2. 中川隆[-13626] koaQ7Jey 2020年3月21日 16:32:37 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[1256]
女に選挙権を与えたのは失敗だった _ 2
ほとんど禁酒に成功しなかった「禁酒法」が残した教訓とは?
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ほとんど禁酒に成功しなかった「禁酒法」が残した教訓とは?
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小泉先生が ○○○ になった理由
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今、大人気の小泉進次郎は場の親密性を優先し、揉め事を嫌い、誰の意見に対してもにこやかに応接する非常にできた人物
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ゆとり教育を推進した三浦朱門の妻 曽野綾子がした事 _ これがクリスチャン
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女は東大出でも思考力・判断力・知性すべてゼロ _ 通産官僚 宗像直子は何故こんなにアホなの?
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ゆとり教育を推進した三浦朱門の妻 曽野綾子がした事 _ これがクリスチャン
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山本太郎率いるれいわ新選組が衆院選の第一次公認候補予定者を発表し、全国各地でボランティアたちが系統的にポスター掲示活動をおこなっている。いわゆる組織的なものではなく、れいわ新選組の政策に共感し、その方向で政治や社会を変えていこうと願う個人が横に緩やかに繋がりながらやっている。一枚ずつポスターを貼ってもらう地道な作業だが、商業メディアに頼らず、人々との直接対話によって草の根の支援を広げていくことを重視するれいわ新選組が最も力を入れている活動だ。本紙記者たちも全国各地や下関でのポスター活動に参加してきた。その特徴や教訓について座談会で論議してみた。
ポスターを掲示するボランティアたち
A ポスター活動の内容は単純だ。れいわ新選組の事務所に注文し、送られてくる大小のポスターを一枚ずつ地域に貼っていく。自分の居住区でもいいし、隣町でもいい。長期的には選挙区全体を視野に入れて、商店街や住宅地を一軒ずつ回りながら、家主や店主、建物の所有者などに「元参議院議員の山本太郎のボランティアをしています。ポスター掲示のお願いで回っています」とお願いしていく。細かい手続きについてはここでは省くが、ポスターを掲示するためには一人でも多くの人たちと面会することなしには始まらない。
SNSやネットでは一方的に意見を伝達したり、情報を拡散することはできても、政治的立場や意見の違う人たちとのコミュニケーションは難しい。匿名で相手の顔も生活もみえないし、真意が伝わらないまま「罵倒し合って終わり」となるのが関の山だ。相手と対面し、膝をつき合わせて語り合い、血の通ったやりとりをすることなしには一致点を見出すことも、相互理解を深めることもできない。
待っていて来ないなら、こちらから会いに行く――「選挙に行かない5割」と結びつくためには、そのような能動的な行動が求められる。
れいわ新選組の全国ツアーでは「SNSで“いいね”を押したり、ネット上で盛り上がるだけでは票には繋がらない。街頭演説も同じ思いを持つ人が集まる傾向が強く、その熱気がそのまま勢力の大きさを意味するものでもない」とシビアに判断していた。そして「支持してくださる一人一人が候補者になりかわって、一軒一軒戸を叩き、顔をつきあわせて粘り強く働きかけることがなければ強固な基盤を広げていくことはできない」とポスター活動への参加をくり返し訴えていた。勝手連的に全国各地でおこなわれているポスター活動のすべてを本部が把握しているわけではないが、誰も統制したり、掌握することのできない草の根の力によって支えられているのが、れいわ新選組の特徴であり、新しさでもある。
B 下関でも2月から地元ボランティア有志でポスター活動を始めている。いまはコロナ騒動で自粛ムードではあるが、私たちも活動に実際に参加してみた。
ボランティア同士がLINEやメールで連絡をとり合って集合し、2〜3人のグループで、担当した地域を回る。もちろん一人でやってもいい。対象地域の住宅地図を見ながら、無差別に訪ねていく。初めての場合は緊張するし、慣れるまではインターホン越しにスムーズに話をするのも難しいが、できるだけ簡潔に「ポスターを貼らせてもらえませんか?」と依頼する。許可が得られたら指定された場所に貼り、自分で貼ってくれる人には預ける。
ポスターが貼れそうな場所はあらかじめ確認して依頼するが、一見掲示が難しそうな個人宅の壁やお店の中、ブロック塀、フェンスなど意外な場所に貼らせてもらえることもあるから聞いてみなければわからない。壁面の素材にあわせて、ワッポン(ポスター掲示用の貼る画びょう)、両面テープ、画びょうなどを使い分けて掲示する。掲示を了承してくれた人には、チラシを渡して丁寧にお礼をいう。これをくり返していく。
C 山本太郎を知っている人もいれば、知らない人もいる。なかには「大嫌い!」といってドアをぴしゃりと閉める人もいる。けんもほろろに断られることがあっても「ありがとうございます」と丁寧に礼をいって次に行く。相手の意見にはできるだけ耳を傾けるが、マウントをとったり、むやみに論争はせず、相手の意見や立場を尊重して身を引くことも大事なポイントだ。自己主張を押しつけたり、上から目線の説教や、マウントのとりあいの空中戦はマイナス効果しかないのでやらない。
掲示スペースがなかったり、商売柄や地域特性によって政治色が出せないため「ポスターは貼れないけれど応援している」という反応も結構ある。ポスター活動は、そのような埋もれている支援者と繋がるきっかけにもなる。たとえ貼れたポスター枚数が少なくても、直接対面して会話を交わすことにも意味がある。それによってまだ知名度の低いれいわ新選組について認知してもらえるし、それを無名のボランティアが支えていることが伝わる。
A 下関でも、おしゃべり会や候補者発表などを通じて、次第にれいわ新選組の主張や政策が知られるようになり、「頑張っているね」「陰ながら応援してるよ」と声を掛けてくれる人が増えてきた。古くからの保守地盤にあって「れいわ新選組」の政党ポスターを堂々と掲示するのはハードルが高いし、勇気のいることだ。地域コミュニティは否が応にも自民党政治のしがらみのなかにあるし、隣近所、親戚関係、勤め先、商売の取引先、お客さんとの関係でさまざまな政治的立場があり、支持政党を明らかにできないという人が一般的だ。だから無理強いはせず、あくまで「お願いします」と謙虚に投げかけるのが基本だ。それだけでも意味があるし、一枚でも貼ってもらえたらより実態のある宣伝効果を生む。
「無理だろうな」と思いながら訪ねたお店でも、ロスジェネ世代(30〜40代)の店主たちが「今度は増えるんじゃないですか」「いいですよ」と快く貼らせてくれたり、年配者でも「ユーチューブで演説を見ているよ」といって掲示してくれる人もいる。
山本太郎やれいわ新選組を「奇をてらったパフォーマンス」のように捉える風潮もあるが、このような地道な活動をすることでより深く政策の中身が知られるようになるし、地道に回りながら底辺の声をすくい上げていく姿勢が歓迎されていると思う。組織票に頼る既存政党はまずこんな骨の折れることはやらない。
B 世代や職業などによって反応の違いがあるのは当然だし、貼れない理由を知ることも勉強だ。「私はいいけど、旦那がいるからね……」など、家庭内での意見の違いもある。そのように人々はさまざまなしがらみのなかで、表だって政治的な主張がしにくいなかにいるが、決して政治に無関心であったり、必ずしも現状を積極的に肯定しているわけでないことを対話を通じて知ることができる。下関のように他の選択肢が乏しい地域ではなおさらだ。これも生活のなかに飛び込まなければわからないことだ。また逆に、隣近所やお客さんに自民党支持者の人がいても関係なく「貼っていいよ」という人だっている。ボランティアの側が地域の人たちの生活や胸中を理解していく過程でもある。
D ボランティアにはじっくり一日かけてやる人もいれば、「用事があるから一時間だけ参加」という人もいる。学生、会社員、自営業者、主婦、子育て中の世代、フリーターなど……ボランティアも境遇はさまざまだし、それぞれができる範囲で参加して、お互いが補いながら継続している。特に政治に詳しく、弁の立つ人でなければできないというものではなく、真面目に相手の意見を聞き、お礼をいう謙虚な姿勢さえあれば誰でもできる。一人では心細いけれど、数人でやるなら励まし合って継続できるし、反応やコツを共有していけば、次のステップアップに繋がる。
C まだ1枚もポスターが貼れていない地域で最初に貼るのはハードルが高い。でも近隣で1枚、2枚と貼ってもらえると、安心して貼ってくれるようになり、気がついたら「太郎通り」かと思えるほどたくさん貼れた地域もある。「難しい地域」という思い込みが覆される。先入観やこれまでの自分の狭い経験だけで見ていたらわからないことが起きるのもポスター活動のおもしろさだ。
「これまでは自民党支持だったけど……」といって胸の内を語ってくれたり、地域が抱える問題があってもそれに耳を傾ける政治家がいないこと、与野党含めて既存の政治に対する不信感など、赤裸々な思いが語られる。日常生活では聞けない政治に対する本音を聞けるのも醍醐味だ。
自民党支持者にも支持者なりの思いがある。なぜ支持しているのか、政治になにを求めているのかを知る機会にもなる。「強固な保守地盤」といわれる地域でも細部に分け入っていけば、鬱積した思いがある。圧力があるならそれも含めて共有し、有権者の判断を仰ぐのが民主主義だろう。
市民の生活や思いに学び
れいわ新選組の街頭宣伝に集まる人々(昨年12月、池袋)
B れいわのボランティアは、組織や団体に属していない個人が多く、しかも主婦や母親、若者、学生など、これまで政治とは縁遠かった人たちが多い。消費税廃止や全国一律最低賃金1500円の政府保障、奨学金徳政令などの政策を自分たちのテーマとして切実な思いをもって動いている。これを「素人集団」と揶揄する傾向もあるが、裏返せば「選挙に行かない5割」にアプローチできるもっとも近い人たちだ。高見から眺めて説教したり、評論するだけの自称「玄人」よりもよっぽど力を持っている。フットワークの軽さこそが武器で、「ポスターを貼らせて下さい。お願いします」で街のなかにどんどん溶け込んでいくのだ。
それぞれが一支援者で終わるなら個々バラバラだが、ポスター活動をすることで横に繋がる。個人でやっても構わないが、複数でやるならやはりパワーも倍増する。貼れる枚数も増える。地道にコツコツと積み重ねていくしかないが、真面目に実直にとりくんでいるかどうかも含めて有権者は見ていると思う。
商売や営業活動の経験がある人なら知らない人との対話に慣れていたり、木工などの手作業が得意な人はポスター用のボードを手作りしてきたり、字やデザインが上手い人はメモやイラストを書いたり、その地域に長く住んでいる人なら地域の事情に明るい。動くのが無理な人はチラシを折ったり、ポスターの裏のシール貼りなどの事務作業で参加したっていい。それぞれができるところから参加し、お互いに学び、支え合いながら能動的にやることで新しい運動体が作られているというのも特徴だ。親が子どもと一緒に参加してワイワイ楽しくやっている地域もある。そのように、みんなが安心して緩やかに参加できるセンターが各地に作られていくなら、いままでなかった新しい活動を系統的に継続することが可能になる。
A 衆院選に向けて第一次公認予定候補の発表が始まっている。議員経験者もいれば、まったく別の畑から政治に飛び込んだ候補者もいる。発表にあたって山本太郎代表は「選挙区に根を張って地道に票を積みあげなければ勝負にならない。地元有権者のみなさんとの丁寧なやりとりやポスター掲示などの活動を見て、候補者に小選挙区でたたかうための運動量や力が足りないと判断した場合には公認をとり消すこともありうる。一人一人がそれくらいの背水の陣を敷いてたたかっていく」と緊張感をにじませていた。候補者は一人あたりポスター1万枚を貼ることが目標だという。政治経験があろうがなかろうが、地を這うように選挙区のなかへと浸透していくこと以外に勝機はないという判断は賢明だ。「この国の主人公は政治家ではなく有権者」という立場を選挙戦に貫くということでもある。
B 山口4区でも「アベ政治を許さない!」みたいなこれまでの野党的なたたかい方はせず、具体的な地域の要求をすくい上げ、アベノミクスの恩恵の外に置かれてきた市民の切実な声を国政に届けるというスタンスでたたかう方針だ。ネットやメディアを使って観念や思想信条をぶつけ合うような空中戦ではなく、徹底した地上戦をやるということだ。
激しく政権批判はするが、守るべき人々の生活や感情の機微には関心がないというのが古い左翼の特徴でもある。唯我独尊の自己主張ばかりでは嫌われ、泡沫的な結果しか生まなかったのが現実だ。そんなガス抜きのようなたたかいではなく、真面目に実直に人々の生活や願いの側に立って、具体的な要求や思いと切り結ぶ地べたを這うような地上戦をやるなら保守王国といわれる山口県でも過去に例のない選挙になると思う。
現職が持つ10万票をひっくり返すのは生易しい話ではないが、地に根を張ったぶんだけ枝葉は伸びていく。焦って結果を求めず、粘り強く活動していくなら変革の糸口が見えてくると思う。
A モリカケ、桜、公文書改ざん、諸々の売国法案の強行可決など、挙げればキリがないほどの政治の私物化や売り飛ばしが進み、国政政党は馴れ合いのなかで壊死状態といっていい状態だ。多くの人が政治に幻滅しているなかで、諦めるのではなく、下からひっくり返して政権を奪取するという過程は、政治が信頼を失った根拠に立ち返り、大多数の人たちのためにまともに機能する政治を作るための新しい運動を作る過程でもある。候補者が誰であれ、政治の主体は有権者であり、このような対話を縦横無尽にくり広げることが新しい政治運動の土壌を作っていく。候補者も有権者の思いに学ぶことから始めなければいけない。
権力の動きばかり見て「やられている!」とあきらめたり、またその逆で「けしからん!」と悲憤慷慨するだけでは展望は見えてこない。自分の足元や周辺の人たちと対話をくり返していけば落ち着いた情勢判断ができるし、力を合わせるべき具体的な対象が見えてくる。そこに展望がある。
世界の新しい潮流でも 欧米各地の事例
B 世界中を見渡しても、米大統領選におけるサンダース旋風、スペインのポデモス、イタリアの五つ星運動など、各地で台頭し始めた新しい政治潮流はすべて街頭での対話や戸別訪問が具体的な機動力になっている。
米大統領選の予備選で前回に勝る旋風を巻き起こしているサンダースの陣営では、学生や主婦など無数の若い世代がボランティアになり、各州で数千、数万件もの戸別訪問をおこなっている。かつてのアメリカでは考えられなかった金融資本主義を真っ向から批判する候補者が大統領選で旋風を巻き起こすような地殻変動は、リーダーのカリスマ性や、主義主張が先行する教条的な理論への陶酔というものではない。新自由主義による格差拡大のなかで、多数派である貧困層や中間層の具体的な要求を束ねて形にしているから強い。だから「ポピュリズム」「社会主義」「過激派」などのレッテル貼りにもびくともしない。
2014年にカリフォルニアの看護師たち200人が戸別訪問をはじめたのを皮切りに、評判とともにその方式が全国へと広がったといわれる。それまでは電話かけやチラシ配り程度だった選挙運動も「ドアベアリング(呼び鈴を鳴らす)」「キャンバシング(戸別訪問で意見を聞く)」となって広がり、今回の大統領選では全米各地で数百人から数千人規模のボランティアが戸別訪問をしているという。もちろんその人々と候補者の政策が合致することが前提だが、サンダースは「このような草の根の選挙が、企業献金に支配された選挙にかわってアメリカ全土を席巻する」と強調している。商業メディアなどに足元をすくわれないためにも、下へ下へと根を張ることが求められる。
カリフォルニア州で戸別訪問をするサンダース陣営のボランティアたち(2月)
C イタリア上下両院で第一党にまで拡大した「五つ星運動」も、腐敗した二大政党に抗議する街頭運動や署名活動からはじまっている。保守も革新も野合して腐敗していることへの怒りを根底にしている。3年前に来日した指導者の一人は「インターネットはみんなが出会いを広げ、自由に意見を交わすことができる手段ではあるが、意見が違う人同士が話し合うためには対面で話し合わなければ意思疎通ができない。だから、街頭での対話は人々が直接的に関係を深める点でより重要だ。ネットが広場(街頭)にかわることはない。だから、私たちは毎週末、広場に出て行き、人々と直接対話をしている」と強調していた。公園や広場にブースを設けて不特定多数の人たちと政治論議を広げ、地方選挙から新しい局面を切り拓いていった。
欧州で「反緊縮」の狼煙を上げたスペインのポデモスも、全国各地に1200以上の「サークル」といわれる集会組織を作り、地域の問題や生活要求を束ねながら足場を固めていった。各国事情が違うので一概にはいえないが、既成政党が有権者からかけ離れて信頼を失っているなかで、国会の内側からではなく、政治に幻滅した多数派の中から新しい政治運動を作り出しているのが共通した特徴だ。「与党vs野党」「保守vs革新」という古いイデオロギー対立ではなく、社会を食い物にする1%と、食われている99%のたたかいだ。そのためには団結できるすべての人と団結していくことが求められる。
A れいわの全国ツアーで山本太郎も「支部があってトップダウンでいうことをきくという形では、この国は変わりようがない。政治は組織化しないとダメという固定観念を壊したい。権力は一人一人が能動的に主体的に動くことを恐れ、全国に把握できない有象無象の集まりができることを一番恐れている。そのような塊を広げていきたい」と話していた。このような地道な対話を基本にして旺盛な政治論議が全国各地で広がっていけば日本の地殻変動も迫力が増してくると思う。5割がしらけて寝ているあいだは「3割支配」は安泰だが、その「5割」が少しでも動き出せば誰も予測不能な様相になりうる。
「一人一人の心のドアをノックする」――あるボランティアはポスター活動をそう表現していた。1人が2人になり、その一歩一歩が新しい可能性を開いていく突破口になると思う。
https://www.chosyu-journal.jp/shakai/16088
http://www.asyura2.com/20/reki4/msg/625.html#c5
山本太郎率いるれいわ新選組は7月の参議院選を経て、9月の北海道を皮切りに、九州、沖縄、東北、北信越、東海、近畿、そして12月の関東まで街頭や屋内で人人との対話をくり広げながら全国を回った。本紙はすべてのツアーに記者を派遣し、山本代表が訴える政策とともに、全国各地の人人が抱いている政治的な問題意識や思い、それぞれの地域が直面している問題についても注目しながら同行取材を続けてきた。全国ツアーでは、新自由主義的な政策のもとで衰退してきた地方の現実や、訴える先のない人人の切実な思いや要求が表にあらわれ、既存政党の枠をこえて人人の手によって新しい政治勢力を生み出すことに活路を求める機運が全国各地に脈打っていることを実感させるものだった。同行した記者たちで座談会を持ち、ツアー全体の特徴を出し合った。
◇ ◇
A 山本代表の「街頭記者会見」や「おしゃべり会」(屋内)は、全国どこでもその場に集まった人たちから無差別に質問や疑問、提言などを受け付け、それに山本代表が全力で答えるというスタイルでおこなわれる。駅前の雑踏の中、白熱した論議が始まると、その真剣さに道行く人たちも足を止めてたちまち黒山の人だかりになる。反響の広がりから、回を重ねるごとにその規模が増していき、凍えるような寒さのなかで2、3時間ぶっ続けでも人が減らない。
参議院議員時代に蓄積した数万におよぶ資料のなかから、即座に議題に関連する資料をモニターに映して応える対応力の高さには驚かされるが、「たかだか山本太郎。わからないことはみなさんから知恵を授けていただきたい」という柔軟なスタンスで、自分が答えることができない場合はてらいなく聴衆に委ねる。政治家の主張を一方通行で聞かせるのではなく、幅広い経験を持つ人人と相互に意見を交換して正しい解決策を見出していく手法は「政治の主役はこの国に生きる人人」という山本代表の信条を体現している。そのやり方が歓迎され、記者会見の場ではどこでも時間内に収まらないほど人人から発言の機会を求める挙手が止まなかった。みんなは決して「政治に無関心」なのではなく、発言の場を求め、本気の論議を求めているのだということがわかる。
聴衆からの質問や意見は多岐にわたる。労働や賃金格差、外国人労働者、税金問題、奨学金、教育、障害者の孤立、生活保護、医療、介護、食品、健康、原発や放射能汚染、農漁業振興、災害対応、憲法や軍事、外交問題……どれもこの20年来の新自由主義的な政策によって破壊されてきた人人の生活からの声であり、生き死ににかかわる切実感があった。
また福島や福井、新潟などの原発立地地域の問題に加え、北海道、東北、東海、近畿などの各地では国策として進める大規模再エネ(風力やメガソーラー)、核廃棄物の処分場づくり、静岡ではリニア新幹線による環境破壊、宮城や浜松では水道民営化など、大企業が地方を食い物にする略奪的ビジネスが横行していることも浮き彫りになった。長崎県対馬では、日韓関係の悪化で観光客の9割を占める韓国人観光客が激減して地域経済が危機に瀕しているという切迫した声もあった。政治に対する幻滅が広がるなかで、下からの力を結集して政治を変えなければ、生きることも、安心して暮らせるコミュニティも奪われる。その危機感があるし、下から横につながって変えたいという意欲が充満していた。
B 関東では、山本代表が「ブラック企業でどんな働き方をしてきたのか話してほしい」と参加者に呼びかけ、みんながリレー方式でこれまでの働き方を証言する場面もあった。派遣切りにあって再就職ができず引きこもった経験、最低賃金ギリギリで残業代もつかないサービス労働を強いられていること、職を転転としたあげくに身内が自死した経験、パートを掛け持ちして子どもを育てる苦しさ……など、一度つまずけばたちまち貧困の連鎖に突き落とされる社会のなかでみんなが必死でもがいているし、現役世代や学生たちもこれまで「仕方がない」と思わされてきた過酷な労働環境への疑問を訴えていた。経済的な困窮を背景にした家庭崩壊や虐待、引きこもり、精神疾患、自殺など、まさに「死にたくなるような社会」の現実が想像をこえて蔓延していることを実感した。
これらの現状を踏まえて山本代表は「なぜ年間2万人が自殺するような社会になっているのか考えなければいけない。もはや奴隷を通り過ぎて、人をとりかえのきく部品としか企業側はみなしていない」と強調し、経団連を中心とした一握りの大企業や米国に支えられてその要求を丸呑みしてきた自民党政治を正面から批判しながら、「全有権者のわずか3割の得票でここまで好き放題できるなら、投票権を捨てている5割の人たちとつながってひっくり返せば、真逆の政治を実現できる。その先頭に立たせてほしい」と熱をこめてくり返していた。こうした論議は、れいわ新選組の政策を知らせるだけでなく、人人がお互いの経験や苦悩を共有し、個個バラバラにされてきた人たちを横につなげていく過程でもあった。
C 山本代表は、れいわ新選組が掲げる消費税廃止などの政策とあわせて、従来の「財源がないから増税」「赤字なのだから緊縮財政は避けられない」などといった既成概念を覆し、「政府の借金=民間の黒字」の仕組みや自国通貨発行権を持つ日本は税収にかかわらず大胆な国債発行が可能であること、税は過剰なインフレを抑制する景気安定装置であり、デフレから脱却するためには大衆課税を軽減して消費を喚起する必要があることについてくり返し説いていた。
世界一生産性の高い国でありながら、カネのために人間が縛られ、部品のように消費され、命まで奪われる異常な搾取の構図にメスを入れ、その支配からみんなの頭を解放することに力点を置いていたと思う。対話を重ねるたびに「政治とはこの国に生きる人人を救うために機能すべきものだ。争うのは労働者同士でもなく、外国人労働者でもなく、人人を政治からはじきだすことによって政治を好き勝手にコントロールしているわずか1%の財界とその代理人だ」という方向性を鮮明に訴えていたし、そのために団結できるすべての人と力を合わせていくというスタンスがより強固なものになっていると感じた。対話のなかでの聴衆との相互の響き合いがそうさせていると思えた。
B 街宣会場では、マスクをしたサラリーマンが「仕事の関係上、公には活動しにくいのでマスクをとれないのが心苦しいが、底辺から底上げしていくという政策に非常に励まされる。いずれは堂堂と活動したい。頑張ってくれ」と声を掛けてきたり、「自営業者だが、取引先が廃業したり、地域全体の購買力が落ちていけば私たちも苦しくなる。社会を変えなければ自分たちの生活もよくならない」(男性)、「友だちにシングルマザーが多く、バイトを掛け持ちしながら子育てをして苦労している。明日は我が身だと思うし、子どもたちの将来のためにも親である自分から動こうと思った」(母親)など、幅広い人たちが居ても立ってもいられない思いをもって集まっていた。単独で旗揚げしたことで国会内勢力やメディアにとっては「目障りな少数派」になったが、国会の外側では明らかに多数派になっている。なにもないところから自力で政党要件をこじ開けた参院選を経て、さらに多くの人を惹きつけている。
旧勢力と違う斬新な質 5割に働きかける努力
A 全国ツアーでは、ネットやSNSだけに頼るのではなく、人人と「リアルにつながっていく」ことを重視していた。SNSは便利だが、実際に相手の顔を見て、膝をつき合わせて対話することがなければなにも始まらない。一人一人が置かれている境遇も、抱える問題意識も個別具体的だからだ。山本代表みずから生活の場に足を踏み入れて、意見の違う人たちとも心を通わせるよう努力する姿を見て励まされ、「自分にもなにかできないかを考えるようになった」という人は多かった。
演説途中では「応援したがなにも変わらないじゃないか!」「消費税廃止などできるわけがない」などと否定的な意見も飛んでくるが、そんなときこそ相手がどんな生活をし、なにを考えているのかを知り、本気の論議でそれに応えながら一致点を探っていく。とかく古い市民活動家や革新政党を支援してきた人ほど頭ごなしにマウントをとったり、「我こそは」と自己主張の説教をして嫌われる傾向があるが、そうではなく、政治に幻滅している人、意見の違う人にこそ誠意を持って語りかけ、まず相手の生活を知り、粘り強く理解してもらえるように努力するという姿勢にこれまでの左翼との違いがある。「選挙を捨てた5割」とつながろうとする本気度がある。
B 演説を聞いたみんなもそれぞれの場で行動している。各地域でおこなわれるポスター活動はボランティアの醍醐味だと思う。SNSで発信される情報にもとづいて、見ず知らずの人たちが集合場所に集まる。3〜4人ほどのグループで地域を分担して散らばり、一軒ずつインターホンを鳴らして「お願いします」とポスター掲示を依頼していく。「思いもよらないところで貼ってくれた」ということもあるが、2時間、3時間回っても1枚も貼れないときだってある。でも、はじめは緊張していた人たちも一日経験してみるとみんな晴れ晴れとした表情に変わっていた。
活動後に集合し、れいわ新選組のスタッフに促されて一人一人感想を交流すると、「はじめはインターホンを押す手も震えたけど、次第に慣れて話ができるようになった」「断られて心が折れそうになるときもあるけど、直に声をかけていくことで知ってもらえるし、次につながると感じることができた」「知らない土地で一軒ずつ戸を叩いて人人と話をしてみると、ポスターを貼らせてもらえることの方が珍しいし、れいわ新選組や山本代表のことを知らない人もいる。ネット上や仲間内では盛り上がっていても、まだまだ知名度の低いことがわかる。自分が動かなければなにも始まらないことがわかった」と口口に語っていた。
ポスター活動を終えてみんなで感想を交流する
A 地域の特殊性だったり、政治的ポジションの違いで一回では理解してもらえないことも多多あるが、諸事情でポスターは貼れないけれど内心では応援してくれる人もいる。そうやって地域や人人を理解し、複雑な感情の機微にも触れながら、汗を流して行動した分だけ自分の言葉も行動も磨かれていく。次第に慣れていくと、地域の人人の生活や思いがわかり、「お年寄りが戦争体験を話してくれ、“あんなことは二度とくり返してはいけない”と声をかけてくれた。地域の歴史を知ることもできた」「頑張れと声を掛けてくれた」など新しい出会いや発見も生まれ、「こんなにおもしろかったのか」とみんな楽しみながらいきいきとやっている。経験を交流し合いながらボランティア同士の横のつながりもできる。いわゆるトップダウンの組織ではなく、本気でやる気の人たちが勝手連として下から動き出し、誰も止められない流れになっていると感じた。
C 集まる人にもそれぞれ得意分野があって、営業経験のある人からは、お宅訪問で断られてもちゃんと頭を下げてお礼をいうなど礼儀作法について教えられる。地元の人であれば土地勘や地域の事情に明るい。手仕事にたけた人はポスター掲示用のボードをつくってきたり、データ処理ができる人は名簿を整理し、デザインが上手い人は独自の配布物をつくるなど、それぞれがアドバイスをしたり、強みを生かしてお互いに補い合う関係ができている地域もあった。女性が多い地域はつながりも強く、とくに活発だった。短い言葉で相手にわかりやすく伝えるためにはどんな言葉がいいか、反論してくる人の意見も丁寧に耳を傾けて次回から教訓にしようとか、お互いに話し合いながら進化していく。自分が「一支援者」というだけではそこ止まりだが、実際に当事者として動くことで関係も緊密になり、一人一人がみんなのために働く運動体になっていく。社会を変えるために自分を変え、周りを変えていく。ポスター活動がそれを促していると思った。
B 「一人で何かしようと思っても無理なことが多く、いろいろ頭で考えていてもなにも動かない。いろんな人の意見や力や知恵を集めていけば変えていける。安冨歩さんが“山本代表を使って自己実現していく”と話していたが、実際にボランティアに参加してみて、みんな偽善や自己満足のために運動しているのではなく、みんなのためでもあるけど、自分のために世の中を変えていこうとしているし、そういう人たちがたくさん集まり始めていることに気付いた」(40代・母親)、「母親が認知症の祖父母の介護で精神的に追い詰められていたため、夢を諦めて帰郷した。同じような苦しみを持つ人たちがいるのにつながることもなく、周囲に理解してもらえる人も少なかった。思いを共有できない根っこを考えると政治に行き着き、山本さんの動画を見てみんなが協力できる社会に変えていきたいと思った。思っているだけでは変わらないので一歩踏み出してみると、みんな普通の人たちで暖かくサポートしてくれ、やる気の人たちの集まりだと感じた。自分が動くことで、例えれいわを支持してくれなくても政治に関心を持ってくれる人を増やしたい」(20代・女性)など、それぞれが一歩踏み出して新しい境地を開いていた。
A れいわ新選組のスタッフたちも、各地のボランティアとのかかわりのなかで相当に鍛えられている印象だ。一日の休みもなく日本列島を縦断するようなツアーの行程を献身的に支えていた。昼間ははじめて赴く地で地元の人たちにレクチャーしながら一緒にポスター行動で汗を流し、街宣の始まる3時間前には現地入りしてステージや機材の設置、そして会場整理や宣伝材料を配布するボランティアをとりまとめる。街宣後の片付けまで含めると大変な作業だ。それでも疲労の顔色一つみせず、集まってくる人たちの意見を聞き、励まし、さまざまな突発的なトラブルにも対応する。自己主張や旗を振り回すだけの自己満足でできる活動ではなく、あくまでも「縁の下の力持ち」としての立ち居振る舞いに徹しているのが印象的だった。彼ら彼女らがボランティアのお手本のようになっているし、そのように組織の中核が私心なく結束しているからこそ幅広い人たちの自由な活動を保証できるのだと思う。こういう人たちが各地に生まれていけば、相当に強力な運動体になっていくと感じた。
みんなの行動が情勢を動かす 新勢力が台頭する機運
B ツアー後半になるに従って、衆院選を含めた今後のたたかい方についての質問も多かった。野党共闘についての意見はさまざま出たが、山本代表の「消費税5%の共通政策で一致できる場合は捨て石になるが、できない場合は独自で勝手にやる」という訴えにはどこでも強い拍手が沸いた。外野からは「野党共闘を分断する気か」などの声も聞こえるが、「政策を横においてふんわりと手をつなぐことはできないし、ただ塊になるだけでは政権交代などできない。消費税5%で一致できなければ、旧勢力vs新勢力のたたかいをするしかない」という姿勢が支持されていた。有権者を裏切って見放された勢力が束になって勝てるほど甘くはないし、そんなこと続きで5割が票を捨てているのだ。
C 「政治は信じるものではない。宗教でもアイドルでもない。政治家は期間限定の雇われ人に過ぎない。この国の主人はみなさんであり、政治はしっかり監視して動かしていくものだ」(山本太郎)の言葉に集約されると思う。この間の国政の動きを見ても、「桜騒動」の陰で日米FTAは米国要求通りのスケジュールで国会承認され、野党にも体を張って止めるという気概はなかった。聴衆からは「隠れ自民党」「与野党のプロレスを見せられている」「連立政権になっても内側から裏切る」「主導権争いにしか関心がない野党と調整し合うくらいなら独自でやってほしい」などの厳しい意見があいついだ。与野党問わず既存政党の性根が見抜かれているし、だからこそ下から「まったく新しい政党をつくろう」の機運が高まっている。
自民党でも公明党でも、他の野党でも、れいわ新選組であっても、支持者は「信者」や「応援団」になるのではなく、政治を動かす「主人公」であり「当事者」であるべきと山本代表は強く訴えていた。そうでなければ政権をとったとしてもすぐにひっくり返される。それだけがんじがらめの支配の仕掛けがあり、圧力だけでなく懐柔もある。したがって下から有権者が政治家のお尻を叩き、永田町で起きている裏切りや圧力も全部公開して、相互に意見を交わしながら誤解やズレを正していくというスタンスだ。「野党だから無条件に支持するべき」とか「有権者は政治家の応援団」という関係ではない。「お前になにができる!」という人にも、「山本さんを信じてます!」という人にも「政治は信じてついていくものではなく、疑って監視しながら動かしていくもの。一緒に変えていこう!」と呼びかけていた。
メディアや既成政党は「ポピュリズム」「子ども染みている」などと揶揄するが、議場から有権者を見下し、「永田町の論理」を絶対視する干からびた脳味噌では理解できない。人人の生活に足場を置くならすべてあたりまえの主張であり、振りまかれてきた諦めをとり除き、みんのために機能する政治を望む人たちの力を束ねていくなら岩盤を突き破れる。そのことをみんなが確信していけば巨大な力になっていく。
A 限られた選択肢の中から「どこを支持するか」では消去法にしかなりえないのが現状だ。自分たちが望む社会に向かって能動的に政治にかかわり、永田町を下から揺さぶるくらいの強力な国民世論をつくることが求められるし、れいわ新選組がその動きをつくり出す起点になっている。「桜」どころではない大がかりな私物化と売り飛ばしがおこなわれてきたのがこの20年来の政治であり、その大きな構図について有権者とともに論議し、正面突破していく気概なくして政治を動かすことなどできない。国会での茶番やメディアの目くらましは見抜かれ、政治の本質をめぐる有権者の目は鋭くなっている。だからこそ街頭で本気の論議がこれほど盛り上がるのだと思う。この本気の流れが強まることは、スキャンダルの炎上騒ぎ以上に既存の権力にとって脅威だ。例えトップの首が挿げ替えられたとしても、みんなが白けて寝ていてくれたら3割支配は安泰なのだから。
B メディアが垂れ流す支持率調査などに一喜一憂していても始まらない。「放送禁止物体」として扱われるのも、それだけ権力にとって脅威になっていることの裏返しでもある。政治に幻滅した5割に働きかける彼らの挑戦はまだ始まったばかりで、政権にリーチする道は甘くはないが、逆にいえば伸びしろしかない。「与党vs野党」「右vs左」「保守vs革新」等等の古い枠組みでは分類できないところまで、社会を食い潰す1%と、食われる99%との分化が進んでおり、欺瞞が剥がれ落ちている。情勢は行動によっていくらでも動かせる。諦めや分断に晒されてきた人人を横につなぐ努力を各自が足元から進めていくなら、これまで見えなかったまったく新しい展開が生まれてくると思う。
れいわ新選組は、来春早早から中・四国、さらに岐阜や滋賀など対話ができなかった地域、さらに候補者を擁立する地域を重点的に回るという。本紙も、この下から始まった本気のたたかいに密着しながら、新しい政治を生み出す全国的なエネルギーの胎動をしっかり発信していきたい。
https://www.chosyu-journal.jp/shakai/14988
http://www.asyura2.com/20/reki4/msg/625.html#c6
本紙記者座談会
7月末の参院選で山本太郎やその訴えに共感した人人の力によって立ち上がった国政政党・れいわ新選組が、9月から北海道を皮切りに九州、沖縄地方でポスター張り行動や膝をつき合わせたお話会、駅前等での無差別の聴衆を対象にした街頭記者会見を展開し、さらにこの11月に入ってからは東北ツアー、北信越ツアーと日本列島の全国津津浦浦を駆け回っている。本紙はこの全国ツアーを20〜30代の記者たちが入れ替わりで取材してきた。選挙期間中でもないのに、どこでも他の政党では見られないほど聴衆を集め、2〜3時間の真剣勝負ともいえる街頭での質疑応答にみなが耳を傾ける。この熱気を作り出している根底にはどのような思いがあるのか、街頭記者会見に真剣に耳を傾ける人人、れいわ新選組のボランティアとして活動する人人がどのような思いで参加しているのかも取材してきた。国政政党が壊死したような状態のもとで、安倍政府が体現しているようなどうしようもない私物化がはびこり、これらが既に腐敗堕落しきっていることは、モリカケ、桜、公文書改ざん、諸諸の売国法案の強行採決等等、指摘すればきりがないほどである。ならばひっくり返して政権を奪取し、国民生活のために機能する政治、統治を実現しようじゃないかという彼らの挑戦は始まったばかりで、これまでにない動きとして注目が高まっている。記者座談会でツアーの模様や特徴を論議してみた。
れいわ新選組の街頭記者会見に集まった人々(15日、仙台市)
A 19日からは北信越ツアーが福井を皮切りに始まっている。先週までの東北ツアーは本州最北端の地・青森県からスタートして、岩手、秋田、山形、宮城、福島と6県を駆け巡った。山本太郎は「消費税増税、TPP、日米FTAなどで一番影響を受けるのは地方だ。全国各地を回るなかで、昼も夜もシャッターが閉まっている地域があり、地方は疲弊している。地方の人人と手をつないで政治を変えていきたい」「政治がお金持ちを優遇するばかりで、この国を支えている地方の産業や中小零細企業の首を絞める政治がおこなわれてきた。もうみなが気づいて行動するときだ。ゆるく繋がって変えていこう」とくり返し訴えていた。
B 農業、漁業、林業などの第一次産業を基幹産業とする多くの地域は、その盛衰が地域経済全体を大きく左右する。TPP、日米FTAによる農産物の市場開放、国による地方切り捨てのなかで自治体財政は逼迫し、医療や介護をはじめとする行政サービスがまともに受けられない、また雇用の受け皿である地場企業の倒産や賃金レベルの低下を引き金にした人口減少など深刻な状況が各地で語られていた。北海道の街頭演説会で出産しようにも分娩できる病院が近くになく、隣町まで行かなければならない状況なども語られていたが、その地方、地方の現実を聴衆の側も本気で訴えているし、れいわ新選組としても首都圏からは見えてこない地方のナマの現実に耳を傾け、政策として練り上げていく道程のようにも感じた。
A 東北地方は福島や青森の原発や放射性廃棄物処理施設などアメとムチの政策で国策をのまされてきた歴史がある。今また秋田県や岩手県の各地の沿岸に巨大風車を建設する計画が浮上し、秋田の新屋演習場にはイージス・アショア配備計画が持ち込まれている。宮城県では水道民営化問題が論議となり、台風19号で浸水被害を受けた丸森町では1カ月が経過し、国や自衛隊、県が支援を打ち切ろうとしていることなども話題となった。東北の現状について盛岡市の聴衆が「日本はアメリカの植民地、東北は東京の植民地で二重、三重の植民地状態」と語っていたのが印象的だった。福島原発の爆発事故とて、東京に電力を供給するために福島は長年にわたって原発を受け入れていたけれど、事故が起きれば郷土は奪われ、住民たちは追い出された。迷惑施設をいつも押しつけられて、ひどい仕打ちを受けるという鬱積した怒りを感じた。秋田での洋上風力も経産省の鳴り物入りだが、自然エネルギービジネスの草刈り場みたいにされている。
国・メディアの嘘見抜く 東日本大震災契機に
C 取材ポイントとしては、れいわ新選組が何を発信するのかもあるが、聴衆は何を思い、何に期待して足を運んでいるのか、日本社会や自分たちの暮らしを取り巻く現状についてどう考えているのか、どうしたいと願っているのか意識的につかむ努力をしてみた。千差万別だろうが、その千差万別のなかにある普遍性であったり、地方の特殊性なりをつかむことで、全国が呼応し動き出している所以を認識しなければ、世論に働きかけることなどできないからだ。東北ツアーは連日10度を下回る寒さのなか、どの地域でも2時間から3時間にわたる街頭記者会見を真剣に聞く姿が印象的だった。街頭記者会見に足を運ぶ人たちのなかでは「福島原発の爆発がきっかけで今の政治に疑問を持ち始めた」「原発問題で政府やマスコミの嘘に目が覚めた」と語る20〜40代の現役世代が目立った。街頭記者会見を終えて帰って行く人の表情は明るく、ポスターを持ち帰る人、カンパをしていく人などでごった返すなか、ポスターを持ち帰る人人に声をかけてみた。
仙台で出会った40代の女性は「自分の意識が変わるきっかけが東日本大震災だった。原発のこと、政治のことをあまりにも知らなさすぎて勉強を始め、ネットで山本太郎さんに出会った。あまりにも日本がアメリカのいいなりになりすぎている。変えないとまずくないですか?」と話していた。別の30代の女性は、「今のメディアがあり得ない状態だ。芸能人の麻薬とか結婚などどうでもいい。みんなの生活がかかっているのに、大事なことは何も報道されない。今日は仕事を早く切り上げて聞きにきた」のだと話していた。
D 郡山の街頭演説を聴いていた20代の男性は、「僕たち20代にとって将来のビジョンが見えない。消費税など税金のとられ方がおかしいと感じていた。山本さんのいう政策は大胆な内容だが、この人なら政治を変えてくれるのではないかと思って聞きにきた」と問題意識をのべていた。
同じく郡山で出会った大学生は、「参院選のときにツイッターに『れいわ新選組』が上がっていて、太郎さんの演説動画を見始めたらいつの間にか1時間以上経っていて引き込まれた。それがきっかけで、今日友だちと一緒に聞きに来た。グラフを使ってわかりやすく説明してくれた。生産人口が減っていくなかで将来に不安しかない。日本はこれまで外国から挑発されても攻撃はせず、真摯に対応することで信頼を得てきた。アメリカにはべったりで、中国や韓国には挑発的な姿勢はおかしい。僕は、両親が奨学金を借りれば苦労するからと学費を払ってくれた。友人は570万円の奨学金を借りている。高卒より大学に行った方が高給取りになれるというけど、就職する時点で多額の借金をしなければいけない国はおかしい。僕は来年4月から中学校の教師になるけれど、おかしいことはおかしいと自分の意見をいえる教師になりたい」と話していた。みんなが問題意識を持って演説会に足を運んでいるし、それぞれの立場から、「日本社会はこのままで良いのか?」と真剣に考えている。
C すでに自宅に2枚ポスターを貼っているという仙台市の男性(35歳)は、手取り18万円、妻は15万円で夫婦共働きで2人の子どもを育てているという。「毎月の所得のうち税金のとられ方がひどいなと以前から思っていて、参院選後に山本太郎さんのいう消費税廃止にまず共感した。山本さんの一つ一つの言葉が心に響いてきた。これまでテレビばかり見て情報を入れていたが、国のウソに気づいてしまった。完全に自分が国やマスコミに洗脳されていたことに今頃気づいて本当に悔しい。今は自分で国がどうなっているのかを知るための情報を探すようになった。消費税が10%になり保育料無料というが、給食費は値上がりして、結局国民を騙すための政策だと思う。このままアメリカのいいなりになって日本の財産が奪われていく。今変えないと本当にダメになる」と話していった。
D 山形市は雨天のため室内での「おしゃべり会」になった。35歳の女性は、シングルマザーで2人の子どもを育てているという。「自分はシングルマザーで生活保護を受けながら2人の子どもを育てている。生活保護を受けていることを知られてはならないと会社でも気づかれないようにしてきた。そういうなかで山本太郎さんが“(生活保護を)堂堂と受けてほしい”といっているのを聞いて救われ、涙が出た。これまで政治にまったく関心を持っていなかったし、どうせ誰がやっても変わらないと思っていた。消費税を払うのも当たり前と思っていた。でもそれが全部ウソだったことを知ってしまった。安倍さんは何のために政治をしているんだろうと思うようになった。こんな世の中を変えたいと思った。初めて本気で応援したいと思える人に出会った」とポスターを持ち帰っていた。
50代の女性は、参院選後に友人に勧められて山本太郎の国会質疑や街頭演説の動画を見たのがきっかけで参加したと話していた。「身体を張ってたたかっている姿に感動した。そして今生きている日本は、こんなにひどい国なのかと愕然とした。自民党がマスコミをコントロールして国民を洗脳しているけれど、山本太郎さんの出現によって、一人一人の庶民が国のウソに気づいて動き始めたとき、自民党なんて簡単に倒せることを知った。山本さんは何よりウソがないのがいい。政治の世界はウソやごまかし、ゴマすりばかりだ。今からはどの世界も“正直”がキーワードになるのではないか」と高揚した面持ちで帰って行った。
なかには娘が化学物質過敏症になり病院に連れて行くと、ステロイドを処方されて一向によくならなかったことがきっかけで、「製薬会社」との利権に関心が湧き、また食品添加物に関心を持ち始め、れいわ新選組に出会って共感したというママさんもいた。GM食品とかゲノム食品など怪しげな輸入物が国内市場に溢れている現状を危惧する30代、40代の子育て世代もおり、「今の社会では自分の命だけでなく我が子を守れない」「生きるために応援している」という声もあった。
身体張って闘わぬ野党 ガス抜きの茶番への嫌悪感
聴衆と対話する山本太郎代表
B 東北ツアー期間中、安倍政府主催の「桜を見る会」をめぐる疑惑騒動にかき消されるなかで15日、衆院外務委員会が日米貿易協定の承認を可決した。街頭記者会見のなかで日米FTAに対する質問も共通して出されていた。山本太郎が「協定の中身や内容をほとんど明かさず審議らしい審議もせずなぜ承認できるのか。野党はなぜ人人の命にかかわる重大問題であるのに、身体を張って国会を止めてまでたたかおうとしないのか」と野党批判を展開すると、聴衆から拍手が沸き起こり強い共感があった。聴衆のなかには「野党のようで野党でない今の“野党”に辟易していた」(山形・60代男性)という人が多数見られた。
そのなかで全国を行脚して地方の人人と直接つながり、たたかっていく本気の勢力に対して共感する声があちこちで聞かれた。「安倍政権を何とかしないと、という思いは以前からあり、これまで野党に入れてきた。だが、いわゆる“市民派”“リベラル”に対して何か違うと感じてきた。言葉にするのは難しいけれど、太郎さんの話を聞くとなぜかしっくりくる。革新系にある上から目線を感じないからだと思う。山本さんのように自分たちと同じ目線で人人に訴えるような人が日本を変えていくと思う。実際に2人の障害者を国会に送り込んで、もう変革が始まっている」(山形市・30代男性)、「原発反対をいい始めたころから山本さんを応援はしていたが、いつも鼻をつまんで野党に投票していた。だが今回政党を立ち上げて、れいわ新選組の安冨歩さんの“れいわ新選組で山本太郎が当選するだけでは変わらない。人人が行動することによって変わる”という言葉を聞いて、初めてボランティアとして関わるようになった」(米沢市・40代男性)、「農業をしている。3・11以後、友人が多く被災するなかで無関心ではいけないと思い勉強し始めた。種苗法の改定、種子法の廃止などもってのほかで、国や国民が豊かになるのではなく、誰かが甘い汁を吸うための政治はもうやめるべき。“桜を見る会”はFTAを通すための完全なガス抜きで、もう野党も旧勢力ですよ」(山形市・30代農業者男性)と語る人もいた。
見知らぬ人信頼し訴え ボランティアの活動
参加者にポスターやチラシなどを配るボランティア
A 各地の街頭記者会見のための機材搬入や交通整理や幟立てなどの作業は、多くが現地ボランティアが担っている。ボランティアに参加する人たちは、街頭演説を聞いたり、動画を見て心を動かされた人たちが横につながって広がっているようだ。13日は午後1時からボランティアによる秋田市内のポスター貼りがおこなわれた。れいわ新選組が事前にSNSでポスター張りの告知をしており、その日集まったのは互いに初顔合わせという30代から70代までの人たちだった。
事前に準備された地図を持ち、中心市街地を2、3人のチームを組んで一軒一軒しらみつぶしに回っていく。無差別にインターホンを鳴らし、「れいわ新選組、山本太郎のボランティアの者です。ポスター掲示のお願いで回っています」といってお願いしていく。知らない人、断る人など反応はさまざまだが、とにかく一軒一軒声をかけてまわる。留守宅には「ポスター掲示のお願いで伺いました」というメッセージをつけたチラシを投函し、断られても必ずチラシを直接渡し、一人一人との出会いのなかでれいわ新選組を知ってもらうという活動だ。「お願いします」のスタンスで、一人でも多くの人とつながっていく活動のようにも思えた。子育てや仕事の合間にできることをできる範囲でやるというスタンスのようで、まだれいわ新選組を知らない人人に政策を伝え、つなげていく地道な作業だが、楽しくおこなっていた。ポスター張りに参加した30歳の女性は、「これまでなんとなく野党に投票していたが、消費税が社会保障に使われていないことを知り、消費税廃止の政策に共感した。今日はSNSでポスター張りを知り、夕方に保育園に迎えに行くまで時間があったので参加した」と話していた。イージス・アショアに反対する秋田市内の農業者も参加していた。
C 仙台のボランティアの男性が話していたが、ポスター活動で訪れた家の玄関先で30分ほど話し込み、政治や暮らしの話などをして、最終的に家の壁に張ってくれるということもあったという。「そうやって一軒ずつ訪ねることで、れいわ新選組、山本太郎を知らない人には知ってもらえる。みな心のなかではおかしいと思っており、一人一人の心をノックしていく作業だ」という。また、「徹底的な草の根で、市民側の反撃の形をゆるやかに作っていきたい。このなかで宮城県の水道民営化に反対したたかう人たち、オーガニック食品に携わる人など、仲間がどんどん増えている。みな根源はつながっていると気づいてきた。ボランティアに参加している仲間たちは、会社や友だちなど自分の小さな世界を破っている人たちだ」と話していた。
「一人一人の心をノックしていく作業」――。この言葉を聞いて、ポスター行動は貼れた枚数云云ではない意味あいを持っているのだと思った。見も知らぬ人にポスター掲示をお願いするのは、とても勇気がいるだろうしドキドキすることだ。断られたら残念な気持ちにもなる。だけど、そこでの一つ一つの出会いが次につながるものになるし、断る人のなかでも周囲の視線やさまざまな政治的ポジション等の事情もあって「協力は難しいが頑張ってほしい」という思いがあったりさまざまだ。わかりあえる人もいる。このなかで、待ちの姿勢ではなく、自分たちから見も知らぬ有権者のなかに足を踏み入れて、大胆にお願いし、働きかけていくことがいかに大切かを感じた。
A いざ選挙となると、街頭や選挙カーから叫ぶだけでは話にならないわけで、こうやって足を使ってみんなが周囲に働きかけて身近なところから一票一票を積み重ねていく。地域のコミュニティーのなかで幾重にもこうした動きが広まり、全国津津浦浦でゲリラ的に活発化することが最大の得票増を作り出す。自民・公明の組織力によって3割の有権者の得票で政治が牛耳られているが、れいわ新選組が訴えているのは投票することを辞めた残りの5割に支持を広げ、3割支配をひっくり返すことだ。ならば、「投票に行かない5割がけしからん」ではなく、政党政治に幻滅して行き場を失っている人人を信頼し、この5割の人人の心をノックして大胆に自分たちの側から働きかけ、お願いしなければ事は動かない。ポスター行動を地道に展開している意味は大きいと思う。そんな姿勢を有権者は一番見ている。旧左翼にありがちな「我こそ正義」で相手にマウントをかけたり説教して嫌われるというものではなく、れいわ新選組のポスター行動はあくまで人情の機微にも触れながら「お願いします」なのだ。
郡山市での街頭記者会見(16日)
C 仙台の街頭記者会見の会場には、20代、30代のママさんボランティアが多くいた。「私は子どもがおり、お金に追われるばかりで何のために生きているのかと思っていた。子どもによい食材を食べさせようと思えばお金がかかる。お金持ちしか長生きできない日本でいいのかと思う。太郎さんがいうように、この国に生きる人たちの底上げが必要だと思った」(25歳)、「子どもが2人いる。3・11の原発事故のころから山本さんを注目していた。普段SNSでつぶやくだけで、ママ友となかなか政治の話にならず一人で鬱鬱としていた。今、れいわでつながったボランティアの仲間がいて、少しずつみんなが気づいて変わっていくなかで心がすっきりしている」(30代)と話していた。
山本氏は、れいわ新選組を広げる形として現時点では地方に支部はつくらないとして、その意図を次のように語っていた。「支部があってトップダウンでいわれたとおりにやるという形では、この国は変わりようがない。政治は組織化しないとダメだという考え方を壊していきたい。権力は一人一人が能動的に主体的に動くことを恐れ、全国に把握できない有象無象の集まりができることが一番恐い。そういう塊、運動を広げていけたらいいと思う」と。
街頭記者会見や日常的なポスター活動などを担うボランティアの人人は、みんなのために、そして我が子のために勝手連で横に連携しながら動いており、表情がとてもいきいきしているのが特徴だ。社会をより良いものにしたい、みんなが困窮することなく豊かに暮らしていける社会を実現したいという期待や願いが込められているからだと思う。そして、本気の力が動き出したといえると思う。幻滅ではなく、自分の頭で考えて能動的に社会とかかわって動き、同じ志や気持ちを持った人人と積極的に連帯していく。人と人がつながり、山本太郎を御輿に担いで全国でゲリラ的に勝手連が動き出せば、それは脅威になり得る。変に組織名簿などを作ればピンポイントで潰される等もやられかねない状況のなかで、当面は得体の知れない巨大な力、潰すことなどできない意志を持った塊となるべく、雪だるまをつくるように日本列島を北から南へと転がし続けることが正解ではないか。本気のみんながつながっていく過程のように思えてならない。
B 政治が腐っている。統治機構も腐っている。経済界も腐っている。「そんなこといわれなくてもわかっている」という反応もありそうだが、もう、たいていの人が気付き始めているのではないか。社会の欺瞞が剥がれ落ちている。対米従属のもとで何もかも売り飛ばして、しかし、アメリカにとって都合が良ければ政権は延命し、少少の私物化も黙認されるというようなケジメのない政治状況が続いている。なにが桜かと思う。はじめからその程度なのだ。
安倍政府がろくでもないことなどわかっている。ならば、「反安倍」の一つ覚えで悲憤慷慨(ひふんこうがい)するだけでなく、これを選挙で叩きのめしてどんな社会にしていくのか、明確なビジョンを打ち立てながら具体化していくことが大切だ。従って、全国津津浦浦の実状に触れ、政策化していくことは極めて重要な意味合いを持つ。一部の富裕層や大企業のために残酷な搾取がまかり通り、圧倒的な国民が生活もままならないほど苦しんでいる社会が到来し、どうしようもない世の中になってしまった…という思いは鬱積している。そこであきらめるのか? 否、こんなどうしようもない世の中だからこそ、下からみんなの力を束ねてひっくり返していこうという力が胎動を始めている。まだまだ自然発生的なものかも知れないが、熱気が生み出される根拠が国民生活の現実のなかにある。
D 現実の政治や統治の有り様を見て、例えば安倍晋三が退陣したら社会が180度変わると思っている人がどれだけいるだろうか。次の駒があてがわれて、欺瞞しつつ似たようなことをやり始めるのが関の山だ。民主党が政権与党になっても自民党と同じように米軍再編や消費税増税、TPP参加などを進めたように、この国の主権は対米従属の鎖につながれて奪われ、せいぜい安倍晋三みたいに私物化に境界線がなく下品であるか、上品に欺瞞しつつムチャをするかくらいの違いしかない。野党といってもガス抜きみたいな補完的役割に終始している。そうした構造も含めて転換させるべく、政治に直接参加していく機運を強めることが重要ではないか。あきらめが3割支配の根拠ならば、あきらめない力を広げていくしかない。
https://www.chosyu-journal.jp/shakai/14331
http://www.asyura2.com/20/reki4/msg/625.html#c7
◇ 青森
れいわ新選組の山本太郎代表が全国の街頭に立ち人人と直接つながって論議する「街頭記者会見」の東北ツアーが11日から青森県を皮切りに始まった。人口減少や少子高齢化など経済の落ち込みが著しいなかで暮らしや産業をどうするのか、また原発施設や米軍基地問題など、財源が厳しい地方にアメとムチの政策によって押しつけられてきた国策が人人の生活を脅かしている現状も論議となった。切実な問題意識を持った人人が青森市内だけでなく弘前市や八戸市などからも集まった。
山本氏は、参院選後に北海道からスタートして九州、沖縄と街頭記者会見で全国を回るなかで共通しているのは、みなの生活が厳しいことであり「全国チェーンの店がこれほど展開され、東京でも青森でも同じ値段で物が売られれば所得が低い地方であるほど当然生活は厳しくなる。みなさんの生活を楽にするためにはまず、消費税を減税、廃止にしなければならない」と強調し、それが地方の中小零細企業の底上げや産業活性化の兆しにつながっていくという、れいわ新選組の経済政策について提起した。
自営業の友人などから山本氏への質問を託されて八戸から青森市まで来たという女性は「れいわ新選組は全国一律時給1500円を公約にしているが、地方は高齢化や人口減少で店も物も少なく、アマゾン、楽天などネットへの依存度が高い。時給を上げても地方でお金が回る仕組みをつくらないといけないのではないか」と質問した。
山本氏は、「れいわ新選組は緊急政策として消費税廃止など八つの政策が必要だと訴えている。私が全国一律最低賃金1500円を政府保証で実現したい。それを実現するためには消費税を廃止する必要があるし、法人税のとり方を累進制に変えるなど他の政策とセットでないとダメだ。全国どこに住んでいても最低賃金1500円もらえるならば、わざわざ東京に住む必要がないし、地元に残ろう、地元に戻ろうとなるだろう。1500円になった場合、青森でも月に最低24万円が担保されるのであれば、新たに商売をやる人もあらわれるかもしれない。多くの人人が貧乏にさせられている状態を喚起するためには、これが一番大きな力を持つと思う。地方創生というならば、それぐらい大胆なことをしないと始まらない」「国が地方創生といいながら何兆円も予算をつけて誰に流れたかといえば、東京のコンサルなどお友だちに流れているだけだ。それでは意味がない。本気の底上げをしないと地方はさらに衰退する」と訴えた。
また「安全保障といって北朝鮮、中国、韓国…というが、本当に安全保障に目を向けているか。例えば、毎年大きな台風が起こっている。もしも災害によって首都圏が壊滅的な状況になったとき、どこがこの国をコントロールするのか。首都機能が壊滅的な状況に追い込まれても、バックアップできる都市にすることが私は本当の安全保障だと思う。それに必要なのは最低賃金1500円を国が保証し、衰退している地方がもう一度息を吹き返していく必要がある」とのべた。
破壊される国内の産業
60代の男性は、「TPP、日米FTAなどでこの国のあらゆる権利が売り飛ばされている状況だ。そのなかでも医療では、病院のベット数が減らされたり、老人の保険の負担率が上がろうとしている。このままいけば国民皆保険がぶち壊される。そうなると腹痛で20万円、骨折で30万円などアメリカの医療のようになっていくのではないか。なにかできることがあるのか」と質問した。
山本氏は、TPPや日米FTAの本質が、企業側が金もうけがしやすいように環境を整えることであって、商売の邪魔になる関税などを撤廃するというものであり、「一方で政府が守るべき日本の産業は守られないのではないか」と指摘し、次のようにのべた。
日米FTAの内容は、農業分野に関してアメリカ側は合計7200億円の農産品が関税撤廃と緩和の恩恵を受けるとなっている。一方、日本側はわずか40億円程度だ。全然対等な関係でも何でもない。そしてアメリカから自動車に関税をかけると脅されて日本は頭を下げて歯止めをかけたといっているが、その内容はどこにも約束されておらず、今後もそれをネタに脅し続けられるということだ。こんな交渉をしていたら国はむちゃくちゃになるし、この国に生きている生産者がどんどん壊されていく。そして医療分野も海外企業に日本の医療を市場として開放し、みなさんの自己負担額が上がってカネのない者は死ねということになる。これを何とか食い止めなければいけない。命の期限がもうけられるような時代になりつつある。生産性で人間の価値を計らせない。人の命をカネで語らせてはならないと強調した。
また別の女性は「青森県は三方を海に囲まれ自然豊かで食料自給率120%のすばらしいところだ。だが先日も米軍三沢基地所属の戦闘機F16から六ヶ所村の私有地に模擬弾が落下した。そこから1`先には小学校も中学校もある。それにきちんとした調査や謝罪もない。どうして沖縄と青森はこんなものばかりが来るのだろうか。またJR東海のリニア中央新幹線の工事で出たウランやヒ素など有害物質を含んだ残土が六ヶ所村に運び込まれるという話もある。中央集権化のなかで青森というすばらしい地域が蹂躙されている。声にならない声を聞いていただき、頑張って政権を変えてほしい」と訴えた。
山本氏は「都会がより便利になるようなもの、不都合なものを地方都市に押しつけゴミ捨て場のような扱いにする。国がケチなカネで頬を叩く、でもそれで丸め込まれてしまうのは基本的にはみんなの生活が安定していないからだ。地方の経済的な状況や生活が、国と対等に交渉できないからだ。大都会が発展するために地方の一部は犠牲にされてきた。それをしっかりと保障してもらう時代に変えていくべきだ。地方の発展なくして都会の発展などありえない。そのためにもまずは消費税をやめる。まっとうな社会をつくっていこう」と呼びかけた。
聞きに来ていた開業医の男性は、「青森は経済の落ち込みが著しく、介護職員同士が結婚した場合、2人が働いても給与が少なくて生活できないため、東京など都市部に出ていく現象が生まれている。“寿退社”という言葉が別の意味で使われているほどだ。最近は地元新聞も原発賛成という姿勢があらわになり、地方を守るための声がカネで押さえつけられている。山本太郎氏のように街頭で市民と対話する地道な活動が人人の心を動かし国政を動かす大きな力になってほしい」と語っていた。
◇ 盛岡
12日には岩手県盛岡市のれきし文化館前でおこなった。寒風吹きすさぶなか仕事帰りのサラリーマンや主婦らが足を止めた。街頭記者会見は、食料自給率、不安定な働き方に対する意見をはじめ、地方交付税の削減とともに東北に押しつけられる原発やILC(国際リニアコライダー)計画などの国策に対する危惧など内容は多岐にわたった。
山本 私がなぜ地方都市を中心に回るのか。私が参議院議員をしていた6年間の政治から見えたことは、地方を踏みつけて都会が成長をしていく現状だ。政府のかずかずの施策によって、地方の人人は首が絞まるような状況になってきている。消費税、TPPや日米FTAで生産者のみなさんの首が絞まっている。どうして地方が衰退していくようなことを国がやるのか。地方の交付金は搾られ暮らしは不安定になっていく。あまりにもおかしな政治に対して、地方のみなさんと手を繋ぎながらこの社会を一緒に変えて行きませんかと訴えている。
意見(男性) 盛岡市在住の会社員だ。ゲノム編集食品について今気になっている。毒のないジャガイモ、肉厚の鯛、害虫に強い野菜がとれるなどテレビではいいことばかりいっている。ゲノム編集食品が本格的に市場に出回る時代になってきたが、安全性の審査も表示も不要と聞いてびっくりしている。これは一体どういうことなのだろうか。海外のサイトを見るとゲノム編集によって加工の手間が省けるように、毛のない動物や足のない鶏を見たことがある。訳のわからない食べ物が加工されて何の表示義務もなく食卓に並ぶなど考えられないと思う。国民全体で危険度合いを認識して表示などがどうあるべきか精査して変えていかないといけないのではないか。食べ物はどう選んでいいのか意見を聞きたい。
山本 肉厚の鯛であれば今まで2、3人しか食べられなかったものが一10人ぐらいで食べられて効率がいいじゃないかと受けとってしまいがちだ。だが、ゲノム編集された食品が人体にどのような影響があるのかについて、まだそんなに蓄積はないだろう。私は消費者が物を買ったときに、その中身がどのようなもので構成されているかを知る権利があるし、表示すべきだろうと思う。それは遺伝子組み換えもゲノム食品も放射性物質についても必要があろうと思う。1`c当り100ベクレル以下は安全だと国がいっているのだから、表示した方がいい。しかしそれさえもする必要がないとされ、私たちは知る権利を脅かされているといっても過言ではない。私たちは消費者が食品についてより多くの情報を得られるように表示を義務づけていきたいと思う。
時事通信で今年の10月7日に「ゲノム食品 年内にも食卓へ 安全審査 表示義務なく」と報道された。誰が一体こんなことを急いでやらせるのか。遺伝子組み替え食品、ゲノム編集食品が安全性審査をへず、厚生労働省への任意の届け出によって販売できてしまう。世界を見ると、ヨーロッパの司法裁判所の判断で2018年7月に「ゲノム編集は遺伝子組み換えと変わらない」という判断を下した。アメリカ農務省の判断は、「ゲノム編集は遺伝子組み換えに該当しないが、それは一部に限られており改編の仕方によっては遺伝子組み換えである」といっている。日本はどうだろうか。「ゲノム編集食品は遺伝子組み替えではない」(環境省)、「ゲノム編集では別の動植物の遺伝子が新たに組み換えられていないから、従来の品種改良と同じで安全である」(厚労省)という雑な見解を出している。そこまで急ぐ必要があるのか。そんなに急いでだれをもうけさせるためなのか。商品の表示は徹底してやっていくべきで、それが担保されなければ自分たちの身体が守れない。
意見(女性) 4時間かけて来た。私はロスジェネ世代の保育士だ。消費税負担は1カ月分の所得に相当することを知った。東北に住んでいれば共働きが多いため、車は必需品だ。1カ月、夫婦共働きでガソリン代が月に1万500円ほどかかる。5月になれば自動車税、3年おきに車検もある。維持費だけでも相当かかる。夏と冬はエアコン、灯油代、電気代もかかる。走行税の徴収などといわれたら東北の人たちは生活がもっと厳しくなる。
私は今、児童養護施設の職員をしている。正規で働いているがなんちゃって公務員だ。交代制で夜勤があり、給料は300万円いかない。職員は身体を壊す人が多く、20代の職員は奨学金の支払いが30代まで続くため「給料が残らない」と困っている。非正規の職員も多く、同じ働き方で15万円以下の給料の人もいる。男性職員はこの仕事を続けたいが、「子どもはつくれない」といい、仕事をやめなければならないかもしれない。子どもたちのなかには「夢は保育士」という子がいるが、子どもたちに胸を張って「安心して大人になっても大丈夫」といえる日本をみんなでつくれるようにお願いしたい。
山本 保育士で年収300万円以下、同じ仕事をしていても年収150万円ぐらいの人もいる。同一労働同一賃金というのはどこにいったのか。同じ仕事をしてそれほど格差が広がっている。それでは同じ職場でも気持ち的な分断が起こるだろう。人と人とが嫌な気持ちになる、それ自体が不健全なことだ。資格があってもその収入では仕事につけず、現場は疲弊して追い詰められることは不幸だ。私たちはニーズがある仕事、例えば保育や介護などは公務員化して安定した処遇でかさ上げしていく必要があると考える。「公務員は得ばかりして」という根拠のない空気が流れている。とんでもない。今どんどん公務員が減らされ非常勤や嘱託に置き換わっている。
地方公務員の現状は2016年4月1日現在の調査で5人に1人は非常勤に置き換わっている。地方公務員(都道府県を含む)の臨時非常勤は全国で64万人をこえる状況だ。小・中学校に勤務する非常勤講師は、正規教員の4〜5割を占め、処遇は3分の1程度だ。保育士では非常勤保育士の年収は200万円前後、休みなくフルに働いても正規職員の4分の1、3分の1程度しか稼げない現状だ。
一万人当りの公務員の数を世界で比較すれば、フランスは837人、イギリスは820人、アメリカは597人、ドイツは560人、日本は261人だ。圧倒的に数が少ない。公務員という職自体が地方にとっては雇用の受け皿だ。私は20年以上続いたデフレという厳しい状態に対して、安定した職、処遇を担保することが日本の経済的な復活、生活の底上げにつながっていくと思う。派遣労働の拡大など雇用の流動化によって多くの人人が働いても働いてもまともに生活できない状況になっている。この状況をなんとかしないとこの国は本物の衰退国家になる。今一番足らないものはきちんとした給料をもらえる安定した職だ。
意見(男性) 盛岡市に住んでいる。太郎さんの姿を見て世間に対する傍観者をやめようと思って参加した。農業団体の職員として働いており、東京勤務のときは小泉大臣を筆頭にして「全中解体」「農協」バッシングなど厳しい風当たりがあった。われわれは、非遺伝子組み替えのトウモロコシをアメリカの信頼できる農業者とつくっており、そうでないものを分別して集荷して国内の畜産農家に安全なエサとして提供していた。バッシングの背後にはその機能が多国籍企業メジャーにとって気にくわなかったことがある。それを破壊するために絶対買収できない協同組合の全農を買収しようとして株式会社化を画策した。そういった事実が世間に伝わらない。その要因にマスコミが本当に大切なことを伝えないという問題がある。岩手県の県議選でも、政策関係なくアナウンサーがトップ当選する状況がある。テレビも新聞も信用できないが、意見を聞きたい。
山本 私自身が社会に目を向け始めたのは原発が爆発してからだ。そこで感じたことは、一人一人に必要な情報が届いていないということだ。だが冷静に考えてほしい。テレビはだれのものか。テレビ局は企業が広告枠を買いとってくれるから回せる。テレビ局にとっての一番の神様は企業で、何百億円も広告宣伝費をくれる人を尊重する。企業を宣伝する箱でしかない。一方でNHKのスポンサーは国民だ。NHKは公共放送であり、政権に忖度するのではなく、スポンサーである国民に忖度するテレビ局であるべきだ。とはいいながらNHKの経営委員会は国会に人事権があり、今の政権与党側に寄った内容になっている。では何が必要か。垂れ流しのものをそのまま鵜呑みにする人人が変わらないといけないと思う。テレビ以外の情報を自分で集めて精査しなければ、今何が動いているのかたどり着けない。私たちが政権をとった場合どうするか。NHKに関しては公共放送として中立で公正な内容を求めていく。
正規採用が少ない現実 若者は都会へ流出
意見(女性) 私は母子家庭で、子どもが成人して今年から社会に出た。子どもは教職をめざしていて私立の大学に入れた。学費の面で苦労し、奨学金も借りてようやく4年通わせて教職免許も取得した。しかし岩手県は新卒で正規職員になれず、奨学金を返済しながらの生活が成り立たないため今は企業で会社員として働いている。先日、市の教育委員会から「非常勤で働けないか」という話があったが断った。非常勤であれば不安定で、自分の生活や奨学金の返済のことを考えると難しいからだ。地方はそういう状況で若者は都会に出て行く。公務員を増やすのなら新卒でも正規で採用できるようにしてほしい。
山本 国が政策として雇用を壊して、一人一人の首が絞まる働き方を広げてきた。企業側からの組織票、企業献金などでお世話になった人のための政治をしてきた。企業がコストとして考える法人税を減税し、人人を安く使える労働法制を実現してきた。今、非正規が就業者全体の四割をこえる状況になっている。大都市で一人暮らしをする若者たちはネットカフェで暮らすようになっている。その7割が非正規労働者だ。政治がここまで世の中を不安定にさせた結果だ。だから非常勤の公務員ではなく、正規の公務員として安定した生活をとり戻してもらい、国全体の底上げをしていく、そうしなければ手遅れになる。
意見(女性) 農業問題について、自給率は去年37%になった。台風の被害も大変なことになっており、離農も増えるのではと危惧している。
山本 食料自給率の各国比較(カロリーベース)を見ると日本は38%だ。国土面積があまりかけ離れていないドイツは自給率が90%、イタリア53%、スイス50%、日本の38%は低すぎる状態だ。私は生産者に対してもっとプラスになるようなことをしなければならないと思う。一番は直接支払いの額を増やしていくべきだ。よくイメージのなかで日本は農業に対する支出が多いという人もいるが、根拠があるのだろうか。
WTOに各国が農業生産額に対する国の直接支払いの額を通報したものがある。貿易のルールで不平等にならないようにということで各国が示している。それは2012年の段階で日本は1兆1000億円だ。EUは6兆7673億円、アメリカは1兆6696億円だ。EUは手厚く、日本はアメリカと変わらないように見える。農家の所得に対して国の直接の支払い額は日本は47%、EU69%、アメリカ22%になっている。これだけ見ると日本って悪くないと思ってしまうのだが違うのだ。アメリカはWTOに報告していない予算がある。フードスタンプなどの政府による買い付けや市場価格保障など政府による直接支払いなどで、それを含むとアメリカは11兆円(147%)に跳ね上がる。平たくいえば農産物は全部国が買いとってあげるという状態だ。なぜか。食料をしっかりと自分たちでつくらなければ他国からコントロールされるからだ。自分たちの国以外の食料をつくって、その国をコントロールするという世界戦略だ。それに乗っかって、侵食されているのは日本だ。
この状況を考えるならば、日本はもっと農家に対する直接支払いがなければいけないし、生産者になれば生活が楽になる、子育ての支援も厚いという形にしていく以外にない。自給率が低く多くを輸入に頼る状況のなかで、最悪の場合は「いうことを聞かないなら食料を止めるぞ」という場面もあるかもしれない。タカ派といわれる人たちは、「北朝鮮が、韓国が……」「核武装せよ」などとはいうが、なぜもっと食料安全保障について声高に叫ばないのかだ。
意見(男性) 私は零細企業をやっている。消費税を上げたことによって、多くの零細企業は非常に厳しい状況にある。待ったなしなのは増税ではなくて景気対策だろうと訴えてきた。このまま黙って死んでいくわけにいかないと思うようになった。子どもたちは国の宝、未来の宝だと思う。どうか山本さんにこの世の中を正して欲しい。
山本 消費税を上げるということは、消費に対して罰金をかけるのだから景気がよくなるわけがない。逆にいえば消費が加熱しすぎているときはそれを抑えるために一部有効かもしれない。超インフレ対策として使えるかもしれないが、デフレが20年以上も続いているなかでやるなんて、まぬけとしかいいようがない。経済音痴としかいいようがない。今やるべきは消費税は少なくとも減税、廃止にすれば日本は間違いなく経済成長する。一番苦しんでいるのは所得が低い人もあるが、中小零細企業が一番苦しんでいる。税の滞納のなかで消費税が一番多く6割で、払えていないのは中小企業だ。この国に存在する企業の99%が中小零細であるのに、その首を絞めるというのはどうかしている。
再処理やめよも追加を 上関原発の動向も注視
意見(男性) れいわ新選組の政策に「原発禁止、被曝させない」というのがある。それに再処理はさせないを加えてほしい。再処理は放射能を垂れ流しだ。六カ所村には福島原発で放出されたセシウムの35倍の高レベル廃液がある。これは大変危険だ。そばに行けば20秒で死んでしまうという危険なものだ。600倍といわれる使用済み燃料がある。そして恐ろしいことに六カ所村の民有地にアメリカ軍の模擬弾が落ちた。マスコミは小・中学校の側だとか、再処理工場のことはいっていないが、あそこで事故が起きたら岩手県も終わりだ。茨城にはもっとたくさんの廃液がある。東海第二原発よりもっと恐ろしい再処理工場がある。
山本 再処理する必要はないと考える。再処理するということは一生原発をやめられない仕組みに入ってしまう。核の発電によって生まれたゴミを処理し続けてずっと使えるようにしますよということで、「ゴミ」にしたら資産として計上できないからだ。ゴミではなくエネルギーだといい続けることによって電力会社にとってプラスになる。電力会社の再処理部門は全部国有化して禁止し、やめていく選択をしなければ、これから来るであろう災害立国日本に住むみなさんの生命、財産は守れないと思う。
意見(女性) 私も原発に反対だ。地方交付金が減らされ地方が衰退していくと都会を支えるための迷惑施設がお金とともに地方に持ち込まれる。今、山口県の上関原発のボーリング調査が再始動することが決まり心を痛めている。あまりにも遠くてもどかしい思いもあるが、住んでいる人だけでなくもっと広く世論を広げてたたかっていくにはどうすればいいだろうか。
山本 上関原発のボーリング調査を私自身も全力で止めたい気持ちはある。東電の福島原発があれだけの事故を起こしながら今も収束の目処がたたない。今後数百年かけて収束させていかなければならないだろう。にもかかわらず、選挙の争点にもなったことがない。多くの人は2011年3月11日の時点で原子力緊急事態宣言が発令されて、2019年11月のこの日にもこの宣言は解除されていない現実を知らないと思う。このような状況のなかで上関原発計画をどう止めるかを考えたとき、私は一番手っとり早い方法として政権をとって全部ひっくり返してやるということだ。
遡れば中曽根首相の時代から新自由主義的な考え方で国富の切り売りが始まり、労働組合が解体されていき、労働者の奴隷扱いを広げる始まりになった。今や働く環境は不安定で、企業が労働者に責任を負わなくていいような働き方がずっと拡大していっている。「自分の努力が足りないから生活が苦しい」と思いこんでいる人が多いが、とんでもない。すべて政治がかかわって制度ができあがって、そのしわ寄せで人人の首が絞まってきた。
7人に1人の子どもが貧困、高齢者の5人に1人が貧困、障害者の4人に1人が貧困、一人暮らし女性の3人に1人が貧困、この状況は構造上の問題であり、政治が問題だ。その政治を選んだのは誰か、選ばなかったのは誰か、この地獄をつくり出したのは誰か。まったく無関心だった私だ。私が今の現実をつくった一人だ。それで雷に打たれたような気分になったのが原発事故だった。日本には貧困があり、労働環境の劣悪化があり、いろんなものが散散な状況にある日本の現状を見たときに、自分が加害者として無関心を装っていいのか、自分に対して勘弁ならないと思った。ならばやってやろうと思い全国を回ると、いろんな人が直面している問題を教えてくれた。
議員になった後も原発のことをいい続け、今の私のメインテーマでもある。でも多くの人たちにとっての政治に対する入口は、やはり「お金」の問題だ。社会問題を自分ごととして引き寄せてもらう入口として消費税問題は大きなきっかけになると思う。だとしたら野党が塊となって「消費税を5%にする」と旗を揚げたら、私は政権交代につながっていくのではないかと考える。みなさんが当事者として意識できるテーマを掲げることこそが、政権交代につながっていくと考える。だが私は塊になるだけでは勝てないと思っている。少なくとも安倍政権が始まる前の税率に戻すというのはとても象徴的だ。消費税を5%にすれば中小企業も助かるし、今日が苦しいという思いをしている方方も希望を持つ。そういった旗を揚げて政権を奪取すれば原発も止められる。今まで散散やられてきたものをひっくり返していこう。
https://www.chosyu-journal.jp/shakai/14234
http://www.asyura2.com/20/reki4/msg/625.html#c8
れいわ新選組・山本太郎代表は10月26日、福岡市の博多駅前広場で街頭記者会見をおこなった。高校生などの若者から幼い子どもを連れた親世代、年金で生活する高齢者世代まで多くの老若男女が集まり、3時間に及ぶ論議に耳を傾けた。障害者が置かれている窮状や医療現場で患者が切り捨てられている問題、また自民党政府の横暴を空けて通してきた野党の妥協的態度への批判も議題にのぼり、一握りの大企業がもうける一方で多くの国民を困窮に追いやる政治を下から変革しようという山本代表の訴えに強い共感が寄せられた。論議の主な内容を紹介する。
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山本代表 この6年間、参議院の最前列に座って政治に参加し、見てきた。おこなわれている政治は、カネにならないことはほぼ前に進まず、地方が衰退するしかないような施策だけが前に進む。地方から力を奪う施策の連続だ。地方は物価が安くて暮らしやすいというが、実際は所得が低く、買うものの値段は東京とほとんど変わらない。しかも一人一台くらいの車がなければ生活ができず、維持費だけでもたいへんだ。消費税を上げて一番に首が絞まるのも地方だ。この国の企業の99%を占める中小零細偽業の首を絞めるのも消費税だ。すでに税金の滞納の六割を占めるのが消費税だ。2%も上げてさらに首を絞める。この国から活力を奪い、地方を衰退させる政治をもう終わりにしよう。そのためには地方のみなさんと繋がって今の政治をひっくり返すしかない。
意見(男性) 私は立憲民主党のサポーターだ。山本さんは野党共闘を目指しているが、そうでなければ政権奪取は難しいと思う。れいわ新選組の緊急政策はほとんどが立憲民主党と同じような政策だ。ちょっと違うのが消費税廃止だ。これは財源問題でいつも議論がストップする。山本さんのいうように新規国債を発行してインフレが行きすぎたらどうするのか? という懸念がある。これをどう解消するのか。
山本 野党は塊にならなければ政権交代につながらない、さらにれいわ新選組と立憲民主党の政策はそれほど違わないという意見だが、同じでない部分はおそらく財源についてだろう。政策の財源を税収の範囲でしかやらないのであれば、やれることは限定される。プライマリーバランス(歳入と歳出の釣り合い)の黒字化という意識が与野党の中にある。私はこれに大反対だ。プライマリーバランスの黒字化を達成したアルゼンチン、ギリシャがどうなったのか? 緊縮政策で経済のパイはどんどん縮小した。国の財政と家計を混同すること自体が間違っている。
どの国も当然借金をする。国に生きる人々に投資をして成長させるのが国の役割だ。だから、どの国も緩やかなインフレだ。一方、日本は20年以上のデフレ。こんな先進国はないと安倍総理自身が認めている。こんな間抜けな経済政策をする国は日本を除いて存在しない。
デフレの原因はさまざまある。賃金が低くなる。その原因は企業が「生産性の向上」の下に労働者を叩いていった。国鉄や電電公社などの公的機関を民営化していくことで労働組合を解体し、労働者が連帯して労働環境を守るという大きな力をどんどん削いでいった。その結果、賃金が下がった。それだけでなく国による投資を絞り、超緊縮を進めている。その中で消費税を何度も上げて強制的に物価を上げた。実質賃金が下がっているのだから生活が苦しくなるのは当たり前だ。この責任を民主党が感じているのか?
私はもともと民主党政府の原発対応に対して怒りをもって立候補した。だが自民党政権にかわったらもっとひどくなると思ったから、立候補するしかないと思って国政に出た。与党だから信じる信じない、野党だから信じる信じないという話はない。これまでなにをやってきて、これから何をやっていくのかを総合的に見てしか判断できない。
この夏の参院選の前に「与野党が国会の中でテーブルの下でヌルッと手を繋ぐこともある」という話をしたら、いろんな政党の支持者からお叱りを受けた。「野党共闘の足を引っ張るようなことをいうな」と。では、本当にあったことも言ってはいけないのか? 申し訳ないが本気で足を引っ張ろうと思ったら、言っていないことはいっぱいある。当たり前だ。大打撃を与えられる。こっちは大人になっている。
ご発言の通り、政権交代を望むならば野党が塊になることは基本中の基本だ。私も小沢一郎氏から「どれだけ自分が苦手な人でも手を繋がなければダメだ。それで権力を手に入れたら、自分がやりたいと思っていることができるんだよ。野党のままではそれはただのスローガンにしかならない」といわれてきた。確かにそうだと思う。だが来年冒頭に解散があるとしたら、野党がどう固まっていくのか話し合っていかなければいけない時期に来ている。
ただ野党が塊になっただけで勝てるとは思っていない。それならとっくに勝っているはずだからだ。野党は選挙の時にアピールしきれていない。それが総括できているのかを考えなければいけない。
これまで国会の中で数々の悪法が通ってきた【表参照】。特定機密保護法は不都合な情報にベールをかけられる可能性がある代物だ。さらに国家戦略特別区域法は、自分のオトモダチに獣医学部を作ってあげたり、農業への企業参入を認めたり、労働規制を緩和して、金もうけのための規制に穴を開ける「オトモダチ特区」だ。他にも、法人税引き下げ、派遣法改正、安全保障関連法、刑訴法改正、TPP、種子法廃止、テロ等準備罪、PFI法改正、働き方改革法、TPP11、カジノ法、水道法改正、漁業法改正、入管法改正…など山ほどの悪法が通過している。その都度、これらの問題点を精緻に組み立てて質問を続けたのが野党の先輩方だ。だが、その間に四度の国政選挙があったが、政権交代はなされていない。一つ一つの法律をかなり強引な決め方をしてきて、新聞の世論調査でも「自民党やりすぎじゃないか」という割合が高かったが、選挙では負ける。その総括はされているのか? ということだ。
私にいわせれば、経済政策が弱すぎる。いま苦しんでいる人たちを少しでも楽にすることをちゃんと伝えられているのか。「プライマリーバランスの黒字化」など野党が言うべきではない。この国に生きている多くの人が生活困窮に陥りそうな状態のなかでは寝言でしかない。20年以上のデフレでみんなボロボロになっているのに「財政健全化」というのはいい加減にしてもらいたい。人々の生活を救うのが政治だ。ないところから取ろうとするな。
過去決めたことはもう動かせないということはない。状況を見て、昔はこう思っていたが方針を変えなければ人々を救えないという方針転換であればみんな歓迎する。消費税は上げるどころでも、据え置きでもなく、減税しかないと野党にいってもらいたい。人々を救ってほしい。
野党が塊になることは必要だが、それだけではひっくり返せない。誰もが自分のことだと思える政策を乗せなければならない。特定秘密保護法、安保法、刑訴法、TPPなどいろいろあるが、自分が今日生きるために買うおにぎりにも罰金が科せられるという消費税が一番多くの方がピンとくるのではないかと思っている。
消費税を廃止にするには私たちが政権を取る以外にないが、その時期は皆さん次第であるし、まだ時間がかかる。それまで消費税が上がり続けることを私は許容できない。廃止の前に第一段階として5%に下げるという選択肢があるのなら私はそうしたい。だから私は消費税5%への減税でまとまれるのであれば、野党共闘を全力でやるとずっと言っている。それはまだ進んでいないが、れいわ新選組単体で考えれば単独でやった方が議席数は増やせる。数は増える。野党共闘ではれいわ新選組の議席はおそらく増えないが、それで消費税5%にできるのならやるべきだと思っている。だが消費税5%にも乗れないのであれば単独でやる以外にない。そのためには選挙区と比例の重複立候補は一人600万円の供託金がいる。入場料だけであり、100人立てれば選挙費用をあわせて費用は20億円をこえるだろう。お金持ちは少ないので、小口でも多くの人からの寄付で賄いたい。薄く広くご協力をお願いしたい。
意見(女性) 舩後さんと木村さんが障害を持ちながら当選されたのを見て感動した。私は軽度外傷性脳損傷患者家族会というところでボランティア活動をしており、救われない患者の救済活動をしている。30年も活動をしているが国に対して腹が立っている。国土交通省と厚労省においていかに杜撰な対応をしているのかが見えてきた。
山本 軽度外傷性脳損傷というのはどんなものか教えてほしい。
女性 この病気は誰にでも起こりえる怪我だ。赤ちゃんの揺さぶられだったり、もしくは工事現場の転落事故や交通事故、DVなど外からの衝撃を受けて脳が頭蓋骨に当たって損傷し、それが原因で大きな障害を受ける。その被害者がたくさんいる。軽度というが、決して軽くなく、精神と身体と両方の障害を持って生きてしまったということだ。これまで活動するなかで国はいろいろと認めてはきたが、実際は国からの保障ではなく自賠責保険とか労災保険での処理になる。裁判を起こしても司法もなぜか認めようとしない。等級も一番低く75万円だ。本来は死んだのと同じくらいの損害賠償を払わなければいけないのに、むち打ちと同じくらいの14級、75万円の判断しか下さない。それで患者たちは障害を持ちながら自腹を切って生活をしたり、治療費を払ったりしている。そういう人たちが全国にたくさんいる。患者たちは精神と身体と二つの障害を持っているので声も出せないで、沈黙のなかで生きている。これが現状だ。国に足を運んだりもしているが、なかなか進まない。これを国会でとりあげて欲しい。舩後さんと木村さんどちらかに、同じ障害を抱える立場として国会でとりあげていただけないかと思って、今日は陳情を持ってきた。ぜひ受けとってもらいたい。
山本 ありがとうございます。今陳情をいただいた。究極の質問権は議員本人にあるため私から約束しますというのはいえないが、両議員には必ずシェアするということを約束する。
命の選別する社会に歯止めを
意見(女性) 病院でリハビリの仕事をしている。病院で仕事をしていると、もうすでに命を選別する社会になっていると感じることが多い。2006年の診療報酬改定によってリハビリの日数制限が始まった。理由は改善の見込みがないのに無駄にリハビリを続けないようにするとか、そこに国の医療費を回せないこと、介護保険でのリハビリに移行することが理由だと聞いている。脳卒中などの脳血管障害であれば発症してから180日、骨折などであれば怪我をしてから150日、肺炎などの呼吸器疾患であれば発症してから90日など、症状によって期限が決められている。
2006年からこの期限以降は1回20分のリハビリが月に13回までと決められてしまった。それまでに毎日改善の期待を込めて60分、120分とリハビリを受けていたのに、一定の日数をもって1カ月に20分を13回とリハビリ機会が減ってしまった。
リハビリ難民とは、日数制限制度によって受けたいリハビリを受けられなくなってしまった人のことだ。リハビリをおこなう側にも問題があったから無駄なリハビリを削減するために国が介入したかもしれない。そこは私には分からない。しかし、これではリハビリが減ってしまう患者への説明にならない。改善の見込みがないからリハビリを減らすともいえない。
病院でのリハビリ
しかたなく「国の制度で180日をもって月13回のリハビリになる」と説明するが、いっている私本人も非常に白白しく感じている。そして日数制限を障害名をもって一律にしてしまうのはあまりにも極端で、患者一人一人異なる症状、障害、個別性を無視する制度だと思う。リハビリを13回に減らされた患者、その家族の落胆ぶり、見放された感じをこれまで目の当たりにしてきた。お金のある人は保険外診療で高額なリハビリを自費で受ける場合もあると聞いている。ここに命の選別を感じる。リハビリはその人の社会復帰にも生きがいにもかかわっており、ただの回復機能ではない。また寝たきり、ほぼ寝たきりでベッドから出られるのはリハビリの時間だけという患者にとっても、単に機能の回復だけではなく呼吸機能の維持や誤嚥性肺炎の予防にもなり、まさに命にかかわることだ。一人一人違う人間の回復を制度で決めないでほしい。回復の機会も奪って命の選別をしないでほしい。医療にも限界はあるが、リハビリ難民をつくりだすこの国の制度をなんとか変えてほしい。
山本 そんなひどいことになっていたというのを今知った。勉強不足で申し訳ない。病名で一括りにしてそれで全部落とし込まれると。でも人それぞれ違うではないかということだ。その症状の重さや状況はそれぞれの差があるのにそのような乱暴な状態になっているのはなぜか。コストダウンしかない。日数制限を導入する前は、リハビリ施設は人員的には回っていたのか? 例えば人手不足ではなかったか?
意見(女性) 人員は足りていなかった。そのためにリハビリの学校を山のようにつくってきた。増やしたのはいいが、なかなか人員が育っていないという現実はある。
山本 先ほどコストカットと失礼なことをいったが、そのコストカットをなぜしなければならないのか。おそらくこれは加速していく。高齢者はどんどん増える。それぞれを命の限り生かすにはお金がかかりすぎると国は考えている。「いつまで生きるつもりですか?」というような社会がこれから加速していくと思う。だから生産性で人間の命、人間の価値が決められるような空気感が蔓延している。あなたは何かの役に立っているのか、あなたは何かを生み出すことができたのか、何か利益を出しているのかといって、利益を生み出すことができない人たちは生きている価値がないというような社会的空気はこれからどんどん強まっていく。
究極には自分で死ぬ時期を決めなければならない社会になる。それが合法化されていく。そんな社会は地獄だ。これをなんとか止めるために私は舩後さん、木村さんのような重度障害をもつ人が国会に入り、生産性で人間を計らせない議論していくことが必要だと思う。まさにもう命の選別が始まっているという話に身震いを感じる。さらにここから減らされていくこともある。これは憲法違反だ。先ほどいわれたように、骨折にせよ、脳卒中にせよ症状の程度やその人が抱える条件は違う。憲法一三条で保障された「すべての国民は個人として尊重される」ということを医療の場にも最大限反映しなければならない。憲法は権力者を縛るものだが、それを守らなければならない国会議員がとんでもない政策を実行している。すでに始まっている命の選別に関してこれから私自身も理解を深めたい。二人の国会議員にも伝達していきたい。
高齢者を支える生活保障を
意見(女性) 私はここ福岡に生まれ育ってもうすぐ還暦を迎える。昨年肺がんで主人を亡くした。58歳だった。今初めての一人暮らしをしているが、自営だったので年金は国民年金で遺族年金は基本的にない。少しだけサラリーマンをしていたのでそのときのものを2カ月に一度5000円だけもらっている。そして寡婦年金というものが60歳から65歳まであり、先日はがきで年間47万円という通知が来た。1カ月4万円弱ということだ。ずっと真面目に働いてきた夫だった。税金もきちんと納めていたが、一人になってとても少額でとまどっている。だから私は朝8時から午後5時までパート勤務をして頑張っている。先日安倍首相の所信表明で8割の方が65歳を過ぎても働きたいという意欲をもっているといわれていて呆れた。
考えを尋ねたいのは、これからの日本の未来を担っていく若者たちや子どもたちについてだ。先日ニュースで「夏に子どもが痩せている」というものを見た。なぜかというと夏休みに給食がないので子どもが痩せるということだった。そして私がパートをしているところには、若者たちや学生たちがたくさんいる。彼らは将来に夢をもって一生懸命に学び、掛け持ちでアルバイトをして頑張っている。しかし多額の奨学金を抱えていたり、就職できたとしても心までも壊してしまうという働き方を耳にする。私は彼らには幸せに生きていって欲しいと願っている。だから憲法改正が進むことで戦争につながったり、子どもたちが戦地に行くことがないのか心配している。このように将来を担う若者たちの頑張る力を奪いとったり、子どもたちから笑顔をとってしまうような政治は絶対に許せない。それで消費税も上がったがだんだんみんな生きづらさを感じてやっと今の現状に気付き、怒り出しているところだと思う。このような場所にもこんなにたくさんの人が集まったり、ネットを見て学ぶこともできる。しかし一人一人が選挙に行かなければ絶対に変わることはない。だからみなさんに選挙に行かなければならないということをいいたい。
山本 初めての一人暮らしで年金が毎月4万円。働かなければ生活できないという絶望的な状況だ。ギリギリの生活で今月なんとか乗り切ったというような人が多ければ多いほど社会はすさんでいくと思う。一人一人の力を奪うためにそんな状態にされているのかと穿った見方をしてしまうほどだ。憲法二五条は「すべて国民は、健康で文化的な最低限度の生活を営む権利を有する」と書いている。65歳をこえても自分が命尽きる瞬間まで働き続けなければ生活できないというのは健康で文化的といえるのか。多くの方々が生活困窮、もしくは生活困窮に足を踏み入れそうな状況がある。ルールを守れていないのは国の方だ。そういう人たちが憲法を変えたいなど図々しすぎる。
深夜にコンビニに行くと、搬入している人たちに高齢の方が多い。こんな時間まで仕事をしなければ食べていけないというのが高齢の方々にも大勢いるのだという現場を自分の目で見ることができる瞬間だ。今のままの年金制度は、年金がどんどん細っていく。今の高齢化社会のなかで、現役世代が高齢者を支えるという建て付けは成り立たない。もう破綻している。今少ない年金を貰いながらぎりぎりの生活している人たちには増額していくしかないと私は思っている。年金や生活保護をどんどん減らしていくという方向性は一番まずい。年金の場合どうやって増やすのかというと、年金の基金として積み上げているものが100兆円ほどあるが、これを崩すしかない。実際に崩せるお金があるのだからそれを崩すべきだ。少ない年金で苦しんでいる人たちにお金を使ってもらった方が経済は回る。20年以上お金が回らないというデフレの状況を作り出しているのだから、もっとお金が回るような状況にしようと思ったら、所得が少ない人にお金を出すのが一番効果的だ。国一番やらなければならなかった少子化対策をしてこなかった結果、今の年金問題が出てきている。
今この国を立て直さなければならない。この国は衰退国家としてすでに踏み出している。このままこれが加速していくと総貧乏という大変な状態になる。今もうその手前だ。ラッキーなことに昔つけた筋肉が残っているが、その筋肉が残っている間に投資をするしかない。死ぬまで働かなければ生きていけないというようなとんでもない国にしてしまった。逃げ切れる人もいるが、逃げ切れない人の方が多数だ。だから今すべきこととして100兆円ため込んでいるお金を切り崩して人間の尊厳が守れるような状況にしていくしかない。そして年金というシステムについてはやり方を変えていくしかない。社会保険料をいくら払っても…という状況をやめにして、年金という料金の徴収は税金をもってやっていくということでいいのではないか。
違う形で私がやりたいのは生存保障制度だ。今の生活保護はすべてを失う前提からではないと受けられない。そうではなく、その手前から今あなたに足らない部分のお金を出すという制度だ。生活保護には医療扶助、生活扶助、住宅扶助などのいくつかの扶助がある。
それをバラで受けられるというシステムにしていきたい。完全に失ってしまった人がリスタートするのはとても大変なことだ。そのずっと手前でその人の生存権を支えていく。食費が厳しいのなら食費で支え、家賃の支払いが大変なのであれば家賃を扶助する。病気になってしまったのなら医療費を扶助するというようなバラで受けられる制度にすれば、トータルコストとして生活保護よりは負担が軽くなるのではないかと思う。
ベーシックインカムについて
意見(男性) 年金のことを聞きたくて来た。生活扶助、生活保護をバラで受けられるようにするという話はわかったが、しかしそれが年金に代わる制度かというと私は首をかしげてしまう。年金は定年退職してからもらえるものだ。だから定年退職したときに仮に麻生さんのいうように2000万円の貯金があったとする。その場合は山本さんのいう生活扶助制度は受けられないと思う。その2000万円がなくなって100万円ほどになり、来年には立ちゆかなくなるという時点で受けられるということになると思うが、そうなると自分が持っている2000万円はさっさと使ってしまって国に頼ろうとなってしまうのではないか。そうなると制度上、自分の有り金をさっさと使って国におんぶに抱っこになろうという考え方もできてしまう。
9月29日付のニュース記事で岩手県の衆議院議員・階猛氏の、消費増税はせずに月8万円のベーシックインカムで年金はまかなえるという記事が出ていた。もう一つは2016年に山本さんが小沢さんと一緒にやっていたときの「生活の党と山本太郎と仲間たち」はベーシックインカムを明確に参議院選挙の公約にしてたたかっていた。しかしこれまでれいわ新選組の動画などを見ていて、山本さんがベーシックインカムにはまったくふれていないのはなにか理由があるのか。また、先ほどいった2000万円をさっさと使ってしまって国におんぶに抱っこという意見に対して対処法などがあれば答えてもらいたい。
山本 私は生存を保障される制度を今のような形ではない状態にしたい。結局自分たちの掛け金に対してもらえる金額が少ないという状態が今の年金制度だ。現役世代が高齢者を支えるということではじまった制度が支えられない状況になっている。これを無理に続けていくということ自体が私は破綻していると思う。なぜなら前提が変わっている。この制度を続けるのであれば少子化というような問題を抱える国にしては絶対にいけなかった。けれども残念ながら政治がその責任を果たしてこなかった。
どのくらいの資産を持っていたらその制度を受けられないようにするのか受けられるようにするのかという細かい議論のところまではまだ行っていない。そこは埋まっていない。2000万円持っている人が全部使い切っても国からの保護を受けられるというようなことがあれば、それを悪用する人がいないかという質問だが、今の生活保護の暮らしというのはとても貧しい。耐久消費財などは買い換えられない。服だって新しいものは買えない。高齢者であれば本当にお世話になった人に旅立たれても会いに行けない。出せる香典もないからだ。それは大人の世界と同じように子どもも孤立する。子どもは例えば友だちと「おやつ買って帰ろうか」となってもその中に入れない。大人も子どもも生活が厳しい状態のなかでそういう人間との繋がりというものが作れず孤立化してしまう。つまづくもっともっと手前で必要なものがあるならば、国がそこに投資した方が、全てを失うという状態がやってくるよりも国としてのトータルコストが軽減されるのではないかと思っている。だから年金制度自体と今どうやって維持させるのかというところには立脚していない。
ベーシックインカムとは、雑な言い方をすると、生きているということだけが条件でお金を国を配るという考え方だ。赤ちゃんからお年寄りまで、寝たきりであったとしてもお金が配られる。当初はベーシックインカムというものを検討する必要があると考えていた。しかしそこからいろいろ知っていくなかで、ベーシックインカムのなかにはみんなに与えるサービスを現金を渡すだけで終わりにするという考え方にも繋がる可能性があると知った。国が人人に対して最大限の投資をし、産業や雇用を守らなければならないという「大きな政府」という考え方の人間だけではなく、竹中平蔵さんのような極力受けられるサービスは削っていくというような「小さな政府」を目指す人たちにもベーシックインカムという考え方を持っている。
行政サービスを極端に減らし、あとは現金で決着をつけるというような話になると命を失う人がいる。そいうことにも繋がりかねないようなベーシックインカム論になっていくのは怖いという思いがある。これからAI社会になっていって感情労働しか人間には仕事がなくなるという状況になったときに、いかにみんなが生活できるようにするかということになれば、企業側からお金をとりながらみんなにお金を配っていくということもある。でもここでただ配るだけでいいのか。国が人人を雇用し、それに対して報酬として渡すという形にするのかなどいろいろな話し合いが必要だ。
ただ今みたいな不景気で、20年以上のデフレから脱却できていないという状況のときには当然経済政策として税ではなく新規国債を発行しお金を配ることができる。新規国債の制限されるものはインフレだ。インフレが制御できるのであれば現金を配ることも可能だが、別にこれは現金でなくてもいい。消費税廃止という形で財源をそれにあてるということも可能だし、人人の生活を底上げするためであればやり方はなんでもいい。
ベーシックインカムについては今すぐに自分たちの公約のなかには入れない方針だ。しかし先々、すべてがAIのような状況になってしまって人間の仕事が奪われていくというようなことがあるという前提のなか、失業者が増えていくというときには国家が救うしかない。だからそのときにはお金を配るという行為ではなく、労働の対価として受けとれるような状況にする議論が必要だと思う。
人と直に繋がって広げる
意見(女性) 野党が消費税5%にも難色を示している状態でれいわ新選組が100人候補者を立てるとなるとお金の問題が出てくる。インターネットで政治献金を集めるネット献金や選挙プランナーをつけることは考えていないのか。
山本 ネット献金はすでに導入している。選挙プランナーに関しては、自分たちでやるしかない。私たちは奇想天外なことをしている。そういうことはプランナーの人の止められてしまう。今回の舩後さんや木村さんを立てることも周りから大反対されたのを私がゴリ押しした。私たちのように感覚的にやっていくこととは、衝突する部分も出てくるかもしれない。戦術一つではなく、普段からしっかりと活動しているかに勝るものはない。れいわ新選組を大きくするのは山本太郎や、舩後や木村という議員たちの働きだけでは限界がある。そうではなく、みなさんの一枚でも多くポスターを貼っていただくこと以外にない。事前にできることはそれしかない。ネットの中だけで広がると思ったら大間違いだ。ネットは拡散するという部分には特徴があると思うが、実際に人に会って足で回らなければどうにもならない。私たちみたいなほぼ無視されているグループには、応援してくれているみなさんの力がなければ広がりを持たない。
意見(男性) 山本さんの話をユーチューブで見ていて自分も人のために役に立ちたいと思うようになった。そしていつか自分もしっかり学んで同じような舞台に立ちたいと考えるようになった。それにあたって山本さんをはじめ、れいわ新選組の方で政治塾など政治を学ぶような場をもうける考えはあるか教えてほしい。
山本 消費税5%で野党共闘ができなければ、れいわ新選組独自で候補者を100人立てるといっている。だから候補者をもうすぐ公募する。そして今若い方が政治の場に行きたいといわれていたが、この世界は人材不足だ。それは自民党の閣僚の顔を見ていたらわかる。政治の世界はつねに人材不足で、そのなかで若い人が声をあげてくれたのはうれしい。自分が政治の場に行って、みんなにとってプラスになるような世の中をつくっていくという気概をもった人たちが増えていくのは非常に重要だ。塾的なものも検討していきたい。
人人の生活に立脚した政治目指す
意見(男性) 生存権を保障するということにとても共感した。国の支出を増やすということにも共感している。しかし疑問なのが国債を発行して財源をまかなうとなるとインフレや円安が必ず起こると思う。それは市場が決めることだと思うがなぜインフレ率をコントロールできると考えているのか教えていただきたい。もう一つは消費税を上げるとしても給付付き税額控除を導入すれば逆進性は克服できるはずだ。ヨーロッパの国々は20%以上の消費税の国がたくさんあるがデンマークのように幸せな国がたくさんある。なぜそこまで消費税を敵のようにいうのかが私にはわからない。三つめは100人候補を衆院選で立てたとしたら絶対に共倒れになる。自民党が漁夫の利を得るだけだ。そういう自殺的行為をなぜするのか聞きたい。
山本 消費税を目の敵にするというのは、ヨーロッパと比べている時点で考え方がまったく違う。生活用品に関して非課税という扱いをしている国もある。消費税はヨーロッパが20%、日本が8%、10%なのにすべての税金のなかで3割を占めているという時点でバランスを欠いている。
すべての税金のなかで消費税の負担が大きくなっているのが日本の消費税だ。軽減税率というよくわからないことも出てきたが、そのレベルで逆進性が解消されるような状態にはなっていない。20年以上続くデフレから脱却しようと思えば内需を拡大させなければならない。なぜならGDPの6割は消費だからだ。消費を喚起するということをしなければならないときに消費に対する罰金を上げてどうするのか。冷え込むに決まっている。
他の国とは比べづらいかもしれないが、日本国内において20年間のデフレというのは少しでも克服していこうと思えば消費を喚起していくしかない。だれかの消費はだれかの所得だ。消費が減れば所得も減る。そのほかにも「生産性の向上」という名のもとに人件費をどんどん削っている。しかし消費税という税制を変えなければこの先より厳しい状況になるのは目に見えている。
中小企業の多くが消費税を滞納している。税金の滞納の6割が消費税という時点でこの日本においての消費税の在り方は破綻しているとしかいいようがない。消費税を上げたことによってこれまで非課税の人たち、インボイスみないなことがこの先おこなわれていく。インボイス導入によってもっとも打撃を受けるのはフリーランスのような零細事業者だ。最初は年売上3000万円くらいの人が免税事業者という扱いを受けていたが、今や1000万円まで基準が下がった。これが一切なくなる。免税事業者のままでは他と取引できない状態になる。とにかくみんなから搾り取る。免税業者をなくしていく方向だ。今の消費税に対してこのままでいいということには絶対にならない。
税額控除といっても、それはあとで返ってくるというものだ。先に払わなければいけない。少しでも景気が冷え込むような理由はいらない。やめる以外にない。20年以上デフレという病気で過去何度も消費税で強制的に物価を引き上げてきたことがこの国の弱体化につながっている。そこを無視して消費税をいい続ける意味は何なのか。財源が必要、増税が必要というが、消費税以外の取り方についてはなぜいわないのか。そこが一番あるところではないか。財源としてはあるところからとるしかない。これが税の基本だ。
新規国債の発行について「国が破綻する」という人がいる。国は破綻するのか? 破綻することはある。ギリシャのようにユーロ圏でユーロという通貨を使っていた場合、借金をするときはユーロ建てだ。これは外国から借金をしているのと一緒で、ギリシャには自国通貨を発行する能力がない。それと日本を同一視することはできない。財務省に洗脳されて「ギリシャのようになってしまう」といって選挙のときに交わした約束を反故にしたのは誰なのか。これは与党だけではなく野党のなかにもたくさんいる。今それに気付いたとして間違いを認めて正しい方向に行けばいいではないか。政治家のプライドを守るために政治があるわけではない。人人の命を守るために、生活を引き上げるために政治がある。方向を変えることを決断できるのも政治だ。
日本の財政破綻やデフォルト懸念に対する財務省の見解
日本はもう破綻すると言われ続けて30年以上経つ。金利は市場が決めるものだという話もあったが、その通りだ。だから金利がどうなっているかを見ると今はマイナスだ。信用がない相手にお金を貸すときには金利を高くとるのが常識だ。財政破綻論は、日本が破綻すると30年以上国内で流れているガセネタのような話だ。日本円で借金をし、日本円を発行する能力がある。この二つを併せ持っていてどうやって破綻するのか? 誰も説明できない。
れいわ新選組がもしも単独で選挙をやる場合100人の候補者を立てる。そんなことをやったら自民党を利することになるといわれるが、私は「消費税廃止はれいわ新選組が政権をとらないと実現できない。そこまでは消費税上がっていくけどみんな我慢してほしい。それまで夢を見ようじゃないか」なんてことはいいたくない。将来的には廃止にする。しかしその前に第一段階として野党で力を合わせて5%にまで下げるということを実現したい。スローガンだけで終わりたくない。まずは5%に減税をして少しでも景気がよくなって少しでもみんなの生活を楽にするということを担保したい。しかしこれには野党が乗ってこないと難しい。乗ってこないのであれば単独でやるしかない。そうなると昔の政治と新しい政治の対決だ。もともと旧体制とのたたかいということで旗を揚げた。野党を名乗りながら国を切り売りすることに繋がるようなことを決めた、自民党と変わらない人もいる。しかし5%にできるのであれば、私たちは議席を伸ばせなくても、そういうことも全部飲み込んで協力する。それが政治が存在する理由だからだ。
「自民党を利する」とおっしゃるのなら、5%で野党が一致するようにみんなの力をお借りしたい。野党のおしりを叩いてほしい。緊急政策的に人人の命を救う、中小企業の命を救う、この国の経済を立て直すということに一番寄与できるのが消費税引き下げだと思っている。一番わかりやすいものを旗印にして政権交代を実現しなければ、万年野党でいるわけにはいかない。何回もいうが、私は民主党に対して不信感を持って政治の道に足を進めた。立候補したのは自民党政権になって民主党政権よりももっと大変なことになると思って立候補した。もともと政治なんか信じていない。政治は信じるものではない。監視するもの、コントロールするものだ。それは山本太郎も一緒だ。応援をしながらお尻を叩いていただきたい。
なんとしても次の選挙では政権交代に繋がるようなたたかいをしていきたい。だから消費税は下げるしかない。野党がかたまって勝てるのだったら、とっくの昔に勝ってるはずだ。野党共闘に幻想は持たない。野党が勝てなかったのは経済政策が弱かったからだ。人人にこの人に託したら自分の生活は楽になるという希望を見せたい。
https://www.chosyu-journal.jp/seijikeizai/13933
http://www.asyura2.com/20/reki4/msg/625.html#c9
九州ツアーをおこなっているれいわ新選組の山本太郎代表は24日に長崎市、25日に佐賀市文化交流プラザ交流センターでおしゃべり会を開催した。佐賀会場には約250人が集まり、参加者を交えて佐賀空港へのオスプレイ配備計画、原発問題、船員不足、保育問題、災害対応にいたる幅広い問題をめぐり論議となった。これらの論議を通じて山本代表は、地方財政や人人の生活を圧迫して政治的なコントロールを強める緊縮政策を批判し、消費税廃止を含む国による大胆な財政出動の必要性を訴え、政権交代に向けて力を結集することを呼びかけた。主な論議の内容を紹介する。
意見(男性) 今回れいわ新選組から参議院に2人当選された。趣旨はわかるが、活動できにくい人(障害者)を選んだ一番の理由を知りたい。
山本代表 役に立たなそうな人は生きていたらダメという空気感が漂っているのが今の日本だ。だが、今れいわ新選組で国会議員をやっている重度障害者の舩後議員、木村議員はとても生産性が高い。例えば木村さんは、これまでずっと施設収容だった障害者が地域で生活していくという権利を勝ち取ってきた人だ。私がまだ国会議員のときから木村さんと交流があり、厚労省に対して交渉をするという場にも何度も一緒に行っている。そのときに木村さんが省庁との交渉の間に立つ。もちろん当事者としても発言するし、厚労省側にも意見を求めたりとか、他の人を発言させたりという役割を担っていた。私はこの人国会議員になったらいいのにと何年も前からずっと思っていた。舩後さんはご自身の事業所で副社長をしている。ALSというのは筋肉がどんどん衰えて全身動かなくなる。ALSという境遇にありながら社長業をやられている方は他にもいる。
どうして活動しづらそうな人を国会に送るのかという話だが、活動しづらい人がいるのなら活動しやすくすればいい。そこを配慮するのは国会だ。それを合理的配慮という。日本は障害者の権利条約という世界との約束を結び、東京オリンピック、パラリンピックのホスト国でもある。そのような国が障害者施策がかなり遅れているというのは恥だ。そういう意味でも舩後さん、木村さんがなかに入ることによって合理的配慮を国会が進めていけばこれが地方議会でも進み、全国的にそのような扱いになっていく。弱者という言葉があるが、私は弱者なんていないと思っている。ただ支援がなされていなくて弱者という立場に追いやられているだけだ。誰しもが引き上げられたり必要なサポートを受けられれば、活動的に生きていける。
今は生産性で人間の価値が計られるような社会だ。何かしら利益を生み出さなければ認められないという社会だ。「生産性が自分にはある」ということを証明しなければ生きている価値がないと思われる世の中は地獄だ。自分が生産性が高いということアピールするためには他の人のことを平気で踏みつけなければならない。そんな社会になっている。生きるのが苦しいという人たちに対して、「あなたが頑張らなかったからじゃないの?」というような自己責任論がどんどん世の中に拡大している。これが行くところまで行くと、命の期限までも決められてしまうような世の中になるのではないかと私は思う。
例えば2016年6月、北海道小樽での自民党の集会で麻生太郎大臣が「90になって老後が心配とか、訳のわからないことを言っている人がテレビに出ていたけど、『お前いつまで生きているつもりだ』と思いながら見ていました」と発言している。理由は財政だ。圧迫されているという財政問題を入り口に人間の命の期限が決められる状態が将来的に来てもおかしくない状況だと思っている。だから生産性で人間の価値を計らせないということを社会の約束にしなければならない。でなければ次に切り捨てられるのは私かもしれないし、あなたかもしれない。しかしすでに毎年2万人をこえる人たちが自殺し、50万人をこえる人たちが自殺未遂をしている。過労死という言葉が世界で通じる。社会が狂っている。
オスプレイ容認を迫る地方財政圧迫
沖縄・普天間基地に駐機するオスプレイ
意見(男性) 佐賀は今、佐賀空港へのオスプレイ配備計画問題を抱えている。賛成派と反対派があるが、賛成派の方に聞くと「できたら財政が県の方でも潤うんじゃないか」という意見もある。オスプレイ配備についての山本さんの考えを知りたい。
山本 オスプレイについてよくいわれるのが未亡人製造器だ。私は自衛隊にとって必要な防衛装備品を買うなとはいわないが、アメリカとの関係において必要でないものまで無理矢理買わされているのが現状だ。佐賀にとってオスプレイが必要かどうかということなのだが、佐賀にオスプレイが入ってきたら財政はどれくらい変わるのか?
意見(女性) 国から年間5億円(着陸料)を20年間(合計100億円)といわれている。
山本 年間5億円が必要というのは、おそらく地方交付税が削られているからだろう。それでオスプレイに関する意見は佐賀では完全に割れているのか?
意見(女性) 割れるところまで議論が進んでいるとはいえない。すぐに市議会に特別委員会ができたが、ノリ生産日本一の有明海がどうなっていくのかという不安や、そもそも佐賀空港ができたときに自衛隊との共用はしないという公害防止協定を地元漁協と県が結んでいたのに、それを飛びこえて防衛省がやってきたことに対する怒りや不信がある。市議会も県議会も当事者の話も聞かないまま容認決議をしてしまった。住民への説明会も一部でしか開かれていない。市や県全体への説明もない。実際は佐世保の陸自相浦駐屯地と連動していくものであり、飛行範囲は北部九州全体なのに、市レベルでさえきちんとした議論をする場もないままに地元対策として5億円×20年間という話が出てきている。知事がそれでまとめようとしている。
山本 全体の問題なのに一地域に限定した説明会しかしていないというのは、原発と同じやり方だ。でも佐賀空港は自衛隊と共用しないという約束をしていたのに、それをなし崩し的に飛びこえてくるというのはひどい話だ。これに対してオスプレイを受け入れてもらえるものはもらっておいた方がいいのではないかという人はこのなかにいるか?
意見(男性) 建設会社を経営している。今の佐賀の建設業界には本当に仕事がない。それでお金が入ってくるのであれば、私たちはありがたい。オスプレイに反対する市民の方もいらっしゃるが、仕事がないというのは死活問題だ。
意見(男性) 確かに佐賀県はお金がなくて仕事もない。過去の歴史で、公共投資を「ハコから人へ」ということで削っていった。若い人が地方の建設業界に就職をしない。そしてもう一つわからないのが、オスプレイの危険性について科学的論議ではなく感情的な話ばかりだ。事故の起こらない機械というものはない。
山本 オスプレイは危険なのか? という話だが、オスプレイは高性能ではなく、米軍でさえ運用を敬遠しているというデータがある。米軍安全センターが公表している2010〜12年のアフガンでの海兵隊航空機運用状況では、オスプレイ運用率はヘリ機能を持つ6機種のうちで最低の1・02%。同期間のオスプレイ事故率は、戦闘機などを含めた12機種平均の事故率の約41倍だ。
ほかにオスプレイに対する専門家の否定的見解として、アメリカ国防研究所元主任分析官レックス・リボロ氏の報告書に「海兵隊の保有数250機のオスプレイの飛行時間は723時間。保有数150機のUH1Yヘリは1万6000時間以上」とあり、明らかに差がある。また「海兵隊は今後、給油のできない長距離飛行など、特別任務を除き、オスプレイの大半を退かせるのではないか」といっている。
いろいろ分けて考えなければいけない。今生活が苦しいから、目の前にバラまかれるお金をつかみとりたいと思わされる原因は何か。そこまでしんどくなっているのは、国から地方に交付されるお金が年年絞られているからだ。北海道でも毎年1割の交付金が削られ、基金を切り崩しているという話もあった。国が地方をコントロールしやくするためは、いつでも財政をギリギリの状態にさせておくことだ。カネを見せれば飛びついてくれる可能性があるからだ。
だが「20年で100億円」をぶら下げられて「しょうがないか」というのは健全な状態だろうか? ちゃんと自治体への地方交付金が配られたうえで、この件について判断を問うならわかるが、お金を絞り続け、カネをぶら下げて判断を迫るというのは汚いと思う。何よりも、そもそもの自衛隊と共用しないという約束をひっくり返されていることについて一番怒らなければいけないのではないか。佐賀の人たちが舐められているということだ。札束で顔を叩いたら約束違反も受け入れると思われている。
建設業が厳しいのは全国同じだ。この状況をつくったのは誰か? 民主党の仕分けだろうか? 違う。民主党は3年ほどしか政権を握っていない。一番首を絞めているのは自民党だ。建設業にかかわっている人人が一番怒らなければいけない相手だ。実態を見れば「仕事をいただいているので…」というのは関係性が逆転している。一番偉いのはこの国の有権者だ。だから建設業の団体は自民党側に対してもっとお金を出すようにお尻を叩くべきだ。
「公共事業は悪だ」という極端な人もいる。だが私はそうは思わない。「コンクリートから人へ」ではなく「コンクリートも人も」だ。なぜならコンクリートの耐用年数はどんどん迫ってきているからやりかえなければいけないインフラは多い。災害も毎年起こる。公共事業でやらなければいけないことは山ほどある。公共事業とひとまとめにして批判することはできない。
この国の公共事業を含めた公共投資を見ていきたい。政府がつくる道路などのインフラ整備、公団・公社がおこなう設備投資・住宅投資などを指す「公的固定資本形成」について1994年から2016年まで推移を見ると、消費税を5%に上げた橋本龍太郎政権の時代から小泉政権までの間に半減している。1996年に48兆円ほどあったものが、2007年には27兆円程度になった。10年間で21兆円の削減だ。これで成長するはずがない。投資がないのにリターンなどありえないのだ。
この間に中小零細でバタバタ倒れた人たちもいるし、今も苦しいという状況がずっと続いている。建設と自民党はべったりだといわれるが、その人たちでさえもこんな目にあっている。べったりじゃない人たちはもっとひどい目にあっている。まずはここを怒らないといけない。なぜなら公共事業は雇用を生む。「人や車の通りが少ない道路をつくるな」という話ではない。どこに住んでいたとしても国の責任として移動する権利、アクセスは守られなければならない。「公共事業けしからん」というような話の延長線上に水道民営化みたいな話もぶら下がってくる。命を脅かすことにも繋がっていく。雇用が守られ、関連会社などいろんな所にお金が落ちて一番成長が目に見えてわかりやすいのが建設だ。民主党政権時代の事業仕分けでは、3兆円程度しか減らしていない。もっと大胆に減らしてこの国の成長を止めたのが自民党だ。
新自由主義政策はレーガン、サッチャー、中曽根の時代にスタートし、国営企業を民営化し、労働組合をどんどん壊していって「生産性向上」という話の下に賃金をどんどん安くしていった。企業がもうける道として、賃金をどんどんカットしていくことが一番早い。賃金が下がるに従ってみんなどんどん貧乏になっていった。そのことに加え、国による投資もどんどんケチりはじめる。世界一のドケチ国家だ。例え投資をしても、その間にみんなから金を抜き取るような増税をすれば貧乏になるに決まっている。
国が人人に投資をするしかない。地方に対しても同じだ。お金を刷れない地方自治体は、手持ちの財源以外は使えない。これは家計に近いものがある。だが国は円を発行できる。お金がないのであれば、投資する量を増やすしかない。
オスプレイ問題を考えるうえでも、ここまで仕事がなくなっている窮状を生み出したのは誰なのか、ということをもう一度見つめ直さなければいけない。国内みんなの生活をボロボロにしたのは誰なのか。「痛みをともなう改革」といってその改革後に何が残ったのか。痛みしか残っていない。改革の提案者たちは何も痛んでいない。政治的な決定によってみなさんがどんどん貧しくさせられていることに目を向けなければいけない。でなければすべて場当たり的な対応になる。「しょうがないじゃないか、今苦しいんだからもらえるものはもらっておけ」と、過去の約束さえも市民側から反故にしていくような状況にしてしまったら無茶苦茶だ。
そのためにはどうすればいいのか。政権交代する以外ない。野党のなかにも緊縮のドケチ路線を貫こうとしている人たちもいる。でもそれでは無理だというメッセージを伝える必要がある。20年以上も世界に類を見ないような間抜けな経済政策を続けて、多くの方々を貧乏にさせたというこの現実と向き合うならば生活は底上げされなければならない。それが残念ながら「自己責任でよろしく」「自助自立」などと平気でいう政治家がいる。それなら税金で食べてるんじゃないよという話だ。
オスプレイを受け入れたらお金をもらえるかもしれないが、そこに乗っかってしまうと次から次に押しつけられる。逆にもう政治のコントロール権を取り戻すというときにきていると思う。首を絞められることに甘んじるのではなく、政治をみんなで変えていった方がいいのではないかと思う。
原発は最大の経済非効率
意見(男性) 私は商船の船長職をつとめている。原発のMOX燃料(再処理したプルトニウム混合燃料)を運ぶのは70bくらいの貨物船で2カ月に1回燃料を運ぶだけでいい。しかし火力発電の燃料を運ぶためには長さ110bの船で月に3回から4回と手間がかかる。ロジスティックス(物流)の部分で、事故前までは原発に利があった。だが事故後もまだ原発を動かそうとしている為政者がいる。だからロジスティックスという小さな部分から原発を廃止する政策を積み上げてほしい。
山本 燃料輸送する回数と原発による損失を比較してほしい。例えば土木学会はこの20年間くらいに起こる南海トラフ地震などによる経済的損失は1400兆円という試算を出しているが、これほどの災害に原発は耐えられるだろうか。さらに首都圏直下、東海地震も予測されるなかで原発の安全性を担保することなど不可能だ。
意見(男性) 私が最近まで乗っていた船は、船長の私が51歳でその後の人材がいない。次の世代が20代だ。もうギリギリの状態で油を運んでいる。そして私は25歳で船員になり、今まで国政選挙に投票したのは一回だ。地方選挙でも一回しかない。多くの船員は政治に参加することもできない。声も上げられない。洋上の投票は日本海員組合に組織されている船が船長の管理下のもとで投票できる権利であって、投票の秘密を保持するのがむずかしい。私も船長の権限で投票できなかったこともあった。私たちの労働条件というのは船員法、船員労働安全衛生規則というような海の法律で規制されているため、労働審判などの陸の労働者が受けられる権利をほぼ受けることができない。ぜひこの状況を改善していただきたい。
山本 まず物流現場において人員が足りないという話は、原発の是非をめぐる論議には絡まない。人が足りないのなら処遇を改善し、国が投資して仕事に就きやすい魅力的な部分を膨らませていくことしかない。
原発は事故を起こしても誰も責任を取らない。現に誰も逮捕されないし、それどころか天下りしている。一方、被害者への補償はこの先どんどん細り、同心円で区切られた避難区域もどんどん小さくしていって最終的に「なかったこと」にする方向だ。被害規模が大きすぎて誰かが責任がとれる類いのものではないのだ。だから原発の是非と、燃料を運ぶための人員の確保というのは分けて考えるべき質の問題だ。船による輸送、船員の権利をどう守るかという問題はそれとして考えなければいけない。日本の物流において船員確保は重要問題であるのだから、人が集まらないのなら公務員並みの処遇にするくらいの投資を国がすべきだ。船員の投票の秘密を確保するためにネットによる投票システムを導入することも議論の余地があるかもしれない。
意見(男性) 原発推進論者は「原発は火力に比べて燃料を運ぶ回数が少ないから効率的だ」と主張する。確かにMOX燃料を運ぶ船は一般の輸送船よりも条件がよく、手取り月70万円くらいもらえる。こんな状況では原発をやめるという道筋が見えてこない。
山本 原発をやめるという選択を政治にさせるというだけの話だ。原発やめるには、それ以外にない。原発を動かしてくれというのは原発関連から票をもらっている議員だけだ。船員たちの権利を確保するためにも政治を動かす以外にない。
少子化解決する気がない政府
意見(女性) 私は保育士だったが、妊娠してからやめた。妊娠後、子どもにすごくお金がかかると感じた。妊娠したときに医療費はそんなにかからなかったが、生まれてからいろいろ出費が重なるようになった。私は母乳で育てているのでよく乳腺炎になるが、助産師さんに見てもうらうと保険外で医療費がかなりかかった。乳腺炎が治ってからも妊娠して骨盤が開いたのか腰が悪くなって、整骨院にいったら保険外でまたお金がかかった。
いま子どもを保育園か幼稚園に預けようかと考えている。保育無償化がはじまっているが、ゼロ歳〜1、2歳児の保育料が一番高いにもかかわらず、無償化の対象は3歳からだ。私の娘はもうすぐ2歳だから無償化の対象外だ。3歳からも保育料は無料でも、副食費などがかかるので無償化というよりも割引程度だ。消費税も10%に上がり、新しく走行税とか炭素税とか水道民営化などの話が出てきている。なぜこんなに税金を払わなければならないのかわからない。税金を本当にちゃんと使っているのかと思う。
山本 保育無償化は、はじめから消費税増税ありきだった。消費税が上げられないのなら無償化もやらないというものだ。少子化が「国難」であるならば、増税に関係なく無償化しなければならない。保育にかかわる方々の処遇を変え、そして子どもを育てるということに対して国が面倒を見ていくということだ。
今の状況は子どもを育てにくい。家の中でパートナーのどちらかが働けば食べていけるという状況はほぼない。両親一緒に働かなければならない。働くことを前提で子どもを育てる。だからその育てるという部分に関して国が大きく手を差し延べなければならない。
無償化だから保育園に預けようとしても枠が限定されているから、受けられる人は限られる。そこに対して改善していくべきは保育士の処遇だ。全産業平均で100万円以上給料が安いのでは安心して働けない。だから資格は持っているけど働けませんという人がたくさんいる。介護の世界も同じだ。ここに対して安定した処遇を与えるしかない。私は公務員化するしかないと思っている。高齢化が加速し、少子化が国難であるのだから、介護士も保育士も安定した状況に身を置いてもらわなければみんなが困る。
この二つの職に限定した話ではない。先ほどの船員不足の問題でも、本当にそこが危機的状況になるのであれば公務員化していいと思う。あまりにも不安定な働き方が増えすぎているのだ。一体誰のために不安定な働き方を広げるのかというと、雇う側のためだ。企業が安く人を雇いたいために非正規などの形を増やした。働く人たちにとっては半年後、1年後の自分の状態さえイメージできない。こんな状態で将来設計など無理だ。職を失った途端に寮まで出された人たちは住まいすらも失う。
とくにロストジェネレーション世代(35〜45歳)は、安定した職についてもらうべきだ。国が緊縮で投資をしてこなかった世代が、やはり不安定な労働をしている。1997年、橋本龍太郎首相のときに消費税が5%に上がった。翌年から通貨危機もともなって本格的にデフレ突入した。大混乱だ。就職氷河期で大学を出ても職に就けない。最初に就いた職がアルバイト・非正規。そこからはなかなか正規になれない。今でもそのときの賃金と変わらないような状況で推移しているという人たちがいっぱいいいる。やがてこの世代が高齢者になる。老後に備えられる状況にいまからでもしなければならない。
保育もゼロ歳から無償化しなければいけない。そうでなければ働けないし、食べていけない。食べていけなければ子ども作ることなど無理だ。本人が望めば家族を作ることがかなう世の中にしなければ少子化が解決するわけがない。
デフレ時には大胆な国債発行が可能
山本 消費税廃止や555万人の奨学金をチャラにするとかいろんなことをいっているが、そのための財源をどうするのか。
「景気がいい」とは経済成長している状態のことをいう。経済成長とは経済規模が大きくならなければならない。経済規模の指標であるGDP(国内総生産)とは、個人消費+民間投資+政府支出+純輸出だ。このうち経済規模が大きくなるための一番大きなエンジンは、GDPの6割を占めている個人消費だ。
みんながお金を使えるようにしなければ景気はよくなりようがない。いまは将来が不安だから貯めたり、そもそも出すお金がない状態だ。消費が弱っているのだから企業は投資をしない。そこで政府も投資をせず、増税をしているから余計にお金が回らないのだ。
みんながもっとお金を使いやすくするには、物価を下げればいい。消費税で強制的に物価を引き上げたが、賃金は下がっている。当然、その逆に消費税をやめたらみんなは景気がよくなると共通のイメージを持つ。そうすると企業側も投資を考え始める。需要が高まれば今のままの従業員の数では対応できないし、設備投資も考えるようにもなる。政府が国民に支出しなければならない。従業員をいい処遇で雇用する企業には減税したり、設備投資をする企業に対しても減税をするなど、とにかくお金を使った方が得だという状況を見せていく。この状況を作り出すためには消費税廃止が一番いいと私は思っている。
消費税10%から廃止にするとおそらく25、6兆円の財源が必要になる。「25、6兆円が失われる」と考える人もいるかもしれないが、逆にいえな政府からみんなに25、6兆円の財政出動がおこなわれることを意味する。これでまず中小零細企業が救われると思う。この国に存在する企業の99%が中小零細企業だ。そして税の滞納のうち消費税が6割だ。中小零細の首が絞められている。これを解かなければならない。
25、6兆円を確保する方法は2つある。一つは税金から、もう一つは新規国債の発行だ。必ずしもすべて税金で確保するべきだとは思っていないが、税金でやる場合は金持ちから先にとるのが基本だ。ないところからではなく、あるところから取る。大企業の優遇をやめる。金融資産の分離課税もやめる。所得税の累進制強化と法人税の累進化等で合計最大29兆円の財源が確保できるという試算もある。
国債は政府の借金であり、国債を財源にしたら「国が破たんする」とよくテレビでいっている。だが、30年前から破たんするといわれてきたが、この20年間、日本国債の金利は短期ものも長期ものも下がり続けている。破たん寸前ならば、返済が滞るリスクがあるため国債の金利は上昇するはずだ。だが、いまは10年ものでもマイナス0・15だ。破たんなどありえない。さらに日本円で借金して日本円で返済するのだから、日本円を発行する能力があるのになぜお金が払えなくなるのか? なるはずがない。ギリシャは独自通貨を発行できないから返済が滞った。
当然インフレが行きすぎることは注意が必要だ。米ケイトー研究所の調査によると、世界史上に56件あるハイパーインフレの事例は3つの共通事項をもっている。@大きな戦争で生産能力が破壊され、かつその再建に国際社会が非協力的な場合、A大革命が生じてこれまでの通貨体制が無効に成るような事態が発生した場合、B何十年も二桁台のインフレが続き、国内産業の未来が絶望的である場合だ。日本の現状はこのどれにも当てはまらない。そもそも政府の借金=民間の資産だ。日銀の統計でも政府の赤字が膨らんだときに民間の黒字が増すことがはっきりしている。「破たんするから増税します」というようなDV国家を変えなければ、もうこの国に生きている人たちがもうもたないところまで来ている。
放置される豪雨災害の復旧
山本 今日は8月の豪雨で被害を受けた武雄市に行ってきた。どうして今武雄に行くのかというと一番重要だからだ。今千葉や福島、宮城も長野も大変なことになっているが、必ず武雄が通った道を通ることになる。一番は生活再建の課題だ。これからゴミ問題もたくさん出てくる。膨大なゴミをどこに置き、どう処理するのか。水害だから家の床板を全部剥がして泥を全部かいて、乾かして、消毒して新たに床板を乗せなければならない。30aとか50aも浸水が入ってきても半壊扱いだ。半壊家屋には54万円とか58万円くらいしか補助金は出ない。だが見積もりすると数百万単位だ。家によっては1500万円かかるといわれた。お金ある人しかちゃんとした生活環境を復旧できない。それ以外の人は2階に住むしかない。床板を外すとしても職人さんも半年待ちの状態だ。絶望的だ。どうしていいかわからない、先のことなんて考えられないという人たちが台風被害によってこれからどんどん増えていく。
そこに対して一番やらないといけないことはお金を出す以外にない。金を出して人を集めてそこにもお金を払ってみんなで一斉にやるしかない。復旧、復興をいかに短時間でやることができるかが、この国の経済に対しても鍵を握ることになる。いま多くの地域でたいへんなことになっている。8月に被害を受けた武雄でさえこの状態だ。住民の方は「戦闘機とか買ってる場合じゃないんですけどね…」と冷静にいわれていた。
こんな政治は終わりにしないといけない。私は民主党政権の原発対応に怒りをもって政治の世界に足を踏み入れた人間だ。だが、自民党が政権を取るときにもっとひどくなると思って立候補した。そんな自分でさえも災害対応は民主党の方がまだ心があったと感じる。例えば3・11東日本大震災の直後は国会の予算審議を6日間止めて災害対応に集中した。いまの政権は西日本の豪雨災害の真っ最中に、カジノ解禁法案を通したいがためにカジノの審議をスタートさせた。カジノなんかなくてもみんな困らない。困るのは日本の金を吸い取ろうとしているアメリカの業者と、そこからパーティー券などを買ってもらっている議員だけだ。この国に生きている人たちに対して愛がないのだ。今全国の災害被災地に対してマンパワーと金を投入していかに短時間に復旧・復興がなされるかということがこの国の命運を握っている。数千万、数百万円の見積もりに対して、50数万円でなにができるのか。
ここまで政治によってめちゃくちゃに生活が壊されてきた。しかしそれをひっくり返せるのも政治だ。だから私たちは政権をとりにいく。消費税廃止をいいつづけてじわじわ勢力を伸ばしてくこともできるかもしれないが、私は多くの人人の窮状を見てまずは消費税5%に下げることを緊急的に実現させなければならないと思う。そのために私は野党のみなさんと塊になって「消費税5%」という旗をたてて次の選挙をたたかうことが政権交代の一番の近道だと思っている。ただ塊になるだけでは勝てない。現実にこれまで勝てていない。消費税を下げるという多くの人が自分のこととして受け止められる政策を掲げるべきだ。力を貸してほしい。野党のお尻を叩いてほしい。みなさんの力を集めて政権交代をしていきたい。
先ほど武雄に行ってきたが、この日集まったボランティアは十数人だとう。圧倒的に人が足りていない。現地には焦りがある。もうすぐ冬が来るからだ。家の一階がスカスカの状態で冬を迎えることは非常に過酷だ。ボランティアが30人ほしいといっていた。ほとんどが県外からやってきている状況だ。もし時間が許すのであれば、周りの人にも声をかけてボランティアに行ってほしい。社協とは別に地元の方がやっている「おもやいボランティアセンター」が大募集している。本当は国が早くお金を出して人件費を確保し、大工さんを集めなければならないのだが、大工さんも半年待ちだ。オリンピックという企業の祭典をやっている場合ではないのだ。だが国がお金を出して一斉に復興させようという政権ではないので、一人一人ができる範囲で力を出してなんとか改善していかなければいけない。ぜひ力を貸してもらえる方に支援をお願いしたい。
https://www.chosyu-journal.jp/seijikeizai/13867
http://www.asyura2.com/20/reki4/msg/625.html#c10
横に繋がって政治変える
九州ツアーを展開中のれいわ新選組・山本太郎代表は、16日に熊本市の熊本パルコ前、18日には鹿児島市の天文館アーケードで街頭記者会見をおこなった。いずれの会場でもアーケードを埋めるほどの聴衆が詰めかけた。仕事帰りに足を止める現役世代や下校中の高校生の姿もあり、そのまま立ち去ることなく最後まで真剣に聞き入る姿が目立った。演説は市民からの質問や意見に山本代表が答える対話形式でおこなわれ、消費増税や社会保障、働き方改革、少子化問題など市民生活に身近な問題をテーマに、一部の大企業の代理政治がまかり通る現状を変えるため市民が横に繋がって力を結集することを呼びかけた。熊本、鹿児島での演説を抜粋して紹介する。
◇ 熊 本 ◇
山本代表 あまりにも今の社会は生きづらい。生産性で人間の価値がはかられ、役に立っているのかいないのかで人間の価値が線引きされる。1年間で自殺する人の数は現在2万1000人近い。戦争も紛争もない日本で毎年2万人をこえる人人が追い詰められ命を絶っている。自殺未遂は50万人をこえている。カウントされた件だけでこれだけある。死にたくなるような社会を変えたい。生きていてよかったと思える社会をつくりたい。
現在の政治でもっとも疲弊させられてきたのは地方都市だ。本当に地方に住んでいるから物価が安いだろうか。コンビニで売っているものは東京で買っても同じ。全国にチェーン展開されている店で買う物はみな同じだ。地方で暮らすには車も必要になる。こうしたコストが必要となるなかで生活を安定させるのは至難の業だ。どんどん格差が開き、TPPや日米FTAのように生産者の首を絞めるような貿易協定が次次に進められている。
これまで進められてきた間違った政策を一つずつ変えていかなければ地方はさらに衰退する。変えるためには力が必要だ。だからこそあなたと繋がりたい。
意見(男性) 熊本では増税後、あちこちバスターミナルや商業施設のフードコートなど人が集まる場所で明らかに客足が減り、非常に危機感をもっている。私はある宗教団体の元信者だが、財源がないなら無課税の宗教法人に課税してもいいのではないか。
山本 宗教に課税してもそこまで税収は得られない。それは喫緊の課題ではない。その前に、もっと世の中にお金が回る仕組みをつくらないといけない。
2014年4月、消費税を5%から8%に上げるとき、安倍政府は「消費税率の引き上げ分は、全額、社会保障の充実と安定化に使う」(政府広報)といっていた。
本当はどうなったのか? 内閣官房のデータで、3%増税分を何に使ったかがわかる。2015年からは3%分で8兆円の財源を担保することができた。だが、それ以降の2017年までの間、社会保障の充実に充てられたのは1・35兆円。わずか16%だ。
残り84%は何に使ったのか内訳を出してくれと問い合わせると「統計をとっていない」という。基礎年金国庫負担割合を2分の1にするという使い方もしていたが、「後代へのつけまわし軽減」という内容不明な使われ方もしていた。これについて安倍総理自身が今年1月28日の施政方針演説で「増税分の5分の4(80%)を借金返しに充てていた」と答えた。
消費に対して罰金をかけ、ただでさえ世の中にお金が回っていないのに無理矢理お金を引き抜き、借金返済に充てたことでお金の存在を消してしまったのだ。より景気が悪くなるのは当然だ。税金をいくら取ったとしても、その使い道によっては最悪の結果が導き出されるということだ。消費税であろうと、宗教課税であろうと同じだ。本当はあちこちから税金を搾りとらなければならないという局面ではない。
意見(女性) 日本は海外に対して1000兆円の借金があり、国民一人あたりに800万円もの借金があるといわれている。だが、実際にはそうではないと思うのだが、なぜそんな嘘をつくのか。
山本 嘘をつく方方の精神状況までわからないが、嘘をつかなければやっていけないのだろう。この借金をめぐっても財務省の洗脳がある。「政府の借金が1000兆円をこえ、国民一人あたり900万円」というが、あなたが勤めている会社の借金を社員一人あたりいくらという計算の仕方をするだろうか? それぐらい不自然な話だ。
日本の借金は外国からのものではない。国債発行額は2017年12月に1093兆円。国債保有者のうち88・8%は国内だ。海外にはわずか11・2%しかない。
90%近い国内に負っている借金(国債)の元出はなにか。みなさんが銀行に預けたお金ではない。よく勘違いされやすいのだが、これは大きな間違いだ。みなさんから集めた資金で国債をやりとりしているわけではなく、日本銀行の中にあるそれぞれの銀行の当座預金から数字としてのお金が出入りしているだけなのだ。政府と民間の収支バランスを見ると、政府の赤字が増えるとき、民間の黒字が増えていることがわかる。政府が借金することによってお金が生まれ、それが民間の資産になっているのだ。
もしも1000兆円の政府の借金をすべて返済すればなにが起こるか? 世の中に流通するお金のほとんどが消えてしまう。政府がいう「国の借金が1000兆円あり、国民一人あたり900万円だから、増税します」という話にだまされないでほしい。
借金でお金の量を増やしても、お金が世の中に回る政策はほとんどしてこなかったのだ。これを理解していなければ、アベノミクスを批判する理由にもならない。
だからこそ経済に興味を持って、みんなでお金のあり方について議論しなければ政治や官僚、企業側には勝てない。このままでは搾取され続けるだけだ。
厚労省の国民生活基礎調査では、国民全体の57・7%、母子世帯の82・7%が生活が苦しいと答えている。20年以上のデフレによって国民生活はどん底まできている。デフレから脱却するなら、さっさとカネを出せという話だ。日銀調べの年齢別一人暮らしの貯蓄ゼロ世帯の割合は、20歳代で61・0%、30歳代で40・4%、40歳代で45・9%、50歳代で43・0%。みんなボロボロだ。小泉、竹中の時代に国が財政を絞ってロストジェネレーションを生み出した。本来ならば国がお金を出して第三次ベビーブームをつくり出さなければならなかった。50年前から少子化になるといわれていたのに、何の手も打たず、誰一人政治家は腹を切らない。現役世代に対してできる限りの救援をおこなう政策をしなければならない。
少子化解決するために
山本 少子化を解決するためには、重要なポイントが三つある。
一つ目は教育。本人やその家族に負担がかからないようにする。日本では奨学金で大学生が社会に出るときまでに300万〜400万円の借金を背負っている。それで社会に出て少ない賃金でどうやって生活していけるのか。自分一人生活するのに精一杯で家族など持てない。借金をしていることが結婚できない理由の一つになっている。パートナーも同じ状態なら、家族をつくろうなんて考えられない。
OECD加盟国のなかの、教育機関に対する公的支出(対GDP比)を見てみる。ここでは経済規模に対して、教育にどれだけお金を出しているかということが分かる。
各国平均4・14%の支出に対して日本は2・93%。先進国グループのなかで最下位だ。奨学金で借金を背負わせるだけでなく、利息まで払わされるのだからこうなるのは当然だ。その利息は年間350億円にもなり、金融機関の懐に入る。この350億円を差し上げるために、みんなの首を絞める。若い人たちも食い物にされている。
高等教育機関への公的支出(対GDP比)を見てみる。経済規模に対して大学や大学院にどれだけお金を出しているかということがわかる。ここでも日本は最下位で、北欧諸国の3分の1だ。教育にかかるお金を家計で負担しなければいけないのだから、みんなが貧しくなって使えるお金がなくなるのは当然だ。
二つ目は住宅問題だ。安定した住まいを確保するには公的住宅が必要だ。本人が望めば安い家賃もしくは無料で住まいを確保できるようにしなければ少子化は克服できない。住居の問題は都市部でとくに深刻だ。
東京都が2018年1月に「ネットカフェ難民実態調査」をおこなった。ネットカフェ宿泊客のなかで住み家がない人は25・8%(約4000人)もいた。ネットカフェなら敷金・礼金・保証金も必要ない。家賃なら払えるが初期投資ができない人たちの逃げ場がネットカフェになっている。
また、この住み家がない人たちの76%は非正規労働者だった。不安定な労働者を大量に生み出した結果、住まいも確保できない状況を大量につくり出してしまった。いつ首を切られるかもわからない働き方のなかで、半年、1年後の自分の状態すら想像できない。非正規労働者が増えるきっかけをつくった元凶こそ政治だ。これに対して政治が責任を負わなくていいはずがない。
三つ目のポイントは消費税の廃止だ。消費税が3%上がっただけで、年間の個人消費が8兆円も落ち込んだ。誰かの消費は誰かの所得。つまり8兆円の所得が失われたということだと私は考える。この逆をおこなえば景気がよくなるということは誰もが予測できるだろう。景気回復が予測できれば、企業側も従業員の確保や設備投資をするだろう。
かわりの財源は法人税に累進制を導入し、もうかっている所から多くとり、もうかっていない所の税率は低くする。今は法人税率は一律で、大企業には80以上もの抜け穴がある。これを廃止して、所得税の最高税率を上げることで29兆円もの財政を確保することができるとの試算もある。
また、新規国債の発行も視野に入れている。消費税廃止に必要な財源をすべて新規国債の発行によってまかなった場合でも、国が定めるインフレ率の上限2%にも到達しない。また消費税を廃止した場合、一人あたりの年間賃金が6年目には44万円上昇する。参議院調査情報担当室の試算だ。今足らないのはお金であり、国が国民を思う気持ちだ。
意見(女性) 私は今40代だ。20代で離婚し、一人で子どもを育ててきた。元配偶者からもらった養育費は一度きりの1万5000円だけだ。それからずっと貧乏だ。子育てが終わる頃に難病を煩った。今は最低保障の障害年金と足りない部分は生活保護でまかなっている。今回増税にともなって障害年金受給者への給付金が出たが、生活保護をもらっている場合は給付金がまるごと引かれる。今回の増税で介護タクシーも増税分以上の値上げになった。社会保障を充実させるといいながら、実際は削られ続けている。このままでは未来はない。弱者の未来を救ってほしい。
山本 生活保護を受けることに対して恥の概念のようなものが植え付けられている。これは大きな間違いであり、胸を張って受けてほしい。すべてを失うことが前提でなければ生活保護を受けられないということは、そこから立ち上がるためにさらに多くの時間が必要になるからだ。少し困ったときに頼ることができる制度をつくっていきたい。
生活保護は「水際作戦」などといわれ、なるべく受けさせないようにされている。これには役所の財政事情もかかわっている。それによって餓死者も出ている。
「生活保護を受けて朝から晩まで酒を飲んで…」という人もいるが、1カ月間朝から晩までお酒を飲み続けられるようなお金を生活保護では得られない。「パチンコに行くのは許されない」という人もいる。お金の管理がきちんとできるかできないかというのは別の話であって指導も必要だろうが、基本的にお金の使い道はその人の権利だ。
日本は世界一のドケチ国家だといえる。1997年〜2006年までの政府支出の伸び率は世界でも最低水準だ。国が人人に対して全然投資をしていないからデフレから脱却できない。収入の少ない人ほど収入の大半を消費に使う。使わなければ生活できないからだ。生活が厳しい人にお金を投入することは、もっとも経済活動に寄与するということだ。一人でも多くの人が消費を増やす状況をつくらなければならないのに、必要とされることと真逆をいっている。殺しにきている。
政府は生活保護費の見直しを進めており、食費や光熱費などに充てる「生活扶助」を2018年10月から2年間かけて段階的に引き下げ、最大5%、約160億円削減する。
また2013年8月からの生活保護の基準改定でも平均6・5%、総額670億円減額されている。生活保護を受けている人から見たらどれほどの打撃だろうか。生活保護受給者のほとんどが不正受給だという印象をつくったのは自民党だが、不正受給は全体のわずか1・8%であり、98%は正当な受給者だ。人間の命にかかわるセーフティーネットをこんな扱いにした人たちを私は許さない。国はなにも責任をとらないし、国民をコストとしか見ていない。
バブル崩壊直後と平成29年度の労災の請求件数の比較を見てみる。平成3年度は557件であったのに対し、平成29年度は2572件と桁違いに増えている。あくまで労災を請求できた人の数だ。請求できなかった人の方が多いはずだ。
精神障害の労災補償請求件数を比べると平成3年度は2件だったが、平成29年度は1732件だ。働く人はもはや部品だ。奴隷のようにギリギリ生かしておく環境さえない。倒れようが死のうがかわりはいくらでもいるんだという考え方で話が進んでいる。完全に世の中が壊れている。生活保護が必要となる人人はこれからどんどん増えていくだろう。仕事に殺されるような状況をつくっているなかで、精神を破壊され社会復帰ができなくなる人はたくさんいる。現在の政府がそんな人たちを救うだろうか。この状況をみんなで認識してなんとか変えなければいけない。
3割の得票動かして権力握る大企業
みんなが貧困化する地獄のような世の中で、大企業は過去最高益をたたき出している。企業の内部留保は2012年から2017年までの間に46・7%も増えている。この数年の間に自分の収入が46・7%も増えたという人がいるだろうか?
私は企業の内部留保に手を突っ込んでみんなにばらまくなんてことはしない。彼らはろくでもないことをしているが、合法的に政治を動かして自分たちに大減税してもらえるような社会を実現したのだ。企業がこれだけ内部留保を溜め込んでいる理由は二つある。一つは減税してもらってもうけをより多くしたり労働環境を破壊して労働者を安く使えるようにしたからだ。もう一つの理由は「溜め込む以外に方法がない」ということだ。モノが売れない。この先も少子化は加速するのに、この国に投資してもリターンは見込めない。だとすれば企業が投資せざるをえないような成長戦略を国が提案する必要がある。
経団連は提言という名の命令で、自分たちのもうけに繋がるさまざまなことを実現させてきた。たとえば武器輸出。日本は武器輸出三原則によって兵器の国際共同開発には参加できず、いわば技術的な鎖国状態に陥っている。そこで、武器の開発は国に資金を出させて、つくった武器を国に買わせている。開発して売れば、使わなければならない。これでサイクルが完成だ。
そこで、集団的自衛権を提言した。なぜ経済団体が集団的自衛権を望む必要があるのか。また集団的自衛権を実現させるには憲法を改正しなければならない。そこで、憲法改正まで提言に盛り込んでいる。つまり武器輸出、集団的自衛権、憲法改正の三つがセットになって動かなければ、軍需市場を広げたい経団連にとってのうまみが増さないのだ。提案し、政策にさせて自分たちがもうけるというサイクルをずっとくり返している。
経団連をはじめとする大企業は、有権者のわずか3割の力で代理人を国会に送り、政権をとらせて自分たちにプラスになる政策を一生懸命やってきたのだ。権力を持てば自分のお世話になった企業にだけ大減税することだってできるし、自分のお世話になった企業のために人人の働き方を壊すことだってできる。
自分の奥さんの友達の学校経営者に国有地をただ同然で差し上げることだってできるし、自分の親友に獣医学部をつくらせることだってできる。だとするならば、違う形で権力を使おうではないか。次は私たちの番だ。50%が投票に行っていないのだからその人たちとゆるく繋がっていこう。そうすることで消費税はやめられるし、働く人たちの権利も確立できる。政府が保障することで最低賃金を全国一律1500円にすることもできる。それが政治だ。それが権力だ。
◇ 鹿児島 ◇
意見(男性) 日米地位協定を変える必要があると思う。国防についてどういう考えを持っているのか。
日米地位協定について
山本 日米地位協定について考えるなら、まず日本の独立という問題を考えなければならない。「日本は独立しているじゃないか」という人もいるかもしれないが、それは大きな間違いだ。日本は常にアメリカ様の「ご意向」に国内の政策が左右されている。
わかりやすい例のなかに、日本の空の問題がある。首都圏上空には、1都8県にまたがって米軍横田基地が航空管制権を握る「横田ラプコン」がある。日本の空は日本のものであるはずなのに、それを仕切っているのは米軍なのだ。だから民間機は、羽田空港を離陸直後に横田ラプコンを避けるために急上昇しなければならない。これほど広大な空をアメリカに握られている国は世界に例がない。米軍が自分たちの演習をしやすいように占有している。返してもらわなければならない。
アメリカに握られているのは航空管制権だけではない。アメリカが望めば日本のどこにでも米軍基地をつくることができる。外国の軍隊が他国に自分たちが思うように基地をつくることができるルールなど世界のどこにもない。なぜ日本だけにあるのか。植民地化が成功したのは日本だけだからだ。日本はアメリカの植民地でしかない。
そこから独立するためには日米地位協定の改定が必要だし、少なくとも対等な付き合いをしていかなければならないのに、そうなっていない。
北方領土問題について安倍首相は「必ず終止符を打つ」といってロシアのプーチン氏と二十数回にわたって会談を続けてきたが、結局はカネだけ吸いとられて領土は返ってこない。昨年の11月、プーチン大統領は、ロシア側が北方領土を日本に引き渡す場合、日米の首脳間でアメリカ軍の基地を置かないことを約束するよう釘を刺された。つまり、日本国内の問題であるにもかかわらず、国のトップが物事を決めることができない。アメリカ経由で話をまとめなければ外国から信用されない状態になっている。これが独立国と呼べるか。日本が独立国として自分たちのことは自分たちで決められるようにならなければならない。それが主権国家というものだ。
安倍首相のおじいさん(岸信介)が旧安保条約を改定し、新安保条約にし、日米行政協定を日米地位協定へと改めた。「独立する」「主権国家になる」といいながら占領状態の継続を約束した。おじいさんがやらかしたことは、あなたの代で決着をつけてくれといいたい。どこが「戦後レジームからの脱却」だ。
日米地位協定を変えたその先はどうするのか。日本は自主防衛できる状態にしなければならない。日本は今でさえ、世界の中でも指折りの防衛装備を保持している。アメリカの軍事力評価機関が公表した「グローバル・ファイヤーパワー」の2018年軍事力ランキングでは、世界136カ国のうち、日本の軍事力指数は8位だ。軍備を維持することは必要かもしれないが、現状はアメリカから買わされ、さらに調達しても途中で値段が変わって高値になる。買った戦闘機の機密情報ももらえず、ただ買わされている。日本の自主独立のためには専守防衛は絶対的に確保しなければならない。ただし、自衛隊は、日本の領空・海から出ない形で運用されることを前提にするべきだ。
もう一つ、安全保障上必要なのは、世界中に「恩を売る」ことだ。自衛隊の災害対応は、多くの被災地で強烈な印象を残し、感謝されている。その力を日本だけでなく世界で災害が起きたときに真っ先に駆けつけるために使う。これが実現できれば、もし日本側に不穏な動きをする国があったとしたら世界中から非難の声が上がる状況をつくることができる。アメリカの二軍として世界戦略に利用されるのではなく、あくまでも防衛に特化し、それ以外は災害対応で世界の役に立っていってほしいと思う。
食の安全は重要テーマ
意見(男性) アメリカで生まれている子どもの3人に1人が自閉症で、その原因は遺伝子組み換え食品などだという調査がある。輸入が増えれば、日本でも影響が出てくるのではないか。
山本 「食の安全」は、もっとも重要なテーマの一つだ。この国の人人が健康に生きていくうえで食べ物は大きな存在だ。残留農薬や遺伝子組み換えに対して厳しい基準をもうけることは重要だ。
少なくともヨーロッパがもうけている基準に寄せていくことが正しいと思う。遺伝子組み換え食品と健康との因果関係がはっきり出ていない現状では予防原則に立つ以外にない。安全か危険かはっきりしていないものに対しては「危険かもしれない」という立場に立って物事を考えていく以外に人の命は守れない。
だが、今はそうなっていない。TPPや日米FTAなどを進めて、アメリカでさえクリアできていない食品を日本で受け入れなければならなくなる可能性がある。現時点で自由化は行きすぎているし、これ以上進めるべきではない。TPPからは離脱するべきだ。世界との条約や協定から抜けることは非難を浴びることかもしれないが、人人の健康を守ることが最優先だ。アメリカもパリ協定から抜けた。日本も「ジャパンファースト」で行かせてもらう。
意見(男性) 私は今32歳で三児の父だ。中卒で派遣社員も経験し、1カ月ホームレス生活をしたこともある。今は介護職に就いている。介護と聞くとマイナスなイメージを持つ人もいるかもしれないが、絶対にそんなことはない。すごく魅力があり、私は世界一幸せになれる仕事だと思っている。山本さんは、福祉や保育に携わる人は公務員にしてでも人員を確保するべきだといってくれた。介護を求めている人人は多くいるのに、人手不足からどんどん施設も潰されている。幸せな仕事だと思って勤務していても、夜勤10回しても月月の手取りは十数万円だ。ケアマネでも20万円に届かない。先月3人目の子どもが生まれたときに「介護で3人はきついね」といわれた。山本さんは、そんな介護職のことをどのように考えているのか聞きたい。
私の母はシングルマザーで私たち子ども3人を育ててくれた。64歳でそろばんと習字、塾を経営して手取り20万円ほどだ。乳がんと大腸がんを患い、保険にも入れない状態で、年金は国民年金で6万500円。貯金もほとんどない。子どもからもお金をあげられるほどの収入がない。今後どうやって母のことを世話していけばいいのかという不安もある。
山本さんが「あなたを幸せにしたい」と話してくれたとき、すごくうれしかった。障害を持っていても、お年寄りでも子どもたちでもどんな人も幸せになる権利があるといってくれて本当に救われた。ただ山本さんも幸せになってもらいたい。
山本 世の中を変えていこうとしている真っただ中で、みなさんに「力を貸してください」とお願いができる時点で私は幸せだ。
ニーズはあるのに、国がしっかりと処遇をしていない職業に対しては公務員化をするべきだと考えている。たとえば介護や保育、身を削るようにして原発事故の廃炉現場で働いている人人などに対しては、安定した雇用を保障しないといけない。もはや現場の良心で支えられている状態だ。資格を持っているのに、その仕事に就かない理由は間違いなく処遇が悪いからだ。確実に必要な仕事で、サービスの質を保証するためには公務員化が必要だ。国が解決策としてうち出しているのは「外国人を使えばいいじゃないか」というものだ。そんな雑な話があるか。
そもそも日本は公務員数が少なく、人口1万人あたりの公務員数はフランス837人、イギリス820人、米国597人に対して、日本は261人しかいない。公務員の非正規化が進み、生活保護の相談を受ける側が生活保護が必要なケースさえある。
鹿児島は「保守王国」といわれており、多くの人が自民党に投票しているかもしれない。もしくは、昔からの付き合いで人との繋がりを意識して投票している人も多いかもしれない。ただ、現実を見てほしい。自民党がやっているのは保守ではなく自己保身だ。国を、あなたを売り飛ばしている。
地獄みたいな世の中の末に子どもたちを生かせられるのか。この国は「主権在民」だ。本当はあなたが権力を握っている。一部の人間に忖度し続けるような国が壊れるのはあたりまえだ。憲法15条には公務員は「全体の奉仕者になりなさい」と書いてある。すべての有権者の3割の得票を得て政権を握り、ここまでの乱暴狼藉ができるのだ。これを変えるのも政治だ。私は投票に行くことをやめている5割の人たちとつながって、現在と180度違う政治を実現させたい。あなたのための政治を、あなたの生活が幸せになる社会をつくらせてほしい。
https://www.chosyu-journal.jp/seijikeizai/13789
http://www.asyura2.com/20/reki4/msg/625.html#c11
「全国各地をしつこく回り、みなさんと対話をしながら緩やかなネットワークをつくっていきたい」――れいわ新選組・山本太郎代表は参院選後の宣言通り、9月18日から最初の訪問地である北海道に入り、利尻島、稚内、網走、釧路、根室、札幌、旭川、帯広の各地を巡った。
消費税廃止を掲げ、新自由主義政策で破壊された社会を立て直す市民政党をつくるため、代表みずから町を歩いて市民に頭を下げながらポスター掲示を依頼し、街頭では集まった多くの聴衆と直接対話をする。自力で全国を駆け巡って国政政党としての一歩を踏み出した参議院選の効果もあり、その行動は注目を集め、演説会場はどこでも予想を上回る規模の人人が詰めかけた。
北海道ツアーは疲弊が著しい周辺都市からスタートした。道内179市町村(全国最多)の人口500万人のうち約4割にあたる200万人超が県都・札幌に集中するなど、北海道内でも地域格差は拡大している。農業、漁業、林業などの第一次産業を基幹産業とする多くの地域は、その盛衰が地域経済全体を大きく左右する。TPP、日米FTAによる農産物の市場開放、国による地方切り捨てのなかで自治体財政は逼迫し、医療や介護をはじめとする行政サービスがまともに受けられない、鉄道インフラの廃止によって市民の足が奪われること、また雇用の受け皿である地場企業の倒産や賃金レベルの低下を引き金にした人口減少など、深刻な状況が各地で語られた。
山本代表と対話するため、周辺市町村から数時間かけて駆けつける人や、発言内容をメモに書いてくる人も多くみられ、れいわ新選組にかける人人の思いの強さがあらわれていた。
札幌駅前の街頭記者会見に集まった人々(9月24日)
「東京から帰ってきて、大病をした妻と義父の介護のために離職した。義父は片眼が全盲、膠原病で手足が不自由。そして認知症も始まっている。それでも認定では要介護2にしかならない。背景に町の財政難があり、町内にある道立病院には、要介護度を上げないようにしようというスローガンが貼ってある始末だ。先日、妻が腹痛で道立病院の夜間救急に駆け込んだが、救急指定病院なのに外科医も整形外科医も麻酔科医もいない。内科医に痛み止めだけ処方されて帰ったが、数日後に激痛が走り、1時間かけて留萌市立病院に駆け込み、はじめてCTで卵巣腫瘍が見つかった。最後は札幌医大に転院して25aもお腹を開く手術をした。あまりにも医療や介護環境がひどい。特養に入れても6カ月で出され、意見をいうと役場から職場にまで圧力がかかる。苦しむ人のために福祉や介護があるのに、一歩たりとも譲らない行政。今後、もっと苦しむ人が出てくる。未来のない世の中を変えるために頑張ってもらいたい」(稚内・男性)
「介護職をしているが、山本さんの話を聞いていて、就職氷河期からの苦労を考えると涙が出る。お年寄りの生活のために私たちが一生懸命やらなければいけないと思っているが、とても希望がもてる状況にない。普通に生きていけるだけの収入はもらってないが、地域のため、国のため、お年寄りのために頑張っている。子どもが憧れるような仕事になっていない状態を変えてほしい」(網走・女性)
「同世代は生活に余裕がないため政治に疎く、総理大臣の名前さえ知らない若い人たちも多いが、彼らを責めてもはじまらない。小さいときから政治の話はタブーで、朝ご飯を食べる暇もなく働き、夜遅くにSNSを開いたら与党側と野党側が罵詈雑言を浴びせ合うというような“政治”に辟易している。そういう若い人たちにも理解できるわかりやすい政策をお願いしたい」(網走・男性)
「人口規模にかかわらず公平なお金の使い方を考えてほしい。3000人ほどの小さい町でも格差がすごい。広い北海道の過疎地域では雇用がなく、カネも人も都市に流れる。地方創生というが、国の財源からあてがわれるサービスが地方には行き届いていない。ぜひ直に肌で感じて国会で訴えてほしい」(旭川・男性)
「IT企業で働いていた息子が鬱病を発症して会社をクビになり、病気を隠して別の会社に入社し、最後は寝る間もない状態になって自殺した。遺書のない場合は自殺と見なされない。そんな人たちが年間11万人もいる。息子も遺書というより連絡事項だけを書き残した。私は70歳近くだが、掃除婦ダブルワークで月150時間も働いて、月収12万円。みんな余裕がなく、職場はいじめとパワハラ、嫉妬やひがみもひどい。先日も自殺未遂で一命をとり留めた方の相談に乗った。れいわ支援の輪を広げていくために、ぜひ頻繁にきめ細かな情報発信をし続けてほしい」(旭川・女性)
参加者の発言は、産科医不足で地元で出産できない問題、子どもの不登校などの教育問題、難病患者を切り捨てる難病法改定、種子法廃止による遺伝子組み換え食品の氾濫、生活保護や年金の引き下げ、公務員の病の増加など多岐にわたり、どれも生活実感をともなった切実な叫びだった。旭川では気温が9度を下回る冷え込みのなかで、2時間以上にわたって山本代表と聴衆との対話が熱を帯び、身近な生活問題から国家財政、憲法の問題まで鋭い問題意識が交わされた。
食料基地北海道の現状
独自に市民から意見を聞くと、道東の拠点都市である釧路市では、かつては年間100万dで全国最大だった水揚げも今は10分の1の10万dに落ち込み、道内5番目に多かった人口(22万人)も今年ついに17万人を割り込んで6位に転落し、駅前の目抜き通りにあった地場資本の百貨店も倒産するなど崖っぷちに立つ水産都市の現状が口口に語られた。
水産関係者によると「北洋船団の主力だったサケ・マス類がとれなくなり、もともと裏作だったサンマ漁に収入の大部分を依存してきたが、今年は過去最悪の不漁。近海にしか出れない漁船で魚群を追って公海までくり出すようになり、ついに転覆事故も起きた。規模が大きいだけに、危険承知であっても公海まで漁に出なければ倒産する。どこも綱渡り操業だ」という。観光スポットとして有名な和商市場も空き店舗が目立ち、商店主たちは「60軒あった店が50軒に減った。観光客が来ても、市民の購買力が落ちたら市場はもたない」と深刻に語っていた。
第一次産業でも好調なのが、現在乳価の高止まりが続く酪農といわれる。だが、道東の酪農地域では、「国の補助金や明治や雪印など大手乳製品メーカーの買いとりに依存して機械化や大規模化を進めているので、TPPやFTAで乳製品の無関税化・自由化が進み、メーカーが安価な外国産に乗り換えたら、巨大な投資をしている農家は壊滅的な打撃を受けることになる」と話されていた。
建設業は農業関連施設、機械は農機具販売や修理……など酪農業の産業としての裾野は広く、国が地場農業の保護をしなくなれば地域全体の雇用の受け皿がなくなる。根釧地方では、かつて国が膨大な予算を投じたパイロットファーム(実験農場)計画や新酪農村建設事業で大規模集約や機械化、新規入植を促進したが、農産物輸入自由化を進める農政や営農システムの変化のもとで借金に見合うだけの収入は得られず、多額の負債を抱えて赤字に転落する農家が続出。冬になると翌年5月までは地下1bまで凍土と化す(作付けができない)という厳しい環境のなかで、頼みの綱だった酪農からも離農者があいつぎ、「手間を掛けない安価な乳」を望む大手メーカーに依存するほかない現状にあるといわれる。そのため人手が必要な放牧をする農家が減り、機械化が進む。「地元の牛乳を地元民が飲めない」という歪な状況を生んでいることや、「農業が潰された先には放射性ゴミの処分場にされるのではないか」という危機感が、国が北海道で進める深地層処分研究などとあわせて話題にのぼっていた。
農漁業ともに全国トップシェアを占める北海道の現状は、そのまま日本の食料安全保障にも直結する。もっと知らなければいけない、知らさなければいけない問題があると強く感じずにはいられなかった。
新しい政治勢力に期待
「れいわ」の演説会場には、「既存の野党が信用できず、有権者を置き去りにする永田町の論理に全力で抗うのは山本さんしかいないと思って支援している」(60代・男性)、「東京で働いていたが体を壊して帰ってきた。れいわ新選組は、右や左といった古いイデオロギーにとらわれず、弱者の側から政策を訴えるから無関心な人たちも惹きつける。これまで誰もしてこなかった活動を捨て身でやっている姿に共感し、自分もなにか力になりたいと思った」(25歳・女性)など、既存の政党政治の外側から市民による新しい政治勢力をつくり出していくことへの強い意欲をもって世代も職業も違う一人一人が意識的に集まり、ボランティア登録やポスター行動に参加していた。
れいわ新選組の全国ツアーは、このような地方の人人のなかに直接飛び込み、人人のなかでみずからの政策を検証し、表に出てこない切実な要求をすくい上げて政策に練り上げ、個個バラバラの問題意識を横に繋げて全国的な力を育んでいる。地道で骨の折れる仕事だが、各地の人人がみずからのたたかいとしてそれを支え、着実にその輪を広げている。
山本代表は札幌駅前に集まった群衆に向かって叫んだ。
「こんな地獄のような社会をつくったのが政治なら、これを変えていくのも政治だ。変えていけるのは皆さんだ。支持政党があるならばお尻を叩いて圧をかけてほしい。私たちれいわ新選組も例外ではない。政治は信じるものではない。宗教やアイドルなんかではない。皆さんの駒として、代理人としてしっかりと仕事をやらせる存在だ。私たちにも厳しい目と大きな愛で包んでいただき、一緒にこの国を変えていこう!」
肌身を通じて人人の苦しみをつかみ、エネルギーに変え、相互に支え合う関係を切り結んでいくことで、れいわ新選組が全国的な社会現象をつくり出していることを目の当たりにした同行取材だった。有権者を無視した暴走政治が続けば続くほど、この「れいわ旋風」は日本中に広がっていくに違いない。(岡本)
https://www.chosyu-journal.jp/shakai/13348
http://www.asyura2.com/20/reki4/msg/625.html#c12
第二次世界大戦でドイツ軍の捕虜となり、ゲルリッツにあったStalag VIII-A(第8A捕虜収容所)に収容されていたときに作曲された。
曲想は『ヨハネの黙示録』10章に基づく。
原題は直訳すれば『時の終わりのための四重奏曲』であり(そのように訳される場合もある)、『世の終わり〜』は意訳であると言える。
なお、楽譜には作曲者自身による詳細なノートが書かれている[1]。
この曲はヴァイオリン、クラリネット、チェロ、ピアノという特殊な編成であるが、この編成は第二次世界大戦中に起こるメシアンの偶然の出会いの連続で生まれた。
1939年8月25日、メシアンは召集されフランス軍の兵士となる。メシアンとチェロ奏者エティエンヌ・パスキエ、クラリネット奏者アンリ・アコカは、ヴェルダンのヴォーバン要塞で出会う。メシアンは自分のクラリネットを持っていたアコカのため、要塞近郊の鳥の鳴き声にインスピレーションを得て第3楽章「鳥たちの深淵」を作曲する。
しかし戦争が激化し、1940年6月20日にドイツ軍に捕らえられ、ナンシーの野営地で約3週間とどまる。アコカが「鳥たちの深淵」を初めて演奏したのはこの野営地であった。その後3人はゲルリッツ(現ザクセン州、一部は現在ポーランドのズゴジェレツ)のStalag VIII-A(第8A捕虜収容所)に移送される。
収容所は捕虜の急増により環境が悪化し、食糧不足による栄養失調や寒さのため、多くの者が病気にかかった。劣悪な環境ではあったが娯楽には比較的寛容で、収容所内には図書館が設置され、オーケストラやジャズ・バンドも存在していた。第27兵舎は約400席の劇場として改築され、コンサート、バラエティーショー、映画上映や捕虜たちによる講義が行われた。音楽家は捕虜の中でも比較的優遇されており、メシアンが有名な音楽家であることが知られると捕虜の義務を免除され、作曲に集中できるよう別の棟に移された。
当初メシアンが作曲していたのは三重奏曲であったが、アンリ・アコカと同じ寝棚であったヴァイオリン奏者ジャン・ル・ブレールが加わり四重奏曲となった。収容所にはチェロやヴァイオリンはいくつかあり、アコカは自分のクラリネットを持っていたが、ピアノはなかったため、四重奏曲のリハーサルは行えなかった。1940年11月にピアノが到着すると、彼らには1日4時間の練習時間が与えられた。
初演
初演は1941年1月15日午後6時、第27兵舎でジャン・ル・ブレール(ヴァイオリン)、アンリ・アコカ(クラリネット)、エティエンヌ・パスキエ(チェロ)、オリヴィエ・メシアン(ピアノ)によって行われた。メシアンはこの初演について伝説的な言葉を残しているが、これにはいくつか誇張があったと考えられている。一説には数千人の捕虜を前に演奏されたと言われているが、実際には初演は閉鎖されたバラックの中で行われ、せいぜい400人程度しか入らなかった。極寒の収容所内でチェロの弦は3本しかなかったと語られているが、これは作り話であり、パスキエは間違いなく弦は4本あったと主張している。メシアンは後にこの初演のことを「私の作品がこれほどの集中と理解をもって聴かれたことはなかった」と語っている[2]。
初演の後、4人の名声は確かなものとなったが、彼らの処遇には差があった。初演から1か月も経たない1941年2月にメシアンとパスキエは収容所から解放された。一方でアコカとル・ブーレールは収容所に捕らえられたままだった。アコカは解放される2人とともに列車に乗り込もうとしたところ、ユダヤ人であることを理由に連れ戻された。その後、アコカは温暖なアルジェリア出身であることが考慮され、一時的にブルターニュ地方のディナンに移送される。そして1941年4月に再び第8A捕虜収容所に送り返される途中、ヨンヌ県のサン・ジュリアン・デュ・ソー付近で列車から飛び降り脱走した。アコカは怪我を負い気を失ったが、手当てをした医師の協力で自由地域に到着することができた。ル・ブレールは1941年末ごろ、ブリュル太尉が作成した偽の書類によって解放された。他の3人は音楽家としての道を続けたが、ル・ブレールはヴァイオリン奏者の道を諦め、ジャン・ラニエという名前で俳優に転身する。またメシアンら3人も年月が経つにつれ徐々に疎遠になり、初演のメンバーが再び集まることはなかった。収容所のバラックは取り壊され、現在は跡地に記念碑が残るのみである。2008年はメシアン生誕100年にあたり、収容所跡でこの曲の再演が行われた。
構成
8楽章からなる。8は、天地創造の6日の後の7日目の安息日が延長し不変の平穏な8日目が訪れる、その8に由来する、とされる。
1. 水晶の典礼 Liturgie de cristal
Bien modéré, en poudroiement harmonieux
移調の限られた旋法とリズム・セリーによって異なる周期の時間を重ね合わせ、ピアノによる透明な水晶の和音とチェロによる高音のグリッサンドとが多次元的に層をなし、その朝靄の中にヴァイオリンによるクロウタドリとクラリネットによるナイチンゲールが即興的に囀る。それらが光の中で高揚の頂点を迎えた後、静寂の中に前奏曲としての役割を終える。
2. 世の終わりを告げる天使のためのヴォカリーズ Vocalise, pour l'Ange qui annonce la fin du Temps
Robuste, modéré
ABaの3部形式で構成され、A部分は御使いの強い力を喚起させる強固な表現を持つ。減8度音程、増8度音程や7度音程などを骨格に組み込んだ大胆でリズム的な和音がピアノによって担当されるが、その畏怖の中に、ヴァイオリンとチェロとがユニゾンで世の終わりの切迫感を表現し、クラリネットは鳥の囀りを繰り返す。A部分の結尾部は、移調の限られた旋法第2番を上行する弦によるユニゾンの後、恐怖を煽るトリルがヴァイオリン、チェロ、クラリネットと階梯導入され、ピアノは上行する複調和音のアルペジオの後、下行する和音で閉じられる。中間のB部分は天使のヴォカリーズに該当し、弦による美しいユニゾンの上を、メシアン自身が「ブルー=オレンジ」と表現した和音が水の滝を穏やかに落とし、遥か彼方のカリヨンの響きでそれを包む。最後のa部分は、A部分の結尾部を反行型にしたもので、移調の限られた旋法第2番を下行する弦によるユニゾンの後、恐怖を煽るトリルがチェロ、ヴァイオリン、クラリネットと階梯導入され、ピアノは下行する複調和音のアルペジオの後、上行する和音で閉じられる。
3. 鳥たちの深淵 Abîme des oiseaux
Lent, expressif et triste
鳥の歌を使用したクラリネットの独奏曲で、有効に使った休符の中に満ちた深い精神的な空間と、長く引き伸ばされたクレッシェンドはクラリネットの表現力を充分に生かしており、単独に抜粋されてアンコールなどの演奏会で演奏されることもある。
4. 間奏曲 Intermède
Décidé, modéré, un peu vif
ヴァイオリン、クラリネット、チェロの三重奏。ユニゾンで協調する部分と、アンサンブル的に掛け合う部分とが効果的に構成されている。3者が模倣を引き継いだり、2者と1者とが呼応したり、短い中に三重奏の様々な姿が凝集されている。全体を通して4分の2拍子で書かれている。
5. イエスの永遠性への賛歌 Louange à l'Éternité de Jésus
Infiniment lent, extatique
チェロとピアノの二重奏。1937年にオンド・マルトノの六重奏のために作曲した組曲「美しき水の祭典」からの一曲を引用して編曲されている。全長転位音ともみなされる解決されない非和声音が曲の推進力を強く保ち、高らかに賛美を歌った後、永遠の彼方へと消えていく。
6. 7つのトランペットのための狂乱の踊り Danse de la fureur, pour les sept trompettes
Décidé, vigoureux, grantique, un peu vif
ユニゾンに終始する。変型された4分の4拍子とも見なされ、そこに付加リズムを含んで拡大・縮小される。即興的に主題が拡大され、それが大規模な姿を呈した絶頂の後、非可逆リズムによって神の奥義の成就を象徴する。初演時のタイトルは「ファンファーレ」であった。
7. 世の終わりを告げる天使のための虹の混乱 Fouillis d'arcs-en-ciel, pour l'Ange qui annonce la fin du Temps
Rêverur, presque lent
ピアノの伴奏に乗ってチェロが息の長い旋律を歌うが、ヴァイオリン、ピアノが入った激しいアンサンブルにより中断される。その後はクラリネットが旋律を歌ったのち激しいアンサンブルが再現され、ピアノを中心とした色彩豊かな部分が続いた後に、激しいアンサンブルにより締めくくられる。
8. イエスの不滅性への賛歌 Louange à l'Immortalité de Jésus
Extrêmement lent et tendre, extatique
ヴァイオリンとピアノの二重奏。1930年にオルガンのために作曲した「二枚折絵」の第二部(後にこの部分に"Le Paradis「天国」"と副題を付けている)から編曲されている。メシアンらしい、天国的な遅さの中に、じっくりと賛歌が歌われる。初演時のタイトルは「イエスの永遠性への第二讃歌」であった。
https://ja.wikipedia.org/wiki/世の終わりのための四重奏曲
http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/967.html#c1
現代の最重要作曲家の一人。独自の音世界を築いて、大きな実績を残した。
でも自分は生理的すぎる彼の音感覚を身体がなかなか受け付けない。
管弦楽曲
トゥーランガリラ交響曲(1949)
2.0点
おそろしくキモい曲。生理的な感覚が生々しく露にされすぎている。ちっともいい曲とは思えなかった。
室内楽曲
世の終わりのための四重奏曲(1941)
3.5点
ピアノ曲
幼子イエスに注ぐ20の眼差し(1944)
3点
鳥のカタログ(1956-58)(全13曲)
2.5点
https://classic.wiki.fc2.com/wiki/フランス%281890年以降%29
http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/967.html#c2
岡山駅前でのれいわ新選組の街頭演説(10日)
参議院選に10人が立候補した山本太郎率いる「れいわ新選組」が全国でくり広げている街頭演説や講演会が話題を集めている。そのなかの1人、元外資系銀行ディーラーの大西恒樹氏(全国比例)が10日、広島市内で講演会を開き、現代の日本社会が抱える金融・経済システムの不条理に焦点を当て、資本主義社会のもとで広がる貧困化、格差拡大、増税などの財政問題について問題提起をおこなった。現在の経済の仕組みを根本から問い直す内容が各地で反響を呼んでいる。大西氏の講演を概括して紹介する(掲載する図やグラフは同氏による提供)。
◇−−−−◇−−−−◇−−−−◇−−−−◇
日本は世界一のお金持ち国にもかかわらず、7人に1人の子どもが貧困状態にある。私は3年前から地元神奈川県のある高校の図書館カフェでボランティアをしている。そこからは高校生たちの何気ない会話の中からいろんな問題が垣間見えてくる。学校や家庭の悩みに加えて、最近はバイトの悩みなども多く、日本中の企業が驚くほどブラック化していて、5月の10連休に高校生たちは10連勤している状態もあった。さらにはJK(女子高生)ビジネスといういかがわしいビジネスも横行している。そこから聞こえる何気ないSOSを拾って、しかるべき支援に繋げていくというボランティアだ。この子どもたちの一人一人の顔が、私が政治をやる非常に強いインセンティブ(刺激)になっている。
そこからは、子どもの貧困はさらに悪化していることがわかる。教育困難校といわれる学校に行くと、3人に1人が生活保護だったりする。この世界一のお金持ち国の現実がすでにそうなっている。では、貧困状態にある子どもたちの何がいけなかったのか? それは生まれてきた境遇によるもので子どものせいではない。
子どもだけの問題ではなく、大人も簡単に貧困状態に陥る状態にある。病気、ケガ、失業、離婚、災害…などでちょっとバランスを崩した瞬間に一気に貧困状態に突き落とされてしまう。そのようなことが簡単に起こる経済、社会の仕組みになっている。
例えば、2011年3月の東日本大震災。私が政治団体を立ち上げたきっかけは、この大震災だ。当時、私は宮城県石巻市にボランティアとして通っていた。そのとき私はある民主党議員のところで復興支援室でボランティアをしており、民主党政権下だったので民主党の物資倉庫で物資のやりとりを担当していた。
あるとき石巻のボランティア団体から電話がかかってきた。「石巻エリアで1500人くらいの人が食うのに困っているから、カップラーメンを2万食送ってくれ」という。だがすでに5月末で、みんな避難所にいっていて、そこには食料も物資もあるはずだ。「なぜ?」という違和感があった。すぐに2万食を送ったものの、何が起きているのか自分の目で確かめようと思い、翌日、車に布団を積んで石巻まで走って行った。
石巻インターを降りると、すぐ左側に巨大なイオンが営業している。店内に入ってみると、土曜日の午後でもあり、人でごった返し商品も溢れている。まったく被災地感はなく、どこにでもある土曜日の混雑したイオンだった。「何かおかしいな?」と不可解さを抱きながら、そのまま沿岸部に向かった。女川トンネルを抜けた瞬間に景色が一変した。ぐちゃぐちゃになった車が積み重なり、ガソリンスタンドの支柱には車が刺さったまま宙に浮いている。そこで案内されたのは、食うに困っている人たちの代表のお宅だった。避難所ではない。被災後、その人たちも一度は避難所に行ったが、そこには限界状態にある人たちがたくさん集まっていて、プライバシーもない過酷な環境だ。
大震災と津波に襲われた後の石巻市雄勝町(2011年4月、本紙取材にて撮影)
だから、自宅の1階まで水に浸かり、家の半分がぶち抜かれて泥だらけになり、家電製品が使えなくなっていても、自宅の2階に戻って住んでいた方がマシだということで、石巻では約1万世帯くらいの人たちが在宅被災者という形で自宅に避難して暮らしていた。
実はいまだに同じ状況が続いている。数は少し減っているが、つい2カ月前にNHKが石巻の渡波(わたのは)という地域の在宅被災者のドキュメンタリーを放映していたが、そこはいまだに壊れた自宅に住んでいる。なぜかといえば、家を直すにも1000万〜2000万円かかる。支援金、義援金を合わせても全壊世帯で600万円。住宅ローンも抱えている。当時は被災で働けなくなり貯金を切り崩して暮らしていた。それが「食うに困っている人たち」の真実であり、だからこそ「1食でもタダでもらえるならもらいたい」ということでカップラーメン2万食という救済の声があがっていたのだ。
その話を聞いたとき、これは震災の問題でもなく、津波の問題でもなく、巨大な金融問題だ、経済問題だと思った。結局、今の金融経済では困っている人たちのところにはお金がいかない仕組みになっている。
おそらく他の理由でも同じようなことが起こる。病気、ケガ、失業、離婚…そういう理由で全国津々浦々で経済的に困る人が必ず出る。経済の仕組みがそうなっている。これから大きな問題になるのは高齢者の貧困だ。年金が足りず、2000万円の貯金がなければ大変だといわれているが、そんな額が簡単に貯められるものではない。当然、高齢になると病気もケガもしやすい。そのときに十分な貯金がなく、年金もわずかで、働くこともできなければ、もう誰も助けてくれない。そうやって一気に貧困に突き落とされ、誰にも知られることなく孤独死したり、将来を悲観して自殺するようなことが簡単に起きる。全国津々浦々で日常茶飯事のように起きることが容易に想像できる。
高齢者だけではない。若者たちもちょっとバランスを崩したり、引きこもったり、いろんな理由で一気に貧困に突き落とされる人がたくさん出る。これも経済の仕組みに起因している。
豪雨災害に見舞われた広島県呉市天応地区(2018年7月12日)
3年たちながら仮設住宅暮らしを強いられている熊本地震の被災者たち(2019年4月、益城町)
お金に支配される本末転倒な社会
私はもともとJPモルガンという銀行にいて、今の金融システムのど真ん中で働いてきたので、その仕組みがいかに残酷で、いかに格差拡大的であるかを身をもって体験している。震災の光景を見ながら、根本的な原因は金融システム、経済の仕組み、資本主義というような私たちの考え方、生き方にあり、これを根こそぎ変えなければ解決できないと感じた。これを根こそぎ変えるために政治団体を設立した。なぜかといえば、そんなことをいっている政治家も政党もどこにもいないからだ。今の金融経済がおかしい、今の金融システムがおかしい、資本主義はそろそろ限界だ、などといっているような政党はいまだに皆無だ。誰かがそれを大きな声でいい出して、新しい勢力をつくらなければダメだと考えた。
むしろ、今の仕組みがおかしいということは、国会の中の人たちよりも、その外にいて毎日一生懸命働いても働いてもちっとも楽にならないという人たちの方がはるかに実感している。だから、そういう人たちに、今何が起きていて、何が本当の原因で、何が問題なのかをひたすら伝え続けて納得してもらい、その人たちの気持ちを集めれば必ず後で大きな数となり、本当に政権をとって国をひっくり返す。その先に今の仕組みを根本的に変えることができるだろうと思い、政治団体を設立した。
2011年の被災地で、私の堪忍袋の緒を切った出来事がもう一つある。5月末か6月ごろ、石巻エリアで巨大な建物が建設され始めた。なぜ被災地にこんな巨大な建物をいきなり建てるのだろう? と思ったが、これはきっと病院や、当時泊まる場所がなくて寝袋を持ってきていたボランティアが寝泊まりできるような復興の手助けになる施設ができるのではないかとワクワクして見ていた。何カ月か後、初めてそれが何かがわかったときに衝撃を受けた。二つとも巨大なパチンコ店だった。自分の中で何かがブチッと切れた。
確かに今の金融経済では、お金は物凄いスピードでもうかるところへ移動する。困っている人のところにはお金はいかない。もうからないからだ。ある人はいうかも知れない。「当たり前だよ。それが金融資本主義だから」「そういう仕組みだから」と−−。だが、それを「そういう仕組みだから」という理由で鵜呑みにし続けていいのだろうか。困っている人を助けるためにどうすべきかを考えなければいけない。お金も経済の仕組みもそのためにあるべきだ。その本質が忘れ去られ、いつの間にかカネ、カネ、カネの社会、経済になってしまっていることから変えなければ、人間の生き方や人生までおかしくなってしまう。私は、生きて働いて、死ぬときに「何をしたのか?」という自問に答えられないような人生を送ってしまうことに気付いたとき、絶対にこれを変えてやると思った。お金に支配された社会、経済を根こそぎ変えなければ、個人の心の自由も、自分の人生における時間をどのように使うのかという基本的な人権も奪われ続ける。
週に5日も6日も会社の上司や株主など金持ちのいうことを聞かなければいけない生活を強いられ、場合によっては残業をやらされ、わずかに残った自分の時間だけ自由に過ごせるという人生を30年、50年続けて、最後には何のために生きていたのかわからない状態になるほど歪んでしまっている。自分でコントロールできるはずの時間を一人一人に返さなければいけない。奪われてしまっている時間の解放は、金融経済を変えることによって可能になる。これは未来の子どもたちにとっても非常に不公平な仕組みだ。ひたすら作って、消費して、壊すというサイクルを続ければ地球の環境も悪化し、あらゆる種を絶滅に追い込んでいくことになる。これを根こそぎ変えるには、国家経営の間違いも含めてまったく新しい社会を描かなければいけない。それは世界を変えることでもあり、そのために日本だからこそできることがある。
世界一の金持ち国で340兆円のタダ働き
冒頭にいった「日本は世界一のお金持ち国」であるという事実はあまり知られていない。だがこれは紛れもない事実だ。主要国の対外純資産【表参照】を調べると、日本はプラスの341兆円で1位。ドイツが2位、中国が3位。そして、アメリカ合衆国がなんとマイナスの1076兆円。日本はこの数十年間不動の1位だ。かたやアメリカは不動の最下位。世界中から借金をしている世界一の借金大国だ。トランプのディール外交というのは、この莫大な借金を解消するために米国製品をひたすら売る。とくに日本に対してポンコツのオスプレイとかGMO(遺伝子組み換え生物)食品、F35、詐欺まがいの金融商品とか、バカ高い医薬品とか、とにかく何でもいいから日本に買わせて世界一の日本の資産を奪っていこうとするものだ。中国に対するプレッシャーも、3位にいる中国人に25%の関税をかけ、「アメリカに売ってばかりでなくて買え」と圧力をかけているのが米中貿易摩擦だ。トランプの政策はとても単純だ。世界一の借金を負っているから少しでも米国製品を売ってそれを解消しようとしている。
では、日本はなぜこれほど大きな資産を持っているのか。それはみなさんがこの30年間黒字を稼ぎ続けてきた結果だ。日本は戦後復興を貿易立国、輸出主導型でずっとやってきた。海外に製品をたくさん輸出し、輸入を少なく抑えることで黒字を稼いだ。その結果たまった黒字341兆円は、実際には3兆jの外貨で円ではない。国際決済はドルでやってきた。原油もドルで買うし、輸出の代金もドルで受けとる。だから黒字もドルで貯まる。アメリカの1076兆円の赤字も円ではなく、約10兆jのドルを借りている。そのドルは黒字国が貸している。
では、なぜ世界一の黒字を稼いでいるのにみなさんにその実感がないのか。それはこの稼いだ3兆jがみなさんのために使われないからだ。この黒字は使わなければただの紙切れだから当然投資する。ドルならドルを使うアメリカに投資する。この3兆jはその国で使われる。労働者の賃金を払い、つくった製品も国内に提供し、米国内で循環する。日本には入ってこない。黒字が増え続けたとしても海外投資になるため日本のみなさんは受けとれない。だからまったく実感がない。家庭に例えるなら、親が「わが家は世界一金持ち」といいながら稼いだお金を全部貯金して使わなければ、子どもは「嘘だね。何も買ってくれないじゃないか」というだろう。それと同じ状態で、何一つ受けとれていない。
それどころか、この30年間みなさんはとんでもない働き方をさせられてきた。1971年から2016年までの為替レート【グラフ参照】を見るとそれがよくわかる。1971年には1j=360円だった。これが今は110円くらいになっている。円の価値が3倍になり、ドルが3分の1に下がっている。その契機が1985年のプラザ合意だ。
プラザ合意とは、ニューヨークのプラザホテルでG5(主要5カ国)が集まって、各国の協調介入でドルを下げることを決めた合意だ。なぜかといえば、当時のレーガン米政権は「強いアメリカ」であるための「強いドル政策」をしていた。強い自国通貨のドルで労働者に高い給料を払えば、その国の労働者がつくった製品は高くなる。そのかわりに、逆に海外からは物を安く買える。自国の通貨が高いため、輸入ばかり増えて、輸出はしにくくなり、その結果大赤字を抱えた。一方、戦後復興を輸出主導型でやってきた日本と西ドイツはともに戦敗国であり、戦後賠償もあったので輸出で稼いで貿易黒字が続いていた。アメリカは「いい加減に黒字を稼ぐのをやめろ」といって、西ドイツのマルクと日本の円の為替レートを上げることによって、これらの国の黒字を減らしてアメリカの赤字を減らそうとした。
プラザホテル
その結果、プラザ合意前夜に1j=230円だった為替レートが、2年以内で一気に1j=120円にまで真っ逆さまに落ちた。ほぼ半額のドル安、2倍の円高だ。簡単にいえば、1j=200円が100円になった。日本の輸出企業にはたいへんな事態で、今まで200円のコストで作っていたものが1jで売れていたのに、2jで売らなければならない。海外からすればまったく同じ製品が値段が2倍になるため、日本製品は高すぎて買えないということになる。逆に、海外からの輸入では2j(200円)していたものが1j(100円)で買えるようになる。輸出がしにくく輸入がしやすいので赤字になる可能性がある。つまりアメリカに「日本の貿易収支を赤字にしろ」と要求されたのがプラザ合意だった。
日本は何をしたか。確かにバブルの3年間はそれをやって金融緩和でお金を回し、みんながそれを使って遊んだので輸入が増えて輸出が減った。それで黒字が少し減った。だが、バブルが崩壊して景気が悪化すると、何とか景気を回復させようとした。
日本の経済構造は輸出企業が中心だ。彼らはコストカットを始めた。1j=200円のときに200円でつくっていたものをそのままのコストでつくったのでは円高で値段が倍になって売れない。それなら、今まで200円でつくっていたものを100円のコストでつくれば、これまで通り1jで売れるという話だ。要するにコストをカットすればなんとか売れる、売るためにコストをカットする、ということを景気回復のためにひたすらやってきた。
だが、コストとは、そのまま誰かの売上であり給料だ。それを30年もずっと削り続けて3兆jも稼いだわけだ。半分のコストでつくるといっても人間が2倍の速度で働けるわけもなく、要するにコストカットの名の下に、みなさんが受けとるべき給料や代金がちゃんと支払われなかったということだ。これが支払われていたら製品の値段は上がるので、輸出が伸びず、3兆jも資産は増えなかったかもしれない。つまり、みなさんが自分の身を削り、無理矢理安くつくって、3兆jの黒字を稼いだということだ。胸に手を当てて考えてみてほしい。日本で横行しているサービス残業とは何か。働いているのに給料がもらえないということだ。海外の労働者にしてみれば狂気の沙汰だ。
この3兆jはみなさんが受けとらなかった分であり、みなさんのタダ働き分だ。現在は1j=110円だから330兆円、1j=200円だったことを考えると600兆円だ。これだけの給料を受けとらないまま、それだけのタダ働きをして世界一の3兆jの黒字を稼いでしまった。しかも、その3兆jはほぼ海外に貸しっぱなしでみなさんは受けとれていない。
今アベノミクスの賃金偽装疑惑みたいなもので、「実は賃金が〇・何%低かった」というような細かい話をしているが、いかにみなさんが受けとるべき給料が受けとれていなかったかは、もっと大きなデータを俯瞰して見ると一目瞭然だ。
お金の量は5倍に増えたのに給料は削減
ここに1980年から2018年までの4つのデータ【グラフ参照】がある。すべて日銀からとってきたデータだ。4本の線のうち、マネーストックM2というのは、日本中の現金・預貯金(ゆうちょ銀行や農協に預けたお金を除く)をすべて足した額だ。つまり、日本には今お金がいくらあるのかという数値だ。
1980年にはマネーストックは200兆円だった。それが2018年には1000兆円を超えている。このあいだに5倍に増えた。私が就職した1986年のマネーストックは340兆円だった。このとき私が会社から受けとった初任給は20万円だった。そして、私の息子が就職した2017年のマネーストックは990兆円。息子の初任給はまったく同じ20万円だった。31年たってお金が3倍に増えているにもかかわらず、大学生の初任給は変わっていない。私は外資系金融機関だったので他よりちょっと高かったかもしれないが、それほど極端な金額ではない。600兆円のお金が増えながら、この30年間ほとんど給料は上がっていないという話だ。ではその600兆円はどこにいったのか? みなさん薄々気づいているだろう。日本の大企業の内部留保は600兆円とか、500兆円といわれる。
この内部留保は、会社が従業員に給料を払うのをやめて、安い法人税を払うと溜まる仕組みになっている。もちろん内部留保は全部現金ではないが、その資産はお金があったから買えたものだ。
対外資産の3兆jはみなさんに支払われなかったものだと考えると、この30年で日本の企業というのは給料を払うのをやめたということだ。昔の日本の企業は「三方よし」などといわれ、従業員、お客様、株主みんなのためにあったはずだが、小泉・竹中改革あたりから政財界は「会社は株主のもの」という明確な答えを出した。利益を上げるのがよい経営者で、利益を上げないものはクビになる。ひたすら株主のために利益を上げ続けるし、そのために従業員の給料はひたすら削り続ける。みなさんは削るべきコストだ。人間をコストとするのが今の企業経営になっている。そういう仕組みの中で、法人税を下げたり、株式売買益に対する課税が極端に低かったりする。すべて一部の株主のためだとしか思えないような国家経営をずっとやっている。
この30年間、間違いだらけの国家経営をしてきた。現在の自民党政権がやり続けてきたことだ。だが問題は、この間違いをどの野党も指摘できていないことだ。わかっていないもの同士のプロレスごっこが続いている。私がれいわ新選組から立候補したのは、真実を知らせて彼らの無能を理解してもらい、外に新しい勢力をつくって中に殴り込みをかけるしかないということをわかってもらうためだ。
GDPが上がればよいか 国民の幸せは置き去り
彼らには、国家経営という概念すらない。強いていえば、「GDPを上げる」「株価を上げる」という浅はかな答えが返ってくるだろう。みなさんが幸せになった結果、GDPや株価が上がるというなら別に悪くないが、これが目的になってしまうと完全に本質を見失う。
残念ながらこの国の首相は就任した途端に「GDP600兆円」みたいなことをいっていた。そのための「一億総活躍」だ。みんなが活躍して稼げばGDPが上がる、それがみなさんの幸せと信じて疑わないという浅はかな思考の持ち主がこの国の首相だ。
経済成長の目安にされているGDP(国民総生産)とは、1年間にどれだけのお金が動いたかというだけの指標だ。今までお金の交換でなかったものをお金の交換にすれば上がる。例えば、子育てを保育サービスにするとGDPが上がる。母親が保育料を稼ぐために外に働きに出るとGDPが上がる。それで時間がなくなったから、自分でつくっていたご飯を外で買ってくるようになればGDPが上がる。介護も同じだ。そうしたい人はそれでもいいが、子育てや介護のために自分の手を掛けるとGDPは上がらない。
GDPとは、消費+政府支出+投資+純輸出だ。純輸出とは、輸出から輸入を引いた差であり、黒字になればプラスで、赤字になればマイナスだ。日本の戦後復興はこの純輸出をプラスにするところからはじまった。焼け野原で資源もないから、まず資源を輸入しなければ生産ができない。輸入するにはドルが必要になる。だからドルを借りて資源を輸入し、それを加工して輸出して黒字を稼ぐとそこからドルを返せた。黒字をたくさん稼ぐと輸入がさらに増やせた。戦後はなにもないから、原材料を輸入してたくさんつくっても飛ぶように売れた。純輸出が増えれば消費が増え、たくさんつくるための投資も増え、政府支出も増える。全部がプラスだからGDPはずっとプラスだ。これで戦後復興を30年、40年ずっとやってきた。その結果、何も考えなくなり、GDPがプラスならいいと思い込み、そこで政治家も官僚も思考停止してしまった。
戦後復興はそれでよかったが、1985年のプラザ合意でアメリカから円高にされても基本的にやっていることは変わらない。そして、純輸出を上げるためにみなさんの給料を削った。それで売って稼いだ3兆jの黒字は海外に貸しっぱなしで、みなさんの幸せは置いてけぼりになっている。
売上や給料を削ったために、みなさんが好きなように消費し、自由に時間を使うことができない。それで消費が伸び悩んだとしても、輸出を維持し、作るための投資をし、政府が赤字を垂れ流しながら支出を続ければ、差し引きでGDPはプラスだ。これで「経済成長してます」「政治はうまく機能しています」と政治家も官僚も大手マスコミもずっと言い続け、野党もこれを指摘できない。経団連は輸出企業の塊みたいなものだが、これらが巨額の献金を自民党にすれば輸出企業に有利な政策をする。それによって労働者の幸せなどはとうの昔に置いてけぼりだ。これがこの30年間の日本の国家経営だ。
いまだに東京五輪をやって外国人にお金を落としてもらえば経済が活性化し、GDPがあがるなどという。五輪で観光客が来たところで落とされるのは外貨であり、輸出と変わらない。いくら黒字を稼いでも海外に貸しっぱなしになって受け取れない。TPP(環太平洋経済連携協定)でも「これで日本の輸出が伸びる」という。そんなことをやってもみなさん幸せになれないことは30年間で証明されているにもかかわらず、いまだにそんなことを言っている。それに対して新しい提言をすべき野党が同じかそれ以下のレベルだからずっとこれが続いている。
黒字を稼いでも使わなければ意味がない。どうやって使うかは簡単だ。政府がお金を作って配る。1人100万円でいい。あくまでこれは、れいわ新選組の公約ではなく私個人の持論だ。4人家族なら400万円もらえれば現役世代は使うだろう。働く時間を減らして、その分遊ぶ余裕ができれば、消費が増える。消費が増えるから資源の輸入が増える。生産が減るので輸入が増える。もしかしたら赤字になるかもしれないが、むしろ赤字にしなければいけない。赤字にすることが黒字を使う唯一の方法だからだ。政府が国家経営を誤ったために支払われなかった3兆jを「黒字還付金」として国民に配る。1人100万円を1億3000万人に配っても130兆円。タダ働き分の3分の1に過ぎない。それでも赤字がたいしたことなければ1人あたり8万円のベーシックインカムを2年くらい配ることだってできる。これは実は日本だからできることだ。日本がタダ働きで品質のいいものをつくると世界が迷惑する。黒字が出るということは、どこかが赤字なのだ。この構図が続くことは持続可能な社会とはいえない。
借金でお金をつくってきた現代の経済システム
もう一つは、財政金融の考え方を根本的に間違え続けてきた。政府の借金が大変だから税金でそれを返し続けなければならないとか、プライマリーバランス(基礎的財政収支)の達成、つまり税収の範囲内で支出を抑えなければならないという発想だ。財務省をはじめ大手メディアもずっと言っている。これは全部大ウソ、大間違いだ。なにもわかっていない人の世迷い言でしかない。
実は政府の借金とは、政府の無駄遣いのせいでも、税収が足りないせいでもない。もっと根本的な原因はいまのお金の発行の仕組みにある。いまのお金の発行の仕組みを続ければ、世界中のほぼすべての国は赤字(借金)まみれになるという帰結になる。そのお金の発行の仕組みを続けている限りは政府の借金問題は絶対に解決しない。
では、「お金の発行の仕組み」とはなにか。日銀券だから日銀が発行していると思っているだろうが、それではつじつまが合わない。お金がどれだけあるのかは、さきほど見たとおり1980年に200兆円だったものが現在1000兆円を超えている。800兆円以上のお金が増えている。みなさんがお金だと思っている日銀券は、日本中の紙幣をかき集めても100兆円にもならない。誰がどう見ても計算が合わない。お金の量は1000兆円を超えているのにお札は100兆円しかないのだから。
では、どうやって800兆円も増えたのだろうか。現金・預貯金の総額であるマネーストックM2というのは、日本中の個人や企業が自分のお金だと認識しているものを足したものだ。みなさんも自分のお金は財布の中だけでなく、預金通帳の中にあるものも含めて自分のものだと思っているだろう。1000兆円あるうち100兆円しか紙幣がないということは、ほとんどが預金でしかないということだ。実際には存在しておらず、あると勘違いしているだけだ。では、どうやってその勘違いが生まれるのか。それがいまのお金の発行の仕組みの正体だ。
現代のお金の増やし方=信用創造の仕組みを説明する。
例えば、Aさんが100万円をA銀行に預けに行ったとする。するとA銀行は金庫に入れ、運用もする。銀行には預金準備制度というのがあり、預かった預金のごく一部を日銀に預けなければいけない仕組みになっている。仮に預金準備率が1%とすると、100万円の預金を預かったA銀行は100万円の1%(1万円)を日銀に預けて、残りの99万円を貸すことができる。私がA銀行にお金を借りに行くと、銀行は必ず口座を持たせる。なぜかといえば私が99万円を借りると私の預金通帳に99万円と書き込むだけだからだ。これで私は自分が99万円を持っていると思う。Aさんも口座に100万円持っていると思っている。その時点でお金は199万円に増えている。ただ私は借金だからあまり自分のお金とは思えない。
だが私がB銀行の誰かに99万円を送金してしまえば、それを受けとった誰かはその99万円を純粋に売上か給料かわからないが自分の預金として認識する。これがもともと私の借金であるかなど知らないし、気にもしない。晴れてめでたく、Aさんの100万円の預金は99万円の預金とあわせて、もともと100万円だったお金が199万円に増えることになる。新たに99万円を預かったB銀行は、そのうち1%の9900円を日銀に預け、98万100円をまた誰かに貸すことができる。また同じことが起きる。これをC銀行の誰かに送金すれば、その誰かは98万100円を純粋に自分の預金と認識し、これを預かったC銀行はまた1%(9801円)を日銀に預けて、残りの97万299円を誰かに貸すことができる。もうこの時点で、私の99万円を受けとった人は99万円を持っているし、これを借りて送金した相手は99万100円を持っていることになる。もともとお金を預けたAさんはお金を1円も動かしていない。預金通帳に100万円と書かれたまま。だがお金は300万円に増えている。
これをぐるぐるとやっているうちに、貸せる金額は1%ずつ減っていくが、100万円の元預金÷預金準備率1%=1億円までお金を作り出すことができる。これが信用創造という現代のお金の発行の仕組みだ。こうやってお金が増えている。その結果、みなさんそれぞれが1000兆円持っていると勘違いしているという状態だ。実際にはもっていないのだから勘違いにすぎない。実際に存在しているのではなく、銀行が誰かに借金を貸すことによって作り出した数字が電子的に回ってきて、それをみんながお金と認識し、自分のものだと思っている。みんなが一斉に銀行にお札を取りに行っても金庫にお金があるわけではない。
拡大し続ける巨大なイス取りゲーム
「借金でお金を作る」――この仕組みが意味することは、借金を返すとお金が消えるということだ。最初に私が99万円借りたときには、99万円のお金を作り出し、それを使うこともできる。だが私が返せないかもしれない…と弱気になってすぐ返したとする。返した途端に相殺してお金も消える。仮になんとか借り切ってなにかに使ったとすると、私の手元に残るのは99万円の借金だけだ。もし1年ローンだとすると、1年以内に99万円を世の中から集めてこなければ私はたいへんなことになる。だから1年後に99万円を集めて借金を返すと、同時に世の中から99万円のお金を消して自分の借金を相殺して消すことになる。これはすぐに返しても1年後でも同じだ。
これが意味するものは、現代のお金はほとんどが借金で生まれているということだ。だからみんなが借金を返してしまえばお金が消える。つまりみんなが借金を返してはいけない仕組みなのだ。ただ、だからといって銀行からお金を借りて「お金を返したらお金が消える仕組みだから返さない」といっても銀行は納得しない。必ず返せという。だからみんな毎月返済する。その分お金は消えている。でもお金が減らないのは、その分誰かが借りているからだ。誰かが返せば、誰かが借りて新しいお金を生むという自転車操業だ。返した分、誰かが借り続けなければいけない。
しかも問題は、元本分だけ返すのではなく利息が付く。私も99万円返せばいいのではなく5%の利息なら104万円返さないといけない。借金によって元本分しかお金は生まれていないのにそれ以上のお金を集めようとする。それで何が起きるかといえば、お金が足りなくなる。発行されていないのだから−−。
例えばこの部屋に100人いたとして、1人100万円ずつ銀行からお金を借りて経済を回すとする。それぞれの銀行口座に100万円と記入されてスタートだ。みなさんがマッサージでも占いでもそれぞれサービスを交換し、お金を払ったり、貰ったりして経済を回す。1年後に100万円ずつ借金を返さないといけない。返してしまえばお金は消える。ここに5%の利息が付けば、みんなが1年後までに105万円ずつ集めようとするとお金が足りない。100万円×100人=1億円のお金しか回っていないのに、利息を含めて1人が105万円返そうとすると500万円足りず、必ず誰かが破たんする。いまの金融システムは巨大なイス取りゲームなのだ。
みんなが破たんせずに105万円を返済するには、あと500万円が余分に必要だ。そのためには誰かが借金をする必要がある。ここにもう5人いて100万円×5人=500万円の新たな借金が生まれ、それがみなさんのところにいけばめでたく利息も返済できる。だがそのときはお金が消えている状態で、この5人の手元には500万円の借金しか残らない。この人たちが返すためにさらに5人が必要になる。そして、もともとの1億円のお金があった状態に戻すためにはもう一部屋必要になる。100万円お金を借りる100人だ。つまり、どんどん部屋が大きくなって増えていかなければ回らない。
人口が増え続け、借りる人も増え続け、その人たちが必要とする価値(いろんなサービスや製品)が増え続け、作れば売れ続けるような高度成長期のような状態が続けばいいが、そう長くは続かない。経済成長は必ず止まる。借金でお金を増やし続けなければいけない経済も必ず立ちゆかなくなる。
「政府の借金=お金の発行」 という仕組み
では、実際どうなったのかを先ほどのグラフで見てみたい。日本の現金・預貯金の総額である@マネーストックが200兆から1000兆円へと5倍に増えている。右肩あがりに堅調に伸びているのは、お金と借金が増え続けなければいけない金融システムだからだ。お金を作るために作った借金に利息が付いてどんどん返す金額が増え、それを返すためにどんどんお金が必要だったといことだ。当初は、青い線のB民間銀行貸出が並行に走っており、借金がお金を作っていたことがわかる。
ところがあるときを境にこの2つの線が乖離していく。CGDPが増えなくなり、すっかり横ばいになる。そうすると銀行は誰に貸し続けるのか。1億3000万人しかいないのに同じ人たちに対して永遠にお金と借金を増やす続けることなどできない。B民間銀行貸出が下がっていくのは、それが実際にできなかったというデータだ。
バブルが崩壊してから銀行は不良債権を処理し、貸しはがしや貸し渋りで実は100兆円近く貸し出しを減らしている。貸せる相手が見つからないから、その後も伸ばせていない。貸さないが、いままで借りた人は「返せ」といわれて返し続けるから、だんだんお金は減っていく。新たな借金がなければお金は減る。
だが、@マネーストックはまっすぐ増えている。では、誰が借金をしているのか。答えは赤い線A国債残高だ。民間銀行がマネーストックを支えきれなくなってから急激に日本の国債残高が上がり、いまや並行して上がっている。つまり、政府が借金をしてお金を発行し続けたということだ。民間の借金にかわって政府の借金でお金を作ってきたということだ。これはすべて日銀のデータだ。その気になれば誰でも引っ張ってこれる。みごとに政府の借金がお金を作っていることが証明されている。
いまや1000兆円のみなさんのお金に対して政府の借金は900兆円だ。この900兆円を返すために900兆円の税金を集めれば、みなさんの預貯金はほとんどなくなる。政府が借金でお金を作っているのだから、政府が返済すればマネーストックも道連れにして下まで下がっていく。だから政府の借金がたいへんだから税金を上げなければいけないとか、消費税を上げなければいけないというのは全部大ウソだ。まったくあり得ない世迷い言でしかない。プライマリーバランスも同じだ。でもそれを政府もマスコミも言い続けている。
政府の借金を税金では消せない
政府の借金でお金を発行するというのは、どういうメカニズムなのか。日本の政府の一般会計における税収は年間約50兆円だ。例えば、政府が50兆円の税収を集めれば、みなさんの預貯金が同額減る。それに対して50兆円の予算を組んだとすると、政府の予算というのは公務員給与とか政府支出で民間に行く。集める相手と渡す相手が同じ人とは限らず、ひどく不公平なこともあるだろうが、経済全体としては50兆円の税金を集めて50兆円使うことによって、みなさんに50兆円戻すことになる。基本的には「行って来い」の差し引きゼロだ。
もし70兆円の予算を組んだとすると、みなさんから50兆円集めたうえで、政府は借用書(国債)を書いてそれを銀行に買わせる。銀行がそれを買って20兆円を政府に払う。この20兆円はみなさんの預金から出ていることになる。だが、政府の借金を銀行が買うからといって、みなさんの銀行の預金残高は1円も減らない。減れば誰もが怒るだろう。
そうならないのは、銀行は20兆円分のお金をつくって政府に貸しているからだ。先ほどの例えでAさんが100万円の預金をし、僕が99万円を借りるときにAさんの預金が減らないのも、銀行が99万円をつくって貸しているからだ。政府が銀行に借金をするときも同じ事が起こる。そうすると、政府は集めた税収50兆円に加えて20兆円分の新しいお金を手に入れて、70兆円を政府予算で使う。
そうすると最初の50兆円の税金を払ったみなさんは、70兆円戻ってくるので差し引きで20兆円分増えている。受けとっている実感はなくても誰かが受けとって、そのお金がぐるぐるまわって全体としてみなさんの預金を20兆円増やしている。この20兆円と政府の借金20兆円が同じなのは偶然でもなんでもなく、両方が並行して上がっていく。だからグラフもその通りになっている。これが政府の借金でお金を増やすメカニズムだ。
では逆に政府の借金を税金で返すというのはどういう意味か。例えば、政府の借金を返すために税収を70兆円に上げたとする。みなさんのお金が70兆円減ってしまうが、その後に50兆円の予算しか組まなければ、差し引き20兆円みなさんのお金が消えてしまう。どこに行くかといえば、それは政府の黒字だ。その黒字で借金を返すので、政府の借金とみなさんのお金を20兆円分相殺して消す。借金を返せば、その分のお金が世の中から消えるのは当然のことだ。これをずっとやれば政府の借金は減るが、そのかわりみなさんのお金もほぼ消えてしまう。論理的にありえない話だ。当たり前のことなのだが、ずっとわからないままやり続けて、ようやく去年ぐらいからMMT(現代貨幣理論)が話題になりはじめた。
現代貨幣理論とは、政府が借金をしてお金を発行し続ければいいという話だ。まさに日本が数十年間やっていることだ。必ずこうなる当然の帰結だ。政府の借金でお金を発行し続けたのだから−−。そうでなければ回らない金融システムだ。民間の信用創造、民間の借金によるお金の発行は必ず頭打ちになる。地球は一個しかないのだから、経済成長は必ず止まる。お金と借金を増やし続けるようなことが続くはずがない。この金融システムを維持するために誰かが借金をし続け、お金を発行し続けなければ立ちゆかない。最後まで借り続け、1円も返さなくても借り続けられる政府が借金をし続けてお金を発行し続けなければ、今の金融システムを維持する方法はない。
だからMMTとは、この仕組みをただ単に認めたということに過ぎない。仕組みの結果を認めただけで解決策ではない。そのままそれをやればいいという話ではない。私のことをMMT論者だと誤解している人もいるが、それは間違いだ。
なにが根本的な問題なのか。それは、借金でお金を発行する仕組みそのものだ。このまま借金を続けることは大きな問題があり、政府の国債のもとに年間9兆円もの利息を発生させている。利息とはお金を持っている人がお金を増やす仕組みだ。持っていない人にお金を貸してもっとお金を貰う。年間9兆円だ。日本政府の国債のもとに30年間で300兆円以上の利息が発生している。つまりそれだけお金を持っていない人からお金持ちに所得が移転されているという話だ。なぜお金という公共のもの(それがなければ経済が回せないもの)をつくるのに利息が発生し、その利息が富める者を富ませ、貧しい者から奪い続けるのか。こんなものは社会にとって意味がない。
政府通貨という発想
唯一の解決策は、誰の借金でもないお金を政府が責任をもって発行することだ。早くこれに気づかなければ所得の移転が進み、いまの金融経済そのものが巨大な格差拡大マシーンになっていくし、すでになっているということだ。
私が考える政府通貨とは、1兆円紙幣でいい。この1兆円×130枚を日銀に預けるとする。それを日銀は金庫に入れて、政府の預金口座に130兆円と数字を書き込む。あとはそれを普通にみなさんに送金すればいい。1人100万円ずつ。みなさんの預金口座50万円だったものが150万円になる。それを使うときにはいままで通りに送金したり、1万円札で引き出せばいい。政府貨幣が現行の貨幣と混同されることはない。政府貨幣1兆円は日銀の金庫の中に入ったまま二度と出てこない。それならスペースを取らない1兆円札でいい。
政府の借金を消すときも、政府が1兆円紙幣を900枚作ればいい。それを日銀に預けて金庫に入れると、政府預金口座に900兆円と書き込まれるだけだ。あとは、それをお金を貸してくれる人に返せばいいが、政府の借金はほぼ銀行がまかなっている。銀行が国債を山ほど持っていた。「持っていた」と過去形にしたのはアベノミクスの異次元金融緩和で、日銀が銀行から山ほど国債を買ってしまっている。半分以上の500兆円ほど買ってしまっている。それでなにが起きたかといえば、なにも起きていない。インフレにもなっていないし、金融的になにも起きていない。それなら全部買ってしまえばいい。
それで何が起きるかといえば、日銀の金庫の中に900兆円の国債が入っている。これは政府に貸している分だ。日銀の政府預金口座に900兆円があり、政府が借りた900兆円の国債と政府から預かった900兆円が同じ日銀の中に両方あるという状態になる。相殺して消してしまえばいい。これを消したところでみなさんはなにも感じない。おそらく蝶が羽ばたいたくらいの感覚しかない。
だが、このバタフライ・エフェクトは必ず大きな変化を起こす。なぜかといえば年間9兆円発生していた利息が消滅する。この30年で300兆円もの所得を移転してきた巨大な格差拡大マシーンが止まる。誰が一番困るかと言えば、それでもうけ続けてきた銀行だ。銀行はこの仕組みによって、いままで900兆円、半分買われて400兆、500兆円という利息を得てきた。それが買い取られていきなり現金に変わる。だから収支を圧迫しており、いまや青息吐息だ。日銀は銀行から国債を買って、銀行に「民間にお金を貸しなさい」とプレッシャーを掛けている。それは銀行がお金を貸してはじめてお金が生まれる仕組みからだ。これが金融緩和の本質だ。でも、それができていない。つまり日銀も大したことはやれていないということだ。日銀から全部の国債を買われてしまうといくつかの銀行は潰れる。いろんな手当てをしたうえでやっているが、原理はそういうことだ。このように考えると国家経営も根本的に変わっていく。
忘れ去られている税制の本質
税金とはなにか。ほとんどの人が、使うために必要だから集めると思っている。実際には、日本政府はこの50年間ほとんど赤字でやっている。前回の東京五輪の翌年に建設国債を発行してから、何年かの例外を除いてずっと税収よりも多い予算を組んで、足りない分を政府の借金で賄ってやってきた。足りない分お金をつくってきたし、それができていた。それができるなら別に集めなくてもいい。全部借金でお金を作って使うこともできる。本当は使うために集めているのではない。
だから無税国家にすることも可能だ。政府通貨でお金をつくって全部の政府支出を賄えばいい。税金をゼロにするとみなさんが余計にお金を手にして余裕が生まれ、働く時間を減らし、そのお金と時間を使って休んだり、より文化的な生活が送れる。すると消費が増え、輸入が増える。赤字になるかもしれないが、もしそれで大した赤字にならなかったら、そのまま無税国家ができる。日本は世界一の黒字国だから赤字にしていい国なのだ。
ただ、だからといって税金をゼロにすればいいとは思わない。税金にはもっと大事な、思想の反映とか国家の形をつくるという側面がある。つまり税金は使うために集めるのではなく、国の形をつくるためにある。それはわれわれの考え方に従って決めるものだ。
例えば、所得税が累進課税になっているが、これはお金持ちから余計にとって貧しい人に回していく。これは「所得の再配分」という思想の反映だ。ある程度所得を平準化させて格差を縮めるということだ。みなさんがそのような社会を望むからそう決まっている。
相続税を0%にするか、100%にするかも明確に思想が違う。相続税0%ならばお金持ちの家庭は子や孫もお金持ちという富の格差が世代を超えて続く。100%にすれば富の格差は一代でなくなる。みなさんがどちらの社会に住みたいかによって、その思想を税制に反映させればよいものだ。それによって税制も税金も変わっていくし、それこそが政治の本質だ。
このような税制の本質を忘れ去って、お金が足りないから課税する、政府の借金が大変だから消費税を上げる…という、お金を集めるためのつぎはぎ税制になっている。
価値を生み出さないマネーゲームを優遇
さらに、政治家が点数稼ぎをするためのおかしな税制になっている。
私が非常におかしいと思うのは分離課税だ。それは金融課税。株式の売買や配当に対して所得税とは別に税金が課税される。それが一律20%だ。つまり、株式でいくらもうけようと、配当でいくら稼ごうと一律20%しか課税されない。一時は10%まで減税されていた。それに対して所得税の最高税率は45%だ。地方税も合わせると50%以上とられる。
株式の売買や配当はなにも生み出さない。右から左にお金を動かして、結局なにも作っていない。そういう所得に課税される分離課税がたったの一律20%だ。逆に、所得税というのは基本的に自分たちで働いて価値を作り出している人たちが払う税金であり、それに最高55%が課税される。価値を作って働くよりも、他人のふんどしで相撲をとって右から左にお金と所有権を流す方が低税率で得だから、そうしなさいというのが今の政府だ。
だが、みんなが株式の売買だけを始めたら国は滅ぶ。株式売買といってもその株式会社で実際に価値を作り出して働く人がいなければ株価など上がらない。みんなが株式の売買をやれば国が滅ぶのに「それでいいですよ」というメッセージをこの国の税制は発しているということだ。完全に狂っている。
その結果どのようなことが起きているか。所得によってどれくらいの税負担があるかを国税庁の資料【グラフ参照】でみると、一番高い28・7%の税金を払っているのは1億円プレイヤーだ。この人たちがだいたい所得税を払っているサラリーの上限だ。そこから先は税負担が下がり、右端の100億円以上稼いでいる人たちは、金融課税が10%だった平成25年度では11%しか払っていなかった。翌年に税率が20%になっても所得に対して17%しか払っていないということだ。
つまり、100億円以上稼ぐ人たちは所得税など払っていないということだ。所得税は税率が高くて損だからそういう稼ぎ方はしないのだ。いまの税制の結果だ。税率が低いのは株主優遇なのだ。例えば外国人株主がすごく多いとか、売買を盛んにさせて株価が上がれば「政治家がうまくやった」とか、GDPが上がれば「経済政策が成功した」という。思い込みの点数稼ぎをやっていると、みなさんの本来の働き方や生き方、幸福は全部置き去りになる。そろそろ「おかしいだろ」と誰かがいう必要があるし、それをみんなが理解し、こんなものは変えようという機運をつくる必要がある。
山本太郎代表は、分離課税と所得税を一体化させて総合課税にして累進課税をかければいいと主張している。もちろんそういう考え方もある。だが私個人の意見はもっと過激で、分離課税をそのままにして思いっきり課税すればいいと思う。1年未満の株式売買で得た利益に対しては99%課税する。要するにやめろという話だ。1年未満で株式を売ってもうける人がこの社会に必要なのか? それは誰のためになっているのか? そんな人はいらないし、そんな行為がいらない。
1〜3年の株式保有でもうけても85〜90%。3〜5年なら80%。5年以上もってようやく70%と、どんなに保有しても所得税の最高税率より低くならないようにすればいい。そうすると外国人投資家が裸足で逃げ出す。株価は落ちるかもしれないが、そんなものは知ったことではない。株価が下がってもみなさんの生活には基本的になにも関係ない。一部それを保有している人たちの簿価が下がるだけだ。これがれいわ新選組の政策になるかはわからない。だが、これもみなさん次第で正しいと思う人が多ければ政策になるかもしれない。
価値を生み出すために作るのがお金
国家予算の考え方も根本的に変わる。予算とは、集めたお金の使い道だとたいていの人は思っている。だがこれも違う。そもそも集めなければお金がないということが幻想だ。なぜならいままでも集めらないのにお金を作ってきた。政府通貨でもお金は作れる。
お金を集めなければいけないという発想も古い時代の思い込みだ。かつて日本の場合、戦争に負けて焼け野原になり、生産能力がなかった。それに対してみんなモノが欲しかった。需要>供給、つまり圧倒的な需要に対して供給量が少ない時代だ。供給する生産能力がなかった。だから一時的に税金を集めた。そして、みんなが貯金をした。するとみなさんのお金が減り、購買力が落ちる。需要を抑えて、国家が集めたお金で大規模に投資する。道路や橋、港湾や空港などインフラを充実させる。すると生産性が飛躍的に上がる。それではじめて需要を満たすことができる。これを戦後復興期はずっとやってきた。
昔はサプライサイドエコノミーといわれていた。サプライサイド、つまり供給する側の経済だ。いかにして生産能力を高めるかという話で、生産能力を高めれば高めるほど売れまくっていた時代だ。だが、いまや国家が成熟してインフラも整って、逆に生産能力が有り余る状況になっている。そして、お金を集め続けることにより、とくにプラザ合意以降、みなさんの購買力をコストカットの名の下に落としてしまうことによって生産能力に対して需要が思い切り冷え込んでいる。需要<供給、つまり戦後復興期とは逆のことが起きているのに高い税金を集め、みんなが2000万円を目指して貯金などはじめると大変なことになる。これではお金が動かず、人が動かなくなる。
富とはなにか。それはみなさんが作り出す価値だ。だからみなさんが活動しなくなれば富は生まれない。お金を貯めるというのはこれからは自殺行為だ。でもそういう発想の転換が政治家にはできていない。仕組みをわかっていないからゼロから考える能力がないのだ。
何をするべきなのか。お金を作って配り、使うことだ。価値を作るためにお金を作るのだ。例えば、これから介護産業にものすごい人数が必要になる。この産業を大きくする必要がある。そこにはたくさんの仕事がある。若者たちに行ってほしくても、お金がなく十分な給料がもらえないからみんな行かない。そこにお金を作って投入すれば、そこで働く人が増えて、実際にそこで人が動き始め、そこではじめて価値が生まれる。価値が生まれるなら、その分のお金を先につくって注ぎ込めばいい。それをせずに生まれるべき価値が生まれないということは富がないということだ。根本的に発想を転換する必要がある。
国家の財産とは人の時間と労力
すぐに結果がお金で返ってくるような短期的な投資は民間企業に任せておけばいい。政府がやるべきは中長期的な価値の創造だ。例えば、子どもの教育や環境の保護。こういったものはすぐに利益が返ってくるものではない。子どもの教育にいくら人を使い、お金を投入しても、それが実際にお金として返ってくるのは20年後か、30年後か、50年後かわからない。そんな長期的な投資は民間企業はできない。だが教育の充実は必ず国を豊かにする。そこに絶対に価値が生まれるという信念のもとに政府がお金を作って投入しなければ、その価値は生まれない。
環境保全でもお金など戻ってこない。その価値は計算できない。だがそれは絶対に価値があるものだと信義をもってお金を投じなければいけない。そのためならお金などいくらでも作って突っ込めばいい。そういう発想をもって政府は動かなければいけない。お金で考えるから本質を失う。民間企業だけでなく、政府の予算立案者も政治家もカネ、カネ、カネばっかり考える。
国家経営にとって大事なのはGDPでも株価でもなく、最も大事なのは人の時間と労力と貴重な資源だ。国家が持っているものはこれだけだ。この国にあるのは一人一人の時間と労力、自然資源だけだ。外貨もあるが基本的にこれだけだ。その貴重な時間と労力をいかに大事に無駄なく使って、本当に意味あることに役立てるかというのが国家経営だ。カネの話ではない。
例えば、1億円で穴を掘って埋める。まったく意味のない無駄な事業だ。無駄なのは1億円だからではない。10億円でも1000万円でも関係ない。お金というのはぐるぐると経済を回るだけでなくなりはしない。本質は、このお金が回る間に何をするかだ。1億円の穴掘り事業が無駄なのは、そのために使われた人の時間と労力は二度と返ってこないからだ。それに使われた資源も同じだ。われわれの時間と労力と、国の資源をどれだけ何のために使うかが大事なのだ。これこそが国家経営の本質だ。お金はそのためのツールに過ぎない。
それが人の時間と労力の使い方を決めるのであれば、カネがあるとかないとかは全然関係ない。カネがあろうとなかろうと、絶対にやらなければいけない仕事ならばやればいい。そういう発想が必要だ。なにをやらないかも大事で、人の労力と時間を無駄にしないために障害は取り除かなければいけない。
例えば、この国では高速道路は有料だ。あんなものは無料が当たり前だ。お金で考えるから有料という発想になる。高速道路などは造った時点でコストは確定している。そのために使った人の時間と労力と地球の資源は二度と返ってこない。それを取り戻せると思うのはカネで考えるからだ。課金すればカネが返ってくる。だが有料にすれば高いからみんな使わず、下道を走るといい始める。本来はそれを使ってみなさんの時間と労力をセーブしてもらうために造っているのに、課金して使わせないことによって、そこから先の人の時間と労力は無駄になる。こんなバカな話はない。
あらゆるインフラがそうだ。電気、ガス、水道、通信、郵便、銀行のATMも、公共交通機関もだ。なぜ民営化しているのか? なぜ企業がもうけなければいけない? みなさんの生活に必要なものを提供している企業がもうける必要はない。公営化し、国営化し、最低限の金額でいいし、赤字でも構わない。
例えばJRも国鉄に戻して、一定金額までタダにすればいい。学生とか若者の交通費など全部無料にすればいい。それで有り余る時間を使って、好きな場所に行き、好きな人に会い、好きなモノを見て、持っている時間を有効に使えと。それが富を生む。みなさんの時間と労力を使う以外に実際に富を生む方法などない。課金することによって、富を生み出す機会をどんどん潰している。
消費税がなぜいけないのか。あれが金持ち優遇だとか、8%か5%かというような話ではない。消費税を課税することで、余計にお金を払わされることでみなさんが活動しにくくなる。全国民の活動が低下する。人生の長さは変わらないから、その分人の貴重な時間が無為に過ごされる。これ以上の国家の損失があるだろうか。その分みなさんが価値を生むチャンスを潰しているのだ。思想的にあり得ない。どこかの国はもっと高いなど関係ない。その国が愚かなだけで、消費税などゼロが当たり前だ。そういう無駄な障害を確実に取り去っていく必要がある。
なんのために働くのかという新しい価値観
もう一つ大事なのは、明確な方向性だ。国家経営の仕事として、国を成り立たせるために必要な仕事をみんなに分担してもらう必要がある。食糧の自給、エネルギーの自給、この国に無い物を買ってくるだけの十分な外貨を稼ぐことだ。この3つがなければ基本的に国として自立できない。残念ながら食料の自給とエネルギーの自給ははるか遠く及ばない。これはなんとかしなければならない。それでも外貨は世界一稼いでいる。もうやりすぎたので、お金を配って返すことによって生活を楽にし、みなさんから取り過ぎた時間を返すべきだ。
それをやったとしても、みなさんは「遊ぶより人のために役立ちたい」といって休まずに働き続けるかもしれない。それなら今まで通りの働き方ではなく、何のために働くのかという新しく明確な方向性を出そうと−−。われわれはこの30年以上、その大きな方向性を失っている。戦後復興という大きな目標を成し遂げた後、何のために生き、働いているのかわからなくなったまま、ひたすら目先の利益とか売上のために働き続ける状態がずっと続いてきた。若者たちはそんな大人たちを見てもっとわからない。そんな社会になんで入っていかなければいけないのか、なんのためにそれをしているのか、どこの企業に入っても「売れ、売れ」といわれるが、それがそんなに重要なのか若者たちはわからない。おそらく彼らもそれほど生きる意義を見いだせないから、10〜30代の若者の死因のトップが自殺になったりしている。
われわれ大人が何のために生き、働くのかというのを国家として大きな方向性を示す。これだけの経済大国で、世界一の黒字を稼ぐ生産性を持つに至ったわれわれとしては、もはやそれを自分たちのためだけに役立てるのではなく、もっと世界中の困っている人たち、餓死寸前に置かれている10億人の人たち、壊れゆく地球環境を保全する技術、そのための生き方や社会のインフラなど、世界の問題を解決するようなモデル社会をつくるために使わなければいけない。われわれの社会が大きな使命を帯びたときに、人の生き方や働き方が変わり、何が不必要で何が必要かがみなさんの中で選別されていくだろう。カジノやパチンコ産業などがいかに無用なものであるかがはっきりしてくる。
お金集めのために社会や地球を破壊
世界のあらゆる問題を解決するには、いまの世界がいかにおかしいかをちゃんと認識する必要がある。残念ながらいまの世界経済はすでに狂気だ。本質から経済システムがかけ離れている。経済とは、価値の生産と価値の交換だ。みなさんに必要な価値があるからそれを作り、それを互いに交換する、それだけだ。必要ないものは作らなくていいし、売らなくていい。なのに私たちは必要ないものを膨大に作り、捨てさせ、壊し続けている。いつの間にかお金を貰うために経済を動かしている。
結局、お金をもらうゲームだ。先ほどいったように、1人100万円の借金に利息をつけて経済を回す巨大なイス取りゲームだ。お金をもらわないと破たんするゲームだから、何を提供するかなど関係ない。それが人を幸せにするものかなど関係なく、だましてお金を取った方が楽だ。1年後にお金を集めなければ破たんするのだから。
あらゆる理屈を付けて、短時間でいかにお金を稼ぐかというゲームが始まり、何を作っているかなど二の次になる。一番簡単な方法は「安かろう悪かろう」の商品を作り、買ってもらい、すぐ捨ててもらい、また買ってもらうことをいかに短い時間でくり返すかだ。現実に身の回りに溢れている。当然、世界はゴミの山になる。お金がすべての社会。狂気の沙汰でしかない。
いかに短時間で手を掛けずに商品化してお金をもらうか――いまの経済や経営学は、学問でもなく、世の中の本質を見失っている。経済の専門家がことあるごとに「コストがどうだ」というが、いまの経営学がいうコストとは人間が動く労力の分しか入っていない。魚を獲るときに無駄な種も含めてばっさり大量に捕獲しているのは、その方が安いからだ。あくまで人間が獲るコストしか入っておらず、多様な魚がそこに存在するまでにかかった長い時間は一切入っていない。原油や石炭などの鉱物のコストも、掘り出す人間が動くコストしか入っておらず、それらの鉱物がその状態になるまでにかかった何十万年という長い時間は入っていない。原発もそうだ。元に戻しようのないものをコストとして考えること自体が無理がある。計算しようのないものをコストに入れていないのだから、論理として完全に破たんしている。そろそろ正気に戻る必要がある。
世界中の企業がそんなことばかりやって、こんな経済を回していたら地球が破たんするに決まっている。
資本主義にかわる新しい社会の展望
みんなが当たり前だと思っている資本主義という制度も疑わなければいけない。資本主義とは、資本家のいうことをきかなければいけないという考え方だ。誰もが自由意思をもって生きているのに、週5日も6日もお金のために拘束されて動かされ続け、残りのわずかな時間だけ自分のために使える。その人がお金をもっているからというだけで、誰かのいうことを聞いて生きなければいけない理由がどこにあるのだろうか?
資本主義というのは、資本家が労働者を安く使って、同じ労働者(消費者)に高く売りつけるという仕組みだ。企業が利益を上げるためにそれ以外の方法はない。世界中の企業がそれをやっている。だから、世界で最も裕福な28人が世界の下位半分の36億人と同じだけの資産を持つに至っている。そして10億人の人たちが年中餓死寸前の状態に置かれている。資本主義だから仕方がないのか? 文明を持つ人間の生き方として根本的に間違っていないか? そろそろ真剣に考えるときに来ている。
資本家が利益を上げて資本が増えるというが、資本って本当に増えるのか。お金で考えるから増えると勘違いする。数字が増えるから。でも資本とは何かといえば、人の労働力や土地といった基本的に実態物だ。お金などいくら貯めても実態としては札束という紙切れでしかなく、預金であれば数字でしかない。そこからは何も作り出せない。
本来の資本である人の労働力、使える土地などは永遠に増え続けるのか? 一つしかない地球が2個、3個になるのか? 普通に考えれば全部思い込みでしかないことがわかる。
お金とは虚の数字でしかない。いま実際に起きていることは、この数字を一部の人たちがどんどん集め、その数字を使って市場で土地を買ったり、株を買ったり、さらに知的所有権、種子、水道などみなさんの生活に必要なものの権利を買っていく。膨大に膨れてしまった何の意味もない数字で、実際にみなさんが生きるために必要な地球を買い取っている。それによってみなさんを永続的に隷属化することができる。そういうことがもうすでに起きているということを、そろそろみなさんもお気づきだろう。狂気なのだ。
お金には何の意味もないことに気づかなければいけない。お金とは、交換できる実体(価値)があって初めて意味を持つ。でも実体物は、金利でお金が増えるように時間とともに増えるものではない。普通のものは時間とともに壊れたり、腐ったりして減っていくのが自然だ。だがお金が金利で増えていけば、変わらない実体物(価値)の量に対してお金が膨大に増えてバランスがとれなくなる。バランスを取るために無理矢理作って売ることをやっていれば当然地球は破壊される。追いつくはずがないのだから。
同時に、気づかなければいけないのは、お金の量=借金の量ということだ。このことをほとんどの人が知らないことが問題なのだ。みなさんがあると思っているお金は、すべて借金の裏返しなのだ。借金をすべて返してしまえばお金はない。あるのは実態物だけであって、お金というのは借金と利益を合わせたゼロサムゲームだ。借金と利益を平等に分け合えばお金は消えてしまうので、お金を奪い合い、借金を押しつけ合あわせる。私たちもそうしなければ、ちょっとバランスを崩して弱い方に回ってしまうと借金まみれになり、貧困に突き落とされる。みんなが豊かになるのではなく、必ず多くの人が貧困に突き落とされる社会の仕組みなのだ。
必然的に熾烈な競争社会になり、生産性のない人たちがいじめられるようになる。生産性がないというのはとても狭い価値観の中での言葉だ。その人たちが社会保障などでお金を手にすると、その分の借金が誰かに回る。「俺たちが一生懸命働いているのに、生産性のない連中が社会保障でお金を手に入れるのはけしからん」という感情もこの経済システムが生み出すものだ。社会はどんどんギスギスしていく。こんな醜い仕組みをこのまま子どもたちに渡していいわけがない。
いますべきことは、この金融資本主義の仕組みを根こそぎ変えることだ。これ以上に重要な政治課題はないと思う。すべての政治家が命をかけてとりくむべき課題だ。地球規模の大転換が迫られている。
日本の政治というのは、それを促進するための政治であるべきだと思う。だからまったく新しい次元の新しい政党をつくって、新しい政治を実行するべきだ。いまの既存の政党や政治家はこのレベルにはいない。なぜみなさんが世界一の黒字を稼ぎながら、こんなに苦しいのかということすらわかっていない。だから、これから世界がどこにシフトしていくのかについても考えすら及ばない。新しい次元でものごとを考える勢力を作って、国会の中に殴り込みを掛けなければいけない時に来ている。
2011年に政治団体を設立し、お金の仕組みのおかしさを言い続けてきた私がれいわ新選組から立候補したのは、この地球規模の大転換のチャンスがいまここに来ていると思ったからだ。まったく無名の人間や勢力が国政の壁を突破することはたいへん難しい。だが、世界的な新しいムーブメントがそこに生まれようとしている。
ただ、例え国政を突破しても、世界を変えるためには、社会を構成する一人一人の頭の中を変革することからしか変わらない。紙切れを「お金」と思い込むのは、人間が作り出した概念に過ぎないし、所有権というのも人間の意識だ。人間の生命活動は本来生きて死ぬだけなのに、地球上のものを所有していると思い込むことによってサバイブ(生き残る)できると思い込む。資本主義とは、一種の所有主義であり、所有者支配主義だ。株主つまりお金を持っている人のいうことを聞かなければいけない。なぜ? という問いに哲学的に答えられるだろうか。ただそういう仕組みだというだけの話だ。その正しさを誰か説明できるだろうか。
資本主義制度によって効率的にモノを生産でき、みんなが生き残れた時代もあったかもしれないが、現在はそれが逆にみんなを苦しめている。これからは金持ちのいうことを聞いて生きる社会ではなく、もっとみんなが自由に創造的に生き、お互いの人権が尊重される社会がもうそこまで来ている。そのような大きな思想の転換が求められる時代が来ており、政治もその新しい転換をベースにして新しい運動を作らなければ、大きな数は生まれないと思っている。
できるか、できないかではない。自分がやらなければならいと信じることをやるか、やらないかだ。いずれ死ぬのなら、人間生きている間に何をするかだ。仮にそれができなくても、誰かがそれをやり、他にもやる人が出てきて、ちょっとずつ進んでいるうちに最後には大転換が到来する。すべてはプロセスであり、自分が生きている間に何ができるかをみんながくり返していけば、大きな変化が起きる。この社会がおかしい理由をみんなが気づき始めれば、それはもう止まらない。そこからみんなが新しい希望を抱くようになれば世界は変わる。昨今の世界情勢、日本国内の変化をみれば、それはもう遠い未来の話ではなくなっている。
一人一人の意識や行動が変われば、世界は変わる。みんなで日本から世界を変えよう。
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おおにし・つねき
東京都出身。上智大学外国語学部英語学科卒業。シアトル大学政治科学専攻。JPモルガン銀行資金部為替ディーラー。株式会社インフォマニア代表取締役。政治団体フェア党代表
https://www.chosyu-journal.jp/seijikeizai/12166
http://www.asyura2.com/20/reki4/msg/625.html#c13
大阪市で4日、「なんとかならんかこの日本!?」と題して、れいわ新選組の大西つねき氏と松尾匡・立命館大学教授の対談がおこなわれた。会場には200人の定員をこえる参加者が集った。
集会の趣旨説明をおこなった元衆議院議員の辻恵弁護士は、民主党が消費増税を決めたことにマニフェストの裏切りだと反対して離党したこと、「この30年、日本社会はアメリカ隷従の新自由主義でズタズタにされ二極分化の貧困社会に、与野党談合政治で“今だけ、金だけ、自分だけ”のモラル崩壊社会になった。この状態を放っておけない。そこに消費税廃止を掲げてれいわ新選組が登場した。れいわを軸に与野党談合政治を切り裂く政治勢力が連携し、人人の熱気を醸成する運動を展開し、政権交代を実現しよう。当時は覚悟がなかった私も退路を断って覚悟を決めてやりたい」と訴えた。
初対面で同年齢だという大西氏と松尾氏の対談は、参加者に女性層が多いことをめぐって始まった。概要は以下の通り。
需要あるのに金回らぬ仕組
大西 子どもを持つ女性たちの関心事は格差や貧困だけでなく、今までの経済活動をやっていては拙いのではないか、もっと持続可能な経済、持続可能な地球をという問題意識がある。金融システムが地球を壊している。子どもたちの未来を壊している。だから金融システムを変えないといけないということを私は話す。そこに女性は危機感を持っていて本質的なニーズがある。全然関心がないような主婦たちも自分たちの生活や子どもの未来のことになると感性に響く。れいわの選挙活動のボランティアも女性が多く、若い世代の女性だ。
松尾 持続可能性とか地球環境の問題とかいってきた政党はこれまでもあったが、一方で財政危機を表に出して緊縮財政をいってきたので、貧しく苦しんでいる人たちには「では、俺たちの生活はどうしてくれるんだ」と受け入れられなかった。
大西 環境団体は金融システムが環境を壊していることをいわない。お金の発行の仕組みを壊さないと何も解決しない。金の発行の仕組みを変えるといっている政党は日本のみならず世界にない。
松尾 私もほとんど同じことをいっているが、リベラルから叩かれる。「安倍政権の手先」「資本主義を延命させる小手先の政策を広めている」「資本家をもうけさせて喜ばせている」と。本当は資本主義の根幹を変えるラジカルをいっているのに後から弾が飛んでくる。
私がいっているのはお金のつくり方を変えようということ。お金は世の中の血液みたいなものだが、実は銀行が私的な利益のためにつくっている。水が民営化されるというと、私的利益のために民営化されるのはけしからんと怒る。それと同じことで現実は民営化されている。つまり企業が銀行から金を借りるとき銀行は企業の預金口座に一億円と書く。それが支払いや給与などで世の中に出回っていく。景気がいい時は貸そうとするから世の中にお金が出回る。お金を返したら世の中から金が消えるので景気は悪くなる、というように景気変動が起こる。
そうではなく政府がお金をつくる。借金としてでなく政府がお金をつくって、世の中に必要な公共のために金を使う。人人のために金をバラまく。人人の暮らしの役に立つために金を使う。お金の使い方、投資を私的なためでなく社会化していくということで、資本主義社会の仕組みを根本的に変えるものだ。
大西 お金は銀行が勝手につくり出している。銀行はみなさんから預かったお金を貸しているのではない。ないところから勝手につくって貸している。お金と借金を同時につくり出している。あるように見えるお金は誰かの借金だ。銀行は何もないところからお金と借金を同時につくって、お金の部分を誰かに貸して金利を取る。ないのにつくって金利を取る仕組み、これがおかしい。この仕組みをほとんどの人が知らない。
利息が付くという仕組みは、お金の奪い合いになる。100万円を100人が預けると1億円が生まれる。それで経済を回して1年後に全額を返すとお金はなくなる。だが、5%の利息を付けると105万円返さないといけない。常に借金でお金をつくり出して、そこに利息がかかることによって年中みんながお金が足りない状態になる。お金のために奪い合いをやり続けないといけない。今の金融システムは巨大な椅子取りゲームだ。本末転倒なのだ。何でもいいからお金を使ってもらって捨てて(消費して)もらってというのをやり続けていかないといけない。金融システムが地球を壊しているし、「今だけ、金だけ、自分だけ」になる原因が金融システムにある。この仕組みを変えないといけない。一番大事な政治課題だが、いう政治家も政党もいない。れいわ新選組が出てきて、初めていい出した。
財源論は一掃できる。財源がないからできないではなく、財源はできるから全部やらなければいけなくなる。そのさいの課題は、政府でつくったお金で何をやるのか。年金や教育など各分野で何をやるか、何を直すのか。制度設計だ。現場を熟知している人たち、俯瞰的な眼を持った人たちを集めて各分野の政策をつくっていく。こういう論議は国会中継よりおもしろいと思う。
松尾 私たちが提唱している薔薇キャンペーンは、ヨーロッパで労働者階級の尊厳の象徴としての薔薇に「バラマキ」をかけている。もともとアメリカ建国史には、銀行が金をつくるか、国家が金を発行するか、金の発行権の奪いあいの闘争史があった。政府がお金を発行するというのは別に突飛な話ではない。すぐは政府発行通貨はハードルが高い。法改正もいる。アベノミクスで日銀が銀行の国債を引き受ける金融緩和もマクロ経済的には似たような面はある。
大西 だが、錯乱している。金融緩和をしながら消費増税をする。これは矛盾だ。消費税減税するなら一貫しているが、消費税を増税して法人税を減税するというのは逆の付け回しで、格差を拡大してごく一部の株主のための政治をやっている。そもそも消費税は非人道的な税で、固いものと柔らかいものを一緒の袋に入れて混ぜるので、弱いものが潰れていく。現在の力関係がそのまま反映する税だ。
松尾 使い道で政府支出を増やせばいいが、逆に抑制しているから、何をやっているんだという話だ。国債を買って金を出すにしても、何に使うかの問題だ。もっと政府支出を増やそう。武器を買うのでなく、国民生活に必要なところへ使おう。労働や社会保障分野にもっと金を使おうといっている。財源論はウソだ。もっとお金は使える。「輸出型経済から内需型経済へ」は前からいわれている。雇用をつくり出し、人人の生活が豊かになる持続可能な社会の構想を考えていく。
大西 お金が富と思っているが、お金に価値はない。お金はただの紙切れ、数字でしかない。交換できる実体こそが価値だ。銀行が何もないところから借金でつくっているのだから、銀行でなく政府が借金する方がまだまし。借金では返すとなくなるから、借金せずに政府が金(数字)をつくってばらまけばいい。ばらまくと「お金がないから働けない」となっている介護産業にも金がいって多くの人が働ける。働くと富が生まれる。金がないから働けないというのは逆さまだ。
何もしないのが一番のコストであって、お金を使うことがコストではない。お金を使うと人が動く、人が動くと価値が生まれる。本当のコストは人が動かないこと、時間も労力も使わないことだ。だから人が動かなくなる消費税はあってはいけない。上げるか下げるかではなく、ゼロが当たり前。国家経営の当たり前の考え方だが、それすら考えることができない人たちがこの国を動かしている。野党も同じだ。当面は困っている人に手を差し伸べながら、その先の国家ビジョン、例えばエネルギーや食糧の自給など日本の進む方向の話をしていきたい。私は3時間かけて話す。今日の話で消化不良ならば、10月9日18時から浪速区民ホールでも話をするので来てほしい。
https://www.chosyu-journal.jp/seijikeizai/13500
http://www.asyura2.com/20/reki4/msg/625.html#c14
真実知ることで新しい価値観を
れいわ新選組の大西つねき氏の講演会(主催/スマイルマップやまぐち)が9日、山口県萩市の総合福祉センターで開かれた。「お金の仕組みを知ってワクワクする未来をつくろう!」をテーマにした講演会には、平日にもかかわらず萩市内をはじめ山口県内各地、島根、広島、福岡からも聴講希望者が訪れ、約100人が会場を埋めた。
大西氏は、JPモルガン銀行やバンカース・トラスト銀行で為替ディーラーやトレーダーとして働いた後、被災地や学校などでのボランティア活動をしながら「現代の狂った金融システム」についての研究・執筆活動を重ね、この経済の仕組みを根本的に変えなければ日本社会が抱える問題はなにも解決しないこと、そのためには経済・金融のあるがままの現実を知らせ、多くの人がこれまで正しいと思い込まされてきた価値観を転換する必要を感じたことから政治団体を立ち上げて活動してきたことをのべた。
とくに近年は、横浜市内の「底辺校」といわれる高校で図書館や校内カフェのボランティア活動に参加するなかで高校生とのふれあいが増え、「昼休みになると市民から差し入れられたお菓子やジュースをめがけて200人もの高校生が押し寄せてくる。不思議に思っていたが、よく聞いてみると“昨日からなにも食べてない”“今日は校内カフェがあるからなにも(食事を)持って来ていない”という。糖分補給のために来ているのだ」と子どもたちの置かれている窮状を伝えた。
「単に生まれた環境が違うだけで、有能で感性豊かな多くの子どもたちが社会的に排除され、努力が足りないといわれ、“生きている価値がない”とさえ思い込まされる。子どもだけでなく、大人も同じだ。病気、ケガ、失業、離婚、災害などの少しのきっかけで貧困に突き落とされる。東日本大震災の被災地でも、あれだけの災害を生きのびながら、お金がないために負債を抱えながら壊れた家に住まなければならない人がたくさんいる。お金が、社会が必要としているところではなく、もうかるところにしか流れないからだ。これは巨大な経済、金融問題であり、社会を形づくる根本的な価値観の問題だ」とのべた。
大西つねき氏
「本来の豊かさとは、お金ではなく、個人の心の自由、つまりみんなが自分の時間と労働力を本当に意味あるものに使うことができる社会だと思う。だが、日本のマネーストック(現金・預貯金の総額)がこの三十数年間で200兆円から1000兆円へと5倍も増えているのに、もらえる給料も自由な時間も増えていない。生産効率化の成果は人人の生活には還元されず、いまも人人はお金に追い回されて人生を奪われ続けている。とくに日本は対外純資産341兆円(貿易黒字)を持つ世界一のお金持ち国家でありながら、国民の多くはその恩恵を受けとることなく、大企業が内部留保を貯め込み、債務返済のためといって消費税増税までしている。世界一の借金国家アメリカ(対外純資産=マイナス1077兆円)に大金を払ってポンコツオスプレイ、F35、最近では山盛りのトウモロコシまで買わされている。働いても働いても楽にならないのはこの狂気ともいえる仕組みのためだ」と指摘した。
現代のお金は、銀行がはじめに借り入れた預金の貸し付けをくり返しながら銀行間をめぐるあいだに数字上で100倍に膨らむ「信用創造」によって増えており、だれかの借金に依存して社会全体のお金が増えている。また、借金を返済すると同時に同量のお金が社会から消える。90年代初頭のバブル崩壊後は信用収縮で民間が借金をしなくなったため、かわりに政府の赤字国債でお金を増やしてきたことを日銀のデータをもとに解説した。そして「政府の借金=民間の資産」であり、900兆円もの国の借金を税金で返してしまえば、社会全体から同量(ほぼすべての現金・預貯金)が消え、金融経済が破たんするカラクリを指摘した。
大西氏は、この国の借金に年間約9兆円の利息が発生し、それによる富の移動で格差が拡大していることをあげ、「900兆円の国の負債を返すには、1兆円の政府紙幣を900枚発行して日銀に納め、日銀は民間から900兆円分の国債をすべて買いとり、日銀のなかで両者を相殺すれば国の財政問題は簡単に解決する。国民にとっては、蝶が羽ばたいたくらいのインパクトしかないだろうが、これによって巨大な格差拡大マシーンが消滅する。計り知れない効果を生む」と強調した。
また、「税とは、予算を組む(使う)ために集めると思われているが、日本の予算はこの50年間赤字国債でやっている。つまり、必要なら集めなくても借金でお金をつくれることを証明している。税制とは、予算が足りないから集めるというものではなく、所得の再配分(累進課税)や所得格差の是正(相続税)など、みなさんの思想を国の形に反映するためのものだ。それこそが政治の本質だ」とのべ、金融資産や株取引への課税を所得税から分離軽減して、なんの価値も生み出さないギャンブルを奨励している現在の税制の本末転倒ぶりを批判した。
現代の経済システム全体が「巨大なイスとりゲーム」であり、すでに上位8人が下位36億人と同じ資産を独占するまでに行き着くなど資本主義が末期的な局面を迎えている。お金をもらうために人間がキリキリ舞いさせられ、お互いに富を奪い合う荒廃した社会ではなく、この不条理を乗りこえる新しい価値観に立って「本当に豊かな暮らし、社会を実現するためにまず自分自身から変えていこう。そうすれば社会が変わり、日本が変われば、世界が変えられる」と呼びかけた。
3時間に及ぶ講演を参加者は集中して聞き入り、終了後も大西氏を囲んだ交流が続いた。
https://www.chosyu-journal.jp/seijikeizai/13097
http://www.asyura2.com/20/reki4/msg/625.html#c15
【19-20シーズン 111日目】 天候:晴れ
3/19(木) 谷川岳でスキー。
本日はお隣群馬県に遠征です。
下道行脚だと朝が物凄く早くなってしまうので、
数年ぶりに高速道路に突撃してみました。
色々な意味で(車が分解破裂するんじゃないかとか)恐ろしい移動でした(笑)
目的地は谷川岳ベースプラザ。
TJと言えば、バンクドスラロームの聖地であり、
BCエリアも険しいイメージがありハードルが高すぎて訪れた事がありませんでした。
今回はチームスプリングバンクからのお誘いをいただき、
エキスパートな皆さんについていけるか不安でしたが、
意を決してTJ初見参となりました。
TJの朝はのんびりしております。
ロープウェイ始発10分前でやっとチケットの販売が始まりました。
お客さんはほぼ“登山客”、スキーヤーやスノーボーダーは少数でした。
降雪があった昨日はもっと殺伐としていたのかな?
我々は片道券を購入して初谷川岳ロープウェイへ。
厳密には、前橋っ子は小学生の遠足で訪れているはずなので、初めてではないのですが、
あまり記憶には無く、当時はまだ今のフニテルではなかったはず。
フニテルは蔵王以来2回目です。
さぁ、天神平のスキー場へ降り立ちました。
リフトは使わず、登山口からスタートします。
周りはほぼ雪山登山の方ばかり、
パウダー狙いなら昨日か一昨日ですよね…、
本日は絶好の登山日和、我々もハイクを楽しみます。
いきなり急登でTJの洗礼を受けます…。
目指すは谷川岳の頂上。
こんな所でテント泊されている方もいらっしゃるのですね。
ご来光登山でもされていたのか!?
急登あり、アップダウンあり、
シール登行でのツリーランはほぼ経験なく苦戦しました。
更に、
急な下り、岩場、氷もあり…。
こりゃシール登行じゃ無理です。
チームスプリングバンクからのお誘いの時点で冒険BCになるだろうと予感していました(笑)
ただ、装備はかぐらでの通常仕様、
ちょっと勉強不足でした…。
冒険野郎H氏がアイゼンをお貸しして下さいました。
ありがとうございます!
シールだけで問題ないと勝手に自己判断してしまいました。
ブーツ用と板用、どちらも所有しているのに不携帯。
まさかアイゼンが必要な場所に訪れるとは…。
持っていても持って来なければ意味が無い、反省…。
冒険野郎H氏はツボ足でスタスタと登っていきます。
何故かスキーとスプリットボードを担いで(笑)
H氏にとって標高2,000メートル以下のエリアは近所の公園みたいなモノなのでしょう。
スキーを担いで登るのは、スキー歴2年目で月山に訪れた時以来だな。
ちゃんとしたBCでは初めて。
氷や岩場じゃなくても、急登はシールだと厳しいです。
かぐらBCの穏やかな斜面に慣れちゃったので、ヘトヘトになりました。
しばらく登っていたら、
ムムム…!?
あれは…!?
おぉ、
一際輝いて観えるあの山は苗場山と神楽峰。
TJから望むKG、美しい…景色に癒されます。。
背後には赤城山、武尊山、
遠くには日光白根や至仏山、浅間山などなど、群馬の山々がグルーっと見渡せます。
ノルン水上や奥利根、宝台樹などのスキー場も確認できました。
新潟県側の何もない山間に変な建造物があるぞ!?
何だろうと調べてみたら、
関越自動車道の排気用煙突だそうです。
約11キロメートルもある長いトンネルなので排気口が必要だそうで。
立地的に、地上から造るのが難しくトンネル内から建造されたので、
無骨なコンクリート打ちっぱなしなのだそうです。
ここまで登って来なければ観られない関越排気口。
今更ながら谷川岳を貫通している関越道や上越線って凄いなぁと感動しました。
谷川岳山頂トマの耳に到着。
山頂の絶景で小休憩。
天気が良くて気持ちいい!
お隣オキの耳の奥には越後三山。
オキの耳の方が若干標高が高いからあちらが山頂なのかな?
そしてトマの耳眼下にはマチガ沢。
毎年、夏まで滑られている猛者が通う雪渓。
今年はこの積雪量だと夏までは厳しいのかな…。
それにしても、雪崩の巣窟であり崖みたいなこの斜面、
左側からはスキーヤー、右側からはスノーボーダーの滑走ラインが残されていました。
恐ろしいなぁと眺めておりましたが、
このお方は、
気持ち良さそうだなぁ、イっちゃおうかなぁ…、
という目でウットリと眺めている(笑)
今回は違う斜面をいただきます。
昇温と日差しで雪質には全く期待していませんでしたが、
結構板が走っています!!
おぉ、さいこ〜!!
さすがにパウダーとは呼べませんが、
想像より走る雪でいい斜面を楽しめました。
この辺までは。
標高を落とせば落とすほど、雪が重すぎてターン出来ない。
それなのに、ドンドン斜度がキツくなる。
何より、
雪崩とクラックが恐ろしくてまともに滑れませんでした。
ビビりながら降りてくるのがやっと…。
冒険野郎H氏は奇声を上げながら軽快に楽しんでおられました。
やっぱりこのお方にとってはこんなの近所の公園なのでしょう(笑)
わたくしめにはスゴいとこ滑ってきたな…としか思えない…。
想定していましたが、雪上なのはこの辺まで。
沢底に穴が開いているとかではなく、ボトムは完全に川です。
例年のこの時季ならベースまで多分雪なのでしょうね。
この沢が全部雪だったら楽しそうだなぁ。
今年は、藪漕ぎあり、岩場の下りあり、
チームスプリングバンクらしいアドベンチャーでした。
スキーとスノーボードを担ぎ、楽しそうに沢渡りをするH氏。
スキーブーツで川を渡るのは初めてです(笑)
山菜を摘みながら下山するのもいいね。
無事下山しました。
チームスプリングバンクの皆様、ありがとうございました。
雪山登山あり、沢下りあり、こんな冒険BC意外と好きです(笑)
天気が良く絶景を堪能でき最高でした。
次訪れる時はパウダーも狙いたいね!
スキー場発表積雪量:210cm
使用板:DPS / CASSIAR F95 Foundation
ビンディング:FRITSCHI / Tecton12
ストック:Black Diamond / Carbon Probe Ski Pole
ブーツ:K2 / PINNACLE 130
http://golgo13zilch.jp/blog-entry-3787.html
http://www.asyura2.com/09/revival3/msg/781.html#c7
新型コロナ株安はいつまで続くか2020年3月21日
https://www.globalmacroresearch.org/jp/archives/9216
新型コロナウィルス肺炎が世界的流行となっており、2月まではあまり反応しなかった株式市場も流行がヨーロッパとアメリカに広がると途端に下落を始めた。中国や日本が感染している間は気にしないが、自分たちが感染し始めると途端に慌て始めるのが西洋人の主導する金融市場である。
さて、株安の下落幅はともかく、下落スピードは史上稀に見る速さであり、一時的な反発もほとんどないまま一方的に下落を続けている。アメリカの株価指数S&P 500のチャートは次のようになっている。
かなりの急落である。しかもこの間世界中の中央銀行によって次々に緊急の追加緩和が行われているにもかかわらず、まったく効いていないどころか火に油を注いでいる。
•サマーズ氏: 利下げは新型肺炎相場には効かない、中央銀行は弾切れの危機に
•日銀がETF買い入れ倍増の追加緩和、株式市場への影響は下落方向に決まっている
何故これほどの速さで株価が下落しているのだろうか。リーマンショックのあった2008年でさえ天井から底値までは1年半かかっており、今ほどの速度で急激に下落したわけではない。以下は当時のチャートである。
下落スピードが示す今後の相場動向
今回の急激な下落は買い方の投資家には容赦のないようにも見えるが、ほとんど反発もせず金融緩和に目もくれずに一直線に下落しているという事実は投資家に今後の動向を予想するためのヒントを与えてくれる。
何故か。株価が何に反応しているかということを率直に教えてくれるからである。
株価は何故金融緩和に目もくれず下落し続けるのだろうか。市場が金融政策に反応しているわけではないからである。株価は何故これほどまでに一直線に下落を続けるのだろうか。一直線に悪化している別の何かに連動しているからである。
一直線に悪化している別の何かとは何か。それはアメリカとヨーロッパにおける感染者数の推移である。現在の株価の急降下は株式市場がほとんど近視眼的に感染者数の推移に連動していることを意味している。新型ウィルスの感染はねずみ算式に増えるため、流行が拡大している限り次の日には状況は悪化しており、よって市場も次の日には下落しているということである。それが毎日続いているのである。
しかしこの一直線の動きは同時にこの下落相場の底はいつかということを投資家に教えてくれる。つまり、感染者数の増加が最悪期を脱するまでは株価も最悪期を脱することはなく、株価が最悪期を脱するのは感染者数の増加率が鈍化し始めた時以降である。
欧米における感染者数の動向
つまり、株価の動向を占うためには(市場が気にしている欧米の)感染者数をフォローすれば良いということになる。では欧米での流行状況はどうなっているのか。最新のものを再確認しよう。
まずは主要国の感染者数からである。
•イタリア: 47,021人
•スペイン: 21,571人
•アメリカ: 17,235人
•ドイツ: 13,957人
•フランス: 12,612人
ヨーロッパの感染はイタリアから始まった。その後国境を接するドイツやフランスに広まり、ヨーロッパ各地に広まっていった。
しかしやはり金融市場にとって一番重要なのはアメリカの感染者数である。アメリカで感染が広がったのはヨーロッパより遅かったが、感染者数は最近急増しており、既にフランスの数を追い抜いている。
アメリカの最近の感染者数の推移を以下に取り上げてみたい。
•3月10日: 936人 (+291 +45%)
•3月11日: 1,205人 (+269 +29%)
•3月12日: 1,598人 (+393 +33%)
•3月13日: 2,163人 (+565 +35%)
•3月14日: 2,825人 (+662 +31%)
•3月15日: 3,497人 (+672 +24%)
•3月16日: 4,372人 (+875 +25%)
•3月17日: 5,656人 (+1,284 +29%)
•3月18日: 8,074人 (+2,418 +43%)
•3月19日: 11,980人 (+3,906 +48%)
•3月20日: 17,235人 (+5,255 +44%)
最後は3日連続で40%を超える上昇率である。複利計算の恐ろしさを知っている投資家ならばこの数字がどれほど深刻かが分かるだろう。40%の上昇が10日続くだけで感染者数は17,235人から50万人近くまで急上昇する。
実際には何処かで増加率が鈍化するだろうが、アメリカでは感染者数の天井がまったく見えない状況である。しかしこれはアメリカでは全土での外出禁止はまだ行われていないためだろう。
明暗分かれたヨーロッパ各国
逆にヨーロッパの感染状況を見てみると、外出禁止と店舗の閉鎖が行われた後は感染者数の増加は確実に鈍化している。特に両方の措置が行われているフランスと、まだどちらも部分的にしか行われていないドイツでは明暗が分かれている。
まずはドイツから見てゆこう。
•3月10日: 1,460人 (+348 +31%)
•3月11日: 1,884人 (+424 +29%)
•3月12日: 2,369人 (+485 +26%)
•3月13日: 3,062人 (+693 +29%)
•3月14日: 3,795人 (+733 +24%)
•3月15日: 4,838人 (+1,043 +27%)
•3月16日: 6,012人 (+1,174 +24% 近隣国との国境閉鎖)
•3月17日: 7,156人 (+1,144 +19%)
•3月18日: 8,198人 (+1,042 +15%)
•3月19日: 10,999人 (+2,801 +34%)
•3月20日: 13,957人 (+2,958 +27%)
•3月21日: (バイエルン州で外出制限)
データ元をRobert Koch Instituteのものに変更したので前回と数字が少し異なっている。
イタリアやフランスと異なり、ドイツでは全土での外出制限も店舗の閉鎖も行われていない。人の集まりやすい公共施設は閉鎖されているが、全店舗ではない。21日からようやくバイエルン州など一部で外出制限が行われる。
周辺諸国では5人以上の会合が禁止される中、ドイツではパーティが禁止される前に最後の晩餐だとでも言うように各地で「コロナパーティ」なるものが開催されており、感染拡大に拍車をかけている。
メルケル首相は22日に緊急会合を開く予定であり、強制力をもった封鎖措置がなければ状況が良くならないならば外出禁止令を発令すると警告しているが、ルールに完全に従うドイツ人がルールなしで賢明に行動するわけがないだろう。
ドイツでの感染者数の増加率はいまだ30%といったところだろうか。この数字は封鎖措置が既に行われているフランスでは状況が少し異なっている。
以下はフランスの数字である。
•3月10日: 1,784 (+372 +26%)
•3月11日: 2,281 (+497 +28%)
•3月12日: 2,876 (+595 +26%)
•3月13日: 3,661 (+785 +28%)
•3月14日: 4,499 (+838 +23%)
•3月15日: 5,423 (+924 +20% 必需品以外の全店舗の閉鎖)
•3月16日: 6,633 (+1,210 +22%)
•3月17日: 7,730 (+1,097 +17% 不必要な外出の禁止)
•3月18日: 9,134 (+1,404 +18%)
•3月19日: 10,995 (+1,861 +20%)
•3月20日: 12,612 (+1,617 +15%)
外出禁止と店舗の封鎖を境に増加率が明らかに減少している。このまま行けば10%台が定着しそうである。
結論
ここまで厳密に数字を見ていけば今後の動向もある程度明確に見えてくるというものだろう。上手く行けばフランスでは4月の前半には流行状況が収まり始めるかもしれない。ドイツなどの近隣国ではもう少し遅れて4月の半ばか国によっては4月の後半だろう。
金融市場にとって一番重要なアメリカだが、流行がヨーロッパなどに追いつき始めているのは幸か不幸か、早く流行れば封鎖措置が早く行われ、早く収まることになる。フランスやドイツよりも封鎖措置が少し遅いと仮定すると、やはり4月の後半頃だろうか。
これが投資家にとって吉報なのかどうかは分からないが、株式市場が最悪期に到達するまであと1ヶ月ぐらいだろうということである。ここでは1月の頃からピークは4月前後だと言い続けているが、現時点でもその予想は変更する必要がなさそうである。
流行がピークに達した後株価がどうなるかということについては、債券市場の問題が悪化しなければ流行ピークは株式の買い場だという1月からの予想をキープすることが出来る。
その場合は基本的には売り叩かれたものを買ってゆくことになる。どの銘柄を買うべきかということについては下落前に紹介した以下の銘柄も参考になるかもしれないが、基本的には全く別の銘柄を今後紹介してゆくつもりである。
•新型肺炎関連銘柄: 国内感染拡大で下落する個別銘柄はどれか (2020/2/17)
しかし問題はやはりドル相場と債券市場である。これらの市場が嫌な動きを見せていることは説明した通りである。
•ドル円上昇が示す世界的倒産ラッシュの可能性
•新型コロナ株安、長期金利の動向を2018年世界同時株安と比較する
こうした問題は封鎖措置が長引くほど深刻となり、世界的な債務危機にもなりかねない。逆に封鎖措置が短期間で奏功すれば特に問題にならずに終わるだろう。
そうしたことも含めて新型コロナ相場をこれからも解説してゆく。投資家としてはなかなか興味深い1ヶ月になりそうである。
https://www.globalmacroresearch.org/jp/archives/9216
http://www.asyura2.com/09/revival3/msg/822.html#c296
新型コロナ株安はいつまで続くか2020年3月21日
https://www.globalmacroresearch.org/jp/archives/9216
新型コロナウィルス肺炎が世界的流行となっており、2月まではあまり反応しなかった株式市場も流行がヨーロッパとアメリカに広がると途端に下落を始めた。中国や日本が感染している間は気にしないが、自分たちが感染し始めると途端に慌て始めるのが西洋人の主導する金融市場である。
さて、株安の下落幅はともかく、下落スピードは史上稀に見る速さであり、一時的な反発もほとんどないまま一方的に下落を続けている。アメリカの株価指数S&P 500のチャートは次のようになっている。
かなりの急落である。しかもこの間世界中の中央銀行によって次々に緊急の追加緩和が行われているにもかかわらず、まったく効いていないどころか火に油を注いでいる。
•サマーズ氏: 利下げは新型肺炎相場には効かない、中央銀行は弾切れの危機に
•日銀がETF買い入れ倍増の追加緩和、株式市場への影響は下落方向に決まっている
何故これほどの速さで株価が下落しているのだろうか。リーマンショックのあった2008年でさえ天井から底値までは1年半かかっており、今ほどの速度で急激に下落したわけではない。以下は当時のチャートである。
下落スピードが示す今後の相場動向
今回の急激な下落は買い方の投資家には容赦のないようにも見えるが、ほとんど反発もせず金融緩和に目もくれずに一直線に下落しているという事実は投資家に今後の動向を予想するためのヒントを与えてくれる。
何故か。株価が何に反応しているかということを率直に教えてくれるからである。
株価は何故金融緩和に目もくれず下落し続けるのだろうか。市場が金融政策に反応しているわけではないからである。株価は何故これほどまでに一直線に下落を続けるのだろうか。一直線に悪化している別の何かに連動しているからである。
一直線に悪化している別の何かとは何か。それはアメリカとヨーロッパにおける感染者数の推移である。現在の株価の急降下は株式市場がほとんど近視眼的に感染者数の推移に連動していることを意味している。新型ウィルスの感染はねずみ算式に増えるため、流行が拡大している限り次の日には状況は悪化しており、よって市場も次の日には下落しているということである。それが毎日続いているのである。
しかしこの一直線の動きは同時にこの下落相場の底はいつかということを投資家に教えてくれる。つまり、感染者数の増加が最悪期を脱するまでは株価も最悪期を脱することはなく、株価が最悪期を脱するのは感染者数の増加率が鈍化し始めた時以降である。
欧米における感染者数の動向
つまり、株価の動向を占うためには(市場が気にしている欧米の)感染者数をフォローすれば良いということになる。では欧米での流行状況はどうなっているのか。最新のものを再確認しよう。
まずは主要国の感染者数からである。
•イタリア: 47,021人
•スペイン: 21,571人
•アメリカ: 17,235人
•ドイツ: 13,957人
•フランス: 12,612人
ヨーロッパの感染はイタリアから始まった。その後国境を接するドイツやフランスに広まり、ヨーロッパ各地に広まっていった。
しかしやはり金融市場にとって一番重要なのはアメリカの感染者数である。アメリカで感染が広がったのはヨーロッパより遅かったが、感染者数は最近急増しており、既にフランスの数を追い抜いている。
アメリカの最近の感染者数の推移を以下に取り上げてみたい。
•3月10日: 936人 (+291 +45%)
•3月11日: 1,205人 (+269 +29%)
•3月12日: 1,598人 (+393 +33%)
•3月13日: 2,163人 (+565 +35%)
•3月14日: 2,825人 (+662 +31%)
•3月15日: 3,497人 (+672 +24%)
•3月16日: 4,372人 (+875 +25%)
•3月17日: 5,656人 (+1,284 +29%)
•3月18日: 8,074人 (+2,418 +43%)
•3月19日: 11,980人 (+3,906 +48%)
•3月20日: 17,235人 (+5,255 +44%)
最後は3日連続で40%を超える上昇率である。複利計算の恐ろしさを知っている投資家ならばこの数字がどれほど深刻かが分かるだろう。40%の上昇が10日続くだけで感染者数は17,235人から50万人近くまで急上昇する。
実際には何処かで増加率が鈍化するだろうが、アメリカでは感染者数の天井がまったく見えない状況である。しかしこれはアメリカでは全土での外出禁止はまだ行われていないためだろう。
明暗分かれたヨーロッパ各国
逆にヨーロッパの感染状況を見てみると、外出禁止と店舗の閉鎖が行われた後は感染者数の増加は確実に鈍化している。特に両方の措置が行われているフランスと、まだどちらも部分的にしか行われていないドイツでは明暗が分かれている。
まずはドイツから見てゆこう。
•3月10日: 1,460人 (+348 +31%)
•3月11日: 1,884人 (+424 +29%)
•3月12日: 2,369人 (+485 +26%)
•3月13日: 3,062人 (+693 +29%)
•3月14日: 3,795人 (+733 +24%)
•3月15日: 4,838人 (+1,043 +27%)
•3月16日: 6,012人 (+1,174 +24% 近隣国との国境閉鎖)
•3月17日: 7,156人 (+1,144 +19%)
•3月18日: 8,198人 (+1,042 +15%)
•3月19日: 10,999人 (+2,801 +34%)
•3月20日: 13,957人 (+2,958 +27%)
•3月21日: (バイエルン州で外出制限)
データ元をRobert Koch Instituteのものに変更したので前回と数字が少し異なっている。
イタリアやフランスと異なり、ドイツでは全土での外出制限も店舗の閉鎖も行われていない。人の集まりやすい公共施設は閉鎖されているが、全店舗ではない。21日からようやくバイエルン州など一部で外出制限が行われる。
周辺諸国では5人以上の会合が禁止される中、ドイツではパーティが禁止される前に最後の晩餐だとでも言うように各地で「コロナパーティ」なるものが開催されており、感染拡大に拍車をかけている。
メルケル首相は22日に緊急会合を開く予定であり、強制力をもった封鎖措置がなければ状況が良くならないならば外出禁止令を発令すると警告しているが、ルールに完全に従うドイツ人がルールなしで賢明に行動するわけがないだろう。
ドイツでの感染者数の増加率はいまだ30%といったところだろうか。この数字は封鎖措置が既に行われているフランスでは状況が少し異なっている。
以下はフランスの数字である。
•3月10日: 1,784 (+372 +26%)
•3月11日: 2,281 (+497 +28%)
•3月12日: 2,876 (+595 +26%)
•3月13日: 3,661 (+785 +28%)
•3月14日: 4,499 (+838 +23%)
•3月15日: 5,423 (+924 +20% 必需品以外の全店舗の閉鎖)
•3月16日: 6,633 (+1,210 +22%)
•3月17日: 7,730 (+1,097 +17% 不必要な外出の禁止)
•3月18日: 9,134 (+1,404 +18%)
•3月19日: 10,995 (+1,861 +20%)
•3月20日: 12,612 (+1,617 +15%)
外出禁止と店舗の封鎖を境に増加率が明らかに減少している。このまま行けば10%台が定着しそうである。
結論
ここまで厳密に数字を見ていけば今後の動向もある程度明確に見えてくるというものだろう。上手く行けばフランスでは4月の前半には流行状況が収まり始めるかもしれない。ドイツなどの近隣国ではもう少し遅れて4月の半ばか国によっては4月の後半だろう。
金融市場にとって一番重要なアメリカだが、流行がヨーロッパなどに追いつき始めているのは幸か不幸か、早く流行れば封鎖措置が早く行われ、早く収まることになる。フランスやドイツよりも封鎖措置が少し遅いと仮定すると、やはり4月の後半頃だろうか。
これが投資家にとって吉報なのかどうかは分からないが、株式市場が最悪期に到達するまであと1ヶ月ぐらいだろうということである。ここでは1月の頃からピークは4月前後だと言い続けているが、現時点でもその予想は変更する必要がなさそうである。
流行がピークに達した後株価がどうなるかということについては、債券市場の問題が悪化しなければ流行ピークは株式の買い場だという1月からの予想をキープすることが出来る。
その場合は基本的には売り叩かれたものを買ってゆくことになる。どの銘柄を買うべきかということについては下落前に紹介した以下の銘柄も参考になるかもしれないが、基本的には全く別の銘柄を今後紹介してゆくつもりである。
•新型肺炎関連銘柄: 国内感染拡大で下落する個別銘柄はどれか (2020/2/17)
しかし問題はやはりドル相場と債券市場である。これらの市場が嫌な動きを見せていることは説明した通りである。
•ドル円上昇が示す世界的倒産ラッシュの可能性
•新型コロナ株安、長期金利の動向を2018年世界同時株安と比較する
こうした問題は封鎖措置が長引くほど深刻となり、世界的な債務危機にもなりかねない。逆に封鎖措置が短期間で奏功すれば特に問題にならずに終わるだろう。
そうしたことも含めて新型コロナ相場をこれからも解説してゆく。投資家としてはなかなか興味深い1ヶ月になりそうである。
https://www.globalmacroresearch.org/jp/archives/9216
http://www.asyura2.com/09/revival3/msg/823.html#c251
新型コロナ株安はいつまで続くか2020年3月21日
https://www.globalmacroresearch.org/jp/archives/9216
新型コロナウィルス肺炎が世界的流行となっており、2月まではあまり反応しなかった株式市場も流行がヨーロッパとアメリカに広がると途端に下落を始めた。中国や日本が感染している間は気にしないが、自分たちが感染し始めると途端に慌て始めるのが西洋人の主導する金融市場である。
さて、株安の下落幅はともかく、下落スピードは史上稀に見る速さであり、一時的な反発もほとんどないまま一方的に下落を続けている。アメリカの株価指数S&P 500のチャートは次のようになっている。
かなりの急落である。しかもこの間世界中の中央銀行によって次々に緊急の追加緩和が行われているにもかかわらず、まったく効いていないどころか火に油を注いでいる。
•サマーズ氏: 利下げは新型肺炎相場には効かない、中央銀行は弾切れの危機に
•日銀がETF買い入れ倍増の追加緩和、株式市場への影響は下落方向に決まっている
何故これほどの速さで株価が下落しているのだろうか。リーマンショックのあった2008年でさえ天井から底値までは1年半かかっており、今ほどの速度で急激に下落したわけではない。以下は当時のチャートである。
下落スピードが示す今後の相場動向
今回の急激な下落は買い方の投資家には容赦のないようにも見えるが、ほとんど反発もせず金融緩和に目もくれずに一直線に下落しているという事実は投資家に今後の動向を予想するためのヒントを与えてくれる。
何故か。株価が何に反応しているかということを率直に教えてくれるからである。
株価は何故金融緩和に目もくれず下落し続けるのだろうか。市場が金融政策に反応しているわけではないからである。株価は何故これほどまでに一直線に下落を続けるのだろうか。一直線に悪化している別の何かに連動しているからである。
一直線に悪化している別の何かとは何か。それはアメリカとヨーロッパにおける感染者数の推移である。現在の株価の急降下は株式市場がほとんど近視眼的に感染者数の推移に連動していることを意味している。新型ウィルスの感染はねずみ算式に増えるため、流行が拡大している限り次の日には状況は悪化しており、よって市場も次の日には下落しているということである。それが毎日続いているのである。
しかしこの一直線の動きは同時にこの下落相場の底はいつかということを投資家に教えてくれる。つまり、感染者数の増加が最悪期を脱するまでは株価も最悪期を脱することはなく、株価が最悪期を脱するのは感染者数の増加率が鈍化し始めた時以降である。
欧米における感染者数の動向
つまり、株価の動向を占うためには(市場が気にしている欧米の)感染者数をフォローすれば良いということになる。では欧米での流行状況はどうなっているのか。最新のものを再確認しよう。
まずは主要国の感染者数からである。
•イタリア: 47,021人
•スペイン: 21,571人
•アメリカ: 17,235人
•ドイツ: 13,957人
•フランス: 12,612人
ヨーロッパの感染はイタリアから始まった。その後国境を接するドイツやフランスに広まり、ヨーロッパ各地に広まっていった。
しかしやはり金融市場にとって一番重要なのはアメリカの感染者数である。アメリカで感染が広がったのはヨーロッパより遅かったが、感染者数は最近急増しており、既にフランスの数を追い抜いている。
アメリカの最近の感染者数の推移を以下に取り上げてみたい。
•3月10日: 936人 (+291 +45%)
•3月11日: 1,205人 (+269 +29%)
•3月12日: 1,598人 (+393 +33%)
•3月13日: 2,163人 (+565 +35%)
•3月14日: 2,825人 (+662 +31%)
•3月15日: 3,497人 (+672 +24%)
•3月16日: 4,372人 (+875 +25%)
•3月17日: 5,656人 (+1,284 +29%)
•3月18日: 8,074人 (+2,418 +43%)
•3月19日: 11,980人 (+3,906 +48%)
•3月20日: 17,235人 (+5,255 +44%)
最後は3日連続で40%を超える上昇率である。複利計算の恐ろしさを知っている投資家ならばこの数字がどれほど深刻かが分かるだろう。40%の上昇が10日続くだけで感染者数は17,235人から50万人近くまで急上昇する。
実際には何処かで増加率が鈍化するだろうが、アメリカでは感染者数の天井がまったく見えない状況である。しかしこれはアメリカでは全土での外出禁止はまだ行われていないためだろう。
明暗分かれたヨーロッパ各国
逆にヨーロッパの感染状況を見てみると、外出禁止と店舗の閉鎖が行われた後は感染者数の増加は確実に鈍化している。特に両方の措置が行われているフランスと、まだどちらも部分的にしか行われていないドイツでは明暗が分かれている。
まずはドイツから見てゆこう。
•3月10日: 1,460人 (+348 +31%)
•3月11日: 1,884人 (+424 +29%)
•3月12日: 2,369人 (+485 +26%)
•3月13日: 3,062人 (+693 +29%)
•3月14日: 3,795人 (+733 +24%)
•3月15日: 4,838人 (+1,043 +27%)
•3月16日: 6,012人 (+1,174 +24% 近隣国との国境閉鎖)
•3月17日: 7,156人 (+1,144 +19%)
•3月18日: 8,198人 (+1,042 +15%)
•3月19日: 10,999人 (+2,801 +34%)
•3月20日: 13,957人 (+2,958 +27%)
•3月21日: (バイエルン州で外出制限)
データ元をRobert Koch Instituteのものに変更したので前回と数字が少し異なっている。
イタリアやフランスと異なり、ドイツでは全土での外出制限も店舗の閉鎖も行われていない。人の集まりやすい公共施設は閉鎖されているが、全店舗ではない。21日からようやくバイエルン州など一部で外出制限が行われる。
周辺諸国では5人以上の会合が禁止される中、ドイツではパーティが禁止される前に最後の晩餐だとでも言うように各地で「コロナパーティ」なるものが開催されており、感染拡大に拍車をかけている。
メルケル首相は22日に緊急会合を開く予定であり、強制力をもった封鎖措置がなければ状況が良くならないならば外出禁止令を発令すると警告しているが、ルールに完全に従うドイツ人がルールなしで賢明に行動するわけがないだろう。
ドイツでの感染者数の増加率はいまだ30%といったところだろうか。この数字は封鎖措置が既に行われているフランスでは状況が少し異なっている。
以下はフランスの数字である。
•3月10日: 1,784 (+372 +26%)
•3月11日: 2,281 (+497 +28%)
•3月12日: 2,876 (+595 +26%)
•3月13日: 3,661 (+785 +28%)
•3月14日: 4,499 (+838 +23%)
•3月15日: 5,423 (+924 +20% 必需品以外の全店舗の閉鎖)
•3月16日: 6,633 (+1,210 +22%)
•3月17日: 7,730 (+1,097 +17% 不必要な外出の禁止)
•3月18日: 9,134 (+1,404 +18%)
•3月19日: 10,995 (+1,861 +20%)
•3月20日: 12,612 (+1,617 +15%)
外出禁止と店舗の封鎖を境に増加率が明らかに減少している。このまま行けば10%台が定着しそうである。
結論
ここまで厳密に数字を見ていけば今後の動向もある程度明確に見えてくるというものだろう。上手く行けばフランスでは4月の前半には流行状況が収まり始めるかもしれない。ドイツなどの近隣国ではもう少し遅れて4月の半ばか国によっては4月の後半だろう。
金融市場にとって一番重要なアメリカだが、流行がヨーロッパなどに追いつき始めているのは幸か不幸か、早く流行れば封鎖措置が早く行われ、早く収まることになる。フランスやドイツよりも封鎖措置が少し遅いと仮定すると、やはり4月の後半頃だろうか。
これが投資家にとって吉報なのかどうかは分からないが、株式市場が最悪期に到達するまであと1ヶ月ぐらいだろうということである。ここでは1月の頃からピークは4月前後だと言い続けているが、現時点でもその予想は変更する必要がなさそうである。
流行がピークに達した後株価がどうなるかということについては、債券市場の問題が悪化しなければ流行ピークは株式の買い場だという1月からの予想をキープすることが出来る。
その場合は基本的には売り叩かれたものを買ってゆくことになる。どの銘柄を買うべきかということについては下落前に紹介した以下の銘柄も参考になるかもしれないが、基本的には全く別の銘柄を今後紹介してゆくつもりである。
•新型肺炎関連銘柄: 国内感染拡大で下落する個別銘柄はどれか (2020/2/17)
しかし問題はやはりドル相場と債券市場である。これらの市場が嫌な動きを見せていることは説明した通りである。
•ドル円上昇が示す世界的倒産ラッシュの可能性
•新型コロナ株安、長期金利の動向を2018年世界同時株安と比較する
こうした問題は封鎖措置が長引くほど深刻となり、世界的な債務危機にもなりかねない。逆に封鎖措置が短期間で奏功すれば特に問題にならずに終わるだろう。
そうしたことも含めて新型コロナ相場をこれからも解説してゆく。投資家としてはなかなか興味深い1ヶ月になりそうである。
https://www.globalmacroresearch.org/jp/archives/9216
http://www.asyura2.com/20/reki4/msg/592.html#c15
新型コロナ株安はいつまで続くか2020年3月21日
https://www.globalmacroresearch.org/jp/archives/9216
新型コロナウィルス肺炎が世界的流行となっており、2月まではあまり反応しなかった株式市場も流行がヨーロッパとアメリカに広がると途端に下落を始めた。中国や日本が感染している間は気にしないが、自分たちが感染し始めると途端に慌て始めるのが西洋人の主導する金融市場である。
さて、株安の下落幅はともかく、下落スピードは史上稀に見る速さであり、一時的な反発もほとんどないまま一方的に下落を続けている。アメリカの株価指数S&P 500のチャートは次のようになっている。
かなりの急落である。しかもこの間世界中の中央銀行によって次々に緊急の追加緩和が行われているにもかかわらず、まったく効いていないどころか火に油を注いでいる。
•サマーズ氏: 利下げは新型肺炎相場には効かない、中央銀行は弾切れの危機に
•日銀がETF買い入れ倍増の追加緩和、株式市場への影響は下落方向に決まっている
何故これほどの速さで株価が下落しているのだろうか。リーマンショックのあった2008年でさえ天井から底値までは1年半かかっており、今ほどの速度で急激に下落したわけではない。以下は当時のチャートである。
下落スピードが示す今後の相場動向
今回の急激な下落は買い方の投資家には容赦のないようにも見えるが、ほとんど反発もせず金融緩和に目もくれずに一直線に下落しているという事実は投資家に今後の動向を予想するためのヒントを与えてくれる。
何故か。株価が何に反応しているかということを率直に教えてくれるからである。
株価は何故金融緩和に目もくれず下落し続けるのだろうか。市場が金融政策に反応しているわけではないからである。株価は何故これほどまでに一直線に下落を続けるのだろうか。一直線に悪化している別の何かに連動しているからである。
一直線に悪化している別の何かとは何か。それはアメリカとヨーロッパにおける感染者数の推移である。現在の株価の急降下は株式市場がほとんど近視眼的に感染者数の推移に連動していることを意味している。新型ウィルスの感染はねずみ算式に増えるため、流行が拡大している限り次の日には状況は悪化しており、よって市場も次の日には下落しているということである。それが毎日続いているのである。
しかしこの一直線の動きは同時にこの下落相場の底はいつかということを投資家に教えてくれる。つまり、感染者数の増加が最悪期を脱するまでは株価も最悪期を脱することはなく、株価が最悪期を脱するのは感染者数の増加率が鈍化し始めた時以降である。
欧米における感染者数の動向
つまり、株価の動向を占うためには(市場が気にしている欧米の)感染者数をフォローすれば良いということになる。では欧米での流行状況はどうなっているのか。最新のものを再確認しよう。
まずは主要国の感染者数からである。
•イタリア: 47,021人
•スペイン: 21,571人
•アメリカ: 17,235人
•ドイツ: 13,957人
•フランス: 12,612人
ヨーロッパの感染はイタリアから始まった。その後国境を接するドイツやフランスに広まり、ヨーロッパ各地に広まっていった。
しかしやはり金融市場にとって一番重要なのはアメリカの感染者数である。アメリカで感染が広がったのはヨーロッパより遅かったが、感染者数は最近急増しており、既にフランスの数を追い抜いている。
アメリカの最近の感染者数の推移を以下に取り上げてみたい。
•3月10日: 936人 (+291 +45%)
•3月11日: 1,205人 (+269 +29%)
•3月12日: 1,598人 (+393 +33%)
•3月13日: 2,163人 (+565 +35%)
•3月14日: 2,825人 (+662 +31%)
•3月15日: 3,497人 (+672 +24%)
•3月16日: 4,372人 (+875 +25%)
•3月17日: 5,656人 (+1,284 +29%)
•3月18日: 8,074人 (+2,418 +43%)
•3月19日: 11,980人 (+3,906 +48%)
•3月20日: 17,235人 (+5,255 +44%)
最後は3日連続で40%を超える上昇率である。複利計算の恐ろしさを知っている投資家ならばこの数字がどれほど深刻かが分かるだろう。40%の上昇が10日続くだけで感染者数は17,235人から50万人近くまで急上昇する。
実際には何処かで増加率が鈍化するだろうが、アメリカでは感染者数の天井がまったく見えない状況である。しかしこれはアメリカでは全土での外出禁止はまだ行われていないためだろう。
明暗分かれたヨーロッパ各国
逆にヨーロッパの感染状況を見てみると、外出禁止と店舗の閉鎖が行われた後は感染者数の増加は確実に鈍化している。特に両方の措置が行われているフランスと、まだどちらも部分的にしか行われていないドイツでは明暗が分かれている。
まずはドイツから見てゆこう。
•3月10日: 1,460人 (+348 +31%)
•3月11日: 1,884人 (+424 +29%)
•3月12日: 2,369人 (+485 +26%)
•3月13日: 3,062人 (+693 +29%)
•3月14日: 3,795人 (+733 +24%)
•3月15日: 4,838人 (+1,043 +27%)
•3月16日: 6,012人 (+1,174 +24% 近隣国との国境閉鎖)
•3月17日: 7,156人 (+1,144 +19%)
•3月18日: 8,198人 (+1,042 +15%)
•3月19日: 10,999人 (+2,801 +34%)
•3月20日: 13,957人 (+2,958 +27%)
•3月21日: (バイエルン州で外出制限)
データ元をRobert Koch Instituteのものに変更したので前回と数字が少し異なっている。
イタリアやフランスと異なり、ドイツでは全土での外出制限も店舗の閉鎖も行われていない。人の集まりやすい公共施設は閉鎖されているが、全店舗ではない。21日からようやくバイエルン州など一部で外出制限が行われる。
周辺諸国では5人以上の会合が禁止される中、ドイツではパーティが禁止される前に最後の晩餐だとでも言うように各地で「コロナパーティ」なるものが開催されており、感染拡大に拍車をかけている。
メルケル首相は22日に緊急会合を開く予定であり、強制力をもった封鎖措置がなければ状況が良くならないならば外出禁止令を発令すると警告しているが、ルールに完全に従うドイツ人がルールなしで賢明に行動するわけがないだろう。
ドイツでの感染者数の増加率はいまだ30%といったところだろうか。この数字は封鎖措置が既に行われているフランスでは状況が少し異なっている。
以下はフランスの数字である。
•3月10日: 1,784 (+372 +26%)
•3月11日: 2,281 (+497 +28%)
•3月12日: 2,876 (+595 +26%)
•3月13日: 3,661 (+785 +28%)
•3月14日: 4,499 (+838 +23%)
•3月15日: 5,423 (+924 +20% 必需品以外の全店舗の閉鎖)
•3月16日: 6,633 (+1,210 +22%)
•3月17日: 7,730 (+1,097 +17% 不必要な外出の禁止)
•3月18日: 9,134 (+1,404 +18%)
•3月19日: 10,995 (+1,861 +20%)
•3月20日: 12,612 (+1,617 +15%)
外出禁止と店舗の封鎖を境に増加率が明らかに減少している。このまま行けば10%台が定着しそうである。
結論
ここまで厳密に数字を見ていけば今後の動向もある程度明確に見えてくるというものだろう。上手く行けばフランスでは4月の前半には流行状況が収まり始めるかもしれない。ドイツなどの近隣国ではもう少し遅れて4月の半ばか国によっては4月の後半だろう。
金融市場にとって一番重要なアメリカだが、流行がヨーロッパなどに追いつき始めているのは幸か不幸か、早く流行れば封鎖措置が早く行われ、早く収まることになる。フランスやドイツよりも封鎖措置が少し遅いと仮定すると、やはり4月の後半頃だろうか。
これが投資家にとって吉報なのかどうかは分からないが、株式市場が最悪期に到達するまであと1ヶ月ぐらいだろうということである。ここでは1月の頃からピークは4月前後だと言い続けているが、現時点でもその予想は変更する必要がなさそうである。
流行がピークに達した後株価がどうなるかということについては、債券市場の問題が悪化しなければ流行ピークは株式の買い場だという1月からの予想をキープすることが出来る。
その場合は基本的には売り叩かれたものを買ってゆくことになる。どの銘柄を買うべきかということについては下落前に紹介した以下の銘柄も参考になるかもしれないが、基本的には全く別の銘柄を今後紹介してゆくつもりである。
•新型肺炎関連銘柄: 国内感染拡大で下落する個別銘柄はどれか (2020/2/17)
しかし問題はやはりドル相場と債券市場である。これらの市場が嫌な動きを見せていることは説明した通りである。
•ドル円上昇が示す世界的倒産ラッシュの可能性
•新型コロナ株安、長期金利の動向を2018年世界同時株安と比較する
こうした問題は封鎖措置が長引くほど深刻となり、世界的な債務危機にもなりかねない。逆に封鎖措置が短期間で奏功すれば特に問題にならずに終わるだろう。
そうしたことも含めて新型コロナ相場をこれからも解説してゆく。投資家としてはなかなか興味深い1ヶ月になりそうである。
https://www.globalmacroresearch.org/jp/archives/9216
http://www.asyura2.com/20/reki4/msg/128.html#c2
シオニズムを宗教的原理に置いているのは、ユダヤ教徒と、アメリカの福音派キリスト教徒(右派)であり、彼らをクリスチャンシオニストと呼んでいる。
2017年、トランプを大統領に押し上げた勢力こそ、この福音派であり、すなわちシオニズムであった。
福音派は、アメリカ人の23%を占めるといわれ、アメリカ最大の宗教勢力であり、かつ共和党最大の支持母体である。
このグループから、最近、トランプは批判されるようになっていたのだが、今回、イランの革命防衛隊司令官を殺害した理由は、大統領選における福音派の支持を呼びかけるためだったといわれる。
福音派は、中東におけるハルマゲドンの引き金を引いて、「約束の地」を領有することを熱望しているといわれる。
このため、トランプに対し、事実上の対イラン戦争に踏み切るよう圧力をかけ続けてきたのである。
___
第45代アメリカ大統領、ドナルド・トランプが2017年初頭に登場したとき、TPPを排除し、アメリカの利益のためだけに行動すると自称するトランプを「反グローバリスト」と位置づけて拍手喝采した者が多かった。
だが私は、トランプの共和党リバタリアニズム丸出しの利己主義人生観と、金儲けだけの、優しさの欠落した強欲な発想に、強い不快感を抱いた。
2017年、トランプを大統領に押し上げた勢力こそ、この福音派であり、すなわちシオニズムであった。
福音派は、アメリカ人の23%を占めるといわれ、アメリカ最大の宗教勢力であり、かつ共和党最大の支持母体である。
このグループから、最近、トランプは批判されるようになっていたのだが、今回、イランの革命防衛隊司令官を殺害した理由は、大統領選における福音派の支持を呼びかけるためだったといわれる。殺害は、突如、予告や警告も、裁判もプロパガンダもないまま、国際法を踏みにじって実行された。
こんなことをすれば、トランプ自身が、やがて「世界のお尋ね者」になることが避けられないのだが、大統領選への福音派の支持を求めて強行された。
福音派は、中東におけるハルマゲドンの引き金を引いて、「約束の地」を領有することを熱望しているといわれる。
このため、トランプに対し、事実上の対イラン戦争に踏み切るよう圧力をかけ続けてきたのである。
トランプ再選には、福音派の支持が必要であり、福音派は聖書の予言の実現を望んでいる。もし、トランプ大統領がヨハネの黙示録の最後の第7の封印を解くなら、絶大な支持が期待できる。ということで、再選するために中東戦争をするしかないのだ。
http://www.asyura2.com/17/ban7/msg/446.html#c6
大型高級車はとても儲かるが経済危機に弱い
画像引用:https://www.carnichiwa.com/wp-content/uploads/2019/11/20TGRNA1008.png
高級車メーカーは経済危機で倒産する法則
最近のトヨタは高級車志向を強めていて700万円以上や1000万円以上のモデルを次々に発売している。
先日は超高級ミニバン「グランエース」を発売したが日本車としては画期的な巨大さと価格を備えていた。
全長5.3m、幅はミラー込みで2.5m、重量は2.7トン以上と破格で価格も700万円以上と型破りでした。
なんでもこの車はアラブのお金持ちなどVIP送迎用で、自分で車を運転するような人はお呼びでないらしい。
外観だけは小さめのアルファードに似ているが、アルファードはカムリベースなのに対しグランエースはハイエースの上級仕様をベースにしている。
そのアルファードも中心モデルは500万円から700万円と高価で、東南アジアやアラブの金持ちに人気だった。
東南アジアやアラブは暑さが厳しく道路が渋滞し、砂漠やジャングルがあったり道路がデコボコだったりします。
そんな国ではお金持ちは自分で車を運転せず、後部座席のVIPシートでくつろぎながら時間を過ごすのだそうです。
アルファードはアジアの金持ちに売れまくったので、より豪華で高価なグランエースが投入された。
海外での中心価格は1000万円以上でメルセデスの上級車と互角だが、室内スペースの広さからトヨタミニバンは好評です。
他の車種でもトヨタはレクサスという高級ブランドを中心にし、500万円から1000万円以上の車種を大量に販売しています。
これの何が問題かと言えば世界経済危機では高級車メーカーから先に倒産するのが恒例になっています。
トヨタがダイハツの子会社になる日
過去の経済危機ではロールスロイス、ポルシェ、ジャガー、フェラーリなど高級車メーカーから順番に経営破綻し他社に吸収されたり倒産したりしてきた。
経済危機では人々の収入が減るのでガソリン代や自動車のコストを抑えようとし、小型車が売れて大型高級車が売れなくなります。
実際は小型車メーカーも打撃を受けるのだが、大型高級車は売上1万台から100台のように極端に売れなくなります。
各国で最大のメーカーはイタリアではフィアット、ドイツはVWなど小型車メーカーが大型車メーカーを統合してきました。
日本ではトヨタが最大だが1000t以下の小型車をラインナップし軽メーカーのダイハツを傘下にしている。
こういう状況で大恐慌やリーマンショックのような経済危機を迎えると、まずロールスロイスやフェラーリのような超高級車が売れなくなります。
次いでメルセデスやポルシェのような高級車が売れなくなり、レクサスのような1000万円前後の車も売れなくなります。
売れるのは日本では軽自動車や1リッタークラスの値段が安くて維持費がかからない車です。
突然そうなったらトヨタはグランエースやレクサスから、パブリカやスターレットの時代に戻れるのだろうか?
バブルカー全盛期には高い値段の車を売るメーカーほど儲かり、小型車メーカーは吸収合併の対象でした。
世界が経済危機に陥ると立場が逆になり、大型高級車メーカーは身売り話が持ち上がり小型車メーカーに合併されます。
今はトヨタが親会社でダイハツが子会社ですが、立場が変わるとダイハツが親会社でトヨタが子会社になるかも知れない。
米ビッグ3は大型車にこだわり、「大きい車は利益が大きいが、小さい車は利益も小さい」という格言まで存在しました。
そのビッグ3は経済危機のたびに経営危機に陥り、次の経済危機でもまた経営破綻するでしょう。
これが自動車の歴史で「大きい車は利益が大きいがリスクも大きい」のです。
http://www.thutmosev.com/archives/82495846.html
http://www.asyura2.com/09/revival3/msg/1039.html#c2
トランプ政権の1兆ドル経済対策は、一気に2兆ドルに拡大するようです。各州の移動制限はまさに「戒厳令」です。第2次世界大戦でもハワイ以外の本土にはまったく被害がありませんでした。多発テロも米国人にとってはショックでしたが、経済被害は微々たるものでした。しかし今回アメリカ経済の3割が休止(日経)とは、空爆され3割の国土が火の中にあると言った感じです。アメリカ史上最大の危機と投資家が感じても不思議はありません。
伊藤忠が米国不動産ファンドを立ち上げました。行き場をなくしたマネーの受け皿と言う事で、次の展開を考えての戦略で、さすがは商社と言ったところです。コロナウイルスと同じようにマネーもどんどん増殖しています。いずれインフレになると思います。不動産も良いですが、まずは株でしょう。
筆者が今まで経験した大きなショック安は、1973年第1次オイルショック、1987年ブラックマンデー、1990年平成バブル崩壊、2000年ハイテクバブル崩壊、2008年リーマンショック、2011年東日本大震災ショック、2016年チャイナショックですが、その他中規模な下落を数えると十指に余り、ある程度の規模の下落は、かなり頻繁に起きている事になります。そのたびに株式投資から手を引く方も沢山見てきましたが、多くの方は今まで市場に留まって投資を楽しんで(又は苦しんで)います。そういう方々は下げた時、あきらめないで我慢した方たちでした。あるいは安く買えると喜んだ方たちでした。
今回のコロナショックは人知を超えているかに見えますが、市場は人が作っています。過去の下げと変わりません。
1ヶ月前には予想もしなかったレベルに下がった為、東証一部全銘柄の配当利回り加重平均は3%を超えました。4%を超える配当利回りの優良株も多くあります。5年タームで考えると予想もしないレベルまで下がった優良株(広い意味で)が、あと更に20%下がっても実損は無いと言う事になります。箪笥の引き出しからお金を出して投資資金を継ぎ足すタイミングではないかと思います。株だけでなく、原油先物、金先物、債券先物の下げを見ると、今多くの投資家は先を争って現金化を急いでいます。同じことをやっていて良いのでしょうか。
http://kasset.blog.fc2.com/
http://www.asyura2.com/09/revival3/msg/822.html#c297
トランプ政権の1兆ドル経済対策は、一気に2兆ドルに拡大するようです。各州の移動制限はまさに「戒厳令」です。第2次世界大戦でもハワイ以外の本土にはまったく被害がありませんでした。多発テロも米国人にとってはショックでしたが、経済被害は微々たるものでした。しかし今回アメリカ経済の3割が休止(日経)とは、空爆され3割の国土が火の中にあると言った感じです。アメリカ史上最大の危機と投資家が感じても不思議はありません。
伊藤忠が米国不動産ファンドを立ち上げました。行き場をなくしたマネーの受け皿と言う事で、次の展開を考えての戦略で、さすがは商社と言ったところです。コロナウイルスと同じようにマネーもどんどん増殖しています。いずれインフレになると思います。不動産も良いですが、まずは株でしょう。
筆者が今まで経験した大きなショック安は、1973年第1次オイルショック、1987年ブラックマンデー、1990年平成バブル崩壊、2000年ハイテクバブル崩壊、2008年リーマンショック、2011年東日本大震災ショック、2016年チャイナショックですが、その他中規模な下落を数えると十指に余り、ある程度の規模の下落は、かなり頻繁に起きている事になります。そのたびに株式投資から手を引く方も沢山見てきましたが、多くの方は今まで市場に留まって投資を楽しんで(又は苦しんで)います。そういう方々は下げた時、あきらめないで我慢した方たちでした。あるいは安く買えると喜んだ方たちでした。
今回のコロナショックは人知を超えているかに見えますが、市場は人が作っています。過去の下げと変わりません。
1ヶ月前には予想もしなかったレベルに下がった為、東証一部全銘柄の配当利回り加重平均は3%を超えました。4%を超える配当利回りの優良株も多くあります。5年タームで考えると予想もしないレベルまで下がった優良株(広い意味で)が、あと更に20%下がっても実損は無いと言う事になります。箪笥の引き出しからお金を出して投資資金を継ぎ足すタイミングではないかと思います。株だけでなく、原油先物、金先物、債券先物の下げを見ると、今多くの投資家は先を争って現金化を急いでいます。同じことをやっていて良いのでしょうか。
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http://www.asyura2.com/09/revival3/msg/823.html#c252
トランプ政権の1兆ドル経済対策は、一気に2兆ドルに拡大するようです。各州の移動制限はまさに「戒厳令」です。第2次世界大戦でもハワイ以外の本土にはまったく被害がありませんでした。多発テロも米国人にとってはショックでしたが、経済被害は微々たるものでした。しかし今回アメリカ経済の3割が休止(日経)とは、空爆され3割の国土が火の中にあると言った感じです。アメリカ史上最大の危機と投資家が感じても不思議はありません。
伊藤忠が米国不動産ファンドを立ち上げました。行き場をなくしたマネーの受け皿と言う事で、次の展開を考えての戦略で、さすがは商社と言ったところです。コロナウイルスと同じようにマネーもどんどん増殖しています。いずれインフレになると思います。不動産も良いですが、まずは株でしょう。
筆者が今まで経験した大きなショック安は、1973年第1次オイルショック、1987年ブラックマンデー、1990年平成バブル崩壊、2000年ハイテクバブル崩壊、2008年リーマンショック、2011年東日本大震災ショック、2016年チャイナショックですが、その他中規模な下落を数えると十指に余り、ある程度の規模の下落は、かなり頻繁に起きている事になります。そのたびに株式投資から手を引く方も沢山見てきましたが、多くの方は今まで市場に留まって投資を楽しんで(又は苦しんで)います。そういう方々は下げた時、あきらめないで我慢した方たちでした。あるいは安く買えると喜んだ方たちでした。
今回のコロナショックは人知を超えているかに見えますが、市場は人が作っています。過去の下げと変わりません。
1ヶ月前には予想もしなかったレベルに下がった為、東証一部全銘柄の配当利回り加重平均は3%を超えました。4%を超える配当利回りの優良株も多くあります。5年タームで考えると予想もしないレベルまで下がった優良株(広い意味で)が、あと更に20%下がっても実損は無いと言う事になります。箪笥の引き出しからお金を出して投資資金を継ぎ足すタイミングではないかと思います。株だけでなく、原油先物、金先物、債券先物の下げを見ると、今多くの投資家は先を争って現金化を急いでいます。同じことをやっていて良いのでしょうか。
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http://www.asyura2.com/20/reki4/msg/592.html#c16
トランプ政権の1兆ドル経済対策は、一気に2兆ドルに拡大するようです。各州の移動制限はまさに「戒厳令」です。第2次世界大戦でもハワイ以外の本土にはまったく被害がありませんでした。多発テロも米国人にとってはショックでしたが、経済被害は微々たるものでした。しかし今回アメリカ経済の3割が休止(日経)とは、空爆され3割の国土が火の中にあると言った感じです。アメリカ史上最大の危機と投資家が感じても不思議はありません。
伊藤忠が米国不動産ファンドを立ち上げました。行き場をなくしたマネーの受け皿と言う事で、次の展開を考えての戦略で、さすがは商社と言ったところです。コロナウイルスと同じようにマネーもどんどん増殖しています。いずれインフレになると思います。不動産も良いですが、まずは株でしょう。
筆者が今まで経験した大きなショック安は、1973年第1次オイルショック、1987年ブラックマンデー、1990年平成バブル崩壊、2000年ハイテクバブル崩壊、2008年リーマンショック、2011年東日本大震災ショック、2016年チャイナショックですが、その他中規模な下落を数えると十指に余り、ある程度の規模の下落は、かなり頻繁に起きている事になります。そのたびに株式投資から手を引く方も沢山見てきましたが、多くの方は今まで市場に留まって投資を楽しんで(又は苦しんで)います。そういう方々は下げた時、あきらめないで我慢した方たちでした。あるいは安く買えると喜んだ方たちでした。
今回のコロナショックは人知を超えているかに見えますが、市場は人が作っています。過去の下げと変わりません。
1ヶ月前には予想もしなかったレベルに下がった為、東証一部全銘柄の配当利回り加重平均は3%を超えました。4%を超える配当利回りの優良株も多くあります。5年タームで考えると予想もしないレベルまで下がった優良株(広い意味で)が、あと更に20%下がっても実損は無いと言う事になります。箪笥の引き出しからお金を出して投資資金を継ぎ足すタイミングではないかと思います。株だけでなく、原油先物、金先物、債券先物の下げを見ると、今多くの投資家は先を争って現金化を急いでいます。同じことをやっていて良いのでしょうか。
http://kasset.blog.fc2.com/
http://www.asyura2.com/20/reki4/msg/128.html#c3
サウジアラビアとイランとの間で緊張緩和に関する話し合いがイラクを仲介役として始まった。
イラン側のメッセンジャーがイスラム革命防衛隊の特殊部隊とも言われているコッズ軍を指揮してきたガーセム・ソレイマーニー。
イスラエルの協力を得てアメリカは今年1月3日、ソレイマーニーをイラクのバグダッド国際空港で暗殺する。イスラエルから提供されたソレイマーニーに関する情報を利用し、アメリカ軍がUAV(無人機、ドローン)で攻撃したと言われている。イラクのアディル・アブドゥル-マフディ首相によると、緊張緩和に関するサウジアラビアからのメッセージに対するイランの返書を携えていた。これはイランへの宣戦布告行為であると同時に、サウジアラビアに対する警告でもあったのだろう。
そして2月20日にアメリカのマイク・ポンペオ国務長官はサウジアラビアの国王と皇太子に会い、2月24日にはサウジアラビア国王は宮殿へイスラエル人ラビを迎え入れた。ソレイマーニー暗殺はアメリカやイスラエルにとって中東における和平の流れを断ち切る重要な作戦だった。
http://www.asyura2.com/17/ban7/msg/427.html#c9
1943年にコール・ポーターが作詞作曲した名曲。
「You’d Be So Nice To Come Home To」は「帰ってくれたら嬉しいわ」でなくて、「家に帰れると貴方が居るのはとても嬉しい」。
第二次世界大戦という時代背景を考えると、この歌詞の意味が当時の人たちに実感を持って受け入れられたことが分ります。また、そうでなくても帰りを待ってくれる愛する人がいるのは嬉しいものです。そんな誰もが想う気持ちをストレートに歌っています。人を愛するのに理由などいらないのですから、貴方が居てくれるだけでいいと思うのは純粋な愛の気持ちです。ですから、この歌は普遍的なラブソングと言えます。
この曲は多くの歌手がカバーしていますが、ヘレン・メリル(Helen Merrill:1930- )とクリフォード・ブラウン(Clifford Brown:1930-1956)、ギル・エヴァンス(Gil Evans:1912-1988)による1954年のデビュー・アルバムが有名です。
ヘレン・メリルのヴォーカルは個性的なハスキー・ヴォイスで、歌われている歌詞以上の深みを感じさせてくれます。クリフォード・ブラウンのトランペットとギル・エヴァンスのピアノが互いの個性を引き立てあっています。シンプルな構成、それでいて重厚。これに足すものも、これから引くものもない完璧な調和がこのアルバムにはあります。
ヘレン・メリルとギル・エヴァンスはこの時若干24歳、それでいてこのアルバムの完成度は驚異的です。収録曲はどれも傑作で、ジャズ・ヴォーカル・ファン必携の珠玉の名盤です。また、ヘレン・メリルには1989年の「ジャスト・フレンズ」(Just Friends)という傑作アルバムがあります。
ヘレン・メリルは、大の親日家としても知られています。1966年暮から1972年まで日本に住み、日本のジャズ・ミュージシャンに大きな影響を与えました。また、フランスでは日本以上の人気があります。彼女のレパートリーは多彩で、ジャズに限らず日本の「五木の子守唄」や「砂山」、映画音楽、ビートルズ・ナンバー、ブラジル音楽など、いろいろなチャレンジをしています。この音楽的に優れたものを認める柔軟な姿勢は、表現力をより豊かにしました。
このコスモポリタン的な性格は、ユーゴスラヴィア(現クロアチア)からの移民である両親から受け継いだものかもしれません。アメリカ人よりも、もう少しだけセンシティブなものを好む日本人やフランス人に人気があるのは、「移ろい」や「儚さ」といった微妙なニュアンスの情感を歌うことができる豊かな表現力、ヴォーカルの深み、によるものだと思います。
▲△▽▼
You’d be so nice to come home to
You’d be so nice by the fire
While the breeze on high sang a lullaby
You’d be all that I could desire
Under stars chilled by the winter
Under an August moon burnin’ above
You’d be so nice, you’d be paradise
To come home to and love
You’d be so nice to come home to
You’d be awful nice by the fire
While the breeze up on high sang a lullaby
You’d be all that I could desire
Under stars chilled by the winter
Under an August moon burnin’ up there above
You’d be so nice, just like paradise
To come home to and love
貴方が帰りを待っていてくれたらとても素敵
暖炉の傍に貴方がいれば、とても嬉しい
高まる息遣いは子守唄を歌っていた
貴方が居てくれる、それが私が望むのすべて
星々の下で冬に凍て付こうと
八月の月が燃え上がるような下でも
貴方が居てくれればとても素敵、貴方は楽園のよう
帰りを待っていてくれて、そして愛があれば
貴方が帰りを待っていてくれたらとても素敵
暖炉の傍に貴方がいれば、とても嬉しい
高まる息遣いは子守唄を歌っていた
貴方が居てくれる、それが私が望むのすべて
星々の下で冬に凍て付こうと
八月の月が燃え上がるような下でも
貴方が居てくれればとても素敵、貴方は楽園のよう
帰りを待っていてくれて、そして愛があれば
http://www.magictrain.biz/wp/blog/2010/10/16/ユード・ビー・ソー・ナイス・トゥ・カム・ホー/
You’d Be So Nice to Come Home To by Helen Merrill
Helen Merrill With Clifford Brown & Gil Evans / You’d Be So Nice To Come Home To
1943年にコール・ポーターが作詞作曲した名曲。
「You’d Be So Nice To Come Home To」は「帰ってくれたら嬉しいわ」でなくて、「家に帰れると貴方が居るのはとても嬉しい」。
第二次世界大戦という時代背景を考えると、この歌詞の意味が当時の人たちに実感を持って受け入れられたことが分ります。また、そうでなくても帰りを待ってくれる愛する人がいるのは嬉しいものです。そんな誰もが想う気持ちをストレートに歌っています。人を愛するのに理由などいらないのですから、貴方が居てくれるだけでいいと思うのは純粋な愛の気持ちです。ですから、この歌は普遍的なラブソングと言えます。
この曲は多くの歌手がカバーしていますが、ヘレン・メリル(Helen Merrill:1930- )とクリフォード・ブラウン(Clifford Brown:1930-1956)、ギル・エヴァンス(Gil Evans:1912-1988)による1954年のデビュー・アルバムが有名です。
ヘレン・メリルのヴォーカルは個性的なハスキー・ヴォイスで、歌われている歌詞以上の深みを感じさせてくれます。クリフォード・ブラウンのトランペットとギル・エヴァンスのピアノが互いの個性を引き立てあっています。シンプルな構成、それでいて重厚。これに足すものも、これから引くものもない完璧な調和がこのアルバムにはあります。
ヘレン・メリルとギル・エヴァンスはこの時若干24歳、それでいてこのアルバムの完成度は驚異的です。収録曲はどれも傑作で、ジャズ・ヴォーカル・ファン必携の珠玉の名盤です。また、ヘレン・メリルには1989年の「ジャスト・フレンズ」(Just Friends)という傑作アルバムがあります。
ヘレン・メリルは、大の親日家としても知られています。1966年暮から1972年まで日本に住み、日本のジャズ・ミュージシャンに大きな影響を与えました。また、フランスでは日本以上の人気があります。彼女のレパートリーは多彩で、ジャズに限らず日本の「五木の子守唄」や「砂山」、映画音楽、ビートルズ・ナンバー、ブラジル音楽など、いろいろなチャレンジをしています。この音楽的に優れたものを認める柔軟な姿勢は、表現力をより豊かにしました。
このコスモポリタン的な性格は、ユーゴスラヴィア(現クロアチア)からの移民である両親から受け継いだものかもしれません。アメリカ人よりも、もう少しだけセンシティブなものを好む日本人やフランス人に人気があるのは、「移ろい」や「儚さ」といった微妙なニュアンスの情感を歌うことができる豊かな表現力、ヴォーカルの深み、によるものだと思います。
▲△▽▼
You’d be so nice to come home to
You’d be so nice by the fire
While the breeze on high sang a lullaby
You’d be all that I could desire
Under stars chilled by the winter
Under an August moon burnin’ above
You’d be so nice, you’d be paradise
To come home to and love
You’d be so nice to come home to
You’d be awful nice by the fire
While the breeze up on high sang a lullaby
You’d be all that I could desire
Under stars chilled by the winter
Under an August moon burnin’ up there above
You’d be so nice, just like paradise
To come home to and love
貴方が帰りを待っていてくれたらとても素敵
暖炉の傍に貴方がいれば、とても嬉しい
高まる息遣いは子守唄を歌っていた
貴方が居てくれる、それが私が望むのすべて
星々の下で冬に凍て付こうと
八月の月が燃え上がるような下でも
貴方が居てくれればとても素敵、貴方は楽園のよう
帰りを待っていてくれて、そして愛があれば
貴方が帰りを待っていてくれたらとても素敵
暖炉の傍に貴方がいれば、とても嬉しい
高まる息遣いは子守唄を歌っていた
貴方が居てくれる、それが私が望むのすべて
星々の下で冬に凍て付こうと
八月の月が燃え上がるような下でも
貴方が居てくれればとても素敵、貴方は楽園のよう
帰りを待っていてくれて、そして愛があれば
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アメリカが生んだ偉大な音楽家コール・ポーターの代表作の一つです。
43年コロンビア映画“Something To Shout About”で主演のJanet Blair ジャネット・ブレアとDon Ameche ドン・アメチーがデュエットで歌っています。
この映画からはミュージカル映画音楽賞(モリス・W・ストロフ)と歌曲賞(この歌)がアカデミー賞にノミネートされましたが、残念ながら映画そのものはヒットしませんでした。
映画のあらすじ:
失敗続きのミュージカル・プロデューサー、サムソンは、離婚扶養手当をもらって裕福なドナから「出資するから、自分を主役にせよ」と迫られて困っています。彼女は歌えないし、演技も出来ないし、勿論、踊れないのです。そんな時サムソンの広報担当のケン(ドン・アメチー)が曲を売り込みにきたジーニー(ジャネット・ブレア)と出会います。やがて、ジーニーの才能に気づいたサムソンはドナを罠にかけて警察に逮捕されるよう仕掛けます。しかしショウの初日、釈放されたドナが現れ…
さて、コール・ポーターは、この映画を評して“something to cry about”と言ったとか言わなかったとか。
【 カヴァー 】
なんと言ってもこの曲の決定的名演として定評あるものは54年にヘレン・メリルがクリフォード・ブラウンをバックに歌ったものでしょう。
アレンジはクインシー・ジョーンズ。“HELEN MERRILL”(EmArcy)邦題「ヘレン・メリル・ウィズ・クリフォード・ブラウン」収録。CMにも使われました。
とは言え、多くのアーティストがこの名曲をカバーしています。Dinah Shoreのカバーもヒットしましたし、最近では中島美嘉(永遠の詩)さんも採り上げています。
ここでは個性的なニーナ・シモンの60年のライヴ"NINA SIMONE AT NEW PORT"(COLPIX)をご紹介。
地の底から湧き上がるような唄声と悪魔的なピアノの響き…
もう、貴方はニーナの呪縛から逃れられない ?
続いて、ジャズ・ファンに根強い人気のある1枚。
"Art Pepper Meets the Rhythm Section"(Contempoprary)
57年、西海岸(West Coast)を拠点にしていたArt Pepperと、NY(East Coast)からツアーでLAを訪れたMiles Davisの第1期黄金のクインテットのリズム隊(オール・アメリカン・リズム・セクションと呼ばれていました。詳細は"My Funny Valentine"注4参照)とのセッションが企画されました。
このセッションには色々なエピソードが伝えられています。
曰く、ペッパーはその朝にセッションがあることを知った。
曰く、ペッパーはこの曲を知らなかった。
曰く、演奏するのは6か月ぶりだった
…特に最後のものは彼の自伝に書かれているものですが、今日ではディスコグラフィ研究により、数日前にも録音していることが分かっています。
いずれにせよ、当時、ペッパーが薬中毒だったことは事実であり、それでも一旦サックスを吹き始めると、艶やかで輝きに満ちたサウンドが出てくるから、天才はすごい…
追加でもう1枚、これもベストセラーになりました。
"Concierto 「アランフェス協奏曲」" (CTI 75年)
ボサノヴァやフュージョンでヒットを飛ばしたクリード・テイラーが設立し、プロデュースしたCTIの作品の中で最も人気が高い1作です。ギターのジム・ホールのセンスの良さは折り紙つきですが、この時のサイドメンも素晴らしい。チェット・ベイカー(tp)、ポール・デズモンド(as)、ローランド・ハナ(p)、ロン・カーター(b)、スティーヴ・ガッド(ds) がそれぞれ、良い仕事をしています。
タイトル曲のアランフェスもマイルスのそれとは違った良さがありますが、冒頭の1曲目に収録されている、この曲も、ワクワクするようなジャズの持つ楽しさを感じさせ、個人的にも好きな演奏の一つです。
【 邦題について 】
さて、英語の先生でもある有美さんの向こうを張って、ここで少し英語のお勉強を。
この曲は嘗て「帰ってくれたらうれしいわ」あるいは「帰ってくれれば嬉しいわ」と言う日本語タイトルが付けられたことがあります。(注)
しかし、今日ではこれは歴史的誤訳と言うのが定説になっています。
まさか、「とっとと帰っちまえ!」と言う意味でつけたのではないでしょうから、この回りくどい日本語を好意的に解釈すれば「早く戻ってきてね」と恋人を待っているタイトルと言う解釈になります。
しかし、原タイトルを素直に読めば、あるいは文法的問題として、ここで省略された言葉を補って考えれば、こうなりますね。
You'd be so nice when I come home to you
♫ あなたが待ってくれているのなら
家に帰るのは本当にうれしい
時はまさに第2次大戦の最中。
この曲がアメリカ人の心にフィットしたのはそんな背景もあったのでしょう。
因みに、有美さんは決定的名唱のある、この超有名曲を、この日(08年3月19日)彼女なりにボサ・ノヴァ・タッチでチャレンジしていました。
注)命名者は、ジャズ評論家・司会者からマルチ・タレントへ、会社経営者で参議院議員も務めた(任期中に辞任)大橋巨泉さん。
一時は、「これはこれで好いんだ」的発言もしておられましたが、後に撤回しておられます。
お嬢さんの大橋美加さん(ジャズ歌手:お母さんは同業の先輩、マーサ三宅さん)のエッセーにも、次のくだりがあります。
当時「帰ってくれたらうれしいわ」と言う邦題をつけた私の父は、最近テレビや文章のなかで、しきりにそれが若かった自分の誤訳で、正しい訳は「貴方が待つ家に帰っていけたら幸せ」という意味であると伝えている。
「唇にジャズ・ソング」(ヤマハミュージックメディア 98年)
https://themuse.exblog.jp/9868889/
http://www.asyura2.com/20/reki4/msg/628.html#c2
本ブログでは繰り返し書いてきたが、海賊を使い、制海権を握っていたイギリスはユーラシア大陸の周辺部を支配、内陸部を締め上げるという長期戦略を持っていた。それを継承したのがアメリカで、ジョージ・ケナンの「封じ込め政策」やズビグネフ・ブレジンスキーの「グランド・チェスボード」もこれに基づいている。
締め上げるための弧の西端はイギリスだが、東端には日本がある。米英の戦略にとって日本が重要な役割を果たしていることは明白だ。弧を成立させる上でスエズ運河は不可欠であり、弧の上にイギリスがイスラエルとサウジアラビアを作り上げたのも偶然ではないだろう。日本の近代史を理解するためには米英の長期戦略を理解する必要があるとも言える。
米英の戦略に対し、内陸部の国は鉄道をはじめとする交通手段の建設で対抗しようとしてきた。その一例がシベリア横断鉄道であり、最近の例ではロシアが進めているパイプラインが交通手段の建設、そして中国の一帯一路(BRIとも表記)。アメリカがアフガニスタンに執着している一因は一帯一路を潰すことにある。
そうしたロシアや中国の交通手段やパイプラインの建設はユーラシア大陸の東部と西部を結びつけることが重要な目的。今のところ、東の果てはウラジオストックや上海だが、朝鮮半島を南下して釜山まで延長する計画がある。日本の利益を考えればこの計画に乗るべきなのだが、アングロサクソンに従属することで地位と富を築き、維持している日本の「エリート」は拒否する。
https://plaza.rakuten.co.jp/condor33/diary/202003220000/
http://www.asyura2.com/09/reki02/msg/298.html#c93
本ブログでは繰り返し書いてきたが、海賊を使い、制海権を握っていたイギリスはユーラシア大陸の周辺部を支配、内陸部を締め上げるという長期戦略を持っていた。それを継承したのがアメリカで、ジョージ・ケナンの「封じ込め政策」やズビグネフ・ブレジンスキーの「グランド・チェスボード」もこれに基づいている。
締め上げるための弧の西端はイギリスだが、東端には日本がある。米英の戦略にとって日本が重要な役割を果たしていることは明白だ。弧を成立させる上でスエズ運河は不可欠であり、弧の上にイギリスがイスラエルとサウジアラビアを作り上げたのも偶然ではないだろう。日本の近代史を理解するためには米英の長期戦略を理解する必要があるとも言える。
米英の戦略に対し、内陸部の国は鉄道をはじめとする交通手段の建設で対抗しようとしてきた。その一例がシベリア横断鉄道であり、最近の例ではロシアが進めているパイプラインが交通手段の建設、そして中国の一帯一路(BRIとも表記)。アメリカがアフガニスタンに執着している一因は一帯一路を潰すことにある。
そうしたロシアや中国の交通手段やパイプラインの建設はユーラシア大陸の東部と西部を結びつけることが重要な目的。今のところ、東の果てはウラジオストックや上海だが、朝鮮半島を南下して釜山まで延長する計画がある。日本の利益を考えればこの計画に乗るべきなのだが、アングロサクソンに従属することで地位と富を築き、維持している日本の「エリート」は拒否する。
https://plaza.rakuten.co.jp/condor33/diary/202003220000/
http://www.asyura2.com/12/lunchbreak52/msg/816.html#c110
本ブログでは繰り返し書いてきたが、海賊を使い、制海権を握っていたイギリスはユーラシア大陸の周辺部を支配、内陸部を締め上げるという長期戦略を持っていた。それを継承したのがアメリカで、ジョージ・ケナンの「封じ込め政策」やズビグネフ・ブレジンスキーの「グランド・チェスボード」もこれに基づいている。
締め上げるための弧の西端はイギリスだが、東端には日本がある。米英の戦略にとって日本が重要な役割を果たしていることは明白だ。弧を成立させる上でスエズ運河は不可欠であり、弧の上にイギリスがイスラエルとサウジアラビアを作り上げたのも偶然ではないだろう。日本の近代史を理解するためには米英の長期戦略を理解する必要があるとも言える。
米英の戦略に対し、内陸部の国は鉄道をはじめとする交通手段の建設で対抗しようとしてきた。その一例がシベリア横断鉄道であり、最近の例ではロシアが進めているパイプラインが交通手段の建設、そして中国の一帯一路(BRIとも表記)。アメリカがアフガニスタンに執着している一因は一帯一路を潰すことにある。
そうしたロシアや中国の交通手段やパイプラインの建設はユーラシア大陸の東部と西部を結びつけることが重要な目的。今のところ、東の果てはウラジオストックや上海だが、朝鮮半島を南下して釜山まで延長する計画がある。日本の利益を考えればこの計画に乗るべきなのだが、アングロサクソンに従属することで地位と富を築き、維持している日本の「エリート」は拒否する。
https://plaza.rakuten.co.jp/condor33/diary/202003220000/
http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/175.html#c96
本ブログでは繰り返し書いてきたが、海賊を使い、制海権を握っていたイギリスはユーラシア大陸の周辺部を支配、内陸部を締め上げるという長期戦略を持っていた。それを継承したのがアメリカで、ジョージ・ケナンの「封じ込め政策」やズビグネフ・ブレジンスキーの「グランド・チェスボード」もこれに基づいている。
締め上げるための弧の西端はイギリスだが、東端には日本がある。米英の戦略にとって日本が重要な役割を果たしていることは明白だ。弧を成立させる上でスエズ運河は不可欠であり、弧の上にイギリスがイスラエルとサウジアラビアを作り上げたのも偶然ではないだろう。日本の近代史を理解するためには米英の長期戦略を理解する必要があるとも言える。
米英の戦略に対し、内陸部の国は鉄道をはじめとする交通手段の建設で対抗しようとしてきた。その一例がシベリア横断鉄道であり、最近の例ではロシアが進めているパイプラインが交通手段の建設、そして中国の一帯一路(BRIとも表記)。アメリカがアフガニスタンに執着している一因は一帯一路を潰すことにある。
そうしたロシアや中国の交通手段やパイプラインの建設はユーラシア大陸の東部と西部を結びつけることが重要な目的。今のところ、東の果てはウラジオストックや上海だが、朝鮮半島を南下して釜山まで延長する計画がある。日本の利益を考えればこの計画に乗るべきなのだが、アングロサクソンに従属することで地位と富を築き、維持している日本の「エリート」は拒否する。
https://plaza.rakuten.co.jp/condor33/diary/202003220000/
http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/786.html#c55
ワジェンキ公園でも十分に豊かなのに、この公園に隣接してもう1つ美しい公園がある。このウヤズドフスキ公園は、ワジェンキ公園と比べて知名度が低いくて規模が小さいからか、観光客の姿をほとんど見かけない。しかしワジェンキ公園よりも優美で、ワルシャワが美しい公園にめぐまれた町であることを改めて実感するような場所である。
ここにも1体の立派なピアニストの銅像が立っている。ショパンと同じくピアニスト兼作曲家で、しかもポーランドの首相にまで登りつめた真の愛国家、パデレフスキの銅像である。
ウヤズドフスキ公園とパデレフスキ像
パデレフスキは24歳になってから本格的にピアニストを目指した遅咲きながら、情熱的なプレイスタイルや上品でカリスマ性のあるいでたちで女性ファンをとりこにし、アメリカを中心にアイドル的な人気を誇った。
パデレフスキのトレードマークであった金髪の巻き毛ほしさに、はさみをもってパデレフスキを襲った女性ファンもいたほどだ。
パリのサル・エラールにおけるデビューコンサートには同郷のキュリー婦人も参加しており、初舞台とは思えない堂々ぶりは皇帝のようだったと証言している。
演奏活動のみならず、ピアノ曲からオペラまで作曲したり、ショパンの楽譜全集を編集したりもしている。ポーランド語、ロシア語、英語、フランス語、ドイツ語を操り、知的な語り口でヴィクトリア女王をはじめとした各国の要人とも親交が深かった。
第一次世界大戦ではポーランド独立のために奔走し、ポーランドが独立した1918年には首相にまで選ばれた。第二次世界大戦が勃発し、再度苦しみを味わったポーランドのために、再度立ち上がろうとしたパデレフスキは、直後の1940年にアメリカで80年の生涯を終えた。ポーランドに自由が戻った時に自分の墓をポーランドに移すことを決めていたが、それがかなったのは1992年になってからのことであった。
2010年はショパンの生誕200周年のみならず、パデレフスキの生誕150周年の年でもあった。ワジェンキ公園のショパン像には無数の人が集まって写真を撮っているが、ウヤズドフスキ公園のパデレフスキ像には、情熱的な真っ赤なバラが囲んでいるだけで、まったくといってよいほど人気がない。ワジェンキ公園の混雑を避けてゆっくりするために来た人と思われる人がぱらぱらといるぐらいである。
パデレフスキ像は王座に座る皇帝のような姿で表現されており、まるでショパンの大胆で感傷的な銅像とは趣が違っている。人々に常に注目され激動の人生を送ったパデレフスキと、病弱で人前に出るのを嫌ったショパンのそれぞれの銅像は、お互いの人生とは間逆の結果になっている。
http://www.europe-museum.com/classic_music/composer_city/em768
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パデレフスキーはポーランドのピアニスト兼作曲家。
政治家・外交官としても活躍し、第1次世界大戦後に発足した第2次ポーランド共和国の第3代の首相。
Paderewskiはポーランド発音ではパデレウスキ。
Ignacy は Ignace とフランス語表記されたり、Ignaz とドイツ語表記されることがある。
日本ではパデレフスキとも表記されている。
ポドリア地方の寒村クルィフカ(現ウクライナ領)生まれ。
父親は経済学研究者だったが、出身はポーランド系の小貴族。生母はパデレフスキーを産んで数ヵ月後に逝去したため、パデレフスキーは遠戚者によって育てられた。
最初は個人教師についてピアノを学んでいたが、1872年(12歳)ワルシャワ音楽院に進学し、ナタリエ・ヤノータ(クララ・シューマンおよびブラームスの門下)に師事。
1878年(18歳)ワルシャワ音楽院を卒業し、そのままピアノ科の教官になる。
1880年(20歳)アントニーナ・コルサクーヴナと結婚。しかし、翌年に生まれた長男アルフレッドに障害がある事が判明し、さらにその年の10月に妻アントニーナが死去。
1881年(21歳)ベルリンに留学。フリードリヒ・キールとハインリッヒ・ウルバンに作曲理論を師事。
1884年にウィーンに移り、テオドール・レシェティツキに入門。
1885年(25歳)レシェティツキの紹介により、ストラスブルグ音楽院教官として着任。2年間、音楽理論とピアノを担当。
1887年(27歳)、ウィーンに戻り正式にコンサートデビュー。
1889年パリ(29歳)、さらに1890年(30歳)ロンドンでもデビューして大成功をおさめる。ちなみにパリ・デビューは当時少年だったアルフレッド・コルトーも客席で聴いている。
1884年にレシェティツキの門を叩いたパデレフスキーは、ピアノ演奏法を基礎の基礎から徹底的にやり直しさせられたと伝えられる。
レシェティツキは、師のツェルニーの教則本をパデレフスキーに与え、パデレフスキーはそれを毎日10時間(実際はもっと長時間だったという証言もある)練習したという。
とはいえ、プロ志望には余りにも遅い24歳の入門者に、レシェティツキは最初は難色を示したという。
その入門希望者と来たら…テクニックは不完全で、規定の速度で演奏するのもままならない腕前しか持ち合わせていなかった。それ以前に、ピアニストを目指すには24歳という年齢はあまりに遅すぎた。
ピアニスト志望者は普通は10歳までに専門教育を受け、15〜6歳の頃にはある程度の技術は完成されていなければならない。18歳で音楽大学に入ってあちこち矯正されているようではプロにはなれない。
まして24歳と云えば音楽大学入学どころか、下手すれば大学のさらに上の大学院を出ようかという年齢である。
それでもパデレフスキー青年がレシェティツキ門下の末席に座る事が許されたのは、パデレフスキーが「ポーランド系ユダヤ人」であった事が関係していた可能性がある。
実はレシェティツキは、ピアニストとして成功するための基本要素として「ユダヤ人」である事と「ショパンと同じポーランド系」である事を提言していたからである。
もしもパデレフスキーがポーランド系ユダヤ人でなかったら、果たしてレシェティツキが入門を許したかどうか…。
それでもレシェティツキは入門を許したとは言え、パデレフスキーが後に(あれほど壮絶かつ空前の大成功をおさめる)世界的なカリスマ演奏家にまで昇りつめるとは夢にも思っていなかったので、パデレフスキーにさっさと教職を紹介して、ウィーンから彼を遠ざけてしまう。悪い言い方をすれば厄介払いのつもりだったのだろう。
しかし、結果としてパデレフスキーはレシェティツキを頼る他はなく、スポンサーを見つけて再びレシェティツキのもとに通い始め、訓練を受けたのち漸くウィーンデビューをさせてもらえた。
これがきっかけとなってパデレフスキーはスターダムを昇りはじめ、「あのパデレフスキーの師匠」としてレシェティツキの名声が決定的になった事は運命の悪戯というものだろう。
レシェティツキは直接・間接指導を含め生涯に約1800人の弟子を指導したが、パデレフスキーの成功が無ければこれほどの入門志願者が門を叩いたかどうかは判らない。だが、門下の証言によればレシェティツキはどんな弟子に対しても辛抱強く教えたそうだから、スタートの遅かったパデレフスキーをとりあえず引き受けてくれる奇特なピアノ教師はおそらくレシェティツキをおいて他には居なかったであろうと推測する。(たとえパデレフスキーがポーランド系ユダヤ人であったにせよ。)
パデレフスキーのパリ・デビューが行われたサル・エラール(ピアノメーカー『エラール』のホール)は、ポーランド貴族の末裔達やパデレフスキーの知り合いが駆け付けたものの、満席には程遠い客入り(聴衆の一人、ポーランドの物理学者マリー・キュリー夫人の証言)だった。
ショパン、シューマン、リストの曲が並んだコンサートは圧倒的なまでの成功をおさめ、やはり聴衆の一人だったアルフレッド・コルトー(当時11歳)は『ステージに神が舞い降りたかのようだった』と後に回想している。
コンサートは聴衆総立ちのスタンディングオベーションと万雷の拍手で幕を閉じ、観客だった指揮者ラムルーとコロンヌの二人が興奮してパデレフスキーの楽屋に駆け付けて共演を申し込んだ時、パデレフスキーは震え上がってしまった。
なにしろパデレフスキーは晩学だったが故に、オーケストラと共演するピアノ協奏曲のレパートリーなどひとつも無かった。
そればかりか、この日パデレフスキーがコンサートで弾いたプログラムが、パデレフスキーの「人前で演奏できるレパートリーの全て」だったのだ。
もちろんウィーンデビューの時とまったく同じプログラム。それもレシェティツキから3年間シゴかれまくって毎日長時間かけてやっと作り上げた「なけなし」のレパートリーである。
パデレフスキーは、プロを目指したのが遅かったために、通常のピアニストが少年から青年に至る時期に経験する『レパートリーの蓄積』が欠落していたのだ。それをパデレフスキーは誰よりもよく自覚していた。だからこそパリデビューがいかに成功しようが、これから先の事を考えて暗澹とした思いにしかならなかったのは無理もない。
しかし、パデレフスキーはサイボーグ並みの意志の強さと根性を持っていた。
持ち前の精神力で「長時間練習」をこなし、更なるレパートリーを蓄積して行く。1891年のアメリカ公演の時、パデレフスキーは1日おきのコンサートをこなしながら、コンサートの無い日に17時間の猛練習を続けたという。
アメリカ公演でのパデレフスキーは実に半年で100回以上のコンサートをこなし、ピアノ界のスーパーアイドルとなった。この時パデレフスキーは31歳。(下の画像)
その人気の凄まじさは半端なものではなく、おそらくパリ時代のフランツ・リストが唯一対抗出来たのではないかという超絶の人気だった。
……例えば、パデレフスキーがステージに登場するやいなや女性達は集団ヒステリー状態になってステージに殺到。(コンサートを始めるどころではなかったろう)
最後の演奏が終わるとアンコールを要求する拍手と歓声・金切り声・断末魔などが沸き起こり、それが1時間以上も続く。レパートリーの少なかったパデレフスキーは、このアンコール地獄でかなりのレパートリーを拡げる事になった。
アメリカの聴衆はひとたび熱狂すると世界一恐ろしい。
なにしろ、かの名優オーソン・ウェルズがラジオドラマで「火星人来襲」のドラマを朗読した時、それを実際のニュースと早トチリして全米が大パニックになった事もある国民性のアメリカ人である。
パデレフスキーの追っ掛け集団もコンサートツアーが進むにつれて次第に見境いがなくなって行く…。
サイン欲しさの女性ファンが楽屋や入口付近に隠れているのはまだいいほうで、中にはハサミを持った女性ファンが待ち伏せし、パデレフスキーを見るなり襲い掛かった事もあった。
殺されるか…と覚悟をしたパデレフスキーだったが、女性ファンが欲しかったのはパデレフスキーの命ではなく彼のブロンドの髪の毛だった。(…ここまで来ると完全に変態ストーカーである。)
こうして、変態ストーカーと化した熱狂的女性ファン達の見境いの無い襲撃をかいくぐりながら、パデレフスキーは半年で100回以上のコンサートをこなし続けたのであった。
パデレフスキーの演奏風景を描いた風刺画。右下の小箱には『私の髪の毛です。ご自由にお持ち下さい』と書かれている。
かのホロヴィッツやミケランジェリ、現代のブレンデルは自己所有のピアノを専属の調律師とともにコンサート会場に持ち込む。そのポリシーは来日公演であっても変わる事がない。自ら用意したピアノのコンディションが納得出来なければコンサートそのものをキャンセルしてしまう例(ミケランジェリ)もある。
いやはや、世界の超一流ともなると公演ツアーに大変な経費をかけるものだと溜息が出る。
だが世の中、上には上がある。
絶頂期のパデレフスキーのコンサートツアーはピアニストというより、王侯貴族も顔負けの超VIPツアーであった。
アメリカ国内を移動する際はパデレフスキー専用列車を使う。列車は車輌ごとパデレフスキー所有物だったばかりか、パデレフスキーのコンサートスケジュールに合わせてパデレフスキーコンサートツアー専用ダイヤ(もちろんパデレフスキーが購入したもの)で運行した。
列車には愛用のエラールのピアノが2台(専属調律師付き)、移動中の長時間練習の時に調律出来るよう2台搬入したと伝えられている。
さらに長時間練習の疲労を和らげるための専属マッサージ師、パデレフスキーの好みの料理人チーム、主治医、執事、秘書、専属ガードマン、夫人と子供たち、……こうした大名行列のような専用列車を見るために集まる群集、群集、また群集。
そうしたパデレフスキーでも、ドイツやロシアでは冷遇された。特にロシアからすれば分割統治下にあるポーランド人は人間以下という偏見があった。パデレフスキーもそのあたりは判っていたが、ペテルブルグでは帝政ロシアのユダヤ人に対する差別政策もあり、ロシアの首都(当時)ペテルブルグにユダヤ人は24時間しか滞在出来ない…という法律があった位である。ポーランド系ユダヤ人であるパデレフスキーなど、世界がどんなに騒ごうが意地でも認めない…という雰囲気が漂っていた。
ロシアはこの時、日露戦争に敗れていた直後であり、さらに第一次ロシア革命によって帝政ロシアは末期状態に突入して行く。
1914年のサラエボでのオーストリア皇太子暗殺事件により、オーストリアはセルビアに宣戦布告、第1次世界大戦が勃発する。ポーランドを分割統治していたオーストリア、ロシア、プロシア(ドイツ)は両陣営に分かれて戦う事になり、ポーランド国内は両陣営に別れたポーランド人達が内戦さながらに銃を向け合う悲劇に陥る。
54歳のパデレフスキーはここで立ち上がった。
当時居住していたアメリカで、自ら亡命ポーランド人10万人を集めてポーランド独立義勇軍を組織。さらにジュネーブ湖畔の別荘を売り払って資金を作る。
ただならぬ事態を察してパデレフスキー邸に取材に押し寄せて来た新聞記者達に対し、パデレフスキーは「ポーランド独立までは演奏活動を封印する」と宣言する。
一日練習を怠っただけで腕の筋肉が硬くなってしまう晩学ゆえのハンディを持っていたパデレフスキーにとって、演奏活動を休止する事……すなわちピアニストとしての「死」を意味する。
しかし、パデレフスキーは「祖国の英雄ショパンが見る事が出来なかったポーランド独立を果たすのは、今をおいて他にはない」と記者達に語った。
目に涙をため、断腸の思いで自宅ピアノの蓋を閉じるパデレフスキーの悲痛な姿は記者達によって撮影され、ニューヨーク・タイムズ、ワシントン・ポストを筆頭に全世界の新聞のトップで公開された。
祖国の独立のために、ポーランドの生んだ世界ピアノ界のスーパースター・パデレフスキーが私財を投げうって立ち上がったというニュースに、全世界に散っていた亡命ポーランド人達の勇気は百倍した。
しかし、それはポーランドの独立と引き替えに、パデレフスキーが自らのコンサートキャリアに事実上の終止符を打った事に他ならなかった。
1917年、ソヴィエト社会主義共和国連邦(ソ連)が誕生し、翌年ポーランド人民共和国が誕生。晴れて念願の祖国独立を勝ち取ったパデレフスキーの感慨は想像を絶するものだったろう。
民族の英雄・独立の指導者として乞われて政治の檜舞台に押し出されたパデレフスキーは、1919年にポーランド人民共和国首相(兼・外相)となり、パリ講和会議に出席した。
政治的手腕はさすがに専門政治家とはいかなかったものの、母国語のポーランド語以外に英語・ドイツ語・フランス語・ロシア語を母国語同様に喋れた語学力、加えてピアニストとして活躍していた頃の世界的人脈が、この時モノを言ったのである。
しかし、各国首脳はポーランドの首相パデレフスキーと接していて、複雑な気持ちだったという。例えば、フランスの政治家ジョルジュ・クレマンソー(1841年〜1929年)との間にこんな会話があった。
クレマンソー:貴公はあの著名な大ピアニストとして活躍されていた、あのパデレフスキー殿でおられますかな?
パデレフスキー:その通りです。
クレマンソー:そして、現在ではポーランド共和国の首相でおられる……。
パデレフスキー:…そうですが。
クレマンソー:お気の毒に……なんという転落!
クレマンソーもまた、大ピアニスト・パデレフスキーのファンだったのである。
政治の世界を去ったパデレフスキーを熱狂的なアメリカ人ファンが後押しし、ついに1922年、コンサート活動を再開する。
全盛期の輝きは戻って来なかったものの、ファンはパデレフスキーが祖国独立の為にピアニストとしての貴重なキャリアを犠牲にした事を知っていた。
それでも、すっかり錆びついたテクニックから演奏される音楽は、それが所々に破綻しかけた演奏であっても紛れもない「パデレフスキー節」であり、パデレフスキーにのみ可能な超一流の洒落弾きであった。
今日、ピアノロールやSPに残されているパデレフスキーの録音は、どの曲もパデレフスキーの個性と気品に溢れており、少年時代「君はピアニストにはなれない」と言ったピアノ教師達の感覚を疑いたくなる。パデレフスキーは確かに超人的な練習をした。しかし、パデレフスキーの気品は決して練習で身につけられるようなものではなく、理屈抜きに「持って生まれたセンス」だと感じるのは私だけだろうか。
私もピアニストの端くれとして、持って生まれたものか後天的なものかは、演奏を聴けば間違いなく判る。ひょっとして、師のレシェティツキはパデレフスキーに『…もしや』と感じていたのかも知れない。
ニューヨークのマディソンスクエアガーデンを単独で満員札止めに出来るのは、パデレフスキーかモハメド・アリ(ボクシング)かマイケル・ジョーダン(バスケットボール)くらいのものだそうだ。こんな桁違いのピアニストは、あと300年は出て来ないのではないかと思う。
パデレフスキーの作曲したピアノ曲は、メヌエットがあまねく有名だが、ピアノ協奏曲イ短調もなかなかの名曲である(VOXレーベルからマイケル・ポンティの演奏するレコードが有り)。
http://www.pianist-sonobe.com/pianist_library/h/Paderewski.html
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パデレフスキも30代まではまともな演奏をしていた様ですね。
しかし、ピアニストの場合は20代、30代の天才というのは存在しないのですね。
早熟だったコルトーやホロヴィッツでも40才過ぎてやっと巨匠に成った位ですから。
欧米の女性を熱狂させた20代、30代のパデレフスキーもエルビス・プレスリーやビートルズと同じ類の人気だと思った方がいいですね。
しかし、パデレフスキーに限らず、ポーランドの人間はみんなどこかおかしいですね。
ポーランドはヨーロッパの朝鮮みたいなものなのかな:
ポーランドの噂
1.東郷ビール。 これってフィンランドのはず。 フィンランドにもそんなモンねぇよ。 実際にある。ただし海軍元帥シリーズの一つとして。 正確には「あった」だね。つーか、「東郷ビール」なんていうネーミングは現地で存在してすらいない。フィンランドの超ローカルなAmiraaliという地ビール(92年に製造中止)のラベルの24人の海軍提督のうちの一人が東郷だったというだけ。「東郷ビール 伝説」あるいは「東郷ビール 伝説 独り歩き」でググろう!。
2.ズブロッカ 養命酒に似た味。
中に植物の茎が1本入ってるウォッカ。
3.世界最強の酒、「SPIRYTUS REKTYFIKOWANY(スピリタス)」 これをポーランド人は乾杯で何杯も一気飲みする。
度数96%だっけ?ほとんど工業用の精製アルコールと変わらん・・確か日本で売ってるビンのラベルには「火気厳禁」とか印刷してあった気がする。
普通に水気の入ったビンの感覚で持ち上げるとほとんどアルコールなので軽くてびびる。 日本酒みたいに薄い酒は慣れていないのか、かえって飲み過ぎてつぶれるらしい。
4.コペルニクス、キュリー夫人、ヨハネパウロ2世もポーランド出身。 「コペルニクスはドイツ人だ!」なんて言うと・・・。
クラクフ空港の愛称はヨハネパウロ2世空港。
5.バッハもこの国出身。 当時ドイツ(神聖ローマ帝国)領の地域だよね?違った?
指揮者・クレンペラー(ドイツ人)の生地も今はポーランド。
大バッハはアイゼナハの生まれだけど、あそこは当時からドイツ領では。ポーランドの民族音楽であるポロネーズを作曲してたりはしたけど。
6.ショパンって確かこの国じゃなかったっけ? 当たり。
ワルシャワの空港はフレデリック・ショパン空港
ワルシャワ近郊生まれ。但し父はナポレオン戦争に従軍してそのまま土着したフランス人(母は勿論生粋のポーランド人)。ショパンという姓も本来はフランスの姓。フルネームもフランス語式とポーランド語式の両方がある。
日本のピアニストでショパンの3度の練習曲を速く弾けない人が非常に多い。 同じく作品10・2番半音階の練習曲も弾けないピアニストが多い。 上記の二人はヘタレ音大卒の模様
彼の写真を見たらドラクロアの絵とのギャップが大きく、失望した。
7.初代首相(兼外相)は「メヌエット」で有名な作曲家&ピアニストのパデレフスキだった。
8.第二次世界大戦後国土がずれた。東側はソビエト領となったが、ドイツ東部をもらったため。
9.首都はワルシャワ。第二次世界大戦など対戦のたびに破壊されたが現在は復興した。 旧市街を完全再現したはずが、街の片隅に寸法ミスがある。
10.1980年代に共産党の一党独裁が崩壊。 時の共産党第一書記ヤエゼルスキは大のロシア嫌いだったがポーランドの為になにも言わなかった。盲目の指導者でサングラスをかけていたが、その視力はソビエトとの戦いで失ったもの 一部ウソ。ヤルゼルスキはむしろ心情的に親ロシア派。あくまでもポーランドの独立を守ろうとしたのであって、ロシア嫌いというわけではない。本人もよく「スラヴの同胞」という表現を使う。
ちなみにヤルゼルスキは戦後の歴代指導者の中で一番国民から嫌われている。理由はユダヤ系だったから(現地でポーランド人が教えてくれた)。帝政ロシアの頃から属国の統治手段として異民族出身の指導者を充ててロシアに対する反感を和らげようとしていた。「スラブの同胞」と言う表現はあくまで恭順の意を示しただけに過ぎない。
11.ドイツ第三帝国が築いた収容所の跡が残っている。 オシフィエンチム(ドイツ語でアウシュヴィッツ)収容所。世界遺産となっている。
同様にドイツ第三帝国が築いた総統大本営「ヴォルフスシャンツェ(現地名はヴィルチィ・シャニェツ)」も跡地ながら残っている。ちなみにかなり僻地にあるため、敷地内にはホテルまで隣接している。
12.各地にはドイツ軍の残していったブンカー(壕)が残っていたり、近年では近海にドイツ海軍の空母が沈んでいることが判明したりと、ドイツ軍の置き土産には事欠かない国。街角では何故か鉄十字章がひっそりと売られていることも。 ワルシャワの軍事博物館にナチス展みたいのがあってマウザーやパンツァーファウストが展示してありその筋にの人にははたまらない
13.人口は3800万、日本の関東地方と同じ。
14.ドイツ軍に戦車で攻め込まれたとき馬で対抗しようとした。 でも、ポーランド騎兵の獰猛さは有名だったため、ドイツ兵はびびりまくっていた。本気で勝てるのかと疑っていた節もある。 実はヒトラーが割譲を要求したのは伝統的なプロイセン民族の土地(ドイツ人、ヒトラーが言うアーリア人の土地)で、実際、この地域では第一次世界大戦終結後ドイツ系住民に対する迫害が起きていた。その度合いは初期のホロコーストなど真っ青である。
だがポーランドは突っぱねた上軍備で脅したのでヒトラーがブチきれて戦車で蹂躙された。だいたいポーランドが他国に侵攻されるときの理由はこういう態度なのだが、勝っている方の尻馬にのって被害者ヅラするため始末に負えない。アメリカがあっさりソ連にくれてやったのは相手するのが嫌だったから。長い記事 ウソくさ!いったいどこで読んだんだそんなホラを・・・
ヒトラーはチェコでドイツ人の多い所だけくれればいい、という約束を破った前科があったから、ポーランドが拒絶するのは当たり前。 チェコのそれはチェコ側のお家騒動が原因。
そもそも西プロイセンにはドイツ系よりポーランド系のほうが多数を占めていたからポーランド領になったのだが どうもフランスと挟撃すればいずれ勝てると考えていた節がある。仏との同盟は秘密同盟だった。戦争回避を第一に考えるなら普通は公表する。
日本人はあのにっくっきロシア人に日露戦争で勝った国なので「黄色人種だか身長は自分たちと同じくらい」と勝手に思い込んでいる。背の低い日本人がポーランド人におまえ何人かと聞かれた場合、「おまえはベトナム人か?、朝鮮人(韓国人)か?、中国人か?、もしかして日本人か?」と必ずもったいぶって「もしかして」がつくはず。
歴史を見れば分かるけど、もともとポーランドは愛国心は強いけど異教徒・異民族に寛容な国柄だからね。 ドイツ侵攻に際してポーランド国内ではドイツ系に対する虐殺事件が起きている(ブロンベルグ血の日曜日事件)。これに対してドイツ系ポーランド人が自発的に組織した自警団が報復している。
プロイセンはドイツ騎士団の東方植民でドイツ人が大量移住した土地だが植民者はドイツ人に限らず西側は長年ポーランド王領、プロイセン王国は宗教や民族に無頓着に移民を受け入れる多民族国家だったので「プロイセン人」はかなり多民族と混ざっていた。
当時のポーランドはどさくさに紛れてソ連の領土を掠め取ってるし、ドイツが攻めて来たときにも隙あらばドイツを逆に占領しようとしたのが当時の文書から分かっている。まぁ東の大国ソ連と西の大国ドイツ両方から恨まれてたんだね。
ちなみに当時のポーランドは非常に領土的野心が高い国と言われていたのも分かっている。
パデレフスキ首相が当時はれっきとしたドイツ領だったポーゼンで「ここはポーランドの領土」と演説したことからも明らか。 ぶっちゃけ、当時のポーランドはドイツに負けないくらいの陸軍大国だった。でも重工業化に失敗して機械化が遅れていたので、イギリスとフランスはポーランドがもって2・3ヶ月だろうと思っていた。なので2国とも最初から見捨てる気満々だった。
でもポーランド侵攻時のドイツの戦車は弱く、むしろ優秀な野砲がポーランド軍を蹂躙したと言って良い。
「騎兵隊で戦車部隊に突撃した」という逸話は実は従ドイツ軍イタリア人記者の「作り話」らしい。
15.美人と「ミリタリー系の雑誌」には事欠かない。前者は街中で、後者はキオスクで。 Wikiでその手のを捜してると、「English」のリンクが無いのに「Polski」と繋がっているという事がよくある。
ワールドカップの各国美女サポーターを集めたサイトを見たが、Brazilと並んでPolandのページが異様に多かった。美人が多いのはどうやら間違いないと思う。 世界有数の美女大国だが、30も過ぎるとウエストのないおばちゃん体系に...
16.最盛期は15世紀。
17.田舎の踏み切りは、列車が通過する前後で最低でも30分は閉じている。 目で見て渡れと…。
18.犯罪者の護送に在来線を使う。ちなみに車内では護送される犯罪者は手荷物の収納部屋のような場所に入り、その入り口の両脇を銃器を持った軍人さんがガッチリとガード。
19.何かあるたびに無くなったり分裂したり移動したり復活したりと忙しい国。 ヨーロッパのいじめられっ子。
4,5回ほどロシアに小突きまわされてるのに何度も不死鳥のごとく蘇る。国歌にすら「まだポーランドは滅びていない」というフレーズが入っている。 ちなみに国歌の名前は「ドンブロフスキのマズルカ」、ポーランドの友人に聞いても意味は知らんとのこと。
何度潰されても、虐げられてもしぶとく復活。ポーランドの子供は自国の歴史を学校で習うと愛国心が高まるそうだ。
800年間でもリトアニアに併合され、ドイツ・オーストリア・ロシアに全領土を没収され、第一次世界大戦後再び現れ、今度はドイツとソ連に侵略され、また復活したがソ連に西部を半分持ってかれドイツ東部が領土となり…今に至る。結構いそがしい国だ。
リトアニアに併合されていたというのは無理かも。ポーランド国王がリトアニア公爵を兼ねていた同君連合(西洋史にはちょくちょくあること)でした。ちなみに日韓併合も世界史的に見ると同君連合に分類されるようです。 ポーランド女王とリトアニア大公の結婚という比較的穏健な手段で連合している。ちなみに、女王様は御年11歳で三十路の大公殿下にお輿入れ。
実は結構自分から手を出したこともあるが、一般的にはヤラレ役のイメージが強すぎて目立たない。 ドイツ(チュートン)騎士団をぶちのめしたことも。 リトアニアと連合軍を組んですっごいかっこいい勝ち方をしてた。
20.帝政ロシアに虐められた時、シベリアに流されたポーランド人の子供を日本が世話したので結構日本に対する感情が良い。 そして阪神大震災でその恩返しをした。 阪神大震災の時「今こそ我等ポーランド人が日本人に70年前の恩返しを」という事で多くの被災孤児を招待して手厚くもてなしたとか。
でも国民単位では反日らしい。 そんなことはない。8月6日と9日には原爆犠牲者のための追悼をしてくれてますよ。 そう言うなら「ドイツをいじめると日本人はいい顔をしない」ということもそろそろ理解して欲しい。 そんなこと思う日本人はあまりいない。そもそもドイツはナチス時代にいじめられても仕方ないだけのことをしてるからなぁ(仕返しもしたけど)。 それが結構いるとこにはいる
そもそもドイツ国民の殆どは、同盟を結んでいた事なんて知らない。全く知らないよ。マジで。
ポーランドが反日国家なんて聞いたことがないよ。 むしろどちらかと言えば親日。シベリア孤児のこともあるし、クラクフには日本に関する博物館もある。
21.今でもロシアが嫌い。 ドイツも嫌い。本当はアメリカも好きではないが、「新しい欧州」扱いしてくれるから表には出さない。
その割りに御祭りではロシア人の商人が自国の空軍のパイロットスーツや、果ては日本なら遊就館にでも収蔵されていそうなン十年前の錆びて穴の開いた鉄帽やドラムマガジンを平然と売っている。というかそれ確実に何か憑いているだろ。
が、最近はポーランドの方からロシア側に関係修復を望んでいる。ロシア側も両国の関係進展を望んでいる。エネルギー、防衛の関係で時間はかかりそうだがこの両国の関係がよくなればEUとしてはおいしい。
アメリカへの愚痴意見は両国とも合致している。
ロシア人のエリートがワルシャワに訪問したら、ホテルでも冷たい態度を取られる。
22.でもロシアが嫌いな他の国家(大半はベタベタの親日)からは日本とドイツが第三次世界大戦を起こしたら、ポーランドとイタリアと韓国だけはなんとしてでも締め出そう、と思われている。 日本とドイツが手を結ぶより、日本とアメリカとイギリス+英連邦が組む可能性が高そうなんだが、その場合はどうするんだろ。この場合は戦争する以前にこの新連合国の勝利が決定していそうなんだが。
たぶんドイツやフランスは戦争に参加せず、中国などが敵になりそうな気がする。
アメリカ+日本+英連邦の「新連合国」とロシア+中国の「新似非共産圏」とドイツ+フランス+イタリアの「新枢軸国」でどうか。南米・アフリカ諸国は一番親しい国もしくは一番金をくれる国に付く。 中東なくないすか?
どうせ戦争になったら世界中のみんな「絆」なんて忘れて「金」と「勝利」にしがみつく様になるんだろう。今は仲が良くても心底では「もしアイツが裏切ったときのために一応装備しておこう」と思ってる人が少なからずいる。そう思ったら・・・しょせん世界中の「共存」と「友情」なんてその程度なんだ・・・って落ち込む。
23.ショパン国際コンクールが開催される。 昭和40年代内田光子が2位で、日本はいまだに優勝できない。 日本のピアニズムを認めたくないらしい。
24.去年(2005年)双子の兄が首相・弟が大統領という兄弟政権が誕生。 ドイツが大嫌いだ。ついでに口シアも。
インターネットで、2人の写真を並べて違いを判別するゲームがある。
ソ連に虐げられた日本人とは結構ウマが合うかもしれない。
そりゃそうだ。何回も理不尽な理由で攻め込まれてるからね。
25.国旗の赤と白を逆さまにするとモナコ(=インドネシア)の国旗になる 共産国家になっても、旧来の国旗の意匠を頑として変えなかった(他の東欧国の多くは社会主義っぽい紋章や赤い星を国旗に加えたケースが多い)この国旗にかけるポーランド人の思いはただならぬものがあるそうだ。 国章も、鷲の頭の王冠が消えただけで特に社会主義っぽくはなっていなかった。
26.インドネシアと紛らわしい国旗なので、配色を忘れたら、マルマインを思い出すべき。 じゃあ、マルマインとビリリダマの区別が付かなくなったらどうするの?
27.民族ジョークではイタリアをも凌ぐバカの名産地だが、本来の国民性は勤勉らしい。 戦争でボロ負けしてから必死こいて挽回するから、「一人が電球を持って残り四人がテーブルを回す」とかいう言い草になったんじゃないのか?
かなり我の強い国民性らしい。国王を差し置いて貴族同士が権力争いをしてたら(ポーランド継承戦争)気づけば国そのものが無くなっていた
どうやら、アメリカに大量に移住したポーランド系の移民がロクに英語を話せなかったから・・というのが事の真相らしい。元々は勤勉な国民性なので、二世・三世になって医者や代議士、大学教授等多くのエリートを輩出している。
28.国歌がなかなかかっこいい。 歌い出しが「ポーランドは滅びず 我等が生きる限り」か。ポーランドらしいな(笑) もともとポラン族という民族の集落だったらしい。
旧ユーゴスラビア国歌「スラブ人よ」と同じメロディー。元はスロバキア発祥で現在も同国の第二国歌。
そして何故かイタリアの名前が歌詞にある。ポーランドとイタリアは仲が良いみたいだ。 アンケートによればポーランドが一番好きな民族はイタリア人らしい。次が日本人とフランス人、次がイギリス人、アメリカ人。
29.餃子が名産。 ピエロギと申します。
30.映画・戦場のピアニスト 邦題 The pianist で有名。 「原題」では?
"AVALON"は"The Matrix"よりもクール。
31.アメリカンジョークでは、ポーランド人は時代遅れのバカという扱い。 有名なのは「Polish Remover」の話。
時代背景が古いハリウッド映画(舞台はアメリカ)など見ていると、ポーランド人やアイルランド人を馬鹿にした表現があったりする。何故?国が何度もなくなっているから?
32.あるポーランド人男性によれば、ポーランド女性は身も心も世界で最も美しいのだが、不幸なことに脳みそが入っていないのだそうだ。 どういう意味?おバカさんってこと?
33.ポーランド語人口が少ないにもかかわらずWikipediaの記事数では日本語、スペイン語を上回る第4位になっている。 ポーランド語版Chakuwikiがあったらいいのにw
ワールドワイドで売られている電機製品等では最近意外にポーランド語対応製品が多い。デジカメとかコピー機とか(日本製品で)。
日本ではwikipediaは自己満足の世界と理解されたから。ポーランド人はおバカだからまだそれに気づいていない。
34.「ポーランド人」「ポーランドの」を意味する英語Polish(ポウリッシュ)は、小文字にすると意味ばかりか発音まで変わってしまう唯一の英単語。 polish(ポリッシュ)……磨く。 ポーランドの柱。
polishの発音はパリシなんだが・・・。Polishならわかるけど アメリカ人でも気付かない人が多いらしく、作家のアイザック・アシモフが何回もネタに使っている。
finnishを無視するな。 完了はfinishなのだぜ!
35.ポーランド語は異常に「z」をよく使う。 特に頭文字に多い。
36.王天君にしてヤムチャ。
37.5月3日は憲法記念日。日本と一緒。
38.(9 + 13) * ( 24 - 2 ) を * + 9 13 - 24 2 と書く。 その逆が 9 13 + 24 2 - * ポルスキーもあながちバカばかりではないようだ.
39.たまにドイツに過去の清算だの言いがかりをつけてくるが、 モンゴル帝国が攻めてきた時、当時のドイツである神聖ローマ帝国と共にモンゴルの侵略と戦ったことはすっかり忘れている。 大昔から他人種と戦うなんて大陸はつながってるなあ。いまでもポーランドの路線はロシア経由で中国やモンゴル、北朝鮮にもつながっている。 侵略されたら戦うのは当然だろう。神聖同盟でロシア、オーストリアと組んでオスマントルコと戦ったりもしている。この時にポーランド騎兵の対外的な名声が高まった。
その四十年後に繋がってない日本もモンゴルと戦っている。西のヨーロッパから東の島国まで攻め込んでモンゴルも忙しい国だ。
40.ポーランド騎兵には羽が生えていた。 あの羽根飾りはカッコイイ。
41.ポーランド人はアメリカやイギリスに多く移民しており、親米らしい。 ロシア語までも嫌っている。英語がブームらしく、日本語も人気で始めた。 戦前はドイツ語とロシア語がブーム。戦中から戦後は英語ブーム。
42.チェチェン人を保護している。『殺してやる』というほどロシアを嫌っている人々に共感しているみたい。 さすが大のロシア嫌い。
ソビエト陣営所属の共産国家「ポーランド人民共和国」時代で3回も反ソ連暴動起こしてるしな・・
43.ポーランドのドラゴンボールzのopeningはなぜかナメック星編中心。 ハンガリーもポーランドと同じバージョン。
フィリピンの英語、フランス語、スペイン語、ドイツ語バージョンはかっこいい。
44.♪さぁ踊ろう ポーレチケ、ポーレチケ、ポーレチケ…
45.優秀な人はみんな西に行ってしまったので、残っている人はそれなり。日本で言えば山口か鹿児島か。「ポーランド人は外国にいって成功するんだ(キューリー夫人とかショパン)」と真顔で語る波蘭人。
46.国が何度も消滅する歴史を持っているためかどこの国であろうと虐殺、弾圧が行われると真っ先に反応して講義する。天安門事件の慰霊碑が立てられているのが好例。
47.第二次大戦のポーランド軍最高司令官はヴワディスワフ・シコルスキという。 気持ちい? 女性ならシコルスカ/Sikorska、シコシコ・スカスカ、はぁー
48.ナチスドイツから2500人のユダヤ人の命を救ったイレーナ・センドラーというポーランド人がいた。 ナチスドイツ軍に処刑されたと思われたが実は生きていたという奇跡の物語。
49.ただいま日本語がブームである。 なんと日本ポーランド情報技術大学なんてのがワルシャワにある
50.ナポレオンが好き。(一時的に、ワルシャワ公国としてポーランドを独立させたから) 国歌の歌詞に「ボナパルトがいい例だ 勝つ方法を見せてくれた」との一節がある。
その結果ポーランドにはフランス語が元の言葉も多いとか
ボナちゃんの愛人がポーランド人。
51.ポーランドは西側の中古の路面電車を買っている、そしてリニューアルをする。 JR西日本とJR四国のような感じである。
52.ポーランド人はドイツとロシアも両方嫌っているが、ロシアのほうが嫌いだろう。 ポーランドはドイツ語を好んでいる。何しろ出稼ぎに便利。ドイツ語とポーランド語は違う系統だが隣国なのでよく通じる。 内心嫌いだが、金のためのドイツ語だろ?
ポーランド旅行ではドイツ語表記が多いので、ドイツ語がわかれば結構よいかも。
しかしロシア語で話すと横柄な態度を取られる、また第二次大戦後にロシアにより東側陣営にさせられた苦痛がある。 しかしポーランドではロシア語教育が復活している。まあBRICsだから。
ドイツは消極的選択肢で好かれている。まあナチス式敬礼しただけで逮捕するからね。一応はドイツは敗戦したし。 これはバルト3国、チェコ、スロバキアでも同じ事。
53.ポーランドは客車大国で、特急列車も高速鉄道も客車。高速鉄道を作らず、飛行機と競争しない旧共産圏の名残。 ドイツから鉄道を乗り継ぐ際にここを境にユーラシア大陸の極東まで特急列車はほとんどが客車になり、シベリア鉄道は超長距離だから特急は客車しかない、中国のハルビンで動力分散型の高速鉄道が見られる。
ちなみにベラルーシを越えると線路幅どころか車高も変わる。 標準軌のヨーロッパと直通運転の際にロシア国内では車高が高いCIS列車と車高の低いヨーロッパ車両の組み合わせが見られる。[1]
なんと日本に次ぐ早さで高速鉄道を開通させていた。ただし路線に見合った性能の高速列車の導入はこれから。
54.イタリアと仲がいい。
55.ポーランドとインドネシアは似た国旗以外にもナチスに関係がある。
56.東欧革命後に西側の安い労働力として毎年6%前後の成長しており、2008年ではGDPは世界18〜20位だった。ポーランドは旧共産圏で経済成長率が高い。 勤勉なポーランド人は英語が好きで、近年は嫌いな国の言葉のドイツ語、ロシア語教育に熱心である。
恵まれた国に隣接する国は飛躍的に経済成長する現象。アメリカとメキシコ、日本と韓国、ドイツとポーランド、イギリスとアイルランド。 シンガポールとマレーシア。ギリシャとトルコも?だけどスペインとモロッコ、オーストラリアとパプアニューギニア、イスラエルとエジプトは?
57.弱いイメージがあるが、リトアニア大公国との同君連合時のヤゲウォ朝(ヤギェウォ朝)はヨーロッパでも最強クラスの国家だった。ちなみに受験でポーランドの王朝が聞かれたら100%ヤゲウォ朝 昔から軍事的にもそこそこ強力な国だったが、ドイツ・ソ連の東西両国が強烈過ぎた。ナチス占領下でもワルシャワで数十万の武装市民がナチスSS武装親衛隊相手に壊滅状態になるまで徹底抗戦したりと、よく言われる「ヘタレ」のイメージでは無い。
58.ポーランド人は金持ちがドイツに留学、貧乏がロシアへ留学するらしい。 ポーランドは一応はドイツ語は学ぶ。
59.移民として行く国はイギリス。ドイツは当たり前だが少ない。
60.ウクライナとの関係はよくわからない。どっちも反ロシア ポーランドとロシアの綱引きのようなもの。綱(ウクライナ)を少しでも自陣に近づけようとしあっている。
ポーランドには12万人のウクライナ人がポーランドで就業登録している。ポーランド国内最大の移民グループはウクライナ人女性で、彼女たちに家計の全てを頼る家庭がウクライナには多いという。
どっちも美人大国!♪
西部ウクライナは歴史的にポーランドの影響を受けた地域で、ウクライナ語も東スラヴ語だが語彙はかなりポーランド語化しているのでポーランドとの心理的距離は近い。
61.18世紀に隣国によって分断され国が消滅、まるで現在のクルディスタン状態に・・・
62.童謡「森へ行きましょう」はこの国の民謡。 ポーランド語では「Szła dzieweczka(シュワ・ジェヴェチュカ)」と言い、「あの娘は歩いている少女」という意味らしい。
63.実はポーランドは17世紀においてオスマン帝国とマトモにやりあえる位の大国であった
64.ポーランド人は馬鹿といわれているがそれはジョークだけ、実際欧州でも1〜2位を争うほどIQが高い人が多い。
65.酒屋やスーパーのお酒売り場においてウォッカは売り場の7割ほどを占める でも最近若年層はワインを飲む人が増えてきた
66.ロシアとどっちがウォッカの元祖かしょっちゅう論争してる 記録上一番古い蒸留所はポーランドにある
67.最近はデスメタルの聖地。しかも、ものすごいテクニック(特に驚異的ドラマーが多い)と音圧、激しさ...ポーランド人の国民性?
68.G8の中で6ヶ国は好きで2ヶ国は大嫌いその国はどこでしょう?。 新大陸のアメリカとカナダは移民が多いから好き。極東の島国の日本は日露戦争の影響で大好き。ヨーロッパの連合国のイギリス、フランス、枢軸国でもすぐ脱落したイタリアは大好き。
ポーランドを侵攻したドイツ、ロシアは大嫌い。
69.フランスの環境相ナタリー・コシュースコ=モリゼはポーランド独立の闘士コシチューシコ伯爵の兄の子孫。
70.ポーランドの英雄ピウスツキの兄の子孫が北海道にいる。本国の家系は途絶えたらしい。
http://wiki.chakuriki.net/index.php/%E3%83%9D%E3%83%BC%E3%83%A9%E3%83%B3%E3%83%89
2012年 6月30日〜7月3日ワルシャワ旅行
お休みと週末を利用してワルシャワを訪れた。毎回体調不良や予定があわず何度となく旅程を延期していたため、色々な意味で大きな犠牲を払った上での三度目の正直であった。ホテル・フレデリック・ショパンにチェックインし、仕事も多忙を極める時期でもあったため、なるべく体力を使わないように慎重に観光した。
訪問の主な目的はショパン、キュリー夫人、パデレフスキの足跡をたどり、彼らが育った土壌の文化、雰囲気、ポーランドの空気を体に染み込ませること。飛行機の中や晩ホテルで寝る前、その世界になるべく近づけるよう最近パリで購入したアルド・チッコリーニの演奏によるショパン作曲ノクターン集の音楽を聴いた。コペルニクス、パデレフスキ、ミケヴィッチについては、彼らの像をみることしかできなかった。
初日はショパン音楽院に通う友人と久しぶりに再会し、彼の案内でショパン音楽院を見学し、練習室でショパンの弾き合いをした。そこで先日のショパンコンクール審査員らの裏話を聞いたり、友人との会話を楽しんだりした。晩はマクドナルドでポーランド人の味覚を確認すべく、ビッグマックを食べた。
二日目は一人で観光。ショパン博物館には昔から本などでよく見かけた絵やショパンのピアノなどが展示してあった。ショパンの家は残念ながらあいていなかった。市街地の中心にある宮殿の小ささには驚いた。宮殿の大きさ、豪華さがその国の国力におよそ比例していると考えているが、このサイズは東アジアでいえば朝鮮国より小さく、琉球国よりやや大きいという感じであろうか。
キュリー夫人の生家、キュリー博物館にはパリのキュリー博物館(キュリー研究所)より多くの写真があった。その多くがパリの写真であり、パリで見たことがあったが、その中にもワルシャワでしか見られない少女時代の写真や、レアな写真もあった。パリのキュリー研究所で今自分がいる建物は100年前から外見は何も変わってなかった。
キュリー夫妻は、笑っている写真が1つも残っていない。長女のイレーヌは研究者になり、ノーベル賞を受賞したが、やはり笑った写真が1つもない。職業柄であろうか。次女のエーヴはピアノにハマり研究者にならず、いつもニコニコ美人で有名人の娘として社交界に出入りし、ノーベル平和賞をもらった組織のトップと結婚し、母の思い出を書いた伝記はベストセラーとなり、この時まだ102歳?で健在であった。
研究をした彼女の家族は全員放射能を浴び白血病で若くして亡くなった(父親は事故死)が、彼女は姉の2倍生きた。
生家をみる限り、伝記などで美化されるとなる生まれの貧しさは必ずしも正しくはないようである。それなりの家に育っていたようである。
晩は旧市街地でサッカーワールドカップ、フランス対ブラジル戦を見ながら地ビールを味わった。
三日目は午後から友人と合流し、南の離宮と有名なショパン像があるワジェンキ公園に向かい、ショパン像隣でのショパン音楽院教授によるショパンの演奏を聴いた。野外に粗末なピアノを置き、アンプとスピーカーを通しての演奏だったため、演奏者にもあまりやる気が感じられなかった。建築などで有名だった旧名門ワルシャワ工科大学前を通過し、晩は旧市街地で夕食をとった。
四日目は友人とショパンの家に行ってみたが、またしても開いていなかった。そのまま空港行きバスにのり、パリに帰った。二度と訪れないような気がして寂しさを感じた。
http://nanomicroscientist.blogspot.jp/2012/07/63073.html
http://www.asyura2.com/20/reki4/msg/629.html#c3
十月
https://movie.walkerplus.com/mv12030/
監督
セルゲイ・ミハイロヴィチ・エイゼンシュテイン 、 グリゴーリ・アレクサンドロフ
脚本
セルゲイ・ミハイロヴィチ・エイゼンシュテイン 、 グリゴーリ・アレクサンドロフ
撮影 エドゥアルド・ティッセ
音楽 ディミトリ・ショスタコヴィッチ
美術 ヴァシリ・ゴブリーギン
ソビエトが生んだ偉大な映画作家セルゲイ・M・エイゼンシュテインがソビエト革命十周年記念映画として製作した作品。
彼一流のモンタージュを、ヴィジョン構成の方法として用い、一九一七年の三月から十一月までの激動するソビエトをとらえている。
監督・脚本は前記のセルゲイ・M・エイゼンシュテイン。また、共同監督・脚本にグリゴーリ・アレクサンドロフが名を連ねている。撮影はエドゥアルド・ティッセ、音楽はディミトリ・ショスタコヴィッチ、美術はV・ゴブリーギンが担当。無声。
革命前夜のソビエトは、大きく揺れ動いていた。帝政ロシアの第一次大戦の連戦連敗により、ツアーリズムは最期をむかえ、社会生活の困難にストライキが頻発。そのような情勢に、ボリシェビキの指導者レーニンは、来たるべき革命は、プロレタリア革命であることを強調。そして、四月にスイスより帰国したレーニンは、「いっさいの権力をソビエト(評議会)へ!」というスローガンを唱えた。
このレーニンの方針は、メンシェビキや社会革命党の主張と、根本的に対立、次第に激化した対立をひきずったまま、六月中旬に、ペトログラードにて第一回全ロシア・ソビエト大会が開かれたが、ボリシェビキは少数で、メンシェビキと社会革命党のにぎる臨時政府と、戦争継続への支持が強かった。しかし、七月一日に四〇万の人々によって、戦争反対のデモが起きた。
その後、ボリシェビキに対する強い弾圧が加えられ、レーニンはフィンランドに亡命。九月に入ると、ロシアの食糧事情は極度に悪化し、ボリシェビキの支持者は増加し、亡命中のレーニンは、武装蜂起をうながした。十月二十日、ひそかにペトログラードに帰ったレーニンは、中央委員会に参加、蜂起は第二回ソビエト大会の前日、十一月六日と決定した。
当日、軍事委員会の蜂起指令により、労働者の赤衛軍は、各連隊の兵士、クロンシュタットの水兵と共に行動をおこし、要所を占領。十一月七日(露歴十月二十五日)午前十時、軍事革命委員会は、臨時政府の倒壊とソビエト政権の樹立、講和会議の開催、地主的土地所有の廃止などを宣言。そして、赤衛軍が冬宮を攻撃する砲声がとどろく中で第二回全ロシア・ソビエト大会がスモルヌィで開かれ、すべての権力をソビエトに移すことを宣言した。
https://movie.walkerplus.com/mv12030/
http://www.asyura2.com/20/reki4/msg/629.html#c5
現在、高田馬場の早稲田松竹では、ソビエトが生んだ偉大な映画監督セルゲイ・M・エイゼンシュテイン(1898−1948)の生誕120年・没後70年祭を開催中です
昨日、「全線(古きものと新しきもの)」と「十月」の2本立てを観ました
「全線(古きものと新しきもの)」はエイゼンシュテイン監督・脚本による1929年ソ連映画(モノクロ・無声・90分)です
ロシアの貧しい農村で働く農婦マルファは、農業教師指導のもとに小さな協同組合を作る 組合では牛乳分離機という新しい機械を手に入れ牛乳の生産に取り組むが、それが評判になり組合員が増える 種牛も組合共有で飼育する。収穫の時期になると従来の牛や馬ではなく機械(トラクター)の必要を感じるようになり、マルファは組合の代表者として町へ出て官僚主義の役人と交渉する その留守中、種牛は富農の手によって毒殺されてしまう しかし、マルファたちはトラクターを手に入れ機械化による新しい農業の時代を切り開いていく
出演者は主人公の農婦マルファ以外は全員素人ということに驚きます この映画では1925年の「戦艦ポチョムキン」で新たに実験的に取り組んだ特殊なモンタージュ技法を使用しています それは、空に牛の姿が浮かび上がる映像として結実しています
この作品は無声映画なので、最初から最後まで90分間いっさい音がありません そのため睡眠不足の状態で観ると途中で目が閉じる可能性が高いので気を付けた方が良いと思います
それにしてもよく分からないのは「全線」という邦題です。「古きものと新しきもの」は、「古きもの=従来のしきたり・やり方、新しきもの=機械化・合理化」といった意味だろうと理解できますが、「全線」は理解できません。「全線不通」の全線ですか? 私は頭が良くなので理解できません
「十月」はエイゼンシュテイン監督・脚本による1928年ソ連映画(モノクロ・109分)です
帝政ロシアの第一次世界大戦での連戦連敗により、1917年にはツァーリズム(絶対君主制)は最期を迎え、社会生活の困難にストライキが頻発していた そのような情勢の中、指導者レーニンは来たるべき革命はプロレタリア革命であることを強調した そして4月にスイスから帰国したレーニンは「いっさいの権力をソビエト(評議会)へ!」というスローガンを唱えるが、この方針は、メンシェビキや社会革命党の主張と根本的に対立するものだった
6月にペトログラードで第1回全ロシア・ソビエト大会が開かれたが、レーニンが率いるボリシェビキは少数派で、メンシェビキと社会革命党の握る臨時政府と、戦争継続への支持が強かった。しかし、これに対し7月に40万人規模の戦争反対のデモが起きた その後、ボリシェビキに対する強い弾圧が加えられ、レーニンはフィンランドに亡命する。
9月に入るとロシアの食糧事情は極度に悪化し、ボリシェビキの支持者は増加、亡命中のレーニンは武装蜂起を促した。10月20日 密かにペトログラードに帰ったレーニンは、中央委員会に参加、蜂起は第2回ソビエト大会の前日、11月6日と決定した。当日、軍事委員会の蜂起指令により、労働者の赤衛軍は各連隊の兵士らと共に行動を起こし、要所を占領する 11月7日(ロシア歴10月25日)午前10時、軍事革命委員会は、臨時政府の倒壊とソビエト政権の樹立、講和会議の開催、地主的土地所有の廃止などを宣言した
そして、赤衛軍が冬宮を攻撃する砲声が轟く中、第2回全ロシア・ソビエト大会がスモルヌィで開かれ、すべての権力をソビエトに移すことを宣言した
この作品はエイゼンシュテインが、ソビエト革命十周年記念映画として製作した作品で、1917年の3月から11月までの激動するソビエトを描いています この映画でも特殊なモンタージュ技法を駆使した映像表現を見せています
この映画は無声映画であるにも関わらず、音声のみならず音楽まで入っています 映画の冒頭ではショスタコーヴィチの「交響曲第12番作品112『1917年』」の第1楽章が流れます また、映画の末尾では同曲の第4楽章が流れます 曲のサブタイトルにあるように、この曲は1917年のロシア革命を描いた作品なので、これ以上この映画に相応しい音楽もないでしょう また、この映画では彼の他の作品(ヴィオラ・ソナタ?)なども流れます
ドミトリー・ショスタコーヴィチ(1906−1975)が「交響曲第12番作品112」を作曲したのは1961年で、初演も1961年です したがって、エイゼンシュテインが1928年に製作した無声映画に、後からショスタコーヴィチの交響曲や彼の作品、その他の音声を加えて編集したことになります
因みに「交響曲第12番」は第1楽章「革命のペトログラード:モデラート〜アレグロ」、第2楽章「ラズリフ:アダージョ」、第3楽章「アウローラ号:アレグロ」、第4楽章「人類の夜明け:アレグロ〜アレグレット」の4楽章から構成されています
エイゼンシュテインの巧みな映像表現にショスタコーヴィチの音楽が加わることにより、より一層深みが増し 作品の芸術的価値が高められています
https://blog.goo.ne.jp/tora6yoshi/e/7c98571ca0e1aa028b58b07cfbdb7c49
http://www.asyura2.com/20/reki4/msg/629.html#c7
ロシアではグラスノスチによって、神聖不可侵だったレーニンの実像を知る手がかりが次第に明らかにされつつある。共産党中央委員会が管理していたマルクス・レーニン主義研究所所属の古文書館に「秘密」のスタンプが押された3724点におよぶレーニン関連の未公開資料が保存されていたことも判明し、民主派の歴史学者の手によってその公開が進みつつある。
これらの資料のうちの一部は、ソ連崩壊以前からグラスノスチ政策によって公開されていた。そのうちのひとつが、私が月刊『現代』91年10月号誌上で全文を公表した、1922年3月19日付のレーニンの秘密指令書である。改めてここでその内容を紹介しておこう(翻訳全文は拙著『あらかじめ裏切られた革命』に所収)。
22年当時、ロシアは革命とそれに続く内戦のために、国中が荒廃し、未曾有の大飢饉に見舞われていた。そんな時期に、イワノヴォ州のシューヤという町で、ボリシェヴィキが協会財産を没収しようとしたところ、聖職者が信徒の農民たちが抵抗するという「事件」が起きた。報告を受けたレーニンは、共産党の独裁を確立する最大の障害の一つだった協会を弾圧する「口実ができた」と喜び、協会財産を力ずくで奪い、見せしめのための処刑を行い、徹底的な弾圧を加えよと厳命を下したのである。以下、その命令書の一部を抜粋する。
<我々にとって願ってもない好都合の、しかも唯一のチャンスで、九分九厘、敵を粉砕し、先ゆき数十年にわたって地盤を確保することができます。まさに今、飢えた地方では人をくい、道路には数千でなければ数百もの死体がころがっているこの時こそ、協会財産をいかなる抵抗にもひるむことなく、力ずくで、容赦なく没収できる(それ故、しなければならないのです>
<これを口実に銃殺できる反動聖職者と反動ブルジョワは多ければ多いほどよい。今こそ奴らに、以後数十年にわたっていかなる抵抗も、それを思うことさえ不可能であると教えてやらねばならない>
おぞましい表現に満ちたこの秘密書簡は、『ソ連共産党中央委員会会報』誌90年4月号に掲載され、一般に公開された。党中央委ですら、90年の時点で、レーニンが直接命じた残忍なテロルの事実の一端を、公式に認める判断を下したわけである。
アナトリー・ラトゥイシェフという歴史家がいる。未公開のレーニン資料の発掘に携わっている数少ない人物で、同じくレーニン研究に携わっていた軍事史家のヴォルコゴーノフが、95年12月に他界してからは、この分野の第一人者と目されており、研究成果をまとめた『秘密解除されたレーニン』(未邦訳)という著書を96年に上梓したばかりだ。モスクワ在住の友人を通じて、彼にあてて二度にわたって質問を送ったところ、氏から詳細な回答を得るとともに、氏の好意で著書と過去に発表した論文や新聞インタビュー等の資料をいただいた。以下、それらのデータにもとづいて、レーニンの実像の一端に迫ってみる(「 」内は氏の手紙および著書・論文からの引用であり、< >内はレーニン自身の書いた文章から直接の引用である。翻訳は内山紀子、鈴木明、中神美砂、吉野武昭各氏による)。
まずは、ラトゥイシェフからの手紙の一節を紹介しよう。
「残酷さは、レーニンの最も本質をなすものでした。レーニンはことあるごとに感傷とか哀れみといった感情を憎み、攻撃し続けてきましたが、私自身は、彼には哀れみや同情といった感情を感受する器官がそもそも欠けていたのではないか、とすら思っています。残酷さという点ではレーニンは、ヒトラーやスターリンよりもひどい」
「レーニンはヒトラーよりも残酷だった」という主張の根拠として、ラトゥイシェフはまず、彼自身が古文書館で「発掘」し、はじめて公表した、1919年10月22日付のトロツキーあての命令書をあげる。
<もし総攻撃が始まったら、さらに2万人のペテルブルグの労働者に加えて、1万人のブルジョワたちを動員することはできないだろうか。そして彼らの後ろに機関銃を置いて、数百人を射殺して、ユデニッチに本格的な大打撃を与えることは実現できないだろうか>
ユデニッチとは、白軍の将軍の一人である。白軍との内戦において、「ブルジョワ」市民を「人間の盾」として用いよと、レーニンは赤軍の指導者だったトロツキーに命じているのである。
「ヒトラーは、対ソ戦の際にソ連軍の捕虜を自軍の前に立たせて『生きた人間の盾』として用いました」と、ラトゥイシェフ氏は私宛ての手紙に書いている。
「しかし、ヒトラーですら『背後から機関銃で撃ちながら突進せよ』などとは命令しなかったし、もちろん、自国民を『盾』に使うことはなかった。レーニンは自国民を『人間の盾』に使い、背後から撃つように命じている。ヒトラーもやらなかったことをレーニンがやったというのはこういうことです。しかも、『人間の盾』に用いられ、背後から撃たれる運命となった人たちは犯罪者ではない。あて彼らの『罪』を探すとすれば、それはただひとつ、プロレタリア階級の出身ではなかったということだけです。しかし、そういう人々の生命を虫ケラほどにも思わず、殺すことを命じたレーニン自身は、世襲貴族の息子だったのです」
レーニンが「敵」とみなしていたのは、「ブルジョワ階級」だけではない。聖職者も信徒も、彼にとっては憎むべき「敵」だった。従来の党公認のレーニン伝には、革命から2年後の冬、燃料となる薪を貨車へ積み込む作業が滞っていることにレーニンが腹を立て、部下を叱咤するために書いた手紙が掲載されてきた。
<「ニコライ」に妥協するのは馬鹿げたことだ。――ただちに緊急措置を要する。
一、出荷量を増やすこと。
二、復活祭と新年の祝いのために仕事を休むことを防ぐこと。>
「ニコライ」とは、12月19日の「聖ニコライの祭日」のことである。この日、敬虔(けいけん)なロシア正教徒は――ということは当時のロシア国民の大半は――長年の習慣に従って、仕事を休み、祈りを捧げるために教会へ足を運んだに違いない。レーニンはこの日、労働者が仕事を休んだのはけしからんと述べているわけだが、そのために要請した緊急措置は、この文書を読むかぎりとりたてて過激なものではないように思える。しかし実は、この手紙は公開に際して改竄(かいざん)が施されていた。古文書館に保存されていた、19年12月25日付書簡の原文には、先のテクストの「――」部分に以下の一文が入っていたのである。
<チェーカー(反革命・サボタージュ取り締まり全ロシア非常委員会=KGBの前身の機関)をすべて動員し、「ニコライ」で仕事に出なかったものは銃殺すべきだ>
レーニンの要請した「緊急措置」とは、秘密警察を動員しての、問答無用の銃殺だったのだ――。
この短い書簡の封印を解き、最初に公表したのは、今は亡きヴォルコゴーノフで、彼の最後の著書『七人の指導者』(未邦訳)に収められている。ラトゥイシェフは、私宛ての手紙で『七人の指導者』のどのページにこの書簡が出ているか示すとともに、こういうコメントを寄せてきている。
「この薪の積み込み作業に動員されたのは、帝政時代の元将校や芸術家、インテリ、実業家などの『ブルジョワ』層でした。財産を奪われた彼らは、着のみ着のままで、この苦役に強制的に従事させられていたのです。彼らにとって『聖ニコライの日』は、つかの間の安息日だったことでしょう。レーニンは無慈悲にも、わずかな安息を求め、伝統の習慣に従っただけの不幸な人々を『聖ニコライの日』から一週間もたってから、その日に休んだのは犯罪であるなどと事後的に言い出し、銃殺に処すように命じたのです」
内部に胚胎していた冷血
ひょっとすると、このような事実を前にしてもなお、以下のような反論を試みようとする人々が現れるかもしれない。
――レーニンはたしかに「敵」に対しては、容赦なく、残酷な手段を用いて戦ったかもしれない。しかしそれは革命直後の、白軍との内戦時の話だ。戦争という非常時においては、誰でも多かれ少なかれ、残酷になりうる。歴史の進歩のための戦いに勝ち抜くにはこうした手段もやむをえなかったのだ――。
いかにも最もらしく思える言い分だが、これも事実と異なる。レーニンの残酷さや冷血ぶりは、内戦時のみ発揮されたわけではない。そうした思想(あるいは生理)は、ウラジーミル・イリイッチ・ウリヤーノフが「レーニン」と名乗るはるか以前から、彼の内部に胚胎していたのだ。
話は血なまぐさい内戦の時代から約30年ほど昔に遡る。1891年、レーニンが21歳を迎えたその年、沿ヴォルガ地方は大規模な飢饉に見舞われた。このとき、地元のインテリ層の間で、飢餓に苦しむ人々に対して社会的援助を行おうとする動きがわきあがったが、その中でただ一人、反対する若者がいた。ウラジーミル・ウリヤーノフである。以下、『秘密解除されたレーニン』から引用する。
「『レーニンの青年時代』と題する、A・ペリャコフの著書を見てみよう(中略)それによれば、彼(レーニン)はこう発言していたのだ。
『あえて公言しよう。飢餓によって産業プロレタリアートが、このブルジョワ体制の墓掘人が、生まれるのであって、これは進歩的な現象である。なぜならそれは工業の発展を促進し、資本主義を通じて我々を最終目的、社会主義に導くからである――飢えは農民経済を破壊し、同時にツァーのみならず神への信仰をも打ち砕くであろう。そして時を経るにしたがってもちろん、農民達を革命への道へと押しやるのだ――』」
ここの農民の苦しみなど一顧だにせず、革命という目的のためにそれを利用しようとするレーニンの姿勢は、すでに21歳のときには確固たるものとなっていたのだ。
また、レーニンは『一歩前進、二歩後退』の中で自ら「ジャコバン派」と開き直り、党内の反対派を「日和見主義的なジロンド派」とののしっているが、実際に血のギロチンのジャコバン主義的暴力を、17年の革命に先んじて、1905年の蜂起の時点で実行に移している。再び『秘密解除されたレーニン』から一節を引こう。
「このボリシェヴィキの指導者が、(亡命先の)ジュネーブから、1905年のモスクワでの『12月蜂起』前夜に、何という凶暴な言葉で、ならず者とまったく変わらぬ行動を呼びかけていたことか!(中略)
『全員が手に入れられる何かを持つこと(鉄砲、ピストル、爆弾、ナイフ、メリケンサック、鉄棒、放火用のガソリンを染み込ませたボロ布、縄もしくは縄梯子、バリケードを築くためのシャベル、爆弾、有刺鉄線、対騎兵隊用の釘、等々)』(中略)
『仕事は山とある。しかもその仕事は誰にでもできる。路上の戦闘にまったく不向きな者、女、子供、老人などのごく弱い人間にも可能な、大いに役立つ仕事である』(中略)
『ある者達はスパイの殺害、警察署の爆破にとりかかり、またある者は銀行を襲撃し、蜂起のための資金を没収する』(中略)建物の上部から『軍隊に石を投げつけ、熱湯をかけ』、『警官に酸を浴びせる』のもよかろう」
「目を閉じて、そのありさまを想像してみよう。有刺鉄線や釘を使って何頭かの馬をやっつけたあと、子供達はもっと熟練のいる仕事にとりかかる。用意した容器を使って、硫酸やら塩酸を警官に浴びせかけ、火傷を負わせたり盲人にしたりしはじめるのだ。
(中略)そのときレーニンはこの子供達を真のデモクラットと呼び、見せかけだけのデモクラット、『口先だけのリベラル派』と区別するのだ」
彼の価値観はきわめて「ユニーク」で、「警官に硫酸をかけなさい」という教えだったのだ。
よく知られている話だが、1898年から3年間、シベリアへ流刑に処されたとき、レーニンは狩猟に熱中していた。この狩猟の趣味に関して、レーニンの妻、クループスカヤは『レーニンの思い出』の中で、エニセイ川の中洲に取り残されて、逃げ場を失った哀れなウサギの群れを見つけると、レーニンは片っ端から撃ち殺し、ボートがいっぱいになるまで積み上げたというエピソードを記している。
何のために、逃げられないウサギを皆殺しにしなくてはならないのか?これはもはや、ゲームとしての狩猟とはいえない。もちろん、生活のために仕方なく行なっている必要最小限度の殺生でもない。ごく小規模ではあるが、まぎれもなくジェノサイドである。レーニンの「動物好き」とは、気まぐれに犬を撫でることもあれば、気まぐれにウサギを皆殺しにすることもある、その程度のものにすぎない。
「レーニンは疑いなく脳を病んでいた人でした。特に十月革命の直後からは、その傾向が顕著にあらわれるようになります。1918年1月19日に、憲法を制定するという公約を反古にして、憲法制定会議を解散させたあと、レーニンはヒステリー状態に陥り、数時間も笑い続けました。また、18年の7月、エス・エルの蜂起を鎮圧したあとでも、ヒステリーを起こして何時間も笑い続けたそうです。こうした話は、ボリシェヴィキの元幹部で、作家であり、医師でもあったボグダーノフが、レーニンの症状を診察し、記録に残しています」
レーニンの灰色の脳は病んでいた。彼は「狂気」にとりつかれていたのだ。ここでいう「狂気」とはもちろん、陳腐な「文字的」レトリックとしての「狂気」でも、中沢氏のいう「聖なる狂気」のことでもない。いかなる神秘ともロマンティシズムとも無縁の、文字通りの病いである。
頭痛や神経衰弱を訴え続けていたレーニンは、1922年になると、脳溢血の発作を起こし、静養を余儀なくされるようになった。ソ連国内だけでなく、ドイツをはじめとする外国から、神経科医、精神分析医、脳外科医などが招かれ、高額な報酬を受け取ってレーニンの診察を行った。そうした診察費用の支払い明細や領収書、カルテなどが、古文書館で発見されている。
懸命な治療にもかかわらず、レーニンの病状は悪化の一途をたどり、知的能力は甚だしく衰えた。晩年はリハビリのため、小学校低学年レベルの二ケタの掛け算の問題に取り組んだが、一問解くのに数時間を要した。にもかかわらず、その間も決して休むことなく、彼は誕生したばかりの人類史上最初の社会主義国家の建設と発展のために、毎日、誰を国外追放にせよ、誰を銃殺しろといった「重要課題」を決定し続けた。二ケタの掛け算のできない病人のサイン一つで、途方もない数の人間の運命が決定されていったのである。
そしてこの時期、もう一つの重大事が決定されようとしていた。レーニンの後継者問題である。1922年12月13日に、脳血栓症の二度目の発作で倒れたあと、レーニンは数回に分けて「遺書」を口述した。とりわけ、22年1月4日に「スターリンは粗暴すぎる。そしてこの欠点は、われわれ共産主義者の間や彼らの相互の交際では充分我慢できるが、書記長の職務にあっては我慢できないものとなる」として、スターリンを党書記長のポストから解任するよう求めた追記の一節が、のちに政治的にきわめて重要な意味をもつこととなった。
ラトゥイシェフはレーニンとスターリンの関係についてこう述べる。
「よく知られている通り、レーニンは『遺書』の中でスターリンを批判しました。そのため、レーニンは、スターリンの粗暴で残酷な資質を見抜いており、もともと後継者として認めていなかったのだという解釈が生まれ、それがスターリン主義体制は、レーニン主義からの逸脱であるとみなす論拠に用いられるようになりました。しかしこれは『神話』なのです。レーニンの『神話』の中で最も根強いものの一つです。
レーニンがスターリンを死の間際に手紙で批判したのは、スターリンがクループスカヤに対して粗暴な態度をとったという個人的な怒りからです。スターリンがそのような態度をとったのは、衰弱の一途をたどるレーニンを見て、回復の見込みはないと判断して見切りをつけたからでした。しかしそれまではグルジア問題などで対立することはあっても、スターリンこそレーニンの最も信頼する”友人”であり、忠実で従順な”弟子”でした。レーニンが静養していたゴーリキーに最も足繁く通っていたのはスターリンであり、彼はレーニンのメッセージを他の幹部に伝えることで、彼自身の権力基盤を固めていったのです」
たしかに「遺書」では、レーニンはスターリンを「粗暴」と評しているが、別の場面では、まったく正反対に「スターリンは軟弱だ」と腹を立てていたという証言もある。元政治局員のモロトフは、詩人のフェリックス・チュエフの「レーニンとスターリンのどちらが厳格だったか?」という質問に対して、「もちろん、レーニンです」と答えている。このモロトフの言葉を『秘密解除されたレーニン』から引用しよう。
「『彼(レーニン)は、必要とあらば、極端な手段に走ることがまれではなかった。タンボフ県の暴動の際には、すべてを焼き払って鎮圧することを命じました。(中略)
彼がスターリンを弱腰だ、寛大すぎる、と言って責めていたのを覚えています。『あなたの独裁とはなんです? あなたのは軟弱な政権であって、独裁ではない!』と」
あのスターリンを「軟弱だ」と叱責したレーニンの考えていた「独裁」とは、ではどういうものであったか? この定義は、何も秘密ではない。レーニン全集にはっきりとこう書かれている。
「独裁の科学的概念とは、いかなる法にも、いかなる絶対的支配にも拘束されることのない、そして直接に武力によって自らを保持している、無制限的政府のことにほかならない。これこそまさしく、『独裁』という概念の意味である」
こんな明快な定義が他にあるだろうか。
法の制約を受けない暴力によって維持される無制限の権力。これがレーニンが定式化し、実践した「独裁」である。スターリンは、レーニン主義のすべてを学び、我がものとしたにすぎないのだ。
ラトゥイシェフはこう述べている。
「独裁もテロルも、レーニンが始めたことです。強制収容所も秘密警察もレーニンの命令によって作られました。スターリンはその遺産を引き継いだにすぎません。もっとも、テロルの用い方には、二人の間に相違もみられます。スターリンは、粗野で、知的には平凡な人物でしたが、精神的には安定しており、ある意味では『人間的』でした。彼は政敵を粛清する際には、遺族に復讐されないように、一族すべて殺したり、収容所送りにするという手段を多用しました。もちろん残酷きわまりないのですが、少なくとも彼には人間を殺しているという自覚がありました。しかし、レーニンは違う。彼は知的には優れた人物ですが、精神的にはきわめて不安定であり、テロルの対象となる相手を人間とはみなしていなかったと思われます。
彼の命令書には
『誰でもいいから、100人殺せ』とか
『千人殺せ』とか
『一万人を「人間の盾」にしろ』
といった表現が頻出します。彼は誰が殺されるか、殺される人物に罪があるかどうかということにまるで関心を払わず、しかも『100人』『千人』という区切りのいい『数』で指示しました。彼にとって殺すべき相手は匿名の数量でしかなかったのです。
人間としての感情が、ここには決定的に欠落しています。私が知る限り、こうした非人間的な残酷さという点では、レーニンと肩を並べるのはポル・ポトぐらいしか存在しません」
ラトゥイシェフの言葉を細くすれば、レーニンとポル・ポトだけでなく、ここにもうひとり麻原彰晃をつけ加えることができる。麻原が指示したテロルには、個人を狙った「人点的」なものもあったが、最終的には彼は日本人の大半を殺害する「予定」でいたわけであり、これは「人間的」なテロルの次元をはるかに超えている。
暴力革命を志向するセクトやカルト教団の党員や信徒達は厳しい禁欲を強いられるものの、そうした組織に君臨する独裁者や幹部達が、狂信的なエクステリミストであると同時に、世俗の欲望まみれの俗物であることは少しも意外なことではない。サリンによる狂気のジェノサイドを命じた麻原は、周知の通り、教団内ではメロンをたらふく食う俗物そのものの日々を送っていたのであるが、この点もレーニンはまったく変わりはなかった。
レーニンが麻原同様の俗物? そんな馬鹿な、と驚く人は少なくあるまい。レーニンにはストイックなイメージがあり、彼に対しては、まったく正反対の思想の持ち主でさえも、畏敬の念を抱いてしまうところがある。彼は己の信じる大義のために生命をかけて戦い抜いたのであり、私利私欲を満たそうとしたのではない、生涯を通じて彼は潔癖で清貧を貫いた、誰もがそう信じて今の今まで疑わなかった。そしてその点こそが、レーニンとそれ以外の私腹を肥やすことに血道をあげた腐った党指導者・幹部を分かつ分断線だった
ところが、発掘された資料は、それが虚構にすぎなかったことを証明しているのである。1922年5月にスターリンにあてたレーニンのメッセージを公開しよう。
<同志スターリン。ところでそろそろモスクワから600ヴェルスト(約640キロメートル)以内に、一、二ヶ所、模範的な保養所を作ってもよいのではないか?
そのためには金を使うこと。また、やむをえないドイツ行きにも、今後ずっとそれを使うこと。
しかし模範的と認めるのは、おきまりのソビエトの粗忽者やぐうたらではなく、几帳面で厳格な医者と管理者を擁することが可能と証明されたところだけにすべきです。
5月19日 レーニン>
この書簡には、さらに続きがある。
<追伸 マル秘。貴殿やカーメネフ、ジェルジンスキーの別荘を設けたズバローヴォに、私の別荘が秋頃にできあがるが、汽車が完璧に定期運行できるようにしなければならない。それによって、お互いの間の安上がりのつきあいが年中可能となる。私の話を書きとめ、検討して下さい。また、隣接してソフホーズ(集団農場)を育成すること>
自分達、一握りの幹部のために別荘を建て、交通の便をはかるために鉄道を敷き、専用の食糧を供給する特別なソフホーズまでつくる。
こうした特権の習慣は、後進たちに受け継がれた。その結果、汚職と腐敗のために、国家の背骨が歪み、ついには亡国に至ったのである。その原因は、誰よりもレーニンにあった。禁欲的で清貧な指導者という、レーニン神話の中で最後まで残った最大の神話はついえた。レーニンは、メロンをむさぼり食らう麻原と何も変わりはなかったのである。
http://www.hh.iij4u.or.jp/~iwakami/nakazawa.htm
http://www.asyura2.com/20/reki4/msg/629.html#c9
4年7カ月間で最高権力者がしたこと
1918年5月13日食糧独裁令〜1922年12月16日第2回発作
http://www.asyura2.com/20/reki4/msg/629.html#c10
市民運動に皇帝が同調したため勢いづき、革命に発展した
引用:http://cdn.amanaimages.com/cen3tzG4fTr7Gtw1PoeRer/22976000195.jpg
優柔不断な皇帝と革命農民
最後のロシア皇帝ニコライ2世は一言でいえば、優柔不断なうえに騙されやすかったと言われている。
例えば自分で決めた事でも前日に母親が意見を言うと変更し、当日に妻が苦情を言うとまた変更してしまった。
こうした突然の変更は、抗議を聞きたくないので他の人に無断で行われ、その度に皇帝は信用を失った。
優柔不断なのに騙されやすく、信じてはいけない相手ほど簡単に信じる傾向があった。
事実を告げるものは遠ざけられ、嘘の報告をする大臣とか、怪しげな助言者などの話を良く聞いた。
ロシア帝国は外部からの力というよりは、皇帝や周囲の人々の間違った行いによって、内部崩壊していた。
ニコライの祖父アレクサンドル2世の時代に、既にロシアは混乱していて、皇帝は何度も襲撃されていました。
アレクサンドル2世は市民運動家の爆弾によって1881年に逝去し、このころ既に社会主義思想が蔓延していました。
社会主義思想の始まりは皮肉にもアレクサンドル2世が行った農奴解放によって、それまでの農奴が市民になったからだった。
ロシア農民は欧州と同様に、領主の所有物でしかなく、土地についてくる付属品だった。
農民の生活は過酷で脱走や反乱が頻発したが、力で制圧していたので、農民と支配層の関係は欧州より敵対的だった。
農奴解放によってこうした不満をもつ農民は市民に昇格し、過激な革命運動を起こした。
皇帝が市民運動を奨励した
アレクサンドル2世の息子であるアレクサンドル3世は強権的な治世で秩序を保ち、用心深かったので爆弾でなくなる事もなかった。
だが1894年には病没し、「性格が弱く女々しい」と評判のニコライ2世が即位し、滅亡の道を歩き始める。
ニコライ2世は父親が決めた結婚を拒否し、ドイツ生まれのユダヤ人と、父親の死を待ち望んだかのように結婚している。
妻のアレクサンドラはユダヤ教は改宗したものの、ロシア語をほとんど話せず、ロシア人を嫌い、生涯にわたってニコライ2世の足を引っ張った。
またアレクサンドラには狂信的なところがあり、煽動者ラスプーチンをを招き入れたのも彼女だった。
ニコライ2世の戴冠式の後、市民に「ふるまい」が行われたが、市民が祝賀会場に行く道を作らず、将棋倒しで2000人がなくなった。
ニコライ2世は責任者を処罰せず、何事も起きなかったように振る舞ったが、このパターンはニコライの一生涯に渡って繰り返される。
ニコライ2世は性格が弱かったため、市民活動が活発になると簡単に同調してしまい、市民代表に権力を与えていった。
こうした経緯はフランス革命を引き起こしたルイ14世と同じであり、政治に参加するようになった活動家はますます凶暴化していきました。
ロシアの貴族や右派権力者達は新皇帝の威厳を高め、市民運動を押さえ込むため、「危険の無いちょっとした遊び」を考え出した。
それがロシアの極東進出で、清国や朝鮮や小さな島々を手に入れて領土を増やせば、不満を押さえ込めると考えていた。
ニコライ2世は皇太子時代に日本を訪問していたが、戦争にリスクがあるとは考えなかった。
革命の前年、革命が始まるとわずか2週間で部下全員が皇帝を裏切った
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引用:https://www.syl.ru/misc/i/ai/329459/1898827.jpg
ロシア帝国の崩壊
日露戦争では序盤で一進一退が続いたものの、日本海海戦で海軍が全滅し、ロシア軍は大きな打撃を受けて敗戦してしまった。
戦前の計算では日本軍数人でやっとロシア軍1人と同等と考えられていたので、負けると想定したロシア人は一人も居なかった。
敗戦は社会主義運動を勢いづかせ、皇帝側は権威を失墜させてしまった。
ここでニコライは致命的な間違いを侵し、社会主義に同調して政治参加の道を開いてしまいました。
ニコライは市民とは直接話し合えば理解し合えるという考えに取り付かれ、市民らを宮廷に招いて話し合おうとしました。
ニコライ2世を危険視したロシア貴族達は、秘密警察を使って活動家を攻撃したり、逆に皇帝側を攻撃したりしました。
1905年1月9日、社会主義指導者のガポン神父は市民数千人を引き連れ、ニコライ2世の宮殿に行進したが、実はガボン神父は秘密警察のスパイであり、ロシア貴族の回し者だった。
市民らは待ち伏せていた秘密警察の攻撃で1000人以上が無くなったが、貴族と右派はこれでニコライの「市民寄り」姿勢を正すつもりだったとされている。
だがこの事件はロシア革命への引き金を引いてしまい、ニコライ2世とその家族は1917年頃までに全員がなくなっている。
側近達はニコライに事実を知らせず、「少数の暴徒が攻撃してきたので、止むを得ず反撃した」というフィクションを信じ込まされた。
ニコライは戴冠式の事故の時と同様に、何事もなかったように振る舞い、これには社会主義者だけでなく、皇帝側の軍人らも疑問を抱いた。
抗議運動が活発化すると、正規軍から次々に寝返りが出て、最後は自分の部下にまで裏切られて拘束されてしまいました。
1917年2月23日の2月革命で最初の小規模のデモから、暴動が拡大しニコライの部下全員が裏切るまで、たった2週間しかかからなかった。
優柔不断で無能な皇帝と新興宗教の教祖に入れあげた皇妃、嘘の報告ばかりする大臣、陰謀をめぐらす貴族、皇帝を憎む農奴出身テロリスト、煽動されやすい愚かな民衆。
こうした人々の相互作用によって、ロシア帝国は滅んだのでした。
http://www.thutmosev.com/archives/73310030.html
▲△▽▼
ニコライ2世の最後 亡命を拒否して帝政復古に期待していた
いつも姉に抱かれている息子のアレクセイは病弱で動かせないため、一家は脱出できなかった。
引用:https://learnodo-newtonic.com/wp-content/uploads/2015/03/Nicholas-II-Family-from-left-to-right-Olga-Maria-Nicholas-II-Alexandra-Anastasia-Alexei-and-Tatiana.jpg
ロシア脱出を拒否した皇帝
ニコライ2世はロシア革命が起きた1917年2月の後、3月7日に革命政府に拘束されたが、その前後に何度も逃げ出すチャンスがあった。
革命発生時にニコライ2世は第一次大戦を指揮するため前線に居り、妻と子供たちの皇帝一家は首都ペトログラード近郊の邸宅に居た。
軍司令官でもあるニコライ2世は、ひとまず不利な条件でも戦争を停止し、軍主力を首都に戻すべきだった。
だがニコライ2世は家族に会う事を最優先し、少数の側近を連れただけで、列車(当時最も早かった)で首都に向かった。
だが革命は鉄道沿線にも及んでおり、列車は途中で停止させられ、退位の文章に署名させられたうえに拘束されてしまった。
2月革命を起こしたのはニコライ2世が作った議会で、この時にはまだ皇帝が復活できる可能性もあった。
また軍や旧政府の人々には皇帝に忠実な人も居て、ロシアを脱出するのも不可能ではなかった。
だがニコライ2世は「ロシアを捨てる事はできない」と言い、また生来病弱な長男アレクセイが脱出に耐えられないのもあって脱出しなかった。
議会の臨時政府はニコライ一家を首都からトボリスクに移したのだが、これは皇帝一家を逃がそうとした可能性が高いと言われている。
というのは臨時政府はニコライ2世が作った議会であり、皇帝を退位させた後は国外に脱出してくれた方が、好都合だった。
トボリスクの守備隊は何度か交代しているが、ニコライ2世には好意的であり、脱出が可能な状態に置かれた。
この時もニコライはロシアを脱出する事に消極的で、まだ帝政復活や地位の回復に期待を持っていた。
トボリスクで臨時政府に軟禁されていた頃、まだのどかで脱出可能だった。
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引用:https://i.pinimg.com/736x/5e/4f/56/5e4f5604cafac0e8d922281d871c6394--russian-revolution-nicholas-dagosto.jpg
ソヴェトが権力を握る
トボリスクの警備は緩く、守備隊は皇帝に好意的であり、1917年8月から11月までの3ヶ月間、臨時政府はニコライ一家に逃げて欲しいと考えていた。
国民の皇帝一家への怒りは凄まじく、処刑するよう圧力が掛けられていたが、臨時政府はあくまで法に基づいて新政府を作ろうとし板ばさみになっていた。
最も望ましい解決法は、皇帝一家がみっともなく国外逃亡する事で、もう臨時政府は皇帝に配慮する必要がなくなる。
革命の前半には皇帝と政府には話し合いが持たれ、臨時政府は皇帝を葬るつもりは持っていなかった。
ニコライ2世はロシア脱出というプランにはついに同意せず、10月革命によって臨時政府は倒され、レーニンのソヴィエトが権力を握った。
臨時政府は強硬なレーニンらが主導するソヴェト評議会に代わり、レーニンは皇帝を葬り去ることで、自分が皇帝になろうとした。
ロシア革命後にすぐソヴェト連邦ができたのではなく、ロシアの中にいくつもの政府があり、いくつものソヴェトが主導権争いをしていた。
社会主義革命を目指す赤軍に対して、非社会主義を目指す白軍が一時期、赤軍を倒すかのような勢いを示した。
ニコライ2世家族は白軍が自分たちを救出して、再び皇帝に返り咲くというような期待も抱いていた。
だが実際には白軍は共産主義には反対していたが、ニコライ2世を助けたり、皇帝に復帰させようとは考えていなかった。
白軍が目指したのは皇帝の居ない民主国家であり、圧制で国民の恨みを買っていた皇帝に、生きていてもらっては困るのでした。
白軍は公式には皇帝に近い立場であり、多くは旧帝国軍の将校や兵士だったので、皇帝を保護したら再び帝位に就けざるを得なくなる。
最後の数ヶ月を過ごしたエカテリンブルクのイパチェフ館、カメラを没収されたので一家の写真はない。
Ipatiev_House_in_1918
引用:https://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/a/a4/Ipatiev_House_in_1918.jpg
レーニン皇帝の野望
そこで白軍はわざと皇帝一家が閉じ込められていたエカテリンブルクには進軍せず、ニコライが追放されるか葬られるのを待っていた。
レーニンのペトログラード・ソヴェトは自分が手を汚す危険を恐れ、監禁しているウラル・ソヴェトに勝手にやらせようとした。
というのは内戦で頻繁に支配者が交代している状況では、皇帝に手を下した者は白軍によって標的にされる恐れがあった。
1918年4月にエカテリンブルクに移された一家は「囚人」として扱われ、外出や散歩も禁止され、脱出は完全に不可能になった。
警備兵もかつての皇帝守備隊から旧農奴崩れのソヴェト軍に代わり、農奴たちは皇帝を心底憎んでいた。
臨時政府時代には兵士が邸宅に入ってくることはなかったが、1918年になると農奴兵が1階部分を占拠し、皇帝一家は2階に押し込められた。
扱いはどんどん酷くなり、皇女たちは部屋のドアを閉めるのを禁止されたり、兵士と共同トイレを使ったりした。
トイレに行くには兵士らの詰め所前を通らねばならず、兵士らが使ったトイレは汚れ切っているという具合だった。
最後には窓を開ける事が禁止され、外の景色が見えないように高い塀を作り、窓には板を打ち付けた。
囚人として最後の日々を送る
洗濯や風呂やシャワーを浴びるのも全て禁止、家の中や各自の部屋にも兵士らが歩き回るという状況だった。
ニコライ一家は避難するに当たって持てるだけの宝石を持ち込んだが、兵士らは荷物をあさっては盗んでいった。
ここに至ってニコライ2世はやっとロシアを脱出するべきだったと後悔するが、今はドアを開けるにも農奴兵の許可が必要であった。
最後の日である1918年7月17日、深夜の2時すぎに家族を起こし、「暴動で危険だから避難しろ」と言って全員を地下室に連れて行った。
小さな窓がある半地下室なのだが、周囲に音を聞かれないために、1階や2階ではなく地下室を選んだ。
刑を執行したボルシェビキたちは、白軍の報復をおそれて痕跡を隠し、残った宝石類も盗んでいった。
ニコライ2世を葬ったレーニンは自身が新たな皇帝になり、強権国家のソビエト連邦を作った。
皇帝を退位させた2月革命は、民主主義的な国家を作る目的だったが、世界最悪の恐怖国家になった。
ニコライ2世のロシアは皇帝の優柔不断さゆえに、世界で最も自由だったのだが、10年後には世界で最も自由がない国になっていた。
http://www.thutmosev.com/archives/73745071.html
http://www.asyura2.com/20/reki4/msg/629.html#c11
途中、1917年11月にロシアではボルシェビキが資本家主導で戦争を継続する方針だった臨時革命政府を倒し(十月革命)、ボルシェビキを率いていたウラジミル・I・レーニンは即時停戦を指示している。臨時革命政府にはメンシェビキや社会革命党(エス・エル)が参加していた。ロマノフ朝を支えていたのは地主貴族と産業資本家で、そのうち戦争をカネ儲けのチャンスと考える資本家がロシアを乗っ取ったようにも見える。
臨時革命政府で法務大臣に就任したのはエス・エルのアレクサンドル・ケレンスキーだが、この人物を通じてイギリス政府やシオニストは新政府に影響を及ぼしていたと見られている。ケレンスキーは後に首相となる。(Alan Hart, “Zionism Volume One”, World Focus Publishing, 2005)
この大戦でドイツは東のロシア、西のフランス、ふたつの戦線を抱えていた。そこで目をつけたのが即時停戦を主張していたボルシェビキ。この党の幹部は1917年3月にロマノフ朝が倒された際(二月革命)、国外に亡命しているか、刑務所に入れられていた。そこでドイツ政府はボルシェビキの幹部を「封印列車」でロシアへ運ぶ。レーニンは1917年4月にスイスから帰国した。
十月革命で軍事的に重要な役割を演じるレフ・トロツキーが二月革命当時にいたのはニューヨーク。そのころはメンシェビキのメンバーだった。トロツキーは1917年3月にニューヨークを離れ、途中で彼の乗った船がイギリス海軍に拿捕されてしまうが、4月には釈放された。ロシアへ着いたのは5月に入ってからだ。その後、トロツキーはボルシェビキに加わる。
ロシアで実権を握ったボルシェビキはドイツと1918年3月に講和条約(ブレスト・リトフスク条約)を結ぶ。交渉の過程でドイツは領土などで過大な要求をしてくるが、レーニンは党内の反対派を抑えて講和を成立させた。
これに対し、イギリス、フランス、アメリカ、日本などは1918年8月にロシアへ軍隊を派遣し、ボルシェビキ政権を潰す目的で干渉戦争を開始する。日本は1万2000名をウラジオストックへ駐留させるだけだとして軍隊を派遣した。干渉戦争に参加した国々にとって十月革命は想定外の出来事だったのだろう。
この年の11月に事実上、大戦は終了するが、日本は増派で7万人を上回る兵員を送り込み、1922年までシベリアにとどまった。この際、日本軍は金塊を持ち帰っている。この問題は憲政会の中野正剛による質問で表面化した。
持ち帰られた金塊は1万2000キログラムに達すると現在では考えられているが、そのうち8割ほどは朝鮮銀行の下関支店へ運ばれ、そこから大阪造幣局へ移されたと信じられている。またルーブル金貨は朝鮮銀行か横浜正金銀行で日本の通貨に換金されたと推測されている。(金原左門著『昭和の歴史 1 昭和への胎動』小学館、1988年)
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ウクライナ軍のガンボート(砲艦)2隻とタグボート1隻が手続きを無視、無断でロシアが領海と定めているケルチ海峡へ入ったのは11月25日のことだった。その前日にウクライナ軍はウクライナ東部、ドネツクにある中立地帯の一部を占領している。事実関係をチェックすると、ウクライナ政府のロシアに対する挑発だったことは間違いない。
ウクライナでは来年(2019年)3月に大統領選挙が予定されているが、現職のペトロ・ポロシェンコは人気がなく、このままでは再選が難しい。そこでケルチ海峡の事件を利用して大統領選挙を延期させるつもりだと推測する人もいた。
こうした挑発行為はアメリカ政府の許可がなければ不可能だという考えから、ドナルド・トランプ政権がロシアに対して軍事的な揺さぶりをかけていると見る人もいる。2016年の大統領選挙の際、トランプはロシアとの関係修復を訴えていたのだが、大統領に就任した直後にマイケル・フリン国家安全保障補佐官が解任に追い込まれて以来、政権は好戦派に引きずられている。
そのトランプはINF(中距離核戦力全廃条約)からの離脱を口にしているが、この流れは2002年から始まっている。ジョージ・W・ブッシュ政権が一方的にABM(弾道弾迎撃ミサイル)から離脱したのだ。この頃、ロシアが再独立への道を歩み始めたことと無縁ではないだろう。
アメリカ/NATO軍がソ連との国境に向かって進軍を開始したのは1990年の東西ドイツの統一が切っ掛け。その際、ジェームズ・ベイカー米国務長官はソ連の外務大臣だったエドゥアルド・シェワルナゼに対し、統一後もドイツはNATOにとどまるものの、東へNATOを拡大することはないと約束したとされている。
ベイカー自身はこの約束を否定していたが、ドイツのシュピーゲル誌によると、アメリカはロシアに対し、そのように約束したとロシア駐在アメリカ大使だったジャック・マトロックは語っている。(“NATO’s Eastward Expansion,” Spiegel, November 26, 2009)
また、ドイツの外務大臣だったハンス-ディートリヒ・ゲンシャーによると、1990年2月にシェワルナゼと会った際、彼は「NATOを東へ拡大させない」と約束、シェワルナゼはゲンシャーの話を全て信じると応じたという。(“NATO’s Eastward Expansion,” Spiegel, November 26, 2009)(つづく)
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戦争でライバルを破壊し、富を蓄積した米英(2/3)
アメリカ支配層は軍事力でソ連/ロシアを恫喝、服従させて世界の覇者になろうとしている。その戦略が遅くとも1904年までさかのぼれることは本ブログでも繰り返し書いてきた。
その当時、ポーランドをロシアから独立させようという運動が存在した。プロメテウス計画と呼ばれているが、その指導者はユゼフ・ピウスツキ。
その後継者ともいうべき人物がブワディスラフ・シコルスキーである。第2次世界大戦中はロンドンへ逃れ、イギリス政府の庇護下、亡命政府を名乗っていた。1945年4月にアメリカのフランクリン・ルーズベルト大統領が執務室で休止、その翌月にドイツが降伏すると、ウィンストン・チャーチルの命令でJPS(合同作戦本部)は米英数十師団とドイツの10師団がソ連を奇襲攻撃するという内容のアンシンカブ作戦を作成した。
シコルスキーの側近だったユセフ・レッティンゲルはヨーロッパをイエズス会の指導の下で統一しようと考えていた人物で、ビルダーバーグ・グループの生みの親としても知られている。
ドイツ軍の主力がソ連へ攻め込んだ時、イギリス政府は手薄になったドイツの西部戦線を攻撃せず、傍観している。チャーチルは父親の代からロスチャイルド資本に従属していたが、そうしたイギリスの支配層はソ連を制圧、あるいは破壊するためにナチスを使ったとも言える。この戦争でソ連は疲弊、アメリカの支配力は増した。
ピウスツキが活動を始めたころに第1次世界大戦があり、ドイツが破壊される。ドイツはフランスとロシアに挟まれ、不利な状況にあった。イギリスもドイツに宣戦布告していたが、そのイギリスはロシア制圧を長期戦略にし、反ロシアのポーランド人を助ける。(つづく)
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戦争でライバルを破壊し、富を蓄積した米英(3/3)
当時、ロシアは農業を収入源にする大土地所有者と戦争をビジネス・チャンスと考える新興の産業資本家が2本柱だった。皇帝は軍人の意見もあり、戦争に傾いていくが、農民の意見を聞くということで皇帝がそばに置いていたグリゴリー・ラスプーチンは戦争に反対。皇后もやはり戦争を嫌っていた。
軍事的な緊張が高まる中、1914年6月28日にオーストリア皇太子夫妻がセルビア人に暗殺され、開戦の危機が高まる。そこで7月13日に皇后はラスプーチンに電報を打っているが、その日に彼は腹を刺されて重傷を負う。8月中旬にラスプーチンは退院するが、7月28日に大戦は始まっていた。
その後も皇后やラスプーチンは国が滅びるとして戦争に反対するが、1916年12月30日に拉致のうえ、射殺された。ロシア皇太子らが暗殺したと言われているが、黒幕はイギリスの情報機関SIS(通称MI6)だとする説がある。
1916年にイギリス外務省はサミュエル・ホーアー中佐を始めとする情報機関のチームをペトログラードへ派遣したが、その中に含まれていたオズワルド・レイナーはオックスフォード大学で皇太子の「友人」。このチームが暗殺の実行部隊だと推測する人がいるのだ。
当時の状況を考えると、ラスプーチンが重傷を負わず、暗殺もされなかったなら、皇后と手を組んで参戦に反対していたはず。大土地所有者や農民も戦争に反対だ。参戦しても早い段階でロシアが戦争から離脱したならドイツは兵力を西部戦線に集中、アメリカが参戦する前に勝利していた可能性がある。
ラスプーチンが暗殺された直後、産業資本家を中心とする勢力が3月に革命で王政を倒す。いわゆる「二月革命」だ。そこにはメンシェビキやエス・エルが参加していた。この当時、レフ・トロツキーはメンシェビキのメンバーで、ニューヨークにいた。
二月革命の際、ウラジミール・レーニンをはじめとするするボルシェビキの指導者は国外に亡命しているか、刑務所に入れられていて、革命に参加していない。そうした亡命中のボルシェビキの幹部をドイツは「封印列車」でロシアへ運んだ。ボルシェビキが即時停戦を主張していたからである。
結果としてボルシェビキ政権が誕生、ロシアは戦争から離脱するのだが、アメリカの参戦で帳消しになる。イギリス、フランス、アメリカ、そして日本などはそのボルシェビキ体制を倒すため、1918年に軍隊を派遣して干渉戦争を始める。
ロシア革命とはふたつの全く違う革命の総称であり、ボルシェビキは最初の革命には事実上、参加していない。第2次世界大戦でドイツ軍を倒したのはソ連軍で、アメリカ軍やイギリス軍は勝負がついた後、ウォール街とナチス幹部が話し合いを進めるのと並行してヨーロッパで戦っただけだ。しかも、ドイツが降伏するとイギリスはロシアを奇襲攻撃しようとした。
結局、ふたつの大戦でソ連/ロシアやヨーロッパは破壊され、その一方で戦場にならず、軍需で大儲け、ドイツや日本が略奪した財宝を手に入れたアメリカは世界で大きな力を持つことになった。
しかし、アメリカはその地位から陥落しそうだ。アメリカは中東やアフリカなど資源の豊かな地域だけでなく、東アジアやヨーロッパで軍事的な緊張を高めている。これは1992年に作成されたウォルフォウィッツ・ドクトリンに沿うもの。東アジアやヨーロッパを戦争で破壊するつもりかもしれない。(了)
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レーニン像の周囲に集まり、倒そうとするソ連の人々
1992F1 (15)
引用:http://web.sapporo-u.ac.jp/~oyaon/Lenin/1992F1%20(15).jpg
中国の急激な成長期が終わり、衰退期に入ると予測されているが、共産国家は衰退期を上手く乗り切れない。
崩壊したソ連は発足から急成長を続けたが、たった一度の衰退期を乗り切れずに崩壊した。
ソ連化する中国
最近の中国は何から何まで過去のソ連にそっくりで、双子の兄弟のようです。
かつて共産国家ソ連はユーラシア大陸のほとんどを勢力下に置いて、世界を支配するかに思えました。
ベトナム戦争でアメリカが敗れ、ソ連側が勝った頃に拡大は頂点に達し、ソ連が新たなリーダーになるように見えた。
中国もリーマンショック頃まで急拡大し、、世界のリーダーになるのは時間の問題と思われました。
不思議な事にアメリカに挑む新興勢力は必ず、米国の7割程度の国力をピークに、衰退期に入る。
ソ連と戦後日本がそうだったし、中国も同じくらいのGDPで頭打ちになり、衰退期に入りました。
「7割の法則」が在るのかどうか知りませんが、アメリカの衰退時期と新興国家の成長期が重なるとこうなっている。
ソ連は1917年のロシア革命で誕生したが、伝説のように市民が蜂起した訳ではなく、ドイツの悪巧みで発生した。
当時第一次大戦で負けそうだったドイツは、対戦相手のロシアで革命を起こさせて有利にするため、レーニンを送り込んだ。
レーニンはロシア人だがドイツに亡命して国家崩壊を企む人物で、日本で言えば麻原彰晃レベルの人間でした。
普通は誰も相手にしませんが、ロシアは大戦や財政危機で国民生活が破綻しており、飢えた人々はレーニンに従った。
ロシア革命とは麻原彰晃が敗戦を利用して日本の皇帝になったようなもので、当然ながらソ連は帝政時代より凶悪な国家になった。
世界共産革命が使命
一方中華人民共和国が生まれた経緯はソ連以上に奇怪で、当時日本帝国と中華民国(今の台湾)が戦争をしていました。
中華民国は日本との戦争で疲弊してボロボロになり、そのせいで国内の対抗勢力の共産軍(毛沢東)に敗れました。
大戦終了後に、余力があった共産軍は大陸全土を支配し、中華民国は台湾島に追い払われて現在の中国ができた。
ソ連、ロシアともに成立過程を嘘で塗り固めていて、ソ連は民衆蜂起、中国は日本軍を追い払った事にしている。
両国とも本当の歴史を隠すためか、盛大な戦勝式を行って国民の結束を高めるのに利用しています。
ソ連・中国ともに共産国家であり、「全世界で共産主義革命を起こし世界統一国家を樹立する」のを国是としている。
因みに「ソビエト連邦」は実は国家ではなく、全世界共産化の勢力範囲に過ぎませんでした。
中国もまた地球を統一し共産化する事を大義としていて、だから際限なく勢力を拡大しようとします。
資本主義を倒して地球を統一する市民団体が中国やソ連で、相手が従わなければ暴力と軍事力で共産化します。
だから共産国家は必ず軍事国家で破壊的であり、平和的な共産国家は存在しません。
世界革命に賛同した国(軍事力で服従させた国)は衛星国家として従わせ、東ドイツや北朝鮮のようになります。
共産国家は勝ち続ける事が使命であり、負けることは絶対に許されず、負けは神から与えられた使命の挫折を意味します。
理念で結束した人々は成長期には強いが、上手く行かなくなると脆い
201203171516178521-2379290
引用:http://image.hnol.net/c/2012-03/17/15/201203171516178521-2379290.jpg
負けたら国家消滅する共産国
ソ連は1978年に軍事的空白地のアフガニスタンに侵攻したが、10年間武装勢力と戦った末に撤退しました。
無敵国家ソ連はタリバンとの戦争に敗れ、僅か2年後にソ連は崩壊してしまいました。
ソ連崩壊の原因は様々な説があるが謎に包まれていて、外貨不足、インフレ、マイナス成長、食糧不足などが挙げられている。
しかしそれで国家が滅ぶのなら、もっと滅んで良い国は山ほどあるし、苦境から立ち直った国もあります。
ソ連が崩壊した本当の理由は『世界革命が挫折してしまい、共産主義の大義が無くなった』からだとも解釈されている。
日本のような民族国家なら、負けても同じ民族が再び協力して立ち直りますが、理念で集まった国は一度の負けで崩壊します。
ソ連は理念を失ったために崩壊し、革命前の民族国家ロシアに戻る事にしました。
共産主義の特徴は理念で集まって急激に成長するが、一度理念が失われるとバラバラになってしまう。
ソ連と中国の共通点として、急激な成長と急激な衰退、外貨不足、民族弾圧や無数の収容所、報道規制、経済指標偽造などが挙げられる。
軍事力を強化してやたら虚勢を張るのも共産国家の共通点で、北朝鮮でさえ「アメリカを火の海にできる」と主張している。
ソ連もあらゆる兵器全てで「アメリカを超えている」と主張したが、崩壊後に全て嘘なのが判明した。
中国も次々と新兵器を登場させ「全て日米を凌駕している」と宣伝するが、実際はブリキのオモチャに過ぎません。
兵器の性能では共産国家は資本主義国家に絶対に勝てないので、正面から戦おうとしないのも共通点です。
「いつでも日本を倒せる」「アメリカなどいつでも倒せる」と言いながら現実には逃げ回るのが、彼らの戦略です。
逃げながらスパイ活動やサイバー攻撃で相手国に侵入しようとし、多くのスパイや工作員を養成する。
ソ連を最終的に破滅に追い込んだのは、最後の書記長であるゴルバチョフの改革政策でした。
ボロボロの共産国家に市場原理主義を導入した結果、国家のシステムが破綻して生産活動ができなくなりました。
昨日まで国家公務員だった農民が、今日から市場経済だから自力で生きろと言われても、できる筈がありませんでした。
中国は習近平主席の元、大胆な国家改革を行おうとしたが、失敗して元の共産主義土木経済に逆戻りした。
中国のGDPの半分は公共事業つまり土木工事で、鉄道や空港や高速道路などを毎年「日本ひとつ分」建設している。
土木工事をやめると急激な経済縮小が起きるので、誰も住まない年を建設し、誰も乗らない高速鉄道を走らせている。
ソ連末期には経済がマイナス成長を隠して、プラス成長と発表していましたが、中国もそうしています。
http://www.thutmosev.com/archives/41996082.html
この臨時革命政府は第1次世界大戦に賛成で、ドイツとの戦争を継続する意思を示していたのだが、ボルシェビキは即時停戦を訴えていた。そこで西と東、ふたつの方向から攻められていたドイツはレーニンたちボルシェビキの幹部をモスクワへ運んでいる。紆余曲折を経てボルシェビキは11月に実権を握った。これが「十月革命」だ。臨時革命政府の首相だったアレクサンドル・ケレンスキーは1918年にフランスへ亡命、40年にはアメリカへ渡っている。
革命の象徴的な存在であるレーニンを1918年、エス・エルの活動家だったファニー・カプランが狙撃、重傷を負わせている。この暗殺未遂事件の真相は明らかにされていない。レーニンは1921年頃から健康が悪化して24年に死亡しているが、その死にも謎がある。
トロツキーはヨシフ・スターリンとの抗争に敗れて1929年にソ連を離れ、40年にメキシコで暗殺された。
https://plaza.rakuten.co.jp/condor33/diary/201803240000/
石川康宏さんとの『若者よマルクスを読もう』の三巻目は「フランスにおける内乱」をめぐっての往復書簡だった。
『反抗的人間』を読んでいたら、ぜひ引用したいカミュの言葉が出て来たので、それを数行加筆することにした。
それを含む、パリ・コミューン論を採録する。
『フランスの内乱』、読み返してみました。この本を読むのは、学生時代以来50年ぶりくらいです。同じテクストでも、さすがに半世紀をおいて読み返すと、印象がずいぶん違うものですね。
パリ・コミューンの歴史的な意義や、このテクストの重要性については、もう石川先生がきちんと書いてくださっていますので、僕は例によって、個人的にこだわりのあるところについて感想を語ってゆきたいと思います。
「コミューン」というのは、そもそもどういう意味なんでしょう。「コミューン」という言葉を学生だった僕はこの本で最初に知りました。そして、たぶん半世紀前も次の箇所に赤線を引いたはずです。
「コミューンは本質的に労働者階級の政府であり、横領者階級に対する生産者階級の闘争の所産であり、労働者階級の経済的解放を実現するために、ついに発見された政治形態である。」(『フランスの内乱』、辰巳伸知訳、マルクスコレクションVI, 筑摩書房、2005年、36頁、強調は内田)
「ついに発見された政治形態」であると断定された以上、それは前代未聞のものであるはずです。僕は素直にそう読みました。なるほど、パリ・コミューンは歴史上はじめて登場した政治形態だったのか。すごいな。それなのに反動的なブルジョワたちから暴力的な弾圧を受けて、徹底的に殲滅されて、多くのコミューン戦士は英雄的な死を遂げた。気の毒なことをしたなあ・・・。そう思いました。それくらいしか思いませんでした。でも、さすがにそれから半世紀経つと感想もずいぶん違うものになります。
僕が気になったのは、パリ・コミューンがマルクスの時代において「ついに発見された」前代未聞のものであったことはわかるのですが、それに続くものがなかったということです。
パリ・コミューンからすでに150年を閲しましたけれど、パリ・コミューンのような政治形態はそれを最後に二度と再び地上に現れることはありませんでした。それはなぜなのでしょう。
もし、パリ・コミューンがマルクスの言うように、1870年時点での革命的実践の頂点であったのだとしたら、その後も、パリ・コミューンを範とした革命的実践が(かりに失敗したとしても)世界各地で、次々と試みられてよかったはずです。でも、管見の及ぶ限りで「この政治形態はパリ・コミューンの甦りである」とか「この政治形態はパリ・コミューンが別の歴史的条件の下でいささか相貌を変えて実現したものである」というふうに名乗る事例を僕は一つも知りません。「われわれの戦いはパリ・コミューンを理想としてしている」と綱領的文書に掲げた政治運動や政治組織も僕は見たことがありません。
変な話だと思いませんか?
かのマルクスが、「ついに発見された政治形態である」と絶賛した究極の事例について、それを継承しようとした人たちも、未完・未済のものであったがゆえにその完成をこそ自らの歴史的召命として引き受けようとした人たちも、1871年から後いなかった。どうして、パリ・コミューンという政治的理想をそれからのちも全力で追求しようとした人たちは出てこなかったのか?
少なくともそれ以後フランスには「パリ・コミューン的なもの」は二度と登場しません。フランスでは、1789年、1830年、1848年、1871年と、比較的短いインターバルで革命的争乱が継起しました。いずれも、その前に行われた革命的な企てを引き継ぐものとして、あるいは先行した革命の不徹底性を乗り越えるものとしてなされました。でも、1871年のパリ・コミューンから後、パリ・コミューンを引き継ぎ、その不徹底性を批判的に乗り越える革命的な企てを構想した人は一人もいなかった。
1944年8月25日のパリ解放の時、進軍してきた自由フランス軍に中にも、レジスタンスの闘士たちの中にも、誰も「抑圧者が去った今こそ市民たちの自治政府を」と叫ぶ人はいませんでした。1968年には「パリ五月革命」と呼ばれたラディカルな政治闘争がありましたが、その時に街頭を埋め尽くしたデモの隊列からも「今こそ第五共和政を倒して、パリ・コミューンを」と訴える声は聴こえませんでした。少しはいたかも知れませんが(どんなことでも口走る人はいますから)、誰も取り合わなかった。
今も「パリ・コミューン派」を名乗っていて、少なからぬ力量を誇っている政治組織が世界のどこかにはあるかも知れませんけれど、寡聞にして僕は知りません(知っている人がいたらぜひご教示ください)。
これはどういうことなのでしょう。なぜ「ついに発見された政治形態」は後継者を持ちえなかったのか?
以下はそれについての僕の暴走的思弁です。
「マルクスとアメリカ」でも同じ考え方をご披露しましたけれど、僕が歴史について考える時にしばしば採用するアプローチは「どうして、ある出来事は起きたのに、それとは別の『起きてもよかった出来事』は起きなかったのか?」という問いを立てることです。
このやり方を僕はシャーロック・ホームズから学びました。「起きたこと」からではなくて、「起きてもよかったはずのことが起きなかった」という事実に基づいて事件の真相に迫るのです。「白銀号事件」でホームズは「なぜあの夜、犬は吠えなかったのか?」というところからその推理を開始します。なぜ起きてもよいことが起きなかったのか?
(...)
なぜパリ・コミューンはマルクスによって理想的な政治形態と高く評価されたにもかかわらず、それから後、当のマルクス主義者たちによってさえ企てられなかったのか?
それに対する僕の仮説的回答はこうです。
パリ・コミューンはまさに「ついに発見された政治形態」であったにもかかわらずではなく、そうであったがゆえに血なまぐさい弾圧を呼び寄せ、破壊し尽くされ、二度と「あんなこと」は試みない方がよいという歴史的教訓を残したというものです。
パリ・コミューン以後の革命家たち(レーニンもその一人です)がこの歴史的事実から引き出したのは次のような教訓でした。
パリ・コミューンのような政治形態は不可能だ。やるならもっと違うやり方でやるしかない。
パリ・コミューンは理想的に過ぎたのでした。
それは『フランスの内乱』の中でマルクスが引いているいくつもの事例から知ることができます。マルクスが引いている事実はすべてがヴェルサイユ側の忌まわしいほどの不道徳性と暴力的非寛容と薄汚れた現実主義とコミューン側の道徳的清廉さ、寛大さ、感動的なまでの政治的無垢をありありと対比させています。どちらが「グッドガイ」で、どちらが「バッドガイ」か、これほど善悪の対比がはっきりした歴史的出来事は例外的です。少なくともマルクスは 読者たちにそういう印象を与えようとしていました。
ティエールは国民軍の寄付で調達されたパリの大砲を「国家の財産である」と嘘をついてパリに対して戦争をしかけ、寄せ集めのヴェルサイユ兵を「世界の称賛の的、フランスがこれまで持った最もすばらしい軍隊」と持ち上げ、パリを砲撃した後も「自分たちは砲撃していない、それは叛徒たちの仕業である」と言い抜け、ヴェルサイユ軍の犯した処刑や報復を「すべて戯言である」と言い切りました。一方、「コミューンは、自らの言動を公表し、自らの欠陥をすべて公衆に知らせた」(同書、44頁)のです。
マルクスの言葉を信じるならまさに「パリではすべてが真実であり、ヴェルサイユではすべてが嘘だった」(同書、46頁)のでした。パリ・コミューンは政治的にも道徳的にも正しい革命だった。マルクスはそれを讃えた。
でも、マルクス以後の革命家たちはそうしなかった。彼らはパリ・コミューンはまさにそのせいで敗北したと考えた。確かに、レーニンがパリ・コミューンから教訓として引き出したのは、パリ・コミューンはもっと暴力的で、強権的であってもよかった、政治的にも道徳的にも、あれほど「正しい」ものである必要はなかった、ということだったからです。レーニンはこう書いています。
「ブルジョワジーと彼らの反抗を抑圧することは、依然として必要である。そして、コンミューンにとっては、このことはとくに必要であった。そして、コンミューンの敗因の一つは、コンミューンがこのことを十分に断固として行わなかった点にある。」(レーニン、『国家と革命』、大崎平八郎訳、角川文庫、1966年、67頁)
レーニンが「十分に、断固として行うべき」としたのは「ブルジョワジーと彼らの反抗を抑圧すること」です。ヴェルサイユ軍がコミューン派の市民に加えたのと同質の暴力をコミューン派市民はブルジョワ共和主義者や王党派や帝政派に加えるべきだった、レーニンはそう考えました。コミューン派の暴力が正義であるのは、コミューン派が「住民の多数派」だからです。
「ひとたび人民の多数者自身が自分の抑圧者を抑圧する段になると、抑圧のための『特殊な権力』は、もはや必要ではなくなる!国家は死滅し始める。特権的な少数者の特殊な制度(特権官僚、常備軍主脳部)に代わって、多数者自身がこれを直接に遂行することができる。」(同書、67−8頁、強調はレーニン)
少数派がコントロールしている「特殊な権力」がふるう暴力は悪だけれど、国家権力を媒介とせずに人民が抑圧者に向けて直接ふるう暴力は善である。マルクスは『フランスの内乱』のどこにもそんなことは書いていません。でも、レーニンはそのことをパリ・コミューンの「敗因」から学んだ。
レーニンがパリ・コミューンの敗北から引き出したもう一つの教訓は、石川先生もご指摘されていた「国家機構」の問題です。これについて、石川先生は、レーニンは「国家機構の粉砕」を主張し、マルクスはそれとは違って、革命の平和的・非強力的な展開の可能性にもチャンスを認めていたという指摘をされています。でも、僕はちょっとそれとは違う解釈も可能なのではないかと思います。レーニンの方がむしろ「できあいの国家機構」を効率的に用いることを認めていたのではないでしょうか。レーニンはこう書いています。
「コンミューンは、ブルジョワ社会の賄賂のきく、腐敗しきった議会制度を、意見と討論の自由が欺瞞に堕することのないような制度とおき替える。なぜなら、コンミューンの代議員たちは、みずから活動し、自分がつくった法律をみずから執行し、執行にあたって生じた結果をみずから点検し、自分の選挙人にたいしてみずから直接責任を負わなければならないからである。代議制度はのこるが、しかし、特殊な制度としての、立法活動と執行活動の分業としての、代議員のための特権的地位を保障するものとしての、議会制度は、ここにはない。(...)議会制度なしの民主主義を考えることができるし、また考えなければならない。」(同書、74−75頁、強調はレーニン)
法の制定者と法の執行者を分業させた政体のことを共和制と呼び、法の制定者と執行者が同一機関である政体のことを独裁制と呼びます。パリ・コミューンは「議会制度なしの民主主義」、独裁的な民主主義の達成だったとして、その点をレーニンは評価します。
この文章を読むときに、代議制度は「のこる」という方を重く見るか、立法と行政の分業としての共和的な制度は「ない」という方を重く見るかで、解釈にずれが生じます。僕はレーニンは制度そのものの継続性をむしろ強調したかったのではないかという気がします。レーニンは何か新しい、人道的で、理想的な統治形態を夢見ていたのではなく、今ある統治システムを換骨奪胎することを目指していた。そして、マルクスもまた既存の制度との継続を目指したしたるのだと主張します。
「マルクスには『新しい』社会を考えついたり夢想したりするという意味でのユートピア主義など、ひとかけらもない。そうではなくて、彼は、古い社会からの新しい社会の誕生、前者から後者への過渡的諸形態を、自然史的過程として研究しているのだ。」(同書、75頁、強調はレーニン)
ここで目立つのは「からの」を強調していることです。旧体制と新体制の間には連続性がある。だから、「過渡的諸形態」においては「ありもの」の統治システムを使い回す必要がある。レーニンはそう言いたかったようです。そのためにマルクスも「そう言っている」という無理な読解を行った。
「われわれは空想家ではない。われわれは、どうやって一挙に、いっさいの統治なしに、いっさいの服従なしに、やっていくかなどと『夢想』はしない。プロレタリアートの独裁の任務についての無理解にもとづくこうした無政府主義的夢想は、マルクス主義とは根本的に無縁なものであり、実際には、人間が今とは違ったものになるときまで社会主義革命を引き延ばすことに役だつだけである。ところがそうではなくて、われわれは、社会主義革命をば現在のままの人間で、つまり服従なしには、統制なしには、『監督、簿記係』なしにはやってゆけない、そのような人間によって遂行しようと望んでいるのだ。」(同書、76―77頁、強調はレーニン)
レーニンが「監督、簿記係」と嘲弄的に呼んでいるのは官僚機構のことです。プロレタリアート独裁は「服従」と「統制」と「官僚機構」を通じて行われることになるだろうとレーニンはここで言っているのです。「すべての被搾取勤労者の武装した前衛であるプロレタリアートには、服従しなければならない。」(77頁)という命題には「誰が」という主語が言い落とされていますが、これは「プロレタリアート以外の全員」のことです。
これはどう贔屓目に読んでも、マルクスの『フランスの内乱』の解釈としては受け入れがたいものです。
マルクスがパリ・コミューンにおいて最も高く評価したのは、そこでは「服従」や「統制」や「官僚機構」が効率的に働いていたことではなく、逆に、労働者たちが「できあいの国家機構をそのまま掌握して、自分自身の目的のために行使することはできない」と考えたからです。新しいものを手作りしなければならないというコミューンの未決性、開放性をマルクスは評価した。誰も服従しない、誰も統制しない、誰もが進んで公的使命を果たすという点がパリ・コミューンの最大の美点だとマルクスは考えていたからです。
「コミューンが多種多様に解釈されてきたこと、自分たちの都合のいいように多種多様な党派がコミューンを解釈したこと、このことは、過去のあらゆる統治形態がまさに抑圧的であり続けてきたのに対して、コミューンが徹頭徹尾開放的な政府形態であったということを示している。」(マルクス、前掲書、36頁)
マルクスの見るところ、パリ・コミューンの最大の美点はその道徳的なインテグリティーにありました。自らの無謬性を誇らず、「自らの言動を公表し、自らの欠陥のすべてを公衆に知らせた」ことです。それがもたらした劇的な変化についてマルクスは感動的な筆致でこう書いています。
「実際すばらしかったのは、コミューンがパリにもたらした変化である! 第二帝政のみだらなパリは、もはやあとかたもなかった。パリはもはや、イギリスの地主やアイルランドの不在地主、アメリカのもと奴隷所有者や成金、ロシアのもと農奴所有者やワラキアの大貴族のたまり場ではなくなった。死体公示所にはもはや身元不明の死体はなく、夜盗もなくなり、強盗もほとんどなくなった。1848年二月期以来、はじめてパリの街路は安全になった。しかも、いかなる類の警察もなしに。(・・・)労働し、考え、闘い、血を流しているパリは、―新たな社会を生み出そうとするなかで、(・・・)自らが歴史を創始することの熱情に輝いていたのである。」(同書、45―46頁、強調は内田)
「新しい社会を生み出そうとするなかで」とマルクスは書いています。この文言と「マルクスには『新しい』社会を考えついたり夢想したりするという意味でのユートピア主義など、ひとかけらもない」というレーニンの断定の間には、埋めることのできないほどの断絶があると僕は思います。
でも、パリ・コミューンの総括において「パリ・コミューンは理想主義的過ぎた」という印象を抱いたのはレーニン一人ではありません。ほとんどすべての革命家たちがそう思った。だからこそ、パリ・コミューンはひとり孤絶した歴史的経験にとどまり、以後150年、その「アヴァター」は再び地上に顕現することがなかった。そういうことではないかと思います。
勘違いして欲しくないのですが、僕はレーニンの革命論が「間違っている」と言っているのではありません。現にロシア革命を「成功」させたくらいですから、実践によってみごとに裏書きされたすぐれた革命論だと思います。でも、マルクスの『フランスの内乱』の祖述としては不正確です。
ただし、レーニンのこの「不正確な祖述」は彼の知性が不調なせいでも悪意のせいでもありません。レーニンは彼なりにパリ・コミューンの悲劇的な結末から学ぶべきことを学んだのです。そして、パリ・コミューンはすばらしい歴史的実験だったし、めざしたものは崇高だったかも知れないけれど、あのような「新しい社会」を志向する、開放的な革命運動は政治的には無効だと考えたのです。革命闘争に勝利するためには、それとはまったく正反対の、服従と統制と官僚機構を最大限に活用した運動と組織が必要だと考えた。
レーニンのこのパリ・コミューン解釈がそれ以後のパリ・コミューンについて支配的な解釈として定着しました。ですから、仮にそれから後、「パリ・コミューンのような政治形態」をめざす政治運動が試みられたことがあったとしても、それは「われわれは空想家ではない。われわれは、どうやって一挙に、いっさいの統治なしに、いっさいの服従なしに、やっていくかなどと『夢想』はしない」と断定する鉄のレーニン主義者たちから「空想家」「夢想家」と決めつけられて、舞台から荒っぽく引きずりおろされただろうと思います。
アルベール・カミュは『国家と革命』におけるレーニンのパリ・コミューン評価をこんなふうに要言しています。僕はカミュのこの評言に対して同意の一票を投じたいと思います。
「レーニンは、生産手段の社会化が達成されるとともに、搾取階級は廃滅され、国家は死滅するという明確で断固たる原則から出発する。しかし、同じ文書の中で、彼は生産手段の社会化の後も、革命的フラクションによる自余の人民に対する独裁が、期限をあらかじめ区切られることなしに継続されることは正当化されるという結論に達している。コミューンの経験を繰り返し参照していながら、このパンフレットは、コミューンを生み出した連邦主義的、反権威主義的な思潮と絶対的に対立するのである。マルクスとエンゲルスのコミュ―ンについての楽観的な記述にさえ反対する。理由は明らかである。レーニンはコミューンが失敗したことを忘れなかったのである。」(Albert Camus, L'homme révolté, in Essais, Gallimard, 1965, p.633)
僕はできたら読者の皆さんには『フランスの内乱』と『国家と革命』を併せて読んでくれることをお願いしたいと思います。そして、そこに石川先生がこの間言われたような「マルクス」と「マルクス主義」の違いを感じてくれたらいいなと思います。マルクスを読むこととマルクス主義を勉強することは別の営みです。まったく別の営みだと申し上げてもよいと思います。そして、僕は「マルクス主義を勉強すること」にはもうあまり興味がありませんけれど、「マルクスを読む楽しみ」はこれからもずっと手離さないだろうと思います
http://blog.tatsuru.com/2019/03/05_1542.html
中国の農村で若い女性はとても希少な存在
引用:http://japanese.agri.gov.cn/xw/201504/W020150421481525577828.jpg
中国の農民は年収10万円
中国はこの30年間ほどの経済成長によって、かなりお金持ちになったように思われている。
確かにGDP(国民総生産)を人口で割った国民総所得は80万円を超え、北京や上海の給与所得はそのくらいだと言われている。
だが統計値では、農民の年収は10万円以下で、チベットやウイグル住民も同じです。
少数民族に対しては意図的に経済活動を制限して「テロリスト」の資金源を断つと言っていますが、民族弾圧とも言われている。
政府の公式発表では中国農民の一人当たり年収は17万円(1万元)だが、水増ししているとも指摘されている。
10万円でも17万円でも、買い物ができるのか心配になるほど低収入には違いありません。
区切り良く年収12万円なら月収1万円、一日に300円しか使えないのに、どうやって生活しているのか不思議です。
中国の貧農農家は現代でも電気が通っていない場合があり、もちろんそうした家にはテレビもありません。
村民がお金を持っていないので村には商店がなく、買い物する現金は必要ありません。
食料は自給や物々交換で手に入れ、衣類や日用品は農作物を売って行商人から買います。
日本でも昭和の中ごろまでの農家はそういう生活をしていて、50年くらい遅れているといえる。
報道でよく「農民工」とか「農村戸籍」「農村人口」という言葉を聞くが、それらは農民を意味しては居ない。
農村の実態
中国では江戸時代の日本と同じく、農村に生まれた人は一生農民と決められていて、勝手に職業や住所を変えると犯罪になります。
生まれながらに農民と決められているのが「農村戸籍」の人たちで、違法に住所を変えて都会で就職した人たちが「農民工」の人たちです。
農村にとどまったままで農業以外の職業に就いている人もいるので、政府の「農業収入」はそれらを含めて水増しされているのです。
という事はやっぱり公式発表の17万円より、推測値の10万円のほうが正しいと考えられます。
農民は都会や他の職業よりすごく貧しい訳で、そんなところに好んで嫁に行く女性はあまり居ません。
そこで最近まで(現在も)行われていたのが略奪婚で、どこかから女性をさらったり、旅行で通りかかった女性を監禁して花嫁にします。
こういう風習は昔の中央アジアでは一般的で、モンゴル帝国で普通に行われており、現在も一部で残っています。
2016年まで中国では「一人っ子政策」が行われていて、男子を産むために女子を間引きしていました。
なおさら女性の人数が足りなくなるので、ベトナムや北朝鮮など外国から、お金で花嫁を買っていました。
さらに「一人っ子政策」に反して生まれた女児が里子に出されると、養子として貰いうけて、自分の息子と結婚させる例がある。
実子として届けた場合、法律上は兄弟なので婚姻届を受理されないが、実際は他人なので、事実婚をする事は可能です。
貰った女児を養子として届けた場合には、法律上も夫婦として認められる。
貧農と富農の格差が拡大
余りにも女子が少なすぎて、もう結婚相手を選べないくらい嫁が来ないので、家を維持するにはそこまでする。
中国は毎年20兆円の農業予算を使っているが、いったいどこに消えるのか、お金は農民には届いていません。
農村でも都市に近い豊かな農村と、山間地の「本当の農村」では経済レベルに大きな差がある。
都市に近い豊かな農村は電気が通りインターネットで買い物をし、近代的な生活を送っている。
都市部より収入が低いといっても、山間部の数倍もの収入があり、とりあえず貧困ではない。
日本のマスコミではこうした「発展する農村」を報道し、もはや貧困ではないと言っているが、いわばモデルルームのようなものです。
http://www.thutmosev.com/archives/65909339.html
http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/354.html#c28
スペインかぜ(1918 flu pandemic, Spanish Flu)とは、1918年から1919年にかけ、全世界的に大流行したインフルエンザの通称。
当時20億人の世界人口の3割が感染して、5000万人が死亡したといわれるが、疫学研究者の説によれば、地球上のほぼ全員が感染した可能性がある
発生源は、1918年3月のアメリカ・カンザス州の米軍基地。
その後同年6月頃、ブレスト、ボストン、シエラレオネなどでより毒性の強い感染爆発が始まった。
新型インフルエンザ対策に関する検討小委員会ではカナダの鴨のウイルスがイリノイ州の豚に感染したとの推定が委員から説明されている。
感染者は約5億人以上、死者は5,000万人から1億人に及び、当時の世界人口は18〜20億人であると推定されているため、全人類の3割近くがスペインかぜに感染したことになる。感染者が最も多かった高齢者では、基本的にほとんどが生き残った一方で、青年層では、大量の死者が出ている。
日本では、当時の人口5,500万人に対し39万人が死亡、米国でも50万人が死亡した。 これらの数値は感染症のみならず戦争や災害などすべてのヒトの死因の中でも、最も多くのヒトを短期間で死亡に至らしめた記録的なものである。
流行の経緯としては、第1波は1918年3月にアメリカ合衆国デトロイト市やサウスカロライナ州付近などで最初の流行があり、アメリカ軍のヨーロッパ進軍(第一次世界大戦における)と共に大西洋を渡り、5〜6月にヨーロッパで流行した。
第2波は、1918年秋にほぼ世界中で同時に起こり、病原性がさらに強まり、重篤な合併症を起こし死者が急増した。
第3波は、1919年春から秋にかけて、第2波と同じく世界で流行した。また、最初に医師・看護師の感染者が多く、医療体制が崩壊してしまったため、感染被害が拡大した。
このパンデミックは、今回の新型コロナウイルス流行と似ている。初期に、医療関係者の大規模な感染が起きて、医療体制が崩壊したことがパンデミックを招いている。
また、病原体が次々に突然変異を起こして、どんどん致死性の強いものに変化し、免疫を持たない若者たちを直撃して大量死に追いやった。したがって、新型コロナウイルスの致死性・毒性は、これから急激に変化する可能性があることを意味している
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スペイン風邪(1918-1919流行、死者三千万人)で死んだ著名人
ギヨーム・アポリネール(文学者)
マックス・ヴェーバー(政治学者)
グスタフ・クリムト(画家)
エゴン・シーレ(画家)
ヴェストマンランド公エーリク(スウェーデン王子)
ヤーコフ・スヴェルドロフ(政治家)
エドモン・ロスタン(劇作家)
チャールズ・ヒューバート・パリー(作曲家)
竹田宮恒久王(皇族)
末松謙澄(政治家、元内務大臣)
徳大寺実則(公爵、元内大臣)
島村抱月(劇作家)
村山槐多(画家)
野村朱鱗洞(俳人)
辰野金吾(建築家)
http://www.asyura2.com/20/reki4/msg/629.html#c18
戦争より恐れられた病 Posted October. 25, 2018 09:24,
http://www.donga.com/jp/article/all/20181025/1516046/1/%E6%88%A6%E4%BA%89%E3%82%88%E3%82%8A%E6%81%90%E3%82%8C%E3%82%89%E3%82%8C%E3%81%9F%E7%97%85
昨今、インフルエンザは、1本のワクチン接種でそれほど心配しなくて済む病気だが、100年前までは、人類の歴史を揺るがした恐怖の病気だった。特に1918年に発生したスペイン風邪は、第1次世界大戦とかみ合って流行し、5000万人以上の命を奪った大災害だった。オーストリアの将来を嘱望されていた若い画家エゴン・シーレも、その災いを避けることができなかった。
シーレは、クリムトを凌ぐ才能が認められた天才画家であり、赤裸々なエロヌード画で20世紀の初め、ウィーン美術界を揺るがした問題作家でもあった。死への不安と恐怖、性的欲望をよどみなく表わした彼のヌード画は、しばしば芸術とわいせつの間で激しい論争をまき起こした。
1915年、シーレは4年間一緒に暮らした貧しい恋人の代わりに、中間層出身のエディトと結婚した。結婚から4日後、第1次世界大戦に徴兵されたが、軍でも才能を認められ、いくつかの展示会に参加して名前を知らせた。1918年は彼の名声がピークに達した年だった。ウィーン美術界の巨匠クリムトの死亡後、3月に開催された「分離派」の展示会で、シーレは作家として大成功を収めた。絵の価格が高騰し、肖像画の注文が殺到した。ようやく経済的にも精神的にも安定した時期を迎えたのだ。さらに嬉しいことに、妻が結婚から3年ぶりに妊娠したことだった。この絵は、まもなく生まれてくる子供を待つ喜びで、シーレが描いた家族画である。母にすがりつく赤子と、その赤子と同じ場所から見つめる母、そして家長として家族を守るというジェスチャーを取っている画家自身の姿が描かれている。何もかけていない純粋で無邪気な家族の肖像である。
しかし、幸せもつかの間。同年10月28日、ウィーンにまで広がったスペイン風邪で、エディトが妊娠6カ月のお腹の子供と一緒にこの世を去った。3日後、シーレもインフルエンザに感染して、この世を去った。彼がわずか28歳の時だった。当時スペイン風邪の犠牲者数は、第1次世界大戦の死者の3倍を超えた。戦争より恐ろしい災害は、まさにインフルエンザだったのだ。
http://www.donga.com/jp/article/all/20181025/1516046/1/%E6%88%A6%E4%BA%89%E3%82%88%E3%82%8A%E6%81%90%E3%82%8C%E3%82%89%E3%82%8C%E3%81%9F%E7%97%85
http://www.asyura2.com/20/reki4/msg/629.html#c20
ヒトラーの嘘と絵画 − 彼はなぜ芸術家になれなかったのか?
http://tocana.jp/2014/06/post_4334_entry.html
――エカキで作家・マンガ家、旅人でもある小暮満寿雄が世界のアートのコネタ・裏話をお届けする!
かのショートショートの名手・星新一の短編に、こんな話があるのであらすじを紹介しよう。
オーストリアのとある町。貧しい画家志望の青年が、愛する女性とのデート資金を求めて質屋にやってくる。担保の質物は何と青年自らが描いた絵。青年は「金を貸してください」と懇願するが、当然、質屋に絵は一顧だにされず「こんな絵で金は貸せません」とキッパリ断られてしまう。そして下記のやりとりが行われる。
「やっとデイトの約束までこぎつけたんです。お願いです、お金を貸してください。お金は必ず返します。ご恩は忘れません」
「だめですな。そんなことで金を貸していたら店はやっていけません。私たちユダヤ人は冷静なんです。甘く見ちゃ困りますな」
「このうらみは決して忘れないぞ。いつの日か、きさまら冷酷なユダヤ人全部に仕返ししてやる・・・」
「そんなにすごんでも、だめなものはだめですよ。さあ、お帰りください、アドルフ・ヒットラーさん」
(星新一『さまざまな迷路』(新潮社)/「ことのおこり」より)
絵のサインを見ながら主人は、青年の名前言うのだが、彼がすごい剣幕で帰ったあとも、その狂気じみた目つきを思い出し「いずれなにかやらかすかもしらんな」とつぶやくのだった…。もちろん、ユダヤ人質屋が若きヒトラーに金を貸さなかったのは、星新一のフィクションだ。
しかし、ヒトラーが画家志望の青年だったことは有名な事実で、実際ヒトラーが描いた絵は何点も世に残されている。彼の美術に対する情熱は相当なものだったようで、当時オーストリアで名門校だったウィーン美術アカデミーを受験している。しかし、成績不振ということで受験に失敗。
ヒトラーが描いた絵「YouTube」より
https://www.youtube.com/watch?v=mALbFREo-bk
その時の恨みやコンプレックスが逆に独裁者ヒトラーを生んだ原動力ともなったわけだが、こちらがその、オーストリア時代に彼が描いたという絵である。
見ての通り、独創性のない普通の風景画で、レベル的には“上手な素人絵”というくらいだ。これらの絵を見て、ヒトラーの演説にあるようなエキセントリックで妙に人の心を揺さぶる何かを期待した人は、きっと肩すかしを食らった気分になるだろう。
ところが、ヒトラー本人は自らの絵について「古典派嗜好」と自負していたそうで、当時台頭してきた、いわゆる「世紀末美術」(幻想的で退廃的な性格を有する作品)やアール・ヌーヴォーといった新しい芸術運動にはむしろ嫌悪感すら抱いていたという。
■真実を吐き出す「世紀末美術」を憎んだヒトラー
一方でこの絵を見てほしい。こちらは、同じ時代に世紀末美術の騎手として活躍し、わずか28歳の若さで亡くなったエゴン・シーレの作品だ。
エゴン・シーレ1915年作「死と乙女」
http://bravi.hatenablog.com/entry/20120613/p1
絵画とはある意味、心の中に溜まっている澱(おり)を吐き出す作業なのだが、ヒトラーの絵と比べ(比べることもないが)、まさに強烈な個を解き放っており、肉体と精神すべてを吐き出してキャンバスに塗布したような絵だ。
もちろん、ヒトラーはエゴン・シーレの作品を忌み嫌い、憎んでいたという。
実はエゴン・シーレ。ヒトラーより1歳下にあたるのだが、彼が受験に失敗した1年前にウィーン美術アカデミーに入学していたという経緯があるのだ。元来、世紀末美術の台頭に嫌悪感を抱いていたヒトラーだったが、このことでさらに激しい憤りを抱き、独裁者となってからは徹底的に彼らやアカデミーを「退廃芸術」と呼び、弾圧下に置いたのだ。そして、1930年代にヨーロッパで隆盛していた抽象美術や表現主義、バウハウスなどはもちろん、印象派以降の近代の美術はすべてNG。当時、ユダヤ人らが所有していた絵画は財産と一緒にことごとく没収され、略奪され破壊された。
これは弾圧の対象こそ違えど、まさに星新一の短編を地で行った話ではないだろうか。
「このうらみは決して忘れないぞ。いつの日か、オレを認めなかったきさまら退廃芸術家とアカデミー会員全部に仕返ししてやる…」
さすがは星新一。物事の本質をきちんと捉えているではないか。
一方でヒトラーが奨励した絵は、農村の労働と大家族を描いた風俗画や、優美で健康的な裸体画、牧歌的風景画、モニュメントとしての巨大彫刻など、芸術としてみると面白くも何ともないものだったのだ。
■ヒトラーの矛盾
さて、絵とは面白いもので、美しいものを描けば美しくなるというものではなく、立派なものを描けば、それによって人が感動するというものでもない。
adolfhitler4.jpgヒトラーの絵「YouTube」より
アートに必要なものの一つとして、本当に心の中、体の中にある(自分にとっての)真実を正直に吐き出すことがある。そういった意味において、ヒトラーの絵画は自分にウソをついた絵であり、だからこそ魅力的ではないのかもしれない。
その理由として、ヒトラーには昔から「ヒトラーユダヤ人説」や「非アーリア説」があとを絶たない。これには、ヒトラーの父親・アロイスが実際には血の繋がった父親ではない可能性や、あるいはアロイス自身が私生児だった可能性があるなどさまざまな憶測が飛び交っているが、要するに、ヒトラーには出生の秘密と謎があったということだ。
さらに、ヒトラーはアイロスと折り合いが悪かった。そして、“生粋のハプスブルク君主国の支持者”だったアロイスに憎しみを抱いたことが、後のアーリア至上主義、ドイツ民族主義へと走る第一歩となったとも言われている。
しかしこれは、明らかに大きな自己矛盾だ。ほかにも、ヒトラーは自身を“極貧だった”と吹聴していたが、実際にはそうでもなかったなど、彼はあらゆる独裁者がそうであるように、さまざまな過去を隠し、ウソをウソで固めた人生を送っていたのだった。
しかし、言葉や経歴でウソが言えても、絵というのはそういう意味でウソがつけない。それは眠ければ寝る、腹が減れば食べるというように、体がウソをつけないのと同じことだ。
ヒトラーの絵が持つ、えも言えぬ寂しさや荒涼とした風景は彼そのものだったのかもしれない。だが、人の気持ちを惹きつけるには、あまりに貧相なものに違いない。彼は、自分自身を絵で表現するができなかったのだ。
それにしても、ヒトラーの記事を書いていたら頭の芯を締められるような疲労におそわれた。やはり、何かわるいものがついているのかもしれないな。
http://tocana.jp/2014/06/post_4334_entry.html
アドルフ・ヒトラーによって描かれた35枚の絵画
http://musey.net/mag/35
ナチス・ドイツの指導者アドルフ・ヒトラーが、政治家へと転身する前は画家を目指していたことはよく知られている。
ヒトラーは、1905年に実業学校を退学した後で、ウィーンにある名門美術学校「ウィーン美術アカデミー」への入学を希望するものの、「写実性はあるものの、独創性に乏しい」とされて試験に落とされてしまった。
世紀末美術を嫌悪したヒトラー
当時のウィーンをはじめとするヨーロッパでは、幻想的・退廃的な「世紀末美術」や「アール・ヌーヴォー」と呼ばれる新しい美術の流れが盛んに台頭していたが、ヒトラー自身はこうした運動に興味を示さないどころが、嫌悪感すら抱いていたと言われる。
ヒトラーが受験に失敗する1年前には、世紀末美術の旗手であるエゴン・シーレが同校に入学しているが、彼自身は著書『我が闘争』の中で、20世紀以降のダダイスムやキュビズムについて「狂気であり堕落であり病気である」と断じた上で、これらが「ボルシェヴィズムの公認芸術である」とまで述べている。
そんなヒトラーは、人物画よりも風景画・建築画を好んで描いており、いくつもの習作やデッサンなども残っている。これまで、ヒトラーの作品については様々な評価が見られたが、もし彼がそのまま凡庸な画家になり損ねた青年として人生を終えたならば、ほぼ確実にこれらの作品を我々が目にすることはなかっただろう。
以下では、彼の30枚の作品をまとめてご紹介しよう。
ヒトラーは愛犬家としても有名であり、ジャーマン・シェパード・ドッグのメス「ブロンディ」を飼っていた。ちなみに、ヒトラーの愛人であるエヴァ・ブラウンはブロンディを嫌っており、ブロンディを蹴とばしていたことが知られているという。
彼は、第一次世界大戦によって荒廃した街並なども描いている。後に、こうした風景を自らの手によってつくり出すことになる。
ディズニー作品も
なんとその中には、ディズーのピノキオと白雪姫に登場する小人を描いた水彩画もある。これはノルウェー北部の戦争博物館で発見されたもので、ヒトラーが所有していた絵画に隠されていた。
http://musey.net/mag/35
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アーリア人の赤ん坊を増やせ ! / 同種族を憎むように改造されたアメリカ人
http://kurokiyorikage.doorblog.jp/archives/68674746.html
フリーダが持っていた出生の秘密
Lebensborn 1Nazi girls 6
(写真 / ナチス政権下りの理想的ドイツ人少女)
http://livedoor.blogimg.jp/kurokihelion/imgs/b/2/b2c356d3.jpg
http://livedoor.blogimg.jp/kurokihelion/imgs/c/3/c330f4d3.jpg
最近のテレビでは予算不足なのか、昔のビデオを集めて懐メロ番組を流す時がある。大きい子供を持つ父親とか母親でも、往年のスターやアイドル歌手を再び目にして大はしゃぎするんだから、若い時の熱狂は一生消えないのだろう。でも、贔屓とするアイドル歌手がいなかった筆者には、残念ながら一緒に懐かしむことができない。とは言え、筆者にも松田聖子とか中森明菜を好きだった友人がいた。しかし、同級生にアバ(ABBA)とかノーランズ(The Nolands)のファンはいなかったから寂しかった。それでも楽しい思い出は尽きない。
今のCDとは違って、LPのアルバムだとジャケットのサイズが大きくて、それぞれのミュージシャンが独自のアイデアを用いてデザインしていたから、ある種の藝術みたいな趣があった。小学生の頃、近所のレコード店に行ってアバのアルバムを注文し、そのレコードが届いたとの知らせを受けた時は嬉しかった。早速、自宅のオーディオ・セットにレコードをかけ、「ヴレヴー(Voulez Vous)」とか「エンジェル・アイズ(Angel Eyes)」「アズ・グッド・アズ・ニュー(As good as new)」といった名曲を毎日のように聴いて、「コンサートに行けたらなぁ」と悔しかったのを今でも覚えている。
Nolans 1ABBA 4
左: ノーランガ
http://livedoor.blogimg.jp/kurokihelion/imgs/c/8/c8c9f27c.jpg
右: ABBA
http://livedoor.blogimg.jp/kurokihelion/imgs/6/6/666f9551.jpg
日本でも1970年代後半から80年代初頭にかけてアバは人気で、ディスコ・ブームも重なっていたから、「ギミ ! ギミ ! ギミ !」とか「ダイシング・クィーン」がよく流れていた。ちなみに、筆者が印象に残っているディスコ・ミュージックと言えば、松田優作のTVドラマ『探偵物語』で使われていた「ディスコ・トレイン(Disco Train)」(歌 / セクシー・リズム・セクションズ)と、沖雅也・柴田恭兵が共演していた『俺たちは天使だ』に挿入されていた「You Can Do, I Can Do」である。(これらの曲はユーチューブにアップされているので、確認したい方は曲名をタイプして検索すれば試聴できます。たぶん、「あの曲か!」と想い出す人もいると思う。) 日本でも成功を収めたアバは、1980年代初頭に解散してしまったが、各メンバーは独自に音楽活動を始めていた。リード・ヴォーカルのアグネッタ・フォルツコグ(Agnetha Fältskog)とフリーダ・リングスタッド(Anni-Frid Lyngstad)は、そけぞれソロ・シンガーの道を歩むようになていった。
個人活動を始めたフリーダであったが、新曲の「I know there's something going on」はそれほどヒットせず、アバ時代と比べると凋落の様相を否めない。しかし、彼女はドイツ貴族の奥方となった。アバのメンバーであった頃、フリーダはキーボード奏者のベニー(Benny Andersson)と結婚していたが、まもなく離婚してしまい、それでもバンド活動を続けていたという過去がある。人気絶頂で「アバ」というバンドが解散し、ソロ・シンガーになったフリーダは、造園家で伯爵の称号を持つハインリッヒ・ルッツォ・ルウス(Heinrich Ruzzo Reuß)と結婚し、スウェーデンの歌姫からドイツ人のお妃(プリンセス / Prinzessin Reß von Plauen)へと変身していたのである。普通なら、人も羨む華やかなシンデレラ・ストーリーとなるのだが、フリーダには人に話したくない出生の秘密があった。
Anni Frid 2Anni Frid & Benny 2Heinrich Ruzzo Reuss 1
左: アグネッタとフリーダ
http://livedoor.blogimg.jp/kurokihelion/imgs/8/d/8deac829.jpg
中央: 夫婦となったフリーダとベニー
http://livedoor.blogimg.jp/kurokihelion/imgs/0/f/0f1e3e69.jpg
右: 再婚したフリーダと夫のハインリッヒ・ルッツォ・ルウス
http://livedoor.blogimg.jp/kurokihelion/imgs/c/9/c9e0cf4d.jpg
1945年11月に生まれたアニ・フリード(フリーダ / Anni-Frid Lyngstad)は、シニ・リングスタッド(Synni Lyngstad)を母に、アルフレッド・ハーゼ(Alfred Haase)を父に持つ。母のシニは片田舎に住むノルウェー人女性で、まだ18歳の乙女であった。一方、父親のアルフレッドは、ノルウェーを占領したドイツ軍に属する24歳の軍曹であったという。彼は派遣された街でこの娘と出逢い、彼女の姿に惹かれてしまった。この娘に惚れてしまったアルフレッドは、ジャガイモの詰まった袋をプレゼントして交際を始めたそうだ。
現在では笑い話になってしまうが、戦時下の1943年、ノルウェーでは食糧不足が深刻だったので、こうした贈り物は大変貴重であったらしい。逢い引きを続ける若い二人が親密になるのに時間はかからず、彼らは程なくして肉体関係を結ぶようになった。だが、アルフレッドには彼女を幸せに出来ない事情があった。何と、彼は故郷に妻子を持つ既婚者であったのだ。(Ross Benson, "Abba girl's Nazi secret", Daily Mail)
Synni Lingstad 1Alfred Haase 1Alfred Haase & Frida
(左: シニ・リングスタッド / 中央: アルフレッド・リングスタッド / 右: 父のアルフレッドと再会したフリーダ)
不倫と敗戦は若い二人を引き裂く。1945年、シニは身籠もるが、恋人のアルフレッドは祖国に帰還することになった。悪い時に悪い事は重なるようで、さらなる不幸が彼女を襲うことになる。ノルウェーの寒村に残されたシニは、周囲からの冷たい視線を浴びることになった。村の者は皆、誰が赤ん坊の父親なのかを知っていたので、彼女が街を歩けば、人々は彼女に向かって「このドイツ人の淫売女 !」と罵ったそうだ。敵国の男と情事を交わしてしまったシニとその母アグニーは村八分となり、時が経つにつれ人々からの仕打ちに耐えきれなくなった。そこで、地元に居場所を無くした親子は、隣国のスウェーデンに逃れ、新たな生活を求めるようになったという。(当時、母のアグニーは夫を亡くした寡婦であったそうだ。) スウェーデンに新居を構えたシニは、ウェイトレスとして働くが、間もなく腎臓を患い、21歳の若さで亡くなってしまう。母を失ったフリーダはまだ2歳であった。こうして幼いフリーダは祖母の手で育てられ、寂しい子供時代を過ごしたそうだ。大人になってから、彼女は幼年時代を振り返っていたが、友達はそう多くなかったという。フリーダは父がドイツ軍人であると聞かされていたが、祖母のアグニーは偽の話を孫に伝えていた。すなわち、父のアルフレッドは海路でドイツに帰る途中、船が沈没して亡くなったと教えていたのだ。後にフリーダが父の真相を知ったのは、アバが人気を博していた1977年の頃であったという。
Anni Frid 3Anni Frid 1Anni Frid 7
(写真 / 若い頃の「フリーダ」ことアニ・フリッド)
http://livedoor.blogimg.jp/kurokihelion/imgs/9/1/91beb9f9.jpg
http://livedoor.blogimg.jp/kurokihelion/imgs/0/d/0d95f8ed.jpg
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アーリア人の赤ん坊を繁殖させる施設
ドイツ軍人のアルフレッド・ハーゼがノルウェー人娘のシニ・リングスタッドと恋に落ちたのは、偶然の出来事だけではなかった。彼の恋愛は「レーベンスボルン(Lebensborn / 生命の泉)」計画の一環でもあったのだ。エリート組織たる親衛隊(SS /Schutzstaffel)を率いていたハインリッヒ・ヒムラー(heinrich Himmler)は、第三帝國を支える金髪碧眼のアーリア人を増やすことを目論み、ドイツ各地に「レーベンスボルン・ホーム」を創設した。ヒムラーの考えでは、理想的な容姿を備えたエリート部隊の男性が、健康で若いアーリア人の女性と肉体関係を結べば、アーリア人の赤ん坊がたくさん生まれ、ゲルマン民族の肉体が維持できるらしい。もし、個人の自由に任せていると、“へんちくりん”な種族と結婚してしまうから、政府の特別機関が制禦せねばならないという訳だ。こうして、優秀な北方種族の純血性を守り、その優越種族を繁殖させるためには、特別な制度と施設が必要である、との思想がドイツに浸透し始めたのである。
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(左: ハインリッヒ・ヒムラー / 右: レーベンスボルン・ホームで育つアーリア人の赤ん坊)
ヒムラーは理想の種族でドイツ帝國を満たすことに心血を注ぐ一方で、彼の民族が持つ血統を穢す劣等人種を憎んだ。ドイツ民族の将来を憂いたヒムラーは、薄汚いスラヴ系民族やタカリ民族のユダヤ人、浮浪者のジプシーなどを排斥しようと決心したのである。彼はまた、腐敗と悪徳が蔓延る都会を嫌悪したので、レーベンスボルン・ホームを美しい田園地帯に建てることにした。現在の日本人にはピンとこないだろうが、ワイマール共和国時代には、ホモ風俗とかキャバレーが花盛りで、おぞましい繁華街には売春婦がたむろっていたというから、ヒトラーやヒムラーはこうした悖徳(はいとく)をドイツ全土から一掃した。「極悪人」の烙印を押されたヒトラーだが、意外にも彼は潔癖症で、倫理・道徳的腐敗に対して峻厳だった。美術を愛したヒトラーからすれば、ゲイ同士のセックスとかストリップ劇場などもっての外。ところが、社会道徳など一顧だにしない世俗的ユダヤ人の中には、ゲイとかレズビアンを用いてキャバレーを経営したり、変態趣味やSMショーとかを商売にして儲ける奴がいたそうだ。
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(左: マグヌス・ヒルシュフェルド / 右: 男同士でダンスを楽しゲイのむカップル)
さらに、マグヌス・ヒルシュフェルド(Magnus Hirschfeld)というユダヤ人学者がセックス学(sexology)で有名だったから、ヒトラーやナチ党の愛国者たちが激怒したのも当然だった。この状態は、メル・ゴードン(Mel Gordon)の著書『官能的パニック(Voluptuous Panic)』を繙けば一目瞭然だ。日本人の読者は、ヒルシュフェルドが丸裸の女性を椅子に坐らせ、その手で彼女の性器を開闢させている写真に驚くだろう。こうした本は大学図書館にも無いから、ほとんどの日本人はワイマール期の社会風俗を知らずに、ナチ・ドイツの風紀取締を非難することになる。まぁ、性器丸出しのゲイやレズビアン、性的な幼児趣味、SMプレー、といった写真が満載の本なんて、公共図書館に置くことができないから、大学生でも第三帝國以前のドイツを理解していないのだ。(筆者はこの本を所蔵しているが、その中に掲載されている写真を紹介できない。ブログ運営のライブドア社の検閲が厳しいしこともあるが、実際、あまりにも卑猥な写真なので、いくら鈍感な筆者でも掲載をためらってしまうのだ。どうか、ご勘弁頂きたい。)
勇敢なアーリア人戦士と美しいアーリア人の母が住むドイツを理想郷としたヒムラーであったが、いくつかの強引な政策もあったから、批判者が出て来ても不思議ではなかったし、排除されたユダヤ人から恨まれることも当然あった。しかし、彼の方針は英米で行われていた社会政策と同じものであったし、現在の福祉制度に通じているから興味深い。レーベンスボルン計画では、由緒正しいSS隊員と健康なアーリア系女性との婚姻が奨励されており、レーベンスボルン・ホームは未婚女性とその赤ん坊、あるいは既婚者との不倫で子供を産んでしまった女性などを保護し、彼らの面倒を見ていたという。ナチ党は逞しい金髪の戦士と家庭を守る母親を理想とし、帝國の未来を担うゲルマン人の子供を産むよう宣伝したし、そうした出産を半ば国民の義務と見なした。こうしたナチスの方針が「悪」なら、日本の武士は単なる殺人鬼だし、家庭を守る専業主婦も否定されねばならない。
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(写真 / ゲルマン系の母親と赤ん坊)
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そこで、ゲルマン人の出生率を上げるため、ドイツは幾つかの社会政策を推進した。例えば、10歳以下の子供を3人以上持つ母親は、商店の順番待ちの列で優先的に扱われる「名誉母親証」を与えられたという。また、地方の行政当局は、こうした母親達に家賃と公共料金の割引をする制度を採用し、これから家庭を築こうとする若いカップルには、人種的適合性が証明されれば、独身者からの特別税を財源とした融資が行われたそうだ。子供が一人生まれるごとに融資額の四分の一が免除されたという。ということは、四人目を持てば借金がチャラになるということだ。(キャトリーン・クレイ / マイケル・リープマン 『ナチスドイツ支配民族創出計画 』柴崎昭則 訳、現代書館、1997年、 p.92)
レーベンスボルン・ホームに熱心だったヒムラーと開業医のグレゴル・エーブナー(Gregor Ebner)は、既婚未婚を問わず、とにかく良い血統を持つゲルマン人の子供を増やしたかった。そこで、赤ん坊を養うことが困難な母親を受け容れて、レーベンスボルン・ホームの看護婦が代わりに養育する場合もあったという。とにかく、レーベンスボルン・ホームは魅力に満ち溢れていた。施設は中世の城を思わせる外観をもち、田園地帯にある高級リゾート・ホテルのようでもあった。当時、出産費用は一人頭400マルクであったが、エーブナーは素晴らしい血統を持つ1000名の子供を確保できるのなら、さしたる出費ではないと考えていたそうだ。資金は様々な方法で調達されていて、レーベンスボルン協会の会員からも徴集していた。会員数は1万3千人。そのうち8千名がSSに所属し、766名は各地の警察組織に属する者であった。会費は月に最低27マルクであったが、父親としての義務を果たしていないSSの隊員は、罰としてなのか、余計に会費を払わねばならなかった。しかも、28歳までに最低2人の子供を持たないSS隊員は、より多くの金額を払わねばならなかったそうだ。(上掲書 p.105)
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(左: グレゴル・エーブナー
中央: ドイツ人の若い女性
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右: 少女と一緒のハインリッヒ・ヒムラー
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それでも、レーベンスボルン計画を維持するには資金が足りなかったようで、1939年、経済省は拡大する赤字を補填すべく100万マルクの補助金を交付したという。日本政府も少子化対策を取るなら、ナチ・ドイツのレーベンスボルン計画をちょっとは参考にすべきだ。国会議員や地方議員、政府の役人はこぞって児童施設の増加を叫ぶが、肝心の国民はセックスをしても結婚しないし、子供すら産まないから少子化が益々深刻となっている。多少のお金をあげても日本人女性は妊娠を嫌がるし、幼稚園が充実すれば「待ってました」とばかりに外で働くから、専業主婦が減って職業婦人が増えてしまう。子供を増やして生活がキツくなるんなら、子供を産まずに所得を上げようとするのは人情だ。ちょっと脇道に逸れるけど、日本の税制は将来を担う国民に対して酷だ。若い夫婦が借金して新居を構えても、その家屋に固定資産をかけて多額の税金を搾り取るんだから、幸せな家庭を築こうなんて思わない。これじゃあ、まるで懲罰金だ。住宅ローンを返済しながら、年金、国民健康保険、市民税、県民税、ガソリン税の二重課税、自動車取得税、車検に加えて消費税のアップじゃ、重税を払うために働いているようなものである。もし、子供を4、5人産んだら住宅借金を棒引きにして、固定資産税も軽減ないし免除となれば、若い夫婦もちょっとは夜の営みに励むかも知れない。
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(写真 / ナチス時代のドイツにおけるゲルマン系少女たち)
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ナチ・ドイツの崩壊でハインリッヒ・ヒムラーの評価は最低だが、彼がSSのために考案した儀式には注目すべき言葉がある。夏至と冬至の儀式に集まった民衆は、次のように唱和しなければならなかった。
我々は祖先を尊敬し、その前で跪く。祖先の血は、使命と責務として我々の中に流れている。
血縁共同体によって、男は遺産を守る義務を負わねばならない。
存在することの意味は、遺産を結実へと展開することである。
生命の輝きを保つ聖なる場所を守るのは、家族である。
男とその妻は、生命の芽を授け、それを担い、そして伝播させる。
我々の子供たちは、我々の交わりと存在の証明である。
そして、我々の孫たちは、我々の偉大さを証拠立てるであろう。
(上掲書 p.64)
ドイツ史を研究する日本の左翼学者は、頭ごなしにナチスを糾弾するが、ドイツ国内でアーリア系、つまり北方種族のドイツ人が増える事に問題は無いはずだ。確かに、ポーランドを侵掠し、現地人を弾圧したことは非難されるべきだが、侵略戦争なら歐米各国とも常習犯である。英国はアジアやアフリカに宏大な植民地を獲得し、現地の有色人種を蔑み、レイシズムに基づく秩序を形成して、現地人を奴隷の如くこき使っていた。インド人やビルマ人、アフリカ人からすれば、ドイツ人もイギリス人も変わりはないし、自由や博愛を掲げていたフランス人など完全に偽善者だ。ドイツ人を非難するアメリカ人だって、国内では黒人を家畜として働かせていたし、黒人との混血を忌み嫌い、一滴でも黒人の血が混じった子供は白人と見なされなかった。これは、ユダヤ人の祖父母を持つユダヤ系混血者を「ドイツ人」と見なさなかったナチスと同じである。アメリカ人は嫌がるけど、ナチ党はアメリカの人種法を参考にしていたのだ。当時の西歐世界はどこでも人種差別が横行していたし、他国への侵掠とか劣等人種の征服などは伝統的行為であったから、殊さら騒ぎ立てる程のものでもなかった。
恨み骨髄のユダヤ人
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(写真 / ユダヤ人の集団)
しかし、ドイツやその他の西歐諸国に住むユダヤには赦しがたかった。彼らは千年以上も異国にタカってきた寄生民族なのに、自らを正当な「ドイツ国民」と考えていたのだ。しかし、ナチ党が台頭すると、如何なる高位高官のユダヤ人も単なる「ユダヤ人」に貶められたから、大騒ぎしても無理はない。以前なら、強欲な領主や君主を札束でビンタすれば、迫害の手が緩んだし、条件次第では引き続き居住が許され、有能なユダヤ人であれば、秘書とか財務官といった手下になることができた。ところが、ヒトラーは甘っちょろい貴族とは決定的に違っていたのである。彼はユダヤ人の袖の下に屈しなかったのだ。ナチスは法律を以てユダヤ人を炙り出した。例えば、
(1) 氏名変更の禁止。ユダヤ人がドイツ風の名前をつけることを禁止したのである。
(2) ユダヤ人の商店はユダヤ人が所有していることを隠してはならない。
(3) ユダヤ人組織は当局に登録せねばならない。
(4) ユダヤ人は自分がユダヤ人であるとこを示す書類を持ち歩かなければならない。
(5) ユダヤ人は不動産業、金貸し屋、工場経営、調査業、結婚仲介業、看護婦、巡回販売員などを営んではならない。
(6) ユダヤ人はドイツ人の劇場に入ってはならない。
(7)ユダヤ人の子供はドイツの学校から排除される。
これ意外にも様々な禁止条項があった。こうした条例は他国にも適応され、フランスがドイツに占領された時、そこに住むユダヤ人はケルト系のフランス人と区別された。すると、今までフランス人が営んでいると思っていた商店が、実はユダヤ人の店であったとわかってフランスの庶民が驚く、といったケースがあったそうだ。しかも、「こんなに多くあったのか !」と驚嘆したというから面白い。反ユダヤ主義の伝統が根強かったフランスでは、ドイツ人によるユダヤ人迫害に協力する人が少なくなかった。忌々しいユダヤ人を排除してくれたんだから、征服者にしては「良い事」をしたものだ。
第三帝國の崩壊はドイツ人にとって悲劇であったが、戦勝国の英米にとってもある意味「敗北」であった。経済的に疲弊した英国は別にして、国内に損害が無かった米国も意外なしっぺ返しがあったのだ。あろうことか、ナチスを悪魔にして糾弾したアメリカ人は、自国内で人種差別が出来なくなってしまった。ナチスのユダヤ人迫害はドイツ人の独創ではなく、以前から継承されてきた排除思想が基になっていたのに、まるでドイツ人だけがユダヤ人を虐待したかのような印象操作が戦時中に行われていたのである。ドイツ人が如何なる人種政策を取ろうとも、アメリカ人はそれとは無関係に、従来の人種差別を継続してもよかったのだ。なぜ戦勝国が敗戦国のせいで人種混淆社会になるのか? そもそも、合衆国の白人兵はユダヤ人を救うために参戦したのではないし、黒人との平等を求めて日本兵と戦ったわけでもない。ところが、奇蹟的に生き残った白人兵が帰国すると、国内にはユダヤ人を始めとする戦争難民が押し寄せ、ついでにアジア系移民に関する法的制限も撤廃されてしまったのである。
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(左: ユダヤ人の子供 / 右ユ: ダヤ人の移民)
激戦に勝ったら厭なユダヤ人を引き受けることになるなんて、まったく馬鹿げている。同じ種族のドイツ人、特に戦争孤児や夫を亡くした母子家庭のゲルマン人なら受け容れてもいいだろう。事実、ジェイムズ・イーストランド上院議員は、戦争で住処を無くしたドイツ難民を優先しようと述べていた。ところが、優先的にやって来たのはむさ苦しいユダヤ人とか、東歐や南歐からの貧民、その他の不愉快な劣等民族であったから、地元のアメリカ人は眉を顰めていた。案の定、住みついたユダヤ人家庭からは筋金入りの共産主義者や、ピンクの左翼、リベラル派気取りのゴロツキ、空論を弄んで社会に害をなす知識人、白人社会にケチをつける左巻きのジャーナリスト、真っ赤に染まった藝能関係者などが輩出されたのである。以前、当ブログで紹介したように、公民権運動で黒人を焚きつけたのはユダヤ人活動家であったし、異人種混淆を奨励する映画を作っていたのもユダヤ人であった。
映画界やテレビ局、その他の娯楽産業を牛耳ったユダヤ人は、盛んにナチ・ドイツを侮蔑し、ドイツ人が犯したユダヤ人への暴虐、迫害、ガス室殺人などをアメリカ人に吹き込んだ。それにより、上流ないし中流家庭の白人たちは、兇悪犯のドイツ人を蛇蝎の如く嫌うようになってしまった。映画に現れるナチ高官は決まって残忍冷酷で、米軍に銃を向けるドイツ兵は、皆ロボットのように上官に従い、ケダモノのように民間人を殺しまくる。一方、アメリカ兵は人情味に不溢れた正義漢として描かれている。南洋で投降する日本兵を撃ち殺す卑劣なアメリカ兵とか、絨毯爆撃で女子供を皆殺しにするパイロット、焼夷弾で民間人を焼き殺すよう命じる米軍将校などは描かれない。もちろん、占領下の東京や横浜で日本人女性を強姦する黒人兵とか、少女を凌辱する白人兵などは無視。悪いのはナチズムのドイツ人とファシズムの日本人のみだ。
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左: 二枚クリステン・スチュワートとテレサ・パーマー
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右: 二枚ティファニー・ティッセンとアレクサンドラ・ダダリオ
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こうしたプロパガンダ映像で洗脳されたアメリカ白人は、同種族のドイツ人を殊さら憎み、異人種であるはずのユダヤ人に親近感を覚える。しかし、日本人の目から見れば、西歐系アメリカ人とアーリア系ドイツ人は同胞に見えてしまう。もし、第二次大戦を闘った高齢の白人が子供や孫の配偶者を選ぶとしたら、必ず同種族の西歐人を望むだろう。戦争が終わって帰還した白人兵は、たいてい白人娘と結婚し、自分と“似た”子供をもうけた。ここでは直接関係無いけど、白人俳優には他人なのによく似ている者がいる。例えば、女優のテレサ・パーマー(Teresa Palmer)とクリステン・スチュワート(Kristen Stewart)は、アメリカ人の目から見ても似た者同士だ。また、映画「ベイウォッチ」に出演したアレクサンドラ・ダダリオ(Alexandra Daddario)と、TVドラマ「ホワイト・カラー」で人気者となったティファニー・ティッセン(Tiffani Thiessen)も、ちょっと見ればよく似ている。これは彼女たちの親が同じ白人同士で結婚し、祖先からの遺伝子を守ってきた結果、同じタイプの容姿が保存されたという実例ではないのか。
住むなら白人地区
口では綺麗事を述べる人でも、自分のお金を使う時には本音に忠実となる。例えば、いくら南鮮人を擁護する左翼評論家でも、自分の財布で自家用車を買おうとすれば、韓国の「現代(ヒュンダイ)」ではなく、トヨタとかホンダの日本車、あるいはメルセデス・ベンツやBMWいった高級車を選んでしまうだろう。第一、朝鮮のクルマなんか恥ずかしくて友達に見せられない。また、米国に派遣された日本人社員が現地で自宅を購入したり、子供の学校を探そうとすれば、おのずと白人の住宅地に目を向け、グレた子供が少ない白人学校を選んでしまうだろう。アメリカの白人だって「レイシスト」の日本人に賛同するはずだ。しかし、現在では、北方種族だけのドイツ村とか、白人ばかりが住む高級住宅地は評判が悪い。でも、日本人の不動産鑑定士が土地を調べれば、黒人やヒスパニックがひしめく地域より、西歐系アメリカ人だけが住む地域の方に高い評価額をつけてしまうだろう。実際、裕福なアメリカ白人は白人が圧倒的に多い高級住宅地に屋敷を構える。以前、ビル・クリントン夫妻の豪邸を紹介したが、黒人やヒスパニックに同情的なリベラル・カップルは、有色人種が少ないニューヨーク郊外の白人地域に新居を購入していたのである。
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左: アメリカにやって来るヒスパニック移民
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右: アメリカにやって来るムスリム移民 )
アメリカの白人は敗者の日本人に向かって、「オレ達の国は自由を尊ぶデモクラシーなんだ。お前らみたいに奴隷根性で暮らしている未開人じゃない」と説教するが、彼らに果たして本当の自由があるのか? 例えば、ヒムラーが夢見た金髪碧眼のゲルマン人ばかりで形成される田園地帯が現れたら、裕福な白人層は我先にと土地購入に奔走するだろう。幼稚園や小学校には黒いアフリカ人や褐色のアラブ人が皆無で、どの子供も白い肌に薔薇色の頬をし、大きな青い瞳を輝かせている。こうしたブロンドの幼児は、縮れ毛の黒人が発する独特のアクセントで喋らず、卑猥なダンスに興味を示すことも無い。健全な白人家庭が多くなれば、刑務所に収監された父親とか、福祉金に頼るアバズレ女房、麻薬でラリっているストリート・ギャング、売春婦と大して違わないズベ公、なども激減するだろう。貧困家庭の黒人生徒なんて、卒業後は刑務所に就職するため学校に通っているようなものだ。白人だけの共同体が社会的に公認されれば、リベラル派を気取ったインテリ夫婦だって、アーリア人村に引っ越したくなる。
そもそも、北方種族ばかりのドイツになったからといって、生粋のドイツ人がどんな損害を受けるというのか? 日本人のみならず、西歐系アメリカ人は冷静に考えてみるべきだ。例えば、ドイツ人に生まれた事を誇る親が、金髪を靡かせるアーリア人だらけの幼稚園を訪れて、「うぁぁぁ〜、北歐種族だらけだぁ ! 怖ろしい! こんな幼稚園にウチの子を入れることはできないわ!」と叫ぶのか? たぶん、それとは真逆だろう。もしかしたら、「まぁ、何て素晴らしい幼稚園なの ! どの子もみんな可愛らしいわ! ウチの子もここに通わせたい !」と、うっかり口を滑らすんじゃないか。「ゲルマン系」「アーリア系」「アングロ・サクソン系」と何でもいいが、西歐系アメリカ人はなぜ自分たちの理想を追求しないのか不思議である。
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(写真 / 忌み嫌われるアーリア系の幼児たち)
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もし、アメリカが「自由の国」ならば、黒人やユダヤ人がギァアギャア騒ごうとも、好ましいタイプの白人だけで住宅地を持ったり、北方種族だけの小学校を作ったり、会員制の白人ゴルフ・クラブを開設すればいいじゃないか。民間組織における「受容」と「排斥」は自由であるべきだ。建国以前、イギリス人入植者は自分の好きなように神様を拝めるよう渡ってきた。彼らは新大陸に根づき、アングリカン教会から指図されず独自の教会を設立し、好き勝手な聖書解釈を行っていたのである。それなのに、アングロ・サクソン入植者の子孫は、自分の好きな者たちだけと暮らすことを禁止され、ユダヤ人が提唱する反米教育や不道徳な価値観に抵抗できない。英国のプロテスタント信徒はカトリック教会に反抗できたのに、ユダヤ人団体の前では隷属するなんて情けない。プロテスタントはユダヤ人の下僕なのか?
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(左: 歓迎されるユダヤ人の大人たち / 右: 大切にされるユダヤ人の子供たち)
ユダヤ人が哀れな難民として入国した頃は、借りてきた猫みたいにおとなしかったが、この異民族は財力や権力を身につけると、次第に地元民の西歐人へ文句をつけるようになった。白人ばかりのコミュニティーはレイシズムの温床だから駄目。アングロ・サクソン人を始めとするゲルマン種族を称讃するのは、反ユダヤ主義に繋がるから禁止。米国をキリスト教国と定義することは、信仰の自由を阻碍することになるから破棄。西歐文明、とりわけイギリス文化を継承することは、多民族・多文化主義を否定するものだから、テレビや学校の教育プログラムから抹消。こんなアメリカ社会に変貌しているのに、アメリカの白人はフランクフルト学派の毒が廻っているせいか、まったく気づかない。その前に、「ネオ・ナチ」という言葉を聞くだけで震え上がってしまうのだ。ただ、筆者の言うことを理解するアメリカ人も居ることはいる。しかし、彼らは社会的地位を失うことを恐れるから、絶対に賛同することはない。こんな具合だから、綺麗事でしかない理想を語るリベラル派が幅を利かせているのだろう。
白人の赤ん坊は高い
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(写真 / レーベンスボルン計画で理想的モデルとされそうなアーリア人の男女と家族)
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とにかく、レイシズムを否定するアメリカ社会であるが、養子縁組となれば白人の赤ん坊を望む白人夫婦は多い。もし、アメリカにレーベンスボルン・ホームのような養育施設があって、ヒムラーのように純粋なゲルマン人の赤ん坊を斡旋してくれたら、感涙にむせるカップルがたくさん出てくるだろう。事実、白人の赤ん坊は需要過多で、供給が極めて少ない。だから、白人の赤ん坊は値が高く、その次に白人系のヒスパニック、アジア系と値段が下がり、黒人は最低価格だ。幼くても買い手が付かない。売れ残った黒人の子供が成長してしまえば、もう絶望的である。子供が欲しい白人カップルは、しぶしぶ黒人を引き取るが、ユダヤ人カップルはユダヤ人の養子にこだわるし、異民族の子供を欲しがらない。ユダヤ人は二重思考を恥としないからね彼らは白い肌の子供を優先的に迎え入れ、たまにへそ曲がりのユダヤ人カップルが黒人を養子にする程度。しかし、西歐系白人に対しては人種平等を押しつける。(それなら、パレスチナ難民の子供を養子に迎えればいいのに。)
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左: 黒人の赤ん坊
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中央: 支那人の赤ん坊
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右: ヒスパニック系の子供
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気前よくユダヤ難民を受け容れたアメリカ人は、本当に愚かである。自分の国なのに“くつろぐ”ことができず、常に異国に居るような気分になるし、周りを見渡せば黒人、アラブ人、南米人、支那人、インド人などが目に付く。しかも、言論の自由があるはずなのに、絶えずユダヤ・メディアの検閲が光っている。そして「自由」と「デモクラシー」を掲げて対外戦争をすれば、その都度、望みもしない難民がやって来るのだ。第二次世界大戦でユダヤ人、朝鮮戦争で朝鮮人、ベトナム戦争でベトナム人、イラク戦争でイラク人、ソマリアの紛争ではソマリア人が雪崩れ込んで来た。こんな結末なら、ナチ・ドイツを徹底的に破壊しなけりゃよかった、と歎きたくなる。日本人が高齢のアメリカ白人を捕まえ、「1950年代以前のアメリカと1960年代以降のアメリカと比べたら、どちらが良いのでしょうか?」と尋ねたら、彼らは声を小さくして「そりゃあ、戦前の方さ」と囁くだろう。「でもなぁ、ワシの孫は黒人との混血児なんだよ」という悲しい告白もあったりして、気の毒なインタビューになったりする。
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(写真 / 高値がつきそうな白人の子供)
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日本人で歴史を研究する者は圧倒的に文系が多いから、歴史を違った角度から考えるという習慣がない。自然科学や数学を専攻する者なら、自然現象をあらゆる角度から考察し、様々な仮説を立て実証したり、研究したりするだろう。たとえ、「定説」であっても、それを疑い、自分で検証するし、学会の大御所が提唱した仮説といえども決定的ではない。ところが、歴史学会に所属する学者だと、長老教授の「史観」に逆らうことはないし、「定説」通りに論文を書けば、やがて正教授になれる。何も無理して有力教授に挑戦する必要はないし、黙って従えば自分も大御所になれるんだから、学会の主流に逆らうのは愚の骨頂だ。アメリカの学会も似たり寄ったりで、かつてアングロ・サクソンが主流だった米国はユダヤ人の天下になってしまった。ナチスにだっで見倣う点はあるだろう。アメリカ人はナチスのユダヤ人虐殺を非難するが、その立派なアメリカには中絶賛成派の「プロ・チョイス」勢力が存在する。「赤ん坊殺し」をチョイス(選択)の問題にするんだから驚く。たしかに、胎児は喋らない。いや、喋ることができない。母親に殺された赤ん坊は天に訴えるしかないのだ。それなら、未婚の母から捨てられた子供を養育したレーベンスボルン・ホームの方が遙かにマシだ。ユダヤ人の子供を殺すことが残酷なら、まだ母親のお腹にいる赤ん坊を殺すことだって悪である。案外、中絶賛成派のフェミニストは、ヒトラーが待つ地獄に直行するかも知れないね。
http://kurokiyorikage.doorblog.jp/archives/68674746.html
ナチスが嫌った醜い藝術
http://kurokiyorikage.doorblog.jp/archives/68684652.html
頽廃芸術が横行したワイマール時代
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(上絵画 2枚 / ヒトラーの作品)
今回のブログは1、2年前から発表しようかどうか迷った記事である。ナチス時代のドイツを知るには、ワイマール時代の社会状況を知る必要があるのだが、その一部があまりにも卑猥なのであからさまに伝えることが出来ない。しかも、ブログ運営会社のライブドアによる「検閲」があるので、たとえ「歴史的事実」でも「破廉恥な現実」を掲載すれば、当ブログの閉鎖を余儀なくされるからだ。それでも、歴史の真相を求める日本人には、偏向史観ではない具体的で“生々しい”情報が不可欠なので、肝心なエロ絵画を載せられないが、とりあえず紹介することにした。
Hitler 3Hitler's portrait by Karl TruppeHitler's portrait by Franz TribschAlbert Speer 2
(左: アドルフ・ヒトラー / 中央: カール・トルッペ Karl Truppe と Franz Triebsch によるヒトラーの肖像画 / 右: アルベルト・シュペーア )
第三帝國の総統となったアドルフ・ヒトラーが、若い頃、画家を志していたことは有名である。したがって、この伍長上がりの政治家は美術に関しては少々うるさく、自らのドイツ帝國を偉大な藝術で飾ろうと思っていた。ヒトラーがベルリンを壮大な首都にしようとした「ゲルマニア世界都市計画(Welthaupstadt Germania)」は有名で、その担当者に建築家のアルベルト・シュペーア(Berthold K. H. Albert Speer)を据えたこともよく知れられている。現在では、ヒトラーと言えば「極悪人」というレッテルが貼られているので、やることなすこと一切が非難の的になっている。だけど、もし敗戦がなく、目論見通りベルリンの再開発が遂行されていたら、たぶん絢爛豪華な帝都の誕生となったであろう。
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左: ドイツ人の少女
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中央: ナチス時代のドイツ人女性
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右: ナチ党のポスター
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もっとも、追い出されたユダヤ人は恨み骨髄だ。しかし、好ましいアーリア人で賑わう街はヨーロッパ諸国の注目を集め、不動産価格が高騰するのは間違いない。きっと、好奇心旺盛な日本人も、世界に冠たる偉大な都市を見物しようと、ベルリンに押し寄せるんじゃないか。現在の歐米人のみならず、日本人も「ユダヤ人の視点」でしかドイツ史を観ないけど、もし、ゲルマン人の目でヒトラーの帝國を眺めれば異なった感想を持つはずだ。
例えば、仮にドイツの住民がアーリア系ドイツ人ばかりになったとする。そうなると、いったい誰が困るというのか? 日本人観光客で、金髪碧眼の北歐人が集まる商店街とか教会を眺めて、「気持ち悪る〜い」と感じる人はいないだろう。日本人女性だと、ゲルマン人の子供が楽しく遊ぶ幼稚園を見て、「アっ! かわいぃ〜い」と声を上げるんじゃないか。日本人の亭主だと、ブロンド美女の保母さんに“うっとり”する姿を女房に見られて、「アンタ、どこ見てんのよ !」と叱られたりしてね。
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左: ヒトラーとドイツ人の少年
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ドイツ軍士官
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右2枚: 理想的なアーリア人女性
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それに、ドイツを訪れたオランダ人やイギリス人の観光客が「あれ〜ぇ? 白人ばかりだ。ユダヤ人がいなくて寂しいなぁ」と愚痴をこぼすのか? ユダヤ人が大嫌いな愛国的フランス人なら、「アレマン人(ドイツ人)は素晴らしい ! ぜひ、我が国もユダヤ人を駆逐しよう !」と叫ぶに違いない。また、 ユダヤ人を大学やホテルから閉め出したアメリカ人も、同種族のドイツを旅行して感動するはずだ。帝國陸軍から派遣された日本人だって、ゲルマン人ばかりのドイツに違和感は無く、ユダヤ人が居なくても不便はない。ちょうど、江戸や大坂に朝鮮人が居なくても寂しくないのと似ている。
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左: ドイツ人の少年
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中央: ドイツ軍士官の家庭
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右: 1950年代のドイツ人女性
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ナチ党やヒトラーの評判が悪いのは、ドイツを敗戦に導いたことにあるのだが、ユダヤ人や左翼分子が歐米の学会を牛耳っているのも、見過ごせない原因の一つである。ヒトラーにより追放されたユダヤ人は、アメリカやブリテン、カナダなどの西歐世界に移住し、その地で反ナチス本を大量に出版した。したがって、ドイツの事情に無知な一般人は、「ほとんど」と言っていいくらい、ユダヤ人の洗脳を受けている。フランクフルト学派のユダヤ人を迎入れたアメリカはその典型例で、今でもユダヤ人が撒き散らかした害悪により、訳も解らず“のたうち回って”いるのだ。これは丁度、見知らぬ他人から魚を貰って食ったら、その内蔵に水銀が溜まっていたり、回虫のアニサキス(Anisakis)が潜んでいたことから、食後にもがき苦しむのと同じ症状である。
Hitler's painting 1Hitler's painting 6Hitler's painting 2
(上絵画 / ヒトラーによる風景画)
排除されたユダヤ人の中には藝術家もいて、彼らは亡命先で散々ナチスを呪った。そして、この呪詛を聞いた現地人もユダヤ人アーティストに同情したものである。しかし、この亡命者たちは一体どのような作品を世に送り出していたのか? なぜ、ヒトラーやナチ党員たちは、彼らを排斥したのか? 日本人としては事の善悪を越えて、その理由を知りたい。我々は迫害されたユダヤ人の怨念だけを鵜呑みにするのではなく、迫害した側のドイツ人による言い訳にも耳を傾けねばならないと思う。とりわけ、1942年3月27日にヒトラーが述べた意見は傾聴に値する。ヒトラー曰わく、
ワイマール共和国時代が特にひどかった。これは美術界におけるユダヤ人の影響力の怖さを如実に物語っている。ユダヤ人どものやり方は信じがたいほどの図々しさだった。インチキ美術評論家の協力も得て、ユダヤ人どうしでの間で競り上げて、ナイーヴな人々に屑同然の絵を最高傑作と思わせるのに成功したのだ。自らの知的水準には自負を抱いていたはずのエリートたちさえ、ころりとだまされた。今、ユダヤ人の財産没収のおかげで奴らのペテンの証拠が続々と手に入るというわけだ。屑同様の絵をだまして高値で売った金で、反対に過小評価した傑作をばかみたいな安値で購入する。-----これがやつらのペテン藝術の極みともいえる手口だったのだ。著名なユダヤ人から徴発した財産の目録に目を通していつも驚くのは、そこに本物の芸術品ばかりが載っているということだ。(『ヒトラーのテーブル・トーク』 下巻、吉田八岑 訳、三交社、1994年 p.31)
確かに、ユダヤ人の富裕層はヨーロッパの名画を買い漁っていたようで、ナチスが彼らから奪い取った作品には目を見張るものがあった。最近だと、ナチスに協力した画商のヒルデブラント・ガーリット(Hildebrany Gurlitt)が隠し持っていた絵画に注目が集まったことがある。彼の息子で隠遁生活を送っていたコルネリアスが、ある失態を犯してしまい、盗品が表に現れるという事件が起きた。(Michael Kimmelman, "The Art Hitler Hated", The New York Review of Books, June 19, 2014) 戦災で失われたと思われていた多数の絵画が見つかってドイツ人は驚嘆。その中には、「頽廃藝術(Entartete Kunst)」作品も含まれていたそうだ。ヨーロッパ人の美を愛するヒトラーにとって、ユダヤ人や現代画家の美観は許せなかったそうで、総統は美術展に足を運ぶ度に、その「塗りたくった絵」を取り外させたという。たとえ、プロイセン・アカデミーの“お墨付き”が与えられた作品であっても、「無価値なもの」に対しては容赦無くふるい落としたらしい。
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(左: オットー・ディックスの作品 / 中央: ポール・クリーの作品 / 右: エーリッヒ・ヘッケル)
ヒトラーによると、アカデミーの会員はきちんと任務を果たさず、いつも仲間内で“なあなあ”で済ませ、ある宗教担当大臣はユダヤ人の罠に嵌まって“とんでもない駄作”に賞を与えてしまったそうだ。しかも、騙された人々は最初、「これは難解な作品だ」などと一応納得した顔をして、「作品の深層と意味を洞察するためには、提示されているイメージの世界に浸る必要がある」と、もっともな“ご託”を並べたという。そう言えば、日本でも西洋美術展が開催されると、評論家気取りの連中が適当な「講釈」を垂れるし、門外漢の一般客は、その「値段」を聞いて作品の「価値」を決める傾向が強い。庶民はピカソやムンクの作品を観たってチンプンカンプン。「こんなの子供の落書きだよなぁ」と心の底で思っても、その値段が何十億円と聞けば、「うぅぅ〜ん、やはり筆のタッチがひと味違うな !」と急に意見を改めたりする。
Picaso 3Picaso 1Edvard Munch 5Munch Girl Yawning
(左: パブロ・ピカソ / ピカソの作品 / エドワルド・ムンク / 右: ムンクの作品)
だが、ヒトラーによる美術批評家への意見は手厳しい。「一般論として、アカデミーの類いは傾聴に値する程の意見を発表しない」そうで、教授どもは落ちこぼれか、枯渇した老人くらいであるという。たとえ、才能豊かな者がいても、彼らは1日に2時間と教えられないそうだ。(上掲書 p.32) ヒトラーの美術論によれば、真の藝術家は他の藝術家たちとの接触を通して育って行くものらしい。かつて、巨匠といわれた画家たちは、工房の助手としてスタートし、技術と器用さで秀でた者、あるいは将来価値のある作品を生み出せそうな者だけが、徒弟の地位へと昇ったそうである。ヒトラーはルーベンスやレンブラントの例を挙げていた。これなら我々にも解る。例えば、「偉大」と称されるピカソなんかより、フェルメールの油絵の方がよっぽど素晴らしいし、ラファエロの聖母像も傑作だ。ヨーロッパの評論家はムンク(Edvard Munch)の『少女と死』とか『思春期』を称讃するけど、日本人には葛飾北斎の『富嶽三十六景』や歌川広重の美人画とか版画の方が解りやすい。
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(左: フェルメールの名作「真珠の耳飾りをつけた少女」 / 中央: レンブラントの「善きサマリア人」 / 右: レンブラントの「愉快な仲間」)
エロ・グロ作品を描いていた亡命者
ヒトラーは、当時の風潮に不満を漏らしていた。ドイツの美術学校では自由放任の方針を取っていたようで、天才なら最初から自分のしたいようにしてもよい、と考えていたらしい。しかし、ヒトラーは「天才画家であっても、最初は皆と同じように学習から始めねばならぬ」と考えており、「たゆみない努力によってのみ、描きたいものが描ける」と信じていた。そして、総統は絵の具の混合をマスターしていない者や、背景の描けない者、解剖学を学んでいない者は、大した画家にはならないだろう、と結論づけていた。そこで、ヒトラーは「曾てのように現代も、画家の卵は親方の工房で美術の伝統にどっぷり浸かりながら訓練を受けるべきだ」という。なぜなら、ルーベンスやレンブラントの作品を観ると、弟子と師匠が描いた部分の区別が附きにくかったからである。つまり、ルーベンスやレンブラントの弟子たちは、師匠と同じ技量を身につけていたということだ。
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(左: ゲオルク・グロス / マックス・ベックマン / エルンスト・ルドウィック・キルヒナー/ 右: エーリッヒ・ヘッケル)
このように、ヨーロッパに根づく伝統的美意識を愛したヒトラーだから、その伝統を無視する抽象画とか表現主義の作品は許せなかった。ヒトラー率いるナチ党が「頽廃藝術家」と評した者といえば、ゲオルク・グロス(Georg Grosz)や、オットー・ディックス(Otto Dix)、マックス・ベックマン(Max Beckman)、エルンスト・ルドウィック・キルヒナー(Ernst Ludwig Kirchner)、パウル・クリー(Paul Klee)、ルシアン・フロイト(Lucian Freud)、エーリッヒ・ヘッケル(Erich Heckel)などが挙げられる。特に、ユダヤ人と思われがちなゲオルク・グロスは札付きのワルで、キリスト教の家庭に育ったドイツ人であったが、思想的には真っ赤な共産主義者であった。彼はドイツ共産党に属していたけど、ソ連を訪問し、グリゴリー・ジノヴィエフ(Grigory Zinoviev / ユダヤ名Hirsch Apfelbaum)やレーニンと会ったことで失望したそうだ。グロスは形だけではあるが、共産主義から足を洗い、風刺画家に専念したらしい。
ところが、このグロスは単なる絵描きではなかった。ナチ党の台頭により米国へ亡命したグロスには、マーティー(Marty)という息子が生まれ、この倅(せがれ)はマスコミを相手に父親の偉大さを宣伝していたが、ある作品に関しては沈黙を守っていた。彼はある記者のインタビューを受けて、「父の風刺画や油絵、鉛筆画はベルリンの頽廃と腐敗を厳しくも情熱的に描いていました」と述べている。(Rosie Millard, "My father, the famous artist", The Independent, 17 March 1997) しかし、マーティーは父親の藝術を概ね讃美するも、その恥部だけは巧妙に避けていたから狡(ズル)い。この息子は父のエロ・グロ作品を人前で堂々と掲げるべきだ。グロスの作品総てを知らぬ一般人は、ナチスに迫害された可哀想な藝術家としか思わないが、彼の描いた「卑猥な絵」を目にすれば、ご婦人方は両手で顔を覆ってその場を去るだろうし、美術品愛好家の紳士なら、「何だ、この下品な絵は !」と叫ぶに違いない。日本人もグロスのエロ絵画を見れば、なぜナチ党が彼を「ボルシェビキ風の敵No.1」と評したが判るだろう。
George Grosz Pappi und MammiGeorge Grosz 5George Grosz Strassenszene Berlin
(上3 枚 / ゲオルク・グロスの作品)
憐れな亡命者と思われているグロスは、文字にするのも憚れるような卑猥な絵を描いていた。例えば、性器を剝き出しにした女や、客のペニスを膣に挿入する淫売、巨根をしゃぷる痴女、うつぶせの女を背後から襲う男、醜悪な体型をした中年女など、“おぞましい”としか言いようのない作品を残していたのだ。(ライブドア社の禁止規定に抵触するので、実際の生々しい「猥褻作品」を掲載できなくて残念である。でも、規則だから仕方ない。) とにかく、グロスは露骨に性器を描写していたから、とても一般公開などできない。米国の敬虔なキリスト教徒なら卒倒間違いなし。仮に、美術館の壁に掛けることが出来たとしても、訪問客から猛抗議を受けて、即座に展覧会は中止されるだろうし、主催者は責任を取ってクビになるはずだ。こうなれば、一般のアメリカ人もグロスへの同情を失い、「頽廃芸術」が何であったのかが解る。でも、ユダヤ人や左翼ジャーナリストは困るだろう。ヒトラーは絶対的な悪なのに、その追放政策が正しく思えてしまうからだ。したがって、反ナチス派の評論家や歴史家は事実を隠す。
Ernst Ludwig Kirchner 1909_MarzellaErnst Ludwig Kirchner 5Max Beckman 4Max Beckmann
(左2枚 : ルドウック・キルヒナー / 右2枚: マックス・ベックマン )
ルドウィック・キルヒナーの作品は卑猥でなかったが、彼の描く人物はどれも醜くて、観ていると暗い気分になる。なるほど、描かれた人物は印象的だが、お世辞にも「美しい」とは言えず、どちらかと言えば「病的」と評した方がいい。ちなみに、キルヒナーは精神病を患っており、展示会に出した自作を撤去されてから一年後に自殺している。フランクフルトのアカデミー会員をクビになったマックス・ベックマンや、700点以上者作品を撤去されたエーリッヒ・ヘッケルの絵も全体的に陰鬱で、部屋に飾ってみたいとは思えない作品である。だいたい、ベックマンの作品などを模範にしたい絵描きがいるのか? 蛭子能収をちょっと上手くしたくらいで、ザビエル山田といい勝負だぞ。(ザビエル山田は漫画『愛の泉』や『オヤジの吐息』の作者である。) 美術評論家は彼らの作品を「素晴らしい」と褒めちぎるんだろうが、一般人ならこんな絵を高値で買おうとはしないし、政治献金の代用品であっても買いたくない。個人の敷地で催されるヤード・セール(庭先の販売会)だと、せいぜい5、6ドルの値札しかつかないんじゃないか。筆者の好みから言えば、安彦良和先生の油絵(例えば、「ガンダム」のシャーとかセイラの人物画)とか、荒木飛呂彦先生が描くジョジョの直筆ポスターなどの方が遙かに価値がある。
Eric Heckel 6Eric Heckel 2Ludwig Meidner
(左と中央 : エーリッヒ・ヘッケル / 右: ルドウィッヒ・マイトナー )
ユダヤ人の画家になるともっと酷い。ルドウィッヒ・マイトナー(Ludwig Meidner)の絵を見ると、何かの病気を患っているんじゃないか、と思えてくる。だが、彼よりも不愉快なのは、ルシアン・フロイトだ。彼は有名な精神科医であるジクムント・フロイドの孫としても知られている。ルシアンの描く女性などを観ていると、日本人だってヒトラーの反論に賛成するんじゃないか。例えば、ぶくぶくと太った醜い女性とか、性器丸出しの男性などを観れば吐き気がする。ナチ党員たちはゲルマン人女性の美しさや清らかさを称讃したのに、ユダヤ人画家ときたら、北歐種族の肉体的美しさを否定し、それを無視するどころか、却って醜悪にして「美術」と称する。西歐婦人の気品を台無しにした挙げ句、反対の肉体を讃美するんだから、ドイツ人じゃなくても不快になるじゃないか。ヨーロッパ人にとったら、美しい人間というのは、古代ギリシア人が理想とした女神とか、ルネッサンス期の巨匠が描いた英雄である。
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(左ルシアン・フロイド / 中央と右: フロイトの作品)
しかし、ヨーロッパ人、特にキリスト教徒のゲルマン人を憎んだユダヤ人は、いじめっ子民族の肉体を讃美したくない。アーリア人の肉体美を描くことは、敵対者の優越性を認めることに繋がるし、セム種族の肉体的劣等性を認めることになるからだ。ユダヤ人は一般的に捻れた性格を持っている。美しいゲルマン人女性に憧れる一方で、彼女たちからの侮蔑に耐えねばならぬ運命を有しているからだ。ユダヤ人は西歐人に対しては、人種平等の説教を垂れるが、仲間内では西歐白人女性を獲物にしているから卑劣だ。(イスラエルの売春宿では、西歐人女性のような東歐女性が人気で、フィリピ人女中やアフリカ人娼婦は安値でランクが落ちる。それにしても、貧乏なルーマニア人やウクライナ人、ロシア人の女性を半ば騙して、次々に密輸するユダヤ人の女衒はあこぎだ。TBSの金平茂紀は朝鮮人娼婦なんか放っておいて、スラヴ系娼婦を取り上げればいいじゃないか。看板番組の『報道特集』で「報道」しろ !)
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左: キャメロン・ディアス
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ジェニファー・アニストン
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テリー・ポロ
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右: ジェニファー・ハドソン
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ユダヤ人は多民族主義を唱えるくせに、性慾となれば白人女性一本槍だ。 恋愛映画を造るハリウッドのユダヤ人たちは、決まって相手方を西歐人美女にする。例えば、ユダヤ人男優のベン・スティラー(Ben Stiller)は『メリーに首ったけ』ではキャメロン・ディアス(Cameron Diaz)を共演者にしたし、『アロング・ケイム・ポリー(Along Came Polly)』ではジェニファー・アニストン(Jennifer Aniston)を、『ミート・ザ・ペアレンツ』ではテリー・ポロ(Teri Polo)を恋人役にした。ところが、どのユダヤ人男優も、有名司会者のオプラ・ウィンフリー(Opra Winfrey)とか、ジェニファー・ハドソン(Jennifer Hudson)、タラジ・ヘンソン(Taraji Henson)、クィーン・ラティファ(Queen Latifah)などを恋人役にはしないのだ。(もしかして、黒人への嫌悪と差別なのか ?)
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(左: タラジ・ヘンソン / オプラ・ウィンフリー / クィーン・ラティファ / 右: コートニー・コックス)
大ヒットTVドラマ『フレンズ』でもユダヤ人的嗜好が滲み出ていた。このドラマを制作したプロデューサーのデイヴィッド・クレイン(David Crane)とマルタ・カフマン(Marta Kauffman)は共にユダヤ人で、ドラマの中でもロスとモニカのゲラー兄弟をユダヤ人に設定していた。兄のロス・ゲラーを演じたデイヴィッド・シュワイマー(David Schwimmer)はユダヤ人だけど、妹役のモニカを演じたコートニー・コックス(Courtney Cox)はイギリス系アメリカ人である。呆れてしまうのは、ユダヤ人のロスが憧れるレイチェル役に、西歐系女優のジェニファー・アニストンを起用していたことだ。『フレンズ』にはユダヤ人女優のリサ・クドローがいたのだから、彼女をフィービー役ではなく、レイチェル役にすれば良かったのに、と思ってしまうが、クレインとカフマンにしたら、いかにも「ユダヤ人のカップル」になってしまいそうで、本能的に嫌がったのだろう。もし、ニューヨークに住む「フレンズ」が、全てユダヤ人となったら、不愉快というか余りにも“リアル”過ぎる。たぶん、制作担当者はユダヤ色を薄めるためにも、異教徒の西歐人をキャストに混ぜたんだろう。
Lisa Kudrow 4David Schwimmer 2Marta Kauffman 1David Crane 2
(左: リサ・クドロー / デイヴィッド・シュワイマー / マルタ・カフマン/ 右: デイヴィッド・クレイン)
ユダヤ人は現実社会でも、ユダヤ人女性や黒人、アジア系女性に興味を示さず、西歐系女性に性的興奮を覚える。ユダヤ人の大物プロデューサーであるハーヴェイ・ワインシュタインについては、以前このブログで触れたからここでは繰り返さない。でも、最近またもやユダヤ人によるセクハラが暴露されたので紹介する。日本ではあまり知られていないが、ミネソタ州選出の上院議員にコメディアン上がりのアル・フランケン(Al Franken)がいる。一連のセクハラ騒動に感化されたのか、彼にセクハラを受けたと表明する女性が現れた。被害者はリーアン・トゥイーデン(Leeann Tweeden)という美女で、以前は水着のモデルや『プレイボーイ』誌のグラビア・モデルを務めたことがあり、現在はテレビ番組の司会やレポーターを務めているそうだ。
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(左: アル・フランケン / 中央: リーアン・トゥイーデンの胸を鷲摑みにするフランケン / 右: ハーヴェイ・ワインシュタイン )
事件は2006年、彼女が中東アジアに派遣された米軍を慰問した時に起きた。アル・フランケン議員はリーアンが寝ている隙に彼女の胸を鷲摑みにしたり、彼女が嫌がるのに無理矢理キスを迫ったそうだ。(Juana Summers and M.J. Lee, " Woman says Franken groped, kissed her without consent in 2006", CNN, November 17, 2017) セクハラ事件が表沙汰になると、フランケン議員は彼女に謝罪したそうだが、いくら冗談でも有名人の身分を忘れて卑猥な行為をするなんて、アホといか言いようがない。でも、どうしてユダヤ人は黒人とか支那人女性に対しては「いやらしい」事を企てないのか。「人種的平等を考えろ」とは言わないが、獲物に「人種的偏見」を持っているんじゃないかと疑いたくなる。
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左: 司会者としてのリーアン・トゥイーデン
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右: モデル時代のトゥイーデン
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怨念が動機になっている美意識
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(左: ヤンケル・アドラー / 右3枚: アドラーの作品 )
話が逸れたので元に戻す。ナチ党は頽廃藝術をユダヤ人の“せい”にしているが、こうした趣味に人種は関係無さそうだ。確かに、ヤンケル・アドラー(Jankel Adler)のようにポーランド系ユダヤ人の画家がいたけど、オットー・ディックスのようなドイツ人の画家もいたのだ。民族性と美的感覚の関連は不明確だが、二人の絵画は本当に美術なのかどうか判らない。現代の我々が見ても、アドラーの絵は気分が落ち込むほど陰惨である。ただし、ディックスが描いた絵の方が遙かに酷い。ディックスの描く女性など本当に醜く、お金を払って見る藝術とは思えないし、ヒトラーの言うように駄作と評する方が適切である。彼が描いた裸婦など殴り書きみたいだし、赤ん坊を抱く母親の絵は貧相というより怖い。ガリガリの赤ん坊なんてどうかしている。これじゃあ、アメリカ人だってナチスに賛同したくなるじゃないか。
Otto Dix 4Otto Dix self-portrait-with-museOtto Dix Sailor & Girl
(左: オットー・ディックス / 中央と右: ディックスの作品 )
昔、ヨーロッパでは既存の秩序や常識を否定し、破壊的感情を肯定したダダイズム(Dadaism)が流行ったけど、ユダヤ人には“しっくり”する運動だった。とにかく、ユダヤ人は西歐世界の伝統や秩序を覆したいと願っている。自分の種族が築き上げた訳でもない価値観など紙屑以下。タバコの吸い殻を揉み消すように、西歐人の理想を足で踏みにじりたいのだ。そして、自分たちを“抑圧”し続けた憎い白人を倒したい。だから、アーリア人の美しさを貶して、醜い人物像を「素晴らしい」と言い換えたり、変態的描写を「斬新なタッチ」として言いふらすのだろう。彼らにとり、異教徒の美意識を破壊することは快感なのだ。
Otto Dix Pregnant Woman 2Otto Dix Mother & ChildOtto Dix Ladies of the NightOtto Dix Pregnant woman
(上絵画 / ディックスの作品)
全共闘世代なら馴染み深いだろうけど、1960年代から1970年代にかけて前衛芸術なるものが“進歩的”と目されていた。フランス語の「アヴァン・ギャルド(avant-garde)」を口ずさみ、寺山修司とか大島渚たちが訳の解らぬ映画を作っていたのを覚えている人も多いだろう。ジョン・レノンと結婚したオノ・ヨーコが、へんちくりんな踊りを披露していたけど、あれも前衛藝術の一種らしい。音楽でも奇妙なものがあり、ユダヤ人音楽家のアーノルド・ショーエンバーグ(Arnold F. W. Schoenberg)とか、ニューヨーク生まれのロシア系ユダヤ人モートン・フェルドマン(Morton Feldman)が有名だ。まぁ、音楽の趣味は人それぞれだから、余計な事をせずに市場に任せておいた方がいい。
Morton Feldman 1Arnold Schoenberg 1Yoko Ono 2
(左: モートン・フェルドマン / 中央: アーノルド・ショーエンバーグ / 右: ヨーコ・オノ)
一般的に藝術は「自由」な方が良いけど、人々の精神に及ぼす影響も無視できないので、国家が介入する場合もやむを得ない。例えば、公園や路地裏で公然と映画のセックス・シーンを撮影するのは非常識だし、歩行者天国の日曜日に鞭を握ったSMの女王様が闊歩すれば、親子連れの一般人は目を背けるだろう。また、百貨店の展示会だって、しわくちゃの老婆を題材とした全裸写真とか、中高年ゲイが互いにペニスを握りしめているスナップ写真とかは論外だ。でも、西歐ではたまにある。米国で問題になったけど、小便の中に埋もれるキリスト像という絵画が公開され、世間の非難を浴びたこともあるのだ。藝術作品の弾圧は賛成できないが、常識を越えた「藝術」に一定の制限があってもおかしくはない。
ナチスによる私有財産の没収は違法だが、ヒトラーたちが「頽廃藝術」に憤慨した気持ちも分かる。ヒトラー総統が自分の帝國だから美しくしたい、と考えてもおかしくはない。「盗人にも三分の理」があるように、ナチ党にも1%くらい擁護論があってもいいんじゃないか。日本人にとって重要なのは、ナチスが怒った理由とその経緯を“具体的”に調べることだ。ユダヤ人の本だと“抽象的”に書かれているだけで、不都合な歴史が省略されている場合が多い。「書物の民」は偶像崇拝を嫌って文字を重視し、映像や視覚を回避する傾向が強いから、我々はどのような素性の者が、如何なる思想で批判しているのか検証してみる必要がある。案外、ユダヤ系著者の素顔と正体を知ったら、「えっ、こんな人なの?!」と驚くんじゃないか。(ワイマール時代のドイツについては、別の機会で述べてみたい。ただし、当ブログが閉鎖命令を受けたら不可能になってしまうだろう。もしかしたら、今回が最終回となってしまうかも知れないので、引っ越しを考えているところです。)
http://kurokiyorikage.doorblog.jp/archives/68684652.html
http://www.asyura2.com/20/reki4/msg/629.html#c22
【題名】額縁をくぐって物語の中へ「エゴン・シーレ 死と乙女」
【放送】NHK−BSプレミアム
平成24年2月9日(木)19時15分〜19時30分
【司会】ふせえり
ここ数日、肌寒い日が続いていますが、もう直にジメジメと湿気の多い梅雨の季節になるのかと思うと、うっとおしい限りです。雨の日は美術館の来場者が減ってゆっくり絵画を鑑賞することができることが多いので、個人的に雨の日の美術館巡りを好んでいます。未だ病気が完全に本復した訳ではないので、家で美術館関係の映像を見て過しています。
https://f.hatena.ne.jp/bravi/20120613192142
エゴン・シーレ作「死と乙女」(1915年)
先日、グスタフ・クリムトの「ベートーヴェン・フリーズ」等の作品について記事を書きましたが、今日はクリムトの愛弟子で世紀末ウィーンで活躍した表現主義の画家エゴン・シーレの「死と乙女」について書きたいと思います。最愛の恋人との別離を描いた「死と乙女」はエゴン・シーレの最高傑作と言われ、ゴツゴツした岩の上で抱き合う二人はシーレと彼のモデルで恋人でもあったヴァリー・ノイツィルを描いたものですが、1911年にシーレはクリムトから彼のモデルであったヴァリーを譲り受け、その後4年間に亘ってシーレのモデルを務めますが、この間にバリーの代表作の殆どが創作されています。
上述のとおり、この絵は最愛の恋人との別離を描いたもので、死と別離がテーマになっています。この絵の男性はシーレで「死」を象徴し、女性はヴァリーで「女神」(シーレにとってヴァリーは出世作を数多く生み出す契機となった運命の女神)を象徴しています。シーレは跪いている男性モデルを正面から描写していますが、寝そべっている女性モデルは脚立の上から描写しています。この2つの異なる視点から描いた男性モデルと女性モデルを1つの絵として合体することによって、この絵を見る者に不安定な印象を与えています。これは2人の別れを暗示するために意図的にこのような描き方がされたものです。なお、この絵はシーレがヴァリーに別れを告げて、ヴァリーがシーレに泣きついているところを描いたものですが、男性の右手は女性を突き放そうとし、また、男性の背中に回している女性の両指はきつく結ばれず別れを拒絶していないように見えます。シーレは、他の資産家の娘(エディット)と結婚するためにヴァリーに別れを告げていますが、その際、毎年夏に一緒に休暇を過そう(即ち、愛人として関係を続けよう)とヴァリーに持ち掛けたところ、ヴァリーはこの提案をきっぱりと断って涙を見せずに立ち去ったそうです。これにシーレはショックを受けますが、この絵の男性モデルの見開かれた目はその時の驚きを表現したものです。このようにシーレは被写体の内面までもキャンバスに描き込んだ作家であり、この絵が見る者に強い印象(メッセージ性)を与える理由はそこにあるのかもしれません。
https://f.hatena.ne.jp/bravi/20090712074119
エゴン・シーレ作「縞模様の服を着たエディット・シーレ」(1915年)
※上掲の「死と乙女」と比べると、同じ作家が描いたとは思えないほど被写体によって画力に違いがあります。
なお、「死と乙女」という標題は、若い娘が清らかなままあの世に召されることを意味し、当時、絵画や文学の主題として数多く用いられてきましたが、その標題のとおり1917年にヴァリーは23歳の若さで従軍看護婦として戦地で病死します。(因みに、同年にクリムトも他界しています。)更に、その翌年、シーレの妻エディットがスペイン風邪で病死し、その3日後にシーレもスペイン風邪でこの世を去っており、この絵はシーレとヴァリーの運命も占っていた怖い絵とも言えそうです。「一枚の絵は百の言葉を語る」という諺がありますが、この絵はシーレとヴァリーの人生をも語る含蓄深い一枚と言えると思います。
https://bravi.hatenablog.com/entry/20120613/p1
http://www.asyura2.com/20/reki4/msg/629.html#c23
◆資本主義で失業率改善と税収増と株高を同時達成する 吉越勝之 2004年10月27日
http://www.asyura2.com/0411/hasan37/msg/454.html
「別表日米90年間の年度別最高税率と経済」を調べてみると、米国は1910年代
後半から、50−75%の高累進所得税制で空前の好景気に沸いたが、1925年に
最高所得税率を史上最低の25%へ所得規制緩和し、承継したフーバー大統領誕生の
1929年アメリカで株価大暴落が発生し世界大恐慌へ突入したのです。
その3年後、多数の米国会議員の努力で成立した失業率を大改善し、本格的経済成長
に大成功して世界恐慌を完全克服し世界大戦の膨大な戦費を賄った上、財政再建に大
成功して世界一の経済大国となり株価上昇の原点となった、最高所得税率63−92
%へ税制改革の「必要は発明の母で生まれたルーズベルト税制」を分析し理論化した
のが本論文であります。
日本は戦後一般消費税を拒否し、この米国型直接税制を採用し国税75%の高累進所
得税制で高度経済成長と財政健全化に大成功したのです。
しかし米国の強力な競争相手に成長した我国が、税制への無理解から平成元年にEU
型間接税中心税制へ大転換し米国型経済成長税制を放棄してしまったのです。
この日本の競争力低下に助けられクリントン米大統領はルーズベルト税制を参考に
「富裕層所得税の累進強化の税制改革」を断行し国家競争力を再強化し株高と景気回
復と財政再建の同時達成に大成功を納めたのであります。
逆に直接税の所得規制緩和税制改革のレーガン税制やブッシュ税制では所得再配分機
能の低下を招き、個人消費は停滞減少し本格的経済成長と財政再建の同時達成に必ず
失敗するのです。
さて成熟経済においてアメリカと同じく納税者番号制を伴った高累進所得税の増税で
所得を規制強化し、且つ消費税を廃止し個人消費を規制緩和すると、国民所得が大幅
増加して失業率低下と経済成長と大幅な税収増の同時達成という素晴らしい結果を得
られます。
この立証に世界一の経済大国アメリカと第二位日本で何回も大成功した実例を紹介し、
このメカニズムを詳細に分析しています。
逆にEU型間接税制で、消費税を大増税して高度経済成長と失業率大改善の同時達成
に成功した成熟経済大国の成功実例は皆無であり、消費税率を上げて個人消費と設備
投資を規制強化すると、景気は後退し、失業率は悪化し税収は増加出来ません。
消費税制では何故そうなるかについて解説しています。さて日本独特の消費慣行から、
消費税制の副作用は極端に出るので日本が消費税制に固執し、財政赤字をタレ流せば
財政は破綻し莫大な国債が残り必ず政治責任が発生します。
この税制改革理論は国家を誠実で正直な国民を要素部分とする全体、つまりシステ
ムと考え国民性に合致する国家システムで強力に経済成長させる手法を解説します。
◆この税制改革理論の結論の要約 吉越勝之
◆日本は戦前、マスコミ、政治家、官僚の広めた理念観念を礼賛し、武力によって膨大
な国土を獲得したが、7000万人の国民を食べさせることも困難な大不況の国家だ
ったのです。
ところが敗戦の昭和20年に「焼け野原の国富ゼロ」から出発し、日本固有の領土に
大幅縮小されたのに、国民と国家の「考え方」と「システム」を、「個人消費を課税
規制せず、逆に増進しながら徴税する自由と平等思想の高累進所得課税の税制改革」
によって、平成元年までに、何と1億2000万人の国民が食うに困らない「無から
有の年平均74兆円の国富を生み出し43年間でビルが林立する、国富3190兆円
増(経済企画庁発表)の国民が豊かに暮らすことが出来る国家」へ成長したのです。
ところが平成元年、個人消費を課税規制して個人消費を抑圧しながら徴税する間接税
中心税制へ大転換し、更に所得税の累進を弱体化させた税制改革以降、年々国富は減
少し、平成14年度の国富は2799兆円と確定発表されており、この14年間の国
富は391兆円減であり、年平均減少額はマイナス28兆円にもなるのです。
本論文は「経済は神の手ではなく人間が営むもので、人間の手で改悪も改善もできる」
のであり、分析の結果、経済不況が継続している原因は「平成元年の税制改革」にあ
ったことを後述の通り明らかにし、その改善方法を解説したものです。
さて「個人消費+設備投資=国民所得」の経済公式があり、更に設備投資の増減は、
個人消費の増減に正比例する重要な性質がありますので、結果として市場経済では個
人消費の増減が国民所得の増減を決定する、基本的な経済構造になっているのです。
所得税は所得を課税して規制する税ですが、所得は他人から稼得する性格から、他人
の意志決定で増加するため、本人所得に直接課税規制する方法は、他人の意志決定を
課税抑圧することにならず、ましてや本人の意欲と意志と全く無関係に増加するので、
直接税制の大きな利点は、所得増加の意欲と意志の人間行動を全く規制抑圧しないと
いう点なのです。
しかも「個々の所得を累進課税で累進強化すればするほど、消費性向が低い高額所得
者から、より多い税収を得、国家の基本的機能の一つである所得再配分機能が自動的
に作動し、国家財政は、公務員や公共事業や建設事業従事者等の中低所得者層の人件
費に使用され、低所得者層ほど個人消費性向が極めて高い事実から、国家全体の消費
性向は徐々に高まり、個人消費が増加し、比例して設備投資も増加し、個人消費と設
備投資の両者から等価変換される国家全体の国民所得は急速に向上するのです。
所得税の累進構造は個別の所得を課税規制し、国家税収を増収しながら、経済成長を
達成する巧妙なシステムを内在していたのです。
それに引き換え、消費税は、本人の意欲と意志で増殖する個人消費を、本人に直接課
税し個人消費増加の意志決定を抑圧して税収を得る、抑圧的なシステムであり個人消
費の増加そのものが抑圧され、設備投資も減少し国民所得も税収も停滞後退するので
す。
個人消費過少、貯蓄過多の日本人の国民性において経済成長と財政再建を同時達成す
るには、平成元年の間接税制への大転換は経済的合理性と科学性が全く無い税制改革
だったのです。
◆さて企業の生産設備が超進化しロボットが大量生産を行っても、国民総生産(GNP)
としては全く計算されないのです。
それを人間が現実にカネを支払い「個人消費した瞬間」に始めて国民総生産として計
算され把握されるのです。
この経済の仕組みの深い意味と個人消費を維持増強する経済システムの重要性を、ま
ず理解しなければなりません。
つまり個人消費は人間しか行なわず、どんなに機械化し生産性を挙げても、機械は絶
対に個人消費は出来ず、更に当たり前のことですが、世界最強の企業や最強の国家と
いえども現実に個人消費をするのは人間であるという現実は変えられないのです。
しかも人間は所得が順調に増加しないと継続して良好な個人消費が絶対に出来ない原
則があるのです。
更に進化システム(後段詳述)の科学技術の発達によって民間の生産力増強は、需要
さえあれば民間自身で可能なので、「国家は科学技術振興策より国家自身の責務とし
て国内個人消費を規制抑圧せず、更に財政再建のため増税しながら国家全体の個人消
費の増強効果を発揮する税制改革の実現」こそが重要なのです。
イギリスの大経済学者ケインズの言うとおり、個人消費こそ国民所得を増加させ国民
全体に国富をもたらすからです。
結局、経済成長は「消費の意欲」を規制抑圧しない税制改革が大切であり、資本主義
の間接金融国家日本では、設備投資や個人消費の増加意欲が強ければ、「国内総生産
と総需要の増加」の不足資金を賄うために「自己資金を活用する以外に国内民間銀行
の貸出総残高の増加」という形で現実のおカネの増加流通をもたらし、市場経済は経
済成長していくのです。
逆に「個人消費意欲を課税で規制抑圧する税制改革をすると」それに応じて国内資金
が国内消費や国内設備投資へ向かわず、国民所得は減少後退し、退蔵預金として固定
化し滞留し、国内資金の回転率が悪化し、更に海外投資や不正資金の逃避などで海外
へ流出して、経済成長は停滞、後退するのです。
結局進化システムの資本主義経済においては「お客様は神様であり」言葉を変えると
「個人消費は神様仏様である」のです。
◆次に国家の全租税収入は国民所得の一定割合であり、租税負担率を引き上げることな
く租税収入を増やすには結局の所、個人消費+設備投資(=国民所得)を増やす以外、
つまり経済成長を実現する以外方法はないのです。
日本経済の最大の問題点は、国民所得が連年低下状況であり経済成長どころか後退し
ています。
本論文では一貫して税制は、人間行動の意欲と意志への自然な動機付け手段であり、
個人消費+設備投資=国民所得の増加方法つまり経済成長に役立つ、強力な税制改革
を述べています。
「戦前の戦陣訓と同じく」知識人が頭の中で考えた「公平、中立、簡素」などの「言
葉の羅列による強制」では、人間文化の発展である意欲と意志で成り立つ資本主義の
成長発展には何の意味も為さず、経済成長に全く役に立たず害悪ですらあるのです。
大事なことは一台1000万円するベンツを年間10台買える消費者5人と一台一万
円する自転車を年間一台しか買えない消費者95人が存在する、国民所得5億95万
円の国家よりも、一台1000万円するベンツを年間3台買える消費者3人と、一台
450万円するクラウンを年間2台買える消費者33人と、一台180万円するカロ
ーラを年間1台買える消費者62人と、一台一万円する自転車を年一台しか買えない
消費者が2人存在する国民所得4億9862万円の国家の方が国家全体の国民所得が
ほぼ同一でも、国産自動車メーカーのトヨタ自動車が存在しうる存立基盤が国家内に
確保されるのです。
結局のところ資本主義の成長発展は、貧富の格差があまり無く中流意識を持った豊か
な消費者を、如何に多数作るかの、国民所得の増殖創出システムと、配分システムが
全てなのです。
したがって、市場経済の資本主義における問題解決方法は「人間の過剰性の本能(150参照)」と「個人消費の進化システム性」と「国民の所得階層別の消費性向の
事実(別表P4参照)」について科学的に理解することが最重要なのです。
◆更に付け加えれば、購買力平価へ近づけなければならない為替相場において、わずか
年間15兆円の貿易収支の黒字を得るために国家が推し進めた継続的な輸出振興策に
よる「異常な円高により」国内企業の見かけ上の人件費を高騰させ、国内の設備投資
環境を破壊し資本収支を14−15兆円の赤字とした上、国内外企業の対等で平等な
価格競争を破壊し、外国企業との仕事の奪い合いで国内人件費比率の高い産業は常に
国際競争で敗退を続け、結果として死に物狂いの生き残り競争により「単価・粗利益
率が継続的に減少」し、結果として国家経済と産業構造に大きな痛手となっているの
です。
国家全体をコントロールしなければならない、指導層が「自由貿易体制」を隠れ蓑に、
国家経営層の重大な責務である「貿易収支の均衡と資本収支の均衡がもたらす管理の
利益」を放棄しているために、起きている膨大な悲劇なのです。
根本的に年間500兆円以上の国内個人消費+設備投資の継続的で持続的な増殖を図
り続けることが、日本国の産業構造をゆがめず、アメリカ経済にも中国経済にも頼ら
ず、日本独自の力で経済成長を継続できる、真に日本経済の利益になるのです。
さて現状の最悪な税制の組み合わせを、昭和天皇の崩御の一週間前の昭和63年12
月30日法律107号として、急いで「税制改革法」として強行成立し、その「第4
条第一項」に、今次の税制改革は、所得課税において税負担の公平の確保を図るため
の措置を講ずるとともに、税体系全体として税負担の公平を資するため、「所得課税
を軽減し」「消費に広く薄く負担を求め」「資産に対する負担を適正化すること」等
により、「国民が公平感を持って納税し得る税体系の構築を目指して行なわれるもの
とする」と強制規定し、この税制改革が国民の幸福や福祉の向上に役立つ明確な証拠
も理論も実績も無いのに、如何にも、もっともらしい目的らしきものを掲げ法文化し
てしまったのです。
結局この条文によって現状の日本経済は最悪の事態に追いこまれた上「日本の税制改
革の方向性が固定的、観念的な税制イデオロギーに支配される結果」をもたらし、強
い経済規模縮小作用と税収減少作用を持つ税制を強制的に経済の中核システムへ持ち
込み財政再建が絶対不可能なレベルにしてしまったのです。
これこそが昭和天皇が奇襲攻撃に強く反対していた太平洋戦争開始時の状況と全く同
一の「日本のマスコミや国会議員や官僚等による事実を確かめないまま思い込みによ
る最悪の選択」だったのです。
この不幸の生い立ちと、誤った目的意識を掲げた平成元年の消費税導入の税制改革が、
国民へ絶対に幸福をもたらすことは無いのです。
この状況を根本的に改善するためには、まずこの税制改革法第4条第一項の税制改革
の目的を、観念的、信念的な税制イデオロギーから解き放ち「税制改革は憲法で規定
している国民の幸福と福祉の向上と資本主義経済の発展に役立つものでなくてはなら
ない」と、当たり前の税制改革の原則的な目的を再確認する本来の方式へ大改正する
ことです。
目的錯誤の法律は百害あって一利なしであり、政策立案者がフリーハンドの思考で経
済成長と税収増加と国民の福祉向上へ同時に役に立つ政策立案の強い障害になるだけ
だからです。
そのためには、まず全く誤った結論を法律化した「現行税制改革法の抜本的な改正」
が必要です。
一国の総理大臣が自分の任期中は消費税増税をせず、広く議論すべきと宣言している、
今こそ「日本経済にとって何が経済成長にとって役立つ税制なのか、何を規制緩和し、
何を規制強化すべきか、」事実を元に真実を再研究する最後の機会になると思います。
◆さて「経済成長とは」「科学技術の無限の進歩」により、絶え間なく上昇する労働生
産性を吸収して、企業売上を増加させ「全国民へ働く職場を提供し、資本や税収や、
国民所得を増加させるため」「個人消費(第三者へ所得を与える利他的行為)の持つ
無限の増殖性」を活用した、進化システム技術を言うのです。
分かりやすく表現すれば「経済成長とは」後述の通り「人間文化そのものである個人
消費の種類、質、量の増殖」の貨幣経済的表現なのです。
さて日米の全税制史を調べると「1925年米国は所得獲得者や資産所有者を優遇す
ることが正しい選択であると誤解し、税制は景気に無関係であると誤解し、当時50
−73%の高累進所得税率で好景気を謳歌していたのに、25%へ低下させる所得規
制緩和策を実施し、4年間継続した結果、1929年に株価大暴落に続く世界大恐慌
を引き起こしたのです」。
3年後に最高所得税率を25%から、63−>92%へ劇的に累進増税し所得規制強
化し「米国はわずか6年間で失業率の悪化を食い止めバブル崩壊前の国家税収を完全
に回復して、本格的景気回復軌道」へ載せたのですが、アメリカでさえ本論文の理論
は認識されておらず、このアメリカの増税策はやむをえず取られた政策と評価され、
50年後の大規模財政赤字を発生させたレーガン政権や現在の子ブッシュ政権の大減
税政策の強行でも明らかです。
しかしレーガン政権後のクリントン政権が場当たり的で失敗すると批判された累進所
得税等の増税政策で、本分析通り見事に本格的経済成長と財政再建の同時達成に大成
功したのです。
これに対して日本の平成2年初からのバブル崩壊は税制を、最高所得税率75%―>
50%へ所得規制緩和し、更にアメリカが採用したことの無い3%のヨーロッパ型付
加価値消費税を導入し個人消費へ規制強化したことが「原因」であるのに、バブル崩
壊後、景気が完全回復していない、平成10年には、更に最高所得税率を50−>3
7%へ所得規制緩和し、更に消費税率を5%へ個人消費規制強化したため、日本経済
を更に最悪の経済環境へ陥れ、結果として、日本経済は泥沼に陥り国家税収は更に大
幅減少し「バブル崩壊後15年も経過してるのにバブル前の税収に遠く及ばず」若者
の実質的失業率は最悪化し、多くの結婚も出来ない経済状況の若者を多数出現させ、
合計特殊出生率はますます悪化し、年金問題はますます解決困難に向かい、日本民族
は消滅の未来に向かっているのです。
では、なぜ税制が、このように強力な効果を持つのかを分析し研究した結果が本論文
であり、「この税制改革理論の結論の要約」と「別表日米90年間の年度別税率と経
済」「日米と主要経済大国を基礎データーで比較」だけでも読み進めば「税制が持つ
誰でも理解できる簡単で巧妙な原理と、もたらされる結果のデーターに、びっくりさ
れると思います。」
従来の税制改革論議は税制が経済的に中立を装うという市場経済を無視した、大きな
誤りがありますので、市場経済に適応した、資本主義の本家であるアメリカの税制と
日本の高度経済成長期の税制を基礎に、新たな税制改革理論を打ち立て、自立してア
メリカと対等に強力に経済競争しながら、地球環境へ適応して日本国が発展していく
「第二の明治維新」を目指さなければなりません。
◆さて人間の過剰性を悪く解釈するだけでは人間性の否定につながり、まして輸出に課
税せず内需と輸入のみを課税するのは「対等な平等競争ではなく」その国の不平等な
反人間的論理なのです。
国家コストを消費税という税制で、自国民に役立つために生産された内需商品と、輸
入商品のみに課税転嫁して自国民のみ負担させ、自国で作り出された輸出という自国
民に全く役立たない輸出商品の国家コストを、輸出相手国に全く負担させない偏った
性格を持つ間接税なのです。
それに比較して所得税等の直接税は国家コストである税金を、商品価格に転嫁して自
国民の作り出した価値にすべてに平等課税し、内需商品、輸出商品、輸入商品に関わ
らず、商品価格に混入させ国家コストを自国民へ役立つ内需、輸入商品については自
国民へ負担させ、他国民へ役立つ輸出商品については輸出相手国に負担させる「自国
民にも他国民にも国家コストを経済的に対等で平等に割り振り負担させる税制」なの
です。
さて競争の中で「何を規制すべきで何を規制すべきでないか判断するのが政治」なの
です。
本論では同時に、この税制改革理論で主張している政治改革が実現出来れば、「人間
の本質が進化と生き残り本能」である以上「地球環境をこれ以上悪化させず人類が生
き残る方向」へ、自動的に経済成長が進むことを確信しています。
なんとなれば膨大な数の人間は五感で生き残りの方向を本能的に判断するセンサーを、
動物として保持しているからであります。
現に経済成長につれ膨大な数の国民は医療、環境保護、社会福祉、エネルギーなどへ
の関心が高っていることをご理解頂けると思います。
◆さて成熟経済では、なぜ個人消費規制緩和の消費税廃止や、所得規制強化の直接税の
累進増税で強力な経済成長を達成し、経済問題を根本的に解決できるのでしょうか。
(任意行動)少数ですが、自ら所得獲得額の調整ができる企業経営に携わる人たちや、
寄付を多額にする利他的意識の強い人たちかいます。
所得が多いと税を多額に納付しなければならず過剰に所得を取りすぎるのを控える行
動が生じます。
これが「直接税の所得規制のインセンティブ(動機付け)効果」なのです。
これは強力なオスライオンでも満腹になったら順位の低いライオンにエサを譲る「畜
生でさえ遵守している大自然の掟である自然界の無意識の利他的ルール」と同一なの
です。
これによって力の弱いライオンや他の動物も生き残り自然は豊かに繁栄できるのです。
逆に人間社会の強者の所得独占行為は、大自然のルールでは極めて不自然な行為なの
です。
結局その人が満腹で放棄した所得は「任意の自由意志で中低所得者への所得配分」さ
れ、より所得の低い人が生き残り、新たな個人消費が発生する経済の無限連鎖が確立
し、これによって消費性向の高い中低所得者から、更に多くの所得の原資となる個人
消費の自己増殖が得られ、等価変換される国民所得の向上に寄与し、強者は更に所得
獲得チャンスが増加し、且つ中低所得者が生き残れて増殖できるので、将来中低所得
者から優れた人材を突然変異と競争で得られる機会が増加し社会を進化発展させる共
存共栄の利益を得るのです。
つまりライオン(高額所得者の所得)を増やすには下層の草食動物、更に下層の植物
層(個人消費)を増やさなくては、ライオン自身増殖できないのです。
(強制行動)直接税の税率が高くても、自分で所得や資産を全て獲得したい人は多額
の税を支払うことなり消費性向の低い高額所得者から得た税収は国家によって公務員
の給与や、公共事業を通じて、ほぼ全額中低所得者層に配分されることとなります。
これが「直接税の強制的な中低所得者への所得配分のシステム効果」なのです。
これを適正担保するため「納税者番号制はアメリカと同じく絶対に必要」なのです。
(結果)個人消費は強力な自己増殖性を発揮する進化システムであり消費税での課税
強化は悪影響が生じますが、直接税は全く個人消費を課税規制しないので、大幅増税
しても進化システム効果は自然に充分に発揮されます。
更に中低所得者の消費性向はきわめて高く、常に上の階層の消費を目指し個人消費の
増殖能力も高いので、任意や強制により中低所得者へ配分された所得は、結果として
中低所得者の個人消費を通じ国家全体の消費性向を押し上げ、次の所得の源泉となる
個人消費が活発になり「設備投資を伴った本格的景気回復」が達成されるのです。
つまり所得税は個人消費と貯蓄への所得の使い道に平等に課税する結果をもたらし、
消費税は所得の使い道のうち個人消費のみを課税し、貯蓄を非課税にするため個人消
費を最小限にして貯蓄へより多く回す、不自然な経済行動を取らせてしまうのです。
つまり所得税の他に消費税を導入するということは結果として個人消費に二重に課税
する結果になり個人消費への規制抑圧になって国民所得と経済成長が停滞します。
所得税は消費税と異なり、個人消費を直接課税抑圧せず、所得の使い道である個人消
費と貯蓄へ不平等競争条件も持ち込まず、更に販売現場へ販売抑制効果も持ち込まず、
更に高所得者層と中低所得者層の消費性向の違いを活用し、所得配分機能を持つ国家
を通じて高額所得者からの税収をより消費性向の高い中低所得者へ配分し国家全体の
消費性向を引き上げる強力なシステム効果を発揮します。
更に「所得税累進増税は所得の大幅増加をもたらし且つ所得の増加は税収の増加をも
たらす」ので「国家と国民の目的は同一」になり、国民所得を増加させると国民が喜
ぶ上、国家も税収増となるので、政治家と官僚は国民所得の向上つまり経済成長に本
気に取り組めるのです。
これも直接税のインセンティブ(動機付け)効果といいます。
これが「直接税の進化システム効果とシステム効果とインセンティブ(動機付け)効
果」の三位一体の効果なのです。
つまり直接税は税率を高くすればするほど、国民所得が向上し景気が良くなる上、税
収がドンドン増える便利な税金だったのです。
アメリカが世界大恐慌後の50年以上にわたり採用した高累進税制こそ、アメリカ資
本主義の基礎をしっかりと発展進化確立した税制なのです。
http://www.asyura2.com/0411/hasan37/msg/454.html
クリントン政権が本格的経済成長と財政再建の同時達成に大成功した理由 吉越勝之
http://www.asyura2.com/0411/hasan37/msg/456.html
1929年10月の株価大暴落はアメリカ税制史上、直接税の最大の減税環境(最高所得税率25%)で発生したのであり、平成2年から始まった日本の株価の大暴落も全く同様であり、直接税の大減税は景気回復の手法という通説は全くの虚偽であり、景気悪化の原因そのものなのです。
その後この世界大恐慌を回復させ資本主義を発展させた、レーガン政権誕生までの、
50年間にわたる累進大増税政策(63−92%)と、その後の累進弱体化減税政策
のレーガン政権でもたらされた記録的な財政赤字を解消し、記録的な大成功をもたら
したクリントン政権の富裕層への直接税の累進増税政策と、日本の高度経済成長期の、
消費税無しの直接税の累進増税政策(国税のみで75%)を「手本に」「所得税等を
累進増税すると個人消費増強効果が強まるので素直に増税し」その分「個人消費の進
化システム機能を常時規制抑圧している消費税を完全撤廃し個人消費の自然な増加を
促進し」相乗効果で「500兆円以上の膨大な個人消費の種類・質・量の自己拡大を
図り財政負担無しに国民所得つまりパイの継続的拡大」を図る「経済の出発点」で
「経済再生の根本」である「個人消費を時代に応じて増殖する進化システム機能を自
由に発揮させ」豊かな内需環境を整備する税制改革を実行すべきです。
さて企業の消費税ばかりでなく法人税、源泉所得税等の全税金も全社会保障費も更に
全人件費も、実は企業が生産する全商品コストに算入され個人消費を通じて全国民で
ある最終消費者が実質全額負担しているのです。
つまり「個人消費があって始めて所得や税収が生み出されるという現実」は企業とい
う形式的で法的な存在が実質的に負担する税金や人件費などは、この世には全く存在
せず、全ての税金や人件費は実在する国民である最終消費者が個人消費を通じて全額
負担しているのであります。
トヨタ自動車の法人税も従業員の源泉所得税も「実質的に全額車購入消費者が購買代
金の中から負担している」のです。
「民間企業」が膨大な広告宣伝費をかけ「値引きやオマケを付け」強力に個人消費を
掘り起こしているのは「個人消費の増加がなければ設備投資と利益の向上が絶対に実
現できない原則」を本能的に知るからであり、逆に肝
http://www.asyura2.com/0411/hasan37/msg/456.html
(別表) 90年間の日米の最高所得税率と失業率と税収と政府総債務の年度別推移
税理士・中小企業診断士 吉越勝之 2004.8.20 (本文へ戻る)
http://www.asyura2.com/0411/hasan37/msg/481.html
アメリカで発生した世界大恐慌以前の初期資本主義時代から現代までの約90年間
以上と日本の敗戦から現代までの約50年間以上の年度別「最高所得税率の推移」の
結果が、もたらした国家成績の指標として「失業率」「年間総租税収入額」「政府総
債務残高の年増減額(財政再建度)」の実額資料から国家成績の傾向と実態を確かめ
下表の通り掲載し、本文の税制改革理論との理論的一致を事実として確かめたもので
あります。
資料の収集には大変苦労し、国立国会図書館、県立図書館等に通って資料を集め、ま
とめたものです。
アメリカの資料で苦労したのは年度別最高所得税率の資料が見つからず、公表されて
いる最高所得税率の年度別折れ線グラフから推定させてもらいました。
その他の重要資料はアメリカの方がはるかに分かりやすく整備されていました。
それに引き換え日本の資料の収集には、はるかに苦労させられ、重要な資料ほど見つ
けにくくわかりにくくなっていた。両国の税制と国家成績の疫学的立証からの結論は
(1)直接税中心主義期間では例外なく国家税収は時間の経過とともに、必ず増収に
なることが分かった。
(2)全商品課税対象の付加価値消費税を採用しない期間は、最高累進所得税率を高
くすると国家の所得配分機能が作動し消費性向が向上し失業率も国家財政も極
めて順調に改善できることがわかった。
(3)景気回復策という通説と異なり、最高所得税率を低下させると、結果として経
済成長を低下させ、景気下支えの財政支出が必要となり、財政が極端に悪化す
ることが日米の経済史から立証できた。
(4)全商品対象の間接税である付加価値消費税を採用すると、日本では特殊な社会
慣行から、副作用が特に顕著に現れ、前(3)項の現象と重なり、日本の国家
財政は最悪化し、失業率も最悪化した。
(5)経済競争の勝敗は競争当事国間の「税制の経済効果の相対関係で決定される」
ことを示している。
(6)貿易は輸出入の均衡が最善であり、貿易収支の不均衡は黒字赤字に関わらず経
済に悪影響を与える。
(注)アメリカは、見た目と全く異なりヨーロッパ型消費税制を導入していない直接
税中心国家です!!
1.アメリカのケース
(1)現在アメリカは付加価値消費税を導入していない世界で唯一の主要経済大国で
あり、それゆえ成熟経済になっても経済成長が定常状態で成長し、世界一の経
済大国となり世界に君臨しているのです。
つまり戦後一貫して、アメリカは付加価値消費税制中心のヨーロッパ大陸諸国
と税制で一線を画し、直接税中心主義を貫き、ヨーロッパとの経済競争に勝ち
続けていたのです。
しかし唯一平成元年までは、最高所得税率が高く個人消費を大きく抑圧する付
加価値消費税も、小さく抑圧する小売売上税も採用していない日本に対して、
逆に大きく遅れをとっていたのです。
(2)資本主義国家アメリカは最高所得税率を、政権の経済政策に応じて極めて頻繁
に、信じられないくらい大きく変更している。
アメリカの税制は同国の国家哲学であるプラグマチズムの影響を強く受け「政
権毎に最適化を求めて試行錯誤を勇気を持って行い」、経済の復元力の強さに
なっています。
したがって「この税制改革理論のような、定まった理論によって税率を上下し
ているわけではない。」
(3)しかし最高所得税率を低下させると、「世界大恐慌」が起こったり、「極端な
財政赤字」に陥ったり「経済成長が停滞」したりすることが「事実」として示
されています。
(4)経済危機に際しては最高所得税率を引き上げることにより、常にアメリカは経
済危機を脱してきた、実績があります。
その中で大成功したクリントン大統領の累進所得税の累進増税は言われている
ほど大きくないのに大成功したのは、強力な競争関係にあった、当時の日本の
取り入れた税制の失敗に大いに助けられた結果である。
競争とは競争当事者間の「相対関係」であることを示している。
2.日本のケース
(1)日本がアメリカに次ぐ第二位の経済大国になり得たのは、昭和25年間接税と
して付加価値事業税の提案がなされたが、国民と中小企業の強い反対があった
ため、政府がこれを素直に受け入れ昭和29年一度も実施されること無くこれ
を廃案にしたことである。
これによって日本は国民性に全くなじまない間接税に頼らなかったことが、高
累進直接税国家に進まざるを得ず、結果としてシステム的に自然に自動的に高
度経済成長に成功したのが「日本の高度経済成長達成の秘密」です。
(2)最高所得税率を高めると、失業率も税収も改善し、財政再建されることが下表
の日本のケースでも明らかになった。
逆に最高所得税率を引き下げたり、消費税を増税すると失業率は悪化し、税収
も極端に減少し、財政は極度に悪化することが確かめられた。
(3)平成元年消費税を導入するまでの日本は10年間で国家年税収は2.3−4.
4倍に増加する超健全国家であった。
しかし平成元年消費税導入後、途中で消費税を3%から5%へ1.6倍も増税
したのに15年経過後の現在、増収どころか、国家年税収は0.75倍に大幅
減少してしまった。
直接税中心税制を採用していれば、累進税率を上げれば必ず国家税収は大幅増
収になるのと比べると、現状は最悪の非効率税制である。
現状の税制では財政再建など絶対不可能であります。
(結論)
1. 消費税が無く累進所得税のみの期間の日本は「失業率」も「国家税収の伸び」も
「財政」も極めて健全であり、経済成長も順調であり、アメリカ経済をはるかに
上回っていた。
2. 消費税導入後、失業率は一貫して悪化を続け、後ろ向きの財政支出が膨大に増加
し同時に税収減のため国家財政は一貫して悪化を続けている。
企業をリストラさせて、利益の出る企業を作りあげたところで、そのリストラさ
れた人間の生活は、憲法上国家が面倒を見なければならず、人件費を民間企業か
ら国家へ負担を移し変えたにすぎず、財政負担ばかりが増加し、全く意味の無い
税制政策であった。
3. 競争とは競争相手との相対関係である以上、日本の最高所得税率は「アメリカの
最高所得税率+アメリカの国民一人当たりの社会福祉寄附金所得換算率」に最低
限度するべきであります。
アメリカの国民性は社会福祉を原則民間でやるべきと考えているのに対して日本では
社会福祉を国家がやるべきと考えている以上、アメリカ国民が膨大に負担している民
間寄附金は日本では累進制所得税に吸収すべきであるからです。
これによって、はじめて「アメリカと日本の競争力は、対等に平等に均衡」するので
す。
(結論)
1.国家内の「国民と企業を良好状態に保ち、全体として継続的に経済成長させる」
義務を持つのが国家なのであります。
国家経済の根本は自国民が生産した全商品を自国民が全て個人消費できるように
如何に国民所得を増強できる仕組みを作るかであり、国民所得と個人消費の増強
のための財政の所得再配分機能能を活用し、無から莫大な有を作りだす税制改革
にかかっているのです。
2.とすると「貿易黒字を膨大に出して円高を招くことは」「人件費を見かけ上、高
騰させ国内に設備投資が不利な環境を作り出し」結果として国内に良好な設備投
資対象が激減するため、利潤を求めて資金は国外へ流出し「資本収支が大赤字に
なり」本来は国内の設備投資に使われるべき、現実の資金が国外へ流出してしま
い国内設備投資需要が激減し生産力は低下し失業率は高まり、景気は浮揚できな
くなるのです。
この仕組みの怖さこそ変動相場制なのであり、貿易黒字を求める「無意味さ」を
表しています。
貿易収支均衡政策と資本収支均衡政策の同時達成を目指すのが「他国の影響を受
けず、日本が自分自身の力だけで経済成長を無限に継続できる」「真に正しい経
済政策」なのです。
貿易黒字を溜め込むことも貿易赤字を出すことも非基軸通貨国家の経済政策にと
って最悪の選択なのです。
貿易収支と資本収支の均衡政策を目指すことが「国家経営における真の管理の利
益」となるのです。
http://www.asyura2.com/0411/hasan37/msg/481.html
経済成長は直接税制の強化で可能(1) 吉越勝之
http://www.asyura2.com/0411/hasan37/msg/490.html
得(食料)生産機関」であり、消費税のように「個人消費」に課税することは個人消費の所得生産機能や
配分機能を大幅に低下させ、人間の自由意志を抑圧して経済成長に重大な悪影
響を与えるのです。
7.「貯蓄」は個人消費しなかった残余の金額です。また「設備投資」は日本のよ
うな間接金融国家では、銀行が貯蓄から企業に貸し出す形態となっており、
「個人消費」が活発になると「貯蓄」がドンドン「設備投資に変換」され、更
に企業売上へ再変換され、それによって企業から銀行へ金利が支払われ、労働
者には所得が支払われ、銀行は預金者へ預金金利を支払えるのです。
日本のように家計防衛本能が強く直感脳によって「税」を嫌う「女性が家計を
支配している主要経済大国の中で唯一の国家」の個人消費に課税する消費税制
の採用は過剰貯蓄体質が強化され個人消費が停滞し設備投資も停滞し継続的に
悪循環となり経済は最悪の状態になるのです。
8.消費税以外の全税目の全税収も全社会保障費も、実は企業が生産する全商品の
コストに算入され、個人消費を通じて最終消費者が全額実質負担しているので
す。
民間企業が膨大な広告宣伝費や販売促進費をかけ「値引きや割引をしたり、オ
マケをつけたり」、強力に個人消費を掘り起こし企業売上を増進したりするの
は、一面で国家国民のためなのです。
「個人消費の増加がなければ全企業売上と国民所得と税収の増加と失業者の減
少の同時達成が絶対に実現できない原則」があるのに国家が消費者心理に逆ら
って商品価格に5%の消費税を上乗せするから、個人消費の増加が大きく鈍り
国民所得も税収も増加出来ず失業者の減少も実現出来ないのです。
更に消費者の心理を無視して消費税を10%〜15%にするという議論が喧伝
されるところに消費者心理不在の「理念観念に凝り固まり真実を見誤る固定観
念の政策集団」が日本国の大勢を占めている戦前と全く同じなのです。
だから経済成長は人間の手によってコントロール可能である事実を知るアメリ
カは超大国なのです。
株式市場、個人消費、市場経済、国会採決、選挙など「国民的環境において人間個
人が自らの意志で実質的、形式的に規制無く自由に決定でき、且つフェアーな競争
原理が働くも
http://www.asyura2.com/0411/hasan37/msg/490.html
経済成長は直接税制の強化で可能(2) 吉越勝之
http://www.asyura2.com/0411/hasan37/msg/491.html
(国家の存在意義と民間企業の存在意義は全く異なる事実と、従来の経済学では解
決できない経済問題と進化システム原理による税制改革による解決)
第二の問題点(本題)として「ケインズの有効需要の原理やワルラスの法則を無視
し、進化システム原理に反している現状の日本の税制を根本的に改善する税制改革」問題に入りたいと思います。
さて経済学は後述するように万能の学問ではありません。もし万能ならそれ以外の
学問は不用になるはずです。伝統的な経済学は多くの前提条件(p179)の上で
成り立つ「数学に近い性格」を持つ狭く限定された学問なのです。
本書で提唱しているのは「人間が組織する外部競争原理(組織同士の競争)が働く
民間組織に従事する人間の個人や集団の意志や意欲の向上に資する運営の原理原則
を研究する(民間)経営学」を参考に「独占組織のため組織同士の外部競争原理が
働かない国家組織における国民の個人や集団の意志や意欲の向上を誘発し、経済社
会の進化発展に、最大の効果をもたらす個人による内部競争原理(構成員である人
間個人の参加の自由と対等に平等なフェアーな競争)を柱とする、国家運営の原理
原則を研究する(国家)経営学」を意識した立場を取る経済成長税制を提唱してい
るのです。
そして倒産して消滅する恐れのない「政党」には組織同士の外部競争原理は働かな
いのです。
この経済不況を克服するためには、全ての経済政策について「その政策が需要者で
あり国民である、消費者の真に幸福のためになるか」「その政策が生産者である、
企業社会の真に発展のためになるか」つまり両者を同時に満足させるには「真に経
済成長に役立つか」の「唯一の絶対基準」で一つ一つ吟味する必要があるのです。
本書は全て「経済成長に役立つ政策」の「理論と実証と目的論」でまとめられてい
るのです。
「公平、中立、簡素」とか「国際競争力」とか「経済の活性化」とか「努力が報わ
れる制度」とか「フラット税制」とか、我々日本人は経済成長に役立つことが証明
されていない、明確でない、あやふやなコンセプトや基準に惑わされることを、ま
ず絶対に止めなければなりません。
1985年の有名な「アメリカの直接税」の税制改正の理念は「公平、公正、簡素
(for economic gross 経済成長のための)」となっており、
1989年の「日本の間接税である消費税」の導入理念は「公平、中立、簡素」と
殆ど変わりなく、ただアメリカと違い肝心の(for economic gross)(経済成長
のため)が付いていないだけなのです。
全く正反対な制度改革に同一のコンセプトとかキャッチフレーズが付くという、理
念と観念というものが如何にいい加減かの見本なのです。
どちらの国の政策が自国の経済環境へ適応した政策であったかは、結果で明らかで
す。
アメリカは大成功、日本は大失敗だったことは歴史が証明しているのです。
つまりアメリカには自国の経済環境に適応しようと言う「経済成長のため」と言う
明確な目的意識があり日本には明確な目的意識も実証理論も無かったのです。
全ては「経済成長のために役立つか」FOR ECONOMIC GROSS の
唯一絶対の統一基準によって国民の幸福に役立つのか、検証されなければならない
のです。国家は国民を不幸にする理念観念を優先してはならないのです。
個人個人の利己的満足は、個別企業の競争の中で実現すべきものであり、国家全体
の目標は、国民全体の均衡の取れた幸福の追求(利他的満足)なのであります。
「耳障りのよいキャッチフレーズやコンセプトの言葉の一人歩きこそ我々日本人の、最も嫌うべき悪弊なのであります。」そこで、はるかに早く成熟経済に達している特別の人間で構成されているわけでもないアメリカが何故「過去も現在も未来も」経済成長を継続できているのかを分析しながらアメリカ自身さえも気付いていない、根本原因がアメリカの国家体制に強烈にしみ込んだ「進化システム」にある事を発見し既に理工系の分野で活用され市場経済にも適用されている競争力発揮のための「自己拡大をもたらす進化システム」とその本質となる「フェアーな競争を実現する競争力均衡状態の活発な競争」概念を中心として「成熟経済における経済成長税制」を構築いたしました。
そして消費税導入前の日本が何故アメリカ経済を追い抜き当時世界一の経済大国に
なり得たのかは、その時の日本の税制を始めとする個々の企業、国民に対する「進
化システム」と「競争力均衡状態の活発な競争」度がアメリカより高かったからで
あり、貧富の格差が少なく膨大な数の豊かな中産階級や新規企業が生まれる作用を
持つ税制を採用し実質的に多数者による参加の自由と競争状況を作り出せるように
なったことが、その本当の原因なのであり、現状の深刻な経済不況は税制を始めと
する経済哲学の、その後の「大きな変更」により、税制が貧富の格差や企業の格差
が開く方向に作用する税制を採用してしまったことが、実質的に少数者による参加
の自由という競争状況しか作り出せず、経済の進化システム度や競争力均衡状態の
活発な競争度が極めて低下してしまったことが現在の不況の原因なのです。
経済活動は「基本的に人間の意志と行動の結果である以上、全ては改善可能であり
何が不況をもたらしているのか、事実をもとに突き詰めて原因を究明すれば全ては
解決できるのであります。」
つまり国家が「人間の本来持つ生き残りたいとする個人や集団としての前向きの意
志や意欲のエネルギーを正しく引き出す」ことが経済成長にとって不可欠と考える
立場から本書は作られており、どうすればそれを引き出せるかの、ルールとそれに
基づく具体策を具体例をもとに本書は述べております。
アメリカや諸外国から哀れみの目で見られることを、まず恥と感じ外資や外需に頼
らずに強力に内需を自己拡大し進化発展する日本経済へ再構築し、早くアメリカと
対等に競争できる経済環境を作らなければなりません。
1.国家の存在意義は人口も領土も狭く限定され「不完全閉鎖経済系の有限需要し
かない」条件の中で日本国憲法で明文化されている如く、国民の幸福を追求す
る権利を真に実現するには個人消費の無限連鎖の自己拡大を果たさなければな
りません。
そして人間を幸福にする経済の唯一絶対の根本指標は「失業率の低下とその反対目
標であるインフレ率の低下」だけであります。
これ以外の言葉やコンセプトの羅列は全く無意味なのです。
そして科学技術の発展により労働生産性が毎年高まる経済環境において領土も人口
も一定な国家という「不完全閉鎖経済系の有限需要」の中で失業率を低下させるに
は常時「個人消費の自己拡大」つまり「経済成長無しには、これを実現することが
出来ない」のです。
そして成熟経済における経済システムを考えるときは、国民の幸福の追求に反し地
球環境に悪影響を与える生産物については、その悪影響へ応じた個別生産規制(禁
止と規制)を、そしてそれを消費することが国民の幸福の追求へ悪影響を与える消
費については、その悪影響へ応じた個別消費規制(課税規制)を加える「明確な原
則」を確立して、生産者や販売者の業務に支障の無いよう実態としての設備耐用年
数に応じた経過期間を十分取った上で、遠慮会釈無く徹底して個別規制し、それ以
外については「進化システムである個人消費にも生産にも一切の一般規制を加えず」
人間本来の自然の本能に基づく進化システムによる個人消費の自己拡大と、生産の
自己拡大を容認し、企業の売上増加の基盤を図るメリハリの効いた本書で理論化し
た税制改革や政治改革等を採用すれば経済は望ましい方向へ自動的に成長しながら
進化発展するのです。
このように人間は経済環境でさえ「規制」という手法を使って、経済環境自身を変
化させ新たな進化条件を設定し、人間が本能的に持つ過剰性の本能と組み合わせて
新たな進化の方向つまり新たな望ましい方向への経済成長へ誘導し発展する事が出
来るのです。
その後は企業と国民のフェアーな自由競争に任せれば良いのです。
そして日本国憲法において文化的な最低生活の保障を全国民へ宣言している以上、
国家の役割りは「その時代その時代の国民が許容する範囲内で国民の利他的意識を
醸成し相互扶助精神も取り入れ、効率的な機関として誠実に正直に勤勉に努力する
普通の国民の幸福の達成」つまり国家による所得の適正な配分構造の形成が最重要
課題になるのです。「民は足らざるを憂えず、等しからざるを憂う」からです。
これによって「進化システムの中心概念である参加の自由のもとフェアーな競争に
よる国民の競争力均衡状態での活発な競争を実現」し、「進化システムである個人
消費の自己拡大を強力に作動」させ、企業の売上増環境を完全に整備することにな
るのです。
この考え方は国民一人当たり日本の200倍の社会的な寄付(民間の所得分配行為)を行いボランティア活動が極めて盛んなアメリカ国民の自国民に対する利他的意識の強さと、各人一人一人をアメリカのチームの一員と見なす哲学こそアメリカ自身も気付いていない経済成長の根源となるのです。
そして日本では社会的寄付の慣習が乏しいので、その分国家が代行するのであるか
ら、日本では直接税の税率を、その分高くする理論的根拠が存在するのです。
この様な考え方は弱者への所得配分を税を通して効率的な民間の自由競争の中で行
う考え方なので、弱者の人間の精神的な尊厳が失われることが少なく、さらに現実
の競争のなかで競争する内に本人も鍛えられ勉強し、弱者と言えども成功するチャ
ンスや希望が与えられるシステムなのであります。
このように経済的弱者を競争社会からドロップアウトさせず、常に一体感の中で経
験させ鍛えるというシステムは、国家的に見ても有効な経済的生産戦力の拡大と、
個人消費拡大の強力な戦力となるのです。
ただ逆に国家の税制等は各個人の利益と利己的意識をストレートに表す構造にすべ
きであり相互扶助的であってはならないという主張もあり、その場合努力しても報
われない人には、セフティーネットなどの社会保障の拡大で、対処すべきとの論者
もいるが、これは実は「大きな国家を目指す論法」であり、如何にも資本主義的に
見えて、実は国家という極めて非効率な機関に過大な作業を求めることになり、非
資本主義的であり結果として非効率な国家を建設するだけなので好ましくない。
更に貧富の格差が大きくなりすぎ「進化システムの本質概念を形成する競争力均衡
状態の活発な競争」に反するので進化システムである個人消費の増加率は低下し、
企業の売上増環境は弱体化する。
その上国民所得に対する租税負担率を高めてしまうので、如何にも厳格な資本主義
的手法に見えて実は結果として「国家競争力」を弱めてしまう非資本主義的な非効
率な経済システムになってしまうのです。
その上、国に頼る社会慣習を国民へ植え付けることは大変望ましくない。
このように経済的弱者への所得配分を非効率な国家の負担に頼るという考え方は、
弱者を競争社会からドロップアウトさせ、実社会における再起のための経験も勉強
の機会も奪ってしまい、さらに競争社会におけるチャンスも希望も精神的な尊厳も
失わせるシステムであり、国家の貴重な戦力が損失し消耗してしまうこととなるの
です。
したがって資本主義国家の「企業システム」に資本主義的利己的意識に基づく効率
的な規範が存在するとき、更に「国家システム」には利他的な資本主義的愛国心に
基づく効率的な規範が存在するとき、その国家は「力強い資本主義的な経済成長に
役立つ国家となり」強く進化発展し成熟経済においても経済成長が継続するのです。
つまり大衆民主主義の資本主義国家では「パラドットス(逆説)を基礎とする国家」が、最も経済成長を果たす国家となるのです。そしてこの国家経済システムを守るためには「カネは天下の回りもの」を正しく実践することこそ大切であり「資金がスムースに漏れなく国内経済を回転するにつれて個人消費が自己拡大し経済成長が実現される」のが資本主義における経済成長原理であり、そのためには資本主義的正義を保証するため納税者番号制は不可欠であり、資金のプライバシー保護は最小限度に止めなければならない。
それは不正に資金が滞留したり、国内に資金が退蔵されたり一部の大金持ちに資金
が偏在して固定化されたり国外に不正に資金が流出することが、全国民を幸福へ導
く経済成長に大きなマイナスになるからであります。
2.民間企業の存在意義は、領土も人口も関係なく世界に雄飛出来る「開放経済系
の無限需要」の中で活躍できる特性を持ち株主の利益追求つまり資本の利益追
求「総資本利益率の向上」が唯一絶対の根本指標となるのです。
つまり「その時代その時代の国民が許容する範囲内で、企業分野では個人、集団共
に利己的意識の効率的な企業活動の徹底した追及を容認」して差し支えないのです。
そして資本主義は自由な競争を実現する無色透明で、競争の結果が明確に現れる極
めて優れたシステムであるところから、進化システムの補助手段として、人間社会
に根付いたのです。
その意味で企業の役割と国家の役割を混同してはならないのであって利己的意識を
中心に組み立てられる「外部との競争意識と営利精神を中心に組み立てられる機能
的な企業の存在意義」と利他的意識を中心に組み立てられる「協同意識とボランテ
ィア精神で組み立てられる機能的な国家の存在意義」は全く異なることを、まず強
く認識しなければならない。
各々が徹底してその役割を果たすところに豊かな消費者が形成され「成熟経済でも
個人消費の自己拡大と経済成長が可能」となるのです。
つまり「国家も企業も国民も苦しみ抜いている」、平成2年から開始した長い長い
経済不況は、後から詳しく述べるように、システム工学で研究されている、進化シ
ステムの自己拡大原理を持つ市場経済の最重要な要素である「個人消費に規制が加
えられたために総需要抑制政策として機能し経済の自己拡大が停止しているという
根本的問題」により発生しており「現状の経済学の研究対象外の税制が原因」で引
き起こされている深刻な不況なのです。
その原因は後述するように日本の「進化システムの自己拡大原理を持つ市場経済」
に元々存在していた進化システム原理の規制要因である後進的な社会意識や政治シ
ステムに加えて更に市場経済の発展拡大の根源である「個人消費」に決定的に強力
な消費税制という規制抑圧要因が人為的に導入されたからなのです。
その原因は個人消費の自己拡大と所得への自己回帰の繰り返しで起こる「経済成長
の仕組みの本質」を理解するのが大変難しく、更に国家の存在意義も、国民の幸福
を追求する権利を実現するという「憲法で明文化された国家の本質規定」でさえ、
当たり前すぎて厳格に考えようとしない人が多いことが原因なのです。
「成熟経済段階に到達した主要先進大国」のうち「現状のアメリカと平成元年以前
の日本だけ」が「間接税比率を低く抑え、直接税比率を高く維持することで進化シ
ステムの程度を高め」、良好な経済状況と高い一人当たり国民所得と、低い失業率
を実現できたのです。
現状の経済政策が正しいと言うならば成熟経済段階に達した主要先進大国のうちで、どの国が進化システムの破壊をもたらす、直接税比率の引き下げと間接税比率の引き上げを行い良好な経済状況と高い国民所得と低い失業率を達成できたのか見本を示して貰いたいものです。
これから本書を読み進む内に、物事を素直な科学的な目で見る重要性を認識し、タ
ブー視したり、固定観念で見たり、色メガネで見ると学問や科学の歴史で明らかな
ように社会経済の進歩は停滞してしまう危険性を十分理解しなければなりません。
特に理工科系学問は、これをぶち破る事こそ進歩であり、与件無し前提条件(p1
79参照)無しで真実を探求し、物事を考える気風がみなぎっているために、日本
の科学技術は高いレベルなのです。
科学技術分野で多くの俊英を生みだしている日本において、何故文科系の学問分野
で決定的に世界的業績を示す俊英が現れないのであろうか。
それは「与件無し、前提条件なし」の「フェアーな競争」で結果を求められる現実
の競争社会に適応しない研究方法に固執しているためなのです。
つまり日本の文科系学問は「学問の目的や学問の基礎となる哲学や科学の真の意義
を良く理解せず」言葉の魔力から抜け出せず、既存の考え方を与件や前提条件とし
て固定観念化し執着しているので異論をタブー視したり色メガネで見たり圧力をか
けたりするため、「参加の自由とフェアーな競争」が存在せず新しい考え方による
現実に即した詳しい研究が遅々として進まず、進歩が遅く、しかも日本人の最も劣
っている索敵能力の低さも重なり文科系学問の真の発達が大幅に遅れているのです。
これこそが文科系学問の発達に支えられている日本の国民を律する国家の諸制度や
法律が「システム」として現状に適応していない部分が極端に多く、社会経済制度
に多くの問題を生じ、不適応現象としての経済や社会の強い停滞として表れている
のです。
まず「現実に適応し役に立つ」(つまり人間の役に立つために)研究を行うことに、まず目を向け興味を持ち、勇気を持って当たる事だと考えています。
「役に立つ」というと、すぐに「ノウハウもの」の低俗な研究と決めつけますが、
良く考えればアインシュタインの相対性原理、ボーアの量子論、ソローモデルも
「人間の社会生活にとって極めて役に立つからこそ」ノーベル賞が授与されたので
す。
役に立たない研究などにノーベル賞は与えられないのです。
人間にとって「役に立つ」と言うことは利他的行為や意識の結果なのであります。
人に役に立たない、研究のための研究は本人のみの利己的行為や意識なのでありま
す。
そして膨大な国民を対象にする以上「システム的な発想」が不可欠となります。
日本の民間企業が「質の良い供給力の増加を目指し世界に通用」しているのは「自
らの行動や努力が真に質の良い生産性の向上に役立っているのか」の基本的な視点
を決して忘れず「真実と事実に基づく立証と検証を常時行っている結果」であり、
それは常に同業他社との「熾烈な外部競争が常時行われている」からであります。
つまり常に競争に敗れると淘汰か倒産か失業の危機に迫られているため緊張感のあ
る非常に良い努力をした結果なのであります。
ところが国家は独占組織であるため「組織同士の外部競争が存在せず」競争もなく
倒産もなくリストラも無いため、常に緊張感が無く「全ての政策について憲法で明
確に求められている国民の幸福に真に役立つのか」の「真実と事実に基づく立証と
検証という重要であるが手間のかかる努力がおろそかにされ、頭の中だけで考えた
抽象的な理念や観念に陥るという戦前の哲学思想に回帰していると強く感じられ」
マッカーサーが述べた如く「日本人の精神年齢は12才」と言った当時と基本的に
日本人の国家観は変わっていないと強い危機感を感じています。
つまり日本の国家運営は政界、官界、マスコミ界を含めて「個々の国家政策が真に
国民の幸福に役立つか」といういう基本的視点を「現実と事実で立証し検証する」
という視点がスッポリと抜け落ちてしまっているのです。
戦前には「大東亜共栄圏」「五族協和」「神風」「欲しがりません勝までは」など、耳障りの良い言葉とコンセプトによって、「現実と事実による立証や検証もしないまま」、頭の中で考えただけの「現実の国際社会に全く適応しない誤った言葉やコンセプト」で安易に全国民が洗脳され、日本国民自らが大きな悲劇を招いたのです。
これは誰の責任でもない日本国民一人一人の自らの責任なのです。
同様に現代も「公平、中立、簡素」とか「直間比率の是正」とか「薄く広く」とか
の言葉とコンセプトで「税制政策」があたかも現実の経済原則へ正しく適応してい
るが如く、意味不明な言葉を連発し国民を誘導し同時に国民も安易に洗脳される危
険性を強く感じているのです。
政界も官界もマスコミ界もまず第一に国家の存在意義の大前提である「常にその政
策を押し進めるとするならば、それが真に国民を幸福に導く政策なのか、理念や観
念ではなく現実と事実に基づき立証し検証する義務があるのです。」と同時に国民
も適否を見極める能力を高めなければなりません。
国民を幸福に導くとは言葉を変えれば、その政策で国民全員を食わせることができ
ますか?と私は言いたいのです。
国家は特定の優秀な人だけを幸福にすれば良いのでは無いのです。
国家は憲法に明文規定があるように、優秀な人も、優秀で無い人も「正直で誠実で
勤勉に生きる全ての人を幸福にする義務があるのです。」もし出来なければ国家は、憲法で明文化されているように、国民へ文化的な最低限度の生活を保障しており、無尽蔵に生活保護費や雇用保険金を支払わなければならないのです。
したがって国家という独占組織には組織同士の外部競争が働かない以上、本書に詳
しく述べているように「進化システムが正常に作動する個人による内部競争ルール
を厳格に導入」しなければ、自己拡大し進化し発展する良い政策は立案出来ないの
です。
そして進化し発展する国家になる為には、人間社会の現実の社会経済が、「現実と
事実の改善」によってのみ進歩する以上、「あらゆる政策の良否は、全国民の幸福
にとって真に役立つのかを判断基準とし」「国家が良くなるも悪くなるも、あらゆ
る政策は全国民とそれを代表する国会議員の進化システムによる参加の自由と対等
に平等なフェアーな競争(協同)によってのみ決定されるので」全国民や国家議員
が善悪、適応不適応を正しく意思表明出来るようにするための「適切なルール」と
「情報公開の徹底」と「全ての社会制度や法律は、全ての知的レベルの全国民へ強
制適用する以上、わかりやすさを最重要事項とすること」が重要であります。
また「国家の具体的な方針は、全国民の内部競争の結果によってのみ方向性が決定
するのであるから、その基礎になるのは、予め予定された理念観念の教育ではなく、現実や事実を重視する科学技術教育や、人や社会に役に立つ教育」となります。
またマスコミは目で見る結果ばかりを追い求めず、それを生じた目に見えない真の
原因を探求する努力をつくし、真の原因を明確にし、国民を啓蒙することが、真の
対策を確立する第一歩になるのです。
結果情報50%、原因究明50%が望ましいのです。つまり現状のマスコミ界も
「その政策が真に国民の幸福の為に役立つかどうか、現実や事実に基づく立証や検
証の努力が足りず、マスコミ自身も理念観念による言葉やコンセプトの羅列に惑わ
されている」と言わざるを得ないのです。
さて経済問題に話しを戻しますと、経済成長現象の枠組みは、「国民を動機づける
システムとしての税制」が基幹システムとなり、その「微調整手段として金融政策、財政政策」が存在し、金融政策、財政政策、税制政策の三位一体となって経済成長に向かって歩調を揃えるとき「進化システムの働き」によって達成されるのです。
結論から述べると地球上の動植物は荒涼とした地上に誕生した一個の単細胞の生命
体が過酷な環境に適応しながら「自己拡大と変異と競争」を繰り広げ「進化原理」
によって進化発展し「無から有」の膨大な動植物群さらに人類を作り上げたのです。
そして「システム工学」においては、人間のみが持つ「危険な要素を含む過剰性の
本能」を自然の深遠な進化原理を活用してコントロールしながら発展させる為に自
然の生態系で実質的に成立している「参加の自由と対等に平等なフェアーな競争
(協同)原則」と「競争力均衡化の原則」(豊かな自然が成立するのは、生態系に
おいて強者の捕食量が下位の弱者の増殖量を上まわらないようにする力学が自然に
働く原則)を利用して、わずかな条件で成立する自己拡大する万能の「進化システ
ム原理」の概念を確立したのであります。
この考え方は「人間環境で成り立つ国家運営においても、日本を愛し日本で努力す
る全ての人間(人種、性別、思想にかかわらず)に等しく適用されれば進化システ
ムにより結果として日本の大きな発展の基礎」になるのです。
これこそが真に現代国家の要件になると考えているのです。
進化というと、すぐに食うか食われるかの生存競争を思い浮かべ「競争に勝つため
の利己的意識の必要性」ばかりが強調されますが、これが大きな誤りなのです。
事実は強者の補食量が弱者の増殖量を上まわらない原則が自然に働いて自然は豊か
に進化するのであり、自然界には強者はいつも自分が生命を維持するために必要と
する以上に弱者を補食しないという自然な利他的意識も備わっているのです。
ところが人間には他の生物には全くない、生命を維持する以上に、物を欲求する強
い欲望があり、これを国家がコントロールしなければ強者が弱者を食い尽くすこと
になり、国家全体の経済の発展は全くないのです。
つまり膨大な弱者が作り出す膨大な個人消費を変換して得る所得を、強者がより多
く食べるという弱者の利他的犠牲(意識)の上に、始めて強者は生きていけるので
あって、豊かな多数の弱者が存在しないと強者はより豊かになれないというパラド
ックス(逆説)が「真の生存競争の論理」なのです。
つまり強者は生きるために必要な分以上は、捕食しない作法(強者の無意識の利他
的意識)によって、厳しいはずの生存競争を乗り越え弱者の増殖スピードが強者の
捕食量を上まわるとき、自然は拡大し、豊かな生態系を保っているのです。
ところが人間だけが唯一持つ「生きるために必要なもの以上のものを欲求する過剰
性の本能」こそが、人類の最大の危険性であり、又逆にそれこそが科学技術の発達
に補完される人類社会の発展と「自己拡大する経済活動の根源」なのです。
そこで国家や国際社会は、人間が持つ過剰性の本能をコントロールしつつ、如何に
経済活動、社会活動を発展進化させるかという、二律背反の不可能に対する挑戦を
日夜努力しなければならないのです。
したがって国家が資本主義的利己的意識の必要性ばかりを強調し、資本主義は人間
の生活を豊かにする「手段」であり「目的」ではないという大原則を忘却するとこ
ろに大きな問題が存在し、日本の国策が経済の進化発展のために重要な利他的意識
の重要性を強く考慮しないところに経済の発展が停滞しているのです。
つまり直接税を大幅減税し、間接税を増税する政策は結果として経済行為の根本で
ある個人消費(自然の生態系で言えば最下位の植物の増殖)を規制することによっ
て自己拡大機能を大幅に弱め、更に国家の所得配分機能(農家が大地に与える肥料
に相当する)を大幅に弱め、自分だけ助かりたいという利己的意識(貯蓄)を増進
し、利他的結果をもたらす個人消費(他の人へ所得を得さしめる行為)の弱体化へ
国民を誘導し、結果として個人消費と設備投資が原資となる所得は縮小し、所得の
縮小に対する自己防衛のための「力(貯蓄)の増強」が結果として個人消費の更な
る減少につながり競争経済社会の中では豊かであった大多数の弱者が貧困化し、結
果として強者を支える多くの弱者で成り立つ経済生態系が縮小し、いずれ強者も生
存が難しくなるというパラドックス(逆説)の中に我々は経済生活を送っているの
です。
つまり国家政策は進化システム原理の下「競争力均衡化の原則」を意識しながら、
厳格な「参加の自由と対等に平等なフェアーな競争(協同)」に基づく競争原理を
強化するという、利他的意識と利己的意識この二つの全く逆に見える原則を共に増
強しなければパラドックス(逆説)で成り立つ国家を発展繁栄させることは出来な
いのです。
つまり全ての人が自分だけ助かりたい助かりたいという利己的意識が逆に自分を誰
も助けてくれない結果を生じる場合があり、全ての人が他の人を助けよう助けよう
という利他的意識が、他人が自分を助けてくれる結果を生じる場合があるという、
パラドックス(逆説)の中に生きているのです。
つまり我々は常に利己的意識と利他的意識の両者の利点や欠点を良く認識して政策
を立案しなければならないのであり、時間の経過と現実、事実を確認しながら進化
発展する方向へ解決する手段が進化システムなのであります。
つまり過剰性の本能を唯一持つ人間の競争社会で重要な点は生物の生態系の保持の
原則である生存競争における作法、つまり新たに生み出されたものの内、生きるた
めに必要以上のものを欲求しない作法(利他的意識)を人間社会が不合理にならな
い範囲で常に意識する必要があり、これこそが逆に国民の幸福の追求を害さない経
済的自己拡大をもたらす要因であることを理解し、国家は常に利己的意識と利他的
意識の適切な調和を図る政策を取る必要があるのです。
膨大な数の経済的大衆が利己的意識と利他的意識を持ちながら、少数の経済的強者
に近づこうとする意欲意志が、自己拡大する進化システムである個人消費増進の根
源であることを良く理解しなければならないのです。
そして経済的強者は利己的意識ばかりでなく、利他的意識や行動を発揮しなければ
全体の発展進化は無いのです。
日本が今後未来に渡り、進化発展する国家になるためには、「進化や競争の正しい
意味」を理解し、国家は経済的強者に対して利己的意識ばかりでなく利他的意識を
持つべき事を啓蒙し実践しなければ、経済の発展や国家の繁栄は無いのです。
そこで適切に強力に発展する国家を目指すには、国家の法律や制度全体に国民環境
全体へ適応するための、「進化システム原理」を積極的に取り入れ、徹底して遵守
することが最も重要な手段になることが、明らかになったのです。
同時に、本格的景気回復と財政再建のためには、「現実の経済環境へ良く適応した
政策」を実行し、結果として「自然に自己拡大する経済を作り上げて」、本格的な
経済成長を達成しなければ、根本的な解決はできず、諸外国や経済機関などの国際
的指摘で明らかなように「進化システムである個人消費の継続的な増大」を図る為
には、個人消費増大の抑圧規制要因を徹底排除しなければなりません。
さらに国家が徴収する直接税を始め全税目の全税収は納税者や納税方法の形態の如
何にかかわらず実は「実質的に企業が販売する商品・サービスの全原価に算入され
て全消費者が個人消費を通じて全額負担している事実」が明らかとなったのです。
したがって「個人消費の増進」こそが「景気回復をもたらす経済成長の根源」と
「税収増をもたらす財政再建」の根本的解決策だったのです。
また自己回帰的に考えれば直接的間接的に企業が人件費、諸経費、利益(総合計は
売上と同一)を通じて負担する原価の中に、国家の全税収が含まれてもいるとも言
えるのです。
つまり我が国の有名な格言、「カネは天下の回りもの」は経済の本質を明確に言い
当てており、個人と企業間の「個人消費=販売」を如何にスムースにしてカネの回
りを良くし、取引を拡大して税収を上げるかの工夫が問われているのであり、この
点間接税は商品流通のたびに課税されるため金回りが悪くなり取引が縮小するとい
う大きな欠点(規制要因)を持っており、直接税には、その欠点が全く無いのです。
さて韓国で2001年11月より開始しました消費税の減税は、韓国の株式市場や
企業業績に極めて良い影響を与えているようでありますが、本書の提案はアメリカ
の事例やヨーロッパ諸国の事例を進化システムの立場から、参考にしたり批判を加
え、更に奥深い意義を持つ総合的で継続性のある基本的な内容になっているのです。
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(与件に依存する経済学ではなく、前提条件無し、与件無しで現状を改善できる新
しい経済学が必要である。したがって新経済学は人間の本質を深く理解した哲学と
道徳と進化論に極めて密接な関係が生じてくる。)
本書はイデオロギーではなく「進化論」と厳しい精神性と実用的な哲学をちりばめ
た日本の「葉隠れの精神」とアングロサクソン民族の「帰納推論とプラグマチズム
哲学」と中国の知って行わざれば知らざるに同じの「陽明学」を基本にしています。
地球上生きとし生けるもの全ては荒涼とした35億年前の広大な地球に発生した一
個の生命体の単細胞が進化増殖し膨大な自然と人間を作り上げたのであります。
この神のような現象を成し遂げたのが「進化原理」であり更に進化により人間の各
臓器は部分システムとして機能し人間を全体システムとして成立させているのです。
そして経済も同様に「無に等しい」古代の貧しい生活から、現代の驚異的に豊かな
「有」の経済生活を持つまで進化発展させたのは、経済システムに、人間の本性に
合致した「進化システムを導入した結果」によるものであることは科学的に立証さ
れております。
成熟経済段階に達した日本経済では尚更この普遍的な人間の本性に合致した進化シ
ステム原理を、無意識的でなく意識して徹底的に活用しなければ経済は再生できず
「法律、制度などをシステムとして認識し、自由、平等、フェアーな競争を厳格に
遵守する進化システム原理を、システム(法律や制度)全体に積極的に組み入れる」ことが、人間が行う経済の自然で力強い発展をもたらす唯一の方法であり、徹底して活用すべきと提唱しているのが3年弱かけて完成した本論の結論であります。
現代の経済学が多くの分野を、与件(前提条件)として研究対象からはずしている
事実が進化システム原理の重要さを経済学が学問的に気付いていない原因なのです。
さて戦後44年目(平成元年)以降、日夜経済の最前線で働く直感が鋭い大多数の
国民が反対していたのにかかわらず理念や観念を重視し論理を駆使するエリート達
の判断ミスにより「経済進化システムに規制抑圧が混入してきた」のであります。
つまり無限の開放経済系である世界経済に羽ばたく民間企業と全く異なり、国家経
済は領土の広さも国民の数も狭く限定されている以上、「閉鎖経済系である限界」
があり成熟経済国家は進化システムによる「自己拡大原理」でしか経済成長は達成
できない「事実」を直視し「消費の選択肢の増大と科学技術の進歩に自由を与え、
これに対する全面規制を廃止して、やむを得ない場合は国民の幸福に反する場合の
みの個別規制に止め」、「参加の自由と対等に平等の原則によるフェアーな競争」
を遵守し自己回帰的に需要と供給の拡大体制を確立することが必要不可欠なのです。
本書はその基本分析編であり、第一線で活躍している人材と若者や研究者へ「成熟
経済下の経済成長を全く新しい科学的な視点で徹底して分析し人間の特性や経済の
本質を理解すれば時代と共に経済成長が無限に可能であることを証明し」、未来の
日本を築く最も効果の出る経済成長税制(ノーベル経済学賞のソローモデルへ附加
すべき本質)として分かりやすくルール化した長文の解説書です。
読者の経済観や価値観、行動基準、哲学を一新する上で本書は非常に役立ちます。
日本のように現実の成熟経済の中で経済成長を達成するには「人間は個人消費を増
大させながら所得に変換して生活している原理を直視し」これを阻害しない体系的
進化システム的な制度と国民と国会議員の参加の自由と対等に平等とフエアーな競
争の中から幸福を追求する政策を生み出す国民意志を徹底して尊重する政策決定方
法こそ適正な方向性の消費の増加をもたらすという結論に達しました。
「財政再建」と「経済成長」を同時達成する政策立案を模索する日本の超エリート
と不況で苦しむ中小企業、大企業の経営者、勤労者へ大きな希望を与える理論です。
さて筆者としては、1987年ノーベル経済学賞を受賞したロバート・ソロー博士
(アメリカ)の「科学技術の進歩」こそ経済成長の唯一の根源であるとするソロー
モデルの考え方は、一面でその通りであると考えておりました。
しかし他面では現代のように、科学技術の情報が世界中素早く伝播する時代であり、且つ貿易自由化の波が押し寄せている現状では生産設備さえ直ちに輸入できる時代に何故国によってこれほど経済成長に差があるのか、それを研究する過程において「余りにも当たり前すぎて誰も気付かなかった進化システム原理の存在が国家国民の経済社会発展のために根本的に重要である事実」を発見したのです。
そしてこの原理は莫大な投資が必要な科学技術の進歩より更に根源的な問題にもか
かわらず、意志と意欲さえあれば意識を変えるだけで、財政支出がほとんど不要で
実現が可能な実用的で、より一層の経済成長に役立つ原理原則だったのです。
そしてそれを発見するため、開明的な明治維新における五箇条のご誓文の第一条や
福沢諭吉が唱えた理想主義と敗戦で国民も企業も国家も焼け野原の無一文から出発
し、43年経過した昭和63年に3200兆円の国富を達成し世界一の経済大国と
称せられるようになった現実の日本の経済成長政策と、長い経済の低迷から脱却し
て、アメリカを再度世界一の経済大国に復活させたクリントン政権の現実の経済成
長政策を徹底して分析し「事実」と「事実」の関連を調べ上げて「真実」を探求し
た結果が「経済成長税制」となったのです。
経済成長期の日本とアメリカが実証した現実の結果を分析して経済成長の根本的要
因として「人間の社会経済のあり方は進化システム原理(後述)に則ったものが最
善であるという事実」と「経済成長にとって個人消費が進化システムとして主導的
な役割を果たしていた事実」と、「直接税が国民所得をシステム的に配分し、国家
全体の消費性向を高めることが経済成長に重要な役割を果たしていた事実」を発見
したのです。
そして国家が徴収する全税収は納税者や納税方法の形態の如何にかかわらず実は
「実質的に企業が販売する商品・サービスの全原価に算入されて全消費者が個人消
費を通じて全額負担している事実」が明らかとなったのです。
したがって、「個人消費の増進」こそが「景気回復をもたらす経済成長の根源」と
「税収増をもたらす財政再建」の根本的解決策だったのです。
そして資源の重要性については、輸入必要分の外貨準備高の輸出能力さえあれば、
資源が乏しいことなど自由貿易体制下の経済では大きな経済問題では無いのです。
但し平時にはこの通りでありますが、物流が止まる戦時には様相が一変するので、
常時対策を検討しなければなりません。
そして常に余力のある輸出競争力を保持しながら、国内産業に対して国内外の競争
条件の同一化を計るために貿易収支ゼロ政策(後述の理由による購買力平価の為替
相場)を取り、国内産業と外国企業との価格競争条件の実質的な同一化を図り、国
内の産業構造の適正化と国内需要を豊かに増進し、全体需要の確保を図る必要があ
るのです。
したがって対外需要に依存せず国内需要で産業を維持するには個人消費の増進は不
可欠なのです。
結論として資源の有無等で、国力が左右される訳ではなく、個人消費力の国家規模
(需要)と、それを生産できる生産力の国家規模(供給)は均衡して増進すること
が最も望ましいが不均衡になることも多く、その場合経済的に不健全な現象が生じ、潜在的国力は別にして「現実の国力とは」国家規模の個人消費力と国家規模の生産力の「いずれか力の低い方を国力」と定義するのです。
現代日本の最大の問題点は「生産力」は充分に存在し、その増進圧力がかかり続け、さらにそのシステムの根源である科学技術の進歩も十分機能しているのに、それを吸収すべき「個人消費力」の増進システムが大きく破壊され全く機能せず停止しているために国力や経済成長の全体システムが全く停止状態に陥り、失業が深刻化し、企業倒産が続発し、際限のない金融不安に襲われているのです。
さて日本では消費税を導入した結果、消費者と面と向かって販売努力をしている企
業の第一線で、消費者がその所得を個人消費に変換する商品販売の瞬間において、
それを阻害し売上の低下要因を企業に強制し、更に「直接税率を意図的に引き下げ」
「間接税比率を意図的に引き上げ」経済成長の起点である自分の意志で自由に増加
も減少も可能な進化システムである個人消費を強制的に規制した日本の愚かな政策
の結果が、経済成長や税収の原資である個人消費の増加を停止後退させ財政再建ど
ころか財政を極端に悪化させ経済大不況となったのです。
私の長い経営指導の経験では値引き、割引、景品、チップ、スタンプなどのお客様
に対し経済的利益を与え売上(個人消費)を増大させる販売促進策を採ってきまし
たが、買ってくれたお客様に外税でも内税でも経済的損失である消費税を支払わせ
て売上(個人消費)が増大できると考えるエリートの考え方は、ナンセンスで全く
理解できません。
税金を多く支払うくらいなら、安い物を買うか、買わずに貯蓄をするというのが、
消費者の実際の発想なのです。
「つまり消費者は消費税の課税されない非進化システムの貯蓄という選択肢を常に
選択出来る」からであります。
(人間はどんな困難な問題でも英知を傾け解決に努力し生き残りと幸福を求めて、
行動できる生物です。何が正しくて、何が正しくないかを決める基準は「善悪の絶
対的判断基準と自由と平等の正しい解釈」(p307)の通りであり、人間社会で
は自分自身が引き起こす経済社会現象は全て自分自身の意志で確率的にコントロー
ルすることが可能なのです。)
過去に大きな過ちを犯した軍務官僚と政治家による「当時の世界の大勢」である、
ヨーロッパ大陸列強の全体主義への同調と傾倒による「作為(政策を立案し実行し
た)」である真珠湾攻撃に始まる第二次世界大戦への参戦も、また「不作為(的確
な政策を立案せず流れに任せて何もしないこと)」である水俣病問題、エイズ薬害
問題、狂牛病問題など結局の所、「作為にしろ不作為にしろ日本と日本人に適応し
た適切な判断による作為、不作為でなければ現実に大きな人災」に発展するのです。
そして日本の現状の大規模な経済不況も、この「世界の大勢であるヨーロッパ型の
消費税」という、女性の個人消費の支配力が強い特殊な社会慣行を有する日本では
特に副作用が顕著に現れることを理解せず、今度は「内務官僚と政治家」によって
導入された全ての個人消費に規制を加えた総需要抑制政策による、全く同じタイプ
の「作為による大規模な人災」なのです。
つまり経済成長の根本は「まず総消費(個人消費+設備投資)が発生すると、等価
にそれが所得に変換される等価変換原理と時間的順序がある時系列原理」から成り
立っているのです。
したがって個人消費は後から所得に等価変換されるのであり、所得は次ぎの個人消
費の源泉と増減の判断材料になるのです。
そして「個人消費は進化システム」であり所得は非進化システムであったのです。
この当たり前なびっくりするような二つの簡単な原理が実は経済成長の根本原理で
あり、経済成長現象を完全に説明できるとは、アメリカを始め世界中の誰もが良く
理解していないのです。経済成長の根本要因が分からなかったからこそ、世界中の
国家で税制論議が混迷する原因があったのです。
そして日本のように間接金融国家では、設備投資は、個人消費が活発な時に「貯蓄」が「設備投資」に等価か拡大変換され経済も景気も拡大し好況となるのです。
そして個人消費が活発でないときは「貯蓄」から「設備投資」へ縮小変換となり、
過剰貯蓄分は経済的な無駄となり、経済は縮小し経済成長は後退するのです。
そして個人消費はその本質から進化システム原理が働き「幸福を追求する」人間の
特性と意志と意欲が働き、放っておいても自然に増加する特性がありますが、同時
に規制を加えれば人間の意志により自由に減少もできる特性も併せ持っているので
す。ここが他から稼得する性質上、自然には増加せず又自分の自由な意志により増
加や減少が出来ない非進化システムである「所得」との歴然とした差なのです。
したがって経済の根本である「進化システムである個人消費」は原則として自由に
すれば自然に増加するが、規制を加えると減少するという人間の意志や意欲によっ
て増減する性格があり、国家全体では国民の意志や意欲によって個人消費の総額は
直接増減するのです。
これに対して「非進化システムである所得」は「個人消費+設備投資」の等価変換
原理と時系列原理の結果による他から稼得した「実現された所得であるので」、
個々の人間の意志や意欲の変化があっても国家全体の所得額には全く変更が無く、
例え累進所得税高率なため所得追求意欲が減退する人が出て、その人が所得追求を
停止しても、その追求を止めた分の余剰所得は、所得の低いつまり消費性向の高い
所得追求者へ所得が配分されるので逆に経済成長にも効果的に役立つのです。
だから所得税率を高めると高所得の人材が他国に流出し、その所得分だけ日本の国
民所得が減少し日本の経済成長は低迷するというのは、真っ赤なウソであり、税が
高いから外国に移住したいというのであれば、自由に移住させれば良いのであり、
そこに残された余剰所得は日本でがんばる他の有能なより所得の低い人(消費性向
の高い)に配分され、日本を愛する国民が増加し、日本はより経済成長することな
るのです。
頭脳流出さえも直接税が高いことを理由に流出するのであれば、そのような利他的
意識や資本主義的愛国心の無い頭脳は流出すれば良いのであり、直接税が高いこと
により日本経済が順調であれば(直接税国家の方が国民所得が高くなることが統計
的にも既に立証されている)、税の増加を上まわる税引後所得の増加を得られる日
本を選ぶ良好な頭脳の持ち主が日本を選択するのであります。
高額所得者は利他的な行為(累進所得税の納税)を行うことによって貧しい人々を
普通の生活に押し上げる助力をしているのであり、それが結果的に個人消費の継続
的な増進を基礎とする経済成長をもたらし経済環境を更に良化し自己回帰的に高額
所得者の更なる所得獲得のチャンスをもたらしている、「経済成長の真実」を良く
理解し、そしてそのような自覚を是非持って貰いたいのです。
ただ国は主たる税を他国に支払い、日本で収入を得ているのに日本で少額の税しか
払おうとしない人々に対しては、税制をそれらの人にも適正に対処出来るように改
善すると同時に、国籍にかかわらず、日本国や地方公共団体へ主たる税を納める人
(居住者)かどうかを、常に情報公開し、国民へ知らしめなければならないのです。
なんとなれば「日本国民」や「日本に住む外国人」は日本国へ高い税を支払うこと
によって国民や人間相互に助け合って生きているからであり、その人々の権利を守
る義務が国家にはあるからであります。
この原則こそ経済成長と景気回復と財政再建の手段となる「税制構築の鍵」となり
ます。
そしてこれらの諸原理を組み合わせて分かることは「個人消費を自然に自由に規制
しなければ進化システムである個人消費が自然に増加し、循環的な景気の波があっ
たとしても、等価変換原理によって無限に国民所得の増加と自立的経済成長は継続
する」という経済原則と「進化システム機能のある個人消費に規制や抑圧を加えて
ると人間の意志と意欲の低下によって個人消費が減少し等価変換原理によって国民
所得は減少し自立的経済成長は、その分停滞後退し経済の過剰性は縮小し、いくら
公的資金を注入しても金融不安は経済の下方の均衡点に向かっていく間は際限なく
続く」のです。
また「個人消費を刺激して拡大させすぎると、これが正常と勘違いした仮需の設備
投資、仮需の在庫投資が発生し等価変換原理で国民所得は異状に増加し自立的経済
成長が異状に亢進され景気が過熱しバブルが発生する」という明確な「経済成長原
則」が導き出され基本的には極めて単純な原理なのです。
つまり経済は人間の意志によりシステム的に自由にコントロールが出来るのです。
さて資本主義の理論や資本増殖の原理さえ「進化システム」の一つの側面を表して
いるに過ぎず進化システムの人間社会における根本的な実用性は絶大なのです。
資本主義の理論も結局「人間の幸福追求」のための、手段にすぎないのです。
アメリカの経済学者はそれを良く自覚しているからこそ、アメリカの経済史の中で、資本主義理論を忠実に再現しようとする政策を重視する共和党政権時代より、最大多数の中低所得者層の人間寄りの政策を重視する民主党政権時代の方が、実は株の値段が高いという研究結果がアメリカで発表されている位なのです。
(進化システムによる、めざましい経済社会の発展実例)
人工システム(制度・法律など)は進化システムの時に限ってシステムとして強力
に発展する原理を有するのが「進化システム原理」なのです。
実例としては進化システムである「市場経済」は進化システムの度合いが高ければ
高いほど、非進化システムの「計画経済や統制経済」によりはるかに進化発展する
のであり、進化システムである「民主主義」は衆愚政治といわれながらも進化シス
テムの度合いが高ければ高いほど、規律正しい観念を持った優秀なエリートが率い
る「全体主義、共産主義」という非進化システムよりはるかに進化発展するのであ
り、進化システムである「科学技術や科学的な論理」は進化システムの度合いが高
ければ高いほど、一部のエリートによる「非科学的な論理や優れた予言者の予言」
という非進化システムよりはるかに進化発展するのであり、「インターネット」は
進化システムであるからこそ、「優秀なエリート管理者が構築する複雑で精密なト
ップダウン形式の商用ネットワーク」という非進化システムに勝利し、各々今後将
来ともに、これらの進化システムは力強く進化発展するのであります。
同様に「個人消費」は進化システムであり、「所得」は非進化システムなのであり
ます。
したがって個人消費は進化システムの本質を持つので、時代と共に本来は自然に自
分自身で自動的に増加する性質を持っているのでありますが、これが心理的、経済
的に消費税という規制課税を加えられているために、自然の個人消費の増加が抑え
られる総需要抑制策になってしまっているのであります。
つまり本格的に景気を回復し、税収の増加による財政再建を実現し、失業率を大幅
改善するには、総需要抑制政策を撤廃しなければならず、個人消費を選択的に課税
し経済成長に大きな悪影響のある消費に課税する間接税比率を劇的に低下させ、経
済成長に良い影響をもたらす「消費と貯蓄両者に同時に平等に課税」することとな
る所得に対する課税の直接税比率をその分大幅に強化する政策以外に改善する方法
は無いのです。
さて消費税は二つの経済要素の内「貯蓄に課税せず」「個人消費に対してのみ選択
的に課税するシステム」であることが、人間のカネの使い道に不平等を発生させ、
個人消費の発展拡大性を消滅させ国家経済全体に悪影響が生じているのです。
それに対して後述の通り所得税や法人税などの直接税は、「所得=消費+貯蓄」の
経済公式で明らかなように、非進化システムである所得を介して、実質的に個人消
費と貯蓄の全てに平等に課税するシステムであるので、カネの使い道に対して競争
条件が平等に保たれているので、課税される本人個人の経済的痛みはあったとして
も、個人消費に規制が無く経済システムに対する歪みや発展拡大性に対して何らの
悪影響が全く生じ無いのです。
さらに国家は税収を蓄える機関ではなく、収入した税収全てを使い、良い結果が表
れる政策を実行する機関であります。したがって国家を経済的に見れば、公共事業
や公務員の給与を通じた所得配分機能を持った機関でもあるのです。
この見方からすると直接税主導国家は「少数の消費性向の低い高所得個人法人から
多数の消費性向の高い低所得個人法人への巨大で強制的な所得配分促進機関」であ
り、間接税主導国家は「消費性向の高い多数の低所得個人から同じ低所得個人への
所得配分機能しか持たない国家であり、少数の消費性向の低い高所得個人の余剰所
得の配分を取り残し巨大で非効率な所得配分非促進機関」となるのです。
結局の所、間接税主導国家は個人消費拡大と所得拡大と失業率改善のための道具を
持たない国家であり直接税主導国家は逆にその手段道具を持っている国家なのです。
(直接税は未来にも通用する究極の税制であり、間接税は未来に行き詰まります。)
さて直接税制を筆者が強硬に提案している理由は以上のような経済成長の促進に極
めて役に立つ道具となる利点ばかりでなく今後10年、20年、50年、100年
の経済発展を見据えた税制のあり方からも提案しているのです。
経済の歴史を調べると、およそ次のような事実が分かるのです。
1.国家は憲法で明らかなように人間である全国民へ幸福を追求する権利を保障し
ており文字通り国家は全国民へ、この義務を果たすことが第一の使命なのです。
法的存在である優良企業を育成することは、手段としての役割でしかないので
す。
2.さて「消費」は人間しか行いません。しかしながら人間の「労働」は科学技術
の発展に伴い「人間のやっていた仕事が機械に置き換わり爆発的に労働生産性
が向上する」原理があります。しかしながら科学技術の発展は、他国との競争
のためと、人間の好奇心の本能がある以上停止する事は出来ません。
したがって人間の労働は「人間しか出来ない分野」か「機械より人間の労働の
方が安上がりな分野」に限られて来ます。
3.しかしながら人間は「消費」をするためには「所得」が必要となります。
所得は労働の対価として受け取るのが最も自然であり人間の本性に合致してい
る。
4.さて「人間一人当たりの労働生産性が科学技術の進歩と共に向上する以上」、
「人間一人当たりの個人消費が向上しないと需給にアンバランスが生じ大規模
な失業が発生し労働の対価としての所得の獲得が難しくなる。」という事実が
あります。したがって科学技術の進歩に合わせた個人消費の増進システムは絶
対必要条件となり、それには個人消費の進化システム性の利用と直接税制の活
用が重要となります。
5.さらに50年後、100年後になると機械化が進み、機械を活用する労働者が
全生産を担当するので、そのような労働者は所得をより多く獲得し、それを担
当しない労働者への実質的な所得配分が難しい時代がやってきます。
直接税が発達しているとそれらを調整し更に労働者間の生存競争の競争力を均
衡化する大きな手段になります。この時代になると税制に求められる主たる機
能は所得配分機能となり、唯一直接税制が所得配分機能を発揮できるので生き
残る税制となり、間接税制は全く機能できないことが明瞭になり直接税制国家
が結局、国家間の競争に勝ち残ることになります。
たとえ話しをすれば、良い作物(国際競争力に勝ち残る超高生産性企業)を結果と
して生み出すには、農家(国家)は大地(大量の低所得者層や低生産性企業)を耕
し堆肥(所得)を与え、良い土作りしなければ良い作物は絶対に得られないのです。
したがって本文記載の如く国家にとって所得配分の切り札となる直接税制と良質な
低生産性企業の並立は所得配分の切り札となる重要性を認識しなければなりません。
産業のソフト化は避けて通れないのです。
そして経済や政治を正しく進化システム化すると人間の努力と合体し自然にこれら
は実現できるのです。
そして政策立案者は常にその政策が当初の予想通りの成果があがらない時は、その
個々の政策が人間に対して「参加の自由と対等に平等とフェアーな競争原理」が文
字通り完全に組み入れられているかどうか、進化システムが誤って規制されている
のではないか、逆に人間の幸福の追求に反する問題を適正に規制していないのでは
ないか常に再検討しなければなりません。
そして国家全体としては「不合理にならない範囲内で競争力均衡化の原理」が働い
ているかどうか確かめなければなりません。
あらゆる分野の政策は、この二つの原理を遵守さえすれば、放っておいても人間は、その本性、特性に基づき正しい政策効果を必ず発揮するからであります。
付言すれば中世から連綿と続いた一人一人の人間のあり方について騎士道や武士道
が尊ばれ、その存在が国家の評価にさえ影響を与えた事実は、この問題の人間社会
への重要さを表しています。
したがって単に世界の大勢を政策立案の根拠や逃げ口上にしてはならず「経済成長
原則の基本に忠実に日本と日本人に適応した適切な国家政策を追求する努力が官僚
と政治家に求められ、その解決方法を記載しているのが本書であります。」
そして国家は国民の望む方向へ、まず国家政策を変更しなければ、国家は国民の努
力と共に望む方向へやり直すことは出来ないのです。
それは人間が人生に対する考え方を変えて望む方向へ努力しなければ、人生を望む
方向へやり直せないのと全く同じなのです。
つまり本書の考え方は明治維新から始まる「トップやエリートの理念観念」を優先
する伊藤博文的な「非進化システム思想」から脱却し「事実に基づき全国民と全国
会議員の参加の自由と対等に平等なフェアーな競争で適不適の選択や淘汰をする」
決定ルール優先の福沢諭吉的「進化システム思想」への転換を提言しているのです。
アメリカにおいて現在バブルがはじけ、テロに見舞われ最悪の景気になったと言っ
ても、失業率は1985年(昭和60年)の7.2%と比べれば遥かに低く良好で
あり、株価は当時と比べれば3−5倍以上高くアメリカ経済のバブルがはじけ最悪
といっても当時と比べればはるかに好調なのです。
株価は信じられないことにバブルの絶頂期の一割減程度の9000−10000ド
ル前後を維持しており(2001.7現在)(筆者は少なくとも6−7000ドル
には下落すると予想していた)、アメリカの官僚と政治家が立案し実行したアメリ
カの国民が支持している政策の自分自身に対する経済的愛国心にはホトホト感心し
ております。
そして現代アメリカは消費好きのアングロサクソン民族の特性と消費性向を高める
ため高所得階層から低所得階層への実質的な所得配分機能を持つ直接税主力の税制
と、金持ちや一般市民の日本と比較して国民一人当たり200倍を超える恵まれな
い人々への社会福祉的寄付の利他的意識の強い社会慣行つまり寄付という民間の所
得分配行為による個人消費の促進機能、全産業のうち小売業と飲食業にしか課税し
ない小売売上税との組み合わせによる個人消費の進化システム度は現代は世界のど
の国家より順調に作動している(もちろん昭和63年以前の個人消費に規制が殆ど
無かった日本の進化システム度よりは劣るが)ので一定のペースで国民一人当たり
の個人消費は増え続け、科学技術の進歩による生産性の向上や金融不安を吸収し、
これからも一時的な循環的不況に見舞われても必ず不死鳥のようにアメリカ経済は、よみがえるのです。(寄付は偽善行為であるという曲がった意見も存在するが、筆者はその意見には組みしない。)
つまりアメリカという国家は、その国民性に基づき国民一人一人、企業一社一社に
ついて参加の自由と対等に平等なフェアー競争による利己的意識に基づく個人主義
を強調しながらも、実は全ての国家システムはチームワークの重要性を強く認識し
良くルール化され、特に自国民に対しては自国内での競争力均衡化の理論と建国の
理想に基づく利他的意識を基本として徹底して構築されているのであります。
つまりアメリカは自国民をチームの一員として見なし、参加の自由と対等に平等に
フェアーな競争と利他的意識を育み、アメリカ憲法の掲げる理想の実現に規定通り
本気に取り組もうとしているのです。
さて日本が他国の国家政策を参考にするときは、自国人口の少なくとも半分以上の
大国で経済政策が適正に機能している国家でなければ参考にならないことを、自覚
しなければなりません。人口規模の小さい国家の政策は、たとえその国家で非常な
成功を収めていると言っても、直ちに日本の国家規模には参考にならないのです。
それは人口の規模によって、国家の自立的存立基盤が全く異なるからであります。
この観点から日本の国家政策の参考とするためには、現状の自立的経済状況も順調
であり、今後将来とも自立的な発展拡大の可能性の高い国家はアメリカが第一であ
り、だからこそアメリカの経済政策、税制を研究しているのです。
このアメリカと対等に競争するには、日本では経済的に女性主導の過少消費体質と
過剰貯蓄体質と更に利己的意識が極めて強い金持ちや一般市民の社会福祉への寄付
の社会慣行が極端に少ない国民性つまり民間の所得分配行為が極めて少ない国民性
を踏まえ、個人消費の進化システム機能を取り戻すためアメリカより更に徹底した
個人消費への規制緩和(現行の課税理由の明確な個別間接税は除き)つまり消費税
を全廃し、更に利他的意識を醸成し消費性向を高めるため全国民のアメリカより社
会福祉への寄付分だけ高い税率による直接税制を強化し、個人消費の自然拡大機能
を完全に取り戻し、個人消費の自然な増進を通じて縮小しつつある日本の市場経済
の進化機能や過剰性の拡大機能(P150参照)をアメリカ並に回復し科学技術の
進歩による労働生産性の向上を吸収し、失業率を改善し日本経済の自立的回復基盤
と金融不安を解消し日本人の生活基盤を確立することが、今正に国内的にも国際的
にも強く求められているのです。
日本の間接税は消費税を全廃しても、ガソリン、酒、タバコの間接税と事実上の間
接税とも言える自動車関係の諸税並びに第二税金とも考えられる高速道路料金(ア
メリカは無料)などを考慮に入れると、アメリカの地方税である小売売上税を考慮
に入れても間接税比率は高い位なのです。
昭和35年からの世界が驚愕した日本の高度成長時代には消費税は存在せず、当時
の所得税の最高税率は所得5000万円以上について70%であり、更にそれ以後
長年8000万円以上につき75%に引き上げられ、昭和60年−62年3月申告
分までは70%、63−64年(平成元年)3月申告分までは60%だったのです。
つまりこの間、痛みを伴う国家を通じた助け合いの精神、利他的意識の重要さが国
民へ求められていた時期であり、正に経済成長や好況と痛みを伴う直接税率の高さ
と個人消費規制税制の不存在は正比例の関係にあったのです。
それが昭和64年(平成元年)4月に消費税が導入され、平成2年3月に所得税と
消費税と両方の申告の納税時期になった時に、消費税3%、所得税の最高税率50
%の納税が始まったのであります。
実は経済成長システムが大きく傷つけられた、この消費税導入の一年後の現実に企
業の消費税の納税が始まった平成2年3月前後の確定申告時期から円、株、債券の
トリプル安が開始しバブルの崩壊が早くも始まったのです。
その後消費税が5%になったのに伴い、所得税の最高税率は37%に減じられ、高
所得者有利の資本主義的利己心を促進する政策へ変更され、それによって経済成長
を誘発しようとする政策の思惑とは正反対に急速な不況の更なる深刻化に突入して
しまったのであります。
そして日本国が外国に対する援助という対外的な利他的意識ばかりを政策に取り入
れ、肝心の自国民に対しては高所得者有利の利己的意識を強調する「経済哲学の変
更」に終始し、国民へ利己的意識を鼓舞して経済発展を実現しようするシステムへ
変更し続けた誤りが「本書の理論通り」経済の発展を大きく阻害しているのです。
つまり高所得税率の少しの痛みを避けよう避けようとしたために、不況の深刻化と
言う激痛を伴う死の苦しみが全産業と全国民へ「自己回帰的」に襲ったのです。
つまり日本人は近年特に、個人個人が利己的に行動する傾向が強いので、これと均
衡を保つためには、社会全体のために善悪、良否を明確に区分区別しながら、日本
人の心の奥底に眠っている良心と良識に基づく利他的な意識を引き出す政策運営を
しないと、経済成長は全く期待できないのです。
日本の高度成長時代を実現できたのは、消費税という個人消費規制税制が無かった
ため個人消費の進化システム機能が十分機能したこと、高い累進税率の存在により
消費性向の低い人(高所得者層)から消費性向の高い人(低所得者層)への所得配
分が直接税の機能を通じて常時実現していたために、その時期日本国の個人消費の
伸び率は極端に高く、そのために企業の設備投資意欲もケタ外れに高く、それが国
民所得へ自動的に等価変換され国民所得の爆発的な増加をもたらし所得倍増計画以
上の国民所得の圧倒的な増加を実現できたのです。
そして高い税を支払った多くの高所得者層は、決して損をしたわけでなく支払った
分の有形無形の配当やチャンスをものにしたのです。そして高所得者層は、同時に
必要経費を無税で使用できるという特権を持つ「企業経営」のおもしろさもチャン
スも身につけたのです。
したがって現状の経済不況は「人為的な政策ミスによる人災であり」「消費税の導
入までの25年間で265兆円の国債を、財政再建のための消費税導入の大義名分
にも拘わらず、わずか11年間で401兆円増加させ666兆円の国債」を残し未
来の子孫に負担させる責任から考えると、民間ではリストラ、給与カットが日常的
に行われている現状では、この様な日本国の経営内容に陥れた責任は大きく、与野
党を問わず国会議員と官僚の皆様は最低3割以上の給料カットを行なわなければな
りません。もしこれが無理であれば、可及的速やかに政策変更を行い、日本国の経
営内容の改善を行い「結果」を出さなければなりません。
民間では当たり前の事なのです。演繹的な論理や通説に惑わされず「事実」をしっ
かり分析することが大切なのです。本書の理論は内外の「実際の事実」によって証
明しているのです。
既成の学説によれば直接税は「貯蓄」を阻害し、「消費を優遇する」という誘因を
生みだし、貯蓄を減少させ、投資を阻害するというデメリットを強調しているが、
現在の経済成長停止状況における、日本の貯蓄過剰、消費過小の国民性にとっては、この直接税の欠点と言われる点こそ、正に大メリットなのであります。
そして累進所得税は個人の勤労意欲や事業意欲を阻害するから経済成長に悪影響を
及ぼすとの学説もあるが、実はその人が累進税率の高さゆえに、所得追求を止めて
も、既に述べた如く国民所得全体は減少しないので、余剰所得は所得の低いつまり
消費性向のより高い他の所得追求者に配分されるので、何ら経済成長には悪影響が
無いどころか、個人消費が更に増加し経済成長の促進要因になるのです。
忘れてはならないのは、「貯蓄」もまた銀行を通じて、全額国内企業の「設備投資」として全額活用されなければならないのが「経済の仕組み」であり、貯蓄は天国に貯めておくものでは絶対無いことを理解しなければなりません。
そして設備投資を活発にするには、個人消費が活発にならなければ不可能なのです。
そして設備投資が活発でなければ、国内で貯蓄された資金は、海外の投資に回るか、国債を購入するか「経済成長には全く役立たない資金」になり、国内の民間市場はますます活用できる実質資金が枯渇し、ますます不況が深刻になるのです。
そして一言付言したいことは、日本のバブル経済が発生した原因は決して直接税制
そのものの責任ではなく、「不動産の買い換え特例を認めすぎて不動産購入の無限
連鎖が生じてしまったこと」「金融政策、財政政策を誤り、バブルを沈静化するど
ころか、資産インフレを見逃し加速させてしまったこと」「将来発生するかもしれ
ない相続税の金銭納付に恐怖感を覚えた納税者が不動産購入と建物建築へ走ったこ
と」などから、「膨大な資産仮需」と「資産インフレ」が生じたのが、その原因だ
ったのです。
当時取るべきだ対策は、「不動産の買い換え特例を厳しく制限すること」、「金融
政策、財政政策を不動産の仮需や在庫仮需が発生しないよう工夫しながら引き締め
ること」「国家の余った財政収入はバブルの沈静化を図るため、財政需要として使
用せず、将来に備え確保すること」、「相続税の物納を徹底して拡充し、納税の金
銭資金調達の不安を納税者から取り除くこと」などを実行すれば良かったのです。
つまり直接税制の責任では無く、何が問題なのか索敵能力が充分でなく、したがっ
て適正な運用や対策が取れなかっただけなのです。
(進化システムが作動する膨大な国民の意志に基づく政策決定方法の重要性と、弊
害ばかりをもたらす少数のエリートの理念観念による政策決定方法)
さて日本の現状の失業率は1985年(昭和60年はバブル絶頂期の数年前)の2
.6%よりも2倍以上悪化しており、株価はバブル期の1/3から1/4に下落し
アメリカとの経済的格差は言葉に言い表せないほど、広がってしまったのです。
日本の官僚や政治家が立案した国民が支持しない政策を強行した場合の、国民の経
済的愛国心の無さは当然であり、国民感情に適応していない経済政策の愚かな結末
が明確に表れています。(失業率が異状に高いドイツなどユーロエリアの理念観念
に基づく経済、税制にも、その疑念が、私にはいつもつきまとっています。)
さて当時の国会議員と官僚の皆様が個人消費への課税である消費税を導入したのは
決して不純な動機ではなく「この税制を導入した方が日本の将来に必ず良い結果を
もたらす」という未来予測を基に「理念観念」で導入したことは確かなことです。
それなのに現在「当時の未来予測が全く当たっていない」のに、これ以外ないと他
のいくらでもある選択肢を情緒的に排除し「理念観念」として更に凝り固まり消費
税制の維持は、与野党を問わず国会議員と官僚の皆様の固定観念になっております。
しかし進化システムの考え方は「結果が全ての世界」なのです。
私は「事実」として当時の未来予測が的中し「予想された良い結果」になりました
か?と問いたいのです。 まずこの事実認定をしっかり行わなければなりません。
つまり「理念観念」より「事実」の方が「真実」により一層近いからです。
日本人の大きな欠点は、いくつもの選択肢を並べて比較し、その時の状況に応じて
明確になった最悪を淘汰し、出来るだけ予測が確かな次善を選ぶという、しごく当
り前の作業を繰り返しながら微分積分的に最善に接近するという継続性のある精神
的タフネスさが無く、情緒的に一つの選択肢に凝り固まると「理念観念にこだわり」
「実質的な決定ルール遵守という進化システムの重要性を忘れ」理念観念ばかりに
固執するという精神的固さや幼さがあり、事実を基に善悪を、明確に区分区別する
精神的強さと最悪を淘汰する勇気と柔軟性と決断力が欠如している点であります。
筆者だけではなくアメリカ政府の要人が再三再四に渡り、消費税の再検討を忠告し
ているのに、「内政干渉と金切り声を上げ」忠告を無視し続けたため、現在ではア
メリカも忠告を止めてしまったのです。
つまり日本人は破滅の際まで来ないと真実や事実を理解する勇気が無い欠点がある
のです。固く考えず、事実を基にもっと素直に気楽に考えるべきなのです。
たかが人間の考えることです、失敗は付き物なのです。失敗すればやり直せば良い
のです。「失敗の事実」を素直に受け入れる勇気があるかどうか、国会議員の皆様
にやり直す勇気があるかどうかだけの問題なのです。
人間の人生も基本を遵守しながら10人10色、100人100様で本人の能力に
合わせて成功を目指せば良いのでありまして国家政策もまた国際的に遵守が義務づ
けられた基本を遵守しながら10国10色、100国100様で国民性と能力に合
わせて成功を目指せば良いのです。
もちろん失われた10年は全て無駄であった訳ではなく「どのように莫大な国費を
かけても、国家の基本政策が間違っていると、良い経済効果が現れない事実をあら
ゆる人が実感した事」や「日本の社会制度の多くの弱点が白日の下に明らかにされ、多くの事が改善された」という大きな利点もあったのです。
しかし現状を継続することは、メリットよりはるかにデメリットが深刻であり、今
後の国家基本政策を本書で述べる進化システム政策と昭和63年以前の成功してい
た税制を参考にして、全面的に見直すべきなのです。
さて本来なら当時の世論調査の結果では、消費税制は国民の7−80%が導入に反
対しているのに国会で承認されてしまったという事実は、日本の政治システムが実
質的に「進化システムになっていないという」事実が証明されたのです。
したがって本書は経済ばかりでなく、政治に対しても進化システムを導入する必要
性を声を大にして訴えているのです。
それは国民大衆の意志の単純総和の決定ルールは「理念観念に決して凝り固まらず」
その時代の「国民が幸福になるための国民環境に柔軟に適応できる現実的判断」を
下せるからであります。なぜなら彼ら自身が幸福を求め、生き残りの本能を持つ国
民環境そのものだからであります。
(膨大な数の国民で成り立つ国家経済を良好に保つには、競争力均衡化原則による
進化システム的発想で全体を有効に機能するよう組み立てなくてはなりません。)
私は根っからの自由主義経済論者であり、政治的には保守的な思想の持ち主です。
ここ十数年間エリート専門家や解説者による、テレビの経済討論番組や新聞の経済
解説記事を毎日のように見せられたり、聞かされたりしてきましたが、多くの国民
が感じているようにほとんどが「コンニャク問答か禅問答」のようで不況の根源的
原因を明確に指摘して、この政策を根本的に実行すれば財政再建にも景気回復にも
同時に役立ち経済成長が再度開始されると言った核心に迫る議論は見たり聞いたり
したことがありません。
現在では景気回復に全く役立たないこのようなメディアは見る気もしなくなってし
まった国民も多いのではないかと思っています。
したがってこれらの専門家の意見に基づく国の経済政策も目先の対症療法に追われ、膨大な国費を使用し、国の借金が増える一方で更に不況が深刻化し一向に改善の気配がありません。
したがって結論から言えば本格的な景気回復と財政再建を同時に完全に達成できる
正しい経済運営の進め方について現状の経済エリートの方々が「真の理論」を有し
ていないことが明確になってきたのです。
主張している理論も「事実」に基づかない「単純な理念観念という思いこみ」ばか
りが目立ち、全く事実に基づかない空理空論としか言いようのない意見が大半を占
め、専門家としての問題点の索敵能力に強い疑問を感じています。
その上広い学問的視野に立脚しているとは思えない木を見て森を見ない些末な議論
に終始しています。
結局正しい方針が立てられず、経済運営はその場しのぎの連続で混乱の極に達し、
その上「現状の経済政策は根本的に日本の国情に全く適応しておらず」このままで
は「本格的な景気回復や財政再建は全く不可能」であることが分かって来たのです。
その上政界、官界の大部分のエリートの方々は財政再建を達成するには、消費税の
増税以外方法がないという強迫観念に陥っておりますが、これでは経済の出発点で
ある進化システムである個人消費を抑圧し、個人消費の増進によって成り立ってい
る市場経済の拡大機能を更に破壊し日本経済のアポドーシス(自滅)を引き起こし
てしまいます。
つまり「個人消費」は結果として第三者へ所得を得さしめる行為、つまり第三者へ
カネをもたらす行為であり言葉を換えれば所得の配分行為であり日常的な助け合い
の行為なのであり「利他的行為」なのです。
したがって突き詰めて考れば消費は美徳という積もりはありませんが「個人消費」
の本質は人間の生活を支える基本行為であり「寄付して弱者の生活を支えるのと」
結果は同一の効果を生じる行為なのであり、これに間接税で課税を行って規制をす
ることは全く道徳的にも望ましくないのです。
それに対して「所得と資産」を獲得する行為は自分自身のみがカネや資産を得る行
為であり結果として「利己的行為そのもの」なのであり資本主義社会ではこれを無
制限に認めると人間社会では独り占めが発生し反道徳的になってしまうため「競争
力均衡状態の思想」(P137参照)から直接税で規制が認められる道徳的基盤が
存在するのです。
したがって少数の成功者の利己的意識をくすぐり優遇し国家政策を成功させようと
する試みは成功者でない大多数の国民を含む国家では成功はあり得ないのです。
つまり国家政策を成功させるには、人間の自ら所得を得たいとする利己的意識と他
のものに所得を得さしめようとする個人消費などの利他的意識を各々十分に発揮さ
せ全国民を各々の能力に応じ、全員に正直に誠実に勤勉に努力し、それを発揮する
意欲を持たせ、自由と平等に勝つチャンスを与えフェアーに競争させることによっ
て、全国民にとって各々の能力に応じて良い結果を出せるシステムを組み上げ、全
体として成果を出せる政策こそ、国家政策なのであります。
「競争しあいながら、助け合い協同して生活する政策」が人間という社会的動物に
最も適応していると、筆者は考えているのであります。
さて我が国経済は需要に対して供給力が大きく上回り始めた成熟経済段階に達した
のですが、それでも「与件(前提条件)無しでの完全に自由な競争」こそ経済の進
化発展のための最善の手段であると市場経済では考えられております。
それでは日本が成熟経済へ達した中で国民が望んでいる「真の経済成長の達成」や
「財政再建」を実現するためには六つの分野の与件(前提条件)から成り立ってい
る現代経済学は、現実の与件無しの競争社会にほとんど役立たないことは莫大な国
民の血税を使用した、十数年来の何度にもわたる景気回復のための経済政策の失敗
によって不況に苦しむ多くの国民が肌で知るところであります。
そこで本書の目的は多数の与件(前提条件)の上でしか、経済を説明できない現代
経済学を離れ、経済学の基本を活用しながらも与件(前提条件)無しで市場経済に
合致した経済成長を完全に説明できる理論を構築することによって「本格的景気回
復と財政再建を同時に完全に達成できる方法」を立案するため経済の現状を詳細に
分析し、現状の最悪部分を排除した「必要且つ十分な経済成長税制理論」を目指し
たものであり、「結果として根本的な唯一の解決策」として完成したものでありま
す。
そしてこの達成手段としてシステム工学で用いられている進化システムの原理を経
済分野に徹底的に活用し「進化システムであるべき経済と政治において完全に均衡
のとれた進化発展」こそが鍵であり、それを実現するためには「市場経済や民主主
義という進化システムにおいて進化システム原理が如何に完全に理解され遵守され
ているかどうか」に成否がかかり、それを遵守する度合いが高ければ高いほど結果
として持続的で本格的景気回復と財政再建を完全に同時に達成できることを発見し
たのです。
さて人間社会の全ての問題を解決する手段として、進化システムである民主主義と
いう手段がありますが謀術策に優れルール無視も平気で行う権力者や理念観念者に
よって全国民が洗脳され支配されやすい社会的動物としての人間の弱さや特性、問
題点を厳格に排除するために民主主義国家を運営する原則として参加の自由と対等
に平等とフェアーな競争(協同)ルールによって全てを決着し決定するシステムの
適正さを遵守するために、他の影響力を排除した「人間個人の独立性を実現する徹
底した規制ルール」がまず第一義的に重要となります。
つまり憲法で示されているが如く、国家は国民の幸福追求を実現するために存在す
るのであるから、まず幸福を感じるには「希望」が無くてはならないのです。
人間は「希望の達成−>幸福」のサイクルで始めて幸福を感じるからなのです。
「競争力均衡状態」の意味について解説しますと、人間を除く地球上に生存する何
百万種の生物の競争力は同種同士では、ほぼ一対一か一対二程度の競争力の差しか
ないことは生物の観察から明らかであります。
つまりどの個体でも仲間同士で競争して「勝つチャンスつまり希望」は大いにある
のです。
ところが唯一人間だけは権謀術策や経済力などを駆使し、人間同士の生の競争力の
差は、その人の地位や経済力によって一対十万倍にもなってしまう時があるのです。
それを放置すれば強大な競争力によって、戦う前から競争相手を簡単にけ落とし奈
落の底にたたき落とすことも出来るのです。
これを不合理にならない自然な生物と同じ様な範囲内で規制し競争力を均衡させ競
争して勝つチャンスを全ての国民へ与えなければ全ての国民に希望を与えることは
出来ないのです。
しかも人間は希望があれば精一杯努力出来るし、多くのものを生み出せるのです。
しかし競争する前から勝敗が明確で、全く競争に勝つ希望が無ければ、人間は努力
を放棄し、多くのものを生み出すことや、生きる希望さえも意欲も失ってしまう、
そういう特性を持った動物なのです。
そしてこの原則の裏側には「不合理にならない範囲内で国家は国民一人一人、企業
一社一社の競争力の均衡を図る原則」が常に隠されているのです。
まず自然界では強者は生命を維持する以上にはむやみに弱者を捕食しない原則によ
って競争力の均衡が保たれており、人間を集団として把握し、全体の能力を引き出
すには競争力を均衡させ「競争で勝つチャンスつまり希望を全国民、全企業へ与え
ること」が、国家の重要な機能になるのです。
この「競争力均衡の考え方」は他のあらゆる生物と異なり「同一種」に拘わらず
「理念観念」や「権力の奪取」や「大きな不正」のために、人間は大規模な殺し合
いや闘争を平気で行い得る特別な動物であり、このような社会的動物としての危険
な特性を持つ自覚が自由と平等とフェアーな競争の原則(ルール)や国家権力の三
権分立の原則、独占禁止の原則など、誠実に正直に努力する者に対して、人間一人
一人の競争力の均衡概念の発展として生み出された根源的な概念なのです。
そして、この考え方は事実として生きとし生けるもの全てに現に適用されており、
自然の生態系では、そこに住む生物の生存のための競争力の均衡が保たれていると
きに、豊かな自然が築かれるのであり、また自らの身体を考えると体内で免疫系の
白血球やキラーT細胞などが、体内に常時進入してくる害になる細菌などを識別し、血みどろの戦いを体内で常時繰り広げ、均衡を保ちながら細菌などが増殖しない状況を人間は「健康」と読んでいるのであり、もし白血球やキラーT細胞などが死んで機能を停止すると、体内で細菌があっという間に繁殖し、二日もすれば身体は腐り始めるのです。
善悪の識別と悪と識別されたものとの真剣な対応は、人間も避けて通れないのであ
り、見て見ぬ振りをすると後で大きな被害をもたらすのです。
つぎに少数の特定の権力者や理念観念者の幸福ではなく、自然な動物である大多数
の全国民の幸福を実現するには、自然の生態系である自然システムの延長線上に、
存在する「均衡論」に裏打ちされたシステム工学上の進化システムを活用すること
が、最も理にかなっており「国民一人一人と国会議員一人一人に参加の自由と対等
に平等な条件を遵守しフェアーな競争原理(ルール)で多数決で決定され立案され
たシステム(制度や法律など)の時に限って結果として力強く進化する」という進
化システム原理を有するので、日本の経済社会構造の中へ「あらゆる分野において
一人一人の人間に参加の自由と対等に平等な条件でフェアーな競争を展開できる競
争条件を整備するための徹底した規制強化を行い、つまりそのようなルールの厳格
な適用を行い」と「そのようなルール意識を醸成する政策」つまり厳格な民主主義
の確立こそが何より重要であり、人間社会においてこれが完全に実現できれば、あ
らゆる問題が時間は掛かっても「幸福を求める多数の人間の意志」と「進化システ
ム原理がシステム的に結合し」自動的に解決できるのです。
「参加の自由と対等の平等によるフェアーな競争のルール概念」も「所得税、法人
税、相続税などの直接税」も、人間社会における「競争力均衡化の思想」を実現す
るための手段であり、これこそが人間の本性に潜む利己的意識と利他的意識を適切
に引き出し、人間社会を進化発展させる手段としての進化システムの根源なのです。
これに対して参加の自由に対する規制や妨害など、何でもありの自由や特権を容認
する何でもありの平等やルール無視の何でもありのルール不存在の競争などは、
「競争力均衡化の思想」に役立たず進化システムも機能しないのです。
逆に所得税などの直接税は、所得=消費+貯蓄の経済公式から明らかなように実質
的に消費と貯蓄に平等に課税し、課税最低限以下の低所得者には、消費にも貯蓄に
も課税を免除し消費に対する参加の自由を促進し、それ以上の国民に対しては所得
に応じた税率で消費にも貯蓄にも「平等に課税」するから悪影響が生じないのです。
官僚のキャリアーとノンキャリァーの問題も「国家目標は、憲法で明示するが如く
国民の幸福を追求する権利を実現することだ」という大命題を正確に理解していな
いことと、少数の人間に特典を与え官僚組織内で政策立案の公正な競争が行われて
いない結果、国民に目を向けた良い政策が立案されて来ないのであり、また財政負
担ばかりが増加する特殊法人の問題も特殊法人を運営する少数の人間に特典を与え
民間企業との間に公正な競争が行われていない結果にすぎないのです。
そして政治の分野では国会議員に公正な競争を行わせる環境が整っていないため、
国民環境に良く適応した国家目標を達成する良い政策が生み出されないのであるし、「民主主義という進化システムである政治」に全国組織の強力な政党や特定の権力者という、国家目標を達成するために自由な公正競争を行うべき国会議員を「制御する制御機能としての規制が混入している」ために、「日本の社会経済の進化システムの作動が弱まり」進歩発展が大幅に遅れているのです。
そして経済の分野では「進化システムである個人消費」に税で規制を加えている結
果が現状の大規模不況の到来なのです。
「進化システムである個人消費への徹底した規制緩和」こそが本格的景気回復と財
政再建の基本であり完全達成の鍵なのです。
そして非進化システムの所得には、規制を強化しても何ら経済には悪影響はないの
であり、したがって逆に言えば「非進化システムの所得を規制緩和する大幅減税を
行っても、財政負担が増加するばかりで、その経済効果は他の財政支出方法と殆ど
変わりないか劣ると考えられる」からです。
その理由は所得のほぼ全部を消費に回さざるを得ない消費性向の高い低所得者には、減税の恩恵は全く受けないか、わずかしか受けないのに対して、減税の大部分が元々所得の一部しか消費を行わない余裕のある消費性向の低い高所得者への減税となり、減税分が個人消費へ全額回ら無い上、もし減税をやらず財政に余裕を持ち、その分有益な公共事業を行えば、その分全額が消費性向の高い中低所得者層の人件費として配分され、個人消費が増加するからです。
つまり直接税(所得税・資産税)の減税は通説と正反対に景気浮揚に殆ど特別の効
果は無い上、高所得者に多く恩典を与える直接税の減税は社会の不公平感を助長す
る悪い政策と考えられます。
したがってアメリカのブッシュ政権の大規模減税も上記の理由から、その財源を他
の財政支出方法を採った場合と比べて特別に有効な景気浮揚策にはならないのであ
ることを理解しなければなりません。
もちろん若干の期間、景気回復効果があるように見えますが、継続性が全く無く、
人間の利己心に頼った政策であり逆に国家全体としては個人消費性向の低下を招き、持続性が乏しく景気回復の糸口になっても財政が悪化する対策であります。
クリントン政権が取った個人の懐の痛みが伴う利他心を強制する政策(所得の高い
階層を中心とした直接税の増税)こそが巨大な国家機関を活用し個人消費性向の国
家全体の向上(これこそが高所得層が未来に更なる所得を獲得する基礎になる)に
なる高所得層から低所得層への所得配分を実現し個人消費の増進による「景気回復
と財政再建の両者同時達成を目指す自己回帰的な継続性のある対策」なのです。
しかし現状のアメリカの不況は景気循環に過ぎず、どのように深刻になろうとも個
人消費や政治の進化システム自身は健全に作動しているので財政悪化を気にしなけ
れば減税も景気回復のための一つの政治的選択肢であり、どのような経済政策を取
ろうと、回復の強弱はあるにしろ、いずれ景気は回復するのであり、そこが進化シ
ステムの作動がほとんど停止状態のため景気回復が困難で下限が見えてこない下方
の均衡点へ向かって景気後退中の日本との大きな違いなのです。
さて進化原理では小集団の方が「進化スピードが早いという原則」があり、現代日
本のように意図的に必要以上に企業合併や持株会社政策を推し進め、小さな企業を
つぶし巨大企業形成政策を取ることは、寡占化を招き長期的には「進化の発生確率
低下させ、つまり進化の芽をつぶし」「企業の進化スピードが極端に遅くなること
は確実なのです。」そして寡占による競争力の低下現象がいずれ発生するのです。
つまり「構造改革問題」も日本のあらゆる分野に渡る人間一人一人と企業一社一社
につき国内的にも国外的にも「参加の自由と対等に平等な公正競争の実現」と「進
化システムをより強力に作動させるための進化システム化への徹底した規制緩和」
と「非進化システム分野の国民の幸福の追求に反する部分の徹底した規制強化と、
そうでない部分の規制緩和」を計るという視点で行うことが大切なのです。
現代経済学が必要とする6分野の複雑な前提条件とその経済学的効用の限定さと比
べ「自由と平等と公正な競争という進化システムの作動条件は何とシンプルで、何
と奥深いことでしょうか」、そして「その時代の人間の幸福の追求の努力とシステ
ム的に結合し、あらゆる分野に渡り桁違いの効用がある」のです。
そして重要なことは何が進化システムで何が非進化システムであるかの区分区別の
問題なのです。
そして進化システムの本質は特定の理念や観念をもたずフェアーな自由と対等に平
等な条件に基づくルールのみを持ち、「変異」を認め「変異が競争に参入して結果
として進化が起こる」構造を持っているシステムであり、競争の結果の優劣を判定
するのは、地球環境に囲まれた膨大な数の人間環境である国民に帰着することを決
して忘れてはならないのです。
自分で判断し結果は良くも悪くも全て国民に帰着するので、国民は自ら判断して生
じた結果を謙虚に自ら受け止め、一層現実に適応した計画に再改善して再提案する
という最善に対して微分積分的に接近するのです。
これによって国民は自らの判断を常に反省し経験し学習し逞しく成長するのです。
したがって全ての国民を幸福にする正しい政策を選択するには、特定の個人や組織
の影響力を排除し「人間である全ての国民や国会議員のフェアーな自由と対等に平
等な条件を厳しく守ることが唯一必要であり、これに基づいて各人の良識と良心に
基づく利己的意識と利他的意識を合わせ持ち強い生き残りの生存本能を持つ国民や
国会議員の意志の単純表決による判断で選択された政策がその時代その時代の国民
の人間、地球、時代の環境に総合的に適応する正しい政策」になるのであります。
したがって人間の自由と平等以外の固定的な理念や観念などは重要でないのです。
「進化システムの考え方の基本は国民に全ての情報を公開し国民を信頼し国民に判
断を任せて国家は行動する」というルール原則で貫かれているからであります。
さて人間社会のシステムは重層的構造を持っており、実際の社会構造は非進化シス
テムと進化システムが入り混じった状態になっているのであります。
しかも進化システムは意識的無意識的にかかわらず、ほとんど全てが目的論的に構
築されており、その最終目的は全て人間の幸福の追求や生き残りの追求や好奇心の
追及という人間の本能を達成するための目的に収斂しているのであります。
したがって進化システムも上層から下層まで、いくつもの進化システムや非進化シ
ステムが重なり合い、絡み合って全体の進化システムが作動しているのであります。
しかしその進化システムそのものに規制や抑圧が混入すると、全体の進化システム
の能力は低下し、進化発展のスピードは急速に落ちてくるのです。
逆にそのシステムが現実に非進化システムであり且つ規制することの方が国民の幸
福(道徳)追求に役立つものであれば規制することは一向に差し支えないのです。
この場合は進化スピードに悪影響は全く無くやり方によっては本文のように逆に進
化が促進される場合もあるのです。
ここに物事の一つ一つにつき国民の幸福のために真に役立つかどうか区分区別し
「規制緩和と強化の両者の必要性」があるのです。
さて進化システムはその本質から人によって作られるシステムであるのにかかわら
ず、これを誰かが制御し結果を左右できる構造を持ちこんだ瞬間フェアーな自由と
対等に平等な競争(協同)が出来なくなるのでそのシステムは進化システムではな
くなってしまうのです。
つまり「フェアーな競争」は「参加の自由」がなければ成立しない構造なのです。
したがって「参加を禁止」したり「各種の手法で参加を規制したり妨害したり」す
るとその分野が基本的に進化システムであっても進化は停滞し混乱し進化発展の度
合いはそれに応じて急速に低下するのです。
ゆえに現代の経済学に基づき、エリート達によって莫大な国家予算を使用して実施
される「財政政策」「金融政策」は本来「経済政策の微調整手段」に過ぎず、経済
システムを進化システムに改善しない限り抜本的対策になり得ない現実をエリート
達自身認識していないことが大問題であり「莫大な予算の使用の割にはほとんど根
本的な効果をあらわしていない」ことは既に多くの国民が知るところであります。
そこで日本国憲法が定めている国民の幸福を追及するという幅広い権利の第一歩と
なる成熟経済に達した日本経済の再成長を実現するためには、狭く研究対象を限定
した現代経済学ばかりに頼るのではなく広く哲学、進化論、人間行動学、システム
工学、心理学、物理学、生物学、社会政治学、経営学、会計学、税法、歴史学など
多様な分野の学問の力を借り「日本の経済成長システムを進化システムへ再構築す
るのに役立ちうる基本的な考え方」を総合的に取り入れ「日本の経済社会の進化と
経済成長を確実に実現できる基本的な進化システムへの改善を目指し」「結果とし
て財政再建を実現する国家システムの構築を目指す」真に役に立つ成熟経済におけ
る経済成長税制理論を構築することを心がけました。
そして「経済成長現象を一貫して完全に説明できる本書の経済成長税制理論」で経
済システムを進化システムで再構築すれば自らの力で力強い再生と復活が可能です。
さらに国民が規制すべきとする環境問題等における「問題商品の消費や生産の個別
規制強化を進んで行いながら新規開発商品の競争条件を整備し」国民の未来の生活
に貢献する新経済システムを目指しているのです。
そして本書は人間を生物学的側面と精神的側面の「連続」として捉えております。
更に国家に実在するのは人間である国民のみであり、組織や企業は法的概念でのみ
しか存在しないのであるから進化システムの働く真の民主国家では「国家は国民に
とって真に役に立つ機能的な存在であるべき」とする機能的国家論で本書を記述し
ております。
そしてあくまでも国民にとっての機能的国家観であるので、国家機能の色々の分野
において、機能的を強調する余りその分野の専門家に事実上の決定権を与えてはな
らず、あくまでも国民の代表者である国会議員と国民に事実上選ばれた内閣が決定
権を持たなければならないのであり、最も良い実例が軍事部門の「文民統制の原則」であります。
国家が国民にとって機能的な存在である以上、国家は一般国民の良識、常識、善悪
の判断で運営されなければならないからです。
軍事における生死の判断でさえ基本的な判断は軍事の専門家(現場の将軍、司令官、参謀など)ではなく、素人の総理大臣に委ねられているのです。
これこそが国民の正しい自己責任を伴った民主主義の原則なのです。したがって専
門家はその分野で素人である国民や国会議員や総理大臣に対する良き助言者として
振る舞わなければならないのであり絶対に決定権を有してはいけないのです。
ここで問題となるのは現代の日本の国家官僚組織に組み込まれている各種審議会、
委員会の事実上の役割でありますが決定に影響力を絶対に持たせてはならず、全て
良き助言者の役割を与え決定責任は、内閣と大臣と国会議員とそれを支える官僚で
あることを明記しなければなりません。厳に各種審議会、委員会が決定責任の隠れ
蓑になってはならないのです。
これを厳格に守ることが責任感の強い、経験豊かな良き内閣と大臣と国会議員と官
僚を育てる原点になるからです。
したがって本案の重要な点は日本の本格的な景気回復と財政再建のために、大規模
な財政支出などの必要性は全く無く、市場経済の進化システムの作動条件を強化す
るために単に税の課税方法を間接税中心から直接税中心へ復元を求めていることと、国家の経済と政治について進化システムへの自己変革を求めている点であります。
戦後43年間経験済みの直接税制主体の税制に復元すると、変更直後は税収増はプ
ラスマイナスゼロとしても程なく時間の経過と共に経済成長が再開され国民所得が
増加し、同時に超過累進税率であるため、消費税導入の大きな原因になったマスコ
ミが愚かな直接税の大減税キャンペーンを実施しない限り「自動的に税収増による
財政再建」が達成出来るのです。
いずれも困難な努力はいりますが、子孫に借金の負担をかけないカネのかからない
対策で本格的景気回復と財政再建が同時に実現できるのです。
ただ消費税は人間の利己的意識に強く影響を与える極めて気むずかしい税金であり、増税しようとするとその増税の直前に駆け込み需要が起こり一時的には経済が好転したように見え、逆に全廃しようとすると、その直前に買い控えによる一時的な不況が起こる逆転現象が表れるやっかいな性格を持っている税なのです。
しかし少したてばその税制の国民経済に与える本来の効果は明確に表れるのです。
つまり自らの経済システムを進化システムの度合いが高いシステムへ改善すれば経
済成長が自己回帰的に自動的に再度開始することを、まず学ばなければなりません。
しかも本案は地球の有限性を視野に入れ、政治にも進化システムを導入することに
よって経済成長の方向性までコントロールできる「政治経済統合進化システム」を
提案しているのです。
つまり国家経営は常にその時代に適応しようとする、その時代の多数の国民自身が
解答を持っており「参加しフェアーに競争し最も現状の国民環境に適応した正しい
結果を選択すること」が進化システムのポイントなのです。
つまり「その時代の生存環境である地球環境に適応できた生物だけが生き残り進化
するのが、自然の生態系の自然システムによる進化なのであり」全く同様に「その
時代の人間環境である国民環境に適応できた政策だけが生き残り、更に国民環境に
適応して競争に勝ち残って進化発展していくのが本書が明示した進化システムによ
る政治経済政策の進化システム論」なのです。
国民環境に適応できず悪い影響を与えている政策は全て捨て去り、国民環境へ良い
影響を与え適応している政策は進化発展させなければならないのです。
したがって本書以外の国民が望まない経済政策は常に失敗が待っているのです。
ここ12年以上の不況の連続の原因は日本の社会慣行や人間である国民の、心理や
感情の重要性も考慮せず、進化システムの原則に背き、その時の国民の強い反対を
押し切りエリート達の判断ミスにより平成元年に理念観念によって無理やり取り入
れた「進化システムである個人消費に規制・抑圧を加える政策」による「結果とし
て総需要抑制政策としての消費規制税制の導入による大規模な人災」なのです。
したがって財政再建も景気回復も達成できない既成税制理論や固定観念による洗脳
から、まず根本的に脱却しなければなりません。
つまり人間によって営まれている経済は「全く制御不能な神の手に握られているの
ではなく」「経済は人間の手による人為的な現象である以上、進化システムを規制
せず妨害せず遵守すれば進化発展の強弱のアクセルや方向性のハンドルは人間によ
ってしっかりとコントロール出来る」のです。
したがって役立つとは思えない空理空論や神学論争は紙面の無駄になりますので徹
底して避けるように努めました。
経済の進化発展を保証する進化システム原理とその根底を為す正しい自由と平等と
公正競争概念の詳しい解説については、この結論の要約の後段に記載しております。
(研究すべき対象としてのアメリカと米国の国会議員の仕事ぶりと進化システム)
さて前置きはこのくらいにして、筆者が追い求めていたものは、アメリカが何故、
数千年もの歴史があり社会的インフラを年月を掛けて整備してきた先進国と比べて
荒野の中からわずか224年前にやっと独立した後進国が、あっという間に全ての
歴史ある先進国を追い抜き経済的にも総合力としても世界一の超大国になり得たか。
アメリカのように国土が広く多民族、多文化、多言語の国家は地球上に数多くある
というのに、何故アメリカだけがの思いが強く、その秘密を探ることに情熱をかけ
ておりました。
アメリカ国民一人一人の平均値の能力や勤勉さと日本国民一人一人の平均値の能力
や勤勉さを素直に比較してみると、日本人は決してアメリカ人に劣っていないと私
は強く実感しています。
同様なことはイギリス人もドイツ人もフランス人もイタリア人も感じていることと
思います。
そしてアメリカの多民族、多文化、多言語で地方分権国家というシステムは我々単
一民族、中央集権国家から見ると非効率の典型に見えます。
それではアメリカの指導者が特別に優秀だったかと言えば、アメリカ国民が選んだ
のは、エリートではなく二流の映画俳優だったレーガン大統領、女性問題で度々裁
判沙汰を起こしたクリントン大統領、若いとき大酒のみであったブッシュ大統領で
あり、とてもアメリカが超大国になり得た理由を説明できるものではありません。
しかし私はこれらの大統領の誠実で正直さの中にも、優れた駆け引きの才能と政治
的能力を見抜くエリートには無い大衆の目の確かさを、常に感心しているのです。
そしてこれらの大統領の実行した政策の結果は決して平凡ではなく、歴史に残る非
凡な成功を収めているのです。
これは指導者である大統領個人の資質というよりは国家や国民が持つ根本的な哲学
や思想が非効率さを乗り越え「問題点を正確に把握し、それを解決するために個々
の国民の能力を集団としてシステムとして最大限度引き出す国家統治システムの非
凡さ」にあることが徐々に分かってきたのです。
私は学問的には素人であり筆者の理論は色々の学問の間に存在する埋もれた部分か
ら取り出した「コロンブスの卵のような種を明かせば何だこんな事だったのかとい
う理論」なのですが非常に基本的で国家経済の発展に役に立つ重要な理論なのです。
その根本はアメリカは「後述」の「大量の国民を集団として扱うシステム工学上の
特殊な原理」である「進化システムをあらゆる国家統治システムへ厳格に活用して
いた国家」だったのです。
システム工学上システムには「大部分の非進化システム」と「特殊な進化システム」が存在するのです。
進化システムとは「人間の特性や本能を利用して、システムそれ自身が誰に命令さ
れるわけでもなく勝手に自分自身で進化発展していくシステム」を進化システムと
定義しているのです。
この場合進化システムの重要な要素に「競争」(必要なときは協同。以下同じ)が
あるところから、人間という権謀術策に優れた人間に対しては競争の前提となる
「参加の自由と対等に平等なフェアーな競争条件が不可欠に必要な事が目からウロ
コが落ちるように分かってきたのです。」もちろんアメリカは進化システムを意識
して国家統治に活用しているわけではなく、移民国家であるアメリカ建国の精神
「参加の自由と対等に平等な条件のもとにフェアーな競争(協同)で物事を決着す
る精神」こそが正に進化システムの基本要素そのものだったのです。
したがってアメリカの経済を始めあらゆる制度が進化システム的であり、それこそ
がアメリカが超大国になり得た理由だったのです。
各界のトップエリートになればなるほど政治的な人物にならなければなりません。
政治的とは視野が広く、究極的に国民全体のことを真に心に掛ける利他的意識を強
く持つ人格のことであります。
特にアメリカの「国民の声を代弁する国会議員の一人一人の独立性の確保」は政党
に支配管理されないゆえに、国民のみを見据えて事実のみに基づき理念観念に基づ
かない国民環境に良く適応した政策(ルール)を国会議員が次々に選択し且つ時代
に合わなくなった政策を次々に淘汰し自分勝手に進化発展する判断に誤りが少ない
進化システムである政治システムが存在し、そのことがアメリカの社会経済の急速
な発展に極めて役だっているのです。
そしてアメリカ国民は、立案された法律や政策へ「どのように国会議員が賛成、反
対を表明し、どのような努力をしたか」を全て情報公開し、それを参考にして個人
別に国会議員の行動や考え方を把握し、それに基づき選挙によって投票するという、完全な事実に基づく間接民主主義をとっているのです。
アメリカの政党には全国組織が存在せず、党中央も党委員長も党代表も党首も存在
しない、国会議員に対する政党の束縛が極めて微弱な、世界でも全く特異な進化シ
ステムである政治システムを持っている特別な国なのです。
これはアメリカ建国の歴史が反映した結果であり、別に進化システムを意識して作
り上げた政治システムではありませんが、結果としてこの政治システムは進化シス
テムなのです。
したがって政党は存在しても国会議員の個別の意志を決定的に束縛できない政党シ
ステムになっているのです。
スポーツ界を見てみると大リーガーに負けない活躍が出来る野茂投手やイチロー選
手、佐々木投手を日本が輩出できるのも、日本の野球界が高校野球、大学野球、プ
ロ野球をしっかりと発展させ且つ膨大な野球人口の母集団の中から「個人に対して
広く参加の自由と対等な平等を厳格に遵守し」そこで「フェアーな競争」が出来る
「システム」を永年維持し、多くの失敗や成功の経験を重ね試行錯誤繰り返す事に
よって大きな失敗は減少し、少しづつ最善へ近づき、自然にほおって置いても世界
に通用する名選手が生まれてくるのです。
現状の民間経済の発展も、サッカーの発展も同様なのであり、更に世界一までに発
展した日本の生産技術も同様なのです。
しっかりしたルールを作れば、良い結果は必ず手に入れることが、出来るのです。
したがって政治にも「国会議員個人に参加の自由と対等に平等なフェアーな競争を
させるシステムを作る重要性」があり、そこに「日本の社会経済環境へ適切に適応
できる最善へ近づく社会経済システムが作られる基礎」になるのです。
それが日本を未来に渡り「進化し発展し世界に貢献できる日本を作り上げる原点」
となるのです。
たとえば国家が自由貿易体制を言い訳にして「貿易収支ゼロ政策」という不可能に
対する挑戦を行わず「円高という価格面での不平等競走条件つまり個別企業にとっ
てフェアーではない競争条件」を放置したために、結果として現状の価格競争に勝
ち残りたいとする企業によって「日本の技術者が艱難辛苦をなめて作り上げた最も
大切な世界一と言われている最先端の生産技術やデーターまで」タダ同然で他国に
移転して結果として自己回帰的に日本の生産者を苦しめているのであります。
つまり企業としてはやむを得ない行動なのでありますが、それをコントロールすべ
き国家が怠慢なのです。
さてアメリカ議会における一年間の立法案件の提出件数は10000件にも及びそ
のうち成立件数は300件程度、成立率3−4%であります。
アメリカでは法律案件の提案権は国会議員にのみにあり、一人でも簡単に提案可能
であり、国会議員は国会に対して参加の自由と対等に平等でありフェアーな競争で
成立を目指すことが規定通り定められているのです。
フェアーなスポーツの試合のように、そこに政党の話し合いや協議や談合は少なく
国会議員個人の良心良識に基づく真に国民の為に役立つものか常任委員会でまず審
査され、9割が審査で淘汰され、残り一割が本会議に掛けられ個人として賛成、反
対の意志を表明する単純表決で機械的に良いものは良い、悪いものは悪いと決定す
れば良いのであって、これによってアメリカの国会議員はドンドン仕事をこなして
膨大な量の法律案を処理決定していくのです。
したがって成立率は低いとは言え、殆どの国会議員が良いと考えれば、どんな法律
案もアッという間に決定されるのです。
アメリカの国会議員は民間の経営者が行っている日々の意志決定と全く同様に機械
的にその良否を決定しているのです。
それに比べて日本では年間の政府・議員合計の提案数250件、成立件数150件
位であり国会議員個人が良い悪いで決めるのではなく、憲法にも定められていない
国会の議決の投票権も無い政党という組織の事前の根回しや話し合い、協議、談合
などの政治的な交渉に長時間をかけて決定しているのです。
如何に日本では国会内に日本国憲法に定められた正規の内部競争ルールが働いてい
ないのかの歴然とした証拠なのです。
これでは成熟経済に達した日本では政治経済の進化システムは全く機能しません。
その上日本では多くの利点がある議院内閣制を取っているため、アメリカでは認め
られていない多数の官僚を抱える政府提案が全体の50%年125件位あり、最近
著しく増加しているとは言え議員提案は50%年125件位なのです。
これから明らかなように600名弱のアメリカの国会議員は年間10000件の提
案を行っているというのに、700名強の日本の国会議員はわずか年間125件の
提案を行っているのに過ぎないのです。
これは驚きを通してあきれるほどであり、提出ルールに問題があることを示してお
り、民間では一般企業でも年間10000件程度の改善提案をこなしている企業は
ザラにあるのです。
どちらの国家が改善提案をより多くしているか、より国会議員が立案や淘汰や選択
のために働いているかは一目瞭然なのです。
これらの事実から分かることは、日本の国会内のルールが「固定的な理念観念を優
先し」「議決を通すための質ばかり追い求め」、「問題意識を持った提案が議論の
対象にもならず闇に葬られると言う」国会議員には対して参加の自由と対等に平等
とフェアーな競争原理が全く生かされていないという事実であり、法律は形式的で
あり事実として国会議員の立法機能という中身が実質的に殆ど機能していないので
あります。
日本の国会議員には一人では全く法律案を提案する事も出来ず、提案するには色々
な規制がついており、完璧さばかりを要求し試行錯誤の大切さが理解されず、参加
の自由が無くしたがって日本の政治経済の進化スピードが極端に遅いのも、これが
最大の問題なのです。日本の悪しき政治慣行は改善しなければならないのです。
さて国会は競争原理が働く法律案件の立案、淘汰機能を持つ淘汰機関でなくてはな
らず「淘汰」とは多数の中から、多くの不完全な提案を排除し最善の選択に近づく
作業であり、経験的に言って、その成立率は数%で当然なのであります。
また成立率が60%程度と高いのはフェアーな競争での成立ではなく、「通過させ
ることを目的とした恣意的な談合による成立」を強く予測させます。
またマスコミも愚かにも成立率の高さを、その内閣の力量の如く報道する姿勢にも
「フェアーな競走による淘汰の本質を全く理解していない報道姿勢」が強く感じら
れます。
しかもマスコミの政党間の話合いによる決着を強調する姿勢は談合による決着を奨
励しているのと同義語であり絶対に止めるべきです。
要するに決定は話し合いで決めるべきではなく、個人個人の国会議員が自らの良識
と良心によって、最高裁判所の判事のように国民と支持者の意向を代弁し多数決で
決定すれば良いのです。
協議や話し合いによる決着は過ちの元なのです。結局協議や話し合いを続けるため
の判断の極端な遅さは、国会議員が働いていないのではないかと疑われても仕方が
無く、他国を良く研究し根本的に改善しなければなりません。
仕事が少ないから国会で法律案と全く無関係な無意味な議論を長々と行っているだ
と思われても仕方がありません。
本来日本の法律は筆者の経験では固定的理念観念を優先しているため「自由と平等
とフェアーな競争が無視されている条項が極端に多く、その他にも改善すべき点が
無数にあり」、少なくともアメリカの提案件数の十分の一、年間1000件位でも
良いので改善提案を最低毎年行って至急改善して欲しいと思っています。
「試行錯誤こそ最善へ近づく手段」なのであり、実行しやすいシステムを考えるべ
きです。そして採決は進化システムに基づく個人意志の良心と良識による、単純採
決を行えば良いのであるから、自派閥内も自政党内も対外政党間の交渉事も極めて
少なく、1000件など難なく採決できるのです。
したがって本書では詳しく述べておりますが、通説と全く異なり「国会議員への参
加の自由と対等に平等なフェアーな競走環境の整備」と「法律を現実に適応する改
善の政府提案のために当面、中央官僚を二倍に増員」し官僚間の競争激化を提案し
ているのです。
つまり情報の本質である「提案は質より量」なのであり多くの量の提案が競争する
所に向上があるのです。「日本のあらゆる分野のトップエリートの最大の欠点は情
報(事実)に質を求める」とんでもない間違いを犯している点です。
情報の本質は「量」こそ命であり、コンピューターのCPU(中央演算装置)の性
能も、実は「情報量」の処理能力を表示しているのです。膨大な情報量の中から情
報処理を行い、質の良い情報を区別し判別して評価することこそ、トップの仕事な
のです。
トップが始めから情報の大まかな判断を部下に求め、些細な情報を耳に入れようと
せず、部下に情報の判断を委ねてしまい、耳障りの良い重要な情報だけを得ようと
するところに日本のトップが常に過ちを犯す原因があるのです。
戦いにおいて決定的に重要さが確認された情報は、実は手遅れな情報であり重要な
情報では無いのです。
些細な情報から、確認される前に今後起こりうる確定的な結果を予想することが、
重要なのです。つまり「先んずれば人を制す」の格言が情報の命なのです。
日本でも優秀なトップは机の上の報告書のみに頼らず、自分が現場に出向き膨大な
情報を集め自分で情報を解析し判断するのです。それこそが優秀なトップなのです。
些細な情報が実は重大な徴候の表れであることは常に現実に起こっているのです。
日本の敗戦の転換点となったミッドウェーの海戦でも、日本の敗因は色々言われて
いますが、根本はアメリカ軍のトップが執念を燃やした些細な情報(事実)の積み
上げによって日本海軍の狙いが、実はミッドウェー島であることを事前に7−80
%確信し待ちかまえていたのです。
ところが日本軍は自分たち自身が極秘行動をしていることを過信し、アメリカ軍を
90−100%奇襲できると、勝手に思いこんで油断していたのです。
アメリカのトップによる情報観つまり些細な事実を重要視する考え方と日本のトッ
プの情報観つまり些細な事実を軽視する考え方との大きな格差が決定的な場面で常
に「結果の重大な格差」として表れるのです。
さて政治の進化システムを実現するには、国家議員が有権者を代表して個人の自由
な意志で、他の国会議員や政党からも影響を受けることなく真に国民に役立つため
に、対等に平等に賛成、反対を意志表示する真の競争をしなければ進化システムは
作動しないのです。
そのためには政党や派閥内で行われる現在合法とされている全ての金銭の授受を公
職選挙法が適用されている国民と同じレベルに規制する政治資金規制法の法律改正
が必要なことと党議拘束など全ての国会議員の意志に影響を与える行為の規制や禁
止の立法化を促進しなければなりません。
政治は特別な事をやっているわけではないのです。国民に役に立つ仕事を、効率的
にドンドンやるべきなのです。失敗があれば素直にやり直し、最善近づく努力をド
ンドンするべきなのです。
うらやましい事にアメリカの国会議員には「独立性の強い自由と平等が存在し、さ
らに法律立案のプロ意識とフェアーな競争における誰にも影響されない純粋に個人
の単純多数決による決着精神が存在するのです。」そして「個人消費に対する規制
の弱い税制と直接税中心主義」の税制は「元々消費好きの国民性で個人消費という
進化システムに弱い規制しか存在しないため、放っておいても個人消費は拡大し」
また直接税中心主義は高所得の個人、法人から徴収した税収を国家機関を通じて低、中所得個人、法人へ所得を配分する実質的効果があり消費性向が低い高所得者から徴収した税収を消費性向が極めて高い低所得者へ分散し、更に「寄付」という巨大な民間所得分配機構の存在が、国民全体の消費性向を強く高めている結果、アメリカ経済は不死鳥のようによみがえるのであります。
(進化システムのポイントとシステムの増殖原理の解説)
「進化システムは、その特性上最も自然に近い人工システム(制度・法律など)で
あり」「進化システムはその時代時代において、国民が良いと思うことは、規制せ
ず自由にドンドン実行させ、国民が悪いと考えていることをドンドン規制すると、
進化が自分勝手に良い方向へ進化発展するのが進化システムの特徴なのです。」
経済環境として機能する国民が悪いと考えていることを規制しなかったり、別に悪
くないと考えていることを無理に規制したりすると、進化システムに反して悪い結
果が生じるのです。
したがって良いことは規制せず、悪いことは規制するという区分、区別がしっかり
していなければならず、何を規制すべきかを決めるのは「参加の自由と対等に平等
のフェアーな競争」で投票する国民と国会議員だけなのです。
そこで時代時代の激変する環境にしっかり適応し豊かに増殖し進化する「生物進化
の基本となる自然システム」には基本的で重要なルールが存在し、そのルールは人
工進化システムにも必須条件となり「競争への参加の自由」「同一種内の対等で平
等な競争(内部競争原理)」「食物連鎖原則(外部競争原理)」「競争力均衡化原
則(強い動物でも自分の生命を維持する以上は捕食しない原則)」「システム内循
環原則」「突然変異の競争参加」の厳格なルールの中で「生存競争」を繰り広げ
「制御せず自然に任せれば」時代時代の地球環境に適応し進化システムは自動的に
強力に進化繁栄していくのであります。
それでは進化システム原理を完全に満たす4つの条件とは何であろうか。
日立デジタル平凡社の世界百科事典から引用すると
1.遺伝子を要素とするシステムとして遺伝子型が存在する。遺伝子型は対応する
個体(表現型)を作りだし、表現型は遺伝子型の複製の場になる。
2.遺伝子型のシステム構造は変異する機会がある。
それは遺伝子型と表現型の形質の変異を引き起こす。
3.表現型の間に資源獲得競争が存在する。 競争は「優劣の結果」をもたらす。
それは遺伝子型の間の自己複製頻度の「競争」に他ならない。
4.生態系を支える外部資源が存在する。
つまり「外部資源を活用し」「自己複製という自己増殖構造を持ち」「変異しなが
ら」「変異も競争へ参入しつつ結果として環境に適応したものが勝ち残り進化する」という4つの機構を持つシステムが進化システムなのです。
人工の進化システムの場合は人間の持つ、より良い生活を求め幸福を追求する本能
や結果として生き残りたいと考える本能、好奇心の本能などを活用して人間の意志
と努力が加わると「更なる増殖拡大性」が生じ、そして自己回帰性、自己決定性、
反復性ならびに変異の容認性と競争による優劣の決定機構を持つことによって無か
ら有を産み出し最悪を排除しながら最善へ微分積分的に接近する手法なのです。
進化システムはシステムがそれ自身を作り出すことから、分野により自己組織シス
テム(組織論)、自己創出システム(生物系)、スーパーシステム(免疫系)など
色々の呼び名があり、現代ではその活用が急速に進んでいます。
さて更に人工システム(法律・制度・基準など)開発上のシステム作成の指導的原
理は以下の5点であります。
1.初期目的の達成度 2.社会的受容性 3.環境変化への適応性
4.機能性能の拡張性と柔軟性 5.経済性と信頼性
そこで国は膨大な数の国民に適用する一つのシステム(法律、制度、基準など)を
作り上げた場合又は作り上げる計画がある場合、上記の5点の「システム作成の指
導原理一点一点」について「条件を満たしているか」を常時チェックし、評価し、
反省し、改善し、新たに測定し、予測しなければなりません。
これが膨大な数の国民をシステム的に統治せざるを得ない国家が為すべき最も重要
な作業なのです。
ここが日本の政治・官僚組織に最も問題がある点なのです。
さらに現代において最も注目されているものに人間社会生活にとって真に役に立つ
「進化システム」があります。この進化システムには自然生物を作り上げた「自然
システム」ばかりではなく、人間が人工的に作り上げた「人工システム(法律、制
度、基準など)」にも原理原則さえ厳格に守れば多くの大規模な成功例があり社会
の発展進化に極めてすばらしい成果を提供しているのです。
(進化システム例) <―――――> (非進化システム例)
1.個人消費・設備投資 1.所得(国民所得)
2.市場経済 2.計画経済
3.大衆主導の民主主義国家 3.真の全体主義・真の共産主義
(いずれも究極の官僚統制国家)
4.科学技術 4.事実と遊離した理念・論理・迷信
5.インターネット 5.管理主体がある商用情報システム
進化システムの作動メカニズム以下の通りであり、守るべき原理原則としては
1.進化システムは目的(理念や観念など)を持たず、進化の「過程つまりルール」
だけを持つ。
したがって人により作られたシステムにもかかわらず、特定の個人やエリート
と言えども直接制御出来ないし、してはいけない構造を持つ。
(つまりスポーツのルールと同じ)
2.進化は変異が起こり、変異が「競争」に参入し「結果」として進化が起こる。
(つまり「結果が真に良ければ」すべて良しなのです。)(また変異とは積極
的に試行錯誤を行って改善し経済環境に適応するかどうかを確かめるという哲
学的意味が含まれています。)
3.外部環境、内部状態の変化に対してシステム全体として柔軟に適応し頑健。
4.システムの一部が競争による淘汰圧力からはずれたとき、その部分は爆発的に
増殖する。(進化システムにはバブル発生の可能性あり。反対目標の必要あり)
5.分化と系統が発生する。(完全な進化システムは必ず増殖成長進化し、分化や
系統が発生するので、人間の個性や文化の多様性が発揮されるシステムである。
したがって発展成長進化しない場合は、その進化システムのどこかに欠陥があ
ると認識して差し支えない。)
つまり進化システムとは人間環境に対して良く適応する判断をどう次々と発見する
かの手続きのルールを定めたものとして考えられたものであり一つが「組織同士の
外部競争方式であり、もう一つが構成員個人による内部競争方式」なのであります。
「外部競争方式」は競争環境にある組織体同士の競争方式であり、「内部競争方式」は独占組織に適用される組織体内部の構成員個人による競争方式のことなのです。
いづれも競争とは現実の経済環境(全国民の)に適応接近しようとするための手段
がその本質なのです。
そして人工システムは「進化システムであるときに限ってシステムとして強力に発
展する」特徴を有しているのであります。
そして進化システムは時間が掛かっても必ず非進化システムに勝利してゆくのです。
さて進化システムにおけるキィーワードは「競争」であります。
しかしながら競争と正反対の概念の「協同」と言う概念を、どのように理解するか
が重要なポイントなのであります。
本書は「協同」という概念は「競争」という概念の正反対であるゆえに広義におい
て進化システムにおける競争概念の一部と判断しています。
気を付けなければならないのは国の最高の目標は「国民全員の幸福の追求」という
不可能と思われる目的への挑戦であり、これを達成するためには自然システムにお
ける人間が持つ二つの本能つまり種(人類全体)の保存本能から生ずる利他的意識
を基本とする協同体意識と、本人自身の生存本能から生ずる利己的意識を基本とす
る競争意識の同時存在(人間の本能)こそがこれを達成するための重要な手段なの
であります。
つまり人間は「競争意識・利己的意識・営利精神」と「協同意識・利他的意識・ボ
ランティア精神」を本能的に同時に持っており本書では密接不可分なものとして理
解する調和のとれた競争を提案しているのであります。
そして人間は「消費者」(需要)であると同時に「労働者」(供給)であり、「国
家運営の費用の負担者」であると共に「国家政策の受益者」であるという二面性を
持ち、この場面場面により正反対の経済的行動をする自己回帰的な存在として把握
するものとします。
そして人工的進化システムの競争には人間は組織を作って行動する以上「主として
民間の組織同士の競争」(組織同士の外部競争方式)と「国などの独占組織の組織
内部の競争」(構成員個人による内部競争方式)の2つの重要な競争が存在するの
です。
そしてその各々の競争において必要な条件としては「自由(参加の)」と「平等
(対等な)」の正しい定義が厳格に守らなければ「フェアーな競争」による「進化
発展は実現出来ない」ことを理解して頂きたいのです。
さて進化システムは生物の進化の本質である「自然システム」が基本になります。
そして生物以外、人工的には自己自身で繁殖しながら進化する個体を作れないので、
「人間が作る人工の進化システムの本質」は、人間がより良い生活をするための生
きている人間の個人や集団としての拡大能力や増殖能力や進化能力を十分に発揮さ
せ活用し役に立つ手足となるような人工システムである進化システム(遺伝子とし
ての法律や制度など)を構築するのが目的であるから、まず上記の進化システムの
条件を備えた上に自然人である人間のより進化し、より幸福になろう、生き延びよ
うとする内在する強い力を引き出す心理や意識的無意識的な感情、嗜好、本性、特
質、相互作用など人間の自然で有機的な本質に合致したシステムでなければ効率の
良い進化システム(遺伝子としての法律や制度など)は作りえないのです。
つまり人間というものを「事実」として深く深く理解した上でシステムを組まなけ
れば良いシステムは作れないのであり頭の中で組み立てた都合の良い論理や理念や
観念だけを重視すると誤ったシステムや極めて不効率なシステムを組み立ててしま
うのです。
さて進化システムは自己自身が持つ、自己決定性や反復性や自己回帰性や自己拡大
性や自己進化発展性を最大限度活用するシステムであり、元手不用の自立的な自己
拡大システムであることが非常に優れた点であります。
つまり人間は他の生物と全く異なり拡大された遺伝子型と継承が可能な表現型を持
つ極めて特殊な生物であり、それこそが個人消費の拡大を通じて文化の発展と他の
生物には全く無い「経済の真の根源」である「経済の過剰性」を生み出しているの
であります。
このような概念を含めて経済問題の根本的な解決策を提案しているのが本書であり
ます。 生物の進化論から導き出された人類発展の進化システムは強力な力を内在
していることは既に述べた通り生物の進化と人類の文化発展の歴史が証明しており
ます。
(人間の本性から生ずる経済の過剰性と、その過剰性の重要性)
そこで何故日本では普通に努力している山一証券、拓銀から始まって青木建設、マ
イカル、新潟鉄工所等の一流企業、一流銀行、一流保険会社が次々と際限なく会社
更生法等を適用申請し、会社消滅等の道を歩んでいくのでしょうか。
また何故ちまたの誠実に努力している多くの中小企業や商店街が経済不況に塗炭の
苦しみを味わっているのでありましょうか。
もし現状が異状であると真剣に思うならば行動を起こさなければなりません。
「知って行なわざれば、知らざるに同じ。」なのです。
さてこの真の原因は現代経済学では殆ど強調されておりませんが「日本国内の経済
の過剰性が急速に縮小しつつある結果の表れ」なのです。
それでは「経済の過剰性」とは何なのでしょうか。
実はこれは現代経済学では与件として研究対象から外されている人間の持つ生物学
的、人間行動学的、心理学的特徴から生じているのです。
地球上に生息する何百万種の動物・植物の内、唯一人間だけが持っているのが、こ
の過剰性の本能・特性なのです。
地球上に生活する人間以外の全生物は、その生物本来の本能に基づく行動、食性以
外に過剰性は、殆ど皆無なのです。
「経済の過剰性」とは個人消費の拡大を通じて人間のみが持つ「単に物理的に生存
する為に必要なもの、以上のものを欲求する性質・特性・本能」を言います。
我々人類は「個人消費」としてカネを支払って過剰性に彩られた「衣」を身にまと
い、過剰性の「食」に舌鼓を打ち、過剰性の「住」に居を構えて、協同して生活し、その個人消費の原資となる「所得」を稼得するために過剰性を競争しながら「生産」し、そして次の所得を得るためそれを「消費」している地球上唯一の社会的生物なのです。
したがって戦前の正しいと思っていた「欲しがりません勝つまでは」の標語は経済
的には最悪だったのです。
つまり人間社会では他の動物と全く異なり「個人消費こそが所得の源泉」なのです。
したがって個人消費額が減少すると、給料切り下げ、リストラが生じるのは当然な
のです。
だからこそ個人消費は規制してはならず「個人消費は自己拡大する性質を持つ進化
システム」であり、生産力はそれを裏打ちする「自己拡大する性質を持つ科学技術
が進化システム」であり、その「両者がシンクロナイズして合体した自己拡大する
市場経済進化システム」を形作るであり、原則を遵守すれば経済成長は時代時代に
適応し無限に続くのです。
この経済原理を理解しなければ、経済成長原理は全く理解できないのです。
したがって人類は一日たりとも、過剰性無しには幸福に生存できない生物なのです。
例えば人間以外どの動物がカネを支払って野球の試合を見に行くでしょう。
人間以外どの動物がカネを支払ってディズニーランドへ行きたがるでしょうか。
したがって株式市場の発展や金融の発展、年金、高度医療、社会福祉の発展などは
究極の経済の過剰性であり、「個人消費の拡大を通じてのみ達成される」のです。
人間は常にこれらを欲求として強く追い求める特性、性質があるのです。
このように生存する為に必要以上の欲求をすることが経済の維持発展を支えている
のであり、経済の過剰性という他の生物には無い人間文化の特異性そのものであり、「進化システムである個人消費の増大こそがこの人間文化の本質である経済の過剰性を根本的に支える根源」なのです。
それなのに「個人消費を減退させると経済の過剰性が急速に縮小し」結果として個
人消費が増加しない以上設備投資が不活発になり、更に土地価格の下落、株式市場
の不振が発生し先行き不安の国民が更に消費を手控えるという悪循環が始まり、預
金ばかりが増加しても、個人消費が増加しない以上、設備投資をする貸出先が無い
ので資金ばかりがダブつき更に不況による業績不振から既存の貸付債権も不良債権
化し、結果的に金利で経営を成り立たせる銀行は経営が成り立たなくなり、預金者
に金利も支払えず、自分自身も経営危機に陥っているのが金融不安なのです。
個人消費の減退は金融不安や資産価値の下落と極めて大きな相関関係があるのです。
しかるに何故日本では進化システムである個人消費が本来の進化発展を開始せず、
停滞し後退し不況を発生しているかは、ひとえに「個人消費に課税という規制を加
え、個人消費の増加を抑圧している消費税」による総需要抑制効果と間接税比率を
高め結果として直接税比率を低下させて国家を通じた所得配分が低所得者から低所
得者への所得配分という消費の増加に結びつかないシステムに固定化されてしまっ
た事によるのです。
消費税の個人消費抑制効果については、巻頭の四表で掲載の通り間接税主導国家に
おいて、選択の余地の無いくらいに全ての消費に対する課税の度合いが高ければ高
いほどその国家の失業率は高く、国民一人当たりの所得が低いことでも実証出来ま
すし、私が多くの消費者懇談会に出席し、日本全体の個人消費の70%以上を支配
し、一円二円の価格差で買い物に勝負をかける日本の主力消費者である主婦の実感
を調査した経験では、商品には消費税がついている以上、出来るだけ無駄なく買い
物し、買い物を節約すると回答した人が80−90%に達していたのです。
つまり「これらの事実」が消費税の個人消費の抑制効果の証拠なのです。
逆に商品コストの中に法人税分や従業員分の源泉所得税が含まれているから買い物
を節約する等という意見は聞いたことも無いし、またトヨタ自動車は巨額の利益を
出して法人税を商品コストの中に算入しているのでトヨタの車は買わない等という
意見も聞いたことがありません。
消費税も法人税も源泉所得税もあらゆる税金は消費者から見て企業の生産する商品
のコストに算入されているのは全く変わらないのに、これを意識させず個人消費の
拡大を抑圧せず巧妙に税収を上げるのが法人税、所得税等の直接税なのです。
したがって消費税だけが消費者が負担している税金ではないのです。
同時に人間に人件費を支払っている企業は、法人税を一円も支払っていなくても、
従業員を通じて、その生活費を国に代わって(大不況であれば国は失業保険金や生
活保護費を支払わなければならない)支払っている上に従業員の所得税、住民税を
負担しているのでありかつ、法人税を莫大に支払う高収益企業の原価を安く引き下
げ当該高収益企業の多額の法人税を支払うのに貢献しているのです。
赤字企業はけしからんからという理念観念で現状を良く分析もせず、すぐに外形標
準課税等を持ち出す誤った資本主義的道徳観は考え直さなければなりません。
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(個人消費の70%以上の決定権を女性が持つ、世界で特異な社会慣行を持つ日本
における消費税制は、総需要抑制政策として作用し大きな弊害をもたらす。)
さて女性が個人消費市場の70%以上を支配している国は世界で日本以外では私の
知る限り1−2国しかなく、この特異な社会慣行はアメリカやヨーロッパ諸国など
の白人社会にも存在せず、もちろんイスラム教圏にもない特異な社会慣行であり、
よって日本では個人消費を規制する間接税の副作用が極端に表れる国家なのです。
現代経済学では余り強調されていませんが、男性と異なる脳の構造を持つ女性に受
け入れられる生理的、心理的に抵抗感のない税制にしないと日本では本質的に経済
の悪循環は断ち切れず、経済の良循環は決して達成しないのです。
個人消費の回復こそ「経済の良循環」の唯一絶対無二の方法なのですから。
つまり本来人間は時代時代に合わせ、環境環境に合わせて適応するために無常(常
無し)であり、生き残りたい幸福になりたいとする欲求は無限なのであり、個人消
費は時間と共に進化システムにより少しずつ増加するのが人間の本質なのです。
経済の過剰性はファッション、言論の自由、金融の発展、年金、社会福祉などあら
ゆる場面に表れ、その根源は人間のDNAに刻み込まれた人間の文化そのものであ
り、これを支えているのが経済的には「個人消費の拡大」が起点になり消費を所得
に変換して実現される「個人所得の増大」なのであります。
したがつて国民所得を増大させるには、その原資となる自己拡大が可能な進化シス
テムである個人消費を抑圧・規制してはならないのです。
成熟経済段階に達した経済状態になると労働生産性が機械化により極端に上がり、
少人数でも基本物資の全生産は可能になり大幅に人間が余り、そこに生産とシンク
ロナイズした増加する個人消費が存在すると余った人間が歌手として、野球選手と
して、アニメ製作者として、サッカー選手として消費を吸引する存在として活躍の
場が与えられ新産業が創出されるのです。
もし個人消費の増加を意図的に抑圧・規制すると余った人間を吸収するゆとりのあ
る需要が無く、結果として新産業が創出されず人間の活躍の場が狭まれ大量の失業
が発生するのです。如何に個人消費の進化システムによる自然の増加が必要かお分
かり頂けたと思っています。
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(理念観念を重要と考える国会議員の後進性と、国民へ決定を任せる先進性)
さて日本では理念観念に凝り固まった政党などに支配され、国民の幸福のために満
足な行動が出来ない独立性のない国会議員という752人の少数のエリートで決定
した政策などに対しては、一億二千五百万人の国民の大部分は愛着や愛国心など持
てないのです。
国民の70−80%の反対を押し切り無理矢理に政党の理念観念で国会議員を拘束
し束縛し成立させた個人消費規制税制などは競争社会に生きる現実の国民環境には
全く適応しなかった結果が現在の大規模な経済不況をもたらしているのです。
情報公開が十分行われている環境において日本人の経済的愛国心を明確に発揮させ
るには大多数の国民自身(出来れば2/3以上の)が望む経済政策を一人一人の国
会議員が独立性を持って良心と良識によって、国民の大多数の意志を良く確認しな
がら政策を立案し国会議員の単純表決で議決し実行すれば、それだけで現場で常に
競争(必要なときは協同。以下同じ)しながら生活している感性鋭い国民大衆の主
体性つまり成功も失敗も自分自身の責任体制が確立されることになり、自分自身の
経済に悪影響のあるものは遠慮会釈無く淘汰し、自分自身の経済に良い影響のある
ものは遠慮なく選択し経済の流れはスムースになり「経済は良循環を回復し」日本
人も経済的愛国心を発揮できるのです。
国などの外部淘汰の働かない倒産の危険の無い組織の幹部は「弱い理念や観念しか
持ってはならず機関決定の正しい内部競争ルールの遵守意志が重要となります。」
さもないと危険な理念観念が淘汰されず、いつまでも生き残るからであります。
しかし国家指導者の弱い理念は、国民の支持よってのみ強い理念に変われるのです。
これと全く正反対に民間企業経営者は常に外部競争に曝されており、その経営者の
理念観念ですら常に外部競争で淘汰され倒産が発生し不誠実な理念観念は自然にこ
の世から消滅するので民間経営者は強い理念観念を持とうと一向に差し支えないの
であります。理念観念の持ち方さえ民間経営者と国会議員では全く異なるのです。
そして国家は大多数の国民が望まない政策を強行すると、どんなに努力しても「望
んだ結果は得られず、停滞と後退が開始されるのです。」
しかし国民にまかせるとバラマキ政治になり、国家財政は破綻すると言う意見があ
りますが、それは全くの間違いなのです。真に国民と国会議員の一人一人が責任を
持って、政治を担当するようになると、国家の運営費である税の負担と国家政策の
受益が同一の国民自身が担っている事実を、良く自覚するようになり、国家財政に
対する目は現状より、はるかに厳しくなり、全ては国民の目線で行われるようにな
り、普通の人の家計の財布と同じように国家財政は改善されるのです。
そして国会議員は国民の為に効率を考えながら真の努力をするようになるのです。
つまり国家財政を税を負担してもいないエリートに任せる所に自分自身痛みを感じ
ることなく理念観念を持ちだして他人のカネを使用しているから破綻するのです。
そして絶対に間違ってはならないのが、国家の全税目の全税収は消費者である国民
が負担しているという現実です。
人間世界には人間しか存在しない以上、選挙権は人間しか無く、そして実質的に全
ての税は人間が負担するのであり、企業や組織が負担する税などこの世には存在し
ないのです。消費税だけが消費者が負担している税ではないのです。
学者の学説にごまかされてはならないのです。現実は全く異なるのです。
消費税以外に法人税も勤労者の所得税も社会保険料もありとあらゆる税金や負担金
は企業が生産し販売している商品・サービス原価の中へ算入され、消費者が全額負
担しているのです。
つまり国民は全て消費者でありますので、商品の購入を通じて、実は企業の法人税
も勤労者の所得税も巧妙に全額負担させていたのであって、消費税システムという
景気を悪化させ個人消費を減退させ経済のアポドーシス(自滅)招く恐れのある無
用の長物である消費税を特別に並列して創設する必然性は全く無かったのです。
したがって全ての税金が、全商品の商品コストに算入されて国庫へ回収される性質
がある以上、どのような理論を振りかざしても個人消費の増進無くしては税収の増
加は望めず、財政再建は果たせないのです。法人税による法律上の建前の納税者は
企業であっても、企業はお札の輪転機を持っているわけでもなく、天からお金が降
って来るわけでもなく、それ以外の儲けがあるわけでもなく、全ては商品を消費者
に購入して貰い原価を負担して貰う以外納税することなど出来ないのです。
だから「カネは天下の回りものなのです。」
成熟経済になれば尚更個人消費の増加力は弱くなるのであるから、少しでも個人消
費の抑制効果のある税制は取ってはならないのです。
それでは同じ個人消費に納税を依存している法人税は何故滞納が少なく、消費税は
ケタ外れに滞納が多いのでしょうか。それは法人税の仕組みが人間の特性に巧妙に
合致した税制で人間社会に心理的、生理的にも適応しており、それに比して消費税
は単細胞な税制であり、心理も感情も持つ人間の複雑な特性に適応出来ない結果に
過ぎないのです。
したがって消費税は結果として企業経営という主として男性社会でも事実として心
理的、生理的に適応していない税制なのであり、経済の良循環を阻んでいるのです。
なお付け加えれば何故「国税庁統計年報書」や「経済企画庁 経済要覧」の「租税
負担率」が国民所得で割って算出しているかというと、正に租税というものは全て
直接間接、対象納税者の如何を問わず人間である国民一人一人の個人消費を通じて
形成される国民所得が実質的に負担していることを明確に表しているのであります。
日本人は目に見える問題を改善するずば抜けた能力を発揮しますが、逆に日本人の
最大の欠点は「目に見えない真実を見抜く追究能力が乏しい国民性」と「大勢に流
されやすい国民性」を強く感じています。
このために常に日本人は正確な問題点の把握が出来ないために決定的に大きく判断
を誤る時があるのです。たとえ目に見えない問題でも事実かどうか常に疑い、徹底
して真実を追究する態度を失ってはならないのです。
(アメリカを甘く見て親米路線から常に脱線する日本のエリート層の判断ミス)
親米路線であった明治、大正の日本と比較して、昭和の日本の「軍務官僚など」に
よるヨーロッパの全体主義に傾倒し反アメリカ的政策でアメリカを敵に回すという
第二次世界大戦の参戦の判断ミスと同様、戦後のアメリカに影響を受けた、親米路
線の成功が頂点に達した瞬間日本人特有の我々は特別であるというおごりが生じ今
度は「内務官僚など」による国民の強い反対を押し切ってヨーロッパ型の消費税の
導入という反アメリカ的経済政策を取るという判断を下した官僚と政治家の判断ミ
スによって引き起こされた、この不況は第二次大戦と同じく大規模な人災なのです。
消費税導入前には日本経済に良いにしろ悪いにしろ適応していたアメリカ的政策に
基づき対等の経済競争において本家のアメリカを大きく凌駕したにもかかわらず、
第二次世界大戦と同じく反アメリカ的政策(ヨーロッパ型の消費税の導入)を取っ
てから、わずか十数年で決定的に対等な経済競争に敗れたうえに、100年後には
日本では人口が6000万人程度減少し人口が概ね半分になり国内需要も半分にな
り苦労して実施している公共投資も多くが無駄になると言う、このままいけば日本
の歴史上かつて無い事態に見舞われることが予想されているのです。
これは第二次世界大戦の敗戦の比ではない国家の存亡にかかわる重大な問題を含ん
でいるのです。
しかもこの人口問題や経済問題は実に驚くべき事に、第二次世界大戦の敗戦国であ
る日独伊の旧枢軸国に共通の問題であるのです。
我々の思想哲学の中に何か基本的に欠けている問題があるのかもしれません。
なお政策がしっかりしているアメリカの100年後の人口は現状維持が予測され未
来の明るい展望も超大国の地位も安泰なのです。これらの事から日本のエリート層
による「国家運営の仕組みや考え方」に大きな問題があることを示しています。
やらなければならないことは徹底してやり、やらなくても良いことは絶対やら無い
という区分や区別が出来ていないために、ひどい有様が生じているのです。
まず正確な情報を元に基礎を改善しなければならないのです。
さて日本は事実として直接税比率を意図的に急速に低下させ、間接税比率を急速に
上昇させるに比例して「当初の未来予測と全く異なり」経済の不況の深刻化が急速
に進展していることが分かります。日本ほどではありませんがドイツも同様です。
それと全く反対にアメリカの好況の原因はアメリカ自身の多民族、多文化、多言語
で且つ地方分権国家という日本と比べて圧倒的に不利な非効率さを「直接税比率を
高く維持して後述の個人消費と所得の変換システムである経済の自己循環拡大シス
テムを強化」して経済の自己拡大を徹底して維持しているのです。
つまり日本、ドイツと対極の経済政策をとったアメリカと比較した結論から言えば
日独のように個人消費に対する間接税率を高めると本書で分析の通り進化システム
機能が大幅に低下し、経済の自己拡大機能が低下し経済成長が停滞し不況が必ず到
来するのです。
第二次世界大戦においてアメリカの政策を程度の低い政策と見てアメリカに戦争を
しかけたエリート層の判断ミスの結果引き起こされた敗戦の憂き目と同じ状況を二
度にわたり今我々は味わっているのです。アメリカの政策立案の確かさと奥深さを
良く研究し、決して外見の粗雑さを過大に低評価して甘く見てはいけないのです。
アメリカ社会はアングロサクソン中心の国家でありながら「出身民族や男女を問わ
ず国民に等しく厳格な自由と平等の権利」を与え、本人の「人間性と能力を十分発
揮させ」フェアーな競争の結果によってのみ国家の中枢さえも多民族で構成してい
る様子はこれ以外の方法は無いと思うほど将来の地球社会のあり方を先取りしてい
ると感じています。これは長い歴史による社会慣行と大多数の国民の一体化した意
識が伴わないと簡単に出来ることでは無いのです。
であるからこそ社会的インフラが全くなく現在まで独立後わずか224年しか経過
していないアメリカが何故世界一の超大国になり得たか、研究すべき対象なのです。
さて直接税比率を高く維持すると、時間の経過と共に本書の理論により消費性向が
高まり、個人消費が活発化し経済成長が開始し好不況の波がたとえあっても進化シ
ステムが良好に作用し経済成長は無限に続くのです。
つまり直接税負担は重くなるにしても、間接税負担は軽減し需要は潤沢になり経済
の過剰性は拡大し、国民所得は増大して株式市場は回復し、金融は発展し、年金、
社会福祉、医療制度、環境問題へ対応する経済的余力が生じ、そして普通に努力す
る企業は生き残る経済環境が得られるのです。「何故そのような結果がもたらされ
るのかを詳しく解説し理論を完成したのが、本書であります。」
また日本ではこの消費税の強引な導入を契機として新政党が乱立し、この十数年間
日本の政治風土に混乱が続き経済にも大きな悪影響を与えた原因は、正しい判断を
下すために個人の良心や良識を必要とする「一人一人の国会議員個人の意志の単純
表決で全てを決定すべき国会への国会議員の参加の自由と対等に平等であるべきル
ール」が与野党を問わず「政党」や「特定の実力者」と言われる国会議員の「目的
のために手段を選ばない政治ルールの曲解を平気で許す日本の社会慣行の存在」か
ら党派性や理念、観念を優先させる党議拘束や束縛によって権謀術策がまかり通り
国会議員個人の意志が左右されるのを間近に目にした国民の反乱が選挙に表れ混乱
に拍車を掛けたのです。
日本にはこの様にあらゆる分野に渡り「一人一人の国民と国会議員に対する自由と
平等の厳格な必要性が真に正しく理解がされていない」社会慣行が存在するところ
に「社会経済の進化発展が停滞したり方向が誤ったりする根源的な原因」があるこ
とへの理解が遅れているのです。
特に一人一人の国会議員には形式的にも実質的にも全くフェアーな自由と対等な平
等が保証されていないと強く感じています。
それと正反対にアメリカの好況の原因と政策の正しさは、「政党の全国組織が無く
党委員長も党代表などの政党エリートが存在しない、党派性が希薄な特異な政治シ
ステムを採用している国家であるために、国民一人一人と国会議員一人一人に参加
の自由と対等に平等があらゆる分野で徹底され、国民環境に良く適応した政策をフ
ェアーな競争によって選択される」進化システムを強化することでこれを乗り越え
て発展しているのです。
日本においても、国民が選挙の投票において公職選挙法を適用されるのと同じ程度
で、国会議員の国会における投票活動(採決)においては、憲法にも主要な法律に
も基本規定が存在しない任意団体である政党が国会議員に対して党議拘束や束縛す
ることを禁止すべきとする筆者の理論(憲法も同趣旨)の正しさを証明しています。
さて選挙民はその独立性を保証するため国会議員からでも、他の選挙民からでも、
1000円を受け取っても買収として徹底的に警察に追求され、罰せられると言う
のに、国会で投票する国会議員が有権者個人からの献金を受けるのは良いとしても、有権者とは無関係な政党や他の団体や企業や他の国会議員からの莫大な寄付を合法としている現在の政治資金規制法によって、有権者のみの代理として国会採決を行う国会議員の行動に寄付者が強い影響を与えフェアーな競争を歪め「カネまみれの政治を法律が容認し」、さらに政党の人事などによる影響力の行使など各種の方法で実質的に国会議員を陰に陽に影響を与え束縛し拘束していることは明らかであり、これらが有権者の意志ではない「政党や他の団体や特定の国会議員の理念観念を優先させ」国会議員の採決に重大な影響を与え国の進化発展を歪めているのです。
国会議員は憲法の趣旨に従い、国民と国権の最高機関である国会にのみ忠誠を尽く
さなければならないのです。
したがって国会議員は間違っても政党や政党の幹部や特定の国会議員その他の利害
関係者の理念観念に忠誠を尽くしてはならないのです。
そしてそのような国民や国会に対する忠誠心に基づくフェアーなルールの多数決で
採決された時に限って、その法律については強制力が生じ個人的意見が例え反対で
あっても、これは遵守しなければならないのがルールなのです。
もちろん時代と共に反対意見が優勢となり、国会採決で否決されればその法律は廃
止されるのであり、固定的理念無しの無常(常無し)の世界なのであります。
このような政治慣行が確立するよう規制法規を立案すべくマスコミは啓蒙しなけれ
ばならないのです。
アメリカの独立宣言で述べられているように「政府の権力はそれに被治者(国民大
衆)が同意を与える場合にのみ、正当とされる」という現代民主主義の究極の哲学
が大前提であり「その時々の世論を重視するアメリカの政治スタイル」として確立
されており、本書はこれと極めて似た結果を説いているのです。
それこそが遠回りのようで最も日本に豊かな社会経済を構築する早道なのです。
特に日本はしっかりした選挙制度が確立しており、選挙期間が短い欠点を除けば、
国会議員の選挙区も余り広くなく、そのためアメリカと比べて選挙費用は少なくて
済む分、アメリカの選挙制度最大の問題点である経済界や労働界の献金者の大きな
政治に対する影響力は、日本では少なくて済み、逆に日本において大きな問題であ
る政党の影響力とカネを使って他の国会議員の意志や意識に影響を与え、自分の野
心を果たそうとする行為を禁止すれば資金集めも最小限度で済み、政治分野でのフ
ェアー競争が確保され日本の経済は国民という人間環境を的確に反映し通説とは正
反対にアメリカより良い方向へ進化する可能性の方が極めて大きいと考えています。
政党の影響力は小さいとしても、大口献金者である経済界の意見が大きい影響力を
持つアメリカ政治における経済の方向性のチェック機能の脆弱性の危険は常に感じ
ています。そして日本人の持つ国民性が全体として決してアメリカ人より劣ってい
ないと筆者は実感しているからであります。
自国のルールやシステム(法律や制度など)を決定するのは「素粒子と同様に相互
作用を持ち自由な意志と意識」を持つ「国民一人一人」と、国民の声を代弁する
「国会議員一人一人」が完全に独立性を保ち、形式的にも実質的にも「完全な民主
主義」へ近づけば、経済はより一層発展し需要に満ちあふれ失業の少ない社会を実
現できるのです。
そしてこのような政治改革が早く確立していれば、昭和63年の国民の世論からし
て本来ならば消費税法などが国会で成立することはなかったのです。
そしてそれが実現すればするほど国民一人一人の身近な人間環境、地球環境の変化
に適応しようとする意志や意識が国家政策に素直に反映され、国民環境や地球環境
へ適応し生き残りを目指す良い経済政策が選択され、適応しない生き残れない悪い
経済政策は淘汰され、「経済成長は進化システムによって、人間環境、地球環境へ
適応しながら常無く無限に続くのです。」
したがって政党の役割は、「秘密結社ではないので一致団結を決して目指してはな
らず、バラバラの国会議員の意志を束縛や拘束してはならず」、「似たような思想
の有能な政治家が党議拘束をしない緩い集合体の政党を作り、そのような政党の存
在の中で国民と国会にのみ忠誠を尽くす良心と良識に基づく国会議員の単純表決で
物事を決する体制を作る」べきなのです。
政党の役割は、全国組織を保持するのであれば、この「国会議員の意志の束縛拘束
機能を厳しく規制し、これ以外の政党本来の機能の充実を計るべきなのです。」
この競争条件が遵守される環境で全ての国民と国会議員が参加するフェアーな内部
競争で、国家内の全ての善悪が決定されるのが真の大衆主導の民主主義なのです。
この「根源的な意義を正確に厳格に理解しなければ成熟経済においては経済も社会
も的確な進化発展は得られないこと」を、まずマスコミ関係者が目を開かなければ
なりません。
進化システムでは「国家には自由と平等以外のあらゆる理念、観念は不要であり」
「その時代その時代の問題毎の善悪、適不適の判断は一人一人の国民と国会議員に
対してフェアーな自由と対等に平等が厳格に守られた環境での国民と国会議員の意
志の単純表決で形成される」システムつまり「真の民主主義」が必要なのてす。
つまり自分のことは自分で決める自己責任原則と自分で決めた結果は自分に戻って
くる自己回帰原則が働くところに「国民と国家の反省と進歩」があるのです。
このように特に国会議員に対するルールが日本では徹底していないところに、中立
を厳然と守っていたアメリカに対する真珠湾奇襲攻撃に始まる第二次世界大戦への
日本国の参戦が決定され、また昭和63年当時の世論調査によると国民の70−8
0%の反対にかかわらず与野党問わず理念観念を優先し、お互い一致団結するヤク
ザの組織か秘密結社のようにお互い党議拘束を平然と行い国会議員の自由であるべ
き意志を束縛し政党主導によって国会での国会議員の良識を封じ込め洗脳し党議拘
束して消費税が導入されたのです。
そして当然のように国民意志に反した決定を怒った国民によって導入直後の参議院
選挙には、政権与党が記録的な大敗を喫し、長年に渡る政治経済の大混乱の始まり
となったのです。
この問題は憲法の第9条問題より、はるかに根源的な真の民主国家として重要な問
題なのであり、第9条問題などは本件が真に解決すれば歴史と国民意識の変化と共
に、その時代時代に適応した解決策が採択される問題なのです。
一人一人の国会議員のフェアーな自由と対等な平等の遵守つまり独立性は何にも増
して重要であり、この点マスコミ関係者は徹底して政党批判を行わなければならな
いのです。
そこで全ての国民が選挙で投票する時に厳しい公職選挙法を適用されるのと同様に
国会議員にも国会採決という投票行動においては、現状とは全く異なる公職選挙法
と類似の金銭や人事で影響力を行使できない完全にフェアーな自由と対等に平等が
守られる規制を法律化し、政党などの強い影響を受けず誰からも独立した「日本の
最高裁判所の判事や政党の全国組織が無く党委員長も党代表も存在しないアメリカ
の国会議員に近い独立的な性格を持つ税の負担者であると同時に政策の受益者であ
る国民のみに影響を受ける国民の代表者としてふさわしい国会議員一人一人が自ら
の良識と良心のみにしたがって判断し行動できる、国会議員の存立基盤」を構築し
なければ、国家の真の進化システムの作動能力は著しく低下するのです。
国会議員一人一人の独立性を確保する法律整備は緊急を要しますが、政党のあり方
や政党助成の方法、選挙制度を含め極めて広範囲で根本的な作業が必要になります。
そしてこのような国民や国会議員一人一人に対する自由と平等が形式的にも実質的
にも厳しく守られている国であればあるほど実は経済も社会も発展しているのです。
この点はそのような国の実例や経済発展の理由を本文で詳しく解説しております。
(直接税国家と間接税国家の経済格差の実証的研究)
さらに元ジョンズホプキンズ大学八田達夫教授が1986年データーをもとに国民一人
当たりGDPと直接税比率の相関関係を自著「消費税はやはりいらない」で表して
おり、人口の多い大国(つまり国内市場が大きく結果として自国のみで総合的な消
費市場を形成し外国の影響が少ない国)では明らかに直接税比率が高い国家ほど国
民一人当たりのGDPが高いことを、明確に指摘している。
つまり各種の要因があるとしても、意図的に間接税の比率を低く設定し、直接税の
比率を高くすることが本書の指摘通り個人消費と所得の自己循環拡大システムが良
く機能する結果として国民一人当たりのGDPを高める大きな要因になることが現
実の統計的にも証明されているのです。
消費税導入前の日本が正にその典型だったのです。
これらのことから日独という何かというと「理念観念に基づく言葉のコンセプト」
を持ち出し、これを「演繹推論で拡張するマクロ思考の強いエリート主導国家」で
ある旧枢軸国は、エリート自らの理念観念を実現しようと、第二次世界大戦の開戦
時の判断と同じく、特に日本は意図的にこの十数年間一貫して国庫収入の直接税比
率を引き下げ間接税比率を引き上げた為に、自らの未来予測と全く反し結果として
自己回帰的に不況に突入しているのに対して、アメリカは自由と平等以外固定的理
念や観念を持たず「現実の諸事実」に基づき国民大衆の判断を優先する「帰納推論
のミクロ思考に基づく多民族、多文化、多言語の地方分権国家という非効率な大衆
主導国家」であるのにかかわらず、自由主義陣営国のリーダーとして成熟経済にお
ける経済成長を達成するためには経済環境つまり人間環境に適応する正しい判断を
下すことが第一義と考え「国民とそれを代表する国会議員一人一人にフェアーな自
由と対等に平等の判断が下せる環境を堅持した競争条件を遵守」し経済成長に良い
効果があり且つ国民一人一人の個別の成果を正しく評価し個人消費と所得の自己循
環拡大システムと変換システムの役割を持ち且つ国民相互に実質的に適正な競争条
件を実現するためハンディキャップを与える税制(強い者の頭を押さえ競争力を平
準化する思想つまり競争力均衡化の思想)として厳しい直接税システムを維持する
のが最善と判断した結果、弱いものも競争に参加しやすく国民が能力を最大限度に
発揮し経済は好転し自己回帰的に経済の回復と記録的な財政再建が図られたのです。
つまり「景気」と「参加の自由と対等に平等なフェアーな競争と直接税制」は「自
己回帰的な相関関係」があることは明らかであり、したがって因果関係論から、こ
れらが原因となって「国民へ失業の少ない良好な経済環境と同時に税収の増加」と
いう結果をもたらし、また目的論からそのような自由と平等と税制を構築する目的
を達成するには、本書のように好況をもたらす「真の原因を徹底して分析」しなけ
ればならないのです。
進化システムに適応しやすい世界でも唯一帰納推論を主として駆使して論理を構成
し、物事の判断を決定するアングロサクソン民族の本家であるイギリスとその分身
が建国したアメリカの経済発展の違いは、正に「人間個人個人の自由と平等」と
「直接税比率の高さ」をどれだけ徹底しているかに掛かっているのであります。
つまりイギリスはアメリカより民族的に遥かに単一性を保ち国家の存立基盤として、有利な条件を持っているのにかかわらず多くの貴族やそれらに類似の身分制度を維持し、微弱とは言え人間個人の自由と平等に反し、実質的に生まれながら差異を認めている社会であるため、人間個人の能力が十分競争によって切磋琢磨され開花する社会でないことと、またイギリスでは全国組織の政党が存在し党首が率いる党中央が国会議員を管理統制する仕組みが出来上がっているため、独立性のある国会議員個人の自由と平等が遵守されて各々の競争(協同)によって物事を決着するシステムが出来上がっていないので国民環境に良く適応した政策を立案する国会議員の能力が開花する機会が少ないこと、直接税比率が低く個人消費と所得の自己循環拡大システム能力が低い間接税重視の税制システムが原因となる等、アメリカとの間に大きなシステムギャップが存在し、これがアメリカとの格差を生じる原因となっているのです。
アメリカが建国時に「自由と平等の徹底」を掲げたことは、進化システムを意識し
て行ったわけではないが、これが偶然にも進化システムの基本概念だったのです。
進化システムは自然システムと全く同一な「無常(常無し)」と固定的理念無しで
「輪廻」という自己回帰原則のシステムであり、人間の幸福を追求するという不可
能な事を実現するために「参加の自由と対等に平等にフェアーな競争の結果」で、
これを実現しようとするシステムなのです。
そしてそれこそが自然の生態系がそうであるように、自然システムが素直に働くと
ころに、豊かな自然が形成されるのと同様に、進化システムが素直に作動する環境
こそ豊かな社会を築く基本となるのです。
この様な哲学で日本を改善できれば、科学技術や生産技術ならびに社会システムで
ある教育面や医療福祉面などの点で日本は潜在的にアメリカより良い面を多く持っ
ており、経済面でも必ず再度アメリカとフェアーに対等に競争し追いつく時代が来
ることを私は確信しているのです。
さて本文で詳しく指摘していますように「日本は女性が家計支出の大部分を実質的
に支配している世界でも希な特殊な社会慣行を有する国家」であり、日本経済をア
ポドーシス(自滅)から救い、再度経済成長を開始させ財政再建と本格的景気回復
を同時に達成するには個人消費の回復を図る以外に方法は無く、したがって人間に
内在する幸福になりたいとする強い意志に基づく本能的な力で個人消費を自由に拡
大増進させる進化システムの力を活用しながら、直感力に優れた女性に受け入れら
れる個人消費を規制しない経済税制システムが必要であるという事実認識が必要な
のです。
私は日本に存在するこの特異な女性主導の個人消費システムは今後将来とも世界の
中で経済競争に勝ち抜くには、その文化のオリジナル性と特異性のゆえにこれを踏
まえて政策を立案すれば非常に有利な点であると考えているのです。
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(経験不足の未来予測と、消費に回らない過剰貯蓄が問題であり、それには経済学
において与件として研究対象から外されている分野の研究が重要です。)
さて既存の経済理論は後段記載の六分野の与件(p179参照)の上に成りたって
おり「財政政策」「金融政策」は現状の経済の微調整手段に過ぎないのです。
したがって現代経済学の欠点を大きく補完し与件無しの現実の競争社会において、
経済成長を実現するには現代経済学の与件(前提条件)として研究対象から外され
ている分野にこそ、経済停滞の真の原因が潜みこれにメスを入れ抜本的に進化シス
テムへ改善する手法が今求められており、それが実現してはじめて1億2500万人の
国民自ら個人消費の創造を開始し個人消費を自己回帰的に拡大しながら、これを国
民所得へ自動変換し、本格的景気回復と財政再建を達成することが出来るようにな
るという事実認識が必要なのです。
今回の不況はエリートによるこのような事実認識の不足に基づく経済の微調整手段
にしか過ぎない「財政政策」と「金融政策」という小手先の経済政策に大きく頼っ
たために引き起こされた度重なる失敗と当然のことながら政策の未来予測が全く誤
っていた結果に過ぎないのです。
そしてエリートという人達の最も不得意の分野が、「問題点の把握という現場のた
たき上げが持っている索敵能力」と「経験豊かな未来予測」なのであります。
「日本人の国民性や現状を苦労して良く調査もせず、税制理論の基本を自ら徹底し
て追求もせず、手軽に見た目の良い海外の手法や理念ばかりを良く研究し、快適な
机上で仕事をしているエリートの方々の、厳しい現実における前提条件無しでの経
済競争の中では、現実の分析からかけ離れたこのような手法と演繹的論理で政策を
立案した場合どのような結果がもたらされるかの、未来予測の正確性に全く欠けて
いる」のです。未来予測の正確性に欠ける政策など立案する意味すらありません。
したがってエリートの方々は現実の政策を立案する時に日本人のあるべき「理性的、合理的、理念的」な精神部分のみを取りだし都合の良い演繹推論だけで論理構成するのではなく現場で厳しい経験を積んで人間の社会動物的側面である「利己的遺伝子」によって発現する、日本人独特の社会慣行に根ざす「利己的意識、利他的意識」の意志を持ち個々別々に判断し、さらに「相互作用」を発揮しながら行動する「人間の現実の利己的行動や利他的行動の入り混じった現実の心理や行動を予測し帰納推論しなければ実効ある経済政策を立案し未来を予測するなど出来ない」のです。
(貿易黒字を貯め込む弊害について)
また同様に国家が貿易黒字を貯め込むことも、日本が金持ちになったと錯覚してい
るだけで為替相場を通じて経済学の基本である購買力平価以上の円高になっており
国家経営的には「商品・サービスの販売において適正な価格形成という産業政策の
根本において大きな弊害」つまり輸入品と国産品さらに外国人件費と国内人件費の
大幅な為替差による価格差を日本の産業界へもたらし国内経済や雇用の空洞化と輸
出採算性の悪化や安い輸入原料に対抗できない新製品や新規産業の創出まで阻害し
ているのです。
まず「国家は結果として国民を幸福にするために存在するのであるという大目的を
正確に認識し」、その上で経済構造を適正に保つためには、経済学や経営学の基本
である「企業経営にとって国内外のフェアーな競争条件を保つ根本的な条件となる
為替相場を購買力平価に近づける必要」があり貿易収支ゼロ目標値を定め基本に忠
実な輸出入政策、為替政策を取るべきなのです。
自由貿易体制であるからコントロール不可能であるという言い訳は常に不可能と戦
って利益の追求を行っている民間企業や競争社会で常に困難と闘っている国民には
全く通用しない論理なのです。不可能であるからこそ、その実現に努力する国家が
必要なのです。
輸出入に関する個別企業の情報公開や啓蒙活動や国内需要を大幅に上回る生産設備
増強は規制し出来る限り現地生産を奨励し、それらの個別企業の情報公開や規制な
ど国際ルールを破らないで貿易収支ゼロ政策を国民や企業へ協力を依頼する方法は
いくらでも存在するのです。
貿易政策の基本は輸入代価を支払うための輸出に原則として限定するべきであり、
それ以上の他国への輸出は、直接投資で当該他国への民間の経済協力と当該他国の
国家と国民の努力と協力して行うことが結果として日本文化や生産技術や経営技術
の伝播や当該他国への身になる援助となると考えています。
さらに今回の「ニューヨークのテロ事件で明からになった教訓」は経済の安全保障
問題です。
5000万人が戦死した第二次世界大戦と比較すると遥かに小規模なしかもテロ事
件においてさえ「航空路の安定性が破壊され」これによって海外からの物流(部品
や製品輸入など)に支障が発生したことを考えると日本周辺で万一事変が起こった
場合「航空路ルートならびに海路ルートの物流が完全に遮断されることは明らかで
あり」「日本国民の生命を維持する生産を安全確実に行えるのは、国内に残留して
いる国内産業だけ」なのであるという認識が重要となります。
しかし筆者は国内産業を保護しろとか有利にしろとか主張するつもりは全くありま
せん。
言うなれば「不利にするな」と言うことであり「国の内外を問わず」競争条件を平
等にしろ、競争力を均衡させろ、そのために為替相場は購買力平価を実現するため
に貿易収支ゼロ政策を推進すべきだとする当たり前の主張をしているのです。
私の主張は「国内産業には国民への所得配分機能と雇用の確保機能があり、さらに
国の安全保障機能がある」のであるから、少なくとも「国内産業をそのような機能
の無い輸入(海外産業)より不利に陥れてはならないという原則」を国家は遵守し
なければならず、成熟経済に達し且つ基軸通貨でない円の為替相場では国家は海外
産業と自国産業の競争力を平準化する貿易収支ゼロ政策を確実に実行し、経済学の
基本である購買力平価を実現し国内産業が長期に渡って海外産業と正しい競争が出
来る「競争力の平準化環境」を遵守する事が自由貿易の理念より重要なのです。
(税制改革による自動循環型自己拡大経済システムが未来の日本を築く基礎)
そこでこれらの点を踏まえて生命維持装置のような消費と所得の自動自己拡大循環
型の巧妙な経済システムが必要になるのです。
まず国民にとって真に役に立つ進化システムである日本の市場経済機能を完全に回
復し、結果として日本経済を自動的に自己進化拡大する真の市場経済体制へ再構築
することを基本命題とします。
(1)市場経済における「需要の自己増加エンジン」である進化システムの「個人
消費」は自己決定性や反復性や人間のより幸福になりたいとする本能などに
よる自己拡大性を持つので規制しなければ自動的に増加しようとする本質的
な特性がある。
これと進歩しようとする特性がある進化システムである「供給の自己増加エ
ンジン」の「科学技術」が供給力の拡大と増大をもたらし、両者がシンクロ
ナイズして自動的に自己拡大進化する需要と供給の合体した進化システムで
ある市場経済システムを構築しているのです。
したがって左脳である論理脳を活用する男性が消費の主導権を握っている白
人のキリスト教社会などと全く異なり右脳の直感脳を併用する女性が消費の
主導権を握っている特殊な社会構造を持つ日本では、「次々と強化される個
人消費への規制が原因」となり、これを直感的に総需要抑制政策と見抜き、
過敏に反応し、供給力の増大にもかかわらず個人消費が過剰に規制抑圧され、
需要が極端に不足して経済成長が実現せず国民所得が低下し、失業が増加し
ているのです。
(2)そこで「経済成長の出発点」となる、進化システムである「個人消費」に対
する「徹底した規制緩和」を行い心理的や経済的負担を課する現状の規制を
全廃し、個人消費(その商品の生産に携わった人々への、所得を得さしめる
利他的行為)の増加を規制しない女性にやさしい抵抗感のない経済税制体制
を実現し進化システムにより自動的に増加する本質を持つ個人消費の自然な
増加を図る。
また個人消費は表現の自由の一形態でもあり本質的に規制してはならないの
です。
(3)さらに「個人消費と設備投資が所得へ変換される原理」から「個人消費」の
増加は「所得」の増加をもたらすので、「税収の確保」を図るため自己決定
性も自己拡大性も無い非進化システムである「所得」に超過累進課税の直接
税を強化し税収の増加を図る。
他人から得るしか方法がない自己決定性も自己拡大性も無い非進化システム
である「所得」に課税を強化しても需要や経済成長へ悪影響を与えず、やり
方次第で経済成長の促進作用さえある。
これによって結果として「消費性向の低い」高額所得者や法人から徴収した
税収を国家機関を通じて「消費性向の高い」中低所得者や赤字法人へ、実質
的な所得分配が実現し「国全体の消費性向を高める個人消費の拡大循環シス
テム」が完成する。
これによって消費市場は更に拡大し力の強い高額所得者は納税に見合う更に
大きなチャンスを得ると同時に中低所得者も普通の生活が送れるようになる。
副次的効果として超過累進課税により、個人、法人の競争力の平準化効果も
ある。
それに対して現状の間接税制による消費性向の高い膨大な数の中低所得者層
より、消費を削減させて得た税収を、国家という非効率機関の莫大なエネル
ギーを使用して再度同じ中低所得者に所得を再配分する現状のシステムは
「経済的に何の意味があるか意味不明な非進化システム」であり「消費性向
の低い高額所得者の膨大な余剰所得をそのまま取り残してしまうため」個人
消費の拡大循環には全く役に立たないのであります。
「個人消費」が活発にならなければ設備投資は活発化せず、それが不況をも
たらし貯蓄ばかり増加しても企業業績は悪化し銀行に国内の貸出先が無く、
預金金利は低下し銀行経営は不安定になり日本の資金は海外の投資先に流れ
日本国内の資金需要は細るばかりで経済の回復は全く実現しないのでありま
す。
これらの結果は統計書や学者や専門家が発表している直接税国家の方が間接
税国家より国民所得が高い事実でも立証されている。
(4)このように需要側の個人消費自動拡大システムと供給側の科学的生産自動拡
大システムの並立こそ市場経済の根本であり、このシステムが完成すれば個
人消費は自動的に拡大を開始し設備投資も活発化し「結果として人間は消費
を所得へ変換して経済生活を営んでいる」ので、これによって国民所得の自
動的な増大システムが完成し、少し時間が掛かっても「経済成長と財政再建
の同時達成」が実現されるのです。
そして国内経済は自ら国内で生産したものを自ら大部分国内で消費するとい
う原則つまり人間は消費者であると同時に生産者であるという自己回帰原則
が維持されるときにのみ他国に影響されること無く「経済の循環と拡大が適
切に達成される」のであります。
これは進化システムを十分活用すれば人類の経済発展の歴史が他の天体から
隔絶された地球という完全閉鎖系の経済環境でも十分発展している事実で証
明されており、一部輸出入が生じる不完全閉鎖系である国家経済もまた地球
環境における資源や原料の偏在による貿易を除けば、国家の置かれている実
状や地域に適応した個別の発展が十分可能なことを示しているのです。
これはまるで自然環境における生物が「競争を通じて」その環境環境に応じ
て独自の進化発展を遂げて分化と系統に分かれ豊かな自然を形成するのと極
めて類似しており、経済も生物の進化も同じ進化システムの流れの中に存在
しているのです。
(5)しかし国民の真の幸福を追求するために「地球の有限性」や「熱力学エント
ロピーの法則」からの実質的制限が経済に付されるのはやむを得ない事実で
あり、時代時代に合わせた個人消費の選択肢の無限の拡大を担保すべく個人
消費の方向性を確定する、その時代に適応しようとする「真の進化システム
が機能する政治改革」つまり生き残ろうとする国民意志の総和を正しく反映
することが必要になるのです。
(6)この日本の「市場経済と政治」の自動拡大進化システムの完成により、天下
の大軍である1億2500万人の膨大な国民が一人残らず進化システムに基
づくこの市場経済システムによって活動を始め、日本の市場経済は少しずつ
拡大発展を開始し、加速がつきはじめ同時に国民の自由な意志による、その
方向性も試行錯誤しながら最適化へ動き出すのです。
日本人の国民性や社会的雰囲気から判断すると一見組織に流されているよう
に見えて、実は「努力する人間個人を重視する思想、いわゆる個人主義の重
視」は進化システムを構築するのに極めて有利な国民性の条件であり、さら
に国民意識として高額所得者の莫大な寄付が社会基盤になっている、民間社
会福祉が発達しているキリスト教圏やイスラム教圏と異なり、日本国民の利
他的意識は任意の篤志家による寄付に頼る協同体意識より、直接税を強化し
ても国民全体の協力に基づく国家による強制的な相互扶助的な公平な協同体
意識を重視しているので、その経費に相当する部分は他国より税率が少し高
くても直接税の強化を受け入れやすい土壌が存在しています。
つまり以上の結論は1987年ノーベル経済学賞を受賞したロバート・ソロー博士
(アメリカ)の「供給側の科学技術の進歩」こそ経済成長の唯一の根源であるとす
るソローモデルの考え方を、本書では更に発展させ経済成長を説明するのに進化シ
ステムの概念を取り入れ「科学技術」が進化システムであるところから成熟経済に
達した日本では「需要側の進化システムの本質を持つ個人消費の完全な規制緩和つ
まり個人消費の進化システムへの再構築」もあわせて重要であり、さらに「需要と
供給を結びつける本来は進化システムの本質を持つべき形式的民主主義体制を更に
強化し一人一人の国会議員の意志の総和が素直に反映できる、大衆主導の進化シス
テムによる真の政治改革」を実現することを、ソローモデルに付加すれば個人消費
の力強い増加と、進化システムによって消費の方向性を政治が定めることが同時に
可能となり「成熟経済でも力強く適切な方向性を持つ国民の幸福に役立つ経済成長
が可能」となる基本を発見したのです。
このシステムは一見アメリカのシステムに似ているように見えますが、得られる結
果は必ず日本的な結果になるのです。それはルールは似ていても我々日本国民はア
メリカ人ではなく、日本人であり日本人に適応した結果のみが選択され、淘汰され
るからであります。
さて戦後43年間かけて焼け野原の無一文から民主主義や市場経済などの進化シス
テムの絶大な力により「日本国民の内在する力を顕在化させる」ことによって好不
況を繰り返しながら「本当の無」から3200兆円の「有」の国富を産み出し世界
一の経済大国に成長した日本が44年目(平成元年)以降、進化システムの作動が
衰え景気の循環を失い不況の連続で経済が瀕死の状態が続いている理由は以上の通
りなのです。
本書では、システム工学が「国民を対象とした制度や法律をシステムとして認識」
することが出来ますので、このシステム的概念を徹底して解決策に活用するべく、
「実用的で確実に効果の出る進化システム」を提案しているのです。
そしてシステムを理解する上で重要なポイントは、システムには「進化条件を備え
た進化システム」と、そのような条件を備えていない「非進化システム」の区別が
存在することです。
そして法律や制度などの「人間社会のルールは遺伝子のような役目をする」ので、
これを進化システムへ大改善すると、法律や制度へ進化システムが注入され、良い
遺伝子として作動し「結果として国家経済は自動的に良好に進化発展する」のです。
戦後43年間の経済を分析すると、この時期細部は別にして基本的な部分は世界で
唯一と言っていいほど日本の経済システムに完全に近い形で実質的に進化システム
が作動していた時期であることが本書は詳しく指摘しているのです。
(シングル・スタンダードの重要性について)
日本の現代社会において、「国民一人一人、国会議員一人一人につき参加の自由と
対等に平等とフェアーな競争(協同)原理」と「不合理にならない範囲内で国家は
国民一人一人(企業一社一社)、国会議員一人一人の競争力の均衡を図る原則」と
が正確に理解されているかどうか、色々な法律、制度を徹底して検証してみると、
国会議員に参加の自由と対等に平等な競争条件が整備されていないため「政党の理
念観念によって」それらの法律、制度の競争ルールが多くの点で意図的に強くゆが
められているのが放置されたままになっていることが分かります。
人間は大人になり異性と付き合い、結婚して未来の国家を託す子供をもうけ扶養し
教育し独り立ちさせ、いづれ老いて老後を送るのであり、そして人生は無常でリス
ク(危険)が伴うことを、全ての人間が知りうる故に、人間はどの段階を進むにし
ても「勇気と覚悟」が必要になるのです。
したがって国家の重要な機能としては「国民一人一人につき切迫した危機が生じた、
あらゆる異常時には、無条件で危機の内容に応じてサポート(応援)の体制」を設
けて、国民の「次代の国家を支える国民を育てる最小単位である家族」を維持する
「勇気と覚悟」に答えなければならないのです。
「切迫した危機でない問題」に莫大な国費を使用する政策を立案し、「切迫した危
機」に対して充分な対策を立案してこなかった不平等さが問題なのです。
更に「家族」を形成するシステムを保有している利己的意識と利他的意識を持った
社会的動物としての根源的な人間の生態を遵守して誠実で正直で勤勉に生きている
「大多数の普通の家族を形成している国民を公正であるべき通常時の生存競争や経
済競争において不利にしているあらゆる政策」が日本を経済不況に陥らせたり10
0年後に人口が半減させたりしている現実をもたらしているのです。
つまり家族というライフスタイルを取るか取らないかという家族的要素によって、
本人に有利不利を国が作ってはならない、という公正競争条件が必要なのです。
同じように直接税で行われている、健常高齢者本人への税の各種減税制度は、普通
の成年労働者と比較して「弱者救済的理念観念」によって異状に手厚く減税されて
おり、税制上本来は競争ルールを同一にすべきなのに「事実」として成年労働者と
比べて特に個別的な理由なく公正な競争条件が保たれていないことが、結果として
成年労働者の負担を重くしており、競争条件の大きな歪みとして表れてきています。
この健常高齢者を含めた税制における全国民統一の競争条件の均一化の方向(個々
の所得に対しては超過累進課税)は重要な課題になるのです。
しかしながら逆に健常者と比べて競争条件が極めて問題のある特別障害者などへの
配慮が税制上充分でなく、ここにも生活する上での競争条件という、事実としての
「個別対応政策」が充分ではないのです。
つまり国家は人間の生命に切迫した危機等の「異常時に対応する個別対応政策」と
通常の「正常時に対応する一般政策」とを常に区別して異常時の個別対応対策は手
厚く、正常時の一般対策は広く薄く政策を立案する必要があるのです。
つまり社会を歪めず進化発展させるためには「本人の選択意志が関与できる正常時
に対応する一般政策については対象一人毎の同一基準で競争する環境」つまり「シ
ングルスタンダード化」を徹底して計ることが、最も財政需要を最小限度に止め、
且つ適正な社会経済の進化発展が期待できる方法なのです。
そして本書では高齢者の税の負担が多くなるので、その反対給付として人間にとっ
て死に至るまでの過程で、安心して本人の意志により色々な選択肢を選べるように、
現在非常に不足している選択肢は何であるかを高齢者の本音を徹底的に調査し、人
間の本性に合致した個別対応策を立案し実現することが、新規需要の創出と高齢者
の安心が求められるのです。
自由主義経済でこれを実施するには納税者番号制と公的扶助で行われているミーン
ズ・テスト(資力調査)の整備が不可欠なのです。
さて刑法が比較的良く機能しているのは、全国民に対して聖域を設けず全国民一律
に法を犯した本人一人のみの「同一基準」のみによって本人に刑罰を科す体制が出
来上がっているシングルスタンダードだからなのです。
特別の役職とか、家族の有無とか、年齢とかで何ら刑には影響がないのです。
同様に国政選挙に適用される公職選挙法は本人一人以外誰にも影響されない独立性
を尊重するため、役職の有無や家族の有無や年齢などに全く関係なくシングルスタ
ンダードの規制が強化されており、これこそが日本の公正な選挙の実現に役立って
いるのであります。
したがって法律を立案するときに最も考慮すべき事は、その法律がどの分野であっ
ても、参加の自由と対等に平等のフェアー競争を遵守するものであり、理由なく他
の理念観念を持ちだして、これを侵害してはいけないこと、さらにその法律が国民
大衆を規制する同一分野の他の法律とシングルスタンダート(同一基準)であるこ
とが社会経済と国民感情に合致する法律になるのであります。
したがって日本の現状につき上記の「参加の自由と対等に平等の競争基準を守るた
めの規制を強化」し「進化システム部分については徹底して規制緩和を行う」正し
く区分区別した変革をすることが、成熟経済における経済社会の進化発展をもたら
し、そしてこの様な哲学を持つ政党が正に国民政党であり、この様な哲学思想を持
つ団結の緩い政党が登場し日本で多数を占めれば、成熟経済に達した日本において
も今後とも良き未来に向かい、その時代時代に適応した良き政策を選択し、適応出
来ない悪い政策を淘汰する進化システムである社会経済システムが完成するのです。
つまり「民は足らざるを憂えず、等しからざるを憂える」のです。
そしてこの様な公正な競争で国民の幸福を目指す政党は国民政党として必ず国民へ
迎えられ選挙に勝利すると確信しています。
したがって副次的には「参加の自由と対等に平等な条件でフェアーな競争を展開す
るための条件を整備するための規制強化」を行わないと進化システムは良好に作動
しないのであるし、そして進化システムそれ自身に対しては直接的にも間接的にも
規制を強化すると人間の特性、本性に反し、社会経済の進化発展に強い悪影響があ
るので、これは徹底して規制を除去する規制緩和を行わなければならないのです。
また非進化システムに対しては、国民の幸福の追求に反するものについては規制を
強化しても、社会経済の進化発展に何ら悪影響が無く、競争基準を明示する上で極
めて良い影響があるからであります。
したがって成熟経済に達した段階において、経済成長を実現するためには、これら
の区分区別をしっかりした上で強い生存本能を根源的に持つ人間である国民の本性
を信頼し、既に述べた指針によって規制緩和と強化をすれば経済の無限の成長と社
会の無限の発展が達成できることを提案しているのであります。
(資本主義経済における純資産増加額課税の検討について)
さて最後に税制について若干述べたいと思います。
本書の経済成長税制理論さらに日本の時代時代の税制の経済効果を総合的に検討す
ると、資本主義経済社会においては全くの私見でありますが「企業会計原則」に基
づく「純資産増加課税の法人税制」が最も基本的な姿であると実感しています。
出来れば個人所得税にも完全にこの考え方を取り入れ、全収入−全消費=純資産増
加額(個人利益)に対する課税こそ最も優れた方法と考えています。
この場合の費用にあたる全消費には「必要経費はもちろんのこと食料品や衣服や住
居(減価償却費)や教育費など全ての生活出費」を経費と見なし、複式簿記で経理
して「個人家計の純資産増加額を把握し、法人と全く同じように課税すること」が、
「資本主義社会」においては個人も企業も国も「競争力均衡化の環境における参加
の自由と対等に平等な競争による自己拡大原理による経済の過剰性が最も順調に増
進し且つ三者の財務内容の適正化が最も保たれると予測しています。」
つまり純財産の増加があった人に課税するので課税された人は所得分配を行った人
であり、課税の少ない人や課税されなかった人は実質的に国家を通じて有形無形に
所得分配を受けた人になるのであります。
そして課税が少ないか課税されなかった大多数の人は個人消費の多かった人であり、
実は個人消費の増加が純資産の増加という経済成長を支えている根源であるので、
課税の少ない人や課税が無かった人が、実は純財産の増加を支えている人となる
「パラドックス(逆説)」と「輪廻」と「因果関係」になるのです。
しかしこの様な考え方に基づく所得税制は実際問題として技術上無理が伴うため、
日本の高度成長時代に取られた消費税が無く高累進所得税率の税制は、この考え方
を実質的に焼き直し、変換し、事実上簡素化した税制であったのです。
また現状法人税制において「企業会計原則の利益」と「税法の法人所得」の乖離は
企業を管理統括する資本主義経済のシステム上、非常に望ましくなく人間社会にお
いて道徳的に望ましくない経費や支払先が明確でない経費以外は全額経費として認
めるべきと考えています。
真理は常に単純で美しい姿をしているものなのです。
さらに相続税は相続し、財産をタダで貰った人に課税するのです。
特に資本主義社会ですので「生存競争においては現実問題として資産所有者有利の
社会」でありますので、相続税の課税を大幅減税すると大金持ちの莫大な財産を相
続した子供が有利な社会となり、生まれながらにして不平等な社会となり教育の機
会均等などが妨げられ、優秀な人間が社会で認められる機会が減少し「参加の自由
と対等に平等なフェアーな競争」は行われなくなり、優秀な人間の輩出率が著しく
衰え「競争力均衡化の原則」に反する上、人間の本性、特性から更に加えて所得分
配機能が大幅に落ち個人消費が低迷し経済成長は急激に衰え、国家税収も国家発展
も急速に低迷状態となるのです。
日本のような厳しい相続税制が無く大金持ちが幅を利かす特権階級を形作る国家は
世界中にたくさんあり、そのような国家は決して日本のように経済が発展出来なか
ったのです。
日本が高度成長を達成出来た大きな原因は、敗戦によって全ての人が、本当の無か
らの自由と平等の出発になったことと、マッカーサー元帥による「財閥解体」「農
地解放」による特権的な経済的存在を全て破壊した結果と、厳しい所得税と相続税
が存在し、所得分配機能が個人消費性向の高い所得階層(低所得階層)へ良好に作
動しため、個人消費の増加は常時順調であり変換される国民所得も順調に推移し、
貧富の格差の少ない豊かな中産階級である大量の良質な消費者と大量の良質な生産
者を生みだした結果がすばらしい平和で豊かな経済国家を作り上げたのです。
この無意識に作り上げられた税制が世界一の経済大国を生みだしたのであり、日本
人や官僚が優秀だったわけでは無かったのです。
現代の税制は消費税を5%に増税し、所得税、相続税を大幅減税し、生まれながら
に不平等の社会、特権グループの存在する社会、社会階層を固定化する社会を作り
続け、所得分配機能を大幅に低下させた結果、当然の事ながら個人消費の増加率は
大幅に落ち、それにつれて国民所得は停滞し、貧富の格差は広がり貧しい消費者が
大量に増加し、安売りに群がり全産業の企業経営者を苦境に陥れているのです。
つまりこのような国家政策を立案した政策担当者の残念ながら自業自得なのです。
つまり「相続税」は平時におけるマッカーサーの役割をする税制であり、不合理に
ならない範囲内で人間を生まれながらに実質的に平等に保つ社会を実現することが、
「真の競争によって勝ち残る真に強く逞しい人間を作る秘訣であり」「国家は税収
が上がり」「経済成長には極めて良い効果が上がり」「自由と平等とフェアー競争
が実質的に保証される結果をもたらし」「多くの財産を相続し強制的な利他的行為
を強いられる痛みを伴う納税者以外の多くの国民が喜びを分かちあえる」極めて資
本主義経済には有用な税制なのです。
ただ納税については痛税感を和らげるため金銭納税を強制するのは望ましくなく、
徹底した物納の拡充(出来れば全ての財産につき)が必要となります。
実は相続税については、アメリカでは敗戦の経験がないため、理論研究がなされて
いない分野であり、アメリカでも相続税の減税問題が良く検討もされず度々議論さ
れている経緯があるのです。
アメリカでこの相続税の大幅減税が実施された暁には、アメリカの進化システムは
実質的な競争条件の不平等化つまり生まれながらにして資本保有の不平等が顕在化
し、必ず社会の進歩に悪影響を与えるようになるでしょう。
たまにはアメリカの失点も望まれる所です。
さて日本で直接税率の累進強化が実現した時には、これによって納税する税額は、
強制的な利他的行為であるので、これが極めて高額である場合は、これを経済的特
典を与えるのではなく名誉として表彰する制度が出来れば良いと考えています。
また納税額の新聞発表は所得額と国税、地方税を含めた全納税額(現状は国税のみ)
を全て情報公開し納税という利他的努力に国民は敬意を表すべきであります。
バブルで稼ぐ国債金融資本の手口
バカスカ金を貸し出して狂乱状態を作ってからバブルを破裂させる。
その後には膨大な焼け野原、不良債権の山だけが残る。
それを二束三文で奴らが買い叩く。
1929年10月24日、ニューヨーク・ウォール街では、世界大恐慌の引き金となって、株式大暴落が起こりました。そして、あれから60年後、今度は日本を叩き潰す為に、1990年2月、巨大な経済の逆回転が始まり、平成バブル経済が崩壊しました。
平成バブルが崩壊するバブル・ピーク時、CIA(Central Intelligence Agency/アメリカ大統領直属の中央情報局)は、ベルリンの壁が崩壊し、東西冷戦後の次の敵は、日本だと考え始めていました。
事実、1989年秋から始まった、アメリカ系証券会社の株価動向は不気味な動きをし始めました。バブルと、その崩壊に携わったのは、ユダヤ系の金融機関であるソロモン・ブラザーズ(現在のソロモン・スミスバーニー)という証券会社でした。
ソロモン・ブラザーズは資本主義の歴史に詳しく、また日本の昭和初期の経済にも精通していて、1989年11月、ニューヨークで「日経平均株価が大暴落したら大儲け」という『プット・ワラント』のデリバティブ商品を機関投資家や大口投資家に大量に売り始めたのでした。それ以来、ソロモン・ブラザーズが中心になって、債券、為替、株価のトリプル安が始まります。これがバブル崩壊の裏側に隠れたメカニズムだったのです。
バブル崩壊のシナリオは、どのようにして仕組まれたのか、その筋書きを追ってみましましょう。
バブル絶頂期は、1989年にそのピークを迎え、株価は天井でした。この時、多くの日本人は、株価の高騰(こうとう)並びに地下の高騰に、湧きに湧き、怕(こわ)いもの知らずで、日本の投機家達は今迄になく傲慢(ごうまん)になっていました。そしてこの頃、事実CIAは、アメリカの敵は日本であると考え始めていました。
CIA経済部門のスペシャリスト達は、アメリカ系証券会社のソロモン・ブラザーズ(現在はソロモン・スミスバーニー)と手を組み、日本経済の崩壊作戦に向けて本格的に動き出しました。これが今日の不況を長引かせる要因を作ったのです。これが日本株式市場に於ける下落のシナリオ「バブル崩壊作戦」でした。
ソロモン・ブラザーズは、1989年当時の沸き立つような好景気も、60年前のアメリカ・ニューヨーク.ウォール街での大恐慌と同一のものであると、そのバブル崩壊を予測したのです。
かつて、国際金融資本の総帥・ロスチャイルドの配下であったロックフェラーやデュポン(世界最大の化学メーカー)らは、この大恐慌を利用して天文学的な巨富を手にしていました。ソロモン・ブラザーズはこれに因(ちな)み、バブル崩壊を企てる研究に取りかかったのです。
「どうしたら一儲けできるか」からはじまり、「どうしたら日本経済を徹底的に叩く事が出来るか」という結論を導き出し、日本経済崩壊に向けて模索し始めたのです。
60年前のウォール街での「暗黒の木曜日」の立役者は、国際金融資本の総帥・ロスチャイルドの息の掛かる東部のエスタブリュシュメント達(ロックフェラーを筆頭に、デュポン、ケネディ、オナシス、アスター、バンディ、コリンズ、フリーマン、ラッセル、ファンダイン、リー・クアンシューの超大富豪十二家)でした。
この者達は手持ち株を売り捲り、その結果、下落に下落を重ね、二束三文になった株式を買い叩いたのです。それで巨万の富を手にしたのですが、今日とは情況が違うことに気付きます。この難題に、しばらく苦慮しますが、ついに糸口を掴んだのです。
その糸口とは、「何が株価を暴落させる要因になるか」と言うものでした。つまり株価が暴落する切っ掛けを作ればよいのです。そして、「下落によって、下がった株で大儲けできる商品を持っていればよい」ということに行き当たったのです。それが「デリバティブ」でした。
デリバティブとは、金融派生商品(通貨・金利・債券・株式・株価指数などの金融商品を対象とした先物取引)のことで、「先物取引」という意味合いを持っています。
次の研究課題は「どうやったら大暴落を人工的に作り出し、然(しか)も、そのタイミングに合わせて、自分達の狙うポイントに、総てを集約することが出来るか」という研究に取りかかったのです。
人工的に大暴落を作り出す場合、60年前の大恐慌では、アメリカの大富豪達による「大量売浴せ」という手法が使われました。
大量売浴せとは、売方が買方の買数量より、多量の売物を出して買方を圧倒し、相場を押し下げようとすることで、「売り崩し」とも言われます。
しかし、それでは巨額な資金が必要であり、当時と違って、それほど経済構造は単純なものではなくなっていました。研究に研究を重ねた結果、巧妙(こうみょう)な手口を考え出します。
それは、「膨らんだ風船を、更に膨らませる手口」だったのです。
風船は、空気を送り込んで膨らませれば、それだけ膨らみますが、その実体は「バブル」です。膨らむものは、いつか破裂して、大爆発を起こす物理的法則に制約されます。経済とて、この法則下に制約されているのです。彼等はこれに気付いたのでした。
彼等はそのシナリオを、綿密なストーリーで組み立てました。徐々に膨らみを見せる風船に、意図的に、頃合いを見計らって、更に膨らませ、次に急激に膨らませるという巧妙なストーリーを演出したのです。風船は、今まで徐々に、周囲の状態に馴染みながら膨らんでいたのですが、これに急激な吹圧を掛け、パンパンの膨張状態を作っておいて、一挙に破裂させるという巧妙な演出を画策したのでした。
彼等は、この原理を東京株式市場に応用して、バブル崩壊を目論んだのです。
そして彼等は「デリバティブ」という、風船を一突きにする「針」を手に入れ、膨張し過ぎて破裂状態になったところで、一突きにする演出を手がけたのでした。
1989年当時、日本人エコノミスト達は「デリバティブ」という「先物」の実体を知りませんでした。経済や金融の専門家でも、この実体が何なのか、未だに分からず仕舞いでした。またこの事が、バブル崩壊の悲劇を大きくし、当時の日本経済界は全く無防備であったと言えます。
ソロモン・ブラザーズは裁定取引を使って、意図的に、無防備な日本経済に先制攻撃を仕掛けたのです。「梃子(てこ)の原理」(レバレッジ)を利用して、なるべく少ない資金で、効果的にバブル崩壊に導く人工爆発の状態を作り上げる研究をしたのです。次に、バブル崩壊に導く為に、彼等は日経平均の株価操作の研究に没頭しました。
彼等は、この二つの研究から面白い現象に気付きます。それは日経平均株価(日本経済新聞社が、東京証券取引所一部上場の代表的な225銘柄について算出し、発表しているダウ式平均株価)が単純平均(相加平均のことで、算術平均ともいわれ、n個の数を加えた和をnで除して得る平均値のこと)で作られた「指数」から出来ている事と、もう一つはこれらの指数の分析から、品薄な銘柄を意図的に買うと、少ない資金で日経平均株価を持ち上げることができるという経済現象に気付いたのです。
こうして研究の成果を、実行に移した時期が1989年の秋から冬に掛けての事でした。日経平均株価は瞬(またた)く間に膨らみ、バブルは天井へと向かっていました。
その頃、日本の話題はベルリンの壁が崩壊し、東西冷戦構造が終焉(しゅうえん)を迎えれば、世界市場に進出できる等と、日本人経営者の多くが高を括(くく)っていた頃で、日本人の思い上がりの裏側では、こうした巧妙な仕掛けが、水面下で仕掛けられていたのです。
大蔵官僚も、エコノミストも、この仕掛けには全く気付いていなかったのです。
ソロモン・ブラザーズの真の狙い
当時の多くの日本人投資家は、「日経平均株価は10万円に到達する」と信じて疑わない人が多くいました。誰もが強気で、今こそ、この好景気に乗って、買いに転じる時機(とき)だと確信していたのです。その結果、バブルは急速な加速度をつけて、瞬く間に膨らみ始めました。
この時、ソロモン・ブラザーズは信じられない事をニューヨーク・ウォール街で展開していました。
1989年11月、彼等は「東京株式大暴落の図式」に則り、『プット・ワラント』という金融派生商品を売り始めていたのです。
『プット・ワラント』とは、「日経平均株価が大暴落したら大儲け」という新商品であり、この商品をアメリカの大口機関投資家に大量売り込みを図っていたのです。また、これには大口投資家も飛びついたのです。
彼等の新商品に対するキャッチ・フレーズは「年末から年始に掛けて、日本の株式は大暴落するから、60年前の《1929年10月24日の暗黒の木曜日》の時と同じくらいの大儲けが出来ますよ」でした。
1990年1月2日、ニューヨーク・ウォール街では、日本とは逆に、信じられない現象が起こっていました。突然、為替が円安へと向かったのです。この円安はソロモン・ブラザーズが『プット・ワラント』販売に因(ちな)み、債券や為替や株価の「トリプル安」を企てたものでした。
そして1月が過ぎ、2月に入り、その月は既に中旬に入っていました。この頃、日経株価はジリ安でしたが、大暴落の兆しは現われていませんでした。
日本人はまだ、この時にも何も気付いていなかったのです。そして日本経済が、瀕死(ひんし)の重傷に陥っている自覚症状すら、エコノミスト達は感じ取ることが出来なかったのです。
当時の政治背景としては、自民党の政治家は2月中旬の衆議院選挙で大勝したことに祝杯を上げていた頃で、政界も財界も危機管理意識はなく、全く無防備でした。
日本人は、まさに「ライオンに、餌を差し出す為に手を伸す呑気(のんき)な兎」でした。腕ごと食いちぎられるか、体ごと丸呑みされるかの、こうした危険すら感じる事もなく、呑気な行動をとっていたのです。
日本人投資家が、株を買いに奔走している頃、アメリカの金融の裏側ではソロモン・ブラザーズの売り攻勢が激化を極め、これまでジリ安で状態であった株価は、一挙に大暴落へと転じました。バブル崩壊の引き金はこの時に引かれたのです。
ついに1990年2月末には、膨らむだけ膨らんだバブルは、日経平均15,000円台を大幅に割れ込みました。一挙に大暴落が起こったのです。
ソロモン・ブラザーズの秘密兵器はデリバティブでした。
デリバティブは説明の通り、現物と先物との価格差を狙った「サヤ取り」であり、「裁定取引」と「オプション」で、日本の株価は下落したら大儲けという派生商品です。この派生商品を、至る処に仕掛けておいて、株価を自由に操ったのです。バブル崩壊の大暴落は証券会社のみならず、大蔵省までを翻弄(ほんろう)の渦に巻き込んだのです。
この巧妙な仕掛けでソロモン・ブラザーズは、僅か三年の研究とその実行で、一兆円にも昇る莫大な利益を手にしたのです。
そしてこの後、日本では更に悲惨な状態が続くことになります。
日経平均株価の大暴落は、株式市場の株価下落だけに止まらず、不動産の分野にも悪影響が及びます。この悪影響は、政府が不動産融資へのマネー供給を停止するという事から始まり、今まで高騰(こうとう)を見せていた大都市の不動産の資産価値が急速に下落したことでした。
この現象は大都会だけに止まらず、地方にまで波及していきます。不動産の資産価値が下落するとは、それを担保にしていた金融機関の担保価値も大幅に減少したということになります。こうして不良債権の波及が表面化するのです。
これに対して政府の後手政策は、次から次へと傷口を広げ、日本の資産とマネーの急速な収縮は、今日に見る不景気と連動し始めることになります。
昇り詰めたものは、いずれ落ちる。これは物事の道理です。この道理に随(したが)い、ソロモン・ブラザーズは、次のプロセスへと準備にかかります。
ソロモン・ブラザーズの真の目的は、ただ単に、日経平均株価を下落させて大儲けすることだけではなかったのです。彼等の真の目的は、日本人の個人金融資産の1300兆円にも上る郵貯(郵便局で取り扱う国営の貯金事業で、元金・利子の支払いは国によって保証される)の食い潰しでした。日本のエコノミスト達は、この事すらも見抜けなかったのです。
ソロモン・ブラザーズが研究の末に計画した事は、こうした下落が生じた時、政治家はもとより、財界人を始めとして、証券会社等が「これを何とかしろ」と、政府に詰め寄り、殺到することを計算に入れていたのでした。これこそ彼等の真の目的であり、ここに「日本発世界大恐慌」を画策した真の狙いが、ここにあったのです。
http://www.daitouryu.com/iyashi/shinizama/shinizama20.html
http://www.asyura2.com/20/reki4/msg/630.html#c2
さて、今さらですが、トリクルダウンとは何でしょうか?
トリクルダウンとは、
「富裕層や大企業を豊かにすると、富が国民全体にしたたり落ち(=トリクルダウン)、経済が成長する」
という「仮説」です。トリクルダウン「理論」と主張する人がいますが、単なる仮説です。
上記は今一つ抽象的なので、より具体的に書くと、
「富裕層減税や法人税減税をすると、国内に投資が回り、国民の雇用が創出され、皆が豊かになる(=所得が増える)」
となります。
要するに、グローバリズム的な、あるいは新古典派(以前は古典派)経済学的な「考え方」に基づき、所得が多い層を優遇しようとした際に、政策を「正当化」するために持ち出される屁理屈なのでございます。
ちなみに、大恐慌期のアメリカでは、財閥出身の財務長官アンドリュー・メロンが「法人税減税」を推進した際に、まんまトリクルダウン仮説が用いられました。
さて、現代日本において、トリクルダウンで安倍政権の法人税減税に代表される「グローバル投資家」「グローバル企業」を富ませる政策を正当化していたのが、みんな大好き!竹中平蔵氏です。
『「トリクルダウンあり得ない」竹中氏が手のひら返しのア然
http://www.nikkan-gendai.com/articles/view/news/172701/1
テレビ朝日系の「朝まで生テレビ!」。
「激論!安倍政治〜国民の選択と覚悟〜」と題した1日放送の番組では、大田区の自民党区議が「建築板金業」と身分を隠し、安倍政権をヨイショするサクラ疑惑が発覚。「今年初のBPO入り番組」とネットで炎上中だが、同じように炎上しているのが、元総務相の竹中平蔵・慶応大教授の仰天発言だ。
番組では、アベノミクスの「元祖3本の矢」や「新3本の矢」について是非を評価。
冒頭、「アベノミクスは理論的には百%正しい」と太鼓判を押した竹中平蔵氏。
アベノミクスの“キモ”であるトリクルダウンの効果が出ていない状況に対して、
「滴り落ちてくるなんてないですよ。あり得ないですよ」
と平然と言い放ったのである。
トリクルダウンは、富裕層が富めば経済活動が活発になり、その富が貧しい者にも浸透するという経済論だ。2006年9月14日の朝日新聞は〈竹中平蔵・経済財政担当相(当時)が意識したのは(略)80年代の米国の税制改革だった。
その背景には、企業や富裕層が豊かになれば、それが雨の滴が落ちるように社会全体に行きわたるとする『トリクルダウン政策』の考え方があった〉と報じているし、13年に出版された「ちょっと待って!竹中先生、アベノミクスは本当に間違ってませんね?」(ワニブックス)でも、竹中氏は
〈企業が収益を上げ、日本の経済が上向きになったら、必ず、庶民にも恩恵が来ますよ〉
と言い切っている。
竹中平蔵氏がトリクルダウンの旗振り役を担ってきたのは、誰の目から見ても明らかだ。
その張本人が今さら、手のひら返しで「あり得ない」とは二枚舌にもホドがある。
埼玉大名誉教授で経済学博士の鎌倉孝夫氏はこう言う。
「国民の多くは『えっ?』と首をかしげたでしょう。ただ、以前から指摘している通り、トリクルダウンは幻想であり、資本は儲かる方向にしか進まない。竹中氏はそれを今になって、ズバリ突いただけ。つまり、安倍政権のブレーンが、これまで国民をゴマカし続けてきたことを認めたのも同然です」(後略)』
そもそも、トリクルダウンが成立するためには、絶対的に必要な条件が一つあります。それは、富裕層なり大企業で「増加した所得」が、国内に再投資されることです。前述の通り、トリクルダウンとは、富裕層や大企業の所得が「国内の投資」に回り、国民が豊かになるというプロセスを「仮定」したものなのです。
現代の説明も、かなり抽象的ですね。
「トリクルダウンは、富裕層が富めば経済活動が活発になり、その富が貧しい者にも浸透するという経済論」
まあ、それはそうなのですが、正しくは
「富裕層が富み、国内に投資がされる」ことで経済活動が活発になる
という話なのです。
すなわち、資本の移動が自由化されたグローバリズムの下では、トリクルダウンなど成立するはずがないのです。特に、デフレーションという需要不足に悩む我が国において。
富裕層減税や法人税減税で、「富める者」の可処分所得を増やしたところで、「グローバリゼーションで〜す」などとやっている状況で、国内への再投資におカネが回ると誰が保証できるのでしょう。誰もできません。
結局、企業は対外直接投資、富裕層が対外証券投資におカネを回すだけではないのでしょうか。特に、日本のように国内にめぼしい投資先がなく、国債金利が長期金利で0.26%と、異様な水準に落ち込んでしまっているデフレ国では。というか、国内における投資先がなく、民間がおカネを借りないからこそ、長期金利が0.26%に超低迷してしまっているわけですが。
無論、国境を越えた資本移動が制限されていたとしても、トリクルダウンが成立するかどうかは分かりません。減税で利益を受けた富裕層や企業が、国内に投資せず、増加した所得を「預金」として抱え込んでしまうかも知れません。
「いやいや、貯蓄が増えれば金利が下がり、国内に投資されるので、トリクルダウンは成立する」
などと学者は反駁するのかも知れませんが、長期金利0.26%であるにも関わらず、国内の投資が十分に増えないデフレ国で、何を言っているの? 頭、悪すぎるんじゃないの? という話でございます。現在の日本は、企業の内部留保までもが史上最大に膨れ上がっています。
お分かりでしょう。トリクルダウンが仮に成立するとしても、その場合は、
「国境を越えた資本の移動が制限されている」
「デフレではない」
と、最低二つの条件が必要になるのです。ところが、現実の日本はグローバル化を推し進めつつ、同時にデフレです。トリクルダウンが成立する可能性など、限りなくゼロに近いわけでございます。
そんなことは端から分かっていたし、何度も著作等で訴えてきたわけですが、残念ながらマスコミの主流は
「トリクルダウン理論により、法人税減税は正しい」
という、「頭、悪すぎるんじゃないの?」理論が主流を占めていました。
少なくとも、現在の日本において、トリクルダウン前提の経済政策は「間違っている」と、全ての国民が認識する必要があるのです。
http://ameblo.jp/takaakimitsuhashi/
続 トリクルダウンはあり得ない 2016-01-07
昨日は、単にトリクルダウン仮説について解説しただけで、竹中氏の「真意」には踏み込みませんでした。
そもそも、竹中平蔵氏はなぜ「トリクルダウンはあり得ない」と語ったのか。
安倍総理は、年頭の記者会見において、フジテレビの西垣記者の「選挙に向けてこの半年、国会が今日から開く中、どういった目標を掲げていかれるお考えでしょうか」という質問に対し、
「将来の老後に備えて、あるいは子育てのためにも使っていくことになるわけでありまして、これは正に成長と分配の好循環をつくっていくという新しい経済モデルを私たちは創っていく。その「挑戦」を行っていかなければいけないと思います」
と、答えました。
「分配」という言葉を総理が使ったのは、初めてのような気がいたします。
わたくしは昨年末に刊行した徳間書店「2016 年 中国・ユーロ同時破綻で瓦解する世界経済 勝ち抜ける日本 」において、
『安倍総理は2015年1月28日の参院本会議で、民主党の質問に答えるかたちで、
「安倍政権としてめざすのはトリクルダウンではなく、経済の好循環の実現だ」
と、トリクルダウンを否定した。
だが、実際に安倍政権が推進している政策は、消費税増税をはじめとする緊縮財政にせよ、法人税の実効税率引き下げにせよ、あるいは様々な構造改革にせよ、明らかに特定のグローバル投資家を利する政策ばかりだ。
グローバル投資家に傾注した政策を推進しつつ、トリクルダウンを否定したため、筆者はむしろ総理が国内の所得格差の拡大を歓迎しているかような印象を受けたものである。
すなわち、富裕層やグローバル投資家、大企業を優先する政策を打つ政権は、言い訳としてトリクルダウン理論を持ち出すのだ。
法人税減税や消費増税、構造改革など、国内の所得格差を拡大する政策を繰り出しつつ、トリクルダウンすら否定するのでは、余計に問題ではないだろうか。』
と、書きました。
朝生のを見た限り、竹中氏は別に、 「トリクルダウンはあり得ないんです。ごめんなさい」というニュアンスで「トリクルダウンはあり得ない」と語ったわけではないわけです。
トリクルダウンなど起きえない。
政府の政策で富が「滴り落ちる」のを待っている方が悪い、
というニュアンスでトリクルダウンを否定したのでございます。
すなわち、格差肯定論としてのトリクルダウンの否定なのです。
そもそも、トリクルダウン仮説は民主主義国家において、一部の富裕層や法人企業に傾注した政策をする際、有権者である国民に「言い訳」をするために編み出されたレトリックなのです。
「富裕層や大手企業を富ます政策をやるけど、いずれ富は国民の皆さんに滴り落ちるので、安心してね」
というわけでございます。
つまりは、政治家がグローバリズム、新自由主義的な構造改革、緊縮財政を推進し、国民の多数を痛めつける際に「言い訳」として持ち出されるのがトリクルダウン仮説なのです。
竹中氏がトリクルダウンを否定したのは、構造改革を推進するに際し、国民に言い訳をする必要性を感じなくなったのか、あるいは言い訳するのが面倒くさくなったのかのいずれかでしょう。
「面倒くせえな。トリクルダウンなんてあるわけないだろ。
政府の政策で、富める者はますます富み、貧しい者はますます貧困化し、それでいいんだよ。
どうせ、負けた奴は自己責任なんだから」
と、一種の開き直りで「トリクルダウンはあり得ない」と竹中氏が発言したと確信しています。
とはいえ、総理が「分配」と言い出したということは、竹中氏はともかく「政治家」にとっては、「トリクルダウンすらない構造改革、富裕層・大企業優遇政策」は、有権者に説明がつかないということなのだと思います。
「竹中氏がトリクルダウンを否定した。へ〜え。
つまり、あんた(国会議員)たちは富める者がさらに富み、貧困層はますます貧困化する政策を肯定するんだな?」
という突っ込みを受けるのは、安倍総理とはいえどもきついでしょう。
http://ameblo.jp/takaakimitsuhashi/entry-12114721167.html
http://www.asyura2.com/20/reki4/msg/630.html#c3
――エカキで作家・マンガ家、旅人でもある小暮満寿雄が世界のアートのコネタ・裏話をお届けする!
かのショートショートの名手・星新一の短編に、こんな話があるのであらすじを紹介しよう。
オーストリアのとある町。貧しい画家志望の青年が、愛する女性とのデート資金を求めて質屋にやってくる。担保の質物は何と青年自らが描いた絵。青年は「金を貸してください」と懇願するが、当然、質屋に絵は一顧だにされず「こんな絵で金は貸せません」とキッパリ断られてしまう。そして下記のやりとりが行われる。
「やっとデイトの約束までこぎつけたんです。お願いです、お金を貸してください。お金は必ず返します。ご恩は忘れません」
「だめですな。そんなことで金を貸していたら店はやっていけません。私たちユダヤ人は冷静なんです。甘く見ちゃ困りますな」
「このうらみは決して忘れないぞ。いつの日か、きさまら冷酷なユダヤ人全部に仕返ししてやる・・・」
「そんなにすごんでも、だめなものはだめですよ。さあ、お帰りください、アドルフ・ヒットラーさん」
(星新一『さまざまな迷路』(新潮社)/「ことのおこり」より)
絵のサインを見ながら主人は、青年の名前言うのだが、彼がすごい剣幕で帰ったあとも、その狂気じみた目つきを思い出し「いずれなにかやらかすかもしらんな」とつぶやくのだった…。もちろん、ユダヤ人質屋が若きヒトラーに金を貸さなかったのは、星新一のフィクションだ。
しかし、ヒトラーが画家志望の青年だったことは有名な事実で、実際ヒトラーが描いた絵は何点も世に残されている。彼の美術に対する情熱は相当なものだったようで、当時オーストリアで名門校だったウィーン美術アカデミーを受験している。しかし、成績不振ということで受験に失敗。
ヒトラーが描いた絵「YouTube」より
https://www.youtube.com/watch?v=mALbFREo-bk
その時の恨みやコンプレックスが逆に独裁者ヒトラーを生んだ原動力ともなったわけだが、こちらがその、オーストリア時代に彼が描いたという絵である。
見ての通り、独創性のない普通の風景画で、レベル的には“上手な素人絵”というくらいだ。これらの絵を見て、ヒトラーの演説にあるようなエキセントリックで妙に人の心を揺さぶる何かを期待した人は、きっと肩すかしを食らった気分になるだろう。
ところが、ヒトラー本人は自らの絵について「古典派嗜好」と自負していたそうで、当時台頭してきた、いわゆる「世紀末美術」(幻想的で退廃的な性格を有する作品)やアール・ヌーヴォーといった新しい芸術運動にはむしろ嫌悪感すら抱いていたという。
■真実を吐き出す「世紀末美術」を憎んだヒトラー
一方でこの絵を見てほしい。こちらは、同じ時代に世紀末美術の騎手として活躍し、わずか28歳の若さで亡くなったエゴン・シーレの作品だ。
エゴン・シーレ1915年作「死と乙女」
http://bravi.hatenablog.com/entry/20120613/p1
絵画とはある意味、心の中に溜まっている澱(おり)を吐き出す作業なのだが、ヒトラーの絵と比べ(比べることもないが)、まさに強烈な個を解き放っており、肉体と精神すべてを吐き出してキャンバスに塗布したような絵だ。
もちろん、ヒトラーはエゴン・シーレの作品を忌み嫌い、憎んでいたという。
実はエゴン・シーレ。ヒトラーより1歳下にあたるのだが、彼が受験に失敗した1年前にウィーン美術アカデミーに入学していたという経緯があるのだ。元来、世紀末美術の台頭に嫌悪感を抱いていたヒトラーだったが、このことでさらに激しい憤りを抱き、独裁者となってからは徹底的に彼らやアカデミーを「退廃芸術」と呼び、弾圧下に置いたのだ。そして、1930年代にヨーロッパで隆盛していた抽象美術や表現主義、バウハウスなどはもちろん、印象派以降の近代の美術はすべてNG。当時、ユダヤ人らが所有していた絵画は財産と一緒にことごとく没収され、略奪され破壊された。
これは弾圧の対象こそ違えど、まさに星新一の短編を地で行った話ではないだろうか。
「このうらみは決して忘れないぞ。いつの日か、オレを認めなかったきさまら退廃芸術家とアカデミー会員全部に仕返ししてやる…」
さすがは星新一。物事の本質をきちんと捉えているではないか。
一方でヒトラーが奨励した絵は、農村の労働と大家族を描いた風俗画や、優美で健康的な裸体画、牧歌的風景画、モニュメントとしての巨大彫刻など、芸術としてみると面白くも何ともないものだったのだ。
■ヒトラーの矛盾
さて、絵とは面白いもので、美しいものを描けば美しくなるというものではなく、立派なものを描けば、それによって人が感動するというものでもない。
adolfhitler4.jpgヒトラーの絵「YouTube」より
アートに必要なものの一つとして、本当に心の中、体の中にある(自分にとっての)真実を正直に吐き出すことがある。そういった意味において、ヒトラーの絵画は自分にウソをついた絵であり、だからこそ魅力的ではないのかもしれない。
その理由として、ヒトラーには昔から「ヒトラーユダヤ人説」や「非アーリア説」があとを絶たない。これには、ヒトラーの父親・アロイスが実際には血の繋がった父親ではない可能性や、あるいはアロイス自身が私生児だった可能性があるなどさまざまな憶測が飛び交っているが、要するに、ヒトラーには出生の秘密と謎があったということだ。
さらに、ヒトラーはアイロスと折り合いが悪かった。そして、“生粋のハプスブルク君主国の支持者”だったアロイスに憎しみを抱いたことが、後のアーリア至上主義、ドイツ民族主義へと走る第一歩となったとも言われている。
しかしこれは、明らかに大きな自己矛盾だ。ほかにも、ヒトラーは自身を“極貧だった”と吹聴していたが、実際にはそうでもなかったなど、彼はあらゆる独裁者がそうであるように、さまざまな過去を隠し、ウソをウソで固めた人生を送っていたのだった。
しかし、言葉や経歴でウソが言えても、絵というのはそういう意味でウソがつけない。それは眠ければ寝る、腹が減れば食べるというように、体がウソをつけないのと同じことだ。
ヒトラーの絵が持つ、えも言えぬ寂しさや荒涼とした風景は彼そのものだったのかもしれない。だが、人の気持ちを惹きつけるには、あまりに貧相なものに違いない。彼は、自分自身を絵で表現するができなかったのだ。
それにしても、ヒトラーの記事を書いていたら頭の芯を締められるような疲労におそわれた。やはり、何かわるいものがついているのかもしれないな。
http://tocana.jp/2014/06/post_4334_entry.html
アドルフ・ヒトラーによって描かれた35枚の絵画
http://musey.net/mag/35
ナチス・ドイツの指導者アドルフ・ヒトラーが、政治家へと転身する前は画家を目指していたことはよく知られている。
ヒトラーは、1905年に実業学校を退学した後で、ウィーンにある名門美術学校「ウィーン美術アカデミー」への入学を希望するものの、「写実性はあるものの、独創性に乏しい」とされて試験に落とされてしまった。
世紀末美術を嫌悪したヒトラー
当時のウィーンをはじめとするヨーロッパでは、幻想的・退廃的な「世紀末美術」や「アール・ヌーヴォー」と呼ばれる新しい美術の流れが盛んに台頭していたが、ヒトラー自身はこうした運動に興味を示さないどころが、嫌悪感すら抱いていたと言われる。
ヒトラーが受験に失敗する1年前には、世紀末美術の旗手であるエゴン・シーレが同校に入学しているが、彼自身は著書『我が闘争』の中で、20世紀以降のダダイスムやキュビズムについて「狂気であり堕落であり病気である」と断じた上で、これらが「ボルシェヴィズムの公認芸術である」とまで述べている。
そんなヒトラーは、人物画よりも風景画・建築画を好んで描いており、いくつもの習作やデッサンなども残っている。これまで、ヒトラーの作品については様々な評価が見られたが、もし彼がそのまま凡庸な画家になり損ねた青年として人生を終えたならば、ほぼ確実にこれらの作品を我々が目にすることはなかっただろう。
以下では、彼の30枚の作品をまとめてご紹介しよう。
ヒトラーは愛犬家としても有名であり、ジャーマン・シェパード・ドッグのメス「ブロンディ」を飼っていた。ちなみに、ヒトラーの愛人であるエヴァ・ブラウンはブロンディを嫌っており、ブロンディを蹴とばしていたことが知られているという。
彼は、第一次世界大戦によって荒廃した街並なども描いている。後に、こうした風景を自らの手によってつくり出すことになる。
ディズニー作品も
なんとその中には、ディズーのピノキオと白雪姫に登場する小人を描いた水彩画もある。これはノルウェー北部の戦争博物館で発見されたもので、ヒトラーが所有していた絵画に隠されていた。
http://musey.net/mag/35
▲△▽▼
アーリア人の赤ん坊を増やせ ! / 同種族を憎むように改造されたアメリカ人
http://kurokiyorikage.doorblog.jp/archives/68674746.html
フリーダが持っていた出生の秘密
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(写真 / ナチス政権下りの理想的ドイツ人少女)
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http://livedoor.blogimg.jp/kurokihelion/imgs/c/3/c330f4d3.jpg
最近のテレビでは予算不足なのか、昔のビデオを集めて懐メロ番組を流す時がある。大きい子供を持つ父親とか母親でも、往年のスターやアイドル歌手を再び目にして大はしゃぎするんだから、若い時の熱狂は一生消えないのだろう。でも、贔屓とするアイドル歌手がいなかった筆者には、残念ながら一緒に懐かしむことができない。とは言え、筆者にも松田聖子とか中森明菜を好きだった友人がいた。しかし、同級生にアバ(ABBA)とかノーランズ(The Nolands)のファンはいなかったから寂しかった。それでも楽しい思い出は尽きない。
今のCDとは違って、LPのアルバムだとジャケットのサイズが大きくて、それぞれのミュージシャンが独自のアイデアを用いてデザインしていたから、ある種の藝術みたいな趣があった。小学生の頃、近所のレコード店に行ってアバのアルバムを注文し、そのレコードが届いたとの知らせを受けた時は嬉しかった。早速、自宅のオーディオ・セットにレコードをかけ、「ヴレヴー(Voulez Vous)」とか「エンジェル・アイズ(Angel Eyes)」「アズ・グッド・アズ・ニュー(As good as new)」といった名曲を毎日のように聴いて、「コンサートに行けたらなぁ」と悔しかったのを今でも覚えている。
Nolans 1ABBA 4
左: ノーランガ
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右: ABBA
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日本でも1970年代後半から80年代初頭にかけてアバは人気で、ディスコ・ブームも重なっていたから、「ギミ ! ギミ ! ギミ !」とか「ダイシング・クィーン」がよく流れていた。ちなみに、筆者が印象に残っているディスコ・ミュージックと言えば、松田優作のTVドラマ『探偵物語』で使われていた「ディスコ・トレイン(Disco Train)」(歌 / セクシー・リズム・セクションズ)と、沖雅也・柴田恭兵が共演していた『俺たちは天使だ』に挿入されていた「You Can Do, I Can Do」である。(これらの曲はユーチューブにアップされているので、確認したい方は曲名をタイプして検索すれば試聴できます。たぶん、「あの曲か!」と想い出す人もいると思う。) 日本でも成功を収めたアバは、1980年代初頭に解散してしまったが、各メンバーは独自に音楽活動を始めていた。リード・ヴォーカルのアグネッタ・フォルツコグ(Agnetha Fältskog)とフリーダ・リングスタッド(Anni-Frid Lyngstad)は、そけぞれソロ・シンガーの道を歩むようになていった。
個人活動を始めたフリーダであったが、新曲の「I know there's something going on」はそれほどヒットせず、アバ時代と比べると凋落の様相を否めない。しかし、彼女はドイツ貴族の奥方となった。アバのメンバーであった頃、フリーダはキーボード奏者のベニー(Benny Andersson)と結婚していたが、まもなく離婚してしまい、それでもバンド活動を続けていたという過去がある。人気絶頂で「アバ」というバンドが解散し、ソロ・シンガーになったフリーダは、造園家で伯爵の称号を持つハインリッヒ・ルッツォ・ルウス(Heinrich Ruzzo Reuß)と結婚し、スウェーデンの歌姫からドイツ人のお妃(プリンセス / Prinzessin Reß von Plauen)へと変身していたのである。普通なら、人も羨む華やかなシンデレラ・ストーリーとなるのだが、フリーダには人に話したくない出生の秘密があった。
Anni Frid 2Anni Frid & Benny 2Heinrich Ruzzo Reuss 1
左: アグネッタとフリーダ
http://livedoor.blogimg.jp/kurokihelion/imgs/8/d/8deac829.jpg
中央: 夫婦となったフリーダとベニー
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右: 再婚したフリーダと夫のハインリッヒ・ルッツォ・ルウス
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1945年11月に生まれたアニ・フリード(フリーダ / Anni-Frid Lyngstad)は、シニ・リングスタッド(Synni Lyngstad)を母に、アルフレッド・ハーゼ(Alfred Haase)を父に持つ。母のシニは片田舎に住むノルウェー人女性で、まだ18歳の乙女であった。一方、父親のアルフレッドは、ノルウェーを占領したドイツ軍に属する24歳の軍曹であったという。彼は派遣された街でこの娘と出逢い、彼女の姿に惹かれてしまった。この娘に惚れてしまったアルフレッドは、ジャガイモの詰まった袋をプレゼントして交際を始めたそうだ。
現在では笑い話になってしまうが、戦時下の1943年、ノルウェーでは食糧不足が深刻だったので、こうした贈り物は大変貴重であったらしい。逢い引きを続ける若い二人が親密になるのに時間はかからず、彼らは程なくして肉体関係を結ぶようになった。だが、アルフレッドには彼女を幸せに出来ない事情があった。何と、彼は故郷に妻子を持つ既婚者であったのだ。(Ross Benson, "Abba girl's Nazi secret", Daily Mail)
Synni Lingstad 1Alfred Haase 1Alfred Haase & Frida
(左: シニ・リングスタッド / 中央: アルフレッド・リングスタッド / 右: 父のアルフレッドと再会したフリーダ)
不倫と敗戦は若い二人を引き裂く。1945年、シニは身籠もるが、恋人のアルフレッドは祖国に帰還することになった。悪い時に悪い事は重なるようで、さらなる不幸が彼女を襲うことになる。ノルウェーの寒村に残されたシニは、周囲からの冷たい視線を浴びることになった。村の者は皆、誰が赤ん坊の父親なのかを知っていたので、彼女が街を歩けば、人々は彼女に向かって「このドイツ人の淫売女 !」と罵ったそうだ。敵国の男と情事を交わしてしまったシニとその母アグニーは村八分となり、時が経つにつれ人々からの仕打ちに耐えきれなくなった。そこで、地元に居場所を無くした親子は、隣国のスウェーデンに逃れ、新たな生活を求めるようになったという。(当時、母のアグニーは夫を亡くした寡婦であったそうだ。) スウェーデンに新居を構えたシニは、ウェイトレスとして働くが、間もなく腎臓を患い、21歳の若さで亡くなってしまう。母を失ったフリーダはまだ2歳であった。こうして幼いフリーダは祖母の手で育てられ、寂しい子供時代を過ごしたそうだ。大人になってから、彼女は幼年時代を振り返っていたが、友達はそう多くなかったという。フリーダは父がドイツ軍人であると聞かされていたが、祖母のアグニーは偽の話を孫に伝えていた。すなわち、父のアルフレッドは海路でドイツに帰る途中、船が沈没して亡くなったと教えていたのだ。後にフリーダが父の真相を知ったのは、アバが人気を博していた1977年の頃であったという。
Anni Frid 3Anni Frid 1Anni Frid 7
(写真 / 若い頃の「フリーダ」ことアニ・フリッド)
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アーリア人の赤ん坊を繁殖させる施設
ドイツ軍人のアルフレッド・ハーゼがノルウェー人娘のシニ・リングスタッドと恋に落ちたのは、偶然の出来事だけではなかった。彼の恋愛は「レーベンスボルン(Lebensborn / 生命の泉)」計画の一環でもあったのだ。エリート組織たる親衛隊(SS /Schutzstaffel)を率いていたハインリッヒ・ヒムラー(heinrich Himmler)は、第三帝國を支える金髪碧眼のアーリア人を増やすことを目論み、ドイツ各地に「レーベンスボルン・ホーム」を創設した。ヒムラーの考えでは、理想的な容姿を備えたエリート部隊の男性が、健康で若いアーリア人の女性と肉体関係を結べば、アーリア人の赤ん坊がたくさん生まれ、ゲルマン民族の肉体が維持できるらしい。もし、個人の自由に任せていると、“へんちくりん”な種族と結婚してしまうから、政府の特別機関が制禦せねばならないという訳だ。こうして、優秀な北方種族の純血性を守り、その優越種族を繁殖させるためには、特別な制度と施設が必要である、との思想がドイツに浸透し始めたのである。
Heinrich Himmler 1Lebensborn 5
(左: ハインリッヒ・ヒムラー / 右: レーベンスボルン・ホームで育つアーリア人の赤ん坊)
ヒムラーは理想の種族でドイツ帝國を満たすことに心血を注ぐ一方で、彼の民族が持つ血統を穢す劣等人種を憎んだ。ドイツ民族の将来を憂いたヒムラーは、薄汚いスラヴ系民族やタカリ民族のユダヤ人、浮浪者のジプシーなどを排斥しようと決心したのである。彼はまた、腐敗と悪徳が蔓延る都会を嫌悪したので、レーベンスボルン・ホームを美しい田園地帯に建てることにした。現在の日本人にはピンとこないだろうが、ワイマール共和国時代には、ホモ風俗とかキャバレーが花盛りで、おぞましい繁華街には売春婦がたむろっていたというから、ヒトラーやヒムラーはこうした悖徳(はいとく)をドイツ全土から一掃した。「極悪人」の烙印を押されたヒトラーだが、意外にも彼は潔癖症で、倫理・道徳的腐敗に対して峻厳だった。美術を愛したヒトラーからすれば、ゲイ同士のセックスとかストリップ劇場などもっての外。ところが、社会道徳など一顧だにしない世俗的ユダヤ人の中には、ゲイとかレズビアンを用いてキャバレーを経営したり、変態趣味やSMショーとかを商売にして儲ける奴がいたそうだ。
Magnus Hirschfeld 2Weimar Germany 2
(左: マグヌス・ヒルシュフェルド / 右: 男同士でダンスを楽しゲイのむカップル)
さらに、マグヌス・ヒルシュフェルド(Magnus Hirschfeld)というユダヤ人学者がセックス学(sexology)で有名だったから、ヒトラーやナチ党の愛国者たちが激怒したのも当然だった。この状態は、メル・ゴードン(Mel Gordon)の著書『官能的パニック(Voluptuous Panic)』を繙けば一目瞭然だ。日本人の読者は、ヒルシュフェルドが丸裸の女性を椅子に坐らせ、その手で彼女の性器を開闢させている写真に驚くだろう。こうした本は大学図書館にも無いから、ほとんどの日本人はワイマール期の社会風俗を知らずに、ナチ・ドイツの風紀取締を非難することになる。まぁ、性器丸出しのゲイやレズビアン、性的な幼児趣味、SMプレー、といった写真が満載の本なんて、公共図書館に置くことができないから、大学生でも第三帝國以前のドイツを理解していないのだ。(筆者はこの本を所蔵しているが、その中に掲載されている写真を紹介できない。ブログ運営のライブドア社の検閲が厳しいしこともあるが、実際、あまりにも卑猥な写真なので、いくら鈍感な筆者でも掲載をためらってしまうのだ。どうか、ご勘弁頂きたい。)
勇敢なアーリア人戦士と美しいアーリア人の母が住むドイツを理想郷としたヒムラーであったが、いくつかの強引な政策もあったから、批判者が出て来ても不思議ではなかったし、排除されたユダヤ人から恨まれることも当然あった。しかし、彼の方針は英米で行われていた社会政策と同じものであったし、現在の福祉制度に通じているから興味深い。レーベンスボルン計画では、由緒正しいSS隊員と健康なアーリア系女性との婚姻が奨励されており、レーベンスボルン・ホームは未婚女性とその赤ん坊、あるいは既婚者との不倫で子供を産んでしまった女性などを保護し、彼らの面倒を見ていたという。ナチ党は逞しい金髪の戦士と家庭を守る母親を理想とし、帝國の未来を担うゲルマン人の子供を産むよう宣伝したし、そうした出産を半ば国民の義務と見なした。こうしたナチスの方針が「悪」なら、日本の武士は単なる殺人鬼だし、家庭を守る専業主婦も否定されねばならない。
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(写真 / ゲルマン系の母親と赤ん坊)
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そこで、ゲルマン人の出生率を上げるため、ドイツは幾つかの社会政策を推進した。例えば、10歳以下の子供を3人以上持つ母親は、商店の順番待ちの列で優先的に扱われる「名誉母親証」を与えられたという。また、地方の行政当局は、こうした母親達に家賃と公共料金の割引をする制度を採用し、これから家庭を築こうとする若いカップルには、人種的適合性が証明されれば、独身者からの特別税を財源とした融資が行われたそうだ。子供が一人生まれるごとに融資額の四分の一が免除されたという。ということは、四人目を持てば借金がチャラになるということだ。(キャトリーン・クレイ / マイケル・リープマン 『ナチスドイツ支配民族創出計画 』柴崎昭則 訳、現代書館、1997年、 p.92)
レーベンスボルン・ホームに熱心だったヒムラーと開業医のグレゴル・エーブナー(Gregor Ebner)は、既婚未婚を問わず、とにかく良い血統を持つゲルマン人の子供を増やしたかった。そこで、赤ん坊を養うことが困難な母親を受け容れて、レーベンスボルン・ホームの看護婦が代わりに養育する場合もあったという。とにかく、レーベンスボルン・ホームは魅力に満ち溢れていた。施設は中世の城を思わせる外観をもち、田園地帯にある高級リゾート・ホテルのようでもあった。当時、出産費用は一人頭400マルクであったが、エーブナーは素晴らしい血統を持つ1000名の子供を確保できるのなら、さしたる出費ではないと考えていたそうだ。資金は様々な方法で調達されていて、レーベンスボルン協会の会員からも徴集していた。会員数は1万3千人。そのうち8千名がSSに所属し、766名は各地の警察組織に属する者であった。会費は月に最低27マルクであったが、父親としての義務を果たしていないSSの隊員は、罰としてなのか、余計に会費を払わねばならなかった。しかも、28歳までに最低2人の子供を持たないSS隊員は、より多くの金額を払わねばならなかったそうだ。(上掲書 p.105)
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(左: グレゴル・エーブナー
中央: ドイツ人の若い女性
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右: 少女と一緒のハインリッヒ・ヒムラー
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それでも、レーベンスボルン計画を維持するには資金が足りなかったようで、1939年、経済省は拡大する赤字を補填すべく100万マルクの補助金を交付したという。日本政府も少子化対策を取るなら、ナチ・ドイツのレーベンスボルン計画をちょっとは参考にすべきだ。国会議員や地方議員、政府の役人はこぞって児童施設の増加を叫ぶが、肝心の国民はセックスをしても結婚しないし、子供すら産まないから少子化が益々深刻となっている。多少のお金をあげても日本人女性は妊娠を嫌がるし、幼稚園が充実すれば「待ってました」とばかりに外で働くから、専業主婦が減って職業婦人が増えてしまう。子供を増やして生活がキツくなるんなら、子供を産まずに所得を上げようとするのは人情だ。ちょっと脇道に逸れるけど、日本の税制は将来を担う国民に対して酷だ。若い夫婦が借金して新居を構えても、その家屋に固定資産をかけて多額の税金を搾り取るんだから、幸せな家庭を築こうなんて思わない。これじゃあ、まるで懲罰金だ。住宅ローンを返済しながら、年金、国民健康保険、市民税、県民税、ガソリン税の二重課税、自動車取得税、車検に加えて消費税のアップじゃ、重税を払うために働いているようなものである。もし、子供を4、5人産んだら住宅借金を棒引きにして、固定資産税も軽減ないし免除となれば、若い夫婦もちょっとは夜の営みに励むかも知れない。
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(写真 / ナチス時代のドイツにおけるゲルマン系少女たち)
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ナチ・ドイツの崩壊でハインリッヒ・ヒムラーの評価は最低だが、彼がSSのために考案した儀式には注目すべき言葉がある。夏至と冬至の儀式に集まった民衆は、次のように唱和しなければならなかった。
我々は祖先を尊敬し、その前で跪く。祖先の血は、使命と責務として我々の中に流れている。
血縁共同体によって、男は遺産を守る義務を負わねばならない。
存在することの意味は、遺産を結実へと展開することである。
生命の輝きを保つ聖なる場所を守るのは、家族である。
男とその妻は、生命の芽を授け、それを担い、そして伝播させる。
我々の子供たちは、我々の交わりと存在の証明である。
そして、我々の孫たちは、我々の偉大さを証拠立てるであろう。
(上掲書 p.64)
ドイツ史を研究する日本の左翼学者は、頭ごなしにナチスを糾弾するが、ドイツ国内でアーリア系、つまり北方種族のドイツ人が増える事に問題は無いはずだ。確かに、ポーランドを侵掠し、現地人を弾圧したことは非難されるべきだが、侵略戦争なら歐米各国とも常習犯である。英国はアジアやアフリカに宏大な植民地を獲得し、現地の有色人種を蔑み、レイシズムに基づく秩序を形成して、現地人を奴隷の如くこき使っていた。インド人やビルマ人、アフリカ人からすれば、ドイツ人もイギリス人も変わりはないし、自由や博愛を掲げていたフランス人など完全に偽善者だ。ドイツ人を非難するアメリカ人だって、国内では黒人を家畜として働かせていたし、黒人との混血を忌み嫌い、一滴でも黒人の血が混じった子供は白人と見なされなかった。これは、ユダヤ人の祖父母を持つユダヤ系混血者を「ドイツ人」と見なさなかったナチスと同じである。アメリカ人は嫌がるけど、ナチ党はアメリカの人種法を参考にしていたのだ。当時の西歐世界はどこでも人種差別が横行していたし、他国への侵掠とか劣等人種の征服などは伝統的行為であったから、殊さら騒ぎ立てる程のものでもなかった。
恨み骨髄のユダヤ人
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(写真 / ユダヤ人の集団)
しかし、ドイツやその他の西歐諸国に住むユダヤには赦しがたかった。彼らは千年以上も異国にタカってきた寄生民族なのに、自らを正当な「ドイツ国民」と考えていたのだ。しかし、ナチ党が台頭すると、如何なる高位高官のユダヤ人も単なる「ユダヤ人」に貶められたから、大騒ぎしても無理はない。以前なら、強欲な領主や君主を札束でビンタすれば、迫害の手が緩んだし、条件次第では引き続き居住が許され、有能なユダヤ人であれば、秘書とか財務官といった手下になることができた。ところが、ヒトラーは甘っちょろい貴族とは決定的に違っていたのである。彼はユダヤ人の袖の下に屈しなかったのだ。ナチスは法律を以てユダヤ人を炙り出した。例えば、
(1) 氏名変更の禁止。ユダヤ人がドイツ風の名前をつけることを禁止したのである。
(2) ユダヤ人の商店はユダヤ人が所有していることを隠してはならない。
(3) ユダヤ人組織は当局に登録せねばならない。
(4) ユダヤ人は自分がユダヤ人であるとこを示す書類を持ち歩かなければならない。
(5) ユダヤ人は不動産業、金貸し屋、工場経営、調査業、結婚仲介業、看護婦、巡回販売員などを営んではならない。
(6) ユダヤ人はドイツ人の劇場に入ってはならない。
(7)ユダヤ人の子供はドイツの学校から排除される。
これ意外にも様々な禁止条項があった。こうした条例は他国にも適応され、フランスがドイツに占領された時、そこに住むユダヤ人はケルト系のフランス人と区別された。すると、今までフランス人が営んでいると思っていた商店が、実はユダヤ人の店であったとわかってフランスの庶民が驚く、といったケースがあったそうだ。しかも、「こんなに多くあったのか !」と驚嘆したというから面白い。反ユダヤ主義の伝統が根強かったフランスでは、ドイツ人によるユダヤ人迫害に協力する人が少なくなかった。忌々しいユダヤ人を排除してくれたんだから、征服者にしては「良い事」をしたものだ。
第三帝國の崩壊はドイツ人にとって悲劇であったが、戦勝国の英米にとってもある意味「敗北」であった。経済的に疲弊した英国は別にして、国内に損害が無かった米国も意外なしっぺ返しがあったのだ。あろうことか、ナチスを悪魔にして糾弾したアメリカ人は、自国内で人種差別が出来なくなってしまった。ナチスのユダヤ人迫害はドイツ人の独創ではなく、以前から継承されてきた排除思想が基になっていたのに、まるでドイツ人だけがユダヤ人を虐待したかのような印象操作が戦時中に行われていたのである。ドイツ人が如何なる人種政策を取ろうとも、アメリカ人はそれとは無関係に、従来の人種差別を継続してもよかったのだ。なぜ戦勝国が敗戦国のせいで人種混淆社会になるのか? そもそも、合衆国の白人兵はユダヤ人を救うために参戦したのではないし、黒人との平等を求めて日本兵と戦ったわけでもない。ところが、奇蹟的に生き残った白人兵が帰国すると、国内にはユダヤ人を始めとする戦争難民が押し寄せ、ついでにアジア系移民に関する法的制限も撤廃されてしまったのである。
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(左: ユダヤ人の子供 / 右ユ: ダヤ人の移民)
激戦に勝ったら厭なユダヤ人を引き受けることになるなんて、まったく馬鹿げている。同じ種族のドイツ人、特に戦争孤児や夫を亡くした母子家庭のゲルマン人なら受け容れてもいいだろう。事実、ジェイムズ・イーストランド上院議員は、戦争で住処を無くしたドイツ難民を優先しようと述べていた。ところが、優先的にやって来たのはむさ苦しいユダヤ人とか、東歐や南歐からの貧民、その他の不愉快な劣等民族であったから、地元のアメリカ人は眉を顰めていた。案の定、住みついたユダヤ人家庭からは筋金入りの共産主義者や、ピンクの左翼、リベラル派気取りのゴロツキ、空論を弄んで社会に害をなす知識人、白人社会にケチをつける左巻きのジャーナリスト、真っ赤に染まった藝能関係者などが輩出されたのである。以前、当ブログで紹介したように、公民権運動で黒人を焚きつけたのはユダヤ人活動家であったし、異人種混淆を奨励する映画を作っていたのもユダヤ人であった。
映画界やテレビ局、その他の娯楽産業を牛耳ったユダヤ人は、盛んにナチ・ドイツを侮蔑し、ドイツ人が犯したユダヤ人への暴虐、迫害、ガス室殺人などをアメリカ人に吹き込んだ。それにより、上流ないし中流家庭の白人たちは、兇悪犯のドイツ人を蛇蝎の如く嫌うようになってしまった。映画に現れるナチ高官は決まって残忍冷酷で、米軍に銃を向けるドイツ兵は、皆ロボットのように上官に従い、ケダモノのように民間人を殺しまくる。一方、アメリカ兵は人情味に不溢れた正義漢として描かれている。南洋で投降する日本兵を撃ち殺す卑劣なアメリカ兵とか、絨毯爆撃で女子供を皆殺しにするパイロット、焼夷弾で民間人を焼き殺すよう命じる米軍将校などは描かれない。もちろん、占領下の東京や横浜で日本人女性を強姦する黒人兵とか、少女を凌辱する白人兵などは無視。悪いのはナチズムのドイツ人とファシズムの日本人のみだ。
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左: 二枚クリステン・スチュワートとテレサ・パーマー
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右: 二枚ティファニー・ティッセンとアレクサンドラ・ダダリオ
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こうしたプロパガンダ映像で洗脳されたアメリカ白人は、同種族のドイツ人を殊さら憎み、異人種であるはずのユダヤ人に親近感を覚える。しかし、日本人の目から見れば、西歐系アメリカ人とアーリア系ドイツ人は同胞に見えてしまう。もし、第二次大戦を闘った高齢の白人が子供や孫の配偶者を選ぶとしたら、必ず同種族の西歐人を望むだろう。戦争が終わって帰還した白人兵は、たいてい白人娘と結婚し、自分と“似た”子供をもうけた。ここでは直接関係無いけど、白人俳優には他人なのによく似ている者がいる。例えば、女優のテレサ・パーマー(Teresa Palmer)とクリステン・スチュワート(Kristen Stewart)は、アメリカ人の目から見ても似た者同士だ。また、映画「ベイウォッチ」に出演したアレクサンドラ・ダダリオ(Alexandra Daddario)と、TVドラマ「ホワイト・カラー」で人気者となったティファニー・ティッセン(Tiffani Thiessen)も、ちょっと見ればよく似ている。これは彼女たちの親が同じ白人同士で結婚し、祖先からの遺伝子を守ってきた結果、同じタイプの容姿が保存されたという実例ではないのか。
住むなら白人地区
口では綺麗事を述べる人でも、自分のお金を使う時には本音に忠実となる。例えば、いくら南鮮人を擁護する左翼評論家でも、自分の財布で自家用車を買おうとすれば、韓国の「現代(ヒュンダイ)」ではなく、トヨタとかホンダの日本車、あるいはメルセデス・ベンツやBMWいった高級車を選んでしまうだろう。第一、朝鮮のクルマなんか恥ずかしくて友達に見せられない。また、米国に派遣された日本人社員が現地で自宅を購入したり、子供の学校を探そうとすれば、おのずと白人の住宅地に目を向け、グレた子供が少ない白人学校を選んでしまうだろう。アメリカの白人だって「レイシスト」の日本人に賛同するはずだ。しかし、現在では、北方種族だけのドイツ村とか、白人ばかりが住む高級住宅地は評判が悪い。でも、日本人の不動産鑑定士が土地を調べれば、黒人やヒスパニックがひしめく地域より、西歐系アメリカ人だけが住む地域の方に高い評価額をつけてしまうだろう。実際、裕福なアメリカ白人は白人が圧倒的に多い高級住宅地に屋敷を構える。以前、ビル・クリントン夫妻の豪邸を紹介したが、黒人やヒスパニックに同情的なリベラル・カップルは、有色人種が少ないニューヨーク郊外の白人地域に新居を購入していたのである。
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左: アメリカにやって来るヒスパニック移民
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右: アメリカにやって来るムスリム移民 )
アメリカの白人は敗者の日本人に向かって、「オレ達の国は自由を尊ぶデモクラシーなんだ。お前らみたいに奴隷根性で暮らしている未開人じゃない」と説教するが、彼らに果たして本当の自由があるのか? 例えば、ヒムラーが夢見た金髪碧眼のゲルマン人ばかりで形成される田園地帯が現れたら、裕福な白人層は我先にと土地購入に奔走するだろう。幼稚園や小学校には黒いアフリカ人や褐色のアラブ人が皆無で、どの子供も白い肌に薔薇色の頬をし、大きな青い瞳を輝かせている。こうしたブロンドの幼児は、縮れ毛の黒人が発する独特のアクセントで喋らず、卑猥なダンスに興味を示すことも無い。健全な白人家庭が多くなれば、刑務所に収監された父親とか、福祉金に頼るアバズレ女房、麻薬でラリっているストリート・ギャング、売春婦と大して違わないズベ公、なども激減するだろう。貧困家庭の黒人生徒なんて、卒業後は刑務所に就職するため学校に通っているようなものだ。白人だけの共同体が社会的に公認されれば、リベラル派を気取ったインテリ夫婦だって、アーリア人村に引っ越したくなる。
そもそも、北方種族ばかりのドイツになったからといって、生粋のドイツ人がどんな損害を受けるというのか? 日本人のみならず、西歐系アメリカ人は冷静に考えてみるべきだ。例えば、ドイツ人に生まれた事を誇る親が、金髪を靡かせるアーリア人だらけの幼稚園を訪れて、「うぁぁぁ〜、北歐種族だらけだぁ ! 怖ろしい! こんな幼稚園にウチの子を入れることはできないわ!」と叫ぶのか? たぶん、それとは真逆だろう。もしかしたら、「まぁ、何て素晴らしい幼稚園なの ! どの子もみんな可愛らしいわ! ウチの子もここに通わせたい !」と、うっかり口を滑らすんじゃないか。「ゲルマン系」「アーリア系」「アングロ・サクソン系」と何でもいいが、西歐系アメリカ人はなぜ自分たちの理想を追求しないのか不思議である。
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(写真 / 忌み嫌われるアーリア系の幼児たち)
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もし、アメリカが「自由の国」ならば、黒人やユダヤ人がギァアギャア騒ごうとも、好ましいタイプの白人だけで住宅地を持ったり、北方種族だけの小学校を作ったり、会員制の白人ゴルフ・クラブを開設すればいいじゃないか。民間組織における「受容」と「排斥」は自由であるべきだ。建国以前、イギリス人入植者は自分の好きなように神様を拝めるよう渡ってきた。彼らは新大陸に根づき、アングリカン教会から指図されず独自の教会を設立し、好き勝手な聖書解釈を行っていたのである。それなのに、アングロ・サクソン入植者の子孫は、自分の好きな者たちだけと暮らすことを禁止され、ユダヤ人が提唱する反米教育や不道徳な価値観に抵抗できない。英国のプロテスタント信徒はカトリック教会に反抗できたのに、ユダヤ人団体の前では隷属するなんて情けない。プロテスタントはユダヤ人の下僕なのか?
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(左: 歓迎されるユダヤ人の大人たち / 右: 大切にされるユダヤ人の子供たち)
ユダヤ人が哀れな難民として入国した頃は、借りてきた猫みたいにおとなしかったが、この異民族は財力や権力を身につけると、次第に地元民の西歐人へ文句をつけるようになった。白人ばかりのコミュニティーはレイシズムの温床だから駄目。アングロ・サクソン人を始めとするゲルマン種族を称讃するのは、反ユダヤ主義に繋がるから禁止。米国をキリスト教国と定義することは、信仰の自由を阻碍することになるから破棄。西歐文明、とりわけイギリス文化を継承することは、多民族・多文化主義を否定するものだから、テレビや学校の教育プログラムから抹消。こんなアメリカ社会に変貌しているのに、アメリカの白人はフランクフルト学派の毒が廻っているせいか、まったく気づかない。その前に、「ネオ・ナチ」という言葉を聞くだけで震え上がってしまうのだ。ただ、筆者の言うことを理解するアメリカ人も居ることはいる。しかし、彼らは社会的地位を失うことを恐れるから、絶対に賛同することはない。こんな具合だから、綺麗事でしかない理想を語るリベラル派が幅を利かせているのだろう。
白人の赤ん坊は高い
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(写真 / レーベンスボルン計画で理想的モデルとされそうなアーリア人の男女と家族)
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とにかく、レイシズムを否定するアメリカ社会であるが、養子縁組となれば白人の赤ん坊を望む白人夫婦は多い。もし、アメリカにレーベンスボルン・ホームのような養育施設があって、ヒムラーのように純粋なゲルマン人の赤ん坊を斡旋してくれたら、感涙にむせるカップルがたくさん出てくるだろう。事実、白人の赤ん坊は需要過多で、供給が極めて少ない。だから、白人の赤ん坊は値が高く、その次に白人系のヒスパニック、アジア系と値段が下がり、黒人は最低価格だ。幼くても買い手が付かない。売れ残った黒人の子供が成長してしまえば、もう絶望的である。子供が欲しい白人カップルは、しぶしぶ黒人を引き取るが、ユダヤ人カップルはユダヤ人の養子にこだわるし、異民族の子供を欲しがらない。ユダヤ人は二重思考を恥としないからね彼らは白い肌の子供を優先的に迎え入れ、たまにへそ曲がりのユダヤ人カップルが黒人を養子にする程度。しかし、西歐系白人に対しては人種平等を押しつける。(それなら、パレスチナ難民の子供を養子に迎えればいいのに。)
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左: 黒人の赤ん坊
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中央: 支那人の赤ん坊
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右: ヒスパニック系の子供
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気前よくユダヤ難民を受け容れたアメリカ人は、本当に愚かである。自分の国なのに“くつろぐ”ことができず、常に異国に居るような気分になるし、周りを見渡せば黒人、アラブ人、南米人、支那人、インド人などが目に付く。しかも、言論の自由があるはずなのに、絶えずユダヤ・メディアの検閲が光っている。そして「自由」と「デモクラシー」を掲げて対外戦争をすれば、その都度、望みもしない難民がやって来るのだ。第二次世界大戦でユダヤ人、朝鮮戦争で朝鮮人、ベトナム戦争でベトナム人、イラク戦争でイラク人、ソマリアの紛争ではソマリア人が雪崩れ込んで来た。こんな結末なら、ナチ・ドイツを徹底的に破壊しなけりゃよかった、と歎きたくなる。日本人が高齢のアメリカ白人を捕まえ、「1950年代以前のアメリカと1960年代以降のアメリカと比べたら、どちらが良いのでしょうか?」と尋ねたら、彼らは声を小さくして「そりゃあ、戦前の方さ」と囁くだろう。「でもなぁ、ワシの孫は黒人との混血児なんだよ」という悲しい告白もあったりして、気の毒なインタビューになったりする。
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(写真 / 高値がつきそうな白人の子供)
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日本人で歴史を研究する者は圧倒的に文系が多いから、歴史を違った角度から考えるという習慣がない。自然科学や数学を専攻する者なら、自然現象をあらゆる角度から考察し、様々な仮説を立て実証したり、研究したりするだろう。たとえ、「定説」であっても、それを疑い、自分で検証するし、学会の大御所が提唱した仮説といえども決定的ではない。ところが、歴史学会に所属する学者だと、長老教授の「史観」に逆らうことはないし、「定説」通りに論文を書けば、やがて正教授になれる。何も無理して有力教授に挑戦する必要はないし、黙って従えば自分も大御所になれるんだから、学会の主流に逆らうのは愚の骨頂だ。アメリカの学会も似たり寄ったりで、かつてアングロ・サクソンが主流だった米国はユダヤ人の天下になってしまった。ナチスにだっで見倣う点はあるだろう。アメリカ人はナチスのユダヤ人虐殺を非難するが、その立派なアメリカには中絶賛成派の「プロ・チョイス」勢力が存在する。「赤ん坊殺し」をチョイス(選択)の問題にするんだから驚く。たしかに、胎児は喋らない。いや、喋ることができない。母親に殺された赤ん坊は天に訴えるしかないのだ。それなら、未婚の母から捨てられた子供を養育したレーベンスボルン・ホームの方が遙かにマシだ。ユダヤ人の子供を殺すことが残酷なら、まだ母親のお腹にいる赤ん坊を殺すことだって悪である。案外、中絶賛成派のフェミニストは、ヒトラーが待つ地獄に直行するかも知れないね。
http://kurokiyorikage.doorblog.jp/archives/68674746.html
ナチスが嫌った醜い藝術
http://kurokiyorikage.doorblog.jp/archives/68684652.html
頽廃芸術が横行したワイマール時代
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(上絵画 2枚 / ヒトラーの作品)
今回のブログは1、2年前から発表しようかどうか迷った記事である。ナチス時代のドイツを知るには、ワイマール時代の社会状況を知る必要があるのだが、その一部があまりにも卑猥なのであからさまに伝えることが出来ない。しかも、ブログ運営会社のライブドアによる「検閲」があるので、たとえ「歴史的事実」でも「破廉恥な現実」を掲載すれば、当ブログの閉鎖を余儀なくされるからだ。それでも、歴史の真相を求める日本人には、偏向史観ではない具体的で“生々しい”情報が不可欠なので、肝心なエロ絵画を載せられないが、とりあえず紹介することにした。
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(左: アドルフ・ヒトラー / 中央: カール・トルッペ Karl Truppe と Franz Triebsch によるヒトラーの肖像画 / 右: アルベルト・シュペーア )
第三帝國の総統となったアドルフ・ヒトラーが、若い頃、画家を志していたことは有名である。したがって、この伍長上がりの政治家は美術に関しては少々うるさく、自らのドイツ帝國を偉大な藝術で飾ろうと思っていた。ヒトラーがベルリンを壮大な首都にしようとした「ゲルマニア世界都市計画(Welthaupstadt Germania)」は有名で、その担当者に建築家のアルベルト・シュペーア(Berthold K. H. Albert Speer)を据えたこともよく知れられている。現在では、ヒトラーと言えば「極悪人」というレッテルが貼られているので、やることなすこと一切が非難の的になっている。だけど、もし敗戦がなく、目論見通りベルリンの再開発が遂行されていたら、たぶん絢爛豪華な帝都の誕生となったであろう。
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左: ドイツ人の少女
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中央: ナチス時代のドイツ人女性
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右: ナチ党のポスター
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もっとも、追い出されたユダヤ人は恨み骨髄だ。しかし、好ましいアーリア人で賑わう街はヨーロッパ諸国の注目を集め、不動産価格が高騰するのは間違いない。きっと、好奇心旺盛な日本人も、世界に冠たる偉大な都市を見物しようと、ベルリンに押し寄せるんじゃないか。現在の歐米人のみならず、日本人も「ユダヤ人の視点」でしかドイツ史を観ないけど、もし、ゲルマン人の目でヒトラーの帝國を眺めれば異なった感想を持つはずだ。
例えば、仮にドイツの住民がアーリア系ドイツ人ばかりになったとする。そうなると、いったい誰が困るというのか? 日本人観光客で、金髪碧眼の北歐人が集まる商店街とか教会を眺めて、「気持ち悪る〜い」と感じる人はいないだろう。日本人女性だと、ゲルマン人の子供が楽しく遊ぶ幼稚園を見て、「アっ! かわいぃ〜い」と声を上げるんじゃないか。日本人の亭主だと、ブロンド美女の保母さんに“うっとり”する姿を女房に見られて、「アンタ、どこ見てんのよ !」と叱られたりしてね。
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左: ヒトラーとドイツ人の少年
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ドイツ軍士官
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右2枚: 理想的なアーリア人女性
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それに、ドイツを訪れたオランダ人やイギリス人の観光客が「あれ〜ぇ? 白人ばかりだ。ユダヤ人がいなくて寂しいなぁ」と愚痴をこぼすのか? ユダヤ人が大嫌いな愛国的フランス人なら、「アレマン人(ドイツ人)は素晴らしい ! ぜひ、我が国もユダヤ人を駆逐しよう !」と叫ぶに違いない。また、 ユダヤ人を大学やホテルから閉め出したアメリカ人も、同種族のドイツを旅行して感動するはずだ。帝國陸軍から派遣された日本人だって、ゲルマン人ばかりのドイツに違和感は無く、ユダヤ人が居なくても不便はない。ちょうど、江戸や大坂に朝鮮人が居なくても寂しくないのと似ている。
German boy 2German family 2German women 1950s
左: ドイツ人の少年
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中央: ドイツ軍士官の家庭
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右: 1950年代のドイツ人女性
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ナチ党やヒトラーの評判が悪いのは、ドイツを敗戦に導いたことにあるのだが、ユダヤ人や左翼分子が歐米の学会を牛耳っているのも、見過ごせない原因の一つである。ヒトラーにより追放されたユダヤ人は、アメリカやブリテン、カナダなどの西歐世界に移住し、その地で反ナチス本を大量に出版した。したがって、ドイツの事情に無知な一般人は、「ほとんど」と言っていいくらい、ユダヤ人の洗脳を受けている。フランクフルト学派のユダヤ人を迎入れたアメリカはその典型例で、今でもユダヤ人が撒き散らかした害悪により、訳も解らず“のたうち回って”いるのだ。これは丁度、見知らぬ他人から魚を貰って食ったら、その内蔵に水銀が溜まっていたり、回虫のアニサキス(Anisakis)が潜んでいたことから、食後にもがき苦しむのと同じ症状である。
Hitler's painting 1Hitler's painting 6Hitler's painting 2
(上絵画 / ヒトラーによる風景画)
排除されたユダヤ人の中には藝術家もいて、彼らは亡命先で散々ナチスを呪った。そして、この呪詛を聞いた現地人もユダヤ人アーティストに同情したものである。しかし、この亡命者たちは一体どのような作品を世に送り出していたのか? なぜ、ヒトラーやナチ党員たちは、彼らを排斥したのか? 日本人としては事の善悪を越えて、その理由を知りたい。我々は迫害されたユダヤ人の怨念だけを鵜呑みにするのではなく、迫害した側のドイツ人による言い訳にも耳を傾けねばならないと思う。とりわけ、1942年3月27日にヒトラーが述べた意見は傾聴に値する。ヒトラー曰わく、
ワイマール共和国時代が特にひどかった。これは美術界におけるユダヤ人の影響力の怖さを如実に物語っている。ユダヤ人どものやり方は信じがたいほどの図々しさだった。インチキ美術評論家の協力も得て、ユダヤ人どうしでの間で競り上げて、ナイーヴな人々に屑同然の絵を最高傑作と思わせるのに成功したのだ。自らの知的水準には自負を抱いていたはずのエリートたちさえ、ころりとだまされた。今、ユダヤ人の財産没収のおかげで奴らのペテンの証拠が続々と手に入るというわけだ。屑同様の絵をだまして高値で売った金で、反対に過小評価した傑作をばかみたいな安値で購入する。-----これがやつらのペテン藝術の極みともいえる手口だったのだ。著名なユダヤ人から徴発した財産の目録に目を通していつも驚くのは、そこに本物の芸術品ばかりが載っているということだ。(『ヒトラーのテーブル・トーク』 下巻、吉田八岑 訳、三交社、1994年 p.31)
確かに、ユダヤ人の富裕層はヨーロッパの名画を買い漁っていたようで、ナチスが彼らから奪い取った作品には目を見張るものがあった。最近だと、ナチスに協力した画商のヒルデブラント・ガーリット(Hildebrany Gurlitt)が隠し持っていた絵画に注目が集まったことがある。彼の息子で隠遁生活を送っていたコルネリアスが、ある失態を犯してしまい、盗品が表に現れるという事件が起きた。(Michael Kimmelman, "The Art Hitler Hated", The New York Review of Books, June 19, 2014) 戦災で失われたと思われていた多数の絵画が見つかってドイツ人は驚嘆。その中には、「頽廃藝術(Entartete Kunst)」作品も含まれていたそうだ。ヨーロッパ人の美を愛するヒトラーにとって、ユダヤ人や現代画家の美観は許せなかったそうで、総統は美術展に足を運ぶ度に、その「塗りたくった絵」を取り外させたという。たとえ、プロイセン・アカデミーの“お墨付き”が与えられた作品であっても、「無価値なもの」に対しては容赦無くふるい落としたらしい。
Otto Dix Portrait of the JournalistPaul Klee 21Eric Heckel 4
(左: オットー・ディックスの作品 / 中央: ポール・クリーの作品 / 右: エーリッヒ・ヘッケル)
ヒトラーによると、アカデミーの会員はきちんと任務を果たさず、いつも仲間内で“なあなあ”で済ませ、ある宗教担当大臣はユダヤ人の罠に嵌まって“とんでもない駄作”に賞を与えてしまったそうだ。しかも、騙された人々は最初、「これは難解な作品だ」などと一応納得した顔をして、「作品の深層と意味を洞察するためには、提示されているイメージの世界に浸る必要がある」と、もっともな“ご託”を並べたという。そう言えば、日本でも西洋美術展が開催されると、評論家気取りの連中が適当な「講釈」を垂れるし、門外漢の一般客は、その「値段」を聞いて作品の「価値」を決める傾向が強い。庶民はピカソやムンクの作品を観たってチンプンカンプン。「こんなの子供の落書きだよなぁ」と心の底で思っても、その値段が何十億円と聞けば、「うぅぅ〜ん、やはり筆のタッチがひと味違うな !」と急に意見を改めたりする。
Picaso 3Picaso 1Edvard Munch 5Munch Girl Yawning
(左: パブロ・ピカソ / ピカソの作品 / エドワルド・ムンク / 右: ムンクの作品)
だが、ヒトラーによる美術批評家への意見は手厳しい。「一般論として、アカデミーの類いは傾聴に値する程の意見を発表しない」そうで、教授どもは落ちこぼれか、枯渇した老人くらいであるという。たとえ、才能豊かな者がいても、彼らは1日に2時間と教えられないそうだ。(上掲書 p.32) ヒトラーの美術論によれば、真の藝術家は他の藝術家たちとの接触を通して育って行くものらしい。かつて、巨匠といわれた画家たちは、工房の助手としてスタートし、技術と器用さで秀でた者、あるいは将来価値のある作品を生み出せそうな者だけが、徒弟の地位へと昇ったそうである。ヒトラーはルーベンスやレンブラントの例を挙げていた。これなら我々にも解る。例えば、「偉大」と称されるピカソなんかより、フェルメールの油絵の方がよっぽど素晴らしいし、ラファエロの聖母像も傑作だ。ヨーロッパの評論家はムンク(Edvard Munch)の『少女と死』とか『思春期』を称讃するけど、日本人には葛飾北斎の『富嶽三十六景』や歌川広重の美人画とか版画の方が解りやすい。
Vermeer The_Girl_with_the_Peal_EarringRembrandt The Good SamaritanRembrant The prodigal Son
(左: フェルメールの名作「真珠の耳飾りをつけた少女」 / 中央: レンブラントの「善きサマリア人」 / 右: レンブラントの「愉快な仲間」)
エロ・グロ作品を描いていた亡命者
ヒトラーは、当時の風潮に不満を漏らしていた。ドイツの美術学校では自由放任の方針を取っていたようで、天才なら最初から自分のしたいようにしてもよい、と考えていたらしい。しかし、ヒトラーは「天才画家であっても、最初は皆と同じように学習から始めねばならぬ」と考えており、「たゆみない努力によってのみ、描きたいものが描ける」と信じていた。そして、総統は絵の具の混合をマスターしていない者や、背景の描けない者、解剖学を学んでいない者は、大した画家にはならないだろう、と結論づけていた。そこで、ヒトラーは「曾てのように現代も、画家の卵は親方の工房で美術の伝統にどっぷり浸かりながら訓練を受けるべきだ」という。なぜなら、ルーベンスやレンブラントの作品を観ると、弟子と師匠が描いた部分の区別が附きにくかったからである。つまり、ルーベンスやレンブラントの弟子たちは、師匠と同じ技量を身につけていたということだ。
George Grosz 1Max Beckman photoErnst Ludwig Kirchner 1Eric Heckel 3
(左: ゲオルク・グロス / マックス・ベックマン / エルンスト・ルドウィック・キルヒナー/ 右: エーリッヒ・ヘッケル)
このように、ヨーロッパに根づく伝統的美意識を愛したヒトラーだから、その伝統を無視する抽象画とか表現主義の作品は許せなかった。ヒトラー率いるナチ党が「頽廃藝術家」と評した者といえば、ゲオルク・グロス(Georg Grosz)や、オットー・ディックス(Otto Dix)、マックス・ベックマン(Max Beckman)、エルンスト・ルドウィック・キルヒナー(Ernst Ludwig Kirchner)、パウル・クリー(Paul Klee)、ルシアン・フロイト(Lucian Freud)、エーリッヒ・ヘッケル(Erich Heckel)などが挙げられる。特に、ユダヤ人と思われがちなゲオルク・グロスは札付きのワルで、キリスト教の家庭に育ったドイツ人であったが、思想的には真っ赤な共産主義者であった。彼はドイツ共産党に属していたけど、ソ連を訪問し、グリゴリー・ジノヴィエフ(Grigory Zinoviev / ユダヤ名Hirsch Apfelbaum)やレーニンと会ったことで失望したそうだ。グロスは形だけではあるが、共産主義から足を洗い、風刺画家に専念したらしい。
ところが、このグロスは単なる絵描きではなかった。ナチ党の台頭により米国へ亡命したグロスには、マーティー(Marty)という息子が生まれ、この倅(せがれ)はマスコミを相手に父親の偉大さを宣伝していたが、ある作品に関しては沈黙を守っていた。彼はある記者のインタビューを受けて、「父の風刺画や油絵、鉛筆画はベルリンの頽廃と腐敗を厳しくも情熱的に描いていました」と述べている。(Rosie Millard, "My father, the famous artist", The Independent, 17 March 1997) しかし、マーティーは父親の藝術を概ね讃美するも、その恥部だけは巧妙に避けていたから狡(ズル)い。この息子は父のエロ・グロ作品を人前で堂々と掲げるべきだ。グロスの作品総てを知らぬ一般人は、ナチスに迫害された可哀想な藝術家としか思わないが、彼の描いた「卑猥な絵」を目にすれば、ご婦人方は両手で顔を覆ってその場を去るだろうし、美術品愛好家の紳士なら、「何だ、この下品な絵は !」と叫ぶに違いない。日本人もグロスのエロ絵画を見れば、なぜナチ党が彼を「ボルシェビキ風の敵No.1」と評したが判るだろう。
George Grosz Pappi und MammiGeorge Grosz 5George Grosz Strassenszene Berlin
(上3 枚 / ゲオルク・グロスの作品)
憐れな亡命者と思われているグロスは、文字にするのも憚れるような卑猥な絵を描いていた。例えば、性器を剝き出しにした女や、客のペニスを膣に挿入する淫売、巨根をしゃぷる痴女、うつぶせの女を背後から襲う男、醜悪な体型をした中年女など、“おぞましい”としか言いようのない作品を残していたのだ。(ライブドア社の禁止規定に抵触するので、実際の生々しい「猥褻作品」を掲載できなくて残念である。でも、規則だから仕方ない。) とにかく、グロスは露骨に性器を描写していたから、とても一般公開などできない。米国の敬虔なキリスト教徒なら卒倒間違いなし。仮に、美術館の壁に掛けることが出来たとしても、訪問客から猛抗議を受けて、即座に展覧会は中止されるだろうし、主催者は責任を取ってクビになるはずだ。こうなれば、一般のアメリカ人もグロスへの同情を失い、「頽廃芸術」が何であったのかが解る。でも、ユダヤ人や左翼ジャーナリストは困るだろう。ヒトラーは絶対的な悪なのに、その追放政策が正しく思えてしまうからだ。したがって、反ナチス派の評論家や歴史家は事実を隠す。
Ernst Ludwig Kirchner 1909_MarzellaErnst Ludwig Kirchner 5Max Beckman 4Max Beckmann
(左2枚 : ルドウック・キルヒナー / 右2枚: マックス・ベックマン )
ルドウィック・キルヒナーの作品は卑猥でなかったが、彼の描く人物はどれも醜くて、観ていると暗い気分になる。なるほど、描かれた人物は印象的だが、お世辞にも「美しい」とは言えず、どちらかと言えば「病的」と評した方がいい。ちなみに、キルヒナーは精神病を患っており、展示会に出した自作を撤去されてから一年後に自殺している。フランクフルトのアカデミー会員をクビになったマックス・ベックマンや、700点以上者作品を撤去されたエーリッヒ・ヘッケルの絵も全体的に陰鬱で、部屋に飾ってみたいとは思えない作品である。だいたい、ベックマンの作品などを模範にしたい絵描きがいるのか? 蛭子能収をちょっと上手くしたくらいで、ザビエル山田といい勝負だぞ。(ザビエル山田は漫画『愛の泉』や『オヤジの吐息』の作者である。) 美術評論家は彼らの作品を「素晴らしい」と褒めちぎるんだろうが、一般人ならこんな絵を高値で買おうとはしないし、政治献金の代用品であっても買いたくない。個人の敷地で催されるヤード・セール(庭先の販売会)だと、せいぜい5、6ドルの値札しかつかないんじゃないか。筆者の好みから言えば、安彦良和先生の油絵(例えば、「ガンダム」のシャーとかセイラの人物画)とか、荒木飛呂彦先生が描くジョジョの直筆ポスターなどの方が遙かに価値がある。
Eric Heckel 6Eric Heckel 2Ludwig Meidner
(左と中央 : エーリッヒ・ヘッケル / 右: ルドウィッヒ・マイトナー )
ユダヤ人の画家になるともっと酷い。ルドウィッヒ・マイトナー(Ludwig Meidner)の絵を見ると、何かの病気を患っているんじゃないか、と思えてくる。だが、彼よりも不愉快なのは、ルシアン・フロイトだ。彼は有名な精神科医であるジクムント・フロイドの孫としても知られている。ルシアンの描く女性などを観ていると、日本人だってヒトラーの反論に賛成するんじゃないか。例えば、ぶくぶくと太った醜い女性とか、性器丸出しの男性などを観れば吐き気がする。ナチ党員たちはゲルマン人女性の美しさや清らかさを称讃したのに、ユダヤ人画家ときたら、北歐種族の肉体的美しさを否定し、それを無視するどころか、却って醜悪にして「美術」と称する。西歐婦人の気品を台無しにした挙げ句、反対の肉体を讃美するんだから、ドイツ人じゃなくても不快になるじゃないか。ヨーロッパ人にとったら、美しい人間というのは、古代ギリシア人が理想とした女神とか、ルネッサンス期の巨匠が描いた英雄である。
Lucian Freud 112Lucien Frud 7Lucian Freud Sleeping
(左ルシアン・フロイド / 中央と右: フロイトの作品)
しかし、ヨーロッパ人、特にキリスト教徒のゲルマン人を憎んだユダヤ人は、いじめっ子民族の肉体を讃美したくない。アーリア人の肉体美を描くことは、敵対者の優越性を認めることに繋がるし、セム種族の肉体的劣等性を認めることになるからだ。ユダヤ人は一般的に捻れた性格を持っている。美しいゲルマン人女性に憧れる一方で、彼女たちからの侮蔑に耐えねばならぬ運命を有しているからだ。ユダヤ人は西歐人に対しては、人種平等の説教を垂れるが、仲間内では西歐白人女性を獲物にしているから卑劣だ。(イスラエルの売春宿では、西歐人女性のような東歐女性が人気で、フィリピ人女中やアフリカ人娼婦は安値でランクが落ちる。それにしても、貧乏なルーマニア人やウクライナ人、ロシア人の女性を半ば騙して、次々に密輸するユダヤ人の女衒はあこぎだ。TBSの金平茂紀は朝鮮人娼婦なんか放っておいて、スラヴ系娼婦を取り上げればいいじゃないか。看板番組の『報道特集』で「報道」しろ !)
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左: キャメロン・ディアス
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ジェニファー・アニストン
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テリー・ポロ
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右: ジェニファー・ハドソン
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ユダヤ人は多民族主義を唱えるくせに、性慾となれば白人女性一本槍だ。 恋愛映画を造るハリウッドのユダヤ人たちは、決まって相手方を西歐人美女にする。例えば、ユダヤ人男優のベン・スティラー(Ben Stiller)は『メリーに首ったけ』ではキャメロン・ディアス(Cameron Diaz)を共演者にしたし、『アロング・ケイム・ポリー(Along Came Polly)』ではジェニファー・アニストン(Jennifer Aniston)を、『ミート・ザ・ペアレンツ』ではテリー・ポロ(Teri Polo)を恋人役にした。ところが、どのユダヤ人男優も、有名司会者のオプラ・ウィンフリー(Opra Winfrey)とか、ジェニファー・ハドソン(Jennifer Hudson)、タラジ・ヘンソン(Taraji Henson)、クィーン・ラティファ(Queen Latifah)などを恋人役にはしないのだ。(もしかして、黒人への嫌悪と差別なのか ?)
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(左: タラジ・ヘンソン / オプラ・ウィンフリー / クィーン・ラティファ / 右: コートニー・コックス)
大ヒットTVドラマ『フレンズ』でもユダヤ人的嗜好が滲み出ていた。このドラマを制作したプロデューサーのデイヴィッド・クレイン(David Crane)とマルタ・カフマン(Marta Kauffman)は共にユダヤ人で、ドラマの中でもロスとモニカのゲラー兄弟をユダヤ人に設定していた。兄のロス・ゲラーを演じたデイヴィッド・シュワイマー(David Schwimmer)はユダヤ人だけど、妹役のモニカを演じたコートニー・コックス(Courtney Cox)はイギリス系アメリカ人である。呆れてしまうのは、ユダヤ人のロスが憧れるレイチェル役に、西歐系女優のジェニファー・アニストンを起用していたことだ。『フレンズ』にはユダヤ人女優のリサ・クドローがいたのだから、彼女をフィービー役ではなく、レイチェル役にすれば良かったのに、と思ってしまうが、クレインとカフマンにしたら、いかにも「ユダヤ人のカップル」になってしまいそうで、本能的に嫌がったのだろう。もし、ニューヨークに住む「フレンズ」が、全てユダヤ人となったら、不愉快というか余りにも“リアル”過ぎる。たぶん、制作担当者はユダヤ色を薄めるためにも、異教徒の西歐人をキャストに混ぜたんだろう。
Lisa Kudrow 4David Schwimmer 2Marta Kauffman 1David Crane 2
(左: リサ・クドロー / デイヴィッド・シュワイマー / マルタ・カフマン/ 右: デイヴィッド・クレイン)
ユダヤ人は現実社会でも、ユダヤ人女性や黒人、アジア系女性に興味を示さず、西歐系女性に性的興奮を覚える。ユダヤ人の大物プロデューサーであるハーヴェイ・ワインシュタインについては、以前このブログで触れたからここでは繰り返さない。でも、最近またもやユダヤ人によるセクハラが暴露されたので紹介する。日本ではあまり知られていないが、ミネソタ州選出の上院議員にコメディアン上がりのアル・フランケン(Al Franken)がいる。一連のセクハラ騒動に感化されたのか、彼にセクハラを受けたと表明する女性が現れた。被害者はリーアン・トゥイーデン(Leeann Tweeden)という美女で、以前は水着のモデルや『プレイボーイ』誌のグラビア・モデルを務めたことがあり、現在はテレビ番組の司会やレポーターを務めているそうだ。
Al Franken 1Al Franken 3Harvey Weinstein 1
(左: アル・フランケン / 中央: リーアン・トゥイーデンの胸を鷲摑みにするフランケン / 右: ハーヴェイ・ワインシュタイン )
事件は2006年、彼女が中東アジアに派遣された米軍を慰問した時に起きた。アル・フランケン議員はリーアンが寝ている隙に彼女の胸を鷲摑みにしたり、彼女が嫌がるのに無理矢理キスを迫ったそうだ。(Juana Summers and M.J. Lee, " Woman says Franken groped, kissed her without consent in 2006", CNN, November 17, 2017) セクハラ事件が表沙汰になると、フランケン議員は彼女に謝罪したそうだが、いくら冗談でも有名人の身分を忘れて卑猥な行為をするなんて、アホといか言いようがない。でも、どうしてユダヤ人は黒人とか支那人女性に対しては「いやらしい」事を企てないのか。「人種的平等を考えろ」とは言わないが、獲物に「人種的偏見」を持っているんじゃないかと疑いたくなる。
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左: 司会者としてのリーアン・トゥイーデン
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右: モデル時代のトゥイーデン
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怨念が動機になっている美意識
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(左: ヤンケル・アドラー / 右3枚: アドラーの作品 )
話が逸れたので元に戻す。ナチ党は頽廃藝術をユダヤ人の“せい”にしているが、こうした趣味に人種は関係無さそうだ。確かに、ヤンケル・アドラー(Jankel Adler)のようにポーランド系ユダヤ人の画家がいたけど、オットー・ディックスのようなドイツ人の画家もいたのだ。民族性と美的感覚の関連は不明確だが、二人の絵画は本当に美術なのかどうか判らない。現代の我々が見ても、アドラーの絵は気分が落ち込むほど陰惨である。ただし、ディックスが描いた絵の方が遙かに酷い。ディックスの描く女性など本当に醜く、お金を払って見る藝術とは思えないし、ヒトラーの言うように駄作と評する方が適切である。彼が描いた裸婦など殴り書きみたいだし、赤ん坊を抱く母親の絵は貧相というより怖い。ガリガリの赤ん坊なんてどうかしている。これじゃあ、アメリカ人だってナチスに賛同したくなるじゃないか。
Otto Dix 4Otto Dix self-portrait-with-museOtto Dix Sailor & Girl
(左: オットー・ディックス / 中央と右: ディックスの作品 )
昔、ヨーロッパでは既存の秩序や常識を否定し、破壊的感情を肯定したダダイズム(Dadaism)が流行ったけど、ユダヤ人には“しっくり”する運動だった。とにかく、ユダヤ人は西歐世界の伝統や秩序を覆したいと願っている。自分の種族が築き上げた訳でもない価値観など紙屑以下。タバコの吸い殻を揉み消すように、西歐人の理想を足で踏みにじりたいのだ。そして、自分たちを“抑圧”し続けた憎い白人を倒したい。だから、アーリア人の美しさを貶して、醜い人物像を「素晴らしい」と言い換えたり、変態的描写を「斬新なタッチ」として言いふらすのだろう。彼らにとり、異教徒の美意識を破壊することは快感なのだ。
Otto Dix Pregnant Woman 2Otto Dix Mother & ChildOtto Dix Ladies of the NightOtto Dix Pregnant woman
(上絵画 / ディックスの作品)
全共闘世代なら馴染み深いだろうけど、1960年代から1970年代にかけて前衛芸術なるものが“進歩的”と目されていた。フランス語の「アヴァン・ギャルド(avant-garde)」を口ずさみ、寺山修司とか大島渚たちが訳の解らぬ映画を作っていたのを覚えている人も多いだろう。ジョン・レノンと結婚したオノ・ヨーコが、へんちくりんな踊りを披露していたけど、あれも前衛藝術の一種らしい。音楽でも奇妙なものがあり、ユダヤ人音楽家のアーノルド・ショーエンバーグ(Arnold F. W. Schoenberg)とか、ニューヨーク生まれのロシア系ユダヤ人モートン・フェルドマン(Morton Feldman)が有名だ。まぁ、音楽の趣味は人それぞれだから、余計な事をせずに市場に任せておいた方がいい。
Morton Feldman 1Arnold Schoenberg 1Yoko Ono 2
(左: モートン・フェルドマン / 中央: アーノルド・ショーエンバーグ / 右: ヨーコ・オノ)
一般的に藝術は「自由」な方が良いけど、人々の精神に及ぼす影響も無視できないので、国家が介入する場合もやむを得ない。例えば、公園や路地裏で公然と映画のセックス・シーンを撮影するのは非常識だし、歩行者天国の日曜日に鞭を握ったSMの女王様が闊歩すれば、親子連れの一般人は目を背けるだろう。また、百貨店の展示会だって、しわくちゃの老婆を題材とした全裸写真とか、中高年ゲイが互いにペニスを握りしめているスナップ写真とかは論外だ。でも、西歐ではたまにある。米国で問題になったけど、小便の中に埋もれるキリスト像という絵画が公開され、世間の非難を浴びたこともあるのだ。藝術作品の弾圧は賛成できないが、常識を越えた「藝術」に一定の制限があってもおかしくはない。
ナチスによる私有財産の没収は違法だが、ヒトラーたちが「頽廃藝術」に憤慨した気持ちも分かる。ヒトラー総統が自分の帝國だから美しくしたい、と考えてもおかしくはない。「盗人にも三分の理」があるように、ナチ党にも1%くらい擁護論があってもいいんじゃないか。日本人にとって重要なのは、ナチスが怒った理由とその経緯を“具体的”に調べることだ。ユダヤ人の本だと“抽象的”に書かれているだけで、不都合な歴史が省略されている場合が多い。「書物の民」は偶像崇拝を嫌って文字を重視し、映像や視覚を回避する傾向が強いから、我々はどのような素性の者が、如何なる思想で批判しているのか検証してみる必要がある。案外、ユダヤ系著者の素顔と正体を知ったら、「えっ、こんな人なの?!」と驚くんじゃないか。(ワイマール時代のドイツについては、別の機会で述べてみたい。ただし、当ブログが閉鎖命令を受けたら不可能になってしまうだろう。もしかしたら、今回が最終回となってしまうかも知れないので、引っ越しを考えているところです。)
http://kurokiyorikage.doorblog.jp/archives/68684652.html
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額縁をくぐって物語の中へ「エゴン・シーレ 死と乙女」
https://bravi.hatenablog.com/entry/20120613/p1
【題名】額縁をくぐって物語の中へ「エゴン・シーレ 死と乙女」
【放送】NHK−BSプレミアム
平成24年2月9日(木)19時15分〜19時30分
【司会】ふせえり
ここ数日、肌寒い日が続いていますが、もう直にジメジメと湿気の多い梅雨の季節になるのかと思うと、うっとおしい限りです。雨の日は美術館の来場者が減ってゆっくり絵画を鑑賞することができることが多いので、個人的に雨の日の美術館巡りを好んでいます。未だ病気が完全に本復した訳ではないので、家で美術館関係の映像を見て過しています。
https://f.hatena.ne.jp/bravi/20120613192142
エゴン・シーレ作「死と乙女」(1915年)
先日、グスタフ・クリムトの「ベートーヴェン・フリーズ」等の作品について記事を書きましたが、今日はクリムトの愛弟子で世紀末ウィーンで活躍した表現主義の画家エゴン・シーレの「死と乙女」について書きたいと思います。最愛の恋人との別離を描いた「死と乙女」はエゴン・シーレの最高傑作と言われ、ゴツゴツした岩の上で抱き合う二人はシーレと彼のモデルで恋人でもあったヴァリー・ノイツィルを描いたものですが、1911年にシーレはクリムトから彼のモデルであったヴァリーを譲り受け、その後4年間に亘ってシーレのモデルを務めますが、この間にバリーの代表作の殆どが創作されています。
上述のとおり、この絵は最愛の恋人との別離を描いたもので、死と別離がテーマになっています。この絵の男性はシーレで「死」を象徴し、女性はヴァリーで「女神」(シーレにとってヴァリーは出世作を数多く生み出す契機となった運命の女神)を象徴しています。シーレは跪いている男性モデルを正面から描写していますが、寝そべっている女性モデルは脚立の上から描写しています。
この2つの異なる視点から描いた男性モデルと女性モデルを1つの絵として合体することによって、この絵を見る者に不安定な印象を与えています。これは2人の別れを暗示するために意図的にこのような描き方がされたものです。なお、この絵はシーレがヴァリーに別れを告げて、ヴァリーがシーレに泣きついているところを描いたものですが、男性の右手は女性を突き放そうとし、また、男性の背中に回している女性の両指はきつく結ばれず別れを拒絶していないように見えます。シーレは、他の資産家の娘(エディット)と結婚するためにヴァリーに別れを告げていますが、その際、毎年夏に一緒に休暇を過そう(即ち、愛人として関係を続けよう)とヴァリーに持ち掛けたところ、ヴァリーはこの提案をきっぱりと断って涙を見せずに立ち去ったそうです。これにシーレはショックを受けますが、この絵の男性モデルの見開かれた目はその時の驚きを表現したものです。このようにシーレは被写体の内面までもキャンバスに描き込んだ作家であり、この絵が見る者に強い印象(メッセージ性)を与える理由はそこにあるのかもしれません。
https://f.hatena.ne.jp/bravi/20090712074119
エゴン・シーレ作「縞模様の服を着たエディット・シーレ」(1915年)
※上掲の「死と乙女」と比べると、同じ作家が描いたとは思えないほど被写体によって画力に違いがあります。
なお、「死と乙女」という標題は、若い娘が清らかなままあの世に召されることを意味し、当時、絵画や文学の主題として数多く用いられてきましたが、その標題のとおり1917年にヴァリーは23歳の若さで従軍看護婦として戦地で病死します。(因みに、同年にクリムトも他界しています。)更に、その翌年、シーレの妻エディットがスペイン風邪で病死し、その3日後にシーレもスペイン風邪でこの世を去っており、この絵はシーレとヴァリーの運命も占っていた怖い絵とも言えそうです。「一枚の絵は百の言葉を語る」という諺がありますが、この絵はシーレとヴァリーの人生をも語る含蓄深い一枚と言えると思います。
https://bravi.hatenablog.com/entry/20120613/p1
http://www.asyura2.com/20/reki4/msg/374.html#c8
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