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[昼休み52] 山口県周南市連続放火殺人現場へ行ってみた 中川隆
29. 中川隆[-9121] koaQ7Jey 2019年7月12日 13:34:23 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[3567]

ルポ「つけびの村」01/06 〜山口連続放火殺人事件の因縁を追う〜 2018/07/23 https://note.mu/tk84yuki/n/n264862a0e6f6

2013年7月に山口県周南市で発生した山口連続殺人放火事件について、2017年に取材し、まとめたものを6回に分けて公開します。存命の関係者のお名前は全て仮名です。2017年9月7日脱稿、その後少し寝かせていました。

 第23回参議院選挙投票日の2013年7月21日。前月からの猛暑が続く山口県周南市・須金(すがね)・金峰(みたけ)地区の郷(ごう)には、この日も朝から強い日差しが降り注いでいた。そよ風すら吹いていないのはいつものことだ。8世帯12人が暮らす小さな山村は、周南市街地から16キロほどしか離れていないが、半数以上が高齢者のいわゆる限界集落になる。

 隣の菅蔵(すげぞう)集落の田村勝志さん(仮名)は、集会場『金峰 杣(そま)の里交流館』で投票を済ませた。その帰りに声をかけて来たのは、義理の妹に当たる山本ミヤ子さん(79歳=当時・以下同)だった。彼女の夫は田村さんの弟にあたるが、先立たれ、一人暮らしをしていた。

「ちょっとコーヒーでも飲んで帰らんね」

 縁側で一緒にアイスコーヒーを飲んでいると、隣の家からいきなり大音量でカラオケが流れ、そこに住む男の歌声が聞こえてきた。隣では最近、朝10時と夕方5時に、カラオケが始まるのだ。周辺に気を使って窓を閉めることもせず、窓を開け放ち、歌を集落中に響かせる。いつものことなので、驚くでもなく、田村さんは男が歌う昔の流行歌を聴きながら、コーヒーを飲み干して、山本さんと別れた。
 帰りの道沿いにある、貞森誠さんと妻の喜代子さんが住んでいる一軒家を通り過ぎた。誠さんは71歳、集落の中では中堅の年齢だが、数年前から癌を患い、1歳年上の喜代子さんが自宅で誠さんの看病をしている。さきほどの男の歌声は、この家の前を通るときも聞こえていた。

 山本さんはこのあと、同じ集落の石村文人さん(80)とラウンドゴルフに出かけた。いつもの日曜日。夜から始まる惨劇を、集落のものは誰も想像すらしていなかっただろう。

 ただひとり、カラオケの男≠除いては。

 長閑な村の様相が一変したのはその日の20時59分。
「貞森さんの家が、真っ赤っかになっとる!」
 さきほどの夫婦が住む家から煌々と火が上がるのを目撃した近所の住民は、慌てて119番通報をした。
 ところが電話を切って外に出ると、もう一つ別の家が燃えていることに気がついた。
「山本さんの家も、メラメラ燃えとる」
 別の住民が21時5分ごろ、石村文人さんに電話をかけた。だが応答はなかった。
 集落では二軒の家の消火活動が行われ、22時14分、ようやく鎮火した。貞森さんの家からは誠さんと喜代子さんの遺体が、山本さんの家からはミヤ子さんの遺体が発見される。誠さんの遺体は足がもげていた。消防団が焼け跡をかき分け、片足を探した。
 この2軒が燃えたことに、村人たちは皆「何かおかしい」と感じていた。ふたつの家は70メートルほど離れていて、間に燃えるものもないからだ。
「なんでこんなことに」
「放火じゃなかろうか」
 集まった村人たちは口々にそう言い合った。とはいえ、翌日から現場検証が行われる。火災の原因もじきに分かるだろう。
 投票場だった『金峰杣の里交流館』の、はす向かいに住んでいた吉本茜さん(仮名)から連絡を受けた河村聡子さん(73)は、吉本さんの家で一緒に消防団にお茶や水を出すなどの世話に追われていた。夫の二次男さんは、友人たちと愛媛に旅行へ行っていた。
「貞森さんの家族に連絡せにゃならんね」
 吉本さんと聡子さんは、そんな話をした。

 県警の緊急配備が解かれたのち、消防団が引き上げ、片付けが終わったのが1時半。日付はすでに変わっていた。それから家に帰り、風呂に入って寝る支度を整えてから、一階の居間で二次男さんに宛てて火事のことをノートに書き置きした。大変な1日を終え、聡子さんは二階の寝室に向かった。
 だがその聡子さんも昼前に、遺体で発見される。遠方に住む娘が自宅を訪ね、二階に血まみれで倒れている聡子さんを見つけたのだった。夜から連絡がつかなかった石村さんも、その数分後、自宅を訪れた県警に遺体で発見される。すぐに、村の入り口に黄色いテープの規制線が貼られた。現場検証が始まる。
「2軒の火災による3人の死亡」が、「5人の連続放火殺人」に姿を変えた瞬間だった。
 県警はこの時点で、昨晩から自宅におらず、連絡もつかないカラオケの男≠重要参考人と睨み、その自宅を捜索。男の行方を追った。二台の車はガレージにある。遠くには行っていないだろう。
 5人は全員、撲殺されていた。遺体に共通していたのは頭部の陥没骨折、そして足の殴打痕。加えて『口の中に何かを突っ込まれた』形跡があったことだ。
 貞森さん夫妻と山本さん、3人の遺体は黒く焼け焦げ、確認のために山本さんの遺体を警察から見せられた息子は、どっちが頭なのか足なのか分からなかったほどだという。のちに司法解剖が行われ、頭蓋骨の陥没骨折や、顔に皮下出血が認められ、頭部や顔を鈍器のようなもので激しく殴られて殺害されたことがわかった。
 石村さんの遺体にも同じく、後頭部や膝の裏を激しく殴打された痕が見られた。口の中にも損傷があり、何か棒のようなものを突っ込まれた形跡があった。
 聡子さんも同様だ。首の後ろを激しく殴られたことが致命傷とみられている。その口の中は血まみれで、前歯が折れていた。
「家で寝ちょったら殺されるかもしれん」 
 連続殺人であることを悟った村人たちは怖がった。県警は、さらなる犠牲者が出ることを防ぐため、村人たちを投票場だった『金峰杣の里交流館』に避難させる。そこで寝泊りを始めた村人たちにとっては、参院選の投票結果など、最早どうでもよいことになっていた。集会場の外では投入された県警の捜査員約400名が村中を周り、男の行方を探し続けている。村の入り口に張られた規制線の外には、おびただしい数のテレビ中継車が並び、上空には報道ヘリが飛び交っていた。
 一度に5人が殺害されるという大事件が発生した村には、地元だけでなく東京からも多くの記者が詰めかけたが、そんな彼らが何よりも注目したのは、カラオケの男≠フ家のガラス窓に貼られた不気味な『貼り紙』だった。

「つけびして 煙り喜ぶ 田舎者」

 山口県周南市金峰(みたけ)で21日夜、全焼した民家2軒から3人の遺体が見つかり、翌22日に別の民家2軒から新たに2人の遺体が見つかった事件で、火災現場で見つかった3人はいずれも頭部に外傷があり、ほぼ出火と同じ時刻ごろまでに死亡していたことが、司法解剖の結果わかった。県警は、3人が殺された後、放火されたとみている。
 県警は22日、5人が殺害された連続殺人・放火事件と断定し、周南署に捜査本部を設けた。県警は同じ集落に住む男が何らかの事情を知っているとみて、自宅を殺人と非現住建造物等放火の疑いで捜索した。男は行方がわからなくなっている。
 全焼した山本さん宅の隣の民家には「つけびして 煙り喜ぶ 田舎者」と、放火をほのめかすような貼り紙があった。(2013年7月23日 朝日新聞朝刊)

 14人が暮らす集落で5人の遺体が次々と見つかった。携帯電話も通じない、山口県周南市の山間部で起きた事件。「つけびして 煙り喜ぶ 田舎者」。全焼した民家の隣に住む男は所在不明で、自宅には放火をほのめかす貼り紙も残る。「家族のよう」と言われる山里で、何が起きたのだろうか。(2013年7月23日 四国新聞朝刊)

 警察は山本さんの住宅の隣に住む男が、2つの住宅に火をつけた疑いがあるとして、殺人と放火の疑いで男の自宅を捜索しました。
 その際に室内から外に見える形で窓に貼り紙があり、紙には「つけびして煙り喜ぶ田舎者」と書かれていました。
 男は、現在、行方が分からなくなっていて、警察は貼り紙の内容が放火への関与を示すものとみて、男の行方を捜査するとともに、一連の事件との関連について調べています。(2013年7月22日 NHKニュース)

 村の3分の1以上が殺害され、姿を消した男の家には不気味な貼り紙。「平成の八つ墓村」などとネットでも騒がれ始めた。まさか自分の村がこんな言われようをするとは、村人たちは前日まで誰も考えたことすらなかっただろう。
 事件発生から4日が経った7月25日。警察は山中で男の携帯電話や、男性用のズボン、そしてシャツを発見。さらにその翌日朝、発見現場付近を捜索していた機動隊員が林道沿いで男を見つけた。Tシャツとパンツの下着姿で、靴も履いていない。
「ホミさんですか?」
 近づきながら機動隊員が声を掛けると、男はその場にしゃがみ込み言った。
「そうです」
 抵抗することもなく県警の任意同行に応じ、逮捕されたそのカラオケの男≠ヘ、郷集落の住民の一人、保見光成(ほみ こうせい)(当時63歳)という。
 その後、県警は山中で、側面に「ホミ」と彫られたICレコーダーを発見した。息を切らしたような雑音の中、こんな言葉が録音されていた。
「ポパイ、ポパイ、幸せになってね、ポパイ。いい人間ばっかし思ったらダメよ……。
 オリーブ、幸せにね、ごめんね、ごめんね、ごめんね。
 噂話ばっかし、噂話ばっかし。
 田舎には娯楽はないんだ、田舎には娯楽はないんだ。ただ悪口しかない。
 お父さん、お母さん、ごめん。お姉ちゃん、お姉ちゃん、お姉ちゃん、ごめんね。……さん、ごめんなさい……。
 これから死にます。犬のことは、大きな犬はオリーブです」

 保見光成の家のガラス窓にあった、この貼り紙。
「つけびして 煙り喜ぶ 田舎者」
 県警が保見を捜索している段階から、これはカラオケの男≠ノよる犯行予告なのではないか、と騒がれていた。「放火をほのめかす貼り紙」「不審なメッセージ」などと、テレビや新聞は何度も取り上げた。
 だが、それは決意表明でもなければ犯行予告でもなかったのである。

金峰行きの経緯

 そのことを知ったのは、事件から3年半が経った2017年1月。取材のために金峰地区を訪れたときだ。
 私は東京で週刊誌の記者として稼働しながら、主に殺人事件の公判を取材するフリーライターとして活動していた。取材に出向くひと月前、ある月刊誌の編集者が『山口連続殺人事件』について改めて取材して記事を書いてみないかと声をかけてくれたのだった。
 すでに保見は5件の殺人と2件の現住建造物等放火で起訴、山口地方裁判所での一審公判も、広島高等裁判所での控訴審も判決が言い渡されており、事件は最高裁に係属していた。このときも、今もである。
 逮捕当初こそ「殺害して、その後、火をつけた。私がやりました」と犯行を認めていた保見は、2015年6月25日、山口地方裁判所で開かれた裁判員裁判の初公判でこれを翻し「火はつけていません。頭をたたいてもいません。私は無実です」と無罪を主張した。
 大量殺人を犯したとされる被疑者は、精神的な問題がないかを起訴前に鑑定し、問題がない、つまり事件当時に完全責任能力を有していたと判断されたのちに起訴されるという流れが出来ていた。この鑑定を起訴前鑑定という。さらに起訴後の公判前整理手続という非公開の手続きにおいて、争点が責任能力であるとなれば、改めて精神鑑定が行われることになる。これを本鑑定と呼ぶ。
 保見に対しては一審が開かれる前に、この2つの鑑定が行われた。起訴前鑑定では事件当時の保見は「完全責任能力」があると判断されたが、起訴後に本鑑定が行われ『妄想性障害』と判断されていた。
 これをもって、一審公判で弁護側は責任能力について「心神喪失」もしくは「心神耗弱」を主張した。それに加えて保見は放火も殺人も、自分がやったのではない、と、犯人であること自体を否認したのである。だが同年7月28日の判決公判で山口地裁は保見に「死刑」を言い渡した。『妄想性障害』は認めたが、完全責任能力は有していたという判断だった。また放火も殺人も、犯人は保見以外に考えられないと認定された。
 妄想性障害をめぐる責任能力については、山口地裁は判決で次のように述べている。
「鑑定人によると、被告は両親が他界した2004年ごろから、近隣住民が自分のうわさや挑発行為、嫌がらせをしているという思い込みを持つようになった。こうした妄想を長く持ち続けており当時、妄想性障害だったと診断できる。『自分が正しい』と発想しやすい性格傾向と、周囲から孤立した環境が大きく関係し、妄想を持つようになった。
 この鑑定は合理的であり、これを基に責任能力を検討すると、被告が当時、自己の行為が犯罪であるという認識を十分有していたことは明らか。凶器となる棒を携えて各被害者宅を訪れ、殺害後に自殺しようと山中に入っており、善悪を認識する能力も、その認識に基づいて行動する能力も欠如したり、著しく減退したりしていない。被告は当時、完全責任能力を有していた」
 保見はこれを不服として即日控訴。2016年7月25日、広島高等裁判所で控訴審の第一回公判が開かれたが、弁護側の請求証拠はすべて却下されて即日結審し、同年9月13日、控訴棄却。その翌日、保見側は上告した。
 判決では本鑑定の結果に基づき「近隣住民が自分のうわさや挑発行為、嫌がらせをしているという思い込みを持つようになった」と認定されているが、これには疑問があった。事件発生当初から、保見は集落の村人たちから村八分≠ノされていたのではないかという疑惑があったからだ。

 金峰の郷集落で生まれ育った保見は中学卒業後に上京し、長らく関東で働いていたが、90年代にUターンしてきた。しかし村人たちの輪に溶け込めず「草刈機を燃やされる」「庭に除草剤を撒かれる」「『犬が臭い』と文句を言われる」などの出来事が起こっていたのだと『女性セブン』(小学館)2013年8月15日号は報じていた。また被害者のひとりである貞森誠さんが、かつて保見を刺したことがあるという、気がかりな情報もあった。「みんな仲良しなのに、1人だけ浮いた存在」。保見の逮捕直後、新聞のインタビューに近隣住民がこうも語っていた。
 保見はICレコーダーに「周りから意地悪ばかりされた」と吹き込んでいたが、これは妄想などではなく、本当なのではないか――。
 そのようなことを思っていたが、この時の目的は少し違っていた。私に声をかけてきてくれた月刊誌の編集者は、金峰地区における夜這い風習≠ノついて取材をしてきてほしい、と頼んできたのだ。彼は私にある記事を手渡した。
 それは『週刊新潮』2016年10月20日号(新潮社)に掲載されていた山口連続殺人事件にまつわるものだった。あるジャーナリストが、広島拘置所に収監されている保見に面会取材を行い、逮捕当時に大きく報じられていた「村八分」の発端となる『ある事件』について話を聞いたというのだ。
 読めば、金峰地区には夜這い≠フ風習があり、戦中に一人だけ徴兵を免れた村人が、女たちを強姦してまわっていたという。そして、この村人が保見の母親を犯そうとしたとき、それを止めて追い払った人物が、保見光成と二十歳近く年の離れた実兄なのだ、と。
「これを、ちょっと行って来て、確かめてもらえる?」
 とその編集者は言う。
 私は保見の公判を傍聴に行きたいと一審の当時思っていたが子供が産まれたばかりだったため、長期間家を空けることができず、諦めたという経緯があった。編集者とはその話も過去にしていた。おそらくそれを覚えていて、話を振ってくれたのだろう。二つ返事で引き受けた。
 とはいいながらも、取材を終えてその結果を世に出せば、世に出ている記事の検証取材であるから、ややこしいことになる、という予感は最初からあった。しかも取材の目的が「金峰に夜這いの風習があったかどうか、確かめる」というもの。行くとは決めたものの、多忙な夫に子供を預け、遠路はるばる山口県周南市の山奥まで出向き、夜這いについて村人に話を聞いて回る……。
「夜這いの取材かぁ……」
 ノートパソコンを開いて取材前の情報収集をしながら、年末の夜中にリビングでひとり思わず呟いてしまった。この21世紀に夜這いの取材。ちゃんと話が取れるのかと不安になる。だが引き受けたからにはやらねばならない。それに件の記事には、保見へのいじめ≠ヘ存在し、その発端が戦中の強姦未遂事件≠ナあると記されているのだから、それを確かめることは、一応いじめ≠ノ絡む取材ではある。西に向かう新幹線の中で私は腹を決めた。

 民俗学者らの文献や、伝承ものの書籍には、夜這いについての記述はいくつもある。宮本常一の『忘れられた日本人』(岩波文庫)に収録されている「土佐源氏」は現在の高知県檮原町で乞食小屋に住む元ばくろうの老人≠ゥら聞き取った昔話で構成されているが、この老人の父親は、母の夜這いの相手≠セった。同じく同書収録の「世間師」では、宮本の故郷である周防大島でふたりの老人から聞き取りを行っている。このうちひとりは長州征伐のあった1865年に14歳だったという男性だが「戸締りが厳重になったため、娘のところへ夜這いに行けなくなってしまった」とある。
 同じく民俗学者の赤松啓介は『夜這いの民俗学・夜這いの性愛論』(ちくま学芸文庫)で実際に様々な村へ足を運び、時に村のコミュニティに入り込んで、夜這いについて聞き取りを重ねている。また、ともに夫の転勤で徳山に来たという向谷喜久江・島利栄子によって記された『よばいのあったころ 証言・周防の性風俗』(マツノ書店)では、山口における夜這い文化について、老人たちに聞き取りを行なっているが、ここには「山間部の部落には、若衆宿が、昭和の初めごろまであった」とある。若衆宿とはその集落で一定の年齢に達した男子たちが集まる場所で、規律や生活上のルールに加え性的な事柄も伝えられていた一種の教育施設だ。こうした文献に照らせば、金峰地区にかつて夜這い文化があったとしても全く不思議ではない。だが戦中まで、となるとどうか。

(続く)
https://note.mu/tk84yuki/n/n264862a0e6f6


ルポ「つけびの村」02/06 〜つけびして 煙り喜ぶ 田舎者〜 2018/07/23
https://note.mu/tk84yuki/n/n3cf6b0673398

2013年7月に山口県周南市で発生した山口連続殺人放火事件について、2017年に取材し、まとめたものを6回に分けて公開します。存命の関係者のお名前は全て仮名です。2017年9月7日脱稿、その後少し寝かせていました。

 事件のあった「金峰地区の郷集落」は、山口県周南市の北部にある山村だ。
 その周南市は山口県東部に位置し、重化学工業を主な産業としている。2003年に徳山市、新南陽市など2市2町が合併し発足した。南側の臨海部に広がる工場群は現在「周南コンビナート」と呼ばれ、遊覧船による夜景ツアーが組まれるなど観光名所のひとつとなっている。ここは明治時代に旧海軍の石炭基地が設けられたのち、石炭が石油に代わり石油科学工場が発達。昭和初期には海軍の燃料廠や有機・無機化学、鉄鋼などが集積する工業地帯に成長した。昭和39年には工業整備特別地域に指定され、隣接する下松市、光市とともに重化学工業の拠点としての本格的な整備が進み、製造品の出荷額は山口県の5分の1を占める。
 JR徳山駅はこの「周南コンビナート」の港沿いを走る山陽本線と、東京から博多へ続く山陽新幹線が停車する周南市の中心駅だ。駅名には合併前の都市名がそのまま残る。東京から新幹線で4時間以上かかるが、それでも空路を使うより手っ取り早い。県東部の岩国錦帯橋空港から郷地区は50キロ、西部の山口宇部空港とは90キロ離れていて、乗り継ぎにかかる時間を考えると、やはり新幹線一択になる。


 駅から港に向かい数分歩いたところにある徳山港には、太平洋戦争で海軍が開発していた人間魚雷「回天」の実物大レプリカが展示されている。ここから発着しているフェリーに乗り30分ほどの距離にある大津島には、かつて回天の組立工場と発車訓練基地があった。いまも島には記念館があるが、そこを目指しているとおぼしき観光客の姿はない。
 駅を挟んで港の反対側は中心市街地だ。とはいえその規模は小さい。地方都市の宿命か、駅前のアーケード街に人は数えるほどしか歩いておらず、半分以上の店舗がシャッターを閉じていた。そんな中にも、銀行の支店や市役所、新聞社などが立ち並び、夜は酔客でささやかな賑わいを見せる。
 瀬戸内海に面しているこの辺りの気候は温暖で冬でも晴れる日が多い。滅多に雪も積もらないというが、対して北側は中国山地の一部にあたり山深く、冬の積雪も珍しいことではない。目指す金峰地区は、北側に属する。臨海部の主要産業が重化学工業であるのに対し、北側はぶどうや梨の栽培をはじめとした農業が栄えている。

 2017年1月、私は徳山駅の近くで車を借り、金峰地区に向かった。周南市に私鉄はなく、JR山陽本線も湾岸部しか走っていないので、住民は移動にバスか車を利用している。地元のバス会社はあるにはあるが、運行網は金峰地区から9キロほど離れた場所で途絶えていた。そこからタクシーを探すより、徳山駅から車を走らせた方が早い。
 新幹線の中でスマホのアプリを立ち上げて天気予報をチェックした時、週末には寒波が押し寄せ、日本海側に大雪が降ると告げていた。そのせいか、ダウンコートを着ていても寒い。車を3キロほど走らせると、あっという間にスーパーや飲食店は姿を消し、両側と前方にこんもりとした山が広がり始めた。車線も狭くなるが、それでもまだ道は綺麗に舗装されている。ここでようやく、ガードレールが白でなくオレンジ色であることに気がついた。山口県は昭和38年の山口国体開催にあたり、特色のあるものを作ろうと考え、ガードレールを県特産の「夏みかん」色にしたのである。
 オレンジ色のガードレールが両側に立つ片側一車線の山道は時折くねくねと急カーブを切らなければならないが、15分ほど走ると、ようやくコンビニと開けた小さな町が目に飛び込んできた。金峰と徳山市街地の間にある、唯一の町だ。とはいえ、コンビニぐらいしか買い物できる場所はない。ここで飲み物を調達し、さらに国道で北に向かう。すぐにまた道の両脇を山に囲まれ、先ほどまで快晴だったのが嘘のように空が曇り始めた。家も店もない道をしばらく進むと見えてきたのは菅野湖だ。ここにかかる細く古い橋を渡り、湖沿いの県道41号線をひたすら北上する。バス釣りのメッカのようで、ボートを曳いたクルーザーが何台も停まっていた。下流にスロープがあり、ボートを湖に降ろせるようだ。
 車の西側には深緑色の湖面が広がり、東側の山肌には草木が生い茂っている。まだ徳山駅から30分も走っていないのに、ここまで山深くなるかと驚いてしまう。しかも舗装が悪い。濡れた路面はでこぼこで、ところどころ深く大きな穴が空き、水たまりができていた。スリップして湖に落ちやしないかとすこし怖くなった。
 それでも、湖沿いのボロ道を抜けると、また普通の道路に戻る。ここまで徳山駅から40分ほど。距離にして20キロしか離れてないが、見渡す限り山と田畑が広がる田舎道で、もうコンビニなどどこにもない。
 ところが「金峰の郷集落」にさしかかる直前のすこし開けた平野を走っていると、突如として銀色のUFOと巨大な象が目に飛び込んできた。その脇には『宇宙の入り口』という看板が立っている。
 まだ郷集落にも着いていないのに、思わず車を停め、UFOを眺めた。
 そういえば、菅野湖沿いを走っているときから、小さなUFO型の看板がいくつも立っているのを見ていた。そこには手書きで「気をつけて安全運転」など記されていたが、『宇宙の入り口』へ向かうための案内板だったようだ。
 木材で骨組みを作り、アルミ板のようなものをかぶせて仕上げをした数台のUFOと象のオブジェのほか、幅2メートルはあろうかという巨大な太鼓や、木馬も並んでいる。「このブランコに乗ると結ばれる 愛愛ブランコ」という文字が躍った木製のブランコもあった。いわゆるB級アミューズメントスポットだが、陰惨な事件現場のすぐそばにこのような施設が並んでいると、ただ不気味でしかない。
 車に戻ろうとしたところで、男性に手招きをされた。全て手作りだという、この『宇宙の入り口』の生みの親だった。男性は保見と同い年だが、金峰地区に住むものではなかった。
 再び車に戻る。木々の生い茂る薄暗い道を数分行くと、ようやく金峰の郷集落に着いた。
 事件当時、ここは「携帯電話も通じない限界集落」だといわれていたが、実際に足を運ぶと、ほとんどの場所で携帯電話の柱も立った。
 保見光成の家は、地区名の由来にもなった一千年以上の歴史を持つ金峰神社の参道前にある。ここが郷集落の入り口だ。家は二棟あり、ピンク色の壁をした新宅と、茶色のベニヤ板でできた本宅が、土壁のガレージを挟んでいる。本宅からガレージにかけられたブルーシートは劣化して破れ、風にあおられるたび、焦げ跡のある家の壁や、倉庫の中が見えた。


 保見が関東から戻ってくる際に自力で作ったという新宅のまわりには、枯れ枝が散乱していた。それをかき分け、白い門扉の前に立つ。右脇には茶色い壺や人型のオブジェが、空っぽになって倒れた植木鉢とともに雑然と並んでいる。門の奥にはガラス戸の出入り口があるが、上半分は簾がかかっていて中は見えない。左手に目をやると陶器でできた大道芸人の人形が置かれていた。その奥に立つポストはガムテープで塞がれていて「郵便物は入れないでください 当方へ御用の折は、お手数ですが下記にご連絡ください」と携帯電話番号らしきものが書かれた紙が貼られている。試しにその番号へかけると「現在使われておりません」のアナウンスが流れた。少し下がって全景を見れば、雨どいを支える柱に、CDが貼り付けてあった。再び近づいて目をこらすと、ちょうど保見が金峰に戻ってくる直前である1993年に松任谷由実がリリースしたアルバム『Uーmiz』だ。都会での思い出が詰まっているCDなのだろうか。
 土壁のガレージは車が2台は停められる大きさで、シャッターはついていない。破れたブルーシートを少し開けて中を覗くと、汚れた国旗や工具、工具箱、段ボールやタイヤ、窓枠などで散らかっていた。上部にかけられた針金にもザルやブリキの薬缶といった様々な道具が吊られている。幅が30センチはありそうな、片刃のノコギリのような、見慣れない刃物も吊られていた。隣に無造作に置かれた資材の上には鳥かご。中にはオウムのぬいぐるみが入っていた。新宅、本宅ともに屋根の下にはセンサーライトらしきものの残骸が残る。
 本宅の出入り口引き戸の脇に表札はないが、上にはロールス・ロイスのプレートと、可愛くデフォルメされた熱帯魚のオブジェが貼り付けられていた。
 その右側には、かつてあの貼り紙が貼られていた窓がある。

「つけびして 煙り喜ぶ 田舎者 かつを」

 これもすでに剥がされていた。
 ガラス窓は汚れ、かなり曇っているが目を凝らして中を見ると、すぐ前に壁があった。11時20分で時を止めた古時計のまわりに扇子が6枚かけられていて、下に備えられた棚の上には陶器の酒樽が置かれている。その脇にあるスリッパ立てには、きちんとスリッパが4組揃えられていた。
 住む人を失った住居特有の寂れ具合を醸し出していたが、事件がなくとも、家主の個性がにじみ出ている家だったことだろう。
 保見光成に撲殺された後、放火された隣の山本さんの家は雑草生い茂る空き地になっており、同じように撲殺され、放火された貞森さんの家の跡には、小型ユンボが置き去りにされ、その脇に真っ黒に焦げた木材が積み上げられていた。3年半経っても、事件の痕跡は集落の中に色濃く残る。


 郷集落入り口の交差点は、通ってきた南からの県道41号線と、東西に伸びる県道9号線がぶつかる。ごくたまに、9号線を大型トラックが轟音を立て猛スピードで走る以外は、ほとんど車も通らない。村人も誰一人、歩いてはいない。道沿いに流れる小川のせせらぎと、山の葉の擦れる音がざわざわと鳴るだけだ。空は晴れたかと思うと雲が広がるというせわしない状態を繰り返しているが、晴れているときでも山が太陽を遮り、道が陰る。路面はやはりところどころ濡れていた。空気は刺すように冷たく、湿っぽい。私は山口県の隣、福岡県出身だが、同じ西日本でもここまで寒さが厳しいとは思っていなかった。
 保見の家のはす向かいにある、砂利が敷き詰められた広場に車を停めた。ここにはかつて廃屋があったというが、今は更地になっている。事件当時は規制線が張られていた小さな橋を渡って、住宅地図を手に、郷集落を奥へと進んだ。車が一台しか通れない細い道が、小さな川に沿って伸びていた。徳山の市街地よりも寒さが厳しく、少し歩くだけで冷えが身体中に広がる。足の先は感覚を失い、手が動かなくなってきた。
 周南市役所の集計によると、2016年12月31日時点での人口はわずか10人。一軒一軒、訪ね歩いても、誰も出てこない。橋を渡ってすぐ右側にあるオレンジ色の瓦の二階建て家屋は、一階がガラス張りで商店のような趣があるが、中を覗いてみたところ生活用品が雑然と散らばり、すでに空き家になっているであろうことは想像がついた。
 その向かいに伸びる石段を登ると、小さな寺がある。脇の寺務所の門を叩き呼びかけたが、やはり誰もいない。再び細い道に戻って集落を奥へと進んだ。道の片側に流れる小川は、冬でも雑草が高く生い茂っている。その反対側にある山を切り開き、古い家屋が点在していた。どの家も車が一台やっと通れるような私道を少し登ったところに建てられていて、脇にある車の停められる大きさの倉庫には農機具や薪などが置かれていた。古い家屋の作りはだいたい同じで、ガラス引き戸の玄関の脇に、両開きの掃き出し窓が二窓ほど並んでいる。
 寺の隣には、本来は公民館だという古く小さな木造の建物があるが、鍵がかかっていて、使われている形跡はない。脇には、殺害された河村聡子さんが名付けたという『金峰杣の里交流館』。集落にある建物の中では目新しく大きい。保見が逮捕されるまで、村人たちが避難していた場所だが、ここも扉には鍵がかかり窓は雨戸が閉められ、ひっそりとしている。
 郷集落についてから人に行き合っていないし、どの家も人の気配がない。心細くなりながら、車が一台しか通れない小川沿いの道をゆっくりと進む。気温が低すぎるせいか、手に持っていたスマホは突然電源が落ち、動かなくなった。小川の反対側には、この道路よりも少し高い位置に県道9号線が沿っている。あの県道からは村の家々が見渡せる。保見の逮捕当時は中継車が停まり、テレビもそこから村の遠景を捉えていた。
 更に細い道を東に進むと左手の高台に家が見えた。見上げると、グレーのトタン屋根一面に『魔女の宅急便』のキキが箒にまたがっている絵が描かれている。さきほどのUFOに負けず劣らずの不気味さだ。玄関前には旭日旗が掲げられ、引き戸の前に置かれたホワイトボードに夏目漱石、福沢諭吉などの名前が書かれていた。すりガラスの引き戸の奥には蛍光灯のあかりがちらちらと見える。扉を叩いて「こんにちは!」と外から呼びかけた。ところが、そのたびに中からテレビとおぼしき音がどんどんと大きくなっていく。4回ほど呼びかけたときには、騒音レベルにテレビの音が大きくなってしまった。真昼なのに薄暗い村を歩いているだけで怖いのに、この家人の対応にまた怖くなり、もう諦めた。
 郷集落の東の端にあるのは、聡子さんとその夫、河村二次男さんの家だ。そこを目指し『魔女の宅急便』の家を離れ、草の生い茂る川沿いを再び歩くと、背の高い木がみっしりと植えられた私道を登った山側の高台に、誰も住むもののいなくなった石村文人さんの家、そしてもう一軒の二階建ての家があった。こちらも不在だった。石村さんの家は家族が時折空気を入れ替えるために訪れていると聞いた。すりガラスの引き戸の奥は真っ暗だ。古く黒い木で作られた表札に『石村文人』と大きく書かれている。その石村さんは3年半前、この引き戸の奥で、保見に頭を何度も殴られ、絶命した。
 保見はこの引き戸を開ける時、何を考えていたのか……。
 隣の家の犬がけたたましく吠えた。さっきの道に戻ろう。
 河村二次男さんが不在の場合、郷集落での取材はかなわない。細道に戻り、さらに先を目指すが、道はさらに草が生い茂り、廃道のような趣になってきた。この先に家があるのだろうかと焦りが募り始めたころ、ようやく家らしきものが見えてきた。大きな物置のようなものが置かれたガレージのそばには、まだ艶のある御影石の墓。玄関引戸の脇には『キンポー整体院』『札所(六代目)』と毛筆で描かれた木の看板がある。引戸の前から呼びかけるとしばらくして高齢の男性が、玄関横の腰高窓を開けて姿を見せた。がっしりとした上半身をしていて、目はギョロッと大きく、出目金のようでもある。
「三年前の事件のことを、今取材している者です。東京から来ました。お話を聞かせていただきたいのですが……」
 駄目元で切り出すと、男性は言った。
「いま扉開けるから、中に入りない」

 その男性、河村二次男さんは事件当時、友人たちと愛媛県に旅行に出かけていた。
「はよう死刑になればいいと思うちょる。でも弁護士のアレで。やってなかったって言いよるけど5人も殺しとるんやけ。火までつけちょるのに。山口で最終弁論があったときに我々もいろいろ言ってアレしたけど、やってないっちゅうことはない。犯人はわかっちょるし火もつけとるんやしね」
 方言と、河村さんの滑舌の悪さに、何を言っているのかよく聞き取れなかったが、根気よく1時間も話を聞くと、少しずつ聞き取れるようになって来た。
「片目にもなっちょるし。こっちは目が見えんし。事故でね。鼻水が出そうになるとかむけど、そのとき耳の鼓膜がいってね。診療所行ったら『あんまり聞こえんほうがいいですよ』って。あはははは」
 かつて車の事故で頭部を負傷し右目を失明したそうだ。あっけらかんと語る様子に面食らった。確かに両目の視線の先が合っていない。それでもガレージに停めてある軽トラックを運転するというから驚いたが、この地では車の運転ができなければ何もできない。
 通された応接間には、壁にびっしりと写真やカレンダーが飾られている。孫娘と笑顔で並んで写った写真も大きく引き伸ばされ、貼られていた。山の頂上で撮影された集合写真もある。河村さんはこのとき79歳だと言っていたが、背筋も曲がっておらず、体つきもがっしりしている。かつては活発に友人らと外に出かけていたのだろう。ガラス戸棚の中には、聡子さんに宛てた孫娘からの手紙があった。整体に関する書籍も並んでいる。公務員を定年まで勤め上げたのち、整体の学校に通い、自宅で整体院を営んでいたという。
「わしは天下りをするなと役場で言ってきた。要請があったけど断ってきた。でもそりゃ、定年になったらなんかせんといかん。手を動かしたらボケん、っちゅうからやってみよう、って。1年ほど学校行きまして。60万ぐらいかかったんじゃないかな。1回3000円でやりよった」
 こうした四方山話を聞きながら、私は夜這い≠ノついて河村さんにたずねる機会を伺っていた。編集者が持っていた記事にはこうあったからだ。

―― 私【保見光成】が金峰に戻ってきた直後、竹田(仮名)が、『おめえの兄貴にはイジメられたぞ』って言い始めた/時を同じくして、近隣住民に道で無視されるといった些事から、農機具を燃やされ、挙句に刃物で切りつけられたりといった大事に至るまで/数多の“事件”が起きたという〜先の大戦当時、10代半ばだった保見の兄は、母親に言い寄る徴兵忌避の男を追い払い家を守り抜いた。実は、その男の長男こそ、帰郷直後の保見に「兄貴にはイジメられたぞ」とからんだ竹田だったという――前出記事

 記事の中で『竹田』という仮名をあてられ、年齢も伏せられている「強姦魔の息子」とは、いったい誰か。最初に手掛かりになったのは『事件後、金峰周辺の人々は、陰でこう囁きあった。「竹田こそが保見の本命だったじゃろうに……」』という記述。この書きようから察するに、『竹田』は殺害された五人ではなく、七人(事件当時)の生存者の中にいる。
 次に、「兄貴にはイジメられたぞ」発言。保見は、山口地裁で行われた一審公判の中でも、同じ台詞を口にしていた。『「お前の兄貴にはいじめられたぞ」と、カワムラさんに言われました』。
 強姦(夜這い)についての発言はなかったが、相手の名前を挙げていたのだった。となれば、郷集落で生き残っているカワムラさんは目の前にいる河村二次男さん、一人しかいない。
 いよいよ私は聞いた。

――戦時中は、河村さんのお父さんも兵隊に行かれていたんですか?
 強姦魔は徴兵忌避の男だったと記事にあったからだ。
「親父は、背が低すぎて(徴兵)検査に落ちたから兵隊にとられなかった」
 なんと。忌避ではないが、河村さんの父親は戦争に行ってなかったのだという。
 では、河村さん自身は「父親による強姦」が原因で保見の兄にいじめられ、そのことを保見に言ったことがあるのか?
「バカ言っちゃいかん! そげなことは今はじめて聞いた」
 記事の存在をまったく知らなかった河村さんは憤慨した。
 ここでようやく持ってきた記事のコピーを河村さんに見せながら、取材の目的を明かした。すると、しばらく記事を眺めていた河村さんはそこに載っていた「つけび」の貼り紙を指しながら驚くことを言ったのだ。
「これ、うちのうしろに火をつけられたことがあるんですよ。わしはこれじゃないかと思うんですよ。家の前に貼ってる。ここに火をつけて2〜3日で貼っちょったね。家の一番良く見えるところに貼っちょった。下手くそな字でね」
 そしてこう続けた。
「僕が思うにそれは犯人が違うと思うんや」
 保見は事件の時に二軒の家に火を放ったとされているが、保見の他にも火をつけるような村人がいたのか?
「うん、悪いやつおったんよ。それは人から見たら、わしも悪いんかもしれんけど」
 事件の痕跡を色濃く残した郷集落のたたずまいや、『魔女の宅急便』の屋根の変な家もあいまって、私はいよいよ怖くなってきた。
 家を出る時に河村さんは表まで出て来て見送ってくれた。ガレージの中にある物置のようなものはシイタケを乾燥させる機械だと教えてくれた。真新しい墓はやはり聡子さんのものだった。
「あいつ(妻)が先に入っちゃった」と河村さんは言いながら、目元をこすった。
 その後、近隣の集落の村人たちにも話を聞いて回ったが、皆、河村さんと同じことを話した。「河村さんの家の風呂場が焼けた」が、その犯人は「保見ではない」と。
「金峰の夜這い」についても、夜這いそのものが金峰にあったらしいことは分かったが、戦中の夜這い(強姦)を巡る河村家と保見家の禍根について知っている者はいなかった。またそもそも、河村さん自身「長男」ではなかった。
「兄貴は、公務員やなんかやりよった。39で交通事故で死んだからそんで帰った。それまでわしは外に出とった」
 件の記事は、保見の言い分のみをもとに作り上げた記事だった可能性が高まった。
 私は東京に戻り、取材で得た話を原稿にまとめた。だが、一向に記事は掲載されず「送り」になることが続く。一旦はその月刊誌で企画として動き出したが、掲載のタイミングがないのだ。発生からすでに何年も経っている事件では、その裁判に動きがあったときか、もしくは刑が確定したか、さらには、死刑判決を下された犯人に死刑が執行されたときしか、掲載のきっかけはない。だが掲載が延びればギャランティの支払いも先送りとなる。「送り」が3回続いたとき、私はこの記事を「非掲載」にしてもらい、別の実話誌に掲載してもらうことにした。
 こうして『山口連続殺人事件』の仕事は一旦終わったが、しかし私には1月の取材を通じ、もっとこの事件を掘り下げたいという気持ちが沸き起こっていた。いや、事件というよりも、村人たちの話の不吉さが頭から離れず、この不気味な村の正体を知りたくなったのだ。
「つけび」貼り紙の発端となったのが、河村邸放火事件だったことにも驚いたが、村人たちはこんなことも話してくれていた。
「何回かあったらしいよ。何かにつけてケチつけてたけね」
 なんと郷集落での火災は一度ではないというのだ。
 こう話す村人もいた。
「皆殺されて、おらんようになったから、幕引きはできた。私はほんとに安心して生活できるようになったよ。わし自身は。今はもう鍵はかけんけど、鍵をかけ忘れるときも別にどうちゅうことないし、倉庫の鍵をつけたままにしとっても別に何も盗られることもないし、以前はそんなことしよったら何もなくなりよったからね。まだ色々悪いのがおったの。名前をあげりゃ2〜3人そんなものはおったからね」
 まるで事件で村に平穏が訪れたかのような口ぶりなのである。「皆が家族みたいに仲良しだった」集落で、「鍵をかける者などいなかった」という報道に接していた私は、また驚いた。
 さらには、保見について周辺集落を訪ね歩いた時、こんな話を聞いていた。
「親父がコレじゃったけね」
 人差し指を丸めながら、ある村人は言う。保見の父親が泥棒だったというのである。
 そしてある村人は、こちらが真顔で事件のことを尋ねているのに、
「夏はね、亡くなった山本さんやら貞森さんやら、石村さんやらとね、蛍でも出たらね、夕方に『蛍見よう』ゆうてから、仕事から帰ってね、おかずの一品でも作って、皆で集まってビール飲みよったけど。みーんな、その仲間は、殺されてしもうたね。あはははは……」
 と、なぜか高らかに笑うのだ。
 一体、この村はなんなのだ。
 保見が事件を起こす前から、泥棒や放火といった悪事は村で日常としてあったのか?
 一方、保見に対する具体的ないじめ≠ノついても、このとき村人たちに尋ねていたが、確たる証拠は得られなかった。
 たしかに判決でも、近隣住民による保見への「うわさ」や「挑発行為」そして「嫌がらせ」は、保見の思い込みであり、徐々に妄想を深めて村人たちを恨んだ結果、起こした事件だった……と認定されていることは先にも書いた。
 そうはいっても、完全に妄想だけでこれだけの事件を起こすだろうか。
 公判を傍聴した中にも、その疑いを抱いた者がいた。旧知の傍聴マニアのひとりだ。いじめがあったのではと考えたそのマニアは、関東から山口地裁まで傍聴に出向き、いくつかの期日の審理を傍聴していた。保見が具体的な話をしていなかったか尋ねたところ「犬の水飲みバケツに農薬を入れられた……とかは話してました」という。だが、他にはさっぱりそれらしい話をしなかったというのだ。
「『何をされましたか』って公判で質問されたらやっぱり刺された話をするもんじゃないですか。貞森さんから刺されたことは事実ですから。でもその話はしてないんですよ。『街宣車が来ると家の前で心を入れ替えなさいと言われる』とか話し始めるんです。家の前でかならず『心を入れ替えなさい』と同じところをテープで大音量で流されるって。そういう妄想の話しか出てこなくて、肝心な話をしないんですよ」
 また保見は公判で「自宅で作っていたカレーに農薬を入れられた」という話もしていたのだが、よく聞けばそれがいじめ≠ゥどうか、怪しかった。
「一ヶ月分まとめて七輪で作るんです。普通に考えると一ヶ月分作ったら最後の方は腐って食中毒になりますよね。冷蔵庫に入れるでもなく勝手口で作っているんです。そのカレー鍋に農薬を入れられて食べて死にそうになったって保見は言っているんだけど、それは農薬のせいじゃなくて腐ってたんじゃないか? って聞いた方は思うじゃないですか」
 私が当初期待していたほど、公判で保見はいじめ≠ノついての詳細を語ることはしていなかったのだ。

 保見と同じように集落に住む一人の人間が突如として 近隣の者たちを皆殺しにする事件を、私は他にも知っていた。1938年に岡山県津山市の貝尾部落で起きた『津山三十人殺し』である。実際、山口連続殺人事件を平成の津山事件≠ニ報じるマスメディアもあった。
 田舎の限界集落で、周囲に馴染めない一人の男が突如として村人たちを殺害してまわる……たしかに二つの事件は似ている。津山事件の犯人は、当時21歳だった都井睦雄。匕首と日本刀、九連発ブローニング猟銃を携え、自宅の祖母の首を刎ねたのを皮切りに、わずか一時間半の間に三十人を殺害し、近くの山で猟銃自殺した。
 保見光成は自殺まではしなかったが、この二人が、自らも暮す集落の人々に対して、強い嫌悪感を抱いていたことも共通する。『津山三十人殺し』(筑波昭/新潮社)によれば、都井は三通の遺書を残しており、そこには集落の人々への恨みが綴られていた。一部の村人は都井が患っていた病気を毛嫌いし「肺病の一家や、近づいたらあかんぞ」などと直接言っていたといわれる。対する保見は、事件の二年前の元旦に周南警察署を訪れ、「地区で孤立している。集落で悪口を言われている」などと、のちに殺害することになる被害者たちの名を上げていたほか、逮捕直後にも、近所の人の名を挙げて「うまくいってなかった」と語っていた。
 それよりももっと、共通点を感じる大量殺人事件を私は過去に傍聴していた。2004年に兵庫県加古川市で発生した『加古川七人殺し』だ。当時47歳だった藤城康孝は8月2日の午前3時半、突如、近隣に住む親戚を次々に牛肉解体用の特殊な包丁で刺してまわり、7人を殺害したのち、自宅に放火し、ガソリンを積んだ車に乗り込み発車し、それを近所の信号柱にぶつけ、自殺を図るが警察官に引きずり出されて逮捕されたという事件だ。
 保見の逮捕のニュースに接した際、私は津山事件でなく加古川事件を真っ先に思い浮かべた。2009年に神戸地方裁判所で論告弁論を傍聴した際に、検察側が近隣住民との諍いについて述べたのだ。
「周辺は古くからの農村で人間関係が濃密。ささいな出来事も話題にのぼり、噂になる土地柄です。
 被告人一家は権利関係があいまいなまま本家の土地の一部に住み続けていました。また被告人は近所でもけんかっ早くて有名で、定職につかず、被告人の父は昭和62年に『年金を1人で使いたい』と家出します。しかし周りには『被告人の暴力から逃げる』と嘘をつきました。被告人の兄弟は自立しており、母親が靴下製造工場でパートとして働き、生計を立てていました。
 被告人は当時、老齢の母と2人で暮らしており、常に噂話の対象となっていました。被告人の母はこう述べています。
『夫が家にいた頃まではあまりにも露骨な噂話はありませんでしたが、夫がいなくなってから格好の噂の対象になりました。遠慮もなくなり、外出時には利彦の妻、周囲の住民が井戸端会議をしていました。挨拶をしても返さず、声を潜めその場を離れて行きます。娘も「あの人ら何なん。いつも悪口言ってる」と言っていました』
 また被害者のひとりと立ち話していた近所の女性は『被告人の姿はたまにしか見かけませんでした。平日の昼も家にいるようで、まともに仕事もしてないこともわかっていましたが、何か仕事しとるんやろか、と噂していました』と述べています。
 このような環境で被告人は周囲が自分を見下していると考え、怒りを募らせていったのです」
 藤城に対しては何度も精神鑑定が行われた。一審・神戸地裁では弁護側請求による鑑定と、検察側請求による鑑定。二審・大阪高裁では裁判所が職権で鑑定。一審弁護側請求鑑定と二審の鑑定では、保見と同じく『妄想性障害』という診断が下された。だがそれに伴う責任能力の有無については、保見とは扱いが異なった、一審弁護側請求鑑定で「完全責任能力を否定」し、二審の鑑定でも「判断能力に著しく障害があった」と責任能力が限定的であったとされたのだが、神戸地裁も大阪高裁も、完全責任能力があったと判断したのだ。最終的に最高裁でも『妄想性障害はあったが完全責任能力はあった』と認定されている。だが近隣住民による「うわさ」や「挨拶をしても返さない」などのいじめが存在したことは神戸地検も争ってはいなかった。

 集落にはそれぞれの性質がある。ひとくちに村八分≠ニいっても、その性質により、内容も異なる。先のふたつの事件では、都井に対しては直接的な悪口、藤城に対しては陰口や無視といった行為がそれにあたる。保見に対してはどうだったか。1月に触れた郷集落の不気味さの片鱗だけでなく、村の本当の姿を知らなければ、保見の感じていた疎外感を知ることもできない。
 私は、改めてこの郷集落における保見がいかなる存在だったのかを追うことにした。まだ梅雨は明けていなかった。

保見ちゃん

 保見光成は昭和24(1949)年12月に郷集落で生まれ、地元の金峰小学校に入学。鹿野中学校を卒業後に上京し、先に上京していた長兄と仕事をしていた。17歳の頃にボクシングを始め、ジムを何度か移ったが、そのうち兄とやっていた仕事を辞め、ジムに住み込む。パチンコ屋でも住み込みで働いていたという。
 山口地方裁判所で行われた裁判員裁判の検察側被告人質問(第七回公判)で、保見は自らの経歴を問われ、こう語っている。

検察官「金峰を出たあと、関東ではどのような仕事をしましたか?」
保見「いろいろあります。石貼り(タイル)、のろ貼り(セメント)、軽天(天井)、建築に関すること、ほとんど。住込みのパチンコも、あっ、すし屋……」

 時は高度経済成長期。若い労働者が金の卵としてもてはやされた時代だ。左官や土建業を中心に、保見はさまざまな仕事を渡り歩いた。
「東京では、やればやるだけ金がもらえた。当時は月200万の収入があった。貯金は1500万ぐらい」
 全盛期は、仕事場にシュラフを持ち込み、夜になるとそこに潜り込んで眠り、目覚めてすぐに現場仕事に取り掛かる、という生活をしていた、と村人たちは保見から聞いていた。だが、本当にずっとそんな調子で稼げていたかは、分からない。

「体の調子が悪いから、戻ってきてほしい」

 父親の友一からこんな連絡を受け、郷に戻ることを決めた保見光成は、1994年10月、元駐在所の本宅に隣接する土地を、その所有者であり事件の被害者となった石村文人さんから購入し、当時住んでいた関東と金峰を往復しながら自力で新宅を完成させた。1996年5月、拠点を金峰に移し、両親との3人暮らしが始まる。このときには1000万円の貯金があった。
 土地の購入に関しては、郷地区から少し離れた金峰谷(みたけだに)という集落に住んでいた、鹿野町(当時)の町会議員、三浦富貴人(ふきと)さんが、高齢の友一夫妻を心配し、保見へ譲ることを石村さんにすすめたのだと地元では言われている。その富貴人さんは事件が起こった年に亡くなった。
 石村さんから購入した土地の登記簿を確認すると、郷地区に戻る直前の、保見の住所が確認できた。神奈川県川崎市多摩区のアパートだ。京王・JR両線の稲田堤駅から北東に1キロほど進んだその場所を尋ねたが、すでにアパートはなくなっていた。古い平屋住宅、低層階の古いマンションやアパートが立ち並ぶ中に、造園屋や工務店などが点在している。真新しい建売の戸建てが、ところどころに出来始めていた。
「あいつのタイルの親方がこの辺にいたんだけど引っ越しちゃったんだよな。職人としての腕はよかったよ。やっこさんが住んでたところの隣に3階建てのマンションがあるのよ。そこを奴がやったんだよね。外壁を」
 当時の保見を知る男性はこう語った。確かに、アパートの跡地すぐそばに、1991年3月に建てられたクリーム色のタイル張りマンションがあった。仕事は順調だったように見える。だが、このマンションが完成して数年後に「親が体の調子が悪いから、家に帰んなきゃなんねえんだ」と言い、金峰に戻ってしまった。
 保見はこの地に住んでいる当時、稲田堤の駅前に古くからある、焼き鳥屋の常連になっていた。その店主である森さん夫妻=i仮名)が、保見と同年代で、仲が良かったという。保見が住んでいたアパート跡地の近所にある森さん宅を何度か尋ね、奥さんに話を聞いていた。「あの事件があったときは田舎(山口)からも取材が来てたのよ」という。
 多摩川沿いにあるその家で夫妻は現在、甲斐犬のブリーダーをやっている。奥から何頭もの犬の鳴き声がけたたましく響くなか、玄関で取材に応じてくれた。
「私もお店(焼き鳥屋)に出ていて、当時子供も小さかったから、保見ちゃんに見てもらったりなんかしてたんです。その当時、別にどこか異常だとか感じたこともなかったしね。ただなんか神経質っていうかな。仕事は熱心だし真面目だし。真面目なんですよ。だから逆に真面目だからこそ、融通がきかないってのはあった。でもそれって、男でも女でも、人によって性格ってあるじゃないですか。
 保見ちゃんが働いてるとこの従業員の方とか社長とか飲みに来たり、自宅にも飲みに来たりなんかして家族ぐるみの付き合いしてたね。『あいつは気は短いけどでも気持ちはいいぞ』って社長は言ってました。わたしもホミちゃんのところに遊びに行ったことあるけど。だけど別にどうってことないし、ちゃんと洗濯もきちっとしてるし支払いもきちっとしてたからね、そういう付き合いはしてたんですよ。あんまり変な人だとね、うちも子供が女の子だから付き合えないし。
 保見ちゃんは、仕事が早く終わっちゃうと『一杯飲ませてくれとか』早い時間に店に来て喋ってたり。でも仕込みなんかで私たち夫婦は忙しいから、酒も出してる暇ないからね。だから自分で出して伝票も自分でつけてくれてたり。そんな感じでみんなで和気藹々とやってましたよ」
 そもそもの出会いは、当時森さん夫妻が切り盛りしていた焼き鳥屋に、保見がタイル職人の親方に連れられて来店したのがはじまりだった。
「保見ちゃんに会ったら言っといて。稲田堤のババアが年取ったって。娘は大きくなって孫もできたよ、保見ちゃんありがとうね、って」
 ちょうど家の奥から電話が鳴り出し、ここで話は途切れてしまった。

 稲田堤に住んでいたころの保見は、タイル張りの仕事に精を出し、行きつけの焼き鳥屋で交流の輪を広げ、仲の良い友人と一緒に釣りに行き、その魚を近所におすそ分けもする、でも頑固で細かいところもあった、普通の職人のおっちゃん≠セった。
 では、金峰地区に戻ってからはどうだったのか。

ワタル

 1月と同じように徳山駅から車で菅野湖沿いの県道41号を北上する。片側が湖、片側が山になっていて車一台しか通れない道だが、6月下旬ともなると、山から生い茂る雑草が伸びてきて、車の側面に葉が触れる音がかさかさと車中に響く。たどり着いた金峰地区も同じく、緑が生い茂っていた。
 この県道41号と、それよりも道幅が広い県道9号がぶつかる地点に保見とその両親が暮らした家がいまもある。41号を挟んだ向かい、西側には金峰神社へと続く参道がのびていた。保見の家から参道の方を眺めたとき、その脇に見えるのが金峰山(きんぽうざん)だ。
 前回訪れた時と村の佇まいは変わっていないが、季節が冬から梅雨になったことで、山の木々や道路沿いの雑草はさらに青々と生い茂っていた。そして、なんといっても虫が多い。歩いていても、止まっていても、走っても、身体中に小さな羽虫がまとわりついてくる。何をしていても虫たちが耳元で小さな羽音を響かせ、とくに顔に集まってくるから堪らない。小さな叫び声をあげるが、周りには誰もいない。手に持ったタオルで顔に寄ってくる虫をはたきつつ、郷集落や近隣の集落を訪ね歩いた。
 保見光成は、もともとの名前を『中』(わたる)という。そのため皆、保見のことを『ワタル』と言って話す。
 事件直前のワタルは、関東に住んでいた時の人物像とはまるでかけ離れた攻撃的な村人として、郷地区で敬遠されていた。妻の聡子さんを殺害された河村二次男さんが言う。
「うちの田んぼがワタルんちの前にあった。そこで女房が仕事をしとると、ワタルが家から窓開けて、歌を歌うて、おびくわけ。おびく、っち分かるかな、罵る、ちゅうこと。カラオケでギャーンと流す、そういうことしよった。女房は『気持ち悪い』っちゅうけど、わしは『取り合わんがいい』と言いよったんよ。
 女の人は集まって井戸端会議とかするじゃないですか。それを、まあ、ワタルの家の前に鳥居があるからね、そこで山本さんとうちの女房が話をしよったらワタルが外に出てきて犬の散歩がてら『お前ら殺したろうか』っちゅうわけ。『お前ら二人じゃつまらんけ、もう何人か連れてきてやっちゃろか』と。そういうこと言うわけ。
 女房がワタルの向かいの家に行っとるときに車で送って、お宮の前に車止めて、向こう見とったらワタルの家の方向くでしょ。そうしたら『お前何の用事があるんか』と言ってくる。そりゃあね、わしらも多少あれやったけど、田舎のものにあげなこと言うたら恐れる。あれは恐ろしい」
 道ゆく村人たちに食ってかかり、時には殺害も仄めかす。完璧な危険人物に成り果てていたようだ。
 別の住民も「貞森誠さんがワタルに掴みかかられた」、「棒みたいなん持って犬を散歩しよった。会うと『10人くらい殺して死のうと思う』とよう言いよった。思いがあったんかなんなんか。それを私はなんでとは問わんよね、怖いから」など口々に振り返る。
「夕方にカラオケかけて歌いよった。5時ごろ出たら歌ってるよ。『およげ!たいやきくん』やらね、そういう歌よ。すごい外に大きく聞こえるように。マイクをこうね。山側のほうに向けてね」
 しかも、食ってかかるだけでなく実際に暴力も振るい、挙げ句の果てに毎日のようにカラオケで熱唱していたというのだから、確かにこれは、田舎のものでなくとも、恐ろしい。
 当のワタルは一審山口地裁の被告人質問で、当時の生活パターンを検察官から問われこう答えている。
「最後はわからなくなった。朝5時半散歩して、家でカラオケ。事件2〜3か月前はなんもやってなかった。ポケーとして声を出すこともなかった。人の話を聞きたくない」
 最初の頃に自宅の窯で陶芸をやっていたことを覚えていた村人もいたが、それもいつしかやめていた。
 村人たちにはその言動を不審がられていたが、家の中はそれにもまして不気味だった。地下のトレーニングルームを中心に、自作のポエム≠ェびっしりと壁に貼られていたのである。一審公判の証拠調べで、法廷の壁にかけられた大型モニターにその壁の様子が映し出されている。傍聴した記者やマニアは一様にこの写真のことを真っ先に挙げ「すごかった」と語るほどだ。

「何かしなければ全て認めて死ぬことになる 悪者にされ一人死んでたまるか」
「試合である 警察に訴えない 病院代の請求 遺恨残さず」
「あなたの性根の悪さがよく分かる がまん がまん がまん いつまでどこまで リオブラボー」
「もんぺ下げ 散歩の亀に 餌をやる」
「無神経 なのに 神経痛」
「玄関前に横たわる ぴくりとも動かない 仇討ち」

 エロと恨みが共存したこれら不穏なポエム≠ヘ、村人への恨みから来るものなのではないか? そう一審公判で検察官が追求していたが、ワタルはそれを否定していた。こんな調子でだ。
「ルームの紙は両親が亡くなった後書いた。どういうつもりでって……つらい気持ちで書いた。見る時はなんともないです。子供がいじめられて日記書くでしょ、死ね死ね死ねとか。吐き出してすっきりする。そういうもんです」

 そうは言っても、すっきりできなかったから事件は起こったのではないか。
 事件直前は村の危険人物に成り果て、草むしりなどの集落の作業にも、自治会の仕事も参加せず、回覧板も受け取らない生活をしていたワタルだが、最初からそうだったわけではない。
 関東に出る前の幼少期は、ガキ大将として近所の子供を引き連れて遊んでいた。連れ回されるのが嫌で、子供たちはたいてい、ワタルが遊びに来る前に外に出るようにしていたという。いじめられていた同級生を守ってあげたこともある。
 1996年5月に郷地区に戻って来たばかりの頃も、いわゆる変人ではなかった。戻った翌月には自治会の旅行に参加した。その翌月に開かれた歓迎会にも参加して、自己紹介をし、村人たちの輪の中にすすんで入ろうとしている。2日連続の公民館行事に参加もした。旅行でのワタルの様子を覚えている村人はいない。ということは逆に言えば取り立てて何も問題がなかったのだろう。だが歓迎会でワタルは、自分がこの地で何をしたいか、村人たちに提案をした。
 公判を傍聴したマニアが、この当時の情報を語ってくれた。
「本人に面接し本鑑定を行なった精神科医が、彼は『村おこしに失敗した』と言っていました。その一言だけで、具体的には何に失敗したのか言っていなかったんです。本人は手に職があるからバリアフリーをやってみたり、年寄りが多いから色々と電気の付け替えとか、便利屋さんをやろうと思っていて、戻って来た年にあの新しい家で『シルバーハウスHOMI』を開業したんです。そこでやっぱり介護とかデイサービスみたいなこともやろうと思ったんじゃないですかね」
 ワタルは自力で建てた新宅で、リフォーム業を主とする便利屋を開業しようとしていた。当時すでに過疎化が進んでいた村を盛り上げたいという意志を持っていたという。新宅は、その拠点にしようというワタルの思いが込められた造りになっている。
「気軽に集まってもらったり、お酒を飲んで歌ったり話をしたりしたら楽しいよね」
 ある村人は、ワタルからこう聞いていた。いま草に覆われている新宅の扉の奥には、カウンターバーがあり、カラオケ機器も当初から取り付けられていた。地下にはトレーニングルーム、さらには陶芸のための窯もあった。
 ワタルはここを村人たちの交流の場として作ったのだ。
 日々ドアを開けてふらっと訪れる村人たちと、カウンターでお酒を飲みながら交流を深め、地元を盛り上げるための色々な案を考えていきたい……そう考えていたという。
 当初『シルバーハウスHOMI』を訪れたことのある村人は言う。
「すごいバーを作って、外は飲み屋のようにネオンがつくようにしちょった。中もお店みたいじゃったよ」
 だがすぐに、誰もそこに行かなくなったのだという。村人は続けた。
「そうするためにはやっぱり人間関係がないとねえ」
 ワタルは自作の新宅を集落の新しい拠点として、村人たちが楽しめるような設備を作り、村を盛り上げようと胸を膨らませていた。だが真っ暗な村に一軒だけネオンが輝く様は、不釣り合いであり、浮いていた。そしてワタル自身も、まず村人たちとの信頼関係を築く前に、近代的な家の設備で村人を呼び寄せようとしていたことが裏目に出た。『Uターンハイ』とも形容できるような状態になっていたのだろう。
 都会から戻ってきた俺が、こんな家を作った。これで村も盛り上がる。さあ、皆ここに集まってくれ……。
 年長者ばかりのこの村で、それは通用しなかった。やはり村に戻ってきたからには、自治会の仕事に参加し、数ヶ月に一度行われる草むしりなどの仕事にも精を出し、先輩となる村人たちとの調和を図ってはじめて、村に受け入れられるのがセオリーだ。冷静に見ても確かに、その案は強引に映る。
 歓迎会の席上から、ワタルは村人にあまり良い印象を抱かれてはいなかった。都会帰りでハイな状態のワタルは、村人たちにとっては、うっとうしかったのかもしれない。この村を盛り上げるためのワタルなりの村おこし……新宅を村人たちの交流の拠点とする案は、あっさりと年長者たちに否定されてしまったのだ。
「最初には、光成自身が外森(仮名)に相談をしたの。年代が違わんから『金峰おこしをしようじゃないか』と相談をもちかけたのは光成のほうやね。最初に自治会で出会ってその話をしたと。その時に外森が『それじゃ二人でやろう』ちゅうて。そのままやったらよかったんじゃが、あとのあおりが怖いちゅうんで、外森がおそれて手を引いたから、光成自身が一人悪者になった」
 ワタルの村おこしの顛末を知る村人は、こう語った。外森さんとは郷地区にある玉真寺という寺の住職で、ワタルよりも少し若い男性だ。郷地区から7キロほど西に離れたところにある寺の住職も兼ねており、事件後はほぼそちらに住んでいるのだという。彼と当初は村おこし≠しようとしたが、外森さんから梯子を外されてしまったのである。
 出鼻をくじかれたことで金峰・郷集落での生活は幸先の悪いスタートを切った。集落のもやい仕事に参加したのも最初だけだ。「気が弱いところもあった」とも評されるワタルなので、理想の村おこしを反対されたことで萎縮したのかもしれない。人間関係が築かれてくれば、長期的には『シルバーハウスHOMI』を村おこしの拠点とすることも無理ではなかっただろうが、ワタルはそれをしなかった。
 そんな中でも『シルバーハウスHOMI』のために、店のチラシを印刷してあげたりする村人もいた。実際、初めの頃は徳山の方へ出向き、リフォームを請け負ったこともあるというが、そのうち開店休業状態となる。
 関東と金峰を往復して作ったこの新宅には、ワタルが思い描く郷集落での理想の生活が詰まっていた。だが『シルバーハウスHOMI』は、稲田堤の焼き鳥屋のように、地元の村人たちが集まる場所にはならなかった。いつしかトレーニングルームは自身の鬱屈した思いを書き連ねたポエムが壁一面に貼られる禍々しい空間へと変貌し、カラオケを一緒に楽しむ村人が訪れる日は来ないまま、一人でひたすら「およげ!たいやきくん」を歌っていた。

 ―― 過疎化した金峰では、子どもの住む街へ出るお年寄りが多い。そんな中、保見(ほみ)友一さん(93)の二男、中(わたる)さんが九四年、川崎市から帰ってきた。十五歳のころ、都会にあこがれ東京へ出たが、「自分の生まれたところで死にたい」という思いは消えなかった。
 工務店勤務の経験を生かし、老いた両親のために部屋の段差をなくし、手すりをつけた。一年ほど前、母のタケヨさんが病気で倒れ入院した。「うちに帰りたい」と言う母のために自宅で介護を始めた。おしめを換え、たんを取った。
 昨年十二月末、八十七歳の母をみとり、父と二人暮らしになった。「親が子どもを育て、年をとる。 そんな親をみるのは子どもの義務」。父が毎日手を合わせる仏壇の周りにも手すりを付けた。(2003年4月19日読売新聞朝刊)――

 金峰地区に住む高齢者と、その子供たちについて触れた記事だ。この翌年、友一も死んだ。村人の中には「両親が死んでから、おかしくなった」と言う者がいた。確かにこの頃から、家の前に雑然と置かれたオブジェの様子が異様なものへと変わり始めたようだ。
「ブラジャーをつけた変なマネキンを家の前に飾ったりして、どんどん様子が変になって言った」
 地下のトレーニングルームの貼り紙も、この頃から始まった。

 郷集落から5キロほど離れた別の集落に、ワタルと友一を知る村人がいた。82歳になるその男性は、この地で長らく酒屋を営んでいた。平成16年(2004年)に店を畳むまで、近隣の家へ酒の販売・配達をしていたのだという。
「お父さんはわしもよく知っちょる方じゃある。まあ椅子に座りない」
 男性は、保見の父・友一と、保見の母が生きているころ、郷集落のあの家に酒を配達していた。
「犯人のあれも、話したことがある。まあ、あれがあんなことをするとは思われんような。穏やかな人だと思うちょった。犯人の家はお父さんお母さんの家のすぐ隣に作っちょった。お酒の配達はお父さんが飲みよったけ、そっちの古い方の家に行きよった。お父さんと話するけど犯人とも話する。あそこは夫婦仲もよかったし。喧嘩ちゅうようなことはなかったですよ。犯人のほうも、大きな声をあげてどうじゃこうじゃ言う人じゃなかった」
 郷集落の人々は、酒税法が変わり酒のディスカウント店が都市部にできるまで、めいめい決まった酒屋から酒を頼んでいたという。男性は郷集落では保見家だけに配達をしていた。
 話を聞きながら、ふと、元酒屋だったというその家の土間を見回すと、ワタルとはタイプの違う、前向きな自筆の標語が壁一面にびっしりと貼られていて、そちらに気を取られてしまいそうになった。腕に蚊が止まっても、気づかないのか、そのまま話し続けていた。
「ひと月に一回注文があった。いっぺんに持って行くのが一升瓶10本。多いですよ。わっはっは。よう飲みよったです」
 酒飲みだったが穏やかな家族だった……。こう男性は言うが、郷集落とその近くでは違った評判が立っていた。
穏やかな人≠セったというワタルに関してはこうだ。
「帰った当時は集落の旅行にでも行きよったよ。それならええわけ。でも、仕事をせん! 集落の村の仕事にも出ん。はしからそうなっていったんや。そりゃ人が相手にせんにゃ」
「ものを人にあげるような人じゃなかった。うん、そういうところはなかったですね。飲みに行った人のところに次に行くときさ、ビールの一本ぐらい持って行くとかさ、そういうのが一切なかった」
「なめこがたくさん採れた年に、分けちゃろうとおもって、なめこ食べるか? って聞いたら『おう食うど。しいたけは埃臭いから好かんけどなめこならええど』って、ありがとうはない」
 都会から戻ってきた若者……と言っても、すでにこのとき40代半ばだったが……なのに、年長者たちに礼を言わず、集落の仕事にも参加をしない。川崎・稲田堤に住んでいた時とは違う尊大な態度のワタルに、郷集落の村人たちは距離を置いていった。剛に入りては郷に従え。特に人口の少ない集落においては重要かつ唯一ともいえる処世術になるが、ワタルはこれを拒否し、村人たちもそれを苦々しく思っていた。2009年にワタルが「光成」に改名したが、それを村人たちが知ったのは、事件の後の逮捕報道でだった。

 このように郷集落に戻ってきてからのワタルの、あまり良くない言動は、村人から暇なく聞かれるのだが、報じられていた具体的ないじめ行為については確たる話が出てこない。
 一審公判の冒頭陳述では、近隣住民との諍いの経緯が時系列で明らかにされているが、そこで出たのは「平成20年8月の河村さんとの農薬散布トラブル」、「平成21年5月 飼い犬を巡り河村さんと口論」、「平成25年はじめ 飼い犬のフンをめぐるトラブル」などだった。だがこういう裁判では被害者側の生前の非を隠すこともある。
 事件当時に現場を取材した記者によると、そのときは郷集落に貼られた規制線のため、中に住む村人たちへの取材はできない状況だったことから、金峰山を超えた鹿野町などでも取材が行われていた。そこで記者は、こんな話をする住民に出会ったそうだ。
「せっかくみんなのために買った草刈機を、あぜ道に置いたまま忘れて帰ったら燃やされたっていう話を聞いてました」
 そのほかにも、すでに書いたように「庭に除草剤を撒かれる」「『犬が臭い』と文句を言われる」などの出来事が起こっていたと遠くの村人≠スちは口々に言うのだが、当の郷集落の村人たちに聞いてもそのような話が出てこないのだ。
「あの人だいたい草刈機を持ってなかったから。農家じゃなければあまり草刈機はいらないよね。それに草刈機も、燃えるようなもんじゃない。草刈機をどうかされたっていったら、投げられたとか、刃を壊された、とかならまだわかるけど、草刈機のどこを燃やすんか」
「草刈機を燃やしたとかなんとか聞いたことあるじゃろ。だけどあれはわし、よう知らんのよ」
 そもそも草刈機の存在さえ怪しい有様なのである。

 河村二次男さんは日々、村で起こったワタルとのトラブルを、自分の『県民手帳』に書きつけていた。そこにはこんな記述があった。
「背負式の機械で田んぼに農薬を散布していたら犬がどうとか言っていた」
 これは2008年の出来事なので、冒頭陳述にあった『農薬散布トラブル』とみて間違いないだろう。除草剤ではなく農薬を散布した際に、ワタルが自分の犬を攻撃されていると思ったのではないか。
 一部の村人は河村さんについて「ワタルに色々言われるけえ、ちゅうて、田んぼも手放したんじゃけど、まだ田んぼをやりよるときは、よく農薬まく人じゃったんよ」と、もともと農薬を好んで使う主義だったと話した。
 事件当時取材に答えていた遠くの村人≠スちによる、郷集落でのいじめの話は、ワタルが以前にそうした被害を誰かに話したものが広まっているかのような印象を受けた。犬について文句を言った話は、郷の誰からも聞けなかった。いじめた相手にいじめの話を聞かせてくれと言ってもなかなか話してくれない。そういうことかと思っていたが「あの人がいじめていた」という耳打ちすらされないのである。
 それよりも、ワタルに対する具体的ないじめ≠フ話が村人たちから出て来ないのと対照的に、周辺集落の誰もが知っていたのが、ワタルの父・友一が泥棒だった≠ニいう話だった。

(続く)
https://note.mu/tk84yuki/n/n3cf6b0673398
http://www.asyura2.com/12/lunchbreak52/msg/862.html#c29

[昼休み52] 山口県周南市連続放火殺人現場へ行ってみた 中川隆
30. 中川隆[-9120] koaQ7Jey 2019年7月12日 13:35:59 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[3568]
ルポ「つけびの村」03/06 2018/07/24
https://note.mu/tk84yuki/n/nee18a0ab0ef6


2013年7月に山口県周南市で発生した山口連続殺人放火事件について、2017年に取材し、まとめたものを6回に分けて公開します。存命の関係者のお名前は全て仮名です。2017年9月7日脱稿、その後少し寝かせていました。


保見友一

 その泥棒≠フ噂高い、保見の父親は、いつから金峰の郷地区に住んでいたのだろうか。集落を訪ね歩いて話を聞くと、皆、大まかには同じことを話した。
「保見のところは、もともとは、同じ金峰でも郷とは違う山の中に住んどった。
 長男は順一。友一(ともいち)は三男。その間に徳市(とくいち)ちゅうのがおる。ワタルの父親が友一。この3人ともが皆それぞれに郷に出て来た。それは戦争前。今から70年くらい前かな。家のあったとこは、あとはなんもない」
「ワタルくんのお父さんらは、山の上の方おっちゃったらしいよ、ほんで降りてきた、わたしらも親が話しよったちゅうぐらいしか知らんからね。入るのはね、河村さんところの道を山伝いにずっと上がるんじゃけど。途中から奥まった山の方へ登るんと思うよ。家とか、もうないない。山しかない。もう誰も住んじゃないよ。昔はそこへ山をちょっと持っとったんじゃろうが、もうそれも誰かに売っちゃったみたいじゃがね。自分らも子どもの頃、あの河村さんとこの奥のところに入ったことはあるけど。山よ。集落はないね」
「なんで越して来たかは知らんね。兵隊取られるかそんな頃やから、昔の話じゃ。兵隊から帰った時にこっち来たんやね」
 たしかに、金峰神社の参道脇にあった保見家の墓や、神社に残された石柱などを確認しても、光成の父親である友一、その兄たちの順一、徳市以外の名前は見当たらなかった。

 郷集落は保見家の南隣に、3人目の被害者山本さん宅と、さらに南方に進んだところに、本来は菅蔵地区だが「もとは郷に住んじょって、そっちに移った」ため、そのまま郷集落の一員として暮らしていた最初の被害者、貞森さん夫妻が住む家がある。保見家の家の裏手にはこんもりとした山が続くが、その手前には東西からそれぞれ流れてくる小さな川が合流している。東側から流れるほうの川に沿った細い道をその上流に向かって歩くと、500メートルほどで河村さんの家に着く。ここまでが郷地区といわれる。この細い道をさらに奥に進めば、県道9号線にふたたび合流するのだが、郷集落の入り口の前よりは道幅が細くなっており、車が一台しか通ることができない。1キロほど曲がりくねった細道を進んだところで、道が南北に分かれている。この周辺にワタルの父・友一とその兄たちは住んでいたという。
 そう村人たちが言う場所は現在、道沿いに家はぽつりぽつりとあるが、朽ち果てた廃墟もあり、今も人が住んでいる家は数100メートルおきに一軒ほどしか見当たらない。山の方を見ても、もはや家らしきものはなかった。
 体に寄ってくる虫を避けながら、保見友一とその兄たちが郷集落に移り住んだ経緯や、住んでからの暮らしぶりを高齢の村人に尋ねてまわると、わりあい話が聞けた。といっても、金峰地区では高齢者しか見かけたことがない。ここでの高齢の村人というのは、後期高齢者に分類されるような者たちだ。

 金峰地区の生き字引と称され、金峰地区のことならばこの人に聞け、と名前の出る男性、田村勝志さん(仮名)は郷集落の隣、菅蔵(すげぞう)集落で長らく農家を営んでいる。友一とは20歳近く年齢が離れているものの、やはり友一とその兄たちのことをよく知っていた。なぜ郷地区に移り住んで来たのかもだ。
「生活ができんようになったから。住んでいたところは、それはもう山の中で、どうしようもない生活しよった。その山の中に一軒家があって、そこに生まれて育ったんやからね」
 友一が移り住んで来たとき、まだ郷地区を東西に走る県道9号線が東方向には伸びておらず、現在の保見家の北側から東にかかる『第二郷橋』付近に家があった。
「まあお粗末な家を作っておったよ。竹をパッと縦に割って、その中の節を落としたものを重ねて行くわけ。でそれが屋根になるわけ。そういう家じゃった」(別の村人)
 郷地区から北東方面に採石場があることから、昔からダンプカーの往来があった。集落の家々の前にある細い道を抜けていたのだが、道幅が狭かったため、1976年代にバイパス工事が行われることになった。このとき友一と妻、そして子供であるワタルとそのきょうだいらが住んでいた家は立ち退きとなり、現在の茶色の建物に移ったのだという。もともと駐在所だった建物をそのまま友一が買った。
 ワタルの父、友一とその兄たちは別々に移り住んで来ている。次男の徳市は事件の被害者となった貞森さん夫妻が住んでいた家に住んでいた。その家を建てたのだという。金峰地区の村人たちは、徳山に近いほうを「カミ」、遠いほうを「シモ」と言う。順一は「シモのほうに住んどった」というが、詳しい場所は誰に聞いても定かではなかった。
 ワタルの叔父にあたる明治生まれの長男・順一の生活ぶりを直接覚えているものは、田村さんだけだ。
「わしが小さい頃、長男は荷車を引いて荷物を運ぶ商売をしとった。ここから徳山まで馬を買って来て荷馬車にして荷物を徳山へ運んできて、徳山で、頼まれたら買って帰るというのを長男はやってた」
 同じく叔父にあたる次男・徳市になると、数名の村人が記憶していた。話は皆共通しており「ブローカーのようなこと」をやっていたという。徳市、友一と交流のあった田村さんの話はこうだった。
「どういったらええかな、請負仕事をして、そして儲かって、土地を買ったり、いろいろ商売をしたりということをやりよった。ここに昭和26年の10月に大きな台風が来たんじゃけど、この辺は死の谷ちゅうて、家もあったけれども、田んぼも何もみな川になってしもて、大変なときがあった。道路という道路、橋という橋がひとつもなくなったんや。それを改修するために土建業の人がものすごいここに入った。そういうときに保見徳市という人は、なかなか頭のいい人やから、すぐにその請負をしたわけね。それで儲かって、まあ、一代をなしたというか」
 昭和26年10月 13日から14日にかけて山口県を襲ったルース台風は、同県に甚大な被害をもたらした。この災害をビジネスの好機と捉えたのが徳市だった。それなりに財を築いたが、徳山市に出ていた徳市の長男が脳溢血で急逝したことで潮目が変わる。その妻が、家の財産を奪ってしまったのだという。
 とはいえ長男・順一も、次男・徳市も、郷地区に移り住んで来てから仕事をしていたが、ワタルの父、友一だけは違っていた。どのように暮らしていたのかと村人たちに尋ねると、こんな答えが返って来るばかりなのだ。
「あんまりに働かないおじさんでね。上手いこと言って安い酒を人に高く売りつけてお金をあれしたりとか。人の作ったカゴを自転車の後ろにつけて売ったり。それで時々仲買に出たり。体がでかいおじさんだったけど、勤勉に働くような人でもなくて。それでいつも将棋をやっていてね。バスが来てたんですよ、で、バスが止まるといつも運転手さんと早将棋をやっていた」
「カゴを売る仕事のほかは、戦後に植林ブームちゅうのがあった。山を綺麗にして、苗木を植えて、下刈りをして、下刈りもだいたい5〜6年やりよるから、ひとつ受けたら6年間は仕事がある。あんまり定職ちゅうのはなかったね」
 金峰地区の産業は、今も続いている農業や椎茸栽培のほか、かつては製炭や畜産、そして竹細工も盛んだったという。友一は付き合いのあった竹細工職人から安く仕入れた籠を、高く売りに行っていたほかは、植林ブームに乗り一時期その仕事に従事していた。友一の妻、つまりワタルの母親は「和裁ができた」というが、どこかに勤めに出ている様子はなく、近所のものたちの農作業を手伝い、報酬に農作物をもらっていたことがあった。

 1月の取材で聞いていた友一は盗人≠セという噂について村人たちに尋ねると、他の兄弟の話と同じく、皆が同じ話をした。
「あの家の中に縁側があって、そこで2〜3人集まって酒を飲んでいるちゅうのが友一の日常生活じゃった。酒を飲むのも、自分は酒がないから、来た人をうまい具合にごまかして、酒代をとって、いうような感じ。それで人をごまかす。だから相手にするなという風評が高まった」
「保見友一って誰も呼びやせん。友のアカの人≠ソゅうふうに言いよった。アカっちゅうのは、盗人のことやな。米も洗濯物も盗られる。盗んで着るんじゃから、すぐ分かるよ」
「今なら笑えるようなものを盗りよったらしいよ。まあ洗濯物とか、カボチャとかやね」
「友一は子供がたくさんいたし、非農家じゃったから、田んぼがない。終戦後、食べ物にすごく困っている時があった。昔は水車を回して米を挽いていて、農作業に出る前に水車のところに置いて出て行っとった。そして帰ってその米を炊いて食べるんじゃけど、それを盗んだとか、カボチャを盗んだとか」
 米やカボチャ、洗濯物を盗み、家に来た者から酒代を取る……友一に関しては良くない話≠オかなかった。酒代については、被害に遭えばすぐに犯人が分かる類のものなので信憑性は高い。けれども農作物や洗濯物の盗みの話は、いまとなっては本当だったか確かめようがない。同じように、本当に泥棒だったのか確信を持てないと話す村人もいたのだが、友一が盗人だといううわさ≠ヘ、話を聞いた全員が知っていた。

 田村さんは述懐する。
「保見友一は人気がなかった。自慢をしたりなんかするから、あんまり付き合いをする人がいなかった。
 今日のような暑い日に皆は田んぼや畑へ出て仕事をするが、あの人は田んぼを作らないからね。まあ左うちわっちゅうか、皆が暑い暑いと言いながら仕事しとるときに、家の中で涼しい風に当たって、夕方にちょっと出て散歩をするというぐあいに、皆と生活の態度が違ったんやな。そういうところから嫌われ始めた。わしらが汗水流して働きよるのに、働かんと、人をごまかして、生活をして、高い目線で見よるというようにな」
 金峰地区では田や畑を持っているのが一般的だ。友一は「非農家」で、田も畑も持っていなかった。ならばふたりの兄のように仕事をして金を稼ぎ、食べ物を調達しなければならない。それなのに定職についている様子はなく、農作業もやる様子はない。人から金をチョロまかして酒代を多めに取る……そのような暮らしをしていたために、村人たちから白い目で見られていた。
 また金峰地区には集落ごとに自治会があり、2年に一度、選挙で会長が決まる。役員は自治会員らで話し合いをして決めるのだが、生前、友一は役員になれなかった。それが集落の者たちの故意だったのかは定かではないが、友一はそれを気に病んでいたという。ワタルが関東から戻って来たとき、友一とその他の村人との間にはこうした空気が熟成されていた。
 都会で金を貯めて戻って来た。近代的な一軒家を建てて「村おこし」をしたいなどと言い出す。それも単なる都会上がり≠ェ都会風を吹かせているだけではない。よりによってあの盗人の家の子が、そう言うことを言っている……そんな認識が、集落の村人たちにあったのだ。快く思わなかったのは容易に想像がつく。

金峰

 金峰地区の村人たちと保見家の関係がよく分かるものが、村の中にある。保見友一の眠る墓である。
 かつて『シルバーハウスHOMI』だった保見家から県道を挟んだ向かいから伸びる、金峰神社の参道をのぼった。石段はところどころ途絶え、急勾配のけもの道になっている。左手にタオルを持って虫を払いながら、拾った長い枝を空いている右手に持ち、杖の代わりにして本殿を目指す。両脇に並ぶ高い杉の木のせいか、晴れていても山道は薄暗く、足元の土は湿っていて、何度も滑り、この杖に助けられた。
https://note.mu/tk84yuki/n/nee18a0ab0ef6
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[昼休み52] 山口県周南市連続放火殺人現場へ行ってみた 中川隆
31. 中川隆[-9119] koaQ7Jey 2019年7月12日 13:36:55 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[3569]

ルポ「つけびの村」 04/06 2018/07/25
https://note.mu/tk84yuki/n/n8dbf7f16be07

2013年7月に山口県周南市で発生した山口連続殺人放火事件について、2017年に取材し、まとめたものを6回に分けて公開します。存命の関係者のお名前は全て仮名です。2017年9月7日脱稿、その後少し寝かせていました。

『コープの寄り合い』

 相変わらずほとんど人が歩いていない金峰地区で私は、村人が恐怖する金曜日朝の『コープの寄り合い』が行われていた家に住んでいた、吉本茜さん(仮名)の現在の居所を聞いてまわった。ワタルの父・友一やその兄たちの居所を訪ねた時も感じたが、この地区の人たちは、村人の転居先にも詳しい。何人かに聞くと、だいたいの場所がわかった。
 吉本さんは事件の後に集落から離れた街に引っ越し、息子たちと住んでいるという。金峰地区の村人だけでなく、少し離れた地域の村人も、吉本さんの名前、経歴や人柄を詳しく知っていた。むろん、引っ越し先の詳しい場所もである。ワタルよりも有名人だ。
 若い頃には学生運動をやっていたとも聞いた。郷集落に戻って来てからも、熱心に環境問題に取り組んでいたという。実はこの吉本さんは、ワタル逮捕後の起訴前鑑定で名前が出ていた人物だ。鑑定を担当した山口県立こころの医療センター・兼行浩史医師は、鑑定当時ワタルが被害念慮を抱いていたことに触れ、その対象を「吉本さん以外全ての人に対して持っていた」と述べていた。
 村人がおそれる危険な『コープの寄り合い』で情報を司っていた中心人物≠ナありながら、ワタルは吉本さんだけには「被害を受けている」と感じていなかったというのである。一体全体、どういう関係性を築いていたのだろうか。
https://note.mu/tk84yuki/n/n8dbf7f16be07
http://www.asyura2.com/12/lunchbreak52/msg/862.html#c31

[昼休み52] 山口県周南市連続放火殺人現場へ行ってみた 中川隆
32. 中川隆[-9118] koaQ7Jey 2019年7月12日 13:37:52 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[3570]
ルポ「つけびの村」 05/06 2018/07/25
https://note.mu/tk84yuki/n/ne4995dd23077



2013年7月に山口県周南市で発生した山口連続殺人放火事件について、2017年に取材し、まとめたものを6回に分けて公開します。存命の関係者のお名前は全て仮名です。2017年9月7日脱稿、その後少し寝かせていました。


『金峰百年の歩み』

 ワタルは友一とその妻との間に生まれた5人きょうだいの末っ子ということはすでに1月の取材で知っていたが、まだ存命であるならば、誰か一人にでも話を聞きたい。
 また友一の兄である順一、徳市はすでに亡くなっているが、その子供達は、ワタルとは従兄弟の間柄である。子供時代に付き合いがあってもおかしくはない。
 周南市立中央図書館に用意してもらっていたのは『金峰百年の歩み』という本だ。金峰地区に近い鹿野町にある、周南市立鹿野図書館に問い合わせをした際、この本が所蔵されていることを聞き、あらかじめ中央図書館に送ってもらっていた。
 郷地区にある「金峰杣(そま)の里交流館」は公民館の役割を果たしており、事件当時、村人たちがここに避難していたことはすでに書いた通りである。ここは以前、金峰地区の子供達が通う「金峰小学校」だった。明治8年(1875年)に須万小学校分校として開校し、明治20年(1887年)には分校から独立。郷簡易小学校など名称は何度か変わったが、戦後に金峰小学校となり、昭和50年(1975年)に100周年を迎えた。これを記念し、卒業生らの手によって昭和51年(1976年)に刊行されたのが『金峰百年の歩み』だ。
 生徒数は明治後期から戦後がピークだった。明治42年(1909年)には117人、大正11年(1922年)には113人、そして昭和21年には最大の169人となる。昭和30年代には、須万小学校の一部だった奥畑分校が金峰小学校の分校となっていたが、両校とも生徒数の減少が続き、昭和48年(1973年)には生徒数2人となった奥畑分校が金峰小学校に統合された。100周年を迎えた頃は生徒数が11人となっていた。
 それでもこの年は、卒業者名簿の編纂や祈念碑の制作とその設置、本書の作成、記念式典のほか、金峰小学校の全室にカラーテレビが設置されるなど華々しい行事が続いたが、児童数の減少には歯止めがかからず、100周年からわずか3年後には鹿野小学校金峰分校へと改校される。平成4年(1992年)には生徒がひとりだけとなった。その児童が卒業した平成7年(1995年)には在籍児童数がゼロに。卒業式の半月後に休校式が行われ、平成15年(2003年)には廃校となった。
 ページをめくると最後のほうに「金峰小学校卒業生一覧表」があるのが目に留まった。明治27年度から、昭和50年度までの卒業生の名が並んでいる。眺めると今回の事件の被害者や、ワタルの名前も確認できた。
 別のページには一部の卒業生が刊行に合わせて学校の思い出話を綴った作文が掲載されている。そこにワタルの父親、保見友一のものがあった。
https://note.mu/tk84yuki/n/ne4995dd23077
http://www.asyura2.com/12/lunchbreak52/msg/862.html#c32

[昼休み52] 山口県周南市連続放火殺人現場へ行ってみた 中川隆
33. 中川隆[-9117] koaQ7Jey 2019年7月12日 13:38:47 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[3571]
ルポ「つけびの村」 06/06 2018/07/25
https://note.mu/tk84yuki/n/ne6061a373ac6


2013年7月に山口県周南市で発生した山口連続殺人放火事件について、2017年に取材し、まとめたものを6回に分けて公開します。存命の関係者のお名前は全て仮名です。2017年9月7日脱稿、その後少し寝かせていました。


 ポパイが今も思いを寄せる飼い主のワタルに面会するため、広島拘置所へ向かった。その日の広島駅周辺は、朝から曇っていた。蒸し暑く、歩いていると髪が湿気を含む。ホテルから10分ほどしか歩いていないのに、広島拘置所に着く頃は髪が膨らんでボサボサになっていた。
 地方都市では城や城跡の近くに役所や裁判所が置かれていることが多い。ここ広島も例に漏れず、広島城のそばに裁判所があった。だが拘置所となると事情は異なり、必ずしも城の近くにあるというわけではないのだが、ここは拘置所が裁判所と同じブロックにある。拘置所敷地の外壁には、浮世絵のようなタッチの、海の上に多数の船が浮かぶ絵が描かれていた。拘置所の職員にこの絵の由来を訪ねたが「さぁ……なんでしょうね」と、何を知っているわけでもなかった。


 狭く古い待合室で、グレーの汚れた壁を見ながら待っていると、あっという間に番号が呼ばれた。スピーカーから流れて来る職員の声が大音量で割れている。キーンというハウリングの音とともに、こう聞こえてきた。

「四番面会室にお入りください!」

 面会室に入るとすぐに、ワタルが入って来た。アクリル板越しのワタルは、黒い半袖Tシャツにグレーのスウェットズボンを履いている。金峰地区の村人達はワタルを「体がでかいけぇね」と言っていたが、確かに背丈もあり、体格もがっしりとしていた。骨太な姿が、須金で会った長女の娘、ワタルの姪に似ている。ホームベース型の顔は、原始人のようにも見える。まず挨拶をして、面会に応じてくれたことに対する礼を言ったのだが、ワタルは聞いているのかいないのか「時間がないけぇね」と言いながらすぐにパイプ椅子に座った。挨拶をしないという噂は本当だ。
 ワタルは会話のキャッチボールをする気がないのか、面会時間が15分しかないために自分の思いをすべて伝えたいと焦っているのか、こちらが質問する隙を与えない。持っている資料の束をひとつずつ広げながらアクリル板に押し付けて私に見せながら、まくしたてた。
https://note.mu/tk84yuki/n/ne6061a373ac6
http://www.asyura2.com/12/lunchbreak52/msg/862.html#c33

[近代史3] 韓国輸出規制の目的 _ 韓国企業に渡してたフッ化水素(ウラン濃縮素材)の3割は北朝鮮に流れていた 中川隆
7. 中川隆[-9116] koaQ7Jey 2019年7月12日 18:17:31 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[3572]
2019年07月12日
韓国が毒ガス原料を中東や北朝鮮に不正輸出 日本からの3品目も転売
http://www.thutmosev.com/archives/80385194.html


韓国は毒ガス「サリン」の原料を独裁国家に密輸していた


画像引用:韓国企業がイラン、シリアへ不正輸出 大量破壊兵器関連物資 国際管理に抵触(1/2ページ) - 産経ニュースhttps://www.sankei.com/world/news/190711/wor1907110002-n1.html


日本から輸入して北朝鮮やイランに輸出

日本政府は19年7月1日から半導体材料の対韓輸出規制を課し、韓国はWTO世界貿易機関で提訴するべく動いている。

WTOは貿易提訴の前提として2国間での協議を求めていて、逆にいうと話し合わないと提訴できない。

韓国は日本政府に禁輸措置の協議を求めているが、これは日本を提訴するための準備で、本当に話し合いたいわけではない。




日本政府は7月9日のWTOの物品貿易理事会で、措置は制裁ではなく輸出管理にすぎないと反論した。

日本は「フッ化ポリイミド」「レジスト」「フッ化水素」の3品目を韓国に輸出規制したが、これがどうして規制ではないのでしょうか。

この3品目はもともと軍事転用が可能な軍需物資で、韓国を含めて輸出には厳しい審査と申請手続きが必要でした。


2003年まで韓国も1回の輸出入に申請と審査が必要で、審査は数か月かかったので大量の輸出は不可能でした。

ところが当時小泉首相は靖国問題で韓国が騒ぐのに困っていて、交換条件だったのか無審査で輸出できる事にした。

輸出1回ごとに審査していたのを3年分を一括して申請審査することになり、韓国は無制限に日本から輸入できる事になった。


3品目は軍需物資なので中国などの共産国や中東の独裁国家なのに輸出できないか、手続きや審査が厳しい。

韓国は自国が日本から輸入できる軍需物資を、北朝鮮や中東の独裁国家に横流ししていた。


アラブ首長国連邦(UAE)とベトナムへの輸出が確認されたほか、北朝鮮やイランにも輸出して軍事目的に利用された。

レーダー照射の現場にいた北朝鮮の工作船

o0735028614334157947

画像引用:https://stat.ameba.jp/user_images/20190106/11/lovballadost/19/4f/j/o0735028614334157947.jpg


サリンの原料を独裁国家に輸出していた


韓国の野党議員が産業通商資源省から入手した文書では、4年間で156件も軍需物資を不正輸出していた。

ロシア、インドネシア、マレーシア、パキスタン、中国、台湾、香港、東南アジア諸国のほぼ全ての国が含まれていた。

スリランカ、UAE、イラン、シリア、赤道ギニア、トルコ、イタリア、ドイツ、日本にも「逆輸入」されていました。


化学兵器原料がパキスタンに、サリン原料がイランに、生物兵器原料がシリアに、致死性ガス原料が赤道ギニアに韓国から不正輸出されていた。

軍需物資3品目は日本の許可を得ず第三国に輸出しない前提なので、韓国が横流しすると日本がこれらの国に不正輸出したのと同じ事になってしまう。

しかもこれらは韓国の税関が不正輸出として取り締まった例だけであり、韓国政府が輸出した分は取り締まっていない。


韓国は国連安保理制裁で取引を禁止されている北朝鮮と海上取引、いわゆる瀬取りをおこなっている。

2018年に韓国軍艦が自衛隊哨戒機にミサイル誘導レーダーを照射したが、あの時まさに瀬取りの現場を押さえられて、追い払うために威嚇した。

自衛隊機が撮影した写真には韓国軍艦と韓国巡視船、韓国の救難ボート、そして北朝鮮の「漁船」が写っていた。


北朝鮮の漁船は日本の自衛隊と追跡劇を展開した不審船とうり二つで、漁具がなく長いレーダーを立てた高速ボートのような形状でした。

これはおそらく瀬取りの護衛か希少物質を受け取る工作船で、エンジンが故障して漂流してしまったのでしょう。

それを韓国軍艦と海上警察が救助していた所を、自衛隊に嗅ぎつけられて哨戒機が飛んできた。

韓国国会議員の提出資料では、韓国籍の1隻のタンカーだけで、2017年以降27回に渡り計16万トンの石油を北朝鮮に密輸していた。
http://www.thutmosev.com/archives/80385194.html
http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/518.html#c7

[リバイバル3] 中川隆 _ 美術・文芸関係投稿リンク 中川隆
151. 2019年7月12日 18:55:53 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[3573]
横溝正史 悪霊島(TBS 1999年)
http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/523.html

http://www.asyura2.com/09/revival3/msg/452.html#c151
[近代史3] 横溝正史 ミイラの花嫁(TBS 1983年) 中川隆
3. 中川隆[-9115] koaQ7Jey 2019年7月12日 19:34:51 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[3574]
金田一耕助シリーズ #2 ミイラの花嫁 - YouTube動画
https://www.youtube.com/watch?v=iLaAs7XMALg
http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/219.html#c3
[近代史3] ファーウェイ排除で世界に激震! 日本はどうなる? 中川隆
17. 中川隆[-9114] koaQ7Jey 2019年7月12日 20:35:04 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[3575]
ファーウェイ、中国軍関係者大量在籍の事実が判明。世界の個人情報を盗み放題だった=鈴木傾城 2019年7月12日
https://www.mag2.com/p/money/724297


ファーウェイ社員の履歴書を調査した結果、中国国家安全当局の工作員、中国国軍、軍のハッカーなどが大量に採用されていることが分かったとの報道が出た。同社は民間企業ではなく、完全な「軍事企業」だ。(『鈴木傾城の「ダークネス」メルマガ編』鈴木傾城)

トランプが戦っているのは、ファーウェイという名の「中国軍」

民間企業ではなく「軍事企業」

ウィルバー・ロス米国商務長官は、ファーウェイに関して「アメリカの国家安全保障または外交政策上の利益に反する行為を行っている」と明確に言っている。

そして、トランプ大統領と習近平国家主席のG20での会談で「休戦」したことを受けて安全保障とは関係のない分野については規制を緩和するものの、「基本的にファーウェイに対しての輸出規制は続く」と述べている。

アメリカがファーウェイをことさら危険視しているのは、ファーウェイは中国共産党のサイバー部門を担っている「軍事企業」だからだ。


ファーウェイは民間企業であるというのは「隠れ蓑(みの)」であり、実際には中国共産党政権が実権を握っている。

ファーウェイの株主の99%は労働組合だが、その労働組合を支配しているのが中国共産党政権なので、民間企業に見えてもそれは表向きそう装っているだけだ。

そして最近、このファーウェイの従業員も「軍事企業」特有の人材が大量に潜り込んでいることを英外交政策シンクタンクである「HJS(ヘンリー・ジャクソン・ソサエティ)」が報告した。

ファーウェイに、いったい誰が潜り込んでいたのか。

全人類が中国の「監視下」に置かれる

「大紀元」紙は、HJSがファーウェイの社員の履歴書を調査した結果、中国国家安全当局の工作員、中国国軍、軍のハッカーなどが大量に採用されていることが分かったと報道している。

一部の社員は、中国の検閲システムに関与し、一部の社員は工作活動に従事した人間だった。一部の社員は中国軍のプロジェクトに参与した人間だった。さらに一部の人間はアメリカの企業にサイバー攻撃を仕掛けていた人間だった。

これらの人間がファーウェイの社員として採用されている。そうした事例がどんどん挙がってきた。にも関わらず、ファーウェイは依然として中国の軍事関連と密接な関係にあることを否定している。

採用された人材を見ると、ファーウェイのコメントとは真逆の結果がそこにあるのに、ファーウェイはそれを認めることは決してない。

そもそもファーウェイは、その創始者である任正非(レン・ジョンフェイ)自身が人民解放軍出身であり、当初から中国共産党政権とは密接な関係である。

また、任正非の娘でありファーウェイの最高財務責任者だった孟晩舟(モン・ワンジョウ)も8通以上のパスポートを所有し、別人の名前のパスポートも持っていた。ニセモノではない。本物のパスポートが中国政府から発行されていた。

これによってアメリカの目をくらまして秘密の任務を行っていたのだから、経営者というよりも立派な諜報部員である。そして、ファーウェイの上級副社長である宋柳平(ソン・リューピン)は、中国人民解放軍の高級教育機関である国防科技大学出身である。

まとめるとファーウェイはこのような人々によって運営されていたり、システム設計が為されていたり、製品が作られている。
◾中国人民解放軍出身者
◾国防科技大学出身者
◾政府プログラマー
◾政府工作員
◾中国軍兵士
◾サイバー攻撃専門家


株主も中国共産党政権の支配下の労働組合、経営者も中国人民解放軍関係者、社員も中国共産党政権で重要な工作活動に従事した人間たち。これで、ファーウェイが「ただの民間企業である」と信じる方がどうかしている。


スーパーユーザー権限で個人情報を盗み放題

ファーウェイの正体は「民間企業の顔をした中国軍事企業」なのだ。

日米欧の最先端の知的財産を徹底的に収奪して、それを自社の製品開発に使用して儲け、さらにその製品から今度はユーザーの個人情報を引き抜くのがファーウェイのビジネスの真の姿であるように見える。

ファーウェイの端末は72時間おきに個人情報をユーザーに無断で中国のサーバーに送信していることで問題になったのだが、ここで送信されていた個人情報は、位置情報、通話履歴、連絡先情報、テキストメッセージを含んでいた。

この機能は「Shanghai Adups Technology」のファームウェアによって為されていたのだが、このファームウェアはファーウェイだけでなく、ZTE等にも使われていたので、中国製のスマートフォンは事実上、ほとんどにバックドアが仕組まれていたのも同然だった。

ファーウェイ個別のバックドアは、ファーウェイ製のPCで発見されている。これは2019年1月にマイクロソフトが発見し、報告しているものだ。

ファーウェイが開発したデバイス管理ドライバーが、スーパーユーザー権限でプロセスを生成できるものだったというのである。


スーパーユーザー権限というのは「管理者権限」を指すのだが、OS上で管理者権限を走らせると、ユーザーの情報はすべてにアクセスできるようになる。個人情報を盗むだけでなく、システムそのものを乗っ取ることすらもできる。

これがアメリカ側にバレると、ファーウェイはすぐにソフトウェアの修正プログラムを発表したのだが、バレなければユーザーの個人情報はスーパーユーザー権限でいくらでも盗み放題だったということになる。

中国政府はいつでも欲しい情報にアクセス可能

ファーウェイの通信技術がセキュリティ的に見て非常に危険であるというのは、アメリカは早くから把握していた。

2011年にはCIAが「ファーウェイは中国政府から助成金を得て成長している」と報告しており、2012年には米下院情報委員会が「ファーウェイとZTEはスパイ行為の危険性がある」と警告していた。


同じ頃、米国防省の元戦略アナリストのマイケル・マルーフ氏は「世界の通信大手はファーウェイやZTEの通信設備を使用しているが、これらの通信設備にはバックドアが仕掛けられていて、中国政府はいつでも欲しい情報にアクセスすることができる」と述べていた。


ファーウェイという中国軍

アメリカは早くからファーウェイの危険性を察知していたのだが、オバマ前政権は中国べったり政権だったので、こうした中国ファーウェイの危険性に対して強い反発を見せなかった。

2015年になると、さすがにオバマ政権も中国の知的財産の強奪を放置することができなくなって、中国を徐々に警戒するようになっていったのだが、ファーウェイを締め付けるところまではいかなかった。

ファーウェイがこれほどまで巨大化したのは、オバマ政権が中国に対して長らく甘い対処をしてきたからであると言える。

しかし、ドナルド・トランプ大統領の登場でアメリカは中国に対しての姿勢を一気に転換して、ファーウェイを明確に危険視するようになった。

アメリカはファーウェイを世界のネットワークの中枢から締め出す必要があると考えた。そうしなければ、全世界の人類の情報を中国共産党政権が手中に収めることになり、全人類が中国の「監視下」に置かれることになる。

トランプ大統領はG20で中国の習近平との関係をつなげるために「ファーウェイの輸出規制を緩和する」と言ったのだが、実際には差し障りのない製品だけを認めたに過ぎず、アメリカの安全保障にとって重要な最先端技術に関しては相変わらず禁輸したままである。


しかし、中国も「5G」時代を見据えて通信分野で遅れを取るわけにはいかず、ファーウェイが敵視されたからと言ってファーウェイを簡単に潰せない。だから中国政府は、妥協や裏取引や工作や威嚇をすべて駆使してファーウェイを生かし続ける。

今後、ファーウェイは中国国内・東南アジア・アフリカ・インドでの巨大な人口を取り込んで生き残ることになる。アメリカとファーウェイの戦いはそう簡単に決着を見ない。

ファーウェイの正体が「中国の軍事企業」であるならば、ファーウェイはサイバー空間での中国軍そのものである。そして現在の動きは「アメリカはサイバー空間でファーウェイという中国軍と戦争を繰り広げている」と見るのが正しい。

日本人は誰もファーウェイを「中国軍」であると思っていない。認識が甘すぎる。
https://www.mag2.com/p/money/724297
http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/452.html#c17

[近代史3] 日本の右翼のバイブル _ モルデカイ・モーゼ 日本人に謝りたい 中川隆
30. 中川隆[-9113] koaQ7Jey 2019年7月13日 01:12:21 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[3576]

777

天皇家に都合が悪い真実を明らかにしたらまた削除されちゃった。天皇家は右翼に守られているんだね。

要点だけ書くと

天皇一族が神道、仏教や古来の日本文化を拒絶する様になった背景には、明治政府が日本を近代化する為に仏教も神道も徹底的に弾圧したという過去が有るのです。明治政府はイギリスが資金・技術援助して作った傀儡政権なので、イギリスの意向でしょう。

神仏習合というのはそれ以前にすでに1300年の伝統のあるほとんど土着した日本の宗教的伝統である。それを明治政府の発令した一篇の政令によって人々が軽々と捨てられたということがまず「変」である。この人たちにとって、千年を超える宗教的伝統というのはそんなに軽いものだったのか?

 神仏分離令の発令は慶應四年(1868年)である。「五畿七道諸国に布告」して、「往古ニ立帰リ」「普ク天下之諸神社、神主、禰宜、祝、神部ニ至迄、向後右神祇官附属ニ被仰渡候」という祭政一致の方針が示される。

 次に神社に対して「僧形ニテ別当或ハ社僧抔ト相唱ヘ候輩ハ復飾被仰出候」という命令が発された。社僧とは神社に勤める僧侶であり、別当は寺院と神社が一体化した神宮寺の責任者である僧のことである。この人たちに「復飾」(還俗)して、神職に奉仕するように命じたのである。

 驚くべきは、この命令に対して全国の社僧・別当たちが特段の抵抗もなく従ったということである。「長いものには巻かれろ」という処世術が宗教界に徹底していたのか、それとも「神と仏といい ただ水波の隔てにて」という血肉化した神仏習合マインドのせいで寺で読経しようと神社で祝詞を上げようと、同じことだということだったのか、私にはわからない。

 そのあと仏像をご神体としていた神社に対しては仏像仏具仏典の類を「早々ニ取除」くことを命じた神仏判別令が出された。

 それまで神宮寺の多くでは仏像をご神体に祀っていたのである。

 この「特段の抵抗もなく」というのが不思議なのである。

 ありうる説明としては、神仏分離の当初の意図が「宗教の近代化」であり、すべての制度が「近代化されねばならぬ」ということについて明治初年の民衆たちも「まあ、公方さんもいなくなっちゃったし、なんかそういう潮目みたい」というふうに感じ取っていたからだ、ということがありうるかも知れない。歴史の滔々たる流れに逆らっても仕方がないんじゃないの、と。それくらいの歴史感覚は一般民衆にもあったのかも知れない(わからないけど)。

 ターゲットになったのは寺院だけではない。最初に発令されたのは六部、虚無僧、山伏、梓巫女、憑祈祷、狐下しなどの「前近代」的な遊行の宗教者の禁止だった。加持祈祷、オカルト、ノマド的宗教者が「まず」禁止された。そういう「前近代的な宗教のかたち」の徹底排除が近代国家の心理的基礎づけに必要だったと明治政府が判断したのである。

 だから、そのあと明治40年代になると、今度は神社合祀令が出て、「前近代的な神道」が排除されることになる。これについては南方熊楠がはげしい反対運動を展開したので、記憶されている人もいると思うけれど、全国20万社のうち7万社が廃されるというすさまじい「神社整理」であった。

 神道の国家統制を実施するためには、神社を公費で運営する必要がある。しかし、神社の数が多すぎて管理コストがカバーできない。だから小さい神社は(氏子たちがどれほど信仰していようと、どのような貴重な祭祀や芸能が伝えられていようと)、コスト削減のために統廃合するという政府の態度のうちに「神道に対する敬意」を見ることはむずかしいだろう。

 だから、国家神道というのは別にある種の宗教性の価値が高騰したということではなく、端的に「宗教的なものを政治的利用価値だけをものさしにして格付けした」ということに過ぎないのだと思う。
 
 もう一つあまり指摘されないことに天皇家はもともと仏教徒だという事実がある。

 京都東山の真言宗泉涌寺は13世紀に四条天皇の葬儀が行われて以来、天皇家の菩提寺に近い機能を果たしていた。江戸時代の歴代天皇皇后は後水尾天皇から孝明天皇まで全員が泉涌寺に葬られている。当然歴代天皇の位牌もここにあり、僧たちが読経してその菩提を弔っている。明治天皇の父である孝明天皇の葬儀は仏式で行われている。今でも歴代天皇の祥月命日には、皇室を代理して宮内庁京都事務所が参拝している。

 だから、天皇制=国家神道という図式が成立するのは、慶應四年の神仏分離令からさきの敗戦までの77年に過ぎないということになる。日本の天皇制の全歴史のうちの77年だけである。それを126代の歴代天皇がすべて神道の祭主であったと信じている人あるいは信じているふりをしている人が天皇制の支持者・反対者のいずれにも多い。これは天皇制という制度の複雑さを捨象して、問題をシンプルで、ハンドルしやすいものにしようとする態度の現れだと私は思う。

____

という事で、江戸時代までは世界で最も宗教的な民族だった日本人が明治以降の徹底的な宗教弾圧の為に無宗教になってしまったのです。 靖国神道なんか軍人を殺人の前に奮い立たせる為のものであって、信仰ですらないインチキ神道ですからね。

天皇一族は明治以降は反日グローバリストに変貌して日本古来の文化と日本人の精神性を悉く滅ぼして来た

という事実は認識しておいた方がいいです。
日本古来の文化と宗教を愛する本当の保守なら天皇制廃止、靖国神社解体運動をしたらどうでしょうか。
https://www.amazon.co.jp/gp/customer-reviews/RQ8SD5E0KMC0T/ref=cm_cr_arp_d_viewpnt?ie=UTF8&ASIN=499108900X#RQ8SD5E0KMC0T
http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/494.html#c30

[リバイバル3] 保険会社に騙されるな 中川隆
27. 中川隆[-9112] koaQ7Jey 2019年7月13日 01:16:36 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[3577]

かんぽ生命の不正販売問題、日本郵便が社員にネット投稿禁止 SNSで不満続々
7/12(金) 20:50配信 毎日新聞
https://news.yahoo.co.jp/pickup/6329889



 かんぽ生命保険の不正販売問題に関連して、実際に同社の保険を販売する日本郵便は、社内情報をインターネットに投稿しないように全社員に周知した。郵便局員を名乗る人物が実態を暴露したり、危機管理の欠如や現場への責任転嫁を批判したりする投稿が相次いでいた。

【かんぽ生命の不適切契約のイメージ】

 11日付で全社員に対して、SNSなどに社内情報の書き込みを禁止する通知を文書で出した。日本郵便によると、通知に関わるマニュアルの見直し作業は、不正販売の実態に関する報道が一部で相次いだ6月から準備していたという。

 その後もSNSでは「尻尾(しっぽ)切り! 経営陣は守ってくれません!」「基本的に社員のことは一切信用してない」といった経営陣の責任を問う投稿が噴出しており、歯止めが利かなくなっている。【加藤明子】

http://www.asyura2.com/09/revival3/msg/841.html#c27

[リバイバル3] 音がわからないアホ・オーディオマニアが良く引用する「オーディオの科学」の何処がおかしいか 中川隆
29. 中川隆[-9111] koaQ7Jey 2019年7月13日 02:18:34 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[3578]
自宅システムもやっと一息 - Mr.トレイルのオーディオ回り道 2019年07月07日
https://blog.goo.ne.jp/nishikido2840/e/1fa78a4adca12c9bde0e7323eca24fc8

アンプの場合、コンデンサーの種類や容量の大きさで「音色」や「音数」が変わる事は承知していますが、私から言わせれば「些細な変化」です。「内部配線」の交換は「革新的変化」をもたらします。


自宅システムも昨年からアンプの入れ替えが続き、落ち着かない日々が続いていましたがやっと安息の日が訪れ様としています。


LUXMAN M06α→クレルKST-100→エクスクルーシブM4→ディネッセン:アンタレス

と目まぐるしくアンプ交換して来て、今年に入りネットワークシステムでの「Wアンプ化」実験をして、ようやく元の鞘のWE101Dppパワーアンプ×2台のWアンプ化にこぎつけました。当初の構想から10年もの月日が経ってしまいました。


管球プリアンプとWE101Dppパワーアンプの内部配線は「特殊な銀線」に全て交換しています。クラスは当方の「ゴールドスターシリーズ」と同じ配線です。

一般の内部配線が銅線のφ0.5mm程度に対し、20倍以上の断面積と銀線の伝送特性です。超ハイスピードなアンプにしています。


サウンドトレール「ケーブルカタログ」
http://soundtrail.co.jp/p06.html


アンプの場合、コンデンサーの種類や容量の大きさで「音色」や「音数」が変わる事は承知していますが、私から言わせれば「些細な変化」です。「内部配線」の交換は「革新的変化」をもたらします。「劇薬」にも例えられるでしょう。


現在はパワーアンプの活性化(多分約1か月くらいで完了すると思う)中で、バッハ:チェンバロ協奏曲集をMDで、おとなしいサウンドで楽しんでいます。


非常に穏やかなサウンドで音数が多くてSPの存在が消えています。SP間の音の密度が市販のアンプとは違います。多分「蜜月」の時代かも知れません。最新のアンプの音の出方とは一線を画します。真空管自体が100年前くらい古いものですので「古臭い音」と感じる事も有りましたが、今回の組み合わせで「一つの世界」を描いています。ないものねだりしても仕方がないし、このサウンドで充分満足しているのでこのまま使い続けていくだろうと思います。予備の真空管も十分ストックを持っています。多分出力管のWE101Dは私の代では消耗することはないと思います。
https://blog.goo.ne.jp/nishikido2840/e/1fa78a4adca12c9bde0e7323eca24fc8

http://www.asyura2.com/09/revival3/msg/881.html#c29

[近代史3] ユダヤ陰謀論とグローバリズムを考える _ ヨーロッパ化されたキリスト教がユダヤ思想の正体で、ユダヤ教やユダヤ人とは何の関係… 中川隆
14. 中川隆[-9110] koaQ7Jey 2019年7月13日 02:52:59 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[3579]

 アメリカでは、トランプと共和党の支持母体のなかに「地球平面協会」という組織があるそうだ。

 「地球は円盤体である」と固く信じ、他の情報には一切耳を貸さない。
 「人の目に見える地球は、どこまでも平面であり、球体であるはずがない」

 自分の目に見える世界だけが真実だと頑なに信じ、「球体であったなら地球の反対側に行ったなら宇宙に落ちてしまうではないか」と、万有引力の存在も否定する。

 そこには、「科学的真理」という概念が一切なく、勝手な決めつけと妄想だけを信じて、それを組織力によって担保しようとしているのだ。
 https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%9C%B0%E7%90%83%E5%B9%B3%E9%9D%A2%E5%8D%94%E4%BC%9A

 これに類似した「科学的方法論を拒否する」グループは、アメリカにはたくさんあって、例えば、進化論を絶対的に拒否する人々もいる。

 人類が猿から進化したという理論が絶対に許せないのだ。
 https://the-liberty.com/article.php?item_id=7191

 トランプが、世界の常識から乖離した、めちゃくちゃな物言いばかりするのも、アメリカでは、トランプを支持する地球平面協会なみの知性しか持たない人々が大勢いて、彼らが社会的に大きな勢力を作り出しているからである。


 アメリカにおける、科学よりも旧約聖書を上位に置く原理主義による施政は、何せ4名に一人という福音派の圧倒的勢力を背景にして、民主主義の常識からは驚愕するような人権に対する敵対的政策が実行されている。

 最近では、非人道的というしかない中絶禁止法案が成立したばかりだ。

 アラバマ州で最も厳しい中絶禁止法が成立、波紋呼ぶ。賛成したのは全員白人男性だった
 https://www.huffingtonpost.jp/entry/abortion-ban_jp_5cde0bfbe4b09e057800f3c7

https://www.bbc.com/japanese/48469825

 https://jisin.jp/international/international-news/1736686/

 このような奇っ怪至極の法律によって、銃撃され胎児が死んだ妊婦に重罰が科せられた。銃撃した側は不起訴となった。
  https://www.cnn.co.jp/usa/35139185.html

 近年、アメリカの警察は、軽微な犯罪であっても、黒人を狙い撃ちにして射殺する事例が多発しているが、これも、こうした極右原理思想の台頭によるともいわれている。

 トランプを熱狂的に支持するグループは、似たり寄ったりで、科学的真理を嫌い、宗教的信念に頑強に執着している。

 宗教的には「福音派」と呼ばれるキリスト教原理主義に属していることが多い。原理主義とは、新約聖書よりも、旧約聖書の戒律を重視する勢力である。

 https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%A6%8F%E9%9F%B3%E6%B4%BE

 福音派の多くが「クリスチャンシオニスト」と呼ばれる、ユダヤ教に酷似した、旧約聖書原理主義的なシオニズムを信奉している。

 旧約聖書にユダヤ人にシオンの土地が与えられると書かれているから、パレスチナ先住民を虐殺して、土地を強奪するのも正当であると彼らは主張している。

 なるほど、福音派は、アメリカ大陸に移住して、ネイティブ先住民を1000万人以上も大虐殺して白人社会を構築したのだ。だから、ユダヤ人が、パレスチナ先住民の土地を勝手に奪って自分のものだと宣言することにも、何の抵抗もないわけだ。

 https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%AF%E3%83%AA%E3%82%B9%E3%83%81%E3%83%A3%E3%83%B3%E3%83%BB%E3%82%B7%E3%82%AA%E3%83%8B%E3%82%BA%E3%83%A0

 http://www1.s-cat.ne.jp/0123/Jew_ronkou/Zionism/Christian_Zionist.html

 なお、モルモン教やエホバ派も、原理主義を尊重するという意味では、福音派と同じであり、これらは、ユダヤ教を知る者からみれば、みんなユダヤ教のカテゴリーに含めてもよいほどだ。

 原理主義者は、イスラムでもキリスト教でも、旧約聖書の戒律に執着し、人殺しがやたらに好きな人々である。だから教義にも、新約聖書はほとんど用いられていない。

 旧約聖書を絶対化する人々は、レビ記に書かれている、制裁法を厳格に実行せよと主張し、例えば、通りすがりに強姦された女性であっても、姦淫の罪で、投石によって殺害するような凄まじい教条的な制裁が常態化している。

 アメリカによるアフガン侵攻以来、この十数年、原理主義の台頭が著しく、イスラム圏では、とりわけひどい。

 インドネシアでは、同性愛者が死刑にされたり、回復不能なほどの鞭打ち刑に遭ったり、酒を飲んだだけで投獄されたりと、昔の自由と寛容を知る者には信じがたい抑圧ぶりである。
 http://himae.hatenablog.com/entry/2017/05/26/000907

 福音派は、全世界のキリスト教徒の13%を占め、アメリカの総人口の23%を占めていて、米国内では、建国以来、最大の宗教勢力である。

 トランプが、米国大統領として最初に、ユダヤ教最高聖地である「嘆きの壁」を公式訪問し、イスラエルを全面支持して、ゴラン高原を「トランプ高原」と改名するとまでいわれている本当の事情は、おそらく、トランプが隠れユダヤ教徒であることを意味しているのだろう。

 トランプは、第三次世界大戦が確実といわれる「エルサレム第三神殿」建立まで支持している。これはイスラム聖地を破壊して作られるのだ。
http://tokaiama.blog69.fc2.com/blog-entry-804.html
http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/504.html#c14

[番外地6] 牧野田 彩(AYA)が AV に出演させられた理由とは 中川隆
167. 中川隆[-9109] koaQ7Jey 2019年7月13日 07:59:23 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[3580]
2019.07.11
ジャニーズ喜多川氏死去 アメリカ的ものの終わり
https://golden-tamatama.com/blog-entry-america-related-end.html

さて、以前、ジャニーズ喜多川氏死去の噂を載せたのですが。


やっぱり大川隆法氏が正しかった。
さすがです。
今後、大川隆法氏がイタコ芸を始めたら本当だと思いましょう。

以下、いろいろ載ってたので張っときます。

まず以下、ジャニーズ喜多川氏の名言集だそうです。


 ◆「YOUがCANと思うならDOすればいいじゃない!」(タレントに語りかける前向きな言葉)

 ◆「YOU、誰?」(自分から電話をかけておきながら、こう言う)

 ◆「YOU DIE(死ね)!」(光GENJIのコンサートのMCで中居正広のトークが長すぎたとき)

 ◆「YOU、今までどこ行ってたの! 最悪だよYOU! 今までそんなことやったのニッキとYOUくらいだよ!」(ハワイで泥酔し、朝までビーチで寝ていた木村拓哉に激怒)

 ◆「YOU、それマロじゃん!」(眉毛を極細にした今井翼に)

 ◆「YOU、なんで関西人なのにおもしろくないんだよ」(関ジャニ∞の横山裕への理不尽な一言)

うーん。

YOUがCANと思うならDOすればいいじゃない。
素晴らしい。
どんなちゃんぽん英語なんだ。。

そしてYOU DIE!お前は死んでいる!
これも素晴らしい。

ちなみにYOUは何しに日本に?
という番組もありますが、あれはジャニーズ喜多川氏の名言からとった番組なんでしょうか。

このような名言を残してくれたジャニーズ喜多川氏。
一つの時代が終わった。
ご冥福をお祈りいたします。

他にツィッター色々張っときます。

本当かどうか知りませんが。
さすがのジャニー氏。総資産1000億、遺産300億だそうです。


以下も。
さすがのジャニーズ帝国。
マスコミへの情報統制ぶりが凄いと話題になってますたね。


まぁ、それもこれも。
ジャニーズ帝国=アメリカの3S政策の国策会社ですからね。

別に死者に鞭打つ訳ではないのですが。
ジャニーさんは横田基地の命令を忠実に守ってただけの人だった。

そりゃマスコミ各社は忖度する訳でしょう。
米軍横田基地の下請け=ジャニーズ帝国だった。

以下はWikiから
ジャニーさんの経歴が分かるというものです。


Wiki ジャニー喜多川

生い立ち
両親共に日本人。
父親は日本仏教・高野山真言宗米国別院の僧侶(第3代主監)で、1946年(昭和21年)2月から1948年(昭和23年)2月までプロ野球チーム「ゴールドスター(1947年に「金星スターズ」に改称)」のマネージャーだった喜多川諦道。

諦道の次男として、1931年(昭和6年)10月23日にアメリカ・ロサンゼルスに生まれる。

日米両方の国籍を持っていたため、ミドルネームがあった。姉はメリー喜多川、兄はNASAでアポロの設計もしていた科学者だったが1980年代に50代半ばで死去している。

驚くのは、ジャニー喜多川さんのお父上。
喜多川諦道(きたがわたいどう)さんは、ロサンゼルスのリトルトーキョー高野山別院の最高責任者だったことです。

まぁ、これだけで分かってしまうというものです。

以下、詳しく書いてた人がいたので張っときます。
喜多川諦道さんについて書かれてます。


https://dricho.com/2018-08-29-1/

ジャニー喜多川さんのお父さんは「喜多川諦道(きたがわ・たいどう)」という名前の、真言宗のお坊さんです。

職業は僧侶なので、英語で「ビショップ(僧侶)」と書かれています。
1896年(明治29年)の大分県生まれで、 高野山大学という仏教系の大学を卒業しています(現在もあります)。

諦道さんは8歳で稚児(少年修行僧)として出家し、やがて和歌山県高野山の導師となります。

・・諦道さんは和歌山県高野山の導師となりますが放蕩三昧で、自ら「やくざ」や「遊び人」と称する異色の坊主だったとのことです。

諦道さんの師匠の僧侶が大隈重信と親しくしていたことから、諦道さんも海外への思いを強め、大谷家(和歌山市のなんかすごい有力者)の後援を受け、真言密教の布教のために1924年(大正13年)、27歳の時に世界一周の旅に出発します。

この頃にはすでに日本人女性と結婚しています。

右側の女性が母親の「栄子」さん。ジャニーさんは日本人です。

出発してすぐアメリカに向かい、ロサンゼルスのリトル・トーキョーのサウス・セントラル・アベニューにあった「高野山真言宗 高野山米国別院」に立ち寄ります。

しばらくお世話になってまた旅にでる予定でしたが、当時の主監が急に帰国することになったため、急遽、諦道さんが第三代主監となるというハプニングが起きました。

諦道さんはロスで活発な布教活動に精を出し、ロスの日系人社会の顔役になります。

この時期に妻の栄子さんをロスに呼び寄せ、ロスで生まれたのが、

・泰子(メリー喜多川)1926〜

・真一(まさかず。愛称:マー坊)

・擴(ひろむ。ジャニー喜多川)1931〜 

の、三姉弟だったのです。
ジャニー喜多川さんの本名は、「ジョン・ヒロム・キタガワ(喜多川 擴(きたがわ ひろむ))」です。

ジャニーというのは、英語名の「ジョン」からとった愛称です。

そして以下がジャニーさんの経歴です。


ジャニーズはCIAの手先となり日本愚民化政策に携わっている?


1933年、一家はサンフランシスコ港から帰国し、大阪に移住。

1939年に第二次世界大戦が勃発すると、諦道さんだけ大阪に残り、妻と子供たちだけで和歌山県那智勝浦町に疎開しました。たぶん、父親のツテで、前述の「大谷家」のお世話になっていたのだと思います。

まもなく妻の栄子さんは死亡。

この頃、メリーさんは15歳、ジャニーさんは10歳でした。
姉弟だけで助け合って生きていたのでしょう。

諦道さんはその後、1960年代に大阪でそのまま死亡しています。

葬儀はたくさんの人が来ましたが、ジャニーさんやメリーさんは姿を見せなかったそうです。

おそらく帰国後すぐに死亡した母親の栄子さんことがあるのではないかと推測するしかないのですが、……なんか、闇が見えますが、真相はわかりません……。

戦後、3姉弟は、アメリカ国籍を無効にしないためにふたたび渡米。

ロスの高校や短大に通いながら英語を学び、地元の劇場で音楽監督のアシスタント(雑用係)のアルバイトを経験しています。

このとき、舞台袖からステージを見ていた経験が、ジャニーさんをエンタテイメントに目覚めさせるきっかけになったのです。

父が建てた本堂の舞台で、日系人のために、日本から招いた美空ひばりなどのショーを開いたといいます。

美空ひばりやその関係者と知己を得た事で、日本の芸能界にコネクションができ、後に芸能界入りするきっかけになりました。

1952年、アメリカ国籍だったジャニーさん(21)と真一さんには兵役義務があり、朝鮮戦争に徴兵され、ジャニーさんは 韓国の戦災孤児に英語を教える任務についています。

アメリカ陸軍犯罪捜査司令部(CID)の情報員(通訳の助手)という肩書きで再来日していますが、わずか10ヶ月で朝鮮語をマスター。

除隊後はアメリカへ戻らず、日本に滞在。 上智大学国際部に社会人入学すると同時に、1955年にはバンドを結成して自らも芸能界へ参入。

ちなみに、戦後まもなくの上智大学は、GHQにより「GHQの兵士とその子弟の高等教育機関」に指定されており、米軍と緊密な関係にありました。

その後、英語力と滞米経験を買われ、独身米軍士官向け宿舎に住みながら、アメリカ大使館勤管轄下の在日アメリカ軍事援助顧問団の事務職員として、旧防衛庁(霞が関)にあった顧問団の事務所に1958年から勤務しています。

つまり、日本に居ながら、アメリカ軍の立場で仕事をしていたんですね。

1962年からは本格的にタレントのプロデュースを開始し、軍事援助顧問団を退職しています。

現在まで、一度も結婚していません。

ときどき「ジャニーズ事務所はCIAとの関わりがあるのではないか?」と噂されることがありますが、その理由は、

・ジャニーさんは若い頃からアメリカに滞在していたこと

・アメリカと日本の二重国籍を持っていること

・英語が堪能

・徴兵後の米軍との関係があまりに密接だったこと

・兄の 真一さんが、ペンタゴン関係の仕事をしていたこと(50代で死亡)

が挙げられます。・・

ジャニー喜多川さんは、アメリカ大使館勤管轄下の在日アメリカ軍事援助顧問団の事務職員。
旧防衛庁(霞が関)にあった顧問団の事務所に1958年から勤務。

まぁ、分かると思いますが。
そのまんまの経歴ということでしょう。

だから日本のマスコミ連中は震えあがって忖度する。

で、これ。


これと同じタイミングでジャニー喜多川氏死去。

そして吉本興業も闇営業で叩かれてる。
知っての通り、吉本も長年米軍の下請けで3S担当です。

要するにアメリカ的なものがこれからどんどん潰れて行くんですね。

アメリカは今後、アジア、日本なんて知ったこっちゃない。
南北アメリカだけを面倒みる国になる。
またモンロー主義、ブロック経済に移行するのです。

バカなマスコミ連中はまだ流れが理解できないでジャニーズに忖度なんかしてるのです。
本当はそっちの親分はもういないのに。

流行が完全に終わる。無くなる。
日本で今まで安定していて永遠だと思っていた何かが突然終わり、パニックになる。
娯楽産業の大企業のひとつが潰れて、大きな流れ(たぶん連鎖倒産)ができる。

これが起きる確率は相当高い。

今回、スクリーン、セックスを担当してきた洗脳装置が一個消えた。
また次も起きる。
この流れを見てて分からない人は相当鈍感でしょう。
https://golden-tamatama.com/blog-entry-america-related-end.html

http://www.asyura2.com/13/ban6/msg/190.html#c167

[昼休み54] ロリコン男は何を考えているのか? _ ロリコン向けラブドールの世界 中川隆
91. 中川隆[-9108] koaQ7Jey 2019年7月13日 09:01:12 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[3581]

自分が買ったワンピースの値段で、子どもが売られていた現実。2019.07.11
https://gooddo.jp/magazine/add/kamonohashiproject-4b1-questions-6/?from=gooddo_tab_nf4b1_questions_a_1

「私には本当は夢があって…、学校へ行って勉強というものをしてみたかったなあ」
だまされて売春宿に売られた少女が、20歳で亡くなる前に漏らした言葉です。

未成年の少女たちが、だまされて売春宿に売られる。
日本では考えられないことですが、世界では毎年100万人もの子どもが、人身売買の被害者になっているとも言われています。

12歳の少女がたった1万円で売られてしまう児童買春が一人の女性に衝撃を与えた

東南アジアの貧しい農村に暮らしていた12歳の少女が、家族の生活を支えるために働きに出た先で人身売買の被害にあってしまった。

少女は毎日恐怖と暴力に怯えながら生活し、エイズを発症し20歳という若さでこの世を去ってしまう…。

この実話を、大学の国際問題の授業で配られた新聞記事で知った村田早耶香さん。
児童買春の解決を目指し様々な取り組みを行っている認定NPO法人かものはしプロジェクトの代表です。

このことを知った2001年、村田さんは大学2年生でした。

「当時の私と1歳しか違わない人がこんな風に売られてしまう。
家族のために働く優しい親孝行な子が、こんな風に深く傷つけられて亡くなってしまったということが衝撃でした。」

ごく一般的な大学生だった村田さん。
ファッションに興味があり、サークル活動を楽しむ毎日。
年間およそ100万円を親が出してくれて、自分は大学へ行っている一方、
生まれた国が違うだけで、親孝行な彼女は勉強をすることを夢見ながら亡くなっているという、そんな現実を知ったのです。

当時、彼女が売られた金額は日本円でたった1万円だったそうです。

「私がそのとき着ていたワンピースは、ちょうど1万円で買ったばかりのものだったんです。
このワンピース1枚と彼女の命が同じ値段だったということ。
そんな、本当に不条理な現状があることを知りました。」

児童買春の現実を知るためにカンボジアへ渡った村田さん

ただ、生まれた国が違うだけ。
それなのに、どうして与えられた運命はこんなにも違ってしまうのだろう?

そんな疑問にいてもたってもいられずに、村田さんは大学の夏休みに、カンボジアにある児童買春の被害者を保護している施設を訪ねました。
保護された子どもたちと片言で話し、遊び、人懐っこい笑顔に触れ、同時に彼女たちの哀しい過去を知りました。

そこで出会ったのは、6歳と12歳の姉妹

そこで出会ったのは、6歳と12歳の姉妹。
施設の所長さんが、二人にはわからないように、英語で彼女たちの状況を教えてくれました。

12歳の子の腕には、保護されたとき、電気ショックによる火傷の跡が無数にあったそうです。
二人は抵抗できないように、電気ショックを与えられながら売春させられていたのです。

姉妹の親は、彼女たちが売られていく先が売春宿であることを知っていたそうです。
借金を背負っていたため、彼女たちを売るしかなかった…

「こんなひどいことは、絶対になくさなくてはいけない…」
「子どもが未来を奪われて苦しんでいる社会を、なんとか変えたい」

絶対にこの問題を解決する。
その強い想いを持って、村田さんは本格的に支援活動をはじめ、「児童買春」の問題解決に特化した「認定NPO法人かものはしプロジェクト」を2002年、大学3年生のときに立ち上げたのです。

村田さんが衝撃を受けた12歳の少女の実話とは


東南アジアの貧しい農村で暮らす少女ミーチャ。母親は病気で亡くなっており、父親は仕事がありませんでした。
そして彼女にはたくさんの弟、妹がいましたが学校には行けず、皆お腹をすかせている状況だったそうです。

「私が働きにでれば、家族が助かる」
親孝行な彼女は、働きに出ました。

しかし、その先で彼女はだまされ、たった12歳の若さで売春宿に売られてしまったのです。

毎日殴られながら、強制的に働かせられる日々…。
自尊心を傷つけられた挙句、彼女は「エイズ」を発症してしまいます。

「私には本当は夢があって…
学校へ行って、勉強というものをしてみたかったなあ‥‥
もし勉強をすることができたら、私みたいな子どもを売る人を捕まえる警察官になれるから…」

その後彼女は、20歳という若さで亡くなりました。
※出展:大久保真紀著 買われる子どもたちー無垢の叫び

年間100万人もの子どもたちが、世界中のどこかで人身売買の被害にあっている現実

人身売買は世界的に常態化している犯罪です。
犯罪ならば業者を逮捕し続ければ根絶できるのではないだろうか、と思う人もいるでしょう。

しかしながら、業者を罰するには裁判をする必要があり、被害者の子どもは大抵貧困層であることから裁判で証言をするための電車賃すら工面できません。

結果、未だに人身売買は野放しにされ、世界では年間100万人もの子どもが、性的に搾取されるために誰かによって売られ続けているのです。

村田さんの創設した「かものはしプロジェクト」の実績と目標とは?

活動をはじめたころは、日本人の大学生が、この児童買春という大きな問題を解決するなんてできるわけない、辞めた方がよいというアドバイスばかりだったそう。

現に、カンボジアでは2001年まで人身売買に対して警察はあまり積極的ではありませんでした。
しかしかものはしプロジェクトは、カンボジアで警察支援や貧困家庭の女性を雇用する工房の経営を通じ、この課題の解決に尽力。
かものはしプロジェクトや多くの人の力により、カンボジアでは「だまされて子どもが売られる」という問題が解決したと言えるようになったのです。

カンボジアで子どもが売られない仕組みづくりができた今、次にかものはしプロジェクトが注力しているのが人身売買の規模が世界最大といわれるインドでの活動です。

インドでは、子どもが売られてしまう値段は1人たった2万円。
そんな現状があるなかで、2022年までにインドで子どもが売られる問題を解決することが目標です。

世界最大と言われる規模を考えると、簡単な目標ではありませんが、きっとカンボジアでの経験をもとに、同様の成果を上げてくれるのではないでしょうか。


村田さんが衝撃を受けたミーチャのように、ただそこで生まれてしまったために、1万円という値段で売られ、勉強することを夢にみながら亡くなってしまう子どもたちがいる…。
https://gooddo.jp/magazine/add/kamonohashiproject-4b1-questions-6/?from=gooddo_tab_nf4b1_questions_a_1
http://www.asyura2.com/17/lunchbreak54/msg/270.html#c91

[よいモノ・よい話1] いい日旅立ち _ 山の向こう側にいるのは… 中川隆
14. 中川隆[-9107] koaQ7Jey 2019年7月13日 09:44:10 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[3582]

世阿弥とマーク・トウェイン(おしまい) - 内田樹の研究室 2019-07-12
http://blog.tatsuru.com/2019/07/12_1105.html


 世阿弥とマーク・トウェインについて「明日続きを書きます」と予告してから、5カ月も経ってしまった。書くつもりはあったのだが、他のことに気を取られて世阿弥まで手が回らなかったのである。さいわい、本日、湊川神社神能殿で映画『世阿弥』の上映会があり、私は25分間の前説を担当することになっている。どうせメモを作らなければいけないのだから、それをブログ記事として公開しておけばよい。

 世阿弥はどうして「日本のマーク・トウェイン」なのか?という話をしているところだった。

 マーク・トウェインが「アメリカの国民的分断を和解に導き、死者たちを鎮魂する物語」の鼻祖であるということはもうお分かり頂けたと思う。フィッツジェラルドも、ヘミングウェイも、西部劇映画も、エルヴィスのロックンロールも、国民を分断している「壁」を打ち砕いた功績によって「オールアメリカン」なものとなった・・・というお話を先にした。

 日本でその役割を果たしたのは何か。

 古くは『古事記』がそうだ。日本列島に渡来してきた人たちと先住民たちの間の対立と和解のドラマは「天つ神・国つ神」の神統記や「国譲り」神話によって語られている。もちろん『平家物語』がそうだ。そして、世阿弥作の能がそうである。

 どうして世阿弥が国民的分断の和解の物語を書かねばならなかったのか。それについては観世家の系譜について少し触れておく必要がある。

『世子六十以後申楽談儀』には、観阿弥が伊賀の服部氏一族の末裔だという記述がある。

 1962年に伊賀市の旧家から発見された上嶋家文書(江戸時代末期の写本)には、伊賀・服部氏族の上嶋元成の三男が観阿弥で、その母は楠木正成の姉妹であるという系譜が含まれていた。この記載に従えば、観阿弥は正成の甥ということになる。後に発見された播州の永富家文書を傍証に、この記載を真とする意見がある。

 しかし、文書の信憑性を巡っては実は異論がある。梅原猛は『うつぼ舟』で観阿弥と正成の関係を主張したが、能楽研究者の表章はこれを「空論」と退け、伊賀観世系譜が後代作成の「偽文書」と論じた。

 専門家ではないので、楠木正成と観阿弥が実際に伯父甥の関係であったのかどうかについて私には判定することができない。だが、伊賀の服部家と観世家の間にかかわりがあったことは間違いない。

 伊賀の服部家と言えば、ご案内のように、服部半蔵を出した伊賀忍者の家系である。

 初代服部半蔵は伊賀忍者として室町十二代将軍足利義晴に仕えたが、のち主を替えて三河の松平清康に仕えた。清康は徳川家康時の祖父である。だが、徳川家に仕えて伊賀同心を率いたのは三代服部半蔵正就までで、四代正重桑名藩で二千石の扶持を得て、代々家老職を幕末まで務めた。

 幕末では堂々たる侍になっていたが、室町時代末期までは数十人の伊賀衆を引き連れて、主君を替えて、そのつど特殊な任務を果たした一種の「傭兵集団」だったのである。

 服部氏は発生的にはいわゆる「悪党」に分類される。

 歴史的術語としての「悪党」が意味するのは、発生的には、荘園体制の崩壊期に、本所(名目上の荘園領主である京都の権門勢家)の支配権を脅かした在地領主(荘官)のことである。のちに「悪党」概念は拡大されて、海民、山賊、蝦夷、さらには遊行の芸能民や勧進聖たちまでも含むことになった。つまり、荘園公領制にうまく帰属できない人たちは総じて「悪党」と呼ばれることになったのである。外部性を記号的に表象するために彼らは「異形」をまとった。

「悪党」というカテゴリーで見る時に、間違いなく楠木正成と観阿弥世阿弥は同類である。

 楠木正成は後醍醐天皇の呼びかけに応じて、河内で挙兵し、赤坂城の戦い、千早城の戦いで勇名を馳せて、建武の新政では顕官に累進し、湊川の戦いで弟正季と刺し違えて自害するが、もとは「出自不明」の「悪党」である。

 伊賀観世系譜を信じるなら、元弘3年(1333年)生まれの観阿弥は三歳のとき(建武3年/1336年)の湊川での縁者である正成の死を知ったことになる。

 世阿弥が観阿弥に連れられて今熊野での能舞台に登場し、その美貌によって足利義満の目に留まったのは、永和元年(1375年)、世阿弥12歳のとき。湊川の戦いから40年後である。

 世阿弥は義満の寵愛を受け、二条良基に就いて仏典漢籍や歌道を学んだ。のちに世阿弥は『平家物語』に取材した作品を多く書いた。

『屋島』『實盛』『忠度』『敦盛』『清経』『鵺』

の六曲が世阿弥作と認定されているが、そのほかに現行200曲には

『船弁慶』『橋弁慶』『安宅』『正尊』『大原御幸』『経正』『大仏供養』『景清』『俊寛』『紅葉狩』『二人静』『藤戸』『朝長』『盛久』『頼政』『千手』『七騎落』『兼平』『巴』『鞍馬天狗』『俊成忠度』『通盛』

などがある。

 これらが源平合戦という日本を分断した戦いの死者たちを悼む「国民的な和解の物語」である所以についてはこれまで縷々述べて来たので繰り返さない。

 だが、世阿弥にとって直近の「戦い」はもちろん南北朝の戦いである。南北朝の並立は1936年から1392年まで52年間続いた。63年生まれの世阿弥は30歳まで、二人の天皇が京都と吉野に並立するという深い対立と分断を生きたのである。

 芸能は「リアルタイムでの政治的事件は取り扱わない」というのは日本の古典芸能の基本ルールである。事件を扱う場合も時代をずらしたかたちで虚構化する。だから、世阿弥は元弘の乱と南北朝の争乱を扱った曲を作ることができなかった。

 だから能には元弘の乱と南北朝の争乱を扱った曲がない。唯一の例外は、楠木正成・正行の桜井の別れを主題にした『楠露』という曲だが、これは後年の「新作能」である(明治31年/1898年)。遠い曲で今はほとんど上演されることはない。

 世阿弥の青年期に南北朝の争乱が終わり、ある意味で勝敗が確定した。和解と鎮魂の物語はそれから書き始められることになる。

 だから、観阿弥は歴史的事件に取材した能を書いていない。現在、観阿弥作として伝わっている曲は『自然居士』『卒塔婆小町』『通小町』の三作だけである。いずれも名曲であるけれど、歴史的現実とは触れ合うことがない。クリエーター観阿弥にはそのような政治的関心はなかったのか、あるいは「まだ」そのような物語を書くだけ状況が熟していなかったか、そのいずれか判断してよいだろう。

 一方、世阿弥はいままさに南北朝の争乱の渦中にある将軍義満の傍らにあり、良基に就いて日本の歴史と文学を学んだ。「現代において芸能が果たすべき役割は何か」「芸能の歴史的使命は何か」ということについて熟考しなかったはずはない。

 まして、南朝のヒーロー楠木正成の血族であるという意識を持っていれば、世阿弥が彼の庇護者である義満の手によって吉野の王朝が南北朝合一によって消えることに複雑な感動を覚えたのは当然のことである。世阿弥の創作意欲を駆動したのは、南北朝の争乱によってもたらされた国民的分断を癒すことであり、とりわけ「滅びてゆく人たち」に一掬の涙を注ぐことであった。

 そのときに『平家物語』が素材として選好されたことには十分な理由がある。

 それは一つには『平家物語』が敗者の文学であるからである。とりわけ、能が源平合戦について扱うのは平家の人々と源義経だけである。能は敗者の物語をしか語らないのである。

 もう一つは敗者である平家が「海民」の系譜を継ぐ一族であったことである。これまで繰り返し書いてきたように、源平合戦は「海部」と「飼部」という二つの職能民の間のイニシアティヴ争奪戦である。そして、海民が敗れたのである。海民は悪党や芸能民や遊女や巫覡や勧進聖と同類である。能楽師が海民に自分たちと同じ運命を感知するのは、当然のことなのである。

 網野善彦『異形の王権』によれば、後醍醐天皇は元弘の乱において、呪法僧や異形異類の悪党たちを総動員した。それができたのは「無縁者」たちに対する支配権は平安・鎌倉期には天皇に掌握されていたからである。

 無縁者たちは生業を営むために広範囲で移動しなければならない。だから、関渡津泊・山野海河・市・宿の自由通行権が必須であった。彼らにそれを与えていたのは天皇であった。多くの職能民が「供御人(くごにん)」として形式的には天皇直属のものとなっていたのはそのせいである。

 後醍醐天皇の時代は、無縁者が歴史の表舞台に登場した例外的な一瞬であった。そして、建武の新政が破綻するや、この「聖なる異人」たちは一転して社会的差別と迫害の対象となった。

 それゆえ、芸能民たちはこの時期に、それまでの保護者であった天皇やあるいは寺社から離れて、将軍や大名の庇護下に入ることになった。観阿弥世阿弥が足利将軍の庇護下に入ったのはそのような歴史的文脈においてであった。

 世阿弥は後醍醐天皇とそれを支えた異形の悪党たちの政治的衰微、そして、無縁者たちの無権利状態への頽落という大きな「流れ」の中で、いわば「同族たちへの惻隠の心」に駆り立てられて能楽を完成させた。そして、能楽は以後「権力者に庇護されて生き延びる敗者の芸能」という逆説的なポジションに身を置くことになったのである。
http://blog.tatsuru.com/2019/07/12_1105.html
http://www.asyura2.com/10/yoi1/msg/191.html#c14

[近代史3] 日本の右翼のバイブル _ モルデカイ・モーゼ 日本人に謝りたい 中川隆
31. 中川隆[-9106] koaQ7Jey 2019年7月13日 10:27:25 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[3583]

また二回削除された、チャンネル桜も必死だね
これだけは貼っておこうか、その意味は自分で考えて欲しい:

天皇家はもともと仏教徒だった

神仏習合というのはそれ以前にすでに1300年の伝統のあるほとんど土着した日本の宗教的伝統である。それを明治政府の発令した一篇の政令によって人々が軽々と捨てられたということがまず「変」である。この人たちにとって、千年を超える宗教的伝統というのはそんなに軽いものだったのか?

 神仏分離令の発令は慶應四年(1868年)である。「五畿七道諸国に布告」して、「往古ニ立帰リ」「普ク天下之諸神社、神主、禰宜、祝、神部ニ至迄、向後右神祇官附属ニ被仰渡候」という祭政一致の方針が示される。

 次に神社に対して「僧形ニテ別当或ハ社僧抔ト相唱ヘ候輩ハ復飾被仰出候」という命令が発された。社僧とは神社に勤める僧侶であり、別当は寺院と神社が一体化した神宮寺の責任者である僧のことである。この人たちに「復飾」(還俗)して、神職に奉仕するように命じたのである。

 驚くべきは、この命令に対して全国の社僧・別当たちが特段の抵抗もなく従ったということである。「長いものには巻かれろ」という処世術が宗教界に徹底していたのか、それとも「神と仏といい ただ水波の隔てにて」という血肉化した神仏習合マインドのせいで寺で読経しようと神社で祝詞を上げようと、同じことだということだったのか、私にはわからない。

 そのあと仏像をご神体としていた神社に対しては仏像仏具仏典の類を「早々ニ取除」くことを命じた神仏判別令が出された。

 それまで神宮寺の多くでは仏像をご神体に祀っていたのである。

 この「特段の抵抗もなく」というのが不思議なのである。

 ありうる説明としては、神仏分離の当初の意図が「宗教の近代化」であり、すべての制度が「近代化されねばならぬ」ということについて明治初年の民衆たちも「まあ、公方さんもいなくなっちゃったし、なんかそういう潮目みたい」というふうに感じ取っていたからだ、ということがありうるかも知れない。歴史の滔々たる流れに逆らっても仕方がないんじゃないの、と。それくらいの歴史感覚は一般民衆にもあったのかも知れない(わからないけど)。

 ターゲットになったのは寺院だけではない。最初に発令されたのは六部、虚無僧、山伏、梓巫女、憑祈祷、狐下しなどの「前近代」的な遊行の宗教者の禁止だった。加持祈祷、オカルト、ノマド的宗教者が「まず」禁止された。そういう「前近代的な宗教のかたち」の徹底排除が近代国家の心理的基礎づけに必要だったと明治政府が判断したのである。

 だから、そのあと明治40年代になると、今度は神社合祀令が出て、「前近代的な神道」が排除されることになる。これについては南方熊楠がはげしい反対運動を展開したので、記憶されている人もいると思うけれど、全国20万社のうち7万社が廃されるというすさまじい「神社整理」であった。

 神道の国家統制を実施するためには、神社を公費で運営する必要がある。しかし、神社の数が多すぎて管理コストがカバーできない。だから小さい神社は(氏子たちがどれほど信仰していようと、どのような貴重な祭祀や芸能が伝えられていようと)、コスト削減のために統廃合するという政府の態度のうちに「神道に対する敬意」を見ることはむずかしいだろう。

 だから、国家神道というのは別にある種の宗教性の価値が高騰したということではなく、端的に「宗教的なものを政治的利用価値だけをものさしにして格付けした」ということに過ぎないのだと思う。
 
 もう一つあまり指摘されないことに天皇家はもともと仏教徒だという事実がある。

 京都東山の真言宗泉涌寺は13世紀に四条天皇の葬儀が行われて以来、天皇家の菩提寺に近い機能を果たしていた。江戸時代の歴代天皇皇后は後水尾天皇から孝明天皇まで全員が泉涌寺に葬られている。当然歴代天皇の位牌もここにあり、僧たちが読経してその菩提を弔っている。明治天皇の父である孝明天皇の葬儀は仏式で行われている。今でも歴代天皇の祥月命日には、皇室を代理して宮内庁京都事務所が参拝している。

 だから、天皇制=国家神道という図式が成立するのは、慶應四年の神仏分離令からさきの敗戦までの77年に過ぎないということになる。日本の天皇制の全歴史のうちの77年だけである。それを126代の歴代天皇がすべて神道の祭主であったと信じている人あるいは信じているふりをしている人が天皇制の支持者・反対者のいずれにも多い。これは天皇制という制度の複雑さを捨象して、問題をシンプルで、ハンドルしやすいものにしようとする態度の現れだと私は思う。

つねづね申し上げている通り、複雑なものは複雑なまま扱うのが知的に誠実な態度だと私は思っている。複雑な仕組みをわかりやすい図式に縮減して、敵味方に分かれて罵り合うのは知的には不毛なことである。それよりは、素直に「なんだか一筋縄ではゆかぬものだ」と認めて、いったん理非正邪の判定を「かっこに入れて」、ほんとうのところは歴史的事件として何が起きたのか、ほんとうのところその歴史的事件の意味は何であるのかについて冷静に問うということが必要ではないのか。

 廃仏毀釈について腑に落ちないもう一つのことは、熱狂的な廃仏運動はかなり短期間で終息し、やがて寺院が再興され、人々が寺院に参詣するようになったということである。廃仏毀釈運動は慶應四年に始まり、明治三年にピークを迎え、明治九年にはほぼ収まった。なんで、そんなにあっさり終わってしまったのか。

 1300年続いた神仏習合という宗教的伝統をほとんど一夜にして弊履の如くに捨て去った熱狂が10年も続かなかった。この非対称性がよくわからない。それほどまでに仏教の檀家制度が憎く、僧侶の腐敗が許し難いものであったら、あるいは明治政府の宗教統制が厳格なものだったら、10年で廃仏運動が「収まる」わけがない。でも、あっさり終わってしまって、誰もその話をしなくなった。

 だから、今の日本人は「神仏習合」についても「神仏分離」についても、よく知らない。

 習合という宗教現象は他の宗教でもあることだから、理解はできる。けれども、それを一度暴力的に分離してみたら、さしたる抵抗もなく実現され、にもかかわらず数年でなんとなくそれも尻すぼみになり、それから100年経ってまたじりじりと神仏習合に戻っているという現象はうまく説明ができない。

 私が毎年参拝している羽黒山はもともと神仏習合で、本尊は聖観音菩薩だったが、神仏分離で山上の仏像仏具は捨てられ、ご本尊はご神体に入れ替えられた。そのときに酒田の篤志家が棄てられたり、焼かれたりした仏像を拾い集めて、自宅の蔵に保存していた。それを最近になって「もともと羽黒山のものだから」というのでその子孫が返却を申し出てきた。羽黒山はそれを嘉納して、二年ほど前に「千仏堂」という建物を本堂の横に立てて、数百体の仏像を安置している。神社の中に寺院があるという神仏習合の「ふつうのかたち」に戻ってきたのである。

 この神仏習合の「復古」趨勢に対してはいずれファナティックな神道系の政治組織から「やめろ」という攻撃が始まる可能性があると私は予想している。そのときにわれわれは明治初年に神仏分離をドライブしたイデオロギーと心性の現代における「アヴァター」を見ることができるかも知れない。

 「廃仏毀釈」に付随したさまざまな事件のうち、記憶しておいてよいトリビアがあるので、それを最後に列挙して話を終えたいい。

(1)廃仏毀釈にもっともはげしく抵抗したのは浄土真宗であった。県内のほぼすべての寺院が廃寺となった鹿児島でも、浄土真宗だけは廃仏の運動が下火になるやたちまち全県に布教を行い、廃寺の再建に取り組んだ。江戸時代に真宗門徒が弾圧されたときに「隠れ念仏」活動をしていた「抵抗の伝統」が生き残っていたのであろう。

(2)最も苛烈な廃仏運動を指揮した一人は、松本の知藩事であった戸田光則。戸田は将軍家の血筋を引き、松平姓と葵の家紋を許された親藩だったが、戊辰戦争が始まってから、勤王か佐幕か最後まで迷った末、新政府軍が中山道を通過する時点でようやく腹をくくって新政府についた。この日和見主義に対する新政府からの不信を解消するために戸田は廃仏毀釈に異常な熱意を示したのである。彼はまず戸田家の菩提寺を破壊するところから始めた。

(3)もう一人は京都府知事だった槇村正直。長州藩士で木戸孝允に重用された人物である。京都の文化的伝統にまったく関心がなかった槇村はきわめて熱心に廃仏運動に取り組んだ。まず神仏習合の祇園社感神院を八坂神社に改組し、本地仏の薬師如来を撤去。北野天満宮は北野神社に改名され、境内の寺院はすべて撤去解体された。彼は五山の送り火も地蔵盆も盆踊りも禁止したのである。それがどういう経緯で、どういう言い訳で復活したのか、誰か知っていたら教えて欲しい。

(4)興福寺は廃仏運動の被害がもっとも大きかった寺である。興福寺は春日大社と一体化していたが、分離され仏像仏具教典が棄てられた。五重塔も民間に売却され、金属だけを取り出すために買い主が火をかけようとしたが、延焼をおそれた近所の住人に制止されたおかげで焼けずに残った。いまは国宝である阿修羅像も運慶作とされる無著・世親像も金堂の床にうち捨てられていた。その惨状については、前に釈先生と興福寺に聖地巡礼に参ったときに詳しく伺った。

(5)伊勢には御師(おし・おんし)と呼ばれる「宗教者兼観光案内人」のような人がいた。自分の家を宿坊として参拝者を宿泊させ、聖地を案内し、伊勢暦や神札を売り、加持祈祷も行った。御師の職業的な特徴はそれぞれが自分の「檀那」を有していたことである。江戸時代には伊勢に御師2000人がいて、宿坊600軒があった。当時の伊勢詣では年間300万人、檀那総数は400万軒。

 という話を読んで、羽黒山伏のことを思い出した。羽黒山もかつては山伏が営む宿坊が300軒あり、それぞれの宿坊には「檀那」となる人々がいた。農閑期になるとその町村の人たちが「講」をつくって、連れ立って羽黒を訪れ、山伏の先達で三山で修験場を訪れ行をおこない、遊びながら故郷に帰った。羽黒に雪が降り山に登れなくなると、山伏たちは里に下りてその「檀家」を巡歴して、加持祈祷を行い、お札を売った。伊勢御師と構造がよく似ている。

 あるときは定住する信者のもとを移動する宗教者が訪れ、あるときは定住する宗教者のもとを移動する信者が(聖地巡礼と観光旅行を兼ねて)訪れる。このような宗教と観光、行と娯楽の癒合したかたちは、前近代の日本に広く見られたようである。出雲大社、富士山、熊野などにも御師がいて、各地の檀那たちと密接な「師檀関係」を結んでいた。

 慶應四年の神仏分離令では山伏と御師がまっさきに弾圧の対象となった。

 その結果、羽黒山伏は宿坊が10分の1になったけれど、いまも30件の宿坊が残り、かろうじて「師檀関係」が生き延びているが、伊勢御師は明治初年に途絶えた。

 いったい、神仏分離令はどのような宗教的伝統を圧殺しようとしたのかがここから伺い知られると私は思う。そして、私たちの時代になって「蘇生」しつつある宗教的なものが何であるかもなんとなく想像できるのである。
http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/494.html#c31

[リバイバル3] 中川隆 _ 美術・文芸関係投稿リンク 中川隆
152. 2019年7月13日 11:28:28 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[3584]
横溝正史 湖泥(TBS 1996年)
http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/524.html

http://www.asyura2.com/09/revival3/msg/452.html#c152
[近代史3] 平和よりも、もっと大切なものがある 中川隆
9. 中川隆[-9105] koaQ7Jey 2019年7月13日 14:22:37 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[3585]

信じられないかもしれないが、私たちは憎悪が生み出した果実を楽しんでいる2019.07.13
https://blackasia.net/?p=13585

日本と韓国との対立・衝突が激しくなってきている。互いに価値観を共有しない上に、長い歴史が対立を深刻化させている。しかし、世界を見回して見れば民族対立はどこにでもあって珍しいものではないというのが分かる。

たとえば、アイルランド人とイギリス人の対立は非常に長く12世紀からすでに対立と衝突を起こして、以後は延々と領土問題・宗教問題・食糧問題で揉め続けて現在に至っている。

中東ではイスラエル人とパレスチナ人がどんな仲介も意味がないほど苛烈に憎み合い、殺し合っている。スリランカ国内では、紛争自体は終わったとは言え、タミル人とシンハラ人の対立と憎悪は深いままだ。

スーダンと南スーダンも、国が割れて互いに不干渉になって平和になると思ったらまったくそうではなく、いつまでも互いに相手を攻撃し合って死者が出ている。

中東も一枚岩ではなく、イラクとイランは犬猿の仲であり、クルド人はクルド人でイラク・イラン・トルコのすべての国と宗教的に折り合えずに居場所がない。

中国は周辺国ばかりかアメリカとも対立しており、ロシアもウクライナやアメリカと激しく衝突している。アメリカはメキシコと常に揉めているし、世界中のあちこちに軍事的介入を行って嫌われている。(鈴木傾城)


いずれは「狩られる」立場になっていく

ミャンマー国内では、ロヒンギャ族とミャンマー人の間で激しい衝突が起きたまま一向に収まらない。アウンサン・スーチーも、ロヒンギャ族の迫害には表立って動こうとせずに国際社会から激しく批判されて見捨てられた。

なぜ欧米が持ち上げていたアウンサン・スーチーは、ロヒンギャ族を擁護しなかったのか。彼女もまた「ロヒンギャ族はミャンマー人ではない」と思っており、「ミャンマーから出て行って欲しい」と思っているからではなかったか。

ミャンマーは仏教国だが、ロヒンギャ族はイスラム教だ。

少数派のイスラム教徒はどこの国でも迫害されやすい。今、最も激しく迫害されているイスラム民族と言えばウイグル人だが、中国のウイグル人に対する扱いは筆舌に尽くしがたいものがある。

街の至る所に監視カメラを設置してウイグル人を監視し、モスクを次々と破壊し、100万人を強制収容所に放り込んで宗教心を完全破壊し、若い女性を収容所内でレイプし、逆らうものは臓器売買の対象にしてしまう。

中国はチベット人にも同じことをしており、チベット仏教とチベット文化を完全破壊し、逆らうチベット人を次々と弾圧し、拷問してきた。

明らかな人権侵害がそこに行われていたのだが、助けを求めるチベット人を国際社会は無視してきた。世界はチベット人の人権よりも中国で儲けることが重要だったからである。

(ブラックアジア:助けを求めるチベット人の炎の叫びを私たちは拡散すべき)
https://blackasia.net/?p=2771


しかし、中国の傲慢不遜な政治はいずれは中国人に対して激しい憎悪となって返っていく。漢民族は周辺国の激しい憎悪を買っていずれは「狩られる」立場になっていくだろう。

一度、民族間で憎悪に火が付くと、もはや修復不可能と言ってもいいほどの民族対立となって継続していく。

インドの国内外で渦巻く憎悪も果てしがない

民族憎悪は、双方の力が膠着している間は決して消えることはない。収まっているように見えても、それは地下でくすぶっているマグマが見えないだけだ。何かのきっかけがあると、すぐに爆発して深刻な問題になる。

民族対立があるのは、実は政治家にも有利である。なぜなら、失政で国民の不満が高まったら、その不満の矛先を敵対する民族に向ければいいからだ。そのため民族対立は政治によっても焚き付けられる。

それによって、さらに憎悪が拡散していく。

もともと同じ民族でも状況は変わらない。たとえば、インド人とパキスタン人は、もともと同じ民族である。宗教が違うから国が割れただけだ。しかし、この両国の相互憎悪は、「次の核戦争はこの民族対立が引き起こす」と言われるほど容赦のないものでもある。

インド・パキスタンは、お互いに心の底から妥協がないほど憎み合っている。政治家が和解しようものなら、必ずテロ事件が起きて元の相互憎悪に戻っていく。こういったこともあって、インド国内のイスラム教徒は激しい差別の中にある。

ヒンドゥー教はいまだにカースト制度があって、低カーストやカースト外の不可触民(ダリット)と呼ばれる人が存在する。彼らはカーストを捨てないヒンドゥー教に嫌気がさして、イスラム教や仏教に改宗していく。

だから、ヒンドゥー教徒は、ますますイスラム教徒や仏教徒を憎む。

インドが深刻なのは、隣国に激しい憎悪を持ちながら、国内でも宗教対立がしばしば起きることである。インドは広大な大陸であり、同じインド人と言っても、民族も言語も文化も違う人たちの寄せ集めで国ができている。

すべてがカオスであり、だから、この国の成長は一筋縄ではいかないことを理解しなければならない。

映画『ホテル・ムンバイ』では、2008年にタージマハルホテルで起きたイスラム過激派の起こした事件を題材にした映画だ。こうした事件の積み重ねが対立と衝突を深刻なものにする。

憎悪が生み出した果実を楽しんでいる

世の中で起きている多くの戦争は民族対立である。愛と平和を叫んで世の中が動いているわけではなく、民族と民族が互いに憎しみあって世の中が動いている。それが現実だ。

だから、武器弾薬が売れ、兵器が次々と開発され、民族憎悪の中でそれが消費されて超巨大ビジネスになる。インターネットが軍事研究から生まれたものであることはよく知られている。しかし、それだけではない。

GPSからレーダー制御から原子力から無人機まで、すべて軍事技術の転用で生まれているものである。

現代資本主義の要となっている金融取引のトレーディング・システムですらも、ロケット工学という軍事に関わっていた技術者がトレーディングに応用させたものだった。デリバティブさえも、軍事技術の応用だったということだ。

憎悪は殺人兵器の開発を向上させるが、その副産物として現代文明は発達しているということでもある。

「憎しみは何も生み出さない」という言葉があるが、とんでもない誤解だ。

憎悪が戦争を生み出し、戦争が孔子やクラウゼビッツのような実践理論や、ハイテク文明を生み出した。それらがさらにビジネス戦略や、インターネットの各種サービスを生み出し、私たちの生活を豊かにしている。

信じられないかもしれないが、私たちは憎悪が生み出した果実を楽しんでいるのだ。

今も、世界中のありとあらゆるところで、民族が民族を憎み、国家が国家と対立している。血みどろで、残虐で、救いのない殺し合いが渦巻いている。

しかし、その人間の根本にある憎悪が、逆に人間の文明を向上させているとは、奇妙な世の中ではないか。私たちは、相手を憎めば憎むほど、文明が発達していくという皮肉な世界に生きている。(written by 鈴木傾城)

人間の根本にある憎悪が、逆に人間の文明を向上させているとは、奇妙な世の中ではないか。私たちは、相手を憎めば憎むほど、文明が発達していくという皮肉な世界に生きている。
https://blackasia.net/?p=13585
http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/339.html#c9

[リバイバル3] 音楽はこういう部屋で聴きたい 中川隆
61. 中川隆[-9104] koaQ7Jey 2019年7月13日 14:32:30 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[3586]

そしーて僕は途方にくれる〜♪ 
Der Klang vom Theater (ドイツ〜劇場の音と音楽)2010/08/23
http://kaorin27.blog67.fc2.com/blog-entry-200.html


Europaを入れてから早や5年が経ちました。

平面バルフなので、スピーカーの背面は出来るだけ空間が欲しいのに、空間を確保してあるだけに逆に、いつの間にか物置状態になってしまいます。

カートリッジを交換した期に乗じて、ここは一番。基本に返ってスピーカー周りの整理を始めました。

まずは、作ったまま立てかけておいたQRD音響拡散板を自立できるように工作します。
どうやって立てようか悩みましたが角度の変更ができる上に、工作の簡単なヒンジを使うことに決定!
3面鏡の方式で自立させよう。

http://blog-imgs-29.fc2.com/k/a/o/kaorin27/DSC03118.jpg


近所の金物屋で購入したヒンジを付けて、おまけにランダムちっくに吸音材の有り合わせを貼っておく。
背面と壁との共振を嫌ってだけれど、我が家はカーテンあるからホンのお気持ちです。

このお店は木材も豊富なのでちょっと奥まで覗いていたら、紫檀の端材を発見!  1680円也

お店のお兄ちゃんに、両面カンナを掛けてから8つに切ってもらえるか聞いたところあっさり
工賃を含めて2160円で、紫檀製の立派なインシュレーターをGETしたどー。

http://blog-imgs-29.fc2.com/k/a/o/kaorin27/DSC03136.jpg


早速、QRDの足として使ってみる。
反射板自体が重いので、置いただけで十分な安定感がある。
こりゃ、楽できちゃったな  と単純に喜んでる。

さて、何に「途方にくれた」のかというと・・・
これまでは、以前に紹介したWE-14というアンプ付きスピーカーをEuropaの間になんとなく置いていた。
まあ、小さい物だから音には影響ないでしょ!とタカをくくっていたのだけれど、掃除機を掛ける為に移動したまま何気なくレコードを聴いてみた。

今でも信じられないほどの変わりよう。
こんな小さい物でも、スピーカーの間にあることでぶち壊しだったんだな、と。

今までこの状態で音があーだの、こーだの言っていた自分が恥ずかしい
平面バフルだから、余計影響があったかもしれないけれど・・・

これを聴いてしまったからには、根性を決めて、真夏の大掃除大会となったのであります。

http://blog-imgs-29.fc2.com/k/a/o/kaorin27/DSC03138.jpg


撮影のために、元の場所へ戻してみた。今はもうここにはありません。

コメント

素敵なお部屋ですね

こんばんは

Europaの色合いといい、お部屋の雰囲気といい、本当に
素敵ですね。
丁度明日ブログにアップする予定の記事が何気なく置か
れた物が音に影響する話だったのですが、本当にそう思
います。
一生懸命頑張っても変わらないことが多いのに不思議な
話ですね。
2010/08/24(火) 00:39 | URL | メタボパパ #-[ 編集]

Re: 素敵なお部屋ですね

こんばんは

お恥ずかしい話ですが、懺悔の連続です。

それにしても・・・初めてパパさんの話題を先回りできましたねー。
オーディオでもやっぱり同じような事を思っているのでしょうねえ。

2010/08/24(火) 11:44 | URL | kaorin27 #qJTEhbLw[ 編集]

スピーカーの間

部屋の前後が本棚になっています。本棚の本を何冊おきかに引きずり出して偽QRDの様な事をして見ました。効いているのか怪しい物です、けれど左右のスピーカーの間、その奥を試した時だけは明らかな効果がありました。左右のスピーカーの間の隙間が肝だとは薄々感じていたのですが、他に置く場所の無いプレイヤーや使いもしないスーパーウーハーの置場になっていました。貴ブログを拝見して整理に乗り出す事にしました。レコードの再生は諦めました。プレイヤーもスーパーウーハーも片付けました。アンプラックなどを完全に無くす事はできませんでした。随分小さくは出来ました。やはり、効果があった様に思います。

2010/08/28(土) 02:57 | URL | kawa #EnGitwzo[ 編集]


Re: スピーカーの間

こんばんは、

拙文をお読みいただき、(おそらく)重カッテであろう腰を上げられたとのこと、
結果はまずもって、望外の悦びです。

kawaさん宅は後面開放でしたね、良い状態になっていればと思います。
今後の変貌ぶりも是非教えて下さい。

2010/08/29(日) 01:42 | URL | kaorin27 #qJTEhbLw
http://kaorin27.blog67.fc2.com/blog-entry-200.html
http://www.asyura2.com/09/revival3/msg/655.html#c61

[リバイバル3] 音楽はこういう部屋で聴きたい 中川隆
62. 中川隆[-9103] koaQ7Jey 2019年7月13日 14:36:16 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[3587]

スピーカーの間 2010-09-10

https://kawa.weblogs.jp/things/2010/09/%E3%82%B9%E3%83%94%E3%83%BC%E3%82%AB%E3%83%BC%E3%81%AE%E9%96%93.html


SPの間 レコードプレイヤーを諦めたのは、PC音源の比重が増えて、全体の調整がPC音源に傾いた所為です。レコードの再生が思う様に進まない所がありました。


https://kawa.weblogs.jp/.a/6a0120a66c5c01970c0133f40eefae970b-pi

もう一つ理由があります。暫く前に前後の本棚について、何冊かおきに本を引き出してQRDの真似をして見ました。効いているのかは怪しい物ですが、左右のスピーカーの間だけは効果が有った気がします。スピーカーの間が音場や音像の肝だと薄々感じていました。

昔は足りない低音を足すのにスピーカーを棚の中に入れたり、左右や奥の壁に付ける様な事もしていました。ブックシェルフ型スピーカーなんて言っていたのは随分昔でしょうか。

今は左右の壁からも奥の壁からも影響を避けてスピーカーを置くのは常識になって来ました。昔の三点セットのステレオに限らず今でも色々な配線を短くしようとすれば左右のスピーカーの間にアンプラックを置くのは良く有る事です。私も使わないスーパーウーハーの上にアンプやプレイヤーを重ねていました。

kaorin27さんのDer Klang vom Theater
http://kaorin27.blog67.fc2.com/blog-entry-200.html


を見て私も重い腰をあげました。左右のSP間にこんなに物を積み上げて良いはずが無い。全部を片付けたい所です。アンプも全て後ろの棚に入れてSP間には何も置かない様にしたい。一日掛けて色々配置を試しましたが、アンプ類を全て片付ける事は出来ませんでした。

スーパーウーハーと大きなプレイヤーを片付けた事で半分くらいにはなりました。全てを無くすことは出来ませんでしたが、小さくなっただけでも、音には違いがありました。

最新の音場型スピーカーでは無い、こんなに古くて大きなスピーカーでも周囲の壁だけでなくスピーカー同士も空ける事が必要なんだと感じました。

オーディオって随分場所を食うものなんですね。

PS

こうした配置が理想な訳です

WESTERN
https://kawa.weblogs.jp/.a/6a0120a66c5c01970c013487305efb970c-pi


コメント

メタボパパ


はじめまして

kaorin27さんのブログからやってきました。
スピーカー周りの整理って分かっていてもなかなか
出来ないんですよね。
我が家もTVがあったりして儘なりません。

今後ともよろしくお願い致します。

投稿情報: メタボパパ | 2010-09-15 22:31

kawa


ようこそお越し下さいました。
どんな部屋にすれば良いのか、
ここ何年かで分って来た事も有りますが、
分らない事の方が多い気がします。
分っている事も中々出来ません。
お役に立てる様な話しが有れば良いのですが・・・


投稿情報: kawa | 2010-09-17 01:19
https://kawa.weblogs.jp/things/2010/09/%E3%82%B9%E3%83%94%E3%83%BC%E3%82%AB%E3%83%BC%E3%81%AE%E9%96%93.html
http://www.asyura2.com/09/revival3/msg/655.html#c62

[近代史3] 韓国の大卒失業者 新卒で正社員就職は1割だけ 中川隆
3. 中川隆[-9102] koaQ7Jey 2019年7月13日 16:16:24 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[3588]

2019年07月13日
韓国の定年は平均50歳 サムスンは45歳で解雇
http://www.thutmosev.com/archives/80363054.html

書いていない重要な違いはパナの定年が65歳でサムスンは45歳ということ


画像引用:http://livedoor.blogimg.jp/return_to_forever-flat_display_2/imgs/d/2/d2236c4c.jpg


サムスンの定年は45歳

韓国の雇用慣習は多くの点で日本と異なり、進学や定年後にも多くの違いがある。

中でもとりわけ奇異に映るのは韓国の定年についての実態で、日本より15年から20年も早い。

韓国では公式には60歳定年としている企業が多いが、早期退職という慣習がある。



規定の年齢の10年前には自分から辞めるのが普通で、50代で残っていると老害扱いされる。

名誉退職と美しい言葉で呼ばれているが、実際には「いつまで給料どろぼうを続けるつもりだ?」のように退職を強要される。

これが最も苛烈なのがサムスンで、平均退職年齢は45歳になっているという。


サムスンはいち早くスマホに飛びつき世界一になるなど、新技術や新分野の開拓を得意としている。

その裏には新しい人材を取り入れて古い人材は解雇する新陳代謝の速さがある。

もしサムスンが65歳定年制でIT技術を持たない社員を解雇できなかったら、東芝やシャープのようになったかも知れない。


韓国にも労働者に落ち度がない限り解雇できない規制があるが、適用が甘いので実際には40代で解雇できる。

サムスンで50代まで残れるのはオーナー一族の取り巻きだけで、超優秀で一族から目を掛けられた人に限られる。

課長どまりの人は40代で解雇、経営幹部にならないと50代まで働くことは出来ない。

有名企業で働けるのは15年から20年

韓国企業は日本企業のように子会社に出向や左遷などの優しい制度は無く、今日からクビ、明日から無職になり就職の面倒はみない。

サムスンを解雇された人は中小企業に移るが、そこも数年で解雇され低賃金の非正規労働しかなくなる。

50代後半では清掃作業や宅配のようなアルバイトか、露天商や飲食店を開く人が多い。


さて韓国ナンバーワン企業サムスンの定年は45歳だが、大卒の就職年齢も30歳以上と非常に遅い。

これは韓国では新卒を雇わず、2年間の兵役が終わってビジネスや英語資格などを取得した人を雇っているからです。

22歳で大学を卒業しても2年間兵役についてから数年間就職予備校や専門学校に通い、平均32歳くらいでサムスンに就職しています。


就職しても45歳で解雇されるのでサムスンで働けるのは13年から15年くらいしかありません。

大学や専門学校で学んだ知識が通用する15年位だけ雇用し、通用しなくなったら放り出しています。

東芝やシャープがリストラしていた頃、韓国企業に高級で引き抜かれた人たちが居ましたが、今も働いている人は居ないでしょう。


サムスン以外の韓国有名企業でも、働けるのは28歳から50歳というところで、22年間しかありません。

韓国の就職は学歴とコネで決まり、4年生大学進学率が80%(日本は50%)なので大学を出ただけでは就職できません。


大学卒業時に正社員に就職できるのは1割しかなく、多くの卒業生は卒業してから長い就職活動を始めます。

就職するまでは無職で無収入なので、正社員の賃金が高くても生涯賃金は非常に少ないのです。
http://www.thutmosev.com/archives/80363054.html

http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/491.html#c3

[近代史3] 韓国のチキン屋 解雇されたサラリーマンが開業 中川隆
1. 中川隆[-9101] koaQ7Jey 2019年7月13日 16:17:42 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[3589]

2019年07月13日
韓国の定年は平均50歳 サムスンは45歳で解雇
http://www.thutmosev.com/archives/80363054.html

書いていない重要な違いはパナの定年が65歳でサムスンは45歳ということ


画像引用:http://livedoor.blogimg.jp/return_to_forever-flat_display_2/imgs/d/2/d2236c4c.jpg


サムスンの定年は45歳

韓国の雇用慣習は多くの点で日本と異なり、進学や定年後にも多くの違いがある。

中でもとりわけ奇異に映るのは韓国の定年についての実態で、日本より15年から20年も早い。

韓国では公式には60歳定年としている企業が多いが、早期退職という慣習がある。



規定の年齢の10年前には自分から辞めるのが普通で、50代で残っていると老害扱いされる。

名誉退職と美しい言葉で呼ばれているが、実際には「いつまで給料どろぼうを続けるつもりだ?」のように退職を強要される。

これが最も苛烈なのがサムスンで、平均退職年齢は45歳になっているという。


サムスンはいち早くスマホに飛びつき世界一になるなど、新技術や新分野の開拓を得意としている。

その裏には新しい人材を取り入れて古い人材は解雇する新陳代謝の速さがある。

もしサムスンが65歳定年制でIT技術を持たない社員を解雇できなかったら、東芝やシャープのようになったかも知れない。


韓国にも労働者に落ち度がない限り解雇できない規制があるが、適用が甘いので実際には40代で解雇できる。

サムスンで50代まで残れるのはオーナー一族の取り巻きだけで、超優秀で一族から目を掛けられた人に限られる。

課長どまりの人は40代で解雇、経営幹部にならないと50代まで働くことは出来ない。

有名企業で働けるのは15年から20年

韓国企業は日本企業のように子会社に出向や左遷などの優しい制度は無く、今日からクビ、明日から無職になり就職の面倒はみない。

サムスンを解雇された人は中小企業に移るが、そこも数年で解雇され低賃金の非正規労働しかなくなる。

50代後半では清掃作業や宅配のようなアルバイトか、露天商や飲食店を開く人が多い。


さて韓国ナンバーワン企業サムスンの定年は45歳だが、大卒の就職年齢も30歳以上と非常に遅い。

これは韓国では新卒を雇わず、2年間の兵役が終わってビジネスや英語資格などを取得した人を雇っているからです。

22歳で大学を卒業しても2年間兵役についてから数年間就職予備校や専門学校に通い、平均32歳くらいでサムスンに就職しています。


就職しても45歳で解雇されるのでサムスンで働けるのは13年から15年くらいしかありません。

大学や専門学校で学んだ知識が通用する15年位だけ雇用し、通用しなくなったら放り出しています。

東芝やシャープがリストラしていた頃、韓国企業に高級で引き抜かれた人たちが居ましたが、今も働いている人は居ないでしょう。


サムスン以外の韓国有名企業でも、働けるのは28歳から50歳というところで、22年間しかありません。

韓国の就職は学歴とコネで決まり、4年生大学進学率が80%(日本は50%)なので大学を出ただけでは就職できません。


大学卒業時に正社員に就職できるのは1割しかなく、多くの卒業生は卒業してから長い就職活動を始めます。

就職するまでは無職で無収入なので、正社員の賃金が高くても生涯賃金は非常に少ないのです。
http://www.thutmosev.com/archives/80363054.html

http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/502.html#c1

[リバイバル3] 苗場スキー場の元高級リゾートマンションが遂に10万円になった 中川隆
540. 中川隆[-9100] koaQ7Jey 2019年7月14日 06:10:43 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[3590]

東京生活に見切りつけて… 若者たちが続々と地方移住を目指す理由(マネーポスト)
http://www.asyura2.com/19/hasan132/msg/734.html
https://headlines.yahoo.co.jp/article?a=20190713-00000002-moneypost-bus_all

マネーポストWEB 7/13(土) 11:00配信 女性セブン2019年7月25日号


地方移住相談者の年代の推移(2008年と2018年)


「田舎暮らし」と聞いて、あなたはどんな生活をイメージするだろうか。定年退職後に都会の喧騒から離れて、緑豊かな大自然に囲まれてゆったり過ごす。晴れの日は土を耕し、雨が降れば家の中で書に親しむ。夕食は地ものを肴に酒を酌み交わす――そんな悠々自適の生活をイメージする人が多いはずだ。

 だが実像は変わりつつある。東京にある地方移住を希望する都市住民と全国の地方自治体とのマッチングを行う「認定NPO法人ふるさと回帰支援センター」理事長の高橋公さんが指摘する。

「2008年から2018年の10年で、移住相談の件数は、2475件から4万1518件の20倍に増えました。以前は50代以上が相談者の7割でしたが、今は20〜40代が7割を超え、若い世代ほど移住を希望するようになりました。相談内容も以前は“定年後に住むいい移住先はありませんか”という漠然としたものでしたが、最近は、“○○県に移住したい”という具体的な希望になりました」

 SNSの普及も若い世代の移住志向を後押ししているという。

「地方に移住した若者がスマートフォンを使い、SNSに田舎暮らしの様子をきれいな写真付きでアップするんです。それを見た都会の若者が“地方もいいもんだな”と感化されて、移住志向が一段と高まったようです」(高橋さん)

 実際に地方移住者は増えている。毎日新聞とNHK、明治大学地域ガバナンス論研究室の共同調査によると、2014年の地方移住者数は1万1735人で、2009年度からの5年間で4倍以上に増えたという。

 定年後の晴耕雨読は、今は昔。若い世代は何を求めて、地方に向かうのだろうか。

東京だと「子供部屋」も作れない

 地方移住ブームの背景にはまず、東京一極集中の緩和を目指す政府の戦略がある。

 2014年からスタートした内閣府の「まち・ひと・しごと創生総合戦略」は今年度から、地方創生政策の目玉の1つとして、「起業支援金・移住支援金」を導入した。

 東京圏外に移住して起業や就職をした東京23区の在住者または通勤者を対象に、最大300万円の支援金を支給する仕組みで、今年度からの6年間で東京圏から地方に移住して起業・就職する人を6万人増やすことを目指す。一般社団法人エリア・イノベーション・アライアンス代表理事で、地域再生事業家の木下斉さんが指摘する。

「今は高齢化が進んで地方の人口減が加速する一方、東京など都市部の人口が増え続けています。このまま東京の一極集中と地方の人口減が進むと、多くの自治体が立ち行かない。そこで国は『地方創生』を掲げて、地方を盛り上げるさまざまな政策を打ち出すことになりました」

 まだ国の政策がすべて機能しているとは言い難いなか、地方移住者が増えているのは、「東京にこだわらない若者」が続々と登場し、活躍しているからだ。

「昔は田舎から東京に出て、企業の正社員になってバリバリ働く人が多かった。でも今は派遣やアルバイトなどの非正規社員やフリーランスとして働く人が大幅に増えて、以前の働き方とは変化してきました。

 さらに東京は土地代が高騰して都心に自宅を持つことは難しく、通勤には満員電車が避けられない。生活環境の質は、昔と比べて悪くなっている。その中で必死に競争して他人を押しのけて出世するよりも、自分の理想にそった暮らしを望む若者が増えていると移住相談者の声から感じます」(高橋さん)

 地方経済に詳しい明治大学政治経済学部准教授の飯田泰之さんは、「地方移住を希望する共働き世帯も増えている」と指摘する。

「一昔前は東京郊外に家を持ち、夫は往復2時間以上かけて通勤し、妻は家を守るという生活が一般的でした。でも今は共働きが当たり前になり、夫婦そろって長い時間をかけて通勤するよりも、地方の安い家に住んで豊かな暮らしをしたいと望む人が増えました。実際に、都内では家賃が20万円もするような物件が地方では半額以下で借りられるし、一戸建ても格安ですからね」(飯田さん)

安い家賃と支援制度

 もともと地方は住宅コストが安いうえ、最近は「空き家バンク」で空き家を上手に斡旋する自治体も増えている。前出の木下さんは「地方は人生のステージや目的に合わせて使うのがいい」と指摘する。

「都会で子供部屋を作るのは大変な費用がかかりますが、地方なら無料で家を譲ってくれるケースもあります。子供が小さいうちは自然豊かな田舎に住むという若い夫婦もいます。都内で騒がれている待機児童問題も地方にはめったになく、人口政策として子育て支援を打ち出していない自治体は見つけられないほどです」

 ふるさと回帰支援センターのアンケートでは、移住先を選ぶ条件として「就労の場があること」がダントツのトップとなった。都内ほど高収入な仕事はないが、木下さんは「選択肢は増えてきている」と話す。

「地方の大きな魅力は不動産が安いこと。また、競合となる企業が少なく、人材引き抜きのリスクが低い。そのため、東京などに本社を置くIT企業のサテライトオフィスが徳島県神山町や宮崎県日南市などの地方に集まるようになっています。さらに、デザイナーなど働く場所を問わない自営可能な人であれば、新規創業支援制度を活用することも可能です」(木下さん)

 サテライトオフィスとは、企業が本社から離れた場所に設置したオフィスのことで、支店や支社よりも小規模なことが特徴だ。育児や介護など、生活と仕事を両立しやすいメリットがある。

 そしてやはり、移住後の大きな障壁となるのが「人間関係」だ。

「地域によっては『移住者はよそ者』という意識が根強く、“わざわざ東京から何をしに来たのかね”という目で新参者を見る地域も。そのため移住先になじめず、1年ほどで東京に戻ってしまう人もいます。それで私たちは、“困った時には相談してください”と気さくに声を掛けてくれる『移住者の応援団』を作ってほしいと各自治体に要望しています」(高橋さん)

田舎は、
人口激減・正社員の仕事は介護か運送業。

基本、一人に一台の車が必要。

買い物は往復10キロから20キロは当たり前。

小中学校は閉校が相次ぎ、中心部に一校しか無いため、

郊外に引っ越してきた場合には保育園から高校まで通うのが大変。

家業を継ぐ者以外の若者はほぼ全員が町を出て行く。

 これが地方の現状です。

http://www.asyura2.com/09/revival3/msg/565.html#c540

[リバイバル3] 苗場スキー場の元高級リゾートマンションが遂に10万円になった 中川隆
541. 中川隆[-9099] koaQ7Jey 2019年7月14日 06:15:56 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[3591]

田舎生活の愉しみは噂話、悪口と苛めだけ


ルポ「つけびの村」01/06 〜山口連続放火殺人事件の因縁を追う〜 2018/07/23 https://note.mu/tk84yuki/n/n264862a0e6f6

2013年7月に山口県周南市で発生した山口連続殺人放火事件について、2017年に取材し、まとめたものを6回に分けて公開します。存命の関係者のお名前は全て仮名です。2017年9月7日脱稿、その後少し寝かせていました。

 第23回参議院選挙投票日の2013年7月21日。前月からの猛暑が続く山口県周南市・須金(すがね)・金峰(みたけ)地区の郷(ごう)には、この日も朝から強い日差しが降り注いでいた。そよ風すら吹いていないのはいつものことだ。8世帯12人が暮らす小さな山村は、周南市街地から16キロほどしか離れていないが、半数以上が高齢者のいわゆる限界集落になる。

 隣の菅蔵(すげぞう)集落の田村勝志さん(仮名)は、集会場『金峰 杣(そま)の里交流館』で投票を済ませた。その帰りに声をかけて来たのは、義理の妹に当たる山本ミヤ子さん(79歳=当時・以下同)だった。彼女の夫は田村さんの弟にあたるが、先立たれ、一人暮らしをしていた。

「ちょっとコーヒーでも飲んで帰らんね」

 縁側で一緒にアイスコーヒーを飲んでいると、隣の家からいきなり大音量でカラオケが流れ、そこに住む男の歌声が聞こえてきた。隣では最近、朝10時と夕方5時に、カラオケが始まるのだ。周辺に気を使って窓を閉めることもせず、窓を開け放ち、歌を集落中に響かせる。いつものことなので、驚くでもなく、田村さんは男が歌う昔の流行歌を聴きながら、コーヒーを飲み干して、山本さんと別れた。
 帰りの道沿いにある、貞森誠さんと妻の喜代子さんが住んでいる一軒家を通り過ぎた。誠さんは71歳、集落の中では中堅の年齢だが、数年前から癌を患い、1歳年上の喜代子さんが自宅で誠さんの看病をしている。さきほどの男の歌声は、この家の前を通るときも聞こえていた。

 山本さんはこのあと、同じ集落の石村文人さん(80)とラウンドゴルフに出かけた。いつもの日曜日。夜から始まる惨劇を、集落のものは誰も想像すらしていなかっただろう。

 ただひとり、カラオケの男≠除いては。

 長閑な村の様相が一変したのはその日の20時59分。
「貞森さんの家が、真っ赤っかになっとる!」
 さきほどの夫婦が住む家から煌々と火が上がるのを目撃した近所の住民は、慌てて119番通報をした。
 ところが電話を切って外に出ると、もう一つ別の家が燃えていることに気がついた。
「山本さんの家も、メラメラ燃えとる」
 別の住民が21時5分ごろ、石村文人さんに電話をかけた。だが応答はなかった。
 集落では二軒の家の消火活動が行われ、22時14分、ようやく鎮火した。貞森さんの家からは誠さんと喜代子さんの遺体が、山本さんの家からはミヤ子さんの遺体が発見される。誠さんの遺体は足がもげていた。消防団が焼け跡をかき分け、片足を探した。
 この2軒が燃えたことに、村人たちは皆「何かおかしい」と感じていた。ふたつの家は70メートルほど離れていて、間に燃えるものもないからだ。
「なんでこんなことに」
「放火じゃなかろうか」
 集まった村人たちは口々にそう言い合った。とはいえ、翌日から現場検証が行われる。火災の原因もじきに分かるだろう。
 投票場だった『金峰杣の里交流館』の、はす向かいに住んでいた吉本茜さん(仮名)から連絡を受けた河村聡子さん(73)は、吉本さんの家で一緒に消防団にお茶や水を出すなどの世話に追われていた。夫の二次男さんは、友人たちと愛媛に旅行へ行っていた。
「貞森さんの家族に連絡せにゃならんね」
 吉本さんと聡子さんは、そんな話をした。

 県警の緊急配備が解かれたのち、消防団が引き上げ、片付けが終わったのが1時半。日付はすでに変わっていた。それから家に帰り、風呂に入って寝る支度を整えてから、一階の居間で二次男さんに宛てて火事のことをノートに書き置きした。大変な1日を終え、聡子さんは二階の寝室に向かった。
 だがその聡子さんも昼前に、遺体で発見される。遠方に住む娘が自宅を訪ね、二階に血まみれで倒れている聡子さんを見つけたのだった。夜から連絡がつかなかった石村さんも、その数分後、自宅を訪れた県警に遺体で発見される。すぐに、村の入り口に黄色いテープの規制線が貼られた。現場検証が始まる。
「2軒の火災による3人の死亡」が、「5人の連続放火殺人」に姿を変えた瞬間だった。
 県警はこの時点で、昨晩から自宅におらず、連絡もつかないカラオケの男≠重要参考人と睨み、その自宅を捜索。男の行方を追った。二台の車はガレージにある。遠くには行っていないだろう。
 5人は全員、撲殺されていた。遺体に共通していたのは頭部の陥没骨折、そして足の殴打痕。加えて『口の中に何かを突っ込まれた』形跡があったことだ。
 貞森さん夫妻と山本さん、3人の遺体は黒く焼け焦げ、確認のために山本さんの遺体を警察から見せられた息子は、どっちが頭なのか足なのか分からなかったほどだという。のちに司法解剖が行われ、頭蓋骨の陥没骨折や、顔に皮下出血が認められ、頭部や顔を鈍器のようなもので激しく殴られて殺害されたことがわかった。
 石村さんの遺体にも同じく、後頭部や膝の裏を激しく殴打された痕が見られた。口の中にも損傷があり、何か棒のようなものを突っ込まれた形跡があった。
 聡子さんも同様だ。首の後ろを激しく殴られたことが致命傷とみられている。その口の中は血まみれで、前歯が折れていた。
「家で寝ちょったら殺されるかもしれん」 
 連続殺人であることを悟った村人たちは怖がった。県警は、さらなる犠牲者が出ることを防ぐため、村人たちを投票場だった『金峰杣の里交流館』に避難させる。そこで寝泊りを始めた村人たちにとっては、参院選の投票結果など、最早どうでもよいことになっていた。集会場の外では投入された県警の捜査員約400名が村中を周り、男の行方を探し続けている。村の入り口に張られた規制線の外には、おびただしい数のテレビ中継車が並び、上空には報道ヘリが飛び交っていた。
 一度に5人が殺害されるという大事件が発生した村には、地元だけでなく東京からも多くの記者が詰めかけたが、そんな彼らが何よりも注目したのは、カラオケの男≠フ家のガラス窓に貼られた不気味な『貼り紙』だった。

「つけびして 煙り喜ぶ 田舎者」

 山口県周南市金峰(みたけ)で21日夜、全焼した民家2軒から3人の遺体が見つかり、翌22日に別の民家2軒から新たに2人の遺体が見つかった事件で、火災現場で見つかった3人はいずれも頭部に外傷があり、ほぼ出火と同じ時刻ごろまでに死亡していたことが、司法解剖の結果わかった。県警は、3人が殺された後、放火されたとみている。
 県警は22日、5人が殺害された連続殺人・放火事件と断定し、周南署に捜査本部を設けた。県警は同じ集落に住む男が何らかの事情を知っているとみて、自宅を殺人と非現住建造物等放火の疑いで捜索した。男は行方がわからなくなっている。
 全焼した山本さん宅の隣の民家には「つけびして 煙り喜ぶ 田舎者」と、放火をほのめかすような貼り紙があった。(2013年7月23日 朝日新聞朝刊)

 14人が暮らす集落で5人の遺体が次々と見つかった。携帯電話も通じない、山口県周南市の山間部で起きた事件。「つけびして 煙り喜ぶ 田舎者」。全焼した民家の隣に住む男は所在不明で、自宅には放火をほのめかす貼り紙も残る。「家族のよう」と言われる山里で、何が起きたのだろうか。(2013年7月23日 四国新聞朝刊)

 警察は山本さんの住宅の隣に住む男が、2つの住宅に火をつけた疑いがあるとして、殺人と放火の疑いで男の自宅を捜索しました。
 その際に室内から外に見える形で窓に貼り紙があり、紙には「つけびして煙り喜ぶ田舎者」と書かれていました。
 男は、現在、行方が分からなくなっていて、警察は貼り紙の内容が放火への関与を示すものとみて、男の行方を捜査するとともに、一連の事件との関連について調べています。(2013年7月22日 NHKニュース)

 村の3分の1以上が殺害され、姿を消した男の家には不気味な貼り紙。「平成の八つ墓村」などとネットでも騒がれ始めた。まさか自分の村がこんな言われようをするとは、村人たちは前日まで誰も考えたことすらなかっただろう。
 事件発生から4日が経った7月25日。警察は山中で男の携帯電話や、男性用のズボン、そしてシャツを発見。さらにその翌日朝、発見現場付近を捜索していた機動隊員が林道沿いで男を見つけた。Tシャツとパンツの下着姿で、靴も履いていない。
「ホミさんですか?」
 近づきながら機動隊員が声を掛けると、男はその場にしゃがみ込み言った。
「そうです」
 抵抗することもなく県警の任意同行に応じ、逮捕されたそのカラオケの男≠ヘ、郷集落の住民の一人、保見光成(ほみ こうせい)(当時63歳)という。
 その後、県警は山中で、側面に「ホミ」と彫られたICレコーダーを発見した。息を切らしたような雑音の中、こんな言葉が録音されていた。
「ポパイ、ポパイ、幸せになってね、ポパイ。いい人間ばっかし思ったらダメよ……。
 オリーブ、幸せにね、ごめんね、ごめんね、ごめんね。
 噂話ばっかし、噂話ばっかし。
 田舎には娯楽はないんだ、田舎には娯楽はないんだ。ただ悪口しかない。
 お父さん、お母さん、ごめん。お姉ちゃん、お姉ちゃん、お姉ちゃん、ごめんね。……さん、ごめんなさい……。
 これから死にます。犬のことは、大きな犬はオリーブです」

 保見光成の家のガラス窓にあった、この貼り紙。
「つけびして 煙り喜ぶ 田舎者」
 県警が保見を捜索している段階から、これはカラオケの男≠ノよる犯行予告なのではないか、と騒がれていた。「放火をほのめかす貼り紙」「不審なメッセージ」などと、テレビや新聞は何度も取り上げた。
 だが、それは決意表明でもなければ犯行予告でもなかったのである。

金峰行きの経緯


 そのことを知ったのは、事件から3年半が経った2017年1月。取材のために金峰地区を訪れたときだ。
 私は東京で週刊誌の記者として稼働しながら、主に殺人事件の公判を取材するフリーライターとして活動していた。取材に出向くひと月前、ある月刊誌の編集者が『山口連続殺人事件』について改めて取材して記事を書いてみないかと声をかけてくれたのだった。
 すでに保見は5件の殺人と2件の現住建造物等放火で起訴、山口地方裁判所での一審公判も、広島高等裁判所での控訴審も判決が言い渡されており、事件は最高裁に係属していた。このときも、今もである。
 逮捕当初こそ「殺害して、その後、火をつけた。私がやりました」と犯行を認めていた保見は、2015年6月25日、山口地方裁判所で開かれた裁判員裁判の初公判でこれを翻し「火はつけていません。頭をたたいてもいません。私は無実です」と無罪を主張した。
 大量殺人を犯したとされる被疑者は、精神的な問題がないかを起訴前に鑑定し、問題がない、つまり事件当時に完全責任能力を有していたと判断されたのちに起訴されるという流れが出来ていた。この鑑定を起訴前鑑定という。さらに起訴後の公判前整理手続という非公開の手続きにおいて、争点が責任能力であるとなれば、改めて精神鑑定が行われることになる。これを本鑑定と呼ぶ。
 保見に対しては一審が開かれる前に、この2つの鑑定が行われた。起訴前鑑定では事件当時の保見は「完全責任能力」があると判断されたが、起訴後に本鑑定が行われ『妄想性障害』と判断されていた。
 これをもって、一審公判で弁護側は責任能力について「心神喪失」もしくは「心神耗弱」を主張した。それに加えて保見は放火も殺人も、自分がやったのではない、と、犯人であること自体を否認したのである。だが同年7月28日の判決公判で山口地裁は保見に「死刑」を言い渡した。『妄想性障害』は認めたが、完全責任能力は有していたという判断だった。また放火も殺人も、犯人は保見以外に考えられないと認定された。
 妄想性障害をめぐる責任能力については、山口地裁は判決で次のように述べている。
「鑑定人によると、被告は両親が他界した2004年ごろから、近隣住民が自分のうわさや挑発行為、嫌がらせをしているという思い込みを持つようになった。こうした妄想を長く持ち続けており当時、妄想性障害だったと診断できる。『自分が正しい』と発想しやすい性格傾向と、周囲から孤立した環境が大きく関係し、妄想を持つようになった。
 この鑑定は合理的であり、これを基に責任能力を検討すると、被告が当時、自己の行為が犯罪であるという認識を十分有していたことは明らか。凶器となる棒を携えて各被害者宅を訪れ、殺害後に自殺しようと山中に入っており、善悪を認識する能力も、その認識に基づいて行動する能力も欠如したり、著しく減退したりしていない。被告は当時、完全責任能力を有していた」
 保見はこれを不服として即日控訴。2016年7月25日、広島高等裁判所で控訴審の第一回公判が開かれたが、弁護側の請求証拠はすべて却下されて即日結審し、同年9月13日、控訴棄却。その翌日、保見側は上告した。
 判決では本鑑定の結果に基づき「近隣住民が自分のうわさや挑発行為、嫌がらせをしているという思い込みを持つようになった」と認定されているが、これには疑問があった。事件発生当初から、保見は集落の村人たちから村八分≠ノされていたのではないかという疑惑があったからだ。

 金峰の郷集落で生まれ育った保見は中学卒業後に上京し、長らく関東で働いていたが、90年代にUターンしてきた。しかし村人たちの輪に溶け込めず「草刈機を燃やされる」「庭に除草剤を撒かれる」「『犬が臭い』と文句を言われる」などの出来事が起こっていたのだと『女性セブン』(小学館)2013年8月15日号は報じていた。また被害者のひとりである貞森誠さんが、かつて保見を刺したことがあるという、気がかりな情報もあった。「みんな仲良しなのに、1人だけ浮いた存在」。保見の逮捕直後、新聞のインタビューに近隣住民がこうも語っていた。
 保見はICレコーダーに「周りから意地悪ばかりされた」と吹き込んでいたが、これは妄想などではなく、本当なのではないか――。
 そのようなことを思っていたが、この時の目的は少し違っていた。私に声をかけてきてくれた月刊誌の編集者は、金峰地区における夜這い風習≠ノついて取材をしてきてほしい、と頼んできたのだ。彼は私にある記事を手渡した。
 それは『週刊新潮』2016年10月20日号(新潮社)に掲載されていた山口連続殺人事件にまつわるものだった。あるジャーナリストが、広島拘置所に収監されている保見に面会取材を行い、逮捕当時に大きく報じられていた「村八分」の発端となる『ある事件』について話を聞いたというのだ。
 読めば、金峰地区には夜這い≠フ風習があり、戦中に一人だけ徴兵を免れた村人が、女たちを強姦してまわっていたという。そして、この村人が保見の母親を犯そうとしたとき、それを止めて追い払った人物が、保見光成と二十歳近く年の離れた実兄なのだ、と。
「これを、ちょっと行って来て、確かめてもらえる?」
 とその編集者は言う。
 私は保見の公判を傍聴に行きたいと一審の当時思っていたが子供が産まれたばかりだったため、長期間家を空けることができず、諦めたという経緯があった。編集者とはその話も過去にしていた。おそらくそれを覚えていて、話を振ってくれたのだろう。二つ返事で引き受けた。
 とはいいながらも、取材を終えてその結果を世に出せば、世に出ている記事の検証取材であるから、ややこしいことになる、という予感は最初からあった。しかも取材の目的が「金峰に夜這いの風習があったかどうか、確かめる」というもの。行くとは決めたものの、多忙な夫に子供を預け、遠路はるばる山口県周南市の山奥まで出向き、夜這いについて村人に話を聞いて回る……。
「夜這いの取材かぁ……」
 ノートパソコンを開いて取材前の情報収集をしながら、年末の夜中にリビングでひとり思わず呟いてしまった。この21世紀に夜這いの取材。ちゃんと話が取れるのかと不安になる。だが引き受けたからにはやらねばならない。それに件の記事には、保見へのいじめ≠ヘ存在し、その発端が戦中の強姦未遂事件≠ナあると記されているのだから、それを確かめることは、一応いじめ≠ノ絡む取材ではある。西に向かう新幹線の中で私は腹を決めた。

 民俗学者らの文献や、伝承ものの書籍には、夜這いについての記述はいくつもある。宮本常一の『忘れられた日本人』(岩波文庫)に収録されている「土佐源氏」は現在の高知県檮原町で乞食小屋に住む元ばくろうの老人≠ゥら聞き取った昔話で構成されているが、この老人の父親は、母の夜這いの相手≠セった。同じく同書収録の「世間師」では、宮本の故郷である周防大島でふたりの老人から聞き取りを行っている。このうちひとりは長州征伐のあった1865年に14歳だったという男性だが「戸締りが厳重になったため、娘のところへ夜這いに行けなくなってしまった」とある。
 同じく民俗学者の赤松啓介は『夜這いの民俗学・夜這いの性愛論』(ちくま学芸文庫)で実際に様々な村へ足を運び、時に村のコミュニティに入り込んで、夜這いについて聞き取りを重ねている。また、ともに夫の転勤で徳山に来たという向谷喜久江・島利栄子によって記された『よばいのあったころ 証言・周防の性風俗』(マツノ書店)では、山口における夜這い文化について、老人たちに聞き取りを行なっているが、ここには「山間部の部落には、若衆宿が、昭和の初めごろまであった」とある。若衆宿とはその集落で一定の年齢に達した男子たちが集まる場所で、規律や生活上のルールに加え性的な事柄も伝えられていた一種の教育施設だ。こうした文献に照らせば、金峰地区にかつて夜這い文化があったとしても全く不思議ではない。だが戦中まで、となるとどうか。

(続く)
https://note.mu/tk84yuki/n/n264862a0e6f6


ルポ「つけびの村」02/06 〜つけびして 煙り喜ぶ 田舎者〜 2018/07/23
https://note.mu/tk84yuki/n/n3cf6b0673398

2013年7月に山口県周南市で発生した山口連続殺人放火事件について、2017年に取材し、まとめたものを6回に分けて公開します。存命の関係者のお名前は全て仮名です。2017年9月7日脱稿、その後少し寝かせていました。

 事件のあった「金峰地区の郷集落」は、山口県周南市の北部にある山村だ。
 その周南市は山口県東部に位置し、重化学工業を主な産業としている。2003年に徳山市、新南陽市など2市2町が合併し発足した。南側の臨海部に広がる工場群は現在「周南コンビナート」と呼ばれ、遊覧船による夜景ツアーが組まれるなど観光名所のひとつとなっている。ここは明治時代に旧海軍の石炭基地が設けられたのち、石炭が石油に代わり石油科学工場が発達。昭和初期には海軍の燃料廠や有機・無機化学、鉄鋼などが集積する工業地帯に成長した。昭和39年には工業整備特別地域に指定され、隣接する下松市、光市とともに重化学工業の拠点としての本格的な整備が進み、製造品の出荷額は山口県の5分の1を占める。
 JR徳山駅はこの「周南コンビナート」の港沿いを走る山陽本線と、東京から博多へ続く山陽新幹線が停車する周南市の中心駅だ。駅名には合併前の都市名がそのまま残る。東京から新幹線で4時間以上かかるが、それでも空路を使うより手っ取り早い。県東部の岩国錦帯橋空港から郷地区は50キロ、西部の山口宇部空港とは90キロ離れていて、乗り継ぎにかかる時間を考えると、やはり新幹線一択になる。

 駅から港に向かい数分歩いたところにある徳山港には、太平洋戦争で海軍が開発していた人間魚雷「回天」の実物大レプリカが展示されている。ここから発着しているフェリーに乗り30分ほどの距離にある大津島には、かつて回天の組立工場と発車訓練基地があった。いまも島には記念館があるが、そこを目指しているとおぼしき観光客の姿はない。
 駅を挟んで港の反対側は中心市街地だ。とはいえその規模は小さい。地方都市の宿命か、駅前のアーケード街に人は数えるほどしか歩いておらず、半分以上の店舗がシャッターを閉じていた。そんな中にも、銀行の支店や市役所、新聞社などが立ち並び、夜は酔客でささやかな賑わいを見せる。
 瀬戸内海に面しているこの辺りの気候は温暖で冬でも晴れる日が多い。滅多に雪も積もらないというが、対して北側は中国山地の一部にあたり山深く、冬の積雪も珍しいことではない。目指す金峰地区は、北側に属する。臨海部の主要産業が重化学工業であるのに対し、北側はぶどうや梨の栽培をはじめとした農業が栄えている。


 2017年1月、私は徳山駅の近くで車を借り、金峰地区に向かった。周南市に私鉄はなく、JR山陽本線も湾岸部しか走っていないので、住民は移動にバスか車を利用している。地元のバス会社はあるにはあるが、運行網は金峰地区から9キロほど離れた場所で途絶えていた。そこからタクシーを探すより、徳山駅から車を走らせた方が早い。
 新幹線の中でスマホのアプリを立ち上げて天気予報をチェックした時、週末には寒波が押し寄せ、日本海側に大雪が降ると告げていた。そのせいか、ダウンコートを着ていても寒い。車を3キロほど走らせると、あっという間にスーパーや飲食店は姿を消し、両側と前方にこんもりとした山が広がり始めた。車線も狭くなるが、それでもまだ道は綺麗に舗装されている。ここでようやく、ガードレールが白でなくオレンジ色であることに気がついた。山口県は昭和38年の山口国体開催にあたり、特色のあるものを作ろうと考え、ガードレールを県特産の「夏みかん」色にしたのである。
 オレンジ色のガードレールが両側に立つ片側一車線の山道は時折くねくねと急カーブを切らなければならないが、15分ほど走ると、ようやくコンビニと開けた小さな町が目に飛び込んできた。金峰と徳山市街地の間にある、唯一の町だ。とはいえ、コンビニぐらいしか買い物できる場所はない。ここで飲み物を調達し、さらに国道で北に向かう。すぐにまた道の両脇を山に囲まれ、先ほどまで快晴だったのが嘘のように空が曇り始めた。家も店もない道をしばらく進むと見えてきたのは菅野湖だ。ここにかかる細く古い橋を渡り、湖沿いの県道41号線をひたすら北上する。バス釣りのメッカのようで、ボートを曳いたクルーザーが何台も停まっていた。下流にスロープがあり、ボートを湖に降ろせるようだ。
 車の西側には深緑色の湖面が広がり、東側の山肌には草木が生い茂っている。まだ徳山駅から30分も走っていないのに、ここまで山深くなるかと驚いてしまう。しかも舗装が悪い。濡れた路面はでこぼこで、ところどころ深く大きな穴が空き、水たまりができていた。スリップして湖に落ちやしないかとすこし怖くなった。
 それでも、湖沿いのボロ道を抜けると、また普通の道路に戻る。ここまで徳山駅から40分ほど。距離にして20キロしか離れてないが、見渡す限り山と田畑が広がる田舎道で、もうコンビニなどどこにもない。
 ところが「金峰の郷集落」にさしかかる直前のすこし開けた平野を走っていると、突如として銀色のUFOと巨大な象が目に飛び込んできた。その脇には『宇宙の入り口』という看板が立っている。
 まだ郷集落にも着いていないのに、思わず車を停め、UFOを眺めた。
 そういえば、菅野湖沿いを走っているときから、小さなUFO型の看板がいくつも立っているのを見ていた。そこには手書きで「気をつけて安全運転」など記されていたが、『宇宙の入り口』へ向かうための案内板だったようだ。
 木材で骨組みを作り、アルミ板のようなものをかぶせて仕上げをした数台のUFOと象のオブジェのほか、幅2メートルはあろうかという巨大な太鼓や、木馬も並んでいる。「このブランコに乗ると結ばれる 愛愛ブランコ」という文字が躍った木製のブランコもあった。いわゆるB級アミューズメントスポットだが、陰惨な事件現場のすぐそばにこのような施設が並んでいると、ただ不気味でしかない。
 車に戻ろうとしたところで、男性に手招きをされた。全て手作りだという、この『宇宙の入り口』の生みの親だった。男性は保見と同い年だが、金峰地区に住むものではなかった。
 再び車に戻る。木々の生い茂る薄暗い道を数分行くと、ようやく金峰の郷集落に着いた。
 事件当時、ここは「携帯電話も通じない限界集落」だといわれていたが、実際に足を運ぶと、ほとんどの場所で携帯電話の柱も立った。
 保見光成の家は、地区名の由来にもなった一千年以上の歴史を持つ金峰神社の参道前にある。ここが郷集落の入り口だ。家は二棟あり、ピンク色の壁をした新宅と、茶色のベニヤ板でできた本宅が、土壁のガレージを挟んでいる。本宅からガレージにかけられたブルーシートは劣化して破れ、風にあおられるたび、焦げ跡のある家の壁や、倉庫の中が見えた。

 保見が関東から戻ってくる際に自力で作ったという新宅のまわりには、枯れ枝が散乱していた。それをかき分け、白い門扉の前に立つ。右脇には茶色い壺や人型のオブジェが、空っぽになって倒れた植木鉢とともに雑然と並んでいる。門の奥にはガラス戸の出入り口があるが、上半分は簾がかかっていて中は見えない。左手に目をやると陶器でできた大道芸人の人形が置かれていた。その奥に立つポストはガムテープで塞がれていて「郵便物は入れないでください 当方へ御用の折は、お手数ですが下記にご連絡ください」と携帯電話番号らしきものが書かれた紙が貼られている。試しにその番号へかけると「現在使われておりません」のアナウンスが流れた。少し下がって全景を見れば、雨どいを支える柱に、CDが貼り付けてあった。再び近づいて目をこらすと、ちょうど保見が金峰に戻ってくる直前である1993年に松任谷由実がリリースしたアルバム『Uーmiz』だ。都会での思い出が詰まっているCDなのだろうか。
 土壁のガレージは車が2台は停められる大きさで、シャッターはついていない。破れたブルーシートを少し開けて中を覗くと、汚れた国旗や工具、工具箱、段ボールやタイヤ、窓枠などで散らかっていた。上部にかけられた針金にもザルやブリキの薬缶といった様々な道具が吊られている。幅が30センチはありそうな、片刃のノコギリのような、見慣れない刃物も吊られていた。隣に無造作に置かれた資材の上には鳥かご。中にはオウムのぬいぐるみが入っていた。新宅、本宅ともに屋根の下にはセンサーライトらしきものの残骸が残る。
 本宅の出入り口引き戸の脇に表札はないが、上にはロールス・ロイスのプレートと、可愛くデフォルメされた熱帯魚のオブジェが貼り付けられていた。
 その右側には、かつてあの貼り紙が貼られていた窓がある。

「つけびして 煙り喜ぶ 田舎者 かつを」

 これもすでに剥がされていた。
 ガラス窓は汚れ、かなり曇っているが目を凝らして中を見ると、すぐ前に壁があった。11時20分で時を止めた古時計のまわりに扇子が6枚かけられていて、下に備えられた棚の上には陶器の酒樽が置かれている。その脇にあるスリッパ立てには、きちんとスリッパが4組揃えられていた。
 住む人を失った住居特有の寂れ具合を醸し出していたが、事件がなくとも、家主の個性がにじみ出ている家だったことだろう。
 保見光成に撲殺された後、放火された隣の山本さんの家は雑草生い茂る空き地になっており、同じように撲殺され、放火された貞森さんの家の跡には、小型ユンボが置き去りにされ、その脇に真っ黒に焦げた木材が積み上げられていた。3年半経っても、事件の痕跡は集落の中に色濃く残る。

 郷集落入り口の交差点は、通ってきた南からの県道41号線と、東西に伸びる県道9号線がぶつかる。ごくたまに、9号線を大型トラックが轟音を立て猛スピードで走る以外は、ほとんど車も通らない。村人も誰一人、歩いてはいない。道沿いに流れる小川のせせらぎと、山の葉の擦れる音がざわざわと鳴るだけだ。空は晴れたかと思うと雲が広がるというせわしない状態を繰り返しているが、晴れているときでも山が太陽を遮り、道が陰る。路面はやはりところどころ濡れていた。空気は刺すように冷たく、湿っぽい。私は山口県の隣、福岡県出身だが、同じ西日本でもここまで寒さが厳しいとは思っていなかった。
 保見の家のはす向かいにある、砂利が敷き詰められた広場に車を停めた。ここにはかつて廃屋があったというが、今は更地になっている。事件当時は規制線が張られていた小さな橋を渡って、住宅地図を手に、郷集落を奥へと進んだ。車が一台しか通れない細い道が、小さな川に沿って伸びていた。徳山の市街地よりも寒さが厳しく、少し歩くだけで冷えが身体中に広がる。足の先は感覚を失い、手が動かなくなってきた。
 周南市役所の集計によると、2016年12月31日時点での人口はわずか10人。一軒一軒、訪ね歩いても、誰も出てこない。橋を渡ってすぐ右側にあるオレンジ色の瓦の二階建て家屋は、一階がガラス張りで商店のような趣があるが、中を覗いてみたところ生活用品が雑然と散らばり、すでに空き家になっているであろうことは想像がついた。
 その向かいに伸びる石段を登ると、小さな寺がある。脇の寺務所の門を叩き呼びかけたが、やはり誰もいない。再び細い道に戻って集落を奥へと進んだ。道の片側に流れる小川は、冬でも雑草が高く生い茂っている。その反対側にある山を切り開き、古い家屋が点在していた。どの家も車が一台やっと通れるような私道を少し登ったところに建てられていて、脇にある車の停められる大きさの倉庫には農機具や薪などが置かれていた。古い家屋の作りはだいたい同じで、ガラス引き戸の玄関の脇に、両開きの掃き出し窓が二窓ほど並んでいる。
 寺の隣には、本来は公民館だという古く小さな木造の建物があるが、鍵がかかっていて、使われている形跡はない。脇には、殺害された河村聡子さんが名付けたという『金峰杣の里交流館』。集落にある建物の中では目新しく大きい。保見が逮捕されるまで、村人たちが避難していた場所だが、ここも扉には鍵がかかり窓は雨戸が閉められ、ひっそりとしている。
 郷集落についてから人に行き合っていないし、どの家も人の気配がない。心細くなりながら、車が一台しか通れない小川沿いの道をゆっくりと進む。気温が低すぎるせいか、手に持っていたスマホは突然電源が落ち、動かなくなった。小川の反対側には、この道路よりも少し高い位置に県道9号線が沿っている。あの県道からは村の家々が見渡せる。保見の逮捕当時は中継車が停まり、テレビもそこから村の遠景を捉えていた。
 更に細い道を東に進むと左手の高台に家が見えた。見上げると、グレーのトタン屋根一面に『魔女の宅急便』のキキが箒にまたがっている絵が描かれている。さきほどのUFOに負けず劣らずの不気味さだ。玄関前には旭日旗が掲げられ、引き戸の前に置かれたホワイトボードに夏目漱石、福沢諭吉などの名前が書かれていた。すりガラスの引き戸の奥には蛍光灯のあかりがちらちらと見える。扉を叩いて「こんにちは!」と外から呼びかけた。ところが、そのたびに中からテレビとおぼしき音がどんどんと大きくなっていく。4回ほど呼びかけたときには、騒音レベルにテレビの音が大きくなってしまった。真昼なのに薄暗い村を歩いているだけで怖いのに、この家人の対応にまた怖くなり、もう諦めた。
 郷集落の東の端にあるのは、聡子さんとその夫、河村二次男さんの家だ。そこを目指し『魔女の宅急便』の家を離れ、草の生い茂る川沿いを再び歩くと、背の高い木がみっしりと植えられた私道を登った山側の高台に、誰も住むもののいなくなった石村文人さんの家、そしてもう一軒の二階建ての家があった。こちらも不在だった。石村さんの家は家族が時折空気を入れ替えるために訪れていると聞いた。すりガラスの引き戸の奥は真っ暗だ。古く黒い木で作られた表札に『石村文人』と大きく書かれている。その石村さんは3年半前、この引き戸の奥で、保見に頭を何度も殴られ、絶命した。
 保見はこの引き戸を開ける時、何を考えていたのか……。
 隣の家の犬がけたたましく吠えた。さっきの道に戻ろう。
 河村二次男さんが不在の場合、郷集落での取材はかなわない。細道に戻り、さらに先を目指すが、道はさらに草が生い茂り、廃道のような趣になってきた。この先に家があるのだろうかと焦りが募り始めたころ、ようやく家らしきものが見えてきた。大きな物置のようなものが置かれたガレージのそばには、まだ艶のある御影石の墓。玄関引戸の脇には『キンポー整体院』『札所(六代目)』と毛筆で描かれた木の看板がある。引戸の前から呼びかけるとしばらくして高齢の男性が、玄関横の腰高窓を開けて姿を見せた。がっしりとした上半身をしていて、目はギョロッと大きく、出目金のようでもある。
「三年前の事件のことを、今取材している者です。東京から来ました。お話を聞かせていただきたいのですが……」
 駄目元で切り出すと、男性は言った。
「いま扉開けるから、中に入りない」

 その男性、河村二次男さんは事件当時、友人たちと愛媛県に旅行に出かけていた。
「はよう死刑になればいいと思うちょる。でも弁護士のアレで。やってなかったって言いよるけど5人も殺しとるんやけ。火までつけちょるのに。山口で最終弁論があったときに我々もいろいろ言ってアレしたけど、やってないっちゅうことはない。犯人はわかっちょるし火もつけとるんやしね」
 方言と、河村さんの滑舌の悪さに、何を言っているのかよく聞き取れなかったが、根気よく1時間も話を聞くと、少しずつ聞き取れるようになって来た。
「片目にもなっちょるし。こっちは目が見えんし。事故でね。鼻水が出そうになるとかむけど、そのとき耳の鼓膜がいってね。診療所行ったら『あんまり聞こえんほうがいいですよ』って。あはははは」
 かつて車の事故で頭部を負傷し右目を失明したそうだ。あっけらかんと語る様子に面食らった。確かに両目の視線の先が合っていない。それでもガレージに停めてある軽トラックを運転するというから驚いたが、この地では車の運転ができなければ何もできない。
 通された応接間には、壁にびっしりと写真やカレンダーが飾られている。孫娘と笑顔で並んで写った写真も大きく引き伸ばされ、貼られていた。山の頂上で撮影された集合写真もある。河村さんはこのとき79歳だと言っていたが、背筋も曲がっておらず、体つきもがっしりしている。かつては活発に友人らと外に出かけていたのだろう。ガラス戸棚の中には、聡子さんに宛てた孫娘からの手紙があった。整体に関する書籍も並んでいる。公務員を定年まで勤め上げたのち、整体の学校に通い、自宅で整体院を営んでいたという。
「わしは天下りをするなと役場で言ってきた。要請があったけど断ってきた。でもそりゃ、定年になったらなんかせんといかん。手を動かしたらボケん、っちゅうからやってみよう、って。1年ほど学校行きまして。60万ぐらいかかったんじゃないかな。1回3000円でやりよった」
 こうした四方山話を聞きながら、私は夜這い≠ノついて河村さんにたずねる機会を伺っていた。編集者が持っていた記事にはこうあったからだ。

―― 私【保見光成】が金峰に戻ってきた直後、竹田(仮名)が、『おめえの兄貴にはイジメられたぞ』って言い始めた/時を同じくして、近隣住民に道で無視されるといった些事から、農機具を燃やされ、挙句に刃物で切りつけられたりといった大事に至るまで/数多の“事件”が起きたという〜先の大戦当時、10代半ばだった保見の兄は、母親に言い寄る徴兵忌避の男を追い払い家を守り抜いた。実は、その男の長男こそ、帰郷直後の保見に「兄貴にはイジメられたぞ」とからんだ竹田だったという――前出記事

 記事の中で『竹田』という仮名をあてられ、年齢も伏せられている「強姦魔の息子」とは、いったい誰か。最初に手掛かりになったのは『事件後、金峰周辺の人々は、陰でこう囁きあった。「竹田こそが保見の本命だったじゃろうに……」』という記述。この書きようから察するに、『竹田』は殺害された五人ではなく、七人(事件当時)の生存者の中にいる。
 次に、「兄貴にはイジメられたぞ」発言。保見は、山口地裁で行われた一審公判の中でも、同じ台詞を口にしていた。『「お前の兄貴にはいじめられたぞ」と、カワムラさんに言われました』。
 強姦(夜這い)についての発言はなかったが、相手の名前を挙げていたのだった。となれば、郷集落で生き残っているカワムラさんは目の前にいる河村二次男さん、一人しかいない。
 いよいよ私は聞いた。

――戦時中は、河村さんのお父さんも兵隊に行かれていたんですか?
 強姦魔は徴兵忌避の男だったと記事にあったからだ。
「親父は、背が低すぎて(徴兵)検査に落ちたから兵隊にとられなかった」
 なんと。忌避ではないが、河村さんの父親は戦争に行ってなかったのだという。
 では、河村さん自身は「父親による強姦」が原因で保見の兄にいじめられ、そのことを保見に言ったことがあるのか?
「バカ言っちゃいかん! そげなことは今はじめて聞いた」
 記事の存在をまったく知らなかった河村さんは憤慨した。
 ここでようやく持ってきた記事のコピーを河村さんに見せながら、取材の目的を明かした。すると、しばらく記事を眺めていた河村さんはそこに載っていた「つけび」の貼り紙を指しながら驚くことを言ったのだ。
「これ、うちのうしろに火をつけられたことがあるんですよ。わしはこれじゃないかと思うんですよ。家の前に貼ってる。ここに火をつけて2〜3日で貼っちょったね。家の一番良く見えるところに貼っちょった。下手くそな字でね」
 そしてこう続けた。
「僕が思うにそれは犯人が違うと思うんや」
 保見は事件の時に二軒の家に火を放ったとされているが、保見の他にも火をつけるような村人がいたのか?
「うん、悪いやつおったんよ。それは人から見たら、わしも悪いんかもしれんけど」
 事件の痕跡を色濃く残した郷集落のたたずまいや、『魔女の宅急便』の屋根の変な家もあいまって、私はいよいよ怖くなってきた。
 家を出る時に河村さんは表まで出て来て見送ってくれた。ガレージの中にある物置のようなものはシイタケを乾燥させる機械だと教えてくれた。真新しい墓はやはり聡子さんのものだった。
「あいつ(妻)が先に入っちゃった」と河村さんは言いながら、目元をこすった。
 その後、近隣の集落の村人たちにも話を聞いて回ったが、皆、河村さんと同じことを話した。「河村さんの家の風呂場が焼けた」が、その犯人は「保見ではない」と。
「金峰の夜這い」についても、夜這いそのものが金峰にあったらしいことは分かったが、戦中の夜這い(強姦)を巡る河村家と保見家の禍根について知っている者はいなかった。またそもそも、河村さん自身「長男」ではなかった。
「兄貴は、公務員やなんかやりよった。39で交通事故で死んだからそんで帰った。それまでわしは外に出とった」
 件の記事は、保見の言い分のみをもとに作り上げた記事だった可能性が高まった。
 私は東京に戻り、取材で得た話を原稿にまとめた。だが、一向に記事は掲載されず「送り」になることが続く。一旦はその月刊誌で企画として動き出したが、掲載のタイミングがないのだ。発生からすでに何年も経っている事件では、その裁判に動きがあったときか、もしくは刑が確定したか、さらには、死刑判決を下された犯人に死刑が執行されたときしか、掲載のきっかけはない。だが掲載が延びればギャランティの支払いも先送りとなる。「送り」が3回続いたとき、私はこの記事を「非掲載」にしてもらい、別の実話誌に掲載してもらうことにした。
 こうして『山口連続殺人事件』の仕事は一旦終わったが、しかし私には1月の取材を通じ、もっとこの事件を掘り下げたいという気持ちが沸き起こっていた。いや、事件というよりも、村人たちの話の不吉さが頭から離れず、この不気味な村の正体を知りたくなったのだ。
「つけび」貼り紙の発端となったのが、河村邸放火事件だったことにも驚いたが、村人たちはこんなことも話してくれていた。
「何回かあったらしいよ。何かにつけてケチつけてたけね」
 なんと郷集落での火災は一度ではないというのだ。
 こう話す村人もいた。
「皆殺されて、おらんようになったから、幕引きはできた。私はほんとに安心して生活できるようになったよ。わし自身は。今はもう鍵はかけんけど、鍵をかけ忘れるときも別にどうちゅうことないし、倉庫の鍵をつけたままにしとっても別に何も盗られることもないし、以前はそんなことしよったら何もなくなりよったからね。まだ色々悪いのがおったの。名前をあげりゃ2〜3人そんなものはおったからね」
 まるで事件で村に平穏が訪れたかのような口ぶりなのである。「皆が家族みたいに仲良しだった」集落で、「鍵をかける者などいなかった」という報道に接していた私は、また驚いた。
 さらには、保見について周辺集落を訪ね歩いた時、こんな話を聞いていた。
「親父がコレじゃったけね」
 人差し指を丸めながら、ある村人は言う。保見の父親が泥棒だったというのである。
 そしてある村人は、こちらが真顔で事件のことを尋ねているのに、
「夏はね、亡くなった山本さんやら貞森さんやら、石村さんやらとね、蛍でも出たらね、夕方に『蛍見よう』ゆうてから、仕事から帰ってね、おかずの一品でも作って、皆で集まってビール飲みよったけど。みーんな、その仲間は、殺されてしもうたね。あはははは……」
 と、なぜか高らかに笑うのだ。
 一体、この村はなんなのだ。
 保見が事件を起こす前から、泥棒や放火といった悪事は村で日常としてあったのか?
 一方、保見に対する具体的ないじめ≠ノついても、このとき村人たちに尋ねていたが、確たる証拠は得られなかった。
 たしかに判決でも、近隣住民による保見への「うわさ」や「挑発行為」そして「嫌がらせ」は、保見の思い込みであり、徐々に妄想を深めて村人たちを恨んだ結果、起こした事件だった……と認定されていることは先にも書いた。
 そうはいっても、完全に妄想だけでこれだけの事件を起こすだろうか。
 公判を傍聴した中にも、その疑いを抱いた者がいた。旧知の傍聴マニアのひとりだ。いじめがあったのではと考えたそのマニアは、関東から山口地裁まで傍聴に出向き、いくつかの期日の審理を傍聴していた。保見が具体的な話をしていなかったか尋ねたところ「犬の水飲みバケツに農薬を入れられた……とかは話してました」という。だが、他にはさっぱりそれらしい話をしなかったというのだ。
「『何をされましたか』って公判で質問されたらやっぱり刺された話をするもんじゃないですか。貞森さんから刺されたことは事実ですから。でもその話はしてないんですよ。『街宣車が来ると家の前で心を入れ替えなさいと言われる』とか話し始めるんです。家の前でかならず『心を入れ替えなさい』と同じところをテープで大音量で流されるって。そういう妄想の話しか出てこなくて、肝心な話をしないんですよ」
 また保見は公判で「自宅で作っていたカレーに農薬を入れられた」という話もしていたのだが、よく聞けばそれがいじめ≠ゥどうか、怪しかった。
「一ヶ月分まとめて七輪で作るんです。普通に考えると一ヶ月分作ったら最後の方は腐って食中毒になりますよね。冷蔵庫に入れるでもなく勝手口で作っているんです。そのカレー鍋に農薬を入れられて食べて死にそうになったって保見は言っているんだけど、それは農薬のせいじゃなくて腐ってたんじゃないか? って聞いた方は思うじゃないですか」
 私が当初期待していたほど、公判で保見はいじめ≠ノついての詳細を語ることはしていなかったのだ。

 保見と同じように集落に住む一人の人間が突如として 近隣の者たちを皆殺しにする事件を、私は他にも知っていた。1938年に岡山県津山市の貝尾部落で起きた『津山三十人殺し』である。実際、山口連続殺人事件を平成の津山事件≠ニ報じるマスメディアもあった。
 田舎の限界集落で、周囲に馴染めない一人の男が突如として村人たちを殺害してまわる……たしかに二つの事件は似ている。津山事件の犯人は、当時21歳だった都井睦雄。匕首と日本刀、九連発ブローニング猟銃を携え、自宅の祖母の首を刎ねたのを皮切りに、わずか一時間半の間に三十人を殺害し、近くの山で猟銃自殺した。
 保見光成は自殺まではしなかったが、この二人が、自らも暮す集落の人々に対して、強い嫌悪感を抱いていたことも共通する。『津山三十人殺し』(筑波昭/新潮社)によれば、都井は三通の遺書を残しており、そこには集落の人々への恨みが綴られていた。一部の村人は都井が患っていた病気を毛嫌いし「肺病の一家や、近づいたらあかんぞ」などと直接言っていたといわれる。対する保見は、事件の二年前の元旦に周南警察署を訪れ、「地区で孤立している。集落で悪口を言われている」などと、のちに殺害することになる被害者たちの名を上げていたほか、逮捕直後にも、近所の人の名を挙げて「うまくいってなかった」と語っていた。
 それよりももっと、共通点を感じる大量殺人事件を私は過去に傍聴していた。2004年に兵庫県加古川市で発生した『加古川七人殺し』だ。当時47歳だった藤城康孝は8月2日の午前3時半、突如、近隣に住む親戚を次々に牛肉解体用の特殊な包丁で刺してまわり、7人を殺害したのち、自宅に放火し、ガソリンを積んだ車に乗り込み発車し、それを近所の信号柱にぶつけ、自殺を図るが警察官に引きずり出されて逮捕されたという事件だ。
 保見の逮捕のニュースに接した際、私は津山事件でなく加古川事件を真っ先に思い浮かべた。2009年に神戸地方裁判所で論告弁論を傍聴した際に、検察側が近隣住民との諍いについて述べたのだ。
「周辺は古くからの農村で人間関係が濃密。ささいな出来事も話題にのぼり、噂になる土地柄です。
 被告人一家は権利関係があいまいなまま本家の土地の一部に住み続けていました。また被告人は近所でもけんかっ早くて有名で、定職につかず、被告人の父は昭和62年に『年金を1人で使いたい』と家出します。しかし周りには『被告人の暴力から逃げる』と嘘をつきました。被告人の兄弟は自立しており、母親が靴下製造工場でパートとして働き、生計を立てていました。
 被告人は当時、老齢の母と2人で暮らしており、常に噂話の対象となっていました。被告人の母はこう述べています。
『夫が家にいた頃まではあまりにも露骨な噂話はありませんでしたが、夫がいなくなってから格好の噂の対象になりました。遠慮もなくなり、外出時には利彦の妻、周囲の住民が井戸端会議をしていました。挨拶をしても返さず、声を潜めその場を離れて行きます。娘も「あの人ら何なん。いつも悪口言ってる」と言っていました』
 また被害者のひとりと立ち話していた近所の女性は『被告人の姿はたまにしか見かけませんでした。平日の昼も家にいるようで、まともに仕事もしてないこともわかっていましたが、何か仕事しとるんやろか、と噂していました』と述べています。
 このような環境で被告人は周囲が自分を見下していると考え、怒りを募らせていったのです」
 藤城に対しては何度も精神鑑定が行われた。一審・神戸地裁では弁護側請求による鑑定と、検察側請求による鑑定。二審・大阪高裁では裁判所が職権で鑑定。一審弁護側請求鑑定と二審の鑑定では、保見と同じく『妄想性障害』という診断が下された。だがそれに伴う責任能力の有無については、保見とは扱いが異なった、一審弁護側請求鑑定で「完全責任能力を否定」し、二審の鑑定でも「判断能力に著しく障害があった」と責任能力が限定的であったとされたのだが、神戸地裁も大阪高裁も、完全責任能力があったと判断したのだ。最終的に最高裁でも『妄想性障害はあったが完全責任能力はあった』と認定されている。だが近隣住民による「うわさ」や「挨拶をしても返さない」などのいじめが存在したことは神戸地検も争ってはいなかった。

 集落にはそれぞれの性質がある。ひとくちに村八分≠ニいっても、その性質により、内容も異なる。先のふたつの事件では、都井に対しては直接的な悪口、藤城に対しては陰口や無視といった行為がそれにあたる。保見に対してはどうだったか。1月に触れた郷集落の不気味さの片鱗だけでなく、村の本当の姿を知らなければ、保見の感じていた疎外感を知ることもできない。
 私は、改めてこの郷集落における保見がいかなる存在だったのかを追うことにした。まだ梅雨は明けていなかった。

保見ちゃん

 保見光成は昭和24(1949)年12月に郷集落で生まれ、地元の金峰小学校に入学。鹿野中学校を卒業後に上京し、先に上京していた長兄と仕事をしていた。17歳の頃にボクシングを始め、ジムを何度か移ったが、そのうち兄とやっていた仕事を辞め、ジムに住み込む。パチンコ屋でも住み込みで働いていたという。
 山口地方裁判所で行われた裁判員裁判の検察側被告人質問(第七回公判)で、保見は自らの経歴を問われ、こう語っている。

検察官「金峰を出たあと、関東ではどのような仕事をしましたか?」
保見「いろいろあります。石貼り(タイル)、のろ貼り(セメント)、軽天(天井)、建築に関すること、ほとんど。住込みのパチンコも、あっ、すし屋……」

 時は高度経済成長期。若い労働者が金の卵としてもてはやされた時代だ。左官や土建業を中心に、保見はさまざまな仕事を渡り歩いた。
「東京では、やればやるだけ金がもらえた。当時は月200万の収入があった。貯金は1500万ぐらい」
 全盛期は、仕事場にシュラフを持ち込み、夜になるとそこに潜り込んで眠り、目覚めてすぐに現場仕事に取り掛かる、という生活をしていた、と村人たちは保見から聞いていた。だが、本当にずっとそんな調子で稼げていたかは、分からない。

「体の調子が悪いから、戻ってきてほしい」

 父親の友一からこんな連絡を受け、郷に戻ることを決めた保見光成は、1994年10月、元駐在所の本宅に隣接する土地を、その所有者であり事件の被害者となった石村文人さんから購入し、当時住んでいた関東と金峰を往復しながら自力で新宅を完成させた。1996年5月、拠点を金峰に移し、両親との3人暮らしが始まる。このときには1000万円の貯金があった。
 土地の購入に関しては、郷地区から少し離れた金峰谷(みたけだに)という集落に住んでいた、鹿野町(当時)の町会議員、三浦富貴人(ふきと)さんが、高齢の友一夫妻を心配し、保見へ譲ることを石村さんにすすめたのだと地元では言われている。その富貴人さんは事件が起こった年に亡くなった。
 石村さんから購入した土地の登記簿を確認すると、郷地区に戻る直前の、保見の住所が確認できた。神奈川県川崎市多摩区のアパートだ。京王・JR両線の稲田堤駅から北東に1キロほど進んだその場所を尋ねたが、すでにアパートはなくなっていた。古い平屋住宅、低層階の古いマンションやアパートが立ち並ぶ中に、造園屋や工務店などが点在している。真新しい建売の戸建てが、ところどころに出来始めていた。
「あいつのタイルの親方がこの辺にいたんだけど引っ越しちゃったんだよな。職人としての腕はよかったよ。やっこさんが住んでたところの隣に3階建てのマンションがあるのよ。そこを奴がやったんだよね。外壁を」
 当時の保見を知る男性はこう語った。確かに、アパートの跡地すぐそばに、1991年3月に建てられたクリーム色のタイル張りマンションがあった。仕事は順調だったように見える。だが、このマンションが完成して数年後に「親が体の調子が悪いから、家に帰んなきゃなんねえんだ」と言い、金峰に戻ってしまった。
 保見はこの地に住んでいる当時、稲田堤の駅前に古くからある、焼き鳥屋の常連になっていた。その店主である森さん夫妻=i仮名)が、保見と同年代で、仲が良かったという。保見が住んでいたアパート跡地の近所にある森さん宅を何度か尋ね、奥さんに話を聞いていた。「あの事件があったときは田舎(山口)からも取材が来てたのよ」という。
 多摩川沿いにあるその家で夫妻は現在、甲斐犬のブリーダーをやっている。奥から何頭もの犬の鳴き声がけたたましく響くなか、玄関で取材に応じてくれた。
「私もお店(焼き鳥屋)に出ていて、当時子供も小さかったから、保見ちゃんに見てもらったりなんかしてたんです。その当時、別にどこか異常だとか感じたこともなかったしね。ただなんか神経質っていうかな。仕事は熱心だし真面目だし。真面目なんですよ。だから逆に真面目だからこそ、融通がきかないってのはあった。でもそれって、男でも女でも、人によって性格ってあるじゃないですか。
 保見ちゃんが働いてるとこの従業員の方とか社長とか飲みに来たり、自宅にも飲みに来たりなんかして家族ぐるみの付き合いしてたね。『あいつは気は短いけどでも気持ちはいいぞ』って社長は言ってました。わたしもホミちゃんのところに遊びに行ったことあるけど。だけど別にどうってことないし、ちゃんと洗濯もきちっとしてるし支払いもきちっとしてたからね、そういう付き合いはしてたんですよ。あんまり変な人だとね、うちも子供が女の子だから付き合えないし。
 保見ちゃんは、仕事が早く終わっちゃうと『一杯飲ませてくれとか』早い時間に店に来て喋ってたり。でも仕込みなんかで私たち夫婦は忙しいから、酒も出してる暇ないからね。だから自分で出して伝票も自分でつけてくれてたり。そんな感じでみんなで和気藹々とやってましたよ」
 そもそもの出会いは、当時森さん夫妻が切り盛りしていた焼き鳥屋に、保見がタイル職人の親方に連れられて来店したのがはじまりだった。
「保見ちゃんに会ったら言っといて。稲田堤のババアが年取ったって。娘は大きくなって孫もできたよ、保見ちゃんありがとうね、って」
 ちょうど家の奥から電話が鳴り出し、ここで話は途切れてしまった。

 稲田堤に住んでいたころの保見は、タイル張りの仕事に精を出し、行きつけの焼き鳥屋で交流の輪を広げ、仲の良い友人と一緒に釣りに行き、その魚を近所におすそ分けもする、でも頑固で細かいところもあった、普通の職人のおっちゃん≠セった。
 では、金峰地区に戻ってからはどうだったのか。

ワタル

 1月と同じように徳山駅から車で菅野湖沿いの県道41号を北上する。片側が湖、片側が山になっていて車一台しか通れない道だが、6月下旬ともなると、山から生い茂る雑草が伸びてきて、車の側面に葉が触れる音がかさかさと車中に響く。たどり着いた金峰地区も同じく、緑が生い茂っていた。
 この県道41号と、それよりも道幅が広い県道9号がぶつかる地点に保見とその両親が暮らした家がいまもある。41号を挟んだ向かい、西側には金峰神社へと続く参道がのびていた。保見の家から参道の方を眺めたとき、その脇に見えるのが金峰山(きんぽうざん)だ。
 前回訪れた時と村の佇まいは変わっていないが、季節が冬から梅雨になったことで、山の木々や道路沿いの雑草はさらに青々と生い茂っていた。そして、なんといっても虫が多い。歩いていても、止まっていても、走っても、身体中に小さな羽虫がまとわりついてくる。何をしていても虫たちが耳元で小さな羽音を響かせ、とくに顔に集まってくるから堪らない。小さな叫び声をあげるが、周りには誰もいない。手に持ったタオルで顔に寄ってくる虫をはたきつつ、郷集落や近隣の集落を訪ね歩いた。
 保見光成は、もともとの名前を『中』(わたる)という。そのため皆、保見のことを『ワタル』と言って話す。
 事件直前のワタルは、関東に住んでいた時の人物像とはまるでかけ離れた攻撃的な村人として、郷地区で敬遠されていた。妻の聡子さんを殺害された河村二次男さんが言う。
「うちの田んぼがワタルんちの前にあった。そこで女房が仕事をしとると、ワタルが家から窓開けて、歌を歌うて、おびくわけ。おびく、っち分かるかな、罵る、ちゅうこと。カラオケでギャーンと流す、そういうことしよった。女房は『気持ち悪い』っちゅうけど、わしは『取り合わんがいい』と言いよったんよ。
 女の人は集まって井戸端会議とかするじゃないですか。それを、まあ、ワタルの家の前に鳥居があるからね、そこで山本さんとうちの女房が話をしよったらワタルが外に出てきて犬の散歩がてら『お前ら殺したろうか』っちゅうわけ。『お前ら二人じゃつまらんけ、もう何人か連れてきてやっちゃろか』と。そういうこと言うわけ。
 女房がワタルの向かいの家に行っとるときに車で送って、お宮の前に車止めて、向こう見とったらワタルの家の方向くでしょ。そうしたら『お前何の用事があるんか』と言ってくる。そりゃあね、わしらも多少あれやったけど、田舎のものにあげなこと言うたら恐れる。あれは恐ろしい」
 道ゆく村人たちに食ってかかり、時には殺害も仄めかす。完璧な危険人物に成り果てていたようだ。
 別の住民も「貞森誠さんがワタルに掴みかかられた」、「棒みたいなん持って犬を散歩しよった。会うと『10人くらい殺して死のうと思う』とよう言いよった。思いがあったんかなんなんか。それを私はなんでとは問わんよね、怖いから」など口々に振り返る。
「夕方にカラオケかけて歌いよった。5時ごろ出たら歌ってるよ。『およげ!たいやきくん』やらね、そういう歌よ。すごい外に大きく聞こえるように。マイクをこうね。山側のほうに向けてね」
 しかも、食ってかかるだけでなく実際に暴力も振るい、挙げ句の果てに毎日のようにカラオケで熱唱していたというのだから、確かにこれは、田舎のものでなくとも、恐ろしい。
 当のワタルは一審山口地裁の被告人質問で、当時の生活パターンを検察官から問われこう答えている。
「最後はわからなくなった。朝5時半散歩して、家でカラオケ。事件2〜3か月前はなんもやってなかった。ポケーとして声を出すこともなかった。人の話を聞きたくない」
 最初の頃に自宅の窯で陶芸をやっていたことを覚えていた村人もいたが、それもいつしかやめていた。
 村人たちにはその言動を不審がられていたが、家の中はそれにもまして不気味だった。地下のトレーニングルームを中心に、自作のポエム≠ェびっしりと壁に貼られていたのである。一審公判の証拠調べで、法廷の壁にかけられた大型モニターにその壁の様子が映し出されている。傍聴した記者やマニアは一様にこの写真のことを真っ先に挙げ「すごかった」と語るほどだ。

「何かしなければ全て認めて死ぬことになる 悪者にされ一人死んでたまるか」
「試合である 警察に訴えない 病院代の請求 遺恨残さず」
「あなたの性根の悪さがよく分かる がまん がまん がまん いつまでどこまで リオブラボー」
「もんぺ下げ 散歩の亀に 餌をやる」
「無神経 なのに 神経痛」
「玄関前に横たわる ぴくりとも動かない 仇討ち」

 エロと恨みが共存したこれら不穏なポエム≠ヘ、村人への恨みから来るものなのではないか? そう一審公判で検察官が追求していたが、ワタルはそれを否定していた。こんな調子でだ。
「ルームの紙は両親が亡くなった後書いた。どういうつもりでって……つらい気持ちで書いた。見る時はなんともないです。子供がいじめられて日記書くでしょ、死ね死ね死ねとか。吐き出してすっきりする。そういうもんです」

 そうは言っても、すっきりできなかったから事件は起こったのではないか。
 事件直前は村の危険人物に成り果て、草むしりなどの集落の作業にも、自治会の仕事も参加せず、回覧板も受け取らない生活をしていたワタルだが、最初からそうだったわけではない。
 関東に出る前の幼少期は、ガキ大将として近所の子供を引き連れて遊んでいた。連れ回されるのが嫌で、子供たちはたいてい、ワタルが遊びに来る前に外に出るようにしていたという。いじめられていた同級生を守ってあげたこともある。
 1996年5月に郷地区に戻って来たばかりの頃も、いわゆる変人ではなかった。戻った翌月には自治会の旅行に参加した。その翌月に開かれた歓迎会にも参加して、自己紹介をし、村人たちの輪の中にすすんで入ろうとしている。2日連続の公民館行事に参加もした。旅行でのワタルの様子を覚えている村人はいない。ということは逆に言えば取り立てて何も問題がなかったのだろう。だが歓迎会でワタルは、自分がこの地で何をしたいか、村人たちに提案をした。
 公判を傍聴したマニアが、この当時の情報を語ってくれた。
「本人に面接し本鑑定を行なった精神科医が、彼は『村おこしに失敗した』と言っていました。その一言だけで、具体的には何に失敗したのか言っていなかったんです。本人は手に職があるからバリアフリーをやってみたり、年寄りが多いから色々と電気の付け替えとか、便利屋さんをやろうと思っていて、戻って来た年にあの新しい家で『シルバーハウスHOMI』を開業したんです。そこでやっぱり介護とかデイサービスみたいなこともやろうと思ったんじゃないですかね」
 ワタルは自力で建てた新宅で、リフォーム業を主とする便利屋を開業しようとしていた。当時すでに過疎化が進んでいた村を盛り上げたいという意志を持っていたという。新宅は、その拠点にしようというワタルの思いが込められた造りになっている。
「気軽に集まってもらったり、お酒を飲んで歌ったり話をしたりしたら楽しいよね」
 ある村人は、ワタルからこう聞いていた。いま草に覆われている新宅の扉の奥には、カウンターバーがあり、カラオケ機器も当初から取り付けられていた。地下にはトレーニングルーム、さらには陶芸のための窯もあった。
 ワタルはここを村人たちの交流の場として作ったのだ。
 日々ドアを開けてふらっと訪れる村人たちと、カウンターでお酒を飲みながら交流を深め、地元を盛り上げるための色々な案を考えていきたい……そう考えていたという。
 当初『シルバーハウスHOMI』を訪れたことのある村人は言う。
「すごいバーを作って、外は飲み屋のようにネオンがつくようにしちょった。中もお店みたいじゃったよ」
 だがすぐに、誰もそこに行かなくなったのだという。村人は続けた。
「そうするためにはやっぱり人間関係がないとねえ」
 ワタルは自作の新宅を集落の新しい拠点として、村人たちが楽しめるような設備を作り、村を盛り上げようと胸を膨らませていた。だが真っ暗な村に一軒だけネオンが輝く様は、不釣り合いであり、浮いていた。そしてワタル自身も、まず村人たちとの信頼関係を築く前に、近代的な家の設備で村人を呼び寄せようとしていたことが裏目に出た。『Uターンハイ』とも形容できるような状態になっていたのだろう。
 都会から戻ってきた俺が、こんな家を作った。これで村も盛り上がる。さあ、皆ここに集まってくれ……。
 年長者ばかりのこの村で、それは通用しなかった。やはり村に戻ってきたからには、自治会の仕事に参加し、数ヶ月に一度行われる草むしりなどの仕事にも精を出し、先輩となる村人たちとの調和を図ってはじめて、村に受け入れられるのがセオリーだ。冷静に見ても確かに、その案は強引に映る。
 歓迎会の席上から、ワタルは村人にあまり良い印象を抱かれてはいなかった。都会帰りでハイな状態のワタルは、村人たちにとっては、うっとうしかったのかもしれない。この村を盛り上げるためのワタルなりの村おこし……新宅を村人たちの交流の拠点とする案は、あっさりと年長者たちに否定されてしまったのだ。
「最初には、光成自身が外森(仮名)に相談をしたの。年代が違わんから『金峰おこしをしようじゃないか』と相談をもちかけたのは光成のほうやね。最初に自治会で出会ってその話をしたと。その時に外森が『それじゃ二人でやろう』ちゅうて。そのままやったらよかったんじゃが、あとのあおりが怖いちゅうんで、外森がおそれて手を引いたから、光成自身が一人悪者になった」
 ワタルの村おこしの顛末を知る村人は、こう語った。外森さんとは郷地区にある玉真寺という寺の住職で、ワタルよりも少し若い男性だ。郷地区から7キロほど西に離れたところにある寺の住職も兼ねており、事件後はほぼそちらに住んでいるのだという。彼と当初は村おこし≠しようとしたが、外森さんから梯子を外されてしまったのである。
 出鼻をくじかれたことで金峰・郷集落での生活は幸先の悪いスタートを切った。集落のもやい仕事に参加したのも最初だけだ。「気が弱いところもあった」とも評されるワタルなので、理想の村おこしを反対されたことで萎縮したのかもしれない。人間関係が築かれてくれば、長期的には『シルバーハウスHOMI』を村おこしの拠点とすることも無理ではなかっただろうが、ワタルはそれをしなかった。
 そんな中でも『シルバーハウスHOMI』のために、店のチラシを印刷してあげたりする村人もいた。実際、初めの頃は徳山の方へ出向き、リフォームを請け負ったこともあるというが、そのうち開店休業状態となる。
 関東と金峰を往復して作ったこの新宅には、ワタルが思い描く郷集落での理想の生活が詰まっていた。だが『シルバーハウスHOMI』は、稲田堤の焼き鳥屋のように、地元の村人たちが集まる場所にはならなかった。いつしかトレーニングルームは自身の鬱屈した思いを書き連ねたポエムが壁一面に貼られる禍々しい空間へと変貌し、カラオケを一緒に楽しむ村人が訪れる日は来ないまま、一人でひたすら「およげ!たいやきくん」を歌っていた。

 ―― 過疎化した金峰では、子どもの住む街へ出るお年寄りが多い。そんな中、保見(ほみ)友一さん(93)の二男、中(わたる)さんが九四年、川崎市から帰ってきた。十五歳のころ、都会にあこがれ東京へ出たが、「自分の生まれたところで死にたい」という思いは消えなかった。
 工務店勤務の経験を生かし、老いた両親のために部屋の段差をなくし、手すりをつけた。一年ほど前、母のタケヨさんが病気で倒れ入院した。「うちに帰りたい」と言う母のために自宅で介護を始めた。おしめを換え、たんを取った。
 昨年十二月末、八十七歳の母をみとり、父と二人暮らしになった。「親が子どもを育て、年をとる。 そんな親をみるのは子どもの義務」。父が毎日手を合わせる仏壇の周りにも手すりを付けた。(2003年4月19日読売新聞朝刊)――

 金峰地区に住む高齢者と、その子供たちについて触れた記事だ。この翌年、友一も死んだ。村人の中には「両親が死んでから、おかしくなった」と言う者がいた。確かにこの頃から、家の前に雑然と置かれたオブジェの様子が異様なものへと変わり始めたようだ。
「ブラジャーをつけた変なマネキンを家の前に飾ったりして、どんどん様子が変になって言った」
 地下のトレーニングルームの貼り紙も、この頃から始まった。

 郷集落から5キロほど離れた別の集落に、ワタルと友一を知る村人がいた。82歳になるその男性は、この地で長らく酒屋を営んでいた。平成16年(2004年)に店を畳むまで、近隣の家へ酒の販売・配達をしていたのだという。
「お父さんはわしもよく知っちょる方じゃある。まあ椅子に座りない」
 男性は、保見の父・友一と、保見の母が生きているころ、郷集落のあの家に酒を配達していた。
「犯人のあれも、話したことがある。まあ、あれがあんなことをするとは思われんような。穏やかな人だと思うちょった。犯人の家はお父さんお母さんの家のすぐ隣に作っちょった。お酒の配達はお父さんが飲みよったけ、そっちの古い方の家に行きよった。お父さんと話するけど犯人とも話する。あそこは夫婦仲もよかったし。喧嘩ちゅうようなことはなかったですよ。犯人のほうも、大きな声をあげてどうじゃこうじゃ言う人じゃなかった」
 郷集落の人々は、酒税法が変わり酒のディスカウント店が都市部にできるまで、めいめい決まった酒屋から酒を頼んでいたという。男性は郷集落では保見家だけに配達をしていた。
 話を聞きながら、ふと、元酒屋だったというその家の土間を見回すと、ワタルとはタイプの違う、前向きな自筆の標語が壁一面にびっしりと貼られていて、そちらに気を取られてしまいそうになった。腕に蚊が止まっても、気づかないのか、そのまま話し続けていた。
「ひと月に一回注文があった。いっぺんに持って行くのが一升瓶10本。多いですよ。わっはっは。よう飲みよったです」
 酒飲みだったが穏やかな家族だった……。こう男性は言うが、郷集落とその近くでは違った評判が立っていた。
穏やかな人≠セったというワタルに関してはこうだ。
「帰った当時は集落の旅行にでも行きよったよ。それならええわけ。でも、仕事をせん! 集落の村の仕事にも出ん。はしからそうなっていったんや。そりゃ人が相手にせんにゃ」
「ものを人にあげるような人じゃなかった。うん、そういうところはなかったですね。飲みに行った人のところに次に行くときさ、ビールの一本ぐらい持って行くとかさ、そういうのが一切なかった」
「なめこがたくさん採れた年に、分けちゃろうとおもって、なめこ食べるか? って聞いたら『おう食うど。しいたけは埃臭いから好かんけどなめこならええど』って、ありがとうはない」
 都会から戻ってきた若者……と言っても、すでにこのとき40代半ばだったが……なのに、年長者たちに礼を言わず、集落の仕事にも参加をしない。川崎・稲田堤に住んでいた時とは違う尊大な態度のワタルに、郷集落の村人たちは距離を置いていった。剛に入りては郷に従え。特に人口の少ない集落においては重要かつ唯一ともいえる処世術になるが、ワタルはこれを拒否し、村人たちもそれを苦々しく思っていた。2009年にワタルが「光成」に改名したが、それを村人たちが知ったのは、事件の後の逮捕報道でだった。

 このように郷集落に戻ってきてからのワタルの、あまり良くない言動は、村人から暇なく聞かれるのだが、報じられていた具体的ないじめ行為については確たる話が出てこない。
 一審公判の冒頭陳述では、近隣住民との諍いの経緯が時系列で明らかにされているが、そこで出たのは「平成20年8月の河村さんとの農薬散布トラブル」、「平成21年5月 飼い犬を巡り河村さんと口論」、「平成25年はじめ 飼い犬のフンをめぐるトラブル」などだった。だがこういう裁判では被害者側の生前の非を隠すこともある。
 事件当時に現場を取材した記者によると、そのときは郷集落に貼られた規制線のため、中に住む村人たちへの取材はできない状況だったことから、金峰山を超えた鹿野町などでも取材が行われていた。そこで記者は、こんな話をする住民に出会ったそうだ。
「せっかくみんなのために買った草刈機を、あぜ道に置いたまま忘れて帰ったら燃やされたっていう話を聞いてました」
 そのほかにも、すでに書いたように「庭に除草剤を撒かれる」「『犬が臭い』と文句を言われる」などの出来事が起こっていたと遠くの村人≠スちは口々に言うのだが、当の郷集落の村人たちに聞いてもそのような話が出てこないのだ。
「あの人だいたい草刈機を持ってなかったから。農家じゃなければあまり草刈機はいらないよね。それに草刈機も、燃えるようなもんじゃない。草刈機をどうかされたっていったら、投げられたとか、刃を壊された、とかならまだわかるけど、草刈機のどこを燃やすんか」
「草刈機を燃やしたとかなんとか聞いたことあるじゃろ。だけどあれはわし、よう知らんのよ」
 そもそも草刈機の存在さえ怪しい有様なのである。

 河村二次男さんは日々、村で起こったワタルとのトラブルを、自分の『県民手帳』に書きつけていた。そこにはこんな記述があった。
「背負式の機械で田んぼに農薬を散布していたら犬がどうとか言っていた」
 これは2008年の出来事なので、冒頭陳述にあった『農薬散布トラブル』とみて間違いないだろう。除草剤ではなく農薬を散布した際に、ワタルが自分の犬を攻撃されていると思ったのではないか。
 一部の村人は河村さんについて「ワタルに色々言われるけえ、ちゅうて、田んぼも手放したんじゃけど、まだ田んぼをやりよるときは、よく農薬まく人じゃったんよ」と、もともと農薬を好んで使う主義だったと話した。
 事件当時取材に答えていた遠くの村人≠スちによる、郷集落でのいじめの話は、ワタルが以前にそうした被害を誰かに話したものが広まっているかのような印象を受けた。犬について文句を言った話は、郷の誰からも聞けなかった。いじめた相手にいじめの話を聞かせてくれと言ってもなかなか話してくれない。そういうことかと思っていたが「あの人がいじめていた」という耳打ちすらされないのである。
 それよりも、ワタルに対する具体的ないじめ≠フ話が村人たちから出て来ないのと対照的に、周辺集落の誰もが知っていたのが、ワタルの父・友一が泥棒だった≠ニいう話だった。

(続く)
https://note.mu/tk84yuki/n/n3cf6b0673398



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ルポ「つけびの村」03/06 2018/07/24
https://note.mu/tk84yuki/n/nee18a0ab0ef6

2013年7月に山口県周南市で発生した山口連続殺人放火事件について、2017年に取材し、まとめたものを6回に分けて公開します。存命の関係者のお名前は全て仮名です。2017年9月7日脱稿、その後少し寝かせていました。


保見友一

 その泥棒≠フ噂高い、保見の父親は、いつから金峰の郷地区に住んでいたのだろうか。集落を訪ね歩いて話を聞くと、皆、大まかには同じことを話した。
「保見のところは、もともとは、同じ金峰でも郷とは違う山の中に住んどった。
 長男は順一。友一(ともいち)は三男。その間に徳市(とくいち)ちゅうのがおる。ワタルの父親が友一。この3人ともが皆それぞれに郷に出て来た。それは戦争前。今から70年くらい前かな。家のあったとこは、あとはなんもない」
「ワタルくんのお父さんらは、山の上の方おっちゃったらしいよ、ほんで降りてきた、わたしらも親が話しよったちゅうぐらいしか知らんからね。入るのはね、河村さんところの道を山伝いにずっと上がるんじゃけど。途中から奥まった山の方へ登るんと思うよ。家とか、もうないない。山しかない。もう誰も住んじゃないよ。昔はそこへ山をちょっと持っとったんじゃろうが、もうそれも誰かに売っちゃったみたいじゃがね。自分らも子どもの頃、あの河村さんとこの奥のところに入ったことはあるけど。山よ。集落はないね」
「なんで越して来たかは知らんね。兵隊取られるかそんな頃やから、昔の話じゃ。兵隊から帰った時にこっち来たんやね」
 たしかに、金峰神社の参道脇にあった保見家の墓や、神社に残された石柱などを確認しても、光成の父親である友一、その兄たちの順一、徳市以外の名前は見当たらなかった。

 郷集落は保見家の南隣に、3人目の被害者山本さん宅と、さらに南方に進んだところに、本来は菅蔵地区だが「もとは郷に住んじょって、そっちに移った」ため、そのまま郷集落の一員として暮らしていた最初の被害者、貞森さん夫妻が住む家がある。保見家の家の裏手にはこんもりとした山が続くが、その手前には東西からそれぞれ流れてくる小さな川が合流している。東側から流れるほうの川に沿った細い道をその上流に向かって歩くと、500メートルほどで河村さんの家に着く。ここまでが郷地区といわれる。この細い道をさらに奥に進めば、県道9号線にふたたび合流するのだが、郷集落の入り口の前よりは道幅が細くなっており、車が一台しか通ることができない。1キロほど曲がりくねった細道を進んだところで、道が南北に分かれている。この周辺にワタルの父・友一とその兄たちは住んでいたという。
 そう村人たちが言う場所は現在、道沿いに家はぽつりぽつりとあるが、朽ち果てた廃墟もあり、今も人が住んでいる家は数100メートルおきに一軒ほどしか見当たらない。山の方を見ても、もはや家らしきものはなかった。
 体に寄ってくる虫を避けながら、保見友一とその兄たちが郷集落に移り住んだ経緯や、住んでからの暮らしぶりを高齢の村人に尋ねてまわると、わりあい話が聞けた。といっても、金峰地区では高齢者しか見かけたことがない。ここでの高齢の村人というのは、後期高齢者に分類されるような者たちだ。

 金峰地区の生き字引と称され、金峰地区のことならばこの人に聞け、と名前の出る男性、田村勝志さん(仮名)は郷集落の隣、菅蔵(すげぞう)集落で長らく農家を営んでいる。友一とは20歳近く年齢が離れているものの、やはり友一とその兄たちのことをよく知っていた。なぜ郷地区に移り住んで来たのかもだ。
「生活ができんようになったから。住んでいたところは、それはもう山の中で、どうしようもない生活しよった。その山の中に一軒家があって、そこに生まれて育ったんやからね」
 友一が移り住んで来たとき、まだ郷地区を東西に走る県道9号線が東方向には伸びておらず、現在の保見家の北側から東にかかる『第二郷橋』付近に家があった。
「まあお粗末な家を作っておったよ。竹をパッと縦に割って、その中の節を落としたものを重ねて行くわけ。でそれが屋根になるわけ。そういう家じゃった」(別の村人)
 郷地区から北東方面に採石場があることから、昔からダンプカーの往来があった。集落の家々の前にある細い道を抜けていたのだが、道幅が狭かったため、1976年代にバイパス工事が行われることになった。このとき友一と妻、そして子供であるワタルとそのきょうだいらが住んでいた家は立ち退きとなり、現在の茶色の建物に移ったのだという。もともと駐在所だった建物をそのまま友一が買った。
 ワタルの父、友一とその兄たちは別々に移り住んで来ている。次男の徳市は事件の被害者となった貞森さん夫妻が住んでいた家に住んでいた。その家を建てたのだという。金峰地区の村人たちは、徳山に近いほうを「カミ」、遠いほうを「シモ」と言う。順一は「シモのほうに住んどった」というが、詳しい場所は誰に聞いても定かではなかった。
 ワタルの叔父にあたる明治生まれの長男・順一の生活ぶりを直接覚えているものは、田村さんだけだ。
「わしが小さい頃、長男は荷車を引いて荷物を運ぶ商売をしとった。ここから徳山まで馬を買って来て荷馬車にして荷物を徳山へ運んできて、徳山で、頼まれたら買って帰るというのを長男はやってた」
 同じく叔父にあたる次男・徳市になると、数名の村人が記憶していた。話は皆共通しており「ブローカーのようなこと」をやっていたという。徳市、友一と交流のあった田村さんの話はこうだった。
「どういったらええかな、請負仕事をして、そして儲かって、土地を買ったり、いろいろ商売をしたりということをやりよった。ここに昭和26年の10月に大きな台風が来たんじゃけど、この辺は死の谷ちゅうて、家もあったけれども、田んぼも何もみな川になってしもて、大変なときがあった。道路という道路、橋という橋がひとつもなくなったんや。それを改修するために土建業の人がものすごいここに入った。そういうときに保見徳市という人は、なかなか頭のいい人やから、すぐにその請負をしたわけね。それで儲かって、まあ、一代をなしたというか」
 昭和26年10月 13日から14日にかけて山口県を襲ったルース台風は、同県に甚大な被害をもたらした。この災害をビジネスの好機と捉えたのが徳市だった。それなりに財を築いたが、徳山市に出ていた徳市の長男が脳溢血で急逝したことで潮目が変わる。その妻が、家の財産を奪ってしまったのだという。
 とはいえ長男・順一も、次男・徳市も、郷地区に移り住んで来てから仕事をしていたが、ワタルの父、友一だけは違っていた。どのように暮らしていたのかと村人たちに尋ねると、こんな答えが返って来るばかりなのだ。
「あんまりに働かないおじさんでね。上手いこと言って安い酒を人に高く売りつけてお金をあれしたりとか。人の作ったカゴを自転車の後ろにつけて売ったり。それで時々仲買に出たり。体がでかいおじさんだったけど、勤勉に働くような人でもなくて。それでいつも将棋をやっていてね。バスが来てたんですよ、で、バスが止まるといつも運転手さんと早将棋をやっていた」
「カゴを売る仕事のほかは、戦後に植林ブームちゅうのがあった。山を綺麗にして、苗木を植えて、下刈りをして、下刈りもだいたい5〜6年やりよるから、ひとつ受けたら6年間は仕事がある。あんまり定職ちゅうのはなかったね」
 金峰地区の産業は、今も続いている農業や椎茸栽培のほか、かつては製炭や畜産、そして竹細工も盛んだったという。友一は付き合いのあった竹細工職人から安く仕入れた籠を、高く売りに行っていたほかは、植林ブームに乗り一時期その仕事に従事していた。友一の妻、つまりワタルの母親は「和裁ができた」というが、どこかに勤めに出ている様子はなく、近所のものたちの農作業を手伝い、報酬に農作物をもらっていたことがあった。

 1月の取材で聞いていた友一は盗人≠セという噂について村人たちに尋ねると、他の兄弟の話と同じく、皆が同じ話をした。
「あの家の中に縁側があって、そこで2〜3人集まって酒を飲んでいるちゅうのが友一の日常生活じゃった。酒を飲むのも、自分は酒がないから、来た人をうまい具合にごまかして、酒代をとって、いうような感じ。それで人をごまかす。だから相手にするなという風評が高まった」
「保見友一って誰も呼びやせん。友のアカの人≠ソゅうふうに言いよった。アカっちゅうのは、盗人のことやな。米も洗濯物も盗られる。盗んで着るんじゃから、すぐ分かるよ」
「今なら笑えるようなものを盗りよったらしいよ。まあ洗濯物とか、カボチャとかやね」
「友一は子供がたくさんいたし、非農家じゃったから、田んぼがない。終戦後、食べ物にすごく困っている時があった。昔は水車を回して米を挽いていて、農作業に出る前に水車のところに置いて出て行っとった。そして帰ってその米を炊いて食べるんじゃけど、それを盗んだとか、カボチャを盗んだとか」
 米やカボチャ、洗濯物を盗み、家に来た者から酒代を取る……友一に関しては良くない話≠オかなかった。酒代については、被害に遭えばすぐに犯人が分かる類のものなので信憑性は高い。けれども農作物や洗濯物の盗みの話は、いまとなっては本当だったか確かめようがない。同じように、本当に泥棒だったのか確信を持てないと話す村人もいたのだが、友一が盗人だといううわさ≠ヘ、話を聞いた全員が知っていた。

 田村さんは述懐する。
「保見友一は人気がなかった。自慢をしたりなんかするから、あんまり付き合いをする人がいなかった。
 今日のような暑い日に皆は田んぼや畑へ出て仕事をするが、あの人は田んぼを作らないからね。まあ左うちわっちゅうか、皆が暑い暑いと言いながら仕事しとるときに、家の中で涼しい風に当たって、夕方にちょっと出て散歩をするというぐあいに、皆と生活の態度が違ったんやな。そういうところから嫌われ始めた。わしらが汗水流して働きよるのに、働かんと、人をごまかして、生活をして、高い目線で見よるというようにな」
 金峰地区では田や畑を持っているのが一般的だ。友一は「非農家」で、田も畑も持っていなかった。ならばふたりの兄のように仕事をして金を稼ぎ、食べ物を調達しなければならない。それなのに定職についている様子はなく、農作業もやる様子はない。人から金をチョロまかして酒代を多めに取る……そのような暮らしをしていたために、村人たちから白い目で見られていた。
 また金峰地区には集落ごとに自治会があり、2年に一度、選挙で会長が決まる。役員は自治会員らで話し合いをして決めるのだが、生前、友一は役員になれなかった。それが集落の者たちの故意だったのかは定かではないが、友一はそれを気に病んでいたという。ワタルが関東から戻って来たとき、友一とその他の村人との間にはこうした空気が熟成されていた。
 都会で金を貯めて戻って来た。近代的な一軒家を建てて「村おこし」をしたいなどと言い出す。それも単なる都会上がり≠ェ都会風を吹かせているだけではない。よりによってあの盗人の家の子が、そう言うことを言っている……そんな認識が、集落の村人たちにあったのだ。快く思わなかったのは容易に想像がつく。

金峰

 金峰地区の村人たちと保見家の関係がよく分かるものが、村の中にある。保見友一の眠る墓である。
 かつて『シルバーハウスHOMI』だった保見家から県道を挟んだ向かいから伸びる、金峰神社の参道をのぼった。石段はところどころ途絶え、急勾配のけもの道になっている。左手にタオルを持って虫を払いながら、拾った長い枝を空いている右手に持ち、杖の代わりにして本殿を目指す。両脇に並ぶ高い杉の木のせいか、晴れていても山道は薄暗く、足元の土は湿っていて、何度も滑り、この杖に助けられた。
https://note.mu/tk84yuki/n/nee18a0ab0ef6


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ルポ「つけびの村」 04/06 2018/07/25
https://note.mu/tk84yuki/n/n8dbf7f16be07

2013年7月に山口県周南市で発生した山口連続殺人放火事件について、2017年に取材し、まとめたものを6回に分けて公開します。存命の関係者のお名前は全て仮名です。2017年9月7日脱稿、その後少し寝かせていました。

『コープの寄り合い』

 相変わらずほとんど人が歩いていない金峰地区で私は、村人が恐怖する金曜日朝の『コープの寄り合い』が行われていた家に住んでいた、吉本茜さん(仮名)の現在の居所を聞いてまわった。ワタルの父・友一やその兄たちの居所を訪ねた時も感じたが、この地区の人たちは、村人の転居先にも詳しい。何人かに聞くと、だいたいの場所がわかった。
 吉本さんは事件の後に集落から離れた街に引っ越し、息子たちと住んでいるという。金峰地区の村人だけでなく、少し離れた地域の村人も、吉本さんの名前、経歴や人柄を詳しく知っていた。むろん、引っ越し先の詳しい場所もである。ワタルよりも有名人だ。
 若い頃には学生運動をやっていたとも聞いた。郷集落に戻って来てからも、熱心に環境問題に取り組んでいたという。実はこの吉本さんは、ワタル逮捕後の起訴前鑑定で名前が出ていた人物だ。鑑定を担当した山口県立こころの医療センター・兼行浩史医師は、鑑定当時ワタルが被害念慮を抱いていたことに触れ、その対象を「吉本さん以外全ての人に対して持っていた」と述べていた。
 村人がおそれる危険な『コープの寄り合い』で情報を司っていた中心人物≠ナありながら、ワタルは吉本さんだけには「被害を受けている」と感じていなかったというのである。一体全体、どういう関係性を築いていたのだろうか。
https://note.mu/tk84yuki/n/n8dbf7f16be07


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ルポ「つけびの村」 05/06 2018/07/25
https://note.mu/tk84yuki/n/ne4995dd23077


2013年7月に山口県周南市で発生した山口連続殺人放火事件について、2017年に取材し、まとめたものを6回に分けて公開します。存命の関係者のお名前は全て仮名です。2017年9月7日脱稿、その後少し寝かせていました。


『金峰百年の歩み』

 ワタルは友一とその妻との間に生まれた5人きょうだいの末っ子ということはすでに1月の取材で知っていたが、まだ存命であるならば、誰か一人にでも話を聞きたい。
 また友一の兄である順一、徳市はすでに亡くなっているが、その子供達は、ワタルとは従兄弟の間柄である。子供時代に付き合いがあってもおかしくはない。
 周南市立中央図書館に用意してもらっていたのは『金峰百年の歩み』という本だ。金峰地区に近い鹿野町にある、周南市立鹿野図書館に問い合わせをした際、この本が所蔵されていることを聞き、あらかじめ中央図書館に送ってもらっていた。
 郷地区にある「金峰杣(そま)の里交流館」は公民館の役割を果たしており、事件当時、村人たちがここに避難していたことはすでに書いた通りである。ここは以前、金峰地区の子供達が通う「金峰小学校」だった。明治8年(1875年)に須万小学校分校として開校し、明治20年(1887年)には分校から独立。郷簡易小学校など名称は何度か変わったが、戦後に金峰小学校となり、昭和50年(1975年)に100周年を迎えた。これを記念し、卒業生らの手によって昭和51年(1976年)に刊行されたのが『金峰百年の歩み』だ。
 生徒数は明治後期から戦後がピークだった。明治42年(1909年)には117人、大正11年(1922年)には113人、そして昭和21年には最大の169人となる。昭和30年代には、須万小学校の一部だった奥畑分校が金峰小学校の分校となっていたが、両校とも生徒数の減少が続き、昭和48年(1973年)には生徒数2人となった奥畑分校が金峰小学校に統合された。100周年を迎えた頃は生徒数が11人となっていた。
 それでもこの年は、卒業者名簿の編纂や祈念碑の制作とその設置、本書の作成、記念式典のほか、金峰小学校の全室にカラーテレビが設置されるなど華々しい行事が続いたが、児童数の減少には歯止めがかからず、100周年からわずか3年後には鹿野小学校金峰分校へと改校される。平成4年(1992年)には生徒がひとりだけとなった。その児童が卒業した平成7年(1995年)には在籍児童数がゼロに。卒業式の半月後に休校式が行われ、平成15年(2003年)には廃校となった。
 ページをめくると最後のほうに「金峰小学校卒業生一覧表」があるのが目に留まった。明治27年度から、昭和50年度までの卒業生の名が並んでいる。眺めると今回の事件の被害者や、ワタルの名前も確認できた。
 別のページには一部の卒業生が刊行に合わせて学校の思い出話を綴った作文が掲載されている。そこにワタルの父親、保見友一のものがあった。
https://note.mu/tk84yuki/n/ne4995dd23077

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ルポ「つけびの村」 06/06 2018/07/25
https://note.mu/tk84yuki/n/ne6061a373ac6

2013年7月に山口県周南市で発生した山口連続殺人放火事件について、2017年に取材し、まとめたものを6回に分けて公開します。存命の関係者のお名前は全て仮名です。2017年9月7日脱稿、その後少し寝かせていました。


 ポパイが今も思いを寄せる飼い主のワタルに面会するため、広島拘置所へ向かった。その日の広島駅周辺は、朝から曇っていた。蒸し暑く、歩いていると髪が湿気を含む。ホテルから10分ほどしか歩いていないのに、広島拘置所に着く頃は髪が膨らんでボサボサになっていた。
 地方都市では城や城跡の近くに役所や裁判所が置かれていることが多い。ここ広島も例に漏れず、広島城のそばに裁判所があった。だが拘置所となると事情は異なり、必ずしも城の近くにあるというわけではないのだが、ここは拘置所が裁判所と同じブロックにある。拘置所敷地の外壁には、浮世絵のようなタッチの、海の上に多数の船が浮かぶ絵が描かれていた。拘置所の職員にこの絵の由来を訪ねたが「さぁ……なんでしょうね」と、何を知っているわけでもなかった。

 狭く古い待合室で、グレーの汚れた壁を見ながら待っていると、あっという間に番号が呼ばれた。スピーカーから流れて来る職員の声が大音量で割れている。キーンというハウリングの音とともに、こう聞こえてきた。

「四番面会室にお入りください!」

 面会室に入るとすぐに、ワタルが入って来た。アクリル板越しのワタルは、黒い半袖Tシャツにグレーのスウェットズボンを履いている。金峰地区の村人達はワタルを「体がでかいけぇね」と言っていたが、確かに背丈もあり、体格もがっしりとしていた。骨太な姿が、須金で会った長女の娘、ワタルの姪に似ている。ホームベース型の顔は、原始人のようにも見える。まず挨拶をして、面会に応じてくれたことに対する礼を言ったのだが、ワタルは聞いているのかいないのか「時間がないけぇね」と言いながらすぐにパイプ椅子に座った。挨拶をしないという噂は本当だ。
 ワタルは会話のキャッチボールをする気がないのか、面会時間が15分しかないために自分の思いをすべて伝えたいと焦っているのか、こちらが質問する隙を与えない。持っている資料の束をひとつずつ広げながらアクリル板に押し付けて私に見せながら、まくしたてた。
https://note.mu/tk84yuki/n/ne6061a373ac6


http://www.asyura2.com/09/revival3/msg/565.html#c541

[近代史02] 日本の農村は怖い _ 狭山事件の背景 中川隆
149. 中川隆[-9098] koaQ7Jey 2019年7月14日 06:18:20 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[3592]
田舎生活の愉しみは噂話、悪口と苛めだけ


ルポ「つけびの村」01/06 〜山口連続放火殺人事件の因縁を追う〜 2018/07/23 https://note.mu/tk84yuki/n/n264862a0e6f6


2013年7月に山口県周南市で発生した山口連続殺人放火事件について、2017年に取材し、まとめたものを6回に分けて公開します。存命の関係者のお名前は全て仮名です。2017年9月7日脱稿、その後少し寝かせていました。

 第23回参議院選挙投票日の2013年7月21日。前月からの猛暑が続く山口県周南市・須金(すがね)・金峰(みたけ)地区の郷(ごう)には、この日も朝から強い日差しが降り注いでいた。そよ風すら吹いていないのはいつものことだ。8世帯12人が暮らす小さな山村は、周南市街地から16キロほどしか離れていないが、半数以上が高齢者のいわゆる限界集落になる。

 隣の菅蔵(すげぞう)集落の田村勝志さん(仮名)は、集会場『金峰 杣(そま)の里交流館』で投票を済ませた。その帰りに声をかけて来たのは、義理の妹に当たる山本ミヤ子さん(79歳=当時・以下同)だった。彼女の夫は田村さんの弟にあたるが、先立たれ、一人暮らしをしていた。

「ちょっとコーヒーでも飲んで帰らんね」

 縁側で一緒にアイスコーヒーを飲んでいると、隣の家からいきなり大音量でカラオケが流れ、そこに住む男の歌声が聞こえてきた。隣では最近、朝10時と夕方5時に、カラオケが始まるのだ。周辺に気を使って窓を閉めることもせず、窓を開け放ち、歌を集落中に響かせる。いつものことなので、驚くでもなく、田村さんは男が歌う昔の流行歌を聴きながら、コーヒーを飲み干して、山本さんと別れた。
 帰りの道沿いにある、貞森誠さんと妻の喜代子さんが住んでいる一軒家を通り過ぎた。誠さんは71歳、集落の中では中堅の年齢だが、数年前から癌を患い、1歳年上の喜代子さんが自宅で誠さんの看病をしている。さきほどの男の歌声は、この家の前を通るときも聞こえていた。

 山本さんはこのあと、同じ集落の石村文人さん(80)とラウンドゴルフに出かけた。いつもの日曜日。夜から始まる惨劇を、集落のものは誰も想像すらしていなかっただろう。

 ただひとり、カラオケの男≠除いては。

 長閑な村の様相が一変したのはその日の20時59分。
「貞森さんの家が、真っ赤っかになっとる!」
 さきほどの夫婦が住む家から煌々と火が上がるのを目撃した近所の住民は、慌てて119番通報をした。
 ところが電話を切って外に出ると、もう一つ別の家が燃えていることに気がついた。
「山本さんの家も、メラメラ燃えとる」
 別の住民が21時5分ごろ、石村文人さんに電話をかけた。だが応答はなかった。
 集落では二軒の家の消火活動が行われ、22時14分、ようやく鎮火した。貞森さんの家からは誠さんと喜代子さんの遺体が、山本さんの家からはミヤ子さんの遺体が発見される。誠さんの遺体は足がもげていた。消防団が焼け跡をかき分け、片足を探した。
 この2軒が燃えたことに、村人たちは皆「何かおかしい」と感じていた。ふたつの家は70メートルほど離れていて、間に燃えるものもないからだ。
「なんでこんなことに」
「放火じゃなかろうか」
 集まった村人たちは口々にそう言い合った。とはいえ、翌日から現場検証が行われる。火災の原因もじきに分かるだろう。
 投票場だった『金峰杣の里交流館』の、はす向かいに住んでいた吉本茜さん(仮名)から連絡を受けた河村聡子さん(73)は、吉本さんの家で一緒に消防団にお茶や水を出すなどの世話に追われていた。夫の二次男さんは、友人たちと愛媛に旅行へ行っていた。
「貞森さんの家族に連絡せにゃならんね」
 吉本さんと聡子さんは、そんな話をした。

 県警の緊急配備が解かれたのち、消防団が引き上げ、片付けが終わったのが1時半。日付はすでに変わっていた。それから家に帰り、風呂に入って寝る支度を整えてから、一階の居間で二次男さんに宛てて火事のことをノートに書き置きした。大変な1日を終え、聡子さんは二階の寝室に向かった。
 だがその聡子さんも昼前に、遺体で発見される。遠方に住む娘が自宅を訪ね、二階に血まみれで倒れている聡子さんを見つけたのだった。夜から連絡がつかなかった石村さんも、その数分後、自宅を訪れた県警に遺体で発見される。すぐに、村の入り口に黄色いテープの規制線が貼られた。現場検証が始まる。
「2軒の火災による3人の死亡」が、「5人の連続放火殺人」に姿を変えた瞬間だった。
 県警はこの時点で、昨晩から自宅におらず、連絡もつかないカラオケの男≠重要参考人と睨み、その自宅を捜索。男の行方を追った。二台の車はガレージにある。遠くには行っていないだろう。
 5人は全員、撲殺されていた。遺体に共通していたのは頭部の陥没骨折、そして足の殴打痕。加えて『口の中に何かを突っ込まれた』形跡があったことだ。
 貞森さん夫妻と山本さん、3人の遺体は黒く焼け焦げ、確認のために山本さんの遺体を警察から見せられた息子は、どっちが頭なのか足なのか分からなかったほどだという。のちに司法解剖が行われ、頭蓋骨の陥没骨折や、顔に皮下出血が認められ、頭部や顔を鈍器のようなもので激しく殴られて殺害されたことがわかった。
 石村さんの遺体にも同じく、後頭部や膝の裏を激しく殴打された痕が見られた。口の中にも損傷があり、何か棒のようなものを突っ込まれた形跡があった。
 聡子さんも同様だ。首の後ろを激しく殴られたことが致命傷とみられている。その口の中は血まみれで、前歯が折れていた。
「家で寝ちょったら殺されるかもしれん」 
 連続殺人であることを悟った村人たちは怖がった。県警は、さらなる犠牲者が出ることを防ぐため、村人たちを投票場だった『金峰杣の里交流館』に避難させる。そこで寝泊りを始めた村人たちにとっては、参院選の投票結果など、最早どうでもよいことになっていた。集会場の外では投入された県警の捜査員約400名が村中を周り、男の行方を探し続けている。村の入り口に張られた規制線の外には、おびただしい数のテレビ中継車が並び、上空には報道ヘリが飛び交っていた。
 一度に5人が殺害されるという大事件が発生した村には、地元だけでなく東京からも多くの記者が詰めかけたが、そんな彼らが何よりも注目したのは、カラオケの男≠フ家のガラス窓に貼られた不気味な『貼り紙』だった。

「つけびして 煙り喜ぶ 田舎者」

 山口県周南市金峰(みたけ)で21日夜、全焼した民家2軒から3人の遺体が見つかり、翌22日に別の民家2軒から新たに2人の遺体が見つかった事件で、火災現場で見つかった3人はいずれも頭部に外傷があり、ほぼ出火と同じ時刻ごろまでに死亡していたことが、司法解剖の結果わかった。県警は、3人が殺された後、放火されたとみている。
 県警は22日、5人が殺害された連続殺人・放火事件と断定し、周南署に捜査本部を設けた。県警は同じ集落に住む男が何らかの事情を知っているとみて、自宅を殺人と非現住建造物等放火の疑いで捜索した。男は行方がわからなくなっている。
 全焼した山本さん宅の隣の民家には「つけびして 煙り喜ぶ 田舎者」と、放火をほのめかすような貼り紙があった。(2013年7月23日 朝日新聞朝刊)

 14人が暮らす集落で5人の遺体が次々と見つかった。携帯電話も通じない、山口県周南市の山間部で起きた事件。「つけびして 煙り喜ぶ 田舎者」。全焼した民家の隣に住む男は所在不明で、自宅には放火をほのめかす貼り紙も残る。「家族のよう」と言われる山里で、何が起きたのだろうか。(2013年7月23日 四国新聞朝刊)

 警察は山本さんの住宅の隣に住む男が、2つの住宅に火をつけた疑いがあるとして、殺人と放火の疑いで男の自宅を捜索しました。
 その際に室内から外に見える形で窓に貼り紙があり、紙には「つけびして煙り喜ぶ田舎者」と書かれていました。
 男は、現在、行方が分からなくなっていて、警察は貼り紙の内容が放火への関与を示すものとみて、男の行方を捜査するとともに、一連の事件との関連について調べています。(2013年7月22日 NHKニュース)

 村の3分の1以上が殺害され、姿を消した男の家には不気味な貼り紙。「平成の八つ墓村」などとネットでも騒がれ始めた。まさか自分の村がこんな言われようをするとは、村人たちは前日まで誰も考えたことすらなかっただろう。
 事件発生から4日が経った7月25日。警察は山中で男の携帯電話や、男性用のズボン、そしてシャツを発見。さらにその翌日朝、発見現場付近を捜索していた機動隊員が林道沿いで男を見つけた。Tシャツとパンツの下着姿で、靴も履いていない。
「ホミさんですか?」
 近づきながら機動隊員が声を掛けると、男はその場にしゃがみ込み言った。
「そうです」
 抵抗することもなく県警の任意同行に応じ、逮捕されたそのカラオケの男≠ヘ、郷集落の住民の一人、保見光成(ほみ こうせい)(当時63歳)という。
 その後、県警は山中で、側面に「ホミ」と彫られたICレコーダーを発見した。息を切らしたような雑音の中、こんな言葉が録音されていた。
「ポパイ、ポパイ、幸せになってね、ポパイ。いい人間ばっかし思ったらダメよ……。
 オリーブ、幸せにね、ごめんね、ごめんね、ごめんね。
 噂話ばっかし、噂話ばっかし。
 田舎には娯楽はないんだ、田舎には娯楽はないんだ。ただ悪口しかない。
 お父さん、お母さん、ごめん。お姉ちゃん、お姉ちゃん、お姉ちゃん、ごめんね。……さん、ごめんなさい……。
 これから死にます。犬のことは、大きな犬はオリーブです」

 保見光成の家のガラス窓にあった、この貼り紙。
「つけびして 煙り喜ぶ 田舎者」
 県警が保見を捜索している段階から、これはカラオケの男≠ノよる犯行予告なのではないか、と騒がれていた。「放火をほのめかす貼り紙」「不審なメッセージ」などと、テレビや新聞は何度も取り上げた。
 だが、それは決意表明でもなければ犯行予告でもなかったのである。

金峰行きの経緯


 そのことを知ったのは、事件から3年半が経った2017年1月。取材のために金峰地区を訪れたときだ。
 私は東京で週刊誌の記者として稼働しながら、主に殺人事件の公判を取材するフリーライターとして活動していた。取材に出向くひと月前、ある月刊誌の編集者が『山口連続殺人事件』について改めて取材して記事を書いてみないかと声をかけてくれたのだった。
 すでに保見は5件の殺人と2件の現住建造物等放火で起訴、山口地方裁判所での一審公判も、広島高等裁判所での控訴審も判決が言い渡されており、事件は最高裁に係属していた。このときも、今もである。
 逮捕当初こそ「殺害して、その後、火をつけた。私がやりました」と犯行を認めていた保見は、2015年6月25日、山口地方裁判所で開かれた裁判員裁判の初公判でこれを翻し「火はつけていません。頭をたたいてもいません。私は無実です」と無罪を主張した。
 大量殺人を犯したとされる被疑者は、精神的な問題がないかを起訴前に鑑定し、問題がない、つまり事件当時に完全責任能力を有していたと判断されたのちに起訴されるという流れが出来ていた。この鑑定を起訴前鑑定という。さらに起訴後の公判前整理手続という非公開の手続きにおいて、争点が責任能力であるとなれば、改めて精神鑑定が行われることになる。これを本鑑定と呼ぶ。
 保見に対しては一審が開かれる前に、この2つの鑑定が行われた。起訴前鑑定では事件当時の保見は「完全責任能力」があると判断されたが、起訴後に本鑑定が行われ『妄想性障害』と判断されていた。
 これをもって、一審公判で弁護側は責任能力について「心神喪失」もしくは「心神耗弱」を主張した。それに加えて保見は放火も殺人も、自分がやったのではない、と、犯人であること自体を否認したのである。だが同年7月28日の判決公判で山口地裁は保見に「死刑」を言い渡した。『妄想性障害』は認めたが、完全責任能力は有していたという判断だった。また放火も殺人も、犯人は保見以外に考えられないと認定された。
 妄想性障害をめぐる責任能力については、山口地裁は判決で次のように述べている。
「鑑定人によると、被告は両親が他界した2004年ごろから、近隣住民が自分のうわさや挑発行為、嫌がらせをしているという思い込みを持つようになった。こうした妄想を長く持ち続けており当時、妄想性障害だったと診断できる。『自分が正しい』と発想しやすい性格傾向と、周囲から孤立した環境が大きく関係し、妄想を持つようになった。
 この鑑定は合理的であり、これを基に責任能力を検討すると、被告が当時、自己の行為が犯罪であるという認識を十分有していたことは明らか。凶器となる棒を携えて各被害者宅を訪れ、殺害後に自殺しようと山中に入っており、善悪を認識する能力も、その認識に基づいて行動する能力も欠如したり、著しく減退したりしていない。被告は当時、完全責任能力を有していた」
 保見はこれを不服として即日控訴。2016年7月25日、広島高等裁判所で控訴審の第一回公判が開かれたが、弁護側の請求証拠はすべて却下されて即日結審し、同年9月13日、控訴棄却。その翌日、保見側は上告した。
 判決では本鑑定の結果に基づき「近隣住民が自分のうわさや挑発行為、嫌がらせをしているという思い込みを持つようになった」と認定されているが、これには疑問があった。事件発生当初から、保見は集落の村人たちから村八分≠ノされていたのではないかという疑惑があったからだ。

 金峰の郷集落で生まれ育った保見は中学卒業後に上京し、長らく関東で働いていたが、90年代にUターンしてきた。しかし村人たちの輪に溶け込めず「草刈機を燃やされる」「庭に除草剤を撒かれる」「『犬が臭い』と文句を言われる」などの出来事が起こっていたのだと『女性セブン』(小学館)2013年8月15日号は報じていた。また被害者のひとりである貞森誠さんが、かつて保見を刺したことがあるという、気がかりな情報もあった。「みんな仲良しなのに、1人だけ浮いた存在」。保見の逮捕直後、新聞のインタビューに近隣住民がこうも語っていた。
 保見はICレコーダーに「周りから意地悪ばかりされた」と吹き込んでいたが、これは妄想などではなく、本当なのではないか――。
 そのようなことを思っていたが、この時の目的は少し違っていた。私に声をかけてきてくれた月刊誌の編集者は、金峰地区における夜這い風習≠ノついて取材をしてきてほしい、と頼んできたのだ。彼は私にある記事を手渡した。
 それは『週刊新潮』2016年10月20日号(新潮社)に掲載されていた山口連続殺人事件にまつわるものだった。あるジャーナリストが、広島拘置所に収監されている保見に面会取材を行い、逮捕当時に大きく報じられていた「村八分」の発端となる『ある事件』について話を聞いたというのだ。
 読めば、金峰地区には夜這い≠フ風習があり、戦中に一人だけ徴兵を免れた村人が、女たちを強姦してまわっていたという。そして、この村人が保見の母親を犯そうとしたとき、それを止めて追い払った人物が、保見光成と二十歳近く年の離れた実兄なのだ、と。
「これを、ちょっと行って来て、確かめてもらえる?」
 とその編集者は言う。
 私は保見の公判を傍聴に行きたいと一審の当時思っていたが子供が産まれたばかりだったため、長期間家を空けることができず、諦めたという経緯があった。編集者とはその話も過去にしていた。おそらくそれを覚えていて、話を振ってくれたのだろう。二つ返事で引き受けた。
 とはいいながらも、取材を終えてその結果を世に出せば、世に出ている記事の検証取材であるから、ややこしいことになる、という予感は最初からあった。しかも取材の目的が「金峰に夜這いの風習があったかどうか、確かめる」というもの。行くとは決めたものの、多忙な夫に子供を預け、遠路はるばる山口県周南市の山奥まで出向き、夜這いについて村人に話を聞いて回る……。
「夜這いの取材かぁ……」
 ノートパソコンを開いて取材前の情報収集をしながら、年末の夜中にリビングでひとり思わず呟いてしまった。この21世紀に夜這いの取材。ちゃんと話が取れるのかと不安になる。だが引き受けたからにはやらねばならない。それに件の記事には、保見へのいじめ≠ヘ存在し、その発端が戦中の強姦未遂事件≠ナあると記されているのだから、それを確かめることは、一応いじめ≠ノ絡む取材ではある。西に向かう新幹線の中で私は腹を決めた。

 民俗学者らの文献や、伝承ものの書籍には、夜這いについての記述はいくつもある。宮本常一の『忘れられた日本人』(岩波文庫)に収録されている「土佐源氏」は現在の高知県檮原町で乞食小屋に住む元ばくろうの老人≠ゥら聞き取った昔話で構成されているが、この老人の父親は、母の夜這いの相手≠セった。同じく同書収録の「世間師」では、宮本の故郷である周防大島でふたりの老人から聞き取りを行っている。このうちひとりは長州征伐のあった1865年に14歳だったという男性だが「戸締りが厳重になったため、娘のところへ夜這いに行けなくなってしまった」とある。
 同じく民俗学者の赤松啓介は『夜這いの民俗学・夜這いの性愛論』(ちくま学芸文庫)で実際に様々な村へ足を運び、時に村のコミュニティに入り込んで、夜這いについて聞き取りを重ねている。また、ともに夫の転勤で徳山に来たという向谷喜久江・島利栄子によって記された『よばいのあったころ 証言・周防の性風俗』(マツノ書店)では、山口における夜這い文化について、老人たちに聞き取りを行なっているが、ここには「山間部の部落には、若衆宿が、昭和の初めごろまであった」とある。若衆宿とはその集落で一定の年齢に達した男子たちが集まる場所で、規律や生活上のルールに加え性的な事柄も伝えられていた一種の教育施設だ。こうした文献に照らせば、金峰地区にかつて夜這い文化があったとしても全く不思議ではない。だが戦中まで、となるとどうか。

(続く)
https://note.mu/tk84yuki/n/n264862a0e6f6

ルポ「つけびの村」02/06 〜つけびして 煙り喜ぶ 田舎者〜 2018/07/23
https://note.mu/tk84yuki/n/n3cf6b0673398


2013年7月に山口県周南市で発生した山口連続殺人放火事件について、2017年に取材し、まとめたものを6回に分けて公開します。存命の関係者のお名前は全て仮名です。2017年9月7日脱稿、その後少し寝かせていました。

 事件のあった「金峰地区の郷集落」は、山口県周南市の北部にある山村だ。
 その周南市は山口県東部に位置し、重化学工業を主な産業としている。2003年に徳山市、新南陽市など2市2町が合併し発足した。南側の臨海部に広がる工場群は現在「周南コンビナート」と呼ばれ、遊覧船による夜景ツアーが組まれるなど観光名所のひとつとなっている。ここは明治時代に旧海軍の石炭基地が設けられたのち、石炭が石油に代わり石油科学工場が発達。昭和初期には海軍の燃料廠や有機・無機化学、鉄鋼などが集積する工業地帯に成長した。昭和39年には工業整備特別地域に指定され、隣接する下松市、光市とともに重化学工業の拠点としての本格的な整備が進み、製造品の出荷額は山口県の5分の1を占める。
 JR徳山駅はこの「周南コンビナート」の港沿いを走る山陽本線と、東京から博多へ続く山陽新幹線が停車する周南市の中心駅だ。駅名には合併前の都市名がそのまま残る。東京から新幹線で4時間以上かかるが、それでも空路を使うより手っ取り早い。県東部の岩国錦帯橋空港から郷地区は50キロ、西部の山口宇部空港とは90キロ離れていて、乗り継ぎにかかる時間を考えると、やはり新幹線一択になる。


 駅から港に向かい数分歩いたところにある徳山港には、太平洋戦争で海軍が開発していた人間魚雷「回天」の実物大レプリカが展示されている。ここから発着しているフェリーに乗り30分ほどの距離にある大津島には、かつて回天の組立工場と発車訓練基地があった。いまも島には記念館があるが、そこを目指しているとおぼしき観光客の姿はない。
 駅を挟んで港の反対側は中心市街地だ。とはいえその規模は小さい。地方都市の宿命か、駅前のアーケード街に人は数えるほどしか歩いておらず、半分以上の店舗がシャッターを閉じていた。そんな中にも、銀行の支店や市役所、新聞社などが立ち並び、夜は酔客でささやかな賑わいを見せる。
 瀬戸内海に面しているこの辺りの気候は温暖で冬でも晴れる日が多い。滅多に雪も積もらないというが、対して北側は中国山地の一部にあたり山深く、冬の積雪も珍しいことではない。目指す金峰地区は、北側に属する。臨海部の主要産業が重化学工業であるのに対し、北側はぶどうや梨の栽培をはじめとした農業が栄えている。


 2017年1月、私は徳山駅の近くで車を借り、金峰地区に向かった。周南市に私鉄はなく、JR山陽本線も湾岸部しか走っていないので、住民は移動にバスか車を利用している。地元のバス会社はあるにはあるが、運行網は金峰地区から9キロほど離れた場所で途絶えていた。そこからタクシーを探すより、徳山駅から車を走らせた方が早い。
 新幹線の中でスマホのアプリを立ち上げて天気予報をチェックした時、週末には寒波が押し寄せ、日本海側に大雪が降ると告げていた。そのせいか、ダウンコートを着ていても寒い。車を3キロほど走らせると、あっという間にスーパーや飲食店は姿を消し、両側と前方にこんもりとした山が広がり始めた。車線も狭くなるが、それでもまだ道は綺麗に舗装されている。ここでようやく、ガードレールが白でなくオレンジ色であることに気がついた。山口県は昭和38年の山口国体開催にあたり、特色のあるものを作ろうと考え、ガードレールを県特産の「夏みかん」色にしたのである。
 オレンジ色のガードレールが両側に立つ片側一車線の山道は時折くねくねと急カーブを切らなければならないが、15分ほど走ると、ようやくコンビニと開けた小さな町が目に飛び込んできた。金峰と徳山市街地の間にある、唯一の町だ。とはいえ、コンビニぐらいしか買い物できる場所はない。ここで飲み物を調達し、さらに国道で北に向かう。すぐにまた道の両脇を山に囲まれ、先ほどまで快晴だったのが嘘のように空が曇り始めた。家も店もない道をしばらく進むと見えてきたのは菅野湖だ。ここにかかる細く古い橋を渡り、湖沿いの県道41号線をひたすら北上する。バス釣りのメッカのようで、ボートを曳いたクルーザーが何台も停まっていた。下流にスロープがあり、ボートを湖に降ろせるようだ。
 車の西側には深緑色の湖面が広がり、東側の山肌には草木が生い茂っている。まだ徳山駅から30分も走っていないのに、ここまで山深くなるかと驚いてしまう。しかも舗装が悪い。濡れた路面はでこぼこで、ところどころ深く大きな穴が空き、水たまりができていた。スリップして湖に落ちやしないかとすこし怖くなった。
 それでも、湖沿いのボロ道を抜けると、また普通の道路に戻る。ここまで徳山駅から40分ほど。距離にして20キロしか離れてないが、見渡す限り山と田畑が広がる田舎道で、もうコンビニなどどこにもない。
 ところが「金峰の郷集落」にさしかかる直前のすこし開けた平野を走っていると、突如として銀色のUFOと巨大な象が目に飛び込んできた。その脇には『宇宙の入り口』という看板が立っている。
 まだ郷集落にも着いていないのに、思わず車を停め、UFOを眺めた。
 そういえば、菅野湖沿いを走っているときから、小さなUFO型の看板がいくつも立っているのを見ていた。そこには手書きで「気をつけて安全運転」など記されていたが、『宇宙の入り口』へ向かうための案内板だったようだ。
 木材で骨組みを作り、アルミ板のようなものをかぶせて仕上げをした数台のUFOと象のオブジェのほか、幅2メートルはあろうかという巨大な太鼓や、木馬も並んでいる。「このブランコに乗ると結ばれる 愛愛ブランコ」という文字が躍った木製のブランコもあった。いわゆるB級アミューズメントスポットだが、陰惨な事件現場のすぐそばにこのような施設が並んでいると、ただ不気味でしかない。
 車に戻ろうとしたところで、男性に手招きをされた。全て手作りだという、この『宇宙の入り口』の生みの親だった。男性は保見と同い年だが、金峰地区に住むものではなかった。
 再び車に戻る。木々の生い茂る薄暗い道を数分行くと、ようやく金峰の郷集落に着いた。
 事件当時、ここは「携帯電話も通じない限界集落」だといわれていたが、実際に足を運ぶと、ほとんどの場所で携帯電話の柱も立った。
 保見光成の家は、地区名の由来にもなった一千年以上の歴史を持つ金峰神社の参道前にある。ここが郷集落の入り口だ。家は二棟あり、ピンク色の壁をした新宅と、茶色のベニヤ板でできた本宅が、土壁のガレージを挟んでいる。本宅からガレージにかけられたブルーシートは劣化して破れ、風にあおられるたび、焦げ跡のある家の壁や、倉庫の中が見えた。


 保見が関東から戻ってくる際に自力で作ったという新宅のまわりには、枯れ枝が散乱していた。それをかき分け、白い門扉の前に立つ。右脇には茶色い壺や人型のオブジェが、空っぽになって倒れた植木鉢とともに雑然と並んでいる。門の奥にはガラス戸の出入り口があるが、上半分は簾がかかっていて中は見えない。左手に目をやると陶器でできた大道芸人の人形が置かれていた。その奥に立つポストはガムテープで塞がれていて「郵便物は入れないでください 当方へ御用の折は、お手数ですが下記にご連絡ください」と携帯電話番号らしきものが書かれた紙が貼られている。試しにその番号へかけると「現在使われておりません」のアナウンスが流れた。少し下がって全景を見れば、雨どいを支える柱に、CDが貼り付けてあった。再び近づいて目をこらすと、ちょうど保見が金峰に戻ってくる直前である1993年に松任谷由実がリリースしたアルバム『Uーmiz』だ。都会での思い出が詰まっているCDなのだろうか。
 土壁のガレージは車が2台は停められる大きさで、シャッターはついていない。破れたブルーシートを少し開けて中を覗くと、汚れた国旗や工具、工具箱、段ボールやタイヤ、窓枠などで散らかっていた。上部にかけられた針金にもザルやブリキの薬缶といった様々な道具が吊られている。幅が30センチはありそうな、片刃のノコギリのような、見慣れない刃物も吊られていた。隣に無造作に置かれた資材の上には鳥かご。中にはオウムのぬいぐるみが入っていた。新宅、本宅ともに屋根の下にはセンサーライトらしきものの残骸が残る。
 本宅の出入り口引き戸の脇に表札はないが、上にはロールス・ロイスのプレートと、可愛くデフォルメされた熱帯魚のオブジェが貼り付けられていた。
 その右側には、かつてあの貼り紙が貼られていた窓がある。

「つけびして 煙り喜ぶ 田舎者 かつを」

 これもすでに剥がされていた。
 ガラス窓は汚れ、かなり曇っているが目を凝らして中を見ると、すぐ前に壁があった。11時20分で時を止めた古時計のまわりに扇子が6枚かけられていて、下に備えられた棚の上には陶器の酒樽が置かれている。その脇にあるスリッパ立てには、きちんとスリッパが4組揃えられていた。
 住む人を失った住居特有の寂れ具合を醸し出していたが、事件がなくとも、家主の個性がにじみ出ている家だったことだろう。
 保見光成に撲殺された後、放火された隣の山本さんの家は雑草生い茂る空き地になっており、同じように撲殺され、放火された貞森さんの家の跡には、小型ユンボが置き去りにされ、その脇に真っ黒に焦げた木材が積み上げられていた。3年半経っても、事件の痕跡は集落の中に色濃く残る。


 郷集落入り口の交差点は、通ってきた南からの県道41号線と、東西に伸びる県道9号線がぶつかる。ごくたまに、9号線を大型トラックが轟音を立て猛スピードで走る以外は、ほとんど車も通らない。村人も誰一人、歩いてはいない。道沿いに流れる小川のせせらぎと、山の葉の擦れる音がざわざわと鳴るだけだ。空は晴れたかと思うと雲が広がるというせわしない状態を繰り返しているが、晴れているときでも山が太陽を遮り、道が陰る。路面はやはりところどころ濡れていた。空気は刺すように冷たく、湿っぽい。私は山口県の隣、福岡県出身だが、同じ西日本でもここまで寒さが厳しいとは思っていなかった。
 保見の家のはす向かいにある、砂利が敷き詰められた広場に車を停めた。ここにはかつて廃屋があったというが、今は更地になっている。事件当時は規制線が張られていた小さな橋を渡って、住宅地図を手に、郷集落を奥へと進んだ。車が一台しか通れない細い道が、小さな川に沿って伸びていた。徳山の市街地よりも寒さが厳しく、少し歩くだけで冷えが身体中に広がる。足の先は感覚を失い、手が動かなくなってきた。
 周南市役所の集計によると、2016年12月31日時点での人口はわずか10人。一軒一軒、訪ね歩いても、誰も出てこない。橋を渡ってすぐ右側にあるオレンジ色の瓦の二階建て家屋は、一階がガラス張りで商店のような趣があるが、中を覗いてみたところ生活用品が雑然と散らばり、すでに空き家になっているであろうことは想像がついた。
 その向かいに伸びる石段を登ると、小さな寺がある。脇の寺務所の門を叩き呼びかけたが、やはり誰もいない。再び細い道に戻って集落を奥へと進んだ。道の片側に流れる小川は、冬でも雑草が高く生い茂っている。その反対側にある山を切り開き、古い家屋が点在していた。どの家も車が一台やっと通れるような私道を少し登ったところに建てられていて、脇にある車の停められる大きさの倉庫には農機具や薪などが置かれていた。古い家屋の作りはだいたい同じで、ガラス引き戸の玄関の脇に、両開きの掃き出し窓が二窓ほど並んでいる。
 寺の隣には、本来は公民館だという古く小さな木造の建物があるが、鍵がかかっていて、使われている形跡はない。脇には、殺害された河村聡子さんが名付けたという『金峰杣の里交流館』。集落にある建物の中では目新しく大きい。保見が逮捕されるまで、村人たちが避難していた場所だが、ここも扉には鍵がかかり窓は雨戸が閉められ、ひっそりとしている。
 郷集落についてから人に行き合っていないし、どの家も人の気配がない。心細くなりながら、車が一台しか通れない小川沿いの道をゆっくりと進む。気温が低すぎるせいか、手に持っていたスマホは突然電源が落ち、動かなくなった。小川の反対側には、この道路よりも少し高い位置に県道9号線が沿っている。あの県道からは村の家々が見渡せる。保見の逮捕当時は中継車が停まり、テレビもそこから村の遠景を捉えていた。
 更に細い道を東に進むと左手の高台に家が見えた。見上げると、グレーのトタン屋根一面に『魔女の宅急便』のキキが箒にまたがっている絵が描かれている。さきほどのUFOに負けず劣らずの不気味さだ。玄関前には旭日旗が掲げられ、引き戸の前に置かれたホワイトボードに夏目漱石、福沢諭吉などの名前が書かれていた。すりガラスの引き戸の奥には蛍光灯のあかりがちらちらと見える。扉を叩いて「こんにちは!」と外から呼びかけた。ところが、そのたびに中からテレビとおぼしき音がどんどんと大きくなっていく。4回ほど呼びかけたときには、騒音レベルにテレビの音が大きくなってしまった。真昼なのに薄暗い村を歩いているだけで怖いのに、この家人の対応にまた怖くなり、もう諦めた。
 郷集落の東の端にあるのは、聡子さんとその夫、河村二次男さんの家だ。そこを目指し『魔女の宅急便』の家を離れ、草の生い茂る川沿いを再び歩くと、背の高い木がみっしりと植えられた私道を登った山側の高台に、誰も住むもののいなくなった石村文人さんの家、そしてもう一軒の二階建ての家があった。こちらも不在だった。石村さんの家は家族が時折空気を入れ替えるために訪れていると聞いた。すりガラスの引き戸の奥は真っ暗だ。古く黒い木で作られた表札に『石村文人』と大きく書かれている。その石村さんは3年半前、この引き戸の奥で、保見に頭を何度も殴られ、絶命した。
 保見はこの引き戸を開ける時、何を考えていたのか……。
 隣の家の犬がけたたましく吠えた。さっきの道に戻ろう。
 河村二次男さんが不在の場合、郷集落での取材はかなわない。細道に戻り、さらに先を目指すが、道はさらに草が生い茂り、廃道のような趣になってきた。この先に家があるのだろうかと焦りが募り始めたころ、ようやく家らしきものが見えてきた。大きな物置のようなものが置かれたガレージのそばには、まだ艶のある御影石の墓。玄関引戸の脇には『キンポー整体院』『札所(六代目)』と毛筆で描かれた木の看板がある。引戸の前から呼びかけるとしばらくして高齢の男性が、玄関横の腰高窓を開けて姿を見せた。がっしりとした上半身をしていて、目はギョロッと大きく、出目金のようでもある。
「三年前の事件のことを、今取材している者です。東京から来ました。お話を聞かせていただきたいのですが……」
 駄目元で切り出すと、男性は言った。
「いま扉開けるから、中に入りない」

 その男性、河村二次男さんは事件当時、友人たちと愛媛県に旅行に出かけていた。
「はよう死刑になればいいと思うちょる。でも弁護士のアレで。やってなかったって言いよるけど5人も殺しとるんやけ。火までつけちょるのに。山口で最終弁論があったときに我々もいろいろ言ってアレしたけど、やってないっちゅうことはない。犯人はわかっちょるし火もつけとるんやしね」
 方言と、河村さんの滑舌の悪さに、何を言っているのかよく聞き取れなかったが、根気よく1時間も話を聞くと、少しずつ聞き取れるようになって来た。
「片目にもなっちょるし。こっちは目が見えんし。事故でね。鼻水が出そうになるとかむけど、そのとき耳の鼓膜がいってね。診療所行ったら『あんまり聞こえんほうがいいですよ』って。あはははは」
 かつて車の事故で頭部を負傷し右目を失明したそうだ。あっけらかんと語る様子に面食らった。確かに両目の視線の先が合っていない。それでもガレージに停めてある軽トラックを運転するというから驚いたが、この地では車の運転ができなければ何もできない。
 通された応接間には、壁にびっしりと写真やカレンダーが飾られている。孫娘と笑顔で並んで写った写真も大きく引き伸ばされ、貼られていた。山の頂上で撮影された集合写真もある。河村さんはこのとき79歳だと言っていたが、背筋も曲がっておらず、体つきもがっしりしている。かつては活発に友人らと外に出かけていたのだろう。ガラス戸棚の中には、聡子さんに宛てた孫娘からの手紙があった。整体に関する書籍も並んでいる。公務員を定年まで勤め上げたのち、整体の学校に通い、自宅で整体院を営んでいたという。
「わしは天下りをするなと役場で言ってきた。要請があったけど断ってきた。でもそりゃ、定年になったらなんかせんといかん。手を動かしたらボケん、っちゅうからやってみよう、って。1年ほど学校行きまして。60万ぐらいかかったんじゃないかな。1回3000円でやりよった」
 こうした四方山話を聞きながら、私は夜這い≠ノついて河村さんにたずねる機会を伺っていた。編集者が持っていた記事にはこうあったからだ。

―― 私【保見光成】が金峰に戻ってきた直後、竹田(仮名)が、『おめえの兄貴にはイジメられたぞ』って言い始めた/時を同じくして、近隣住民に道で無視されるといった些事から、農機具を燃やされ、挙句に刃物で切りつけられたりといった大事に至るまで/数多の“事件”が起きたという〜先の大戦当時、10代半ばだった保見の兄は、母親に言い寄る徴兵忌避の男を追い払い家を守り抜いた。実は、その男の長男こそ、帰郷直後の保見に「兄貴にはイジメられたぞ」とからんだ竹田だったという――前出記事

 記事の中で『竹田』という仮名をあてられ、年齢も伏せられている「強姦魔の息子」とは、いったい誰か。最初に手掛かりになったのは『事件後、金峰周辺の人々は、陰でこう囁きあった。「竹田こそが保見の本命だったじゃろうに……」』という記述。この書きようから察するに、『竹田』は殺害された五人ではなく、七人(事件当時)の生存者の中にいる。
 次に、「兄貴にはイジメられたぞ」発言。保見は、山口地裁で行われた一審公判の中でも、同じ台詞を口にしていた。『「お前の兄貴にはいじめられたぞ」と、カワムラさんに言われました』。
 強姦(夜這い)についての発言はなかったが、相手の名前を挙げていたのだった。となれば、郷集落で生き残っているカワムラさんは目の前にいる河村二次男さん、一人しかいない。
 いよいよ私は聞いた。

――戦時中は、河村さんのお父さんも兵隊に行かれていたんですか?
 強姦魔は徴兵忌避の男だったと記事にあったからだ。
「親父は、背が低すぎて(徴兵)検査に落ちたから兵隊にとられなかった」
 なんと。忌避ではないが、河村さんの父親は戦争に行ってなかったのだという。
 では、河村さん自身は「父親による強姦」が原因で保見の兄にいじめられ、そのことを保見に言ったことがあるのか?
「バカ言っちゃいかん! そげなことは今はじめて聞いた」
 記事の存在をまったく知らなかった河村さんは憤慨した。
 ここでようやく持ってきた記事のコピーを河村さんに見せながら、取材の目的を明かした。すると、しばらく記事を眺めていた河村さんはそこに載っていた「つけび」の貼り紙を指しながら驚くことを言ったのだ。
「これ、うちのうしろに火をつけられたことがあるんですよ。わしはこれじゃないかと思うんですよ。家の前に貼ってる。ここに火をつけて2〜3日で貼っちょったね。家の一番良く見えるところに貼っちょった。下手くそな字でね」
 そしてこう続けた。
「僕が思うにそれは犯人が違うと思うんや」
 保見は事件の時に二軒の家に火を放ったとされているが、保見の他にも火をつけるような村人がいたのか?
「うん、悪いやつおったんよ。それは人から見たら、わしも悪いんかもしれんけど」
 事件の痕跡を色濃く残した郷集落のたたずまいや、『魔女の宅急便』の屋根の変な家もあいまって、私はいよいよ怖くなってきた。
 家を出る時に河村さんは表まで出て来て見送ってくれた。ガレージの中にある物置のようなものはシイタケを乾燥させる機械だと教えてくれた。真新しい墓はやはり聡子さんのものだった。
「あいつ(妻)が先に入っちゃった」と河村さんは言いながら、目元をこすった。
 その後、近隣の集落の村人たちにも話を聞いて回ったが、皆、河村さんと同じことを話した。「河村さんの家の風呂場が焼けた」が、その犯人は「保見ではない」と。
「金峰の夜這い」についても、夜這いそのものが金峰にあったらしいことは分かったが、戦中の夜這い(強姦)を巡る河村家と保見家の禍根について知っている者はいなかった。またそもそも、河村さん自身「長男」ではなかった。
「兄貴は、公務員やなんかやりよった。39で交通事故で死んだからそんで帰った。それまでわしは外に出とった」
 件の記事は、保見の言い分のみをもとに作り上げた記事だった可能性が高まった。
 私は東京に戻り、取材で得た話を原稿にまとめた。だが、一向に記事は掲載されず「送り」になることが続く。一旦はその月刊誌で企画として動き出したが、掲載のタイミングがないのだ。発生からすでに何年も経っている事件では、その裁判に動きがあったときか、もしくは刑が確定したか、さらには、死刑判決を下された犯人に死刑が執行されたときしか、掲載のきっかけはない。だが掲載が延びればギャランティの支払いも先送りとなる。「送り」が3回続いたとき、私はこの記事を「非掲載」にしてもらい、別の実話誌に掲載してもらうことにした。
 こうして『山口連続殺人事件』の仕事は一旦終わったが、しかし私には1月の取材を通じ、もっとこの事件を掘り下げたいという気持ちが沸き起こっていた。いや、事件というよりも、村人たちの話の不吉さが頭から離れず、この不気味な村の正体を知りたくなったのだ。
「つけび」貼り紙の発端となったのが、河村邸放火事件だったことにも驚いたが、村人たちはこんなことも話してくれていた。
「何回かあったらしいよ。何かにつけてケチつけてたけね」
 なんと郷集落での火災は一度ではないというのだ。
 こう話す村人もいた。
「皆殺されて、おらんようになったから、幕引きはできた。私はほんとに安心して生活できるようになったよ。わし自身は。今はもう鍵はかけんけど、鍵をかけ忘れるときも別にどうちゅうことないし、倉庫の鍵をつけたままにしとっても別に何も盗られることもないし、以前はそんなことしよったら何もなくなりよったからね。まだ色々悪いのがおったの。名前をあげりゃ2〜3人そんなものはおったからね」
 まるで事件で村に平穏が訪れたかのような口ぶりなのである。「皆が家族みたいに仲良しだった」集落で、「鍵をかける者などいなかった」という報道に接していた私は、また驚いた。
 さらには、保見について周辺集落を訪ね歩いた時、こんな話を聞いていた。
「親父がコレじゃったけね」
 人差し指を丸めながら、ある村人は言う。保見の父親が泥棒だったというのである。
 そしてある村人は、こちらが真顔で事件のことを尋ねているのに、
「夏はね、亡くなった山本さんやら貞森さんやら、石村さんやらとね、蛍でも出たらね、夕方に『蛍見よう』ゆうてから、仕事から帰ってね、おかずの一品でも作って、皆で集まってビール飲みよったけど。みーんな、その仲間は、殺されてしもうたね。あはははは……」
 と、なぜか高らかに笑うのだ。
 一体、この村はなんなのだ。
 保見が事件を起こす前から、泥棒や放火といった悪事は村で日常としてあったのか?
 一方、保見に対する具体的ないじめ≠ノついても、このとき村人たちに尋ねていたが、確たる証拠は得られなかった。
 たしかに判決でも、近隣住民による保見への「うわさ」や「挑発行為」そして「嫌がらせ」は、保見の思い込みであり、徐々に妄想を深めて村人たちを恨んだ結果、起こした事件だった……と認定されていることは先にも書いた。
 そうはいっても、完全に妄想だけでこれだけの事件を起こすだろうか。
 公判を傍聴した中にも、その疑いを抱いた者がいた。旧知の傍聴マニアのひとりだ。いじめがあったのではと考えたそのマニアは、関東から山口地裁まで傍聴に出向き、いくつかの期日の審理を傍聴していた。保見が具体的な話をしていなかったか尋ねたところ「犬の水飲みバケツに農薬を入れられた……とかは話してました」という。だが、他にはさっぱりそれらしい話をしなかったというのだ。
「『何をされましたか』って公判で質問されたらやっぱり刺された話をするもんじゃないですか。貞森さんから刺されたことは事実ですから。でもその話はしてないんですよ。『街宣車が来ると家の前で心を入れ替えなさいと言われる』とか話し始めるんです。家の前でかならず『心を入れ替えなさい』と同じところをテープで大音量で流されるって。そういう妄想の話しか出てこなくて、肝心な話をしないんですよ」
 また保見は公判で「自宅で作っていたカレーに農薬を入れられた」という話もしていたのだが、よく聞けばそれがいじめ≠ゥどうか、怪しかった。
「一ヶ月分まとめて七輪で作るんです。普通に考えると一ヶ月分作ったら最後の方は腐って食中毒になりますよね。冷蔵庫に入れるでもなく勝手口で作っているんです。そのカレー鍋に農薬を入れられて食べて死にそうになったって保見は言っているんだけど、それは農薬のせいじゃなくて腐ってたんじゃないか? って聞いた方は思うじゃないですか」
 私が当初期待していたほど、公判で保見はいじめ≠ノついての詳細を語ることはしていなかったのだ。

 保見と同じように集落に住む一人の人間が突如として 近隣の者たちを皆殺しにする事件を、私は他にも知っていた。1938年に岡山県津山市の貝尾部落で起きた『津山三十人殺し』である。実際、山口連続殺人事件を平成の津山事件≠ニ報じるマスメディアもあった。
 田舎の限界集落で、周囲に馴染めない一人の男が突如として村人たちを殺害してまわる……たしかに二つの事件は似ている。津山事件の犯人は、当時21歳だった都井睦雄。匕首と日本刀、九連発ブローニング猟銃を携え、自宅の祖母の首を刎ねたのを皮切りに、わずか一時間半の間に三十人を殺害し、近くの山で猟銃自殺した。
 保見光成は自殺まではしなかったが、この二人が、自らも暮す集落の人々に対して、強い嫌悪感を抱いていたことも共通する。『津山三十人殺し』(筑波昭/新潮社)によれば、都井は三通の遺書を残しており、そこには集落の人々への恨みが綴られていた。一部の村人は都井が患っていた病気を毛嫌いし「肺病の一家や、近づいたらあかんぞ」などと直接言っていたといわれる。対する保見は、事件の二年前の元旦に周南警察署を訪れ、「地区で孤立している。集落で悪口を言われている」などと、のちに殺害することになる被害者たちの名を上げていたほか、逮捕直後にも、近所の人の名を挙げて「うまくいってなかった」と語っていた。
 それよりももっと、共通点を感じる大量殺人事件を私は過去に傍聴していた。2004年に兵庫県加古川市で発生した『加古川七人殺し』だ。当時47歳だった藤城康孝は8月2日の午前3時半、突如、近隣に住む親戚を次々に牛肉解体用の特殊な包丁で刺してまわり、7人を殺害したのち、自宅に放火し、ガソリンを積んだ車に乗り込み発車し、それを近所の信号柱にぶつけ、自殺を図るが警察官に引きずり出されて逮捕されたという事件だ。
 保見の逮捕のニュースに接した際、私は津山事件でなく加古川事件を真っ先に思い浮かべた。2009年に神戸地方裁判所で論告弁論を傍聴した際に、検察側が近隣住民との諍いについて述べたのだ。
「周辺は古くからの農村で人間関係が濃密。ささいな出来事も話題にのぼり、噂になる土地柄です。
 被告人一家は権利関係があいまいなまま本家の土地の一部に住み続けていました。また被告人は近所でもけんかっ早くて有名で、定職につかず、被告人の父は昭和62年に『年金を1人で使いたい』と家出します。しかし周りには『被告人の暴力から逃げる』と嘘をつきました。被告人の兄弟は自立しており、母親が靴下製造工場でパートとして働き、生計を立てていました。
 被告人は当時、老齢の母と2人で暮らしており、常に噂話の対象となっていました。被告人の母はこう述べています。
『夫が家にいた頃まではあまりにも露骨な噂話はありませんでしたが、夫がいなくなってから格好の噂の対象になりました。遠慮もなくなり、外出時には利彦の妻、周囲の住民が井戸端会議をしていました。挨拶をしても返さず、声を潜めその場を離れて行きます。娘も「あの人ら何なん。いつも悪口言ってる」と言っていました』
 また被害者のひとりと立ち話していた近所の女性は『被告人の姿はたまにしか見かけませんでした。平日の昼も家にいるようで、まともに仕事もしてないこともわかっていましたが、何か仕事しとるんやろか、と噂していました』と述べています。
 このような環境で被告人は周囲が自分を見下していると考え、怒りを募らせていったのです」
 藤城に対しては何度も精神鑑定が行われた。一審・神戸地裁では弁護側請求による鑑定と、検察側請求による鑑定。二審・大阪高裁では裁判所が職権で鑑定。一審弁護側請求鑑定と二審の鑑定では、保見と同じく『妄想性障害』という診断が下された。だがそれに伴う責任能力の有無については、保見とは扱いが異なった、一審弁護側請求鑑定で「完全責任能力を否定」し、二審の鑑定でも「判断能力に著しく障害があった」と責任能力が限定的であったとされたのだが、神戸地裁も大阪高裁も、完全責任能力があったと判断したのだ。最終的に最高裁でも『妄想性障害はあったが完全責任能力はあった』と認定されている。だが近隣住民による「うわさ」や「挨拶をしても返さない」などのいじめが存在したことは神戸地検も争ってはいなかった。

 集落にはそれぞれの性質がある。ひとくちに村八分≠ニいっても、その性質により、内容も異なる。先のふたつの事件では、都井に対しては直接的な悪口、藤城に対しては陰口や無視といった行為がそれにあたる。保見に対してはどうだったか。1月に触れた郷集落の不気味さの片鱗だけでなく、村の本当の姿を知らなければ、保見の感じていた疎外感を知ることもできない。
 私は、改めてこの郷集落における保見がいかなる存在だったのかを追うことにした。まだ梅雨は明けていなかった。

保見ちゃん

 保見光成は昭和24(1949)年12月に郷集落で生まれ、地元の金峰小学校に入学。鹿野中学校を卒業後に上京し、先に上京していた長兄と仕事をしていた。17歳の頃にボクシングを始め、ジムを何度か移ったが、そのうち兄とやっていた仕事を辞め、ジムに住み込む。パチンコ屋でも住み込みで働いていたという。
 山口地方裁判所で行われた裁判員裁判の検察側被告人質問(第七回公判)で、保見は自らの経歴を問われ、こう語っている。

検察官「金峰を出たあと、関東ではどのような仕事をしましたか?」
保見「いろいろあります。石貼り(タイル)、のろ貼り(セメント)、軽天(天井)、建築に関すること、ほとんど。住込みのパチンコも、あっ、すし屋……」

 時は高度経済成長期。若い労働者が金の卵としてもてはやされた時代だ。左官や土建業を中心に、保見はさまざまな仕事を渡り歩いた。
「東京では、やればやるだけ金がもらえた。当時は月200万の収入があった。貯金は1500万ぐらい」
 全盛期は、仕事場にシュラフを持ち込み、夜になるとそこに潜り込んで眠り、目覚めてすぐに現場仕事に取り掛かる、という生活をしていた、と村人たちは保見から聞いていた。だが、本当にずっとそんな調子で稼げていたかは、分からない。

「体の調子が悪いから、戻ってきてほしい」

 父親の友一からこんな連絡を受け、郷に戻ることを決めた保見光成は、1994年10月、元駐在所の本宅に隣接する土地を、その所有者であり事件の被害者となった石村文人さんから購入し、当時住んでいた関東と金峰を往復しながら自力で新宅を完成させた。1996年5月、拠点を金峰に移し、両親との3人暮らしが始まる。このときには1000万円の貯金があった。
 土地の購入に関しては、郷地区から少し離れた金峰谷(みたけだに)という集落に住んでいた、鹿野町(当時)の町会議員、三浦富貴人(ふきと)さんが、高齢の友一夫妻を心配し、保見へ譲ることを石村さんにすすめたのだと地元では言われている。その富貴人さんは事件が起こった年に亡くなった。
 石村さんから購入した土地の登記簿を確認すると、郷地区に戻る直前の、保見の住所が確認できた。神奈川県川崎市多摩区のアパートだ。京王・JR両線の稲田堤駅から北東に1キロほど進んだその場所を尋ねたが、すでにアパートはなくなっていた。古い平屋住宅、低層階の古いマンションやアパートが立ち並ぶ中に、造園屋や工務店などが点在している。真新しい建売の戸建てが、ところどころに出来始めていた。
「あいつのタイルの親方がこの辺にいたんだけど引っ越しちゃったんだよな。職人としての腕はよかったよ。やっこさんが住んでたところの隣に3階建てのマンションがあるのよ。そこを奴がやったんだよね。外壁を」
 当時の保見を知る男性はこう語った。確かに、アパートの跡地すぐそばに、1991年3月に建てられたクリーム色のタイル張りマンションがあった。仕事は順調だったように見える。だが、このマンションが完成して数年後に「親が体の調子が悪いから、家に帰んなきゃなんねえんだ」と言い、金峰に戻ってしまった。
 保見はこの地に住んでいる当時、稲田堤の駅前に古くからある、焼き鳥屋の常連になっていた。その店主である森さん夫妻=i仮名)が、保見と同年代で、仲が良かったという。保見が住んでいたアパート跡地の近所にある森さん宅を何度か尋ね、奥さんに話を聞いていた。「あの事件があったときは田舎(山口)からも取材が来てたのよ」という。
 多摩川沿いにあるその家で夫妻は現在、甲斐犬のブリーダーをやっている。奥から何頭もの犬の鳴き声がけたたましく響くなか、玄関で取材に応じてくれた。
「私もお店(焼き鳥屋)に出ていて、当時子供も小さかったから、保見ちゃんに見てもらったりなんかしてたんです。その当時、別にどこか異常だとか感じたこともなかったしね。ただなんか神経質っていうかな。仕事は熱心だし真面目だし。真面目なんですよ。だから逆に真面目だからこそ、融通がきかないってのはあった。でもそれって、男でも女でも、人によって性格ってあるじゃないですか。
 保見ちゃんが働いてるとこの従業員の方とか社長とか飲みに来たり、自宅にも飲みに来たりなんかして家族ぐるみの付き合いしてたね。『あいつは気は短いけどでも気持ちはいいぞ』って社長は言ってました。わたしもホミちゃんのところに遊びに行ったことあるけど。だけど別にどうってことないし、ちゃんと洗濯もきちっとしてるし支払いもきちっとしてたからね、そういう付き合いはしてたんですよ。あんまり変な人だとね、うちも子供が女の子だから付き合えないし。
 保見ちゃんは、仕事が早く終わっちゃうと『一杯飲ませてくれとか』早い時間に店に来て喋ってたり。でも仕込みなんかで私たち夫婦は忙しいから、酒も出してる暇ないからね。だから自分で出して伝票も自分でつけてくれてたり。そんな感じでみんなで和気藹々とやってましたよ」
 そもそもの出会いは、当時森さん夫妻が切り盛りしていた焼き鳥屋に、保見がタイル職人の親方に連れられて来店したのがはじまりだった。
「保見ちゃんに会ったら言っといて。稲田堤のババアが年取ったって。娘は大きくなって孫もできたよ、保見ちゃんありがとうね、って」
 ちょうど家の奥から電話が鳴り出し、ここで話は途切れてしまった。

 稲田堤に住んでいたころの保見は、タイル張りの仕事に精を出し、行きつけの焼き鳥屋で交流の輪を広げ、仲の良い友人と一緒に釣りに行き、その魚を近所におすそ分けもする、でも頑固で細かいところもあった、普通の職人のおっちゃん≠セった。
 では、金峰地区に戻ってからはどうだったのか。

ワタル

 1月と同じように徳山駅から車で菅野湖沿いの県道41号を北上する。片側が湖、片側が山になっていて車一台しか通れない道だが、6月下旬ともなると、山から生い茂る雑草が伸びてきて、車の側面に葉が触れる音がかさかさと車中に響く。たどり着いた金峰地区も同じく、緑が生い茂っていた。
 この県道41号と、それよりも道幅が広い県道9号がぶつかる地点に保見とその両親が暮らした家がいまもある。41号を挟んだ向かい、西側には金峰神社へと続く参道がのびていた。保見の家から参道の方を眺めたとき、その脇に見えるのが金峰山(きんぽうざん)だ。
 前回訪れた時と村の佇まいは変わっていないが、季節が冬から梅雨になったことで、山の木々や道路沿いの雑草はさらに青々と生い茂っていた。そして、なんといっても虫が多い。歩いていても、止まっていても、走っても、身体中に小さな羽虫がまとわりついてくる。何をしていても虫たちが耳元で小さな羽音を響かせ、とくに顔に集まってくるから堪らない。小さな叫び声をあげるが、周りには誰もいない。手に持ったタオルで顔に寄ってくる虫をはたきつつ、郷集落や近隣の集落を訪ね歩いた。
 保見光成は、もともとの名前を『中』(わたる)という。そのため皆、保見のことを『ワタル』と言って話す。
 事件直前のワタルは、関東に住んでいた時の人物像とはまるでかけ離れた攻撃的な村人として、郷地区で敬遠されていた。妻の聡子さんを殺害された河村二次男さんが言う。
「うちの田んぼがワタルんちの前にあった。そこで女房が仕事をしとると、ワタルが家から窓開けて、歌を歌うて、おびくわけ。おびく、っち分かるかな、罵る、ちゅうこと。カラオケでギャーンと流す、そういうことしよった。女房は『気持ち悪い』っちゅうけど、わしは『取り合わんがいい』と言いよったんよ。
 女の人は集まって井戸端会議とかするじゃないですか。それを、まあ、ワタルの家の前に鳥居があるからね、そこで山本さんとうちの女房が話をしよったらワタルが外に出てきて犬の散歩がてら『お前ら殺したろうか』っちゅうわけ。『お前ら二人じゃつまらんけ、もう何人か連れてきてやっちゃろか』と。そういうこと言うわけ。
 女房がワタルの向かいの家に行っとるときに車で送って、お宮の前に車止めて、向こう見とったらワタルの家の方向くでしょ。そうしたら『お前何の用事があるんか』と言ってくる。そりゃあね、わしらも多少あれやったけど、田舎のものにあげなこと言うたら恐れる。あれは恐ろしい」
 道ゆく村人たちに食ってかかり、時には殺害も仄めかす。完璧な危険人物に成り果てていたようだ。
 別の住民も「貞森誠さんがワタルに掴みかかられた」、「棒みたいなん持って犬を散歩しよった。会うと『10人くらい殺して死のうと思う』とよう言いよった。思いがあったんかなんなんか。それを私はなんでとは問わんよね、怖いから」など口々に振り返る。
「夕方にカラオケかけて歌いよった。5時ごろ出たら歌ってるよ。『およげ!たいやきくん』やらね、そういう歌よ。すごい外に大きく聞こえるように。マイクをこうね。山側のほうに向けてね」
 しかも、食ってかかるだけでなく実際に暴力も振るい、挙げ句の果てに毎日のようにカラオケで熱唱していたというのだから、確かにこれは、田舎のものでなくとも、恐ろしい。
 当のワタルは一審山口地裁の被告人質問で、当時の生活パターンを検察官から問われこう答えている。
「最後はわからなくなった。朝5時半散歩して、家でカラオケ。事件2〜3か月前はなんもやってなかった。ポケーとして声を出すこともなかった。人の話を聞きたくない」
 最初の頃に自宅の窯で陶芸をやっていたことを覚えていた村人もいたが、それもいつしかやめていた。
 村人たちにはその言動を不審がられていたが、家の中はそれにもまして不気味だった。地下のトレーニングルームを中心に、自作のポエム≠ェびっしりと壁に貼られていたのである。一審公判の証拠調べで、法廷の壁にかけられた大型モニターにその壁の様子が映し出されている。傍聴した記者やマニアは一様にこの写真のことを真っ先に挙げ「すごかった」と語るほどだ。

「何かしなければ全て認めて死ぬことになる 悪者にされ一人死んでたまるか」
「試合である 警察に訴えない 病院代の請求 遺恨残さず」
「あなたの性根の悪さがよく分かる がまん がまん がまん いつまでどこまで リオブラボー」
「もんぺ下げ 散歩の亀に 餌をやる」
「無神経 なのに 神経痛」
「玄関前に横たわる ぴくりとも動かない 仇討ち」

 エロと恨みが共存したこれら不穏なポエム≠ヘ、村人への恨みから来るものなのではないか? そう一審公判で検察官が追求していたが、ワタルはそれを否定していた。こんな調子でだ。
「ルームの紙は両親が亡くなった後書いた。どういうつもりでって……つらい気持ちで書いた。見る時はなんともないです。子供がいじめられて日記書くでしょ、死ね死ね死ねとか。吐き出してすっきりする。そういうもんです」

 そうは言っても、すっきりできなかったから事件は起こったのではないか。
 事件直前は村の危険人物に成り果て、草むしりなどの集落の作業にも、自治会の仕事も参加せず、回覧板も受け取らない生活をしていたワタルだが、最初からそうだったわけではない。
 関東に出る前の幼少期は、ガキ大将として近所の子供を引き連れて遊んでいた。連れ回されるのが嫌で、子供たちはたいてい、ワタルが遊びに来る前に外に出るようにしていたという。いじめられていた同級生を守ってあげたこともある。
 1996年5月に郷地区に戻って来たばかりの頃も、いわゆる変人ではなかった。戻った翌月には自治会の旅行に参加した。その翌月に開かれた歓迎会にも参加して、自己紹介をし、村人たちの輪の中にすすんで入ろうとしている。2日連続の公民館行事に参加もした。旅行でのワタルの様子を覚えている村人はいない。ということは逆に言えば取り立てて何も問題がなかったのだろう。だが歓迎会でワタルは、自分がこの地で何をしたいか、村人たちに提案をした。
 公判を傍聴したマニアが、この当時の情報を語ってくれた。
「本人に面接し本鑑定を行なった精神科医が、彼は『村おこしに失敗した』と言っていました。その一言だけで、具体的には何に失敗したのか言っていなかったんです。本人は手に職があるからバリアフリーをやってみたり、年寄りが多いから色々と電気の付け替えとか、便利屋さんをやろうと思っていて、戻って来た年にあの新しい家で『シルバーハウスHOMI』を開業したんです。そこでやっぱり介護とかデイサービスみたいなこともやろうと思ったんじゃないですかね」
 ワタルは自力で建てた新宅で、リフォーム業を主とする便利屋を開業しようとしていた。当時すでに過疎化が進んでいた村を盛り上げたいという意志を持っていたという。新宅は、その拠点にしようというワタルの思いが込められた造りになっている。
「気軽に集まってもらったり、お酒を飲んで歌ったり話をしたりしたら楽しいよね」
 ある村人は、ワタルからこう聞いていた。いま草に覆われている新宅の扉の奥には、カウンターバーがあり、カラオケ機器も当初から取り付けられていた。地下にはトレーニングルーム、さらには陶芸のための窯もあった。
 ワタルはここを村人たちの交流の場として作ったのだ。
 日々ドアを開けてふらっと訪れる村人たちと、カウンターでお酒を飲みながら交流を深め、地元を盛り上げるための色々な案を考えていきたい……そう考えていたという。
 当初『シルバーハウスHOMI』を訪れたことのある村人は言う。
「すごいバーを作って、外は飲み屋のようにネオンがつくようにしちょった。中もお店みたいじゃったよ」
 だがすぐに、誰もそこに行かなくなったのだという。村人は続けた。
「そうするためにはやっぱり人間関係がないとねえ」
 ワタルは自作の新宅を集落の新しい拠点として、村人たちが楽しめるような設備を作り、村を盛り上げようと胸を膨らませていた。だが真っ暗な村に一軒だけネオンが輝く様は、不釣り合いであり、浮いていた。そしてワタル自身も、まず村人たちとの信頼関係を築く前に、近代的な家の設備で村人を呼び寄せようとしていたことが裏目に出た。『Uターンハイ』とも形容できるような状態になっていたのだろう。
 都会から戻ってきた俺が、こんな家を作った。これで村も盛り上がる。さあ、皆ここに集まってくれ……。
 年長者ばかりのこの村で、それは通用しなかった。やはり村に戻ってきたからには、自治会の仕事に参加し、数ヶ月に一度行われる草むしりなどの仕事にも精を出し、先輩となる村人たちとの調和を図ってはじめて、村に受け入れられるのがセオリーだ。冷静に見ても確かに、その案は強引に映る。
 歓迎会の席上から、ワタルは村人にあまり良い印象を抱かれてはいなかった。都会帰りでハイな状態のワタルは、村人たちにとっては、うっとうしかったのかもしれない。この村を盛り上げるためのワタルなりの村おこし……新宅を村人たちの交流の拠点とする案は、あっさりと年長者たちに否定されてしまったのだ。
「最初には、光成自身が外森(仮名)に相談をしたの。年代が違わんから『金峰おこしをしようじゃないか』と相談をもちかけたのは光成のほうやね。最初に自治会で出会ってその話をしたと。その時に外森が『それじゃ二人でやろう』ちゅうて。そのままやったらよかったんじゃが、あとのあおりが怖いちゅうんで、外森がおそれて手を引いたから、光成自身が一人悪者になった」
 ワタルの村おこしの顛末を知る村人は、こう語った。外森さんとは郷地区にある玉真寺という寺の住職で、ワタルよりも少し若い男性だ。郷地区から7キロほど西に離れたところにある寺の住職も兼ねており、事件後はほぼそちらに住んでいるのだという。彼と当初は村おこし≠しようとしたが、外森さんから梯子を外されてしまったのである。
 出鼻をくじかれたことで金峰・郷集落での生活は幸先の悪いスタートを切った。集落のもやい仕事に参加したのも最初だけだ。「気が弱いところもあった」とも評されるワタルなので、理想の村おこしを反対されたことで萎縮したのかもしれない。人間関係が築かれてくれば、長期的には『シルバーハウスHOMI』を村おこしの拠点とすることも無理ではなかっただろうが、ワタルはそれをしなかった。
 そんな中でも『シルバーハウスHOMI』のために、店のチラシを印刷してあげたりする村人もいた。実際、初めの頃は徳山の方へ出向き、リフォームを請け負ったこともあるというが、そのうち開店休業状態となる。
 関東と金峰を往復して作ったこの新宅には、ワタルが思い描く郷集落での理想の生活が詰まっていた。だが『シルバーハウスHOMI』は、稲田堤の焼き鳥屋のように、地元の村人たちが集まる場所にはならなかった。いつしかトレーニングルームは自身の鬱屈した思いを書き連ねたポエムが壁一面に貼られる禍々しい空間へと変貌し、カラオケを一緒に楽しむ村人が訪れる日は来ないまま、一人でひたすら「およげ!たいやきくん」を歌っていた。

 ―― 過疎化した金峰では、子どもの住む街へ出るお年寄りが多い。そんな中、保見(ほみ)友一さん(93)の二男、中(わたる)さんが九四年、川崎市から帰ってきた。十五歳のころ、都会にあこがれ東京へ出たが、「自分の生まれたところで死にたい」という思いは消えなかった。
 工務店勤務の経験を生かし、老いた両親のために部屋の段差をなくし、手すりをつけた。一年ほど前、母のタケヨさんが病気で倒れ入院した。「うちに帰りたい」と言う母のために自宅で介護を始めた。おしめを換え、たんを取った。
 昨年十二月末、八十七歳の母をみとり、父と二人暮らしになった。「親が子どもを育て、年をとる。 そんな親をみるのは子どもの義務」。父が毎日手を合わせる仏壇の周りにも手すりを付けた。(2003年4月19日読売新聞朝刊)――

 金峰地区に住む高齢者と、その子供たちについて触れた記事だ。この翌年、友一も死んだ。村人の中には「両親が死んでから、おかしくなった」と言う者がいた。確かにこの頃から、家の前に雑然と置かれたオブジェの様子が異様なものへと変わり始めたようだ。
「ブラジャーをつけた変なマネキンを家の前に飾ったりして、どんどん様子が変になって言った」
 地下のトレーニングルームの貼り紙も、この頃から始まった。

 郷集落から5キロほど離れた別の集落に、ワタルと友一を知る村人がいた。82歳になるその男性は、この地で長らく酒屋を営んでいた。平成16年(2004年)に店を畳むまで、近隣の家へ酒の販売・配達をしていたのだという。
「お父さんはわしもよく知っちょる方じゃある。まあ椅子に座りない」
 男性は、保見の父・友一と、保見の母が生きているころ、郷集落のあの家に酒を配達していた。
「犯人のあれも、話したことがある。まあ、あれがあんなことをするとは思われんような。穏やかな人だと思うちょった。犯人の家はお父さんお母さんの家のすぐ隣に作っちょった。お酒の配達はお父さんが飲みよったけ、そっちの古い方の家に行きよった。お父さんと話するけど犯人とも話する。あそこは夫婦仲もよかったし。喧嘩ちゅうようなことはなかったですよ。犯人のほうも、大きな声をあげてどうじゃこうじゃ言う人じゃなかった」
 郷集落の人々は、酒税法が変わり酒のディスカウント店が都市部にできるまで、めいめい決まった酒屋から酒を頼んでいたという。男性は郷集落では保見家だけに配達をしていた。
 話を聞きながら、ふと、元酒屋だったというその家の土間を見回すと、ワタルとはタイプの違う、前向きな自筆の標語が壁一面にびっしりと貼られていて、そちらに気を取られてしまいそうになった。腕に蚊が止まっても、気づかないのか、そのまま話し続けていた。
「ひと月に一回注文があった。いっぺんに持って行くのが一升瓶10本。多いですよ。わっはっは。よう飲みよったです」
 酒飲みだったが穏やかな家族だった……。こう男性は言うが、郷集落とその近くでは違った評判が立っていた。
穏やかな人≠セったというワタルに関してはこうだ。
「帰った当時は集落の旅行にでも行きよったよ。それならええわけ。でも、仕事をせん! 集落の村の仕事にも出ん。はしからそうなっていったんや。そりゃ人が相手にせんにゃ」
「ものを人にあげるような人じゃなかった。うん、そういうところはなかったですね。飲みに行った人のところに次に行くときさ、ビールの一本ぐらい持って行くとかさ、そういうのが一切なかった」
「なめこがたくさん採れた年に、分けちゃろうとおもって、なめこ食べるか? って聞いたら『おう食うど。しいたけは埃臭いから好かんけどなめこならええど』って、ありがとうはない」
 都会から戻ってきた若者……と言っても、すでにこのとき40代半ばだったが……なのに、年長者たちに礼を言わず、集落の仕事にも参加をしない。川崎・稲田堤に住んでいた時とは違う尊大な態度のワタルに、郷集落の村人たちは距離を置いていった。剛に入りては郷に従え。特に人口の少ない集落においては重要かつ唯一ともいえる処世術になるが、ワタルはこれを拒否し、村人たちもそれを苦々しく思っていた。2009年にワタルが「光成」に改名したが、それを村人たちが知ったのは、事件の後の逮捕報道でだった。

 このように郷集落に戻ってきてからのワタルの、あまり良くない言動は、村人から暇なく聞かれるのだが、報じられていた具体的ないじめ行為については確たる話が出てこない。
 一審公判の冒頭陳述では、近隣住民との諍いの経緯が時系列で明らかにされているが、そこで出たのは「平成20年8月の河村さんとの農薬散布トラブル」、「平成21年5月 飼い犬を巡り河村さんと口論」、「平成25年はじめ 飼い犬のフンをめぐるトラブル」などだった。だがこういう裁判では被害者側の生前の非を隠すこともある。
 事件当時に現場を取材した記者によると、そのときは郷集落に貼られた規制線のため、中に住む村人たちへの取材はできない状況だったことから、金峰山を超えた鹿野町などでも取材が行われていた。そこで記者は、こんな話をする住民に出会ったそうだ。
「せっかくみんなのために買った草刈機を、あぜ道に置いたまま忘れて帰ったら燃やされたっていう話を聞いてました」
 そのほかにも、すでに書いたように「庭に除草剤を撒かれる」「『犬が臭い』と文句を言われる」などの出来事が起こっていたと遠くの村人≠スちは口々に言うのだが、当の郷集落の村人たちに聞いてもそのような話が出てこないのだ。
「あの人だいたい草刈機を持ってなかったから。農家じゃなければあまり草刈機はいらないよね。それに草刈機も、燃えるようなもんじゃない。草刈機をどうかされたっていったら、投げられたとか、刃を壊された、とかならまだわかるけど、草刈機のどこを燃やすんか」
「草刈機を燃やしたとかなんとか聞いたことあるじゃろ。だけどあれはわし、よう知らんのよ」
 そもそも草刈機の存在さえ怪しい有様なのである。

 河村二次男さんは日々、村で起こったワタルとのトラブルを、自分の『県民手帳』に書きつけていた。そこにはこんな記述があった。
「背負式の機械で田んぼに農薬を散布していたら犬がどうとか言っていた」
 これは2008年の出来事なので、冒頭陳述にあった『農薬散布トラブル』とみて間違いないだろう。除草剤ではなく農薬を散布した際に、ワタルが自分の犬を攻撃されていると思ったのではないか。
 一部の村人は河村さんについて「ワタルに色々言われるけえ、ちゅうて、田んぼも手放したんじゃけど、まだ田んぼをやりよるときは、よく農薬まく人じゃったんよ」と、もともと農薬を好んで使う主義だったと話した。
 事件当時取材に答えていた遠くの村人≠スちによる、郷集落でのいじめの話は、ワタルが以前にそうした被害を誰かに話したものが広まっているかのような印象を受けた。犬について文句を言った話は、郷の誰からも聞けなかった。いじめた相手にいじめの話を聞かせてくれと言ってもなかなか話してくれない。そういうことかと思っていたが「あの人がいじめていた」という耳打ちすらされないのである。
 それよりも、ワタルに対する具体的ないじめ≠フ話が村人たちから出て来ないのと対照的に、周辺集落の誰もが知っていたのが、ワタルの父・友一が泥棒だった≠ニいう話だった。

(続く)
https://note.mu/tk84yuki/n/n3cf6b0673398

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ルポ「つけびの村」03/06 2018/07/24
https://note.mu/tk84yuki/n/nee18a0ab0ef6


2013年7月に山口県周南市で発生した山口連続殺人放火事件について、2017年に取材し、まとめたものを6回に分けて公開します。存命の関係者のお名前は全て仮名です。2017年9月7日脱稿、その後少し寝かせていました。


保見友一

 その泥棒≠フ噂高い、保見の父親は、いつから金峰の郷地区に住んでいたのだろうか。集落を訪ね歩いて話を聞くと、皆、大まかには同じことを話した。
「保見のところは、もともとは、同じ金峰でも郷とは違う山の中に住んどった。
 長男は順一。友一(ともいち)は三男。その間に徳市(とくいち)ちゅうのがおる。ワタルの父親が友一。この3人ともが皆それぞれに郷に出て来た。それは戦争前。今から70年くらい前かな。家のあったとこは、あとはなんもない」
「ワタルくんのお父さんらは、山の上の方おっちゃったらしいよ、ほんで降りてきた、わたしらも親が話しよったちゅうぐらいしか知らんからね。入るのはね、河村さんところの道を山伝いにずっと上がるんじゃけど。途中から奥まった山の方へ登るんと思うよ。家とか、もうないない。山しかない。もう誰も住んじゃないよ。昔はそこへ山をちょっと持っとったんじゃろうが、もうそれも誰かに売っちゃったみたいじゃがね。自分らも子どもの頃、あの河村さんとこの奥のところに入ったことはあるけど。山よ。集落はないね」
「なんで越して来たかは知らんね。兵隊取られるかそんな頃やから、昔の話じゃ。兵隊から帰った時にこっち来たんやね」
 たしかに、金峰神社の参道脇にあった保見家の墓や、神社に残された石柱などを確認しても、光成の父親である友一、その兄たちの順一、徳市以外の名前は見当たらなかった。

 郷集落は保見家の南隣に、3人目の被害者山本さん宅と、さらに南方に進んだところに、本来は菅蔵地区だが「もとは郷に住んじょって、そっちに移った」ため、そのまま郷集落の一員として暮らしていた最初の被害者、貞森さん夫妻が住む家がある。保見家の家の裏手にはこんもりとした山が続くが、その手前には東西からそれぞれ流れてくる小さな川が合流している。東側から流れるほうの川に沿った細い道をその上流に向かって歩くと、500メートルほどで河村さんの家に着く。ここまでが郷地区といわれる。この細い道をさらに奥に進めば、県道9号線にふたたび合流するのだが、郷集落の入り口の前よりは道幅が細くなっており、車が一台しか通ることができない。1キロほど曲がりくねった細道を進んだところで、道が南北に分かれている。この周辺にワタルの父・友一とその兄たちは住んでいたという。
 そう村人たちが言う場所は現在、道沿いに家はぽつりぽつりとあるが、朽ち果てた廃墟もあり、今も人が住んでいる家は数100メートルおきに一軒ほどしか見当たらない。山の方を見ても、もはや家らしきものはなかった。
 体に寄ってくる虫を避けながら、保見友一とその兄たちが郷集落に移り住んだ経緯や、住んでからの暮らしぶりを高齢の村人に尋ねてまわると、わりあい話が聞けた。といっても、金峰地区では高齢者しか見かけたことがない。ここでの高齢の村人というのは、後期高齢者に分類されるような者たちだ。

 金峰地区の生き字引と称され、金峰地区のことならばこの人に聞け、と名前の出る男性、田村勝志さん(仮名)は郷集落の隣、菅蔵(すげぞう)集落で長らく農家を営んでいる。友一とは20歳近く年齢が離れているものの、やはり友一とその兄たちのことをよく知っていた。なぜ郷地区に移り住んで来たのかもだ。
「生活ができんようになったから。住んでいたところは、それはもう山の中で、どうしようもない生活しよった。その山の中に一軒家があって、そこに生まれて育ったんやからね」
 友一が移り住んで来たとき、まだ郷地区を東西に走る県道9号線が東方向には伸びておらず、現在の保見家の北側から東にかかる『第二郷橋』付近に家があった。
「まあお粗末な家を作っておったよ。竹をパッと縦に割って、その中の節を落としたものを重ねて行くわけ。でそれが屋根になるわけ。そういう家じゃった」(別の村人)
 郷地区から北東方面に採石場があることから、昔からダンプカーの往来があった。集落の家々の前にある細い道を抜けていたのだが、道幅が狭かったため、1976年代にバイパス工事が行われることになった。このとき友一と妻、そして子供であるワタルとそのきょうだいらが住んでいた家は立ち退きとなり、現在の茶色の建物に移ったのだという。もともと駐在所だった建物をそのまま友一が買った。
 ワタルの父、友一とその兄たちは別々に移り住んで来ている。次男の徳市は事件の被害者となった貞森さん夫妻が住んでいた家に住んでいた。その家を建てたのだという。金峰地区の村人たちは、徳山に近いほうを「カミ」、遠いほうを「シモ」と言う。順一は「シモのほうに住んどった」というが、詳しい場所は誰に聞いても定かではなかった。
 ワタルの叔父にあたる明治生まれの長男・順一の生活ぶりを直接覚えているものは、田村さんだけだ。
「わしが小さい頃、長男は荷車を引いて荷物を運ぶ商売をしとった。ここから徳山まで馬を買って来て荷馬車にして荷物を徳山へ運んできて、徳山で、頼まれたら買って帰るというのを長男はやってた」
 同じく叔父にあたる次男・徳市になると、数名の村人が記憶していた。話は皆共通しており「ブローカーのようなこと」をやっていたという。徳市、友一と交流のあった田村さんの話はこうだった。
「どういったらええかな、請負仕事をして、そして儲かって、土地を買ったり、いろいろ商売をしたりということをやりよった。ここに昭和26年の10月に大きな台風が来たんじゃけど、この辺は死の谷ちゅうて、家もあったけれども、田んぼも何もみな川になってしもて、大変なときがあった。道路という道路、橋という橋がひとつもなくなったんや。それを改修するために土建業の人がものすごいここに入った。そういうときに保見徳市という人は、なかなか頭のいい人やから、すぐにその請負をしたわけね。それで儲かって、まあ、一代をなしたというか」
 昭和26年10月 13日から14日にかけて山口県を襲ったルース台風は、同県に甚大な被害をもたらした。この災害をビジネスの好機と捉えたのが徳市だった。それなりに財を築いたが、徳山市に出ていた徳市の長男が脳溢血で急逝したことで潮目が変わる。その妻が、家の財産を奪ってしまったのだという。
 とはいえ長男・順一も、次男・徳市も、郷地区に移り住んで来てから仕事をしていたが、ワタルの父、友一だけは違っていた。どのように暮らしていたのかと村人たちに尋ねると、こんな答えが返って来るばかりなのだ。
「あんまりに働かないおじさんでね。上手いこと言って安い酒を人に高く売りつけてお金をあれしたりとか。人の作ったカゴを自転車の後ろにつけて売ったり。それで時々仲買に出たり。体がでかいおじさんだったけど、勤勉に働くような人でもなくて。それでいつも将棋をやっていてね。バスが来てたんですよ、で、バスが止まるといつも運転手さんと早将棋をやっていた」
「カゴを売る仕事のほかは、戦後に植林ブームちゅうのがあった。山を綺麗にして、苗木を植えて、下刈りをして、下刈りもだいたい5〜6年やりよるから、ひとつ受けたら6年間は仕事がある。あんまり定職ちゅうのはなかったね」
 金峰地区の産業は、今も続いている農業や椎茸栽培のほか、かつては製炭や畜産、そして竹細工も盛んだったという。友一は付き合いのあった竹細工職人から安く仕入れた籠を、高く売りに行っていたほかは、植林ブームに乗り一時期その仕事に従事していた。友一の妻、つまりワタルの母親は「和裁ができた」というが、どこかに勤めに出ている様子はなく、近所のものたちの農作業を手伝い、報酬に農作物をもらっていたことがあった。

 1月の取材で聞いていた友一は盗人≠セという噂について村人たちに尋ねると、他の兄弟の話と同じく、皆が同じ話をした。
「あの家の中に縁側があって、そこで2〜3人集まって酒を飲んでいるちゅうのが友一の日常生活じゃった。酒を飲むのも、自分は酒がないから、来た人をうまい具合にごまかして、酒代をとって、いうような感じ。それで人をごまかす。だから相手にするなという風評が高まった」
「保見友一って誰も呼びやせん。友のアカの人≠ソゅうふうに言いよった。アカっちゅうのは、盗人のことやな。米も洗濯物も盗られる。盗んで着るんじゃから、すぐ分かるよ」
「今なら笑えるようなものを盗りよったらしいよ。まあ洗濯物とか、カボチャとかやね」
「友一は子供がたくさんいたし、非農家じゃったから、田んぼがない。終戦後、食べ物にすごく困っている時があった。昔は水車を回して米を挽いていて、農作業に出る前に水車のところに置いて出て行っとった。そして帰ってその米を炊いて食べるんじゃけど、それを盗んだとか、カボチャを盗んだとか」
 米やカボチャ、洗濯物を盗み、家に来た者から酒代を取る……友一に関しては良くない話≠オかなかった。酒代については、被害に遭えばすぐに犯人が分かる類のものなので信憑性は高い。けれども農作物や洗濯物の盗みの話は、いまとなっては本当だったか確かめようがない。同じように、本当に泥棒だったのか確信を持てないと話す村人もいたのだが、友一が盗人だといううわさ≠ヘ、話を聞いた全員が知っていた。

 田村さんは述懐する。
「保見友一は人気がなかった。自慢をしたりなんかするから、あんまり付き合いをする人がいなかった。
 今日のような暑い日に皆は田んぼや畑へ出て仕事をするが、あの人は田んぼを作らないからね。まあ左うちわっちゅうか、皆が暑い暑いと言いながら仕事しとるときに、家の中で涼しい風に当たって、夕方にちょっと出て散歩をするというぐあいに、皆と生活の態度が違ったんやな。そういうところから嫌われ始めた。わしらが汗水流して働きよるのに、働かんと、人をごまかして、生活をして、高い目線で見よるというようにな」
 金峰地区では田や畑を持っているのが一般的だ。友一は「非農家」で、田も畑も持っていなかった。ならばふたりの兄のように仕事をして金を稼ぎ、食べ物を調達しなければならない。それなのに定職についている様子はなく、農作業もやる様子はない。人から金をチョロまかして酒代を多めに取る……そのような暮らしをしていたために、村人たちから白い目で見られていた。
 また金峰地区には集落ごとに自治会があり、2年に一度、選挙で会長が決まる。役員は自治会員らで話し合いをして決めるのだが、生前、友一は役員になれなかった。それが集落の者たちの故意だったのかは定かではないが、友一はそれを気に病んでいたという。ワタルが関東から戻って来たとき、友一とその他の村人との間にはこうした空気が熟成されていた。
 都会で金を貯めて戻って来た。近代的な一軒家を建てて「村おこし」をしたいなどと言い出す。それも単なる都会上がり≠ェ都会風を吹かせているだけではない。よりによってあの盗人の家の子が、そう言うことを言っている……そんな認識が、集落の村人たちにあったのだ。快く思わなかったのは容易に想像がつく。

金峰

 金峰地区の村人たちと保見家の関係がよく分かるものが、村の中にある。保見友一の眠る墓である。
 かつて『シルバーハウスHOMI』だった保見家から県道を挟んだ向かいから伸びる、金峰神社の参道をのぼった。石段はところどころ途絶え、急勾配のけもの道になっている。左手にタオルを持って虫を払いながら、拾った長い枝を空いている右手に持ち、杖の代わりにして本殿を目指す。両脇に並ぶ高い杉の木のせいか、晴れていても山道は薄暗く、足元の土は湿っていて、何度も滑り、この杖に助けられた。
https://note.mu/tk84yuki/n/nee18a0ab0ef6


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ルポ「つけびの村」 04/06 2018/07/25
https://note.mu/tk84yuki/n/n8dbf7f16be07


2013年7月に山口県周南市で発生した山口連続殺人放火事件について、2017年に取材し、まとめたものを6回に分けて公開します。存命の関係者のお名前は全て仮名です。2017年9月7日脱稿、その後少し寝かせていました。

『コープの寄り合い』

 相変わらずほとんど人が歩いていない金峰地区で私は、村人が恐怖する金曜日朝の『コープの寄り合い』が行われていた家に住んでいた、吉本茜さん(仮名)の現在の居所を聞いてまわった。ワタルの父・友一やその兄たちの居所を訪ねた時も感じたが、この地区の人たちは、村人の転居先にも詳しい。何人かに聞くと、だいたいの場所がわかった。
 吉本さんは事件の後に集落から離れた街に引っ越し、息子たちと住んでいるという。金峰地区の村人だけでなく、少し離れた地域の村人も、吉本さんの名前、経歴や人柄を詳しく知っていた。むろん、引っ越し先の詳しい場所もである。ワタルよりも有名人だ。
 若い頃には学生運動をやっていたとも聞いた。郷集落に戻って来てからも、熱心に環境問題に取り組んでいたという。実はこの吉本さんは、ワタル逮捕後の起訴前鑑定で名前が出ていた人物だ。鑑定を担当した山口県立こころの医療センター・兼行浩史医師は、鑑定当時ワタルが被害念慮を抱いていたことに触れ、その対象を「吉本さん以外全ての人に対して持っていた」と述べていた。
 村人がおそれる危険な『コープの寄り合い』で情報を司っていた中心人物≠ナありながら、ワタルは吉本さんだけには「被害を受けている」と感じていなかったというのである。一体全体、どういう関係性を築いていたのだろうか。
https://note.mu/tk84yuki/n/n8dbf7f16be07


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ルポ「つけびの村」 05/06 2018/07/25
https://note.mu/tk84yuki/n/ne4995dd23077

2013年7月に山口県周南市で発生した山口連続殺人放火事件について、2017年に取材し、まとめたものを6回に分けて公開します。存命の関係者のお名前は全て仮名です。2017年9月7日脱稿、その後少し寝かせていました。


『金峰百年の歩み』

 ワタルは友一とその妻との間に生まれた5人きょうだいの末っ子ということはすでに1月の取材で知っていたが、まだ存命であるならば、誰か一人にでも話を聞きたい。
 また友一の兄である順一、徳市はすでに亡くなっているが、その子供達は、ワタルとは従兄弟の間柄である。子供時代に付き合いがあってもおかしくはない。
 周南市立中央図書館に用意してもらっていたのは『金峰百年の歩み』という本だ。金峰地区に近い鹿野町にある、周南市立鹿野図書館に問い合わせをした際、この本が所蔵されていることを聞き、あらかじめ中央図書館に送ってもらっていた。
 郷地区にある「金峰杣(そま)の里交流館」は公民館の役割を果たしており、事件当時、村人たちがここに避難していたことはすでに書いた通りである。ここは以前、金峰地区の子供達が通う「金峰小学校」だった。明治8年(1875年)に須万小学校分校として開校し、明治20年(1887年)には分校から独立。郷簡易小学校など名称は何度か変わったが、戦後に金峰小学校となり、昭和50年(1975年)に100周年を迎えた。これを記念し、卒業生らの手によって昭和51年(1976年)に刊行されたのが『金峰百年の歩み』だ。
 生徒数は明治後期から戦後がピークだった。明治42年(1909年)には117人、大正11年(1922年)には113人、そして昭和21年には最大の169人となる。昭和30年代には、須万小学校の一部だった奥畑分校が金峰小学校の分校となっていたが、両校とも生徒数の減少が続き、昭和48年(1973年)には生徒数2人となった奥畑分校が金峰小学校に統合された。100周年を迎えた頃は生徒数が11人となっていた。
 それでもこの年は、卒業者名簿の編纂や祈念碑の制作とその設置、本書の作成、記念式典のほか、金峰小学校の全室にカラーテレビが設置されるなど華々しい行事が続いたが、児童数の減少には歯止めがかからず、100周年からわずか3年後には鹿野小学校金峰分校へと改校される。平成4年(1992年)には生徒がひとりだけとなった。その児童が卒業した平成7年(1995年)には在籍児童数がゼロに。卒業式の半月後に休校式が行われ、平成15年(2003年)には廃校となった。
 ページをめくると最後のほうに「金峰小学校卒業生一覧表」があるのが目に留まった。明治27年度から、昭和50年度までの卒業生の名が並んでいる。眺めると今回の事件の被害者や、ワタルの名前も確認できた。
 別のページには一部の卒業生が刊行に合わせて学校の思い出話を綴った作文が掲載されている。そこにワタルの父親、保見友一のものがあった。
https://note.mu/tk84yuki/n/ne4995dd23077

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ルポ「つけびの村」 06/06 2018/07/25
https://note.mu/tk84yuki/n/ne6061a373ac6

2013年7月に山口県周南市で発生した山口連続殺人放火事件について、2017年に取材し、まとめたものを6回に分けて公開します。存命の関係者のお名前は全て仮名です。2017年9月7日脱稿、その後少し寝かせていました。


 ポパイが今も思いを寄せる飼い主のワタルに面会するため、広島拘置所へ向かった。その日の広島駅周辺は、朝から曇っていた。蒸し暑く、歩いていると髪が湿気を含む。ホテルから10分ほどしか歩いていないのに、広島拘置所に着く頃は髪が膨らんでボサボサになっていた。
 地方都市では城や城跡の近くに役所や裁判所が置かれていることが多い。ここ広島も例に漏れず、広島城のそばに裁判所があった。だが拘置所となると事情は異なり、必ずしも城の近くにあるというわけではないのだが、ここは拘置所が裁判所と同じブロックにある。拘置所敷地の外壁には、浮世絵のようなタッチの、海の上に多数の船が浮かぶ絵が描かれていた。拘置所の職員にこの絵の由来を訪ねたが「さぁ……なんでしょうね」と、何を知っているわけでもなかった。


 狭く古い待合室で、グレーの汚れた壁を見ながら待っていると、あっという間に番号が呼ばれた。スピーカーから流れて来る職員の声が大音量で割れている。キーンというハウリングの音とともに、こう聞こえてきた。

「四番面会室にお入りください!」

 面会室に入るとすぐに、ワタルが入って来た。アクリル板越しのワタルは、黒い半袖Tシャツにグレーのスウェットズボンを履いている。金峰地区の村人達はワタルを「体がでかいけぇね」と言っていたが、確かに背丈もあり、体格もがっしりとしていた。骨太な姿が、須金で会った長女の娘、ワタルの姪に似ている。ホームベース型の顔は、原始人のようにも見える。まず挨拶をして、面会に応じてくれたことに対する礼を言ったのだが、ワタルは聞いているのかいないのか「時間がないけぇね」と言いながらすぐにパイプ椅子に座った。挨拶をしないという噂は本当だ。
 ワタルは会話のキャッチボールをする気がないのか、面会時間が15分しかないために自分の思いをすべて伝えたいと焦っているのか、こちらが質問する隙を与えない。持っている資料の束をひとつずつ広げながらアクリル板に押し付けて私に見せながら、まくしたてた。
https://note.mu/tk84yuki/n/ne6061a373ac6


http://www.asyura2.com/09/reki02/msg/340.html#c149

[昼休み52] ドッグヴィルの世界 _ 奈良県 月ヶ瀬村 中川隆
5. 中川隆[-9097] koaQ7Jey 2019年7月14日 06:19:20 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[3593]

田舎生活の愉しみは噂話、悪口と苛めだけ


ルポ「つけびの村」01/06 〜山口連続放火殺人事件の因縁を追う〜 2018/07/23 https://note.mu/tk84yuki/n/n264862a0e6f6


2013年7月に山口県周南市で発生した山口連続殺人放火事件について、2017年に取材し、まとめたものを6回に分けて公開します。存命の関係者のお名前は全て仮名です。2017年9月7日脱稿、その後少し寝かせていました。

 第23回参議院選挙投票日の2013年7月21日。前月からの猛暑が続く山口県周南市・須金(すがね)・金峰(みたけ)地区の郷(ごう)には、この日も朝から強い日差しが降り注いでいた。そよ風すら吹いていないのはいつものことだ。8世帯12人が暮らす小さな山村は、周南市街地から16キロほどしか離れていないが、半数以上が高齢者のいわゆる限界集落になる。

 隣の菅蔵(すげぞう)集落の田村勝志さん(仮名)は、集会場『金峰 杣(そま)の里交流館』で投票を済ませた。その帰りに声をかけて来たのは、義理の妹に当たる山本ミヤ子さん(79歳=当時・以下同)だった。彼女の夫は田村さんの弟にあたるが、先立たれ、一人暮らしをしていた。

「ちょっとコーヒーでも飲んで帰らんね」

 縁側で一緒にアイスコーヒーを飲んでいると、隣の家からいきなり大音量でカラオケが流れ、そこに住む男の歌声が聞こえてきた。隣では最近、朝10時と夕方5時に、カラオケが始まるのだ。周辺に気を使って窓を閉めることもせず、窓を開け放ち、歌を集落中に響かせる。いつものことなので、驚くでもなく、田村さんは男が歌う昔の流行歌を聴きながら、コーヒーを飲み干して、山本さんと別れた。
 帰りの道沿いにある、貞森誠さんと妻の喜代子さんが住んでいる一軒家を通り過ぎた。誠さんは71歳、集落の中では中堅の年齢だが、数年前から癌を患い、1歳年上の喜代子さんが自宅で誠さんの看病をしている。さきほどの男の歌声は、この家の前を通るときも聞こえていた。

 山本さんはこのあと、同じ集落の石村文人さん(80)とラウンドゴルフに出かけた。いつもの日曜日。夜から始まる惨劇を、集落のものは誰も想像すらしていなかっただろう。

 ただひとり、カラオケの男≠除いては。

 長閑な村の様相が一変したのはその日の20時59分。
「貞森さんの家が、真っ赤っかになっとる!」
 さきほどの夫婦が住む家から煌々と火が上がるのを目撃した近所の住民は、慌てて119番通報をした。
 ところが電話を切って外に出ると、もう一つ別の家が燃えていることに気がついた。
「山本さんの家も、メラメラ燃えとる」
 別の住民が21時5分ごろ、石村文人さんに電話をかけた。だが応答はなかった。
 集落では二軒の家の消火活動が行われ、22時14分、ようやく鎮火した。貞森さんの家からは誠さんと喜代子さんの遺体が、山本さんの家からはミヤ子さんの遺体が発見される。誠さんの遺体は足がもげていた。消防団が焼け跡をかき分け、片足を探した。
 この2軒が燃えたことに、村人たちは皆「何かおかしい」と感じていた。ふたつの家は70メートルほど離れていて、間に燃えるものもないからだ。
「なんでこんなことに」
「放火じゃなかろうか」
 集まった村人たちは口々にそう言い合った。とはいえ、翌日から現場検証が行われる。火災の原因もじきに分かるだろう。
 投票場だった『金峰杣の里交流館』の、はす向かいに住んでいた吉本茜さん(仮名)から連絡を受けた河村聡子さん(73)は、吉本さんの家で一緒に消防団にお茶や水を出すなどの世話に追われていた。夫の二次男さんは、友人たちと愛媛に旅行へ行っていた。
「貞森さんの家族に連絡せにゃならんね」
 吉本さんと聡子さんは、そんな話をした。

 県警の緊急配備が解かれたのち、消防団が引き上げ、片付けが終わったのが1時半。日付はすでに変わっていた。それから家に帰り、風呂に入って寝る支度を整えてから、一階の居間で二次男さんに宛てて火事のことをノートに書き置きした。大変な1日を終え、聡子さんは二階の寝室に向かった。
 だがその聡子さんも昼前に、遺体で発見される。遠方に住む娘が自宅を訪ね、二階に血まみれで倒れている聡子さんを見つけたのだった。夜から連絡がつかなかった石村さんも、その数分後、自宅を訪れた県警に遺体で発見される。すぐに、村の入り口に黄色いテープの規制線が貼られた。現場検証が始まる。
「2軒の火災による3人の死亡」が、「5人の連続放火殺人」に姿を変えた瞬間だった。
 県警はこの時点で、昨晩から自宅におらず、連絡もつかないカラオケの男≠重要参考人と睨み、その自宅を捜索。男の行方を追った。二台の車はガレージにある。遠くには行っていないだろう。
 5人は全員、撲殺されていた。遺体に共通していたのは頭部の陥没骨折、そして足の殴打痕。加えて『口の中に何かを突っ込まれた』形跡があったことだ。
 貞森さん夫妻と山本さん、3人の遺体は黒く焼け焦げ、確認のために山本さんの遺体を警察から見せられた息子は、どっちが頭なのか足なのか分からなかったほどだという。のちに司法解剖が行われ、頭蓋骨の陥没骨折や、顔に皮下出血が認められ、頭部や顔を鈍器のようなもので激しく殴られて殺害されたことがわかった。
 石村さんの遺体にも同じく、後頭部や膝の裏を激しく殴打された痕が見られた。口の中にも損傷があり、何か棒のようなものを突っ込まれた形跡があった。
 聡子さんも同様だ。首の後ろを激しく殴られたことが致命傷とみられている。その口の中は血まみれで、前歯が折れていた。
「家で寝ちょったら殺されるかもしれん」 
 連続殺人であることを悟った村人たちは怖がった。県警は、さらなる犠牲者が出ることを防ぐため、村人たちを投票場だった『金峰杣の里交流館』に避難させる。そこで寝泊りを始めた村人たちにとっては、参院選の投票結果など、最早どうでもよいことになっていた。集会場の外では投入された県警の捜査員約400名が村中を周り、男の行方を探し続けている。村の入り口に張られた規制線の外には、おびただしい数のテレビ中継車が並び、上空には報道ヘリが飛び交っていた。
 一度に5人が殺害されるという大事件が発生した村には、地元だけでなく東京からも多くの記者が詰めかけたが、そんな彼らが何よりも注目したのは、カラオケの男≠フ家のガラス窓に貼られた不気味な『貼り紙』だった。

「つけびして 煙り喜ぶ 田舎者」

 山口県周南市金峰(みたけ)で21日夜、全焼した民家2軒から3人の遺体が見つかり、翌22日に別の民家2軒から新たに2人の遺体が見つかった事件で、火災現場で見つかった3人はいずれも頭部に外傷があり、ほぼ出火と同じ時刻ごろまでに死亡していたことが、司法解剖の結果わかった。県警は、3人が殺された後、放火されたとみている。
 県警は22日、5人が殺害された連続殺人・放火事件と断定し、周南署に捜査本部を設けた。県警は同じ集落に住む男が何らかの事情を知っているとみて、自宅を殺人と非現住建造物等放火の疑いで捜索した。男は行方がわからなくなっている。
 全焼した山本さん宅の隣の民家には「つけびして 煙り喜ぶ 田舎者」と、放火をほのめかすような貼り紙があった。(2013年7月23日 朝日新聞朝刊)

 14人が暮らす集落で5人の遺体が次々と見つかった。携帯電話も通じない、山口県周南市の山間部で起きた事件。「つけびして 煙り喜ぶ 田舎者」。全焼した民家の隣に住む男は所在不明で、自宅には放火をほのめかす貼り紙も残る。「家族のよう」と言われる山里で、何が起きたのだろうか。(2013年7月23日 四国新聞朝刊)

 警察は山本さんの住宅の隣に住む男が、2つの住宅に火をつけた疑いがあるとして、殺人と放火の疑いで男の自宅を捜索しました。
 その際に室内から外に見える形で窓に貼り紙があり、紙には「つけびして煙り喜ぶ田舎者」と書かれていました。
 男は、現在、行方が分からなくなっていて、警察は貼り紙の内容が放火への関与を示すものとみて、男の行方を捜査するとともに、一連の事件との関連について調べています。(2013年7月22日 NHKニュース)

 村の3分の1以上が殺害され、姿を消した男の家には不気味な貼り紙。「平成の八つ墓村」などとネットでも騒がれ始めた。まさか自分の村がこんな言われようをするとは、村人たちは前日まで誰も考えたことすらなかっただろう。
 事件発生から4日が経った7月25日。警察は山中で男の携帯電話や、男性用のズボン、そしてシャツを発見。さらにその翌日朝、発見現場付近を捜索していた機動隊員が林道沿いで男を見つけた。Tシャツとパンツの下着姿で、靴も履いていない。
「ホミさんですか?」
 近づきながら機動隊員が声を掛けると、男はその場にしゃがみ込み言った。
「そうです」
 抵抗することもなく県警の任意同行に応じ、逮捕されたそのカラオケの男≠ヘ、郷集落の住民の一人、保見光成(ほみ こうせい)(当時63歳)という。
 その後、県警は山中で、側面に「ホミ」と彫られたICレコーダーを発見した。息を切らしたような雑音の中、こんな言葉が録音されていた。
「ポパイ、ポパイ、幸せになってね、ポパイ。いい人間ばっかし思ったらダメよ……。
 オリーブ、幸せにね、ごめんね、ごめんね、ごめんね。
 噂話ばっかし、噂話ばっかし。
 田舎には娯楽はないんだ、田舎には娯楽はないんだ。ただ悪口しかない。
 お父さん、お母さん、ごめん。お姉ちゃん、お姉ちゃん、お姉ちゃん、ごめんね。……さん、ごめんなさい……。
 これから死にます。犬のことは、大きな犬はオリーブです」

 保見光成の家のガラス窓にあった、この貼り紙。
「つけびして 煙り喜ぶ 田舎者」
 県警が保見を捜索している段階から、これはカラオケの男≠ノよる犯行予告なのではないか、と騒がれていた。「放火をほのめかす貼り紙」「不審なメッセージ」などと、テレビや新聞は何度も取り上げた。
 だが、それは決意表明でもなければ犯行予告でもなかったのである。

金峰行きの経緯


 そのことを知ったのは、事件から3年半が経った2017年1月。取材のために金峰地区を訪れたときだ。
 私は東京で週刊誌の記者として稼働しながら、主に殺人事件の公判を取材するフリーライターとして活動していた。取材に出向くひと月前、ある月刊誌の編集者が『山口連続殺人事件』について改めて取材して記事を書いてみないかと声をかけてくれたのだった。
 すでに保見は5件の殺人と2件の現住建造物等放火で起訴、山口地方裁判所での一審公判も、広島高等裁判所での控訴審も判決が言い渡されており、事件は最高裁に係属していた。このときも、今もである。
 逮捕当初こそ「殺害して、その後、火をつけた。私がやりました」と犯行を認めていた保見は、2015年6月25日、山口地方裁判所で開かれた裁判員裁判の初公判でこれを翻し「火はつけていません。頭をたたいてもいません。私は無実です」と無罪を主張した。
 大量殺人を犯したとされる被疑者は、精神的な問題がないかを起訴前に鑑定し、問題がない、つまり事件当時に完全責任能力を有していたと判断されたのちに起訴されるという流れが出来ていた。この鑑定を起訴前鑑定という。さらに起訴後の公判前整理手続という非公開の手続きにおいて、争点が責任能力であるとなれば、改めて精神鑑定が行われることになる。これを本鑑定と呼ぶ。
 保見に対しては一審が開かれる前に、この2つの鑑定が行われた。起訴前鑑定では事件当時の保見は「完全責任能力」があると判断されたが、起訴後に本鑑定が行われ『妄想性障害』と判断されていた。
 これをもって、一審公判で弁護側は責任能力について「心神喪失」もしくは「心神耗弱」を主張した。それに加えて保見は放火も殺人も、自分がやったのではない、と、犯人であること自体を否認したのである。だが同年7月28日の判決公判で山口地裁は保見に「死刑」を言い渡した。『妄想性障害』は認めたが、完全責任能力は有していたという判断だった。また放火も殺人も、犯人は保見以外に考えられないと認定された。
 妄想性障害をめぐる責任能力については、山口地裁は判決で次のように述べている。
「鑑定人によると、被告は両親が他界した2004年ごろから、近隣住民が自分のうわさや挑発行為、嫌がらせをしているという思い込みを持つようになった。こうした妄想を長く持ち続けており当時、妄想性障害だったと診断できる。『自分が正しい』と発想しやすい性格傾向と、周囲から孤立した環境が大きく関係し、妄想を持つようになった。
 この鑑定は合理的であり、これを基に責任能力を検討すると、被告が当時、自己の行為が犯罪であるという認識を十分有していたことは明らか。凶器となる棒を携えて各被害者宅を訪れ、殺害後に自殺しようと山中に入っており、善悪を認識する能力も、その認識に基づいて行動する能力も欠如したり、著しく減退したりしていない。被告は当時、完全責任能力を有していた」
 保見はこれを不服として即日控訴。2016年7月25日、広島高等裁判所で控訴審の第一回公判が開かれたが、弁護側の請求証拠はすべて却下されて即日結審し、同年9月13日、控訴棄却。その翌日、保見側は上告した。
 判決では本鑑定の結果に基づき「近隣住民が自分のうわさや挑発行為、嫌がらせをしているという思い込みを持つようになった」と認定されているが、これには疑問があった。事件発生当初から、保見は集落の村人たちから村八分≠ノされていたのではないかという疑惑があったからだ。

 金峰の郷集落で生まれ育った保見は中学卒業後に上京し、長らく関東で働いていたが、90年代にUターンしてきた。しかし村人たちの輪に溶け込めず「草刈機を燃やされる」「庭に除草剤を撒かれる」「『犬が臭い』と文句を言われる」などの出来事が起こっていたのだと『女性セブン』(小学館)2013年8月15日号は報じていた。また被害者のひとりである貞森誠さんが、かつて保見を刺したことがあるという、気がかりな情報もあった。「みんな仲良しなのに、1人だけ浮いた存在」。保見の逮捕直後、新聞のインタビューに近隣住民がこうも語っていた。
 保見はICレコーダーに「周りから意地悪ばかりされた」と吹き込んでいたが、これは妄想などではなく、本当なのではないか――。
 そのようなことを思っていたが、この時の目的は少し違っていた。私に声をかけてきてくれた月刊誌の編集者は、金峰地区における夜這い風習≠ノついて取材をしてきてほしい、と頼んできたのだ。彼は私にある記事を手渡した。
 それは『週刊新潮』2016年10月20日号(新潮社)に掲載されていた山口連続殺人事件にまつわるものだった。あるジャーナリストが、広島拘置所に収監されている保見に面会取材を行い、逮捕当時に大きく報じられていた「村八分」の発端となる『ある事件』について話を聞いたというのだ。
 読めば、金峰地区には夜這い≠フ風習があり、戦中に一人だけ徴兵を免れた村人が、女たちを強姦してまわっていたという。そして、この村人が保見の母親を犯そうとしたとき、それを止めて追い払った人物が、保見光成と二十歳近く年の離れた実兄なのだ、と。
「これを、ちょっと行って来て、確かめてもらえる?」
 とその編集者は言う。
 私は保見の公判を傍聴に行きたいと一審の当時思っていたが子供が産まれたばかりだったため、長期間家を空けることができず、諦めたという経緯があった。編集者とはその話も過去にしていた。おそらくそれを覚えていて、話を振ってくれたのだろう。二つ返事で引き受けた。
 とはいいながらも、取材を終えてその結果を世に出せば、世に出ている記事の検証取材であるから、ややこしいことになる、という予感は最初からあった。しかも取材の目的が「金峰に夜這いの風習があったかどうか、確かめる」というもの。行くとは決めたものの、多忙な夫に子供を預け、遠路はるばる山口県周南市の山奥まで出向き、夜這いについて村人に話を聞いて回る……。
「夜這いの取材かぁ……」
 ノートパソコンを開いて取材前の情報収集をしながら、年末の夜中にリビングでひとり思わず呟いてしまった。この21世紀に夜這いの取材。ちゃんと話が取れるのかと不安になる。だが引き受けたからにはやらねばならない。それに件の記事には、保見へのいじめ≠ヘ存在し、その発端が戦中の強姦未遂事件≠ナあると記されているのだから、それを確かめることは、一応いじめ≠ノ絡む取材ではある。西に向かう新幹線の中で私は腹を決めた。

 民俗学者らの文献や、伝承ものの書籍には、夜這いについての記述はいくつもある。宮本常一の『忘れられた日本人』(岩波文庫)に収録されている「土佐源氏」は現在の高知県檮原町で乞食小屋に住む元ばくろうの老人≠ゥら聞き取った昔話で構成されているが、この老人の父親は、母の夜這いの相手≠セった。同じく同書収録の「世間師」では、宮本の故郷である周防大島でふたりの老人から聞き取りを行っている。このうちひとりは長州征伐のあった1865年に14歳だったという男性だが「戸締りが厳重になったため、娘のところへ夜這いに行けなくなってしまった」とある。
 同じく民俗学者の赤松啓介は『夜這いの民俗学・夜這いの性愛論』(ちくま学芸文庫)で実際に様々な村へ足を運び、時に村のコミュニティに入り込んで、夜這いについて聞き取りを重ねている。また、ともに夫の転勤で徳山に来たという向谷喜久江・島利栄子によって記された『よばいのあったころ 証言・周防の性風俗』(マツノ書店)では、山口における夜這い文化について、老人たちに聞き取りを行なっているが、ここには「山間部の部落には、若衆宿が、昭和の初めごろまであった」とある。若衆宿とはその集落で一定の年齢に達した男子たちが集まる場所で、規律や生活上のルールに加え性的な事柄も伝えられていた一種の教育施設だ。こうした文献に照らせば、金峰地区にかつて夜這い文化があったとしても全く不思議ではない。だが戦中まで、となるとどうか。

(続く)
https://note.mu/tk84yuki/n/n264862a0e6f6

ルポ「つけびの村」02/06 〜つけびして 煙り喜ぶ 田舎者〜 2018/07/23
https://note.mu/tk84yuki/n/n3cf6b0673398


2013年7月に山口県周南市で発生した山口連続殺人放火事件について、2017年に取材し、まとめたものを6回に分けて公開します。存命の関係者のお名前は全て仮名です。2017年9月7日脱稿、その後少し寝かせていました。

 事件のあった「金峰地区の郷集落」は、山口県周南市の北部にある山村だ。
 その周南市は山口県東部に位置し、重化学工業を主な産業としている。2003年に徳山市、新南陽市など2市2町が合併し発足した。南側の臨海部に広がる工場群は現在「周南コンビナート」と呼ばれ、遊覧船による夜景ツアーが組まれるなど観光名所のひとつとなっている。ここは明治時代に旧海軍の石炭基地が設けられたのち、石炭が石油に代わり石油科学工場が発達。昭和初期には海軍の燃料廠や有機・無機化学、鉄鋼などが集積する工業地帯に成長した。昭和39年には工業整備特別地域に指定され、隣接する下松市、光市とともに重化学工業の拠点としての本格的な整備が進み、製造品の出荷額は山口県の5分の1を占める。
 JR徳山駅はこの「周南コンビナート」の港沿いを走る山陽本線と、東京から博多へ続く山陽新幹線が停車する周南市の中心駅だ。駅名には合併前の都市名がそのまま残る。東京から新幹線で4時間以上かかるが、それでも空路を使うより手っ取り早い。県東部の岩国錦帯橋空港から郷地区は50キロ、西部の山口宇部空港とは90キロ離れていて、乗り継ぎにかかる時間を考えると、やはり新幹線一択になる。


 駅から港に向かい数分歩いたところにある徳山港には、太平洋戦争で海軍が開発していた人間魚雷「回天」の実物大レプリカが展示されている。ここから発着しているフェリーに乗り30分ほどの距離にある大津島には、かつて回天の組立工場と発車訓練基地があった。いまも島には記念館があるが、そこを目指しているとおぼしき観光客の姿はない。
 駅を挟んで港の反対側は中心市街地だ。とはいえその規模は小さい。地方都市の宿命か、駅前のアーケード街に人は数えるほどしか歩いておらず、半分以上の店舗がシャッターを閉じていた。そんな中にも、銀行の支店や市役所、新聞社などが立ち並び、夜は酔客でささやかな賑わいを見せる。
 瀬戸内海に面しているこの辺りの気候は温暖で冬でも晴れる日が多い。滅多に雪も積もらないというが、対して北側は中国山地の一部にあたり山深く、冬の積雪も珍しいことではない。目指す金峰地区は、北側に属する。臨海部の主要産業が重化学工業であるのに対し、北側はぶどうや梨の栽培をはじめとした農業が栄えている。


 2017年1月、私は徳山駅の近くで車を借り、金峰地区に向かった。周南市に私鉄はなく、JR山陽本線も湾岸部しか走っていないので、住民は移動にバスか車を利用している。地元のバス会社はあるにはあるが、運行網は金峰地区から9キロほど離れた場所で途絶えていた。そこからタクシーを探すより、徳山駅から車を走らせた方が早い。
 新幹線の中でスマホのアプリを立ち上げて天気予報をチェックした時、週末には寒波が押し寄せ、日本海側に大雪が降ると告げていた。そのせいか、ダウンコートを着ていても寒い。車を3キロほど走らせると、あっという間にスーパーや飲食店は姿を消し、両側と前方にこんもりとした山が広がり始めた。車線も狭くなるが、それでもまだ道は綺麗に舗装されている。ここでようやく、ガードレールが白でなくオレンジ色であることに気がついた。山口県は昭和38年の山口国体開催にあたり、特色のあるものを作ろうと考え、ガードレールを県特産の「夏みかん」色にしたのである。
 オレンジ色のガードレールが両側に立つ片側一車線の山道は時折くねくねと急カーブを切らなければならないが、15分ほど走ると、ようやくコンビニと開けた小さな町が目に飛び込んできた。金峰と徳山市街地の間にある、唯一の町だ。とはいえ、コンビニぐらいしか買い物できる場所はない。ここで飲み物を調達し、さらに国道で北に向かう。すぐにまた道の両脇を山に囲まれ、先ほどまで快晴だったのが嘘のように空が曇り始めた。家も店もない道をしばらく進むと見えてきたのは菅野湖だ。ここにかかる細く古い橋を渡り、湖沿いの県道41号線をひたすら北上する。バス釣りのメッカのようで、ボートを曳いたクルーザーが何台も停まっていた。下流にスロープがあり、ボートを湖に降ろせるようだ。
 車の西側には深緑色の湖面が広がり、東側の山肌には草木が生い茂っている。まだ徳山駅から30分も走っていないのに、ここまで山深くなるかと驚いてしまう。しかも舗装が悪い。濡れた路面はでこぼこで、ところどころ深く大きな穴が空き、水たまりができていた。スリップして湖に落ちやしないかとすこし怖くなった。
 それでも、湖沿いのボロ道を抜けると、また普通の道路に戻る。ここまで徳山駅から40分ほど。距離にして20キロしか離れてないが、見渡す限り山と田畑が広がる田舎道で、もうコンビニなどどこにもない。
 ところが「金峰の郷集落」にさしかかる直前のすこし開けた平野を走っていると、突如として銀色のUFOと巨大な象が目に飛び込んできた。その脇には『宇宙の入り口』という看板が立っている。
 まだ郷集落にも着いていないのに、思わず車を停め、UFOを眺めた。
 そういえば、菅野湖沿いを走っているときから、小さなUFO型の看板がいくつも立っているのを見ていた。そこには手書きで「気をつけて安全運転」など記されていたが、『宇宙の入り口』へ向かうための案内板だったようだ。
 木材で骨組みを作り、アルミ板のようなものをかぶせて仕上げをした数台のUFOと象のオブジェのほか、幅2メートルはあろうかという巨大な太鼓や、木馬も並んでいる。「このブランコに乗ると結ばれる 愛愛ブランコ」という文字が躍った木製のブランコもあった。いわゆるB級アミューズメントスポットだが、陰惨な事件現場のすぐそばにこのような施設が並んでいると、ただ不気味でしかない。
 車に戻ろうとしたところで、男性に手招きをされた。全て手作りだという、この『宇宙の入り口』の生みの親だった。男性は保見と同い年だが、金峰地区に住むものではなかった。
 再び車に戻る。木々の生い茂る薄暗い道を数分行くと、ようやく金峰の郷集落に着いた。
 事件当時、ここは「携帯電話も通じない限界集落」だといわれていたが、実際に足を運ぶと、ほとんどの場所で携帯電話の柱も立った。
 保見光成の家は、地区名の由来にもなった一千年以上の歴史を持つ金峰神社の参道前にある。ここが郷集落の入り口だ。家は二棟あり、ピンク色の壁をした新宅と、茶色のベニヤ板でできた本宅が、土壁のガレージを挟んでいる。本宅からガレージにかけられたブルーシートは劣化して破れ、風にあおられるたび、焦げ跡のある家の壁や、倉庫の中が見えた。


 保見が関東から戻ってくる際に自力で作ったという新宅のまわりには、枯れ枝が散乱していた。それをかき分け、白い門扉の前に立つ。右脇には茶色い壺や人型のオブジェが、空っぽになって倒れた植木鉢とともに雑然と並んでいる。門の奥にはガラス戸の出入り口があるが、上半分は簾がかかっていて中は見えない。左手に目をやると陶器でできた大道芸人の人形が置かれていた。その奥に立つポストはガムテープで塞がれていて「郵便物は入れないでください 当方へ御用の折は、お手数ですが下記にご連絡ください」と携帯電話番号らしきものが書かれた紙が貼られている。試しにその番号へかけると「現在使われておりません」のアナウンスが流れた。少し下がって全景を見れば、雨どいを支える柱に、CDが貼り付けてあった。再び近づいて目をこらすと、ちょうど保見が金峰に戻ってくる直前である1993年に松任谷由実がリリースしたアルバム『Uーmiz』だ。都会での思い出が詰まっているCDなのだろうか。
 土壁のガレージは車が2台は停められる大きさで、シャッターはついていない。破れたブルーシートを少し開けて中を覗くと、汚れた国旗や工具、工具箱、段ボールやタイヤ、窓枠などで散らかっていた。上部にかけられた針金にもザルやブリキの薬缶といった様々な道具が吊られている。幅が30センチはありそうな、片刃のノコギリのような、見慣れない刃物も吊られていた。隣に無造作に置かれた資材の上には鳥かご。中にはオウムのぬいぐるみが入っていた。新宅、本宅ともに屋根の下にはセンサーライトらしきものの残骸が残る。
 本宅の出入り口引き戸の脇に表札はないが、上にはロールス・ロイスのプレートと、可愛くデフォルメされた熱帯魚のオブジェが貼り付けられていた。
 その右側には、かつてあの貼り紙が貼られていた窓がある。

「つけびして 煙り喜ぶ 田舎者 かつを」

 これもすでに剥がされていた。
 ガラス窓は汚れ、かなり曇っているが目を凝らして中を見ると、すぐ前に壁があった。11時20分で時を止めた古時計のまわりに扇子が6枚かけられていて、下に備えられた棚の上には陶器の酒樽が置かれている。その脇にあるスリッパ立てには、きちんとスリッパが4組揃えられていた。
 住む人を失った住居特有の寂れ具合を醸し出していたが、事件がなくとも、家主の個性がにじみ出ている家だったことだろう。
 保見光成に撲殺された後、放火された隣の山本さんの家は雑草生い茂る空き地になっており、同じように撲殺され、放火された貞森さんの家の跡には、小型ユンボが置き去りにされ、その脇に真っ黒に焦げた木材が積み上げられていた。3年半経っても、事件の痕跡は集落の中に色濃く残る。


 郷集落入り口の交差点は、通ってきた南からの県道41号線と、東西に伸びる県道9号線がぶつかる。ごくたまに、9号線を大型トラックが轟音を立て猛スピードで走る以外は、ほとんど車も通らない。村人も誰一人、歩いてはいない。道沿いに流れる小川のせせらぎと、山の葉の擦れる音がざわざわと鳴るだけだ。空は晴れたかと思うと雲が広がるというせわしない状態を繰り返しているが、晴れているときでも山が太陽を遮り、道が陰る。路面はやはりところどころ濡れていた。空気は刺すように冷たく、湿っぽい。私は山口県の隣、福岡県出身だが、同じ西日本でもここまで寒さが厳しいとは思っていなかった。
 保見の家のはす向かいにある、砂利が敷き詰められた広場に車を停めた。ここにはかつて廃屋があったというが、今は更地になっている。事件当時は規制線が張られていた小さな橋を渡って、住宅地図を手に、郷集落を奥へと進んだ。車が一台しか通れない細い道が、小さな川に沿って伸びていた。徳山の市街地よりも寒さが厳しく、少し歩くだけで冷えが身体中に広がる。足の先は感覚を失い、手が動かなくなってきた。
 周南市役所の集計によると、2016年12月31日時点での人口はわずか10人。一軒一軒、訪ね歩いても、誰も出てこない。橋を渡ってすぐ右側にあるオレンジ色の瓦の二階建て家屋は、一階がガラス張りで商店のような趣があるが、中を覗いてみたところ生活用品が雑然と散らばり、すでに空き家になっているであろうことは想像がついた。
 その向かいに伸びる石段を登ると、小さな寺がある。脇の寺務所の門を叩き呼びかけたが、やはり誰もいない。再び細い道に戻って集落を奥へと進んだ。道の片側に流れる小川は、冬でも雑草が高く生い茂っている。その反対側にある山を切り開き、古い家屋が点在していた。どの家も車が一台やっと通れるような私道を少し登ったところに建てられていて、脇にある車の停められる大きさの倉庫には農機具や薪などが置かれていた。古い家屋の作りはだいたい同じで、ガラス引き戸の玄関の脇に、両開きの掃き出し窓が二窓ほど並んでいる。
 寺の隣には、本来は公民館だという古く小さな木造の建物があるが、鍵がかかっていて、使われている形跡はない。脇には、殺害された河村聡子さんが名付けたという『金峰杣の里交流館』。集落にある建物の中では目新しく大きい。保見が逮捕されるまで、村人たちが避難していた場所だが、ここも扉には鍵がかかり窓は雨戸が閉められ、ひっそりとしている。
 郷集落についてから人に行き合っていないし、どの家も人の気配がない。心細くなりながら、車が一台しか通れない小川沿いの道をゆっくりと進む。気温が低すぎるせいか、手に持っていたスマホは突然電源が落ち、動かなくなった。小川の反対側には、この道路よりも少し高い位置に県道9号線が沿っている。あの県道からは村の家々が見渡せる。保見の逮捕当時は中継車が停まり、テレビもそこから村の遠景を捉えていた。
 更に細い道を東に進むと左手の高台に家が見えた。見上げると、グレーのトタン屋根一面に『魔女の宅急便』のキキが箒にまたがっている絵が描かれている。さきほどのUFOに負けず劣らずの不気味さだ。玄関前には旭日旗が掲げられ、引き戸の前に置かれたホワイトボードに夏目漱石、福沢諭吉などの名前が書かれていた。すりガラスの引き戸の奥には蛍光灯のあかりがちらちらと見える。扉を叩いて「こんにちは!」と外から呼びかけた。ところが、そのたびに中からテレビとおぼしき音がどんどんと大きくなっていく。4回ほど呼びかけたときには、騒音レベルにテレビの音が大きくなってしまった。真昼なのに薄暗い村を歩いているだけで怖いのに、この家人の対応にまた怖くなり、もう諦めた。
 郷集落の東の端にあるのは、聡子さんとその夫、河村二次男さんの家だ。そこを目指し『魔女の宅急便』の家を離れ、草の生い茂る川沿いを再び歩くと、背の高い木がみっしりと植えられた私道を登った山側の高台に、誰も住むもののいなくなった石村文人さんの家、そしてもう一軒の二階建ての家があった。こちらも不在だった。石村さんの家は家族が時折空気を入れ替えるために訪れていると聞いた。すりガラスの引き戸の奥は真っ暗だ。古く黒い木で作られた表札に『石村文人』と大きく書かれている。その石村さんは3年半前、この引き戸の奥で、保見に頭を何度も殴られ、絶命した。
 保見はこの引き戸を開ける時、何を考えていたのか……。
 隣の家の犬がけたたましく吠えた。さっきの道に戻ろう。
 河村二次男さんが不在の場合、郷集落での取材はかなわない。細道に戻り、さらに先を目指すが、道はさらに草が生い茂り、廃道のような趣になってきた。この先に家があるのだろうかと焦りが募り始めたころ、ようやく家らしきものが見えてきた。大きな物置のようなものが置かれたガレージのそばには、まだ艶のある御影石の墓。玄関引戸の脇には『キンポー整体院』『札所(六代目)』と毛筆で描かれた木の看板がある。引戸の前から呼びかけるとしばらくして高齢の男性が、玄関横の腰高窓を開けて姿を見せた。がっしりとした上半身をしていて、目はギョロッと大きく、出目金のようでもある。
「三年前の事件のことを、今取材している者です。東京から来ました。お話を聞かせていただきたいのですが……」
 駄目元で切り出すと、男性は言った。
「いま扉開けるから、中に入りない」

 その男性、河村二次男さんは事件当時、友人たちと愛媛県に旅行に出かけていた。
「はよう死刑になればいいと思うちょる。でも弁護士のアレで。やってなかったって言いよるけど5人も殺しとるんやけ。火までつけちょるのに。山口で最終弁論があったときに我々もいろいろ言ってアレしたけど、やってないっちゅうことはない。犯人はわかっちょるし火もつけとるんやしね」
 方言と、河村さんの滑舌の悪さに、何を言っているのかよく聞き取れなかったが、根気よく1時間も話を聞くと、少しずつ聞き取れるようになって来た。
「片目にもなっちょるし。こっちは目が見えんし。事故でね。鼻水が出そうになるとかむけど、そのとき耳の鼓膜がいってね。診療所行ったら『あんまり聞こえんほうがいいですよ』って。あはははは」
 かつて車の事故で頭部を負傷し右目を失明したそうだ。あっけらかんと語る様子に面食らった。確かに両目の視線の先が合っていない。それでもガレージに停めてある軽トラックを運転するというから驚いたが、この地では車の運転ができなければ何もできない。
 通された応接間には、壁にびっしりと写真やカレンダーが飾られている。孫娘と笑顔で並んで写った写真も大きく引き伸ばされ、貼られていた。山の頂上で撮影された集合写真もある。河村さんはこのとき79歳だと言っていたが、背筋も曲がっておらず、体つきもがっしりしている。かつては活発に友人らと外に出かけていたのだろう。ガラス戸棚の中には、聡子さんに宛てた孫娘からの手紙があった。整体に関する書籍も並んでいる。公務員を定年まで勤め上げたのち、整体の学校に通い、自宅で整体院を営んでいたという。
「わしは天下りをするなと役場で言ってきた。要請があったけど断ってきた。でもそりゃ、定年になったらなんかせんといかん。手を動かしたらボケん、っちゅうからやってみよう、って。1年ほど学校行きまして。60万ぐらいかかったんじゃないかな。1回3000円でやりよった」
 こうした四方山話を聞きながら、私は夜這い≠ノついて河村さんにたずねる機会を伺っていた。編集者が持っていた記事にはこうあったからだ。

―― 私【保見光成】が金峰に戻ってきた直後、竹田(仮名)が、『おめえの兄貴にはイジメられたぞ』って言い始めた/時を同じくして、近隣住民に道で無視されるといった些事から、農機具を燃やされ、挙句に刃物で切りつけられたりといった大事に至るまで/数多の“事件”が起きたという〜先の大戦当時、10代半ばだった保見の兄は、母親に言い寄る徴兵忌避の男を追い払い家を守り抜いた。実は、その男の長男こそ、帰郷直後の保見に「兄貴にはイジメられたぞ」とからんだ竹田だったという――前出記事

 記事の中で『竹田』という仮名をあてられ、年齢も伏せられている「強姦魔の息子」とは、いったい誰か。最初に手掛かりになったのは『事件後、金峰周辺の人々は、陰でこう囁きあった。「竹田こそが保見の本命だったじゃろうに……」』という記述。この書きようから察するに、『竹田』は殺害された五人ではなく、七人(事件当時)の生存者の中にいる。
 次に、「兄貴にはイジメられたぞ」発言。保見は、山口地裁で行われた一審公判の中でも、同じ台詞を口にしていた。『「お前の兄貴にはいじめられたぞ」と、カワムラさんに言われました』。
 強姦(夜這い)についての発言はなかったが、相手の名前を挙げていたのだった。となれば、郷集落で生き残っているカワムラさんは目の前にいる河村二次男さん、一人しかいない。
 いよいよ私は聞いた。

――戦時中は、河村さんのお父さんも兵隊に行かれていたんですか?
 強姦魔は徴兵忌避の男だったと記事にあったからだ。
「親父は、背が低すぎて(徴兵)検査に落ちたから兵隊にとられなかった」
 なんと。忌避ではないが、河村さんの父親は戦争に行ってなかったのだという。
 では、河村さん自身は「父親による強姦」が原因で保見の兄にいじめられ、そのことを保見に言ったことがあるのか?
「バカ言っちゃいかん! そげなことは今はじめて聞いた」
 記事の存在をまったく知らなかった河村さんは憤慨した。
 ここでようやく持ってきた記事のコピーを河村さんに見せながら、取材の目的を明かした。すると、しばらく記事を眺めていた河村さんはそこに載っていた「つけび」の貼り紙を指しながら驚くことを言ったのだ。
「これ、うちのうしろに火をつけられたことがあるんですよ。わしはこれじゃないかと思うんですよ。家の前に貼ってる。ここに火をつけて2〜3日で貼っちょったね。家の一番良く見えるところに貼っちょった。下手くそな字でね」
 そしてこう続けた。
「僕が思うにそれは犯人が違うと思うんや」
 保見は事件の時に二軒の家に火を放ったとされているが、保見の他にも火をつけるような村人がいたのか?
「うん、悪いやつおったんよ。それは人から見たら、わしも悪いんかもしれんけど」
 事件の痕跡を色濃く残した郷集落のたたずまいや、『魔女の宅急便』の屋根の変な家もあいまって、私はいよいよ怖くなってきた。
 家を出る時に河村さんは表まで出て来て見送ってくれた。ガレージの中にある物置のようなものはシイタケを乾燥させる機械だと教えてくれた。真新しい墓はやはり聡子さんのものだった。
「あいつ(妻)が先に入っちゃった」と河村さんは言いながら、目元をこすった。
 その後、近隣の集落の村人たちにも話を聞いて回ったが、皆、河村さんと同じことを話した。「河村さんの家の風呂場が焼けた」が、その犯人は「保見ではない」と。
「金峰の夜這い」についても、夜這いそのものが金峰にあったらしいことは分かったが、戦中の夜這い(強姦)を巡る河村家と保見家の禍根について知っている者はいなかった。またそもそも、河村さん自身「長男」ではなかった。
「兄貴は、公務員やなんかやりよった。39で交通事故で死んだからそんで帰った。それまでわしは外に出とった」
 件の記事は、保見の言い分のみをもとに作り上げた記事だった可能性が高まった。
 私は東京に戻り、取材で得た話を原稿にまとめた。だが、一向に記事は掲載されず「送り」になることが続く。一旦はその月刊誌で企画として動き出したが、掲載のタイミングがないのだ。発生からすでに何年も経っている事件では、その裁判に動きがあったときか、もしくは刑が確定したか、さらには、死刑判決を下された犯人に死刑が執行されたときしか、掲載のきっかけはない。だが掲載が延びればギャランティの支払いも先送りとなる。「送り」が3回続いたとき、私はこの記事を「非掲載」にしてもらい、別の実話誌に掲載してもらうことにした。
 こうして『山口連続殺人事件』の仕事は一旦終わったが、しかし私には1月の取材を通じ、もっとこの事件を掘り下げたいという気持ちが沸き起こっていた。いや、事件というよりも、村人たちの話の不吉さが頭から離れず、この不気味な村の正体を知りたくなったのだ。
「つけび」貼り紙の発端となったのが、河村邸放火事件だったことにも驚いたが、村人たちはこんなことも話してくれていた。
「何回かあったらしいよ。何かにつけてケチつけてたけね」
 なんと郷集落での火災は一度ではないというのだ。
 こう話す村人もいた。
「皆殺されて、おらんようになったから、幕引きはできた。私はほんとに安心して生活できるようになったよ。わし自身は。今はもう鍵はかけんけど、鍵をかけ忘れるときも別にどうちゅうことないし、倉庫の鍵をつけたままにしとっても別に何も盗られることもないし、以前はそんなことしよったら何もなくなりよったからね。まだ色々悪いのがおったの。名前をあげりゃ2〜3人そんなものはおったからね」
 まるで事件で村に平穏が訪れたかのような口ぶりなのである。「皆が家族みたいに仲良しだった」集落で、「鍵をかける者などいなかった」という報道に接していた私は、また驚いた。
 さらには、保見について周辺集落を訪ね歩いた時、こんな話を聞いていた。
「親父がコレじゃったけね」
 人差し指を丸めながら、ある村人は言う。保見の父親が泥棒だったというのである。
 そしてある村人は、こちらが真顔で事件のことを尋ねているのに、
「夏はね、亡くなった山本さんやら貞森さんやら、石村さんやらとね、蛍でも出たらね、夕方に『蛍見よう』ゆうてから、仕事から帰ってね、おかずの一品でも作って、皆で集まってビール飲みよったけど。みーんな、その仲間は、殺されてしもうたね。あはははは……」
 と、なぜか高らかに笑うのだ。
 一体、この村はなんなのだ。
 保見が事件を起こす前から、泥棒や放火といった悪事は村で日常としてあったのか?
 一方、保見に対する具体的ないじめ≠ノついても、このとき村人たちに尋ねていたが、確たる証拠は得られなかった。
 たしかに判決でも、近隣住民による保見への「うわさ」や「挑発行為」そして「嫌がらせ」は、保見の思い込みであり、徐々に妄想を深めて村人たちを恨んだ結果、起こした事件だった……と認定されていることは先にも書いた。
 そうはいっても、完全に妄想だけでこれだけの事件を起こすだろうか。
 公判を傍聴した中にも、その疑いを抱いた者がいた。旧知の傍聴マニアのひとりだ。いじめがあったのではと考えたそのマニアは、関東から山口地裁まで傍聴に出向き、いくつかの期日の審理を傍聴していた。保見が具体的な話をしていなかったか尋ねたところ「犬の水飲みバケツに農薬を入れられた……とかは話してました」という。だが、他にはさっぱりそれらしい話をしなかったというのだ。
「『何をされましたか』って公判で質問されたらやっぱり刺された話をするもんじゃないですか。貞森さんから刺されたことは事実ですから。でもその話はしてないんですよ。『街宣車が来ると家の前で心を入れ替えなさいと言われる』とか話し始めるんです。家の前でかならず『心を入れ替えなさい』と同じところをテープで大音量で流されるって。そういう妄想の話しか出てこなくて、肝心な話をしないんですよ」
 また保見は公判で「自宅で作っていたカレーに農薬を入れられた」という話もしていたのだが、よく聞けばそれがいじめ≠ゥどうか、怪しかった。
「一ヶ月分まとめて七輪で作るんです。普通に考えると一ヶ月分作ったら最後の方は腐って食中毒になりますよね。冷蔵庫に入れるでもなく勝手口で作っているんです。そのカレー鍋に農薬を入れられて食べて死にそうになったって保見は言っているんだけど、それは農薬のせいじゃなくて腐ってたんじゃないか? って聞いた方は思うじゃないですか」
 私が当初期待していたほど、公判で保見はいじめ≠ノついての詳細を語ることはしていなかったのだ。

 保見と同じように集落に住む一人の人間が突如として 近隣の者たちを皆殺しにする事件を、私は他にも知っていた。1938年に岡山県津山市の貝尾部落で起きた『津山三十人殺し』である。実際、山口連続殺人事件を平成の津山事件≠ニ報じるマスメディアもあった。
 田舎の限界集落で、周囲に馴染めない一人の男が突如として村人たちを殺害してまわる……たしかに二つの事件は似ている。津山事件の犯人は、当時21歳だった都井睦雄。匕首と日本刀、九連発ブローニング猟銃を携え、自宅の祖母の首を刎ねたのを皮切りに、わずか一時間半の間に三十人を殺害し、近くの山で猟銃自殺した。
 保見光成は自殺まではしなかったが、この二人が、自らも暮す集落の人々に対して、強い嫌悪感を抱いていたことも共通する。『津山三十人殺し』(筑波昭/新潮社)によれば、都井は三通の遺書を残しており、そこには集落の人々への恨みが綴られていた。一部の村人は都井が患っていた病気を毛嫌いし「肺病の一家や、近づいたらあかんぞ」などと直接言っていたといわれる。対する保見は、事件の二年前の元旦に周南警察署を訪れ、「地区で孤立している。集落で悪口を言われている」などと、のちに殺害することになる被害者たちの名を上げていたほか、逮捕直後にも、近所の人の名を挙げて「うまくいってなかった」と語っていた。
 それよりももっと、共通点を感じる大量殺人事件を私は過去に傍聴していた。2004年に兵庫県加古川市で発生した『加古川七人殺し』だ。当時47歳だった藤城康孝は8月2日の午前3時半、突如、近隣に住む親戚を次々に牛肉解体用の特殊な包丁で刺してまわり、7人を殺害したのち、自宅に放火し、ガソリンを積んだ車に乗り込み発車し、それを近所の信号柱にぶつけ、自殺を図るが警察官に引きずり出されて逮捕されたという事件だ。
 保見の逮捕のニュースに接した際、私は津山事件でなく加古川事件を真っ先に思い浮かべた。2009年に神戸地方裁判所で論告弁論を傍聴した際に、検察側が近隣住民との諍いについて述べたのだ。
「周辺は古くからの農村で人間関係が濃密。ささいな出来事も話題にのぼり、噂になる土地柄です。
 被告人一家は権利関係があいまいなまま本家の土地の一部に住み続けていました。また被告人は近所でもけんかっ早くて有名で、定職につかず、被告人の父は昭和62年に『年金を1人で使いたい』と家出します。しかし周りには『被告人の暴力から逃げる』と嘘をつきました。被告人の兄弟は自立しており、母親が靴下製造工場でパートとして働き、生計を立てていました。
 被告人は当時、老齢の母と2人で暮らしており、常に噂話の対象となっていました。被告人の母はこう述べています。
『夫が家にいた頃まではあまりにも露骨な噂話はありませんでしたが、夫がいなくなってから格好の噂の対象になりました。遠慮もなくなり、外出時には利彦の妻、周囲の住民が井戸端会議をしていました。挨拶をしても返さず、声を潜めその場を離れて行きます。娘も「あの人ら何なん。いつも悪口言ってる」と言っていました』
 また被害者のひとりと立ち話していた近所の女性は『被告人の姿はたまにしか見かけませんでした。平日の昼も家にいるようで、まともに仕事もしてないこともわかっていましたが、何か仕事しとるんやろか、と噂していました』と述べています。
 このような環境で被告人は周囲が自分を見下していると考え、怒りを募らせていったのです」
 藤城に対しては何度も精神鑑定が行われた。一審・神戸地裁では弁護側請求による鑑定と、検察側請求による鑑定。二審・大阪高裁では裁判所が職権で鑑定。一審弁護側請求鑑定と二審の鑑定では、保見と同じく『妄想性障害』という診断が下された。だがそれに伴う責任能力の有無については、保見とは扱いが異なった、一審弁護側請求鑑定で「完全責任能力を否定」し、二審の鑑定でも「判断能力に著しく障害があった」と責任能力が限定的であったとされたのだが、神戸地裁も大阪高裁も、完全責任能力があったと判断したのだ。最終的に最高裁でも『妄想性障害はあったが完全責任能力はあった』と認定されている。だが近隣住民による「うわさ」や「挨拶をしても返さない」などのいじめが存在したことは神戸地検も争ってはいなかった。

 集落にはそれぞれの性質がある。ひとくちに村八分≠ニいっても、その性質により、内容も異なる。先のふたつの事件では、都井に対しては直接的な悪口、藤城に対しては陰口や無視といった行為がそれにあたる。保見に対してはどうだったか。1月に触れた郷集落の不気味さの片鱗だけでなく、村の本当の姿を知らなければ、保見の感じていた疎外感を知ることもできない。
 私は、改めてこの郷集落における保見がいかなる存在だったのかを追うことにした。まだ梅雨は明けていなかった。

保見ちゃん

 保見光成は昭和24(1949)年12月に郷集落で生まれ、地元の金峰小学校に入学。鹿野中学校を卒業後に上京し、先に上京していた長兄と仕事をしていた。17歳の頃にボクシングを始め、ジムを何度か移ったが、そのうち兄とやっていた仕事を辞め、ジムに住み込む。パチンコ屋でも住み込みで働いていたという。
 山口地方裁判所で行われた裁判員裁判の検察側被告人質問(第七回公判)で、保見は自らの経歴を問われ、こう語っている。

検察官「金峰を出たあと、関東ではどのような仕事をしましたか?」
保見「いろいろあります。石貼り(タイル)、のろ貼り(セメント)、軽天(天井)、建築に関すること、ほとんど。住込みのパチンコも、あっ、すし屋……」

 時は高度経済成長期。若い労働者が金の卵としてもてはやされた時代だ。左官や土建業を中心に、保見はさまざまな仕事を渡り歩いた。
「東京では、やればやるだけ金がもらえた。当時は月200万の収入があった。貯金は1500万ぐらい」
 全盛期は、仕事場にシュラフを持ち込み、夜になるとそこに潜り込んで眠り、目覚めてすぐに現場仕事に取り掛かる、という生活をしていた、と村人たちは保見から聞いていた。だが、本当にずっとそんな調子で稼げていたかは、分からない。

「体の調子が悪いから、戻ってきてほしい」

 父親の友一からこんな連絡を受け、郷に戻ることを決めた保見光成は、1994年10月、元駐在所の本宅に隣接する土地を、その所有者であり事件の被害者となった石村文人さんから購入し、当時住んでいた関東と金峰を往復しながら自力で新宅を完成させた。1996年5月、拠点を金峰に移し、両親との3人暮らしが始まる。このときには1000万円の貯金があった。
 土地の購入に関しては、郷地区から少し離れた金峰谷(みたけだに)という集落に住んでいた、鹿野町(当時)の町会議員、三浦富貴人(ふきと)さんが、高齢の友一夫妻を心配し、保見へ譲ることを石村さんにすすめたのだと地元では言われている。その富貴人さんは事件が起こった年に亡くなった。
 石村さんから購入した土地の登記簿を確認すると、郷地区に戻る直前の、保見の住所が確認できた。神奈川県川崎市多摩区のアパートだ。京王・JR両線の稲田堤駅から北東に1キロほど進んだその場所を尋ねたが、すでにアパートはなくなっていた。古い平屋住宅、低層階の古いマンションやアパートが立ち並ぶ中に、造園屋や工務店などが点在している。真新しい建売の戸建てが、ところどころに出来始めていた。
「あいつのタイルの親方がこの辺にいたんだけど引っ越しちゃったんだよな。職人としての腕はよかったよ。やっこさんが住んでたところの隣に3階建てのマンションがあるのよ。そこを奴がやったんだよね。外壁を」
 当時の保見を知る男性はこう語った。確かに、アパートの跡地すぐそばに、1991年3月に建てられたクリーム色のタイル張りマンションがあった。仕事は順調だったように見える。だが、このマンションが完成して数年後に「親が体の調子が悪いから、家に帰んなきゃなんねえんだ」と言い、金峰に戻ってしまった。
 保見はこの地に住んでいる当時、稲田堤の駅前に古くからある、焼き鳥屋の常連になっていた。その店主である森さん夫妻=i仮名)が、保見と同年代で、仲が良かったという。保見が住んでいたアパート跡地の近所にある森さん宅を何度か尋ね、奥さんに話を聞いていた。「あの事件があったときは田舎(山口)からも取材が来てたのよ」という。
 多摩川沿いにあるその家で夫妻は現在、甲斐犬のブリーダーをやっている。奥から何頭もの犬の鳴き声がけたたましく響くなか、玄関で取材に応じてくれた。
「私もお店(焼き鳥屋)に出ていて、当時子供も小さかったから、保見ちゃんに見てもらったりなんかしてたんです。その当時、別にどこか異常だとか感じたこともなかったしね。ただなんか神経質っていうかな。仕事は熱心だし真面目だし。真面目なんですよ。だから逆に真面目だからこそ、融通がきかないってのはあった。でもそれって、男でも女でも、人によって性格ってあるじゃないですか。
 保見ちゃんが働いてるとこの従業員の方とか社長とか飲みに来たり、自宅にも飲みに来たりなんかして家族ぐるみの付き合いしてたね。『あいつは気は短いけどでも気持ちはいいぞ』って社長は言ってました。わたしもホミちゃんのところに遊びに行ったことあるけど。だけど別にどうってことないし、ちゃんと洗濯もきちっとしてるし支払いもきちっとしてたからね、そういう付き合いはしてたんですよ。あんまり変な人だとね、うちも子供が女の子だから付き合えないし。
 保見ちゃんは、仕事が早く終わっちゃうと『一杯飲ませてくれとか』早い時間に店に来て喋ってたり。でも仕込みなんかで私たち夫婦は忙しいから、酒も出してる暇ないからね。だから自分で出して伝票も自分でつけてくれてたり。そんな感じでみんなで和気藹々とやってましたよ」
 そもそもの出会いは、当時森さん夫妻が切り盛りしていた焼き鳥屋に、保見がタイル職人の親方に連れられて来店したのがはじまりだった。
「保見ちゃんに会ったら言っといて。稲田堤のババアが年取ったって。娘は大きくなって孫もできたよ、保見ちゃんありがとうね、って」
 ちょうど家の奥から電話が鳴り出し、ここで話は途切れてしまった。

 稲田堤に住んでいたころの保見は、タイル張りの仕事に精を出し、行きつけの焼き鳥屋で交流の輪を広げ、仲の良い友人と一緒に釣りに行き、その魚を近所におすそ分けもする、でも頑固で細かいところもあった、普通の職人のおっちゃん≠セった。
 では、金峰地区に戻ってからはどうだったのか。

ワタル

 1月と同じように徳山駅から車で菅野湖沿いの県道41号を北上する。片側が湖、片側が山になっていて車一台しか通れない道だが、6月下旬ともなると、山から生い茂る雑草が伸びてきて、車の側面に葉が触れる音がかさかさと車中に響く。たどり着いた金峰地区も同じく、緑が生い茂っていた。
 この県道41号と、それよりも道幅が広い県道9号がぶつかる地点に保見とその両親が暮らした家がいまもある。41号を挟んだ向かい、西側には金峰神社へと続く参道がのびていた。保見の家から参道の方を眺めたとき、その脇に見えるのが金峰山(きんぽうざん)だ。
 前回訪れた時と村の佇まいは変わっていないが、季節が冬から梅雨になったことで、山の木々や道路沿いの雑草はさらに青々と生い茂っていた。そして、なんといっても虫が多い。歩いていても、止まっていても、走っても、身体中に小さな羽虫がまとわりついてくる。何をしていても虫たちが耳元で小さな羽音を響かせ、とくに顔に集まってくるから堪らない。小さな叫び声をあげるが、周りには誰もいない。手に持ったタオルで顔に寄ってくる虫をはたきつつ、郷集落や近隣の集落を訪ね歩いた。
 保見光成は、もともとの名前を『中』(わたる)という。そのため皆、保見のことを『ワタル』と言って話す。
 事件直前のワタルは、関東に住んでいた時の人物像とはまるでかけ離れた攻撃的な村人として、郷地区で敬遠されていた。妻の聡子さんを殺害された河村二次男さんが言う。
「うちの田んぼがワタルんちの前にあった。そこで女房が仕事をしとると、ワタルが家から窓開けて、歌を歌うて、おびくわけ。おびく、っち分かるかな、罵る、ちゅうこと。カラオケでギャーンと流す、そういうことしよった。女房は『気持ち悪い』っちゅうけど、わしは『取り合わんがいい』と言いよったんよ。
 女の人は集まって井戸端会議とかするじゃないですか。それを、まあ、ワタルの家の前に鳥居があるからね、そこで山本さんとうちの女房が話をしよったらワタルが外に出てきて犬の散歩がてら『お前ら殺したろうか』っちゅうわけ。『お前ら二人じゃつまらんけ、もう何人か連れてきてやっちゃろか』と。そういうこと言うわけ。
 女房がワタルの向かいの家に行っとるときに車で送って、お宮の前に車止めて、向こう見とったらワタルの家の方向くでしょ。そうしたら『お前何の用事があるんか』と言ってくる。そりゃあね、わしらも多少あれやったけど、田舎のものにあげなこと言うたら恐れる。あれは恐ろしい」
 道ゆく村人たちに食ってかかり、時には殺害も仄めかす。完璧な危険人物に成り果てていたようだ。
 別の住民も「貞森誠さんがワタルに掴みかかられた」、「棒みたいなん持って犬を散歩しよった。会うと『10人くらい殺して死のうと思う』とよう言いよった。思いがあったんかなんなんか。それを私はなんでとは問わんよね、怖いから」など口々に振り返る。
「夕方にカラオケかけて歌いよった。5時ごろ出たら歌ってるよ。『およげ!たいやきくん』やらね、そういう歌よ。すごい外に大きく聞こえるように。マイクをこうね。山側のほうに向けてね」
 しかも、食ってかかるだけでなく実際に暴力も振るい、挙げ句の果てに毎日のようにカラオケで熱唱していたというのだから、確かにこれは、田舎のものでなくとも、恐ろしい。
 当のワタルは一審山口地裁の被告人質問で、当時の生活パターンを検察官から問われこう答えている。
「最後はわからなくなった。朝5時半散歩して、家でカラオケ。事件2〜3か月前はなんもやってなかった。ポケーとして声を出すこともなかった。人の話を聞きたくない」
 最初の頃に自宅の窯で陶芸をやっていたことを覚えていた村人もいたが、それもいつしかやめていた。
 村人たちにはその言動を不審がられていたが、家の中はそれにもまして不気味だった。地下のトレーニングルームを中心に、自作のポエム≠ェびっしりと壁に貼られていたのである。一審公判の証拠調べで、法廷の壁にかけられた大型モニターにその壁の様子が映し出されている。傍聴した記者やマニアは一様にこの写真のことを真っ先に挙げ「すごかった」と語るほどだ。

「何かしなければ全て認めて死ぬことになる 悪者にされ一人死んでたまるか」
「試合である 警察に訴えない 病院代の請求 遺恨残さず」
「あなたの性根の悪さがよく分かる がまん がまん がまん いつまでどこまで リオブラボー」
「もんぺ下げ 散歩の亀に 餌をやる」
「無神経 なのに 神経痛」
「玄関前に横たわる ぴくりとも動かない 仇討ち」

 エロと恨みが共存したこれら不穏なポエム≠ヘ、村人への恨みから来るものなのではないか? そう一審公判で検察官が追求していたが、ワタルはそれを否定していた。こんな調子でだ。
「ルームの紙は両親が亡くなった後書いた。どういうつもりでって……つらい気持ちで書いた。見る時はなんともないです。子供がいじめられて日記書くでしょ、死ね死ね死ねとか。吐き出してすっきりする。そういうもんです」

 そうは言っても、すっきりできなかったから事件は起こったのではないか。
 事件直前は村の危険人物に成り果て、草むしりなどの集落の作業にも、自治会の仕事も参加せず、回覧板も受け取らない生活をしていたワタルだが、最初からそうだったわけではない。
 関東に出る前の幼少期は、ガキ大将として近所の子供を引き連れて遊んでいた。連れ回されるのが嫌で、子供たちはたいてい、ワタルが遊びに来る前に外に出るようにしていたという。いじめられていた同級生を守ってあげたこともある。
 1996年5月に郷地区に戻って来たばかりの頃も、いわゆる変人ではなかった。戻った翌月には自治会の旅行に参加した。その翌月に開かれた歓迎会にも参加して、自己紹介をし、村人たちの輪の中にすすんで入ろうとしている。2日連続の公民館行事に参加もした。旅行でのワタルの様子を覚えている村人はいない。ということは逆に言えば取り立てて何も問題がなかったのだろう。だが歓迎会でワタルは、自分がこの地で何をしたいか、村人たちに提案をした。
 公判を傍聴したマニアが、この当時の情報を語ってくれた。
「本人に面接し本鑑定を行なった精神科医が、彼は『村おこしに失敗した』と言っていました。その一言だけで、具体的には何に失敗したのか言っていなかったんです。本人は手に職があるからバリアフリーをやってみたり、年寄りが多いから色々と電気の付け替えとか、便利屋さんをやろうと思っていて、戻って来た年にあの新しい家で『シルバーハウスHOMI』を開業したんです。そこでやっぱり介護とかデイサービスみたいなこともやろうと思ったんじゃないですかね」
 ワタルは自力で建てた新宅で、リフォーム業を主とする便利屋を開業しようとしていた。当時すでに過疎化が進んでいた村を盛り上げたいという意志を持っていたという。新宅は、その拠点にしようというワタルの思いが込められた造りになっている。
「気軽に集まってもらったり、お酒を飲んで歌ったり話をしたりしたら楽しいよね」
 ある村人は、ワタルからこう聞いていた。いま草に覆われている新宅の扉の奥には、カウンターバーがあり、カラオケ機器も当初から取り付けられていた。地下にはトレーニングルーム、さらには陶芸のための窯もあった。
 ワタルはここを村人たちの交流の場として作ったのだ。
 日々ドアを開けてふらっと訪れる村人たちと、カウンターでお酒を飲みながら交流を深め、地元を盛り上げるための色々な案を考えていきたい……そう考えていたという。
 当初『シルバーハウスHOMI』を訪れたことのある村人は言う。
「すごいバーを作って、外は飲み屋のようにネオンがつくようにしちょった。中もお店みたいじゃったよ」
 だがすぐに、誰もそこに行かなくなったのだという。村人は続けた。
「そうするためにはやっぱり人間関係がないとねえ」
 ワタルは自作の新宅を集落の新しい拠点として、村人たちが楽しめるような設備を作り、村を盛り上げようと胸を膨らませていた。だが真っ暗な村に一軒だけネオンが輝く様は、不釣り合いであり、浮いていた。そしてワタル自身も、まず村人たちとの信頼関係を築く前に、近代的な家の設備で村人を呼び寄せようとしていたことが裏目に出た。『Uターンハイ』とも形容できるような状態になっていたのだろう。
 都会から戻ってきた俺が、こんな家を作った。これで村も盛り上がる。さあ、皆ここに集まってくれ……。
 年長者ばかりのこの村で、それは通用しなかった。やはり村に戻ってきたからには、自治会の仕事に参加し、数ヶ月に一度行われる草むしりなどの仕事にも精を出し、先輩となる村人たちとの調和を図ってはじめて、村に受け入れられるのがセオリーだ。冷静に見ても確かに、その案は強引に映る。
 歓迎会の席上から、ワタルは村人にあまり良い印象を抱かれてはいなかった。都会帰りでハイな状態のワタルは、村人たちにとっては、うっとうしかったのかもしれない。この村を盛り上げるためのワタルなりの村おこし……新宅を村人たちの交流の拠点とする案は、あっさりと年長者たちに否定されてしまったのだ。
「最初には、光成自身が外森(仮名)に相談をしたの。年代が違わんから『金峰おこしをしようじゃないか』と相談をもちかけたのは光成のほうやね。最初に自治会で出会ってその話をしたと。その時に外森が『それじゃ二人でやろう』ちゅうて。そのままやったらよかったんじゃが、あとのあおりが怖いちゅうんで、外森がおそれて手を引いたから、光成自身が一人悪者になった」
 ワタルの村おこしの顛末を知る村人は、こう語った。外森さんとは郷地区にある玉真寺という寺の住職で、ワタルよりも少し若い男性だ。郷地区から7キロほど西に離れたところにある寺の住職も兼ねており、事件後はほぼそちらに住んでいるのだという。彼と当初は村おこし≠しようとしたが、外森さんから梯子を外されてしまったのである。
 出鼻をくじかれたことで金峰・郷集落での生活は幸先の悪いスタートを切った。集落のもやい仕事に参加したのも最初だけだ。「気が弱いところもあった」とも評されるワタルなので、理想の村おこしを反対されたことで萎縮したのかもしれない。人間関係が築かれてくれば、長期的には『シルバーハウスHOMI』を村おこしの拠点とすることも無理ではなかっただろうが、ワタルはそれをしなかった。
 そんな中でも『シルバーハウスHOMI』のために、店のチラシを印刷してあげたりする村人もいた。実際、初めの頃は徳山の方へ出向き、リフォームを請け負ったこともあるというが、そのうち開店休業状態となる。
 関東と金峰を往復して作ったこの新宅には、ワタルが思い描く郷集落での理想の生活が詰まっていた。だが『シルバーハウスHOMI』は、稲田堤の焼き鳥屋のように、地元の村人たちが集まる場所にはならなかった。いつしかトレーニングルームは自身の鬱屈した思いを書き連ねたポエムが壁一面に貼られる禍々しい空間へと変貌し、カラオケを一緒に楽しむ村人が訪れる日は来ないまま、一人でひたすら「およげ!たいやきくん」を歌っていた。

 ―― 過疎化した金峰では、子どもの住む街へ出るお年寄りが多い。そんな中、保見(ほみ)友一さん(93)の二男、中(わたる)さんが九四年、川崎市から帰ってきた。十五歳のころ、都会にあこがれ東京へ出たが、「自分の生まれたところで死にたい」という思いは消えなかった。
 工務店勤務の経験を生かし、老いた両親のために部屋の段差をなくし、手すりをつけた。一年ほど前、母のタケヨさんが病気で倒れ入院した。「うちに帰りたい」と言う母のために自宅で介護を始めた。おしめを換え、たんを取った。
 昨年十二月末、八十七歳の母をみとり、父と二人暮らしになった。「親が子どもを育て、年をとる。 そんな親をみるのは子どもの義務」。父が毎日手を合わせる仏壇の周りにも手すりを付けた。(2003年4月19日読売新聞朝刊)――

 金峰地区に住む高齢者と、その子供たちについて触れた記事だ。この翌年、友一も死んだ。村人の中には「両親が死んでから、おかしくなった」と言う者がいた。確かにこの頃から、家の前に雑然と置かれたオブジェの様子が異様なものへと変わり始めたようだ。
「ブラジャーをつけた変なマネキンを家の前に飾ったりして、どんどん様子が変になって言った」
 地下のトレーニングルームの貼り紙も、この頃から始まった。

 郷集落から5キロほど離れた別の集落に、ワタルと友一を知る村人がいた。82歳になるその男性は、この地で長らく酒屋を営んでいた。平成16年(2004年)に店を畳むまで、近隣の家へ酒の販売・配達をしていたのだという。
「お父さんはわしもよく知っちょる方じゃある。まあ椅子に座りない」
 男性は、保見の父・友一と、保見の母が生きているころ、郷集落のあの家に酒を配達していた。
「犯人のあれも、話したことがある。まあ、あれがあんなことをするとは思われんような。穏やかな人だと思うちょった。犯人の家はお父さんお母さんの家のすぐ隣に作っちょった。お酒の配達はお父さんが飲みよったけ、そっちの古い方の家に行きよった。お父さんと話するけど犯人とも話する。あそこは夫婦仲もよかったし。喧嘩ちゅうようなことはなかったですよ。犯人のほうも、大きな声をあげてどうじゃこうじゃ言う人じゃなかった」
 郷集落の人々は、酒税法が変わり酒のディスカウント店が都市部にできるまで、めいめい決まった酒屋から酒を頼んでいたという。男性は郷集落では保見家だけに配達をしていた。
 話を聞きながら、ふと、元酒屋だったというその家の土間を見回すと、ワタルとはタイプの違う、前向きな自筆の標語が壁一面にびっしりと貼られていて、そちらに気を取られてしまいそうになった。腕に蚊が止まっても、気づかないのか、そのまま話し続けていた。
「ひと月に一回注文があった。いっぺんに持って行くのが一升瓶10本。多いですよ。わっはっは。よう飲みよったです」
 酒飲みだったが穏やかな家族だった……。こう男性は言うが、郷集落とその近くでは違った評判が立っていた。
穏やかな人≠セったというワタルに関してはこうだ。
「帰った当時は集落の旅行にでも行きよったよ。それならええわけ。でも、仕事をせん! 集落の村の仕事にも出ん。はしからそうなっていったんや。そりゃ人が相手にせんにゃ」
「ものを人にあげるような人じゃなかった。うん、そういうところはなかったですね。飲みに行った人のところに次に行くときさ、ビールの一本ぐらい持って行くとかさ、そういうのが一切なかった」
「なめこがたくさん採れた年に、分けちゃろうとおもって、なめこ食べるか? って聞いたら『おう食うど。しいたけは埃臭いから好かんけどなめこならええど』って、ありがとうはない」
 都会から戻ってきた若者……と言っても、すでにこのとき40代半ばだったが……なのに、年長者たちに礼を言わず、集落の仕事にも参加をしない。川崎・稲田堤に住んでいた時とは違う尊大な態度のワタルに、郷集落の村人たちは距離を置いていった。剛に入りては郷に従え。特に人口の少ない集落においては重要かつ唯一ともいえる処世術になるが、ワタルはこれを拒否し、村人たちもそれを苦々しく思っていた。2009年にワタルが「光成」に改名したが、それを村人たちが知ったのは、事件の後の逮捕報道でだった。

 このように郷集落に戻ってきてからのワタルの、あまり良くない言動は、村人から暇なく聞かれるのだが、報じられていた具体的ないじめ行為については確たる話が出てこない。
 一審公判の冒頭陳述では、近隣住民との諍いの経緯が時系列で明らかにされているが、そこで出たのは「平成20年8月の河村さんとの農薬散布トラブル」、「平成21年5月 飼い犬を巡り河村さんと口論」、「平成25年はじめ 飼い犬のフンをめぐるトラブル」などだった。だがこういう裁判では被害者側の生前の非を隠すこともある。
 事件当時に現場を取材した記者によると、そのときは郷集落に貼られた規制線のため、中に住む村人たちへの取材はできない状況だったことから、金峰山を超えた鹿野町などでも取材が行われていた。そこで記者は、こんな話をする住民に出会ったそうだ。
「せっかくみんなのために買った草刈機を、あぜ道に置いたまま忘れて帰ったら燃やされたっていう話を聞いてました」
 そのほかにも、すでに書いたように「庭に除草剤を撒かれる」「『犬が臭い』と文句を言われる」などの出来事が起こっていたと遠くの村人≠スちは口々に言うのだが、当の郷集落の村人たちに聞いてもそのような話が出てこないのだ。
「あの人だいたい草刈機を持ってなかったから。農家じゃなければあまり草刈機はいらないよね。それに草刈機も、燃えるようなもんじゃない。草刈機をどうかされたっていったら、投げられたとか、刃を壊された、とかならまだわかるけど、草刈機のどこを燃やすんか」
「草刈機を燃やしたとかなんとか聞いたことあるじゃろ。だけどあれはわし、よう知らんのよ」
 そもそも草刈機の存在さえ怪しい有様なのである。

 河村二次男さんは日々、村で起こったワタルとのトラブルを、自分の『県民手帳』に書きつけていた。そこにはこんな記述があった。
「背負式の機械で田んぼに農薬を散布していたら犬がどうとか言っていた」
 これは2008年の出来事なので、冒頭陳述にあった『農薬散布トラブル』とみて間違いないだろう。除草剤ではなく農薬を散布した際に、ワタルが自分の犬を攻撃されていると思ったのではないか。
 一部の村人は河村さんについて「ワタルに色々言われるけえ、ちゅうて、田んぼも手放したんじゃけど、まだ田んぼをやりよるときは、よく農薬まく人じゃったんよ」と、もともと農薬を好んで使う主義だったと話した。
 事件当時取材に答えていた遠くの村人≠スちによる、郷集落でのいじめの話は、ワタルが以前にそうした被害を誰かに話したものが広まっているかのような印象を受けた。犬について文句を言った話は、郷の誰からも聞けなかった。いじめた相手にいじめの話を聞かせてくれと言ってもなかなか話してくれない。そういうことかと思っていたが「あの人がいじめていた」という耳打ちすらされないのである。
 それよりも、ワタルに対する具体的ないじめ≠フ話が村人たちから出て来ないのと対照的に、周辺集落の誰もが知っていたのが、ワタルの父・友一が泥棒だった≠ニいう話だった。

(続く)
https://note.mu/tk84yuki/n/n3cf6b0673398

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ルポ「つけびの村」03/06 2018/07/24
https://note.mu/tk84yuki/n/nee18a0ab0ef6


2013年7月に山口県周南市で発生した山口連続殺人放火事件について、2017年に取材し、まとめたものを6回に分けて公開します。存命の関係者のお名前は全て仮名です。2017年9月7日脱稿、その後少し寝かせていました。


保見友一

 その泥棒≠フ噂高い、保見の父親は、いつから金峰の郷地区に住んでいたのだろうか。集落を訪ね歩いて話を聞くと、皆、大まかには同じことを話した。
「保見のところは、もともとは、同じ金峰でも郷とは違う山の中に住んどった。
 長男は順一。友一(ともいち)は三男。その間に徳市(とくいち)ちゅうのがおる。ワタルの父親が友一。この3人ともが皆それぞれに郷に出て来た。それは戦争前。今から70年くらい前かな。家のあったとこは、あとはなんもない」
「ワタルくんのお父さんらは、山の上の方おっちゃったらしいよ、ほんで降りてきた、わたしらも親が話しよったちゅうぐらいしか知らんからね。入るのはね、河村さんところの道を山伝いにずっと上がるんじゃけど。途中から奥まった山の方へ登るんと思うよ。家とか、もうないない。山しかない。もう誰も住んじゃないよ。昔はそこへ山をちょっと持っとったんじゃろうが、もうそれも誰かに売っちゃったみたいじゃがね。自分らも子どもの頃、あの河村さんとこの奥のところに入ったことはあるけど。山よ。集落はないね」
「なんで越して来たかは知らんね。兵隊取られるかそんな頃やから、昔の話じゃ。兵隊から帰った時にこっち来たんやね」
 たしかに、金峰神社の参道脇にあった保見家の墓や、神社に残された石柱などを確認しても、光成の父親である友一、その兄たちの順一、徳市以外の名前は見当たらなかった。

 郷集落は保見家の南隣に、3人目の被害者山本さん宅と、さらに南方に進んだところに、本来は菅蔵地区だが「もとは郷に住んじょって、そっちに移った」ため、そのまま郷集落の一員として暮らしていた最初の被害者、貞森さん夫妻が住む家がある。保見家の家の裏手にはこんもりとした山が続くが、その手前には東西からそれぞれ流れてくる小さな川が合流している。東側から流れるほうの川に沿った細い道をその上流に向かって歩くと、500メートルほどで河村さんの家に着く。ここまでが郷地区といわれる。この細い道をさらに奥に進めば、県道9号線にふたたび合流するのだが、郷集落の入り口の前よりは道幅が細くなっており、車が一台しか通ることができない。1キロほど曲がりくねった細道を進んだところで、道が南北に分かれている。この周辺にワタルの父・友一とその兄たちは住んでいたという。
 そう村人たちが言う場所は現在、道沿いに家はぽつりぽつりとあるが、朽ち果てた廃墟もあり、今も人が住んでいる家は数100メートルおきに一軒ほどしか見当たらない。山の方を見ても、もはや家らしきものはなかった。
 体に寄ってくる虫を避けながら、保見友一とその兄たちが郷集落に移り住んだ経緯や、住んでからの暮らしぶりを高齢の村人に尋ねてまわると、わりあい話が聞けた。といっても、金峰地区では高齢者しか見かけたことがない。ここでの高齢の村人というのは、後期高齢者に分類されるような者たちだ。

 金峰地区の生き字引と称され、金峰地区のことならばこの人に聞け、と名前の出る男性、田村勝志さん(仮名)は郷集落の隣、菅蔵(すげぞう)集落で長らく農家を営んでいる。友一とは20歳近く年齢が離れているものの、やはり友一とその兄たちのことをよく知っていた。なぜ郷地区に移り住んで来たのかもだ。
「生活ができんようになったから。住んでいたところは、それはもう山の中で、どうしようもない生活しよった。その山の中に一軒家があって、そこに生まれて育ったんやからね」
 友一が移り住んで来たとき、まだ郷地区を東西に走る県道9号線が東方向には伸びておらず、現在の保見家の北側から東にかかる『第二郷橋』付近に家があった。
「まあお粗末な家を作っておったよ。竹をパッと縦に割って、その中の節を落としたものを重ねて行くわけ。でそれが屋根になるわけ。そういう家じゃった」(別の村人)
 郷地区から北東方面に採石場があることから、昔からダンプカーの往来があった。集落の家々の前にある細い道を抜けていたのだが、道幅が狭かったため、1976年代にバイパス工事が行われることになった。このとき友一と妻、そして子供であるワタルとそのきょうだいらが住んでいた家は立ち退きとなり、現在の茶色の建物に移ったのだという。もともと駐在所だった建物をそのまま友一が買った。
 ワタルの父、友一とその兄たちは別々に移り住んで来ている。次男の徳市は事件の被害者となった貞森さん夫妻が住んでいた家に住んでいた。その家を建てたのだという。金峰地区の村人たちは、徳山に近いほうを「カミ」、遠いほうを「シモ」と言う。順一は「シモのほうに住んどった」というが、詳しい場所は誰に聞いても定かではなかった。
 ワタルの叔父にあたる明治生まれの長男・順一の生活ぶりを直接覚えているものは、田村さんだけだ。
「わしが小さい頃、長男は荷車を引いて荷物を運ぶ商売をしとった。ここから徳山まで馬を買って来て荷馬車にして荷物を徳山へ運んできて、徳山で、頼まれたら買って帰るというのを長男はやってた」
 同じく叔父にあたる次男・徳市になると、数名の村人が記憶していた。話は皆共通しており「ブローカーのようなこと」をやっていたという。徳市、友一と交流のあった田村さんの話はこうだった。
「どういったらええかな、請負仕事をして、そして儲かって、土地を買ったり、いろいろ商売をしたりということをやりよった。ここに昭和26年の10月に大きな台風が来たんじゃけど、この辺は死の谷ちゅうて、家もあったけれども、田んぼも何もみな川になってしもて、大変なときがあった。道路という道路、橋という橋がひとつもなくなったんや。それを改修するために土建業の人がものすごいここに入った。そういうときに保見徳市という人は、なかなか頭のいい人やから、すぐにその請負をしたわけね。それで儲かって、まあ、一代をなしたというか」
 昭和26年10月 13日から14日にかけて山口県を襲ったルース台風は、同県に甚大な被害をもたらした。この災害をビジネスの好機と捉えたのが徳市だった。それなりに財を築いたが、徳山市に出ていた徳市の長男が脳溢血で急逝したことで潮目が変わる。その妻が、家の財産を奪ってしまったのだという。
 とはいえ長男・順一も、次男・徳市も、郷地区に移り住んで来てから仕事をしていたが、ワタルの父、友一だけは違っていた。どのように暮らしていたのかと村人たちに尋ねると、こんな答えが返って来るばかりなのだ。
「あんまりに働かないおじさんでね。上手いこと言って安い酒を人に高く売りつけてお金をあれしたりとか。人の作ったカゴを自転車の後ろにつけて売ったり。それで時々仲買に出たり。体がでかいおじさんだったけど、勤勉に働くような人でもなくて。それでいつも将棋をやっていてね。バスが来てたんですよ、で、バスが止まるといつも運転手さんと早将棋をやっていた」
「カゴを売る仕事のほかは、戦後に植林ブームちゅうのがあった。山を綺麗にして、苗木を植えて、下刈りをして、下刈りもだいたい5〜6年やりよるから、ひとつ受けたら6年間は仕事がある。あんまり定職ちゅうのはなかったね」
 金峰地区の産業は、今も続いている農業や椎茸栽培のほか、かつては製炭や畜産、そして竹細工も盛んだったという。友一は付き合いのあった竹細工職人から安く仕入れた籠を、高く売りに行っていたほかは、植林ブームに乗り一時期その仕事に従事していた。友一の妻、つまりワタルの母親は「和裁ができた」というが、どこかに勤めに出ている様子はなく、近所のものたちの農作業を手伝い、報酬に農作物をもらっていたことがあった。

 1月の取材で聞いていた友一は盗人≠セという噂について村人たちに尋ねると、他の兄弟の話と同じく、皆が同じ話をした。
「あの家の中に縁側があって、そこで2〜3人集まって酒を飲んでいるちゅうのが友一の日常生活じゃった。酒を飲むのも、自分は酒がないから、来た人をうまい具合にごまかして、酒代をとって、いうような感じ。それで人をごまかす。だから相手にするなという風評が高まった」
「保見友一って誰も呼びやせん。友のアカの人≠ソゅうふうに言いよった。アカっちゅうのは、盗人のことやな。米も洗濯物も盗られる。盗んで着るんじゃから、すぐ分かるよ」
「今なら笑えるようなものを盗りよったらしいよ。まあ洗濯物とか、カボチャとかやね」
「友一は子供がたくさんいたし、非農家じゃったから、田んぼがない。終戦後、食べ物にすごく困っている時があった。昔は水車を回して米を挽いていて、農作業に出る前に水車のところに置いて出て行っとった。そして帰ってその米を炊いて食べるんじゃけど、それを盗んだとか、カボチャを盗んだとか」
 米やカボチャ、洗濯物を盗み、家に来た者から酒代を取る……友一に関しては良くない話≠オかなかった。酒代については、被害に遭えばすぐに犯人が分かる類のものなので信憑性は高い。けれども農作物や洗濯物の盗みの話は、いまとなっては本当だったか確かめようがない。同じように、本当に泥棒だったのか確信を持てないと話す村人もいたのだが、友一が盗人だといううわさ≠ヘ、話を聞いた全員が知っていた。

 田村さんは述懐する。
「保見友一は人気がなかった。自慢をしたりなんかするから、あんまり付き合いをする人がいなかった。
 今日のような暑い日に皆は田んぼや畑へ出て仕事をするが、あの人は田んぼを作らないからね。まあ左うちわっちゅうか、皆が暑い暑いと言いながら仕事しとるときに、家の中で涼しい風に当たって、夕方にちょっと出て散歩をするというぐあいに、皆と生活の態度が違ったんやな。そういうところから嫌われ始めた。わしらが汗水流して働きよるのに、働かんと、人をごまかして、生活をして、高い目線で見よるというようにな」
 金峰地区では田や畑を持っているのが一般的だ。友一は「非農家」で、田も畑も持っていなかった。ならばふたりの兄のように仕事をして金を稼ぎ、食べ物を調達しなければならない。それなのに定職についている様子はなく、農作業もやる様子はない。人から金をチョロまかして酒代を多めに取る……そのような暮らしをしていたために、村人たちから白い目で見られていた。
 また金峰地区には集落ごとに自治会があり、2年に一度、選挙で会長が決まる。役員は自治会員らで話し合いをして決めるのだが、生前、友一は役員になれなかった。それが集落の者たちの故意だったのかは定かではないが、友一はそれを気に病んでいたという。ワタルが関東から戻って来たとき、友一とその他の村人との間にはこうした空気が熟成されていた。
 都会で金を貯めて戻って来た。近代的な一軒家を建てて「村おこし」をしたいなどと言い出す。それも単なる都会上がり≠ェ都会風を吹かせているだけではない。よりによってあの盗人の家の子が、そう言うことを言っている……そんな認識が、集落の村人たちにあったのだ。快く思わなかったのは容易に想像がつく。

金峰

 金峰地区の村人たちと保見家の関係がよく分かるものが、村の中にある。保見友一の眠る墓である。
 かつて『シルバーハウスHOMI』だった保見家から県道を挟んだ向かいから伸びる、金峰神社の参道をのぼった。石段はところどころ途絶え、急勾配のけもの道になっている。左手にタオルを持って虫を払いながら、拾った長い枝を空いている右手に持ち、杖の代わりにして本殿を目指す。両脇に並ぶ高い杉の木のせいか、晴れていても山道は薄暗く、足元の土は湿っていて、何度も滑り、この杖に助けられた。
https://note.mu/tk84yuki/n/nee18a0ab0ef6


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ルポ「つけびの村」 04/06 2018/07/25
https://note.mu/tk84yuki/n/n8dbf7f16be07


2013年7月に山口県周南市で発生した山口連続殺人放火事件について、2017年に取材し、まとめたものを6回に分けて公開します。存命の関係者のお名前は全て仮名です。2017年9月7日脱稿、その後少し寝かせていました。

『コープの寄り合い』

 相変わらずほとんど人が歩いていない金峰地区で私は、村人が恐怖する金曜日朝の『コープの寄り合い』が行われていた家に住んでいた、吉本茜さん(仮名)の現在の居所を聞いてまわった。ワタルの父・友一やその兄たちの居所を訪ねた時も感じたが、この地区の人たちは、村人の転居先にも詳しい。何人かに聞くと、だいたいの場所がわかった。
 吉本さんは事件の後に集落から離れた街に引っ越し、息子たちと住んでいるという。金峰地区の村人だけでなく、少し離れた地域の村人も、吉本さんの名前、経歴や人柄を詳しく知っていた。むろん、引っ越し先の詳しい場所もである。ワタルよりも有名人だ。
 若い頃には学生運動をやっていたとも聞いた。郷集落に戻って来てからも、熱心に環境問題に取り組んでいたという。実はこの吉本さんは、ワタル逮捕後の起訴前鑑定で名前が出ていた人物だ。鑑定を担当した山口県立こころの医療センター・兼行浩史医師は、鑑定当時ワタルが被害念慮を抱いていたことに触れ、その対象を「吉本さん以外全ての人に対して持っていた」と述べていた。
 村人がおそれる危険な『コープの寄り合い』で情報を司っていた中心人物≠ナありながら、ワタルは吉本さんだけには「被害を受けている」と感じていなかったというのである。一体全体、どういう関係性を築いていたのだろうか。
https://note.mu/tk84yuki/n/n8dbf7f16be07


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ルポ「つけびの村」 05/06 2018/07/25
https://note.mu/tk84yuki/n/ne4995dd23077

2013年7月に山口県周南市で発生した山口連続殺人放火事件について、2017年に取材し、まとめたものを6回に分けて公開します。存命の関係者のお名前は全て仮名です。2017年9月7日脱稿、その後少し寝かせていました。


『金峰百年の歩み』

 ワタルは友一とその妻との間に生まれた5人きょうだいの末っ子ということはすでに1月の取材で知っていたが、まだ存命であるならば、誰か一人にでも話を聞きたい。
 また友一の兄である順一、徳市はすでに亡くなっているが、その子供達は、ワタルとは従兄弟の間柄である。子供時代に付き合いがあってもおかしくはない。
 周南市立中央図書館に用意してもらっていたのは『金峰百年の歩み』という本だ。金峰地区に近い鹿野町にある、周南市立鹿野図書館に問い合わせをした際、この本が所蔵されていることを聞き、あらかじめ中央図書館に送ってもらっていた。
 郷地区にある「金峰杣(そま)の里交流館」は公民館の役割を果たしており、事件当時、村人たちがここに避難していたことはすでに書いた通りである。ここは以前、金峰地区の子供達が通う「金峰小学校」だった。明治8年(1875年)に須万小学校分校として開校し、明治20年(1887年)には分校から独立。郷簡易小学校など名称は何度か変わったが、戦後に金峰小学校となり、昭和50年(1975年)に100周年を迎えた。これを記念し、卒業生らの手によって昭和51年(1976年)に刊行されたのが『金峰百年の歩み』だ。
 生徒数は明治後期から戦後がピークだった。明治42年(1909年)には117人、大正11年(1922年)には113人、そして昭和21年には最大の169人となる。昭和30年代には、須万小学校の一部だった奥畑分校が金峰小学校の分校となっていたが、両校とも生徒数の減少が続き、昭和48年(1973年)には生徒数2人となった奥畑分校が金峰小学校に統合された。100周年を迎えた頃は生徒数が11人となっていた。
 それでもこの年は、卒業者名簿の編纂や祈念碑の制作とその設置、本書の作成、記念式典のほか、金峰小学校の全室にカラーテレビが設置されるなど華々しい行事が続いたが、児童数の減少には歯止めがかからず、100周年からわずか3年後には鹿野小学校金峰分校へと改校される。平成4年(1992年)には生徒がひとりだけとなった。その児童が卒業した平成7年(1995年)には在籍児童数がゼロに。卒業式の半月後に休校式が行われ、平成15年(2003年)には廃校となった。
 ページをめくると最後のほうに「金峰小学校卒業生一覧表」があるのが目に留まった。明治27年度から、昭和50年度までの卒業生の名が並んでいる。眺めると今回の事件の被害者や、ワタルの名前も確認できた。
 別のページには一部の卒業生が刊行に合わせて学校の思い出話を綴った作文が掲載されている。そこにワタルの父親、保見友一のものがあった。
https://note.mu/tk84yuki/n/ne4995dd23077

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ルポ「つけびの村」 06/06 2018/07/25
https://note.mu/tk84yuki/n/ne6061a373ac6

2013年7月に山口県周南市で発生した山口連続殺人放火事件について、2017年に取材し、まとめたものを6回に分けて公開します。存命の関係者のお名前は全て仮名です。2017年9月7日脱稿、その後少し寝かせていました。


 ポパイが今も思いを寄せる飼い主のワタルに面会するため、広島拘置所へ向かった。その日の広島駅周辺は、朝から曇っていた。蒸し暑く、歩いていると髪が湿気を含む。ホテルから10分ほどしか歩いていないのに、広島拘置所に着く頃は髪が膨らんでボサボサになっていた。
 地方都市では城や城跡の近くに役所や裁判所が置かれていることが多い。ここ広島も例に漏れず、広島城のそばに裁判所があった。だが拘置所となると事情は異なり、必ずしも城の近くにあるというわけではないのだが、ここは拘置所が裁判所と同じブロックにある。拘置所敷地の外壁には、浮世絵のようなタッチの、海の上に多数の船が浮かぶ絵が描かれていた。拘置所の職員にこの絵の由来を訪ねたが「さぁ……なんでしょうね」と、何を知っているわけでもなかった。


 狭く古い待合室で、グレーの汚れた壁を見ながら待っていると、あっという間に番号が呼ばれた。スピーカーから流れて来る職員の声が大音量で割れている。キーンというハウリングの音とともに、こう聞こえてきた。

「四番面会室にお入りください!」

 面会室に入るとすぐに、ワタルが入って来た。アクリル板越しのワタルは、黒い半袖Tシャツにグレーのスウェットズボンを履いている。金峰地区の村人達はワタルを「体がでかいけぇね」と言っていたが、確かに背丈もあり、体格もがっしりとしていた。骨太な姿が、須金で会った長女の娘、ワタルの姪に似ている。ホームベース型の顔は、原始人のようにも見える。まず挨拶をして、面会に応じてくれたことに対する礼を言ったのだが、ワタルは聞いているのかいないのか「時間がないけぇね」と言いながらすぐにパイプ椅子に座った。挨拶をしないという噂は本当だ。
 ワタルは会話のキャッチボールをする気がないのか、面会時間が15分しかないために自分の思いをすべて伝えたいと焦っているのか、こちらが質問する隙を与えない。持っている資料の束をひとつずつ広げながらアクリル板に押し付けて私に見せながら、まくしたてた。
https://note.mu/tk84yuki/n/ne6061a373ac6


http://www.asyura2.com/12/lunchbreak52/msg/269.html#c5

[近代史3] 韓国輸出規制の目的 _ 韓国企業に渡してたフッ化水素(ウラン濃縮素材)の3割は北朝鮮に流れていた 中川隆
8. 中川隆[-9096] koaQ7Jey 2019年7月14日 06:32:46 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[3594]

【教えて!ワタナベさん】
韓国不正輸出「ダメ!ゼッタイ」、本当の制裁の話をしよう![桜R1-7-13] - YouTube
https://www.youtube.com/watch?v=MkMiST-XJn4


出演:渡邉哲也(経済評論家)
http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/518.html#c8

[近代史3] 韓国輸出規制の目的 _ 韓国企業に渡してたフッ化水素(ウラン濃縮素材)の3割は北朝鮮に流れていた 中川隆
9. 中川隆[-9095] koaQ7Jey 2019年7月14日 06:34:19 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[3595]

特番『韓国輸出制限問題を切る! 
文政権崖っぷち 切り札は送金停止!?』
ゲスト:経済評論家 渡邉哲也氏 - YouTube
https://www.youtube.com/watch?v=uby3XL1TTxA
http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/518.html#c9
[昼休み52] 皇族初夜の儀式 中川隆
89. 中川隆[-9094] koaQ7Jey 2019年7月14日 08:00:30 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[3596]
天皇家は推古朝以降 江戸時代までずっと仏教徒だった


廃仏毀釈について - 内田樹の研究室 2019-05-29
http://blog.tatsuru.com/2019/05/29_0925.html


 昨日の寺子屋ゼミで「廃仏毀釈」についての発表があった。いくつかコメントをしたので、備忘のためにここに書き留めておく。

 神仏分離・廃仏毀釈というのは不可解な歴史的事件である。すごく変な話なのである。歴史の教科書では「合理的な説明」がよくなされているが(水戸学が流行していた。明治政府が欧米列強に伍するためにキリスト教に対抗して国家神道を体系化するために行った。江戸時代の寺檀制度に増長した僧侶の堕落のせいで民心の仏教から離反していた・・・などなど)、どうも腑に落ちない。

 神仏習合というのはそれ以前にすでに1300年の伝統のあるほとんど土着した日本の宗教的伝統である。それを明治政府の発令した一篇の政令によって人々が軽々と捨てられたということがまず「変」である。この人たちにとって、千年を超える宗教的伝統というのはそんなに軽いものだったのか?

 神仏分離令の発令は慶應四年(1868年)である。「五畿七道諸国に布告」して、「往古ニ立帰リ」「普ク天下之諸神社、神主、禰宜、祝、神部ニ至迄、向後右神祇官附属ニ被仰渡候」という祭政一致の方針が示される。

 次に神社に対して「僧形ニテ別当或ハ社僧抔ト相唱ヘ候輩ハ復飾被仰出候」という命令が発された。社僧とは神社に勤める僧侶であり、別当は寺院と神社が一体化した神宮寺の責任者である僧のことである。この人たちに「復飾」(還俗)して、神職に奉仕するように命じたのである。

 驚くべきは、この命令に対して全国の社僧・別当たちが特段の抵抗もなく従ったということである。「長いものには巻かれろ」という処世術が宗教界に徹底していたのか、それとも「神と仏といい ただ水波の隔てにて」という血肉化した神仏習合マインドのせいで寺で読経しようと神社で祝詞を上げようと、同じことだということだったのか、私にはわからない。

 そのあと仏像をご神体としていた神社に対しては仏像仏具仏典の類を「早々ニ取除」くことを命じた神仏判別令が出された。

 それまで神宮寺の多くでは仏像をご神体に祀っていたのである。

 この「特段の抵抗もなく」というのが不思議なのである。

 ありうる説明としては、神仏分離の当初の意図が「宗教の近代化」であり、すべての制度が「近代化されねばならぬ」ということについて明治初年の民衆たちも「まあ、公方さんもいなくなっちゃったし、なんかそういう潮目みたい」というふうに感じ取っていたからだ、ということがありうるかも知れない。歴史の滔々たる流れに逆らっても仕方がないんじゃないの、と。それくらいの歴史感覚は一般民衆にもあったのかも知れない(わからないけど)。

 ターゲットになったのは寺院だけではない。最初に発令されたのは六部、虚無僧、山伏、梓巫女、憑祈祷、狐下しなどの「前近代」的な遊行の宗教者の禁止だった。加持祈祷、オカルト、ノマド的宗教者が「まず」禁止された。そういう「前近代的な宗教のかたち」の徹底排除が近代国家の心理的基礎づけに必要だったと明治政府が判断したのである。

 だから、そのあと明治40年代になると、今度は神社合祀令が出て、「前近代的な神道」が排除されることになる。これについては南方熊楠がはげしい反対運動を展開したので、記憶されている人もいると思うけれど、全国20万社のうち7万社が廃されるというすさまじい「神社整理」であった。

 神道の国家統制を実施するためには、神社を公費で運営する必要がある。しかし、神社の数が多すぎて管理コストがカバーできない。だから小さい神社は(氏子たちがどれほど信仰していようと、どのような貴重な祭祀や芸能が伝えられていようと)、コスト削減のために統廃合するという政府の態度のうちに「神道に対する敬意」を見ることはむずかしいだろう。

 だから、国家神道というのは別にある種の宗教性の価値が高騰したということではなく、端的に「宗教的なものを政治的利用価値だけをものさしにして格付けした」ということに過ぎないのだと思う。
 
 もう一つあまり指摘されないことに天皇家はもともと仏教徒だという事実がある。

 京都東山の真言宗泉涌寺は13世紀に四条天皇の葬儀が行われて以来、天皇家の菩提寺に近い機能を果たしていた。江戸時代の歴代天皇皇后は後水尾天皇から孝明天皇まで全員が泉涌寺に葬られている。当然歴代天皇の位牌もここにあり、僧たちが読経してその菩提を弔っている。明治天皇の父である孝明天皇の葬儀は仏式で行われている。今でも歴代天皇の祥月命日には、皇室を代理して宮内庁京都事務所が参拝している。

 だから、天皇制=国家神道という図式が成立するのは、慶應四年の神仏分離令からさきの敗戦までの77年に過ぎないということになる。日本の天皇制の全歴史のうちの77年だけである。それを126代の歴代天皇がすべて神道の祭主であったと信じている人あるいは信じているふりをしている人が天皇制の支持者・反対者のいずれにも多い。これは天皇制という制度の複雑さを捨象して、問題をシンプルで、ハンドルしやすいものにしようとする態度の現れだと私は思う。

 つねづね申し上げている通り、複雑なものは複雑なまま扱うのが知的に誠実な態度だと私は思っている。複雑な仕組みをわかりやすい図式に縮減して、敵味方に分かれて罵り合うのは知的には不毛なことである。それよりは、素直に「なんだか一筋縄ではゆかぬものだ」と認めて、いったん理非正邪の判定を「かっこに入れて」、ほんとうのところは歴史的事件として何が起きたのか、ほんとうのところその歴史的事件の意味は何であるのかについて冷静に問うということが必要ではないのか。

 廃仏毀釈について腑に落ちないもう一つのことは、熱狂的な廃仏運動はかなり短期間で終息し、やがて寺院が再興され、人々が寺院に参詣するようになったということである。廃仏毀釈運動は慶應四年に始まり、明治三年にピークを迎え、明治九年にはほぼ収まった。なんで、そんなにあっさり終わってしまったのか。

 1300年続いた神仏習合という宗教的伝統をほとんど一夜にして弊履の如くに捨て去った熱狂が10年も続かなかった。この非対称性がよくわからない。それほどまでに仏教の檀家制度が憎く、僧侶の腐敗が許し難いものであったら、あるいは明治政府の宗教統制が厳格なものだったら、10年で廃仏運動が「収まる」わけがない。でも、あっさり終わってしまって、誰もその話をしなくなった。

 だから、今の日本人は「神仏習合」についても「神仏分離」についても、よく知らない。

 習合という宗教現象は他の宗教でもあることだから、理解はできる。けれども、それを一度暴力的に分離してみたら、さしたる抵抗もなく実現され、にもかかわらず数年でなんとなくそれも尻すぼみになり、それから100年経ってまたじりじりと神仏習合に戻っているという現象はうまく説明ができない。

 私が毎年参拝している羽黒山はもともと神仏習合で、本尊は聖観音菩薩だったが、神仏分離で山上の仏像仏具は捨てられ、ご本尊はご神体に入れ替えられた。そのときに酒田の篤志家が棄てられたり、焼かれたりした仏像を拾い集めて、自宅の蔵に保存していた。それを最近になって「もともと羽黒山のものだから」というのでその子孫が返却を申し出てきた。羽黒山はそれを嘉納して、二年ほど前に「千仏堂」という建物を本堂の横に立てて、数百体の仏像を安置している。神社の中に寺院があるという神仏習合の「ふつうのかたち」に戻ってきたのである。

 この神仏習合の「復古」趨勢に対してはいずれファナティックな神道系の政治組織から「やめろ」という攻撃が始まる可能性があると私は予想している。そのときにわれわれは明治初年に神仏分離をドライブしたイデオロギーと心性の現代における「アヴァター」を見ることができるかも知れない。

 「廃仏毀釈」に付随したさまざまな事件のうち、記憶しておいてよいトリビアがあるので、それを最後に列挙して話を終えたいい。

(1)廃仏毀釈にもっともはげしく抵抗したのは浄土真宗であった。県内のほぼすべての寺院が廃寺となった鹿児島でも、浄土真宗だけは廃仏の運動が下火になるやたちまち全県に布教を行い、廃寺の再建に取り組んだ。江戸時代に真宗門徒が弾圧されたときに「隠れ念仏」活動をしていた「抵抗の伝統」が生き残っていたのであろう。

(2)最も苛烈な廃仏運動を指揮した一人は、松本の知藩事であった戸田光則。戸田は将軍家の血筋を引き、松平姓と葵の家紋を許された親藩だったが、戊辰戦争が始まってから、勤王か佐幕か最後まで迷った末、新政府軍が中山道を通過する時点でようやく腹をくくって新政府についた。この日和見主義に対する新政府からの不信を解消するために戸田は廃仏毀釈に異常な熱意を示したのである。彼はまず戸田家の菩提寺を破壊するところから始めたのである。

(3)もう一人は京都府知事だった槇村正直。長州藩士で木戸孝允に重用された人物である。京都の文化的伝統にまったく関心がなかった槇村はきわめて熱心に廃仏運動に取り組んだ。まず神仏習合の祇園社感神院を八坂神社に改組し、本地仏の薬師如来を撤去。北野天満宮は北野神社に改名され、境内の寺院はすべて撤去解体された。彼は五山の送り火も地蔵盆も盆踊りも禁止したのである。それがどういう経緯で、どういう言い訳で復活したのか、誰か知っていたら教えて欲しい。

(4)興福寺は廃仏運動の被害がもっとも大きかった寺である。興福寺は春日大社と一体化していたが、分離され仏像仏具教典が棄てられた。五重塔も民間に売却され、金属だけを取り出すために買い主が火をかけようとしたが、延焼をおそれた近所の住人に制止されたおかげで焼けずに残った。いまは国宝である阿修羅像も運慶作とされる無著・世親像も金堂の床にうち捨てられていた。その惨状については、前に釈先生と興福寺に聖地巡礼に参ったときに詳しく伺った。

(5)伊勢には御師(おし・おんし)と呼ばれる「宗教者兼観光案内人」のような人がいた。自分の家を宿坊として参拝者を宿泊させ、聖地を案内し、伊勢暦や神札を売り、加持祈祷も行った。御師の職業的な特徴はそれぞれが自分の「檀那」を有していたことである。江戸時代には伊勢に御師2000人がいて、宿坊600軒があった。当時の伊勢詣では年間300万人、檀那総数は400万軒。

 という話を読んで、羽黒山伏のことを思い出した。羽黒山もかつては山伏が営む宿坊が300軒あり、それぞれの宿坊には「檀那」となる人々がいた。農閑期になるとその町村の人たちが「講」をつくって、連れ立って羽黒を訪れ、山伏の先達で三山で修験場を訪れ行をおこない、遊びながら故郷に帰った。羽黒に雪が降り山に登れなくなると、山伏たちは里に下りてその「檀家」を巡歴して、加持祈祷を行い、お札を売った。伊勢御師と同じである。

 あるときは定住する信者のもとを移動する宗教者が訪れ、あるときは定住する宗教者のもとを移動する信者が(聖地巡礼と観光旅行を兼ねて)訪れる。このような宗教と観光、行と娯楽の癒合したかたちは、前近代の日本に広く見られたようで、出雲大社、富士山、熊野などにも御師がいて、各地の檀那たちと密接な「師檀関係」を結んでいた。

 慶應四年の神仏分離令では山伏と御師がまっさきに弾圧の対象となった。羽黒山伏は宿坊が10分の1になったけれど、いまも残っているが、伊勢御師は明治初年に途絶えた。いったい、神仏分離令は何を圧殺しようとしたのかがここからよく知られる。

*神仏分離についての上の記述は

『仏教抹殺 なぜ明治維新は寺院を破壊したのか』(鵜飼秀徳、文春新書)、『神々の明治維新』(安丸良夫、岩波新書)、
『廃仏毀釈百年―虐げられつづけた仏たち 廃仏毀釈百年―虐げられつづけた仏たち 』佐伯恵達、みやざき文庫)

に多くのご教示を得たものであることを謝意とともに記しておく。
http://blog.tatsuru.com/2019/05/29_0925.html

http://www.asyura2.com/12/lunchbreak52/msg/851.html#c89

[リバイバル3] 中川隆 _ 皇室関係投稿リンク 中川隆
36. 中川隆[-9093] koaQ7Jey 2019年7月14日 08:02:51 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[3597]

天皇家は推古朝以降 江戸時代までずっと仏教徒だった
http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/525.html

http://www.asyura2.com/09/revival3/msg/458.html#c36
[リバイバル3] 中川隆 _ 宗教関係投稿リンク 中川隆
47. 中川隆[-9092] koaQ7Jey 2019年7月14日 08:03:19 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[3598]
天皇家は推古朝以降 江戸時代までずっと仏教徒だった
http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/525.html

http://www.asyura2.com/09/revival3/msg/459.html#c47
[近代史3] 靖国神道は軍人を殺人の前に奮い立たせる為のものであって、信仰ですらないインチキ神道 中川隆
4. 中川隆[-9091] koaQ7Jey 2019年7月14日 08:07:37 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[3599]

日本の神道は明治天皇が滅ぼした

廃仏毀釈について - 内田樹の研究室 2019-05-29
http://blog.tatsuru.com/2019/05/29_0925.html


 昨日の寺子屋ゼミで「廃仏毀釈」についての発表があった。いくつかコメントをしたので、備忘のためにここに書き留めておく。

 神仏分離・廃仏毀釈というのは不可解な歴史的事件である。すごく変な話なのである。歴史の教科書では「合理的な説明」がよくなされているが(水戸学が流行していた。明治政府が欧米列強に伍するためにキリスト教に対抗して国家神道を体系化するために行った。江戸時代の寺檀制度に増長した僧侶の堕落のせいで民心の仏教から離反していた・・・などなど)、どうも腑に落ちない。

 神仏習合というのはそれ以前にすでに1300年の伝統のあるほとんど土着した日本の宗教的伝統である。それを明治政府の発令した一篇の政令によって人々が軽々と捨てられたということがまず「変」である。この人たちにとって、千年を超える宗教的伝統というのはそんなに軽いものだったのか?

 神仏分離令の発令は慶應四年(1868年)である。「五畿七道諸国に布告」して、「往古ニ立帰リ」「普ク天下之諸神社、神主、禰宜、祝、神部ニ至迄、向後右神祇官附属ニ被仰渡候」という祭政一致の方針が示される。

 次に神社に対して「僧形ニテ別当或ハ社僧抔ト相唱ヘ候輩ハ復飾被仰出候」という命令が発された。社僧とは神社に勤める僧侶であり、別当は寺院と神社が一体化した神宮寺の責任者である僧のことである。この人たちに「復飾」(還俗)して、神職に奉仕するように命じたのである。

 驚くべきは、この命令に対して全国の社僧・別当たちが特段の抵抗もなく従ったということである。「長いものには巻かれろ」という処世術が宗教界に徹底していたのか、それとも「神と仏といい ただ水波の隔てにて」という血肉化した神仏習合マインドのせいで寺で読経しようと神社で祝詞を上げようと、同じことだということだったのか、私にはわからない。

 そのあと仏像をご神体としていた神社に対しては仏像仏具仏典の類を「早々ニ取除」くことを命じた神仏判別令が出された。

 それまで神宮寺の多くでは仏像をご神体に祀っていたのである。

 この「特段の抵抗もなく」というのが不思議なのである。

 ありうる説明としては、神仏分離の当初の意図が「宗教の近代化」であり、すべての制度が「近代化されねばならぬ」ということについて明治初年の民衆たちも「まあ、公方さんもいなくなっちゃったし、なんかそういう潮目みたい」というふうに感じ取っていたからだ、ということがありうるかも知れない。歴史の滔々たる流れに逆らっても仕方がないんじゃないの、と。それくらいの歴史感覚は一般民衆にもあったのかも知れない(わからないけど)。

 ターゲットになったのは寺院だけではない。最初に発令されたのは六部、虚無僧、山伏、梓巫女、憑祈祷、狐下しなどの「前近代」的な遊行の宗教者の禁止だった。加持祈祷、オカルト、ノマド的宗教者が「まず」禁止された。そういう「前近代的な宗教のかたち」の徹底排除が近代国家の心理的基礎づけに必要だったと明治政府が判断したのである。

 だから、そのあと明治40年代になると、今度は神社合祀令が出て、「前近代的な神道」が排除されることになる。これについては南方熊楠がはげしい反対運動を展開したので、記憶されている人もいると思うけれど、全国20万社のうち7万社が廃されるというすさまじい「神社整理」であった。

 神道の国家統制を実施するためには、神社を公費で運営する必要がある。しかし、神社の数が多すぎて管理コストがカバーできない。だから小さい神社は(氏子たちがどれほど信仰していようと、どのような貴重な祭祀や芸能が伝えられていようと)、コスト削減のために統廃合するという政府の態度のうちに「神道に対する敬意」を見ることはむずかしいだろう。

 だから、国家神道というのは別にある種の宗教性の価値が高騰したということではなく、端的に「宗教的なものを政治的利用価値だけをものさしにして格付けした」ということに過ぎないのだと思う。
 
 もう一つあまり指摘されないことに天皇家はもともと仏教徒だという事実がある。

 京都東山の真言宗泉涌寺は13世紀に四条天皇の葬儀が行われて以来、天皇家の菩提寺に近い機能を果たしていた。江戸時代の歴代天皇皇后は後水尾天皇から孝明天皇まで全員が泉涌寺に葬られている。当然歴代天皇の位牌もここにあり、僧たちが読経してその菩提を弔っている。明治天皇の父である孝明天皇の葬儀は仏式で行われている。今でも歴代天皇の祥月命日には、皇室を代理して宮内庁京都事務所が参拝している。

 だから、天皇制=国家神道という図式が成立するのは、慶應四年の神仏分離令からさきの敗戦までの77年に過ぎないということになる。日本の天皇制の全歴史のうちの77年だけである。それを126代の歴代天皇がすべて神道の祭主であったと信じている人あるいは信じているふりをしている人が天皇制の支持者・反対者のいずれにも多い。これは天皇制という制度の複雑さを捨象して、問題をシンプルで、ハンドルしやすいものにしようとする態度の現れだと私は思う。

 つねづね申し上げている通り、複雑なものは複雑なまま扱うのが知的に誠実な態度だと私は思っている。複雑な仕組みをわかりやすい図式に縮減して、敵味方に分かれて罵り合うのは知的には不毛なことである。それよりは、素直に「なんだか一筋縄ではゆかぬものだ」と認めて、いったん理非正邪の判定を「かっこに入れて」、ほんとうのところは歴史的事件として何が起きたのか、ほんとうのところその歴史的事件の意味は何であるのかについて冷静に問うということが必要ではないのか。

 廃仏毀釈について腑に落ちないもう一つのことは、熱狂的な廃仏運動はかなり短期間で終息し、やがて寺院が再興され、人々が寺院に参詣するようになったということである。廃仏毀釈運動は慶應四年に始まり、明治三年にピークを迎え、明治九年にはほぼ収まった。なんで、そんなにあっさり終わってしまったのか。

 1300年続いた神仏習合という宗教的伝統をほとんど一夜にして弊履の如くに捨て去った熱狂が10年も続かなかった。この非対称性がよくわからない。それほどまでに仏教の檀家制度が憎く、僧侶の腐敗が許し難いものであったら、あるいは明治政府の宗教統制が厳格なものだったら、10年で廃仏運動が「収まる」わけがない。でも、あっさり終わってしまって、誰もその話をしなくなった。

 だから、今の日本人は「神仏習合」についても「神仏分離」についても、よく知らない。

 習合という宗教現象は他の宗教でもあることだから、理解はできる。けれども、それを一度暴力的に分離してみたら、さしたる抵抗もなく実現され、にもかかわらず数年でなんとなくそれも尻すぼみになり、それから100年経ってまたじりじりと神仏習合に戻っているという現象はうまく説明ができない。

 私が毎年参拝している羽黒山はもともと神仏習合で、本尊は聖観音菩薩だったが、神仏分離で山上の仏像仏具は捨てられ、ご本尊はご神体に入れ替えられた。そのときに酒田の篤志家が棄てられたり、焼かれたりした仏像を拾い集めて、自宅の蔵に保存していた。それを最近になって「もともと羽黒山のものだから」というのでその子孫が返却を申し出てきた。羽黒山はそれを嘉納して、二年ほど前に「千仏堂」という建物を本堂の横に立てて、数百体の仏像を安置している。神社の中に寺院があるという神仏習合の「ふつうのかたち」に戻ってきたのである。

 この神仏習合の「復古」趨勢に対してはいずれファナティックな神道系の政治組織から「やめろ」という攻撃が始まる可能性があると私は予想している。そのときにわれわれは明治初年に神仏分離をドライブしたイデオロギーと心性の現代における「アヴァター」を見ることができるかも知れない。

 「廃仏毀釈」に付随したさまざまな事件のうち、記憶しておいてよいトリビアがあるので、それを最後に列挙して話を終えたいい。

(1)廃仏毀釈にもっともはげしく抵抗したのは浄土真宗であった。県内のほぼすべての寺院が廃寺となった鹿児島でも、浄土真宗だけは廃仏の運動が下火になるやたちまち全県に布教を行い、廃寺の再建に取り組んだ。江戸時代に真宗門徒が弾圧されたときに「隠れ念仏」活動をしていた「抵抗の伝統」が生き残っていたのであろう。

(2)最も苛烈な廃仏運動を指揮した一人は、松本の知藩事であった戸田光則。戸田は将軍家の血筋を引き、松平姓と葵の家紋を許された親藩だったが、戊辰戦争が始まってから、勤王か佐幕か最後まで迷った末、新政府軍が中山道を通過する時点でようやく腹をくくって新政府についた。この日和見主義に対する新政府からの不信を解消するために戸田は廃仏毀釈に異常な熱意を示したのである。彼はまず戸田家の菩提寺を破壊するところから始めたのである。

(3)もう一人は京都府知事だった槇村正直。長州藩士で木戸孝允に重用された人物である。京都の文化的伝統にまったく関心がなかった槇村はきわめて熱心に廃仏運動に取り組んだ。まず神仏習合の祇園社感神院を八坂神社に改組し、本地仏の薬師如来を撤去。北野天満宮は北野神社に改名され、境内の寺院はすべて撤去解体された。彼は五山の送り火も地蔵盆も盆踊りも禁止したのである。それがどういう経緯で、どういう言い訳で復活したのか、誰か知っていたら教えて欲しい。

(4)興福寺は廃仏運動の被害がもっとも大きかった寺である。興福寺は春日大社と一体化していたが、分離され仏像仏具教典が棄てられた。五重塔も民間に売却され、金属だけを取り出すために買い主が火をかけようとしたが、延焼をおそれた近所の住人に制止されたおかげで焼けずに残った。いまは国宝である阿修羅像も運慶作とされる無著・世親像も金堂の床にうち捨てられていた。その惨状については、前に釈先生と興福寺に聖地巡礼に参ったときに詳しく伺った。

(5)伊勢には御師(おし・おんし)と呼ばれる「宗教者兼観光案内人」のような人がいた。自分の家を宿坊として参拝者を宿泊させ、聖地を案内し、伊勢暦や神札を売り、加持祈祷も行った。御師の職業的な特徴はそれぞれが自分の「檀那」を有していたことである。江戸時代には伊勢に御師2000人がいて、宿坊600軒があった。当時の伊勢詣では年間300万人、檀那総数は400万軒。

 という話を読んで、羽黒山伏のことを思い出した。羽黒山もかつては山伏が営む宿坊が300軒あり、それぞれの宿坊には「檀那」となる人々がいた。農閑期になるとその町村の人たちが「講」をつくって、連れ立って羽黒を訪れ、山伏の先達で三山で修験場を訪れ行をおこない、遊びながら故郷に帰った。羽黒に雪が降り山に登れなくなると、山伏たちは里に下りてその「檀家」を巡歴して、加持祈祷を行い、お札を売った。伊勢御師と同じである。

 あるときは定住する信者のもとを移動する宗教者が訪れ、あるときは定住する宗教者のもとを移動する信者が(聖地巡礼と観光旅行を兼ねて)訪れる。このような宗教と観光、行と娯楽の癒合したかたちは、前近代の日本に広く見られたようで、出雲大社、富士山、熊野などにも御師がいて、各地の檀那たちと密接な「師檀関係」を結んでいた。

 慶應四年の神仏分離令では山伏と御師がまっさきに弾圧の対象となった。羽黒山伏は宿坊が10分の1になったけれど、いまも残っているが、伊勢御師は明治初年に途絶えた。いったい、神仏分離令は何を圧殺しようとしたのかがここからよく知られる。

*神仏分離についての上の記述は

『仏教抹殺 なぜ明治維新は寺院を破壊したのか』(鵜飼秀徳、文春新書)、『神々の明治維新』(安丸良夫、岩波新書)、
『廃仏毀釈百年―虐げられつづけた仏たち 廃仏毀釈百年―虐げられつづけた仏たち 』佐伯恵達、みやざき文庫)

に多くのご教示を得たものであることを謝意とともに記しておく。
http://blog.tatsuru.com/2019/05/29_0925.html

http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/127.html#c4

[お知らせ・管理21] (再掲)いまだ執拗にイスラムヘイトを繰り返すナチスの信奉者 HIMAZIN
43. 中川隆[-9090] koaQ7Jey 2019年7月14日 08:18:21 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[3600]

ISバングラ指導者のモハメド・サイフラ・オザキはどうして帰化したのに二重国籍なの?剥奪したら? 2019年06月11日
https://ameblo.jp/evening--primrose/entry-12463622725.html

日本国籍を持つバングラデシュ移民が、ISの幹部としてシリアで拘束されたという報道があまり騒がれていないのはとても不思議です。

あまりにも深刻過ぎて騒げないのでしょう。


立命大元准教授を米軍が拘束 IS危険人物テロ容疑
2019.6.7(産経)

 

【写真右:立命館アジア太平洋大学HPより】

イスラム教スンニ派過激組織「イスラム国」(IS)に参加するため中東へ渡航し、2016年に日本人7人を含む20人が犠牲となったバングラデシュ首都ダッカのテロ事件にも関与したとみられる同国出身の立命館大元准教授、モハマド・サイフラ・オザキ容疑者が、イラク北部で米軍に拘束されていることが6日、分かった。複数の情報筋が明らかにした。IS戦闘員の中でも、組織中枢やテロ情報にアクセス可能だった「重要かつ危険な人物」の一人として尋問を受けている可能性がある。

 同容疑者は日本とバングラの二重国籍で、今後は、両国が身柄の送還を求めるのかや、その場合は司法での裁きが可能なのかなどが焦点となる。

 オザキ容疑者は立命館大准教授だった16年初め、日本人の妻や子供3人とともに消息を絶った。複数の国を経由して当時IS支配下にあったシリア北部に渡ったとみられる。ISではバングラ出身者らのグループを統率。南アジアにおけるテロ・ネットワークの構築で中心的な役割を果たしたとされる。

この報道だけだと深刻さがわからないかもしれませんので箇条書きにします。
•モハマド・サイフラ・オザキは、バングラデシュのヒンドゥー教の家庭に生まれ
•2002年に日本政府の奨学金で立命館アジア太平洋大学に留学
•日本でイスラム教に改宗した後
•日本人女性と結婚
•日本国籍を取得しモハメド・サイフラ・オザキを名乗るようになった
•その後オザキは立命館大学に就職
•2015年ブルガリアに出国した当時は同大学の准教授であった(大学が長期欠勤で解雇した)
•ISバングラデシュ支部指導者アブーイブラヒーム・ハニーフとはオザキのこと
•オザキのISバングラデシュ支部指導者就任に関与した一人は日本人イスラム教徒
•2015年9月にはダッカでイタリア人を殺害するという最初のテロ作戦を実行
•2016年10月にはロングプールで日本人の星邦男さんを殺害
•2016年のダッカでのテロ事件の実行組織はオザキのグループ(オザキのインタビューでは不信仰者に対する怒りと憎しみがにじみ出ており、ダッカのテロでも、イスラム教の聖典『コーラン』の第1章を暗唱できた人間は殺さずに逃がし、不信仰者だけを狙い撃ちした)


オザキは日本政府の奨学金で日本に来て、日本の大学で学び、日本でイスラム教に改宗し、日本で過激化し、日本を拠点にイスラム国へのリクルート活動を行い、日本にいるときにイスラム国バングラデシュ支部の指導者に任命され、日本で同支部のテロ実行グループを立ち上げる指示をし、日本の大学で給与として得た金などをテロの資金として提供していた。

日本人は『コーラン』に立脚したイスラム教の論理からすると、不信仰者とカテゴライズされる。日本という異国の地で、日本人に囲まれて暮らし、学び、働いたオザキは、日本の文化や価値観に同化することはなかった。それどころか彼は日本でイスラム教に改宗し、日本人を敵視する思想を強め、テロ部隊を作り上げ、彼らにバングラデシュで日本人を殺害させた。

前例のない深刻な事案と受け止めるべきであろう。

クリップ日本国籍のテロ首謀者を拘束 日本が「イスラム国」組織拡大の温床になったワケ前例のない深刻な事態と受け止めよ【執筆:イスラム思想研究者 飯山陽】

英国では、バングラデシュ系のISメンバーであるシャミマ・ベガムの英国籍を剥奪しましたが、―彼女は19歳の未成年者ですが、氏名と顔写真を公表され英国の国籍を剥奪されました―日本政府は、愚かな日本人女性が結婚したことで日本国籍を容易に取得したバングラデシュ人のIS幹部、モハメド・サイフラ・オザキ容疑者の国籍を剥奪もせず、子供3人も日本人だからと入国させたようです。

モハメド・サイフラ・オザキ容疑者はシャミア・ベガムどころではなく、2016年、イスラム教徒でない人を選別して多数の日本人を残虐に殺害したダッカ・テロの首謀者です。

日本政府もさっさと国籍を剥奪すべきだと思います。

日本が帰化する外国人に二重国籍を認めているとは知りませんでしたが、間違いだったと言って無効にしたらいいのにと思います。プンプン

それと、母親とその他2人の子供が空爆で死んだあと、誰がこのムスリム3人を日本で育てるのでしょうか?このイスラム過激派一家を日本に置くことのリスクはとても大きいと思います。

ダイヤグリーン

オザキについては5月14日付のBLiTZという記事に次のようなことが書かれていました。

イスラム国への出資者でありカリフ制推進団体 ‘Astha’ (faith)のリーダーShahid Uddin Khanとその妻や娘たちが今年1月バングラデシュ警察の急襲を受け逮捕されました。

そのShahid Uddin KhanはISの中心人物にインドとバングラデシュの8カ所でテロを行うよう要請していました。そのISの中心人物がSaifullah Ozaki 別名 Abu Muhammed al-Bengali、

あの日本国籍を持ったISテロリスト、サイフラ・オザキだったのです。

テロの標的8ヶ所は次の通りです。

(上から6つはインド国内、下2つはバングラデシュ国内です)

・コルカタにあるヒンドゥー教のジャガンナート寺院

・コルカタにあるヒンドゥー教のカリガート・カリ寺院

・コルカタにあるヒンドゥー教のビルラー寺院

・コルカタにあるヒンドゥー教のタラクナート寺院

・コルカタにあるヒンダスタン インターナショナルホテル

・コルカタにあるザ オベロイ グランドホテル

・ダッカにあるヒンドゥー教のダケーシュワリー寺院

・キショルゴンジ県ショラキア祈祷所※のイード(イスラム教徒のラマダン明け祭り)

(※ここは2016年7月7日にテロが発生しています)

イスラム国の機関誌ダービクはベンガルでイスラムの首長を宣言していますが、その人物がISのハンドルネームAbu Muhammed al-Bengali、本当の名は元立命館大学准教授で日本国籍を持つバングラデシュ人のSajit Debnath aka Muhammad Saifullah Ozakiだということです。

彼は2016年4月のダービク第14号でインタビューを受けています。

Sheikh Abu Ibrahim al-Hanifという別名も持つオザキは、インドの情報機関から上手くすり抜けていました。

上層部からの情報によると、元日本の教師だったサイフラ・オザキはインドにいるロヒンギャの若者をリクルートする中心人物でした。脆弱な立場の難民を洗脳して百戦錬磨のテロリスト要員を育成する計画を持っていました。しかし、9月のある日、重要指名手配のISメンバーがエージェントに密告されて、この数か月に及ぶロヒンギャ難民テロリスト育成プロジェクトは終わりとなりました。

ISIS同様アルカイダもインドのフランチャイズを使ってロヒンギャをリクルートしています。

インドには4万人のロヒンギャがいるとみられていて、イスラム過激派はデリー、西ベンガル、アッサム、ジャム カシミールなどで洗脳工作をしています。

〜後略

https://www.weeklyblitz.net/news/astha-isis-target-eight-places-in-india-and-bangladesh/

ダイヤグリーン

この事件を単独で見るだけではダメです。地域を不安定にしているイスラムテロと日本は無関係ではないという見方をしなければいけません。

警察を襲撃などしてミャンマーを追い出されたロヒンギャは主にバングラデシュに行きましたが、上記のようにインドにも行き、またマレーシアにも多く行っています。

どういうわけか遠く日本にもたくさんいます。ショック!

インドではロヒンギャを脅威と見ています。左下矢印

インド:ロヒンギャ排斥へ!アルカイダがインドとバングラデシュを宗教戦争の拠点にしようとしている

バングラデシュではこの有様です。左下矢印

“バングラデシュのロヒンギャ収容所は不法地帯 殺人、暴行、誘拐を行う難民内の犯罪者集団(ニューズウィーク2019/06/10)”

マレーシアはどうでしょうか?

先月マレーシア政府が、ラマダン中にテロを計画していたテロリスト4人を逮捕しました。彼らはミャンマー大使館や重要人物へのテロを企てていました。その中の2人はミャンマーから来たロヒンギャです。1人(20歳)はウェイターでテロ集団ARSAの支持者であり、UNHCRから発行された難民身分証を持っていて、もう1人(25歳)は出稼ぎ労働者でした。

日本政府が国民の声も聞かず他国の失敗例も見ず、難民の第三国定住受け入れ数を大幅に増加するということを勝手に決めましたが、この難民になる前提条件はUNHCRに難民と認めてもらうことなのです。

マレーシアで逮捕されたようなテロリストは、UNHCRが認めた難民であり、自分で調査する能力がゼロの日本はUNHCRが身分証を出せば簡単に認めてしまいそうです。

おまけに、第三国定住の難民向け出国前研修は国際移住機関(IOM)、来日後の定住支援プログラムと定住後のフォローアップは(公財)アジア福祉教育財団難民事業本部に政府が委託して実施、どちらも地球市民脳で頭がはちきれんばかりの集団です。移民がいてこそ存在意義があり、飯の種となっているわけで、移民利権集団なのです。

これまで何度も書いてきましたが・・・

イスラム過激派はイスラムコミュニティーのあるところでないと出現しません。

イスラムコミュニティーが無ければイスラム過激派は生まれないのです。

オザキは日本でイスラム教に改宗しています。そして過激化しました。

日本でこのような人間が生まれることを10年前に想像できた人はいたでしょうか?

日本はこの事件を過小評価していますが、欧州も最初は過小評価、矮小化していました。

信じたくない時、事実を指摘する人を攻撃することで安心感に浸っていたのです。

(年金だけでは2千万円足りないという事実報告を、見せるな、撤回しろと怒っているのと似てますねうーん)

最近こんな記事がありました。バングラデシュ人がついにモスクを開設したという記事です。

クリップ念願のモスク、京都・八幡に開設 ムスリム集う貴重な交流の場に印刷用画面を

寛容な宗教は非寛容な宗教に征服されます。歴史が教えてくれています。そしてイスラムは宗教にとどまらないのです。生活全般を支配します。そのような場所が日本にできてよいのでしょうか?

日本が未知の領域に放り込まれているのに、情報が制限され事実が見えず、悪い点はひた隠しにされ、気づいた時には日本を敵視する移民の排除が出来ない状態、欧州が嵌った蟻地獄に、日本は周回遅れで突き進んでいます。

異教徒を見下し時代錯誤の教義を振りかざす同化する気もない集団が、私たちを恐怖で委縮させる前に、失敗が証明された多文化共生という狂気を、日本は止めなくてはいけません。


https://ameblo.jp/evening--primrose/entry-12463622725.html
http://www.asyura2.com/13/kanri21/msg/556.html#c43

[お知らせ・管理21] (再掲)いまだ執拗にイスラムヘイトを繰り返すナチスの信奉者 HIMAZIN
44. 中川隆[-9089] koaQ7Jey 2019年7月14日 08:20:14 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[3601]

バングラデシュ:コーランを基礎とする各地のイスラム学校の校長が生徒の少女をレイプ 2019年07月13日
https://ameblo.jp/evening--primrose/entry-12491868432.html

帰化したイスラム国のテロリスト、モハマド・サイフラ・オザキはバングラデシュ人。

四日市市で豚肉給食に文句を言ってハラルフード提供をせしめた移民もバングラデシュ人。

イギリスで有名になったIS花嫁で自身もモラルポリスだった女もバングラデシュ人。

オーストラリアで滞在先の家人を殺した女もオザキ同様奨学金で留学したバングラデシュ人。

「異教徒の心を傷つけるイスラムの犠牲祭。玄関前や通りで家畜を屠殺」はバングラデシュ。

さて、そのようなバングラデシュ人が日本にどんどん根付いているようです。

最近も「念願のモスク、京都・八幡に開設 ムスリム集う貴重な交流の場に」という記事で、バングラデシュ人が八幡市に所有する土地にモスクを立てて、宗教法人化と布教を目指していることが紹介されました。

京都府八幡市の市名は、市内に鎮座する日本三大八幡宮の一社、石清水八幡宮に由来します。こういった歴史も何のその、この人は来日30年以上経ても全く日本化することなく、そういう日本の歴史的な街を塗り替えるように、イスラムを広める活動に邁進しています。

このバングラデシュ人は、日本人が大事に守ってきた日本に憧れたわけでも尊敬したわけでもなく、日本人となって受け継ぎたいわけでもなかったのです。

日本に拘る理由は、ムスリムに好き勝手させてくれて布教できる新天地であったことです。

日本人に取って代わって、日本の領土の上に自分が上書きしたいのです。

イスラムが生活全般を支配する彼らには、子供が学ぶ宗教の学校があります。

イスラム教の神学校はマドラサ(madrasa)と呼ばれます。

マドラサでは、イスラム教の聖典コーラン(Koran)に基づいた、基礎から大学院レベルまでの教育が施されているそうです。ただ、質は知りません。

パキスタンとアフガニスタンで“活躍”するイスラム原理主義者タリバン、彼らがマドラサの学生たちで構成されていることは有名です。

そのイスラム神学校(madrassa=マドラサ)で、校長による生徒の少女レイプ事件(殺人もあり)がいくつも明らかになりました。

1 教え子12人レイプした校長逮捕、無実主張「悪魔が取りついた」 バングラ

AFP/2019年7月6日


【7月6日 AFP】バングラデシュの警察当局は4日、教え子の児童・生徒ら少なくとも12人をレイプした疑いで、地元モスクのイマーム(宗教指導者)も務めるイスラム神学校の校長を逮捕した。当局が5日、明らかにした。これを受け、事件が起きた町では数百人が抗議デモを行い、校長への裁きと相応の処罰を求めた。


 逮捕されたのは、首都ダッカ郊外のファトゥッラ(Fatulla)にあるイスラム神学校「バイトゥル・フダ・カデット・マドラサ(Baitul Huda Cadet Madrassa)」の創立者で校長のアル・アミン(Al Amin)容疑者(写真右)。同容疑者は「悪魔に取りつかれた」として、無実を訴えているという。

 この事件の1週間前には、過去4年間にわたって、20人の生徒たちや一部生徒の母親たちを脅迫してレイプしていた疑いでファトゥッラ近郊の町の高校教師らが逮捕されています。

2 8歳と11歳の教え子をレイプ、イスラム神学校の校長逮捕 バングラ


AFPBB News / 2019年7月8日 23時27分
【AFP=時事】バングラデシュ警察は先週、教え子の女子児童2人をレイプし、別の少女6人に性的ないたずらをした疑いで、イスラム神学校の校長を逮捕した。当局が7日、明らかにした。

 逮捕されたのは、首都ダッカの北方約120キロに位置するケンドゥア(Kendua)にある、マドラサと呼ばれるイスラム神学校の33歳の校長Abul Khair Belaliで、近くのモスクのイマーム(宗教指導者)も務めていた。

 女子児童をレイプしたとして同国の神学校の校長が逮捕されたのは、この1週間で同容疑者が2人目。

人権団体らはイスラム教が多数派のこの国でレイプや性犯罪が急上昇しているとことを懸念していると言います。

地元の人権団体が今年4月に公表した数字では、昨年の児童レイプは433件、被害者のほとんどが7歳から12歳ということです。少年を含む児童への性虐待が上昇している背景には、これがほぼ無罪になることにも責任があると団体は指摘します。

イスラム神学校(マドラサ)は寄宿生のところが多く、貧しい子供が通っています。

右上矢印'Possessed' Bangladeshi head teacher arrested over child rapes(StraitsTimes)

3 今年4月6日には校長による性犯罪を訴えたマドラサの女学生19歳が焼き殺される事件がありましたが、これは本当にバングラデシュ社会がよくわかる事件です。

女学生が警察に訴え校長が拘留されますが、校長の釈放を求めて人々が警察署に集まります。仲間が面会に来ると校長は、女学生の一家を脅迫すること、失敗したら女学生を殺すように指示し、16人が彼女を罠にはめて焼きます。

日本語がありますので、ぜひそちらの記事をご覧ください。

セクハラ被害訴えた女子学生に火をつけ殺害、16人訴追 バングラデシュ

BBC/2019年05月30日

注意 よく考えてください。

この人たちが、日本政府の掲げる「多様性、多文化主義」を盾に、あるがままのバングラデシュ人を受けいれろと言ったら、どうしますか?

モスクを作り、マドラサを作り、そこにムスリム移民がやってきてコミュニティを作る、そこに日本人がムスリムにならなければ入り込めない社会ができていきます。

本当にこんな社会を日本に作り始めてもいいのですか?

欧州のNO GO ZONEはこういったコミュニティが成長した結果できたものなのです。

侵略者は最初は小さくて弱く見えるかもしれませんが、そこがイスラム布教の最前線、彼らの仲間は世界中にいますし私たちよりも多くて強いです。

気前の良い態度を取り続けていると、私たちは自分の文化を守るために、今までに経験したことのないほどの苦難を永遠に背負うことになるのです。

https://ameblo.jp/evening--primrose/entry-12491868432.html
http://www.asyura2.com/13/kanri21/msg/556.html#c44

[お知らせ・管理21] (再掲)いまだ執拗にイスラムヘイトを繰り返すナチスの信奉者 HIMAZIN
45. 中川隆[-9088] koaQ7Jey 2019年7月14日 08:24:04 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[3602]
セクハラ被害訴えた女子学生に火をつけ殺害、16人訴追 バングラデシュ 2019年05月30日
https://www.bbc.com/japanese/48455309


A picture of Nusrat Jahan RafiImage copyright family handout
Image caption
火をつけられて死亡したヌスラト・ジャハン・ラフィさん

バングラデシュの女子学生が校長による性的加害行為を届け出た後に、灯油をかけられ焼き殺された事件をめぐり、殺人罪で16人が訴追された。


イスラム教の学校、マドラサで勉学に励んでいたヌスラト・ジャハン・ラフィさん(19)は、校長に不適切な方法で繰り返し体を触られたとして、3月27日に警察に被害届を提出し、校長は逮捕された。性暴力があったとされる日から11日後の4月6日、期末試験を受けるために登校した際に、学校の屋上で火をつけられた。

首都ダッカの南約160キロにある小さな町フェニの警察は29日、ヌスラトさん殺害の罪で16人を訴追した。ヌスラトさんの訴えを受けて拘束されていたシラージュ・ウドゥーラ校長のほか、複数の生徒や、学校で優位な地位に就いていた与党・アワミ連盟の地方議員2人が含まれる。


警察によると、ウドゥーラ校長は拘留中、自分に対する訴えの取り下げを拒否したヌスラトさんの殺害を指示した。校長は法廷で、殺害を指示したと自白した。訴追されたうちの12人は供述書を提出済みだという。一方、地方議員2人は事件への関与を認めていない。

被告らはヌスラトさん殺害計画を、「軍事計画」のようだと言っていたという。

捜査官は被告人全員に対し、死刑判決を求めている。

ヌスラトさんが死亡して間もなく、シェイク・ハシナ首相はダッカでヌスラトさんの家族と面会し、殺害に関わった全員を裁きにかけると約束。「法的措置から逃れられる犯人はいない」と語った。

ヌスラトさんの死を受けて、バングラデシュでは大規模な抗議行動が起き、性的暴行やハラスメントの被害者が攻撃を受けやすい事実に注目が集まった。

ヌスラトさんに何があったのか

当時19歳だったヌスラトさんは3月27日に校長室に呼ばれ、校長に繰り返し不適切に体を触られた。事態がそれ以上悪化する前に、校長室から走って逃げたという。

ヌスラトさんと家族は、その日のうちに地元の警察署に届け出た。警察署では、ヌスラトさんがつらい経験を語る様子を、担当の警察官が携帯電話で動画に録画した。

動画に映っているヌスラトさんは、見るからに動揺し、両手で顔を隠そうとしていた。警察官はヌスラトさんの訴えに「大したことじゃない」と言い、両手を顔からどけるよう命じた。この動画は後日、地元メディアに流出した。この警察官は、ヌスラトさんの訴えを違法に撮影し、動画をネット上で公開した罪で訴追された。

被害届を受け、警察は校長を逮捕した。すると人々が通りに集まり、校長の釈放を求める事態に陥った。


Bangladeshi women held a protest rally of girl student Nusrat Jahan Rafi in DhakaImage copyright Getty Images
Image caption
ヌスラトさんの死をめぐる抗議行動がダッカで繰り広げられた

警察捜査局のバナジ・クマル・マジュムデル局長によると、拘留中だった校長は、面会に来た仲間に対し、訴えを取り下げるようヌスラトさん一家を脅すよう指示したという。これが失敗に終わると、校長は必要であればヌスラトさんを殺害するよう命じた。

マジュムデル局長は28日の記者会見で、灯油やブルカ、手袋を事前に購入するなど、入念な計画について明かした。殺害当日の4月6日、生徒以外が学校に入ってこないよう、校門を見張る者や、ヌスラトさんが殺害された建物の前で見張る者など、それぞれ役割分担をしていたという。

ヌスラトさんの証言によると、女子学生の1人が、友達が殴られているからとヌスラトさんを屋上に連れて行った。

屋上に着くと、ヌスラトさんは校長への訴えを取り下げるよう迫られた。拒否すると、さるぐつわをかまされ、縛られ、火をつけられたとマジュムデル局長は述べた。

救急車の中で、ヌスラトさんは自分が助からないかもしれないと思い、きようだいの携帯電話に証言を録音した。その中で、実行犯の複数の学生の身元も明かしていた。

「先生が私に触った。命が尽きるまでこの犯罪と戦う」。録音でヌスラトさんは、そう言っている。

裁判日程はまだ決まっていない。


Presentational grey line
<解説>国を震撼させた殺害事件―― ミール・サビール、BBCベンガル語(ダッカ)

多くのバングラデシュ国民は、恐ろしいヌスラト・ジャハン・ラフィさん殺害事件から、かろうじて立ち直り始めている。一連の抗議行動は収まったものの、国民はヌスラトさん殺害事件の行く末を見守っている。

この殺害は、当初考えられていたよりも、ずっと入念に計画されていたものだったことが、捜査で明らかになった。子どもたちが最も安心できるはずである学校で起きたという事実に、誰もが衝撃を受けた。宗教的な機関で起きたという事実が、人々の悲しみを増大させた。

ヌスラトさんの死は、多くの人にとって、加害者側が裁きを受けないままでいるセクシャルハラスメントやレイプ、殺人の被害者のことを呼び起こすものとなった。過去に起きた多くの事案では、人々はすぐに被害者側を非難した。それが、今回の事件の被告人が犯行から逃れられると考えた理由の1つなのかもしれない。

この事件が、バングラデシュ国内における被害者に対する考え方を変えていくのかどうかが、大いなる疑問だ。

(英語記事 Bangladesh charges 16 for burning girl alive)

https://www.bbc.com/japanese/48455309
http://www.asyura2.com/13/kanri21/msg/556.html#c45

[昼休み54] ロリコン男は何を考えているのか? _ ロリコン向けラブドールの世界 中川隆
92. 中川隆[-9087] koaQ7Jey 2019年7月14日 08:28:10 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[3603]
9歳少女まで……北朝鮮の女性数千人が中国で性奴隷に=英団体報告 2019年05月21日
https://www.bbc.com/japanese/48346071


北朝鮮女性を性奴隷とすることで、犯罪グループは年110億円を得ているという

中国で性労働者として強制的に働かされている北朝鮮の女性は数千人規模に上り、中には9歳の少女もいる――。イギリスの人権団体が20日、こうした調査報告書を公表した。


人権団体コリア・フューチャー・イニシアティヴ(本部ロンドン)が、中国で働かされた女性たちや、北朝鮮から韓国に亡命した女性たちから証言を集めた。

その結果、北朝鮮の女性たちが人身売買や誘拐によって中国に運び込まれ、売春や中国人男性との強制結婚をさせられている実態が明らかになったという。


調査した女性たちの多くは12〜29歳で、中国北東部の外国人労働者が多い地域にある売春宿で働かされていた。何回かにわたって人身売買が繰り返され、北朝鮮を出てから1年以内に数種類の性奴隷的な仕事に就かされていたとされる。

犯罪グループが大金を稼ぐ

「被害女性たちは最低30元(約480円)で売春させられ、1000元(約1万6000円)で妻として売られている。そしてセックスカム(インターネットで性行為などをリアルタイムで配信すること)の隠れ家に閉じ込められ、オンラインで世界中の観客の目にさらされている」と、報告書の筆者ユン・へスン氏は言う。

セックスカムをさせられていた女性たちの中には9歳の少女もいたという。女性たちはウェブカメラの前で性行為をしたり、性暴力を受けたりしていた。そうした動画を見ている人の多くは韓国人とみられるという。

人身売買や性搾取により、犯罪グループは年110億円ほどを得ているとされる。

中国当局に保護を求めた場合、女性たちは北朝鮮に送還される。送還後、北朝鮮では拷問を受けるとされ、そのため身動きの取れない状況に置かれている女性が多いという。


動画
https://www.bbc.com/japanese/48346071


脱北するも騙され性労働に、女性2人の逃亡劇

報告書には、北朝鮮・清津出身の女性の話として、以下の内容が記されている。

「ホテルで6人の北朝鮮人女性と一緒に(売春宿に)売られた。食べ物をあまりもらえず、ひどい扱いを受けた。8カ月後、私たちの半分が再び売られた。私はブローカーにひどいことをされた」

「(新しい売春宿に)到着した時、私の体にあざがあった。(ブローカーは)ギャングのメンバーたちに殴られ、刃物で足を刺された」

企業も利用か

別の女性の証言も出ている。

「(中国・大連には)たくさんの韓国人がいた。彼らの(ホテルの)部屋の前に行き、ドアの下に広告カードを入れた。カードは韓国語で書かれていて、私たちがどんなことをするかが書いてあった。ほとんどの場合、(売春の仲介者に)バーに連れて行かれた」

「韓国企業は社員たちのために(北朝鮮人の売春婦を)買いたいと思っている。売春をして初めて、韓国の人と会った」

(英語記事 N Korea women 'forced into China sex trade')

https://www.bbc.com/japanese/48346071
http://www.asyura2.com/17/lunchbreak54/msg/270.html#c92

[近代史3] 秋篠宮文仁  僕の父親は一体誰なんでしょう? 皆さんも一緒に探してください 中川隆
77. 中川隆[-9086] koaQ7Jey 2019年7月14日 08:48:49 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[3604]

2019.07.14
紀子さま「DVで前歯が欠ける」が話題 犯人はあの人
https://rondan.net/27697


日本の恥となった秋篠宮ご夫妻の「家具選び公務」

国内では「税金の無駄使い!!」「日本の恥!!」と徹底批判され、海外のタブロイド紙にも「33億円の新居のための家具選び公務」と嘲笑され、と散々な結果に終わった秋篠宮ご夫妻のヨーロッパ公式訪問。

実は、現在ネット上ではポーランド地元紙の掲載したある写真が話題になっているようです。

今回は、その真相を探っていきたいと思います。


関連記事
紀子さま「外交マナー違反」に宮内庁も呆れ 相手国SPに取り押さえられ“失笑”を食らう
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https://rondan.net/26607



無慈悲なポーランド地元紙の無加工写真

問題となっているのは、コチラの写真。


https://rondan.net/27697


注目して欲しいのは、紀子さまにお顔に深く刻み込まれたそのシワ……ではなく、一見して欠けているように見える歯です。


22963. 匿名 2019/07/02(火) 20:16:52

キコさん、前歯欠けてない?

ヒサくんにやられたのかな?

22997. 匿名 2019/07/02(火) 20:40:33

>>22963

キコって前歯が一本尖ってないですか?

犬歯でも無いのに

昔から?

それとも家族で殴り合って欠けた?

こんな前歯の人見た事ない

22965. 匿名 2019/07/02(火) 20:17:57

2,3年前の写真見返したけど欠けてなかったよ

おそらく最近だと思う

やっぱりヒサくんかな・・・
ガールズちゃんねる
もちろん紀子さまのご年齢を考えれば、自然と歯が劣化してくことは十分に考えられます。

よって、家庭内暴力が原因であると決めつけるのは性急であるかもしれません。

しかし、一方で、数年前には健康に生えそろっていたことも事実ですし、それほど急激に歯が欠けるというのも不自然ではあります。

また、悠仁さまに関しては分かりませんが、秋篠宮殿下に関しては、週刊誌等で佳子さまに暴力を振るっていたことが報じられDV常習犯であったことが暴露されています。

このような事実を考えれば、「DVによって、紀子さまの前歯が欠けたのではないか?」という噂が立つのは仕方のないことと言えるでしょう。


関連記事
佳子さまDVを受け続けた幼少期! 秋篠宮殿下の狂暴性に怯え“歪む”
2019年7月10日
https://rondan.net/27105



一体、紀子さまにDVを行ったのは誰なのか?

仮に紀子さまの前歯が欠けたのはDVが原因であるとしましょう。となると、一体誰が紀子さまにDVを行ったのかが問題になります。


@悠仁さま

どうやら、ネット上では「悠仁さまがDVの犯人ではないか?」という見方が強いようです。


22967. 匿名 2019/07/02(火) 20:21:09

>>22965

発達障害の子は頭で考えるよりも先に手が出ちゃうからね

衝動を抑えることが出来ないんだよ

発達障害の特徴の一つ

22969. 匿名 2019/07/02(火) 20:21:39

>>22965

キコさまってここ数年でグッと老けたよね

よっぽど悠仁くんのことで憔悴してるんだろうね

22983. 匿名 2019/07/02(火) 20:30:00

家庭内DVがあるなんて国民の前じゃ言えないよね

ましてや時期天皇候補がDVしてるなんて
同上


悠仁さまに関しては、同級生にぞんざいな言葉を吐かれたり、眞子さまをよからぬ呼び名で呼んだり、とおとなしそうな見た目とは裏腹に、その横暴な性格の一面が明らかになっています。

となると、やはりDVの犯人は悠仁さま?しかし、これだけではさすがに根拠が薄いと言わざるをえないでしょう。


A秋篠宮殿下

やはり、最も可能性が高いと思われるのは秋篠宮殿下ではないでしょうか?殿下に関しては、すでに幼少期の佳子さまに暴力を繰り返していたことが明らかになっています。


「最近でこそなくなったようですが、佳子さまが小さいころには秋篠宮さまが時に手をあげることもあった。でも悠仁さまには決して手をあげないため、佳子さまが『なぜ私ばかりが』と反抗したこともあるそうです」(皇室ジャーナリスト)
『週刊文春』(2019.4.4号)「奔放プリンセス 佳子さまの乱 全内幕」 


また、現在は佳子さまに暴力を振るうことがなくなったという事実からも、「佳子さまから別の人物にDVのターゲットが移動した」と考えることはそれほど無理のある話ではないでしょう。

現在、秋篠宮ご夫妻の夫婦仲の悪いことは、皇室関連記者など専門家の間では周知の事実です。ヨーロッパ公式訪問でも、殿下が紀子さまの腕を振り払ったり、やたらと距離を置いて歩いたり、別々の場所で公務を行ったり、とその険悪さはピークに達しています。

仮に、紀子さまに対してDVが振るわれているとするなら、その犯人は秋篠宮殿下である可能性が最も高いと筆者は予想しています。

腕を隠し、腕組を拒否する秋篠宮殿下


関連記事
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2019年7月4日
https://rondan.net/26310

B眞子さま

可能性は高くはないかもしれませんが、最後に犯人の候補として挙げておきたいのが眞子さまです。

現在、眞子さまはペルー訪問中に小室圭さんとの密会を果たしたとの噂も立っており、たとえば離れていても、そのラブラブな熱愛ぶりが冷めることはありません。

しかし、そんな眞子さまの恋路を最も熱心に妨害しているのが紀子さまであることは、週刊誌等でもしきりに話題となっています。

そんな邪魔者の紀子さまを眞子さまが疎ましく感じるのは無理のないことでしょう。また、眞子さまは過去に、同級生を後ろから蹴り倒して上から見下しケラケラ笑っていたという事実も暴露されており、これまた見た目とは裏腹に凶暴性を秘めているようです。

となると、もしかすると今回のいきさつは、結婚問題をボロカスに批判され逆上した眞子さまが紀子さまに暴力を振るった、という可能性もないとは言い切れません。

しかし内なる凶暴性は秘めているにしても、両親の「ご機嫌」をとり、“納采の儀”(婚約)を認めてもらわないことには、愛しの小室圭さんと結婚できないわけですから、安易に暴力に走ったとは考えにくいのではないでしょうか?

憔悴の眞子さま

結局、家族皆から嫌われている紀子さま

こう見ていくと、あらためて秋篠宮家の家庭崩壊ぶりが伺われます。今回、犯人候補として挙げませんでしたが、佳子さまも紀子さまと対立していることは明らかです。

そうなると、佳子さま、眞子さま、秋篠宮殿下と、ほぼ家族全員が紀子さまを嫌っていることになります。

現在、紀子さまと悠仁さまの間の常軌を逸した異常なまでの愛情関係に関しても盛んに噂されていますが、紀子さまが異常なまでに悠仁さまを溺愛する背景には、悠仁さま以外の家族との深刻な亀裂が原因としてあるのかもしれません。

まあ、なんにしても、このような異様な家庭が皇族の一員であるということが日本人にとって大変不幸な事実であることは言うまでもないでしょう。
https://rondan.net/27697
http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/109.html#c77

[近代史3] アメリカの医療費は何故常識では考えられない程高額なのか? 中川隆
2. 中川隆[-9085] koaQ7Jey 2019年7月14日 12:48:04 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[3605]

2019年07月14日
アメリカの医療ビジネス 世界に押し売りされる高額医薬品
http://www.thutmosev.com/archives/80381566.html


カナダで医薬品を買うアメリカ人、国内で買う1割で入手できる


「インスリンと家賃が同じくらい高い」アメリカから、糖尿病患者がカナダに買い出しに行ったら! | ワールド | 最新記事 | ニューズウィーク日本版 オフィシャルサイトhttps://www.newsweekjapan.jp/stories/world/2019/07/post-12512.php


オバマケアで9割の人の医療費が高くなった

アメリカは医療費の高さで知られていて、民間保険に加入していないと1日入院で平均100万円を請求されます。

救急車の多くの有料で走行1キロ当たり平均1万円、救急ヘリも同じくらいなので飛行距離100キロで100万円です

日本の有識者はアメリカの医療ドラマを見て「さすが医療先進国だ」「日本は遅れている」などと言っています。




一日入院で100万円も取れるなら進んでいて当たり前で、それが高額請求の理由作りなのです、

アメリカの医療ドラマでは患者が搬送されると大勢のスタッフで取り囲み、治療チームを結成します。

1人の人件費が一日5万円だったら10人で50万円、機材も高額で医薬品も最高のものを使うので、一日100万円になります。


例え絆創膏を貼っておけば治るとしても、資本主義の原則に基づいて、医師と病院は利益を最大化できる治療法を選択します。

病院も医師も医薬品メーカーも、利益を最大化するために行動するので、アメリカの医療費は高いのです。

医療と原理に忠実な資本主義は相いれないものだというのが分かります。


オバマ大統領はオバマケアを創設しましたが、一部の人を除いてかえって医療費を高騰させました。

オバマケアは民間保険なので条件が細かく、所得やコースによって病院が分かれています。

市内のA病院では保険が適用されるが他の病院では適用されず、かえって割高になります。

資本主義の正義

加入者に選択の自由を与えた結果、富裕層は富裕層向け病院、中間層は中間層向け病院、貧困層は貧困層向け病院に分かれました。

オバマケアは選択肢が非常に広く、保険料が高額で医療費が安いプランや、保険料が安いが医療費が高いプランなどがあります。

オバマケア実施時に病院や医薬品メーカーは一斉に値上げしたので、保険適用しても以前より高額になった人が多い。


オバマケアは1割くらいの貧困層は改善されたが、他の9割の人は「前より自己負担が増えた」のです。

国民皆保険になったのをビジネスチャンスと捉えた病院とメーカーは、ここぞとばかりに治療費を2倍に値上げしてしまいました。

資本主義なんだから価格設定は自由であり、利益を最大化するのが資本主義の正義です。


では日本の医薬品や治療費がなぜ安いかというと、国が価格統制して自由競争を禁止しているからです。

日本政府はもっと安い薬があっても他のメーカーを圧迫するので認めないし、もっと高い薬も認めません。

日本政府が認めなくても医薬品を販売できるが、高額なので誰も使用せず売れません。

アメリカの医薬品価格

アメリカで大問題になっているのが医薬品、特に糖尿病に使用するインスリンの値上げです。

日本では1回5千円から1万円ですが、ご存じのように収入によって自己負担の上限があり、無料の人も存在します。

アメリカでは1回5万円から10万円で、保険が適用されてもあまり安くなりません。


アメリカの医療保険は民間保険なので、医療費が安くても高額な保険料を支払う事になります。

日本並みの医療費に抑えるには月数十万円やもっと高額の保険に加入する必要があり、どうやっても支払い額は減らせないのです。

アメリカ以外の国で治療を受けたり買ってきた方が安いが、アメリカ国外から医薬品を持ち込むのを禁止している。


こうなっているのも資本主義に忠実だからで、医薬品メーカーは民主党と共和党に巨額献金をし、町議会レベルまでお金を配っている。

どんなに国民が不満を訴えても、当選するためには医薬品メーカーの資金が必要だから、議員は医薬品値下げに賛成しません、

アメリカはこの仕組みをアメリカ国外にも持ち込もうとし、日本にも健康保険の自由化を迫ったりしました。


数年前に子宮頸がんのワクチンが副作用を起こして問題になったが、あの薬は販売時点で効果が不明で副作用の確認もしていませんでした。

アメリカと医薬品メーカーが国連を動かして、全世界に「子宮頸がんワクチンが必要」だと言って世界中に押し売りしたものです。

こうして世界は医薬品メーカーや医療業界の「資本主義」によって高額医療費を押し付けられているのです。
http://www.thutmosev.com/archives/80381566.html
http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/254.html#c2

[管理運営10] ここの大量投稿者は左翼が多くて目立っていますね ニューフェイスα
2. 中川隆[-9084] koaQ7Jey 2019年7月14日 13:14:10 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[3606]
中川隆 _ 中国関係投稿リンク
http://www.asyura2.com/09/revival3/msg/925.html

中川隆 _ 朝鮮関係投稿リンク
http://www.asyura2.com/09/revival3/msg/973.html
http://www.asyura2.com/0601/kanri10/msg/952.html#c2

[近代史3] 天皇家は推古朝以降 江戸時代までずっと仏教徒だった 中川隆
1. 中川隆[-9083] koaQ7Jey 2019年7月14日 14:53:30 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[3607]

真言密教立川流・南北朝との関わり


北条(平)政子が心血を注いで築きあげた「鎌倉幕府執権・北条得宗家」も、体制百三十年余りを数えて独裁への反感も膨れ上がり、流石に屋台骨が揺らぎ、「時節到来」と倒幕の機運も、静かに盛り上がりつつあった。

そんな時に、皇位に目覚めた後醍醐天皇(第九十六代)が、突如現れた。 それは取りも直さず、地に潜っていた「勘解由小路党」を、そして幕府御家人衆に甘んじていた「源氏の血筋」を目覚めさせる事となった。

この後醍醐天皇(第九十六代)、まさしく密教の申し子だったのである。

京都醍醐寺は、皇統・大覚寺統(後の南朝)を護持する為の寺であり、後醍醐天皇の支えだった。その醍醐寺は、真言密教の教義を支持していた。 従って後醍醐天皇は、真言密教を信奉していたのである。


本来、男女の交合は尊い物である。男女の陰陽を現世の基本として、人々の生活の向上、平和と幸福を願う呪詛(法力)の為のエネルギーの源が、男女交合の歓喜パワーであり、密教理念としていた。 この教義を後醍醐天皇が信奉した事は、彼がしごく「人間的であった」と言う事である。

真言密教の理念は、けして浮ついた邪教ではない。 至極まじめで、日本に入って来た初期の頃の真言宗の教えの一部として、間違いなく存在した。

それはそうだろう、武器を携えて破壊と殺戮に行くよりよほど良い。 精神的な愛に於いて、性交はあってもなくても良い。そして独占欲はそれも愛情で有るが、それが愛情の全てではない。 その違いが判らないと、大人の対応は出来ない。

全てに拘束を欲する愛情もあれば、全てを赦す愛情もある。 難しい所で有るが、愛し方はそれぞれで、自分と違うからと言って、愛が無いとも言いきれない。

空海(弘法大師)が唐から伝えた経典では、何よりも性に対する位置づけが「生命力パワー」と言う前向きな思想からなっている。 真言密教でも、その「生命力パワー」は認められていた。


京都醍醐寺に文観弘真と言う僧侶がいた。彼は先人で有る仁寛僧正を信奉し、その弟子が興した見蓮の真言密教立川流を継承していた。

勿論同じ醍醐寺に、文観弘真に対立する勢力もある。後醍醐天皇(第九十六代)と文観弘真僧正が結び付けば、当然反対派もまた結び付くのが世の習いである。


話は、鎌倉時代末期の事である。

後宇多上皇(第九一代)の皇子・尊治親王(後醍醐天皇)は宋学者の玄恵や文観から宋学の講義を受け、宋学の提唱する大義名分論に心酔し、鎌倉幕府の倒幕を目指し、宋の様な専制国家の樹立を志した。

千三百十七年の文保の御和談に於いて花園天皇から譲位され践祚(せんそ)した尊治親王(後醍醐天皇)は野心満々で、平安時代の聖代(延喜帝・醍醐天皇や天暦帝・村上天皇の政治)のような復古的天皇親政を行うべく、当時の醍醐天皇(第六十代)に肖って自ら後醍醐天皇(第九十六代)と名乗り、手初めに父である後宇多上皇が行っていた院政を停止させ、天皇としての実権を確立した。


鎌倉時代末期、北条寺の僧・道順から真言密教立川流の奥義を学んだ文観は、「験力無双の仁」との評判を得ていた。 これを耳にした後醍醐天皇は彼を召し抱え、自身の護持僧とした。 文観僧正は、後醍醐天皇に真言密教立川流を直伝する。

茶吉尼天のイメージが演出され、衣服の透ける様な美女姿を宮中に現し、天皇は絶倫になる。 退屈な宮中生活にあって、これが「楽しくない」筈はない。

若き天皇は好色でこの教えを痛く気に入り、自ら実践する事で極楽浄土を体感し、教義は宮中に広がった。 後醍醐天皇の相手と成った女妾、女官も数多く、皇子・皇女と認められただけで、十六人に及ぶ親王、内親王を設けている。

つまり、「皇統を繋ぐには親王が多いに越した事は無い」と言う事態に見舞われたのだ。 「勘解由小路党の女人(白拍子)」も天皇相手に、歓喜の行で大活躍したのかも知しれないが、詳しい記述はない。 唯、夜な夜な「おごそかな歓喜儀式が、宮中で盛大に執り行われた」と、想像にするに難くない。

「臨・兵・闘・者・皆・陣・列・在・前」は、九字呪法である。 そして男女による「歓喜法」で「極楽浄土」を体現する。 その強烈なパワーを持って、四方に幸せをもたらす。

この教えに傾倒した後醍醐天皇は真言密教立川流を保護し、文観を政務の補佐役にする。 文観の権力は強くなり、一時、日本中に真言立川流は広がって行った。


この辺から、雲行きが怪しくなる。

真言立川流が、余りの隆盛を見せた事で、真言宗右派(禁欲派)が嫉妬し、文観の立川流(左派)から、宗派の最高権力を奪取すべく行動を起こす「きつかけ」と成った。 右派が、後醍醐天皇の対立相手、大覚寺(持明院統方)と組んだのである。 これは、宗教上の権力争いで、醍醐寺統(後醍醐天皇)と左派(真言立川流)連合が勝っていれば、その後の日本の宗教観は変わっていたかも知れない。 「菩薩の境地」が、精神的抵抗無く庶民のものに成っていたかも知れないのだ。

だが、醍醐党が破れ真言立川流は衰退して行った。 つまり、負けた方が「弾圧された」のである。 そこに至る経過が、南北朝並立の争いとリンクしていた。


文観は、当時としては珍しく、八十歳と言う長寿を全うしたそうである。 文観は死期を迎える僅か前まで、村娘を相手に日々のお勤めを欠かさず、真言密教立川流を守っていたのだ。

真言密教立川流(真言宗左派)は、対立する宗教勢力(真言宗右派)と結び付いた政治勢力(北朝方)が、南朝方に勝利すると、倫理観を前面に出して「淫邪教」の烙印を押されてしまった。

所が、本来の立川流の教義の形成経緯は、密教の命の持つ力(パワー)に対する純粋な信仰心と土着の呪術・占術を一体化した修験密教の教義を、誓約(うけい)の概念をも含めて理論武装し、再構築したもので、ただ単に淫蕩な目的の宗教では無いのである。

真言宗右派(反立川流禁欲派)と北朝(持明院統・光明天皇)、足利尊氏派が、真言宗左派(密教立川流・文観弘真僧正)と南朝(大覚寺統・後醍醐帝)、新田義貞・北畠顕家派に勝利し、文観僧正に拠って頂点を極めた真言密教立川流は、急速に衰えて行く。

元々、仏教と儒教は異なる宗教であるから、仏教・真言宗の開祖・弘法大師(空海)が儒教を否定した。 その開祖・弘法大師否定した儒教思想を、主流と成った真言宗右派は、チャッカリ教義に取り入れて真言密教立川流を邪教とし禁欲の教義を広めた為、安土地桃山期には立川流はほとんど無くなり、江戸初期には完全に消滅してしまった。

後醍醐天皇が吉野へ逃れ、足利氏と持明院統(北朝)が勢力を拡大すると、醍醐寺大覚寺統の「真言密教立川流」は徹底的に弾圧されて先細りと成り、やがて衰退して消滅している。

弘法大師(空海)がもたらした真言密教の、鎌倉初期に封印された教えには、性は「生きる為の活力の元」と書いてある経典も数多くあった。真言密教に大きく影響を及ぼした理趣経の経典は、その基礎に大陸での「妙見信仰」がある。

実はこの妙見信仰は弘法大師・空海が経典として持ち帰る前に、既に大陸からの移住者(渡来人)達に拠って先行して伝来し普及していた。 そして列島独自の原始宗教と習合し、陰陽修験道として集成していたのである。 そうした経緯から、弘法大師・空海の真言密教は陰陽修験道とは一体化の道を辿り、総本山金剛峰寺は修験道の修行の地と成るのである。

さて妙見信仰の伝来当初は、渡来人の多い南河内など辺りでの信仰であった様だが、次第に畿内などに広まって行った。 しかし朝廷の統制下にない信仰であった為、統治者としての統制が取れない。 神の威光で統治する朝廷にとって、庶民の間で勝手に広がった「妙見信仰」は危険な存在だった。

七百九十六年(延暦十五年・平安遷都直後)に妙見信仰最大の行事「北辰祭(妙見祭)」を禁止した。表だった理由は「風紀の乱れ」であった。

これは何を意味するのか?

庶民の間に、男女の交わりを指す隠語として「お祭りをする。」と言う用法がある。 本来、信心深いはずの庶民の間で、神の罰当たりも恐れず使われていたこの言葉の意味は、何故なのだろうか?

命を繋ぐこの行為を、「ふしだらなもの」ではなく、「神聖なもの」と捉えられていたからに他ならない。 元々「生み出す」と言う行為は神の成せる業で、それを願う行為が「お祭り(性交)」なのである。

気が付くと、神前で挙げる結婚の原点が此処に垣間見れる。 日本における所謂庶民参加の祭り行事のルーツは、北斗妙見(明星)信仰が源であり、陰陽修験の犬神信仰の影響を受けているから大抵その本質は「乱交闇祭り文化」である。

つまり、建前(本音はただの性欲のはけ口かも知れないが?)子供(命)を授かる事が豊作を祈る神事であるからだ。

例えば、京都・宇治の「暗闇祭り」、今でこそ暗闇で御輿を担ぐ程度であるが、昔は暗闇で、相手構わず男女が情を通ずる為の場だった。 京都府宇治の県神社の「くらやみ祭り」は、明治維新まで無礼講の祭りだったのである。

こうした事例は何も珍しい事ではなく、日本全国で普通に存在する事である。

◆【私の愛した日本の性文化】


当時の庶民感覚は、元々「性」に対しておおらかだった。 信仰が庶民に浸透して行くには、それなりの現世利益が必要で、「北辰祭(妙見祭)」は、当時の庶民が日頃の憂さをおおっぴらに晴らす有り難い行事として、「大いに支持された」と言う事だろう。 そこまで行かなくても、若い男女がめぐり合う数少ないチャンスが、「祭り」の闇で有った事は否定出来ない。


朝廷の「北辰祭(妙見祭)」禁止から十年、八百六年(大同元年)唐から帰国した空海(弘法大師)は高野山(和歌山県伊都郡高野町)に真言宗・総本山金剛峰寺を開山する。 空海(弘法大師)が信徒獲得の為に目を付けたのが、北辰祭(妙見祭)禁止に対する「庶民の不満」である。


空海の教えは、

身に印契を結び(両手の指を様々に組み合わせる事)、
口に真(真実の言葉)を唱え、心に本尊(大日如来)を念ずる事

により「即身成仏(煩悩にまみれた生身のままでも救われる)に成る事が出来る。」として「性」を積極的に肯定している。

この妙見信仰や、修験道と結び付いた弘法大師(空海)の真言密教は庶民にも浸透して行った。

そもそも密教には、人間は「汚れたものではない」と言う「自性清浄(本覚思想)」と言う考えがある。 真言立川流が弘法大師(空海)の「東密(真言密教)の流れを汲む」とされるのに対し、
伝教大師(最澄)の台密(天台宗の密教)でも男女の性交を以って成仏とし、摩多羅神を本尊とする「玄旨帰命壇」と言う一派があった事からも、性交を通じて即身成仏に至ろうとする解釈が密教中に存在したのは確かである。
http://jiyodan.exblog.jp/7936468/


秘密仏教(密教)の とは…

父母や先祖の髑髏に漆を塗って祭壇に祀る。

そしてへールカと呼ばれる中央の男性とダーキニーと呼ばれた女性行者が9名とその前で契りを交わし、その和合水を髑髏に塗り付ける。


髑髏の「建立」

髑髏をそのままにして、頤(おとがい)と舌をつくって髑髏にしつらえ、また歯をつけて、髑髏全体に生身の肉がついているかように見えるまで、何度も漆を念入りに塗ったあと、箱の中に納めておく。

続いて,地面に血を用いて曼荼羅を描き中心に指導者がそのパートナーと座し,その周囲に円形に8人の容姿端麗な美女を配置する. 天体の運行を模す形で周囲の女性が位置を変え、順番に中央の男性と和合を行なう。

中央の歓喜仏の姿勢で交合する男女1組に対して、円形に8名の女性が並び、曼荼羅が常時成立する様にする。 中央の男性行者はすべての女性行者と平等に和合し,それを5日間続ける.

そしてその和合水(淫水=男性の精液と女性の愛液)をこの髑髏に百二十回塗り重ねる。 それから毎夜子丑の刻(午前零時と午前二時)に反魂香を焚いて髑髏を薫染する。 反魂香を焚けば死者の姿が煙のなかに現れる。

その一方で反魂の真言を千回唱える。そうすれば死者の魂が戻る。

このような修法を行ったのち、髑髏の中に種々の相応物や秘密の符を書いて納め、頭頂に銀箔と金箔をそれぞれ三重につけ、その上に曼荼羅を書き、その上に金銀箔をおす。 さらにその上に曼荼羅を書き、銀箔と金箔をおし重ねてはりつける。


このような曼荼羅画を交えた箔おしの所作を略式では五重か六重、通式では十三重、最高では百二十重とする。曼荼羅を書く染料はすべて男女の交合の二H(和合水)を厳守する。

舌や唇には朱をさし、歯には銀箔をおし、目には絵の具で若々しく綺麗に彩色するが、義眼に用いる玉を入れてもよい。 顔にはお白いを塗り、紅をつけて、美女のように化粧する。

こうして髑髏が完成したら、それを壇上に祭り、山海の珍味を供え、反魂香を焚き、子、丑、寅の三刻に祭祀を行う。 そして卯の刻になったら、七重の錦の袋に入れる。

こうして、行者はその袋に入った髑髏本尊を、夜は行者が肌で抱いてあたため、昼は壇に据えて山海の珍味を備えて供養する。


これを7年間続けるのである。


 そして、8年目になると、髑髏本尊はその位階に応じて3種類の験力を現す。

下位ではあらゆる望みをかなえ、中位では夢でお告げを与え、上位のものでは言葉を発して三千世界の全ての真理を語る。

http://www5e.biglobe.ne.jp/~occultyo/tachikawa/dokurohonzon.htm

髑髏の「建立」。

用意した髑髏を加工して組み立てる。 これには大頭、小頭、月輪形の三種類の制作法がある。

大頭とは、髑髏をそのままにして、頤(おとがい)と舌をつくって髑髏にしつらえ、また歯をつけて、髑髏全体に生身の肉がついているかように見えるまで、何度も漆を念入りに塗ったあと、箱の中に納めておく。

つづいてすでに訳知りの容姿端麗な美女と性交し、その和合水(淫水=男性の精液と女性の愛液)をこの髑髏に百二十回塗り重ねるのである。

髑髏を守っているという七魄(人間の魂は三魂七魄からなるとされる)に和合水(三魂の象徴)を三魂七魄の本尊としての準備が整うわけである。

それから毎夜子丑の刻(午前零時と午前二時)に反魂香を焚いて髑髏を薫染する。 反魂香とは、漢の孝武帝が李夫人の死後も恋しくてならず、方士に香を造らせ、それを焚いて夫人の面影を見たという故事にちなむもので、それを焚けば死者の姿が煙のなかに現れるとされる香である。

その一方で反魂の真言を千回唱える。そうすれば死者の魂が戻るというのである。

このようなず修法を行ったのち、髑髏の中に種々の相応物や秘密の符を書いて納め、頭頂に銀箔と金箔をそれぞれ三重につけ、その上に曼荼羅を書き、その上に金銀箔をおす。さらにその上に曼荼羅を書き、銀箔と金箔をおし重ねてはりつける。
このような曼荼羅画を交えた箔おしの所作を略式では五重か六重、通式では十三重、最高では百二十重とする。


曼荼羅を書く染料はすべて男女の交合の二H(和合水)を厳守する。舌や唇には朱をさし、歯には銀箔をおし、目には絵の具で若々しく綺麗に彩色するが、義眼に用いる玉を入れてもよい。

顔にはお白いを塗り、紅をつけて、美女か、童子(美少年)のように化粧する。
その際、表情は貧相にせず、笑みをたたえ、決して怒ったような顔つきにしないことが大切である。

http://park8.wakwak.com/~kasa/Religion/shingontatekawa.html


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インドにおける密教は変容し、性欲崇拝の濃厚なものになり、やがてチベットに伝わり、ラマ教になるのだが、ラマ教は密教という点では空海が遺した真言密教との違いはないといっていいであろう。

しかしながら両者は神秘性の表現においてははなはだ異なっている。

ラマ教は、インドで衰弱段階に入った後の左道密教といわれるものに相似し、性交をもって宇宙的な原理を表現することに於いて強烈で得あるが、空海がもたらした密教はそういう思想を内蔵しつつも教義全体の論理的筋肉がまだ若々しく、活動がなお旺盛で、性欲崇拝へ傾斜するような傾向は外部からは窺いにくい。

しかし空海の没後、数百年を出ずして彼の密教も左道化した。

「真言立川流」 と呼ばれる密教解釈が、平安末期から室町期にかけて密教界に瀰漫し、とくに南北朝時代にはその宗の指導者である文観(もんかん) が後醍醐天皇の崇敬を受け、立川流が密教の正統であるかのような座を占めたことなどを見ても、空海の体系には、性欲崇拝を顕在化させる危険が十分内在したというべきであろう。

http://singetu.ddo.jp/kuukai_huukei/56.htm


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2)立川流の成り立ちと経緯


「真言立川流」を始めたのは見蓮と言う人物で、陰陽師を習得した真言宗の僧侶兼陰陽師だった。

北斗・北辰妙見信仰に始まる「交合に寄る歓喜行」は、日本の信仰史上に連綿と続いた呪詛巫女の神行であるから、真言宗の僧侶兼陰陽師だった見蓮が創始した八百万の神・陰陽修験と陀羅尼真言密教の習合教義である真言密教立川流に、その奥義が取り入れられていても「自然な流れ」と言える。

この真言立川流、今の時代ではとても理解されないが、当時、素朴な民衆を矛盾無く導く為に、性に対していたずらに禁欲をさせるより、「肯定した上で民意をリードしよう」と言う考え方があった。

真言密教立川流の始祖と言われ、立川流開祖見連に奥義を授けた仁寛僧正は、伊豆の大仁に住まいし真言宗の僧侶で、陰陽師だった見蓮に、真言密教の秘伝「歓喜法」を授けた者である。

仁寛に限らず高野山系の僧達の多くも、鎌倉時代末期近くまではこの男女交合の「秘術」を理念としていた。

仁寛は、鳥羽天皇の暗殺を謀ったとして、捕らえられて、「伊豆大仁」に流されていた。言わば、政治犯の流人である。 そこで陰陽師修行中の見蓮に出会い、醍醐三宝院流秘伝の奥義を伝授されたのだ。

現代人の宗教観とは合致しないであろうが、本来、いずれの宗教も「現世利益」が基本である。 つまり他人の事はどうでも良く、祈る者だけに「利を与える」のが元々の教義だった。 本来、信者の本音で言えば「現世利益」が無い信仰など魅力がある訳が無い。

近・現代に於いて「教えが改善された」と言えばその通りだが、元々の信仰はそんなに立派なものではなく、自分の「利」の為に祈るもので、呪詛的には「相手を呪い殺す願い」をも受け入れる事が「信仰(宗教)の実態」と言って良かったのである。 この辺りを理解すると、個人の「現世利益」の考え方から、極楽浄土に「性的な境地」が結び付く教義「真言密教立川流」に、現実感が出て来ても不思議ではないのである。


常識的に見て密教経典の意味解釈は、解釈する側の意志で加工が可能である。弘法大師(空海)が日本にもたらせた密教は、やがて日本で加工されて行ったが、その原点に近いものがインド・ジャンム・カシミール州最大の地方「ラダック(Ladakh)」に残っている。

このラダック地方の土着宗教がタントラ教の影響を受けた密教で、いわゆるチベット仏教である。 ラダックには多数の仏教寺院、ゴンパがあり、全人口が敬けんな仏教徒である。

釈迦生誕の地に近く、「真言・天台両宗の源流」とも言える「敬けんな仏教徒の地ラダック地方」には、つい近代の英領インド時代に禁止されるまで「一妻多夫」の習慣があり、一人の妻を兄弟で共有していたが、それはチベット仏教においては「けっして教えには背いては居ない」のである。

つまり密教において、性はかなり「おおらかな扱い」であり、現在の日本人が意識する厳しい戒律は「無かった」のである。

元来性行為と言うものは、単に「男女が交われば良い」と言う即物的なものではない。 そこには精神的感情が介在する。 それも複雑で、一口に「愛」とばかりにかたずけられない。

性交の本質は、想像力をたくましくして、被虐心、加虐心、羞恥心に触覚、聴覚、視覚を駆使して、初めて上等な性感を得る。 つまり【右脳域】の本能的無意識の境地に入る為の「行」として捉えるのである。

人間の感性は複雑で、あらゆる情報を脳で処理する事で、結論を導きだす。従って、性的快感も単純ではなく、それに拠る精神的癒し効果も認められる。

つまり、性と精神はリンクしていて、人格の形成にも関与する重大事項と言えるのだが、これを「無理やり離して考えよう」と言う間違った傾向がある。 喜怒哀楽は人間の基本的な感性で、【右脳域】の思考である。 その内の「喜」を以って「楽」を為すのが、密教における性交呪詛所謂「歓喜法」に拠る「極楽浄土」の境地である。


人間は、性行為や食事、音楽や映像鑑賞の際に「ベータ・エンドロフィン」と呼ばれる快感ホルモン物質を分泌させ快感を得る。 言うなれば、宗教行為と性行為、音楽の演奏などは、ある意味同質の目的、快感ホルモン物質の分泌を促す為にある。

宗教に陶酔したり、音楽に聞き惚れたり、視覚、嗅覚、五感の刺激がこの快感ホルモン物質の分泌を促すのなら、人は神の教えで救われても不思議はない。 それを経験的に学習しているから、いかなる宗教にも音楽や雰囲気創りの演出は付き物で、そのトリップ状態は、けして否定すべき物でもない。

言うなれば、宗教行為と性行為が合体した真言密教立川流は、「究極の奥義」だったのではないだろうか?

この快感ホルモン物質がモルヒネと同じ作用を持つ「脳内麻薬」で、精神的ストレスの解消と肉体的老化防止の特効薬であり、必要なホルモン物質なので、健康な性行為の抑制は必ずしも人間の為にはならない。 当然の事ながら、気の持ち様で「自然治癒力が増す」などの奇蹟は現に症例が多いから、宗教の奇蹟も存在する。 真言密教では、この生物反応的効能を肯定して、「修験道に活用しよう」と考えた。


快感ホルモン物質が大量に分泌されると、人間はトリップ状態になる。

従ってかがり火の燃え盛る呪詛の場で、陀羅尼・呪文(オンマニ・ペドフム)が流れる荘厳な雰囲気の中、激しい性行為を繰り返す事によって、常人には無い激しい反応を見せる。 それが呪詛の効果で、真言密教で言う所の「極楽浄土」である。

その状態が「呪術の効果をもたらす為に必要だ」としていたから、立川流は成立した。 それにしても、呪詛の為に身体を提供して「歓喜法」を体現する呪詛巫女の存在は、現在の感覚では理解が難しい。

しかし、密教の教えの詰まる所は「空」である。 空に私心は無い。

有にしても無にしても、そこには私心が介在するから、空に成れば、如何なる行を求められても、それを不条理と思う事は無い。 実は、「気」も、奇跡と扱うには「ペテン染みた」物理現象である。 言わば、思い込み(既成概念)と言う物差しを外した所に奇跡とも思えるパワー現象が生じる。 しかし、そこに到達するには、「空」が要求されるのである。 その「空」に、成りおおせないのがまた、人間である。


行を施され、呪詛巫女が空に及ぶには、その行の厳しさに相応の覚悟が要る。女性の身体は不思議なもので、縛り上げて三日ほど変わる変わる攻め立てれば「脳で考える気持ち」とは別に、身体が性交の快感を覚えてしまう。

つまりそちらの感性は【右脳域】の本能的無意識が覚醒するからである。 そうなればしめたもので、女性から呪詛(性交)に応じる様になり、滞りなく行える呪詛巫女が完成する。 当初の呪詛巫女の仕込み方は大方そんな処である。

呪詛巫女の確保については多くの方法がある。 その一つが、前述した律令制における被差別階級として賤民の利用である。

奴婢として地方の豪族が所有し、基本的に家畜と同じ所有物扱いの私奴婢と呼ばれる身分の者の中から「婢」の身分の女性奴隷を選び出し、執拗に性交を施して極楽浄土を体現させ、呪詛巫女に仕立て上げた。

八百六年(大同元年)、ちょうど桓武天皇が崩御し、第一皇子が平城天皇として即位(八百六年)の準備をしていた頃、唐から帰国した空海(弘法大師)は高野山(和歌山県伊都郡高野町)に真言宗・総本山金剛峰寺を開山する。

仏教の発祥はご存知インドであるが、実を言うとインドには「密教」と呼ぶ言葉や宗派はない。 金剛乗(ヴァジュラヤーナ)、或るいは大乗(マハーヤーナ)等が相当しそうだが、厳密には意味がかなり異なっていて「伝播の途中で変化したものと」考えられる。

大陸での修行を終えた空海(弘法大師)は、持ち帰った経典に重さを付ける為に「密教呪法」の存在を強調し、その呪法効果を期待させる事に成功する。 当時の日本の指導階層は血統を重んじる氏族で、世継ぎを得る為には多くの妾を抱える社会だったから凡そ禁欲的な教えでは受け入れられない。

空海(弘法大師)の教えは、その教義の中で「人の世界の理性的な原因の世界」を肯定し、然る後に

「密教呪法」に拠り身に印契を結び(両手の指を様々に組み合わせる)、
口に真言(真実の言葉)陀羅尼を唱え、
心に本尊(大日如来)を念ずる

事により、仏の不思議な力で「煩悩にまみれた生身のまま成仏(即身成仏)出切る」としている。 その教えを秘密仏教、即ち「密教」と称し、教理と行に呪術的かつ具象的表現を伴う教義を成立させ、「潅頂」と言う入門の密教儀式をしていない者に師の許しなく真言や行の内容を軽々しく教えを説き伝える事を禁止してこれに反する行為は大罪としてその自戒を三昧耶と呼んでいる。

密教とは、「深遠な秘密の教え」の意味で日本では主として真言宗(東密)、天台宗(台密)と結び付いて発展した。 手に印を結び(手の指で種々の形をつくること)、口に真言・陀羅尼を唱え、心に本尊(大日如来)を念ずる事によって、仏の不思議な力により「煩悩にまみれた生身のまま成仏(即身成仏)できる」とされている。つまり本能(煩悩)で汚れた人々を、「真言・陀羅尼を唱える事で救う」と言う教えである。

この真言宗の教えの中の密教と日本古来の山岳信仰・神道などが結びついて、修験者が生まれている。修験者とは、修験道を修行する人で、山伏とも言い、修験道とは高山などで修行し、呪術(呪詛・まじないの力)を体得しようとする宗教である。

当然の事ながら、陰陽修験は呪詛を使う。 呪詛の目的は、それを行なう事に拠ってあらゆるものを操ろうとするものである。

修験道には、役小角を祖とし天台宗の本山派(天台山伏)、真言宗の当山派(真言山伏)などがある。 弘法大師(空海)、伝教大師(最澄)達が、我が国にもたらした密教は、強力な「現世利益の秘法」であったのだ。 本来の仏教は祈りによる現世利益で、まずは手っ取り早く長生きや裕福と言った幸せを願う物だった。

この現世利益については、現在の中国式寺院にその面影を見る。 お金に見立てた寺院発行の紙の束を、供え物として火にくべ、金持ちに成る様、先祖に祈るのだ。 そうした教えが、真言宗の密教として伝えられ、日本古来の山岳信仰・神道などが結びついて、陰陽修験の呪詛を使う真言密教・立川流が成立した。


真言密教立川流は陰陽修験の呪詛を使い、あらゆるものを操ろうとしてその呪詛の手段に性交の行を採用した。 立川流の教義は、真言宗の


「即身成仏・即事而真(そくじにしん・物そのものが真実)」、

「当相即道(とうそうそくどう)」


の意味は、「ありがたちそのままが理想」と言うであり、つまり「自然の欲望(煩悩)は自然な事である」としている。


「本有平等(ほんぬびょうどう)」の意味は

「本来もっているものが皆同じく真実を宿す」という真言を、男女二根の交会、

淫欲成就の妙境をそのまま「即身成仏の意味」

に解したもので、ごく自然な人間の命の営みを、素直に容認したものである。


この教義の根拠として「首拐厳経」、「理趣経」などが用いられて、なかでも「理趣経」の十七清浄句の、「欲望は浄らかなり〈大楽の法門〉」と言うその教えは「一切の法は清浄なり」と言う句門であった。この時点で、愛欲に対する罪悪の考え方はまったく存在しない。

「一切の法(手段)は清浄なり」を「男女の性交も清浄なり」と解すれば、良いのである。


如来は十七の清浄なる菩薩の境地を挙げて、男女交合の「妙適なる恍惚境」も、
欲望、箭の飛ぶ様に速く激しく働くのも、男女の触れ合いも異性を愛し堅くい抱き、男女相抱いて「縛(しば)ごう」と満足するも世の一切に自由である。

男女相抱いて「縛(しば)ごう」と満足するも世の一切に自由とは、解釈の仕方では現代で言うSM的な行為まで性愛の形として肯定している。 つまり、欲望に身をゆだねて「恍惚境」に入る事を、真言密教は教義として肯定しているのである。

それはそうだろう。 禁欲主義は生き物としての最も基本的な「種の保存本能」に矛盾している。


「全ての主である様な心地となる事」、
「欲心をもって異性を見る事」

も、また、

男女交合して「適悦なる快感を味わう事」、男女の愛、これらの全てを身に受けて生ずる「自慢の心」も、ものを荘厳る事、全て思うにまかせ「意滋沢ばしき事」、
満ち足りて光明に輝く事も、身体の快楽も、この世の色も、香も、ものの味もまた清浄なる菩薩の境地である。


と、立川流では、全てのものをその本質において積極的に肯定している。つまり色欲の煩悩を含めて、人間の存在が完全に清浄なもの、菩薩のものとして肯定されており、性欲肯定の句として知られている処である。

何が故に、これらの欲望の全てが「清浄なる菩薩の境地」となるのであろうか。

それは、菩薩が人々の【右脳域】に存在し、これらの欲望を始め世の一切の法は、「その本性は清浄なものだからである」と、自然に存在する性的欲望を菩薩のものとして肯定しているからである。

故にもし、真実を見る智慧の眼を開いて、これら全てを「あるがままに眺める」ならば、人は真実なる智慧の境地に到達し、全てに於いて「清浄ならざるはない境地」に至るのである。


真言宗開祖・弘法大師(空海)は、仏教とは異教である儒教を廃してその禁欲思想に攻撃こそすれ認めてはいない。 現代人の感覚では理解し難いかも知れないが、弘法大師・空海が日本に持ち帰った経典の中にインド・ヒンドゥー教の影響を受けた経典が多数含まれていた事も事実で、日本の初期密教の成立にヒンドゥー教の生命への畏怖を根源とした性的な教義が混ざっていて当たり前である。

つまり真言密教・立川流に拠ると、弘法大師・空海が持ち帰った真言密教の教義解釈は「性交に拠って穢れが浄化される」 と言う解釈なのである。


儒教の抑制的な考え方は人間の本質と矛盾する教えであるから、現実に起こり得る様々な事象を闇に葬るばかりで結果的に「在る事」を「無い」と建前で覆い隠すに過ぎず、何ら解決には至らないからである。

ところが、後世の真言宗僧侶達は時の権力におもねり、開祖・弘法大師(空海)の教えを翻して儒教の抑制的な考え方を取り入れて真言密教の王道たる立川流を「淫邪教」と廃し始め、弾圧の挙句その存在まで闇に葬った。

愛欲は生きる事の一部であり、後世に血脈を引き継ぐ原点である。

開祖・弘法大師(空海)が「あるがままに眺める」とした真言宗の抑制的改宗は、信念とは別の御都合主義の為せる業で教義を変節したのであり、人間の本質として必ず「在る事」を「無い」と建前で覆い隠して対処を放置する事こそ、現実に正面から向き合わない「邪教」ではないのか?


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3) 立川流の呪詛様式


立川流の経典は理趣経を習している。 そして呪詛を使い、あらゆるものを操ろうとしてその呪詛の手段に性交の行「歓喜行」を採用した。 邪神とされる荼枳尼天(だきにてん)を拝し、特に髑髏を本尊とする為、世間から邪教と解される原因と成っている。

確かに、髑髏の存在は「死と言う現実」を見せ付けられるものであり、並みの人間で有ればそれだけでも不快に感じるのは事実である。また、髑髏には生前のその持ち主の魂が宿っていそうで、精神的には犯すべからぬ畏怖の対象であるから、その辺りの抵抗感が存在して、違和感が生じても不思議はない。

にも関わらず、真言立川流が髑髏を本尊としたには、こうした精神的な意識に元付く既成概念そのものを、共通して一気に変革させる狙いを試みていたのではないのだろうか?

真言密教立川流の髑髏本尊は大頭、小頭、月輪行などの種類があり、この建立に使われる髑髏は、王や親などの貴人の髑髏、縫合線の全く無い髑髏、千頂と一千人の髑髏の上部を集めたもの、「法界髏(ほうかいろ)」と言う儀式を行って選ばれた髑髏を用いなければならない。

その様に選ばれた髑髏の表面に、女人の協力を得て、性交の際の和合水(精液と愛液の混ざった液)を幾千回も塗り、それを糊として金箔や銀箔を貼り、更に髑髏の内部に呪符を入れ、曼荼羅を書き、肉付けし、山海の珍味を供える。

しかもその七日七晩に及ぶ壮絶な「歓喜行」の間絶え間なく本尊の前で性交し、真言を唱えていなければならない。 こうして約七年間もの歳月を「歓喜行」に費やして作られた立川流の髑髏本尊はその位階に応じて「三種類の験力を現す」と言う。

下位ではあらゆる望みをかなえ、中位では夢でお告げを与え、上位のものでは言葉を発して「三千世界の全ての真理を語る」と言う強烈な現世利益の本尊である。


真言密教立川流の真髄は性交によって男女が真言宗の本尊、「大日如来と一体になる事」である。 立川流の金剛杵は特殊な金剛杵であり、片方が三鈷杵(さんこしょ)、もう片方が二鈷杵(にこしょ)になっている。 この金剛杵を割五鈷杵(わりごこしょ)と言う。

本堂のお勤め場所の周りに星型の結界が、蝋燭としめ縄で張られる。 しめ縄はいわば神の「結界占地」を標示するもで、神域に張られる事になっている。

蝋燭の炎は、「歓喜行」の間絶やす事は無い。

反言真言を唱え、星形の結界(五芒星)は陰陽師家、安倍晴明の判紋である。

格子状のしめ縄の結界は、九字紋と同じ形状であり、九字紋は横五本縦四本の線からなる格子形(九字護身法によってできる図形)をしている。 九字結界は、「臨・兵・闘・者・皆・陣・列・在・前」を星型に配置し、その間を結んで五芒星(晴明判紋)となす。 安倍晴明判紋は晴明桔梗とも呼ばれ、五芒星と同じ形をしている。五芒星(九字護身法に拠って出来る図形)の意味は、一筆書きで元の位置に戻る事から、「生きて帰ってくる」と言う意味でもある。


「歓喜行」はこのしめ縄の結界の中で全ての障害を排して執り行うのである。呪法に使う髑髏にも、それなりの確りした仕度がいる。

亡なって間もない人頭を、丁寧に洗い清めて、真言を唱えながら漆を塗る。朱色を出すには「辰砂(水銀)」を使う。水銀と硫黄からなる硫化水銀鉱が、「辰砂」であり、細かく砕くと水銀朱の朱が取れる。

この「辰砂(水銀)」、弘法大師(空海)が多用していた事で知られている。

真言密教立川流に取って、朱は血の色であり、活力と蘇生の呪術には欠かせない。 仕上がったら、よく乾燥させ、上等な桐箱に収めて置く。

そして七日七晩に及ぶ壮絶な「歓喜行」を行い、八日目の朝、「開眼供養を迎える」と言う荒行である。

この本格的な「歓喜行」は、真言密教立川流の僧正が呪詛を用いる為に強力な呪力を有する淫液に塗れた髑髏本尊を会得させる為の物だった。これが、「髑髏本尊・歓喜法」と言う秘術である。

立会いの僧正や男女の信者達は、願主が「歓喜行」を行うを、眼前にて見守りながら「反魂真言」を絶やさず唱える。 一度達しても、茶吉尼(だきに)天の妖力の色香は強烈で、男はすぐにまた活気を取り戻す。

願主は真言密教秘伝の強壮の秘薬と食べ物をとりながら、和合と髑髏に和合水の塗布を続けて、七日目の深夜「結願」を迎える。


いよいよ「結願」を迎えた八日目に入った深夜十二時を過ぎからは、「開眼供養」を夜明けまで行う。 和合水と反魂香にまみれた髑髏の頭部に、金箔を幾重にも重ねて張り、口に紅、歯に銀箔を施し、作り物の眼球を入れて、最後に化粧するのだ。 その後、錦の袋に入れて七年間、願主が毎夜抱いて寝る。 願主が歓喜行をする時は傍らに捧げ、仮本尊となす。

八年目に、ようやく「髑髏本尊」が完成する。 この本尊に妖力が宿り、「呪詛祈願の達成効果を保持する」としていた。 陀羅尼・呪文(オンマニ・ペドフム)や反魂真言を唱えて、性交を繰り返す「歓喜行」は多分に異様である。

しかしこの淫靡な儀式の奥には、別の真実が隠れている。

理趣経は、「本来男性と女性の真の陰陽があって初めて物事が成る」と説いている。 この儀式に七年もの歳月がかかるのは、その過程で僧侶とその伴侶の女性が「大日如来」の導きで、悟りを得る事がその目的だからであり、何の事は無い互いの情が移る年月である。 そうなれば髑髏本尊は、単なるシンボリックな物に成ってしまうのである。


何故こうした信仰が成立するのか、種明かしをして置く。

人間は「恐怖心や高揚心、羞恥心」と言った興奮を背景にすると、普段の判断とは全く違う感覚で物事を受け止める。こうした興奮の心理的な影響は極論理的なものであるが、当事者は意外と「興奮に影響されている」とは思い到らずに「自分の正常な判断」と結論着けてしまう。 その興奮に影響される判断が、興奮が覚めても「正常な判断」と確信されて残る所に所謂「洗脳状態」に陥る状態が、信仰などに利用される心理的な手段である。


真言密教立川流、その教義は、遠く印度の仏教に遡る。 印度の仏教の教えの中に、白い狐に乗り移った茶吉尼天と言う魔女が、大日如来の教えで、「仏法諸天の仲間入りをした」と言うのがある。

これが日本では、後に稲荷神社に成る。 財産や福徳をもたらすとして信仰され、老舗の商家の奥庭に、祭られたりしていた。

当時の商人の考え方は、「商は長くやるもの」であり、家業、商売を代々繁栄させるのが使命であるため、老舗跡の跡継ぎの確保は重要だった。 その為には跡継ぎに困らない様に妾を持つほどの艶福家で無ければならず、性的パワーのある稲荷の社を祭ったのである。

つまり、幸せにしてくれる神様で、その茶吉尼天が、真言立川流の御本尊である。 茶吉尼天の法力を高める秘法が、密教の儀式である。 茶吉尼天の法力を高める為には、男女和合の性エネルギーのパワーが必要で有る。

つまり初期の仏教は、信じればご利益があると言う「現世利益」の教えで有ったものが、時代とともに変遷して、道徳教育的な目的から「悪行を積むと地獄に落ちる」と言う死後の利益に変わって行った。

一方で修験道師が村々に分け入って布教し、植え付けて行った矛盾とも取れる「おおらかな性意識」は、庶民の中で生き続けていた。

真言密教立川流の本尊・荼枳尼天(だきに天)は、元々はインドのヒンドゥー教の女神で、「荼枳尼天」は梵語のダーキニー(英字:Dakini)を音訳したもので、ヒンドゥー教ではカーリー(インド神話の女神/仏教・大黒天女)の眷属とされる。

このヒンドゥー教の女神が仏教に取り入れられ、荼枳尼天は仏教の神となる。元々は農業神であったが、インドの後期密教においては、タントラやシャクティ信仰の影響で、 荼枳尼天は裸体像で髑髏などを抱えもつ女神の姿で描かれるようになって、後に性や愛欲を司る神とされ、さらには人肉、もしくは生きた人間の心臓を食らう夜叉神とされるようになった。


荼枳尼天は、自由自在の通力を有し、六ヶ月前に人の死を知り、その人の心臓をとってこれを食べると言われたが、その荼枳尼天が、大日如来が化身した大黒天によって調伏されて、仏教神となって「死者の心臓であれば食べる事を許された」とされる。

日本では鎌倉時代から南北朝時代にかけて、荼枳尼天は、性愛を司る神と解釈された為、その男女の和合で「法力を得る」とする真言密教立川流と言う密教の一派が形成され、荼枳尼天を祀り、髑髏を本尊とし性交の儀式を以って即身成仏を体現したとされる流派が興隆を極めた。


真言密教と陰陽道を究めた人物に仁海(じんかい)僧正がいる。醍醐寺隨心院は、九百九十一年(平安時代中期・正暦二年)に雨僧正と呼ばれていた仁海僧正によって建立され、千二百二十九に門跡寺院となった真言宗善通寺派の大本山である。「雨僧正」と呼ばれ、占術の祈祷で「祈雨祈願に成功した」とされる仁海僧正は和泉国の小豪族の家に生まれ、七歳で高野山に上る。 そこで、占星術を身につけ、学僧としても、知られるようになる。

仁海はしばしば五行の考えに基づく易を使う。安倍晴明より少し後の時代に活躍した仁海は、しばしば五行の考えに基づく易を使う。 このことは当時の僧侶が仏教の経典だけではなく、中国の「易経」のような中国特有の古典にも通じていたことを示している。 仁海僧正の私生活を「生臭坊主であった」とする評があるが、それは当時の僧を後世の常識感覚で評するからである。

そもそも、日本の神官や僧侶は、長い事氏族が武士や官僚と兼務していたもので、勢力争いもするし女性も抱く。 高僧と言えども例外ではないから、正妻を置いたかどうかを問わなければ、江戸期以前の僧侶は全て「生臭坊主」である。 と言うよりも、「女性との交わりを呪詛パワーの源」と言う解釈が、密教に於いては為されていたのである。


陰陽師の見蓮に、仁寛が密教の秘術を伝授して、かれこれ百年に成ろうとする頃、北条(平)政子が心血を注いで礎を作った流石の鎌倉幕府執権・北条得宗家も、代を重ねて落日を迎えようとしていた。 鎌倉幕府が弱体化していた頃、敵対していた勘解由小路(賀茂)家と土御門(安倍)家の両家は天皇の皇統護持の為に和解している。
http://jiyodan.exblog.jp/7936468/
http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/525.html#c1

[近代史3] 天皇家は推古朝以降 江戸時代までずっと仏教徒だった 中川隆
2. 中川隆[-9082] koaQ7Jey 2019年7月14日 14:58:11 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[3608]

2018年04月25日
古代日本の環境問題 遷都をくりかえした理由は環境汚染だった


コロコロと遷都を繰り返した理由は汚染による健康被害で、場所を変えれば収まるのは知られていた
引用:平城京クロニクルhttp://wedge.ismedia.jp/mwimgs/9/a/-/img_9af45cd3dbea7454727f305fad3eb535278636.jpg


古代の公害問題

奈良の平城京は710年に都となったが740年には京都の恭仁京に遷都し、745年に再び遷都し都になった。

だが745年には再び遷都し京都の長岡京に都が移った。

この間にも数年ごとに遷都を繰り返し、難波宮(744)や近江紫香楽宮(744)など1年に2度遷都したこともあった。

それ以前の藤原京や飛鳥京、難波宮も出たり入ったりしながら数年から十数年で遷都を繰り返し、恒久的な宮殿ではなかった。

天皇が恒久的に住む宮殿は平安京(794年)が初めてで、明治維新の1868年まで続いた。


平安京以前には最も長かった都ですら平城京の39年間(2度目)平城京1回目は30年間で遷都している。

数年ごとに遷都を繰り返した理由としては、環境問題が大きかったのではないかという見方がある。

それまで首都や都市を作らなかった人々が狭い範囲で生活するようになったため、深刻な環境汚染が起きたと考えられている。


多くの人々が捨てるゴミや排泄物は未処理で貯まっていき、衛生状態が悪化し伝染病なども発生したと思われる。

当時は祈祷によって病気を退治しようとしたが、不衛生な環境が影響しているという認識は持っていたのでしょう。

平城京に移転するとさらに大きな問題が持ち上がり、それは金属加工の際に出る水銀や銅や鉛で水が汚染された事でした。


数年ごとに遷都を繰り返した理由

平城京では奈良の大仏など巨大寺院や仏像が多く建設され、多くは金属が使用され表面はメッキ加工されていました。

副産物の重金属は河川や池に流されて、当時の平城京の池や川は、緑色や青色で輝いていたそうです。

当然ながら住民に健康被害が続出したため、場所を変える目的で、数年ごとに遷都を繰り返した。


遷都したなかに難波宮があり、現在の大阪城の隣りなのだが、また別の環境問題を抱えていた。

当時の大阪は現在の「大阪市」の大半が海であり、天然の良港として半島からの使者や貿易船でにぎわっていた。

だが大和川と淀川から流れ込む土砂が急速に海を埋立てていき、入り江は湾になり、湖になりやがて土に埋まった。


大阪城付近は突き出した半島のようになっていて、そこに難波宮を作ったのだが両側は海であり、不安定極まりなかった。

高波や津波のおそれがあるほか、外的から防御し難いので、わずか数ヶ月で放棄されている。

このように遷都の理由の多くが自然環境や環境汚染によるものだったと考えられている。
http://www.thutmosev.com/archives/75878379.html

http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/525.html#c2

[近代史3] 天皇家は推古朝以降 江戸時代までずっと仏教徒だった 中川隆
3. 中川隆[-9081] koaQ7Jey 2019年7月14日 15:00:52 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[3609]

残雪の出羽三山に「生まれかわりの旅」に出よう


出羽三山 - YouTube 動画
https://www.youtube.com/results?search_query=%E5%87%BA%E7%BE%BD%E4%B8%89%E5%B1%B1

羽黒山 - YouTube 動画
https://www.youtube.com/results?search_query=%E7%BE%BD%E9%BB%92%E5%B1%B1

月山 - YouTube 動画
https://www.youtube.com/results?search_query=%E6%9C%88%E5%B1%B1

湯殿山 - YouTube 動画
https://www.youtube.com/results?search_query=%E6%B9%AF%E6%AE%BF%E5%B1%B1


____


月山観光開発株式会社
http://www.gassankanko.jp/index.html

山形県西川町月山朝日観光協会公式サイト ぶらり西川ガイド
http://www.gassan-info.com/

月山情報 月山朝日観光協会
http://whatnew.sblo.jp/category/2464185-1.html

月山 Google マップ
https://www.google.com/maps/@38.523625,140.006476,12z?hl=ja-JP

自然と信仰が息づく「生まれかわりの旅」
https://nihonisan-dewasanzan.jp/reborn/

出羽三山

山形県の中央に位置する出羽三山の雄大な自然を背景に生まれた羽黒修験道では、

羽黒山は人々の現世利益を叶える現在の山、
月山はその高く秀麗な姿から祖霊が鎮まる過去の山、
湯殿山はお湯の湧き出る赤色の巨岩が新しい生命の誕生を表す未来の山

と言われます。

三山を巡ることは、江戸時代に庶民の間で「生まれかわりの旅」として広がり、地域の人々に支えられながら、日本古来の、山の自然と信仰の結び付きを今に伝えています。

旅は俗世を表す門前町から始まり、随神門は神域へと誘う境界です。

参道の石段の両側には天を覆うような杉並木が山頂まで続き、訪れる者に自然の霊気と自然への畏怖を感じさせ、心身を潤し明日への活力を与えてくれます。


「生まれかわりの旅」のはじまり

出羽三山は、山形県の中央にそびえる羽黒山(414m)・月山(1,984m)・湯殿山(1,504m)の総称であり、月山を主峰とし羽黒山と湯殿山が連なる優美な稜線を誇ります。

おおよそ1,400年前、崇峻天皇の御子の蜂子皇子が開山したと言われる羽黒山は、羽黒修験道の行場であり中枢です。

修験道とは、自然信仰に仏教や密教が混じり生まれた日本独特の山岳信仰です。

羽黒修験道の極意は、羽黒山は現世の幸せを祈る山(現在)、
月山は死後の安楽と往生を祈る山(過去)、
湯殿山は生まれかわりを祈る山(未来)

と見立てることで、生きながら新たな魂として生まれかわることができるという巡礼は江戸時代に庶民の間で、現在・過去・未来を巡る「生まれかわりの旅」(羽黒修験道では「三関三渡の行」と言う。)となって広がりました。


羽黒山の秋の峰入り〜「生まれかわりの旅」の原点〜

はるか昔から人々は、山は神そのものであり神霊の宿る聖地、新たな生命を育む霊地と考えてきました。

山伏がその霊地である山に籠こもるということは、現世の自分を一度葬り母の胎内に宿ることを意味します。

山伏たちは自らを死者とみなして白装束をまとい 「あの世」に見立てた山を駈け巡り、難行苦行をして穢を祓い、わが身に山の神霊をいわい込め新たな魂として再び「生」を得てこの世に出峰します。

山伏の目的は、即身成仏(生きたまま悟りを開く)するための修行であり、山で得た霊力を用いて生きとし生けるものを救済することです。この擬死再生の儀礼を現在に残す唯一の修行と言われているのが羽黒修験の「秋の峰入り」です。

現在は、神仏分離政策により、出羽三山神社が行う明治以降神式に改められた羽黒派古修験道の「秋の峰入り」と、羽黒山修験本宗羽黒山荒澤寺で行う神仏分離以前の法具法灯を継承し神仏習合のまま十界修行を行う古来の「秋の峰入り」の二つが毎年行われています。
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生まれ変わりのはじまり 羽黒山
https://nihonisan-dewasanzan.jp/spot/羽黒山/


聖観世音菩薩(現世利益の仏)=補陀落浄土ふだらくじょうど=現在
伊氐波神いではしん(出羽郡の産土神)・稲倉魂命うかのみたま(穀霊の神)
※浄土とは仏の世界

羽黒山は、開祖・蜂子皇子が現在の世を生きる人々を救う仏(聖観世音菩薩)を祀ったといわれ、出羽三山の中で最も村里に近い、人々の現世利益を叶える山であったことから「現在の世を表す山」といわれています。

羽黒山は、開祖・蜂子皇子が現在の世を生きる人々を救う仏(聖観世音菩薩)を祀ったといわれ、出羽三山の中で最も村里に近い、人々の現世利益を叶える山であったことから「現在の世を表す山」といわれています。
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「月」と「黄泉」の清浄なる世界 月山
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(国指定天然記念物)
阿弥陀如来(死後の救済仏)=極楽浄土=過去
月読命つくよみのみこと (夜を司る神・水を支配する神)

標高 1,984 m、高く秀麗な姿から太古の昔より信仰を集め、「祖霊が鎮まる山」 として「過去の世を表す山」と言われています。

美しい高山植物が咲く山頂 までの道のりは神秘的で、まるで極楽浄土のような光景です。
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圧倒的な神秘の実感 湯殿山
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大日如来(永遠の生命の象徴)=密厳浄土みつごんじょうど=未来

大山祇命おおやまつみのみこと(山の神)・大己貴命おおなむちのみこと(国土の神)・少彦名命すくなひこなのみこと(医薬の神)

全てのものを生み出す山の神「大山祇命」が祭神として祀られる湯殿山は、「未来の 世を表す山」といわれています。

山中で 修行を行う山伏が、生まれかわりを果たす聖地でもあります。
https://nihonisan-dewasanzan.jp/spot/湯殿山/

http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/525.html#c3

[近代史3] 天皇家は推古朝以降 江戸時代までずっと仏教徒だった 中川隆
4. 中川隆[-9080] koaQ7Jey 2019年7月14日 15:02:30 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[3610]

死と再生というテーマ
http://www.geocities.co.jp/HeartLand-Icho/4875/kangae/kangae_02.htm

ユング心理学の本を読んでいて「死と再生」というテーマにたびたび出会うことに気がつきました。

ここでいう「死」は肉体的な死を意味するのではなく、象徴的な「死」のことです。

それは、「ひとつの世界から他の世界への変容を意味し、古い世界の秩序や組織の破壊を意味」しています。

象徴の世界の「死」は肉体の死と直接結びついているものではなく、ある人が象徴的な死を繰り返し体験しても、肉体的生命は生き続けていることが多いのだそうです。

ユング心理学では、たとえば「結婚」は娘にとっては処女性が失われるという死の体験であり、両親にとっては娘が失われる死の体験という、2重の死が含まれていると考えます。


肉体的な死と象徴的な死はかならず結びつくものではないですが、微妙なかかわりを持つものでもあるといいます。

生死をさまよう体験をしたときに、それを転機としてそれ以降の人生が大きく変わるようなことがそうです。

これは特別新しい考え方ではないですよね。夏目漱石が生死をさまよう大病をわずらったあとでその後の作品が変わっていった例、また精神科医であった神谷美恵子さんが若い頃結核になったが自分が死ななかったことが心の中で大きな部分を占めていたこと、作家の辻邦生さんも生死に関わる病気をしていたことがその後の作品に影響を与えていると思います。


このような死と再生のテーマを、河合隼雄さんが自殺との関わりについて述べたものがありました。

自殺しようとする人が、象徴的な意味での死の体験を求めていることについてです。

人は深い意味での死の体験によって、次の次元に生まれ変わることができる。
このような体験を求めたが、しきれなかった(死の体験をしそこなった)ために自殺未遂を繰り返すことになるというものでした。

深い意味での死の体験には充分な自我の力が必要になるといいます。自我の力がそのときに充分強いかどうかで、ひとりでその体験を行ったり、セラピストの力が必要であったり、または今はそのときではないとして、それが肉体的な死の体験へつながってしまうことを予防するのだそうです。

死の体験はいちどすれば終わるのではなく、その体験を繰り返しながら長い成長の過程をたどっていくものでもあるそうです。

自殺が精神の再生や新生を願って行われることもあるという考え方は、自殺がすべてそのようなものと考えるのではないですし、自殺をすすめるものでもありません。ここで私が伝えたかったのは

象徴的な死の体験が、次の次元へ生まれ変わる意味をもっていること、

そう考えることで自分自身の「死」についての考えに何かが加わったように感じたことです。

死と再生についてのテーマは私にはまだよくわかっていなくて説明できない部分も多いです。また、みなさんそれぞれのとらえかたもあると思います。このテーマについてもっとよく知りたい方は、ユング心理学やその他死と再生に関する本を読んでみてください。

私が参考にした本は、少し古い本ですが、

「絵本と童話のユング心理学」(朝日カルチャーブックス)山中康裕/大阪書籍/1986年
https://www.amazon.co.jp/%E7%B5%B5%E6%9C%AC%E3%81%A8%E7%AB%A5%E8%A9%B1%E3%81%AE%E3%83%A6%E3%83%B3%E3%82%B0%E5%BF%83%E7%90%86%E5%AD%A6-%E6%9C%9D%E6%97%A5%E3%82%AB%E3%83%AB%E3%83%81%E3%83%A3%E3%83%BC%E3%83%96%E3%83%83%E3%82%AF%E3%82%B9-%E5%B1%B1%E4%B8%AD-%E5%BA%B7%E8%A3%95/dp/4754810678


「カウンセリングと人間性」河合隼雄/創元社/1975年 
https://www.amazon.co.jp/%E3%82%AB%E3%82%A6%E3%83%B3%E3%82%BB%E3%83%AA%E3%83%B3%E3%82%B0%E3%81%A8%E4%BA%BA%E9%96%93%E6%80%A7-%E6%B2%B3%E5%90%88-%E9%9A%BC%E9%9B%84/dp/4422110209


です。[10.Mar.2002]


「死と再生と、象徴と/考える人 河合隼雄さん」 2008/01/12

大晦日だったか、元旦だったか、
新聞の広告に、大きな笑顔があった。

親しんだ、名前があった。

「さようなら、こんにちは 河合隼雄さん」
(新潮社 考える人 2008年冬号)


その中で、こんな話が出てきます――


今増えてきているのは、抑鬱症(デプレッション)ですね。それはわりと説明が可能なんです、人生が長くなったこととか、社会の変動が速くなったことで。つまり自分の獲得したパターンというのが、意味を持たなくなることが多いんですね。


今まで大丈夫だったものとか、
今まで大切にしてきたものとか、

もっというと、今までそうやって生きてきたものが、<意味を持たなくなる>。

あるいは、通用しなくなる。


たとえば、私が算盤(そろばん)のすごい名人になったとします。算盤さえあれば、と思っているときにコンピューターが出てきますね。そこで自分の持っていたシステムそのものが、まさに行き詰るわけです。そうすると、これはもう抑鬱症になりますね。


自分の大切にしてきたものが、突然、価値を持たなくなる。

いい悪いではなくて、ともかく、そうなる。

それではどうしようもなくなる。

(大丈夫だと思いたい、でも、現実、大丈夫じゃない)
(一部をとったら大丈夫、でも、総体として、危うくなる)
(大丈夫だといえば大丈夫、危ういといえば危うい)

状態というか、環境というか、
取り巻く状況が変化しているのに、
自分というものが取り残されてしまう。

(もちろん、それはいい悪いの問題ではない)

それは、例えば(ヘンテコリンな例だけど)、

厚着をしているうちに、春になり、夏になったようなもので、
薄着をしているうちに、秋になり、冬になったようなもので、

冬に厚着をするのは間違ってないのだけれど、
暖かくなったのに厚着のままでいると、さすがに暑い。
真夏となると、なおさら。

夏に薄着をするのはその通りなんだけれど、
寒くなったのに薄着のままでいると、さすがにつらい。
真冬となると、なおさら。

身体も壊す。
壊す前に、つらい。


ファッションだとか、生き様だとか、
それはその通りで、ある意味、個人の聖域だけど、

だけど、実際問題、
凍えたり、汗だくになったり、
困ったことになってしまう。


気温は測定できて、温度計とか、天気予報とかで、
それを確認できるけれど、

時代の流れとか、社会の流れとか、
己を取り巻く状況とか、
そういうものは、なかなか数字として測定できません。


人生観でもそうでしょう。たとえば節約は第一なんて考えているうちに、息子は全然節約せんで無茶苦茶やっているのに、あれはいい子だ、なんて言われる。そうなると自分の人生観をいっぺんつくり変えなきゃいかんわけです。


こういうことが、14歳(思春期)とか、中年の時期に問題化するのかもしれません。

思春期には、思春期なりの、<今まで積み重ねてきたもの>があって、
でも、それが行き詰ってしまう。

中年期には、中年期なりの、<今まで積み重ねてきたもの>があって、
でも、それが行き詰ってしまう。

いいとか悪いとかじゃなくて、
ともかく行き詰ってしまう。(*1

(理由なんかない。ないことはなくても、明確ではない)
(言葉を持たないから、納得も表現も、伝えることもできない)
(つまり、なかなか意識化できない)
(そういう風になっている)

ともかく、通用しなくなってしまう。

こうなると、壊すしかなくなる。


そこをうまく突破した人はすごく伸びていく人が多いんです。突破し損なった場合は、極端な場合は、死んでしまう、自殺するわけです。もう生きていても仕方ないと。抑鬱症というのは、常に自殺の危険性があります。それがわれわれとしても非常に大変なんです。


ここが難しいところで、
根本的な崩壊を防ぎながら、いかに壊すかということが、突破するための必然になるのだと思います。

言葉をかえると、
いかにうまく壊すか、ということになる。

もっと奥に突っ込むと、
いかに生命としての死を避けながら、象徴的な死を経験するか、ということになる。


我々は破壊や死を避けるあまり、<そこを突破すること>まで拒否してしまう。

それは一方で正しく、もっともでありながら、
もう一方では、それだけでは語れない部分がある。

何を壊し、何を殺すか、
生命としては壊さず、殺さず、
(むしろ、生かし、残し)
どうやって、壊し、変革させていくか。

そのために、互いにつながった、深い部分にある、内なるものを、
どう壊し、変容させていくか。

それには、どうしても悲しみというものと付き合わなければならない。

そして、象徴ということが、非常に意味を持ってくる。

実際には壊さず、実際には死なず、殺さず、

それでいて、殆どそれに近い、
それでしか語れぬもの、
それでしか代替が利かないものを、
経験し、経ねばならない。

(ここに象徴の魔法がある)

しかし、そのものは見えず、
(また、見たくないものである場合が多いし)
実際と同じくらいの、悲しみも経験する。

(ギリギリ、皮一枚を隔てて、あちらとこちらが隣接する)

ここに、象徴の意味が出てくる。

実際にはそうでなくて、
しかし、ほぼ実際に近く、

深いところでつながっていて、

実際と同等の悲しみを経験する。

そして、最終的に、実際に変容する。


これをうまく表現するには、
もっと言葉が熟さねばならないのだろうな…。

実際にやらずに、実際にやるというのは、
たいへん意味深い。


(それは安易な代替では行えんことだ)


(*1
環境の変化や、身体の変化が、
生じやすい時期でもありますね。
https://jungknight.blog.fc2.com/blog-entry-819.html


ユングは、「死後の生」のような神秘的な考えがもつ意味について、次のようにも述べます。
彼は母親が死ぬ前日に彼女が死ぬ夢を見ます。
悪魔のようなものが彼女を死の世界へとさらっていったのです。

しかし彼女をさらった悪魔は、じつは高ドイツの祖先の神・ヴォータンでした。ヴォータンはユングの母を、彼女の祖先たちの中に加えようとしていました。

この高ドイツの神・ヴォータンはユングによれば「重要な神」「自然の霊」であり、あるいは錬金術師たちが探し求めた秘密である「マーキュリー(ローマ神話の神)の精神」として、「われわれの文明」の中に再び生を取り戻す存在でした。しかしその「マーキュリーの精神」は歴史的にキリスト教の宣教師たちにより悪魔と認定されていました。

ユングにとってこの夢は、彼の母の魂が、「キリスト教の道徳をこえたところにある自己のより偉大な領域に迎えられたこと」を、そして「葛藤や矛盾が解消された自然と精神との全体性の中に迎えられたこと」を物語っていました。

母の死の通知を受け取った日の夜、ユングは深い悲しみに沈みつつも、心の底の方では悲しむことはできなかったと言います。

なぜなら彼は、結婚式のときに聞くようなダンス音楽や笑いや陽気な話し声を聴き続けていたからです。

彼は一方では暖かさと喜びを感じ、他方では恐れと悲しみを感じていました。

ユングはこの体験から、死の持つパラドックスを洞察します。

母の死を自我の観点から見たとき、それは悲しみになり、「心全体」からみたとき、それは暖かさや喜びを感じさせるものになります。

ユングは「自我」の観点からみた死を、「邪悪で非情な力が人間の生命を終らしめるものであるようにかんじられるもの」と述べます。

「死とは実際、残忍性の恐ろしい魂である。…それは身体的に残忍なことであるのみならず、心にとってもより残忍な出来事である。一人の人間がわれわれから引き裂かれてゆき、残されたものは死の冷たい静寂である。そこには、もはや関係への何らの希望も存在しない。すべての橋は一撃のもとに砕かれてしまったのだから。長寿に価する人が壮年期に命を断たれ、穀つぶしがのうのうと長生きする。これが、われわれの避けることのできない残酷な現実なのである。われわれは、死の残忍性と気まぐれの実際的な経験にあまりにも苦しめられるので、慈悲深い神も、正義も親切も、この世にはないと結論する」(下p.158)。

しかし同時に夢は、母をヴォータンの神が死を通じて祖先たち下へつれていったと教えます。死は、母にとって、またユングにとって、喜ばしいものであると夢は教えます。

「永遠性の光のもとにおいては、死は結婚であり、結合の神秘である。魂は失われた半分を得、全体性を達成するかのように思われる」(下p.158)。
https://blog.goo.ne.jp/vergebung/e/eea5611531d7f83630a078b001261c2c





▲△▽▼

日本の伝統的な結婚式に中国人はびっくり!「まるで葬式だな」―中国ネット 2017年1月5日
http://www.recordchina.co.jp/a159976.html

4日、中国のポータルサイト・今日頭条が、日本の伝統的な結婚式について紹介する記事を掲載した。これに対し、中国のネットユーザーからさまざまなコメントが寄せられた。写真は白無垢。


2017年1月4日、中国のポータルサイト・今日頭条が、日本の伝統的な結婚式について紹介する記事を掲載した。

中国の伝統的な結婚式といえば、新郎新婦が共に赤い衣装を身にまとう。赤色はおめでたい色とされているからだ。記事は、日本の伝統的な結婚式では、花嫁が真っ白な服を着ると紹介。これは白無垢(むく)のことだが、中国では葬式の時に真っ白な服を着るため、中国人からすると非常に違和感があるようだ。

これに対し、中国のネットユーザーからさまざまなコメントが寄せられた。

「まるで葬式だな」
「これって結婚式なのか?それとも葬式?」

「結婚はおめでたいことだが、結婚式で喪服を着るのを初めて見た」
「結婚はおめでたいことで、葬式の時にのみ全身真っ白な服を着るものだろ。日本人の世界は全く理解できないな」

「日本人にとっては白黒がおめでたい色なんじゃないか?」
「だったら日本人は葬式で何を着るんだ?」

「日本人は結婚式で白を着るなら、葬式で赤を着るのか?」
「これはだめだ。やはりわれわれの赤色の方がいい」

「まるで中国人は西洋のウエディングドレスを着ないかのような言い方だな」
「でも現代の結婚式では中国人も白いウエディングドレスを着るだろ」

「中国では赤はめでたい色、白は葬式、緑は浮気された男を表すが、日本では赤は血なまぐささ、白は純潔、緑は平和を表すんだな。観念が全然違う」(翻訳・編集/山中)
http://www.recordchina.co.jp/a159976.html


「死と再生」のイニシエーション

イニシェーションは宗教用語で、入会儀礼と訳されている。

仏教の出家もフリーメーソンの入会もこのイニシェーションを通して確実なものとなる。

この儀礼の重要な要素は個人として「死と再生」を象徴的に体験することである。
キリスト教では洗礼をすることで、これまでの自分を清算し、キリスト者として再生する重要な儀礼となる。

この洗礼はもともと川に行き、頭まで水の中に沈めてしまうという力強いものであった。

スタインベックの小説『怒りの葡萄』にも川での洗礼の場面が出てくる。
この水をかける儀礼は、インドの場合には王様の即位儀礼と関係がある。
これを仏教では潅頂といい、王の資格を持つ者の頭頂に頭から水をそそぎかけた。

この水は聖なる力の象徴であり、この水をかけられた瞬間、彼は個人ではなく天国の代理人となるのである。

  残酷な風習と考えられる割礼も、イニシェーションのひとつである。

正式に割礼を受けた者は、それまで母親の所有物であった関係を断ち切り、その象徴である血を出すことで、初めて男の世界の仲間に入るという象徴行為であった。
しかしこうしたイニシェーションの伝統は、地縁、血縁の結びつきが生きている時には効果的に働いていたが、現在ではイニシェーションの伝統そのものが失われ、また維持されているところでもその効果は疑わしい。

それは時代の要請によって、新しく生まれた宗教団体の閉鎖的な空間のなかでしか力を持ちえないのかもしれない。 
http://www.s-net.ne.jp/benri/institut/dw/199606.html


部族社会では危機が訪れるとシャーマンが変成意識状態の中で啓示を受け部族を導き、部族を危機から救おうとする。

 シャーマンのイニシエーションには「シャーマンの病」と呼ばれる精神的な危機がある事が知られている。

その構造は神話の構造と共通している。


1、セパレーション(分離・旅立ち) 
地下世界 天上界 異界への長く苦しい旅立ち


2、イニシエーション (通過儀礼) 

異界で神々、悪霊、祖先霊、動物の霊と遭遇する。
精霊に出会ったシャーマンは苦痛の中で象徴的にバラバラに引き裂かれる。

死と再生のプロセスを通過して シャーマンは深い人格変容をとげる。


3、リターン(帰還)

シャーマンは宇宙の智慧と癒しの力を得て共同体の一員として再統合する。

 現代の、拝み屋、新興宗教の教祖などの霊媒体質のシャーマンに共通するのは人生の中で突然、極端な不幸、災難、困難に出会い、発狂寸前まで追い込まれることだ。

病気や苦悩の頂点でカミサマと出会うのである。
危機状態を通過したのち霊能力を活かし、相談事を請け負う拝み屋になるのである。

ただし祈祷師、拝み屋、今風にいえばスピリチュアル・カウンセラーにもピンキリがあり、無意識が浄化されていないと物質的な現世利益に走り精神を病んだり、体調を崩したりする者がいる。

シャーマンの危機は現代医学では重度の精神病と診断されている。


精神的な危機に陥った住民を経験豊富なシャーマンは歌や踊り、祈りによって適切な処置を施し共同体の中に着地させる。

精神的な危機を理解できる指導者がいない文化では精神病の患者は共同体から隔離され誰からも相手にされない。

薬づけにされ、病室に閉じ込められる。
シャーマンがいない共同体では危機状態に陥った者の精神の苦しみはより増すばかりである。


 神話に表れる英雄、シャーマン、神秘家の体験、精神分裂病患者(統合失調症)の旅には共通の構造がが見られる。

自我の境界を超えると様々な無意識のイメージやヴィジョンの洪水に襲われる。
同じ無意識の海に飛び込んでも神秘家やシャーマンは泳ぎ、精神分裂病患者は溺れてしまうのである。

 20世紀の初頭イヌイットのシャーマンはデンマークの探検家に偉大な精霊シラについて話した。

「宇宙の霊であるシラは、目には見えない。声が聞こえるだけだ。
わたしらが知っているのは、シラが女のようにやさしい声をしているということだ。

とても上品でやさしい声なので、子どもでさえこわがらない。
そしてシラはこう言う。『宇宙を恐れるな。』」 と


 シャーマニズムの研究によるとシャーマンになるには二つのパターンがある。
召命型と探求型である。

沖縄と奄美には「カンカカリャ(神懸かり)」「ムンスイ(物知り)」「カンヌプトゥ(神の人)」と地域によって呼び名がことなるユタが存在する。
ユタはほとんどが女性であるがカミグルイ、カンブレ、カミダーリィと呼ばれるイニシエーションを経験する。

ある日、結婚生活を送っていた主婦の心身に異常が起きる。
夢や日常の中に神々が表れたりして精神状態が不安定になり、様々な体の不調を訴えるのである。

そのうちに神の歌を歌い一日中踊り続けたりするようになる。
当然、「モノグルイだ」「神グルイだ。」と近所で噂になる。
シャーマニズムの伝統が生きづいている地域ではこれが「聖なる病」であることが理解され家族は精神病院ではなくユタを訪れる。

やはり、カミダーリィとわかり一人前のユタを目指す。
ただしカミダーリィが起きた人が全員ユタになる訳ではないようだ。

「精霊から何代か前の先祖の葬られた場所を探し当てて供養しなければいけない。」

といわれ何年も探し歩いて彷徨しているユタもいる。
精霊にもやり残した仕事があるのだろう。
又、精霊と交流するうちに自分は特別な存在としてエゴがますます強化することもある。

無意識の抑圧に無自覚な人が妄想の中で神社巡りをつづけることもあるのである。
無意識に抑圧や緊張がある者が霊的な能力を得るとその能力故に自滅するケースもある。

突発的に神懸かりになる召命型のユタには人生でさまざまな災難が降りかかり、病気、貧乏、友人、家族、兄弟の死、夫の浮気、離婚などの苦悩と極端な不幸な経験をつむものが多い。

絶望しても死ねないことは普通の人では耐えきれない人生である。
しかし3次元の世界では不幸だがのちに神様の世界から見れば素晴らしい経験だという事を知るのである。

そして超自然的な出来事の中で思考が落ち、神に選ばれた自分の運命を受け入れ自覚した人がユタになるのである。

生まれながらのユタとして人々は「ウマレユタ」と呼び神と直接交流出来る人として特別視する。

ユタには人々をカミンチュ(神の人)に導くことを使命と自覚している人もいる。
カミダーリィを経ないでユタのもとに通っているうちに、ユタのシステムをおぼえていつのまにかユタ稼業を始める者を「ナライユタ」と呼ぶ。
探求、修行型は東北のイタコに相当する。


カミダーリィをシャーマンの病とも呼ぶが召命型のイニシエーションは世界中の先住民の文化に共通してみられる。

変成意識状態の中でシャーマンの今までの肉体は完全に解体される。

頭は切り離され手足と骨盤、関節はバラバラに分解される。
心臓や内蔵が生きたままとりだされる。
筋肉が奇麗にそぎ落とされ目がくり抜かれたりする。
体液が抜き取られ、そして釜で煮込まれたりする。

シャーマンはその間ほとんど息をせず臥せっているのである。
最後に骨が拾い集められ、肉がかぶせられる。

解体と再生は3日から7日続きイニシエーションは終了する。
これらはLSDやメスカリン、アヤワスカなどの向精神物質の摂取でも同様な報告がある。

シャーマンの病とはまさしく跳ぶ前に屈むことなのである。
http://homepage.mac.com/iihatobu/index.html


以前このブログで、私のうつ体験について書いたとき、インディアンのシャーマニズム(呪術的民間信仰)について詳しいある人が、

「先生の体験って、シャーマンのイニシエーション(呪術師になるための通過儀礼)そのものですね」

と話してくれた。


そう言われてみれば、自分ばかりでなく、うつの人のカウンセリングをしていても、自然とシャーマニズムについて話すことが少なくない。

どうやら私の目には、うつの人々とシャーマンとが、重なって見えることが多々あるらしい。

一体なぜそうなるのか、話の流れなどを具体的に思い出し、考えてみた。


シャーマンは、世界各地、特に古くから続く文化を踏襲している地域において、より多く存在し、日本語では「呪術師」あるいは「巫師(かんなぎ)」と訳される。

多くはトランス状態に入り、神の言葉を伝えるという職能の人々のことである。

日本で代表的なものとしては、巫女があげられるが、現在なお実質的な影響力を持つ人々として知られるのは、沖縄周辺の「ユタ」や青森県の「イタコ」が有名である。

青森県の「イタコ」の場合、視力障害を持つ人などが、その職能を身につけるために厳しい修行を行い、その立場を得る。

しかし、沖縄地方の「ユタ」の場合、一部の例外を除き、それまで一般人として生活していた人が、何らかのきっかけで一種の精神病様状態「カミダーリ(神障り)」に陥り、それを克服する中で、自らの「ユタ」としての能力と天命に目覚めていくという経緯をたどる。

イニシエーションにおいてシャーマンがたどるプロセスについて、井上亮(故人)という心理学者から聞いた話がある。

井上氏は大学に助教授として在任中、海外留学先を決める際、周囲の驚愕をよそに、さっさとアフリカはカメルーンの呪術師のもとに留学することを決め、1年を経て、実際に呪術師の資格を得て帰国した人で、さほど口数は多くないが非常に魅力的な人物であった。
シャーマンになるためのプロセスの中では、いくつかの課題を克服せねばならないという。
中でも、特に私の記憶に強く残っているのは、「孤独」と「恐怖」の克服である。

氏自身も、「恐怖」の克服こそがもっとも大きな課題であるとして、通過儀礼の中心に位置づけておられたように思う。

シャーマンの通過儀礼においては、「恐怖」の対象は、単なる観念ではない。

戸のない小屋で、夜一人で睡眠をとることを命じられ、ベッドに横たわっていると、黒豹が小屋の中に入ってくるというのである。

この黒豹は、たしかに実体ではあるが、ある大きな存在の化身らしく、普通に自然の中で生活している生きた黒豹とは違うようだ。

通過儀礼を受ける者は、これから逃げてはならないし、起き上がってもならない。

氏が儀礼を受けていた際も、確かにこの黒豹が、小屋に侵入してきた気配があったということである。

これまで自分が生活していた日常の世界から、未知の異世界へと通路が開かれていくとき、夢や物語の中では、異世界を象徴する存在は、しばしば獰猛な動物的性格を帯びる。

以前、このブログで『こぶとり爺さん』の解釈を試みたことがあったが、爺さんが最初に見た異世界の姿もまた、異形の鬼(妖怪)どもの宴であった。

そして、やはりこの爺さんも、「鬼に食われてもよい、わしは踊るのだ」という形で、恐怖を克服したのである。

ごく普通の人の場合でも、外部からの圧力によって表現することを妨げられた感情は、「怒り」という様相を帯びる。

それは、檻に閉じ込められた、あるいは鎖につながれた獣が、怒りのためにより凶暴になるというイメージに似ている。

異世界も異世界への通路も、潜在的にはとっくに存在していたのだが、ただ人の側にそれを受け入れる準備ができていなかったために、意識の向こう側に閉じ込められていたに過ぎない。

かなり前の放送だが、NHKスペシャル『脳と心』の最終章「無意識と創造性」に、宮古島のユタである、根間ツル子さんという女性が出演しておられた。

先に述べたユタの例に漏れず、彼女もまた離婚という節目をきっかけに精神病様状態となり、他のユタのもとを訪れて、「この人はユタになる人だ」と見抜かれたのだという。

都会であれば、「精神病」あるいは「人格障害」で片付けられてしまう状態だ。

根間さんに初めて神がかりが起きた頃、ある一つのことが強く訴えられた。

番組では、当時の神がかり中の根間さんの肉声が放送されていたが、まさに壮絶なまでの叫びであった。

「ああ私が悪かったぁー!…………
何としてもこの井戸を、これだけは、これだけは頼みます……!」

と、すでに使われなくなり、埋もれてしまっていたある井戸を再び掘りなおすことに、強く執着したのである。

根間さんは実際にこれを実現し、そしてユタとなった。

万物の根底にある地下水脈、地下世界という異界と、この世とをつなぐ通路。

根間さんの魂、あるいは宮古島の人々や自然の魂にとっては、それがその井戸だったと言えるだろう。

この場合、「井戸は、単に象徴に過ぎない」と言うことはできない。

心理的に大きな何かを乗り越えるというのは、単に「心の持ちようを変える」というのとは、まったく次元を異にする。

うつという病を乗り越えるにも、まず例外なく、ある現実との実際の闘いなくして、遂げられることはない。

だから根間さんも、実際に井戸を開通させねばならなかったのだ。

万物の根底にある地下世界のイメージによって表現される領域を、ユング心理学では「普遍的無意識」と呼ぶが、ユング自身もまた、当時ヨーロッパを席巻していたフロイト心理学と袂を分かった後、精神病様状態をともなう極度のうつを経験している。

そののち、ユングはこの考えを体系化するに至るのだが、彼もまた、フロイトとの決別という苦難に満ちた過程を経ることで、普遍的無意識に達する井戸を開通させたのだと言える。


うつの人々の特徴は、一言でいうならば、ものごとの本質・本筋・矛盾を見抜く目に、曇りがないことである。

だから、まわりの雰囲気や、慣習や、馴れ合いに流されず、いつも本当のことが見えてしまう。

要するに、非常にシャーマン的なのだ。

こういった人々の割合は、どれほど多く見積もっても1パーセントくらいではないかと、私は考えている。

はっきり言って、特殊と言わざるを得ない。

そして、そこにこそうつの人々の苦悩と劣等感がある。

一般の人々は、自力では大きな存在とは繋がれない。
それを導き、繋げてやるのがシャーマンである。

本来の姿のままに自然と人間とが有機的に絡み合い、人間性が生き生きとした文化の中であるならば、シャーマンのような立場となるべき人が、うつになるタイプの人々の中には少なくないのではないかと思うのである。

本来ならば、常に真実を見、正しい言葉を語り、尊敬を集めてこそしかるべき人々が、踏みつけにされ、もがき苦しまねばならない社会。

一体われわれは(というよりも私は)、これをどうすればいいのだろうか。
http://kohocounsel.blog95.fc2.com/blog-entry-55.html


http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/525.html#c4

[近代史3] 天皇家は推古朝以降 江戸時代までずっと仏教徒だった 中川隆
5. 中川隆[-9079] koaQ7Jey 2019年7月14日 15:04:04 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[3611]
日本の深層―縄文・蝦夷文化を探る (集英社文庫)– 1994/6/1 梅原 猛 (著)
https://www.amazon.co.jp/%E6%97%A5%E6%9C%AC%E3%81%AE%E6%B7%B1%E5%B1%A4%E2%80%95%E7%B8%84%E6%96%87%E3%83%BB%E8%9D%A6%E5%A4%B7%E6%96%87%E5%8C%96%E3%82%92%E6%8E%A2%E3%82%8B-%E9%9B%86%E8%8B%B1%E7%A4%BE%E6%96%87%E5%BA%AB-%E6%A2%85%E5%8E%9F-%E7%8C%9B/dp/4087481786

『日本の深層』梅原猛 松岡正剛の千夜千冊 1418夜
https://1000ya.isis.ne.jp/1418.html

この本は梅原猛の数ある著作を画期する一冊で、
かつ、いまこそ読まれるべき「日本=東北」の深層をあざやかに解く一冊である。
ここには、石巻や仙台に隠された生をうけた梅原の、東北に寄せる深くて熱いまなざしが生きている。

縄文と蝦夷、アイヌと日本人、仏教と修験道、柳田国男の目、啄木の詩、賢治の心、さらには太宰や徳一を通して、 大胆な梅原日本学の入口が次々に示される。


 梅原猛の母上は石巻の渡波(わたのは)の人である。石川千代という。父上の梅原半二は愛知の知多郡内海の出身だが、東北大学の工学部に学んで、そのときに石川千代と出会い、梅原猛を仙台で生んだ。


 けれども両親ともその直後に結核に罹ってしまい、父は辛うじて治ったのだが、母上は悪化したまま1年半もたたずに亡くなった。猛少年はそのまま父上の実家近くの知多の片田舎に送られて、そこで梅原半兵衛の子として育てられた。

 このことは長らく伏せられていたらしい。梅原は仙台に生まれたことも、養父と養母以外に実父実母がいることもずっと知らなかった。梅原の懊悩はこのことを知ったときから始まっているのだという。

 しかしその懊悩は、やがて梅原の不屈の探求心と「負の思想」を駆動させてぶんぶん唸る内燃力となった。それが仏教研究となって火がつき、人麻呂の死への挑戦となり、それらがしだいに古代日本の各地の謎の掘り起こしへと広がり、総じてはいまや「梅原日本学」にまで至ったわけだった。

 人生においては説明しがたい事態との直面こそ、しばしば「ヴァレリーの雷鳴の夜」(12夜)をつくるのだ。

 ちなみに父上の梅原半二はトヨタの常務や中央研究所の所長を務めたトヨタを代表するエンジニアで、一世を風靡したコロナなどを設計した。梅原半二をそのように仕向けたのは豊田喜一郎だった。

 そんなことはつゆ知らぬ梅原猛のほうは、私立東海中学から2カ月だけ通った広島高等師範をへて八高へ。ついで西田幾多郎・田辺元の京大哲学科か、和辻哲郎の東大倫理科かのどちらかに行きたくなって、結局京大に進んだのだが、もはや西田も田辺もいなかった。

 こうしてギリシア哲学やハイデガーに向かっていくものの、しだいに虚無感に襲われて、いっときは賭博にはまり、これを脱するためにまずは「笑い」を研究し、ついで和歌論の研究に入っていった。1963年の壬生忠岑『和歌体十種』についての論考は、梅原のその後の日本古典研究の嚆矢となった論文だった。

 あとの経歴は省こう。本書は、そういう梅原が自身の故郷というか、原郷というか、日本人の母国である東北を、かなり本気で旅したときの記録である。紀行ふうになっている。

 梅原自身が本書で告白しているように、それまでの梅原はどちらかといえば「日本の中心の課題」を解くことを主にこころがけていたのだが、本書の旅をする十年ほど前から「辺境にひそむ日本」に注目するようになっていた。とくに縄文やアイヌとのふれあいが大きかったようだ。

 けれども東北にはなかなか廻れない。それが本書をきっかけに起爆した。あえてこの辺境の旅を『日本の深層』と銘打ったところに、梅原のなみなみならぬ覚悟が表明されている。30年前のことだ。1983年に佼成出版社から刊行され、さらに山形や会津の話が加わって文庫本になった。

 文庫本の解説は赤坂憲雄(1412夜)が担当した。「『日本の深層』は疑いなく、一個の衝撃だった。大胆不敵な、と称していい仮説の書、いや、あえていえば予言の書である」と書いている。

 梅原の数ある本のうち、今夜、この一冊をぼくがとりあげるのを見て、すでに数々の梅原日本学に親しんできた梅原ファンたちは、ちょっと待った、梅原さんのものならもっとフカイ本に取り組んでほしい、松岡ならもっとゴツイ本を紹介できるだろうに、せめてもっと怨霊がすだくカライ本を選んでほしいと思ったにちがいない。

 それはそうである。たしかに梅原本なら著作集ですら20巻を数えるのだから、『地獄の思想』『水底の歌』『隠された十字架』から『日本学事始』『聖徳太子』『京都発見』まで、なんとでも選べるはずである。しかし、いま、ぼくが梅原猛を千夜千冊するには、この「番外録」の流れからは本書がやっぱりベストセレクトなのだ。

 本書が梅原にとっての初の蝦夷論や東北論になっていること、その梅原がいまちょうど東日本大震災の復興構想会議の特別顧問になっていること、この20年ほどにわたって梅原は原発反対の立場を口にしてきたこと、そしてなにより梅原が仙台や石巻の風土を血の中に疼くようにもっているということ、加うるに、ぼくもまた東北のことを考えつづけているということ、本書が現時点でのベストセレクトである理由はそういう点にある。

 とくに前夜に森崎和江の『北上幻想』(1417夜)を紹介した直後では、梅原が本書で北上川をこそ東北の象徴とみなし、「母なる川」と呼んでいることを心から受け入れたい。


本書の旅程

 春秋2回の旅は多賀城から始まっている。大野東人(あづまびと)が神亀元年(724)につくった多賀城跡を見て、梅原は太宰府との違いを感じる。太宰府は海に向かって開こうとしているが、多賀城は北方を睨んでいる。多賀城の跡には蝦夷と対峙する緊張がある。

 ついで芭蕉(991夜)が「壷碑」(つぼのいしぶみ)と名付けた坂上田村麻呂(1415夜)の碑文を見る。例の「多賀城、京を去ること一千五百里、蝦夷の国界を去ること百二十里‥‥靺鞨を去ること三千里云々」という文章だ。この石碑にはヤマト朝廷の自負と、その管轄から外されている「陸奥」(みちのく)に対する睥睨があった。

 多賀城から石巻に入り、梅原は初めて母の縁戚たちを訪ねた。石川家の檀那寺や石川家の墓にも参った。意外に大きな墓だった。いろいろ自身の来し方は気になるが、そのまま塩釜・松島から大和インターの東北自動車道を一気に走って平泉に行った。

 3度目の平泉だったようだが、それまで梅原は平泉の平泉たる意義をほとんど掴めていなかった。それが今度はアイヌや蝦夷の文化に関心をもったせいか、少しは平泉の意味が見えてきた。安倍一族の奥六郡を藤原清衡が継承して拠点を平泉に移した意味、奥州における金採集がもたらした中尊寺金色堂の意味、そうしたことを背景にしてここにつくられていった“今生の浄土”の意味、そういうものがやっと見えてきた。

 さらに金色堂の一字金輪像を眺め、「東北のみならず、日本の仏像の中で最もすぐれた仏像だ」という感想をもつ。これは梅原らしい目利きであった。毛越寺の庭を見て観自在王院のよすがを偲び、毛越寺とは毛人(えみし)と越の国の蝦夷とを合わせたものかと想っているのも、なるほど、なるほどだ。


金色堂の一字金輪像

 花巻温泉に泊まって、和賀町で高橋徳夫・阿伊染徳美・菊地敬一・門屋光昭らと語りあい、この町の出身の東北学の泰斗・高橋富雄(1415夜)の東北論・蝦夷論に思いを馳せた。

 梅原は、倭国といういじけた名を「日本」という国名に転じ、大王(おおきみ)やスメラミコトに新たな「天皇」というネーミングをもたらしたのは、ほかならぬ聖徳太子の仕事だろうと断じてきた人である。ただし、それにしては当時の日本も天皇も、倭国このかた「西に片寄りすぎてきた」とも感じていた。そうしたなか、高橋富雄が北の日本を称揚し、「北上はもとは日高見で、日の本も東北がつくった言葉だった」という見方をつねに主張しつづけてきたことには、いたく酔わせられる。この気分、ぼくもとてもよくわかる。

 門屋光昭は鬼剣舞(おにけんばい)にぞっこんだった。誘われて、見た。鬼剣舞は、安倍一族の怨霊が一年に一度、鬼となってあらわれて、かつての恨みをはらすことを人々がよろこぶのである。そうであるのなら、東北にさかんなシシ舞もアイヌのイヨマンテの系譜であって、シシとは実は熊のことではないかと梅原は仮説する。そこには縄文があるはずだ。

 案の定、和賀川をさかのぼって沢内へ行くと、そこには太田祖電がつくった碧祥寺博物館があって、マタギの日々が展示されていた。梅原はマタギこそ縄文の民の末裔で、日本神話以前の神々を熊とともに祀ってきたのではないかと思う。

 花巻に戻って、あらためて宮沢賢治(900夜)がどのように東北を見ていたかということを考えた。

 岩手をイーハトブと、花巻を羅須と、北上川の川岸をイギリス海岸と呼ぶ賢治は、東北をけっして辺境などとは見なかった。奥州藤原氏初代の清衡に似て、「ここが世界だ」とみなしていた。梅原は傑作『祭の暁』や超傑作『なめとこ山の熊』を思い出しながら、賢治には民族の忘れられた記憶を呼び戻す詩人としての霊力があったと、語気を強めて書いている。のちに叙事詩『ギルガメッシュ』を戯曲仕立てにした梅原ならではの見方だ。

 賢治記念館から光太郎山荘に向かった。高村光太郎が昭和20年から7年間にわたっていた山荘で、昭和20年4月13日に東京空襲で焼け出された光太郎が、賢治の父の宮沢政太郎のすすめで花巻に疎開して宮沢宅にいたところ、8月10日にその宮沢宅も戦災で焼けた。それで光太郎は佐藤隆房の家に寄寓したのち、この山荘に移ったのだった。

 が、行ってみて驚いた。聞きしにまさるひどい小屋である。杉皮葺の屋根の三畳半の小屋だった。ここで光太郎はすでに死後7年たった智恵子の霊といたのかと思うと、胸つぶれる気になった。

 翌日は遠野に出向いた。案内役は佐藤昇で、続石(つづきいし)、千葉家の曲り家、遠野市立美術館、駒形神社、早池峰神社、北川家のおしらさまなどを順に見た。
 梅原が遠野に来たのは初めてである。あまりに広く、あまりに都会的なのでびっくりしたようだ。自分が読んできた柳田国男の『遠野物語』の世界とずいぶん違っている。それに梅原は、そもそも柳田が『遠野物語』を書いた理由がいまひとつ理解できないままにいた。なぜ柳田が佐々木喜善が語る不思議な話を収集して並べたてたのか。泉鏡花(917夜)には絶賛されたけれど、これが民俗学の出発点というものなのか。

 とはいえ、柳田を本気で読んでこなかった自分にも何かが足りないのだろうとも気づき、本書ではそれなりの取り組みを試していく。


卯子酉様の祠(遠野町)
『図説 遠野物語の世界』より

 柳田は当初は山人の研究をしていた。先住民の研究だ。山人の動向は『遠野物語』では死者から届く声のようになっている。ところが柳田は、山人よりも稲作民としての常民をしだいに研究するようになった。

 村落に定住している稲作民から見れば、遊民としての山人は異様なものと映る。徳川期の百科事典だが、『大和本草』や『和漢三才図絵』の中では、山人はなんとヒヒの次に図示されている。また常民としての稲作民は天皇一族につながる天ツ神を奉じ、これに対するに山人は国ツ神を奉じるものとされ、里人からは異人・鬼・土蜘蛛・天狗・猿などとして扱われた。

 実際の柳田は生涯にわたってこうした山人を重視し、畏怖もしていた。それはまちがいない。しかし研究者として山人を追求しすぎることに不安も感じた。梅原は、柳田がそういう不安をもつにいたったのは、明治43年の幸徳秋水事件の影響があったのではないかと推理する。天皇暗殺計画が“発覚”したという事件だ。柳田はかなり大きな社会の変化を感じたのではないか。山人、国ツ神、鬼、天狗、猿といった「体制からはみ出された民」の復権を学者があえてはかろうとすることは、不穏な思想として取り締まりにあう時代になりつつあったのである。

 こんなふうに、梅原は初めての遠野のことを書いていく。なんともいえない説得力がある。歴史や思想や人物についての自分のかかわりの欠如や希薄を率直に認め、そこから直截にその欠如と希薄を独力で埋めていこうとするところは一貫した梅原独得の真骨頂で、本書は旅の先々での記録になっているため、その“編集力”が如実に伝わってくる。 

 盛岡では県立博物館から渋民村に行った。ここでも梅原は幸徳秋水事件に衝撃をうけた啄木(1148夜)のことを思い、27歳で夭折した啄木に高い自負心と深い想像力があることを考える。それは啄木だけではなく、賢治や太宰治(507夜)に共通する東北性のようにも思えてくる。

 たしかに東北人には想像力に富む文人が多い。たとえば安藤昌益や平田篤胤、近代ならば内藤湖南(1245夜)や原勝郎‥‥。ぼくがついでに現代から加えるなら、高橋竹山、藤沢周平、長嶺ヤス子、土門拳、寺山修司、福田繁雄、石ノ森章太郎、井上ひさし‥‥。

 梅原はつねづね師匠格の桑原武夫(272夜)の口ぶりをついで、こうした風土的事情を「批評は関西、詩は東北」とも言ってきた。では、なぜ詩は東北なのか。啄木の歌や詩はゆきずりの女たちをみごとな恋の歌にしている。そうした女たちから愛されてきたことも歌っている。しかし啄木研究者たちはそれらが想像力の産物でしかなかったことを証した。啄木自身も『悲しき玩具』でこう歌った。

  あの頃はよく嘘を言ひき。平気にてよく嘘を言ひき。汗出づるかな。
  もう嘘はいはじと思ひき それは今朝 今また一つ嘘をいへるかな。

 梅原は書く、「想像力の能力は嘘の能力でもある。嘘は想像力の裏側なのである。東北の人たちの話を聞いていると、嘘か本当かよくわからないことがある。多くの東北人は豊かな想像力に恵まれていて、奔放な想像力のままにいろいろ話をしているうちに、その話に酔って、自分でも嘘と本当のけじめがわからなくなってしまうのであろう」。

 8月になって、ふたたび東北を訪れた。今度は花巻空港まで飛んで、そこから岩洞湖や早坂自然公園を抜けて岩泉に入った。このあたりの岩手県は何時間車をとばしても、集落に出会わない。日本列島でもこれはめずらしい。北海道を除いて本州ではあまりない。

 佐々木三喜夫の案内で龍泉洞へ行って湧窟(わくくつ)を見た。ワクはアイヌ語のワッカ(水)、クはクッ(入口)だろう。どうやら八戸の閉井穴(へいあな)という洞窟まで通じているらしい。東北は土と水でつながっている。

 宿に戻って、岩泉民間伝承研究会の『ふるさとノート』を読んでみると、畠山剛の『カノとその周辺』がおもしろかった。カノとは焼畑のことである。縄文中期に始まって今日まで至っている。このあたりではいまでも山を焼いて灰の上に種を蒔き、蕎麦や粟や大豆や小豆を栽培している。やっぱり東北は土と水の国なのだ。

 翌日、葛巻町から浄法寺町の天台寺に向かって、あらためて北上川の大いなる意味を感じた。

 ふつう、日本の多くの川は真ん中の山脈や高地から太平洋か日本海かに流れるようになっている。けれども北上川はちがっている。東北をタテに流れている。東の北上山脈と西の奥羽山脈のあいだの水を集め、長々と南下する。

 それゆえにこそ縄文・弥生・古代の東北はこの北上川によって育まれ、蝦夷の一族たちもここに育った。まただからこそヤマト朝廷はこの北上川にそって、多賀城・伊治城・胆沢城・志波城・徳丹城などを築いた。

 北上川こそ東北の「母なる川」なのである。安倍一族も藤原4代も、啄木も賢治も、この母なる北上川に母国の面影を見いだしたのだ。

 この北上川は七時雨山(ななしぐれやま)のあたりで、東と西に分かれていく。梅原が向かった浄法寺町は七時雨山の北にある。ここでは北上川は馬渕川・安比川になっている。奥六郡のひとつにあたる。蝦夷の本貫の土地であり、安倍氏の大事な土地だった。アッピとアベはつながっていた。

 浄法寺町の天台寺はこうした背景をもって、おそらくは安倍氏の力によって建てられたのであろう。天台寺というからには比叡の天台を意識したのだろうし、比叡山延暦寺のほうも、奥六郡を治める安倍氏の金や馬に目をつけたのであろう。

 ところが、いざ天台寺に入ってみて梅原が注目したのは、山門の仁王像に白い紙がいっぱい貼られていたことだった。顔にも胸にも手足にも紙が貼ってある。なんだか痛々しい。

 聞くと、この地方の人々は病気にかかるとここに来て、自分の病気の患部を仁王に当てて貼っていくのだという。なるほど関西にも、たとえば北野天神の牛のように悪いところを撫でるという習慣はある。けれどもこんなふうに紙をべたべた貼ることはない。

 こういう信仰は仏教そのものにはない。これは土着信仰がおおっぴらに仏教のほうへ入ってきているせいだ。おまけに天台寺の中心仏はナタ彫りの聖観音と十一面観音なのである。ナタ彫りの仏像も関西にはない。特異なものである。しかし梅原は一目見て、これは一代傑作だと感じた。亀ケ岡式土器につながる芸術感覚がある。

 このように奥六群の周辺の信仰感覚を見ていくと、ここはやはり縄文時代からの霊地であったろうという気がしてきた。


十一面観音体(左)聖観音(右)
『図説 みちのく古仏紀行』より


 国道4号線へ出て十和田市を通っていよいよ青森に入った。まずは成田敏の案内で県立郷土館の風韻堂コレクションを見た。亀ケ岡土器を中心にした縄文土器1万点のコレクションだ。溜息が出るほどすばらしい。

 郷土館では田中忠三郎が待ってくれていた。田中忠三郎といえば、ぼくには「津軽こぎん刺し・南部菱刺し・サキオリ(裂織)」などの東北古布のコレクターとしての馴染みがあるが、梅原には『私の蝦夷ものがり』の著者だったようだ。縄文文化の話の花が咲いた。

 そもそも縄文文化には大きく二つの興隆期がある。ひとつは縄文中期で約五千年から四千年前になる。諏訪湖を中心に中部山岳地帯に燃えるような縄文エネルギーが爆発した。神秘的な力をもっていた。

 もうひとつは後期の縄文文化で、東北と西日本に遺跡がのこる。こちらはエネルギーの爆発というより、静かで深みのある美を極めた土器群である。「磨消(すりけし)縄文」という。いったん付けた縄文を消した部分と縄文とのコントラストが美しい。亀ケ岡式土器は磨消縄文である。天台寺のナタ彫りはこの磨消縄文に通じるものだった。

 亀ケ岡文化を飾る遺品に、もうひとつ、土偶がある。遮光器土偶や女性の土偶が有名だが、梅原は弘前の市立博物館で見た猪の土偶と郷土館で見た熊の土偶にいたく感銘している。まことにリアルな模造なのだ。人体をデフォルメしてやまない縄文人がこうした動物をリアルにつくったことに、梅原は新たな謎を発見していく。


猪の土偶(上)と熊の土偶(下)


津軽こぎん刺し
田中忠三郎『みちのくの古布の世界』より


南部菱刺し
田中忠三郎『みちのくの古布の世界』より


サキオリ
田中忠三郎『みちのくの古布の世界』より


 8月は東北の祭の季節である。恐山の大祭(地蔵会)、秋田の竿燈、岩手の鹿踊り、山伏神楽‥‥。

 いずれも盆の祭であって、死霊を迎え、それを喜ばせ、それを送る。そこで8月末に津軽に行った。ねぷたの里である。この里は新たに造営されたところで、毎年のねぷたの良品を展示している。

 ねぷたの起源は坂上田村麻呂の蝦夷征伐にあるという。東北には田村麻呂伝説と義経伝説がやたらにあるが、なにもかもが田村麻呂のせいではあるまい。もともとは精霊流しが母型だったはずである。しかしねぷたの狂騒的熱狂やそのディオニソス性を思うと、そこには田村麻呂と蝦夷との闘いがよみがえるものもある。

 青森のねぷたと弘前のねぷたはちがうらしい。青森の連中は青森ねぷたが本物で、弘前ねぷたはダメだと言う。弘前では青森ねぷたは下品で弘前ねぷたが昔のままを継いでいると言う。こういう津軽人の相互に譲らない自信は津軽の風土から来ているのであろう。

 梅原は津軽を一周することにした。10時に青森を発って外ケ浜を北上し、蟹田(かいた)で西に入って今別から三厨を通って竜飛岬に向かう。そしてふたたび今別から南下して、今度は西に行って市浦(いうら)から十三湊(とさみなと)を見て、金木町・五所川原に着く。実はこのコースは太宰治の『津軽』のコースにもなっていた。金木町は太宰の故郷である。

 太宰は『津軽』で書いている。津軽の者はどんなに権勢を誇る連中に対しても従わないのだと。「彼は卑しき者なのぞ、ただ時の運の強くして、時勢に誇ることにこそあれ」と見抜くのだと。その一方で、太宰は津軽人があけっぱなしの親愛感とともに、無礼と無作法をかこっていることを書く。あけっぴろげにするか、すべて隠すか、二つにひとつなんだとも書いた。

 もう少し正確にいえば、津軽の親愛の力は相手にくいこむ無作法によって成り立っているのだ。梅原はそこに、啄木にも賢治にも感じられる真実と想像とを区別しなくなる東北的詩魂のマザーのようなものを見た。


たちねぷた 毎年1体が新調される
『東北お祭り紀行』より

 金木町には太宰の生家の斜陽館がのこされている。観光客はみんな行く。しかしこの町で梅原を驚かせたのは川倉地蔵のほうだった。

 何百という地蔵が並んでいるのだが、そのすべてが赤や青の現色の着物をまとい、顔に白粉や口紅をつけている。まことに不気味。これは生きている人間ではない。死んだ人間たちだ。

 太宰はイタコについては何も書かなかったけれど、梅原はイタコの力を思い出し、さらに以前、弘前の久渡寺(くどじ)で見た数百体のおしらさまを思い出していた。そのおしらさまたちも金銀緞子の衣裳をつけ、信者たちは手に手に長い箸をもって祈っていた。

 久渡寺は密教寺院だから、僧侶がやることは真言密教の儀式にもとづいている。しかし、おしらさまの前で信者たちが見せている祈りの姿は、もっと以前からの母型性をもっている。

 実は梅原はこの旅の20年ほど前に、恐山のイタコに母親の霊をおろしてもらっていた。梅原の母上が梅原を生んで1年ほどで亡くなったことはすでに紹介しておいたが、そのため、梅原には母の顔や母の声の記憶がない。その母の声をイタコは乗り移って聞かせたのだ。

 津軽弁だったのでよくは聞き取れなかったけれど、よくぞおまえも大きくなったな、立派になったな、わたしも冥土でよろこんでいるというところは、辛うじてわかった。

 梅原はこの声が母の声だと感じた。同行していた友人たちは、終わって3倍の料金を払おうとしていた梅原の頬に、何筋かの涙が流れていたと言った。

 生者と死者は切り離せない。そこに大地震や大津波があろうとも、切り離せない。イタコとゴミソとおしらさまもまた、これらは切り離せないものたちなのである。


家にイタコを呼び、おしらさまを遊ばせて1年を占った
それが久渡寺に数百体も集まっている
『東北お祭り紀行』より


 次の旅は秋田の大館、能代から酒田に向かう旅である。途中に八森(はちもり)に寄った。加賀康三所有の「加賀家文書」を見るためだ。

 加賀家文書というのは、幕末に加賀屋伝蔵という者が蝦夷地に渡って、そこで蝦夷(エゾ)の通訳をしていたのだが、その伝蔵にまつわる文書のことをいう。松浦武士郎が伝蔵に宛てた手紙なども含まれているのだが、梅原が見たかったのは伝蔵がつくったアイヌ語の教科書だった。

 梅原がアイヌ文化に関心をもったのは、昭和54年に藤村久和と出会ってからのことである。以来、蝦夷の文化は縄文の文化で、その蝦夷の文化をくむのがアイヌ文化だという考えをもつようになった。ところが、このような見方は学界ではまったく否定されてきた。アイヌ人と日本人は異なる種族で、アイヌ語と日本語もまったく異なっている。

 これは金田一京助が確立した大きな見方で、アイヌ語は抱合語であるのに対して、日本語は膠着語であって、仮に類似の言葉がいくらあろうとも、それは一方から他方への借用語か、文化の濃度差による移入語であるというものだ。金田一によってアイヌと日本は切り離されたのである。

 しかしながら梅原はこの見方に従わない。屈強に抵抗をして、縄文≒蝦夷≒アイヌという等式を追いかけている。その後も、いまもなお――。学界的には劣勢であるが、学界というところ、けっこうあやしいところもいっぱいあるものなのである。

 八森から男鹿半島に入って寒風山に登った。このあたりはなまはげの本場である。祭の中心には真山神社がある。

 なまはげは坂上田村麻呂に殺された蝦夷の霊魂を祀るとも言われている。またまた田村麻呂の登場だが、もしもそうなのだとしたら田村麻呂以前に秋田に遠征した阿部比羅夫についてはそうした反抗の記憶がのこっていないので、やはり田村麻呂には強い中央に対する反発が残響したのだということになる。

 しかしこれをもっとさかのぼれば、ここには蝦夷やアイヌがそのまま残響しているとも考えられてよい。アイヌ語でパケは頭のことをいう。なまはげとは生の頭、生首のことなのだ。証拠も何もないけれど、そういうふうなことも思いついた。梅原は本書のみならず多くの著作のなかで、こういうツイッターのような呟きを欠かさない。のちのち別の著作を読むと、その呟きがけっこうな仮説に成長していることも少なくない。

 秋田、本庄を素通りし、この夜は酒田に入った。土門拳(901夜)の故郷である。しかしこの夜はアイヌの夢を見て眠りこんでいたようだ。


ケデ、腰ミノ、ハバキ、面をつけて、なまはげに変身する
『東北お祭り紀行』より


 次の旅では妻子とともに出羽三山をまわった。海向寺で忠海上人のミイラに直面し、羽黒山で正善院に寄り、湯殿山では総奥之院を詣でた。ここでの体験と思索は、ふたたび三たび、梅原が新たな“深層編集”に挑むためのものだった。

 仏教の研究から日本思想に入った梅原にとって、修験道はただただ奇異なものにすぎなかった。吉野大峰であれ、英彦山であれ、出羽三山であれ、仏教や仏教思想とはなんらのつながりのない土俗的な呪術に見えていた。こういうところは、ぼくと逆である。ぼくは早くに内藤正敏と出会って遠野や出羽三山に親しんだ。桑沢デザイン研究所で写真の講師をしていたときは、学生たちに真っ先に勧めたのは出羽三山旅行だった。

 そういう梅原ではあったらしいけれど、縄文にさかのぼる日本の深層に関心がおよんでからというものは、修験道は梅原の視野を強く刺激するようになってきた。このへんの事情も正直に本書にのべられている。

 羽黒山の開祖は能除太子で、崇峻天皇の第二皇子だとされている。蜂子皇子ともいわれた。しかしその像の容貌は容貌魁偉というどころか、ものすごい。あきらかに山人の顔だ。けれども羽黒山が能除太子を開祖にもってきたことには、深い暗示作用もある。崇峻天皇は仏教交流に大きな役割をはたしながらも、蘇我馬子に殺された。その皇子が祀られたのには、遠い山人との交差がおこっているはずなのだ。

 湯殿山の御神体は湯の出ている岩そのものである。岩も重要だし、湯も重要だ。とくに東北においては、縄文以来、湯を大事にしてきた。

 その湯は岩とともにある。縄文遺跡の近くに温泉が湧いていることが多いのも、東北の本来を物語っている。

 帰途は最上川をさかのぼって、天童、作並温泉をへて仙台に出た。空港では源了圓(233夜)夫妻が待っていた。源はこのころは東北大学の教授で、梅原が信頼する数少ない日本学の研究者だった。

 こうして春秋2度にわたる東北の旅が終わり、仙台空港から梅原は機上の人となって関西へ、京都へ帰っていくのだが、この紀行文が『日本の深層』として佼成出版社から刊行されると大きな反響になったとともに、山形や福島の読者から、これではわれらの故郷がふれられていない、残念だという声が寄せられてきた。

 そこで、この文庫版には別途に書かれた会津の章と山形の章が入れられた。あらかた次のようなものになっている。

 会津についての地名伝説の一番古いものに、『古事記』にのっている話がある。崇神天皇が大彦命(オオヒコ)を高志道へ、その子の建沼皮別命(タヌナカワワケ)を東国に遣わして、まつろわぬ者たちを平定するように命じた。そのオオヒコとタヌナナカワワケが父子で出会ったのが会津(相津)だったという記述だ。高志道は越の国のこと、東国は「あづま」で、関東を含めた北寄りの東国をいう。

 越の国にも東の国にもまつろわぬ部族たち、すなわち蝦夷(エミシ)がいて、これを平定しようとしたという話だが、そしてどうやらその平定ができたという話だ(ちなみに、それでもまだまつろわぬ者たちがいたのが陸奥と出羽だった)。もっとも、これは表向きの話だ。

 崇神天皇の時代はだいたい4世紀前半にあたる。梅原はこの古代エピソードには、会津地方が縄文文化と弥生文化の出会いの場所であって、二つの文化が重なっていった場所だという暗示がこめられていると見る。

 よく知られているように、越後には火焔土器が目立つ。越の蝦夷による造形だったろう。記紀神話に登場する須勢理媛(スセリヒメ)はこの越の蝦夷たちの後継者で、かなり神秘的な地域を治めていたのだと思われる。会津地方は阿賀川などの水系交通でこの越とつながって、縄文土器の国々をつくっていた。火焔土器に似た土器が出る。

 その一方、会津地方は弥生文化が早くにやってきた地域でもあった。盆地のせいだったろう。弥生中期の南郷山遺跡に出土する弥生土器はそうとうにすばらしい。こうして、縄文と弥生がここで交わった。それは「日本」の成立というにふさわしい。

 梅原は他の著作でも何度も書いているのだが、縄文が終わって弥生が栄えたとは見ていない。農作の文化が広まって、政治制度や社会制度に大きな変化があらわれていても、信仰や習俗はかなり縄文的なるものを継続していたとみなしている。倭人とは縄文人と弥生人の混血でもあったのだ。ただ、その「日本」や「倭人」のその後の継続のかたちや活動のしかたが、西国と東国、また畿内と東北ではかなり異なったのだった。

 会津を象徴する人物に徳一がいる。古代仏教史上できわめて重要な人物で、最澄と論争し、空海(750夜)が東国の布教を頼もうとしたのに、その空海の真言に痛烈な文句をつけた。

 南都六宗の力が退嬰し、道鏡などが政治的にふるまうようになった奈良末期、この古代仏教を立て直すにあたっては、二つの方法があった。ひとつは旧来の仏教を切り捨てて新たな仏教を創造していく方法だ。これを試みたのが最澄や空海の密教だった。

 もうひとつは、旧仏教が堕落したのは組織と人間がよくなかったのだから、別の土地に新たな寺院と組織をつくって、倫理的回復をはかるという方法である。前者がカトリックに対してプロテスタントがとった方法だとすれば、後者はイエズス会がとった方法で、徳一はこの後者の方法でイエズス会が海外に布教の拠点を求めたように、東国や東北に新たな活動を広めていった。

 時代が奈良から平安に移ると、都を中心に最澄と空海の密教が比叡山や高雄山(神護寺)や東寺などに定着していった。このままでは奈良仏教は旗色が悪い。しかし最澄と空海の論法に旧仏教はたじたじだった。そこで東北の一角から徳一がこの論争を買ってでた。

 最初は最澄を相手にした。このとき徳一は牛に乗り、その角のあいだに経机をおいて、最澄の教義を破る文章を書き上げたという。日本ではめずらしい激越な論争であるが、このときの徳一の文章はのこっていない。

 空海のほうは徳一の才能を認めて、むしろ北への密教の拡張を託したかった。しかし徳一はこれを拒否して、痛烈な批判を書いた。この批判は『真言未決文』としてのこっている。ぼくも読んだが、11にわたる疑点をあげたもので、まことにラディカルだ。

 平安期以降の会津は、この徳一のおこした恵日寺を中心に仏教文化を広げていった。まさにイエズス会である。恵日寺は磐梯山信仰ともむすびついたようだ。火山爆発に苦しむ住民の救済力として信仰されたからだ。同じく常陸の筑波山寺も徳一によって新たな拠点になっていく。

 恵日寺のその後について一言加えると、いったんは会津仏教王国のセンターとなるのだが、源平の合戦のとき、恵日寺の僧兵たちが越後の城氏とともに平家側についたため、木曽義仲によって滅ぼされるという宿命になっていく。だからいまはその七堂伽藍の偉容は拝めない。

 梅原はこうした徳一の断固たる活躍や恵日寺の宿命には、その後の会津が奥羽列藩同盟や戊辰戦争で背負った宿命のようなものを感じると書いている。白虎隊の滅びの精神は夙に徳一から始まっていたわけなのだ。

 古代の奥羽は陸奥国と出羽国から成っていた。出羽の中心に山形県がある。梅原は山寺や、小国町を見て、最後に福島の高畠町の日向窟に向かい、自身の内なる東北を埋めていく旅となった。

 この旅では、芭蕉が「閑さや岩にしみ入る蝉の声」と詠んだ山寺についての随想がおもしろい。まず慈覚大師円仁が建立した経緯の背後を調べた。円仁が朝廷の意向を携えて東北の布教に向かったのだとして、その宗教イデオロギーの背後にひそむものを見つけたいからだ。

 調べてみると、ここが立石寺として「立て岩」を重視してきたことが見えてくる。立て岩は縄文以来の日本人の崇拝の対象である。ストーンサークルは東北各地にのこっている。円仁はその立て岩に香を炊いて天台仏教の色に染め上げようとした。そのため、いまではこの岩は「香の岩」とよばれる。しかし、そこにはさまざまな軋轢があったはずである。

 伝承では、この地を所有していたのは磐司磐三郎というマタギの親分だった。そこへ円仁がやってきて、説得されてこの地を譲った。磐司磐三郎はそのため秋田のほうに移ったことになっている。そこでこの地は聖地となって、山の動物さえ円仁に感謝したという昔話になった。

 が、これはもともとがマタギの聖地だったから、それを消すわけにはいかなかったのである。梅原はそのように見て、結局は京都の朝廷が仏教的自己聖地化をはかったのだと考えた。

 山寺の奥の院には、絵馬と人形がたくさん納められている。その絵馬には結婚した若い夫婦が描かれている。

 この息子や娘は、実は幼いときか、子供の頃に死んだ者たちなのである。それを両親が自分の子が結婚をする年頃になったろうとき、絵馬に花嫁あるいは花婿の姿を描いて納めたのだった。顔はおそらく亡くした子の面影に似ているのであろう。

 このように死んだ息子や娘の結婚式をするという風習は東アジアにもあるようだが、これは決して仏教の思想によるものではない。仏教ではこの世は厭離穢土であって、だからこそ死ねば極楽浄土に行けると説いていく。こういう仏教観にもとづけば、死んだ息子も娘も浄土に行ったと考える。ところが、ここには失った哀れなわが子を、この世と同様の幸せでうめあわせてあげたいという気持ちが溢れている。このような感じ方を円仁が広めたはずはない。

 このように見てくると、山寺は死の山でもあったのである。ここは死の国の入口でもあったのだ。マタギはそのことをよく知っていたのであろう。

 そして、そうだとすると、梅原には「閑さや岩にしみ入る蝉の声」の句も別の意趣に感じられたのである。芭蕉が奥の細道を通して把えようとした意図が、日本の深層への旅だったと思えてきた。

 ぼくも想うのだけれど、3月11日で失った子供たちが結婚する年頃になったとき、今の東北の人たちが何をどのように手向けるか。将来の日本の心が、そのようなところにもあらわれるのではないかと予想する。
https://1000ya.isis.ne.jp/1418.html






http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/525.html#c5

[近代史3] 天皇家は推古朝以降 江戸時代までずっと仏教徒だった 中川隆
6. 中川隆[-9078] koaQ7Jey 2019年7月14日 15:05:56 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[3612]

出羽三山巡り・新潟五頭山キャンプ場 - We Will Rise OE/HSPな日々
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出羽三山巡り・新潟五頭山キャンプ場 2012年09月11日16:54

パタ子の気づきがあってから、
落ち着いて、かなり軽くなった。
驚き。

自分には、強い無気力人格の問題もある。
その人格も、もっと見ていく必要がある。
あと苦虫噛み潰したような、
いつも面白くないって感じてる人、
それが誰なのか、今出てる人格の中にいるのか、
新しい人格か分からない。
いつもイラっとして、小言言いたくなるような。
これも父の姿とダブる。
パタ子が人に気を遣いまくって疲れるから、
家では不機嫌になるのかな、とも思ったり。

で、夏最後の旅は、
出羽三山回る事にしたが、
ヌル湯も入りたくて、
比較的山形に近い、ラジウム泉のある五頭温泉郷に、
ムリヤリ来たのだ。
前に、蛍を見るために、五頭温泉郷の、
出湯温泉に泊まった事がある。
蛍の生息できる環境を守ろうと、
合成洗剤などを、完全無添加洗剤に変えてる所だ。
自炊や素泊まりをやってる宿がなかったため、
すぐ近くの五頭山いこいの森キャンプ場の、
バンガローに泊まる事にした。

バイクに乗ったら、やけに身体が軽い。
バイクにまたがった瞬間から違う。
足着きも良くなってて、
いっつもタンデムだからシートが沈んだのか、
自分の足が伸びたのかと思ったぐらいだった。
このバイクに馴染んだ、とも思った。

バイクは、車より体力の消耗が激しい。
新潟に行く時に、いつも休憩するSAがあるんだけど、
そこまで行くのも結構疲労感がある。
ところが、パタ子の気づきで軽くなったからか、
今日はそんなに疲労を感じない。
やたら元気だ。
このまま目的地までの250km、
一気に走ろうかと思った。
しかーし、ガソリンが半分になり、
この先百何十キロGSがないと来たので、
いつものSAに入る。
とにかくこの身体の軽さは、尋常じゃない。

SAで、Mが、
今日、すごくグラウンディングしてる、と言う。
バイクが地に足ついてる、と。
やっぱ分かるのか。
今日は、乗る時から、感覚が違ったんだよね、と話す。

五頭温泉郷、
まずラジウム泉で有名な「村杉温泉」と、
38℃源泉掛け流しのヌル湯の、
「出湯華報寺共同浴場」に入ろうと思ってた。
けど、時間も迫ってきてたし、
出湯華報寺共同浴場は前にも入った事があったし、
ヌル湯は、一つのとこで
長く浸かった方がいいだろうってことで、
村杉温泉の長生館だけに寄る。
まず杉村温泉足湯の側の飲泉所で、
温泉水を汲んでから長生館へ。
この宿には、26℃のラジウム源泉風呂がある。
ヌル湯と言うより、寒湯だが。
暑い日々はもう終わり、
サクッと雨が降ったようで、この日気温が低く、
真夏なら26℃も気持ちいいだろーに、
寒くて寒くて「遅かった!」と無念。
出湯華報寺共同浴場なら、
適度なヌル湯が楽しめたのだが…

しかし冷たいとはいえ、
ラジウム泉の不思議なところ、
私は歩くバランスが悪いのか、
臓器が疲れてるのか、
いつも右足の裏に、
筋肉がつってる部分がある。
普通の風呂ではいくら揉んでもほぐれないのに、
ラジウム泉で揉むと、短時間でほぐれる。
ホントにあっという間だ。
栃尾又のラジウム泉でもそうだった。
左手の浴槽が源泉風呂。
冬は確実に入れないだろう。
すぎ
感じようとすればするほど、
温泉の泉質というか、
湯の特徴と言うか、
その微妙な違いが分かってくる。
要は、湯のエネルギーを感じるようになってくる。
でもって、自分の身体に意識を向けると、
それに対して、身体の反応も分かる。

Mが、源泉風呂のとこに張ってあった
「彩雲」と書いてある張り紙を、
「彩雪」と読み間違える。
よく読んでみ、と言ってるのに、
「彩雪だ、何が違うのか」と言い張る。
何回言っても気づかないので、
「雲だろ!!よく見ろ!」と怒ったら、
初めて気づいた。
「れんげが間違って…」などと言ってるけど、
間違わないよ、フツー。

狙ってた手打ち蕎麦屋が、
ことごとくやってなかったので、
五頭で有名らしい釜飯屋「山茂登」に入る。
注文来てから炊き上げる、とか。

ここでもM読み間違え。
割り箸の袋に「山茂登」と店名が入ってて、
上に「やまもと」とフリガナがふってあって、
私は、山茂登って、やまもと、と読むのか、と
フツーに思ったらMが、
「これ『やまちと』って読むんだね!」とおバカ全開。
やまちと??
何でだよ!
一度ならず二度までも!

「本当にやまちとって書いてある?
 もう一度読んでみなよ」と、
最初は穏やかに言ってるのに、
「やまちとだ!何が間違ってるんだ!!」と、
よく見もせずに跳ね返す。
跳ね返す。
自分が正しいと言い張る。
あまりに強情なので、
「『も』が『ち』に見えるのか?!アホ!!
 何歳だ、貴様、
 なぜ人の言った事をきちんと受け取らない?
 なぜきちんと見ない?
 温泉でもそうだったけど、
 何で自分が正しいと思い込み、
 他人の言うことを跳ね返す??」
と、言いたくもない説教を。
学力の問題はともかく、
思い込みの激しさと、
言われてるのにそれを跳ね返し、
間違いを認めたくないってのにカチンときた。
今度は、空が間違いました、とか言ってるけど、
人格のせいにして、
逃げてないすか?
かまめし

雨が降ってきた。
一時的に激しくなり、
キャンプ場まで、
あと1キロぐらいしかないのに足止め。

管理人の人は、用事があってずっといないので、
着いたらそっち行くから、
夕方に連絡ちょーだいと言われてた。
でも結局、
明日の精算は朝でいい、鍵開けてあるから、
そのまま勝手に入って、と言われたので、
それをいい事にタラタラしてたら真っ暗。

少し雨が晴れて来たので、キャンプ場へ。
暗いので、あやうく看板見落として、
五頭山へ入ってくとこだった。
今は経験もあるし、ナビもあるから、
道を間違う事はまずないが、
昔は、道に迷って、
ここは四次元か、クラインの壺にはまったかと、
泣きそうになりながら走った事も多々あった。
それも今となっては懐かしい。
死にそうに怖かった経験も、
全て楽しい思い出に変わる。

さておき「暗いから気をつけて」と言われてはいたが、
ホント暗い。
暗い!
しかもライトを忘れたと来たもんだ。
駐車場にあった看板で、
バンガローの位置を確かめたけど、
見えないってのは致命的だな。
場所的に、こっちだろうと歩く。
Mはやっぱり方向音痴。
でも、方向音痴ってのは、
要するに慣れてないだけで、
地図なんか読めなくても、
自力で行くしかないと思えば、
そのうち読めるよーになるだろ。
言い訳じゃ。

バンガローの中に、ゴキの小さいのがいた。
Mがホウキで掃き出す。
二匹目も発見。
掃き出す。
うーむ…
不潔はイヤだ…

瞑想してたら、バタバタッと、
屋根に時折落ちる雨の雫?の音が、
気になって落ち着かない。
ネガティブな感情が湧いてくる。
五頭山の自然で、
リフレッシュしようと思ってたけど、
不潔さや音などが気になって(Mにも)、
あの奇跡的な体の軽さはどこへやら。
翌日朝は、スッキリしなかった。

Mによると、ここの山に白い鹿が出るらしい。
事務所に写真が貼ってあったとかで、
ヌシがいるんだよ!と言ってたが、
それMに言われたの、キャンプ場出た後だった。
早く教えて欲しかった。
写真、見たかった。
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出羽三山巡り・羽黒山 2012年09月11日16:18
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前日、出湯温泉の、
華報寺共同浴場に入らなかったので、
せめて足湯の飲泉所で、
源泉を汲んで行こうと思った。
華報寺共同浴場の単純泉とは、源泉が違う。
出湯温泉・弘法の足湯は、ラジウム泉。
それにしても空海は、
南から北まで足跡があるのが凄いなと。
しかもいつも温泉を掘り当ててる。
期待しつつも、足湯は10時から営業で、
鍵がかかっててお湯は汲めなかった。
断念して山形、鶴岡市へ。

この日の予定は、羽黒山。
出羽三山は、羽黒山、月山、湯殿山からなり、
順番的に、羽黒山(現世利益)→月山(来世、死後の体験)
→湯殿山(生まれ変わり)、と回るらしい。

新潟から山形へ、
日本海側の一般道をひたすら走るルートだが、
高速、有料道路がけっこう伸びてた。
私の持ってる数年前のツーリングマップにはなかったし、
去年買ったナビにも、なせが入ってない。
伸びた分、ナビが混乱してる。

新潟県の新発田市には、
濃ゆい温泉が色々あるらしーが、
時間ないので寄らない。
いつかじっくり回ろう。
途中、新潟県朝日町の道の駅の温泉で、温泉を汲む。
だけ。
時間がないので入らない。
施設の中に飲泉所があるらしーので、
そこで係りの人に汲んでもらった。
基本的に持ち帰りはやってなくて、
お風呂入って、その場で飲む形なので、
あまり時間をおかないで飲んで下さい、と釘を刺される。
確かにお湯は時間とともに劣化する。
鮮度は命だ。
何事も。
Mが数日前に、
やると思った時にやれ、
時間が立つと、気力も何もかも落ちる。
そのうちそれに慣れて、
やらない状態が心地良くなってしまう、
というメッセージを貰ったと言ってた。
チャンスも逃すし、先延ばしはイイ事なし。
ちなみに「笹川流れ」が有名らしいが、見るヒマもなく。
途中雨にあうが、次第に晴れる。

羽黒山の山頂には、
羽黒山、月山、湯殿山の三山の神を合祭した、
三神合祭殿がある。
2446の石段と杉並木を歩いて登るのだ。
上まで車で行けるけど、
こーゆーのは、下から歩かなきゃ意味がない。
途中国宝五重塔もある。
Mは、石段の途中の茶屋で、
蕎麦食べるんだと言ってる。
また食べること…

実は6、7年前、羽黒山宿坊「宮下坊」に泊まった事がある。
精進料理は美味しかったが、
近所のおばあさんの味付けで、
やたら甘かったのを覚えてる。
朝の祈祷で、でかい札(何て言うのか分からない)
を貰ったんだけど、神棚がないと言うと、
神聖な物なので神棚がなければ渡せない、
こちらで預かる、と言われ、厳しいんだな、と思った。
月山登山なども案内してるらしい。
当時は山登りなんてまるで興味なく。
むしろイヤ。
近くの映画村なども案内すると言われたんだけど、
次の目的地まで走んなきゃならなかったから、
丁重にお断りした。
何だかんだ言って、羽黒山には4回は来てる。
ツーリング初年に、Oとも来てるし。

昼過ぎに着いた。
相変わらずの杉並木。
石段は疲れる。
歩いて、歩いて、
石段の途中の茶屋で水を買って少し休む。
その時、ちょうどSから電話。
財布なくしたり、子供のアレルギーあったり、
最近良くないことが続く、らしい。
「良くないこと」
一時的に見たらね。
良い・悪い、幸・不幸など、
人はすぐ物事をそう判断するが、
長い目で見たら、ただの経験だ。
自分の中の何が原因で、それを引き寄せ、
何を自分に教えてくれてるのか。
悪い事や不幸、苦しみ、悲しみなどは、
自分を見つめるチャンス。
ポジティブな体験だけしたいなんてのは幼稚だ。
Mの物忘れや物を失くすのは、
尋常じゃないけど、
あれはまさしく意識がどっかにぶっ飛んでて、
「今を生きてない」って事だ。
今を生きなければ、過去のパターンを繰り返すのみ。
私だって一瞬一瞬、そこに生き、
常に新しい選択をし続ける事を、心がけてるけど難しい。
同じパターンを選ぼうとするエゴ、人格。
これは、自分の思考との戦いだ。
結局やらなきゃないのは、
ここなんじゃないか。
見つめるべきとこはここしかない。
自分の思考を崩し、パターンを変える事。
パターンを変えるのは容易じゃない。
エゴや人格に気づき、離し、
一瞬一瞬、意識的に生きる努力が必要だ。

そのまま頂上へ。
朝から疲れがとれない感じで、
黙々登る。
何だかイラっとしてる。
朝、雨が降ったらしく、
濡れてるのも影響してるかもしれない。
私は湿気が苦手だ。
神々しい杉並木も、陰な感じで、
濡れてるのが、気持ち悪い。
だらしない人格もいるのに、
汚い事を極端に嫌う人格もいる。
だからキャンプ場という場所も、
楽しむ人と、
汚くてイヤだという人がいる。
この強迫的な部分は、
ジメジメした湿気と、特にトイレに関して出る。
とにかく気持ち悪い。

頂上に着き、瞑想を試みるが、
後から登ってきた、ババ達が、
大声で話してたのにイラつき、集中できない。
上で待ち合わせしてたのか、
ジジと合流し、早かったな、とか大声で話してる。
このイラつく気持ちを言葉にするなら、
「ここは神聖な場所だろ、下界じゃねえ、
 私はここで瞑想したいのに、
 ウルサくて集中できない!」って感じか。
私は、ちょっとした音に過敏に反応したりする。
不眠とはほとんど縁はないけど、
ちょっとした物音で眠れなくなったりはする。
大勢で瞑想してる時とかも、
誰かが「ハァ〜」と大きく息を吐いたりすると、
途端に気になって、
イライラして集中できなくなる。

そんな感じでイラつきながら拝んでると、
「マリー・アントワネット」って名前が浮かぶ。
マリー?
「散財し、民衆の反感買って絞首刑」字余り。
俳句になってしまう。
朝日新聞の日曜版にベルバラの四コマが連載されてる。
こないだは、マリー・アントワネットの、
別荘にかけた費用やら、民衆の反感がどうとか、
そんな事が書いてあったのを読んだ。
それと何が関係あるんだ?と、思った。
私のイラつく人格が、
民衆の声を聞かない=他人の声を聞かない=人と繋がれてない、
みたいなことか?と思った。

人にはそれぞれ生きる道があり、
別に神社で騒いだっていいんだけど、
私がうるせえよ、と怒ってるので、
身勝手だと言われたか?
それとも私が、ジメジメや不潔なとこが実は嫌いで、
旅に出る度に「キモイ」と思い、
綺麗なとこがいいって人格がいるって事か。

その事をMに話したら、
私のイラっとするとこや、
小姑みたいにウルサイとこを嫌うMが、
「マリーさん」と、
嫌味っぽく、チャカして何回も呼ぶので、
またイラっとした。
人の人格、勝手に作らないで下さい。
Mがいつものように、
コロコロ人格に乗っ取られてるので、
それにもイラっとする。
昨日の、小学生でさえ間違えないような、
字の読み間違えといい、
そんなんでいいの?とサクッと説教してしまう。
一通り拝んだ後、
参集殿の喫茶で、抹茶とごま豆腐セット。
IMG_3025.jpg

降りてきて、坂の途中の茶屋で休む。
蕎麦と力餅、ところてん。
店の人が言うには、
朝、かなりな大雨が降ったらしい。
今は快晴だけど、そのおかげで、
下から登って来る人が少ない、と。
久しぶりの雨だったので、
木々は喜んで…と話してた。
マイナスイオン浴びれて、独占できていいでしょ、と。
確かに。
そして、受け取り方によってこんなに違うんだな。
確かに草木は嬉しい。
私は湿気や水気が、最近気持ち悪いと感じる。

いつからこんなに潔癖になったのか。
小さい頃からサクッとはあったけど、
アパートに住んでた時、
実家のだらしなさ、不潔さが、尋常じゃなく
(特にトイレや風呂場といった水場が)
気持ち悪さを感じていた。
でも一緒に住んでたから、
汚さにはある程度麻痺していた。
時々実家に帰ると、相変わらず汚くて、
あまり居たくないと思うようになった。
で、昔の不潔さを思い出し、
フラッシュバックするよーにもなった。
それと、数年前に住んでたとこが、
いわくつきの山のてっぺんで、
年中、霧や湿気が多く、鬱々してた。
そこで体調も崩してる。
で、体質的に湿気が多いと、
身体がダルいとか痛いとかがあるなと分かった。
安いキャンプ場やら何やらを回ってるうちに、
そんな昔の記憶がイロイロと蘇ってきて、
年々気持ち悪さを感じるようになっってたんだ。
ずっと黙ってたけど。

羽黒山下りて、道の駅みかわで、
夜つまむ物を買う。
長沼温泉・厚生館に素泊まりだから。
庄内に来た時の定宿。
いつもお世話になってるので、お土産も買う。
で、「菜の花温泉でんでん」に寄る。
ここも、ずっと行こうと思って行けなかった温泉だ。

源泉が二種類。
源泉温度がぬるい、無臭の薄黄色のお湯と、
でんで
私の好きな油系、臭素臭?の強い、茶色いお湯。
でんでん
この独特の匂い。
色、臭い共に、新潟長岡市の、
えちご川口温泉と同じ。
臭いだけなら、
新潟の雪だるま温泉、龍ヶ窪温泉、妻有温泉系。
「まるで灯油」って感じの油臭に次いで、好きな匂いだ。
香しい。

私達にしては、かなり早めに宿に着く。
とにかく私は、不機嫌で、
すぐイライラする人格が出ていた。
相変わらずイイ香りの油臭をかぎながら、
何とかせねばイカンと思った。

夜瞑想すると、Mが、
「明日は、主人格で登らないとダメだ」と言われたらしい。
「人格のせいにして逃げてる。全てはお前の責任だ」と。
おバカな子供らが暴走するか、
良子が強迫でうるさいかだったから、
心入れ替えて頑張って下さい。
私も、イラついたままではダメなのだ。
受け取れない。
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出羽三山巡り・月山登山 2012年09月11日15:15
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数日前の天気予報では晴れだったのに、
朝から激しく雨。
よりによって、月山登る日に。
月山登山は、ある意味、メイン・イベントだってのに。
で、本当は朝早く出発する予定だったけど、
少し様子を見ることにする。
私的には雷が心配。

厚生館さんでは、
素泊まり料金を安くして貰ってる上に、
今回も立派な朝食を作ってもらった。
しかも早く出るって言ってたから、
早めに用意してくれたらしい。
本当は八時ぐらいには出る予定だったのに、
この雨で、足止めくらってる。

実は朝食で肉を頂いたんだけど、
命や好意はムダにできないので、
浄化し、感謝して食べた。
浄化の時、Mが「軽くなった」と言う。
私はこういうの感じるのは鈍いけど、
とても美味しいと思った。
女将さんの好意もあるだろう。
浄化終了時「豚さんが笑ってたよ」と言うとこが、Mらしい。
そして子供だろう。
この日、肉を食べる事で、
ゆっくり噛んで食べる事を思い出した。
普段いくら野菜中心に良いもの食べてても、
この「きちんと噛んで味わって食べる」
という感覚を忘れてたので、
貴重な朝食タイムだった。
IMG_2071.jpg

八合目からの登山は、
ガイドによると往復五時間。
前にも一回登った事があるけど、
そんなにはかからなかった。
でも四時間はみといた方がいいって事で、
昼頃から雨が止み始めるという予報だけど、
11時には何があっても出たいと思った。

Mも、今日登れるか心配してたが、朝瞑想で、
「登ろうと思えば登れる」ってメッセージ。
私もOSHOタロットの「祝福」のカードが思い浮かび、
楽しむのに「雨風に関係ない」と思った。

雨止まないかな〜とダラダラしてるうちに、
時間は過ぎてく。
朝ほどではないとはいえ、
雨は止まない。
雨の日に出かけるのは、特にバイクは大変だ。
それもあって、私も腰に根が生え始めた。
11時過ぎたので、もう出ようと言ったものの、
Mは廊下のマンガ本を見つけ読み始めるし、
私もなかなか準備が進まない。
この日は山形市の温泉に宿泊予定で、
そんな遠くないとはいえ、
月山降りてから、2時間はかかるだろう。

12時になってしまったので、
もうこれはタイムリミットだと、
無理やりMに「何やってんの、もう出るよ」と言うと、
何だかグズグズ言ってる。
Mは、どれぐらい時間かかるか、
全然把握してないから悠長だ。
雨のせいで、登る気も失せたらしい。
イラつきながら、
月山八合目まで急ぐ。

羽黒山から、月山八合目までの道は狭くなる。
下ってくる車とすれ違う時、ヒヤっとする。
雨で視界が悪いし、もしバイクを見落とされたら、
と思い、注意深く走る。
Mの強迫を引き出すには充分だった。

駐車場に着いた途端、
「本当に登るの?帰り霧が出たらどうするの?!
 帰り、暗くなって、霧が出たら…」
と、強い不安をぶつけられる。
私も不安になり、ヤバイかな、止めようか、と
思ってしまうほどの勢いだった。
しかし、だったら何の為に来たんだ。
「ここまで来て、登るに決まってるでしょ」と言うと、
「中止するのも勇気だよ!私達は素人なんだから!
 あそこで(八合目レストハウス)で、
 今日登れるか聞いてからにしよう!!」
と強くグダグダ言うので、
「他に車止まってるから、大丈夫だよ」と言うと、
「私達は素人なんだから」を連発し、キレ始めた。
私も、Mの朝の態度、人任せで悠長な態度と、
この強迫の態度に頭に来て、
「朝、行こうと思えば行けるって言ってたじゃん!
 自分が怖いからって人を攻撃的すんな。
 だいたい帰り暗くなって、
 霧がどーたらと心配すんなら、
 何で私が急かすまで、ダラダラしてたんだ。
 こんな言い争いしてる時間がムダだ!
 明るいうちに下山したいなら、今すぐ歩け、
 ふざけんな!」と怒鳴った。
良子は私を激しく睨み、
私はトイレに寄りたいんだとかなんとか言って
怒ってトイレに行ってしまったので、
M良子を置いて、私は登り始める。

登り始め、若いカップルが降りてくる。
コジャレた今時の「山ガール」スタイル。
やっぱりいるんだな〜と思った。
まあムサイよりシャレてる方がイイ。
ホラ、誰もお前(M)みたいに、心配なんかしてないじゃん、
て、心ん中で思う。

岩場の登山道は、集中して歩かないと足場が危うい。
Mへのイラつきは、すぐ吹っ飛んだ。
Mを確認すると、ついてきてる。
Mも、攻撃態度はソッコー消えたようで、
「Sちゃ〜ん!」と、不安子供になってる。
私は、萌え嫌いなので、全然カワイくないが、
あれは苦労してるようだ。
苦労しろ。

雨が晴れてきた。
風の強い場所では霧も晴れ、
庄内平野が見渡せる。
月山1
月山3
下はもう日が出てるようだ。
山歩きも結局、
バイクと一緒で、一人黙々歩く。
歩くことに集中せざるを得ない。
耳鳴りしか聞こえない、山の静寂。
ある意味瞑想に近い。

九合目の休憩小屋に着き、水を買う。
管理人の女性と犬がいる。
Mは何回も転んだと言う。
人格に乗っ取られ、
意識が離れたりすると、転ぶらしい。
何回も派手に転んで痛い、と言ってる。
「登り始めてすぐ主人格が、
『私は意志が弱くて、いつもダラダラして、
 しかも強迫が強くて、やりもしないですぐ諦めて、
 Sちゃんがいなきゃ何もしてない。
 感謝しなきゃダメだ』と思った」と言った。

ここは風が強めだけど、
静かだ。
下界の喧噪を離れ、シンミリ。
山小屋に泊まりたい、という気持ちが湧いてきた。
また、ひたすら歩く。
    月山2
頂上の月山神社15:30到着。
撮影禁止なので、外から。
月山神社
ちょうど2時間かかった。
月山だけに、狛犬ならぬウサギがいる。
「今は地道に自分の内面を見つめる時」
目を瞑ると、月山の広大な風景が広がる。
太陽が出てきた。
暑くて汗ビッショリになったが、
月山神社で風に吹かれて、今度は寒くなってきた。
手が冷たくなる。

10時頃朝食を頂いて、
消化の遅い肉とか食べたし、
しばらくいらないなと思ってたのに、
頂上に着くあたりには、すでに腹が鳴ってた。
快調に消化してる。
山登りが効いたらしい。

下り、九合目の休憩小屋でまた水を買う。
甘酒飲む。
Mは、おでんとか食べたがってたけど、
あましゆっくりもしてられない。
16:40。
上に15分〜20分ぐらいいたとして、
ここまで1時間弱。
犬が可愛い。
ここを管理してるおばさんは、
あと一ヶ月泊まり込みだと言う。
一人で犬と寝泊まりか〜、
楽しそうだな、いいなぁと思った。
晴れれば星は綺麗だろーし、
この沈黙の中、
一人夜を過ごすシチュエーションを考えると、ワクワクする。
キャンプ場は、自然の中だけど、
整備されてるし、といって、
設備が綺麗なとこばかりじゃない。
景観も良いとこばっかじゃない。
キャンプするなら、
キャンプ場じゃない所の方が、ホントはいい。
でもってジメジメは嫌いだ。
だから山小屋。
霧が出てても、カラっとしてるっつーか、
こういう高い山の清々しい空気は。
いつか、泊まろう。
ウツも過呼吸もパニック障害も、
山登らせて、山小屋に放置すりゃ絶対治る。

とにかく、孤独が寂しいと思う反面、
孤独好きなとこもある私。
昼は登山客に軽食を出し(これはちと嫌か)、
犬一匹と、
静まりかえった山の夜を過ごすのを想像し、
ロマンに浸ってた。
なので「ああいう山小屋の仕事どう?」とMに聞いてみた。
「いいね〜」と言う言葉とは裏腹に、
Mは、そこから、
いつもの良からぬ妄想が始まったらしい。
良子が「登山客に襲われる」と。
だから〜、そういう被害者意識持ってるから〜、
加害者を呼び寄せる。
全て引き寄せの法則。
嫌だ嫌だと、結局そこに意識を向けてしまう。
M主人格が、強迫されてるM良子に、
「いつもそんな事想像して。襲われたいの?」と話しかけたら、
良子は「そんなわけない!」と激怒したらしい。
そこで主人格が「そんな事思ってると、そんな目にあうんだよ」
と諭したらしい。
怖い怖い妄想。
人によって怖いジャンルは違うが、
これも根強いな。
そんな考えが浮かぶ度に、手放し、手放しだな。

八合目駐車場近くまで降りていくと、
登ってくる若い女子とすれ違う。
20代ぐらいの、やはり今時な子だが、
今時間に一人で登るなんてスゴイな。
時間的に、今日は上で泊まるんだろーけど、
一人で山小屋泊するんだ、と、
何だか、元気や勇気を貰う。

Mの姿がまた全然見えなくなった。
足場の岩場がキツくなったからだ。
私は昔から、岩場歩きは得意だった。
ストレートな徒競走はダメだったが、
障害物競争の方は速かった。
田舎で育ったからか、何かのDNAか。
Mは、あまりに遅く、
それまでも何回か心配になって、待ったりしたが、
山ガールとすれ違ったことだし、
もし何かあれば、
さっきの山ガールが発見するだろう。
と、待たないでどんどん下りる。

そーいや、メレルのモアブ、なかなかいい。
アウトドア専門なんで、
かなり丈夫。
歩きやすいのは勿論、
メッシュ部分が普通に見えて、
ゴアテックスとはいえ、
雨に降られたらどうなのかな〜、
なんて思ってたけど、全然濡れないし。
最後の方、さすがに疲れてきて、
私も三回転んで、
水溜りに足突っ込んだりしたけど、
水の侵入なし。
しかもムレない。爽やか。
さすがミリタリースペック。
そんな感じで、
月山歩いてるうちに何か吹っ切れ、
最後は転ぶことすら楽しんでた。
子供の頃、全力で走って、
わざと草むらにコケて、
楽しんでたことあるけど、
あんな気分。

今度は、30代ぐらいの男子とすれ違った。
大きな荷物なので、本格的な登山か、
上に何か運んでるスタッフの人か。
どちらにしろ、上に泊まるのかな。
いいな。
遠〜く後ろの方で、かすかにまた、
キャーというベタな悲鳴が聞こえる。
もう何回目なんだ。
何かあれば、あの男子が発見してくれる。

八合目駐車場に着いたら、綺麗な夕日。
結局Mは、十数回転んだらしい。
あまりの自分の情けなさに、
最後には泣きながら歩いたと言う。
最後にすれ違ったお兄ちゃんは、
九合目のおばちゃんが電話をかけてた相手で、
きっと息子だろう、とか空想した瞬間、
かなり派手に転んだらしい。
「歩くのも遅い上に、すぐ人格に乗っ取られ、
 意識飛ばしたりして、転び、
 いつもSちゃんを待たせる自分が情けない…」
と、泣いたとか。

下りは1時間半ぐらいだった。
往復3時間半。
月山八合目から下る時、
UFOだ〜とか言って撮った。
UFO雲は小さすぎて見えないが、
デカイのも不思議な雲だった。
月山雲

山を下り、宿泊先の、山形市大野目温泉へ向かう。
山形道に乗り、終点で月山道路へ。
月山道路からまた山形道へ入って、
寒河江SAで軽く夕食。
Mが、このSAをやたら気に入ってる。
明日も寄りたいと言う。
Mはリピーター率が高い。
ここで土産を買うと言う。
確かに無添加のアラレとか、
塩だけのヨーグルトとか(これがクセになる)、
地元に密着した感じで、けっこーポイント高い。
無添加ではないだろうが、
食堂も素朴な味で、意外に美味しい。

大野目温泉に着いたのは九時過ぎ。
ここは、山形一の湯量を誇るという。
温泉好きには評判が良い。
もちろん源泉掛け流し。
そして、素泊まり料金も安い。
泊まらない手はあるまい。
Hも誤解してたが、
私らは、一泊二食付きで泊まることは滅多にない。
素泊まりか自炊。
自炊宿は、昔ながらってのが多く、
私の中の潔癖症は、綺麗なとこがいいんだけど、
温泉の質や、低料金て事で納得してる。

ここは市街地に近く、建物が新しいので、
最近掘ったのかと思ってたら、
戦後あたりにボーリングしたらしい。
結構古いんだなと思った。
お温は、茶色く、金気・土類臭。
キシキシする。
24h入り放題!
ドバドバいってるこのパワー!
湯量豊富なだけに、シャワー類も源泉。
キシキシしすぎて、髪は洗わないとMが言う。
あんなに汗かいたのに。
フケツ。
大野目
↑朝の大野目温泉。
泉温47.6℃なので、長湯できないかったけど、
気持ちよかった。
お湯は鮮度が命。
何事も鮮度が命!
明日は湯殿山。
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出羽三山巡り・湯殿山麓呪い村って映画があったな 2012年09月11日13:19
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最近気づいたんだけど、
山形って、月山、朝日連峰と、
県の中央に高い山がドッカリあるんだな。
どーりで。
山形の酷道には泣かされた。
日本海側へ抜ける道も山ん中。
今回も、月山道路行ったり来たり。

最終日、快晴。
こないだ行ったばっかだけど、湯殿山。
ブナ林とかあるからか、
羽黒山の杉並木とはうって変わって、
カラッとしてる。
ジメジメが苦手な私は、
こういう山が大好き。
IMG_1676_convert_20120911131958.jpg
今回は、時間に余裕があるので、
御神体のとこまで、シャトルバスは使わずに、
行きも帰りも歩く。
Mが、主人格で回ると決めたはずなのに、
人格に乗っ取られてる。
踊ったり、鼻歌歌ったり。
フワフワした歩き方でも、誰なのか分かる。
この出羽三山巡りで、Mは、何を手放すのか。
月山と違って、歩きが厳しくないので、
完全にコロコロと人格憑依状態。
その度に指摘するんだけど…

参道、御神域に入るとやっぱり身体が軽い。
この先撮影禁止。
IMG_3606_convert_20120911132031.jpg
入り口には撫で牛がいて、
「も〜ちゃん♪」とMが、また…
イイ年して、完全に子供に乗っ取られて。
おととい「いつまでも人格のせいにして」と怒られたのに。
肝心の主人格が、いつも逃げ、
人格を放置し、人格にやらせようとしたり、
人格のせいにしてると、
怒られたのに。

御神体からは、相変わらず、
高温の茶色いお湯が吹き出してる。
やっぱり温泉自体も、
パワースポットなんだな〜と感じる。
目を瞑ると、月山同様広〜い自然の景色が広がる。
言葉は特にナシ。
御神籤引いたら、やっぱ「地道に一歩ずつ行け」と。

湯殿山神社境内にある、
御神体の足湯、熱くて浸けてられない。
舐めたら、鉄味で、若干苦みがあり、しょっぱい。
石垣を見ると、蛇が二匹、
ニョロっととぐろ巻いてた。
暑いから、涼んでるようだ。
そーいや、さっき、参道でもデカイ蛇が逃げてった。
柄からするに、同じ種類のようだ。
蛇の柄、母は「美しすぎて気持ち悪い」と言った。
確かにうちのヒヨコの模様も、
羽の生え変わり時期など、
抜けた羽見てると、規則正しくて、
気持ち悪くなる。
ヘミシンクのモンロー教授によると、
蛇は大地と調和してる優しい存在だ。

触りたくなった。
蛇の腹をなでてみる。
そうそう、このブニュっとした感触。
子供の頃、蛇を触った事があるし、
動物園でも、でっかいニシキヘビに触った事あったな。
Mも、触りたい〜とはしゃいでる。
子供だ。
Mが触ると、蛇がビクっとしてる。
二匹目もそうだ。
触った瞬間、ビクつき、
終いには、震え始めた。
「何で私が触ると蛇が震えるの〜?」と言ってたが、
アナタの緊張が伝わったのです。
せっかく蛇はマッタリ涼んでたのに、緊張させて。
「噛まれたらどうしよう」って怖さがあったらしい。
私は頭の形確かめたけどね。
毒蛇じゃないから大丈夫だよ。
それにしても動物って鋭いな。
素直だな。
熊に襲われるのも同じ原理だな。
だから「怖い」とか思ってると「襲われる」と。

湯殿山参籠所に戻り、
いつものよーに、御神湯に入る。
ちょっと酸っぱい鉄味、炭酸の冷鉱泉。
御神体湯

山形と言えば、ぶっとい田舎蕎麦。
手打ち蕎麦屋はだいたい15:00まで。
御神湯入ってる時点で15時なので、
夕方、夜もやってるとこを検索。
東根市にある蕎麦屋「伊勢そば」に行く。
十割ではないと思うけど、この太さに満足。
そして量も多く、腹が苦しい。
そば
Mは顎が疲れると言うが、
蕎麦は噛んだ方がウマい!

まだ外は明るい。
いつも時間に追われるので、
こんなに早いうちに(17:00)、
予定をクリアするのは珍しい。
どっか寄りたい。
しかしこの近場の道の駅も、何回も行ってるし、
近くにある、古代海水泉を謳う、
「海老鶴温泉」も一回行ってるし。
東根温泉も入ったし、
本当は、山形蔵王の方にある、
「うわの温泉・天神の湯」ってのに行きたかったんだよな〜。
「海老鶴温泉行こうか」と言うと、
もう温泉はいい〜とMが言う。
疲れるからいや〜。
しつこく「行く」と言ってると、
嫌がらせだろ、と言われる。
ハイ、嫌がらせです。
おとなしく帰る事にする。

途中の山越え国道に茶屋がある。
そこ、まだ開いてたんで、
数年ぶりに寄ってみる。
最近はこの国道通っても、素通りしてた。
麦茶を出される。
お客さんには、いつも茶を出してる。
東根団子を買ったら、
おまけに一本貰った。
ゆっくり休んでって、と言われたが、
そろそろ店じまいだろう。
ダンゴ
初めてツーリング出た年も、ここで休んだ。
本当に当時は、何でもワクワクしてたなあ。
あの頃の思いカムバック。

生まれ変わるために、
帰ったらまた、地道な努力だ。
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▲△▽▼

山形日帰り再び - We Will Rise OE/HSPな日々
山形日帰り再び 2017年01月21日20:44
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Aさんから譲られたファンカーゴで、山形日帰り2回目。

そーいや前回、Mが、道の駅でファンカーゴに、
「僕、ジャック!」と名乗られたとか言って、
ジャックだかジャッキーだか、勝手に変な名前を付けて呼んでる。
まあいいけど。
そのジャックは、後ろに傷があり、
多少凹みもあるけど、頑張ってくれてます。

オートマ、手元のギア、フットブレーキ…
タイヤがやたら小さく見えるなぁ。
バイクより小さいし。
ワンちゃんデカかったんだなぁ。
攻める車以外、車と思ってない私だけど、
車検代だけで乗れるなど、本当にありがたい話です。

先週は、こちらは雪がなくて、山形も少しだけだったんだけど、
急に寒波が押し寄せ、雪模様。
Mは、一週間続けて仕事したご褒美に、
温泉と蕎麦!と意気込んでいたので、山形は雪っぷりであろう事を予想して出発。
家を出て早々、「晴れて良かったね!」とM。
甘いね。こちらは晴れてるけどね。
地域が変われば天候変わるという基本を分かってないM。
そして、奥羽山脈を越えるのだよ。

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案の定、県境に向かうほどに降雪量が増し。
雪が降ってきた。

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でも冬はこうでないと。

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今日の予定は、先週行けなかった「東根温泉」と、
2月頭の「山形冬まつり道の駅フェスティバルの抽選会」に参加するため、
道の駅切符を5つ集めなきゃならず、
こないだは4駅行ったんで、今回は残り1駅「道の駅にしかわ」で切符を貰う。
そして、東根市の蕎麦屋と、
その近くの「道の駅むらやま」にもちょっと寄る、という感じ。

「東根温泉」での日帰り入浴第一候補だった「小関館」は、
行く途中で営業時間を聞いたら、
「昨日の大雪でナンチャラが壊れて今日は入れません」とのこと。
で、第二候補以下の宿へ予定変更。
出来れば2軒ぐらい入りたいが、時間次第。

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山形と宮城を繋ぐ48号線沿に、除雪車の待機基地があるのを発見した。
(帰り)
ここはただのPAかもしれないが、除雪車は、
いつでも出動出来るよーに、スタンバってた。

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雪降りとはいえ、まだそれでも黒い路面が見える。

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関山峠に近づくにつれ、雪はやはり。

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かなり怖がり始めたM。

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除雪車、新潟で見た除雪車とちょっとタイプが違う。
タイヤが斜めになってる!と喜ぶM。

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素敵な雪景色。
雪国って感じでステキ。
FFだからワンちゃんより滑らない?とMに聞かれたが、
(前の車の180SX)
180みたいにスタート時に滑らないぐらいで、
走ってる間はワンちゃんと変わらない。
滑るときは滑る。

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Mは恐怖に捕らわれ始め、ハヤハヤして、
山形に入る前から「今日は早めに帰ろう!」と言い出し、
(ミヤビのかなりな悪癖。朝起きた途端に「今日は早く寝よう!」
 と言ったこともある)
「まだ家出たばかりなのに、なぜ帰る話をするんだ!」と…

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確かに昨日までは雪なんてほとんどなかったから、
よりによってってタイミングだけど、
雪景色を楽しめばいい。

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山形東根市。うーん、さすが山形。

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ステキに雪一面。
全てが白い。

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まず、前回寄れなかった「道の駅にしかわ」に行くのだが。
月山方面、湯殿山神社に行く手前にある道の駅で、豪雪地帯でもありますね。
山形中央部は、深い山を通って、日本海側の酒田・鶴岡に出るのだ。
さすがにこの国道を通る車はあまりいなかった。

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自然環境は抜群ですが。

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裏手は月山方面なので。
どっからが国立公園か。

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撮って、と浮かれるM。

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ツララも撮れと。

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さすが雪国の月山山麓の山里。
乾物が充実。左手のは「弟切草」。
昔プレステのゲームで「弟切草」をやったけど、
西洋弟切草といえば、セントジョーンズワート。
私のよーなウツ気質のある人には良いハーブだが、
国内の弟切草の効能はどうなんだろうか。
ここらでは酒に漬けるらしい。買うかどうか迷った。

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こーゆー環境の道の駅で冬場なので、営業時間などを事前に確認したとき、
「産直コーナーは乾物しかありませんよ」と言われ、
なんだ、ないのか…って思ってたら結構あるじゃん。
地元の人の「ない」って…と思いつつ、
珍しいもんあるんでトキメキました。

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切り干し大根は試食があったので、
そのまま食べるのかな?と言いながら食べてみたら、甘くて美味しい。
裂きイカみたいな食感だし、オヤツになりそう。
これは目からウロコ。

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カタクリまで!
Mも「色んなの干してるねぇ」と言ってたが、
山菜から何から、塩漬けやら乾物やら、片っ端から干してるあたり、
さすが昔の冬は「陸の孤島」であったであろう月山山麓・西川町。
乾物類が充実してる。
野菜類も全くないのかと思ってたら、そんなにないわけじゃない。

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500円ギリしか買わない予定だったのに、こんな濃い、
日本蜜蜂の蜂蜜を見つけてしまう。

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このナメコも買ってしまった。
栽培物だが、あまりにもデカイ月山の恵み。

駐車場から出ようとしたら、車が動かない。
雪がそんなに積もってないのに。
「馬力がないからかなぁ?タイヤが小さいからかなぁ?」
とMは言って、後輪の周りの雪をどかしてたけど、
「これ、180じゃないから、後輪じゃなく前輪の雪どけないと」と。
前のワンちゃんの記憶でね。
少し雪どけたら動いた。
気をつけないとイカン。

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「ワンちゃん(180SX)は、滑るけどパワーあったから、
 これぐらいで動かないなんてなかったよねぇ」とM。
まあ、最悪チェーン撒けば大丈夫だったからね。
ワンちゃんで秋田や新潟の豪雪地帯も、
志賀高原近くの凍りついた峠も登ったんで、
(止まったらきっとアウトで、さすがに生きた心地しなかったけど)
国道なら大概きちんと除雪してるし、
気をつければそこまで怖くはないけど。

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次は東根市の蕎麦屋へ。
戻る。
このときは、晴れてはいたが…

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ワイパーが凍りついてきた。
見えない。
つか、景色が全部白くて、どこまでが道なのか見えない。
慎重に運転する。

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民家では、家庭用の除雪機で除雪してる人達が。

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山形の人達、大変だなぁ。雪国は。
冬の間、雪掻きに追われて。
ちょっとした雪掻きも疲れるってのに。
腰の弱い私なんて、結構ダメ。

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あちこちで雪掻き、雪降ろし。
車はワイパーが役に立たず。
降りては、氷と化してフロントガラスに張り付いた雪を取りつつ。

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道が本当に見えなくて、それがちとヤバかった。
裏道はホントヤバい。
案の定、車が1台、スピード出してて滑ったのか、
多分、対向車側の歩道の方に乗り上げていた。
3台ぐらい止まって、助けてた。

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民家はまだしも、実際、
道路とそうじゃない部分の区別がつかない。

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東根の有名な田舎そば屋「伊勢そば」着。
頑張ってくれてるファンカーゴ通称「ジャック」。
(Mがチャネリングにより命名)

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Mが「ここで雪を落としていかないと」と、
靴をはたきながら店の人に「アピール」すると、
(Mの良い子の傾向。他人にアピる)
「いいよ、中に入って」と言われる。

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懐かしい光景。
だるまストーブに子供のグローブが。
そして店の子供(孫)が、おじいちゃんの蕎麦打ちを見ていた。
Mが、祖父と孫の会話を聞いていた。

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これが噂のぶっとい田舎蕎麦。

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山形の田舎蕎麦はどこも太いが、ここのはさらに太くて有名。
たまらないです。

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付いてるデカイかき揚げも有名なのだが、
こちらはフツーの「天ぷら粉」で揚げたジャンクなかき揚げらしく、
食べた後、上前歯の裏の皮膚が剥けていた。Mも同じく。
でも野菜は美味く、蕎麦も美味しい。

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やはり、蕎麦は太い方が好き。
そして打ち立ての十割蕎麦ね。
碾き立て・打ち立て・湯で立てっつーのは蕎麦の極意だが、
アーユルヴェーダの理論とも一致。

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Mは、最近太い蕎麦の美味しさが分かるようになったと言う。
「前は、細くて喉越しの良い二八蕎麦が好きだったけど、
(なぜか女性に多いらしい。柔らかいもんばかり食べて
 顎の力が弱くなってんじゃないか)
 今はこの噛みごたえのある太い十割蕎麦の方が、蕎麦の味がする」
そりゃそーだ。

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細くてサラッとしたのがいいなら、素麺とか冷麦でいい。
蕎麦はやっぱ蕎麦の味がしないと。

顎が疲れる、と言ってた人もいたが、うちらは普段玄米とかしっかりした歯ごたえの野菜なんで、
噛むのには慣れてる。
でもMは結構、噛まないという…

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この太さ。たまりません。
日曜は15時で終了。

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雪は止むどころか、また降り出した。
Mは、恐怖でうるさくなってきた。
ちなみにこの車、まだ任意保険に入っていませんので、
気をつけて運転したいと思います。
(Aさんも、Aさんの友達の車屋も、私と似て結構ルーズ)

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Mは不安と恐怖で、顔がすでに引きつってます。

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ワイパーがすぐに効かなくなる。
この日の計画で、次は近くの道の駅に行くと言ってたのに、
「この雪の中を山に登って温泉に行くのか?」と、
突然言い出すM。
どこからそんな情報持ってきた?
「いや、ここらは山ないし、ずっと平野だし、山の中の温泉なんて行かない!
 そんで、次に行くのは道の駅!!」と言ったのに、
人の話を聞いてない。

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真っ白な景色の中を走ってると、また、
「こんな日に山を登って、山の中の温泉に行くのか?」とM。
お前は痴呆か???
そしてここが『山の中』に見えるか??
「次は国道沿いの道の駅だし、ここらに山なんてないし、
 最後に寄る温泉も山じゃない!」
って、また同じことを言う私。

道の駅は蕎麦屋から十数分ほどのところ(通常で)。
距離だって、10kmもない。
山などない、たかがこの区間の移動です↓

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道の駅も東根温泉も、大通りである国道13号沿い。
ただナビ通り裏道走ってるだけで。
仙台に抜ける帰りの48号線も近いし、
たったこんだけの移動距離と、普通の田舎の平野の地形だってのに、
恐怖で人の話なんて聞いてないし、
この広い「平野」が「山の中へ続く山道」に見えてるらしいし。

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Mの強迫は、根拠のない無知による過大妄想だが、
そもそも、ほんの少しでも位置関係、距離関係など、
地理を知っていれば(どんな人でも近場の地理ぐらい知ってる)
ここまで恐怖に囚われることはないんじゃないか?
無知が妄想に拍車かけてる。
「幽霊の正体見たり、枯れススキって言葉知ってる?」
と言ったものの。

いつも人任せで、住所すら知らないから「山の中へ行く」などと、
勝手に妄想して、恐怖妄想を膨らませてんでしょ。
まずはその「無知のままでいい」ってのを何とかしてくれといつも言ってるのに。
で、その無知にさらに勝手に「ネガティヴ妄想」して妄想を膨らませ、
恐怖で身動きとれなくなるM。
ずーっとそのパターン言ってるのに。

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運悪く、というか、このすぐ先で↑
ナビの指示通り近距離だからと、国道に出ず裏道走ってたら、
前方に見えた車が一台、斜めになってた。
道の区別がつかないから、道脇がちょっとした段差になってるのが分からず、
寄り過ぎて脱輪したらしい。
Mの恐怖はピーク。

Mが「道が見えないよ!確かめてくる!」と言って、出て行った。
斜めになってる車の脇を抜けようとしたが、
「道が埋もれてる!無理!進めない!」と騒いでて、
近づくと本当に雪がこんもり、誰も除雪してないので、
普通の車では無理っぽかった。

1台分ぐらいの車幅の道なので、バックするしかない。
道の区別が見えないので、Mの誘導でしばらくバックする。
倉庫の駐車場があったのでUターン。
「あの車の人に声かけたんだけど、恥ずかしいのか無視されたから、
 あの人ほっといて良かったよね?」とM。
「声かけて無視されたんなら大丈夫でしょ」と。
ずっと車の中にいたから、JAF待ってんだろうし。
うちら居ても役に立たないし。
で、国道へ出る。
13号線は車通りがそれなりに多いので全然オケ。

「道の駅むらやま」

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よく見かけるあの可愛い、尻尾の長い白黒の鳥っこが、
近くまで来てこちらを見てた。
餌だな。しかし何も持ってないのだ。

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結構近づいて来たのに、写真間に合わなかった。

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ここには欲しいもんがなかったので、最後の東根温泉へ。
Mマサミは怒っていた。
恐怖から被害妄想になっていて、私を攻撃してきた。
「あの車が崖から落ちてなかったら、Sちゃんは絶対進んでたよね!」
と何だか理屈タラタラ、要は、私が「無謀なことをする性格」なので、
『私がこんなに怖い思いをしてるのは、お前のせいだ』
と言っているのだ。

またMの根性悪い癖。しかも「崖」と来たもんだ。
私が「Mの気持ちも考えず強行に、山へ登る山の中の道を進み、
前方の車は崖から落ちていた」
というふうに、Mは認識していた。
違うでしょ。何の言いがかり?

雪で道の見えない平野で、車が脱輪し、
土手でナナメになってたってシチュエーションがまず、
山の中の崖になってるあたり、おかしいし、
私は何も強行もしておらず、次の目的地へ向かって必死で運転してただけ。
責めるいわれないどころか、むしろ感謝では?

悪天候の中の運転してる私は、お前よか疲れるぞ。
怖いからと自分で運転もせずに、助手席にいて、
私を怖がらせるのはお前とばかりに攻撃して、
「せっかく働いたご褒美にマッタリしようと温泉に来たのに…」
と、今度は誰のせい?
あなたが恐怖で疲れてるのは、
雪のせいでも私のせいでもありません。

私は運転で緊張はしたけどね。
そりゃ集中力使うから!
お前の恐怖妄想で勝手に疲れて、私のせいにされても困る。
自分の感情の責任は自分にしかないだろ。
このMの問題は、家に到着時にまた人格追求と話し合いになった。

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東根温泉「松の湯」。

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コーラ色の温泉です。

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東根温泉は、源泉により、若干お湯の様子が違うらしいので、
宿の温泉をハシゴしたいのだが。
松の湯は、東根温泉共同組合17号源泉。
実際は写真より濃い。

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硫黄臭と軽い油臭で、東鳴子あたりの温泉と味や匂いが似てる。
いい感じ。

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シャワーやカランも源泉。素晴らしい。
熱いと聞いていたが、ホースからの源泉が止まっていたので、適温だった。
しかし、源泉を入れようと蛇口を開け、
あまり熱くならないぐらいの量で掛け流し状態にして入る。

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Mは、惚けてた。
恐怖の後に意識が飛んだか。
マサミの後にオカメが出て来て悲劇の主人公になるパターンが、
サクッと見られたが(誰かのせいで、私はこんなに辛い目に遭ってる)
温泉では抜けてた。

Mは、身体が芯まで冷えてるので、なかなか温かくならない、
と、ずっと湯に浸かっていた。
上がり際に「湯冷めしないでね!」とお湯に言われたらしい。
「何でだろう」と言ってたが、
先週の寒河江温泉「ゆーチェリー」は濃く、塩分もかなり。
だから冬場でも湯冷めしにくいけど、
塩分少ないと温まり効果がね。
東根温泉は爽やかな感じで、温まりの湯というタイプではない。

そしてお湯にまで、
「無事に帰れるように力を貸して下さい」と頼んでたらしい。
どこまで怖がり???

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渋い宿。

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外は雪積もり。
早く帰りたがってたMじゃないが、
私も暗くなってからの雪っぷりの夜道を走るのを心配してた。
明るいうちに帰れるように早く出るんだったな、とか。

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しかし、雪道は逆に、夜の方が明るいということを忘れていた。

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昼の方が、一面同じ色で道路の判別もつかず、
見えにくいのだった。
夜になると道の境界もハッキリ分かる。空も明るい。

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光のイルミネーションの東根温泉。

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宿は何軒もあるのだが、にぎわいはそれほどなく、
(多分バブリーな頃は賑わったんじゃないか)静かな温泉地だ。

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やはり、すぐフロントガラスが見えなくなる。

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走って数分で凍り付く。

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13号線を南下し、48号線に入ったところで、
一旦車を止めてフロントガラスの氷を取ってたら、
後ろから追い越した車が停まり、
運転手らしい女の人がこちらに来た。
私は運転席にいて、Mが雪を取ってたんだが、Mと何やら話をしてた。
しばらくMと話をした後、その人は自分の車に戻ってった。

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わざわざ車降りて来て、何かアドバイスくれたらしい。
Mはその若い子にお礼を言ってた。
Mは、「これ、夏用のワイパーですよね?」と言われたという。
ワイパーにも夏用とか冬用があるとは知らなかった。

東北でも日本海側と太平洋側では降雪量がえらい違うので、
私は祖母宅で暮らしてた頃、雪だるま作りながら、
「かまくら作れるほど雪が降らないかなぁ」っていっつも思ってた。
なので「冬用ワイパー」なんぞ知らなかった。
そこまで「車通」でもないし。

確かに豪雪地帯に行き、雪がわんさか降ってると、
視界がすぐ悪くなるなと思ってた。他の車は平気で走ってるのに。
前のワンちゃんに関しては、ワイパーが古いからだろうと思ってた。
他の車はうちらみたいになってないから、
何でだろうな、とは思っていた。

わざわざ車降りて来てくれた方は地元人だそうで、
「今この状態だと関山峠は見えなくて走れないと思いますよ」
と言ってたそうだ。
Mは「東根温泉に泊まって明日の朝帰ろう!」と言い出した。
泊まる金ないんじゃ…
よくよく聞いたらその人は、
「戻ってすぐの13号線沿いにオートバックスがあるから、
 冬用のワイパーに替えて、帰った方がいいですよ」
と教えてくれたらしい。
なぜ泊まる、になったかM。

そして、
「ここであの人が降りて来てくれたのは意味がある!助けられたんだ!」
と騒ぐM。
「温泉に頼んだから、温泉が助けてくれた!
 あの人を遣わしてくれたんだ」とか何とか…

どうしようかと一瞬思ったが、とりあえずオートバックスへ。
オートバックスはすぐあった。
1本2千円ちょい。
今のうちらには痛い出費だが、仕方あるまい。
「冬用は太いんだって。カバーも付いてるんだよ」と、
嬉しそうに解説するM。

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ワイパー付け替え後の視界。
ありゃーやっぱ天と地だねぇ。

使用前と

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使用後。

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「お湯が遣わしてくれた天使」だとMはずっと言ってたが、
確かにあの地元の人の親切に助かった。
名前分からないけど、ホントありがたい。

一時弱くなった雪は、関山峠あたりでまた吹雪きになり、
除雪車が何台も除雪にあたってた。
除雪車出動基地でも何台もスタンバってる。
昼も夜も大変だなぁ。

Mは「除雪されたとこがボコボコしてる。
除雪車のブルドーザーが上げたり下げたりしてるからだろうか」
などと、何を気にしてるのか、路面の凸凹が気になる様子。
新潟で、綺麗に雪壁を作るタイプの除雪車を見たとき、
Mは「楽しそう!私もやりたい!」なんて言ってたが(ミヤビ?)、
道路も雪壁もキチッと綺麗じゃないと嫌らしい。

山深い地点で道の両側の木に積もった雪が、
重みで落ちてきて待って、突然視界が真っ白に。
真っ白な煙の中に突っ込んだような感覚で何も見えなくなるので、
それだけちょっと怖かったか。

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うちに到着。
こちらもそれなりに積もっていた。
山形の比ではないが。
この日は丁度こーゆー天候だったらしい。
Mのマサミは、まだ人のせいにして私に怒りをぶつけてたが、
1時間ほど話し合い。

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「頑張って働いた自分にご褒美だったのに」というM、
それが恐怖にすり替わってしまったのは、自分の問題であって→
自分が温泉行きたいってのに場所も把握せず全部人任せ、
それゆえの無知で、山の中の温泉に無理をして行くんだとかいう被害妄想で私を責め、
雪の中を走って滑る、ハンドル操作誤る、崖から落ちる
道が田んぼより高かったから脱輪した車で、
「あの車が崖から落ちてたから進まずに済んだ!」
「崖でも雪で見えないんだよ!こんな道を行くのか!」
というバカっぷりと攻撃。
雪の恐怖で本当に山道に見えてたのだろうか?
それでもMは引かなかった。

「それは例えであってなんちゃらかんちゃら」
「あの状況を山に例えて言っただけ。崖も例えで言った」(意味不明)
しまいには、
「気分的にそういう受け止め方だったからだ!!(何が悪い?)」

改める気ないでしょ?

第一段階の無知・人にお任せ態度。
恐怖を感じた途端、
こうだからこうなって、きっとこういう目に遭うに違いない、
と、先までネガティヴなヴィジョンを妄想、
全然「今の現実」を見ておらず、
全く根拠のない悪妄想炸裂で、勝手に怖くなり、
それを全て「自分の安全を脅かすのはS」と、
私のせいにして最終的に私を攻撃。
これがあなたのパターンですよ、と言うのに、Mマサミが認めない。

だいたいフツーにさぁ、
運転が怖いとゆーあなたに代わってずっと運転してたのは私で、
そんな私にありがとうでもなく、
朝からずっと、早く帰ろう、怖い、お前はいつも私を怖がらせる等々、
自分の妄想ゆえの不安や恐怖、
攻撃エネルギーを隣からぶつけられながら運転してた私の身になってみろ、
もし逆の立場だったらどうなのか?ってコト。

どこまで姫様なのか。
何もやらないで助手席でぎゃーぎゃーと。
と、言ったらマサミが、
「私が何もやらないだと?バックの誘導もしたし、
 フロントガラスの氷だって私が取った!
 私がいるお陰で、お前は無事に運転出来たんだ!
 お前1人じゃ何も出来ないくせに!それを何もやってないだと」

いつものことだが、勘違いが甚だしい。
また私はお前以上にやっている、やってやってる、という反論。

いつもの「私はしてやってる、自分は出来てる」勘違い。
しつこい。
しつこいわ。
私のことをしつこいと言うが、お前の人格の言い分の方が、
毎回針の飛ぶ壊れたレコードのようで、
繰り返し繰り返しエンドレスでしつこい!
しつこい強迫も、してやってる勘違いも、
全てはMの根本問題である共依存性から来てるんだから、
そこをキチッと見て下さいと。

後から反省文を書くということで、とりあえずは。
(そして内観すると言って口先で逃げ、翌日はビデオ見て、寝て放置。
その翌日にミヤビとマサミコンビがまた現れ、喧嘩ふっかけ。
だから内観しろって言っただろー!とまた喧嘩になり、
翌々日、やっとマサミが震えて、やっと反省文を書いた)

「道の駅にしかわ」の戦利品。
こんなに買う気なかったけど、黒豆は安かったし、
ヒラタケとナメコはデカいし、
人参は「雪の下人参」!雪の下に寝かせて甘くなってるとゆー。
カボチャも「ふゆうまかカボチャ」ってやつらしくて。

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流通してる蜂蜜は、法律上全て殺菌のため加温していて
すでに蜂蜜ではなくなってると聞くけど、
道の駅行くと、RAWな国産蜂蜜、結構売ってる。

蜂蜜は、ヴィーガンにとっては動物性の物だが、
(蜂から奪うので)
蜂との共存が出来てるんならいいんじゃないかね、と私は思う。
養蜂家の御主人が亡くなったとき、蜂が葬式に飛んで来て参加した、
なんて話もあったので。
卵とかもそうだけど、要はお互い良い関係を築けてるなら、
ヴィーガンの主旨を外してないと私は思う。
蜂蜜取る度に刺されるのなら、関係を築けてないと思うけど。
魚もそうだけど、逃げる生物は嫌がってるので、
そーゆーのはなるべく避けるよーにしてる。
http://onelastwish.blog.fc2.com/blog-entry-1299.html?sp


http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/525.html#c6

[近代史3] チャンネル桜関係者が大好きな自称日本史研究者 長浜浩明の学説(?)の何処がおかしいのか? 中川隆
18. 中川隆[-9077] koaQ7Jey 2019年7月14日 16:01:34 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[3613]

新版 国民のための日本建国史 神武東征から邪馬台国「謎」の時代を解き明かす – 2017/1/27
長浜浩明 (著)
https://www.amazon.co.jp/%E6%96%B0%E7%89%88-%E5%9B%BD%E6%B0%91%E3%81%AE%E3%81%9F%E3%82%81%E3%81%AE%E6%97%A5%E6%9C%AC%E5%BB%BA%E5%9B%BD%E5%8F%B2-%E7%A5%9E%E6%AD%A6%E6%9D%B1%E5%BE%81%E3%81%8B%E3%82%89%E9%82%AA%E9%A6%AC%E5%8F%B0%E5%9B%BD%E3%80%8C%E8%AC%8E%E3%80%8D%E3%81%AE%E6%99%82%E4%BB%A3%E3%82%92%E8%A7%A3%E3%81%8D%E6%98%8E%E3%81%8B%E3%81%99-%E9%95%B7%E6%B5%9C%E6%B5%A9%E6%98%8E/dp/4907322011


内容紹介

2015年6月刊『国民のための日本建国史 すっきり分かる日本の国のはじまりと成り立ち』を改題・改訂した新版。 最新のデータなど新たな知見を書き加え、Y染色体など必要に応じて図を差し替えた最新の内容。 古代史の実像に迫り、わが国の古代史と建国の事情を解き明かした一冊。

内容(「BOOK」データベースより)

「神武東征は史実」を論証!神武天皇の存在を科学的・論理的に解き明かした衝撃の書。

著者について

長浜/浩明 昭和22年群馬県太田市生まれ。同46年、東京工業大学建築学科卒。同48年、同大学院修士課程環境工学専攻修了(工学修士)。一級建築士、技術士(衛生工学、空気調和施設)、公害防止管理者(大気一種、水質一種)、企業法務管理士。

著者略歴 (「BOOK著者紹介情報」より)

長浜/浩明
昭和22年群馬県太田市生まれ。同46年、東京工業大学建築学科卒。同48年、同大学院修士課程環境工学専攻修了(工学修士)。同年4月、(株)日建設計入社。爾後35年間に亘り建築の空調・衛生設備設計に従事、200余件を担当。一級建築士、技術士(衛生工学、空気調和施設)、公害防止管理者(大気一種、水質一種)、企業法務管理士(本データはこの書籍が刊行された当時に掲載されていたものです)

カスタマーレビュー

777 5つ星のうち1.0

縄文人と韓国・中国人は別人種だった が正しい 2019年7月13日

>第一章 日本人と韓国・中国人は別人種だった

日本人と韓国・中国人は別人種だったではなく

縄文人と韓国・中国人は別人種だった

が正しいですね。

日本人の遺伝子の90%は朝鮮からの渡来人で縄文人の遺伝子は僅か10%だとわかっています。
しかも、天皇が住んでいた畿内の人間は朝鮮人と全く区別が付かないのです。

天皇は一重瞼だけど、朝鮮人と華北の漢民族以外には一重瞼の民族は日本の近くにいないから
天皇は日本人では有り得ない のです

▼各地の男性頭骨の弥生・縄文判別関数値
(池田次郎・京都大学名誉教授による)※数値が高いほど朝鮮に近い

+2.12…畿内
+1.08…四国
+0.76…東中国
+0.70…西中国、北東九州
+0.51…関東、東北
+0.40…北陸
-0.87…西九州、南東九州

▼身体的特徴から求めた朝鮮人との遺伝的近似性(小浜基次・阪大教授による)

     頭示数 比肩峰幅 比上肢長 比下肢長
蝦夷人  76.55   23.65   44.60   55.14(小顔・足長の日本人DNA)
東北人  80.16   23.07   44.46   54.33(小顔・足長の日本人DNA)
畿内人  84.98   22.67   43.99   54.23(顔デカ・胴長短足の朝鮮人DNA)
朝鮮人  85.16   22.35   43.30   53.48(顔デカ・胴長短足の朝鮮人DNA)

___

仮想混血集団の混血率

       縄文系 弥生系
中国地方   2    8
近畿地方   1    9
関東地方   3    7

今日朝鮮半島からの大規模な人の移動を示す遺物として朝鮮系の土器に注目されるが、それらの故地や、流入時期、分布状況に際立った特徴のあることが指摘されている。 それによれば、

土器の故地は加耶諸国を中心とし、それらの流入は五世紀中葉から六世紀初頭に限られる時期に最も多いとされる。

また列島内における分布は、畿内の河内、大和にとりわけ多く、吉備、筑紫地方がこれに次ぎ、半島からの地理的な距離にかかわらない偏在性が強く認められる。

(『アジアからみた古代日本』、『橿原考古学研究所論集』九)

コメント


きらの

>日本人の遺伝子の90%は朝鮮からの渡来人で縄文人の遺伝子は僅か10%だとわかっています。
しかも、天皇が住んでいた畿内の人間は朝鮮人と全く区別が付かないのです。

その説は一体どこから導き出されたのでしょうか?
畿内とそれ以外の地域の日本人を分けて遺伝子分析をした結果を、一体どこの何という研究機関が出したのですか?
その研究結果の信頼性はいかほどですか?
それから、ヒトの遺伝子のうち、全人類に共通する遺伝子と、朝鮮からの渡来人であって縄文人と違う遺伝子がそれぞれ何%あるか、ご存知でしょうか?(笑)

>天皇は一重瞼だけど、朝鮮人と華北の漢民族以外には一重瞼の民族は日本の近くにいないから
天皇は日本人では有り得ない のです

一重瞼が証拠にはならないと思いますが、777さんはご自分で書かれたことを、まさか本当に信じていらっしゃるのでしょうか?
いえ、すみません。人の信条はそれぞれですよね。失礼しました(笑)


___


777

>その説は一体どこから導き出されたのでしょうか?


京都人(近畿人)というのは、中国大陸や朝鮮半島からやってきた異民族である。
古代、京都人(近畿人)が降り立った日本には、先住民=縄文人=東北人がいた。
先住民がいてはもちろん近畿人が住む場所などはない。

彼らは、東北人=縄文人を侵略・虐殺・強制連行(俘囚)することで、国を築いたのだ。

蝦夷征討とは、有史以前からずっと続く、近畿人による先住民一掃、
単なる東北人虐殺に他ならない。それは有史以後も傷跡を残し続けるほどのものだったのだ。
 

京都人(近畿人)が渡来系民族そのものである証拠。 東北人とは全く異民族であることがわかる。 


▼手掌紋D線3型出現率から求めた朝鮮人との遺伝的距離
(山口敏『日本人の顔と身体』より)
0.000…朝鮮半島
0.007…近畿地方
– – – – – – – – – – –
0.012…中部地方
0.035…中国地方
0.035…九州地方
0.038…四国地方
0.048…関東地方
0.068…東北地方
0.092…南西諸島

●1 人あたり約 14 万個所の DNA 塩基多型を用いて日本人の集団構造を解

http://www.riken.jp/~/media/riken/pr/press/2008/20080926_1/20080926_1.pdf
(図 4 日本の各地域の遺伝的な分化と地理的な傾向 参照)

近畿人クラスターは東北人のクラスター(縄文人)と遺伝的に全くオーバーラップしていない。異民族ということ。


2008年9月26日 独立行政法人 理化学研究所

1 人あたり約 14 万個所の DNA 塩基多型を用いて日本人の集団構造を解 明 - 病気と遺伝子の関連を調べるケース・コントロール解析のよりよい研究デザインが 可能に -


病気のかかりやすさ、薬の副作用の有無は、私たちそれぞれで違っています。この 個人の体質の違いの遺伝的な要因を明らかにして、それぞれの人の特質に見合った治 療を行うオーダーメイド医療がスタートしています。心筋梗塞、糖尿病、関節リュウ マチなど、さまざまな疾患の原因遺伝子を同定するために、ゲノム全体をカバーする 1塩基多型(SNP)を使った関連解析が、わが国ばかりか世界規模で展開されています。

わが国では、この研究の中心となっているバイオバンクジャパンが、約30万人 の日本人のDNA、血清を集め、情報基盤としての役割を果たしています。 この研究を推進してきた理研ゲノム医科学研究センターは、これらの情報を活用して、大部分の日本人が2つのクラスター、本土クラスターと琉球クラスターに大別で きることを明らかにしました。

この結果は、従来から提唱されていた日本人集団の「二 重構造説」と矛盾しない内容です。2つのクラスター の間のSNPの頻度の違いは小 さいのですが、耳垢のタイプを決めるSNPや髪の毛の太さに関わるSNPの頻度には 明らかな違いがありました。また、本土の中でも遺伝的な地域差があることが明確に なりました。 今後は、病気と遺伝子の関連を調べるケース・コントロール解析において、今回の 研究結果を活かすことによって遺伝的背景のバランスを調整できますので、よりよい 研究デザインが可能になります。


図 SNPを活用した日本人の集団構造の解析 ほとんどの日本人は、本土クラスター(赤) と琉球クラスター(緑)に大別


図 SNPを活用した日本人の集団構造の解析 図 本土の遺伝的な地域差


報道発表資料
2008年9月26日 独立行政法人 理化学研究所

1人あたり約14万個所のDNA塩基多型を用いて日本人の集団構造を解明
- 病気と遺伝子の関連を調べるケース・コントロール解析のよりよい研究デザインが 可能に -


◇ポイント◇

・7,000人以上の日本人の常染色体上のDNA塩基多型情報を解析

・ほとんどの日本人は、本土クラスター、琉球クラスターの2つに大別

・本土でも遺伝的な地域差があることが判明 独立行政法人理化学研究所(野依良治理事長)は、1 人あたり約 14 万個所のDNA 塩基多型の解析により、日本人の集団構造を大きく2つのクラスター(集団)にわけ ることができることを明らかにしました。

これは、理研ゲノム医科学研究センター(中 村祐輔センター長)統計解析・技術開発グループの鎌谷直之グループディレクター、 加畑(山口)由美研究員らによる研究成果です。

私たちそれぞれが持っている遺伝子と個人の病気のかかりやすさ、薬の副作用の有 無などの関係を調べる場合、病気や薬の副作用を持つ集団(患者集団:ケース)と持たない集団(対照集団:コントロール)について、遺伝子上のSNP(1塩基多型)※1を 測定し、その頻度を比較する手法が一般的に行われています。

この手法はケース・コ ントロール解析と呼ばれ、この解析からわかるSNPの頻度情報は、個人に合った投薬 や治療を行う、オーダーメイド医療を目指した研究の基盤情報として非常に有用です。しかし、対象にした集団に分集団構造があり、ケースとコントロールのサンプル の仕方に偏りがある場合、偽陽性の結果を検出する率が上昇してしまいます。今後の ゲノムワイドなケース・コントロール解析のよりよいデザインのためにも、ゲノム全 体を網羅するSNPを用いて、日本人の集団構造を調べることが大変重要です。

研究グループは、日本人 7,001 人と中国人 45 人のサンプルについて、1 人あたり 約14万個所のSNPの遺伝子型データを用いた主成分分析※2を行いました。

その結果、 日本人の大部分が本土クラスターと琉球クラスターに大別できることを明らかにしました。

さらに、本土の中でも遺伝的な地域差があることが明確となりました。

今回明らかにした、日本人の集団構造に関する知識により、ゲノムワイドなケー ス・コントロール解析の研究デザインの向上が期待されます。また、今後さらに多く のアジアの近隣諸国の人のSNPと共に解析することによって、集団間の違い、民族の 歴史、人の移動の程度を含めた詳細な集団構造の理解などが可能になると期待できま す。 本研究は、文部科学省「個人の遺伝情報に応じた医療の実現プロジェクト(オーダ ーメイド医療実現化プロジェクト)」の一環として行われたもので、研究成果は、米 国の科学雑誌『 The American Journal of Human Genetics 』( 10月号)に掲載され るに先立ち、オンライン版(9月25日付け:日本時間9月26日)に掲載されます。

1.背 景

病気のかかりやすさ、薬の副作用の有無などと遺伝子の関係を調べる場合、病気 や薬の副作用を持つ集団(患者集団:ケース)と持たない集団(対照集団:コント ロール)について、ゲノム上のDNA塩基多型のタイプを測定し、その頻度を比較す る手法「ケース・コントロール解析」が一般的に行われています。このケース・コ ントロール解析で用いる1塩基多型(SNP)の頻度情報は、病気や副作用と遺伝子 の関係を解明し、個人に適合した投薬や治療を行うオーダーメイド医療を目指した 研究の基盤情報として非常に有用です。

理研ゲノム医科学研究センターは、ゲノム全体を網羅するSNP解析の手法を確立し、これまでに、心筋梗塞、関節リウマチ、変形性関節症、糖尿病性腎症などをは じめとする数多くの疾患に関連する遺伝子を特定してきました。また近年、欧米の 研究機関においても、同様の解析による疾患関連遺伝子研究が急速に進んできてい ます。一方、SNPの頻度は人種、国、地域によって異なっており、民族の歴史の影 響を受けています。このような状況を踏まえ、日本人の病気や薬の副作用に関連す る遺伝子の探索をさらに深めていく上で、日本人の集団の遺伝的多様性と集団構造 の理解の必要性が高まっています。

現在のケース・コントロール解析は、解析対象の集団の中では、疾患に関係のないゲノム領域のSNPの頻度は個人の疾患の有無と関係がない、という仮定を立てて います。そのため、もし対象の集団に、さらに細分化した分集団構造があって、ケ ースとコントロールのサンプルの取り方に偏りがある場合(図1)、あるいは、コン トロール集団に比べてケース集団の方がより近縁である場合は、疾患に関係のない ゲノム領域でも、SNPの頻度に統計的な有意差が出やすくなり、偽陽性の結果を得 る率が上昇します。

これまで理研ゲノム医科学研究センターは、日本人の集団を対象として、多くの 疾患関連遺伝子を特定してきました。しかし、今後のさらなる研究を進める場合、 より多数のサンプルを用いて解析を行うと、検出力が上がる反面、集団の構造化に よる偽陽性の結果を得る率が上がってしまうことが懸念されます。

日本人の遺伝的多様性と起源についての研究は、これまでミトコンドリアDNA※3 やY染色体※4のDNA塩基多型を用いた研究が主流でした。

それらの先行研究では、 興味深いことに、日本人集団の「二重構造」説※5を支持するものや、ミトコンドリ アDNAのハプロタイプ※6の多様性を示すものがあります。

そのため、今後のゲノム ワイドなケース・コントロール解析が、偽陽性の結果を得ることがないようにするためにも、ゲノム全体を網羅するSNPを用いて、日本人の集団構造を調べることが必要です。


2. 研究手法と成果

今回の研究では、国際ハップマッププロジェクト※6の4つの集団(西・北欧系ユ タ州住民60人、ナイジェリアのヨルバ族60人、東京在住の日本人45人、北京在 住の中国人漢民族45人の合計210人)のSNPのデータに加えて、バイオバンクジ ャパン※7の日本人7,003人の、常染色体※8上にある1人あたり140,387個所の SNP を解析に用いました。

この日本人7,003人は、心筋梗塞、糖尿病、関節リウマチな ど35種類の疾患のいずれかの患者であり(バイオバンクジャパンでは47種類の対象疾患があります)、病院の所在地により、 7つの地域(北海道、東北、関東甲信越、 東海北陸、近畿、九州、沖縄)にグループ分けされています。

研究チームは、これらの人々からの常染色体上のSNPの遺伝子型データを用いて、 主成分分析を基礎にした解析手法により、個人間の遺伝子型の相関を基に個人間の 近縁関係を解析しました(図2)。

まず、欧米人、アフリカ人を含んだ解析により、 日本人7,003人のほぼ全員が東アジア人のグループに属することを確かめました。

次に、この内の7,001人を中国人45人のサンプルと共に解析した結果、7,001人は 本土クラスターと琉球クラスターの2つの主なクラスターに大別されることがわかりました(図3)。

つまり、前者には本土の6 つの地域で採血された大部分の人が含まれ、後者には沖縄で採血された人の大部分が含まれていました。本土クラスター と琉球クラスターの遺伝的分化の程度は非常に小さく、そのためSNPの頻度の違い は大部分についてはわずかでしたが、約14万個所という数多くのSNPを用いたために、2つのクラスターを観察できたと考えられます。

さらに、本土の中でも遺伝 的な地域差があることが明確にわかりました(図4)。

今回の結果は、従来から提唱 されている日本人集団の「ニ重構造」説と矛盾しないものです。 本土クラスターと琉球クラスターの違いが、どのSNPでもっとも顕著であるかを 調べたところ、6番染色体のHLA領域※9に見つかりました。

また、アミノ酸を変化 させるSNPの頻度の違いを比較したところ、髪の毛の太さと関連のある EDAR 遺伝 子※10のSNP、耳垢のタイプと関連のある A BCC11 遺伝子※11のSNPの頻度がもっとも大きい違いを示しました。

さらに研究グループは、日本人の集団構造が疾患関連遺伝子探索のケース・コン トロール解析にどの程度影響するかを調べるために、2つのクラスターや地域を分 集団として、個人をランダムにサンプル抽出し、シミュレーションを行いました。

その一つとして、本土クラスターのケース集団(200人)とコントロール集団(200 人)を基に、ケース集団における琉球クラスターからの人の割合を増やしていき、 ゲノム全体のSNPの遺伝子型頻度の違いの統計量がどのように増大するかを調べ ました。その結果、ケース集団における琉球クラスターからの人の割合が23%にな ると、偽陽性の結果を得る率の増大が無視できなくなることを明らかにしました。 この結果は、ケース・コントロール解析では、患者の住む地域や遺伝的背景を考慮 した解析デザインが必要であることを示しています。


3.今後の期待

日本人における遺伝的な集団構造と地域差が、ゲノム全体を網羅するSNPで解明されたことにより、次のような発展が期待されます。まず、今回明らかになった 日本人の集団構造についての知識は、今後のゲノムワイドなケース・コントロール 解析の研究デザインの向上に生かすことができます。今後の解析では、検出力を上 げるために、より多数のサンプル数で解析すると予想でき、今回の研究の知見を生 かせば、ケース集団とコントロール集団のバランスがとれるように前もって調整す ることで、偽陽性をなるべく抑える研究デザインが可能になります。また、進行中 あるいは検証中の研究であっても、今回の研究で示した通り、サンプルの抽出の偏 りが及ぼす偽陽性への影響の程度を考慮することによって、構造化による偽陽性の 問題を解決することが可能になります。さらに、本土と琉球の2つのクラスターの間で頻度の違いが大きいSNPがあることを示しているため、どのSNPやどのゲノ ム領域で偽陽性が起こりやすいか、ということについても役立つ情報を提供します。

このように、集団構造の理解や、分集団間の違いを理解することからケース・コン トロール解析の精度が上がるため、疾患関連遺伝子同定の精度の向上が期待され、 より確かなオーダーメイド医療の実現化につながると考えられます。 また、日本人の集団構造が、今後、アジアの近隣諸国の人のデータと共に解析さ れることによって、集団間の違い、民族の歴史、人の移動の程度を含めた詳細な集 団構造の理解が進むことになります。近縁な集団間における遺伝的な関係や違いの 程度を理解することで、SNPと疾患の関係を解明する研究が、アジアの近隣諸国で も加速していくと注目されます。 今回の研究により、アミノ酸を変化させているSNPの中で、本土クラスターと 琉球クラスター間のもっとも大きな違いが、髪の毛の太さや耳垢のタイプのような、 表現型の違いにかかわるものであったことは、非常に興味深い結果です。今後、近 縁な分集団の間で頻度の違いの大きなSNPを調べることによって、人類の歴史に おいて過去に働いた自然選択が、表現型に違いを生じるようなSNPの頻度の変化 に影響を与えてきた例をさらに探し出すことができる可能性があると期待できま す。

補足説明

※1 SNP(スニップと発音されることが多い) DNAの1塩基多型(Single Nucleotide Polymorphism)で、過去に起きたDNA の点突然変異による。ヒト集団では染色体をランダムに2本選んで比較すると、 1,200〜1,500塩基に1つの割合で、SNPがあると推定されている。ヒトゲノム上 では、約12,000,000のSNPが報告されている。

※2 主成分分析 複数の変数間の共分散(相関)を少数の合成変数で説明する手法。共分散行列の固 有値問題の解として得ることができる。この研究では、各個体点を座標のばらつき がなるべく大きくなるように直交軸を取り直して眺めている。


※3 ミトコンドリア DNA 細胞内小器官のミトコンドリアが独自に持っている環状のDNA。過去に細胞内で 共生したほかの細胞が由来である、と考えられている。ミトコンドリアDNAは、 受精卵の細胞質により母から子に伝えられる。DNA複製のエラー修復機構を欠き、 分子進化速度が核のDNAよりも速い。ヒトのミトコンドリアDNA は約16,600 塩基対と短いが、塩基多型の割合が核のDNAよりも高い。ヒトの遺伝的多様性と 移動の歴史を推測する研究によく使われている。


※4 Y 染色体 性染色体の1つで、ヒトでは Y染色体があると男性になる。通常の男性の性染色体 の核型はX染色体とY染色体が1本ずつで、 Y染色体は父親から息子に遺伝する。 ヒトの遺伝的多様性と移動の歴史を推測する研究によく使われている。


※5 日本人集団の「二重構造」説 埴原和郎(はにはらかずろう)氏の「二重構造モデル」。日本人の祖先集団は、縄 文人、そして北東アジアから渡来した弥生人に由来しており、この2集団は日本列 島内で徐々に混血したが、アイヌ人と南西諸島の人においては、北東アジアからの 渡来人の影響は少なかった、とする説。


※6 国際ハップマッププロジェクト/ハプロタイプ ハップマップとは、ハプロタイプ地図を略したもの。ハプロタイプは1本のゲノム (染色体)上のDNA塩基多型の組み合わせである。このプロジェクトは、疾患関 連遺伝子同定のためのゲノムワイドなケース・コントロール解析を加速させること を第一の目的に発足した。日本人、中国人、ヨーロッパ系アメリカ人、アフリカ人 からの4集団270人について、ゲノム全体を網羅するSNPの遺伝子型が決定され、 データベースで公開されている。


※7 バイオバンクジャパン 文部科学省「個人の遺伝情報に応じた医療の実現プロジェクト(オーダーメイド医 療実現化プロジェクト)」の基盤となるDNAサンプルおよび血清サンプルを収集し 臨床情報とともに保管している世界でも有数の資源バンクの名称。バイオバンクへ 約30万人のDNAおよび血清試料を集め、それらを利用してSNPと病気との関係、 薬剤の効果などの関係を明らかにする研究を行っている。心筋梗塞、糖尿病、関節 リウマチなど47種類の対象疾患がある。情報は個人情報管理に配慮し幾重にも厳 重に管理されており、東京大学医科学研究所内に設置されている。


※8 常染色体 ヒトでは1〜22番染色体のこと。細胞内の染色体の全セットのうち、性染色体(X 染色体とY染色体)を除いたもの。


※9 HLA(human leukocyte antigen)領域 ヒトの6番染色体短腕(6p21)上に存在し、その領域にある多重遺伝子族(遺伝子 重複によって生じた遺伝子の中で相同性が高いもの)は、自己と非自己の認識、免 疫応答の誘導に関与する白血球抗原をコードしている。MHC(major histocompatibility complex;主要組織適合性複合体)領域とも呼ばれる。


※10 EDAR 遺伝子(ectodysplasin A receptor) シグナル伝達に関与する遺伝子の1種で、2 番染色体上に存在する。370番目のア ミノ酸変異(アラニンまたはバリン)の頻度は、東アジア人と他の人種で大きく異 なっており、髪の毛の太さに関与することがわかっている。東アジア人は他の人種 と比べて髪の毛が太く、アラニン型の頻度が高い。


※11 ABCC11 遺伝子(ATP-binding cassette, subfamily C, member 11) ATP 結合機能を持ち、輸送にかかわるタンパク質のファミリーをコードする多重遺 伝子族のメンバーの1つで、16番染色体上に存在する。薬剤排出の機能を持つ。 180番目のアミノ酸変異(グリシンまたはアルギニン)は、耳垢の乾型、湿型を決 めることがわかっている。そのSNPの頻度は東アジアと他の地域で大きく異なっ ており、東アジア人では乾型のアルギニンのタイプの頻度が高い。


図1 ケース・コントロール解析で偽陽性率が上がる条件

分集団1、分集団2では、多数のSNPの座位(形質に関係のないゲノム領域のSNP の場所)について、SNPの頻度が少しずつ異なっている。この例では、ケース(患 者集団)のサンプルにおける分集団1からの人の割合1(f)が、コントロール(対照集団)における分集団1からの人の割合(g)よりも大きい。このようなサンプルで関 連解析を行うと疾患に関連していないSNPであっても、統計的に有意な関連(偽陽 性)を検出する率が上がってしまう。


図2 たくさんの個所のSNPの遺伝子型を使った個人間の近縁関係の解析

個人からなるべくたくさんのSNPの遺伝子型を数値化(1)して、人数×SNP数の総 データを作る(2)。次に、統計解析のために数値を標準化する(3)。そして、個人対 個人の総当りの、遺伝子型の相関の度合いのデータを得る(4)。主成分分析により、 個人間のばらつきを最大にする軸をきめ、上位の軸(例えば、第1成分と第2成分) でプロットを作成する(5)。第 1成分の軸は、個人間のばらつき最大になるように選 ばれている。第2成分の軸は、個人間のばらつきが次に大きくなるように選ばれてい る。

図3 ほとんどの日本人は、本土クラスターと琉球クラスターに大別される

日本人と中国人漢民族で個人間の近縁関係を解析したところ、主な3つのクラスター に分かれた。1つは中国人のクラスターである(橙)。日本人は、本土クラスター(赤) と琉球クラスター(緑)の2つに大別される。


図4 日本の各地域の遺伝的な分化と地理的な傾向

本土クラスターの中の人の分布は、地域によって偏りがあることがわかった。近畿の 人は、上の図では本土クラスターの左上に偏りがあり、中国人のクラスターに比較的 近い。対照的に、東北の人は、本土クラスターの右下に偏っていて、中国人のクラス ターから見て離れている。


京都人と京都の被差別部落民は遺伝子が全然違う


2013年12月17日 形質人類学のデータ

第1章で説明したように、エミシは和人とアイヌの中間の形質をもち、頭型などの点で、東北・裏日本型に属するとみられるが、近畿・山陽・山陰・九州に散在する四七部落を含む、全国的な日本人の形質調査の資料を整理した形質人類学者小浜基次(「形質人類学から見た日本の東と西」『国文学の解釈と鑑賞』二八巻五号)は、


部落民の形質は異質的なものではなく、現代日本人構成の有力な地方型である東北・裏日本形質に一致している。


とし、


頭部については、いずれの地区も共通の中頭型を示し、頭長は大きく、頭幅は小さい。したがって、畿内のような高度の短頭地区内にはさまった部落は、一般集団との間に明らかな差異がみとめられる。しかし、山陰・北九州・四国東北部などの中頭地区内にある部落は、一般集団と近似し、差異は少ない。


と書き、さらに、


大陸朝鮮型形質のもっとも濃厚な畿内地区に、もっとも非朝鮮的な形質をもつ東北・裏日本型の部落が孤島として介在することは、注目に値(あたい)する。おそらくは、婚姻と住居の制限によって内婚率が高く、特異の形質がよく保たれているものと思われる。


と述べている(図2参照)。

重要なことは、小浜基次が「一般集団と近似し、差異は少ない」とする山陰の例をみても、部落民が頭型は、中頭を示す一般の住民の頭型よりも、さらに中頭の度が高く、エミシの血を引いている現代東北北部人の頭型と一致することである。

つまり、形質人類学のデータは、エミシが部落民の先祖であることを明確に裏づけているのである。
http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/498.html#c18

[近代史3] 社会主義マジック _ 中共が GDP 世界第二位の超大国になれた理由 中川隆
12. 中川隆[-9076] koaQ7Jey 2019年7月14日 17:08:36 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[3614]

2019年07月14日
中国錬金術 無人のビルを建てるとGDPが増える仕組み
http://www.thutmosev.com/archives/80390071.html

無人都市にも資産価値が産まれ、投資によって巨額の金が動きGDPに加算される

画像引用:http://livedoor.blogimg.jp/aps5232/imgs/e/6/e61c1faf.jpg

中国GDPのおかしさ

日本は過去25年平均1%台の経済成長しかなく、高度成長は過去の話になっている。

中国は10%超の高度成長時代が終わったが、まだ年6%以上の高度成長を持続している。

中国は輸出バブルが崩壊して消費もそれほど伸びていないが、一体何でGDPが増えているのでしょうか。



中国国家統計局によるとGDP内訳はは第1次産業が7.2%、第2次産業が40.7%、第3次産業が52.2%だった。

中国は2000年以降、投資(総固定資本形成)がGDP成長の5割以上だったが現在は50%を割り込んでいるようです。

固定資本形成は「政府および民間による公共事業、建設・住宅投資、設備投資など」で、ザックリ言うと政府による公共事業が大半を占めています。


中国でも消費型社会に移行しているとされていて、GDPの40%以上が個人消費になっています。

中国は計画経済なので年度前に「今年のGDP目標」を発表し、例えば2019年は6.5%と発表されています。

固定資本形成つまり公共事業費は数年前に債務削減を試みて減らしたが、最近の不況で依存度を増やしている。


中国のGDPを仮に1500兆円とすると、700兆円以上は固定資本形成で、内訳は「民間設備投資+民間住宅+公共投資」です。

2009年から10年間の総資本投資は446兆元(約66兆ドル)に達し、投資効率が大きく低下しています。

投資効率は何兆円の民間公共投資をしてGDPが1兆円増えるかを表す数字で、2007年には2.9だったが、17年に6.8に悪化した。

中国の公共事業と公的債務

投資効率は以前は1.0を下回っていたのだが、例えば中国が今年6.5%(約100兆円)成長するには、GDPの44.2%(630兆円)の官民投資が必要になる。

1990年代前半の中国は1兆円成長するのに数千億円の投資で済み、自律的な高度成長をしていました。

日本などの先進国では投資効率が2倍程度なので、日本が1%成長するにはGDP比2%の官民投資が必要になります。


ところで日本や欧米諸国は国の公共事業が少なく民間投資が多いですが、中国は逆に大半を公共投資(公共事業)が占めています。

1年で500兆円も公共事業をして100兆円しかGDPが増えなかったら、使ったほとんどが公的債務になってしまいます。

これが中国の債務問題で、欧米経済メディアの試算ではGDPの3倍以上に達していると言われています。


公共事業の債務が毎年数百兆円増えているとしたら、誇張ではなく中国の公的債務は5000兆円程度に達しているでしょう。

もし中国の公的債務が思ったより少ないとしたら、投資していないのでGDPが公式発表より少ないのを意味しています。

中国の公共事業と言うのは利用客がゼロに近い高速鉄道を10兆円もかけて建設したり、毎年日本の総延長に匹敵する距離の鉄道を建設したりします。


採算性の良い鉄道路線は満州鉄道の時代に引いてしまったので、最近建設した鉄道は全て赤字で、特に高速鉄道は全路線赤字です。

中国は巨大都市建設が好きですが、空港や都市建設もすべて赤字、それでも公共事業をすることでGDPに計上しています。

例えば10兆円で新都市を建設しインフラ整備したら、10兆円という資産価値が産まれ、外国からの投資や銀行などから10兆円が集まります。


その10兆円が社会を巡って労働者の賃金になり消費に回り、ネット消費が増えたりしています。

結構なことだが丸ごと借金として残っている建設費10兆円は、一体だれが返すのでしょうか?
http://www.thutmosev.com/archives/80390071.html
http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/203.html#c12

[リバイバル3] 中川隆 _ 美術・文芸関係投稿リンク 中川隆
153. 中川隆[-9074] koaQ7Jey 2019年7月14日 21:50:26 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[3616]
横溝正史 幽霊座(TBS 1997年)
http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/526.html

http://www.asyura2.com/09/revival3/msg/452.html#c153
[近代史3] 横溝正史 幽霊座(TBS 1997年) 中川隆
1. 中川隆[-9073] koaQ7Jey 2019年7月14日 21:52:55 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[3617]
キャスト

雷車鶴之丞(旅回り一座座長) - 十朱幸代
香織(旅回り一座座員) - 渋谷琴乃
牧野喜久雄(中島酒蔵従業員・本名は鶴之助) - 大沢健
千鶴(旅回り一座座員) - 川島美津子
岬乙女(旅回り一座座員) - 浅倉いづみ
水木京三郎(旅回り一座座員) - 片岡弘貴
音丸(旅回り一座座員) - 井田州彦
雷蔵(旅回り一座座員) - 志賀圭二郎
霊安室係官 - パンチ佐藤
小柳(刑事・河合の助手) - 岡野進一郎
坪内晴夫(座付き作家) - 速水亮
三波伸夫(旅回り一座番頭) - 小島三児
夏目(相生座経営) - 穂積隆信
紫虹(乙女の夫・旅回り一座座員) - 井上純一
岡本茉利

http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/526.html#c1

[近代史3] チャンネル桜関係者が大好きな自称日本史研究者 長浜浩明の学説(?)の何処がおかしいのか? 中川隆
19. 中川隆[-9072] koaQ7Jey 2019年7月15日 05:00:10 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[3618]


T ・ Y

一重瞼では証拠にならないですね。

777 返信先:以前の投稿

一重瞼や自然人類学者の骨の比較分析以外にも証拠はいくらでも有ります。

最新の核DNA解析でも

・弥生人は縄文人と長江人の混血だった
・現代日本人の遺伝子は縄文人や弥生人とは全く違っていて、2世紀以降の朝鮮からの渡来人の影響が一番大きい

というのが証明されています。


サイエンスZERO 動画
日本人成立の謎。弥生人のDNA分析から意外な事実が判明
https://www.youtube.com/watch?v=H1GFzg882d8


弥生人は韓国人に近い遺伝子だと思われてたが今回の調査で違うことがわかった
大がかりなDNA解析による新情報では弥生人の初期は縄文人に近い遺伝子だったが集団の戦いなどで弥生人は時代が進むにつれて韓国人のDNAに近づいて
現代日本人はほとんど韓国人のDNAと一緒になった

これ旧日本人が韓国人に大虐殺された後に中出しレイプされて生まれたのが俺たち現代日本人ってことになるぞ

ナレーション(弥生人の核DNA分析から予想された現代日本人の位置は ここ。弥生人同士がまじわって 現代日本人が成立したと考えられるからです。ところが…。)

篠田謙一:実はですね 現代日本人はもう既に この辺りだということが分かったんですね。つまり 弥生人って 混血していけば恐らく 混血する相手は
この縄文人になりますから当然 現代日本人の位置っていうのはこちらに ずれてくるはずなんですよね。ところが そうならなくてこっちに来てしまったということで
ちょっと 考え方を変えなきゃならないというふうに思ったわけですね。つまり こっち(韓国人)に引っ張る 何かがなければいけないということになるんですね。

小島瑠璃子:てことは 韓国とか あとは大陸の方と多くまじわりながら人口を増やしてったのが私たちってことですか?

篠田謙一:そういうことになると思うんです。

小島瑠璃子:え〜!
https://www.amazon.co.jp/gp/customer-reviews/R2US8YAHM8CGP4/ref=cm_cr_getr_d_rvw_ttl?ie=UTF8&ASIN=4907322011
http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/498.html#c19

[近代史02] プーチン大統領は神の申し子_____小沢一郎先生はこういう人になって欲しかった 中川隆
157. 中川隆[-9071] koaQ7Jey 2019年7月15日 05:53:26 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[3619]


2019年7月14日
ロシア、2島返還協議入りも拒否
共同通信

 【モスクワ共同】安倍政権が進める日ロ平和条約交渉で、ロシア側が日米同盟による脅威などを理由に、1956年の日ソ共同宣言に明記された歯舞群島と色丹島の2島引き渡しの協議入りも拒否していたことが14日分かった。複数の日ロ関係筋が明らかにした。プーチン政権内で領土問題の譲歩による支持率低下の懸念が高まったためという。

 日本側はロシア側に配慮し、北方四島は「日本固有の領土」との従来の主張を封印して2島返還での決着を図ったが、こうした安倍晋三首相の戦略の行き詰まりが明確になった。ロシア主導の交渉が続けば、さらに譲歩を迫られる恐れがある。

http://www.asyura2.com/09/reki02/msg/297.html#c157

[近代史3] 日本の右翼のバイブル _ モルデカイ・モーゼ 日本人に謝りたい 中川隆
32. 中川隆[-9070] koaQ7Jey 2019年7月15日 07:21:09 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[3620]

T ・ Y

「アメリカの教科書に載っているから事実だというのは全く証拠にはなりません」
全く、その通りですね。


T ・ Y

自称元慰安婦たちは、「性奴隷」ではない。


T ・ Y

「本来なら処罰されて当然であるにもかかわらず被告席にいない人がいた」
フランクリン・ルーズベルトが生きていたら、当然、彼も、そこにいるべきであった。
所詮は、戦勝国が敗戦国を裁く茶番が展開されたに過ぎない。

T ・ Y

「日本軍の作戦はすべて昭和天皇ひとりで決めていたから責任もすべて昭和天皇ひとりにあるんだよ」

慰安所の開設を、天皇が直接指示したという証拠を提示していない。
長々とした後の文章は論点を逸らしたことを誤魔化す手法に過ぎない。

このような詭弁の手法は共産主義者がよく使う手である。
例えば、副島氏など。

777 返信先:以前の投稿

>慰安所の開設を、天皇が直接指示したという証拠を提示していない。

慰安所は日本軍の建物だったし、慰安婦を輸送したのも日本軍、性病検査した医者も軍医
慰安所の経営者は日本軍から業務委託されていただけだよ。

第二次世界大戦に参加していた国々の国民のなかで、日本軍の戦争犯罪のことを知らないのは、日本人だけかも知れません。日本人の大多数が、第二次世界大戦について、このような基本的情報も持ち合わせていないのは、文部省/文部科学省が戦後一貫して、小中高の歴史教育で、第二次世界大戦での日本の戦争犯罪のことを、生徒たちに隠していただけでなく、この動きに司法組織も協力していたとみられるためです。

(天皇一族の戦争犯罪が日本人に知られると天皇制を廃止せざるを得なくなるので、GHQが天皇制を守る為に情報を隠蔽させたのです。 東京裁判も天皇一族の戦争犯罪を陸軍軍人に肩代わりさせる目的で行ったのですね。 東京裁判史観というのは要するに、日中戦争と太平洋戦争での戦争犯罪は天皇ではなく日本人全員の責任だったという考え方なのです。)

南京大虐殺は日本軍の組織的行動であるという記述を教科書に載せようとした家永氏に対して、文部省は書き直しを命じ、これを不服として1965年に起こされた家永訴訟で、文部省の教科書検定が違法であったことが1997年に認められるまでに、32年もの年月を必要としました。

つまり、日本軍の作戦をすべて昭和天皇が立てていた以上、慰安婦強制連行も南京大虐殺もすべて昭和天皇の命令になる:

鬼頭久二(1916年8月生まれ)
第16師団歩兵第33連隊 第1大隊

南京戦の時、当時の宮さん〔朝香宮〕から命令があって、その命令は中隊長か小隊長から聞いたけど、

「犬も猫も含め生きている者は全部殺せ」

ちゅう命令やった。

天皇陛下の命令やと言ったな。

当時のことを書いた日記帳は終戦の時に全部焼いた。

___

『ある日赤紙が来て』 真鍋元之著  1981

1942年頃、平陽鎮の軍専用慰安所
つねに満員だったと言う。

「私の馴染んだ慰安婦は、職業用の日本名をミサオと呼んでいた。生家は江原道のもっとも貧しい農家だったが、ある日突然村長がやってきて

「軍の命令だ。お国への御奉公に、娘を差し出せ」

という。御奉公の意味がすぐに分かったので、父母は手を合わせ声の限りに哀号を繰り返したが、村長は耳を貸さない。この面(村)へ8名の割り当てが来たが、面には娘は5人しかいないから、ひとりも容赦はならぬ、とニベもなく言い放つ。村長の背後では、刀を吊った日本人の巡査(警官)が、肩をそびやかせている。

5名の村娘が、石ころのようにトラックに乗せられ、村境の土橋を渡ったのが、故郷との別れであった。文字が書けないので、家族の安否を、手紙で問い合わせる事もできない。・・・」


http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/494.html#c32

[リバイバル3] 廃墟と化した水上温泉 中川隆
132. 中川隆[-9069] koaQ7Jey 2019年7月15日 08:29:05 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[3621]

2019年07月15日
訪日外国人による観光公害 地元住民の被害は限界
http://www.thutmosev.com/archives/80393130.html

自分の家の周りがこうだったらどうだろうか?


画像引用:kaigainoomaera | ニヤッとアンテナhttp://niyatto.com/wp/wp-content/uploads/2017/08/e4297948-s.jpg


京都や奈良で外国人観光公害

今世界では「観光公害」という言葉で、増えすぎた観光客がもたらす地域への悪影響が議論されています。

日本より先に観光地化したギリシャやローマでは、外国人観光客による被害が深刻化している。

観光客は宿泊や消費で金をもたらすが、観光業に関わっていない住民には迷惑でしかない。



ホテルやタクシーや土産物屋は金儲けのために納得できるが、古くから住んでいた住人にメリットはない。

パリやローマでは市や政府は詰め込めるだけ目いっぱい外国人観光客を誘致し、面倒な事は住民に押し付けている。

道路がいつも混んでいるのは序の口で、いつも観光客が満員列車のように居るので、犬の散歩すらできない。


近所の公園や路地で子供を遊ばせることもできないし、1人で外出させるのも危険になった。

夜中の3時から明け方まで家の周りを外人がうろついていて、知らない言葉で話し声が聞こえている。

これはローマやギリシャではなく、京都や奈良や大阪で今起きている事です。


ギリシャやローマ、パリと京都奈良の大きな違いは西洋は石造りに対して日本は木造建築である点です。

ローマの競技場には一度に1万人を収容できるのかも知れないが、日本の寺では100人も入れません。

法隆寺も銀閣寺も連日満員電車のような込み具合で、本来の役割を果たしていない。


本来の役割とは言うまでもなく仏教の寺院として、信者が参拝するための施設だという事です。

これは奈良の春日大社なども同じで、神道の信者は外国人を入れるために追い払われています。

外貨不足ではない日本に外国人観光は必要ない

もう一つの問題点は果たして住民の犠牲のうえで受け入れている外国人観光客は、日本経済に貢献しているのかという疑問です。

表面上外国人が使った外貨は輸出と同じで、日本国内で使われた金額がGDPに加算されています。

だが輸出して日本が得た利益は外貨が円に交換されることで円高を招き、1995年や2011年に大不況の原因になりました。


同様に外国人が日本国内でお金を使うと、その分為替レートには円高圧力がかかってきます。

わずか1円円高になっただけで日経平均が下落しているのを見ると、外国人観光による円高の影響は軽視できません。

もう一つの問題点は、観光で外貨を稼ぐのは貿易赤字国がやる事であって、日本のように年20兆円の経常黒字国がやる意味はないという事です。


アメリカ、ローマ、ギリシャ、フランスなど世界の観光国家はすべて貿易赤字、経常赤字国で、外貨不足を観光で補っています。

そうした国々は少しでも外貨収入を得たいから観光に力を入れていて、外貨が不足したら国が破産するのです。

日本は外貨不足どころか外貨が多すぎて円高で困っているのに、何のために観光客を呼ぶのかが分かりません。
http://www.thutmosev.com/archives/80393130.html
http://www.asyura2.com/09/revival3/msg/624.html#c132

[リバイバル3] 中川隆 _ 経済、ビジネス関係投稿リンク 中川隆
94. 中川隆[-9068] koaQ7Jey 2019年7月15日 08:32:19 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[3622]
訪日外国人による観光公害 地元住民の被害は限界
http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/527.html

http://www.asyura2.com/09/revival3/msg/813.html#c94
[リバイバル3] 中川隆 _ 食べ物、農業関係投稿リンク 中川隆
30. 2019年7月15日 08:36:57 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[3623]
補助金なしの価格では日本の農作物はアメリカや欧州より安く、日本の農業は欧米より効率的
http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/528.html

http://www.asyura2.com/09/revival3/msg/812.html#c30
[リバイバル3] 中川隆 _ 経済、ビジネス関係投稿リンク 中川隆
95. 中川隆[-9067] koaQ7Jey 2019年7月15日 08:37:28 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[3624]
補助金なしの価格では日本の農作物はアメリカや欧州より安く、日本の農業は欧米より効率的
http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/528.html

http://www.asyura2.com/09/revival3/msg/813.html#c95
[近代史3] 日本の右翼のバイブル _ モルデカイ・モーゼ 日本人に謝りたい 中川隆
33. 中川隆[-9066] koaQ7Jey 2019年7月15日 09:34:27 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[3625]
カスタマーレビューとコメントを削除されてしまいましたので再投稿しました:

777 5つ星のうち1.0

天皇家は全員クリスチャンで反共・反日グローバリスト 2019年7月15日


チャンネル桜や保守の人はみんなニセユダヤ人に騙されてるけど

あるユダヤ人の懺悔「日本人に謝りたい」を書いたモルデカイ・モーゼ が自称訳者の久保田政男だというのは常識なのですが、
チャンネル桜や保守の人はみんな本物のユダヤ人が言っていると思い込んでいるので、見当外れの判断をしてしまうのですね。

そもそも、大恐慌以降に出て来た左翼のニューディール派はウォール街の金融資本とは敵対していたので
共産主義者がグローバリストだとか、ユダヤ人がグローバリストだとか、天皇が日本の国体を守ろうとしてきた愛国者だとかいうのはすべて間違いです。

アメリカでは19世紀に「泥棒男爵」と呼ばれる人びとが出現した。不公正な手段で財産を手に入れ、巨万の富を築いた人たちだ。石油業界を支配することになるジョン・D・ロックフェラー、金融帝国を築いたJ・P・モルガン、鉄鋼業界のアンドリュー・カーネギー、ヘンリー・クレイ・フリック、鉄道のエドワード・ヘンリー・ハリマン、金融や石油で財をなしたアンドリュー・W・メロンなどが含まれている。

 こうした人びとの権力が強大化する切っ掛けになった出来事が1913年12月にあった。連邦準備制度が創設され、連邦準備理事会が金融政策の樹立と遂行を監督、12の連邦準備銀行が政策を実行することになったのだ。このシステムを支配するのは富豪たちだ。

 連邦準備制度を作るための秘密会議が1910年11月にジョージア州のジキル島で開かれている。会議に参加したメンバーはクーン・ローブやJPモルガンの使用人やジョン・D・ロックフェラー・ジュニアの義父、つまりロスチャイルド、モルガン、ロックフェラーの代理人たちだった。こうした人びとがアメリカの通貨を発行する特権を持つことになる。

 こうした富豪が拠点にしている場所がウォール街やシティ。そこの住人に立ち向かった大統領もかつてはいた。フランクリン・ルーズベルトやジョン・F・ケネディたちだ。

 ルーズベルトは1932年の大統領選挙で勝利したのだが、その時にライバルだったハーバート・フーバーは現職の大統領。スタンフォード大学を卒業した後、鉱山技師としてアリゾナにあるロスチャイルドの鉱山で働いていた人物。政治家になってからはウォール街から支援を受けていた。

 そのフーバーとは違い、ルーズベルトは労働者の権利を認めてファシズムに反対するニューディール派を率いていた。そのルーズベルトをウォール街は嫌った。

 1933年から34年にかけてウォール街の大物たちはニューディール派を排除するためにクーデターを計画する。そのため、軍の内部で大きな影響力を持っていた海兵隊のスメドリー・バトラー退役少将を抱き込もうとするのだが、失敗してしまう。計画の内容はバトラー、そしてバトラーと親しかったジャーナリストが議会で証言、記録として残っている。

 クーデターで中心的な役割を果たしたのはJPモルガンだったとされているが、その総帥であるジョン・ピアポント・モルガン・ジュニアの妻のいとこ、ジョセフ・グルーは1932年に駐日大使として来日している。

 ちなみに、JPモルガンの共同経営者だったエドワード・ストーテスベリーと結婚したエバ・ロバーツ・クロムウェルの娘の夫はダグラス・マッカーサーである。

 グルーは皇族を含む日本の支配層に強力なネットワークを持つ人物で、特に松岡洋右と親しかった。松岡の妹が結婚した佐藤松介は岸信介や佐藤栄作の叔父にあたる。

昭和天皇は戦前はJPモルガンのエージェント、戦後はロックフェラーのエージェントなので、反共・反日グローバリストです。
天皇一族がアメリカに行くときは、ロックフェラー邸に数日間泊まって密談するのがメインエベントになっています。

777 返信先:以前の投稿

>慰安所の開設を、天皇が直接指示したという証拠を提示していない。

慰安所は日本軍の建物だったし、慰安婦を輸送したのも日本軍、性病検査した医者も軍医
慰安所の経営者は日本軍から業務委託されていただけだよ。

第二次世界大戦に参加していた国々の国民のなかで、日本軍の戦争犯罪のことを知らないのは、日本人だけかも知れません。日本人の大多数が、第二次世界大戦について、このような基本的情報も持ち合わせていないのは、文部省/文部科学省が戦後一貫して、小中高の歴史教育で、第二次世界大戦での日本の戦争犯罪のことを、生徒たちに隠していただけでなく、この動きに司法組織も協力していたとみられるためです。

南京大虐殺は日本軍の組織的行動であるという記述を教科書に載せようとした家永氏に対して、文部省は書き直しを命じ、これを不服として1965年に起こされた家永訴訟で、文部省の教科書検定が違法であったことが1997年に認められるまでに、32年もの年月を必要としました。

つまり、天皇一族の戦争犯罪が日本人に知られると天皇制を廃止せざるを得なくなるので、GHQが天皇制を守る為に情報を隠蔽させたのです。 日本国憲法も天皇制を守る為に、GHQが法律の素人のアルバイトに書かせた英文原稿を日本政府に翻訳させたものです。

東京裁判も天皇一族の戦争犯罪を陸軍軍人に肩代わりさせる目的で行ったのですね。 東京裁判史観というのは要するに、日中戦争と太平洋戦争での戦争犯罪は天皇ではなく日本人全員の責任だったという考え方なのです。

因みに、ドイツ人は戦争責任をすべてヒトラーとナチスに押し付けて、ドイツ人もナチスの被害者で戦争責任は全く無いという事になっています。

日本軍の作戦をすべて昭和天皇が立てていた以上、慰安婦強制連行も南京大虐殺もすべて昭和天皇の命令になります:

鬼頭久二(1916年8月生まれ)
第16師団歩兵第33連隊 第1大隊

南京戦の時、当時の宮さん〔朝香宮〕から命令があって、その命令は中隊長か小隊長から聞いたけど、

「犬も猫も含め生きている者は全部殺せ」

ちゅう命令やった。

天皇陛下の命令やと言ったな。

当時のことを書いた日記帳は終戦の時に全部焼いた。

___

『ある日赤紙が来て』 真鍋元之著  1981

1942年頃、平陽鎮の軍専用慰安所
つねに満員だったと言う。

「私の馴染んだ慰安婦は、職業用の日本名をミサオと呼んでいた。生家は江原道のもっとも貧しい農家だったが、ある日突然村長がやってきて

「軍の命令だ。お国への御奉公に、娘を差し出せ」

という。御奉公の意味がすぐに分かったので、父母は手を合わせ声の限りに哀号を繰り返したが、村長は耳を貸さない。この面(村)へ8名の割り当てが来たが、面には娘は5人しかいないから、ひとりも容赦はならぬ、とニベもなく言い放つ。村長の背後では、刀を吊った日本人の巡査(警官)が、肩をそびやかせている。

5名の村娘が、石ころのようにトラックに乗せられ、村境の土橋を渡ったのが、故郷との別れであった。文字が書けないので、家族の安否を、手紙で問い合わせる事もできない。・・・」
https://www.amazon.co.jp/gp/customer-reviews/RQ8SD5E0KMC0T/ref=cm_cr_getr_d_rvw_ttl?ie=UTF8&ASIN=499108900X
http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/494.html#c33

[リバイバル3] 酒を飲むとバカになる 中川隆
37. 中川隆[-9065] koaQ7Jey 2019年7月15日 10:22:14 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[3626]

のどに刺激のある強い酒 飲み続けた人の末路は?
日経Gooday 2018/9/23
https://style.nikkei.com/article/DGXMZO35216910R10C18A9000000/


ウイスキーやウオッカなどをストレートで飲む人は、チリチリっと焼けるような刺激が“食道を降りていく”感覚が好きな人が多いだろう。だが、この飲み方にはあるリスクが…。(c)Donato Fiorentino-123RF

食道がんは胃がんなどより数は多くないものの、進行すれば手術が難しくなる“怖いがん”だ。この食道がんが、お酒と密接に関係していることをご存じだろうか。さらに、お酒の飲み方やその人の体質によりリスクが大きく変わるというから聞き捨てならない。そこで酒ジャーナリストの葉石かおりが、今回は昭和大学江東豊洲病院消化器センター長・教授の井上晴洋さんに、食道がんと飲酒の関係について聞いた。


◇  ◇  ◇

■スピリッツをストレートで飲み続けた知人は…

アルコール度数の高いウイスキーやウオッカをストレートで飲むと、チリチリっと焼けるような刺激がある。その刺激が“食道を降りていく”感覚は、左党ならほとんどの方が体験済みだと思う。あの何とも言えない刺激が「飲んでるな〜」という感じで、たまらなかったりする。実際、私の周囲の左党にも「ウイスキーはストレートじゃなきゃ」という方が結構な割合で多い。

この飲み方、私ももちろん好きなのだが、食道がんで若くして亡くなった二人の知人を思い出す。

お二人とも“ほぼアルコール依存症”といってもいい飲み方で、カロリーをアルコールで摂取するような生活だった。夕方早くからウイスキーをストレートで飲み、ご家族によると「日にボトル一本空けていた」という。

このお二人、どちらも50代半ばで食道がんとなり、あっという間に他界されてしまった。

いずれも似たようなお酒の飲み方で、同じ食道がんになったことから、高アルコールのお酒をストレートで飲み続けるという飲み方が食道がんにつながったのではないかと私はかねがね疑っていた。

食道がんといえば、世界的指揮者の小澤征爾さんやサザンオールスターズの桑田佳祐さんなどがなったことがニュースなどで報じられている。俳優の岡田眞澄さんなど、食道がんで亡くなった著名人も少なくない。

食道がんは胃がんや肺がんなどに比べると数は多くないというが、著名人が罹患していることをニュースなどで聞くと、自分は大丈夫だろうかと不安に思う。また、食道がんは手術が難しいという話も耳にする。

お酒の飲み方は食道がんと関係あるのだろうか。き、気になる…。

私自身、イタリアンやドイツ料理を食べに行った際、「消化を促す」という言い訳で、グラッパやシュナップスといったアルコール度数の高い蒸留酒を必ずといっていいほど飲んでいる。そしてあの喉が焼ける「チリチリ」がたまらないと思う…。

これは因果関係を解明せねばならない。そこで今回は、消化器内視鏡診断・治療のプロフェッショナルで、食道がんに詳しい昭和大学江東豊洲病院消化器センター長・教授の井上晴洋さんに話を伺った。

■食道がんの最大の原因は「飲酒」だった

先生、食道がんを起こす原因は何なのでしょうか? やはり飲酒が関係しているのでしょうか?

「飲酒をする方の食道がんの罹患リスクは圧倒的に多いですね。日本人が食道がんになる最大の原因はアルコールです」(井上さん)

うわー、力を込めて言い切られてしまった…(涙)。消化器内視鏡診断・治療の専門医として35年のキャリアを持ち、多くの食道がん患者を診てきた井上さん故、その一言の説得力たるや半端ない。

「私は、食道がんで来院されてきた方に、ライフスタイルや食生活、そして飲酒習慣について事細かに話を聞きます。長年、多くの食道がんの患者を診ていますが、共通するのはやはり『飲酒の習慣がある』ということ。私の経験上、食道がんに罹患した方のおおむね95%くらいは飲酒の習慣がある方、残り5%は熱い物を好む人、という傾向があります」(井上さん)

95%!!! 何とそこまで関連性があるとは思わなかった。確かにここまでくれば食道がんの主たる原因は「飲酒」だということは間違いない…。

実際、井上さんによると、食道がんの患者は7〜8割が男性なのだという。「これは仕事の付き合いでお酒を飲む機会が多いことが影響していると考えられます」(井上さん)

以前、大腸がんの記事(「大腸がんのリスク、酒が確実に高める では許容量は?」)でも紹介したが、国立がん研究センターでは、日本人を対象とした、がんと生活習慣との関係を評価している。最新の研究結果を基に、がんのリスク評価を、部位別にホームページで公開している。このリスク評価では、「データ不十分」⇒「可能性あり」⇒「ほぼ確実」⇒「確実」の順に科学的根拠としての信頼性が高くなる。


https://style.nikkei.com/article-image?ad=DSXZZO3521841011092018000000&ng=DGXMZO35216910R10C18A9000000


国立がん研究センターの「科学的根拠に基づくがんリスク評価とがん予防ガイドライン提言に関する研究」の「エビデンスの評価」の一部。(国立がん研究センターのホームページより一部抜粋)

この評価で食道がんの項目を見ると、飲酒のリスクは喫煙と並んで「確実」となっている。そして、熱い飲食物が「ほぼ確実」となっている。まさに、井上さんが話した通りだ。

■アルコールや熱い物による「やけど」ががんにつながる

しかし何故、お酒や熱い物を好むと、食道がんに罹患するリスクが高まるのだろう?

「食道がんを誘引する原因は『粘膜のやけど』です。お酒の場合はエタノール(アルコール)によって、粘膜の炎症、つまり“化学的なやけど”が起こっているのです。ウイスキーやウオッカなど高濃度のアルコールをストレートで飲んだ際、喉がチリチリっと焼けるような感じがする。それこそが粘膜の炎症なのです」(井上さん)

「もちろん、一回程度の急性の炎症なら、きちんとリカバリーされ、がんになることはまずありません。しかし、こういった炎症を日々繰り返し、慢性的な炎症になると、細胞組織が再生する過程で遺伝子のコピーミスが起きやすくなり遺伝子が傷つく機会が増え、がんにつながるのです」(井上さん)

「一方、熱い食べ物・飲み物は、高温による粘膜のやけどです。食道が高い頻度で熱い飲み物などにさらされると、慢性的な炎症状態になります。やはりこれががんにつながるのです。湯気が立っている味噌汁、お茶じゃないと飲んだ気がしないという方は注意が必要です」(井上さん)

あの「チリチリ」が粘膜のやけどだったとは。「喉が焼ける〜」なんて、キャッキャッと喜んでいる場合ではない。本当に焼けているのだから…(しかもやけど)。

井上さんによると、胃の粘膜に比べ、食道の粘膜を覆う「扁平上皮(へんぺいじょうひ)」は非常に薄く、エタノールや温度によるやけどを繰り返すことで、扁平上皮のがんを引き起こす要因になるという。

■毎日2合以上飲む人は、飲まない人より4.6倍もリスクが高い

アルコール度数が高いお酒で、食道にやけどが起こり、それが続くと食道がんのリスクが高まることはよく分かった。では、ビールやワインといった食中酒として選ばれる低〜中程度のアルコール度数のお酒をチョイスすればいいのだろうか。

「ビールやワインなどアルコール度数がそこそこのお酒でも、飲み過ぎたらリスクは高くなります。トータルの酒量も問題となるのです。あるビール好きの患者さんに量を聞いてみたら、『一日に10缶くらいですかねえ』という返事がきたこともありました。いくらアルコール度数が低いビールでも大量摂取すれば同じことです」(井上さん)

なるほど。「低アルコールだから、いっぱい飲んでいい」というワケではないのか。国内のコホート研究でも、毎日日本酒換算で2合以上の飲酒習慣がある人は、飲まない人に比べ、食道がんの罹患率リスクが4.6倍高まるという報告も出ている(下のグラフ)。アルコール度数が低いからといって、安心はできないのだ。

国内の多目的コホート研究における飲酒と食道がんリスクの関係。40〜69歳男性約4万5000人を対象に追跡調査したもの。飲酒しないを1とした相対リスク。酒量は1日当たりの日本酒換算量(Cancer Letters. 2009;275:240-246.)


https://style.nikkei.com/article-image?ad=DSXZZO3521843011092018000000&ng=DGXMZO35216910R10C18A9000000


■顔が赤くなる人は要注意!! アルデヒドの影響がここにも

井上さんによると、アルコールによる食道がんリスクについて最も注意しなくてはならない人がいるという。それが「フラッシャー」、つまり飲むと顔が赤くなるタイプの人である。

「実は、食道がんは、お酒をたくさん飲む人より、フラッシャーの人が発症しやすい傾向があるのです」(井上さん)


以前の記事でも解説したが、お酒に強いかどうか(アルコールの耐性)に関わるのがアセトアルデヒド脱水素酵素(ALDH2)の活性だ。この活性が弱い人は、強い毒性を持つアセトアルデヒドがなかなか分解されずに体内に長く残る。このアセトアルデヒドは発がん性物質で、体内に長く残ると、がんにつながる。

顔が赤くなるフラッシャーの人とは、両親から活性が高い遺伝子と、活性が低い遺伝子をそれぞれ引き継いだタイプで、まったく飲めなくはないが、酒は基本的にあまり強くない。(※詳しくは「お酒で赤くなる人、ならない人 がんのリスクも違う」を参照)

お酒を飲むと顔が赤くなる人は、飲酒による食道がんのリスクが高い。営業的な付き合いが多い人は要注意だ。(c)PaylessImages-123RF

井上さんによると、一番危険なのは、「以前はすぐに顔が赤くなってあまり飲めなかったのに、長年、付き合いなどで酒が鍛えられ、飲めるようになった人」だという。

「長年の飲酒による酵素誘導で、アルコールが飲めるようになっても、遺伝子によって決められたALDH2のタイプは変わりません。つまりアセトアルデヒドに長くさらされることになるわけです。飲めることをいいことに慢性的な飲酒を続けていると、食道がんに罹患するリスクが高くなります」(井上さん)

これを聞いて「ドキッ」とされた方も少なくないだろう。食道がんは「働き盛り」といわれる40〜50代の男性に多い。「元来、お酒には強くないのに、営業的な付き合いが長年続いたことで強くなった」という方はなおさら注意が必要である。

井上さんによると、お酒をまったく飲めない人(ALDH2の活性が低い遺伝子を2つ持っている人)は、お酒を飲めないため食道がんにはあまりならないという。一方、ガンガン飲める酒豪タイプの人(ALDH2の活性が高い遺伝子を2つ持っている人)は、アセトアルデヒドの分解能力が高く、やはり食道がんになることは少ないという。怖いのはフラッシャーの人、特にフラッシャーなのに鍛えて飲めるようになった人だ。

そして、井上さんはこう続ける。

「また、アセトアルデヒドは肝臓で代謝され、血液を介して全身を巡ります。そして唾液にも入ってきます。これは『酒臭い』状態を指します。唾液中のアセトアルデヒド濃度は血中濃度よりも高く、これにより食道の粘膜がアセトアルデヒドの毒性にさらされます。つまり、アルコールによる粘膜やけどとのダブルパンチとなるわけです」(井上さん)

アルコールとアルデヒドのダブルパンチ。考えただけでも喉がヒリつく。「酒臭い」と言われる時、食道がそんな危険にさらされていたなんて…。

■濃い酒注意! 酒量も抑える、休肝日も大事

では、食道がんのリスクを下げるためには、何をどう注意したらよいのだろう?

「まず大前提として、アルコール度数の高いお酒をストレートで飲むのを避けることです。ウイスキーやウオッカのように、アルコール度数が40度以上あるお酒を好んで飲む方は『頸部食道がん』といって、食道の入り口近くにがんができやすい傾向にあります」(井上さん)

とにもかくにも喉が「チリチリ」となるアルコール度数の高いお酒は、最も危険ということである。

そして上述したように、酒量もきちんと抑える必要がある。

「聞き慣れたセリフだと思いますが、まずは酒量のトータル量を見直し、適量(純アルコール換算で20g=日本酒換算で1合)を守ること。ほろ酔い程度でやめておくことです。やけ酒、痛飲はもってのほか。リラックスして、楽しんで飲みましょう」(井上さん)

水分の摂取も重要なポイントだと井上さんは話す。「お酒を飲む際は必ず水を飲むよう心がけてください。水によって、アルコールによる食道への刺激を緩和し、カラダの中のアルコールを希釈することが大事です。また、アルコール摂取により脱水が進みますので、水分を補給する必要があります」(井上さん)

日本酒造組合中央会でも、日本酒や本格焼酎などを飲む際、水を飲むことを推奨している。確かに水をきちんと飲んでいると、トイレの回数が増えるし、翌朝も酒臭いことはまずない。

「また週1回でいいので休肝日を設けることも大切です。24時間、しっかりと肝臓を休ませ、細胞の再生を促しましょう。慢性的にお酒を飲む習慣がある方は、大して飲みたくもないのに『惰性』で飲んでしまうことが多々あります。カラダが欲していない時は無理に飲まずともいいのです」(井上さん)

最近こそなくなったけれど、私も「惰性」で飲んでいた。日が傾き、料理を作りながら無意識に缶ビールをカシュッと開けていたっけ。この惰性飲みをやめ、休肝日を設けるようになってから、すこぶる体調がいいし、血液検査の数値も改善した。やはり細胞、肝臓を休ませることは大切なのだ。

このほか、野菜や果物も意識的にとってほしいと井上さんは話す。

国内のコホート研究でも野菜と果物を多く摂取するほど食道がんのリスクが低いと報告されている(Int J Cancer. 2008;123:1935-1940.)。国立がん研究センターの「がんのリスク・予防要因 評価一覧」でも、野菜や果物の摂取が食道がんのリスクを下げるのは「ほぼ確実」としている。

上記のコホート研究では、キャベツ・大根・小松菜などの十字花科の野菜で統計学的に有意な関連が見られた。これらの野菜には、実験研究などで発がんを抑制するとされるイソチオシアネートという成分を含んでいる。

井上さんは、「抗酸化作用の高い果物なども同時にとるといいでしょう。ただし野菜と果物だけをとるのではなく、たんぱく質や食物繊維などをバランスよく食べるようにしてください」とアドバイスする。

■50歳を過ぎたら、年に一度は内視鏡検査を!

飲酒などの生活習慣を改善すると同時に、必須となるのが、定期的な検査である。井上さんは「年に一度は内視鏡検査を!」と話す。

「食道がんは初期の場合、痛みなどの自覚症状がありません。ですので『無症状であっても、定期的に内視鏡検査を行う』ことが早期発見のカギとなります。粘膜でとどまる早期のがんであれば内視鏡を使っての手術になるので、カラダの負担もさほどありません」(井上さん)

「そのためには、一般の内科や人間ドックなどで、胃の内視鏡検査(上部消化管内視鏡検査)を自主的に受ける必要があります。この検査をすれば、咽頭、食道、胃、十二指腸までをひと通りチェックできます」(井上さん)

内視鏡検査は「おえぇ!」となるので恐れる人も少なくないが、井上さんによると、昔に比べ、今は格段に楽になっているという(実際には病院にもよるそうだが)。井上さんの患者の中には「え、もう終わったんですか?」と話す人もいるのだそうだ。

「食道がんは進行すると、外科的手術となり、患者さんの身体的負担もかなり大きくなります。50歳を過ぎたら人間ドックのオプションなどで、年に一度は内視鏡検査をされることをお勧めします」(井上さん)

外科的手術となると、肋骨の間を切開し、肺や心臓の奥にある食道のがんやリンパ節を切除して、胃を持ち上げて食道とつなぐという大掛かりなものになる。聞いているだけで患者の負担が大きいのが分かる。もし食道がんに罹患しても、初期の段階で見つかるよう、定期的な検査は欠かせないのだ。

私もそうだが、酒好きの人は酒を飲む機会が多いのだから、食道がんのリスクは通常の人より確実に高くなる。内視鏡検査は毎年欠かさず実行するとして、そもそも酒の飲み方を一考すべきだろう。「高濃度のお酒をストレートで飲む時の喉のチリチリした刺激がたまらない」なんて言っていてはダメ。一生長〜く酒を飲み続けるためにも、酒には刺激ではなく、癒やしや楽しさを求めてほしい。

井上晴洋さん


昭和大学江東豊洲病院消化器センター長・教授。1983年山口大学医学部卒業。昭和大学横浜市北部病院消化器センター准教授、昭和大学医学部教授、国際消化器内視鏡研修センター、昭和大学横浜市北部病院消化器センター(兼任)などを経て、2014年より現職。専門は消化器内視鏡診断学・治療、食道・胃外科学。食道アカラシアや逆流性食道炎などの内視鏡治療における新しい術式開発にも取り組み、海外でも毎年多くの手術を行う。

(エッセイスト・酒ジャーナリスト=葉石かおり)

[日経Gooday2018年9月4日付記事を再構成]
https://style.nikkei.com/article/DGXMZO35216910R10C18A9000000/
http://www.asyura2.com/09/revival3/msg/723.html#c37

[不安と不健康16] “早死にする人”ランキング 短命にある共通点とは…(ZAK×SPA!)  赤かぶ
118. 中川隆[-9064] koaQ7Jey 2019年7月15日 10:24:39 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[3627]

のどに刺激のある強い酒 飲み続けた人の末路は?
日経Gooday 2018/9/23
https://style.nikkei.com/article/DGXMZO35216910R10C18A9000000/


ウイスキーやウオッカなどをストレートで飲む人は、チリチリっと焼けるような刺激が“食道を降りていく”感覚が好きな人が多いだろう。だが、この飲み方にはあるリスクが…。(c)Donato Fiorentino-123RF

食道がんは胃がんなどより数は多くないものの、進行すれば手術が難しくなる“怖いがん”だ。この食道がんが、お酒と密接に関係していることをご存じだろうか。さらに、お酒の飲み方やその人の体質によりリスクが大きく変わるというから聞き捨てならない。そこで酒ジャーナリストの葉石かおりが、今回は昭和大学江東豊洲病院消化器センター長・教授の井上晴洋さんに、食道がんと飲酒の関係について聞いた。


◇  ◇  ◇

■スピリッツをストレートで飲み続けた知人は…

アルコール度数の高いウイスキーやウオッカをストレートで飲むと、チリチリっと焼けるような刺激がある。その刺激が“食道を降りていく”感覚は、左党ならほとんどの方が体験済みだと思う。あの何とも言えない刺激が「飲んでるな〜」という感じで、たまらなかったりする。実際、私の周囲の左党にも「ウイスキーはストレートじゃなきゃ」という方が結構な割合で多い。

この飲み方、私ももちろん好きなのだが、食道がんで若くして亡くなった二人の知人を思い出す。

お二人とも“ほぼアルコール依存症”といってもいい飲み方で、カロリーをアルコールで摂取するような生活だった。夕方早くからウイスキーをストレートで飲み、ご家族によると「日にボトル一本空けていた」という。

このお二人、どちらも50代半ばで食道がんとなり、あっという間に他界されてしまった。

いずれも似たようなお酒の飲み方で、同じ食道がんになったことから、高アルコールのお酒をストレートで飲み続けるという飲み方が食道がんにつながったのではないかと私はかねがね疑っていた。

食道がんといえば、世界的指揮者の小澤征爾さんやサザンオールスターズの桑田佳祐さんなどがなったことがニュースなどで報じられている。俳優の岡田眞澄さんなど、食道がんで亡くなった著名人も少なくない。

食道がんは胃がんや肺がんなどに比べると数は多くないというが、著名人が罹患していることをニュースなどで聞くと、自分は大丈夫だろうかと不安に思う。また、食道がんは手術が難しいという話も耳にする。

お酒の飲み方は食道がんと関係あるのだろうか。き、気になる…。

私自身、イタリアンやドイツ料理を食べに行った際、「消化を促す」という言い訳で、グラッパやシュナップスといったアルコール度数の高い蒸留酒を必ずといっていいほど飲んでいる。そしてあの喉が焼ける「チリチリ」がたまらないと思う…。

これは因果関係を解明せねばならない。そこで今回は、消化器内視鏡診断・治療のプロフェッショナルで、食道がんに詳しい昭和大学江東豊洲病院消化器センター長・教授の井上晴洋さんに話を伺った。

■食道がんの最大の原因は「飲酒」だった

先生、食道がんを起こす原因は何なのでしょうか? やはり飲酒が関係しているのでしょうか?

「飲酒をする方の食道がんの罹患リスクは圧倒的に多いですね。日本人が食道がんになる最大の原因はアルコールです」(井上さん)

うわー、力を込めて言い切られてしまった…(涙)。消化器内視鏡診断・治療の専門医として35年のキャリアを持ち、多くの食道がん患者を診てきた井上さん故、その一言の説得力たるや半端ない。

「私は、食道がんで来院されてきた方に、ライフスタイルや食生活、そして飲酒習慣について事細かに話を聞きます。長年、多くの食道がんの患者を診ていますが、共通するのはやはり『飲酒の習慣がある』ということ。私の経験上、食道がんに罹患した方のおおむね95%くらいは飲酒の習慣がある方、残り5%は熱い物を好む人、という傾向があります」(井上さん)

95%!!! 何とそこまで関連性があるとは思わなかった。確かにここまでくれば食道がんの主たる原因は「飲酒」だということは間違いない…。

実際、井上さんによると、食道がんの患者は7〜8割が男性なのだという。「これは仕事の付き合いでお酒を飲む機会が多いことが影響していると考えられます」(井上さん)

以前、大腸がんの記事(「大腸がんのリスク、酒が確実に高める では許容量は?」)でも紹介したが、国立がん研究センターでは、日本人を対象とした、がんと生活習慣との関係を評価している。最新の研究結果を基に、がんのリスク評価を、部位別にホームページで公開している。このリスク評価では、「データ不十分」⇒「可能性あり」⇒「ほぼ確実」⇒「確実」の順に科学的根拠としての信頼性が高くなる。


https://style.nikkei.com/article-image?ad=DSXZZO3521841011092018000000&ng=DGXMZO35216910R10C18A9000000


国立がん研究センターの「科学的根拠に基づくがんリスク評価とがん予防ガイドライン提言に関する研究」の「エビデンスの評価」の一部。(国立がん研究センターのホームページより一部抜粋)

この評価で食道がんの項目を見ると、飲酒のリスクは喫煙と並んで「確実」となっている。そして、熱い飲食物が「ほぼ確実」となっている。まさに、井上さんが話した通りだ。

■アルコールや熱い物による「やけど」ががんにつながる

しかし何故、お酒や熱い物を好むと、食道がんに罹患するリスクが高まるのだろう?

「食道がんを誘引する原因は『粘膜のやけど』です。お酒の場合はエタノール(アルコール)によって、粘膜の炎症、つまり“化学的なやけど”が起こっているのです。ウイスキーやウオッカなど高濃度のアルコールをストレートで飲んだ際、喉がチリチリっと焼けるような感じがする。それこそが粘膜の炎症なのです」(井上さん)

「もちろん、一回程度の急性の炎症なら、きちんとリカバリーされ、がんになることはまずありません。しかし、こういった炎症を日々繰り返し、慢性的な炎症になると、細胞組織が再生する過程で遺伝子のコピーミスが起きやすくなり遺伝子が傷つく機会が増え、がんにつながるのです」(井上さん)

「一方、熱い食べ物・飲み物は、高温による粘膜のやけどです。食道が高い頻度で熱い飲み物などにさらされると、慢性的な炎症状態になります。やはりこれががんにつながるのです。湯気が立っている味噌汁、お茶じゃないと飲んだ気がしないという方は注意が必要です」(井上さん)

あの「チリチリ」が粘膜のやけどだったとは。「喉が焼ける〜」なんて、キャッキャッと喜んでいる場合ではない。本当に焼けているのだから…(しかもやけど)。

井上さんによると、胃の粘膜に比べ、食道の粘膜を覆う「扁平上皮(へんぺいじょうひ)」は非常に薄く、エタノールや温度によるやけどを繰り返すことで、扁平上皮のがんを引き起こす要因になるという。

■毎日2合以上飲む人は、飲まない人より4.6倍もリスクが高い

アルコール度数が高いお酒で、食道にやけどが起こり、それが続くと食道がんのリスクが高まることはよく分かった。では、ビールやワインといった食中酒として選ばれる低〜中程度のアルコール度数のお酒をチョイスすればいいのだろうか。

「ビールやワインなどアルコール度数がそこそこのお酒でも、飲み過ぎたらリスクは高くなります。トータルの酒量も問題となるのです。あるビール好きの患者さんに量を聞いてみたら、『一日に10缶くらいですかねえ』という返事がきたこともありました。いくらアルコール度数が低いビールでも大量摂取すれば同じことです」(井上さん)

なるほど。「低アルコールだから、いっぱい飲んでいい」というワケではないのか。国内のコホート研究でも、毎日日本酒換算で2合以上の飲酒習慣がある人は、飲まない人に比べ、食道がんの罹患率リスクが4.6倍高まるという報告も出ている(下のグラフ)。アルコール度数が低いからといって、安心はできないのだ。

国内の多目的コホート研究における飲酒と食道がんリスクの関係。40〜69歳男性約4万5000人を対象に追跡調査したもの。飲酒しないを1とした相対リスク。酒量は1日当たりの日本酒換算量(Cancer Letters. 2009;275:240-246.)


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■顔が赤くなる人は要注意!! アルデヒドの影響がここにも

井上さんによると、アルコールによる食道がんリスクについて最も注意しなくてはならない人がいるという。それが「フラッシャー」、つまり飲むと顔が赤くなるタイプの人である。

「実は、食道がんは、お酒をたくさん飲む人より、フラッシャーの人が発症しやすい傾向があるのです」(井上さん)


以前の記事でも解説したが、お酒に強いかどうか(アルコールの耐性)に関わるのがアセトアルデヒド脱水素酵素(ALDH2)の活性だ。この活性が弱い人は、強い毒性を持つアセトアルデヒドがなかなか分解されずに体内に長く残る。このアセトアルデヒドは発がん性物質で、体内に長く残ると、がんにつながる。

顔が赤くなるフラッシャーの人とは、両親から活性が高い遺伝子と、活性が低い遺伝子をそれぞれ引き継いだタイプで、まったく飲めなくはないが、酒は基本的にあまり強くない。(※詳しくは「お酒で赤くなる人、ならない人 がんのリスクも違う」を参照)

お酒を飲むと顔が赤くなる人は、飲酒による食道がんのリスクが高い。営業的な付き合いが多い人は要注意だ。(c)PaylessImages-123RF

井上さんによると、一番危険なのは、「以前はすぐに顔が赤くなってあまり飲めなかったのに、長年、付き合いなどで酒が鍛えられ、飲めるようになった人」だという。

「長年の飲酒による酵素誘導で、アルコールが飲めるようになっても、遺伝子によって決められたALDH2のタイプは変わりません。つまりアセトアルデヒドに長くさらされることになるわけです。飲めることをいいことに慢性的な飲酒を続けていると、食道がんに罹患するリスクが高くなります」(井上さん)

これを聞いて「ドキッ」とされた方も少なくないだろう。食道がんは「働き盛り」といわれる40〜50代の男性に多い。「元来、お酒には強くないのに、営業的な付き合いが長年続いたことで強くなった」という方はなおさら注意が必要である。

井上さんによると、お酒をまったく飲めない人(ALDH2の活性が低い遺伝子を2つ持っている人)は、お酒を飲めないため食道がんにはあまりならないという。一方、ガンガン飲める酒豪タイプの人(ALDH2の活性が高い遺伝子を2つ持っている人)は、アセトアルデヒドの分解能力が高く、やはり食道がんになることは少ないという。怖いのはフラッシャーの人、特にフラッシャーなのに鍛えて飲めるようになった人だ。

そして、井上さんはこう続ける。

「また、アセトアルデヒドは肝臓で代謝され、血液を介して全身を巡ります。そして唾液にも入ってきます。これは『酒臭い』状態を指します。唾液中のアセトアルデヒド濃度は血中濃度よりも高く、これにより食道の粘膜がアセトアルデヒドの毒性にさらされます。つまり、アルコールによる粘膜やけどとのダブルパンチとなるわけです」(井上さん)

アルコールとアルデヒドのダブルパンチ。考えただけでも喉がヒリつく。「酒臭い」と言われる時、食道がそんな危険にさらされていたなんて…。

■濃い酒注意! 酒量も抑える、休肝日も大事

では、食道がんのリスクを下げるためには、何をどう注意したらよいのだろう?

「まず大前提として、アルコール度数の高いお酒をストレートで飲むのを避けることです。ウイスキーやウオッカのように、アルコール度数が40度以上あるお酒を好んで飲む方は『頸部食道がん』といって、食道の入り口近くにがんができやすい傾向にあります」(井上さん)

とにもかくにも喉が「チリチリ」となるアルコール度数の高いお酒は、最も危険ということである。

そして上述したように、酒量もきちんと抑える必要がある。

「聞き慣れたセリフだと思いますが、まずは酒量のトータル量を見直し、適量(純アルコール換算で20g=日本酒換算で1合)を守ること。ほろ酔い程度でやめておくことです。やけ酒、痛飲はもってのほか。リラックスして、楽しんで飲みましょう」(井上さん)

水分の摂取も重要なポイントだと井上さんは話す。「お酒を飲む際は必ず水を飲むよう心がけてください。水によって、アルコールによる食道への刺激を緩和し、カラダの中のアルコールを希釈することが大事です。また、アルコール摂取により脱水が進みますので、水分を補給する必要があります」(井上さん)

日本酒造組合中央会でも、日本酒や本格焼酎などを飲む際、水を飲むことを推奨している。確かに水をきちんと飲んでいると、トイレの回数が増えるし、翌朝も酒臭いことはまずない。

「また週1回でいいので休肝日を設けることも大切です。24時間、しっかりと肝臓を休ませ、細胞の再生を促しましょう。慢性的にお酒を飲む習慣がある方は、大して飲みたくもないのに『惰性』で飲んでしまうことが多々あります。カラダが欲していない時は無理に飲まずともいいのです」(井上さん)

最近こそなくなったけれど、私も「惰性」で飲んでいた。日が傾き、料理を作りながら無意識に缶ビールをカシュッと開けていたっけ。この惰性飲みをやめ、休肝日を設けるようになってから、すこぶる体調がいいし、血液検査の数値も改善した。やはり細胞、肝臓を休ませることは大切なのだ。

このほか、野菜や果物も意識的にとってほしいと井上さんは話す。

国内のコホート研究でも野菜と果物を多く摂取するほど食道がんのリスクが低いと報告されている(Int J Cancer. 2008;123:1935-1940.)。国立がん研究センターの「がんのリスク・予防要因 評価一覧」でも、野菜や果物の摂取が食道がんのリスクを下げるのは「ほぼ確実」としている。

上記のコホート研究では、キャベツ・大根・小松菜などの十字花科の野菜で統計学的に有意な関連が見られた。これらの野菜には、実験研究などで発がんを抑制するとされるイソチオシアネートという成分を含んでいる。

井上さんは、「抗酸化作用の高い果物なども同時にとるといいでしょう。ただし野菜と果物だけをとるのではなく、たんぱく質や食物繊維などをバランスよく食べるようにしてください」とアドバイスする。

■50歳を過ぎたら、年に一度は内視鏡検査を!

飲酒などの生活習慣を改善すると同時に、必須となるのが、定期的な検査である。井上さんは「年に一度は内視鏡検査を!」と話す。

「食道がんは初期の場合、痛みなどの自覚症状がありません。ですので『無症状であっても、定期的に内視鏡検査を行う』ことが早期発見のカギとなります。粘膜でとどまる早期のがんであれば内視鏡を使っての手術になるので、カラダの負担もさほどありません」(井上さん)

「そのためには、一般の内科や人間ドックなどで、胃の内視鏡検査(上部消化管内視鏡検査)を自主的に受ける必要があります。この検査をすれば、咽頭、食道、胃、十二指腸までをひと通りチェックできます」(井上さん)

内視鏡検査は「おえぇ!」となるので恐れる人も少なくないが、井上さんによると、昔に比べ、今は格段に楽になっているという(実際には病院にもよるそうだが)。井上さんの患者の中には「え、もう終わったんですか?」と話す人もいるのだそうだ。

「食道がんは進行すると、外科的手術となり、患者さんの身体的負担もかなり大きくなります。50歳を過ぎたら人間ドックのオプションなどで、年に一度は内視鏡検査をされることをお勧めします」(井上さん)

外科的手術となると、肋骨の間を切開し、肺や心臓の奥にある食道のがんやリンパ節を切除して、胃を持ち上げて食道とつなぐという大掛かりなものになる。聞いているだけで患者の負担が大きいのが分かる。もし食道がんに罹患しても、初期の段階で見つかるよう、定期的な検査は欠かせないのだ。

私もそうだが、酒好きの人は酒を飲む機会が多いのだから、食道がんのリスクは通常の人より確実に高くなる。内視鏡検査は毎年欠かさず実行するとして、そもそも酒の飲み方を一考すべきだろう。「高濃度のお酒をストレートで飲む時の喉のチリチリした刺激がたまらない」なんて言っていてはダメ。一生長〜く酒を飲み続けるためにも、酒には刺激ではなく、癒やしや楽しさを求めてほしい。

井上晴洋さん


昭和大学江東豊洲病院消化器センター長・教授。1983年山口大学医学部卒業。昭和大学横浜市北部病院消化器センター准教授、昭和大学医学部教授、国際消化器内視鏡研修センター、昭和大学横浜市北部病院消化器センター(兼任)などを経て、2014年より現職。専門は消化器内視鏡診断学・治療、食道・胃外科学。食道アカラシアや逆流性食道炎などの内視鏡治療における新しい術式開発にも取り組み、海外でも毎年多くの手術を行う。

(エッセイスト・酒ジャーナリスト=葉石かおり)

[日経Gooday2018年9月4日付記事を再構成]
https://style.nikkei.com/article/DGXMZO35216910R10C18A9000000/


ウイスキー・ブランデー等の蒸留酒をストレートで飲んだり、熱いお茶を毎日飲んでいると60歳まで生きられないのですね
http://www.asyura2.com/13/health16/msg/134.html#c118

[不安と不健康15] コンビニ弁当やお握りは辞めた方がいいです。『拡散』 (カズちゃんのブログ)  赤かぶ
305. 中川隆[-9063] koaQ7Jey 2019年7月15日 10:25:12 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[3628]

のどに刺激のある強い酒 飲み続けた人の末路は?
日経Gooday 2018/9/23
https://style.nikkei.com/article/DGXMZO35216910R10C18A9000000/


ウイスキーやウオッカなどをストレートで飲む人は、チリチリっと焼けるような刺激が“食道を降りていく”感覚が好きな人が多いだろう。だが、この飲み方にはあるリスクが…。(c)Donato Fiorentino-123RF

食道がんは胃がんなどより数は多くないものの、進行すれば手術が難しくなる“怖いがん”だ。この食道がんが、お酒と密接に関係していることをご存じだろうか。さらに、お酒の飲み方やその人の体質によりリスクが大きく変わるというから聞き捨てならない。そこで酒ジャーナリストの葉石かおりが、今回は昭和大学江東豊洲病院消化器センター長・教授の井上晴洋さんに、食道がんと飲酒の関係について聞いた。


◇  ◇  ◇

■スピリッツをストレートで飲み続けた知人は…

アルコール度数の高いウイスキーやウオッカをストレートで飲むと、チリチリっと焼けるような刺激がある。その刺激が“食道を降りていく”感覚は、左党ならほとんどの方が体験済みだと思う。あの何とも言えない刺激が「飲んでるな〜」という感じで、たまらなかったりする。実際、私の周囲の左党にも「ウイスキーはストレートじゃなきゃ」という方が結構な割合で多い。

この飲み方、私ももちろん好きなのだが、食道がんで若くして亡くなった二人の知人を思い出す。

お二人とも“ほぼアルコール依存症”といってもいい飲み方で、カロリーをアルコールで摂取するような生活だった。夕方早くからウイスキーをストレートで飲み、ご家族によると「日にボトル一本空けていた」という。

このお二人、どちらも50代半ばで食道がんとなり、あっという間に他界されてしまった。

いずれも似たようなお酒の飲み方で、同じ食道がんになったことから、高アルコールのお酒をストレートで飲み続けるという飲み方が食道がんにつながったのではないかと私はかねがね疑っていた。

食道がんといえば、世界的指揮者の小澤征爾さんやサザンオールスターズの桑田佳祐さんなどがなったことがニュースなどで報じられている。俳優の岡田眞澄さんなど、食道がんで亡くなった著名人も少なくない。

食道がんは胃がんや肺がんなどに比べると数は多くないというが、著名人が罹患していることをニュースなどで聞くと、自分は大丈夫だろうかと不安に思う。また、食道がんは手術が難しいという話も耳にする。

お酒の飲み方は食道がんと関係あるのだろうか。き、気になる…。

私自身、イタリアンやドイツ料理を食べに行った際、「消化を促す」という言い訳で、グラッパやシュナップスといったアルコール度数の高い蒸留酒を必ずといっていいほど飲んでいる。そしてあの喉が焼ける「チリチリ」がたまらないと思う…。

これは因果関係を解明せねばならない。そこで今回は、消化器内視鏡診断・治療のプロフェッショナルで、食道がんに詳しい昭和大学江東豊洲病院消化器センター長・教授の井上晴洋さんに話を伺った。

■食道がんの最大の原因は「飲酒」だった

先生、食道がんを起こす原因は何なのでしょうか? やはり飲酒が関係しているのでしょうか?

「飲酒をする方の食道がんの罹患リスクは圧倒的に多いですね。日本人が食道がんになる最大の原因はアルコールです」(井上さん)

うわー、力を込めて言い切られてしまった…(涙)。消化器内視鏡診断・治療の専門医として35年のキャリアを持ち、多くの食道がん患者を診てきた井上さん故、その一言の説得力たるや半端ない。

「私は、食道がんで来院されてきた方に、ライフスタイルや食生活、そして飲酒習慣について事細かに話を聞きます。長年、多くの食道がんの患者を診ていますが、共通するのはやはり『飲酒の習慣がある』ということ。私の経験上、食道がんに罹患した方のおおむね95%くらいは飲酒の習慣がある方、残り5%は熱い物を好む人、という傾向があります」(井上さん)

95%!!! 何とそこまで関連性があるとは思わなかった。確かにここまでくれば食道がんの主たる原因は「飲酒」だということは間違いない…。

実際、井上さんによると、食道がんの患者は7〜8割が男性なのだという。「これは仕事の付き合いでお酒を飲む機会が多いことが影響していると考えられます」(井上さん)

以前、大腸がんの記事(「大腸がんのリスク、酒が確実に高める では許容量は?」)でも紹介したが、国立がん研究センターでは、日本人を対象とした、がんと生活習慣との関係を評価している。最新の研究結果を基に、がんのリスク評価を、部位別にホームページで公開している。このリスク評価では、「データ不十分」⇒「可能性あり」⇒「ほぼ確実」⇒「確実」の順に科学的根拠としての信頼性が高くなる。


https://style.nikkei.com/article-image?ad=DSXZZO3521841011092018000000&ng=DGXMZO35216910R10C18A9000000


国立がん研究センターの「科学的根拠に基づくがんリスク評価とがん予防ガイドライン提言に関する研究」の「エビデンスの評価」の一部。(国立がん研究センターのホームページより一部抜粋)

この評価で食道がんの項目を見ると、飲酒のリスクは喫煙と並んで「確実」となっている。そして、熱い飲食物が「ほぼ確実」となっている。まさに、井上さんが話した通りだ。

■アルコールや熱い物による「やけど」ががんにつながる

しかし何故、お酒や熱い物を好むと、食道がんに罹患するリスクが高まるのだろう?

「食道がんを誘引する原因は『粘膜のやけど』です。お酒の場合はエタノール(アルコール)によって、粘膜の炎症、つまり“化学的なやけど”が起こっているのです。ウイスキーやウオッカなど高濃度のアルコールをストレートで飲んだ際、喉がチリチリっと焼けるような感じがする。それこそが粘膜の炎症なのです」(井上さん)

「もちろん、一回程度の急性の炎症なら、きちんとリカバリーされ、がんになることはまずありません。しかし、こういった炎症を日々繰り返し、慢性的な炎症になると、細胞組織が再生する過程で遺伝子のコピーミスが起きやすくなり遺伝子が傷つく機会が増え、がんにつながるのです」(井上さん)

「一方、熱い食べ物・飲み物は、高温による粘膜のやけどです。食道が高い頻度で熱い飲み物などにさらされると、慢性的な炎症状態になります。やはりこれががんにつながるのです。湯気が立っている味噌汁、お茶じゃないと飲んだ気がしないという方は注意が必要です」(井上さん)

あの「チリチリ」が粘膜のやけどだったとは。「喉が焼ける〜」なんて、キャッキャッと喜んでいる場合ではない。本当に焼けているのだから…(しかもやけど)。

井上さんによると、胃の粘膜に比べ、食道の粘膜を覆う「扁平上皮(へんぺいじょうひ)」は非常に薄く、エタノールや温度によるやけどを繰り返すことで、扁平上皮のがんを引き起こす要因になるという。

■毎日2合以上飲む人は、飲まない人より4.6倍もリスクが高い

アルコール度数が高いお酒で、食道にやけどが起こり、それが続くと食道がんのリスクが高まることはよく分かった。では、ビールやワインといった食中酒として選ばれる低〜中程度のアルコール度数のお酒をチョイスすればいいのだろうか。

「ビールやワインなどアルコール度数がそこそこのお酒でも、飲み過ぎたらリスクは高くなります。トータルの酒量も問題となるのです。あるビール好きの患者さんに量を聞いてみたら、『一日に10缶くらいですかねえ』という返事がきたこともありました。いくらアルコール度数が低いビールでも大量摂取すれば同じことです」(井上さん)

なるほど。「低アルコールだから、いっぱい飲んでいい」というワケではないのか。国内のコホート研究でも、毎日日本酒換算で2合以上の飲酒習慣がある人は、飲まない人に比べ、食道がんの罹患率リスクが4.6倍高まるという報告も出ている(下のグラフ)。アルコール度数が低いからといって、安心はできないのだ。

国内の多目的コホート研究における飲酒と食道がんリスクの関係。40〜69歳男性約4万5000人を対象に追跡調査したもの。飲酒しないを1とした相対リスク。酒量は1日当たりの日本酒換算量(Cancer Letters. 2009;275:240-246.)


https://style.nikkei.com/article-image?ad=DSXZZO3521843011092018000000&ng=DGXMZO35216910R10C18A9000000


■顔が赤くなる人は要注意!! アルデヒドの影響がここにも

井上さんによると、アルコールによる食道がんリスクについて最も注意しなくてはならない人がいるという。それが「フラッシャー」、つまり飲むと顔が赤くなるタイプの人である。

「実は、食道がんは、お酒をたくさん飲む人より、フラッシャーの人が発症しやすい傾向があるのです」(井上さん)


以前の記事でも解説したが、お酒に強いかどうか(アルコールの耐性)に関わるのがアセトアルデヒド脱水素酵素(ALDH2)の活性だ。この活性が弱い人は、強い毒性を持つアセトアルデヒドがなかなか分解されずに体内に長く残る。このアセトアルデヒドは発がん性物質で、体内に長く残ると、がんにつながる。

顔が赤くなるフラッシャーの人とは、両親から活性が高い遺伝子と、活性が低い遺伝子をそれぞれ引き継いだタイプで、まったく飲めなくはないが、酒は基本的にあまり強くない。(※詳しくは「お酒で赤くなる人、ならない人 がんのリスクも違う」を参照)

お酒を飲むと顔が赤くなる人は、飲酒による食道がんのリスクが高い。営業的な付き合いが多い人は要注意だ。(c)PaylessImages-123RF

井上さんによると、一番危険なのは、「以前はすぐに顔が赤くなってあまり飲めなかったのに、長年、付き合いなどで酒が鍛えられ、飲めるようになった人」だという。

「長年の飲酒による酵素誘導で、アルコールが飲めるようになっても、遺伝子によって決められたALDH2のタイプは変わりません。つまりアセトアルデヒドに長くさらされることになるわけです。飲めることをいいことに慢性的な飲酒を続けていると、食道がんに罹患するリスクが高くなります」(井上さん)

これを聞いて「ドキッ」とされた方も少なくないだろう。食道がんは「働き盛り」といわれる40〜50代の男性に多い。「元来、お酒には強くないのに、営業的な付き合いが長年続いたことで強くなった」という方はなおさら注意が必要である。

井上さんによると、お酒をまったく飲めない人(ALDH2の活性が低い遺伝子を2つ持っている人)は、お酒を飲めないため食道がんにはあまりならないという。一方、ガンガン飲める酒豪タイプの人(ALDH2の活性が高い遺伝子を2つ持っている人)は、アセトアルデヒドの分解能力が高く、やはり食道がんになることは少ないという。怖いのはフラッシャーの人、特にフラッシャーなのに鍛えて飲めるようになった人だ。

そして、井上さんはこう続ける。

「また、アセトアルデヒドは肝臓で代謝され、血液を介して全身を巡ります。そして唾液にも入ってきます。これは『酒臭い』状態を指します。唾液中のアセトアルデヒド濃度は血中濃度よりも高く、これにより食道の粘膜がアセトアルデヒドの毒性にさらされます。つまり、アルコールによる粘膜やけどとのダブルパンチとなるわけです」(井上さん)

アルコールとアルデヒドのダブルパンチ。考えただけでも喉がヒリつく。「酒臭い」と言われる時、食道がそんな危険にさらされていたなんて…。

■濃い酒注意! 酒量も抑える、休肝日も大事

では、食道がんのリスクを下げるためには、何をどう注意したらよいのだろう?

「まず大前提として、アルコール度数の高いお酒をストレートで飲むのを避けることです。ウイスキーやウオッカのように、アルコール度数が40度以上あるお酒を好んで飲む方は『頸部食道がん』といって、食道の入り口近くにがんができやすい傾向にあります」(井上さん)

とにもかくにも喉が「チリチリ」となるアルコール度数の高いお酒は、最も危険ということである。

そして上述したように、酒量もきちんと抑える必要がある。

「聞き慣れたセリフだと思いますが、まずは酒量のトータル量を見直し、適量(純アルコール換算で20g=日本酒換算で1合)を守ること。ほろ酔い程度でやめておくことです。やけ酒、痛飲はもってのほか。リラックスして、楽しんで飲みましょう」(井上さん)

水分の摂取も重要なポイントだと井上さんは話す。「お酒を飲む際は必ず水を飲むよう心がけてください。水によって、アルコールによる食道への刺激を緩和し、カラダの中のアルコールを希釈することが大事です。また、アルコール摂取により脱水が進みますので、水分を補給する必要があります」(井上さん)

日本酒造組合中央会でも、日本酒や本格焼酎などを飲む際、水を飲むことを推奨している。確かに水をきちんと飲んでいると、トイレの回数が増えるし、翌朝も酒臭いことはまずない。

「また週1回でいいので休肝日を設けることも大切です。24時間、しっかりと肝臓を休ませ、細胞の再生を促しましょう。慢性的にお酒を飲む習慣がある方は、大して飲みたくもないのに『惰性』で飲んでしまうことが多々あります。カラダが欲していない時は無理に飲まずともいいのです」(井上さん)

最近こそなくなったけれど、私も「惰性」で飲んでいた。日が傾き、料理を作りながら無意識に缶ビールをカシュッと開けていたっけ。この惰性飲みをやめ、休肝日を設けるようになってから、すこぶる体調がいいし、血液検査の数値も改善した。やはり細胞、肝臓を休ませることは大切なのだ。

このほか、野菜や果物も意識的にとってほしいと井上さんは話す。

国内のコホート研究でも野菜と果物を多く摂取するほど食道がんのリスクが低いと報告されている(Int J Cancer. 2008;123:1935-1940.)。国立がん研究センターの「がんのリスク・予防要因 評価一覧」でも、野菜や果物の摂取が食道がんのリスクを下げるのは「ほぼ確実」としている。

上記のコホート研究では、キャベツ・大根・小松菜などの十字花科の野菜で統計学的に有意な関連が見られた。これらの野菜には、実験研究などで発がんを抑制するとされるイソチオシアネートという成分を含んでいる。

井上さんは、「抗酸化作用の高い果物なども同時にとるといいでしょう。ただし野菜と果物だけをとるのではなく、たんぱく質や食物繊維などをバランスよく食べるようにしてください」とアドバイスする。

■50歳を過ぎたら、年に一度は内視鏡検査を!

飲酒などの生活習慣を改善すると同時に、必須となるのが、定期的な検査である。井上さんは「年に一度は内視鏡検査を!」と話す。

「食道がんは初期の場合、痛みなどの自覚症状がありません。ですので『無症状であっても、定期的に内視鏡検査を行う』ことが早期発見のカギとなります。粘膜でとどまる早期のがんであれば内視鏡を使っての手術になるので、カラダの負担もさほどありません」(井上さん)

「そのためには、一般の内科や人間ドックなどで、胃の内視鏡検査(上部消化管内視鏡検査)を自主的に受ける必要があります。この検査をすれば、咽頭、食道、胃、十二指腸までをひと通りチェックできます」(井上さん)

内視鏡検査は「おえぇ!」となるので恐れる人も少なくないが、井上さんによると、昔に比べ、今は格段に楽になっているという(実際には病院にもよるそうだが)。井上さんの患者の中には「え、もう終わったんですか?」と話す人もいるのだそうだ。

「食道がんは進行すると、外科的手術となり、患者さんの身体的負担もかなり大きくなります。50歳を過ぎたら人間ドックのオプションなどで、年に一度は内視鏡検査をされることをお勧めします」(井上さん)

外科的手術となると、肋骨の間を切開し、肺や心臓の奥にある食道のがんやリンパ節を切除して、胃を持ち上げて食道とつなぐという大掛かりなものになる。聞いているだけで患者の負担が大きいのが分かる。もし食道がんに罹患しても、初期の段階で見つかるよう、定期的な検査は欠かせないのだ。

私もそうだが、酒好きの人は酒を飲む機会が多いのだから、食道がんのリスクは通常の人より確実に高くなる。内視鏡検査は毎年欠かさず実行するとして、そもそも酒の飲み方を一考すべきだろう。「高濃度のお酒をストレートで飲む時の喉のチリチリした刺激がたまらない」なんて言っていてはダメ。一生長〜く酒を飲み続けるためにも、酒には刺激ではなく、癒やしや楽しさを求めてほしい。

井上晴洋さん


昭和大学江東豊洲病院消化器センター長・教授。1983年山口大学医学部卒業。昭和大学横浜市北部病院消化器センター准教授、昭和大学医学部教授、国際消化器内視鏡研修センター、昭和大学横浜市北部病院消化器センター(兼任)などを経て、2014年より現職。専門は消化器内視鏡診断学・治療、食道・胃外科学。食道アカラシアや逆流性食道炎などの内視鏡治療における新しい術式開発にも取り組み、海外でも毎年多くの手術を行う。

(エッセイスト・酒ジャーナリスト=葉石かおり)

[日経Gooday2018年9月4日付記事を再構成]
https://style.nikkei.com/article/DGXMZO35216910R10C18A9000000/


ウイスキー・ブランデー等の蒸留酒をストレートで飲んだり、熱いお茶を毎日飲んでいると60歳まで生きられないのですね
http://www.asyura2.com/09/health15/msg/764.html#c305

[リバイバル3] 中川隆 _ 食べ物、農業関係投稿リンク 中川隆
31. 2019年7月15日 10:28:05 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[3629]
ウイスキーやブランデーをストレートで飲み続けた人の末路は?
http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/529.html

http://www.asyura2.com/09/revival3/msg/812.html#c31
[近代史3] ウイスキーやブランデーをストレートで飲み続けた人の末路は? 中川隆
1. 中川隆[-9062] koaQ7Jey 2019年7月15日 10:31:43 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[3630]
野口五郎さん手術の「食道がん」 “お酒で顔が赤くなる”タイプはリスク100倍超も! 2019年2月14日
https://www.fnn.jp/posts/00424170HDK?obtp_src=FNNjp_AR_2


• 食道がんは進行が速い
• これまでの手術は“大手術”に
• 身近な食材で予防できる!

桑田佳祐さんも手術

歌手の野口五郎さん(62)が先日、事務所スタッフにも知らせずに、食道がんの手術を昨年受けたことをコンサートで明かしました。
日頃から体調に気を使うことから早期発見につながり、年明けからは仕事を始めたとのことです。
2010年には、桑田佳祐さんも食道がんの手術を受けています。

食道は、のどと胃をつなぐ長さ約25p、太さ2〜3p、厚さ約4oの管状の臓器で、食べ物を胃に流し入れる役割を果たします。
食道の内面を覆っている粘膜表面の上皮から発生したがんを、食道がんと呼びます。

食道がんには「扁平上皮がん」と「腺がん」という2種類の組織型がありますが、日本では90%以上は「扁平上皮がん」といわれています。
「扁平上皮がん」は、「腺がん」よりも増殖速度が早いことが知られています。このため、一般に胃がん・大腸がんよりも、食道がんは進行しやすいといえます。

食道の周囲には、気管・気管支や肺、大動脈、心臓など重要な臓器が近接しているので、がんが大きくなるとこれらの臓器にも広がっていきます。腹部や首のリンパ節、他の臓器に転移することもあります。


<飲酒×赤くなる×喫煙>は、リスク100倍超!

扁平上皮の食道がんの場合、「喫煙」と「飲酒」が大きなリスクとなります。さらに喫煙と飲酒習慣の両方がある場合、そのリスクは相乗的に増加していきます。

では、飲酒や喫煙によってリスクはどれくらい高くなるのでしょうか。
「飲酒も喫煙もしない人」のリスクを1とした場合、「毎日1.5合以上のお酒を飲む人」のリスクは約12倍、「毎日20本以上タバコを吸う人」のリスクは約5倍になります。さらにその両方の習慣がある人のリスクは、実に33倍にも及びます。(愛知県がんセンターHP掲載データ等より)

また、ビール1杯程度で顔がすぐに赤くなったり、頭痛がしたりする人は、食道扁平上皮がんのリスクがさらに高くなることがわかっています。
これは、アルコールがうまく代謝されずに、アセトアルデヒドという発がん性物質が体内に蓄積されるためです。
このタイプ(フラッシング反応)の人が、飲酒&喫煙をしてしまうと、食道がんのリスクは100倍以上になるという調査もあります。

熱すぎる飲み物も、食道に炎症を起こす原因となり、食道がんのリスクの一因となります。熱いものは、少し冷ましてから摂るほうがいいでしょう。
また、肥満も食道がんのリスクであるとされます。

見逃しがちな初期症状

食道がんは小さいうちは無症状であることがほとんどであり、多くは胃カメラ検査で偶然発見されます。
ただ、食道がんの発生初期であっても、食べ物を飲み込んだときにしみる感じ、チクチクする感じを自覚することがあります。
この時点で医療機関を受診し、胃カメラ検査等を受けられればいいのですが、症状はごく軽いため、違和感を覚えながらも放置してしまうことが少なくありません。
しかも、がんが進行すると、これらの自覚症状は見られなくなることもあるのです。

がんが少し大きくなると、食道が狭くなり、食べ物のとおりが悪くなります。特に肉などの固形物を飲み込むときに、はっきりと胸がつかえるような感じを受けます。
こうした嚥下障害(食べ物が上手く飲み込めない)が現れた段階では、すでに進行がんであることが多くなります。
食べ物がつかえるようになると食事摂取量が減り、栄養が吸収できずに体重が減少します。ダイエットをしているわけでもないのに3か月で5〜6sの体重減少が見られたら要注意です。


手術時には「食道の再建」も

治療には、外科的治療(手術)、放射線治療と化学療法(抗がん剤による治療)などがあります。
食道がんの手術は、これまでは極めて大きな手術が必要となりました。
食道は、周囲に心臓・肺など重要な臓器がたくさんあり、かつ胸の奥側に位置しています。
さらには、切除した食道部分を、胃や小腸を移植するなどして再建することも必要となります。
そのため、胸やおなかを大きく開く、大手術となりました。

現在では、傷が小さく痛みの少ない胸腔鏡手術や腹腔鏡手術が増えています。昨年からは、ダヴィンチによるロボット手術も保険適用となりました。
ある程度進行したケースでは、外科療法(手術)、放射線療法、化学療法を組み合わせた集学的治療が行われます。
手術も、抗がん剤でがんを小さくしてから行うのが主流です。
手術後には、食事摂取量を増やしていくことが課題となりますが、多くの人が健康時の70%前後の量を摂ることができるようになるとされています。


5年生存率は…


https://www.fnn.jp/posts/00424170HDK?obtp_src=FNNjp_AR_2


食道がんの5年生存率を見てみると、I期で86.3%です。U期になると56.1%、V期で29.3%、W期で12.4%となっています。
がんが粘膜でとどまっている場合、手術で切除できれば5年生存率は100%とされています。


〇〇と◇◇で、リスクが大幅低下も!

飲酒に喫煙と、特に男性には耳が痛い方が多いかもしれません。
では、食道がんを予防することはできるのでしょうか。
実は、野菜と果物を多く食べる人ほど、食道の扁平上皮がんのリスクが低いことが分かってきました(厚生労働省研究班の調査)。
あまり野菜や果物を食べない人(170g以下/日)と比較すると、よく食べる人(540g以上/日)は、食道がんのリスクが52%と大幅に低下します。
さらに、野菜や果物を100g多く取るごとに、リスクが10%ずつ低下するという結果も出ています。
特に、十字花科の野菜(キャベツ、大根、小松菜など)は、リスクを低減する効果が高いことも分かりました。
ただし、野菜や果実を十分摂ったとしても、飲酒と喫煙は がんのリスクを高める要因であることは忘れないでください。

早期発見できた野口五郎さんはブログを更新し、『何も心配しなくて大丈夫!ずーっと歌い続けますから』とつづりました。
食道がんは、初期には症状が出にくいもの。
早期発見には、検診などで胃カメラの検査を定期的に行うことが大切です。


かなまち慈優クリニック 院長 
高山 哲朗(医学博士)
https://www.fnn.jp/posts/00424170HDK?obtp_src=FNNjp_AR_2

http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/529.html#c1

[近代史3] ウイスキーやブランデーをストレートで飲み続けた人の末路は? 中川隆
2. 中川隆[-9067] koaQ7Jey 2019年7月15日 10:32:35 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[3625]
アルコールと喫煙と2つのSNPを含めた解析を行った結果、全ての危険因子を持たない人に比べ、4つとも危険因子を持つ人では、189倍もリスクが高かったことが明らかになった。

第2回 食道がんのリスクを189倍にした要因が明らかに
東京大学 精密医療 松田浩一 2019年1月26日

ゲノム研究によって病気のリスクや効果的な治療法を解き明かし、一人ひとりに適した医療を提供する「精密医療」。その実現を世界的にも早くから目指してきたプロジェクト「バイオバンク・ジャパン」の運営に携わる、松田浩一さんの研究室に行ってみた!


 東京大学大学院の松田浩一教授(新領域創成科学研究科メディカルサイエンス群・クリニカルシークエンス分野)は、精密医療(オーダーメイド医療)を実現するために27万人分ものDNAを保管するバイオバンクを運営しつつ、みずからそのバンクのユーザー(研究者)でもある。

 そのバイオバンクを使ってどんなことがこれまでに分かってきたのか、ご自身の研究に寄り添いつつ聞いていこう。


精密医療の実現を目指すバイオバンク・ジャパンの運営に携わり、自らも研究を行う東京大学大学院教授の松田浩一さん。
 「バイオバンク・ジャパンが始まったのは2003年ですが、その後、5年ほどは、エントリーの時期で、参加の意思がある方から血を採らせてもらって、DNA、血清、臨床情報を収集するのに費やしました。そうするうちに、だんだんいろいろな病気の方のDNAが集まってきて、例えば、食道がんについて、まず200人の患者さんと健常な人1000人くらいを比較してどんな遺伝子を持っている人がリスクが高いのか、いわゆるケース・コントロール・スタディ(症例対照研究)ができました」

 DNA試料のバンクの構築は一人ひとりに説明して試料を集めるものだから、とても手間がかかる。しかしひとたび充分な症例が集まると、まずは症例対照研究を行って、食道がんの人に多い因子、この場合は遺伝子の型を探すことができるようになった。単純に言うと、食道がんの人(症例)と健康な人(対照)のゲノムを比較して、違っているところを見つけたということだ。


 ただ、ふと疑問に思う。ヒトのDNAには30億もの塩基対があると聞く。それら全てをひとつひとつ見ていったとしたら大変なことになると容易に想像できる。

 「たしかに、30億の塩基対すべてを比較しているわけではありません。見ているのは、SNP(Single Nucleotide Polymorphism、スニップ)、一塩基多型と呼ばれるものです。これは、ヒトのゲノムの塩基配列の中で、300カ所に1カ所ぐらい、つまり、30億のうちの1000万カ所くらいにある、個々人によって情報が違っている部分です。1つの塩基が違うだけで、体内で作られる酵素などのタンパク質の活性が変わったり、そもそもその遺伝子が働かなくなったりします。肌や目や髪の色が違うのもSNPで説明できますし、実は血液型の違いもSNPの組み合わせで決まります。我々の食道がんの研究では、SNPのうち55万カ所を比較しました」

 ぼくたちはヒトだから、だいたいの遺伝情報は同じだ(だから同じ種だ)。でも、ところどころ違うところがあって、それが個性の源でもある。そういった違いをもたらすものとして代表的なのが、一塩基多型、つまり、SNPだ。もうひとつ代表的なものに、遺伝子の数の違いが問題になる「コピー数多型」というものがあるが、一塩基の違いを見ればよいSNPの方が研究対象として扱いやすく、まず先に研究が進んだそうだ。そして、その端緒をひらいたのが松田さんのグループによる食道がんの研究だった。30億塩基をすべて調べるかわりに、「万」で語ることができる数のSNP。ずいぶん数は減ったが膨大であることには変わりない。こういう総当たり的なやり方というのは、やはり大量のデータを扱うことができる情報技術時代の申し子といえる。

 「これは、仮説を置かない研究なんです。我々は55万カ所とりあえず全部調べてみて、その中であり得ないぐらいの低い確率のものが見つかったら、おそらく偶然ではなくて必然だろうと考えます。この場合、食道がんの人と健康な人のSNPの塩基の頻度を比較して、差が大きかった上位の1万2000のSNPについて、さらに別の集団でも確かめて、結局、食道がんの発症と非常に強く関連する遺伝子領域を同定できました。ALDH2とADH1Bと呼ばれる2領域です。これらは、アルコールの分解に関わる酵素の遺伝子だとすでに分かっていました。そして、それぞれのSNPの型の間で比べると、高リスクのタイプと低リスクのタイプでは4倍くらい食道がんの頻度に差があることが分かったんです」


 ALDH2とADH1Bは、ともにアルコール感受性遺伝子と呼ばれるものだ。それぞれ、アルコール脱水素酵素と、アセトアルデヒド脱水素酵素という酵素の「設計図」に相当する。ぼくたちは体内に入ってきたアルコールをアセトアルデヒドにし、さらにそれを酢酸にすることで無毒化しており、その過程で働くのがこれらの酵素だ。「仮説を置かない研究」の結果、”飲酒と食道がん”という疫学研究ですでに示されているリスクと関連しそうな遺伝子が特定されてきたというのは非常に示唆に富む。

 その内容を具体的にいえば、アセトアルデヒド脱水素酵素の活性が高くもなく低くもない中間型の人のリスクが高く、アルコール脱水素酵素については活性が低い人のリスクが高いのだそうだ。ともに活性が高いほうがリスクが低いのではないかと素人考えで思ったのだが、そうではなかった。

 これについては、こんなふうに説明できるという。

「アセトアルデヒドが血中にあると、顔が火照ったり頭が痛くなったり、不快な症状が出ます。日本人では約半数の人たちはアセトアルデヒド脱水素酵素の活性が強くてこういった不快な症状が出にくいんですけど、約4割は中間型ですぐに顔が赤くなったりします。残りはそもそもアセトアルデヒドを分解できない、お酒を全く飲めない人たちです。この場合、中間型の人がアセトアルデヒドに晒されるリスクが高くなります。アセトアルデヒドは発がんをうながすことが分かっているので、それで食道がんになりやすいのではないかと考えられます。一方、アルコール脱水素酵素は、飲酒の嗜好性を決めている因子です。この酵素の活性が弱い人は、飲酒してからアセトアルデヒドが蓄積するまで時間がかかるので、不快な症状を感じる前にお酒を飲みすぎる傾向があります。実際、アルコールに依存性がある方は、その酵素活性が弱いタイプが非常に多いと分かっています」

 つまり、「お酒にそれほど強くないのに飲めないわけでもない人(アセトアルデヒド脱水素酵素活性の中間型)」と、「お酒を飲みすぎる傾向がある遺伝子型を持つ人(アルコール脱水素酵素の活性が低い型)」では、発がん性のあるアセトアルデヒドにさらされる結果、がんになりやすくなっている、というふうに理解できる。松田さんの研究によると、これらのハイリスクの人たちでは、そうでない人たちに対して3〜4倍も食道がんになる頻度が高かった。さらには、両方の遺伝子型をあわせもった人のリスクは、なんと16倍にものぼった。

 松田さんは、環境因子との関係にも切り込む。食道がんは、喫煙やアルコールの摂取と密接に関係していることが分かっているので、こういった生活習慣とはどう関係するのだろう。食道がんの人のグループにも、その対照群となったグループにも、喫煙者や日常的に飲酒する人が混じっていたわけだが、バイオバンク・ジャパンでは、喫煙量、飲酒量についての情報も調べられている。また、健康な人の対照群でも、それはきちんと聞いている。そこで、これらを切り分けて検討すると、衝撃的な結果が導かれた。

 「2つのハイリスクな遺伝子型に加えて、飲酒、喫煙をしている人は、まったくそれらの要素がない人よりも、189倍もリスクが高かったんです。これは驚くべき数字です。逆にこういった遺伝情報があらかじめ分かれば、禁煙、禁酒をすることで10分の1以下にリスクが減るとも言えるわけです。そして、きちんと定期検診を受けて早期発見することにも繋がります」

 がんにせよほかの病気にせよ、何かの因子について、それが複合的なものであったとしても、100倍を超えるようなリスクの比は、そう簡単にはお目にかかれない。本当に驚くべき内容であり、また、現実世界での対策に役に立てるべき知見だと思う。

https://cdn-business.nikkei.com/atcl/seminar/19/00112/00003/ph_thumb.jpg 

http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/529.html#c2

[近代史3] ウイスキーやブランデーをストレートで飲み続けた人の末路は? 中川隆
3. 中川隆[-9066] koaQ7Jey 2019年7月15日 10:33:54 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[3626]
あなたも脂肪肝?「お酒では太らない」は大誤解
毎日浴びるように飲んでいると肝臓が“フォアグラ状態”に!

酒好き医師が教える忘年会対策

2018年12月11日(火)
葉石かおり=エッセイスト・酒ジャーナリスト
 忘年会シーズンになり、毎晩のように飲み歩いているみなさんに気をつけていただきたいのが「脂肪肝」です。中高年男性の約半数が脂肪肝と言われており、そのまま放っておくと、肝硬変や肝臓がんなど怖い病気に進んでしまう場合があります。つまみの選び方や飲み過ぎに注意しましょう!
 「忘年会シーズン」に突入し、毎晩のように楽しくお酒を飲んでいるという方もいらっしゃるでしょう。
 若いころは浴びるように飲んでもなんともなかったのに、年を取ってからは、健康診断の肝臓に関連した数値にビクビク、なんていう方も多いと思われます。
 それでも、「毎日浴びるように飲む」のをやめられない人は、「脂肪肝」を疑ってみたほうがいいかもしれません。
 脂肪肝とは、肝臓に脂肪がたくさんたまった状態のこと。いわば“フォアグラ状態”を指すのですが、飲酒が脂肪肝の直接の原因であること、また脂肪肝から肝硬変や肝臓がんへと進んでしまう場合があることが分かってきました。
中高年男性の半数は「脂肪肝」
 脂肪肝はとても身近な病気です。中高年男性なら、その半数が脂肪肝とも言われています。だからといって、健康診断で「脂肪肝の可能性が高いですね」と指摘されても何もしなくてもいいのでしょうか?
 拙著『マンガでわかる酒好き医師が教える最高の飲み方』から、脂肪肝の原因について“酒好き医師”に解説してもらいましょう。


 1日の純アルコール摂取量が「60g」を超えている人は、アルコール性脂肪肝の可能性がとても高くなります。
 純アルコールで60gの目安は、ビールなら中ジョッキ3杯、ワインなら6杯、日本酒なら3合ぐらいです。
 「えっ それぐらいの量は、毎晩のように飲んでいるよ」という方は、自分のぽっこり出たお腹に手を当てて考えてみてください。本当にこのままでいいのか、と。
「お酒は飲んでも太らない」は誤解
 脂肪肝は、糖尿病や高血圧など、さまざまな生活習慣病のリスクを高めます。そもそもアルコールは肥満の原因になるので、毎日浴びるように飲んでいる人は、メタボリックシンドロームまっしぐらなのです。
 それなのに、「お酒はエンプティカロリーだから飲んでも太らない」「糖質ゼロのハイボールを飲んでいれば問題ない」と勘違いしている人が、大勢います。
 残念ながら、お酒は飲むと太るものなのです。再び酒好き医師に登場してもらいましょう。


 1日の「適量」が、ビールなら中ジョッキ1杯、ワインなら2杯程度……。
 あまりにも少ない、と思った人とは友達になれそうです(笑)。
 これは、純アルコールに換算して「20g」程度の量に当たります。「本当にこれしか飲んじゃダメなんですか? なんとかなりませんか」とリアルな“酒好き医師”こと、肝臓専門医の浅部伸一さん(『マンガでわかる酒好き医師が教える最高の飲み方』監修者)に聞いてみたところ、「個人差はあるのですが、一般論として、1週間あたりだと、純アルコールは150g程度が適量です。休肝日を作るなどして調整すれば、1日で20gを超えても、1週間で150g以内に抑えれば大丈夫でしょう。ただし、海外ではもっと厳しくしようという流れもあります」と教えてくれました。
居酒屋で食べても太らないつまみは?
 さて、忘年会が続くという方は、一緒に食べるつまみにも、もちろん気をつけたほうがいいでしょう。居酒屋で提供される典型的なつまみはカロリーが高いものが多く、締めのラーメンまで入れれば、一晩で2000kcalを超えてしまうこともあります。
 前回、つまみを食べずに空きっ腹で飲むと悪酔いするという話をしましたが、つまみのせいで太ってしまうこともよくあるのです。
 身に覚えのある人は、以下のマンガを読んで、酒好き医師に叱ってもらってください。


 カロリーを抑えるためには、「蒸す」「煮る」「水煮」といった、油を使わない料理にするか、野菜や海藻類、さらに、湯豆腐やいかそうめんといった脂質が少なくてたんぱく質が多いものを選ぶようにしましょう。
 また、体重を毎日測定することもお勧めです。いつまでも美味しくお酒を飲み続けるためには、生活習慣病対策をきちっとする必要があります。最近はダイエットのためのアプリがあるので、体重に加え、自分が食べたもの、飲んだお酒について記録しておくと便利です。
葉石かおり著、浅部伸一監修『マンガでわかる 酒好き医師が教える最高の飲み方』

 健康診断の結果を受けて「脂肪肝かもしれませんね」と医師に指摘されたけど、その後何もしていない、という人は意外と多いかもしれません。
 実際に脂肪肝かどうか判断するためには、超音波(エコー)検査を実施します。この検査は、人間ドックで受けることが多いです。
 会社の健康診断では、肝臓の状態を調べるために、血液を採取してγ-GTPやALTなどの検査を行いますが、その結果だけでは脂肪肝かどうかはわかりません。ただ、血液検査の結果、「脂肪肝の疑いがある」のであれば、超音波検査が行えるクリニックで精密検査をしてもらうといいでしょう。
葉石かおり
エッセイスト・酒ジャーナリスト

1966年東京都練馬区生まれ。日本大学文理学部独文学科卒業。ラジオレポーター、女性週刊誌の記者を経て現職に至る。全国の日本酒蔵、本格焼酎・泡盛蔵を巡り、各メディアにコラム、コメントを寄せる。「酒と料理のペアリング」を核に、講演、セミナー活動、酒肴のレシピ提案を行う。2015年に一般社団法人ジャパン・サケ・アソシエーションを設立。国内外にて世界に通用する酒のプロ、サケ・エキスパートの育成に励み、各地で日本酒イベントをプロデュースする。著書に『酒好き医師が教える最高の飲み方』『マンガでわかる酒好き医師が教える最高の飲み方』など多数。


このコラムについて
酒好き医師が教える忘年会対策
 いよいよ、みなさんが待ちに待った「忘年会シーズン」が到来しました。楽しくお酒を飲む準備はできていますか? この連載コラムでは、忘年会のときに役立つお酒に関する知識を紹介したいと思います。「どうせ医者なんて、酒を飲みすぎるなとしか言わないだろう」と思う読者もいるかもしれませんが、世の中には“自分も酒好き”という医師がいます。そこで、酒ジャーナリストの葉石かおりさんが酒飲みを代表して「健康的に飲み続ける方法」を聞き、お役立ちの健康ノウハウをまとめました。
https://business.nikkeibp.co.jp/atcl/report/16/120500187/120400005/
 

http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/529.html#c3

[近代史3] ウイスキーやブランデーをストレートで飲み続けた人の末路は? 中川隆
4. 中川隆[-9065] koaQ7Jey 2019年7月15日 10:34:32 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[3627]
野際陽子 夜寝る前に「スパイダーソリティア」にのめり込む 2015.05.25
https://www.news-postseven.com/archives/20150525_324301.html

 NHKのアナウンサーを経て、1962年にフリーとなり、その翌年女優デビューした野際陽子(79才)。1973年に『キイハンター』での共演をきっかけに俳優の千葉真一と結婚。一女をもうけるが1994年に離婚。現在は都内のマンションで愛犬6匹と暮らしている。その暮らしぶりについて野際が語る。

 * * *
 朝はだいたい5時半から6時に起床。だって6匹の犬たちが起こしに来るんですもの。彼らに餌をやって、目薬を差して、歯磨きをして、排泄の始末をしてやって、これを朝夕繰り返すだけでも、老女はへとへとなの(笑い)。

 その間に自分の食事がありますね。朝はスムージーときな粉入り牛乳。昼は仕事先でとることが多いので、家でとる夜の食事はなるべく野菜を多くしています。気をつけているというより野菜が好き だから。ほうれん草を茹でたり、小松菜を油揚げと炊いたり、葉物が多いかな。サラダも必ず食べます。もちろん肉や魚もね。

 ごはんは小さな茶碗に半分から3分の2くらい。お酒はずいぶん減りましたね。かつては大酒飲みだったのが、いつからか二日酔いになるぞ、の手前でやめるようになり、今では健康にいいといわれるワインならグラス1杯、ビールなら小瓶1本かな。

 体重の理想は51kg。一時期、大食いでもないのにどんどん増えた時期があって、さすがに55〜56kgになった時は危機感をもちましたね。今は52.5kgでいいやって(笑い)。

 健康老女の秘訣はお昼寝かしら。だいたい朝、食事して新聞読んでテレビを見ていると、眠くなってくるんです。午前中の日差しはエネルギーが強すぎて老人にはよくない、って勝手な言い訳をしてうとうと。昼も夜も家にいれば仕事で必要なDVDを見たり、台詞を覚えたり、読書をするんですけど、気がつくと寝ている(笑い)。

 昼の帯ドラマに出演している時は、膨大な台詞を覚えるのが大変でした。でも、あまり一生懸命覚えないんです。覚えても忘れちゃう。100%覚えたつもりでも、翌日、撮影に入ると40%は忘れています。その時のショックと言ったら…(笑い)。だから本番が完璧ならいいんだ、ってことにして。ただし、撮影に入ると集中しています。

 まったく何も予定がない日は、夜眠る前のひと時、パソコンで『スパイダーソリティア』というカードゲームをします。1日1回開くと満足なんですけど、ときどき夢中になって「コンチクショー」なんて言いながら、のめり込んでいるんですよ(笑い)。

※女性セブン2015年6月4日

▲△▽▼


「野際陽子」逝去 “俺はからめ捕られちゃったの”千葉真一が明かす出会い
芸能週刊新潮 2017年6月29日号掲載
https://www.dailyshincho.jp/article/2017/07030800/?all=1&page=1


■俺をからめ捕った肉食系「野際陽子」 千葉真一インタビュー(上)

 女優・野際陽子が亡くなった。享年81。凛とした大物役者の死だけに、数多の著名人が哀悼の言葉を述べたが、彼女の素顔を最も知るのは、元夫・千葉真一(78)に違いあるまい。「日本一の姑」は「肉食系」だった――。以下は、22年間連れ添った千葉の追悼インタビュー。

 ***


速報離婚発表の元貴乃花、タレント長男も離婚秒読みだった 夫婦間で合意済み


速報賃貸住宅から追い出されていた「酒井法子」 家主に1億2000万円の返還求め裁判中

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千葉真一(他の写真を見る)

「ばぁか……。

 陽子にはそう言いたいね。

 仕事なんかやらなきゃ良かったのに。もうちょっとしっかりと休めば良かったのに。俳優は身体が第一だろ。それにもう年なんだからさ……。

 実は、俺は娘を通じて彼女にそう伝えていたんだ。でも聞いてもらえなかった。まぁ、あの人は仕事が好きで好きでたまらなかったんだよ。だからそれを全うしたということになるのかな」

〈そう語る、千葉真一。独特の口調に、アクション俳優ゆえの身振り手振りを交えて「元妻」を回想する。〉

「亡くなった(6月)13日は、俺は地方にいたんだ。陽子の死は、(娘の女優・真瀬)樹里からの電話で知った。俺より何より、樹里のショックが大きくてね。電話口でワーワー泣くんだよ。陽子は死ぬ前に、『ママの跡をしっかり継いでね』と言ったらしい。だから、俺は『見るまで信じない』と言ったんだ。本心かどうか、それくらいしか言葉が見つからなかった」


■「肉食系」の素顔

〈3年前、肺がんが発覚した野際は、以来2度の手術と抗がん剤治療を受けながら仕事を続けた。このクールもテレビ朝日「やすらぎの郷」に出演。茶の間に姿を見せ続ける中での“戦死”だった。

 千葉は、その野際と1994年に離婚するまでの22年間を夫婦として過ごした。しかし、訃報後は、一部のメディアにコメントしたのみ。今回、旧知の俳優・岡崎二朗氏を通じ、改めてインタビューを申し込んだところ、口を開いた。〉

「離婚後も、娘を通じて連絡を取っていたから、陽子の病気のことは知っていた。はじめはがんのことは、俺にも隠していたんだよ。でも2年前に入院してわかった。だから俺は娘を通して薬を送った。俺は身体が錆びない、永久に年を取らない水素水を飲んでいるけど、それを、ね。

 一昨年も体調が悪いのにスキーに行っていたと聞いてね。無理しちゃダメだよ、と伝えたんだ。本当は仕事なんてしないで、キチッと療養していれば良かったんだけど、あの人は仕事第一だったからな。昔からそうだった」

〈2人が結婚したのは、1973年のこと。キッカケはTBSドラマ「キイハンター」での共演だ。

 結婚は世間を驚かせた。千葉は日体大中退「肉体派」アクション俳優。他方、野際は「ミス立教」でNHKにアナウンサーとして入局。退社後はフランスに留学した「お嬢様」女優である。30代半ばでの結婚、しかも夫が3つ年下で、当時の週刊誌を繙くと「水と油」なんて表現が並んでいるが、〉

「違うんだよ。俺は嵌められたの。からめ捕られちゃったの。陽子ってね、めちゃくちゃ人見知りが強い子なんだ。気位が高そうに見えちゃうんだよね。だから最初はキライな女だった。でも、付き合ってみたらあんなに面白い女はいない。夜中の12時に『今どこにいるの?』『新宿だよ』『私、行く』って必ず来るんだよ。で、朝まで酒飲んじゃう。最近ちょっと俺に対する目線が違う、何だろう、気があんのかな、と思っていたら、ガンガン来たね。気が付いたら手を握られていた。『なんで握るんだよ』と言うと、『だってかっこいいもん』。この女とそんなことになっちゃヤベえと思っていたら、いつの間にかそんなことになっちゃって、『部屋に来ない?』って……。それが陽子が最期まで住んでいた(東京・文京区の)“川口アパート”だった」

〈付き合いも結婚も野際が“押す”。意外な「肉食系」の素顔が浮かび上がる。結婚式は、エーゲ海の客船上。こうして異色夫婦の新婚生活が始まったのだ。〉


■酒の横綱

「信じられないかもしれないけど、ほとんど夫婦喧嘩はしなかった。ホントだよ。陽子ほど男をうまく操る女はいないね。俺の性格を知っていて、接し方がうまいんだね。

 俺が機嫌が悪いとコロッと違うことを言って、笑わせたりするんだよ。

 バカさ加減が面白い。例えば、俺、陽子が俺の前に付き合っていた男を全部知ってるんだよ。何でって、陽子がしゃべるからさ。『この人』とは言わないよ。『この国の人』って。彼女は海外に留学していたからね。で、一部始終をベラベラしゃべるんだよ。あんまり言うから、『陽子、お前、そういう話を平気で俺にするけど、どんなに傷ついているのかわかってんのか!』と言うと、『あっごめんなさい。やっぱり傷つく? でも時効だから』。そりゃお前にとっちゃそうだけど、こっちは初めて聞くんだから! でもカラッとしているから、不思議と嫌味には聞こえない。『ま、いいか』で許せちゃう。だから喧嘩にはならないんだよ。

 それに酒豪でね。芸能界で『酒の横綱』と言われていた。俺の3〜4倍は呑んでいたよ。ワインが好きで軽く一本は空けていたな。一度、同じペースで呑んだら、ベロベロになって帰りのタクシーでやばいことになった。『あなたはお酒弱いんだから考えて呑まなくちゃダメよ』と窘(たしな)められたけど、朦朧とする中、『じゃあお前は考えてるのか!』と突っ込んだよ。ある時、『何でそんなに強いんだ?』と聞いたら、『私、胃下垂だから酔いが回らないの』。それを理由に呑みまくっていた。でも、酔いつぶれたりは一切しない。取り乱すこともなかった。陽子は楽しい酒だったよ。

 俺、トイレで本を読む癖があるのよ。陽子が帰ってきて、俺の姿が見えないと、『あなた!』『あなた!』と言いながら、部屋中探し回るんだよね。ようやくトイレとわかって、コンコン、『いるの?』とノックしてくる。『そうだよ!』と怒ると、『何だクソか』。結局、あの人にかかると、全部笑いになっちゃうんだよな」


▲△▽▼


2017年06月15日 23時26分 JST
肺せんがん、野際陽子さんの死因となった病気とは? 注意点は?
https://www.huffingtonpost.jp/2017/06/15/lung-adenocarcinoma_n_17134510.html


女優の野際陽子さん(81)が6月13日、肺せんがんのため亡くなった。死因となった「肺せんがん」とはどんな病気なのか。

肺せんがんとは、肺がんの一種。肺の末梢に発症しやすく、肺にできるがんの6割を占め、女性の発症率が高い。医療機器会社オムロンの公式サイトなどによると、初期段階では咳や痰など症状が出にくく発見は難しいが、早期で見つかった場合は完治の確率が高い。一方、がんが進行した場合、転移リスクは高い。一般的な治療法である化学療法や放射線療法は効きにくい。

喫煙との因果関係は低い。喫煙による肺がんの発症リスクは、たばこを吸わない人と比較して男性で4〜5倍、女性で3倍程度と説明。ところが、肺せんがんに限っては男性で2〜2.5倍、女性で1.5倍程度で、「たばこを吸わなくても肺せんがんになる」ケースが多いという。

最近では、歌舞伎俳優の中村獅童さん(44)が5月、初期の肺せんがんであることを公表し、その後、手術を受けて療養中だ。ハフポスト日本版は、獅童さんが公表した際、神奈川県病院機構・理事長の土屋了介医師に取材。土屋医師は一般人が気をつけるポイントについて「発症早期では全く症状が出ないので、獅童さんのように人間ドックなどでないと発見できません。特に40代以上はがんの発症率が高いので、CTスキャンを2年ごとに受けるなどして注意した方がいいでしょう」と語った。

http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/529.html#c4

[近代史3] ウイスキーやブランデーをストレートで飲み続けた人の末路は? 中川隆
5. 中川隆[-9064] koaQ7Jey 2019年7月15日 10:35:45 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[3628]

肝臓を壊すアルコール〜勝谷誠彦さんの死から考える
榎木英介 | 病理専門医かつ科学・技術政策ウォッチャー 11/28
https://news.yahoo.co.jp/byline/enokieisuke/20181128-00105781/

アルコールは肝臓を痛めつける(写真:アフロ)


肝不全で…

 この前兵庫県知事選挙に出てたじゃないか…。その訃報に耳を疑った。


コラムニストや写真家として活躍した勝谷誠彦(かつや・まさひこ)氏が28日午前1時48分、肝不全のため生まれ故郷の兵庫県尼崎市内の病院で死去した。57歳だった。

出典:スポニチ

 まだまだこれからというときの訃報に、心からお悔やみ申し上げる。

 勝谷さんは以前私が所属する全国医師連盟の集会に来られ、講演されたことがあるが、医療に関する鋭いご意見は私たちにもとても参考になった。こうしたご意見が聴けないと思うととても残念に思う。

 報道によれば、勝谷さんは8月に重症アルコール性肝炎で入院したという。


関係者によると勝谷氏は「重症アルコール性肝炎」と診断され、入院当初はICUに入り、非常に危険な状態にあったが、治療の後に奇跡的な回復をみせて、重篤状況を脱したという。

出典:デイリー

 10月に退院したが、黄疸は続いていたという。今月再入院されたのち、病態が急変し亡くなられた。

重症アルコール性肝炎とは何か

 勝谷さんが入院するきっかけとなった重症アルコール性肝炎とは何だろうか。

 肝臓は私達が生きていくために不可欠な臓器の一つだ。とても重要なことを「肝心(もしくは肝腎)」というが、それは肝臓と心臓、腎臓が命の維持に不可欠なことからきている。


肝臓の主な働きは3つあります。1つ目は、私たちの体に必要な蛋白の合成・栄養の貯蔵、2つ目は、有害物質の解毒・分解、それと3つ目が、食べ物の消化に必要な胆汁の合成・分泌です。

出典:大塚製薬ウェブサイト

 飲酒は肝臓にダメージを与える。こうした人が大量飲酒をすると発症することがあるのが、重症アルコール性肝炎(重症型アルコール性肝炎)だ。


重症型アルコール性肝炎(Severe Alcoholic Hepatitis: SAH)は、禁酒しても肝腫大が持続し、肝性脳症、肺炎、急性腎不全、消化管出血、エンドトキシン血症などを合併し、多くは1ヶ月以内に亡くなると言われています。

出典:国立国際医療研究センター 肝炎情報センター

 「肝性脳症」は以下のようなものだ。


重症の肝硬変の症状の一つ。本来肝臓で解毒されるはずのアンモニアなどの有害な物質が、肝臓の働きが低下したために解毒されず、全身、ことに脳へ回ってしまうため、意識がぼんやりしたり、無くなったりする症状。

出典:肝性脳症

 脂肪の分解を助ける胆汁の成分であり、肝臓で作られるビリルビンは、肝臓の細胞が壊れると体のなかに溜まってしまう。これが黄疸だ。黄疸があるというは、肝臓がダメージを受けていることを意味している。

 勝谷さんは「奇跡的」と言われるほどの回復を見せたものの、肝臓の働きはもとには戻らず亡くなられた。

アルコールは肝臓を削る

 勝谷さんには長年飲酒の習慣があったようだ。


勝谷:いや、会社には夕方にしか行かないから。で、朝にまず飲んで、もう一回寝ていると、バスの「ピンポン、ピンポン」っていう音が聞こえてくるんですよ。それから、突然お巡りさんが自分を逮捕しにくるっていう幻覚も見えてくる。

出典:勝谷誠彦が逮捕に怯える? 「アル中状態」での幻覚体験告白

 こうした飲酒習慣が、肝臓にダメージを与えていたのだろう。

 アルコールが肝臓を痛めつけるのはよく知られているが、肝臓を顕微鏡でみている病理医の視点から解説したい。

 まず、アルコールを摂取し続けると、アルコールやアルコールの分解産物であるアセトアルデヒドが肝臓にダメージを与える。また、肝臓がアルコールの分解にかかりきりになって、脂肪の分解などの正常な働きが邪魔される。

 だから、次第に肝臓の細胞に脂肪が溜まり(脂肪肝)、肝臓の細胞が壊される(慢性肝炎)。壊された部分は再生するが、次第に壊れた部分がもとに戻らなくなっていく。だんだんゴツゴツになって硬くなり(肝硬変)、がんができることも多い(アルコール性肝がん)。
•参考 肝炎情報センター アルコール性肝疾患、日本病理学会コア画像

 肝硬変になると、もうもとには戻らない。血液の流れが邪魔されて、食道や肛門に静脈瘤ができることもある。この静脈瘤が破裂して、大量出血で死に至ることもあるのだ。

 私の祖父も、大量飲酒の末肝がんになって死んだ。

 アルコールは肝臓を削る恐ろしい毒物なのだ。

肝臓だけではない

 アルコールの害は肝臓だけではない。私達病理医は、アルコールに壊された膵臓を見ることも多い。アルコールにやられた膵臓は細胞が壊れ、原型をとどめなくなることもある(病理学会コア画像)。また、食べ物を消化する膵液が自分を溶かし出す急性膵炎を引き起こすこともある。

 アルコール摂取は食道がんを引き起こすこともある。このほか、体の様々な臓器に悪影響を与える(参考 お酒の飲み過ぎが原因となる身体の病気)。

誰でもなりうるアルコール依存症

 体を破壊しても酒を飲み続ける…。これは病気だ。そう、アルコール依存症だ。

 過去1年間に次の6項目中、3項目以上に当てはまる場合、アルコール依存症と診断される(参考 アルコール依存症治療ナビ)。
1.お酒を飲めない状況でも強い飲酒欲求を感じたことがある。
2.自分の意思に反して、お酒を飲み始め、予定より長い時間飲み続けたことがある。あるいは予定よりたくさん飲んでしまったことがある。
3.お酒の飲む量を減らしたり、やめたりするとき、手が震える、汗をかく、眠れない、不安になるなどの症状がでたことがある。
4.飲酒を続けることで、お酒に強くなった、あるいは、高揚感を得るのに必要なお酒の量が増えた。
5.飲酒のために仕事、付き合い、趣味、スポーツなどの大切なことをあきらめたり、大幅に減らしたりした。
6.お酒の飲みすぎによる身体や心の病気がありながら、また、それがお酒の飲みすぎのせいだと知りながら、それでもお酒を飲み続けた。

 一つくらい当てはまる人は多いのではないか。そう考えると、アルコール依存症は誰でもかかりうる病気だと言える。

 現在、アルコール依存症は日本国内に100万人程度いるとされるが、医療機関にかかっている人は僅かだ。


25年の厚労省研究班の調査によると、アルコール依存症の人は約109万人と推計。予備軍として多量飲酒者が約980万人いるとされる。医療機関で治療を受けている患者数は厚労省の調べで約4万9千人(26年)と推計。自殺者の2割以上にアルコール関連の問題が見られるという。

出典:産経新聞
•WHO世界戦略を踏まえたアルコールの有害使用対策に関する総合的研究

 アルコール依存症はきちんと治療すれば治る。しかし、治療には時間がかかる。


アルコール依存症治療を開始するうえで最初の壁となるのは、患者さんが依存症であることを否認して自分の症状を認めず専門医療機関への受診を拒否することです。また、専門医療機関での治療を開始してからも回復には2〜3年かかる場合が多く、長い年月を経てようやく安定した断酒生活を送ることができるようになります。

出典:アルコール依存症治療ナビ

 アルコールを含む酒は様々な害を及ぼす飲み物であることを認識し、行政、医療機関を含め対策が必要だ。
•厚生労働省 アルコール健康障害対策

 近年「ストロング系」とされるチューハイが人気だという。
•ストロング系缶チューハイ、なぜアルコール依存症患者増加?「缶」ゆえの危険性、がんリスク増も

 こうした高いアルコール度数の酒がコンビニエンスストアなどで手軽に手に入る。電車のなかでも飲酒している人がいる。大阪の繁華街では、昼間から酔っ払って転がっている人をよく見かける。このような毒物がいわば野放しになっているのが、今の日本の現状なのだ。

 私自身、決して酒が嫌いではない。だから自分自身注意しなければならないと自覚している。

 勝谷さんには、まだまだ日本の社会に毒舌を振りまいてほしかった…。酒が憎い…。
https://news.yahoo.co.jp/byline/enokieisuke/20181128-00105781/

▲△▽▼

そういえば、毎日ワインを飲んでいた 安井かずみさん、川島なお美さん、野際陽子さん もまだ若いのに癌で亡くなりました。
ワインやビールでも毎日飲んでいると必ず癌で死ぬ運命なのですね。


http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/529.html#c5

[近代史3] ウイスキーやブランデーをストレートで飲み続けた人の末路は? 中川隆
6. 中川隆[-9063] koaQ7Jey 2019年7月15日 10:37:52 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[3629]

ビールを避けても痛風は予防できない
佐藤達夫(食生活ジャーナリスト) 2018年11月8日
http://wedge.ismedia.jp/articles/-/14369

通風は「おじさん=中高年の男性」に多い病気だが、近年、若い男性や女性にも増えてきているようだ【https://minds.jcqhc.or.jp/n/med/4/med0052/G0000210/0010】。そういえば、筆者の周囲でもまだ30歳代なのに「痛風を気にしている」というビジネスパーソンにたびたび出会うようになった。その予防策としては「ビールを避けるようにしている」という人が多い。その対策は本当に正しいのだろうか?


ビールのプリン体はそれほど多いわけではない

痛風の本態(本当の姿)は、血液中の尿酸量が基準を超えて増えている状態=高尿酸血症である。高尿酸血症の状態が長期間続くと、血液中に尿酸の結晶が生じ、これが体の各部を傷害してさまざまな疾病を引き起こす。

痛風の直接的な原因となる尿酸はどこからくるのだろうか? 尿酸は、体内でプリン体が代謝された(分解・利用された)結果に生ずる。そのため、痛風を気にする人はこのプリン体にビクビクしているはず。

プリン体というのは、ほとんどの細胞(の中の核酸)に存在している物質で、うま味の元ともいわれている(プリン体が多いといわれている物においしい物が多いのもうなずける)。細胞分裂に深く関わる物質で、分裂を盛んに行なうレバー類や魚卵類にはプリン体が多く含まれる。

多くの人は「プリン体が多い」といってビールを気にするが、ビールはそれほど多くのプリン体を含んでいるわけではない。比較すると、他のアルコール飲料(ウイスキーや焼酎や日本酒やワインなど)よりはビールのほうがプリン体をやや多く含むのだが、痛風の主たる原因となるほどの量ではない。逆にいうと、痛風を気にする人が、ビールを飲む代わりに「プリン体ゼロの発泡酒」や先ほどあげた「他のアルコール飲料」を飲んだとしても、意味のあるような効果は生じない。アルコール飲料から摂取するプリン体の量よりも、私たちの細胞の中にあるプリン体の量のほうがはるかに多いからだ。

同じことは、飲料だけではなく、食べ物のほうにもいえる。飲み会で「おつまみとしてピッタリ」の魚卵類やレバー類だけを避けても、体内のプリン大量にそれほど多くの影響を与えはしない(それだけを大量に食べれば別だが・・・・)。


よくないのは「酒の飲み過ぎ」

プリン体が代謝された結果に生ずる尿酸は、普通なら、腎臓で濾過されて(尿として)体外に捨てられる。“何らかの原因”によって、血液中に多量の尿酸が滞留したのが「高尿酸血症」であり、その状態が続くと「痛風」という症状が現れる。

高尿酸血症を招く“何らかの原因”は2つある。その1つは、プリン体の代謝が盛んに行なわれて、尿酸が異常に多く合成されること。2つめは、血液中の尿酸を腎臓から(尿へと)排泄する機能が低下すること。この両方ともがアルコール摂取と深く関わっている。

アルコールは前者の作用(体内での尿酸の合成作用)を促進する。そのため大量に飲酒をすると、血液中に多量の尿酸が送り込まれる。ただし、この作用は「ビールで強く、他のアルコール飲料では弱い」ということではない。お酒の種類にかかわらず(日本酒であっても)大量に飲めば血中尿酸値を上げる【※1】。つまり、「ビールの飲みすぎがよくない」のではなく「お酒の飲みすぎがよくない」のだ。

また、後者の機能低下にもアルコールが関わっている。血液中の尿酸は、一定以上に増えると腎臓における濾過作用が高まり、通常なら、血液中の尿酸値が高くなりすぎないようになっている。しかし、アルコールはその濾過作用を低下させることもわかっている。

そのため、大量に飲酒をすると「体内での尿酸の合成量が多くなる」ことに加えて「尿酸の体外への排泄が少なくなる」ために、ダブルパンチで高尿酸血症になるリスクが高まるのである。すなわち、「ビールを避ければいい」のではなく「節酒を心がける」ことが肝要だということになる。

肥満も痛風を促進する

飲み物だけではなく、食べ物にも似たようなことがいえる。

プリン体はきわめて多くの食品に含まれているので、食品から摂取するプリン体量も、けっして無視しできるわけではない。食べ方によってもプリン体の摂取量は変わってくる。動物性食品(魚類や肉類)のほうが、植物性食品(穀物類や野菜類)よりもプリン体を多く含んでいるので、高尿酸血症のリスクは高くなる【※2】。ただし、動物性食品であっても乳製品にはプリン体はほとんど含まれない。

このようにけっこう複雑であるばかりではなく、私たちの体内でプリン体から産生される尿酸の量も少なくはないので、食べ物にさえ注意をしていれば大丈夫というわけではない。

じつは、肥満者では前項で書いた「尿酸の体外への排泄機能が低くなる」という研究がある。つまり仮に、プリン体の少ない食べ物ばかりを選んで食べていても、食べすぎることによって肥ってしまうと、血液中の尿酸を体外に排泄しにくくなるために、高尿酸血症になるリスクが高まってしまうのだ。

食べすぎと同じく、運動不足も肥満の原因なので、そちらにも気をつけなければならない。さらに運動習慣は乳酸値を下げる働きもするという研究もある。食べすぎない・運動不足にならない、そしてその結果、肥満しない・・・・ということが高尿酸血症を軽減し、痛風の予防に役立つことになる。

プリン体の多い食品【http://www.tufu.or.jp/pdf/purine_food.pdf】を覚えてそれを避けるのは大変な労力を要する。覚え間違いもあるだろうし、「多い食品と少ない食品の差は微妙」でもある。そもそも、酒席でイチイチそんなこと実行してられない。つまりは、たいていの場合「この努力は無に帰す」ことになりがち。

「プリン体の多い飲食物を避けること」に汲々とするよりも、「食べすぎない・飲みすぎない・運動不足にならない」ことのほうが実践的である。

それは面倒なので、足の親指の付け根が痛いくらい我慢しようと考える人もあるかもしれない(いつもいつも痛いわけではないし・・・・)。しかし、それはダメ! 血液中の尿酸の結晶は足だけを傷害するわけではない。他の内臓、たとえば“肝心かなめ”といわれる腎臓をも傷害することがわかっている。足が痛くはなくても、腎不全(治療が困難で、致命的でもある重大な疾病)に襲われるリスクもある。けっして高尿酸血症を放置してはならない!

http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/529.html#c6

[近代史3] ウイスキーやブランデーをストレートで飲み続けた人の末路は? 中川隆
7. 中川隆[-9062] koaQ7Jey 2019年7月15日 10:38:47 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[3630]
毎日酔うと5年早く死ぬ…?大型研究が暴いた「酒に適量なし」の現実
10/26(金) 14:00配信 現代ビジネス


こんなにおいしくて楽しい酒が、体に悪いはずはない。だって少量なら大丈夫というデータを厚労省が出してるじゃないか──。

残念ながらそうしたデータは1990年代までのもの。最新研究は60万人もの超大型調査から、「毎日酔っ払っていると4〜5年早く死ぬ」という結論を出してしまった! (※この記事は「Lab-on」からの転載です。オリジナルサイトはこちら)
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左党がっかりの60万人調査結果

 「酒は百薬の長」や “Good wine engenders good blood(良いワインは良い血を作る)” など、お酒に関係したことわざ・格言は世界中で伝えられており、その多くは「適量の飲酒が健康をもたらす」ということを示唆しています。

 しかしこのたび、控えめ(moderate)とされている量の飲酒であっても、実は健康に悪影響を与えているとした大規模研究の結果が発表されました。この論文は、世界で最も権威のある医学誌のひとつであるLancet誌に発表されています。

 この論文では、19の高所得国(high-income countries)でのべ60万人を対象に、アルコール摂取量と健康への影響を調べた結果を掲載。

 少量の飲酒は心筋梗塞のリスクを下げることが確認された一方で、脳卒中や大動脈瘤、致死性の高血圧性疾患のリスクを有意に上昇させ、総合的には寿命を縮めていると報告しています。

 具体的には、1週間の飲酒量が純アルコール換算で0〜100グラムのグループを基準に、平均余命への影響を以下のようにまとめています。

 【40歳時点での平均余命】
・純アルコール量が週に100〜200グラム → 6ヵ月の余命短縮
・純アルコール量が週に200〜350グラム → 1〜2年の余命短縮
・純アルコール量が週に350グラム以上  → 4〜5年の余命短縮
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つまり何を何杯飲むと危険なのか

 アルコール含有量の計算は『お酒の量 (ml) ×(度数(%) /100)× 0.8』で定義されます。

 アルコール度数5%のお酒350ml缶に含まれる純アルコール量は14グラムで、1週間毎日1缶を飲むと、摂取するアルコールの量は98グラム。

 つまり、毎日ビールの350ml缶1本程度の飲酒量であればそれほど問題ないものの、それ以上の飲酒量ではアルコール量に応じて健康リスクも増大していきます。

 さらに、多くの国では適度な飲酒量基準を男女によって分けていますが、今回の研究では健康リスクを増大させる飲酒量に性別の差はなかったとのこと。

 これらの結果から、研究グループは現在の飲酒基準値を早急に見直すべきだと主張します。

 アメリカ国立衛生研究所のAaron White氏は、この論文で提示されているいる「週に100グラム以下」という量はあくまで目安であるとし、「アルコールが健康に及ぼす影響は、体重や性別、投薬状況など幅広い要因に左右される。安全とされる飲酒量に関して、この数字以下であれば必ず安全というマジックナンバーは存在しない」と語っています。


日本人の場合は?

 厚生労働省の「健康日本21」のウェブページでは「節度ある適度な飲酒」の量を、純アルコール換算で1日20グラムと定義。

 しかし、ページ下部の参考文献に記載されている報告書や論文はすべて1999年以前のものとなっており、20年間にわたって情報が更新されていません。

 もともとアジア人は欧米人に比べてアルコール耐性が低く、特に日本人は世界中で最もお酒に弱い民族の一つとされています。今年4月には、日本人が数千年をかけてアルコールに弱い人が増えるように進化してきたという研究結果も発表されました。

 これらの事から、平均的な日本人にとっては、1日に350ml缶1本という飲酒量も「控えめ」であるとは言えないのかもしれません。
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相次ぐリスク報告

 昨年末から今年にかけて、アルコールの健康への影響を調べた論文が相次いでトップジャーナルに掲載されています。

 昨年6月には適量とされる飲酒でも脳の萎縮を加速させうることを30年間の追跡研究で示した論文がBMJ誌に、今年1月にはアルコールの分解によってできるアセトアルデヒドがDNAに不可逆的なダメージを残し、発がんリスクを上昇させることをマウスで初めて実証した論文がnature誌に掲載されています。

 お酒の楽しみは、健康リスクがあるからと割り切って諦められるものではありません。

 しかし、これまでの「少量なら健康に良い」という認識が必ずしも正しくないということは、頭の片隅に置いておいても良いかもしれません。

 【参照元】
‘Moderate’ drinking guidelines are too loose, study says
Moderate alcohol consumption as risk factor for adverse brain outcomes and cognitive decline: longitudinal cohort study
Largest study of its kind finds alcohol use biggest risk factor for dementia
How alcohol damages DNA and increases cancer risk

全ゲノムシークエンス解析で日本人の適応進化を解明-アルコール・栄養代謝に関わる遺伝的変異が適応進化の対象-

http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/529.html#c7

[近代史3] ウイスキーやブランデーをストレートで飲み続けた人の末路は? 中川隆
8. 中川隆[-9061] koaQ7Jey 2019年7月15日 10:39:52 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[3631]
2018年10月02日
アルコールはほんの少量でも害があります。
http://blog.livedoor.jp/wisdomkeeper/archives/52032591.html


以下の記事の通り、アルコールは身体によい飲み物とは言えません。

太古の昔から人間にとってアルコールはなくてはならないものでした。アルコールは社交の場で大量に飲まれてきましたが、ストレス解消や健康のためと毎日適度に飲酒を続けている人もいるでしょう。

これまでは毎日ワイン1杯くらいなら健康によいなどと言われてきましたが、新たな研究成果ではアルコールは少量でも健康を害することが分かったそうです。

以下の記事でも専門家らがアルコールをドラッグ扱いにするようにと呼び掛けていますが、私もアルコールはドラッグだと思います。ドラッグもアルコールも依存症になります。私はアルコールを飲めませんが。。。

イスラム教国のように飲酒を完全に禁止することはできないでしょうが、禁煙と同じように、禁酒或は飲酒量の削減キャンペーンを世界中で展開すれば飲む人も減りアルコール生産量も減るのではないでしょうか。

そして禁煙できた人のように、禁酒できるようになるかもしれません。
酒造メーカーは健康的な飲み物を開発すればよいのです。

アルコールは古代から飲まれてきましたし神事でも使われます。カトリック教会ではミサ中に赤ワインを飲みます。赤ワインは血の代わりだと言われています。さすが、生贄儀式をするカトリック教会だけあります。

日本の神事でも酒が使われますが、創造主は酒を欲しているのでしょうか?龍神なら酒は好きですが。

ひょっとしたら・・・・人間は太古の昔から悪の存在に意図的にアルコールを飲まされてきたのではないでしょうか?人間をアルコール依存症にすれば人間を操れますから。

ギャンブル依存症、アルコール依存症、麻薬依存症、セッ●ス依存症・・・・これらがなくなれば人間は自分を取り戻し世界はもっと平和になるのではないでしょうか。

https://jp.sputniknews.com/science/201810015401269/


豪ニューカッスル大学のクプロス・クプリ(Kypros Kypri,)教授と英ヨーク大学のジム・マッカムブリッジ(Jim McCambridge)教授は、アルコールを国家レベルでドラッグに認定する必要があると呼びかけた。研究結果はイギリス医師会雑誌(BMC)に掲載された。


チームは近年の研究結果を基に、健康被害を最小限に抑えるアルコール摂取量はゼロだと指摘する。その上で、年間280万件の死の原因だと見られるとする。

アルコール対策として、論文では、アルコールが薬物であるという明確な認識に基づいて政策を検討すること、そして、価格を高めて容易にアクセスできないようにするよう提言している。

世界保健機関(WHO)は21日、2016年に世界ではアルコールが原因で300万人以上が死亡したとの報告書を発表した。死亡20件に1件がアルコールと関連しているという。


スプートニク日本

WHOによると、アルコールが原因で毎年300万人が死亡しており、うち4分の3以上が男性。また世界疾病負担の5%以上がアルコールの有害な摂取によって引き起こされている。

死因は、アルコールに関連した交通事故、自傷行為、暴力などが28%、消化器系の疾患が21%、心臓・血管系の病気、がん、精神障害、その他の健康障害が19%。

https://jp.sputniknews.com/science/201809275385729/


中国、アルコール乱用による死亡者数ランキングで1位に
現在、23億人がアルコールを摂取しており、うち27%が15〜19歳の若者。

WHOは、今後10年間で世界の一人当たりのアルコール消費量が、特に東南アジア、西太平洋地域、アメリカ大陸の国々で増加すると予測している。

WHOのテドロス・アダノム・ゲブレイェスス事務局長は「加盟国がアルコールの税率を上げたり、広告を制限するなどの人命を救うためのクリエイティブな決定を下すことを望んでいる。アルコールの需要を減らし、2010年から2025年までに世界規模でアルコール消費量を相対的に10%削減するという政府の目標を達成するためには、さらなる努力が必要だ」と述べた。

<ほんの少量でも飲酒は身体によくない>
https://www.npr.org/2018/08/24/641618937/no-amount-of-alcohol-is-good-for-your-health-global-study-claims
(概要)
8月24日付け


The Lancetに発表された世界的な研究成果によると、 アルコールはどんなに少量でも健康に悪影響を与えることが分かりました。

これまでの研究ではグラス一杯の赤ワインは心臓に良いと考えられてきました。しかし実際は適度な飲酒でも癌や他の病気を発症させることが分かりました。
新たな研究( Global Burden of Diseases )は、1990年から2016年まで195ヵ国の被験者を対象にアルコールによる健康への影響を調査し続けました。その結果、アルコールは少量でも健康に良くないことが分かりました。つまりアルコールは人間にとって安全な飲み物とはいえないということです。
この研究成果を基に各国政府はこれまでの保健指針の見直しを行い国民の飲酒量を減らすよう促す必要があります。

Drinking Alcohol Can Raise Cancer Risk. How Much Is Too Much?

ほんの少量の飲酒でも健康には良くありません。飲酒は病気、交通事故、自傷行為の原因となっています。
2016年の飲酒による死亡者数は280万人に上ります。世界中でアルコールは病気のリスク・ファクターになっています。15歳から49歳の死亡原因のうち10%が飲酒によるものです。

若者にとって飲酒は結核、交通事故、自傷行為の原因となっています。また50歳以上では癌の原因となっています。

ただ、ほんの少量でもアルコールは身体には良くないと分っても人々が完全に飲酒をやめることにはならないとケンブリッジ大学のスピーゲルハルター教授は主張しています。
http://blog.livedoor.jp/wisdomkeeper/archives/52032591.html

http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/529.html#c8

[近代史3] ウイスキーやブランデーをストレートで飲み続けた人の末路は? 中川隆
9. 中川隆[-9060] koaQ7Jey 2019年7月15日 10:41:05 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[3632]
大腿骨頭壊死リスク4.4倍 毎日お酒を飲む人は歩けなくなる!?
http://gendai.net/articles/view/life/145723
2013年11月6日 日刊ゲンダイ

 毎日お酒を飲んでいる人は、将来歩けなくなるかもしれない。

「ビール大瓶1本相当のアルコールを16年間摂取し続けた人は、大腿骨頭の骨細胞が壊死(えし)して骨折を起こし、歩行困難になる『大腿骨頭壊死』の発症リスクが、休肝日を設けている人より4.4倍高くなるのです」

 こう言う日産厚生会玉川病院股関節センター・松原正明センター長に、大腿骨頭壊死について話を聞いた。

 ビール大瓶1本相当のアルコールは、水割りなら1杯、日本酒なら1合、焼酎なら120C.C.だ。

「大腿骨頭壊死は難病指定されていて、原因がはっきり分かっていません。しかし有力な説として、長期間のアルコール摂取で肝臓の機能に何らかの変化が生じたため、脂質代謝など本来の役割を通常通りに果たせなくなり、大腿骨頚部の動脈に血栓ができるのではないかと考えられています」

 血栓によってその先に血液が流れなくなり、骨細胞が壊死すると、壊死した部分と、生きている骨の境目にヒビが入り、骨折に至る。これが、大腿骨頭壊死だ。30〜50代の働き盛りに多い。

「症状はまず、階段の上り下りや立ち上がった時などの膝周辺の痛み。半年から1年ほどたつと、股関節も痛くなります」

 初期の段階では、レントゲンで異常が見つからない。股関節の痛みが生じてきた時点でもレントゲンでは異常が見つかりにくいが、MRIを撮れば、大腿骨の骨折部分が写る。

「大腿骨頭壊死は毎日アルコールを摂取している人ならだれでも発症する可能性はあります。もし、膝痛から始まって股関節も痛むようになり、レントゲンで異常が見つからない時は、股関節の疾患が専門の整形外科医を受診し、MRIを受けることを勧めます」

 大腿骨頭壊死はもともと整形外科の領域の疾患だが、整形外科にはさらにさまざまな専門分野があるためだ。

<好発年齢は30〜50代>

 大腿骨頭壊死の治療はいくつかあり、どこの骨細胞が壊死したか、その範囲はどれくらいかで決まる。

「大腿骨は胴体と脚の継ぎ目として体を支えています。つまり、上半身の体重がかかる部分のうち、どれくらい壊死してしまったかで、治療が変わってくるのです」

 ほぼ壊死していれば、体をちょっと動かすだけでも痛みが走り、歩けない。そこで、股関節を人工のものに取り換える人工関節置換術を行う。

「ただし、患者の多くは30〜50代と若いので、人工関節がどれくらいもつかという疑問もあります。そのため、関節近くの骨を切り、体重がかかる場所を調整したりする大腿骨頭回転骨切り術を行うこともあります」

 壊死部分が少なければ、治療は特に行わず、経過観察になる。

「この場合、症状は<痛い>というより<重苦しい><違和感>といった程度です。痛みや歩行困難の症状が出てきたら手術を検討します。また、健康な人に比べて変形性股関節症をこの先起こすリスクが高くなるので、それもチェックします」

 大腿骨頭壊死を予防する方法はただひとつ。「毎日飲酒」はやめ、休肝日を設けることだ。今日から始めるか。

<成人喘息の人も要注意>

 膠原(こうげん)病やリウマチの治療に使うステロイドも、アルコールと並ぶ大腿骨頭壊死の危険因子だ。1日16.7ミリグラム以上の使用を1回でも経験すると、発症リスクは28.6倍と高くなる。成人喘息(ぜんそく)や突発性難聴の治療でもステロイドが使われる。これらの病気で、大腿骨頭壊死を発症する人が近年増えているという。

http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/529.html#c9

[近代史3] ウイスキーやブランデーをストレートで飲み続けた人の末路は? 中川隆
10. 中川隆[-9059] koaQ7Jey 2019年7月15日 10:42:01 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[3633]

熱いお茶で飲酒・喫煙者の食道がんリスク増大、中国で研究
2018.02.06 Tue posted at 14:54 JST

たばこやお酒を多く摂取する人が熱いお茶を飲むと、食道がんのリスクが高まるという


熱すぎる飲み物、がんの原因に?

(CNN) たばこを吸ったりお酒を飲んだりする人が熱いお茶を飲むと、食道がんにかかる危険性が高くなるとの研究結果を、中国のチームが新たに発表した。

北京大学の研究者らが50万人近い中国の成人を平均9年半にわたって追跡し、結果を内科専門誌の最新号に発表した。この分野の研究としては過去最大の規模とされる。

お茶を毎週飲むと答えた人に、その温度を「温かい」「熱い」「非常に熱い」の中から選ぶよう指示したところ、「熱い」もしくは「非常に熱い」お茶を飲むこと自体に食道がんとの相関はみられなかった。

しかし1日にたばこを1本以上吸う人や、アルコールを15グラム(グラス約1杯のビールに相当)以上を摂取する人は、「熱い」または「非常に熱い」お茶を飲んでいると食道がんのリスクが2〜5倍に増大することが分かった。

喫煙や飲酒はもともと食道がんのリスク要因として知られている。専門家によれば、食道の表面を刺激すると炎症がひどくなり、細胞の入れ替わりが加速してがんを誘発する可能性や、熱い飲み物で食道壁にある細胞のバリア機能が損なわれ、発がん物質による悪影響が大きくなる可能性が考えられる。

この研究ではお茶の温度が客観的な数字で示されていないが、過去の研究では65度以上の飲み物で食道がんの危険が増すとの結果も報告されている。


緑茶や紅茶に関しては、葉の持つ抗酸化作用による健康効果も報告されている

熱すぎる飲み物、がんの原因に?

ただしこれまでの研究で、お茶の葉は抗酸化作用を持ち、結腸がんや前立腺がんを予防する可能性があるとの説や、緑茶はがん予防、紅茶は循環器系疾患に効果があるとの説も報告されてきた。

研究チームの責任者は、食道がんを防ぐにはお茶をやめることでなく、喫煙や飲酒を控えることが重要だと強調している。




22. 中川隆[-5615] koaQ7Jey 2018年2月21日 16:38:59: b5JdkWvGxs : DbsSfawrpEw[-8523]

▲△▽▼

慢性的な大量飲酒、認知症との関連が明らかに
2018年2月21日 13:20 発信地:パリ/フランス


【2月21日 AFP】慢性的な大量飲酒は、あらゆる種類の認知症、特に早期発症型の認知症の主要な危険因子であることが、公衆衛生に関する専門誌「ランセット・パブリック・ヘルス(Lancet Public Health)」に21日に発表された研究論文で明らかになった。

 研究者らがフランスの早期発症型認知症の5万7000件以上の症例を調査した結果、半分を優に超える数がアルコール関連、またはアルコール乱用の診断が追加されたものであることが判明した。全体として、アルコール摂取障害は、あらゆる種類の認知症でリスクが3倍高くなることに関連付けられた。

 アルツハイマーその他の認知症は、65歳未満での発症は早期とされる。

 従来の研究では、認知機能に対するアルコールの影響については結論が出ていなかった。一部の研究では、少量から中量の飲酒には利点がある可能性を示しているが、他の研究では、大量飲酒は認知症のリスクを上昇させると結論づけている。

 世界保健機関(WHO)は「慢性過剰飲酒」の定義として、男性で基準量の6杯かそれ以上である1日当たり純アルコール60グラム以上(アルコールドリンク約6杯以上に相当)、女性で40グラム以上としている。

 今回の調査では、研究者らは2008年から2013年に認知症と診断されたフランスの成人100万人以上の医療記録を精査した。その結果、アルコールとの関連が統計学的に明白であることが示されたため、論文著者は検査の実施や大量飲酒への介入、アルコール依存症治療などを提案している。

■大量飲酒は「主要な危険因子」

 これまでの研究でも、大量飲酒や喫煙と、うつ病、学歴の低さは、認知症の危険因子としての関連性が確立されている。

 今回の研究は、フランス全土の病院の6年間にわたる患者の退院記録に基づいたもので、稀な認知症と関連する疾病の患者や若年の精神障害の人々は対象者から除外されている。

 研究論文の主著者Michael Schwarzinger氏は、「認知症の原因としてのアルコール摂取障害が負う割合は、これまで考えられていたよりずっと大きい」と指摘している。(c)AFP/Marlowe HOOD


http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/529.html#c10

[不安と不健康15] コンビニ弁当やお握りは辞めた方がいいです。『拡散』 (カズちゃんのブログ)  赤かぶ
306. 中川隆[-9058] koaQ7Jey 2019年7月15日 10:42:52 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[3634]

熱いお茶で飲酒・喫煙者の食道がんリスク増大、中国で研究
2018.02.06 Tue posted at 14:54 JST

たばこやお酒を多く摂取する人が熱いお茶を飲むと、食道がんのリスクが高まるという


熱すぎる飲み物、がんの原因に?

(CNN) たばこを吸ったりお酒を飲んだりする人が熱いお茶を飲むと、食道がんにかかる危険性が高くなるとの研究結果を、中国のチームが新たに発表した。

北京大学の研究者らが50万人近い中国の成人を平均9年半にわたって追跡し、結果を内科専門誌の最新号に発表した。この分野の研究としては過去最大の規模とされる。

お茶を毎週飲むと答えた人に、その温度を「温かい」「熱い」「非常に熱い」の中から選ぶよう指示したところ、「熱い」もしくは「非常に熱い」お茶を飲むこと自体に食道がんとの相関はみられなかった。

しかし1日にたばこを1本以上吸う人や、アルコールを15グラム(グラス約1杯のビールに相当)以上を摂取する人は、「熱い」または「非常に熱い」お茶を飲んでいると食道がんのリスクが2〜5倍に増大することが分かった。

喫煙や飲酒はもともと食道がんのリスク要因として知られている。専門家によれば、食道の表面を刺激すると炎症がひどくなり、細胞の入れ替わりが加速してがんを誘発する可能性や、熱い飲み物で食道壁にある細胞のバリア機能が損なわれ、発がん物質による悪影響が大きくなる可能性が考えられる。

この研究ではお茶の温度が客観的な数字で示されていないが、過去の研究では65度以上の飲み物で食道がんの危険が増すとの結果も報告されている。


緑茶や紅茶に関しては、葉の持つ抗酸化作用による健康効果も報告されている

熱すぎる飲み物、がんの原因に?

ただしこれまでの研究で、お茶の葉は抗酸化作用を持ち、結腸がんや前立腺がんを予防する可能性があるとの説や、緑茶はがん予防、紅茶は循環器系疾患に効果があるとの説も報告されてきた。

研究チームの責任者は、食道がんを防ぐにはお茶をやめることでなく、喫煙や飲酒を控えることが重要だと強調している。




22. 中川隆[-5615] koaQ7Jey 2018年2月21日 16:38:59: b5JdkWvGxs : DbsSfawrpEw[-8523]

▲△▽▼

慢性的な大量飲酒、認知症との関連が明らかに
2018年2月21日 13:20 発信地:パリ/フランス


【2月21日 AFP】慢性的な大量飲酒は、あらゆる種類の認知症、特に早期発症型の認知症の主要な危険因子であることが、公衆衛生に関する専門誌「ランセット・パブリック・ヘルス(Lancet Public Health)」に21日に発表された研究論文で明らかになった。

 研究者らがフランスの早期発症型認知症の5万7000件以上の症例を調査した結果、半分を優に超える数がアルコール関連、またはアルコール乱用の診断が追加されたものであることが判明した。全体として、アルコール摂取障害は、あらゆる種類の認知症でリスクが3倍高くなることに関連付けられた。

 アルツハイマーその他の認知症は、65歳未満での発症は早期とされる。

 従来の研究では、認知機能に対するアルコールの影響については結論が出ていなかった。一部の研究では、少量から中量の飲酒には利点がある可能性を示しているが、他の研究では、大量飲酒は認知症のリスクを上昇させると結論づけている。

 世界保健機関(WHO)は「慢性過剰飲酒」の定義として、男性で基準量の6杯かそれ以上である1日当たり純アルコール60グラム以上(アルコールドリンク約6杯以上に相当)、女性で40グラム以上としている。

 今回の調査では、研究者らは2008年から2013年に認知症と診断されたフランスの成人100万人以上の医療記録を精査した。その結果、アルコールとの関連が統計学的に明白であることが示されたため、論文著者は検査の実施や大量飲酒への介入、アルコール依存症治療などを提案している。

■大量飲酒は「主要な危険因子」

 これまでの研究でも、大量飲酒や喫煙と、うつ病、学歴の低さは、認知症の危険因子としての関連性が確立されている。

 今回の研究は、フランス全土の病院の6年間にわたる患者の退院記録に基づいたもので、稀な認知症と関連する疾病の患者や若年の精神障害の人々は対象者から除外されている。

 研究論文の主著者Michael Schwarzinger氏は、「認知症の原因としてのアルコール摂取障害が負う割合は、これまで考えられていたよりずっと大きい」と指摘している。(c)AFP/Marlowe HOOD


http://www.asyura2.com/09/health15/msg/764.html#c306

[不安と不健康16] “早死にする人”ランキング 短命にある共通点とは…(ZAK×SPA!)  赤かぶ
119. 中川隆[-9057] koaQ7Jey 2019年7月15日 10:44:22 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[3635]

熱いお茶で飲酒・喫煙者の食道がんリスク増大、中国で研究
2018.02.06 Tue posted at 14:54 JST

たばこやお酒を多く摂取する人が熱いお茶を飲むと、食道がんのリスクが高まるという


熱すぎる飲み物、がんの原因に?

(CNN) たばこを吸ったりお酒を飲んだりする人が熱いお茶を飲むと、食道がんにかかる危険性が高くなるとの研究結果を、中国のチームが新たに発表した。

北京大学の研究者らが50万人近い中国の成人を平均9年半にわたって追跡し、結果を内科専門誌の最新号に発表した。この分野の研究としては過去最大の規模とされる。

お茶を毎週飲むと答えた人に、その温度を「温かい」「熱い」「非常に熱い」の中から選ぶよう指示したところ、「熱い」もしくは「非常に熱い」お茶を飲むこと自体に食道がんとの相関はみられなかった。

しかし1日にたばこを1本以上吸う人や、アルコールを15グラム(グラス約1杯のビールに相当)以上を摂取する人は、「熱い」または「非常に熱い」お茶を飲んでいると食道がんのリスクが2〜5倍に増大することが分かった。

喫煙や飲酒はもともと食道がんのリスク要因として知られている。専門家によれば、食道の表面を刺激すると炎症がひどくなり、細胞の入れ替わりが加速してがんを誘発する可能性や、熱い飲み物で食道壁にある細胞のバリア機能が損なわれ、発がん物質による悪影響が大きくなる可能性が考えられる。

この研究ではお茶の温度が客観的な数字で示されていないが、過去の研究では65度以上の飲み物で食道がんの危険が増すとの結果も報告されている。


緑茶や紅茶に関しては、葉の持つ抗酸化作用による健康効果も報告されている

熱すぎる飲み物、がんの原因に?

ただしこれまでの研究で、お茶の葉は抗酸化作用を持ち、結腸がんや前立腺がんを予防する可能性があるとの説や、緑茶はがん予防、紅茶は循環器系疾患に効果があるとの説も報告されてきた。

研究チームの責任者は、食道がんを防ぐにはお茶をやめることでなく、喫煙や飲酒を控えることが重要だと強調している。




▲△▽▼

慢性的な大量飲酒、認知症との関連が明らかに
2018年2月21日 13:20 発信地:パリ/フランス


【2月21日 AFP】慢性的な大量飲酒は、あらゆる種類の認知症、特に早期発症型の認知症の主要な危険因子であることが、公衆衛生に関する専門誌「ランセット・パブリック・ヘルス(Lancet Public Health)」に21日に発表された研究論文で明らかになった。

 研究者らがフランスの早期発症型認知症の5万7000件以上の症例を調査した結果、半分を優に超える数がアルコール関連、またはアルコール乱用の診断が追加されたものであることが判明した。全体として、アルコール摂取障害は、あらゆる種類の認知症でリスクが3倍高くなることに関連付けられた。

 アルツハイマーその他の認知症は、65歳未満での発症は早期とされる。

 従来の研究では、認知機能に対するアルコールの影響については結論が出ていなかった。一部の研究では、少量から中量の飲酒には利点がある可能性を示しているが、他の研究では、大量飲酒は認知症のリスクを上昇させると結論づけている。

 世界保健機関(WHO)は「慢性過剰飲酒」の定義として、男性で基準量の6杯かそれ以上である1日当たり純アルコール60グラム以上(アルコールドリンク約6杯以上に相当)、女性で40グラム以上としている。

 今回の調査では、研究者らは2008年から2013年に認知症と診断されたフランスの成人100万人以上の医療記録を精査した。その結果、アルコールとの関連が統計学的に明白であることが示されたため、論文著者は検査の実施や大量飲酒への介入、アルコール依存症治療などを提案している。

■大量飲酒は「主要な危険因子」

 これまでの研究でも、大量飲酒や喫煙と、うつ病、学歴の低さは、認知症の危険因子としての関連性が確立されている。

 今回の研究は、フランス全土の病院の6年間にわたる患者の退院記録に基づいたもので、稀な認知症と関連する疾病の患者や若年の精神障害の人々は対象者から除外されている。

 研究論文の主著者Michael Schwarzinger氏は、「認知症の原因としてのアルコール摂取障害が負う割合は、これまで考えられていたよりずっと大きい」と指摘している。(c)AFP/Marlowe HOOD


http://www.asyura2.com/13/health16/msg/134.html#c119

[近代史3] 知恵遅れの皇太子の嫁にされた上に、皇族全員から陰湿な苛めに遭った美智子妃殿下は復讐の鬼と化した 中川隆
40. 中川隆[-9062] koaQ7Jey 2019年7月15日 11:23:18 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[3630]
皇室ファッションは注目の的
https://rondan.net/27849

皇族といえば、その動向もさることながら、それぞれのお人柄やセンス、時にはメッセージ性までもがにじみ出るファッションにも大変注目が集まります。

これはイギリス王室でも同様なようで、キャサリン妃やメーガン妃が着た服は、瞬く間にお店から消えるそうです。



斬新な美智子さまのファッションセンス

なんと言っても上皇后美智子さまのファッショニスタぶりは度々注目を集めてきました。中でもマントスタイルは美智子さまの定番です。

初期マント

こちらは美智子さまの若かりし頃ですね。

一見すると雨合羽にも見えなくはないですが、美智子さまにかかればスッキリとシンプルなスタイルに。

お皿とマント

さらにマントスタイルは進化を遂げていきます。

お皿と表現されることも多い美智子さま定番のお帽子と、コンドルマントのコーディネート。

自虐ネタを織り込んだ変わり種マント

しかし、美智子さまのファッションへの情熱はすさまじい。時にはなんと形容すべきかわからないスタイルにも挑戦されてきました。

さすがというべきか。

きっとファーのお帽子なのでしょうが、大変失礼ながら、でっかいカマンベールチーズを頭に乗せているように見えます。

そして、この腕の部分のアームウォーマーと思しきもの。

これはギプスを模した自虐ネタなんですかね?お顔に巻かれたのはひょっとすると包帯を模された?それであれば美智子さまの自虐的ユーモアセンスが光り、大変素敵です!

自虐ファッション

そして美智子さまと言えばお皿と、自虐ファッションが衝撃的です。

「美智子、がんばってる!」と言わんばかりのスゴサ…。

そして時として中華丼とかラーメンと揶揄されるお皿のバランスもすごいです…。
https://rondan.net/27849
http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/118.html#c40

[リバイバル3] 最近のオーディオ業界の状況 中川隆
112. 中川隆[-9061] koaQ7Jey 2019年7月15日 11:52:17 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[3631]
TANNOY総合スレ Part10 - したらば掲示板


282: ジークフリート :2019/07/06(土) 13:25:58 HOST:p311029-ipngn200108okayamahigasi.okayama.ocn.ne.jp

HPDのウレタンエッヂも、今やまともに残っているブツは無いでしょうね。

当方が一時期使ったHPD295(Aではない)もウレタン張替えで雰囲気が別物に。ヤハリ、ヌメッと鈍くテカるアレでないとね。

しかし・・・レッドやゴールドの紙エッヂが薄〜くなったヤツは・・・アレって裏から和紙でも貼りつけるとか?・・・いつやるかの判断が難しいかもしれませんね。(サランネットが外れないシステムなんか、普段見て確認てのもやらないし)

283: アラン・ドロン :2019/07/07(日) 08:17:47 HOST:softbank219168067040.bbtec.net

HPDのウレタンエッジとは、発泡ポリウレタンですか。
テクニクスのF20シリーズはこれですね。もう全滅じゃないですか。
せっかく良い物を作っても、後世に残らないのでは、勿体無いです。

284: 薬漬け :2019/07/08(月) 22:34:20 HOST:zaqdadcf075.zaq.ne.jp
>>282

>>アレって裏から和紙でも貼りつけるとか?

良いこと聞きました。(笑)
そう言えば晩年の五味康祐氏も、「どうもモニターレッドの腰が抜けてきたようだ」とか何とか
仰ってた由。紙である限りは何時かは訪れる瞬間なのでしょうね。
モニターレッドの交換コーンはたまに見かけますが、モニターゴールドでは余り見かけないのは
ハテどうしたものか。

モニターゴールドは私が文献を見た限りでは、コーン紙がモニターレッドよりも強化されたとは
書かれていないようですが(最大許容入力はどちらも50W)、トランジスタアンプに対応するのが
眼目であったなら、大入力に対して何らかの措置が施されていたのではないかというのはいささか
ヤブニラミですが。

285: ジークフリート :2019/07/09(火) 00:21:56 HOST:p311029-ipngn200108okayamahigasi.okayama.ocn.ne.jp

〉大入力に対して何らかの措置が・・

とりあえず時代の流れにより8Ω化。性能的には、シルバー並みで不足なし!てなとこでしょう。

HPDの時代には、そうはイカの何とやら。

286: 薬漬け :2019/07/09(火) 19:35:52 HOST:sp49-96-15-217.mse.spmode.ne.jp

>>HPDの時代には、そうはイカの何とやら

HPDは不遇なユニットですね。モニターレッドやゴールドに比して低域をかなり伸ばしたことで、
構造上どこかに何らかの無理が生じたのでしょうか。
多くは聴いていませんが、良く言えば大人しいんだけれど、どこかモニターゴールドやモニター
レッドに比して精彩を欠いている感じ。
設計上の助平心が音で仕返しをされたということなのか。ハテ。

287: RW-2 :2019/07/10(水) 08:38:31 HOST:121.132.132.27.ap.yournet.ne.jp

HPD以降すでに45年。今タンノイの音といったらレッドやゴールドの音に有らず。
特性が良くなり耐入力も上がり、時代に合わせた音調となり。50年昔の方が上と
は一部のジジイか、伝説好きのマニアか、現代の音に疎い方々じゃないでしょか。

P-610でさえ復刻されたら昔の方が音に張りがあったアレコレ。耳が古いんでしょ。
拙者も4343の後にD130という輩ですからジジイのお仲間。で今PW-125鳴らしてます。

288: アラン・ドロン :2019/07/13(土) 07:05:04 HOST:softbank219168067040.bbtec.net

古い音に耳が聴きなれているということですね。
これは、精神的な要素も大きいと思います。音響心理学の分野でしょうか。
聴こえ方自体には、に古いも新しいもなさそうですが。

289: 前期 :2019/07/13(土) 10:16:03 HOST:h219-110-155-150.catv02.itscom.jp
>>287

タンノイに限らずスピーカの音は変わってきていますね。広帯域、解像力の
追及が間違っているとは思いませんがどこかのホール2階で訊く生音からは
ますます遠ざかっているように聞こえます。
オデオは何か大切なものを置きざりにしているのではないでしょうか?
以上爺の戯言ですた。


290: RW-2 :2019/07/13(土) 15:06:25 HOST:121.132.132.27.ap.yournet.ne.jp

解像度、情報量を上げすぎると逆に音楽の感動は薄くなってく。毎度の天邪鬼的逆説思考です。
クリスタルカートリッジの音。カセットデッキの音。枕元のCDラジカセ。それらであれだけ
感動した音楽がたいそうなシステムで聴くとイマイチつまらない。おっと思ってもすぐ飽きる。

電源部も含めケミコンを全て排除したイコライザーアンプを作りました。ハイスピードで超絶
クリアな音です。しかしなんか沸々と燃えたぎる音がしない。薄い。音楽の神髄が伝わらない。

それらの原因は情報量や解像度とは別のところにあるんでしょう。クオーツロック機よりアイ
ドラー機然り。人間に心地よい、らしいと思わせるのは科学と別のところにあるからでしょか。

291: アラン・ドロン :2019/07/13(土) 15:15:41 HOST:softbank219168067040.bbtec.net

1990年位から、トールボーイ型、ブックシェルフ型が主流になりつつ
ありましたが、そういうことも関係あるかもしれませんね。

昔ながらのプロポーションの大型スピーカー、タンノイ、JBLは、
大口径、迫力なんかを重視しましたが、トールボーイ型になると、
大型でも、ウーハー径は25センチあたりまで。
バッフル面積が狭いので、ツインドライブにしても、38センチ径の
ウーハーには適わない。
トールボーイは、繊細度、クリアさとか、そういうのを求めるのでしょうね。
そんなこんなで、欲しい---と思わせる物がなかなか出てこない。
こういうことと思います。
いいじゃないですか。散財しなくて済みますので。

292: 前期 :2019/07/13(土) 18:33:42 HOST:h219-110-155-150.catv02.itscom.jp
>>290
>科学と別のところにある・・・・

そうかもしれませんね。測定器にしても静特性一点張り。動特性を測定できる
機械があるのかないのか?

293: くろねき :2019/07/13(土) 19:08:26 HOST:fpoym3-vezC1pro04.ezweb.ne.jp
>>290
> 解像度、情報量を上げすぎると逆に音楽の感動は薄くなってく

どっかしらバランスが取れてないんでせうね。
技術的に一番難しい、ダイナミックレンジの
立ち上がりのよな気もするんでつが、違うかな?

294: 前期 :2019/07/13(土) 20:23:19 HOST:h219-110-155-150.catv02.itscom.jp

>>293 くろねきさん、今晩は。

それはあるかもしれませんね。A7なんか周波数特性は狭くてもパンチの
効いた音がしてましたものね。

295: RW-2 :2019/07/13(土) 21:49:13 HOST:121.132.132.27.ap.yournet.ne.jp

A5やA7ね。打てば響くという楽器的システム。王道のPAで良く使いました。
スピーチに最高だし盆踊りや各種イベントに最適。最後にゃメンドーくさくなって
ラムサにしてしまいましたけどさ。A5/A7はあの見かけですからね。部屋で
聴きたいとは思ったこと無し。コンクリ打ちっぱなしの部屋とかログハウスならね。

296: 前期 :2019/07/13(土) 22:31:21 HOST:h219-110-155-150.catv02.itscom.jp
>>295
そうそう、コンクリ打ちっぱなしで天井の高い部屋なんかイイでしょうね。
昨今の小賢しい緻密な音の対極にある響きでしょう。
現代のシステムでは Oceanway Monitor の音がそういう傾向だと思います。

297: アラン・ドロン :2019/07/15(月) 06:47:44 HOST:softbank219168067040.bbtec.net

洗練され過ぎた音は感動しないということでしょうかね。
どこかしら欠点もある方が、良いのかも。
https://jbbs.shitaraba.net/bbs/read.cgi/music/11602/1553521581/l50
http://www.asyura2.com/09/revival3/msg/845.html#c112

[リバイバル3] ハイエンド・スピーカーの世界 中川隆
122. 中川隆[-9060] koaQ7Jey 2019年7月15日 11:53:16 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[3632]
TANNOY総合スレ Part10 - したらば掲示板


282: ジークフリート :2019/07/06(土) 13:25:58 HOST:p311029-ipngn200108okayamahigasi.okayama.ocn.ne.jp

HPDのウレタンエッヂも、今やまともに残っているブツは無いでしょうね。

当方が一時期使ったHPD295(Aではない)もウレタン張替えで雰囲気が別物に。ヤハリ、ヌメッと鈍くテカるアレでないとね。

しかし・・・レッドやゴールドの紙エッヂが薄〜くなったヤツは・・・アレって裏から和紙でも貼りつけるとか?・・・いつやるかの判断が難しいかもしれませんね。(サランネットが外れないシステムなんか、普段見て確認てのもやらないし)

283: アラン・ドロン :2019/07/07(日) 08:17:47 HOST:softbank219168067040.bbtec.net

HPDのウレタンエッジとは、発泡ポリウレタンですか。
テクニクスのF20シリーズはこれですね。もう全滅じゃないですか。
せっかく良い物を作っても、後世に残らないのでは、勿体無いです。

284: 薬漬け :2019/07/08(月) 22:34:20 HOST:zaqdadcf075.zaq.ne.jp
>>282

>>アレって裏から和紙でも貼りつけるとか?

良いこと聞きました。(笑)
そう言えば晩年の五味康祐氏も、「どうもモニターレッドの腰が抜けてきたようだ」とか何とか
仰ってた由。紙である限りは何時かは訪れる瞬間なのでしょうね。
モニターレッドの交換コーンはたまに見かけますが、モニターゴールドでは余り見かけないのは
ハテどうしたものか。

モニターゴールドは私が文献を見た限りでは、コーン紙がモニターレッドよりも強化されたとは
書かれていないようですが(最大許容入力はどちらも50W)、トランジスタアンプに対応するのが
眼目であったなら、大入力に対して何らかの措置が施されていたのではないかというのはいささか
ヤブニラミですが。

285: ジークフリート :2019/07/09(火) 00:21:56 HOST:p311029-ipngn200108okayamahigasi.okayama.ocn.ne.jp

〉大入力に対して何らかの措置が・・

とりあえず時代の流れにより8Ω化。性能的には、シルバー並みで不足なし!てなとこでしょう。

HPDの時代には、そうはイカの何とやら。

286: 薬漬け :2019/07/09(火) 19:35:52 HOST:sp49-96-15-217.mse.spmode.ne.jp

>>HPDの時代には、そうはイカの何とやら

HPDは不遇なユニットですね。モニターレッドやゴールドに比して低域をかなり伸ばしたことで、
構造上どこかに何らかの無理が生じたのでしょうか。
多くは聴いていませんが、良く言えば大人しいんだけれど、どこかモニターゴールドやモニター
レッドに比して精彩を欠いている感じ。
設計上の助平心が音で仕返しをされたということなのか。ハテ。

287: RW-2 :2019/07/10(水) 08:38:31 HOST:121.132.132.27.ap.yournet.ne.jp

HPD以降すでに45年。今タンノイの音といったらレッドやゴールドの音に有らず。
特性が良くなり耐入力も上がり、時代に合わせた音調となり。50年昔の方が上と
は一部のジジイか、伝説好きのマニアか、現代の音に疎い方々じゃないでしょか。

P-610でさえ復刻されたら昔の方が音に張りがあったアレコレ。耳が古いんでしょ。
拙者も4343の後にD130という輩ですからジジイのお仲間。で今PW-125鳴らしてます。

288: アラン・ドロン :2019/07/13(土) 07:05:04 HOST:softbank219168067040.bbtec.net

古い音に耳が聴きなれているということですね。
これは、精神的な要素も大きいと思います。音響心理学の分野でしょうか。
聴こえ方自体には、に古いも新しいもなさそうですが。

289: 前期 :2019/07/13(土) 10:16:03 HOST:h219-110-155-150.catv02.itscom.jp
>>287

タンノイに限らずスピーカの音は変わってきていますね。広帯域、解像力の
追及が間違っているとは思いませんがどこかのホール2階で訊く生音からは
ますます遠ざかっているように聞こえます。
オデオは何か大切なものを置きざりにしているのではないでしょうか?
以上爺の戯言ですた。


290: RW-2 :2019/07/13(土) 15:06:25 HOST:121.132.132.27.ap.yournet.ne.jp

解像度、情報量を上げすぎると逆に音楽の感動は薄くなってく。毎度の天邪鬼的逆説思考です。
クリスタルカートリッジの音。カセットデッキの音。枕元のCDラジカセ。それらであれだけ
感動した音楽がたいそうなシステムで聴くとイマイチつまらない。おっと思ってもすぐ飽きる。

電源部も含めケミコンを全て排除したイコライザーアンプを作りました。ハイスピードで超絶
クリアな音です。しかしなんか沸々と燃えたぎる音がしない。薄い。音楽の神髄が伝わらない。

それらの原因は情報量や解像度とは別のところにあるんでしょう。クオーツロック機よりアイ
ドラー機然り。人間に心地よい、らしいと思わせるのは科学と別のところにあるからでしょか。

291: アラン・ドロン :2019/07/13(土) 15:15:41 HOST:softbank219168067040.bbtec.net

1990年位から、トールボーイ型、ブックシェルフ型が主流になりつつ
ありましたが、そういうことも関係あるかもしれませんね。

昔ながらのプロポーションの大型スピーカー、タンノイ、JBLは、
大口径、迫力なんかを重視しましたが、トールボーイ型になると、
大型でも、ウーハー径は25センチあたりまで。
バッフル面積が狭いので、ツインドライブにしても、38センチ径の
ウーハーには適わない。
トールボーイは、繊細度、クリアさとか、そういうのを求めるのでしょうね。
そんなこんなで、欲しい---と思わせる物がなかなか出てこない。
こういうことと思います。
いいじゃないですか。散財しなくて済みますので。

292: 前期 :2019/07/13(土) 18:33:42 HOST:h219-110-155-150.catv02.itscom.jp
>>290
>科学と別のところにある・・・・

そうかもしれませんね。測定器にしても静特性一点張り。動特性を測定できる
機械があるのかないのか?

293: くろねき :2019/07/13(土) 19:08:26 HOST:fpoym3-vezC1pro04.ezweb.ne.jp
>>290
> 解像度、情報量を上げすぎると逆に音楽の感動は薄くなってく

どっかしらバランスが取れてないんでせうね。
技術的に一番難しい、ダイナミックレンジの
立ち上がりのよな気もするんでつが、違うかな?

294: 前期 :2019/07/13(土) 20:23:19 HOST:h219-110-155-150.catv02.itscom.jp

>>293 くろねきさん、今晩は。

それはあるかもしれませんね。A7なんか周波数特性は狭くてもパンチの
効いた音がしてましたものね。

295: RW-2 :2019/07/13(土) 21:49:13 HOST:121.132.132.27.ap.yournet.ne.jp

A5やA7ね。打てば響くという楽器的システム。王道のPAで良く使いました。
スピーチに最高だし盆踊りや各種イベントに最適。最後にゃメンドーくさくなって
ラムサにしてしまいましたけどさ。A5/A7はあの見かけですからね。部屋で
聴きたいとは思ったこと無し。コンクリ打ちっぱなしの部屋とかログハウスならね。

296: 前期 :2019/07/13(土) 22:31:21 HOST:h219-110-155-150.catv02.itscom.jp
>>295
そうそう、コンクリ打ちっぱなしで天井の高い部屋なんかイイでしょうね。
昨今の小賢しい緻密な音の対極にある響きでしょう。
現代のシステムでは Oceanway Monitor の音がそういう傾向だと思います。

297: アラン・ドロン :2019/07/15(月) 06:47:44 HOST:softbank219168067040.bbtec.net

洗練され過ぎた音は感動しないということでしょうかね。
どこかしら欠点もある方が、良いのかも。
https://jbbs.shitaraba.net/bbs/read.cgi/music/11602/1553521581/l50
http://www.asyura2.com/09/revival3/msg/697.html#c122

[リバイバル3] スピーカーの歴史 _ 何故、過去に遡る程 スピーカーもアンプも音が良くなるのか? 中川隆
15. 中川隆[-9059] koaQ7Jey 2019年7月15日 11:53:43 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[3633]
TANNOY総合スレ Part10 - したらば掲示板


282: ジークフリート :2019/07/06(土) 13:25:58 HOST:p311029-ipngn200108okayamahigasi.okayama.ocn.ne.jp

HPDのウレタンエッヂも、今やまともに残っているブツは無いでしょうね。

当方が一時期使ったHPD295(Aではない)もウレタン張替えで雰囲気が別物に。ヤハリ、ヌメッと鈍くテカるアレでないとね。

しかし・・・レッドやゴールドの紙エッヂが薄〜くなったヤツは・・・アレって裏から和紙でも貼りつけるとか?・・・いつやるかの判断が難しいかもしれませんね。(サランネットが外れないシステムなんか、普段見て確認てのもやらないし)

283: アラン・ドロン :2019/07/07(日) 08:17:47 HOST:softbank219168067040.bbtec.net

HPDのウレタンエッジとは、発泡ポリウレタンですか。
テクニクスのF20シリーズはこれですね。もう全滅じゃないですか。
せっかく良い物を作っても、後世に残らないのでは、勿体無いです。

284: 薬漬け :2019/07/08(月) 22:34:20 HOST:zaqdadcf075.zaq.ne.jp
>>282

>>アレって裏から和紙でも貼りつけるとか?

良いこと聞きました。(笑)
そう言えば晩年の五味康祐氏も、「どうもモニターレッドの腰が抜けてきたようだ」とか何とか
仰ってた由。紙である限りは何時かは訪れる瞬間なのでしょうね。
モニターレッドの交換コーンはたまに見かけますが、モニターゴールドでは余り見かけないのは
ハテどうしたものか。

モニターゴールドは私が文献を見た限りでは、コーン紙がモニターレッドよりも強化されたとは
書かれていないようですが(最大許容入力はどちらも50W)、トランジスタアンプに対応するのが
眼目であったなら、大入力に対して何らかの措置が施されていたのではないかというのはいささか
ヤブニラミですが。

285: ジークフリート :2019/07/09(火) 00:21:56 HOST:p311029-ipngn200108okayamahigasi.okayama.ocn.ne.jp

〉大入力に対して何らかの措置が・・

とりあえず時代の流れにより8Ω化。性能的には、シルバー並みで不足なし!てなとこでしょう。

HPDの時代には、そうはイカの何とやら。

286: 薬漬け :2019/07/09(火) 19:35:52 HOST:sp49-96-15-217.mse.spmode.ne.jp

>>HPDの時代には、そうはイカの何とやら

HPDは不遇なユニットですね。モニターレッドやゴールドに比して低域をかなり伸ばしたことで、
構造上どこかに何らかの無理が生じたのでしょうか。
多くは聴いていませんが、良く言えば大人しいんだけれど、どこかモニターゴールドやモニター
レッドに比して精彩を欠いている感じ。
設計上の助平心が音で仕返しをされたということなのか。ハテ。

287: RW-2 :2019/07/10(水) 08:38:31 HOST:121.132.132.27.ap.yournet.ne.jp

HPD以降すでに45年。今タンノイの音といったらレッドやゴールドの音に有らず。
特性が良くなり耐入力も上がり、時代に合わせた音調となり。50年昔の方が上と
は一部のジジイか、伝説好きのマニアか、現代の音に疎い方々じゃないでしょか。

P-610でさえ復刻されたら昔の方が音に張りがあったアレコレ。耳が古いんでしょ。
拙者も4343の後にD130という輩ですからジジイのお仲間。で今PW-125鳴らしてます。

288: アラン・ドロン :2019/07/13(土) 07:05:04 HOST:softbank219168067040.bbtec.net

古い音に耳が聴きなれているということですね。
これは、精神的な要素も大きいと思います。音響心理学の分野でしょうか。
聴こえ方自体には、に古いも新しいもなさそうですが。

289: 前期 :2019/07/13(土) 10:16:03 HOST:h219-110-155-150.catv02.itscom.jp
>>287

タンノイに限らずスピーカの音は変わってきていますね。広帯域、解像力の
追及が間違っているとは思いませんがどこかのホール2階で訊く生音からは
ますます遠ざかっているように聞こえます。
オデオは何か大切なものを置きざりにしているのではないでしょうか?
以上爺の戯言ですた。


290: RW-2 :2019/07/13(土) 15:06:25 HOST:121.132.132.27.ap.yournet.ne.jp

解像度、情報量を上げすぎると逆に音楽の感動は薄くなってく。毎度の天邪鬼的逆説思考です。
クリスタルカートリッジの音。カセットデッキの音。枕元のCDラジカセ。それらであれだけ
感動した音楽がたいそうなシステムで聴くとイマイチつまらない。おっと思ってもすぐ飽きる。

電源部も含めケミコンを全て排除したイコライザーアンプを作りました。ハイスピードで超絶
クリアな音です。しかしなんか沸々と燃えたぎる音がしない。薄い。音楽の神髄が伝わらない。

それらの原因は情報量や解像度とは別のところにあるんでしょう。クオーツロック機よりアイ
ドラー機然り。人間に心地よい、らしいと思わせるのは科学と別のところにあるからでしょか。

291: アラン・ドロン :2019/07/13(土) 15:15:41 HOST:softbank219168067040.bbtec.net

1990年位から、トールボーイ型、ブックシェルフ型が主流になりつつ
ありましたが、そういうことも関係あるかもしれませんね。

昔ながらのプロポーションの大型スピーカー、タンノイ、JBLは、
大口径、迫力なんかを重視しましたが、トールボーイ型になると、
大型でも、ウーハー径は25センチあたりまで。
バッフル面積が狭いので、ツインドライブにしても、38センチ径の
ウーハーには適わない。
トールボーイは、繊細度、クリアさとか、そういうのを求めるのでしょうね。
そんなこんなで、欲しい---と思わせる物がなかなか出てこない。
こういうことと思います。
いいじゃないですか。散財しなくて済みますので。

292: 前期 :2019/07/13(土) 18:33:42 HOST:h219-110-155-150.catv02.itscom.jp
>>290
>科学と別のところにある・・・・

そうかもしれませんね。測定器にしても静特性一点張り。動特性を測定できる
機械があるのかないのか?

293: くろねき :2019/07/13(土) 19:08:26 HOST:fpoym3-vezC1pro04.ezweb.ne.jp
>>290
> 解像度、情報量を上げすぎると逆に音楽の感動は薄くなってく

どっかしらバランスが取れてないんでせうね。
技術的に一番難しい、ダイナミックレンジの
立ち上がりのよな気もするんでつが、違うかな?

294: 前期 :2019/07/13(土) 20:23:19 HOST:h219-110-155-150.catv02.itscom.jp

>>293 くろねきさん、今晩は。

それはあるかもしれませんね。A7なんか周波数特性は狭くてもパンチの
効いた音がしてましたものね。

295: RW-2 :2019/07/13(土) 21:49:13 HOST:121.132.132.27.ap.yournet.ne.jp

A5やA7ね。打てば響くという楽器的システム。王道のPAで良く使いました。
スピーチに最高だし盆踊りや各種イベントに最適。最後にゃメンドーくさくなって
ラムサにしてしまいましたけどさ。A5/A7はあの見かけですからね。部屋で
聴きたいとは思ったこと無し。コンクリ打ちっぱなしの部屋とかログハウスならね。

296: 前期 :2019/07/13(土) 22:31:21 HOST:h219-110-155-150.catv02.itscom.jp
>>295
そうそう、コンクリ打ちっぱなしで天井の高い部屋なんかイイでしょうね。
昨今の小賢しい緻密な音の対極にある響きでしょう。
現代のシステムでは Oceanway Monitor の音がそういう傾向だと思います。

297: アラン・ドロン :2019/07/15(月) 06:47:44 HOST:softbank219168067040.bbtec.net

洗練され過ぎた音は感動しないということでしょうかね。
どこかしら欠点もある方が、良いのかも。
https://jbbs.shitaraba.net/bbs/read.cgi/music/11602/1553521581/l50
http://www.asyura2.com/09/revival3/msg/858.html#c15

[近代史3] (三橋貴明×山本太郎) 絶対にTVでカットされる国債の真実 中川隆
25. 中川隆[-9058] koaQ7Jey 2019年7月15日 12:07:55 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[3634]

人類文明の歴史を変える"骨太の統計" 2019-07-15
三橋貴明
https://ameblo.jp/takaakimitsuhashi/entry-12494139025.html


 


 昨日に続き、国民民主の「家計第一の経済政策」というよりは、MMTと資金過不足統計の話。
 昨日掲載した「資金過不足統計」厳密には「日本の資金過不足のグラフ」は、冗談でも何でもなく、人類の文明、歴史を変えてしまうほどに重要なのです。

【日本の一般企業、政府、家計、海外の資金過不足(兆円)】

http://mtdata.jp/data_65.html#kabusoku

 MMTが証明というよりは「説明」した「現代の貨幣の理論」は、
1.信用貨幣論(銀行が貸し出す際に、預金通貨が生まれる」
2.スペンディングファースト(政府は徴税なしで支出をしている)
 の二つが大きな柱になっています。いわば、骨太の理論です。本来は「背骨の理論」と呼ぶべきですが、竹中氏への嫌味を込めて「骨太」を使います。


 スペンディングファースト、日本政府は政府短期証券(要は短期の国債)を「子会社」の日銀に持ち込み、日銀当座預金を発行させ、支出をしています。MMTのいう「OMF(明示的貨幣供給)」です。


 この時点で、「日本政府の財政破綻」の可能性が「ゼロ」であることが理解できます。まあ、藤巻ら頭がおかしい財政破綻論者たちは、死の瞬間まで、
「ザイセイハタンガ〜ッ!」
「ハイパーインフレーションガ〜ッ!」
 と、叫び続けるでしょうが、とりあえず日本国民の99%は「説明されれば、理解できる」はずです。


 現実に、OMFをしている日本政府が、どうすれば「自国通貨建て国債の債務不履行」になるというのでしょうか。日本が世界を征服しちゃう可能性の方が高いでしょう。


 OMFと信用貨幣論が理解できれば、先日から繰り返している通り、政府の財政赤字(資金不足)は「貨幣発行量の増加」に過ぎないことが理解できます。


 ここに、資本主義の基本、すなわち、
「資本主義とは企業が負債(=資金不足)により、投資を拡大することが王道」
 という知見を加えると、日本の80年から86年が、まさに「資本主義の王道」であったことが理解できます。


 あ、未だに理解していない人がいますが、資金過不足は「資金」のデータであり「損益」ではありません。資金不足=損益計算書上の赤字は意味していませんので、ご注意ください。


 企業が負債・投資を拡大し、資金不足となっても、損益計算書上では「投資は減価償却で計上」となるため、赤字になるとは限りません。いや、普通、なりません。


 企業経営者の方であれば、すぐに分かります。というか、分からなければだめです。


 さて、企業はともかく、政府は預金をしません。というわけで、信用貨幣論から、
1.政府の資金不足(財政赤字)=貨幣発行量の増加
2.企業の資金不足(負債拡大、もしくは預金減少)≒銀行預金という貨幣発行量の増加
 が分かります。

 なぜ「2」が「=」ではなく「≒」なのかといえば、企業の「預金取り崩し」という資金不足は貨幣発行ではないためです。銀行預金は、あくまで「企業の借入」により発行されるおカネです。


 政府が財政赤字を出す(=国債発行)、あるいは企業が銀行からおカネを借り入れれば、普通は「家計の銀行預金の増加」となります。


 もっとも、デフレ期に企業が資金「過剰」となると、借金返済で銀行預金というおカネが消滅するか、もしくは政府の財政赤字により発行された銀行預金を「家計と企業が奪い合う」状況になります。<今ここ



【歴史音声コンテンツ 経世史論 始動!】

http://keiseiron-kenkyujo.jp/apply/
※6月16日(日)から、中野剛志氏との特別対談コンテンツ【歴史とナショナリズム】をご視聴頂けます。是非、ご入会下さい。


【資金過不足統計のインフレ型とデフレ型】

 改めて、資金過不足の図を見ると、
第一期 80年〜86年 王道資本主義
第二期 87年〜92年 バブル期 企業の資金不足(借入)が激しく膨張し、政府が財政黒字化
第三期 93年〜97年 バブル崩壊期 企業の資金不足の縮小を、政府の財政赤字で補う
第四期 98年〜18年 デフレ期。バブル崩壊+緊縮財政により日本経済がデフレ化。企業が資金不足から資金過剰に転換し、貨幣を「消滅」させていっている。あるいは、政府の財政赤字で発行された貨幣を家計と奪い合っている。

 と、80年以降の日本が四期に分かれていることが分かります。

 四期目、長すぎですが・・・。


 いずれにせよ、日本は資金過不足統計が、第一期、王道資本主義の「インフレ型」になるまで、政府が財政赤字を拡大しなければならないということになります。


 そして、ここがポイントですが、
「政府の財政赤字拡大は、貨幣発行量の増加に過ぎない」
 のです。


 つまりは、家計を豊かにする、より具体的には「家計の資金過剰≒銀行預金」を増やす経済を実現したいならば、
「企業が安定的に資金不足になるまで、政府の資金不足(財政赤字)を拡大する必要がある」
 という話になります。


 他に、国民民主党の「家計第一の経済」を実現する手段はないのです。


 すべての経済政策、経済指標は、資金過不足統計に従属します。資金過不足のグラフが「インフレ型」にならない限り、GDPを含めた他の経済指標は総合的には好転しようがないのです。


 つまりは、資金過不足統計はbackbone statistics、すなわち"骨太の指標"ということになります。


 日本の"骨太の指標"たる資金過不足統計が「デフレ型」を継続する限り、我が国の経済成長はなく、長期的なアメリカの衰退の後、人類文明は「中国共産党」に支配されることになるでしょう。


 大げさでも何でもなく、日本国民がMMTや本ブログで展開される「経済の真実」について正しく知ること、あるいは知らないことが、人類の歴史を大きく変えてしまうのです。
https://ameblo.jp/takaakimitsuhashi/entry-12494139025.html
http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/298.html#c25

[リバイバル3] 中川隆 _ 欧米文化関係投稿リンク 中川隆
95. 2019年7月15日 12:27:16 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[3635]
アメリカのロビイストは政治家に「この法案を成立させたら何億ドル差し上げますよ」と働きかける
http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/530.html

http://www.asyura2.com/09/revival3/msg/464.html#c95
[リバイバル3] 中川隆 _ 経済、ビジネス関係投稿リンク 中川隆
96. 中川隆[-9057] koaQ7Jey 2019年7月15日 12:27:42 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[3636]
アメリカのロビイストは政治家に「この法案を成立させたら何億ドル差し上げますよ」と働きかける
http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/530.html

http://www.asyura2.com/09/revival3/msg/813.html#c96
[近代史3] 日本の右翼のバイブル _ モルデカイ・モーゼ 日本人に謝りたい 中川隆
34. 中川隆[-9056] koaQ7Jey 2019年7月15日 13:33:09 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[3637]

ドングリ

777氏は、もしかしてミスター・ディグ氏の別名かな?
文章も論理の組み立て方も、なにより嘘と、真偽不明の証言とやらをやたらと引用し、アメリカではこうだ、教科書にこう出てると権威付けするやりかたがそっくり。
ディグ氏ということで書くと、南京事件も慰安婦強制連行も、他の本で多くの人に論破され逃げ出したのに、まだ同じことをやっているんだ。懲りないね〜 もしディグ氏でなくても内容は同じ。
君の嘘につきあうつもりはないけど、君の正体をほかの人に知ってほしいので、これは消さないで。


___


777 返信先:以前の投稿

>南京事件も慰安婦強制連行も、他の本で多くの人に論破され逃げ出したのに、まだ同じことをやっているんだ。


それはチャンネル桜が流してるデマだよ。 真実は

林博史『極東国際軍事裁判に各国が提出した日本軍の「慰安婦」強制動員示す資料(7点)』


既報のように、日本軍による「従軍慰安婦」の強制動員を示す資料が確認された。

関東学院大学の林博史教授が4月17日、日本外国人記者協会で会見を行い 公表した資料は、極東国際軍事裁判(東京裁判)にオランダ、中国、フランスの検察団が提出、受理された公文書で、現在、東京大学社会科研究所図書館に所蔵 されている。

以下、資料の内容を紹介する

【資料3】(PD5591/EX1794)
インドネシア・モア島
オハラ・セイダイ陸軍中尉の宣誓陳述書
一九四六年一月一三日

 問 貴方の氏名、年齢は?
 答 シメイはオハラ・セイダイ、年齢は二十七才。

 問 貴方の所属部隊は?
 答 タナカ部隊ハヤシ隊
 (略)

 問 一九四四年九月に於けるモア島の指揮官は誰でしたか。
 答 私でありました。

 問 一九四四年九月中にモア島で土民が殺されたことがありますか、又その人数は?
 答 セルマタ島及ロエアン島で約四十名の土民が捕虜となり且殺されました。

 問 何故殺されたのですか。
 答 土民達がセルマタ及ロエアン島の憲兵隊を攻撃したからです。

 問 誰がその殺すことを命令したのですか。
 答 タナカ将軍は土民達を司令部へ送るやう命じました。然し土民達がモアを出発する前に右命令は変更され私がモアで彼等を殺し土民の指導者三、四名をタナカ部隊に送るやうにと命ぜられました。

 問 貴方は自分でその土民達を殺しましたか。
 答 いえ、私は唯その殺すのを監督したのです。

 問 誰が貴方の手助をしたのですか。
 答 ウド曹長、トヨシゲ軍曹、マツザキ軍曹及二十一名の他の兵卒達です。
(略)

 問 どんな風にして土民達は殺されたのですか。
 答 彼等は三人宛途上縦隊を作って整列させられました。それから前に述べた二十一人の兵達は銃剣で彼等を突刺し一度に三人を殺しました。

 問 或る証人は貴方が婦女達を強姦しその婦人達は兵営へ連れて行かれ日本人達の用に供せられたと言ひましたがそれは本当ですか。
 答 私は兵隊達の為に娼家(brothel)を一軒設け私自身も之を利用しました。

 問 婦女達はその娼家に行くことを快諾しましたか。
 答 或者は快諾し或る者は快諾しませんでした。

 問 幾人女がそこに居りましたか。
 答 六人です。

 問 その女達の中幾人が娼家に入る様に強ひられましたか。
 答 五人です。

 問 どうしてそれ等の婦女達は娼家に入る様強ひられたのですか。
 答 彼等は憲兵隊を攻撃した者の娘達でありました。

 問 ではその婦女達は父親達のした事の罰として娼家に入る様強ひられたのですね。
 答 左様です。

 問 如何程の期間その女達は娼家に入れられていましたか。
 答 八ヶ月間です。

 問 何人位この娼家を利用しましたか。
 答 二十五人です。
 (以下略)

(訳注)オハラの階級について、陸軍中尉が、海軍大尉と後から直されているが、経歴を見ると陸軍なので、陸軍中尉のままにした。
https://www.amazon.co.jp/gp/customer-reviews/RQ8SD5E0KMC0T/ref=cm_cr_getr_d_rvw_ttl?ie=UTF8&ASIN=499108900X
http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/494.html#c34

[お知らせ・管理21] (再掲)いまだ執拗にイスラムヘイトを繰り返すナチスの信奉者 HIMAZIN
46. 中川隆[-9055] koaQ7Jey 2019年7月15日 14:07:05 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[3638]

インドネシア:多数派イスラム教徒による不寛容の拡大 
日本はムスリムとの共生が難しいことを知るべき 2019年07月14日
https://ameblo.jp/evening--primrose/entry-12493552353.html


前々回の記事で、故郷をイスラム化する構想に取り憑かれた残念な集落に触れました。

重ねて残念なことは、押しかけて来られたのではなく、わざわざ呼び込んでいることです。

そして、彼らは将来モスクもイスラム学校(マドラサ)も作るつもりであることがわかりました。

イスラム学校はモスクに併設されることも多いです。

インドネシアには一般の公立学校(スコラ)と宗教学校マドラサがあるようですが、PISA(国際学力調査)でインドネシアは相当低レベルの結果を出したようですから、どちらも何か問題があるのでしょう

磐田市の集落に来るのはインドネシア人一家ですから当然インドネシア人が集まってくるでしょう。

インドネシアは世界最大のイスラム教徒人口を抱えていて9割弱がムスリムです。

しかし、有名な仏教寺院遺跡「ボロブドゥール寺院」があることからもわかるように、13世紀にイスラム教が来るまではヒンドゥー、仏教などが先に入ってきていて、王国を作っていました。

ちなみに世界3大仏教遺跡とはボロブドゥール遺跡のほか、ミャンマーのバガンと、カンボジアのアンコールワットです。バガンは仏教寺院、アンコールワットはヒンドゥー寺院だったものが途中から仏教寺院になっています。

弁財天、大黒天、吉祥天などはヒンドゥー教の神様が仏教に取り入れられたもので、日本もヒンドゥーと仏教の影響を受けていると言えます。

2つの宗教は私の中では勝手に相性の良い宗教となっていて、近くに仏教寺院が無いときにはヒンドゥー寺院にお参りしていた時もあります。べーっだ!

私たち日本の社会もインドネシアの昔に信仰が似ていたということは興味深いことです。

(もちろんそれらの外来の宗教が来る前はそれぞれ土着の信仰があります)

そういうインドネシアでしたが、13世紀にイスラム文化・イスラム教が渡来して、北スマトラのアチェ地方に最初のイスラム小王国が現れました。(アチェは現在インドネシアで唯一イスラム法(シャリーア)に基づく州条例を制定する自治権が認められています。)

それからイスラム教徒の比率だけはどんどん増え続けて今は圧倒的な多数派となりました。

インドネシアは、建国当時は寛容、多様性を謳っていたのですが、最近は変わりました。

インドネシア各地で、多数派イスラム教徒による「ごり押し、価値観の押し付け、不寛容」により異教徒迫害が増えていることを紹介した記事があります。左下矢印

クリップ「寛容の精神」誇るインドネシアで広がる深刻な分断 2019年6月24日 JBpres

母国内でも分断を起しているような人たちが大挙して日本に押し寄せていることを知り、本当は勘違いさせない、特別扱いしない対応をしなくてはいけないはずなのです。

ムスリムが多数派の国でどういうことが起きているのかを知らずに、その人達を呼び込むことの危険性は、この残念な集落だけでなく、「宗教」を軽く考える日本人が全く気付いていないことだと思います。

イスラム教徒は平均の2倍のスピードで増えます。

移民を奨励すればもっと勢いは出ますので、大変な数になっていきます。

ダイヤグリーン

最近こういった記事を見たのでお勧めします。

オスマン帝国がキリスト教徒と共生できた理由

イスラム世界における共存と平等を読み解く

小笠原 弘幸 : 九州大学大学院准教授、中東工科大学客員准教授

右上矢印これはオスマン帝国のことを書いていて、イスラムに好意的です。

しかし、過去には『ムスリムと非ムスリムとの共存は、原則的にムスリムが優位であるという前提のもとに成立しえた』という記述があります。オスマン帝国が19世紀にはムスリムと非ムスリムの平等を打ち出し、そのまま衰退していくことも書かれています。もちろん終焉にはさまざまな要因がありますが、現在のトルコはイスラム化を進めていて、結局、ムスリムが多数派の中で彼らが優位でない世界が未だ無いという事実もわかるのです。

この中でイスラムは地域などにより違いがあり、ひとくくりには出来ないということを述べていて、全くその通りだと思います。しかし、アラビア語のコーランが正文であることから、自分たちに都合よく解釈したイスラムが唯一ではないわけで、穏健になろう、時代に合わせようとしても、原典に忠実であれと言う主張は一定の正統性と説得力を常に持ち、完全に全員で進歩することができない運命を持っていると思います。

今隣人でいる穏健で寛容なムスリムが、原理主義に負けてしまえば(と言うか狙われると負けてしまいます)、あっという間に非寛容で恐怖の地域に様変わりしてしまうということです。

その不安定さはやはりコーランから来ます。その逐語的な解釈を全体で止めてもらえない限り、非ムスリムは安心できないという気持ちは本能から出るどうにもならない不安です。

そのくらい難しいイスラム教徒との共生・共存なのです。

最初に上手くいったからずっとそのままの関係でいられるというようなものではないのです。

生まれつきで選べない、信者をやめられない、そういった宗教はそもそも人権侵害だと思います。

イスラムから他宗教への改宗、棄教は一般的にありません。

仏教や神道からイスラムへの改宗は簡単でも、逆が不可能で一方通行なのです。

イスラム教徒の子供は必ずイスラム教徒とされています。

信教の自由はムスリムになることの自由以外ないのです。

日本の法律が機能しないような事態が静かに広がっていくことをとても怖いと思っています。

参考まで!

・なぜイスラム教では「宗教に強制なし」なのに「棄教=死刑」なのか?(飯山陽)

CINDY様の転載記事もどうぞ!

・月刊WiLL1月号より 在日イスラム教徒17万人 お隣さんがイスラム教徒だったら@

・月刊WiLL1月号より 在日イスラム教徒17万人 お隣さんがイスラム教徒だったらA

・月刊WiLL1月号より 在日イスラム教徒17万人 お隣さんがイスラム教徒だったらB​​​​​​​

https://ameblo.jp/evening--primrose/entry-12493552353.html
http://www.asyura2.com/13/kanri21/msg/556.html#c46

[リバイバル3] ハイエンド・スピーカーの世界 中川隆
123. 中川隆[-9054] koaQ7Jey 2019年7月15日 15:44:00 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[3639]

300: RW-2 :2019/07/15(月) 14:40:42 HOST:121.132.132.27.ap.yournet.ne.jp

オーディオに家一軒建てれるだけ金使っても、
最後にゃ球シングルアンプに平面バッフルとか大箱に入れたフルレンジってな
シンプルシステムに戻る御方も多いようでっせ。回帰性。サケの帰巣本能の如し。

オーディオなんて金掛けようと思ったら際限無し。掛けるほど音楽から遠のき
音のダークサイドに堕ちる。足るを知り満ち足り過ぎを求めず。何の趣味でもね。

http://www.asyura2.com/09/revival3/msg/697.html#c123

[リバイバル3] 最近のオーディオ業界の状況 中川隆
113. 中川隆[-9053] koaQ7Jey 2019年7月15日 15:44:28 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[3640]

300: RW-2 :2019/07/15(月) 14:40:42 HOST:121.132.132.27.ap.yournet.ne.jp

オーディオに家一軒建てれるだけ金使っても、
最後にゃ球シングルアンプに平面バッフルとか大箱に入れたフルレンジってな
シンプルシステムに戻る御方も多いようでっせ。回帰性。サケの帰巣本能の如し。

オーディオなんて金掛けようと思ったら際限無し。掛けるほど音楽から遠のき
音のダークサイドに堕ちる。足るを知り満ち足り過ぎを求めず。何の趣味でもね
http://www.asyura2.com/09/revival3/msg/845.html#c113

[リバイバル3] スピーカーの歴史 _ 何故、過去に遡る程 スピーカーもアンプも音が良くなるのか? 中川隆
16. 中川隆[-9052] koaQ7Jey 2019年7月15日 15:44:59 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[3641]

300: RW-2 :2019/07/15(月) 14:40:42 HOST:121.132.132.27.ap.yournet.ne.jp

オーディオに家一軒建てれるだけ金使っても、
最後にゃ球シングルアンプに平面バッフルとか大箱に入れたフルレンジってな
シンプルシステムに戻る御方も多いようでっせ。回帰性。サケの帰巣本能の如し。

オーディオなんて金掛けようと思ったら際限無し。掛けるほど音楽から遠のき
音のダークサイドに堕ちる。足るを知り満ち足り過ぎを求めず。何の趣味でもね
http://www.asyura2.com/09/revival3/msg/858.html#c16

[リバイバル4] 新藤ラボラトリー Western Electric 300B Single limited 中川隆
3. 中川隆[-9051] koaQ7Jey 2019年7月15日 16:16:12 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[3642]

新藤ラボラトリー 124アンプ 創業時の逸品 WE350B
https://page.auctions.yahoo.co.jp/jp/auction/e363541721


新藤ラボラトリー 124アンプ 創業時の逸品 WE350B_WE350B 同一ロット 4本


WE350B 同一ロット 4本

新藤ラボラトリー 124アンプ 創業時の逸品 WE350B_BELDEN 9259 変換ケーブル 付けます

新藤ラボラトリー 124アンプ 創業時の逸品 WE350B_WE350B 同一ロット 4本

新藤ラボラトリー創業時の EA-124D パワーアンプです。
プッシュプル使用のWE350Bは同一ロット(記載番号すべて752)、他 WE CW349A、CRC5693、整流管はRCA 5U4G です。

新藤ラボの製品カラーがアルテックグリーンになる前まで代理店をされていたビンテージショップの店主(かなりの
ウエスタンマニア)から買いました。高価でしたが、さすがのアンプです。ビンテージ他 多くのスピーカーを経験、所有もしましたが、魅力ある音で まともに鳴らします。16Ω出しですが、8Ωものも問題なく力のあるアンプです。


オーディオ機器を少しずつ整理していますが、本アンプに少し気になる点があり、昨年 新藤ラボに直接持ち込みました。

手渡しで受け取る際に、このレベルの品は作れないので大切にしてほしいと言われました。当時は貴重な部材も潤沢に有った

との事。真空管にも負荷の少ない設計なので、これからも長く楽しめますとも。


久しぶりに聴いてみましたが、片チャンネルのゲイン調整を回す時に わずかにガリが有りました(高能率スピーカーで

なければ分からないと思います)。数回まわすと消えました。

(2019年 7月 12日 0時 47分 追加)
ご質問欄にも記載したのですが、スペック関係が解る資料がないため申し訳ございません。
入手時にキャノン入力のホットが2番、SPインピーダンスが16Ωは確認できています。


(2019年 7月 12日 22時 44分 追加)
非常に多くのウォッチリストご登録ありがとうございます。
入力がキャノンXLR端子の為、本アンプ入手時に付いていた写真の変換ケーブルをお付けします。高価なケーブルを含めて幾つか試しましたが、このケーブルに落ち着きました。スイッチクラフトのXLR端子を含めた全長2mのBELDEN 9259です。創業者の製作かどうかも不明ですが、

比較的新しい9259と比べても本ケーブルの方が音が太く濃いです。あるジャズギタリストがジャズはこのケーブルだ と有名にしたようです。

昨年 新藤ラボにフルチェックの為 直接持込みの際、使い勝手を良くしようと思い、RCA端子の増設を相談しました。ラボ側からは 当時はプロを意識して制作していたので この仕様です。オリジナルのままを薦めるとのことだったので、手を加えませんでした。


本アンプは先週落札していただいたWE755Aに通じるものが有ります。繊細さ奥深さも一級品ですが、ハイファイ臭さが無いので長時間聴けますし、浮気心が起きません。

昨年 オークションを見ていると、私も一時所有していた新藤ラボ 300B モノアンプ(アルテックグリーン)が250万円超で落札されていました。やはり良いアンプでしたが、本アンプの方が PPということもありますが、各スピーカーへのフトコロ深さ余裕が有ります。最初期型含めて2セット所有した8ワットのWE755Aも本アンプで真価が出せていると思いました。主観ですが、

ご参考まで

(2019年 7月 14日 15時 24分 追加)
私自身 オークションにて貴重な品を入手してきましたので、入札側として
欲しいと思われる情報を記載します。


*WE350Bについては、新藤ラボにも見せていますが、外観を含めて良い状態です。

多くの機器を所有しましたので(ビンテージから 良い時代だった90年代前半位までの

オーディオ中心)、本アンプの使用頻度は少ないです(他も含めて品質維持の使用程度)。

300Bはオールドを含めても入手しやすいですが、比較して350Bは内容問わず 昔から見る

頻度は極端に少ないと思います。先日クワッドかは覚えていませんが、4本で50万円前後

での落札だったかと思います。


*繋いだ機器としては、新藤ラボのプリは勿論ですが、有名どころを含めたプリや

スピーカーはある程度の数は楽しみました。ウエスタンはWE755A用にメインとした

KSシリーズですがアンプが残っています。124は以前に手放しました。その124に付いていた

WE350Bは本アンプのものより少なくとも外観の劣化は有りました。


オークションではよく主観で構わないのでと意見を求められています。好みの最たる世界なので

私なりのご参考を述べました。
https://page.auctions.yahoo.co.jp/jp/auction/e363541721
http://www.asyura2.com/18/revival4/msg/109.html#c3

[近代史3] 日本の右翼のバイブル _ モルデカイ・モーゼ 日本人に謝りたい 中川隆
35. 中川隆[-9050] koaQ7Jey 2019年7月15日 20:07:45 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[3643]

777

南京大虐殺の真実も書いておく:

30万人殺害は長江デルタ 南京大虐殺で英記者電報

【ロンドン21日共同】1937年12月中旬に始まった旧日本軍による南京大虐殺から65年。当時、「長江(揚子江)デルタで市民30万人以上が虐殺された」と上海から打電しようとし、日本人検閲官に差し止められた英紙記者の電報記事コピーを21日までに共同通信が入手した。

犠牲者数について、中国側の公式見解は南京だけで30万人とするが、日本では数千人−20万人など諸説ある。

電報では、犠牲者「30万人以上」は、南京だけではなく、上海なども含む長江デルタ地域全体の数字として記されていることが確認された。

電報は38年1月16日付。書いたのは英マンチェスター・ガーディアン(現ガーディアン)紙の中国特派員ハロルド・ティンパリー記者(54年死去)。 電報のコピーは、英中部マンチェスター大学のジョン・ライランズ図書館書庫に保管されていた。
2002/12/21 09:31 【共同通信】

南京大学歴史学部博士課程指導教官で、南京大虐殺研究所副所長の張生教授を取材した際、昨年、米国立公文書館で南京大虐殺に関する資料を収集していたときに、極めて価値のある最高機密文書を発見したことを話してくれた。

日本の広田弘毅首相が1938年1月17日、東京から米国の日本大使館に発信した機密電報だ。米国はそれを解読していた。 (実際には広田自身ではなく、『マンチェスター・ガーディアン』の記者ティンパリーが書いたニュース)

電文の内容は

「数日前、上海に戻り、日本軍の南京とその他の一部地方での残虐行為に関する報道について調べた。信頼できる目撃者が直接数えた、また信頼度の極めて高い一部の人の書簡にもとづけば、それは十分に証明できるであろう。
少なくとも30万の中国平民が殺戮に遭い、その多くは極めて残虐で血なまぐさい虐殺だった」

というものだ。張生教授は

「これまでに収集した資料のなかでは、最も早く南京の30万人市民の殺戮に言及しており、証拠となるものです」

と指摘。さらに「米国や欧州などでも、第三者による史料の発見が相次いでいます。個人的な判断や細部の描写はやや異なるものの、南京大虐殺が一つの歴史事実であることは広く認められているのです」と強調した。
「北京週報日本語版」より2007年12月15日


ベイツは日本大使館に南京の惨状の報告を毎日のようにしており、その報告は日本外務省に届けられていた。
この報告を読んだ、広田弘毅の直属の部下、石射猪太郎は『外交官の一生』に

「南京は暮れの一三日に陥落した。
わが軍のあとを追って南京に帰復した福井領事からの電信報告、続いて上海総領事からの書面報告がわれわれを慨嘆させた。
南京入城の日本軍の中国人に対する掠奪、強姦、放火、虐殺の情報である」


と書いた。広田弘毅も同様の認識であったと見るほかない。

事実、アメリカ駐日大使ジョセフ・グルーは、外務大臣広田弘毅とベイツの報告について話し合っていた。その会見の様子はグルー自身がさらに南京のアメリカ大使館に電報で知らせ、ベイツもそれらの電報を直々に読んで確認していたのである。


当時の外務省東亜局長・石射猪太郎は、1938年1月6日の日記に、

「上海から来信、南京に於ける我が軍の暴状を詳報し来る、掠奪、強姦、目もあてられぬ惨状とある。

嗚呼、之が皇軍か」

と記述している。

※元資料:石射猪太郎 『外交官の一生』 中公文庫P.332〜P333 (1998年)

日本軍文書:南京大虐殺で南京の人口が80万人近く減少 2014年01月08日


吉林省公文書館で最近、南京大虐殺の記録を含む日本軍の中国侵略に関する文書が見つかった。

同文書によると南京大虐殺前後の2カ月半で南京地区の人口は113万人から34万5000人へと78万5000人減少していた。人民日報海外版が伝えた。

 同文書は1938年2月19日と同28日に日本軍華中派遣憲兵隊の大木繁司令官が関東軍司令部に報告した2件の「南京憲兵管轄区内の治安回復状況に関する報告」。報告の「事変前後の人口対比」によると、「事変前」に南京の人口(下関を含まず)は100万人で、2月28日までに33万5000人が帰還し(戻り)、下関の人口は13万人で、後に1万人が帰還した。

 1937年12月13日、中国侵略日本軍は南京を占領した。その後6週間、日本軍はこの世のものとは思えないほど残虐な手段で、中国の市民と軍の捕虜30万人以上を殺害した。だが日本には南京大虐殺の数字の矮小化、さらにはこの犯罪行為の否認を企てる者が常にいる。

 今回の日本関東軍の文書は吉林省公文書館に保管されており、関東軍が中国東北部を統治していた1931年から1945年までの様々な事項が記録されている。現時点で中国侵略に関する世界唯一の関東軍文書であり、非常に貴重で、日本国内にすらないものだ。

 1945年8月15日に日本が降伏を宣言すると、日本軍はこれらの文書を数日間かけて焼却したが、間に合わなかったものを地中に埋めた。これらの資料は1950年に吉林省の工事現場で発見された。(編集NA)

 「人民網日本語版」2014年1月8日



http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/494.html#c35

[リバイバル3] 中川隆 _ 美術・文芸関係投稿リンク 中川隆
154. 2019年7月15日 21:52:24 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[3644]
横溝正史 仮面舞踏会(テレビ朝日 1986年)
http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/531.html

http://www.asyura2.com/09/revival3/msg/452.html#c154
[近代史3] 日本の右翼のバイブル _ モルデカイ・モーゼ 日本人に謝りたい 中川隆
36. 中川隆[-9049] koaQ7Jey 2019年7月15日 22:06:36 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[3645]

ドングリ

ティンパリー記者・ベイツ、どちらも国民党に雇われた対外広報の当事者。
ちなみに、ベイツも一員だった南京国際安全委員会が出した南京事件真っ只中の犯罪報告をすべて計上しても、現代の新宿の犯罪率より低かったと記憶している。
デマついでに、中共編纂の「南京事件資料集72巻」だっけ?それも付け足したら。
なかには引っかかる人がいるかも。
それでは、ここまで。消さなければ反論しないから。


ドングリ

いまこの本を読んでいるので、ほかの人の感想を見ようと思ったら、またまたディグ氏が・・・・
何度もコメントを削除するということは、どうやら図星だったかな。

再掲3回目
777氏は、もしかしてミスター・ディグ氏の別名かな?
文章も論理の組み立て方も、なにより平気で嘘をまぜ、真偽不明の証言を事実として引用し、アメリカではこうだ、教科書にこう出てると権威付けするやりかたがそっくり。都合が悪いとすぐ削除するし。
ディグ氏なら南京事件も慰安婦強制連行も、日本国紀などで多くの人に論破され逃げ出したのに、まだ場所を変えて同じことをやっているんだ。懲りないね〜

君のデタラメは飽きるほど論破したので、これ以上つきあうつもりはないけど、君の正体をほかの人に知ってほしいので、これは消さないで、お願い!!

_____


777 返信先:以前の投稿

大将の松井石根が虐殺を認めているんだから否定できる訳ないだろ
東京裁判では虐殺命令を出したのは死刑になった松井石根ではなく昭和天皇だと関係者はみんな判断していた:

「南京事件ではお恥しい限りです。南京入城の後、慰霊祭の時に、シナ人の死者も
一しょにと私が申したところ、参謀長以下何も分らんから、日本軍の士気に関するでしょうといって、師団長はじめあんなことをしたのだ。

 私は日露戦争の時、大尉として従軍したが、その当時の師団長と、今度の師団長などを比べてみると、問題にならんほど悪いですね。日露戦争の時は、シナ人に対してはもちろんだが、ロシヤ人に対しても、俘虜の取扱い、その他よくいっていた。今度はそうはいかなかった。
政府当局ではそう考えたわけではなかったろうが、武士道とか人道とかいう点では、
当時とは全く変っておった。

 慰霊祭の直後、私は皆を集めて軍総司令官として泣いて怒った。その時は朝香宮もおられ、柳川中将も方面軍司令官だったが。折角皇威を輝かしたのに、あの兵の暴行によって一挙にしてそれを落してしまった、と。ところが、このことのあとで、みなが笑った。 甚だしいのは、或る師団長の如きは「当り前ですよ」とさえいった。

 従って、私だけでもこういう結果になるということは、当時の軍人達に一人でも多く、深い反省を与えるという意味で大変に嬉しい。折角こうなったのだから、このまま往生したいと思っている」

キーナンは、自分が技巧的に追及してきたその判決を聞いた日の夜、
彼の切り札証言人、田中隆吉と一杯飲みに外出した。彼は酔いにかまけつつ、

「馬鹿げている、まったく馬鹿げた判決だ」と口にした。彼が最も反対してきた判決は、
松井――南京攻略の際、その命令が悪用された痛ましい小柄な大将――の死刑だった。

 公正は私に、被告に有罪を決定する際、天皇の免責について再考するよう、求めている。


http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/494.html#c36

[近代史3] 日本の右翼のバイブル _ モルデカイ・モーゼ 日本人に謝りたい 中川隆
37. 中川隆[-9048] koaQ7Jey 2019年7月16日 06:53:05 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[3646]

777 返信先:以前の投稿


日本兵が組織的虐殺を認めてるだろ:

鬼頭久二(1916年8月生まれ)
第16師団歩兵第33連隊 第1大隊

南京戦の時、当時の宮さん〔朝香宮〕から命令があって、その命令は中隊長か小隊長から聞いたけど、

「犬も猫も含め生きている者は全部殺せ」

ちゅう命令やった。

天皇陛下の命令やと言ったな。

当時のことを書いた日記帳は終戦の時に全部焼いた。


沢田小次郎(1915年9月生まれ)
第16師団歩兵第33連隊 第1大隊某中隊指揮班

 この中隊には「男も女も子どもも区別なしで殺せ」という命令が出ました。
つまり虐殺でした。残虐な攻略戦で、その残虐さは南京に入ったらすぐそうでした。
(略)
 南京攻略戦はちょっとやりすぎでした。

反日の根拠地というので、南京に入るまでは家を全部焼けという命令がずっと出てました。

するとまた後続部隊が泊まる所がないからといって、家を焼くのを中止したんです。

とにかく「家は全部焼いて、人間は全部殺せ」という命令でした。

命令が出てなかったらこっちはしませんよ。北支の戦争では
「兵隊以外の者は絶対に怪我人を出したらあかん」という命令が出ていました。
だから北支は戦争しにくかったです。

 でも南京攻略戦は手当たり次第やったので、戦争がしやすかった。
それももちろん命令があったからです。皆伝え聞いて分かっていました。
中支では、上陸してからずっとやりたい放題にやっとったんです。

その代わりこっちの被害も多かったですな。あそこは支那の部隊も集中してました。

___


戦後、蒋介石政府は、中島の第16師団と、「阿修羅」との名をもつ谷の第6師団を、南京攻略の際に39万人の生命を奪った罪で告発した

中国軍の退却が始まった後も、前線の日本軍師団はその追撃の手を緩めなかった。東京の参謀本部は、地図上に線を引きながら、そこが進攻の止まる停止線と発表し、欧米の報道陣に一大ショーを披露していた。

その線上で、兵員は再編成され、天皇よりの秘密指令を受け取るやいなや、ふたたび行動を続けた。

だが、そうした命令の存在は、1964年に、退役した大将たちのグループが本を出版するまで、公表されることはなかった。

 当時、外国人報道陣向けに、前線にいる兵士たちはもはや手に負えず、統制がとれなくなっている、との印象が意図的に作られていた。

だが真実は、兵士たちは大本営が皇居で設立され、自分たちの行動が神的な天皇自身によって監視されていることを知っていたため、それほどに周到で従順な兵は、かっていなかったことである。

 最初の停止線は、揚子江デルタを横切り、11月4日に引かれた。11月24日に、すべての師団がそこに到着した時、天皇の命令(45)により、それは解除された。

参謀本部は、同じ日、80キロ西方に、第二の停止線を設定した。裕仁は、非公式には三日後に、公式には七日後にそれを解除した。

 松井にあてた最初の電報(48)はこう告げていた。

 南京攻撃への一致した決定を得るべく、当本部の面々は着実な議論に取り組んでいるが、最終決定にはいまだ至らず。ともあれ、決定は間近であるので、安心されたし。
 松井のもとの参謀将校たちにあてた、第二の、極秘、至急電報(49)はこうなっていた。

 余は、余の最高幹部の決定いまだ得ずとも、当本部の核心は南京攻撃に傾注しつつあり。しかるに、これを理解し、予断を打ち捨て、前進計られたし。

 ここに言う「当本部の核心」とは、電報を打った下村少将を別にして、天皇裕仁のみであった。また、「最高幹部」とは、もちろん、苦闘する多田中将のことである

http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/494.html#c37

[近代史3] 日本の右翼のバイブル _ モルデカイ・モーゼ 日本人に謝りたい 中川隆
38. 中川隆[-9047] koaQ7Jey 2019年7月16日 07:00:21 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[3647]

T ・ Y

長々とコメントしているが、慰安所開設への天皇の「直接」の指示を証明していないね。

無いものは、証明しようがないだろう。

777 返信先:以前の投稿

>長々とコメントしているが、慰安所開設への天皇の「直接」の指示を証明していないね。

作戦はすべて昭和天皇が立てていたんだから責任も昭和天皇一人にあるよ、ヒトラ−と同じだ

慰安所設置の指揮・命令系統

日本軍慰安所が最初に設けられたのは、1932年はじめの上海です。このとき上海派遣軍の参謀副長と高級参謀が慰安所設置の指示を出し、参謀が実際の設置にあたりました。1937年からの日中戦争の際には、中支那方面軍が慰安所設置の指示を出し、その下にある上海派遣軍は参謀二課(補給などの後方担当)が案を作って南京での慰安所設置を進めます。華北にいた北支那方面軍では参謀長が慰安所設置を指示しました。このように陸軍の派遣軍司令部が直接、慰安所設置にあたっていました。

派遣軍の指揮下は、軍−師団−旅団−連隊−大隊―中隊という順になっていますが、それぞれの段階で、補給などの後方担当の参謀や副官、憲兵などが「慰安婦」の徴集や慰安所設置にあたっています。もちろん軍の頂点にいたのは大元帥であった天皇でした。

海軍の場合は、海軍省、各艦隊司令部、占領行政にあたった海軍民政部などが慰安所の設置運営に関わっています。

1938年の内務省資料を紹介しましょう。中国の華南にいた第21軍が「慰安婦」を集めるために参謀を東京に派遣しました。その参謀は陸軍省の課長とともに内務省警保局(現在で言えば警察庁)に出向いて女性集めを依頼しました。それを受けて警保局では、警保局長の名で府県知事に通牒を出して、県が業者を選定して女性を集めさせること、また業者に便宜を供与するように指示しています。参謀本部のスタッフも女性の輸送に関わることになっています。内務省から指示を受けた府県では、業者を選定し、集められた女性の身元を調査し身分証明書を出す必要がありましたが、そうした仕事は警察がおこないました。知事→県警察部長(現在の県警本部長)→各警察署長と指示が伝えられ、警察署の警察官が動いたことは間違いありません。

つまり中国への派遣軍、中央の陸軍省・参謀本部という陸軍の組織だけでなく、内務省警保局、府県知事・県警察部長・警察署というように日本政府の中央から地方機関までが「慰安婦」の徴集と送り出しを組織的におこなっていたのです。このときには台湾総督府にも同様の依頼をおこなっており、そこでも台湾総督府の地方組織・警察が組織的に動いたことはまちがいありません。これは日本や台湾の女性を「慰安婦」として連れて行った例ですが、このように日本軍慰安所制度の設置運営は日本軍の機構全体にとどまらず政府・地方行政全体が関わった、国家ぐるみの行為でした。

さらに付け加えれば、実は上海の日本軍慰安所に女性を日本から連れて行こうとした業者らが女性の国外移送誘拐罪で逮捕され、1937年3月に大審院(現在の最高裁判所)で有罪が確定していました。ところが内務省警保局は翌38年2月、つまり慰安所開設が本格化する時期に、女性の送り出しを「必要已むを得ざる」と認める通牒を出しました。つまり最高裁判所が犯罪であると認めた行為を放置するだけでなく、ここで紹介した1938年の資料のように政府自らが犯罪行為を手がけたのでした。だからその通牒には、業者が自発的にやっているかのように装い、政府や軍の関わりを秘密にするように指示していたのです。そういう点からも慰安所制度は日本の国家ぐるみの犯罪であったと言えるでしょう。

http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/494.html#c38

[アジア13] 悪質な嘘は止めようね _ 吉田清治証言は虚構じゃない 中川隆
615. 中川隆[-9046] koaQ7Jey 2019年7月16日 07:19:05 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[3648]
Q2.慰安所設置の指揮・命令系統はどのようなものだったのですか?
https://wam-peace.org/ifaq/ifaq-02

日本軍慰安所が最初に設けられたのは、1932年はじめの上海です。このとき上海派遣軍の参謀副長と高級参謀が慰安所設置の指示を出し、参謀が実際の設置にあたりました。1937年からの日中戦争の際には、中支那方面軍が慰安所設置の指示を出し、その下にある上海派遣軍は参謀二課(補給などの後方担当)が案を作って南京での慰安所設置を進めます。華北にいた北支那方面軍では参謀長が慰安所設置を指示しました。このように陸軍の派遣軍司令部が直接、慰安所設置にあたっていました。

派遣軍の指揮下は、軍−師団−旅団−連隊−大隊―中隊という順になっていますが、それぞれの段階で、補給などの後方担当の参謀や副官、憲兵などが「慰安婦」の徴集や慰安所設置にあたっています。もちろん軍の頂点にいたのは大元帥であった天皇でした。


https://wam-peace.org/main/wp-content/uploads/2018/07/5621deba8a18b839c7a4321764bb05e8.gif
https://wam-peace.org/main/wp-content/uploads/2018/07/2a831ec055ed4fee4e1d0936ea40500d.gif


海軍の場合は、海軍省、各艦隊司令部、占領行政にあたった海軍民政部などが慰安所の設置運営に関わっています。

1938年の内務省資料を紹介しましょう。中国の華南にいた第21軍が「慰安婦」を集めるために参謀を東京に派遣しました。その参謀は陸軍省の課長とともに内務省警保局(現在で言えば警察庁)に出向いて女性集めを依頼しました。それを受けて警保局では、警保局長の名で府県知事に通牒を出して、県が業者を選定して女性を集めさせること、また業者に便宜を供与するように指示しています。参謀本部のスタッフも女性の輸送に関わることになっています。内務省から指示を受けた府県では、業者を選定し、集められた女性の身元を調査し身分証明書を出す必要がありましたが、そうした仕事は警察がおこないました。知事→県警察部長(現在の県警本部長)→各警察署長と指示が伝えられ、警察署の警察官が動いたことは間違いありません。

つまり中国への派遣軍、中央の陸軍省・参謀本部という陸軍の組織だけでなく、内務省警保局、府県知事・県警察部長・警察署というように日本政府の中央から地方機関までが「慰安婦」の徴集と送り出しを組織的におこなっていたのです。このときには台湾総督府にも同様の依頼をおこなっており、そこでも台湾総督府の地方組織・警察が組織的に動いたことはまちがいありません。これは日本や台湾の女性を「慰安婦」として連れて行った例ですが、このように日本軍慰安所制度の設置運営は日本軍の機構全体にとどまらず政府・地方行政全体が関わった、国家ぐるみの行為でした。

さらに付け加えれば、実は上海の日本軍慰安所に女性を日本から連れて行こうとした業者らが女性の国外移送誘拐罪で逮捕され、1937年3月に大審院(現在の最高裁判所)で有罪が確定していました。ところが内務省警保局は翌38年2月、つまり慰安所開設が本格化する時期に、女性の送り出しを「必要已むを得ざる」と認める通牒を出しました。つまり最高裁判所が犯罪であると認めた行為を放置するだけでなく、ここで紹介した1938年の資料のように政府自らが犯罪行為を手がけたのでした。だからその通牒には、業者が自発的にやっているかのように装い、政府や軍の関わりを秘密にするように指示していたのです。そういう点からも慰安所制度は日本の国家ぐるみの犯罪であったと言えるでしょう。


(注)
軍司令官や師団長を補佐し作戦計画や命令を作るのが参謀です。そのトップが参謀長、次に参謀副長、そして参謀たちです。参謀の中で最も重要な作戦を担当するものを高級参謀とも言います。
https://wam-peace.org/ifaq/ifaq-02
http://www.asyura2.com/09/asia13/msg/822.html#c615

[リバイバル3] 中川隆 _ 欧米文化関係投稿リンク 中川隆
96. 2019年7月16日 08:59:43 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[3646]
米大統領選の争点に浮上した大学生の巨額借金問題
http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/532.html

http://www.asyura2.com/09/revival3/msg/464.html#c96
[リバイバル3] 中川隆 _ 経済、ビジネス関係投稿リンク 中川隆
97. 中川隆[-9048] koaQ7Jey 2019年7月16日 09:00:33 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[3647]
米大統領選の争点に浮上した大学生の巨額借金問題
http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/532.html

http://www.asyura2.com/09/revival3/msg/813.html#c97
[近代史3] 日本の右翼のバイブル _ モルデカイ・モーゼ 日本人に謝りたい 中川隆
39. 中川隆[-9047] koaQ7Jey 2019年7月16日 09:49:28 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[3648]

777 返信先:以前の投稿

真実を明らかにするとすぐに削除されるんだね

チャンネル桜さんも悔しかったらこれを一つ残らず全部否定してみろよ:

南京事件資料集
http://kk-nanking.main.jp/

南京事件(南京大虐殺)の真実
「徹底した史料の読解によって、南京事件の真実を明らかにします」
「否定派の解釈の誤りと、捏造のすべてを明るみにだします」 by タラリ
 http://www.nextftp.com/tarari/index.htm
http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/494.html#c39

[近代史3] 日本の右翼のバイブル _ モルデカイ・モーゼ 日本人に謝りたい 中川隆
40. 中川隆[-9046] koaQ7Jey 2019年7月16日 10:05:48 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[3649]

777 5つ星のうち1.0

チャンネル桜や保守の人はみんなニセユダヤ人に騙されてるけど 2019年7月16日

既に4回削除されましたが、これが5回目の投稿
チャンネル桜さんは真実を明らかにされると困るみたいですね:

天皇家は全員クリスチャンで反共・反日グローバリスト

あるユダヤ人の懺悔「日本人に謝りたい」を書いたモルデカイ・モーゼ が自称訳者の久保田政男だというのは常識なのですが、
チャンネル桜や保守の人はみんな本物のユダヤ人が言っていると思い込んでいるので、見当外れの判断をしてしまうのですね。

そもそも、大恐慌以降に出て来た左翼のニューディール派はウォール街の金融資本とは敵対していたので
共産主義者がグローバリストだとか、ユダヤ人がグローバリストだとか、天皇が日本の国体を守ろうとしてきた愛国者だとかいうのはすべて間違いです。

アメリカでは19世紀に「泥棒男爵」と呼ばれる人びとが出現した。不公正な手段で財産を手に入れ、巨万の富を築いた人たちだ。石油業界を支配することになるジョン・D・ロックフェラー、金融帝国を築いたJ・P・モルガン、鉄鋼業界のアンドリュー・カーネギー、ヘンリー・クレイ・フリック、鉄道のエドワード・ヘンリー・ハリマン、金融や石油で財をなしたアンドリュー・W・メロンなどが含まれている。

 こうした人びとの権力が強大化する切っ掛けになった出来事が1913年12月にあった。連邦準備制度が創設され、連邦準備理事会が金融政策の樹立と遂行を監督、12の連邦準備銀行が政策を実行することになったのだ。このシステムを支配するのは富豪たちだ。

 連邦準備制度を作るための秘密会議が1910年11月にジョージア州のジキル島で開かれている。会議に参加したメンバーはクーン・ローブやJPモルガンの使用人やジョン・D・ロックフェラー・ジュニアの義父、つまりロスチャイルド、モルガン、ロックフェラーの代理人たちだった。こうした人びとがアメリカの通貨を発行する特権を持つことになる。

 こうした富豪が拠点にしている場所がウォール街やシティ。そこの住人に立ち向かった大統領もかつてはいた。フランクリン・ルーズベルトやジョン・F・ケネディたちだ。

 ルーズベルトは1932年の大統領選挙で勝利したのだが、その時にライバルだったハーバート・フーバーは現職の大統領。スタンフォード大学を卒業した後、鉱山技師としてアリゾナにあるロスチャイルドの鉱山で働いていた人物。政治家になってからはウォール街から支援を受けていた。

 そのフーバーとは違い、ルーズベルトは労働者の権利を認めてファシズムに反対するニューディール派を率いていた。そのルーズベルトをウォール街は嫌った。

 1933年から34年にかけてウォール街の大物たちはニューディール派を排除するためにクーデターを計画する。そのため、軍の内部で大きな影響力を持っていた海兵隊のスメドリー・バトラー退役少将を抱き込もうとするのだが、失敗してしまう。計画の内容はバトラー、そしてバトラーと親しかったジャーナリストが議会で証言、記録として残っている。

 クーデターで中心的な役割を果たしたのはJPモルガンだったとされているが、その総帥であるジョン・ピアポント・モルガン・ジュニアの妻のいとこ、ジョセフ・グルーは1932年に駐日大使として来日している。

 ちなみに、JPモルガンの共同経営者だったエドワード・ストーテスベリーと結婚したエバ・ロバーツ・クロムウェルの娘の夫はダグラス・マッカーサーである。

 グルーは皇族を含む日本の支配層に強力なネットワークを持つ人物で、特に松岡洋右と親しかった。松岡の妹が結婚した佐藤松介は岸信介や佐藤栄作の叔父にあたる。

昭和天皇は戦前はJPモルガンのエージェント、戦後はロックフェラーのエージェントなので、反共・反日グローバリストです。
天皇一族がアメリカに行くときは、ロックフェラー邸に数日間泊まって密談するのがメインエベントになっています。
https://www.amazon.co.jp/%E3%81%82%E3%82%8B%E3%83%A6%E3%83%80%E3%83%A4%E4%BA%BA%E3%81%AE%E6%87%BA%E6%82%94%E3%80%8C%E6%97%A5%E6%9C%AC%E4%BA%BA%E3%81%AB%E8%AC%9D%E3%82%8A%E3%81%9F%E3%81%84%E3%80%8D%EF%BC%88%E5%BE%A9%E5%88%BB%E7%89%88%EF%BC%89-%E3%83%A2%E3%83%AB%E3%83%87%E3%82%AB%E3%82%A4%E3%83%BB%E3%83%A2%E3%83%BC%E3%82%BC/dp/499108900X/ref=sr_1_1?qid=1563239126&refinements=p_27%3A%E3%83%A2%E3%83%AB%E3%83%87%E3%82%AB%E3%82%A4%E3%83%BB%E3%83%A2%E3%83%BC%E3%82%BC&s=books&sr=1-1&text=%E3%83%A2%E3%83%AB%E3%83%87%E3%82%AB%E3%82%A4%E3%83%BB%E3%83%A2%E3%83%BC%E3%82%BC
http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/494.html#c40

[近代史3] 高橋洋一 _ 年金は大丈夫!消費増税は必要ない!! 中川隆
2. 中川隆[-9045] koaQ7Jey 2019年7月16日 11:19:00 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[3650]

[2019.7.15放送]週刊クライテリオン 
藤井聡のあるがままラジオ(KBS京都ラジオ) - YouTube
https://www.youtube.com/watch?v=uMf0CrKOvEw


2019/07/15 に公開

今週のテーマは『年金2000万円問題、どうすりゃいいか、教えます!』です。


http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/476.html#c2

[近代史3] 内閣官房参与をクビにされた藤井聡先生、遂に本音を語る 中川隆
36. 中川隆[-9044] koaQ7Jey 2019年7月16日 11:19:23 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[3651]

[2019.7.15放送]週刊クライテリオン 
藤井聡のあるがままラジオ(KBS京都ラジオ) - YouTube
https://www.youtube.com/watch?v=uMf0CrKOvEw


2019/07/15 に公開

今週のテーマは『年金2000万円問題、どうすりゃいいか、教えます!』です。


http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/140.html#c36

[近代史3] 日本の右翼のバイブル _ モルデカイ・モーゼ 日本人に謝りたい 中川隆
41. 中川隆[-9043] koaQ7Jey 2019年7月16日 11:52:24 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[3652]

777 返信先:以前の投稿

当時の日本軍の資料で南京の人口が虐殺前後で80万人減ったのがわかっているから、松井大将も当然虐殺数は把握してたよ

大本営や昭和天皇も南京の人口動態の資料は読んでいたから虐殺数は知っていた。
http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/494.html#c41

[昼休み54] 太陽光発電は国家経済を破綻させ環境も破壊する 中川隆
37. 中川隆[-9042] koaQ7Jey 2019年7月16日 12:08:07 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[3653]

2019年07月16日
再生可能エネルギー40%のドイツが、現実路線になる理由



化石燃料(黒+灰色)がほとんど減っていない


画像引用:【ドイツ】2018年の再エネ発電割合が約40%と過去最大。石炭、天然ガス、原子力ともに減少 | Sustainable Japanhttps://sustainablejapan.jp/2019/01/07/german-electricity/36454


ドイツは再生可能エネルギー40%

2011年以降、ドイツは石油と原子力に頼らない再生可能エネルギーにまい進してきました。

その成果は総発電量の約40%が再生可能エネルギーになる成果として表れている。

もっともこれには説明が必要で水力とバイオマスを除くと、太陽光と風力の合計は約30%でした。



バイオマスについては無限に植林を行うとCO2を発生しないが、現実には森を伐採して燃やしているだけです。

砂漠に植林して20年ごとに伐採して燃やすならCO2は発生しないが、ドイツでは今ある木を伐採して燃やしています。

これでは木を伐採した分森林によるCO2吸収が減り、木を燃やした分だけCO2を発生させてしまいます。


ドイツはバイオマス発電を除外しても、再生エネルギーで6.9%、水力を含めても14.5%の日本より2倍以上多い。

日本はエネルギー基本計画で2030年に再生可能エネルギーを22%以上、原発を20%以上、化石燃料を56%にする計画を立てています。

再生可能エネルギーを22%には水力の7%が含まれるので、実際には15%しか太陽光や風力発電を行いません。


ドイツは既に30%が太陽光と風力なので、日本は10年後でも現在のドイツの半分です。

ドイツは化石燃料依存をどんどん減らしているのに、日本は10年後も化石燃料依存が続くようですが、そうではありません。


実はドイツではこれだけ再生可能エネルギーが拡大しても、化石燃料の使用量が減少していないのです。

日本のエネルギー比率は相変わらず火力が大半です

風車やソーラーパネルを設置するには森林を伐採するしかないので、今後も自然エネルギーを増やせない


japan-electricity-generation-2016


画像引用:【エネルギー】日本の発電力の供給量割合[2018年版](火力・水力・原子力・風力・地熱・太陽光等) | Sustainable Japanhttps://sustainablejapan.jp/2018/07/19/electricity-proportion/13961


CO2排出量は大きくは減らなかった

グラフを見ると一目瞭然ですが、化石燃料による発電量は2002年に約290Twh、2018年は約250Twhほどでした。

少しは減っていますが騒ぐほどではなく、もしバイオマスを燃焼発電と見なすなら、ほとんど減っていません。

どうしてこうなったかというと電力使用量全体が増えたのと、原発の発電量を減らしたことによる影響です。


ドイツの原発依存度は2002年に30%だったが2018年は15%、その分は再生エネルギーでカバーしたが電力需要が増えたので化石燃料も減らせなかった。

ドイツは石油や天然ガスの依存度が低く、国内で自給できる石炭や褐炭の比率が高いが、これらはCO2を多く発生します。

こうした事で結局ドイツのCO2排出量は、2002年と比べてあまり減らなかったのです。


原発依存度が減ってコストが高い太陽光と風力増えたことで、電気料金は2002年から2倍程度に上昇しました。

つまり2002年から2018年までの16年間で、再生可能エネルギーは増えたがCO2排出量は減らず、電気料金が2倍になりました。

ドイツはこれ以上再生可能エネルギーを大幅には増やせない、技術的な問題が存在します。

ドイツの自然エネルギーの限界

一つはバックアップ電源で、天候不順や不確実性を考えると、仮に100%自然エネルギーにしても、同量の原発や火力発電が必要です。

「今日は雨で無風だから電気なし」という訳にいかないので、全国すべて無風で太陽がない状況に備える必要があり、スイッチぽんで発電するような方法が必要になります。

もう一つは日本と同じ送電問題で、ドイツも国土によって送電網が分かれていて、全国土がつながっている訳ではありません。


ドイツのどこかで太陽サンサンで風も良好だったとしても、それを大都市まで送電できないのです。

ドイツ全土で、どこで発電した電力でも送電できるようにするには、日本と同じく数百兆円が必要とされています。

設備とお金の限界が再生可能エネルギーの限界点で、それは50%を超えたあたりでしょう。


ドイツの一般家庭電気料金は1kWh当たり約45円で27円くらいの日本より高く、今後も原発廃止と再生可能エネルギーでどんどん値上がりします。

ドイツの企業向け電気料金は先進国でもっとも高く、産業競争力喪失の原因になっています。

不人気のメルケル首相が退陣したら、ドイツはエネルギー政策を現実路線に転換するでしょう。
http://www.thutmosev.com/archives/80401540.html


http://www.asyura2.com/17/lunchbreak54/msg/144.html#c37

[近代史3] 横溝正史 仮面舞踏会(テレビ朝日 1986年) 中川隆
1. 中川隆[-9041] koaQ7Jey 2019年7月16日 13:58:06 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[3654]


1978年版『横溝正史シリーズII・仮面舞踏会』

動画
https://www.youtube.com/watch?v=SkngVXPzw1I&list=PLdCYD3CGT4ukt4F9K87dHwTffzQujx7rP&index=8

TBS系列で1978年6月3日から6月24日まで毎週土曜日22時 - 22時55分に放送された。全4回。五社協定の廃止から10年近く経過したこの時期のテレビドラマとしては珍しく、東宝所属または元所属の俳優を5人も出演させている。監督の長野卓も東宝出身である。

スタッフ
企画:角川春樹事務所、毎日放送
プロデューサー:菅英久(東宝)、青木民男(毎日放送)
脚本:椋露地桂子
音楽:眞鍋理一郎
監督:長野卓
制作:東宝、毎日放送
主題歌:茶木みやこ「あざみの如く棘あれば」

キャスト
金田一:古谷一行
鳳千代子:草笛光子
飛鳥忠熙:木村功
笛小路篤子:乙羽信子
笛小路美沙:村地弘美
桜井熙子:皆川妙子
桜井鉄雄:若尾義昭
村上多岐:露原千草
村上一彦:津野哲郎
笛小路泰久:久保明
槇恭吾:小笠原弘
津村真二:佐原健二
マネージャー古田:柳生博
的場英明:内田稔
田代信吉:三ッ木清隆
看護婦ミチ:大田黒久美
日比野捜査主任:田中幸四郎
刑事:柿沼大介
日和警部:長門勇


http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/531.html#c1

[近代史3] 日本の右翼のバイブル _ モルデカイ・モーゼ 日本人に謝りたい 中川隆
42. 中川隆[-9040] koaQ7Jey 2019年7月16日 16:16:26 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[3655]

777 返信先:以前の投稿

当時の日本軍の資料で南京の人口が虐殺前後で80万人減ったのがわかっているから、松井大将も当然虐殺数は把握してたよ

 1938年2月19日と同28日に日本軍華中派遣憲兵隊の大木繁司令官が関東軍司令部に報告した2件の「南京憲兵管轄区内の治安回復状況に関する報告」。報告の「事変前後の人口対比」によると、「事変前」に南京の人口(下関を含まず)は100万人で、2月28日までに33万5000人が帰還し(戻り)、下関の人口は13万人で、後に1万人が帰還した。

南京大虐殺前後の2カ月半で南京地区の人口は113万人から34万5000人へと78万5000人減少していた。

大本営や昭和天皇も南京の人口動態の資料は読んでいたから虐殺数は知っていた。
http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/494.html#c42

[近代史3] 秋篠宮文仁  僕の父親は一体誰なんでしょう? 皆さんも一緒に探してください 中川隆
78. 中川隆[-9039] koaQ7Jey 2019年7月16日 16:20:43 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[3656]

2019.07.16
秋篠宮殿下に「動物虐待」の過去! 娘を殴り、ペットを虐待死に追いやる“残虐性”
https://rondan.net/28270

娘だけでなく、ペットも虐待の秋篠宮殿下


フジテレビは、改元前の4月30日に、『FNN報道スペシャル 平成の“大晦日” 令和につなぐテレビ〜知られざる皇室10の物語』という番組を放送しました。

実は、なんとこの番組では、秋篠宮殿下が過去に「自身の飼われていたモルモットを真冬池に投げ込んで溺れて死なせた」という動物虐待のエピソードも紹介されていたようです。

「陛下のお池ドボン伝説」 無言でぶん投げられた秋篠宮殿下。 天皇陛下も棚に閉じこめられたらしいね。 上皇陛下の銀ブラ事件と並ぶ好きなスパルタエピソード、逸話。


娘は殴る。ペットは、池に投げ込んで死なせる……うーん、なんというかちょっとトンデモナイ人物であるように思えてきますね。


関連記事
佳子さまDVを受け続けた幼少期! 秋篠宮殿下の狂暴性に怯え“歪む”
2019年7月10日
https://rondan.net/27105


モルモットは泳ぎが上手だから、冷水に投げ込んでも平気かな?

このエピソードは秋篠宮殿下が小学校低学年だったことのことだったようです。

当時、秋篠宮殿下はペットとしてモルモットを飼っていたのですが、どこからか、「モルモットは泳ぎが得意だ」という話を聞きつけて、好奇心を抱き東宮御所の池にモルモットを投げ入れます。



 

たしかに、モルモットは泳ぎが得意らしいのですが、この日はなんと真冬の極寒。真冬の時期のとんでもなく冷え切った冷水に投げ込まれたモルモットは当然ながら溺れ死んでしまいます。

無知な子供時代のエピソードとはいえ、あまり気分の良くなる内容ではありませんね。ただ、このエピソードで最後にスカッとするのは、モルモットを溺れ死なせた秋篠宮殿下に怒った上皇后陛下が殿下を池に投げ入れたことです。

しかし、この出来事によって秋篠宮殿下が動物の命の大切さを知るといったことは特になく、その後も動物の剥製などを収集するなど、残虐な趣味は大人になっても継続します。

また、Twitterなどでは、モルモットを死ぬまで池に放置し続けた秋篠宮殿下の残虐性を批判する声も上がっているようです。

このエピ、再現ドラマなんかやってたんですね〜。ただ単に「モルモット泳げるのかな?」の好奇心だけならおぼれてるようならすぐ助けたはず。死ぬまで放置なんて(しかも冬だったんですか?)やっぱり異常。


ペットも殺す秋篠宮殿下と動物愛護の愛子さま

このように、ペットを殺すことも厭わない秋篠宮殿下ですが、ナマズの研究を熱心に行ったり、過去のオランダ訪問では、予定になかったにも関わらず『動物園に行きたい』などと言い出したことから、動物好きであることは間違いないでしょう。

ただし、その動物への愛のカタチは愛子さまなどとは対照的です。

以前も紹介しましたが、愛子さまが飼われている動物はなんと全て保護させた犬や猫を引き取っているのです。

また、全ての動物たちの命を大切にしたいと強く願い、学習院初等科の卒業文集では、「一匹も動物が殺処分されない世界に」という願いを込めた大変感動的な内容の作文を書かれています。


秋篠宮殿下と愛子さまの異なる動物愛

先に紹介したエピソードでは、秋篠宮殿下は「モルモットは本当に泳げるのだろうか?」という好奇心から、池に投げ入れたと説明されています。秋篠宮殿下は動物の研究者として優秀らしいですが、基本的に殿下の動物愛は好奇心がもとになっています。

故に、動物は研究や収集の対象であり、愛子さまのように、全ての動物たちの命を大切にしたいという自愛の心とはかけ離れた性質のものです。

このような、愛の性質の違いが、モルモットを極寒の池に投げ込んだり、剥製を収集したりといったふとしたところに表れてくるのかもしれません。
https://rondan.net/28270
http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/109.html#c78

[近代史3] 天皇家では何時から知恵遅れや発達障害の子供しか生まれなくなったのか? 中川隆
163. 中川隆[-9038] koaQ7Jey 2019年7月16日 16:22:06 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[3657]
2019.07.16
秋篠宮殿下に「動物虐待」の過去! 娘を殴り、ペットを虐待死に追いやる“残虐性”
https://rondan.net/28270
娘だけでなく、ペットも虐待の秋篠宮殿下


フジテレビは、改元前の4月30日に、『FNN報道スペシャル 平成の“大晦日” 令和につなぐテレビ〜知られざる皇室10の物語』という番組を放送しました。

実は、なんとこの番組では、秋篠宮殿下が過去に「自身の飼われていたモルモットを真冬池に投げ込んで溺れて死なせた」という動物虐待のエピソードも紹介されていたようです。

「陛下のお池ドボン伝説」 無言でぶん投げられた秋篠宮殿下。 天皇陛下も棚に閉じこめられたらしいね。 上皇陛下の銀ブラ事件と並ぶ好きなスパルタエピソード、逸話。


娘は殴る。ペットは、池に投げ込んで死なせる……うーん、なんというかちょっとトンデモナイ人物であるように思えてきますね。


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2019年7月10日
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モルモットは泳ぎが上手だから、冷水に投げ込んでも平気かな?

このエピソードは秋篠宮殿下が小学校低学年だったことのことだったようです。

当時、秋篠宮殿下はペットとしてモルモットを飼っていたのですが、どこからか、「モルモットは泳ぎが得意だ」という話を聞きつけて、好奇心を抱き東宮御所の池にモルモットを投げ入れます。

 

たしかに、モルモットは泳ぎが得意らしいのですが、この日はなんと真冬の極寒。真冬の時期のとんでもなく冷え切った冷水に投げ込まれたモルモットは当然ながら溺れ死んでしまいます。


無知な子供時代のエピソードとはいえ、あまり気分の良くなる内容ではありませんね。ただ、このエピソードで最後にスカッとするのは、モルモットを溺れ死なせた秋篠宮殿下に怒った上皇后陛下が殿下を池に投げ入れたことです。


しかし、この出来事によって秋篠宮殿下が動物の命の大切さを知るといったことは特になく、その後も動物の剥製などを収集するなど、残虐な趣味は大人になっても継続します。

また、Twitterなどでは、モルモットを死ぬまで池に放置し続けた秋篠宮殿下の残虐性を批判する声も上がっているようです。

このエピ、再現ドラマなんかやってたんですね〜。ただ単に「モルモット泳げるのかな?」の好奇心だけならおぼれてるようならすぐ助けたはず。死ぬまで放置なんて(しかも冬だったんですか?)やっぱり異常。


ペットも殺す秋篠宮殿下と動物愛護の愛子さま

このように、ペットを殺すことも厭わない秋篠宮殿下ですが、ナマズの研究を熱心に行ったり、過去のオランダ訪問では、予定になかったにも関わらず『動物園に行きたい』などと言い出したことから、動物好きであることは間違いないでしょう。

ただし、その動物への愛のカタチは愛子さまなどとは対照的です。

以前も紹介しましたが、愛子さまが飼われている動物はなんと全て保護させた犬や猫を引き取っているのです。

また、全ての動物たちの命を大切にしたいと強く願い、学習院初等科の卒業文集では、「一匹も動物が殺処分されない世界に」という願いを込めた大変感動的な内容の作文を書かれています。

秋篠宮殿下と愛子さまの異なる動物愛

先に紹介したエピソードでは、秋篠宮殿下は「モルモットは本当に泳げるのだろうか?」という好奇心から、池に投げ入れたと説明されています。秋篠宮殿下は動物の研究者として優秀らしいですが、基本的に殿下の動物愛は好奇心がもとになっています。

故に、動物は研究や収集の対象であり、愛子さまのように、全ての動物たちの命を大切にしたいという自愛の心とはかけ離れた性質のものです。

このような、愛の性質の違いが、モルモットを極寒の池に投げ込んだり、剥製を収集したりといったふとしたところに表れてくるのかもしれません。
https://rondan.net/28270

http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/110.html#c163

[近代史3] 呪われたスキー場 _ 妙高 新井スキー場(ロッテアライリゾート) 中川隆
94. 中川隆[-9037] koaQ7Jey 2019年7月16日 16:29:57 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[3658]

ゲレンデレポートD 〜ロッテアライリゾート〜 2018-02-09
https://ameblo.jp/glacier-ski/entry-12351560878.html

どうもこんばんは、今日平昌五輪の男子モーグル予選をテレビで観ましたが、予選1位通過のキングズベリー(カナダ)の滑りが凄すぎて惚れました。
昨日は、今シーズン一番楽しみにしていた、ロッテアライリゾートに行って来ました!


高速道路は、須坂長野東I.C.〜中郷I.C.という、日帰りでスキーに行くにしては結構長い区間を利用しました。片道1480円もしました。高速道路を下りてからは、平坦な道を少し走っただけで到着しました。自宅から70kmくらい離れていましたが、高速道路の区間が長かったので、約1時間で到達しました。


北陸の大雪の感じから、新井も大雪かと思われましたが、着いてビックリ。見事に晴れていました。最高の1日になりそうな予感がしました。

【2/8(木) 天気: 晴 積雪: 493cm(←恐らく全国No.1)】


《プロフィール》

ロッテアライリゾートは、新潟県妙高市にあるスキー場で、ホテルロッテ(韓国の大手ホテルチェーン)の子会社が運営しています。圧倒的積雪量と、広大なアバランチコントロール(雪崩管理)エリアが売りのスキー場です。このスキー場の栄枯盛衰を簡単に調べて要約してみました。


1993年 オープン(スキー場としてはかなり新しい)

繁栄

2006年 倒産

2017年 復活


昔から気になっていたスキー場でしたが、結局行かないまま倒産したので、もう諦めていました。しかし、復活してくれて、うれしく思います。ロッテさん、買い取ってくれてありがとう。


とりあえず、ゲレンデマップと照らし合わせながら、ゲレンデレポートをご覧下さい。


《ゲレンデマップ》

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まずはゴンドラに乗り、一番上の膳棚第1リフトを何本か回しました。圧雪のビーフリー・アンコールコースは、適度な斜度で普通に飛ばしやすい斜面でした。新潟で標高も大して高くないので雪質は全く期待していませんでしたが、滑ってみてビックリ。新雪のおかげで柔らかく、全く問題ナシでした。残念ながら日本海までは見えませんでしたが、景色は最高でした。


{4652AEDC-C658-43B8-BF20-CC87AAEEE793}

その後、すぐにマップ右上のツリーランエリア(ハッピープレイス・ベンザク沢)へ突入。これら2エリアは斜度が大したことないので、上級者でなくても気軽にツリーランを楽しめます。雪は思っていたより軽く、膝パウ・腰パウを堪能しました。


次に、超広大なアバランチコントロールエリアである船石沢へ突入しました。


{0E62C025-EC5B-4538-ACD6-56CC8DBF1A71}

沢なので、中央部に落ち込む地形をしています。距離・斜度ともにかなりのもので、メチャクチャ疲れました。

次に、船石沢を滑った流れで、その下にあるレジェンダリーコースを滑りました。


{21179251-537B-422C-955B-1904ED3DF6B8}

非圧雪で距離がかなり長く、メチャクチャ疲れました。ノンストップで完走するのはまず無理だと思います。もう十分というくらい、パウダーを頂きました。

その後はどこを滑ったかよく覚えていませんが、色々滑って下山し、一番下のフードコートで昼飯を食べました。値段は想像通り高く、最低1000円といった感じでした。メニューを見る限り、高いもので3000円超えの品もありました。僕は1400円のチャーシュー麺を頼みました。値段は高かったですが、量・味ともに満足でした。


午後も色々滑りました。

こちらは、マップ左中央のマムシエリア。


{61D161C3-9270-4711-9F68-8188F015BEA1}

かなり広大で、どこを滑ろうか迷ってしまいます。

こちらは、マップ左下のディスカバリーコース。


{268D20E6-A006-4DA6-B840-12FF3B6ACFEE}

こちらはアバランチコントロールエリアではなく、普通のコースです。このスキー場は頭がオカシイのか、こんな所にもコースを造ってしまったようです。

一番下にあるアバランチコントロールエリアで、グラシェールの部長を彷彿とさせるKGエリアも普通に楽しかったです。


マップ左上の4つのアバランチコントロールエリアは、上から全部滑る場合にはハイクアップが必要なので、ハイクアップをしないで滑れる範囲だけで楽しみました。いつかここにもリフトを造ってほしいなぁ〜。


午後は、日当たりのいい箇所の新雪が若干固くなりましたが、全体的にパウダーは温存されており、絶好のパウダーデイとなりました。沢山転び、雪まみれになりました。


アバランチコントロールエリアばかりが目立つアライですが、圧雪のロングコースもあります。

山頂からベアーズバレー→妙高ロングランと滑れば、かなりのロングクルージングを楽しめます。

コースのイメージとしては、よくある林間コースと奥志賀のダウンヒルと野沢のスカイラインを足して3で割った感じですかね(意味不明でごめんなさい)


あと、妙高ロングラン下部は、基礎スキーヤーの練習にも使えそうないい斜面でした。


{EA4D18CF-78B2-449B-A4D2-517BF34AEAB6}

圧雪技術も特に問題ありません。空いていたので、午後になってもこんなにピステン跡が残っています。

リフトは16:30まででしたが、アバランチコントロールエリアを攻めまくって体力が限界に達し、15:30で帰宅しました。大満足の1日でした。


最後に、アライの良い点と悪い点をまとめます。

《良い点》


@積雪量がかなり多い

今シーズンは2月上旬時点で約5mの積雪がありますが、今シーズンだけ特別多いというわけではなく、アライにしては普通です。しかも、積雪観測地点は山頂ではなく、山の中腹です。確か、アライの晩年(05〜06シーズン)には、積雪は6〜7mあったと記憶しています。月山などの特殊なスキー場を除けば、積雪量は文句なしの日本一でしょう。

ベースエリアでさえ、この雪の量です。

{E390A776-B266-442E-B4FC-A93F75CA74C4}


{1D23E702-56A7-4E5E-A194-E290D6AA2F2D}


ベースで3m近い積雪を誇ります。雪不足とは無縁ですね。

降雪が多いので、バックカントリーもはかどることでしょう。


A圧倒的広範囲を誇るアバランチコントロールエリア
ゲレンデマップをご覧下さい。
マップの紫色のエリアは、全てパトロールによってアバランチコントロール(雪崩管理)が施されており、安全にバックカントリーを楽しむことが出来ます。勿論ビーコンなどの特殊な装備は不要ですし、スキー場に入山届などを提出する必要もありません。外国人は大喜びですね。近年ツリーランエリアを開放するスキー場が増えていますが、アライの右に出るスキー場はないでしょう。

アライでバックカントリーをしていると、他のスキー場で普通のコースを滑っている自分が、いかに制限された環境で滑っているのかということがよく分かります。山本来の魅力は、バックカントリーをしてみて初めて分かるものです。


B高級複合リゾート

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ホテルは外資というだけあって、かなり高級なようです。プリンスや東急とはレベルが違います。温泉、スパ、プール、ジップライン、ボルダリングなど、何でもあります。スキー以外でもかなり楽しめそうです。


C抜群の輸送力

高速リフトのみで全エリア楽しめます。

膳棚第1リフトと小毛無第1リフトがフード付きの4人乗り、山麓第2リフトが足置き付きの高速ペアで、設備は文句なしです。(山麓第1リフトはのろいペアですが、使う必要はありません。)


ゴンドラ・リフトとも今シーズンリニューアルしただけあって、全て新品でした。

ゴンドラステーションが何かカッコよかったので、思わず写真を撮ってしまいました。

{5F20DF00-FAC8-48E6-9123-9615CB55038A}


D設備の充実度が素晴らしい

今シーズンリニューアルオープンしたので、全ての建物が新しくてキレイ。トイレは高級感があり、更衣室も完備。フードコートやショップも充実。流石、高級リゾートホテルです。


E従業員のおもてなしが良い

駐車場案内も丁寧にしてくれたし、帰りに駐車場を出るときは、お辞儀して挨拶してくれました。日帰り客なのに、ここまでしてもらえるとは思いませんでした。他のスキー場では、まず見ない光景です。


《悪い点》

@リフト券が高すぎる

ゲレ食の高さは想像の範囲内でしたが、リフト券の高さには驚きました。1日券がなんと6000円もします( ゚д゚)早割で買った僕でさえ5200円も払いました。この1日券の評判がかなり悪かったらしく、慌てて地元割引券などの発売を開始していました。どうやらアライは、富裕層の宿泊客をターゲットにしているようで、日帰り客は相手にしていないようです。それにしても、ゲレンデ規模や設備から考えると、4500〜5000円が妥当だと思います。ちなみに、駐車場は奇跡的に無料だったので、そこは評価したいと思います。

そういえば、アライにはファーストクラスリフト券なるものが存在し、通常のリフト券(エコノミーリフト券)に数千円課金すると、専用ゲートからリフトに優先乗車出来る権利を獲得出来ます。ディズニーのファストパスみたいなものですね。流石、高級リゾートらしい戦略です。しかし、この空き具合のままでは、全く出番が無さそうですねw


A普段の雪質が果たしていかがなものか

アライの標高は、329〜1280mと、低めの部類に入ります。(標高差は一流ですが…)

329mなんて、僕の実家より標高低いです。また、妙高市の平均気温は僕の実家がある長野市よりも高いです。笑っちゃいます。しかも、日本海に近いです。つまり、雪が大量に降るだけで暖かい=湿雪が大量に降る と考えられます。この日は、それまでの強烈寒波のおかげで連日気温が低く、たまたま雪質が良かっただけなのかもしれません。


B初心者コースが平らすぎる

林道や山麓の初心者ゲレンデには、スケーティングをしないと止まってしまうような平らな部分がありました。


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山麓の初心者ゲレンデです。平らすぎて、いくら初心者と言っても練習になりません。もっと大量に降雪があった場合、一体どうなってしまうのでしょうか。横のペアリフトに乗っている人はほぼいませんでした。

Cゴンドラが野沢温泉の長坂ゴンドラと同じタイプ

これは完全に僕の個人的意見ですが、野沢温泉の長坂ゴンドラタイプのものは嫌いです。具体的には、イスがなくパイプ状のものに半ケツスタイルで座る点、板収納スペースが無く中に持ち込まなくてはならない点です。どうせリニューアルするるなら、普通のゴンドラにしてほしかったです。


D広報が下手糞すぎる

このスキー場が今シーズンに復活したことを、果たしてどれくらいの人が知っているのでしょうか。常日頃から全国のゲレンデにアンテナを張っている僕でさえ、ネットでたまたま知ったレベルです。せっかく北陸新幹線が開通して上越妙高駅からシャトルバスが出ているのに、JRの広告で見たことがありません。これでは、新幹線効果を無駄にしています。また、ウェザーニュースのスキー・スノボチャンネルにも加盟していません。勿論、TVCMも見たことがありません。広報が下手なせいで、口コミによると休日もゲレンデはガラガラらしいです。この日は、少しの日本人と少しの外国人しかいませんでした。空いているゲレンデは僕としてはありがたいですが、来シーズンも行きたいので、倒産してもらっては困ります。これだけの高級リゾートホテル、規模、積雪量、アバランチコントロールエリアを誇るなら、必ず外国人を呼び込めるはずです。微力ながら、このグラシェール日記で宣伝してやりますよ、アライさん!


口コミを見ていると、営業し始めたばかりでまだ色々と課題があるらしく、辛辣な評価も見受けられます。ただ、僕は口コミほど酷いとは思いませんでしたし、むしろこの日が楽しすぎて来シーズンも行くことを既に決めています。出来たらホテルにも泊まってみたいです。さあ、皆さんもバブリーなひと時をアライで過ごしてみてはいかがでしょうか。まあ、基礎スキーヤーがわざわざ行くようなスキー場ではないですが…
https://ameblo.jp/glacier-ski/entry-12351560878.html
http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/190.html#c94

[リバイバル3] ロッテアライリゾート 中川隆
25. 中川隆[-9036] koaQ7Jey 2019年7月16日 16:30:23 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[3659]

ゲレンデレポートD 〜ロッテアライリゾート〜 2018-02-09
https://ameblo.jp/glacier-ski/entry-12351560878.html

どうもこんばんは、今日平昌五輪の男子モーグル予選をテレビで観ましたが、予選1位通過のキングズベリー(カナダ)の滑りが凄すぎて惚れました。
昨日は、今シーズン一番楽しみにしていた、ロッテアライリゾートに行って来ました!


高速道路は、須坂長野東I.C.〜中郷I.C.という、日帰りでスキーに行くにしては結構長い区間を利用しました。片道1480円もしました。高速道路を下りてからは、平坦な道を少し走っただけで到着しました。自宅から70kmくらい離れていましたが、高速道路の区間が長かったので、約1時間で到達しました。


北陸の大雪の感じから、新井も大雪かと思われましたが、着いてビックリ。見事に晴れていました。最高の1日になりそうな予感がしました。

【2/8(木) 天気: 晴 積雪: 493cm(←恐らく全国No.1)】


《プロフィール》

ロッテアライリゾートは、新潟県妙高市にあるスキー場で、ホテルロッテ(韓国の大手ホテルチェーン)の子会社が運営しています。圧倒的積雪量と、広大なアバランチコントロール(雪崩管理)エリアが売りのスキー場です。このスキー場の栄枯盛衰を簡単に調べて要約してみました。


1993年 オープン(スキー場としてはかなり新しい)

繁栄

2006年 倒産

2017年 復活


昔から気になっていたスキー場でしたが、結局行かないまま倒産したので、もう諦めていました。しかし、復活してくれて、うれしく思います。ロッテさん、買い取ってくれてありがとう。


とりあえず、ゲレンデマップと照らし合わせながら、ゲレンデレポートをご覧下さい。


《ゲレンデマップ》

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まずはゴンドラに乗り、一番上の膳棚第1リフトを何本か回しました。圧雪のビーフリー・アンコールコースは、適度な斜度で普通に飛ばしやすい斜面でした。新潟で標高も大して高くないので雪質は全く期待していませんでしたが、滑ってみてビックリ。新雪のおかげで柔らかく、全く問題ナシでした。残念ながら日本海までは見えませんでしたが、景色は最高でした。


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その後、すぐにマップ右上のツリーランエリア(ハッピープレイス・ベンザク沢)へ突入。これら2エリアは斜度が大したことないので、上級者でなくても気軽にツリーランを楽しめます。雪は思っていたより軽く、膝パウ・腰パウを堪能しました。


次に、超広大なアバランチコントロールエリアである船石沢へ突入しました。


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沢なので、中央部に落ち込む地形をしています。距離・斜度ともにかなりのもので、メチャクチャ疲れました。

次に、船石沢を滑った流れで、その下にあるレジェンダリーコースを滑りました。


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非圧雪で距離がかなり長く、メチャクチャ疲れました。ノンストップで完走するのはまず無理だと思います。もう十分というくらい、パウダーを頂きました。

その後はどこを滑ったかよく覚えていませんが、色々滑って下山し、一番下のフードコートで昼飯を食べました。値段は想像通り高く、最低1000円といった感じでした。メニューを見る限り、高いもので3000円超えの品もありました。僕は1400円のチャーシュー麺を頼みました。値段は高かったですが、量・味ともに満足でした。


午後も色々滑りました。

こちらは、マップ左中央のマムシエリア。


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かなり広大で、どこを滑ろうか迷ってしまいます。

こちらは、マップ左下のディスカバリーコース。


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こちらはアバランチコントロールエリアではなく、普通のコースです。このスキー場は頭がオカシイのか、こんな所にもコースを造ってしまったようです。

一番下にあるアバランチコントロールエリアで、グラシェールの部長を彷彿とさせるKGエリアも普通に楽しかったです。


マップ左上の4つのアバランチコントロールエリアは、上から全部滑る場合にはハイクアップが必要なので、ハイクアップをしないで滑れる範囲だけで楽しみました。いつかここにもリフトを造ってほしいなぁ〜。


午後は、日当たりのいい箇所の新雪が若干固くなりましたが、全体的にパウダーは温存されており、絶好のパウダーデイとなりました。沢山転び、雪まみれになりました。


アバランチコントロールエリアばかりが目立つアライですが、圧雪のロングコースもあります。

山頂からベアーズバレー→妙高ロングランと滑れば、かなりのロングクルージングを楽しめます。

コースのイメージとしては、よくある林間コースと奥志賀のダウンヒルと野沢のスカイラインを足して3で割った感じですかね(意味不明でごめんなさい)


あと、妙高ロングラン下部は、基礎スキーヤーの練習にも使えそうないい斜面でした。


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圧雪技術も特に問題ありません。空いていたので、午後になってもこんなにピステン跡が残っています。

リフトは16:30まででしたが、アバランチコントロールエリアを攻めまくって体力が限界に達し、15:30で帰宅しました。大満足の1日でした。


最後に、アライの良い点と悪い点をまとめます。

《良い点》


@積雪量がかなり多い

今シーズンは2月上旬時点で約5mの積雪がありますが、今シーズンだけ特別多いというわけではなく、アライにしては普通です。しかも、積雪観測地点は山頂ではなく、山の中腹です。確か、アライの晩年(05〜06シーズン)には、積雪は6〜7mあったと記憶しています。月山などの特殊なスキー場を除けば、積雪量は文句なしの日本一でしょう。

ベースエリアでさえ、この雪の量です。

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ベースで3m近い積雪を誇ります。雪不足とは無縁ですね。

降雪が多いので、バックカントリーもはかどることでしょう。


A圧倒的広範囲を誇るアバランチコントロールエリア
ゲレンデマップをご覧下さい。
マップの紫色のエリアは、全てパトロールによってアバランチコントロール(雪崩管理)が施されており、安全にバックカントリーを楽しむことが出来ます。勿論ビーコンなどの特殊な装備は不要ですし、スキー場に入山届などを提出する必要もありません。外国人は大喜びですね。近年ツリーランエリアを開放するスキー場が増えていますが、アライの右に出るスキー場はないでしょう。

アライでバックカントリーをしていると、他のスキー場で普通のコースを滑っている自分が、いかに制限された環境で滑っているのかということがよく分かります。山本来の魅力は、バックカントリーをしてみて初めて分かるものです。


B高級複合リゾート

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ホテルは外資というだけあって、かなり高級なようです。プリンスや東急とはレベルが違います。温泉、スパ、プール、ジップライン、ボルダリングなど、何でもあります。スキー以外でもかなり楽しめそうです。


C抜群の輸送力

高速リフトのみで全エリア楽しめます。

膳棚第1リフトと小毛無第1リフトがフード付きの4人乗り、山麓第2リフトが足置き付きの高速ペアで、設備は文句なしです。(山麓第1リフトはのろいペアですが、使う必要はありません。)


ゴンドラ・リフトとも今シーズンリニューアルしただけあって、全て新品でした。

ゴンドラステーションが何かカッコよかったので、思わず写真を撮ってしまいました。

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D設備の充実度が素晴らしい

今シーズンリニューアルオープンしたので、全ての建物が新しくてキレイ。トイレは高級感があり、更衣室も完備。フードコートやショップも充実。流石、高級リゾートホテルです。


E従業員のおもてなしが良い

駐車場案内も丁寧にしてくれたし、帰りに駐車場を出るときは、お辞儀して挨拶してくれました。日帰り客なのに、ここまでしてもらえるとは思いませんでした。他のスキー場では、まず見ない光景です。


《悪い点》

@リフト券が高すぎる

ゲレ食の高さは想像の範囲内でしたが、リフト券の高さには驚きました。1日券がなんと6000円もします( ゚д゚)早割で買った僕でさえ5200円も払いました。この1日券の評判がかなり悪かったらしく、慌てて地元割引券などの発売を開始していました。どうやらアライは、富裕層の宿泊客をターゲットにしているようで、日帰り客は相手にしていないようです。それにしても、ゲレンデ規模や設備から考えると、4500〜5000円が妥当だと思います。ちなみに、駐車場は奇跡的に無料だったので、そこは評価したいと思います。

そういえば、アライにはファーストクラスリフト券なるものが存在し、通常のリフト券(エコノミーリフト券)に数千円課金すると、専用ゲートからリフトに優先乗車出来る権利を獲得出来ます。ディズニーのファストパスみたいなものですね。流石、高級リゾートらしい戦略です。しかし、この空き具合のままでは、全く出番が無さそうですねw


A普段の雪質が果たしていかがなものか

アライの標高は、329〜1280mと、低めの部類に入ります。(標高差は一流ですが…)

329mなんて、僕の実家より標高低いです。また、妙高市の平均気温は僕の実家がある長野市よりも高いです。笑っちゃいます。しかも、日本海に近いです。つまり、雪が大量に降るだけで暖かい=湿雪が大量に降る と考えられます。この日は、それまでの強烈寒波のおかげで連日気温が低く、たまたま雪質が良かっただけなのかもしれません。


B初心者コースが平らすぎる

林道や山麓の初心者ゲレンデには、スケーティングをしないと止まってしまうような平らな部分がありました。


{6FE270D8-B222-4087-8CF7-2BAEA2D71C48}

山麓の初心者ゲレンデです。平らすぎて、いくら初心者と言っても練習になりません。もっと大量に降雪があった場合、一体どうなってしまうのでしょうか。横のペアリフトに乗っている人はほぼいませんでした。

Cゴンドラが野沢温泉の長坂ゴンドラと同じタイプ

これは完全に僕の個人的意見ですが、野沢温泉の長坂ゴンドラタイプのものは嫌いです。具体的には、イスがなくパイプ状のものに半ケツスタイルで座る点、板収納スペースが無く中に持ち込まなくてはならない点です。どうせリニューアルするるなら、普通のゴンドラにしてほしかったです。


D広報が下手糞すぎる

このスキー場が今シーズンに復活したことを、果たしてどれくらいの人が知っているのでしょうか。常日頃から全国のゲレンデにアンテナを張っている僕でさえ、ネットでたまたま知ったレベルです。せっかく北陸新幹線が開通して上越妙高駅からシャトルバスが出ているのに、JRの広告で見たことがありません。これでは、新幹線効果を無駄にしています。また、ウェザーニュースのスキー・スノボチャンネルにも加盟していません。勿論、TVCMも見たことがありません。広報が下手なせいで、口コミによると休日もゲレンデはガラガラらしいです。この日は、少しの日本人と少しの外国人しかいませんでした。空いているゲレンデは僕としてはありがたいですが、来シーズンも行きたいので、倒産してもらっては困ります。これだけの高級リゾートホテル、規模、積雪量、アバランチコントロールエリアを誇るなら、必ず外国人を呼び込めるはずです。微力ながら、このグラシェール日記で宣伝してやりますよ、アライさん!


口コミを見ていると、営業し始めたばかりでまだ色々と課題があるらしく、辛辣な評価も見受けられます。ただ、僕は口コミほど酷いとは思いませんでしたし、むしろこの日が楽しすぎて来シーズンも行くことを既に決めています。出来たらホテルにも泊まってみたいです。さあ、皆さんもバブリーなひと時をアライで過ごしてみてはいかがでしょうか。まあ、基礎スキーヤーがわざわざ行くようなスキー場ではないですが…
https://ameblo.jp/glacier-ski/entry-12351560878.html
http://www.asyura2.com/09/revival3/msg/935.html#c25

[近代史02] 幻の柴田罫線 中川隆
47. 中川隆[-9035] koaQ7Jey 2019年7月16日 17:54:11 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[3660]
どうせ誰も理解できないんだから秘密にする必要はないんだけど

生きてる内に公表しないとキ印と思われるだけだよ
http://www.asyura2.com/09/reki02/msg/429.html#c47

[近代史02] 幻の柴田罫線 中川隆
48. 中川隆[-9034] koaQ7Jey 2019年7月16日 18:56:25 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[3661]

柴田罫線派はトレンドラインの引き方ひとつ取っても、もう時代錯誤なんですね。


天底と転換罫線型網羅大辞典に書かれた大昔のトレンドラインの引き方と


「勝者」のCHART 松本鉄郎 (著)
シュリッカー式を改良・発展させた松本鉄郎式トレンドラインの引き方
http://www.amazon.co.jp/%E3%80%8C%E5%8B%9D%E8%80%85%E3%80%8D%E3%81%AECHART-%E6%9D%BE%E6%9C%AC%E9%89%84%E9%83%8E/dp/4931562329/ref=pd_sim_b_1?ie=UTF8&refRID=1S15GVTPEH3STY0Z4XCV

を比べれば、どれ位レベルが違うか良くわかります。
http://www.asyura2.com/09/reki02/msg/429.html#c48

[近代史02] 幻の柴田罫線 中川隆
49. 中川隆[-9033] koaQ7Jey 2019年7月16日 19:20:09 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[3662]
相場のサイクル 日柄と言う難題 手稿2題
https://orange2.net/b_variety4/shibata2/period4.php


(1) 負債の返済と執念
(2) 未完の手法

負債の返済と執念


柴田の言う科学的とは統計的と言う意味であると思えますし、機械式と言うものは裁量を排したと言うような意味と思えますが、私が「柴田秋豊」に興味を持ったのは、この「裁量を完全に排除したロジックを見つける」と言う執念の部分でした。

もちろん統計を用いて後に膨大な資料を検証して導いたと言っても、現在のわれわれが手に入れてパソコンで分析できる資料から見ればわずかなものであり、またそれは現在のようなグローバルな視点で見れば非常に意味偏った資料と言えますが、その偏った資料をすべてであるかのように信じていたと言う点も含めて、合理性を強く意識しながら多くの矛盾と非合理を秘めると言う、如何にも日本人の罫線家らしい姿勢と、如何にも人間臭さを感じたのです。

柴田の大いなるスランプの原因となった震災による「大損失の経験」は、その後に罫線の大権威を目指した柴田にとっては多くの他の相場師たちと同様に、本物の相場師になるためには避けては通れぬ通過儀礼でした。

柴田がこの時の巨額の負債を返済し終えたのは、昭和7年、31歳の時であったと言います。

この間、土木工事業、数件の料理屋の経営など、本人の弁によるとあまり人に誇れないような底辺の仕事を借金返済のためにやむなく行ったと言います。

当時の土木業などは荒くれ者や前科者などの働き口であったようで、それが業種として負い目であったと言う可能性はありますが、料理屋の方は小樽と言う土地柄を考えるとそれなりの接待をする女性などを置いていたのかも知れません。

一切の投資行動を封印して借金返済にいそしむ一方で、柴田は独自のテクニカル分析研究にはますます熱意がこもっていたようで、この負債完済後の数年間も実トレードよりは研究に集中していました。


未完の手法


この時の研究結果が形になったのは昭和9年、33歳の時でした。
この年、7年間をかけた研究の成果である「日柄観測法」が形になります。

長期のチャートを分析していると、同じようなチャートの位相が現れることが多々あります。
これは比較的短いサイクルで現れることもあれば、大きなサイクルで現れるものもあります。
上昇相場での位相、下落相場での位相、天井や底値圏での反転の位相などの共通項のようなものが見えるようになると、そうした類型の背後にある共通の事情を知りたい、研究したいと思うのが常です。

そして、突き詰めて研究してゆくとケースによってはそれが見えてくる場合もあります。

相当根気のいる作業になりますが、時間をかけて丁寧に相場や時代ごとの新聞記事を対照してゆくと「これは、こういうことだったのか!」とはたと納得できた気になることもあるものです。

その割り出した類型が面白いように目の前の相場に適用できることもありますが、わからないことや歯が立たないことも数多くあると言うのが現実です。

しかし、うまく相場予想に適合すると一つの原理を見つけた気になります。
実際にこうした研究をやったことのある人ならわかると思いますが、そのような「原理」も更に対象となるデータの範囲を広げてゆくと、いつしか適合しない例が次々に現れたり、見つけたつもりの類型例が実は自信を失うほどの希少例であったり、あるいは研究すればするほど原理と思われたものとイレギュラーな状態と思われるものが曖昧になってくるような状態で堂々巡りの迷路に迷い込んだりするものです。

しかし、個人的な経験に照らしてみると、柴田のような相場経験をもつ人物が7年間を一心に費やしたと言う、その研究に要したものの大きさを考えると、この方法は柴田の立場からは一定の法則性は示しているものと考えられますが、普遍瀬と言う意味ではその研究は果たせぬ夢であった可能性があります。

研究に要した7年間、柴田の想いが一つの方向を向き続けていたらしいことと、この研究で得られた結果が、その後の数十年の彼の人生において彼自身によっては大きく訂正されることがなかった点が重要だと思えます。
柴田の「日柄観測法」では相場の位相の類型を日柄、つまり一定の時間や期間に浮かぶ周期性に照らして、検証することで相場転換の出現サイクルの見出し方を説いています。

「日柄」とはカレンダーで定義された日々の周期性やそれに付帯した(昔の暦の)吉凶の定義のことです。
柴田は五曜、六曜などを始めとする日本古来のカレンダーを元に、相場で使われていた日柄と値動きと相場の相関性や周期の一致などに関する考えをすべて実際のデータに照らして検証してみたところ言われていたような結果は得られなかったとしています。

柴田の言う「科学的」とは、このような「客観的な過去の事例検証」のことでもあったのです。

「日柄観測法」と言う難題を自ら研究課題として選んだことは柴田罫線の陥った一つの蟻地獄の様な迷い道だったとも思えます。
https://orange2.net/b_variety4/shibata2/period4.php
http://www.asyura2.com/09/reki02/msg/429.html#c49

[近代史02] 幻の柴田罫線 中川隆
50. 中川隆[-9032] koaQ7Jey 2019年7月16日 19:49:09 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[3663]

欧米流の「日柄観測法」については


先物市場のテクニカル分析 ジョン J.マーフィー (著)
第12章 タイム・サイクル
http://www.amazon.co.jp/%E5%85%88%E7%89%A9%E5%B8%82%E5%A0%B4%E3%81%AE%E3%83%86%E3%82%AF%E3%83%8B%E3%82%AB%E3%83%AB%E5%88%86%E6%9E%90-%E3%83%8B%E3%83%A5%E3%83%BC%E3%83%95%E3%82%A1%E3%82%A4%E3%83%8A%E3%83%B3%E3%82%B7%E3%83%A3%E3%83%AB%E3%82%B7%E3%83%AA%E3%83%BC%E3%82%BA-%E3%82%B8%E3%83%A7%E3%83%B3-J-%E3%83%9E%E3%83%BC%E3%83%95%E3%82%A3%E3%83%BC/dp/4322218911/ref=sr_1_2?ie=UTF8&s=books&qid=1273295862&sr=1-2


____


フィボナッチブレイクアウト売買法 (ウィザードブックシリーズ) 2010/5/14
ロバート・C・マイナー (著), 長尾慎太郎 (監修)

第5章 従来のサイクル分析を超える手法

時間のリトレースメントと調整
代替時間予想で時間リトレースメントの範囲を絞り込む
そのほかの時間のファクター
時間の目標範囲
タイムバンド
さらなる時間の要素
http://www.amazon.co.jp/%E3%83%95%E3%82%A3%E3%83%9C%E3%83%8A%E3%83%83%E3%83%81%E3%83%96%E3%83%AC%E3%82%A4%E3%82%AF%E3%82%A2%E3%82%A6%E3%83%88%E5%A3%B2%E8%B2%B7%E6%B3%95-%E3%82%A6%E3%82%A3%E3%82%B6%E3%83%BC%E3%83%89%E3%83%96%E3%83%83%E3%82%AF%E3%82%B7%E3%83%AA%E3%83%BC%E3%82%BA-%E3%83%AD%E3%83%90%E3%83%BC%E3%83%88%E3%83%BBC%E3%83%BB%E3%83%9E%E3%82%A4%E3%83%8A%E3%83%BC/dp/4775971336/ref=cm_cr_pr_product_top


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フィボナッチトレーディング (ウィザードブックシリーズ) – 2010/2/12
キャロリン・ボロディン (著), 長尾慎太郎 (監修)

第10章 フィボナッチ比率を市場の時間軸に当てはめる
第11章 フィボナッチ比率の時間のクラスター
第12章 ダイナミックトレーダーのタイムプロジェクションレポートとヒストグラムを使う
第13章 時間と価格の重なり
http://www.amazon.co.jp/%E3%83%95%E3%82%A3%E3%83%9C%E3%83%8A%E3%83%83%E3%83%81%E3%83%88%E3%83%AC%E3%83%BC%E3%83%87%E3%82%A3%E3%83%B3%E3%82%B0-%E3%82%A6%E3%82%A3%E3%82%B6%E3%83%BC%E3%83%89%E3%83%96%E3%83%83%E3%82%AF%E3%82%B7%E3%83%AA%E3%83%BC%E3%82%BA-%E3%82%AD%E3%83%A3%E3%83%AD%E3%83%AA%E3%83%B3%E3%83%BB%E3%83%9C%E3%83%AD%E3%83%87%E3%82%A3%E3%83%B3/dp/4775971301/ref=pd_sim_14_2?ie=UTF8&refRID=07VCC8M29JRDK92R343S
http://www.asyura2.com/09/reki02/msg/429.html#c50

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