあらゆる知識と行動を総動員しないとうまく鳴ってくれないし、我が家だって未だに進行形の状態で山の頂さえも見えてこない状況にある。

おそらく命尽きるまで果てしない模索が続くことだろうと覚悟を決めている。

余談はさておき、程度の良さそうなこの復刻版の「AXIOM80」はどのくらいの価格で落ちるんだろうと見守っていたところ、結果は「242,000円」なり。

高くつくかどうかはひとえに落札者の「汗と涙」にかかっているが、はたして・・(笑)。

https://blog.goo.ne.jp/jbltakashi/e/70420e03632f1746d78da3010bf63f7c
http://www.asyura2.com/09/reki02/msg/494.html#c142

[リバイバル3] 酷い音のインチキ・レプリカを量産して伝説の評価を落とした Goodmans Axiom80 中川隆
65. 中川隆[-13450] koaQ7Jey 2020年3月24日 07:36:36 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[1454]
オークション情報〜栄枯盛衰〜 2020年03月24日 | オークション情報
https://blog.goo.ne.jp/jbltakashi/e/70420e03632f1746d78da3010bf63f7c


今や多くのオーディオ愛好家にとってなくてはならないものがネットオークションだろう。

若い頃に欲しくて欲しくてたまらなかった憧れの機器が、ごく身近な存在になり手が届く範囲にあるという喜びは何物にも代えがたいが、その一方で「落ちた偶像」のようにあまり落ちぶれた姿を見たくないという複雑な思いも先に立つ。

たとえていえば容色の衰えた女優をテレビで観るようなものかな(笑)。

つい「平家物語」の冒頭の一節が蘇る。

「祇園精舎の鐘の声、諸行無常の響きあり。沙羅双樹の花の色、盛者必衰の理をあらはす。奢れる人も久しからず、ただ春の夜の夢のごとし。猛き者も遂にはほろびぬ、偏ひとへに風の前の塵におなじ。」

今回は最近のオークションで気になった物件を3件ほどメモしておこう。


言わずと知れたタンノイのウェストミンスターだが、今どきどのくらいの値段で落札されるんだろうと野次馬根性でウォッチリストに入れていたところ、落札額は「50万7千円」だった。

ユニットのエッジが風化していたので要修理品だったがそれにしても安っ。今昔の感がありますなあ。

我が家で購入したのは今から30年ほど前になるが、購入することを妻に言いそびれてしまい実際に運び込む前夜になって告白、そして1週間ほど口を聞いてもらえなかった苦〜い記憶がある(笑)。

今となっては少々「持て余し気味」という皮肉な結果に終わっているが、まあ、腐れ縁というところですかね。

図体が大きいし重たいしで都会のマンション向きではないことも人気が無い原因の一つだろう。

個人的にはオーディオで一番難しいのは「低音対策」だと思っているが、それこそいろんなアプローチがあるものの、箱の力(バックロードホーン)を利用したものとしてはこれが最右翼でしょう。

小さな箱からは絶対に出ない低音を味わえるが、歳を取るにつれ「こじんまりとした音」に傾いていくのはいったいどうしたことか(笑)。

3件目は「AXIOM80」。

かなり希少なユニットなのに、常に途切れることなくオークションに出品されているのはいったいどういうわけか?。

いったん手に入れたものの、とても神経質で鳴らし方が難しいので手放す方が多いような気がする。

このユニットと付き合うには「根気との勝負」に尽きますね。このくらいオーディオを勉強させてくれるユニットはないと思う。

たとえば、ユニットの後ろ側に放出される逆相の音の処理の仕方に伴う「箱のツクリ」方、相性のいいアンプの選択、コード類から電源対策などありとあらゆる知識と行動を総動員しないとうまく鳴ってくれないし、我が家だって未だに進行形の状態で山の頂さえも見えてこない状況にある。

おそらく命尽きるまで果てしない模索が続くことだろうと覚悟を決めている。

余談はさておき、程度の良さそうなこの復刻版の「AXIOM80」はどのくらいの価格で落ちるんだろうと見守っていたところ、結果は「242,000円」なり。

高くつくかどうかはひとえに落札者の「汗と涙」にかかっているが、はたして・・(笑)。

https://blog.goo.ne.jp/jbltakashi/e/70420e03632f1746d78da3010bf63f7c

http://www.asyura2.com/09/revival3/msg/686.html#c65

[リバイバル3] 高層マンションには住んではいけない 中川隆
60. 中川隆[-13449] koaQ7Jey 2020年3月24日 07:42:14 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[1455]

2020年03月24日
タワーマンション購入者の悲劇、すべて欠陥マンションだった?

台風で地下設備が水没したタワマン


画像引用:住みたい街・武蔵小杉”セレブタワマン”が停電・断水 住民たちは近隣ホテルへ【台風19号泥水被害】| ニュートピ! https://newstopics.jp/url/8539056

壁が薄く隣の物音が聞こえる

一時期は六本木ヒルズなど富の象徴とされていた高級タワーマンションだが最近評判がよくない。

居住者からの不満や災害への弱さ、高額な維持費や住環境の悪さなどいろいろな問題が起きている。

タワマンの評判が一気に落ちたのは2019年10月の台風19号で、武蔵小杉や二子玉川で被害が大きく報道された。



むろんタワーマンション自体は水没しなかったが、停電したうえ下水が逆流しトイレを流せなくなった。

タワーマンションの電源や駐車場は必ず地下にあるが、当然ながら河川の水位より下にある設備は水没する。

そうならないために堤防や堰や排水ポンプがあるが、この時は排水路を通じて多摩川の水が居住区域に流れた。


本来の役目は居住区域の水を川に排水する排水管だったのだが、水位が上昇したため逆流しタワマン側に多摩川の水が排出されてきた。

この結果2棟のタワマンで地下の電源設備が冠水したうえ下水も流せなくなり、テレビで大きく報道された。

エレベーターが使えないので下から毎日水をくみ上げたり、トイレのために降りてくる様子も報道された。


入居者たちは一様に「タワマンは災害に強いと思っていた」と話したが期待は裏切られた。

マンション側は住民にトイレを使わないよう要請したが、トイレを使用する住民がいて「犯人狩り」まで行われた。

タワマンはエレベーターや電気設備があるから便利なので、これらが使えないと山上の「ぽつんとした民家」と変わらない。


金持ちへのやっかみもあり「タワーマンションは大したことが無い」という風潮に変わった。

安普請と高額な維持費

最近報道されたのはタワマンの壁の薄さで、壁が薄いので有名なレオパレスと変わらないという。

隣の住人の生活音やトイレを使う音まで聞こえてきて、入居した人はイメージとの落差に愕然とする。

なぜこうなるかはタワーマンションは高さを実現するため極限まで軽く作る必要があるため、必然的に壁が薄くなる。


タワマンの壁はベニヤ板か段ボールのようなものでできているので、遮音性はまったく期待できないそうです。

タワマンの外壁や戸境壁は軽量気泡コンクリートやボードが使われていて、段ボールより高級だが普通のコンクリブロックより弱い。

鉄筋コンクリートの低層マンションは型枠を組んでミキサー車でセメントを流すが、タワマンはボードをはめ込むだけで完成する。


低層マンションは頑丈な城のような構造で、タワマンは住居よりは鉄骨倉庫の構造に似ている。

そのほうが軽量に作れて高層階にできるからで、居住性や利便性はまったく考えられていません。

タワマンは維持費が高額で12年ごとに1戸当たり240万が必要とされ、計算すると年20万円になる。

階層による階級格差がある

ところがマンションが高齢化するほど修繕積立金が高くなり、15年後には月4万円、30年後には5万円以上必要になる。

修繕積立金が増えるのは法律上の基準が厳しいからで、多くの高額設備は15年か30年ごとに交換や大修理が必要になります。

法律上定められた設備更新のための費用なのでケチることはできず、入居者が減ればゴーストマンション化が予想される。


中低層マンションでは20年目以降の修繕費用はタワマンの半額程度なので、中古タワマンを買う人はまず居ないでしょう。

3つめのタワマンの欠点は住人の質が悪いことで、上の階の「身分」が高く下の階を差別しているという。

タワマンは上の階ほど販売価格が高いので上層階ほど金持ちで社会的地位が高い。


エレベーターの何階で乗り何階で降りたかでその人の地位や収入がわかってしまうので階層による身分格差が生まれる。

上層階の住人は優越感を感じ、下層階の住人は上から圧迫されているような居心地の悪さを感じるという。

そこまでしてタワマンに住むより郊外の低層マンションの方がよさそうに思えます。

http://www.thutmosev.com/archives/82511999.html

http://www.asyura2.com/09/revival3/msg/654.html#c60

[近代史4] ユダヤ人は性格が悪い _ 大指揮者ブルーノ・ワルターの場合 中川隆
3. 中川隆[-13448] koaQ7Jey 2020年3月24日 08:24:15 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[1456]

Tchaikovsky Sinf n 5 Bruno Walter NBC交響楽団 1940











NBC Symph. Orch.
Bruno Walter
(live rec. 09.03.1940)

http://www.asyura2.com/20/reki4/msg/640.html#c3
[近代史4] ユダヤ人は性格が悪い _ 大指揮者ブルーノ・ワルターの場合 中川隆
4. 中川隆[-13447] koaQ7Jey 2020年3月24日 08:26:31 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[1457]

Tchaikovsky Romeo e Giulietta Bruno Walter 1942録音




Tchaikovsky : Romeo e Giulietta (Ouv. fantasia)
Los Angeles Philarmonic
Bruno Walter ( live rec. 21.05.1942)

http://www.asyura2.com/20/reki4/msg/640.html#c4
[近代史4] ユダヤ人は性格が悪い _ 大指揮者ブルーノ・ワルターの場合 中川隆
5. 中川隆[-13446] koaQ7Jey 2020年3月24日 08:31:28 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[1458]

J.S.Bach St Matthew Passion BWV 244 (first part) - Walter - NYP (1944年)




New York Philharmonic Orchestra
Bruno Walter conductor.
Live rec. April 9, 1944 (only the recording of the first part...)

William Hain (ten) Evangelist
Lorenzo Alvary (bass) Jesus
Nadine Conner (sop)
Jean Watson (alt)
Mack Harrell (bass)  
Nerbert Janseb (bass)

Ralph Kirkpatrick (harpsichord)
Edouard Nies Berger (organ)
Janos Sholz (viola da gamba)
John Corigliano and Michael Rosenker (violins)
John Wummer (flute) / Harold Gomberg (oboe)
The Westminster Choir (J.F. Williamson)


http://www.asyura2.com/20/reki4/msg/640.html#c5
[近代史4] ユダヤ人は性格が悪い _ 大指揮者ブルーノ・ワルターの場合 中川隆
6. 中川隆[-13445] koaQ7Jey 2020年3月24日 08:34:35 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[1459]

Bruno Walter conducts Weber: Oberon, Ouverture (rare video) 1931年




1931 Berlin

http://www.asyura2.com/20/reki4/msg/640.html#c6
[近代史4] ユダヤ人は性格が悪い _ 大指揮者ブルーノ・ワルターの場合 中川隆
7. 中川隆[-13444] koaQ7Jey 2020年3月24日 08:36:54 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[1460]

Bruno Walter, cond. NYPO Schumann: Symphony No.3 "Rhenish" 1941年





Schumann: Symphony No.3 in E flat major "Rhenish"

Bruno Walter, conductor
Philharmonic Orchestra of New York

Recorded in Feb 2, 1941

http://www.asyura2.com/20/reki4/msg/640.html#c7
[近代史4] ユダヤ人は性格が悪い _ 大指揮者ブルーノ・ワルターの場合 中川隆
8. 中川隆[-13443] koaQ7Jey 2020年3月24日 08:38:12 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[1461]

Schumann sinf n 4 Bruno Walter 1940年





Robert Schumann : Sinf. n. 4
NBC Symphony Orch.
Bruno Walter
(live rec. 02.03.1940)

http://www.asyura2.com/20/reki4/msg/640.html#c8
[近代史4] ユダヤ人は性格が悪い _ 大指揮者ブルーノ・ワルターの場合 中川隆
9. 中川隆[-13442] koaQ7Jey 2020年3月24日 08:40:06 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[1462]

Bruno Walter: Schumann: Symphony 3 & 4 (R.1941 & 1938年)





• Symphony No. 3 in E-Flat major, Opus 97 (“Rhenish”)
New York Philharmonic
February 4, 1941; Liederkranz Hall

• Symphony No. 4 in D minor, op. 120
London Symphony Orchestra
April 26, 1938; Abbey Road Studio No. 1, London

http://www.asyura2.com/20/reki4/msg/640.html#c9
[近代史4] ユダヤ人は性格が悪い _ 大指揮者ブルーノ・ワルターの場合 中川隆
10. 中川隆[-13441] koaQ7Jey 2020年3月24日 08:42:50 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[1463]

Schumann:Symphony#4-Bruno Walter & Mozart Festival Orchestra(Paris)1928年





Robert Schumann:Symphony#4 in dminor-Opus 120-

Bruno Walter Conducting The Mozart Festival Orchestra(Paris)-1928 !

http://www.asyura2.com/20/reki4/msg/640.html#c10
[近代史4] ユダヤ人は性格が悪い _ 大指揮者ブルーノ・ワルターの場合 中川隆
11. 中川隆[-13440] koaQ7Jey 2020年3月24日 08:45:45 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[1464]

Bruno Walter /BPO - J. Strauss : Roses of the South - Waltz 南国のバラ (1930)




Berlin Philharmonic Orch.
recorded 2/14, 1930
transfer from Jpn Columbia 78s / J-7663(AX-5448)

http://www.asyura2.com/20/reki4/msg/640.html#c11
[近代史4] ユダヤ人は性格が悪い _ 大指揮者ブルーノ・ワルターの場合 中川隆
12. 中川隆[-13439] koaQ7Jey 2020年3月24日 08:49:19 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[1465]

Bruno Walter - J.Strauss : Die Fledermaus - Overture こうもり序曲 (1938) 再復刻





Orchestre de la Societe de Concerts du Concervatoire
recorded 9 May 1938
transferred from Jpn Columbia 78s / JS-37(2LA-2536)

http://www.asyura2.com/20/reki4/msg/640.html#c12
[近代史4] ユダヤ人は性格が悪い _ 大指揮者ブルーノ・ワルターの場合 中川隆
13. 中川隆[-13438] koaQ7Jey 2020年3月24日 08:51:18 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[1466]

Bruno Walter - Johann Strauss : Wiener Blut ウィーン気質(かたぎ)- 1929 (再復刻)




Berliner Staatskapelle Orch.
recorded in January 1929
transferred from Jpn Columbia 78s / J-7605(AX-4578)

http://www.asyura2.com/20/reki4/msg/640.html#c13
[近代史4] ユダヤ人は性格が悪い _ 大指揮者ブルーノ・ワルターの場合 中川隆
14. 中川隆[-13437] koaQ7Jey 2020年3月24日 08:54:34 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[1467]

Bruno Walter - Johann Strauss II - The Gypsy Baron Overture ロンドン交響楽団





London Symphony Orchestra
Technics SL-1200MK4

http://www.asyura2.com/20/reki4/msg/640.html#c14
[近代史4] ユダヤ人は性格が悪い _ 大指揮者ブルーノ・ワルターの場合 中川隆
15. 中川隆[-13436] koaQ7Jey 2020年3月24日 08:57:22 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[1468]

Walter Conducts Strauss ウィーンの森の物語
Tales from the Vienna Woods, Op. 325




Columbia Symphony Orchestra
Bruno Walter


http://www.asyura2.com/20/reki4/msg/640.html#c15
[近代史4] ユダヤ人は性格が悪い _ 大指揮者ブルーノ・ワルターの場合 中川隆
16. 中川隆[-13435] koaQ7Jey 2020年3月24日 08:59:12 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[1469]

美しき青きドナウ
BLUE DANUBE WALTZ,Op 314''JOHANN STRAUSS ''BRUNO WALTER'conducting the Columbia'' Vinyl,,



http://www.asyura2.com/20/reki4/msg/640.html#c16
[近代史4] ユダヤ人は性格が悪い _ 大指揮者ブルーノ・ワルターの場合 中川隆
17. 中川隆[-13434] koaQ7Jey 2020年3月24日 09:01:09 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[1470]

Bruno Walter - Mozart: Symphony No. 40 - Finale - Berlin Philharmonic 1950年



http://www.asyura2.com/20/reki4/msg/640.html#c17
[リバイバル3] イタリア人が「世界で最も健康な国ランキング」1位!! その理由はオリーブ油? 中川隆
4. 中川隆[-13433] koaQ7Jey 2020年3月24日 09:39:38 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[1471]
イタリアの惨状に心が痛む 2020 MAR 24 by 東 賢太郎
https://sonarmc.com/wordpress/site01/2020/03/24/イタリアの惨状に心が痛む/

イタリアはドイツ人にとって永遠の憧れの地である。かのゲーテもアルプスを越えるとわくわくした。僕の部下たちもお客さんも、ドイツでは渋面を作っているがあっち側へ行くと人が変わったように明るくなった。

何度イタリアへ行っただろう。まずは仕事で、チューリヒから車を飛ばせばゴッタルド・トンネルを抜けてイタリア語圏のルガノへ1時間ちょっとで着いた。そこからコモ湖を経てミラノは1時間だからぜんぜん外国という気がしない。観光、買い物、オペラ、スキー、ゴルフ、サッカーなどの「不要不急」も入れれば2〜30回ぐらいだろうか。

クルーズ船もヴェネチア、ジェノヴァから乗った。最初は35年前。東洋人は我々夫婦だけで、余生でもう一度だけ外国旅行するなら地中海クルーズがいいと思う程楽しくイタリアには特別の思いがある。子供たちが結婚記念日にクルーズのチケットをプレゼントするよと言ってくれたその矢先にコロナ禍が襲ってきてしまったが、残念より何より凄まじい勢いの感染による惨状には心が痛むばかりである。

あの国は財政が苦しいから中国の一帯一路に飛びついたのはわかるし、それがこんな厄災につながろうとは誰も想像しなかった。北部に住みついた中国人労働者が春節でウィルスを持ち帰ったのを遮断しなかった初動の問題はあるが、日本も武漢の閉鎖前の対中国の水際対策のユルさは似たもの同志だ。そのうえにこっちはD・プリンセス号の数字もあるのだから日伊の被害の差は驚くしかない。こんなに失敗してるのになぜ数字が少なくて済んでるんだろう?

統計では示せないが、日本が今のところイタリアのようになっていないのは何よりも、清潔好きという国民性の寄与が非常に大きいと思う。ドイツ人もそうなのだが、それは主婦がテーブルや食器やドアのノブをぴかぴかに磨きカーテンの裾を微塵も汚さないことにプライドをかけて執着するという感じであってちょっとちがう。公衆トイレにまでウォッシュレットがあり、バスタブで頻繁に入浴し、普段からうがい・手洗いが当たり前という身体的な潔癖さという面では日本人に勝る民族はないように思うがどうだろう。

それがイタリア、フランス、スペインのラテン系の人たちとなるとさらに我々とは遠い。例えばハグだ。日本ならカラオケで盛り上がれば社員とのコミュニケーションはOKだが彼らはそれだけではいけない。見ているとやっぱりポイントは締めのハグであり、女性なら両のほっぺにチュチュぐらいは当然というか、場面によってはしないと失礼の雰囲気すらある。酒の勢いではなく立派な文化なのであって、例えばコンチェルトが終わって女性ピアニストに指揮者がしているあれだ。濃厚接触などというも野暮であるが、そうはいっても物理的には濃厚接触以外の何物でもない。

幸か不幸か柄でない僕はハグもキスもまったく不得手でつまんない堅物と思われてたろうが、そのかわりというのもなんだが潔癖症であり、例えばプールサイドの濡れた箇所を歩くのが猫なみに生理的に嫌いである。不潔に感じて気持ちが悪く、おかげで泳ぎは今もさっぱりだ。盃や茶器の回し飲みもウィルスの交換に思えて御免である。電車の吊革はコロナ以前から触らないし、仕方なければ小指と薬指でつかむ。やたらと初対面で握手する西洋の風習に慣れるにも時間がかかった。でも、ここまでではなくともこういう日本人は結構いるのではと思う。空気感染もあるコロナがそれで大丈夫とは思わないが、真逆の性格の人よりは餌食になりにくいだろうとは思う。

いまのところ感染者も死亡者も多くないのは日本人の潔癖さと生真面目な用心深さによるところが大きいというのが私見だ。日本だけ薬があるわけでも、特別な医療があるわけでも、日本人だけ抗体があるわけでも何でもない。まして政府が他国より群を抜いて良い手を打ったわけでも資質において優秀なわけでもまったくない。
いまだウィルスに「丸腰」状態なのはイタリアと変わらず、都市封鎖までして約3248人(3月20日現在)が死亡して「地獄」と化した武漢みたいになる可能性は全然消えていない。何度も書くが、桜が咲いて気が緩み、学校閉鎖が解けてなにか事は済んだようなユルい空気が広がると危険で、不顕性キャリアが増えて一気に感染者が増えるオーバーシュートになると医療限界を超えてイタリアの二の舞になる可能性は十分にある。

潔癖さと生真面目な用心深さが緩んだら終わりだ。人の噂も七十五日とはよくいったもので、株式市場を見てると確かに日本人は2か月半で物事を忘れる傾向がある。1月半ばから始まったコロナ騒動は、3月末でそれを迎える。

https://sonarmc.com/wordpress/site01/2020/03/24/イタリアの惨状に心が痛む/
http://www.asyura2.com/09/revival3/msg/972.html#c4

[近代史4] ユダヤ人は性格が悪い _ 大指揮者ブルーノ・ワルターの場合 中川隆
18. 中川隆[-13432] koaQ7Jey 2020年3月24日 10:07:33 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[1472]

Beethoven:Violin Concerto in D Opus61
Joseph Szigeti-Violin Bruno Walter & BRITISCH SYMPHONY ORCHESTRA 1932年



http://www.asyura2.com/20/reki4/msg/640.html#c18
[近代史4] ユダヤ人は性格が悪い _ 大指揮者ブルーノ・ワルターの場合 中川隆
19. 中川隆[-13431] koaQ7Jey 2020年3月24日 10:09:39 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[1473]

Walter Gieseking & Bruno Walter - Beethoven "Emperor" Concerto 1934年




Wiener Philarmoniker
dir. Bruno Walter

rec. 1934

http://www.asyura2.com/20/reki4/msg/640.html#c19
[近代史4] ユダヤ人は性格が悪い _ 大指揮者ブルーノ・ワルターの場合 中川隆
20. 中川隆[-13430] koaQ7Jey 2020年3月24日 10:11:18 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[1474]

Horowitz/Walter: Brahms, Concerto No.1 (1936年)




Concertgebouw Orchestra, Bruno Walter

http://www.asyura2.com/20/reki4/msg/640.html#c20
[近代史4] ユダヤ人は性格が悪い _ 大指揮者ブルーノ・ワルターの場合 中川隆
21. 中川隆[-13429] koaQ7Jey 2020年3月24日 10:12:55 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[1475]

Vladimir Horowitz/Bruno Walter (Better Sound) Tchaikovsky Piano Concerto # 1 April 11 1948年




Vladimir Horowitz
Bruno Walter
The New York Philharmonic
April 11 1948 NY.

http://www.asyura2.com/20/reki4/msg/640.html#c21
[近代史4] ユダヤ人は性格が悪い _ 大指揮者ブルーノ・ワルターの場合 中川隆
22. 中川隆[-13428] koaQ7Jey 2020年3月24日 10:15:24 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[1476]

Dame Myra Hess and Bruno Walter: Brahms Second Piano Concerto (1951年 concert performance)





A February 11, 1951
Dame Myra Hess
the New York Philharmonic
Bruno Walter

http://www.asyura2.com/20/reki4/msg/640.html#c22
[近代史4] ユダヤ人は性格が悪い _ 大指揮者ブルーノ・ワルターの場合 中川隆
23. 中川隆[-13427] koaQ7Jey 2020年3月24日 10:21:29 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[1477]

Brahms Symphony No. 4 op.98 - Bruno Walter - NYP - 1945年




New York Philharmonic - May 6, 1945, Live recording.

http://www.asyura2.com/20/reki4/msg/640.html#c23
[近代史4] ユダヤ人は性格が悪い _ 大指揮者ブルーノ・ワルターの場合 中川隆
24. 中川隆[-13426] koaQ7Jey 2020年3月24日 10:25:03 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[1478]

ベルリオーズ 『幻想交響曲』
http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/916.html  


ブルーノ・ワルターの『ベルリオーズ 幻想交響曲』





ブルーノ・ワルター指揮パリ音楽院管弦楽団
GRAMMOFONO。戦前SPの復刻。1939年5月19日録音。

上のNBCへの客演のあと、まだワルターはヨーロッパに戻ってフランスあたりに腰を落ち着けていた。しかし、これが戦前のヨーロッパでの最後の録音となった。
意外にも、ワルターはこの曲が好きだったらしく、晩年になってもこの録音を愛聴していたらしい。
http://classic.music.coocan.jp/sym/berlioz/berlioz.htm

http://www.asyura2.com/20/reki4/msg/640.html#c24
[近代史4] ユダヤ人は性格が悪い _ 大指揮者ブルーノ・ワルターの場合 中川隆
25. 中川隆[-13425] koaQ7Jey 2020年3月24日 10:29:36 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[1479]

Bruno Walter, cond. RPO R.Strauss: Dun Juan Op.20 1926年





R.Strauss: Dun Juan -Tone Poem Op.20

Bruno Walter, conductor
Royal Philharmonic Orchestra

Recorded in 1926

http://www.asyura2.com/20/reki4/msg/640.html#c25
[近代史4] ユダヤ人は性格が悪い _ 大指揮者ブルーノ・ワルターの場合 中川隆
26. 中川隆[-13424] koaQ7Jey 2020年3月24日 10:33:15 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[1480]

Walter conducts Beethoven - Haydn - Strauss - BSO 1947年 (complete concert)





Boston Symphony Orchestra, Bruno Walter conductor
(Live Rec. January 21, 1947)

Beethoven: “Prometheus” Ouverture
Haydn: Symphony No. 92
R.Strauss: Don Juan op.20

http://www.asyura2.com/20/reki4/msg/640.html#c26
[近代史4] ユダヤ人は性格が悪い _ 大指揮者ブルーノ・ワルターの場合 中川隆
27. 中川隆[-13423] koaQ7Jey 2020年3月24日 10:42:13 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[1481]


Death and Transfiguration, Op. 24 · NBC Symphony Orchestra, Bruno Walter




交響詩「死と変容」 Op. 24, TrV 158

NBC交響楽団 - NBC Symphony Orchestra
ブルーノ・ワルター - Bruno Walter (指揮)
録音: 25 March 1939



Till Eulenspiegel, Op. 28 · Richard Strauss · Los Angeles Philharmonic · Bruno Walter



http://www.asyura2.com/20/reki4/msg/640.html#c27
[近代史4] ユダヤ人は性格が悪い _ 大指揮者ブルーノ・ワルターの場合 中川隆
28. 中川隆[-13422] koaQ7Jey 2020年3月24日 10:52:51 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[1482]

楽劇「サロメ」より「七つのヴェールの踊り」





Bruno Walter
Berliner Philharmonic
1930/2/14

http://www.asyura2.com/20/reki4/msg/640.html#c28
[近代史4] ユダヤ人は性格が悪い _ 大指揮者ブルーノ・ワルターの場合 中川隆
29. 中川隆[-13421] koaQ7Jey 2020年3月24日 11:02:33 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[1483]

Walter : Wagner Eine Faust-Ouvertüre Part 1&2 1923年





Wagner : Eine Faust-Ouvertüre Part 1&2,

Bruno Walter / Berliner Philharmoniker,

Record : POLYDOR 65955, Matrices : 1519as,71az,

recorded ca.1923

http://www.asyura2.com/20/reki4/msg/640.html#c29
[近代史4] ユダヤ人は性格が悪い _ 大指揮者ブルーノ・ワルターの場合 中川隆
30. 中川隆[-13420] koaQ7Jey 2020年3月24日 11:05:37 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[1484]

Bruno Walter conduct & plays Wagner (M. Harshaw & K. Flagstad) Live 1952-‘53年





RICHARD WAGNER

• Siegfried Idyll
• TRISTAN UND ISOLDE: Prelude & Liebestod with Margaret Harshaw, sp
Los Angeles Philharmonic Orchestra
July 14, 1953 (misdated on the booklet)


• PARSIFAL: Prelude
New York Philharmonic Orchestra
March 23, 1952


• Wesendonck-Lieder
Kirsten Flagstad, sp
BRUNO WALTER, pf
New York, Carnegie Hall
March 23, 1952

http://www.asyura2.com/20/reki4/msg/640.html#c30
[近代史4] ユダヤ人は性格が悪い _ 大指揮者ブルーノ・ワルターの場合 中川隆
31. 中川隆[-13419] koaQ7Jey 2020年3月24日 11:07:29 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[1485]

Walter conducts Beethoven & Wagner - NYP - 1944年 (complete concert)





Bruno Walter, conductor - New York Philarmonic.
May 14, 1944; Carnegie Hall (live broadcast)

Beethoven: Symphony No.6 op.68 "Pastoral"

Wagner:
Lohengrin Preludes Act 1 & 3,
Tristan Prelude and Liebestod.

http://www.asyura2.com/20/reki4/msg/640.html#c31
[近代史4] ユダヤ人は性格が悪い _ 大指揮者ブルーノ・ワルターの場合 中川隆
32. 中川隆[-13418] koaQ7Jey 2020年3月24日 11:12:12 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[1486]

THE BEST WAGNER CONDUCTED BY BRUNO WALTER





Royal Philharmonic Orchestra
Bruno Walter



1. Parsifal, Act l: Prelude 00:00

2. Parsifal: Music Of Change Scene 11:09

3. Parsifal: Klingsors Zaubergaten 15:20

4. Der Gotterdammerung: Siegfried Rheinfahrt 28:23

5. Rienzi: Overture 34:55

6. Tannhauser: Venusberg Music 45:34

7. Der Fliegende Hollander: Overture 56:46

8. Lohengrin, Act lll: Prelude 1:06:38



1925年の「パルジファル」のクリングゾルの魔法の庭園の音楽は、ワルター・マニアには有名な録音で、まだワーグナーは細切れ録音が一般的だった時期に13分もまとまった一場面を録音しており、ワーグナー指揮者としても高名だった時期のワルターの姿を伝えるものとして貴重なものです。歌が省かれている分、ワルターの音楽作りがよく分かります。



ロイヤル・フィルハーモニー管弦楽団
録音 : 1925年
録音 : 1927年

http://www.asyura2.com/20/reki4/msg/640.html#c32
[近代史4] ユダヤ人は性格が悪い _ 大指揮者ブルーノ・ワルターの場合 中川隆
33. 中川隆[-13417] koaQ7Jey 2020年3月24日 11:14:07 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[1487]

Bruno Walter: Funeral March of Goetterdaemerung by Wagner 1931年






Bruno Walter: Funeral March of Goetterdaemerung by Wagner

with British Symphony Orchestra recorded in 1931.




http://www.asyura2.com/20/reki4/msg/640.html#c33
[近代史4] ユダヤ人は性格が悪い _ 大指揮者ブルーノ・ワルターの場合 中川隆
34. 中川隆[-13416] koaQ7Jey 2020年3月24日 11:16:43 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[1488]

Walter conducts Beethoven - Haydn - Wagner - NYP 1943年 (complete concert)




November 7, 1943 Carnegie Hall (live rec.)
Bruno Walter - New York Philharmonic.

American National Anthem
Beethoven Egmont Overture op.84
Haydn Symphony no. 88
Brahms Symphony No. 1 op.68

http://www.asyura2.com/20/reki4/msg/640.html#c34
[近代史4] ユダヤ人は性格が悪い _ 大指揮者ブルーノ・ワルターの場合 中川隆
35. 中川隆[-13415] koaQ7Jey 2020年3月24日 11:19:06 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[1489]

Wagner: "Rienzi" Ouvertüre [Dir. Bruno Walter] 1926年




"Rienzi"'s Overture by Wagner.
Royal Philharmonic Orchestra, conducted by Bruno Walter
Rec. 15-06-1926

http://www.asyura2.com/20/reki4/msg/640.html#c35
[近代史4] ユダヤ人は性格が悪い _ 大指揮者ブルーノ・ワルターの場合 中川隆
36. 中川隆[-13414] koaQ7Jey 2020年3月24日 11:21:03 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[1490]

Bruno Walter - Wagner : Dance of the Apprentices and Entrance of the Masters(Die Meistersinger)





「徒弟たちの踊りと名歌手の入場」
British Symphony Orch.
recorded in the central Hall, Westminster, 5/22, 1932
transfer from Jpn Columbia 78s / J-8175(CAX-6398)

http://www.asyura2.com/20/reki4/msg/640.html#c36
[近代史4] ユダヤ人は性格が悪い _ 大指揮者ブルーノ・ワルターの場合 中川隆
37. 中川隆[-13413] koaQ7Jey 2020年3月24日 11:24:06 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[1491]

Bruno Walter conducts Wagner - Overture: The Flying Dutchman (Der fliegende Holländer) 1936年







Bruno Walter
Amsterdam's Royal Concertgebouw Orchestra
1936 recording

http://www.asyura2.com/20/reki4/msg/640.html#c37
[近代史4] 世紀末のヨーロッパは芸術も文学も思想も爛熟し絶頂に達した時代 中川隆
32. 中川隆[-13412] koaQ7Jey 2020年3月24日 12:42:03 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[1492]

世紀末の画家 ポール・ゴーギャン


Tahiti Dances







黄金の肉体/ゴーギャンの夢 
Paul Gauguin THE WOLF AT THE DOOR / DONALD SUTHERLAND





「後期印象派画家」ポール・ゴーギャン(Paul Gauguin)の絵画集




Paul Gauguin: A collection of 283 paintings (HD)





Gauguin In Tahiti: Search For Paradise 1967




▲△▽▼


ゴーギャンこそ「南国楽園」白人セックスツーリズムおよび児童買春ツーリズムのパイオニアである

ゴーギャンは美化されるばかりで、まったく批判的には語られないが、このことは、アジア・アフリカにおける、あるいは戦場における、白人の性的犯罪がほとんど指弾されることがないのとパラレルである。

ネットではほとんど見つからないが、ゴーギャンがタヒチで書いた裸婦画には児童の裸も多くある。生々しい風合いがあり、実物がモデルであるだけに実際 性的な欲望を刺激する作品もある。実在のモデルが明らかに児童で、幼い乳房、恥らうように内股に立つ姿勢が生々しい作品もあったと記憶する。
「西洋文明と西洋美術に絶望した孤高の画家」などと美化されているが、晩年のゴーギャンは、「より幼い女」をあさってタヒチの島々を転々としたのであり、画才のあるエロ狂いに過ぎない。

ゴーギャンの美術は、今に至る白人のセックスツーリズム、児童買春ツーリズムの文化と一体のものであり、ゴーギャンこそは、セックスツーリズムおよび児童性愛ツーリズムのパイオニアなのである。

ゴーギャンは、東南アジアに屯し堂々と買春ヴァカンスを楽しむ白人たちの理想型である。「ゴーギャンのような生き方」が、世界中で白人たちが展開する非白人児童の性的搾取の醜さをあいまいにする口実にもなっているのである。

芸術性と犯罪性(猥褻性や児童ポルノ性)とは無関係である。これは日本の裁判所も認める正しい立場だ。芸術性と猥褻性とが関係があるとすること、芸術性によって猥褻性が緩和されたり滅却されたりするとすること、要するに、「芸術性が高いから猥褻ではない場合がある」とすることは、法が(司法が)「芸術性」の有無や高低について判断を下すことを意味する。これほど甚だしい法の僭越はないだろう。
ゴーギャンの絵にどれほど芸術性があろうと、児童ポルノは児童ポルノである。ゴーギャンの描いた絵のいくつかは明らかに児童ポルノであり、白人男のフランス植民地における小児性愛・児童虐待の絵画的な記録である。
ゴーギャンは児童ポルノ画家である。
http://kuantan-bin-ibrahim.blogspot.com/2009/10/blog-post_12.html



フランス植民地タヒチでのゴーギャンの「幼女性愛」は、一度も倫理的に非難されたことがない。

ゴーギャンの生き方は、モームの「月と六ペンス」のモチーフにされたりして、白人たちによって理解を示され、美化されてきたが、非難されたことはない。むしろ南国バカンス白人の理想型とされているといえるだろう。 この鬼畜行はそれほど昔の話ではない。日本が台湾を併合したころのことである。

ゴーギャンはフランス植民地の原住民女性を自由にもてあそんで、ひょっとしたら、カネすら払わなかったのではないか。 白人や進歩主義者の基準では、どんな事実上の力関係が背景にあろうと、形式的な合意があって「無料の」セックスであれば、「自由恋愛」として正当化される。その時点で彼らは、一切の罪悪感を感じなくなる。ただし、それも「男が白人」の場合のみである。

晩年のゴーギャンは、女を自由にできる環境を求めて、島から島へと渡り歩いたという。
  
フランスはいまなお、植民地「仏領ポリネシア」にしがみつき、核実験による放射能汚染にも罪悪感も責任もこれっぽっちも感じていない。 アフリカ植民地で奴隷狩りをやっていたころと同じ植民地主義の延長が、いまなお、フランス人の心にもアジア太平洋にも、脈々と生き残っている。 しかし、その仏領ポリネシアを、「フレンチポリネシアはすばらしい」と言ってよろこんで訪れるバカな日本人ツーリストがあとを絶たない。 そういうこともまた、フランス人の植民地支配の自信を後押しする要因になっている。
http://iscariot.cocolog-nifty.com/kuantan/2006/02/25_0628.html



ゴーギャン展 東京国立近代美術館。

 展示は解り易く年代順に、師ピサロを含めた印象派の影響がいかにも強い初期の数点から始まる。1886年のブルターニュ滞在以降、次第に「ゴーギャンらしい」絵になっていき、そして91年のタヒチ行きとなる。

 続いて、連作版画「ノアノア」(1893−94)。帰国後、タヒチの絵の評判が悪かったため、まずタヒチの宣伝をしようと発表したものである。最後はタヒチ移住(1895)からマルキーズ諸島での死(1903)まで、「我々はどこからきたのか 我々は何者か 我々はどこへ行くのか」までを含む7点。
以下に掲載した画像のうち、ゴーギャンの作品はすべてこの展覧会で展示されたもの。

『男の凶暴性はどこから来たか』(リチャード・ランガム/デイル・ピーターソン、三田出版会)では、「幻想の楽園」と題する第五章で、南洋諸島に都合のいい「楽園」を見ようとした人物としてゴーギャンを挙げている。

 それによると、ゴーギャン(1848−1903)はタヒチを、ほかの男に邪魔されないプライベート・クラブであり、純真でありながら口説けばすぐに落ちる少女や女たちで溢れた「楽園」として描いた。その楽園には男は一人しかいなかった。
その男は楽園の創設者であると同時に覗き見をする者でもあり、性的な魅力のある若い娘たちの姿に夢を追いながら、自然の中の平和という素朴な観念を満足させていたのである。

 しかし現実の止め処もなく「文明化」していく島での生活に於いては、役人や同国人と絶えずトラブルを起こし、性の相手には不自由しなかったものの、性病が原因で次第にそれもままならなくなっていく。
 
 ま、どんなものにせよ、他人の見解は鵜呑みにすべきではなく、少なくともゴーギャンの「視線」については、ランガムとピーターソンが言うほど単純ではなかっただろう、とゴーギャンの絵の実物を目の当たりにして思いましたよ。

「画家=男」の視線については、ちょうど佐藤亜紀氏が先日の講義でドラクロワ(「サルダナパールの死」)とアングル(「トルコ風呂」)のそれを比較しておられた。

 ドラクロワはサルダナパールに自己投影すると同時に、そんな自分に対する陶酔している。

 一方、アングルの視線は絵の外にある。円いフレームは覗き穴であり、女たちは見られていることに気づいていない。この視点の違いは、それぞれの性格の差にも拠るが、何よりも描いた時の年齢に拠るところが大きいだろう。ドラクロワは29歳、アングルは、なんと82歳である。



1894年「パレットをもつ自画像」。

 そういや、ゴーギャンがどんな顔をしてたのかすら知らなかったのであった。『炎の人ゴッホ』ではゴッホに扮したカーク・ダグラスが、よく似てるだけに、なんつーかコスプレみたいだったが、ゴーギャン役のアンソニー・クインも、結構実物と同じ系列の顔だったのね。

 自画像からは、強い自意識が感じ取れる。ゴーギャンの興味は無論、己の顔の造形やそれをどう描くかではなく、その内面を表現することである。



1892年「かぐわしき大地」。

 ゴーギャンの視点は画面の外にある。女はゴーギャンに、画面の外の男に視線を向けている。彼女の内面は窺えない。だが、視線の先の男に対して興味を抱いているのは明らかだ。言うまでもなく男にとっては、それだけで充分である。
.

1890−91年「純潔の喪失」。

 モデルは、お針子でゴーギャンの愛人、ジュリエットだという。妊娠させた彼女を捨てて、ゴーギャンはタヒチへと発つ。 このジュリエットの死体のように蒼褪めた肉体に比べれば、「かぐわしき大地」の女のそれは、まさに黄金のごとく輝く。完璧な肉体の表現に、「内面」は伴っていない。必要ないのだ。


1897−98年、“D'où venons-nous? Que Sommes-nous? Où allons-nous?”

 二分割された画面の右側、背を向けた二人の女は、アングルが好んで描くポーズを思わせる。寄り添って座り、画面の外の男を窺い見る二人の女のうち手前のポーズは、マネの「草上の昼食」と同じである。偶然ではあるまい。

そして、画面の外を窺い見る「異国の女たち」という主題は、ドラクロワの「アルジェの女たち」と共通である。こちらは参考にしたというより、同じ主題を扱えば自ずと似てくるのであろう。

 魂のない、顔と身体だけの存在。無論、「見られる女」の内面が問題とされないのは、むしろ当然である。女が何を考えていようと、「見る男」にはどうでもいい。せいぜい、彼に対して興味を抱いているか否か、くらいなものだ。共有するものが少ない「異国の女」であるなら、なおさらである。

 という、わかりやすい解釈に収まりきらないのが、黒い犬の存在だ。


1892年「エ・ハレ・オエ・イ・ヒア(どこへ行くの?)」

 女たちばかりのタヒチの風景の多くに、この黒い犬は入り込んでいる。ゴーギャンの分身であるのは間違いない。 画面の外から女たちを眺めると同時に、画面の中にもいる。ハレムの王などではなく、女たちと性交できないばかりか、多くの場合、顧みられさえしない存在としてである。

 悪夢さながらの現実の中、描き続けたのは楽園の夢だった。夢そのものは、都合のいい、しょうもない妄想だと断じてしまうことができるだろう。それでもその作品は、紛れもなく力強い。
http://niqui.cocolog-nifty.com/blog/2009/07/index.html

http://www.asyura2.com/20/reki4/msg/632.html#c32
[近代史4] 世紀末のヨーロッパは芸術も文学も思想も爛熟し絶頂に達した時代 中川隆
33. 中川隆[-13411] koaQ7Jey 2020年3月24日 12:48:39 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[1493]
ゴーギャンは何故ヨーロッパを捨ててタヒチを選んだのか?

『楽園への道』

  「ここは楽園ですか」「いいえ次の角ですよ」。子供たちが集まっての鬼ごっこ。主人公がフランスとペルーとポリネシアで見かけた子供たちの遊び―そこには「楽園に辿りつきたい」という世界共通の願いが込められています。ペルー生まれの作家バルガス・リョサ著『楽園への道』 (河出書房新社 08.1刊、池澤夏樹編世界文学全集第2巻)は、多くの人たちがユートピアを追い求めた19世紀に生きた、時代の反逆者にして先駆者であった二人の生涯を追った歴史小説です。

「スカートをはいた扇動者」といわれたフローラ・トリスタン(1803-1844)と「芸術の殉教者」ポール・ゴーギャン(1848‐1903)。二人の飽くことのない凄まじいばかりの「楽園」追求に圧倒されます。二人は、祖母と孫の間柄でした。

41歳で亡くなったフローラの短い人生を象徴するのは、彼女を絶えず襲う膀胱と子宮の痛み、そして心臓の近くに食い込んだ銃弾でした。原因は、夫であった版画家のアンドレ・シャザル。ペルー人の父親の死後、貧困な生活の中で母親から無理強いされた結婚。「夫と暮らしたあのぞっとする4年間に、一度として愛の営みをしたことがなかった。毎晩、交尾した。いや、交尾させられたのだ」。この下腹部の痛みは、結婚以来続いています。胸の銃弾は、フローラが裕福な叔父のいるペルー(夫からの逃亡先)からフランスに戻り、自らの半生を書いた自伝で成功を収めたときシャザルに撃たれ、手術後心臓近くに残ったものです。

 アリーヌは、シャザルとの間のフローラの3番目の子供。アリーヌは、シャザルに3度誘拐され、強姦されます。フローラはシャザルを告訴し、その争いの中で、シャザルに撃たれたのです。不幸な娘アリーヌは、ジャーナリストのクロヴィス・ゴーギャンと結婚し、ポールを生みます。1848年の革命後、クロヴィスは家族を伴って、新天地を求めてペルーに向かいます。しかし旅の途中で病死し、アリーヌは二人の子供とともにペルーへ。ペルーでは、裕福な祖父の弟に歓迎され、アリーヌも子供たちも、生まれて初めて幸福な日々を送ります。ポール・ゴーギャンが、南の地に「楽園」をイメージするのは、このときの体験によるものです。

 ポール・ゴーギャンは1891年6月、タヒチに到着します。43歳のときです。93年に一度フランスへ帰りますが、95年再びタヒチへと戻ります。1901年9月にタヒチから更に「未開」の地マルキーズ諸島に移り、03年に55歳で亡くなるまでその地に住み続けました。

 タヒチでの最初の妻テハッアマナをモデルに描いたのが『マナオ・トゥパパウ(死霊がみている)』。裸でうつ伏せになったハッアマナがトゥパパウ(死霊)に怯えている。ヨーロッパがなくしてしまった幻想的な経験に、ゴーギャンは興奮に震えます。

 『パペ・モエ(神秘の水)』。樵の少年と彫刻の素材を探しに、山に入っていきます。冷たい水の中に入り、少年が身体を寄せてきます。「青碧色の空間、鳥のさえずりもなく、聞こえるのは岩に当たるせせらぎの音だけで、静寂と安らかさ、解放感が、ここはまさしく地上の楽園にちがいないとポールに思わせた。またもやペニスが硬くなって、かつてないほどの欲望に気が遠くなりそうだった」。ゴーギャンは、マフー(両性具有者)に、偉大な異教文明ならではの自然さを感じます。著者バルガス・リョサのホモ・セクシャルなシーンは、ここでも美しい。

ゴーギャンは主張します。「美術は、肌の白い均整の取れた男女というギリシャ人によって作り出された西洋の美の原型から、不均衡で非対称、原始民族の大胆な美意識の価値観に取って代わられるべきで、ヨーロッパに比べると原始民族たちの美の原型は、より独創的で多様性に富んでいて猥雑である。・・・

原始芸術では、美術は宗教とは切り離すことはできず、食べることや飾ること、歌うこと、セックスをすることと同様に、日常生活の一部を形成している」と。


 盲目の老婆のエピソードは、ゴーギャンの立ち居場所を示唆して、興味深い。ゴーギャン自身も、極度に視力を衰えさせています。ボロを身にまとった老婆が、どこからともなく現われます。杖で左右をせわしく叩きながら、ゴーギャンのもとにきました。

「ポールが口を開く前に老婆は彼の気配を感じて手を上げ、ポールの裸の胸にさわった。老婆はゆっくりと両腕、両肩、臍へと手でさぐっていった。それからポールのパレオを開いて、腹をなで、睾丸とペニスをつかんだ。検査をしているかのように、彼女はつかんだまま考えていた。

それから表情を曇らせると、彼女は胸糞が悪そうに叫んだ。「ポパアか」・・・
マオリの人々はヨーロッパ人の男をそう呼ぶのだった。」

ポリネシアに「楽園」を夢見てきたゴーギャンの、挫折の場面です。セックスによって原始にアプローチし、そしてセックスによって原始から挫折するゴーギャン。1903年、ひどい悪臭を漂わせながら、死んでいきました。

そして、最も忌み嫌い反抗し続けたカトリック司教の決めた場所に埋葬されました。 墓碑銘としての司教の手紙には、次のように書かれていました。

「この島において最近、記すに足ることはひとつ、ポール・ゴーギャンという男の突然の死だが、彼は評判高い芸術家であったが神の敵であり、そしてこの地における品位あるものことごとくの敵であった」
http://minoma.moe-nifty.com/hope/2008/01/post_937b.html


わが国でもっとも広く読まれているゴーギャンの著作は、タヒチ紀行「ノア・ノア」であろう。しかし、これまでの流布本は、友人の象徴派詩人シャルル・モーリスが大幅に手を加えたものを底本にしており、オリジナルにくらべると〈はるかに真実味の薄い、誇張された〉ものであった。

ゴーギャン自筆の原稿をはじめて翻訳した本書は従来看過されていた真の意図を明らかにし、彼の素顔を示してくれるであろう。また、レンブラント、ドガ、セザンヌ、ゴッホ、ルドン、マラルメ、ランボー等に関する思い出やエッセイはこの創造的な芸術家・思想家の内面を語ると同時に、魅力的な作家論ともなっている。

〈私は単純な、ごく単純な芸術しか作りたくないんです。そのためには、汚れない自然の中で自分をきたえなおし野蛮人にしか会わず、彼等と同じように生き、子供がするように原始芸術の諸手段をかりて、頭の中にある観念を表現することだけにつとめなければなりません。こうした手段だけが、すぐれたものであり、真実のものなのです〉(タヒチに発つ前、1891)

〈私は野蛮人だし、今後も野蛮人のままでいるつもりだ〉(死の直前)
http://www.msz.co.jp/book/detail/01521.html

『ゴーギャン オヴィリ』
一野蛮人の記録 ダニエル・ゲラン編/岡谷公二訳 [復刊]

オヴィリとは、タヒチ語で「野蛮人」を意味する。ポール・ゴーギャンが1895年のサロン・ド・ラ・ソシエテ・ナショナル・デ・ボーザール(国民美術協会展)に出品して拒否された、異様な、両性具有の陶製彫刻の題名である。本書のカバーに用いられているのは「オヴィリ」と題された水彩画で、このほか本書の表紙には「オヴィリ」の木版画の複製、扉には「オヴィリ」のブロンズ像の写真が刷り込まれている。

男神にして女神でもあるこの野蛮な神オヴィリに、ゴーギャンは自分をなぞらえていた。ゴーギャンの著作には、野蛮人になりたいというライト・モティーフが、たえず立ち戻ってくる。

ゴーギャンは「粗野な水夫」として人生を始めたと自分で言っているように、もと商船の船員であり海軍の軍艦の乗組員で、株式仲買人の職を捨てて絵画に没頭した。しかし早熟で、しっかりした中等教育を受けた画家=文筆家ゴーギャンには、独学者風なところは少しもなかった。

もっとも洗練された文明の美しさを認める、優れて文明化された野蛮人という本質的二重性。そして一方、オセアニアへの自己追放の中にある、単に文化からの脱走ではない、未開拓な絵画の主題を求めて最後には文化を豊かにするという芸術家としての計算。新しい着想を求めて地球の反対側へと赴いたことは、彼を劇的な矛盾の中にとじこめたが、このような距離をとったことが、遙か彼方の過去・現在の文明を明晰に深く判断することのできる立場を彼に与えた。

ゴーギャンの残した厖大な文章の集成が、このおどろくべき先駆者の、生と芸術を照らし出す。

私は十二月に死ぬつもりだった。で、死ぬ前に、たえず念頭にあった大作を描こうと思った。まるひと月の間、昼も夜も、私はこれまでにない情熱をこめて仕事をした。そうとも、これは、ピュヴィ・ド・シャヴァンヌのように、実物写生をし、それから下絵を作り、という風にして描いた絵じゃない。一切モデルなしで、結び目だらけのざらざらした小麦袋のキャンバスを使って、一気に描いた。だから、見かけはとても粗っぽい。(……)

これは、高さ一メートル七十、横四メートル五十の絵だ。上部の両隅をクローム・イエローで塗り、金色の時に描いて隅を凹ませたフレスコ画のように、左手に題名、右手に署名を入れてある。右手の下に、眠っている幼児と、うずくまっている三人の女。緋色の着物をきた二人の人間が、それぞれの思索を語り合っている。この、自分たちの運命に思いをいたしている二人を、かたわらにうずくまった人物――遠近法を無視して、わざと大きく描いてある――が、腕をあげ、驚いた様子で眺めている。

中央の人物は、果物をつんでおり、一人の子供のかたわらに二匹の猫がいる。それに白い牡山羊。偶像は、神秘的に、律動的に腕をあげ、彼岸をさし示しているように見える。うずくまった人物は、偶像の言葉に耳を貸しているらしい。最後に、死に近い一人の老婆が、運命を受け入れ、諦めているようにみえる。……彼女の足もとに、あしでとかげをつかんだ一羽の白い異様な鳥がいるが、これは、言葉の空しさをあらわしている。(……)

ローマ賞の試験を受ける美術学校の学生に、「われらはどこから来たのか? われらは何者なのか? われらはどこへゆくのか?」という題で絵を描けと言ったら、奴らはどうするだろう? 福音書に比すべきこのテーマをもって、私は哲学的作品を描いた。いいものだ、と思っている。(……)
(友人の画家・船乗りモンフレエ宛、1898年2月、タヒチ、本書200-201ページ)

ここに書かれている「大作」とはむろん、この春から日本初公開の始まった《我々はどこから来たのか 我々は何者か 我々はどこへ行くのか》(ボストン美術館蔵)のことだ。ゴーギャンの死後にまでわたってもっとも忠実な友人だったダニエル・ド・モンフレエへ宛てて書かれた手紙の一節である。
http://www.msz.co.jp/news/topics/01521.html


ピトケアン島の出来事

 西暦1789年、フランス革命が勃発したのと同じ年、南太平洋上において水兵の反乱が起こった。舞台となったのは、イギリス海軍の軍艦、バウンティ号である。

 副航海長フレッチャー・クリスチャンに指揮された反乱水夫たちは艦長のブライを拘束、ブライは艦長派と目された乗組員とともに小型のボートに乗せられて茫洋たる太平洋に放り出された。反乱者たちは、ブライたちは死んだだろうと思っただろうが、艦長たちは奇跡的に小型ボートではるか3700マイル離れたオランダ領のインドネシアまで航海することに成功した。遠く離れた南太平洋上のこととはいえ、イギリス海軍が反乱者たちをそのままにしておくわけがない。追手が差し向けられ、クリスチャン一味の捜索が行われた。追跡部隊はバウンティ号の航海の目的地であったタヒチ島に残っていた乗組員たちを拘束することには成功したが(うち、3名が絞首刑となった)、バウンティ号とともに太平洋に消えた残りの者たちの行方は杳として知れなかった。

 バウンティ号と反乱者の一党の行方がわかったのは、それから約20年後の事である。アメリカの捕鯨船が、名前は付いているが上陸されたことのない島、ピトケアン島に立ち寄ったところ、バウンティ号の乗組員とその子孫たちを発見したのである。クリスチャンたちは、タヒチの女性と男性を連れて発見されにくいピトケアン島に逃げ込んでいた。

 しかし、反乱者たちは、女性と酒が原因で同士討ちを演じ、アメリカの捕鯨船に発見された時に反乱のメンバーで生き残っていたのは水兵のジョン・アダムス一人だけであった。ジョン・アダムスは敬虔なキリスト教徒となっており、ピトケアン島は白人とタヒチ女性の混血からなる一種のキリスト教の桃源郷となっていた。

 この軍艦バウンティ号の反乱は日本ではそれほど知られていないが、西洋ではかなりメジャーな事件で、海洋の事件としてはタイタニック号の遭難に匹敵するほどの知名度を誇るといい、欧米では多数の研究や小説があり、戦前から何度か映画化もされている。また、バウンティ号の復元船も作られているという。

 さて、このバウンティ号の子孫たちは今でもピトケアン島に住んでいるのだが、近年、再び注目を集めた。あまり名誉なことではない。ピトケアン島の男性たちが、12歳から15歳までの少女たちとの性交渉を日常的に行っていたことが暴露されたのである。これは牧歌的で、敬虔なキリスト教徒たちの住む島である、というピトケアン島のイメージを著しく損なうものであり、刑事事件にも発展した。その経緯は、インターネットのフリー百科事典の「ウィキペディア」にも詳しく記述されている。

「ウィキペディア・ピトケアン島の事件」(英語)
「ウィキペディア・ピトケアン島の事件」(日本語)

 ピトケアン島の男性たちの擁護として、ピトケアン島に移り住んだ反乱者たちはタヒチの女性を妻としており、反乱当時のタヒチの習慣はかなり性的に自由なものであったから、それを現代の基準で裁くのは酷ではないか、というものがある。
 たしかに、タヒチがヨーロッパ人に発見された当時の記録によると、かなり性的に寛容だったことが見て取れる。

 まずフランス人の記録によると、
 
 「カヌーは女たちで一杯であったが、顔かたちの魅力では、ヨーロッパ女性の大多数にひけを取らず、身体の美しさでは、彼女らすべてに張り合って勝つことができるであろうと思われた。これらの水の精の大部分は裸だった。というのは、彼女らに同伴している男や老女たちが、彼女らがいつもは身にまとっている腰布を脱がせてしまっていたからである。

彼女らは、はじめ、カヌーの中から我々に媚態を示したが、そこには、彼女らの素朴さにもかかわらず、いささかの恥じらいが見て取れた。あるいは、自然が、どこでも、この性を生まれながらの臆病さでより美しくしているのであろうか。あるいはまた、なお黄金時代の純朴さが支配している地方においても、女性はもっとも望んでいることを望まぬように見えるものだろうか。

男たちは、もっと単純、あるいはより大胆で、やがて、はっきりと口に出した。彼らは、我々に、一人の女性を選び、彼女について陸に行くように迫った。そして、彼らの誤解の余地のない身ぶりは、彼女らとどのように付き合えばいいのかはっきり示していた。(山本・中川訳『ブーカンヴィル 世界周遊記』(岩波書店 1990年)192−3頁)」
 
 また、有名なイギリス人のキャプテン・クックは、タヒチの若い娘たちが卑猥なダンスを踊り(クックは明言していないが、露骨にセックスを現すものだったらしい)、男女が宗教集団のようなものを形成して、乱交を繰り返した挙句、子供が生まれると殺す習慣のあることをあきれた風に記録している(当時のイギリスだって捨て子の習慣は横行していたのだから、あまり大きなことは言えないように思うが)。

 このようなヨーロッパ人の記録した当時のタヒチの性習慣について、現代の調査からタヒチのホスピタリティの習慣を誤解したものではないかとする研究者もあるが、タヒチはその後ヨーロッパに支配され、キリスト教の感化を受け、ヨーロッパの習慣の影響下におかれるのだから、現代から類推するのは妥当ではない。

 さて、当時のタヒチが性的に放縦な面があったとして、それが何歳ぐらいの女性から対象になったのだろうか。

 クックによると、タヒチには子供が衣服をほとんど身に付けない習慣があるが、女子の場合は3、4歳までだということである。これによると、女の子はかなり早い段階で「子供」でなくなるようである。さらに、支配者の例であるが、9歳で結婚したということもある。画家のゴーギャンがタヒチにやってきて、現地で何人もの愛人をつくり、子供まで作ったことは有名であるが、相手となったタヒチ人の女性はみんな13歳から14歳である。だから、当時のタヒチでは、かなり若い年齢で女性は大人とみなされていたことがわかる。

 と、ここまでは割合に知られたタヒチの性習慣である。では、もう一方の当事者、18世紀末のイギリスはどうだったのだろう。

 18世紀のイギリスは、当時としては珍しく、晩婚の世界であったことが知られている。男子の場合は二十代後半、女子の場合でも二十五歳以上で結婚、というのが普通であったらしい。ほとんど現代と変わらないくらいの結婚年齢である。ただ、晩婚である事情は現代とはずいぶん違う。長期の奉公人制度や、結婚生活を維持するための経済力をつけることが難しいために、やむを得ず結婚が遅れていたというのが実情らしい。貴族やジェントルマンに生まれても、長男でないと同じような境遇であった。

 結果、血気盛んな若者たちが思春期から10年以上独身生活を余儀なくさせられることになる。近代のイギリスの勢力の拡大は、これらリビドーを持て余した青年たちのエネルギーによってもたらされたとする見解があるほどだ。

 平均的な結婚年齢はともかくとして、実際にはどのくらいの年齢の女性ならば当時のイギリス人男性は性の対象としてみていたのであろうか。

 これはかなり低かった、と推定することができる。まず、数は多くないが、十代前半の女性と結婚している例がしばしばある。次に、多くの男性がなかなか結婚できなかったのだから、性欲のはけ口として売春婦の商売が繁盛することになるのだが、売春婦たちはかなり若い年齢から客を取っていたことがわかっている。

 「先にも述べたとおり、売春婦の中には年端もいかぬ若い子がいることがしばしばあり、十歳にも満たない子がいることさえあった。ペナントは、ブライトヴェル監獄で見かけたというそういう売春婦の一団について次のように述べている。

  「(中略)二十人ほどの若い娘たちが、最年長でも十六歳を超えず、多くは天使のような美しい顔をもちながら、天使のような表情はすべて失い、厚かましく、強情そうな放蕩の顔つきをしていたのだ。(後略)」(リチャード・R・シュウォーツ著 玉井・江藤訳『十八世紀 ロンドンの日常生活』(研究社出版 1990年)112−3頁)」

 つまり、タヒチだけでなくイギリスでも、女性はかなり幼い頃から恋人や結婚相手になりえたわけである。

 当時の水兵というのは社会的な身分が低く、監獄に行くよりは船に乗る、という手合いまでいたという。彼らは、たとえイギリスに戻ったとしても結婚をすることは容易ではなく、仮にできたとしても極貧のなかで生活しなくてはならないことは目に見えていた。

 それが、タヒチに来て見ると、本来は結婚相手にしたい十代の女性がいて、生活も安楽である。このままここに残りたい、と思っても不思議はない。実際、タヒチへの航海では、水兵の脱走というのはよくあった。これで水兵たちに同情的な幹部がいたら、反乱になるのはある意味では必然であった。

 艦長のブライは反乱の原因について、

「わたしはただ、反乱者どもがタヒチ人のところでイギリスよりもいい暮らしができるだろうと確信し、それが女性たちとの関係にむすびついて、全体の行動の基本的な動機となったにちがいないと推測するのみである。

(I can only conjecture that the mutineers had assured themselves of a more happy life among the Otaheiteans , than they could possibly have in England; which, joined to some female connections, have most probably been the principle cause of the whole transaction.)(William Bligh & Edward Christian The Bounty Mutiny(2001)11.)」と書いている。

 ピトケアン島には、18世紀のタヒチだけでなく、同時代のイギリスのメンタリティーも保存されていたのではないだろうか。そうだとすれば、今回の事件はタイムマシンで過去へ行って、先祖を裁いたようなものである。
http://www006.upp.so-net.ne.jp/handa-m/tosho/arekore/50.htm

タヒチがヨーロッパ人に発見された当時の記録によると、かなり性的に寛容だったことが見て取れる。

 まずフランス人の記録によると、
 
 「カヌーは女たちで一杯であったが、顔かたちの魅力では、ヨーロッパ女性の大多数にひけを取らず、身体の美しさでは、彼女らすべてに張り合って勝つことができるであろうと思われた。これらの水の精の大部分は裸だった。というのは、彼女らに同伴している男や老女たちが、彼女らがいつもは身にまとっている腰布を脱がせてしまっていたからである。

彼女らは、はじめ、カヌーの中から我々に媚態を示したが、そこには、彼女らの素朴さにもかかわらず、いささかの恥じらいが見て取れた。あるいは、自然が、どこでも、この性を生まれながらの臆病さでより美しくしているのであろうか。あるいはまた、なお黄金時代の純朴さが支配している地方においても、女性はもっとも望んでいることを望まぬように見えるものだろうか。男たちは、もっと単純、あるいはより大胆で、やがて、はっきりと口に出した。彼らは、我々に、一人の女性を選び、彼女について陸に行くように迫った。そして、彼らの誤解の余地のない身ぶりは、彼女らとどのように付き合えばいいのかはっきり示していた。
(山本・中川訳『ブーカンヴィル 世界周遊記』(岩波書店 1990年)192−3頁)」


 
 キャプテン・クックは、タヒチの若い娘たちが卑猥なダンスを踊り(クックは明言していないが、露骨にセックスを現すものだったらしい)、男女が宗教集団のようなものを形成して、乱交を繰り返した挙句、子供が生まれると殺す習慣のあることをあきれた風に記録している(当時のイギリスだって捨て子の習慣は横行していたのだから、あまり大きなことは言えないように思うが)。

 このようなヨーロッパ人の記録した当時のタヒチの性習慣について、現代の調査からタヒチのホスピタリティの習慣を誤解したものではないかとする研究者もあるが、タヒチはその後ヨーロッパに支配され、キリスト教の感化を受け、ヨーロッパの習慣の影響下におかれるのだから、現代から類推するのは妥当ではない。

 さて、当時のタヒチが性的に放縦な面があったとして、それが何歳ぐらいの女性から対象になったのだろうか。

 クックによると、タヒチには子供が衣服をほとんど身に付けない習慣があるが、女子の場合は3、4歳までだということである。これによると、女の子はかなり早い段階で「子供」でなくなるようである。さらに、支配者の例であるが、9歳で結婚したということもある。画家のゴーギャンがタヒチにやってきて、現地で何人もの愛人をつくり、子供まで作ったことは有名であるが、相手となったタヒチ人の女性はみんな13歳から14歳である。だから、当時のタヒチでは、かなり若い年齢で女性は大人とみなされていたことがわかる。
http://www006.upp.so-net.ne.jp/handa-m/tosho/arekore/50.htm


究極のSEX ポリネシアン セックス

ポリネシアン セックスとは南太平洋諸島に暮らすポリネシアの人々の間に伝わるセックスの奥義を指す。

ポリネシア/ギリシャ語「多くの島々」と言う意味のポリネシアはハワイ諸島、ニュージーランド、イースター島を結ぶ1辺が約8000キロの三角の内側の島々、イースター島をさす。ミクロネシアは太平洋中西部の諸島群で、カロリン諸島、マーシャル諸島などがある


「エロスと精気」

これは男性上位の力を誇示するようなアクロバットな性技ではなく、ゆっくりとした時間の中でお互いの命の声を聞きながら行う静かな愛の形です。

実際に結合するセックスは普通、5日に1度、中4日はしっかりと抱き合って、肌を密着させて眠り、性器の接触はしない。セックスをする時は、前戯や抱擁や愛撫に最低1時間をかける。互いの心と体がなじんだ時に女性の中に挿入した後は、最低30分は動かずにじっと抱き合っている。性交するときは、前戯と愛撫を少なくとも1時間行い、接吻し抱擁し愛咬する。挿入したのちは、男女は最低30分は身動きせず抱き合って、それから前後運動を始める。

オルガスムがあったのちも、長時間性器を結合させたまま抱き合っている。35分ほどこの抱擁を続けていると、全身においてオルガスムの快感の波が次々と押し寄てくるのを感じ初めることだろう。あなたが男性であれば、射精をしないまま相手と一体になって全身が突然さざ波のように震えるだろう。そうなれば、体を離さずに震え没入し、震えそのものになるべきだ。その時、2人の体のエネルギーが完全に融合している実感をもつであろう。

男性に勃起力がなくなるような感じになった時、女性に性感がなくなるとき、そのときだけ動きが必要になる。その場合でも、興奮の波は非常に高い所にだけ置いておき、ただし、頂点まで昇らせてオルガスムとして爆発させるのではなく、心をおだやかにしてエネルギーのなかに身をまかせるのである。つまり、挿入後に萎えてしまいそうになった時、それを防ぐ為のみ、うごかしてもいいということだ。しかし、そのまま動きに没頭するのではなく、射精に達する前に再び動きを止めて、抱擁を続る。

男女はベットにそれぞれ楽な感じに寝る。2人の上半身は離しておき、骨盤の部分はくっつけ合う。女性は仰向けになり、男性は体の右側をベットにつけて身を起こす。足はお互の体にからませる。男性は左足は女性の足の間に割って入り、女性の左足は男性の腰の左に乗せる。互いに相手の負担をかけることなく、くつろげる姿勢であるとこが重要だと言う。そうして、身動きせずに30分間横になっていると、2人の間にエネルギーが流れるのを感じるようになると言う。
http://rena-i.jp/porisex.htm

「ゴーギャン」
南太平洋、フランス領ポリネシア。 タヒチ。

とあるホテルの5つの簡単な決まり事。

1つ、ゆっくり動きなさい。
2つ、気持ちをリラックスさせなさい。
3つ、家に置いてきたペットのことは忘れなさい。
4つ、お堅い話も忘れなさい。
5つ、バターの値段を考えるなんてもってのほか。

この島では、日が昇ったら起き、
お腹がすいたら食べ、
眠くなったら眠るのです。

何もしないで、ただボーッと海を眺めて過ごす。
それが、一番の贅沢。

今日の一枚は、そんなタヒチで描かれました。
といっても、今あるのはアメリカですが・・・。

場所は雪のニューヨーク州、
オルブライド・ノックス・アートギャラリー。

二人の慈善家によって集められた名画の数々・・・。
でも、お目当てはこの先。急いではいけません、ゆっくりと。
そう、この絵が「今日の一枚」です。

「マナオ・トゥパパウ」

ポール・ゴーギャンの作品。

そのポール・ゴーギャンは、
タヒチといえば名前があがる後期印象派の巨匠。

セザンヌを学び、ジャポニズムに走った元日曜画家。

ゴッホとの共同生活でも、自我の強さから喧嘩別れ。
傲慢とわがままを芸術の糧としたポール・ゴーギャン。
パリに失望し、やってきたのがタヒチ。
求めたものは汚れのない原始。

そして、タヒチの女性をモチーフとする
数多くの絵を生んだのです。
強烈な色彩と大胆な構図。
ゴーギャンのタヒチ。

そんな作品のなかで、異彩を放っているのが、
この「マナオ・トゥパパウ」です。

大きく見開かれた少女の目。
凍り付いた視線。
背後にうずくまる不気味な影は?

ゴーギャンが南海の楽園で見つけた原始とは、いったい何だったのか。

南緯17度、西経149度。
1年間の平均気温は25度前後。
タヒチは今でもよく、南海の楽園と呼ばれています。

パペーテはタヒチを訪れた人が必ず立ち寄るフランス領ポリネシア唯一の都会。

ゴーギャンが植民地のタヒチを訪れたのは1891年、43才のとき。
フランスの港を出てから実に2ヶ月の船旅でした。
当時、パペーテの人口はおよそ3000人。
その一割にも満たないフランス人が、タヒチの政治、経済を仕切っていました。
その頂点に君臨するのが、フランス本国から任命された総督です。
当時はカリブ海出身のラカスカードという男。

総督

「タヒチについたゴーギャンが私に会いに来た。
私は快く彼を迎えた。

ようこそゴーギャン君、総督のラカスカードだ。座りたまえ。
このパペーテには教会から病院、カフェーまで揃っておる。
私の自慢の町だ。
パリから来た君でも困ることはないよ。
そうそう、芸術特使の君にぜひ、肖像画を描いてもらいたいというものがおるそうだ。
まずはいい絵を描いてくれたまえ。

おや、何か不満でもあるのかね?」

ゴーギャンは、話の途中で席を立ってしまった。 いったい、何が気にくわないというのだ。

パペーテの街角で、ゴーギャンが見たもの。
それはパリと同じ喧騒、そして香水の匂い。
自分が求めた原始の楽園は、そこにはなかったのです。
失望、そしてこみ上げる怒りに似た感情。

そもそもの発端は2年前。
パリではエッフェル塔が完成。
万国博覧会が開かれました。 鉄が支配する新しい文明の幕開け。
しかし、ゴーギャンが惹かれたのは、同時に開設されていた植民地パビリオンでした。
東洋の神秘、ポリネシアの原始的な荒々しい文化。
パリの文明社会で暮らすゴーギャン。
彼の目に、それは地上の楽園に見えました。

そこでゴーギャンは考えました。
「なんとしてもタヒチへ行こう」と。
あらゆるコネを利用し、海をわたろうとします。
金がかからず、絵が自由に描ける地位・・・
それが芸術特使というフランス本国からもらった肩書き。


ゴーギャンがパリで思い描いた地上の楽園、タヒチ。

そこでは昔からの人々は原始の神々を崇め、ともに暮らしていました。
すべての物、すべての現象に神が宿る、そう考えられていたのです。
神話と伝説の国、ポリネシア・・・。
しかし、ゴーギャンが訪れた時はもはや過去の話。
文明によって古い信仰は捨てられ、神を祀る祭壇もすでに廃墟と化していたのです。

ポリネシア・ダンス。
体で表現する原始の言葉。
かろうじて人々の心に受け継がれてきたタヒチの神秘。

これは、豊かな実りを願い、神に祈るダンス。
戦いの前に踊り、神への誓いをたてるダンス。
分明に支配されたタヒチ、そこに残された原始の息吹。

総督
「きのう、ゴーギャンが挨拶にきたよ。 ひどく打ちのめされているようだったが、パペーテを出るというんだ。 ヨーロッパから遠ざかりたいとか、原始的で汚れのない原住民と一緒に暮らすんだとかいってた。 ほんとうに、パペーテを出て芸術活動ができると考えているのか? まあいい。じきに帰ってくるさ。」
http://www.geocities.jp/mooncalfss/manao/manao1.htm

<原始のイヴ>

パペーテを逃れ、ゴーギャンが落ち着いた先はマタイエア。
島の反対側、南へ40キロほど行った海辺の村。

そこで彼が見たものは・・・

素朴で原始的な暮らし。
骨太で力強い人々。
奔放に生きる女たち。

ヨーロッパ的美の基準には当てはまらないものたち。
しかし、ゴーギャンはそこに原始の美を発見したのです。
パペーテでは決して見られなかった、手つかずの美しさ。

イア・オラナ・マリア。

タヒチの聖母子像。

着ているものは民族衣装のパレオ。
がっしりしたタヒチの聖母マリア。
そして褐色のイエス・キリスト。

聖母子像の横に描かれたのは仏教徒のポーズをしたタヒチの女と、 青と黄色の翼を持った天使。

イア・オラナ・・・それはタヒチの出会いの挨拶。

副館長
「ゴーギャンの色使いはとても鮮やかで、ほとんど原色をつかった美しい色彩 で描かれています。
そして、タヒチの光をふんだんに取り入れました。
その光はポリネシアの人々に対する愛情と、尊敬の気持ちから描かれたんです。」

原始の楽園、マタイエア。

人々は神を畏れ、自然とともに生きる。
何もしなくていい、何も考えなくていい、ゴーギャン、至福のひと時。

マタイエアの人々にふれ、ゴーギャンが感じたのは、自分が求めつづけてきた原始のタヒチ。

創作意欲をかき立てられるゴーギャン、目指したのはシンプルな芸術。

細かい技法を捨て、自分が感じたことだけをおおらかに描く。

そのためには、原住民とだけ付き合い、原始の心で見ること。
それが真の芸術へたどり着く道、そう考えてきました。

しかし、その絵はほとんど売れません。


総督
「赤い水やら黄色い砂。ひどい色使いだ あれじゃ売れなくて当然だ。 しかし、この絵はどこか違うな・・・。」

原始の村マタイエアでも、文明から逃れることはできませんでした。
好みの食料品や絵の具があるのはパペーテだけ。
金・・・文明人のゴーギャンに必要なのは経済的な裏づけだったのです。
絵を買ってくれる人もいないタヒチ・・・
待っていたのは貧困。

そこで、ゴーギャンは総督のもとへ。
もっと小さな島の役人にしてもらおう。
そうすれば、金と新しい絵のモチーフ、両方が手に入ると考えたのです。

総督
「そんなわがままを話、通用するわけがない。

フン、金が欲しい? 島の役人に採用しろだと?
冗談じゃない、矛盾だらけじゃないか
ゴーギャンの求めているのは、原始の生活ではなかったのか!
なんて傲慢で、身勝手なやつだ!」

総督に冷たくされたゴーギャンは、自分の身勝手を棚に上げ、子供じみた反抗にでます。

やったことは、風刺画。
総督を猿に見立て、痛烈にからかったのです。

それは原始に翻弄される文明人の哀れでもありました。

貧困のため、絵を描く意欲も失せたゴーギャンは、気分転換をかねて、探検旅行に出かけます。

行く先は島の東側、文明から最も遠い土地。
やがてゴーギャンの行く先に現れたのは、山あいの小さな村でした。
その一軒で声をかけられます。

白人は神の使い、そう信じる村人は自分の娘を妻にと勧めるのです。
そして、運命の出会い。

「マナオ・トゥパパウ」に描かれた少女。

少女の名はテハアマナ。愛称テフラ、13歳。
タヒチでであった原始のイヴ。

テフラに一目で惚れたゴーギャン。


彼はその場でテフラと結婚し、一緒に暮らし始めます。
日の光を浴びて、黄金色に輝くテフラの肌。
ついに出会った原始のイヴ、テフラとの生活がゴーギャンの見方を変えました。

文明に毒されたタヒチは今、探し求めた原始の楽園に生まれ変わったのです。

ゴーギャンによって残された原始のイヴの肖像・・・

ゴーギャンの夢、

画家が愛してやまなかった少女・・・。


総督
「原始のイヴだって?なにを大げさな。
ただの島の娘じゃないか。
それにしても、あの絵の娘は何かに怯えているのかね?
しかも、後ろにうずくまっているあの不気味なものは何だ。
アッ、これは!」

青い海と珊瑚礁。
そして険しくそびえる山々。
さまざまな顔をもつタヒチ。

一歩奥へ入ると、そこはすでに伝説と神話の世界です。

http://www.geocities.jp/mooncalfss/manao/manao2.htm

<タブー>
タヒチにはタブーがある。
死者を葬った場所は避けるように。
うつろな木の陰に横たわらないように。
もしタブーを破ることがあれば、やつが現れるだろう。

やつは寝ているものに飛びついて、首を絞め、時には髪を引き抜き、死に至らしめることがある。その名を決して口にしてはならない。

いまもタヒチに伝わるという、タブーの正体とは何か。


女1
「そうだねえ、この土地のタブーといったら幽霊のことだよ。」

女2
「子供のころに見たことがあるわ。
しろ〜くて、お化けみたいな姿をしているのよ。
本当に恐かったわ。」


「トゥパパウって幽霊さ、こんな感じのやつ・・・
ひとに取り付くと目が大きくなって、下がこんなに長くなるんだ。」

マナオとは「思う」「考える」という意味のタヒチ語。
マナオ・トゥパパウというタイトルには、トゥパパウ、つまり死霊が見ている、という意味がこめられていたのです。


総督
「トゥパパウについては、私も調査員を派遣した。
報告によると、トゥパパウの都は森の闇に包まれた山奥の奥にあるそうなんだ。
そこでトゥパパウは数を増やし、死んだ人間の魂を食らうという。

フン、もうすぐ20世紀だというのに、タヒチにはまだ下らん迷信が残っているのか。」


学芸員
「確かにトゥパパウの伝説は残っているようです。
トゥパパウとは死んだ人の霊のことで、夜の闇をさまよい歩くと考えられていました。
そのため、タヒチの人たちは闇を怖がって、寝ているときも明かりを絶やしません。
もし部屋の明かりを消してしまうと、トゥパパウが家の中に入ってきて、
寝ている間に悪さをすると信じられていたからです。」


ある日、ゴーギャンは帰り道を急いでいました。
切れかかった灯油を町へ買出しに行った帰りです。
夜中の1時、あたりは完全な闇。

夜空の月も雲に隠れていきます。

テフラの待つ小屋は闇に包まれていました。
いやな予感がしたゴーギャンは急いで部屋の中へ。
すると・・・そこは原始の闇。

思わずマッチをすったゴーギャン。
そして彼の目に映ったものは・・・
ベッドに横たわり凍り付いたようなテフラ。
うつろに見開かれたテフラの目。

タヒチの人にとって、闇はトゥパパウのすみか。
テフラには夜の闇は恐怖そのものでした。
そして、恐怖に射抜かれたように身を固くするテフラの背後に、ゴーギャンははっきり見たのです。

『私が見るものは、ただ恐怖だけでした。
それは絶え間ない恐怖である。
私のトゥパパウを発見して、私は完全に心ひかれ、 それを絵のモチーフにした』

ゴーギャンはテフラを通して、はじめて本当の原始を理解したのです。

テフラ、原始に住むイヴ。

タヒチにきて三度目の夏・・・。


総督
「ああ。おめでとう、ゴーギャン君。
君にも私にもいい知らせだ。
本国から君を送り返すように言ってきたんだ。

ここを見たまえ、資産状態が配慮に値する困窮の画家を送還すること。フランスの船で。
ただし、一番安い船に、乗せるようにと書いてある。
ともあれ、これで我らが芸術特使さまの任務も完了というわけだ。
ごきげんよう、ゴーギャン君。」

1893年7月。
ゴーギャンは本国フランスへの帰路につきます。
テフラと出会った後も、ゴーギャンの生活は決して理想のものではありませんでした。
極度の貧困、そして重なる疲労。
逃れられない文明の影。
結局、彼は逃げ出すようにタヒチを後にするしかなかったのです。

パリに帰ったゴーギャンは、このマナオ・トゥパパウに他の絵の倍以上の値段をつけたといいます。

タヒチにきたらゆっくりと動くこと。
日々の暮らしは忘れ、リラックスしましょう。

でも、夜は明かりを絶やさないように。
もし暗くしたら、闇の中からあなたをみつめる死霊と出会うことになるかもしれませんから・・・

http://www.geocities.jp/mooncalfss/manao/manao4.htm


            ,、-'''`'´ ̄ `フー- 、
          ,. ‐             ヽ
         ,.‐´               \
        /      ,l       \     ヽ
       /       l|, 、  、 |iヽ, ヽ \.   ヽ
       /     l  i ! | i  | |l'、ト ヽ iヽ ヽ  ',
       !     |  / | |. i  |.|| i.|ヽ |、 | ',   i  i
      !      ! / |,ャ、メ |i ト十i‐トi、! l  .i|  i
      ! i   ,.|!,.+‐'"| | | |i}  ' ュノェ|i,`i  l.| i
      l i l   l |/;:=ニ|i  l |   /rj:ヽ\ i  l i l
      | | |   ノ '/ iニ)ヽ,ヽ |!.   ' {::::::;、! 〉iー | | |
      | |i. |  !; 〈 !:::::::c!     'ー''(つ }i | i.| |
      | ! | |  ;: (つ`''"    、  //// /;:i | | !. |
       | i,  i. 、////      '     /,ノi,   i. |
       ! .|  | i 、,ゝ、     、─,    /   i |  |. i
       .! |  i |. | lヽ、      ̄   /  l  | i  | !
       ! |  i |i |l l| |`''‐ 、   , イ  |i | |i | i  |. !
       | |  i |i |i .| ノ    ` ''"  ヽ/l| l__,.、-|l l  ! i、
     ,. -'"゙ ゙̄'' ヽi |!l '           ,.--‐' |.i |i | |i ヽ
      /       ! l l ̄ `     、_        | /ノi i.!  |
     ,'          ! |              ,|/ |/i'   |
    i         ` l             .ノ  ノ ' ヽ、 |
    |        ノ     ,...      ヽ、;          ヽ-,
    .!         |::     :..゚..::       i:        ゙゙''i
     |       l::        ゙゙"       |:          |
   @゙!         |::              !::        ノ


Teha'amana (マナを与える者の意)


ゴーギャンがタヒチで見出したものは何であったのか?

『ノアノア』連作版画


タヒチからフランスへ帰郷したゴーギャンは、母国のタヒチへの理解の乏しさに、絶望します。そんな母国フランスへ、タヒチの生活のすばらしさを伝えるために制作したファンタジー小説、『ノアノア』の挿し絵に使用されていた作品のいくつかを、紹介したいと思います。

ナヴェ・ナヴェ・フェヌア(かぐわしき大地)

教科書などでも有名な作品、『かぐわしき大地』を左右反転させた作品です。版画になり、白黒はっきりさせたものになったことで、主人公であるエヴァの表情の濃淡が、よりくっきりとしていることが印象的です。。

また、エヴァをそそのかすトカゲが、顔よりも大きく、この版画の中心に描かれていることも、気になりますね。


テ・アトゥア(神々)
マオリ族(ニュージーランドのポリネシア系先住民)の古代神話より。


中央に鎮座するのは、主神タアアロア。右側には再生の力を持つ月の女神ヒナ。左側には、大地の男神であり死の象徴であるテファトゥとヒナの対話の場面が描かれています。

これらの神々は、ゴーギャンの作品の中ではたくさん登場する、重要な役割を果たしているものです。

再生の神と、死の神が、ふたり同時に何を話しているのか、(しかも、僕が見る限りふたりは、とても官能的に話をしているように感じます。。)気になるところですね。。

マナオ・トゥパパウ(死霊が見ている)

テ・ポ(夜)


このふたつの作品のは、「死霊に怯える女性」という同一の主題を描き出しています。


『マナオ・トゥパパウ』の女性の姿勢は、ペルーのミイラの体勢を源泉に持っています。つまり、人間の死んだ後の存在であるミイラと、同じ体勢を取っている、ということです。

しかし、死の象徴とも思えるこの作品は、見ようによっては胎児のようにも見えます。

相反するふたつのもの、つまり、生と死を一体化したふたつの境界線が揺らぐ、タヒチの夜の神秘を描き出しているようです。ふたつの相反するものを、ひとつのものの中に融合させる、ということは、人類の大きなテーマであると感じました。

また、『テ・ポ』の方は、ゴーギャンがタヒチでできた愛人、テハアマナが、夜、明かりの消えた部屋で、死霊に怯えている姿を描いた作品です。

タヒチの人々にとって夜は、霊魂が活動する、死と隣り合わせの世界にほかなりませんでした。真ん中に横たわる女性の後ろには、様々な死霊たちがこちらに目を向けています。。

このことから考えると、ゴーギャンの描く夕方の世界は、現代の我々が考えるような、単なる美しい夕焼けではなく、これから迎える夜=死霊の世界を思わせるような、ある種、最も境界線の薄れた世界を題材にしている作品であることが分かります。。

http://nuartmasuken.jugem.jp/?eid=83


『我々はどこから来たのか 我々は何者か 我々はどこへ行くのか』後、自殺未遂を経てゴーギャンが描いた作品のうち、気になった作品をいくつか。。

テ・ハペ・ナヴェ・ナヴェ(おいしい水)
1898年 油彩・キャンパス ワシントン、ナショナル・ギャラリー
http://www.abcgallery.com/G/gauguin/gauguin128.html


『我々は〜』の関連作品です。
 

時刻は夕方、死霊が闊歩する夜が、すぐそばまで迫ってきています。

手前の4人の女性の表情は、逆光ではっきりとわかりません。微笑を浮かべているようにも感じるし、背後から迫りくる夜に、怯えているようにも感じます。。

川を挟んだ奥には、子供と手をつないだ(? 暗いので、はっきりそうとは言い切れませんが・・・)頭巾を被り、服を着た女性と、再生の女神ヒナが描かれています。その足もとには、ゴーギャンノ化身である黒い犬らしき影が、闇に紛れるようにひっそりといます。

川を境に、生と死が対照的に描かれているようです。一度死を決意し、なお生き長らえた画家の心境は、どういったものだったのでしょうか・・・?

ゴーギャンの作品にはめずらしく、奥行きがあり、見ているとからだが、絵画の中に引きずり込まれそうになる作品です。
http://nuartmasuken.jugem.jp/?eid=89


我々はどこから来たのか,我々は何者か,我々はどこへ行くのか
(D'ou venons-nous? Que Sommes-nous? Ou allons-nous?)
1897年 | 139×374.5cm | 油彩・麻 | ボストン美術館
http://www.salvastyle.com/menu_impressionism/gauguin_nous.html

複製画
http://www.meiga-koubou.com/item/%E3%82%B4%E3%83%BC%E3%82%AE%E3%83%A3%E3%83%B3%E3%80%8E%E6%88%91%E3%80%85%E3%81%AF%E3%81%A9%E3%81%93%E3%81%8B%E3%82%89%E6%9D%A5%E3%81%9F%E3%81%AE%E3%81%8B%E6%88%91%E3%80%85%E3%81%AF%E4%BD%95%E8%80%85/


「我々はどこから来たのか、我々は何者か、我々はどこへ行くのか」との哲学的思惟を迫る、しかも139×375cmという壁画のような大作を目の前にしますと、しばらくめまいのような感覚に襲われます。全裸と腰布だけの女たちが、地面の上に坐って、こちらを見ています。
画面右側には、岩の上に赤ん坊が寝ており、逆の左端には、煤のように黒ずんだ老婆が、やはりこちらを凝視しています。画面中央では男が果物をもいでおり、その足下で、少女が果物を食べています。人びとの近くには、犬と猫と山羊と鳥とが、人間たちと同様に、無表情に地面に伏せています。画面後方には、まず両手を広げた女神像があり、そして体全体を覆うような長衣を着た女たちが、右側に向かって歩いています。背景では、幻想的な樹木が、奇怪な枝を広げています。

 この絵から、アダムとイヴの禁断の実と楽園追放の旧約聖書の物語を連想することは、さほど難しいことではありません。しかし、あの禁断の果実を採ったのは、イヴではなかったか。ゴーギャンのイヴは、どうみても女ではない。マリオ・バルガス・リョサは、『楽園の道』で、果物を採る人物の腰布のふくらみを「立派な睾丸と固くなったペニス」のようだとすら表現しています。楽園追放を暗示する赤い長衣を着たふたりは、アダムとイヴのように男・女ではなく女・女であり、またキリスト教絵画にある悲嘆にくれるふたりではなく、何やら真剣に語り合っています。キリスト教の世界から題材を借りながらも、内容は別の世界を表現しています。

 左端の老婆は、観者を凝視しながら、何を訴えているのでしょうか。ゴーギャンは、フランスの博物館で見たペルーのミイラから、この人物像を創作したということです。ペルーは、ゴーギャンが幼少期を過ごしたところ。死にいく老婆は最早、生きることをあきらめ、大地に返っていくことを、我々に告げているのかもしれません。

 美術館滞在中の大半を、この大作の前にたたずんで過ごしたのですが、時間が経つにつれてこの死にいく老婆の視線が、気になって仕方がありませんでした。「我々はどこへ行くのか?」。老婆の沈黙は、この答えのない問い掛けなのかもしれません。
http://minoma.moe-nifty.com/hope/2009/07/post.html


“我々はどこから来たのか,我々は何者か,我々はどこへ行くのか” はイエスが語った言葉


ヨハネ傳福音書 第8章


8:1イエス、オリブ山にゆき給ふ。

8:2夜明ごろ、また宮に入りしに、民みな御許に來りたれば、坐して教へ給ふ。

8:3ここに學者・パリサイ人ら、姦淫のとき捕へられたる女を連れきたり、眞中に立ててイエスに言ふ、

8:4『師よ、この女は姦淫のをり、そのまま捕へられたるなり。

8:5モーセは律法に、斯かる者を石にて撃つべき事を我らに命じたるが、汝は如何に言ふか』

8:6かく云へるは、イエスを試みて、訴ふる種を得んとてなり。イエス身を屈め、指にて地に物書き給ふ。

8:7かれら問ひて止まざれば、イエス身を起して『なんぢらの中、罪なき者まづ石を擲て』と言ひ、

8:8また身を屈めて地に物書きたまふ。

8:9彼等これを聞きて良心に責められ、老人をはじめ若き者まで一人一人いでゆき、唯イエスと中に立てる女とのみ遺れり。

8:10イエス身を起して、女のほかに誰も居らぬを見て言ひ給ふ『をんなよ、汝を訴へたる者どもは何處にをるぞ、汝を罪する者なきか』

8:11女いふ『主よ、誰もなし』イエス言ひ給ふ『われも汝を罪せじ、往け、この後ふたたび罪を犯すな』]

8:12かくてイエスまた人々に語りて言ひ給ふ『われは世の光なり、我に從ふ者は暗き中を歩まず、生命の光を得べし』

8:13パリサイ人ら言ふ『なんぢは己につきて證す、なんぢの證は眞ならず』

8:14イエス答へて言ひ給ふ『われ自ら己につきて證すとも、我が證は眞なり、


我は何處より來り何處に往くを知る故なり。

汝らは我が何處より來り、何處に往くを知らず、


8:15なんぢらは肉によりて審く、我は誰をも審かず。
http://bible.salterrae.net/taisho/xml/john.xml

ゴーギャンが取り上げた “我は何處より來り何處に往くを知る故なり。汝らは我が何處より來り、何處に往くを知らず”というのは罪の女の話の総括としてイエスが語った言葉なのです。即ち、

ユダヤ教、キリスト教、イスラム教等の砂漠の遊牧・牧畜民の文化では女性や恋愛・性行動を敵視し、

女児がオナニーした → オナニーできない様に女児の陰核を切除する

少女が強姦された → 男を無意識に誘惑しない様に少女を石打の刑にする

妻が夫に売春を強制された → 夫に同じ過ちを繰り返させない様に妻を石打の刑にする

女性が恋愛・不倫した → 男を惑わせない様に女性を石打の刑や火炙りにする


によって対処する伝統だったのです。 イエスが否定しようとしたのはこういうユダヤ教の伝統だったのですが、キリスト教ではイエスの教えを完全に無視し、ユダヤ教の悪しき伝統をそっくりそのまま教義として残したのですね。

まあ、パレスチナの様な砂漠地帯では人口が増えると みんな食べていけなくなるので仕方無いのですが。

_____________

ゴーギャンは11歳から16歳までオルレアン郊外のラ・シャペル=サン=メスマン神学校の学生で、この学校にはオルレアン主教フェリックス・デュパンルーを教師とするカソリックの典礼の授業もあった。

デュパンルーは神学校の生徒たちの心にキリスト教の教理問答を植え付け、その後の人生に正しいキリスト教義の霊的な影響を与えようと試みた。

この教理における3つの基本的な問答は


「人間はどこから来たのか (Where does humanity come from?)、

「どこへ行こうとするのか (Where is it going to?)」、

「人間はどうやって進歩していくのか (How does humanity proceed?)」であった。


ゴーギャンは後半生にキリスト教権に対して猛反発するようになるが、デュパンルーが教え込んだこれらのキリスト教教理問答はゴーギャンから離れることはなかった。

http://www.asahi-net.or.jp/~VB7Y-TD/L1/210819.htm

ダニエル・ド・モンフレエ宛て(1898年2月,タヒチ)

「…あなたに言っておかなければならないが,私は12月に死ぬつもりだった。それで,死ぬ前に,常に頭にあった大作を描こうと思った。1か月の間ずっと昼夜通して途方もない情熱で描き続けた。…これは,高さ1.7メートル,横4.5メートルの絵だ。…

右下に,眠っている赤ん坊と,うずくまる3人の女性。紫色の服を着た2人の人間がお互いの考えを打ち明けている。

わざと大きくして遠近法を無視して描いた人物は,うずくまり,腕を上にあげ,自分たちの運命を考えている2人を眺めて驚いている。

中央の人物は,果物を摘んでいる。一人の子どもの傍には,2匹の猫がいる。そして白い牡ヤギ。

偶像は,神秘的に律動的に両腕をあげ,彼岸を指し示すかのようだ。うずくまった人物は,偶像に耳を傾けているように見える。
最後に,死に近い老婆は,自らの運命を甘受しあきらめているかのようだ。…その足元に,足でとかげをつかむ1羽の白い未知の鳥がいるが,空疎な言葉の無用さを物語っている。…」

http://www.ritsumei.ac.jp/acd/cg/ss/sansharonshu/444pdf/02-06.pdf

ゴーギャン自身が友人モンフレエ宛ての手紙43)の中で記しているように,面右端と左端には人間の生と死を表すかのように赤ん坊と老婆が描かれている。画面中央には,果実をもぎ取ろうとする青年の姿があり,傍らには地面に座り込んで果実を食べる子供がいる。その他タヒチ女性が配置され,ヤギや犬,鳥といった動物,そして古代の神とされる偶像が描かれている。ゴーギャン当人は,大作であり日頃から温めてきた題材としながらも,作品の意図や描かれた個々の対象の意味について十分な説明をしていない。

先行研究では,まず作品タイトル《我々は…》の出典元の確認が試みられている。

ルークメーカーは,ゴーギャンのブルターニュ時代の肖像画に見出されるトマス・カーライル著の『衣装哲学』に,
O Whence─ OhHeaven, Whither?(仏語訳ではMaisd’oùvenouns nous? O Dieu,oùallonsnous?)という題名と対応する一文が見られると指摘している。また,フィールドもカトリックの秘儀を研究した書物に,作品タイトルと一致する文面があるとしている。作品内におけるモティーフと典拠元の関係においては,タヒチ時代の自身の作品からの転用だけでなく,ブルターニュ時代の作品にその始まりを見出せるものがある。

左の右手をついて横座りする女性のポーズは,1889年の《海藻を集める者たち》の女性のポーズを反転させたものである。また,左端の顔を手で押さえてうずくまる老婆の姿も,ブルターニュ時代からゴーギャンが作品に使用していたポーズであり,ペルーのミイラ像にその根拠を見出せる。タヒチ時代の作品から引用された女性像においても,ジャワ島のボロブドゥール寺院のレリーフやエジプトの壁画にその原型がある。

以上から考えられることは,タイトルから想起されるキリスト教的視点と,実際のモティーフから現れる西洋,非西洋を越えた広い視点との間に距離が生じるということである。ここで作品を改めて考察すると,《我々は…》には,我々が希求し模索しながらも到達し得ない人間存在が描かれていると言えないだろうか。ブルターニュ,タヒチ,あるいはジャワ島やエジプトといった特定の場所や人々ではなく,人間そのものへの強い憧憬がここには存在する。それぞれのモティーフは,断片的表象にも関わらず作品全体において調和をなしている。そして,そうしたモティーフの背景に存在するキリスト教やタヒチにおける信仰などの民俗信仰は,人間の祈りというレベルにおいて等価のものとみなされる。

作品タイトル《我々はどこから来たのか?我々は何者か?我々はどこへ行くのか?》は,人間にとっての至上命題である。つ
まりこの絵画には,ゴーギャンがブルターニュにおいて感じたnostalgia故の人間存在そのものへの希求が見られるのである。
http://www.ritsumei.ac.jp/acd/cg/ss/sansharonshu/444pdf/02-06.pdf


後期印象派の代表する巨匠にして総合主義の創始者ポール・ゴーギャンの画業における集大成的な傑作『我々はどこから来たのか、我々は何か、我々はどこへ行くのか』。

1895年9月から1903年5月まで滞在した、所謂、第2次タヒチ滞在期に制作された作品の中で最高傑作のひとつとして広く認められる本作に描かれるのは、ゴーギャンが人類最後の楽園と信じていたタヒチに住む現地民の生活やその姿で、本作にはゴーギャンがそれまでの画業で培ってきた絵画表現はもとより、画家自身が抱いていた人生観や死生観、独自の世界観などが顕著に示されている。完成後、1898年7月にパリへと送られ、金銭的な成功(高値で売却)には至らなかったものの、当時の象徴主義者や批評家らから高い評価を受けた本作の解釈については諸説唱えられているが、

画面右部分には大地に生まれ出でた赤子が、中央には果実を取る若い人物(旧約聖書に記される最初の女性エヴァが禁断の果実を取る姿を模したとも考えられている)が、そして左部分には老いた老婆が描かれていることから、一般的には(人間の生から死)の経過を表現したとする説が採用されている。

また老婆の先に描かれる白い鳥の解釈についても、言葉では理解されない(又は言葉を超えた、言葉の虚しさ)を意味する(神秘の象徴)とする説など批評家や研究者たちから様々な説が唱えられている。

画面左部分に配される神像。この神像は祭壇マラエに祭られる創造神タアロア(タヒチ神話における至高存在)と解釈され、自分自身の姿に似せて人間を造ったが、その影はクジラあるいはホオジロザメであると云われている。また月の女神ヒナと解釈する説も唱えられている。

さらに本作を手がける直前に最愛の娘アリーヌの死の知らせを受けたこともあり、完成後、ゴーギャンはヒ素(砒素)を服飲し自殺を図ったことが知られ、それ故、本作は画家の遺書とも解釈されている。本作に示される、強烈な原色的色彩と単純化・平面化した人体表現、光と闇が交錯する独特の世界観はゴーギャンの絵画世界そのものであり、その哲学的な様相と共に、画家の抱く思想や心理的精神性を観る者へ強く訴え、問いかけるようである。
http://www.salvastyle.com/menu_impressionism/gauguin_nous.html


「熱帯のイブ」として何枚もの作品に登場する女性のポーズは、ジャワ島のボロブドール遺跡のレリーフをモデルにしたもので、タヒチとは無関係である。ちなみにイブを誘惑する蛇は、ゴーギャンの絵ではトカゲとして表現されている。

死を待つ女性が頭を両手で抱え込むポーズは、ペルーのミイラから思いついたもので、これもタヒチとは無縁である。

《我々はどこから来たのか 我々は何者か 我々はどこへ行くのか》の中心にある偶像は仏像ではなく、タヒチの土着の神様、再生を司どる月の女神である。
一番驚いたのは、絵の中に描かれる犬は、たいていの場合ゴーギャンを表すということである。
http://nodahiroo.air-nifty.com/sizukanahi/2009/07/post-8a2a.html


この絵でゴーギャンは人の一生を一画面に表現しようとしています。「生まれて、生きて、死ぬ」生き物なら当たり前なことを描いているのです。 そしてこの絵には海が上の方に少し描かれています。

右上には朝の海が描かれ、地球の誕生を意味し、左の海には夜の海が描かれ、地球の終わりを意味しているのでしょうか。

この絵に描かれている人物はほとんどが女性です。犬や猫、鳥なども描かれています。それぞれに意味づけをしていますがどうなんでしょうか?

右の子どもは誕生でしょうし、中央のリンゴを取ろうとしている女性はイブ(エバ)を意味し快楽と苦痛を表現し、左の頭を抱えている女性は死を意味しています。

画面全体は暗いのですが、右側の女性には光が当たっていて、左側は暗い。

背景は右も左も暗く描かれ、ゴーギャンにとっては「この世は真っ暗闇だ」まではいかず、「暗闇」だくらいなのでしょうか。

http://blogs.yahoo.co.jp/haru21012000/60035012.html

19世紀以降、ポリネシア人はキリスト教に改宗していますが、ブルターニュ地方のキリスト教の場合と全く同じで、外観はキリスト教の衣装を纏っていても、その中身は古来のアニミズムそのものだったのですね。

ゴーギャンが描くアダムとイブやマリアも聖書から題材を選んでいますが、その意味する事はキリスト教の教えとは全く異なる物なのです。

“我々はどこから来たのか,我々は何者か,我々はどこへ行くのか”で知恵の木の実を採るのは男ですし、

エデンの園からの追放というのは失楽園ではなく、牢獄からの解放という意味を持つのです。:


シュメール神話によれば、神様もまた、粘土をこねて人間を創った。

「なぜ、神様は人間を創造したの?」

というのが、キリスト教徒やイスラム教徒の親が、子供に質問されて返答に窮する素朴な疑問。

それに対して、世界最古の宗教・シュメール神話は、明快な回答を与えている。

「神々が働かなくてもよいように、労働者として人間は創造された」

と、シュメール神話の粘土板には明記されているのだ。

いわく、つらい農作業や、治水事業に従事していた神々からは、不平不満が絶えなかった。

「こんなに俺たちを働かせやがって、どういうつもりだ、コンチクショー」

と怒っていた。

原初の母なる女神・ナンムは、この事態を深く憂慮していたが、「神々の中でも、頭ひとつ抜けた知恵者」と評判のエンキ神は、そうともしらずに眠りこけていた。
あるとき、ナンム女神は、エンキ神をたたき起こして言った。

「息子よ、起きなさい。あなたの知恵を使って、神々がつらい仕事から解放されるように、身代わりをつくりなさい」。
             
母の言葉にあわてたエンキ神は、粘土をこねて人間を創った。
おかげで、神々に代わって人間が働くようになり、神々はめでたく労働から解放された。シュメール神話の最高神である天空の神アン(エンキの父)や、大気の神エンリル(エンキの兄)も、これには大喜び。神々は祝宴を開き、したたかにビールを痛飲して人類創造を祝った(シュメールは、ビールの発祥地でもある)。

このとき、ビールを飲んで酔っぱらった人類の始祖エンキは、地母神・ニンフルサグ(エンリルやエンキの異母妹)とともに、人間づくりの競争をした。


「広げた手を曲げることができない人間」や、

「排尿をガマンできない人間」、

「性器を持たない人間」、

「よろよろして立ち上がることができない人間」


など、いろんな人間が創られたという
(人権擁護団体が聞いたら、激怒しそうなエピソードですな・・・)。
http://blog.goo.ne.jp/konsaruseijin/e/20278c1470953be34e1163edce926967

http://www.asyura2.com/20/reki4/msg/632.html#c33

[番外地7] アメリカはどうなっているか 中川隆
2. 中川隆[-13410] koaQ7Jey 2020年3月24日 13:24:46 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[1494]
ニューヨーク州は全米でもっとも感染者が多い1万5000人超で急増が続いている。

薬局・食料品店以外の非必須事業場の閉鎖し10人以上の集会を禁止、違反した場合は州軍と市警が制圧する。

専門家は住民の半数が感染する可能性があると述べ、NY市長は医療資材が10日分しか持たないと訴えている。


トランプ大統領は3月22日、ニューヨーク・ワシントン・カリフォルニアの3州に州防衛軍を投じると発表した。

ワシントンDCは毎年桜の花見に群衆が集まるが、花見を防ぐため州軍を近くで待機させた。

バウザー市長は「州防衛軍と警察が桜祭りの地域に住民が進入するのを遮断する」と話した。


トランプ大統領は「ニューヨークに1000病床の臨時連邦医療施設4カ所、カリフォルニアには2000病床の施設8カ所、ワシントン州にも1000病床1000病床の大型施設3カ所などを支援する」と説明した。

アメリカは可能な限りウイルス検査を増やしたが、それが医療崩壊や2次感染を引き起こしたとも指摘されている。

アメリカは医療費が高額なためもともと病院の受け入れ可能人数が少なく、検査によって負担が増してしまった。


その結果コロナウイルス以外の患者を受け入れることができなくなり、いわゆる医療崩壊に至っている。

イタリアも同様の事態になり現在は症状がある人だけを入院させ、自覚症状がない人は検査しないように変更している。

アメリカではコロナ検査や医療費が有料で、検査を受けて30万円請求されたり、治療費で200万円請求された例が報告されている。


これでは人々は病院に行かないわけで、コロナ検査と治療費を無料にする必要があるでしょう。

世界経済の中心は依然としてアメリカであり、アメリカ経済がマヒすれば必ず世界規模で国家破産や企業破産が続出する。

その影響を過少に考えていたら痛い目に遭うでしょう。
http://www.asyura2.com/17/ban7/msg/547.html#c2

[近代史4] ユダヤ人は性格が悪い _ 大指揮者ブルーノ・ワルターの場合 中川隆
38. 中川隆[-13409] koaQ7Jey 2020年3月24日 14:49:09 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[1495]

Götterdämmerung: Gotterdammerung (Twilight of the Gods) , Prologue: Siegfried's Rhine Journey 1927年





Conductor: Bruno Walter
Orchestra: Royal Philharmonic Orchestra

http://www.asyura2.com/20/reki4/msg/640.html#c38
[近代史4] ユダヤ人は性格が悪い _ 大指揮者ブルーノ・ワルターの場合 中川隆
39. 中川隆[-13408] koaQ7Jey 2020年3月24日 14:53:33 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[1496]
ヴィルヘルム・リヒャルト・ワーグナー ジークフリート牧歌





Vienna Philharmonic Orch.
recorded 6/19, 1935
Transfer from Jpn Columbia 78s / J-8567/8(2VH-90/93)

http://www.asyura2.com/20/reki4/msg/640.html#c39
[近代史4] ユダヤ人は性格が悪い _ 大指揮者ブルーノ・ワルターの場合 中川隆
40. 中川隆[-13407] koaQ7Jey 2020年3月24日 14:57:04 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[1497]

ブルーノ・ワルター

Lotte Lehmann - Lauritz Melchior - Emanuel List
Die Walküre acte 1 Walter 1935年







Lotte Lehmann
Lauritz Melchior
Emmanuel List

Orchestre Philharmonique de Vienne
Bruno Walter.

Enregistré à Vienne du 20 au 22 juin 1935


http://www.asyura2.com/20/reki4/msg/640.html#c40
[近代史4] ユダヤ人は性格が悪い _ 大指揮者ブルーノ・ワルターの場合 中川隆
41. 中川隆[-13406] koaQ7Jey 2020年3月24日 15:04:27 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[1498]
ブルーノ・ワルターは キャサリーン・フェリアーが大好きだったんですね:

Kathleen Ferrier & Bruno Walter; "Romance"; Rosamunde; D 797/3b; Franz Schubert




Kathleen Ferrier--Contralto
Bruno Walter--Piano
1949

_____


Kathleen Ferrier & Bruno Walter "Du bist di Ruh"; Franz Schubert




Kathleen Ferrier--Contralto
Bruno Walter--Piano
1949

__________


Schubert, Schumann, Brahms : Lieder by Kathleen Ferrier & Bruno Walter




Franz Schubert (1797-1828) - Lieder
Romance from ‘’Rosamunde’’, D797 no.3b (00:00)
Du bist die Ruh, D776 (03:51)
Die junge Nonne, D828 (08:34)
Der Tod und das Mädchen, D531 (13:01)
Suleika I, D720 (15:39)
Du liebst mich nicht ! D756 (20:27)

Contralto : Kathleen Ferrier
Piano : Bruno Walter
Live recording in 1949, Edinburgh Festival


▲△▽▼

Bruno Walter - Schubert : Rosamunde - Ballet Music No.1




London Symphony Orch.
78rpm / Columbia, W-281(2EA-6770)

▲△▽▼

Bruno Walter - Schubert : Rosamunde - Ballet Music No.2





London Symphony Orch.
78rpm / Columbia, W-281(2EA-6771)

▲△▽▼

Rosamunde: Intermezzo No. 3




Columbia Symphony Orchestra
Bruno Walter

http://www.asyura2.com/20/reki4/msg/640.html#c41
[近代史4] ユダヤ人は性格が悪い _ 大指揮者ブルーノ・ワルターの場合 中川隆
42. 中川隆[-13405] koaQ7Jey 2020年3月24日 15:06:58 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[1499]

Fidelio 22/2/1941 MetOpera (Flagstad, Maison, Kipnis, Farell, Huehn, Janssen - Walter)





Fidelio - Beethoven

Metropolitan Opera
Matinée Broadcast
22nd February, 1941年

Leonore.................Kirsten Flagstad
Florestan...............René Maison
Don Pizarro...........Julius Huehn
Rocco....................Alexander Kipnis
Marzelline.............Marita Farell
Jaquino.................Karl Laufkötter
Don Fernando.......Herbert Janssen
First Prisoner........Emery Darcy
Second Prisoner...John Gurney

Conductor.............Bruno Walter

http://www.asyura2.com/20/reki4/msg/640.html#c42
[近代史4] ユダヤ人は性格が悪い _ 大指揮者ブルーノ・ワルターの場合 中川隆
43. 中川隆[-13404] koaQ7Jey 2020年3月24日 15:09:03 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[1500]

Fidelio 10/Mar/1951 MetOpera (Flagstad, Svanholm, Schöffler, Conner, Hines - Walter)






Fidelio - Beethoven

Metropolitan Opera
Matinée Broadcast: 10th March 1951年

Leonore........................Kirsten Flagstad
Florestan......................Set Svanholm
Don Pizarro..................Paul Schöffler
Rocco...........................Dezsö Ernster
Marzelline....................Nadine Conner
Jaquino........................Peter Klein
Don Fernando.............Jerome Hines
First Prisoner...............Brian Sullivan
Second Prisoner.........George Cehanovsky

Conductor...................Bruno Walter

http://www.asyura2.com/20/reki4/msg/640.html#c43
[近代史4] ユダヤ人は性格が悪い _ 大指揮者ブルーノ・ワルターの場合 中川隆
44. 中川隆[-13403] koaQ7Jey 2020年3月24日 15:15:46 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[1501]

ブルーノ・ワルター

Bruno Walter Live: Beethoven: Missa Solemnis (Carnegy Hall 18-04-1948)




Eleanor Steber: Soprano
Nan Merriman: Alto
Walter Hain: Tenor
Lorenzo Alvary: Bass
New York Philharmonic Orchestra: Bruno Walter

http://www.asyura2.com/20/reki4/msg/640.html#c44
[近代史4] ユダヤ人は性格が悪い _ 大指揮者ブルーノ・ワルターの場合 中川隆
45. 中川隆[-13402] koaQ7Jey 2020年3月24日 15:18:22 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[1502]

Beethoven "Symphony No 9" Bruno Walter 1947年

Isobel Baillie, soprano
Kathleen Ferrier, contralto
Heddle Nash, tenor
William Parsons, baritone
London Philharmonic Choir
Chorus master: Frederic Jackson

London Philharmonic Orchestra
Bruno Walter, conductor
Royal Albert Hall, 13.XI.1947


http://www.asyura2.com/20/reki4/msg/640.html#c45

[近代史4] ユダヤ人は性格が悪い _ 大指揮者ブルーノ・ワルターの場合 中川隆
46. 中川隆[-13401] koaQ7Jey 2020年3月24日 15:19:54 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[1503]

Beethoven "Symphony No 9" Bruno Walter 1947年



http://www.asyura2.com/20/reki4/msg/640.html#c46
[近代史4] ユダヤ人は性格が悪い _ 大指揮者ブルーノ・ワルターの場合 中川隆
47. 中川隆[-13400] koaQ7Jey 2020年3月24日 15:22:43 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[1504]

Kathleen Ferrier - Bruno Walter - The Legendary Edinburgh Festival (Live R.1949年)




Kathleen Ferrier (1912-1953): Contralto
Bruno Walter (1876-1962): Piano

• Schubert: Die junge Nonne D828
• Schubert: Romance D797
• Schubert: Du Liebst mich nicht D756
• Schubert: Der tod und das mädchen D531
• Schubert: Suleika I D720
• Schubert: Du bist die Ruh D776
• Brahms: Immer leiser wird mein Schlummer op.105 no.2
• Brahms: Der tod, das ist die kühle nacht op.96 no.1
• Brahms: Botschaft op.47 no.1
• Brahms: Von ewiger liebe op.43 no.1
• Schumann: Frauenliebe und –leben op.42
R. 07-09-1949 Usher Hall Edinburgh

http://www.asyura2.com/20/reki4/msg/640.html#c47
[近代史4] ユダヤ人は性格が悪い _ 大指揮者ブルーノ・ワルターの場合 中川隆
48. 中川隆[-13399] koaQ7Jey 2020年3月24日 15:30:06 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[1505]

Kathleen Ferrier & Bruno Walter; "Kindertotenlieder"; Gustav Mahler




Kathleen Ferrier--Contralto
Bruno Walter--Conductor
Wiener Philharmoniker
1949年

http://www.asyura2.com/20/reki4/msg/640.html#c48
[近代史4] ユダヤ人は性格が悪い _ 大指揮者ブルーノ・ワルターの場合 中川隆
49. 中川隆[-13398] koaQ7Jey 2020年3月24日 15:35:33 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[1506]

Kathleen Ferrier - "Ich bin der Welt abhanden gekommen" (Mahler: Rückert-Lieder) - with lyrics 1952年




Kathleen Ferrier.UM MITTERNACHT.VIENNA.Bruno Walter.1952.Gustav Mahler. Ruckert lieder




In the spring of 1952 in Vienna,the contralto Kathleen Ferrier recorded her famous Mahler's Das Lied Von Der Erde.

http://www.asyura2.com/20/reki4/msg/640.html#c49
[近代史4] ユダヤ人は性格が悪い _ 大指揮者ブルーノ・ワルターの場合 中川隆
50. 中川隆[-13397] koaQ7Jey 2020年3月24日 16:07:04 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[1507]

ブルーノ・ワルター(Bruno Walter, 1876年9月15日-1962年2月17日)は、ドイツ出身の指揮者・ピアニスト・作曲家。

より正確なドイツ語読みはヴァルターであり、そのように表記される場合もある。また、本来の姓はシュレジンガーであり、これは彼がブレスラウの歌劇場の指揮者になったとき、現地ユダヤ人にシュレジンガー姓が多いので、ヴァルターに改めたという。そのため、ヴァルター・シュレジンガーと表記されることも稀にある。

20世紀を代表する偉大な指揮者の1人で、モーツァルトやマーラーを得意とした
戦前や戦後間もなくの日本では、ヴィルヘルム・フルトヴェングラー、アルトゥーロ・トスカニーニとブルーノ・ワルターを「三大巨匠」と呼ぶことが多かった。

作曲家として2曲の交響曲、室内楽曲、歌曲などを残している。

ドイツ系ユダヤ人の父親と、東ヨーロッパから移住したユダヤ系の母親の間の子として、ベルリンに生まれる。母親はキリスト教に改宗しており、ブルーノ本人もキリスト教徒であった。本名は、ブルーノ・シュレジンガー(Bruno Schlesinger)。

父親は絹糸商会の簿記係、母親はワルター本人の言い方によれば「なかなかうまい」ピアニストだった。

幼少期からピアノに親しみ、13才の時にはベルリン・フィルハーモニー管弦楽団のポピュラーコンサートにピアニストとして出演し、イグナーツ・モシェレスのピアノ協奏曲を演奏している。

ベルリンのシュテルン音楽院を卒業後、ピアニストとしてデビューしたが、ハンス・フォン・ビューローの実演を目の当たりにして指揮者になることを決意し、1894年にケルン市立歌劇場でデビューした。


マーラーとの出会い

1896年にはハンブルク歌劇場へ移った。そこで当時音楽監督(1891年 - 1897年)、すなわち上司であったグスタフ・マーラーに認められ、マーラーの部下、そして親友として交流を深めていった。(ただし、ワルターはマーラーに指揮を師事したわけではないので、「マーラーの弟子」という表現は適切ではない。)その後マーラーとともにウィーンへ転任し、ウィーン音楽院(現ウィーン国立音楽大学)で教鞭をとる。また、名前からユダヤ系を示す「シュレジンガー」という姓を除き「ブルーノ・ワルター(ヴァルター)」と名乗ったのもこの頃からである[注釈 1]。

人気指揮者へ

1901年にマーラーの招聘によってウィーン宮廷歌劇場の副指揮者となる。以後ウィーン宮廷歌劇場(ウィーン国立歌劇場)楽長、ミュンヘン宮廷歌劇場(バイエルン国立歌劇場)音楽監督、ベルリン市立歌劇場(ベルリン・ドイツ・オペラ)音楽監督、ライプツィヒ・ゲヴァントハウス管弦楽団楽長などを歴任。ヨーロッパの一流オーケストラやザルツブルク音楽祭さらにはアメリカのオーケストラにも度々招かれる人気指揮者として活躍した。ベルリン・フィルでは「ブルーノ・ワルターコンサート」という演奏会を持っていた。

ナチスの台頭とアメリカ移住

しかし、1933年に、ナチス政権が成立すると、ユダヤ系であるワルターは迫害を受けるようになる。政権発足直後に演奏旅行から帰国してきたワルターは、ナチ宣伝大臣ゲッベルスらによる嫌がらせや殺人予告を受けるようになり、最終的には楽屋に銃弾を撃ち込まれる事態にまで発展した。このため、ワルターが指揮をする演奏会は中止に追い込まれ、彼はドイツを追われてオーストリアのウィーンへ移住せざるを得なくなった。

移住先のウィーンでは歓迎されてウィーン国立歌劇場やウィーン・フィルで、フルトヴェングラーなどと人気を争うほどの活躍をしたが、1938年にオーストリアがナチス・ドイツに併合されてしまうと、命に危険を感じウィーンを出てスイスのルガーノへ逃れた。この年創設されたルツェルン音楽祭にトスカニーニらと共に招かれたりしているが、パスポートもない状態でモナコなどに市民権の取得を打診し不調におわる。やがてフランスから手をさしのべられフランス国籍を取得、フランスなどドイツとオーストリアの影響の及ばない地域を中心に演奏活動を続けた。

翌年もルツェルン音楽祭に招かれるが、チューリッヒで離婚調停中だった次女のグレーテルが夫に射殺され、その夫も自殺するという悲劇(著名なバス歌手エツィオ・ピンツァとグレーテルとの不倫関係が原因という)がワルターを襲う(音楽祭はトスカニーニが自らのスケジュールをキャンセルして代役を務める)。

1939年9月に第二次世界大戦が勃発して欧州での戦火が激しくなると、ついにルガーノの家を出てアメリカへと逃れた。アメリカでは、カリフォルニア州ビバリーヒルズに居を構え、常任のポストには就かずにニューヨーク・フィルハーモニックやメトロポリタン歌劇場などを指揮した。


戦後

戦後はヨーロッパの楽壇にも復帰し、1947年から1949年の間にニューヨーク・フィルハーモニックの音楽顧問を務めるなど、欧米で精力的に活躍を続けたが、1958年に心臓発作で倒れてしばらく休養。その後もニューヨーク・フィルやウィーン・フィルを指揮して数回演奏会を行なっている。1960年にマーラーの生誕100周年記念祭のために最後のウィーン訪問を行いウィーン・フィルを指揮する(曲目はマーラーの交響曲第4番、シューベルトの「未完成」など)。同年暮れにロスアンジェルス・フィルの演奏会で当時新進気鋭のヴァン・クライバーンと共演し(曲目はブラームスのピアノ協奏曲第1番、交響曲第1番)、演奏会から引退した。その数年前、ステレオ録音技術が発達してきたため、CBSレコード(現在はソニー・クラシカル)が、ワルターの演奏をステレオで収録するために、ロスアンジェルス付近の音楽家によりコロンビア交響楽団を特別に結成し、この組み合わせで多くの録音が残された。

1962年2月17日、心不全のためカリフォルニア州ビバリーヒルズの自宅で死去。その波乱に満ちた生涯を閉じた。現在、遺体はスイスのルガーノに埋葬されている。

最晩年に、ルドルフ・シュタイナーが設立した人智学関連団体である『普遍アントロポゾフィー協会』に入会した。


ワルターの名演奏(録音)

レパートリーと演奏スタイル

ワルターは、19世紀生まれの指揮者の中では珍しく録音を多く残しており、録音期間も1920年代のSPレコードから1960年代のステレオ録音に至るまでの長期間にわたっている。そのレパートリーも得意としていたマーラーやモーツァルトの他、ハイドン、ベートーヴェン、シューベルト、ブラームス、ブルックナーなどのドイツ・オーストリア系音楽やベルリオーズ、ドヴォルザーク、チャイコフスキー、バーバーなど幅広い。録音には残されていないが、同時代の作曲家の作品も積極的に取り上げていた。

よくワルターの演奏は微笑に例えられ、夢のような幸福感に満ちた美しい演奏、感情を荒々しく出すことのない中庸な演奏をする指揮者として知られている。モーツァルトの交響曲や晩年のステレオ・スタジオ録音によるベートーヴェンの交響曲第6番『田園』などの録音にその点が見られる。しかしその一方で、壮年期であるモノラル録音時代のライヴ録音などにはニューヨーク・フィルとのベートーヴェン交響曲第7番や、1937年にカール・ライネッケのカデンツァを弾き振りしたウィーン・フィルとのモーツァルトピアノ協奏曲第20番K466、ナチス・ドイツの脅威が迫り来る中で演奏された1938年のマーラー交響曲第9番のように何かに憑かれたような熾烈な演奏をしている事例も多い。ワルター自身、自伝で自分の中にはアポロ的な部分とディオニュソス的な部分が両立している、と述べている。

ワルターの指揮は、基本的にタクトを持った右手のみを使い、必要以上に体を動かすことも、左手を使うこともあまりしていない。拍をぼかさずにきちんと刻んで振っていることが多く、「草書的」と言われたマーラーら旧世代の指揮とは違うものである。また、文学的な解説や長い演説は余りせず、タクトを振りながら「歌って!」「ディミヌエンド!」「エスプレッシーヴォ!」といった指示を出すのみならず、楽器名を出して細かいアーティキュレーションを盛り込んでいる[2]。

彼は自伝に「自分は教育的指揮者だ」と残している。このことは、ワルターがトスカニーニのようにオーケストラに対して専制君主として振舞う指揮者ではないことを示しており、ワルターの人柄を良く表している。例えば、ウィーン・フィルでのリハーサルでは悲しい顔をし「なぜあなた達は美しい音を出さないのですか?もっと歌ってください」と言い、団員達は「あんな悲しげな顔でリハーサルされたら音を出さざるを得ないよ。トスカニーニなどの怒りんぼう指揮者以上に困った指揮者だね」と、言ったという。


代表的な録音は下記の通り。

マーラーとモーツァルト

ワルターはグスタフ・マーラーの良き理解者であり、マーラーの死後に交響曲第9番、『大地の歌』の初演を行うなど、その権威として知られていた。ワルターの死後レナード・バーンスタインやクラウス・テンシュテットなどによる名演奏が生まれ、ワルターのマーラー演奏の地位は相対的に低下したが、それでも前述の1938年録音の交響曲第9番(ウィーン・フィルとのライヴ録音)や1952年録音の『大地の歌』(ウィーン・フィルとのスタジオ録音とライブ録音)、ステレオ録音の交響曲第1番(コロンビア交響楽団)、第2番(ニューヨーク・フィル)などは今でも名演奏として知られている。交響曲第1番の録音では、当時バーンスタインもこの曲の録音が予定されており、場合によっては同じ曲のレコードが同じCBSから同じ時期に発売される可能性もあった。しかし、「とりあえずバーンスタインにワルター盤を聴かせ、その感想で録音するかどうか決めよう」ということになり、バーンスタインにワルター盤を聴かせたところ大絶賛したため、バーンスタインによる録音はお預けとなった。

また、ワルターはモーツァルトを得意としており、楽屋でモーツァルトの霊と交信していたという噂さえ伝説として残っているほど。生涯最後の録音も、モーツァルトのオペラ序曲集であった。晩年のコロンビア交響楽団とのステレオ録音では交響曲第36番、第40番、またニューヨーク・フィルとのモノラル録音では第35番、第38番、第39番、第40番、第41番などが名演奏として知られている。また、戦前のウィーン・フィルとの録音(『アイネ・クライネ・ナハトムジーク』など)や、1952年のウィーン・フィルとの交響曲第40番のライヴ録音、ザルツブルク音楽祭での交響曲第25番、『レクイエム』のライヴ録音などは今でも名演奏と称えられている。オペラでは、メトロポリタン歌劇場での『ドン・ジョヴァンニ』、『魔笛』等が知られている。

20世紀後半にモーツァルトの権威とされたカール・ベームも、「バイエルン歌劇場音楽監督であったワルターが私を第4指揮者として招聘し、彼がモーツァルトのすばらしさを教えてくれたからこそ、モーツァルトに開眼できた」と告白している[3]。


その他

マーラー・モーツァルト以外では下記の録音などが今も高い評価を得ている。

モノラル録音
ブラームス 交響曲第2番、交響曲第3番(ニューヨーク・フィル)
ベートーヴェン 交響曲第3番『英雄』(シンフォニー・オブ・ジ・エアとのライヴ録音[4])
ベートーヴェン 交響曲第6番『田園』(ウィーン・フィルとのSP録音)
ハイドン 交響曲第100番『軍隊』(ウィーン・フィルとのSP録音)
シューベルト 交響曲第7(8)番『未完成』(ウィーン・フィルとのSP録音)


ステレオ録音
ベートーヴェン 交響曲第2番、交響曲第6番『田園』(コロンビア交響楽団)
ブラームス 交響曲第4番(コロンビア交響楽団)
シューベルト 交響曲第5番、交響曲第8(9)番『ザ・グレート』(コロンビア交響楽団)
シューベルト 交響曲第7(8)番『未完成』(ニューヨーク・フィル)
ハイドン 交響曲第100番『軍隊』(コロンビア交響楽団)


他の指揮者との関係


トスカニーニ

ワルターとトスカニーニは演奏スタイルには違いがあったが、親交を持っていた。トスカニーニはワルターの演奏を、感傷的に過ぎるように感じていたようだが、ワルターが指揮したモーツァルトの交響曲のレコードに関して自分よりも良いと述べている。いっぽうワルターはトスカニーニから音楽的に多大な影響を受け、自伝でもトスカニーニを賞賛している。ワルターが娘グレーテル殺害の報を受けたのはルツェルン音楽祭の楽屋であったが、ショックで指揮が出来なくなってしまったワルターに代わって指揮台に上がったのはトスカニーニだった。トスカニーニが90歳で没した際の追悼演奏会ではワルターが指揮台に上がり、ベートーヴェンの交響曲第3番の名演奏を残している。


フルトヴェングラー

ワルターとフルトヴェングラーは共にドイツを代表する大指揮者であったが、片やワルターはユダヤ人としてナチスに祖国を追われ、片やフルトヴェングラーはナチス政権下でドイツに留まり、ナチスから官職を得て演奏活動を続けたことが二人の関係をぎくしゃくしたものにしてしまった。歌手ディートリヒ・フィッシャー=ディースカウは自伝で「フルトヴェングラーはワルターが指揮するブラームスの『ドイツ・レクイエム』を戦後の演奏会で聞いた際に、テンポなどに否定的な見解を述べていた」と書いている。また、フルトヴェングラーがシカゴ交響楽団の指揮者就任を在米ユダヤ人に反対された際にはワルターはそれに加わらなかったが、その際に互いに交換された書簡ではワルターはフルトヴェングラーの戦時中の対応に対して、厳しい意見を述べている。


クレンペラー

クレンペラーとワルターは共にユダヤ系ドイツ人で、マーラーの薫陶を受けた人物だがその演奏スタイルは大きく違った。あるインタビュー[5][6]では、クレンペラーが「ワルターはモラリストだが、私は違う、断じて!」[注釈 2]と述べた後に、「モラリスト」では芸術作品の深さを伝えるような演奏は出来ないのだ、というニュアンスの発言をしてワルターを皮肉っている。ただし、ワルターの書簡集を見るとクレンペラーやその家族との間とも手紙が交わされていることが伺える。

ベーム

前述のようにバイエルン国立歌劇場時代にワルターが招聘し、その後も交友を続けていた。ワルターが戦後初めてウィーンに降り立ったときの言葉は、「私の友人ベーム君は、今どうしているか」だったと伝えられている。ベームは、ワルターのことを「繊細敏感なユダヤ人で、どこかマーラーを偲ばせるところがあった」と語っている。ベームはワルターを慕っており、ことあるごとにワルターに指揮を依頼している。ウィーン国立歌劇場再開記念公演シリーズに際してもワルターにドン・ジョバンニの指揮を依頼している(これは、実際にはワルターが高齢を理由に断ったためベーム自身が指揮し、ワルターはベートヴェンの第9を指揮している)。さらにモーツァルトのみならず、シューベルトの演奏もワルターに教えてもらったと言っている。また、ワルターはベーム夫人をミミ役に起用した。

作曲した作品

ワルターは、歌曲、室内楽、合唱曲などを作曲していたが、生前作曲家として知られることはなかった。 現在までに、録音が発売された作品は下記のとおりである。

ヴァイオリン・ソナタ
交響曲ニ短調
歌曲『兵士、若い夫』

なお、生前にワルター自作自演によるピアノ曲を聴いたマーラーは、妻アルマ宛の書簡でこう述べている。「今日はブルーノ・ワルターの曲を聴いた。彼には悪いが、あくびを堪えるのにとても苦労した。彼は指揮者としての活動に集中すべきであり、これには君も同意してくれると思う」


著書

自伝『主題と変奏-1946年-』(白水社) 原著:Thema und Variationen/ドイツ語

著作『音楽と演奏-1957年-』(白水社) 原著:Von der Musik und vom Musizieren/ドイツ語

書簡集『ブルーノ・ワルターの手紙-1969年-』(白水社)ロッテ・ワルター・リント編

マーラー人と芸術(音楽之友社) (訳:村田武雄)原著:Gustav Mahler, Austria/ドイツ語


映像作品

DVD『THE ART OF CONDUCTING:GREAT CONDUCTORS OF THE PAST / アート・オブ・コンダクティング −今世紀の偉大な名指揮者たち−』(ワーナー・ミュージック)
DVD『ザ・マエストロ』(ジェネオン・エンタテインメント) - 1958年のカナダ・ヴァンクーバー祝祭管弦楽団とのブラームス『交響曲第2番』のリハーサル風景とインタビュー

映画『カーネギー・ホール』 - 1952年。ニューヨーク・フィルが『ニュルンベルクのマイスタージンガー』第1幕前奏曲を演奏する場面で指揮を振っている。

映画『フルトヴンェグラーと巨匠たち』(原題は「音楽の大使」) - 1954年。


注釈

1.^ 仲間のフランツ・シャルクはこのことをワーグナーのタンホイザーにも出てくる詩人ワルター・フォン・デア・フォーゲルヴァイデとかけて、「シュレジンガー・フォン・デア・フォーゲルヴァイデ氏」と呼んだという

2.^ ワルターは、しばしば「温和なヒューマニスト」「道徳者」というイメージで伝えられているが、実際はそうではない一面もあったという説があり、これをもってワルターを偽善者とする見方もある。これについては、前述のようにワルター自身が自分の中に「アポロとデュオニソスが両立している」と残していることにも留意する必要がある。

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%96%E3%83%AB%E3%83%BC%E3%83%8E%E3%83%BB%E3%83%AF%E3%83%AB%E3%82%BF%E3%83%BC

http://www.asyura2.com/20/reki4/msg/640.html#c50

[近代史4] ユダヤ人は性格が悪い _ 大指揮者ブルーノ・ワルターの場合 中川隆
51. 中川隆[-13396] koaQ7Jey 2020年3月24日 16:12:54 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[1508]

ブルーノ・ワルターの名盤紹介


ブルーノ・ワルター HOME PAGE
http://www1.s2.starcat.ne.jp/danno/walter2.htm

ブルーノ・ワルター 作曲家別ディスコグラフィ
http://www1.s2.starcat.ne.jp/danno/discography.htm

ブルーノ・ワルター 掲示板
https://6233.teacup.com/walter/bbs
http://www.asyura2.com/20/reki4/msg/640.html#c51

[近代史4] ユダヤ人は性格が悪い _ 大指揮者ブルーノ・ワルターの場合 中川隆
52. 中川隆[-13395] koaQ7Jey 2020年3月24日 16:43:10 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[1509]

巨匠神話 – 1998/12/10
ノーマン レブレヒト (著), Norman Lebrecht (原著), & 2 その他
https://www.amazon.co.jp/巨匠神話-ノーマン-レブレヒト/dp/4163519009


内容紹介
何も演奏せず、何も歌わないのに、賞賛の拍手を独占する男──それがW偉大なる指揮者Wである。二十世紀の巨匠神話を解剖する問題作

内容(「BOOK」データベースより)
フルトヴェングラー、トスカニーニ、ワルター、カラヤン、バーンスタイン…彼らがめざした権力と栄光の歴史から、その夢と挫折をめぐる神話を分析する。“偉大なる指揮者”たちへの大いなるレクイエム。

内容(「MARC」データベースより)
フルトヴェングラー、トスカニーニ、ワルター、カラヤン、バーンスタイン。彼らが目指した権力と栄光の歴史から、その夢と挫折の神話を分析する。誰もが一度は夢見る職業・指揮者を巡る、おかしくて悲しくて不思議な物語。


▲△▽▼

●● ブルーノ・ワルター 4 ●●
https://music.5ch.net/test/read.cgi/classical/1023453274/


42 :名無しの笛の踊り:02/06/13 23:20 ID:vb3zNeqM

レブレヒトの巨匠神話の邦訳版、今ごろになって手に入れたよ。前のワルター・スレ
で紹介された内容が、すべて間違いなく載っていたよ。「貪欲な豚」の逸話も、シェ
ーンベルクの最近まで未公開だった手紙に書かれているそうだ。でも前スレでも指摘
されていたが、邦訳版はこれらの逸話の出典をすべて省略しているね。それに、ここ
でのワルター関連の話題から判断する限り、レブレヒトの紹介するそれぞれの逸話は
そのソースの存在自体に疑わしい点はないにせよ、個々の発言のシチュエーションが
全く説明されていなかったり、発言に微妙な尾ひれがついているのではと考えられる
場合が多いね。著名な指揮者のダークサイドを、ことさら強調するための修辞法なの
だろうけど、あまりフェアな書き方ではないね。

46 :名無しの笛の踊り:02/06/16 00:49 ID:mumm8P4M

戦後の(妻の死後の)ワルターを巡る3人の女性。
エリカ・マン、デリア・ラインハルト、スージー・ダンツィガー。


47 :名無しの笛の踊り:02/06/16 15:06 ID:YoXO10XM

どんな関係だったの?


48 :名無しの笛の踊り:02/06/16 15:37 ID:???
>>42
なんでワルターが「悪いひと」なのをそんなに否定したがるのか?
別に悪いひとでもいいじゃないの
なんでいいひとである必要があるのか理解できない


49 :名無しの笛の踊り:02/06/16 19:24 ID:YoXO10XM

いい人であることを望んでいる人はそんなにいないんじゃない?
人間的に一癖ある方が魅力的だし。でも,「貪欲な豚」がワルターの
性格そのものであるかのように誤解されるのはちょっと違うんじゃない?
とは思うよ。まあ 俺にとってはどうでもいいけど。演奏さえ良けりゃ。


50 :名無しの笛の踊り:02/06/16 20:26 ID:???
>>48 >>49

悪口の言い方はいろいろあると思うけれど、「豚」という表現をするところ
までの悪口ならば、そう言われる理由を探るのも意味のないことではないと
思う。「豚」という語がユダヤ人(or ユダヤ教徒)にとってどういうことを
意味するか考えると、これは最悪の罵倒の文句だ。 ただ、ワルターはユダヤ
教徒ではなかったがね。ユダヤ教に改宗したシェーンベルクが、非ユダヤ教徒
のワルターに対して「豚」と表現したのが事実なら、他人と衝突することの
比較的少なく、うまく世を渡っていたワルターに対する強い嫉妬の感情がシェ
ーンベルクにあった、ということだと思う。


51 :名無しの笛の踊り:02/06/16 20:45 ID:???

つまりシェーンベルクがDQNなの?


52 :名無しの笛の踊り:02/06/16 20:51 ID:???

「クレンペラーとの対話」ではシェーンベルクはドキュソだと書かれてるな


53 :名無しの笛の踊り:02/06/16 20:55 ID:???

くれんぷにかかると、
大概の人間がDQNになるからなあ。


54 :名無しの笛の踊り:02/06/16 20:56 ID:???
>>51
そうかもしれない。
芸術家(音楽家も含む)というのは、とかく他人に嫉妬しやすい
人種だからね。


55 :名無しの笛の踊り:02/06/16 20:59 ID:???

キミたち、適当なことを言いなさんなよ。
シェーンベルクがドキュソなら、20世紀の演奏家全員がドキュソだ。
シェーンベルクの作曲上の業績は、ヴァルターの演奏上の業績をはるかに凌ぐ。


57 :名無しの笛の踊り:02/06/16 21:17 ID:YoXO10XM

ワルターが十二音技法などの現代曲に否定的な考えを持っていたから
シェーンベルクは敵意を持っていたのかな?


58 :55:02/06/16 21:22 ID:???

やはり、レブレヒトの例の本はいくぶん眉唾だということではないかな。
私は英語版で読んだが、問題の書簡の出典は‘AI’としか書いてなかった。
この略号の意味は本をひっくり返しても書いてないが、おそらくは
‘Author's Interview’ということかと思われ。>>42も書いているとおり、
事実関係に誤りはないのかもしれないが、面白く書こうとしすぎているのかも。

59 :名無しの笛の踊り:02/06/16 21:29 ID:???

シェーンベルクがいなかったら、今日の音楽の状況は随分異なった
ものになっていたであろうが、ワルターがいなかっても何も変らな
かったであろう。


68 :名無しの笛の踊り:02/06/18 01:49 ID:8b8aTuW6
from >>42 to >>48

何もワルターが「悪いひと」でないと思いたがってはいないよ。ただ問題なの
は、レブレヒトのスキャンダリズムというのか、他人の過激な発言の言葉尻を
捉えて、一般に考えられているような温厚とか善良とかいったイメージと異な
る、ワルターのネガティブ・イメージを殊更のように作り上げようとする姿勢
なのだよ。シェーンベルクの手紙の件ではないけれど、1つ例をあげてみよう。

「彼の芸術を賛美する同僚たちも、彼の性格は軽蔑していた。ワルターが友
 人だと言っていたトスカニーニさえ、彼を『感傷的な馬鹿』と呼んだ」

 ⇒⇒

 感傷的な馬鹿の出典は恐らくメニューインの自伝中の記述なのだが、メニュ
 ーイン自身は他所(最近のワルターの伝記)で次のように述べている。「トス
 カニーニは、ごく親しい友人達を自宅のサロンに集めて、彼の同業者をこっ
 ぴどく貶して楽しむ習慣がありました。あるとき、私が控えめにワルターの
 名前を上げてみると、たちどころに『感傷的な馬鹿』という返事が返ってき
 ました。」 

このように、メニューインの文章を前後省略せずに引用するの
 と、レブレヒトのように刺激的な部分だけを自分の主張に組み入れて引用す
 るのとでは、同じエピソードでも読み手の印象がかなり異なってくるね。
http://www.asyura2.com/20/reki4/msg/640.html#c52

[近代史4] ユダヤ人は性格が悪い _ 大指揮者ブルーノ・ワルターの場合 中川隆
53. 中川隆[-13394] koaQ7Jey 2020年3月24日 16:54:45 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[1510]
4月20日:巨匠神話

先週金曜日のクレンペラーのページで、レブレヒトの「巨匠神話」(文藝春秋)を引用しました。この本は一時書店でも結構見かけたので読まれた方も多いかもしれません。この本では有名な指揮者たちの面白いエピソードが語られていて興味が尽きません。面白い話はたくさんありますが、私にとってはブルーノ・ワルターに関する話が面白くもあり、また非常にショッキングでありました。

「巨匠神話」によれば、ブルーノ・ワルターは大変な偽善者で、性格の悪さは天下一品だったらしいです。本から抜き書きいたしますと、驚くべきことに次のような言葉がでてきます。

「ワルターは、卑劣で意地悪な利己主義だった」(アンナ・マーラー)

「昔から貪欲な豚で、考えるだけで気分が悪くなる」(シェーンベルク)

「感傷的なばか」(トスカニーニ)

「ワルターは偽善者だった」(レブレヒト)


驚きましたね。しかし、そんなことは私はこの本を読むまでは全く知りませんでした。ワルターといえば、コンサートの前にはモーツァルトの霊と交信するとまでいわれ、その暖かみのある風貌とあいまって、聖者のような人だと私は思い込んでいました。ナチスに迫害を受けた際には自分だけが標的になっただけでなく、家族までが無残な死に方をしています。そういう知識があると、よけいワルターを美化したくなるのですが、レブレヒトは従来のイメージを木っ端微塵に打ち砕いてしまいました。

ただし、困ったことに、「巨匠神話」日本語版では出典が全部削除されています。
出典なしでもかなり厚い本になっていますから、さらに詳細な出典を付けると、本が厚くなり、2分冊になってしまいます。そうすれば値段も跳ね上がり、売れ行きも落ちるだろうと編集者は考えたのでしょう。

しかし、そう考えた編集者は本作りの基本を全くなおざりにしていると思います。本来書物というものは一回読んだら終わりという性格のものではなく、何度も読み返し、調べものをする際にも使われます。出典がないということは、とりもなおさず、内容の裏を取っているかどうか分からないということです。著者レブレヒトにすればものすごい労力をかけて集めた情報であるのに、それが編集者の浅知恵のためにうやむやにされるわけで、本の価値がそれだけで半減しています。きっとレブレヒトはこの事実を知らないのではないでしょうか。全く残念なことです。

ところで、ブルーノ・ワルターに戻りますと、レブレヒトはこうも書いています。

「ブルーノ・ワルターは、すばらしい指揮者がすばらしい人間でなくてもいいという、生きた証拠であった。」

私もそう思います。レブレヒトの本を読んだ後でもやはりワルターの音楽はすばらしく聞こえます。プライベートはあくまでもプライベート。音楽は虚心坦懐に聴くのが一番でしょう。下手に知識は詰め込まないほうがいいかもしれません。
http://www.andiemusik.jp/classic/archive/archive9904_b.html
http://www.asyura2.com/20/reki4/msg/640.html#c53

[近代史4] ユダヤ人は性格が悪い _ 大指揮者ブルーノ・ワルターの場合 中川隆
54. 中川隆[-13393] koaQ7Jey 2020年3月24日 17:01:00 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[1511]
音楽録音の音づくりを考える ブルーノ・ワルターのCD


 多くの人は、自分の音楽的感性を、最初に聴き込んだ人の演奏によって形成するのではないか。またクラシック音楽では、同じ曲でも多数の演奏があるが、好きな演奏は、多くがやはり最初に繰り返し聴いた演奏である。私の場合は、ブルーノ・ワルターだった。

ブルーノ・ワルターといっても、知らない人が多いと思うが、1960年に亡くなった指揮者で、ユダヤ人であったために、ヨーロッパからアメリカに亡命して、戦後なんどか演奏旅行にヨーロッパに出かけたが、ずっとアメリカに住んで活動した。

アルトゥール・ニキシュが亡くなったとき、ベルリン・フィルの地位を継ぐのはワルターだと言われたのに、フルトヴェングラーに決まったのだが、これは、フルトヴェングラーがかなり裏で工作をした結果だと言われている。

ミュンヘンのオペラの音楽監督も、ナチの信奉者であったクナッパーツブッシュによって追われたと言われているので、政治的感覚はほとんどなかった、純粋芸術家だったのだろう。

戦前最も優れたワーグナー指揮者であったが、バイロイトには一度も登場していない。

ユダヤ人であったことがもちろんその理由だが、さすがにバイロイト側も、ワルターを無視することはできず、リストの娘であり、ワーグナーの妻だったコジマが、ワルターを招いて面接のようなものをしたときがある。そのときコジマが、ヴェルディのオペラをどう思うか、と質問し、当然のように、ヴェルディは素晴らしい作曲家だとワルターは答えたが、ヴェルディを好きな指揮者など、バイロイトには不要だ、とそのまま呼ばれることなく、ワルターはアメリカに去った。

もちろん、ヴェルディを高く評価しているから呼ばれなかったわけではない。その証拠に、ヴェルディを神のように尊敬していたトスカニーニは、何度かバイロイトで指揮をしている。このトスカニーニ、フルトヴェングラー、ワルターを20世紀前半期の三大指揮者と、通常呼んでいる。

 私は、小さいころから、ワルターのレコードで音楽を聴くようになって、現在でもワルターファンである。演奏の特徴等は別の機会にして、今日、ワルターの旧コロンビアに録音したすべてを集めたコンプリートが届いたので、レコードとCDについて考えてみた。

 さて、今の若い人は、ほとんど知らないはずであるが、CDの前はレコードと呼ばれた33センチある盤に刻まれた、音を波化した溝を針でトレースして音を出すメディアが使われていた。もちろん、アナログである。それがデジタルで記録されるCDに切り替わったのだが、特に、切り替わった時期から、相当経った時点でも、CDは音が悪いという評価が定着していた。CDはソニーとフィリップスが共同開発したまったく新しい音声記録方式であるが、音の波を数値に置き換え、音を数値化し記録する、そして、数値を読み取って再び音に変換するという原理だった。しかし、その際、人間に聞こえない周波数の音は、高い方も低い方も切り捨てることになった。だから、アナログレコードは、実際に聞こえなくても鳴っているが、デジタルのCDは、そもそも音として鳴っていないことにしてしまうわけだから、そのことによって、音質が低下するのだという「見解」が多数の人によって主張された。そして、その「被害」を最もうけた演奏家が、ワルターだったといえる。

 デジタル録音がアナログから転換して、非常に早くアナログ録音は消えてしまった。デジタル録音して、CDとして発売される場合には、もともとその音で登場するが、ワルターの場合には、アナログレコードがたくさん売れていて、その音が多くのファンに染み込んでいた。CDが登場すると、当然、アナログ録音は、テープからデジタル化されて、CDとして再発売されることになる。すると、レコードの音になじんでいたファンから、CDの音に対する不満が爆発したのである。特にそれが顕著に表れたのがワルターの録音だった。これは、ワルターという指揮者が置かれた立場が影響していると考えられる。

 20世紀前半の三大指揮者は、いずれも録音に熱心であり、多くの録音を残したが、ステレオが登場するまで活動を続け、多くの優れたステレオ録音を残したのは、ワルターのみだった。あとの二人は、モノラル録音の時代に死去し、しかも、現代の水準からすれば、非常に悪い録音でしかなかった。元々が悪い音でしか記録されていないのだから、CDになった音が悪くても、それほど気にならなかった。しかし、ワルターはステレオで録音したから、鮮明な録音が残されていた。しかし、カラヤンのような20世紀後半の指揮者と違うのは、デジタル録音が登場したときには、既にいなかったという点である。

 ここで、録音の音とレコードやCDとして市販され、スピーカーから流れる音とは、まったく違うことを確認しておく必要がある。演奏会に足繁く通っている人であれば、充分にわかることだが、クラシック音楽の演奏会では、聴く席によって、音がかなり違う。ポピュラー系では、スピーカーを通して音を聴くので、席による違いはほとんどない。しかし、クラシックの場合は、マイクもスピーカーも使わないから、音源の位置と、会場の位置によって、音が変わる。オーケストラの場合、舞台上であっても、楽器によって、聴いている音はまったく違うのだ。そして、舞台上で演奏者が聴いている音と、客席で聴いている音もまた、相当違う。簡単にいえば、舞台上の音は、生の音であり、客席では、さまざまなところに反響して、混ざり合った音になる。そして、舞台上では、特に指揮者からは、音は分離して聞こえる。

 では、録音された音はどうなのか。これは、マイクのセッティングによって、全く違ってくる。技術者が一番好むのは、各楽器の前にマイクをたてて、個別の音をとり、あとで、音量や反響効果を調整して、全体としての音を作り上げる方式である。逆に、全体がまとまった音として聞こえる空間的位置を探り出して、そこにマイクをおき、ひとつのマイクで録音する方式もある。しかし、その方式は、マイクが格段に高い性能になってからのもので、ワルターが生きていたころは、マルチマイクで録音していた。

 マルチマイクでの録音は、ではどのような音なのか。それは、客席で聴く音ではなく、反響する前の生の音となる。楽器の前にマイクをおくのだから当然であろう。それは何を意味するのか。つまり、録音された音は、客席で聴く音ではないということだ。レコードにする際に、その生の音を加工して、客席で聴くような音に作り替えるのである。しかし、どのような音として聞こえるのがよいのかは、エンジニアによって異なる。だから、同じオーケストラの同じ曲でも、レコード会社によって、音がかなり違ったりする。各レコード会社には、そうした音のポリシーがあって、生の音を調整して製品化していたのである。

 しかし、CDになったときには、全く違うエンジニアが製品を作ることになるから、アナログレコードを作る際のポリシーや技術は、引き継がれなかったに違いないのである。もちろん、現役の演奏家に関しては、製品化されるまでに、音のチェックをするから、調整された音に対して意見をいうことができる。だから、もともとデジタル録音して、CDが制作された場合には、齟齬はおきない。だが、ワルターの場合には、優れた「生」の音で録音されたものがあり、CD化するときには、デジタルのエンジニア、つまり、それまでの音の加工についてはまったく無縁だった人がCDの音を作ったのである。だから、それまでのレコードとはまったく違う印象をあたえた。生の音は、すっぴんであり、製品化されたレコードは化粧していたのである。それが、ワルターのCDをきいた人は、これまで美しい化粧をしていた人が、突然すっぴんで現われた姿をみてしまったような状況になる。CDは音が悪いという非難を、最もうけたのが、ワルターのものだったというのは、いろいろな事情が重なったためである。

 さて、死後60年近くたって、やっと、ソニーから、旧コロンビアで録音したすべてのものが集められたコンプリート集がやっと発売された。そして、発売前には、少なくともステレオ録音されたものについては、マスターテープから、リマスターしたと宣伝されている。その製品が今日やっと届いたのである。早速部分的に聴き比べをしたわけだ。

 評判が悪かった初期のCD、比較的評判のよかった韓国ソニーの製品のワルター選集、そして、今回のリマスターしたコンプリートを、ベートーヴェン「田園」の一楽章の提示部、モーツァルトの「ジュピター」の一楽章の提示部、ブラームスの2番のはじめの部分で比較してみた。

 以前のワルターのCDへの批判は、音が生であること、特に高音が目立って、低音を重視するドイツ系指揮者であるワルターの音とは違うのではないかということだった。そして、事前の宣伝では、リマスターは低音をこれまでより強調し、ワルターが本来求めていた響きに近くなるように努力したということだった。

 結果は、確かに雰囲気的には変わって聞こえる。低音が多少明瞭になったことによって、更に中音域が充実しているように響いている。そして、そのことによって、高音のきつさが消えて、全体に溶け込むような感じになっている。同じテープを使っているのだから、全然違う音に聞こえるわけではなく、印象としては、柔らかい響きになった感じはする。もっとも、今回リマスター作業をしたエンジニアが、ワルターの演奏を実際にきいたことがあるわけではないだろうから、これが、本当の響きであるかは不明である。また、実際の常設のオーケストラではなく、録音用に編成されたオケなので、弦楽器の人数が、適正であったかどうかは、ずっと議論がある。

 もう少し聴き込んで、実際の音と録音された音との相違など、更に考えてみたい。

http://wakei-education.sakura.ne.jp/otazemiblog/?p=1111
http://www.asyura2.com/20/reki4/msg/640.html#c54

[近代史4] ユダヤ人は性格が悪い _ 大指揮者ブルーノ・ワルターの場合 中川隆
55. 中川隆[-13392] koaQ7Jey 2020年3月24日 17:20:52 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[1512]
ノーマン・レブレヒト『巨匠神話』(文藝春秋 1997年)

 オーケストラ指揮者が形成され、マエストロ巨匠といわれる存在になって君臨していく歴史と、現状を現場調査に基づいて赤裸々に述べられます。

独裁とむすんだフルトヴェングラー、ビジネスとして市場原理に包摂されていくカラヤンが、現代の巨匠神話の現況であり、徹底的に批判されます。

私もこの書を読むまでは、マエストロに幻想を抱いていましたが、木っ端微塵に粉砕されて、寂寥感が漂います。

米国の巨大マネイジメント会社であるコロンビアがクラシック界を支配し、この会社と契約する音楽家の多くが、音楽をビジネスとして位置づけ、本来の芸術的才能を衰弱させるのは圧巻です。

日本の小澤征爾もこの会社のエージェンシーを受けるようになって、指揮が頽廃したとしています。クラシック・ファンは一読の価値があるでしょう。
(2011/11/16)
http://www008.upp.so-net.ne.jp/arakuni/book/book.htm
http://www.asyura2.com/20/reki4/msg/640.html#c55

[近代史4] ナチス時代のフルトヴェングラーは一体何を考えていたのか? 中川隆
5. 中川隆[-13391] koaQ7Jey 2020年3月24日 17:23:08 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[1513]

ノーマン・レブレヒト『巨匠神話』(文藝春秋 1997年)

 オーケストラ指揮者が形成され、マエストロ巨匠といわれる存在になって君臨していく歴史と、現状を現場調査に基づいて赤裸々に述べられます。

独裁とむすんだフルトヴェングラー、ビジネスとして市場原理に包摂されていくカラヤンが、現代の巨匠神話の現況であり、徹底的に批判されます。
私もこの書を読むまでは、マエストロに幻想を抱いていましたが、木っ端微塵に粉砕されて、寂寥感が漂います。

米国の巨大マネイジメント会社であるコロンビアがクラシック界を支配し、この会社と契約する音楽家の多くが、音楽をビジネスとして位置づけ、本来の芸術的才能を衰弱させるのは圧巻です。

日本の小澤征爾もこの会社のエージェンシーを受けるようになって、指揮が頽廃したとしています。クラシック・ファンは一読の価値があるでしょう。
(2011/11/16)
http://www008.upp.so-net.ne.jp/arakuni/book/book.htm


▲△▽▼


巨匠神話 – 1998/12/10
ノーマン レブレヒト (著), Norman Lebrecht (原著), & 2 その他
https://www.amazon.co.jp/巨匠神話-ノーマン-レブレヒト/dp/4163519009


内容紹介
何も演奏せず、何も歌わないのに、賞賛の拍手を独占する男──それがW偉大なる指揮者Wである。二十世紀の巨匠神話を解剖する問題作

内容(「BOOK」データベースより)
フルトヴェングラー、トスカニーニ、ワルター、カラヤン、バーンスタイン…彼らがめざした権力と栄光の歴史から、その夢と挫折をめぐる神話を分析する。“偉大なる指揮者”たちへの大いなるレクイエム。

内容(「MARC」データベースより)
フルトヴェングラー、トスカニーニ、ワルター、カラヤン、バーンスタイン。彼らが目指した権力と栄光の歴史から、その夢と挫折の神話を分析する。誰もが一度は夢見る職業・指揮者を巡る、おかしくて悲しくて不思議な物語。

http://www.asyura2.com/20/reki4/msg/639.html#c5

[近代史4] 隠された履歴:第三帝国のカール・ベーム 中川隆
1. 中川隆[-13390] koaQ7Jey 2020年3月24日 17:23:37 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[1514]


ノーマン・レブレヒト『巨匠神話』(文藝春秋 1997年)

 オーケストラ指揮者が形成され、マエストロ巨匠といわれる存在になって君臨していく歴史と、現状を現場調査に基づいて赤裸々に述べられます。

独裁とむすんだフルトヴェングラー、ビジネスとして市場原理に包摂されていくカラヤンが、現代の巨匠神話の現況であり、徹底的に批判されます。
私もこの書を読むまでは、マエストロに幻想を抱いていましたが、木っ端微塵に粉砕されて、寂寥感が漂います。

米国の巨大マネイジメント会社であるコロンビアがクラシック界を支配し、この会社と契約する音楽家の多くが、音楽をビジネスとして位置づけ、本来の芸術的才能を衰弱させるのは圧巻です。

日本の小澤征爾もこの会社のエージェンシーを受けるようになって、指揮が頽廃したとしています。クラシック・ファンは一読の価値があるでしょう。
(2011/11/16)
http://www008.upp.so-net.ne.jp/arakuni/book/book.htm


▲△▽▼


巨匠神話 – 1998/12/10
ノーマン レブレヒト (著), Norman Lebrecht (原著), & 2 その他
https://www.amazon.co.jp/巨匠神話-ノーマン-レブレヒト/dp/4163519009


内容紹介
何も演奏せず、何も歌わないのに、賞賛の拍手を独占する男──それがW偉大なる指揮者Wである。二十世紀の巨匠神話を解剖する問題作

内容(「BOOK」データベースより)
フルトヴェングラー、トスカニーニ、ワルター、カラヤン、バーンスタイン…彼らがめざした権力と栄光の歴史から、その夢と挫折をめぐる神話を分析する。“偉大なる指揮者”たちへの大いなるレクイエム。

内容(「MARC」データベースより)
フルトヴェングラー、トスカニーニ、ワルター、カラヤン、バーンスタイン。彼らが目指した権力と栄光の歴史から、その夢と挫折の神話を分析する。誰もが一度は夢見る職業・指揮者を巡る、おかしくて悲しくて不思議な物語。

http://www.asyura2.com/20/reki4/msg/641.html#c1

[近代史4] ユダヤ人は性格が悪い _ 大指揮者ブルーノ・ワルターの場合 中川隆
56. 中川隆[-13389] koaQ7Jey 2020年3月24日 17:27:47 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[1515]

ブルーノ・ワルターが案外に、交響曲の第40番や第41番の演奏を聴くと、主旋律の親しげ優しげなその奥に思いのほか苦いところ荒いところがあったりして、これは出し抜いた〈音楽〉を狙っていたのに違いなかろうと思う。

 ワルターというと、ノーマン・レブレヒトが「巨匠神話」でその食わせ者ふりを嫌というくらいに暴いていたのを思い出す。

思うに、そのような人物であるからこそ却って、その曲者ぶりに出し抜かれることなくモーツァルトと渉り合えたりすることになるのかもしれない。

ちょうどクレンペラーの底意地の悪さとか、フルトヴェングラーの好色ぶりとか、その〈音楽〉とは決して無縁なわけではないように。
http://www5b.biglobe.ne.jp/~yutakas/mozart.html
http://www.asyura2.com/20/reki4/msg/640.html#c56

[近代史4] ユダヤ人は性格が悪い _ 大指揮者ブルーノ・ワルターの場合 中川隆
57. 中川隆[-13388] koaQ7Jey 2020年3月24日 18:16:38 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[1516]
83 : 名無しの笛の踊り2017/07/04(火) 08:30:53.44 ID:Ldf6zAGS

1960年のマーラー生誕100年祭でワルターは第4交響曲を嫌々
振ったことを評伝で読んで、ワルターが気の毒になった。
『大地の歌』を強く希望したそうだが、カラヤンが降ることが
すでに決まっており、ワルターは変更を強く希望したが
コンサート運営者がカラヤンに嫌われるのを恐れて
ワルターの申し出を断ったとか。読んでいて切なくなった。


84 : 名無しの笛の踊り2017/07/05(水) 02:10:55.85 ID:rR4rX1vS

第4番は入門者用みたいな曲だからさぞ物足りなかっただろう


85 : 名無しの笛の踊り2017/07/05(水) 09:27:13.02 ID:daPQ0cRb

当日の演奏の模様を映像収録するという運営側の
意向をワルターは拒否したらしい。映像として
収録されるとマーラーではなく自分の記録になって
しまうというのがワルターの言い分だったが、これは
『大地の歌』を指揮させてもらえなかった運営側への
抵抗だったろう。

それにしても当日の録音は1960年にしては音が悪い。

http://www.asyura2.com/20/reki4/msg/640.html#c57

[近代史02] 君はアジアを解放する為に立ち上がった昭和天皇のあの雄姿を知っているか? 中川隆
226. 中川隆[-13387] koaQ7Jey 2020年3月24日 18:33:26 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[1517]
2020年03月24日
1945年 日本とアメリカの内部抗争 終戦を望まなかった人たち


原爆を投下した理由は官僚が出世したかったからだが、誰もその事は言わない。

引用:http://www.teaparty.org/wp-content/uploads/2015/03/Atomic_cloud_over_Nagasaki_from_Koyagi-jima-1940x1500.jpeg


1945年の戦い

1945年の太平洋では日米で数多くの戦いが展開されていました。

戦闘機や軍艦同士が戦うのではなく、政治的な思惑が対立して戦争終結を巡って争っていた。

山本五十六を失った日本海軍は一刻も早く戦争を辞めたがっていて、外務省と天皇は同調していた。


日本陸軍は敗北を認めず、徹底抗戦によって既得権益を確保しようとした。

早期に負けを認めることで国力を温存しようとする終戦派と、本土決戦で米国を退けようとする抗戦派は互いに譲らなかった。

アメリカでは早期に戦争を終結させて、米ソ冷戦に備えようとする国務省と、戦果を誇示したい国防省が戦っていた。


国務省は日本の外務省と図って、独自の停戦交渉をまとめようとしたが、国防省の妨害などで原爆投下に間に合わなかった。

国防省はもし、国務省の交渉で終戦に至ったら、最大功労者が国務省になり、軍隊の役割りが正当に評価されないと考えていた。

軍隊のおかげで戦争に勝ったのだと証明するためには、日本を焦土にして完全に屈服させなければならないと考えていた。


1945年7月にはもはや戦争そのものは目的ではなくなり、誰が手柄を上げるか、日本では誰に責任を取らせるかの話になった。

日本海軍は沖縄が米軍に占領された6月には降伏を決めていて、外務省も同調していた。

結局責任を押し付けられたのが日本陸軍で、手柄を手にしたのは原爆使用に成功した米国防省だった。

降伏を拒否したアメリカ軍

海軍内でも徹底抗戦派は存在したが、意図的に軍艦を全滅させる特攻作戦で、反対派を封じ込めたとも言われている。

軍艦が無くなれば海軍は戦争を継続出来ないので、米国との講和条約へ向けて動き出す事ができる。

昭和天皇は東京大空襲があった3月から5月に、降伏を決めていたと言われている。


4月に大本営上層部は沖縄戦が絶望的な状況と判断し、米国との停戦交渉に向けて動き出しました。

このとき日本が期待したのは、対日参戦していないソ連が、米国との仲介役になってくれるのではないかという事だった。

同時に大本営はソ連の対日参戦を8月か9月と予想し、それまでの短期間に交渉をまとめる必要があると判断した。


だがソ連は日本と米国の仲介役を拒否し、8月8日に参戦し、日本の領土を分捕りにきました。

計画ではソ連は日本の東半分、つまり名古屋から東を占領する事になっていました。

もう一つの米国との交渉ルートは、中立国のスイスやバチカンの大使館を通すものだったが、絶縁状態だったので期待されていなかった。


大使館ルートの交渉は意外にも手応えがあったが、米国内では国務省と国防省が対立していた。

国務省は既にソ連との対決を予想し、日本との早期停戦を望んだが、国防省は徹底抗戦を主張していた。

停戦交渉にも妨害が入り8月6日と8月9日に、戦争が終わる前に駆け込みで原爆を使用した。

戦後の始まり

原爆が投下される前の7月には、ドイツ・イタリア軍との交渉も行ったアレン・ダレスを通じて降伏の意思は伝えられていた。

日本側は8月の第一週から第二週に停戦したい旨を提案し、実際には8月15日に天皇が停戦命令を出した。

アレン・ダレスは後のCIA長官になった大物で、アメリカ側が本気だったのは分かる。


米国防省はこれを察知し、日本の降伏前に、可能な限りの爆弾と原爆を投下しようと考えた。

国務省は戦争が終わっても活躍できるが、軍人は戦争が終わったら「ごくつぶし」でしか在りません。

国務省への嫌がらせのように日本全土に絨毯爆撃を実施し、あと1週間で日本が降伏するのを知りながら2発の原爆を使用した。


それだけではなく米軍は日本が降伏した後も絨毯爆撃を続け、10発の原子爆弾を使用するつもりでした。

これらの目的は戦争に勝つためではなく、国防省の官僚が出世するために行われました。

そしてダグラス・マッカーサーは1945年8月30日に、解放者のような振りをして降り立ち、GHQという軍事政権を樹立しました。


その軍事政権がおしつけたのが日本国憲法で、日本人が日本という国を憎むように、NHKや朝日新聞などのメディアを通じて、日本の戦争犯罪を流布しました。

これが戦後の始まりで、国防省や米軍人の「正しさ」や「手柄」を強調するために、多くの戦争犯罪が捏造され、無実の日本軍人が処刑されました。
http://www.thutmosev.com/archives/65832220.html
http://www.asyura2.com/09/reki02/msg/312.html#c226

[近代史02] アメリカ・アングロサクソンの凶暴性・アメリカインディアンが絶滅寸前に追い込まれた仮説 sagakara
70. 中川隆[-13386] koaQ7Jey 2020年3月24日 18:34:16 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[1518]

2020年03月24日
1945年 日本とアメリカの内部抗争 終戦を望まなかった人たち


原爆を投下した理由は官僚が出世したかったからだが、誰もその事は言わない。

引用:http://www.teaparty.org/wp-content/uploads/2015/03/Atomic_cloud_over_Nagasaki_from_Koyagi-jima-1940x1500.jpeg


1945年の戦い

1945年の太平洋では日米で数多くの戦いが展開されていました。

戦闘機や軍艦同士が戦うのではなく、政治的な思惑が対立して戦争終結を巡って争っていた。

山本五十六を失った日本海軍は一刻も早く戦争を辞めたがっていて、外務省と天皇は同調していた。


日本陸軍は敗北を認めず、徹底抗戦によって既得権益を確保しようとした。

早期に負けを認めることで国力を温存しようとする終戦派と、本土決戦で米国を退けようとする抗戦派は互いに譲らなかった。

アメリカでは早期に戦争を終結させて、米ソ冷戦に備えようとする国務省と、戦果を誇示したい国防省が戦っていた。


国務省は日本の外務省と図って、独自の停戦交渉をまとめようとしたが、国防省の妨害などで原爆投下に間に合わなかった。

国防省はもし、国務省の交渉で終戦に至ったら、最大功労者が国務省になり、軍隊の役割りが正当に評価されないと考えていた。

軍隊のおかげで戦争に勝ったのだと証明するためには、日本を焦土にして完全に屈服させなければならないと考えていた。


1945年7月にはもはや戦争そのものは目的ではなくなり、誰が手柄を上げるか、日本では誰に責任を取らせるかの話になった。

日本海軍は沖縄が米軍に占領された6月には降伏を決めていて、外務省も同調していた。

結局責任を押し付けられたのが日本陸軍で、手柄を手にしたのは原爆使用に成功した米国防省だった。

降伏を拒否したアメリカ軍

海軍内でも徹底抗戦派は存在したが、意図的に軍艦を全滅させる特攻作戦で、反対派を封じ込めたとも言われている。

軍艦が無くなれば海軍は戦争を継続出来ないので、米国との講和条約へ向けて動き出す事ができる。

昭和天皇は東京大空襲があった3月から5月に、降伏を決めていたと言われている。


4月に大本営上層部は沖縄戦が絶望的な状況と判断し、米国との停戦交渉に向けて動き出しました。

このとき日本が期待したのは、対日参戦していないソ連が、米国との仲介役になってくれるのではないかという事だった。

同時に大本営はソ連の対日参戦を8月か9月と予想し、それまでの短期間に交渉をまとめる必要があると判断した。


だがソ連は日本と米国の仲介役を拒否し、8月8日に参戦し、日本の領土を分捕りにきました。

計画ではソ連は日本の東半分、つまり名古屋から東を占領する事になっていました。

もう一つの米国との交渉ルートは、中立国のスイスやバチカンの大使館を通すものだったが、絶縁状態だったので期待されていなかった。


大使館ルートの交渉は意外にも手応えがあったが、米国内では国務省と国防省が対立していた。

国務省は既にソ連との対決を予想し、日本との早期停戦を望んだが、国防省は徹底抗戦を主張していた。

停戦交渉にも妨害が入り8月6日と8月9日に、戦争が終わる前に駆け込みで原爆を使用した。

戦後の始まり

原爆が投下される前の7月には、ドイツ・イタリア軍との交渉も行ったアレン・ダレスを通じて降伏の意思は伝えられていた。

日本側は8月の第一週から第二週に停戦したい旨を提案し、実際には8月15日に天皇が停戦命令を出した。

アレン・ダレスは後のCIA長官になった大物で、アメリカ側が本気だったのは分かる。


米国防省はこれを察知し、日本の降伏前に、可能な限りの爆弾と原爆を投下しようと考えた。

国務省は戦争が終わっても活躍できるが、軍人は戦争が終わったら「ごくつぶし」でしか在りません。

国務省への嫌がらせのように日本全土に絨毯爆撃を実施し、あと1週間で日本が降伏するのを知りながら2発の原爆を使用した。


それだけではなく米軍は日本が降伏した後も絨毯爆撃を続け、10発の原子爆弾を使用するつもりでした。

これらの目的は戦争に勝つためではなく、国防省の官僚が出世するために行われました。

そしてダグラス・マッカーサーは1945年8月30日に、解放者のような振りをして降り立ち、GHQという軍事政権を樹立しました。


その軍事政権がおしつけたのが日本国憲法で、日本人が日本という国を憎むように、NHKや朝日新聞などのメディアを通じて、日本の戦争犯罪を流布しました。

これが戦後の始まりで、国防省や米軍人の「正しさ」や「手柄」を強調するために、多くの戦争犯罪が捏造され、無実の日本軍人が処刑されました。
http://www.thutmosev.com/archives/65832220.html
http://www.asyura2.com/09/reki02/msg/367.html#c70

[近代史02] 原爆投下が日本を救った_ ユダヤ人とトルーマンと昭和天皇に感謝 中川隆
47. 中川隆[-13385] koaQ7Jey 2020年3月24日 18:35:21 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[1519]
2020年03月24日
1945年 日本とアメリカの内部抗争 終戦を望まなかった人たち


原爆を投下した理由は官僚が出世したかったからだが、誰もその事は言わない。

引用:http://www.teaparty.org/wp-content/uploads/2015/03/Atomic_cloud_over_Nagasaki_from_Koyagi-jima-1940x1500.jpeg


1945年の戦い

1945年の太平洋では日米で数多くの戦いが展開されていました。

戦闘機や軍艦同士が戦うのではなく、政治的な思惑が対立して戦争終結を巡って争っていた。

山本五十六を失った日本海軍は一刻も早く戦争を辞めたがっていて、外務省と天皇は同調していた。


日本陸軍は敗北を認めず、徹底抗戦によって既得権益を確保しようとした。

早期に負けを認めることで国力を温存しようとする終戦派と、本土決戦で米国を退けようとする抗戦派は互いに譲らなかった。

アメリカでは早期に戦争を終結させて、米ソ冷戦に備えようとする国務省と、戦果を誇示したい国防省が戦っていた。


国務省は日本の外務省と図って、独自の停戦交渉をまとめようとしたが、国防省の妨害などで原爆投下に間に合わなかった。

国防省はもし、国務省の交渉で終戦に至ったら、最大功労者が国務省になり、軍隊の役割りが正当に評価されないと考えていた。

軍隊のおかげで戦争に勝ったのだと証明するためには、日本を焦土にして完全に屈服させなければならないと考えていた。


1945年7月にはもはや戦争そのものは目的ではなくなり、誰が手柄を上げるか、日本では誰に責任を取らせるかの話になった。

日本海軍は沖縄が米軍に占領された6月には降伏を決めていて、外務省も同調していた。

結局責任を押し付けられたのが日本陸軍で、手柄を手にしたのは原爆使用に成功した米国防省だった。

降伏を拒否したアメリカ軍

海軍内でも徹底抗戦派は存在したが、意図的に軍艦を全滅させる特攻作戦で、反対派を封じ込めたとも言われている。

軍艦が無くなれば海軍は戦争を継続出来ないので、米国との講和条約へ向けて動き出す事ができる。

昭和天皇は東京大空襲があった3月から5月に、降伏を決めていたと言われている。


4月に大本営上層部は沖縄戦が絶望的な状況と判断し、米国との停戦交渉に向けて動き出しました。

このとき日本が期待したのは、対日参戦していないソ連が、米国との仲介役になってくれるのではないかという事だった。

同時に大本営はソ連の対日参戦を8月か9月と予想し、それまでの短期間に交渉をまとめる必要があると判断した。


だがソ連は日本と米国の仲介役を拒否し、8月8日に参戦し、日本の領土を分捕りにきました。

計画ではソ連は日本の東半分、つまり名古屋から東を占領する事になっていました。

もう一つの米国との交渉ルートは、中立国のスイスやバチカンの大使館を通すものだったが、絶縁状態だったので期待されていなかった。


大使館ルートの交渉は意外にも手応えがあったが、米国内では国務省と国防省が対立していた。

国務省は既にソ連との対決を予想し、日本との早期停戦を望んだが、国防省は徹底抗戦を主張していた。

停戦交渉にも妨害が入り8月6日と8月9日に、戦争が終わる前に駆け込みで原爆を使用した。

戦後の始まり

原爆が投下される前の7月には、ドイツ・イタリア軍との交渉も行ったアレン・ダレスを通じて降伏の意思は伝えられていた。

日本側は8月の第一週から第二週に停戦したい旨を提案し、実際には8月15日に天皇が停戦命令を出した。

アレン・ダレスは後のCIA長官になった大物で、アメリカ側が本気だったのは分かる。


米国防省はこれを察知し、日本の降伏前に、可能な限りの爆弾と原爆を投下しようと考えた。

国務省は戦争が終わっても活躍できるが、軍人は戦争が終わったら「ごくつぶし」でしか在りません。

国務省への嫌がらせのように日本全土に絨毯爆撃を実施し、あと1週間で日本が降伏するのを知りながら2発の原爆を使用した。


それだけではなく米軍は日本が降伏した後も絨毯爆撃を続け、10発の原子爆弾を使用するつもりでした。

これらの目的は戦争に勝つためではなく、国防省の官僚が出世するために行われました。

そしてダグラス・マッカーサーは1945年8月30日に、解放者のような振りをして降り立ち、GHQという軍事政権を樹立しました。


その軍事政権がおしつけたのが日本国憲法で、日本人が日本という国を憎むように、NHKや朝日新聞などのメディアを通じて、日本の戦争犯罪を流布しました。

これが戦後の始まりで、国防省や米軍人の「正しさ」や「手柄」を強調するために、多くの戦争犯罪が捏造され、無実の日本軍人が処刑されました。
http://www.thutmosev.com/archives/65832220.html
http://www.asyura2.com/09/reki02/msg/327.html#c47

[近代史3] 「効率よく焼き尽くせ」 空襲成功のため、日本家屋まで再現した米軍の「用意周到」 中川隆
6. 中川隆[-13384] koaQ7Jey 2020年3月24日 18:35:44 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[1520]
2020年03月24日
1945年 日本とアメリカの内部抗争 終戦を望まなかった人たち


原爆を投下した理由は官僚が出世したかったからだが、誰もその事は言わない。

引用:http://www.teaparty.org/wp-content/uploads/2015/03/Atomic_cloud_over_Nagasaki_from_Koyagi-jima-1940x1500.jpeg


1945年の戦い

1945年の太平洋では日米で数多くの戦いが展開されていました。

戦闘機や軍艦同士が戦うのではなく、政治的な思惑が対立して戦争終結を巡って争っていた。

山本五十六を失った日本海軍は一刻も早く戦争を辞めたがっていて、外務省と天皇は同調していた。


日本陸軍は敗北を認めず、徹底抗戦によって既得権益を確保しようとした。

早期に負けを認めることで国力を温存しようとする終戦派と、本土決戦で米国を退けようとする抗戦派は互いに譲らなかった。

アメリカでは早期に戦争を終結させて、米ソ冷戦に備えようとする国務省と、戦果を誇示したい国防省が戦っていた。


国務省は日本の外務省と図って、独自の停戦交渉をまとめようとしたが、国防省の妨害などで原爆投下に間に合わなかった。

国防省はもし、国務省の交渉で終戦に至ったら、最大功労者が国務省になり、軍隊の役割りが正当に評価されないと考えていた。

軍隊のおかげで戦争に勝ったのだと証明するためには、日本を焦土にして完全に屈服させなければならないと考えていた。


1945年7月にはもはや戦争そのものは目的ではなくなり、誰が手柄を上げるか、日本では誰に責任を取らせるかの話になった。

日本海軍は沖縄が米軍に占領された6月には降伏を決めていて、外務省も同調していた。

結局責任を押し付けられたのが日本陸軍で、手柄を手にしたのは原爆使用に成功した米国防省だった。

降伏を拒否したアメリカ軍

海軍内でも徹底抗戦派は存在したが、意図的に軍艦を全滅させる特攻作戦で、反対派を封じ込めたとも言われている。

軍艦が無くなれば海軍は戦争を継続出来ないので、米国との講和条約へ向けて動き出す事ができる。

昭和天皇は東京大空襲があった3月から5月に、降伏を決めていたと言われている。


4月に大本営上層部は沖縄戦が絶望的な状況と判断し、米国との停戦交渉に向けて動き出しました。

このとき日本が期待したのは、対日参戦していないソ連が、米国との仲介役になってくれるのではないかという事だった。

同時に大本営はソ連の対日参戦を8月か9月と予想し、それまでの短期間に交渉をまとめる必要があると判断した。


だがソ連は日本と米国の仲介役を拒否し、8月8日に参戦し、日本の領土を分捕りにきました。

計画ではソ連は日本の東半分、つまり名古屋から東を占領する事になっていました。

もう一つの米国との交渉ルートは、中立国のスイスやバチカンの大使館を通すものだったが、絶縁状態だったので期待されていなかった。


大使館ルートの交渉は意外にも手応えがあったが、米国内では国務省と国防省が対立していた。

国務省は既にソ連との対決を予想し、日本との早期停戦を望んだが、国防省は徹底抗戦を主張していた。

停戦交渉にも妨害が入り8月6日と8月9日に、戦争が終わる前に駆け込みで原爆を使用した。

戦後の始まり

原爆が投下される前の7月には、ドイツ・イタリア軍との交渉も行ったアレン・ダレスを通じて降伏の意思は伝えられていた。

日本側は8月の第一週から第二週に停戦したい旨を提案し、実際には8月15日に天皇が停戦命令を出した。

アレン・ダレスは後のCIA長官になった大物で、アメリカ側が本気だったのは分かる。


米国防省はこれを察知し、日本の降伏前に、可能な限りの爆弾と原爆を投下しようと考えた。

国務省は戦争が終わっても活躍できるが、軍人は戦争が終わったら「ごくつぶし」でしか在りません。

国務省への嫌がらせのように日本全土に絨毯爆撃を実施し、あと1週間で日本が降伏するのを知りながら2発の原爆を使用した。


それだけではなく米軍は日本が降伏した後も絨毯爆撃を続け、10発の原子爆弾を使用するつもりでした。

これらの目的は戦争に勝つためではなく、国防省の官僚が出世するために行われました。

そしてダグラス・マッカーサーは1945年8月30日に、解放者のような振りをして降り立ち、GHQという軍事政権を樹立しました。


その軍事政権がおしつけたのが日本国憲法で、日本人が日本という国を憎むように、NHKや朝日新聞などのメディアを通じて、日本の戦争犯罪を流布しました。

これが戦後の始まりで、国防省や米軍人の「正しさ」や「手柄」を強調するために、多くの戦争犯罪が捏造され、無実の日本軍人が処刑されました。
http://www.thutmosev.com/archives/65832220.html
http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/568.html#c6

[リバイバル3] 株で損した理由教えてあげる 新スレ 中川隆
254. 中川隆[-13383] koaQ7Jey 2020年3月24日 19:26:20 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[1521]

新型コロナ株安動向予想: 流行減速で株式市場は上昇する2020年3月24日
https://www.globalmacroresearch.org/jp/archives/9386

新型コロナウィルス肺炎が世界的流行となりアメリカとヨーロッパを席巻している。株式市場は暴落しているが、一方でヨーロッパの感染者数はピークに近づいている。

•新型コロナ、米国の感染者数急増止まらず ヨーロッパはピーク近し

新型ウィルスの流行がピークに達すれば株価の下落も止まるだろうかというのが投資家にとって最大の問題である。これは難しい問題だが、こうした問題を考える最適の方法は恐らくジョージ・ソロス氏の再帰理論だろう。今回の記事では彼の再帰理論を使って株安の今後の動向を予想してみたい。

ジョージ・ソロス氏の再帰理論

ジョージ・ソロス氏はヘッジファンドマネージャーとしてもっとも著名な人物であり、現代のヘッジファンドの形態は彼のクォンタム・ファンドを元型としている。レバレッジを使って買いと空売りの両方を行い、自分と顧客の資産を運用する形態というのは当時は彼のファンドだけだったのである。

そのソロス氏が自分の投資理論を説明した『ソロスの錬金術』という本があり、そこでは彼がバブルの発生と崩壊を予測するのに使っている再帰理論という理論が説明されている。

再帰理論とは相場におけるトレンドとトレンドが互いに強化しあうことよってバブルが発生し、またバブルの崩壊も同じようにトレンド同士の自己強化プロセスによって発生するという理論である。

この再帰理論を用いれば、止めることのできるバブル崩壊と止めることのできないバブル崩壊を見分けることができる。そして今回の新型コロナ株安は恐らく前者である。今回の記事は長くなるが、まずはこの2つの種類のバブルについて実例をもって説明してみたい。

サブプライムローン危機の場合

止められなかったバブル崩壊の最近の例は2008年のサブプライムローン危機である。

•リーマンショック時における米国株、政策金利、住宅価格の推移

当時の市場は低金利によって株式市場も不動産市場も好調だった。特にアメリカの住宅市場はローン金利が下がったことで誰もが家を持ちたがり、住宅価格は右肩上がりとなっていた。つまりはこういう状況である。

•金利低下 -> 住宅価格上昇

住宅価格が常に上昇するため、ローンを借りて住宅を買った人も買った家を高値で売れば楽々ローンを返せる状況にあった。こういう状況を受け、住宅ローンの債権を証券化したモーゲージ債は高騰、金利は低下していった。

モーゲージ債の中でも信用の低いローンを集めたものはサブプライムローンと呼ばれたが、信用の低い借り手も価格の上昇した住宅を高値で売ればローンを返せる状況にあったため、サブプライムローンの金利は低下した。低下したローン金利が更なる住宅購入を呼んだため、このトレンドは自己強化的なトレンドとなった。

•金利低下 -> 住宅価格上昇 -> 金利低下

こうした自己強化的なトレンドのことを再帰理論では再帰的と呼ぶ。このような再帰的なトレンドは止めるものがなければ際限なく互いを強化し合い、行き着くところまで行ってしまう。それがソロス氏の再帰理論である。

しかし長引く低金利により経済が過熱していったことで中央銀行は金利を上げていった。バブル状態となっていた住宅市場は金利上昇に敏感に反応した。

•金利上昇 -> 住宅価格下落

住宅価格が下がり始めると、サブプライムローンの問題が明るみに出始めた。安心安全と思われていたサブプライムローンがデフォルトし始めたため、低下していたサブプライムローンの金利は本来の適正な金利に戻り始める。

•金利上昇 -> 住宅価格下落 -> 金利上昇

すると低金利で住宅ローンが借りられなくなり、住宅の購入者が減って住宅価格はますます下落した。今度は逆方向の再帰的な自己強化トレンドである。金利が上がるほど住宅価格が下がり、住宅価格が下がるほど金利が上がってゆく。

特にサブプライムローンの下落は手の付けられないものとなり、それを元にして作られた金融派生商品を大量に保有していた世界中の銀行が破綻し始め、そこから世界的な景気後退と繋がることになる。

•住宅価格下落 -> サブプライムローン下落 -> 銀行破綻 -> 景気後退

当時、中央銀行は利下げを行ったが、この状況を止めることが出来なかった。低金利が住宅価格下落に効かなかったからである。

•金利低下 -> 住宅価格下落を止められず

それは利下げが住宅市場に作用するまでにタイムラグがあるからである。債券市場や株式市場であれば金融政策にすぐに反応するだろう。しかし利下げはまず長期金利を低下させ、低下した長期金利が住宅ローン金利を低下させる。そうして消費者が家を買うことを考えて初めて利下げの効果が表れることとなる。

実際には低金利の効果が実体経済に出始めるまでには3ヶ月ほどかかることになる。しかし暴落する住宅市場は3ヶ月もあれば値を大きく下げてしまう。

つまり、2008年の金融危機は住宅市場という実物資産の市場でバブルが進んだために即効性のある対策を打つことが出来ずに起こったということになる。下落の原因となっているトレンドが止められないものである場合、バブル崩壊も止められないということである。2008年の例では以下のトレンドを止められなかったということになる。

•住宅価格下落 -> モーゲージ債下落 -> 銀行破綻 -> 景気後退

2018年世界同時株安の場合

では次は逆にバブル崩壊を止められた例を同じように再帰理論によって見てゆきたい。2018年の世界同時株安である。

•世界同時株安を予想できた理由と株価下落の原因 (2020/10/18)

リーマンショックの続きにもなるが、2008年以降の株価の上昇は中央銀行の量的緩和と低金利政策によって支えられてきた。これは10年来の長いトレンドである。

•金利低下 -> 株価上昇

しかしアメリカ経済が好調だったことで2018年にはアメリカは金融緩和を止め、それを巻き戻す利上げと量的引き締めを行っていた。トランプ相場の好景気もあり、長期金利は上がっていった。

株式市場は当初は気にしない素振りを見せていたが、当時筆者はその危険性を警告し続けていた。

•バブルの頂点で日経平均は上昇、空売りを淡々と継続 (2018/9/20)

そして株価は2018年末に急落することになる。

つまりはこういうことである。

•金利上昇 -> 株価下落

株価が20%以上下落する中、パウエル議長は当初金融引き締めの継続にこだわったが、年末の下げでついに降伏、量的引き締めの停止と利下げを行うことになった。

周知の通り、バブル崩壊はこのパウエル議長の判断で収まっている。何故収まったかと言えば、バブル崩壊の原因となっていた金利上昇というトレンドが中央銀行によって除去可能だったからである。何故ならば中央銀行自身が原因だったので、彼らはそれを自分で取り除くことが出来たのである。

•金利低下 -> 株価回復

つまり、金利上昇が原因となったバブル崩壊はその原因を取り除くことで防ぐことができた。2008年とは違い、トレンドの原因を取り除くことができるバブル崩壊は防げるのである。

現在の状況

さて、では新型コロナ株安の今の状況はどうだろうか。問題となっているのは流行拡大によって飛行機が飛ばなくなり、ヨーロッパなどでは生活必需品を除いて店舗の閉鎖が行われている国が多いため、企業の売上が一時的に大幅に減少していることである。

•流行拡大 -> 売上減

売上が減ると利益が減るため、株価が下落する。また企業の資金繰りが悪化するため信用が悪化、金利を上げなければ借金ができなくなり社債の金利は上昇(価格は下落)している。

•流行拡大 -> 売上減 -> 株安、社債安(金利上昇)

金利が上がれば企業にとって借り入れコストが増えることとなり、また借り換えができなくなる企業も出てくる。これまでの低金利で本来ならば破綻している零細企業が借金を借り続けることで生きながらえてきたのが破綻の危機に貧しているのである。そうした企業の破綻が懸念されることで社債の金利は更に上がることになる。

•社債金利上昇 -> 企業の破綻懸念 -> 社債金利上昇

これは再帰的な自己強化のトレンドである。これが信用の低いジャンク債が暴落している理由である。

ジャンク債の暴落は新型コロナ相場の一番直接的で一番根深い問題と言える。あまりに多くのゾンビ企業が低金利で生きながらえてきたため、これが深刻化すると金融危機に繋がる可能性がある。それはドルの急激な上昇にも表れている。

•ドル円上昇が示す世界的倒産ラッシュの可能性

さて、しかし新型コロナ株安は本来下がって上がる相場である。売上の減少は一時的なものに過ぎず、来年になれば新型ウィルスのことなど皆忘れている。今となっては悲観的な人々が多いかもしれないが、そうした悲観には2月始めのレイ・ダリオ氏の言葉を贈りたい。

•中国新型ウィルス、世界最大のヘッジファンドの投資戦略


一般的にはこうした一生に一度のレベルの災害はまず最初に過小評価され、そして状況が進むにつれて過大評価される。

しかしそれはこのジャンク債暴落による倒産ラッシュが深刻化しなければの話である。よって今の相場の問題はジャンク債暴落トレンドが止まるか止まらないかの問題ということになる。つまりは社債の問題である。トレンドの流れをもう一度引用しよう。

•社債金利上昇 -> 企業の破綻懸念 -> 社債金利上昇

そして社債金利上昇のそもそもの原因はこういうことであった。

•流行拡大 -> 売上減 -> 株安、社債安(金利上昇)

よってこの問題はソロス氏の再帰理論によれば流行拡大が止まるか止まらないかという問題に帰着するのである。そして流行が止まるかと言えば、少なくともヨーロッパでは状況が反転しそうである。

•新型コロナ、米国の感染者数急増止まらず ヨーロッパはピーク近し

アメリカがそれに続くのも時間も問題だろう。よって今回の株式と債券の下落トレンドは止めることのできない再帰的トレンドではない。したがって株式市場も債券市場も流行減速で回復するという結論になる。止まらない暴落には止めることのできない原因があり、今回のトレンドはそれに当てはまらない。

まとめ

すべてのリスクについて長らく考えていたが、こういう結論になった。久々に中央銀行の動向予測以外の仕事をしたように感じる。世界中の中央銀行が弾切れになった後の世界とはつまり、中央銀行が株価を操作する前の世界に相場が戻ったということである。それは後々量的緩和バブルの本当の崩壊を引き起こすが、それについてはこの相場を上手くさばいてから書くことにしたい。

現在の状況は投資家にとって判断が難しい状況だが、このように整理して考えると突破口が見えてくる。こうした状況を綺麗に説明できる理論はなかなかないが、ソロス氏の再帰理論は今の状況にふさわしい道具であると言えるだろう。

『ソロスの錬金術』について個人的に残念なのは、世界屈指のファンドマネージャーであるジョージ・ソロス氏が自分の投資理論を本にまで書いて説明してくれているというのに、それを真面目に読む人が金融業界にもあまりに少ないということである。宝石が落ちていても誰もそこに目を向けない。市場でもそういう場面にしばしば出会う。今の原油相場も同じようなものだろう。

•原油価格暴落をめぐるロシアとサウジアラビアの戦争

あるいは下落前の新型コロナ相場も同じようなものだっただろうか。

•新型肺炎関連銘柄: 国内感染拡大で下落する個別銘柄はどれか (2020/2/17)

価値ある銘柄がタダ同然で落ちていても誰も買わないし、価値ある本が簡単に入手できるとしても誰も読まないのである。しかし結局はそういうものなのではないか。

道端に落ちている1万円札が本物かという話がある。経済学ではそれが本物ならば誰かが拾っているはずだから偽物に違いないと言う。しかしわたしに言わせれば道端に落ちている価値あるものは本物である。大多数の人はそれを拾わないからである。
https://www.globalmacroresearch.org/jp/archives/9386
http://www.asyura2.com/09/revival3/msg/823.html#c254

[近代史4] バブル崩壊の歴史 中川隆
4. 中川隆[-13382] koaQ7Jey 2020年3月24日 19:27:01 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[1522]

新型コロナ株安動向予想: 流行減速で株式市場は上昇する2020年3月24日
https://www.globalmacroresearch.org/jp/archives/9386

新型コロナウィルス肺炎が世界的流行となりアメリカとヨーロッパを席巻している。株式市場は暴落しているが、一方でヨーロッパの感染者数はピークに近づいている。

•新型コロナ、米国の感染者数急増止まらず ヨーロッパはピーク近し

新型ウィルスの流行がピークに達すれば株価の下落も止まるだろうかというのが投資家にとって最大の問題である。これは難しい問題だが、こうした問題を考える最適の方法は恐らくジョージ・ソロス氏の再帰理論だろう。今回の記事では彼の再帰理論を使って株安の今後の動向を予想してみたい。

ジョージ・ソロス氏の再帰理論

ジョージ・ソロス氏はヘッジファンドマネージャーとしてもっとも著名な人物であり、現代のヘッジファンドの形態は彼のクォンタム・ファンドを元型としている。レバレッジを使って買いと空売りの両方を行い、自分と顧客の資産を運用する形態というのは当時は彼のファンドだけだったのである。

そのソロス氏が自分の投資理論を説明した『ソロスの錬金術』という本があり、そこでは彼がバブルの発生と崩壊を予測するのに使っている再帰理論という理論が説明されている。

再帰理論とは相場におけるトレンドとトレンドが互いに強化しあうことよってバブルが発生し、またバブルの崩壊も同じようにトレンド同士の自己強化プロセスによって発生するという理論である。

この再帰理論を用いれば、止めることのできるバブル崩壊と止めることのできないバブル崩壊を見分けることができる。そして今回の新型コロナ株安は恐らく前者である。今回の記事は長くなるが、まずはこの2つの種類のバブルについて実例をもって説明してみたい。

サブプライムローン危機の場合

止められなかったバブル崩壊の最近の例は2008年のサブプライムローン危機である。

•リーマンショック時における米国株、政策金利、住宅価格の推移

当時の市場は低金利によって株式市場も不動産市場も好調だった。特にアメリカの住宅市場はローン金利が下がったことで誰もが家を持ちたがり、住宅価格は右肩上がりとなっていた。つまりはこういう状況である。

•金利低下 -> 住宅価格上昇

住宅価格が常に上昇するため、ローンを借りて住宅を買った人も買った家を高値で売れば楽々ローンを返せる状況にあった。こういう状況を受け、住宅ローンの債権を証券化したモーゲージ債は高騰、金利は低下していった。

モーゲージ債の中でも信用の低いローンを集めたものはサブプライムローンと呼ばれたが、信用の低い借り手も価格の上昇した住宅を高値で売ればローンを返せる状況にあったため、サブプライムローンの金利は低下した。低下したローン金利が更なる住宅購入を呼んだため、このトレンドは自己強化的なトレンドとなった。

•金利低下 -> 住宅価格上昇 -> 金利低下

こうした自己強化的なトレンドのことを再帰理論では再帰的と呼ぶ。このような再帰的なトレンドは止めるものがなければ際限なく互いを強化し合い、行き着くところまで行ってしまう。それがソロス氏の再帰理論である。

しかし長引く低金利により経済が過熱していったことで中央銀行は金利を上げていった。バブル状態となっていた住宅市場は金利上昇に敏感に反応した。

•金利上昇 -> 住宅価格下落

住宅価格が下がり始めると、サブプライムローンの問題が明るみに出始めた。安心安全と思われていたサブプライムローンがデフォルトし始めたため、低下していたサブプライムローンの金利は本来の適正な金利に戻り始める。

•金利上昇 -> 住宅価格下落 -> 金利上昇

すると低金利で住宅ローンが借りられなくなり、住宅の購入者が減って住宅価格はますます下落した。今度は逆方向の再帰的な自己強化トレンドである。金利が上がるほど住宅価格が下がり、住宅価格が下がるほど金利が上がってゆく。

特にサブプライムローンの下落は手の付けられないものとなり、それを元にして作られた金融派生商品を大量に保有していた世界中の銀行が破綻し始め、そこから世界的な景気後退と繋がることになる。

•住宅価格下落 -> サブプライムローン下落 -> 銀行破綻 -> 景気後退

当時、中央銀行は利下げを行ったが、この状況を止めることが出来なかった。低金利が住宅価格下落に効かなかったからである。

•金利低下 -> 住宅価格下落を止められず

それは利下げが住宅市場に作用するまでにタイムラグがあるからである。債券市場や株式市場であれば金融政策にすぐに反応するだろう。しかし利下げはまず長期金利を低下させ、低下した長期金利が住宅ローン金利を低下させる。そうして消費者が家を買うことを考えて初めて利下げの効果が表れることとなる。

実際には低金利の効果が実体経済に出始めるまでには3ヶ月ほどかかることになる。しかし暴落する住宅市場は3ヶ月もあれば値を大きく下げてしまう。

つまり、2008年の金融危機は住宅市場という実物資産の市場でバブルが進んだために即効性のある対策を打つことが出来ずに起こったということになる。下落の原因となっているトレンドが止められないものである場合、バブル崩壊も止められないということである。2008年の例では以下のトレンドを止められなかったということになる。

•住宅価格下落 -> モーゲージ債下落 -> 銀行破綻 -> 景気後退

2018年世界同時株安の場合

では次は逆にバブル崩壊を止められた例を同じように再帰理論によって見てゆきたい。2018年の世界同時株安である。

•世界同時株安を予想できた理由と株価下落の原因 (2020/10/18)

リーマンショックの続きにもなるが、2008年以降の株価の上昇は中央銀行の量的緩和と低金利政策によって支えられてきた。これは10年来の長いトレンドである。

•金利低下 -> 株価上昇

しかしアメリカ経済が好調だったことで2018年にはアメリカは金融緩和を止め、それを巻き戻す利上げと量的引き締めを行っていた。トランプ相場の好景気もあり、長期金利は上がっていった。

株式市場は当初は気にしない素振りを見せていたが、当時筆者はその危険性を警告し続けていた。

•バブルの頂点で日経平均は上昇、空売りを淡々と継続 (2018/9/20)

そして株価は2018年末に急落することになる。

つまりはこういうことである。

•金利上昇 -> 株価下落

株価が20%以上下落する中、パウエル議長は当初金融引き締めの継続にこだわったが、年末の下げでついに降伏、量的引き締めの停止と利下げを行うことになった。

周知の通り、バブル崩壊はこのパウエル議長の判断で収まっている。何故収まったかと言えば、バブル崩壊の原因となっていた金利上昇というトレンドが中央銀行によって除去可能だったからである。何故ならば中央銀行自身が原因だったので、彼らはそれを自分で取り除くことが出来たのである。

•金利低下 -> 株価回復

つまり、金利上昇が原因となったバブル崩壊はその原因を取り除くことで防ぐことができた。2008年とは違い、トレンドの原因を取り除くことができるバブル崩壊は防げるのである。

現在の状況

さて、では新型コロナ株安の今の状況はどうだろうか。問題となっているのは流行拡大によって飛行機が飛ばなくなり、ヨーロッパなどでは生活必需品を除いて店舗の閉鎖が行われている国が多いため、企業の売上が一時的に大幅に減少していることである。

•流行拡大 -> 売上減

売上が減ると利益が減るため、株価が下落する。また企業の資金繰りが悪化するため信用が悪化、金利を上げなければ借金ができなくなり社債の金利は上昇(価格は下落)している。

•流行拡大 -> 売上減 -> 株安、社債安(金利上昇)

金利が上がれば企業にとって借り入れコストが増えることとなり、また借り換えができなくなる企業も出てくる。これまでの低金利で本来ならば破綻している零細企業が借金を借り続けることで生きながらえてきたのが破綻の危機に貧しているのである。そうした企業の破綻が懸念されることで社債の金利は更に上がることになる。

•社債金利上昇 -> 企業の破綻懸念 -> 社債金利上昇

これは再帰的な自己強化のトレンドである。これが信用の低いジャンク債が暴落している理由である。

ジャンク債の暴落は新型コロナ相場の一番直接的で一番根深い問題と言える。あまりに多くのゾンビ企業が低金利で生きながらえてきたため、これが深刻化すると金融危機に繋がる可能性がある。それはドルの急激な上昇にも表れている。

•ドル円上昇が示す世界的倒産ラッシュの可能性

さて、しかし新型コロナ株安は本来下がって上がる相場である。売上の減少は一時的なものに過ぎず、来年になれば新型ウィルスのことなど皆忘れている。今となっては悲観的な人々が多いかもしれないが、そうした悲観には2月始めのレイ・ダリオ氏の言葉を贈りたい。

•中国新型ウィルス、世界最大のヘッジファンドの投資戦略


一般的にはこうした一生に一度のレベルの災害はまず最初に過小評価され、そして状況が進むにつれて過大評価される。

しかしそれはこのジャンク債暴落による倒産ラッシュが深刻化しなければの話である。よって今の相場の問題はジャンク債暴落トレンドが止まるか止まらないかの問題ということになる。つまりは社債の問題である。トレンドの流れをもう一度引用しよう。

•社債金利上昇 -> 企業の破綻懸念 -> 社債金利上昇

そして社債金利上昇のそもそもの原因はこういうことであった。

•流行拡大 -> 売上減 -> 株安、社債安(金利上昇)

よってこの問題はソロス氏の再帰理論によれば流行拡大が止まるか止まらないかという問題に帰着するのである。そして流行が止まるかと言えば、少なくともヨーロッパでは状況が反転しそうである。

•新型コロナ、米国の感染者数急増止まらず ヨーロッパはピーク近し

アメリカがそれに続くのも時間も問題だろう。よって今回の株式と債券の下落トレンドは止めることのできない再帰的トレンドではない。したがって株式市場も債券市場も流行減速で回復するという結論になる。止まらない暴落には止めることのできない原因があり、今回のトレンドはそれに当てはまらない。

まとめ

すべてのリスクについて長らく考えていたが、こういう結論になった。久々に中央銀行の動向予測以外の仕事をしたように感じる。世界中の中央銀行が弾切れになった後の世界とはつまり、中央銀行が株価を操作する前の世界に相場が戻ったということである。それは後々量的緩和バブルの本当の崩壊を引き起こすが、それについてはこの相場を上手くさばいてから書くことにしたい。

現在の状況は投資家にとって判断が難しい状況だが、このように整理して考えると突破口が見えてくる。こうした状況を綺麗に説明できる理論はなかなかないが、ソロス氏の再帰理論は今の状況にふさわしい道具であると言えるだろう。

『ソロスの錬金術』について個人的に残念なのは、世界屈指のファンドマネージャーであるジョージ・ソロス氏が自分の投資理論を本にまで書いて説明してくれているというのに、それを真面目に読む人が金融業界にもあまりに少ないということである。宝石が落ちていても誰もそこに目を向けない。市場でもそういう場面にしばしば出会う。今の原油相場も同じようなものだろう。

•原油価格暴落をめぐるロシアとサウジアラビアの戦争

あるいは下落前の新型コロナ相場も同じようなものだっただろうか。

•新型肺炎関連銘柄: 国内感染拡大で下落する個別銘柄はどれか (2020/2/17)

価値ある銘柄がタダ同然で落ちていても誰も買わないし、価値ある本が簡単に入手できるとしても誰も読まないのである。しかし結局はそういうものなのではないか。

道端に落ちている1万円札が本物かという話がある。経済学ではそれが本物ならば誰かが拾っているはずだから偽物に違いないと言う。しかしわたしに言わせれば道端に落ちている価値あるものは本物である。大多数の人はそれを拾わないからである。
https://www.globalmacroresearch.org/jp/archives/9386
http://www.asyura2.com/20/reki4/msg/128.html#c4

[近代史4] ユダヤ人は性格が悪い _ 大指揮者ブルーノ・ワルターの場合 中川隆
58. 中川隆[-13381] koaQ7Jey 2020年3月24日 19:41:51 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[1523]

ブルーノ・ワルターはミュンヘンのオペラの音楽監督も、ナチの信奉者であったクナッパーツブッシュによって追われたと言われているので、政治的感覚はほとんどなかった、純粋芸術家だったのだろう。
http://wakei-education.sakura.ne.jp/otazemiblog/?p=1111


バイエルン州立歌劇場でブルーノ・ワルターが退任
http://kna-club.com/html/modules/knapedia/index.php?content_id=17

バイエルン州立歌劇場でブルーノ・ワルターが退任することが決まり、その後任にクナッパーツブッシュが指名されたからである。

モーツァルトでの評判は今ひとつだったが、ワーグナー都市を標榜するミュンヘンで、クナッパーツブッシュはワーグナーを成功させ、バイエルン州立歌劇音楽総監督の座を射止める。

ワルターのバイエルン州立歌劇離任に関しては、さまざまな理由が上げられる。
 ひとつ大きな理由は、ミュンヘンの政治的、経済的混乱である。バイエルン革命を2度に渡って経験したワルターは、その混乱振りに半ばミュンヘンに愛想を尽かせていた。ミュンヘンの街は暴力的な雰囲気が充満し始め、「私に対する反対の動きは、まだ仕事の上でこそ感じられなかったけれども、そのような事実があるということを知るのは、もちろん過度に緊張した私の力を疲弊させる原因になった」(「主題と変奏」)

 さらに、ミュンヘンでのインフレは凄まじく、契約通りの俸給ではやりくりが難しくなっていた。

 そんな折り、当時の大指揮者アルトゥール・ニキシュが亡くなった。ニキシュはベルリン・フィルハーモニー管弦楽団とライプチヒ・ゲヴァントハウス管弦楽団の首席指揮者で、ひじょうに大きな人気を博していた。フリッツ・ブッシュはニキシュの薫陶を受け、クナッパーツブッシュの憧れの指揮者もニキシュだった。

 ワルターはニキシュの後を襲って、ベルリン・フィルの首席指揮者の後釜に座ろうと画策する。すでにベルリン・フィルでは「ブルーノ・ワルター・コンサート」を1919年から開始、人気を博していた。ワルターは、ベルリン・フィルの首席指揮者になれるという可能性を自身信じていたようだ。

 1922年3月8日、ワルターは客演先のローマからガヴリロヴィチあてに手紙を出している。

「ニキシュの後任はまだ決まっていません。ぼくは4月3日にニキシュ演奏会を指揮するはず、そのときに決定されるかもしれない。まじめに考慮されるのは二人だけで、フルトヴェングラーとぼくです。フルトヴェングラーのほうは、ニキシュが死んでからベルリンに根を下ろし、天国に地獄あらゆる手段を総動員して、この地位を得ようと躍起になっていますが、その間に急いで指揮できたのは、喝采のみ呼び起こすものばかり。おそらく今ごろは、イゾルデが第二幕でトリスタンを待ち受けるときの緊張さながら、その気持ちは逆であるにせよ、ボクの演奏会の結果いかんと待ち受けているでしょう。自分にたいしてなんらかの関心をかきたてるために、ぼくのほうはまったくなにもしなかったし、主義としてもなにひとつしていません。ぼくの全生涯にわたり、ただ業績によってのみ道を切り開くことだけに限ってきました。

実を言うと、今ミュンヘンを離れるにあたって(10月1日に去ります--ただし事柄はまだ秘密です)、ニキシュの後任となるのは、ぼくには決定的に重要なことでしょう。それが手に入りそうだと、ほとんどぼくも信ずるほどです--全オーケストラは一致してぼくに賛成の意見を表明したそうで、ぼくの知るところではルイーゼ・ヴォルフ(ベルリンの辣腕コンサートマネージャー・筆者註)も望んでいます。しかし--だめな場合は、それもよし。いまさらそんなことに驚くぼくではありません。--その地位が得られるならば、ぼくの意見では、3月と4月にぼくがアメリカにいる妨げにはなりえない。ベルリンの十回の演奏会だけが問題となるわけで、同じくニキシュも、いたるところ世界中をめぐったのに。そのためベルリンの演奏会をいちども欠かしたことはないのでした」(「ブルーノ・ワルターの手紙」)。

 ワルターの希望は、ベルリン・フィルとのコンサートの合間に、アメリカで活動することにあった。アメリカで活動することに関しては、ワルターはボストンで活躍するムックの莫大な収入に憧れを抱いていたという事実がある。1916年9月30日のガブリロヴィッチへの手紙に、すでにムックがボストン交響楽団を離れるときに備え、ワルターが招聘されるよう、根回しをしてくれるよう頼んでいる。結局、その時夢に描いたアメリカ遠征は、第1次世界大戦のアメリカ参戦で果たせなかったが(中立を宣言していたアメリカは結局連合軍に参加、アメリカの対ドイツ宣戦布告は、1917年4月6日である。敵性国人であるドイツ人は収容所に入れられた。例外なく、ムックも収容された)。

 ワルターは、ミュンヘンとの決別を決意する。

「責任ある地位での十年間近い仕事によって、私の力は使いつくされていた。かくも困難な芸術的状況のもとで、しかも増大する経済的危機と政治的不安が予想されるなかで、私は自分が『限界』に達したことをさとった。そればかりではなく、自分がミュンヘンに与えることのできるものはすでに与えてしまったこと、これ以上とどまっていても刷新や向上は期待できず、ただこれまでの仕事を継続しうるだけだということも、ますますはっきり解ってきた」(「主題と変奏」)。

 さらにワルターは「主題と変奏」の中で、他にも離任を決意するまでにいたった理由を暗示している。

「ミュンヘンを去ろうとする決心に本質的な寄与を果たした或るきわめて個人的な動機も、せめてここで暗示ぐらいはしておこうと思う。私は当時、悲劇的な発展の要素をはらんだ情熱に巻き込まれて、危険な状態にあった。それで、ミュンヘンを去ろうという芸術的な考慮から生まれた考えは、同時に人間的な苦しみに満ちた状況からの脱出を、可能にするものであった」

 相手は分からないながら、恐らくワルターは浮気をしていたものと思われる。
「個人的な動機」、「悲劇的な発展の要素をはらんだ情熱」、「人間的な苦しみ」という言葉がそれに当てはまる。ワルターの心は千々に乱れるほど混乱していたのだろう。

 ワルターは、政治的、経済的、そして個人的な苦しみを抱えたミュンヘンを何としても離れたかったのだと考えられる。

 自分の辞任理由とナチとは関係がなかったことについても書いている。

「一般にひとびとは、私がナチに追いたてられてミュンヘンを去ったのだと思っていた。しかし繰り返して言うが、私はミュンヘンを辞任するまで、ほんとうに政治的な敵対行為に悩んだことはなかったのであって、離別の理由は、一部自分の任務は終わったという感情から、一部は個人的な体験の領域から生まれたものだったのである」

 ナチはこの頃にはまだ、気にくわない演奏者のコンサートではあっても、演奏会場で騒いだり、臭気爆弾を破裂させるような妨害活動は行っていない。後にはそれらの妨害活動はナチのお家芸とも言えるようになるのだが。ましてや奥波氏も書いている通り、クナッパーツブッシュがワルター追い落としに一役買ったということもなかったのである。

  結局、ワルターはベルリン・フィルの首席指揮者の座をフルトヴェングラーに奪われている。4月1日のガブリロヴィッチへの手紙で、「ぼくがミュンヘンを離れるのは決定的だと思う。ニキシュの後任も同じく決定的にフルトヴェングラーがせしめました。ぼくが『職のない指揮者』であることは、したがってなんら疑いなしです」と、ベルリン・フィルの地位を得られなかったことをさばさばした様子で書いている。

 ワルターとフルトヴェングラーは、比較的近い存在だった。親友の付き合いをしていたプフィッツナーは、1909年からシュトラスブルク市立歌劇場に音楽総監督として迎えられた。その時、フルトヴェングラーは第3指揮者に採用されている。

 ワルターはプフィッツナーをシュトラスブルクに訪ねた時、フルトヴェングラーを知った。以後、ワルターはフルトヴェングラーの才能を認め、さまざまな助言を行う。フルトヴェングラーをマイハイムの歌劇場音楽監督に推薦したのはワルターだった(クルト・リース著「フルトヴェングラー 音楽と政治」八木浩・芦津丈夫訳 みすず書房)。

 3月8日には、ワルター離任の決心はまだ「秘密」だという手紙の文面があり、クナッパーツブッシュへのミュンヘン客演の打診は3月29日なので、ワルターが総支配人ツァイスに辞任を申し出た、あるいはバイエルン州立歌劇の事務室が具体的に「ワルター後」を睨んで動き出したのはその間のことだろうと思われる。トーマス・マン、ハンス・プフィッツナー、パウル・ニコラウス・コスマンなどのミュンヘンの文化人から、ワルター留任の請願書が出されたが、ワルターの決意は翻らなかった。

 クナッパーツブッシュの選出に関し、公募制オーディションや複数の候補者によるオーディションが行われなかったのは不自然だと見る見方もあるが、指名をして次期音楽総監督を決めるのはバイエルン州立歌劇の伝統である。ワルターもオーディションを受けず、「指名」という形でバイエルン州立歌劇(ワルター就任時は宮廷歌劇)音楽総監督に就任した。

 バイエルン州立歌劇場離任後、1923年8月8日のワルターのガヴリロヴィチへの手紙には、さまざまな国からの招聘があり、それに応ずるつもりだと書き、ドイツの歌劇場への就任とアメリカでの活動の場の確保を天秤にかけている。

「もちろん、ドイツの歌劇場はぼくに腕を差し伸べている。まずライプツィヒで、それからフランクフルト、今はベルリンだ--後者ははなはだ熱心である。どんな犠牲をも覚悟して、是が非でもぼくを得ようとしている。無造作に断りはしなかったが、1924年4月まで決定を保留しておいた。つまり、アメリカからぼくの帰国後までということになる。というのも、アメリカでなにか決定的なものが見つかるか否か、そのときまでには分かるにちがいないからだ。それできみに正直に言っておく。すっかりアメリカに行ってしまうのが、やはりただ一つの可能なことではなかろうか。ドイツは非常に恐ろしい状態になりはてたし、それにドイツのために働くことも、これはぼくの生涯にわたる念願なのだが、本国内より他の国でいっそう良くできるのである。だからお願いだ、どこかで勤め口が見つかりはしないか、よく見張っておいてくれたまえ」(「ブルーノ・ワルターの手紙」)。

 ベルリン・フィルでの地位はのがしたが、ワルターは辞任する前に、アメリカのダムロッシュ歌劇団を組織するワルター・ダムロッシュと個人的な知己を得ている。「主題と変奏」によると、意気投合したふたりは1923年初頭にニューヨークで指揮をすることを決め、ガブリロヴィチからもデトロイトへの招待、ボストン、ミネアポリスからも招待を受け、ワルターの当初の希望は、半分だけ実現することになった。

 ナチの実権を握った後も、ヒトラーの生活は質素だった。相変わらず狭いアパート(トーランド本によると8フィート×15フィート)に住んでいた。トーランドは続けて「ウィーンの独身男子寮と大差なかった。そこはその建物の中で一番寒い部屋で、家主のエルランガー氏によれば、『その部屋を借りた下宿人の何人かは病気になりました。いまは物置がわりに使っています。もう借り手は一人もつかないでしょう』」と書いている。

 さらにトーランドはエルランガーについて、「ヒトラーが当時住んでいた下宿の主人エルランガーがユダヤ人で、しかも(ヒトラーに対して)快い想い出しか持っていなかったというのは皮肉である。『わたしはしばしば階段や入り口で彼と顔を合わせました……彼はたいていノ−トに何か書いていました……かれがわたしをほかの人間とはちがう目で見ている、と感じさせられたことは一度もありません』」と別のページの脚注につけ加えている。

 ところが、演説ではヒトラーはユダヤ人を攻撃した。第1次世界大戦の敗北、その後の革命騒ぎ、そのような状況下でも儲ける金融資本家を批判して、4月12日の演説で以下のように語っている。

「我々は、すでに外国の植民地なのである。しかも、我々は能う限り卑屈な態度をとり、我々自身の名誉を毀損してまで、これを助成した……共同体を形成するというがごとき概念がユダヤ人にはまったく欠けているため、彼[ユダヤ人]は破壊し、また破壊せねばならないということである。この場合、個々のユダヤ人が『正しい』か否かは、もとより問題とはならない。彼[ユダヤ人]は自然が彼に付与した特質をあくまで有しているのであって、永久にこれから脱れることはできないのである」(「我が新秩序」、阿部良男著「ヒトラー全記録」よりまた引き)

 6月24日、ベルリンでは外国の信頼の厚かったワルター・ラーテナウ外相が、右翼グループに暗殺される事件が起こる。ラーテナウはユダヤ人で企業家であり、大富豪だった。外相就任後、アメリカへのドイツの苦境の理解の浸透、賠償を請求する連合国諸国にはヴェルサイユ条約を履行する積極的な態度を示しながら、いかにその賠償を支払うことが不可能に近いかを理解させることに力を尽くした。

 東方に向かっては、ラーテナウはソヴィエトと条約を結び、相互賠償の破棄、通商関係の再開、ソヴィエト近代化への助成、軍の相互協力がその中に盛り込まれた。

 国粋主義者はそれに反発した。

 ラーテナウ暗殺は外国を刺激し、ベルリン、ハンブルクの取引市場は大混乱に陥り、マルクは大暴落した。「当日1ドル350マルク、7月末670マルク、8月中2000マルク、10月末4500マルク(「全記録」。「ワイマール共和国史」には「7月にはいるとドル相場は5000マルク以上に達した」と書かれていることも紹介されている)
 ドイツ政府は緊急通貨政策を実施、地方自治体、鉄道、大手醸造所などは独自通貨を発行してそれをしのごうとしたが、インフレは収まる気配がなかった。

 ラーテナウが暗殺された6月24日、ヒトラーはバイエルン分離主義者の集会を妨害した罪で収監される。ヒトラーの入獄は約1ヶ月間続いた。ヒトラーは監獄でますますユダヤ人攻撃の思索を重ねた。7月27日に釈放され、その翌日にはラーテナウ暗殺をきっかけに生まれた「ドイツ共和国擁護法」(右翼、左翼を取り締まる法律)を批判、その中でより激しくユダヤ人を攻撃した。

「ユダヤ人はけっして紳士民族ではない。彼らは搾取者であり、強盗民族なのだ。彼らの破壊した文化は幾百に上がろうが、彼らは未だかつて文化を建設したことはない。彼らの有するものは、自ら創造したものではない」(「全記録」)

 この年の秋、第1次世界大戦の空の英雄ヘルマン・ゲーリングがナチに入党した。

 第1次世界大戦終盤から1923年頃まで、日本は大正期で、第1次世界大戦での山東省からドイツの駆逐、ロシア革命を牽制するための欧米列強に倣ったシベリア出兵などはあったが、概ね大きな波は起こっていない。

 1918年、米の価格が暴騰したため富山を発端とする全国規模に膨れあがった大正米騒動が起こったり、1920年3月株価が大暴落、戦後恐慌など不安定な出来事もあったが、「大正デモクラシー」の時代であり、後年から俯瞰すると昭和への前奏曲という感が強いことは否めない。

 政治的には1921年(大正11年)11月4日、原敬首相暗殺事件、市民生活・自然災害としては1923年(大正12年)9月1日、関東大震災の発生が昭和への不気味な胎動を思わせる。

 軍備は増強され、大艦巨砲主義から巨大戦艦や空母の建造、また無政府主義者や共産主義者の弾圧・暗殺も行われた。憲兵大尉甘粕正彦による大杉栄、伊藤野枝を殺害した事件は関東大震災の直後、1923年9月16日だった。

 また、袁世凱の死後(1916年)、軍閥が割拠しはじめた中国で、日本は中国東北部(満州)での足がかりを確固としたものにしようとしている。租借地であった関東州(遼東半島)の守備、および南満州鉄道附属地警備を目的とした関東都督府の守備隊が1919年(大正8年)に関東軍として独立した(Wikipediaより)。
http://kna-club.com/html/modules/knapedia/index.php?content_id=17

http://www.asyura2.com/20/reki4/msg/640.html#c58

[近代史4] ヒトラーの共産主義との戦い 中川隆
15. 中川隆[-13380] koaQ7Jey 2020年3月24日 21:53:51 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[1524]
第5集「世界は地獄を見た」



http://www.asyura2.com/20/reki4/msg/638.html#c15
[近代史4] アジア人の白人との戦い 中川隆
1. 中川隆[-13379] koaQ7Jey 2020年3月24日 22:46:17 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[1525]

http://kurokiyorikage.doorblog.jp/archives/68804023.html


不潔なインド
http://kurokiyorikage.doorblog.jp/archives/68804023.html


(左 : 汚い川に入るインド人 / 右 : 劣悪な便所に嫌気が差すインド人女性)
https://livedoor.blogimg.jp/kurokihelion/imgs/e/7/e7d213ab.jpg
https://livedoor.blogimg.jp/kurokihelion/imgs/a/c/ac3b84f7.jpg

  1月下旬から、武漢肺炎の報道がマスメディスアのトップ・ニュースとなっている。地上波のワイドショーは、安倍政権を批判すべく朝から晩まで感染の不安を煽り、最近はPCR検査で潜在的な感染者を炙り出そうと躍起だ。しかし、もっと熱心なのは支那人擁護である。日本人が支那人に嫌悪感を感じるのは何としても避けたい。そこで、マスコミは支那人への批判を軽減するには、国内での感染状況に焦点を当てるのが一番と考えた。常識的に原因を考えてしまうと、日本国民が支那人による災禍を恨むようになるから、防疫対策の遅れや景気の悪化に話題を移す方がいい。日本人は鰯(イワシ)のように靡(なび)く習性があるから、ちょいと舵を切ってやれば簡単に動く。

  一方、イタリアやアメリカ、ブリテンなどで武漢肺炎が広まったことで、感染拡大の元兇である習近平は万々歳。なぜなら、西歐の指導者は自国民の安全を最優先に考えるから、習近平への攻撃は後回しとなる。もし、支那人が“良心的”ならば、他国へ広めないよう、自国を封鎖して潜在的感染者を出さないよう努めるが、支那人は悪魔よりも狡猾だから、なるべく多くの支那人を外国へ輸出しようと密かに謀っていた。仮に、コロナウイルスの漏洩が偶発的なら、感染拡大の防止は不可能だから、全世界が不幸になるよう日本やアメリカ、ヨーロッパに拡散させた方がよい。支那人だけがウイルスに苦しむのは損である。ところが、この極悪民族は日本人を道連れにして地獄に落ちるより、日本人だけを蹴落として自分だけは助かろうとする連中だ。したがって、こんな支那人に永住権を与え、数年経てば国籍取得を許し、多民族共生を讃美する議員や官僚、またこれを促進する大学教授や弁護士などは、とても日本人とは思えない。

  しかし、哀しいかな、高等教育を受けた日本人は、知らないうちに洗脳されている場合がほとんど。大学でピンク左翼に染まったインテリ国民は、「アジア人を排除すべし」と考えない。もし、「移民排斥は正しい」と聞けば、「あら嫌だ、右翼かネオナチの言い草ねぇ〜」と眉を顰める。でも、高学歴で高額所得の上流国民は、アジア移民のいない高級住宅地に住んでいるから偽善的だ。(大阪の西成区や朝鮮人部落に自宅を構えるインテリなんていないぞ。) 久米宏風の“気取り屋左翼”は、水商売で働くフィリピン人やタイ人に同情を示すが、社交界で友人となるのは、洗練されたマナーを持つ西歐白人とか、社会的地位の高いビジネスマンだったりする。「人権尊重」の奥様方は、あえて南鮮人を排除しないが、かといって朝鮮語を学んだり、朝鮮風住宅を建てることはない。大学で勉強するのはアングロ・サクソン人が話す英語で、大金を払って購入するのも西歐の美術品や北歐の家具であり、自慢するのもフランスかイタリアで評判の高級ワインだったりする。日本人女性が財界や政界のパーティーに出席する場合、クリスチャン・デオールやイヴサンローランのイヴニング・ドレスを着ることがあっても、チマ・チョゴリを着てゆくことは絶対にない。


(左 : 日本への移住を目指すフィリピン人女性 / 中央 : 乳房を露出する朝鮮人女性 / 右 : アフリカに住む黒人女性)

  ヨーロッパ人と同じく、日本人も同じ民族で仲良く暮らす方が遙かに素晴らしい。異民族との共存なんて幻想だし、人種的多様性などは国家破壊を目論む左翼のまやかしである。もし、多文化主義者の学者が、同質的な日本社会を「けしからん!」と否定するのであれば、江戸時代の日本人は不幸な日々を過ごしていたことになるじゃないか。明治維新で海外渡航が許されるようになったが、当時の日本人が「やった ! 倒幕で朝鮮人や支那人と一緒に暮らせるぞ !」とはしゃいだ事は無かったぞ。むしろ、朝鮮半島に住む鮮人を目の当たりにして、「なんだぁぁ〜、この乞食よりも汚い賤民は・・・!?」とビックリ仰天。さらに、悪臭漂う朝鮮を通り越して、支那大陸に入ると更に驚く。漢籍の中に登場する聖人君子と違って、現実の支那人は不潔な苦力でなければ、高位高官の詐欺師か残酷がトレード・マークの匪賊、あるいは生まれながらの殺人鬼といった連中だ。安南(ベトナム)に行くと、多少は残虐性が減るけど、庶民が貧しく不潔なのが一般的。ある日本人旅行者が列車の窓から、うずくまるベトナム人を見みたら、野糞をしていたというくらい。まぁ、現代でも支那人は電車の中で脱糞するから、アジア人に清潔さを求めるのは酷だ。

  不潔と言えば、インド人を忘れてはならない。インド人というのは独特の感性を持っているのか、鼻と口が曲がってしまうほど臭いガンジス川でも水浴びができてしまう民族だ。彼らは動物の死骸やゴミが浮いていても平気である。インド人の子供や老人は免疫力が桁外れなのか、嬉しそうに顔や体を洗って元気溌溂。除菌クリーナーで便座を拭いている日本人には到底真似できない。でも、こんな国が真夏を迎えたらどうなるのか。未だにインドは階級社会で格差社会。自宅に便所が無い庶民も多く、近くの穴や共同便所で排便だ。インドの田舎だと約50%の家庭が屋内の便所を持っていないので、排便の時は外に出て、草むらや林の中で用を足すらしい。さすがに都会では“路上排便”は少なくなったけど、ムンバイに住むある映画プロデューサーの夫人が外出したら、野糞をしている人を見かけて驚いたという。


(写真 / インドにおける野外便所 )

  下水設備や衛生施設が普及していないインドだと、都市部でも7.5%の人々が適切なトイレを利用できず、一般世帯の39%くらいしか便所附自宅に住んでいなそうだ。こんな状況だから、ボリウッド(インドの映画界)は民衆が共感できる『トイレ : ある愛の物語(Toilet : Ek Prem Katha)』というラヴ・コメディーを作った。日本人だと信じられないが、インドではそれなりにヒットした。この作品では、主人公のジャヤが新婚の女性という設定になっている。だが、彼女は夫のもとを離れてしまう。なぜなら、二人の新婚家庭には屋内便所が無いからだ。近代的生活に憧れるインド人女性には、トイレ無しの住宅なんて我慢できない。野外便所が普通の田舎では、排便に出掛けた女性が強姦されるという事件がよくあるから、野原で下半身を露出するのは危険である。

(左 : 街角に貼られた円河の宣伝ポスター / 右 : インド人の一般女性)

  日本人女性がインドを旅行すれば、ちゃんと綺麗な便所が設置されているホテルに泊まり、外人観光客が訪れる施設を巡ると思うが、地方の観光地だと衛生的なトイレは期待できない。たぶん、真夏の便器から漂う臭気は強烈だから、排便を断念する人もいるだろう。一般の観光客だと悲鳴を上げて卒倒するんじゃないか。普通の日本人は口にしないけど、インドには色々な雑菌やウイルスが存在する。だから、インドを旅行するなんて、黴菌を浴びに行くようなものだ。仮に、たけし軍団が「お笑いウルトラ・クイズin インド」を企画しても、インダス川に飛び込む“罰ゲーム”は恐ろしくて出来ないぞ。もし、若手藝人が何らかの病原菌に感染したら、番組のプロデューサーやディレクターは左遷か降格だ。バブル時代には無謀な企画が数々あったけど、平成から令和の不況時代だと無理。

牛の小便は特効薬?

  日本では武漢ウイルスが流行し、老人から幼児まで、アルコール消毒液で両手を殺菌だ。一部の人々は、無駄と分かってもマスクをしたり、と涙ぐましい努力で感染拡大防止に努めている。しかし、インドでは別の方法が“実行”されていた。何と、牛の尿を呑んでコロナウイルスを退治しようとする集団がいたのだ。スワミ・チャクラパニという人物に率いられた「牛尿党(gaumuta party)」のメンバーは、コップに牛の小便を注ぎ、その液体を一気に飲み干していたのである。("Coronavirus : Group hosts Cow urine party, says COVID19 due to meat-eaters", The Hindu, March 14, 2020.)

(左 / 牛の尿を飲み干すインド人)

  このチャクラパニという党首は、「アキル・バラト・ヒンドゥー・マハサバ(Akhil Bharat Hindu Mahasabha)」という団体の議長であるという。彼によれば、今回の新型コロナウイルスは、非菜食主義者を罰するためにやって来た神様の化身であるそうだ。つまり、肉を食べる奴らを懲らしめるために、神様がウイルスに化けて現れたという教義らしい。なるほど、牛を神聖な動物と考えるインド人にしたら、ハンバーガーを食べるヨーロッパ人や日本人は「けしからん連中」だから、病気になっても“当然”という理屈だ。件(くだん)の党首様は歐米の記者に向かって、「君らが動物を殺す時は、破壊をもたらすある種のエネルギーを創りだしているんだぞ !」と言い放ち、「世界の指導者達は、インドから牛の小便を輸入すべきだ。なぜなら、全知全能の神様はインドの牛にしか存在せず、外国で育った牛には居ないんだからな !」と説教した。もちろん、インド政府や衛生当局のクリティ・ブシャン局長は、牛の尿にウイルスを殺す効果は無く、科学的根拠のない話である !」と否定したそうだ。

(左 / 牛の小便をタンクから出すインド人 )
  確かに、動物の尿を飲んだからといって、ウイルスの感染を防止できる訳じゃない。たぶん、大多数のインド国民は「馬鹿らしい迷信だ !」と思っているはずだ。しかし、「牛尿党」の一般党員は信じている。サヴィタという主婦は自慢げに、「私は毎日これを飲んでいるわ! これ異常に健康的なものは無いのよ ! 私の家族も牛の尿を毎日飲んでいるの !」と笑顔で話し、グラスに注いだ牛の尿を啜っていたそうだ。「世田谷自然食品」とか「青汁」なら分かるけど、牛が排出した黄色い液体なんか御免である。でも、まぁ、「病は気から」という格言もある。牛の小便を飲んで元気ならいいじゃないか。ただし、目の前で牛乳ならぬ「牛尿」を飲まれては、ちょっと距離を置きたくなる。インドのネレンドラ・モディ首相は、「清潔なインド(Swachh Bharat)」運動を提唱し、各家庭に屋内便所を普及させる、と意気込んでいたが、それなら同時に「啓蒙活動」も展開した方がいいんじゃないか。

  筆者は「アジア人が全て不潔」と断定している訳じゃない。単に「異なった風習や信仰、伝統文化を持つ外国人を日本に招くのは危険だ」と言いたいだけである。特に、アジアやアフリカの異民族を受け容れると、日本人の拒絶反応を増加させるばかりか、日本社会の破壊にも繋がってしまうのだ。多文化主義というのは、ホスト国の住民に「我慢」と「譲歩」を要求する一方で、異質な移民の主張を正当化するイデオロギーとなっている。これは有害思想以外の何物でもない。もし、普通の日本人が支那人や朝鮮人、あるいはインド人やアラブ人の慣習を嫌うと、いくら「自然な拒絶反応」であっても、日本人による「民族差別」とか「異国人への偏見」と見なされてしまうのだ。とりわけ、大学時代に文化人類学とか国際関係論、社会学などの講義を受けた日本人ほど、アジア移民に譲歩し、卑屈な態度を取ってしまう。一般的に、高学歴の日本国民は“無自覚”のリベラル派、つまり確固たる信念無き“なんちゃって左翼”になりやすい。

  多文化主義の弊害は具体例を考えてみれば解るはずだ。例えば、インド人の青年が日本に移住し、日本語を習得して寿司職人の修行を始めたとする。貧しいアジア国から来た移民が日本人以上にコツコツと働き、熱心に努力すれば、巷の日本人は「大したもんだなぁ〜」と感心するだろう。しかし、この見習い職人が休憩時間に便所に入り、左手の指で肛門を洗えば、「えぇぇぇ〜、嫌だぁぁ !!」と身震いし、彼が握る寿司をつまむことはないはずだ。いくら、この見習い職人が「ちゃんと洗面所で石けんを使って手を洗いました」と述べても、日本人の顧客は彼の寿司店を敬遠し、常連客でも寄りつかなくなる。もちろん、インド人の観光客がこの寿司店を嫌い、同胞の寿司を食わないのは理解できる。インド人によれば、左手は不浄なので、見ず知らずの他人が両手を使って握る寿司なんか、とても食えたもんじゃない。なにせ、下層民が触れた食器でさえ厭がるんだから。したがって、もし、この見習い職人が下層階級の出身者なら、上流階級のインド人は決して彼の料理を食べないだろう。実に酷い話だが、これはインド人の伝統的風習だから非難されることはない。

ところが、日本人に「左手は不浄」と見なす文化は無いから、インド人が握った寿司を拒めば、不合理な「民族差別」となる。机上の空論をもてあそぶ大学教授は、気軽に「異文化との共存」を説くが、実際の社会では文化の衝突や軋轢の方が多い。インド人からすれば、紙で肛門を拭く日本人の方が汚く、水を掛けて、肛門を入念に洗浄するインド人の方が清潔だ。一般の日本人は、こう説明されると反論しにくく、感情的に反撥するしかない。だが、もし、日本人がインド人の風習を否定すると、異文化の否定に繋がってしまい、「違った文化を尊重すべし」という多文化主義のドグマ(教義)に反してしまう。だが、多文化主義の“洗脳”を受けていない普通の日本人だと、「そんなの嫌だ ! ふざけんじゃねぇ!」と激怒してしまうから、こうした人々は「ネオナチ」とか「排外義者」と呼ばれてしまうのだ。テレビに出てくる御用学者はよく「寛容の精神」を説くが、そんなのは「屈服の根性」に過ぎない。日本は「日本人のホームランド(自宅のような国家)」であるから、「嫌なものは嫌」と言える自由があるし、不愉快な外人を排除するのは我々勝手である。

妊婦は異質なものを排斥する

  高学歴社会に生きる日本人は、異国人を排除することに抵抗感を持っている。日本では左翼教育が徹底しているから、学校の先生が「支那人とか黒人を毛嫌いしてはいけません!」と教えれば、大半の生徒が「はぁぁ〜い。わかりました !」と素直に従う。ところが、人間は“本能的”に不気味なものや未知のものを避ける。例えば、癩病(らいびょう)患者とか、奇妙な痣(あざ)がある人を見ると怪訝な顔を表すし、違った種族の移民を見れば不快感を抱く。行動においても危険を察知するようで、膿(うみ)とか血を見ると恐れるのは、それに触ると感染するかも知れない、と考えてしまうからだ。テューレン大学の心理学者であるダミアン・R・マレー (Damian R. Murray)博士とブリティッシュ・コロンビア大学のマーク・シャラー(Mark Schaller)博士は、病原体から身を守ろうとする行動的免疫システムがあることを説明した。見知らぬ土地から来た者は、どんな病気を持っているのか判らない。保菌者が元気でも、感染者が死んでしまうケースはある。昔、アメリカ大陸に住んでいた原住民が、見知らぬヨーロッパ人と接触したせいで麻疹(はしか)や天然痘、百日咳などに罹って死亡、あるいは重症になったことは有名だ。


(左 : ダミアン・R・マレー / 中央 : マーク・シャラー / 右 : デイヴッド・アモディオ )

  我々は危険な細菌を保有する「よそ者」ばかりではなく、馴染みのない風習を持つ外人に懸念を示す。たぶん、親しみの無い人や物に遭遇すると不安になるからだろう。ニューヨーク大学で心理学を教えるデイヴッド・アモディオ(David M. Amodio)教授によれば、我々は脅威に曝されたり異人に遭うと、身体が凍結し、闘うか逃げるかの準備をするらしい。そして、もし、その人物を不快と判断すれば、脳内にある島皮質(insula)に衝撃が走り、強い嫌悪感が巻き起こる。アモディオ氏の指摘で興味深いのは、赤ん坊を身籠もった女性が、より自己中心的となり、異質なものに対する警戒感や嫌悪感が強くなることだ。これは妊婦が胎児を守るべく、病原菌を持っていそうな人や潜在的な危険物に対し敏感になるためだろう。子供だって本能的に「悪そうな人」と「親切そうな人」を嗅ぎ分けることができる。もし、防禦能力が低い子供が多民族主義者に従い、どんな人間に対しても警戒心を抱かず、「オープンな態度」で接触したら、どんな災難に遭うのか、想像しただけでも恐ろしくなるじゃないか。

( 写真 / 保護されるべきタイプの弱者 )

  したがって、ある地域に住む民族が、よそからやって来た流れ者に警戒感を抱くのは当然だ。例えば、日本の幼稚園児が独りで、いきなり通りすがりの黒人に遭遇し、聞いたこともない言語で話しかけられたら、どうしていいのか分からず、小さな体が凍りつく場合もあるし、奇妙な容貌に恐れをなして泣き出すこともある。日本よりも流動性の高いヨーロッパでも、一般人があまりにも異質なアフリカ人やユダヤ人を見れば、嫌な気持ちになるだろう。日本の知識人はユダヤ人を嫌った西歐人を非難するけど、第19世紀のユダヤ人なんて本当に不愉快な連中だった。たとえ裁判官や科学者になった人物がいたとはいえ、一般のユダヤ人はゲットーから抜け出た賤民と同じで、近づきたくはない。特に、社会主義やマルクス主義、無政府主義などに魅了されたユダヤ人を目にすれば、日本人だってゾッとするはずだ。

(左 : カール・ラデック / ゲンリフ・ヤゴーダ / イリヤ・エレンバーグ / 右 : ベラ・クン )

  例えば、カール・マルクスを始めとして、日本でもファンが多いレオン・トロツキー、如何にも下品な顔つきのカール・ラデック(Karl Radek)、メンシェビキの指導者であったユーリ・マルトフ(Julius Martov)、ソ連の秘密警察(NKVD)の初代長官を務めたゲンリフ・ヤゴーダ(Genrickh Yagoda)、ドイツ人の婦女子を輪姦せよと叫んだイリヤ・エレンバーグ(Ilya Ehrenberg)、テロリストのアイザック・シュタインバーグ(Isaac Steinberg)、ハンガリー人民共和国の首相になったマチヤス・ラーコシ(Mátyás Rakosi / Mátyás RosenfRosenfeld)、ハンガリー・ソビエト共和国の独裁者になったベラ・クン(Béla Kun)、放埒な性教育を推奨した変態のジョルジ・ルカーチ(György Lukács)、米国から追放された共産主義者の革命家エマ・ゴールドマン(Emma Goldman)、ブラジルの全体主義者であったウラジミール・ヘルツォーク(Vladimir Herzog)など、数え出したらキリがない。呆れてしまうけど、ユダヤ人には共産主義者とか極左分子が非常に多い。でも、普通の日本人で真っ赤なユダヤ人を即座に列挙できる者は極僅かだろう。大抵の日本人は「ヤゴーダとかエレンバーグなんて聞いたことがないなぁ〜」と言うはずだ。それも、そのはず。学校で歴史を担当する教師が“意図的”に隠しているからだ。左翼教師の役目は共産主義者にとって「都合の悪い過去」を闇に葬ることで、赤色分子に対抗する健全な日本人を育成することではない。


(左 : マチヤス・ラーコシ / ジョルジ・ルカーチ / エマ・ゴールドマン / 右 : ウラジミール・ヘルツォーク )

  武漢ウイルスが流行する前、安倍総理や二階幹事長は「支那人の皆さぁぁ〜ん、いらっしゃい!!」と呼びかけていたが、京都や鎌倉の日本人は本当に歓迎していたのか? 確かに、土産物店や飲食店などで働く従業員は、「ゼニ儲け」だから“仕方なく”支那人を接客していたが、私生活に戻れば「何だ、あんな奴ら !」と嫌っていたはずだ。ホテルの清掃員なんか、「支那人の客が泊まると、ベッドや洗面所とか便所だけじゃなく、カーテンとか床まで汚すから、普段より清掃に何倍もの時間がかかっちゃうのよねぇ〜」と愚痴をこぼしてばかり。こんな惨状だから、観光業に携わっていない庶民は、支那人や朝鮮人、および東南アジア人の到来で大迷惑。街中に、不気味なフィリピン人とかベンガル人、ビルマ人、マレー人、インド人、ベトナム人がウロチョロすれば、さっさと買い物を済ませて家に帰りたくなる。それでも、観光客はやがて帰るからいい。ところが、もし隣にアジア人が住み着けば憂鬱になるどころか、自宅の地価が下がるんじゃないかと心配だ。品の良い西歐白人が住む麻布や広尾、目黒なら「お洒落な街」となるが、朝鮮人が密集する新大久保とか川崎、支那人が跋扈する北池袋なんて「魔界」を彷彿させるゲットーでしかない。

  日本人は武漢ウイルスに感染しないよう、「免疫力をアップさせるぞ!」と張り切っているが、アジア人の侵入に対する免疫力になると、自ら抹殺していることに気づかない。我々の体は異物が侵入してくれば、単球系のマクロファージやリンパ系のキラー細胞、顆粒系の好中球とか好塩基球が出動し、有害物質を撲滅しようとする。もし、体から白血球を除外して、「どんな細菌でもOK」となったら大変だ。したがって、本能的に「嫌い!」と思った外人は、迷わず排除すべし。だいたい、支那人や朝鮮人と係わって「いいこと」があったのか? 日本人は左翼学者に従わず、アジア人をドンドン排斥した方がいい。排外思想を放棄した歐米諸国がどんな事態に陥ったのか、ちょっと調べれば判るじゃないか。筆者はなにも全ての外国人を排斥しろ、と述べている訳じゃない。「受け容れてよい外人」と「門前払いにすべき外人」がいると言っているだけだ。もし、我々に「言論の自由」と「選択の自由」があるなら、躊躇なく行使すべきである。

http://kurokiyorikage.doorblog.jp/archives/68804023.html
http://www.asyura2.com/20/reki4/msg/643.html#c1

[近代史4] アジア人の白人との戦い 中川隆
2. 中川隆[-13378] koaQ7Jey 2020年3月24日 22:53:26 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[1526]

植民地のインドは商品を輸出しても、その見返りの代金は
ポンドでイギリスに蓄積され、デフレになり、不景気になった

2006年2月9日 アメリカの謎を解く 橋本裕の文学・人生日記帳

ブッシュ大統領が1月31日の一般教書演説で、「私は8800億ドルを減税し、国民に返却した。今後も減税を恒久化し、09年に財政赤字を半減する」と述べた。

 一方で、アメリカの経常赤字は05年が7900億ドル(93兆6940億円)、財政赤字も06年度は4230億ドル(約50兆2千億円)で過去最大、債務残高はすでに8兆ドル(約950兆円)を越えている。

 日本では、税制赤字を解消するために、増税をしなければならないと考えられているが、アメリカは逆である。減税をして国内消費を活性化し、景気をよくして税収をあげようとする。さらにアメリカの場合は戦争によって軍需景気を作りだしているわけだ。

 いずれにせよ、アメリカは消費大国。国も国民も借金をして消費を楽しんでいる。このアメリカの消費を助けているのが日本をはじめとするアジア諸国だ。とくに日本の貢献が大きい。日本は政府と民間が何百億ドルというアメリカ国債を買っている。

 先日、朝日新聞夕刊「経済気象台」に「米国のもう一つの謎」という文章が載った。経常収支の赤字が拡大しているにもかかわらず、ドル高が持続している謎について、それは借金国のアメリカが負債について支払う金利が「異常」に低いからだと書いている。これに反して、アメリカの対外資産は巨大な利益を手にしている。

 アメリカは莫大な借金をし、そしてその中から、わずかな一部を他国に貸している。そして不思議なことに、巨大な借金のための利払いよりも、わずかな海外資産の方が多くの利益を生み出しているというのだ。

 どうしてこんなマジックが可能なのか。それは日本がこの逆をしているからである。なぜ日本がこの分の悪い役回りを続けるのか、実はこれこそが本当の謎だということになる。

驚くべきことに、小さな対外資産から受け取る利子と配当が、大きな対外負債に支払う利子と配当を今日まで上回り続けている。家計にたとえると、収入を上回る買い物をして毎月赤字が続き、借金が膨らんでいる。ところが、多額の借金に支払う金利がゼロに近ければ、わずかばかり保有する預金などから受け取る利子の方が大きいという状態なのだ。これでは赤字をいくら出しても、借金さえできれば、後は何の憂いもなく買い物ができる

このうまい話に手放しで悪のりして、米国は経済収支赤字を続け、負債の増加に加速度がついている。この構図が最近話題になり、債権国が浮き足だっている。日本にその気配がないことが「謎」の源である

 実はアメリカのこの「うまい話」は、19世紀に繁栄した大英帝国をまねているだけだ。大英帝国の場合は、その繁栄の謎をとく鍵はインドをはじめとする植民地が持っていた。たとえば当時イギリスの植民地であったインドは、香辛料などの原材料を輸出してイギリスを相手に多額の黒字を計上していた。ところが黒字はルピーではなく、ポンドを使って決済され、そのままイギリスの銀行に預けられていた。

 だからイギリスはいくら植民地を相手に赤字を出しても平気だった。イギリスの銀行に預けられたポンドを、イギリス国内で使えばいいからだ。インドは名目上は債権が増え、お金持ちになったが、そのお金をイギリスの銀行から自由に引き出し、自分の国では使えなかった。お金の使い道は預金者ではなく、イギリスの銀行が決めていたからだ。そしてもちろん、イギリスの銀行は国内の人々に貸し出した。

 イギリス国民は植民地から輸入した品物で生活をたのしみ、しかもしはらったポンドもイギリスの銀行に吸収され、イギリスのために使われるわけだ。こうしてイギリスはどんどん発展した。

 一方植民地はどうなったか。たとえばインドは商品を輸出しても、その見返りの代金はポンドでイギリスに蓄積されるだけだから、国内にお金がまわらなくなる。どんどんデフレになり、不景気になった。

 仕事がきつくなり、給料が下がり、ますます必死で働いて輸出する。ところが黒字分の代金は、ポンドのまま名義上の所有としてやはりイギリス国内で使われる。こうしていくら黒字を出してもインドは豊かになれなかった。そして、赤字を出し続けたイギリスは、これを尻目に繁栄を謳歌できた。

 このイギリスとインドの関係は、そっくり現在のアメリカと日本の関係だと言ってもよい。経済同友会元副代表幹事の三國陽夫さんは、「黒字亡国」(文春新書)にこう書いている。

輸出拡大によっていくら日本が黒字を蓄積しても、それはアメリカ国内にあるアメリカの銀行にドルで預け入れ、アメリカ国内に貸し置かれる。日本からの預金は、アメリカにしてみれば資金調達である。貸し出しなどに自由に使うことができる。

 日本は稼いだ黒字にふさわしい恩恵に与らないどころか、輸出関連産業を除いて国内消費は慢性的な停滞に喘いでいる。停滞の原因であるデフレはなかなか出口が見えない。

 日本の黒字がドルとして流入したアメリカはどうなのか。ドルはアメリカの銀行から金融市場を経由して広く行き渡り、アメリカ経済の拡大のために投下されている。日本の黒字は結局、アメリカが垂れ流す赤字の穴埋めをし、しかもアメリカの景気の底上げに貢献しているのである。・・・

 輸出で稼いだ黒字を日本がドルでアメリカに預け、日本の利益ではなく、アメリカの利益に貢献している限り、円高圧力もデフレ圧力も弱まることなく、政府・日銀がいくら財政支出や金融緩和というデフレ解消策を講じても、一向に持続性ある効果は現れないのである

 幸い、最近この貿易構造がかわりつつある。日本の貿易相手国が中国をはじめとするアジアやヨーロッパにシフトしたことで、日本の対米黒字の割合が相対的に低下したからだ。こうして日本がデフレから解放されるチャンスがここから拡大した。

 しかし、問題はすでに厖大なドル建て資産をアメリカに持っていることだ。日本人の汗の結晶であるドル建て資産が、今後ドル安で何百兆と失われる可能性がある。こうした形で、アメリカは最終的に日本の資産を合法的に手に入れようとする。

「今後も減税を恒久化し、09年に財政赤字を半減する」というブッシュの一般教書の宣言は、これからも日本をはじめ、世界から資金を調達するという意思表示と読むべきなのだろう。
http://www.asyura2.com/0601/hasan45/msg/253.html
http://www.asyura2.com/20/reki4/msg/643.html#c2

[近代史4] アジア人の白人との戦い 中川隆
3. 中川隆[-13377] koaQ7Jey 2020年3月24日 22:56:56 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[1527]
欧米人が植民地経営の方法として洗練させていった分割統治政策とは


安保闘争では、デモを指導していた全学連の上層部が、右翼の田中清玄やCIAから資金援助を受けていた。そして、彼らは後に米国に留学し、中曽根康弘の手先として自民党の御用学者となった(西部邁、香山健一、佐藤誠三郎など)。安保闘争はデモを指導していた学生がCIAに取り込まれ、ガス抜きに利用された(当時の岸信介首相は、CIA工作員)。
https://johosokuhou.com/2018/03/30/2831/


浅間山荘事件直後の国会で、当時の後藤田正晴警察庁長官や富田朝彦同警備局長は、「連合赤軍」のなかに「協力者」をもち「謝礼金」も渡していたと認めました。
https://www.jcp.or.jp/akahata/aik07/2008-11-20/ftp20081120faq12_01_0.html


山下太郎、田中清玄…。かつて日本から実力者たちが何人もアラブ世界に飛び、交流を高めわが国の政治経済に貢献した。日本赤軍の重信房子もこうした流れの中でアラブに渡ったものであり、彼女が中東に飛ぶ際に岸信介(当時首相)は当時のカネで500万円を手渡したと伝えられる。
http://www.asyura2.com/0502/holocaust1/msg/495.html


日本赤軍のテルアビブ空港襲撃事件が世界中に大きな衝撃の理由は

イスラエルとパレスチナの紛争に、全く利害関係を持たないはずの日本の極左組織が、命を掛けて参加した理由が分からないことである。

 彼らは宗教的にイスラム教を信奉しているわけでもないし、命をかけるほどの利益があるわけでもない。

従がって、イスラエルの空港に日本赤軍と称する組織が命がけの攻撃をする理由は、西洋人は勿論、中東の人々にも理解できなかった。

何故、日本赤軍は、自分たちの命を犠牲にしてイスラエル空港を攻撃したのか? 

そしてそれに輪を掛けて理解できなかったことは、日本政府がこの襲撃事件に遺憾の意を表明して、犠牲者に100万ドルの賠償金を支払ったことである。
http://www.araki-labo.jp/samayoe017.htm

P・グラレム‏ @pinkglalem · 2014年7月7日
@mayshigenobu @cinematoday

重信末夫は、四元義隆を通じて警察官僚の佐々弘雄と友人関係にあった。
つまり重信房子は佐々淳行と昔から知り合いだった。

連合赤軍のテロ事件は、警視庁や日本政府と組んだ茶番だった。
オメ-ラのやり方は、昔からキッタネーなぁ...?


P・グラレム‏ @pinkglalem · 2014年7月9日
@cinematoday @mayshigenobu
ハマスは、パレスチナをイスラエルが攻撃する口実作りの為に、被害が最小限のテロを行っている。

ハマスは実はモサドが作り、支援している似非テロ組織。
その実体は日本の連合赤軍にそっくり。
https://twitter.com/mayshigenobu/status/486330664204001280


▲△▽▼


トルーマンの言葉

「猿(日本人)を『虚実の自由』と言う名の檻で我々が飼うのだ。
方法は彼らに多少の贅沢さと便利さを与えるだけで良い。
そしてスポーツ・スクリーン・セックス(3S)を解放させる。
これで真実から目を背けさせる事が出来る。猿は我々の家畜だからだ。

家畜が主人である我々のために貢献するのは当然の事である。そのために我々の財産でもある家畜の肉体は長寿にさせなければならない。(化学物質などで)病気にさせてしかも生かし続けるのだ。これによって我々は収穫を得続けるだろう。これは戦勝国の権限でもある」
https://pbs.twimg.com/media/DqbZiVDU0AA6Sv0.jpg


RK: 彼らのやり方は、少数によって大多数の人々を管理して富を独占する。
  そのやり口を見ていると、まるで人間を家畜と考えていて、
  ある意味非常に効率的に管理支配していますね。

BEN:ここが農耕民族である日本人には理解しにくいところで、
  彼らの発想は非常に遊牧民的というか、非常に残酷なのです。

  それはユダヤ人の割礼なんかもそうですが、
  乳牛でもちょっとでも乳の出が悪いとすぐ殺処分するし、
  主人の言うことを聞かない暴れるオスだと、すぐに断種して
  睾丸を抜いてしまうんです。

  だけどこれが農耕民族だと、牛や馬は家族扱いにして大切にする。
  彼ら動物は田畑を耕したり、荷物を運んだりする使役動物だから、
  日本の昭和初期頃までは家の中で大切に飼って、
  潰して食用にすることもあまりなかった。それだけ感覚がまったく違うわけです。

  事実、遊牧民たちは農耕民族のことを、草を食べる
  あるいは穀物と言い換えてもいいのですが、
  羊人(Sheeple シープル)と呼んでいます。

  その羊人である農耕民族を管理するために「羊飼い」としての一神教
  (キリスト教やユダヤ教)があり、その神を動かすことで
  全体を支配するという考えです。

  これまでもその発想でずっと世界を支配してきたのです。

  ですから支配者たちから見ればその他大勢の庶民は同じ人間ではなく、
  「羊人」という家畜にすぎません。

  だから増えて管理が面倒になれば「間引こう」となるし、
  劣等な種族は断種して子孫を作らせないようにする。

  家畜を使って利益を得れば、当然のように牧場主がすべてを奪い取る。

  文句を言えば餌を減らし、ムチで叩いて大人しくさせる。

  このようにして食料と軍事力で世界を管理・コントロールしている連中が
  存在しているのです。
http://8729-13.cocolog-nifty.com/blog/2016/06/post-a3d1.html


▲△▽▼


ロスチャイルドは、スマートにおしゃれに、ナイスに振舞いながら、人生をゲームとして謳歌し、微笑みながら、人間大量虐殺の報告のみを、部下より聞く。

とってもナイスな人物に世間では映る。

唯、感覚が違うのだ。

ロスチャイルドの瞳には、自分達以外の人間が、チェスの駒としか映らないのだ。


かつてベルギー領であったアフリカのコンゴでは、ベルギー国王レオポルト2世の経営する無数の大規模ゴム農園で、黒人が凄まじい奴隷労働を強制された事実があります。

この奴隷農園を経営していた実働部隊が、ロスチャイルド一族とその盟友・銀行ソシエテ・ジェネラル・ド・ベルジックです(拙稿「核兵器の密売人フランス」参照)。
本書p28には、ロスチャイルドによって手首を切り落とされた黒人の少年の写真が掲載されております。

黒人には1日に採集するゴムの量が1人1人割り当てられていました。

1日でもその割り当てノルマが達成できないと、ロスチャイルドはその黒人奴隷の手首をオノで切断し、制裁を加えたのでした。

相手が少年であっても容赦などされなかったのです。

本書に掲載されている写真が残されている事は、「写真という技術が登場し、しかもアフリカの奥地にまで持ち込める携帯用のカメラが開発・販売されるようになったつい近年まで、ロスチャイルドによる黒人奴隷の手首切断が実行されていた」事実を指し示しています。

この有色人種を奴隷とし人間とも思わない一族が、今後、中国を支配し、原発と核兵器を大量生産する事になるでしょう。

原発の事故が起こり、核戦争が起こり、アジア人=有色人種が死のうとロスチャイルドが「何とも思わない」事、むしろ不要な人種が死んで喜ぶ事を、この写真は事実として示しているとおもいます。

今後、国連の中心となり、国連という国際機関を「動かす」中心国となるベルギーとロスチャイルドによる、この黒人・有色人種虐殺の犠牲者は、数百万人に上ります(p33)。

国連が平和維持活動と称しPKO部隊を送り込み、有色人種の国々で虐殺を繰り返している事実は、このベルギーとロスチャイルドによるコンゴでの大虐殺に「同一起源・源流」を持つと考えられます。

p79にも、切り落とされた黒人奴隷の手首を持つ黒人の写真が掲載されており、ロスチャイルドは、逆らった黒人、病気・ケガで働けなくなった黒人を射殺する事を農園の監督人に命じました。

しかしライフル銃の弾丸を節約するために、殺害に使用した弾丸の数と同一の数の黒人の手首を持ち帰る事を監督人に要求したのです。

殺害された黒人1名につき弾丸1個しか使用してはならない、という弾丸の節約命令が出されていた訳です。

黒人の命より、弾丸1個の方が「もったいない」という事でしょう。

一方、監督人は木の棒等で黒人を撲殺し、弾丸を未使用のまま残し、「黒人が逆らったので銃殺した」とウソの報告を行い、弾丸を銃器販売店に「横流しし」、その利益を「小遣い」として着服する事が常態化していたらしいのです。

つまり逆らってもいない黒人を撲殺し、弾丸を横流し販売する事で「小遣い」が得られたのです。

ロスチャイルドの監督人達は、ビール1杯を飲む小銭のために、逆らってもいない黒人を殴り殺し続けて来た事になります。

このベルギー国王(英国王室と同族のザクセン・コブルク・ゴータ一族)とロスチャイルドの行った大虐殺を知り、写真を撮り世界に知らせた勇敢なジャーナリストが三名おりました。

最初の告発者ワシントン・ウィリアムズは、わずか32歳の若さで何者かに毒殺されてしまいました。

盟友の毒殺にも屈せず政府とロスチャイルドの告発を行ったジャーナリスト、ロジャー・ケースメントは「国家反逆罪」で、ベルギー政府の手で逮捕され「絞首刑」となり処刑されてしまいました。

3人目のE・D・モレルも逮捕され、ケースメントと同一の刑務所に収監され、出獄後、病死しています。

こうした写真は、この勇敢なジャーナリスト達が自分の命と引き換えに撮影してきたものです。

p142には、南アフリカで絞首刑にされ、「さらし者」にされている3名の黒人奴隷の木に吊り下げられた死体の写真が掲載されています。

裁判抜きで、白人が「気に入らない黒人を自由にリンチ処刑している」。

同時に、リンチにされた黒人の姿を「満足気に葉巻を吸いながら眺めている白人達の姿」も撮影されています。

有色人種をリンチ殺害する事は、大好物の葉巻を吸いながらそれを眺める程、「最もリラックスできる楽しい時間」であった事を、この写真は物語っています。

これは、携帯用の小型カメラが世界中に販売されるようになった時代のリンチであり、「つい最近」の出来事である事を、写真撮影という事実が示しています。

そしてコンゴだけでなく、南アというロスチャイルドの支配下に入った国・地域では、どこでもリンチ殺人が行われていた事実を、こうした写真は示しているのです。

コンゴは、ゴムだけでなく核兵器原料のウランの最大手の生産国であり、ロスチャイルドの核兵器原料企業ソルベイ社が、コンゴでのウラン採掘と世界への販売を担当してきた。

このソルベイ社とベルギー国王が「国連所在地のブリュッセル」で3年に1度開催する「ソルベイ会議」は、世界中の核兵器メーカーと核物理学者が集まり、今後の核兵器販売計画を密談する、ソルベイ社から招待された者だけが参加可能な、マスコミにも情報を出さない「隠密会議」となっているようです。

かつて、第5回ソルベイ会議に出席したアインシュタインが、ソルベイ社に説得され、米国のルーズベルト大統領に書簡を送り、原爆開発の推進を「提言」した事実は有名である。著名であったアインシュタインの書簡であれば米国大統領も「核兵器開発を認め、説得されるであろう」と計算したソルベイ会議は、アインシュタインを「上手に誘導し説得した」のでした。

このソルベイ会議が無ければ、日本の広島・長崎への原爆投下も原爆開発も無かったでしょう。

この会議を開催している者が、ロスチャイルドとベルギー王室、つまりコンゴの奴隷虐殺者達。

日本人という有色人種を大量に虐殺した広島・長崎への原爆投下と、コンゴでの有色人種=黒人大虐殺が、同じ「論理」、同じ企業・人間達によって行われてきた事実が浮かび上がってきます。


その論理とは「有色人種虐殺」である。


この企業・人間達が、今後アジアの盟主として中国の政権中枢を担当することになるのです。

その金融面での動きがアジア統一通貨の形成であり、それは欧米・ロスチャイルドの新しい支配戦略です。

アジア通貨の誕生をドル支配からのアジアの独立である等という寝呆けた主張は、国際情勢への無知か、自分がロスチャイルドの「手先」である事を自白していることになります。

なお、ベルギーによるコンゴ支配を描いた小説「闇の奥」の作家ジョセフ・コンラッドは、「ベルギーのような遅れた国がこうした虐殺を行うが、自分達、英国人であれば、こうした虐殺は行わない」と英国人を自画自賛しています。

英国王室とベルギー王室が同一一族である事実を知識人コンラッドが知らないはずは無く、悪質なデマをコンラッドは流している事になります。

こうした悪質なデマを流し、真実を隠す作家でなければ「大作家」「人種差別に最初に気付いた知識人」などと言う「名誉ある称号」は手に入らないのでしょう。


またコンラッドの小説を映画化し「地獄の黙示録」を製作した映画監督・「巨匠」フランシス・コッポラは、ベルギー政府とロスチャイルドの行った、この残虐な黒人奴隷の手首切断をベトナムに舞台を移し、「ベトナム共産軍の行った野蛮な行為」として描き出しています。

ベトナム戦争でベトナム共産軍を敵として戦争を行った米国政府の「ご機嫌を伺うために」、ベルギー政府の行った虐殺を「ネジ曲げ」、米国政府の敵=共産軍が行った野蛮な行為として手首切断を、「巨匠」コッポラは描いています。

手首切断を行ったロスチャイルドの米国支部はロックフェラーであり、そのロックフェラーこそがベトナム戦争を行った米国政府中枢である事を、無知からか意図的にかコッポラは無視し、デマを世界中にタレ流しているのです。

こうした悪質なデマを流し、真実を隠す作家でなければ「巨匠・映画監督」にはなれないという事なのでしょう。


真実を語るものは絞首刑になり、デマを「タレ流す」者だけが「大作家」、「巨匠」になる。

現代世界と芸術界は、ニセ者だけが表通りを歩く事の出来る肥溜めと化しているのか?
http://www.studiosugi.com/blog/labels/44Ot44K544OB44Oj44Kk44Or44OJ.html

▲△▽▼


第25代日本銀行総裁(1984-1989年) 澄田智がやった事


その昔、日本は国民総ででバブルに踊った時代がありますたね。
バブルを起こして潰す。奴らの詐欺手口の最たるものですた。
バブルがはじけて今では失われた10年と言われていますが、今だに日本経済はその後遺症を引きずっています。自殺者はバブル崩壊から毎年3万人。今だにその数は変わっていません。

その手口を見れば分かるのですがいつもワンパターンです。
最初は甘い話でカモを釣る。こうやれば儲かりますよ。おいしい話でカモを誘います。

そしてころ合いを見計らって真っ逆さまに突き落とす。詐欺師の典型的なパターンです。

最初に奴らはバカスカ札束を刷って、バブルを引き起こす。銀行は貸して貸して貸しまくる。株に投資すれば儲かるよ。土地を買えば儲かるよ。そしてカモが罠にかかったころ合いで急に蛇口を閉める。貸し渋りをやるわけです。
これをやられたら投資家はいきなり資金難に陥ります。そして、資金難に陥ったカモ達から担保として株、土地、あらゆる資産を奪い取るのです。昔からやっていることは同じです。
いい加減気付いたらどうかと思うのですが、今だに引っ掛かっている人がいます。

その当時の日銀総裁であった澄田智(すみださとし)と言う方をご存じでしょうか。日銀退官後は日本ユニセフ協会の会長などをやっていた方です。

澄田さんがバブル潰しの張本人と言われています。
プラザ合意以降、5%だった金利を2.5%に下げ、銀行は貸して貸して貸しまくった。その当時は、黙ってても銀行が頭を下げて貸しに来たという話は誰でも覚えているはずです。そういうジャブジャブ溢れた資金が株や不動産に流れ込んだ。借金しても金利は安いし土地や株を買えば値上がりするしで猛烈なバブルが起きたのですた。

そしてバブルが膨らみきったころ合いを図って、澄田さんはいきなり公定歩合を8%、長期金利は 10%まで引き揚げた。蛇口を閉めたのですた。借金すると金利が高い。値下がりリスクのある株や不動産よりも安全な銀行預金の方が良いということで投資家は一斉に株と不動産から資金を引き上げた。土地や株は一気に値下がり=バブル崩壊と言われています。

バカスカ金を貸し出して狂乱状態を作ってからブルを破裂させる。
その後には膨大な焼け野原、不良債権の山だけが残る。
それを二束三文で奴らが買い叩く。
昔からの手口。ばればれの三文シナリオだったのですた。

さて、それにしても、そのバブル潰しの張本人澄田さんはどのような経歴の持ち主だったのでしょうか。
澄田さんと言えばフランスに留学した留学組で、その後ベルギー大使館、フランス大使館の一等書記官からキャリアをスタートしたエリート官僚ですた。
そしてその後は、順調に大蔵省で出世して日銀総裁になっています。
澄田さんとフランス財界のつながりはお父様の代から囁かれていますた。


澄田智さんは、日銀総裁を辞めた後、ロス茶イルドフランスの旗艦、投資銀行ラザール・不レールに最高顧問として天下りしています。
ちっとはカモフラージュでもして隠せと思うのですが、親子二代に渡って奴らの充実な部下だったという、そのまんまの経歴の持ち主ですた。
http://goldentamatama.blog84.fc2.com/


▲△▽▼


誰が法律を作ろうが関係ない 2009/10/12


さて、奴らは言います。
「我に通貨発行権を与えよ。そうすれば誰が法律を作ろうが関係ない」

日銀が奴らの出先機関だと書いたら反論がありますた。
日本銀行の株の55%は財務省が保有しているから日銀は日本政府の持ち物であって、奴らの手先とは言えないでしょうというご指摘ですた。
確かにまぁ法律上の話はそういう話になります。
しかし、いろいろと歴史を見れば、そんなものは単なるカモフラージュの理屈付けなのが分かると言うものです。

その昔、日本は国民総ででバブルに踊った時代がありますたね。
バブルを起こして潰す。奴らの詐欺手口の最たるものですた。
バブルがはじけて今では失われた10年と言われていますが、今だに日本経済はその後遺症を引きずっています。自殺者はバブル崩壊から毎年3万人。今だにその数は変わっていません。

その手口を見れば分かるのですがいつもワンパターンです。
最初は甘い話でカモを釣る。こうやれば儲かりますよ。おいしい話でカモを誘います。
そしてころ合いを見計らって真っ逆さまに突き落とす。詐欺師の典型的なパターンです。

最初に奴らはバカスカ札束を刷って、バブルを引き起こす。銀行は貸して貸して貸しまくる。株に投資すれば儲かるよ。土地を買えば儲かるよ。そしてカモが罠にかかったころ合いで急に蛇口を閉める。貸し渋りをやるわけです。
これをやられたら投資家はいきなり資金難に陥ります。そして、資金難に陥ったカモ達から担保として株、土地、あらゆる資産を奪い取るのです。昔からやっていることは同じです。
いい加減気付いたらどうかと思うのですが、今だに引っ掛かっている人がいます。

その当時の日銀総裁であった澄田智(すみださとし)と言う方をご存じでしょうか。日銀退官後は日本ユニセフ協会の会長などをやっていた方です。

澄田さんがバブル潰しの張本人と言われています。
プラザ合意以降、5%だった金利を2.5%に下げ、銀行は貸して貸して貸しまくった。その当時は、黙ってても銀行が頭を下げて貸しに来たという話は誰でも覚えているはずです。そういうジャブジャブ溢れた資金が株や不動産に流れ込んだ。借金しても金利は安いし土地や株を買えば値上がりするしで猛烈なバブルが起きたのですた。

そしてバブルが膨らみきったころ合いを図って、澄田さんはいきなり公定歩合を8%、長期金利は 10%まで引き揚げた。蛇口を閉めたのですた。借金すると金利が高い。値下がりリスクのある株や不動産よりも安全な銀行預金の方が良いということで投資家は一斉に株と不動産から資金を引き上げた。土地や株は一気に値下がり=バブル崩壊と言われています。

バカスカ金を貸し出して狂乱状態を作ってからブルを破裂させる。
その後には膨大な焼け野原、不良債権の山だけが残る。
それを二束三文で奴らが買い叩く。
昔からの手口。ばればれの三文シナリオだったのですた。

さて、それにしても、そのバブル潰しの張本人澄田さんはどのような経歴の持ち主だったのでしょうか。
澄田さんと言えばフランスに留学した留学組で、その後ベルギー大使館、フランス大使館の一等書記官からキャリアをスタートしたエリート官僚ですた。
そしてその後は、順調に大蔵省で出世して日銀総裁になっています。
澄田さんとフランス財界のつながりはお父様の代から囁かれていますた。

澄田さんのお父さんは何をやっていた人でしょうか。

澄田ライ四郎という方です。

第二次世界大戦中、満州の軍司令官ですた。
実はお父さん、ライ四郎さんの代から澄田さんはフランスとべったりな関係ですた。ライ四郎さんも元はフランス陸軍大学で学びんだフランス駐在武官だったのですた。その後、日本陸軍で出世して満州での軍司令官になったのですた。

『蟻の兵隊』という映画をご存じでしょうか。

『蟻の兵隊』
監督:池谷 薫 主演:奥村和一
2005年|日本|カラー|35mm|1時間41分|ヴィスタ|製作・配給 蓮ユニバース 
第2次世界大戦後も中国に残留し、中国内戦を戦った2600人もの日本軍部隊があった。
世界で初めて"日本軍山西省残留問題"に正面から切り込んだドキュメンタリー。
https://www.youtube.com/watch?v=wH92AduwJcU


この映画は、満州で戦っていた大勢の日本兵が置き去りにされた悲劇を描いたものですた。日本兵を大勢、満州に置き去りにして一人ライ四郎は日本に逃げ帰った。残された日本兵の多くが死んだ。北斗の拳のケンシロウさんも真っ青の大量虐殺拳の使い手、それがライ四郎さんですた。

実はライ四郎さんは、戦争前からすでにフランスロス茶イルドキチガイ男爵さんの手下だったのですた。戦後は戦争犯罪人として裁かれると思いきやGHQは無罪放免。
満州の軍司令だった人間です。普通は絞首刑でしょう。

誰でも知っていることですが、日本はその当時、中国で麻薬を売っていますた。
その麻薬、アヘンの生産地は東南アジア地方のフランス領の国ベトナム、ラオス、カンボジア。
もちろんフランス領ですた。

フランス領、東南アジアでアヘンを栽培し、中国で売っていた。
麻薬の生産、管理していたのはフランスの軍産企業ドレフェ須、今は穀物商社としての方が有名でしょうか。ADM(アーチャド駄ニエルミッドランド)=ドレフェ須です。
もちろんカーギルとならぶロス茶イルドキチガイ男爵の巨大穀物商社です。
ドレフェ須から仕入れて、中国で売りさばく。
その利益たるや膨大なものですた。

何度も書いているのですが、戦争というのは兵器産業と、麻薬産業のヤラセ金儲け祭りです。
澄田ライ四郎は、ロス茶イルドキチガイ男爵の手下。
ドレフェ須社の社員。
日本兵なんて置き去りにしようがなんだろうが、会社に忠誠を誓っていたのですから、そんなものは関係なかったのですた。

そして、ライ四郎さんの息子も立派にロス茶イルドさんの命令を実行しバブルを弾けさせた。
焼け野原に残された大量の日本人は死んでいった。ロス茶イルドキチガイ男爵の忠実な部下なのだから、日本人が凍死家になって死んでいこうがなんだろうが関係ないのですた。
満州に日本兵を置き去りにして大量に凍死させたお父上と奇しくもやっていることは同じだったのですた。

息子の澄田智さんは、日銀総裁を辞めた後、ロス茶イルドフランスの旗艦、投資銀行ラザール・不レールに最高顧問として天下りしています。
ちっとはカモフラージュでもして隠せと思うのですが、親子二代に渡って奴らの充実な部下だったという、そのまんまの経歴の持ち主ですた。

誰でも調べれば分かることです。
この地球は、キチガイが支配している。
法律などあってないようなものなのです。
法律など誰が作ろうが関係ない。

まぁ、まぁワタスのようなふんどし姿のキチガイが言っていることです。
こんな話を聞いても半信半疑なことでしょう。
皆様どうぞご自分でお調べになって下さい。
http://www.golden-kintama.com/?date=20091012&page=0

http://www.asyura2.com/20/reki4/msg/643.html#c3

[近代史4] アジア人の白人との戦い 中川隆
4. 中川隆[-13376] koaQ7Jey 2020年3月24日 23:00:01 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[1528]

右翼・左翼の対立を使った分割統治政策 _ 左翼運動・マルクス主義運動は国際金融資本が資金提供していた


2018年3月31日
 あの安保闘争では、デモを指導していた全学連の上層部が、右翼の田中清玄やCIAから資金援助を受けていた。そして、彼らは後に米国に留学し、中曽根康弘の手先として自民党の御用学者となった(西部邁、香山健一、佐藤誠三郎など)。安保闘争はデモを指導していた学生がCIAに取り込まれ、ガス抜きに利用された(当時の岸信介首相は、CIA工作員)。

 学生運動や極左運動では、凄惨なリンチやテロが相次いだ。だが当時の極左指導者も、裏では公安とツーカーだった。よど号事件では、犯人が北朝鮮(旧日本軍の残地諜者が建国した国)に亡命し、人質の一人が日野原重明(笹川人脈)だった(聖路加国際病院は戦時中は空襲に遭わなかったし、地下鉄サリン事件では被害者の搬送先となった)。

重信房子は、父・重信末夫が右翼の大物で、四本義隆や佐々弘雄(佐々淳行の父)とつながりがあった。当時、数々の極左テロ事件の鎮圧を指導したのが佐々淳行と後藤田正晴だ(佐々と後藤田は、後に中曽根首相の側近となった)。冷戦期のグラディオ作戦の日本版が、日本の極左テロ事件だ(西欧で起きた数々の極左テロは、実は民衆の世論を反共へ誘導するためNATOが仕組んだもの、というのがグラディオ作戦)。

 オウム事件では、オウムは裏で統一教会や北朝鮮と関わりがあったが、当然、CIAの関与もあったはずだ(オウムが撒いたとされるサリンは、米軍製のサリンとなぜか成分が同じだ)。麻原は拘置所で薬漬けにされ、口封じされた。

 安保闘争も、学生運動や極左テロも、オウム事件も、裏では支配層が巧妙に運動や組織をコントロールしていた。そして、これらの政治的事件の顛末は、日本人に「政治には無関心でいるのが無難」という意識を植えつける、悪影響をもたらした(それが、属国日本の支配層=米国の手先の狙いだったのだから)。

https://johosokuhou.com/2018/03/30/2831/


▲△▽▼

2007年12月10日
ウォール街金融資本が作り出す歴史構造 アントニー サットン 〜左翼右翼の対立、戦争etc〜

大きな対立・戦争を起こしながら動いてきた現代史。その背後にある共通した動きについて詳しく調べた人がいるので紹介したい。

アンソニー=サットン(Antony C. Sutton)、彼は事実を追求し、徹底した調査に基づいた注目すべき数々の本を出している。特に注目すべきは以下。


1.America’s Secret Establishment –

2. Wall Street and the Rise of Hitler –
(ウォール街がナチスヒトラーを勃興させた。)

3. Wall Street & the Bolshevik Revolution –
(ウォール街がレーニン、トロツキーなどに資金供与してロシア革命を成功させた。)

4 The Federal Reserve Conspiracy
(連邦準備銀行の陰謀)


アントニー サットンについて、 阿修羅 より(一部略)

////////////////////////////////////////////////////////////////////////////////////////////////////////

英国生まれ、ロンドン大学出身。米国でスタンフォード大学など第一級の大学の経済学部の教授だったが、彼がスタンフォード大のフ−バー研究所に在籍中の68年、インパクトのある研究書(3巻からなる)を刊行した。もともと経済と技術の関連を専門とする経済学者だったようだが、これらの書物で、米国の銀行がソ連(成立以来)に融資と技術の提供を一貫して行ってきたこと。ベトナム戦争時、ソ連の東欧での武器工場などは米国の融資と技術が提供され、そこで作られたソ連製武器がハノイに持ち込まれ、それにより、米国兵が殺されていたこと。これらの一見敵対する国々に米国が融資と技術提供している実態をこの書で明らかにした。その後、同じことがナチスドイツに対してもおこいていたこと等を明らかにしていった。

本来折り紙付きの第一級の学者,将来を託され嘱望されていた学者だったが、これら一連の執筆業により、過激分子とみなされ、彼は学会、大学組織から追い出され、2度と学問と教育の場に戻れなくなった。その後彼は、米国の権力機構の機微・実態を徹底した資料分析で解析し総計26冊の著書を出して昨年この世を去ったのだ。


徹底した調査によって以下のことが判明した。


1ソ連は国際金融資本によって創設され維持された。

2ナチスドイツは国際金融資本に資本と技術供与を受けていた。

3ベトナム戦争は国際金融資本のやらせだった。つまり米国ソ連の背後にいるのは同一組織だった。


4 60年代アメリカの左翼運動マルクス主義運動は国際金融資本が資金提供していた。

(分割統治)方式により、一国一社会を相反する2項対立の相克状態に持っていく基本戦略が使われた。右翼左翼という対立項は実は彼らが戦略的に作ったものであるという。言い換えれば、この視点からものを見ては彼らの思うツボであるという。大事なのは、超金持ちvs一般人この枠組みで物事を見るべきだ、という。超権力は左翼右翼という見方を推進することで、一握りの超富裕者と一般人との拮抗関係という見方を弱めようとしているわけである。(日本の60年代70年代の左右対立も実はこの仕掛けにはまった側面が強いことが推測される。)

彼は、スカボンのような秘密結社は確たる存在であり、彼らの活動の実態を理解することによって19世紀と20世紀の正確な歴史理解が初めて可能になるという認識に至った。つまり、われわれが学校で教わってきている歴史理解と、実際に進行していた事態とはおよそまったく異なるということなのである。

彼は外との関係を一切絶ち、孤独に隠遁隠棲しながら調査と執筆に専念した。尋ねてくる人間はすべて政府関係者ばかりで、かれらは何をどうしても居場所を突き止めてくるのだという。当初米国内から出版はできず(出版拒否、大手取り次ぎ会社から拒否)オーストラリアで出版していたが、米国のパパま2人でやっている小さな出版社が見るにみかねて、彼の本を出版するに至り、彼の本はほとんどここからでている。現在はアマゾンドットコム等を通じほとんど彼の本は時間がかかるが入手できるようになっている。1999年のインタビューで74才の彼は自分はキャリア的には不遇を託ったが、このような本質的な問題に挑戦でき26冊の本を世に送りだすことができた。執筆内容に一切妥協はなく真実のみを書いた、これは私の誇りとするところである、という主旨のことを語っている。

///////////////////////////////////////////////////////////////////////////////////////////////////////////////
(引用以上) 


サットンの業績は、秘密のベールに包まれていた金融資本家のネットワークを徹底的に調査し、あぶりだしてくれたことだと思う。従来“陰謀論”として、よく検証されずに葬られていた分野を科学的に検証した。

彼の業績によってロシア革命やナチス、そしてベトナム戦争の背後にある真実が見えてきた。おおよそ、現代史(戦争や革命恐慌、バブル)の背後には彼らウォール街金融資本の触手があり、彼らが何らかの狙いをもって特定の集団に資金提供して、育て上げる。それらの集団は、主義思想や愛国心に沿って動き、対立や戦争を起こしていく。その過程で莫大な投資や消費が行われ、金融資本は莫大な利益を手に入れることになる。


背後からこれらの対立を操縦することで、金融資本家は世界秩序を維持してきた。サットンは、金融資本家の支配方法について以下のように言っている。


>世界秩序は、分断して攻略するという単純なテクニックによる支配で成り立っている。

>・・・世界秩序は、世界を実体とみなすヘーゲル弁証法を採用した。これはそのほかのあらゆる力と実体を否定している。テーゼ(正)−アンチテーゼー(反)−ジンテーゼ(合)の原則に基いて機能し、前もって決められた結論(合)に向けてテーゼ(正)とアンチテーゼ(反)が対立して終わる。

>世界秩序はユダヤ人グループを組織して資金を提供する。次に、反ユダヤグループを組織して資金を提供する。また、共産主義グループを組織してこれに資金提供し、反共産主義グループを組織して資金を提供する。必ずしも世界秩序がこういうグループ同士の対立を煽る必要はない。彼らは赤外線追跡ミサイルのように相手を見つけ出し、確実に破壊しようとする。それぞれのグループの規模と資源を調節することで、世界秩序は常に前もって結果を決めておけるのだ・・・・  サットン 『連邦準備銀行の陰謀』より

※ここで世界秩序とは、金融資本による世界秩序のことをさす。

★このように見てくると、主義や主張をかざし、あるいは小さな国益をかざして、対立している人間・勢力というのは、支配者(コントローラー)である金融資本にとっては、非常に都合がよく操作しやすい。


日本でも、

・戦前スターリンとアメリカの圧迫→危機感高まった国内で右翼が台頭、陸軍と結んで戦争への道を突っ走った。

・戦後自民党に結党資金を与えたのはCIAであり、自民党の結党により左右社会党が合同し、二大政党という対立構造が生まれた。


そして現在的にも

アメリカ財閥が中国を急成長させている
アメリカの撤退が始まり中国が台頭する

中国の台頭により日本の(特に右の)危機感が高まっている。しかし、中国を急速に台頭させているのはウォール街金融資本である。僕も危機感には共感する。しかしいたずらに敵対し相手を挑発するより、真の意図を探り可能性を探る必要があると思う。

“日本を守るのに右も左もない”では、見えにくい敵、対立を煽り、歴史を操作している連中=国際金融資本(金貸し)も、徹底的に事実追求の立場から解明していきたい。サットンができなかったより深い分析(人々の意識潮流や可能性)まで含めて。

http://blog.nihon-syakai.net/blog/2007/12/000553.html

▲△▽▼


60年代アメリカの左翼運動マルクス主義運動は国際金融資本が資金提供していた。_ 2

アントニー・C・サットン

アントニー・C・サットン(Antony Cyril Sutton、1925年2月14日 - 2002年6月17日)は、イギリス生まれのアメリカの経済学者、歴史学者、作家。


サットンはロンドン大学、ゲッティンゲン大学とカリフォルニア州立大学で学びし、英国サウサンプトン大学にてD.Sc.を取得した。

米国ロサンゼルスにあるカリフォルニア州立大学で経済学部教授として働き、1968年から1973年までスタンフォード大学フーヴァー研究所の研究員であった。

当機関に所属している間、欧米技術とソ連経済発展の関連について "Western Technology and Soviet Economic Development"(全3巻)を出版し、ソ連発足初期から欧米諸国もその発展に深く関与したことを証明した。

またサットンはソ連が持つ技術的能力や製造能力も多数の米企業の支援と、米国民が納める税から融資を受けたことも指摘した。

鉄鋼業やフォードの子会社であったGAZ自動車工場など, 複数のソ連企業は米からの技術によって作られたことや、さらにはソ連がMIRVミサイル技術を手に入れたのも、高性能ベアリング製造に必要な(米からの)工作機械によって可能となったとしている。

1973年に3冊目の原稿から軍事技術関連部分を別編として "Military Aid to the Soviet Union" のタイトルで出版し、その結果フーヴァー研究員の仕事を辞任することになった[1]。 上記問題の研究成果として、

冷戦が生んだ様々な対立が「共産主義を制覇するため」続けられたのではなく、数十億ドル規模の軍事需要を意図的に維持するためだったと強調した。

少なくとも朝鮮戦争とベトナム戦争の場合、対立の両側も直接的・間接的に米国によって武装されていた[2]。

続編として、軍事技術転写の役割について論じた"The Best Enemy Money Can Buy" を書いた。

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A2%E3%83%B3%E3%83%88%E3%83%8B%E3%83%BC%E3%83%BBC%E3%83%BB%E3%82%B5%E3%83%83%E3%83%88%E3%83%B3

▲△▽▼

ソ連成立とその成長、ナチスヒトラー勃興、ベトナム戦争、左翼運動の背後に同一一貫した組織(秘密結社)が画策し資金と技術をグループワークで提供していた。私たちが教えられ、表でみているのは、彼らの情報操作のたまものだった。
http://www.asyura.com/2003/dispute8/msg/819.html


アンソニー=サットン(Antony C. Sutton)博士が昨年6月になくなった。77才だった。英国生まれ、ロンドン大学出身。米国でスタンフォード大学など第一級の大学の経済学部の教授だったが、彼がスタンフォード大のフ−バー研究所に在籍中の68年、インパクトのある研究書(3巻からなる)を刊行した。もともと経済と技術の関連を専門とする経済学者だったようだが、これらの書物で、米国の銀行がソ連(成立以来)に融資と技術の提供を一貫して行ってきたこと。ベトナム戦争時、ソ連の東欧での武器工場などは米国の融資と技術が提供され、そこで作られたソ連製武器がハノイに持ち込まれ、それにより、米国兵が殺されていたこと。これらの一見敵対する国々に米国が融資と技術提供している実態をこの書で明らかにした。その後、同じことがナチスドイツに対してもおこいていたこと等を明らかにしていった。本来折り紙付きの第一級の学者,将来を託され嘱望されていた学者だったが、これら一連の執筆業により、過激分子とみなされ、彼は学会、大学組織から追い出され、2度と学問と教育の場に戻れなくなった。その後彼は、米国の権力機構の機微・実態を徹底した資料分析で解析し総計26冊の著書を出して昨年この世を去ったのだ。

68年の刊行物で、融資と技術の流れを突き止めたものの、彼は、なぜ敵対する国に、あるいは自国のカネと技術で自国の戦士たちがしななければならないのか、一体どうなっているのか、全く理解できなかったという。ところが80年代の初頭、彼に一通の手紙が届いた。もしあなたが興味があるなら、スカル&ボーンズという秘密結社のメンバーリストを24時間だけ供与するがどうか、と記されていた。この組織のメンバーの家族が、身内が入会していてうんざりで、実態を知って欲しいと思ってのことだったという。送付して欲しい、と了承。黒革製の2巻からなる本は一冊は故人リスト、もう一冊は現在のリストだった。この時点までかれはこの秘密結社のことなど聞いたことも思ったこともなかったという。しかし、これらのリストの人物を綿密に調査したところ、この組織はただ者ではない、と驚愕。68年刊行物で疑問に思っていたことが氷解したという。つまり、この組織の連中のネットワークが米国政策決定過程を導き、このような売国的なことが行われていることを突き止めるに及んだという。

 彼は、スカル&ボンズは、ドイツを発祥とする秘密結社イル皆ティーの連動組織である、という。徹底した調査によって以下のことが判明したという。

1ソ連は国際金融資本によって創設され維持された。

2ナチスドイツは国際金融資本に資本と技術供与を受けていた。

3ベトナム戦争は国際金融資本のやらせだった。つまり米国ソ連の背後にいるのは同一組織だった。

4 60年代アメリカの左翼運動マルクス主義運動は国際金融資本が資金提供していた。


Divide&Conquer (分割統治)方式により、一国一社会を相反する2項対立の相克状態に持っていく基本戦略が使われた。右翼左翼という対立項は実は彼らが戦略的に作ったものであるという。言い換えれば、この視点からものを見ては彼らの思うツボであるという。大事なのは、超金持ちvs一般人この枠組みで物事を見るべきだ、という。

超権力は左翼右翼という見方を推進することで、一握りの超富裕者と一般人との拮抗関係という見方を弱めようとしているわけである。(日本の60年代70年代の左右対立も実はこの仕掛けにはまった側面が強いことが推測される。いわゆる現今のポチ保守はこの左右対立の見方を徹底して利用し、自分たちの富裕的支配性の隠れみのにしてきた可能性がある。多くの一般日本人が、あるいは貧乏な日本人同士がやれ、お前は右だろ左だろどうせ土井支持者だろなどと滑稽にののしりあっている図が見える。これが彼らの思うツボなのだ。実際馬鹿げている。)


彼は、スカボンのような秘密結社は確たる存在であり、彼らの活動の実態を理解することによって19世紀と20世紀の正確な歴史理解が初めて可能になるという認識に至った。つまり、われわれが学校で教わってきている歴史理解と、実際に進行していた事態とはおよそまったく異なるということなのである。

彼は外との関係を一切絶ち、孤独に隠遁隠棲しながら調査と執筆に専念した。尋ねてくる人間はすべて政府関係者ばかりで、かれらは何をどうしても居場所を突き止めてくるのだという。当初米国内から出版はできず(出版拒否、大手取り次ぎ会社から拒否)オーストラリアで出版していたが、米国のパパま2人でやっている小さな出版社が見るにみかねて、彼の本を出版するに至り、彼の本はほとんどここからでている。現在はアマゾンドットコム等を通じほとんど彼の本は時間がかかるが入手できるようになっている。1999年のインタビューで74才の彼は自分はキャリア的には不遇を託ったが、このような本質的な問題に挑戦でき26冊の本を世に送りだすことができた。執筆内容に一切妥協はなく真実のみを書いた、これは私の誇りとするところである、という主旨のことを語っている。

スカボンは現在約600名がアクティブであるという。エール大学内で毎年25名が組織に入るしきたり。生涯を通じて、支配層中心メンバーとして機能するようだ。エール大学で、この組織の余りの無気味さに、排斥運動が起きた経緯もあるという。

"My senior year, I jointed Skull& Bones, a secret society, so secret I can't say anything more."

「わたしは大学4年のときスカボンに入ったんです。それは秘密結社でして、秘密であるが故に、わたしはこれ以上この組織について何もお話はできないんです。」

現大統領が最近の記者の質問にこのように答えている(これはサットンのホームページにも掲載されている。オリジナルはUSAToday紙の記事(非常に勇気ある女性ライターで当時大学生か学校出たてだったと思う。)この発言から分かることは、彼は、スカボンが1 秘密結社であり、2それが現時点で存在しており、3しかも自分がメンバーであり、4 内部情報を明かさないことがその組織の掟であること。この4点までを認めているのである。彼の、エール出身の父もこの組織のメンバーであることはよく知られており、すくなくとも父はメンバーとしては非常にアクティブだったという。ちなみにエール大学というような大学は、基本的にはアメリカの中産階層の子弟がはいれるところではまったくない。富裕層のための大学である。米国中央情報局の上層部は露骨にエール大学閥であることが知られている。

サットンのホームページ:

http://www.antonysutton.com/

彼が受けた最後のインタビュー:

http://www.antonysutton.com/suttoninterview.html

彼の代表作の一つ(スカボン本”America's Secret Establishment)

http://www.cia-drugs.com/Merchant2/merchant.mv?Screen=SFNT&Store_Code=CS&Affiliate=ctrl


1.America's Secret Establishment --

2. Wall Street and the Rise of Hitler --

ウォールストリートがナチスヒトラーを勃興させたことを証明した本。
3. Wall Street & the Bolshevik Revolution --

ウォールストリートがトロツキーなどいもふくめ資金を与え、ソ連を成立させた経緯がかかれている。


上記1についてのアマゾン書店で寄せられる読者評は以下のように最高度の星を獲得している。
http://www.amazon.com/exec/obidos/search-handle-form/002-3984047-1859263

読者のコメントをいちいち読むと非常に支持されていることがわかる。

彼の本は日本で一冊も翻訳されていないが、少なくとも
上記の3冊、最悪でも上記1について、翻訳出版されることが非常に望ましい。アメリカ理解、近現代史理解にこれらの報告書は絶対不可欠なのだ。

最高度の頭脳と調査能力を持つ彼は20世紀の知的巨人の一人であり、彼のすべての著書は近現代史を真に理解したいすべての人々、あるいは新しい歴史形成を担いたいすべての人々への贈り物であり、21世紀の知的遺産だといえる。

彼の真摯な知的営為、屈せず戦い抜いた態度に真の知識人の模範をみるものであり、最高度の敬意を払いたい。最近朝日新聞論壇で投稿されていたpublic intellectuals 公的知識人=一般人のための知識人という概念は米国由来のものであり、最近某大学でこの名前を冠する博士号Ph.D.を授与するところがでてきた。それほど、米国のいわゆる知識人は権力の走狗であることの批判からおきている現象だ。サットンこそこの敬称にふさわしい人物はいないだろう。

自分が知らない、聞いたこともない説であるゆえトンデモ本だ、などと決めつけるタイプの人々にはこれらは高踏すぎて無縁な著作郡であることは確かである。学問的訓練を経た読者に最も向くものといえる。

近現代史を専門とする人々は必読であることを強調していきたい。

http://www.asyura2.com/2003/dispute8/msg/819.html

http://www.asyura2.com/20/reki4/msg/643.html#c4

[近代史4] アジア人の白人との戦い 中川隆
5. 中川隆[-13375] koaQ7Jey 2020年3月24日 23:05:36 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[1529]

白人崇拝がタイ人を猿にした


タイ人女性は白人の奴隷女であることが嬉しい


仏教や王室に対する侮辱にヒステリックに反応して見せるタイ人だが、自国の娘たちが白人の女奴隷として扱われることには何の抵抗も感じない。

現にまったく抗議しないのだ。 嫌だという意思表示も一切しない。

タイ人は白人には一切文句を言わない。

彼らは白人からはどんな扱いを受けても平気なのである。

タイ人自身、どうせ自分たちは「猿」だと思っているからである。

それが猿の猿たるゆえんでもある。

そして、白人の前で他の有色人種がタイ人より勝って評価されないようにその足を引っ張ることにのみ専念する。


「日本人もヨーロッパに行くときには往復航空券が要るよね」

「日本人の女の子もファランが好きだよね」

タイ人が日本人に対する決め手として出してくるのはだいたいこんなとこである。
http://iscariot.cocolog-nifty.com/kuantan/2007/08/post_eecb.html


「猿」とは、白人が有色人種を見る歴史的な見方を、まずもって見られる側として次にはあくまでそれに従属する形で見る側として、内面化してしまった者のことである。

(したがって、日本の「過去の歴史」と「猿」性とは関係がない)。

白人との関係で、

有色人種の世界で他の有色人種に比べて上位の者とされたい、

白人に愛されたい、

白人が有色人種支配のために課したシステムの優等生になりたい、

という動機が内面に刷り込まれて本能のようになっている者のこと。


「金髪碧眼」に言われることにはおとなしく従う気分になるということだろうか。
http://iscariot.cocolog-nifty.com/kuantan/cat6237979/index.html

タイでは都会はもとよりよほどの田舎町でも、ごろつき白人が奴隷女を囲って貴族滞在している風景を普通に見ます。

そういう「白人のいる風景」を毎日見ていて平気でいられる、それが普通なのだと思っている、というのがタイ人です。

これほど白人を受け入れている国民はアジアでも他にはあまりないと思います。

自国民の女をクズ白人爺が奴隷女のように囲って自分の町や村に滞在している、そんな「白人のいる風景」をタイでは普通に自分の生活空間の中で、屋台でも喫茶店でもモールでも、毎日のように目にしなければならない。

つまり、ごろつき白人はタイ人の生活の一部になっているわけです。

これがもしネパールだったら、と考えてみると、カトマンドゥのタメル地区(ツーリスト地区)では猿女連れ毛唐をたまに見ますが、女奴隷連れで旅行している白人で、女はネパールで調達したのではなくタイなど外国から連れてきたのが多いように見える。
ネパールでは契約売春婦の調達は簡単ではないようです。

ネパールの田舎町だったら、仮にその毛唐が囲っているのが自分とは無縁のカーストの女であったとしてもネパール人は黙ってはいないと思います。
 
ヨーロッパ人はタイのバービア嬢やゴーゴー嬢と安易に結婚して(短期間=結局破綻するので)本国に連れ帰る例が多いようですね。

白人ツーリズム=買春拠点であるチェンマイではそんな話をよく聞きました。

ヨーロッパで暮らしたことがあるというのを自慢にしている売春婦(自称「ガールフレンド」、「支払われるガールフレンド」を稼業にしている女)のも少なくないような。

そんなタイ女がヨーロッパにいっぱい住んでいるのだから、タイ人の場合、先進国で差別されて当然というほかないような気がします。

ごろつき白人がタイでだらだら暮らすために売春婦と結婚して本国にも連れて行くという例も非常に多いのですが(係累のない孤児のような女を必死で探すのだとか=それは納得ですが)、堅いイギリス人などで育ちの良いのがちょっとタイに来て売春婦につかまってしまう例も少なくないと聞きました。

タイに来ただけで「アジア」がわかってしまったと思い込むタイプの白人が多いようです。

まじめなヨーロッパ人男が初めてのアジア旅行でタイに来て、自分が教えられてきたヨーロッパの価値観や美意識とはまったく違うものがまかり通っていて、しかもそれで結構楽しい思いができたことにショックを受け、

「これだ!これでいいんだ!これがアジアなんだ!」

とか思い込み、売春婦と本気で結婚してしまうこともあるのではないかと思います。

実際、人身売買、児童売買、海外移送の手先として国際的に活躍しているタイ女が非常に多いので、タイ女が国際社会で胡散臭い目で見られるのはむしろ当然でしょう。それはタイが国策として長年やってきたことの当然の結果です。

タイの「ガールフレンド産業」のせいでタイ人以外のアジア女性全体が「ガールフレンド」や「レディー」のような目で見られている面が相当あるのだから、タイ人が差別されるのは自業自得というほかありません。

私は日本の入管もタイ女だけは極力入れないようにすべきだと思います。フィリピン女よりたちが悪い。彼女らが売春するだけならまだしも、そのかげではるかに弱い立場にいる少数民族などの少女が売買され搾取されている可能性が非常に高い。

白人の児童性的虐待のカバーとして、児童の母親役のタイ女と偽装カップルになるというのはタイではごくありふれたことです。

(児童とも母親役の女とも・・・ということがあるかどうかまではわかりません。これでは偽装親子○ですね)。

これだと目立ちにくいので、それによってタイが「児童買春支援国家」として国際的非難を浴びることもないから、タイ国内では白人がやってる分にはほぼ野放しのようですね。

しかし(どうでもいいことですが)こういう悪い遊びをするにはある程度ネットワークが必要です。

児童の調達はもとより、母親役の女の調達など、現地人の支援と白人同士の助け合いが必要になります。

日本人買春オヤジはこういう組織性が必要な遊びは苦手なように見えます。

たしかに、白人同士はアジアでよく助け合っているように見える。

「野蛮人の地では助け合う」というのは、数百年にわたる経験で白人が得た知恵かもしれません。

在外日本人たちのようにいつも互いに足を引っ張り合っているよりは麗しいことかもしれません。
 http://ibrahim.blog49.fc2.com/blog-entry-174.html


52 : [sage]:03/06/10 01:24 ID:KpHVIBQs

白人コンプレックスのタイ人女性をFBIが分析した


    |::::::::::/::::::::::::ノ       ヽ.::::::::::::ヽ:::::::|
    |:::::::/ ̄ ̄           ̄ ̄ ̄|:::::::|
    |=ロ  -===・      ・===-  ロ=.|
    |:::::|                  .. |::::::|
     |::::::| `                 |::::::|
   (||:::::|        .(。。)       |::::::|)
  ..  |:::::| ∴∴     l l    ..∴∴ |::::::|     ___________
  ..  |:::::| ∴∴ _-- ̄`´ ̄--__ ∴∴ |::::::|   /
    |:::::| ∴∴  -二二二二- ∴∴ |:::::::|  < 白人男は私の物
    |:::::|                  |:::::::|    \___________


顔・目は細く、小さい。目頭が無く、寄り目。眉毛が無い。鼻は低く穴は丸く、鼻筋が無い。

出っ歯。のっぺり顔。口は開きっぱなし。夢見る表情。

身体的特徴・チビ、弛んだ身体。首が短く、短足O脚。大顔。貧乳。 貧尻で垂尻。ぶ厚い前髪。

趣味・欧米の映画や音楽、白人スターの追っかけ、白人男性を見る。

好きな映画・ハリポタ、ロードオブザリングなど。ファンタジーや、中世映画で白人美男が出てくる作品。

目的・美形白人の恋人を作る。

性格・内弁慶。白人的外見の黄色人女性に嫉妬。親に八つ当たり。自虐的。
僻みっぽく、被害妄想。執着型。強迫神経症的。 誇大妄想。ナルシスト。

白人男性のこととなると急に自棄になり、白人男性と一緒にいるタイ人女性を見ると酷く嫉妬し、悪口を言いストーキング。

特徴・白人男性にしか興味が無く、有色男性を無視。色白で金髪青目の王子様ルックスや貴族を好む。

有色混血白人男性には興味無し。

完璧な白人男性を手に入れられず苦しむ。

自身を白人と同等に考えているため、白人とは別物だという事を理解しない。

自身を黄色人だと思わない。

白人男性からのナンパを期待しウロウロ。

白人男性とは下手糞な英語で皆に聞こえるよう大声で話す。

心の中で黄色人差別。英語が上手いふり。

欧米留学は白人男性が目的だから語学は上達せず大金を払った親が苦労。

欧米旅行も運命的な出会いを期待して。欧米人の集まる場所も同。 

291 :名無しさん:2006/10/19(木) 16:49:52 ID:G0tVeQpI
タイ人の心の中

「日本? あー戦争に負けたアメリカの植民地ね。
独立してる我が国とは格が違うわ。
あっスティーブンから電話だわ、着替えなくちゃ」


304 :権:2007/04/04(水) 20:26:51 ID:4BjjlJOw
それにしてもパタヤの女は完全ファラン漬けだ。

ファランの後ろを歩いていると実感するね。

「セクシーメーン!ウェカ〜ム!」 

そのあとを歩く俺には顔を伏せて一斉無言を決め込む。 
 全く自身喪失になるよ。
日本でこんな屈辱知らないからね。

62 :名無し:03/09/10 18:09 ID:MH6fliqX
本国に帰ったら、永久に窓拭きやっているようなヤツにペコペコ頭さげてるタイ人を見ると哀れだよね。


413 :mm:2007/04/11(水) 00:09:41 ID:yti/C4HH

タイ人女は白人男とセックスの相性がいいからだよ。

白人がセックスするときの声とか聞いたことあるか?
ポルノ顔負け、というかポルノは演技じゃない。

実に卑猥な動物的な声でヒヒヒヒヒイエースイエースハーハーハーオーオーオー
って感じ。

それに対してタイ女が反応する。

オホーイオーイオホーイってね。これもまた実に動物的。

動物同士のセックスがうまくいくからなんだよ。

タイの女で日本女みたいに高周波な?ひーひーってあえぎ声出せる
やついるの?


182 :G[sage]:2006/08/29(火) 09:25:50 ID:gls40XbM
タイの若い女は全員売春婦になっちゃったからな
女子大生の憧れがGOGOで踊る事らしいorz


118 : :2005/04/06(水) 10:20:28 ID:VYJCzbfq
タイだけじゃねーよ。ぴーなもジャパニーズも台湾人もチョンも女は同じ。
http://www.unkar.org/read/society6.2ch.net/21oversea/1049826237


▲△▽▼


先進国にはたいてい「ミスコン批判」という運動があり、いろいろな理由で美人コンテストを激しく非難する人たちがいるものです。

そのせいかどうかは分かりませんが、日本では美人コンテストを敢行する人々はあらかじめいろいろな言いわけを用意しなければなりません。

曰く、容姿だけでなく知性や教養も審査するだの、人間性を総合的に審査するだの・・・言えば言うほど滑稽になる理屈を用意し、何かしゃべらせたり、受け答えを見たりしたりするようです。

しかし世界にはそのような心配から一切自由な国もあります。そんな国の代表格の一つがタイです。タイでは、美貌こそ善であり正義である、という大原則が社会を貫いています。ミスコン批判など出る幕はないようです。

先日タイで行われた美人コンテストでは、母国語すらロクに話せない、オーストラリア白人との混血の女性がトップに立ち、ミスタイランドに選ばれました。

結局、タイ語ができないからミスタイランドとしての仕事が果たせないという分かりやすい理由で、賢明にも本人がトップの座を辞退しました。しかし、その人を選んだ人たちが何を考えていたのかは謎です。あとさきも考えず混血美人に飛びついたのでしょうか。

タイ人の「美」の基準はわれわれのものとはすこし異なると思われます。
まず、肌の色が白ければ白いほど美しい。何はさておき肌が白くなければダメ。肌さえ十分白ければ何とかなる。色黒は問題外です。

日本人から見れば色黒な人が多い国なので、これほどまでに色白に憧れる姿はいささか憐れを催します。しかし、上流階級のタイ人には華人系の肌の白い人も多いので、色白はわれわれが想像する以上に切実で具体的な憧れなのかもしれません。

褐色の肌を美の基準にすればもっと多くの人が幸せになれると思うのですが、彼らにその気はまったくないようです。タイ人が最も嫌うものが「平等」です。

ともあれ、ちょっと余裕のある人は異様な情熱で美白に励んでいるようですが、美白といっても、日本ではやっているようなシミそばかすやクスミを防ぐ美白ではなく透明感うんぬんでもなさそうです。そんなことより、なんでもいいからとにかくすこしでも肌を白く見せたい。できれば白人のように、それが無理なら中国人のように白く見せたいというダイレクトな白い肌への憧憬のようです。つまり、われわれから見れば「タイ人らしくなく」見せるためです。

タイ人にとって美はたんなる僥倖ではなく、むしろ倫理規範であり正義です。

つまり「美」を求めるのはタイ国民の義務であり、そのことに躊躇や恥じらいはまったくないようです。

そんなことから、大部分のタイ人とは似ても似つかない白人との混血女性を、タイを代表する「ミスタイランド」にしたてあげるのも平気だったのかもしれません。

美が正義である以上、美が要求されるのは男性も同じことで、その基準も同じ。

色白=ハンサム=金持ち=正義の人、ということになります。

色黒の人は、外で働かなければならない人=貧乏人とみなされます。

タイでは貧しさは悪です。

貧乏人や「弱者」は人間とはみなされません。

すこしカネのある人は下女に働かせて自分は日焼けしないように昼間から日陰でごろごろというのがよくあるタイ人の姿です。
http://ibrahim.blog49.fc2.com/blog-category-7.html


タイの男が最も気にするのが女性の肌の色


白ければ白いほど美しいと同義語になる。

タイ人は元々浅黒い肌(蜜色)なので、色白であることは美人の絶対条件の一つ。
浅黒い肌は最も蔑まれる。

華人との混血の人、北部出身の人、東北のイサーン人でもほとんどラオスとの国境にいる人々などは色白が多い。

外で力仕事をしている下層階級の人々は日照時間が長いから色白になりえない、家の中にいて優雅な暮らしをしている人々は色白だと固く信じられているのか、肌の色は社会階層まで表す。

それだけに色白の娘というのはタイ男が最も憧れる女の条件の一つになっている。

“ピユ・ダーム”と言えば「肌が黒い」という意味になるが、タイ語の「黒い」という言葉は何かしら蔑みの気持ちも含まれている。
http://hage.momo-club.com/news/mp-ura3.html

タイでテレビに出るような「美人」(とされる人)たちの大部分は、白人との混血。ただし日本のテレビに出る白人混血とはかなり違う顔立ちである。

タイの環境からして必然的に、ほとんどが契約売春婦の子か売春契約的婚姻関係で生まれた人たちと言うことになる。

背が低すぎたり顔が醜すぎたりして本国では女に相手にされない白人男性たちが、タイの女紹介エージェントに殺到している。

以前白人のサイトを見ていたら、「タイ人はもう大部分が白人との混血だから安心しろ」なんて書き込みもあった。

アジア全体が中南米のようになってしまうのが白人にとって一番都合が良い。
それが白人にとって最高のアジア戦略だということもこれまで書いてきたとおり。
http://iscariot.cocolog-nifty.com/kuantan/2008/04/post_6ce7.html


数年前に私が飛行機内で隣り合わせた一人旅の日本人の女の子は、タイの入管役人に「お前はタイ人の癖になんで日本のパスポートを持っているんだ」と詰め寄られたと語っていた。

その理由はどうやら、彼女が小柄で「猿顔」だったからのようである。

それだけでなかなか通してもらえなかったそうである。

この一件で彼女はひどく傷ついたらしく、「タイの差別はひどい」「タイ人は人種差別主義者」としきりに訴えていた。

当時の私はまだタイに行ったこともなかったし、タイのことは何も知らなかった。

ご多分に漏れず、「仏教国で親日的な『微笑みの国』なのではないか」という、よくある幻想を抱いていたので、彼女の言っていることの意味がピンとこなかった(あとあとになってタップリと知らされることになる)。

この事例からも窺えるように、タイはまず「容姿」による差別を合理化し、制度化さえしている。

タイ人にとって「容姿」はIDカードに準ずるか、時にはそれにまさるものであり、法的資格でさえある。

その土台にあるタイの階級社会における生殖によって、「猿」顔は再生産されるとともに、「土人」搾取のシステムもまた再生産される。

白人がレンタルワイフにどんどん生ませている混血児が(時にマスメディアのセレブリティを獲得したりもして)事態を多少複雑にさせているかもしれないが、これが却って「土人」搾取の現実を対外的に曖昧化し、「タイ式社会」への「国際的」(=白人世界の)認知あるいは黙認を導き入れているのである。

タイ人は、「タイには(卑しい)土人がいる」ことを抵抗なく受け容れる。

タイ族は、彼ら(色黒の人、モン系、クメール系、山岳少数民族、マレー系等)を、外国人の前でも公然と侮蔑する発言をしてみせる。

ところが現実は、このようにタイ人自身が「タイに土人がいる」ということを受け容れていることによって、タイ人全体が「土人性」を帯びることになるのである。

このことこそ、タイがどこまでいっても土人国家、土人売春国家(土人性奴隷国家)であり続けるゆえんである。

なぜなら、タイ人自身による「土人蔑視」は、客観的にはタイ人(タイ国民)としての自己卑下でしかなく、タイの「土人国家」性にかんする自己規定にほかならないからである。
http://iscariot.cocolog-nifty.com/kuantan/2006/07/post_3d74.html

強きものを強きがゆえに尊敬し、嬉々としてこれにへつらい、弱きものを弱きがゆえにおとしめ、ないがしろにし、踏みつけにする。

これがタイ精神であり、タイの思想であり文化であり美意識なのである。

白人の植民地になると白人崇拝になる、というのであれば、400年も白人に支配されていたインドネシアはよっぽど白人崇拝の国になっていなければならないはずだが、実際はそうではない。

誰が見たってインドネシアよりタイのほうがはるかに白人崇拝主義者のスクツである。

ただ、フィリピンや中南米のように混血が進んでしまうとなかなか誇りの回復は難しくなるようである。しかも、発端が「女奴隷」や「レイプ」のようなものであることは明らかなので、白人との混血系は白人と対等の立場を持つことは無理である。

タイもベトナム戦争以後今日に至るまでどんどん白人との混血が進んでいる。

ほとんどが売春婦やレンタルワイフや、白人が遊びで「結婚」した事実上のレンタルワイフの子である。
 http://ibrahim.blog49.fc2.com/?mode=m&no=126


179 :名無しさん:2008/08/14(木) 10:59:59 ID:7RddDhgX

タイは白人マンセーの国なので黒人はもてません。
黒人差別はアメリカよりひどいかもしれない。


180 :名無しさん:2008/08/14(木) 11:01:30 ID:A4vKdFxZ
一時期服の仕入れのメッカになって黒人が押し寄せてたけど、 宿はあからさまに嫌がってたなあ


184 :名無しさん:2008/08/14(木) 22:06:06 ID:3aWIcBuT
タイのCM観りゃ白人や色白ハーフばかりだろ
タイ人は色白ハンサムなファランが大好きなんだよ
逆に自分よりも色黒の黒人なんかは見下してるのが現実


188 :名無しさん:2008/08/15(金) 22:31:33 ID:rEbk8CMW
大体よ、白い肌が上位なら
黒い肌のタイ人は醜いってことになるじゃん。


189 :名無しさん:2008/08/15(金) 22:37:37 ID:xnOEZCFS
>>188
そうだよ
タイ人の中でもそうなってる
南方系の黒い人たちより北方系のが美人とされてる
白人や日本人(白いとされてる)と結婚したがるのは白い血をいれたいため


190 :名無しさん:2008/08/16(土) 03:54:52 ID:IksD8qsA
>>188
そうなんだよね。
タイ社会の中でも色の白いのが優位に扱われているし、色黒の人達は
コンプレックスを持っている。
>>184>>189の言うとおりなのが現実だよ。

実際、色白華僑系のムエタイ選手なんてほとんどいないだろ?
あんなのは低階級のやることだって言うのがタイ人の認識。
いろんな意味でタイは人種差別があるのが本当。


209 :名無しさん:2008/09/01(月) 19:45:32 ID:DWVoKR3B
白人を優遇してるのは白人との混血を増やして人種を白人に近づけようとしてるのかもしれん。
肌が白いほど良いとしてるのも国策なんじゃないか。


210 :名無しさん:2008/09/02(火) 10:36:32 ID:DtuBEVFN
混血増やそうたって、白人女性はタイ人を全く相手にしてないんだけど。
俺、白人と結婚したタイ人男性を一人も見たこと無い。
負け犬白人にはらまされたパン助は多いが。


337 :名無しさん:2009/10/27(火) 06:07:17 ID:MSkrVtb4
金持ちタイ人って他のアジア人(日本人含む)を見下す人が多い気がする。
タイの中で金持ちっていっても日本人からしてみれば普通レベル。
まぁまれに桁違いの金持ちがいるけど。
日本人が住むごく普通のコンドミニアムにそういうのが多いな。

アジア人には無愛想、白人には親切、ってね。
http://gimpo.2ch.net/test/read.cgi/world/1193226362/l50

59 : :03/08/06 00:12 ID:qux8372O
タイ人の場合、白人コンプレックスというより「肌白」 に対する崇拝のほうが激しい気がする


514 :soi57:2008/04/05(土) 20:18:52 ID:hgaEKE71
タイのTVとかも酷いよね
「色白でないと女じゃない!」みたいなCFとか平気で流してるし
タイの会社案内とか見ても、必ず登場するのは白人ビジネスマン
アメリカでこんな事したら、間違いなく黒人連中からクレームだよw


66 :☆:03/09/12 22:14 ID:SWf4IJqN
タイでは色黒は嫌われる。
よってタイ在住のインド人は好かれない。
勿論、黒人はアメリカ人でもモテない。
しかし母親がタイ人のタイガー・ウッズは例外。
白人は基本的にモテるが、タイの観光業者はイスラエル人やユダヤ系の人は大嫌い。
(とにかくドケチなくせに、 気難しく口うるさいから)


90 :☆:04/09/23 18:39:28 ID:iBNubaf+
タイ人は色白になりたがる
小麦色に焼きたがる日本人が理解できないらしい

113 :タイ焼き:2005/04/05(火) 03:12:08 ID:xbhNBPtZ
タイのポップス歌手はやたら混血が多い、白人顔が好まれる、
アジアで唯一植民地にならなかったのに、多のアジアの国より白人に憧れ度が高い。
ベトナムみたいに白人国家と戦争して勝った経験がないし 白人支配の経験が無いのが、白人に媚る原因か?

タイガーウッズもゴルフしてなかったら有色カテゴリだろな。
多の元植民地国家の対白人意識とタイの意識は違いを感じる。


114 : [sage]:2005/04/05(火) 04:10:26 ID:5U7GCaNQ
単純に白人のほうが見栄えがするからだと思うが?


88 : [sage]:04/09/07 23:25 ID:FVFrndTt
白人女性はアジア女性よりはるかに美しいと思う。 
ヤローについては何人でも何とも思わない。


102 :     :04/12/09 13:54:44 ID:XR/sZIYq
白人女性、綺麗だよね。若いうちは。


103 :XXXX     :04/12/10 00:01:56 ID:+0moPS9B
バッグパッカーでも何でも良いがタイで見かける白人女性の中には Miss World Class が随分といるよね。


78 :名無しさん@お腹いっぱい[sage]:04/07/07 15:14 ID:lsSuGp52
なんか、このスレの白人コンプレックスな奴キモイ。
白人の容姿が優れているとか思うのは、六本木とかテレビとかでみてる白人がそうだからだろ。
六本木にいる奴とかテレビに出てる奴は、モデルやモデル崩れなんだよ。
一般人の白人はそうでもないよ。とくにアメリカ人は野暮で下品だ。


194 :うむ :2006/09/02(土) 09:43:07 ID:DJuY2RVD
タイ国人は誇り高き民族 
経済発展で収入が底上げされれば地位が上がったように勘違いする。
特にバンコクのサラリーマン層は勘違いは甚だしい。
外国に言って自分の地位を再確認するべし(どうせ出国できないが)

周辺の国境を接している国やタイ族のいる外国では自分達が一番という態度をとる。
理由は建国から現在までの持続している歴史がありかつ現在の経済状況がいいから。

ミャンマーや西双版納、カンボジアでの彼らの振る舞いは「横柄、威張り」そのもの
もし日本人が中国、朝鮮等でそんなことをしたら絶対ボコられる。

国内でのマイノリティーに対する差別もあからさま。階層の順はこう考えているらしい

1位タイ人(中華系含む)、
2位イサーン人、
3位ベトナム人、
4位カンボジア人
5位イスラム教徒、
6位ミャンマー、インド、
最下位山岳民族(アカ族等)

※イスラム教徒は以前底辺扱いだったが南部爆弾テロの成果で少しは
地位が向上した様子。アカ族も一揆を起こせば少しは状況が変わるかも
しれない。

タイ人の人をモロに馬鹿にする場面もよく見たな

とあるホテルのロビーでなかなか来ない予約したタクシーを待っていると
レセプションの女どもがインド系の人達が流暢な英語で話しかけるとタイ語で何ですかとかよく理解できませんと言ってもろ嫌な顔をして文句ブツブツ言いながら不機嫌モロだしだった。

その後に白人が英語で話すとちゃんと英語で対応している場面あり。

ここで怒っちゃいけない。そういう文化というか風習の人達決して悪気はない (と思う)

多民族国家によくある差別は当たり前。

この差別にタイで抗議しているのは南部のマレー系の人達のみ。
北部少数民族や東北地方のラオ系は蜂起しないので彼らの扱いは醜い。

こうして考えればカースト制度というかアパルトヘイトみたいなのが自然に存在する

外国人旅行者もランク付けされているので ある意味白人以外はチップも必要ないし、外国人価格の適用を受けなくてもいいと思われる。

しかしこのあたりはタイらしく、金に関しては地位に関係なく持っている人は還元せよ的な自分本位な考えがある。

タイ人との結婚を考えている方 基本的に日本人とこのあたりの感覚が違うのは念頭においておいた方がいい。

530 :通りすがり:2008/11/12(水) 22:15:59 ID:vJiUbpJf
タイ人の人種差別は凄いぞ

山岳民族、ラオス、イサーン人は公然と差別して構わない雰囲気がある
それに比べ欧米人にはバカみたいに媚びる
奴隷ほど醜い人種差別を行うってことか
http://www.unkar.org/read/society6.2ch.net/21oversea/1049826237

499 :オー様と名無し:2010/07/15(木) 03:52:54 ID:xpca9PFw0
タイの現在の法制度ではタイ人と山岳民族(タイヤイも含む?)は日本の戸籍制度にあたる住民登録が違っているのですが、

純粋のタイ人は黒のタビアンバーンで、
山岳民族等はタイに住んでいても外国人を意味する黄色のタビアンバーンを与えられています。


524 :オー様と名無し:2010/07/16(金) 01:46:30 ID:8pGGVD4U0
チェンマイでもどこでも良いけれど役所の窓口で1時間くらい観察してみてください。
黒(濃紺ですか)と黄色の扱いの違いがはっきりわかるから。

黄色ホルダーの相手には役人はほとんど命令口調。
書類不備なのかどうか罵声を浴びせられてる場面もありました。

しかもまわりのタイ人はそれを見て笑ってました。
田舎へ行くほどその傾向は強いようです。
そういう社会なんですわ。

まあ外国人の黄色タビアンにはそういう扱いは無いようですけど。

528 :オー様と名無し:2010/07/16(金) 09:11:52 ID:11VZTIw60
タイ人の人種差別意識には、ほんとにウンザリさせられる。

まず初めに気づいたのは、イサーン人への差別、俺がモーラムやルークトーン
が好きだと言ったら、赤貧農家の小作人にさえ馬鹿にされた。

次に気がついたのはインド人や黒人等、白人以外への差別。

また、隣国(ラオス、ミヤンマー、カンボジア人)への差別意識も物凄い。

最も酷いのが、山岳、少数民族への差別感、彼らは人間でなく家畜並みの存在だと思っている。

この鼻持ちならない差別意識に、今ではすっかりタイ人の性格がよく分かり
微笑みの裏にある、厭らしくて姑息で偏見だらけの国民であることが、最近よく分かった。

もうすぐ日本に帰るけど、もう沢山だよ、こんな国。
http://jbbs.livedoor.jp/bbs/read.cgi/travel/3341/1275952742/

154 : [&]:2005/12/30(金) 02:11:29 ID:oFbK3j9h
タイ人ってのは、無学な国民が大多数なので見た目でしか人を判断できません。

見た目が金持ちなら、親切な態度をとってくれますが貧乏そうだと、自分よりも下のレッテルをはって見下した態度をとります。

ためしに、ヨレヨレのTシャツに短パン、不精ひげといういでたちで55やソイ7の円光バーに行ってみましたが、その時は見事に無視されました。

翌日アルマーニのYシャツ&ズボン、グッチの革靴で、こぎれいにしていくと、全然態度が違い、女が寄ってきてウザイほどでした。

男の店員もミスター扱いで、やれやれといったところです。
ホント、タイ人って馬鹿で、面白い国民です。


156 :THAI邦人:2006/01/13(金) 19:04:42 ID:OzVB37eF
タイ人は、貧乏人を最下級層と判断するDNAを持っている。(山岳民族等と同等)
よって、ミエ張りばかりで御座います。
http://www.unkar.org/read/society6.2ch.net/21oversea/1049826237


http://www.asyura2.com/20/reki4/msg/643.html#c5

[近代史4] アジア人の白人との戦い 中川隆
6. 中川隆[-13374] koaQ7Jey 2020年3月24日 23:08:18 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[1530]

タイ:売春国家、お猿さんの国、白人と仏教とアレが好き、世界一の人種差別大国

タイ人女性 :金に困っている訳ではないのに上から下まで全員売春婦

凶暴で、浮気して〇〇〇を切られた男多数あり

白人 :タイ山岳民族の幼女と金を払って“自由恋愛”をするのが好き, 幼女でないと立たない

日本人 :鴨ネギちゃん, 生〇〇〇されるのが大好き, 若いタイ女性と結婚後 行方不明になる事多し


_______________


1.「猿」とは何か


タイ社会は、自己の中にある「土人」性を十分に自覚している。

「土人」を制度化し、「土人搾取」のシステムを内包しているのがタイの社会なのである。

これは「土人」とそうでない人がいるという意味ではない。

そうではなくて、上流色白タイ族であっても、自分自身も白人の前ではいつでも「土人」として最低に卑屈に振舞えるように、それ以上に、タイ社会の中の「弱い部分」を自分以下の「土人」として徹底的に卑下し搾取し、外国人に奴隷として容易に売り払える体制のことである。

この意味でタイこそはアジアの「土人売春国家体制」の大元であり震源地たる「便所国家」なのである。
http://ibrahim.blog49.fc2.com/blog-entry-4.html


実に、猿ほど鈍感なものはない。

このことを見失うと痛い目にあうと思う。

そしてよく覚えておかなければならないことは、アジアの諸民族は、発展の過程で必ず反日になるということ。

彼らにとって「反日」はアジア新興国・準先進国の証である。

彼らがたとえムスリムであっても、彼らの社会観、他者観は相対的である。

彼らの風土に根ざした人間関係に唯一絶対の神が入り込むことは難しそうである。

つまり、より身近な者との間の比較と嫉妬とが彼らの燃料である。

理念で高みを目指すのではなく、情念で近くにいる者の足を引っ張ることのほうに、彼らのエネルギーは費やされるのである。

中国韓国が反日だ、だから東南アジアに目を向けてみた、という具合に、「仏教国」幻想でタイに投資し、タイ人の嫉妬反日と怠惰ぶりにうんざりして、今度はマレーシアに投資し、インドネシアに投資し、、、、というのはナイーブな日本人のやりそうな失敗ではないだろうか。

東南アジアの猿というのは、喩えて言えば、反抗期を経ていない子供のようなものである。

自我をもって親とぶつかったことのない子供にとって、親はひたすら怖い、絶対的な存在である。


この場合彼らの親は白人である。

あるいは、反抗期に自我を確立しきれずに引きこもり、家庭教師の先生だけをよりどころにしているような子供。

この家庭教師は親よりも学歴が高く、子供に適当におだてたことを言ってくれる。

耳に快い理念や人道に関する話も教えてくれる。

この子供はその家庭教師の話を暗誦し、彼の威を借りて親にたてつく。

家庭教師の入れ知恵を自分で考えたことのように親に向かって復唱し、兄弟の前でしゃべりたてて得意になる。


タイ人にしろマレー人にしろおそらくインドネシア人にしろ、およそ猿というのは成人ではないし、成人になる意思もない。

猿の神は「力」である。

彼らは自分が困ると努力をする前に大いに保護と援助を訴える。

おねだり、物乞いは猿の文化である。


が、彼らを援助してやろうと手を出す者は大きなリスクを覚悟しなければならない。

保護され援助されながらも、彼らは常に、保護者たちのなかで一番強いのは誰かを観察する。

一番強いものに取り入って、他の保護者の上に立てないまでも、それを見下す態度を取ろうとする。

そのようにして嫉妬と羨望の念を紛らわせることは猿にとってきわめて重要な生活条件なのである。

ここは見落としがちな重要なところである。日本人は嫉妬に関してきわめて淡白な国民であることを自覚したほうがいいと思う。

もし日本で、民族間の扱いの違いなどを、「平等原理に反する差別」という理念的な問題とするのではなく、その代わりに「嫉妬」という形で政治問題にするとしたら、左右を問わず、日本ではちょっと恥ずかしい沙汰だろう。

しかし彼ら猿の間ではそうではない。

猿の尊敬を獲得できるのは嫉妬の相対性を超えた圧倒的な力だけなのである。

そのような形で尊敬を獲得することを潔しとしないのなら、間違っても猿に何かを期待することのないように自らの心に命ずるしかないだろう。

だからわれわれは彼らに安易に援助を申し出てはいけない。共同事業も同じである。

「むかしどおりに白人の保護を受け入れたほうがいいのではないの?」


「白人のほうが偉いでしょ?

尊敬してるでしょ?

奴隷になるにしてもボスが白人のほうが威張れるでしょ?」


と粘り強く勧奨すべきなのである。


「白人に支配されていたことが不幸だったという実感がない、

日本の占領は許しがたいがそれまでずっと白人のご主人様の奴隷だったことはそう悪かったと思わない、

今ではむしろ誇りにさえ感じる」(マレー人)。


「アジア全体が白人の従属の下に置かれていても自分たちさえ自由でいい生活が出来ていれば何の問題も感じない、

一族の体面を保つためには隣国の土地を勝手に白人に割譲してもいいし、娘を女奴隷に売ってもいい」(タイ人)。


猿とはこういう連中なのである。
http://iscariot.cocolog-nifty.com/kuantan/cat6237979/index.html

タイでは、全国土に渡って白人崇拝が「作法」ないし「制度」として定着している。

日本人の場合、白人崇拝の念を持っていたとしても、それをあからさまに表現するということは、普通の場所では少ない。

肉便器はいざ知らず、公共の場や接客の場面では少ないと思う。

日本人には「人種差別は良くないこと」という「タテマエ」がある。

したがって、あえて白人崇拝を表現することには躊躇と「うしろめたさ」がともなうのが普通だと思う。


ところが、タイ人の場合には、このような躊躇や「うしろろめたさ」は一切ない。

彼らは白人崇拝を公共の場所であからさまに表現することに何の恥らいもうしろめたさも感じない。

むしろ、自らの白人崇拝をあえてあからさまに表現することによって、白人客へのホスピタリティの表現としようとするのがタイ人である。

その表現方法には、「白人客を上げる」という以外に、その場にいる「有色人種をことさら下げる」という方法がある。

「差別の表現」によって一方を満足させるというのは、典型的なタイ的ホスピタリティの表現である。

つまり、タイには「人種差別はよくないこと」という思想が、「タテマエ」としてすら存在しないのである。


日本の銀行や旅行代理店の窓口で、アジア系外国人を受け付けているときに、白人客が入ってきたからといってアジア系外国人を押しやって公然と白人を先に受け付けるというようなことがありうるだろうか。

アジア系外国人が先に並んでいるところに後から来た白人の優先受付を認めるようなことがあるだろうか。

ありえないだろう。しかしタイではこれが普通なのである。

ホテルでもレストランでも、ちゃんとした身なりの有色人種外国人客にはむっつりと接客し、汚い半ズボン白人客には最高の笑顔で媚びへつらうというようなことが、日本にあるだろうか。

よっぽど特殊な場所でないかぎりないだろう。しかしタイではこれが基本なのである。

すなわち、日本に白人崇拝があるとしても、それはタイ人の白人崇拝とは量質ともに比較にならないものである。


かつて東南アジアで反日暴動が頻発したときの感情的な理由のひとつは、

「日本人は有色人種のクセに白人のような生活をしている」

というものだった。


言うまでもなくこれは、白人の作り上げた枠組にすっぽりはまりこんだ奴隷根性というほかない。

この考え方は、自分たちが白人より絶対的に「下」であるという前提をおいた上で、日本人を自分たちレベルに「引き下げ」たいという卑屈な感情である。

このような感情は、

「白人に支配されるのならまだしも日本人に支配されるのは我慢がならない」

という中国韓国の感情にも類似している。
http://iscariot.cocolog-nifty.com/kuantan/2006/10/post_8b81.html

お猿さんの白人崇拝と人種差別


東南アジア土人は欧州でも人種差別接客=白人至上主義接客をする 


そう聞いていたが本当にそうのようである。

パリは白人も黒人も親切な人が多い。大都会の真ん中でも道など聞くと親切に教えてくれる。

英語を話す人も多く、英語を話したからといって嫌な顔をされたことはない。

しかし、東南アジア系だけは要注意である。

東南アジア系には嫌な思いをさせられる可能性が高いと思う。

東南アジア系がいる店は避けたほうがいい。

今朝、サンミシェル通りのソルボンヌの向かいにあるホテルTrianon(www.trianon-rive-gauche.com)で部屋を予約した。

200ユーロ以上する部屋しかなかったが、ほかが見当たらなかったので今夜のために予約した。

しかしそのときはまだ部屋が空いておらず、午後2時まで待てということだったので、荷物をストアに置いて街に出た。

予約の証拠として、クレジットカード番号も取られた。

ところが夕方戻ってみると部屋はまったく予約してない。

フロントの人間は変わっていて、東南アジア系の女が受け付けていた。

タイ人にほんの少し白人を混ぜたような顔立ちの色黒の女。

クレジットカード番号まで控えさせてストアに荷物も置いているのに、この女は予約はされていない、部屋はないと言い張る。

そして、案の定、後から来た白人客を優先的に受け付け、こちらの重要な話を聞こうとしない。

そして恩着せがましくそれなら部屋を用意してやるという。そしてまたすぐにカードを見せろという。

その態度があまりにも偉そうで、また白人客優先のやり方が露骨だったので、

「お宅はアジア系の客は歓迎していないのか」といってみた。

すると、とたんに開き直り、

「だったら泊まらなくていい。他に泊まれ」と言った。


まさにタイ土人女である。

もちろんこんなところに泊まらない。

3万円も出してこういう接客態度だ。しかも白人優先接客。

荷物を持ってTrianonを出て、明日の予約をしてある近くのCujasというホテルに行って聞いてみると、幸い今夜もダブルの部屋が空いていた。92ユーロだと言う。

欧州でも東南アジア系とくにタイ人のような連中が働いている店には行かないほうが無難だと思う。

率直に言って、彼らは色黒になるほど人種差別的になるとみていいと思う。

タイやマレーシアでも色黒土人のほうが実際に白人によく媚びるし性格も悪いものである。

ブダペストでの経験からいうと色白のベトナム人などはまだわりとマトモなようだ。

タイ人は白人かどうかでの対応の違いがまずあり

(白人優遇はタイの国是ともいえる確立したルールであり好き嫌いとは関係ない)、

次に「承認された権威」と「カネ」と「力」が基準になる。


タイ族はもともと中国から来た、というのはタイ人が好んで口にするフレーズである。

また、白人との関係で


タイ人のほうが日本人よりも白人に愛されている=タイ人のほうが日本人より上だ


という具合に序列をつけようとすることはすでに頻繁に見られること。
http://iscariot.cocolog-nifty.com/journal/cat6339137/index.html

TG(タイ航空)のひどさについて


タイという国の白人崇拝および人種差別主義が、

「そういう人もいるしそうでない人もいる」というレベルの話ではなくて、

確立した「制度」であるということを手っとりばやく体験し観察してみたい人は、
TG(タイ航空)に乗って見るのが良いと思う。


「日本-バンコク」線は当然日本人を意識するので、「バンコク-カトマンドゥ」線とかがいいだろう。

最初は、エコノミークラスだから大バカなクルーが配置されているのかと思ったが、聞くところによるとビジネスクラスやファーストクラスの方がもっとひどいということである。

ホテルやレストランの接客の場合には、主観的なさまざまな要因

(つまり「あなたが身なりや態度のせいで個人的に差別されていただけですよ」という反論を導くような要因)が関与しないとはいえないが、

一列に座席が並んだ飛行機内ではより客観的な観察が可能になる。


つまり、他の人たちがどういうふうに接客されているか、クルーが客の人種によってどんなふうに態度を変えているかを、客観的に観察することができてしまう。

私が観察したところでは、意外なことに、女のクルーは(差別接客は)それほどでもなかった。

これは、白人バーの売春婦のように見られたくないということかもしれない。

しかし、「エイズ以前」、売春ツーリズムリゾートとして大いに売り出していた誉れ高きタイ王国においては、どんな女も売春婦とみなされがちなのは自業自得の結果である。

恨むなら自分の国とその国の全権を掌握する国王を恨むべきである。

これに対して、TGの男のクルーの醜態はこっけいを極めていた。

白人の周りをくるくると回っている茶色い猿というほかはない。

ビジネスクラスだとこれがもっとひどくなるというからたまらない。

念のためにもう一度いえば、私はここでは、自分がどう扱われたかという話をしているのではない。


飛行機だと他人のこともはっきり見えてしまう。

白人がちやほやされる一方、アジア人、有色人種が邪険にされたり冷笑されたりしている様子を見せつけられるのは、非白人としては不快である。

TGの男のキャビンクルーは、客の人種によって満面の笑みやむっつり顔、振舞い方までクルックルッと変換することができる。


あの反射神経の良さはやはり猿のものであろう。

飯の注文をとるとき、白人とアジア人乗客とが並んで座っている席では、必ず白人を先に、満面の笑みを浮かべほがらかに声をかけて注文を聞く。

次の瞬間には、さっとむすっとした表情に切り替え、アジア系客をろくに見もせずに

「わかってるだろ、早く言え」という感じでちょっと首を横に振って「催促」する。

エコノミーとはいえ、仮にそのアジア系が隣の白人の上司またはボスだったらどうするつもりだろうと思うが、タイではホテルやレストランなどでも白人とアジア人とが(男同士)一緒に入っていけば、アジア人のほうは完全にその白人の下僕扱いが普通である。

一度タイを白人の友達と旅行してみることをすすめる。

これが、タイの猿王の航空機、タイ王国のフラッグキャリアなのである。

人種差別接客はTGおよびタイ王国の「制度」なのである。

「猿王」といわれたくないならば、自分でクーデタを起こすというボス猿のような行為をつつしみ、猿の群れのような国を多少でも人間らしいものに変える努力をすべきである。


タイにおいては、高級なところに行けば行くほどますます、人種差別・白人崇拝がひどくなり露骨に表現される。

この点が他のアジア諸国の「白人崇拝」と趣を異にするところであると思う。

つまり、他のアジアの国々では、高級なところに行くほどバカは少なくなるのが普通である。

バカでなければ露骨な人種差別や白人崇拝を表に出したりしない(白人国は別である)。

なぜならこれらの国では白人崇拝は国の「制度」にはなっていないからである。

これに対して、タイ人にとっては、白人崇拝の強さはその場所の「高級」の証しであるらしい。

そして「差別」がひどいことは、その場所に「特別なもてなし」があることの徴のようである。

おそらくタイ人客たちは、自分が来た場所の白人崇拝のひどさを見て、自分も「高級」な場所に来れたことを喜ぶのであろう。

このようにタイにおいては、頂点に近づけば近づくほど白人崇拝がひどくなる。

その「頂点」こそが、クーデタの黒幕にしてクーデタ政治の守護者であるタイ国王・プミポンの宮廷にほかならないことは容易に了解せられるであろう。

タイの白人崇拝は、国王崇拝に次ぐ国家の「制度」であり、タイの「国体」の不可欠の要素だということである。

ほんの数百年前にインドシナに乱入した文盲の蛮族の野盗の子孫が猿王よろしく君臨し、その私兵として軍と警察を掌握し、白人崇拝主義を御誓文のごとく戴き、弱い者の娘たちを毛唐に貢いではシノギとする国、これがタイ王国。

軍事クーデタをおこしても白人からはほとんど批判されることのない、インドシナの「優等生」の猿王国である。

現に多くの白人がタイの各地に女を囲って定住しているという事実が、白人世論のタイへの矛先を鈍らせているということを忘れてはいけない。

このように多数の白人がタイ人と(肉体)関係を持ちながら各地に定住していることは白人世界にとって有利なネットワークである。

それはタイ国内での白人国家の情報機関やミッショナリーの活動を容易にしているのである。

このようなことも含めた、総体的な「女の貢ぎ」である。

それにしても、TG、日-タイ線の日本語アナウンスの客を馬鹿に仕切った感じは他社に例がない。

説教口調で「トイレでタバコを吸うな」などとくどくど言う。

それだけTGの客層、そしてタイへ行く日本人の水準も低いということなのだろう。

タイ人の差別体質・白人崇拝体質は、タイの数百年に及ぶ白人とのやり取りを通じた国家形成の歴史に根ざすものであり、タイの文化の根本にあるもの、すなわちタイ人のアイデンティティと不可分のものだから、そう簡単に変わるものではないし、変えようとする意思さえなかなかもてないものだろう。
http://iscariot.cocolog-nifty.com/kuantan/cat6759876/index.html


__________________


1 : :03/04/09 03:23 ID:RbE4RsDU

タイにはロシアとか旧共産圏の国から、女の子が出稼ぎに来ていて まあ、売春なワケだが。

タイには観光客や買いつけでやって来る外国人が多いからそういう男を相手にしているわけなんだ。

俺も、何人かそういう子と遊んだわけだ。

気に入った子、相性があった子とは一緒にいろんなとこに行くわけだが、なんかね、
白人連れていると、タイ人の店員の態度が全然違うわけ。
すごい親切接客なんだよね。


俺ひとりだと割とぶっきらぼうなのだが白人相手だとタイ人は親切なんだな。
7倍くらい。

なんだろうね、これは。

でも、女の子のほとんどがタイ人男とは寝たく無いって言っていた。

なんだろうね、タイ人は。


166 :うむ :2006/08/26(土) 23:17:38 ID:rHOc5cgo
タイ人のあからさまな白人優遇に何度もあった

トゥクトゥクに乗ってホテルの門まできたところ白人が手を上げて乗る意思表示をした。

門から扉までは50メートルくらいあるのだが、運ちゃんは私にここで降りろと言う
タイでは日常的にこういうことがあるから別に腹が立ったわけではなかったが
ちょっとからかうつもりで

「白人が優先か?」と聞くとあっさり「そうだ」と言う。

交渉金額の半額だけ渡して降りてやった。

(外国人価格に納得してのったため現地人相場の金額を渡した)

まあ日本でもあることだけどね


115 : [sage]:2005/04/05(火) 22:03:30 ID:zhT6Cti9
タイは白人の植民地並に白人が大手を振って歩いてるね


121 :ペン習字:2005/04/06(水) 18:01:16 ID:9kDqInKW

タイ人の白人に対する感情は、他の植民地体験のある国より、白人崇拝意識が高い。


318 :在住:2007/04/05(木) 22:18:34 ID:QJ/3B951

タクシーの窓に貼ってあるステッカー
「I love Farang!welcome foreigner! 」

コレ見るたびに複雑な心境になる


333 :static:2007/04/07(土) 14:20:09 ID:+iXaspSz

近隣国の一流ホテルと比べてもタイのホテルやレストランの白人崇拝はかなり際立ってるよ。

タイで差別されるのは日本人だけではなく、有色人種一般。

逆にその場所に白人がいないときはあきらかに態度が違ったりする。

そういうのはシンガポールやマレーシアではあまり経験しない。

高級ホテルとは言わないが、タイの中級どころのホテルのスタッフがどう見てもクズな半ズボンはいたような白人にへらへらして、まともなかっこうしたアジア人客より持ち上げてるのはなぜ?

ああいう接客は東南アジアでも他の国ではあまりみない。
白人崇拝、人種差別は、タイ旅行業者にとって鬼門。
それを理由にタイを避けるアジアアフリカ系ツーリストは実に多い。

日本人にはまだすくないだろうが。
隣のマレーシアに来てるツーリストの人種構成と比較してみれば一見してわかる。


289 :      :2006/10/14(土) 23:49:46 ID:2zYl6W9I
タイはいろいろ問題もあるがそんなのは旅行している分には
マイペンライでいいでしょう。

タイ語で、「気にしない」、「大丈夫」、「どういたしまして」とかを表す言葉)


この国深夜徘徊してもそれほど危なくない国
深夜、タクシーが強盗になる話もあまり聞かない

わけのわからん詐欺師は今でも出没するが、相手にしなけりゃ問題なし。
人さらいも聞かないし、長距離バスで荷物がなくなったことは100回のって一度もなし。

フィリピンや、インドネシア、中国、カンボジアから帰ってきたらタイはまるで日本のように安全だよ


しかし白人に甘い国。

白人文化の自由恋愛のゴーゴーは取締りがゆるく しかも白人経営の店も多い
しかし日本人好みのMPは何かと厳しく、日本人の経営は絶対ゆるしてくれないだろう。
ホテル、旅行会社では明らかに白人が優先


308 :chego:2007/04/05(木) 14:47:43 ID:btKNQVVe
その理由は簡単だよ。

タイは日本と軍事同盟を結んでいたわけ。日本と一緒にビルマにも侵略した。

しかし、第二次大戦後、すぐにはじまったインドシナ内戦で欧米列強のインドシナ再植民地化戦争に全面的に加担し協力することによって、タイは戦争責任逃れをした。
タイの日本軍への協力やビルマ進駐については不問に付された。

ようするに、植民地再獲得を目指すフランス兵やベトナム戦争のアメリカ兵に売春婦をあてがうことで責任を帳消しにしてもらったわけ。

だから、タイは欧米から日本との軍事同盟の責任を一切問われていない。

その代わりに、タイは一貫して欧米人を優遇することで報いている。

もし欧米にたてついたら、タイも戦争責任を問われることになりかねないから必死なだけ。

374 :しかし:2007/04/09(月) 01:39:22 ID:yDx0ZWmq
タイの外人の夜遊びは歴史的にいってもベトナム戦争から。
そういうところで白人が優先されるのは当然のこと。

もうひとつはタイ人はもともと中国系の民族だから事大主義が基本ということ。
中国系はどこでも白人にへつらう。

310 :B-777:2007/04/05(木) 14:59:52 ID:CcobfenZ
>>308
まさに正論なんだがそれは国家としてのスタンスですね。
一般庶民までファラン崇拝している理由にはならないと思います。

311 :d:2007/04/05(木) 15:15:37 ID:/g6AwFuX

白人=自分たちとは違う別格の生物

って考えてるんじゃない?


319 :大魔王 ◆0gMZz1uVmM :2007/04/05(木) 22:35:55 ID:bDRIJhYP
クラス社会のタイで英語が喋れるということは上流のたしなみ。
白人の腕にぶら下がっていたら自分のクラスが3階級特進だ。


320 :ima[sage]:2007/04/06(金) 16:14:55 ID:Sm8857yp

タイ人って犬に似てると思う。

犬は人間たちのパワーバランスを本能的に察知して強いほうにつく。

だから売春婦でも国際的なパワーバランスを敏感に察知して行動してる可能性はある。


321 :maa:2007/04/06(金) 20:01:21 ID:BaCilH7h
タイではファランは国王の次に尊敬されている。

日本人はタイ人とさほど変わらない外見のくせに金持ちになってる、憎らしい人種。
 
でも金払いのいい日本人なら相手をしてもいいよ。
金払いの悪いケチな日本人は犬より下。

さっさと帰国して2度と来るな!  とタイ人が申しております。


176 :うむ :2006/08/28(月) 02:34:44 ID:Nu7/6KJv

★私は見た日本人に対する無礼な態度

外国人と接する英語を話せる職業の人達の中には結構陰口が多い人散見される。
たかだが白人に媚びるための英語が日本人より話せるからって調子乗るなよな!


・エアポートバスの受付嬢
日本のおじさんがたどたどしい英語で話していると 「英語も話せないのかよ!」 と言って呆れ顔になる
私は良くないマナーだと注意したらびっくりしてた。


・旅行代理店
先に受け付けてもらいトレッキングの話をしている最中白人の若者が入ってきたら何故か彼を優先して私は後回しにされた。
「何故だ?」と聞くと苦笑いしてたので「見栄っ張り」といったら逆切れ状態になった。


コンビニなどお店系のタイ人は白人には絶対嫌な顔をしない
笑顔を作って「THANK YOU」か無言かどちらか絶対タイ語を口にしない


その理由は白人が怒ったらとても恐ろしいことを良く知っているから
当然中華系のお金持ち同国民に対してもしない、ヘタするとクビになること
を知っているから

日本人は何しても笑ってるからどんどん図に乗る
白人同様朝鮮人、中国人へはヘタなことをすると一喝されるのを知っているからある程度緊張して対応する。

ついでに彼らはたとえ日本人が怒ってもたいしたことない
ことを知っているので逆切れできる。

駐在員でタイ人を監督する立場にある人はつい日本のマナーでかなりタイではやさしい対応をするがこれがどうも間違いのはじまりになると考えられている。

心にもない謝罪外交と金まき外交しているからこうなるんだ
日本人のタイ旅行者や現地在住者もどんどんこれからは抗議するべきだ

白人、中国、韓国はゴネ得してるぞ 
日本の美徳とされる「大人になる」 ということは相手を付け上がらせて金だけ要求され結果バカにされることを意味する。

タイではこの傾向が反日枢軸国よりひどい、フィリピンの方がまだまし

189 :デスノート:2006/08/30(水) 01:20:31 ID:ZGfJvlHI
日本人は簡単にお金を出すからねw
それに、適当にあしらっても怒らない。

だから、限度を知らないタイ人は、とことんまで付け上がるw

白人、韓国人は、まず、金を出さないからな。
そして、残虐性もある。


197 :名無し[あげ]:2006/09/14(木) 03:26:49 ID:DEpAEKSH
日本の美徳は命取りってことですかね
帰国子女は生意気だといじめられるが、自己主張をきちんとする海外文化に馴染んでるってことなんだね


198 :うむ:2006/09/14(木) 07:07:41 ID:6ZqBsa/D
日本の美徳は忘れてはいけない。世界に誇れるよ。
しかしそれを知って(意識して)、朝鮮人の手法も取り入れる。
アホタイにはよく効くぞ

奴らの嘲笑、差別発言は日常なので腹が立たなくても、朝鮮風のやり方で 抗議しよう。
大人の対応でバカにされるなら、嫌われる方がいいな
やつらとにかく力に弱いからかえって尊敬されるかも

「タイ人も悪い人もいれば、いい人もいるし、それは日本でも同じこと」

こんなことを言う人が多いくいるのではないかと思う

果たして同列に見て良いのか?

タイの常識は日本の非常識であるのは多くの人が知るところである。
逆に日本の常識はタイでは否定されることが多いのである。

ハイレベルな惨い いじめ、差別、カツアゲ(たかり含む) が社会の常識であるのです。

それをいい加減さとあまり深く考えない教育というか国民性でカバーして、意味なく笑顔で笑っているのです。
それが今日の「微笑みの国」なのです。

254 :・・・:2006/09/24(日) 08:50:01 ID:iPGkDScQ
風俗嬢になめられとる日本人がなんと多いことか
ちゃんと説教・文句言わないといつまでたっても手抜きサービスとチップの強要されるぞ


255 :カンタ:2006/09/24(日) 11:10:35 ID:UB90zLRw
猿国の人間と付き合う時点で終わってるよ。
猿の扱いにかけては、白人様に一日の長があるわな。

256 :・・・:2006/09/24(日) 12:13:28 ID:iPGkDScQ
猿の扱いは難しいね

性格はワガママだし、すぐスネるし、金くればっか

白人にはおりこうさんで、日本人には、駄々っ子

やっぱりよくないけど、基本的に見下した態度を先にとって「お前らは下だよ」という雰囲気をつくらないとアカンかな

中華系とか、カウリーなんかは、絶対猿に控えめな態度をとらないからな。
http://www.unkar.org/read/society6.2ch.net/21oversea/1049826237


__________
__________


2. お猿さんの知能


「文化なし」「知能低い」 60年代の英大使がタイ酷評


タイの外資系大手スーパーで買い物をしていて、つり銭間違いや計算間違いの多いこと。

1個8バーツのドーナッ5個を45バーツの張り紙をする、それも若い女子店員二人居て。

こちらの14、5才以上は、同年代の恋人が居るんですね〜 

誰に聞いても、18から20才以上のバージンは居ないとの答え。

アパートの周り、大通りでは14,5才から大学生、大人まで手をつないで歩いている。

女女 男男に走るのもいいが、もっと勉強しろよと 言いたい、最低限の教養ぐらい身に付けろよ と。

40数年前と、変わらないようだ。


---------------------------------------------


「タイには何もないといわざるを得ない。文学、絵画は皆無で、奇怪な音楽があるのみだ。

彫刻、陶器、舞踊はほかからの借り物で、建築は単調、内装はおぞましい。

金持ちの楽しみは賭博とゴルフで、国民的娯楽は性的放縦」――。


 英BBC放送のラジオ番組が、英国の大使が駐在先に関する感想を離任時に本国へ送った文書を公開し、辛らつな評価が物議をかもしている。1回目はタイ、ニカラグアなどが俎(そ)上に載せられた。

 1965―1967年に駐タイ大使を務めたアンソニー・ランボルド卿はタイには文化がないと評した上、

「タイ人の平均的な知能は低い。我々よりはるかに、中国人よりもかなり低い」


ときつい感想を記した。


タイのネット掲示板には


「奴らはファラン(欧米人)だ。タイの文化がわかってたまるか」、

「もう英国のサッカーはみない」(タイでは英プレミアリーグが最も人気のスポーツ)


といった怒りの投稿が続いているが、中には


「大使の言ったことは本当だ。

タイの芸術の多くは我々の先祖が作ったものではなく、外国から持ってきて、子孫に伝えたのだ。

先祖がそれを正直に言わなかったので、自分たちのものと勘違いしている」
といった意見も少数ながらあった。
http://asukana777.cocolog-nifty.com/blog/2010/05/index.html

タイ児童知能指数


タイから フィリピンにかけて,元々知能の低い人種ではないでしょうか。 

世界数学競技に出て金メダルを取るタイ人は、華僑系のお金持ち。

日本の戦後は食う物が手に入らなかった、私の子供の時「昭和30年代」もいつも腹をすかせ、学校から帰ってきても何も無い。

麦ご飯はある、それに醤油をかけ何時も食べていた。

栄養が無くても日本人は、たえず向上心を持ってどんどんと成長・発展していった。

タイ人、フィリピン人を見ていると 向上心など持ち合わせていない事に驚く。

日本人も含め知能の低い人間は、思春期に異性へと走る。男男彼氏彼氏 女女彼女彼女 へと、タイは非常に多い。

あげくに、子供が出来、離婚。

---------------------------------------------


タイ児童の平均知能指数88 保健相がヨウ素不足に警鐘

2010/6/29 (14:39)| 主要ニュース 社会


【タイ】タイのジュリン保健相は28日、ヨウ素の不足によりタイ人の体、頭脳の質が危機的な状態になりつつあるとして、ヨウ素の摂取促進に取り組む考えを明らかにした。

保健相によると、タイの家庭でヨウ素添加塩を使用している割合は2008年の82%から2009年は77%に低下。また、タイの児童の平均知能指数は1997年の91から2002年には88に低下した。


 独立行政法人国立健康・栄養研究所によると、ヨウ素は海藻類や魚介類に豊富に含まれる元素で、不足すると、甲状腺ホルモンの生成が出来なくなり、精神発達の遅滞、甲状腺機能低下症などを引き起こす。妊婦のヨウ素欠乏は子どもの精神障害と神経系の障害を伴う成長不全をもたらすという。


小学3年生の4分の1が計算力不足

 教育省が実施した全国学力テストにおいて、タイ人小学3年生の22・9%が「計算力不足」であることが明らかになった。

 同省基礎教育委員会(OBEC)は、全体の4分の1にあたる生徒が落第点をとったことについて「公立小学校における学習水準の低さが露呈したと判断、早急な対策が必要」としている。

 なお、前年度の25・29%からはやや向上しているものの、OBECでは依然として深刻な事態と受けとめており、近々教育関係者を招集し、具体的な解決方法について話し合う方針という。

 また、識字率についても7・72%と、前年度の8・82%からわずかな向上がみられたが、OBECでは「まだ相当数の生徒が読み書きできないというのに変わりない」としている。
http://asukana777.cocolog-nifty.com/blog/2010/07/post-eed3.html

906 :オー様と名無し:2010/06/08(火) 13:30:43 ID:9oTcy99s0
ベトナム人は引き算できるんだよね。

あれには驚いた。


907 :オー様と名無し:2010/06/08(火) 13:34:20 ID:C9RAh3iI0
タイ人はできないんだよね。


909 :オー様と名無し:2010/06/08(火) 13:37:05 ID:9oTcy99s0
>>907

知人の子供が小学生だが、引き算できない。


916 :オー様と名無し:2010/06/08(火) 13:55:54 ID:dgIiQjE20
引き算どころかタイ人は計算が出来ない。


918 :オー様と名無し:2010/06/08(火) 14:01:31 ID:jRHKb11Y0
>>916
全国統一の大学入試のテストで上位100位に入った義妹が率の計算出来なかった。
しかも理系クラスなのに。


920 :オー様と名無し:2010/06/08(火) 14:09:30 ID:dgIiQjE20
タイ人は暗算出来ないのか買い物したら最低3回はお釣り数える。


921 :オー様と名無し:2010/06/08(火) 14:12:26 ID:jOnVJNUg0

4+3×2−3の計算をタイ人にやらせてみな。

院卒のエリートでも、答えを11というだろう。

前に某大学の先生に試したら、やっぱり11と答えた。

バカというよりも、計算の基礎ができてないんだな。

922 :オー様と名無し:2010/06/08(火) 14:15:10 ID:gwj5M6T.0
>>918
要するに基礎的な計算力が欠けているわけだけど、これを克服するにはソロバンが有効なはず。

しかも安価だから貧乏人でも手が出せる。

実際島根県の横手町とイサーンのある地域では交流があり、ソロバンを教育に取り入れているが、タクシン政権時代、この非常に有意義な基礎教育の予算が削減されたと聞いた。


926 :オー様と名無し:2010/06/08(火) 14:59:20 ID:dgIiQjE20
日本は九九小学生から教育してるから自然と暗算身に付くよね。
タイのガキって何勉強してるの?親のしつけも最低。

928 :921:2010/06/08(火) 15:06:40 ID:jOnVJNUg0
俺も面白がって、いままで50人以上に 4+3×2−3 の計算をやらせてみたが、
7と答えたタイ人はゼロ。みんな例外なく11と答える。

こっちもそれなりの利口そうな奴選んで聞くんだが。

それも「何でこんな簡単な事聞くんだ?」みたいな感じ。

941 :オー様と名無し:2010/06/08(火) 15:39:39 ID:jOnVJNUg0
>>932
>紙に4+3×2−3と書いたら、多くのタイ人は7と答える。


だから、紙に書いて解かしても、タイ人はみんな11と答えたわけね。

大学の先生、マネージャークラス、タマサートの学生など、それなりに地位のある人たち。

間違っても、屋台のおばちゃんやモタサイのライダーには聞いてない。


925 :オー様と名無し:2010/06/08(火) 14:56:22 ID:jRHKb11Y0

教育制度改革で基礎教育再編やろうとしてて王様に潰されたじゃん。

タイの教師は教育制度改革に反対で反タクシンの急先鋒だったから悪く言うだろ。


930 :オー様と名無し:2010/06/08(火) 15:07:59 ID:gwj5M6T.0
>>925
国王がどの部分を潰したのか?
バカでもちゃんと教育すればまともになると、国王は思っていると聞いたが。


946 :オー様と名無し:2010/06/08(火) 15:53:34 ID:jRHKb11Y0
>>930
小中の教師自体に基礎学力がないので、基礎学力についての教育が疎かになってたんだよ。
で、免許更新制や人事制度の刷新をはかろうとした。
で、教職員組合から反発があり、国王は署名拒否


ちなみに、◯×や選択肢の選択式の試験が殆どだったタイの高校教育に、論述を取り入れて自分で考える力をつけさせようとした。


948 :オー様と名無し:2010/06/08(火) 16:05:13 ID:Yv5.YijQ0
http://www.bangkokpost.com/news/local/38353/teachers-fail-exams-on-own-subjects
Teachers fail exams on own subjects

先生がアホでどうして生徒が賢くなれるのかとタイ人も思っているらしい

http://jbbs.livedoor.jp/bbs/read.cgi/travel/3341/1275007783/

覚醒剤「メタンフェタミン」乱用国


言葉や文化の違う、国々で 唯一違わない物、

それは、男女関係 恋愛 失恋 結婚 離婚 再婚。

西洋の影響で、それまで キッス と言うものが無かった国々に 広く浸透し 日本を含め、今では人前でも当たり前になっている。

当然、タイにも 浸透している。 

敬虔な仏教国だが仏教で、戒律の厳しいのは 僧侶だけで、一般市民は関係が無い。

やりたいほうだい(酒 賭博 薬物 性的放縦)。

人間と言うのは、あらゆる欲望に弱い。

 これをやっては駄目、と口で言っても埒があかない。

したがって、法律が作られた。 この法律も国によってかなり違ってくる。

大麻は罰せられない国、 日本のようにすべて駄目と。

日本の酒気帯びと同じで 本人しだい、 薬物乱用で死傷事件が多くなれば、法を重くしないといけないでしょうが。


- - - - - - - - - - - - - - - -


チュラロンコン大学、タンヤラック研究所、米国エール大学の共同調査により、タイが世界有数の「メタンフェタミン乱用国」であることが明らかになった。

特に若者による乱用が増えていることに関係者が強い懸念を示している。

 同覚醒剤の乱用件数は、報告されたケースだけでも2009年で約12万件。2010年は既に10万件にのぼっている。

 そのうち65%がティーンやヤングアダルト層によるもので、15歳から19歳の割合は32%を示している。タンヤラック研究所が運営する薬物更正施設には、2009年だけで計11万7886人が入所、そのうちの79%を15歳から19歳の若者が占めた。

 施設でのリハビリは、4カ月の投薬治療と1年間のモニタリングで完了する。全てのプログラムを終えた者の85%が完全な更正を遂げるが、途中で放棄した者の90%は再び薬物に手を出すという。

 調査チームは、予防薬などについても研究を進めている。
http://asukana777.cocolog-nifty.com/blog/2010/07/post-c94a.html


________________
________________


3. お猿さんが微笑む理由


「微笑みの国」とか「敬虔な仏教国」などとタイを美化する人たちが未だにいます。
そういう言い方は、自分はタイ人をバカにしていると言っているようなものです。


「微笑みの国」=「ニタニタした能無しの馬鹿な猿の国」、

「だから馬鹿でも外国語もまったくできなくても安心して行ける」、


というのがタイへの旅行者の一般的な意識です。

そして、そういう意識を全肯定するのが「微笑みの国」という<ほめ言葉>にほかなりません。

タイ自身がそれを売り物にしてきた面もあるが、これほど現地人をなめきった態度はありません。
 
そのせいか、現実のいまのタイは、東南アジアのどの国よりも、否、ヨーロッパ諸国よりもはるかに、「シカメッツラの国」になっており、「ことさらなるシカメッツラの国」になっているといえます。


外国人はみんな自分たちを、

「ニコニコした性格が良いだけの能無しの猿」だという頭で来ている、

ということを彼らは知っている。

(重ねて言うと、タイ国家自身がそういう売り方をしてきた責任はもちろんあるのですが)。ならばなおさら、


「そうじゃないんだ」

「自分はニコニコしているだけが取り柄のお人よしの猿じゃないんだ」、

というところをことさらに見せたくなるのは自然な情動です。
その結果、不必要に気難しい顔をする、ということになるのでしょう。


今でも、外人ずれしていないミャンマー・シャン州(チャイントオン)などのタイヤイ(大タイ族)などなら、本当にリラックスした良い微笑みを見せてくれるかもしれません。

数年前はチャイントオンでもそうでした。もちろん、他の少数民族も同じです。

しかし、そういう柔らかいところに容赦なく付け込み搾取する白人キリスト教ミッショナリーや白人NPOらの活動が衰えることは、白人世界が存在している限り決してありません。

したがって、彼らの心の荒廃も時間の問題となっていると思います。

あの辺り、数年行っていないのですでに荒廃しているかもしれません。 

すなわち、チャイントオンの湖畔に売春婦連れ毛唐がのさばり白人ツーリストが村民児童を漁りに来るのも時間の問題だろうと思います。

ミャンマーが「民主化」されでもしたら、シャン州などの「少女たち」にとっては地獄が待っているはずです。

だから、私は、白人たちが望むようなミャンマーの「民主化」にはまったく反対なのです。

チャイントオン辺りでは、毛唐の作法に汚れきったタイのタイ族ツーリストがすでに精神汚染を撒き散らしています。
http://ibrahim.blog49.fc2.com/?mode=m&no=213


___________


206 :オー様と名無し:2010/02/25(木) 01:49:10 ID:5249.CQI0
タイ人は、微笑みの国、と言いますが、実際は、何も考えてない人が多いです。
と言うよりほぼ99%です。

大学を出ていても、家族も、結婚感、金銭感覚は、アッパラパーです。

お金も、仕事も、結婚も、人生も、行き当たりバッタリ!
場当たり的な対応、考えしか持ってません。

女性側の、学歴も、家庭環境もあまり関係ありません。
日本人の几帳面で、節約家、働き者から見れば、タイ女性の頭の中は、カラッポです!
マジで本当です!
何も考えていないから、笑って、誤魔化しているだけです!(これのみが武器です)
http://jbbs.livedoor.jp/travel/3341/storage/1266494140.html#108

471 名前:オー様と名無し 投稿日:2006/12/12(火) 03:05:39
タイ人の笑顔は仮面の笑顔

その裏には見栄や嫉妬の感情が渦巻いてる


472 名前:オー様と名無し 投稿日:2006/12/12(火) 03:46:28
本当の笑顔はタイ人にしか見せないよね


484 名前:オー様と名無し 投稿日:2006/12/14(木) 13:14:53
微笑みの国って、単にバカが初対面の人に対してどう対応して良いか分からず
に微笑んでいるだけだと分かった時。


485 名前:オー様と名無し 投稿日:2006/12/14(木) 13:31:18
誤魔化し笑いの国。


489 名前:オー様と名無し 投稿日:2006/12/14(木) 13:47:55
出版されているタイ関係の本は何で本当の事書かないんだ。
平気で嘘つくし騙すし逃げるし殺すし貧富の差が激しい原始資本主義社会だと。


490 名前:オー様と名無し 投稿日:2006/12/14(木) 13:57:52
道徳観、倫理観もないし。


631 名前:オー様と名無し 投稿日:2007/01/06(土) 15:24:33
タイ人は

性格悪い人には悪人になります。

優しく接すると優しくなります。


632 名前:↑ 投稿日:2007/01/06(土) 15:33:58
タイ(タイ人)は微笑みの国・・・

その裏側に隠された陰湿な部分が露呈しただけ(藁)

元々、皆が言うほど良い人が居る訳じゃー無い、所詮3流国

633 名前:オー様と名無し 投稿日:2007/01/06(土) 15:37:18
>>632

もう最近は微笑むのは打算があるときと物品いただく時だけで
いつもしかっめ面ですね?

陰湿な部分(大部分?)をかっくし切れなくなった、ということですね?


637 名前:オー様と名無し 投稿日:2007/01/06(土) 15:43:45
昔日本人がみな金持ちだと思われてたころ
なんか取り入ろうとしてニコニコしてただけだったんだな


641 名前:オー様と名無し 投稿日:2007/01/06(土) 17:39:18
>>ドラマに出てくる性悪、意地悪キャラクターって、昔はドラマにしかない道化かと思ったけど

テレビで、ヒステリー丸出しでギャアギャア騒ぎ立てる女達、性格の悪い女達が、これでもかと多いテレビドラマ。

これらのテレビドラマは誇張じゃなく真実のタイ、そのものなんだよね。

性格のよいヒロインの女なんか、100人に一人もいないだろう。

最初は、奥ゆかしい控えめな女も、一皮むけばテレビドラマの性格の悪い女そのものだから、タイは困るんだよ。

ハイソの女も売春婦も中身は同じなのは、国民性なんだろう。

643 名前:オー様と名無し 投稿日:2007/01/06(土) 17:55:39
>>641
その通り!実在するんだから怖いよ。

自分の友達(普段は明朗)が目の前でギャーギャー女に変貌した時に思い知った。

噛み付いてる相手もギャーギャー女。

そういうのがイヤで外国人女に目がいっちゃうタイ人男もいるよ。

浮気性のタイ人男がいやで外国人男に目がいっちゃうタイ人女に同じく。
http://jbbs.livedoor.jp/travel/3341/storage/1099834899.html

87 :オー様と名無し:2008/08/25(月) 15:28:00 ID:JkEJeu2E0
タイ政府観光局は、タイは微笑みの国だなんて嘘だけ宣伝しているね。
中国よりはマシだけど無愛想な国民だろ。


88 :オー様と名無し:2008/08/25(月) 15:29:48 ID:GbBprCGI0
>>87
金を渡したときは満面の笑みをくれる国


89 :オー様と名無し:2008/08/25(月) 15:30:09 ID:ewnVsrJQ0
タイ人は微笑を帰すべき相手とそうでない相手を区別します。
90 :オー様と名無し:2008/08/25(月) 16:48:55 ID:KFU6nORo0
>>89
そういうことか?
金に微笑んでたのか。


91 :オー様と名無し:2008/08/25(月) 17:08:32 ID:98zBdMVw0
>タイ人は微笑を帰すべき相手とそうでない相手を区別します。

わたしもその通りだと思います。
金だけでは駄目なんです。
タイ人は見た瞬間に自分より上か下かを判断できます。
余裕のない(金銭的にも人間的にも)は低く見られます。

タイの生活で知り合うタイ人はそのまま自分の環境や言動、行動の結果です。

93 :オー様と名無し:2008/08/25(月) 17:30:16 ID:s.0LaKDM0
ラオスに行けば今でも微笑みの国だよ。
特にパクセやサワナケットあたり。
>>91の説は明らかに間違いで、タイ人が変わっていったということだろ。
イサーンに行けばバンコクよりは遥かにマシだよ。


97 :オー様と名無し:2008/08/25(月) 18:30:53 ID:Tt7RtINs0
タイ人の微笑みは、何かを誤魔化すためのものと理解すればよろしい。


98 :オー様と名無し:2008/08/26(火) 22:28:38 ID:M1Yqe.xE0
>タイ人は見た瞬間に自分より上か下かを判断できます。

すごく当たってます。

特に外見は大事です。
 
また金の無い人物でもハンサムとか美人とか背がすごく高いだけでも尊敬されるところがタイ流。

日本人を名乗っても、ダサ男だとモロ不機嫌な眉間にしわを寄せた顔になります。

日本人よりタイ人って素直というか、顔の表情がすぐ変わりますよ。


99 :オー様と名無し:2008/08/26(火) 22:45:19 ID:M1Yqe.xE0
タイ人から笑顔が消えたのは、80〜90年代という人がいます。
バンコクに最初の高速が出来た頃。

あれからというもの、街の変貌ぶりはすごいものがありました。
今建っている高層ビルのほとんどが80年代以降です。

要するに外資の急速流入で、街も人の心も大きく変わっていったんです。
ぜいたく品が街にあふれ、金のある人と無い人との生活レベルが天と地のようになっていった。

ラオスやミャンマーのように、9割以上が貧困ラインにいると、皆も同じ横並びだから
ヒガミもネタミもなく、また向上心や欲もなくヘラヘラ笑っていられると思うのです。


100 :オー様と名無し:2008/08/26(火) 22:49:00 ID:SpOrZkAI0
>モロ不機嫌な眉間にしわを寄せた顔になります

これマネしてあげると、恥ずかしそうな顔するけどね。

107 :オー様と名無し:2008/08/27(水) 13:30:44 ID:rOYOTd/M0
微笑みの国だなんて幻想だね。


108 :オー様と名無し:2008/08/27(水) 13:36:52 ID:C9NskgPw0
バンコク近辺と歓楽街しかうろつかない人種にはそう見えるだろうね。


109 :オー様と名無し:2008/08/27(水) 13:51:09 ID:w/Hj0p0c0
>107
俺も最近やっと判ってきた。
http://kuantan-bin-ibrahim.blogspot.com/2009/08/blog-post_1860.html


91 :オー様と名無し:2007/02/20(火) 22:55:31
微笑みの国というが、実情はニッコリ笑って人を斬る国


902 :オー様と名無し:2010/07/04(日) 11:46:16 ID:Ud7CPP5E0
微笑みの国ってのにロマンを連想させられたものだったな。本当のタイを知るまでね。
微笑みに程遠い正反対の国だわ。

微笑みの無い国・ホスビタリティの無い国・嘘だらけの国・金が全ての国・・限が無

92 :名無しさん:2006/07/12(水) 03:15:25 ID:4yEmFzjE

タイ人の印象は遊びに行ってた時と住んだ後とでまるっきり変わる。

「微笑みの国」の「微笑み」とは、
相手に心中を探られないために彼らが身につけている作り笑顔、いわば世渡り術。

一定期間住んでいる日本人は、みんな一度は騙されてる。

金銭面で騙されたり、女の子であれば、やられちゃったり。
特にプーケットでは、タイ人男に入れ込んではまった挙句妊娠させられたりする日本人の女の子が多い。

多くの者は金に汚くなっているので、平気で人を騙す。
逆に、そうでなければタイでは勝ち上がれない。

プーケットにいた頃はパトンビーチにいたのだが、小さな村なのにやたら殺人事件が起こる。
大きな金が動くビーチリゾートなので、タイ人同士の揉め事や、外国人が狙われるケースも多い。

タイは日本で一般的に思われているほど安全ではない、というのが俺の印象。
それは住む期間が長くなるにつれ、トラブルに巻き込まれる機会が多くなっていく、ということだと思う。

俺自身がタイ人の恨みを買って、銃を持った男5〜6人に部屋を包囲された事もある。
タイ人は切れるとすぐ銃を持ち出し、おまけにマジで撃つ、というのは、在住者の間では常識。
むかつく奴も多いけど、放置で、怒らせない事が大事。

タイ語は、騙されないために、そしてタイ人の性格を知るためにも、是非覚えた方がいい。

本音と建前の差は、日本人よりも激しいかもしれない、と思う。

在タイ期間中は、手放しで楽しかったのは初めの1年くらいで、あとはむかついた事や大変だった事の方が印象が強い。

これからタイで住むことを考えている人への助言としては、

「人を信じるな。」

http://gimpo.2ch.net/test/read.cgi/world/1149082416/

http://www.asyura2.com/20/reki4/msg/643.html#c6

[近代史4] アジア人の白人との戦い 中川隆
7. 中川隆[-13373] koaQ7Jey 2020年3月24日 23:11:55 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[1531]
白人はなぜ白人か 2006年8月28日


進歩主義者や、市民主義者、「地球市民」主義者らは、われわれが「白人」というカテゴリーを用いて問題を取り扱うことを、唾棄すべきことのように言うであろう。そのような論者に対しては直ちに右翼、さらには「人種主義者」のレッテルが貼られる。しかし、このような進歩主義者は、「人種差別」「人種主義」の意味すら理解していない。

しかしながら、われわれは正当に、「白人」という範疇を用いて、問題を取り扱うべきなのである。「白人」範疇を用いなければ解明することができない多くの諸論点・諸問題が、論ぜられるべきものとして歴史的にわれわれの前に提示されているからである。

「白人」範疇を最初に作り出したのも白人自身であることもよく確認しておく必要がある。「白人」は白人の自称である。これに対して、黒人、黄色人種等は、白人による他称である。

われわれは「白人」と対決しなければならない。われわれの真の敵は、「白人」なのである。

では、白人はなぜ白人か。

まず第一に、遺伝によってである。

彼らは日本の一般人以上に、はっきりと血統を重んずる。さらに、伝統的に、日本人よりはるかに「容貌」にこだわってきた。血統と婚姻関係と容貌とが、ずっと昔から、大のおとなの男子によっても強く意識されてきたのである。そのような意識の下で、彼らは交配を繰り返し、半ば人為的に現在の「白人」を作り上げてきたのである。さらに、その自らの人為について、誇りすら持っている。

これは白人に直接に接してみればわかることだが、彼らは容貌について実に細かいところを気にしている。日本人のように、鼻が高いか、目が二重であるか、顔が小さいかというような大雑把なものではない。彼らは、高級飼猫や競走馬の毛並みを気にするような目で、人間の容姿をも見るのである。日本人が、金があるのに歯並びなどの容姿を修正しようとしないのを、彼らは奇異に感じている。日本人が自然であることを評価するのとは全く違った容姿に対する感性を彼らはもつ。そもそも彼ら自身が(理性による)人工的な製作物なのだ。

彼らの「血統」と「伝統文化」と「容貌」のコングロマリットに関する強烈な意識は、たとえばトーマスマンの「ブッデンブローク家の人びと」のような小説にもその率直な表現を見ることができると思う。

彼らの先祖はイラン高原(またはロシア南部)を出てヨーロッパに広まったといわれる。またインドにも侵入しインダス文明を滅ぼした。彼らはヨーロッパにおいては先住民を消滅させ、人口稠密であったインドにおいてはカースト制度を考案し、これを先住民に課して苛烈な支配収奪を行なった。

このようにヨーロッパ白人は、「征服して根絶やしにする」こと、すなわち「ホロコースト」「民族浄化」によって自らを確立した人種なのである。

すなわち白人は、その人種としての成立においてすでに、「ホロコースト」の刻印をもつ。

白人はその遺伝的な貪欲さ、攻撃性、粗暴さ、征服欲の強さ、そして他者を顧慮しないで平気でいられる傍若無人な特性によって、その覇権を拡大したのである。

白人はこのような遺伝的素質によって人種的な版図を拡大した後、彼らのうちの特権層・貴族階級が、自らの眷族の中において、牧畜経営で覚えたとおりの人工的な交配を繰り返すことによってその血統的なアイデンティティおよびある種のブランド価値を確立していくのであるが、白人「市民」革命は、この特権貴族層の血統的アイデンティティ即ち身分的「優越」の意識を、「白色人種」の人種的アイデンティティ即ち人種的「優越」の意識へと移行・拡散させ、これを全白人に平等に共有せしめたのである。その背景にはいうまでもなく、新大陸の「発見」と植民地支配と奴隷制とがあった。

「世界の拡大」にともなう新しい他者たる「新しい野蛮」の発見と、新植民地および「奴隷」の獲得とが、物質的にのみならずイデオロギー的にも、白人全体のある種の貴族化・特権層化を可能にした。

「野蛮」と「奴隷」との現出が、白人全体の「市民」化を可能にしたのである。(「市民」とは昔から有産者のことであり、城塞で保護された都市・市場の中に「特権的な地位を有する者」のことである。ただし必ずしも城塞の内側に住む必要はない。都市の原型ともいうべき塀で囲まれた小さな市場は、夜は鍵をかけられて閉鎖され無人になるのが通例である。)

即ち、白人「市民」革命は、イデオロギー的にも、「野蛮の再発見」と植民地支配および人種的奴隷制なくしては成立し得なかった。「自由な市民」は常に「野蛮」と「奴隷」とを要件とするのである。

「イデオロギー的にも」これらが必要であるという意味は、「自由な市民」たる白人は、「白人」たる以上永久に、「野蛮」と「奴隷」とを、自らを規定し境界づけるものとして探し求め、定義し続けなければならないということである。

それらが仮に「非難さるべき野蛮」「啓蒙されるべき野蛮」「保護されるべき野蛮」あるいは「解放されるべき奴隷」という形をとるとしても、「野蛮」と「奴隷」(隷従)との存在が「自由な市民」たる「白人」の存立要件であることには変わりはない。このことが白人の「日本たたき」の背景をも形作っている。

彼ら白人には、われわれ日本人が普通に考えるような「人間的な」感情はない。根が極端にセルフィッシュなので、彼らがまともな社会を築くためには、外から強力な道徳規範を特別に叩き込まれる必要があった。そうされないと何でもやってしまうDNAだからである。

この外から叩き込まれなければならない道徳規範が、キリスト教であったり、現在の人権思想や環境保護思想だったりするのである。

白人は、われわれにとっては自然な感情のように思われる道徳規範さえ、宗教的権威によってドグマとして与えられなければならなかった。彼らは「自然な」罪の意識というものを持たない。キリスト教の教義によって教えられた「罪」しか持たないのである。

日本人にはホンネとタテマエの区別があるといわれる。それは、日本人がしばしばホンネを漏らしてしまうということにすぎない。白人にその区別がないように見えるとすれば、それは彼らが言葉ではタテマエ以外は決して語らず、ホンネの部分は有無を言わさず強力に実行し、永久に隠蔽してしまうからである。彼らのホロコーストの後には何も残らない。したがってホロコーストもなかったことになる。

アジアにおいてはさまざまな系統の言語が錯綜していて日本語のような系統不明の言語も散見されるのに対し、ヨーロッパは、後に侵入したモンゴル系の言語やバスク語などごくわずかな例外を除き、ほとんどが「インドヨーロッパ語族」一色である。

このこともまた、ヨーロッパ人種がその始原において「ホロコースト」「民族浄化」を要件として成立したことを意味する。「ホロコースト」「民族浄化」の衝動は、白色人種の持って生まれた刻印(性格)なのである。

実際のところ大陸世界で、謙虚で欲のない性質の優しい民族というものが仮に存在したとしても、真っ先に強欲粗暴な民族の餌食になって淘汰され、絶滅させられるか辺境に追いやられてしまっているだろう。そのような希少な有徳の民族は、日本列島のような隔離された辺境にしか存続しえなかったのである。

第二に、白人は「白人」として扱われることによって、この世界に確立している「白人」範疇に属するメンバーとして認知され、白人になる。これも大きい。

「白人」としての十分な容貌を備えた者は、世界中どこへ行っても「白人」として扱われる。また、そのような扱いによって、彼らは自らが「白人」であることを再認識する。

彼ら自身がそのことに否定的であれ(その場合ほとんどは口だけだが)、肯定的であれ、彼らはその枠の中で生きていくのである。

たとえば、アジアの辺境の貧しい山村に白人系の孤児がいたとする。もしその孤児が白人らしい容姿をしているならば、どこからともなく白人の篤志家やボランティアたちが現れ、大変な情熱でその子供を支援し、また、白人にふさわしい教育を与えるであろう。ついでにその村も支援する。

貧しい村を支援するという形に糊塗して、白人系の孤児を救うということもある。このような仕事には多くの場合、福音派系のミッショナリーが関与する。(高床式の伝統的な村落に、けばけばしいペンキを塗りたくった礼拝堂や集会所を建て、英会話や聖書の教育をし、村の伝統宗教や先祖崇拝をやめさせ子供の名前も変えさせて「文明」を教えてやる。)

そして、「救われた」混血児は、自らが村の他の人々に比べ、「選ばれた」そして「文明化された」存在という意識を持つようになるかもしれない。また、豊かな生活にあこがれる村の人々は、選ばれた混血児のように、祖先の名前を覚えず、精霊を信じず、英語名を名乗り、伝統的な慣習を無視して、教会小屋で祈ることが、「文明」への道であると錯覚するかもしれない。

このようにして、アジアのあちこちに孤児を産み捨てていく白人の罪も贖われるのであるが、しかし、その子供が不幸にも母親に似てしまい、白人らしい容貌をもたなかったならば、子供は完全に無視され、彼に関しては最初から何事もなかったことにされるであろう。

アメリカ政府もまた、日本占領期、小笠原のドイツ系日本人に対しては、彼らが白人であるがゆえに特別の有利な待遇を与えたことを忘れてはならない。

この事実に対して、白人側にどんな言い訳が用意されているのだろうか。「ドイツ系日本人」だから、二重に「敵性」種族と見られてもよいはずだが、そうはならず、逆に優遇されたのである。ひたすら彼らが「白人」であるが故に。

タイは白人至上主義の東南アジアにおけるイデオロギーエンジンである(その燃料はセックスと「安さ」)

何年か前、タイの銀行の両替窓口に並んでいたときのこと、タイ人係員が私より後ろに並んでいる白人を呼びよせて、私より先に受け付けようとした。

そのときはまだタイに慣れていなかったこともあり、私はその白人に「俺のほうが先だ」と言って注意した。すると、その男はニヤッとしながら「彼(係員)が俺を呼んでいるんだ」と平然と開き直った。これは立派な白人といえる。

後ろに並んでいる白人のほうを先に並んでいるアジア人ツーリストよりも優先受付するということはタイではまったく珍しくない。そういうことはタイではいろいろな場所でたびたび経験した。旅行代理店で用件を話しているときに白人が入ってくるとこちらをそっちのけにして白人を先に受け付けるなど。このような場合、初心の日本人ツーリストはただ唖然として見ているしかないことがほとんどだろうが、タイ初心者の白人のほうは、自分が優先されているということ自体にまったく気づかないか、「ツーリスト優先」(彼らの頭の中ではツーリスト=白人)なのだと考えたり、アジア系はみなローカルだと決め付けて「タイ人はフレンドリーな人たちだ」と喜んだりするくらいであろう。

しかし先にあげた両替窓口の白人の場合は、すでに十分に気づいている。わかった上で開き直っている。白人が白人ゆえに優先される扱いを自分たちの当然の権利と考えている。

その「権利」を前面に押し出して「タイでは白人が優先されるのがルールだ。何か文句あるか」といっているわけだ。

タイは世界中から、安さとセックス、つまりは決して上品とはいえない条件で屑な白人たちを意識的に大量にかき集め、その「屑白人外道ツーリズム」を、金持ちのフトコロが痛まない救貧政策ともしてきた(セックスツーリズム)。

屑白人ツーリズムのルールとして、最低の屑白人をどんな有色人種客よりも上客として扱うという白人優先主義がタイの多くの場所で普通に行われている。

このような白人優先の扱いを日ごろから普通に受けていれば、どんな白人でも、白人が優先されるのが当然のルールだという感覚になっていくのは自然であろう。もとが屑白人ならなおさらである。

そして、多かれ少なかれ、そのような感覚を備えた白人こそ「白人」の名にふさわしい本物の白人なのである。

このように、「白人優先が当然だ」という感覚は、東南アジアではタイに始まったが、現在周辺の白人ツーリストの多く来る地域に急速に広まりつつある。

この数年で東南アジアの人々の感覚は大きく変化し、特にインドシナは急速にタイ化しつつあると思う。

たとえば、現在、ラオスは大量の汚い貧乏白人バックパッカーが押し寄せる国になっていて、ひょっとするとタイ以上に白人密度が高くなっているかもしれない。

ラオスのバスチケット売り場では、乗客の名前をいちいち記録するのだが、ある田舎のバスチケット売り場の若いラオス人は、汚い白人パッカーにはCould you please tell me your name?などという結構な英語を丁寧に使い、われわれにはWhat's your name? Write here.であった。

彼らにとって「ツーリズムを振興させる」とは、必然的に、タイツーリズムの「作法」をそのまま学ぶということに他ならない。それ以外の選択はないのである。

白人ツーリズムの盛況とともにアジア全体に蔓延しつつあるこのような白人の特別扱い・白人優先の実例、慣例化が、若い白人ツーリストたちの「白人」としての自覚をさらに高め、白人を「白人」として鍛え上げていくのである。

そしてタイこそは、「差別OK」「人種差別の何が悪い」「差別は文化」という思想の東南アジアにおける宗家であり、発信地なのである。

どんなに「リベラル」な白人でも、タイでの白人優先には納得しこれを素直に受け入れてしまう理由が用意されている。それは自分が不利益を受けないからばかりではない。

「『一見不当に見える差別扱い』にこそ『西洋的合理主義では理解できないオリエンタルな秘密』があるのであり、それに異議を唱えるのは野暮である」という思想を、タイはもっともらしくブランド化し、白人客のみならず白人優先を甘受する日本人客等にも向けても、高くラベルを貼って売り出しているからである。

欧米「リベラル」派白人としても、この「神秘の微笑みに包まれたオリエンタルな異文化」をやみくもに否定できない。それはちょうど、彼らが「『古式タイマッサージ』は医療とは無縁の擬似性風俗あるいは売春の口実に過ぎない」という真相について、うすうす気づいていてもそれを断言しにくいことと似ている。

このような「タイ式オリエンタリズム」の総本山がホテル「オリエンタル・バンコック」であることはいうまでもないだろう。

タイの「ホスピタリティ」は、日本(東京)のように客を平等に歓待することによっては表されず、「客に差をつけること」によって表現される。

そのようにして客の足元を見、あるいは見るフリをし、客を不安にさせたり喜ばせたりするのが彼らの流儀のようだが、そのほうが結局は誠実な接客より安上がりで楽だったりする。

上客を特にもてなす努力をしなくても他の客を「下げる」だけで「特別扱い」の意思を表現でき、あとはニヤニヤしていればいいだけだからである。

有名なタイの「差別診療」も、本当に金額に見合った治療が受けられるのかどうか私は大いに疑問である。高い費用の大部分は単なる「差別代」であろうと思われるからである。

このようにタイは、「差別」を「オリエンタルな文化」として公然と売り出している。そして、それによって、人種差別云々というような「ケチな」問題をイデオロギー的に「棚上げ」してしまう文化戦略に出ているのである。

それは、白人優先主義を制度化すると同時に、国民の間のさまざまな不条理な差別を日常の些事と感じさせ、少数民族問題や貧困問題などタイの国内問題をも同時に棚上げするイデオロギー政策にもなるとタイの支配層は考えているように見える。

しかし、このようなタイという「オリエンタルな」差別主義のイデオロギー的「エンジン」を東南アジアの中心に据え付けているのもまた、白人の世界的イデオロギー戦略の一環にほかならない。

タイは白人を「白人」として扱うことによって本物の「白人」にする、東南アジアにおけるエンジンである。

日本にいては想像できないほどの、大量の老若男女を問わない白人ツーリストが、季節を問わず、毎日、タイに押しかけている。タイは白人の学校である。彼らはそこで「白人」として鍛えられ、アジアや有色人種を見る「白人」的「視座」を確立していくのである。

第三に、「白人」はシステムである。白人は「白人システム」のなかにあることによって、「白人」の十全な意味を獲得する。

事実上、(自称ユダヤ人のスラブ系白人を含めた)白人が主導し、白人の利益を増進し、主として白人に利益が還流する組織を持ち、白人の価値と美意識を宣教して白人イデオロギーを護持する社会や国家は、白人社会であり、白人国家である。そこに有色人種の構成員が相当数いて、個人的に富み、活躍しているように見えたとしても、そのことはその国家が白人国家であることを妨げない。言うまでもなく、アメリカは白人国家である。

数百年にわたって全世界を覆う、この白人システムに対して、正面から宣戦を布告し、自覚的に戦いを挑んだ有色人種国家は、実は日本だけなのである。

白人が現在もなお、執拗な「日本たたき」をやめようとしない理由はまさにここにある。白人の「反日主義」が、彼らの伝統的な人種主義の悪質かつ必須な要請であることは、すでに明らかであろう。

「反日主義」は人種主義である。「反日主義」を創始したのも実は白人であることに、われわれは十分注意しなければならない。これは、白人システムに対する有色人種によるいかなる挑戦をも容赦なく叩き潰すという、白人の強烈な意思の表現であり、その目的のために白人が特別に創設した戦略的なイデオロギーなのである。

中韓の反日は、白人の創始したこの「反日主義」イデオロギーを借りているにすぎない。反日主義という白人の人種主義イデオロギーを借りて日本を攻撃する中韓は、自らが愚かにも白人のアヘン商売の荷役を買って出ているにすぎないことに気付かない。

「白人システム」は、白人ツーリズムにおいて却って顕著に現れる。白人はいかなる個人旅行においてもこの「白人システム」をできる限り持ち歩こうとする。

このことは彼らが「カウンターカルチャー」だとか思い込んでいるらしいアジアへのバックパック旅行においても同様である。

彼らは自分の国での生活様式をそのまま、アジアの安いゲストハウスの自分たちの空間に持ち込もうとする。白人ツーリストが例外なく、巨大なバックパックを担いでいるのはそのためである。彼らは自国と同様の白人的な生活空間を、多少のエキゾティシズムを加えることはあっても基本的には、滞在先の各所にそのまま実現しようとする。

この点、白人はマイキムチを持ち歩く韓国人ツーリストに似ているが、白人の特徴は「空間の支配」の志向である。

彼らがアジアでは安宿を好み、大いにアジアの「安さ」を求め、背景に「アジア的」なアンビエンスを好んだり、アジア的な習慣のマネゴトをしてみたりするとしても、そこに持ち込む自分の空間はあくまで「白人世界の空間」でなければならないのである。

次に白人は必ず、そこに作り上げた自分たちの空間を外部に向けて拡大しようと働きかける。これは、白人文化に刻印されたコロニー作り・植民地主義の志向性にほかならない。

どんな辺境の地にあっても、貧乏旅行者を自称する白人ツーリストたちはコカコーラを要求するであろう。白人ツーリストの来るところには必ずコカコーラが流通する。

ロシアから来た白人も、東ドイツの田舎から来た白人も、アイルランドから来た者も、旅先ではコカコーラを飲むのである。それが白人ツーリズムのルールだからである。それに従いコカコーラはローカルにも浸透する。

白人ツーリズムは、白人援助・白人NPOとともに、なによりも白人世界・「白人空間」の非白人世界への拡大を目指す、現代の植民地主義にほかならない。

「白人」は自然人類学上の人種であると同時に、文明論上の客観的な範疇なのである。
http://iscariot.cocolog-nifty.com/journal/cat6354425/index.html

http://www.asyura2.com/20/reki4/msg/643.html#c7

[近代史4] アジア人の白人との戦い 中川隆
8. 中川隆[-13372] koaQ7Jey 2020年3月24日 23:12:51 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[1532]

オーストラリア人に乗っ取られたニセコ

【アジアの国が白人を受け入れて得るものなし:失うばかり】


オーストラリア人に乗っ取られた 北海道のリゾート町

国土交通省がまとめた2006年の都道府県地価調査(06年7月1日時点)で、北海道町が住宅地としては上昇率全国1位になった。スキーリゾート地として知られる同町だが、原因はオーストラリア人観光客の急増と、それを収容するコンドミニアムの建設ラッシュ。町内では「オーストラリア人に町が乗っ取られる!? 」という半分冗談が飛び交っている。

倶知安町観光協会によると、オーストラリア人観光客が増えたのは5年ほど前から。05年度は前年を80%上回る約7,700人のオーストラリア人観光客が来た。うち殆どが冬場に7日〜10日間滞在する。スキーやカヤック、温泉などが目当てだ。

コンドミニアム建設ラッシュが続く

倶知安町には英語以外にも、中国語のウェブサイトもある

町の人口は1万6,000人。その半分近い観光客。

「急に観光客が増えたため驚いている町民も少なくない。冬場だと街は外国人で溢れている。あわてて英語の観光案内を作ったほどだ」

J-CASTニュースの取材に協会はこう答えた。観光客が増えたきっかけと言われているのは、オーストラリア出身のロス・フィンドレーさんが十数年前にニセコに住んだこと。ロスさんが倶知安の素晴らしさをPRしていくうちに、口コミやインターネットでオーストラリアの人たちに伝わり、5年ほど前から一気に観光客が増えていった。

地価上昇の直接の要因は、この観光客をターゲットとしたコンドミニアム。倶知安町の「ひらふ」地区は建設ラッシュで、06年冬には36室の施設が新たにオープンし、08年の夏には60億円を投資した100戸以上の施設も予定されている。報道によれば、土地の価格は03年に3.3平方メートルあたり5万円だったものが、06年は30万円を超えるまでに上昇しているという。

経営はオーストラリア企業が大半で、地元に恩恵なし

これによって倶知安町の経済も活気付いているかというと、そうではないらしい。駅前商店街はシャッターが下りたままの商店街がすくなくない。コンドミニアムの経営はオーストラリア企業が大半。地元の宿泊施設もオーストラリア企業に買われているという。

また、「ニセコ花園スキー場」もオーストラリア企業の経営に代わった。同観光協会は、

「コンドミニアムの建設や運営は地元企業ではないため、(経済的な)恩恵は少ないんです」

と寂しそうに打ち明ける。さらに、地価が上がりすぎて「地元の人たちが手を出せなくなってしまった」と、人口減少の心配まで出ているのだという。
http://app.m-cocolog.jp/t/typecast/141291/125681/18935312?page=2

ニセコ町、倶知安町は完全に白人によって現地人が駆逐され撃沈されつつあります。

2001年頃にオーストラリア人の英語講師サイモンが盛んにニセコへオーストラリア人を送るビジネスを開始したときには、純朴で外国人を疑う事のないニセコの地元の人たちや、札幌のHBC、STV、TVH等のテレビ局、北海道新聞等のメディアは

「北海道が国際的な観光地になり、オーストラリア人が観光で多くの資金を落としてくれ、素晴らしく、歓迎すべき大切なお客様」

という取り扱いであった。

北海道人はイギリス、ヨーロッパから世界中(オーストラリア、ニュージーランド、アメリカ大陸、アフリカ、東南アジア)に植民地を作り、現地人を駆逐しながら定住し、一度略奪した土地は二度と現地人に返さない英国系の人達の文化に対して、完全に無知でナイーブであり、本当に馬鹿であった。

今でも馬鹿な人も多く、完全に駆逐され、白人の蛮行や搾取により八方塞がりにされ、自分の故郷で快適に生活できなくなってやっと気づく、純朴を通り越して馬鹿すぎる人も多い印象を受ける。

倶知安町の福島町長は2007年末でも

「ニセコが国際的に認められる観光地になり嬉しく思う」

等の発言をされているようであるが、現実は「国際的観光地」ではない。利用価値の高い土地はほぼ全て、観光ブームの火付け役となったオーストラリア人が、ブーム直前に破格に安く土地を買占め、建築計画、デベロッパー、販売会社、購入者ほぼ全てオーストラリア人をはじめとする外国人で、地元民は北海道の最低賃金の640円程度で、白人の別荘でメイド、女中をしたりしている。

白人は2001年頃に北海道のテレビ局等のメディアが賞賛したような経済効果をニセコや北海道に落とすことは殆どなく、地域開発、観光業の利益はオーストラリア人、オーストラリア企業に落ちている。倶知安町、ニセコ町や地元民は、土地だけ最低価格で売却した時の一時金を得ただけである。その後に発生した利益はまったく地元に還元されていない。

現在は白人が非常に増え、大柄な態度で、日本人を無礼に篤かったり、夜中に酔っ払って騒いで日本人に注意されるとなおさら嫌がらせをエスカレートさせたりと、日本人が平穏に暮らせない状態になりつつある。日本人は本当に白人に対して無知でナイーブ過ぎた。いずれ、オーストラリアのアボリジニー(原住民)のように日本人用の保護区を作ろうという態度に出かねない様相である。

保護区というより、会員制白人専用ゲレンデ、白人住民専用の地区、住宅街をつくり、住民以外(=日本人)出入り禁止地区を作るかもしれない。

白人に利用され駆逐されつつある地域に一定の規制を作り、植民地化をこれ以上進行させない時期に確実にきている。ニセコ町、倶知安町、後志支庁、北海道庁、中央省庁各機関が連携して、現況を再考し、具体策を作り早急に実行しなければいけない。

また、白人の中には北海道の女と多数関係を持っているものもいるので、倶知安、ニセコではHIV、エイズとうも確実に広がっていると考えられる。彼女らが、札幌等に出てきて、他の北海道の人達とも接点を持つので、急速に広がっているであろう。ニセコのオーストラリアブームはオーストラリア人だけが利益を上げ、現地人は逆に利益を害され、そのほかの日本人にも得なことは何もないと言って過言ではないだろう。
http://app.m-cocolog.jp/t/typecast/141291/125681/18935312/list_comments

ニセコ温泉の話 オーストラリア人の富豪別荘エリア

ホテルニセコいこいの村に来る途中、別荘エリアの「入口」を通る。

 で、帰りは、別に別荘エリア内には侵入禁止ではないので、エリア内をドライブして、貧乏夫婦(私と奥さん)は素晴らしい別荘を車の中から眺めて思う存分嫉妬の嘆声を上げてきた。

 というのも、ここはオーストラリアの富豪(!)たちの別荘エリアだからである。


 なぜ、富豪と解るか?
 なぜ、日本人のものではないと解るか?

 それは簡単である。
 建てられている別荘の「質」が、全く違うからである。
 それは「ひと目」で区別できる。


 私がニセコにたまに来るようになったのは20年前から。オーストラリア人が不動産投資をし、別荘やリゾートマンションを建てるようになったのは10年ほど前からである。20年前のその前から、ニセコは別荘地だった。しかし、どの別荘を見ても、

「倹約してやっと建てた掘っ立て小屋」

 以上のものではなかったし、今でも、そうした日本人のみすぼらしい古い別荘はいたるところにある。

ところが、オーストラリア人のそれは、まるで小さな城のように、頑丈で、立派で、見た目も美しい。何よりも、どの家も壁一面を大きく硝子で作り、景色を楽しむことができるようにしている。南側に向けたその硝子壁だけでも驚きである。

建材もいいのを使っていて、大きな車庫のドアですら、日本人が使うガレージ扉などではなく、ずっしりとした木の、彫刻でも施しているような高級品を使っている。

こうした建材は日本では手に入らないのではないか、オーストラリアから持ってきているのではないか、と思えた。庭に駐めてあるジープは、もちろん宗主国英国製のレンジローバーの高級機種である。

 円高でオーストラリア人観光は減ったなどというけれども、オーストラリアや香港の大金持ちは、何も変わっていない、リッチな金の使いかたというのを心得ている。

 それに比べて、日本人の建てている別荘という名の粗末な小屋。

 日本人の別荘エリアにも入ってみたのだが(東山エリアにあった)、どの家も、地方都市の住宅街の建売住宅のように個性が無い。安普請であることがヒシヒシと見るものに確実に伝わってくる建築物だった。
http://plaza.rakuten.co.jp/atsushimatsuura/diary/200903090000/

まさに植民地になりかけているということだろう。

日本がこんなふうになっていくのは主に海外に滞在している日本人としても不愉快で不安でもある。

白人がいったん空間を作ってしまったら決して取り戻せなくなることを肝に銘じなければならない。彼らにとっては日本人よりロシア人のほうが「近しい」のである。

オーストラリア人、オランダ人、ドイツ人、北欧人など(周縁白人)の悪行の実態を暴き出しきっちり叩いておくことには意義がある。

イスラムやヒンドゥのような頑固な戒律あるいは強固な穢れ意識を持たない現代の日本人が、国内に白人を受け入れて勝手なことをさせていれば、行き着く先は日本全体がタイ北部、チェンマイのようになる(あるいはタイのビーチのようになる)ということ。

そのときの国民の精神の荒廃は、残念ながら現在のタイをしのぐものになる可能性がある。

日本では小学生の援助交際もあるようだが、いずれ毛唐が白昼堂々と日本の女子小学生を連れ歩くようになるだろう。そのとき警察は白人のやることには手を出せない


「ネットカフェで英会話を教えてやってただけだ」

「ただの友達だ。何が悪い」・・・・


どんなふうにでも開き直れる。そして警察官の「英語」をおちょくり毛唐得意の嘲笑交じりのネチャっこい「ニヤケ」とともに無視するだけ。


日本には不敬罪もない。令状主義が厳しく守られている。日本の警察権力が弱体であることを大いに悔やまなければならないという、民主主義を普通に尊重する者としてはたいへん残念な事態になるだろう。

かつて日本が貧しかったころ、幸いなことに「グローバリズム」はなかった。
白人ツーリズムのシステムも確立していなかった。

しかし、今度貧しくなるとしたらそのときは前と同じ状態に戻ることはできない。彼らが作って押し付ける「フェアなルール」の下、白昼公然と、国の深奥から、日本人の精神と肉体の内奥から、「目に見える」形で白人たちに食い荒らされていくことになる。そして彼らの公然たる蚕食の現実をわれわれが容認せざるをえないという事実によって、彼らのより奥深い支配が「合意事項」として確立し固定する。

白人、ましてやオーストラリア毛唐。

各種掲示板やメールを見渡しても、国の内外を問わず、とくにオーストラリア人で不愉快な思いをしたという体験を多数見聞きする。

白人の本丸であるアメリカを正面から敵にまわすことは当面無益だが、周辺の「破れ窓」をこまめに補修していくことで内外の意識を変え、事態を全体として徐々によりマシな方向に向けることができるのではないか(まずはそれをやるしかないのではないか)と考える。

その意味でもこういう小さそうな問題に注意を向けることは重要だと思う。

2流3流白人の実態をしっかり暴き出し、二度とキレイゴトを言ったり説教をしたりできないように叩いておくことで、白人世界の外堀を(すこし)埋める効果がある

(とはいえ、それでも彼らはキレイゴトを言うことをやめないだろうし説教もやめないだろう。それが彼らの「文明」と「野蛮」に関する信仰である。しかし効果は多少薄れる)。

3流も1流も彼らの本質は所詮同じ。
http://app.m-cocolog.jp/t/typecast/141291/125681/18935312

http://www.asyura2.com/20/reki4/msg/643.html#c8

[近代史4] アジア人の白人との戦い 中川隆
9. 中川隆[-13371] koaQ7Jey 2020年3月24日 23:14:19 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[1533]

日本も早くタイやマレーシアの様な欧米人の理想のアジア国家になろう

2006年8月 1日 (火)
"The Sleeping Dictionary"(セックスする辞書) マレーシアの映画

なんとも情けない話である。

イギリスの植民地になった国々は、旧宗主国に対する尊崇の念が自己のアイデンティティの一部になっていることは確かなようだ。(準植民地だったネパールでもそうだし、ミャンマーでもアメリカは嫌われているのにイギリスはそれほどでもない。)

イギリスの場合は「植民地経営」と呼ばれたりするが、日本の場合は必ず「植民地支配」と呼ばれるのは納得がいかないが、長く支配した者の勝ちという教訓だろう。

植民地支配は、十分な実力を背景に容赦なくやること、被支配者を人間と思わないこと(言葉らしいものをしゃべる猿と人間との中間的な存在ぐらいにみなすこと)、被支配者同士を戦わせ争わせること、支配者の言語を複数の被支配者の共通語にすること、そして、とにかく長く支配を維持することが重要であるようだ。
他者をモノとみなすこと、あるいは本当に見下すことは、日本で思われているほど簡単なことではない。これは訓練を要する心の技術であり、少年時代からの教育と修練が必要である。

"The Sleeping Dictionary"という映画がマレーシアのテレビで放送されるらしい。

ここで"Sleeping Dictionary"というのは、「引かないで眠ったままになっている辞書」のことかと思いきや、そうではなかった。

sleepを英和辞典で引くと・・・「((略式))(異性と)寝る((together/with ...)). ▼「性交する」の婉曲(えんきょく)表現」とある。

サラワク(現在マレーシア領のボルネオ島の一部)の"Sleeping Dictionary"とは、イギリス人の植民地役人にあてがわれた、「寝床の辞書代わり」つまり「現地語教材かつ召使を兼ねた性処理用の土人女」のこと。

つまり「イギリス人殖民役人に寝物語で現地語を教える女奴隷」という意味である。

そしてこの物語は、高邁な精神を持つイギリス人役人が、あてがわれた土人売春婦とヤってるうちに愛が生まれたという世にもまれなる御伽噺のようである。
また、イギリス人に女をあてがったのは地元の土人側が勝手にしたことで、土人の未開な悪習からそうしただけであって、イギリス側が求めたわけではないという立派な結構にもなっている。

forbidden loveとあるのは、「土人側にはよくても文明国のイギリスからは禁じられた関係だった」という、まことによくできたお話である。

なお、この女の出身母体である土人は、サラワクの非ムスリムのIban族ということになっている。

あるツーリストは「ボルネオはタイの次に白人崇拝がひどかった」といっていたが、マレーシアの「土人売春国家」的な面が、非ムスリム少数民族との関係で噴出するということだろうか。

マレーシアも、ムスリムの少ないボルネオでは白人向け土人売春ツーリズム・レンタルワイフツーリズムを、タイ並みに振興したいのかもしれない。

なお、サラワクは、Brookeという白人のゴロツキが私的に占領して「白人王」(White Raja)を名乗っていたという歴史のある土地でもある。
誰か志のある人が、大川周明の「英国東亜侵略史」でも英訳して七つの海の国々に配布してくれると良いと思う。

-----------------------------------------------

(記事全文 NEW STRAITS TIMES, AUGUST 1, 2006 より)

A tale of forbidden love By Hizreen Kamal
Set in the 1930s in Malaysia's rainforests, The Sleeping Dictionary tells the story of the tempestuous and forbidden love affair between a young, idealistic Englishman and a beautiful Iban tribeswomanWhen John Truscott (Played by Hugh Dance) takes up a job in the British colonial outpost of Sarawak to "civilise" the Malaysian natives, he is taken aback when he is presented with a native servant Selima (played by Jessica Alba) as his "sleeping dictionary", a local term used for women given to settlers to teach them the local language as well as sleep with them.

Although this unorthodox practice is a readily accepted custome in the local comunity, the pair is monitored closely by Governor Bullard - John's crusty superior - and Bullard's wife Aggie (played by Brenda Blethyn) to ensure that no romantic attachments result from the liaison.

(土人側には喜んで受け入れられた習慣だったが、イギリス植民当局は渋い顔をしただと。ただの肉便器辞書女の関係なら良いが、「恋愛」に発展するのはまずいと。)

John and Selima soon fall passionately and openly in love.
(普通は同国人の素人娘でも簡単にやれてしまうと急速にさめてしまうのが男の性だと思うが・・・・・

確かに、通常の恋愛とはまったく異質の「南国コロニーでの女奴隷遊び」という「特別な分野」に夢中になる白人は今も少なくないようである)


The colonial authorities and the native population soon turn against the lovers, setting off a chain of events that test their resolve to the limit.

(ローカルに受け入れられたのは「肉便器関係」だけであって「恋愛」ではなかったと。)

Filmed in Malaysia, the bettersweet love story directed by Guy Jenkin boasts spectacular cinematography, featuring the lush rainforests of Sarawak and rich colours of the exotic 1930s (including architecture and traditional custumes)The Sleeping Dictionary premieres on Asian television on Aug 27 at 10pm (Cinemax, Astro Channel 41)----------------------------------------------

サラワク原住民Iban族の野蛮性を良く表現した映画であるといえる。ぜひとも「野蛮」の存在を確認し、野蛮の中に神秘的な美を見出すとともに、それによって自己を確認したい白人にとっては垂涎の物語であるということになるのだろう。

はっきりいって、こういう白人に媚びた土人オリエンタリズムは迷惑である。

これを見た毛唐は

「ああ、アジアはやっぱりそういうところか。そうかそうか」

と納得して喜ぶだろう。サラワクへの土人買春白人ツーリストが増えることは間違いない。

「非ムスリムのアジア・土人のアジアは、白人にとって都合のいい便利な所だ」

という白人ツーリズム振興目的の宣伝は、ムスリムのマレー人のプライドは一向に傷つけない。ネイティブ(土人)でない移民系にも関係ない。だからマレーシアでこういう映画が抵抗なくまかり通ることになるのだろう。

なにより"The Sleeping Dictionary"というタイトルが下品というほかない。

いっそのこと日本も「肉便器」というタイトルの映画を作って、

「アジア女にカネ使うなんて、よっぽどもてない不細工な白人なんだろうね」

というキャンペーンをはってみたらどうだろう。
http://iscariot.cocolog-nifty.com/kuantan/cat6237979/index.html

"Sleeping Dictionary" 再考

聞くところによれば、

日本語を習得したいと思っている白人男性がまずなすべきことは「日本人のガールフレンドを作ること」

というのが、日本語学習を志す白人たちの「教科書的な答え」になっていて、そのとおりに活字にもなっているそうである。


彼らの日本語テキストには「日本語を覚えるために日本人のガールフレンドを作りました」とか「作りましょう」という話題が平然と出てくるのだとか。

白人にとってはいまでも、日本人を含めた「アジア女」は、望めばいつでも自由に手に入るもの、コンビニで買えるものという感覚なのだろう。

その意味で彼らにとってタイの売春婦も日本の英会話学生も変わるところはない。
(違いがあるとすれば、タイでは多少なりともカネがかかるのに対して、日本ではカネが入る、ただし、タイではハゲデブ60過のオヤジでも白人ならOK、日本ではそれはちょっと難しいかもしれない、というぐらい)。

この関係は、当事者の主観的な認識には左右されない「客観的な枠組み」として確立しているものであり、彼らが仮に主観的にまじめであったとしても、この枠組みから外に出ることはできない。

彼らがそれを意識しなかったとしても、世界的には、当然のようにその枠組みの中で人々に扱われる。それは、タイの上品な高級ホテルで白人男性とアジア人妻のカップルが歓迎されないのと同じく自然なことであり、タイの有名高級ホテルで白人客がつねに優先されるのと同じように揺るぎがたい、確立した枠組みである。

もし彼らが果敢に、その枠から「外に出よう」と努力するなら、その「努力」という行為自体によって、あらためて彼らの関係の「特殊性」が再規定されることになるだろう。したがって、世界に広がるこの枠組全体を壊してしまう以外に、個別にこの枠から自由になる方法はないということになる。

昔「セブン・イヤーズ・イン・チベット」という映画があったが、そこでも簡単に手に入ってしまうチベットのローカル女性と白人との「模範的な関係」が表現されていた。

そこでは、チベット女性をモノにすることは(よっぽど歪んだ性格の白人でない限り)ちょっと色目を使えばすぐに落ちてくるような容易なことなのだが、珍しい素材としての彼女を磨いて付加価値を付けるのは白人の嗜みである。

彼女の文化にすり寄ってみるのも白人の風流な遊びであり、趣味の類である。彼女の携える文化は一見異質そうに見えても、実は白人に容易に「理解可能な」ものばかりである。

白人にとって「異文化との出会い」は「深刻な葛藤」ではありえず、選択肢がひとつ増えたという素朴な喜びにすぎない。そこで彼らが出会うのは決して白人に理解不可能な、アクセス不可能な「他者」ではない。もしそのようなものだったとすれば、それは断固として根こそぎにすべき野蛮だということになる。

「異文化との出会い」とか「異文化コミュニケーション」という気持ち悪い言葉が日本に流布するようになって久しいが、その「出会い」が少しでも「まじめ」なものであるならば、当事者の内面に「深刻な葛藤」を生ずるのが自然だと思う。「異文化」は「厄介なもの」なのである。この認識は、英語だとか英会話だとか言って喜んでいる多くの日本人にも欠けているように思う。
http://iscariot.cocolog-nifty.com/kuantan/2006/08/sleeping_dictio_51bf.html

Restoran Hameed'sで。この二人は周期的にここに来る。

典型的なごろつき白人の「レンタルワイフ」。

白人ツーリストたちが「スーツケースのプラグのようなもの」と表現する通りの女である。

彼らは普段はタイにいて南部のビーチあたりでふんぞり返っているのだろうが、男のビザ(あるいはノービザ滞在の更新)の都合でこうやってマレーシアに出てくるのだろう。マレーシアで見る白人の中でもとりわけ汚らしい、下水のような連中である。

この女がこの男のレンタルワイフ(長期契約売春婦)でないということはないだろうが、万一そうでなかったとしても、そう見られる責任は彼らにある。

タイのレンタルワイフと法律上の「結婚」をする白人男も少なくない。しかし、彼らには日本人のような戸籍の観念はない。1年2年でいくらでも離婚できる。仮に子供が出来ても、タイ女の親族が育てるので平気である。女はまた売春バーで働けばいい。女もカネのことは心配するがそれ以外のことは平気で、白人の子を周囲に自慢するくらいのことである(この点は日本人肉便器と共通しているかもしれない)。男は慰謝料さえほとんど払わないことがある。

タイのレッドネックバー、売春バーを回ってみれば白人と「結婚」したことのある売春婦を見つけることは難しくないはずである。

つまり、白人にとってこのような「結婚」は、買春のひとつの形式なのであり、東南アジアバカンスのパッケージに組み込まれた要素に過ぎない。

白人は、白人の歴史を背負い、この世界でそしてアジアで、現に特権を享受している。そうである以上、彼らの歴史に規定された不利益の方も甘んじて受けなければならない。(白人世界の豊かさは、今日の日本の豊かさのようにほとんどゼロから60年で自力で作り上げたものではないのである)。

東南アジアでこのような薄汚いアジア女を連れ歩く以上、その白人男はレンタルワイフを連れているとみなされてもやむをえない。

東南アジアで現地女を連れ歩く白人の80パーセントがそれに該当するとすれば、残りの20パーセントは世間のそのような評価を甘んじて受け入れるか、それが嫌なら東南アジアに立ち入らないか女を連れて自分の国に帰るべきであろう。

どんな金持ちでもゴム草履と短パンランニングシャツで外を歩くのは自由だが、その格好で高級ホテルに入っていけば守衛につまみ出されても文句はいえない。貴金属店に入っていくなら、警察を呼ばれてパトカーで連行されしばらくあれこれ調べられてもやむをえない。それと同じことである。

つまり、白人が東南アジアでこのような女を連れ歩く以上、これが「契約買春でない」という主張立証責任は白人の側にあるということである。

それ以前に、この男の場合、売春婦であろうとせめてもう少しまともな格好をさせて連れ歩くべきである。
http://ibrahim.blog49.fc2.com/?mode=m&no=87

"Discrimination"、BBCの日本批判【忘れないために】

自称日系ペルー人、カルロス・ピサロ(ホセ・マヌエル・トレス・ヤギ)による、広島市の木下あいりちゃん強姦殺害事件に関し、BBCニュースは、その背景に日本社会の「差別」があることを強く示唆した。

この事実を忘れてはいけないと思う。

これが白人ジャーナリズムの日本批判、日本報道の基準を示すものであるからだ。

またBBCニュースは、「ある一人のセネガル人」から聞き取ったという日本での「差別体験」を紹介し、日本人の「外国人差別」を強調する。それは何の具体性もないただの被害妄想と言ってもいいもので、次のようなものである。

For many foreigners living in Japan, however, discrimination is a real problem. Treatment appears to be determined by a range of factors - from socio-economic status to ethnic background.

Gemba, a Senegalese who works in a topless bar in the red-light district of Kabukicho, said: "Every day, I feel discriminated against. Japanese people don't like foreigners.

"If you are inside a train, the Japanese will not sit close to the foreigners."
http://news.bbc.co.uk/1/hi/world/asia-pacific/3708098.stm


これはもうお笑いというしかないが、彼がもし差別を感じたとしたら、それは彼が歌舞伎町の「トップレスバー」で働く不法就労外国人だからというのが、普通のマトモな頭の人間の考え方だろう。しかし、BBCはそうは考えないのである。

大男が大股開きで中途半端な位置に座り、足をぐらぐらゆらし、周囲の日本人を睥睨し、コカコーラをラッパのみしたりチューインガムをくちゃくちゃ噛んでいたりすれば(この種の振る舞いは、ほとんどの白人が東南アジアでごく普通にやっていることでもあるが)、そいつが外人であろうと日本人であろうと、白かろうと黒かろうと、普通の人間なら近寄りたくないのは当然である。

合法的に日本に滞在しているまっとうなセネガル人は、この「トップレスバーのセネガル人」についてどう思うだろうか。

また、欧米豪の白人諸国において、白人たちは、電車で不法滞在者らしきアフリカ出身男性の隣の席に座る義務を感じ、その義務を誠実に履行しているというのであろうか?

ともあれ、ジャーナリストがこのような一人の(事実上匿名の)外国人の主観的経験の聞き取りで記事を書いていいのなら、私にも言うことがある。

私が3年ほど前にタイで話をしたあるタイ女性は、かつてデンマーク人と結婚していて、一年ほどデンマークに住んでいた。その間、初めて雪の実物を見るという楽しい体験もあったが、見知らぬデンマーク人から「アジアへ帰れ」と罵倒されることはしょっちゅうであったという。

言葉だけではなかった。あるとき彼女が自転車に乗っていて、交差点で信号待ちをしていたとき、2人の巨体のデンマーク女が突然彼女の自転車を二人がかりで押さえつけ、前へ押し出してきた。彼女はただ恐ろしいだけで、何事が起きているのか一瞬理解できなかったが、それがひたすらなる「悪意」による「嫌がらせ」であることを了解した。

女二人で示し合わせたこの犯行は個人の思いつきや出来心とはいえないない。ネオナチでもないだろう。白人社会の本来の土壌に根ざしたきわめて悪質な人種差別犯罪といえる。

有色系外国人は白人諸国で、白人の人種差別に基づくこのような現実の生命の危険に日々晒されているのである。

このような犯罪は、白人国家では毎日起きているはずだが、白人ジャーナリズムがそれを報じることは決してない。

また、BBCニュースはタイでいかに白人が優遇され、有色外国人、とくに色の黒い人種がひどい扱いを受けているかについても一言も語ったことがないはずである。

優遇のあるところには差別もある。不当に優遇されるものがいれば必ず不当に差別されるものがある。しかし、白人メディアはタイにおけるきわめて明瞭かつ明示的な「白人ゆえの白人優遇」については一切語らない。

というのも、このようなタイのシステムが、白人にとってもっとも都合の良い「アジアのあり方」を示すものであるからである。すなわち、白人の理想とするアジアは、全アジアが「タイのような自由な国」になることだからである(その対極にあるのがイスラム社会であろう)。

したがって、白人の作り上げる評価基準は、タイを「自由な国」とし、デンマークのようなレイシスト国家を「高度に人権の保障された国」と認定し、ロシアでさえ自由で民主的な国と評価する。

ロシアをはじめヨーロッパ各国で、東洋系人種が投石、暴行、殺害等、直接の暴力の危険にさらされていることはほとんど論じられない。

これらの問題が白人ジャーナリズムによって「ネオナチ問題」という「特定地域の特殊問題」として語られることはあるが、彼ら自身の世界の人種差別問題として問われることは一切ない。

すなわち、ヨーロッパ全般で見られるアジア系人種に対する嫌がらせ、罵詈雑言、暴行、投石等の事案は、「ネオナチ」の枠内で処理され、そのことによって「知的でリベラルな」彼ら自身とは無関係な特殊な人々の問題と見做され、安心して脇に置かれる。

これらの切迫した現実の危険を伴う問題が、「ネオナチ」問題の定式を介さず、「白人による有色人種差別」すなわち「白人世界の人種差別主義的な土壌に根ざした人種差別犯罪」として、白人ジャーナリズムによって率直に問題にされたことが一度でもあるだろうか。

______________________


白人の「日本の人種差別」批判は白人自身の人種差別・アジア蔑視に由来する

日本が、白人から「人種差別」という批判を受けることになる一つのありそうなモデルはこうである。

アジアにくる白人ツーリストはまず最初にタイにやって来ることが多い。タイは物価が安くその割に安全であるといわれる。イスラム国でもなく、欧米人を狙ったテロもおきていない。文化的制約やタブーも少なく何よりも白人が優遇されるから欧米ガイドブック等でも絶賛されている。若い白人の貧乏旅行には最適の国ということになる。

実際、タイに行ってみると、日本では想像のできないほど大量の薄汚い白人ツーリストがアジアに来ているのだということがわかる。そのほとんどは日本には恐らく一生来ないだろう。

タイとその周辺国だけを見て、

「私はアジアがわかった」とか「アジアはすばらしい」

とか、寝言を言っている白人ツーリストも少なくない。

彼らは一生日本を見ないまま「アジア」を語って過ごすのだが、彼らがアジアを気に入ったとすればそれは、アジアの「後進性」と白人ゆえに与えられていた「特権」からに他ならない。

彼らの中にはやがて少しカネができたころに日本にやって来るものも出て来る。アジアの非イスラム国・仏教圏だと思って、タイの延長くらいの軽い気持ちで日本にやって来る。

しかし、ちょっと物価の高いタイに行くような気持ちで日本に来てみたところ、タイとはちょっと勝手が違うことに気づく(六本木と肉便器とNova講師だけでやりくりできた者にとってはタイと同じだが、みながそううまく行くとは限らない)。


・タイでは安かった物が日本ではこんなに高い。アジアなのに・・・

・ネット屋がその辺にない。アジアなのに・・・

・米ドルが使えない。街に両替所がない。アジアなのに・・・

・タイでは許されていたヤンチャやワガママが日本ではやりにくいような感じがする。バックパックを担いで喫茶店内を歩き回りながら(白人の普通の声で)しゃべっていたら日本人たちに白い目で見られた。→日本には「自由」がない!「人権」が抑圧されている!

・日本では白人だからといってタイほどにはチヤホヤ持ち上げてもらえない。アジアの非イスラム圏なのに・・・→これはきっと「外国人差別」だ!

・タイでは、禿げて腹の出た60代の白人オヤジも若い娘を自由に連れまわしていたのに、日本では30代の俺が若い娘に持てない。ちょっと禿げて少し体重が増えているだけなのに・・・→これはあきらかに「差別」だ!日本社会の「差別体質」がここに現れている!

・日本にはバービアもゴーゴーバーもない。タイのように若いレンタルワイフを簡単に手に入れられるところがない。その上、風俗店は外国人を入れてくれない。・・・→これは明々白々な「人種差別」である!


註:外国人は日本の風俗店には入れないと聞いていたが、実際はそうでもないようである。

先日バンダ・アチェで会った男は、日本で5年間不法就労したことがあると言っていた。色黒で一見して外国人とわかる容姿だったが、流暢な日本語で日本滞在時代の楽しい思い出について熱く語ってくれた。

インドネシア人の友人に連れられて行った西川口の本ストでは入場料3000円のほかに別室料金3000円で完全満足制であった。外国人だからといって別室で差別されることはなかった。

ただ、「ジャンケン」に参加することができるのは日本人だけであったという。ジャンケンに勝てば別室に行く必要はない。彼はジャンケンに参加できなかったことを何度も残念そうに語っていたが、外国人が本ストのまな板ショーのジャンケンに参加できないことが「外国人差別」として問題にされるべきかどうかは、さらに議論の余地があろう。

アチェはもともと風紀の厳しい土地柄であり、彼は割礼のある敬虔なムスリムである。彼が性感染症を日本に持ち込んだ可能性はきわめて低いと思われる。

これに対して、HIV感染率が高く、ろくに風呂に入らず、傲慢で、自らの傲慢さには気づかず日本人をarrogantと批判し、空気も読めず、遊び方も知らず、「イエース、イエース、ハッハッハッハッ」と女に襲いかかることしか知らない白人が日本の風俗店に入れてもらえないのはきわめて当然の扱いである。
バンダ・アチェの日記はのちに上げる予定である。


・昔カオサンで買ったDieselの半ズボンをはいて脛毛をさらして日本橋三越を歩いていたらなんとなく浮いてるような気がした。タイではどこでも半ズボン姿で歓迎されたのに・・・→これは「人種差別」に違いない!


白人はだいたいこの程度の連中である。

白人の日本批判が基本的に、上記のBBCの「歌舞伎町の風俗店で働くセネガル人」からの伝聞記事のような根拠薄弱な思い付きで成り立っている反日宣伝にすぎない以上、われわれもまた、あらゆる伝聞や噂を動員して、これに対抗し白人世界の反人権・反人道の現実を摘出し続ける必要がある。

そういう努力をしなければ、「日本人は罪を認めた」とみなされ「やっぱり一番悪いのは日本人だ」と強調されて、白人たちの不法非道は不問に付されたままになるだろう。残念ながらこれが現在の世界のルールである。

 ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄

白人ツーリズムは現代の植民地主義である

白人の基準によれば、デンマークは「高度に人権と表現の自由の保障された国」であり、タイはマレーシアよりも立派な「自由の国」であって、ミャンマーは民主主義はもちろん人権に関しても最底辺に位置づけられる国であろう。

白人はまず、「ミャンマーに旅行すべきかどうか」すなわち「ミャンマーに旅行することは正しいことかどうか」を議論するところからはじめる。

これは彼らの頭が完全に狂っている証拠としか私には思えないのだが、彼らは、

「(白人)ツーリストがミャンマーの人権状況を監視することができるから行ったほうがいい」

というキチガイじみた結論に達するのである(ロンリー・プラネット)。

しかし彼ら白人ツーリストは、「白人にとって居心地のいい・都合のいい場所」にしか最初から行くつもりはない。常に「白人の生活様式一式」を巨大なバックパックに詰めて辺地を移動する擬似「異文化」体験を求めるツーリストにすぎない。

したがって、彼らのいう「人権を監視する」とは、白人がどれだけ「ふさわしく」「文明的に」扱われるかを監視するということ、すなわち、有色人種たちがご主人様たる白人をもてなすマナーをちゃんと守っているかどうかを監視することに過ぎないのである。

白人ツーリズムはまさに、現代の植民地主義にほかならない。現代の植民地主義たる白人ツーリズムをイデオロギー的に指導し、弁護するのが、「ロンリープラネット」である。

彼らは白人がミャンマーに旅行することの是非については大いに語るが、タイでレンタルワイフを雇ってアジア中を連れ回している大量の白人男たちの「旅」の是非については決して語らない。

脛毛を出してのし歩き、地域住民感情など一切意に介さず、どんな片田舎にもアジア人売春婦を連れまわし、西洋式の買春の仕方とビールとコカコーラのラッパ飲みの仕方を実演して見せ農山村にまで害毒を撒き散らしている大量の白人男たちの行動の是非については、決して語らないのである。

なぜミャンマーが非難されるのか

ミャンマーは人種差別も少なく、日本人旅行者にもやさしい国である。

人権と民主主義に関していえば、ネパールの専制の方が深刻である。ブータンも自由で民主的な国とは言えない。もちろん私はブータンを批判するつもりは全くない。

なぜミャンマーは白人に批判され、ネパールやブータンは批判されないのか。ネパールやブータンはアメリカに楯突いていないし、ネパールはイスラエル人を含む白人ツーリストを大々的に受け入れてちやほやしているからかもしれないが、なにより、ミャンマーには天然資源があり、地政学的にも重要な位置にあるからだろう。

ミャンマーには、将来インドとともに発展し、世界的な食糧難の時代に食料資源の供給に寄与しうる潜在的な力がある。

植民地時代にイギリスは、マンチェスターで織った綿布をビルマにロンジー用に「輸出」し、ビルマの米を「輸入」するという形式で、ビルマの富を搾取していたほどである。

ミャンマーが人権批判をかわすには、根本的にはアメリカに膝を屈し、内外にアメリカの価値の優位性を宣言しなければならないのだろう。

しかし、近道がないこともない。ヤンゴンの目抜き通りに売春バーやプールバーを開き、英国旗やカナダ旗、オーストラリア旗掲げて白人ツーリストを誘致歓迎し、現地女性を自由に抱かせる。これは事実上の白人の「勝利宣言」「優越宣言」であり、ビルマ人の「雌伏」の宣言になる。(ボス猿が交尾の真似をすることによって上下関係を公認させることと同じ原理だが、ここでは従属させようとする集団の雌たちと実際に交尾するのである。)

白人が欲しいのは(広い意味で)イデオロギー的な「ヘゲモニー」であり、白人の文明的「優位性」を、国際的にもミャンマー国民にも、認めさせることだから、現地女が競って白人男に憧れ抱かれたがる姿を世界中に晒させることでもかなりの部分目的は達成できるのである。

しかしそれをやってしまったらミャンマーは終わりであることは言うまでもない。千年単位の国家の自殺である。

タイのようにゆっくりと腐って行き、周囲に腐臭を撒き散らしながらやがて自壊する国になるほかはない。

アウン・サン・スー・チーの意味とアウン・サン将軍の動機

ミャンマーが特別な批判を受ける理由(口実)の第一は、もちろん、アウン・サン・スー・チーをめぐる問題である。

彼女は「人権弾圧」の「象徴」にすぎないが、何よりも「ヘゲモニー」を求める白人にとっては「象徴」が極めて重要な意味を持つ。

ミャンマー政府がアウン・サン・スー・チーを弾圧するということは、アウン・サン・スー・チーが代表するところの「白人世界」(「白人の理念」「白人の正義」および「白人の支配する世界のルール」)に対して、ミャンマー政府が正面きって反抗しているという象徴的な意味を持つ。白人にとっては何よりもこの「意味」が重要である。

アウン・サン・スー・チーは、内面は完全なイギリス人で、ビルマ語も満足に話せないといわれる。イギリスの雌犬にすぎない。それでは、自らの娘を旧宗主国の女奴隷のように育てた「建国の英雄」アウン・サン将軍とはどんな人だったのだろうか。

彼は日本軍の支援のもとでビルマ国民軍を創設し国防大臣の地位についたが、戦後(連合国に対し)「日本人はわれわれを犬のように扱った」と公言している。

The Japanese were able to maintain Burmese political support for only a short time before their harsh and arrogant conduct managed to alienate the Burmese.(日本人はほんの少しの間はビルマ人の政治的支持を得ることができたが、過酷で傲慢な振る舞いでビルマ人を遠ざけようとして支持を失った。・・・・・

訳註:これを書いているのはきっと『ロンリープラネット「タイランド」』を書いているあのレイシスト白人男だろうと思う。ロンリープラネット「ミャンマー」の執筆にはあの男も一部加わっている。

彼はビルマ人とタイ人との区別もつかないようだ。白人が優勢になったらすぐに白人側に日和り、日本人に背を向けただけでなく、日本軍の駐屯地を襲ったりしたのはタイ人である。日本が優勢に見えたときには日本人に媚び、日本軍について来てビルマに侵攻し、シャン州を侵略したが、その罪は、後の白人への必死の媚びへつらいと死に体の日本兵への容赦ない残虐行為という踏み絵により、戦後も不問に付されたのである。

ここに書いてあるのは、タイ人がとった醜悪な行動を白人の側から都合よく解釈したものに過ぎない。それがビルマ人にも当てはまると勝手に妄想しているだけだろう)
Aung San expressed his bitterness during his stay at Japan's 15th Army headquarters in Maymyo(now Pyin U Lwin):

I went to Japan to save my people who were struggling like bullocks under the British.But now we are treated like dogs.We are far from our hope of reaching the human stage,and even to get back to the bullock stage we need to struggle moreLonely Planet, Myanmar(Burma), Facts about Myanmar-Historyより


要するにアウン・サンは、日本人のもとで自分たちは人間並みに扱われなかった、イギリスに支配されていた方が良かったというのである。

イギリスに支配されて去勢された牛、すなわち白人にぺこぺこしながらも結構良い思いのできる植民地エリートでいた方が良かったと彼は思ったのであろう。

結局のところアウン・サンも、アジア途上国エリートにありがちな男で、エリート意識とコンプレックスとのあいだで揺れたすえ、白人にはどうしてもかなわないと観念し、反日にコンプレックスのはけ口を見出した反日家、白人崇拝主義者でしかなかったということだろう。

しかし、すべてのビルマ人が彼と同じように感じていたとは私は思わない。日本兵とともに最後まで戦い散華したビルマ人を含め、大部分のビルマ人は彼とは別の考えを持っていたはずである。
http://iscariot.cocolog-nifty.com/kuantan/2006/09/discriminationb_bbd7.html

東南アジアにいる白人「教師」たちはほとんど性犯罪者の集まり。

日本でもそうかもしれないが。

若者への「性的いたずら」でタイから追放されるアメリカ人英語教師【NST】

オーストラリア人英語教師が児童買春・児童ポルノ作成で逮捕される ジャカルタ インドネシア

2,3年前には、チェンマイの大学の白人先生が、ホテル「スリ・トーキョー」で売春婦相手にバイアグラセックスをして腹上死した事件があった。
http://iscariot.cocolog-nifty.com/kuantan/2006/08/post_1629.html

白人メディアも認めざるを得ない
「アジアでの英語教師職は性犯罪者の隠れ蓑」−AP通信(ジョンべネ事件)

[記事の概要]アジアの英語教師の世界は、旅行中に簡単に現金を稼ぎたいバックパッカーや海外での経験を作りたがっている新卒者、そして、何か隠し事があって絶えず動いている連中の、浮動的なネットワークである。

機会と成功と同視されるこの言語を学びたい人が多い地域では、多くの国で、ネイティブの英語教師の需要が供給をはるかに上回る。

多くの英語学校では教師の転職率は高く、審査は最小限のものである。インチキの認定書を持ってくる者や、−このJohn Mark Karrのように−本国で教師を辞めさせられた者にも、アジア中で広く門戸を開き、彼らを教室に招き入れている。

10年前の事件のときに「ジョンベネと一緒にいた」ことを自供している容疑者Karrは、2001年以来ドイツ、オランダ、コスタリカで教師をしており、同年4月カリフォルニアで児童ポルノ所持で逮捕され6ヶ月の服役の後、姿を消した。

その後、Karrは、2002年に韓国で数ヶ月、2005年にホンジュラスで、そして今年6月、「厳しすぎる」という理由で解雇されるまで2週間、バンコクの一流の学校で教えていた。

Convicted sex offenders from various countries have popped up in Asia as English teachers性犯罪の前科者たちが英語教師としてアジアにひょっこりやってくる。

"It's a very traditional paedophile strategy,""If you want to sexually abuse children what better job would there be."

これはたいへん伝統的な小児性愛者の戦略である。もしあなたが子供を性的虐待したいなら、これよりいい仕事があるだろうか。

犯歴のある外人教師が、ばれないようにするのは簡単である。前歴や素性に関する情報が国際的に共有されることは容易ではないからである。もっとも格式の高い英語学校でさえ審査は困難である。

とくにタイのような観光国家では、英語能力に対する需要が大きく、これが教師の欠員をすぐに埋めなければならないプレッシャーになっている。

アジアではニセの教師証明書も安く手に入る。仕事はいくらでもある。たとえば、昨年度日本では4500の外国語学校があり14000人近い教師がいた。韓国では12000のネイティブスピーカーが私立学校で教えている。

(ニセでもOK仕事はいくらでもあるときて、いきなり日本の数字が挙げられている。いずれ、日本の女が英語教師名目の白人性奴隷を買いあさり虐待している、とか批判されそう。その通りなら仕方がないが・・・・)

世界中の国の学校がネットで求人広告を出しており、教師たちが、仕事を見つける前に短期で働き、すぐに次の仕事に移ることが容易になっている。これが逃亡中の性犯罪者のための完璧な隠れ蓑をセックスツーリズムで悪名高い地域に提供している。・・・・・・・・・・・

-----------------------------------------

こんなことはいまさらくどくどというまでもないこと。

中卒のオーストラリア人でも白人でさえあれば英語教師の口はすぐに見つかると思う。オランダ人、ドイツ人や北欧人でも英語が話せればOKではないだろうか。しかし、アジア系や黒人だったらアメリカの一流大学を出ていてもタイの民間語学学校で英語教師の仕事はまず無理だろう。

現在大量の一般白人ツーリストたちが、タイを中心とする白人セックスツーリズムセンターにおしよせいるにもかかわらず、彼らがそこで何も見ていないということはありえない。

みんな十分知っているはずなのに、白人メディアは、Karrの事件のような言ってみればくだらない「失踪白人女性症候群」的な騒ぎがおきて初めて教科書的な能書きを披瀝している。

この記事に出てくる白人NGOなども、東南アジアなど行ったことのない人間向けのお上品な言い訳の仕事をしているに過ぎない。

白人はただセックスバカンスにいそしんでいるだけでなく、チャイルドセックスツーリズムを憂いているんです、というところだが、日本人などが何かしたときの彼らの反応に見られるような高飛車な非難の態度はまったくなく、ひたすら「憂う」のみ。

今回は「英語教師」がターゲットなので、白人は逃げられない。アジアの「英語」産業が、名だたる人種主義産業、白人至上主義産業であることは言うまでもない。白人もアジア人もみんな知っていることである。

必要もないのに「英語」を勉強したがることは、かっこ悪いだけでなく、実害を生んでいるという認識を、日本人はもっと持つ必要がある。

私は以前、日本など東アジアでの英語教師を目指す(イギリス)人向けの指南書みたいな本をチラッと見たことがる。前書きで、金額まで挙げて

「日本でビジネスマンとちょっとおしゃべりするだけでこんなに儲かるのだ。これをやらない理由があろうか。これは不道徳だろうか。いや、そうではない・・・・日本人はとてもhumbleな人たちである・・・・」

みたいなことが、くどくど書いてあった。そこしか読まなかったのだが、しんそこ日本人をなめきった内容だった。humbleというのは卑屈とか卑しいという意味だと思った。こういうのを読んだ人間が英語教師として日本などに来るのである。

「教師はみんな外国人」なんて広告を出している学校には特に注意すべきだと思う。正常な感覚の人間が聞けばただでもいかがわしく感じるセリフだが、性犯罪者をかくまいかねない社会的にも有害な施設であるといえるだろう。

こういう学校は、間接的にであれ白人セックスツーリズムを激励し、白人による児童買春ツーリズムにも寄与しているのだということが、今回の事件でますます公になってきたといえる。

小学校で英語を教えるそうだが、これにも反対である。福沢諭吉は25歳から覚えたそうである。戦前の知識人は、ほとんど読本だけで英語を学んだが、英語もほかの外国語もよく使いこなした。読めない外国語がまともに話せるわけがなく、読めるようになれば英会話など習わなくても話せるようになる。

よく言われるとおり、内容のない話をぺらぺらしても軽蔑されるだけである。英語をぺらぺらしゃべって尊敬されるのは、後進国の情けない連中にだけである。尊敬というより羨望で、あなたの英語が彼らから見て上手すぎればだだちに嫉妬に変わり、白人を巻き込んだ返り討ちにあうだろう。

そういうかわいそうな国では、白人ツーリズムが産業の重要部分であり、「英語を話せること」がすなわち「学問」であり「教養」なのである。

彼らはそれ以外の「教養」の定義についてほとんど思いをめぐらせたことがない。国が発展するということの意味も考えたことがなく、自国が事実上の乞食国家であるという自覚もない。

つまり、小学校で英会話を教えましょうというのは、それらしい英語をしゃべるタイの白人バーの売春婦みたいな子供をたくさん養成しましょう、ということにほかならない。

とくに白人の英会話インストラクターを大量に採用するようなことは、現実問題として、日本に大量の白人ぺドフィリアを引き入れるというのとほど同義である。白人NGO団体も性犯罪者をスクリーンのしようがないと認めているのである。

白人男が、キャリアにもならず大してカネにもならない日本での英会話教師などを志願するのは、女以外の目的はまずないだろう。しかも白人男にとってアジアの幼女というのは格別に魅力的なものらしい。
http://ibrahim.blog49.fc2.com/blog-entry-15.html


児童買春(子供買春)2008年10月 2日 (木)

クアラルンプルでまた幼女(10歳くらいに見える)を連れた白人男を見る
あまりに堂々としているので写真も撮らなかった。「正当な理由」があるのかもしれない。「正当な理由」を準備して堂々と振舞うことで白人は世界を制覇してきた。

今日、クアラルンプルの中華街で、10歳くらいに見える幼女を連れた30歳くらいのバックパッカー風白人男を見た。10歳くらいに見えるというのは、もし日本人の女の子だったらそのくらいの年頃に見える、ということ。東南アジアの子だから12歳か13歳くらいかもしれない。

どう見ても白人の子には見えないが、父親に似ないこともあるのでこの汚い白人男の子でないとは断定できない。かわいいアジアの女の子、どっちかといえば中国系の子に見えた。

「正当な理由」はいろいろある。

「養女(義理の母親もあり。カネで現地女を雇う)」

「孤児と遊ぶボランティア」

「少数民族の子供にただで英会話や勉強を教えてあげるありがたい白人青年ボランティア」

「現地妻の連れ子(現地妻を雇うがそのオバサンが目的ではもちろんない)など。

こちらにも書いておいた。
http://kuantan.aboutme.jp/user_statuses/show/82392


白人の強みは情報、ネットワーク、「野蛮の地」における惜しみない相互扶助、重要なことにはカネを惜しまないこと、長いバカンスが取れる「生活の質」などである。これらの諸要素は、「正当な理由」付の児童買春・児童性的虐待遊びや「ガールフレンド」遊びにも有効である。

「イスラム国家」マレーシアの首都クアラルンプルで幼女連れ白人を見たのはこれで2回目である。いずれも中華街。一回目はこれ。
http://ibrahim.blog49.fc2.com/blog-entry-116.html
http://journal-ibrahim.blogspot.com/2007/03/kl.html

  
なお、タイの幼女連れ白人の実例はこれ。
http://iscariot.cocolog-nifty.com/kuantan/2007/04/crime.html


【タイ】5歳の養女に性的暴行を加えた72歳の米国人男を逮捕 パタヤ

「バービア」というのはビア・バーすなわち、タイの売春バーのことです。タイでは絶対売春(対価を支払って女の子をお持ち帰り)がないバーというのはまずないので、すべてのバーは潜在的に売春バーといえます。

タイではすべての恋愛や結婚も、かなり長期契約売春といえるわけですが。(別にマルクス主義者〔結婚は法制度化された売春だと主張する〕とかでなくても納得するような「あからさまな」意味で)。
 
母によると、ビーチ付近で娘と散歩中に声をかけてきた男にいきなり娘を養子にしたいとの話を持ちかけられ

白人男による、こういう形での幼女少女調達、偽装夫婦による児童性的虐待は、タイではありふれたものです。白人のお家芸といえます。

アジア系男はこういう段取りが苦手なようで、売春宿から児童がいなくなってからはトンと児童買春に縁がなくなったようですが。

  
「タイの地元新聞を読む」より。 
   
5歳の養女に性的暴行を加えた72歳の米国人男を逮捕

 チョンブリー県パッタヤー地区の警察当局は18日夜半、5歳の養女に対する性的暴行容疑で72歳のアメリカ人の男を逮捕した。

 この逮捕は、養女の実母であるバービヤで働く21歳のタイ人女性が警察に被害届を提出した事により実現したもので、実母によると、ビーチ付近で娘と散歩中に声をかけてきた男にいきなり娘を養子にしたいとの話を持ちかけられ、当初は疑っていたものの、男の誠実な対応に心を打たれた両親や親戚の勧めを受け、娘の教育費や自分の住居費の面倒を見るという条件で今年5月に養子契約を締結したという。

 しかし、その後男が、定期的に娘を男の家に行かせるという当初の約束に満足できず、終いには娘を男の家に留め母親に会わせることを拒むようになった為、不審に思い17日に何とか娘に会うことが出来た際に娘に生活状況を聞いたところ、娘から毎晩の様に男に性器を触られたり、無理矢理男の性器を咥えさせられているとの証言が得られたことから、男に娘の返還を要求したが拒絶された為警察に告発したという。

 逮捕された男は警察の取り調べに対して一貫して容疑を否認しているが、警察側は、養女と実母の証言に一致する点が多いことから、実母の告発は事実に基づいたものであると見て、医療機関で養女の診察を行った上で、あらためて詳細な事情聴取を行う方針を明らかにしている。
http://iscariot.cocolog-nifty.com/times/2008/07/572_c8c3.html

 59歳のアメリカ人男がチャイルドセックスで逮捕 
11歳と12歳の少女とプノンペンのホテルで カンボジア

59歳のアメリカ人男が11歳と12歳のカンボジア人少女とプノンペンのホテルにいるところを警察に逮捕された。月曜日、元旦のこと。

これは児童買春というより、幼女奴隷といったほうがいいのだろう。

白人の場合、同時に二人の幼女と性行為をすると逮捕される確率が高いようである。このケースは男が2人の幼女と一緒にホテルにいるところを逮捕されている。身を隠そうとする形跡すらない。

このケースの被害者はベトナム人少女でなく、カンボジア人少女のようである。(なおさら悪質性が高いように感じられる。ことさら幼女を求めて貧しい家庭と交渉したことが考えられる。というのは、ベトナム幼女の人身売買には「市場」があるが、カンボジア人幼女の人身売買には市場がないからである)。

最近のカンボジアでも、白人が逮捕され報道されるケースはこのようなエゲツナイものばかり。

幼女を連れて歩いているくらいでは逮捕もされないのだろう。

孤児援助のボランティアだ、NGOだ、ミッショナリーだなど、白人にはどんな言い訳でもして開き直る用意がある。実際、その手のボランティア、NGO、ミッショナリー等が、白人のチャイルドセックス、児童性奴隷、人身売買の温床にもなりカバーにもなっているのである。


An American held over child sex

アメリカ人男が幼女性的虐待と人身売買の罪で逮捕される プノンペン カンボジア

裁判所は昨日、アメリカ人の男をヒューマントラフィキングと二人のベトナム人幼女を性的に虐待した罪で告発した。(カンボジアは糾問主義)。Myron Maboris(46歳)が、水曜日、当地のゲストハウスの彼の部屋を手入れされたあと逮捕されたと、市の人身売買対策警察の副長官、Keo Theaが語った。警察は、Maborisが13歳と14歳の2人の少女と部屋にいるのを見つけた。彼は彼女らとセックスをしたとされる。(マレーシア紙New Straits Timesより)

白人が起こすこのような犯罪は、3日に一回ぐらいの割合で報道されている。このアメリカ人男も白人でないとは考えられない。タイ近辺では、黒人は道を歩いているだけで犯罪者扱いされ警察の尋問を受けることが多い(マレーシアを除く。マレーシアはタイとは逆で人種差別がタブーというのが国是の国で、黒人はのびのびしている〔ただし白人崇拝がまったくないわけではない〕)。

日本人男性がこのような事件を一件でも起こしたならば、(産経新聞も含めて)日本の新聞は大きく紙面を割いてスキャンダラスに報道するだろう。そしてその報道がまた世界中にフィードバックされて復唱されるのである。
しかし、こちらで3日に一度のように報道されている白人の性犯罪は白人世界のメディアではまず報道されることがないだろう。彼らにとってはこのような事象は「ない」ということになる。白人セックスツーリズムの醜態についても具体的には報道されることはないのではないか。

カンボジアでクズなドイツ人が逮捕されてもドイツの新聞が報道するということはないだろうし、アメリカ人でも同じ。

当地の新聞で報道されるものも、起訴に至ったものばかりであるし、それもすべてかどうかわからない。実態と比べれば、氷山のほんの小さな一角である。

東南アジアの国々の警察は(マレーシアも含めて)白人に対してはきわめて及び腰である。タイはいうまでもないが、カンボジアのような弱小国ならなおさらであろう。もしも白人を誤認逮捕でもしたら欧米メディアにどれだけたたかれることか。賠償を請求され、重要な資源である観光のイメージを悪くすることか・・・・。

よほどの目にあまる確証(たとえば近所の人間は誰もが知っているとか、白人NPOからの通告とか、白人からの密告とか)がない限り、なかなか強制捜査に着手できないのではないだろうか。この事件の犯人も、2人のローティーンの少女を同時に、ゲストハウスの自分の部屋に連れ込むという、おぞましくも不用意な男である。
underageというのが何歳からになっているのかわからないが、新聞で報道されるのは女の子が15歳未満の場合ばかりである。

日本のように17歳と援助交際で逮捕されて名前を晒されるということはない。17歳の少女を堂々とレンタルワイフにしている白人男は東南アジアにはいくらでもいるだろう。

つまり、underageでない年長女子との同棲や事実上の人身売買は大手を振ってまかり通っており、そのような白人は自国メディアでの倫理批判を受けることもなく開き直っているということである。

児童買春カテゴリーを見てほしい。白人の児童買春犯罪がいかにすさまじく性懲りもないことか。

私は常に新聞をチェックしているわけではないし日本にいるときもあるから、これらは報道されたものの中でも氷山の一角、つまり氷山の一角のさらに一角なのである


ドイツ人男が児童性的虐待で10年の刑 シアヌークビル カンボジア

裁判所は、7歳もの若さの4人のホームレスの少年に性的虐待をした36歳のドイツ人の男に10年の刑を言い渡した。男の名前は、Watrin Alexander Moritz。火曜日、シアヌークビルの地方裁判所により、debauchery(遊蕩):これは当地の当局が使う性的虐待を意味する言葉、の罪で有罪の宣告を受けた。(マレーシア紙New Straits Times記事)

「プノンペンの置屋にたむろする日本人」を批判する産経新聞の記事を前にあげたが、白人流のやり方の一端がこの事件に現れている。ホームレスの少年と直接交渉したようである。白人はフィールドを好むようだ。

アンコールワットの近くにあるレストランなどにも多くの白人ツーリストがたむろしている。

そして、実にかわいらしい(カンボジアの子供はたいていかわいらしいが)幼い少女たちが、彼らのところに笛を売りに来る。白人男たちはまず買わないが、物売りの幼女たちと会話を楽しんでいるようだった。

4年前に私が見たのはそこまでであるからそれ以上のことは言えない。

しかし、3,4年前のタイで。「チェンマイの花売り少女」は8歳ぐらいから20歳近いのまでいた。多くは山岳少数民族の女の子たちで、ロイクローの売春バーにたむろする白人酔客たちのところに行って薔薇を売っている。(チェンマイのバーは売春バーでもオープンバーで花売りが自由に客のところまで行ける)。客は花を買ってバーの女(多くが売春婦で少数民族の少女が多い)にやるのである。

花売り娘たちは夜更けまでチェンマイの街中をうろついていた。中にはかわいらしい12歳の少女で、なぜか英語が上手すぎる子もいた。

NGOのようなところに出入りしていた14歳のアカ族の少女は、バーの白人客から500バーツでホテルに行こうと持ちかけられたことがあると言っていた。彼女は学校には行っていなかったが英語が話せた。キリスト教ミッショナリーに侵食された村の出身らしく、自分もクリスチャンだといっていた。英語は村の教会(高床式の村の中でひときわ目立つけばけばしくペンキを塗りたてた小屋など)で教わったようだった。

タイの山岳少数民族はお金に困ることが多い。彼女らのほとんどが「永久IDカード」は持っていなかった。タイ族なら無条件にIDカード(=タイ市民権)が交付されるが、山岳少数民族には難しい。町に出てきている山岳民族の多くが期限付きのIDしか持たず、その更新をするには警察に大金(私が聞いたときは4000バーツ)を払わなければならない。(IDカードなしでも自分の村には住めるが、移動の自由はなく町に出ることができない。

彼らは本来山岳地域を移動しながら焼き畑農業などをしてきたので、移動を禁じられることは自給自足の生活さえ脅かされることを意味する。また貨幣経済の浸透により、現金収入も必要になっているからどうしても町に出ざるを得ない。一方ミャンマーではすべての山岳民族が永久IDを与えられる。山岳少数民族の市民権に関する扱いではタイよりもミャンマーのほうがより「人権」に配慮している)。

彼女たちにとって4000バーツは気の遠くなる大金である。このような状況に陥った少女たちに対してファラン(白人)の「援助」の手が差し伸べられることは、大いにありそうなことであろう。

東南アジア全域で、花売りや物売りや乞食の少年少女(幼女)に「援助」を持ちかける白人男は数え切れないと思われる。
 
アジアの現地警察は(日本を含めて)、白人の性犯罪に関してはよほど目に余ることをやっていない限り手を出せないということにも注意すべきである。

カンボジア警察はよくやっているほうだが、これは国連が作り出した「スワイパー村」での幼女買春(お客は国連関係者)が問題になった経緯があり、国連機関・国際警察機構が取締りの後押しをしているからである。

タイ当局は「取り締まらないことによって問題がないことにする」政策を貫き、映画「闇の子供たち」をも弾圧している。


「闇の子供たち」、タイで上映中止に=バンコク国際映画祭

(私はこの映画を見ていないし原作も呼んでいないので、その内容についてはここで評価することはしないが)。

実際、タイの田舎を回ってみれば、不自然な3人家族を見かけることは珍しくないはずである。白人の「父親」とタイ人「妻」と12歳前後の「娘」が、会話も交わさず人目を忍ぶように、あまり人の来ないようなホテルに滞在し、転々としている。
タイ北部の田舎でゲストハウスを経営していたあるアメリカ人は、そういうドイツ人の「父親」から宿泊の依頼を受けたが断ったと言っていた。しかし、このアメリカ人は「良心的」といえるか?

「野蛮」の地では白人同士はやばいことでも遠慮なく頼むし、頼まれたほうもできるだけ力になろうとする。野蛮人の警察に通告したり恐喝したりはしないのである。

アジアの白人ツーリズムは異常である。中東から西では、これに類するような嫌なものは見なかった。ごくまれに土人売春婦連れの白人を見たくらい。
    


2008年9月17日 (水)
いまだに繰り返される「日本人もやっている」で黙らせようとする論法
先日、アクセス解析のリンク元解析を見ていたら、ある匿名掲示板にこの記事のリンクが貼ってあり(よくは読まなかったが)、あいかわらず「そういうことは日本人もやっている」という反論がなされていた。

はっきりいえば、少なくとも今、日本人はこんなことはやっていない。80年代の幼女が万国の路上で売りに出されていたころならどうかわからない。しかし、今こういうことを堂々とやっているのは白人だけである。

なぜなら、相手が白人の場合と日本人の場合とでは現地警察の対応がまったく異なってくるからである。

白人も幼女買春で逮捕されることは多いが、東南アジアで逮捕される事例は、被害者が非常に幼い場合がほとんどで、同時に複数の13歳未満の幼女を自宅やゲストハウスの部屋に引き入れて同時に淫行していたとか、常習であったり、派手なものがほとんどである。目にあまるので近所の住人のうわさになり通報があったような場合である。警察が気がついただけでは容疑者が白人なら見て見ぬふりをするのが普通だろう。カンボジアはいまは多少厳しいかもしれないが、タイではまずそうである。

一方、日本人がこの写真にあるような行為をしていたなら、直ちに現地警察が駆けつけて逮捕するだろう。タイなら現地マスコミも大喜びするはずである。

東南アジアのNGOや国際機関も白人主導であり、できるだけ「アジアで児童を虐待しているのはやっぱりアジア人だ」という結論を導きたがっている。彼らも白人の悪行はなるべく表に出したくないのである。

昔も今も、この種の犯罪行為の「数」から言えば白人が圧倒的である。白人は日本人が東南アジアなどに買春旅行にいくようになる何百年も前から、アジア、アメリカ、アフリカの植民地でこの種の犯罪を普通に、犯罪ともされずにずっと行ってきているのである。

「量の違い」、ということを無視することは欺瞞である。白人が今も続けている圧倒的な歴史的犯罪を、日本人の一件の犯罪で中和することはできない。同じような犯罪行為を行う日本人が数名いたとしても、この種の犯罪の主体が白人であることには変わりはない。

圧倒的な量の違いは「質の違い」なのである。

さらに、「日本人もやっている」という反論で白人批判を中和しようとする言論は、その論者がこの種の行為を「本当は悪いと思っていない」ということを示している。

彼らは日本人がやっている限りはその行為を手厳しく批判し、日本人を非難するだろう。rところが、白人だけがやっているときにはすっかり批判の手を緩めてしまう。それが「悪い」ことであるならば、誰がやっていようと、白人がやろうと日本人がやろうと悪いのだが、彼らにとってはそうではないということだ。

「人権」や「正義」は重要な理念である。ところが、世界史上最も人権や正義を踏みにじってきた白人が人権や正義をもっとも声高に叫んでいる。彼らが偽善者なのは確かだが、だからといって人権や正義が無意味になるわけではない。

つまり、仮に「日本人もやっている」としても、われわれは白人のこの種の犯罪行為を見つけたならばそれを糾弾することができるし、また、しなければならない。人権や正義の普遍性ということはそういうことである。白人は白人の評価を下げるような事実をできる限り隠蔽しようとするのが現実なのだから、なおさら非白人が声を上げなければならない。
 
白人によって「アジア人もやっている」という反論がなされる以上に、日本人自身が「日本人もやっている」で黙らせ、議論自体を潰そうとすることが多い。この種の「日本人もやっているで黙らせる論法」は、非常に「ムラ的」で団体主義的で配分主義的な言論だといえると思う。「日本人ならそのようなことをよそに向かって言うべきではない」といって、日本人言論社会の思想統制をしようとしているに等しいからである。
http://iscariot.cocolog-nifty.com/journal/cat6339172/index.html

http://www.asyura2.com/20/reki4/msg/643.html#c9

[近代史4] アジア人の白人との戦い 中川隆
10. 中川隆[-13370] koaQ7Jey 2020年3月24日 23:15:04 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[1534]

日本の文化にすり寄ってみるのも白人の風流な遊びであり、趣味の類である。

日本の文化は一見異質そうに見えても、実は白人に容易に「理解可能な」ものばかりである。

白人にとって「異文化との出会い」は「深刻な葛藤」ではありえず、選択肢がひとつ増えたという素朴な喜びにすぎない。

そこで彼らが出会うのは決して白人に理解不可能な、アクセス不可能な「他者」ではない。もしそのようなものだったとすれば、それは断固として根こそぎにすべき野蛮だということになる。

http://www.asyura2.com/20/reki4/msg/643.html#c10

[近代史4] アジア人の白人との戦い 中川隆
11. 中川隆[-13369] koaQ7Jey 2020年3月24日 23:15:33 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[1535]

「日本は地上の天国」「日本に行けばヤリ放題」 2012年10月18日木曜日


沖縄で、27歳の女性が米兵に輪姦される事件がありましたが、女性は複数の米兵に追い掛け回された上、首を絞められて、40分以上にもわたって輪姦されたということです。

しかも、米兵は日本に来たばかり。まだ2週間ほどしかたっていない。

犯人の米兵(海軍。海兵隊ではない)は狂っていたわけではなく、最初は女性に声をかけています。日本語混じりでなにか話しかけ(ナンパしようとしたのかもしれませんが)、無視されたため、腹を立てて、追いかけて輪姦したようです。

これは、日本に来る前から、「沖縄に行けばその辺の女をやり放題だぞ」という話があり、そういう予備知識を持ってやってきたに違いないと思われます。

そんなイメージを作っているのは、沖縄にかぎらず、日本人の責任でしょう。

たとえば、タイを賛美する日本人には、「タイは天国」などという言い方をする者がいるようです、これは「タイはなんでも思い通りに行くところ」という意味でしょう。つまり、早い話が、「タイに行けば女をやり放題だぞ」くらいの意味です。

それと同じような感覚で、この米兵たちも「日本は天国」「沖縄は天国」と聞かされていて、そういうつもりで赴任してきたのだろうと思います。この米兵は、カタコトながら日本語で話しかけているのです。
http://kuantan-bin-ibrahim.blogspot.jp/

http://www.asyura2.com/20/reki4/msg/643.html#c11

[近代史4] アジア人の白人との戦い 中川隆
12. 中川隆[-13368] koaQ7Jey 2020年3月24日 23:16:34 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[1536]

道端に女の子のパンツがいっぱい干してあるようなのどかな村に、西洋式生活を全部入れた巨大なバックパックを背負っておしかけ、欧米直輸入のギラギラした眼差しで、女の子が水浴びしている姿やおばさんが昼寝している姿をノゾキ歩くというのが、白人ツーリズムである。

白人ツーリズムの目的はつねに、征服感なのである。

未知のものを暴き出し、未知の領域を踏破し、その空間に白人が滞在できるシステムを設置したという、征服および空間の支配の感覚こそ白人ツーリズムがあくことなく求め続けているものである。
http://iscariot.cocolog-nifty.com/kuantan/2006/12/post_ba4e.html


白人ツーリズムの本源は、十字軍ツーリズム、大航海ツーリズム、植民役人ツーリズムであり、その実相はまず持って、レイプツーリズムにはじまり、幼女姦ツーリズム、人買い・児童買いツーリズム、すなわちゴーギャン鬼畜ツーリズムを基本とするものである。

ゴーギャンこそ児童ポルノのパイオニアである。
このように、白人ツーリズムは「セックスツーリズム」と不可分である。

しかし、この「セックス」は本国におけるセックスと同じではない。「隠されたもの」を暴き出し、「未踏の地」を白人の30センチのビブラムソールで踏みにじり踏破する。
目に付いた処女の脚を開かせてその日常における処女膜の様態を確認し、さらにその断裂の様態をも観察する。これもまた人種分類をうちたてた白人人類学に属する。

重要なことは、これら一連の破壊行為が白人にとってはたんなるエネルギーの消費ではないということである。彼らは「野蛮人」の文化の収奪、有色人種の文明的なエネルギーの収奪という意味を持つようなシステムを確立した上で、この破壊行為に及んでいるのである。

ツーリズムは多かれ少なかれ伝統文化の破壊を将来するが、白人ツーリズムの特徴はやはりその宣教師的な性格、すなわち、熱心な「破壊+宣教」活動にある。
つまり、白人(セックス)ツーリズムは、「破壊」であると同時に「宣教」もあるのである。それは次のようなシステムを持つ。

白人ツーリズムはセックスツーリズムと不可分であるだけでなく、「男女関係」にかんする規範の破壊を必ず将来し、旧来の規範に変わる新しい規範を強要する(恋愛ツーリズム)。

ところが、この「男女関係に関する規範」こそ、あらゆる伝統文化の「形」を維持する堤防なのであり、文化の要(かなめ)なのである。

白人ツーリズムによって「男女関係に関する規範」を破壊された土地は、いわば堤防を壊された「輪中」部落のようなものである。

そこには何の歯止めもなくなり、新しい規範たる白人消費文化と(キリスト教を含む)白人イデオロギーとが無制限に流れ込むことになる。

このように、白人ツーリズムは、たんなる「恋愛ツーリズム」によってさえ、白人世界による非白人ローカル文化の破壊と宣教、その文化的なエネルギーの収奪の尖兵となり、その文化破壊と「新規範の注入」を敢行していくのである。

白人ツーリズムの動因は今も昔も「セックス」(これは「破壊と宣教」でもある)である。
http://iscariot.cocolog-nifty.com/kuantan/2006/12/post_1ade.html

http://www.asyura2.com/20/reki4/msg/643.html#c12

[近代史4] アジア人の白人との戦い 中川隆
13. 中川隆[-13367] koaQ7Jey 2020年3月24日 23:27:22 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[1537]

アジア人と白人はとても同じ人間には見えない


フランシス・レイ 『続エマニエル夫人』


Francis Lai & Sylvia Kristel 映画「続エマニエル夫人」 Emmanuelle II L'Anti Vierge




Emmanuelle(エマニエル夫人)− Pierre Bachelet





Emmanuelle − Pierre Bachelet
http://www.xvideos.com/video20154645/emanuela_1974
 

http://www.asyura2.com/20/reki4/msg/643.html#c13
[近代史4] アジア人の白人との戦い 中川隆
14. 中川隆[-13366] koaQ7Jey 2020年3月24日 23:31:19 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[1538]

アジア人と白人はとても同じ人間には見えない


フランシス・レイ 『男と女』


Un homme et une femme / 男と女 (フランス映画)






1966 Escena Film Un Homme et Une Femme






「男と女」(1966年)フランス映画
監督:クロード・ルルーシュ(カンヌ映画祭グランプリ受賞作品)
出演:アヌーク・エーメ(アンヌ)、ジャン=ルイ・トランティニャン(ジャン・ルイ)
音楽:フランシス・レイ

http://www.asyura2.com/20/reki4/msg/643.html#c14
[近代史4] アジア人の白人との戦い 中川隆
15. 中川隆[-13365] koaQ7Jey 2020年3月24日 23:36:32 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[1539]

アジア人と白人はとても同じ人間には見えない

ダニエル・リカーリ 『エンニオ・モリコーネ Chi mai (From 'Maddalena')』





Danielle Licari - Mal de toi Ennio Morricone | ダニエルリカーリ





「Chi Mai」音楽の、仏語で歌う「Danielle Licari - Ennio Morricone CHI MAI」。


 Danielle Licari は フランス映画「シェルブールの雨傘」でヒロインの歌の吹き替 えをした歌手、ダニエル・リカーリ。





(Extrait) MADDALENA - Jerzy Kawalerowicz - 1971

http://www.asyura2.com/20/reki4/msg/643.html#c15
[近代史4] アジア人の白人との戦い 中川隆
16. 中川隆[-13364] koaQ7Jey 2020年3月24日 23:40:21 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[1540]

アジア人と白人はとても同じ人間には見えない

フランシス・レイ 『白い恋人たち 13 Jours en France』


13 Jours en France







【フランス語】白い恋人たち (13 Jours en France) (日本語字幕)









作詞:ピエール・バルー Pierre Barouh
作曲:フランシス・レイ Francis Lai
歌 :Pierre Barouh & Nicole Croisille ピエール・バルー&ニコール・クロワジール
監督:クロード・ルルーシュClaude Lelouch & フランソワ・ライシェンバッハFrançois Reichenbach。

http://www.asyura2.com/20/reki4/msg/643.html#c16
[近代史4] アジア人の白人との戦い 中川隆
17. 中川隆[-13363] koaQ7Jey 2020年3月24日 23:56:05 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[1541]

アジア人と白人はとても同じ人間には見えない


Romeo And Juliet (1968) Love Theme















http://www.asyura2.com/20/reki4/msg/643.html#c17
[近代史4] 大恐慌の時代 中川隆
10. 中川隆[-13362] koaQ7Jey 2020年3月25日 06:00:53 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[1542]
[NHKスペシャル]] デジタルリマスター版 映像の世紀 第3集




映像の世紀 第4集 ヒトラーの野望〜人々は民族の復興を掲げたナチス・ドイツに未来を託した〜



http://www.asyura2.com/20/reki4/msg/630.html#c10
[近代史4] ヒトラーの共産主義との戦い 中川隆
16. 中川隆[-13361] koaQ7Jey 2020年3月25日 06:01:37 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[1543]



映像の世紀 第4集 ヒトラーの野望〜人々は民族の復興を掲げたナチス・ドイツに未来を託した〜



http://www.asyura2.com/20/reki4/msg/638.html#c16
[近代史4] 第一次大戦がヨーロッパを変えた 中川隆
24. 中川隆[-13360] koaQ7Jey 2020年3月25日 06:03:25 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[1544]
映像の世紀 第2集 大量殺戮の完成〜塹壕の兵士たちは凄まじい兵器の出現を見た〜



http://www.asyura2.com/20/reki4/msg/629.html#c24
[近代史4] 20世紀初めはこういう時代だった 中川隆
6. 中川隆[-13359] koaQ7Jey 2020年3月25日 06:04:45 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[1545]

【新・映像の世紀】第1集 第一次世界大戦・100年の悲劇はここから始まった



http://www.asyura2.com/20/reki4/msg/612.html#c6
[近代史4] 大恐慌の時代 中川隆
11. 中川隆[-13358] koaQ7Jey 2020年3月25日 06:17:25 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[1546]

ナチの実権を握った後も、ヒトラーの生活は質素だった。相変わらず狭いアパート(トーランド本によると8フィート×15フィート)に住んでいた。トーランドは続けて「ウィーンの独身男子寮と大差なかった。そこはその建物の中で一番寒い部屋で、家主のエルランガー氏によれば、『その部屋を借りた下宿人の何人かは病気になりました。いまは物置がわりに使っています。もう借り手は一人もつかないでしょう』」と書いている。

 さらにトーランドはエルランガーについて、「ヒトラーが当時住んでいた下宿の主人エルランガーがユダヤ人で、しかも(ヒトラーに対して)快い想い出しか持っていなかったというのは皮肉である。『わたしはしばしば階段や入り口で彼と顔を合わせました……彼はたいていノ−トに何か書いていました……かれがわたしをほかの人間とはちがう目で見ている、と感じさせられたことは一度もありません』」と別のページの脚注につけ加えている。

 ところが、演説ではヒトラーはユダヤ人を攻撃した。第1次世界大戦の敗北、その後の革命騒ぎ、そのような状況下でも儲ける金融資本家を批判して、4月12日の演説で以下のように語っている。

「我々は、すでに外国の植民地なのである。しかも、我々は能う限り卑屈な態度をとり、我々自身の名誉を毀損してまで、これを助成した……共同体を形成するというがごとき概念がユダヤ人にはまったく欠けているため、彼[ユダヤ人]は破壊し、また破壊せねばならないということである。この場合、個々のユダヤ人が『正しい』か否かは、もとより問題とはならない。彼[ユダヤ人]は自然が彼に付与した特質をあくまで有しているのであって、永久にこれから脱れることはできないのである」(「我が新秩序」、阿部良男著「ヒトラー全記録」よりまた引き)

 6月24日、ベルリンでは外国の信頼の厚かったワルター・ラーテナウ外相が、右翼グループに暗殺される事件が起こる。ラーテナウはユダヤ人で企業家であり、大富豪だった。外相就任後、アメリカへのドイツの苦境の理解の浸透、賠償を請求する連合国諸国にはヴェルサイユ条約を履行する積極的な態度を示しながら、いかにその賠償を支払うことが不可能に近いかを理解させることに力を尽くした。

 東方に向かっては、ラーテナウはソヴィエトと条約を結び、相互賠償の破棄、通商関係の再開、ソヴィエト近代化への助成、軍の相互協力がその中に盛り込まれた。

 国粋主義者はそれに反発した。

 ラーテナウ暗殺は外国を刺激し、ベルリン、ハンブルクの取引市場は大混乱に陥り、マルクは大暴落した。「当日1ドル350マルク、7月末670マルク、8月中2000マルク、10月末4500マルク(「全記録」。「ワイマール共和国史」には「7月にはいるとドル相場は5000マルク以上に達した」と書かれていることも紹介されている)
 ドイツ政府は緊急通貨政策を実施、地方自治体、鉄道、大手醸造所などは独自通貨を発行してそれをしのごうとしたが、インフレは収まる気配がなかった。

 ラーテナウが暗殺された6月24日、ヒトラーはバイエルン分離主義者の集会を妨害した罪で収監される。ヒトラーの入獄は約1ヶ月間続いた。ヒトラーは監獄でますますユダヤ人攻撃の思索を重ねた。7月27日に釈放され、その翌日にはラーテナウ暗殺をきっかけに生まれた「ドイツ共和国擁護法」(右翼、左翼を取り締まる法律)を批判、その中でより激しくユダヤ人を攻撃した。

「ユダヤ人はけっして紳士民族ではない。彼らは搾取者であり、強盗民族なのだ。彼らの破壊した文化は幾百に上がろうが、彼らは未だかつて文化を建設したことはない。彼らの有するものは、自ら創造したものではない」(「全記録」)

 この年の秋、第1次世界大戦の空の英雄ヘルマン・ゲーリングがナチに入党した。

 第1次世界大戦終盤から1923年頃まで、日本は大正期で、第1次世界大戦での山東省からドイツの駆逐、ロシア革命を牽制するための欧米列強に倣ったシベリア出兵などはあったが、概ね大きな波は起こっていない。

 1918年、米の価格が暴騰したため富山を発端とする全国規模に膨れあがった大正米騒動が起こったり、1920年3月株価が大暴落、戦後恐慌など不安定な出来事もあったが、「大正デモクラシー」の時代であり、後年から俯瞰すると昭和への前奏曲という感が強いことは否めない。

 政治的には1921年(大正11年)11月4日、原敬首相暗殺事件、市民生活・自然災害としては1923年(大正12年)9月1日、関東大震災の発生が昭和への不気味な胎動を思わせる。

 軍備は増強され、大艦巨砲主義から巨大戦艦や空母の建造、また無政府主義者や共産主義者の弾圧・暗殺も行われた。憲兵大尉甘粕正彦による大杉栄、伊藤野枝を殺害した事件は関東大震災の直後、1923年9月16日だった。

 また、袁世凱の死後(1916年)、軍閥が割拠しはじめた中国で、日本は中国東北部(満州)での足がかりを確固としたものにしようとしている。租借地であった関東州(遼東半島)の守備、および南満州鉄道附属地警備を目的とした関東都督府の守備隊が1919年(大正8年)に関東軍として独立した(Wikipediaより)。
http://kna-club.com/html/modules/knapedia/index.php?content_id=17

http://www.asyura2.com/20/reki4/msg/630.html#c11

[近代史4] アドルフ・ヒトラーの世界 中川隆
10. 中川隆[-13357] koaQ7Jey 2020年3月25日 06:18:03 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[1547]

ナチの実権を握った後も、ヒトラーの生活は質素だった。相変わらず狭いアパート(トーランド本によると8フィート×15フィート)に住んでいた。トーランドは続けて「ウィーンの独身男子寮と大差なかった。そこはその建物の中で一番寒い部屋で、家主のエルランガー氏によれば、『その部屋を借りた下宿人の何人かは病気になりました。いまは物置がわりに使っています。もう借り手は一人もつかないでしょう』」と書いている。

 さらにトーランドはエルランガーについて、「ヒトラーが当時住んでいた下宿の主人エルランガーがユダヤ人で、しかも(ヒトラーに対して)快い想い出しか持っていなかったというのは皮肉である。『わたしはしばしば階段や入り口で彼と顔を合わせました……彼はたいていノ−トに何か書いていました……かれがわたしをほかの人間とはちがう目で見ている、と感じさせられたことは一度もありません』」と別のページの脚注につけ加えている。

 ところが、演説ではヒトラーはユダヤ人を攻撃した。第1次世界大戦の敗北、その後の革命騒ぎ、そのような状況下でも儲ける金融資本家を批判して、4月12日の演説で以下のように語っている。

「我々は、すでに外国の植民地なのである。しかも、我々は能う限り卑屈な態度をとり、我々自身の名誉を毀損してまで、これを助成した……共同体を形成するというがごとき概念がユダヤ人にはまったく欠けているため、彼[ユダヤ人]は破壊し、また破壊せねばならないということである。この場合、個々のユダヤ人が『正しい』か否かは、もとより問題とはならない。彼[ユダヤ人]は自然が彼に付与した特質をあくまで有しているのであって、永久にこれから脱れることはできないのである」(「我が新秩序」、阿部良男著「ヒトラー全記録」よりまた引き)

 6月24日、ベルリンでは外国の信頼の厚かったワルター・ラーテナウ外相が、右翼グループに暗殺される事件が起こる。ラーテナウはユダヤ人で企業家であり、大富豪だった。外相就任後、アメリカへのドイツの苦境の理解の浸透、賠償を請求する連合国諸国にはヴェルサイユ条約を履行する積極的な態度を示しながら、いかにその賠償を支払うことが不可能に近いかを理解させることに力を尽くした。

 東方に向かっては、ラーテナウはソヴィエトと条約を結び、相互賠償の破棄、通商関係の再開、ソヴィエト近代化への助成、軍の相互協力がその中に盛り込まれた。

 国粋主義者はそれに反発した。

 ラーテナウ暗殺は外国を刺激し、ベルリン、ハンブルクの取引市場は大混乱に陥り、マルクは大暴落した。「当日1ドル350マルク、7月末670マルク、8月中2000マルク、10月末4500マルク(「全記録」。「ワイマール共和国史」には「7月にはいるとドル相場は5000マルク以上に達した」と書かれていることも紹介されている)
 ドイツ政府は緊急通貨政策を実施、地方自治体、鉄道、大手醸造所などは独自通貨を発行してそれをしのごうとしたが、インフレは収まる気配がなかった。

 ラーテナウが暗殺された6月24日、ヒトラーはバイエルン分離主義者の集会を妨害した罪で収監される。ヒトラーの入獄は約1ヶ月間続いた。ヒトラーは監獄でますますユダヤ人攻撃の思索を重ねた。7月27日に釈放され、その翌日にはラーテナウ暗殺をきっかけに生まれた「ドイツ共和国擁護法」(右翼、左翼を取り締まる法律)を批判、その中でより激しくユダヤ人を攻撃した。

「ユダヤ人はけっして紳士民族ではない。彼らは搾取者であり、強盗民族なのだ。彼らの破壊した文化は幾百に上がろうが、彼らは未だかつて文化を建設したことはない。彼らの有するものは、自ら創造したものではない」(「全記録」)

 この年の秋、第1次世界大戦の空の英雄ヘルマン・ゲーリングがナチに入党した。

 第1次世界大戦終盤から1923年頃まで、日本は大正期で、第1次世界大戦での山東省からドイツの駆逐、ロシア革命を牽制するための欧米列強に倣ったシベリア出兵などはあったが、概ね大きな波は起こっていない。

 1918年、米の価格が暴騰したため富山を発端とする全国規模に膨れあがった大正米騒動が起こったり、1920年3月株価が大暴落、戦後恐慌など不安定な出来事もあったが、「大正デモクラシー」の時代であり、後年から俯瞰すると昭和への前奏曲という感が強いことは否めない。

 政治的には1921年(大正11年)11月4日、原敬首相暗殺事件、市民生活・自然災害としては1923年(大正12年)9月1日、関東大震災の発生が昭和への不気味な胎動を思わせる。

 軍備は増強され、大艦巨砲主義から巨大戦艦や空母の建造、また無政府主義者や共産主義者の弾圧・暗殺も行われた。憲兵大尉甘粕正彦による大杉栄、伊藤野枝を殺害した事件は関東大震災の直後、1923年9月16日だった。

 また、袁世凱の死後(1916年)、軍閥が割拠しはじめた中国で、日本は中国東北部(満州)での足がかりを確固としたものにしようとしている。租借地であった関東州(遼東半島)の守備、および南満州鉄道附属地警備を目的とした関東都督府の守備隊が1919年(大正8年)に関東軍として独立した(Wikipediaより)。
http://kna-club.com/html/modules/knapedia/index.php?content_id=17

http://www.asyura2.com/20/reki4/msg/374.html#c10

[近代史3] アメリカの極秘文書が伝える天才ヒトラーの意外な素顔 中川隆
53. 中川隆[-13356] koaQ7Jey 2020年3月25日 06:18:52 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[1548]

ナチの実権を握った後も、ヒトラーの生活は質素だった。相変わらず狭いアパート(トーランド本によると8フィート×15フィート)に住んでいた。トーランドは続けて「ウィーンの独身男子寮と大差なかった。そこはその建物の中で一番寒い部屋で、家主のエルランガー氏によれば、『その部屋を借りた下宿人の何人かは病気になりました。いまは物置がわりに使っています。もう借り手は一人もつかないでしょう』」と書いている。

 さらにトーランドはエルランガーについて、「ヒトラーが当時住んでいた下宿の主人エルランガーがユダヤ人で、しかも(ヒトラーに対して)快い想い出しか持っていなかったというのは皮肉である。『わたしはしばしば階段や入り口で彼と顔を合わせました……彼はたいていノ−トに何か書いていました……かれがわたしをほかの人間とはちがう目で見ている、と感じさせられたことは一度もありません』」と別のページの脚注につけ加えている。

 ところが、演説ではヒトラーはユダヤ人を攻撃した。第1次世界大戦の敗北、その後の革命騒ぎ、そのような状況下でも儲ける金融資本家を批判して、4月12日の演説で以下のように語っている。

「我々は、すでに外国の植民地なのである。しかも、我々は能う限り卑屈な態度をとり、我々自身の名誉を毀損してまで、これを助成した……共同体を形成するというがごとき概念がユダヤ人にはまったく欠けているため、彼[ユダヤ人]は破壊し、また破壊せねばならないということである。この場合、個々のユダヤ人が『正しい』か否かは、もとより問題とはならない。彼[ユダヤ人]は自然が彼に付与した特質をあくまで有しているのであって、永久にこれから脱れることはできないのである」(「我が新秩序」、阿部良男著「ヒトラー全記録」よりまた引き)

 6月24日、ベルリンでは外国の信頼の厚かったワルター・ラーテナウ外相が、右翼グループに暗殺される事件が起こる。ラーテナウはユダヤ人で企業家であり、大富豪だった。外相就任後、アメリカへのドイツの苦境の理解の浸透、賠償を請求する連合国諸国にはヴェルサイユ条約を履行する積極的な態度を示しながら、いかにその賠償を支払うことが不可能に近いかを理解させることに力を尽くした。

 東方に向かっては、ラーテナウはソヴィエトと条約を結び、相互賠償の破棄、通商関係の再開、ソヴィエト近代化への助成、軍の相互協力がその中に盛り込まれた。

 国粋主義者はそれに反発した。

 ラーテナウ暗殺は外国を刺激し、ベルリン、ハンブルクの取引市場は大混乱に陥り、マルクは大暴落した。「当日1ドル350マルク、7月末670マルク、8月中2000マルク、10月末4500マルク(「全記録」。「ワイマール共和国史」には「7月にはいるとドル相場は5000マルク以上に達した」と書かれていることも紹介されている)
 ドイツ政府は緊急通貨政策を実施、地方自治体、鉄道、大手醸造所などは独自通貨を発行してそれをしのごうとしたが、インフレは収まる気配がなかった。

 ラーテナウが暗殺された6月24日、ヒトラーはバイエルン分離主義者の集会を妨害した罪で収監される。ヒトラーの入獄は約1ヶ月間続いた。ヒトラーは監獄でますますユダヤ人攻撃の思索を重ねた。7月27日に釈放され、その翌日にはラーテナウ暗殺をきっかけに生まれた「ドイツ共和国擁護法」(右翼、左翼を取り締まる法律)を批判、その中でより激しくユダヤ人を攻撃した。

「ユダヤ人はけっして紳士民族ではない。彼らは搾取者であり、強盗民族なのだ。彼らの破壊した文化は幾百に上がろうが、彼らは未だかつて文化を建設したことはない。彼らの有するものは、自ら創造したものではない」(「全記録」)

 この年の秋、第1次世界大戦の空の英雄ヘルマン・ゲーリングがナチに入党した。

 第1次世界大戦終盤から1923年頃まで、日本は大正期で、第1次世界大戦での山東省からドイツの駆逐、ロシア革命を牽制するための欧米列強に倣ったシベリア出兵などはあったが、概ね大きな波は起こっていない。

 1918年、米の価格が暴騰したため富山を発端とする全国規模に膨れあがった大正米騒動が起こったり、1920年3月株価が大暴落、戦後恐慌など不安定な出来事もあったが、「大正デモクラシー」の時代であり、後年から俯瞰すると昭和への前奏曲という感が強いことは否めない。

 政治的には1921年(大正11年)11月4日、原敬首相暗殺事件、市民生活・自然災害としては1923年(大正12年)9月1日、関東大震災の発生が昭和への不気味な胎動を思わせる。

 軍備は増強され、大艦巨砲主義から巨大戦艦や空母の建造、また無政府主義者や共産主義者の弾圧・暗殺も行われた。憲兵大尉甘粕正彦による大杉栄、伊藤野枝を殺害した事件は関東大震災の直後、1923年9月16日だった。

 また、袁世凱の死後(1916年)、軍閥が割拠しはじめた中国で、日本は中国東北部(満州)での足がかりを確固としたものにしようとしている。租借地であった関東州(遼東半島)の守備、および南満州鉄道附属地警備を目的とした関東都督府の守備隊が1919年(大正8年)に関東軍として独立した(Wikipediaより)。
http://kna-club.com/html/modules/knapedia/index.php?content_id=17

http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/207.html#c53

[近代史3] ドイツ人を変えたヒトラー奇跡の演説 _ ヨーロッパの戦い こうして始まった!  中川隆
17. 中川隆[-13355] koaQ7Jey 2020年3月25日 06:19:20 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[1549]

ナチの実権を握った後も、ヒトラーの生活は質素だった。相変わらず狭いアパート(トーランド本によると8フィート×15フィート)に住んでいた。トーランドは続けて「ウィーンの独身男子寮と大差なかった。そこはその建物の中で一番寒い部屋で、家主のエルランガー氏によれば、『その部屋を借りた下宿人の何人かは病気になりました。いまは物置がわりに使っています。もう借り手は一人もつかないでしょう』」と書いている。

 さらにトーランドはエルランガーについて、「ヒトラーが当時住んでいた下宿の主人エルランガーがユダヤ人で、しかも(ヒトラーに対して)快い想い出しか持っていなかったというのは皮肉である。『わたしはしばしば階段や入り口で彼と顔を合わせました……彼はたいていノ−トに何か書いていました……かれがわたしをほかの人間とはちがう目で見ている、と感じさせられたことは一度もありません』」と別のページの脚注につけ加えている。

 ところが、演説ではヒトラーはユダヤ人を攻撃した。第1次世界大戦の敗北、その後の革命騒ぎ、そのような状況下でも儲ける金融資本家を批判して、4月12日の演説で以下のように語っている。

「我々は、すでに外国の植民地なのである。しかも、我々は能う限り卑屈な態度をとり、我々自身の名誉を毀損してまで、これを助成した……共同体を形成するというがごとき概念がユダヤ人にはまったく欠けているため、彼[ユダヤ人]は破壊し、また破壊せねばならないということである。この場合、個々のユダヤ人が『正しい』か否かは、もとより問題とはならない。彼[ユダヤ人]は自然が彼に付与した特質をあくまで有しているのであって、永久にこれから脱れることはできないのである」(「我が新秩序」、阿部良男著「ヒトラー全記録」よりまた引き)

 6月24日、ベルリンでは外国の信頼の厚かったワルター・ラーテナウ外相が、右翼グループに暗殺される事件が起こる。ラーテナウはユダヤ人で企業家であり、大富豪だった。外相就任後、アメリカへのドイツの苦境の理解の浸透、賠償を請求する連合国諸国にはヴェルサイユ条約を履行する積極的な態度を示しながら、いかにその賠償を支払うことが不可能に近いかを理解させることに力を尽くした。

 東方に向かっては、ラーテナウはソヴィエトと条約を結び、相互賠償の破棄、通商関係の再開、ソヴィエト近代化への助成、軍の相互協力がその中に盛り込まれた。

 国粋主義者はそれに反発した。

 ラーテナウ暗殺は外国を刺激し、ベルリン、ハンブルクの取引市場は大混乱に陥り、マルクは大暴落した。「当日1ドル350マルク、7月末670マルク、8月中2000マルク、10月末4500マルク(「全記録」。「ワイマール共和国史」には「7月にはいるとドル相場は5000マルク以上に達した」と書かれていることも紹介されている)
 ドイツ政府は緊急通貨政策を実施、地方自治体、鉄道、大手醸造所などは独自通貨を発行してそれをしのごうとしたが、インフレは収まる気配がなかった。

 ラーテナウが暗殺された6月24日、ヒトラーはバイエルン分離主義者の集会を妨害した罪で収監される。ヒトラーの入獄は約1ヶ月間続いた。ヒトラーは監獄でますますユダヤ人攻撃の思索を重ねた。7月27日に釈放され、その翌日にはラーテナウ暗殺をきっかけに生まれた「ドイツ共和国擁護法」(右翼、左翼を取り締まる法律)を批判、その中でより激しくユダヤ人を攻撃した。

「ユダヤ人はけっして紳士民族ではない。彼らは搾取者であり、強盗民族なのだ。彼らの破壊した文化は幾百に上がろうが、彼らは未だかつて文化を建設したことはない。彼らの有するものは、自ら創造したものではない」(「全記録」)

 この年の秋、第1次世界大戦の空の英雄ヘルマン・ゲーリングがナチに入党した。

 第1次世界大戦終盤から1923年頃まで、日本は大正期で、第1次世界大戦での山東省からドイツの駆逐、ロシア革命を牽制するための欧米列強に倣ったシベリア出兵などはあったが、概ね大きな波は起こっていない。

 1918年、米の価格が暴騰したため富山を発端とする全国規模に膨れあがった大正米騒動が起こったり、1920年3月株価が大暴落、戦後恐慌など不安定な出来事もあったが、「大正デモクラシー」の時代であり、後年から俯瞰すると昭和への前奏曲という感が強いことは否めない。

 政治的には1921年(大正11年)11月4日、原敬首相暗殺事件、市民生活・自然災害としては1923年(大正12年)9月1日、関東大震災の発生が昭和への不気味な胎動を思わせる。

 軍備は増強され、大艦巨砲主義から巨大戦艦や空母の建造、また無政府主義者や共産主義者の弾圧・暗殺も行われた。憲兵大尉甘粕正彦による大杉栄、伊藤野枝を殺害した事件は関東大震災の直後、1923年9月16日だった。

 また、袁世凱の死後(1916年)、軍閥が割拠しはじめた中国で、日本は中国東北部(満州)での足がかりを確固としたものにしようとしている。租借地であった関東州(遼東半島)の守備、および南満州鉄道附属地警備を目的とした関東都督府の守備隊が1919年(大正8年)に関東軍として独立した(Wikipediaより)。
http://kna-club.com/html/modules/knapedia/index.php?content_id=17

http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/352.html#c17

[近代史4] ハンス・クナッパーツブッシュ研究 中川隆
1. 中川隆[-13354] koaQ7Jey 2020年3月25日 06:39:30 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[1550]

クナッパーツブッシュの名盤


ベートーヴェン 『交響曲第3番』
http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/843.html

ベートーヴェン 『交響曲第5番』
http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/841.html

ベートーヴェン 『交響曲第8番』
http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/844.html

ベートーヴェン オペラ 『フィデリオ』
http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/836.html

シューベルト 『交響曲 ハ長調 D 944 』
http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/857.html

シューベルト 『軍隊行進曲』
http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/859.html

ロベルト・シューマン 交響曲第4番
http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/895.html  

ワーグナー 楽劇「トリスタンとイゾルデ」
http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/811.html

ワーグナー 舞台祝典劇 「ニーベルングの指輪」
http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/812.html

ワーグナー 楽劇「パルジファル」
http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/813.html  

ブルックナーの作品は日本の男のためにある _ 日本でのブルックナー人気は宇野功芳のカリスマ評論が唯一の原因
http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/684.html  

リヒャルト・シュトラウス 『薔薇の騎士』
http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/881.html  
http://www.asyura2.com/20/reki4/msg/644.html#c1

[近代史4] ハンス・クナッパーツブッシュ研究 中川隆
2. 中川隆[-13353] koaQ7Jey 2020年3月25日 06:49:51 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[1551]


クナッパーツブッシュが一番高く評価していた交響曲は


brahms Symphony No. 3, Knappertsbusch (1963) ブラームス 交響曲第3番 クナッパーツブッシュ



指揮:ハンス・クナッパーツブッシュ
シュトゥットガルト放送交響楽団
録音:1963年11月15日 (実況録音)

_____


Johannes Brahms "Symphony No 4" Hans Knappertsbusch





WDR Symphony Orchestra
Hans Knappertsbusch, Conductor
Köln 1953

_______



Bruckner Symphony No.8 in C minor - Hans Knappertsbusch - Munchner Philharmoniker




ハンス・クナッパーツブッシュ
ミュンヘン・フィルハーモニー管弦楽団
1963年ライブ音源

____


Bruckner - Symphony No 9 - Knappertsbusch, BPO, 30-01-1950




Berlin Philharmonic Orchestra conducted by Hans Knappertsbusch
Live recording 30/01/1950 Titania-Palast, Berlin




Bruckner, Sinfonie Nr.5, Knappertsbusch 1959(pseudo-stereo)



Munchner Philharmoniker
Hans Knappertsbusch 1959(pseudo-stereo)

______


Bruckner Symphony No.7 Hans Knappertsbusch 1963 -




Koln Radio Symphony Orchestra 10 may 1963

http://www.asyura2.com/20/reki4/msg/644.html#c2
[近代史4] ハンス・クナッパーツブッシュ研究 中川隆
3. 中川隆[-13352] koaQ7Jey 2020年3月25日 07:00:20 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[1552]

ハンス・クナッパーツブッシュ(Hans Knappertsbusch, 1888年3月12日 - 1965年10月25日)は、ドイツの指揮者。

ミュンヘンやウィーンなどで活躍し、とくにリヒャルト・ワーグナーやアントン・ブルックナーの大家として知られる。1951年から1964年にかけて、ほぼ毎年出演したバイロイト音楽祭では主幹的指揮者を務めた[1]。

193センチの長身で、ドイツや日本では「クナ」(Kna) の愛称で親しまれた。


ラインラント地方の都市エルバーフェルト(現在はヴッパータール市の一部)にあるアルコール蒸留会社を経営していたグスタフの次男として生まれる。(なお、同郷出身の指揮者にはギュンター・ヴァントや、ホルスト・シュタインがいる。)

クナッパーツブッシュは子供の頃から音楽家に憧れていたが、家族、特に母と兄(後に会社を継ぐ)の反対もあり、ボン大学に進み哲学を学んだ。後にミュンヘンでも哲学を学び、卒業論文は『パルジファルにおけるクンドリー』であったと言われる。ケルン音楽大学にて音楽を修め、ブラームスの演奏で有名なフリッツ・シュタインバッハに指揮法を学ぶ[3]。

1909年から1912年までバイロイト音楽祭における、ハンス・リヒターの助手として潜り込むことに成功。それ以後、故郷のエルバーフェルトやライプツィヒ、デッサウ、ミュールハイム・アン・デア・ルール(1910年に、ここでデビューしたと伝えられる)など各地の歌劇場やオーケストラにて修行を重ね、1922年、34歳にしてブルーノ・ワルターの後任としてミュンヘンのバイエルン州立歌劇場の音楽監督に就任する。

翌1923年にはウィーンに初めて進出し、ウィーン・フィルハーモニー管弦楽団とも1929年のザルツブルク音楽祭で初顔合わせを果たしている。

しかし、1935年にバイエルン州での演奏活動を禁止され、同時にバイエルン州立歌劇場からも追放[4]される(後任は当時ナチ寄りとされたクレメンス・クラウス)。

追放後はウィーンとベルリン、ザルツブルク音楽祭などに定期的に客演した。

1936年からはウィーン国立歌劇場を根城に、1944年6月30日の『神々の黄昏』上演(爆撃で破壊される前の最後の上演)まで同劇場で精力的な演奏活動を繰り広げた。『黄昏』上演後は、終戦まで息を潜めていた。

1945年8月17日、ミュンヘンのプリンツレゲンテン劇場のバイエルン州立管弦楽団とのコンサートで活動を再開するも、1ヵ月後に連合軍から「反ユダヤ主義者」という誤った嫌疑で活動を禁止されてしまう

(彼はユダヤ人とも交際が幅広かった。禁止解除後、連合軍は謝罪している)。

2年後の1947年にバンベルク交響楽団を指揮し改めて活動を再開。ミュンヘンとウィーンを中心に[5]指揮活動を継続した。1951年にはバイロイト音楽祭に初登場、『指環』、『パルジファル』を指揮した。


その後はウィーン、ベルリン、バイロイトを中心に、イタリアやパリでも演奏活動を続けたが、1961年にブリュッセルで胃の大手術を受け、以後は体力が衰えがちとなり椅子に座って指揮するようになった。

1964年の秋に自宅で転倒して大腿骨を骨折したのが原因で一気に体力が衰え、翌1965年に自宅で亡くなった。

クナッパーツブッシュの亡骸は2番目の妻であるマリオン(1895-1984[6])とともにミュンヘンのボーゲンハウゼン墓地(聖ゲオルグ教会)に葬られている[7]。

人物

クナッパーツブッシュは大変な練習嫌いで通っていた。第二次世界大戦中の爆撃で破壊され、1955年に再建されたウィーン国立歌劇場の再開記念公演で、リヒャルト・シュトラウスの楽劇『薔薇の騎士[8]』を上演することになった時には、練習場所のアン・デア・ウィーン劇場でメンバーに向かって「あなたがたはこの作品をよく知っています。私もよく知っています。それでは何のために練習しますか」と言って帰ってしまった[9]。この本番のライヴ録音はCD化されている。ただし音楽評論家の吉田秀和は、これはオーケストラや指揮者がそれまで繰り返し手がけてきた作品であることを前提としており、クナッパーツブッシュがどんな場合でも準備をしなかった訳ではないだろうとしてる[10]。

ナチスの政権奪取後は流石に表だった批判をせず、体制に配慮してトーマス・マンを非難する論文に署名したり、ヒムラーの臨席による親衛隊向けのコンサートを主催するなど、それなりに合わせてはいたが、彼の指揮スタイルがヒトラーの趣味に合わず[11]1936年にミュンヘンを追放された[12]ことで、第三帝国終焉までナチスとの相性は悪かった。ナチスによる音楽活動に従事していたにもかかわらず、大戦後の職務復帰は比較的早かった。

演奏解釈・スタイル・レパートリー

岩城宏之がウィーンにいた頃、ウィーン・フィルの楽員に「クナの指揮スタイルが理想だ」と言ったところ、「クナは若い頃は無茶苦茶していたんだ。年をとってからああいう風になっただけだ。君も若いうちは無茶苦茶やればいい」と諭されたという[13]。このように、若かりし頃のクナッパーツブッシュの演奏スタイルは、後年とは異なるものだったようである。40代からレコーディング活動を行っているが、テンポの変化が激しく、後年にレコーディングされた一連のレコード群の解釈と比較すると、その差は大きい。健康問題もあって、レコーディング活動を徐々に疎ましく思うようになっていったといわれるが、それなりに残された[14]。

21世紀に入ってクナッパーツブッシュがウィーン・フィルハーモニー管弦楽団を振ったコンサート映像(ワーグナーの『ワルキューレ』第1幕全曲、『トリスタンとイゾルデ』から前奏曲と「愛の死」、ジークフリート牧歌など)が映像化[15]されるなど、クナッパーツブッシュの指揮の映像を広く目にすることができるようになった。これらの映像では、クナッパーツブッシュが非常に小さく指示を与えているのみであるにもかかわらず、突き刺さるようなFFFが鳴らされるなど[16]、長年の共同作業に基づく解釈が定着していたことがわかる。

ヴィルヘルム・バックハウスとのベートーヴェンのピアノ協奏曲第4番などコンチェルトの伴奏も、映像として残されている[17]。

ワーグナー

楽劇の中では『パルジファル』がお気に入りであり、バイロイトでは1951年から死の前年の1964年まで、出演拒否した1953年を除いて連続して指揮をした。バイロイトでのライヴは、1962年の『パルジファル』は早くからフィリップスよりリリースされていたが、20世紀末以降はクナッパーツブッシュ協会の監修を経て GOLDEN MELODRAM[18]など各種レーベルからリリースされている。

クナッパーツブッシュのバイロイト出演記録

1951年:パルジファル、ニーベルングの指環、ニュルンベルクのマイスタージンガー(ヘルベルト・フォン・カラヤンと交代で指揮)
1952年:パルジファル、マイスターシンガー
1954年:パルジファル
1955年:パルジファル、さまよえるオランダ人(ヨーゼフ・カイルベルトと交代で指揮)
1956年:パルジファル、指環(カイルベルトと交代で指揮)
1957年:パルジファル(アンドレ・クリュイタンスと交代で指揮)、指環
1958年:パルジファル、指環
1959年:パルジファル
1960年:パルジファル、マイスタージンガー
1961年 - 1964年:パルジファル

なお、ゲオルク・ショルティがレコーディングしてワーグナー録音の一大金字塔を打ち立てた『ニーベルングの指環』全曲録音は、最初はクナッパーツブッシュに依頼されたものであり、その下準備のためのレコーディング(『ワルキューレ』第1幕。ジークリンデ:キルステン・フラグスタート、ジークムント:セット・スヴァンホルム、フンディング:アーノルト・ヴァン・ミル)も行われた。

ブルックナーのスコア選択

ブルックナーの交響曲もクナッパーツブッシュの得意としたレパートリーであるが、原典版を使用しなかったことでも知られている。

クナッパーツブッシュの若いころにはブルックナーのスコアはいわゆる「改訂版」しか出版されていなかった。この改訂版にはブルックナー以外の者による改変・カットなどがあったが、こうした改変・カットを見直すべく1935年以来ローベルト・ハースによって校訂された「原典版」が出版され、その後ハースに引き続いてレオポルト・ノヴァークによって校訂された新しい原典版も出版されていった

(「ブルックナーの版問題」も参照のこと)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%96%E3%83%AB%E3%83%83%E3%82%AF%E3%83%8A%E3%83%BC%E3%81%AE%E7%89%88%E5%95%8F%E9%A1%8C

しかしクナッパーツブッシュはブルックナーの交響曲の演奏に際し、校訂された原典版は採用せず旧来の改訂版ばかりを使用した。クナッパーツブッシュがなぜ旧態依然とした改訂版の使用に固執し、演奏当時入手が可能であった原典版を採り上げなかったのかについてはわかっていない。

クナッパーツブッシュがスタジオ録音したブルックナーの交響曲はウィーン・フィルハーモニー管弦楽団を指揮した3番、4番、5番、ミュンヘン・フィルハーモニー管弦楽団を指揮した8番がある。

このほか7番や9番にもライヴ録音がある。

現代では改訂版による演奏に接する機会は極めて稀であり、クナッパーツブッシュによる録音が「一番入手しやすい改訂版の音源」となっている。

レパートリー

ワーグナー指揮者、ブルックナー指揮者のイメージが強すぎるため見過ごされがちだが、実際のレパートリーは幅広く、コンサートでは

バッハからモーツァルト、ベートーヴェン、ブラームス[19]、チャイコフスキー、マーラー、リヒャルト・シュトラウス、シベリウス、バルトーク、フランツ・シュミット、ストラヴィンスキー、テオドール・ベルガーを、

オペラではリヒャルト・シュトラウスの他、ヴェルディやプッチーニ、コルンゴルト、プフィッツナー、ヴォルフ=フェラーリ[20]

なども指揮していた。

また、ウェーバーやシューベルト、ヨハン・シュトラウスなどの小品を振った演奏も高く評価されている。

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%8F%E3%83%B3%E3%82%B9%E3%83%BB%E3%82%AF%E3%83%8A%E3%83%83%E3%83%91%E3%83%BC%E3%83%84%E3%83%96%E3%83%83%E3%82%B7%E3%83%A5
http://www.asyura2.com/20/reki4/msg/644.html#c3

[近代史4] ハンス・クナッパーツブッシュ研究 中川隆
4. 中川隆[-13351] koaQ7Jey 2020年3月25日 07:05:57 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[1553]

クナッパーツブッシュの生涯
http://kna-club.com/html/modules/knapedia/


1888年,クナッパーツブッシュの生まれた年
http://kna-club.com/html/modules/knapedia/index.php?content_id=1

 小生はドイツに行ったことがない。ドイツに行ったことのない人間がドイツのことを書くのは本来無理であるのは承知しつつ、とにかく「ハンス・クナッパーツブッシュの生涯」を始める。

 ハンス・クナッパーツブッシュは1888年3月12日、ドイツのルール地方、ノルトライン=ヴェストファーレン州の街エルバーフェルトで生まれた。ノルトライン=ヴェストファーレン州はドイツ中西部に位置し、政治的にはプロイセンに属した。 
 エルバーフェルトは、1929年に隣のバルメンと合併しバルメン=エルバーフェルトとなり、1930年にヴッパータール市になった。

 ヴッパータール市はドイツの一大工業地帯、ルール地方の西の端で、ケルン、デュッセルドルフ、デュースブルク、エッセン、ドルトムントの大工業都市群に囲まれたような位置にある。すぐ近くには、刃物で有名なゾーリンゲンがある。東部ドイツに位置するベルリンとはドイツの反対側にあった。

 Wikipediaによると、ヴッパータールは、1901年世界で初めて、懸垂式モノレールが走った街だそうである。モノレールを「空中鉄道」という。

 また、繊細業が栄えたと同時に、製薬会社としても日本でも製品を発売している製薬会社「バイエル社」の発祥の地でもある。

 「バイエル社」は後に、第1次世界大戦の間に生まれた8つの会社が共同して作った化学産業の一大トラスト「IG・ファルベン社」の一部になった。ナチが台頭すると「IG・ファルベン社」はナチ・ドイツに積極的に協力、加担した。戦後、「IG・ファルベン社」は連合国側の財閥・トラスト解体政策によって解体され、「バイエル社」は「バイエル社」として単体で活動を始めて現在に至っている。

 ユダヤ人の大量虐殺で悪名高い毒ガス「チクロンB」の製造販売会社「デゲッシュ社」は、「IG・ファルベン社」が第2次世界大戦の時に作った会社である。
 また、マルクス=エンゲルスのフリードリヒ・エンゲルスもこの街に生まれた。Wikipediaのエンゲルスの生涯の解説によると、バルメン=エルバーフェルトは「封建的遺習の残る地域社会」だったそうだから、ドイツの古い風習の残る地方都市だったのだろう。

 その他、同じ音楽家としては指揮者ギュンター・ヴァント、ホルスト・シュタインがエルバーフェルト出身である。ホルスト・シュタインはバイロイトでクナッパーツブッシュの助手として働き、クナッパーツブッシュを師として仰いだのに対し、ヴァントは全く別の音楽志向を持っており、クナッパーツブッシュの音楽を非難したことが面白い。

「クナッパーツブッシュ 音楽と政治」(みすず書房)の著者、奥波一秀氏とは、氏がその著作の取材でドイツにおられるときに、メールのやりとりで知り合いになり、エルバーフェルトの写真も送っていただけた。その写真は、今でも小生の大切な宝物だ。

 写真では、エルバーフェルトはごく普通のヨーロッパの地方都市という印象で、ビルが林立した「都市」という印象ではない。クナッパーツブッシュの生家や、クナッパーツブッシュの育ったであろう環境はある程度自然に恵まれていて、「町中」という雰囲気ではなかった。

 クナッパーツブッシュの生家は「グスト・クナッパーツブッシュ」というアルコール蒸留販売会社だが、既に経営権はクナッパーツブッシュの親族から、別の人の手に渡っている。どんな製品を作っていたのか飲んでみたかったが、残念ながら飲んだことはない。「グスト・クナッパーツブッシュ」の製品を飲んだことがある人にもまだ巡り会っていない。一度、飲んでみたいと思うのだが…。

 ヴッパータール市を含むルール地方は、第1次世界大戦後フランスに占領されたり、第2次世界大戦の時にはイギリス・アメリカ軍の空襲の標的になったり、第2次世界大戦の末期にはオランダ・ベルギーからドイツ国内に流れ込む連合軍の戦略拠点になったりと、歴史の波に洗われた。20世紀はルール地方にとって激動の歴史でもあった。

 さらに、1945年5月下旬と6月下旬には、連合軍の砲火にさらされ、市の中心部は壊滅的な被害を受けている。たまたま、「地図で読む世界の歴史 ヒトラーと第三帝国」(リチャード・オウヴァリー著永井清彦監訳、秀岡尚子訳、河出書房新社)にヴッパータール市の被害状況の地図が載っており、その被害のすさまじさを知ることができた。

 クナッパーツブッシュの父母の写真は、フランスTAHRAからリリースされた「HANS KNAPPERTSBUSCH IN MEMORIAM」の付録に載っているし、母や兄妹との写真は奥波一秀著「クナッパーツブッシュ 音楽と政治」の図版にも紹介されている。クナッパーツブッシュの父グスタフは、その父(クナッパーツブッシュの祖父)の後を継いで家業ではやり手だったそうだ。写真でも立派な髭を生やし、いかにも実業家という風がある。母親はたっぷりとした体格で、写真で見る限りにおいては、日本でいえば「肝っ玉かあさん」風である。

 クナッパーツブッシュには兄と妹がいて、兄の名前は父の名前を取りワルター・グスタフ、妹はマルガレーテ・エミリーエ・ユーリエという。兄はクナッパーツブッシュ家の家業を継いだことが分かっているが、妹のマルガレーテについては資料がない。どんな生涯を送ったんだろう?

 ハンス・クナッパーツブッシュの子供の頃の写真も前掲書に載っている。幼い頃、クナッパーツブッシュは髪の毛を伸ばし、当時の伝統的なドイツの子供の育て方である、女の子の姿をして育てられたことが分かる。これは、ヘルマン・ヘッセかトーマス・マンか何かの小説で読んだのだが(忘れてしまった)、ドイツでは、男の子はその方が健康的に育つと考えられていたようだ。カールしたオカッパ頭が可愛らしい幼年時代のクナッパーツブッシュから、晩年のクナッパーツブッシュの容姿を想像することはなかなか難しい。

 クナッパーツブッシュ家はプロテスタントのカルヴァン派で、洗礼を受けたクナッパーツブッシュの名前を洗礼名まで入れると、「ハンス・アルフレート・クナッパーツブッシュ」という。「音楽と政治」に、クナッパーツブッシュは一時期、「アルフレート」という名前を好んだということが紹介されている。後に、当時の大指揮者ハンス・リヒターの影響化に入り、同じ「ハンス」にあやかって「ハンス・クナッパーツブッシュ」という名前を通すようになったのではないか、とも書かれている。クナッパーツブッシュは晩年まで就寝前のお祈りを欠かさなかったそうだから、ごく普通の敬虔なキリスト教徒だった、ということが言えるのかも知れない。

 1988年という年は、後年に俯瞰してみると歴史の転換点のひとつで、クナッパーツブッシュの生まれる三日前、3月9日にドイツ皇帝ヴィルヘルム一世が死んだ年である。

 プロイセン王であったヴィルヘルム一世は宰相にオットー・フォン・ビスマルクを起用、その手腕を持って普墺戦争や普仏戦争に勝利し、分裂国家だったドイツを統一し、ドイツ皇帝となった。「バルバブランツァ」(白髭王)と呼ばれ、民衆にひじょうに人気の高い皇帝だった。民族的英雄でもある神聖ローマ帝国皇帝フリードリヒ(1123−1190)の「バルバロッサ」(赤髭王)に対応した呼称である。ヴィルヘルム一世はビスマルクの傀儡とも揶揄されたが、皇帝としては凡庸ではなかった。

 ヴィルヘルム一世が死に、その息子のフリ−ドリヒが皇帝を継ぐ。ところが、ヴィルヘルム一世が91歳と長命だったため、フリードリヒが第2代ドイツ皇帝になったのは56歳の時で、おまけに喉頭癌を患っていた。国民には「我らがフリッツ」と呼ばれ、その自由主義的な傾向が好まれたが、在位期間わずか99日で死去してしまう。

 同じ1888年の6月15日、フリードリヒの長男ヴィルヘルム二世が29歳で第3代ドイツ皇帝として即位する。

 ヴィルヘルム二世は宰相ビスマルクの政策と対立、翌年にはビスマルクを辞任に追い込み、自らの政策を押し通してゆくことになる。ドイツは長年分裂国家だったため、ロシアやイギリスなどのヨーロッパ列強の重商主義に立ち遅れていた。ヴィルヘルム二世はヨーロッパ列強に対抗して、植民地の獲得を目指した。ヨーロッパ強大国の利害と対立し、軍備増強路線は第1次世界大戦の火種を作ることになる。
 例えばドイツの植民地獲得の動きのひとつして、中国の山東省での動きが挙げられる。日清戦争の時、ドイツはフランス、ロシアとともに日本と中国の終戦協定に介入、日本の利益獲得に横槍を入れた。ドイツは中国側に恩を売って交渉(ドイツ人宣教師が山東省で殺されたことがきっかけだった。その事件は義和団の乱に発展する)、1898年に山東省を租借地にして、中国の一部植民地化を謀った。青島(チンタオ)を中心とする山東省は街並みや産業がドイツ化され、小生も好きな「青島ビール」はそのなごりである。さまざまな中国の紹介書を見ると、青島にはいまだにドイツのなごりが多いらしい。

 後の第1次世界大戦の時に、連合国側に付いた日本は、その山東省を巡ってドイツと交戦することになる。

 日本の1888年は、明治21年である。西郷隆盛以下、旧薩摩藩士族の反乱である西南戦争からまだ11年しか経っていなかった。日本は開国後20年を過ぎていたといえ、まだまだ江戸時代の文化を引きずった草深い後進国で、「欧米に追いつけ」が合い言葉の時代だった。

 1888年は、日本標準時が制定され、廃藩置県は明治4年に終わっていたが、市町村制が公布された年でもある(施行は1889年)。

 この年の4月、第2代総理大臣に黒田清隆が就任、枢密院が設置され伊藤博文が初代議長になった。 

http://kna-club.com/html/modules/knapedia/index.php?content_id=1
http://www.asyura2.com/20/reki4/msg/644.html#c4

[近代史4] 隠された履歴:第三帝国のカール・ベーム 中川隆
2. 中川隆[-13350] koaQ7Jey 2020年3月25日 07:21:45 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[1554]

カール・ベームの名盤


モーツァルト 『レクイエム』とベートーヴェン 『ミサ・ソレムニス』の1955年版以外は印象に残っていないですね:

モーツァルト 歌劇「魔笛」
http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/816.html

モーツァルト 歌劇「フィガロの結婚」
http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/817.html

モーツァルト 『レクイエム』
http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/839.html

ベートーヴェン 『交響曲第6番 田園』
http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/846.html

ベートーヴェン 『ミサ・ソレムニス』
http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/837.html

シューベルト 『未完成交響曲』
http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/856.html

シューベルト 『交響曲 ハ長調 D 944 』
http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/857.html

http://www.asyura2.com/20/reki4/msg/641.html#c2

[近代史4] 隠された履歴:第三帝国のカール・ベーム 中川隆
3. 中川隆[-13349] koaQ7Jey 2020年3月25日 07:26:14 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[1555]

カール・ベーム(Karl Böhm, 1894年8月28日 - 1981年8月14日)は、オーストリアの指揮者。

学位は法学博士(グラーツ大学)。
称号はオーストリア音楽総監督、ウィーン・フィルハーモニー管弦楽団名誉指揮者。


グラーツ生まれ。弁護士である父親の意向により、グラーツ大学で法律を学び、法学博士の学位を得た。しかし同時に父親がグラーツ市立歌劇場(英語版)の法律顧問をつとめていた関係で音楽界に仲間が多く、父親の友人であったフランツ・シャルクの紹介で、ブラームスの親友であったオイゼビウス・マンディチェフスキの個人教授で音楽を学んだ。

1917年 - グラーツ市立歌劇場(英語版)でデビュー。リヒャルト・ワーグナーの友人であったカール・ムックがベームの『ローエングリン』を聴いた際に感激し、当時バイエルン国立歌劇場音楽監督だったブルーノ・ワルターにベームを紹介した。

グラーツ市立歌劇場では首席指揮者に予定されていたが、ワルターの招きにより、1921年 よりバイエルン国立歌劇場の第4指揮者に転任。

ワルターはベームに多大なる影響を与え、特にモーツァルトの素晴らしさを教えた。
そしてまたベームもモーツァルトの権威として知られることになる。

ワルターとの交遊関係は戦中戦後を通じて続くこととなるが、1922年からはワルターに代わり、クナッパーツブッシュが音楽監督になった。

しかしクナッパーツブッシュも、モーツァルトに関してはほとんどベームに任せている。

1927年 - ダルムシュタット市立歌劇場(英語版)音楽監督に就任(1931年まで)。この時の総監督は、後年メトロポリタン歌劇場の名物総支配人となるルドルフ・ビング(英語版)であり、彼らの友情は終生続くこととなる。ダルムシュタットでは現代オペラの上演に力を注いだが、特にアルバン・ベルクの『ヴォツェック』を指揮して絶賛され、ベルク本人との友情も芽生え、ベルク作品の世界的普及に尽力した。

1931年 - ハンブルク国立歌劇場音楽監督(1934年まで)。ハンブルク時代よりR.シュトラウスとの親交が始まった。

1934年- ドレスデン国立歌劇場総監督に就任。R.シュトラウスゆかりのドレスデンに転任すると、1935年にはR・シュトラウスの『無口な女(英語版)』の世界初演を行い、さらに1938年にはR.シュトラウスから献呈された『ダフネ』も世界初演した。

1943年 - ウィーン国立歌劇場総監督に就任。シュヴァルツコップなど才能ある歌手を次々と見いだして伝説的なベーム・アンサンブルを作り上げた。1944年にはシュトラウス生誕80年祭ではR・シュトラウスに祝辞を述べ、作曲者臨席のもと『ナクソス島のアリアドネ』を指揮した。1945年にはオーストリア(当時はドイツに併合されていた)からフランツ・シャルク以来となる「オーストリア音楽総監督」の称号を受けた。第二次世界大戦での戦局悪化に伴い、R・シュトラウスより芸術上の遺言(今後のオーストリア音楽界をどのように運営・維持すべきか)を託された。また同時にR.シュトラウスのスケッチブックなど、貴重な資料も渡された(これらはベームの死の直前にウィーン・フィルに寄贈されている)。ドイツ・オーストリア敗戦後に連合軍から演奏活動停止命令を受けたが、1947年に解除。

1954年 - 2度目のウィーン国立歌劇場総監督に就任。1955年11月には連合軍の爆撃により焼失していたウィーン国立歌劇場が再建され、この記念すべき再開記念公演の『フィデリオ』を指揮した。(続いて『ドン・ジョヴァンニ』『ヴォツェック』『影のない女』を指揮。ちなみにベームは当初、ドン・ジョヴァンニの指揮をワルターに依頼したが、ワルターは高齢を理由に辞退し、その代わりにブルックナーの『テ・デウム』とベートーヴェン第9交響曲を演奏した。ウィーン国立歌劇場総監督辞任後は特定のポストには就かず、フリーランスとして客演や録音活動を中心に据えた。

1962年 - バイロイト音楽祭に初登場、『トリスタンとイゾルデ』を指揮。ヴィーラント・ワーグナーとともにオペラ史に燦然と輝く新バイロイト様式を作り上げた。のちに『ニーベルングの指環』も指揮。1964年、「オーストリア(共和国)音楽総監督」(戦前のものは自然消滅)の栄誉を授けられている。1967年、ウィーン・フィル創立125周年を記念し、特にベームのために創設された「名誉指揮者」の称号を授けられた。

1973年 - オーストリア政府から若い指揮者のための「カール・ベーム賞」制定が発表される。1974年 - 「ニキシュ=ベーム指環賞」が制定された。

1981年8月14日 - ザルツブルクで死去。86歳没。ザルツブルク音楽祭の開催中であり、レヴァイン指揮ウィーン・フィルのオペラ公演は「お通夜のような雰囲気」になってしまったという。楽聖たちが眠るウィーン中央墓地提供の申し出は遺族の希望により断られ、グラーツ・シュタインフェルト墓地のベーム家の墓に埋葬された。最後の録音は同年春の映画版「エレクトラ」であった。

家族・親族

息子は俳優のカールハインツ・ベーム。孫のカタリナ・ベーム(英語版、ドイツ語版)も女優として活躍している。

欧州楽壇のマエストロ

ベームは、当時のオーストリア大統領ルドルフ・キルヒシュレーガーをして“(オーストリア)共和国が与え得る栄誉はすべて与えました”と言わしめたほど、数多の名誉職を贈られていた。この発言の念頭にあるものも含めて、それらの一例として、「ハンブルク・フィルハーモニー管弦楽団名誉指揮者」「ロンドン交響楽団桂冠指揮者」「ウィーン市、グラーツ市、ザルツブルク市の各名誉市民」「ドイツ連邦功労十字勲章」「バイロイト黄金名誉指環」「バイエルン国立歌劇場名誉会員」「ダルムシュタット国立歌劇場名誉会員」「ベルリン・ドイツ・オペラ名誉会員」などがある。そのため、ベームの死は世界中に衝撃を与えた。

カラヤンはコンサートでの演奏に先立って追悼の言葉を述べ、さらにモーツァルトの『フリーメイソンのための葬送音楽』が演奏された。レヴァインがモーツァルトの『レクィエム』、アバドが『マタイ受難曲』をベームに捧げ、ベルリン・フィルはベームの指揮予定だった演奏会で代行を立てず、指揮者無しの演奏会を行った。ポリーニ、クライバー、ヨッフム、ショルティらも追悼演奏会を開いている。カルロス・クライバーとバイエルン国立管弦楽団による追悼演奏会は広く知られる(ベートーヴェンの交響曲第4番と交響曲第7番)。

ザルツブルク音楽祭は、長年にわたるベームの功績を称えフェルゼンライトシューレ(ザルツブルク祝祭小劇場)とホワイエの間の大ホールを「カール・ベーム・ザール」と名付けている。さらに出身地であるグラーツとザルツブルクを結ぶインターシティ列車をカール・ベーム号(IC517/518)と名付けた。これは現在も運行されている。

ベームの演奏

ベームの身振りはいつもごく控えめで、お世辞にも「格好良いバトン・テクニック」とは言えない。これには、R. シュトラウスの教示・影響がある[1]。マーラーとR. シュトラウスは、当時を代表する指揮者であったが、全身を使って激しい指揮をするマーラーに対して、後年のR. シュトラウスは指揮するときも常に左手をポケットに入れたままで、指揮棒を持った右手も必要最小限しか動かさなかった。

カラヤンは「ベーム85歳の誕生祝賀会」に出席した際に、 “ 禅の高僧が矢を射る時、「私が矢を飛ばす」とは言わず「矢が飛ぶ」と言う。すなわち「無為の為」である。これと同じく、ベームの指揮は「音楽が湧く」と言える。つまりベームによって、音楽が自ら奏ではじめるのである。”と、ベームの指揮を評している。

主な録音

ベームの実力が遺憾なく発揮された分野はオペラであった。モーツァルトは『コジ・ファン・トゥッテ』、『フィガロの結婚』、『ドン・ジョヴァンニ』、『魔笛』などの録音がある。ペーター・シュライアーはベームのコジ・ファン・トゥッテを特に絶賛しており、「他の指揮者の下ではこれほどの感激を味わえない」と語った。ザルツブルク音楽祭を飾るモーツァルト指揮者でもあった。1971年にウィーン・フィルと録音された、モーツァルトのレクイエムは評価が高い。

リヒャルト・シュトラウスの大家としても知られ(巨匠の『ダフネ』は、ベームに献呈されている)、主なオペラをスタジオ録音している。特に愛した作品は『ナクソス島のアリアドネ』であった(複数の録音あり)。また、『影のない女』は世界初全曲録音(1955/DECCA)である。当時はマイナーな作品であったため、DECCAは録音を渋ったが、ベームの強い要望により「ギャラなし・一発録り」で実現した。同年、ウィーン国立歌劇場の再建記念公演で『影のない女』を指揮。カイルベルトやカラヤン、後のシノーポリに較べると、最少のカットで演奏しており、貴重な記録となっている(ORFEO)。管弦楽曲では、1958年、1963年に録音されたベルリン・フィルを指揮しての『ツァラトゥストラはかく語りき』や『ドン・ファン』、『祝典前奏曲』などの管弦楽曲集が知られている。

バイロイトの巨匠であったことからもわかるように、1966年のバイロイト音楽祭における『トリスタンとイゾルデ』のライヴ録音など、ワーグナーについても高い評価を得た。ビルギット・ニルソンは「これまでに『トリスタンとイゾルデ』を33人の指揮者の下で歌ったが、誰もベームに比肩することはなかった」と書いている。

このほか、ベートーヴェン、シューベルト、ブルックナー、ブラームスなどドイツ・オーストリア音楽においては、当時はひとつの規範ともされた。ベルリン・フィルを指揮してのモーツァルトの交響曲全集とウィーン・フィルを指揮してのベートーヴェンの交響曲全集はベームの大きな業績である。


ベームと日本

ベームの名が日本に知られるようになったのは早く、1930年代半ばには小品のレコードが発売されていた。1937年11月26日には、シューマンの遺作・ヴァイオリン協奏曲の初演を含む日独交歓放送に、ゲオルク・クーレンカンプらとともに出演した(PodiumよりCD化 No. POL1053)。この放送はナチスの威信をかけたもので、当時既にクーレンカンプ同様、ベームはドイツ圏内で主要な指揮者であったことがわかるが、日本ではあくまでもシューマンの遺作の世界初演を聴く演奏であり、ベームの知名度を高めることはなかった。程なく、第二次世界大戦勃発によって原盤の供給も途絶え、ベームの名はしばらく日本では聞かれなくなった。ベームの人気や知名度が飛躍的に高くなるのは戦後のことであった。ベームが亡くなる際にも、危篤の段階から新聞やテレビ・ニュースで報じられていたほどである。ベームの来日は1963年、1975年、1977年及び1980年の4回。1979年にも来日の予定(読売日本交響楽団の招聘)であったが、体調不良のためキャンセルされている。

初来日

1963年に開場した日生劇場のこけら落しのためにベルリン・ドイツ・オペラを率いて初来日(同行:ロリン・マゼール、ハインリヒ・ホルライザー)。ベームはベートーヴェンの『フィデリオ』[2]とモーツァルトの『フィガロの結婚』[3]、特別演奏会の「第九」を指揮した。両オペラともディートリヒ・フィッシャー=ディースカウ、クリスタ・ルートヴィヒ、ヴァルター・ベリー、グスタフ・ナイトリンガーらの名歌手が多数出演した。第九演奏会では、演奏後に殺到した多くのファンがベームの足に抱きつき、身動きできなくなったこともある。

70年代

日本でのベームの人気に一気に火がついた1975年の公演は、ウィーン・フィルを率いての公演であり、前評判に違わぬ演奏が大きな反響を呼んだ。あまりの反響の大きさにベームは感激し、時期こそ決めないものの再びの来日を即断したとも言われる。この時はリッカルド・ムーティも同行し、ムーティの指揮での公演も別途行われた。

わずか2年後の1977年に再来日が決定したのは、その他に来ていた話をベームがすべて断り最優先で時間を作ったからだった。両公演はNHKやTOKYO-FMによって多数録音され、一部はCDやDVDとして販売されている。

最後の来日

1980年にはウィーン国立歌劇場の引越し公演に同行したが、老いと病気による衰えがはなはだしく、ホルスト・シュタインら多数の同行指揮者を伴っての来日となった。ベームは『フィガロの結婚』3公演(東京および大阪)[4]と十八番であったリヒャルト・シュトラウスの『ナクソス島のアリアドネ』の1公演[5]、昭和女子大学人見記念講堂でのウィーン・フィルとの演奏会(1980年10月6日。人見記念講堂のこけら落とし記念演奏会だった。これらはCD・DVD化されている。

なお、2007年には「フィガロ」の公演もDVD化された)だけを指揮し帰国した。このウィーン・フィルとの演奏会は、日本でのベーム最後のオーケストラ演奏会だったのみならず、彼自身も1938年以来続いたウィーン・フィルとの最後の演奏会だった。なお、この時の「フィガロ」上演での第3幕はオリジナルではなく、ロバート・モウバリー&クリストファー・レイバーン提唱版(1965年。第7場、第8場を第4場、第5場の間に挿入する)によるものである。


https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%AB%E3%83%BC%E3%83%AB%E3%83%BB%E3%83%99%E3%83%BC%E3%83%A0
http://www.asyura2.com/20/reki4/msg/641.html#c3

[リバイバル3] 中川隆 _ 音楽関係投稿リンク 中川隆
135. 中川隆[-13348] koaQ7Jey 2020年3月25日 07:36:24 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[1556]

ハンス・クナッパーツブッシュ研究
http://www.asyura2.com/20/reki4/msg/644.html

隠された履歴:第三帝国のカール・ベーム
http://www.asyura2.com/20/reki4/msg/641.html

ウィーン・フィルはナチスに迎合してきた歴史をずっと隠し続けている
http://www.asyura2.com/20/reki4/msg/642.html
 

http://www.asyura2.com/09/revival3/msg/450.html#c135

[近代史4] 隠された履歴:第三帝国のカール・ベーム 中川隆
4. 中川隆[-13347] koaQ7Jey 2020年3月25日 07:43:59 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[1557]
ベーム最後のインタビュー
ドイツ「シュテルン」誌1981年8月20日号より
http://mahdes.cafe.coocan.jp/wkb2.htm

質問・フェリックス・シュミット、訳・堀内修
(「音楽の友」1981年10月号掲載)

ベーム「あなたにおいで頂いた事を有難く思っております。この様ないまいましい椅子に座り込んでいなければならなくなってこの方、どんな気晴らしも私には有難いのです。人はともすると恵まれた老年という事を話題にしますがね、結構なお恵みとしか私には言えないな。ところで私はこうして座り込んでる訳なんですが、頭はまだちゃんとしているものの、両脚はもう言う事をきかない。両腕もそうですし、昨晩はベッドから転げ落ちてしまった。どうです?こういうのが恵まれているなんて。この齢に成ってパンツをようよう身に着けるのに前より3倍もの時間を喰うというのがお恵みというものなんですかね。」


───ベームさん、あなたの腕はもう言う事をきかないと仰いましたね。という事はもう指揮する事は出来ない訳ですね。ところであなたのカレンダーには1984年に至る迄予定が立てられているでしょう?

ベーム「まあ、カレンダーに線を引く他ないですね。」

───あなたはエネルギーが全くなくなってしまったら、自分はもう指揮はしない、そうしたら生きていたくないと、嘗て仰いましたね?

ベーム「その時はたまたまそう口を滑らせたんです。しかしさて、もううまくいかないというのなら、それがどんな状態なのか私には判りますよ。あのですね、指揮するという事は何しろ私にとって一種の若返り療法みたいなものなんです。その度に何時も齢のひとかけらがこそげ落とされるのですよ。この間の公演、今年の3月、ウィーンでの「フィガロの結婚」の事を覚えています。指揮台に立った時、大してうまくいかない演奏をするんじゃなかろうかと予感したんです。惨めな気分になりました。けれど、既に序曲の間にあらゆる疲れは消え失せてしまい、悩みももうなくなったんです。木だって引っこ抜ける様でしたね。しかしそれももう過ぎ去った事です。御覧なさい、この椅子の傍らの譜面台を。其処には以前は点検中の総譜が常に置かれていたものですが、今や何が乗せてあるとお思いですか?一寸漫読している本なんですよ。」

───ところであなたは病臥なさる前に今一度大変な努力をお払いになりましたね。TVの為にR・シュトラウス「エレクトラ」とレコードのベートーヴェン「第九」を練習なさいました。

ベーム「その為に全力を尽くしました。それが私を倒したんです。けれども私は自分が駄目になる前にもう一度2つの事をしておきたいと思ったんです。そう、「エレクトラ」と「第九」です。この2つの作品を私がその時した様には、人は未だに耳にした事はないと言っても過言ではないと思います。」

───どの様な所が特別なのでしょうか?

ベーム「私は生涯これらの作品と取り組んできました。第一級の「エレクトラ」を保証するに足るチームを持つ迄捜し求めてきました。そうでないと容易ならぬ「侍女達の場」に穴が開いてしまいますから。昔はその場面になると歌手達に対して猛り立ったものでしたよ。というのも、彼女達には歌えないって事が元々解ってたからなんです。宜しいですか?TVの歌劇を必ず観なくちゃいけませんよ。レオニー・リザネックを聴くって事だけの為でも。大変なエレクトラですから。それも彼女は初めてこの役を歌うのですよ。とはいえ、聴かなくちゃいけませんとは、そうた易く言えないでしょうが。そもそも相違を聴き分けられるのは、まあよくて2、3人の人達ですかね。私の息子、カールハインツは聴き取りましたがね。彼は私と同業の沢山の指揮者達よりも実際良い耳を持っているよ。彼女(レオニー)も父親から受け継いだんだね。」

───ベームさん、あなたの耳は本当にまあ多くの音楽家達を絶望に追いやりました。間違った響き、呆けたテンポといったものはあなたをカンカンにさせましたね?

ベーム「ええ、怖れられたのは知ってますよ。ドレスデン・シュターツカペレとでしたが、「神々の黄昏」の事を思い出します。彼らの行う演奏が私には正しい様に聴こえないんです。そこで、まあ私の流儀なんですが、がなり立てたんです。「諸君、一体何を演奏してるんだ?」ところがね、彼らは自分達は何時もそう演奏してるんだと言うんです。で、私はこう応えてやりました。「ではあなた方は今初めて正しい演奏をなさる訳です」とね。100以上の間違いをその後次から次へと総譜から見付け出しましたよ。」

───辛辣な観察によって、ですね?

ベーム「まあ、愛情溢れるシニカルさと言いましょう。」

───ある逸話が伝えられておりますが、それによりますと、あなたは声を相当長くのばしていた女性歌手(正体はレオニー・リザネック)に対し、こう叱り付けたとか。「君はどうしてそんなに長く声をのばすのかね?それで週末休暇用の別荘でも建てようと思ってるのかね?」。

ベーム「失礼、夏季休暇用の別荘と言ったんだよ。」

───あなたは生真面目ですか?

ベーム「私はゲーテと同じ日に生まれた。ゲーテは生真面目だった。私もそうですよ。でも私は特に短気なのですよ。自分の思い込んだ事は、ものにしとかなければいけないのです。それも即座にね。つまり、ある一定のテンポが欲しいと自分が思い、歌手或いはオケがそれを解ってくれないとなると、もう一波瀾起こしてしまうという訳です。或いは、或る時期に或る編成による一つの歌劇をやろうと思い、それがうまくいかないとなると、私はね、家を飛び出してわめき散らすのですよ。さてさて、私は自分の家でオーケストラの事に汲々しているのは厭なんだが。それにしても、妻が長い年月の総てを我慢してきてくれた事は、正に驚くべき事です。」

───ではあなたには妥協というものはないんですか?譲歩はなさらないんですか?

ベーム「そんな事は思いもしないね。音楽にあっては如何なる妥協も知らないね。私の人生、かなりの事をしでかしてきました。私は罪人ですよ。ええ、そう言っていいでしょう。嘘もつきましたし、自分の名誉にならない様な事も沢山してきました。しかしこと音楽にあっては何時もまともに、何時だって誠実でしたよ。」

───何をしでかしたと仰るのですか?

ベーム「老人にその答えは御勘弁願います。私の短気に関わる事でしたら、カラヤンの事を話題にしなければなりませんね。あの人は大変寛容な人ですよ。彼が稽古の時、正しい響き、自分の求める響きが出る迄待っている事や、心を鎮めて楽団員を説得していたのには感心しました。全く驚嘆すべき事でしたよ。ええまあ、あの人は何というか別種の意地悪をするんですよ。」

───あなたに対しても意地悪をですか?

ベーム「いやいや、我々は親友ですし、気楽な付き合いをしていますよ。」

───ライヴァル同士の妬みはないのでしょうか?

ベーム「彼の代弁は出来ないよ。ああ、そうだ、思い出したよ。彼は私に素敵なプレゼントをくれる事に成っているんですよ。私の90歳の誕生日に黄金のカッコー時計を約束してくれたんですよ。でね、金相場がまた上がったのを知ると、子供の様に嬉しがるんですよ、私は。ああ、90を迎えられます様に。」

───あなたは既にカラヤンからの時計をお持ちでしょう?

ベーム「80の時に貰ったんです。その時計はまだまだ動いていますよ。」

───あなたの時計コレクションは有名です。同じ様にそれらの時計は皆揃ってチクタク鳴っているという事も。一個でも進んでいると、あなたはゾッとして即刻調整されるとか。

ベーム「極度の精確さには賛成です。何れにせよ私は楽団員の些細な杜撰、如何なるインチキ、どんな曖昧といえども大目に見る事はありません。精確さへのこの様な性向は正に生まれついてのものでして、これは多くの人には妄想と見なされるかも知れませんが、音楽家にとっては最高の財産なのです。」

───その精確さへの性向というものは、あなたが法律を学ばれた事と関わりがあるのではないですか?法律家は几帳面でなくてはならないでしょう?

ベーム「相互に何らかの関係があるとは思いません。私はね、自分の好みによって法律を勉強したというのではないんでして、ただ父親を喜ばせ様としただけなんですよ。父は大変音楽的素養があり、また音楽狂だったんですけど、私にはお堅い職を身に付ける様に言ってたんです。父はグラーツ劇場の法律顧問でありまして、それで芸術における並の才能というものの惨めさを熟知していたのです。父は私が同じ様な運命を辿らない様にと願ったのです。そうした訳で、父は私にはっきり言いました。

「お前は法律家の試験に通って初めて音楽を勉強する金を手に出来るのだぞ」と。」

───では、あなたが学位審査に受かる以前にグラーツ劇場で既に歌劇を指揮したというのはどうしてだったんですか?実際何時だったのでしょうか?

ベーム「1919年4月に学位を取りました。でも法律学を総ざらいしていた間にも音楽をやっていたんです。グラーツ劇場でコペルティトーアをしていましたし、夜にはよく道具方を取り仕切ったりしていました。」

───すると正規の音楽勉強はなさらなかったのですか?

ベーム「ウィーンで2、3学期勉強しました。でも正式な指揮の講義は受けておりません。指揮法は総て見覚えたものです。私のは独学なんですよ。それについては面白い話があるんです。病気になった指揮者の代わりに「アイーダ」を引き受けざるを得ない事があったんです。ところがその当時私は4/4拍子では左の方で2拍振るものだという事を知らなかったんです。でね、自分の知っている3/4拍子で絶えず右の方に振ったんですよ。これには楽団員も大混乱をきたしましたね。それで楽団の代表が支配人に抗議しまして、正しく4/4拍子の振れる指揮者を要求したんです。私は彼らに短時間でまともに4/4拍子を振れる様にすると請け合いました。」

───ベームさん、あなたの欧州での音楽の歴史を思い浮かべてみて、最も深い印象を覚えられるのはどの様な事でしょうか?

ベーム「先ず第一にアルバン・ベルクの「ヴォツェック」です。私としてはこの歌劇は私どもの世紀の最後に書かれた最後の、最も優れた歌劇であると思っています。総譜を初めて手にした時の事は、今でもありありと覚えていますね。ずっしりとした総譜でした。その当時私はダルムシュタットの音楽総監督でした。」

───1931年の事ですね?

ベーム「そう、31年でした。当時私はあの孤高の音楽家と共に声部に手を入れる作業をしたのです。私はこの作品は全く類を見ない音楽であると繰り返し力説してきました。本当に骨の折れる作業を強いる作品でして、稽古に丸一年要しました。今日では全く思いもよらないでしょうが。それで私はね、「ヴォツェック」にかけてはパイオニアみたいなものだったんですよ。まあ、初演の指揮はとりませんでしたが。ですが私はこの歌劇をナポリ、そしてブエノスアイレスへと持っていった最初の人間なんですよ。ナポリではオーケストラが「パッサカリア」を、つまり「ヴォツェック」中で抽象的音楽の独創的な部分をもう全然うまく通せないという事がありました。私の名高い悪態も憤怒も何の助けにもならなかったのですよ。彼らは兎に角全然出来なかったんです。私は我慢出来なくて指揮棒を放り捨て部屋に戻ってしまいました。

かなり経ってオケの全幹部が追いかけてきました。彼らは私の前に跪いたんです。本当の事なんです、誓っても好いですよ。彼らはしゃくり上げながら「どうかお戻り下さい」と嘆願したんです。私は彼らを5分程しゃくり泣くままにさせた後、戻りました。そしてピットに歩み入りますと、全楽団員が立ち上がって拍手を浴びせかけたんです。誰かが盆を運んできました。今お話している事は正真正銘の事実なんですよ。盆の上にはヴェルモットの瓶と菓子鉢が置いてありました。私が一口飲みますと、オーケストラが熱情込めて「オー・ソレ・ミオ」を弾き始めたのでした。本当に巧く弾いてのけましたよ。そうした上で我々は「ヴォツェック」の正規の上演を実現させたんです。」

───あなたが力をお尽くしになったもう一人の作曲家はR・シュトラウスですね?

ベーム「あの人の為にはもうグラーツ時代に学校をさぼった事がありますよ。「薔薇の騎士」のリハーサルに居合わせ様と思いましてね。後にドレスデン歌劇場の監督だった時、シュトラウスと私的に親しく接しました。それが長い密接な友好の始まりでした。彼はオペラ「ダフネ」を私に献呈してくれました。無論私が初演しました。それからは彼は幾つかの習作ノートを贈ってくれました。貴重なものです。この間それを金庫から取り出しました。私のオーケストラに遺贈する為にね。」

───ウィーン・フィルの事ですか?

ベーム「勿論ですとも。」

───勿論ですって?あなたは世界の著名なオーケストラの総てとしょっちゅう演奏なさってたんでしょう?

ベーム「確かにそうですよ。しかし1933年に初めてウィーン・フィルを指揮した時−「トリスタン」でした−恋愛結婚の様なものをしたのです。そうして我々は長い間ハーモニックな結婚生活を送ってきたのです。我々は人がお世辞を言って下さる様に、表も裏も知り尽くしているのです。だからこそ先例のないものと憚る事なく評しても好いブルックナー、ベートーヴェン、モーツァルトの表現に、我々は成功する事が出来たのです。指揮者にとって楽団員各人を知る事以上に素晴らしい事はありますまい。この間、こんな風にブルブル震える老人が「エレクトラ」を録音した時の事ですが、私は指揮台に行き、こう言ったんです。「この老人をよく見て下さいよ。これがあなた方の前に立つ恐らく最期でしょう。有終の美を飾る手助けをして下さいよ」。彼らは、ああ、正にその様に演奏したんです。」

───あなたはブルックナー、ベートーヴェンの他に、生涯を通してモーツァルトに特に親しみを感じていらっしゃいました。

ベーム「ええ、でも常にとは限りませんでしたよ。モーツァルトの開眼はブルーノ・ワルターに負っているのです。」

───彼はミュンヘン(バイエルン)国立歌劇場の監督だった時、あなたをグラーツからミュンヘンにお呼びになった……

ベーム「ええ、客演として「蝶々夫人」を振りました。うまく振る事が出来ました。といいますのも、彼は後で私を呼んでこう言ったからです。「まだ何かと勉強したいとお思いならミュンヘンの私の許へいらっしゃい。けれどあなた自身一人前の指揮者であるとお考えならば、そのままあなたのグラーツに残りなさい」。無論(ミュンヘンに)行きましたよ。」

───ベームさん、一寸あなたは聞き取れない程小声でお話しになりますね。ところで何しろモーツァルトはあなたにとって清涼剤みたいなものでしょう?

ベーム「そういって宜しいでしょう。とはいえ私は先ずはこちこちのワーグナー教徒でしてね、モーツァルトは侮蔑的に見下していたんですよ。けれどもワルターの模範的なモーツァルト演奏を聴きまして、突然モーツァルトに燃え上がる様な欲求を覚えたのです。ワルターは私の願いを叶えてくれ、「後宮からの逃走」を振らせてくれました。……序に言いますとマリア・イヴォーギュンやリヒャルト・タウバーが出ました。そういう事だったんですよ。」

───けれども、モーツァルトの他に、あなたは一人の娘さんを思ってらした。

ベーム「17歳のそれは素晴らしい歌手でして、彼女が私の許で歌う時には特に熱情込めて伴奏したものでしたよ。今日でしたらこう言うでしょう、首っ丈だった、とね。」

───そして1927年彼女はあなたの奥様になられた。

ベーム「元はと言えば私達はモーツァルトについて話していたのではなかったかね?今やこの老人の慰めであるモーツァルトを。」

───モーツァルトを非常に表情豊かに指揮した、あなたの後援者であるワルターと違い、あなたはパトスのないモーツァルトを演奏なさいますね?

ベーム「ええ、そう言って宜しいでしょう。それが良い意味で近代的なモーツァルト解釈なのです。」

───あなたのモーツァルト像にすらラディカルな修正が、今やニコラウス・アーノンクールのオリジナル楽譜に基く上演によって行われました……

ベーム「オリジナル楽譜によるものも確かに一つの主張ではありましょう。私がテンポを変えるとすれば、それはオリジナル楽譜とは無関係です。私にはモーツァルトを手ひどく扱う彼の遣り方は気に入らない。彼の解釈がモーツァルトとは少しだけ関わっているに過ぎないという事を私は証明出来るのですがね。まあ、彼には別の立場があるからね。私は彼には賛成しませんし、彼の方も私に対してそうである様にと思いますよ。」

───若い指揮者とあなたの世代の指揮者ではどんな違いがありますか?

ベーム「同僚については何も語りません。若し私が言いたい事を言ったら、それは自分自身を苦しめるでしょう。」

───けれども、あなた位の年齢になれば、そうする資格があるのではないでしょうか?

ベーム「はあ、あなたはベームがもはや善悪の彼岸の老齢にあるとお考えですな。宜しい、色々言いましょう。若い指揮者達は大部分間違って教育されています。楽器について、声楽について、しばしばまるで解っていません。例えばホルン奏者に何を求める事が出来、何を求めてはいけないか、知らないんです。或いは歌手がどう呼吸するのか、などをね。私はグラーツの劇場で練習指揮者をしている時に、歌手に何を望め、何を望めないかを学びました。

指揮者は自分の直観だけではやっていけないんです。オーケストラを前にした時に、目を閉じ、そして聖霊のお告げが下されるのをじっと待つだけじゃ充分じゃないんです。お告げなんてそうたやすく下りてきません。指揮者は何よりも先ず勤勉でなければならず、勉強に勉強を重ね、そして誠実でなければなりません。いかさまは許されないのです。同業者には非常に多くのイカサマ師がいるのですが、私はそれを5分もあれば見抜けますよ。」

───誰の計略をあなたは見破ったのですか?

ベーム「それを言い立てる訳には参りませんよ。」

───話を他へ向けたいとお思いですね。しかし本当に小さい声ですね、もう少し大きくはなりませんか?

ベーム「私は歌手じゃありませんよ。」

───でもあなたが不誠実だとお思いになっている沢山の指揮者達は腐れ切った誤魔化しをやっているのでしょう?

ベーム「若し私が今その名前を言ったりしたら、ベームはすっかり老いぼれた、もう判断する事が出来ない、と言われるでしょう。けれども、私は老いぼれにはなりたくないので黙っています。」

───あなたが肯定的に例外と思われている方の指揮者、カルロス・クライバーの事にしましょう。あなたは彼を何時も称賛しておいでですね。

ベーム「天才的な男です。父親の様にね。」

───エーリッヒ・クライバーですね。

ベーム「やっぱり(父同様)気難しい男でね、周りの者は奔放な行動に梃子摺ってましたよ。私は彼自身にしばしば紡ぎ手だと言いました。人を魅了する紡ぎ手だとね。」

───レナード・バーンスタインともあなたは良い関係を持ってますね。

ベーム「ええ、私は彼を大変素晴らしい指揮者だと評価しております。何ものにも囚われない、スケールの大きな音楽家ですね。」

───しかし、指揮はあなたと丁度正反対ですよね?あなたは労力を最少限に抑えた身振りで指揮している様に見受けられますが……。

ベーム「つまり、私は汗をかきません。バーンスタインは水がしたたる位に汗をかく。」

───彼はオケとスコアの前で飛び跳ねているといっていいでしょう。

ベーム「でもそれは彼の内面から来るものなのですよ。ワシントンでのコンサートの後、彼が私に尋ねました。「あなたが全く汗をかかずに指揮をするのは一体どうやってなのか教えて下さい。私は何時でも物凄く汗をかくんですよ」とね。で、私は言いました。「ウィスキーも程々にしなさい。そうすればそんなに汗をかかなくなりますよ」(バーンスタインは酒豪&ヘヴィ・スモーカーで有名)。

───あなたは酒を飲んで何かする事はなかったんでしょう?

ベーム「ええ、私は食事も酒も、何をするにも差し支えない位に控えめですから。父と違ってね。父は100キロも体重があり、甚だ社交的な人でした。」

───反対にあなたは独りでいるのが好きだと噂されてますね?適応するのが難しいと、例えばウィーン国立歌劇場の監督の頃そうだったという事ですね?

ベーム「お尋ねになりたいのはそれだけじゃないでしょう。私はその地位を全然望まなかったんです。何故ならウィーンの人々が陰謀にかけては世界的な名人なのを知っていたからです。有名な音楽家、例えばマーラーとかカラヤンがこの街の歌劇場監督の地位を追われています。私はその地位をウィーンの劇場連盟からのさしせまった要請で引き受けたに過ぎません。」

───あなたはその後旅に出て、他所の場所で指揮し、客演契約をしたので、ウィーンの人は突然「ベームはもう此処にいない」と確認したんだそうですね。

ベーム「私が「フィデリオ」を振る為に再びそのオーケストラ・ボックスに戻って来た時ですが、桟敷席の連中が何分間も悪意に満ちて怒鳴ったのです。今でも耳に響く様ですよ。私が有難い事にウィーン国立歌劇場監督を続けずに済んで、国際的な活動が出来る様になるという、あれは元気一杯の告知だった訳です。」

───あなたは1954年から1955年迄1年間耐えました。

ベーム「若しかしたら長過ぎたかも知れません。丁度国際的な繋がりが始まった頃だったんですが、その時期をウィーンの人達の為に捧げて、しかも少しも喜びがなかったんですから。1947年、再び指揮する事が許される様に成った際、決して一人だけで任命されまいと誓ったんですが。」

───1934年から1942年の終わり迄ドレスデンで音楽監督をしていますね?

ベーム「ええ、アメリカ人もロシア人も私の非ナチ化の処置の時良く言ってはくれましたが、こう尋ねましてね、「ベームさん、あなたが本当にナチの反対者だったのなら、どうして亡命もせず、どうして英国や米国で指揮なさらなかったんですか?」。」

───で、どうしてなんですか?

ベーム「当時私はドレスデンの音楽総監督として、外国との如何なる繋がりも持っていませんでした。どうやって逃げ出したらいいんでしょう?どうやってお金を稼いだらいいんでしょう?しかも、私には家族がありました。」

───国内に留まった事であなたは戦後2年間に渉って演奏禁止に成ったのですか?

ベーム「ええ、とはいっても私はNSDAP(ナチス)に属していたんじゃありません。でも厭な2年間でした。私が一番焦燥感を味わった頃で、毎日毎日私の件が調査されるのを待っていました。音楽を教える事も許されていませんでした。ナチのハ長調音階を教えるとでも思ったんでしょう。いや、厭な頃でした。私は妻とグラーツの小さな家に腰を落ち着けて待ちに待ちました。もう待てない位に。」

───あなたがその後実現なさった国際的な活動を始めようとしていたのでしょうね?演奏出来る様になって数年を経ずして、一番稼ぐ指揮者に成りました。

ベーム「それは知りません。けれども結果はその様に成りましたね。私の後をお金が追ってきたんじゃありません。報酬として手に入れたんです。」

───そしてあなたは何時も倹約家でした。

ベーム「私にはそうする為の広い意味での大きな家族があるんです。」

───あなたは日本で特に称賛(報酬という意味もある)されましたね?

ベーム「ええ、日本は特別ですね。1980年の秋に行ったんですが、その時にTV中継される演奏会を1回振って、それで6万マルク(当時の通貨。当時の日本円にして約550万円)入りました。この秋にもう一度日本へ行ってもいいと思っています。けれどもこんな椅子に座って、病気の相手をしてやっているもんでね。」

───どんな御病気なのですか?

ベーム「老衰という間違った名をつけようなんて企てられてますね。あなたがよく知りたいと思うなら言いましょう。これは2年前にロンドンで始まりました。ホテルで倒れた訳です。その時それは素晴らしい小さな場所を見付けたんですよ。倒れていたのは浴室の便器とビデの間なんです。其処で私の硬い頭蓋と一緒に転んだのです。直ぐにウィーンに運ばれました。医者はひどい脳の出血があると診断しました。人がいうように、自分は低能になってしまうと思いました。しかし、低能にはならなかった。そうなっていたらあなたにこうして総てを説明出来なかったでしょうからね。それから療養しました。けれどもそれは非常に有効という訳にはいきませんでした。出血による障害が繰り返される訳です。この前はTV用「エレクトラ」の冒頭について話し合っている際中でした。有難い事に私は回復しました。気が紛れる位によくなろうと思います。」

───どうしてですか?

ベーム「不機嫌だからですよ。私は周囲の人たちの生活を不愉快にしています。それで少しだけ読んでます。」

───読むって、あなたのその目でですか?

ベーム「まだ幾らかは見えるんですよ。とはいえ灰色の星が良い方の目にも大きな悲しみを与えつつありますが。そして勿論私の誕生日に演奏するという計画も変更を余儀なくされています。もう一度回復するものなら、ウィーン・フィルと一緒にモーツァルトの46の交響曲をレコーディングしたいと望んでいるんですが。」

───凄い計画ですね。

ベーム「ええ、老人が皆そんな事をする訳じゃありませんね。」


これは巨匠が亡くなる少し前に行われたインタビューであり、文字通り最後のものとなった。

もうベームはこの時期には相当体力が落ちていたが、かなりの質問に答えている。多くは当時既に世間によく知られた内容で、この大指揮者の音楽人生を振り返る意味合いが強いが、ベーム自身が語っているというところに意義があろう。

後は最後の録音となったベートーヴェンの第九やR・シュトラウスの『エレクトラ』に関するコメントや、カラヤンやバーンスタインとの親交やカルロス・クライバーへの称賛、アーノンクールへのささやかな批判等同業に触れている個所が貴重だ。

http://mahdes.cafe.coocan.jp/wkb2.htm
http://www.asyura2.com/20/reki4/msg/641.html#c4

[近代史4] 隠された履歴:第三帝国のカール・ベーム 中川隆
5. 中川隆[-13346] koaQ7Jey 2020年3月25日 07:49:56 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[1558]

ベーム・エトセトラ
http://mahdes.cafe.coocan.jp/ekb.htm

リハーサルの鬼

リハーサルの凄まじさといえば、マーラーとトスカニーニが伝説的存在だ。彼らの時代には、指揮者が軍隊の司令官の如く振る舞い、オケはそれに絶対服従しなければならなかった。今時の指揮者がそうした練習を行おうとしたら、直ぐにオケから追放されるか、二度と声がかかる事はないだろう。

ベームは決してマーラーやトスカニーニの様にオケを絶対的に支配するというタイプではなかったが、重箱の隅を突付く様な厳格なリハーサルは世界的に有名で、しかもその口やかましいリハーサルを許されるという特権を与えられていた稀有の存在である。オケも歌手も、練習は厭だが、ベームとの共演で得られる幾多の効果には逆らえなかったのだろう。一つはベームという世界的指揮者と組む事による知名度アップ。もう一つは、確かにベームは練習では厳しいが、決して融通性がない訳ではなく、特に実演ではオケや歌手の自主性を尊重したからである。

要するにベームの練習はスポーツと似ている。普段厳しく基礎を鍛えない限り、本番での応用がきかない。基礎が出来ないのに、本番がこなせる訳がない。ましてや、指揮者は自分で音を出す訳ではない。従って、指揮者はオケを隅々迄知り、オケは指揮者を隅々迄知る事によって、信頼関係が生じ、自発性に富む音楽が生まれるのである。いわばベームのリハーサルは各々の技を磨く為にあるというよりは、自分一人で演奏しているのではないという全体意識を植え付けつつ、そうした中で各自の最高のパフォーマンスを引き出せる様な環境を整える為にあるのである。実際ベームも回想録でその様に述べている。

その代わり、リハーサルでは如何なる妥協も許さない。例えば、腕立て100回と決めたら、それは必ずこなさなければ成らない。50回で諦めさせたら、本番で力を発揮出来なくなる可能性があるからだ。丁度、中国の孫子や韓信が兵を厳しく調練したのと似ている。彼らが精鋭を鍛えたのは、いざという時どの様な状況下にもこちらの指示に対応し得る反応を身につけさせる為のものであった。言葉を換えるなら、厳しく鍛え上げず、”烏合の衆”のままでは実戦での成果が期待出来ない。”軍団”として成果を収める為には、日頃から厳しく鍛錬されていなければならない、という事だ。

しかし、実戦では何が起こるか判らない。従って、どの様な状況にも対応し得る様指揮官は身構えていなければならない。時には当初立てた作戦を急遽変更しなければならない事もあろう。多くの指揮者は自分のヴィジョンを知って貰う為、オケに意図を説明する。しかし、ベームは強弱やテンポの狂い等正に基礎練習しか行わなかった。それというのも、ベームが本番で何を意図するか判らない、本番で自在に指揮したいからこそなのだという事が分かるのである。

見た目の厳格なリハーサル風景がベームへの誤解を生じさせた事は確かである。私も自分がオケのメンバーや歌手だったら、ベームのリハーサルには耐えられないと思う。しかし、こうした厳しい練習を乗り越えたからこそ、本番で驚異的なパフォーマンスを引き出す事が出来たという事は、決して忘れてはなるまい。


喝采の嵐

当時メディアで盛んに議論の対象に成っていたのがベームへの拍手の多さ。出て来るだけで「ブラヴォー!」の大喝采が湧き起る妙な現象は殆どベームの専売特許だった。しかも、時には10分以上も喝采が収まらず、演奏が始められない事が多々あったという。オランジュ音楽祭の「トリスタン」やバイエルン国立歌劇場の「後宮」でも、出て来るだけで怒涛の様な喝采を受けるベームを目撃する事が出来る。終演後の拍手も凄まじく、日本ではステージに殺到する若者が続出し、世界中のメディアに報じられた。この現象はどうして発生したのかと考えてみると、矢張りベームが”伝統の象徴”と捉えられていた事が大きいだろう。多くの19世紀の巨人が世を去った中、ベームがまだ生きている。その”生ベーム”に逢えた喜びが、登場するだけで未曾有の拍手を巻き起こしたのではあるまいか。もう一つはベームの人間性である。巨匠の多くは何となく近寄り難い偉大な雰囲気を具えていたが、ベームは指揮をしている時意外は普通の爺さんで、気軽に喝采を贈れる雰囲気があったのではないだろうか。カーテンコールにぎこちなく応えるベームの姿はもはや指揮者には見えないのである。

ギャラ王

ベームといえばギャラが高い事でも有名だ。チェリビダッケはそうしたベームの姿勢をあからさまに批判している。しかし、私は芸術家というものは人間がどうであろうと、素晴らしい感動を与えてくれれば、何の問題もないと考えている。実際、モーツァルトやベートーヴェン、ワーグナーやブルックナーらも人間性はさ程高く評価されていないし、金への執着心はあった。聖人君子ではないし、ボランティアや素人芸術家ではないのだから、自らの業績に対し、何らかの報酬を求める事は寧ろ当然ではないだろうか。特にベームにはカラヤンというこれまた稼ぎまくるライヴァルがいたから、対抗意識もあったであろう。そういえば、ベームの師匠であるR・シュトラウスもアルマ・マーラーの自伝で”守銭奴”とこきおろされている。若しかするとベームの金銭への執着は師匠譲りなのかも知れない。或いは戦前から戦後にかけて、極貧生活を経験した為、二度とあんな思いはしたくないという気持ちがあったのかも知れない。しかし、繰り返すがそうした要素はベームの評伝等には必要かも知れないが、演奏とは無関係である。我々にしてみれば、素晴らしい演奏であれば、日常生活がどうであろうと一向に構わない。芸術家というものは、寧ろ公私の落差が激しい人種なのだ。


名誉職コレクター

ベームといえば、歌劇場総監督や常任指揮者等の音楽的実権を掌握する地位からは二度目のウィーン国立歌劇場総監督辞任後は遠ざかっている。その代わり、やたらと記念色の濃い実権のない名誉職やメダルを数多く授かっている。その筆頭はオーストリア音楽総監督である。これは別にオーストリアの音楽行政を統括する様な権力は一切ない。しかし、この肩書きは海外においては功を奏し、人間国宝的価値、或いはオーストリアの親善大使みたいな役割をはたした。ベームが外来の指揮者としては初めて皇居を訪問する事が出来たのも、この飾り物の肩書きがものを言ったのである。

他ではウィーン・フィルの終身名誉指揮者に選ばれた事も忘れては成るまい。しかも、これは史上初めての快挙である。他にも名誉市民や記念メダル等折に触れてベームに多くの名誉が授けられている。今からは考えられない程、当時のベームの存在感が大きかった事を示していると言えるだろう。


時計コレクター

ベームといえば時計コレクションも有名で、来日した折もセイコーの工場を見学している。沢山ある時計の内、一つでも時間がずれると直ぐに調整し直したとか。そうしたベームの趣味を知っていたから、カラヤンもベームの誕生日に時計をプレゼントしたのだろう。

カール・ベーム賞

1973年にオーストリアの若い指揮者の為に制定された賞。コンクールで最も優秀だった者に授与された。因みに第一回の優勝者はラルフ・ヴァイケルト。

カール=ベーム・ザール
ザルツブルク祝祭小劇場内にあるホール。

カール=ベーム財団
世界の難民救済を目的にベームが設置した財団。ベームの死後は長男のカールハインツが運営している。

カール=ベーム号
巨匠の名を冠したグラーツ〜ザルツブルクを結ぶオーストリアの特急。拙サイトの常連、こうもり様よりの情報提供。

オリンピック

1964年、冬季オリンピックはオーストリアのインスブルックで開催された。ベームは世界中が注目するこの一大イヴェントの開会式で、恩師R・シュトラウスの「オリンピック賛歌」を指揮している。若しかすると、この時のフィルムや録音が残っているかも知れない。

誕生日

欧州音楽界において、ベームの誕生日は一大イヴェントと呼べるものであった。嘗てベームが師のR・シュトラウス生誕80年祝祭で祝辞を述べた様に、ベームも多くの人から誕生を祝ってもらったのである。特に80歳を祝った1974年と、85歳を祝った1979年はカラヤンが参加した事もあり、欧州音楽界をあげての一大イヴェントと化したのである。しかも、1979年にはバーンスタインやレヴァインも参加し、バーンスタインの自作をレヴァインが演奏してベームに献呈。カラヤンはベルリン・フィルを、ベームはウィーン・フィルを指揮し、大いに盛り上がった。更にカラヤンはベームに豪華な時計の目録を贈呈(実物は90歳の誕生日に贈ると約束)。このパーティーは正に古き佳き時代の最後を飾る華やかな内容だったのである。


冗談好き

一見生真面目で四角四面と思われがちなベームだが、結構融通性があり、冗談好きでもあった。特にさり気なくドイツ語の駄洒落をかましていたそうだ。


ベームと病気

一度目のウィーン国立歌劇場総監督時代に、凍結した地面でしたたかに腰を打って寝込んだ事があったそうだが、指揮者生命を左右する様な重病も二度経験している。最初は米国客演時、失明の危機に晒された。この時は同行したリーザ・デラ・カーザが紹介してくれた医師のおかげで助かったと、ベーム自身が述べている。二度目は1979年にロンドンのホテルで脳内出血で倒れた事だ。生命は取りとめたものの、後遺症は以後死ぬ迄残ったという。中には最晩年のベームが極端にテンポが遅くなったのは、このせいではないかという人もいる。


酒とベーム

ベームは酒や煙草が苦手だという事を述べている。しかし、一度だけ大酒を飲んだ事がある。戦時中にベルリン・フィルに客演したベームだったが、翌晩にはウィーンで指揮をする事に成っていた。戦時中故、急遽の移動に使われたのは軍用機。しかし、機内はあまりに寒く、他の乗客からこのままでは凍死するからとコニャックを勧められたベーム、ウィーンに着いた時にはホロ酔い加減を遥かに超えていたという。ウィーンでの演奏がどう成ったのかは語られていない。


今は昔

1981年の『ステレオ芸術』10月号に掲載されている指揮者の人気投票では、

@アバドAベームBカラヤンC小澤DC・クライバーEフルトヴェングラーFバーンスタインGショルティHワルターIマゼール

で2位に支持されていたベームだが、1996年『レコード芸術』3月号で評論家やファンを交えて行われた「20世紀最大の指揮者は誰か」という投票では、

@フルトヴェングラーAカラヤンBトスカニーニCバーンスタインDワルターEベームFブーレーズGC・クライバーHクナッパーツブッシュIムラヴィンスキー

で、ベームは6位に後退。一応上位6人は嘗て”3大指揮者”と称されたトスカニーニ、ワルター、フルトヴェングラーと”20世紀後半3大指揮者”と言われたベーム、カラヤン、バーンスタインだから、或る意味順当といえる結果だとも言える。しかし、2009年の『レコード芸術』12月号で行われた「世界の名指揮者ベスト・ランキング」投票では、

@フルトヴェングラーAカラヤンBバーンスタインCトスカニーニDC・クライバーEワルターFクレンペラーGムラヴィンスキーHセルIクナッパーツブッシュ
JチェリビダッケKベームKミュンシュMアーノンクールNジュリーニNショルティNブーレーズQモントゥーRアバドSライナー

で、ベームは12位と大きく順位を下げてしまった。読者投票では、

@フルトヴェングラーAカラヤンBワルターCバーンスタインDトスカニーニEC・クライバーFクレンペラーGムラヴィンスキーHベームIチェリビダッケ

で、辛うじて十傑に名を列ねているが、評論家票では、

@フルトヴェングラーAカラヤンBバーンスタインCC・クライバーDトスカニーニEワルターFクレンペラーGムラヴィンスキーHセルIアーノンクール

で、十傑から洩れている。実績を考えれば、常に十傑に列せられるべきベームが、信じ難い過小評価を受けている。評論家がこれでは、ベームがメディアに登場する回数は減り、新規のファン開拓の裾野が拡がらず、少しずつ支持者が減って行くのは当然だ。フルトヴェングラー亡き後の欧州楽壇をカラヤンと二分し、1970年代にはバーンスタインを加えて”20世紀後半三大指揮者”を形成していた人なのに、何でこんな格下扱いに成るのだろう。

古くからの世代で彼の録音や実演に数多く接した評論家が減り、時代認識に著しく欠け、ベームの事をよく知らない世代の評論家が増えたという事なのだろうか。何れにせよ、今はまだ古くからのファンがいるからいいが、評論家がこの調子では将来更に地盤沈下が進んでしまうに違いない。まあ、現在も高く評価されている歴史的名盤が少なからず存在するのがせめてもの救いだ。それにしても、この手の企画は時代の変遷を感じざるを得ない。しかし、私はこの結果に納得していないし、ベームの名誉回復の為、生涯戦い続ける積りだ。


総評

ベームは指揮者としてはともかく、人間としては決して偉大でなかったかも知れない。しかし、逆にそうした庶民的な部分が独特の魅力を感じさせ、彼が空前絶後のカリスマに成れたのかも知れない。尤も、マーラーが「私には墓石は要らない。作品が残れば充分だ」という意味の事を語っている様に、芸術家にとって大事な事は、名前や生涯が語られる事ではない。作品(演奏家は演奏)が残る事こそ大事なのであって、人間ベームをよく知りもしない癖にあしざまにけなし、演奏の価値迄低くしようとする人がいる事はおかしい。

これもマーラーが「何故ワーグナーの様な最低な人間の音楽を愛好するのか」という質問に対して「牛肉を食べたからといって、牛に成る訳ではない」と語っている事を忘れてはなるまい。

また、ベームの人間性を貶している人間に果たしてベームを貶せるだけの人間性が具わっているだろうか。ベームは公の場で他人を名指しで批判するという様な事は滅多にしていない。するにしても、オブラートに包んでいる。相手を知るという事は、文献や他人の風評からだけで判断してはならない。直に会って話してみる必要がある。それもなるべく多くの機会に。ましてや、個人的な知己でもない故人をよく分かりもしない癖に貶す連中の方が余程人間的に最低だ。少なくとも彼らに比べれば、ベームの方が遥かに立派な人間であり、人格者であると思う。

それに、ベーム程追悼コンサートが盛んに行われた巨匠はいないのではあるまいか。即ちベームには同業の演奏家達にそうした気持ちを起こさせるものがあったという事だ。そういう意味においては、人間的魅力も充分に具えていたのではなかろうか。

http://mahdes.cafe.coocan.jp/ekb.htm

http://www.asyura2.com/20/reki4/msg/641.html#c5

[近代史4] 隠された履歴:第三帝国のカール・ベーム 中川隆
6. 中川隆[-13345] koaQ7Jey 2020年3月25日 08:05:55 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[1559]

カール・ベームはバックハウスの伴奏が一番良かったですね:


Wilhelm Backhaus plays Beethoven, Piano Concerto No.4 - Karl Böhm, Wiener Symphoniker (1967)




WILHELM BACKHAUS, piano
Wiener Symphoniker
KARL BÖHM, conductor

Recorded at Studio Rosenhügel, Vienna, 3-9 April 1967


______



Wilhelm Backhaus- Brahms Piano Concerto No. 2




Wilhelm Backhaus plays Johannes Brahms Piano Concerto, in 1967.
This is one of the last of his recording.

Wiener Philharmoniker
Conductor: Karl Böhm


______


Brahms / Backhaus / Böhm, 1953: Piano Concerto No. 1 in D minor, Op. 15 - Complete, Vinyl LP




Karl Böhm
the Vienna Philharmonic Orchestra


______


Mozart / Wilhelm Backhaus, August 2, 1960 (Live): Piano Concerto No. 27 in B-flat major, K. 595



Karl Bohm
the Vienna Philharmonic orchestra.

http://www.asyura2.com/20/reki4/msg/641.html#c6
[近代史4] 隠された履歴:第三帝国のカール・ベーム 中川隆
7. 中川隆[-13344] koaQ7Jey 2020年3月25日 08:11:06 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[1560]


ベートーヴェン ピアノ協奏曲第3番 バックハウス




ルートヴィヒ・ヴァン・ベートーヴェン
ピアノ協奏曲第3番 ハ短調 作品37

ピアノ:ヴィルヘルム・バックハウス
指揮:カール・ベーム
ウィーン・フィルハーモニー管弦楽団

録音:1950年9月23日 ムジークフェラインザール (ウィーン)


http://www.asyura2.com/20/reki4/msg/641.html#c7
[リバイバル3] 株で儲ける方法教えてあげる(こっそり) 新スレ 中川隆
299. 中川隆[-13343] koaQ7Jey 2020年3月25日 08:29:40 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[1561]
平野憲一 2020.03.25 勝負どころ!

 24日のNY株。
 ダウは2112.98ドル高の2万0704.91ドル、ナスダックも557.19ポイント高の7417.86ポイントと大幅反発。

ダウの上げ幅は過去最大で2万ドル回復。


 議会通過で揉めていた(と言っても民主党は更に大型の対案)超大型経済対策が可決の方向との報道で一気の買い戻しとなりました。

 いくらコロナウイルス感染拡大が続く国内経済への不安が大きいと言っても、大規模経済対策を無視して、ダウ2月の史上最高値から1ヶ月で1万1000ドルの下げは、余りにも下げ過ぎではないかと言う投資家の買い戻しです。

投資家の不安を表すVIX指数は、100年に一度と言われ、世界恐慌論まで飛び出したリーマンショック時の最高80.86に対して、3/16の82.69は悲観の極み(セリングクライマックス)だったと思われます。

 日本株。
 昨日は、日銀や年金筋(GPIF)の買いで下値が取れないと見たカラ売りファンドの買い戻しで日経平均は、あっと言う間の1万8000円回復です。

明らかに先週末の1万6000円台で底を打った動きですが、リーマンショックの時は、下落前の水準に戻るまで4年かかったとか、1番底の5か月後に厳しい2番底が来たとか言って、投資家はまだ疑心暗鬼です。しかし、東京五輪延期の方向が固まった事は、逆に相場のアク抜け感を誘っています。

 シカゴ日経平均先物は7:20現在1万9010円になっています。これに3月の配当予想180円を足すと1万9190円で、これが今日の日経平均の参考値になります。一気の1万9000円台も可能で、1万9500円と言われるGPIFの評価損はかなり減る事になります。

おそらく下げる過程のリバランス(組み入れ比率が下がっていた為、調整の買い)で簿価は更に下がったと思われますので、このまま行ったらほとんど評価損なしで3月末を迎えられるかもしれません。リバランスとドレッシングの一石二鳥作戦は見事に当たりとなります。
http://www.asyura2.com/09/revival3/msg/822.html#c299

[近代史4] 隠された履歴:第三帝国のカール・ベーム 中川隆
8. 中川隆[-13342] koaQ7Jey 2020年3月25日 08:39:18 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[1562]
感動する音楽は、スタイルに関係ない 2013年11月29日(金)

ベームで感動したのは「田園」しかない。(77年のNHKホールでのライヴ)

音楽評論家の吉田秀和氏の正反対の極に立つような評論家がいる。

”毒舌と偏見”で知られる宇野功芳だ。

毒舌はともかく、偏見に対しては本人も異論があると思うが、少なくとも多くのこの人の書物を読んだり、批評をみているとそのように感じるしかない。でもそのことは一面では褒め言葉でもある。それだけ持論が”ぶれない”ということでもあるからだ。

でも持論を押しつけられるような気がして、最近ではほとんど読まなかったが、つい図書館で表題につられて読むことにした。

『宇野功芳のクラシックの聴き方』(音楽之友社刊)。
http://www.amazon.co.jp/%E5%AE%87%E9%87%8E%E5%8A%9F%E8%8A%B3%E3%81%AE%E3%80%8C%E3%82%AF%E3%83%A9%E3%82%B7%E3%83%83%E3%82%AF%E3%81%AE%E8%81%B4%E3%81%8D%E6%96%B9%E3%80%8D-%E5%AE%87%E9%87%8E-%E5%8A%9F%E8%8A%B3/dp/4276211190


ところが、この本が実に面白かった。なかでも評論家山崎浩太郎との音楽放談「ベートーヴェンの交響曲演奏と大巨匠の音楽」が愉快だった。

ワインガルトナーから始まって、歴代の巨匠たちを順番にベートーヴェンの演奏を中心に批評してゆく。もともと日頃の評論そのものが”放談”みたいな人の音楽放談だから面白いに決まっている。それこそ毒舌を通り越して、”なんでもあり”の世界だ。

うなずいたり、感銘を受けたり、興味深く読んだ個所をちょっとひろってみると・・・

ワインガルトナー
音程はいいけれど、縦の線がひどい。とてもプロの指揮者とは言えない。
いいかげんだしね。聴いていて、学者という感じがします。


トスカニーニ

フルトヴェングラーやワルター全盛期に彼がスカラ座を連れてベルリンで実演をした。その凄さは格別だった。


Y:彼のもたらす緊張感のようなものが全然違っていたのかもしれませんね。

U:レコードに入りきれないものすごいものがあるんじゃないの? 
実演を見なきゃわからないものが。
それでなきゃ、あんなに尊敬されるわけがない。


メンゲルベルク

僕の若いころから、すでに正統的じゃなくて、メンゲルベルク節のような感じにとらえられていて、われわれはあまり聴くものじゃないという印象をもってましたよ。麻薬のような。


ワルター(宇野功芳が若い時、ワルターと文通していたのは有名な話)
僕はワルターを聴いていると、ワインガルトナーに比べて、芸術的に相当上の指揮者だと思うなあ。

ワルターは、ルフトパウゼがすごく巧いんですよ。日本人的な”間”の感覚がある。「田園」を聴いていても、「40番」の例のルフトパウゼにしても、あの”間”は至芸だね。


クレンペラー

U:「7番」を最初聴いたときにはいやになっちゃったけど、フルトヴェングラーに飽きてくるとあの四楽章はいかしてますよ。(1960年・フィルハーモニア管)

Y:わかります。私もあの四楽章が大好きで、終わりのほうの、第一ヴァイオリンと他の弦楽器たちとの対話を聴いたときに、ああ、これが聴きたかったものだと。

U:絶対興奮しないしね。最後まで踏みしめていって、しかも冷静でね。でも中は猛烈温かいんだよ。駆け落ちするようなやつだからね。新婚の人妻を連れて駆け落ちするようなところがまだ残っているわけですよ。しかも、表面は冷静にやるから。

フルトヴェングラー

彼の「田園」の第一楽章を聴いてぶったまげたね。あの演奏は偉大な人生体験の一つだな。(1952年・ウィーンフィル) 

ワルターは夢みたいに美しいけどね。フルトヴェングラーの第一楽章は、人生を背負っているという感じですね。


昔、佐川吉男さんが編集長をしていた『ディスク』で対談を編集長としたが、私が「魔笛」は最高の音楽だと思うと言ったら、佐川さんは「私はザルツブルクの人形芝居しか観たことがない」と言うから、「おれはもう帰らせてもらう」と言った。
(笑) 

でも、僕も偉そうなことが言えないんだ。ブルックナーの話になって、「ブルックナーは要らない」と言った。(笑い)
ブルックナーがわからない、そんな時代だったのです。

クナッパーブッシュ(みんな知っている宇野功芳一押しの指揮者)

クナは、ワーグナーだけを尊敬していますね。ワーグナーのときはまったく恣意的なところがない。

ワーグナー以外は全部下に見ている。自分の遊び道具にしています。

だから、ベートーヴェンさえ一段下に見ています。
「第九の終楽章は、あんなひどい曲はない、だから指揮しない」と言っています。

彼は天才ですね。大天才です。

朝比奈隆

「ここはメロディだ、ここは伴奏だから少し弱くしよう」とかいうのが朝比奈のリハーサルにはないんですよ。

フォルテは「フォルテだぞ」と。

「トランペットがフォルテで下を向いて遠慮しながら吹いているから音が出なくなるんだ、堂々と吹け」と。


朝比奈がドイツ式だ、ドイツ風だとかいうのは全くの間違い。

ドイツ風に聴こえるだけであって、昔のドイツの指揮者はもっともっと、フルトヴェングラーでさえも主題と伴奏ということを絶えず考えて、その分だけスケールが小さくなっていたと思う。

ムラヴィンスキー

凄かったのはムラヴィンスキーですね、

何といっても。あのベーチーヴェンの「4番」はほんとうにもう、震えましたよ。

僕のいちばん嫌いなタイプの演奏なんです。

テンポが速くて、動かなくて、直線的で、歌わないし、とにかく即物的で、微笑みのない、ドラマのない。効果も狙わない。

それに痺れたんですよ。いかに彼が凄いか。

場内の空気は一変しました。最初の一音から。指揮者というものは凄いものですね。

ショスタコヴィッチの演奏は全部すばらしいけど、「5番」だけは僕はあまり買えない。あれは大衆的なおんがくですよ。それを高踏的に演奏している。


U:ショスタコヴィッチの「5番」はベートーヴェンの「5番」に比べるとずいぶん落ちる音楽だと思うよ。ベートーヴェンの第四楽章なんて凄いですよね。

僕は一時、「5番」より「エロイカ」のほうが好きだったんです。
ずーっとずーっと好きだったですよ。でもいまでは、「5番」のほうがやっぱり上だなあと思ってきた。

Y:なるほど。私はまだ修行が足らないせいか、「エロイカ」のほうが好きです。

U:修行じゃないです。歳です、アハハハハ。
(これは僕も同意見。ベートーヴェンの「5番」ほど最初から最後まで完璧な音楽は、僕は他に知らない)


シューリヒト

シューリヒトの名盤というと、やはり「エロイカ」と「田園」かな。

あの人はスピードでスーッといくから、「1番」もいいね。

「田園」がなぜかいいんです。非常にユニークな指揮者だね。
スーッと行っていながらいろんなことをやっているんだよ。目立たないように。
面白いですね。名人じゃないですか。やはり巨匠だな。

(「エロイカ」1963年フランス放送管、「田園」1957年パリ音楽院)

ベーム

ベームで感動したのは「田園」しかない。(77年のNHKホールでのライヴ)

カラヤン

カラヤンのベートーヴェンはまったく買わない。

バーンスタイン

バーンスタインで良くないのはベートーヴェンです。
NHKホールでの「3番」を聴いたことがありますが、非常に浅い、ヤンキーのベートーヴェンだった。アメリカの大衆性が悪く出てしまう。

だけれども、ウィーン・フィルを振った全集はオケがしっかりしているから、あれはあれなりに優れた演奏のひとつだと思う。

クライバー

U:ヴァントがいちばんいい例で、三流、二流、一流、超一流となる。
朝比奈先生も二流だったもんね。

60歳ぐらいから少しずつ一流になってきて、長生きしたおかげで曲によっては超一流になった。


Y:そういう意味ではカルロス・クライバーは、決して亡くなったとき若くはないですけれども、老い、円熟ということは一切なく、カルロス・クライバーという人がそのまま来て、そのままいなくなった。

U:ああいう天才型は大体そうだなあ。アルゲリッチもそうだし、ハイドシェックもそうだし、天才型というのは何か進歩しないんだ。


アバド
まったく買わないです。アバドは腑抜けだよね。
音は美しいよ。だから、「田園」は聴いていていやじゃないなあ。

チェリビダッケ

彼の「5番」と「田園」を聴きました。
いちばん面白いのは「5番」ですね。個性のかたまり。

ゲルギエフ

「エロイカ」を埼玉まで聴きにいったんです。旧スタイルなんですよ、ロシア人だから。

巨匠風かというと、全然そんなことはない。中途半端ですね。

小澤もそうですよ。ゲルギエフよりまだスケールが小さい。

マタチッチ

U:マタチッチは詰めが甘いんです。録音で聴くと、なんだかずいぶん怪しいところがある。

Y:彼は、それをそのまま放っておくようなところがありますね。

スメターチェク

あとは、スメターチェクを忘れてはいけない。
彼は、日本に来るたびに大感動した指揮者です。

チェコへ行ったと聞いた話ですが、ノイマンの政治力が強い。
スメターチェクにはまるでないんだって。

社会主義国家だったから、上の覚えがめでたくなくて、不遇だったと言っていた。楽員はみんな、実力はスメターチェクが全然上だと言っていましたけど。

Václav Smetáček - Dvorak Symphony No.9 From the New World
Symfonický orchestr Českého

宇野功芳:

僕はいつも、いちばん最終の判断は、知識のない、『レコ芸』なんか読まない、何にも知らない、ただ音楽が好きで音楽がわかる人が感動する演奏がいちばん凄いんだと思う。スタイルに関係なく。
http://kirakuossa.exblog.jp/20038456/

http://www.asyura2.com/20/reki4/msg/641.html#c8

[近代史4] 隠された履歴:第三帝国のカール・ベーム 中川隆
9. 中川隆[-13341] koaQ7Jey 2020年3月25日 08:43:34 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[1563]

指揮者チェリビダッケの音楽語録〜 2008年04月15日
https://blog.goo.ne.jp/jbltakashi/e/c2454e666c6de0a509d1ca7dcd889015


☆カール・ベーム

「彼の演奏を聴けば聴くほど、彼が心の中で音楽と思い込んでいるものと、彼という人間のあいだの距離が目に見えてどんどん開いてゆくばかりだ。」

「ベーム・・・・・、これまでのキャリアのなかで、まだ一小節たりとも音楽というものを指揮したことのない男」

先日(4月5日)、我が家での試聴にjmc音楽研究所長のO君が持ってきたCD盤の「シェラザード」がすっかり気に入って、いまのところ愛聴盤として活躍中。(4月8日付けのブログで紹介)

オーケストラの音の響かせ方やテンポ、調和のとれたハーモニー、独奏ヴァイオリンの歌わせ方などによく練りこまれた独特の味わいが感じられる。

こうなると自然にその指揮者に関心が向く。

セルジュ・チェリビダッケ(1912〜1996:ルーマニア)

「私が独裁者?モーツァルトこそ!〜チェリビダッケ音楽語録〜」(シュテファン・ピーンドルほか著、音楽の友社刊)に略歴や人となり、音楽の考え方などが詳しく記載されている。

哲学と数学を専攻する中、音楽に目覚め24歳のときにベルリンに移住して作曲、指揮、音楽学を修めた。1945年にはベルリン放送交響楽団の指揮者コンクールに入賞。

当時、ベルリン・フィルハーモニーの常任指揮者だったフルトヴェングラーが非ナチ化裁判のため指揮を許されなかった1945年から1947年にかけてベルリン・フィルを任されたほどの逸材。

フルトヴェングラー死去後、誰もが世界の名門オーケストラのベルリン・フィル常任指揮者に就任するものと思ったが、楽団員達が択んだのはなんとヘルベルト・フォン・カラヤンだった。

以後、チェリビダッケは国際的な指揮活動に集中せざるを得なくなり、イタリア、デンマーク、スウェーデン、フランスなどで指揮棒を振るが、晩年はミュンヘン・フィルハーモニーの音楽総監督として12年間に亘り蜜月時代が続く。

彼がとくに関心を抱いていたのが、若い指揮者を育てることで、自由になる時間のほとんどすべてを後輩の育成に捧げた。

彼がカラヤンに代わって当時のベルリン・フィルの常任指揮者に納まっていたら、その後、世界のクラシック音楽の動向も変わっていただろうといわれるほどの超大物指揮者だ。

チェリビダッケは言う。

「わたしがベルリン・フィルをさらに指揮し続けたら、このオーケストラは別の道を歩んだことだろう。カラヤンはアメリカ流に艶っぽく磨きぬかれたオーケストラに変えてしまった。わたしならそれをドイツ的なひびきを持つオーケストラに育て、その結果フルトヴェングラーの伝統を受け継いだことだろう。」

彼には指揮者から演奏者までさまざまな「歯に衣をきせない」発言がなかなか面白い。ここでは指揮者に限定して抜粋してみよう。

☆フルトヴェングラー

師として仰いだので次のように賞賛の言葉が続く。

「私はフルトヴェングラーの後継者になることを望まなかった。彼の後継者になれるものなどいない」

『私は彼にこう訊ねたことがある。「先生、ここのテンポはどうすればよいのでしょう。」答えは「そうだね、それがどんなひびきを出すかによるね」。まさに啓示だった。テンポとはメトロノームで測れるような物理的なものではない。結局、テンポが豊かなひびきを出し、多様性を十分に得るのに私はかなりの期間を必要とした。』

※通常、作曲家は楽譜にいかなるテンポで演奏するかを指定していないという。つまり、これは完全に指揮者任せということで、テンポ次第で音楽から受ける印象がすっかり変わる。しかし、速いテンポでも遅いテンポでも違和感がなく自然に聴ける唯一の音楽がベートーヴェンの作品!

☆クラウディオ・アバド

「まったく才能のない男。災厄だね。私は3週間何も食べなくても生きていける。だが演奏会に3時間もいれば〜心臓発作を起こしかねない。その相手が彼なら怒り心頭」

☆カール・ベーム

「彼の演奏を聴けば聴くほど、彼が心の中で音楽と思い込んでいるものと、彼という人間のあいだの距離が目に見えてどんどん開いてゆくばかりだ。」

「ベーム・・・・・、これまでのキャリアのなかで、まだ一小節たりとも音楽というものを指揮したことのない男」

☆ヘルベルト・フォン・カラヤン

「彼は天才ではない。すべての若い音楽家にとってひどい毒となる実例である」

「彼は大衆を夢中にさせるやり方を知っている。コカ・コーラもしかり。」

☆ユージン・オーマンディ

「あんな凡庸な楽長がどうしてストコフスキーの後継者になることができたのか」


☆ヴォルフガング・サバリッシュ

「私の見るところ、彼は高校の校長といったところ。彼は音楽家ではない。メゾフォルテの男だ。イタリアでは長距離専門アスリートをメゾフォルテと呼ぶ」

☆ゲオルグ・ショルティ

「ピアニストとしては傑出している。指揮者としては凡庸な耳しかない。テクニックはお粗末。」

☆アルトゥーロ・トスカニーニ

「トスカニーニは楽譜どおりに演奏した唯一の指揮者だといわれてきた。といっても彼はそもそも音楽などまったくひびかせず、音符だけを鳴らした唯一の指揮者だった。彼は純粋な音符工場だった。」

以上、かっての名指揮者たちもチェリビダッケにかかってはかたなしというところ。

最後に、最近HMVから取り寄せた3枚のチェリブダッケが指揮するCD盤を試聴してみた。

☆ベートーヴェン交響曲第6番「田園」

以前、このブログで田園の11枚の試聴を行って、およその演奏レベルを把握しているつもりだが、これは、ベストだったマリナー、ワルター指揮と十分比肩しうる名盤。
嵐のあとの感謝の歌の神々しいまでの荘厳さといい、全体的に細かいところに手を抜かず、重厚かつ深々としたひびきに”チェリビダッケは凄い”と感心した。

☆ベートーヴェン交響曲「第九番」

何だかフルトヴェングラーの最新ステレオ録音を聴いている思いがした。第一楽章から第四楽章まで時を忘れて聴き耽った。

☆シューマン交響曲「第2番」

仲間のMさんによるとチェリビダッケはシューマンとかブルックナーといったあまり陽のあたらない作品に光を当てて、見直させるのが得意な指揮者だという。たしかにこのひびきは人を飽きさせず作品に没入させる何かを持っている。

以上3曲(ライブ録音)についてとにかく重厚なひびきに圧倒された。これがドイツ的なひびきというものだろうか。ミュンヘン・フィルでこのくらいだから、彼がベルリン・フィルを引き継いでいたらもの凄かっただろう。本人が言うようにフルトヴェングラーの伝統を引き継ぐ資格に太鼓判を押したい。

ただし、自分が思うところフルトヴェングラー、チェリビダッケともにひびきを重視していることに変わりはないが、前者はいったん演奏に入るとひびきを忘れて演奏に深く没入するが、後者は常にひびきを念頭において(そのひびきを)冷静に第三者の目で観察しているところに違いがある。
https://blog.goo.ne.jp/jbltakashi/e/c2454e666c6de0a509d1ca7dcd889015



チェリビダッケ語録

「(マゼールは)カントについて語る二歳児」

「(クナッパーツブッシュは)スキャンダルそのもの」

「(ムーティは)才能はある、おそろしく無知だが」

「(アドルノは)世界史のなかでいちばんの大言壮語野郎」

「(ムターは)彼女は自分の弾き方に自信を持っている。だが彼女のやること全てには真に偉大な音楽性はない。彼女には視野がない」

「シェーンベルクはまったくどうしようもない愚鈍な作曲家である」

「イーゴリ・ストラヴィンスキーはディレッタントの天才に過ぎない。彼は生まれつき忍耐力に欠けていた。そしてこの欠陥をいつも、
新しい様式で補った。だから彼の音楽は様式感に欠けるところもあるわけだ」

「私の見るところ、サヴァリッシュは高校の校長といったところ。彼は音楽家ではない。メゾフォルテの男だ」

「リズムが機械的なものと理解すれば、それがブーレーズだ」

「(ムターに対して)さてと、あなたがヘルベルト・フォン・カラヤン氏のところで学んだことをすべて忘れなさい」

(とあるマスタークラスにて、若き日のインバルに向って)
「ちゃんと勉強しないと、バーンスタインみたいな指揮者になってしまうぞ!」

「ハイフェッツは哀れな楽譜運搬業者だ」

「人間は何も食わずとも3週間くらいは生きられる。だがアバドのコンサートを3時間聴いたら心筋梗塞を起こす」

「ベートーヴェンの交響曲第5番は失敗作、特に終楽章は」

「(カルロス・クライバーは)あんな常軌を逸したテンポでは何も分からない。
彼は音楽がなんであるか、 経験したことがない」

私が独裁者だって?モーツァルトこそ独裁者だ!」

評論家など寄生虫だ」

「フランス人くらいドビュッシーやラヴェルを下手糞に演奏する連中はいない」

「(ショルティは)ピアニストとしては傑出している。指揮者としては凡庸な耳しかない。テクニックはお粗末」

「チャイコフスキーは、真の交響曲作曲家であり、ドイツでは未知の偉大な男である」

「ベートーヴェンの《第九》の終楽章の合唱もサラダ以外のなにものでもない。ぞっとするサラダだ」

「(カラヤン時代の)ベルリンフィルには、世界最高のコントラバス奏者がいます。だから、ベルリンフィルのコンサートは、今、すべてがオーケストラ伴奏付きのコントラバス協奏曲なのです」

「(ハスキルは)すばらしいコンサート・ピアニスト。機知に富み、魅力的で、徹頭徹尾、音楽的。 ユーモアと生きる歓びに充ちている」


http://www.asyura2.com/20/reki4/msg/641.html#c9

[近代史3] リヒャルト・シュトラウス 『薔薇の騎士』 中川隆
7. 中川隆[-13340] koaQ7Jey 2020年3月25日 09:27:19 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[1564]
踏みにじられた「ウィーンの名花」-----デラ・カーザ降板劇
http://www.fugue.us/Intermezzo_combined.html


Tomoyuki Sawado (Sonetto Classics)
リーザ・デラ・カーザ

不可解な主役の変更

1960年7月26日、ザルツブルグ祝祭大劇場のこけら落とし公演において、スイス生まれの名ソプラノ、リーザ・デラ・カーザ(1919-)は「バラの騎 士」の元帥夫人マルシャリン役を歌い、満場の聴衆を魅了していた。ヘルベルト・フォン・カラヤン指揮のウィーン・フィル、セーナ・ユリナッチのオクタヴィ アン、ヒルデ・ギューデンのゾフィーという、伝説的な共演者達であった。公演は歴史的と言える成功をおさめた。そして、この後、本来ならば、デラ・カーザ を主役としたオペラ映画「バラの騎士」が撮影される運びだった。彼女にとっては、キャリアのピークとなる、輝かしい夏となる筈だったのだ。ところが、実際 の映画の撮影現場にいたのはデラ・カーザではなく、ライヴァル、エリーザベト・シュヴァルツコップだった。完成した映画は公開当初から最高の評価を受け、 デラ・カーザの公演での大成功にも関わらず、マルシャリン=シュヴァルツコップのイメージだけが後世に残ることとなった。


映画において、シュヴァルツコップの良くコントロールされた歌唱、毅然とした佇まいが、元帥夫人の一つの優れたモデルを提供していたのは確かである。しか し、当初の予定通り、デラ・カーザが映画に出演していたら、映像の魅力は、より大きなものとなっていたかもしれない。というのも、デラ・カーザはハリウッ ド黄金期の女優達を彷彿とさせる、優艶なる美貌の持ち主だったからだ。人はデラ・カーザを「アラベリッシマ=最美のアラベラ」「ウィーンの名花」と賞賛し ていた。彼女の舞台姿を評して、「ルードヴィヒ一世のギャラリーにある素晴らしく美しい肖像画から抜け出て来たような」と讃嘆したのは、名バリトンのハン ス・ホッターである("Memoirs", Hans Hotter, p126)。

「デラ・カーザは新しいアラベラになるぞ」(リヒャルト・シュトラウス, 1947年)




バイエルン国立歌劇場での「サロメ」より「7つのヴェールの踊り」を舞うデラ・カーザ。1961年のカール・ベーム指揮の公演はセンセーショナルな成功を収めた。


しかし、デラ・カーザは、単に美貌で売っていた歌手だったわけではな い。彼女はオペラ史上でも稀に見る万能ソプラノだったのだ。なにしろ、彼女は「バラの騎士」において、メゾのアンニーナとオクタヴィアン、ソプラノのゾ フィーとマルシャリンという、音域も性格も異なる4つの女声役全てで成功している。しかも、彼女は、本来ドラマティックソプラノの領分であるクリソテミス やサロメを歌ってセンセーショナルな成功を収め、パミーナ、フィオルディリージ、伯爵夫人などのモーツアルトのリリックな役柄では当代随一の評価を得てい たし、ミミ、トスカなどのイタリア系の役柄でも高く評価された。そしてデビュー当時はコロラトゥーラの夜の女王まで手がけていたのである。ここまで来ると 一種の異才というべきだろう。

フリッツ・ライナーは、ある時、デラ・カーザに向かって、「リーザ、私が歌手の連中を好んでいないのは知っているな。でも君は歌手じゃない。音楽家だ。」 と言ったという。この発言は、二つの観点から解釈することができる。まず、純粋な歌唱技術という観点から見ると、デラ・カーザは100%完璧なものを持っ ていたわけではなかった。もちろん、第一級と言っていい歌唱能力の持ち主ではあったが、弱音になると、中低声部の音程が若干フラットになることがあった。 銀色の美声の持ち主ではあったものの、決して声楽技術を売りにする「歌手」ではなかったと言える。第二に、彼女の最大の特質は、音楽性、特にその歌の「真 正さ」にあった。表情が硬い、と指摘されることがあったが、一方で何を歌っても、控えめな美しさ、清純さ、若々しい息吹を感じさせた。この点で、彼女はマ リア・チェボターリ、マリア・ライニング、グンドゥラ・ヤノヴィッツの系列に属する、正統的シュトラウス・プリマだったと言える。



デラ・カーザのアラベラと、フィッシャー・ディスカウのマンドリカは、黄金の組み合わせだった。


高貴な美貌はもとより、その若々しく上品な歌声は、シュトラウスのオペラ「アラベラ」の世界に完璧にマッチしていた。結婚を夢見る令嬢の心の揺れ動きを、 デラ・カーザほどさりげなく、そして見事に歌い、演じた歌手はいない。彼女のアラベラは伝説的で、いまだに世界中のどこかで誰かがこの役を歌うたびに、 「デラ・カーザ」の名が比較にあげられるほどである。現在、4種類の公式録音が手に入る上、全曲のライヴ映像もドイツのテレビ局に残っている。特に、最近 オルフェオから発売された「アラベラ」のライヴ録音は瞠目すべき演奏で、そこでは彼女の最高のアラベラを聴くことができる。もちろん、名盤として知られる ショルティとの1957年のデッカ録音では、ジョン・カルショーによる見事な録音と、瑞々しいデラ・カーザの美声が満喫できるのだが、一方で彼女の表現は ややクールに過ぎ、ショルティの指揮も力づくで味わいに欠けているのは否めない。1963年のカイルベルトとのDG録音では、デラ・カーザの表現ははるか に深みを増している反面、声は重くなり、そのコントロールは完璧ではなくなっている。その点、1958年のオルフェオ録音は、声、表現、カイルベルトの指 揮VPOの豊麗な伴奏ともに、ほぼ理想的な状態にある。


完璧なマルシャリン


1960年の「バラの騎士」ザルツブルグ公演の美しい舞台写真。マルシャリンのデラ・カーザ(左)とオクタヴィアンのユリナッチ(右)。



冒頭にあげた公演、1960年に行われた「バラの騎士」プレミエの録音が、最近になってDGから発売になった。モノラルの放送録音由来というハンディをい れても、演奏内容でシュヴァルツコップとカラヤンが製作した著名なEMI盤を凌駕する、という意見が多い(英グラモフォン誌のAlan Blythもこのライヴ盤をEMI盤よりも上位に置いている)。実際、カラヤンの流麗な指揮は見事なもので、EMIのスタジオ録音よりも音楽が自然に流れ ている。ゾフィーを歌ったギューデンだけはやや不調だが、他の歌手は素晴らしい出来だ。特に、デラ・カーザに関しては、レコードで聴くことのできるマル シャリンの中でも最上のものに属する。入念に準備されたらしく、低音から高音までムラなく美しい声で、非の打ち所の無い歌唱を聴くことができる。最後の三 重唱では、遅めのカラヤンの指揮によりそい、クリスタルガラスのように輝くトーンと、見事なヴォイス・コントロールを聴かせている。そして、少しもわざと らしさ、押し付けがましさを感じさせない表現が新鮮だ。他の歌手が歌うとやりすぎて暑苦しくなる「時計のモノローグ」も、さりげなく歌われ、心の微妙なゆ らめきが伝わってくる。何より、30代前半の女性を想定されて書かれたマルシャリンに相応しく、声に若々しい息吹を感じさせるのが良い。全ての点でゾ フィーを上回る魅力を持つマルシャリン、というのはプロット上問題かもしれないが......

この素晴しい結果から見ても、指揮者カラヤンと監督ツインナーが、当初、デラ・カーザを公演と映画でのマルシャリンに起用しようとしたのは正しい判断だっ た。カラヤンは、この公演に先立つ1959年の夏、デラ・カーザに翌年の「バラの騎士」の出演を依頼している(ただ、この時点から、なぜかカラヤンは、 シュヴァルツコップをセカンドとしたダブルキャストにこだわっていた)。そして、公演の4カ月前の1960年の3月に、音楽祭のプレジデントであった Baron Puthonが、デラ・カーザ夫妻に「バラの騎士」映画製作の話をした。デラ・カーザが喜んだのは当然である。特に、監督のツインナーは、ことのほかデ ラ・カーザ起用に熱心であったようだ。彼らは1960年の4月の段階でデラ・カーザに映画主演のオファーを出し、デラ・カーザも受諾した。6月には、ツイ ンナーは、デラ・カーザ夫妻に「マルシャリンとザルツブルグでの映画を大変楽しみにしている」というカードを送っている((Lisa Della Casa, oder "In dem Schatten ihrer Locken", p249-251)。デラ・カーザが心配することは何も無かった。あとは公演をこなし、カメラの前に立つだけである。

寝耳に水の降板劇と6年前の伏線


流れが突然変わったのは、7月、ザルツブルグ音楽祭が始まった後である。突然、彼女は映画の主役から外されたのだ。しかも、その決定は、デラ・カーザ本人にさえ知らされなかったらしい。メゾ・ソプラノのクリスタ・ルードヴィヒの自伝に以下の記述がある。

「リー ザ・デラ・カーザは、ザルツブルグで不愉快な驚きを経験させられた。彼女は、新しい祝祭大劇場で、1960年の7月、カラヤンの指揮で素晴らしいマルシャ リンを歌った。私がきいたところでは、その公演が映画化されるとのことだったが、(実際の)映画では、シュヴァルツコップがマルシャリンだった。音楽祭の 最中、私はリーザに道でばったり会ったのだが、彼女はその映画の話をし始め、わたしにその映画に出演することをどんなに楽しみにしているか、ということを 語ったのだ。私はひどく無邪気に、「あなた、シュヴァルツコップが映画でマルシャリンを歌うことになっているのを知らないの?」と言ってしまった。リーザ は、誰かが彼女を排除した、ということを全く知らなかったのだ。契約というのは破るためにあるのだ。ヴォータンが「指輪」で幾度もやったよう に............」(「In My Own Voice:Memoirs」p185-6)



ドンナ・エルヴィーラに扮した、イングリッド・バーグマン風のデラ・カーザとサイン。(筆者蔵)


いったい、何が起こったのだろうか?

Richard Fawks のOpera on Filmsによれば、ツインナーの1954年の映像作品、「ドン・ジョヴァンニ」に、「バラの騎士」降板事件の伏線があるという (p161)。ヴィルヘルム・フルトヴェングラー指揮のこの映像作品のプロトタイプとなった本公演では、シュヴァルツコップがドンナ・エルヴィーラ役とし て、ザルツブルグの6公演に参加した。しかし、シュヴァルツコップ夫君のEMIプロデューサー、ウォルター・レッグの意向で、シュヴァルツコップは映像版 への参加を取り止めてしまう。

その理由は、「ドン・ジョヴァンニ」の製作中に、ツインナー監督で「バラの騎士」映画制作の計画があることをレッグが知ったためである。レッグは、その映 画に妻のシュヴァルツコップをマルシャリンとして登場させることを優先させたのだ。「ドン・ジョヴァンニ」をあきらめることで、最初の映画出演から派生す る契約上の束縛から自由になることも狙っていたことだろう。シュヴァルツコップが役を降りてしまったため、急遽、デラ・カーザが映画「ドン・ジョヴァン ニ」のドンナ・エルヴィーラ役に起用された。既に製作は進んでいたこともあって、デラ・カーザの登場箇所のみは、後になって改めて撮り直され、シュヴァル ツコップが登場する箇所と差し替えられた。つまり、シュヴァルツコップとレッグの間では、「バラの騎士」は数年越しの夢だったのだ。そして、この夢は何が 何でも達成されなければならなかった。

シュヴァルツコップ、レッグ夫妻の水面下での動き


自伝ではぼかしているのだが、クリスタ・ルードヴィヒはデラ・カーザ降板の舞台裏を知っていた筈である。デラ・カーザの夫君、デベルジェヴィッチ (Dragan Debeljevic)の「Lisa Della Casa, oder "In dem Schatten ihrer Locken"」によれば、ルードヴィヒとデベルジェヴィッチは、ザルツブルグ祝祭劇場の前でばったり出会い、以下の会話を交わしているという (p251)。

ルードヴィヒ「私、エリーザベトには頭に来てるの」

デベルジェヴィッチ「どのエリーザベトのことで怒っているんだい?」

ルードヴィヒ「(驚いて)シュヴァルツコップのことよ」

デベルジェヴィッチ「なぜ?」

ルードヴィヒ「なぜ?映画のことに決まっているじゃないの。シュヴァルツコップが映画に出演するなんて、ひどい話だと思うわ。」

デベルジェヴィッチ「そんなはずはないさ。リーザはずっと前から出ることが決まっている。ツインナーとは、出演料の話がのこっているだけなんだよ」

ルードヴィヒ「シュヴァルツコップの契約のことで誰もあなた達に連絡していないの?」

驚いたデベルジェヴィッチは、リハーサル中の妻のデラ・カーザに電話をかけた。デラ・カーザは、当初、夫の話を信じなかったのだが、ついに監督のツイン ナーから一件をきかされるはめになる。デベルジェヴィッチによれば、ツインナーは「うなだれた姿」で、「ひどい話だ。私は運が悪い」と口走っていたとい う。ツインナー曰く、「シュヴァルツコップとその夫君(レッグ)がロンドンの映画会社と直接交渉し、最終契約を結んでしまった」というのである。そして、 ツインナーは、「自分は知らなかったんだ」としつつも、「口約束しかしなかったのは君たちのミスだった」とデラ・カーザ側を責める言葉を吐く。デベルジェ ヴィッチは激昂し、激しくツインナーを罵る。デラ・カーザはカラヤンに直訴しようとするが、ツインナーは「もう変更はきかない」と言うのみだった。 (Dragan Debeljevic, p251-2)



映画は、ライヴァル、シュヴァルツコップのマルシャリン歌いとしての名声を不朽のものとした


確かに、デラ・カーザがカラヤンのもとへ行ったとしても、時間の無駄だったろう。シュヴァルツコップは既にカラヤンとも手を打ってしまっていたからだ。ロ ンドンの映画会社といい、カラヤンといい、彼女の動きは見事なまでに素早く、効果的で、そして容赦の無いものだった。

「  最初に問題が起きたのは、カラヤンがマルシャリン役にシュヴァルツコップではなく、リーザ・デラ・カーザを起用する、と決めたときであった。デラ・カーザ はマルシャリンの役をそれほど好んでいなかったから、シュヴァルツコップには二重のショックだった-----彼女は、前年の12月にコヴェント・ガーデン でショルティの元でこの役を歌った時、イギリスのメディアから、「好意的に見ても賛否半ば」、という評価を受けていたのである。-------シュヴァル ツコップはカラヤン指揮で『ドン・ジョヴァンニ』のドンナ・エルヴィラを、ベーム指揮で『コジ・ファン・トゥッテ』のフィオルディリージを歌う予定になっ ていたのにも関わらず、1960年のザルツブルグ音楽祭から完全に降りると脅した。そして、シュヴァルツコップは、カラヤン指揮、パウル・ツィンナー監督 の映画、「バラの騎士」のマルシャリンとして出演する、という合意を確実に取り付けた。」
(Herbert Von Karajan: A Life in Music, p454 Richard Osbone)


普 通であれば、帝王カラヤンを脅した段階でシュヴァルツコップのキャリアは暗転していたかもしれない。仮にシュヴァルツコップがザルツブルグ音楽祭から完全 撤退したとしても、芸術面、人気面で音楽祭が損害を受けることはなかったろう。なにしろ、当時のデラ・カーザの高いレパートリー能力と人気は、シュヴァル ツコップの穴を埋めるに十分すぎるものだったからだ。そして、もしそうなっていたら、1960年のザルツブルグ音楽祭の主役はデラ・カーザになっていた。 そして、後世は、オペラ演奏史上、もっとも美しいマルシャリンのカラー映像を目にしていたに違いない。


音楽ビジネスの論理を優先したカラヤン



一世を風靡した当たり役、美女アラベラに扮したデラ・カーザ。作曲者リヒャルト・シュトラウスは、脇役を演じる20代の彼女の舞台を見て、「彼女は将来、新たなアラベラになるだろう」と予言した。


だが、実際にはそのような事は起きなかった。カラヤンがシュヴァルツ コップの要求をそのまま受け入れ、シュヴァルツコップを映画の主役にしてしまったからである。カラヤンの翻意の理由は、シュヴァルツコップの実力というよ り、シュヴァルツコップの夫君、ウォルター・レッグの存在があったからに他ならない。レッグは敏腕プロデューサーとして、大会社EMIを実質的に統括して おり、ある意味、カラヤン以上に大きな力を持っていた。また、カラヤンは、ナチ党員として演奏活動が禁じられていた戦後間もない時期、レッグが創設した フィルハーモニア管弦楽団との録音の場を提供してもらっていた。カラヤンにとって、シュヴァルツコップを切って、恩も力もあるレッグとの関係にヒビを入れ ることなど想像もできなかっただろう。そして、シュヴァルツコップは、当時、賛否半ばだったとは言え、独自のマルシャリンを歌い、演じることが出来たか ら、カラヤンの行為は、道義的にはともかく、芸術的には理不尽な判断ではなかった。そのことは、シュヴァルツコップ主演の映画が成功したことからも明らか である。

無惨だったのは、さんざん持ち上げられたあげくに梯子を外され、しかも、部外者であったルードヴィヒから道端で一件を知らされたデラ・カーザ夫妻である。 カラヤンを始めとする関係者は、誰も彼女に説明しようとしなかったのだ。大物達の政治的思惑が交錯する中、後ろ盾のない彼女は、ただ苦い涙を飲む他なかっ た。デベルジェヴィッチによれば、彼女は、降板が決定した後、数日間というもの、ひどくふさぎ込み、プレミエの大成功についても、「何の意味があるの?明 日になれば皆忘れてしまうわ。でも映画は記録として残るのよ。」と言っていたという。そして、「自分は裏切られた。自分は失敗者」とさえ考え、「Ich will nie mehr nach Salzburg-----もうザルツブルグ音楽祭では歌わない」と語るまでになっていた(Dragan Debeljevic, p252)。実際、翌年以降の同プロダクションはシュヴァルツコップが歌ったし、シュトラウス・イヤーであった1964年にも、カラヤンからの音楽祭への 出演オファーを断っている(Dragan Debeljevic, p253)。もちろん、彼女も栄光あるザルツブルグ音楽祭への出演を断りつづけることで、自身のキャリアを傷つけていることは分かっていたが、彼女は自分 をもてあそんだ場所を許すことができなかった。間もなく、彼女のメジャーレーベルへの録音も途絶えてしまう。


苦い涙とともに

こ の不条理な降板事件は、デラ・カーザの心に、音楽業界に対する大きな不信をもたらした。彼女は、これ以降もシュヴァルツコップと共演しており、少なくとも 表面上、二人のライヴァルの関係がささくれ立つようなことはなかったようだ。ただ、音楽ビジネスの象徴であるザルツブルグ音楽祭への思いは別である。「陳 腐」「誇りも人間味もない」「不公正。嘘。詐欺」「私はザルツブルグ音楽祭なしでも生きていけるし、ザルツブルグは私なしでも生きていける」と、プライ ヴェートな場でではあるが、激しい言葉を使っていた(Dragan Debeljevic、p253)。そして、後年のデラ・カーザは、音楽ビジネス全体、オペラの世界に充満する陰謀、嫉妬、政治的な動き、スター歌手達の 自己中心的な振る舞いに対する違和感を表明するようになっていく。彼女は1974年、突然、引退を表明した。娘の病気が理由である。とあるインタビュー で、「とてつもなく深い悲しみの表情とともに」、かつて負った心の傷を伺わせるような言葉を残している。

歌手の運命の一番奇妙なところは、目的のために全てをなげうち、そして儚く全てが終わってしまうこと.............

私達の残した足跡なんて、今日の午後降った雪のようなものなのです。明日には消え、何も残らないの。

そうね、何人かは覚えていてくれるでしょう。でも、それも本当に短い間だけね。

(The Prima Donnas, Lanfranco Rasponi)


彼女は敗北したのか?


1960年のザルツブルグでの「バラの騎士」の舞台から。デラ・カーザ(左)とセーナ・ユリナッチ(右)



幸運なことに、これらの言葉は、彼女に限ってはせいぜい半分程度しか当てはまらなかった。確かに、現在、デラ・カーザの名は、レッグと彼の息のかかったメ ディアによって過剰なまでに神格化されたシュヴァルツコップに比べ、ひどく過小な扱いを受けている。しかし、その反面、彼女が1960年代前半までに残し たいくつかの録音は、オペラを少しでも聴き込んだ人々にとっての大切な宝物であり続けている。「アラベラ」4種(DG、デッカ、オルフェオ、テスタメン ト)、ミトロプーロスとの「エレクトラ」(オルフェオ)、ベームとの「四つの最後の歌」「コシ・ファン・トゥッテ」(デッカ)「ナクソス島のアリアドネ」 (DG)、エーリヒ・クライバーとの「フィガロの結婚」(デッカ)、セルとの「魔笛」(オルフェオ)、フルトヴェングラーとの「ドン・ジョヴァンニ」 「フィデリオ」、そして、何と言ってもカラヤンとの1960年の「バラの騎士」のライヴ録音(DG)..........。これだけ多くの名盤、綺羅星の ような名演に関わって来た歌手の名が、「雪のように、明日には何も残らない」ことがありうるだろうか。

興味深いことがある。近年、シュヴァルツコップの歌唱アプローチが、若い世代の歌手や批評家達から、作為的、表情過多、マンネリズムと批判されることが増 えてきているのである。巷で「完璧」とされてきた技巧についても、よく聴いてみれば、音程も正しいわけではないし、特に後年は、もっぱら声の美感の不足を 隠すために使われていたようにも聴こえる。ウォルター・レッグによる宣伝とは無縁の若い世代の聴衆には、かつて「お行儀が良すぎる」と言われた、デラ・ カーザのナチュラルで上品な歌い方の方がフレッシュに響くのではないだろうか。実際、ここ10年の間に彼女が参加した公演のライヴ録音が、オルフェオ、 DG、テスタメント等を通じて日の目を見て来たが、どの盤も最高の評価を受けている。1960年にバイエルン国立歌劇場で収録された、「アラベラ」の全曲 映像が正規ルートで発売される日もそう遠くはないだろう。

来年初頭、「ウィーンの名花」リーザ・デラ・カーザは89歳になる。彼女は、ささやかだが、着実に進行しているリバイバルの流れをどのように見ているのだろうか。できることなら、話をきいてみたい気がする。

10/23/2007
--------------
References

Memoirs, by Hans Hotter

Lisa Della Casa, oder "In dem Schatten ihrer Locken", Dragan Debeljevic

In My Own Voice: Memoirs, by Christa Ludwig

Herbert Von Karajan: A Life in Music, by Richard Osbone

The Prima Donnas, by Lanfranco Rasponi

Opera on Films, by Richard Fawks

"Lisa Della Casa" (International Opera Collector, p26-31), by Roger Nichols


追記)デラ・カーザの90歳記念特集のテレビ番組が制作された。その中で、白黒ではあるが、60年ザルツブルグ音楽祭の「薔薇の騎士」の舞台を記録した映像が流されている。

http://www.fugue.us/Intermezzo_combined.html
http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/881.html#c7

[近代史3] モーツァルトで本当にいいのは 歌劇「ドン・ジョヴァンニ」だけ 中川隆
5. 中川隆[-13339] koaQ7Jey 2020年3月25日 09:28:11 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[1565]
踏みにじられた「ウィーンの名花」-----デラ・カーザ降板劇
http://www.fugue.us/Intermezzo_combined.html


Tomoyuki Sawado (Sonetto Classics)
リーザ・デラ・カーザ

不可解な主役の変更

1960年7月26日、ザルツブルグ祝祭大劇場のこけら落とし公演において、スイス生まれの名ソプラノ、リーザ・デラ・カーザ(1919-)は「バラの騎 士」の元帥夫人マルシャリン役を歌い、満場の聴衆を魅了していた。ヘルベルト・フォン・カラヤン指揮のウィーン・フィル、セーナ・ユリナッチのオクタヴィ アン、ヒルデ・ギューデンのゾフィーという、伝説的な共演者達であった。公演は歴史的と言える成功をおさめた。そして、この後、本来ならば、デラ・カーザ を主役としたオペラ映画「バラの騎士」が撮影される運びだった。彼女にとっては、キャリアのピークとなる、輝かしい夏となる筈だったのだ。ところが、実際 の映画の撮影現場にいたのはデラ・カーザではなく、ライヴァル、エリーザベト・シュヴァルツコップだった。完成した映画は公開当初から最高の評価を受け、 デラ・カーザの公演での大成功にも関わらず、マルシャリン=シュヴァルツコップのイメージだけが後世に残ることとなった。


映画において、シュヴァルツコップの良くコントロールされた歌唱、毅然とした佇まいが、元帥夫人の一つの優れたモデルを提供していたのは確かである。しか し、当初の予定通り、デラ・カーザが映画に出演していたら、映像の魅力は、より大きなものとなっていたかもしれない。というのも、デラ・カーザはハリウッ ド黄金期の女優達を彷彿とさせる、優艶なる美貌の持ち主だったからだ。人はデラ・カーザを「アラベリッシマ=最美のアラベラ」「ウィーンの名花」と賞賛し ていた。彼女の舞台姿を評して、「ルードヴィヒ一世のギャラリーにある素晴らしく美しい肖像画から抜け出て来たような」と讃嘆したのは、名バリトンのハン ス・ホッターである("Memoirs", Hans Hotter, p126)。

「デラ・カーザは新しいアラベラになるぞ」(リヒャルト・シュトラウス, 1947年)




バイエルン国立歌劇場での「サロメ」より「7つのヴェールの踊り」を舞うデラ・カーザ。1961年のカール・ベーム指揮の公演はセンセーショナルな成功を収めた。


しかし、デラ・カーザは、単に美貌で売っていた歌手だったわけではな い。彼女はオペラ史上でも稀に見る万能ソプラノだったのだ。なにしろ、彼女は「バラの騎士」において、メゾのアンニーナとオクタヴィアン、ソプラノのゾ フィーとマルシャリンという、音域も性格も異なる4つの女声役全てで成功している。しかも、彼女は、本来ドラマティックソプラノの領分であるクリソテミス やサロメを歌ってセンセーショナルな成功を収め、パミーナ、フィオルディリージ、伯爵夫人などのモーツアルトのリリックな役柄では当代随一の評価を得てい たし、ミミ、トスカなどのイタリア系の役柄でも高く評価された。そしてデビュー当時はコロラトゥーラの夜の女王まで手がけていたのである。ここまで来ると 一種の異才というべきだろう。

フリッツ・ライナーは、ある時、デラ・カーザに向かって、「リーザ、私が歌手の連中を好んでいないのは知っているな。でも君は歌手じゃない。音楽家だ。」 と言ったという。この発言は、二つの観点から解釈することができる。まず、純粋な歌唱技術という観点から見ると、デラ・カーザは100%完璧なものを持っ ていたわけではなかった。もちろん、第一級と言っていい歌唱能力の持ち主ではあったが、弱音になると、中低声部の音程が若干フラットになることがあった。 銀色の美声の持ち主ではあったものの、決して声楽技術を売りにする「歌手」ではなかったと言える。第二に、彼女の最大の特質は、音楽性、特にその歌の「真 正さ」にあった。表情が硬い、と指摘されることがあったが、一方で何を歌っても、控えめな美しさ、清純さ、若々しい息吹を感じさせた。この点で、彼女はマ リア・チェボターリ、マリア・ライニング、グンドゥラ・ヤノヴィッツの系列に属する、正統的シュトラウス・プリマだったと言える。



デラ・カーザのアラベラと、フィッシャー・ディスカウのマンドリカは、黄金の組み合わせだった。


高貴な美貌はもとより、その若々しく上品な歌声は、シュトラウスのオペラ「アラベラ」の世界に完璧にマッチしていた。結婚を夢見る令嬢の心の揺れ動きを、 デラ・カーザほどさりげなく、そして見事に歌い、演じた歌手はいない。彼女のアラベラは伝説的で、いまだに世界中のどこかで誰かがこの役を歌うたびに、 「デラ・カーザ」の名が比較にあげられるほどである。現在、4種類の公式録音が手に入る上、全曲のライヴ映像もドイツのテレビ局に残っている。特に、最近 オルフェオから発売された「アラベラ」のライヴ録音は瞠目すべき演奏で、そこでは彼女の最高のアラベラを聴くことができる。もちろん、名盤として知られる ショルティとの1957年のデッカ録音では、ジョン・カルショーによる見事な録音と、瑞々しいデラ・カーザの美声が満喫できるのだが、一方で彼女の表現は ややクールに過ぎ、ショルティの指揮も力づくで味わいに欠けているのは否めない。1963年のカイルベルトとのDG録音では、デラ・カーザの表現ははるか に深みを増している反面、声は重くなり、そのコントロールは完璧ではなくなっている。その点、1958年のオルフェオ録音は、声、表現、カイルベルトの指 揮VPOの豊麗な伴奏ともに、ほぼ理想的な状態にある。


完璧なマルシャリン


1960年の「バラの騎士」ザルツブルグ公演の美しい舞台写真。マルシャリンのデラ・カーザ(左)とオクタヴィアンのユリナッチ(右)。



冒頭にあげた公演、1960年に行われた「バラの騎士」プレミエの録音が、最近になってDGから発売になった。モノラルの放送録音由来というハンディをい れても、演奏内容でシュヴァルツコップとカラヤンが製作した著名なEMI盤を凌駕する、という意見が多い(英グラモフォン誌のAlan Blythもこのライヴ盤をEMI盤よりも上位に置いている)。実際、カラヤンの流麗な指揮は見事なもので、EMIのスタジオ録音よりも音楽が自然に流れ ている。ゾフィーを歌ったギューデンだけはやや不調だが、他の歌手は素晴らしい出来だ。特に、デラ・カーザに関しては、レコードで聴くことのできるマル シャリンの中でも最上のものに属する。入念に準備されたらしく、低音から高音までムラなく美しい声で、非の打ち所の無い歌唱を聴くことができる。最後の三 重唱では、遅めのカラヤンの指揮によりそい、クリスタルガラスのように輝くトーンと、見事なヴォイス・コントロールを聴かせている。そして、少しもわざと らしさ、押し付けがましさを感じさせない表現が新鮮だ。他の歌手が歌うとやりすぎて暑苦しくなる「時計のモノローグ」も、さりげなく歌われ、心の微妙なゆ らめきが伝わってくる。何より、30代前半の女性を想定されて書かれたマルシャリンに相応しく、声に若々しい息吹を感じさせるのが良い。全ての点でゾ フィーを上回る魅力を持つマルシャリン、というのはプロット上問題かもしれないが......

この素晴しい結果から見ても、指揮者カラヤンと監督ツインナーが、当初、デラ・カーザを公演と映画でのマルシャリンに起用しようとしたのは正しい判断だっ た。カラヤンは、この公演に先立つ1959年の夏、デラ・カーザに翌年の「バラの騎士」の出演を依頼している(ただ、この時点から、なぜかカラヤンは、 シュヴァルツコップをセカンドとしたダブルキャストにこだわっていた)。そして、公演の4カ月前の1960年の3月に、音楽祭のプレジデントであった Baron Puthonが、デラ・カーザ夫妻に「バラの騎士」映画製作の話をした。デラ・カーザが喜んだのは当然である。特に、監督のツインナーは、ことのほかデ ラ・カーザ起用に熱心であったようだ。彼らは1960年の4月の段階でデラ・カーザに映画主演のオファーを出し、デラ・カーザも受諾した。6月には、ツイ ンナーは、デラ・カーザ夫妻に「マルシャリンとザルツブルグでの映画を大変楽しみにしている」というカードを送っている((Lisa Della Casa, oder "In dem Schatten ihrer Locken", p249-251)。デラ・カーザが心配することは何も無かった。あとは公演をこなし、カメラの前に立つだけである。

寝耳に水の降板劇と6年前の伏線


流れが突然変わったのは、7月、ザルツブルグ音楽祭が始まった後である。突然、彼女は映画の主役から外されたのだ。しかも、その決定は、デラ・カーザ本人にさえ知らされなかったらしい。メゾ・ソプラノのクリスタ・ルードヴィヒの自伝に以下の記述がある。

「リー ザ・デラ・カーザは、ザルツブルグで不愉快な驚きを経験させられた。彼女は、新しい祝祭大劇場で、1960年の7月、カラヤンの指揮で素晴らしいマルシャ リンを歌った。私がきいたところでは、その公演が映画化されるとのことだったが、(実際の)映画では、シュヴァルツコップがマルシャリンだった。音楽祭の 最中、私はリーザに道でばったり会ったのだが、彼女はその映画の話をし始め、わたしにその映画に出演することをどんなに楽しみにしているか、ということを 語ったのだ。私はひどく無邪気に、「あなた、シュヴァルツコップが映画でマルシャリンを歌うことになっているのを知らないの?」と言ってしまった。リーザ は、誰かが彼女を排除した、ということを全く知らなかったのだ。契約というのは破るためにあるのだ。ヴォータンが「指輪」で幾度もやったよう に............」(「In My Own Voice:Memoirs」p185-6)



ドンナ・エルヴィーラに扮した、イングリッド・バーグマン風のデラ・カーザとサイン。(筆者蔵)


いったい、何が起こったのだろうか?

Richard Fawks のOpera on Filmsによれば、ツインナーの1954年の映像作品、「ドン・ジョヴァンニ」に、「バラの騎士」降板事件の伏線があるという (p161)。ヴィルヘルム・フルトヴェングラー指揮のこの映像作品のプロトタイプとなった本公演では、シュヴァルツコップがドンナ・エルヴィーラ役とし て、ザルツブルグの6公演に参加した。しかし、シュヴァルツコップ夫君のEMIプロデューサー、ウォルター・レッグの意向で、シュヴァルツコップは映像版 への参加を取り止めてしまう。

その理由は、「ドン・ジョヴァンニ」の製作中に、ツインナー監督で「バラの騎士」映画制作の計画があることをレッグが知ったためである。レッグは、その映 画に妻のシュヴァルツコップをマルシャリンとして登場させることを優先させたのだ。「ドン・ジョヴァンニ」をあきらめることで、最初の映画出演から派生す る契約上の束縛から自由になることも狙っていたことだろう。シュヴァルツコップが役を降りてしまったため、急遽、デラ・カーザが映画「ドン・ジョヴァン ニ」のドンナ・エルヴィーラ役に起用された。既に製作は進んでいたこともあって、デラ・カーザの登場箇所のみは、後になって改めて撮り直され、シュヴァル ツコップが登場する箇所と差し替えられた。つまり、シュヴァルツコップとレッグの間では、「バラの騎士」は数年越しの夢だったのだ。そして、この夢は何が 何でも達成されなければならなかった。

シュヴァルツコップ、レッグ夫妻の水面下での動き


自伝ではぼかしているのだが、クリスタ・ルードヴィヒはデラ・カーザ降板の舞台裏を知っていた筈である。デラ・カーザの夫君、デベルジェヴィッチ (Dragan Debeljevic)の「Lisa Della Casa, oder "In dem Schatten ihrer Locken"」によれば、ルードヴィヒとデベルジェヴィッチは、ザルツブルグ祝祭劇場の前でばったり出会い、以下の会話を交わしているという (p251)。

ルードヴィヒ「私、エリーザベトには頭に来てるの」

デベルジェヴィッチ「どのエリーザベトのことで怒っているんだい?」

ルードヴィヒ「(驚いて)シュヴァルツコップのことよ」

デベルジェヴィッチ「なぜ?」

ルードヴィヒ「なぜ?映画のことに決まっているじゃないの。シュヴァルツコップが映画に出演するなんて、ひどい話だと思うわ。」

デベルジェヴィッチ「そんなはずはないさ。リーザはずっと前から出ることが決まっている。ツインナーとは、出演料の話がのこっているだけなんだよ」

ルードヴィヒ「シュヴァルツコップの契約のことで誰もあなた達に連絡していないの?」

驚いたデベルジェヴィッチは、リハーサル中の妻のデラ・カーザに電話をかけた。デラ・カーザは、当初、夫の話を信じなかったのだが、ついに監督のツイン ナーから一件をきかされるはめになる。デベルジェヴィッチによれば、ツインナーは「うなだれた姿」で、「ひどい話だ。私は運が悪い」と口走っていたとい う。ツインナー曰く、「シュヴァルツコップとその夫君(レッグ)がロンドンの映画会社と直接交渉し、最終契約を結んでしまった」というのである。そして、 ツインナーは、「自分は知らなかったんだ」としつつも、「口約束しかしなかったのは君たちのミスだった」とデラ・カーザ側を責める言葉を吐く。デベルジェ ヴィッチは激昂し、激しくツインナーを罵る。デラ・カーザはカラヤンに直訴しようとするが、ツインナーは「もう変更はきかない」と言うのみだった。 (Dragan Debeljevic, p251-2)



映画は、ライヴァル、シュヴァルツコップのマルシャリン歌いとしての名声を不朽のものとした


確かに、デラ・カーザがカラヤンのもとへ行ったとしても、時間の無駄だったろう。シュヴァルツコップは既にカラヤンとも手を打ってしまっていたからだ。ロ ンドンの映画会社といい、カラヤンといい、彼女の動きは見事なまでに素早く、効果的で、そして容赦の無いものだった。

「  最初に問題が起きたのは、カラヤンがマルシャリン役にシュヴァルツコップではなく、リーザ・デラ・カーザを起用する、と決めたときであった。デラ・カーザ はマルシャリンの役をそれほど好んでいなかったから、シュヴァルツコップには二重のショックだった-----彼女は、前年の12月にコヴェント・ガーデン でショルティの元でこの役を歌った時、イギリスのメディアから、「好意的に見ても賛否半ば」、という評価を受けていたのである。-------シュヴァル ツコップはカラヤン指揮で『ドン・ジョヴァンニ』のドンナ・エルヴィラを、ベーム指揮で『コジ・ファン・トゥッテ』のフィオルディリージを歌う予定になっ ていたのにも関わらず、1960年のザルツブルグ音楽祭から完全に降りると脅した。そして、シュヴァルツコップは、カラヤン指揮、パウル・ツィンナー監督 の映画、「バラの騎士」のマルシャリンとして出演する、という合意を確実に取り付けた。」
(Herbert Von Karajan: A Life in Music, p454 Richard Osbone)


普 通であれば、帝王カラヤンを脅した段階でシュヴァルツコップのキャリアは暗転していたかもしれない。仮にシュヴァルツコップがザルツブルグ音楽祭から完全 撤退したとしても、芸術面、人気面で音楽祭が損害を受けることはなかったろう。なにしろ、当時のデラ・カーザの高いレパートリー能力と人気は、シュヴァル ツコップの穴を埋めるに十分すぎるものだったからだ。そして、もしそうなっていたら、1960年のザルツブルグ音楽祭の主役はデラ・カーザになっていた。 そして、後世は、オペラ演奏史上、もっとも美しいマルシャリンのカラー映像を目にしていたに違いない。


音楽ビジネスの論理を優先したカラヤン



一世を風靡した当たり役、美女アラベラに扮したデラ・カーザ。作曲者リヒャルト・シュトラウスは、脇役を演じる20代の彼女の舞台を見て、「彼女は将来、新たなアラベラになるだろう」と予言した。


だが、実際にはそのような事は起きなかった。カラヤンがシュヴァルツ コップの要求をそのまま受け入れ、シュヴァルツコップを映画の主役にしてしまったからである。カラヤンの翻意の理由は、シュヴァルツコップの実力というよ り、シュヴァルツコップの夫君、ウォルター・レッグの存在があったからに他ならない。レッグは敏腕プロデューサーとして、大会社EMIを実質的に統括して おり、ある意味、カラヤン以上に大きな力を持っていた。また、カラヤンは、ナチ党員として演奏活動が禁じられていた戦後間もない時期、レッグが創設した フィルハーモニア管弦楽団との録音の場を提供してもらっていた。カラヤンにとって、シュヴァルツコップを切って、恩も力もあるレッグとの関係にヒビを入れ ることなど想像もできなかっただろう。そして、シュヴァルツコップは、当時、賛否半ばだったとは言え、独自のマルシャリンを歌い、演じることが出来たか ら、カラヤンの行為は、道義的にはともかく、芸術的には理不尽な判断ではなかった。そのことは、シュヴァルツコップ主演の映画が成功したことからも明らか である。

無惨だったのは、さんざん持ち上げられたあげくに梯子を外され、しかも、部外者であったルードヴィヒから道端で一件を知らされたデラ・カーザ夫妻である。 カラヤンを始めとする関係者は、誰も彼女に説明しようとしなかったのだ。大物達の政治的思惑が交錯する中、後ろ盾のない彼女は、ただ苦い涙を飲む他なかっ た。デベルジェヴィッチによれば、彼女は、降板が決定した後、数日間というもの、ひどくふさぎ込み、プレミエの大成功についても、「何の意味があるの?明 日になれば皆忘れてしまうわ。でも映画は記録として残るのよ。」と言っていたという。そして、「自分は裏切られた。自分は失敗者」とさえ考え、「Ich will nie mehr nach Salzburg-----もうザルツブルグ音楽祭では歌わない」と語るまでになっていた(Dragan Debeljevic, p252)。実際、翌年以降の同プロダクションはシュヴァルツコップが歌ったし、シュトラウス・イヤーであった1964年にも、カラヤンからの音楽祭への 出演オファーを断っている(Dragan Debeljevic, p253)。もちろん、彼女も栄光あるザルツブルグ音楽祭への出演を断りつづけることで、自身のキャリアを傷つけていることは分かっていたが、彼女は自分 をもてあそんだ場所を許すことができなかった。間もなく、彼女のメジャーレーベルへの録音も途絶えてしまう。


苦い涙とともに

こ の不条理な降板事件は、デラ・カーザの心に、音楽業界に対する大きな不信をもたらした。彼女は、これ以降もシュヴァルツコップと共演しており、少なくとも 表面上、二人のライヴァルの関係がささくれ立つようなことはなかったようだ。ただ、音楽ビジネスの象徴であるザルツブルグ音楽祭への思いは別である。「陳 腐」「誇りも人間味もない」「不公正。嘘。詐欺」「私はザルツブルグ音楽祭なしでも生きていけるし、ザルツブルグは私なしでも生きていける」と、プライ ヴェートな場でではあるが、激しい言葉を使っていた(Dragan Debeljevic、p253)。そして、後年のデラ・カーザは、音楽ビジネス全体、オペラの世界に充満する陰謀、嫉妬、政治的な動き、スター歌手達の 自己中心的な振る舞いに対する違和感を表明するようになっていく。彼女は1974年、突然、引退を表明した。娘の病気が理由である。とあるインタビュー で、「とてつもなく深い悲しみの表情とともに」、かつて負った心の傷を伺わせるような言葉を残している。

歌手の運命の一番奇妙なところは、目的のために全てをなげうち、そして儚く全てが終わってしまうこと.............

私達の残した足跡なんて、今日の午後降った雪のようなものなのです。明日には消え、何も残らないの。

そうね、何人かは覚えていてくれるでしょう。でも、それも本当に短い間だけね。

(The Prima Donnas, Lanfranco Rasponi)


彼女は敗北したのか?


1960年のザルツブルグでの「バラの騎士」の舞台から。デラ・カーザ(左)とセーナ・ユリナッチ(右)



幸運なことに、これらの言葉は、彼女に限ってはせいぜい半分程度しか当てはまらなかった。確かに、現在、デラ・カーザの名は、レッグと彼の息のかかったメ ディアによって過剰なまでに神格化されたシュヴァルツコップに比べ、ひどく過小な扱いを受けている。しかし、その反面、彼女が1960年代前半までに残し たいくつかの録音は、オペラを少しでも聴き込んだ人々にとっての大切な宝物であり続けている。「アラベラ」4種(DG、デッカ、オルフェオ、テスタメン ト)、ミトロプーロスとの「エレクトラ」(オルフェオ)、ベームとの「四つの最後の歌」「コシ・ファン・トゥッテ」(デッカ)「ナクソス島のアリアドネ」 (DG)、エーリヒ・クライバーとの「フィガロの結婚」(デッカ)、セルとの「魔笛」(オルフェオ)、フルトヴェングラーとの「ドン・ジョヴァンニ」 「フィデリオ」、そして、何と言ってもカラヤンとの1960年の「バラの騎士」のライヴ録音(DG)..........。これだけ多くの名盤、綺羅星の ような名演に関わって来た歌手の名が、「雪のように、明日には何も残らない」ことがありうるだろうか。

興味深いことがある。近年、シュヴァルツコップの歌唱アプローチが、若い世代の歌手や批評家達から、作為的、表情過多、マンネリズムと批判されることが増 えてきているのである。巷で「完璧」とされてきた技巧についても、よく聴いてみれば、音程も正しいわけではないし、特に後年は、もっぱら声の美感の不足を 隠すために使われていたようにも聴こえる。ウォルター・レッグによる宣伝とは無縁の若い世代の聴衆には、かつて「お行儀が良すぎる」と言われた、デラ・ カーザのナチュラルで上品な歌い方の方がフレッシュに響くのではないだろうか。実際、ここ10年の間に彼女が参加した公演のライヴ録音が、オルフェオ、 DG、テスタメント等を通じて日の目を見て来たが、どの盤も最高の評価を受けている。1960年にバイエルン国立歌劇場で収録された、「アラベラ」の全曲 映像が正規ルートで発売される日もそう遠くはないだろう。

来年初頭、「ウィーンの名花」リーザ・デラ・カーザは89歳になる。彼女は、ささやかだが、着実に進行しているリバイバルの流れをどのように見ているのだろうか。できることなら、話をきいてみたい気がする。

10/23/2007
--------------
References

Memoirs, by Hans Hotter

Lisa Della Casa, oder "In dem Schatten ihrer Locken", Dragan Debeljevic

In My Own Voice: Memoirs, by Christa Ludwig

Herbert Von Karajan: A Life in Music, by Richard Osbone

The Prima Donnas, by Lanfranco Rasponi

Opera on Films, by Richard Fawks

"Lisa Della Casa" (International Opera Collector, p26-31), by Roger Nichols


追記)デラ・カーザの90歳記念特集のテレビ番組が制作された。その中で、白黒ではあるが、60年ザルツブルグ音楽祭の「薔薇の騎士」の舞台を記録した映像が流されている。

http://www.fugue.us/Intermezzo_combined.html
http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/815.html#c5

   前へ

▲このページのTOPへ      ★阿修羅♪ > dGhQLjRSQk5RSlE= > 100129  g検索 dGhQLjRSQk5RSlE=

★阿修羅♪ http://www.asyura2.com/  since 1995
 題名には必ず「阿修羅さんへ」と記述してください。
掲示板,MLを含むこのサイトすべての
一切の引用、転載、リンクを許可いたします。確認メールは不要です。
引用元リンクを表示してください。