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DbsSfawrpEw コメント履歴 No: 100018
http://www.asyura2.com/acas/d/db/dbs/DbsSfawrpEw/100018.html
[] 在日朝鮮人タレント
14. 中川隆[7716] koaQ7Jey 2017年4月13日 08:59:04 : b5JdkWvGxs : DbsSfawrpEw[8206]
安部氏は東北の豪族で縄文系だよ
http://www.asyura2.com/2002/dispute2/msg/515.html#c14
[近代史02] 小沢一郎先生を襲った恐怖とは 中川隆
39. 中川隆[7716] koaQ7Jey 2017年4月13日 11:16:41 : b5JdkWvGxs : DbsSfawrpEw[8206]

2017-04-12
数年後は北朝鮮という異常国家は残っていない可能性が高い


北朝鮮は存続させる意味も価値も理由もない国家だ。金正恩(キム・ジョンウン)はアメリカから「キチガイ男」と言われているのだが、それに反論する人はもちろんいない。日本人も同意する。

バラック・オバマはアメリカの威信が傷づけられても何もしなかった無能大統領だったので、北朝鮮も核開発からサイバーテロからミサイル発射までやりたい放題やってきた。

しかし、ドナルド・トランプ大統領は、就任早々「キチガイ男」である金正恩を何とかしろと中国に強い圧力を加え、さらに「中国が協力しないのであれば、我々が中国抜きで問題を解決する」と決意を見せている。

ドナルド・トランプが北朝鮮の金正恩のように口先だけではないのは、シリアにミサイル攻撃を加えたり、世界最大の原子力空母「カール・ビンソン」を朝鮮半島周辺へ向かわせていることでも分かる。

そして、ドナルド・トランプは北朝鮮の問題に対処するために、「あらゆるオプションを検討している」と公言、場合によっては金正恩を抹殺する可能性も示唆している。

それは「金正恩・斬首プラン」と言われている。アメリカの特殊部隊であるシールズ(SEALs)も那覇に寄港させているので、冗談で言っているわけではないのは確かだ。

シールズは国家に忠誠を尽くす究極の暗殺集団だ

アメリカの軍隊で最強の戦闘力を誇っているのは海軍だ。

その海軍の中から選りすぐりの兵士を集め、さらに兵士としての能力を強化し、少数精鋭で敵地に乗り込んで暗殺・爆破・破壊を行う特殊部隊がある。

それがネイビー・シールズ、通称「シールズ(SEALs)」と呼ばれている部隊である。

この少数精鋭の特殊部隊はさらに細分化されて、失敗することが許されないミッションに就く。その中のひとつ「チーム6」と呼ばれる部隊は有名になった。

この部隊はパキスタンに潜伏していたオサマ・ビンラディンの暗殺を行った重要部隊であると言われている。

チーム6がいかに暗殺計画に関わったかという実態に関しては、キャスリン・ビグロー監督が『ゼロ・ダーク・サーティー』で描いている。

(映画『ゼロ・ダーク・サーティー』とオサマ・ビンラディン)
https://www.bllackz.net/blackasia.php/content/20160311T2256130900.html


アメリカは、暗殺対象がどこにいるのかを執拗に捜査し、探して探しても切れる細い糸を何年もたぐり寄せ、狙ったターゲットを絶対にあきらめない国家であることが、この映画でも浮き彫りになっている。

そして居場所が分かったとき、そこがどんなに難攻不落の場所であっても、闇に紛れて一気に急襲してターゲットを暗殺して証拠として死体を持ち帰るのがシールズであり、チーム6であった。

シールズは、アメリカの敵を破壊する洗練された任務遂行部隊であると言える。シールズは国家に忠誠を尽くす究極の集団であり、アメリカの誇りであり、世界で最も優秀な暗殺部隊である。

シールズは、豚のように太った金正恩を斬首する能力がある。


「まずは中国にやらせる」というトランプの戦略

この海軍の最強部隊が、沖縄の那覇を経由して韓国に入っており、金正恩暗殺の訓練を行っていると言われている。ビンラディンを暗殺したチーム6もそこにいるようだ。

トランプ政権は現在2つの地域を軍事的に重要視している。ひとつはシリア、もうひとつは北朝鮮である。

シールズが韓国入りしているということは、トランプ政権はシリアよりも北朝鮮の方をより最重要視して見ているということを意味している。

何もしないバラック・オバマであれば、「ただの脅しでシールズを韓国に派遣した」という見方も取ることもできる。

しかし、ドナルド・トランプは有言実行を是とする政治家である。そのトランプが「あらゆるオプションを検討している」と言ってシールズを送り込んだ。

「ただの脅し」ではないと見る方が自然だ。

ドナルド・トランプは脅しでやっているのではない。本気で金正恩の抹殺を狙っているように見受けられる。

もちろん状況は流動的であり、絶対にアメリカが北朝鮮を攻撃すると決まっているわけではない。もしかしたらアメリカは中国にやらせて自らは手を出さない可能性もある。

ドナルド・トランプは自分たちが手を出す前に、中国に対して「北朝鮮を何とかしろ」と圧力をかけている。2017年4月11日、トランプ大統領はツイッターで自ら習近平にこのような取引を持ちかけたことを明かしている。

「中国が北朝鮮問題を解決すれば、アメリカとより良い貿易取引ができるだろうと中国の習近平国家主席に説明した」

中国は「そんなことは聞いていない」と逃げるわけにいかなくなった。何しろ、ドナルド・トランプがツイッターで自らそのように言っているからである。


金正恩の命運はかなり短くなっているのは確かだ

ドナルド・トランプは中国がどのように出るのか様子を見ている。北朝鮮を崩壊させるのかさせないのか、まず中国の見方を見ている。

もし中国が何もしないで問題を先送りしたり、北朝鮮を擁護するのであれば、どうなるのか。

「中国が協力しないのであれば、我々が中国抜きで問題を解決する」というのだから、アメリカが北朝鮮破壊をする確率が非常に高い。

そうなったら中国はアメリカとの貿易に支障をきたすばかりか、今度は中国が次のターゲットになる可能性もある。

なぜなら北朝鮮を擁護するということは、中国はアメリカに従わなかったということであり、それによってアメリカに敵対したということだからでもある。

中国はただでさえ経済失速で苦しみ、貧困格差と、情報封鎖で人民の不満は巨大なマグマのように沸騰している。そのマグマがいつ爆発して弾き飛ぶのか分からない状況なので、今はアメリカと完全に敵対する体力がない。

そのため、中国の習近平は北朝鮮に対して何らかのアクションを見せるしかなくなっている。

こういったこともあって、北朝鮮は必ずしもアメリカが爆撃して崩壊させるとは決まっていないし、状況は中国の出方によっていくらでも変わる余地がある。

しかし、いずれにせよ金正恩の命運はかなり短くなっているのは確かである。

もう今までのように「北朝鮮が残ってくれた方がビジネス的にもいい」というような段階は過ぎ去っている。

(簡単に壊滅できる北朝鮮をアメリカが壊滅させない理由とは)
https://darkness-tiga.blogspot.jp/2016/03/20160303T1806050900.html


北朝鮮の崩壊は、いよいよ近日中に見られるかもしれない。いつ崩壊するのか、どのように崩壊するのかは別に予測する必要はまったくない。

中国が壊滅させるかもしれないし、アメリカが予定通り暗殺部隊シールズを送り込んで斬首するかもしれないし、その前に金正恩が自滅するかもしれない。

いずれにせよ、やっと北朝鮮という史上稀に見る異常国家が崩壊に向かっていることだけは確かである。数年後は北朝鮮という異常国家は残っていない可能性が高い。

素晴らしいことだ。


北朝鮮の異様な人間たち。やっと史上稀に見る異常国家の破壊を米中が検討するようになった。状況は不透明だが、数年後は北朝鮮という異常国家は残っていない可能性が高い。
https://darkness-tiga.blogspot.jp/2017/04/20170412T1808450900.html
http://www.asyura2.com/09/reki02/msg/296.html#c39

[] 「覚醒剤」
73. 中川隆[7717] koaQ7Jey 2017年4月13日 12:06:01 : b5JdkWvGxs : DbsSfawrpEw[8207]

ドラッグ依存が奇跡的に治っても幸せになれない理由とは?
https://www.bllackz.net/blackasia/content/20170413T0205290900.html

耐えられないほどの絶望、耐えられないほどの自信喪失、耐えられないほどのストレスを抱えている人がいたとする。この人はある日、それを克服する「もの」があることを見つけた。例えば、それは覚醒剤だったとする。

吹けば飛んでなくなってしまうほどの分量の白い粉をスプーンの上で水に溶かし、それを注射器で自分の身体に打つ。

そうすると、急激に身体が凍るような感覚になって、今まで感じていたはずの絶望が消え、負け犬のような気分は吹き飛んで何でもできるような自信がみなぎる。

そして、今まで重荷に感じていたストレスが、笑ってしまうほど馬鹿げたものに思えて不敵に笑えるようになる。

「覚醒剤(シャブ)を打ったら自分の身体も巨大化したように感じることもありました」

そのように言う人もいる。なぜなのか。それは今まで自分を苦しめていた絶望・自信喪失・ストレスを完全に打ち負かす精神力を手に入れて、世界を征服したような気持ちになるからだ。

覚醒剤というのは、そういう気持ちにさせる凄まじい威力を持ったドラッグなのである。逆に言えば、覚醒剤は絶望・自信喪失・ストレスに苦しんでいる人にとって、「自分を救ってくれる大切なもの」であったと言える。

依存症に堕ちるまでは……。

あなたは覚醒剤が欲しいと思わないだろうか?

快楽のためでなく、「生きにくさの回避」からドラッグに堕ちる人もいる。

覚醒剤に限らず多くのドラッグは、そういう人たちにとって最初から毒薬として目の前に現れるわけではない。毒薬どころか「自分を救ってくれる大切なもの」として登場する。

依存者はこの社会の中で「生きにくい」という気持ちでもがいている。社会は決して自分の思い通りにならない。社会は自分に苦痛を押し付けてくる。そのため、押しつぶされそうな閉塞感にあえぐしかない。

何もない状態では、心もとなく頼りない。弱い自分を支えてくれる魔法が欲しい。自分のこの「心の弱さ」を変えてくれる何かが必要だと切に思う。

そんなものは、あるわけがないと普通は考える。この深い絶望感や苦しみから救い出してくれる「魔法」などありはしないはずだ。世の中はそんな都合良くできていない。

ところが、あった。

覚醒剤は底なしの暗黒から自分を救ってくれる驚異の作用を持っている。ほんの小さな粉が、自分の鬱々とした感情のすべてを吹き飛ばして、信じられないほどの自信を与えてくれるようになるのだ。

「生きにくい」という気持ちを打ち砕き、堂々巡りの無間地獄から自分を救い出してくれる。これを魔法と言わずに何と言えばいいのか、と感激する。

そして、覚醒剤を知った者は「生きにくい」世の中を、素晴らしい魔法で乗り切るようになっていく。不安は覚醒剤で消すことができるようになり、生きにくさを解消できる。

寝ても寝ても取れない疲労感、退屈な日常、救いのない同じ日々の繰り返し、心の底にずっと沈澱しているヘドロのようなストレス。

そんなものを一気に消し去ってくれるのが覚醒剤だとしたら、それは自分の弱点を補ってくれる大切な存在であると認識しても不思議ではない。

覚醒剤は早い段階で人間の心身をボロボロにしていくが、もし依存のコントロールができるとしたら、あなたは覚醒剤が欲しいと思わないだろうか?


覚醒剤を知った者は「生きにくい」世の中を、素晴らしい魔法で乗り切るようになっていく。不安は覚醒剤で消すことができるようになり、生きにくさを解消できる。


依存症になっても依然としてメリットを感じている

覚醒剤は自分の心の中にあるネガティブでマイナスの感情を、力強く打ち消してくれるものだ。

誰もが自分の容姿や性格や生き方に何かしらの劣等感を持ち、コンプレックスを持ち、弱点を持っている。覚醒剤はこうした個人の心に潜むマイナス感情をきれいに消し去って強い心に置き換えてくれる。

意欲を呼び戻し、不安を解消し、対人関係における緊張を消してくれる。だから、ある時点まで覚醒剤は、その人の人生にメリットを与えているのである。

すべてのドラッグは、強く執拗な依存症を引き起こしてその人の人生をめちゃくちゃにするまで、その人にメリットを与えている。

アルコールもそうだ。アルコール依存に陥ると、思考能力が低下し、判断能力が低下し、生活能力も身体能力もすべて低下してしまう。

しかし、依存に堕ちるまでの間、アルコールは覚醒剤と同じでその人の絶望や自信喪失やストレスを消し去るという大切な役割をその人の人生の中で担っていたはずなのだ。

つまりアルコールの酩酊は、その人に取っては大きな意味があったのである。

アルコールは、少なくとも依存症になる前は、嫌なことを忘れさせて自分を救ってくれる「大切なもの」だった。「生きにくさ」を感じてふさぎ込んでいる自分の境遇を忘れさせてくれる魔法でもあった。

だから魔法を多用し、手放せなくなり、効果がなくなり、依存し、より悪い方向に転落してしまった。それが自分の人生に効果がなければ、最初から依存症に堕ちていなかった。

問題なのは、すべての依存症は副作用に苦しめられながらも、やはり依存症になっても依然としてメリットを感じ続けているということだ。

つまり依存症になりながらも、ドラッグによって相変わらず絶望や自信喪失やストレスを消すことができている。


誰もが自分の容姿や性格や生き方に何かしらの劣等感を持ち、コンプレックスを持ち、弱点を持っている。ドラッグはこうした個人の心に潜むマイナス感情をきれいに消し去って強い心に置き換えてくれる。


抜けられても地獄から逃れることは決してできない

それは何を意味するのか。これは、仮にドラッグ依存が奇跡的に治っても、その人は幸せになるわけではないということを示唆している。

なぜか。ドラッグが消えると魔法も消えるからだ。

その人は依存する前は、今の社会で「生きにくさ」を感じており、漠とした不安な気持ちから抜け出せなかったはずだ。それをドラッグで消していた。

それなのに、ドラッグが消えるとどうなるのか。確かに依存症は治るのだが、今度は底知れぬ深い絶望や、自信の欠如や、生きにくさからくる強いストレスが一気に襲いかかってくる。

自分の弱さを補ってくれていた「大切なもの」がなくなってしまうのだから、その不安感はドラッグを知らなかったときよりも深いものになっているはずだ。

そのとき、依存者の頭の中に巡る気持ちは「この絶望と自信喪失とストレスを消してくれる魔法を取り戻したい」というものになっていく。

「あれを取り戻せば、この救いがたい憂鬱感は消える」

自然に、そう思う。一度でも魔法が自分の身体に作用したことを知っていると、「あれがあればなぁ」と思ってしまっても不思議ではない。

「あれ」を再び手に入れないと、今の自分を覆い尽くしている苦しみは絶対に消えない。このストレスから逃れられない。やるせない気持ちが払拭できない……。

「生きる苦しみ」から逃れたいと思ってドラッグ依存に堕ちた人は、ドラッグを取り除いても、再び「生きる苦しみ」に直面するだけである。ドラッグが消えたから幸せになるわけではないのだ。

ドラッグを排除しても、生きにくさがそこにある限り、地獄から逃れることは決してできないということである。


「生きる苦しみ」から逃れたいと思ってドラッグ依存に堕ちた人は、ドラッグを取り除いても、再び「生きる苦しみ」に直面するだけである。ドラッグが消えたから幸せになるわけではないのだ
https://www.bllackz.net/blackasia/content/20170413T0205290900.html
http://www.asyura2.com/0310/dispute13/msg/126.html#c73

[近代史02] 釈迦の悟りとは何であったのか? 富山誠
19. 中川隆[7718] koaQ7Jey 2017年4月13日 12:35:58 : b5JdkWvGxs : DbsSfawrpEw[8208]

1週間ほぼ寝ず水と塩だけ 円教寺で妙覚院住職が荒行

神戸新聞NEXT 4/13(木) 8:30配信

100回目の座を行う中安剛円住職=姫路市書写


 天台宗のみで行われる密教の荒行「宇賀大弁財天修儀頓成」を、妙覚院(兵庫県姫路市書写)の中安剛円住職(56)が12日、書写山円教寺で達成した。1週間ほぼ眠らず、水と塩だけでお経を唱え続けた。「何度も眠りに落ちそうになったが、弁天様が支えてくれた」と憔悴した表情で語った。(木村信行)

【動画】荒行の苦しさを語る
https://www.kobe-np.co.jp/rentoku/movie/new/201704/0010090425.shtml


 鎌倉時代の聖典に基づく荒行。同寺によると、達成した僧侶は過去に20人ほどという。

 昨年12月19日から108日間、身を清めた中安住職は今月6日朝、円教寺の法華堂にこもった。ろうそく4本と、手元を照らす電気スタンドがあるだけの暗闇で、一座(約1時間20分のお経)を7日間で100回繰り返した。

 合間に水と塩を少しだけなめ、体を横たえるのは1日に1時間ほど。ほかの僧侶が交代で付き添った。12日未明には水を飲んだ瞬間、発作が起き、呼吸ができなくなったという。

 通常なら非公開の荒行を公開した理由について同寺は「不安が多い世の中。平和を祈る僧侶の願いを社会に伝えたかった」と話した。

■「今は、オレンジジュースが飲みたい」

 中安剛円住職は、1週間の荒行を終えた直後、インタビューに応じた。内容は以下の通り。

 荒行を決意したのは、仏様に向き合い、ただひたすらに祈りをささげる行為が自分を光り輝かせるのではと思ったから。他者を輝かせるために、まず自分がやらねばと。

 荒行前と今で何が変わったかはまだ分からない。少し穏やかになった気がする。初日が一番つらく、「あと10分寝かして」と言ってしまった。3日目以降は何も考えず、脱力して唱え続けることができた。

 何度も眠りそうになったが、弁天様が支えてくれた。自分の力だけではできなかった。

 今は、オレンジジュースが飲みたいですね。

http://www.asyura2.com/09/reki02/msg/739.html#c19

[昼休み52] 意図的な世論誘導報道で悪魔呼ばわりされているシリア アサド大統領 富山誠
19. 中川隆[7719] koaQ7Jey 2017年4月13日 16:29:26 : b5JdkWvGxs : DbsSfawrpEw[8209]

娘のイヴァンカ氏、トランプ大統領にシリア攻撃を指示、反対した「極右」バノン氏は左遷へ2017年4月12日
http://www.globalmacroresearch.org/jp/archives/6046

米国のトランプ政権はシリアにミサイル攻撃を行なった。トランプ大統領のこれまでの主張と矛盾するものだが、そうなった経緯については前の記事で説明した。
•トランプ大統領がシリアにミサイル攻撃した理由

これに反対したのがトランプ政権の首席戦略官で、米国の大手メディアに極右の危険人物と呼ばれたスティーブ・バノン氏である。

「極右」スティーブ・バノン氏

右派のウェブメディアBreitbartの元会長で、トランプ氏の選挙公約のうち、反移民や反グローバリズムの部分を主導してきたバノン氏は、トランプ氏の最も過激な部分を演出する「影の大統領」としてリベラルメディアから大いに批判され、人種差別者、国粋主義者など様々なレッテルを貼られ続けてきた。

トランプ大統領の批判者が「トランプ氏のような人物が核ミサイルのボタンを手にするなど怖ろしい」と言えば、それは要するに「バノン氏のような人物が核ミサイルのボタンを手にするなど怖ろしい」ということである。

しかし実際に起こったことはどうだろう。大統領選挙の対立候補だったヒラリー・クリントン氏はトランプ氏に先駆けてシリア攻撃を主張(CNN、原文英語)、トランプ政権内ではグローバリズム寄りの「常識人」とされる娘イヴァンカ氏と娘婿クシュナー氏の夫婦がミサイル攻撃を支持した。

一方で、政権内で他国へのミサイル攻撃に反対していたのは極右で危険人物と呼ばれたバノン氏である(読売)。他国への軍事介入反対は大統領選挙におけるトランプ氏の公約だったが、政権内でともに反対するはずのフリン氏は既に辞任させられている。

•ロシア大使との会話を巡ってフリン大統領補佐官が辞任に追い込まれる

バノン氏は娘婿クシュナー氏を「グローバリスト」と呼び、ホワイトハウス内でシリア攻撃をめぐって対立したようだが、トランプ氏が取った結論は、言うまでもなく身内のものであった。娘のイヴァンカ氏はTwitter(原文英語)でこう述べた。


昨日の怖ろしいシリアの化学攻撃の写真に、心が痛み、激情にかられています。

前回の記事で説明したように、これまでの主張を180度転換するようなシリア空爆をトランプ大統領が決断する決め手となったのは明らかにイヴァンカ氏である。

イヴァンカ・トランプ氏

トランプ大統領は娘のイヴァンカ氏を溺愛している。Twitter(原文英語)では百貨店がイヴァンカ氏のブランドの商品を取り扱わなくなったことに癇癪を起こして批判し、娘は不当に扱われていると主張した。

このツイートで彼は娘を「素晴らしい人物であり、いつも自分に正しいことをするように導いてくれる」と表現し、だから百貨店はイヴァンカ氏のブランドを採用すべきだという論理で、やや異常である。

また2006年のテレビ番組では「自分の娘でなかったとすれば、多分付き合っている」とイヴァンカ氏本人の前で発言しているほどである。娘を持つまともな父親ならば同意してもらえるだろうが、彼の態度は常軌を逸している。

彼の家庭の問題に口を出すつもりはないが、それが政権の政策決定に影響するようになれば話は別である。

シリア空爆の後にトランプ氏が会見したとき、彼の話した内容のなかに彼自身が考えたとは思えない表現が含まれていたのを思い出したい。米国政府がシリアのアサド政権によるものと主張している化学兵器により「見目麗しい赤ん坊までもが(原文:even beautiful babies)」犠牲になったと、トランプ氏は言っていたのである。

この表現は明らかに彼自身のものではなく、イヴァンカ氏のものである。彼女がそう言うのだから、シリア攻撃は正しいに違いないと言わんばかりである。イラク戦争を含め、米国はもう何度も同じ過ちを繰り返しており、それを誰よりも批判していたのはトランプ大統領だったにもかかわらず、娘の感情的な言動でこの通りである。

•ジム・ロジャーズ氏: 米国のロシア嫌いはオバマ政権によるウクライナ政権転覆が露呈して決まりが悪くなったから

極右 vs 娘婿

そうして反グローバリストのバノン氏は娘イヴァンカ氏と娘婿クシュナー氏の前に敗退した。イヴァンカ氏の意見がシリア空爆に「大きな役割」を果たしたことは兄弟のエリック氏が証言している(Independent、原文英語)。そして敗北したバノン氏については、トランプ大統領がこのように述べている(New York Post、原文英語)。


スティーブのことは好きだが、彼がわれわれの選挙戦のかなり後半になるまで選挙戦略に関わっていなかったことを思い出してほしい。

その時までにはわれわれは既にすべての上院議員と州知事を打ち負かしていたが、スティーブは関わっていなかった。わたしがわたし自身の戦略官であり、あの腐敗したヒラリーとの戦いが厳しかったから、彼の戦略を採用したということではない。

何とも突き放した表現ではないか。これがトランプ氏の身内と争った人間の末路である。あるいはイヴァンカ氏と、と言うべきだろうか。トランプ政権で彼女と争った人間はこうなるのである。彼女は自分の意見が採用された攻撃についてTwitter(原文英語)でこう語った。


人道に対するおぞましい罪を容認することを断固拒否した父の決断を誇りに思います。

人道や人権という言葉が何度人殺しの口実に使われたことだろう。それがリベラルというものである。それが西洋の歴史である。

そのように勝利を宣言したイヴァンカ氏は、夫のクシュナー氏と結婚するためにユダヤ教に改宗したほどの「献身的」な妻である。だからクシュナー氏と争うことは、イヴァンカ氏と争うことに等しい。そしてクシュナー氏はバノン氏がグローバリストと呼んだ人物である。グローバリストとは、例えばシリアやイラクにミサイルを打ち込むことを正義だと考える人々のことである。

バノン氏とクシュナー氏の対立は、以前より明らかになっていた。グローバリストと反グローバリストが仲良くやっていけるはずがない。政権内の対立にうんざりしたトランプ大統領は二人に対して次のように言った。


スティーブはいい奴だが、彼らに言ったのは、関係を修復しろ、さもなければわたしが決着を付ける、ということだ。

その場合、どのように「決着を付ける」のかは明らかである。だからバノン氏はクシュナー氏に頭を下げることになったのだろう。Fox News(原文英語)は二人の和解を報じている。「和解」がどういう内容になったかは、報じられずとも明らかである。

バノン氏は政権に残るが、政権に残るだけである。トランプ政権における反グローバリズムは娘への個人的な感情によって死んでしまったということである。今後のトランプ政権の方針は、イヴァンカ氏とクシュナー氏を中心とするグループが決めてゆくことになるだろう。
http://www.globalmacroresearch.org/jp/archives/6046
http://www.asyura2.com/12/lunchbreak52/msg/816.html#c19

[昼休み52] 意図的な世論誘導報道で悪魔呼ばわりされているシリア アサド大統領 富山誠
20. 中川隆[7720] koaQ7Jey 2017年4月13日 16:32:49 : b5JdkWvGxs : DbsSfawrpEw[8210]

2017.04.13
シリアで化学兵器を使ったのはサウジとイスラエルの拠点基地から飛び立ったドローンの可能性


レックス・ティラーソン国務長官のロシア訪問に合わせ、シリア軍が化学兵器を使ったとする4ページの文書をアメリカ政府は公表した。NSC(国家安全保障会議)のスタッフが作成したとされているが、いつものように証拠は示されていない。情報源や情報の収集法法を隠すためだというのだが、その主張の根拠とされているのは上空から撮影した写真だとされ、隠す理由はない。実際、これまでは公表されてきた。

ジャーナリストのロバート・パリーによると、彼の情報源からその写真に写っているのは戦闘機でなくドローンだという説明を受けたという。そのドローンが飛び立った場所はヨルダンの基地。そこはサウジアラビアとイスラエルによる作戦の拠点になっている。3月にドナルド・トランプ政権がバシャール・アル・アサド大統領の排除する目論見を放棄すると表明したことが毒ガス攻撃の理由だと疑われているようだ。

この文書が公表された後、ロシアのウラジミル・プーチン大統領は証拠が示されていないと発言、イタリアのセルジョ・マッタレッラ大統領と行った共同記者会見では、4月4日の有毒ガス流出事件を偽旗作戦だと言い切り、さらなる化学兵器による攻撃が計画されていることをつかんでいると語っている。

プーチン大統領はアメリカ政府に強い不快感を表明、ロシアを訪れたティラーソン長官に対してセルゲイ・ラブロフ外務大臣も厳しく対応、ティラーソン長官と会わないのではないかとも見られていたが、最終的に会談したようだ。

ネオコンは2014年にソチで開催された冬期オリンピックに合わせ、ウクライナでネオ・ナチを使ったクーデターを実行したが、その前年の7月、プーチン大統領をオリンピック絡みで脅した人物がいる。サウジアラビアの総合情報庁長官を務めていたバンダル・ビン・スルタンだ。

プーチン大統領との会談でスルタンはロシアにシリアから手を引かせようとする。手を引けば、つまりバシャール・アル・アサドを見捨てればオリンピックの安全を保証できると持ちかけたというのだ。当時、チェチェンの反ロシア武装グループはオリンピックでの破壊活動を行うとしていた。

シリアから手を引かなければオリンピックを攻撃させるとスルタンは脅したとプーチンは理解、その提案を拒否した上で、「ここ10年の間、チェチェンのテロリスト・グループをあなたたちが支援していることを知っている」と言い放ったという。ロシアに対する脅しは逆効果になる。それをトランプ政権は学ばず、今回も武力で脅したわけである。そしてロシア政府を怒らせた。

シリアを攻撃する一方、アメリカ政府は朝鮮を威嚇するために空母カール・ビンソン中心とする艦隊を朝鮮半島の近くへ派遣したが、海上自衛隊はその艦隊に数隻の駆逐艦を合流させようとしていると伝えられている。中国も朝鮮の行動に怒っているようだが、アメリカと中国が本当に見ているのは朝鮮でないだろう。両国が朝鮮を本気で相手にしているとは思えない。アメリカは中国を挑発している可能性が高い。そこへ自衛隊が入っていく危険性を認識しているのだろうか?
https://plaza.rakuten.co.jp/condor33/diary/201704120000/

2017.04.13
米政府はシリアに設置した中継器を利用した偽通信で主張の裏付けにしようとしているとの情報も

シリア軍が化学兵器を使ったとドナルド・トランプ政権は証拠を示すことなく主張、いつものように「自分たちを信じろ」と威圧している。NSC(国家安全保障会議)のスタッフが作成したという4ページの文書をアメリカ政府は公表したが、そこにも証拠、根拠は示されていない。証拠は持っているとも宣伝されているが、公表しない。2003年にイラクを先制攻撃する際に証拠らしきものが示されたが、その結果、嘘が発覚してしまった。そうしたことを反省してのことだろう。だからこそ、アメリカは公正な調査を嫌がる。

本ブログでも紹介したが、トランプ政権が持っているという証拠は上空から撮影した写真だと言われているが、傍受された音声だとする話も伝わっている。2013年にもアメリカ政府は化学兵器の使用を理由にして調節的な軍事介入を目論み、その時も通信の音声を示したが、これもインチキだということが明らかになったと言われている。

岩や切り株などを装った電子機器の存在は昔から指摘されている(例えばココ)が、2013年には中継器が使われていたという。そうした機器を使い、シリア軍が化学兵器を使ったような偽会話を流して「確かな証拠」にしようとしたのだが、この中継器は発見され、国連にも提出されたと言われている。そうした機器をシリア国内に設置した工作員を乗せた潜水艦をシリア軍が沈没させたと主張する人びともいる。

今回も2013年と同じ手口が使われ、NATO加盟国にはそうした音声が示されたという情報も流れている。情報機関の内部から漏れてきた情報によると、衛星写真はシリア軍が化学兵器を使っていないことを示しているようで、それを「証拠」とするにはフォトショップあたりで加工する必要がある。

中継器を使って作成した音声が「証拠」として使われたとしても、NATOの幹部は嘘を見抜くだろう。そのうえで信じた振りをする。そうでなければ収入と地位、場合によっては命を失ってしまうからだ。他国における破壊と殺戮より、そうした個人的な利益が大事だと考えている「エリート」は少なくないだろう。
https://plaza.rakuten.co.jp/condor33/diary/201704130001/

http://www.asyura2.com/12/lunchbreak52/msg/816.html#c20

[議論31] 日本の対米・完全独立に関する論考集 仁王像
7. 中川隆[7721] koaQ7Jey 2017年4月13日 17:01:17 : b5JdkWvGxs : DbsSfawrpEw[8211]

カジノについてですが、この法案に対しては、すでに米在日商工会議所が露骨な要求を押しつけてきています。「進出企業の税率を10%以下の低率にせよ、日本人の誰もが利用できるように高額の入場料検討はやめて無料とせよ。東京や大阪にはリゾート施設に複数併設せよ」等々。

カジノでの収入は当然、米国を中心とした進出企業の手に落ちるので、この要求を呑めば、低い税収以外には、何ら日本の経済成長には寄与しません。
また大都市圏に複数のカジノを併設すれば、いろいろな意味で都市と地方の格差はますます開きます。

しかしアメリカの属国化している今の日本の状況からして、この米在日商工会議所の要求を、政府は結局は呑むことになるのでしょう。

安倍首相は「最高水準の規制を導入する」などと言っていますが、全然信用が置けない。なぜなら、TPPでは農産品の関税率は死守すると言っておきながら、結果は軒並み大きく下げられてしまったからです。

これがアメリカ発グローバリズムの恐ろしさなのです。

もちろんアメリカは、TPPから離脱した今でも、個別の通商交渉でさらに厳しい条件を日本に突きつけてくるでしょう。トランプ大統領は、国益を最優先する生え抜きの「ビジネスマン」ですから。


いま日本は、従来のよき慣習を次々に捨て、悪い意味でアメリカ化しつつあります。

外国人メイドさんOK、非正規社員増大OK,複合診療OK,全農、農林中金潰しOK、国家戦略特区での英語使用強制、すべてはアメリカの思うツボです。

安全保障のためにアメリカに縋りつきたい安倍政権の気持ちはわからなくはありません。

衰えたとはいえ、アメリカはやはり超大国です。対ロシア外交で中露分断を狙っても、両国の相互依存関係は、容易には断ち切れません。

また、東南アジア諸国は中国と経済的な結びつきが強い上に、その軍事的脅威を恐れているので、対立をできるだけ避けようとします。現にフィリピンのドゥテルテ大統領が、中国に対して事実上の敗北宣言をしたことは記憶に新しいところです。ですからアジアの親日国はあまり当てにならないのです。頼みの綱はアメリカだけということになります。

しかし個別政策課題でアメリカに追従することが、必ずしもわが国の安全保障に貢献するとは限りません。アメリカの通商戦略関係者が日本のそういう意向を読み取って、ちゃっかりつけ込んでいるにすぎないのかもしれないのですから。いや、おそらくこの推測は当たっているしょう。

なるほどアメリカは、日本の完全な自立(たとえば核武装)をけっして許しません。日米同盟とは親分子分の関係ですから、日本の国家としての自立行動は、子分の分際を守る限りで、つまり監視付きで許されているのです。

けれども、軍事問題ではなく、個別の経済問題に関してだったら、交渉次第で断固たる抵抗を示すことは可能なはずです。要は、時の政権がどれだけ国民の利益に重きを置いて、毅然として交渉に当たるかなのです。

安倍政権は、この区別をせずに、経済交渉と安全保障とを一括して捉え、とにかくアメリカの意向に逆らうなという姿勢ですから、少しも「戦後レジームからの脱却」が果たせないのです。

じっさい、トランプ政権の対日姿勢は未知数です。いつ日本という「財布」を、中国と分け合おうという協定を結ばないとも限りません。この場合、「財布」とは、金融や実体経済の面だけを指すのではなく、領土・領海の意味も含みます。

先の安倍・トランプ会談では、安倍首相がワシントン行きの飛行機に乗っている最中に、トランプ・習近平電話会談が行われています。何を取引したやら。

政府は、安倍・トランプ会談で、トランプ氏が100%日本の側に立って尖閣を守ることを保証したような発表をしていました。

マスコミは右から左まで、これを聞いて、会談は大成功だったと浮かれていましたが、事実は異なります。

トランプ氏は、「The United States of America stands behind Japan , its great ally, 100%.」と言ったのです。「stands behind Japan」――つまり「日本の後方に立つ」、言い換えれば「後ろから支援する」と言ったにすぎません。(月刊Voice 四月号・中西輝政「米国は100%後方支援だけ」)

要するに、安保条約第五条を守るというこれまで何度も繰り返されてきた既定路線に、多少社交辞令としての粉飾を施して再確認を示しただけのことです。
自ら喜び、日本国民をぬか喜びさせるマスコミは、バカというかなんというか、じつに罪が深い。

先に当メルマガに投稿したように、中国は尖閣・沖縄を狙っているのみならず、わが日本列島の後頭部(あまり政治的経済的関心の対象にならない部分)に相当する北海道で、土地買収により着々と「実効支配」を実現しています。
https://38news.jp/economy/10151

また、安倍政権は、EUの悲惨な状況にもかかわらず、「技能実習生」「留学性」の名目で、率先して移民政策を進めています。この該当者のうち半数以上が中国人です。

グローバリズムをヒト、モノ、カネの自由な移動を積極的に進める考え方と定義するなら、いま日本は、ヒトとモノ(土地)の面において主として中国に、カネの面において主としてアメリカに浸食されつつあるわけです。

日本はグローバリズムの仕掛ける戦争にとっくに巻き込まれているのです。私たちは、現在のわが国がすでに戦争状態であることをしっかり認識して、あらゆる面で国を守る必要があります。

ドンパチだけが戦争ではありません。日本は経済戦、情報戦、歴史戦、領土・領海戦において、じわじわと敗北し続けている。この事実を国民がしっかり自覚しなければなりません。
https://38news.jp/economy/10334
http://www.asyura2.com/13/dispute31/msg/464.html#c7

[昼休み52] 意図的な世論誘導報道で悪魔呼ばわりされているシリア アサド大統領 富山誠
21. 中川隆[7722] koaQ7Jey 2017年4月13日 18:18:21 : b5JdkWvGxs : DbsSfawrpEw[8212]

敵と国際法に一切容赦なしのトランプ・ドクトリン
http://eigokiji.cocolog-nifty.com/blog/2017/04/post-b588.html
2017年4月13日 マスコミに載らない海外記事


Finian CUNNINGHAM
2017年4月11日
Strategic Culture Foundation

子供を含む一般市民を虐殺する結果になった、トマホーク・ミサイルの集中攻撃で、シリアを攻撃しろというドナルド・トランプの命令は、単なる侵略という犯罪行為ではない。トランプ・ドクトリンという大統領職の定義を狙っているように見える。そのドクトリンとは、以下のように言い表せようか。まず銃撃、先にどんな質問もしないこと。

アメリカは最も無謀な、ならずもの国家だという警告を、世界が受けている。

トランプによる大統領ドクトリン追求は、冗談でなく、むしろ真面目に、こう表現できようか。アメリカが敵と規定したものと、国際法には一切容赦なし。

彼以前のホワイト・ハウス入居者全員、アメリカ大統領は、その外交政策を規定する各自独自のドクトリンで飾られるのが常だ。1823年に、ヨーロッパの植民地権益に対し、中南米という“裏庭”での、アメリカの覇権を主張する、モンロー・ドクトリンを残したジェームズ・モンロー大統領にまで、伝統はさかのぼる。

より最近では、9/11テロ事件後、GWブッシュが、アメリカは、どの外国においても一方的に“テロリストを追いかける”軍事権益を追求すると主張したブッシュ・ドクトリンだ。

トランプ直近の前任者バラク・オバマは、軍事力を行使する権利を保持しながら、敵対国と慎重に交渉するものとされるオバマ・ドクトリンを知らしめたが、イランの核計画を巡るイランとの外交を追求する政策が、おそらく、その好例だ。

トランプのドクトリン候補案は、ブッシュの一方的先制軍事攻撃政策を強化したものだ。シリアへの空爆攻撃からわずか数日後、北朝鮮に対する明白な警告として、アメリカ空母カール・ビンソン率いる航空母艦攻撃群に朝鮮半島に向かうよう、トランプは命じた。

先週のシリアに対するミサイルの集中攻撃後、ホワイト・ハウス報道官ショーン・スパイサーはこう述べた。“これはシリアのみならず、全世界に対して信号を送ったのだ”。

イスラエルのベンヤミン・ネタニヤフ首相は、この論理の要旨を把握して、トランプのトマホークによるシリア攻撃“は、ダマスカスのみならず、テヘランや平壌や、どこでも”おこりうる、と述べた。この“どこでも”は、邪悪な含意に満ちている。

二日前のイドリブ県における化学兵器攻撃事件への“報復”として、トランプは、シリア空軍基地の59発の巡航ミサイルによる攻撃を命じた。ホワイト・ハウスとアメリカ・マスコミ丸ごとが、簡単な疑問を問うこともせずに、シリア空軍がハンシェイクンに化学兵器を投下し、80人以上を殺害したと断言した。シリアを軍事支援しているのだから、こうした死には、ロシアが“共謀している、とまでホワイト・ハウスは非難している。

化学兵器攻撃事件の適切な調査に対するロシアの要求は、地中海の二隻のアメリカ戦艦から発射された巡航命ミサイルによる空爆実行を進めたワシントンに、はねつけられていた 。シャイラート空軍基地を狙ったのは、そこからシリア戦闘機がハンシェイクン攻撃を行ったためだとアメリカは主張した。ホムス市長タラル・バザリによれば、アメリカ・ミサイル攻撃により、標的にされた空軍基地近くで、子供四人を含む、一般市民九名が亡くなった。ハンシェイクンでの“可愛い赤ん坊”の死に対するトランプの哀悼は、その後の、アメリカによる空爆命令の動機となって、おしまいなのだ。

アメリカによるミサイル集中攻撃の後、ロシアのウラジーミル・サフロノフ国連代理大使は、アメリカが、真実が暴露されるのを“恐れて”、ハンシェイクンでの化学兵器事件とされるものへ公正な調査を行おうという取り組みを阻止していたと語った。シリア政府が攻撃を行ったというアメリカの主張は、全て“信頼できない情報源”と、聖戦武装集団とつながる“メディア活動家”が提供した怪しげなビデオ映像に基づいていると、先にサフロノフは述べていた。

事件以来、アメリカや他の西欧マスコミ放送は、懐疑の片鱗もなしに、一斉に、化学兵器攻撃を行ったのはシリア政府軍だったと結論づけた。例えばイギリス政府は、一般市民の死亡は、ロシアの“責任”だと非難し、今週予定されていたモスクワ公式訪問をキャンセルするというボリス・ジョンソン外務大臣による決定で、この主張を強調した。

シリア政府と、その同盟者に対する、こうした偏見に満ちた独占的言論で、ハンシェイクンでの化学兵器攻撃事件に対する公正な調査の可能性は、事実上不可能になった。2013年8月、ダマスカス近郊での悪名高いサリン・ガス中毒と同様、最新の攻撃という出来事は、バッシャール・アル・アサド大統領のシリア軍だったという信仰個条になってしまった。二つの出来事は、実際はアメリカ軍による介入を引き起こすため、諸外国が支援する聖戦士が実行した意図的な偽旗中傷戦術であるという証拠が多数あるにもかかわらず。

トランプ大統領は、2013年に、前任者バラク・オバマがためらった餌に食いついたのだ。先週のトランプによるあつかましい戦争行為は、驚くべきことに、聖戦戦士とつながる、信用を失ったホワイト・ヘルメットに所属するメディア活動家が提供したビデオ映像を除き、取るに足らない証拠に基づいていた。

だが明らかなのは、トランプが先に撃つ用意があることを示しただけではない。アメリカ・マスコミと同盟諸国政府に幇助されたトランプ政権は、後で決して誰もあえて質問できないようにした。下劣な侵略行動丸ごと既成事実と化した。

答えが必要な疑問は多々ある。2013年にロシアが仲介した廃棄協定以降、化学兵器を保持していないとシリア政府は主張している。シリアの武装解除は国連の査察集団、化学兵器禁止機関OPCWによって確認されている。

更にシリア政府は、わずか数週間前に、化学兵器禁止機関に、兵器用の有毒化学物質が、シリア国内で、聖戦戦士ネットワークによって移動されていると通知したと主張している。化学物質が秘かにトルコ軍から供給されていることは、最近、クルド人反政府集団によって確認されているようだ。これはまさに、数百人の一般市民がダマスカス郊外の東グータで殺害された2013年の同様な攻撃のためのサリンを聖戦士が入手したのと全く同じ経路だ。

ハンシェイクンでの最近の事件に関するロシア軍説明は妥当に思える。シリア空軍が近くの聖戦戦士集団に対し、通常の攻撃を行い、反政府戦士が保有する兵器庫から毒性化学物質が不測の漏洩をするに至ったのだ。反政府戦士は、シリア空爆攻撃を毒物意図的放出の隠れ蓑に利用し、そこでプロパガンダ目的で好都合にもビデオも撮影し、彼らの見地からして、トランプの後の攻撃命令を考えれば、狙いは成功した。

トランプがトマホーク攻撃命令を出したのが、木曜夜、彼のフロリダ州パーム・ビーチのリゾートで、習近平中国国家主席をもてなしていた時だったのは、決して偶然ではない。トランプは、晩餐中、中国首席に、この件を伝えたと報じられている。

数分後、トランプは、差し迫った対シリア空爆攻撃を公に発表した。アメリカ政策が、それまで“変更させるのに劇的に失敗してきた”独裁者の振る舞いだと、彼はアサドについて表現した。

そのわずか数日前、もし北京が金正恩の核兵器計画抑制に協力しないのであれば、アメリカは、中国の同盟国北朝鮮に対し、一方的な軍事行動をとる用意があると、トランプは発表していた。アメリカの選択肢には、平壌“斬首”攻撃も含まれると報じている。

こうした無謀な国際法無視に基づくマッチョ風シリア攻撃は、のどから手が出るほど欲しかった国内での称賛をトランプにもたらしたのみならず、かつての政敵を、全軍最高司令官のもとに結集させ、ロシアの傀儡という彼に対する主張を鎮めてしまった。

しかも、トランプは、シリアであれ、北朝鮮であれ、中国あるいは、ロシアでさえ、アメリカが敵と指定したあらゆる政権に対して圧倒的軍事力を行使する用意があるというメッセージを送っている。

朝鮮半島への航空母艦打撃群の急行が、“狂人”トランプによる力の誇示としての次の行動だ。これは、アメリカの敵と指定されたものに対しては“一切容赦なし”、証拠、事実、道徳や国際法にも、一切容赦なしだという恐ろしい兆しだ。

新たなトランプ・ドクトリンは、世界に対する、アメリカは最も途方もない規模のならず者国家だという通告だ。

記事原文のurl:http://www.strategic-culture.org/news/2017/04/11/trump-doctrine-zero-tolerance-enemies-international-law.html
----------

http://www.asyura2.com/12/lunchbreak52/msg/816.html#c21

[近代史02] アメリカ・アングロサクソンの凶暴性・アメリカインディアンが絶滅寸前に追い込まれた仮説 sagakara
38. 中川隆[7723] koaQ7Jey 2017年4月13日 18:19:17 : b5JdkWvGxs : DbsSfawrpEw[8213]

敵と国際法に一切容赦なしのトランプ・ドクトリン
http://eigokiji.cocolog-nifty.com/blog/2017/04/post-b588.html
2017年4月13日 マスコミに載らない海外記事


Finian CUNNINGHAM
2017年4月11日
Strategic Culture Foundation

子供を含む一般市民を虐殺する結果になった、トマホーク・ミサイルの集中攻撃で、シリアを攻撃しろというドナルド・トランプの命令は、単なる侵略という犯罪行為ではない。トランプ・ドクトリンという大統領職の定義を狙っているように見える。そのドクトリンとは、以下のように言い表せようか。まず銃撃、先にどんな質問もしないこと。

アメリカは最も無謀な、ならずもの国家だという警告を、世界が受けている。

トランプによる大統領ドクトリン追求は、冗談でなく、むしろ真面目に、こう表現できようか。アメリカが敵と規定したものと、国際法には一切容赦なし。

彼以前のホワイト・ハウス入居者全員、アメリカ大統領は、その外交政策を規定する各自独自のドクトリンで飾られるのが常だ。1823年に、ヨーロッパの植民地権益に対し、中南米という“裏庭”での、アメリカの覇権を主張する、モンロー・ドクトリンを残したジェームズ・モンロー大統領にまで、伝統はさかのぼる。

より最近では、9/11テロ事件後、GWブッシュが、アメリカは、どの外国においても一方的に“テロリストを追いかける”軍事権益を追求すると主張したブッシュ・ドクトリンだ。

トランプ直近の前任者バラク・オバマは、軍事力を行使する権利を保持しながら、敵対国と慎重に交渉するものとされるオバマ・ドクトリンを知らしめたが、イランの核計画を巡るイランとの外交を追求する政策が、おそらく、その好例だ。

トランプのドクトリン候補案は、ブッシュの一方的先制軍事攻撃政策を強化したものだ。シリアへの空爆攻撃からわずか数日後、北朝鮮に対する明白な警告として、アメリカ空母カール・ビンソン率いる航空母艦攻撃群に朝鮮半島に向かうよう、トランプは命じた。

先週のシリアに対するミサイルの集中攻撃後、ホワイト・ハウス報道官ショーン・スパイサーはこう述べた。“これはシリアのみならず、全世界に対して信号を送ったのだ”。

イスラエルのベンヤミン・ネタニヤフ首相は、この論理の要旨を把握して、トランプのトマホークによるシリア攻撃“は、ダマスカスのみならず、テヘランや平壌や、どこでも”おこりうる、と述べた。この“どこでも”は、邪悪な含意に満ちている。

二日前のイドリブ県における化学兵器攻撃事件への“報復”として、トランプは、シリア空軍基地の59発の巡航ミサイルによる攻撃を命じた。ホワイト・ハウスとアメリカ・マスコミ丸ごとが、簡単な疑問を問うこともせずに、シリア空軍がハンシェイクンに化学兵器を投下し、80人以上を殺害したと断言した。シリアを軍事支援しているのだから、こうした死には、ロシアが“共謀している、とまでホワイト・ハウスは非難している。

化学兵器攻撃事件の適切な調査に対するロシアの要求は、地中海の二隻のアメリカ戦艦から発射された巡航命ミサイルによる空爆実行を進めたワシントンに、はねつけられていた 。シャイラート空軍基地を狙ったのは、そこからシリア戦闘機がハンシェイクン攻撃を行ったためだとアメリカは主張した。ホムス市長タラル・バザリによれば、アメリカ・ミサイル攻撃により、標的にされた空軍基地近くで、子供四人を含む、一般市民九名が亡くなった。ハンシェイクンでの“可愛い赤ん坊”の死に対するトランプの哀悼は、その後の、アメリカによる空爆命令の動機となって、おしまいなのだ。

アメリカによるミサイル集中攻撃の後、ロシアのウラジーミル・サフロノフ国連代理大使は、アメリカが、真実が暴露されるのを“恐れて”、ハンシェイクンでの化学兵器事件とされるものへ公正な調査を行おうという取り組みを阻止していたと語った。シリア政府が攻撃を行ったというアメリカの主張は、全て“信頼できない情報源”と、聖戦武装集団とつながる“メディア活動家”が提供した怪しげなビデオ映像に基づいていると、先にサフロノフは述べていた。

事件以来、アメリカや他の西欧マスコミ放送は、懐疑の片鱗もなしに、一斉に、化学兵器攻撃を行ったのはシリア政府軍だったと結論づけた。例えばイギリス政府は、一般市民の死亡は、ロシアの“責任”だと非難し、今週予定されていたモスクワ公式訪問をキャンセルするというボリス・ジョンソン外務大臣による決定で、この主張を強調した。

シリア政府と、その同盟者に対する、こうした偏見に満ちた独占的言論で、ハンシェイクンでの化学兵器攻撃事件に対する公正な調査の可能性は、事実上不可能になった。2013年8月、ダマスカス近郊での悪名高いサリン・ガス中毒と同様、最新の攻撃という出来事は、バッシャール・アル・アサド大統領のシリア軍だったという信仰個条になってしまった。二つの出来事は、実際はアメリカ軍による介入を引き起こすため、諸外国が支援する聖戦士が実行した意図的な偽旗中傷戦術であるという証拠が多数あるにもかかわらず。

トランプ大統領は、2013年に、前任者バラク・オバマがためらった餌に食いついたのだ。先週のトランプによるあつかましい戦争行為は、驚くべきことに、聖戦戦士とつながる、信用を失ったホワイト・ヘルメットに所属するメディア活動家が提供したビデオ映像を除き、取るに足らない証拠に基づいていた。

だが明らかなのは、トランプが先に撃つ用意があることを示しただけではない。アメリカ・マスコミと同盟諸国政府に幇助されたトランプ政権は、後で決して誰もあえて質問できないようにした。下劣な侵略行動丸ごと既成事実と化した。

答えが必要な疑問は多々ある。2013年にロシアが仲介した廃棄協定以降、化学兵器を保持していないとシリア政府は主張している。シリアの武装解除は国連の査察集団、化学兵器禁止機関OPCWによって確認されている。

更にシリア政府は、わずか数週間前に、化学兵器禁止機関に、兵器用の有毒化学物質が、シリア国内で、聖戦戦士ネットワークによって移動されていると通知したと主張している。化学物質が秘かにトルコ軍から供給されていることは、最近、クルド人反政府集団によって確認されているようだ。これはまさに、数百人の一般市民がダマスカス郊外の東グータで殺害された2013年の同様な攻撃のためのサリンを聖戦士が入手したのと全く同じ経路だ。

ハンシェイクンでの最近の事件に関するロシア軍説明は妥当に思える。シリア空軍が近くの聖戦戦士集団に対し、通常の攻撃を行い、反政府戦士が保有する兵器庫から毒性化学物質が不測の漏洩をするに至ったのだ。反政府戦士は、シリア空爆攻撃を毒物意図的放出の隠れ蓑に利用し、そこでプロパガンダ目的で好都合にもビデオも撮影し、彼らの見地からして、トランプの後の攻撃命令を考えれば、狙いは成功した。

トランプがトマホーク攻撃命令を出したのが、木曜夜、彼のフロリダ州パーム・ビーチのリゾートで、習近平中国国家主席をもてなしていた時だったのは、決して偶然ではない。トランプは、晩餐中、中国首席に、この件を伝えたと報じられている。

数分後、トランプは、差し迫った対シリア空爆攻撃を公に発表した。アメリカ政策が、それまで“変更させるのに劇的に失敗してきた”独裁者の振る舞いだと、彼はアサドについて表現した。

そのわずか数日前、もし北京が金正恩の核兵器計画抑制に協力しないのであれば、アメリカは、中国の同盟国北朝鮮に対し、一方的な軍事行動をとる用意があると、トランプは発表していた。アメリカの選択肢には、平壌“斬首”攻撃も含まれると報じている。

こうした無謀な国際法無視に基づくマッチョ風シリア攻撃は、のどから手が出るほど欲しかった国内での称賛をトランプにもたらしたのみならず、かつての政敵を、全軍最高司令官のもとに結集させ、ロシアの傀儡という彼に対する主張を鎮めてしまった。

しかも、トランプは、シリアであれ、北朝鮮であれ、中国あるいは、ロシアでさえ、アメリカが敵と指定したあらゆる政権に対して圧倒的軍事力を行使する用意があるというメッセージを送っている。

朝鮮半島への航空母艦打撃群の急行が、“狂人”トランプによる力の誇示としての次の行動だ。これは、アメリカの敵と指定されたものに対しては“一切容赦なし”、証拠、事実、道徳や国際法にも、一切容赦なしだという恐ろしい兆しだ。

新たなトランプ・ドクトリンは、世界に対する、アメリカは最も途方もない規模のならず者国家だという通告だ。

記事原文のurl:http://www.strategic-culture.org/news/2017/04/11/trump-doctrine-zero-tolerance-enemies-international-law.html
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http://www.asyura2.com/09/reki02/msg/367.html#c38

[近代史02] アメリカ・アングロサクソンの凶暴性・アメリカインディアンが絶滅寸前に追い込まれた仮説 sagakara
39. 中川隆[7724] koaQ7Jey 2017年4月13日 18:20:53 : b5JdkWvGxs : DbsSfawrpEw[8214]

今こそ合州国の正体直視を  本多勝一

週間金曜日 2003年 3月14日号「風速計」 


この一文が出るころ、アメリカ合州国の体制主流は、イラク侵略を開始または開始寸前にあるだろう。

 国連安保理外相級会合に米英ら3国が今月7日提出した修正決議案は、国連安全保障理事会で11日に採決にかけられる見通しだが、ここで否決されても、合州国は単独で開戦・侵略に踏み切る構えである。

 あたりまえだ。アメリカ合州国の歴史は、こういうことの連続の末に今日の地球史上最強・最悪の帝国となった。ワシントン初代大統領以来の二百余年間は、手段を選ばぬ詐欺・脅迫・テロ・虐殺による侵略史にほかならぬ。そのことはこれまで機会あるごとに触れてきたが(注)、目前でまたしても超大軍事力によって同じことが強行されようとしている今、「正確な合州国史」にうといままその正体に気付かぬ例が多い日本人のためにも、このさい改めて正面から指摘しておきたい。

 ただし、こんどのイラク侵略が開戦されてもされなくても、これはコロンブス以来のヨーロッパによる世界侵略500年史の中で、ベトナム戦争とともに画期をなす歴史的事件となるかもしれない。

米西戦争などで世界制覇競争に勝った合州国は、それまでに北米大陸での先住民族侵略をウンデッドニー虐殺によって終了していたが、以降そのままハワイ・グアム・フィリピンへと「西部へ西部へ」を進めた。朝鮮戦争につづくベトナム戦争で、合州国軍隊はワシントン初代大統領以来初の敗戦を喫したものの、侵略のための巨大軍需産業や体質に傷はつかなかった。その成りゆきとしてのイラク戦争(12年前も今回も)である。ところが、合州国の正体に気づき始めた人々の世界的盛上りによって、開戦寸前での中止か、開戦してもベトナム以上の反戦の広がりで帝国の没落となるかもしれない。この500年来の画期をなすゆえんである。


合州国は“民主主義”をタテマエにしている。実態はともかく、民意を完全・明白に無視した侵略は支持されない。そこで開戦のとき必ずといえるほど使われるテこそ、相手が先に攻撃したとみせかける捏造事件である。これは先住民族への侵略以来イラクまで一貫してきた。

戦艦メーン号爆破事件(米西戦争)をみよ。トンキン湾事件(ベトナム戦争)をみよ。真珠湾(太平洋戦争)をみよ。その他その他。

これを書いている9日の朝日放送(サンデープロジェクト)は、イラクのクウェート侵入(これも裏に合州国あり)にさいして、イラク兵が乳児を哺育器から出して次々と放り投げた様子をクウェートの少女に証言させたこと、これが繰り返し放送されて世論を憤激させ、開戦に有利になったこと、ところが後に、この少女は駐米クウェート大使の娘で、証言は捏造だったこと等を放映した。

 こんどはどんな捏造が、いいように操作されるマスコミによって“報道”されることだろうか。

 開戦寸前の今、このテーマは「未完」としておく。
http://ecoplaza-sabae.jp/mailnews20030319.html

http://www.asyura2.com/09/reki02/msg/367.html#c39

[議論31] 日本の対米・完全独立に関する論考集 仁王像
8. 中川隆[7725] koaQ7Jey 2017年4月13日 19:05:42 : b5JdkWvGxs : DbsSfawrpEw[8215]

日本はアメリカとの経済戦争にも負けて日本企業の株の4割を乗っ取られていた

アメリカが小沢・金丸に八年間で四百三十兆円も公共事業に使わせて日本経済を意図的にバブルにさせた

1980年代から1990年代にアメリカは、日本に対しすさまじいばかりの金額の内需拡大要求をしています。

その要求を丸呑みした小沢一郎は、元祖媚米派というべき存在です。  

アメリカは、80年代から90年代にかけては、アメリカ企業の需要拡大のために
「内需拡大」を唱えていたものの、アメリカ企業の体たらくに匙を投げて、今度は日本企業そのものを
アメリカ資本のものにしようという作戦に転じたのかもしれません。  

アメリカ大好きの自称保守は、80年代から90年代にかけてのアメリカの理不尽とも思える 「内需拡大要求」についてはどう弁明するつもりでしょうか。


石原慎太郎都知事「小沢一郎の正体」を暴く
https://www.youtube.com/watch?v=MERTrcik8CU


小沢が430兆円
村山(旧社会党)内閣がプラス200兆円 
トータル630兆円
(詳しくは日米構造協議で検索)

最終報告の中でアメリカは、「(日本は)輸出につながる産業分野への投資より、公共分野に投資するほうが賢明」であるとし、 日本に対しGNPの10%を公共事業に配分することを要求した。

海部内閣はこれに応え、10年間で総額430兆円という「公共投資基本計画」を策定した。

しかしその後、アメリカ側から「日本の対外黒字の増加を考えれば、公共事業の目標の上積みが必要」

との要望があったため、1994年に村山内閣で計画が見直され、社会資本整備費としてさらに200兆円を積み増しし、 総投資額は630兆円を計上している。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%97%A5%E7%B1%B3%E6%A7%8B%E9%80%A0%E5%8D%94%E8%AD%B0


1929年10月24日、ニューヨーク・ウォール街では、世界大恐慌の引き金となって、株式大暴落が起こりました。そして、あれから60年後、今度は日本を叩き潰す為に、1990年2月、巨大な経済の逆回転が始まり、平成バブル経済が崩壊しました。
 平成バブルが崩壊するバブル・ピーク時、CIA(Central Intelligence Agency/アメリカ大統領直属の中央情報局)は、ベルリンの壁が崩壊し、東西冷戦後の次の敵は、日本だと考え始めていました。

事実、1989年秋から始まった、アメリカ系証券会社の株価動向は不気味な動きをし始めました。バブルと、その崩壊に携わったのは、ユダヤ系の金融機関であるソロモン・ブラザーズ(現在のソロモン・スミスバーニー)という証券会社でした。

 ソロモン・ブラザーズは資本主義の歴史に詳しく、また日本の昭和初期の経済にも精通していて、1989年11月、ニューヨークで「日経平均株価が大暴落したら大儲け」という『プット・ワラント』のデリバティブ商品を機関投資家や大口投資家に大量に売り始めたのでした。それ以来、ソロモン・ブラザーズが中心になって、債券、為替、株価のトリプル安が始まります。これがバブル崩壊の裏側に隠れたメカニズムだったのです。

 バブル崩壊のシナリオは、どのようにして仕組まれたのか、その筋書きを追ってみましましょう。

 バブル絶頂期は、1989年にそのピークを迎え、株価は天井でした。この時、多くの日本人は、株価の高騰(こうとう)並びに地下の高騰に、湧きに湧き、怕(こわ)いもの知らずで、日本の投機家達は今迄になく傲慢(ごうまん)になっていました。そしてこの頃、事実CIAは、アメリカの敵は日本であると考え始めていました。

 CIA経済部門のスペシャリスト達は、アメリカ系証券会社のソロモン・ブラザーズ(現在はソロモン・スミスバーニー)と手を組み、日本経済の崩壊作戦に向けて本格的に動き出しました。これが今日の不況を長引かせる要因を作ったのです。これが日本株式市場に於ける下落のシナリオ「バブル崩壊作戦」でした。


ソロモン・ブラザーズは、1989年当時の沸き立つような好景気も、60年前のアメリカ・ニューヨーク.ウォール街での大恐慌と同一のものであると、そのバブル崩壊を予測したのです。

 かつて、国際金融資本の総帥・ロスチャイルドの配下であったロックフェラーやデュポン(世界最大の化学メーカー)らは、この大恐慌を利用して天文学的な巨富を手にしていました。ソロモン・ブラザーズはこれに因(ちな)み、バブル崩壊を企てる研究に取りかかったのです。
 「どうしたら一儲けできるか」からはじまり、「どうしたら日本経済を徹底的に叩く事が出来るか」という結論を導き出し、日本経済崩壊に向けて模索し始めたのです。

 60年前のウォール街での「暗黒の木曜日」の立役者は、国際金融資本の総帥・ロスチャイルドの息の掛かる東部のエスタブリュシュメント達(ロックフェラーを筆頭に、デュポン、ケネディ、オナシス、アスター、バンディ、コリンズ、フリーマン、ラッセル、ファンダイン、リー・クアンシューの超大富豪十二家)でした。
 この者達は手持ち株を売り捲り、その結果、下落に下落を重ね、二束三文になった株式を買い叩いたのです。それで巨万の富を手にしたのですが、今日とは情況が違うことに気付きます。この難題に、しばらく苦慮しますが、ついに糸口を掴んだのです。

 その糸口とは、「何が株価を暴落させる要因になるか」と言うものでした。つまり株価が暴落する切っ掛けを作ればよいのです。そして、「下落によって、下がった株で大儲けできる商品を持っていればよい」ということに行き当たったのです。それが「デリバティブ」でした。

 デリバティブとは、金融派生商品(通貨・金利・債券・株式・株価指数などの金融商品を対象とした先物取引)のことで、「先物取引」という意味合いを持っています。

次の研究課題は「どうやったら大暴落を人工的に作り出し、然(しか)も、そのタイミングに合わせて、自分達の狙うポイントに、総てを集約することが出来るか」という研究に取りかかったのです。
 人工的に大暴落を作り出す場合、60年前の大恐慌では、アメリカの大富豪達による「大量売浴せ」という手法が使われました。

 大量売浴せとは、売方が買方の買数量より、多量の売物を出して買方を圧倒し、相場を押し下げようとすることで、「売り崩し」とも言われます。
 しかし、それでは巨額な資金が必要であり、当時と違って、それほど経済構造は単純なものではなくなっていました。研究に研究を重ねた結果、巧妙(こうみょう)な手口を考え出します。

 それは、「膨らんだ風船を、更に膨らませる手口」だったのです。
 風船は、空気を送り込んで膨らませれば、それだけ膨らみますが、その実体は「バブル」です。膨らむものは、いつか破裂して、大爆発を起こす物理的法則に制約されます。経済とて、この法則下に制約されているのです。彼等はこれに気付いたのでした。

 彼等はそのシナリオを、綿密なストーリーで組み立てました。徐々に膨らみを見せる風船に、意図的に、頃合いを見計らって、更に膨らませ、次に急激に膨らませるという巧妙なストーリーを演出したのです。風船は、今まで徐々に、周囲の状態に馴染みながら膨らんでいたのですが、これに急激な吹圧を掛け、パンパンの膨張状態を作っておいて、一挙に破裂させるという巧妙な演出を画策したのでした。

 彼等は、この原理を東京株式市場に応用して、バブル崩壊を目論んだのです。
 そして彼等は「デリバティブ」という、風船を一突きにする「針」を手に入れ、膨張し過ぎて破裂状態になったところで、一突きにする演出を手がけたのでした。

1989年当時、日本人エコノミスト達は「デリバティブ」という「先物」の実体を知りませんでした。経済や金融の専門家でも、この実体が何なのか、未だに分からず仕舞いでした。またこの事が、バブル崩壊の悲劇を大きくし、当時の日本経済界は全く無防備であったと言えます。


ソロモン・ブラザーズは裁定取引を使って、意図的に、無防備な日本経済に先制攻撃を仕掛けたのです。「梃子(てこ)の原理」(レバレッジ)を利用して、なるべく少ない資金で、効果的にバブル崩壊に導く人工爆発の状態を作り上げる研究をしたのです。次に、バブル崩壊に導く為に、彼等は日経平均の株価操作の研究に没頭しました。
 彼等は、この二つの研究から面白い現象に気付きます。それは日経平均株価(日本経済新聞社が、東京証券取引所一部上場の代表的な225銘柄について算出し、発表しているダウ式平均株価)が単純平均(相加平均のことで、算術平均ともいわれ、n個の数を加えた和をnで除して得る平均値のこと)で作られた「指数」から出来ている事と、もう一つはこれらの指数の分析から、品薄な銘柄を意図的に買うと、少ない資金で日経平均株価を持ち上げることができるという経済現象に気付いたのです。

 こうして研究の成果を、実行に移した時期が1989年の秋から冬に掛けての事でした。日経平均株価は瞬(またた)く間に膨らみ、バブルは天井へと向かっていました。
 その頃、日本の話題はベルリンの壁が崩壊し、東西冷戦構造が終焉(しゅうえん)を迎えれば、世界市場に進出できる等と、日本人経営者の多くが高を括(くく)っていた頃で、日本人の思い上がりの裏側では、こうした巧妙な仕掛けが、水面下で仕掛けられていたのです。
 大蔵官僚も、エコノミストも、この仕掛けには全く気付いていなかったのです。

ソロモン・ブラザーズの真の狙い

 当時の多くの日本人投資家は、「日経平均株価は10万円に到達する」と信じて疑わない人が多くいました。誰もが強気で、今こそ、この好景気に乗って、買いに転じる時機(とき)だと確信していたのです。その結果、バブルは急速な加速度をつけて、瞬く間に膨らみ始めました。
 この時、ソロモン・ブラザーズは信じられない事をニューヨーク・ウォール街で展開していました。
 1989年11月、彼等は「東京株式大暴落の図式」に則り、『プット・ワラント』という金融派生商品を売り始めていたのです。

 『プット・ワラント』とは、「日経平均株価が大暴落したら大儲け」という新商品であり、この商品をアメリカの大口機関投資家に大量売り込みを図っていたのです。また、これには大口投資家も飛びついたのです。
 彼等の新商品に対するキャッチ・フレーズは「年末から年始に掛けて、日本の株式は大暴落するから、60年前の《1929年10月24日の暗黒の木曜日》の時と同じくらいの大儲けが出来ますよ」でした。

1990年1月2日、ニューヨーク・ウォール街では、日本とは逆に、信じられない現象が起こっていました。突然、為替が円安へと向かったのです。この円安はソロモン・ブラザーズが『プット・ワラント』販売に因(ちな)み、債券や為替や株価の「トリプル安」を企てたものでした。
 そして1月が過ぎ、2月に入り、その月は既に中旬に入っていました。この頃、日経株価はジリ安でしたが、大暴落の兆しは現われていませんでした。

 日本人はまだ、この時にも何も気付いていなかったのです。そして日本経済が、瀕死(ひんし)の重傷に陥っている自覚症状すら、エコノミスト達は感じ取ることが出来なかったのです。

 当時の政治背景としては、自民党の政治家は2月中旬の衆議院選挙で大勝したことに祝杯を上げていた頃で、政界も財界も危機管理意識はなく、全く無防備でした。
 日本人は、まさに「ライオンに、餌を差し出す為に手を伸す呑気(のんき)な兎」でした。腕ごと食いちぎられるか、体ごと丸呑みされるかの、こうした危険すら感じる事もなく、呑気な行動をとっていたのです。
 日本人投資家が、株を買いに奔走している頃、アメリカの金融の裏側ではソロモン・ブラザーズの売り攻勢が激化を極め、これまでジリ安で状態であった株価は、一挙に大暴落へと転じました。バブル崩壊の引き金はこの時に引かれたのです。

ついに1990年2月末には、膨らむだけ膨らんだバブルは、日経平均15,000円台を大幅に割れ込みました。一挙に大暴落が起こったのです。

 ソロモン・ブラザーズの秘密兵器はデリバティブでした。
 デリバティブは説明の通り、現物と先物との価格差を狙った「サヤ取り」であり、「裁定取引」と「オプション」で、日本の株価は下落したら大儲けという派生商品です。この派生商品を、至る処に仕掛けておいて、株価を自由に操ったのです。バブル崩壊の大暴落は証券会社のみならず、大蔵省までを翻弄(ほんろう)の渦に巻き込んだのです。

 この巧妙な仕掛けでソロモン・ブラザーズは、僅か三年の研究とその実行で、一兆円にも昇る莫大な利益を手にしたのです。
 そしてこの後、日本では更に悲惨な状態が続くことになります。
 日経平均株価の大暴落は、株式市場の株価下落だけに止まらず、不動産の分野にも悪影響が及びます。この悪影響は、政府が不動産融資へのマネー供給を停止するという事から始まり、今まで高騰(こうとう)を見せていた大都市の不動産の資産価値が急速に下落したことでした。

 この現象は大都会だけに止まらず、地方にまで波及していきます。不動産の資産価値が下落するとは、それを担保にしていた金融機関の担保価値も大幅に減少したということになります。こうして不良債権の波及が表面化するのです。

 これに対して政府の後手政策は、次から次へと傷口を広げ、日本の資産とマネーの急速な収縮は、今日に見る不景気と連動し始めることになります。
 昇り詰めたものは、いずれ落ちる。これは物事の道理です。この道理に随(したが)い、ソロモン・ブラザーズは、次のプロセスへと準備にかかります。

ソロモン・ブラザーズの真の目的は、ただ単に、日経平均株価を下落させて大儲けすることだけではなかったのです。彼等の真の目的は、日本人の個人金融資産の1300兆円にも上る郵貯(郵便局で取り扱う国営の貯金事業で、元金・利子の支払いは国によって保証される)の食い潰しでした。日本のエコノミスト達は、この事すらも見抜けなかったのです。

 ソロモン・ブラザーズが研究の末に計画した事は、こうした下落が生じた時、政治家はもとより、財界人を始めとして、証券会社等が「これを何とかしろ」と、政府に詰め寄り、殺到することを計算に入れていたのでした。これこそ彼等の真の目的であり、ここに「日本発世界大恐慌」を画策した真の狙いが、ここにあったのです。
http://www.daitouryu.com/iyashi/shinizama/shinizama20.html

その昔、日本は国民総ででバブルに踊った時代がありますたね。
バブルを起こして潰す。奴らの詐欺手口の最たるものですた。
バブルがはじけて今では失われた10年と言われていますが、今だに日本経済はその後遺症を引きずっています。自殺者はバブル崩壊から毎年3万人。今だにその数は変わっていません。

その手口を見れば分かるのですがいつもワンパターンです。
最初は甘い話でカモを釣る。こうやれば儲かりますよ。おいしい話でカモを誘います。

そしてころ合いを見計らって真っ逆さまに突き落とす。詐欺師の典型的なパターンです。

最初に奴らはバカスカ札束を刷って、バブルを引き起こす。銀行は貸して貸して貸しまくる。株に投資すれば儲かるよ。土地を買えば儲かるよ。そしてカモが罠にかかったころ合いで急に蛇口を閉める。貸し渋りをやるわけです。
これをやられたら投資家はいきなり資金難に陥ります。そして、資金難に陥ったカモ達から担保として株、土地、あらゆる資産を奪い取るのです。昔からやっていることは同じです。
いい加減気付いたらどうかと思うのですが、今だに引っ掛かっている人がいます。

その当時の日銀総裁であった澄田智(すみださとし)と言う方をご存じでしょうか。日銀退官後は日本ユニセフ協会の会長などをやっていた方です。

澄田さんがバブル潰しの張本人と言われています。
プラザ合意以降、5%だった金利を2.5%に下げ、銀行は貸して貸して貸しまくった。その当時は、黙ってても銀行が頭を下げて貸しに来たという話は誰でも覚えているはずです。そういうジャブジャブ溢れた資金が株や不動産に流れ込んだ。借金しても金利は安いし土地や株を買えば値上がりするしで猛烈なバブルが起きたのですた。

そしてバブルが膨らみきったころ合いを図って、澄田さんはいきなり公定歩合を8%、長期金利は 10%まで引き揚げた。蛇口を閉めたのですた。借金すると金利が高い。値下がりリスクのある株や不動産よりも安全な銀行預金の方が良いということで投資家は一斉に株と不動産から資金を引き上げた。土地や株は一気に値下がり=バブル崩壊と言われています。

バカスカ金を貸し出して狂乱状態を作ってからブルを破裂させる。
その後には膨大な焼け野原、不良債権の山だけが残る。
それを二束三文で奴らが買い叩く。
昔からの手口。ばればれの三文シナリオだったのですた。

さて、それにしても、そのバブル潰しの張本人澄田さんはどのような経歴の持ち主だったのでしょうか。
澄田さんと言えばフランスに留学した留学組で、その後ベルギー大使館、フランス大使館の一等書記官からキャリアをスタートしたエリート官僚ですた。
そしてその後は、順調に大蔵省で出世して日銀総裁になっています。
澄田さんとフランス財界のつながりはお父様の代から囁かれていますた。


澄田智さんは、日銀総裁を辞めた後、ロス茶イルドフランスの旗艦、投資銀行ラザール・不レールに最高顧問として天下りしています。
ちっとはカモフラージュでもして隠せと思うのですが、親子二代に渡って奴らの充実な部下だったという、そのまんまの経歴の持ち主ですた。
http://goldentamatama.blog84.fc2.com/


詳細は

平成バブル崩壊と ソロモン・ブラザース証券 相場師列伝3
http://www.asyura2.com/09/reki02/msg/258.html

日本を売った小沢一郎 (続き)
http://www.asyura2.com/09/revival3/msg/233.html

竹中平蔵物語
http://www.asyura2.com/09/reki02/msg/301.html

http://www.asyura2.com/13/dispute31/msg/464.html#c8

[昼休み52] 日本人女性2人、リゾート地・セブ島で知り合った韓国人の男2人と飲酒→集団強姦される…フィリピン 中川隆
88. 中川隆[7726] koaQ7Jey 2017年4月13日 19:49:15 : b5JdkWvGxs : DbsSfawrpEw[8216]
2017-04-13
北朝鮮の崩壊の過程で日本に3つの危機が襲いかかってくる



中国の習近平国家主席は北朝鮮を崩壊させる度胸も気力もないので、北朝鮮の体制を何とか維持させる方向に努力する可能性が高い。

北朝鮮が崩壊すると大量の難民が中国に押し寄せるのは分かりきっている。数百万人にも及ぶ人間たちを管理し、面倒を見なければならなくなる。

それは経済的にも非常に莫大な予算がかかるものであり、今の中国はそんな予算を北朝鮮に費やしたくないというのが本音でもある。当然だが、誰も朝鮮民族の面倒などみたくない。

中国が朝鮮半島を実効支配に乗り出さなかったのは、朝鮮民族があまりにも面倒極まりない民族であり、取り込むよりも隔離して封鎖しておいた方が楽だからだ。

その結果、北朝鮮は異常な独裁者が数十年にも渡って国家を私物化することになり、それが今も続いている。

さらに北朝鮮は国民を貧困のどん底に叩き落としながらも、国家は軍拡に邁進してきた。

その結果、国に金がなくなればミサイルをところ構わず飛ばして、まわりの国から援助をもらう瀬戸際外交の物乞い国家になり、いまやその物乞い国家が核ミサイルを持とうとする最悪の局面になってしまった。

短期的には大きな混乱が押し寄せる可能性は高い

今まで北朝鮮を放置しておくのは、中国にとってもアメリカにとっても戦略上好ましいことでもあった。

(簡単に壊滅できる北朝鮮をアメリカが壊滅させない理由とは)
https://darkness-tiga.blogspot.jp/2016/03/20160303T1806050900.html

中国は北朝鮮を緩衝地帯にしてアメリカと直接対峙を避けることができたし、アメリカは北朝鮮の脅威を煽って韓国や日本に兵器や防衛システムを売りつけることができた。

しかし、北朝鮮が長距離ミサイルを持つようになり、弾頭に細菌兵器でも核でも何でも載せることができるようになると、話が違ってくる。

その長距離ミサイルがアメリカにまで到達するようになると、アメリカ本土が攻撃対象になる。それはアメリカが望んでいる現実ではないし、放置できることでもない。

バラック・オバマはそんな北朝鮮を放置し続けてきたが、そのために北朝鮮はあと数年でアメリカに核ミサイルを落とせるほどまで技術を向上させる事態を招いた。

このまま北朝鮮を放置しておくのか、それとも叩くのか。

ドナルド・トランプ大統領は、北朝鮮を叩きのめす方向を目指しており、しかも早急にそれをやりたいという意向を持ち、そのように動いている。

北朝鮮を崩壊させるというのは、長期的に見ると非常に素晴らしいことである。

異常な独裁私物国家はさっさと崩壊させ、豚のように肥え太った指導者である金正恩も、斬首でも銃殺でもして抹殺しておいた方が世の中にとっては幸せだ。

しかし、長期的に見れば今の北朝鮮の体制を崩壊させるのは良いことだが、短期的には大きな混乱が押し寄せるというのも間違いない。

何が起きるのだろうか。


日本国内で一斉蜂起、一斉テロ、一斉略奪が起きる?

北朝鮮を崩壊させるにしても、それを察知した北朝鮮が破れかぶれになると、周辺国は大きな軍事的危機に見舞われる確率が非常に高まる。

もちろん日本も例外ではない。例外どころか、むしろ日本が標的にされる確率は非常に高い。北朝鮮も例によって反日国家であり、日本に対して激しい憎悪を抱いている国だ。

追い詰められて自暴自棄になったとき、ミサイルを飛ばす先は日本であっても不思議ではない。

2017年4月13日、参院外交防衛委員会で安倍首相は「北朝鮮がサリンを弾頭につけて着弾させる能力をすでに保有している可能性がある」と発言している。

これは韓国の国防省も確認しており、北朝鮮はVXガスやサリンを含む各種化学兵器を2500トンから5000トンも保有していると言われている。

北朝鮮はマレーシアでVXガスを使用して金正男を殺害する暗殺事件を引き起こしており、毒ガスを使用する能力があることをすでに証明している。

サリンと言えば、カルト教団であるオウム真理教がテロに使ったことから日本人もその危険性をよく知っている。

今度は北朝鮮がミサイルにサリンを載せて東京や大阪と言った人口過密都市に飛ばして大量殺戮をする可能性もあるということだ。あるいは原子力発電所に向けてミサイルを飛ばすということも考えられる。

それだけではない。

北朝鮮は日本の国内に大量の工作員を紛れ込ませ、反日の人間を大量に作り出して日本社会に紛れ込ませていることを忘れてはならない。

こうした工作員や北朝鮮のシンパが自暴自棄と化した指導者の命令で、日本国内で一斉蜂起、一斉テロ、一斉略奪に動くかもしれない。

つまり、北朝鮮の崩壊が一気呵成に行われないと、場合によっては日本国内でテロの嵐になるということでもある。

だから「テロ等準備罪」の成立を急がなければならなかったのだが、これを執拗に邪魔していたのが民進党だ。

(「テロ等準備罪」の成立を邪魔する民進党を本気で潰すべき)
https://darkness-tiga.blogspot.jp/2017/04/20170406T1655510900.html


受け入れても追い出しても、大混乱に見舞われる

ミサイルが飛んでくる危険もあれば、国内で北朝鮮の工作員が一斉に蜂起する危険もある。これが今の日本の置かれた立場である。

しかし、それだけではない。短期的に見ると日本はさらに大きな試練に晒される。

北朝鮮が崩壊する中で何が起きるのかというと、まずは考えられるのが大量の難民が発生して、これらの難民が「日本に押し寄せてくる」ということである。

1950年代、李承晩(イ・スンマン)の大虐殺によって、大量の難民が日本に逃れてきて勝手に住み着くという異常事態が発生したことがあった。

反日のくせに、何かあれば日本に逃げてくるのが朝鮮民族の特性である。

この行動パターンは変わっていないので、北朝鮮が崩壊すると再び難民が大量に押し寄せてきて、数十万規模の朝鮮人が勝手に日本に住み着く危険性が高い。

本来であれば、こうした反日国家の難民たちはひとりも受け入れるべきではない。北朝鮮の難民はひとり残らず韓国が引き受けて面倒を見るべきだ。同じ朝鮮民族なのだから、それは当然のことだ。

しかし日本国内にいる中国・韓国・北朝鮮の工作員たちは、これを機に日本の侵略と乗っ取りのためにどんどん難民を受け入れるように日本に圧力をかけ始める。

狂ったように工作活動を行い、反日のマスコミもお涙頂戴の悲劇を書き立てて難民を受け入れる世論を作り出すだろう。

しかし、価値感を共有しない難民を受け入れるとどのようになるのかはテロに揺れるEU(欧州連合)を見れば分かる通りだ。北朝鮮が崩壊すると大量難民が押し寄せて、受け入れても追い出しても日本は大混乱に見舞われる。

いよいよ北朝鮮の崩壊が近づいている。

ミサイル危機、工作員の一斉蜂起危機、大量難民の危機。北朝鮮の崩壊の過程で、多くの危機が日本に襲いかかってくることになる。
https://darkness-tiga.blogspot.jp/2017/04/20170413T1740270900.html
http://www.asyura2.com/12/lunchbreak52/msg/334.html#c88

[リバイバル3] 本当のオーディオファイルは「ミニマリスト」を目指す 中川隆
16. 中川隆[7727] koaQ7Jey 2017年4月13日 20:22:31 : b5JdkWvGxs : DbsSfawrpEw[8217]

『GRFのある部屋』さんについては真偽不明の噂もありますね。

学歴、社会的地位、財産の有る人は嫉妬の対象に成り易いのですね:

GRFのある部屋 Phile-webコミュニティ
http://community.phileweb.com/mypage/3735/

GRFのある部屋 tannoy.exblog.jp
http://tannoy.exblog.jp/

ベルウッド お茶の間オーディオ Phile-webコミュニティ
http://community.phileweb.com/mypage/2408/


うわさのオーディオ・サブルーム-ウェブリブログ
鈴木と北川の二人組 2015/08/08


Phile-web コミュニティでのハンドル名は知りませんが、都内に住む、この老輩の二人組がいろいろ悪さ(Phile-web コミュニティを使った商売)をしているとのホット情報がつい最近私のところに入ったので、ご注意を。

手口は、子分の鈴木がまず Phile-web コミュニティの登録メンバーの中からターゲット候補を人選します。

オフ会と称してターゲット候補の家に一人又は無関係な第三者の連れと一緒に訪れ、いろいろ世話を焼きます。

「あの『GRFのある部屋』さんが、そこまでしてくださる」と思わせるくらいそれはそれは熱心に汗水垂らしてシステム・セッティングの世話を焼きます。

オフ会の返礼に今度は鈴木がターゲット候補を自宅に招きます。
予想していたよりも音が悪いのでターゲット候補は??と思います。

以上がファースト・ステージです。

そこで鈴木と北川はこの相手がカネになるかどうか相談します。

相談の結果、「候補」がとれて晴れてターゲットに昇格しますと、今度は、鈴木がターゲットを伴って北川の家に行きます。

そして各部屋にある高額なSPの音を聴かせて、北川が頭ごなしにウンチクをたれます。
鈴木もウンチク話にしきりに相槌をうち、その話に衷心から感じ入っているような演技をします。

ターゲットは北川のウンチク話の勢いと鈴木の演技に完全に呑まれて「第一回洗脳」が終了します。
察するにどこかの新興宗教団体の勧誘の方法をそっくりマネたのではないかと思われます。

その後も何度かターゲットを北川のところに招き「被洗脳度の進み具合」などをみて、ターゲットに高額SP、アンプその他を紹介します。
この時、すでに心理的にもターゲットは断りにくい状況に追い込まれています。

「まるで音楽評論家のような鈴木とオーディオ評論家のような北川が揃って自分のような何も知らない者を厚遇してくれた」、

「このように立派な人たちのアドバイスに背くのは申し訳ない」、

「今後の付き合いを考えるとここで断るのはまずい」、

「この人たちとの知遇を大事にすることだ」、等々。

そこで紹介された高額SP、アンプその他に手を出してしまいます。

高額商品納入後に北川と鈴木が販売業者からバック・リベートを受取ります。

そういうことが過去から横行しているとの噂です。二人組にご注意を。

この二人組に限らず Phile-web コミュニティの場を利用して商売している人が少なくないようですが、「2対1」という状況に誘い込み、そこで相手の心理状態を利用するという点でこの二人の手口は悪質です。

情報元は二人の姓は教えてくれましたが、ハンドル名を教えてくれなかったので、推測結果(ハンドル名)をここに書くのはやめておきます。

以上、噂話でした。
http://27415664.at.webry.info/201508/article_1.html


鈴木と北川の二人組 その2 2015/08/17

先の噂話の続きです。情報元から追加情報が入ってきました。

それによりますと、鈴木は62歳、北川は69歳、
この二人がひとつのハンドル名『GRFのある部屋』を共用している、というのです。
それでもって互いが自分の主張を補強している、と。


勿論、鈴木(62歳)は「大学紛争世代」ではない、
「アンチ丸山」レスは北川(69歳)が執筆。
「孔子や孟子、寮歌」の妄想も北川(69歳)の発想。
日頃のおとなしめの投稿は鈴木(62歳)が執筆。編集部もこれを分かってて放置か?

あれだけ丸山さんのワーグナー賛歌を「貴族趣味」とけなしながら、自分は2週間のドイツ音楽旅行、これって矛盾するが、二人いれば、もう一人は矛盾しない。

鈴木(62歳)の方は「西蒲田の電気屋(宗教団体・創価学会の会員?)」の明示的広告塔です。

「『GRFのある部屋』」というのは、二人以外にも複数の関係者全員で堅守する、いわばブランド(Brand)。
それをひた隠すのが汚い。
一般に商売を禁じておきながら自分は勝手でしょ!というのは欺瞞。

つまり、皆のコミュニティなんだからその場での商売を禁じるという建前だけど、息のかかったやつのすることは黙認(しかもそれを隠匿)しているのであれば、汚い。

幼稚園のように楽しく遊びましょ、というのはそれでいいんです。単なるAV・オーディオ・音楽の好きな「園児」の集まりですからね。ところが、そこにボスがいて、「不法リッピングだ!」とか「超一流の大先生」を一刀両断でけなすとかの、園児の遊びの枠を大きくはみ出してくるところが問題なのです。

狭いオーディオ世界に閉じこもる(砂場で遊ぶ)のは勝手ですが、「違法・不法」などと身の程知らずの口出しをするのは筋違い、ブランド(Brand)自身がそれをわきまえないところが問題です。

そこである人が、

「領域から外に出てはいけない、領域外のことを専断的に扱ってはいけない」

と警鐘を鳴らした訳です。SACDリッピングの話はその警鐘のためのひとつの材料にすぎないのです。何も本気で考えているのではないのです。でも思わぬ反響にびっくりしたとその人が言っていました。

業界関係者がこぞって見に来たらしくて、あの時期はアクセス数が多くて、一覧ページを開くのにひどく手間取ったと皆さんが言ってますね。
あれこそ「瓢箪から駒」というやつかもしれませんね。

話は戻って、WEBコミュニティ主催者(編集部)は、『GRFのある部屋』というブランド(Brand)が叩かれ、そのような警鐘が鳴らされるのを嫌うので、お得意の「警告メール」を発し、それに加えて「自ら日記で掲示」するという手の込んだやり方をしているのではないかと思われます。

まるで江戸時代のお奉行がお触れ書きを立てるようなやり方で「町人」を制定しようとするんですね。

こんなの書いているヤツは、三流のオーディオ・アクセ出版社の三流社員ですが、江戸期300年の歴史で日本人のDNAにしみこんでいるので、このようなお触れ書きがよく効くと思っているのでしょう。

しかもSACDリッピング論に触れずに、SACDリッピング論を問題にしているような思わせぶりですが、実は自分らが一番こまっているのは、自分らに警鐘が鳴らされた事実なんですね。ところが多くの「町人」の眼光は必ずしも紙背に徹するには至らず、ほとんどの人はそこまでの事情はよめていないでしょう。


本当に困ったもんです。


以上、情報元からのホット情報でした(残念ながら今回も情報提供者の名前は出せません)。
http://27415664.at.webry.info/201508/article_7.html


木と北川の二人組 その3 2015/08/20

先の噂話の続きです。情報元から追加情報が入ってきました。以下、引用です。


あの北川、言葉巧みですから・・・。

私も1年前に伺っているのですが、

3階建ての自社ビルの中に2部屋あり、
6畳間のユニコーン(CDオンリー)、
後ろの部屋は30畳強はある部屋にあのGRFがコーナー(アナログオンリー)にT−4(平行法、CDオンリー)はリスポジソファから先1m強先に置いてあるその他いくつかのその昔のSP連が複数あります。

その30畳強の部屋、Phile-web コミュニティとか伺った時には出ませんが、なんと3千万かけて改造してるとのことです
(これは仲のいい、ジャズ好きの方がこの前教えてくれました)。

たしかに床は頑丈で壁も違う、天井も・・・ 
そういうことを言わないで、いい音でしょうを連発は、それこそ「きもい」です。

いい音どころか居心地は悪いです。北川の性格でしょう、これは。

音は出て「なんぼ」の世界ですが、このユニコーンは解像度が良過ぎて、すべての楽器が鮮明という異次元の音でもあるのです。
あの独特の無指向性のフルレンジのSPからと巧みなバックロード構造からの奏でる音と量感音域は確かにいいのですが問題は駆動する是枝パワーとサウンドパーツ社のプリがあまりにもきれいすぎて「潔癖症」の音質と重箱を突くようでなんでも、聞こえない音まで出てくる始末。

それがいいだなんて、ちょいおかしい。

美しい奏でる音なら許せるのですがきれいではだめなんです。
それとリスポジがキッチン用の椅子であることでやや見下ろす感じです(ユニコーンが低いせいもあり)。

コンサートでいう中二階から観た聴いた感じでしょうか・・・それも有りでいいのですが、問題は音源が上に伸びない、つまり途中で音が沈むという感じです。
奥行きも壁べったりのため(6畳間を横長に)奥行きが寸詰まりです。

そのためガラスのよくある家庭のやや大きい「水槽の中での演奏を」聴いている感じです。
悪く言えば箱庭。
それに輪をかけるのが、どのCDでも同じ音質、これはいただけない、最悪! 
そして、ジャズは掛けてくれない、こちら持参のCD(クラ)も掛けてくれない、
つまり悪いとこは聴かれたくないということであり、これは他の人でもそれは同じことを聞いております。

T4、GRFも有りますが、欠点を観られたくない聴かれたくないという、ほんと演技がうまい雲助ですネ! 
このような音を初めて聞く人は、言葉巧みな戦術に入り込む恐ろしさです。


ユニコーンSPはとてもいいSPなんですが、やはり駆動側の問題が多分にあるのは聴いていても大いに感じます。
それに気が付かない北川は、やはり「お山の大将」が抜けきらないのでしょう。

30畳強のタンノイ部屋、GRFは、一言でいえば、もう古い音源の鳴り方は否めません。
コーナー置きはその昔のヴアイタボックス(クリプッシュホーン)と同じですが、GRFのほうが音の古さ(古典)がありもうお役御免でしょうか。
ソースはアナログオンリーでありカスタムメイドの超高級アンプ(球)でしょうか。

彼の鳴らし方は、奏者の解釈ではなくそれこそ「蜃気楼」そのものです。
いい悪いは別にしてもリスポジからの距離6m強はあるでしょうか、
そこのオケは蜃気楼のように並びますが、ハイライトはそこまでです。
楽器類の音色、艶、音楽の力強さ等は感じ取れません・・・
そうモノクロ。
こみあげてくるオケの音圧に空気感がないので、ただ「蜃気楼」が平然と並んでいる。
やはりホールの雰囲気を取りあえず、といった感じです。

音楽を聴く、これもありですが、どちらかというと雰囲気感と各演奏楽団のくせ(性格といいましょうか)を楽しんでいるようですネ。よく会話に出てきますから・・・オケの当てっこが好きなようです。

LP扱うのもクリーニング液には2万円(5cc)もする液体を針の掃除に毎回使い、針圧も0.1刻みのセッテイングには呆れるばかりです。こういう人もいることは、それも趣味と割り切ればですが、毎回能書きがうるさいのです。つまり自慢なんでしょう。

T4の平行法、これは Phile-webコミュニティ(彼のブログでも)では結構影響受けた人が多いのも事実ですが、次第に「それはないだろう」が分かってきた人も出てきてます。
つまり、リスポジやや先に置くか、壁手前に置くかの選択肢があるのですが、彼はリスポジやや先(1m)で行っているのですが、これが飛んでもない悪であるのです。

ゲストからのCDを掛けさせないこと、彼の選択CDのみ、つまりいいとこCDのソフトしか掛けない。

これには裏があり、つまりT4の後ろは6mあまりの空間があり、ここに音の像(蜃気楼)が浮かび上がるのですが、それはそれでいいのです。
しかし問題は、そのソースはすべて音場性のあるソフトでないと後方に集まらないのです。

これが普通の録音・・・手前SPから出る音源(一部の楽器等)と奥の空間に集まる音源とでは、その距離に「間」(間が抜けた空間)が空いてまとまった音楽が構成されないのです。

例えばジャズで見れば、手前の右SPではベースが鳴り(それもあの小さい口径からですから箱全体ではないのです)、奥ではドラムが鳴るとすると、ベースとドラムの距離(数メートル)が途方もなく間があるというこの違和感が発生するというものです。

このことは北川は絶対に言わないのと、言えば商売(T4=平行法同時売り込み)にも影響が出るということが分かっているからです。

また壁にやや近い置き方(平行法)でも、同じような傾向はありますが、これなどは奥行き感が薄れ定位も良くは無いのです。


これはあの鈴木邸がそうです。

リスポジでは定位が定まらなく、音の像も小さく聴けたものではない。

いいとこは奥の隅(L型部屋の構造?)
ここは、一応ホール感(S席でも壁よりの後方)がそれなりに味わえる、という鈴木の求める音であると思います。

しかしT4の口径(14cm?)と箱の限界(奥行き稼いでいますが)があるので、量感音域等の消えるのが早いのもこの影響でしょうか。ソースはCDメインですがやはり、どのソースも同じ音質には参ります。

どちらかというと無色透明ですネー。
「静」だとか「ラダーケーブル」を使い盛んにクリアー感を目指しているようで。
でもそれらに色艶、音源の太さ感が出てくればまだ聴きやすくなるのですが。

本人はあれだけコンサートに通っているのに、再生音は正反対の音質。よくわかりません。

平行法もいいけど、もう少し内ぶりであれば濃厚な音源が出てくると思われるのですが、そこは ホール感=雰囲気 を優先する、兄貴分の北川がそうはさせないのだと思います。

以上、引用でした。いろいろありますね、この世界は。
http://27415664.at.webry.info/201508/article_15.html


鈴木と北川の二人組 その4 2015/08/22


Phile-webコミュニティでの二人組の「釣果」について、次のような追加情報が入ってきました。


Phile-webコミュニティ
GRFのある部屋 - お気に入りユーザー一覧
http://community.phileweb.com/mypage/f_user/3735/0/


その第1号が「椀方」さん(その前には、ユニコーンのSPのみを納入して既存SPとの複合型を試みるも失敗)。これは「椀方」さんが Phile-web コミュニティ記事にしていました。

Phile-web コミュニティで、私が知っている限り「犠牲」になった人と、危うくセーフの人は数知れずです。

北川は基本的には、犠牲者のお宅に鈴木と伺うというやり方で、決してひとりでは行かないです。必ず鈴木が行った後に二人で行くのが今までのパターン。

犠牲者側が北川を呼ぶにあたってもその前に鈴木が来てますので安心感があるというわけです。主導は北川です。鈴木も共犯です。

少なくとも私が知っているかぎりで表沙汰になった人たちは次の通りです。


犠牲者の中でも本信者になってしまったのは、「椀方」さん。

「横浜のvafan」さんは今は危ういですが現行のSPでどれだけ我慢できるかです。

「にら」さんは資金がないということで、今は静かにしてますが、しばらく様子見でしょうか。

「クー△△△」さんには私が注意喚起したので来なくなったとか。

「akahanamizuki」さんも危うかったけど、彼の読みで距離を取るようになった(裏メールでの平行法の押しつけがしつこいようなことあり)。

「Loge」さん。これが問題です。長野の個人ガレージメーカーで修理等の工房。すでに相互訪問してますね。

「RICHEBOURG」さん。北川は鈴木と押しかけて平行法を押し付け、DACの中古を60万で売りつけ。音がおかしいので聴きに来てと誘いがあり、私が伺って聴いた音は、「なんじゃこの音は」でしたネ。


簡単に言いますと、たしかに平行法。しかしどう見てもぼけた「蜃気楼」というか音像がぼやけてしまっている。ピアノ・コンチェルトのピアノが後方ティンパニーの位置から鳴る、こんなの信じられんです。また、後日、置いて行ったというDACもメーカー名は「知り合い先の」ということで、「RICHEBOURG」も「???」。

そのDACも人工的な音、もしくは半導体の基板の音、現状のラックスCDPのほうが好いのです。後にDACも返却へ、平行法はその日のうちにやや内ぶりに修正、これで音が活きてきたのです。


私の見るところ第一次面接試験で落ちた候補者(というか正確には犠牲者にならずに済んだ人)は、最近では、「genmi」さん、「K&K」さんといったところでしょうか。


ごく最近では「バック△△△」さんに早速手を出しているようで、ご注意、ご注意。


以上です。追加情報はすべてフルネームですが、いろいろ差し障りがあるようなので一部を伏せ字にさせて頂きました。悪しからず、ご了承ください。
http://27415664.at.webry.info/201508/article_16.html


【鈴木】Phile-webを見守るスレ 9【政権】 [転載禁止]©2ch.net

45 :名無しさん@ゴーゴーゴーゴー!:2015/09/28(月) 22:52:52.56 ID:8+zeWyVz0

ベルウッドって鈴木のことなのね

ベル=鈴
ウッド=木


46 :名無しさん@ゴーゴーゴーゴー!:2015/09/28(月) 23:30:31.91 ID:y6ZPGsmt0
>>44-45
何をいまさら


47 :名無しさん@ゴーゴーゴーゴー!:2015/09/30(水) 10:28:20.38 ID:KA4tPCko0

マスオ大佐は店員なのね。


9 :名無しさん@ゴーゴーゴーゴー!:2015/09/24(木) 16:09:03.89 ID:yL+9TWU80

運営も鈴木に睨まれたら追い出されるという悪い先例を作ってしまったなw
もはやコミュではなく派閥が牛耳るくだらないファシズム弁当と化してしまった


15 :名無しさん@ゴーゴーゴーゴー!:2015/09/25(金) 04:08:21.84 ID:hz5V+mgE0

ベルウッドに逆らったら追放されるようになったんだ。
EVAだけじゃなくストラも消されてるし。
大賢者様の支配が続きそうだな。


17 :名無しさん@ゴーゴーゴーゴー!:2015/09/25(金) 07:09:54.79 ID:/HHKGUcU0

鈴木が次に消すのは誰か予想しようぜ


363 :名無しさん@ゴーゴーゴーゴー!:2016/02/16(火) 12:28:59.22 ID:kSSjx4jp

ブックシェルフを使いオーディオの全てが分かった
つもりになるベルウッド先生

364 :名無しさん@ゴーゴーゴーゴー!:2016/02/16(火) 20:32:28.65 ID:34xuoEGQ

東大卒の大賢者様やぞ

365 :名無しさん@ゴーゴーゴーゴー!:2016/02/16(火) 21:05:59.03 ID:ohhQ6HCD

嫌味な性格から一橋だとおもた


448 :名無しさん@ゴーゴーゴーゴー!:2016/03/19(土) 07:09:17.75 ID:3ymjp9/B

ベルウッドは英語も中国語もできるんだってね


366 :名無しさん@ゴーゴーゴーゴー!:2016/02/16(火) 21:21:44.82 ID:kSSjx4jp

東大出てもニッキーに毛が生えた程度の機器しか買えない
んだもん、そりゃ〜悔しくて人間がねじ曲がるわな。


373 :名無しさん@ゴーゴーゴーゴー!:2016/02/20(土) 16:34:51.15 ID:nujzCn07

今号AA誌、見開き2ページにわたって、鈴木特集ww


330 :名無しさん@ゴーゴーゴーゴー!:2016/02/08(月) 08:21:15.38 ID:TXNQ6Ro+

ストラ様の復活を望むw


331 :名無しさん@ゴーゴーゴーゴー!:2016/02/08(月) 23:01:15.73 ID:zfow9JWn

それは無理

332 :名無しさん@ゴーゴーゴーゴー!:2016/02/09(火) 01:26:44.57 ID:dYkxBikV

ストラってなんで去ったの


333 :名無しさん@ゴーゴーゴーゴー!:2016/02/09(火) 21:07:40.70 ID:uWXUtmb4
ニッキーに逆らって消されたんだろ


53 :名無しさん@ゴーゴーゴーゴー!:2015/10/01(木) 16:34:48.44 ID:9im7Oms40

かもん!氏よ、今度はベルウッドが座布団のステマしてるけど、検証はまだか!?
それに最近みんながこぞってオーディオショーの記事書いてるけど、これ書いてる人たちも各メーカーの回し者かもしれないからちゃんと記事にしてよ!

あとずっと前から B&W805 ユーザーの日記がやたら目立つけど、これも輸入業者の回し者のステマじゃないの?

ニッチで少額なアクセサリーを逐一怪しんでおいて、こんなに露出の多いB&W 関係者をスルーしてるのは理不尽だよ。そこも漏らさずちゃんと記事にしてな!
あ、それが済んだらアキュユーザーだね!よろしく!


69 :名無しさん@ゴーゴーゴーゴー!:2015/10/02(金) 17:21:49.86 ID:dEm+N2Zj0

EVA もなんであんな異常妄想者のブログに書いてることを真に受けてんのか。
嘘ばっかりなことが分からないのかな。

大佐が店員だとか、例の二人組が取り巻き抱えてコンビで悪徳商法とか、無理やりすぎてバカバカしいにも程がある。

オカルトアクセより、あんなやつ信じる方が百倍おかしい。
あんな異常妄想者の話を信じたばかりに、周りから総スカンと退場くらって EVA が気の毒に思えてきた。


71 :名無しさん@ゴーゴーゴーゴー!:2015/10/03(土) 00:22:26.62 ID:rCMoQPhE0
>>69
そもそもEVAは過去に自分で騒ぎ起こして自主的に退場したんだぞ。
何が気の毒だハゲ


72 :名無しさん@ゴーゴーゴーゴー!:2015/10/03(土) 04:43:31.25 ID:iodforcB0

オレも気の毒だと思うよ
毎日毎日庭いじりして、CDやらレコード聴いて、毎日同じ内容のブログ書いて、憎しみに支配されてステマをディスる
老い先短いだろうにそんな毎日だぞ
友達と囲碁を打つでもなく、孫が遊びにくるでもなく、
奥さんと笑いながら支え合うでもない
気の毒以外に言葉が思い浮かばない


73 :名無しさん@ゴーゴーゴーゴー!:2015/10/03(土) 05:58:13.16 ID:oxnDj4ci0

そもそもステマじゃないしな
http://yomogi.2ch.net/test/read.cgi/net/1442938235/

133 :名無しさん@ゴーゴーゴーゴー!:2013/07/14(日) 21:55:25.00 ID:r1VkyQ/+0

ベルウッドが連れて来た和室のユニコーンも早速上から目線全開

ユニコーンなんて聴き心地はいいけど得意不得意が激しく、うまくかかるソースが少ししかないキワモノスピーカーでしかないのに間抜けなベルウッドは良いところだけ聴かされて礼讃オンリーは恥ずかしくないのか?

ユニコーン本人が良いCDを探すだけと自白しとるがな
http://mimizun.com/log/2ch/net/1373806392/



88. 中川隆[2239] koaQ7Jey 2016年4月06日 07:58:41 : b5JdkWvGxs : DbsSfawrpEw[2240]
▲△▽▼

genmiさんの場合


のんびりオーディオライフ Phile-webコミュニティ genmiさん
http://community.phileweb.com/mypage/3852/


genmiさんのマイルーム

自宅を新築時、狭くても自分の部屋、しかも防音室が持てるだけで十分と天井高と床・壁の素材だけ指定してあとは設計士に任せました。

この時にもともと好きだった B&W をベースにオーディオ一式を新調して、オーディオの楽しさと奥深さを改めて痛感している毎日です。


SACDプレーヤー/トランスポート LUXMAND-08
DAコンバーターKORGDS-DAC-10
プリメインアンプ OCTAVEV 70SE
スピーカーシステム B&W805 Diamond
http://community.phileweb.com/mypage/myroom/3852/

ベルウッド genmi邸訪問記 (前編)2015年02月13日
http://community.phileweb.com/mypage/entry/2408/20150213/

genmi さんは、805Dをお使いです。
私もその端くれというわけで相互交流をしましょうということになりました。

私は、今ではT4になってしまいましたが長年使い込んできた N805 はまた別の使い道をめざしていて、その愛着はなおひとしおなのです。

まずは、genmiさん宅からということになって、ストラさんをお誘いしてお訪ねいたしました。

待ち合わせた駅は、東京郊外とはいえ古くからの学園都市の中心。開発の沿革をたどれば、関東大震災で倒壊した某大学を移転誘致したのが始まり。この駅もその当時に新設されたもので、三角屋根の駅舎で親しまれてきました。私にとっても懐かしい場所ですが、いまは高架となってすっかり面変わり。それでも駅前の大きな広場と真っ直ぐな広い並木道はそのままです。

学園都市らしい若やいだにぎやかな商店街から少し入っただけなのに、とても閑静な住宅地。意外にも新しい街並みで、家々はゆったりとしたたたずまい。そこに昨年3月に新築されたばかりで、その際にその一角にオーディオ専用部屋を建てられたという。住居とはコの字型に続いた建物で、中庭を挟んで半ば独立した別棟のようになっています。家族とオーディオとの互いの干渉を避けた設計となっていて、ほんとうにうらやましい環境です。


http://community.phileweb.com/images/entry/462/46241/1L.jpg?1423837641
http://community.phileweb.com/images/entry/462/46241/2L.jpg?1423837641
http://community.phileweb.com/images/entry/462/46241/3L.jpg?1423837641
http://community.phileweb.com/images/entry/462/46241/4L.jpg?1423837641


オーディオシステムの紹介は、genmi さんの初日記をご覧いただくとして、詳細は避けますが、CDPはラックスのD−08、それをオクターブV70SEのプリメインで805Dをドライブするというだけのとてもシンプルなもの。

石井式のエッセンスを設計に取り入れたという高いシーリングと白い漆喰壁の六畳間の方丈のたたずまいとよくマッチしていてとてもハイセンスなものです。

ひととおりのご説明をいただき、さっそくの音出しです。

http://community.phileweb.com/images/entry/462/46241/1L.jpg?1423837641


道すがら話題になった山口百恵。その流れで最近コミュでも話題の松田聖子のSACD。聴いてみて、805という小型ブックシェルフとは思えない広帯域でダイナミックなサウンドにとてもびっくりしました。

「百恵回帰」は、私にとってはちょっと曰くつきのソフトなのですが、やっぱり同じような違和感を持ちました。「正しくないソフトを正しくなく再生する」というモニターオーディオの真骨頂とでもいうべきサウンドです。


遠藤響子の「ホッチキス」。とてもナチュラルで身近に迫るようなボーカルの生々しさと、ベーゼンドルファの豊かな響きとまろやかで華のある高音域が冴えています。

ボーカルはおそらくノイマン真空管マイクのモノ録りで、ピアノのステレオ録りとのラインを単純にミックスさせて重ねただけ。マイクのセッティングだけで追い込んだほとんど加工味を感じさせないサウンド。このソフトはとても欲しくなりました。


ジャズも聴きました。ジョン・ステッチのリーダーアルバムで、これはボーカルなしのコンボ。これも、ジャズアルバムとは言いながら、ヴィーナス・レーベルのようなリッチな味付けのないナチュラルな高解像度サウンド。ピアノやシンバルの高域のキレが素晴らしい。


805とオクターブの真空管アンプという組み合わせからは、現代的なモニターサウンドでありながら、色彩のコントラストが深く鮮やかで、しかも、艶のある暖色系のサウンドが出ています。

真空管といってもレトロな音味やありがちなひ弱さや肥満体質とか、ハイエンドにありがちな冷たさや希薄さとも無縁。この押し出しのよさと鮮度の高いサウンドは、導入したばかりというアンプの別電源にあるのでしょうか。

導入以前の音を知りませんので、これは全くの超ブラックボックスです。


…と、ここら辺りからストラさんが動き出します(笑)。


(続く)


レス一覧

ベルウッドさん、こんばんは。

『超』ブラックボックスの導入で益々磨かれた genmiサウンドだと思います。私が訪問した時はブラックボックスの時でしたので『超』化がどれほどの効果なのか?気になっております。

それにしても genmiさんはストラさんとベルウッドさん同時オフ会とは思い切った事するな~(゚Д゚)

私なんて、酷評が怖くて散々お二方から逃げ廻っていたのに(笑)
まあ結局捕まってしましたが…

此方もあれから更に磨いておりますので、またよろしくお願いします。m(_ _)m
byニッキー at2015-02-13 23:57


ニッキーさん

この別電源は、私にはあくまでも中味不明のブラックボックスです(笑)。
『超』の効果はご自分で確かめてみくださいね。
でも、結果しか聴いていませんが、い〜い感じですよ。

磨きをかけたニッキーサウンド、また聴かせてください。
byベルウッド at2015-02-14 09:18


ストラさん

自分だけの「男の城」が持てるのはうらやましいですね。しかも、モダンでシンプル、落ち着けます。インテリアとしては、裸電球なのか、それとも赤外線ヒーターなのか?(笑)

さて、後半は、ストラさんというコワ〜イお人が登場しますよ〜。お楽しみに。
byベルウッド at2015-02-14 09:21


ベルウッドさん、ストラさん、こんにちは。

先日はオフ会をこちらのスケジュールに合わせて頂きましてありがとうございました。このコミュで有名な御二方を同時にお招きするのは、素人同然の小生にとって非常に緊張したオフ会となりました!

ニッキーさんがおっしゃるように思い切ったことをしてしまいました(爆)

後編でのコワ〜イお話は、本当に冷や汗ものでしたが、単刀直入に言って頂けたことが今まで私の中でモヤモヤしていた部分と重なって確信につながり、早速行動を起こすことができました。

どんな行動かは、後編でのレスに書きますね!
bygenmi at2015-02-14 11:25


こんにちは。

ワクワクしながら拝見させていただいてます。
まさかあれをああして、あれをぐっとああしたとかですか?!
byにら at2015-02-14 11:37


にらさん

そうなんです。それをこうして、これをぐっとそうしたのです(爆)真相は後編で…。
byベルウッド at2015-02-15 09:32
http://community.phileweb.com/mypage/entry/2408/20150213/


genmi邸訪問記 (後編) 2015年02月14日

genmiさんとの交流オフ会、genmi邸訪問記の続きです。


http://community.phileweb.com/images/entry/462/46251/5L.jpg?1423914720


805Dとオクターブのプリメインというシンプルな組み合わせのシステムから押し出してくる、現代モニター的なワイドレンジ・高解像、なおかつ、艶のある暖色系サウンドにすっかり感心していたら、かたわらでストラさんが動き出しました(笑)。

ストラさんの定番ソフトのヴァイオリンをかけてもらうことに。

genmi さんは、ジャズ系がお好みで、しかも、特にピアノがお好きということでしたので戦々恐々のご表情です(笑)。

すると、ストラさんはヴァイオリンの音像定位が不安定で、左右両スピーカーに音が飛んだり広がっていると仰る。

また、先ほどのジャズ・コンボでも、ドラムスの音が左右バラバラだったのも不満だったのこと。

http://community.phileweb.com/images/entry/462/46251/1L.jpg?1423914720


確かに、ヴァイオリンを近めのマイクでとらえたものは音像が大きく不安定になりがちなもの。ヴァイオリンや木管楽器は、周波数帯域によって音の拡がり(指向性)が異なるからです。決して全てがシステムセッティングのせいではありません。ドラムセットを左右一杯に広げて定位させるのもジャズ録音の常道です。

それでは…ということで、私も定番ソフトを取り出してかけていただきました。


聴いてみると、確かに焦点が合っていません。幸田浩子さんのボーカルがちょっと薄くて白っぽくくすんで聞こえます。コントラバスの定位が曖昧で、少し甲高くチェロと区別がつきにくくなっています。

genmiさんは、高域フェチのようで、高域にクセを持たせてありますが、それにしてもヴァイオリンの音はちょっと人工的に過ぎるようです。

オーディオの不思議なところですが、ポップやジャズでは少しも気にならないことが、クラシック系の、それもワンポイント的な録音ではいろいろなことが気になってきます。


genmiさんが、どうぞスピーカー位置を変えてみてくださいと仰るので動かしてみることになりました。


http://community.phileweb.com/images/entry/462/46251/4L.jpg?1423914720


スピーカーの足元は、エスカートのサイシス(SEISIS)というオーディオボードを置き台にされています。

部屋のフローリングはカリン材のようなしっかりしたものですがやはり振動と耐震性を考慮されてこの置き台を採用されたとか。

この耐震機能を利用して上層部が自在に動くようになっているのです。

ボード全体の移動も簡単です。このボードはいいですね。
私も導入を検討したいと思いました。


スピーカーは平行法。リスポジとは正三角形で厳密に合わせておられたそうです。

両スピーカー間隔はおよそ175pほどですが、この間隔はそのままにして前後と内振りだけで調整していきます。

まず、モノ録音のCDでセンターと音色を合わせていきます。それから先ほどの幸田浩子さんでさらに微調整。

最終的には、スピーカーを後方壁側に5pほど寄せました。

板目一枚よりやや少なめ。左スピーカーだけをさらに2o下げて内振りは右側を数o程度。

これで焦点が合いました。

これで幸田さんの実在感と声の拡がりがまるで違ってきます。

これで、先ほどの天満敦子さんの「ユモレスク」をストラさんに聴いていただきます。

各段に良くなったとのこと。…でも、まだ、不満だと仰るのです。

やはり、音像の拡がりとバラバラ感が解消しないとのこと。

この辺りは、目指す音の理想や好みの問題もあるのかと思いますが、genmiさんのお好みジャンルもあるので、ここはいっそのこと平行法にこだわるのはやめて、内振りにしようということに。


次は、ボード全体を動かして思い切って内振りにしてみました。

こうすると音像は締まってきますし定位もはっきりしてきます。

その代わり、部屋いっぱいに広がっていた響きは失われてしまいます。

音場が小さくなり両スピーカーの間に限定されてしいますし、せっかくの天井高なのにその高さも失われてしまいます。

とはいえ、genmiさんのジャンルのお好みからすればこちらがよいのではないかというのが、この場での三人の結論でした。

これで、グレース・マーヤの「モナリザ」も、もう一度、聴いてみます。


これは、いかにもライブらしい空気感がみなぎる好録音で、左手のアコギの響きとエコーが印象的。

ところが、調整前、ストラさんが指摘していたギターが左スピーカーに張り付いてしまう現象がなかなか解消しません。

さらに微調整してすこし奥行きが出たような気がしますが完全ではありません。

これはあくまでも私の仮説ですが、ケーブルで高域にクセを持たせているためで再生音の帯域バランスや位相に歪みがあるせいだと思われます。

genmiさんによれば、ここは電源ケーブルを疑っておられるそうで、この電源ケーブルが気に入っておられないようでした。

ケーブルで音味をつけるのは高等技術。いわば「大人の技」です。

ケーブルを選ぶにせよ、クセのないフラットな、いわば「すっぴん」のケーブルを標準原器としておいたほうがよいと思います。

こういうケーブルは安価なので必ずひとつはリファレンスとして備えておいてはどうでしょうか。

電源ケーブルやスピーカーケーブルで言えばダイエイやモガミの普通の赤黒の平行線とかベルデンやモガミ3082とかです。

genmiさんは、自分の目指す音や好みのジャンルや楽器がしっかりされているので、そうやってリファレンスをベースに丁寧に比較試聴していけば、決して蛇の道に迷い込むことはないでしょう。


スピーカーの調整実験も、面白かったですね。

平行法か内振りかは最終的には genmiさんが選ぶこと。

スピーカーの位置や間隔も、部屋がオーディオ専用でシンプルなので一番良く鳴る位置を実際にスピーカーを動かして探索し、そこからセッティングの調整をされるとよいと思います。

なにしろ誰もがうらやむ専用の「男の城」なのですから。

ストラさん、ありがとうございました。
genmiさん、次はぜひ拙宅にもおいでください。

(おわり)


レス一覧

ベルウッドさん、こんにちは。

確かに普段ヴァイオリン系は聴かないものの、オールジャンルをソコソコに、という私の目標には達していないことが今回のオフ会で明確に確認できました。実は、ニッキーさんとの直近のオフ会でもニッキーさんがお持ちの弦楽器系のソフトがうまく鳴らず、ニッキーさんも首を傾げていらっしゃいました。

以前から原因はある程度特定できていました。ゾノトーンの電源ケーブルではないかと。昨年試聴した際に好印象だったレクストの Z-PRC01 を入手して V70SE の電源ケーブルを差し替えてみたところ、見事に的中。

ベルウッドさんやストラさんが満足するレベルまではまだ行っていないとは思いますが、全体的に華やかさが減り落ち着いた音調になりました。ヴァイオリンのソフトでは倍音がとても自然になりヴァイオリンらしい音に近づいたのではないかと思っています。

上下音域のノビはそのままに、塩胡椒だけで味付けしたシンプルな落ち着ける音になりました。

このゾノトーンのケーブルは、2年ほど前にオーディオ装置を一式新調する際にショップの方にお任せして選んでもらったものです。

その時はオーディオに対する知識も思いも今ほどありませんでしたので仕方ないのですが、今回改めて電源ケーブルの重要性を知る良い機会となりました。

スピーカーの位置についても、低域のボワ付きを改善するためにどんどんと前に出てきてあの位置で落ち着いたという経緯があります(その当時は内振りセッティング)。

その後平行法を試してみて良かったので半年ほどノータッチだったのですが、左右のスピーカーを個別に微調整して音の焦点が合うとスピーカーの存在が消えてステージが形成されるということも体験できて大変勉強になりました。

苦労して前に少しづつ出してきたスピーカーを反対に後ろの壁に近づけるという発想は皆無でしたので、今回これは私の中で大きな収穫でした。

今は内振り角度を左右できっちり揃えまして、この状態でしばらく聞いてみようと思います。

また問題を見つけにいらしてくださいね。今度はベルウッドさんの音作りを勉強させて頂くのを楽しみにしています。

最後に...ストラさんだけがコワそうな文章表現でしたが、試聴中に右や左に身体を傾けたり、席を立ったり座ったり、前進したり後退したりするベルウッドさんも私からするとすご〜く怖かったです(笑)
bygenmi at2015-02-14 13:52


追伸ですが、スピーカーを内振りにしたことでソファをフローリング板一枚ほど後退させてリスポジとスピーカー間の距離を離すことができました。

これによって左右の音の広がりも少し改善されたように思います。
bygenmi at2015-02-14 13:59


ストラさん、こんにちは。

改めて先日はお世話になりました。

大先生方の職人技を目の当たりにして大変勉強になりました。第三者の意見も非常に貴重で、また的確なので大いに参考になりました。

ク◯イナ製スタンドはまだ私の中で信頼していますので、何かの際はセッティングや調整で対処できたらと思います。制振ボードも導入理由は地震対策なので保険の意味合いがあり手放せないアイテムなんです ^^;

今後ともアドバイスをお願いいたします。お近くですので、生徒がちゃんとやっているか時々チェックしにいらしてくださいね。
bygenmi at2015-02-14 16:12


genmiさん

やはり電源ケーブルでしたか。

電源系は、機器もCDPとアンプ、それに genmiさんの場合は「ボックス」が2個あるし、ケーブルは何本あるのでしょう?

全部一気に替えられたのですか?◎◎◎◎◎

いずれにせよ、スピーカーのセッティングってこんなに音が変わるのだということに驚かれたでしょう。

基本が出来ていれば出来ているほどそれははっきりと出ます。
自分でいろいろ試されてベストを探り当ててください。


…でも、個人的には平行法に未練があるなぁ(笑)
byベルウッド at2015-02-15 09:53


ストラさん

私も、あのインシュレーターをさらにスピーカーと台にも入れているのはちょっと気になりました。いわゆる「何段重ね」というわけです。

不安定かもしれませんね。

アクセは、足し算のし過ぎは一般的によくないです。たまに、引き算して「検算」してみるのがよいかもしれませんよ。

クライナのスタンドには砂が入っているそうですから、いわゆる「制振系」=鳴かないスタンドなのでしょうね。

私のFAPSのサイドプレスとは真反対の思想です。部屋が石井式ということで、吸音と反射のハイブリッドですから、本当は「鳴く」タイプのほうが音の抜けやスピード感がでて、指向性も広がる方向にいくと思います。

タイトでリジッドなサウンドを目指すならいまのままでもよいのではないでしょうか。

この選択は、好みというよりは、経験のほうが大きいかもしれません。
byベルウッド at2015-02-15 10:36


ベルウッドさん、おはようございます。

genmiシステムはやはり、ご両人の『監査』には厳しいかったかな?

まあ、『鬼教官』が怖くて逃げ廻っていた私が言えるセリフでもありませんが(爆)

バイオリンの件は直近のオフ会にて『いずれ大ベテラン方に指摘される事』と思っておりましたが、このタミングでその大ベテランを呼ぶとは思っていませんでした(汗)

私は『自分が聴くジャンルでシステムを組んで何が悪い』と言う考えもありだと思いますが、genmiシステムは『高音の味(銀線ケーブルの音)』が濃すぎですね。

ゾノトーンの電源ケーブルも歪みと高音の癖が出やすいので、彼のシステムは電源からSPケーブルまで癖が強いケーブルで繋がっているはずだと思います。

自分の音を保ちながらオールジャンルにおいて聴きやすいシステムにするなら、癖のある要素を一つか、多くても2つ程度に抑える必要を感じます。

genmiシステムにおいて『銀線』はトレードマークですから、RCAかSPケーブルのどちらか?は残した方が良いと思います。

多分SPケーブルだけ今のモノを使い続けた方が今の個性は生きると思います。電源やRCAに癖や歪みがあるものを使うと『癖や歪みまで増幅』します。

あとはベルウッドさんの言うようにベルデンなどのスタジオ系のケーブルで機器の『素の音』の確認をしてからの変える部分と変えない部分を考えてはどうでしょうか?

ベルウッドさん半分以上はgenmiさん宛の文章になり失礼しましたm(_ _)m
byニッキー at2015-02-15 10:46


ベルウッドさん、ニッキーさん、私のシステムでご意見ありがとうございます!

皆様方のコメントを参考にしてこの先のステップに進んで行ければと思いますが、基本今の音が好きなので、装置やケーブルの入れ替えと言うよりインシュレーターやセッティングの方で詰めていけたらと考えています。

言葉にすると、タイトでリジットな音が好きなんですね。
高音フェチでもあります(大汗)
bygenmi at2015-02-15 11:15


ベルウッドさん

ご質問にお答えしていませんでした m(__)m

拙宅のシステムでは、電源ケーブルは全部でAMP、CDP、RGPC400proの3本です。

この中でAMPに使用していたゾノトーンを変えました。

CDPは奥津電工のAirでこれもショップに選んでもらったものです。
RGPC400pro にはラックス D-08付属ケーブルを使っています。

平行法にはすぐに戻せるので、しばらく今の内振りで聞いてみようと思います。
bygenmi at2015-02-15 12:55


ニッキーさん、こんにちは。

誤解があるといけないのでひとつだけ言わせて頂くと、自分のシステムでニッキーさんのシステムような『聴きやすい音』は目指していません。

私の好きな音はシャープで自分が聴いていてゾクゾクする音です(抽象的でスミマセン...)。

先日のニッキーさんとのオフ会や今回のベルウッドさんやストラさんからのコメントでヴァイオリンの音が違うと気が付いたのでそこを修正したかっただけなんです。

音場についても調整を進めて上を目指していきたいと思っていますが、それ以外は現状に満足しちゃっているんですね ^^;

自分の好きな音の傾向は変わっていくかもしれませんし、これから間違いに気付くかもしれませんが、それはその時、マイペースな自然体でオーディオを続けていけたらと思っています。

自分のオーディオに対するスタンスを理解して頂きたいのであえて書かせて頂きました。ニッキーさん、最新の音を聞きにまたいらしてくださいね。ベルウッドさん、お邪魔しました。スミマセン m(__)m
bygenmi at2015-02-15 15:39


genmiさん、こんばんは。

>>誤解があるといけないのでひとつだけ言わせて頂くと、自分のシステムでニッキーさんのシステムような『聴きやすい音』は目指していません。私の好きな音はシャープで自分が聴いていてゾクゾクする音です(抽象的でスミマセン...)。

私もgenmiさんのシステムは正にその通りの音だと思います。

自分のシステムはワクワク、ゾクゾクといった感情はドンドン希薄になっており、genmi邸のシステムが恋しくなる時もあります。

自分が『一番聴くジャンルで自分の理想通りの音』genmiさんのシステムはそれで良いと私も思います。

自分のシステムなのでがむしゃらに自分の理想を追い求めて行きたいですね。

私やベテラン方の意見はアドバイスであって『そうしなければいけない訳ではない』とも思っておきましょう。

オーディオは『自分の趣味』なんですから。

次にgenmi邸のシステムを聴く機会を楽しみにしておりますので、またよろしくお願いします。

byニッキー at2015-02-15 18:14
http://community.phileweb.com/mypage/entry/2408/20150214/


________


北川がクセモノである所以は、オフ会(お宅訪問)をしても必ず同行の鈴木に日記を書かせ、本人はその日記にレスを入れ、そこで褒めあげて周りの人達(日記の記事をみている人)を誘い込むというパターンです。

一方、鈴木のオフ会記事での批評はすべて甘くなり、以前と比べて変化が起きているようです。焦りでしょうか。たとえば、直近の例をあげます。これらのお宅の訪問のあと、鈴木は実際には次のような感想を私にもらしているのです。

ひとつは、「genmi」さん。

石井式をモデルにした6畳の部屋ですが壁が厚く(20p以上?)実質5畳ぐらいです。
天井高が3mあるのが唯一の救いでしょうか?
ここはオーディオ以前の音で音楽表現は無理です。


この人はすべて、某Dショップ/H店長の言いなりのようです(から入り込みは難しいかも)。

高音域にメリハリがあるが、中身は薄い。

一見いいように聞こえますが、高音域はブリキ板というかステンレス板の音で、そこに低音域が乗ってこないので、「きれいそうな音」、わかりやすく言えば無機質の硬い音です。

たとえBGMであってもこんなものは聞けないです。評価など、本当はできないです。

頭が痛くなるキンキン音。ラジカセを大きくしたコンポとでも申しましょうか。

折角行ったので仕方なく、私は 1o 単位でスピーカー位置を調整して(遊んで)やりました。

この人はそれをみて感心しきりでした。
実情を知らない素人はこれで簡単に引っかかります。ちょろいもんです。
http://27415664.at.webry.info/201509/article_2.html


genmi この3週間の格闘の成果 2015年03月03日
http://community.phileweb.com/mypage/entry/3852/20150303/46449/

ベルウッドさんとストラさんのご来訪から早3週間近く経ちましたが、その間にストラ邸に訪問させて頂いたり、自分のシステムの見直しを一から行っていました。
自分自身の備忘録として、変更箇所を書き留めさせてください。


1.リスニングポイントの変更

ソファを後方に10cm程度動かしました。
以下の調整はこのリスニングポイントをベースに行っています。

2.スピーカーの位置調整とレベル出し

ベルウッドさんとストラさんがご来訪時に行った805Dの位置決めですが、セッティング当初からシステムや環境も相当変わっているので、この際この機会にちゃんとやろうとここは時間をかけてやりました。

結果的に、SPを後ろの壁からさらに20cmほど離しまして、背面の壁との距離は約80cmとなりました。内振りの角度もSPの存在が消える位置に微調整して左右SPの位置条件を完全に一致させました。これに伴ってSP側面の壁にあるヤマハのパネルもSPの横まで移動させました。

SPスタンドと805Dのレベル出しを水準器を使ってきっちりしました。

最終的には、リスニングポイントとSPの位置関係は正三角形にかなり近くなっています。

3.御影石の完全撤去

AMPやCDPの下にはそれぞれ5cmと3cmの御影石の上に載せていましたが、以前から高域での共振の懸念があったので、サンシャインのマグネシウム超薄型制振シートV50に差し替えました。機器の脚とV50の間にはMgSPENCERを挟みました。また、メーカー推奨のアーシングもAMPとCDPの両方で行いました。


4.電源ケーブルや接続方法の変更

AMPにはゾノトーンの6NPS-5.5 Grandioを、CDPには奥津電工のAIR3-ALを使っていましたが、最近発売されたパワーリベラメンテACPL-1.3を2本導入して試行錯誤の末、アースループも考えて以下のようにつなぎました。

              壁コン
               ↓ACPL-1.3
            RGPC400pro
LUXMAN JPA-15000↓   ↓ACPL-1.3
            CDP   AMP


5.液晶テレビ画面の反射対策

液晶テレビが左右SPのちょうど中央にあるとはいえ、直線距離で後方に100cm以上離れていたので対策不要かと考えていましたが、試しにフリースのブランケットをテレビに被せてみたところ定位や音艶に大きな向上があったのでここがブランケットの定位置となりました。

6.その他

・ネジや端子を確認しましたら、SPの端子がひとつ緩んでいました。
・805Dのフェージングプラグも片側が少し緩んでいました。
・床に置くボール型の照明をSP前から背後に移動しました。
  ↑音には関係ないのですが視覚的に良くなりました (^_^;)

ここに記載した以外にも細々した変更や対策を行いましたが、やはりスピーカーの厳密な位置調整は非常に重要だなと再認識したとともに、SPから離れているから大丈夫と思い込んでいた液晶テレビが相当定位を乱していたことにはとても驚きました。

大変な3週間でしたが、きっかけを作って頂いたベルウッドさんとストラさんには感謝しています。ヴァイオリンの音が???に思ったのが事の始まりなんですが、自分の駄耳レベルではヴァイオリンの音はこんなものだろうと言い聞かせています(爆)


レス一覧

genmiさん おはようございます
大格闘、お疲れ様です。
何だか写真だけでも見た感じがよくなりましたね。実際にその成果をぜひお聴かせ下さい。

御影石は、何につけてもあまりよくないようです。比重が大きいので重量的な安定は得られるので使いようによっては重宝しますが、固有の鳴きがカンカンするのと内部反射がきついので振動が機器と往来して逃げてくれないという気がします。

ネジのトルク管理は大切ですね。805のプラグはけっこう緩みます。私も時々鼻をつまんでやりました(笑)。

ちなみにユニット取り付けのボルトも定期的にチェックしてみて下さい。締め過ぎもよくないので、いったん緩めてみてまた締めるというのがコツ。マニュアルでもかまいませんが、トルクレンチがあれば便利です。あまり神経質に頻繁にやり過ぎるのもよくないかもしれませんが。この辺りはわかってくると聴いていておや?と気づくようになります。

格闘の3週間…とはいえ、genmi さんはけっこう楽しまれたのでは?真剣なまなざしとともに楽しそうな笑顔が目に浮かびますよ。
byベルウッド at2015-03-04 09:13


ベルウッドさん、こんにちは。

仰る通り、確かに詰めれば詰めるほど音がどんどん良くなるのでエンジョイはしたのですが、もう一度再セッティングしろと言われても今はとても考えられません。出産直後の女性みたいなものでしょうか (^_^;)

御影石はずっしりして良さげなのですが、鳴く感じが否めませんね。撤去できてスッキリしたものの、不要となった三枚の御影石の置き場所に困っています。場所もとるしなんといっても重いので(笑)

トルク管理のアドバイスありがとうございます。805D のウーファーユニットは8本のネジでキャビネットに固定されているのですが、去年すべてのネジに制振合金のワッシャーをかましました。その時に自分の感覚で一応トルク管理はしています(相当の誤差でしょうが…)。今回の件があったので時間を見つけてまた確認してみます。
bygenmi at2015-03-04 12:46
http://community.phileweb.com/mypage/entry/3852/20150303/46449/



89. 中川隆[2247] koaQ7Jey 2016年4月07日 08:48:52 : b5JdkWvGxs : DbsSfawrpEw[2249]
▲△▽▼

664 :名無しさん@ゴーゴーゴーゴー!:2015/09/06(日) 11:46:20.72 ID:eaKeJsFd0

これってもう出てる?周知の事実だったらごめん。

鈴木と北川の二人組 第三幕 その12 2015/12/21 19:46
http://27415664.at.webry.info/


641 :名無しさん@ゴーゴーゴーゴー!:2015/09/05(土) 17:49:27.96 ID:oIQs6Bqw0

ベルウッドがつるんでる業者は出水電機だっけ?


665 :名無しさん@ゴーゴーゴーゴー!:2015/09/06(日) 12:00:38.45 ID:z59B/kKz0

これ強烈だね。真実なのか統合失調症なのか第三者には分からないので、内部告発希望ですね


666 :名無しさん@ゴーゴーゴーゴー!:2015/09/06(日) 12:21:34.43 ID:7ZCU6SCH0
>>664
その2を読んだら これどうみても、かもん!が書いたとしか思えない
ベルとは同じ穴のムジナだから、自分の醜さの写しを見るようで憎い!
となるのかな


669 :名無しさん@ゴーゴーゴーゴー!:2015/09/06(日) 12:39:53.71 ID:eaKeJsFd0

書き込んだ後、そのサイト周り調べてみたけど、どうもかもんがそのブログ運営してるみたいね。
https://www.google.co.jp/?gws_rd=ssl#q=site:27415664.at.webry.info

どこまで事実でどこからが妄想か分からんけど、なんかもう…。


671 :名無しさん@ゴーゴーゴーゴー!:2015/09/06(日) 13:28:41.19 ID:22k56yV30
>>669
書こうと思ったことが全部覆されたわw

多少妄想が入ってるにしては出来過ぎなんだよな、被害者らしき人のブログ見たけど大体合ってそうだし
かもん!って一体誰?ひょっとして被害者の一人?それとも寝返った?


673 :名無しさん@ゴーゴーゴーゴー!:2015/09/06(日) 13:55:36.93 ID:0iklk2Dr0

かもんの SACDリッピングは違法じゃない論に対してベルウッドが否定的な記事書いたのが8月5日で
そのブログが立ち上がったのが8月8日なんだよな

情報源って実はかもん自身な気がする
かもんは発狂してない時期に結構ベルウッドとコメント交わしてたし
本性を見抜けなかったベルウッドがメールで色々喋ったのでは


686 :名無しさん@ゴーゴーゴーゴー!:2015/09/06(日) 15:19:12.17 ID:eaKeJsFd0
>>673
立ち上げたのは、おそらく7月29日
消した記事が結構にある模様


674 :名無しさん@ゴーゴーゴーゴー!:2015/09/06(日) 14:01:48.22 ID:z59B/kKz0

文字が全角だよね。
かもん全角だね。
B と G の本名やコミュの内部事情なんて分からないんじゃないかと思う。(但しそれが事実なら)
あのブログ背筋が冷たくなる感じする。ちょっとおかしい人が書いている文章。


672 :名無しさん@ゴーゴーゴーゴー!:2015/09/06(日) 13:46:07.86 ID:p06Vi8v70
>>664
文章読むとストラが書いているように思えてならない。皆さんどう思います?


676 :名無しさん@ゴーゴーゴーゴー!:2015/09/06(日) 14:09:11.90 ID:h8tVEJle0

出て来るメンツと G邸と べ邸の音の感想の傾向から言って 3, 4, 7 の情報元はストラにしか思えないし、信ぴょう性は結構高いと思う。

後はかもん!の文章で信ぴょう性は落ちる。
かもんが不必要に自分の文章を混ぜてるから全体的な信ぴょう性を落としてるね、勿体無い

690 :名無しさん@ゴーゴーゴーゴー!:2015/09/06(日) 18:59:00.12 ID:W9LKQRzq0

キャッシュに、

「以下の話は、最近、Phile-webコミュニティでROMに徹している「かもん!」さんから伺った話です。」

とあるけどw
かもんと EVA が共謀して報復活動を展開しているのかな。南無


680 :名無しさん@ゴーゴーゴーゴー!:2015/09/06(日) 14:30:46.46 ID:z59B/kKz0

件のブログ、仲良しグループへのルサンチマンと精神病で出来てる気がしてならないんだけど
そうすると Eさんが犯人なのかな?と思う。
G のブログをみてみたけど、この夏はスイスに行ったみたいだし。ちょっと変だ。

682 :名無しさん@ゴーゴーゴーゴー!:2015/09/06(日) 14:44:47.46 ID:8bIEAJ1wO

精神病院、かもん! (意訳:病院が来い


683 :名無しさん@ゴーゴーゴーゴー!:2015/09/06(日) 14:55:03.24 ID:qrdjxlTs0
>>664
読んだ。

あの 2人がコツコツとわざわざ小銭を稼ぐのに、そんな地道に細かく周到な罠をかけてるとは毛頭も思えない。

二者の日記や記述を見れば、そんな貧乏暇無しには思えない。
普通の社会人ならそのくらい読み取れるだろうに。
これ書いた人ヤバイな、人間的に。


684 :名無しさん@ゴーゴーゴーゴー!:2015/09/06(日) 14:58:54.43 ID:0iklk2Dr0

悪口はガチでステマ云々は妄想だろな
そんな手間かけてたらステマのバックマージンとか吹っ飛ぶ
メーカーと仲良くなって自発的に宣伝活動ならよくある話だが

706 :名無しさん@ゴーゴーゴーゴー!:2015/09/07(月) 05:56:40.91 ID:FZj+iJsS0

なんでもかんでもステマやリベートとか幼稚な発想もうやめようよ


709 :名無しさん@ゴーゴーゴーゴー!:2015/09/07(月) 09:14:49.74 ID:z8Pfj5jf0

営業だ何だで全国飛び回ってるのならともかく、比較的近所のオフ会程度で関われる数の人間に買わせたところで大したことない気もするが。
ねずみ講じゃないけど、際限なく付き合いが広がるものでもなし。


755 :名無しさん@ゴーゴーゴーゴー!:2015/09/09(水) 11:18:51.99 ID:UluCMXaY0

正直、どうせ大した額ではないであろうマージンなんてどうでもいいんだよな。
もしかしたら、引っ越しの手伝いをしたら食べさせてもらった昼食のほうが高いかもしれないし。

流石にジュースよりは高いだろうが、それでもそんなもんでしょ。
それを言ったら、宣伝商売で成り立ってる音元出版自身も Phile-web も対象になるし。
だけど、何を悔しいのかしらんけど、糞虫かもん!と EVA はダメだ。 やり過ぎた。
考え方も卑屈だが、方法が気に入らない。


687 :名無しさん@ゴーゴーゴーゴー!:2015/09/06(日) 16:08:49.58 ID:5elOUF4t0

ブログ主はコミュの仲良し仲間で裏直メールを得てる立場の人
ネタ的に 1年前の仕業をばらし警告している
直球なEVAは妄想を加え吠える かもん!は別な狂人


691 :名無しさん@ゴーゴーゴーゴー!:2015/09/06(日) 19:10:56.75 ID:7ZCU6SCH0
>>687ちげーぞ

悲しい話だが
EVA は元々ストラ憎しで始めた悪口(やもない爺さん)なのに、バカだから調子に乗ってかもん!ブログの悪玉の件に乗っかりやがった

ネタ元が EVA 憎しのストラとは知らずに一生懸命提灯を持ったが、あら残念
その6でバッサリと討ち取られとるがな

(中段あたりだが、ストラは自分がネタ元と感づかれるのを警戒して少し濁して復習してるw かもんの文章力乙)

EVA は気づかずにその後の7も日記で提灯を持ち続けている。
これを悲劇と言わずしてなんと言おう
EVA は他人とイザコザ起こすには基礎学力不足すぎ


696 :名無しさん@ゴーゴーゴーゴー!:2015/09/06(日) 22:59:34.70 ID:bwP8F6r70

なるほど、例のブログは作成かもん!、EVAとの共作か。

内容はその二人のどっちかが耳にしたストラ談話を盛り込んで現実味を出して、あとはほとんど妄想、

かもん!と EVA の恨みつらみのストーリーに仕立てたわけか。
やれやれ、老害どころか中途半端に筆が立つとんだ病人の妄想話につき合わされてしまったわけだ。

しかし人の恨みは怖いね。今までの老人ホームの陰湿ないじめ、ヒソヒソ話がインターネットで増幅された現代のニュースタイルか。
これからこういうの流行るのかな。

そして結局ストラは利用されただけか。今頃怒ってるだろうな。


809 :名無しさん@ゴーゴーゴーゴー!:2015/09/12(土) 11:37:19.65 ID:ILEOcai50

かもん!氏のブログ、もうここまでくると支離滅裂ですね。
精神分裂症でしょうか。

批判を目的とした攻撃性に今回は更に妄想が暴走してる。
それに乗っかってる EVA氏も異常。

ストラ氏も陰口は良くないけど、ここまでくると人としてはむしろ正常な行為と思えてくる。


826 :名無しさん@ゴーゴーゴーゴー!:2015/09/13(日) 00:38:00.19 ID:ZRcBJoKW0

かもんの裏ブログは外野としては面白いんだけどさ
ベル一味が意図的なステマやってんのか熱心すぎる勝手応援団なのか
そこを明確に示す材料は結局持ってないんだろうな

かもんは隣家の騒音で騒いだ時もSACDで騒いだ時も思い込んだら止まんないのは変わんないな

そもそも、リベート受け取ってるステマ要員だったら
メールで他人の悪口書くなんてリスクを犯す訳無いと思うんだがw


887 :名無しさん@ゴーゴーゴーゴー!:2015/09/16(水) 23:53:44.89 ID:pDaTmp590

チーム組んでステマやっていくら稼げるんだよ?
誰が幾ら買わされたって?
ラダーケーブル?電源工事?そんなもの幾ら勧めたって幾らにもならんがな。


888 :名無しさん@ゴーゴーゴーゴー!:2015/09/17(木) 00:16:51.81 ID:9faEag3c0

かもんの妄想は精神疾患レベル。
海外に行きまくってるベルも GRF も、オフ会ステマでちまちま稼がなきゃならんほど金に困ってるわけないだろw


894 :名無しさん@ゴーゴーゴーゴー!:2015/09/17(木) 09:11:39.36 ID:oxq8hGik0

EVAのやったことは告発ではなく単なる誹謗中傷だな
告発というなら証拠の提示が必要だが、ソースが かもん!の妄想のみでは、話にならん
そもそも被害者は誰なんだ?
事実であれば被害者の2-3人は名乗り出るはずだろう


896 :名無しさん@ゴーゴーゴーゴー!:2015/09/17(木) 10:03:27.33 ID:V/phBPb1O
>>894
告発では無いソースも無い罠w


750 :名無しさん@ゴーゴーゴーゴー!:2015/09/09(水) 08:50:58.52 ID:i21s2ZOL0

この人たちを見てると人間は成長しないなと実感する。
還暦過ぎても小学生以下の振る舞い。ネットだから品性を失っているのか。
リアルで会うとまともなのか。


767 :名無しさん@ゴーゴーゴーゴー!:2015/09/09(水) 22:56:07.01 ID:AaSY2ioz0

もしかして

妄想性人格障害
統合失調症
旧アスペルガー症候群(現ASD)


841 :名無しさん@ゴーゴーゴーゴー!:2015/09/13(日) 17:35:59.77 ID:tAQeIqEC0

ベルとストラは老害だが、eva とバカモンは精神疾患


842 :名無しさん@ゴーゴーゴーゴー!:2015/09/13(日) 18:59:10.76 ID:gv5iKVKm0

かもん!は疾患だろうが、EVA は私怨というやつだろう


707 :名無しさん@ゴーゴーゴーゴー!:2015/09/07(月) 08:15:27.72 ID:FZj+iJsS0

いやーしかし凄い光景を目撃させてもらったよ。
老人たちが一気にテロに巻き込まれたな。

首謀者は かもん!と EVAで、突っ込まれたのは実名の 2者だけど、今頃海の向こうで涼しい顔。

結局ミイラ取りがミイラになった かもん!と EVA は日記も書けず立ち往生w


717 :名無しさん@ゴーゴーゴーゴー!:2015/09/07(月) 12:34:29.24 ID:En21y1hG0

無策な かもん!と EVA は今頃責任のなすり付け合い。
ファイルウェブに戻ってきても、もう誰にも相手にされないだろう。
ストラはまさか陰口を暴露されるとは思わず、うかつな発言を悔やみつつ今頃かもん!にクレーム中かな。

実名の2人は変わらず充実した優雅な日々を送る。


733 :名無しさん@ゴーゴーゴーゴー!:2015/09/08(火) 12:38:10.28 ID:h6iXc6dw0

うわー
EVA とかもん!は実名2人を悪人に仕立て上げたうえ(ちなみに誰が見ても事実無根)ストラをその告発者の役割に当てて、自分だけ高みの見物を決め込むつもりだ。
久々にこんな最低の人間を見た。

大体 EVA のストックなんて一貫性も無く趣味もゴチャゴチャで誰も興味ない。
コメント一つとっても、それ持ってるとか持ってないとか、ただそれだけで演奏内容やディテールも無くて子供のオモチャ集めみたいだよな。
ストラの方が余程中身のある日記書いてたわ。


738 :名無しさん@ゴーゴーゴーゴー!:2015/09/08(火) 16:59:20.63 ID:P5PCvB8H0

もうみんなドン引きしすぎて書き込みもストップしたのかな。

かもん!は、すでにコミュ住人から非難轟々なうえ運営にも咎められ、もはやなりふり構わない敵意むき出しの妄想と暴走によって別ブログを立ち上げた。
もはやテロである。凄い執念、怖い。

そこで鬼の首を取ったかのように露にされる陰口、悪口暴露なんて趣味の世界でどこにでも転がっている。

陰口を言った人は反省しなければならない。特に、かもん!に伝えたことを。

実名二人にももちろん非が無い。悪徳商売などの妄想を実名記述はもはや名誉毀損もの。

EVA はまるで第三者のように高みの見物をしてるようだが、コミュで例のブログの広告塔になっていることから、仲間なのか同類なのか分からないが、間違いなく同罪である。


742 :名無しさん@ゴーゴーゴーゴー!:2015/09/08(火) 21:12:30.51 ID:ItZh0hDJ0

かもん!とEVAはもともと誰からも相手にされない輩だし ベル木とGラFは何か問題でもって感じだな。
結局、大損したのはストラだけか  次の日記があるのか楽しみだな。


747 :名無しさん@ゴーゴーゴーゴー!:2015/09/09(水) 02:05:57.92 ID:QRbUKXSt0
>>742
ほんとそう思う

おれもどう考えても悪玉二人組が僅かであろうリベートの為に一生懸命あちこち出向くような人間とは到底思えん、本業の方がよほど楽にたくさん稼げるだろう
夏休みに長々と外国行ってるくらいだから、直ぐにわかること

結局、自分の生活水準を元に妄想してトンチンカンな恨みを吐いたストラと、それを真に受けた T大バカの かもんのコンビの社会常識の欠如が道を踏み外した原因だろう

EVA は人騒がせに拡散しただけで、仲間割れとかバカなことを言っている時点で かもんからは相手にされていない、

「生コン」とあったからストラをディスってくれたと EVA は勘違い→かもんに凸
本当はベルの悪口を書いたかもんは、何言ってんだこいつ、バカなのか!と一蹴
間違えんなよ >>733 >>735

899 :名無しさん@ゴーゴーゴーゴー!:2015/09/17(木) 14:18:13.01 ID:JvDjUUId0

抹殺されちゃったんだ、EVA。
ステマが実証されなかったんだからそこは仕方無いか。

でも、表ニコニコ、裏ケチョンケチョンメール (しかも三重トリック?) 出せば勝てたのに。
という事は捏造で元々無かったのか。

少しは頷けるそれらしい文言も有った。
K&K とか、その後全く出なくなったし、、、、、


906 :名無しさん@ゴーゴーゴーゴー!:2015/09/17(木) 23:34:33.37 ID:AtG3+n9T0

悪口メールの存在を疑うやつはほぼ居ないのに
ステマやらリベートやらは妄想扱いになってる事から明らかだが
告発者が誰なのかじゃなくて具体性の有無が問題だな


908 :名無しさん@ゴーゴーゴーゴー!:2015/09/18(金) 00:09:46.99 ID:T+ISZ2lu0

妄想ブログも eva が書いてるんじゃないかとおもう


911 :名無しさん@ゴーゴーゴーゴー!:2015/09/18(金) 12:40:15.85 ID:9zPxjDob0

ばかもんはPaulo。以前ベルと大喧嘩し出入り禁止になった奴。
別アカ使いばかもんとして復活。

そしてまたベルと喧嘩し恨み骨髄。
そこにウマーく捨閉羅のメールが利用・改変され
E場は体よく宣伝カーにされ
自分には類が及ばんよーという感じね。

日本最難関T大卒の60代。
たち悪いやっちゃ。
自分は安全と思っているのかしらん


931 :名無しさん@ゴーゴーゴーゴー!:2015/09/19(土) 14:34:23.15 ID:F/MSc8zH0

同じ T大出でもトップで出たベル氏はかもん!とは出来が違うな


928 :名無しさん@ゴーゴーゴーゴー!:2015/09/19(土) 12:15:44.94 ID:Y7u7X1wQ0

ストラ氏が退会したらしい 。。。


933 :名無しさん@ゴーゴーゴーゴー!:2015/09/19(土) 18:17:12.29 ID:GtSFdO0E0

本当にストラが居なくなってるね。

裏メールとリベートを漏らして、

あんた何やってくれてんだ!責任取れ!

と怖ろしい圧のプレッシャーが掛けられたことは想像に難くない。

それはそうと(推定)かもん!のブログ、まだ続けるのか。 あいつは何と戦ってるんだ。


955 :名無しさん@ゴーゴーゴーゴー!:2015/09/21(月) 16:15:56.88 ID:vf+GnaUU0

ベルが何気に座談会に写ってるww

季刊・オーディオアクセサリー特別増刊 電源&アクセサリー大全2016
特別試聴&座談会 激変の驚きと深まる楽しみを語り合う
プロデューサー 上田隆志 オーディオファン 鈴木 亮 オーディオライター 田中伊佐資
http://www.phileweb.com/editor/special/dengen2016/


957 :名無しさん@ゴーゴーゴーゴー!:2015/09/21(月) 22:54:18.92 ID:qBu2WMce0

どれがベルだよ


959 :名無しさん@ゴーゴーゴーゴー!:2015/09/21(月) 23:41:53.33 ID:LfbfkgtM0

黄色Tシャツとピンクシャツの間の老人。(オーディオファン)鈴木亮。
さらにP15には本人近影と自室オーディオの写真と紹介文がある。
それを見ればまぎれもなくベルウッド本人と断定出来る。
http://yomogi.2ch.net/test/read.cgi/net/1437054439/



http://www.asyura2.com/09/revival3/msg/691.html#c16

[雑談・Story40] 在日韓国人が必死で隠す戦後最大のタブー「背乗り」の恐ろしさを広めよう戸籍乗っ取り角田美代子自身も乗っ取られていた!?2c 木卯正一
138. 中川隆[7728] koaQ7Jey 2017年4月13日 21:31:27 : b5JdkWvGxs : DbsSfawrpEw[8218]

____

土井たか子元衆議院議員に対する在日認定


訴訟の原因となったのは、元産経新聞編集部長の花岡信昭が論壇誌 WiLL 2006年5月号に寄稿した「拉致実行犯辛光洙釈放を嘆願した“社民党名誉党首”」と題する記事である。

記事の中で花岡は

「土井たか子は朝鮮半島出身で本名は『李高順』である」

と土井に対する在日認定を行った上で、

「そのことが土井の拉致事件を見る目を曇らせたのか、すべて知った上で政治的演技をしていたのか」

と論じ、祖国・北朝鮮の利益を図るために日本の利益を蔑ろにしたのだと土井を婉曲的に糾弾した。

戸籍謄本および改製原戸籍謄本の記載によると土井は日本人夫婦の次女として兵庫県神戸市に生まれており、花岡による在日認定は事実に反していた。

また花岡は土井に対する取材等の裏付けを全く行わず、インターネット上で流布されていた情報のみに基づいて在日認定を行っていた。

これに対して土井は記事によって名誉感情や信用を含む人格的権利を侵害されたとして、2007年4月18日、WiLL を出版するワック・マガジンズと同社代表取締役(当時)の花田紀凱、記事を執筆した花岡の三者を相手取り、1000万円の損害賠償と謝罪広告の掲載を求める民事訴訟を起こした。

神戸地裁尼崎支部は 2008年11月13日、記事はあたかも土井が朝鮮人であるがゆえに日本以外の本国の利益を優先して、日本国民の安全などの利益を蔑ろにするという日本の政治家としてあるまじき行為をしていたかのような印象を与えるものであり、土井の社会的評価を低下させたとして名誉権の侵害を、

また虚偽の在日認定について以下のように述べて名誉感情および人格的利益の侵害をそれぞれ認め、被告らに対して200万円の賠償を命じた。

謝罪広告については記事の影響力の小ささを理由に退けた。


被告らは判決を不服として大阪高裁に控訴したが棄却され、さらに最高裁に上告したものの、2009年9月29日に上告を退ける決定が下された。

これにより神戸地裁の判決が確定した。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%9C%A8%E6%97%A5%E8%AA%8D%E5%AE%9A
http://www.asyura2.com/12/idletalk40/msg/597.html#c138

[雑談・Story40] 在日韓国人が必死で隠す戦後最大のタブー「背乗り」の恐ろしさを広めよう戸籍乗っ取り角田美代子自身も乗っ取られていた!?2c 木卯正一
139. 中川隆[7729] koaQ7Jey 2017年4月13日 22:01:26 : b5JdkWvGxs : DbsSfawrpEw[8219]


2007/06/03 筑紫哲也(朴三寿)というデマ
http://dj19.blog86.fc2.com/blog-entry-76.html


2chで以下のような真偽の定かでないマルチコピペを見たことある人は多いと思う。


池田大作(→父:ソンジャンチョク、帰化人) (在日への選挙権推進、韓国での反日活動の実績)

土井たか子(→李高順(帰化前の本名)北朝鮮に親族多数

五島昌子(土井の秘書)本名、渡辺昌子は通名、つまり、在日朝鮮人(元社青同活動家の話より)

辻元清美(帰化人、赤軍派)

筑紫哲也(→朴 三寿:元朝日記者、共産キャスター)

本多勝一(→崔 泰英:「南京大虐殺」虚報の中共工作員記者)

佐高信 (→韓 吉竜:極左評論家)

福島瑞穂(→趙 春花、帰化前の本名:中核派)

永六輔(帰化人。反日活動、言動多し)

例えばこの中の

■土井たか子=李高順 説は?

月刊WiLL2006年5月号で元産経新聞記者・花岡信昭が、土井たか子=李高順という2chで流されたデマを事実のように書き、土井は花岡の記事を「事実無根の捏造 (ねつぞう)記事で、土井氏に対する取材に基づかない一方的な推測で作成したもので,名誉を毀損された」として、2007年4月18日、全国紙への謝罪広告の掲載と損害金1万円を求める訴えを神戸地裁に起こしている。

つーことでこの件はデマ確定 調査終了

■次に、筑紫哲也=朴三寿 説は?

【筑紫】 朴 三 寿 【哲也】(魚拓)より以下、抜粋する。
http://society6.2ch.net/test/read.cgi/mass/1127868368/

28 :文責・名無しさん:2005/11/15(火) 22:46:50 ID:d3V7cvUI
朴三寿ってのはオレが数年前にメガBBSに書いたネタだった思う。
確か「有名人の本名を晒そう」みたいなタイトルのスレだった。
他にも本多勝一や佐高信なんかの韓国名もでっちあげてやったんだ。
まさかこんなところでお目にかかるとはなw


30 :28:2005/11/16(水) 22:54:24 ID:rInX2H7E
http://www.megabbs.com/cgi-bin/readres.cgi?bo=perform&vi=1027871248

元ネタはこのスレの124だ。
よく見たら数年前じゃなく去年だったが

(※ちなみに、これがリンク先)


筑紫哲也=朴三寿という在日認定を2004/06/04以前にしているブログが一切無いことから、これが元ネタとみてまず間違いない。

↓以下は同スレより筑紫哲也が在日ではないことを補足する書き込みを抜粋する。


54 :文責・名無しさん:2006/03/18(土) 11:45:56 ID:hUhDYHbR
代々、九州の医者の家系で滝廉太郎の親戚とか言うけど
実は筑紫の故郷には筑紫という姓の人間がいない
つまり架空の日本名をこしらえたってことさ


58 :文責・名無しさん:2006/03/21(火) 23:37:20 ID:iPNZ4lbX
>>54
筑紫姓はいるよ。

筑紫氏
筑紫君、筑紫国造、筑紫連、筑紫史、藤原秀郷流武藤氏族、
清和源氏、桓武平氏等。


62 :文責・名無しさん:2006/03/22(水) 12:58:26 ID:s1CTwA8y
>筑紫の大伯父は滝廉太郎だから

ソース出せや


64 :文責・名無しさん:2006/03/22(水) 20:08:57 ID:VPz1iqiD
>>62
国際メンデルスゾーン基金の公式サイトより
http://www.mendelssohn-kikin.jp/frmset_taki.htm

>嘱望を受けながら留学した瀧廉太郎は、留学中に病(結核)におかされ、
>翌1992年に青雲の志空しく帰国した。 帰国後は、故郷の竹田市で療養後
>100年前の1903年に23歳10ケ月で没している。療養した家は、「瀧廉太郎
>記念館」として公開されている。同記念館は、瀧廉太郎の姉の孫にあたる、
>筑紫哲也が名誉館長である。


89 :文責・名無しさん:2006/04/16(日) 21:33:55 ID:jxI3E12R
滝廉太郎の妹トミは筑紫の祖母って書いてるぞ。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%BB%9D%E5%BB%89%E5%A4%AA%E9%83%8E

何か見た目や思想だけで言ってるだけだろ。


115 :文責・名無しさん:2006/05/19(金) 23:45:22 ID:GxkkCoNF
>>113
筑紫哲也は瀧廉太郎の姉の孫で、その縁で 「瀧廉太郎記念館」の名誉館長だ。
下記のページに電話番号が載っているから、嘘だと思うなら聞いてみなよ。
http://machi.goo.ne.jp/snd/spotID_%20TO44000491/leisure/details.asp


122 :文責・名無しさん:2006/05/21(日) 08:20:56 ID:Ubf6/77H

メンデルスゾーン基金のサイト情報が一番確かだな。
当人も日本名を名乗っているし、万が一彼が朝鮮人の妾の子だったとしても、
日本人であることにかわりはない。
そもそも朝鮮人の血などそれほど「濃い」ものではないだろ?
名前からして基本は中国式だし、それが日本式の筑紫哲也に変わっただけだ。(笑

俺自身は、筑紫の政治観は幼稚だと思っているがね。


156 :文責・名無しさん:2006/07/08(土) 12:15:25 ID:Sbii/mJV
先祖は大分県・日田藩。漢学者の広瀬淡窓が開いた咸宜園で学んだと聞いた。広瀬の子孫が今のテレ朝会長、大分県知事の兄弟。


95 :文責・名無しさん:2006/09/11(月) 15:42:20 ID:kSuz5YS6
大分県日田市に筑紫姓があるのかどうかだが、
>>58のソースは「日本の苗字7000傑」というHPから。
その中の"筑紫国造"の中に"筑紫国造磐井"という人物がいる。
この人物は(大分県がある)九州北部の有力者と「Wikipedia - 磐井の乱」に書いてある。
だから、筑紫哲也の祖先はこれと思われる。
ちなみに、「岩戸山古墳−筑紫国造磐井の墓−」というHPには、
"筑紫国造磐井"を含む「筑紫の君」一族は渡来人の末裔ではないか
と書いてある。


96 :文責・名無しさん:2006/09/11(月) 17:26:05 ID:kSuz5YS6
つまり、筑紫哲也のルーツとは、

筑紫国の「筑紫の君」一族の末裔で、
筑紫国は、後に筑前国・筑後国に分割された。
このことは「Wikkpedia - 筑紫国」に書いてある。

そして筑紫哲也の出身地である日田市は、
筑後川水系にあるため、筑前・筑後と歴史的につながりが強い。
このことも「Wikipedia - 日田市」に書いてある。

結論 「筑紫哲也は帰化人ではない。しかし、祖先は渡来人の末裔である。」

これで解決したな。

(以上)


つーことでデマ確定 調査終了 


このように少しググっただけで、土井たか子と筑紫哲也は確実に在日ではなく、本多勝一、福島瑞穂、佐高信もおそらく違うだろうな、ということがわかる。

にもかかわらず、情報元を確認することすらしないリテラシーの低い、嫌韓・ネトウヨ厨は、今だに訂正すらせずにブログ上で事実として取り上げている。

例えば「筑紫哲也 朴三寿」で検索すると約9,350件ヒット、「朴三寿」では約11,100件もヒットする。

デマだとわかっても訂正すらしない確信犯的なデマブログの1つに、ランキング偽装疑惑のある「博士の独り言」がある。

2006/12/01(金)「博士の独り言」より以下一部抜粋する。
http://specialnotes.blog77.fc2.com/blog-asyuracom-221.html

この集会で挨拶した本多勝一(本名・崔 泰英)、司会を演じた佐高信(韓吉竜)の2名はいずれも在日朝鮮人。永六輔は半島からの帰化人。関与した矢崎泰久、中山千夏は、昭和52年に、ばばこういちを中心に結成した「革新自由連合」の仲間であり、新左翼系の自称・文化人である。

良識以前に、最低限度の人倫すら問われるこの「芝居」は、これらの人物の「日本に対する怨念」が凝縮されている。それほど日本が恨ましいのであれば、日本にいていただいても百害千害万害を垂れ流すだけである。日本から出て行け!
---------- ---------- ----------
【筆者記】
なりすましのメディア人、文化人、政治家の言動にはおぞましいものがある。上記の他に、朴三寿(筑紫哲也)、社民党の李高順(土井たかこ)、趙春花(福島瑞穂)等々。実に紛らわしい。反日活動においては、通名ではなく、本名を名乗るべきである。

(ここまで)


いい歳こいたおっさんが、左翼=在日=朝鮮人で思考停止か


ダッセーなぁ。。。恥辱まみれなデマ博士


あんた、マジかっこわりぃYO!


土井さんが党首の時に社民党に質問したんですよね。
そしたら丁重な回答が寄せられました。

曰く事実無根なんだそうです。

とにかく、気に入らないのはみんな朝鮮人にするんだから困ったもんですよね。
ただ、朝鮮人といわれて名誉毀損てのはどうなんでしょうね。

朝鮮人が悪い連中だと土井さんが認めた事になるんじゃないでしょうかね。
朝鮮人が何故怒らないのかが判らないですね。


土井たか子の家系についてはすでに共同通信の田中章記者が取材ずみ。

それによると、祖父は広島県の土井好太郎、父はその次男で仁良市、現京都府立医大卒、母は京都の職業軍人の長女で貴代、姉は和賀子、妹が睦子で武蔵野音大、弟が良博、顕とのこと。

父は内科小児科を神戸市長田区野田で開業していた開業医であった。

ハッキリと否定しないの筑紫氏だけでなく上記に名前のあがっているサヨク全般に言えるでしょうね。まぁ、くだらな過ぎて相手にしてないんだと思います。

それと、そんなに疑う理由がよくわかりませんが、このエントリーを書いたとき週刊金曜日の方に連絡したんですが、石坂啓、落合恵子、佐高信、椎名誠、筑紫哲也、本多勝一は在日ではないとハッキリ言われました。


本多勝一さんは日本人
本多さんの友人と親しいし、会ったこともある。

長野県飯田市に行って調べれば直ぐに分かるよ。旧制飯田中学-->飯田高校。


悪魔の証明

言い出しっぺの在日朝鮮人で"ある"と言っている側には信用できる証拠を全く求めずにコピペを垂れ流し、在日朝鮮人で"ない"と言っている側にだけ「もっと信用できる証拠」を出せと言い続けるネトウヨの論理性には苦笑してしまう。
http://dj19.blog86.fc2.com/blog-entry-76.html


http://www.asyura2.com/12/idletalk40/msg/597.html#c139

[雑談・Story40] 在日韓国人が必死で隠す戦後最大のタブー「背乗り」の恐ろしさを広めよう戸籍乗っ取り角田美代子自身も乗っ取られていた!?2c 木卯正一
140. 中川隆[7730] koaQ7Jey 2017年4月13日 22:35:17 : b5JdkWvGxs : DbsSfawrpEw[8220]

僕もネット情報を信じて、

小沢一郎さんの父親が日本人の戸籍を買った朝鮮人

だと書いていた事がありますが、でっち上げの可能性が高いですね。
http://www.asyura2.com/12/idletalk40/msg/597.html#c140

[政治・選挙・NHK224] 日本の学校で「殺人術」が教えられる?「殺せ殺せ」と突進する恐怖の光景が繰り広げられるだろう―華字メディア 赤かぶ
1. 中川隆[7731] koaQ7Jey 2017年4月13日 23:18:16 : b5JdkWvGxs : DbsSfawrpEw[8221]
銃剣道の楽しさを教えればみんな やりたがる様になるから大丈夫

陸軍第五十九師団師団長陸軍中将藤田茂筆供述書に「俘虜殺害の教育指示」というのがあった。部下全員を集めて次の如く談話し、教育したというものである。

 「兵を戦場に慣れしむる為には殺人が早い方法である。即ち度胸試しである。之には俘虜を使用すればよい。4月には初年兵が補充される予定であるからなるべく早く此の機会を作って初年兵を戦場に慣れしめ強くしなければならない」

 「此には銃殺より刺殺が効果的である」

鬼になる洗礼−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−

 昭和7年(1932年)1月のある日だった。入営して二ヶ月にもならない。兵舎から200メートルほど離れた射撃場からさらに100メートルの所に、ロシア人墓地があった。その墓地に三中隊の60人の初年兵が集められた。大隊長や中隊長ら幹部がずらりと来ていた。

「何があるのか」と、初年兵がざわついているところに、6人の中国の農民姿の男たちが連れてこられた。全員後ろ手に縛られていた。

上官は「度胸をつける教育をする。じっくり見学するように」と指示した。

男たちは、匪賊で、警察に捕まったのを三中隊に引き渡されたという。はじめに、着任したばかりの大隊長(中佐)が、細身の刀を下げて6人のうちの一人の前に立った。だれかが「まず大隊長から」と、すすめたらしい。

内地からきたばかりの大隊長は、人を斬ったことなどなかった様子だった。部下が「自分を試そうとしている」ことは承知していたろう。どんな表情だったか、土屋は覚えていない。彼は、刀を抜いたものの、立ちつくしたままだった。「度胸がねえ大隊長だナ」と、土屋ら初年兵たちは見た。すぐに中尉二人が代行した。

 ヒゲをピアーッとたてた、いかにも千軍万馬の古つわもの、という風情だった。こういう人ならいくら弾が飛んできても立ったままでいられるだろうな、と思った。その中尉の一人が、後ろ手に縛られ、ひざを折った姿勢の中国人に近づくと、刀を抜き、一瞬のうちに首をはねた。土屋には「スパーッ」と聞こえた。もう一人の中尉も、別の一人を斬った。その場に来ていた二中隊の将校も、刀を振るった。後で知ったが、首というのは、案外簡単に斬れる。斬れ過ぎて自分の足まで傷つけることがあるから、左足を引いて刀を振りおろすのだという。三人のつわものたちは、このコツを心得ていた。もう何人もこうして中国人を斬ってきたのだろう。

 首を斬られた農民姿の中国人の首からは、血が、3,4メートルも噴き上げた。「軍隊とはこんなことをするのか」と、土屋は思った。顔から血の気が引き、小刻みに震えているのがわかった。

そこへ、「土屋!」と、上官の大声が浴びせられた。
 上官は「今度は、お前が突き殺せ!」と命じた。
・・・


・・・
「ワアーッ」。頭の中が空っぽになるほどの大声を上げて、その中国人に突き進んだ。両わきをしっかりしめて、といった刺突の基本など忘れていた。多分へっぴり腰だったろう。農民服姿、汚れた帽子をかぶったその中国人は、目隠しもしていなかった。三十五、六歳。殺される恐怖心どころか、怒りに燃えた目だった。それが土屋をにらんでいた。

 目前で仲間であろう三人の首が斬られるのを見ていたその中国人は、生への執着はなかった、と土屋は思う。ただ、後で憲兵となり、拷問を繰り返した時、必ず中国人は「日本鬼子」と叫んだ。「日本人の鬼め」という侵略者への憎悪の言葉だった。そう叫びながら、憎しみと怒りで燃え上がりそうな目でにらんだ。今、まさに土屋が突き殺そうという相手の目も、そうだった。

 恐怖心は、むしろ、土屋の側にあった。それを大声で消し、土屋は力まかせに胸のあたりを突いた。・・・


___

基礎さえできていれば応用は楽で楽しくなるんだ:

銃剣が上手く使える様になるとこんなに楽しい事ができるよ:

日中戦争証言 車河堡 王さん(69歳)柳河口

 1回だけ見たことがあります。強姦したのは普通子どもには見せないんです。

1回見たのは、若い女性に沢山水を飲ませて、お腹を膨らませたり、

鉄の棒を火で焼いて、赤い鉄の棒を乳房に当てたり、女性の生殖器に差し込んだり、

あるいは銃剣の先を焼いて乳房や生殖器をえぐり取ったりしました。
http://www.jade.dti.ne.jp/~kaworu/syogen/syakaho.html

死んだ人の事を悪く言いたくなかったけど言わせてもらう。
漏れの近所の銭湯で番台やってた爺さん(もう亡くなった)。

漏れが小さい頃よく戦争当時の話を銭湯の番台で自慢げに語ってたバカ。

『チャンコロ(中国人)の妊婦を木に縄で縛って銃剣で刺したら「ボムッ」って鈍い音出して破裂してよー。

ホント面白かったぞー。だから毎日チャンコロの妊婦探して見つけては、それやって遊んでたんだ。あの頃がなつかしいなあ(ニヤニヤ』


小平義雄は戦地より帰って以来、性的に突如放縦になった。

放縦なだけでは留まらず海軍被服廠の軍属であった戦争最後の年に、同じ職場の女子工員を強姦した上殺害している。以後、終戦直後の混乱の中で女性を食料をエサに誘いだし、次々と6人も、犯しては殺していった。

小平が女性を犯して殺す、その味を覚えたのは、中国の前線だった。

予審調書の中で小平は言っている。

「大怙では強姦のちょつとすごいのをやりました。…父親を縛り上げて戸棚の中入れ…
クーニャン(娘)を出せと言って出させました。

…強盗強姦は日本軍隊には付き物ですよ。
銃剣で突き刺したり、妊娠している女を銃剣で突き刺して子供を出したりしました。 私も5,6人はやっています」


「村民を銃剣で追い立てて並ばせ、機銃掃射で薙ぎ倒す。

泣き叫ぶ乳幼児や子供たちを銃剣で突き殺し、

妊婦の腹を切り裂いて胎児を放り出す。

死体の山に石油をかけて焼き尽くす。

木に縛り付けて鞭打っては冷水をかけ、凍死させる。殴り殺す。蹴り殺す。死体を野犬に食わせる。

背中に石を結わえて水中に投げ込む。

輪姦し、その女の赤ん坊を銃剣に刺して肩に担ぎ、軍歌を歌って歩き回る。

赤ん坊を投げ殺す。踏み殺す。巨大な石を担がせて圧死させる。

鞭で殴って焼けた棒を押しつけ、冷水をかけて極寒の場に捨てて凍死させる。

婦女子を狩り集めて輪姦し、腹を裂いて内蔵をえぐりだす。

生き埋めにする。眼をえぐる。耳を切る。鼻を削ぐ。首を切り、その数を競う。生きながら解剖する。銃剣で突き刺し、崖から落とす。等々」
http://web.kyoto-inet.or.jp/people/shiunji/yowa/yowa7.html



http://www.asyura2.com/17/senkyo224/msg/160.html#c1

[リバイバル3] 湯沢町の共同湯は日本国内の温泉の中で最低最悪 中川隆
29. 中川隆[7732] koaQ7Jey 2017年4月14日 10:43:29 : b5JdkWvGxs : DbsSfawrpEw[8222]

愛のゆくえ 「雪国」 - 魔界の住人・川端康成  森本穫の部屋

愛のゆくえ「雪国」その1

越後湯沢へ

 1932、3年(昭和7,8年)ころ、川端康成はしばしば上州(群馬県)の温泉へ原稿を書きに行っていた。

 その前、昭和6年には、直木三十五に連れられて、池谷信三郎と3人で、上州の法師温泉へも出かけている。

 法師温泉は三国(みくに)峠の麓で、直木が特に好きな温泉だった。
 その昭和6年には清水トンネルが開通し、越後がぐっと近くなった。

   「雪国」を書く前私は水上(みなかみ)温泉へ幾度か原稿を書きに行つた。

   水上の一つ手前の駅の上牧(かみもく)温泉にも行つた。(中略)水上か上牧にゐた時私は宿の人にすすめられて、
   清水トンネルの向うの越後湯沢へ行つてみた。水上よりはよほど鄙(ひな)びてゐた。それからは湯沢へ多く行つた。

   上越線で湯沢は越後の入口になつたが、清水トンネルの通る前は、三国越えはあつても、越後の奥とも言へたのである。
                                             (「独影自命」6ノ2)


昭和9年6月初旬、康成は上牧温泉の大室旅館に滞在して原稿を書いていた。

 6月8日附で群馬県利根郡桃野村(上越線上牧駅前)大室温泉旅館の康成から、東京下谷上野桜木町36の川端秀子に宛てた書簡が遺されている。

 11日、12日には、同じく上牧駅前利根川向岸大室温泉旅館から秀子に手紙を出している。

 11日の手紙には、「明日改造すめば、どこかへ遊びに行つて来る。ここは配達1回しかないので、まだ杉山の手紙を貰つただけ、さつぱり様子分らず閉口だ。/文学界はどうかしらん。」と書いてある。

 原稿に追われつづけ、ここらで「どこかへ遊びに行つて」心身の回復をはかりたかったのだろう。また上牧の郵便事情の不便なことをも嘆いている。

 12日のには、「新潮と文藝7月号送れ、/なぜ報告の手紙をよこさんのだ、馬鹿野郎、手がくさつたつて代筆されることも出来るだらう」と癇癪を起こしている。

   改造の仕事で疲れ、気をまぎらす術なく、婆さんのやうな顔になつた。

   これだつて、原稿受けとり、改造に渡し、間に合つたと、電報でもくれたら、どれだけ安心して、仕事疲れの翌日が眠れるかしれん、僅か30銭ですむぢやないか。
   それくらゐの心は配れ。


 と、八つ当たり気味の手紙である。疲れてもいたのだろう。

そのころは、車掌にチップを出して鉄道便の上野駅止めで原稿を送り、秀子に電報を打って上野駅で受け取らせ、出版社に直接持参させていたようだ。
http://blog.goo.ne.jp/osmorimoto_1942/e/38bdc6f0c695da88fc77ee638f489cb0


愛のゆくえ 「雪国」その2

越後湯沢の初印象

 6月14日附(づけ)で新潟県南魚沼(みなみうおぬま)郡越後湯沢高半(たかはん)旅館より上野桜木町36の秀子に宛てた書簡(15)は、冒頭に、越後湯沢の印象が書いてある。

   文学界の原稿を出しかたがた、水上駅に来たついで、一休みに、清水トンネルを越え、越後湯沢に来た。戸数四百ばかりの村、湯の宿も13,4あり、水上のやうになにか肌あらいところなく、古びてゐてよい。この宿は部屋も40ある。

 この旅館が越後湯沢随一の、主人が代々高橋半左衛門を名のる高(たか)半(はん)旅館である。

 康成はこの宿が気に入ったのだろう、こののちずっと、この宿を定宿とすることになる。

 ちなみに、康成に与えられた部屋は、清水トンネル開通のあと、新築された「長生閣」の二階「かすみの間」である。「雪国」作中では、「椿の間」として描かれる。

 なお14日附の秀子宛て書簡15は長いもので、途中「13日 康成」と記したあとに、翌朝書き加えた文言がある。

 つまり、康成が初めて湯沢に来たのは6月13日、翌14日に書簡を投函したことが明かとなる。

 このことは、当時、中央公論の編集者であった藤田圭雄(たまを)宛ての書簡にも明記してある。煩雑になるが資料として貴重なので、引用しておこう。

 第4次37巻本『川端康成全集』補巻2(新潮社、1984・5・20)の藤田宛て書簡1(昭和9年6月14日附 新潟県魚沼郡湯沢温泉高半旅館より東京麹町(こうじまち)丸の内ビルヂング中央公論編輯部宛て)

   拝啓、
   水上の1つ手前の駅の大室温泉に1週間ほど滞在の後、今日清水トンネルを越えて越後湯沢に参りました。古ぼけた村です。でもこの宿は客室が40ばかりもあります。(中略)21日頃までここに滞在いたします。(以下略)

   14日                   川端康成
  藤田圭造(ママ)様(正しくは、藤田圭雄)


 この書簡の日付が14日となっているのは、到着の翌14日に大室温泉に荷物をとりに戻り、14日にあらためて高半旅館に腰を落ち着けたからであろう。すなわち、康成が初めて越後湯沢に来たのは、1934(昭和9)年6月13日、腰を落ち着けたのが翌14日と確定してよいだろう。

 ちなみに、この点はつとに平山三男が「雪国」論(『川端康成 作家・作品シリーズ6』東京書籍、1979・4・日付記載なし)において指摘している。

 この気晴らしの旅で、康成はひとりの女とゆくりなくもめぐり逢い、もう1度その女に逢いにゆくために、その年の12月初旬、今度は上野から汽車に乗って越後湯沢の駅に降りた。

 やはり夫人宛て書簡によって、それが12月6日のことであるとわかる。

 康成はこの宿に籠もって、『文藝春秋』と『改造』の新年号2つの原稿を書く予定であった。もっとも、このとき、何を書くか、内容は、まったく頭の中になかった。ただ、6月の旅でめぐり逢った女と再会すれば、何か書く材料ができるだろうという、ぼんやりした期待があるばかりだったろう。

「雪国」初出(はじめて雑誌に発表されたもの)

 「雪国」が昭和9年末から書き始められ、いろいろな雑誌に分載されて、最初に創元社から昭和12)年6月12日に刊行され(旧版『雪国』)、それからさらに書きつがれて、戦後の1948(昭和23)年12月25日に、あらためて同じく創元社から刊行され、これが〈決定版『雪国』〉と呼ばれていることは、よく知られている。

 その後、20年あまりたって、すこし手を加えられて、1971(昭和46)年8月15日、牧羊社から『定本雪国』が刊行された。

 康成が、これを『定本』にすると宣言し、以降、新潮社の第3次全集、第4次全集も、また新潮文庫103版以降も、この牧羊社版を底本にしていることは、平山三男の指摘によって、よく知られているとおりである。

 しかしやはり重要なのは、初出としてあちこちに分載された文章が、大幅に手を入れられて昭和12年の創元社版、あるいは昭和23年の決定版になった、その経過である。

 そこに、『雪国』にこめた康成の渾身の努力が刻印されているからである。

さて、その最初の分載が「夕景色の鏡」と「白い朝の鏡」であることも、読者はよく御存知のことであろう。康成は、この2作のできた由来を、〈決定版『雪国』〉の「あとがき」で語っている。

   「雪国」は昭和9年から12年までの4年間に書いた。(中略)

   はじめは「文藝春秋」昭和10年1月号に40枚ほどの短篇として書くつもり、その短篇1つでこの材料は片づくはずが、「文藝春秋」の締切に終わりまで書ききれなかつたために、同月号だが締切の数日おそい「改造」にその続きを書き継ぐことになり、この材料を扱う日数の加はるにつれて、余情が後日にのこり、初めのつもりとはちがつたものになつたのである。

 このことばを裏づけるように、1934(昭和9)年12月7日附で上越線越後湯沢高半旅館より秀子に出した書簡には、

   斎藤君(注、『文藝春秋』の記者)は9日中にくれといふ。やはり正月で校了が2日早い由、9日は日曜。9日の汽車で全部送れるといいが、10日にまたがるだらう。(中略)

   もつとも何枚かけるかまだ分らぬが。

   しつかりした材料を持つて来ず、例によつて、夢のやうなつくりごとなるが厭(いや)である。                     (補巻2の21)


    
とあり、さらに10日の書簡には、次のような一節がある。

   文藝春秋の小説は書き切れず尻切れとんぼ。
  (10日夕方の)今から改造にかかる。

 綱渡りのような、あやうい売文生活をつづけていたのである。もっとも、補巻に収められた書簡を見ると、このころの康成には『モダン日本』『婦人倶楽部』『若草』『行動』『中外新報』『中央公論』などから注文が殺到していて、それを1つ1つこなしてゆくのは、並大抵のことではなかっただろう。

――このような状況で初出「夕景色の鏡」は書かれた。

 よく知られているように、第1作「夕景色の鏡」の冒頭は、現在の「雪国」の有名な文章とは異なっていた。

   濡れた髪を指でさはつた。――その触覚をなによりも覚えてゐる。その一つだけがなまなましく思ひ出されると、島村は女に告げたくて、汽車に乗つた旅であつた。
http://blog.goo.ne.jp/osmorimoto_1942/e/1ff09e0b54d8d44a456a67455ef79ba6
http://www.asyura2.com/09/revival3/msg/574.html#c29

[リバイバル3] 湯沢町の共同湯は日本国内の温泉の中で最低最悪 中川隆
30. 中川隆[7733] koaQ7Jey 2017年4月14日 10:48:38 : b5JdkWvGxs : DbsSfawrpEw[8223]

愛のゆくえ 「雪国」その3

連載第一回「夕景色の鏡」の冒頭

  濡れた髪を指でさはつた。――その触覚をなによりも覚えてゐる。その1つだけがなまなましく思ひ出されると、島村は女に告げたくて、汽車に乗つた旅であつた。

 この部分は〈決定版『雪国』〉では完全に消滅しているが、視点人物島村を雪国に導くものが何であったかを明確に語っている。それは女――駒子の思い出であり、それも単なる情緒的なものではなく、指の触覚というきわめて官能的なものであった。

 冒頭では、指の触れたのは単に「髪」となっているが、少しあとに駒子の心理の説明として「まだ16,7の頃に、自分がどんなにいい女であるかを、男から噛んでふくめるやうに教へられ、その時はそれを喜ぶどころか、恥ぢるばかりだと……」とあることからも、それが駒子の肉体的な魅力を暗示していることは明らかである。

 もっと具体的にいうと、島村が左指で覚えていたのは、のちに出て来る表現ではあるが、駒子の「みうちのあついひとところ」の生ま生ましい触感だったのである。

 島村は駒子、というより駒子の肉体に再会しようとして、雪国に向かう汽車に乗った。そしてその車中で葉子に出会うのである。

   もう三時間も前、島村は退屈まぎれに、彼を女のところへ引き寄せてゆくやうな、左手の〈人指指〉をいろいろに動かして眺めてみたり、鼻につけて匂ひを嗅いでみたりしてゐたが、ふとその〈指〉で窓ガラスに線を引くと、そこに女の片目から片頬がはつきり浮き出たのだつた。

                 (初出では、〈 〉の中は伏せ字になっている。)

この車窓の鏡に浮かび出た女が葉子であり、島村はやがて窓外の夕景色と二重写しになった葉子の顔の非現実な美しさに胸がふるえるのであるが、ここに短篇「夕景色の鏡」の意図はあらわになる。

 すなわち、前の旅でなじんだ女との再会を胸に描いて官能の思い出の世界にただよっていた島村が、眼前に現出した「この世ならぬ象徴の世界」の美に陶然となるのである。〈官能的な世界〉と〈象徴的な美の世界〉が、ここでは鮮やかに対比されている。

 康成の「はじめは……40枚の短篇として書くつもり」が、この対比を描くことであったことは、明かである。

はたして、『改造』新年号に発表されたのは、「白い朝の鏡」であった。「夕景色の鏡」と対比する意図はよく現れている。

 ところがこの「白い朝の鏡」のなかに、その題名に相応する内容は登場してこないのである。

 それが発表されるのは、それから10ヶ月もたった『日本評論』11月号に「物語」と題して発表された作品の末尾においてである。


第三回「徒労」

 つづけて『日本評論』の12月号に「徒労」が発表されているのは、翌年の1935(昭和10)年の秋、蛾が卵を産みつける時期に10ヶ月ぶりに湯沢をおとずれた康成の身に、駒子のモデルとなる女性との再会があって、「余情」が深まるような出来事が生じたためであろう。

 実際、作品の中で女が「駒子」と名づけられて登場するのは「徒労」からで、それまでは、単に「女」と呼ばれているに過ぎないのである。

 1、2回の短篇で終わるはずだった素材が内容の濃いものとなり、続編を書き継ぐ意志の生じたことが、そのような変化をもたらしたといってもいいだろう。

 これを裏づけるように、ずっとのちの1959年(昭和34年)になって、康成は「『雪国』の旅」と題するエッセイを発表していて、その中に、1935(昭和10)年秋の日記を公開している。

 1935年(昭和10年)秋とは、「雪国」作中では、島村が3度めに湯沢をおとずれて、長い逗留をすることになっている。しかし現実の康成はこの昭和10年の秋、この湯沢で「物語」「徒労」を書いたのである。

 そのときに、駒子のモデルとの濃い接触のあったことが、この日記に記されている。きわだったところだけを写す。なお、( )の中の説明は、康成が付したものである。

  昭和10年9月30日
 「少女倶楽部」、書き終る。1時55分の汽車で湯沢に行く。駒。(註、駒子が宿へ来たことである。)

  10月1日
 午前より宿の子供を部屋に呼ぶ。(註、「雪国」に書いてある。)3時過ぎ帰る。(註、駒子が。)

  10月2日
 朝、7時ごろに起される。(註、駒子が来て。)夜、駅まで行く、宴会の後で。

  10月4日
 西川博士よりレントゲン写真の結果の手紙。夜中11時に。(註、駒子が来る。)

  10月5日
 「讀賣(読売)」の原稿終り。10時より。(註、駒子が来る。)

  十月十一日
 「日本評論」のための「物語」(註、「雪国」の一部)、18枚で打切り、その原稿を送る。

 このように、ほとんど毎日、駒子が時ならぬ時刻にやって来ている。そしてこれらの素材を康成は「雪国」作中に書きこんでいる。そういう、ただならぬ状況のなかで、「物語」は短いながら完成し、これを康成は『日本評論』に送っているのである。

「夕景色の鏡」

 では、「雪国」最初の2つの短篇のなかでは、何が語られたのであろうか。

 まず「夕景色の鏡」から見てゆくことにしよう。

 「夕景色の鏡」では、冒頭の2行で、先ほど紹介したように、島村のこの旅が、その触感だけがなまなましく思い出されると女に告げたくて汽車に乗った旅であったことが書かれる。

 ついで、

   「あんた笑つてるわね。私を笑つてるわね。」
   「笑つてやしない。」
   「心の底で笑つてるでせう。今笑はなくつても、後できつと笑ふわ。」

と、最後までは拒み通せなかつたことを、その時女は枕を顔に抱きつけて泣いたのだつたけれども、彼はやはり水商売の女だつたと笑つて忘れるどころか、それがあつたために反つて、いつも女をまざまざと思ひ浮かべたくなるのだつた。

と、回想の核心部分が書かれる。それから、現在の「雪国」冒頭の原型にあたる1行が登場する。

   国境のトンネルを抜けると窓の外の夜の底が白くなつた。信号所に汽車が止つた。

 ちなみに、現行の「雪国」冒頭は、以下のようになっている。


   国境の長いトンネルを抜けると雪国であつた。夜の底が白くなつた。信号所に汽車が止まつた。

 そこから一転して現在の車中の光景となり、向こう側の座席から娘が立ってきて、島村の前のガラス窓を落して、身を乗り出し、駅長を呼ぶのである。

 駅長の応える言葉で、この娘の名が葉子であることは、すぐ読者に伝えられる。

  そのやうな、やがて雪に埋れる鉄道信号所に、葉子といふ娘の弟がこの冬から勤めてゐるのだと分ると、島村は一層彼女に物語めいた興味を増した。

 こうして、娘が病人連れで、甲斐々々しく世話をしていること、もう3時間も前、窓ガラスに葉子が映って驚いたこと、それ以来彼がずっと鏡の中の彼女を注視していて、娘の顔に野山の火が重なったとき、胸がふるえたこと……と、この作品の頂点が記されるのである。

   さうしてともし火は彼女の顔のなかを流れて通るのだつた。しかし彼女の顔を光り輝かせるやうなことはなかつた。冷く遠い光であつた。小さい瞬きのまはりをぽうつと明るくしながら、つまり娘の眼と火とが重つた瞬間、彼女の眼は夕闇の波間に浮ぶ、妖しく美しい夜光虫であつた。

 半時間後、葉子達も島村と同じ駅に下りたので、彼はまたなにが起るかと自分にかかわりがあるかのようにやうにあわてたりするが、宿屋の客引きの番頭と出会って、「お師匠さんとこの娘はまだいるかい」と尋ねる。
http://blog.goo.ne.jp/osmorimoto_1942/e/9987e54b50d12c1dce54bc68a1d42abc


愛のゆくえ 「雪国」その4

再会

 前に泊まった温泉宿に落ちついた島村は、内湯に行く。そして長い古びた廊下を部屋へ戻ってゆくとき、女と再会するのである。

   その長いはづれの帳場の曲り角に、裾を黒光りの板の上へ冷え冷えと拡げて、女が立つて待つてゐた。

   と(ママ)うとう芸者に出たのであらうかと、その裾を見てはつとしたけれども、こちらへ歩いて来るでもない、體のどこかを崩して迎へるしなを作るでもない、その立ち姿から、彼は遠目にも真面目なものを受け取つて、急いで来たが、女の傍(かたわら)に立つても黙つてゐた。(中略)

   手紙も出さず、会ひにも来ず、踊の型の本など送るといふ約束も果さず、女からすれば笑つて忘れられたとしか思へないだらうから、先づ島村の方から詫びかいひわけを云はなければならない順序だつたが、顔を見ないで歩いてゐるうちにも、女は彼を責めるどころか、體いつぱいになつかしさを感じてゐることが知れるので、彼は尚更、どんなことを云つたにしても、その言葉は自分の方が不真面目だといふ響きしか持たぬだらうと思つて、なにか彼女に気押される甘い喜びにつつまれてゐたが、階段の下まで来ると、

  「こいつが一番よく君を覚えてゐたよ。」と、人差指だけ伸した左手の握拳を、いきなり女の目の前に突きつけた。

女との再会は、このように印象的にはたされる。

 しかし同時に、男の不誠実もまた、しっかり刻印される。

 その不誠実を徹底するように、男は「こいつが一番よく君を覚えてゐたよ」と人差指を女の面前に突きだすのである。

 だが女は怒らない。

   「さう?」と、女は彼の指を握ると、そのまま手を離さないで手をひくやうに階段を上つて行つた。

 そうして彼の部屋に来ると、女はさっと首まで赤くなって、それを誤魔化すためにあわてて彼の手を拾いながら、「これが覚えてゐてくれたの?」「右ぢやない、こつちだよ」と、女の掌の間から右手を抜いて、炬燵に入れると、改めて左の握拳を出した。彼女はすました顔で「ええ、分かつてるわ」と、ふふと含み笑いしながら、島村の掌を拡げて、その上に顔を押しあてるのである。

   「ほう冷い。こんな冷い髪の毛初めてだ。」
  「東京はまだ雪が降らないの?」
  「君はあの時、ああ云つてたけれども、あれはやつぱり嘘だよ。さうでなければ、誰が年の暮にこんな寒いところへ来るものか。」

ここで文章は冒頭につながり、また、最初の出会いへと回想に移るきっかけとなるのだが、じつは、この前に、重要な記述が20行ばかり、初出にはあった。


女の體(からだ)の秘密

 それは、たった1度の出会いで、女がどうしてこの男を忘れられないようになったか、という女の微妙な心理の説明である。

 この心理の説明が消去されてしまった現在の「雪国」では、読者は、どうしてああも簡単に女が島村に恋心を抱いてしまったのか、理解できないのである。

 初出で康成は、女の心の秘密を、こんなに克明に説明していた。

   それではこの男も、私をほんたうに知つてくれたのだつたか、それにひかれて遙々来たのだつたか、どこを捜しても私のやうな女はさうゐないので忘れなかつたのかと、彼女はなんだか底寂しい喜びに誘ひこまれた。ほつと安心したやうな親しさで、心が男に寄り添つて行つた。許されたやうな思ひだつた。かういふ男は彼女にとつて逆らひ難い誘惑だつた。

   と云つたところで、彼女はまだ水商売が身にしみてゐるわけでなし、多くの男を知つてゐるわけでもないが、まだ16、7の頃に、自分がどんなにいい女であるかを、男から噛んでふくめるやうに教へられ、その時はそれを喜ぶどころか、恥ぢるばかりだと、男はいよいよむきになつて褒めちぎつたので、やがて男の云ふことが彼女の頭の底に宿命のやうに沈みついてしまつたのだつた。

   けれども、それが彼女自身ではつきりと分るやうになつた後まで、天刑をあばかれたやうな初めの悲しみは消え残つてゐるのだつた。余りに早く愛なくして知つたためであったらう。

   島村といふ男は1週間も山登りをして来たほどで、よく整つた體はさう弱さうに見えなかつたけれど、肉附の色白い円みがいくらか女じみてゐるし、まして道楽した風はなく、女のあつかひが淡白なところから考へても、あの時彼女のほんたうが分つてくれたとは、たうてい思へなくて、それが後々まで未練のもとのやうでもあり、また反つてそのきれいさが愛着の種ともなつてゐるのだつた。彼女の幾人かの男のうちで、彼だけはそれを知らない。

   けれども、あの時自分は酔つてゐたから、男を見抜くことが出来なかつたのだらうか。さうではない、気は確かだつた。そんなら、この人を初めてほんたうに愛したゆゑの迂闊だつたのだらうかといふ結論に辿りついて、女はふふと含み笑ひしながら、島村の掌を拡げて、その上に顔を押しあてた。

 この長い引用は、駒子の心理を知るには欠かせない部分なのだが、現在の「雪国」では、削除されてしまった。

 女は16、7のころ、男に教えられて、自分が女として類稀(たぐい、まれ)な肉体を持っていることを知ってしまった。

 だから最初に思ったことは、島村が自分のほんとうの肉体の秘密を知って、それにひかれて遙々(はるばる)来たのだったか、ということだった。底寂しい喜びに誘われ、ほっと安心したような親しさを感じた。

 しかし次に考えたことは、島村は女のあつかいも淡白であったから、彼女のほんとうの秘密を知ったとは到底思えず、それが後々までの未練のもとであり、またそのきれいさが愛着の種ともなっている、ということだった。「彼女の幾人かの男のうちで、彼だけはそれを知らない。」

 彼に肉体の秘密を悟らせないままに終わったのは、「この人を初めてほんたうに愛したゆゑの迂闊だつたのだらうか」、最後に女はそう考えて、ふふと含み笑いするのである。

さて、男は掌に顔を押しあてられて、女の髪の冷たさに驚く。

「ほう冷い。こんな冷い髪の毛初めてだ。」そう言って、女に「東京はまだ雪が降らないの?」と訊かれても、それには応えず、言おうと思っていた言葉を口にするのである。

   「君はあの時、ああ云つてたけれども、あれはやつぱり嘘だよ。さうでなければ、誰が年の暮にこんな寒いところへ来るものか。」

 この言葉をきっかけに、「あの時は――雪崩の危険期が過ぎて、新緑の登山季節に入つた頃だつた。」と、最初の邂逅を振り返る回想場面――第1の旅へと、叙述は戻るのである。

無為徒食(むいとしょく)の島村

 「無為徒食の島村は」と、その冒頭で島村の人物像が提示される。

無為徒食とは、定まった職業も持たず、親から遺された財産でもあって、それをいたずらに喰いつぶしている、生活に責任を持たぬ男、というほどの意味であろう。
 少し後に、「白い朝の鏡」のところで、島村が西洋舞踊を趣味にしていて、時々西洋舞踊の研究や紹介を書くので、文筆業者の片端に数えられているが、島村みずから、それを「机上の空論」と冷笑し、そこに虚無の匂いを嗅いでいる、との説明がある。

 このほか、東京に妻子があることがのちに説明されるが、「雪国」の中で島村について読者が具体的に与えられる知識はこれだけである。

 そんな島村はしぜんと自分に対する真面目さも失いがちになるので、それを呼び戻すために、よく一人で山歩きをするが、その夜も、国境の山々から7日ぶりで温泉場へ下りて来ると、芸者を呼んでくれと云った。

ところがその日は道路普請の落成祝いで、12、3人の芸者は手が足りなくて、とうてい貰えないだろうが、三味線と踊りの師匠のところにいる娘なら、来てくれるかも知れぬ、ということだった。

 その娘は、芸者ではないが、まったくの素人ともいえない、という女中の説明だった。

   怪しい話だとたかをくくつてゐたが、1時間ほどして女が女中に連れられて来ると、島村ははつと唇を結んだ。(中略)

女の印象は不思議なくらゐ清潔であつた。足指の裏の窪みまでぬかりなくきれいであらうと思はれた。山々の初夏の風景を見て来た自分の眼のせゐであらうかと、島村は疑つたほどだつた。

 女はこの村から眺められる山々の名もろくろく知らなかったけれど、自分の身の上話は案外率直に話した。19であるともいった。また歌舞伎の話をしかけると、女は彼よりも俳優の芸風や消息に精通していた。そういう話相手に飢えていたのか、夢中でしゃべった。

 その夜は何事もなく過ぎ、女は帰っていった。

 そして翌日の午後、宿へお湯をもらいに来るついでに彼の部屋に遊びに寄った。
 ところが女に、島村はいきなり、芸者を世話してくれ、と云った。女が怒ると、

   「友だちだと思つてるんだ。友だちにしときたいから、君は口説かないんだよ。」

「夕景色の鏡」は、ここで突如、終わる。康成が妻への手紙に、
「文藝春秋の小説は書き切れず尻切れとんぼ。」と書いたとおりである。
http://blog.goo.ne.jp/osmorimoto_1942/e/4510ff64754c3b064cd14671dbf6ceaf
http://www.asyura2.com/09/revival3/msg/574.html#c30

[リバイバル3] 湯沢町の共同湯は日本国内の温泉の中で最低最悪 中川隆
31. 中川隆[7734] koaQ7Jey 2017年4月14日 10:54:18 : b5JdkWvGxs : DbsSfawrpEw[8224]

愛のゆくえ 「雪国」その5

「白い朝の鏡」

つづけて『改造』に書かれた続編では、はじめに、読者を面食らわせないないためだろうか、芸者代わりに呼んだ女とのいきさつが少し書いてある。

 それから、つづきがあって、間もなく来た芸者を一目見ると、「島村の山から里へ出た時の女ほしさは、味気なく消えてしまった」ので、郵便局の時間がなくなるという口実をもうけて芸者を返す。そして、若葉の匂いの強い裏山へ登ってゆく。ほどよく疲れて、駈け下りてくると、

   「どうなすつたの?」と、女が杉林の陰に立つてゐた。
  「うれしさうに笑つてらつしやるわよ。」
  「止めたよ。」と、彼はまたわけのない笑ひがこみ上げて来て、  「もう止めだ。」
  「さう?」と、女は表情のなくなつた顔であちらを向くと、杉  林のなかへゆつくり入つた。彼は黙つてついて行つた。

   神社であつた。苔のついた駒(ママ)犬の傍の平な岩に、女は腰を下  して、
  「ここが一等涼しいの。真夏でも冷い風がありますわ。」

 ここでふたりは会話をかわしながら、夕暮れまでの時間を過ごす。島村のとらえた女の特徴も書きこまれている。

 「少し中高の円顔は平凡な輪郭ながら、白陶器に薄紅を刷いたやうな皮膚で、首のつけ根も肉づいてゐないから、美人といふよりもなによりも、清潔だつた。」


自分の男を呼ぶ声

 それから問題の場面が登場する。
 その夜の10時ごろ、女が廊下から島村の名を大声で呼んで、ばたりと倒れるように彼の部屋へ入ってくる。宴会の途中だった。

 「悪いから行つて来るわね。後でまた来るわね」と、よろけながら出て行く。

   一時間ほどしてまた廊下にみだれた足音で、

  「島村さあん、島村さあん。」と、助けを求めるやうに叫んだ。それはもうまぎれもなく、酔つたあげくの本心で、女が自分の男を呼ぶ声であった。それは島村の胸のなかへ飛びこんで、むしろ思ひがけないほどだつたが、宿屋中に聞えてゐるにちがひなかつたから、当惑して立ち上がると、女は障子紙に指をつつこんで桟(さん)をつかみ、そのまま……〈伏せ字8字〉倒れかかつた。 

 「女が自分の男を呼ぶ声」とは、女が自分の好きな男を呼ぶ声、の意味だろう。
 ちなみに、現行の定本では、この箇所はみごとに彫琢されて、こんなに簡潔な文章に変わっている。

  一時間ほどすると、また長い廊下にみだれた足音で、あちこちに突きあたつたり倒れたりして来るらしく、

  「島村さあん、島村さあん。」と、甲高く叫んだ。
  「ああ、見えない。島村さあん。」

   それはもうまぎれもなく女の裸の心が自分の男を呼ぶ声であつた。島村は思ひがけなかつた。
 
 女は酔って、本心から、「自分の男」を呼んだのである。
 だが、女はいつのまに、島村を「自分の男」と思うようになったのか。

 さきほどの夕暮れの杉林の中での会話からだろうか。前夜、芸者の代わりに呼ばれて、島村と話が合ったからであろうか。それとも、今日の午後、芸者を呼んでくれと、失礼なことを云われたことが、かえって女の心を刺激したのか。

 いずれにしても、前夜、ふたりの話の合ったことが基本であろう。だからこそ好意を抱いて、女は翌日の午後、島村の部屋を遊びに訪れたのである。それなのに芸者を世話してくれといわれて、女の心は傷ついた。しかしこの危機は、女の素直な心によって回避された。

 しかし、それでもなお、女がここまで深く島村を思ってしまった心の因はわからない。

 女の心はわからないままに、物語は進行する。

 島村の部屋で、女は酔ったままにさまざまな姿をみせるが、結局、島村に抱かれることになる。しかしその時になっても、「お友達でゐようつて、あなたがおつしやつたぢやないの」と、幾度繰り返したかしれなかった。

 島村はその言葉の真剣な響きに打たれ、また、固く渋面をつくつて自分を抑へてゐる意志の強さには味気なくなるほどで、女との約束を守ろうかとさえ思うのである。

 この場面の初出は伏せ字だらけで、意味が通らないので、定本によって補正すると、

  「私はなんにも惜しいものはないのよ、決して惜しいんぢやないのよ。だけど、さういふ女ぢやない。私はさういふ女ぢやないの。きつと長続きしないつて、あんた自分で言つたぢやないの。」(中略)

などと口走りながら、よろこびにさからふために袖をかんでゐた。

女はこんなに簡単に男に身を任せることで、男が誤解することを恐れているのだ。好きな男にあげる。だから惜しいんじゃない。だけど、あなたは誤解する。あたしが、こんなふうに誰にだって簡単に身を任せてしまう女だと誤解する。それは違う!

 女は、よろこびがこみ上げてくるなかで、それに逆らいながら、必死で言いつのっているのだ。

 ……しばらく気が抜けたみたいに静かだったが、女はふと突き刺すように、
「あなた笑つてるわね。私を笑つてるわね。」と言って、泣くのである。旅の男に簡単に身を任せた、男からすれば、据え膳喰わぬは……と、そんな女を安っぽい、尻の軽い女として馬鹿にするだろう。女は、そう思われることを避けようと、必死で男を刺すのである。

 この場面は、女が行きずりの島村に本気で惚れて身を任せ、その自分の気持ちを軽いものと誤解されることを恐れていると、読者に繰り返し訴える。女の真剣な好意がつよく印象づけられるシーンである。

 それとともに、そのように言わねばならぬほど、男に容易に身を任せてしまった女の哀れが読者に迫ってくる。

 「白い朝の鏡」は、それから女が夜が明けるのを恐れて、宿の人が起きる前に帰ってゆくところで閉じられる。

 「夕景色の鏡」との対照は、この作品では書かれずじまいだったのである。

「物語」

 「夕景色の鏡」「白い朝の鏡」と1935年(昭和10年)の新年号に発表されたまま、作品は1年ちかく放置される。

 次に第3作「物語」、第4作「徒労」が発表されるのは、同年11月号、12月号のことである。

 先にも指摘したように、その秋の康成の3度目の越後湯沢への旅が、「余情」を後に残す契機となったのである。

「物語」も、読者にこれまでの経緯を説明するところから始まっている。女が夜明けに宿を抜け出して帰っていったあと、「その日島村は東京へ帰つてしまつた。女の名も聞き忘れたほどの別れやうであつた。」

 それから、新しい「物語」が始まる。

 女はしきりに指を折って勘定している。島村が問うと、「5月の23日ね」といい、今夜がちょうど「199日目だわ」と応えるのである。

 ここは、これまでいくつもの論考で指摘されてきたように、平安の昔に、深草(ふかくさ)の少将が小野小町を99夜たずねた、その故事「深草少将の百夜(ももよ)通い」に関連づけているのであろう。女は、自分たちの関係に何か意味を見出そうとしているのである。

 それから、この「物語」の中心となる、女の生きる姿が示される

   「だけど、五月の二十三日つて、よく覚えてるね。」
  「日記を見れば、直ぐ分るわ。」
  「日記、日記をつけるのか。」
  「ええ、古い日記を見るのは楽しみですわ。なんでも隠さずその通りに書いてあるから、ひとりで読んでゐても恥しいわ。」
「いつから?」
   「東京でお酌に出る少し前から。(以下略)」

 これだけでも島村を驚かすには十分だったが、島村をもっと驚かせたのは、女が、読んだ小説を1つ1つ雑記帳に書きつけている、ということだった。

   日記の話よりも、尚島村が意外の感に打たれたのは、彼女は十六の頃から、読んだ小説を一一書き留めておき、そのための雑記帳がもう十冊にもなつたといふことであつた。

  「感想を書いとくんだね?」
  「感想なんか書けませんわ。題と作者と、それから出て来る人物の名前と、その人達の関係と、それくらゐのものですわ。」

  「そんなものを書き止めといたつて、しやうがないぢやないか。」
  「しやうがありませんわ。」
  「徒労だね。」
  「さうですわ。」と、女はこともなげに明るく答へて、しかしぢつと島村を見つめてゐた。

   全くの徒労であると、島村はなぜかもう一度声を強めようとした途端に、しいんと雪の鳴るやうな静けさが身にしみて/それは女に惹きつけられたのであつた。

 島村は、女の意外な一面を知って驚く。山深い田舎のひとりの無名の女が、読んだ小説の題名をノートにつけたとて、いったいそれが何の役にたつというのだろう。

   彼女にとつては、それが徒労であらうはずがないとは彼も知  りながら、頭から徒労だと叩きつけると、なにか反つて彼女の  存在が純粋に感じられるのであつた。

 このとき初めて、島村は女に惚れたのである。あるいは、女の一生懸命に生きている姿を知って、そこにひとりの女の生きる息づかいを感じて、女に対する心からの愛情が湧いてきたのである。

 ……その夜、つまり再会の最初の夜も、女は島村の部屋に泊まって朝を迎える。
 部屋が明るんでくると、女の赤い頬があざやかに見えてくる。寒いせいだろうと島村が訊くと、白粉(おしろい)を落としたからだ、と女は答える。

  「寒いんぢやないわ。白粉を落したからよ。私は寝床へ入ると直ぐ、足の先までぽつほ(ママ)して来るの。」と、島村の枕もとの鏡台に向つて、
  「たうとう明るくなつてしまつたわ。帰りますわ。」

  島村はその方を見て、ひよつと首を縮めた。鏡の奥が真白に光つてゐるのは雪である。その雪のなかに、女の真赤な頬が浮んでゐる。なんともいへぬ清潔な美しさであつた。

 この場面でようやく、康成の初めの構想――「夕景色の鏡」と、人差指が覚えていた女の「白い朝の鏡」との照応が完成するのである。

 1つの短篇で終わるはずだった作品が、3作めの「物語」の最後になって、やっと当初の目的を完成したのである。康成は、ここでこの連作を終わってもよかった。

 それがさらに次の「徒労」へとつづいてゆくのは、この「物語」の中で、日記をつけているばかりか、読んだ小説を雑記帳に書きとめているという、ひとりの女の、徒労の生を懸命に生きている姿を知って、男の内部に、遊びごとではない、女への真剣な思いが芽生えたからである。

 これが「余情が後に残って」の意味であろう。ここから、作品は真剣な愛を抱いた男と女の物語へと変貌してゆくのである。
http://blog.goo.ne.jp/osmorimoto_1942/e/2e44c3f542df85f121f5b87a87d3c7f3

愛のゆくえ「雪国」 その6

「徒労」

 「雪国」のプレオリジナル(初出)第4作目にあたる「徒労」は、かなり長い。作者の興がのっているからだろう。

 ここでも、作品をたどりながら、ふたりの移りゆきを、細かく見ていこう。
 ……昼すぎ、島村が温泉宿からの坂道を歩いてゆくと、軒かげに芸者が5、6人、立ち話をしている。そのなかに駒子もいた。

 島村が通りすぎると、駒子が追ってくる。「うちへ寄つていただかうと思つて」という。その家は、前日、汽車で乗り合わせた病人のいる家だった。駒子の師匠の家である。

 その2階、というよりも屋根裏部屋に、駒子は住んでいた。もとはお蚕(かいこ)さまの部屋だったという。

 その古びた部屋の、障子は貼り替えられ、壁にも丹念に半紙が貼られて、古い紙箱に入ったようだった。壁や畳は古びているものの、いかにも清潔であった。蚕(かいこ)のように、駒子も透明な體で、ここに住んでいるかと思われた。

 駒子は、階下の病人を、腸結核で、もう故郷に死にに帰って来たのだと話した。三味線と踊りの師匠であるひとの、ひとり息子であると、これまでのいきさつも話した。けれども、この息子――行男を連れて帰った娘がなにものであるか、どうして駒子がこの家にいるのかということは、一言も話さなかった。

 やがて、澄み上がった、悲しいほど美しい声が聞こえる。葉子である。だが葉子は島村をちらっと刺すように一目見ただけで、ものも言わずに通り過ぎた。

   島村は表に出てからも、彼女の眼つきが彼の額の前に燃えてゐさうでならなかつた。

 島村が、駒子とこういう仲になりながらも、頭の片隅で、この葉子を意識していることが、ここで期せずして語られている。

 島村は、通りかかった按摩(あんま)を宿の部屋に呼んで、その按摩の口から、師匠の息子である行男と駒子がいいなづけであり、行男の療養費をかせぐために駒子が芸者に出たのだ、という消息を聞く。

 その夜、宿の宴会が果てて島村の部屋に来た駒子は、島村の来なかった八月いっぱい、神経衰弱でぶらぶらしていたと話す。また浜松の男に言い寄られたことも告白する。

 そして「私妊娠してゐると思つてたのよ。ふふ、今考へるとをかしくつて、ふふふ」と含み笑いする。

 もちろん、島村の子を宿したと思ったのである。

 それから島村の追求に答えて、行男とのいきさつを語る。

   「はつきり云ひますわ。お師匠さんがね、息子さんと私といつしよになればいいと、思つた時があつたかもしれないの。心のなかだけのことで、口には一度も出しやしませんけれどね。さういふお師匠さんの心のうちは、息子さんも私も薄々知つてたの。だけど、二人は別になんでもなかつた。ただそれだけ。」

 けれどもまた、「東京へ売られて行く時、あの人がたつた一人見送つてくれた。一番古い日記の一番初めに、そのことが書いてあるわ」ともいう。

駒子の三味線

宿へ葉子に持たせてきた三味線を、駒子が弾き、唄う。

   忽ち島村は頬から鳥肌立ちさうに涼しくなつて、それが腹まで澄み通つて来た。たわいなく空にされた頭のなかいつぱいに、三味線の音が鳴り渡つた。全く彼は驚いてしまつたと云ふよりも、叩きのめされてしまつたのである。敬虔の念に打たれた。悔恨の思ひに洗はれた。自分はただもう無力であつて、駒子の力に思ひのまま押し流されるのを、快いと身を捨てて浮ぶよりしかたがなかつた。(中略)

   勧進帳が終ると、島村はほつとして、ああ、この女はおれに惚れてゐるのだと思つたが、それがまた情なかつた。

  「こんな日が音がちがふ」と、雪の晴天を見上げて、駒子が云つただけのことはあつた。

それからは、泊ることがあっても、駒子はもう強いて夜明け前に帰ろうとはしなくなった。

 2、3日後、月の冴えた夜、空気がきびしく冷えてから、午後11時近くだのに、駒子は散歩をしようといってきかなかった。

 駅へ行く、という。

 「あんたもう東京へ帰るんでしょう。駅を見にゆくの」という。

 駅から帰ると急にしょんぼりして、島村の要求に、「ううん、難儀なの」という。月経中という意味である。「なあんだ、そんなこと。ちっともかまやしない」と島村は笑って、「どうもしやしないよ」という。

 「つらいわ。ねえ、あんたもう東京へ帰んなさい。つらいわ」といって炬燵(こたつ)の上に顔を伏せる。

   「もう帰んなさい。」
  「実は明日帰らうかと思つてゐる」
  「あら、どうして帰るの?」と、駒子は目が覚めたやうに顔を起した。
  「いつまでゐたつて、君をどうしてあげることも、僕には出来ないんぢやないか。」

   ぽうつと島村を見つめてゐたかと思ふと、突然激しい口調で、

  「それがいけないのよ。あんた、それがいけないのよ。」と、じれつたさうに立ち上つて来て、いきなり島村の首に縋りついて取り乱しながら、
  「あんな、そんなこと云ふのがいけないのよ。起きなさい。起きなさいつて云へば。」と口走りつつ自分が倒れて、物狂はしさに體(からだ)のことも忘れてしまつた。

 月経中であることも忘れてしまった、というのである。駒子の方から身を投げだしたのだ。

   それから、温かく潤んだ眼を開くと、
「ほんたうに明日帰りなさいね。」と、静かに云つて、髪の毛を拾つた。

 見過ごすことのできぬ言葉があった。それは島村の、「いつまでゐたつて、君をどうしてあげることも、僕には出来ないんぢやないか」という言葉である。

 島村は東京の人であり、東京には妻子がある。それを捨ててまで駒子との愛をつらぬこうとは、初めから考えていない。

 では、駒子との愛は、どうなるのか。

 島村は、駒子を愛しても、それ以上、どうしてやることもできないのである。この点に、駒子の哀切さが浮かび上がる。どんなに島村を愛しても、島村はその時点では愛し返してくれても、それだけである。つまり、ふたりの愛の行く末はない。

 ――島村は次の日の午後三時の汽車で立つことになる。

駅の前で

 その日、ふたりが駅まで来たところへ、あわただしく葉子が駈けてきて、「ああっ、駒ちゃん、行男さんが、駒ちゃん。」と駒子の肩をつかんで、「早く帰って、様子が変よ、早く」とすがる。

   駒子は肩の痛さをこらへるかのやうに、目をつぶると、さつと顔色がなくなつたが、思ひがけなく、はつきりかぶりを振つた。

「お客さまを送つてるんだから、私帰れないわ。」
   島村は驚いて、
  「見送りなんて、そんなものいいから。」
  「よくないわ。あんたもう二度と来るか来ないか、私には分りやしない。」

 駒子は極度の葛藤(かっとう)のため、げえっと吐き気を催すが、口からはなにも出ず、目の縁(ふち)が湿って、頬が鳥肌立つ。

 葉子が島村にも必死で頼んで後向いて走り出したのを見送った島村は、「なぜまたあの娘はいつもああ真剣な様子なのだらうと、この場にあるまじき不審」が心を掠めて、「遠ざかる後姿は尚更寂しいものに見えた。」

 さらに、
 「葉子の悲しいほど美しい声は、どこか雪の山から今にも木魂(こだま)して来さうに、島村の耳に残つてゐた。」とある。

 こんな場合なのに、島村の頭には、葉子にたいする関心がつよく尾を曳いているのである。

 それに対して、駒子は島村のために、他のすべてを捨てる。
 島村は駒子に、帰ってやるように説得するが、駒子は聞き入れない。

  いや、人の死ぬの、見るなんか。

 ここは、どう解釈すればいいのだろう。

駒子の決断

 駒子にとって、島村は、今度汽車に乗ったら、いつまた来てくれるかわからない男である。だからここで見送っておかないと、一生後悔する。

 これに対して、行男は過去のひとである。今の駒子にとっては、もう一度逢えるかどうかわからぬ島村を見送る方が大切なのである。駒子は決然と、島村を選んだ。

 島村は、それを受け入れるしかない。

 ……やがて改札が始まる。駒子は、フォームには入らないといって、待合室で島村を見送る。汽車が走り出すと、駒子の姿はたちまち見えなくなってしまう。待合室のガラスが光って、駒子の顔はその光のなかにぽっと浮ぶかと見る間に消えてしまう。それはあの雪の朝、雪の鏡の時と同じに真赤な頬であった。
 
   またしても島村にとつては、現実といふものとの別れ際の色であつた。 

汽車に乗って東京に帰ってゆく島村には、夕闇に浮かんだ葉子の目も、駒子の赤い頬の色も、現実との別れの色だった、と康成は書いているのだ。つまり、雪国の現実と別れて、彼はふたたびトンネルの向こうの世界へと帰ってゆくのである。
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[リバイバル3] 湯沢町の共同湯は日本国内の温泉の中で最低最悪 中川隆
32. 中川隆[7735] koaQ7Jey 2017年4月14日 11:00:19 : b5JdkWvGxs : DbsSfawrpEw[8225]

愛のゆくえ「雪国」 その7

川端書簡

――ところで、「徒労」をめぐって、川端康成書簡に、面白いものがあった。封筒が欠けていて、1935(昭和10)年10月末と推定されるものだが、越後湯沢から、妻・秀子に宛てたものと思われる。

 それは、そのころ『日本評論』社とは、原稿と引き替えに必ず稿料を渡すという約束があったのに、秀子夫人が持参しても、どうしても金を渡さなかったのである。それで、原稿を渡さず、持ち帰った秀子から、康成に、どうしたらよいかと指示を乞うたらしい。

 康成は、次のように書いている。

   日本評論デクレヌノカ。

   日本評論デクレヌノナラ、原稿取リ戻シ、火急他ヘ売ツテ貰フヨリ仕方ナイト思フガ。

   コノ手紙ツクノハモウ三日ダカラ、評論社ノ方ハドウカトキメテ貰(もら)ツテ下サイ。

他ヘ売ルナラ中央公論デモ改造デモヨイガ、中央公論ノ方ヨカロウ。他ヘ売ル時ハ、題ハ「徒労」、続キナレド、独立シテ少シモ差支(さしつかえ)ナク、チヤントマトマリ、相当面白イモノダト云ツテ下サイ。枚数は七八十枚。後直グ届ケルト。

 「徒労」について、「続キナレド、独立シテ少シモ差支ナク、チヤントマトマリ、相当面白イモノダ」と康成が珍しく自信を持って語っているところに注目したいのだ。この挿話は、秀子夫人の『川端康成とともに』にも書かれている。秀子も「自分の作品についてこうはっきりと言うことは滅多にないことですから、この作品にはよほど自信があったのだと思います」と書いている.。


同時代評

 結局、「徒労」は、「物語」に引きつづいて日本評論社が引き取ったが、同時代評は、この作に高い評価を与えた。

 林武志『川端康成作品研究史』(教育出版センター、1984・10・10)の「雪国」評価を見ると、作品が、あとになるほど評価がますます高くなり、「徒労」「火の枕」などは、ほぼ絶讃されていることが印象深いのである。

 ここで少し前戻りするが、「夕景色の鏡」「白い朝の鏡」から、同時代評を、前引の『川端康成作品研究史』から引用させていただこう。いずれも、抄出である。

☆深田久弥「〈新年雑誌文芸時評(3)受難期の一群―川端氏の作品を推す」(『読売新聞』、1934・12・27)

   川端氏の「白い朝の鏡」及びその続編「夕景色の鏡」は傑作である。小説の理屈はともかく、お終ひになるのを惜しみながらたのしみ読めたのは、新年号幾十の小説のうちこれだけであつた。


☆正宗白鳥「〈新年号の創作評(終)稚気と匠気―川端氏の短篇二つ」(『東京朝日新聞』1935・1・6)

   川端康成氏の「夕景色の鏡」は、何の事やら腑(ふ)に落ちなかつたが、「改造」所載の「白い朝の鏡」を読んで、やうやく得心が行つた。この二篇は必ず併(あわ)せ読まなければならぬのである。(中略)二つの小篇に含まれてゐる事実をそのまゝに見ないで、鏡に映して見たところに、芸術としての異つた色彩が豊かに現れてゐる。

☆上林暁(かんばやし・あかつき)「〈文芸時評〉『文藝春秋』―旅情について」(『作品』1935・2・1)

   東京は遠い、と田舎に居てこの頃思ひつづけてゐる僕は、「比叡」(横光利一)、「夕景色の鏡」(川端康成)の二作を読んで、焼きつくやうな旅情を感じた。(中略)ただ作者横光氏は、旅の風光の中にあつて、風光を睥睨(へいげい)(へいげい)し、考察し、時に子供のやうに風光の中に身を構へてゐるに反し、作者川端氏は、旅から湧く感情に身も心も焦がしてゐる相違が感じられた。(中略)

「夕景色の鏡」は未完であるらしい。雪に埋れた信号所に汽車が停つて、汽車の中の娘が、窓の外を通る駅長と言葉を交はすので、僕の感は極まつた。僕たちが文学の修業をしてゐるのは、こんな美しい情景を探り当てるためだ。

「「徒労」の同時代評

何の用意もなく、時間もないまま書き出したというのに、「夕景色の鏡」「白い朝の鏡」は、いずれも好評である。康成が続編を書きつぐ気になった原因の1つは、この好評にあったかもしれない。

 しかし「徒労」以下になると、同時代評は、さらに絶讃の傾向をおびる。


☆青野季吉「文学と方法―川端氏の『徒労』に就て」
   川端康成の「徒労」(日本評論)はこれまでの言葉で云へば、清純なること珠玉の如き作品である。またじつさい私には、この田舎芸者の姿態を描いた作品をよみ耽りつつ、そういふ古い讃美の言葉が、思はず頭にうかんで来たのであつた。またそれと同時に、至芸といふやうな、旧い言葉も思ひ出された。(中略)

   またこの作品には、謂ゆる心理をとり出した描写といふものが、ぜんぜん無い。女のその場その場で男にしめす姿態と言葉のうちに心理の内容と変化とを見てとるより外はない。そして作者は執拗頑強にこの方法を守り通してゐるのである。しかも作者によつて捉へられた女の姿態と言葉のうちに、いかに精妙に心理の内容と変化が「表現」されてゐることであらうか。驚歎するばかりである。

   「徒労」の文学としての独自の性格は、まさにかくの如きものである。複雑なものが、その複雑さを失はずして、単純化され、圧縮され、すべての含蓄によつて答へられてゐる。而(しこう)して、雪の山地の自然と、人間の在り様とが、渾然(こんぜん)とした一致のなかにおかれ、空間、時間の正確な感じまでが、そこに精細に盛り込まれてゐる。これを絵画にたとえ(ママ)れば巧緻な写生と見へ(ママ)て、さうでなく、既に凡(すべ)てをふくむ写意の妙境に達してゐるものと云つてよいかも知れない。


☆河上徹太郎「文芸時評」(『新潮』1936(昭和11)・1・1)

   (上略)然し今月の傑作はと問はれたなら、私は躊躇(ためらい)なく川端康成氏の「徒労」(日本評論)を挙げる。実際此の一篇があつただけで、お勤めで数十篇の小説を読まされた労を悔いないのであつた。


「萱の花」

 「雪国」の第5編「萱(かや)(かや)の花」は、1936(昭和11)年8月の『中央公論』に掲載された。

 2度めの旅から東京へ帰ってゆく車中から書き出される。

   国境の山を北から登つて、長いトンネルを通り抜けてみると、(中略)こちら側にはまだ雪がなかつた。

 上野(こうずけ)と越後の国境を隔てる山塊の底を、1931年(昭和6年)に開通したループ式の長い清水トンネルが通りぬけてゆくのだ。その間に、雪国という現実から離れて行く。

 車中で、島村は放心状態になる。

 島村はなにか非現実的なものに乗つて、時間や距離の思ひも消え、虚しく體を運ばれて行くやうな放心状態に落ちると、単調な車輪の響きが、女の言葉に聞えはじめて来た。

   それらの言葉はきれぎれに短いながら、女が精いつぱいに生きてゐるしるしで、彼は聞くのがつらかつたほどだから忘れずにゐるものだつたが、かうして遠ざかつて行く今の島村には、旅愁を添へるに過ぎないやうな、もう遠い声であつた。彼はすつかり安心して、別離の情に溺れるばかりだつた。

それから、ふたりがはじめて会ったときから、これまでのいきさつが語られる。そして、三度めの旅について、次のように説明される。
   
   来年の2月の13、4日頃スキイに来ると、島村は約束して置きながら、3度目に来たのは、まる1年以上を過ぎた10月の初めだつた。

 2度目は12月だったから、2月には来ると約束しておいて、それをすっぽかし、10ヶ月もたって、彼はこの土地に現れるのである。

 その10月の初め、3度目の旅は、蛾の精細な描写から始まる。
http://blog.goo.ne.jp/osmorimoto_1942/e/f74b0abbc30ea2dd9df645c2d2313ce6


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[リバイバル3] 湯沢町の共同湯は日本国内の温泉の中で最低最悪 中川隆
33. 中川隆[7736] koaQ7Jey 2017年4月14日 11:03:35 : b5JdkWvGxs : DbsSfawrpEw[8226]

愛のゆくえ「雪国」 その8

 2度目は12月だったから、2月には来ると約束しておいて、それをすっぽかし、10ヶ月もたって、彼はこの土地に現れるのである。

 その10月の初め、3度目の旅は、蛾(が)の精細な描写から始まる。


蛾(が)の精細な描写

   蛾が卵を産みつける季節だから、洋服を衣桁(いこう)や壁にかけて、出しつぱなしにしておかぬやうにと、出がけに細君が云つた。

   いかにも、、宿の部屋の軒端に吊した装飾燈には、玉蜀黍(たうもろこし)色(とうもろこしいろ)の大きい蛾が六七匹もぢつと吸ひついてゐた。次の間の3畳の衣桁にも、小さいくせに胴の太い蛾がとまつてゐた。

 以下につづく蛾の描写は、康成の技量を示して、すさまじいばかりの迫力である。さらにこの章の中ほどに、秋が深まって昆虫どもの死んでゆく場面が描かれる。見過ごすことのできない描写だから、ここに引用しておこう。

   彼は昆虫どもの悶死するありさまを、つぶさに観察してゐた。

   秋が冷えるにつれて、彼の部屋の畳の上で死んでゆく虫も、日毎にあつたのだ。翼の堅い虫はひつくりかへると、もう起き直れなかつた。蜂は少し歩いて転び、また歩いて倒れた。季節の移るやうに自然と亡びてゆく、静かな死であつたけれども、近づいて見ると、脚や触覚を顫(ふる)はせて悶(もだ)えてゐるのだつた。それらの小さい死の場所として、八畳の畳はたいへん広いもののやうに眺められた。

 わたくしたちはここに、「禽獣」に描かれた数々の鳥や犬や人の死の姿を思い出す。「禽獣」の「彼」の冷酷非情な眼が、ここには存分に発揮されているのだ。そしてこの眼はそのままに、駒子や葉子を映しだす冷え冷えとした眼である。島村は、「禽獣」の「彼」のまぎれもない後身である。
   
鳥追い祭

   駒子は少し後れて来た。
   廊下に立つたまま、真向に島村を見つめて、

  「あんた、なんしに来た。こんなとこへなんしに来た。」
  「君に会ひに来た。」
  「心にもないこと。東京の人は嘘つきだから嫌ひ。」
   そして坐りながら、声を柔かに沈めると、
  「もう送つて行くのはいやよ。なんともいへない気持だわ。」(中略)

  「あんた二月の十四日はどうしたの。嘘つき。ずゐぶん待つたわよ。もうあんたの云ふことなんか、あてにしないからいい。」

2月の14日には、鳥追い祭がある。雪国らしい、子供の年中行事である。その頃は、雪もいちばん深い時であろうから、島村は鳥追い祭を見に来ると約束しておいて、すっぽかしたのだった。

 駒子は、二月は商売を休んで実家に帰っていた。そこへお師匠さんが肺炎になったという知らせが来た。駒子は看病に行っていたのだが、14日には、島村が来ると思って、わざわざ看病を途中にして、この温泉に帰ってきたのだった。

 この作品のところどころに出て来る「港」とは、駒子のモデル松栄の生まれ故郷、三条市を想定しているのであろう。

 湯沢から近くに、港に該当するような町はない。新潟も直江津も遠すぎる。湯沢からほどよい距離で、少し整った町、というと、三条市がいちばん適切である。
 駒子は師匠の看病を途中で放棄して湯沢に帰ってきたのだった。それなのに、島村は来なかった。お師匠さんは死んだ。

 島村の不誠実が、かえって駒子を惹(ひ)きつける一例である。

二十一歳の意味

 駒子は、「胃が痛い」といって島村の膝へ突っ伏す。襟をすかして、白粉の濃い首が見える。

   首のつけ根が去年より太つて、脂肪が乗つてゐた。二十一になつたのだと、島村は思つた。

 この作品の構造を考える上に、無視できぬ1行である。

 島村とはじめて会ったとき、駒子は19であった。もちろん戦前の数え方であるから、数えである。

 島村が二度目に来たのは、その年の12月、そして3度目の今回は、それから10ヶ月後の10月である。

 だから当然ここは、「二十」とあるのが正しい。この年立ての乱れを論じた平山三男は、作者の錯誤であるとする。

 しかし作品をここまで読んできた読者は、その濃密な連続する空気から、島村と駒子とは、はじめて会ってから、かなり長いように錯覚している。それほどに濃密なのである。

 2月の鳥追い祭に来ないで10月に来た、と書いた川端康成は、もちろんここが正しくは「二十」と書くべきであることをよく知っていただろう。しかも康成は、あえてここを「二十一になつたのだ」と書いたのである。

 「雪国」全体を通して、この3度目の逗留が長くなり、次の年の2月ごろになるのではあるけれども、実際は、島村は都合3度しか雪国に来ていない。

 駒子とはじめて会ってから、雪中火事の場面まで、実際には2年足らず、1年と7、8ヶ月程度である。しかしその事実を読者に自覚させると、せっかくの作品の厚みが薄っぺらなものになってしまう。

 康成は、濃密な内容に合わせて、島村と駒子の仲が3年も4年もつづいているかのように読者を錯覚させなければならないのである。

 そこであえて、ここを正しく「二十」とは書かずに、「二十一」と書いて読者を欺いたのである。作品として、その方がいい、とわたくしは考える。

雪国の現実

 しかし、3度目の訪問で、雪国の現実が大きく変貌していることも事実である。

 駒子が姉のように慕う芸者菊勇は、好きな男に騙(だま)されたために、せっかく旦那に建ててもらった店を手放し、別の町に新しく稼ぎに出ることになる。

 行男はもちろん、駒子のお師匠さんも死んだ。

 駒子も、置屋(おきや)が変わって、新しく4年の年季奉公に出るようになっている。
 容赦(ようしゃ)ない現実の波が、この雪国の世界にも押し寄せているのである。変わらないのは、駒子の島村に寄せる一途の愛だけである。

   「あんた私の気持分る?」
   「分るよ。」
   「分るなら云つてごらんなさい。ね、云つてごらんなさい。」と、駒子は突然思ひ迫つた声で突つかかるやうに云つた。

「それごらんなさい。云へやしないぢやないの。嘘ばつかり。あんたは贅沢に暮して、いい加減な人だわ。分りやしない。」

    さうして声を落すと、

   「悲しいわ。私が馬鹿。あんたもう明日帰んなさい。」
   (中略)

   「一年に一度でいいからいらつしやいね。私のここにゐる間は、一年に一度、きつといらつしやいね。」

 何と哀切な、美しい言葉であろう。男が不誠実であることを百も承知しながら、1年に1度でいいから来てほしい、と女はいうのである。

 ところで、次の1節も、この作品の構造に関係がある。

   「私がここへ来てから4年だもの初めは心細くて、こんなところに人が住むのかと思つたわ。汽車の開通前は寂しかつたなあ。あんたが来はじめてからだつて、もう3年だわ。」

    その3年の間に3度来たが、その度毎に駒子の境遇の変つてゐることを、島村は思ひ出した。

汽車の開通とは、もちろん1931(昭和6)年に開通した清水トンネルを指している。上越線は、この開通によって東京から新潟県まで楽に来られるようになり、越後湯沢の湯治客も桁(けた)違いに殖えたのだ。

 「その3年の間に3度来たが」は、正しくは「2年の間に3度来たが」である。あるいは、「2年ちよつとの間に」とすべきところを、康成は強引に「3年の間に3度」と、あえて錯誤を犯したのである。さきに述べたのと同じ理由からである。

 また「萱(かや)の花」では、駒子に旦那のいることがはじめて明かされる。その人は「港にゐる」という。芸者松栄(まつえ)の旦那は東京にいた。が、この作中では「港」とされている。「親切な人だのに、一度も生き身を許す気になれないのは、悲しい」と駒子はいう。

 じつは、ずっとのちに駒子のモデル芸者松栄に会って取材した和田芳恵によれば、松栄には、まだこのほかに意中の人がいた。しかしこれは、のちに述べることにしよう。

「火の枕」

 「雪国」の第6篇「火の枕」は、1936(昭和11)年10月号の『文藝春秋』に発表された。

 その冒頭近くに、駒子の言葉に触発されて、島村が人間の官能について考える場面が登場する。康成の、男女のあり方についての考えの示された、重要な一節である。

   「人間なんて脆(もろ)いもんね。すつかりぐしやぐしやにつぶれてたんですつて。熊なんか、もつと高い岩棚から落ちたつて、體(からだ)はちつとも傷がつかないさうよ。」

 と駒子が云った。岩場でまた遭難があったのだ。このことばを聞きながら、島村は次のように思う。

   熊のやうに硬く厚い毛皮ならば、人間の官能はよほどちがつたものであつたにちがひない。人間は薄く滑らかな皮膚を愛し合つてゐるのだ。

 島村のこの感想には、自分が官能というものに深くとらわれていることを痛感した上での、そのようなものにつき動かされて生きてゆかねばならぬ、自分や駒子を含めた人間のあり方に対する限りない愛惜がある。

 人間がたとえば熊のように逞しく荒々しいだけの官能を与えられているのなら、人間の生存様式はおのずから別のものとなっていただろう。けれども人間に付与されたのは、「薄く滑らかな皮膚」であった。そのような脆い繊弱な肌を与えられた結果、人間は舐めるようにささやかに、互いの肌を愛しあいながら生きてゆかねばならぬ。そこに人の世のさまざまの哀歓も生じてくる。……

 「雪国」の本質を示唆したような一節である。

葉子の登場

これまでも、葉子は時々、いろいろなところで登場していた。そしてそのたびに島村は、その一挙一動が心に残るのであった。

 しかし「火の枕」の後半では、葉子が大きく迫るように前面に出て来る。

 そのピークは、島村の留まっている宿で土地の人の宴会があり、さすがの駒子も「今日は来られないわよ、多分」と云った夜である。

駒子の結び文をことずかって葉子が来たあと、酔って島村のところへ来た駒子のことばは異様である。

   「あの子なんて云つた? 恐しいやきもち焼きなの、知つてる?」
  「誰が?」
  「殺されちやい(ママ)ますよ。」
  「あの娘さんも手伝つてるんだね。」
  「お銚子を運んで来て、廊下の陰に立つて、ぢいつと見てんのよ、きらきら目を光らして。あんたああいふ目が好きなんでせう。」

 ここで「恐しいやきもち焼き」と言われているのはもちろん葉子のことであり、やきもちを焼いている相手は駒子である。しかし何故に葉子は駒子に嫉妬し、「きらきら目を光らして」駒子の座敷を見ているのだろうか。

 「殺されちやい(ママ)ますよ。」――これも素直に読めば、島村が葉子に殺されかねないと駒子は言っているのである。前後から考えると、駒子と島村の仲を葉子が嫉妬している、それも島村を殺しかねないほど激しく、ということになる。

 この時点まで、島村は葉子を遠くから凝視していたばかりであり、葉子とことばを交わしたことも、二度めの旅の終りのあわただしいやりとりだけであった。だから、葉子が島村を恋しているとも受けとれるこの場面は唐突である。

 あるいは葉子は、島村自身を恋しているのではなく、激しい恋愛をしているということ自体で駒子を嫉妬しているとも考えられるが、しかしそれにしても葉子のこの感情は異常であり、読者は意表をつかれた思いがする。

 けれども不思議なのは、この場面が意外であるにもかかわらず、いやむしろ、意外である故にかえって、読者は、この妖しい心理の交錯に惹きこまれるのである。

 この緊張は、次の場面でさらに高まる。ふたたび駒子の結び文を持ってきた葉子に、島村が話しかけた部分である。

   「あの人は(中略)君の話をするのをいやがるくらゐだよ。」
  「さうですか。」と、葉子はそつと横を向いて、
  「駒ちやんはいいんですけれども、可哀想なんですから、よくしてあげて下さい。」
   早口に云ふ、その声が終りの方は微かに顫(ふる)へた。

   「しかし僕には、なんにもしてやれないんだよ。」
    葉子は今に體まで顫へて来さうに見えた。危険な輝きが迫つて来るやうな顔から、島村は目をそらせて……。

葉子が「そつと横を向いて」「駒ちやんはいいんですけれども」と言ったのは、駒子の自分に対する態度を受けとめて、微妙な心の波立ちをおさえ、それは赦してもいいと答えたのであるが、しかし次の「可哀想なんですから、よくしてあげて下さい」と頼んだのはわかるとして、「早口に云ふ、その声が終りの方は微かに顫へた」というのは、何を意味するのだろう。

 心の表層では駒子が島村に愛されることを願いながら、本心はそれに烈しい悋気(りんき)の焔をもやし、自分の方が島村に愛されることをひそかに希っている――そう考えなければ、次に「體まで顫へて来さうに」なる葉子の内面は理解できない。さらに「危険な輝きが迫つて来るやうな顔」とは、葉子が今にも自分を愛してくれと言い出すかもしれぬ、きわどい瞬間がおとずれていたことを示唆しているとしか考えられない。

 つまりここでは、それまで島村から見られるばかりの存在で、あたかも影のようであった葉子が、いつのまにか島村に愛を訴えかねない危険な存在になっているのである。
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[リバイバル3] 湯沢町の共同湯は日本国内の温泉の中で最低最悪 中川隆
34. 中川隆[7737] koaQ7Jey 2017年4月14日 11:09:34 : b5JdkWvGxs : DbsSfawrpEw[8227]

愛のゆくえ「雪国」 その9

激しい謝罪の方法

 この場面はさらに発展して、

  「早く東京へ帰つた方がいいかもしれないんだけれどもね。」
  「私も東京へ行きますわ。」
  「いつ?」
  「いつでもいいんですの。」
  「それぢや、帰る時連れて行つてあげようか。」
  「ええ、連れて帰つて下さい。」と、こともなげに、しかし真剣な声で云ふので、島村は驚いた。(中略)

  「あの人に相談した?」
  「駒ちやんですか。駒ちやんは、憎いから云はないんです。」

   さう云つて、気のゆるみか、少し濡れた目で彼を見上げた葉子に、島村は奇怪な魅力を感じると、どうしてか反つて、駒子に対する愛情が荒々しく、燃えて来るやうであつた。得体の知れない娘と、駈落ちのやうに帰つてしまふことは、駒子への激しい謝罪の方法であるかとも思はれた。

 「雪国」後半の山場の1つである。それまで背景にちらちらと影を見せた葉子が前面に出て来て、島村の言葉に誘発されるように「ええ、(東京に)連れて帰つて下さい」と、こともなげに言う。

 もしこの得体の知れぬ娘を連れて、駈落ちのように東京に帰ったら、それはもちろん、駒子への最大の裏切りである。駒子が気にしている葉子を連れて帰ることは、駒子にいちばん傷を与えることである。

 それを島村は、「駒子への激しい謝罪の方法であるか」とも思うのである。駒子の一途に慕い寄ってくる愛を、島村は十分に自覚している。しかも、そんな駒子に対して、自分は何もしてやれないという呵責(かしゃく)が島村には深くある。そんな駒子への最大の謝罪が、思い切った裏切りであると、島村は考える。それほどまでに、駒子の愛の深さを知り、追いつめられているのだ。

 こんな島村に呼応するように、少し後のところではあるが、駒子がこう言う一節がある。

   「あの子を見てると、行末私のつらい荷物になりさうな気がするの。(中略)私の荷を持つて行つちやつてくれない?」(中略)

   「あの子があんたの傍で可愛がられてると思つて、私はこの山のなかで身を持ち崩すの。しいんといい気持。」


駒子には、島村がそれほど遠くない先、自分を捨てて雪国を去るという予感がある。それを、自分の最もつらい方法で実行してほしい、その方が自分は捨てられたことが身にしみて、気が楽になる、というのである。

 あの子があんたの傍で可愛がられてると思って、私はこの山のなかで身を持ち崩すの。――それは、駒子の何と哀切な愛情であろう。
 そのように駒子の愛を牽制する存在として、葉子は描かれているのだ。

 なお、初出にはないが、1937(昭和12)年に刊行された〈旧版『雪国』〉では、
「得体の知れない娘と、駈落ちのやうに帰つてしまふことは、駒子への激しい謝罪の方法であるかとも思はれた。」のあとに、「またなにかしら刑罰のやうでもあつた。」の1行が加えられている。定本も、加えられたままである。

 「謝罪」「刑罰」――島村の、駒子に対する自責の感情を重く引きずった気持ちがよく表れている表現である。

小林秀雄の「文芸時評」

 小林秀雄は、「火の枕」を、「作家の虚無感―川端康成の『火の枕』」と題して、「報知新聞」の「文芸時評」(1)で評した。単にこの作品だけを論じたというよりも、「雪国」論、川端康成論としても、その本質を射抜いた言葉と思われる。これについては、のちにもう1度考える予定であるが、とにかくその核心部分をここに引用しておこう。

   しかし、この作品も、氏の多くの作品と同時に、その主調をなすものは氏の抒情性にある。ここに描かれた芸者等の姿態も、主人公の虚無的な気持に交渉して、思ひも掛けぬ光をあげるといふ仕組みに描かれてゐて、この仕組みは、氏の作品のほとんどどれにも見られるもので、これはまた氏の実生活の仕組みでもあるのだ。

   氏の胸底は、実につめたく、がらんどうなのであつて、実に珍重すべきがらんどうだと僕はいつも思つてゐる。氏はほとんど自分では生きてゐない。他人の生命が、このがらんどうの中を、一種の光をあげて通過する。だから氏は生きてゐる。これが氏の生ま生ましい抒情の生れるゆゑんなのである。作家の虚無感といふものは、ここまで来ないうちは、本物とはいへないので、やがてさめねばならぬ夢に過ぎないのである。

 「火の枕」につづく第7篇「手毬(てまり)歌」は、1937(昭和12)年5月号の『改造』に発表された。

   「駒子が憎いつて、どういふわけだ?」

  「駒ちやん?」と、そこにゐる人を呼ぶかのやうに云つて、葉子は島村を刺すやうに睨んだ。

「駒ちやんをよくしてあげて下さい。」
  「僕はなんにもしてやれないんだよ。」

   葉子の目頭に涙が溢れて来ると、畳に落ちてゐた小さい蛾を掴んで泣きじやくなりながら、

  「駒ちやんは、私が気ちがひになると云ふんです。」と、ふつと部屋を出て行つてしまつた。

最後の1行は、「雪中火事」の終幕の伏線ともいうべき部分である。

 ――連載はここで終わって、翌6月に、創元社から、いわゆる〈旧版『雪国』〉が刊行される。
http://blog.goo.ne.jp/osmorimoto_1942/e/88be5ad7261da1dda852fbb933b679cc


愛のゆくえ「雪国」 その10

「いい女」の意味

種々の雑誌に気随気ままに分載された「雪国」は、1937(昭和12)年6月12日、創元社から刊行された。いわゆる 旧版『雪国』である。

 第7篇「手毬歌」までを加筆削除し、さらに八頁ばかり書き加えられている。
 物語の冒頭は、現在も人口に膾炙(かいしゃ)する、次の名文に変わっている。

   国境の長いトンネルを抜けると雪国であつた。夜の底が白くなつた。

この加筆のなかで、最も重要な箇所は、「いい女」をめぐる言葉のやりとりだろう。

  その一人の女の生きる感じが温く島村に伝はつて来た。

  「君はいい女だね。」
  「どういいの。」
  「いい女だよ。」
  「をかしな人。」と、肩がくすぐつたさうに顔を隠したが、なんと思つたか、突然むくつと肩肘立てて首を上げると、

「それどういふ意味? ねえ、なんのこと?」

   島村は驚いて駒子を見た。

  「云つて頂戴。それで通つてらしたの? あんた私を笑つてたのね。やつぱり笑つてらしたのね?」

   真赤になつて島村を睨みつけながら詰問するうちに、駒子の肩は激しい怒りに顫へて来て、すうつと青ざめると、涙をぽろぽろ落した。

  「くやしい、ああつ、くやしい。」と、ごろごろ転がり出て、うしろ向きに坐つた。
   島村は駒子の聞きちがひに思ひあたると、はつと胸を突かれたけれども、目を閉ぢて黙つてゐた。

  「悲しいわ。」

   駒子はひとりごとのやうに呟いて、胴を円く縮める形に突つ伏した。

 島村は、単純に、駒子をいろいろの面から「いい女」と言ったのである。ところが駒子は、その意味をとり違えた。男に快楽を与える生まれつきの體をもっている女、という意味に受けとめた。

 だから、「それで通つてらしたの?」「やつぱり笑つてたのね」と言い、「くやしい」と、ごろごろ畳を転がるのである。

 駒子が部屋を出ていったあと、「島村は後を追ふことが出来なかつた。駒子に云はれてみれば、十分に心疚(やま)(やま)しいものがあった。」と考えるのである。

 この箇所は、駒子について読者に新しい知識を与えるものであるが、以前、「夕景色の鏡」のところで大きく削除した部分を補った、とも考えられる。

 まだ16、7の頃に、自分がどんなにいい女であるかを、男から噛んでふくめるやうに教へられ、その時はそれを喜ぶどころか、恥ぢるばかりだと、男はいよいよむきになつて褒めちぎつたので、やがて男の云ふことが彼女の頭の底に宿命のやうに沈みついてしまつたのだつた。

 この削除した一節を、「いい女」という表現で補ったのではなかろうか。

 「雪国」は、このあと、その次の朝、駒子が早くから島村の部屋に来て謡をうたうところで終幕を迎える。

 今年初めての雪が降りはじめたのだ。紅葉の季節はもう終わりである。

   島村は去年の暮のあの朝雪の鏡を思ひ出して鏡台の方を見ると、鏡のなかでは牡丹雪の冷たい花びらが尚大きく浮び、襟(えり)を開いて首を拭いてゐる駒子のまはりに、白い線を漂はした。

   駒子の肌は洗ひ立てのやうに清潔で、島村のふとした言葉もあんな風に聞きちがへねばならぬ女とは、到底思へないところに、反つて逆らひ難い悲しみがあるかと見えた。

   紅葉の銹(さび)色(にびいろ)が日毎に暗くなつてゐた遠い山は、初雪であざやかに生きかへつた。

   薄く雪をつけた杉林はその杉の一つ一つがくつきりと目立つて、鋭く天を指しながら地の雪に立つた。

〈旧版『雪国』〉は、ここで閉じられる。紅葉の季節が終わり、初雪が降ったという季節の変わり目である。

 作品集として少し頁が足りないので、「父母」「これを見し時」「夕映少女」「イタリアの歌」の四編が加えられている。いずれも、1936(昭和11)六年に各誌に発表されたものである。

 「あとがき」はない。ただ各篇の初出が一覧として挙げられている。発行は1937(昭和12)年6月12日、定価1円70銭である。版元は、創元社。

 このほか、この初版には、各誌に挙げられた讃辞・批評を集めたパンフレットがついていた。

「雪中火事」「天の河」

 それから3年たった1940(昭和15)年、『公論』という雑誌の12月号に、突然「雪中火事」という川端康成の作品が掲載された。

 はじめは、これまでの「雪国」とは少し趣きが変わって、「昔の人の本」が長々と紹介されているが、読んでゆくと、明らかに「雪国」の続編である。

 旧版『雪国』は、3度めの旅の、季節が紅葉から初雪の降る場面で終わっていた。いわば終わりともいえない終わり方だった。

 それに対して、この作品は、3度目の旅のつづきと思われる。
 ふたりの愛の行く末がもう見えている、という書き方だった。

   また駒子とかうしげしげ会ふにつれて、島村は動くのがいやになつた。うちへ帰るのも忘れた長逗留だつた。別れともないからではない。つかれてものういからでもない。いはば自分のさびしい姿を見ながら、ただぢつとたたづ(ママ)んでゐるのだつた。

  駒子がせつなく迫つて来れば来るほど、島村は自分が生きてゐないかのやうに思はれ出した。駒子の熱い火に身のまはりをつつまれて、島村は自分のなかにも一点の小さいともし火が見えて来たが、それはなぜか死の象徴を感じさせた。駒子を愛する術さへ知らぬことが情なくてならなかつた。

   駒子のすべてが島村に通じて来るのに、島村のなにも駒子には通じはしない。このやうな島村のわがままはいつまでも続けられるものでなかつた。駒子が形のない壁に突きあたる音を島村は雪の夜空に聞いた。

   島村はこの温泉場から出発するはずみをつけるつもりもいくらかあつて、縮(ちぢみ)の産地へ行つてみることにした。

ここには、ふたりの愛の行き違いが、はっきりと書かれている。

「駒子のすべてが島村に通じて来るのに、島村のなにも駒子には通じはしない。」それを康成は、「駒子が形のない壁に突きあたる音を島村は雪の夜空に聞いた」と表現する。

 島村はもう、別れなければならない、と思っているのだ。この温泉場を自分が去るしかない、と思っている。そのはずみをつけるために、縮の産地へ行ってみようかと考えるのである。

雪中火事の構想

 いったいなぜ、康成は続編を書くというような無謀を企てたのだろうか。
 この点について康成は決定版『雪国』(創元社、1948〈昭和23)年12月25日刊行)の「あとがき」に、こう書いている。

   昭和12年に創元社から出版し、その後改造社版の私の選集や1、2の文庫本にも入れた「雪国」は実は未完であつた。どこで切つてもいいやうな作品であるが、始めと終りとの照応が悪いし、また火事の場面は中頃前を書く時から頭にあつたので、未完のままなのは絶えず心がかりであつた。しかし、本にまでなつて1度この作品を片づけて立ち去つた気持も強く、残りはわづかながら書きづらかつた。

これによると、続きを書く気持になった原因は2つ――ひとつは、始めと終りとの照応が悪いこと、もうひとつは、雪中火事を書く構想が、かなり早くからあったことである。

 この2つのために、康成はあえて、1度本に出したものの続編を書くというみっともないことに、踏み切ったのであろう。

 このうち、後者については、すでに重要な指摘がなされている。

 「雪国」について精力的な探求をつづける平山三男は、「『雪国』の虚と実――『雪中火事』の新資料報告――」(『解釈』1977・1・1)において、重要な資料を提示して解説を加えている。また『遺稿「雪国抄」――影印本文と注釈論考――』(至文堂、1993・9・20)でも詳しく述べられている。

 平山によると、1935(昭和10)年10月22日、越後湯沢で火事があった。火が出たのは、「有限責任 湯沢乾繭(かんけん)場劇場 旭座」である。これは当時、湯沢村、神立村など5つの村の組合による共同経営がなされていたもので、集められた繭(まゆ)を乾燥するのが本来の目的だが、蚕(かいこ)の合間や冬期には劇場にも使われ、映画や素人歌舞伎・芝居などが演じられた建物という。

 火事の当日は、神立村の青年会が、会の活動資金を得るため、長岡から映画の上映権を買ってきて映画を上映していた。

 2巻目の「あゝ玉杯に花うけて」を上映中、夜9時ごろ、出火した。

 その様子は、「雪国」の中で宿の番頭がいう「活動のフイルムから、ぼうんといつぺんに燃えついて、火の廻りが早いさ」という言葉どおりであったという。

 1935(昭和10)年10月のこの時期、康成は、この湯沢に長期滞在していた。「物語」と「徒労」を書いたときである。まだ雪は降っていなかった。

 この火事を目撃したことが、康成の「雪国」執筆に大きな波紋をもたらした。

 平山は、その事実を証するため、第4次37巻『川端康成全集』補巻2に収録された水島治男宛て「昭和10年10月23日附」川端康成書簡(2の2)を紹介している。

   (前略)この小説は「雪国」と題し、来年2月、もう1度ここに来て、最後を書きます。雪に埋もれた活動小屋の火事で幕を閉じやうかと、昨夜火事(繭の乾燥場に活動写真あつて焼けました。)を見て思ひつきました。

 水島治男は『改造』の編集者であるが、注目すべきは、この時期、康成が「白い朝の鏡の続きを今書いてゐます」という点である。非常に早い時点で、雪中火事の構想が康成のうちに生じているのである。また作品も、「来年2月、もう1度ここに来て、最後を書きます」とあるように、決して長篇の構想があったのではなく、中編ぐらいの長さを康成が頭に描いていたことが推定されるのである。

 このときの康成の湯沢滞在は1935年の9月30日から10月29日までの、1ヶ月に及ぶ長いものであった。

 この時の日記が、以前に引用したように「『雪国』の旅」に掲載されているが、その掲載された期間は、同年9月25日から10月16日までである。

 つまり康成は、「雪国」の手の内を読者に見せたふりをして、火事のあった22日以前の16日で、この日記を切っている。すなわち、絶好の素材となるであろう雪中火事の事実を、読者に知らせることなく、日記を打ち切っているのである。

鈴木牧之『北越雪譜』

 書きおくれたが、「雪中火事」の冒頭は、鈴木牧之(ぼくし)の『北越雪譜』を引用したものである。

 康成はこの書を、〈旧版『雪国』〉刊行後に知って読んだという。

 ちなみに鈴木牧之は越後の商人で文人でもあった人(1770―1842)。『北越雪譜』は7巻から成り、越後の雪の観察記録を中心に、雪国の風俗、習慣、言語を記したもので、天保年間に刊行された。

 康成はそのなかから、特に縮(ちぢみ)について書かれた部分を引用した。縮を織ることは、雪国の女たちの勤勉で我慢づよい性格をよく現し、それは駒子の美質に通じると考えたからであろう。また越後縮(えちご ちぢみ)の清涼な肌合いが駒子の清潔な気質にも通じると考えたからであろう。

 縮の肌に涼しいのを書いたあと、「島村にまつはりついて来る駒子にもどこか根の涼しさがあつた。そのためによけいに駒子のみうちのあついひとところが島村にあはれであつた。」と記した1節が、そのことを語っているだろう。

 もう1つ、以下の1節も、この作品に深いところで通じていると思ったに違いない。

   しかしその無名の工人は無論とつくに死んで、その縮だけが残つてゐる。その暮しの苦しみはこの世に跡形(あとかた)(あとかた)もなく消えて、ただその美しいものだけが生きてゐる。なんの不思議もないことが島村はふと不思議であつた。

 恋愛も、その過程のさまざまな葛藤(かっとう)は時間が過ぎるときれいに消えて、ただ恋愛の名残りだけがはかない美しさとして残されてゆく。あるいは、恋愛の実質は跡形なく消えて、あとにはなにも残らない。

 その不思議が、縮(ちぢみ)の不思議と重なると考えられたからではあるまいか。
http://blog.goo.ne.jp/osmorimoto_1942/e/2b7102eebd22144442d2ba45201c224a
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[リバイバル3] 湯沢町の共同湯は日本国内の温泉の中で最低最悪 中川隆
35. 中川隆[7738] koaQ7Jey 2017年4月14日 11:16:04 : b5JdkWvGxs : DbsSfawrpEw[8228]

愛のゆくえ「雪国」 その11

「天の河」の構想

 「雪中火事」の続編「天の河」は、それから8ヶ月たった1941(昭和16)年8月に、『文藝春秋』に発表された。

 「雪中火事」の終わりでふと2行、天の河が描かれる。

   「天の川、きれいねえ。」と駒子はつぶやきながら、また走り出した。
   島村は空を見上げたまま立つてゐた。

 「天の河」は、これを受けて書き出されている。

 康成がおそらく渾身(こんしん)の力をこめて観察したに違いない天の河の描写が、描かれる。

   ああ、天の河と、島村も振り仰いだとたんに、天の河のなかへ體(からだ)がすつと浮き上つてゆくやうだつた。天の河の明るさが島村を掬(すく)ひ上げさうに近かつた。旅の芭蕉が荒海の上に見たのは、このやうにあざやかな天の河の大きさであつたか。裸の天の河が夜の大地を素肌で巻かうとして、直ぐそこに降りてきてゐる。恐ろしい艶(つや)めかしさだ。

 康成はここで、芭蕉が佐渡を詠んだ一句の大きさを思い出している。

   荒海や佐渡に横たふ天の河

 荒海を前景として、眼前に黒々と横たわる佐渡の島。その海と島のすべてを巻くように、全天に拡がる冴えわたった天の河――。

 康成が島村に託して描いた、巨大な、荒々しい、それでいて艶めかしい天の河こそ、卑小な人間世界と対比される自然の広大さであった。

   「ねえ、あんた私をいい女だつて言つたわね。行つちやふ人がなぜそんなこと言つて、教へとくの? 馬鹿。」

   女のあたたかい哀しみが島村を絞めつけた。

   「泣いたわ。離れるのこはいわ。だけどもう早く行きなさい。言はれて泣いたこと、私忘れないから。」

人間の世界の、小さな、だが何と一生懸命な、美しい言葉だろう。
 この篇は、次の行によって終わりを告げる。

   島村も新しい火の手に眼を誘はれて、その上に横たはる天の河を見た。天の河は静かに冴え渡つてゐた。豊かなやさしさもこめて、天に広々と流れてゐた。

 ここで「天の河」、すなわち追加された「雪国」は結ばれる。素人にも、平凡すぎる終幕と思われる。

「雪国抄」「続雪国」

 以上2編が発表されたのは、まだ太平洋戦争開戦以前の1940、41(昭和15、16)年のことであった。

 それから5年後の1946(昭和21)年、戦争も終わった敗残の国土のなかで、康成は三たび筆をとって、「雪国」の続編を新しく書き直して発表した。

 「雪国抄」は、『暁鐘』1946年5月号に発表された。

 「雪国抄」の、冒頭は、『北越雪譜』を踏まえて、「雪中火事」と、ほとんど同文である。ただ途中から、引用部分を大幅に削って、引き締まった文章となっている。

 また「雪中火事」で引用した、作品の核となる部分は、彫琢(ちょうたく)されて、珠玉のような名文へと変貌している。

   妻子のうちへ帰るのも忘れたやうな長逗留だつた。離れられないからでも別れともないからでもないが、駒子のしげしげ会ひに来るのを待つ癖になつてしまつてゐた。さうして駒子がせつなく迫つて来れば来るほど、島村は自分が生きていないかのやうな呵責がつのつた。いはば自分のさびしさを見ながら、ただぢつとたたづんでゐるのだつた。

駒子が自分のなかにはまりこんで来るのが、島村は不可解だつた。駒子のすべてが島村に通じて来るのに、島村のなにも駒子には通じてゐさうにない。駒子が虚しい壁に突きあたる木霊に似た音を島村は自分の胸の底に雪が降りつむやうに聞いた。このやうな島村のわがままはいつまでも続けられるものではなかつた。

   こんど帰つたらもうかりそめにこの温泉場へは来られないだらうといふ気がして、島村は雪の季節が近づく火鉢によりかかつてゐると、宿の主人が特に出してきてくれた京出来の古い鐵瓶(てつびん)で、やはらかい松風の音がしてゐた。(中略)

   島村は鐵瓶に耳を寄せてその鈴の音を聞いた。鈴の鳴りしきるあたりの遠くに鈴の音にほど小刻みに歩いて来る駒子の小さい足が、ふと島村に見えた。島村は驚いて、最早ここを去らねばならぬと心立つた。

   そこで島村は縮の産地へ行つてみることを思ひついた。この温泉場から離れるはずみをつけるつもりもあつた。

 島村は汽車に乗って、さびしそうな駅に降りる。そうして雁木(がんぎ)の連なる、昔の宿場町らしい町通りを歩いて、また汽車に乗る。もう1つの町に降りる。寒さしのぎにうどんを1杯すすって、また汽車に乗り、駒子の町に帰ってくる。

 車に乗って宿に帰ってゆこうとすると、小料理屋菊村の門口で立ち話をしている一人が駒子だった。

 駒子は徐行した車に飛び乗って、窓ガラスに額を押しつけながら、「どこへ行った? ねえ、どこへ行った?」と甲高く叫ぶ。

   「どうして私を連れて行かないの? 冷たくなつて来て、いやよ。」

  突然擦り半鐘(すりはんしょう)が鳴り出した。
   二人が振り向くと、

   「火事、火事よ!」
   「火事だ。」

    火の手が下の村の真中にあがつてゐた。

 「雪国抄」は作品が長くなって、「雪中火事」では、火事の発端だけだったのが、もう少しつづけて書いてある。

 作品の終わりに、作者の言葉がある。

   ――10年前の旧作「雪国」は終章を未完のまま刊行し、折節気にかかつてゐたが、ここにとにかく稿を続けてみることにした。既稿の分も改稿して発表し得たのは本誌編輯者の雅量による。作者――


 
「続雪国」の新展開

 つづけて、1年あまりを経た1947(昭和22)年10月、『小説新潮』に最終篇「続雪国」が発表された。

 火事のつづきである。繭倉(まゆぐら)で映画のあったことがわかって、駒子のあとを追って島村も繭倉の方へ駆け出す。

 「天の河。きれいねえ。」という駒子の声に誘われて、島村は空を見上げる。
 1941(昭和16)年の「天の河」と同じく、芭蕉の見た天の河を連想する。
 しかし次がこれまでと異なる。

   あつと人垣が息を呑んで、女の體が落ちるのを見た。

 やがて、それが失心(ママ)した葉子だとわかる。

 ――10年を経て、康成は葉子の失心と墜落という、物語の新しい展開、物語のフィナーレを思いついたのだ。

   葉子はあの刺すやうに美しい目をつぶつてゐた。あごを突き出して、首の線が伸びてゐた。火明りが青白い面の上を揺れて通つた。

   幾年か前、島村がこの温泉場へ駒子に会ひに来る汽車のなかで、葉子の顔のただなかに野山のともし火がともつた時のさまをはつと思ひ出して、島村はまた胸が顫へた。一瞬に駒子との年月が照し出されたやうだつた。なにかせつない苦痛と悲哀もここにあつた。

「幾年か前」という表現に注意したい。島村が葉子を初めて見たのは、2度めの旅、12月だった。3度めの旅は、それから10ヶ月後の10月から、この冬まで。長逗留で、今が1月とも2月とも判別しがたいが、いずれにしても、葉子を初めて見てから今まで、1年とちょっとである。

 「雪国」の正確な年立(としだて)という問題からみれば、ここは明らかに作家の錯誤である。

 だが、そうだろうか。

 この濃密で緊張感にみちた島村と駒子の愛を読んできた読者には、ふたりの仲は3年にも4年にも、あるいは5年にも感じられる。

 その読者の錯誤を考えると、ここは正確に「一年ちょっと前」と書いてはならないのである。「幾年か前」と朧化(ろうか)されることによってはじめて、島村と駒子の、のっぴきならぬ愛情の積み重ねが読者に納得させられるのだ。

 もう1つ大切な部分は、「一瞬に駒子との年月が照し出されたやうだつた。」とある一行である。

 「雪国」という作品にとって、葉子は重要な存在である。3度めの旅の紅葉の季節には、葉子は「東京に連れて行つてください」と島村に頼み、島村もこの「得体の知れない娘と駆け落ちのやうに東京へ帰る」ことは、駒子への最大の謝罪だと考えた瞬間もあった。

 そのように葉子は、島村と駒子のあいだにあって、駒子と島村の愛の成り行きを、刺すような美しい目で、じっと観察する存在としても考えられた。

 島村はいま、失心した葉子を見ながら、初めて葉子と会ったとき、汽車の夕景色の流れの中に映った、葉子の顔のなかにともったともし火を思い浮かべている。あれからの歳月、それは駒子と過ごした歳月でもあったのだ。

 島村の内部に「なにかせつない苦痛と悲哀」が湧き上がるのに、何の不思議もない。

 葉子の失心と墜落というアイデアが、駒子との歳月を写し出す鏡のような葉子の役割を、ふたたび思い出させたのである。

   「この子、気がちがふわ。気がちがふわ。」

   さう言ふ声が物狂はしい駒子に島村は近づかうとして、葉子  を駒子から抱き取らうとする男達に押されてよろめいた。

   さあつと音を立てて天の河が島村のなかへ流れて来た。

 康成は、最後に推敲して単行本にするとき、この最後の部分を、次のように改変した。

   「この子、気がちがふわ。気がちがふわ。」

   さう言ふ声が物狂はしい駒子に島村は近づかうとして、葉子を駒子から抱き取らうとする男達に押されてよろめいた。踏みこたへて目を上げた途端、さあと音を立てて天の河が島村のなかへ流れ落ちるやうであつた。

 この最後の場面は、長い物語の終焉として、まことに劇的なものであろう。

 駒子の愛の高まりと、それを受けとめる島村の追いつめられた意識が、物語の最後近くで、どうにも身動きできない状況になる。

 島村が、この雪国を去るしか、とるべき道は残されていないのである。

 物語のフィナーレに火事が起こり、その火事という非日常的な出来事の喧噪をはるかに見下ろすように、すべての人々を包み込むような壮麗な天の河が天空いっぱいに広がる。それに気づいた島村に流れ落ちるかと思われて、物語は結ばれる。

 伊藤整は、新潮文庫『雪国』の解説(1947〈昭和22〉・7・16)において、次のように作品の終幕の必然性を説いている。

   生きることに切羽つまつてゐる女と、その切羽詰りかたの美しさに触れて戦(をのの)いてゐる島村の感覚との対立が、次第に悲劇的な結末をこの作品の進行過程に生んで行く。そしてその過程が美の抽出に耐へられない暗さになる前でこの作品は終らねばならぬ運命を持つてゐるのである。

 ――11年間にわたる、康成の格闘がここに終わった。

 この「雪国抄」「続雪国」の2編にさらに彫琢を加えて、1948(昭和23)年12月25日、創元社から〈決定版『雪国』〉が刊行される。
http://blog.goo.ne.jp/osmorimoto_1942/e/3c9d030fb609dbf9dfc7cdaab6f4e27c

愛のゆくえ「雪国」 その12(最終回)

「雪国」は、どのような作品か

 ……これまで、プレオリジナル(初出)を中心に、「雪国」の要(かなめ)となる部分を見てきた。そのつど、意味するところは書いてきたはずである。

 しかし、それでは、「雪国」は、結局どのような作品なのか。

 以下を書くために、わたくしはこれまで、作品の細部を見てきたといってもいいくらいである。

 さて、「雪国」の本質を考えるとき、当然ながら、この作品の視点人物たる島村とは何者であるか、について考えさせられる。

この場合、かつて「火の枕」が発表されたとき、小林秀雄が「報知新聞」に書いた「文芸時評」の一節が、川端康成理解の有力な手がかりとなる。(「作家の虚無感―川端康成の『火の枕』」)

 小林は、康成の抒情性の本質を、次のように喝破した。

   しかし、この作品も、氏の多くの作品と同時に、その主調をなすものは氏の抒情性にある。ここに描かれた芸者等の姿態も、主人公の虚無的な気持に交渉して、思ひも掛けぬ光をあげるといふ仕組みに描かれてゐて、この仕組みは、氏の作品のほとんどどれにも見られるもので、これはまた氏の実生活の仕組みでもあるのだ。

   氏の胸底は、実につめたく、がらんどうなのであつて、実に珍重すべきがらんどうだと僕はいつも思つてゐる。氏はほとんど自分では生きてゐない。他人の生命が、このがらんどうの中を、一種の光をあげて通過する。だから氏は生きてゐる。これが氏の生ま生ましい抒情の生れるゆゑんなのである。作家の虚無感といふものは、ここまで来ないうちは、本物とはいへないので、やがてさめねばならぬ夢に過ぎないのである。

 この川端評は、そのまま「雪国」の島村に通じるのではないだろうか。特に後半の評言「がらんどう」は、「雪国」の本質をみごとに言い当てている。

 この小林の言葉をわたくしなりに翻訳すると、まず、島村の胸底は、虚無という「がらんどう」である。「禽獣」の「彼」と同じ構造をもっている。その虚無の胸底を、彼の見た生命体の美しさが、「一種の光をあげて」通過する。それが「雪国」という作品である。

 つまり島村は生きていながら、生きていない。彼はただそこに在るだけである。彼の眼に映じたもののうち、彼のうつろな胸底を、美しいと戦慄するように通り過ぎたものだけを、彼はすくい取り、それを彼は胸にしっかりしまい込むのだ。

 読者は、その島村の厳しい眼を通過した美しいものだけを受け取り、それを美しいと感じることができるのである。

 すなわち島村は胸底に虚無をたたえた冷ややかな感受性の持ち主であって、彼は蜘蛛が身のまわりに繊(ほそ)い糸をはりめぐらすように、
鋭い感受性をはりめぐらしていて、美しいものが通り過ぎるのを待っている。

 駒子のさまざまな姿態や言葉も、葉子の刺すような目も澄んだ声も、すべて彼の蜘蛛の網にかかる。

 それを彼は、こわれぬように繊細な手つきによって言葉に変え、そっと読者の前に提示するのである。

 読者が享受するのは、そのようにして川端康成の胸底を通過した美しいものだけである。この場合、島村は、そのまま川端康成自身である。

伊藤整の島村観

戦前戦後にかけて、川端康成について最も多く発言し、またその理解が深いと思われるのは、前掲の『川端康成作品研究史』を執筆した林武志が指摘するように、伊藤整である。

 その数々の文章のなかで、ここでは「川端康成の文学」(『作家論U』角川文庫、1964〈昭和39〉年・12・10に収録。初出は『東京新聞』1953年2月とあるが、該当する文章は掲載されていない)の、「雪国」について述べた部分から、その核心となるところを引用してみよう。

   主人公の島村は作者の説明では「自然と自身に対する真面目さも失ひがちな」無為徒食の人間で、山を好み、舞踊が好きだ、と簡単に書かれてゐる。しかし、それはどうでもよいことで、美と生命の燃焼を求める感受性の細い絃が島村といふ人物の中に縦横に張りめぐらされてゐるのである。

その絃に触れる美は悉(ことごと)く音を立てるが、生活そのものはその絃に触れることがない。だから、その生き方において悲しいまでに真剣な駒子のやうな存在、またその駒子よりももつと張りつめた生き方をしてゐる葉子の存在は、生活者としては島村に触れることなく、ただその張りつめた生き方の発する美の閃光(せんこう)としてのみ島村に把へられる。そこから島村と駒子の間、島村と葉子の間に、接近すればするほど行きちがふといふ悲劇が生れる。

   島村が美の感受者として自分の周囲に独特の世界を見出して作つて行くさまは、光を持つた人間が闇の中を歩くのに似る。

この理解は、先述の小林秀雄の理解と相通ずるところがあると思われる。

 伊藤整は別のところでも、島村を「美しく鋭いものの感覚的な秤(はか)り」と述べている。

山本健吉の「雪国」観

 少し後れて、川端康成の文学に深い共感を示し、駒子と葉子を、能のシテとツレと見立てた山本健吉の「雪国」観も、見ておく必要があるだろう。

 山本は『近代文学鑑賞講座13 川端康成』(角川書店、1959〈昭和34〉・1・10)の編著者であるが、この創見に満ちた1冊の書で、山本は次のように述べている。

   ……自分を全然人生の葛藤の渦中から外側に置いて、駒子や葉子のなかに瞬間的に現れる純粋な美の追究者として、人生的には非情の傍観者としてふるまうところに、この作品の世界が成立していると言えるのである。(中略)

   このような純粋に審美的なものの追求、生活の塵埃(じんあい)から、雪国の別世界への感受性の逃避行そしてそのことによって、女心の哀愁と美とを捕えようとしたのが、この作品なのである。

 ……伊藤整や山本健吉から、以後、たくさんの研究者たちが出て、「雪国」や島村について、さまざまな考察を提示した。

 しかしわたくしは、ここまで引用してきた小林秀雄、伊藤整、山本健吉らの考えを、「雪国」の本質を衝いたものとして、自分の「雪国」観を少しも改める気にはならないのである。


駒子のモデルと和田芳恵

 ……1957(昭和32)年の正月5日、評論家の和田芳恵は、写真家大竹新助とともに、新潟県南蒲原(かんばら)地方の三条市に、駒子のモデルとされる小高キクを訪ねた。雑誌『婦人朝日』に「名作のモデルをたずねて」を連載する、その第1回のためである。

 途上の湯沢では、豊田四郎監督、池辺良、岸恵子主演で「雪国」がはじめて映画化されることになり、その撮影で大騒ぎの最中であった。

 そのころ、かつて越後湯沢で芸者松栄として出ていたキクは、三条市の仕立物師・小高久雄の妻となって、小高キクとなっていたが、条理のわかった夫の協力もあって、この日の取材となったのである。

 以下は、この和田芳恵の記述「名作のモデルをたずねて(一)」(『婦人朝日』1957〈昭和32〉・3・1)によったものである。

 キクの本名は丸山きく。三条市島田に、1915(大正4)年11月23日、鍛冶屋(かじや)の長女として生まれた。兄がひとりあったが、十人兄弟の大所帯であった。
 川端康成と出会った1934(昭和9)年には、ちょうど数え20歳であったことになる。

 数えで10歳の7月15日に小学校をやめて、長岡市の立花家という芸者屋の下地っ子に出された。当時、南蒲原地方では、生活のために娘を芸者にすることを、さほど不思議と思わない風習があったという。

 長岡には、下地っ子のための特殊な学校があって、きくはそこに通ったそうだ。
 1928(昭和3)年、17歳になったきくは、湯沢の若松屋という芸者屋から松栄という芸名で出ることになった。年期は3年であった。

 しかし和田芳恵のここの記述はおかしい。1928年なら、キクは14歳だったはずである。これは年号の方が不確かで、「17歳」の方が正しいと考えたい。
 清水トンネルが開通した年(といえば1931〈昭和6〉年のはずだが、和田は1930年と書いている)、湯沢駅前の土産物店兼自動車屋に、峠(とうげ)豊作という運転手が雇われた。

 豊作は、1912(大正元)年の生まれ。きくと3つ違いだ。新潟県東南部の織物で名高い塩沢の、うどん屋の息子であったが、蕎麦(そば)づくりの技術を覚えるため、1928(昭和3)年に上京、日本橋室町の更科(さらしな)に弟子入りしたのだが、その仕事がいやになり、自動車の運転手になった。当時、運転手は、はなやかな職業であった。

 22歳の美貌の豊作と19歳のきくは、やがて深い恋仲となった。小説「雪国」は、この年から書き始められている。

 この土地では、芸者の住んでいる部屋を「きりやど」という。たいてい置屋の母屋から廊下でつづいているが、母屋からは離れている。そこに客が泊まることもあった。

 豊作は仕事がすむと、夜が更けたころ「きりやど」から、きくを呼び出し、ひっそりした湯舟につかって、あまい恋をささやいたという。「ふたりはしあわせに夢のような日をおくっていました」と和田は書いている。

 きくは豊作と一緒になりたいと考えていたが、3年の年期を終えて家に帰ると、すぐ富山県の高岡に、また芸者として出なければならなかった。このときの身代金で、親は住む家を建てた。芸名は、いろは、だった。

 しかし高岡では我慢のならないことがあった。それは、抱え主が芸者に客をとることを強要したことである。


1932(昭和7)年、18歳の松栄

 きくは、「21歳になった昭和7年の8月に、湯沢へ住みかえました」と和田は書いている。(年齢か年代か、どちらかが間違っている。平山三男の調査によれば、数え18歳の1932(昭和7)年が正しい。

 そのときの置屋が豊田屋で、抱えは三人いた。松栄(まつえ)という名が通っていたので、今回も松栄で出た。

 豊作との仲は、この土地では誰知らぬ者はないほどであった。きくは、豊作の兄貴分であった人を通して、年期があけたら一緒になってほしいと申し入れた。豊作は喜んで、かたい約束をした。ふたりは夫婦きどりでつき合っていたが、1937(昭和12)年の秋、豊作に召集令状が来て、高田に入隊することになった。そこで双方の親を説得して仮祝言をあげた。

 ところがじつは、きくには、東京に旦那がいた。60に近く、めったに来ることはなかった。その旦那が話を耳にして、どうしても手放さないと言い、きくは豊田屋をやめて上京し、旦那に囲われることになった。26歳のときだった。

 豊作の部隊は中支の漢口に行き、豊作はここで3年の軍隊生活を送り、現地で2年、軍属をしてから陸軍病院の酒保に店を出した。生活が安定したので、きくを呼び寄せる手続きをして、このとき初めて、きくに長いあいだ裏切られていたことを知った。

 和田芳恵は、峠豊作にも会って、取材している。この『週刊朝日』には、峠の近影も掲載されている。

 峠は、和田芳恵に、きくと、結婚の仮祝言をすませた仲であることを認めた。また康成を定宿の「高半」へ幾度も送り迎えをしたことなども話したという。

 1958(昭和33)年の取材の当時、峠は東京の八重洲口に近いところで料亭を営んでいた。

松栄のその後

 一方、きくは、旦那も死に、戦争も激しくなったので、郷里三条市に帰り、帯や袴(はかま)の仕立てをしている小高(こだか)久雄の弟子になった。

 やがてきくは、これまでの閲歴をすべて小高に打ち明け、二人は結婚して、現在に至ったという。

 和裁ばかりでは生活が苦しいので、きくはミシンを置いて、婦人子供の既製服の製造をはじめ、のちには内弟子や通いの弟子が七、八人もできるほど、手広く経営するようになっているそうだ。

 ――以上が和田芳恵の伝える丸山キクの半生である。年代にところどころ錯誤があるので、正確な事実として確認できないところが残念だが、中見出しに「哀れ、7年の恋は終りぬ」とあるところからも、このとき、きくは和田芳恵に率直に、峠豊作のことを含め、これまでの人生を詳細に語ったと思われる。

 問題は、康成が湯沢に滞在して「雪国」を執筆した時期と、峠豊作ときくが恋仲であった時期が重なるのではないかと思われることである。

 高半旅館の次男・高橋有恒も、「『雪国』のモデル考――越後湯沢における川端康成」(『人間復興』第2号、1972(昭和47)・11・期日不明)のなかで、「峠豊作と芸者松栄との間に当時、すこし噂があった」と書いている。

 また、あるとき、峠の運転する車に有恒が乗せてもらっていると、峠は芸者置屋豊田屋の前で車をとめ、二階の芸者松栄に声をかけた。すると松栄が降りてきて、車に同乗した。このとき松栄は、「オツさま、この本、川端さんがくれたの」と1冊の本――「水晶幻想」を差し出した、とも述べている。

 これらの事実を、どう解釈したらいいのだろうか。

 1932(昭和7)年、18歳のきくが、若松屋から松栄という名で芸者にでた事実は確かであろう。康成がはじめて湯沢に来たのは、2年後の1934(昭和9)年である。

 このときすでに松栄は、峠豊作と恋仲になっていたと思われる。

 というのも、松栄と峠豊作が恋仲になったのは、松栄が高岡に行く前のことと、和田芳恵は書いているからである。湯沢に帰ってきて、ふたたび松栄という名で芸者に出たきくと峠豊作は、感無量のうちに再会したはずである。

 もっとも、作品で見てきたように、潔癖で正直な松栄が、ふたりの男に二股(ふたまた)をかけるような女でないことは確かである。

 わたくしが注目したいのは、3度目の旅で、縮の産地から帰った島村の乗った車に、駒子が飛び乗る場面である。

   車が駒子の前に来た。駒子はふつと目をつぶつたかと思ふと、ぱつと車に飛びついた。車は止まらないでそのまま静かに坂を登つた。駒子は扉の外の足場に身をかがめて、扉の把手(とって)につかまつてゐた。(中略)

   駒子は窓ガラスに額を押しつけながら、
  「どこへ行つた? ねえ、どこへ行つた?」と甲高く呼んだ。

  (中略)

駒子が扉をあけて横倒れにはいつて来た。しかしその時車はもう止まつてゐるのだつた。
 
これは、実際の体験を描いた場面ではなかろうか。そうだとすれば、駒子が大胆にも走っている車に飛び乗ることができたのは、峠豊作の運転する車で、豊作が危険な操作をするはずがないと安心して、駒子は無茶をしたのではないだろうか。

 つまり、豊作もまた、駒子が島村とつき合っていることを知っていて、島村の前で車の速度を落し、また危険のないよう配慮したのである。

 わたくしは、すでに駒子こと、きくと豊作は恋仲であったと確信する。

 そこへ、いきなり東京から得体の知れぬ、これまで会ったこともないような男が現れ、きくは電撃に打たれたように、その男に惚れてしまったのだ。駒子は夢中になって、その新しい男に心血をそそいで恋をする。

 豊作は黙ってそれを傍観しているしかなかった。

 およそ2年間、駒子は命がけの恋をした。それは次元の異なる恋だった。豊作は黙って見ているより術(すべ)がなかった。

 島村が雪国を去ってしばらくたって、駒子こと、きくは豊作のもとに戻ってきた。駒子は豊作との結婚を本気で考えた。……

 康成は、駒子にそのような想い人があったことを知っていただろうか。

 小高久雄は和田芳恵の取材のとき、「この人には、そのころ、7年も思いつめた男の人がいたのですよ」と語ったそうだ。また、「雪国」の作者のことは、きくから聞いてはいたが、「雪国」を読んだのは結婚してからだったという。

 最後にきくは、康成のことを、「あの方は、これまで知った多くの人たちから感じられない独特な雰囲気を持っていました」と和田に語ったという。

 峠豊作というひとがありながら、駒子のきくは、魅入られたように康成との恋に命を傾けたのではなかろうか。
http://blog.goo.ne.jp/osmorimoto_1942/e/7d45b23134e8d90da385ae91582324aa
http://www.asyura2.com/09/revival3/msg/574.html#c35

[リバイバル3] 湯沢町の共同湯は日本国内の温泉の中で最低最悪 中川隆
36. 中川隆[7739] koaQ7Jey 2017年4月14日 11:31:11 : b5JdkWvGxs : DbsSfawrpEw[8229]

英訳すると情痴小説(ポルノ小説)『雪国』が 出来の悪い純愛小説になってしまう理由

雪国と Snow Country (上巻)

『雪国』を読めば、日本語と英語の発想がわかる!
ものとものとの関係 − 発想の違いを検証する

松野町夫 (翻訳家)

日本語は抽象的な表現を好み、動詞が主役。これに対して、英語は具体的・説明的で能動的な表現を好み、名詞が主役、特に「ものとものとの関係」は実に明瞭である。

川端康成の小説『雪国』とサイデンステッカーの英訳 ”Snow Country” を教材として、日本語と英語の発想の違いを検証したい。ちなみに、エドワード・ジョージ・サイデンステッカー(Edward George Seidensticker)は、コロラド州生まれアメリカ人。川端康成自身、「私のノーベル賞の半分は、サイデンステッカー教授のものだ」と言わしめたほどの名文家・知日家であり、私たち英語学習者から見れば、彼はいわば「神さま」みたいな存在だ。教材としてこれ以上のものはないと思う。

(原文)
国境の長いトンネルを抜けると雪国であった。夜の底が白くなった。信号所に汽車が止まった。

向側の座席から娘が立って来て、島村の前のガラス窓を落とした。雪の冷気が流れこんだ。 娘は窓いっぱいに乗り出して、遠くへ叫ぶように、「駅長さあん、駅長さあん。」

明かりをさげてゆっくり雪を踏んで来た男は、襟巻で鼻の上まで包み、耳に帽子の毛皮を垂れていた。

(訳文)
The train came out of the long tunnel into the snow country. The earth lay white under the night sky. The train pulled up at a signal stop.

A girl who had been sitting on the other side of the car came over and opened the window in front of Shimamura. The snowy cold poured in. Leaning far out the window, the girl called to the station master as though he were a great distance away.

The station master walked slowly over the snow, a lantern in his hand. His face was buried to the nose in a muffler, and the flaps of his cap were turned down over his face.


上記の英文を再度、日本語に訳してみる。これは訳をもう一度訳した文なので、訳訳文と呼ぶことにする。


(訳訳文)
汽車は長いトンネルを抜け雪国に出た。大地は夜空の下、白く横たわっていた。信号所に汽車が止まった。

同じ車両の反対側に座っていた娘が来て、島村の前の窓を開けた。雪の冷気が流れこんだ。窓いっぱいに乗り出しながら、娘は駅長を、ずっと遠くにいるかのように大声で呼んだ。

駅長は雪を踏みながら手に明かりをさげてゆっくり歩いて来た。彼の顔は襟巻きで鼻まで包まれ、帽子の耳おおいは顔まで垂れさがっていた。


原文の「国境の長いトンネルを抜けると雪国であった」は、翻訳者泣かせの文である。この種の和文は英訳が極端に難しい。この文は、複文なのか、それとも重文なのか?トンネルを抜けたのは何だろうか?人か、車か、汽車か?雪国であったのは何か?英文では主語が必須だが、この和文には、主語に相当する主格や主題が出てこない。主語を特定できないので英訳作業に着手できないのだ。「抜ける」とか「〜であった」という動詞は大事にするが、その主体となるもの(名詞)はあっさりと省略されてしまっている。

しかし、この文は日本語として特におかしな感じはしない。それどころか、日本の第一級の文学者の、しかも文学作品の書き出しだから、推敲に推敲を重ねた名文のはず。名文なのに、どうしてこうもわかりづらいのだろうか。それはたぶん、この文が単独では自己完結しておらず、文脈に依存しているからだろうと思う。主語を特定するには、物語をもっと先の方まで読み続ける必要がある。和文は文脈に依存したものが多い。

もし、この文が報告書のような実務文書であれば、私はためらうことなく悪文とみなし、もっと具体的にわかりやすく書き直してくださいと、書き手に注文をつけたいような気にもなる。

文脈依存文で、もっと先の方まで読んでもどこにも主語を特定できる手がかりがないことも、たまにある。それでも翻訳作業は何が何でも開始しなければならない。こういう場合、私は、逐語訳の手法を採用して日本語の発想をそのまま英文に持ち込むことにしている。たぶん、苦し紛れに以下のように訳すような気がする。

Getting through the long border tunnel led to the snow country.
国境の長いトンネルを抜けると雪国へ出た。

典型的な逐語訳であり、これぐらいなら、いっそのこと動詞 get through を省略して、The long border tunnel led to the snow country. (国境の長いトンネルは雪国に出た)の方が英文としては、もう少しマシかもしれない。

サイデンステッカーは、主語を汽車にして簡潔に表現する。まさに「コロンブスの卵」である。

The train came out of the long tunnel into the snow country.
汽車は長いトンネルを抜け雪国に出た。

彼は、国境ということばを無視(省略)し、The train という単語を主語として補充した。わかりやすい自然な英文だ。目をつぶると、その光景がいきいきと目に浮かぶ。”out of the long tunnel” (長いトンネルを抜け)の前置詞 out of があたかも動詞「〜を抜け」であるかのように機能している。「雪国であった」と原文ではいわば静の状態で表現されていたものが、英文では "The train came into the snow country." と能動的に表現されている。

ここで、原文と訳文の表現をもう一度比較してみよう。日英の発想の違いが一目瞭然である。


原文: 国境の長いトンネルを抜けると雪国であった。(日本語的発想の文脈依存文)

訳訳文: 汽車は長いトンネルを抜け雪国に出た。(英語的発想の自己完結文)


訳訳文は、汽車・トンネル・雪国の「ものとものとの関係」が明白である。原文をやまとことば本来の名文だとすると、訳訳文は、英語的発想から生み出された新しいタイプの明文(わかりやすい文)である。この種の表現(自己完結文)を積極的に日本語に取り入れることで、日本語は、「あいまいさ」を排除して、さらに豊かな表現を手に入れることができるのではないか。日本語的発想の文脈依存文は文学や詩歌などの芸術分野に、英語的発想の自己完結文(明文)は報告書や説明書などの実務的分野に、という具合に使い分けるのもおもしろい。

英語的発想の自己完結文(明文)、たとえば、「汽車は長いトンネルを抜け雪国に出た」は、文構造が単純なので、誰でも簡単に翻訳ができる。The train came out of the long tunnel into the snow country. 逆に言うと、日本語的発想の文脈依存文にでくわしたら、一度それを、英語的発想の自己完結文に置換してから翻訳に着手すると、作業が瞬時に完了するばかりか、作品もわかりやすい自然な英文に仕上がるといえる。英語的発想とは、主語を特定し、「ものとものとの関係」を明白にすること、たったこれだけの簡単な話である。たとえば、汽車・トンネル・雪国の3つのもの中から主語となるものを特定し、主語と別のものとを、動詞または前置詞を使用して関連付けるのである。

ちなみに、雪国の舞台は、新潟県南魚沼郡湯沢町。国境(くにざかい)は、上野国(こうずけのくに、群馬県)と越後国(えちごのくに、新潟県)の県境のこと。長いトンネルは、羽越線鉄道の清水トンネルで全長、9.7キロ。

夜の底が白くなった。
The earth lay white under the night sky.

「夜の底が白くなった」とはどういう意味なのだろうか?「夜」は通常、日が沈んで暗いとき(=時間)を意味する。しかし、時間は流れるが形がないので当然「底」などない。つまりここの「夜」は、通常の意味の「夜」ではない。では、どういう状況を表現しているのだろうか?おそらく、この「夜」は島村の車窓から見た「暗闇」を文学的に表現したのではないかと私は思う。具体的に言うと、トンネルに入る前の群馬県側では雪はなく、車窓からの夜景はただ一面の「暗闇」にすぎなかった; しかし長いトンネルを抜け雪国(=新潟の湯沢町)に入った途端、「暗闇」は一変する; 実際には、雪はずっと以前からそこの地面に積もっていたのであり、変化したわけではないのだが、島村(=川端康成)の目には、あたかも「暗闇」の下部(=地面)が突然、白く変化したかのように映ったのにちがいない。

「夜の底」という日本語の抽象的な表現に比べて、英語の The earth under the night sky (夜空の下の大地)は「具体的」「説明的」でわかりやすい。「大地」と「夜空」を前置詞 "under" で明確に関係付けている。まさに、日本語は抽象的な表現を好むが、英語は具体的な表現を好み、「ものとものとの関係」が実に明瞭だ。
"The earth lay white under the night sky." を意訳すると、「大地は夜空の下、白く横たわっていた」。要は、「地面に雪が積もっていた」ということ。直訳の "The bottom of the night became white." (夜の底が白くなった)では、何のことかさっぱりわからず、これではノーベル文学賞はとても無理だったでしょうね、きっと。

信号所に汽車が止まった。
The train pulled up at a signal stop.

ウーン、やはりネイティブ・スピーカーの英文は簡潔で美しい。民族英語はいきいきとした英米文化を背景に持つ。さりげなく訳してあるが、表現が生きていますね。

向側の座席から娘が立って来て、島村の前のガラス窓を落とした。

この文はわかりやすい。私ならおそらく原文にひきづられて、次のように訳しそうだ。

From the opposite seat a girl stood up, came over and opened the window in front of Shimamura.

しかし、サイデンステッカーは、この場面をはっとするほど正確に描写する。

訳文: A girl who had been sitting on the other side of the car came over and opened the window in front of Shimamura.

同じ車両の反対側に座っていた娘がやって来て、島村の前の窓を開けた。


the car は、ここでは車ではなく、車両の意味。向側の座席 the opposite seat は、向かい側とみれば、対面または背面する座席に、向こう側とみれば同じ車両の反対側の座席に解釈される。要するにこの表現では「あいまい」なのだ。実際には、娘(葉子)と島村はちょうど斜めに向かい合っていたので、同じ車両の反対側の座席が正しい。このため、訳文では、原文にはない「車両」という名詞を新たに補充している。これにより、「ものとものとの関係」、つまり、娘の座席と島村の座席の関係が明白となる。

「立って来て、窓を開けた」 stood up, came over and opened the window であれば、娘は時系列の順番に動作しているので、動詞はすべて過去形でよいが、「座っていた娘が来て、窓を開けた」となると、時制が異なるので 「座っていた娘」は、A girl who had been sitting と過去形よりさらに過去を表す過去完了進行形が必要となる。

原文: 娘は窓いっぱいに乗り出して、遠くへ叫ぶように、「駅長さあん、駅長さあん。」

訳文: Leaning far out the window, the girl called to the station master as though he were a great distance away.

訳訳文: 窓いっぱいに乗り出しながら、娘は駅長をずっと遠くにいるかのように大声で呼んだ。

原文は直接話法「駅長さあん、駅長さあん。」なのに、サイデンステッカーは間接話法で訳している。これは日本語と英語の特性に関係する。日本語は、敬称、敬語、謙譲語など待遇表現が英語よりはるかに豊富なので直接話法が威力を発揮するが、英語は間接話法が得意だ。「駅長さあん」の「さあん」は、敬称「さん」の変化したもので、日本人ならこれだけで、大声で呼んだとすぐにわかるが、英語には翻訳しづらい。マレーシア英語なら、日本人の多用する敬称「さん」に慣れているので、直接話法の ”Station Master san, Station Master sa-aaa-n!” でも理解してもらえるかもしれないが。


原文: 明かりをさげてゆっくり雪を踏んで来た男は、襟巻で鼻の上まで包み、耳に帽子の毛皮を垂れていた。

訳訳文: 駅長は雪を踏みながら手に明かりをさげてゆっくり歩いて来た。彼の顔は襟巻きで鼻まで包まれ、帽子の耳おおいは顔まで垂れさがっていた。

訳文: The station master walked slowly over the snow, a lantern in his hand. His face was buried to the nose in a muffler, and the flaps of his cap were turned down over his face.

原文は「男」を主題にして文全体をひとつにまとめているのに対して、訳文は、「駅長」、「顔」、「耳おおい」と3つのものをそれぞれ主語に設定して3つの文に分けてある。「駅長」、「顔」、「耳おおい」は、いずれも原文には存在しない。「駅長」と「男」、「帽子の耳おおい」と「帽子の毛皮」は実質的に同じものなので、これは別としても、「手」や「顔」は新たに補充されたもので、「顔」などは2度も登場する。実際、訳訳文は原文よりも1.5倍ほど長い。この結果、訳文はものとものとの関係が明白だ。

「明かりをさげて」 = “a lantern in his hand”

「襟巻で鼻の上まで包み」 = “His face was buried to the nose in a muffler”

「耳に帽子の毛皮を垂れていた」 = “the flaps of his cap were turned down over his face”


「明かりをさげて」の「さげて」は動詞だが、訳文では前置詞 “in” で表現している。明かりは手に、(たとえば、腰にではなく)さげていたのだ。ここにも、名詞を多用して具体的に説明する英語の特徴が如実に現れている。

「襟巻で鼻の上まで包」んだのは何か?「顔」である。当たり前じゃないか!などと憤慨しないでください。”His face” という主語を立てないかぎり、普通の英語にはならないのです。

「耳に帽子の毛皮を垂れていた」は、「帽子の耳おおいは、顔まで垂れさがっていた」と表現している。たいした違いはないじゃないか、ですって!?いいえ、垂れていたのは、「耳」にではなく「顔」にでしょうと、訂正している。なるほど、確かに「耳おおい」は、耳を越えて顔にまでかかるものですね。いやはや、恐れ入りました。


長文は短文に分割すると翻訳が簡単!
直訳か意訳か

直訳か意訳かは翻訳者にとって永遠のテーマ。直訳は原文を字句・文法にしたがって一語一語忠実に訳すこと(literal translation)、逐語訳ともいう。意訳は字句にこだわらないで意のあるところを訳すこと(free translation)、自由訳ともいう。

若い頃、私は極端な直訳信奉者だった。といっても、主義とか思想とか、そんな高遠なものに裏うちされたものではない。単に経験不足で自分勝手にそう思い込んでいたにすぎない。当時の私は原文を絶対視していたようだ。原文の語句はすべて翻訳しなければならない、原文にない語句を勝手に補充してはならない、原文が長い文章であっても勝手に分割してはいけない、原文の形容詞や副詞は、訳文でも形容詞や副詞にしなければならない、つまり、品詞は変更してはならない、などなど。思い込みは恐い。

言語学的に似通った言語間の翻訳ならいざしらず、お互いにかけ離れた構造を持つ日本語や英語間の翻訳にそのような偏狭な手法だけで対処できるはずはないのだが、当時はしかし、そのように思い込んでいた。

川端康成の『雪国』とサイデンステッカーの英訳 ”Snow Country” は、こうした永遠のテーマに対してひとつのガイドライン(指針)を示してくれている。サイデンステッカーは必要に応じて、原文の語句を省略したり、原文にない語句を新たに補充したり、長文を短文に分割したり、品詞を変更したりする。つまり、わかりやすい英文に翻訳するために必要に応じて意訳する。

(原文)
もうそんな寒さかと島村は外を眺めると、鉄道の官舎らしいバラックが山裾に寒々と散らばっているだけで、雪の色はそこまで行かぬうちに闇に呑まれていた。

(訳文)
It’s that cold, is it, thought Shimamura. Low, barracklike buildings that might have been railway dormitories were scattered here and there up the frozen slope of the mountain. The white of the snow fell away into the darkness some distance before it reached them.

(訳訳文)
もうそんな寒さかと島村は思った。鉄道の官舎らしい低いバラックのような建物が凍結した山の斜面のあちこちに散らばっている。雪の白さはそこまで行かぬうちに闇に呑まれていた。

原文は、島村の眺めた景色として文全体をひとつにまとめているが、訳文では、島村・建物・雪の白さという3つの名詞をそれぞれ主語にして3つの文に分割して仕上げてある。原文の流れも自然なら、訳文も同様に自然な流れで分断の後遺症など、まったく感じさせない。

原文は日本語的な発想に基づいた名文である。このような名文から直接、訳文のような自然な英文を創造することは極端に難しい。日本人にはまず無理。こういう場合には、名文を一度、英語的な発想の明文(わかりやすい文)に読み砕くことである。まず、長文ならいくつかの文に分断する。分断するときは動詞に注目し、概念(意味のひとまとまり)ごとに切り出す。分断箇所にはスラッシュ(斜線 “ / “) を入れる。スラッシュ (slash) は動詞では「切り裂く」の意。明文を書くには、「1つの文に1つの概念」が原則。現に、訳文ではこの原則が採用されている。英作文はこれに限る。これだと書くのが簡単で読み手も理解しやすい。

もうそんな寒さか/ と島村は外を眺める/ と、鉄道の官舎らしいバラックが山裾に寒々と散らばっている/ だけで、雪の色はそこまで行かぬうちに闇に呑まれていた/。

次に、分割した各文の主語(S)や動詞(V)、目的語(O)、補語(C)などを特定する。これらが省略されているときは補充する。

もうそんな寒さか/ → もうそんな寒さかと島村は思った。

島村は外を眺める/ → 島村は外を眺めた。

鉄道の官舎らしいバラックが山裾に寒々と散らばっている。

雪の色はそこまで行かぬうちに闇に呑まれていた。


ここまでの作業で難解だった長文の名文が4つの短い明文に変換された。これなら、私たち日本人でも何とか翻訳できそう、でしょう?。俄然、やる気もわいてくる。以下に私の訳とサイデンステッカーの訳を示す。対比することで日本英語(JE)と米語(AE)の違いが実感できる。

もうそんな寒さかと島村は思った。

JE: It’s already such cold, thought Shimamura.

AE: It’s that cold, is it, thought Shimamura.


島村は外を眺めた。

JE: He looked out.

AE: (訳文では省略されている)

鉄道の官舎らしいバラックが山裾に寒々と散らばっている。
JE: Railway dormitorylike barracks were coldly scattered at the foot of the mountain.

AE: Low, barracklike buildings that might have been railway dormitories were scattered here and there up the frozen slope of the mountain.


雪の色はそこまで行かぬうちに闇に呑まれていた。

JE: The color of snow disappeared in the darkness on the way before it arrived there.

AE: The white of the snow fell away into the darkness some distance before it reached them.

ちょっと気になるのは、原文の「島村は外を眺め」は、訳文では省略されている点である。私などはつい、He looked out. という英文を挿入したくなるが、山裾のバラックなどの光景は島村の眺めた景色だということは誰の目にも明快なので、実際にはこの文がなくても少しも不都合はない。

どちらかというと逐語訳調の私のジャパニーズ・イングリッシュに比べて、サイデンステッカーの訳はすべて、当然のことながら、さすがに格調高く洗練されていて、特にバラックの描写など臨場感すら漂っており、実にいきいきとまるで映画のシーンを見ているようである。この違いはどこから来るのか? もう一度、バラックの文に焦点をあて、仔細に検討しよう。

(原文) 鉄道の官舎らしいバラックが山裾に寒々と散らばっている。

(訳文) Low, barracklike buildings that might have been railway dormitories were scattered here and there up the frozen slope of the mountain.

(訳訳文)鉄道の官舎らしい低いバラックのような建物が凍結した山の斜面のあちこちに散らばっている。

バラックは米語ではbarracks(単複同形)で通常、「兵舎」を意味するようだ。もちろん、「粗末な家」の意味もあるが。訳文では、「低い」や「凍結した山の斜面」、「あちこちに」が補充されていて、これらが臨場感の演出に一役かっている。これらの語句は原文にはない。「低い」は平屋を連想させる。確かに当時の鉄道の官舎はそんな感じだったようである。「凍結した山の斜面」は原文の「寒々と」を具体的に表現したもの。「あちこちに」はバラックの散在するさまを強調しているので、挿入した方が英文ではわかりやすい。ちなみに「あちこちに」は、日本語の語順と異なりhere and there 「こちあちに」となる。

(原文)寒々と → 凍結した山の斜面に
up the frozen slope of the mountain

原文では「寒々と」と副詞を使用して抽象的に表現しているが、訳文では「凍結した山の斜面」と具体的に表現している。川端康成の「寒々と」に込めた想いが訳文の ”the frozen slope” に完全に一致するとは思えないが、「日本語は抽象的な表現を好み、英語は具体的な表現を好む」という日英2つの言語の特徴が出ていておもしろい。「寒々と」を具体的に表現せよと問われたら、私は "in the freezing air" と答えるような気がする。この場面ではこの副詞句が私の語感に近い。

でも、サイデンステッカーはなぜリスクをおかしてまで「寒々と」を「凍結した山の斜面」と訳したのか?私が思うに、日本語では「家が寒々と散らばっていた」はごく普通の表現であるが、英語では、Houses were coldly scattered. とはあまり表現しないのではないか。 scatter は widely (広く)などとは連語 (collocation) になるが、coldly 「寒々と」とはあまり連結しない。だから「寒々と」を断念したのではないかと思う。インターネットを検索しても "scatter" と "coldly" の連結は見当たらない。実際、Cambridge Advanced Learner's Dictionaryは "coldly" を以下のように定義している。ロングマン米語辞典(LAAD)やオックスフォード辞典(OALD)でも似たり寄ったり。もちろん、"coldly" は cold + ly なので「寒い」という概念をいずれにせよ持っているのはまちがいないが、Houses were coldly scattered. は英米人の普通の表現にはないのかもしれない。

coldly: adverb
in an unfriendly way and without emotion:
"That's your problem, " she said coldly. (それはあなたの問題よ、と彼女は冷たく言った)

サイデンステッカーが翻訳で目指したのは「ごく普通の自然な英文」であるのはまちがいない。どの訳文を見てもお手本になる自然な英文ばかり。だからこそ、『雪国』と "Snow Country" は日本人にとって和文英訳の手引書となり得るのである。さらにまた、これは和文英訳についての手引きではあるが、その基本的な手法や考えかたは英文和訳にも、あるいはもっと一般化して、他の言語の翻訳にも相当に適用できるのではないかと私は思っている。私にとっては手引書というよりは名人による翻訳の指導書、いや極意の書である。


日本語には間接話法はない!
地の文と会話文

会話文はわかりやすい。説明や描写の文(地の文)が長々と続いた後に会話文を目にするとほっとする。会話文は砂漠の中のオアシス。子供のころから不思議なことに、会話の部分だけは文字を読むまでもなく、音声と映像で瞬時にして理解できた。まるで、話し手の声が聞こえ表情までもいきいきと見えてくるかのように。同じような体験をお持ちの方は大勢いらっしゃるはずだと思う。

(原文)
「駅長さん、私です、御機嫌よろしゅうございます。」

「ああ、葉子さんじゃないか。お帰りかい。また寒くなったよ。」

「弟が今度こちらに勤めさせていただいておりますのですってね。お世話さまですわ。」

「こんなところ、今に寂しくて参るだろうよ。若いのに可哀想だな。」


(訳文)
"How are you?" the girl called out. "It's Yoko."

"Yoko, is it. On your way back? It's gotten cold again."

"I understand my brother has come to work here. Thank you for all you've done."

"It will be lonely, though. This is no place for a young boy."


(訳訳文)
「ご機嫌いかがですか?葉子です。」と娘は叫んだ。

「葉子さんじゃないか。お帰りかい。また寒くなったね。」

「弟が今度こちらにお勤めさせていただいているそうですね。お世話になります。」

「今に寂しくなるだろうにね。ここは若いのが住むところじゃないよ。」

上述の会話文は本人の話を直接、引用しているので英文法の直接話法に相当する。英語には直接話法と間接話法がある。直接話法 (direct speech) は人のことばをそのまま伝える方法で、間接話法 (reported speech) は人のことばを話し手のことばに直してから伝える方法である。英語の直接話法と間接話法はお互いに変換することができる。


例: 「私は今、元気です」と彼は言った。

He said, "I am fine now." (直接話法 direct speech)

He said (that) he was fine then. (間接話法 reported speech)


日本語は直接話法は得意だが間接話法は苦手、というより間接話法は英語の概念であり日本語にはもともと存在しない。日本語では「会話文」と「地の文」という概念がある。「地の文」とは説明や描写の文のこと。大雑把に言うと、会話文は日本語では直接話法で表現し、英語では直接話法かまたは間接話法で表現する。


「日本語の会話文」 = 日本人は「直接話法」で表現する

「英米語の会話文」 = 英米人は「直接話法」または「間接話法」で表現する

日本語では複雑な内容であっても直接話法でなら完璧に表現できるが、間接話法ではそうはいかない。私自身、間接話法の英文をそのまま間接話法で日本語に翻訳しようとして、四苦八苦した苦い経験が何度もある。単純な内容なら間接話法で表現できなくもないが、ちょっと込み入った内容になるとすぐにお手上げとなる。いくら工夫してもなかなか素直な日本語にならない。

英語の直接話法と間接話法は、表現こそ異なるが内容(意味)はまったく同じもの。複雑な内容の間接話法の英文を和訳するときは、直接話法で処理した方が自然な日本語を得やすい。この場合、意味が不明瞭にならないかぎり、かぎかっこ(「」)を省略するなど、ちょっと工夫することであたかも間接話法であるかのように見せることもできる。

例: He said he was fine then. (間接話法の英文を和訳する場合)

「私は今、元気だ」と彼は言った。 (直接話法で和訳してもよい)

今、元気だと彼は言った。 (かぎかっこを省略して間接話法のように見せることもできる)

話法の話はこれくらいにして、『雪国』の本文に戻る。


原文: 「駅長さん、私です、御機嫌よろしゅうございます。」

訳文: "How are you?" the girl called out. "It's Yoko."

「駅長さん」は今回も訳文にはない。"How are you, Station Master? It's me." と逐語訳したくなるところだが、訳文の方がもちろん、自然な英文である。

原文: 「ああ、葉子さんじゃないか。お帰りかい。また寒くなったよ。」

訳文: "Yoko, is it. On your way back? It's gotten cold again."

「ああ、葉子さんじゃないか」を "Yoko, is it." と疑問形にして疑問符はつけない。これを仮に、"Ah, it's you, Yoko, aren’t you?" などと普通の付加疑問文にすると、アメリカ風の社交的な駅長というイメージを読者に与える恐れがある。 "Yoko, is it." か、なるほどね。これなら、日本人の駅長の感じが出ている。

原文: 「弟が今度こちらに勤めさせていただいておりますのですってね。お世話さまですわ。」

訳文: "I understand my brother has come to work here. Thank you for all you've done."

日本人は「今度」という語を愛用するが一筋縄では行かないことばだ。場合に応じて、this time, next, recently などに訳し分ける必要がある。この場合は "my brother has (recently) come" の意だが、訳文にはない。

原文: 「こんなところ、今に寂しくて参るだろうよ。若いのに可哀想だな。」

訳文: "It will be lonely, though. This is no place for a young boy."

訳訳文:「今に寂しくなるだろうにね。ここは若いのが住むところじゃないよ。」

"It will be lonely" の "it" は、おなじみの形式主語。 It rains (雨が降る), It's dark here (ここは暗い) などのように、形式主語の "it" は天気や時間、距離、情況などを漠然と指す。英語は形式上、主語が必要なので挿入されたもの。通常、"it" は日本語に訳さない。

会話文はわかりやすいが、皮肉なことに会話文の翻訳は非常に難解になる場合が多い。上記の、「こんなところ、今に寂しくて参るだろうよ。若いのに可哀想だな。」もその典型的な例である。民族の文化や生活に深く根ざした表現は逐語訳ではうまく処理できないのだ。「参るだろうよ」= He'll be frustrated. や「可哀想だな」= I feel (sorry) for him. などと直訳せずに、lonely や “no place for a young man” などを使用して言外ににおわせる、まさに高等技法である。


川端康成の官能的表現
直訳か意訳か

川端康成の『雪国』(新潮文庫)の8ページには「左手の人差指」について述べた長文がある。この文は物語全体とやや趣(おもむき)を異にする。私は少し違和感を覚えた。彼の作品にしては珍しく表現が露骨で肉感的な感じが強い。サイデンステッカーの英訳版 ”Snow Country” でこの文を確認したら、どうやらサイデンステッカーも戸惑いを感じていたようである。

(原文)
もう三時間も前のこと、島村は退屈まぎれに左手の人差指をいろいろに動かして眺めては、結局この指だけが、これから会いに行く女をなまなましく覚えている、はっきり思い出そうとあせればあせるほど、つかみどろろなくぼやけてゆく記憶の頼りなさのうちに、この指だけは女の触感で今も濡れていて、自分を遠くの女へ引き寄せるかのようだと、不思議に思いながら、鼻につけて匂いを嗅いでみたりしていたが、ふとその指で窓ガラスに線を引くと、そこに女の片眼がはっきり浮き出たのだった。彼は驚いて声をあげそうになった。

(訳文)
It had been three hours earlier. In his boredom, Shimamura stared at his left hand as the forefinger bent and unbent. Only this hand seemed to have a vital and immediate memory of the woman he was going to see. The more he tried to call up a clear picture of her, the more his memory failed him, the farther she faded away, leaving him nothing to catch and hold. In the midst of this uncertainty only the one hand, and in particular the forefinger, even now seemed damp from her touch, seemed to be pulling him back to her from afar. Taken with the strangeness of it, he brought the hand to his face, then quickly drew a line across the misted-over window. A woman's eye floated up before him. He almost called out in his astonishment.

(訳訳文)
三時間前のことだった。退屈まぎれに、島村は左手を眺め人差指が屈伸するのを見つめていた。この手だけがこれから会いに行く女の、生き生きしたじかの思い出を持っているようだ。鮮明な女の画像を思い出そうとすればするほど、記憶は萎え、女がますます薄れてゆき、つかまえておきたいのに何も残らない。この不確実さの中で、この片手だけが、特にこの人差指が今も女の触感で濡れていて、遠くから自分をその女へ引き戻しているかのようだ。不思議に思いながら、彼は左手を顔に近づけて、それからすっかり曇った窓にさっと線を引いた。女の片眼が彼の面前に浮かび出た。彼は驚いて声をあげそうになった。

他の部分は原文に忠実なのに、「鼻につけて匂いを嗅いでみた」の部分だけは、"he brought the hand to his face" (彼は左手を顔に近づけた)とぼかして訳してある。「鼻につけて左手の匂いを嗅ぐ」を直訳すると、”he smelled his left hand” または “he put his left hand on his nose to smell it” となる。しかし訳文には「鼻」も「嗅ぐ」もどこにも出てこない。具体的な表現を好む英語がこの部分に限っては、日本語のお家芸を奪うかのごとく曖昧に表現している。なぜか?おそらくサイデンステッカーもこの部分については違和感を覚えたにちがいない。だから彼は意図的に曖昧に表現したのではないだろうか?

欧米文化では鼻はタブーらしい。英米の小説では「顔は克明に描かれている場合でも、どうしたことか鼻への言及が少ない」、「どうも欧米人は、鼻を何となくわいせつな感じ(obscene)を起こさせるものと見ているようだ」(『ことばと文化』 鈴木孝夫著、岩波新書、ものとことば、50〜51ページから抜粋)

だとしたら、「鼻につけて匂いを嗅いでみた」は欧米人にとっては、いよいよ卑猥な表現となる。結局サイデンステッカーは、翻訳者としての原文への忠誠の義務に逆らってまでも、具体的な表現を好む英語の用法に逆らってまでも、あえて曖昧に表現せざるを得なかったのであろう。原文は確かに少々卑猥な感じはするが、日本語の文学的表現の許容範囲内にぎりぎり収まっている。少なくとも川端康成はそう考えた。しかし、欧米文化ではこの部分の逐語訳、たとえば、“he put his left hand on his nose to smell it” は到底一般読者の容認できるものではないのかもしれない。「鼻につけて匂いを嗅いでみた」の意訳、"he brought the hand to his face" (彼は左手を顔に近づけた)は、文化レベルにまで引き上げて考えてみると、一転して原文に忠実な訳となる。日英両文とも、お互いに文化的(= 文学的)許容範囲内にあるからだ。翻訳者としての原文への忠誠義務違反は「ことば」のレベルではまさにその通りだが、上位概念の「文化」のレベルでは免罪され忠誠義務違反に当たらない。この意訳で OK だと私は思う。

原文の2つの文のうち、最初の文は相当に長い。文字数を数えてみたら何と226文字ある。ちなみに、マイクロソフトのワードで文字数を確認するには、ワードを起動し、目的の文を新規文書に入れ、ワードのメニューバーから「ツール」、「文字カウント」の順にクリックすると、「文字カウント」ウィンドウが表示され、文字数や単語数を確認できる。それにしても 226文字とは相当に長い文だが、そこは名人、誰でも難なくすらすらと読みこなせるように仕上げてはある。

この長文は、訳文では7つの文に分割されている。長文は短文に分割する、サイデンステッカーは徹底してこの手法を採用する。分割するときは、文頭から順番に、動詞に注目しながら概念(意味のひとまとまり)ごとに切り出す。このようにして分割したものを次に示す。

もう三時間も前のことだった/
島村は退屈まぎれに左手の人差指をいろいろに動かして眺めた/
この指だけが、これから会いに行く女をなまなましく覚えている/
はっきり思い出そうとあせればあせるほど、つかみどろろなくぼやけてゆく/
記憶の頼りなさのうちに、この指だけは女の触感で今も濡れていて、自分を遠くの女へ引き寄せるかのようだ/
不思議に思いながら、鼻につけて匂いを嗅いでみたりしていたが、ふとその指で窓ガラスに線を引く/
そこに女の片眼がはっきり浮き出たのだった/

ここで時制について一言。英語の時制 (tense) は時間軸に沿った単純明快なもの。このような時間軸に沿った単純明快な時制という概念は日本語にはない。たとえば、上述の7つの文は過去の話なので、英語の動詞はすべて過去形を使用しなければならない。現在形は使用できない。しかし、日本語の文末の動詞に注目すると、「ことだった」、「眺めた」、「覚えている」、「ぼやけてゆく」、という具合に「〜する」、「〜した」、「〜だ」、「〜だった」が混在している。このように日本語では過去の話に「〜する」とか「〜だ」とかも使用できるのである。中学校の英語の時間に私たちが教わった「〜する」=現在形、「〜した」=過去形、「〜でしょう」=未来形などの公式は、現実の日本語には通用しないことがわかる。時制について詳しくは http://lib21.blog96.fc2.com/blog-entry-280.html を参照してください。

英語的な発想の明文(わかりやすい文)を書くには「1つの文に1つの概念」が原則。英作文はこれに限る。これだと書くのが簡単で読み手も理解しやすい。さらに嬉しいことに、コンピュータまでもが明文は理解できるのだ。英日・日英間の機械翻訳は実用にはまだまだ程遠いのが現状だが、実は先日、この手法を用いて自分で書いた英文メールを遊び心で、市販の英日・日英機械翻訳ソフト(訳せ!!ゴマ)にかけたところ、4ページほどの英文が2、3分後に日本語に翻訳され、ほとんどすべての訳文(和文)が理解可能な、したがって実用的なレベルに仕上がっていた。驚き桃の木、山椒の木!そばでこの作業を見守っていた同僚も「完璧ですね」と叫んだ。私も興奮した。そうか、明文は機械翻訳できるのか!明文は書くのが簡単、わかりやすい、機械翻訳も可能。だから「実務文書は明文で」。ね、そうでしょう。


会話文には接続詞はいらない!?
会話文 (2)

(原文)
「ほんの子供ですから、駅長さんからよく教えてやっていただいて、よろしくお願いいたしますわ。」

「よろしい。元気で働いてるよ。これからいそがしくなる。去年は大雪だったよ。よく雪崩れてね、汽車が立往生するんで、村も炊出しがいそがしかったよ。」

「駅長さんずいぶん厚着に見えますわ。弟の手紙には、まだチョッキも着ていないようなことを書いてありましたけれど。」

「私は着物を四枚重ねだ。若い者は寒いと酒ばかり飲んでいるよ。それでごろごろあすこにぶっ倒れてるのさ、風邪をひいてね。」

駅長は官舎の方へ手の明りを振り向けた。
「弟もお酒をいただきますでしょうか。」

「いや。」

「駅長さんもうお帰りですの?」

「私は怪我をして、医者に通ってるんだ。」

「まあ。いけませんわ。」


(訳文)
"He's really no more than a child. You'll teach him what he needs to know, won't you."

"Oh, but he's doing very well. We'll be busier from now on, with the snow and all. Last year we had so much that the trains were always being stopped by avalanches, and the whole town was kept busy cooking for them."

"But look at the warm clothes, would you. My brother said in his letter that he wasn't even wearing a sweater yet."

"I'm not warm unless I have on four layers, myself. The young ones start drinking when it gets cold, and the first thing you know they're over there in bed with colds."

He waved his lantern toward the dormitories.

"Does my brother drink?"

"Not that I know of."

" You're on your way home now, are you?"

"I had a little accident. I've been going to the doctor."

"You must be more careful."

..................................................................................................

「ほんの子供ですから、駅長さんからよく教えてやっていただいて、よろしくお願いいたしますわ。」

"He's really no more than a child. You'll teach him what he needs to know, won't you."

原文は単文だが、訳文は2つに分割されている。

「子供ですから」の中の「から」に相当する語は訳文にはない。「から」は原因・理由を示す接続詞で、英語の because, sinceに近い意味を持つ。因果関係が重要な意味を持つ論文はともかく、日常会話のような文章では、「なぜならば because」はまだいいとしても、「したがって thus, consequently, therefore」のような形式ばった接続詞は英文では無視される場合が多い。(接続詞を使うとしてもせいぜい and を挿入する程度)。

たとえば、「今朝、朝食をとらなかったので、今、おなかがすいている」は I had no breakfast this morning, (and) I'm hungry now. ぐらいで十分でしょう。もちろん、I'm hungry now because I had no breakfast this morning. もOKでしょうが、少しくどい感じがしませんか。

長文を短文に分割すると、この接続詞の問題は必ず浮上する。サイデンステッカーは、長文は複数の短文に分割しているが、その際、分割箇所の接続詞は省略している。たとえば、「バラックが散らばっているだけで、雪の色はそこまで行かぬうちに闇に呑まれていた」の「だけで」もやはり無視されていた。

私たち日本人は「〜だから」や「なので」、「したがって」、「このため」などの接続詞が大好きで日常的な文章でも頻繁に使用する。こうした接続詞がないと文と文のつながりが希薄になりそうで不安なのだ。実際、日本語では接続詞を挿入した方が文の座りがいい。しかし英米人は一般に、こういう種類の接続詞はあまり使用しない。これを翻訳の観点からいいかえると、英文和訳の際には「文の座り」をよくするため、たとえ英文になくとも接続詞を補充し、逆に、和文英訳の際には自然な英文にするために、和文の接続詞を省略するぐらいの気持ちが必要ということ、かもしれない。


「あんなことがあったのに」は英語でどう言うの?
婉曲表現:

男と女の出会い・別れ・再会はいつも感動的だ。物語の中で最も人を魅了する部分である。私も子供の頃からラブストーリーが大好きで、石坂洋次郎の『陽のあたる坂道』、アンソニー・ホープの『ゼンダ城の虜』(The Prisoner of Zenda)、田山花袋の『蒲団』など夢中になって読みふけった時期がある。以下の文も男と女、島村と駒子の再会のシーンである。(『雪国』 新潮文庫16ページから抜粋)

(原文)
あんなことがあったのに、手紙も出さず、会いにも来ず、踊の型の本など送るという約束も果たさず、女からすれば笑って忘れられたとしか思えないだろうから、先ず島村の方から詫びかいいわけを言わねばならない順序だったが、顔を見ないで歩いているうちにも、彼女は彼を責めるどころか、体いっぱいになつかしさを感じていることが知れるので、彼は尚更、どんなことを言ったにしても、その言葉は自分の方が不真面目だという響きしか持たぬだろうと思って、なにか彼女に気押される甘い喜びにつつまれていたが、階段の下まで来ると、「こいつが一番よく君を覚えていたよ。」と、人差指だけ伸した左手の握り拳を、いきなり女の目の前に突きつけた。

「そう?」と、女は彼の指を握るとそのまま離さないで手をひくように階段を上って行った。

原文の最初の一文は299文字と非常に長い。サイデンステッカーはいつものように長文は分割する。この長文は7つに分割されている。

あんなことがあったのに、手紙も出さず、会いにも来ず、踊の型の本など送るという約束も果たさなかった。 In spite of what had passed between them, he had not written to her, or come to see her, or sent her the dance instructions he had promised.

あんなことがあったのに → 二人の間に起こったものにもかかわらず

「あんなこと」とは、ここでは男女間の肉体関係を指す。婉曲(えんきょく)な表現は難しい。私のような実務翻訳者には特にそうだ。以前、原田克子さんの詩を英訳したときの話。『壊心 3』の第2パラグラフの3行目、「肌を触れ合うことがなくなったわたしたち」で困ってしまった。ウーン、難しいなあ… We can no longer sleep together とか We don't touch each other any longer now とか訳してはみたが、いまひとつ自信が持てない。「あんなことがあったのに」は In spite of what had passed between them というのか。なるほど。よーし、忘れないようにこのまま暗記しようっと。

「あんなことがあった」 (直訳すると there was a thing like that) が、訳文では「二人の間に起こったもの」 what had passed between them = the thing that had happened between them と、より具体的に名詞で表現されている。このように、日本語では文(節)で表現してあるのに、英語では名詞(もの)で表現する場合が多い。「動詞が主役」の日本語と「名詞が主役」の英語との違いがここにも顔を出している。

女からすれば笑って忘れられたとしか思えないだろう。
She was no doubt left to think that he had laughed at her and forgotten her.

“no doubt” は「疑いなく」 (undoubtedly) という副詞。She was left ... は受身。能動態に直すと、He left her ... (彼は彼女をほったらかした)。原文、訳文ともに、受動態と能動態が混在している。She was no doubt left to think that she had been laughed at and forgotten (by him). (彼女は彼にほったらかしにされ、笑われて忘れ去られたと彼女はきっと思ったことだろう) と従属節を受身にすることもできる。

先ず島村の方から詫びかいいわけを言わねばならない順序だったが、顔を見ないで歩いているうちにも、彼女は彼を責めるどころか、体いっぱいになつかしさを感じていることが知れた。

It should therefore have been his part to begin with an apology or an excuse, but as they walked along, not looking at each other, he could tell that, far from blaming him, she had room in her heart only for the pleasure of regaining what had been lost.

「体いっぱいになつかしさを感じている」 → 「彼女は、失っていたものを取り戻したという喜びだけの余裕を心に抱いていた」

“she had room in her heart only for the pleasure of regaining what had been lost.”

ワオ、これは驚いた!原文の日本語には名詞は2つ、「体」と「なつかしさ」しかないのに訳文の英語にはどちらの名詞も出て来ない。 その代わりに、5つの名詞、「she (彼女)」、「room (余裕)」、「heart (心)」、「pleasure (喜び)」、「what had been lost (失っていたもの)」が新たに補充されている。英語的な発想とはいえ、これはしかし私たちには複雑すぎる。もっと単純に、たとえば、she was filled with longing for him. (彼女は、彼に対するなつかしさでいっぱいだった) でいいのではないのかな。これだと原文の「いっぱい」も「なつかしさ」も出て来る。

彼は尚更、どんなことを言ったにしても、その言葉は自分の方が不真面目だという響きしか持たぬだろうと思った。

He knew that if he spoke he would only make himself seem the more wanting in seriousness.

なにか彼女に気押される甘い喜びにつつまれて彼は歩いた。

Overpowered by the woman, he walked along wrapped in a soft happiness.

階段の下まで来ると、人差指だけ伸した左手の握り拳を、いきなり女の目の前に突きつけた。

Abruptly, at the foot of the stairs, he shoved his left fist before her eyes, with only the forefinger extended.

階段の下まで来ると → 階段の下で (at the foot of the stairs)

私などつい、原文にひきずられて文(節)として when they came to the foot of the stairs と直訳しそうなところだが、なるほど、動詞 come 「来る」の代わりに、前置詞 at 「(下)で」で充分ですね。日本語の動詞は、英語では前置詞で表現される場合が多い。たとえば、冒頭の「長いトンネルを抜けると」 = out of the long tunnel. 逆に言うと、英文和訳の際には、英語の前置詞は日本語では動詞で訳した方が自然な和文になる場合が多い、ということですね。

「こいつが一番よく君を覚えていたよ。」
“This remembered you best of all.”

「そう?」と、女は彼の指を握るとそのまま離さないで手をひくように階段を上って行った。
“Oh?” The woman took the finger in her hand and clung to it as though to lead him upstairs.


「居住まいを直す」は英語でどう言うの?
駒子との出会い

新緑の登山季節、山歩きから七日振りりで温泉場へ下りて来た島村は、宿屋に芸者を呼ぶように頼んだ。ところが、あいにくその日は道路普請の落成祝いで芸者は皆出払っていた。三味線と踊の師匠の家にいる娘(駒子)は芸者というわけではないが、もしかしたら来てくれるかも知れないと女中は言う。以下は島村と駒子の出会いのシーンである。(『雪国』 新潮文庫18ページから抜粋)

(原文)
怪しい話だとたかをくくっていたが、一時間ほどして女が女中に連れられて来ると、島村はおやと居住まいを直した。直ぐ立ち上がって行こうとする女中の袖を女がとらえて、またそこに座らせた。
女の印象は不思議なくらい清潔であった。足指の裏の窪みまできれいであろうと思われた。山々の初夏を見て来た自分の眼のせいかと、島村は疑ったほどだった。

怪しい話だとたかをくくっていた。

An odd story, Shimamura said to himself, and dismissed the matter.

「怪しい話だとたかをくくる」は英語的な表現では、「怪しい話だと島村は独り言を言ってこの件を気にもとめなかった」となるのですか、ウム、なるほど、そうですか。

ちなみに、dismiss = to refuse to consider someone or something seriously because you think they are silly or not important. という意味。

一時間ほどして女が女中に連れられて来た。

An hour or so later, however, the woman from the music teacher’s came in with the maid.

原文では「女」となっているが、英語では “the woman from the music teacher’s (house)” 「音楽教師の家から来た女性」と具体的に説明されている。また、原文では「女中に連れられて来た」と受身の表現も “came in with the maid” 「女中と一緒に入って来た」と主体的に表現されている。いずれも英語的な発想だ。

島村はおやと居住まいを直した。
Shimamura brought himself up straight.

「居住まいを直す」はきちんと座りなおすこと。“sit up straight” の意。品のある女性に会うと、どんな男も思わずいずまいを正す。訳文の “Shimamura brought himself up straight.” は、畳文化に馴染みのない読者は “stood up straight” (直立した)の意味に解釈するかも知れない。そこで、“Shimamura sat up straight.” を私は提案したい。

直ぐ立ち上がって行こうとする女中の袖を女がとらえて、またそこに座らせた。
The maid started to leave but was called back by the woman.

原文は「女」が主語で女中をそこに座らせたとあるが、訳文は「女中」を主語にしている。文頭の「直ぐ立ち上がって行こうと」したのは女中なので、女中を主語にするのは自然な流れ。翻訳は「頭から順番に訳して行く」のが原則だ。現に、サイデンステッカーはほとんどの場合、頭から順番に訳して行く技法を採用している。頭から順番に訳して行かないかぎり、同時通訳は成立しない。この原則は和文英訳にかぎらず、英文和訳にも当てはまる。

中村保男 『英和翻訳の原理・技法』 より要点のみ抜粋する。
I'm afraid he is not here today because he caught a cold.
きょうは風邪を召して、お見えになっていないのが残念です。(英文解釈流)
あいにくですが、きょうは出社しておりません、お風邪を召したそうで。(頭から訳す)

上の受付嬢の応対では、「頭から訳す」方法のほうが遥かに実感もこもっているし、流れも快調だ。

「女中」は古くは婦人に対する敬称だったらしいが、現代では卑語となってしまった。今は「お手伝いさん」。英語ではメード “maid”。ところで「日女中本」の意味をご存知かな?これは四字熟語などではなく、単なることばのお遊び。解答は “made in Japan”。だって、日本の中に「女中」の文字が入っているでしょ、だから、メード・イン・ジャパン。私の若い頃に、こんな「ことば遊び」が一時流行したことがありました。

女の印象は不思議なくらい清潔であった。
The impression the woman gave was a wonderfully clean and fresh one.

女の印象 → The impression the woman gave (女が与えた印象)

「女の印象」を “the woman’s impression” というと、「女が抱いた印象」とも解釈されることもある。”The impression the woman gave” は、いかにも英語らしい的確な表現だ。最後の “one” は不定代名詞で「印象」の意味。「印象」を2回、繰り返すのを避けている。“one” が使用されたことで、この場合の「印象」は可算名詞だとわかる。

足指の裏の窪みまできれいであろうと思われた。
It seemed to Shimamura that she must be clean to the hollows under her toes.

足指の裏の窪み “the hollows under her toes” には、あか(垢)がたまりやすい。
訳文では ”must be” (〜にちがいない)と現在形が使用されている。ははーん、この場合は現在形の方がいいんですか!?。過去についての推定の表現は通常、”must have been” (〜だったにちがいない)と ”must have + pp” とばかり丸暗記していましたが…。

山々の初夏を見て来た自分の眼のせいかと、島村は疑ったほどだった。
So clean indeed did she seem that he wondered whether his eyes, back from looking at early summer in the mountains, might not be deceiving him.

この文は、She seemed so clean indeed that 〜 という例の (so ... that) 「非常に〜なので...」の倒置法ですね。


芸者を呼ぶ
「お湯道具」は「タオルと石鹸」だけ?

山歩きから一週間ぶりに温泉場で一泊した翌日の午後、島村は唐突に駒子に芸者の世話を頼んだ。しかし、駒子はこのときまだ19歳。男の生理にとまどってしまう。(『雪国』 新潮文庫19ページから抜粋)

(原文)
女は翌日の午後、お湯道具を廊下の外に置いて、彼の部屋に遊びに寄った。彼女が座るか座らないうちに、彼は突然芸者を世話してくれと言った。

「世話するって?」

「分かってるじゃないか。」

「いやねえ。私そんなこと頼まれるとは夢にも思って来ませんでしたわ。」と、女はぷいと窓へ立って行って国境の山々を眺めたが、そのうちに頬を染めて、

「ここにはそんな人ありませんわよ。」

「嘘をつけ。」

「ほんとうよ。」と、くるっと向き直って、窓に腰をおろすと、

「強制することは絶対にありませんわ。みんな芸者さんの自由なんですわ。宿屋でもそういうお世話は一切しないの。ほんとうなのよ、これ。あなたが誰かを呼んで直接話してごらんになるといいわ。」

「君から頼んでみてくれよ。」

「私がどうしてそんなことしなければならないの?」

「友だちだと思ってるんだ。友だちにしときたいから、君は口説かないんだよ。」

「それがお友達ってものなの?」と、女はつい誘われて子供っぽく言ったが、後はまた吐き出すように、

「えらいと思うわ。よくそんなことが私にお頼めになれますわ。」

「なんでもないことじゃないか。山で丈夫になって来たんだよ。頭がさっぱりしないんだ。君とだって、からっとした気持ちで話が出来やしない。」

原文: 女は翌日の午後、お湯道具を廊下の外に置いて、彼の部屋に遊びに寄った。

訳文: On her way to the bath the next afternoon, she left her towel and soap in the hall and came in to talk to him. (サイデンステッカー訳、ちなみにこの英文の訳は、翌日の午後お風呂へ行く途中、彼女はタオルと石鹸を廊下に置いて、彼の部屋に遊びに寄った。)

英語は具体的な表現を好む。なるほど、「お風呂へ行く途中」と状況が具体的に補足してある。しかし原文では「お湯道具を廊下の外に置いて」というだけで、お風呂へ行く途中だとも、お風呂から上がって帰る途中だとも書いていない。可能性は五分五分、どちらもありうる。原文の「お湯道具」も英文では「タオルと石鹸」と具体的に明示してある。確かにタオルと石鹸はお風呂の必須アイテム。しかしタオルと石鹸を洗面器(washbowl)に入れて廊下に置いた可能性もある。私など、南こうせつの「神田川」の世代なので、お風呂というと洗面器までも連想してしまう。日本人なら The next afternoon, she left her bath items out in the hall and came into his room to talk to him. と、あたりさわりのないように訳すような気がするが、具体性を欠くこのような英文は、アメリカ人には生理的に居心地が悪いのかもしれない。

原文: 彼女が座るか座らないうちに、彼は突然芸者を世話してくれと言った。

訳文: She had barely taken a seat when he asked her to call him a geisha.

うーん、さすがにネイティブの英文はすばらしい!頭から順番に自然に英訳してある。芸者は "geisha"、可算名詞なので 単数のときは a geisha、複数形は geisha or geishas となる。「世話する」というと通常、take care of, look after, help などを連想するが、この場合は call (呼ぶ)がふさわしい。

原文: 「世話するって?」

訳文: "Call you a geisha?"

原文: 「分かってるじゃないか。」

訳文: "You know what I mean."

原文: 「いやねえ。私そんなこと頼まれるとは夢にも思って来ませんでしたわ。」と、女はぷいと窓へ立って行って国境の山々を眺めたが、そのうちに頬を染めて、「ここにはそんな人ありませんわよ。」

訳文: "I didn't come to be asked that." She stood up abruptly and went over to the window, her face reddening as she looked out at the mountains. "There are no women like that here."

原文は会話文を前後に挿入して、全体を単一の長文に仕上げてあるが、訳文は3つの文に分割してある。この手法は随所に見られる。長文を翻訳するときは、このように分割した方が自然な英文を得やすい。「いやねえ」は訳してない。和文ではこれがあるとないとでは全体の印象が微妙に変わる。男は女の「いやねえ」を聞くと少し安堵する。まだ修復の余地が残されていると。

原文: 「嘘をつけ。」

訳文: "Don't be silly." (へーえ、”Don’t tell a lie.” じゃないんだ)

原文: 「ほんとうよ。」と、くるっと向き直って、窓に腰をおろすと、
「強制することは絶対にありませんわ。みんな芸者さんの自由なんですわ。宿屋でもそういうお世話は一切しないの。ほんとうなのよ、これ。あなたが誰かを呼んで直接話してごらんになるといいわ。」

訳文: “It’s the truth.” She turned sharply to face him, and sat down on the window sill. “No one forces a geisha to do what she doesn’t want to. It’s entirely up to the geisha herself. That’s one service the inn won’t provide you. Go ahead, try calling someone and talking to her yourself, if you want to.”

「窓に腰をおろした」は、sat down on the window sill. と英訳されている。 “sill” は「下枠」の意味。英語は具体的な表現を好む。ここでも腰をおろしたのは「窓」ではなく、「窓の下枠」だと表現する。「お湯道具」を「タオルと石鹸」と言い換えたように。これとは反対に、日本語は抽象的な表現を好む。たとえば、米国人が “We must construct roads and bridges soon.” (道路や橋をすぐに建設しなければならない)と具体的・能動的に表現するようなところを、私たちは「社会基盤(インフラ、infrastructure)の整備が急務である」と抽象的に表現する。「道路や橋をすぐに建設しなければならない」よりも「社会基盤の整備が急務」の方が、私たちには何となく高尚な感じがするのである。

原文: 「君から頼んでみてくれよ。」

訳文: “You call someone for me.”


原文: 「私がどうしてそんなことしなければならないの?」
訳文: “Why do you expect me to do that?”

原文: 「友だちだと思ってるんだ。友だちにしときたいから、君は口説かないんだよ。」

訳文: “I’m thinking of you as a friend. That’s why I’ve behaved so well.”

「友だちにしときたいから(=だから)、君は口説かないんだよ」は直訳すると、That’s why I’m not coming on to you. とでもなるところ。「口説く」は “come on to” だが、この表現は少しいやらしい感じがして、露骨すぎるのかもしれない。”That’s why I’ve behaved so well.” は、「だから、行儀よくふるまっているのじゃないか」みたいな感じ。なるほど、確かにこの方が品があり、主人公の島村の気持ちにも近い。

原文: 「それがお友達ってものなの?」と、女はつい誘われて子供っぽく言ったが、後はまた吐き出すように、「えらいと思うわ。よくそんなことが私にお頼めになれますわ。」

訳文: “And this is what you call being a friend?” Led on by his manner, she had become engagingly childlike. But a moment later she burst out: “Isn’t it fine that you think you can ask me a thing like that!”

原文: 「なんでもないことじゃないか。山で丈夫になって来たんだよ。頭がさっぱりしないんだ。君とだって、からっとした気持ちで話が出来やしない。」

訳文: “What is there to be so excited about? I’m too healthy after a week in the mountains, that’s all. I keep having the wrong ideas. I can’t even sit here talking to you the way I would like to.”

「なんでもないことじゃないか」は、私など原文につられて、”That’s nothing special, you see?” などと、つい単調に訳してしまいそうな気がする。やはり名訳はちがう。 “What is there to be so excited about?” は実に英語らしい表現だ。直訳すると、「そんなに興奮するような何があるのかい?」 → 「何をそんなに興奮しているの?」

「山で丈夫になって来たんだよ」は、英語では、原文にない「一週間」という語を補充し、“I’m too healthy after a week in the mountains, that’s all.”

「一週間、山にいたので元気になりすぎた、それだけのことだ」と具体的に表現にする。確かに島村はこのとき一週間山にいた。たとえ原文にはなくとも、「一週間」という語を補充した方が情況がわかりやすい。

「頭がさっぱりしないんだ」は、たとえば、"I don't really feel refreshed." だが、訳文では "I keep having the wrong ideas."(よくない考えがまとわりついて離れない)と、さらに踏み込んだ表現を採用し欲情を暗示する。

「君とだって、からっとした気持ちで話が出来やしない」も直訳すると、"I can't even talk to you frankly or cheerfully." とでもなるところだが、訳文では "I can’t even sit here talking to you the way I would like to.” (ここに座って君と話すことさえ、本当の気持ちで話ができやしない)と、原文にない "I can’t even sit here" とい節を補充し、これにより、臨場感あふれるなまなましいシーンをたくみに創出している。


なにしたらおしまいさ
婉曲語法、ユーフェミズム (euphemism)

川端康成の『雪国』を私が初めて読んだのは中学生の頃。思春期の多感な年ごろで男女間の秘め事には強烈な関心を抱いてはいたものの経験はもちろんない。しかし当時、この「なにしたらおしまいさ」のくだりは何となくわかったような気がした。よほど感銘を受けたのか、その後十数年たって実際に恋に悩んだり失恋したりしたときに思い出していた。それからさらにずっと後になってからでも、ときどきこの部分がふっと頭をよぎる。男と女の関係は微妙でややこしい。

島村と駒子の会話。川端康成 『雪国』 新潮文庫22ページから引用する。

「なにしたらおしまいさ。味気ないよ。長続きしないだろう。」

「そう。ほんとうにみんなそうだわ。私の生まれは港なの。ここは温泉場でしょう。」と、女は思いがけなく素直な調子で、

「お客はたいてい旅の人なんですもの。私なんかまだ子供ですけれど、いろんな人の話を聞いてみても、なんとなく好きで、その時は好きだとも言わなかった人の方が、いつまでもなつかしいのね。忘れないのね。別れた後ってそうらしいわ。向うでも思い出して、手紙をくれたりするのは、たいていそういうんですわ。」

女は窓から立ち上がると、今度は窓の下の畳に柔かく座った。遠い日々を振り返るように見えながら、急に島村の身辺に座ったという顔になった。

婉曲(えんきょく)な表現は英訳がむずかしい。この「なにしたらおしまいさ」も、遠まわしで婉曲な表現である。英語は具体的な表現を好むとはいえ、何でもかんでも直接的にずばずば表現するというわけではない。やはり、そこは同じ人間、婉曲表現、ユーフェミズム (euphemism) は当然ある。

OALD辞典によると、euphemism (for something) = an indirect word or phrase that people often use to refer to something embarrassing or unpleasant, sometimes to make it seem more acceptable than it really is:

*Pass away is a euphemism for 'die.' 'User fees' is just a politician's euphemism for taxes.

英訳する際、まず、日本語の意味を正確に理解する必要がある。「なにしたらおしまいさ」は単純な表現に見えるが、その意味は意外と複雑だ。文頭の「なにしたら」は婉曲表現だが、意味は誰にでもわかる。「なに」する = セックスする、という意味。問題はつぎの語句「おしまいさ」の方である。これはあいまいな表現だ。いったい何がおしまいなのか、何が終わるのか、主語は何だろうか。和文ではこのように、しばしば主語が省略されるが、英文では主語は不可欠。主語を特定しないかぎり英文は書けない。主語や目的語が省略された和文を私は便宜上「文脈依存文」と呼ぶ。文脈依存文の主語や目的語は通常、前後の文脈から判断できる。

駒子(19歳)は不思議なくらい清潔な女性。足指の裏の窪みまできれいであろうと島村が思ったほどだ。島村は駒子に芸者の世話を頼んでいる。駒子は友だちにしときたいから口説かないという。なるほど、そうか、ならば主語は「男女間の友情」にちがいない。

つまり、「なにしたらおしまいさ」の意味はわかりやすく表現しなおすと、露骨になるので少し気がひけるが、「セックスすると友情がおしまいになる」ということを一般論として述べている。

「なにしたらおしまいさ」を直訳すると、

Friendship will be over if you have an affair. (仮定法現在)

Friendship would be over if you had an affair. (仮定法過去)

ここの "you" は「あなた」という意味ではなく、総称的に一般の人をさす「人は(誰でも)」という意味。また affair は、ここでは「情事、浮気」 (love affair) を意味する。

仮定法 if について:

日本語では、仮定法はすべて「A ならば B」という形式で表現し、内容にまで踏み込むことはしない。しかし、英語では面倒なことに、内容にまで踏み込んで実現の可能性が高いか低いかを区別し、それぞれに異なる表現法を採用する。実現の可能性の高いものの場合(=あり得る話)には、英語では条件節 (if-clause) に現在形を使用する。現在形を使用するのでこれを仮定法現在と呼ぶ。実現の可能性の低い場合や事実と異なるものの場合(=あり得ない話)には、英語では条件節に必ず過去形を使用する。過去形を使用するのでこれを仮定法過去と呼ぶ。しかし、過去形は使用するがその意味は現在。また、可能性が高いか低いかの判定は、話し手本人の主観的判断に依存する。

if については「if の創出する不思議な世界」http://lib21.blog96.fc2.com/blog-entry-364.html を参照してください。

「なにしたらおしまいさ」は島村のせりふなので、島村の気持ちに即して考えれば、仮定法過去の Friendship would be over if you had an affair. がふさわしい。ただし、この英文は私が英訳したものなので、いわば典型的なジャパニーズイングリッシュ。そこで、ネイティブ・スピーカーの模範解答と比較・検討する。わが師匠(私が勝手にそう思っているだけ)、サイデンステッカー教授の英訳は次の通り。

原文:「なにしたらおしまいさ。味気ないよ。長続きしないだろう。」

訳文: "An affair of the moment, no more. Nothing beautiful about it. You know that--it couldn't last."

訳訳文: 「つかのまの情事、それだけのこと。味気ないよ。長続きしないだろう」

あれえ、「なにしたらおしまいさ」の部分は「つかのまの情事、それだけのこと」 "An affair of the moment, no more." と訳されている。変だなあ。ひょっとしたら師匠は、「なにしたらおしまいさ」を「なにするだけでおしまいにする。それ以上のことはしない」と解釈されたのではないか?まさかね、日本語の堪能な大先生がそんなはずはない。はてさて、それじゃあ、どう考えたらいいんだろう。どうも「おしまい」という語に問題がありそうだ。ここの「おしまい」の用法は、フーテンの寅さんの 「それをいっちゃーおしめぇーよ」 (Things will be over if you say that.) と類似している。日本語大辞典は「おしまい」を次のように定義する。

お-しまい【*御仕舞(い)】
《「仕舞い」の丁寧語》

(1) 終わり。the end (用例>物語はこれで〜。
(2) 物事がだめになること。be all up (用例>こう不景気では、商売も〜だ。
(3) お化粧。身じまい。make up

問題の「おしまい」の意味は、定義の (2) 物事がだめになること、に該当する。それなら私の解釈でもよさそう。そこで、"An affair of the moment, no more." の文を私の訳文と差し替えて、全体をもう一度、原文と比較してみよう。

原文: 「なにしたらおしまいさ。味気ないよ。長続きしないだろう。」

提案: "Friendship would be over if you had an affair. Nothing beautiful about it. You know that--it couldn't last."

うん、これでもよさそう。(なーんてね、独り合点だったりして)
罪滅ぼしに、以下の英文はすべてサイデンステッカー教授の "Snow Country" から引用する。

「そう。ほんとうにみんなそうだわ。私の生まれは港なの。ここは温泉場でしょう。」

"That's true. It's that way with everyone who comes here. This is a hot spring and people are here for a day or two and gone."

「私の生まれは港なの」は訳されていない。この文がない方がすっきりしてわかりやすいと師匠は判断されたのであろうか。代わりに、原文にない "and people are here for a day or two and gone." (温泉客は1泊か2泊してから出て行く)という文が新たに補充されている。翻訳ではこのように、省略や補充が必要な場合がある。

女は思いがけなく素直な調子で(言った)。

Her manner was remarkably open--the transition had been almost too abrupt.

「お客はたいてい旅の人なんですもの。私なんかまだ子供ですけれど、いろんな人の話を聞いてみても、なんとなく好きで、その時は好きだとも言わなかった人の方が、いつまでもなつかしいのね。忘れないのね。別れた後ってそうらしいわ。向うでも思い出して、手紙をくれたりするのは、たいていそういうんですわ。」

"The guests are mostly travelers. I'm still just a child myself, but I've listened to all the talk. The guest who doesn't say he's fond of you, and yet you somehow know is--he's the one you have pleasant memories of. You don't forget him, even long after he's left you, they say. And he's the one you get letters from."

女は窓から立ち上がると、今度は窓の下の畳に柔かく座った。遠い日々を振り返るように見えながら、急に島村の身辺に座ったという顔になった。

She stood up from the window sill and took a seat on the mat below it. She seemed to be living in the past, and yet she seemed to be very near Shimamura.

「今度は」が単に "and" と訳されている。なるほど、そうですね。「遠い日々を振り返るように見えた」が "She seemed to be living in the past," ですか。なるほどね。名人の手にかかると、実に簡潔に表現できるものですね。でもね、師匠、「柔かく座った」の「柔かく」は省略しないでほしかった。この表現は女性が心を開いてうちとけたさまを表す男どもにとってとても大事なこと。私など着物を着た女性の優美なしぐさばかりか、まろやかな白肌のうなじまでも連想してしまいそう。思わず、"and took a seat" の部分を "and sat down softly" に変更したい衝動に駆られる。


黙って立ち去ったのは誰?

『雪国』では、「女」という語は駒子のみをさす

翻訳をしていてよかったと思えることのひとつに、原文を精読できることである。もちろん翻訳などしなくても本は精読できる。しかし精読の濃さがちがう。たとえば、川端康成の『雪国』の文庫本は、単に読むだけなら一日、腰をすえてじっくり熟読したとしても、せいぜい数日もあれば十分だ。ところがこれを英訳するとなるとそうはいかない。最短でも1ヶ月はかかる。文章にとことんこだわる人であれば、半年とか一年かかったとしても不思議ではない。翻訳は、原作者が作品を完成させるのに要する時間とほぼ同じくらい、あるいはさらに長い時間かかることもある。一字一句、句読点までも吟味しながら作品と長く接することで、翻訳者は普通の読者が見落としたり勘違いしたりする箇所に気づくこともある。これからその一例を紹介したいが、まずは原文をご覧あれ。

川端康成の『雪国』 新潮文庫 27ページから引用する。

「それでどれくらいいるの。」

「芸者さん?十二三人かしら。」

「なんていう人がいいの?」と、島村が立ち上ってベルを押すと、

「私は帰りますわね?」

「君が帰っちゃ駄目だよ。」

「厭なの。」と、女は屈辱を振り払うように、

「帰りますわ。いいのよ、なんとも思やしませんわ。また来ますわ。」

しかし女中を見ると、なにげなく座り直した。女中が誰を呼ぼうかと幾度聞いても、女は名指しをしなかった。

ところが間もなく来た十七八の芸者を一目見るなり、島村の山から里へ出た時の女ほしさは味気なく消えてしまった。肌の底黒い腕がまだ骨張っていて、どこか初々しく人がよさそうだから、つとめて興醒めた顔をすまいと芸者の方を向いていたが、実は彼女のうしろの窓の新緑の山々が目についてならなかった。ものを言うのも気だるくなった。いかにも山里の芸者だった。島村がむっつりしているので、女は気をきかせたつもりらしく黙って立ち上って行ってしまうと、一層座が白けて、それでももう一時間くらいは経っただろうから、なんとか芸者を帰す工夫はないかと考えるうちに、電報為替の来ていることを思い出したので郵便局の時間にかこつけて、芸者といっしょに部屋を出た。


訳文:
"Snow Country" translated by Edward G. Seidensticker (Page 28, Vintage Books)

"How many are there in all?"

"How many geisha? Twelve or thirteen, I suppose."

"Which one do you recommend?" Shimamura stood up to ring for the maid.

"You won't mind if I leave now."

"I mind very much indeed."

"I can't stay." She spoke as if trying to shake off the humiliation. "I'm going. It's all right. I don't mind. I'll come again."

When the maid came in, however, she sat down as though nothing were amiss. The maid asked several times which geisha she should call, but the woman refused to mention a name.

One look at the seventeen- or eighteen-year-old geisha who was presently led in, and Shimamura felt his need for a woman fall dully away. Her arms, with their underlying darkness, had not yet filled out, and something about her suggested an unformed, good-natured young girl. Shimamura, at pains not to show that his interest had left him, faced her dutifully, but he could not keep himself from looking less at her than at the new green on the mountains behind her. It seemed almost too much of an effort to talk. She was the mountain geisha through and through. He lapsed into a glum silence. No doubt thinking to be tactful and adroit, the woman stood up and left the room, and the conversation became still heavier. Even so, he managed to pass perhaps an hour with the geisha. Looking for a pretext to be rid of her, he remembered that he had had money telegraphed from Tokyo. He had to go to the post office before it closed, he said, and the two of them left the room.

引用が少し長くなってしまいましたが、それでは質問。

「島村がむっつりしているので、女は気をきかせたつもりらしく黙って立ち上って行ってしま(った)」とありますが、黙って部屋を立ち去ったのは誰ですか?

正解はもちろん芸者でしょうと、たいていの人は答える。私も最初そう思った。実際、この文庫本の注解でも、動作主は芸者だとみているようだ。「黙って立ち上って」は、「客つまり島村に気に入られないで、断られたと、この女は判断したため」と記載されている。

しかし、たぶんそうではない。動作主は駒子だと私は思う。というのは、このとき部屋にいたのは島村と芸者、駒子の三人。気をきかせて駒子が部屋を出て行った。残されたのは島村と芸者。座はいっそう白けた。それから一時間ほどしてから、島村は芸者といっしょに部屋を出たのだ、と思う。実は『雪国』では、「女」という語は駒子をさすのである。

サイデンステッカー教授はこの部分を次のよう翻訳している。

原文:島村がむっつりしているので、女は気をきかせたつもりらしく黙って立ち上って行ってしまうと、一層座が白けて、それでももう一時間くらいは経っただろう

He lapsed into a glum silence. No doubt thinking to be tactful and adroit, the woman stood up and left the room, and the conversation became still heavier. Even so, he managed to pass perhaps an hour with the geisha.

訳訳文: 彼は不機嫌に黙り込んだ。女は気をきかせようと思ったようで、立ち上って部屋を出て行ったので、会話はさらに重たくなった。それでも彼は何とか一時間ほど芸者と時間をつぶした。

英文でも the woman が使用されているので、英文読者も一瞬、the woman = the geisha (女=芸者)と勘違いした人もいると思う。この文を明文(わかりやすい文)に変更するには、「女」を「駒子」に置き換えるだけでよい。「島村がむっつりしているので、駒子は気をきかせたつもりらしく黙って立ち上って行ってしま(った)」と、固有名詞の「駒子」を使用しさえすれば誤解は生じない。実務畑出身の私などは、ついそう思ってしまう。しかし、そこはそれ、文学の世界。「女」という語に並々ならぬこだわりがある。島村にとって「女 (woman)」は駒子のみ、である。『雪国』のその他の登場人物、たとえば、娘は窓いっぱいに乗り出して、遠くへ叫ぶように「駅長さあん、駅長さあん」、と叫んだのは葉子であるが、葉子は「娘 (girl)」であり「女」ではない。それ以外の女性たちも、それぞれ「女中」、「芸者」、「細君」であり、「女」という語では表現されていない。ただし、一箇所だけ例外に見える文章はある。

宿屋の客引きの番頭は火事場の消防のようにものものしい雪装束だった。耳をつつみ、ゴムの長靴をはいていた。待合室の窓から線路の方を眺めて立っている女も、青いマントを着て、その頭巾をかぶっていた。(『雪国』 新潮文庫 13ページから抜粋)

これは、長いトンネルを抜け汽車から降り立った島村が最初に目にした湯沢町の駅前の光景である。このときは島村は青いマントの女が誰か知らないが、その後、宿屋の番頭との会話からこの「女」が駒子だったことを知る。女=駒子(一対一)。ワーオ、徹底しているなあ!でも、「女」には並々ならぬこだわりがあるのに、「男」にはあっけらかんとしている。無頓着というか、無関心というか、まったくこだわりが見えない。駅長も、葉子の連れの病人も、屋根の雪を落とす人も、すべて「男」という語で表現されている。男=男一般(一対多)。このふたつの用法は、言語学的には不均衡といえないこともないが、生物学的には男の本性に忠実でとてもわかりやすい。


対の黄蝶
求愛活動の美しさと愛の破局を暗示する

色恋はしばしば、つがいの蝶にたとえられる。梅沢富美男のヒット曲『夢芝居』(作詞・作曲:小椋 佳)でも、♪男と女 あやつりつられ、対のアゲハの誘い誘われ…。蝶のもつれ合いは絵になる。アゲハ(揚羽蝶)はどことなく妖艶で、黄蝶は可憐な感じだ。『雪国』の黄蝶のくだりは、私にとって印象深いシーンのひとつである。川端康成の『雪国』 新潮文庫 28ページから引用する。

原文:
しかし、島村は宿の玄関で若葉の匂いの強い裏山を見上げると、それに誘われるように荒っぽく登って行った。なにがおかしいのか、一人で笑いが止まらなかった。ほどよく疲れたところで、くるっと振り向きざま浴衣の尻からげして、一散に駆け下りて来ると、足もとから黄蝶が二羽飛び立った。蝶はもつれ合いながら、やがて国境の山より高く、黄色が白くなってゆくにつれて、遥かだった。

訳文:
But at the door of the inn he was seduced by the mountain, strong with the smell of new leaves. He started climbing roughly up it. He laughed on and on, not knowing himself what was funny. When he was pleasantly tired, he turned sharply around and, tucking the skirts of his kimono into his obi, ran headlong back down the slope. Two yellow butterflies flew up at his feet. The butterflies, weaving in and out, climbed higher than the line of the Border Range, their yellow turning to white in the distance.


原文:しかし、島村は宿の玄関で若葉の匂いの強い裏山を見上げると、それに誘われるように荒っぽく登って行った。

訳文: But at the door of the inn he was seduced by the mountain, strong with the smell of new leaves. He started climbing roughly up it.

訳訳文:しかし宿の玄関で、彼は若葉の匂いの強いその山に魅了された。彼は荒っぽく登り始めた。

サイデンステッカーは原文を2つの文に分割している。長文は分割すると英訳が簡単になり、訳文も自然な英文となる。「裏山を見上げると、それに誘われるように」が単に、「その山に魅了された」と要約して英訳されている。「裏山」も単に 「その山」 the mountain と訳してある。しかし、英文を読み返してみても不自然さはなく、いずれもこの表現で十分だという感じがする。

原文:なにがおかしいのか、一人で笑いが止まらなかった。

訳文: He laughed on and on, not knowing himself what was funny.

訳訳文:なにがおかしいのか自分でもわからないまま、彼は笑い続けた。

なるほど、「笑いが止まらない」というのと「笑い続ける」は同じことですね。
on and on (引き続き) は、動作の継続を意味する副詞句。

動作がとぎれたり続いたりするときは、on and off = off and on (時々、不規則に)。

It rained on and off for the whole afternoon. (午後はずっと雨が降ったり止んだりした)

原文:ほどよく疲れたところで、くるっと振り向きざま浴衣の尻からげして、一散に駆け下りて来ると、足もとから黄蝶が二羽飛び立った。

訳文: When he was pleasantly tired, he turned sharply around and, tucking the skirts of his kimono into his obi, ran headlong back down the slope. Two yellow butterflies flew up at his feet.

訳訳文:気持ちよく疲れたところで、彼は急に振り向いて、着物のすそを帯に押し込み、いっさんに坂道を駆け下りた。足もとから黄蝶が二羽飛び立った。

ここでもひとつの和文が2つの英文に分割して英訳されている。擬態語の「くるっと」は sharply (急に) に訳されている。「浴衣(ゆかた)の尻からげ」は、「着物のすそを帯に押し込み」 (tuck the skirts of his kimono into his obi)。 ウーン、なるほど。「足もとから」は、前置詞が from (〜から) ではなく at (〜で) が使用されていることに注意する。日本語の「〜から」は通常、 from を使用して、たとえば、

わが社の営業時間は9時から6時までです。Our business hours are from nine to six.

と表現するが、たまに from の代わりに in, at となる場合もある。

太陽は東から昇る。The sun rises in the east.

学校は9時から始まる。School begins at 9.

ドロップダウンリストから項目を選びます。Select an item in the drop-down list.

原文:蝶はもつれ合いながら、やがて国境の山より高く、黄色が白くなってゆくにつれて、遥かだった。

訳訳文:蝶はもつれ合いながら、国境の山並みより高く上り、遠くで体の黄色は白に変わった。

The butterflies, weaving in and out, climbed higher than the line of the Border Range, their yellow turning to white in the distance.

原文は「蝶」を題(topic)にして、「蝶はもつれ合い、山並みより高く、黄色が白くなり、遥かだった」と、一文にまとめてある。これに対して、英文では前半は butterflies を主語としているが、後半では yellow を主語にしている。ピリオドの代わりにコンマを使用することで、あたかも一文のように見せかけてはあるが、実質的には2つの文(重文)である。だから、The butterflies, weaving in and out, climbed higher than the line of the Border Range. Their yellow turned to white in the distance. としてもそれほど違和感はない。もっともここでは、原文の表現により近いサイデンステッカーの訳文の方が良いのは言うまでもない。原文では「遥かだった」と述語(形容動詞)だが、英文では " in the distance" (遠くで) と副詞句として処理している。

「蝶はもつれ合いながら〜」というこの表現は、注解にあるように、島村と駒子の愛の破局を暗示しているのだろうか?そうかもしれないが私の印象を少し付け加えたい。

島村、つまり川端康成は、黄蝶がもつれ合いながら上空高く舞い上がるのをずっと見続けていた。しかも「黄色が白くなってゆくにつれて、遥かだった」というぐらいだから相当に長い時間、見続けていたことになる。しかし私の子供の頃の観察では、蝶は一般に、せいぜい10 m ほどの低空を飛翔するものである。開張 4 cm ほどの黄蝶が山並みより高く舞い上がることなど、実際にはまずありえない。これはきっと文学者特有の心象風景にちがいない。そうだとすれば、この個所は、生殖本能の烈しさや求愛活動の美しさ・永遠性など、彼自身が心の中に抱くイメージが投影されているのではないだろうか。そして、永遠に続くように思えていた燃えるような恋情もいつかは色あせ、やがて遥かかなたの思い出に変わる。「黄色が白くなってゆくにつれて、遥かだった」のくだりは、こうした愛の破局を暗示しているのだろうか。


どうなすったの?
日本語は敬語などの待遇表現が豊富

【川端康成の『雪国』 新潮文庫 28ページ】

「どうなすったの。」女が杉林の陰に立っていた。

「うれしそうに笑ってらっしゃるわよ。」

「止めたよ。」と、島村はまたわけのない笑いがこみ上げて来て、「止めたよ。」

「そう?」女はふいとあちらを向くと、杉林のなかへゆっくり入った。彼は黙ってついて行った。

「どうなすったの」は女性が使用する丁寧語である。尊敬表現の「どうなさったのですか」から派生したもの。「なさる」は「する」の尊敬語。「なさった」は「なすった」の形になることがある。「どうしたのですか」も丁寧語でこちらは男女とも使用可能。「どうしたの」は丁寧語ではあるが、(ですか)が省略されている分、丁寧さが不足しているので目上には使用できない。「どうなさったのですか」や「どうなすったの」、「どうしたのですか」、「どうしたの」は、表現は異なるが、意味はまったく同じである。

このように、日本語は敬語などの待遇表現が豊富だ。敬語は人に敬意を表すために用いるもので、尊敬語・謙譲語・丁寧語の3種類がある。尊敬語は相手のことを話すときに、謙譲語は自分(身内を含む)のことを話すときに、また、丁寧語は相手に関係なく丁寧に話すときに、それぞれ使用する。「ご飯を食べる」を例にとると、ご飯を召し上がる(尊敬語)、ご飯をいただく(謙譲語)、ご飯を食べます(丁寧語)となる。丁寧語は、いわゆる「です・ます」体がメインになるので一番使いやすい。

英語には丁寧な表現はあるが敬語はない。そこで日本語の敬語を英訳するとき、私は敬語を一度、基本語に直してから英訳するようにしている。たとえば、

いらっしゃる(尊敬)、うかがう or 参る(謙譲) → 行く
おみえになる(尊敬)、参る(謙譲) → 来る
なさる(尊敬)、いたす(謙譲) → する

「どうなすったの」についても同様に、基本語に直すと、「どうしたの」となる。ちなみに、「どう」は副詞で、「どのように」の意味。英語の疑問詞 how, how about, what などに相当する。「どうしたの」は何かが発生し、その何かを質問するときに使用する。「何があったの」とか「どんな事が起こったのか」という意味なので、what がふさわしい。「どうしたの」 = What's the matter? または What happened?

ただし、LAAD辞典によると、What's the matter? は、心配事とか病気など、相手が何かよくない状態のとき、その理由を質問するときに使用する (used when someone seems upset, unhappy, or sick and you are asking them why) ものなので、ここの文脈にはふさわしくない。(島村は山を駆け下りてきて、今はすっきりした気分だから)。

用例として、たとえば、Honey, what's the matter with you? Don't you feel well? (あなた、どうなすったの。気分でも悪いの?)。つまり、 What's the matter with you? = What's wrong with you? という感じですね。

「どうなさったのですか」は敬語だが、「どうした?」は敬語ではない。ため語(=ためぐち)に近いので、目上の人に使用すると失礼になる。しかし英語には敬語がないので「どうした?」も「どうなさったのですか」もいずれも "What happened?" で表現してよい場合が多い。強いて訳せば、たとえば、

「どうした?」
Hey, what happened?

「どうなさったのですか」
May I ask what happened?

"Hey" や "May I ask" などを付加することで、日本語の雰囲気に多少、近づけることは可能かもしれないが、根底に常に日英ふたつの文化の違いが存在する以上、決して完璧に一致することはない。あまり敬語にこだわりすぎると、不自然な英文になる恐れがある。

「どうしたの」 = What's the matter? または What happened? であるが、興味深いことに、「どうするの」となると、その英訳は大きく変身する。英文の主語が「こと」から「あなた」に変化するのだ。

「どうするの」
What are you going to do? (発音は「ワユゴナヅ」)

映画などの会話を聞いていると、この表現 (What are you going to do?) は頻発するが、日本人の耳にはまちがいなく、「ワユゴナヅ」と聞こえるはず。決して「ワッツ・アー・ユー・ゴーイング・ツー・ヅー」と聞こえることはない。

私たちが日常何気なく使用している表現、「どうしたの」や「どうするの」は、日本語としては同じ文法構造なのでその違いを意識できないが、英訳するとその相違点がはっきりと浮かび上がってくる。

事柄(matter)を質問する「どうしたの」 = What's the matter? or What happened?

未来の事柄(matter)を質問する「どうなるの」 = What will happen?

相手の行為を質問する「どうしたの」 = What did you do then? or What have you done?

相手の今後の行為を質問する「どうするの」 = What are you going to do?

それではここで本文に戻って、わが師匠、サイデンステッカー教授の訳文を確認しよう。


原文: 「どうなすったの」

訳文: "What happened?"

原文: 女が杉林の陰に立っていた。

訳文: The woman was standing in the shade of the cedar trees.

原文: 「うれしそうに笑ってらっしゃるわよ。」

訳文: "You must have been very happy, the way you were laughing."


原文: 「止めたよ。」と、島村はまたわけのない笑いがこみ上げて来て、「止めたよ。」

訳文: "I gave it up." Shimamura felt the same senseless laugh rising again. "I gave it up."


原文: 「そう?」女はふいとあちらを向くと、杉林のなかへゆっくり入った。

訳文: "Oh?" She turned and walked slowly into the grove.

原文: 彼は黙ってついて行った。

訳文: Shimamura followed in silence.

ウーン、当然といえば当然のことながら、ネイティブ・スピーカーの英語はさすがに簡潔ですね。「杉林」は、the cedar forest などといわず、the cedar trees と tree (木) を複数形にしてある。そういえば、日本語でも「林」は「木」がふたつ並んでいますね。後半の「杉林のなかへゆっくり入った」は、"walked slowly into the grove" と、今度はその「杉林」を単に、the grove(木立)ですか。定冠詞 (the) がここでもぐっと効いていますね。いやはや、恐れいりました。


神社であった
神社と寺院は異なる

【川端康成の『雪国』 新潮文庫 29ページ】

神社であった。苔のついた狛犬(こまいぬ)の傍の平な岩に女は腰をおろした。

「ここが一等涼しいの。真夏でも冷たい風がありますわ。」

「ここの芸者って、みなあんなのかね。」

「似たようなものでしょう。年増にはきれいな人がありますわ。」と、うつ向いて素気なく言った。その首に杉林の小暗い青が映るようだった。
島村は杉の梢(こずえ)を見上げた。

「もういいよ。体の力がいっぺんに抜けちゃって、おかしいようだよ。」

神社(お宮)や寺院(お寺)は両方とも、私たちにはなじみ深い。しかし神社と寺院は異なる。小学生の頃、私はそのことを一番上の姉に教わった。「あのね、お宮は神様、お寺は仏様がまつってあるのよ」。そのとき、どういうわけか、姉の説明にすぐに納得ができ、なんだか自分が少し賢くなったような気がした。田舎の幼稚園は当時、お寺の境内の一角にあり、姉は幼稚園の先生だった。盆踊りなどお祭りは、お宮の境内に臨時の舞台が設置されて、そこで盛大に行なわれた。

神社は shrine, 寺院は temple と私たちは暗記する。日本では神社や寺院は、「神社仏閣」と総称されるように両方とも同等だ。その違いは説明しないとわからないほどに。しかし、キリスト教徒が圧倒的多数を占める英米では、英語の shrine と temple は事情が異なる。一言で言うと、shrine は誰でも訪れる身近なところだが、temple はキリスト教以外の、異教徒たちが礼拝に行くところである。shrine の定義に come が、temple の定義に go が使用されているのも、英米人の心の奥底にひそむ親近度を反映しているようで興味深い。

shrine: a place where people come to worship because it is connected with a holy person or event. (from OALD)
(シュライン: 聖人や聖祭に関連している場所で、人々が礼拝に来るところ)

temple: a building where people go to worship, in the Jewish, Hindu, Buddhist, Sikh, and Mormon religions. (from LAAD)
(テンプル: ユダヤ教・ヒンズドゥー教・仏教・シーク教・モルモン教の人々が礼拝に行く建物)

a shrine to the Virgin Mary (from OALD)
聖母マリアをまつっている殿堂

Wimbledon is a shrine for all lovers of tennis. (from OALD)
ウィンブルドンはテニス愛好家たちの聖地である。

それではここで本文に戻って、原文と訳文を鑑賞する。


原文: 神社であった。

訳文: It was a shrine grove.

原文: 苔のついた狛犬の傍の平な岩に女は腰をおろした。

訳文: The woman sat down on a flat rock beside the moss-covered shrine dog.


原文: 「ここが一等涼しいの。真夏でも冷たい風がありますわ。」

訳文: "It's always cool here. Even in the middle of the summer there's a cool wind."

原文: 「ここの芸者って、みなあんなのかね。」

訳文: "Are all the geisha like that?"

原文: 「似たようなものでしょう。年増にはきれいな人がありますわ。」と、

訳文: "They're all a little like her, I suppose. Some of the older ones are very attractive, if you had wanted one of them."

原文: うつ向いて素気なく言った。

訳文: Her eyes were on the ground, and she spoke coldly.

原文: その首に杉林の小暗い青が映るようだった。

訳文: The dusky green of the cedars seemed to reflect from her neck.

原文: 島村は杉の梢(こずえ)を見上げた。

訳文: Shimamura looked up at the cedar branches.

原文: 「もういいよ。体の力がいっぺんに抜けちゃって、おかしいようだよ。」

訳文: It's all over. My strength left me--really, it seems very funny.

最初の文はいきなり、「神社であった。」で始まる。駒子が杉林の中に入って行き、島村はその後をついて行ったのだが、その行った先が「神社であった」のである。このように、題が何かがわかっている場合、日本語では無理して題を文に含める必要はない。「(そこは)神社であった。」の意味。ちなみに、場所を表す「ここは」、「そこは」、「あそこは」などは、英語では this (not here), it, that で表現できる。

ここは文京区本郷1丁目です。(住所標示板)
This is Hongo 1-chome, Bunkyo-ku. (not Here is Hongo 1-chome ... )

「そこは神社であった」は、日本人なら10人中9人は "It was a shrine." と訳し、それ以上何もこだわる個所はなさそうに思えるところだが、サイデンステッカー教授は、It was a shrine grove. と 原文にない単語 "grove" をわざわざ補充している。ちなみに、"grove" (グローブ)とは a small group of trees という意味で、木が群がって立っている所、すなわち、日本語の「木立」にあたる。ここでは杉の木立 (a grove of cedar trees) を指す。彼は、「神社」をそのまま "shrine" と逐語訳するのではなく、この「神社」は正確には、「神社の(境内の杉の)木立」を指していると解釈したにちがいない。

狛犬(こまいぬ)は shrine dog ですか。なるほど。では、お寺の狛犬は temple dog ですね。

苔(こけ)のついた = moss-covered, moss-grown, or mossy

苔 (moss) は、日本文化では価値あるものである。盆栽でも苔を巧みに活用する。こけ色(モスグリーンmoss green)を見ると、日本人は心が落ち着く。苔は、園芸(ガーデニング)の先進国イギリスでも価値あるものだが、アメリカでは無価値なものとなるらしい。だから、苔(こけ)の諺(ことわざ)が英米では解釈が反対になるという。

A rolling stone gathers no moss. 転石、苔を生ぜず。ころがる石にはこけが生えない。

職業を転々と変える人は益がなく、ろくなことはない。(イギリスの解釈)
職業を転々と変える人はカビが付かず、いつも清新だ。(アメリカの解釈)

「年増にはきれいな人がありますわ」は、今の女の子ならたぶん、「30代にはきれいな人がいますわ」と表現すると思う。現代日本語では、無生物・植物・物事が存在するときには「あります」を、人や動物の場合は「います」を使用するのが普通である。

「うつ向いて素気なく言った」は、” Her eyes were on the ground, and she spoke coldly.” となっている。主語をひとつにして She spoke coldly with her head down. も可能だが、しかし、この表現はすっきりしている分、文学的な余韻があまり感じられない。

「もういいよ」は “It's all over.”(もうすべて終わったよ)。これも上品な表現ですね。
こういう日常的な常套句の英訳が一番むずかしい。専門用語であれば、専門辞書の見出し語に掲載されているので検索も容易で問題はないが、日常、頻繁に使用することば、たとえば、「もういいよ」、「じゃあ、いいよ」、「いい加減にしろよ」、「だといいけど」などになると、途方にくれる。

「もういいよ」: “It's all over.” or “That’s enough.” or “Forget it.”, etc.

「じゃあ、いいよ」: “OK, I’ll give it up.” or “In that case, forget it.”, etc.

「いい加減にしろよ」: “Cut it out.” or “You talked too much.”, etc.

「だといいけど」: “That would be nice, but ...” or “I wish I could, but ...” , etc.

コンピュータ用語は直訳できるが、日常語はそうはいかない。ひとつの語句には多くの意味がある。同じ「もういいよ」でも、その場の状況に応じて七変化したり百変化したりもするのだ。だから内容はともかく翻訳作業という観点からみれば、科学論文・契約書・仕様書などよりも、日常語の翻訳の方がはるかにむずかしい。


思いちがい
英語の ”mistake” は行為だけでなく「意見」も含む

【川端康成の『雪国』 新潮文庫 29ページ】

「僕は思いちがいしてたんだな。山から下りて来て君を初めて見たもんだから、ここの芸者はきれいなんだろうと、うっかり考えてたらしい。」と、笑いながら、七日間の山の健康を簡単に洗濯しようと思いついたのも、実は初めにこの清潔な女を見たからだったろうかと、島村は今になって気がついた。


原文はひとつの長文である。長文は分割してから英訳すると、翻訳が簡単で自然な英文にまとめることができる。「長文は分割してから翻訳する」は私の信条。でも、そんなことをしたら、原文のよさが損なわれるのではないのかと反論する人もいる。確かにそれも一理ある。分断することで、文体が犠牲になるし、また、接続助詞(〜だから、〜ながら、〜ので)がおうおうにして割愛されてしまう。できることなら分断などしないで、原文のことばひとつひとつを忠実に逐語訳(直訳)したい、と私も思う。しかし、和文英訳や英文和訳は、直訳では意味不明となりどうしても意訳(自由訳)しないわけにはゆかない場合が多い。英語と日本語は構造的に、大きくかけ離れているので、「長文は分割してから翻訳する」より仕方がない。

まず、長文をいくつかの文に分断する。分断するときは動詞に注目し、概念(意味のひとまとまり)ごとに切り出す。分断箇所にはスラッシュ(斜線 “ / “) を入れる。スラッシュ (slash) は動詞では「切り裂く」の意。これだと書くのが簡単で読み手も理解しやすい。

「僕は思いちがいしてたんだな。/ 山から下りて来て君を初めて見たもんだから、/ ここの芸者はきれいなんだろうと、うっかり考えてたらしい。」と/ 、彼は笑った。/ (〜ながら、) 七日間の山の健康を簡単に洗濯しようと思いついたのも、実は初めにこの清潔な女を見たからだったろうかと、島村は今になって気がついた。/

試訳: “I must have misunderstood. I saw you for the first time when I came down from the mountains, and I mistakenly thought that all the geisha here were beautiful like you,” he laughed. Shimamura now realized that the idea, too, of washing away soon his energy of seven days in the mountains had perhaps come to him because he first saw this nice clean woman.

試訳は私が英訳したので典型的なジャパニーズ・イングリッシュ(国際英語)。洗練された格調高いアメリカ英語(民族英語)をお望みの方は、試訳はざっと目を通すだけにして、文末のサイデンステッカーの訳を心ゆくまで堪能してください。

「見たもんだから」→「見たものだから」→「見たので」

接続助詞(〜だから、〜ので)は、理由・原因を示す。本来、"because" の意味だが、"and" で代用できる場合が多い。たとえば、


ゆうべはほとんど寝ていないので、今とても眠たい。

I hardly slept at all last night, and I'm very sleepy now.
(= I'm very sleepy now because I hardly slept at all last night.)


朝ごはんを食べなかったので、今おなかがすいている。

I didn't have breakfast and I'm hungry now.

このように、"because" を "and" で代用すると、日本語にそって頭から順番に訳していけるし、英文もごく自然な英文となる。理由・原因を明示する必要のある場合を除き、私は、接続助詞(〜だから、〜ので)はたいてい "and" で代用する。職場に "because" の大好きな同僚がいる。あるとき、彼の書いた一通の英文メールに 3 回も "because" が出てきた。いくらなんでも、これはちょっと多すぎる。よく見ると、ほとんど "and" に置き換えることができるものばかりだった。

原文: 「僕は思いちがいしてたんだな。

訳文: “I made a mistake.

原文: 山から下りて来て君を初めて見たもんだから、

訳文: I saw you as soon as I came down from the mountains, and

原文: ここの芸者はきれいなんだろうと、うっかり考えてたらしい。」と、

訳文: I let myself think that all the geisha here were like you,”

原文: 彼は笑った。

訳文: he laughed.

原文: 七日間の山の健康を簡単に洗濯しようと思いついたのも、実は初めにこの清潔な女を見たからだったろうかと、島村は今になって気がついた。

訳文: It occurred to him now that the thought of washing away in such short order the vigor of seven days in the mountains had perhaps first come to him when he saw the cleanness of this woman.

「私はミスをした」は ”I made a mistake” という。しかし、日本語のミスは間違いとか誤りなど、主として「行為」を指すが、英語の ”mistake” は行為だけでなく「意見」をも含む。mistake: an action or an opinion that is not correct, or that produces a result that you did not want. (from OALD)。つまり、”I made a mistake” は、(私はミスをした)の場合も当然あるが、(私は思いちがいをした)という意味のときもある。"Don’t worry, we all make mistakes." (くよくよするな、人は誰でも誤りを犯すものだ)。

山から下りて来て = I came down from the mountains,

「山」が the mountains と複数形になっていることに注意する。これが the mountain と単数形であれば、島村が宿泊している宿の「裏山」と勘違いされてしまう。七日間も山を歩けば、当然、近辺の複数の山に足を踏み入れているはずだ。

うっかり考えた = I let myself think

日本語の「うっかり」は副詞なので、日本人ならたいてい、英語の副詞、たとえば、mistakenly, carelessly, unconsciously, accidentally などをそのときどきの状況に合わせて使用したくなる。訳文では動詞 ”let” の過去形が使用されている。(let-let-let)

動詞 ”let” は奥が深い。 Let me help you.(お手伝いさせてください)やLet me go!(行かせてください=はなしてください)は、まだ理解しやすい。いずれも「〜させてください」という感じ。しかし、ビートルズのヒット曲 ”Let It Be” になると少しやっかいだ。「そのままにしておきなさい」という意味だが、わかったようでわからないような感じがつきまとう。おまけに発音までも日本人の耳には「レリビー」としか聞こえない。 ”let” にはこれ以外にも、「不注意や怠慢でそうなるにまかせる」という意味もある。「うっかり考えた」 ”I let myself think” は、これに該当する。「うっかり考えた」から ”I let myself think” という表現は、日本人にはまず思い浮かばない。ここが民族英語と国際英語のちがい。これは動詞 ”let” を熟知しているネイティブ・スピーカー(英米人)ならではの発想だ。


お煙草でしょう
日本語の語順

都市化や過度の文明化はヒトの中性化を促すのだろうか。最近、恋愛やセックスに消極的な草食系男子が増加する傾向にあるという。こう不景気ではそれも仕方がない。これに呼応するかのように20代から30代の女性の間では、意外なことに戦国武将ブームが広がりを見せる。伊達政宗の重臣・片倉小十郎の居城、白石城がある宮城県白石市には今、若い女性が多数訪れる。東京・神田小川町の歴史専門書店 『時代屋』にも、多数の女性客が来店し、戦国武将関連の本やグッズを購入しているという。この書店では現在、「戦国婆裟羅 伊達政宗公の兜(かぶと)」を展示中。女性たちは、時代劇のヒーローに理想の男性像を見出しているのだろうか。ブームの火付け役のひとつは、戦国武将アクションゲーム「戦国BASARA」シリーズだという。しかし、ブームの根底にはおそらく、生物の本能「種の保存」の働きが関与しているにちがいない。「行き過ぎた文明」に対する本能の反撃である。

【川端康成の『雪国』 新潮文庫 30ページ】

西日に光る遠い川を女はじっと眺めていた。手持無沙汰になった。

「あら忘れてたわ。お煙草でしょう。」と、女はつとめて気軽に、

「さっきお部屋へ戻ってみたら、もういらっしゃらないでしょう。どうなすったかしらと思うと、えらい勢いでお一人山へ登ってらっしゃるんですもの。窓から見えたの。おかしかったわ。お煙草を忘れていらしたらしいから、持って来てあげたんですわ。」

それでは早速、原文と訳文をじっくり鑑賞する。(訳: サイデンステッカー)

原文: 西日に光る遠い川を女はじっと眺めていた。

訳文: She gazed down at the river, distant in the afternoon sun.

原文: 手持無沙汰になった。

訳文: Shimamura was a little unsure of himself. (島村は少し不安になった)

原文: 「あら忘れてたわ。お煙草でしょう。」と、女はつとめて気軽に、

訳文: "I forgot," she suddenly remarked, with forced lightness. "I brought your tobacco.

原文: 「さっきお部屋へ戻ってみたら、もういらっしゃらないでしょう。

訳文: I went back up to your room a little while ago and found that you had gone out.

原文: どうなすったかしらと思うと、えらい勢いでお一人山へ登ってらっしゃるんですもの。

訳文: I wondered where you could be, and then I saw you running up the mountain for all you were worth.

原文: 窓から見えたの。

訳文: I watched from the window.

原文: おかしかったわ。

訳文: You were very funny.

原文: お煙草を忘れていらしたらしいから、持って来てあげたんですわ。」

訳文: But you forgot your tobacco. Here."

原文: そして彼の煙草を袂(たもと)から出すとマッチをつけた。

訳文: She took the tobacco from her kimono sleeve and lighted a match for him.

英語に語順 (word order) があるように、日本語にも当然、語順がある。本多勝一によると、日本語の語順の四原則は、T 述部(動詞・形容詞・形容動詞)が最後にくる。 U 修飾辞が被修飾辞の前にくる。 V 長い修飾語ほど先に。 W 句を先に。 ということである。

「西日に光る遠い川を女はじっと眺めていた」 を例にとると、

西日に光る遠い川を女はじっと眺めていた。(正順)
女は、西日に光る遠い川をじっと眺めていた。(逆順)
女はじっと眺めていた、西日に光る遠い川を。(逆順)

「西日に光る」も「遠い」も両方とも「川」に係る修飾語。このように複数の修飾語がある場合、日本語では長い順に、または句を先に並べる。「遠い」は2文字、「西日に光る」は5文字。5文字の方が当然長いので、「西日に光る遠い川」が日本語の正しい語順(正順)である。正順の場合は原則としてテンは不要。しかし、これを逆順にして「遠い西日に光る川」とするときには、テン(読点)をつけて「遠い、西日に光る川」とする。つまり、逆順の場合はテンが必要となる(逆順のテン)。

「遠い」を、たとえば「遥か遠くに見える」(8文字)に置換すると、「遥か遠くに見える」も「西日に光る」も両方とも長い修飾語だが、「遥か遠くに見える」の方がさらに長いので先頭に来る。「遥か遠くに見える西日に光る川」が正順。長い修飾語が2つ以上のときは境界にテンをつけ、「遥か遠くに見える、西日に光る川」とする(長い修飾語は境界にテン)。日本語の語順やテン(読点)のつけ方について詳しくは、本多勝一著 『実戦・日本語の作文技術』 朝日新聞社発行 を参照してください。

西日に光る遠い川 = the river, distant in the afternoon sun (サイデンステッカー訳)

西日に光る遠い川 = the distant river shining in the afternoon sun (試訳)

サイデンステッカー訳には詩的な余韻があるが、試訳にはあまりそれが感じられない。この違いはどこから来るのか?これはおそらく、日本語では修飾語(遠い)は被修飾語(川)の前に配置するしかないが、英語の修飾語(形容詞)は、被修飾語の前でも後でも置くことができる場合が多いので、たとえば訳文のように、the river の後にコンマを付けて " the river, distant in the afternoon sun" と続けることができる。このコンマが余韻を醸成しているのではないか。舞曲にしろ話芸にしろ「間(ま)」が重要だ。間がずれたり抜けたりすると芸事は台無しとなり、それこそ「間抜け」な印象を与える。コンマにより間(小休止)が創造され、あとにまで残る味わい(=余韻)が醸し出されるのではないだろうか。

「手持無沙汰(てもちぶさた)だった」は字義どおりには、「することがなく退屈だった」という意味なので、"Shimamura was bored." と訳してしまいそうになるところだが、ここではどうもそういう意味ではない。島村は退屈などしていない。好きな女と一緒にいて退屈するはずがない。この点、さすがに師匠の訳は、"unsure of himself" 「不安になる」と、島村の気持ちがそれなりに、ちゃんと酌んではある。

以前、「どうなすったの」は、"What happened?" と訳されていた。それに従うと「どうなすったかしらと思う」は、"I wondered what happened to you." これでもよさそうだが、今回は、「どうなすったかしらと思う」 → 「どこにいらっしゃるのかしらと思う」 → "I wondered where you could be." である。

「えらい勢いで」は「一生懸命に」の意。英語の "for all one is worth" (= with as much effort as possible) に相当する。例: He ran for all he was worth.  彼は一生懸命に走った。

「タバコ」といえば現代の日本人ならたいてい、「紙巻きたばこ」、つまり、シガレット(cigarette)を連想する。しかし、訳文の "tobacco" は「刻みたばこ」を指す。そういえば、私が子供の頃、祖父は刻みたばこを煙管(きせる)に詰めて吸っていたようだ。祖父の年代では、シガレットよりも刻みたばこが普通だったのかもしれない。


あの子に気の毒したよ
英語の使役動詞(causative verb)

「あの子に気の毒したよ」は、「あの子に気の毒なことをしたよ」ともいう。気の毒とは「心の毒」、気持ちを害するものという意味。あの子とはここでは、肌の底黒い腕がまだ骨張っていて、どこか初々しく人のよさそうな17歳か、18歳の芸者のこと。何もしないまま途中で帰らせたので相手の気持ちを傷つけてしまったと、島村は悔やんでいる。

【川端康成の『雪国』 新潮文庫 30ページ】

「あの子に気の毒したよ。」

「そんなこと、お客さんの随意じゃないの、いつ帰そうと。」

石の多い川の音が円い甘さで聞こえて来るばかりだった。
杉の間から向うの山襞(やまひだ)の陰るのが見えた。

「君とそう見劣りしない女でないと、後で君と会ったとき心外じゃないか。」

「知らないわ。負け惜みの強い方ね。」と、女はむっと嘲るように言ったけれども、芸者を呼ぶ前とは全く別な感情が二人の間に通っていた。

それでは早速、原文と訳文をじっくり鑑賞する。(訳: サイデンステッカー)

原文: 「あの子に気の毒したよ。」

訳文: "I wasn't very nice to that poor girl."

原文: 「そんなこと、お客さんの随意じゃないの、いつ帰そうと。」

訳文: "But it's up to the guest, after all, when he wants to let the geisha go."

原文: 石の多い川の音が円い甘さで聞こえて来るばかりだった。

訳文: Through the quiet, the sound of the rocky river came up to them with a rounded softness.

原文: 杉の間から向うの山襞(やまひだ)の陰るのが見えた。

訳文: Shadows were darkening in the mountain chasms on the other side of the valley, framed in the cedar branches.

試訳: Through the cedar branches he saw the mountain chasms darkening on the other side.

原文: 「君とそう見劣りしない女でないと、後で君と会ったとき心外じゃないか。」

訳文: "Unless she were as good as you, I'd feel cheated when I saw you afterwards."

原文: 「知らないわ。負け惜みの強い方ね。」と、

訳文: "Don't talk to me about it. You're just unwilling to admit you lost, that's all."

原文: 女はむっと嘲るように言ったけれども、芸者を呼ぶ前とは全く別な感情が二人の間に通っていた。

訳文: There was scorn in her voice, and yet an affection of quite a new sort flowed between them.

人に何かをさせたいときは使役動詞(しえきどうし)を使う。日本語の使役動詞は、動詞の未然形に助動詞の「せる・させる」を添えて作る。行く→行かせる、食べる→食べさせる、働く→働かせるなど。日本語の使役動詞は、内容と関係なくほとんど形式的に、このように簡単に作ることができる。

英語の使役動詞(causative verb)といえば、make, let, have, get が有名だ。英語の場合は、日本語とちがって、内容に応じて動詞を使い分ける必要がある。だから、英語の使役動詞を苦手とする日本人は多い。しかし、説明さえ聞けば、この4つの動詞の使い分けは意外と簡単である。たとえば、

「彼女に行かせましょう」は4通りの英訳が可能だ。

1. I'll make her go. (make は無理やりに行かせる場合。彼女は行きたくない)
2. I'll let her go. (let は望み通りに行かせてあげる場合。彼女が行きたい)
3. I'll have her go. (have は頼んで行ってもらう場合。頼まれれば彼女はそうする責務がある)
4. I'll get her to go. (get は説得して行ってもらう場合とか、そうしむける場合とか)

Mom makes us eat lots of vegetables.

ママは僕たちに野菜をいっぱい食べさせるんだよ。(僕たちはあまり食べたくないのに)

My wife won't let me watch football on TV.

妻は私にテレビでサッカーの試合を観戦させてくれない。(サッカーの試合を見たいのに)

I want to have my men report. 部下に報告させようと思う。(部下はそうする職務がある)

Get your friends to help you. 友人に助けてもらいなさい。(説得すればそうしてくれるはず)

たとえば、アメリカの友人を自宅に招待し、スキヤキをご馳走したいとき、

「今晩、妻にスキヤキを作らせましょう」 → I'll have her cook sukiyaki tonight. となる。

I'll make her cook sukiyaki tonight. だと、妻に無理強いするので離婚話に発展する恐れがある。

I'll let her cook sukiyaki tonight. だと、妻がスキヤキを作りたいので、今夜は妻の望みどおりにさせてあげるという意味になる。この状況では、make, let 両方ともふさわしくない。

I'll get her to cook sukiyaki tonight. だと、妻はあまりスキヤキを作らないが、今夜は何とか説得して作ってもらおうという気持ち。have の用法に近いので、この状況では、get でもいいかもしれない。

原文の「そんなこと、お客さんの随意じゃないの、いつ帰そうと。」に対して、訳文は "But it's up to the guest, after all, when he wants to let the geisha go." となっている。ここで "let the geisha go" に注目する。使役動詞の "let" から類推すると、芸者本人が行きたいことになってしまうが、そうではない。客が行かせるのであるから、本来は "make the geisha go" となるべきところではある。

この "let somebody go" は、実は「仕事をやめてもらう」という慣用句(to dismiss someone from their job)である。つまり、「解雇する」の婉曲(えんきょく)表現なのだ。

例: We've had to let three people go this month.

(今月、弊社ではやむなく3人辞めてもらった)。

会社が従業員を解雇する場合、従業員自らが解雇を望むわけではないので、
The company makes employees go. となるべきところだが、これだと会社があまりにも無慈悲で残酷なイメージがある。また従業員にしてもこれでは惨め過ぎる。そこで、英語では婉曲表現を使用して The company lets employees go.(会社は従業員にやめてもらう) と表現する。

この点、日本語も同じだ。経営側は従業員に対して「仕事をやめていただく」と婉曲的に表現する。「〜していただく」は「〜してもらう」の謙譲語。自分のために相手に何かをしてもらうことなので、文字通りに解釈すれば、従業員が会社のために自ら身を引いてくれることになるのだが、実際そうでないことは労使双方とも百も承知している。A さんが解雇され、後日、A さんにかかってきた電話に会社の同僚は、「A さんはお辞めになりました」と婉曲表現で応ずる。こうした婉曲表現に異を唱える人はあまりいない、日本にも英米にも、そして、たぶん別の国であっても。


遠回り
「回り道」の反意語は「近道」

「遠回り」という語で私がまず思い出すのは、菅原 都々子(すがわら つづこ)の『月がとっても青いから』である。1955年(昭和30年)に発表され100万枚を超える大ヒットとなった曲だが、当初タイトルは『遠回りして帰ろう』だったという。ちなみに、作曲を手がけたのは菅原の実父で作曲家の陸奥明、作詞はその父の友人で菅原をよく知る作詞家の清水みのる。そう聞けば、若い男女のロマンチックな歌なのに、歌全体にどことなく父性愛のような暖かみが感じられる。

『月がとっても青いから』

月がとっても 青いから/遠廻りして 帰ろ
あのすずかけの 並木路は/想い出の 小径よ
腕を優しく 組み合って/二人っきりで さあ帰ろう

「遠回り」と「回り道」は同意語である。英語で「遠回り」や「回り道」は、おなじみの「ディーツア」 “a detour” または “a roundabout route”。「遠回りする」は “make/take a detour” なので、「遠回りして帰ろう」は、たとえば ”Let’s take a detour home.” という感じだろうか。

detour: noun
a longer route that you take in order to avoid a problem or to visit a place:

It’s well worth making a detour to see the village. (from OALD)

(試訳:回り道してその村を見ることは十分価値がある。→ その村は回り道してでも行くべきだよ。)

しかし訳文では「遠回り」に ”roundabout way” が使用されている。これは、言葉などで遠回しに表現する場合、“detour” とか “route” ではなく、 ”in a roundabout way” 「遠回しに」というように “way” を使用するのがよいからである。「回り道」と、道そのものを表現する場合は、”way” でもいいが、”route” も使用できる。以下のふたつの英文を比較するとこの違いがわかりやすい。

・The taxi driver took a roundabout route to the hotel. (from LAAD)
(タクシードライバーは遠回りしてホテルに到着した。)

・In a roundabout way, she admitted she was wrong. (from LAAD)
(遠回しに、彼女は自分のあやまちを認めた。)

「回り道」の反意語は「近道」である。英語で「近道」は「ショートカット」”shortcut” とか、あるいは “shorter way” という。「近道をする」は “take a shortcut”。

We took a shortcut through the downtown. 私たちは近道をして中心街を抜けた。
There are no shortcuts to economic recovery. 経済回復に近道はない。

それでは本文に戻って、原文と訳文を鑑賞する。
【川端康成の『雪国』 新潮文庫 30ページ】

原文:
はじめからただこの女がほしいだけだ、それを例によって遠廻りしていたのだと、島村ははっきり知ると、自分が厭になる一方女がよけい美しく見えて来た。

訳文:(サイデンステッカー)
As it became clear to Shimamura that he had from the start wanted only this woman, and that he had taken his usual roundabout way of saying so, he began to see himself as rather repulsive and the woman as all the more beautiful.

ワーオ、原文、訳文ともに切れ味鋭い洗練された表現ではないか!とても、わたくしめごときが介入できる余地などない。ここはただ子供のように素直になって、このふたつの名文を暗誦できるほどに、くりかえしくりかえし読み返すのみだ。そうすることで、願わくば、表現が大脳のどこか記憶域に蓄えられ、いつの日かふと必要な場面でタイムリーに読み出されますように…。

ことばの習得には本当のところ、近道などない(There aren't really any shortcuts to learning languages)。実際には、3つの「き」、暗記・根気・年季が必要だと思う。暗記して根気強く継続して何年も続ければ、やがてはそれなりに習得できる。近道はないが、しかし効果的な学習方法はある。反論があるかもしれないが、それが文法だと私は考えている。暗記・根気・年季プラス文法、これが日本にいて独学で、英語などの外国語を習得する最も実践的で効果的な学習方法ではないだろうか。


うちへ寄っていただこうと思って
if 節(条件節)に単純未来を表す "will" が使用できる場合

【川端康成の『雪国』 新潮文庫 50ページ】

「うちへ寄っていただこうと思って、走って来たんですわ。」

「君の家がここか。」

「ええ。」

「日記を見せてくれるなら、寄ってもいいね。」

「あれは焼いてから死ぬの。」

「だって君の家、病人があるんだろう。」

「あら。よく御存じね。」

「昨夜(ゆうべ)、君も駅へ迎えに出てたじゃないか、濃い青のマントを着て。僕はあの汽車で、病人の直ぐ近くに乗って来たんだよ。実に真剣に、実に親切に、病人の世話をする娘さんが付き添ってたけど、あれ細君かね。ここから迎えに行った人?東京の人?まるで母親みたいで、僕は感心して見てたんだ。」

「あんた、そのこと昨夜どうして私に話さなかったの。なぜ黙ってたの。」と、駒子は気色ばんだ。

「細君かね。」

しかしそれには答えないで、「なぜ昨夜話さなかったの。おかしな人。」

ここの会話は短いが、日本人にとって興味深い英訳が随所に出てくる。「うちへ寄る」、「走って来た」、「君の家がここか」、「日記を見せてくれるなら、寄ってもいいね」など、さすがに名人の手にかかると、すべての訳文があたかも原文だったかのように、いきいきとよみがえる。

原文: 「うちへ寄っていただこうと思って、走って来たんですわ。」

訳文: " I ran after you because I thought I might ask you to come by my house."

「立ち寄る」は米語では "come by"。come by = to go to someone's house for a short time before going somewhere else. 原文の「走って来た」は、直訳の "came running" よりも意訳の "I ran after you" (あなたを追いかけた) の方がここではぴったりする。

原文: 「君の家がここか。」

訳文: "Is your house near here?"

訳訳文: 「君の家はこの近くなのかい?」

「君の家がここか」は "Is your house here?" と、私など、つい直訳しそうな気がするなあー。もちろん、こういう訳もあるとは思うが、"Is your house near here?" の方がここではより的確な表現だ。

原文: 「ええ。」

訳文: "Very near."

原文: 「日記を見せてくれるなら、寄ってもいいね。」

訳文: "I'll come if you'll let me read your diary."

ここでは "I'll come" と "come" が使用されている。"come" と "go" は、基本的には同じ動作を示す。ただし視点は異なる。日本語の用法だと、ここでは「行く」となるところだが、英語では、話し手(島村)の視点が聞き手(駒子)の家にあるので "come" が正しい。「夕食、準備できたわよ」(Dinner's ready!) と妻に呼ばれて、「わかった。今、行くよ」は、"OK, I'm going." ではなく、"OK, I'm coming." と言う。それと同じこと。

原文: 「あれは焼いてから死ぬの。」

訳文: "I'm going to burn my diary before I die."

原文: 「だって君の家、病人があるんだろう。」

訳文: "But isn't there a sick man in your house?"

原文: 「あら。よく御存じね。」

訳文: "How did you know?"

原文: 「昨夜(ゆうべ)、君も駅へ迎えに出てたじゃないか、濃い青のマントを着て。僕はあの汽車で、病人の直ぐ近くに乗って来たんだよ。実に真剣に、実に親切に、病人の世話をする娘さんが付き添ってたけど、あれ細君かね。ここから迎えに行った人?東京の人?まるで母親みたいで、僕は感心して見てたんだ。」

訳文: "You were at the station to meet him yesterday. You had on a dark-blue cape. I was sitting near him on the train. And there was a woman with him, looking after him, as gentle as she could be. His wife? Or someone from Tokyo? She was exactly like a mother. I was very much impressed."

あれえ、変だな?「娘」が "a woman" と訳されているぞ! "a girl" の方が断然いいのに。この娘は、冒頭の「駅長さあん、駅長さあん」と叫んだ葉子を指すので、冒頭部分の英訳と同じように、"a girl" の方がいいと思う。『雪国』の中では「女」という語は「駒子」のみを指すいわば「予約語」なので、翻訳でも "woman" は「駒子」の専用語として確保しておきたい。

原文: 「あんた、そのこと昨夜どうして私に話さなかったの。なぜ黙ってたの。」と、駒子は気色ばんだ。

訳文: "Why didn't you say so last night? Why were you so quiet?" Something had upset her.

原文: 「細君かね。」

訳文: "His wife?"

原文: しかしそれには答えないで、「なぜ昨夜話さなかったの。おかしな人。」

訳文: Komako did not answer. "Why didn't you say anything last night? What a strange person you are."

学校では、「if 節(条件節)には単純未来を表す "will" を使用しない」と教わる。それが頭にこびりついているので、たいていの人は、訳文の "I'll come if you'll let me read your diary." のような英文を見ると不安になる。でも、ご安心あれ、これは真正の英文である。ただし、if 節に "will" を除いた英文ももちろん可能。両者は少し意味が異なる。

1. I'll come if you let me read your diary.
日記を見せてくれるなら寄ってもいいよ。

2. I'll come if you'll let me read your diary.
(見せたくないだろうけど)日記を見せていただけるなら寄ってもいいね。

多くの単語がそうであるように、"will" も複数の意味を持つ。つまり、上記2のif 節 の "will" は「単純未来」を表す "will" ではなく、「(相手の好意を期待して)〜してくださるなら」、という期待を表す "will" である。

未来のことを話すのに「単純未来」を表す "will" を使用しないのは、if 節だけではない。 when節, while節, before節, after節, as soon as節, until節or till節 などでも同じ。

明日、雨なら試合は延期されます。
The game will be postponed if it rains tomorrow. (not if it will rain tomorrow)

雨が降っている。出かけたら濡れるよ。
It's raining. We'll get wet if we go out. (not if we will go)

「雨が止んでから出かける」というような場合:

We'll go out when it stops raining. (not when it will stop)
We'll go out after it stops raining. (not after it will stop)
We'll go out as soon as it stops raining. (not as soon as it will stop)

彼が私を抱いてくれるまで、じれったいけど待つわ。
Till he holds me, I'll wait impatiently.

コニーフランシスの「ボーイハント」 "Where the Boys Are" より
http://home.att.ne.jp/yellow/townsman/SnowCountry_1.htm

http://www.asyura2.com/09/revival3/msg/574.html#c36

[リバイバル3] 湯沢町の共同湯は日本国内の温泉の中で最低最悪 中川隆
37. 中川隆[7740] koaQ7Jey 2017年4月14日 11:32:53 : b5JdkWvGxs : DbsSfawrpEw[8230]

欧米人には絶対にわからない『雪国』の背後の世界

802:tky10-p121.flets.hi-ho.ne.jp:2011/01/22(土) 22:33:30.90 0

川端康成の「雪国」は死後の世界
みんな幽霊という設定


803:tky10-p121.flets.hi-ho.ne.jp:2011/01/22(土) 22:35:37.56 0

ちなみに千と千尋も死後の世界だね
トンネル抜けるとそこは黄泉の国ということ
http://2chnull.info/r/morningcoffee/1295616090/1-1001

講演の中で、奥野健男は川端康成の「雪国」に触れ、実際に川端康成と話したときのことを語ってくれた。

川端によると「雪国」というのは「黄泉の国」で、いわゆるあの世であるらしい。


  「雪国」があの世であるというのは何となくわかる気がする。島村はこの世とあの世を交互に行き交い、あの世で駒子と会うのである。駒子とはあの世でしか会えないし、この世にくることはない。島村と駒子をつなぐ糸は島村の左手の人差指である。島村が駒子に会いにくるのも1年おきぐらいというのも天の川伝説以外に何かを象徴しているのだろうか。

  とてつもなく哀しく、美しい声をもつ葉子はさしずめ神の言葉を語る巫女なのか。その巫女の語る言葉に島村は敏感に反応するのだ。もしかしたら葉子は神の使いなのかもしれない。

 駒子は葉子に対して「あの人は気違いになる」というのは、葉子が神性を帯びているからではないのか。

 日本人とって、あの世とは無の世界ではない。誰もが帰るべき、なつかしい世界である。あいまいな小説「雪国」がなぜか私になつかしい思いをさせるのはやはり「雪国」が黄泉の国だからなのだろうか。
http://www.w-kohno.co.jp/contents/book/kawabata.html

川端は代表作雪国でトンネルを効果的に使っているが、1953年4月に発表された小説『無言』でも現世とあの世をつなぐ隠喩として名越隧道をうまく使っている。なお、川端が自殺した逗子マリーナには、車で鎌倉から一つ目の名越隧道と二つ目の逗子隧道を抜けてすぐ右折し5分程度の距離にある。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%90%8D%E8%B6%8A%E9%9A%A7%E9%81%93
http://blog.livedoor.jp/aotuka202/archives/51017908.html

ずいぶん昔、何かの会合のあと友人数人とスナックで 飲んでいた時、そのうち一人との会話である。

「川端康成の『片腕』はシュールな傑作だね。口をきく片腕と添い寝 して愛撫するとは」と友人。

「あれはハイミナールの幻覚だと言われているがね」と傑作であるこ とは認めつつ、

「川端康成なら君など問題にならないくらい読んでいる がね」と言う代わりに、どうでもいいような不確かなゴシップ を喋る私。


「『眠れる美女』はまさしく屍姦だが、あれもハイミナールの幻覚か い?」

「いや、あれは実際にやっていたと言う話だ。死体愛好癖とロリコンは 川端康成の二大テーマだからね」


渡部直己『読者生成論』(思潮社)の中にある「少女切断」を読みつつ 上記の会話を思い出した。この「少女切断」は非常に刺激的で、一瞬、川 端康成全集を買って読み返そうかなどと思ったくらいだ。

読み返すとは言っても川端康成が少女小説を書いていたのは知らなかった。 昭和十年から戦後四、五年まで数にして二十以上の長短編少女小説を 書き、これらの少女小説は渡部直己によれば読み応えのある傑作である という。またこの少女小説の一つである「乙女の港」には、中里恒子 による原案草稿20枚が発見されているとのことだから、本物の少女小説 である。

今日すでに存在していない、ここで言う「少女小説」とは渡部直己によ れば、次のようなものである。


「 お互いの睫の長さも、黒子の数も、知りつくしてゐたような、少女の 友情……。

相手の持ちものや、身につけるものも、みんな好きになって、愛情を こめて、わはってみたかったやうな日……。(『美しい旅』)


そうした日々の静かな木漏れ日を浴びて、少女たちはふと肩を寄せあい、 あるいは、人垣をへだててじっと視つめあい、二人だけの「友情と愛の しるし」に、押し花や小切れなどさかんに贈りあっては、他愛なくも甘美な 夢にひたりつづける。お互いを「お姉さま」「妹」と呼びかわし、周囲から 《エスの二人》と名ざされることの悦びに、いつまでも変わらぬ「愛」を 誓いあう二人の世界を彩って、花は咲き、鳥は唄い、風は薫りつづける」


この「少女小説」は、現在の ギャル向けポルノ雑誌と同じ機能も果たしていたのであろう。

今日存在する「少女小説」は、だいぶん様子が違ってきている。たとえば 耽美小説と呼ばれる美少年の性愛を露骨に描写した小説も「少女小説」の一種 であろう。この少年とは大塚英志が言うような、少女の理想型としての少年で ある。
実はこのジャンルはまるで苦手だ。子供の頃、少女マンガというのは 実に退屈なものだなと思った。したがって、後年その少女マンガから傑作が 生まれることなど私の想像力の範囲を超えていた。文学が痩せこけていくのに 反比例して、様々な表現分野が豊饒になり、いわゆる文学を超えた傑作が 多く生まれた。それもまた私の守備範囲を超えていたのであった。

友人の一人(男)が鞄の中に常時少女マンガ雑誌を携帯し、赤川次 郎的少女小説なども愛読している。この感性はどちらかといえば少数派に違いない。

時々「わぁーっ、素敵」などとこの男が言ったりするのは少女マンガの悪影響 だろうが、聞いている方にはかなりの違和感がある。これは異化作用とは 言えない違和感である。

渡部直己が模範的反少女小説として詳細に論じているのは『千羽鶴』で ある。
『千羽鶴』の主人公三谷菊治や『雪国』の主人公島村はその年齢に比して ひどく老成した印象を受ける。彼らはテクストから、はみ出さない。

島村は視点に過ぎないし、冥界を往還する傍観者的な過客の分際から踏み 出そうとはしない。『伊豆の踊子』の一高生にとって 伊豆がそうであったように、島村にとって『雪国』は黄泉の国であり異界で あり、彼は 異人の劇に観客的に出演する。異界は彼にとって慰藉であり、生への意志 を充填する場所なのだ。

三谷菊治は、死者が紡ぎだす美に翻弄されるだけで、 自らの欲望を生きることはなく、作品の狂言まわしですらない。彼は 死者と近親相姦的にかかわる。自殺してしまう太田未亡人も文子も、 もともとこの世の人ではなかった。 或いは三谷菊治自身が死者なのかもしれない。

渡部直己によれば、 事態をなかば抑圧し、なかばそれを使嗾する検閲者である栗本ちか子は、 読みの場の知覚をみずから模倣しつつ作品に介入する 人物の典型、作者の分身たちがひしめきあう世界に紛れこんで、むしろ 読者の分身たらんと欲する人物で、小説一般に幅広く散在する。渡部直己 は『千羽鶴』の場合、作品はあげてこの人物を唾棄しようとすると書いて いる。

だが栗本ちか子は此岸の人であり、テクストを抜け出して我々の人生に 顔を出したりする。彼女は物語の検閲者であり、その欲望は使嗾しつつ抑 圧することのように見えて、実は他者を破滅させることにある。
http://homepage3.nifty.com/nct/hondou/html/hondou73.html

http://www.asyura2.com/09/revival3/msg/574.html#c37

[リバイバル3] 湯沢町の共同湯は日本国内の温泉の中で最低最悪 中川隆
38. 中川隆[7741] koaQ7Jey 2017年4月14日 11:36:01 : b5JdkWvGxs : DbsSfawrpEw[8231]

『雪国』の『国境の長いトンネル』は能舞台の橋掛かりと全く同じ意味を持っている:

能は能舞台という専有の演技空間を持っています。横浜能楽堂に一歩足を踏み入れるとすぐにお気づきのように、


客席に突き出た三間(約6メートル)四方の本舞台(ほんぶたい)と、向かって左に延びる橋ガカリからなること、

室内でありながら舞台上にも屋根があること、

橋ガカリ奥に5色の揚幕(あげまく)という幕があるのみで、観客と舞台を隔てるものがないこと、

枝振りのよい松が描かれた鏡板(かがみいた)が背景となること


など、横に広く長い日本の大多数の劇場とは随分違っているのです。能舞台は非常に特異な空間ですが、これは能と狂言の演技の本質に深くかかわっています。


 まず本舞台。この正方形の空間は、左右より前後の動きが演技の中心となっていることを意味します。足を一歩出す、一歩引くというほんのわずかな動作が、説得力に満ちた表現になるのです。客席に張り出す舞台では、役者の身体の前から背中まで、すべてが見えてしまいます。「動く彫刻」といわれるように、一分の隙も許されず、全身全霊の力を外に放つ気迫が役者に要求されます。


また能には神、仙人などの超人間的な存在や、あの世の者が多く登場します。人間の生身の肉体である素顔を使わず能面を用いるのはそのためですが、異次元の世界からこちら側へ渡って来るには、果てしなく遠い道のりを辿らねばならないのでしょう。その距離とエネルギーとを象徴するのが橋ガカリなのです。
http://www.yaf.or.jp/nohgaku/98spr/001-2.html

橋掛かりとは、揚幕から本舞台へとつながる長い廊下部分のこと。

ここには、微妙な傾斜がつけられており、観客から見て遠近感が強く感じられるように設計されているそうです。

この橋掛かりを通って、シテは、揚幕から本舞台へと現れ、消えていきます。
それは、亡霊が現れては消えていく、能の物語そのものです。
まるで、橋掛かりが、あの世とこの世を結ぶ道のようです。
http://www.sense-nohgaku.com/noh/articles/whats_no/youhashigakari.php


橋掛りは、異次元とこの世を繋ぐ架け橋です。
http://www.ryosuikai.com/distript.htm

http://www.asyura2.com/09/revival3/msg/574.html#c38

[リバイバル3] 湯沢町の共同湯は日本国内の温泉の中で最低最悪 中川隆
39. 中川隆[7742] koaQ7Jey 2017年4月14日 11:44:28 : b5JdkWvGxs : DbsSfawrpEw[8232]

いい日旅立ち _ 山の向こう側で待っている人は…
http://www.asyura2.com/10/yoi1/msg/191.html


http://www.asyura2.com/09/revival3/msg/574.html#c39

[リバイバル3] 湯沢町の共同湯は日本国内の温泉の中で最低最悪 中川隆
40. 中川隆[7743] koaQ7Jey 2017年4月14日 12:28:26 : b5JdkWvGxs : DbsSfawrpEw[8233]

映画「雪国」1957 動画

豊田四郎/監督 
川端康成/原作

出演: 池部良, 岸恵子, 八千草薫, 森繁久彌
http://www.bilibili.com/video/av8295567/
http://freemovie.nekomoe.net/2017/0130211343.html

一夜一話 - 映画「雪国」 1957年 監督:豊田四郎 出演:岸惠子、池部良

  原作が川端康成の「雪国」だからといって、文学作品拝読の構えで観ると損をする。

  芸者・駒子を演ずる岸惠子が、思いの外に色っぽいと読み解けたら、この映画、一段と面白くなる。セックスシーンこそ無いが、島村(池部良)を前にした駒子は可愛く濡れている。

  画家の端くれと言う島村は、この雪国にスケッチのため、一人東京からやって来た。そして宿で芸者の駒子と出会う。出会ってすぐに互いの心はひとつとなった。そんなふたりの気配が部屋に満ちる様子を、酒を持ってきた宿の女中役・浪花千栄子が的確に演じてみせる。

  翌日の夜、宿の大広間の宴会は地元の芸者衆で盛り上がっていた。助っ人の駒子は酔っぱらっている。酔わないと島村の部屋に行く勇気が出ない。そんな一方的な熱い心を抱えて駒子は宴会を抜け出し島村の寝ている部屋へ入った。そこでのふたりのやり取りは、この映画で一二の見せ場だ。大胆な一方でその気持ちを自身の心の内に引きもどす駒子と、小悪魔的魅惑に翻弄されていく受け身な島村。そしてふたりは夜明けを迎えた。


そんな回想シーンを懐かしく思い返すふたりは、年の瀬迫る炬燵に入っている。そのうち島村が、「風呂に入ってくる」と、ひとり廊下を伝い脱衣所で帯を解こうとするその時、後ろから突然に駒子が、「あたしも入る」と言うやいなや帯を解き始める。驚く島村。風呂に入ってからの駒子も艶めかしい。

  初めて島村がここを訪れた時に、山で取って来たアケビを部屋の花瓶に生けるが、初対面の駒子がこのアケビの実を少し食べる。このアケビの実の隠喩・・・。またそのあと、紅が付いた盃を美しいと言い、それを厭わず口紅が付いたままの盃で駒子の酌を受ける島村、その態度にドギマギする駒子。ことほどさようにこの映画には、そんな色っぽいシーンがある。

ところが、「あんたなんか、東京へ帰っちゃいなさい」と駒子はたびたび島村に言う。年に一度の逢瀬。ふたりの愛は結ばれない。島村は東京に妻がいる。駒子の事はばれている。

  だが、「雪国」は島村と駒子の愛を描くだけではない。

  駒子と年下の葉子(八千草薫)は、それぞれ貧しい農家の子であったが、共に三味のお師匠の養女として育てられた。

  その後、駒子は芸者見習いから芸者となり、年配の旦那を持つ身となった。それは年老いてしまった養母と病を患うその息子の行男を養うため。養母と行男が住む家も、旦那の世話によるものだった。背負うものが多い駒子であった。

  幼なじみの行男は駒子のことが好きだったが、駒子はそうでもなく、むしろ密かにだが葉子の方が彼を愛していた。だから葉子は駒子を憎んでいた。島村を駒子から奪ってしまいたい、そんな邪念を葉子は抱くようになって行った。

  駒子の妊娠と旦那からの離縁、芸者としての独り立ち、行男の容体悪化、火事と葉子の火傷、そして島村と駒子の別れ。島村は最後まで駒子に対する態度が煮え切らない。

  岸惠子のぶりっ子なまでの艶めかしさ、池部良演ずる逡巡するつれない男、絶たない逃げ道。

  脇役では、宿の女中役の浪花千栄子がダントツに光る。田舎芸者を演ずる市原悦子と島村のシーンは喜劇だ。また、盲目の按摩マッサージ指圧師を演ずる千石規子が、なにやら異彩を放つのに魅かれる。最後に、音楽担当の芥川也寸志が、欧米映画音楽の弦楽をよく勉強しているのが聴ける。
  

監督:豊田四郎|1957年|133分|

原作:川端康成|脚色:八住利雄|撮影:安本淳|音楽:芥川也寸志|

出演:

島村(池部良)
駒子(岸惠子)
葉子(八千草薫)

葉子の弟・佐一郎(久保明)|師匠(三好栄子)|その息子・行男(中村彰)|宿の女中おたつ(浪花千栄子)|同じく・おりん(春江ふかみ)|同じく・おとり(水の也清美)|宿の主人(加東大介)|宿のお内儀(東郷晴子)|県会議員・伊村(森繁久彌)|駒子の母(浦辺粂子)|番頭(東野英治郎)|万吉(多々良純)|女給・花枝(中田康子)|芸者・菊勇(万代峯子)|同じく・勘平(市原悦子)|駅長(若宮忠三郎)|女按摩(千石規子)|宿の女中きみ子(加藤純子)|小千谷の番頭(桜井巨郎)|
http://odakyuensen.blog.fc2.com/blog-entry-1257.html
http://www.asyura2.com/09/revival3/msg/574.html#c40

[リバイバル3] 湯沢町の共同湯は日本国内の温泉の中で最低最悪 中川隆
41. 中川隆[7744] koaQ7Jey 2017年4月14日 12:45:05 : b5JdkWvGxs : DbsSfawrpEw[8234]

Amazon 雪国 [DVD] 池部良 (出演), 岸恵子 (出演), 豊田四郎 (監督)
https://www.amazon.co.jp/%E9%9B%AA%E5%9B%BD-DVD-%E6%B1%A0%E9%83%A8%E8%89%AF/dp/B000ANW0WI

カスタマーレビュー

思わず、これが同じ日本なのか?!と目を見張った逸品 投稿者 へいたらう 投稿日 2007/11/5

この作品は、言うまでもなく、ノーベル賞作家・川端康成の名作を映画化したものだが、大家が描く男女の心の機微よりも、むしろ、私には昭和初期の習俗を余すことなく映し出したことの方が印象深かった。

即ち、「同じ日本なのか?!」とさえ思わせられるほどに衝撃的であると同時に、新鮮でもあったのである。

見上げるほどに降り積もった雪。

その雪の中に、多くの人たちが暮らし、多くの子供たちが、見たこともない祭りに興じている。

その一方で、男がふらりと田舎町の宿屋に宿泊すれば、いきなり、「芸者を呼んでくれ」と言って普通に女を抱けるという現実と、自分の想いとは別に、生きていくためには心を切り離さねばならないヒロインの現実・・・。

作品自体は、後半、少々、間延びしたような観がなきにしもあらずだったが、それらの悲哀を余すことなく描きったという点では十分に堪能できたように思う。

配役陣という点では、何と言っても大女優・岸恵子の、「可愛い」駒子役が圧巻であったろう。

役柄、酔っぱらう姿が多かったが、本当に酔っぱらっているようにしか見えなかったし、自分の感情と、どうにもならない現実との間で身を焦がす姿も他の女優とはひと味もふた味も違うものがあったように思う。

島村役は池部良でも佐田啓二でも大差なかったかもしれないが、岸恵子の駒子役だけは、圧巻であったように思える所以である。

__

駒子役の岸恵子の演技力が光る最高の名作
投稿者 島村 良 投稿日 2008/1/18

この作品は日本映画史上屈指の名作であると思う。
出演者は言うまでもなく、監督、脚本、映像、音楽等全てがすばらしい。

その中でも特筆すべきは、やはり駒子役の岸恵子の存在感であろう。

駒子は実はなかなかに演じるのが難しいキャラクターの持ち主。
芸者に出るような身でありながら純粋さを失わない可愛い女だが、感情の起伏の激しさ、情の深さ、時に見せる弱さ、嫉妬心、そういうものを複雑に併せ持つ女性である。

岸恵子はその駒子が到底成就するはずもない恋に身をやつす様を、これ以上ないと思えるほどの卓越した演技力で見せてくれているのだ。

小説を映画化し、多くの人の賛意を得るのはとても難しいことだと思う。
前もって本を読んでいた人々には、それぞれにその作品に対する強いイメージが心に焼き付いているものだ。だから他人の手によって映画化されたものには、たいていの場合失望感を持つケースがほとんどであるだろう。しかしながらこの作品はそういった違和感なりを遠くへふっとばしてしまうほどの圧倒的な臨場感をもって我々の心に迫ってくる。


島村役の池部良、葉子役の八千草薫他脇役陣もそれぞれにその役柄に応じた最高の演技である。又、白黒の映像が雪という幽玄な世界をより魅力的なものにさせている。なかでも鳥追い祭りの雪と火が織り成すシーンは、来るはずであった島村に裏切られた駒子の哀しくしかし美しい表情ともあいまって芸術作品を見るかのごとくである。さらに全編を流れる團伊玖磨の音楽はあたかもハリウッド映画のそれを思わすすばらしい効果をあげている。

しかしながら何といっても最高なのは「岸恵子の駒子」である。もとより大女優だけに数多くの作品に出演してはいるが、これがおそらくベストパフォーマンスだと個人的には確信している。彼女を超える駒子役はおそらくもう出ないことだろう。50年ほど前の映画だが、その演技にまったく古くささは感じない。現代を生きる若い方々にも是非見てもらいたいと思う。

きっとその魅力が時代を超えて伝わってくることだろう。


ただひとつ残念に思ったのは、切なく美しいラストシーンの直前の場面、火事で顔に醜い火傷を負った葉子の顔のアップ(一瞬ではあるが・・)を見せる必要があったのかどうか。

せめて包帯を巻くとか何とかできなかったものか、この映画をTVで始めて見た高校3年のときにはその悲惨さがショックでなかなか寝つかれなかったことを思いだす。

それがあるために、ラストのやや重苦しい感動が、必要以上にその度合いを増してしまったように思うのは私だけであろうか。



http://www.asyura2.com/09/revival3/msg/574.html#c41

[お知らせ・管理20] これが阿修羅に巣食う電通工作員 中川隆
59. 中川隆[7745] koaQ7Jey 2017年4月14日 13:43:02 : b5JdkWvGxs : DbsSfawrpEw[8235]

2016年 10月 5日 09:30 JST
ヤフーが全受信メールを監視、米情報機関の要請で=関係筋


 10月4日、米ヤフーが昨年、米情報機関からの要請を受けてヤフーメールのユーザーのすべての受信メールをスキャンしていたことが、関係筋の話から明らかになった。写真は同社のロゴ。スイスのロールで2012年12月撮影(2016年 ロイター/Denis Balibouse)


 10月4日、米ヤフーが昨年、米情報機関からの要請を受けてヤフーメールのユーザーのすべての受信メールをスキャンしていたことが、関係筋の話から明らかになった。写真は同社のロゴ。スイスのロールで2012年12月撮影(2016年 ロイター/Denis Balibouse)



[サンフランシスコ 4日 ロイター] - 米ヤフー(YHOO.O)が昨年、米情報機関からの要請を受けてヤフーメールのユーザーのすべての受信メールをスキャンしていたことが、関係筋の話から明らかになった。

ヤフーの元社員2人と別の関係筋によると、ヤフーは米国家安全保障局(NSA)もしくは連邦捜査局(FBI)の要請に基づき、数億件のヤフーメールのアカウントをスキャンし、情報機関が求めていた特定の情報をサーチしていた。

情報機関はヤフーに対し特定の文字をサーチするよう要請していたが、どのような情報を求めていたのかは明らかになっていない。関係筋によると、メールもしくは添付ファイルに記載されたフレーズを求めていた可能性がある。

ロイターは、ヤフーが情報機関にデータを手渡したのであれば、それがどのような内容だったのか特定できていない。また、情報機関がヤフー以外の企業に同様の要請を行っていたのかも不明。

監視活動の専門家は、すでにメールボックスにセーブされているメールのスキャンやリアルタイムで少数のアカウントを監視するのではなく、すべての受信メールをサーチする要請に応じ、明るみに出た米企業としては初のケースになると指摘する。

ヤフーの元社員によると、情報機関の要請に応じるマリッサ・メイヤー最高経営責任者(CEO)の決定をめぐり、一部幹部は反発。昨年6月の情報セキュリティ責任者アレックス・スタモス氏の辞任につながったという。

ヤフーは情報機関からの要請をめぐるロイターの質問に対し、声明で「ヤフーは米国の法律を順守している」とし、それ以上のコメントを差し控えた。

情報機関もコメントを差し控えている。

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2017年 04月 14日 13:15 JST
米政府による外国情報の監視要請、16年前半に急増=マイクロソフト


 4月13日、米マイクロソフトは、透明性に関する最新の報告書を発表し、米政府からの外国情報収集を目的とするユーザーコンテンツの監視要請が、2016年1─6月に少なくとも1000件に上ったと明らかにした。写真はマサチューセッツ州で1月撮影(2017年 ロイター/Brian Snyder)


 4月13日、米マイクロソフトは、透明性に関する最新の報告書を発表し、米政府からの外国情報収集を目的とするユーザーコンテンツの監視要請が、2016年1─6月に少なくとも1000件に上ったと明らかにした。写真はマサチューセッツ州で1月撮影(2017年 ロイター/Brian Snyder)



[ワシントン 13日 ロイター] - 米マイクロソフト(MSFT.O)は13日、透明性に関する最新の報告書を発表し、米政府からの外国情報収集を目的とするユーザーコンテンツの監視要請が、2016年1─6月に少なくとも1000件に上ったと明らかにした。

報告書によると、外国情報監視法(FISA)に基づき同社が受けたユーザーコンテンツの監視要請件数は、16年前半は1000─1499件で、15年前半と15年後半のそれぞれ0─499件から大幅増加した。要請件数を調べ始めた11年以降、最多となった。

一方、要請の影響を受けたユーザーアカウントの数は、16年前半は1万2000─1万2499件となり、15年後半の1万7500─1万7999件から減少した。

米政府は企業による監視要請公表について、正確な件数ではなく、おおまかな単位での公表のみを認めている。

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2016年 12月 22日 09:48 JST
米フェイスブック、各国政府からのアカウント情報提供要請が増加

 12月21日、米フェイスブックが公表したリポートによると、2016年上期に各国政府が同社に対しユーザーのアカウントデータを求めた件数は5万9229件で、15年下期の4万6710件から27%増加した。写真はフェイスブックのサインイン・ページ。昨年7月米コロラド州で撮影(2016年 ロイター/Rick Wilking)


 12月21日、米フェイスブックが公表したリポートによると、2016年上期に各国政府が同社に対しユーザーのアカウントデータを求めた件数は5万9229件で、15年下期の4万6710件から27%増加した。写真はフェイスブックのサインイン・ページ。昨年7月米コロラド州で撮影(2016年 ロイター/Rick Wilking)



[21日 ロイター] - 米フェイスブック(FB.O)が21日公表したリポートによると、2016年上期に各国政府が同社に対しユーザーのアカウントデータを求めた件数は5万9229件で、15年下期の4万6710件から27%増加した。米捜査当局からの要請が最も多かった。

また、半数以上はユーザーへの通知を禁じた要請だった。

現地の法律に違反しているとしてアクセスの制限を求める要請は83%減少した。

昨年11月はパリでの攻撃を受けてアクセス制限の要請が急増していた。

同社は今回初めて、関連データの保持に関する政府の要請について情報を公開した。今年上期は6万7129件のアカウントに関し、3万8675件のデータ保持要請があったという。


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2016年 04月 19日 14:40 JST
ビル・ゲイツ氏「米政府の秘密調査に制限を」、顧客データめぐり

 4月18日、米マイクロソフトの共同創業者ビル・ゲイツ氏は、電子データの保護をめぐる議論について、データの秘密調査は限定的であるべきだとして、米政府に対する同社の訴訟に支持を表明した。写真はワシントンで開催されたロイターでのイベントで語るゲイツ氏(2016年 ロイター/Joshua Roberts)


[ワシントン 18日 ロイター] - 米マイクロソフト(MSFT.O)の共同創業者ビル・ゲイツ氏は18日、電子データの保護をめぐる議論について、データの秘密調査は限定的であるべきだとして、米政府に対する同社の訴訟に支持を表明した。

マイクロソフトは先週、顧客データへのアクセス要請をめぐり、米政府を提訴。政府の要請を顧客に通知することを妨げるのは憲法違反だと主張している。

ゲイツ氏は、ロイターのイベントで「(政府が)ひそかにアクセスし、企業の電子メールに関する情報を入手することが可能なケースもあるだろう」と指摘。

「しかし、そうしたケースはまれであるべきで、当然のこととして口外禁止命令が自動的に発動されるべきではないというがマイクロソフトがこの訴訟で取る立場だ」と語った。

http://www.asyura2.com/11/kanri20/msg/603.html#c59

[近代史02] 鈴木傾城 _ アメリカ株で儲けるほど簡単な事は無い 中川隆
12. 中川隆[7746] koaQ7Jey 2017年4月14日 14:12:50 : b5JdkWvGxs : DbsSfawrpEw[8236]

第一線を退いてからも資産が増大するビル・ゲイツ

ビル・ゲイツは現在も世界最大の資産を持つ富裕者としてその地位を守り続けていますが、ビル・ゲイツがマイクロソフトのCEOを降りたのは2000年でした。

そして、マイクロソフトから完全に離れて慈善団体に活動の重点を移したのが2008年です。つまり、ビルゲイツは2000年代にはすでに経営の第一線から身を引いており、事業活動はしていないことになっています。

ところが、それ以後も多少の順位の変動はあったものの、ほぼフォーブスの世界長者番付で世界一位を独走していると言っても過言ではありません。

経営の一線を退いてから、ビル・ゲイツの資産はさらに増大しているのです。ここに一体何が起きているのかを私たちはよく考える必要があります。

ビル・ゲイツはマイクロソフトから離れた2006年以後、マイクロソフトの株式をどんどん売却しているのですが、それで何をしていたのでしょうか。

抜け目ないビル・ゲイツは、激しい競争に晒されているマイクロソフトの株式を売却して、コカコーラやカーディーラーや銀行や鉄道やレストラン運営やホテル経営などの企業の株式に転換して保有するようになっています。

ビル・ゲイツの資産を運営しているのがカスケード・インベストメントという企業なのですが、この企業の運営者がマイケル・ラーソンという投資家です。

ビル・ゲイツは、第一線を退いて「投資」で資産を膨らませているということになります。

あまりにも激甚な競争に晒されているマイクロソフトの株式をタイミング良く安全な株式に変えて資産を守りつつ膨らませているというのが実態です。


株式の資産価値が増大しているから富裕層になった

ビル・ゲイツは資産を現金にしているわけではありません。リスクの高い株式からリスクの低い安定した株式に転換して、株式として保有しているわけです。

ビル・ゲイツの資産の中で大きなウエイトを占めているのがバークシャー・ハザウェイですが、このバークシャー・ハザウェイもまたアメリカの優良企業の株式を保有するコングロマリットです。

バークシャー・ハザウェイを保有するというのは、つまりクラフトハインツ、コカコーラ、ウェルズ・ファーゴ、IBM等を保有するのと同じと見て構いません。

何が起きているのかというと、ビル・ゲイツはアメリカの安全な優良企業の株式に資産を移し替えて、それを「じっくりと保有する」ことによって資産を膨らませているということになります。

ところで、バークシャー・ハザウェイのCEOはウォーレン・バフェットです。

今や、投資家でなくてもウォーレン・バフェットの名声を知らない人はいないはずですが、このウォーレン・バフェットもまたアメリカの優良企業の株式をじっくりと保有することによって資産を増大させた人物でもあります。

こうした人物を追って、フォーブスの資産家リストの上位に、「ザラ」のアマンシオ・オルテガ氏や「アマゾン」のジェフ・ベゾスが浮上しています。

これらはすべて自分が興した会社を世界有数の一流企業にした実業家です。

これらの実業家は「一流企業にした自分の企業の株式を大量に保有している」から富裕層になったわけで、株式をせっせと現金に変えているから富裕層になっているわけではありません。

株式の資産価値が増大しているから富裕層になったのです。


「優良企業の株式を大量に保有し続ける」の重要性

現在の富裕層とは何者なのかは、彼らをよく観察すれば分かるはずです。「優良企業の株式を大量に保有し続ける人間が勝ち組になっている」ということなのです。この文章は3つの重要な要素を含んでいます。

(1)優良企業の株式を保有する。
(2)大量に保有する。
(3)保有し続ける。

現在の富裕層とは、この3点を極限まで突き詰めた人たちです。彼ら「だけ」で上位を独占しているのです。

すでに、現在の資本主義というのは、富の源泉が多国籍企業に集約されているので、土地成金だとかゴールド保有者だとかダイヤモンド王が頂点に立つことはありません。

頂点に立つのは、「優良企業の株式を大量に保有する人間」でしかあり得ないのです。

これは逆に言えば、「優良企業の株式を保有しない」「保有しても少ししか保有していない」人は、かなり厳しいことになるということを示唆しています。

現金を積み上げても長期的に見ると意味がなく、金の延べ棒を買っても仕方がないのです。

現金もゴールドも価値が増大することもなければ配当を生み出すこともないので、それが長期で見ると巨大な差となって現れるわけです。

分かりやすく言えば、定期預金などしても、現代の資本主義の仕組みからすると、何の意味もないということです。
https://darkness-tiga.blogspot.jp/2017/04/20170414T1250340900.html
http://www.asyura2.com/09/reki02/msg/895.html#c12

[経世済民121] 2万5000円のトースターが爆発的にヒットした理由 米国より大幅利上の中国 意識のズレ 良い上司になろうとするほど部下が 軽毛
1. 中川隆[7747] koaQ7Jey 2017年4月14日 16:22:42 : b5JdkWvGxs : DbsSfawrpEw[8237]
パンを食べると癌になるんだよな

特に、マーガリン+パン だと早死にする


http://www.asyura2.com/17/hasan121/msg/113.html#c1

[政治・選挙・NHK224] 森友学園事件が小っちゃな事件だとするなら、 大きな事件って何だろう  赤かぶ
2. 中川隆[7748] koaQ7Jey 2017年4月14日 16:32:31 : b5JdkWvGxs : DbsSfawrpEw[8238]
それは、移民受け入れとか、小学校の英語事業とか、経済特区での英語強制とか

日本の未来を滅茶苦茶にする大問題が沢山あるだろ
http://www.asyura2.com/17/senkyo224/msg/185.html#c2

[リバイバル3] 修善寺温泉「あさば」 にはもう泊まってはいけない 中川隆
103. 中川隆[7749] koaQ7Jey 2017年4月14日 17:17:54 : b5JdkWvGxs : DbsSfawrpEw[8239]


369 by 匿名さん 2017-04-13 01:02:42

心配してるのは借金だらけなので飽きられた時にまとめて中国資本などに
売り飛ばさなければいいと思うんです。


370 by 匿名さん 2017-04-13 22:02:42
>>369 匿名さん

本当に借金だらけの 綱渡りでしょうね。

宿泊料金が ぼったくり料金で、内容がともなって無いから、一度泊まるとリピーターがほぼないはず。

北海道トマムのように、中国資本に売り飛ばすことを心配されてるようですが、星野社長夫婦も、弟夫婦も日本の人で無いらしいから、既に外国資本のようなものでしょうね。

愛国心がないから 金儲けの為なら、自然破壊も条例違反も平気でできる悪人です。何も知らない社員さんが可哀想です。

http://www.asyura2.com/09/revival3/msg/514.html#c103

[昼休み52] 意図的な世論誘導報道で悪魔呼ばわりされているシリア アサド大統領 富山誠
22. 中川隆[7750] koaQ7Jey 2017年4月14日 18:01:02 : b5JdkWvGxs : DbsSfawrpEw[8240]


2017.04.14
2011年10月からCIAはシリアのアル・カイダ系部隊に化学兵器を渡し、それを口実にミサイル攻撃

アメリカ軍は4月11日、シリア政府軍を「誤爆」、18名の兵士を殺害したという。アメリカ側の説明によると、連携している軍からの要請だったというが、アメリカが連携している国はアル・カイダ系武装勢力やそこから派生したダーイッシュ(IS、ISIS、ISILとも表記)を支援してきたわけで、「誤爆」ではなかっただろう。

12日にアメリカ軍はデリゾールの近くにあったダーイッシュの兵器庫を空爆したが、その際に毒ガスが漏れたとシリア軍は主張している。アメリカ軍はそうした事実はないとしているようだが、ロシア軍はドローンを飛ばして調査しているようだ。

本ブログでは繰り返し書いてきたが、2011年10月にリビアではアル・カイダ系のLIFGと連携したアメリカ/NATO軍はムアンマル・アル・カダフィ体制を倒した後、その兵器庫から化学兵器を含む武器/兵器をトルコ経由でシリアへ運び、反政府軍に渡している。

アメリカ政府はシリアの「穏健派」を支援してきたと今でも言い張っているが、そうした集団が存在しないことは2012年8月にアメリカ軍の情報機関DIAがホワイトハウスに報告していた。その当時のDIA局長がマイケル・フリン中将である。

その8月、バラク・オバマ大統領はシリアに対する直接的な軍事介入のレッド・ラインを生物化学兵器の使用だと宣言した。自分たちが化学兵器をアル・カイダ系武装集団やダーイッシュへ渡していることを知った上での発言だ。

リビアからシリアへ武器や戦闘員を運ぶ工作はCIAが主導、国務省が協力していた。その当時のCIA長官は、デイビッド・ペトレイアス、国務省長官はヒラリー・クリントンである。当然のことながら、このふたりは近い関係にある。

2012年9月11日にベンガジのアメリカ領事館が襲撃され、クリストファー・スティーブンス大使も殺された。襲撃の前日に大使は武器輸送の責任者だったCIAの人間と会談、襲撃の当日には武器を輸送する海運会社の人間と会っている。つまり大使も工作の当事者だった。

襲撃事件から3カ月後、自暴自棄になったシリアのアサド大統領は化学兵器を使う可能性があるとクリントン長官は主張、その翌月、つまり2013年1月29日にデイリー・メール紙はアメリカの偽旗作戦を記事にしている。シリアで化学兵器を使い、その責任をアサド政権に押しつけて非難、国際的な軍事行動へ結びつける作戦をオバマ政権が許可したとするものだった。

そして、2013年の3月と8月にそうしたシナリオに近いことが引き起こされる。シリアで化学兵器が使われ、西側の政府やメディアはアサド政権を激しく批判、アメリカ/NATOは直接的な軍事介入をしようとしたのだ。その間、シリア軍が化学兵器を使ったという話は否定され、発射されたミサイルは海中へ落下してしまった。

今回、アメリカ軍は調査、取材が始まる前にシリア軍を攻撃した。4月4日に化学兵器が使用されたとされているが、攻撃は7日未明。化学兵器の使用を主張したのはイギリスの情報機関と関係が深い「SOHR(シリア人権監視所)」とアル・カイダ系武装集団やダーイッシュと連携している白ヘルだという。攻撃までの期間が余りに短かったことから、攻撃の準備は4日より前に始まったと思っている人は少なくない。

4月11日から12日にかけて、アメリカのレックス・ティラーソン国務長官はロシアを訪問した。ロシアのセルゲイ・ラブロフ外相と数時間にわたって話し合った後、ウラジミル・プーチンと2時間ほど会ったようだが、「こうしたことは2度と起こらないようにしろ」と釘を刺されただけのようだ。その前にティラーソンはG7の会議に出席、そこでイギリスのボリス・ジョンソン外相とロシアに対する制裁を強化する演出を目論んだが、失敗したと伝えられている。

トランプはネオコンを含むアメリカ支配層の好戦派に妥協、有力メディアや民主党などから歓迎されているが、世界では孤立の度合いを強めている。アメリカ帝国の足下は崩れ始めているように見える。
https://plaza.rakuten.co.jp/condor33/diary/201704130001/

http://www.asyura2.com/12/lunchbreak52/msg/816.html#c22

[リバイバル3] 伝説の ソナス ファベール ガルネリ・オマージュ 中川隆
9. 中川隆[7751] koaQ7Jey 2017年4月14日 19:15:59 : b5JdkWvGxs : DbsSfawrpEw[8241]


670 : 名無しさん@お腹いっぱい。2017/04/09(日) 20:53:47.68 ID:TMydA86u

ガルネリ・オマージュ、ガルネリ・メメント、ガルネリ・エヴォルーション、アッコルド

中古で一同に出たの初めて?

671 : 名無しさん@お腹いっぱい。2017/04/09(日) 21:33:31.42 ID:lzjroFMA

いまやヤフオクが調達の場か。

そーいや、スタンドなしメメントの黒が税込50万ぐらいで落とされてたねー

スタンドなしとかどうなっとるんだろうかというか遺品だよねきっと
中古でショップ出品の大方は遺品なのだろうと思うよ。
まあ、赤の他人の有償形見分けって、俺は気にならないけど、そういうの
気にする人もいるんだろうね。


672 : 名無しさん@お腹いっぱい。2017/04/09(日) 23:10:07.20 ID:TMydA86u

ソナスのブックシェルフに限っては定期的に飽きて売りたくなるから遺品はそんなにないんじゃないかな


673 : 名無しさん@お腹いっぱい。2017/04/09(日) 23:31:54.08 ID:lzjroFMA

確かに飽きやすいかも、

俺もガルネリ・オマージュからクレモナに回帰したし

俺のガルネリ・オマージュはすごくきれいで大事に使われていたらしかったので遺品なんだろうなと勝手に想像してた。大事にされたいたものなら不謹慎ながら、遺品だろうと趣があるわな。そもそも骨董品なんて全部遺品なわけだしな。

いまはクレモナ使ってるけどそのうちまたガルネリ・オマージュに戻すよ。


674 : 名無しさん@お腹いっぱい。2017/04/10(月) 17:14:59.70 ID:Nvs5aVaM

フランコ・セレブリンのアッコルドが気になってるんだけど、どんな音のスピーカーなの?


675 : 名無しさん@お腹いっぱい。2017/04/10(月) 19:33:51.34 ID:a3ncDqA8

月一で売りたくなる音


678 : 名無しさん@お腹いっぱい。2017/04/10(月) 22:20:56.67 ID:Gk//t6nU
>>674
一応スレありますよ。 閑古鳥が鳴いてはいますが。

【Ktema】セルブリン Franco Serblin 1 【Accordo】
http://mint.2ch.net/test/read.cgi/pav/1323963769/

676 : 名無しさん@お腹いっぱい。2017/04/10(月) 19:49:39.29 ID:DfVJovrD

ガルネリは一生もののスピーカーにはならないよね


677 : 名無しさん@お腹いっぱい。2017/04/10(月) 20:21:44.44 ID:a3ncDqA8

まあ定期的に猛烈に聴きたくなる音でもある

679 : 名無しさん@お腹いっぱい。2017/04/10(月) 22:50:16.37 ID:vdd7+ivN

煽りでなくて本気で聞きたいんですが、 このスレにいるソナスユーザーの皆さんが
一生モノと思う sp は、例えばなんですか?

ソナスで言えばやはりストラド?
他のメーカーなら?


680 : 名無しさん@お腹いっぱい。2017/04/10(月) 23:08:00.32 ID:xM2GO0fK

自分はギター好きなので、弦楽器の音が秀逸とのショップの評判に乗せられて
ガルネリ衝動買いしましたが、聴いてみたらなんかイメージと違う印象で、
次第に聴かなくなってしまった

それからかなりの時間埃かぶってたけど、久々掃除して今日鳴らしてみたら
音楽ジャンルというか音源によってかなり印象の別れるスピーカーではないか?と改めて感じました。


683 : 名無しさん@お腹いっぱい。2017/04/11(火) 09:48:03.34 ID:biEjAWAX

エレクタアマトールなら未だに持ってる、
売ろう売ろうとは思うんだけど その都度、まいいかと断念

686 : 名無しさん@お腹いっぱい。2017/04/11(火) 23:26:08.43 ID:cel5+hYp

一生使えそうなソナスのスピーカーは煽り抜きでミニマビンテージ
ミニマでも少し怪しいがおそらく一生使える


688 : 名無しさん@お腹いっぱい。2017/04/13(木) 22:08:23.60 ID:Fa7I5XnR

一生使い続けるとなるとアマティもエリプサも精神的プレッシャーがヤバイと思う
家族構成も家も変わっていくし、なにより体力が衰えていくし
自分はメメントクラスで精一杯だと思う


689 : 名無しさん@お腹いっぱい。2017/04/13(木) 23:05:48.31 ID:MZvRBpZ2

一生ものか、
マジレスするとクレモナだろう

自分はガルネリ・オマージュも所有してるが、ジャンルを選びすぎる。

一点豪華主義で サブとしては良いが、メインにはなりえない。

アマティやストラドなども、憧れのバイアスがあり、一見して一生ものと思えるが
濃すぎる個性からオールマイティにはならないと容易に想像できる。

エリプサは中庸でクレモナと似たものだと思うが、広い自分の空間があってのこと。


691 : 名無しさん@お腹いっぱい。2017/04/14(金) 06:53:16.82 ID:6L4uFPj5

自分はメインが一生ものになることは無いな。

毎日聴くことはなくても、時々どうしても聴きたくなるものを一生手元に置いておきたいな。

その点で今持ってるガルネリ・オマージュは一生ものだと思ってる。
メインには買い換える楽しみもあると思うので。
http://mint.2ch.net/test/read.cgi/pav/1451408840/l50


http://www.asyura2.com/09/revival3/msg/684.html#c9

[リバイバル3] 伝説のデッカ デコラ 中川隆
4. 中川隆[7752] koaQ7Jey 2017年4月14日 19:22:40 : b5JdkWvGxs : DbsSfawrpEw[8242]

GRFのある部屋 2011年 06月 10日
英国製スピーカー博物館みたいに
http://tannoy.exblog.jp/16109810/

気がついてみると、いつのまにやら部屋の中はスピーカーで溢れかえっていました。

GRF・IIILZ・Rogers 5/8・ "Consequence"・Hertley ・PSD T4。そして最後にDECCA のDECOLAと何と7セットも!

隣の部屋には UNICORNも!そして、茅野の家にはESL 57が、何時も待っています。

今日は、その茅野の家に一旦、ロジャース5/8とタンノイIIILZを運び入れました。

QUADのアンプを共通点として、IIILZも合わせて鳴らしてみようという魂胆です。

でも本当は「GRFのある部屋」が手狭になったのが本音ですね。
なにしろデコラが思ったより遙かに大きかったのです。


こうして列記してみると、如何に英国製のSPが多いのかがわかります。

ハートレーも英国系の音の典型です。

これにLS3/5Aが有ればほとんど揃ってきます。

ただ、B&WとLINNはありません。

私の独断ですが、どこか、私の路線の英国SPと路線が違うように思えるからです。


LINNの音は、独特の音がします。イングランドではなくスコットランドの音なのかも知れません。ヴァイキングの血がそうさせるのでしょうか?

ノルウェーやスウェーデンに近い感じがします。デンマークとは少し違うのです。デンマークはオランダの音に近いような気がします。

 
要するに、旧い英国のスピーカーの音が好きなのですね。

スピーカーばかりではなくプレーヤーもアンプもそして、何よりも英国製のレコードの音が!

フランス盤も味のある音がしますが、どこかシュラック盤の音がしますね。

英国盤はヴィニール製のどこか柔らかい音がします。
あたかもそれはテレフンケンの真空管とムラードの真空管の音の差の様です。


どうして、英国製のSPの音が好きなのか、自分でも不思議ですが、細かく見てみると、好みがハッキリしているかも知れません。

例えば、タンノイではゴールド が好きです。

昔からのレコードファンがお好きなレッドの音は、私にはちょっときつく感じます。その硬質な音がお好きな方が多いのです。もちろんカートリッジやアンプとの相性にもよりますが、あの頃のレコードの音が、活き活きと聞こえる工夫がされているのでしょう。

その前のシルバーはモノラルの時代です。ですから、GRFでもオートグラフでもモノラルですから、ステレオで揃えると左右の仕様が異なるのです。

シルバーやレッドの時代は、ネットワークは固定でした。ゴールドからレベル調整が出来るようになったのです。周波数帯域も拡がりました。

ステレオでも音場を重視すると、ゴールド以降になるようです。CDの時代にも対応しています。


しかし、ここまで引かれる英国のSPのどこがいいのでしょうか?

簡単に言うと豊かな低音とメリハリがある高音と言うことになりますが、それではアメリカンサウンドも同じです。高音部の細かさが違うのですが、、、。

私達の世代は、やはり英国盤のレコードの音とのマッチングで気に入っているのだと思います。

アメリカ製のSP、特に西海岸製とは違い、すこし、暗い、どこか湿気を帯びた音が良いのだと思います。

GRFはDECCAレコードの、ESLはPHILIPSの、もちろんRogers5/8はBBCのモニターです。
それらのスタジオで標準に使われていた事が、遠因かも知れませんね。


茅野の家に来る度に、ESL-57の深々とした低音に驚かされます。
ハートレーから流れてくる低音の質と同じです。
静かな音量でも浸透してくるコントラバスの深い音。潮の満ち引きのように気がつくと音に満たされているのです。
マーラーの6番だとこれに大太鼓の太い音が重なります。

この9セットのSP群のなかで、一つだけ選べと言われたら、私はこのESL57で充分です。
そう、私の英国製SPの音の原点はこのESL57なのかも知れません。

そういえば、DYNAUDIOを最初に聴いたときに、何とESLに近い音だと驚いたわけですから。
GRFの鳴らし方もQUAD的な響きだと言われたことがあります。


今度はそれにRogersの深々とした、ドイツの黒い森のような響きが加わります。

先日、SONYのTAES-1200が製造を終えるとき、石田さんにクロックアップをお願いいたしました。アナログ出力も活かしていますので、QUADに繋いで楽しめます。これで今年の夏は、暑い東京を離れて茅野で涼しく過ごせそうです。
http://tannoy.exblog.jp/16109810/


Oさんとデコラ三昧 GRFのある部屋 2015年 12月 06日
http://tannoy.exblog.jp/24737244/

http://tannoy.exblog.jp/iv/detail/index.asp?s=24737244&i=201512/06/99/f0108399_10211875.jpg


フルトヴェングラーのブラームスの三番のCDを取り出してきて、モノラルでも全く音が痩せない、どころかドンドン分解能力が高まり、音が混然とせずあえてステレオでなくとも充分だという音が出始めました。愉快ですね。

その三番の盤は、没後二十年以上も経った76年になって発売された物です。とてもモダンなジャケットで驚かされたのですが、そのレコード盤を出した事により、久し振りにデコラも聴いてみようということになりました。

デコラの修復の時には、Oさんの多大な協力をいただきました。アンプをオリジナルの状態に復帰していただいた是枝さんのところまで一緒に行っていただき、一年半もかけて修復した機械です。

最終的には、プリアンプの初段管に幻と言われる8D8を差してから、別物のようにデコラが生き返ったのは,本当に驚きでした。魔法の粉が掛かったように変わったからです。


定番のフランク永井から始まって、勿論、DECCAのオリジナル盤、Capitalのステレオ・デモンストレーション用レコードでナットキングコールを聴き、DECCAのデモ用レコード、これがステレオだをきいて、この50年間の歩みは何だったのかと二人で嘆きました。

特に DECCA のカートリッジにヨル、45/45方式でない音のS/N比の良さ、音の安定性、テープを彷彿とさせる音質に今更の様に感激しました。

 
分析的な負のオーラを出すオーディオではなく、生きるエネルギーを貰う正のオーラが出てくるのが、楽しい聴き方です。その前向きなオーラを、デコラから貰えたのは本当に鳴らしていて良かったと思えました。

装置を聴いているのは生身の人間です。機械がただ音を出しているのではありません。自らの波長と装置から出てくる波長が合ったとき、良い音を奏で始めるのでしょう。
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Decolaのプリ初段を8D8に GRFのある部屋 2014年 08月 05日
http://tannoy.exblog.jp/22676205/

先週来られた、椀方さんとの楽しい夜の締めくくりは、久しぶりにDecolaの音を聞いていただきました。デコラでフランク永井や、金子由香利を聴いて楽しみました。どのSPものびのびとした低域を聴かせてくれましたが、その中でDecolaの音だけが、幾分辛口に聞こえたのです。


実は、一昨年の暮れに、レストアを終えたデコラに今ひとつ、実験しなければならないことがありました。

それは、プリアンプの初段管の EF86 をオリジナルの 8D8 に交換する作業です。

8D8 は随分昔に、製造を中止していますから、入手するには、相当な根気と運が必要です。

それでも、Quad愛好会のK社長のアドヴァイスを頂き、去年の今頃には、その幻と言われる 8D8 を手に入れていて、あとは何時交換するかとOさんと何時も話していたのです。Decolaは使いこなしの妙もあり、その音に慣れ親しんで、段階的に調整をしていかないと、微妙な差が分からなくなります。

椀方さんが、来られる前にそのOさんと連絡を取り、夏休み前には、待望の 8D8 に交換を行おうと連絡していました。でも、椀方さんと、デコラを聴いていたときは、幾分辛口だけどとは思っていましたが、交換するとどの様に変わるかが、今ひとつ想像が出来ませんでした。


和室で、定点観測の音を聞いていだきました。emm の音も大分柔らかくなってきたと、感想を頂きました。いつもの曲を何曲が聴いていただき、早速隣の Decola の交換です。

まずは、現状の音を聞いていただきます。印象は椀方さんの時と同じで、幾分辛口です。音の広がりは、ウィング見たく開いているプリアンプの扉の家あたりまで伸びています。隣のGRFの内側に拡がり、しっかりとした音を聞かせているのです。


早速交換作業です。プリアンプ部を取り出し、Mullard の EF86(6267)を外して、待望の 8D8 をソケットに差し込みました。


http://tannoy.exblog.jp/iv/detail/index.asp?s=22676205&i=201408/05/99/f0108399_9172697.jpg
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8D8は貴重な球です。

恐らく40年間は使われていないであろう貴重な球に火入れを行うときに緊張するのは、ラッシュカレントといわれる、過大電流の投入や、過大な電圧が掛かることです。

幸いにも、デコラは、整流管が一本の GZ34 が行います、二つのメインアンプ、チューナー、そして、最後にプリアンプに電流が流れ始めるのです。通常スイッチを入れて、一分以上待たなければ成りません。そして左側が最初に音が出始め、次に右側の音が出てくるのです。電源投入から二分ぐらいは掛かるのです。その間、徐々に電圧が上がってくる仕組みなので、長年使っていない球にも、優しい立ち上がりになります。

さて、左右の音が出てきました。懸念していた S/N 比の悪さもなく、ハムも変わりません。もっとも、カートリッジの接触不良で、アースが浮くと、ブーンという音が聞こえてきますが、正しく接触していれば、問題は有りません。

いままで掛けていた、フランク永井の実況録音盤をそのまま聴いてみました。一聴して違いが分かります。低音がより深く、音のメリハリ、陰影、立体感が違います。Oさんと顔を見合わせました。

そうか、そういうことか!と 8D8 を DECCA の技術陣が選んだ訳がわかってきました。

増幅度が変わります。

EF86 の場合は、流れる電流値が多く、それが結果的にパワーアンプの動作特性を変えます。その電流値が半減したことにより、プリの音色が変わるだけではなく、パワーアンプの音色も変わって来るのです。

具体的には、音がより深く、ダイナミックになります。

幾分神経質な音を出すときがある、DECCA のカートリッジが、例えは変ですが、MCからMMのカートリッジに変わったような、おおらかな、いわばテープのサウンドに変わります。

歌謡曲を止め、早速 DECCA/London のオリジナル盤を出してきました。曲は先日、CDで聴いたカラヤン・VPOのベートヴェン7番です。カラヤン・ベルリンフィルとはまったく違った端正な演奏が、豊かなスケール感で拡がります。Oさんのリクエストで、同じウィーンフィルでアバドのデビュー盤を聴きます。録音は、1966年ですから、カラヤンから6年後です。アバドの若さがみなぎるはつらつとした響きが拡がります。

その響きが、どんどん拡がっていくのには驚きました。球のエージングが進んできたのでしょう。

GRF の内側だった音場が、広がり、あたかもGRFが鳴っているような広大な音場が、デコラから出始めたのです。

今までは、デコラから凝縮感のある音が出ていたのですが、球が暖まってくると、デコラの存在が消え始め、GRF の音場と同じ様なスケールが大きな音がしたのです。

これには驚きました。この段階から聴いた人は、恐らくどちらが鳴っているか解らない程のスケール感です。そして、それにデコラの奥深い音が加わるのです。

イッセルシュテットのウィーンフィルのベートーヴェン第4番も聞いてみました。この演奏は、オーソドックスな響きとテンポですが、今まで聴いてきた演奏の印象とは異なり、スケールがおおきく聞こえます。

それならばと、ショルティ・ウィーンフィルの指輪のライト・モチーフを解説したアルバムを出してきました。ワーグナーの作曲の手法と各主題の関連性、その展開の妙、テンポの変化による、オーケストレーションの魔法が解説されています。そこに収録された各モチーフは、ショルティの音をそのまま使った、迫力有る盤です。そのオリジナル盤を掛けて見たのです。突如として雷鳴の様に鳴り響く、金管楽器と打楽器、木管楽器のリアリティのある音、弦楽器群の響きなどは、本当に驚かせる録音です。


それが鳴り始めると、一気にスケールが変わります。部屋そのものが演奏会場にトランスポートするのです。

ある意味、そのトランスポート感を再現したくて、ここまでオーディオを続けて来たのですが、Decola だけは、それとは反対の箱庭的な展開をする音だと思っていました。すなわち、その独特な形状がそのままステージとなり、精密に、縮小されて再現されると!


でも、この音は、それとは全く反対です。GRFと同じか、それ以上の迫力で、迫ってくるのです。

驚きました。Oさんと顔を見合わせ、笑ってしまったほどです。

この分だと、来週の今年の夏休みにはデコラ由来の方々にご連絡をして、この音を聞いていただかなくては成りませんね。猛暑なんて言っていられないほどの熱い、暖かい、音がしているのですから。


Comments


Commented by Loge at 2014-08-06 00:27
昨日ご報告をお聞きしてから、デコラを本気で羨ましくなり困ってしまいました。
an・introduction・toをお聴きになったのですね、説明の文言はサッパリ理解不能ですが、演奏の音源に切り替わった途端に何事か?という超絶サウンドが響き渡ってビックリしますね。
デコラにピッタリな選択でまったく羨ましい限りです。


Commented by TANNOY-GRF at 2014-08-17 07:12
Logeさん 昨日、私に 8D8 を進めて下さった、通称 QUAD 愛好会のMさんとKさんが来られました。

8D8 のあまりの音の差に、一同おどろき感激致しました。
ご上京の折は、ぜひ、神聖Decolaの音を聞いてやって下さい。
http://tannoy.exblog.jp/22676205/

GRFのある部屋 デコラの記事


■ デコラは魔術師、オイラはピエロ ( 2014-08-24 20:51:00 )
http://tannoy.exblog.jp/22793102/

■ GRFとDecolaは ( 2014-08-08 08:14:00 )
http://tannoy.exblog.jp/22695444/

■ DECOLA 旅の終わり ( 2014-08-06 20:53:00 )
http://tannoy.exblog.jp/22689833/

■ ベルウッドさんのご感想2 デコラを聴く ( 2013-01-11 02:16:00 )
http://tannoy.exblog.jp/18336012/

■ 78回転の不思議 ( 2012-12-26 09:28:00 )
http://tannoy.exblog.jp/18291134/



DECOLA 旅の終わり GRFのある部屋 2014年 08月 06日
http://tannoy.exblog.jp/22689833/

Oさんからのメール

『この日は久しぶりに早い時間からGRF邸にお邪魔しました。

GRFさんからメールで「お願いがあります」とのこと。それは足かけ3年になる DECCA の DECOLA レストアプロジェクトです。このプロジェクト完結のために、実は最後の1ピースが残っていました。その残された最後の1ピースをはめるのだと。

最初にいつものT4で耳を慣らし、レコードの音をGRFで確認し、取りあえず現状のまま、DECOLAを鳴らします。

くだんのフランク永井の実況録音盤から始まり、ウィーンフィルのカラヤン・ベートーヴェン第7番、イッセルシュテットのベートーヴェン第4番、ケルテスなど、往年のDECCAオリジナルレコードを聴きまくりました。

ここで最後の1ピースに手を付けました。

そうです。いままでずっとプリアンプ初段管が、互換球であるEF86だったのです。

これを本来の球であるブライマーの 8D8 に差し替えます。慎重にプリアンプを取り出し、ムラードの EF86 をそっと引き抜き、ブライマーの 8D8 にします。

そしてレコードに針を置いた瞬間、世界が変わりました。

かなりの変化に戸惑いつつ、今まで聴いたレコードを再聴し、新しい球を温めていきます。GRFさんも驚きを隠せない様で、更に慎重にレコードを選ばれます。そしてショルティのワーグナー「ライトモティーフ集」オリジナル盤を取り出されました。

圧巻の音です。オーディオの醍醐味が此処にあります。

DECCAの最盛期に、同社が全力を傾けて開発した FFSS、そしてその優位性を世に問うために作られた「STREO DECOLA」という希有な機器がここに完成しました。

これまで、「DECOLAの低音はそれほど出ない」と呟いていたGRFさんですが、8D8 に差し替えた途端、雄大な低域と緻密な音場が出現し、あの広いオーディオルームに音が満ち溢れます。

球一つでこれほどまでに変わるのか!!と二人で大笑いしてしまいました。

今までの経験では、DECOLA はちょうど真ん中の天板あたりでホログラムの様に小劇場が展開される様な感じで鳴ると理解していましたが、まるで違います。その左右に鎮座坐す GRF が鳴っているかの様に雄大な音場が聴こえてきます。音の堀も深く、実在感を伴って音楽が迫ってきます。


思い出せば、2011年の新緑の頃でしたでしょうか?あのDECOLAと初めて対面したのは。

それ以降、レストアプロジェクトと題して長い旅路を歩いてきた様に思います。

コンセプトは完璧なレストアです。

プリアンプ部、モノパワーアンプ2台、電源部、そしてこの DECOLA で最重要機器であるコラーロのプレーヤーと DECCAアーム、すべてを完調にするべく手を入れました。

またスポンジフローティングされているスピーカー等も、そのスポンジを新調しました。

配線も当時のままを出来るだけ使い、製造された50年以上前にほぼ戻すということです。

このレストアプロジェクトはいわば、50年前に遡る旅路であったのだと思います。

でも遂に終着点です。これほど徹底的にレストアされた DECOLA を聴かれた事がある人がどれだけいるのでしょうか?
得難い体験を共有して下さったGRFさんに心からの御礼を申し上げたいと思います。』


http://tannoy.exblog.jp/iv/detail/index.asp?s=22689833&i=201408/06/99/f0108399_20562466.jpg


Oさん、本当にありがとうございました。

足掛け三年掛けて、Decola の復活を行ってきました。

そして、最後のパズルがはまったとき、魔方陣の鍵が解けたように、今までとは全く違う世界が開けたのです。

そのあまりの世界の違いには、二人で笑うしかありません。GRFの間で、こじんまりと小宇宙を形成していた貴婦人が、突如そしてパーティーの主役に躍り出た瞬間でした。

今まで、家で Decola を聴いていただいた方には、やはりこの差を聴いていただかなくてはなりません。

恐らく、今まで何をしていたのだと叱責されるのを覚悟で聴いていただくことになることでしょう。辛いけど、楽しい会になると思われます。
http://tannoy.exblog.jp/22689833/



ベルウッドさんのご感想2 デコラを聴く GRFのある部屋 2013年 01月 11日
http://tannoy.exblog.jp/18336012/


いよいよデコラをご拝聴。

http://tannoy.exblog.jp/iv/detail/index.asp?s=18336012&i=201301/10/99/f0108399_21344665.jpg


まずは、持参したLP盤をかたっぱしからかけていただきました。モノばかりですべてが米国盤です。GRFさんの日記では米国盤との相性がよいとのお話があったので張り切って持参。RCA、コロンビア、キャピトル、VOXとレーベルにバラエティを持たせて持参。比較の意味で、唯一、持参したステレオ盤がドイツプレスのデッカ。


聴かせていただくと、独特の音場の拡がりに「ほうっ」というため息ともつかぬ安らかな驚きが胸をついて込み上がってきます。

決して帯域やDレンジの広いハイファイではないのですが、実に繊細で上品なたたずまい。上品といっても華美な貴族趣味ではなく、どちらかと言えば落ち着いた知的な品格。

絶頂期のオイストラフの美音と技巧がとても冷静で端正なアーティキュレーションで再現。これを聴いてふとハイフェッツはパス。続けてはノバエスのショパン。意外にも肩の力を抜いたような落ち着きを聴かせてくれました。

デコラのサウンドは、あえて言えば、多少《スノビッシュ》なサウンド。


感心したのは、キャピトル盤。

アンドレ・ナヴァラのサンサーンスの協奏曲も素晴らしかったのですが、抜群の相性を感じたのはハリウッドSQのチャイコフスキー。そもそも、GRFさんの日記でミルステインの無伴奏が素晴らしかったとのことで、あえて、当該ディスクではなく同じレーベルの別のディスクをそれも2枚持参したのですが、本当に素晴らしい。

ハリウッドSQは、先日の日記でご紹介したLPの指揮者スラットキンのご両親が参画した弦楽四重奏団。まさに、アメリカの豊穣の50年代を思わせるハイファイ録音。そういうと「金ぴか」のハリウッドを連想されてしまいがちですが、この時代のアメリカのもの作りは実に質実剛健で正攻法だったことをいまの日本人は忘れてしまっています。このディスクも、でかける直前に復調なった我がシステムで聴いてそのハイファイ音にびっくりしました。ちなみに、キャピトルの『FULL DIMENSIONAL SOUND』にはこういう謳い文句が書かれています。

“...natural balanced fidelity as in the ORIGINAL, LIVE PERFORMANCE without attenuated high frequencies or booming bass.”


デコラの再生は、その帯域レンジのナチュラルさに巧妙に応えます。

実に爽やかで輝かしい、チャイコフスキーの哀感あふれる「アンダンテ・カンタービレ」。

私のシステムでは感じさせてしまう「力み」「エキゾチックさ」が上品に抑制され、見事なバランス。デコラ自身は、それほど帯域は広くないはずなのにディスクそのものの帯域の広さはきちんと感じさせて、不思議な得も言われぬ妙なるバランスなのです。


唯一のステレオ盤を聴いてまたびっくり。

音場が部屋の左右いっぱいに拡がり、まるで、コーナーに置かれたタンノイGRFが鳴っているかのような錯覚にさえ陥ります。

音場の見事な再現。

ただし、直前に聴いたUNICORNのように、部屋いっぱいに音のエネルギーを充溢させてコンセルトヘボウといったリアルな会場へワープしてしまうという感覚とはちょっと違う。何か《テアトル・ド・デコラ》という独自のバーチャルな会場があって、何もかもがそこへ持って行かれるような感じ。

究極の電蓄という気がします。


ターンテーブルのフタや、アンプ部のフタを上や左右に拡げていますが、これを閉じてしまうと拡がりが縮んでしまいます。こういうキャビネット職人の巧の技にも喫驚します。

デコラの中央内部には宝石のようなカートリッジが並べられています。GRFさんは、ここでも職人技を発揮してモノからステレオへ、適切な音色をさぐりながらカートリッジを選択して、針圧を調整していきます。

持参のLPをひと通り聴いたところで、GRFさん定番の越路吹雪を聴かせていただく。


いつもの日生劇場のライブなのですが、まず、昭和40年代半ばの録音。比較ということで昭和50年代の収録のものにかけ換えていただいた瞬間、「あっ」という思いが…。

「コーちゃん、歳をとったな。」

こんな思いを、レコードを聴いた瞬間にこみ上げてきたのは初めての体験。もちろん声質の変化もあるのでしょうが、何かその芸風に重ねてきた10年ほどの年輪、人生の深まりが醸す芳香のようなものを感じてしまったのです。低音とか高音とか音量の迫力とか、音場とか音像定位、口の大きさがどうとかいう話…、そんなものからふっと浮揚した、芸とか表現とかの高み。あるいは生々しい芸人の肉体や心のあり方とかいった高いステージ。

そういう感性の世界まで何気なく踏み込んでくるデコラ。

オーディオのひとつの極致と言えるのではないでしょうか。

そのことに思い至って、ふっと背筋を走る熱いものを感じました。

GRFさん、ありがとうございました。

***********************************

ベルウッドさん 長文のご感想を書いていただき、本当にありがとうございました。

ユニコーンもデコラもまとものな音が出るまで二年近くが掛かりました。

レコードプレーヤーとしての、ほとんど何でもかかるデコラの能力には、ますます驚いています。

特にデコラは、まだまだよくなります。プレーヤーの調整や真空管の交換(EF86/6267→8D8)などの調整を行っていきさらなる高みへと期待も高まります。
http://tannoy.exblog.jp/18336012/



http://www.asyura2.com/09/revival3/msg/683.html#c4

[リバイバル3] 伝説のデッカ デコラ 中川隆
5. 中川隆[7753] koaQ7Jey 2017年4月14日 19:27:00 : b5JdkWvGxs : DbsSfawrpEw[8243]

Sさんの訪問記 GRFのある部屋 2015年 12月 25日

12月の晴天の日曜日、GRF邸への訪問が実現しました。私にとってみれば最高のクリスマスプレゼントになりました。

花梨材の床はその下に様々な工夫がなされておりカチカチです。正直、ここまで硬いとは思いませんでした。

実験機の後、和室から移動されてきたユニコーンが眼前に鳴り出します。ブログ読んで思い続けてきた音ですが、想像してきた音の何倍も驚きました。ホールそのものがそのまま眼前に展開されています。

正に「百聞は一見(一聴)に如かず」です。こればかりはいくら説明しても伝えようもありません。…?、この台詞自体、GRFさんのブログで読んだ気が。そうか!これを聴いた人の多くはこういう気持ちだったんだ…などと感心してしまいました。先程、和室で「これで十分なんですね」などと話していたのに、「やっぱりエアボリュームを稼ぐためにもしっかり作られた広い専用室は必要ですね」などと言ってしまいました。

皆さんが言われているように確かに向こう側のGRFが鳴っているとしか思えません。もっと言えば広い部屋すら超越して大きなステージが広がっています。

毎日、自宅に世界の好きなオーケストラを(それが故人であっても)呼び自分の好きな時間に演奏してくれるのです。これをGRFさん流に言うと”ワープ”ですね。音楽ファンにとってこれ以上幸せなことがあるでしょうか?是非、オーディオファンよりも演奏者や音楽関係者にこそ聴いていただきたい音だと感じました。

デコラも聞かせていただきました。20代の頃、五味康祐の本などさまざまな文献を読み「一体どんな音がするのだろう?」と白黒の写真を眺めてはよく思いを馳せたものです。今ではちゃんとした音で鳴るものは国内に殆ど無いのではないだろうかと思われます。唯一、とあるSHOPで聴いたことがありますが、しっかりレストアされていないせいか、辛うじて鳴っている…という状態でした。

しかし、GRFさんのデコラはそれこそ愛情たっぷり丹精込めて徹底的にレストアされた貴婦人です。…本ブログの愛読者の方は私などが偉そうに語るまでもないことですが。そしてGRF邸で定番のフランク永井のライブを聴かせていただきました。

これまた驚きました!これぞ究極の電蓄。デコラだけで完結された美です。録音も機器も、この何十年の進歩は一体何なのだろう?と疑問符が付いてしまいます。そしてまたフランク永井の歌声の素晴らしいこと。
http://tannoy.exblog.jp/24794382/


B.Oさんのご感想 GRFのある部屋 2016年 01月 04日
http://tannoy.exblog.jp/24830087/

vafan GRFの鳴る?部屋へ - 珠玉の音楽に囲まれて
http://blog.goo.ne.jp/vafan/e/6f6cbb27f558c20d9750b031ea0e31b1


念願のデコラとGRFを聴かせて頂くことに。

いやあ、これは参りました!

生理的快感を呼び覚ますオーディオです。

更に驚いたのは、Decca の Original Demo Discです。

コンソール型のアンティーク家具のようなデコラから吃驚するような立体音場が出現します。

これは一体なんでしょうか?もう笑うしかないですね。

次にGRFが鳴り始めると、広い部屋一杯に立体ステージが広がり、眼前でオーケストラが鳴り、前川清が歌います。

う〜ん、素晴らしい。

言うことないですよね。こんな音聴いてるひとは、日本で何人くらい存在するのでしょうかねえ。

「本物の2チャンネルステレオ再生とはこういうものか」という印象でした。
マルチチャンネルは不要!と言い切りましょう。

改めて感じたのは、既に50数年前の時点で立体音響の技術は相当な完成度まで達していたという事実です。当時の技術者達の真摯な情熱に思いを巡らせました。その後、オーディオは進歩したのか或いは退歩したのか、判りません。

音はキレイになって帯域が広がっても、生々しさや立体感はむしろ後退したのでは、と感じました。

考えてみれば、一部の富裕層の為に贅を凝らして作成された装置やレコードが徐々に大衆化・簡略化されていったわけですから、本物のステレオ感が失われるのも当然でしょうか。現代では数千万円の超ハイエンドオーディオにその命脈が引継がれているということなのかも知れませんが...ちょっと法外な気もしますよね。
B.O

__


B.Oさん
年末は大変楽しい晩でした。DecolaやGRFの音を楽しんで頂き、私もとても嬉しかったです。あの音が、数十年前に完成していたのですね。

音場情報が入っている本当のステレオから、スタジオで合成された人工ステレオへと移行していくうちに、一番大事な事を忘れていったのでしょう。

オーディオが産業である限り、

2way → 3way → 4way → 5way

とマルチSPの方に行くのは、仕方が無かったのかも知れません。そして、雰囲気の追求ではなく、音そのものの追求へと変わっていったからです。それは、現在の5.1CHも同じ手法なのです。


現在でも、デコラの設計思想で、いわゆる一体型の電蓄を作ればいいと思うのですが、、、。

デコラの音の秘密は、

コラーロのプレーヤー、

V/L方式のDECCAのカートリッジ、

初段管の8D8、

MullardのEL34アンプ、

そして何よりも、あらゆる方向に向けて拡散されている6個のツィーター、

200kg近い本体重量と一体型。


何時かSPボックスとしてのデコラのレプリカを作ってみようと考えています。

逆オルソン型に配置されたSPの向きにこそ、ステレオ再生の大きなヒントがあると思います。

両脇に90度対向するように交差型の GRFを聞く度に、Decola の音場再生に感心しているからです。

それと、GRFのスケールの大きな音場に包まれると、音質の追求と音場の追求のどちらを優先すべきか解ります。わたしの中では、その延長上にDDDユニットによる360度サウンドがあるわけですから。
http://tannoy.exblog.jp/24830087/

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[リバイバル3] 伝説のデッカ デコラ 中川隆
6. 中川隆[7754] koaQ7Jey 2017年4月14日 19:31:34 : b5JdkWvGxs : DbsSfawrpEw[8244]

Decca Decolaがお嫁入り
やっとこさ入手したDecca Decolaの整備記録


Decca Decolaがやってきた 2013-12-27


オークションで運良く落札できましたDecca Decola

以前よりデコラを讃える名文に触れるにつれ想いはつのるばかり
Web上で目につく写真は欠かさずファイルしてきました。

実物を見た(聴いた)ことは2回のみ。

1回は香川県高松市のTさん宅で。この時は購入間近でまだ周波数変換機が無く50Hzのコラーロの回転が早くその片鱗のみに触れました。

Tさんは収集していた名機を処分してdecola一本にしていました。

その潔さに脱帽です、

2回目は広島県のSさん宅。沢山の名機の中のdecolaでしたが驚くことに総ての機器に目がゆき届いていました。お二人からしっかりと影響を受けてしまいました。

 作家の五味康祐氏は「英国デッカ社の『デコラ』」のなかでバックハウス、ウィーンフィルによるベートーベン『ピアノ協奏曲4番』第2楽章のユニゾンによる主題部分を聴いた時

「、、、そのユニゾンがわたくしは好きで、希望して掛けてもらったわけだが鳴り出しておどろいた。

オーケストラのメンバーが、壁一面に浮かびあがったからだ。、、、

それにしてもコンソール型のステレオ電蓄から出る音が、壁面にオケのフルメンバーを彷彿させるあんな見事な音の魔術を私は曾て経験したことがない。

蓄音機が鳴っているのではなくて、無数の楽器群に相当するスピーカーが、壁に嵌めこまれ、壁全体が音を出しているみたいだった。

わたくしは茫然とし、これがステレオというものか、プレゼンスとはこれかとおもった。

弦のユニゾンは、冒頭で、約十五秒間ほど鳴って、あとに独奏のピアノが答える。

ここは楽譜にモルト・カンタービレと指定してあり、弱音ペダルを押しっぱなしだが、その音色の、ふかぶかと美しかったことよ。

聴いていてからだが震えた。私事になるが、わたくしは、《デコラ》が聴きたくてロンドンへ渡った、、、」


と書いています。また

「『デコラ』が英グラモフォン誌に新発売の広告を出したのは、1959年4月号だったとおもう。

カタログには「将来FM放送がステレオになった時、ステレオで受信することが可能である」

と書かれてあったので、是非とも購入したいと銀座の日本楽器に頼んでみたが手に入らなかったのだ。

それで渡欧したとき(1963年秋)『デコラ』を試聴することも目的の一つだった。」


その時点でターンテーブルはガラード301だったようで初期のコラーロ搭載の100台は終了していたようです。

またデッカ本社での販売価格は免税で30万円程度で
タンノイ15は3万円、
オルトフォンは5千円

なのでタンノイが当時日本では7万円台から考えると『デコラ』は70万円程度となり、しかしオートグラフよりは少し安い!とのこと。


 なぜ五味氏が購入しなかったかは「わたくしは、日本へ還って早速ロンドンの友人へ金を送り、『デコラ』を購入しようとおもった。

ちょうどその頃、S氏邸の『デコラ』が到着したので氏に敬意を表して『デコラ』を割愛し Guy R. ……を注文したのである。

『デコラ』は聴こうとおもえばいつだってS氏邸で聴けるから。」

 現在のオリジナルオートグラフの高騰を考えると『デコラ』の扱いは少し不当なのかもしれません。
http://blog.goo.ne.jp/kobmina/e/f45e46053adc7210f6653e28f79cf4c3


デコラ窓から搬入 2013-12-27


前オーナーからの連絡でピアノ運送業者に運んでもらうことになりました。

なにせアップライトピアノに匹敵する重量です。
先方から搬出したとの連絡があり待つこと数日。待ちきれず運送会社に連絡しました。
搬入日も決まり部屋の片付けと、外からの通路の確保をおこないました。

身長は180cm、体重は200kg!

当日は業者2人でした、、、。大丈夫だろうか?というこちらの心配をよそに梱包を含め仕事は完璧でした。プロはスゴイです。


Decca stereo Decola がいつ頃まで作られたかは定かではありませんが、このデコラはシリアルNoから最後期と思われます。

全体像は変わりませんが細かい部分で初期のものとは異なります。

1958年からのステレオレコードに対応するために発表された贅沢なステレオ電蓄ですが、当然ステレオレコードだけでなくモノLP、78レコード(SP)も聴けるものでした。

開発されたばかりのffssMKTカートリッジのステレオLP用、モノLP用とSP用が付属していたようです。
http://blog.goo.ne.jp/kobmina/e/ea516ed845c12ee00c89caf0baaf2f0e

デコラまず聴いてみました。 2013-12-28
http://blog.goo.ne.jp/kobmina/e/99cad401a005c7aee24d08a6d9100aea


プレーヤーはガラードのオートで、カートリッジはスタントンです。

前オーナーのメンテナンスが良かったらしくすぐに音が出ました。
ここは60Hz地域なのでCSEの周波数変換機をつないでいます。

EMI のスピーカーは聴いた事がありますが、ユニットは似ていても(同一?)出てくる音はかなり異なります。

左右一体の装置独特の鳴り方です。筐体全体で共鳴しているような、、です。

オートのプレーヤーはなかなか便利でデコラに似合っているように思います。

電源スイッチ入れて、レコードが乗っていればレバーワンタッチで音が出ます。

ボリュームつまみも扉の中なので音量調整もしないとまるで蓄音機みたいな、、そういえば「電蓄」でした。

しかしよく聴いていくと右のSPがすこしびびり音があります。

磁石で固定されているネットをはずしてみると6個あるツイータの一つからびびり音が出ているようです。


ユニットはウーハーも含めてすべてアルニコタイプでした。

とりあえず問題のユニットを本体からはずして磁気回路を固定しているねじもはずしてボイスコイルのギャップで擦れていると思われるゴミを吸い出してみました。ゴミは出てきましたがやはりびびり音は出ます。

よく見るとコーン紙によれが見られます。どうも問題はコーン紙のようでひび割れている部分からのノイズのようです。木工用のボンドを薄めてコーン紙を補強して一応の解決をみました。

ダメならユニットを探さなくては、、と思っていましたのでよかったです。
12本揃わないとやっぱり気になります。
http://blog.goo.ne.jp/kobmina/e/99cad401a005c7aee24d08a6d9100aea

デコラの電源 2013-12-28
http://blog.goo.ne.jp/kobmina/e/9162fa984cc878fa874b56ac074d22aa


デコラの電源は通常は真ん中にあるレコード収納の奥に収まっています。

でもうちのは右側にあります。メインアンプがステレオなのでその反対側なのです。


ただし電源の回路は変わっていないようです。

GZ34の後に8μFのオイルコンがあります。チョークの後に100μFの電解コンデンサー。

GZ34のプレートに100Ωの抵抗が各々入っているはずなのですが実際は低い値の小さな抵抗が入っていてどうも出火寸前だったようで周囲が焦げていました。

またシャーシへのアース回路が変更されていました。

本来は整流回路のマイナスとシャーシアース間に電位差を生じるようになっています。

なにか意味があって改造したかもですが、とりあえず回路図どうりにもどしました。

この電位差でプリアンプの真空管のヒーターを点火します。

GZ34のソケットは過熱によると思われる金属劣化で折れてしまい、リベットをドリルでもんで外して同じcinchのソケットに交換しています。


適応する電源電圧は回路図のように 100V,200V,220V,240Vそして各々の10Vアップの8パターンに対応しています。

プレーヤの対応電圧は100V台と200V台と大まかなのでしょうか?

インダクションモーターの2つのコイルの接続で2つの電圧に対応できると思います。

モーター軸も50Hz.60Hz対応の2種類あったかもしれませんが、私はコラーロの60Hzバージョンは見た事がありません
http://blog.goo.ne.jp/kobmina/e/9162fa984cc878fa874b56ac074d22aa

デコラの扉 2013-12-28
http://blog.goo.ne.jp/kobmina/e/b5cb1eecae9dc2f9e8bb1a6be8f6cad5

デコラの扉はプレーヤー、左右のプリアンプ、チューナー、そして中央のレコードラックと4カ所あります。

プレーヤーの扉は重いので空気バネを利用した緩衝装置がついています。

このあたりはクレデンザなど同様で使いかってに大きく影響します。
うちのは残念ながら全く機能していません。


緩衝装置をはずして分解してみました。

革製のピストンになぜか接着材のようなものが張り付けてあります。
空気漏れを防ぐ目的だったのでしょうか。

シリンダーの底には排出する空気量を調節するバルブがついています。

ピストンを掃除してオイルを塗って圧縮があることを確認して再度組み付けようとしましたが狭い場所ので作業がなかなかうまくいきません。

ナットを接着剤で張り付けてなんとか組み直しました。
でもやっぱりダンパーは思ったようには稼働しません。後日再度挑戦してみます。


後日プレーヤーのボードと釘打ちのボードを外した時です。


もう一度はずしてグリースをぬりたくってうまくいきました。
底の空気弁もちゃんと動作しているようです。
http://blog.goo.ne.jp/kobmina/e/b5cb1eecae9dc2f9e8bb1a6be8f6cad5

デコラのメインアンプ 2013-12-29
http://blog.goo.ne.jp/kobmina/e/2d4132db197e83b4caca2eae10bb96b1


ステレオデコラのメインアンプは EL34pp で左右セパレートと思っていましたが、うちのはステレオ仕様でした。

知り合いに聞くと以前に見た事があるとのこと。
シリアルNo,はかなり新しいので初期の100台以外でこの仕様があったと思われます。


まだ細かい所は検証してませんがセパレートと同じ回路と思われます。
気がついたところは


・初段のデカップリング電解コンデンサーが2本とも膨らんでいる(爆発するか、、、)

・カソードの可変抵抗が接続されておらずパスコンと480Ωのセメント抵抗が一緒にアースに落ちている。

・カソード電流を直接測れる端子を結ぶプラグが欠品

・カップリングコンは0.5μFのブラックキャットで1本は漏洩ありと判断し、幸いにも島根のバンテックさんにあったので注文、入手したが、後日測ってみるとそうでもなさそう、、。 


8μF+8μFのブロックコンは見当たらないので容量オーバーの代替品と交換です。

デコラはスピーカーからの筐体の振動が結構あるのでメインアンプもゴム足などで防振した方が良い気がします。

ゴム足を取り付けました。方屋根の建築物のような筐体です。

出力トランスは遮熱板の内側のカバーの中にあります。
モノタイプは外側にありカバーもありません。
なぜ発熱体の近くにしたのかは不明。事実絶縁体のワックスが少し流れていました。

端子を見ると出力インピーダンスは固定、簡素な造りです。

EL34 は mullard のダブルリングゲッターがついてました。得した気分です!
http://blog.goo.ne.jp/kobmina/e/2d4132db197e83b4caca2eae10bb96b1


デコラのプレーヤー(1)2013-12-29
http://blog.goo.ne.jp/kobmina/e/2a61f7a35b00aaab7356bcb58fefc797


デコラのプレーヤはもちろんコラーロが有名ですがそれ以外(特に後期は)もあります。

英国製ですからガラードは当然といえば、、です。 301 や typeA など。

あまり古いオートチェンジャーは無いのでやっぱりステレオになった1958年以降の製品なんだと感じます。

外観は伝統的な佇まいですが中身は EL34 の採用や半導体ステレオFMチューナなど決してビンテージではありません。

コラーロの場合はセンターから少し左にシフトして設置されているのですがそれ以外は少し位置が異なります。

古いオートのプレーヤは大抵壊れている事が多いのですがうちの Lab80 はちゃんと動いてくれます。

前オーナーの努力の賜物かもしれません。

カートリッジはスタントンで当然あのホウキ付きです。

特に不満はないのですが、やっぱりコラーロ、デッカプロフェッショナルアーム、モデル1〜3カートリッジに憧れます。幸いコラーロターンテーブルはありますのでいずれとりかえてみます。

EMT928 にタイプ1アームを取り付けたプレーヤがありますので早速聴いてみました。


さすがにカチッと鳴ってくれます。

本体がけっこう振動しますので影響が出てますがデッカの神経質さをカバーしていい感じです。

LP,SP 共に聴きやすく特にSPが好ましく思えました。

TANNOYのような(大げさ感)がありません。
一応この音を目標にしたいと思います。
http://blog.goo.ne.jp/kobmina/e/2a61f7a35b00aaab7356bcb58fefc797

デコラのプリアンプ 2013-12-30
http://blog.goo.ne.jp/kobmina/e/842c32e9e3b5e4bb578cadba2ec4ba33


デコラのプリアンプの最大の問題点は初段に用いられる 8D8 の入手が困難ということです。

規格を調べても手持ちの文献2冊に載っていないほどマイナーな真空管です。

次段の 12AX7 の12.6Vのヒーター2本と合計4本のヒーターが直列に、GZ34 の整流後の37V,150mAが繋がれるのです。

B電源の一部をヒーターの直流点火に用いるとは!ちょっと驚きです。

ここでのポイントはヒーター電圧ではなく電流が共通ということで 8D8 が選ばれたのかもしれません。

入手困難なのでたまに ebay などにでても結構な高値で取り引きされます。

あ〜残念ながらうちのは EF86 がささってました!

FE86 のヒーター電流は 200mAなのでそのままシリーズに接続するとかなり電圧が下がってしまいます。

実測すると6.3Vのところがやはり4V台になっていました。

これでもなんとか音が出ています。

コンデンサーからワックスが滴り落ちています。。

でもリークはありません。

ヒーター以外は問題はなさそうです。
専用電源を作るかなんとか 8D8 を探すか、、どうするかな〜。
http://blog.goo.ne.jp/kobmina/e/842c32e9e3b5e4bb578cadba2ec4ba33

BRIMAR 8D8 2013-12-30
http://blog.goo.ne.jp/kobmina/e/8bb9b7207302cba7b04aa45513560a30

BRIMAR 8D8 は希少真空管であまり見る機会がありません。

ましてイコライザーアンプに使用できるローノイズ管を選別することは容易ではありません。

以前の記事で特注に応じてメーカーが制作し、出来上がったがやはり使えなかった云々を読んだ覚えがあります。


うちのデコラには EF86 がかわりにささっていたのですが規格表で比べるとはやりヒーター電流の違いがあります。

2本の 12AX7 と2本の 8D8 をシリーズ接続にして37Vの直流を流すと(というか流れている状態で)各々の真空管には適正なヒーター電圧がかかっています。この時の電流はすべて150mAです。

EF86 で実測してみるとヒーター電圧は4V台でSvetlanaの規格表では最低電圧は5.7Vとなっていることからやっぱり問題ありですね。

他のデコラの画像を見ると後づけと思われる電源ボックスが写っています。やはりヒーターを別電源としたのでしょうか?


運良く ebay でイギリスから Brimar 8D8 を落札できました。

向かって右がそうですが長いメッシュになっていて手持ちの同品とエラく違います。。

中身が EF86 のフェイクかも?と疑い画像を探しますがやはり 8D8 はほとんど見当たりません。mullard の EF86 のセンが濃いようです。

プリアンプに実装してヒーター電圧を測ってみると4V台で、やはり EF86 のようです。

しかしわざわざ BRIMAR 8D8 などどリプリントして偽物を作るほど 8D8 は需要があるのでしょうか、、、?


割と最近 YAHOO!オークションに 8D8 が出品されていたのですがこれは奇跡的な事かもです。

今後のことを考えるとヒーター電流以外の規格が類似している EF86 も使用できる回路にしておいた方が良いように思います。

そして8D8が入手できた時も回路の変更なしに差し替えられるようにしておきましょう。

12AX7 2本は12.6V、EF86 は2本直列で6.3V X 2=12.6Vとし、電源は12.6V 電流は合計500mA 整流後に3素子は使わずでπ回路の抵抗値で微調整を行ないます。

別電源を作りました。すべて手持ちのジャンクを組み合わせて新たに購入したパーツはありません。迷ったのですが3素子のレギュレーターは使いませんでした。


もちろんプリアンプのヒーターの接続も変更しました。線色は黄色でなるべく違和感無いようにまた元の配線へももどせるようにしています。でも8D8が今後入手できてもこの回路で差し替えできます。
http://blog.goo.ne.jp/kobmina/e/8bb9b7207302cba7b04aa45513560a30


デコラのプレーヤー(2)2014-01-03
http://blog.goo.ne.jp/kobmina/e/1a1ac1125d4721dd3e0b02c239a3203f

デコラのプレーヤーはコラーロとガラードがあり、ガラードでも数種類あります。

初期はコラーロだと思いますがK氏によれば耐久性に問題があり、入手難の BRIMAER 8D8 と共にデコラの弱点とのことです。

またプレーヤーによってプレーヤーボックスの配置も異なっています。
(画像を一部webから拝借しております。問題があればお手数ですがご連絡ください)

これは初期のコラーロによるデコラです。
左側にありボードより一段下がっています。

他の画像ではこの下がったボードは独立しており緩衝材があるのかもしれません。


ガラード301のは位置がセンターに移っています。

またサブボードとの境目はテーパー処理となりゴージャスな雰囲気です。
高価な301への配慮でしょうか??
コラーロの故障で301に置き換えられたのも多いと聞いています。


この画像でもサブボードを固定しているネジなどは見当たりません。
なんらかの緩衝材の上にあるように思います。

(もし所有者の方でこれらのサブボードを揺らしての情報があればご報告いただけましたら幸いです)
これはガラードオートチェンジャーtypeAで301と同じ配置のようです。

しかし長いスピンドルで蓋が閉まるのでしょうか?
それともオートチェンジャーの時のみ長いスピンドルを使うのでしょうか?


さてうちのデコラですが、、

・プレーヤーは Garrard Lab 80 Automatic Turntable Record Player

・正面のプレーヤーの扉の鍵穴が無く本来内側の正面にある(コラーロとガラードとでは位置が異なります)エンブレムが張り付けてある。正面板の裏側には鍵のユニットをはずして埋め込んだ跡がある。

・正面の横板は黒のフェルトを貼った横幅のあるものだがうちのは板一枚。ただし錠が飛び出る所を含めて端から端までツキ板が貼ってある。同様に受ける扉の蓋側もフェルトが貼ってある。

・ボードは本来の位置から深い位置に移動している。


このボードの裏にはなんとこんなシールがありますので国内に輸入されてから加工されたボードです。

ガラード Lab80プレーヤーの状態はとても綺麗です。動きのスムーズさなどから良好と思われます。


以上の事から推測されるのは


・もともと別のプレーヤーが付いていたが何らかの事情で取り替えられた
同型であれば問題ないが寸法が異なっていたのでボードと枠を作り直した。

Garrard Lab 80 Automatic Turntable Record Player のボードからの高さは80数ミリあるためボードを低くするかサブボードを作成しメインボードに方形の穴を開ける必要があるが前者を選択した。

・鍵は不具合が生じたかで撤去されその痕跡が注意深く消された。

・緩衝装置はプレーヤー付属のもので十分と判断され、ボード側には用いられなかった。

とまあ全く的外れか、興味の無い人には「何のこっちゃ」の内容です。

でも一つ言える事はこれらを実行された方はかなりの腕の立つプロの方で、デコラに愛情を持って接していただいたということです。
http://blog.goo.ne.jp/kobmina/e/1a1ac1125d4721dd3e0b02c239a3203f

デコラのプレーヤー(3)2014-01-03
http://blog.goo.ne.jp/kobmina/e/488bcba6c905193bdecbc94b948cba3b


コラーロのフォノモーターに戻すとなると、やはりオリジナルの形に近づけたいと思うのです。

しかし私は木工は素人ですので少なくともデコラを壊さないように注意して進めなくてはなりません。それと弱点と言われている手持ちのコラーロの状態も気になります。

まずコラーロの載るサブボードを再現してみましょう。
表面の仕上げはメインボードともにツキ板仕上げとします。
(画像を一部webから拝借しております。問題があればお手数ですがご連絡ください)

サブボードのサイズはこの写真を参考にします。

コラーロのベースは縦横316mmなので写真から計算すると1辺418mmとなります。
ただし縦方向は写真が切れているのではっきりしません。
板厚はどうしましょう?
あまり厚いとくり抜くのに苦労しそうですが、、。


ホームセンターで12mm厚のコンパネを420mmX420mmに切ってもらいました。
フォノモーターの穴を開けるのに7mm厚の発泡ウレタンも買ってきて同寸に切って現物合わせのシミュレーションをします。

その後発泡ウレタンの穴を板に写してジグソーで切り出しました。
可動部分があるとカッターで切れるシミュレーターが役に立ちます。

コラーロをのせて収めてみました。サブボードを緩衝装置を介して固定する方法はまた考えます。

さてメインボードですがサブボードの穴を奇麗にくり抜くことができるでしょうか?私はジグソーしか持っていません、、。


ついにここまで分解(破壊)してしまいました。

右側のダンパーのボードを残してメインボードは1枚板(のように見える)にしたいのです。釘で打ち付けてあった隣の板をはがしましたが、この板は釘の種類などからオリジナルのようです。もう後戻りできません。

ホームセンターで480mmX690mmに切ってもらった12mm厚のコンパネを四角にくり抜きます。なぜ12mmかというと隣のボードと高さを合わせるためです。ガイドをクランプで止めてカッターでくり抜きました。

サブボードが見える部分の厚みは20mm程度はあります。
その後10mmの角材を付けて(厚さ22mm)切断面を平面にするのは難しいので内側に幅木を張り付けています。

プレーヤーのサブボードとの関係を見てみます。サブボードの固定方法はまだ決めていません。

Deccaアームの位置決めをして仮止めしてみると案の定ウェイトがメインボードにあたります。蓋に当たらない程度にサブボードを持ち上げています。


マホガニーのツキ板を貼りました。表面の仕上げはまだです。

この状態でレコードをかけてボリュームを上げるとハウリングが盛大に起こります。サブボードのクッションはかなり慎重に選ぶ必要があります。

ウーハーボックスのスポンジを再度点検してみます。

サブボードの響きはやはり重要で12mmコンパネ1枚では剛性も不足する上に指でたたいてもいい音がしません。材質を替えて作り直すことも考えましたがコンパネ周囲を額縁のように囲んで補強してみました。

プレーヤーボードのフローティングはスポンジ、ウレタンなど試しましたが最終的にスプリングで浮かせました。木製のピストンにはワックスも塗っています。

塗装は未完成ですがこんな感じでまとまりました。
http://blog.goo.ne.jp/kobmina/e/488bcba6c905193bdecbc94b948cba3b

デコラのチューナー 2014-01-13
http://blog.goo.ne.jp/kobmina/e/9ac6774d250b4307a6dc4a7f9101364e


デコラのチューナーは真空管モノラルと半導体ステレオの2種類あります。

どちらを選ぶかはオーダーできたのかもしれません。

当然半導体式が後発と思いますが、うちのは後期型にもかかわらず真空管式です。

五味康祐氏によれば1959年4月号の英グラモフォン誌に新発売の広告を出した当時のカタログに

「将来FM放送がステレオになった時、ステレオで受信することが可能である」

と書かれてあったとあります。

またプリとチューナーのフロントパネルもゴールドとブラックの2種類あります。

これはステレオタイプです。

真空管タイプのFMチューナーはとても簡素なものです。

ところでブラックタイプのステレオチューナーは見た事がありません。


苦労して周波数変更しても実用には難しいかもしれません。
今はネットラジオなどを繋いでipadでらじるらじるを聴いています。
http://blog.goo.ne.jp/kobmina/e/9ac6774d250b4307a6dc4a7f9101364e

Deccaのカートリッジ 2014-01-13
http://blog.goo.ne.jp/kobmina/e/f8090828823ae3529565c032b964b2d3

     (1964年10月号「Hi-Fi NEWS」に掲載されたDeccaの広告)

 DeccaのカートリッジはステレオLP以降が有名(というかそれしかないと言って良い)です。

英国Deccaはレコード会社でありSP時代の1930年代からMC型のカッティングヘッドを開発、改良し15KHzまで録音可能とし、ffrr(Full Frequency Range Recording)と名付けられました。

第2次世界大戦後に初の録音が行なわれ、1950年にはマイクログルーブ(モノラルLP)に対応しましたが、当時の自社開発のプレイバック用のカートリッジは現在でも不明とのこと。

コンシューマー用のカートリッジはモノラルデコラなどにもちいられた「Decola」というものがあってよくオークションでもみられますがバランスド・アーマチュア型でffrrのLPには役不足だったようです。

これは1958年10月4日にArthur Haddyが英国特許を申請した時の図面です。

特徴的な構造ですがコイルはラテラルのみですのでモノラル用です。

すでにステレオLPが登場している1958年という年代を考えると Decca はLPレコード用のカートリッジの開発が遅れたのかもしれません。(これは全くの私見です)

Decca のステレオレコードの開発は数々の変遷後に(V/L)方式に落ち着いていたのですが米国のウエストレックスが(45/45)を発表し世界標準となってしまい、Deccaも比較、協議で方式変更を余儀無くされました。

しかし幸運なことに簡単なコイルの接続変更で対処できました。


Decca Decola には ffssカートリッジの MKTステレオ・モノ・78回転SP用が付属していたようです。

なおMKTカートリッジにはステレオLP(D)、モノLP(X)、SP(Y)、モノLP楕円(EX)がありました。

MKUカートリッジ(M)はLコイルの巻数を少し減らしさらにLコイルに0,0022μFと5.1KΩ程度のコンデンサと抵抗を並列接続して出力バランスと音色の補正が行なわれていてステレオのみ。

このモデルがDeccaのスタンダードとなっています。

MKVカートリッジ(ED)は1964年10月に登場しアーマチュア、振動系の軽減されハイコンプライアンス化されたもので楕円針で針圧は一気に2g。

MKVまでの針圧はMK1SPが5g MKVとMKTモノ(楕円針)が2g その他が3.5gとなります。

このカタログ(1964年10月)の時点で「MK1はまだ作っている」「MK1はMKUに改造できる」などと書かれていて興味深いです。


MKV MKT(ステレオ) MKU MK1(78)

MK1(78)です。


このマニュアルはMKVのものですがMKWまでは4端子でlatelal(モノ)出力もあります。(Wからは持ってませんが、、)

MK1のVコイルは1300ΩX2 Lコイルは1460Ω

MKUのVコイルは1350ΩX2 Lコイルは1220Ω(実測値、出典:海老沢 徹氏、管球王国Vol.26)であまり変わりません。

MK1モノはステレオ用と比べて針先の曲率半径の違い(1.0milと0,6mil)の違いだけなのか(Vコイルはあるのか?)接続は左右に振り分けているのか、、)どうなっているのでしょう??

それにしても「鉄製のターンテーブルでは使えません」ってしっかり書いてるんですね。
http://blog.goo.ne.jp/kobmina/e/f8090828823ae3529565c032b964b2d3

Deccaのアーム 2014-01-19
http://blog.goo.ne.jp/kobmina/e/44414fb31de89d098c84687fc08c7af7

 初期のDeccaカートリッジに不可欠なアームです。
SME用のアダプターも存在しますが識者は「絶対にこれでなくては、、」と。


 MKVになると針圧がそれまでの3.5gから一気に2.0gになりましたのでこのような重りができたのか、それともLPとSPの切り替え用か。

 プロフェッショナルアームはメインウェイト以外でもサブウエィトで調節できました。前期型と後期型があり若干形状が異なります。

DeccaMK1からMKWまでならこれらのアームでOKですがそれより新しいカートリッジには「インターナショナルアーム」というものがあります。

でもなかなか使いこなすのが難しいとのこと。


STEREOPHONIC DECCA ffss pick-up の化粧箱です。
なかなか豪華なつくりで人形が入ってるみたいです。
美しいアームという自負があったのでしょう。

蓋を開けるとタグ、説明書、テンプレートなどアームとアームレスト以外にもいろいろ入っています。

説明書
http://blog.goo.ne.jp/kobmina/e/44414fb31de89d098c84687fc08c7af7

コラーロのターンテーブル 2014-01-22
http://blog.goo.ne.jp/kobmina/e/bb1322f11ba60bf3acd75ba4205f5516

コラーロのリムドライブのターンテーブルです。

同社の製品は他にもあるようですが見た事はありません。

このターンテーブルの特徴は4スピード、ベースが究極のコンパクト、アイドラーが極薄、プラッターの軸が比較的細いなど。

モーター軸の先端が16回転/minなのでとても細いのも手伝って一見華奢な駆動系のようですが重量級のプラッターとしっかりしたモーターです。

その割にベースは鉄板打ち抜きで軽量系。


駆動ユニットは3本のスプリングでつり下げられています。

3重のモーターカバーを外したところです。

デッカのカートリッジの説明書には鉄製のプラッターは使えないと書いてあり非磁性体になってしまうのでモーターからのノイズを減らすための工夫かと思います。

モーターの軸受けのハウジングにcollaro England AC onlyなどと書かれています。

はずしてみるとなかなか凝った造りです。

軸受けはボールベアリングですがハウジングが変わっています。

軸の中心は一定なのですが角度が変わってもオッケーな構造なのです。

これは何のためか?

水平方向に荷重が掛かっても回転に支障が出ないためのものか?

不明です。


こちらはプラッターの軸受けです。

ボールベアリングが入ってますが底のネジでプラッターの上下を調節できます。ボールベアリングは軸受けと同寸のようでキツキツです。

清掃してオイル、グリスアップしてまた組立てました。

プラッターのオイルはまだ決定していません。

重いプラッターで細い軸ですのでフリクションは小さくいつまでも回転しているという雰囲気です。

少しオイルの粘度を上げた方がいいのかもしれません。
なおプラッターを挿入するときにアイドラーを咬まないように注意が必要です。
http://blog.goo.ne.jp/kobmina/e/bb1322f11ba60bf3acd75ba4205f5516

デコラで聴くレコード 2014-01-29
http://blog.goo.ne.jp/kobmina/e/97d10e716e526392b671634343f95b2e


いろいろなジャンルのレコードを聴いてみます。

愛聴盤です。

久しぶりに Beatlesを聴きまくりです。EMIのスピーカーです。。

昨年暮れに逝去された大瀧氏。long vacation とともによく聴きました。

女性ボーカルが気持ちよく聴ければ大抵は大丈夫でしょう??

印象としてレコードの盤質がかなりシビアに出る感じです。
これは何か設定に問題があるのかもしれません。
http://blog.goo.ne.jp/kobmina/e/97d10e716e526392b671634343f95b2e

デコラの音 2014-03-07
http://blog.goo.ne.jp/kobmina/e/05b0c7c14310b02356408ac650989906


プレーヤー周りの塗装を繰り返しながら(結局ツキ板まではがしてやり替えた)いろいろなレコードを聴いています。

音質はとても気に入っています。

何年かぶりにレコード鑑賞に没頭している状態です。

Decca のカートリッジやアームはいままでも使った事がありますが、今回印象が一変しました。

いままでは反応は速いのだけどなにかカサカサした神経質な音というイメージだったのですがなにより驚くのが低音の違いです。

デコラから量感のある小気味よい低音が過不足なく出てきます。

電蓄の風貌に見合って堂々としているのです。

量感があってもブーミーな低音は長い間聴くには耐えられませんがこれはよろしいですね。

またトーンコントロールも効果的に働きます。

最初はカートリッジのコンディションが大きいのでは、、と考えていましたが、アームを交換して状況が変わりました。

この単純なアームがかなり大きな影響を与えています。
アームの整備の重要さがあらためて身に染みました。
整備不良だとレコードの粗が出易いように思います。
http://blog.goo.ne.jp/kobmina/e/05b0c7c14310b02356408ac650989906


デコラのトラブル 2015-04-26
http://blog.goo.ne.jp/kobmina/e/b15d5d566ffaca9ad27b88007c797b52


 1年間ノントラブルだったステレオデコラですが初めてのトラブル発生。

日曜日の朝からレコード鑑賞、数時間後に右スピーカーからのノイズ(ハム)が大きくなる。

セレクターをphono以外にすると消える。

またBASSをあげると「ぼぼぼ、、」という所謂モーターボーティング発生。


メインアンプ入力の左右を入れ替えるとトラブルは移動する。
プリのイコライザーが怪しいと見当をつける、、。
というかデカップリングコンデンサーが逝ったと確信。。

プリアンプのシャーシに2本のブロック電解コンデンサー350V16μF+16μFがバンド留めされている。

残念ながら適当な代替え品がない。

450V22μFのアキシャルリードの電解コンが2個あったので壊れたコンデンサーを分解して組み込んでまた蓋をした。

分解するときにプシュッとガスが出た。端子板は膨張していて破裂寸前。

めでたく回復しました。

直後は高音が少し荒れたような感じだったのですが数時間で落ち着いてきました。

京セラドームで聴いたポールマッカートニーの復習しています。
http://blog.goo.ne.jp/kobmina/e/b15d5d566ffaca9ad27b88007c797b52



http://www.asyura2.com/09/revival3/msg/683.html#c6

[リバイバル3] 伝説のデッカ デコラ 中川隆
7. 中川隆[7755] koaQ7Jey 2017年4月14日 19:32:52 : b5JdkWvGxs : DbsSfawrpEw[8245]

デッカ・デコラ・プリアンプ HAL4550
http://hal4550.exblog.jp/19626649/

デッカ・ステレオ・デコラのプリアンプに使用されているコンデンサは4種類である、電源系のブロック電解コンデンサとバイアス系の電解コンデンサ、そしてカプリング系のフィルム・コンデンサとマイカ・コンデンサである。

http://hal4550.exblog.jp/iv/detail/?s=19626649&i=201303%2F08%2F60%2Fc0064260_1225563.jpg

カプリングコンデンサの容量が大きいものはASC X363メタライズドポリエステルフィルムコンデンサ−誤差 ±5% -55〜+105℃は今でもネットで買える部品だ。このコンデンサのASCはAmerican shizuki Corprationつまり日本の指月電機のアメリカ法人の部品である。軍用をオーディオに流用されて評判の逸品をデッカが使用していたとは驚きだ。同社の黄色フィルムコンデンサとルーツは同じだが白色の方が音は良くて評判である。

http://hal4550.exblog.jp/iv/detail/?s=19626649&i=201303%2F08%2F60%2Fc0064260_1217208.jpg


さて本題はここから。デッカ・ステレオ・デコラの音の秘密を垣間見たような気がする、まだメーカや入手先など詳細は特定出来ていないがカプリングコンデンサにマイカコンデンサを多用している。容量表示がPF(ピコファラッド)で形状もマイカコンデンサである、マイカコンデンサは周波数特性がよく高周波回路に使われており、わたしも中学生の頃アマチュア無線に精を出していたので自作送受信機に多用していた。また、アンプでも帰還回路やイコライザにキャラメル型の端子付を使っていたことを思い出した。残念ながら容量が小さくPFしかないのでカプリング・コンデンサに使えるとは思っても見なかった。わたしの見当違いかも知れないが形状と端子の止め方や容量表示から見て天然雲母のマイカコンデンサなら凄いものだと思う、このマイカをプリだけで26個も使っている。

http://hal4550.exblog.jp/iv/detail/?s=19626649&i=201303%2F08%2F60%2Fc0064260_12191170.jpg

これはネットで見つけたSRC Silver Mica capacitor


http://hal4550.exblog.jp/iv/detail/?s=19626649&i=201303%2F08%2F60%2Fc0064260_12334486.jpg


最近ではスペック株式会社が大容量のマイカ・コンデンサを開発して、その音の良さに感動してアンプまで販売し始めたようで面白いことに成って来た。


http://hal4550.exblog.jp/iv/detail/?s=19626649&i=201303%2F08%2F60%2Fc0064260_12371667.jpg


実はデッカ・ステレオ・デコラのプリアンプはオリジナルで部品交換がされていないビンテージを二台所有している。時代が違い抵抗と電解コンデンサは異なるがマイカコンデンサは同じ二台を試聴してみると微妙に音の味わいが違う。二台ともノイズなどの問題を含んでいるので、最初8D8かECC83の真空管ノイズかと思ったが、調べていくとカプリング・コンデンサのリークと電極不良に因るノイズであった、それほど高電圧が掛かる所ではないが初段8D8のプレート73Vでリーク、終段ECC83のV2プレート130Vはノイズである。8D8は入力セレクターを切替えると大きなノイズを伴うのでコンデンサのDCリークとすぐに判る、手近なコンデンサに交換するとノイズはぴたりと止む。二台で部品を融通し合うか悩むところだが、取り敢えず一台を完璧に仕上げ、もう一台は部品を探して同じ音に近い所まで修復するしかないようだ。


http://hal4550.exblog.jp/iv/detail/?s=19626649&i=201303%2F08%2F60%2Fc0064260_12232082.jpg


本当はこんな面倒臭いことはやりたくないのだが、妙に浮き浮きしながら懐かしい恋人探しのように部品を探している。

本番用デコラ・プリ

http://hal4550.exblog.jp/iv/detail/?s=19626649&i=201303%2F08%2F60%2Fc0064260_1222116.jpg


予備用デコラ・プリ(こちらが僅かであるが高域の出方が好ましくSXLにぴったり)

http://hal4550.exblog.jp/iv/detail/?s=19626649&i=201303%2F08%2F60%2Fc0064260_12222082.jpg


結局、音質が好ましい予備用プリアンプを整備することにして、一方からマイカコンデンサをもぎ取った。音質は完璧に揃い、ノイズも完全に消えたのでプリアンプは修復完了である。次はチューナの調整にかかる予定だが、もう一台のプリアンプもコンデンサの容量を全て測定して整備し直そうと思っている。
http://hal4550.exblog.jp/19626649/


DeccaStereoDecola HAL4550
http://hal4550.exblog.jp/19541009/

デッカ・ステレオ・デコラ


仕事もせずに一週間集中してデコラの修復に当たった。バラバラにされ放置してあったデッカ・ステレオ・デコラが甦った。


まだGarrard301のモータゴロが完全に取れていないので完全復活とは云えないが、兎に角、Decca SXLオリジナル盤が理想的な環境で再生できるようになった。33回転LPではゴロは出ていないので実用上の問題はない。


デッカ・ステレオ・デコラはジョン・カルショーがSXLの検聴に使用していたことが写真でも明らかであり記述もあるのでDecca初期盤マニアとしては、いつかデッカ・ステレオ・デコラで音楽を楽しみたいと夢見ていたことが、ご縁があり早々と実現してしまった。


日本にはかなり沢山のデッカデコラが英国から持ち込まれていると思う。ネットで検索しただけでもその存在は20や30台ではきかない、動機は様々だろうがSXLを聴く為に購入されたマニアも多いだろうと思う。

最初はデッカ・デコラ・ステレオは100台限定で製作されたと聞いていたが、その後設計に手を加えられ数百台が世に送り出されているのが事実だ。このデッカ・ステレオ・デコラは後期型でGarrard301仕様のものだ、シリアル番号は1800台であるから最終期に近いものだろうと想像する。

低音スピーカボックスを開けて驚いたのはバスレフの存在だった。EMI R560/38とシールが貼られている楕円型スピーカは15Ω35Hzが最低共振周波数で、片隅に4x8cmのバスレフポートが開けられている。内寸44x25.5x(20/40)の台形型のボックスは33リットルの容量であるがバスレフポートにより豊かな低音と、6個の変則配置のコーンスピーカの効果で豊かなプレゼンスを再生してくれる。また、ウーファボックスはスポンジで筐体から完全に浮かされており不要な共振を排除している。


いまはLPも好きだがSPレコードへの興味が深まっている。問題はデッカ・ステレオ・デコラの場所が無いので困っている、苦肉の策として台所に移動舞台で置き、聴くときにオーディオルームへ移動する手を考えている。それに食事をしながら音楽を楽しむことも可能になったことが嬉しい。


別に手配していたMKUステレオのカートリッヂが届き、マゼール・VPOのシベリウス4番を聴いたら素晴しい音がする、苦労した甲斐があったと云うもんだ、もう少し時間を置いてからオペラを楽しもう。
http://hal4550.exblog.jp/19541009/

http://www.asyura2.com/09/revival3/msg/683.html#c7

[リバイバル3] 伝説のデッカ デコラ 中川隆
8. 中川隆[7756] koaQ7Jey 2017年4月14日 19:34:46 : b5JdkWvGxs : DbsSfawrpEw[8246]

音楽ファンの為のステレオ  (英国編) Der Klang vom Theater (ドイツ〜劇場の音と音楽)
http://kaorin27.blog67.fc2.com/blog-entry-141.html

クラシックを中心に聞いている者にとっては、英国製のオーディオも捨てがたい魅力がありますね。

これまでの経験を要約すると、英国の機械はより俯瞰した描写が得意で、演奏会場全体を縮尺模型のように見下ろす感覚に秀でていると思います。

対して、米国の機械は一般に楽器の音を忠実に再現することに長けていると考えています。

演奏者と同じ床に座っていると言い換えても良いでしょう。


さて、英国の装置ほんの一例ですが。


スピーカー  Lowther アクースタMk-1  まだまだ中価格で素晴らしい物が沢山あり。

アンプセット QUAD 22+U型  またはLeak ポイントワンプリ+Stereo20

プレーヤー Garrard401  Decca Mk-1アームとMk-1カートリッジ


以上のセットは全て揃って初めて英国の音を具現できるものとしています。


もし、あなたが英国のオーディオを好まれてクラシックを楽しみたいと考えているとしたら、これらのセットは限りない喜びを与えてくれることでしょう。


ここで唯一つ、日本のオーディオマニアが40年以上に渡って犯してきた間違いを私は指摘することができます。

その発端は、五味康祐さんの高名な著書に端を発しています。
その書にはこんなエピソードで五味さんのオリジナル Tannoy との馴れ初めが記されています。

「貴社のTannoyで十全なステレオ効果を得るには如何な装置を用いれば良いか?」

と氏はTannoy社に尋ねました。

Tannoy社は答えて曰く

「Deccaの針、SMEのアーム、GarrardとQUAD(22+U型)のアンプを用意して待て」と。

これらの機械を用意して Tannoy の到着を待ち、これまでに経験したことのない音響の世界に驚愕したと氏は Tannoy との出会いを綴っています。

しかし、いつの間にかアンプは米国製に変わり、針もEMTに変わりました。

これはどうしたことでしょう?

私なりに推測するに、やはり、「より明確な音で聴きたかったのでしょう」

上述したように英国製の装置の醍醐味は、ホールごと俯瞰して聴けるような臨場感にあります。

このことは、反面楽器一つ一つの音色はブレンドされた状態でハーモニーの中に存在します。

この全体描写こそが英国オーディオの最大の美点であり、他国の機械に求め得ない特徴だろうと考えています。

その後、日本では Tannoy はクラシックを中心としたオーディオマニアの間で絶対的な名声を獲得しますが、その使われ方は、極めて日本的であったように感じています。異文化の伝統を受け入れて日本的なアレンジを加える能力ですね。

和菓子のあんこを、パンに入れて「アンパン」を創作する素晴らしいジャパンクリエイトです。


繰り返しになりますが、何かを得るには別の何かを手放すことにほかなりません。
英国の音響機器を使いながら、その長所をみすみす捨ててまで明快な鳴らし方にすることはないだろうに。と、私などはいつも思ってしまいます。

しかし、ヨーロッパの伝統的な文化の具現化は戦後の日本にはまだ遠く。はっきりとした、解りやすいソノリティへと嗜好が向かったこともまた、無理からぬこととは思います。


もちろん、オーディオはパーソナルな趣味であり、如何な組み合わせで聴かれてもご本人の満足を満たすことが大切ですが。

もし、英国のスピーカーをお使いで上のアンプを試したことがない方は、是非一度聞いてみることをお勧めします。


そこで得られる音は、ハッキリともクッキリとも聞き取れません。

しかし、数世紀に渡って、ヨーロッパの根底を流れてきた古く、底光りする燻し銀のようなクラシック音楽の文化自体の意味するところを、もう一度考え直させるいい機会になるのではないでしょうか。

コメント


イギリスの音

イギリスの音、日本のマニアが犯してきた間違い、、自分も何か違うのではないか?とずっと思ってきました。

デコラで聴くとデッカのカートリッジはすばらしいが、単独で聴くと、、、うるさくてとても、という話を良く聞きます。

タンノイのスピーカーも、しっとりと鳴らすのが難しく、使いこなすにはやはり使う人の人間性が、などと五味さんの言葉が?使われたりしてきました。

また逆に、タンノイはふやけたような音で、聞いていられないという方も、、、


イギリスの音、Kaorin さんのイメージとはちょっと違うのですが、自分の今のイメージとして、

HIFI時代のタンノイ、EMI、ローサー、、デコラなど、、

また昔の骨董時代の HMV、MARCONI、ferranti、など

に共通して、イギリスはとても明確な音を持っているのではないか、、と感じています。

もちろんハーモニー、音場の再生なども秀でいて、陰影も出せるけれど、基本的にとてもクリヤーな音を持っているようだ、と感じています。

オートグラフなどもそうですが、どうも、イギリスの機材は、、本来の魅力の出る的確な使われ方をずっとされてこなかったのでは、、と自分は強く感じています。
2010/02/07(日) 05:58 | URL | marco #MZf6kU0Y[ 編集]


Re: イギリスの音

いいですよお、同じ音を聞いても個々の捉え方と、言葉で表現する時に別の単語を選ぶのはオーディオの醍醐味だと思いますから。

皆が素直に感じる事を表現しあって議論して初めて、共通の認識が生まれるのだと思います。でも日本では、なにかカリスマの廻りでヨイショする的な構図が多くて、議論にならず右へならえなのが変じゃないですかって書きたかったんです。

デコラ(st)も一時使っていましたが、QUAD のアンプと同じ(僕流には)会場を俯瞰する音の感じでした。

なんとなれば、僕の印象のあれこれは Decca の針と英国製プリ=EQ のコンビネーションがあの音を形作っているのかなと当たりを付けています。

Decca または EMI のバリレラ針、QUA Dや Leak、デコラのプリ、以前に写真を載せた Lowther のプリも含めて全て一貫した英国の音になりますね。(回路はどれもほぼ一緒ですから当たり前ですが)
2010/02/08(月) 00:38 | URL | kaorin27 #-[ 編集]

Re: イギリスの音

英国のスピーカーの音は、ボクには2種類あるような気がします。

今使っている GEC アルミコーンや、その前に使っていた QUAD ESL は、おとなしい高音で、ステレオの場合、音像がスピーカの後ろに展開する「俯瞰型」タイプです。

一方、marco さんもお持ちの HMV LS7 は、中高音の張り出したくっきりした音ですね。

昔聴いたワーフェデールやグッドマンのダブルコーンも、このタイプでした。

ボクは、LP期以降の録音(専らCDですが)は前者で聴いていますが、SPレコードやその復刻CDを聴くときは、後者がいいと思っています。
2010/02/08(月) 20:14 | URL | ibotarow #iaNYWVsc[ 編集]

Re: Re: イギリスの音
お三方目のご意見ありがとうございます。
ibotarowさんのように数々の英国製機材をお使いの方にご意見を頂くと、また一段、このテーマに奥行きが出来て嬉しいなと思います。

自分のホームグラウンドがどこにあるか(一番長く親しんだ機材)で同じ音を聴いても感想が異なったりすることもあるでしょうね。それは、とっても貴重なことと思います。
エベレストも北壁からでも南壁からでも目指すのは頂上ですものね。

そうですか、CD使うとやっぱり印象は変わりますでしょうね。

記事では英国製の RIAA-EQ と針との込みの音で書いてしまったので、一方の壁の情景だけでしたね。反省。

多くの英国のSPを使っている方への、同国製アンプを一度使って見られては?というご提案でしたので今回はご容赦をお願い致します。
2010/02/08(月) 22:36 | URL | kaorin27 #-[ 編集]
http://kaorin27.blog67.fc2.com/blog-entry-141.html

好きなコンポーネント カートリッジとプリアンプ編(附、英国の音) Der Klang vom Theater (ドイツ〜劇場の音と音楽)
http://kaorin27.blog67.fc2.com/blog-entry-148.html

一番大切なコンポーネントは「レコード」だと思う。という記事を書きました。

多くのオーディオマニアの方には「何言ってんだ、コイツ」と思われていると思います。これは、一番上流に存在するコンポーネントは、その後の全てのパーツに影響する。という意をお汲み取り頂きたいと思っております。

信号の流れを辿りますと、そのレコードの情報を拾うのがカートリッジの役目です。

ここは「物理量⇒電気信号」へと変換する箇所で、スピーカーと並んで機種による音の変化が大きいコンポーネントになりましょう。

(実際は小さくて軽量なのでスピーカーに比べると特性は出しやすいですが)

ご存知の通り、フレミングの法則を利用した発電機になりますから、磁石とコイルの組み合わせで発電をします。

やはり、逆の役目のスピーカーと同様の組み合わせになりますね。

実使用においては、スピーカーには常にパワーアンプとセットで考慮されるべきもので、カートリッジとプリアンプ(RIAA-EQのこと)もまた、セットで組み合わせて考えるべきと思っています。


さて、好きなカートリッジはなんとなくですが、ゴムダンパーを使わない形式の物が手元に残っています。
(EMTだけが例外ですが、これは今も新品を入手できるので常用としている)

以前にご紹介した、Neumann の DST はトーションバーのたわみでコンプライアンスを得ていますし、Decca の Mk-Tは真下に伸びた棒の先にチップが着いています。
なんと、ダンピングと位置決めは糸!で吊っている状態です。

何れも、持って回ったところの無い「竹を割ったような」爽快感があり、エグミの無い音が好きな理由です。

以上の2機種と供に、個人的に「世界の3大カートリッジ」と崇めているものに
WESTREX の10A型があります。

天文学的なプライスタグが付いていますので、これも憧れだけですが、もし、昔のまま WE の装置を使っているとしたら何とかして、入手の算段を考えていたことでしょう。    あー、Klangfilmにしといてヨカッタ ほー


そして、もう1機種、絶対の信頼を置いているものがあります。

http://blog-imgs-29.fc2.com/k/a/o/kaorin27/DCP_0432_convert_20090630094300.jpg
EMI  EPHヘッド と EPUアーム

これは、本来的にはレコードの製造工程の中で、原盤試聴用としてEMIやコロムビアレコードのスタジオで使われていた、れっきとした業務用の機械です。
後に、愛好家向けに市販されたと資料にはあります。

構造は  _I−▽   こんな感じで折り曲げられたトーションバーの先端にチップが植え込まれ、左図の I  の部分がたわんでコンプライアンスを得ています。

ただし、そのままでは勝手な動きをして歪みますので、ビスコロイドを塗布してダンプしています。
Vitavoxのスピーカーを手放してしまってからは休眠状態で寂しいですね。


このカートリッジで ASD盤や SAX盤を、Decca Mk-Tで SXL盤を聞き比べていたあの頃は至福の時でした。
(僕に趣味はありませんが、ビートルズも初期盤が珍重されているようですから、やっぱりこれでしょうか?)

さて、こういったカートリッジに組合せるプリアンプは、私の駄耳では同国、同時代のアンプ以外には全く、まったく考えられませんでした。

英国のプリアンプは製造元の垣根を越えて同じマナーで作られていて、ピックアップの供給元が限られていた時代でしたから業界全体で市場を支えていたのかも知れません。

ちょっと思い出しただけでも、

GEC、
Decca-Decora、
Lowther、
Leak、
QUAD、
RCA.London、
Westrex.London(マイクアンプ)

など枚挙にいとまがありません。

初段「EF-86」で CR型なのか NF型なのかちょっと分かりにくい EQ回路に、ECC-82辺りがバッファーとして負荷になっていました。
初段が5極管ってのがキモですよねえ。

逆にみると、これらのプリアンプと Decca以外のカートリッジ(当時は EMIは持っていなかった)を使ったときには、なんとなくモコモコして歯切れが悪かった印象があります。


先日、英国の音の印象を記事にした際に、大変貴重なご意見を複数頂きました。
総括しますと、私が英国の音。との印象はこれらのカートリッジとプリアンプのコンビネーションに因るところの影響が大きいと考えています。(数機種のスピーカーと組み合わせると、スピーカーの特徴は出しますが、全体を覆う印象は変わりなく聴こえました)

カートリッジであれ、スピーカーであれ、パーツを個別に取り出して他の特徴を持つ機材を組み合わせた時の音の印象は、またそれぞれ異なってくるということは想像にがたくありません。

システムは頭の先から、つま先まで繋がって初めて音が出るものですから、私の自宅で、

Deccaの針+ QUAD や Lowther のアンプに Vitavox、Lowther などのスピーカー

を通じて出た音の印象ということで、ご了承を願いたいと存じます。


こうして見ると、上に挙げた4機種は、それぞれ全く異なる構造で各々の個性を主張しています。

これでは日本のメーカーのような「1機種売れたら、市場が同じ顔の製品ばっかり!」にはなりませんね。

そんな、開発者のメーッセージを強く感じる処もヴィンテージ品の楽しい面ではあります。

コメント


レコードのお国柄

イギリスのプリアンプは、、50年代5極管の PG帰還、、NF型なのでしょうか、このタイプが多いですね。

自分もリークを使っていますが、このタイプです。

アンプでは、、パイ、グッドセルなどもいいアンプなのでは、、と、個人的には思っています。


これらと、、デッカや EMI のピックアップは、やはり、ぴったり来る感じですね。調子に乗って、モノ時代の、リークのピックアップや、EMI のトランスクリプション17なども使っていますが、とくに17はやっぱり、ALP や 33CX はとてもうまく鳴る気がします。

でも、、、問題はそのレコードがそれほどない?その前に、なんといってもそれを聴く自分の音楽のセンスが???です。
2010/02/16(火) 01:57 | URL | marco #MZf6kU0Y[ 編集]

イギリスアンプ

アンプについて、、上の書き込み、何かイギリスではパイや、グッドセルがとりわけ、、と取れる書き方をしてしまいましたが、すみません。

クオードや、、GEC, ローサー、RCAなど、ご紹介のアンプのほかにもぜひ、このアンプもと、思い、、、書いてしまいました。

使ったことのあるアンプはわずかですが、イギリスにも、すばらしいアンプたくさんあったようですね。
2010/02/16(火) 02:52 | URL | marco #MZf6kU0Y[ 編集]

Re: イギリスアンプ

はい、Pyeを忘れていましたね。それら以外にも、BBC に納品された物も沢山あるでしょうが、使ったことがないので除きました。Tannoy アンプも・・・キリがないですね、これも未使用なので。


>イギリスにも、すばらしいアンプたくさんあったようですね。

どの国のアンプも星の数ほど素晴らしい物はあり、むしろ良くないアンプを探すのが至難の技と思います。

マニアの人達は順位付けが好きなようで、どっちがいいという論調ばかりが溢れていますが、自分より能力の高い人が造ったアンプを前にしてそんなオコガマシイことはとてもできませんよね。
2010/02/17(水) 01:32 | URL | kaorin27 #-[ 編集]
http://kaorin27.blog67.fc2.com/blog-entry-148.html

http://www.asyura2.com/09/revival3/msg/683.html#c8

[リバイバル3] 伝説のデッカ デコラ 中川隆
9. 中川隆[7757] koaQ7Jey 2017年4月14日 19:38:37 : b5JdkWvGxs : DbsSfawrpEw[8247]

デッカ・デコラの音 その1 2010/7/7(水)

http://blogs.yahoo.co.jp/rchpp904/GALLERY/show_image.html?id=33355764&no=0

DECCA デコラと云えば、一度は聴いてみたい幻のオーディオです。その音を聴きたくて、昨日はSさん宅を訪問しました。

デコラは、1963年秋に五味康祐が英国で聴いて、即座に購入を決めたほどの逸品。

五味は、≪音そのものはむしろ渋く、渋すぎるほど音の鳴り方も控え目で、ふと耳にした時はなんとなく鬱陶(うっとお)しい。けっしてテレフンケンそれのようにパッと、目のさめる明るい音ではない。しかしよく聴きこめば細部の細やかな音の美しさ、折り目正しい各楽器の的確な音色の再現、とうていテレフンケンの比ではない。≫と語っていました。

はたしてそんな音なのかどうか?実際聴いてみなければ話になりません。オーディオ評論家の話ほど当てにならないものはない。だいたい評論家はそれで飯を食っている。飯を食わすスポンサーがいるわけです。えてして、さりげなくスポンサーの肩入れをするPRを、批評の中に紛れ込ませる技がある評論家ほど売れっ子なのです。

3日に亡くなっていた京大名誉教授の梅棹忠夫さんは≪大事なのは独創や。本はなあ、他人の考えたカスが載ってるだけや≫と、人の権威や、孫引きに頼るのを戒めていました。
五味はオーディオを趣味とする作家でした。しかし、オーディオ評論でも飯を食っていたのだから、権威をそのまま信じるわけにはいかない。自分の耳で聴いてみたい。

そのデコラの音を確認する機会がやってきたのです。S氏邸は、わが家から自転車で10分ほど、同じ国立市内にある。新築されて間もない2階のオーディオルームにデッカはさりげなく置かれていました。
http://blogs.yahoo.co.jp/rchpp904/33355764.html

デッカ・デコラの音 その2 2010/7/7(水)

http://blogs.yahoo.co.jp/rchpp904/GALLERY/show_image.html?id=33355766&no=0


デコラの気品ある家具調仕立てのコンソールボックスには、2台の真空管パワーアンプ(EL34プッシュプル)が内蔵され、それを制御するプリアンプ、入力にFMレシーバー、レコードプレーヤーが納められている。

左右のスピーカーは4分の1のアールを描き、その前面を何とも渋いモスグリーンと云うよりも濃いターコイズのネットと格子上の真鍮で覆われている。
スピーカーボックスには、楕円形のウーハー、左右12個のツイターが方向を変えて配置されています。ステレオ用ですが、スピーカーの向きはセンターに向いておらず、聴衆に向かって扇形に開いた状態で配置されていたのです。

それはちょうど、扇形に開いた観客席に向かって音が拡散されていくのを想定された設計で、設計者が耳で聴き込んでスピーカー取り付け位置を微妙に変化させるものでした。
スピーカーと正面で正対する現在のオーディオとは異質の設計思想に思われます。このユニットが生産されたのは1961年。ステレオLPが発売されて4年ほどたった時代です。

初期のデコラはモノラル用に開発されたようですが、これはステレオ時代のLPを聴くために、レコード会社のメンツにかけて生産された特注品です。オーディオ・メーカーが、量産目的で作ったものではなく、専門メーカーに外注したものをデッカがアッセンブルしたものです。
キャビネットは家具屋さん。スピーカーは英国EMI。ターンテーブルはCOLLARO。カートリッジとアームはデッカ。
イギリスのレコード界では、EMIと並ぶレコードメーカーのDECCAが、自社のレコードを聴かせるために作らせた家庭用オーディオの最高機種。それがデコラでした。

勧められるままに、正面のかぶりつき席に陣取り、英国デッカのレコードから試聴を始めました。五味康祐ほどの表現力もない私が、この音をお伝えするのは不可能です。ですが、五味の評論はおおむねデコラを聴いた者の共感をえると確信しました。

今のオーディオが求める方向とは異質な音です。高域も低域も伸びているわけではなく、PS時代の蓄音器の名機クレデンザの音域をふくよかに広げた感じ。腹に響くドスンドスンと云う音もなく、超音波に迫る高域を追及する野心もない。それでいてふわっと音像が空間に広がって漂う感じ。

ボリュームを上げなくても、なんとも心地良く響くよい音色・・・・デジタル時代のオーディオとは隔絶された音です。人の感性だけで作り上げたアナログの音が鳴っていました。
http://blogs.yahoo.co.jp/rchpp904/33355766.html

http://www.asyura2.com/09/revival3/msg/683.html#c9

[議論31] 日本の対米・完全独立に関する論考集 仁王像
9. 中川隆[7758] koaQ7Jey 2017年4月14日 23:54:14 : b5JdkWvGxs : DbsSfawrpEw[8248]

米・麦・水 〜外国が日本人の命を握るカウントダウンが始まった


米、麦、大豆、水。日本人が日々の食生活で当たり前のように口にしているものが、ある日を境に水道代や米が高騰し、買えるものはほぼ遺伝子組み換えの食材しかない、という世の中になったらどうしますか?

今まで国(行政)がコントロールしてきた国民のライフラインである水と種子が、今まさに国の手を離れ、民間によるビジネスが始まろうとしています。

メディアは全くスルーし、国民の認知のないまま進行している「農作物種子法廃止案」「水道法改正案」。多くの国民は何も知らぬまま、この国が進めている日本の食の大転換期はもうそこまできています。



『農作物種子法廃止案』の驚きの実態とは?

よく民間にできるものは、民営化バンザイとか、グローバリズム歓迎とかアンチ行政の風潮がありますね。

とんでもない!

国の1番大事な仕事は自国民の安全を守ることです。だから、常に安全と安定が保証されてなくてはならない水や食のライフライン分野は国が管理しなくてはいけないんです。

知ってましたか?農林水産省はしれっと「主要農作物種子法を廃止する法案」を国会に提出し、3月に衆議院農林水産委員会が可決しちゃいました。

メディアがくだらない政治の金の問題に集中し、頼りにならない野党もその土俵に上がって次元の低いやりとりに明け暮れている中、大事なこの法案のことは与野党でほぼスルーする今の政治の現状を深刻に受け止めないと本当にマズイ、危機的状況まで来ているのです。

この流れで近いうちに廃止法案化され、いよいよ始まってしまいす。民間任せによる恐怖の種子ビジネスが。

整理しますと、そもそもこの「主要農作物種子法」というのは、戦後間もない昭和27年に国・都道府県が主導して、優良な種子の生産・普及を目指し、行政による稲、麦、大豆の国民への安全・安定供給を目的として種子のコントロールをしてきました。

この法によって都道府県は、原種の生産や種子生産工場の指定、種子の審査制度などの安全・安定と価格管理システムの役割を担って今に至っているのです。

しかし、国は「民間による競争力をあげるため、この法を廃止する」と方向転換をしたのです。

種子の不足や新種子の品種参入が競争の妨げになっているという説明は農林水産省からはないままです。なぜか?

この方向転換の意味は簡単です。外資のビジネス参入障壁が実質なくなるための法案作りです。特に種子ビジネスは、世界的に農業への遺伝子組み換え(GM)作物を推し進めているシェアNO.1のモンサント社の出番になる準備が整ってきたと言えるでしょう。

多くの人は認識していませんが、大豆の70%は米国輸入に頼っており、主に遺伝子組み換え(GM)大豆が油などに形を変え、もう既に大量に日本人の口に入っています。

それが今後は堂々と食用大豆に加え 、稲や麦などにも広がってくる可能性があるんです。毒素成分いっぱいの除草剤ラウンドアップとセット販売されるモンサント種子。自然界では存在しない植物遺伝子を操作されて誕生した不自然な食物たち。

価格競争力で勝る大量生産体制の安いモンサント種子が市場に出回り、安全安心で価格の安定した食材が減ることを示唆しています。

『水道法改正案』で日本の水の供給が外国の手に!?

images.jpg
そして次には「水道法改正案」です。これもしれっと3月に閣議決定がなされてしまいましたね。

日本のように水道水を全国どこでも飲むことができる国は世界中で11カ国しかないといわれています。

その水道法の民営化は、外国企業の参入を可能にするのです。水道事業のメジャーであるヴェオリア(仏)では、ヴェオリア・ジャパン株式会社が水道事業に民間参入できるよう準備を進めているでしょう。

では実際、水道事業が民営化された海外では何が起きたのでしょうか?

「ブルーゴールド(著:モード・バーロー)」より一部抜粋    
・フランス
利用者の負担が150%増加。政府発表では民営化以後に500万人以上の飲み水が汚染されたという。

同国の大手水資源企業2社に関し、経営者が汚職に関与しているとの告発があり、裁判所が過去10年にわたり調査を行っている。

・英イングランド地方
水が民営化されてから6年間で水供給会社の利益が692%増加している一方、利用者の料金は109%値上がりした。例として、ノースウエスト・ウォーター社の最高金額の重役の給与は708%上がった。

値上がりの結果、上水道を解約した利用者の数は民営化以後50%増加、イギリス医療協会は人々の健康を脅かしていると警告している。
          
・シドニー
水道料金は4年間で2倍に上がった。高レベルのジアルディア属とクリプトスポリジウム属の寄生虫が含まれていたが、住民側には知らされなかった。

・フィリピン マニラ
世界銀行によって、ベクテル社とスエズ・リヨネーズ・デゾー社の地域に分けられ、低料金を維持すると公言していたが、数ヶ月後アジア通貨危機による減収を補うため大幅値上げされた。


さてさて、国は、本当に日本国民の事を考えてこうした法案を通していると思いますか?
なぜこんな大事なことをメディアは大きく取り上げないのでしょうか。
これこそ、内閣総辞職をして国民の審判を仰ぐ選挙をすべきレベルの大事な問題です。

水も種子も人間が生きてく上で、最も大事なライフラインなのに国が管理せずに自国民の安全と安定供給を一体誰が保証できるのでしょうか。

もしあなたが村生活をしているところに、いきなり外国の人たちがやってきて「これから我々が水の管理と稲や作物などの種子管理をします。」と言われたら、村を乗っ取られたと思いませんか?

日本は一体どこに向かおうとしているんでしょうか…。
http://shinhakken-blog.seesaa.net/article/448817821.html
http://www.asyura2.com/13/dispute31/msg/464.html#c9

[外国人参政権・外国人住民基本法01] トヨタの為に毒塗オレンジを食べさせられている日本人 _ 日本を農業の無い国にして良いのか? 中川隆
69. 中川隆[7759] koaQ7Jey 2017年4月14日 23:55:00 : b5JdkWvGxs : DbsSfawrpEw[8249]

米・麦・水 〜外国が日本人の命を握るカウントダウンが始まった


米、麦、大豆、水。日本人が日々の食生活で当たり前のように口にしているものが、ある日を境に水道代や米が高騰し、買えるものはほぼ遺伝子組み換えの食材しかない、という世の中になったらどうしますか?

今まで国(行政)がコントロールしてきた国民のライフラインである水と種子が、今まさに国の手を離れ、民間によるビジネスが始まろうとしています。

メディアは全くスルーし、国民の認知のないまま進行している「農作物種子法廃止案」「水道法改正案」。多くの国民は何も知らぬまま、この国が進めている日本の食の大転換期はもうそこまできています。



『農作物種子法廃止案』の驚きの実態とは?

よく民間にできるものは、民営化バンザイとか、グローバリズム歓迎とかアンチ行政の風潮がありますね。

とんでもない!

国の1番大事な仕事は自国民の安全を守ることです。だから、常に安全と安定が保証されてなくてはならない水や食のライフライン分野は国が管理しなくてはいけないんです。

知ってましたか?農林水産省はしれっと「主要農作物種子法を廃止する法案」を国会に提出し、3月に衆議院農林水産委員会が可決しちゃいました。

メディアがくだらない政治の金の問題に集中し、頼りにならない野党もその土俵に上がって次元の低いやりとりに明け暮れている中、大事なこの法案のことは与野党でほぼスルーする今の政治の現状を深刻に受け止めないと本当にマズイ、危機的状況まで来ているのです。

この流れで近いうちに廃止法案化され、いよいよ始まってしまいす。民間任せによる恐怖の種子ビジネスが。

整理しますと、そもそもこの「主要農作物種子法」というのは、戦後間もない昭和27年に国・都道府県が主導して、優良な種子の生産・普及を目指し、行政による稲、麦、大豆の国民への安全・安定供給を目的として種子のコントロールをしてきました。

この法によって都道府県は、原種の生産や種子生産工場の指定、種子の審査制度などの安全・安定と価格管理システムの役割を担って今に至っているのです。

しかし、国は「民間による競争力をあげるため、この法を廃止する」と方向転換をしたのです。

種子の不足や新種子の品種参入が競争の妨げになっているという説明は農林水産省からはないままです。なぜか?

この方向転換の意味は簡単です。外資のビジネス参入障壁が実質なくなるための法案作りです。特に種子ビジネスは、世界的に農業への遺伝子組み換え(GM)作物を推し進めているシェアNO.1のモンサント社の出番になる準備が整ってきたと言えるでしょう。

多くの人は認識していませんが、大豆の70%は米国輸入に頼っており、主に遺伝子組み換え(GM)大豆が油などに形を変え、もう既に大量に日本人の口に入っています。

それが今後は堂々と食用大豆に加え 、稲や麦などにも広がってくる可能性があるんです。毒素成分いっぱいの除草剤ラウンドアップとセット販売されるモンサント種子。自然界では存在しない植物遺伝子を操作されて誕生した不自然な食物たち。

価格競争力で勝る大量生産体制の安いモンサント種子が市場に出回り、安全安心で価格の安定した食材が減ることを示唆しています。

『水道法改正案』で日本の水の供給が外国の手に!?

images.jpg
そして次には「水道法改正案」です。これもしれっと3月に閣議決定がなされてしまいましたね。

日本のように水道水を全国どこでも飲むことができる国は世界中で11カ国しかないといわれています。

その水道法の民営化は、外国企業の参入を可能にするのです。水道事業のメジャーであるヴェオリア(仏)では、ヴェオリア・ジャパン株式会社が水道事業に民間参入できるよう準備を進めているでしょう。

では実際、水道事業が民営化された海外では何が起きたのでしょうか?

「ブルーゴールド(著:モード・バーロー)」より一部抜粋    
・フランス
利用者の負担が150%増加。政府発表では民営化以後に500万人以上の飲み水が汚染されたという。

同国の大手水資源企業2社に関し、経営者が汚職に関与しているとの告発があり、裁判所が過去10年にわたり調査を行っている。

・英イングランド地方
水が民営化されてから6年間で水供給会社の利益が692%増加している一方、利用者の料金は109%値上がりした。例として、ノースウエスト・ウォーター社の最高金額の重役の給与は708%上がった。

値上がりの結果、上水道を解約した利用者の数は民営化以後50%増加、イギリス医療協会は人々の健康を脅かしていると警告している。
          
・シドニー
水道料金は4年間で2倍に上がった。高レベルのジアルディア属とクリプトスポリジウム属の寄生虫が含まれていたが、住民側には知らされなかった。

・フィリピン マニラ
世界銀行によって、ベクテル社とスエズ・リヨネーズ・デゾー社の地域に分けられ、低料金を維持すると公言していたが、数ヶ月後アジア通貨危機による減収を補うため大幅値上げされた。


さてさて、国は、本当に日本国民の事を考えてこうした法案を通していると思いますか?
なぜこんな大事なことをメディアは大きく取り上げないのでしょうか。
これこそ、内閣総辞職をして国民の審判を仰ぐ選挙をすべきレベルの大事な問題です。

水も種子も人間が生きてく上で、最も大事なライフラインなのに国が管理せずに自国民の安全と安定供給を一体誰が保証できるのでしょうか。

もしあなたが村生活をしているところに、いきなり外国の人たちがやってきて「これから我々が水の管理と稲や作物などの種子管理をします。」と言われたら、村を乗っ取られたと思いませんか?

日本は一体どこに向かおうとしているんでしょうか…。
http://shinhakken-blog.seesaa.net/article/448817821.html
http://www.asyura2.com/09/gaikokujin01/msg/518.html#c69

[近代史02] 株で損した理由教えてあげる 中川隆
469. 中川隆[7760] koaQ7Jey 2017年4月15日 00:33:35 : b5JdkWvGxs : DbsSfawrpEw[8250]

ビル・グロス氏: 米国株もジャンク債も高過ぎる、経済成長は過去のもの2017年4月14日
http://www.globalmacroresearch.org/jp/archives/6066


債券王ビル・グロス氏がトランプ相場で株高、金利高となった金融市場に警鐘を鳴らしている。

•ガントラック氏: オバマケア代替法案が否決なら米国株急落へ
http://www.globalmacroresearch.org/jp/archives/5903


もう一人の著名債券投資家ガントラック氏もトランプ相場の巻き戻しを予想しているように、金融市場はトランプ政権の政策実行能力を疑問視し始めているなか、グロス氏はより長期的な視点から警告している。

長期停滞論再び

グロス氏がJanus Capitalの月間投資レポート(原文英語)で主張するのは、今の先進国経済から以前のような高い経済成長や高いリターンを得ることは出来ないということである。これはトランプ相場以前、ほとんどすべての著名ファンドマネージャーの共通認識であった長期停滞論である。

•元米国財務長官ラリー・サマーズ氏が長期停滞論とは何かを語る
http://www.globalmacroresearch.org/jp/archives/2489


グロス氏はこう語る。


株式市場はあまりに多くを期待しており、ジャンク債はあまりに高い経済成長を織り込んでいる。こうした資産価格は人工的なものであり、過去6年かあるいはリーマンショック前のようなリターンを今後も得られるという先入観に影響された投資家が、その水準を妥当だと信じているに過ぎない。

では、現在の金融市場がどうなっているのか、もう一度長期的な水準を見てゆこう。先ずは株式市場だが、トランプ相場に疑念が生じているにもかかわらず、市場最高値付近で推移している。


http://www.globalmacroresearch.org/jp/wp-content/uploads/2017/04/2017-4-14-s-and-p-500-long-term-chart.png

そして次にジャンク債である。以下はジャンク債を集めたETFのチャートとなる。


http://www.globalmacroresearch.org/jp/wp-content/uploads/2017/04/2017-4-14-ishares-iboxx-high-yield-corporate-bond-etf-nysearca-hyg-chart.png

より重要なのは利回り(つまり金利)だが、この価格水準で利回りは5%程度となっている。

倒産のリスクが大いにある債券のETF(つまりは寄せ集め)の5%という利回りの絶対値そのものを、高いあるいは低いと厳密に評価するのは現実的ではない。その中にはリスクの異なる様々な企業の債券が含まれているからである。

しかし、ジャンク債ETFが主に米国のシェール企業の発行する高利回り債で構成されることを考えれば、このETFの株価が2010年から2015年までの水準に肉薄することが不自然であるということは、次のチャートを見れば明らかである。


http://www.globalmacroresearch.org/jp/wp-content/uploads/2017/04/2017-4-14-wti-crude-oil-price-long-term-chart.png

つまりは原油価格である。

各社の決算を見れば明らかだが、シェール企業の財務状況は、回復しない原油価格によって引き続き圧迫されている。にもかかわらず、ジャンク債の水準は原油暴落以前の水準に近づいているのである。

•トランプ政権が超長期債発行でジャンク債は暴落する
http://www.globalmacroresearch.org/jp/archives/5069

結論

何度も言うように、株高の主な要因はトランプ大統領の約束した法人減税である。法人税が低くなれば、その分だけ利益が増える。したがって株価も上がる必要があるということである。

•世界最大のヘッジファンド: トランプ相場で株価上昇は完全に論理的
http://www.globalmacroresearch.org/jp/archives/5261


一方で、トランプ政権の提案する法案が議会を通っていないため、そうした政策の実現可能性が疑われている。

•ガントラック氏: オバマケア代替法案が否決なら米国株急落へ
http://www.globalmacroresearch.org/jp/archives/5903


事実、トランプ大統領は一度断念した保険制度改革にもう一度取り組むために、減税を後回しにする方針を明らかにした(Fox、原文英語)。以下はトランプ氏の発言である。


保険制度を改善すれば膨大な額のお金を節約出来る。優れた保険制度を実現し、浮いた資金で税制改革に着手する。そうしなければ減税に回す資金を得られない。

多くの投資家は減税が後回しになったと警戒しているが、必ずしもそうとも限らない。シリア攻撃で政権内の勢力を入れ替えたことで、オバマケアをめぐり対立していた共和党保守派との和解の目処が立ったということかもしれない。

•娘のイヴァンカ氏、トランプ大統領にシリア攻撃を指示、反対した「極右」バノン氏は左遷へ

しかし、減税の実現がどの時期になるとしても、これまで言及してきた通り、米国株は「選挙公約から政策実現までの空白期間」の試練を受けなければならない。政策の似ているレーガン政権の時には、それは株価暴落を意味したというのは、以下の記事で説明した通りである。

•レーガノミクスで減税と公共事業は高金利の悪影響に勝てなかった
http://www.globalmacroresearch.org/jp/archives/5118


http://www.globalmacroresearch.org/jp/wp-content/uploads/2016/12/early-1980s-s-and-p-500-chart.png

1981年から1982年にかけての時期がレーガン政権の「空白期間」である。

だからトランプ大統領は今になって「ドルは高くなり過ぎた」(Reuters、原文英語)「正直に言えば、低金利政策が好きだ」(Washington Post、原文英語)などという発言をしたのだろう。

しかし大統領が金融政策に影響力を行使できるのはFed(連邦準備制度)の議長の任命という点のみであり、同時に「イエレン議長を尊重する」と発言している点を踏まえれば、実質的には現状維持を支持したということになる。

恐らくは、この低金利発言は、レーガノミクスの時のような期待剥落による株価急落という事態を恐れてのリップサービスだろう。ファンドマネージャーで大統領の友人のジョン・ポールソン氏かカール・アイカーン氏あたりが市場参加者の不安を大統領に吹き込んだのだろう。

•トランプ氏勝利で大儲けしたヘッジファンド運用者たち
http://www.globalmacroresearch.org/jp/archives/4727


http://www.globalmacroresearch.org/jp/archives/6066
http://www.asyura2.com/09/reki02/msg/428.html#c469

[リバイバル3] 名古屋 名曲喫茶フィガロ と ジャズ喫茶 Days 中川隆
14. 中川隆[7761] koaQ7Jey 2017年4月15日 01:31:33 : b5JdkWvGxs : DbsSfawrpEw[8251]

Klipsch氏は日本ではあまり有名ではないが、1940年にコーナーホーンを特許申請し、1935年に J.B.Lansing 氏が開発したシェラーホーンとは違い、家庭用で劇場並の迫力ある低音再生を可能にしたもの。

この方式の面白さは、低音再生を強制的な電気増幅や共振ではなく、実物大のアコースティックな響きで解決した結果、大容量のホールの感覚に近い空気感が得られるところにある。(逆に言えば、クラブ・ジャズのようなタイトな低音とは異なる) 

英米のスピーカー製造における Klipsch 氏の影響力は非常に大きく、1940〜50年代においてどのメーカーもコーナー型バックロードホーンが最も高級機種として羽振りをきかせていた。

ちなみにアメリカン・タンノイと呼ばれる機種は、米国で Klipsch氏の特許があるので販売できなかったため製造されたもの。

コーナーホーンの多くが日本で有名ではない理由は、ひとつは家屋の規模の問題、もうひとつは物品税が高価なため、システムでのスピーカー輸入が阻まれた結果、バラ売りユニットの性能だけが幅を効かせて、エンクロージャーの性能まで思いが及ばなかったからであろう。
http://quwa.fc2web.com/Audio-103.html#radio
http://www.asyura2.com/09/revival3/msg/659.html#c14

[リバイバル3] 湯沢町の共同湯は日本国内の温泉の中で最低最悪 中川隆
42. 中川隆[7762] koaQ7Jey 2017年4月15日 08:26:14 : b5JdkWvGxs : DbsSfawrpEw[8252]

川端康成『雪国』に出て来る『芸者』というのは今の温泉コンパニオンの事

恐怖の置屋


温泉コンパニオン裏事情、「置き屋」の非道な理不尽さ…被告が母を刺したワケ

2009年10月20日から3日間、甲府地裁(渡辺康裁判長)で開かれた殺人未遂事件の山梨県で初となる裁判員裁判を傍聴した。無理心中をしようと実母(87)を果物ナイフで刺し、軽傷を負わせたとして、山梨県甲州市の無職の男性被告(60)に懲役3年、執行猶予5年(求刑懲役5年)の有罪判決が言い渡された。法廷では、被告が犯行に至った背景の1つとして、温泉街でコンパニオンとして働いていた長女が科された理不尽な“借金地獄”が明らかになった。


 借金地獄っていったいどんな?

被告は、長女がコンパニオンをした約7年間にたまった罰金のうち600万円以上を支払い、長女が金融機関から借りた300万円の連帯保証人にもなった。それでも置き屋側から、借金がなお1000万円近く残っていると主張されたという。

 どう考えてもコンパニオンの収入より多くの借金になるシステムはおかしいんじゃない?その時点で辞めて他の仕事すれば良いのでは??

勤め先の置き屋(コンパニオンを派遣する事務所)の不合理な“罰金制度”で莫大な借金を負わされ、親である被告自身も返済に追われていた実態が明らかにされた。
「遅刻1回で数万円、客と個人的に会えば1回50万円以上の罰金が科された」
といった事情が説明されると、一般から選ばれた裁判員は被告の心中を推し量り、幾度も涙をぬぐった。
 うーん?給与以上の罰金を従業員には科せられないでしょうに、法律を知らない無知に付け込むのは良くないなぁ
http://blog.livedoor.jp/movenews/archives/528188.html


長女が勤めていたのは山梨県笛吹市にある東日本有数の温泉街、石和温泉。
地元で尋ねてもこの置き屋の評判は芳しくなかった。

 新興住宅地にたたずむ外観はほかの一般住宅と変わらない。 近所で聞くと、女性が昼間、電話でコンパニオンとおぼしき話し相手を怒鳴りつける声が響くこともあり、石和温泉の事情を知る関係者によれば置き屋側はコンパニオンの親の職業を調べ、罰金を肩代わりさせたケースがほかにもあったという。

 また、この置き屋は、別の置き屋のコンパニオン不足を補う“孫請け”もしていた。

 客が払った料金が1時間で1万2千円なら、このうち5千円が最初の置き屋、次に自分たちの懐に7千円が入り、この半分の3500円がコンパニオン自身の手元に入る仕組みという。

  ‥ この関係者によると、コンパニオンの手取りは13万円ほど。以前は寮に住み込みで働く人も少なくなかったが、今はアパートなどを借り、昼間はアルバイトやパートに出る人も多い。
外見の派手さと裏腹に「生計を立てるのはしんどい。意外ともうからない仕事」という。

  ‥ ただ、長女が勤めた置き屋は観光協会の正規会員でもあった。
  
 被告は、長女がコンパニオンをした約7年間にたまった罰金のうち600万円以上を支払い、長女が金融機関から借りた300万円の連帯保証人にもなった。それでも置き屋側から、借金がなお1000万円近く残っていると主張されたという。

 長女の窮状を知った被告は、相談した警察や弁護士から「返済する必要はない」と助言されていたが、法廷では

「取り立てで自宅に居座られたり、職場近くで待ち伏せされたりした。理屈の通らない相手で金を渡すしかなかった」

と訴え、

「心中を図ることで、置き屋の実態を警察などが追及してくれると思った」

と、追い詰められた当時の心境を口にした。

 これは明らかな人権問題ですよ。この罰金制度というものは犯罪ですよ。

これは置屋の裏側に地方の暴力団が居て、法外な借金の強制取立てに暴力団に属する若いもんみたいなのが乗り込んで、脅しや騒音、住居侵入、あるいは暴行傷害までも、犯罪を行っているのだろう。

 警察は完璧には守ってくれないもんなあ。警察が何処まで守ってくれるか、だけど。脅迫も住居侵入や不法滞在も暴行も、現行犯逮捕だろうし、警察は注意や警告には行ってくれるのかも知れないけど、四六時中パトロールして見ていてくれる訳ではないし。暴力のプロの脅しは本当に怖いものだと思う。

 こういう場合どうしたらいいんだろう?

夜逃げで遠くまで逃げるしかないのか?子供が居たら大変だしな。やっぱり警察力だよなあ。警察が本腰で取り組んでくれないと。暴力から、市民を本気で絶対に守ってくれないと。 だって相手は平気で、

自殺して保険金で払え、とか
死んで自分の臓器で払えとか、

を普通に言えるような輩たちでしょう。人間を牛とか羊とかと同じように見れるような人間たちでしょう。イザとなれば血も涙もない人でなしにいつでも簡単になれる残酷な人間たちでしょう。金のためなら人間が何人死のうが知ったこっちゃない冷血な人間たちでしょう。そういう人間の集団なんだ。

 これはしかし、地元の観光協会も厳しくチェックしてないと駄目だよなあ。本当に人権問題だよ。地元だからっていうナアナアさ、とか見て見ぬふりとかあるんじゃないかなあ。置屋のバックに地元暴力団の影とか見えれば面倒なことに関わりたくないからとか、そういう怠慢さがあるんじゃないかなあ。観光協会とかは何処がチェックするんだろう?こういうことはチェック機能をきちんと作ってもらわないと困るよなあ。すぐに警察が連動するように、とかさ。

 こういうケースなど人権問題には、チェック機能を完備して、暴力にはすぐにいつでも警察が対処・解決出来るように、ちゃんとしてもらいたい。どんな人でも犯罪からは警察は絶対に守らないといけません。

 それにしてもこの置屋は取り調べたのかなあ?官権は、犯罪置屋やその犯罪加担関係者たちを一緒に取り調べて検挙してもらわないと困るよなあ。この置屋関係を法で裁いて、こういう悪いものをなくしてしまわないと何にもならないじゃん。
http://blog.goo.ne.jp/naojiixx88/e/1e9b6fb25531b7fed8037e0d0917c9ad


【社会】温泉コンパニオン裏事情、「置き屋」の非道な理不尽さ…被告が母を刺したワケ

17 : 名無しさん@十周年 : 2009/10/25(日) 15:45:37 ID:UV7v0O0mO [1回発言]

めちゃめちゃキツイ罰金やな
借金しに行くようなもんだわ

185 : 名無しさん@十周年 : 2009/10/25(日) 16:32:16 ID:Zx9rqq5MO [1回発言]

ソープやヘルスと全く同じじゃん
仕込みの客にクレームを言わせ罰金100万円とかな

162 : 名無しさん@十周年 : 2009/10/25(日) 16:25:59 ID:Q+LonIEjP [2回発言]

「個人的に会うと罰金50万円以上」っていうのは、
宴会の後に管理の下で売春するのはいいけど、男との駆け落ちにつながるような男女交際はNGってこと?


171 : 名無しさん@十周年 : 2009/10/25(日) 16:28:01 ID:MiBsOUna0 [7回発言]
>>162
まあそうだね。
外から知恵つけられるから逃げられない為にだな。

214 : 名無しさん@十周年 : 2009/10/25(日) 16:39:05 ID:w+sPlnFE0 [18回発言]
>>162
店の管理下で見つけた客との間で、個人的に連絡取り合っての売春やられると店が儲からない。そんな事を全ての嬢にやられたら店潰れるからそれを防ぐための釘刺し
まぁ、嬢あっての商売なんだから、フツーは借金にしたりしないわな。ましてや1000万も。
暴力背景で嬢も客も食い物にしてる頭悪いヤクザだろ
心中考えるくらい追い詰められる前に法に訴えとくべきだった

570 : 名無しさん@十周年 : 2009/10/25(日) 19:26:39 ID:7DwKA9a6O [1回発言]

酒の相手した後、売春じゃねーの?
宿泊施設で宴会してんだし。
個人的に会ったら罰金ってのは店のピンハネ逃れて直接営業したペナルティだから高額なのでは?

602 : 名無しさん@十周年 : 2009/10/25(日) 19:46:53 ID:vj9TJob0O [2回発言]
>>570
宴会の後は頼むとセックス出来ますよ。
大体5〜6万円位かな、高くつくよ、
俺は仲間と2人連続だからと、2人で4万に値切った


273 : 名無しさん@十周年 : 2009/10/25(日) 16:54:51 ID:UTKjZutgO [4回発言]

温泉コンパニオンて、宴会後の延長料金を個人客からとるんだよね
友人が話してたな
宿の外のラブホに連れ込むんだとか本番もやるんだね
それを事務所が巻き上げる

296 : 名無しさん@十周年 : 2009/10/25(日) 17:00:24 ID:t2j+aS0YO [3回発言]

個人的に逢っていた=置屋に金を納め無いで売春していた
だから見せしめって事
つーか理不尽な取り立てなんて警察行って洗いざらいぶちまけるしか無いんだが
娘が駄目駄目だから行けなかったんだろ

769 : 名無しさん@十周年 : 2009/10/25(日) 23:12:37 ID:hIMt4Bd+O [1回発言]

水、風俗、コンパニオン全てに、こんな感じの罰金があるけど払う必要がないんだけどね、、、

っていうか、娘さんは遅刻の常習で、個人営業をしてしまうので、見せしめで罰金つけられたんだろうね。 外で個人的に客に会ってしまったら、置き屋は商売にならんから、脅しで罰金を課すだろうね。

852 : 名無しさん@十周年 : 2009/10/26(月) 01:55:25 ID:c/5KgdER0 [5回発言]

個人的に商売されたり入れ知恵されたり連れ出されるのを防ぐためじゃね?
多分コンパニオン単体の給与は低くてその後の売春で少し給料が増えるシステム


901 : 名無しさん@十周年 : 2009/10/26(月) 09:34:41 ID:1msBdZwO0 [2回発言]

温泉街のコンパニオンは殆どオプション有りだろ(本番)
女は置き屋に金払いたく無いから
個人的に商売するから置き屋は罰金を厳しくしてる

104 : 名無しさん@十周年 : 2009/10/25(日) 16:11:40 ID:MiBsOUna0 [7回発言]

実際の風俗とかってさ わけのわからん金を嬢からとるよね。
店員のボーナスを在籍嬢から何万づつとか雇用保険とかはいってないのに月3万とか。
それがおかしいって気がつかないヤツもいるけど そこやめて他にいくとこないからしかたなくやるやつ、いろいろいるけど、こういうのはヤクザより素人の方がえぐいことやってる。

18 : 名無しさん@十周年 : 2009/10/25(日) 15:45:39 ID:qFZ7uj6E0 [6回発言]

最初に、強制的に借金背負わされて働かされるんだよね。
で、いつまでも逃げられないよう、こうやって罰金でがんじがらめに。

330 : 名無しさん@十周年 : 2009/10/25(日) 17:07:27 ID:qL8jkdLB0 [21回発言]

>時がたつほど借金が増えるシステム
これはおかしいよね
まあそうやって辞めさせないってのがやり方なんだろうけど

116 : 名無しさん@十周年 : 2009/10/25(日) 16:14:44 ID:wS2bjA20O [1回発言]

退職したら罰金一億とか子供みたいなルールがまかり通るのが裏社会
夜逃げするか女将を殺すかの二択しかない人生

561 : 名無しさん@十周年 : 2009/10/25(日) 19:19:47 ID:FRiFgOxI0 [3回発言]

借金でここに沈められたんだろ 893に借金した時点で終わってる

38 : 名無しさん@十周年 : 2009/10/25(日) 15:50:44 ID:X9ZuxHD+O [3回発言]

最初から借金が有る奴が放り込まれる、タコ部屋の一種だよ


53 : 名無しさん@十周年 : 2009/10/25(日) 15:54:59 ID:DdLYxDK20 [3回発言]
>>38
でまた借金負わせてずーと逃げられないようにするためか。
生活保護の馬鹿加算とかやってないで、こういうのに力貸せよ弁護士ども、

76 : 名無しさん@十周年 : 2009/10/25(日) 16:02:19 ID:MpaHDMNSO [1回発言]

現代のタコ部屋だな。 システムがタコ部屋そっくりだ。
軽い罰金制度なら今のキャバクラにも普通にあるよ。


430 : 名無しさん@十周年 : 2009/10/25(日) 17:47:26 ID:EXqKR/GtO [1回発言]

封鎖された世界なんだろうな。拉致被害者並みに自由がないんだろ

434 : 名無しさん@十周年 : 2009/10/25(日) 17:50:29 ID:1go/QBAk0 [1回発言]

マンガ「カバチタレ」の中で平成の人身売買というネタがあったけど、
多分こういった温泉コンパニオンが元ネタだったんだと思う。
確かにタコ部屋みたいな描写のされ方してた。

824 : 名無しさん@十周年 : 2009/10/26(月) 00:40:16 ID:zEgr6BMaO [1回発言]

普通に女売り飛ばして温泉場で働かせるらしいしな
ペッパーが拉致った女を海外に売り飛ばしてた疑惑あったが あながち噂じゃなかったりして

847 : 名無しさん@十周年 : 2009/10/26(月) 01:44:04 ID:oVWMzxF90 [2回発言]

おそらくね、もんのすごい理不尽な「罰金」が増えていくんだと思うんだ。
それ以外にも「給料前借り」とかあると思われ。
結局、借金漬けにして身動き取れなくするのが、置屋の手口。


876 : 名無しさん@十周年 : 2009/10/26(月) 04:48:46 ID:gPeHs5ccO [2回発言]

定期的に着物作らせたりして、無理やり借金を作らせるらしい。
話聞いた時、時代錯誤すぎると思ったけど、理屈とか常識とかが一切通用せん世界もあるんやろな。

845 : 名無しさん@十周年 : 2009/10/26(月) 01:34:42 ID:BOxg4o+zO [1回発言]

ヽ(`Д´)ノ逃げたらブリブリの刑だよ

72 : 名無しさん@十周年 : 2009/10/25(日) 16:00:38 ID:CjPbfwYM0 [1回発言]

いわゆるマインドコントロールってやつだろうな
暴力的に追い込まれて逃げられない精神状態になる犯罪なんが史上ごまんとある


432 : 名無しさん@十周年 : 2009/10/25(日) 17:48:51 ID:wmjMN5MRO [24回発言]

逆にTバック水着とかは、こういうとこから逃げて来た人もいるだろ
裏で母子で地獄を見るより、表でケツふったほうがいい
晒したほうが命拾いする

766 : 名無しさん@十周年 : 2009/10/25(日) 23:10:32 ID:2RtFTxT90 [1回発言]

こういう借金でがんじがらめにして逃げられなくし、完全に奴隷化する手法は昔の日本では何処にでもありました。 いまでもアンダーグラウンドでは当たり前のように行われてます。貴方たちが大好きなエロ系は特にね。

773 : 名無しさん@十周年 : 2009/10/25(日) 23:15:03 ID:KOQOm79RO [18回発言]
>>766
ずっと疑問だったんだよ
東京だけで風俗店がどれくらいあるか知らないが風俗嬢の数って相当なもんだろ
なんでこんな大多数の女が、金の為に身体売ってるのかさ
やっぱそうだよな

871 : 名無しさん@十周年 : 2009/10/26(月) 04:36:34 ID:gPeHs5ccO [2回発言]

借金漬けにして抜けれなくするのは良く聞く。
ソープのがましだと思うよ。

13 : 名無しさん@十周年 : 2009/10/25(日) 15:43:28 ID:flHCQTHi0 [1回発言]

心中はかるくらいなら、労働基準局にたれこんでみたらいいのに
で、この長女は働いてえる稼ぎよりも、借金ができる方がひどいという仕事とはいえないものに、なんでずっと就職していたんだ?

998 : 名無しさん@十周年 : 2009/10/29(木) 23:59:54 ID:H9MUSMLn0 [1回発言]
>>13
他に仕事が無いから。 あのあたりの旅館に行くといっぱいいる。
この仕事、着く前は横浜にいて中学卒業の時に回されて妊娠して山梨の親戚の家に預けられて子供を生んだ。子供を育てなきゃいけないからこの仕事しかなかった。 今27歳で子供は小学校六年生…
と言う感じ

314 : 名無しさん@十周年 : 2009/10/25(日) 17:04:16 ID:ANIgHIZa0 [2回発言]

それでも富山あたりの知り合いのピンクコンパニオンいわく仕事あるだけでありがたいらしい。実際には国保も滞納しまくりが実情だから、まともなもん食ってないといってた

992 : 名無しさん@十周年 : 2009/10/29(木) 22:11:57 ID:IGD2nXuM0 [3回発言]

80年代でも、北陸地方の旅館で50、60のお土産売りのおばちゃんが夜には売春婦なのも当たり前だったようです。
5年くらい前、北陸から上京した若い娘が性産業で儲け父親に送金したって記事があった。 彼女は仕送りしたことを誇りに思ったらしいけど、父親は「自分のために使いなさい」って。
今も昔も地方は仕事が少なくて、上京して嫌なことするしかないという格差が残ったままなんですね。

3 : 名無しさん@十周年 : 2009/10/25(日) 15:38:19 ID:WQXoAwkq0 [2回発言]

京都の芸者も「お母はん」はこんなクズばっかりなのか

73 : 名無しさん@十周年 : 2009/10/25(日) 16:01:27 ID:MiYGtpi70 [1回発言]
>>3
京都は上客相手にするから、こんなえげつない手を使う必要無い。
客が取れなくて採算が取れない地方がこうやって囲い込むんだろ。

447 : 名無しさん@十周年 : 2009/10/25(日) 17:58:35 ID:Qm4M2YNH0 [3回発言]
>>73
いや、程度の差こそあれ似たようなもんだ。逃げられないようにする
ための縛りはむしろ祇園のほうがずっとえげつない。ま、日本の恥部だね。

651 : 名無しさん@十周年 : 2009/10/25(日) 20:07:42 ID:/RSqxPjI0 [1回発言]

15年以上前だが、京都の置き屋も問題になってたような。
あまりに酷い騒動環境に抗議して、芸妓さんが一斉蜂起してたっけ。
ニュースでも結構大きく取り上げられていたが、あの後どうなったんだろう。

655 : 名無しさん@十周年 : 2009/10/25(日) 20:09:49 ID:KnHQbKIl0 [4回発言]
>>651
京都の芸妓も基本人身売買の世界だよ。
元々が地方から娘買ってきて、出自がばれないように言葉作ってんだから。
今でも基本は変わってないみたいですよ。

21 : 名無しさん@十周年 : 2009/10/25(日) 15:47:05 ID:BwfYb+Tb0 [1回発言]

もともとそういう世界だからなあ
堕ちたら最後なあっち側


36 : 名無しさん@十周年 : 2009/10/25(日) 15:50:29 ID:xqYJia+sO [1回発言]

まあ何だかんだ適当な理由つけて借金負わせる世界だからな

139 : 名無しさん@十周年 : 2009/10/25(日) 16:20:17 ID:0cTf271K0 [1回発言]

明らかにおかしいけど、法の及ばない裏社会だからな


56 : m9('v`)ノ ◆6AkAkDHteU : 2009/10/25(日) 15:56:23 ID:Y0saskxA0 [21回発言]

給与の適正水準を超えた雇用者への罰金って、労働基準法違反じゃないの?
いくら相手が置屋でも、労基や警察に訴えればチャラに出来るよ。
知り合いのデリヘルの子に教えてあげたら、警察を通して150万回収できたし。


80 : 名無しさん@十周年 : 2009/10/25(日) 16:03:59 ID:oRTdADa50 [1回発言]

労基法的には労働者に遅刻や仕事上のミスで罰金等を科してもOKなの?


92 : m9('v`)ノ ◆6AkAkDHteU : 2009/10/25(日) 16:07:24 ID:Y0saskxA0 [21回発言]
>>80
調べてみたら、労働基準法第91条に以下の様にある。

・労使間で定めてた就業規則に明記してある
・1回の額が平均賃金の1日分の半額を超えないこと
・総額が1賃金支払期における賃金の総額の10分の1を超えないこと

45 : 名無しさん@十周年 : 2009/10/25(日) 15:52:29 ID:7t3xa4y/0 [1回発言]

法で一日の半分以上の罰金を科すことはできない。しかも明文化してないとダメだし、もちろん就業規則だから労働基準局に出さないとだめ。
この場合罰金はすべて帳消しにでき未払い給与としてすべて請求できる。
つまり貧困が生んだ貧困から搾り取るビジネス。奴隷ともいえる。

46 : 名無しさん@十周年 : 2009/10/25(日) 15:52:30 ID:N9RAocwF0 [1回発言]
莫大と言うほどの額までに借金が膨らんだという事は、遅刻を何回もしたり、客と何回も会ったりしたんだろうか
罰金科せられると分かっててやってんなら娘がバカすぎるわ

128 : 名無しさん@十周年 : 2009/10/25(日) 16:17:41 ID:iJAFB+SuO [17回発言]
>>46
何の問題もない事に難癖付けたりして、精神的に追い込んでいったんだろ
母子加算の税金泥棒なんかより、こういう人達を救うのが政治の仕事だろ
現代の日本にもこうした暗部がある

161 : 名無しさん@十周年 : 2009/10/25(日) 16:25:09 ID:iwWbBNxA0 [1回発言]

口約束の罰金だから、書面も何もない
もちろん法的拘束力も皆無
でも田舎の百姓はそんなことよくわからないし、
そもそもそういうところを経営してる人間ってのは地元民は逆らえないような事情があることが多い

449 : 名無しさん@十周年 : 2009/10/25(日) 17:59:10 ID:dUfvo39N0 [2回発言]

あんなぁー世の中道理が通らないことがあるんだよ。例えば親の借金なんて連帯保証人になってないなら、相続放棄すりゃ払う必要がないで。
ということも、通らない相手っているんだよ。で、警察も弁護士も親身になんてくれないなんてざら。法律の範囲内で、

「払う必要はない」
「無視してくたさい」
「脅されたりしたら連絡を」

とは言ってくれるが相手もプロだからね、ギリギリの範囲で追い詰めるし、正体さらさんような嫌がらせしたりな。

そうするともう夜逃げするしかないような事も多々ある。

今回の件がどういうレベルだったか知らないけど、おそらく普通に生きてきた庶民だと対抗できない連中だった可能性もあるよ。まじで同じ人間とは思えない思考だし、言葉通じないし。
借金もそう。普通は

カードローン → 消費者ローン → 闇金

と流れていくんだけど、はっきり言って闇金まで行くともう・・ね。
大手消費者ローンで決着つけるべきなんだけど、それができないとねぇ。


33 : 名無しさん@十周年 : 2009/10/25(日) 15:49:54 ID:MHiPnuDv0 [1回発言]

情弱の末路というしか無いな・・・
何も考えず言われるままに生きてたら他人に搾取されるだけという程度のこともわからんのだろうか?


423 : 名無しさん@十周年 : 2009/10/25(日) 17:44:25 ID:eUwQFKhxP [3回発言]

まぁこういう時に理不尽な要求にあっさり屈しては絶対駄目。
すぐに弁護士を立てて民事で争うべきだった。
今の日本は弱者を食い物にするのが横行してるから用心しないといかん。


99 : 名無しさん@十周年 : 2009/10/25(日) 16:09:56 ID:eAKPbVWW0 [1回発言]

典型的な債務奴隷だな。
弁護士か司法書士に駆け込めばいいのにそこまで知恵が回らない。
不憫やな。

107 : 名無しさん@十周年 : 2009/10/25(日) 16:12:18 ID:S97RJDXj0 [2回発言]
>>99
借金しててもうやばいくらいの人にはそういう法律家に相談する金銭的、時間的余裕もないのだよ。

169 : 名無しさん@十周年 : 2009/10/25(日) 16:27:53 ID:4Gh8r4tD0 [1回発言]
>>99
借金はそれだけで鬱を引き起こす力を持ってるから。
おまけに本人は隠したがる。
知恵が回らないというより、適切な行動がとれなくなるという感じ。
債務と無関係の第三者が介入しないと解決が難しい。


851 : 名無しさん@十周年 : 2009/10/26(月) 01:53:35 ID:NxbsFogE0 [5回発言]
こういうの、ちゃんと検査したら知的障害に当たるような子狙ってるから、目の前で一万円札ヒラヒラさせたらどんな契約書でも判おしちゃうんだよね。
で、その親も対して賢くないどころか、ギリギリか福祉の世話になるようなレベルで、

出来の悪い娘を預かってやっている、
娘が不始末しでかした、
責任取れって
いわれたら思いつめて今回みたいな事になっちゃう。 性善説とか嘘過ぎる現実がここにある。

572 : 名無しさん@十周年 : 2009/10/25(日) 19:28:30 ID:KnHQbKIl0 [4回発言]

元々管理売春させられるのはちょっと足りない子=軽い知的障害者が多いんだよ。

だから売春で逮捕される女性用に刑務所ってより更生施設の意味合いが強い場所があったりする。

馬鹿だから、不条理な契約も飲んで働くけど、すっかり忘れて毎日のように契約違反、借金の山、逃げられない、という構図が出来上がる。
ダメな女の子を厄介払いしたい場合、親や高校が温泉地行かせたりする。
すずか?しずか? って子殺しの人もそうだった。
あとこういう人の40代以降の受け皿は、昔は病院付き添い、今介護業界です。
義母の介護で雇っている住み込みお手伝いさんが馬鹿ばっかりで、ようやくまともな人に落ち着いたところ。


450 : 名無しさん@十周年 : 2009/10/25(日) 18:00:01 ID:SgxMxUqg0 [9回発言]

莫大な罰金ってのがワケわかめ
そこまで溜まるまでやらんだろ
頭の足りないねえちゃんを騙したのかw


454 : 名無しさん@十周年 : 2009/10/25(日) 18:03:19 ID:iJAFB+SuO [17回発言]
>>450
頭が足りないのは事実だろうけど、
追い詰められておかしくなった人間なんて皆そうじゃね


182 : 名無しさん@十周年 : 2009/10/25(日) 16:31:27 ID:fw/aoPlh0 [3回発言]

世間知らずが多いな
置屋の経営者がヤクザで、この一家は娘ともどもカタに嵌められてしまってるってことだよ
働かなければOKとかそういうことじゃない

94 : 名無しさん@十周年 : 2009/10/25(日) 16:09:17 ID:WHX+YR5K0 [2回発言]

普通に警察なり弁護士なりに相談すれば解決するのにヤクザに変な脅しかけられて洗脳されてるんだろうな。ヤクザなんて実際に警察が動いたらケツまくってすぐ逃げるのに

115 : m9('v`)ノ ◆6AkAkDHteU : 2009/10/25(日) 16:14:43 ID:Y0saskxA0 [21回発言]
>>105
今のヤクザは馬鹿じゃないよ。
監禁、恐喝、管理買春で逮捕されことを考えたら、そんな無茶な事なんてしないって。 こんな事をやる乗って、中途半端な素人だろ。

724 : 名無しさん@十周年 : 2009/10/25(日) 20:59:28 ID:rDGZQNZ/O [2回発言]
>>115
バカか? 現役ホストだ。
お前はヤクザは幹部クラス程暴れなくてい大人しいとでも思ってるだろ?
奴らは相手が報復に出ない(出れない)と値踏みすれば平気で暴れるしそういう環境を作るのがうまい。
常に腹の探り合いだ。

935 : 名無しさん@十周年 : 2009/10/27(火) 00:45:31 ID:eMz0AgV80 [1回発言]

違法だから無効って言ってるやつらお花畑すぎるだろ
法律なんか関係ない連中が相手
返さないならほんとに報復される しかも田舎だから警察もグル

210 : 名無しさん@十周年 : 2009/10/25(日) 16:38:44 ID:xqXjQGSW0 [3回発言]

やくざは地域に密着してるし、ターゲットが警察に駆け込まないようにいろいろ算段するし、おそろしい人たちだよ。

875 : 名無しさん@十周年 : 2009/10/26(月) 04:48:44 ID:o9YLpXcuO [2回発言]

断っておくが、これ黄金町と同じで、ヤクザはケツ持ちだけだ。
町ぐるみでやってるんだよ。

948 : 名無しさん@十周年 : 2009/10/27(火) 11:25:33 ID:lKfbx59w0 [1回発言]

山奥の隔離された場所で町ぐるみだからね。
余程じゃない限り治外法権状態。

753 : 名無しさん@十周年 : 2009/10/25(日) 22:54:20 ID:PfafeRkwO [1回発言]

部落民が置屋を経営して警察と癒着しているから摘発もされないんだね。
青木雄二さんの漫画によくある話だ。

630 : 名無しさん@十周年 : 2009/10/25(日) 20:00:40 ID:zUTQFW+V0 [3回発言]

>置き屋の女将(おかみ)や、女将と一緒に被告から取り立てを行ったと指摘された人物が
>証言台に立つこともなく結審し、

あぁ。つまり警察も検察も賄賂がもらえなくなると困るんだね。


728 : 名無しさん@十周年 : 2009/10/25(日) 21:05:37 ID:eOdEFSD50 [5回発言]

しかし、これから、うん千万の借金どうやって返していくんだ?
執行猶予ついたって、その問題は何も解決していない。 理不尽とはいっても、警察も裁判所も、取立ての中止命令すらだしていないし、借金が合法的ではいなとの結論もだしていない。 支払い義務だけは残るわけだ。
これが、民事の実態ねw
結局は、警察の民事不介入は、理不尽といえども どうしようもない事実。娘は死ぬまで借金を返し続けなくちゃならないし、被告も金をむしり続けられるわけだ。

639 : 名無しさん@十周年 : 2009/10/25(日) 20:03:14 ID:8lWFI4WY0 [4回発言]

現状維持を一番望んでるは警察。
だからやくざはいっこうにいなくならない。
やくざを必要としているのは、警察。マッチポンプ。


668 : 名無しさん@十周年 : 2009/10/25(日) 20:17:33 ID:Lx7zqUA40 [1回発言]
>>639
まあ多分カネ貰ってるだろうね

689 : 名無しさん@十周年 : 2009/10/25(日) 20:32:14 ID:KOQOm79RO [18回発言]
>>668
その金で各地で豪遊w
潤った置屋から各地元の警察に上納
その金はいずれ石和へ・・・その頂点は芸能人も抱ける赤坂辺りの闇売春
永遠の、持ちつ持たれつw


736 : 名無しさん@十周年 : 2009/10/25(日) 21:11:25 ID:rDGZQNZ/O [2回発言]

それとなヤクザの持っていく金なんて可愛いもんだぞ。
まともな交渉力のある経営者の店なら純利の5%程度だ。
だが警察は30%近く取った上で風適法違反で摘発するのが日常茶飯事。
内定入るから金クレ〜って言われて渡した翌日に逮捕なんてヤクザよりヤクザだぜ。


460 : 名無しさん@十周年 : 2009/10/25(日) 18:06:25 ID:Iao9igyM0 [1回発言]

警察幹部が上客だもんなw
田舎警察なら接待で極上の女の子をあてがうことも常識だし
残念ながら永遠になくならないよ


594 : 名無しさん@十周年 : 2009/10/25(日) 19:41:35 ID:KOQOm79RO [18回発言]

まあ、こうゆう昔ながらの地回りヤクザと警察の暗部での癒着はこれからもポロポロ出てくるだろうな
パワーバランスが崩れる時は、淘汰される側の悪事が明るみにされるのが世の常だ


105 : 名無しさん@十周年 : 2009/10/25(日) 16:11:43 ID:795zU6vdO [1回発言]

契約がどうのこうの、訴えればいい等は現実の世界を解ってないね。
ヤクザは怖いし逃げだせるもんじゃないよ。

406 : 名無しさん@十周年 : 2009/10/25(日) 17:36:52 ID:JxqiHn9k0 [2回発言]

莫大な借金とあるが、そんな風になるまで なんでコンパニオンを続けてたんだろうな。 さっさと逃げ出して、堅気の職に就けばいいと思うんだが。
元々何かの弱みがあったんだろうか。


422 : 名無しさん@十周年 : 2009/10/25(日) 17:44:06 ID:w+sPlnFE0 [18回発言]
>>406
どこに逃げても捕まって殺されるってなとこまで脅されてたんだろね
逃げなきゃどうしようもないのに。
私財処分して遠方に逃げるって選択肢くらいしか残ってない


592 : 名無しさん@十周年 : 2009/10/25(日) 19:40:13 ID:P/nyEPNnO [1回発言]

おまえらやくざを舐めすぎ。チンピラじゃなくて本物にくび締め上げられて、
沈めるぞ
とか言われたことないだろ? チビるよ、まじで。

681 : 名無しさん@十周年 : 2009/10/25(日) 20:24:21 ID:6qNxvU6rO [3回発言]

ヤクザはたとえば父親の心中の気配を察知し
その母親に生命保険をかけて受取人を娘にして父親にますます恫喝していたりするわけですよ

225 : 名無しさん@十周年 : 2009/10/25(日) 16:40:31 ID:RucCZBkA0 [1回発言]

全国の置屋徹底的に捜査したら、かなりの行方不明者見つかるのに。
取り締まらないのが不思議。

126 : 名無しさん@十周年 : 2009/10/25(日) 16:17:16 ID:S97RJDXj0 [2回発言]

最近はヤクザ顔負けなのがホストクラブの連中だってさ。
付けで飲ませて、払えなくなると追い込みかけて、捕まえて水商売に落とすってのが横行してるみたい。

135 : 名無しさん@十周年 : 2009/10/25(日) 16:18:33 ID:qL8jkdLB0 [21回発言]
>>126
それ、中高生にやって一時期大問題になってたね
未成年にそんなことしてたってことで。

137 : 名無しさん@十周年 : 2009/10/25(日) 16:19:14 ID:F72eFKs80 [6回発言]
>>126
ホストクラブと金貸しと売春宿ですっかりシステムが出来上がってンだよね。


782 : 名無しさん@十周年 : 2009/10/25(日) 23:31:40 ID:3Jec7I/uO [1回発言]

ホストや男とグルになり、そいつらの金融業者から借金作らしてとんでもない利息をつけさし、どんどん貢がせる。
返済困れば風俗へ。みんなグルだよ、同棲してる男は女が1人接客するたびいくらかもらえる。


181 : 名無しさん@十周年 : 2009/10/25(日) 16:31:19 ID:pyTAdvaE0 [4回発言]
>>126
ホストのツケで飲んでそのまま来なくなる女性客が多くて、
ホストがソープに沈められるんですね。判ります・・・・゚・(ノД`)・゚・。

186 : m9('v`)ノ ◆6AkAkDHteU : 2009/10/25(日) 16:33:16 ID:Y0saskxA0 [21回発言]
>>181
それって実際にあるよ。
ツケで飲んでいた客が逃げて、ホストが追い込みをかけられるって割と良くある話だし。
クラブの姉ちゃんがソープに行くのも、そのパターンが多いし。


 
234 : 名無しさん@十周年 : 2009/10/25(日) 16:43:39 ID:fw/aoPlh0 [3回発言]

売られること今でもあるだろ。

入るきっかけも、遊ぶ金欲しさだけじゃなくて
客引きに誘われてホスクラ行ったら借金背負わされてソープに沈められたとか
付き合ってた男に借金背負わされてトンズラこかれたとか
その男がヤクザだったとか色々だ
http://logsoku.com/thread/tsushima.2ch.net/newsplus/1256452606/

http://www.asyura2.com/09/revival3/msg/574.html#c42

[リバイバル3] 湯沢町の共同湯は日本国内の温泉の中で最低最悪 中川隆
43. 中川隆[7763] koaQ7Jey 2017年4月15日 08:54:29 : b5JdkWvGxs : DbsSfawrpEw[8253]

川端康成が書くと平凡なコンパニオン女性でも薄幸の美少女 駒子になるのですね:


越後湯沢温泉のピンクコンパニオンプラン一覧【コンパニオン宴会.com公式】
http://www.companion-enkai.com/search/?keyword=%E8%B6%8A%E5%BE%8C%E6%B9%AF%E6%B2%A2%E6%B8%A9%E6%B3%89


越後湯沢温泉のコンパニオン宴会をここに紹介致します。
http://www.onsenyoyaku.jp/niigata/futaba/

片田舎のパイパン少女ピンクコンパニオン
http://asg.to/contentsPage.html?mcd=dxuziEvl5JHfkmlH


日本全国どこでもピンクコンパニオン宴会が盛んかと言うと、そうでもありません。

俗に言う「歓楽温泉」でピンクコンパニオン宴会が盛んになるのですが、「歓楽温泉」とはどういった所になるのか?


ピンクコンパニオン宴会が栄えやすい環境とは・・・

・秘湯ではない
・平野にいきなり出来た
・旅館が古くて設備も最新旅館と比べると劣る
・宴会以外ウリがない
・県の条例に引っかからない

こういったところでしょうか?

皆さんの知っている温泉で思い当たるところはありましたか?

そうです。今考えた温泉地、きっとピンクコンパニオン宴会が行われていますよ。
http://blog.goo.ne.jp/pinkcompanion/e/c5836c2f90be22b30cbe15371f81f260

温泉コンパニオンについて語ろう!


13 :名無しさん@いい湯だな:2011/12/27(火) 17:30:13.34 ID:8bcbcchg0

元温泉コンパニオンだけど、質問ある?


14 :名無しさん@いい湯だな:2011/12/27(火) 19:32:39.71 ID:hY+e+0kT0
ピンク?


15 :名無しさん@いい湯だな:2011/12/27(火) 19:37:33.25 ID:8bcbcchg0
ぴんくだよ!


16 :名無しさん@いい湯だな:2011/12/27(火) 20:39:49.19 ID:iF5oOiTB0
>>13
宴会みたいな大人数ではなく、2対2で今度やろうと思ってるんですが、それでも十分楽しめますか?
少ないと盛り上がるのか不安で不安で…。


17 :名無しさん@いい湯だな:2011/12/27(火) 20:44:36.37 ID:8bcbcchg0
>>16
何歳ですか?
予約の時にある程度の好みや年齢を伝えた方がいいと思います。
少人数の宴席は見た目どころか、相性悪い女の子だと、きっとつまらなくなってしまうと思うので、予約の時に相談した方がいいですよ☆


18 :名無しさん@いい湯だな:2011/12/27(火) 20:46:53.48 ID:8bcbcchg0

2:2は女の子からしてもありがたい席でもあるので、4人で楽しもうね感があるから、普通の大席より親身になれると思います。
あたしは逆に10:5位が楽だったけどね☆


19 :名無しさん@いい湯だな:2011/12/27(火) 21:01:37.20 ID:iF5oOiTB0

年齢は二人とも30くらいです。
少人数だけに相性が怖かったんですよね…。
相談してみることにします。
それと、ケースバイケースでしょうが、2対2の大まかな流れってどんな感じでしょうか?


20 :名無しさん@いい湯だな:2011/12/27(火) 21:11:25.49 ID:8bcbcchg0
>>19
30歳、若いですね!
女の子が男性と意識してる好きな年齢だと思いますよ(40歳〜だとお金に見える感じかな)
旅館宿泊ですか?
それとも、どこかの飲み屋にコンパニオン呼ぶ感じですか?

それによって流れが変わるよ。
絶対旅館のがお得だよ☆


21 :名無しさん@いい湯だな:2011/12/27(火) 21:20:31.61 ID:iF5oOiTB0
>>20
30は若い部類に入るんすか!
温泉旅館で一泊二日して呼ぶつもりです。


22 :名無しさん@いい湯だな:2011/12/27(火) 21:34:29.54 ID:8bcbcchg0

もちろん入るよー♪

だいたいの流れ

乾杯 → 自己紹介しながら和気あいあい → エロトーク
→ 徐々に脱ぎ始める、もしくは男が脱がされてる
→ みんなパンツのみ、もしくは?全裸で飲む

こんな感じかな?

大きい宴会だと、芸とか出来る女の子がやってくれたり、なんかゲームしたり、カラオケしたり、後は全員のお客さんの所に回るようにするから、かなり色んなオッパイが楽しめる♪

その中でお気に入りを見つける。。。とかかな?


23 :名無しさん@いい湯だな:2011/12/27(火) 21:53:02.64 ID:iF5oOiTB0
>>22
団体は大体想像はつくんですけど、2対2はゲームとかよりはまったりと裸でトークみたいな感じととったんですがそれで良いでしょうか?


25 :名無しさん@いい湯だな:2011/12/27(火) 22:01:23.90 ID:8bcbcchg0
>>23
うん、裸で、女の子があなたにもたれる感じで座るな〜

予想!
あたしは、そうしてたw

そしたら、後ろからおっぱい揉めて、対面にはおっぱい揉まれてる全裸の女の子がもう1人いるっていうシチュエーション。

そんな感じで、まったり宴会かな?
楽しんできてね☆


28 :名無しさん@いい湯だな:2011/12/27(火) 22:18:08.35 ID:8bcbcchg0
>>25
じゃ大丈夫だね〜
頼む時にしっかり好み伝えるのみですよ♪
あとは女の子がちゃんとやってくれると思うし

うん、私達も席に入る前にお客さんの情報を聞いてたりするから
30代と聞いて、さっきまで適当なメイクに髪型だった人が、焦って直したりw

コンパニオンも普通の感覚は残ってると思うよ♪


24 :名無しさん@いい湯だな:2011/12/27(火) 21:58:31.98 ID:8bcbcchg0

今まで300席以上宴会やってきたけど、あたしは一度もエッチしたことないし、口や手で出してあげたこともない。手マンも。

温泉コンパニオンも本番禁止がルール!
破ると追放、もしくは他の女の子に迷惑がかかる。
(あの子はエッチさせてくれたのに、とか言われるの)

だけど、女の子によっては影でエッチしてる子もいるのが事実。
好みの人だから、お金くれるから、とか理由は相手の男の人によるし
でも大声でエッチしたよーなんて、口が裂けても言ってはいけないのが暗黙のルール。

それ以外は色々やってたなぁ

キスおっぱい、おしり揉み舐めは当たり前
野球拳、全裸で手押し車、万トリ、わかめ酒、女体盛り、ふせん貼りゲーム、一緒にお風呂、などなど

結構楽しんでくれるよ♪

それでも、しつこいお客さんにはあたしとエッチしたかったら、プライベートで会おうって言ってた♪
後に唯一会った人が、今の旦那様です!
お客さんと結婚した人とか多いよ〜


26 :名無しさん@いい湯だな:2011/12/27(火) 22:10:44.93 ID:iF5oOiTB0
>>24
団体では過去に一回体験したことあるから分かるけど、女体盛りは…スゴス!w

お客さんと結婚かー。
コンパニオンは「客=男」って目で見てないのかと思ってたから何か意外です。
まーもちろん男によってなんだろうけど。

30 :名無しさん@いい湯だな:2011/12/28(水) 00:23:14.98 ID:HbRoxdpV0

どこに行けば会える?
石和? 伊香保?


31 :名無しさん@いい湯だな:2011/12/28(水) 00:26:37.20 ID:zrOgcp/vi

両方、コンパニオン達がいーっぱいるところだよ♪
宿と結んでるコンパニオン会社の女の子が来るわけだから、直接宿に電話して聞いた方がいいよ。 質のいいコンパニオンなら東京のコンパニオンだけどね♪


__________


256 :由梨佳28♀:2012/05/31(木) 19:01:08.77 ID:sBQId7f/0

私は半年ほどフーゾク系のアルバイトをしたことがあります。
彼氏と別れ、今の会社に就職する前のこと。
その頃の私は、事務系のアルバイトで細々と毎日を暮らしてました。
完全に自分を見失っていた時期です。

いま思えば、悪夢の時期。
「セックスはなし」の条件とはいえ、バカなアルバイトをしてしまったと思ってます…。

自暴自棄というか完全に自分を見失っていたその頃、学生時代の先輩にバッタリ遭遇し、食事に行きました。 その際に誘われるがままアルバイトをしたのがフーゾク系コンパニオン…。
いわゆる“ピンクコンパニオン”というものです。

確かにセックスはなかったけど、「お客様」の性欲を満たすだけのお仕事。
ヤケになってたとはいえ、自分で選んだこと。 後悔と共に、いま懺悔します。

ピンクコンパニオンのお仕事というのは、エージェントさんに登録しておけば、ケータイに連絡が入ってくるものでした。 空いてる時間(余暇)を利用でき、ある程度、「どういう団体さんがお客様」なのかも教えてくれましたし、行きたくなければ拒否することも可能でした。

私がよく行ったのは、コスプレの宴会ですね。
(ご要望によっては、白ブラウスと黒スカートの場合もありましたが。)
お仕事は、約2時間。
女の子は4人前後から、多い時で10人ぐらいが同行で参加します。

コスチュームで一番人気が高かったのは、チアガールでしょうか?
それから、チャイナやキャバクラ風のミニドレス、ランジェリーもリクエストは多かったみたいですね。

いずれも、パンティストッキングは着用出来ました。
それのみが、お客様の過度のタッチからの「防波堤」という感じ。

でも、ランジェリー姿は、パンストは穿けるものの、ブラ+ショーツにスリップだけの姿…。
これは、さすがに私には恥ずかしくって、なるべくドレスOKの宴会に行くようにしてました。

お仕事の内容は、簡単に言えば、「お酒の相手をする」という簡単なものでした。
ただ、コスチュームがコスチュームだけに、軽い“タッチ”は我慢をしなければなりませんが…。

お客様が酔いに任せ、「過度のサービス」を求めてきたら、その時はリーダーさん(女性の先輩です)がうまく助けに来てくれます。 なので、肌に直接触られるようなことは、ほとんどありませんでした。

私の場合、引き受けたほとんどのお仕事が、この「(2時間)ショート」と呼ばれるものです。
でも、「どうしても、人が足りない」という時は、“ヘルプ”で「ロング」(宿泊宴会対応)にも行ったことも何度かあります。

これは、また少しお仕事の内容が変わりました。
「ロングのヘルプ」は、サービスが少し濃厚になります。
少々遠方の旅館へ出向き、宿泊されているグループ客の宴会のお相手をします。

私たちの服装は、一見シンプルで、ブラジャーが透ける程度の白いブラウスと黒いミニのタイトスカート。 ただし、スカートの下は、各自、色とりどりのガーターベルトに吊るされた黒の網タイツ…というセクシーなものでした。

ちなみに、ブラとショーツ以外はエージェントさんが支給品してくれました。

1次会の内容は、先の「ショート」とあまり変わりません。
旅館の宴会場でお酒の相手をしたり、軽いタッチを楽しんでいただく程度です。

“しんどかった”のは、その後。
2次会(いわゆる「延長」)で、お客様のお部屋へ移動してからです。 1時間程度は、お酒の「飲み直し」のお相手をするだけでよいのですが、その後は“お客様へのサービス”をしなければなりませんでした。

お客様へのサービス…。
それは、射精の“お手伝い”をすること。

女の子同士が適当にペアを組み、お客様を1人ずつ部屋の浴室へ招き、順番に身体を洗ってあげる…というものでした。

もちろん、お客様も私たちも裸です。

まず、私たちがお客様をカラの浴槽で「サンドイッチ」の状態にします。
つまり、お客様の背後に1人、向かい合わせで1人が立つ格好です。

シャワーをかけてお客様を綺麗にした後、私たちは泡立ったソープにまみれた身体と指を使い、前後で身体をくねらせながら、お客様のボディを洗っていく…というものです。 ペニスへの“刺激”は、お客様と向かい合ってる女の子が担当します。

指をペニスに絡め、お客様が射精するまで、時には優しく、時にはくすぐるような感じで、やんわりとしごいていきます。 私は後ろを担当したかったのですが、お客様の要望で「向かい合わせ担当」が多かったですね。 なので、あの一時期、たくさんの男性が私の手によって“イク”ところを見ました。

お金はたくさんいただきましたが、実に虚しいアルバイトでした。
やったこと、後悔しています。。

私が所属していたエージェントさんは、女の子の「若さと可愛さ」が“ウリ”のようで、フェラチオやセックスはNGとしていました。 それ以上のサービスを求めるのなら、他のエージェントへどうぞ…という感じ。 セックスしなければならないのなら、登録する女の子は減ると思います。

それに、意外と、無理を言うお客様も少ないのです。
それは、エージェントの後ろにある“影”(ややこしい人の団体)が見え隠れしてるからではないでしょうか?
とはいえ、私自身はエージェントのオーナーにほとんどお会いしたことがありません。
指定された集合場所へ行き、当日のリーダーさん(女性です)が運転する車で現地を往復するだけですから。
アルバイト代も、その日のうちに現金でいただきます。

ただ、キスには応じることもありました。
舌の侵入は、なるべくお断りしましたが…。

ピンクコンパニオンは普通のコンパニオンさんより高額なので、お金のない、若いお客様は少なかったですね。
「ショート」も「ロング」も、40歳代前後…といったところでしょうか。
(^_^;)

恥ずかしいのか、まったく女の子にタッチしない団体さんがいたり、女の子の取り合いで揉めだすグループがあったり…と。
この時期、初対面の男性との「コミュニケーションの取り方」だけは勉強になりましたネ(苦笑)

ロングの時、宴会ではなにもしない人(笑)

そのくせ、浴槽でシャワーをかけてあげると、妙に興奮して、
“あっはぁ〜ん。。” とか甘い声を出して、1人悶々とするオジさま。

(-^〇^-)

いま思い出しても、笑っちゃいマス。

その一方で、説教をするお客様も時々いました。
ロングの時に多かったですね。

その内容は、

「君の親は、この仕事のことを知ったらどう思うと考えてるんだ?」

「他にも、やるべき仕事はあるだろう?」

…に集約されます。

でも、そういうお客様が射精するのを見るのは、なんだか“面白かった”ですネ(笑)

キスを求めてきても、やんわりとお断りしました。
そして、心の中で、「間抜けやな〜(^_^;)」と笑ってたもんです。

広い場所ならともかく、狭い浴槽で3人が立ってる訳なので、お客様はそんなに派手なアクションを起こすことが出来ないのです。 私に限らず、向き合ってる女の子は股間を軽く閉じ、なるべく指を入れさせないようにしています。 あまり長い時間イジられると、ヒリヒリ痛くなっちゃうものね。。

それに、ペニスをしごくのに、お客様の手は邪魔になります。
なので、あまりにもしつこいお客様には、

「あ〜ん! 痛〜い」(笑)

とか言って、パッとペニスから手を離せば、ほぼ100%、それ以上のことは仕掛けてきませんでしたよ。

(`∇´ゞ


キスは軽く歯を閉じ、舌の侵入を妨げてました。でも、ぶっちゃけ由梨佳も軽く酔ってるし、“雰囲気を持ってる”優しいお客様には、本当に「その場だけの恋人気分」で、思わず舌を絡めてしまったこともありマス。。

1人のお客様にかかる時間は、2人がかりで、せいぜい10分か15分間程度…。

「つかの間の恋人」ですね。 (-.-;)
http://ikura.2ch.net/test/read.cgi/onsen/1322638932/


http://www.asyura2.com/09/revival3/msg/574.html#c43

[リバイバル3] 湯沢町の共同湯は日本国内の温泉の中で最低最悪 中川隆
44. 中川隆[7764] koaQ7Jey 2017年4月15日 09:36:59 : b5JdkWvGxs : DbsSfawrpEw[8254]

ミス駒子 - 越後湯沢温泉観光協会
http://yuzawaonsen.jp/komako/index.html

ミス駒子 - Google 画像検索
https://www.google.co.jp/search?q=%E3%83%9F%E3%82%B9%E9%A7%92%E5%AD%90&hl=ja&site=webhp&tbm=isch&tbo=u&source=univ&sa=X&sqi=2&ved=0ahUKEwjMiMmnl6XTAhUKe7wKHUk9B5wQsAQIMw&biw=1110&bih=599&dpr=1#spf=1

ミス駒子 - YouTube 動画
https://www.youtube.com/results?search_query=%E3%83%9F%E3%82%B9%E9%A7%92%E5%AD%90


川端康成の小説「雪国」の舞台となった湯沢町で、小説の中のヒロイン「駒子」の名にちなんだ毎年開催しているコンテストです。

応募者の中から書類選考が行われ、本日公開面接選考が行われます。
公開面接出場者は9名!その中からミス駒子が3名選ばれます。

一方、こっちが本物の駒子さん:

当時19歳、置屋「藤田屋」に身を置く芸妓「松栄」です。

http://odori.c.blog.so-net.ne.jp/_images/blog/_830/odori/DSCF6482_640.jpg?c=a0
http://circle-matsuo.jugem.jp/?day=20081012
https://www.google.co.jp/search?q=%E5%B0%8F%E9%AB%98%E3%82%AD%E3%82%AF&lr=lang_ja&hl=ja&tbs=lr:lang_1ja&tbm=isch&tbo=u&source=univ&sa=X&ved=0ahUKEwiOi4HYmqXTAhUMjZQKHUwEBK4QsAQIKg&biw=1110&bih=627#imgdii=RHbOR9y15xewkM:&imgrc=oqerD9xLdhqi-M:&spf=208
http://odori.c.blog.so-net.ne.jp/_images/blog/_830/odori/DSCF6448_640.jpg?c=a1
https://www.google.co.jp/search?q=%E5%B0%8F%E9%AB%98%E3%82%AD%E3%82%AF&lr=lang_ja&hl=ja&tbs=lr:lang_1ja&tbm=isch&tbo=u&source=univ&sa=X&ved=0ahUKEwiOi4HYmqXTAhUMjZQKHUwEBK4QsAQIKg&biw=1110&bih=627#spf=209http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%9B%AA%E5%9B%BD_(%E5%B0%8F%E8%AA%AC)#mediaviewer/File:Matsuei.jpg


http://www.asyura2.com/09/revival3/msg/574.html#c44

[近代史02] 中国人のこういう所が大好き 中川隆
79. 中川隆[7765] koaQ7Jey 2017年4月15日 10:18:22 : b5JdkWvGxs : DbsSfawrpEw[8255]

ワイロとは過酷な人脈社会なのに何も持たない者の涙の象徴


フィリピンはドゥテルテ大統領になってから反ドラッグ、反汚職の政策を過激に繰り広げている。

ところが、ドゥテルテ大統領がそれだけ剛腕を振るっても汚職は一掃されず、むしろひどくなっているという調査報告書を国際NGOのトランスペアレンシーが発表している。

フィリピンは東南アジアでは汚職の蔓延が一番ひどい国であると言われている。この汚職がフィリピンの成長を阻害しているのは確かだ。

しかし、汚職が消えないのである。警察官から公務員まで、金とコネがないと動かない。

金とコネと言えば、東南アジアは多かれ少なかれ、この2つを駆使しないとビジネスが動かないというのはよく知られている。これは東アジアでもそうだし、南アジアでもまったく同じことが言える。

コネがあれば、その仕事に相応しい能力や資質がなくても仕事に就けさせてもらえる。

その業界のことを何も知らなくても、コネがあればその業界に潜り込むこともできるし、コネが強ければいきなりどこかの組織の長になったりすることもある。

日本人はスキルを磨き、中国人は人脈を増やす

東南アジアやインドのような国を見て、そこで働くビジネスマンたちと接したとき、彼らは「自分に何ができるのか」をそれほど重視していないように見える。

東南アジアのビジネスを支配しているのは華僑だが、この華僑もまたそうだ。華僑がそうだということは、本土の中国人もそのような傾向にあるはずだ。

彼らは「自分に何ができるのか」よりも、別のものが重要だと考えているように見受けられる。

同じようにビジネスをして、同じように向上心があるとしても、成功する方法についての考え方は、日本人と中国人・東南アジア・インド圏のビジネスマンはまったく違う発想をする。

日本人は自分のスキルを磨くが、彼らは自分の人脈を増やすことに腐心する。

もちろん、ここでは「傾向」の話をしているので、全員がそうだと言っているわけではない。日本人でも人脈重視の人もいるし、中国人や東南アジアのビジネスマンでもスキル重視の人はいる。

しかし全体を俯瞰して見た場合、その違いは顕著である。社会風土がそうなっている。

日本人は職人気質があるのだが、職人は技術力が非常に重要なので「自分のスキルを磨く」方向に向かう。対して華僑は商人気質があって、誰から仕入れて誰に売るかが非常に重要なので「人脈を増やす」方向に向かう。

どちらが良い悪いではなく、そういう違いがある。

日本人は「私はこのようなことができます」とアピールする。それが重要だからだ。しかし、華僑や東南アジアの人たちは「私はこのような人を知っています」とアピールする。それが重要だからだ。


フィリピンは東南アジアでは汚職の蔓延が一番ひどい国であると言われている。金とコネが仕事を見つけるにも進めるにも必要になってくる。


どうしてもコネが必要であれば、どうするのか?

中国や東南アジアやインド人とビジネスをする日本人は、一様にこのビジネス風土の違いに直面する。彼らの社会では「誰を知っているか」で運命が決まるのである。

そのため、彼らの社会でビジネスをする場合、人脈の上の人間と話が付かないと、どんな些細なプロジェクトも進まず、許可も下りない。

逆に人脈がしっかりしていれば、どんな杜撰なプロジェクトでも許可が下りる。すべては「誰を知っているか」につながっていくのである。

これは経済だけでなく、政治の世界でも同じだ。

たとえば、タイのタクシン元首相は、首相になってから重要な役職に自分の親族や関係者を次々と配置した。そして、旨い汁が吸えるビジネスは自分の身内と仲間で独占した。

自分が失脚したら、今度は自分の身内をどんどん首相の座に送り込んだ。

一国の首相は、その座に相応しい能力と素質がある者が就かなければならないはずだが、そんなことはお構いなしに「自分の身内」を据える。能力がある人間を据えるのではない。

この「縁故主義」もよく考えれば、人脈重視の社会の当然の帰結であることが分かる。

能力重視社会では、そのポストに相応しい技能を持った人を据える。しかし、人脈重視社会では、そのポストに自分の知っている人を据える。

東南アジアやインドの社会が停滞し、社会のダイナミズムが消えて格差が固定化しやすい理由は、人脈社会だからだという理解の仕方もある。

その「人脈のサークル」に入れない人間は、どんな能力があっても重要な地位に就くことができない。能力は持っていなくても、権力者とコネのある人間がそこに就く。

どうしてもコネが必要であれば、どうするのか。

多くの人は、何とかコネの中に潜り込みたいと考えて、ワイロを送りつける。そう考えると、東南アジア・華僑・中国・インド圏の社会が汚職にまみれる理由が分かるはずだ。


タクシン元首相とインラック元首相。シナワット一族が首相のポストを「たらい回し」にできるのは、もちろんタイ華僑が血縁とコネと人脈を重視しているからだ。


「自分に何ができるのか」に関心が向かない社会

何としてでもコネの内部に潜り込みたいと考えている人たちが、権力者にこれでもか、これでもかとワイロを送る。

ワイロとは過酷な人脈社会なのに何も持たない者の涙の象徴だ。なけなしの金を差し出して、自分を何とか「仲間」にしてもらうのである。

仲間だと認識されれば、後はもう怖いものはない。コネ社会では「自分は何ができるか」などは重視されない。コネがある人間が然るべき仕事に就かせてもらえるからだ。

こうした社会で重要なのは「どれだけワイロを送れるか」ということであり、「どれだけ重要人物とつながれるか」ということである。

技能よりも人間関係が重要になるということは、仕事とは効率を優先する場所ではなく、人間関係を構築する場所になるということだ。

しかし、「自分に何ができるのか」に関心が向かない社会とは、どんな社会なのか。

それは、革新を生み出さない社会である。それもそうだ。自分を向上させても意味がないのだから、その先にある革新も生まれるはずがない。

東南アジアやインド圏がややもすれば停滞してしまうのは、能力よりコネが重要で、重要な地位にある者が自分の仕事の内容が分かっておらず、かくして非効率が発生し、そのために誰もが働くのが嫌になるからでもある。

社会が停滞すると仕事がなくなる。仕事がなくなると、少ない仕事を得るためにますますコネが重要になる。それがまた汚職と非効率を生み出す。そうすると、また仕事がなくなる。

それを延々と繰り返してきたから、途上国はずっと自力での発展ができなかった。こうした社会は風土は今後変わっていくのだろうか……。


仲間だと認識されれば、後はもう怖いものはない。コネ社会では「自分は何ができるか」などは重視されない。コネがある人間が然るべき仕事に就かせてもらえるからだ。
https://www.bllackz.net/blackasia/content/20170415T0155480900.html
http://www.asyura2.com/09/reki02/msg/289.html#c79

[リバイバル3] 音楽はこういう部屋で聴きたい 中川隆
22. 中川隆[7766] koaQ7Jey 2017年4月15日 11:30:49 : b5JdkWvGxs : DbsSfawrpEw[8256]

モノラル時代のスピーカーは指向性が広いので、ステレオのように正面で聴くのではなく、部屋の響きを織り交ぜて斜め横から聴くのが本来の姿である。


コーナーホーンと言えばスピーカーの王様のごとく高額な大型システムを思い浮かべるかもしれないが、1950年代に Electro-Voice のコーナーホーン箱が7種類あったなかで、Baronetは最も小さい末っ子。


 Baronet の高さ 50cm×幅35cm はこの時代のコーナーホーンの中でも最も小さいもので、逆に言えば、RCA MI-4400(ラビリンス箱)や Lowther TP1、あるいは広告だけだった JBL Hartsfield などの特別な存在を除くと、一般の人が手に入れられる8インチ用のエンクロージャーでは、もっとも複雑な構造をもつものともいえる。


Baronetは、Klipsch Horn社からFolded Corner Hornのパテント(US Pat. 2310243、2373692)の供与を受けており、おそらく Paul Wilbur Klipsch 自身が設計したコーナー型バックロードホーン箱である。

Klipsch 氏の特許は基本的にKホーンと呼ばれる低域キャビネットにあり、Patrician や Georgian に搭載されている。

本家の Kllipsch ホーンにはエレボイのユニットを搭載したバージョンもあったことから、両社は良い協力関係にあったといえる。Baronet、Aristcrat、Regency などはそれより小さいシリーズはショート・バックロードホーンであり、エレボイからの要請をうけて設計しなおしたと思われる。


 Klipsch氏は日本ではあまり有名ではないが、1940年にコーナーホーンを特許申請し、1935年に J.B.Lansing 氏が開発したシェラーホーンとは違い、家庭用で劇場並の迫力ある低音再生を可能にしたもの。

この方式の面白さは、低音再生を強制的な電気増幅や共振ではなく、実物大のアコースティックな響きで解決した結果、大容量のホールの感覚に近い空気感が得られるところにある。(逆に言えば、クラブ・ジャズのようなタイトな低音とは異なる) 

英米のスピーカー製造における Klipsch 氏の影響力は非常に大きく、1940〜50年代においてどのメーカーもコーナー型バックロードホーンが最も高級機種として羽振りをきかせていた。

ちなみにアメリカン・タンノイと呼ばれる機種は、米国で Klipsch 氏の特許があるので販売できなかったため製造されたもの。

コーナーホーンの多くが日本で有名ではない理由は、ひとつは家屋の規模の問題、もうひとつは物品税が高価なため、システムでのスピーカー輸入が阻まれた結果、バラ売りユニットの性能だけが幅を効かせて、エンクロージャーの性能まで思いが及ばなかったからであろう。


Hi-Fi初期の1950年代は、キット製品に人気があり、アンプをはじめエンクロージャーのマニュアルや図面を¢50〜$1で売っていた。

当時は Hi-Fi機器が電蓄から抜け出したばかりの時代で、例えば Decca 社の Decola のような一体型コンソールは超高級品であって、Hi-Fi 対応のパーツを掻き集めたバラ売りが最も経済的だった。


KD7キットの言葉を借りると

「Baronet はその名のとおり、Hi-Fiスピーカー用のエンクロージャーとして、小さなアパート、子ども部屋、避暑地の別荘など、重たく嵩張るものが歓迎されないどの場所でも良質な音楽の要求に応えます。

Baronet の造りは大きな容積のエンクロージャーではありませんが、再生音の高忠実性と周波数特性を犠牲にしません」とある。

当時の量販店の広告にも「省スペース(Space Saver)システム」という文字が躍るほどで、ミニマムなオーディオ・システムとしてBaronetは注目を浴びていた。

 Baronetの置き方はこのコンパクトな箱により、標準とされるコーナー&床置きはもとより、壁掛けやディスクトップの置き方も多くみられる。

私もモノラルならディスクトップがお勧めである(壁掛けは昔の校内放送の思い出が悪くあまり気乗りしない)。

エレボイ社のカタログには "for Close Lisning" と書いてあり、ややモニター的な聴き方に近いような気がするが、パーソナルに音楽を楽しむために、小音量でちょっとした読書コーナーを作るには最適である。

モノラル時代のスピーカーは指向性が広いので、ステレオのように正面で聴くのではなく、部屋の響きを織り交ぜて斜め横から聴くのが本来の姿である。

http://quwa.fc2web.com/Audio-103.html

上の図版でも女性の姿が目立つが、Baronetは大げさではなく音楽を楽しみたいユーザーに希求していて、シンプル=人間の生活中心の思想が現れている。

これはエレボイの看板「Temple of Tone(音響の神殿)」とは趣向が大きく違うものの、Baronetのもつ可能性を巧く言い当てているように思える。

 かの銀幕の大女優マレーネ・ディートリッヒも、ニューヨークのアパートでBaronet(それもフルレンジのみの初期型)を使っていたらしく、1997年のサザビーズ・オークションに、GE社の"Stereo Classic 7700"ステレオアンプ、ガラード社のRC型オートチェジャーとセットで出品された。

アパートの居間はグランドピアノを置くサロン風の部屋だが、よくヨーロッパの音楽家が比較的質素なステレオを自宅に置いていることの例に漏れず小粒なシステムながら、いずれも1950年代のビンテージである。

映画用の Altec ではなく、さりとてステレオ時代に躍進した JBLや ARでもなく、初期型の Baronetであるあたりは、彼女の活躍した時期を考えると、これがちょうど良かったのかもしれない。ゴージャスなジャズ・バンドを従えるよりは、ピアノに寄り添って静かに歌う彼女の姿とも重なる。
http://quwa.fc2web.com/Audio-103.html
http://www.asyura2.com/09/revival3/msg/655.html#c22

[政治・選挙・NHK224] 日本は敵基地攻撃能力を保有すべき? 原発や東京が攻撃に晒され、戦場になる!(週プレNEWS) 赤かぶ
2. 中川隆[7767] koaQ7Jey 2017年4月15日 11:42:33 : b5JdkWvGxs : DbsSfawrpEw[8257]

日本の敵国はアメリカ、中国、朝鮮なんだから

アメリカ全土に核ミサイルを撃ち込める体制を作っておかないと防衛にならないだろ


アメリカ国民とは、アメリカが「世界で最も偉大な正義の国」であると本当に信じている人々である。その彼らにトランプが「アメリカは他国の政権転覆をやめるべき」などと言えば、アメリカの歴史そのものが悪だと言うようなものである。


アメリカの政治介入は悪だったのか? イラク戦争は正義ではなかったのか? 

部外者から見れば何の正当性もないものが、アメリカ人には正当に映る。彼らはそう教育されているのである。

アメリカ人とは広島長崎への原爆投下が正義の行いだったと本気で信じている国民である。

個人の銃所有が治安向上のためになると全米ライフル協会が主張すればそれを信じ、

ブッシュ大統領のイラク侵略の口実となったイラクによる大量破壊兵器の所有が全くの嘘でたらめだったと明らかになっても気にさえ留めない、

政治的に非常に操作しやすい、頭の無い人々である。

だからこそトランプは、政権転覆という表現よりも中東での軍事支出を減らすという主張に重点を置いた。「アメリカ人にとって正しいこと」は「世界にとって正しいこと」よりも先にあるものだと明確に述べた。


アメリカ人は第二次世界大戦における原爆投下を「戦争の早期終結に繋がり、結果的に多くの人命を救った」行為として正当化することを含め、アメリカ人は教えられれば何でも信じる人種である。

西洋はそうして戦争を行なってきた。キリスト教の布教を理由に全く関係のない国々を植民地化し、戦後は「自由でオープンな価値観」の布教を理由に人殺しを行なってきたのである。

特にアメリカ人は政治家にとって御しやすい。日本人やヨーロッパ人よりも単純であり、思想のコントロールが容易だからである。トランプ氏はそこから外れた価値観を政治に持ち込もうとしたが、結局は有権者の理解がなければどうにもならない。要するに、誰が大統領になろうとも、アメリカ人は所詮アメリカ人だったということである。

結論として、日本が生き残る為には狂ったアメリカ人を地上から一人残らず抹殺するしかない

http://www.asyura2.com/17/senkyo224/msg/212.html#c2

[政治・選挙・NHK224] 日本は敵基地攻撃能力を保有すべき? 原発や東京が攻撃に晒され、戦場になる!(週プレNEWS) 赤かぶ
3. 中川隆[7768] koaQ7Jey 2017年4月15日 11:48:27 : b5JdkWvGxs : DbsSfawrpEw[8258]

CIAは他の全ての政府系諜報機関のトップに君臨している。

大統領令は極秘に扱われ、CIA以外の諜報機関には知らされることはない。

大統領の国際的な極秘事項に対してはCIA以外の諜報機関は部外者となる。

更に恐ろしいことは、CIAは、国際安全保障の名の下に大統領の上に立つことができるということだ。CIAは、米連邦議会、大統領、米国民よりも優位な位置に自らを置き、秘密裡に何でも行えるようになってしまった。CIAの絶大な権限で主要メディアはトランプ次期大統領に関するねつ造報道(ロシアのハッキングやロシアの脅迫など)を展開している。イギリスからこの国へ偽の調査書類が送られた。そしてCIAはトランプ次期大統領に対する組織的誹謗中傷キャンペーンを実施している。

Gold backed CIAはアメリカの国益のために海外で活動することになっているが、彼らは通貨市場、債券市場、株式市場に関与し世界中に影響をあたえている。

GB-CIAのメンバーは米財務省及びアメリカの経済政策を決めるESF経済安定資金に多く入りこんでいる。 ESFは通貨、債券、株式市場を操作し、FRBに金融政策を指示している。ESFはGB‐CIAにとってアメリカの金融市場を支配する上で最も都合の良いツールである。

GB-CIAこそがアメリカ経済を支配している。

GB-CIAは欲深く、世界中に戦争を仕掛けて富を強奪している。邪魔者は容赦なく殺害する。CIAは世界中で数々の残忍な犯罪活動を行っている。
ブッシュやクリントン周辺では、彼らに批判的な銀行のトップ、ブローカー、内部告発者が次々に不審死を遂げている。これまで数百人が殺害された。

また、GB-CIA は、彼らの性的異常行為、ピードフィリア(小児性愛犯罪)、悪魔崇拝の生贄儀式に多くの政治家や企業家を取り込んでいる。彼らは世界的な小児性愛犯罪ネットワークを構築させた。また、彼らは、難民のチャリティ団体を活用して世界最大の性奴隷の人身売買市場を運営している。また世界の麻薬密売も牛耳っており、イランーコントラ・スキャンダルやアフガニスタンのケシ栽培を行ってきた。

彼らは、麻薬、セックス、権力、支配、悪魔崇拝という通貨で絶大な権力を買っている。

___

今こそアメリカ合州国の正体直視を  本多勝一

週間金曜日 2003年 3月14日号「風速計」 


この一文が出るころ、アメリカ合州国の体制主流は、イラク侵略を開始または開始寸前にあるだろう。

 国連安保理外相級会合に米英ら3国が今月7日提出した修正決議案は、国連安全保障理事会で11日に採決にかけられる見通しだが、ここで否決されても、合州国は単独で開戦・侵略に踏み切る構えである。

 あたりまえだ。アメリカ合州国の歴史は、こういうことの連続の末に今日の地球史上最強・最悪の帝国となった。ワシントン初代大統領以来の二百余年間は、手段を選ばぬ詐欺・脅迫・テロ・虐殺による侵略史にほかならぬ。そのことはこれまで機会あるごとに触れてきたが(注)、目前でまたしても超大軍事力によって同じことが強行されようとしている今、「正確な合州国史」にうといままその正体に気付かぬ例が多い日本人のためにも、このさい改めて正面から指摘しておきたい。

 ただし、こんどのイラク侵略が開戦されてもされなくても、これはコロンブス以来のヨーロッパによる世界侵略500年史の中で、ベトナム戦争とともに画期をなす歴史的事件となるかもしれない。

米西戦争などで世界制覇競争に勝った合州国は、それまでに北米大陸での先住民族侵略をウンデッドニー虐殺によって終了していたが、以降そのままハワイ・グアム・フィリピンへと「西部へ西部へ」を進めた。朝鮮戦争につづくベトナム戦争で、合州国軍隊はワシントン初代大統領以来初の敗戦を喫したものの、侵略のための巨大軍需産業や体質に傷はつかなかった。その成りゆきとしてのイラク戦争(12年前も今回も)である。ところが、合州国の正体に気づき始めた人々の世界的盛上りによって、開戦寸前での中止か、開戦してもベトナム以上の反戦の広がりで帝国の没落となるかもしれない。この500年来の画期をなすゆえんである。


合州国は“民主主義”をタテマエにしている。実態はともかく、民意を完全・明白に無視した侵略は支持されない。そこで開戦のとき必ずといえるほど使われるテこそ、相手が先に攻撃したとみせかける捏造事件である。これは先住民族への侵略以来イラクまで一貫してきた。

戦艦メーン号爆破事件(米西戦争)をみよ。トンキン湾事件(ベトナム戦争)をみよ。真珠湾(太平洋戦争)をみよ。その他その他。

これを書いている9日の朝日放送(サンデープロジェクト)は、イラクのクウェート侵入(これも裏に合州国あり)にさいして、イラク兵が乳児を哺育器から出して次々と放り投げた様子をクウェートの少女に証言させたこと、これが繰り返し放送されて世論を憤激させ、開戦に有利になったこと、ところが後に、この少女は駐米クウェート大使の娘で、証言は捏造だったこと等を放映した。

 こんどはどんな捏造が、いいように操作されるマスコミによって“報道”されることだろうか。

 開戦寸前の今、このテーマは「未完」としておく。
http://ecoplaza-sabae.jp/mailnews20030319.html
http://www.asyura2.com/17/senkyo224/msg/212.html#c3

[リバイバル3] 湯沢町の共同湯は日本国内の温泉の中で最低最悪 中川隆
45. 中川隆[7769] koaQ7Jey 2017年4月15日 12:30:50 : b5JdkWvGxs : DbsSfawrpEw[8259]

雪国 - アンサイクロペディア


雪国とは、1935年に執筆が開始され、1937年に刊行されたノーベル文学賞作家川端康成による小説である。その後、続編も発表され、最終的に現在の形にまとまったのは1948年になる。

そして、あれほど美にこだわった作者がホースをくわえて死んじまうという醜態をさらすのは1972年になる。

新潟県南魚沼郡湯沢町を舞台に、主人公である文筆家島村と芸者駒子をめぐる人間関係を描いた作品である。

なお、雪国のつらさはこれっぽっちも描かれてはいない。


1934年から1937年にかけて、川端康成は新潟県湯沢町にある旅館「高半旅館」に逗留し、そこで雪国を舞台にした小説の構想を考え出す。その際、当時文壇の主流である「自分が経験したことを脚色して発表」という観点により、誰も知らない場所で、誰もが経験したい恋愛を、何よりも実情を正確に伝えない形で執筆する。

その結果、日本なんだけど日本じゃないような場所での恋愛という、川端が伊豆の踊り子で培った手法がまったくそのままに再現された作品ができあがり、見事いたいけな読者をだますことに成功する。もっとも、だまされない地元民にとって、ものすごく微妙な作品であることは言うまでもない。

また、当時の文壇にはもう一つの流行があり、旅行業界というものがなかった時代、観光案内的な作品を書くことにより多くの人間を作品の舞台へと旅立たせるという、今で言うタイアップ的な作品が好まれた時期であることも大きい。そのため、読者がもっとも好む清廉なイメージで語られた湯沢町は、多くの文学愛好家たちをとりこにした。 実情を鑑みずに。


作品発表当時の湯沢町

1934年当時の湯沢町は新潟と群馬の県境にある宿場町にすぎず、1931年、ようやく三国連峰にトンネルを通して、国鉄の路線である上越線が整備されたばかりだった。そんな鄙びた温泉に、後のノーベル賞作家がやってきて、その後の湯沢町の運命を大きく左右するとは、このとき誰も想像していない。

ただし、湯治場としての歴史は古く、「高半旅館」の創始者「高橋半六」によって平安時代に温泉が発見されている。ただし、日本三大薬湯と謳われた松之山温泉がすぐ近くにあったため、さほど有名というわけではなかった。

なお、1918年に湯沢町では日本史上最悪と言われる雪崩が発生し、158人が亡くなっている。地元民にとっては、こちらのほうがよっぽど雪国である。

あらすじ


書き出し

国境の長いトンネルを抜けると雪国であった。夜の底が白くなった。信号所に汽車が止まった。

日本有数の書き出しとされるこの文章にも実に惜しい部分があり、川端康成がもし、1936年にこの小説を書き始めていたら、実装が始まった雪を吹き飛ばすラッセル車のイメージにより、男女の恋愛の機微すら吹き飛ばされた可能性が高い。

なお、「国境の長いトンネルを抜けると、そこは雪国であった」という形で人口に膾炙しているが、これに関しては後の映像作品が悪い。

内容(途中まで)

12月始め、主人公の島村は新しく整備された上越線に乗り込み、三国連峰をつらぬく清水トンネル(1931年開通、9702m)を抜けて新潟県を目指していた。長大な清水トンネルを抜けるには蒸気機関車では煙害が激しいため、客車は群馬県側の水上からは当時世界最先端であった電気機関車によって牽引されていた。しかし、それだとイメージが悪いので、作品ではあくまでも汽車で通す。

上越線は、それまで11時間かかっていた東京―新潟間の運行を4時間短縮させる、まさに画期的な路線であった。

無論、そんな男女の関係にまったく関係ないことは記述されていない。

客車の中で島村は、病人らしい男と一緒にいる娘・葉子に興味を惹かれる。自分が降りた駅で、その二人も降りるのを確認した島村は、行き着けの旅館に赴き、なじみの芸者、駒子を呼び、朝まで過ごす。

なお、ここでは芸者と呼んでいるが当時の温泉宿の芸者は実質アレに近い。

(回想)島村が駒子に会ったのは新緑の5月、山歩きをした後、島村が初めての湯沢を訪れた時のことである。

なお、実際の湯沢において5月の山歩きは命がけになる可能性もある。
年にもよるが、山から雪が消えるのはだいたい6月、作者の川端康成が通った、群馬県からのルートだとそれこそ7月まで雪が残っていることもザラである。

また、湯沢町と群馬県みなかみ町の境にある名峰谷川岳は特に険峻とされ、1931年から2005年までに、781人もの尊い命を奪っている。これは、エベレスト(178人)をぶっちぎりで超える、世界で一番人の命を奪った山である。

この作品における「山歩き」という言葉に誘われた人間が犠牲になっていないことを祈るばかりである。

山歩きの後、訪れた旅館で島村は駒子に出会う。駒子は当時19歳。
徒弟制度の中で19歳はまだまだ半人前である。

島村は東京から来た文筆家で一人きりの客という、旅館にとってはあまりうれしくない類の客だったため、こんな場合は団体客を優先とばかりに、半人前の駒子が島村の部屋にお酌に来ることになる。

なお、風営法ができたのは1948年のことだった。

翌日、島村は堂々と駒子に女を世話するよう頼むが、東京から来たわけの分からない客にアネさんがたを紹介すると、後で大変な目にあうかもしれないと、駒子は断る。そのくせ、夜になると酔った駒子が部屋にやってきて、二人は一夜を共にしたのだった。未成年者飲酒禁止法の制定は1922年、この段階ですでにアウト。


昼の散歩中、島村は街道で出会った駒子に誘われる。なお、駒子にはモデルは、実際に川端康成の世話をしていた松栄という芸者だといわれている。彼女は1999年まで生きている。

駒子に誘われ、島村は駒子の住む部屋に寄ってみると、そこは踊りの師匠の家の屋根裏部屋であった。

そして、来る途中の車内で見かけた二人の男女は駒子の踊りの師匠の息子(行男)と娘(葉子)だったことを知る。

行男は腸結核で長くない命だという・・・などとうまくぼかして書いてあるが、

踊りの師匠の家とは、芸者置屋、今風で言うならホステスの斡旋所である。←この文章ですらぼかして書いているんだから、実情は推して知るべし。


作品発表後の反響

作品発表後、単なる田舎の温泉だった場所にわんさか文学バカどもがやってきたもんだから、地元民は驚いたもんさ。んでもって、ノーベル賞を受賞して世界的にも有名になっちまったもんだから、芸者置場や雪国の暮らしの実情をしっている地元民は本当に困ったもんさ。

貴様ら全員、鈴木牧之の北越雪譜を読んでから来いやあ!


その後の湯沢町

なお、この作品に描かれている雪国の情景は、田中角栄がすべてにおいてぶち壊している。

上越新幹線が通り、関越自動車道が建設されただけでも作品の情景がグダグダになるってのに、その上、バブル期において、その東京との連絡網のよさ、およびスキー場の立地条件のよさなどから、町全体が投機の対象となり、なんのことはない田んぼや畑に1億円、商品価値なんてまるでなかった山腹に2億円など、湯沢町全体が異常な空気に包まれる。

周辺市町村にはそんな話は全くなかったが。その結果、東京都湯沢町とまで揶揄されるほどの地価の高騰と各種施設の建設ラッシュ、何よりも情緒もクソも関係ない都会の若者たちの乱入が始まり、川端康成の言う「雪国」の情緒は完全に失われることになった。

もっとも、その後のバブル崩壊でかなりの打撃を受けることになったが、現在でも各種施設からのアガリを得ることで、新潟県有数の裕福な町として君臨している。

平成の大合併においても貧乏な隣町から合併をお願いされるも、自分たちは一人でやれると宣言し、合併した南魚沼市を尻目に、現時点において唯一の新潟県南魚沼郡の町として存在し続けている。
・・・雪国の情景って、なに?


作者による評

「とにかく、金がないときに原稿をたくさん上げなければいけないので大変だった」
http://ja.uncyclopedia.info/wiki/%E9%9B%AA%E5%9B%BD
http://www.asyura2.com/09/revival3/msg/574.html#c45

[リバイバル3] 湯沢町の共同湯は日本国内の温泉の中で最低最悪 中川隆
46. 中川隆[7770] koaQ7Jey 2017年4月15日 13:14:53 : b5JdkWvGxs : DbsSfawrpEw[8260]

フランス文学に造詣が深い伊藤整の『氾濫』における心理描写がある。

それに対して、川端康成の心理描写がある。

わたしにはこの二人の心理描写は本質的な違いがあると思えてならないのだ。


 伊藤整は『氾濫』において、人の心をそれこそ「合理的思考」で、らっきょうの皮を剥いていくように解剖していくのだ。主人公自身が自分の心理を解剖していくことさえも容赦なく、暴露的であり客観的だ。

私小説的世界を描いているが、私小説的な意味での客観描写ではなく、西欧的な意味での客観描写であり、それでいて心理学的な描写である。

評論家の奥野健男が『氾濫』(新潮文庫)の解説で「心理描写の極北」と絶賛していたが、そうであったとしても、わたしには無味乾燥な世界にしか思えなかった。

そうして心理を余すことなく剔抉できたとして、その人間はそれだけですべてないのか、人と命との不可解さとはそんなものなのか、と思えるのだ。そうした解剖学的、そして心理学的な心理描写で生きて蠢く人間が描けると思っていることが、不思議でならないのである。

伊藤整の心理描写は、すぐれて西欧的である。無意識の闇まで、光を当てて暴き立て、またそれで無意識の闇の本質を描き出せると信じているかにみえる。その発想が理解できないのである。


 一方、川端康成の心理描写は暴露的ではなく、また分析的でもない。川端は初めから人の心理を解剖学的に、そして分析的に解明できるとは考えてはいないし、そうした発想が元々ないのではないかと思える。それでいて、川端の心理描写は鮮やかである。

川端の心理描写は、伊藤整のように、人の心に下りていって、「合理的思考」という眼によって分析的に暴かれていくのではなく、むしろ自分ではなく、自然という対象や他者によって気づかされるというような形をとっている。したがって、風景の中に自分の心理を見つけ出したり、他者のしぐさによって自分の心理に気づかされたりするのである。

風景を描写しながら、それは自分の心理を写した鏡であり、他者を描写しながら、その他者の中に自分の心理が生きて動いているという描写方法なのである。風景描写であって心理描写であり、他者を描きながら、自分の心理を他者の姿の中に浮かび上がらせているのだ。

これは西欧的な意味での「合理的思考」による認識ではなく、日本的な感覚的認識によって、自然の風景や他者の中に隠れている、自分という不可思議な生き物の心理に気づかされるという描写手法である。


 伊藤整は『氾濫』において、神のような存在である。登場人物の心の隅々まで余すところなく把握し、あらゆる動作と、行動の意味を心理学的に理由付けられるのである。

私小説の意味で、登場人物が伊藤整の傀儡になっているといっているのではない。私小説よりははるかに高度な人間把握であり、心理的描写であり、また人物造形である。フランス文学に精通した伊藤整であり、『小説の方法』を書いている伊藤整が、単なる私小説を書くはずはないし、また私小説の形骸化でしかない風俗小説を書くはずはないのである。

「心理小説の極北」というからには、伊藤整の心理描写の方法論からすれば、『氾濫』が限界だということになるのだろうか。わたしは翻訳小説を読んでいるような錯覚を覚えたのだが、それだけ伊藤整の心理描写の手法が西欧的だったのかもしれない。

 一方の川端康成であるが、小説の登場人物の心をすべて把握してはいない。また、把握することを最初から放棄しているように、わたしは思っている。

人間とはそれほどまでに、不可解な生き物だからだろう。おぼろげに、ぼんやりと人の心理を浮かび上がらせるだけである。それでいて、一瞬だけ鮮やかにみせてくれたりするが、ぼんやりとした中の一瞬だから、鮮やかであり印象的なのである。

その一瞬とは、直観に通じているものなのだろう。感覚的認識とは、西欧的な「合理的思考」によって、らっきょうの皮を一枚一枚剥いていって本質を暴くことではなく、一瞬の中で感覚的に本質を掴み取ることである。

 伊藤整の『氾濫』は、らっきょうと一緒で、剥く皮がなくなってもついに本質が見えてはこないのと似ている。すべてを「論理的思考」で心を分析的に暴き立てたから、かえって心がみえなくなり、空虚なものでしかなくなってしまったのではなかろうか。

何故ならば心は自らで動いて呼吸をしているもので、生きた生命をもっているからだ。断片としての事実を繋ぎ合わせても生命ではない。生命とはそうした得体のしれないものであり、だからこそ尊厳があるのだろう。

 川端康成の描いた人間の心は、ぼんやりとしたものだから、不可思議な生命そのままに生きて呼吸をしているのである。しかし、ぼんやりとではあるが、だからこそその人間の本質的なものが浮かび上がってくるのだろう。

 わたしは当然に、川端康成の心理描写における手法の方向性でいくつもりだが、そのままではなく、わたしなりの手法を取り入れていくつもりだ。

 国学を論じた中で、わたしは川端康成に言及した。その箇所を抜粋してみたい。


「川端の感覚と文学的感性とはすぐれて日本的なものと思っている。日本という風土が色濃く反映しているのだ。が、川端は契沖的なあり方ではない。かといって宣長的ではない。

しかし、川端の対象へと注がれる感情と、対象から跳ね返ってくるものを受け取る感覚と、またその感覚によって醸し出される感情とが、宣長のいう『物のあはれ』のように一所に留まることをしないで、拘りを離れて流れていくように、わたしは感じている。

宣長の自我の喪失の絶対化という意味での『物のあはれ』とは違う。濃密な自我を宿したものだ。川端もやはり『情としてのロマンチック・イロニー』を生きていたのだろうか。

日本の四季の移ろいのように、瞬時に情としての姿を変えていく。この情は一方通行の自己完結型の情だけではなく、対象と交感し合う情でもあるのだが、だからといって交感し、合一し、そこに留まろうとする意志がないのだ。早くから親をなくし、肉親の愛情に溺れて育った経験のない川端の特異性なのだろうか」

と書いたのであるが、「感覚によって醸し出される感情」が、「一所に留まることをしないで、拘りを離れて流れていく」という川端の特質が、作品の中に随所に現れている。そしてその流れ方が、余韻を引き摺るようにして、関連性をもっているのだ。感情を表現した比喩が、新たな比喩を呼び起こし、更にその比喩が新たな比喩を呼び起こすというような流れ方なのである

 竹西寛子が新潮社の文庫本『雪国』の解説『川端康成 人と作品』で、


「私見によれば、川端康成の文学における日本については、本来モノローグによる自己充足や解放を好まず、ダイアローグによってドラマを進展させたり飛躍させたりする谷崎潤一郎の文学と較べると、少なくとも一つのことははっきりとするように思う。

それは、谷崎文学が、日本の物語の直系であるようには、川端文学はドラマの欠如あるいは不必要によって直系とはいい難く、本質的にはモノローグによるものという点で、和歌により強く繋がっているということである。

しばしば小説の約束事は無視されて一見随筆風でもあるのに、あえて日記随筆の系譜に与させないのはほかでもない。さきにふれたように、この文学は、ゆめ論述述志の文学でなく、感覚と直観によってこの世との関係を宙に示しているからである」


と論じている。 鋭い指摘であるが、わたしは和歌には様々な要素があると思っている。相聞歌もあれば、短いなかに物語を秘めた和歌もある。和歌がモノローグによるものだとは言いがたいように思う。

 川端文学は和歌に通じている面はあるが、俳諧連歌のような「心の動き」に特徴性があるように思う。句と句を繋ぎ逢わせているのが、感覚的な言葉であり、それが比喩の役割もしているのではないだろうか。

 竹西寛子は、「感覚と直観によってこの世との関係を宙に示している」と書いているが、これこそが本居宣長の「もののあわれ」的な感情の発露であり、そして感情が一所に留まって執着することを拒んで流れて行くことに当たるのだろう。

「この世との関係」は「感覚と直観」で一瞬に花となって結ぶが、忽ちにして花びらを散らして、川面に浮かべた花びらとともに流れていくのだ。「この世との関係」はあるようでありながら、ないようでもあり、おぼろげなものでしかないのだろう。執着することで、その執着するものを失ったときの痛手と悲哀とが身に染みついているからだろうか。

 竹西寛子は谷崎潤一郎と川端とを比較して、谷崎を「日本の物語の直系」としているのに対して、川端を「小説の約束事は無視されて一見随筆風でもある」と指摘しているが、わたしは川端の小説に秘められた企みと構造性には舌を巻いている。


わたしが小説でやろうとしていることと密接に関連しているので、川端の不朽の名作『雪国』を例に説明してみたい

 有名な冒頭の文、「国境の長いトンネルを抜けると雪国だった。夜の底が白くなった」であるが、わたしはこれを「比喩」と捉えている。

いわゆる比喩ではない。

どうして「比喩」と見るかというと、「雪国」とは「非日常の世界」を表しているからだ。

トンネルとは「日常の世界」から「非日常の世界」へと通じている扉なのである。

「日常の世界」にあって、「非日常の世界」とはどんなものなのか、川端は書いている。

「これから会いにいく女をなまなましく覚えている、はっきりと思い出そうとあせればあせるほど、つかみどころなくぼやけてゆく記憶の頼りなさのうちに、この指だけは女の感触で今も濡れていて、自分を遠くの女へ引き寄せるかのようだと、不思議に思いながら、鼻につけて匂いを嗅いでみたりしていたが、ふとその指で窓ガラスに線を引くと、そこに女の片目がはっきり浮き出たのだった。」

 凄いとしかいいようのない仕掛けであり、これほど的確に、そして感覚的に「雪国」という「非日常」の世界を暗示はできないであろう。

「雪国の世界」とは、「はっきりと思い出そうとあせればあせるほど、つかみどころなくぼやけてゆく記憶の頼りな」い世界なのだ。


 トンネルがこの文章では、「指の感触」に置き換わっている。それもエロチックであり、すこぶる感覚的だ。

「日常の世界」にあって、「雪国の世界」を生々しく、そして瑞々しく覚えているのは、つまり二つの世界を結んでいるのは「指の感触」なのである。記憶を超えた、感覚の息づく世界こそが「雪国の世界」なのだろう。


「雪国の世界」とは二重の世界でもある。

島村にとっては「非日常の世界」であるが、駒子と葉子にとっては「日常の世界」である。

 駒子と葉子は、島村を「欲」で「日常の世界」へと引き摺り込もうとするが、島村は「もののあわれ」で、するりと駒子と葉子の欲という手から、すり抜けてしまうのである。

「日常の世界」に生きている駒子と葉子の「情」と、「非日常の世界」にいる島村の「情」とが、一つの「欲」となって絡み合うことはないのだ。たとえ身体が絡み合ったとしても、それは島村にとっては感覚の動きでしかなく「もののあわれ」的な世界(竹西寛子のいう「宙」)を生きているにすぎないのである。

「日常の世界」にいる駒子と葉子には、島村とはつかみ所がない綿毛のような存在にみえてしまうのだろう。何故ならば「非日常の世界」にあって、「もののあわれ」を生きており、「欲」としての存在ではないからだ。「日常の世界」にいる駒子と葉子から見たら薄情と映ることだろう。

 島村は「雪国の世界」から、「日常の世界」へと戻る汽車のなかで、「雪国の世界」を回想して、

「いつでも忽ち放心状態に入り易い彼にとっては、あの夕景色の鏡や朝雪の鏡が、人工のものとは信じられなかった。自然のものであった。そして遠い世界であった」

と描いている。

 小説「雪国」とは、「非日常の世界」のなかで「もののあわれ」を生きている島村の眼が捉えた世界を描き、「もののあわれ」を生きている島村と、「日常の世界」にあって「欲」を生きている駒子と葉子との、永遠に絡み合うことがない情の動きを描いているように思う。絡み合わないからこそ、島村の眼に映った駒子と葉子の切ないほどの美しさと艶やかさが浮き上がってくるのだろう。


 川端の比喩は、まず大きな「雪国」という世界を作り、その世界のなかで、俳諧連歌的に感覚を飛翔させているのだと思える。単なる比喩ではない。そして、和歌の修辞法である「掛詞」的な色合いを出しているのだ。感覚的に関連させることで、次の描写に色を添える「枕詞」と「序詞」的な効果を生み出しているのかもしれない。だから奥が深く、高度なのだろう。


 おそらく川端は技法として意識的に表現に反映させているのではないだろう。無意識にやっているのだ。『雪国』における二つの異なった世界という設定をして、その世界の対比と、永遠に結び合うことがない「情」と「情」との絡み合いと、「非日常の世界」だからこそ見えてくる一瞬の表情(人と自然と暮らしの風景)とを描こうとした、とわたしは推測しているのだが、もしかしたらこれさえも非作為的にやっているのかもしれない。

 川端は「日常の世界」と「非日常の世界」との絡み合いを描いた。

わたしは世界観の違いによって見えてくる世界が違ったものになると思っているが、それを小説の中で表現したいと考えている。単なる視点の移動ではなく、違った世界観が絡み合ったらどうなるか、見えている世界が違うのだから、ちぐはぐな絡み合いになるだろうが、どんなものになるのか、それを描きたいと思っている。


 川端は横光利一とともに新感覚派を旗揚げしたが、新感覚派とは私小説的な伝統に、「表現形式」で反旗を翻した文学運動である。私小説はあるがままの事実を小説に写し出そうと、主観的な装飾を排除した客観描写を基本としたが、新感覚派はそれを感覚的描写に置き換えたものにすぎない。

 横光は志賀直哉に私淑していたのだが、だからこそ客観描写の極北である志賀の文体を超えることはできないと悟り、客観描写を捨てて、感覚的な主観描写を企てたのではないだろうか。しかし、それはあくまでも描写技法でしかなく、文学における「感覚」の意味を突き詰めたものではなかった。そればかりか、横光にいたっては客観描写を裏返したという意味での主観描写であったと、わたしはみている。

私淑していただけに、文体の核が志賀のものなのである。意識的にその呪縛から逃れようとしているから、よりそれが鮮やかになるのかもしれない。要は、志賀の文章に感覚的な形容詞やら比喩やらをねじ込んだのだと思う。そしてその肝心の感覚であるが、横光と川端とでは根本的に違っているといえるだろう。


 川端の感覚は優れて日本的であり、感覚的認識が基本にあるのに対して、横光の感覚は人工的であり、優れて西欧的であるように思う。

 晩年の横光は日本主義的な言動をしたが、横光が立っていたのは西欧近代主義の上であり、この日本主義とは国家主義的な色彩を帯びたものだったように感じている。そして、西欧的合理主義を裏返した日本的な精神主義へと傾斜するのだが、今まで縄文時代まで遡って見てきた日本的な心とは、似ても似つかぬものでしかないのではないだろうか。

 三島由紀夫もまた横光的であり、いわゆる武士道とは日本人の心とは違うものだと思っている。これは武士という支配階級の道徳観であって、すぐれて儒教的な色彩の濃いものである。「切り捨て御免」をとってみても、とても民衆レベルで共有していた精神ではありえない。

武士道を美化するのは、西欧的ロマン主義に毒されているとしか思えないし、だからこそ、西欧人が武士道と侍に好奇の目を向け、それが高貴であり崇高なものをみる眼差しへと変わるのだろう。これほど西欧人に理解されやすいものはない。西欧にも騎士道がある。

 この儒教的な匂いがする武士道に対して、「神さびる」といった日本的な感覚認識にいたっては、西欧人には想像するのは難しいのではないだろうか。

しかし、これこそが日本的な心の核的なものであり、精神性に通じたものなのだ。

だからこそ小泉八雲は只者ではないといえるが、西欧人でも「交感の場」は生きられるという証でもある。里山へと引き寄せられる西欧人の心に通じているのだろう。

 川端は思想音痴であり、三島の思想を理解していなかっただろうし、横光の日本的精神主義も無理解だったと推察するが、川端と三島とは感覚も精神構造も違っており、また横光とも違っていたと考えている。但し、政治とはそうしたものとは無関係なので、政治的な姿勢は同じだとしても何ら不思議ではないのである。
https://blogs.yahoo.co.jp/azuminonoyume/32135156.html



http://www.asyura2.com/09/revival3/msg/574.html#c46

[リバイバル3] 湯沢町の共同湯は日本国内の温泉の中で最低最悪 中川隆
47. 中川隆[7771] koaQ7Jey 2017年4月15日 13:21:35 : b5JdkWvGxs : DbsSfawrpEw[8261]

異界の女性に魅せられた男の運命は…


802:tky10-p121.flets.hi-ho.ne.jp:2011/01/22(土) 22:33:30.90 0

川端康成の「雪国」は死後の世界
みんな幽霊という設定


803:tky10-p121.flets.hi-ho.ne.jp:2011/01/22(土) 22:35:37.56 0

ちなみに千と千尋も死後の世界だね
トンネル抜けるとそこは黄泉の国ということ
http://2chnull.info/r/morningcoffee/1295616090/1-1001


講演の中で、奥野健男は川端康成の「雪国」に触れ、実際に川端康成と話したときのことを語ってくれた。

川端によると「雪国」というのは「黄泉の国」で、いわゆるあの世であるらしい。


  「雪国」があの世であるというのは何となくわかる気がする。島村はこの世とあの世を交互に行き交い、あの世で駒子と会うのである。駒子とはあの世でしか会えないし、この世にくることはない。島村と駒子をつなぐ糸は島村の左手の人差指である。島村が駒子に会いにくるのも1年おきぐらいというのも天の川伝説以外に何かを象徴しているのだろうか。

  とてつもなく哀しく、美しい声をもつ葉子はさしずめ神の言葉を語る巫女なのか。その巫女の語る言葉に島村は敏感に反応するのだ。もしかしたら葉子は神の使いなのかもしれない。

 駒子は葉子に対して「あの人は気違いになる」というのは、葉子が神性を帯びているからではないのか。

 日本人とって、あの世とは無の世界ではない。誰もが帰るべき、なつかしい世界である。あいまいな小説「雪国」がなぜか私になつかしい思いをさせるのはやはり「雪国」が黄泉の国だからなのだろうか。
http://www.w-kohno.co.jp/contents/book/kawabata.html

川端は代表作雪国でトンネルを効果的に使っているが、1953年4月に発表された小説『無言』でも現世とあの世をつなぐ隠喩として名越隧道をうまく使っている。

なお、川端が自殺した逗子マリーナには、車で鎌倉から一つ目の名越隧道と二つ目の逗子隧道を抜けてすぐ右折し5分程度の距離にある。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%90%8D%E8%B6%8A%E9%9A%A7%E9%81%93
http://blog.livedoor.jp/aotuka202/archives/51017908.html


川端康成 『片腕』


「片腕を一晩お貸ししてもいいわ。」

と娘は言った。そして右腕を肩からはずすと、それを左手に持って私の膝においた。

「ありがとう。」と私は膝を見た。娘の右腕のあたたかさが膝に伝わった。

「あ、指輪をはめておきますわ。あたしの腕ですというしるしにね。」

と娘は笑顔で左手を私の胸の前にあげた。「おねがい……。」


 左片腕になった娘は指輪を抜き取ることがむずかしい。

「婚約指輪じゃないの?」と私は言った。

「そうじゃないの。母の形見なの。」

 小粒のダイヤをいくつかならべた白金の指輪であった。

「あたしの婚約指輪と見られるでしょうけれど、それでもいいと思って、はめているんです。」と娘は言った。

「いったんこうして指につけると、はずすのは、母と離れてしまうようでさびしいんです。」

 私は娘の指から指輪を抜き取った。そして私の膝の上にある娘の腕を立てると、紅差し指にその指輪をはめながら、「この指でいいね?」

「ええ。」と娘はうなずいた。

「そうだわ。肘や指の関節がまがらないと、突っ張ったままでは、せっかくお持ちいただいても、義手みたいで味気ないでしょう。動くようにしておきますわ。」

そう言うと、私の手から自分の右腕を取って、肘に軽く唇をつけた。指のふしぶしにも軽く唇をあてた。

「これで動きますわ。」

「ありがとう。」私は娘の片腕を受け取った。


「この腕、ものも言うかしら? 話をしてくれるかしら?」


「腕は腕だけのことしか出来ないでしょう。

もし腕がものを言うようになったら、返していただいた後で、あたしがこわいじゃありませんの。でも、おためしになってみて……。

やさしくしてやっていただけば、お話を聞くぐらいのことはできるかもしれませんわ。」

「やさしくするよ。」

「行っておいで。」と娘は心を移すように、私が持った娘の右腕に左手の指を触れた。

「一晩だけれど、このお方のものになるのよ。」

 そして私を見る娘の目は涙が浮ぶのをこらえているようであった。

「お持ち帰りになったら、あたしの右腕を、あなたの右腕と、つけ替えてごらんになるようなことを……。」

と娘は言った。「なさってみてもいいわ。」

「ああ、ありがとう。」

 私は娘の右腕を雨外套のなかにかくして、もやの垂れこめた夜の町を歩いた。電車やタクシイに乗れば、あやしまれそうに思えた。娘のからだを離された腕がもし泣いたり、声を出したりしたら、騒ぎである。

 私は娘の腕のつけ根の円みを、右手で握って、左の胸にあてがっていた。その上を雨外套でかくしているわけだが、ときどき、左手で雨外套をさわって娘の腕をたしかめてみないではいられなかった。それは娘の腕をたしかめるのではなくて、私のよろこびをたしかめるしぐさであっただろう。

 娘は私の好きなところから自分の腕をはずしてくれていた。腕のつけ根であるか、肩のはしであるか、そこにぷっくりと円みがある。西洋の美しい細身の娘にある円みで、日本の娘には稀れである。それがこの娘にはあった。ほのぼのとういういしい光りの球形のように、清純で優雅な円みである。娘が純潔を失うと間もなくその円みの愛らしさも鈍ってしまう。たるんでしまう。美しい娘の人生にとっても、短いあいだの美しい円みである。それがこの娘にはあった。

肩のこの可憐な円みから娘のからだの可憐なすべてが感じられる。胸の円みもそう大きくなく、手のひらにはいって、はにかみながら吸いつくような固さ、やわらかさだろう。娘の肩の円みを見ていると、私には娘の歩く脚も見えた。細身の小鳥の軽やかな足のように、蝶が花から花へ移るように、娘は足を運ぶだろう。そのようにこまかな旋律は接吻する舌のさきにもあるだろう。


 袖なしの女服になる季節で、娘の肩は出たばかりであった。あらわに空気と触れることにまだなれていない肌の色であった。春のあいだにかくれながらうるおって、夏に荒れる前のつぼみのつやであった。私はその日の朝、花屋で泰山木のつぼみを買ってガラスびんに入れておいたが、娘の肩の円みはその泰山木の白く大きいつぼみのようであった。娘の服は袖がないというよりなお首の方にくり取ってあった。腕のつけ根の肩はほどよく出ていた。服は黒っぽいほど濃い青の絹で、やわらかい照りがあった。このような円みの肩にある娘は背にふくらみがある。撫で肩のその円みが背のふくらみとゆるやかな波を描いている。やや斜めのうしろから見ると、肩の円みから細く長めな首をたどる肌が掻きあげた襟髪でくっきり切れて、黒い髪が肩の円みに光る影を映しているようであった。

 こんな風に私がきれいと思うのを娘は感じていたらしく、肩の円みをつけたところから右腕をはずして、私に貸してくれたのだった。

 雨外套のなかでだいじに握っている娘の腕は、私の手よりも冷たかった。心おどりに上気している私は手も熱いのだろうが、その火照りが娘の腕に移らぬことを私はねがった。娘の腕は娘の静かな体温のままであってほしかった。また手のなかのものの少しの冷たさは、そのもののいとしさを私に伝えた。人にさわられたことのない娘の乳房のようであった。

 雨もよいの夜のもやは濃くなって、帽子のない私の頭の髪がしめって来た。表戸をとざした薬屋の奥からラジオが聞えて、ただ今、旅客機が三機もやのために着陸出来なくて、飛行場の上を三十分も旋回しているとの放送だった。こういう夜は湿気で時計が狂うからと、ラジオはつづいて各家庭の注意をうながしていた。またこんな夜に時計のぜんまいをぎりぎりいっぱいに巻くと湿気で切れやすいと、ラジオは言っていた。私は旋回している飛行機の灯が見えるかと空を見あげたが見えなかった。空はありはしない。たれこめた湿気が耳にまではいって、たくさんのみみずが遠くに這うようなしめった音がしそうだ。ラジオはなおなにかの警告を聴取者に与えるかしらと、私は薬屋の前に立っていると、動物園のライオンや虎や豹などの猛獣が湿気を憤って吠える、それを聞かせるとのことで、動物のうなり声が地鳴りのようにひびいて来た。

ラジオはそのあとで、こういう夜は、妊婦や厭世家などは、早く寝床へはいって静かに休んでいて下さいと言った。またこういう夜は、婦人は香水をじかに肌につけると匂いがしみこんで取れなくなりますと言った。


 猛獣のうなり声が聞えた時に、私は薬屋の前から歩き出していたが、香水についての注意まで、ラジオは私を追って来た。猛獣たちが憤るうなりは私をおびやかしたので、娘の腕にもおそれが伝わりはしないかと、私は薬屋のラジオの声を離れたのであった。娘は妊婦でも厭世家でもないけれども、私に片腕を貸してくれて片腕になった今夜は、やはりラジオの注意のように、寝床で静かに横たわっているのがいいだろうと、私には思われた。片腕の母体である娘が安らかに眠っていてくれることをのぞんだ。

 通りを横切るのに、私は左手で雨外套の上から娘の腕をおさえた。車の警笛が鳴った。脇腹に動くものがあって私は身をよじった。娘の腕が警笛におびえてか指を握りしめたのだった。

「心配ないよ。」と私は言った。

「車は遠いよ。見通しがきかないので鳴らしているだけだよ。」

 私はだいじなものをかかえているので、道のあとさきをよく見渡してから横切っていたのである。その警笛も私のために鳴らされたとは思わなかったほどだが、車の来る方をながめると人影はなかった。その車は見えなくて、ヘッド・ライトだけが見えた。その光りはぼやけてひろがって薄むらさきであった。めずらしいヘッド・ライトの色だから、私は道を渡ったところに立って、車の通るのをながめた。

朱色の服の若い女が運転していた。女は私の方を向いて頭をさげたようである。とっさに私は娘が右腕を取り返しに来たのかと、背を向けて逃げ出しそうになったが、左の片腕だけで運転出来るはずはない。しかし車の女は私が娘の片腕をかかえていると見やぶったのではなかろうか。娘の腕と同性の女の勘である。私の部屋へ帰るまで女には出会わぬように気をつけなければなるまい。女の車はうしろのライトも薄むらさきであった。やはり車体は見えなくて、灰色のもやのなかを、薄むらさきの光りがぼうっと浮いて遠ざかった。


「あの女はなんのあてもなく車を走らせて、ただ車を走らせるために走らせずにはいられなくて、走らせているうちに、姿が消えてなくなってしまうのじゃないかしら……。」と私はつぶやいた。

「あの車、女のうしろの席にはなにが坐っていたのだろう。」

 なにも坐っていなかったようだ。なにも坐っていないのを不気味に感じるのは、私が娘の片腕をかかえていたりするからだろうか。あの女の車にもしめっぽい夜のもやは乗せていた。そして女のなにかが車の光りのさすもやを薄むらさきにしていた。女のからだが紫色の光りを放つことなどあるまいとすると、なにだったのだろうか。こういう夜にひとりで車を走らせている若い女が虚しいものに思えたりするのも、私のかくし持った娘の腕のせいだろうか。

女は車のなかから娘の片腕に会釈したのだったろうか。こういう夜には、女性の安全を見まわって歩く天使か妖精があるのかもしれない。あの若い女は車に乗っていたのではなくて、紫の光りに乗っていたのかもしれない。虚しいどころではない。私の秘密を見すかして行った。


 しかしそれからは一人の人間にも行き会わないで、私はアパアトメントの入口に帰りついた。扉のなかのけはいをうかがって立ちどまった。頭の上に蛍火が飛んで消えた。蛍の火にしては大き過ぎ強過ぎると気がつくと、私はとっさに四五歩後ずさりしていた。また蛍のような火が二つ三つ飛び流れた。その火は濃いもやに吸いこまれるよりも早く消えてしまう。人魂か鬼火のようになにものかが私の先きまわりをして、帰りを待ちかまえているのか。しかしそれが小さい蛾の群れであるとすぐにわかった。蛾のつばさが入口の電灯の光りを受けて蛍火のように光るのだった。蛍火よりは大きいけれども、蛍火と見まがうほどに蛾としては小さかった。

 私は自動のエレベエタアも避けて、狭い階段をひっそり三階へあがった。左利きでない私は、右手を雨外套のなかに入れたまま左手で扉の鍵をあけるのは慣れていない。気がせくとなお手先きがふるえて、それが犯罪のおののきに似て来ないか。部屋のなかになにかがいそうに思える。私のいつも孤独の部屋であるが、孤独ということは、なにかがいることではないのか。娘の片腕と帰った今夜は、ついぞなく私は孤独ではないが、そうすると、部屋にこもっている私の孤独が私をおびやかすのだった。


「先きにはいっておくれよ。」

私はやっと扉が開くと言って、娘の片腕を雨外套のなかから出した。

「よく来てくれたね。これが僕の部屋だ。明りをつける。」

「なにかこわがっていらっしゃるの?」

と娘の腕は言ったようだった。

「だれかいるの?」

「ええっ? なにかいそうに思えるの?」

「匂いがするわ。」

「匂いね? 僕の匂いだろう。暗がりに僕の大きい影が薄ぼんやり立っていやしないか。よく見てくれよ。僕の影が僕の帰りを待っていたのかもしれない。」

「あまい匂いですのよ。」

「ああ、泰山木の花の匂いだよ。」

と私は明るく言った。私の不潔で陰湿な孤独の匂いでなくてよかった。泰山木のつぼみを生けておいたのは、可憐な客を迎えるのに幸いだった。私は闇に少し目がなれた。真暗だったところで、どこになにがあるかは、毎晩のなじみでわかっている。

「あたしに明りをつけさせて下さい。」

娘の腕が思いがけないことを言った。

「はじめてうかがったお部屋ですもの。」

「どうぞ。それはありがたい。僕以外のものがこの部屋の明りをつけてくれるのは、まったくはじめてだ。」


 私は娘の片腕を持って、手先きが扉の横のスイッチにとどくようにした。天井の下と、テエブルの上と、ベッドの枕もとと、台所と、洗面所のなかと、五つの電灯がいち時についた。私の部屋の電灯はこれほど明るかったのかと、私の目は新しく感じた。

 ガラスびんの泰山木が大きい花をいっぱいに開いていた。今朝はつぼみであった。開いて間もないはずなのに、テエブルの上にしべを落ち散らばらせていた。それが私はふしぎで、白い花よりもこぼれたしべをながめた。しべを一つ二つつまんでながめていると、テエブルの上においた娘の腕が指を尺取虫のように伸び縮みさせて動いて来て、しべを拾い集めた。私は娘の手のなかのしべを受け取ると、屑籠へ捨てに立って行った。

「きついお花の匂いが肌にしみるわ。助けて……。」

と娘の腕が私を呼んだ。


「ああ。ここへ来る道で窮屈な目にあわせて、くたびれただろう。しばらく静かにやすみなさい。」

とベッドの上に娘の腕を横たえて、私もそばに腰をかけた。そして娘の腕をやわらかくなでた。


「きれいで、うれしいわ。」

娘の腕がきれいと言ったのは、ベッド・カバアのことだろう。水色の地に三色の花模様があった。孤独の男には派手過ぎるだろう。

「このなかで今晩おとまりするのね。おとなしくしていますわ。」

「そう?」

「おそばに寄りそって、おそばになんにもいないようにしてますわ。」

 そして娘の手がそっと私の手を握った。娘の指の爪はきれいにみがいて薄い石竹色に染めてあるのを私は見た。指さきより長く爪はのばしてあった。

 私の短くて幅広くて、そして厚ごわい爪に寄り添うと、娘の爪は人間の爪でないかのように、ふしぎな形の美しさである。女はこんな指の先きでも、人間であることを超克しようとしているのか。あるいは、女であることを追究しようとしているのか。

うち側のあやに光る貝殻、つやのただよう花びらなどと、月並みな形容が浮んだものの、たしかに娘の爪に色と形の似た貝殻や花びらは、今私には浮んで来なくて、娘の手の指の爪は娘の手の指の爪でしかなかった。脆く小さい貝殻や薄く小さい花びらよりも、この爪の方が透き通るように見える。そしてなによりも、悲劇の露と思える。娘は日ごと夜ごと、女の悲劇の美をみがくことに丹精をこめて来た。それが私の孤独にしみる。私の孤独が娘の爪にしたたって、悲劇の露とするのかもしれない。

 私は娘の手に握られていない方の手の、人差し指に娘の小指をのせて、その細長い爪を親指の腹でさすりながら見入っていた。いつとなく私の人差し指は娘の爪の廂(ひさし)にかくれた、小指のさきにふれた。ぴくっと娘の指が縮まった。肘もまがった。

「あっ、くすぐったいの?」

と私は娘の片腕に言った。

「くすぐったいんだね。」

 うかつなことをつい口に出したものである。爪を長くのばした女の指さきはくすぐったいものと、私は知っている、つまり私はこの娘のほかの女をかなりよく知っていると、娘の片腕に知らせてしまったわけである。

 私にこの片腕を一晩貸してくれた娘にくらべて、ただ年上と言うより、もはや男に慣れたと言う方がよさそうな女から、このような爪にかくれた指さきはくすぐったいのを、私は前に聞かされたことがあったのだ。長い爪のさきでものにさわるのが習わしになっていて、指さきではさわらないので、なにかが触れるとくすぐったいと、その女は言った。

「ふうん。」私は思わぬ発見におどろくと、女はつづけて、

「食べものごしらえでも、食べるものでも、なにかちょっと指さきにさわると、あっ、不潔っと、肩までふるえが来ちゃうの。そうなのよ、ほんとうに……。」

 不潔とは、食べものが不潔になるというのか、爪さきが不潔になるというのか。おそらく、指さきになにがさわっても、女は不潔感にわななくのであろう。女の純潔の悲劇の露が、長い爪の陰にまもられて、指さきにひとしずく残っている。
 女の手の指さきをさわりたくなった、誘惑は自然であったけれども、私はそれだけはしなかった。私自身の孤独がそれを拒んだ。からだの、どこかにさわられてもくすぐったいところは、もうほとんどなくなっているような女であった。

 片腕を貸してくれた娘には、さわられてくすぐったいところが、からだじゅうにあまたあるだろう。そういう娘の手の指さきをくすぐっても、私は罪悪とは思わなくて、愛玩と思えるかもしれない。しかし娘は私にいたずらをさせるために、片腕を貸してくれたのではあるまい。私が喜劇にしてはいけない。

「窓があいている。」と私は気がついた。ガラス戸はしまっているが、カアテンがあいている。

「なにかがのぞくの?」

と娘の片腕が言った。

「のぞくとしたら、人間だね。」

「人間がのぞいても、あたしのことは見えないわ。のぞき見するものがあるとしたら、あなたの御自分でしょう。」

「自分……? 自分てなんだ。自分はどこにあるの?」

「自分は遠くにあるの。」

と娘の片腕はなぐさめの歌のように、

「遠くの自分をもとめて、人間は歩いてゆくのよ。」

「行き着けるの?」

「自分は遠くにあるのよ。」

娘の腕はくりかえした。


 ふと私には、この片腕とその母体の娘とは無限の遠さにあるかのように感じられた。この片腕は遠い母体のところまで、はたして帰り着けるのだろうか。私はこの片腕を遠い娘のところまで、はたして返しに行き着けるのだろうか。娘の片腕が私を信じて安らかなように、母体の娘も私を信じてもう安らかに眠っているだろうか。右腕のなくなったための違和、また凶夢はないか。娘は右腕に別れる時、目に涙が浮ぶのをこらえていたようではなかったか。片腕は今私の部屋に来ているが、娘はまだ来たことがない。

 窓ガラスは湿気に濡れ曇っていて、蟾蜍の腹皮を張ったようだ。霧雨を空中に静止させたようなもやで、窓のそとの夜は距離を失い、無限の距離につつまれていた。家の屋根も見えないし、車の警笛も聞えない。

「窓をしめる。」と私はカアテンを引こうとすると、カアテンもしめっていた。窓ガラスに私の顔がうつっていた。私のいつもの顔より若いかに見えた。しかし私はカアテンを引く手をとどめなかった。私の顔は消えた。

 ある時、あるホテルで見た、九階の客室の窓がふと私の心に浮んだ。裾のひらいた赤い服の幼い女の子が二人、窓にあがって遊んでいた。同じ服の同じような子だから、ふた子かもしれなかった。西洋人の子どもだった。二人の幼い子は窓ガラスを握りこぶしでたたいたり、窓ガラスに肩を打ちつけたり、相手を押し合ったりしていた。母親は窓に背を向けて、編みものをしていた。窓の大きい一枚ガラスがもしわれるかはずれかしたら、幼い子は九階から落ちて死ぬ。あぶないと見たのは私で、二人の子もその母親もまったく無心であった。しっかりした窓ガラスに危険はないのだった。

 カアテンを引き終って振り向くと、ベッドの上から娘の片腕が、

「きれいなの。」

と言った。カアテンがベッド・カバアと同じ花模様の布だからだろう。

「そう? 日にあたって色がさめた。もうくたびれているんだよ。」

私はベッドに腰かけて、娘の片腕を膝にのせた。

「きれいなのは、これだな。こんなきれいなものはないね。」

 そして、私は右手で娘のたなごころと握り合わせ、左手で娘の腕のつけ根を持って、ゆっくりとその腕の肘をまげてみたり、のばしてみたりした。くりかえした。


「いたずらっ子ねえ。」

と娘の片腕はやさしくほほえむように言った。

「こんなことなさって、おもしろいの?」

「いたずらなもんか。おもしろいどころじゃない。」

ほんとうに娘の腕には、ほほえみが浮んで、そのほほえみは光りのように腕の肌をゆらめき流れた。娘の頬のみずみずしいほほえみとそっくりであった。


 私は見て知っている。娘はテエブルに両肘を突いて、両手の指を浅く重ねた上に、あごをのせ、また片頬をおいたことがあった。若い娘としては品のよくない姿のはずだが、突くとか重ねるとか置くとかいう言葉はふさわしくない、軽やかな愛らしさである。腕のつけ根の円みから、手の指、あご、頬、耳、細長い首、そして髪までが一つになって、楽曲のきれいなハアモニイである。

娘はナイフやフォウクを上手に使いながら、それを握った指のうちの人差し指と小指とを、折り曲げたまま、ときどき無心にほんの少し上にあげる。食べものを小さい唇に入れ、噛んで、呑みこむ、この動きも人間がものを食っている感じではなくて、手と顔と咽とが愛らしい音楽をかなでていた。娘のほほえみは腕の肌にも照り流れるのだった。


 娘の片腕がほほえむと見えたのは、その肘を私がまげたりのばしたりするにつれて、娘の細く張りしまった腕の筋肉が微妙な波に息づくので、微妙な光りとかげとが腕の白くなめらかな肌を移り流れるからだ。さっき、私の指が娘の長い爪のかげの指さきにふれて、ぴくっと娘の腕が肘を折り縮めた時、その腕に光りがきらめき走って、私の目を射たものだった。それで私は娘の肘をまげてみているので、決していたずらではなかった。肘をまげ動かすのを、私はやめて、のばしたままじっと膝においてながめても、娘の腕にはういういしい光りとかげとがあった。


「おもしろいいたずらと言うなら、僕の右腕とつけかえてみてもいいって、ゆるしを受けて来たの、知ってる?」

と私は言った。


「知ってますわ。」と娘の右腕は答えた。

「それだっていたずらじゃないんだ。僕は、なんかこわいね。」

「そう?」

「そんなことしてもいいの」

「いいわ」

「…………。」

私は娘の腕の声を、はてなと耳に入れて、

「いいわ、って、もう一度……。」

「いいわ。いいわ。」


 私は思い出した。私に身をまかせようと覚悟をきめた、ある娘の声に似ているのだ。片腕を貸してくれた娘ほどには、その娘は美しくなかった。そして異常であったかもしれない。

「いいわ。」

とその娘は目をあけたまま私を見つめた。私は娘の上目ぶたをさすって、閉じさせようとした。娘はふるえ声で言った。


「(イエスは涙をお流しになりました。《ああ、なんと、彼女を愛しておいでになったことか。》とユダヤ人たちは言いました。)」

「…………。」


「彼女」は「彼」の誤りである。死んだラザロのことである。女である娘は「彼」を「彼女」とまちがえておぼえていたのか、あるいは知っていて、わざと「彼女」と言い変えたのか。

 私は娘のこの場にあるまじい、唐突で奇怪な言葉に、あっけにとられた。娘のつぶった目ぶたから涙が流れ出るかと、私は息をつめて見た。

 娘は目をあいて胸を起こした。その胸を私の腕が突き落とした。

「いたいっ。」

と娘は頭のうしろに手をやった。

「いたいわ。」

 白いまくらに血が小さくついていた。私は娘の髪をかきわけてさぐった。血のしずくがふくらみ出ているのに、私は口をつけた。

「いいのよ。血はすぐ出るのよ、ちょっとしたことで。」

娘は毛ピンをみな抜いた。毛ピンが頭に刺さったのであった。

 娘は肩が痙攣しそうにしてこらえた。

 私は女の身をまかせる気もちがわかっているようながら、納得しかねるものがある。身をまかせるのをどんなことと、女は思っているのだろうか。自分からそれを望み、あるいは自分から進んで身をまかせるのは、なぜなのだろうか。女のからだはすべてそういう風にできていると、私は知ってからも信じかねた。この年になっても、私はふしぎでならない。そしてまた、女のからだと身をまかせようとは、ひとりひとりちがうと思えばちがうし、似ていると思えば似ているし、みなおなじと思えばおなじである。これも大きいふしぎではないか。私のこんなふしぎがりようは、年よりもよほど幼い憧憬かもしれないし、年よりも老けた失望かもしれない。心のびっこではないだろうか。

 その娘のような苦痛が、身をまかせるすべての女にいつもあるものではなかった。その娘にしてもあの時きりであった。銀のひもは切れ、金の皿はくだけた。

「いいわ。」と娘の片腕の言ったのが、私にその娘を思い出させたのだけれども、片腕のその声とその娘の声とは、はたして似ているのだろうか。おなじ言葉を言ったので、似ているように聞えたのではなかったか。おなじ言葉を言ったにしても、それだけが母体を離れて来た片腕は、その娘とちがって自由なのではないか。またこれこそ身をまかせたというもので、片腕は自制も責任も悔恨もなくて、なんでも出来るのではないか。しかし、「いいわ。」と言う通りに、娘の右腕を私の右腕とつけかえたりしたら、母体の娘は異様な苦痛におそわれそうにも、私には思えた。
 私は膝においた娘の片腕をながめつづけていた。肘の内側にほのかな光りのかげがあった。それは吸えそうであった。私は娘の腕をほんの少しまげて、その光りのかげをためると、それを持ちあげて、唇をあてて吸った。


「くすぐったいわ。いたずらねえ。」

と娘の腕は言って、唇をのがれるように、私の首に抱きついた。

「いいものを飲んでいたのに……。」と私は言った。

「なにをお飲みになったの?」

「…………。」

「なにをお飲みになったの?」

「光りの匂いかな、肌の。」


 そとのもやはなお濃くなっているらしく、花びんの泰山木の葉までしめらせて来るようであった。ラジオはどんな警告を出しているだろう。私はベッドから立って、テエブルの上の小型ラジオの方に歩きかけたがやめた。娘の片腕に首を抱かれてラジオを聞くのはよけいだ。しかし、ラジオはこんなことを言っているように思われた。たちの悪い湿気で木の枝が濡れ、小鳥のつばさや足も濡れ、小鳥たちはすべり落ちていて飛べないから、公園などを通る車は小鳥をひかぬように気をつけてほしい。もしなまあたたかい風が出ると、もやの色が変るかもしれない。色の変ったもやは有害で、それが桃色になったり紫色になったりすれば、外出はひかえて、戸じまりをしっかりしなければならない。


「もやの色が変る? 桃色か紫色に?」

と私はつぶやいて、窓のカアテンをつまむと、そとをのぞいた。もやがむなしい重みで押しかかって来るようであった。夜の暗さとはちがう薄暗さが動いているようなのは、風が出たのであろうか。もやの厚みは無限の距離がありそうだが、その向うにはなにかすさまじいものが渦巻いていそうだった。

 さっき、娘の右腕を借りて帰る道で、朱色の服の女の車が、前にもうしろにも、薄むらさきの光りをもやのなかに浮べて通ったのを、私は思い出した。紫色であった。もやのなかからぼうっと大きく薄むらさきの目玉が追って来そうで、私はあわててカアテンをはなした。


「寝ようか。僕らも寝ようか。」

 この世に起きている人はひとりもないようなけはいだった。こんな夜に起きているのはおそろしいことのようだ。

 私は首から娘の腕をはずしてテエブルにおくと、新しい寝間着に着かえた。寝間着はゆかたであった。娘の片腕は私が着かえるのを見ていた。私は見られているはにかみを感じた。この自分の部屋で寝間着に着かえるところを女に見られたことはなかった。

 娘の片腕をかかえて、私はベッドにはいった。娘の腕の方を向いて、胸寄りにその指を軽く握った。娘の腕はじっとしていた。

 小雨のような音がまばらに聞えた。もやが雨に変ったのではなく、もやがしずくになって落ちるのか、かすかな音であった。

 娘の片腕は毛布のなかで、また指が私の手のひらのなかで、あたたまって来るのが私にわかったが、私の体温にはまだとどかなくて、それが私にはいかにも静かな感じであった。

「眠ったの?」

「いいえ。」と娘の腕は答えた。

「動かないから、眠っているのかと思った。」


 私はゆかたをひらいて、娘の腕を胸につけた。あたたかさのちがいが胸にしみた。むし暑いようで底冷たいような夜に、娘の腕の肌ざわりはこころよかった。
 部屋の電灯はみなついたままだった。ベッドにはいる時消すのを忘れた。

「そうだ。明りが……。」と起きあがると、私の胸から娘の片腕が落ちた。

「あ。」私は腕を拾い持って、

「明りを消してくれる?」


 そして扉へ歩きながら、

「暗くして眠るの? 明りをつけたまま眠るの?」

「…………。」


 娘の片腕は答えなかった。腕は知らぬはずはないのに、なぜ答えないのか。私は娘の夜の癖を知らない。明りをつけたままで眠っているその娘、また暗がりのなかで眠っているその娘を、私は思い浮べた。右腕のなくなった今夜は、明るいままにして眠っていそうである。私も明りをなくするのがふと惜しまれた。もっと娘の片腕をながめていたい。先きに眠った娘の腕を、私が起きていてみたい。しかし娘の腕は扉の横のスイッチを切る形に指をのばしていた。

 闇のなかを私はベッドにもどって横たわった。娘の片腕を胸の横に添い寝させた。腕の眠るのを待つように、じっとだまっていた。娘の腕はそれがもの足りないのか、闇がこわいのか、手のひらを私の胸の脇にあてていたが、やがて五本の指を歩かせて私の胸の上にのぼって来た。おのずと肘がまがって私の胸に抱きすがる恰好になった。

 娘のその片腕は可愛い脈を打っていた。娘の手首は私の心臓の上にあって、脈は私の鼓動とひびき合った。娘の腕の脈の方が少しゆっくりだったが、やがて私の心臓の鼓動とまったく一致して来た。私は自分の鼓動しか感じなくなった。どちらが早くなったのか、どちらがおそくなったのかわからない。

 手首の脈搏と心臓の鼓動とのこの一致は、今が娘の右腕と私の右腕とをつけかえてみる、そのために与えられた短い時なのかもしれぬ。いや、ただ娘の腕が寝入ったというしるしであろうか。失心する狂喜に酔わされるよりも、そのひとのそばで安心して眠れるのが女はしあわせだと、女が言うのを私は聞いたことがあるけれども、この娘の片腕のように安らかに私に添い寝した女はなかった。

 娘の脈打つ手首がのっているので、私は自分の心臓の鼓動を意識する。それが一つ打って次のを打つ、そのあいだに、なにかが遠い距離を素早く行ってはもどって来るかと私には感じられた。そんな風に鼓動を聞きつづけるにつれて、その距離はいよいよ遠くなりまさるようだ。そしてどこまで遠く行っても、無限の遠くに行っても、その行くさきにはなんにもなかった。なにかにとどいてもどって来るのではない。次ぎに打つ鼓動がはっと呼びかえすのだ。こわいはずだがこわさはなかった。しかし私は枕もとのスイッチをさぐった。

 けれども、明りをつける前に、毛布をそっとまくってみた。娘の片腕は知らないで眠っていた。はだけた私の胸をほの白くやさしい微光が巻いていた。私の胸からぽうっと浮び出た光りのようであった。私の胸からそれは小さい日があたたかくのぼる前の光りのようであった。

 私は明りをつけた。娘の腕を胸からはなすと、私は両方の手をその腕のつけ根と指にかけて、真直ぐにのばした。五燭の弱い光りが、娘の片腕のその円みと光りのかげとの波をやわらかくした。つけ根の円み、そこから細まって二の腕のふくらみ、また細まって肘のきれいな円み、肘の内がわのほのかなくぼみ、そして手首へ細まってゆく円いふくらみ、手の裏と表から指、私は娘の片腕を静かに廻しながら、それにゆらめく光とかげの移りをながめつづけていた。

「これはもうもらっておこう。」とつぶやいたのも気がつかなかった。

 そして、うっとりとしているあいだのことで、自分の右腕を肩からはずして娘の右腕を肩につけかえたのも、私はわからなかった。

「ああっ。」という小さい叫びは、娘の腕の声だったか私の声だったか、とつぜん私の肩に痙攣が伝わって、私は右腕のつけかわっているのを知った。

 娘の片腕はミミ今は私の腕なのだが、ふるえて空をつかんだ。私はその腕を曲げて口に近づけながら、


「痛いの? 苦しいの?」

「いいえ。そうじやない。そうじやないの。」

とその腕が切れ切れに早く言ったとたんに、戦慄の稲妻が私をつらぬいた。私はその腕の指を口にくわえていた。

「…………。」

よろこびを私はなんと言ったか、娘の指が舌にさわるだけで、言葉にはならなかった。

「いいわ。」

と娘の腕は答えた。ふるえは勿論とまっていた。

「そう言われて来たんですもの。でも……。」

 私は不意に気がついた。私の口は娘の指を感じられるが、娘の右腕の指、つまり私の右腕の指は私の唇や歯を感じられない。私はあわてて右腕を振ってみたが、腕を振った感じはない。肩のはし、腕のつけ根に、遮断があり、拒絶がある。

「血が通わない。」と私は口走った。

「血が通うのか、通わないのか。」


 恐怖が私をおそった。私はベッドに坐っていた。かたわらに私の片腕が落ちている。それが目にはいった。自分をはなれた自分の腕はみにくい腕だ。それよりもその腕の脈はとまっていないか。娘の片腕はあたたかく脈を打っていたが、私の右腕は冷えこわばってゆきそうに見えた。私は肩についた娘の右腕で自分の右腕を握った。握ることは出来たが、握った感覚はなかった。

「脈はある?」と私は娘の右腕に聞いた。

「冷たくなってない?」

「少うし……。あたしよりほんの少うしね。」

と娘の片腕は答えた。

「あたしが熱くなったからよ。」


 娘の片腕が「あたし」という一人称を使った。私の肩につけられて、私の右腕となった今、はじめて自分のことを「あたし」と言ったようなひびきを、私の耳は受けた。

「脈も消えてないね?」と私はまた聞いた。

「いやあね。お信じになれないのかしら……?」

「なにを信じるの?」

「御自分の腕をあたしと、つけかえなさったじゃありませんの?」

「だけど血が通うの?」

「(女よ、誰をさがしているのか。)というの、ごぞんじ?」

「知ってるよ。(女よ、なぜ泣いているのか。誰をさがしているのか。)」

「あたしは夜なかに夢を見て目がさめると、この言葉をよくささやいているの。」


 今「あたし」と言ったのは、もちろん、私の右肩についた愛らしい腕の母体のことにちがいない。聖書のこの言葉は、永遠の場で言われた、永遠の声のように、私は思えて来た。

「夢にうなされてないかしら、寝苦しくて……。」

と私は片腕の母体のことを言った。

「そとは悪魔の群れがさまようためのような、もやだ。しかし悪魔だって、からだがしっけて、咳をしそうだ。」

「悪魔の咳なんか聞えませんように……。」

と娘の右腕は私の右腕を握ったまま、私の右の耳をふさいだ。

 娘の右腕は、じつは今私の右腕なのだが、それを動かしたのは、私ではなくて、娘の腕のこころのようであった。いや、そう言えるほどの分離はない。


「脈、脈の音……。」

 私の耳は私自身の右腕の脈を聞いた。娘の腕は私の右腕を握ったまま耳へ来たので、私の手首が耳に押しつけられたわけだった。私の右腕には体温もあった。娘の腕が言った通りに、私の耳や娘の指よりは少うし冷たい。


「魔よけしてあげる……。」

といたずらっぽく、娘の小指の小さく長い爪が私の耳のなかをかすかに掻いた。私は首を振って避けた。左手、これはほんとうの私の手で、私の右の手首、じつは娘の右の手首をつかまえた。そして顔をのけぞらせた私に、娘の小指が目についた。

 娘の手は四本の指で、私の肩からはずした右腕を握っていた。小指だけは遊ばせているとでもいうか、手の甲の方にそらせて、その爪の先きを軽く私の右腕に触れていた。しなやかな若い娘の指だけができる、固い手の男の私には信じられぬ形の、そらせようだった。小指のつけ根から、直角に手のひらの方へ曲げている。そして次ぎの指関節も直角に曲げ、その次ぎの指関節もまた直角に折り曲げている。そうして小指はおのずと四角を描いている。四角の一辺は紅差し指である。

 この四角い窓を、私の目はのぞく位置にあった。窓というにはあまりに小さくて、透き見穴か眼鏡というのだろうが、なぜか私には窓と感じられた。すみれの花が外をながめるような窓だ。ほのかな光りがあるほどに白い小指の窓わく、あるいは眼鏡の小指のふち、それを私はなお目に近づけた。片方の目をつぶった。


「のぞきからくり……?」

と娘の腕は言った。

「なにかお見えになります?」

「薄暗い自分の古部屋だね、五燭の電灯の……。」

と私は言い終らぬうち、ほとんど叫ぶように、

「いや、ちがう。見える。」

「なにが見えるの。」

「もう見えない。」

「なにがお見えになったの?」

「色だね。薄むらさきの光りだね、ぼうっとした……。その薄むらさきのなかに、赤や金の粟粒のように小さい輪が、くるくるたくさん飛んでいた。」

「おつかれなのよ。」


 娘の片腕は私の右腕をベッドに置くと、私の目ぶたを指の腹でやわらかくさすってくれた。


「赤や金のこまかい輪は、大きな歯車になって、廻るのもあったかしら……。その歯車のなかに、なにかが動くか、なにかが現われたり消えたりして、見えたかしら……。」

 歯車も歯車のなかのものも、見えたのか見えたようだったのかわからぬ、記憶にはとどまらぬ、たまゆらの幻だった。その幻がなんであったか、私は思い出せないので、


「なにの幻を見せてくれたかったの?」

「いいえ。あたしは幻を消しに来ているのよ。」

「過ぎた日の幻をね、あこがれやかなしみの……。」

 娘の指と手のひらの動きは、私の目ぶたの上で止まった。


「髪は、ほどくと、肩や腕に垂れるくらい、長くしているの?」

私は思いもかけぬ問いが口に出た。

「はい。とどきます。」

と娘の片腕は答えた。

「お風呂で髪を洗うとき、お湯をつかいますけれど、あたしの癖でしょうか、おしまいに、水でね、髪の毛が冷たくなるまで、ようくすすぐんです。その冷たい髪が肩や腕に、それからお乳の上にもさわるの、いい気持なの。」


 もちろん、片腕の母体の乳房である。それを人に触れさせたことのないだろう娘は、冷たく濡れた洗い髪が乳房にさわる感じなど、よう言わないだろう。娘のからだを離れて来た片腕は、母体の娘のつつしみ、あるいははにかみからも離れているのか。

 私は娘の右腕、今は私の右腕になっている、その腕のつけ根の可憐な円みを、自分の左の手のひらにそっとつつんだ。娘の胸のやはりまだ大きくない円みが、私の手のひらのなかにあるかのように思えて来た。肩の円みが胸の円みのやわらかさになって来る。

 そして娘の手は私の目の上に軽くあった。その手のひらと指とは私の目ぶたにやさしく吸いついて、目ぶたの裏にしみとおった。目ぶたの裏があたたかくしめるようである。そのあたたかいしめりは目の球のなかにもしみひろがる。


「血が通っている。」と私は静かに言った。

「血が通っている。」


 自分の右腕と娘の右腕とをつけかえたのに気がついた時のような、おどろきの叫びはなかった。私の肩にも娘の腕にも、痙攣や戦慄などはさらになかった。いつのまに、私の血は娘の腕に通い、娘の腕の血が私のからだに通ったのか。腕のつけ根にあった、遮断と拒絶とはいつなくなったのだろうか。清純な女の血が私のなかに流れこむのは、現に今、この通りだけれど、私のような男の汚濁の血が娘の腕にはいっては、この片腕が娘の肩にもどる時、なにかがおこらないか。もとのように娘の肩にはつかなかったら、どうずればいいだろう。


「そんな裏切りはない。」と私はつぶやいた。

「いいのよ。」と娘の腕はささやいた。

 しかし、私の肩と娘の腕とには、血がかよって行ってかよって来るとか、血が流れ合っているとかいう、ことごとしい感じはなかった。右肩をつつんだ私の左の手のひらが、また私の右肩である娘の肩の円みが、自然にそれを知ったのであった。いつともなく、私も娘の腕もそれを知っていた。そうしてそれは、うっとりととろけるような眠りにひきこむものであった。


 私は眠った。

 たちこめたもやが淡い紫に色づいて、ゆるやかに流れる大きい波に、私はただよっていた。その広い波のなかで、私のからだが浮んだところだけには、薄みどりのさざ波がひらめいていた。私の陰湿な孤独の部屋は消えていた。私は娘の右腕の上に、自分の左手を軽くおいているようであった。娘の指は泰山木の花のしべをつまんでいるようであった。見えないけれども匂った。しべは屑籠へ捨てたはずなのに、いつ、どうして拾ったのか。一日の花の白い花びらはまだ散らないのに、なぜしべが先きに落ちたのか。朱色の服の若い女の車が、私を中心に遠い円をえがいて、なめらかにすべっていた。私と娘の片腕との眠りの安全を見まもっているようであった。

 こんな風では、眠りは浅いのだろうけれども、こんなにあたたかくあまい眠りはついぞ私にはなかった。いつもは寝つきの悪さにべッドで悶々とする私が、こんなに幼い子の寝つきをめぐまれたことはなかった。

 娘のきゃしゃな細長い爪が私の左の手のひらを可愛く掻いているような、そのかすかな触感のうちに、私の眠りは深くなった。私はいなくなった。

「ああっ。」私は自分の叫びで飛び起きた。ベッドからころがり落ちるようにおりて、三足四足よろめいた。

 ふと目がさめると、不気味なものが横腹にさわっていたのだ。私の右腕だ。

 私はよろめく足を踏みこたえて、ベッドに落ちている私の右腕を見た。呼吸がとまり、血が逆流し、全身が戦慄した。私の右腕が目についたのは瞬間だった。次ぎの瞬間には、娘の腕を肩からもぎ取り、私の右腕とつけかえていた。魔の発作の殺人のようだった。

 私はベッドの前に膝をつき、ベッドに胸を落して、今つけたばかりの自分の右腕で、狂わしい心臓の上をなでさすっていた。動悸がしずまってゆくにつれて、自分のなかよりも深いところからかなしみが噴きあがって来た。


「娘の腕は……?」私は顔をあげた。

 娘の片腕はベッドの裾に投げ捨てられていた。はねのけた毛布のみだれのなかに、手のひらを上向けて投げ捨てられていた。のばした指先きも動いていない。薄暗い明りにほの白い。

「ああ。」

 私はあわてて娘の片腕を拾うと、胸にかたく抱きしめた。生命の冷えてゆく、いたいけな愛児を抱きしめるように、娘の片腕を抱きしめた。娘の指を唇にくわえた。のばした娘の爪の裏と指先きとのあいだから、女の露が出るなら……。
http://www.japanpen.or.jp/e-bungeikan/novel/kawabatayasunari.html


ずいぶん昔、何かの会合のあと友人数人とスナックで 飲んでいた時、そのうち一人との会話である。

「川端康成の『片腕』はシュールな傑作だね。口をきく片腕と添い寝 して愛撫するとは」と友人。

「あれはハイミナールの幻覚だと言われているがね」と傑作であるこ とは認めつつ、

「川端康成なら君など問題にならないくらい読んでいる がね」と言う代わりに、どうでもいいような不確かなゴシップ を喋る私。


「『眠れる美女』はまさしく屍姦だが、あれもハイミナールの幻覚か い?」

「いや、あれは実際にやっていたと言う話だ。死体愛好癖とロリコンは 川端康成の二大テーマだからね」


渡部直己『読者生成論』(思潮社)の中にある「少女切断」を読みつつ 上記の会話を思い出した。この「少女切断」は非常に刺激的で、一瞬、川 端康成全集を買って読み返そうかなどと思ったくらいだ。

読み返すとは言っても川端康成が少女小説を書いていたのは知らなかった。 昭和十年から戦後四、五年まで数にして二十以上の長短編少女小説を 書き、これらの少女小説は渡部直己によれば読み応えのある傑作である という。またこの少女小説の一つである「乙女の港」には、中里恒子 による原案草稿20枚が発見されているとのことだから、本物の少女小説 である。

今日すでに存在していない、ここで言う「少女小説」とは渡部直己によ れば、次のようなものである。


「 お互いの睫の長さも、黒子の数も、知りつくしてゐたような、少女の 友情……。

相手の持ちものや、身につけるものも、みんな好きになって、愛情を こめて、わはってみたかったやうな日……。(『美しい旅』)


そうした日々の静かな木漏れ日を浴びて、少女たちはふと肩を寄せあい、 あるいは、人垣をへだててじっと視つめあい、二人だけの「友情と愛の しるし」に、押し花や小切れなどさかんに贈りあっては、他愛なくも甘美な 夢にひたりつづける。お互いを「お姉さま」「妹」と呼びかわし、周囲から 《エスの二人》と名ざされることの悦びに、いつまでも変わらぬ「愛」を 誓いあう二人の世界を彩って、花は咲き、鳥は唄い、風は薫りつづける」


この「少女小説」は、現在の ギャル向けポルノ雑誌と同じ機能も果たしていたのであろう。

今日存在する「少女小説」は、だいぶん様子が違ってきている。たとえば 耽美小説と呼ばれる美少年の性愛を露骨に描写した小説も「少女小説」の一種 であろう。この少年とは大塚英志が言うような、少女の理想型としての少年で ある。
実はこのジャンルはまるで苦手だ。子供の頃、少女マンガというのは 実に退屈なものだなと思った。したがって、後年その少女マンガから傑作が 生まれることなど私の想像力の範囲を超えていた。文学が痩せこけていくのに 反比例して、様々な表現分野が豊饒になり、いわゆる文学を超えた傑作が 多く生まれた。それもまた私の守備範囲を超えていたのであった。

友人の一人(男)が鞄の中に常時少女マンガ雑誌を携帯し、赤川次 郎的少女小説なども愛読している。この感性はどちらかといえば少数派に違いない。

時々「わぁーっ、素敵」などとこの男が言ったりするのは少女マンガの悪影響 だろうが、聞いている方にはかなりの違和感がある。これは異化作用とは 言えない違和感である。

渡部直己が模範的反少女小説として詳細に論じているのは『千羽鶴』で ある。
『千羽鶴』の主人公三谷菊治や『雪国』の主人公島村はその年齢に比して ひどく老成した印象を受ける。彼らはテクストから、はみ出さない。

島村は視点に過ぎないし、冥界を往還する傍観者的な過客の分際から踏み 出そうとはしない。『伊豆の踊子』の一高生にとって 伊豆がそうであったように、島村にとって『雪国』は黄泉の国であり異界で あり、彼は 異人の劇に観客的に出演する。異界は彼にとって慰藉であり、生への意志 を充填する場所なのだ。

三谷菊治は、死者が紡ぎだす美に翻弄されるだけで、 自らの欲望を生きることはなく、作品の狂言まわしですらない。彼は 死者と近親相姦的にかかわる。自殺してしまう太田未亡人も文子も、 もともとこの世の人ではなかった。 或いは三谷菊治自身が死者なのかもしれない。

渡部直己によれば、 事態をなかば抑圧し、なかばそれを使嗾する検閲者である栗本ちか子は、 読みの場の知覚をみずから模倣しつつ作品に介入する 人物の典型、作者の分身たちがひしめきあう世界に紛れこんで、むしろ 読者の分身たらんと欲する人物で、小説一般に幅広く散在する。渡部直己 は『千羽鶴』の場合、作品はあげてこの人物を唾棄しようとすると書いて いる。

だが栗本ちか子は此岸の人であり、テクストを抜け出して我々の人生に 顔を出したりする。彼女は物語の検閲者であり、その欲望は使嗾しつつ抑 圧することのように見えて、実は他者を破滅させることにある。

http://homepage3.nifty.com/nct/hondou/html/hondou73.html


そのA病院なんですけど、〇〇の斡旋をしているそうで。 素敵な世界に案内してくれるのは病院の院長さん。

最初は一枚写真を撮られますが、それからは一蓮托生、きっといい仲間となってくれるはずです。まあ、もともと院長の知り合いの方しか呼ばれないようですが、そこは努力と根性でなんとかしてくだい。みなさん名士がそろってらっしゃるそうなので、サロン気分でのご利用などもいかがでしょうか。

気になるお値段の方は、「相手」によっても変わってくるようですが、5万〜10万円が相場なのだとか。そのお相手もある程度限定されていて、事故で死んだ若い女子中高生なんかが人気なようですよ。ちなみに今までの「お相手」の最高金額は一回20万。 7歳の少女の死体だったそうです。
http://unkar.org/r/occult/1201014326

http://www.asyura2.com/09/revival3/msg/574.html#c47

[政治・選挙・NHK224] 「銃剣道は戦前回帰ではない」を閣議決定!安倍政権が答弁書で明言!「指摘は当たらない」 赤かぶ
1. 中川隆[7772] koaQ7Jey 2017年4月15日 13:37:04 : b5JdkWvGxs : DbsSfawrpEw[8262]

国を守るのは大切な仕事だよ

若い人には伝統と実績があるこういう ちゃんとした訓練を受けさせた方がいい:


陸軍第五十九師団師団長陸軍中将藤田茂筆供述書に「俘虜殺害の教育指示」というのがあった。部下全員を集めて次の如く談話し、教育したというものである。

 「兵を戦場に慣れしむる為には殺人が早い方法である。即ち度胸試しである。之には俘虜を使用すればよい。4月には初年兵が補充される予定であるからなるべく早く此の機会を作って初年兵を戦場に慣れしめ強くしなければならない」

 「此には銃殺より刺殺が効果的である」

鬼になる洗礼−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−

 昭和7年(1932年)1月のある日だった。入営して二ヶ月にもならない。兵舎から200メートルほど離れた射撃場からさらに100メートルの所に、ロシア人墓地があった。その墓地に三中隊の60人の初年兵が集められた。大隊長や中隊長ら幹部がずらりと来ていた。

「何があるのか」と、初年兵がざわついているところに、6人の中国の農民姿の男たちが連れてこられた。全員後ろ手に縛られていた。

上官は「度胸をつける教育をする。じっくり見学するように」と指示した。

男たちは、匪賊で、警察に捕まったのを三中隊に引き渡されたという。はじめに、着任したばかりの大隊長(中佐)が、細身の刀を下げて6人のうちの一人の前に立った。だれかが「まず大隊長から」と、すすめたらしい。

内地からきたばかりの大隊長は、人を斬ったことなどなかった様子だった。部下が「自分を試そうとしている」ことは承知していたろう。どんな表情だったか、土屋は覚えていない。彼は、刀を抜いたものの、立ちつくしたままだった。「度胸がねえ大隊長だナ」と、土屋ら初年兵たちは見た。すぐに中尉二人が代行した。

 ヒゲをピアーッとたてた、いかにも千軍万馬の古つわもの、という風情だった。こういう人ならいくら弾が飛んできても立ったままでいられるだろうな、と思った。その中尉の一人が、後ろ手に縛られ、ひざを折った姿勢の中国人に近づくと、刀を抜き、一瞬のうちに首をはねた。土屋には「スパーッ」と聞こえた。もう一人の中尉も、別の一人を斬った。その場に来ていた二中隊の将校も、刀を振るった。後で知ったが、首というのは、案外簡単に斬れる。斬れ過ぎて自分の足まで傷つけることがあるから、左足を引いて刀を振りおろすのだという。三人のつわものたちは、このコツを心得ていた。もう何人もこうして中国人を斬ってきたのだろう。

 首を斬られた農民姿の中国人の首からは、血が、3,4メートルも噴き上げた。「軍隊とはこんなことをするのか」と、土屋は思った。顔から血の気が引き、小刻みに震えているのがわかった。

そこへ、「土屋!」と、上官の大声が浴びせられた。
 上官は「今度は、お前が突き殺せ!」と命じた。
・・・


・・・
「ワアーッ」。頭の中が空っぽになるほどの大声を上げて、その中国人に突き進んだ。両わきをしっかりしめて、といった刺突の基本など忘れていた。多分へっぴり腰だったろう。農民服姿、汚れた帽子をかぶったその中国人は、目隠しもしていなかった。三十五、六歳。殺される恐怖心どころか、怒りに燃えた目だった。それが土屋をにらんでいた。

 目前で仲間であろう三人の首が斬られるのを見ていたその中国人は、生への執着はなかった、と土屋は思う。ただ、後で憲兵となり、拷問を繰り返した時、必ず中国人は「日本鬼子」と叫んだ。「日本人の鬼め」という侵略者への憎悪の言葉だった。そう叫びながら、憎しみと怒りで燃え上がりそうな目でにらんだ。今、まさに土屋が突き殺そうという相手の目も、そうだった。

 恐怖心は、むしろ、土屋の側にあった。それを大声で消し、土屋は力まかせに胸のあたりを突いた。・・・


___

基礎さえできていれば応用は楽で楽しくなるんだ:

銃剣が上手く使える様になるとこんなに楽しい事ができるよ:

日中戦争証言 車河堡 王さん(69歳)柳河口

 1回だけ見たことがあります。強姦したのは普通子どもには見せないんです。

1回見たのは、若い女性に沢山水を飲ませて、お腹を膨らませたり、

鉄の棒を火で焼いて、赤い鉄の棒を乳房に当てたり、女性の生殖器に差し込んだり、

あるいは銃剣の先を焼いて乳房や生殖器をえぐり取ったりしました。
http://www.jade.dti.ne.jp/~kaworu/syogen/syakaho.html

死んだ人の事を悪く言いたくなかったけど言わせてもらう。
漏れの近所の銭湯で番台やってた爺さん(もう亡くなった)。

漏れが小さい頃よく戦争当時の話を銭湯の番台で自慢げに語ってたバカ。

『チャンコロ(中国人)の妊婦を木に縄で縛って銃剣で刺したら「ボムッ」って鈍い音出して破裂してよー。

ホント面白かったぞー。だから毎日チャンコロの妊婦探して見つけては、それやって遊んでたんだ。あの頃がなつかしいなあ(ニヤニヤ』


小平義雄は戦地より帰って以来、性的に突如放縦になった。

放縦なだけでは留まらず海軍被服廠の軍属であった戦争最後の年に、同じ職場の女子工員を強姦した上殺害している。以後、終戦直後の混乱の中で女性を食料をエサに誘いだし、次々と6人も、犯しては殺していった。

小平が女性を犯して殺す、その味を覚えたのは、中国の前線だった。

予審調書の中で小平は言っている。

「大怙では強姦のちょつとすごいのをやりました。…父親を縛り上げて戸棚の中入れ…
クーニャン(娘)を出せと言って出させました。

…強盗強姦は日本軍隊には付き物ですよ。
銃剣で突き刺したり、妊娠している女を銃剣で突き刺して子供を出したりしました。 私も5,6人はやっています」


「村民を銃剣で追い立てて並ばせ、機銃掃射で薙ぎ倒す。

泣き叫ぶ乳幼児や子供たちを銃剣で突き殺し、

妊婦の腹を切り裂いて胎児を放り出す。

死体の山に石油をかけて焼き尽くす。

木に縛り付けて鞭打っては冷水をかけ、凍死させる。殴り殺す。蹴り殺す。死体を野犬に食わせる。

背中に石を結わえて水中に投げ込む。

輪姦し、その女の赤ん坊を銃剣に刺して肩に担ぎ、軍歌を歌って歩き回る。

赤ん坊を投げ殺す。踏み殺す。巨大な石を担がせて圧死させる。

鞭で殴って焼けた棒を押しつけ、冷水をかけて極寒の場に捨てて凍死させる。

婦女子を狩り集めて輪姦し、腹を裂いて内蔵をえぐりだす。

生き埋めにする。眼をえぐる。耳を切る。鼻を削ぐ。首を切り、その数を競う。生きながら解剖する。銃剣で突き刺し、崖から落とす。等々」
http://web.kyoto-inet.or.jp/people/shiunji/yowa/yowa7.html

http://www.asyura2.com/17/senkyo224/msg/217.html#c1

[リバイバル3] 湯沢町の共同湯は日本国内の温泉の中で最低最悪 中川隆
48. 中川隆[7773] koaQ7Jey 2017年4月15日 13:56:20 : b5JdkWvGxs : DbsSfawrpEw[8263]

川端康成 - アンサイクロペディア


川端康成(かわばた やすなり、1899年6月14日 - 1972年4月16日)は日本を代表する大文豪(ど変態)である。どの辺が変態かは作品の行間を読めばよくわかる。

「人間☆失格」の太宰治と不仲であったことが知られているが、実際には川端のほうがよっぽど変質者で異常者である。

むしろ完全なサイコパスであるがゆえに社会的勝利者となりえたのだと思われる

(太宰は「心ならずも道を踏み外した真人間」の苦悩を描いた良心的な作家ですらあり、本質としては気弱で心優しい善良な人間である。
やさしさと繊細さゆえに社会的に破滅してしまうことはよくある話である。
それゆえに女たちに好かれたのだろう。碇シンジが上辺は馬鹿にされつつも、暗にもてたのと同じ理屈)

同性愛で知られる三島由紀夫とは「心の友」ともいえる「師弟の契り」の仲だったらしい(「類は友を呼ぶ」のだろうか。共に「渚カヲル」ではないが耽美的変質者である)が、その関係がどこまで進んでいたのかは定かではない。

自死への道程

眼光鋭い作家の肖像。絶滅危惧種。

産道を抜けるとそこは雪国であった……とはいかなかった。そうならどれほどよかったろう。

世間はざわつき、大阪人の両親は首のまだすわらぬ赤子を揺さぶり、つきっきりで、狂ったようにぺちゃくちゃ話しかけた。

ああ、うるさい、死ねばいいのに。
ある日ついに怒り心頭に発した川端少年がその目をカッと見開くと身内がまとめて転げて死んだ。

利発な子であった。習ったことは頭の中の石板に刻みつけられた。

そんな彼の灰色の青春に転機が訪れる。旅先の伊豆の景色に、人に、彼は魅了される。
朗らかさ、あたたかさの中に宿命的に存在する陰影。静謐の美。
ああ俺はこれを求めていたのかそうかいや違うそうじゃない。

明晰な頭脳の奥の病んだ心は火だるまになって転げ落ちる踊り子に魅了される。

デカダンの道を突き進む男はいたいけな少女をちぎって捨て、ちぎって捨て、しかしそのちぎり絵が耽美に見えた。

彼の眼はやがて「古都」京都をも捉える。そして言い放つ、黙ってさびれてろ、と。時よ止まれ、日本きみは美しい。


突然の入院。なるほど止まるのは君でなくて俺ということか。
よろしい、しかしそれならばせめて美しく。静かに終わるならこれがよかろう。

しかしガス管をくわえるのは見た目に美しくない。
作家はガスストーブの栓を抜いた。無駄な配慮であった。部屋の中がくさいくさい。

作品

彼の作品、読書中のBGMには「残酷な天使のテーゼ」が最適である。

『十六歳の日記』

死にいたる病床の祖父の冷徹な観察日記。まさしくサイコパスである。

『伊豆の踊り子』

混浴温泉で出会った、全裸で手を振る純真な少女をじっくりと視姦する。最後の号泣シーンは議論と憶測と諸々の疑惑を呼んでいる。


『雪国』

田舎の温泉街で、家族を放置してきた男がふらふらする。

芸者女の「あなた、私を笑ってるのね」という言葉は、川端という人間の本質を表している。

残酷な人生観を持ちながらも冷笑的。
愛する男(不治の病)の療養費のために芸者に実を落とした悲壮の女を「徒労であった」とあっさり断じる。

高みから見下ろしている「憐憫」はあっても、太宰のような真摯な「同情」がない。
ひたすら悟りの境地で観察する、まさにニーチェ的超人の視点である。

畳の上で死んでいく虫の死に様を冷静に記述する様は猟奇的ですらある
(まるで「人間など虫けらと同じだ」と暗に言っているようである)。


『舞姫』

終戦直後の日本で崩壊していく家庭を描く。
無気力な夫の圧殺された怨恨感情が一家を蝕んでいく。
その有様はまるで黒い太陽が暗黒の光を放射するがごときである。

浮気相手の子供を助けるためにストリップに身売りする純情すぎる(馬鹿)女のサブエピソードつき。

あまり注目されていないが、ドストエフスキーにおける『悪霊』や『地下室』と同等の位置を占める「余計者」文学の極点である(川端はロシア文学の愛好者であった)。

ヒロインの「お父様は魔界から私たちを観察している」発言の「お父様=川端」は明白。

まさしく「仏道入りやすく、魔界入りがたし」である。
川端康成は魔界の住人であった。

『千羽鶴』

骨董趣味とエロさの混合。

茶器についてうんちくを並べる一方で、胸にあざがある女(喪女)の怨恨がよくえがかれている。

作者が描きたかったのはむろん後者だろう。

「名器」という発言に含みがあることは一目瞭然である(川端の作品には、この手の無意識に働きかけるサブミナル効果の手法がしばしば活用されている)。

『みずうみ』

物語はソープランドから始まる。

主人公の桃井は教え子と恋愛事件で学校を追われて、なお性懲りもなく密会を図る。
彼には父親を殺害された暗い過去があり、デカダンを体現する日陰者である。

タクシー運転手の背後から「不穏」な目で観察し「しかしリアルで襲い掛かれば狂人である」と思考する。まさに川端のイデアルな自伝、内面告白である。

『眠れる美女』

睡眠薬で眠らされた美女と同衾する新しい風俗の提案。

最後に薬で死亡した娘について、店の案内人が「死んだって、かわりはいくらでもいる」旨を言い放つ非情なラストが印象的。

ちなみにこの猟奇性は『散りぬるを』で「自分はいつか女を殺す」との発言にもつながっている(蓄妾に養成する予定で囲っていた女が殺害される短編)。

自殺

川端康成の死因はガス自殺とされてきた。
しかし近年の研究では戦略自衛隊による暗殺説が持ち上がってきている。

暗殺の理由としては精神的に無慈悲な神の境地に達した川端がサードインパクトを引き起こすこと「人類補姦計画」を目論んでいたためとされる(川端はエヴァの碇ゲンドウ・冬月コウゾウのモデルとも囁かれる)。

そのために川端はノーベル賞作家の美名の影で繰り返しリリスとの接触(売春を含む女犯行為)を繰り返していた。

そもそもノーベル賞受賞そのものがゼーレの陰謀という説がある。

異説としては、「死体のコレクション」の腐敗ガスが充満したことが原因という「青髭」説もある(青髭は昔話に出てくる死体収集者)。
http://ja.uncyclopedia.info/wiki/%E5%B7%9D%E7%AB%AF%E5%BA%B7%E6%88%90
http://www.asyura2.com/09/revival3/msg/574.html#c48

[リバイバル3] 湯沢町の共同湯は日本国内の温泉の中で最低最悪 中川隆
49. 中川隆[7774] koaQ7Jey 2017年4月15日 14:46:48 : b5JdkWvGxs : DbsSfawrpEw[8264]

「仏界易入 魔界難入」とは一休が云った言葉だそうだ。川端康成は好んでこの言葉を揮毫したといわれる。「仏界易入 魔界難入」とは川端にとってどんな意味があったのか。

 梅原猛と五木寛之の対談によると、川端康成は魔界に住んでいた人だという。
「みづうみ」「眠れる美女」何かはまさに魔界の文学である。

さらに「雪国」はすごい官能小説だ。あの澄み切った官能の世界はうしろに魔界を秘めている。

「伊豆の踊子」でも少女が裸で出てきたりする。やっぱり本来どこか異常な精神を持っている人の作品だ。川端さんは世間の模範的な国民文学者としてのイメージと魔界にいる自分というものとの乖離の中で自ら死を選んだんじゃないかと思う。

特に、女性に関心があり、事務員は女性のみ、NHKの女性アナンサーは川端先生に太ももの上に手をのせて触られたとか、ある有名女優は無言でただ黙って手を伸ばして座っている膝にスッと触れられた。

梅原氏は川端が晩年「仏界易入 魔界難入」という言葉は一休宗純の言葉とされているが、それは本当に一休の言葉かどうか調べてくれと言われたそうだ。なぜこんなことを頼むのかわからなかったが、川端が亡くなってから「みづうみ」何かを読むと魔界を感じるという。

この対談からわかるように川端康成は自分が魔界の住民であることを知っていたのだろう。 川端は一般の人には「仏界易入 魔界難入」であるべきものが、川端本人は魔界に住んでいる住民であることがわかり、異常な人間であることを知ったことで、川端にとってはむしろ「仏界易入 魔界難入」ではなく「魔界易入 仏界難入」に思えたのではないだろうか。
http://homepage3.nifty.com/myorin/colum2014.html


----あたし、川端康成にナンパされたことあるわよ…。

----!?(びっくりして息を飲んで)

----むかし、十代のころ…。鎌倉のね、邪宗門って有名な喫茶店で…。

----マジ! えーっ、それ、マジっすかあ…!?

 その女性は若いころ結構美人さんであって---ウホン、いまでも華やかなオーラを撒き撒きする綺麗な方です!


---当時、住んでいるヨコハマからよく近郊の鎌倉まで遊びにいっていたというのです。

 で、鎌倉でウロウロしてたら、背広姿でよくそのあたりに出没していた川端さんに声をかけられた。

----ねえ、お嬢さん、これから僕と遊びにいきませんか?

 と川端さん、あの独自に甲高い、関西なまりのイントネーション声でもって、若い女性とみると、誰彼かまわずニコニコと声をかけまくってたそうです。

----あの先生、エッチなのよ…。若いキレイなコがいると、すぐに声かけてくるの。ニコニコしてたけど、おっきな眼がちょっと怖かったわ…。

 当時といえば、川端さんがノーベル文学賞をとったあと、いわば名声の絶頂にいたころ、だのに、なにやってんだか、この先生は?

 しかし、富やコネや権威を利用すればいくらでも女性なんか調達できたろう大物である川端さんが、こんなフェアなナンパに明け暮れていたなんて、ちょっと好感がもてなくもないですね。

 邪宗門っていう喫茶店はいったことないんだけど、どうも調べてみると、寺山修司と天井桟敷が関係してた店のようです。

 2013年に残念ながら鎌倉店は閉店しちゃったようだけど、そのつながりでいくと、たしかに晩年の川端さんが訪れてもふしぎじゃない。

 なーるほど、川端センセイ、あなた、栄華の絶頂にいたにもかかわらず、淋しくて淋しくて、素人の女性とふれあいたくて仕方なかったんですねえ?

 でも、金と地位をひけらかさない、その素朴なナンパの姿勢は立派っス。

 I さんは、邪宗門で川端さんと2度会って、2度目に彼氏といたときには、ふたりして川端さんからお昼をおごってもらったそうです---。

 川端さんが自室で岡本かの子の原稿を執筆中に急に外出し、逗子アリーナで例の自死を遂げたのは、その1週後だったとか…。
http://blog.goo.ne.jp/iidatyann/e/adf7c5f5d9bc28a95f8b60f23bc6655b

http://www.asyura2.com/09/revival3/msg/574.html#c49

[リバイバル3] 湯沢町の共同湯は日本国内の温泉の中で最低最悪 中川隆
50. 中川隆[7775] koaQ7Jey 2017年4月15日 16:17:08 : b5JdkWvGxs : DbsSfawrpEw[8265]

滝の音―懐旧の川端康成 – 1986/7 佐藤 碧子 (著)
https://www.amazon.co.jp/%E6%BB%9D%E3%81%AE%E9%9F%B3%E2%80%95%E6%87%90%E6%97%A7%E3%81%AE%E5%B7%9D%E7%AB%AF%E5%BA%B7%E6%88%90-%E4%BD%90%E8%97%A4-%E7%A2%A7%E5%AD%90/dp/4770406479

川端康成。

気難しいが優しく、まじめな人物。と云うのがほかの書物から知った人物像。

菊池寛に見い出されたうちの一人(らしい。)

菊池の秘書だった著者はその関係から川端とも親しくなる。

本書は、著者の生い立ちから、文芸春秋社社長の菊池寛の秘書になり、

ひょんな事から、同じ事務所の社員である石井と結婚し五児をもうけ、

子供が成長し、川端康成の訃報を聞くまでの話。

会社を辞めてからの方が川端康成との縁は深くなっていったようだ。

著者の書き方だと、彼女は川端康成に、大変可愛がられたらしい。

他の書物を読むと、

彼女には色々の噂が有るのだが、ここではあまり触れてない(当たり前か)

川端康成が、まだ若く健康な頃から、

睡眠薬の常用によって段々と心身共に破滅に向かっていく様子を描く。

彼女が、夫「石井氏」と結婚したのは、

彼女が、深酒し、前後不覚になり、そんな彼女を介抱し、気が付いたら一緒に寝てた!

それだけで終わる筈が、妊娠してしまい、結局は結婚する。

    多分この時は菊池寛とも愛人関係に有ったと思う

菊池寛は、右も左もわからない世間知らずの彼女を、一人前の秘書に育て上げ

物を書く事のイロハを教えた。

そして「自分は50で死ぬからそれまでは自分のそばにいてください」と言われる。

当時、彼女は二十歳そこそこ。

しかし、数年務め、菊池にも仕事にも飽きてきたようで、事務所を辞めたいと思っていた時に

「深酒、前後不覚、デキちゃった」事件が起きたのである。

彼女にしてみれば渡りに船、介抱してくれた男に魅力を感じていたわけでも無かった。

菊池にこの事を(妊娠し、結婚する)告げると

「酷い人だ」と一言言ったという。

結局彼女は菊池寛の代わりに川端康成を「保護者代わり」にしたのだろう

え!と思ったのは

彼女は菊池の秘書をしていた当時は、金は有り余るほどあり、何不自由ない生活をしていた。

そういう生活に慣れ、安月給の男と結婚し次々と子を産む。

当然生活に窮する。

たびたび生活費が足りなくなり、夫からは家計簿をつけろと言われるが、

楽天的で、「どうにかなる」と思っている彼女には出来ない相談だ。

明日食べるお金にも困るのに、マニュキアもしたい、きれいな洋服も着たい、(当時二児の母)

夫が会社で前借をしようとするが、そんなことより、と

同僚や近所に寸借する。。。。(これが私にはわからない。)

当時まだテレビのある家が珍しい頃、どうしてもテレビが欲しい!で買ってしまう

当然生活費が無い。

川端康成に、「テレビ買ったのでお金がない」と借りに行く。

お金持ちの家に何不自由なく育った訳でもなく、

贅沢は或る意味、菊池が教えたようなものだ。

それを彼女は5人の子供を持つ母になっても引きずっていた。

「川端のゴーストライターでもあった」と云うような事を他の人の書いた本でも読んだが

ここではそれには触れておらず、

それどころか、彼女は川端康成の小説をあまりほめてはいない。

三島由紀夫の事にも触れており、

事件が有った時、彼女は会社におり、同僚の電話のやり取りでそのニュースを知り

愕然とし、固まった。

彼女の異常さに気付いた同僚は「知り合いだったの?」「はい」と答え絶句。

菊池寛の逝去は、自宅でラジオのニュースて知った。

  あの、いい人とより他に云いようのない先生に嬉しい思いもさせずにと思うと

  涙が胸の底から波のように次から次へと押し上げてきて止めようがなかった。

本書は川端康成と彼女の事を描いた物語だが、どうも菊池寛の存在感の方がデカイ。

川端康成が著者に出した手紙のかなりの量を公開しているが、これもねぇ。。。

チト嫌な感じ。

大体、個人の手紙など、公開されるなんて誰も思わず出すものであり

それを作家と言えどもこのような形で万民の目に曝すことは如何なものか?

川端康成の訃報は、風呂上がりのテレビニュースで知る

「ガス自殺 」のテロップが流れたが、、、、

   川端さんがガス自殺なんて嘘ばっかり。睡眠薬を飲み過ぎてしまったのに・・・・

   驚きも悲しみも無く、私は片意地な解釈を貫くようにテレビを消した。

この2、3年、川端さんの眼中から、私は遠退けられ、会う度に暗い予兆が走った。

自殺とは思いたくなかった。

これで終わっており、

最後の50ページくらいは、それまでの丁寧な文章ではなく

何か、無理やりまとめたような仕上方だ。
https://blogs.yahoo.co.jp/harikonotori/68114547.html

佐藤碧子 - 菊池寛の『新道』などの代作、川端康成の『東京の人』『女であること』などを代作した

中里恒子 - 川端康成の『花日記』を代作した。『乙女の港』は共同執筆とされている

伊藤整 - 川端康成の『小説の研究』の一部を代作をした。

内田憲太郎- 川端康成の「空の片仮名」が内田の代作だと龍胆寺雄が主張した。川端全集に収められた内田の書簡から、ほぼ間違いないと推定されている。

瀬沼茂樹 - 川端康成の『小説の研究』の一部を代作をした。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B4%E3%83%BC%E3%82%B9%E3%83%88%E3%83%A9%E3%82%A4%E3%82%BF%E3%83%BC
http://www.asyura2.com/09/revival3/msg/574.html#c50

[リバイバル3] 湯沢町の共同湯は日本国内の温泉の中で最低最悪 中川隆
51. 中川隆[7776] koaQ7Jey 2017年4月15日 16:35:39 : b5JdkWvGxs : DbsSfawrpEw[8266]

佐藤碧子「瀧の音〜懐旧の川端康成」 

口絵写真の左が昭和6年の菊池寛。著者は「文芸春秋」を設立した頃の菊池寛の秘書(あるいはそれ以上の関係)で、右上の写真は昭和11年の川端康成と著者。

書き出しは大正12年9月1日の関東大地震。

地震前日に庭の池から這い出た白い蛇との対峙、地震当日は家の前を吉原遊郭で働く男、お女郎が全裸で銭湯から逃げ出して、彼らに母が浴衣を放り投げるという小学6年生の著者の懐旧からはじまる。

さて、ははっ、面倒だからこの先は書かぬ…。

同書を読むきっかけは「話の特集」の矢崎泰久の著「口きかん〜わが心の菊池寛」読んで。そこにこうあった。

…母の姉は菊池寛の愛人だった時期があり、遅筆の川端康成のゴーストライターだった時期もある。

川端康成はその上でノーベル賞をもらったが、それを告白したために出版界から黙殺された。
その辺の事情は同書と「人間・菊池寛」に詳しく書かれているとあった。

実際に読んでみれば愛人だったとハッキリ書かれていなかったし(毎夜送ってもらったくらいの記述)、ゴーストライターという点でも「女であること」で助手として働いたと簡単に書かれている程度だった。

同書最後は川端康成のガス自殺の報を知るところで最後の文章は…会う度に暗い予兆が残った。自殺とは思いたくなかった。
http://www.muse.dti.ne.jp/~squat/07dokusyo1.htm

川端康成は、ゴーストライターが大勢いたので有名だ。
下記のほか、横光利一、三島由紀夫などの名前も挙げられる。

伊藤整 -『文章読本』
梶山季之 -『東京の人』
瀬沼茂樹 -『小説の研究』、文芸評論
中里恒子 - 『花日記』。『乙女の港』は共同執筆か。

ゴーストライター利用でノーベル賞候補から除外されるなら、川端康成が受賞するわけが無い。

ゴーストライターが多い川端康成がノーベル賞の受賞を当然辞退するものだと思っていたら、受けてしまったので三島由紀夫が激怒したという話はなにかで読んだことがある。

「眠れる美女」は三島由紀夫の代作だということだが。
https://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail/q11120698666


『川端康成「山の音」の 代筆 疑惑検証 ―計量文体学の観点から―』
https://www.google.co.jp/webhp?hl=ja#hl=ja&q=%E3%80%8E%E5%B7%9D%E7%AB%AF%E5%BA%B7%E6%88%90%E3%80%8C%E5%B1%B1%E3%81%AE%E9%9F%B3%E3%80%8D%E3%81%AE+%E4%BB%A3%E7%AD%86+%E7%96%91%E6%83%91%E6%A4%9C%E8%A8%BC%E3%80%80%E2%80%95%E8%A8%88%E9%87%8F%E6%96%87%E4%BD%93%E5%AD%A6%E3%81%AE%E8%A6%B3%E7%82%B9%E3%81%8B%E3%82%89%E2%80%95%E3%80%8F&spf=1

川端康成と三島由紀夫を結ぶ"点と線"とは?
昭和文豪の主治医が独白する名作誕生の秘話と苦悩


 日本人初のノーベル文学賞作家である川端康成といまなお世界中に熱狂的なファンを持つ三島由紀夫――。

かつて、川端の主治医を務め、文学史に名を刻まれた文豪と密接な関わりを持った精神科医が、現役で診察している。その人とは栗原雅直医師(84)。

今回、栗原医師が日本を代表する文豪らの素顔と、名作誕生の秘話を明かしてくれた。


 そもそもなぜ私が川端氏を担当することになったかというと、東大病院精神神経科の助手で虎の門病院の部長に就任予定だった昭和41年1月、虎の門病院院長の冲中重雄氏から、川端康成夫人を紹介されたのがきっかけです。

当時、川端氏はNHK連続テレビ小説の『たまゆら』の原作を担当していましたが、重度の不眠症を患い、原稿が一向に進まず朦朧としている上、ホテルオークラに滞在している川端氏のもとに、ある女性が睡眠薬を運んでいたことから、薬物中毒にさせられるのではと心配していました。

それでなんとか治療してほしいと、川端秀子夫人が冲中先生に相談したんです」


 当時の虎の門病院は、中央公論社の社長だった嶋中鵬二氏と関わりが深く、しばしば文壇関係者が顔を出していたという。

「そこで私が何とかするようにと命じられ、1月15日の朝、鎌倉の川端邸に伺ったんです。すると川端夫人から『まだお休みでございます』と言われ、しばらく待っていたところ、昼過ぎになって本人が起きてきた。しかし、按摩の時間だとか、お昼寝だとかいって、また引き込み、結局彼を病院に連れて行ったのは午後9時。

その間に川端氏の養女の麻紗子さんが『鎌倉のお寺でもご覧になっては』と言ってきたけど、さすがにそういうわけにもいかない。ちょうど持っていた書きかけの医学論文の手直しをしていました。川端康成の屋敷で論文に手を入れるのも乙なもんだと思ってね(笑)」
 
なんとか川端を連れてタクシーで東大病院に向かった栗原氏。不安な表情を見せる川端を諭し、強引にそのまま入院させたという。

 当時の川端は66歳。ノーベル賞受賞前とはいえ、作家としての地位を確立し、文豪として絶頂の極みにあった。だが、生来繊細な上、執筆の多忙が重なり、持病の不眠症に拍車がかかったことで睡眠薬が手放せなくなっていたという。

「日本を代表する文豪と近づきになることは初めて。だから、なんとか川端氏の気のようなものを呼吸しようと思ってね。

入院中、川端氏は無表情で黙ったまま。一般に原稿を取ろうとしたとき彼がだまったままなので、空気が張り詰めて、それに耐えられない女性編集者は泣き出した人もいたそうです。

だけど私の場合はむしろ逆で、私が訪問すると、少年のように顔を赤らめていました」

 そうこうしているうちに、川端は睡眠薬を断ち切ることに成功した。

だが、入院中にはこんなハプニングもあったという。

「愛人らしき女性が『私が川端の妻です』と言って乗り込んできたこともあった。
その場に奥さんがいるのにね(苦笑)。

結局その女性とは、私が弁護士を紹介して別れさせたんだけど、彼女に川端氏が送った2通の葉書は、日本文学の紹介者として知られ、文豪たちとも親しい交流のあったドナルド・キーンが取り返したらしい、なんて話もあったね」


 先日、若かりし頃のラブレターが発見されたが、"川端らしい"エピソードということか。

 さて、数週間で川端は退院することになるのだが、栗原氏との関係は意外な形で続くことになる。

川端が親戚から預かった養女・麻紗子さんに、栗原氏の友人で、当時北海道大学の講師をしていた文学者の山本香男里氏を引き合わせ、2人は結婚、その仲人を務めることになったのだ。

「退院後も川端氏の体調が気になっていたんだけど、精神科医が御用聞きみたいに、『何かおかしいところはないですか』って聞きに行くわけにもいかない(笑)。そこでよく見舞いに来ていた麻紗子さんに結婚の予定を尋ねたところ、川端夫妻が話に乗ってきたんです。

そこで私が一緒にフランスへ留学した山本を紹介し、話がまとまって、最後に、両家の顔合わせになった。その席で川端夫人が山本に『川端姓に入っていただけますね』と言いだした。突然の話だったが、山本は了承。その時も川端氏は、ただただ黙念として他人事のような様子でした」
http://www.premiumcyzo.com/i/modules/member/2014/08/post_5374/

三島由紀夫事件−首を抱えた亡霊 2013/08/15

 1972年4月、一人の男の葬儀が行われていた。
故人は川端康成。

日本で初めてノーベル文学賞を受賞した川端康成であった。
死因はガス自殺とされた。

仕事部屋として使っていた逗子のマンションで遺体として発見された。

僧侶の読経が始まる。

と突然中央の僧侶の身体が大きく揺れた。
何かに突き飛ばされたかのようであった。
この動きが読経中に何度か続く。

参列者の中にはこの動きに気付き不審に思った人もいた。

 読経が終わり中央に座した僧侶が故川端康成の夫人、秀子氏を部屋の隅に導き話始めた。

「出来るだけのことをしましたが、首を据えるとこまでです。
憑いている霊が強過ぎます。
私に出来るのはそこまでです。」

この葬儀には実は三島由紀夫も列席していた。
ただし、亡霊として。

三島由紀夫はいわゆる三島事件で、すでに死亡していた。

 1970年11月25日。
川端の死の1年半前。

三島は自分がスポンサーとなり作った民族派団体の盾の会のメンバー4名と東京新宿区市ケ谷の陸上自衛隊東部方面総監部を訪問する。
アポイントはとっていた。

そして突然益田総監を人質にとり、総監室のバルコニーから自衛隊にクーデターを呼びかける。

しかし同調する自衛隊員は一人もいなかった・・・。
三島はヤジと怒号の中総監室に戻る。
そして切腹し、果てる。

その後すぐに川端康成は現場に駆けつけている。

現場は血の海で三島の身体と介錯を受けた首はバラバラに部屋に転がっていた。
警察による現場検証の前であった。

 川端康成は三島由紀夫の師のような存在であった。
文壇へのデビューを手助けし、仲人も引き受けている。

こういった訳で三島はたびたび川端の鎌倉の自宅を訪れていた。

それがこの後も三島はたびたび川端邸を訪れる。
亡霊となり。

秀子婦人はこう証言している。

「三島さんが訪ねてくるんですよ。
それが惨めなお姿で・・・。」

前述の僧侶の言葉から察するところ、離れた首を抱えての訪問だったようである。
川端家では何度かお払いをした。
しかし効果は無かった。


それは三島の霊ではなく、三島の霊にさらについている霊が非常に強力であった。
どこかの段階で三島由紀夫はもう一人後見人をつけてしまったようである。

川端は三島の葬儀に際しても葬儀委員長を務めている。
その時の三島由紀夫への弔辞

「葬い、即ち生きている者が死んだ者を葬うとはどういうことであるか。
この意味は私はよくわかりませんが、死者をして死者を葬らしめよ、という言葉があります。
三島君は多くの人の中に、また或いは歴史の中にも生きている、ともいえるとおもいます。」


 何を言っているか理解できるだろうか?

前半の言葉は枕言葉として、

「死者をして死者を葬らしめよ、」とは何だろう・・・?

「三島君は多くの人の中に、また或いは歴史の中にも生きている、ともいえるとおもいます。」

とは何を意味しているのだろう・・・?

 三島事件の起きる1970年の三島家での新年会。

そこには大勢の著名人達も訪れていた。
三島は酒でかなり御機嫌であった。
訪問者の一人に三輪明宏もいた。
三輪は天草四郎の生まれ変わりを自称し、霊感が強いといわれていた。
その三輪が三島の背後に青い影を見た。

三輪は三島に叫ぶ。

「三島さん後ろに誰かいる! 」

三島はおどけて答える。

「いったい誰だい。その物好きなヤツは。 」

三輪は続ける。

「軍服を着ている。2.26事件の関係者かしら?・・・ 」
しかし三輪は2.26事件のことにはあまり詳しくなかった。
三島が2.26事件関係者の名前を一人一人挙げていった。

そして三島がある名前を挙げた時、三輪は叫んだ。

「そう!その人!!」

三島の顔色は一瞬で真っ青になった。

三島がその時挙げた名前は「磯部浅一(あさいち)」。
2.26事件の中心的人物だった。

この人物がいなかったら2.26事件はおきなかったのではないかともいわれる人物である。

実は三島自身にも思い当たるふしもあったのである。

 2.26事件は軍部の一部青年将校達が財界、政治家、官僚の腐敗していると考た輩を排除しようとした事件である。

1936年2月26日であった。
青年将校達は軍事グーデターを起こし、現人神である天皇の基で世直しをしようとした。

それがあっさり昭和天皇から否定され賊軍として鎮圧される。
失意の内多くの青年将校は銃殺される。
それでも皆最期は「天皇陛下バンザイ!」と唱えて死んでいった。
一人を除いて。
磯部浅一はクーデターを天皇から否定されると、間違っているのは天皇だと開き直った。

天皇を否定した右翼は思想のベースを何におくのだろう・・・?
磯部の存在は現在に至るまで右翼のタブーとなった。
そして磯部は「天皇陛下バンザイ!」を唱えず銃殺された。
成仏することも拒否して。

磯部の獄中日記より。

「 何ヲッ! 殺されてたまるか。死ぬものか。千万発射つとも死せじ、断じて死せじ。死ぬる事は負ける事だ。成仏することは譲歩することだ。死ぬものか、成仏するものか。悪鬼となって所信を貫徹するのだ‥‥。」

 三島は2.26事件をおこした青年将校達に共感した。
そして「英霊の声」を書いていた。
それを書き上げた際三島は原稿を出版社に渡す前に母親にみせている。
母親の平岡 倭文重(しずえ)は語る。

「一度読んで、これは息子の書いたものではないと思いました。
それで息子に問いただすと。息子はこう答えました。」

「夜中書斎で原稿を書いていると、どこかからか声が聞こえてきて、手が自然に動き出してペンが勝手に紙の上をすべったんだ。
自分の意思で止めることもできなかった。
後で手直ししようかと思ったが、それも出来なかった。」


 「英霊の声」より

  「‥‥利害は錯綜し、敵味方も相結び、
  外国(とつくに)の金銭は人を走らせ
  もはや戦いを欲せざる者は卑劣をも愛し、
  邪(よこしま)なる戦のみ陰にはびこり
  夫婦朋友も信ずる能(あた)わず
  いつわりの人間主義をたつき(=生計)の糧となし
  偽善の団欒は世をおおい
  ‥‥魂は悉(ことごと)く腐食させられ
  年老いたる者は卑しき自己肯定と保全をば、
  道徳の名の下に天下にひろげ
  真実はおおいかくされ、真情は病み、
  道ゆく人の足は希望に躍ることかつてなく‥‥
  ただ金よ金よと思いめぐらせば
  人の値打ちは金よりも卑しくなりゆき‥‥
  烈しきもの、雄々しき魂は地を払う‥‥
  天翔るものは翼を折られ
  不朽の栄光をば白蟻どもは嘲笑う
  かかる日に、
  などてすめろぎは人間(ひと)となりたまいし」


 三島は磯部浅一の霊に取り付かれた。
いや呼び込んだといった方が正確かも知れない。

 これで川端康成の弔辞の意味が分かる。

「死者をして死者を葬らしめよ、」とは

「今は死者となった三島よ。お前の力で磯部を成仏させよ。」

という意味だと思う。また、

「三島君は多くの人の中に、また或いは歴史の中にも生きている、ともいえるとおもいます。」

とは、

「2.26事件という歴史的事件の影響で三島も死んでいった。
しかしその三島や青年将校達の純粋な志は皆の心の中に生き続ける。」

という意味だと思う。


 三島事件から40年以上が経った。

川端婦人も三島婦人も故人となられ、今まで遠慮されていた方々も少しづつ事情を明かし始めている。

 菊池寛は自らの幽霊体験に対し他の人がとやかく言うのにこう言い返している。
「幽霊がいるとかいないとか議論してもしょうがないじゃないか。
幽霊は出るだけで充分だ。」
http://midomidotacnet.blog.fc2.com/blog-entry-23.html

http://www.asyura2.com/09/revival3/msg/574.html#c51

[リバイバル3] 湯沢町の共同湯は日本国内の温泉の中で最低最悪 中川隆
52. 中川隆[7777] koaQ7Jey 2017年4月15日 17:08:48 : b5JdkWvGxs : DbsSfawrpEw[8267]

『魔界の住人 川端康成――その生涯と文学――』装幀(上下)森本穫の部屋
http://blog.goo.ne.jp/osmorimoto_1942/e/9193c196012d2f269aab93090e2d264c


この、少女がこちらを向きながら仰向けに横たわっている絵は、石本正(しょう)画伯の「裸婦」という作品です。晩年の康成が愛蔵した絵です。

 康成は石本正の絵が大好きで、二人のあいだに深い交流のあったことも、本書では、詳しく描いています。

 さて、晩年の川端康成がこの絵を愛蔵したのには、深いわけがあります。

 この絵は、康成晩年の渇望、といおうか、憧れ、といおうか、康成の深い願望をこめた、まことに象徴的な絵画なのです。

 昭和29年(1954年)に、生涯の最高作ともいうべき「みづうみ」を発表した康成は、その6年後の昭和35年(1960年)に、多くの評家と読者をあっと驚かせた奇想天外な小説「眠れる美女」を発表します。

 主人公は、江口老人。友人から教えられた秘密の家に行きます。そこでは、別室に通されると、睡眠薬で深く眠らされた少女あるいは若い女性が裸身で横たわっているのです。

 この家のただ一つの禁制は、眠った女性に手荒なことをしないこと、だけです。

 実際、この秘密のクラブである家に通うのは、お金はあるが、すでに性的能力を失った、哀れな老人たちだけなのです。

 江口老人だけは、見かけとは異なり、まだ性的能力は残っているのですが、とにかく、秘密の密室で、眠った裸身の女性と、ひと晩、一緒に眠れるということは、至高の歓びなのです。友人は、この家の一夜を「秘仏と寝るようだ」と表現しました。

 まことに、老人たちは、この家に通い、一夜、裸身の少女と寝床を共にするだけで、生きている歓びを得ることができます。

 もちろん、歓びだけではありません。この家は、海に面した高い崖の上に建っているようです。冬が近く、海面にみぞれが降るイメージも出てきます。

 つまりそれは、遠からず老人を襲う死の恐怖です。暗黒の死の恐怖とうらはらに、一夜の、観音様のような全裸の美女と過ごすという稀(まれ)な幸運を得るのです。

 江口は5夜、この家を訪れ、眠って意識のない裸身の女性の傍らで、過ぎ去っていった女性たちを思い出します。特に第1夜に思い出す、結婚前に北陸から京都まで旅を共にして処女を奪った女性の記憶は鮮烈です。

 その2〜3年後の昭和38年(1963年)に、康成は「片腕」という短い作品を発表します。これも、深い濃霧の夜に、一人の少女から、片腕だけを借りてアパートに帰り、片腕と一夜を過ごす、という物語です。

 晩年の康成が、若い女性、あるいは少女の裸身に、どれほど憧れを抱いたか、よくわかるでしょう。

 私のお薦(すす)めは、「掌(たなごころ)の小説」と呼ばれるショート・ショートの一編、「不死」という作品です。新潮文庫に、「掌の小説」を1冊にまとめたものがあります。この、終わりの方に出てきます。

 ひとりの老人と、若い娘が、手をつないで歩いています。若い娘は、昔、老人の若かったころ、恋人だったのですが、おそらくは身分の違いのため一緒になれず、娘は海に飛び込んで死にました。

 その娘が今、生き返って、昔の恋人で、今は人生に敗残した老人と一緒に歩いているのです。

 くわしい話は、私の本(下巻)で読んでください。

 やがて二人は、ゴルフ場の端にある、大きな樹の、洞穴(ほらあな)に、すうっと入ってゆきます。そうしてもう、出てこないのです。

 永遠の生命を得て、二人は永遠に、その樹の洞(ほら)の中で過ごすのです。
 ここに、康成の晩年の渇望(かつぼう)がよく表れています。

 私は、そのような康成の晩年の渇望を具現した作品として、この絵を下巻の口絵写真の一つに選びました。

 装幀家の盛川さんは、私の意図をよく汲んで、この絵で表紙を飾ってくれました。

 女性の読者は、この表紙を見て、ちょっと、どきっとされるかも知れませんが、男性読者は、この絵の美しさに惹(ひ)かれることでしょう。

 康成が死の半年前(昭和46年、1971年)に発表した「隅田川」という作品があります。これは、敗戦後まもなく書き始められた「住吉」連作の、22年ぶりの続編なのですが、その中に、象徴的な言葉がでてきます。

 主人公の行平(ゆきひら)老人が、海岸の町の宿に行こうとして、東京駅に行きます。すると、ラジオの街頭録音の、マイクロフォンを突きつけられます。

 「秋の感想を一言きかせてください」という質問です。行平は、

 「若い子と心中したいです」と答えます。

 「えっ?」と驚くアナウンサー。その意味を問います。すると行平の答えは、こうです。 「咳をしても一人」

 この一節は、最晩年の川端康成の心境を、如実にあらわした部分です。

 咳(せき)をしても一人……これは、放浪の俳人・尾崎放哉(ほうさい)が、晩年、小豆島に渡って独居し、死に近いころ読んだ自由律の俳諧です。

 咳をしても、その、しわぶきの声が、壁に反響して、空しく自分にはね返ってくるだけだ、という、孤独と寂寥(せきりょう)の極みを詠んだものです。

 つまり康成は、自分の根底の願望を「若い女性と心中したいです」と語り、その背景として、恐ろしい孤独の意識を、ここで告白したのです。

 ノーベル賞を受賞して、晴れがましい騒ぎの余波から、わずか3年後のことでした。
http://blog.goo.ne.jp/osmorimoto_1942/e/9193c196012d2f269aab93090e2d264c
http://www.asyura2.com/09/revival3/msg/574.html#c52

[近代史02] 株で損した理由教えてあげる 中川隆
470. 中川隆[7778] koaQ7Jey 2017年4月15日 18:11:56 : b5JdkWvGxs : DbsSfawrpEw[8268]

使いやすい市場を目指して来た東京市場ですが、皮肉な事に今アジア株のペアトレードの売りの市場に使われています。

ある海外ファンドに聞いたのですが、アジアの市場は空売りする時、株がなかなか集まらない(借りられない)との事です。

ヘッジファンドの主な手法はペアトレードです。上がると思う株を買ってそうでない株を空売りするのですが、株が借りにくいのでは話になりません。

そこでアジアの将来性を評価して資金を配分し始めたファンドがやむを得ず簡単に株を調達できる日本を売り市場にしているそうです。
http://kasset.blog.fc2.com/
http://www.asyura2.com/09/reki02/msg/428.html#c470

[リバイバル3] 湯沢町の共同湯は日本国内の温泉の中で最低最悪 中川隆
53. 中川隆[7779] koaQ7Jey 2017年4月15日 18:44:25 : b5JdkWvGxs : DbsSfawrpEw[8269]

事故のてんまつ

『事故のてんまつ』は、臼井吉見による中編小説。


1972年(昭和47年)4月16日に自殺したノーベル文学賞受賞作家・川端康成の自殺の真相を明らかにする、と新聞広告ではあおられたが、実名はなく、家政婦として大作家に雇われた「鹿沢縫子」(仮名)という女性の語りの形式をとり、「縫子」がその作家にいたく可愛がられた様子と、1年ほどの勤めの後に致仕して郷里の信州へ帰ると言った翌日、作家が自殺するというのが前半で、後半は「縫子」の語りによる「川端康成論」になっている。

裁判沙汰

『展望』は増刷するほどに売れたが、川端家(未亡人・秀子、養女・政子、婿・香男里)は筑摩書房に苦情を申し入れた。死者の名誉権は成立しないというのが通説だったが、川端家は秀子の名誉も毀損されたと主張、数次の準備書面のやりとりがあった。

週刊誌、女性週刊誌、月刊誌などで多くの関連記事が出たが、川端家側は実在する家政婦の存在は否定せず、細かな事実の間違いを指摘した。


『事故のてんまつ』に書かれていることと、実際の事実関係や経緯には違いがあり、臼井が川端を批判したいがために、脚色や誇張がされている部分が多々あることが、「鹿沢縫子」(仮名)や、その家族、地元の周辺人物からの取材で検証されている。その中の主なものを以下に挙げる。

川端が1970年(昭和45年)5月に長野県南安曇郡穂高町(現・安曇野市)に招聘された際に、植木屋「庭繁」(実際の店名は「アルプス園」)の娘として働いていた「縫子」と出会い、盆栽などを川端家に配達して来た「縫子」が川端家の家政婦として働くことになったのは事実であるが、本作に書かれているように、川端が嫌がる「縫子」を何度も何度も勧誘したということはなく、実際には、人手の足りない川端家に、もう1人家政婦を求めていた妻の秀子が、「縫子」の養父(血縁関係は無い)に依頼し、名誉なことだと思った養父が「縫子」を説き伏せたことが、養父本人により証言されている。

本作の中では、「縫子」や川端の他、川端の過去の恋人・伊藤初代が被差別部落出身者とされ「人にきらわれる、不幸な生い立ちの娘」とされ、川端夫人についても「肉屋さんとかの娘さん」という虚偽があった。

川端の出目については、語り手「縫子」がそうではないかと思ったように記述され、北条氏の子孫であるという系図を掲げているとして臼井は否定したが、読み手に川端も被差別部落出身者だと暗示させるように書かれている。

実際には、伊藤初代の戸籍や系譜は多くの川端研究者によって特に部落出身でないことが確定されており、「縫子」の実母や実父の出身地は別の地域や県であることが、森本が弁護士を用いて調査している。

なお森本は、「縫子」本人に2012年(平成24年)時点で接触を試みているが、「縫子」は面談取材を一切断わり、本作について、「その小説の中の女性と自分とは無関係である」とし、「ただ一ついえることは、私に川端先生が執着したかどうか、わからない、ということです」と夫(当時付き合っていた恋人)を通じて伝えている。

しかし、「縫子」が川端の死の直後、通夜の時に養父に、「先生の自殺の原因はわたしにあるように思う」と打ち明けたことに関しては、関係者の証言などの総合的な観点からほぼ事実であろうと森本は検証し、家政婦の契約を更新せずに信州に帰ることを断言したことで、川端を傷つけたという意識が「縫子」の中にあったことがうかがえるとしている。

そして「縫子」本人が、「ただ一ついえることは、私に川端先生が執着したかどうか、わからない」と伝え、川端が「縫子」に強い好意を持っていたことを完全否定はしていない点を森本は鑑みながら、川端という作家がその生涯において抱き続けた「美神」の少女像(伊豆の踊子、伊藤初代、養女・黒田政子)が、晩年において「鹿沢縫子」に受け継がれていたという可能性は十分あると考察しており、「縫子」が去っていくことを知った川端が、かつて伊藤初代との別れで味わった「身を切られるような〈かなしみ〉」に襲われ、逗子マリーナへ向かったことも想像に難くないとしている。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BA%8B%E6%95%85%E3%81%AE%E3%81%A6%E3%82%93%E3%81%BE%E3%81%A4

川端康成 探索『事故のてんまつ』 - 魔界の住人・川端康成  森本穫の部屋
                       

 今年2012年(平成24年)は、川端康成の没後40年になる。その死の5年後、すなわち今から35年前の春に、臼井吉見が『展望』5月号に「事故のてんまつ」を発表し、さらに単行本『事故のてんまつ』出版を強行したのだった。

 わたしは初め、この作品とその反響について書くかどうか、すこし迷っていた。しかし、川端康成の生涯と文学を考える上に、この事件は、きわめて重要な意味を持っている。やはり書くべきだろうと思いながら、事件の翌年に出版された武田勝彦・永澤吉晃編『証言「事故のてんまつ」』(講談社 昭53・4)巻末の「関係文献一覧」を参考に、連載をつづける傍ら、ぽつぽつ、重要そうな文献のコピーを蒐集してはいた。

 このようなわたしに火をつけたのは、小谷野敦の「『事故のてんまつ』事件 1977」という論考だった。

 これは『現代文学論争』(筑摩書房 平22・10)に掲載されたもので、兄事する関口安義氏が、メールで「面白いですよ」と推薦してくださったのである。

 すぐジュンク堂WEBで取り寄せてみると、なるほど、刺激に満ちたものだった。このひとの名はよく承知していたが、読むのは初めてである。『事故のてんまつ』前後の騒ぎを「事件」として捉え、その推移について述べている。

 が、どうもこのひとは攻撃的な人格の持ち主であるらしく、あちこちに喧嘩を売っている。

 川端康成の伝記的研究も、『事故のてんまつ』問題の追究も、この騒ぎの影響で萎縮し、停頓している、と決めつけているのだ。そして、自分は近いうちに、『事故のてんまつ』を含めた川端康成の伝記を書いて、このタブーを打ち破る、と宣言している。

 この喧嘩を、わたしが買った。「別にタブーがあるわけではない。ただ誰もが康成の自裁の謎と『事故のてんまつ』について、何となく、書かなかっただけだ。それなら、わたしが書こう」と決意したのである。

 小谷野敦はこの論考で、大胆にも、当時の関係者を、「すでに当時の週刊誌や新聞も報じているから」といって、実名で書いている。これは、じつは部落問題やプライヴァシーの問題で、関係者たちに迷惑をかける可能性のある、危険なことなのだ。

 しかも、週刊誌も遠慮して書かなかった、事件のヒロインであるお手伝いさんの実名を、小谷野敦は書いたのである。そしてそれは後述するように、全くの人違いだったのだ。

 ともあれ、小谷野敦の挑発的な文章によって、わたしは康成最後の恋であるかもしれないこの事件について、本格的な取材をはじめた。

 35年前の、週刊誌などに追い回された当事者たちは、いま健在なのだろうか。もし物故しているならば、その家の跡を継いでいる親族の名を知りたい。もちろん住所も、できれば電話番号も……。

 最初に考えたのは、やはり、信州穂高のひとに訊ねることだった。穂高に知人のいるひとはいないだろうか。

 ……大学時代の旧友を思い描いてゆくうち、いい友人を思い出した。全国に知人を持っている可能性が高い。

 詳しくは連載に書いたが、S氏は、穂高に知人を持っていた! そのひとは、穂高の老舗の後継者であるという。早速、探索事項を書いた文書を作成して、S氏に送った。

 そして老舗の後継者は、みごとに、わたしの期待に応えてくださったのである。穂高の町では、35年前の騒動を覚えている方が沢山いた。当事者たちの住まいや名前を、わけなく教えてくださったのである。

 この過程で、小谷野敦氏の挙げた名前が全くの別人であることもわかった。小谷野氏は、新聞に実名の出た、別のお手伝いさんを「縫子」と勘違いしていたのである。

 わたしは上記の参考文献のほとんどを手元に揃え、読破していった。一方で、生みの母親の名も顔も知らない「縫子」の、まぼろしの実母と実父を尋ねる探索も進めた。

 穂高へ、実地踏査に行き、幾人もの関係者に会ってお話を聞き、また「縫子」の住んだ家々の跡もたずねた。

 37年前の昭和45年5月中旬、川端康成が訪ねた盆栽店――「縫子」の養父の営んでいた『庭繁』――実際の店名は『アルプス園』だった――の跡地にも立ってみた。康成が訪ねたのと同じ5月である。残雪が白く残る北アルプス連峰が美しかった。

 つい先日は、「キューポラのある街」として知られる埼玉県の或る町を訪ねた。「縫子」の実母の名がわかり、その晩年の世話をしたM氏に会いに伺ったのである。M氏は、「縫子」と康成が二人で写った写真を見せてくださった。背景や服装などから、養父一家がミネゾを鎌倉長谷の川端邸に運び込み、植えたとき、記念に撮影したものと推測された。

昭和23年生まれ、このとき22、23歳であった「縫子」は、色白のか細い少女で、まだ高校生のように見える。

 M氏は、「縫子」の実母の、甥にあたる方であった。惜しくも、実母は、3年前に亡くなっていたが、その生涯や、「縫子」の実父と出会った日々を記録した手帳も見せてくださった。

 実父と実母は、34歳の年齢差がある。生後一年前後で、「縫子」は実父の家に引き取られた。その養母と七五三のときに撮った写真もあった。「縫子」7歳の写真である。

 実父は、「縫子」の満8歳のときに亡くなったが、奇しくも、わたしの故郷と同じ福井県の、丸岡町の出身であった。その実父の出自を調べるために、わたしは近く丸岡町を訪ねる予定である。

 「縫子」自身は、わたしの取材の求めに応じてくれなかったが、ご主人を通じて、自身の感想をFAXで送ってくれた。

 その言葉と、これまでの取材によって、わたしは康成と「縫子」の関係を了解した。康成は、かつて様々な少女に慕情を抱いたように、自分に境遇の近似した「縫子」に、慕情を寄せたのだ。

 それを口にすることもなく、ただ黙って康成は死を選んだ。
           (『文芸日女道』532号〈2012・9〉)
http://blog.goo.ne.jp/osmorimoto_1942/e/18418ed16c41ec3ecadd55f370a98352


http://www.asyura2.com/09/revival3/msg/574.html#c53

[リバイバル3] 湯沢町の共同湯は日本国内の温泉の中で最低最悪 中川隆
54. 中川隆[7780] koaQ7Jey 2017年4月15日 19:20:40 : b5JdkWvGxs : DbsSfawrpEw[8270]

フェティシズムとは何か・・・フェティッシュとしてのエロスとタナトス
https://www.google.co.jp/webhp?hl=ja#hl=ja&q=%E3%83%95%E3%82%A7%E3%83%86%E3%82%A3%E3%82%B7%E3%82%BA%E3%83%A0%E3%81%A8%E3%81%AF%E4%BD%95%E3%81%8B%E3%83%BB%E3%83%BB%E3%83%BB%E3%83%95%E3%82%A7%E3%83%86%E3%82%A3%E3%83%83%E3%82%B7%E3%83%A5%E3%81%A8%E3%81%97%E3%81%A6%E3%81%AE%E3%82%A8%E3%83%AD%E3%82%B9%E3%81%A8%E3%82%BF%E3%83%8A%E3%83%88%E3%82%B9&spf=68

まず、フェティシズムとはいったい何なのか。この「フェティシズム」という用語、元はといえば、最初に宗教学の中で使われ始めたものである。

フェティッシュとはもともと、ラテン語の facio,facere(つくる)という動詞の完了受動分詞factus(英語のfactの語源)、そして、それから 派生した語facticius(人工の)がフランス語化されて、factice(人工の)となり、さらに、フェティッシュという語が造られた。

これが17世紀以後、「呪物」 、「物神」といった意味で用いられ るようになり、特にヨーロッパの白人たちから見た、アフリカなどの原始的な宗教において崇拝 の対象となるものを意味する用語として使われるようになった。

例えば、護符(amulette, grigri, porte-bonheur, talisman)、また、マスコット(mascotte)としての人や動物、さらには、 日本の神社においていわゆる御神体として信仰の対象とされているもの、山、岩、古木、木で彫られた男根、鏡等などはみなフェティッシュである。それらのものはみな、さまざまな由来と歴 史を経てそれぞれの文化の中で記号化されることによって、すなわち、山は単なる山ではなく、 何か超自然的な力を秘めたシンボル的存在とみなされることによって、特別な意味と価値を持つ ようになったものである。

そして、その様なものに対する呪物崇拝、物神崇拝のことを「フェテ ィシズム」と呼ぶようになったのである。さらに、経済学の領域においても「商品価値」や「貨 幣価値」等を考える上で、「フェティシズム」という語が使われるようになった。


そして更に、心理学や精神分析の領域においても「フェティシズム」という用語が使われるようになった。

それは「節片淫乱症」などと訳されることもある、性的倒錯の一種である。

性的倒 錯としての「フェティシズム」とは、性的欲望が他者としての異性あるいは同性そのものに向かうのではなく、その他者の身体の一部のみ、あるいはその他者から発せられるもの、その他者に 付随するもの、例えば、その他者の毛髪、目、足、しぐさ、性質、能力、さらには糞尿、体液、 体臭、肌着、靴下、靴、ハンカチなどに向かうことを意味するのである。これらのものもみな呪物、物神、商品、貨幣などと同様に、記号化、シンボル化されることによって始めて特別の価値 あるいは意味を持つようになり、欲望の対象とされるのである。

しかし、この「フェティシズム」という語を、記号化されることによって始めて価値あるいは 意味を持つようになったものに欲望が向けられることを意味するものとして理解するならば、既 に述べられたことからも明らかなように、「フェティシズム」とは世界と自己に対する人間の 《本源的態度》ということになるであろう。

ということは、人間が有する性の在り方の根源にも 「フェティシズム」が存在するということである。性的対象のみならず性的目標としての性行為 (フロイトの『性欲論』参照)もまたすべて、記号化されることによって始めて価値あるいは意 味を持つようになるのであり、人間にとっての性的対象および性行為のすべては「フェティッシ ュ」としてのみ存在しうるのである。即ち、あらゆる対象が人間にとって性的対象となり、あらゆる行為が性行為となりうるのである。

また、先に述べられたような、記号として人間にとりついて、人間を常に不安と恐怖の中に落 としいれるところの「死」もまた欲望の対象となることが可能なのであり、人間のみが「死」を希求 し、讃美し、また本当に自殺することもできるのである。ボードレールの詩を引き合いにだすま でもなく、人間は死をよろこぶことができるのである。

人間のみが自らの死に方を選択したり、 死を望んだりすることができるのは、そこに「フェティシズム」があるからに他ならない。他の 動物は「死ぬ」のではなく、ただ動かなくなり、冷たくなり、そして腐敗してゆくのみである。

このようにして性への衝動としてのエロスと死への衝動としてのタナトスは、人間が本源的に 有するところの、その「フェティシズム」において成立するのである。

そのような人間のエロスの在り方が有する無限の多様性がいわゆる「変態性」の起源となり、また、人間のみが死ぬこと をよろこぶことができるということが、その退廃性(デカダンス)の起源となっているのであろう。

フェティッシュに満ちた世界
文化的記号としてのフェティッシュ


私たちはこの世界の中にあるすべてのものを、「理性」によって記号に置き換え、フェティッ シュとしての意味付けを与え、それらを崇拝したり、欲望の対象にしたり、あるいはまた禁忌の 対象にしたりしている。

ところで、ひとつの社会の中で、ほぼ同じようなものが崇拝されたり、 欲望の対象とされたりするのは、そもそもフェティッシュなるものが言語的記号との分離不可能 性において成立しているからであり、同じ言語体系を共有しているひとつの社会、共同体の中で は、その成員のほとんどは同じようなものを崇拝し、同じようなものを欲望の対象としている。 そして、このことによって、その社会における共通の価値観、常識、モラルといったものが成立するのである。

それらにおいて、禁忌の対象とされるものが、いわゆる社会的タブーといわれるものである。また、社会的タブーのほとんどは「性(エロス)」と「死(タナトス)」に関連する もの、例えば、死者の扱い方、弔い方に関するタブー、近親姦タブー、同性愛タブーなどである。

ネクロフィリア、少女コレクション、人形愛

しかしながら、すべての人々がこのような社会的タブーを守り通しているわけではないし、ま た、それはありえないことであろう。そして、タブー逸脱の最たるもののひとつとして、ネクロ フィリア(死体愛好症)が上げられるであろう。

これは、まさしく死者をその性的欲望の対象とすることであり、エロスとタナトスの融合のひとつの形といえよう。

なぜ性的欲望の対象が死者 (死体)という物体(オブジェ)、あるいはフェティッシュであらなければならないのか。

なぜなら、死体には意志も欲望もなく、こちらに立ち向かってくることも、語りかけてくることもなく、 このことによって、「わたし」と死体とのあいだには、情念と情念による、お互いの交流が成立 し得ないからである。

すなわち「愛」というものの介入をここでは徹底的に排除することができるからである。

性欲は「愛」による拘束を逃れることによって、はじめて純粋性欲として自己完結することが可能となる。死の中にある他者を欲望の対象とすることによって、「わたし」は自らの性の喜びを最大限に味わうことができるのである。 さらに、これに近いものとして、ペドフィリア(小児性愛)やピュグマリオニズム(人形愛) が挙げられるであろう。

ただし、ペドフィリアというと、すぐ「犯罪」というイメージに結び付けられやすいので、ここでは、澁澤龍彦氏に倣って、「少女コレクション」と呼ぶことにしよう。

氏によれば、美しい少女ほど、コレクションの対象とするのにふさわしい存在はない。
蝶のよう に、貝殻のように、捺花のように、人形のように、可憐な少女をガラス箱の中にコレクションす るのは万人の夢である。

コレクションに対する情熱とは、いわば物体(オブジェ)に対する嗜好である。

生きている動物や鳥を集めても、それは一般にコレクションとは呼ばれない。すでに体 温のない冷たい物体、完全な剥製となっていなければ、それらはコレクションの対象とはされない。

しかし、少女までも剥製にされなければならないというわけではない。
生きたままでも、少女という存在自体が、つねに幾分かは物体(オブジェ)、すなわちフェティッシュなのである。

人形も、少女も、自らは語りだすことのない受身の存在であればこそ、男たちにとって限りな くエロティックなのである。

女の側から主体的に発せられる言葉は、つまり女の意志による精神的コミュニケーションは、澁澤氏によれば、男たちの欲望を白けさせるものでしかない。

女の主体性を女の存在そのものの中に封じ込め、女のあらゆる言葉を奪い去り、女を一個の物体近づか しめれば近づかしめるほど、ますます男の欲望(リビドー)が蒼白く活発に燃えあがるというメ カニズムは、男の性欲の本質的なフェティシスト的、オナニスト的傾向を証明するものであり、 そして、そのような男の性欲の本質的傾向に最も都合よく応えるのが、そもそも、社会的にも、性的にも、無知で、無垢な少女という、ある意味で玩具的な、存在だったのである。

まさしく、 「お人形さんのように可愛い」少女を自らの掌に納めることこそ男の憧れなのである。

しかし、当然のことながら、そのような完全なオブジェ(フェティッシュ)としての女は、厳密に言えば、男の観念の中にしか存在することができない。そもそも、男の性欲それ自体が極め て観念的なものであるのだから、その欲望の対象となるものも、極めて観念的なフェティッシュ であらざるを得ない。

問題は、そのような極めて観念的な欲望の対象を、想像力の世界で、どこ まで実在に近づけうるかである。中世の錬金術師たちが、フラスコの中にホムンクルス(人造小 人間)を創りあげようとしたこともそのような試みのひとつであったのであろう。


川端康成におけるフェティッシュとしての少女の身体


ところで、上述のような、フェティッシュとしての少女や、その身体をものの見事に描いた文 学者の一人に川端康成がいる。


彼が少女、あるいは少女の身体を愛でる、その仕方は、まさに、 茶の道を究めた茶人の茶器を愛でるが如くである。(茶道における茶器もまたフェティッシュに 他ならない。)事実、川端は少女と焼き物を愛した。

たとえば、「生命が張りつめていて、官能的 でさえある」志野の茶碗(『千羽鶴』 )。

水指の表面は川端の主人公にとっては、女の肌と区別しがたいものである。

「白い釉のなかにほのかな赤が浮き出て、冷たくて温かいように艶な肌」(同 上)。同様に女の肌は、ほとんど陶器の表面そのものであって、「白い陶器に薄紅を刷いたような 皮膚」 (『雪国』)でなければならない。

焼き物も、女も、見て美しいばかりでなく、指で触れ、 その指の先の感覚に、主人公とその「もの」との関係のすべてが要約されるような対象である。

たとえば、『雪国』の主人公は、「結局この指だけが、これから会いに行く女をなまなましく覚え ている」という。

一方には、女の物化(レイフィカシオン)があり、他方には、物の官能化がる。 女は焼き物の如く、焼き物は女の如くである。いや、焼き物に限らず、冬の夜の天の河でさえも、 「なにか艶めかしい」のである(『雪国』)。

このような少女の描き方は、『伊豆の踊り子』から、晩年の『眠れる美女』や『片腕』にいたるまで一貫している。

『伊豆の踊り子』の少女の「若桐のように足のよく伸びた白い裸身」から、 『みずうみ』の「夜の明りの薄い青葉の窓に、色白の裸の娘が立っている」ときまで、女はつね に視覚に、触覚に、あるいは聴覚に訴える美しい対象であり、彫刻のような物(フェティッシュ) であって、決して主体的な人間ではなかった。

その極端な場合が、『眠れる美女』である。

海浜 の不思議な家で、老人は麻酔で眠らされた若い女を見ることができるし、愛撫することもできるが、女の側には意識がない。

『たんぽぽ』の妖精のような少女は、肉体的な愛の極致において相手の身体が見えなくなるという病(人体欠視症)をもつ。

女は純粋に見られるもので、見るものではない。

超現実主義的な『片腕』に到ると、もはや女の側には肉体的な全体性さえもなくなり、 「エロティック」な対象は、女の身体の一部分に集中するのである。(加藤周一『日本文学史序説』参照)

川端にとって、少女、あるいは少女の身体とはまさしく物神としてのフェティッシュその ものだったのである。

特に、『眠れる美女』や『片腕』は、究極的なフェティシズムに基づくところの、エロティシ ズムと、それにまとわりついて最後まで離れることのない、そして、最後にはついに現実化して しまうところの「死(タナトス)」のイメージとによって、完成度の極めて高い、デカダンス文学の逸品となっている。

また、川端の作品には、実にたびたび、命に対する讃仰があらわれる。巨母的小説家であった 岡本かの子に対する彼の傾倒は有名である。

しかし、彼にとっての生命とは、まさしく官能その ものなのである。

この一見人工的な作家の放つエロティシズムは、彼の長い人気の一因でもあっ た。このエロティシズムについて、中村真一郎が三島由紀夫に語ったことがあるという。

「この 間、川端さんの少女小説を沢山、まとめて一どきに読んだが、すごいね。
すごくエロティックな んだ。

川端さんの純文学の小説より、もっと生なエロティシズムなんだ。

ああいうものを子供に 読ませていいのかね。
世間でみんなが、安全だと思って、川端さんの少女小説をわが子に読ませているのは、何か大まちがいをしているんじゃないだろうか。」


このエロティシズムは勿論、大人が読まなければわからないものだが、それは、川端自身の官能の発露というよりは、官能の本体つまり生命に対する、永遠に論理的帰結を辿らぬ、不断の接触、あるいは接触の試みと云ったほうが近い。

それが真の意味でエロティックなのは、対象すなわち生命が、永遠に触れられないというメカニズムにあり、彼が好んで処女を描くのは、処女にとどまる限り永遠に不可触であるが、犯されたときにはすでに処女ではないという、処女独特の メカニズムに対する興味だと思われる。

また、川端が生命を官能的なものとして讃仰する仕方に は、それと反対の極の知的なものに対する身の背け方と、一対をなすものがあるように思われる。

生命は讃仰されるが、接触したが最後、破壊的に働くのである。すなわち、生命という官能を知 的に把握、分節しようとしたその瞬間にわれわれは、まさに生命そのものによって死の中へと叩 き落されるのである。

そして、川端の芸術作品は、知性と官能との、いずれにも破壊されることなしに、両者の間に張り詰められた一本の絹糸のように、両者のあいだで舞い踊る一羽の蝶のように、太陽の幸福な光を浴びつつ、美しく光る月のように、存在しているのである。(三島由紀 夫『永遠の旅人』参照)

処女である少女とはあらゆる人間の中で最も(あからさまに)性的でない存在であり、一切の官能と性的なものを一番安全な場所に封じ込めてしまっている存在であるが、なぜそうしなければならないのかというと、処女の有するエロティシズムこそがもっとも危険で、破壊的な魔力を有するものであるからにほかならない。

そのことを川端自身が一番よくわ かっていたからこそ、彼は見事に少女の美を描くこともできたのであろう。


『眠れる美女』と『片腕』

上に述べられたような「生命」を逆説的に、また官能的な仕方で見事に描いた作家に川端康成 がいる。その晩年の作品、『眠れる美女』の主人公、江口老人は、海辺の不思議な宿で、麻酔で 眠らされている、何も身に着けていない処女である娘たちと夜をともに過ごす。江口はその娘を 見て、「まるで生きているようだ。」とつぶやく。

生きていることはもとより疑いもなく、それはいかにも愛らしいという意味のつぶやきだったのだが、口に出してしまってから、その言葉が気味悪いひびきを残した。

なにもわから なく眠らせられた娘はいのちの時間を停止してはいないまでも喪失して、底のない底に沈めら れているのではないか。生きた人形などというものはないから、生きた人形になっているので はないが、もう男ではなくなった老人に恥ずかしい思いをさせないための、生きたおもちゃにつくられている。いや、おもちゃではなく、そういう老人たちにとっては、いのちそのものなのかもしれない。こんなのが安心して触れられるいのちなのかもしれない。・・・

死にできうる限り近づくことによってのみ、人は生命そのものに近づくことができる。いのちの時間を喪失した娘たちと一夜を過ごすということ、そこには、江口老人自身に近づきつつある「死」の影を見ることができるし、また、老人は安心していのちに触れることができる。

しかし、この宿での五度目の夜、老人は二人の娘とともに眠るのだが、その片方の娘、老人をして、 「いのちそのものかな。」とつぶやかせた、野蛮のすがたをした、黒光りした肌を持つ、ふとんを はねのけ、大の字に寝ていた、そして「生の魔力をさずけろよ。」というような戦慄のつたわっ て来そうな娘が、翌朝老人が眼を覚ますと、死んでいたのである。

その前に、江口老人の知り合いである、福良老人の死や、江口の母の死の思い出も描かれているのだが、ここにきて、「死」 は老人の目前にそのすがたをあらわす。まさしく「生の魔力」そのものが「死」として現前する のである。

しかし、その現前は一瞬のみである。恐れおののく老人に、宿の女は、「娘ももう一 人おりますでしょう。」と告げ、その言い方ほど老人を刺したものはなかった。宿の女たちは急いで死んだ娘を運び出し、車に乗せてどこかへ消えてしまう。

老人は、もう一人の、白い娘のは だかのかがやく美しさを見る。 三島由紀夫によれば、この作品に見られる、執拗綿密な、ネクロフィリー的肉体描写は、およそ言語による観念的淫蕩の極致である。

しかし、性的幻想にはつねに嫌悪が織り込まれ、また、 生命の参仰にはつねに生命の否定が入りまじっているため、息苦しいほどの官能そのものの閉塞感がある。

川端において、性が自由や開放の象徴として用いられることなど皆無である。
性はつねに生命と官能の閉塞状態において成立し、その世界の絶対無救済性を示すものである。しかも この絶対無救済の世界は、一人の「眠れる美女」の突然の死によって、閉じられるのではなく、 江口老人自身の死をも暗示する、逃れようのない「死の舞踏(ダンス・マカーブル)」へと開かれている。

この作品は、これ以上はない閉塞状態をしつこく描くことによって、ついに没道徳的な虚無へ読者を連れ出す。

三島は、かつてこれほど反人間主義の作品を読んだことはない、と言う。

また、「この家には、悪はありません。」という宿の女の言葉は、この世界には、悪に対立するものとしての善も存在しないということを示しており、さらには、川端の文学作品の中には、 真の救済も破滅も存在しないことをも示している。

また、『片腕』という作品になると、対象としての娘の肉体はその全体性を失って、片腕だけとなり、主人公と一夜をともに過ごす。しかし、その片腕は生きた片腕であり、主人公と会話、 交流、感応しあうことができる。しかしそれは、対象がその全体性を失った片腕であったからこそ可能なのである。

娘の片腕はまさしく「玩具」として、川端の絶対的孤独の世界への訪問を許されるのである。

「対話をすることのできる娘の片腕」とは川端にとって、理想的な女の在り方 のひとつなのである。それは女自体の望ましい象徴的具現なのである。

『片腕』の主人公はさらに、自分の片腕と娘の片腕とを付け替えてみる。そして、その娘の片腕に自分の血が通っていることを確認し、「腕のつけ根にあった、遮断と拒絶はいつなくなった のだろうか。」とその感想を漏らす。

しかし、「遮断と拒絶」とは、実は腕の付け替え(人体改 造?)などという児戯を演じる以前からの常態であったのである。『片腕』の主人公は自らの身体そのものとの交流さえも十分に感じることのできない、即ち、自らの身体からさえも拒絶され、 阻害されるという絶対孤独の中に生きていたのである。

そのような絶対孤独の中に生きる人間であるからこそ、娘の片腕との会話と交流という、このフェティシズムの極致における欲望の充足を得ることができるのである。そのような孤独な人間は通常の人間的接触や性的接触によっては決して満足することができないのである。

しかし、この作品の最後の場面は切なくなるほどに悲しい・・・

「娘の腕は・・・?」私は顔をあげた。

娘の片腕はベッドの裾に投げ捨てられていた。はねのけた毛布のみだれのなかに、手のひらを 上向けて投げ捨てられていた。のばした指先も動いていない。薄暗い明かりにほの白い。

「 ああ。」 私はあわてて娘の片腕を拾うと、胸にかたく抱きしめた。生命の冷えてゆく、いたいけな愛児を抱きしめるように、娘の片腕を抱きしめた。娘の指を唇にくわえた。のばした娘の爪の裏と指先とのあいだから、女の露が出るなら・・・・・。


西山老人のフェティシズム、そして魔界

川端康成の遺作となった『たんぽぽ』には、西山老人という印象的な人物が登場する。

たんぽぽの花が咲いた春のような町、生田町の生田川沿いにある「気ちがい病院」に入院している老人である。

その病院とは、官能の極致において、その恋人の身体が見えなくなるという、人体欠視症にかかった主人公、木崎稲子が入院する病院である。また、その病院は常光寺という寺の中にある。

たとえば、病院の主のような西山老人は、本堂の畳に紙をひろげて大きい字を、よく 書いている。白い日本紙や唐紙が、この老狂人の手にそうはいらないので、古新聞紙に書いていることが多い。 (仏界易入、魔界難入)

書く字はたいていこの八字である。・・・その書は力がある。俗気、 匠気がない。しかし、・・・よく見ていると、狂気あるいは魔気がひそんでいそうには思える。

西山老人は人生のある時に、魔界にはいろうとつとめて、魔界にははいりがたかった、その痛恨が、狂った老後の字にもあらわれるのかもしれない。

西山老人の「魔界」とはどのようなものであったか、とにかく、人生のある時にその「魔界」にはいろうとしたねがいは、彼を狂わ せたほどの痛ましさではあったのだろう。

西山老人は気ちがい病院を魔界だなどとは考えていない。魔界にようはいれなかった人たちの避難所、休息所というほどにも考えていないだろう。

現在の西山老人は生田病院でもっともおとなしい患者の一人である。歯は抜けたままで入れていなくて、頬は落ちくぼみ、頭のうしろに弱い白毛がぽやぽや残っているばかりである。

どのような魔界にもはいっていける力はなさそうな姿だから、書く字にだけ、いまだに魔気が残っていると言えるだろうか。

老人は字を書いている時に、癲癇のような発作をおこすことがあるが、養老院においてもさしさわりはなさそうである。

西山老人の毎日の楽しみは、夕方七時のラジオのニュウスの前の、天気予報を聞くことであ る。

「海上は今晩も明日も多少風波があるでしょう。霧のために見通しが悪いでしょう。」とい うような天気予報そのものはどうでもよくて、それを受け持つ若い女のアナウンサアの声が好きなのである。

その声はほどよいあまさをふくんで、いかにもやさしい。気ちがい病院のそとの世間から、愛らしい一人の娘が自分一人に話しかけてくれているように老人は感じる。愛情 のこもった声である。老人をいたわりなぐさめてくれる。美しい青春の木霊である。

その娘の名も知らないで、おもかげも見ないで、もしかすると、自分が死んだ後までも、その娘は美しい声で天気予報の放送をつづけているかもわからないが、廃残の自分に愛の声で毎日話しかけてくれるのは、この娘だと、西山老人は思っている。

西山老人にとって、おそらく、この女性アナウンサーの声を聴くと言うことは、まさしく、そ のことにおいて、彼がそれまでの人生の中で出会ってきた、すべての女性との官能の体験を再体験することのようである。

外界から語りかけてくる、一人の娘の声は、すべての女の愛情と官能的美を象徴するものとしてのフェティッシュである。今、老人はこの一人の娘の声によって、彼 が持つところの女性に対する欲望のすべてを満足させることが可能なのである。

しかし、西山老人が狂うほどまでに、その中に入ろうと欲した、「魔界」とはどのようなところであろう。

女性との愛欲に満ちた官能的交流の世界であろうか。
否、そのような世界とは、むしろ仏界である。様々の美しいフェティッシュによって彩られ、飾られた、神話的、抒情的世界である。そして、その向こうにあるのが、むきだしの「生」と「死」そのものが支配するところの魔界なのであろう。

老人が入ろうと必死になってもがいていたのは、女たちとの官能的交流の向こうにある、官能そのものとしての、生命そのものの世界なのである。

しかし、彼はそこに入ることもできず、また、死ぬこともできず、狂気の中で、この世に留まっているのである。

このような西山老人の姿は、まさに晩年の川端康成の姿そのものなのであろう。
しかし、そのような生命そのものによって支配された、魔界のあり様は、『禽獣』という作品 において、恐るべき仕方で、その姿を垣間見せる。

ここでは、小鳥や犬が、寓喩的〈アレゴリカル〉な仕方で、まさしく官能そのものとして描かれる。

特に印象的なのが、犬の出産の場面である。

中庭の土は、初冬の朝日に染まったところだけが、淡い新しさであった。その日のなかに、 犬は横たわり、腹から茄子のような袋が、頭を出しかかっていた。ほんの申訳に尻尾を振り、 訴えるように見上げられると、突然彼は道徳的な苛責に似たものを感じた。

この犬は今度が初潮で、体がまだ十分女にはなっていなかった。従ってその眼差は、分娩と いうものの実感が分からぬげに見えた。

『自分の体には今いったい、なにごとが起こっているのだろう。なんだか知らないが、困っ たことのようだ。どうしたらいいのだろう。』

と、少しきまり悪そうにはにかみながら、しか し大変あどけなく人まかせで、自分のしていることに、なんの責任も感じていないらしい。

ここには、生命そのものの持つエロティシズムが、不思議な仕方で、若い、というよりまだ幼さない雌犬の出産の場面をとおして描かれているように思われる。

三島由紀夫も言うように、この犬の眼差はまさしく創造主の眼差なのかもしれない。
創造主たる神は、こんなあどけない無邪 気で無責任な眼差で、自らが産み出してしまった人間を見つめていたのではあるまいか。

それは 人間存在の意味を、そして生命そのものの意味をわれわれが問いかけるとき、陥らざるを得ない 恐ろしい懐疑である。

われわれ人間は確かに存在する。生命もまた存在する。しかし、そのことの意味も、またその価値もわれわれにとって、あくまで不可知にとどまる。否、単に不可知にとどまるというのではなく、なんの意味も価値もない絶対虚無の中においてのみ生命の意味は充実 しえるのではないか。このような生命の意味のもつ逆説的構造を、われわれはまず承認しなければならないのではないか。このことの承認の故に、この『禽獣』という作品の中には、嘔吐を伴うような厭人癖、危機的とまでいえるほどの人間嫌悪が漂っているのではないか。

そして、そのような生と死とによって支配された魔界の狭間に、微かな仕方で存在しうるのが、 仏界なのかもしれない。

その世界を見事に描いたのが、『抒情歌』という作品である。

この明治 の女のきりりとした着付を思わせるような文体によって描かれた真昼の神秘の世界、それは川端 の切実な「童話」であり、また彼のもっとも純粋な告白である。

この童話的、神話的、そしてさ まざまな妖精達、神々、仏達の棲む世界はあまりにも美しい。そのような美こそが、自我によって保持されえるところのこの世界における生命の責任かもしれない。それを川端は「ありがたい抒情歌のけがれ」という言葉で表現している。

そして、それは、愛する人の傍で眠っているとき、 その人の夢を見ることのない世界である。

「あなたの傍に眠っていましたとき、あなたの夢を見たことはありませんでした。

しかしながら、そのような魔界に、われわれは本当に入ることができるのであろうか。もしで きるとすれば、それは、性のタブーといわれるようなものを破ることによってではないだろうか。

たとえば、三島由紀夫の『音楽』という作品においては、少女期の兄との近親相姦によって、美しい「愛」のオルガスムスを体験した女性の冷感症が描かれている。

近親相姦がなぜタブーとさ れてきたのか。それは、単に生物学的理由によるものではないと思われる。

おそらく、近親相姦によって人はあまりにも大きすぎる快感を体験してしまうからではないか。そのような仕方で、 魔界を見てしまった者は、もはや、この現実の世界の中では生きてゆくのが困難になってしまうのではないか。


http://www.asyura2.com/09/revival3/msg/574.html#c54

[番外地6] 東大出身の人間が経営に関わり出すと組織が崩壊する 中川隆
1. 中川隆[7781] koaQ7Jey 2017年4月15日 20:53:26 : b5JdkWvGxs : DbsSfawrpEw[8271]

日本人は4つのブレーキに縛られて個人も企業も窒息状態だ



日本はまだ多くの人々がきちんと生活していけている素晴らしい社会であり、さらに途上国のように社会の混乱や暴力が蔓延しているわけでもない。

日本にはまだ底力があり、それなりに国際的地位もある。頭がおかしい指導者が独裁する北朝鮮や、暴力と無法が蔓延する中東や南米の国々とは違って、秩序も保たれて人々は安心して生きている。

しかし、この秩序と安心が長く保たれていくと、人々はやがて過度に「空気を読む」ようになり、秩序と安心を乱すことができなくなる。

その結果、自分の心を無意識に縛る心理的なブレーキが生まれる。「風波を立てるようなことはしたくない」とか「現状維持したい」とか「みんながやっている通りにしたい」という空気に縛られてしまうのだ。

そうなると、環境が激変して自分も変わらなければならない時が来ても変われない。シャープや東芝のサラリーマン社長たちの醜態を見ても分かる通り、足元が崩れても何もできない。

サラリーマン社長は現状維持はうまいのだが、現状を変えるのは苦手だ。今の日本には閉塞感、無力感、先の見えない不安感、自信喪失が蔓延しているのだが、それは理由がある。

日本を縛り付ける4つのブレーキとは?

日本は「前例主義」である。それは、前例がないことをやると批判されるという意味である。

新しいことをしようとすると、前例がないので誰もが「自制」する。あるいは自制させられる。つまり、自分の行動にブレーキがかけられる。

日本は「横並び主義」である。それは、まわりを見回して、まわりと違うことはしないということだ。あるいは、敢えてまわりに合わせるということだ。

まわりに合わせるために、自分の行動を調整する。つまり、自分の行動にブレーキがかけられる。

日本は「事なかれ主義」である。それは、衝突が起きそうになると衝突を起こさないように我慢するということだ。正しいか間違っているかはともかく、自分が我慢して場を収める。

あえて軋轢や衝突を起こさないために、自分を抑制する。つまり、自分の行動にブレーキがかけられる。

日本は「先延ばし主義」である。それは、サラリーマン社長のやっていることを見てもよく分かる。自分の任期中は「つつがなく」過ごせればいいので、面倒なことやリスキーなことはすべて先に延ばしてしまう。

先に延ばすことによって自分の身分を保身する。つまり、自分の行動にブレーキがかけられる。

(1)前例主義
(2)横並び主義
(3)事なかれ主義
(4)先延ばし主義

そのどれもが、自分自身の行動を縛り付けるものであることに気付いてもいい。日本の社会にこの4つが強固に機能しているということは、つまり日本人は強固に抑圧されているということなのである。


社会が機能していない途上国の方が幸せな理由とは

日本の社会はあまりにも、秩序を重視するあまり、それが人々を強烈に縛る「見えない鎖」と化して閉塞感や無力感に追いやっている。

どんなに才能や能力があっても、人間にブレーキをかけさせる4つの主義が働いていると、行動することができないほど縛られてしまう。これが、日本に根深い閉塞感を生み出していると言える。

自分の行動がいちいち漠とした社会の空気に抑制されるのだから、やる気が削がれて無気力になり、将来が不安になっても仕方がない。

そう考えると、なぜ経済破綻しているような南米の国家や、途上国に分類される国の国民が、逆に幸せを感じているのかも分かってくる。

途上国では、幸か不幸か国家や社会の規制力が弱い。前例があろうがなかろうが生き延びるために「何でもしなければならない」し、「何でもしろ」という行動が求められている。

他人と同じでなければならないという規制力もない。生きるのに必死だから、他人と衝突することも厭わない。先延ばしなどしていたら死んでしまうから、常にやるべきことをやる。

もともと物を持っておらず、失敗しても失うものもないので、思いきって行動ができる。

つまり、経済破綻しているような国では社会が脆弱なので、逆に国民は規制に縛られることもなく、思いきり自分を解放できているのである。

秩序もなく、物質的豊かさもなく、法的規制も弱く、治安も悪いのだが、だからこそ皮肉なことに「やりたいことを全力でできる」という社会になっている。


「新しいタイプの日本社会」を模索する時代に

日本は組織や国家に「何でもかんでも規制してもらう」ことによって安全や秩序や安心を手に入れたとも言える。しかし、その社会的秩序は、他人を法や常識で縛ると同時に、自分もまたそれに縛られる元になる。

日本の治安は素晴らしいが、その素晴らしさを維持するために、自分もまた縛られている。しかし、社会を安全に清潔に規則正しくするために、日本人は自分も縛られることを敢えて受け入れたのだ。

「本当はこんなことをしたいのだが、前例はあるのだろうか。なければやめておこう」

「こんなことをしている人はいないので、他人がしていないのならやめておこう」

「こんなことをしたら風波を立てるからやめておこう。何を言われるか分からないから先延ばしにしよう」

これらは、すべて自分を縛るものなのである。日本の一流企業の経営者もサラリーマン社長なので、まったく同じ発想と行動パターンをする。そのため、東芝のように会社が自滅していっても現状維持する発想しか思い浮かばないのである。

日本国内では、あまりに社会全体がこの4つのブレーキが強く効きすぎた結果、日本人すらも社会に対して閉塞感を感じるようになり、今やそれを通り過ぎて「窒息感」にもなっているようにも見える。

また、日本の社会は今、激変する世界の動きの中で、急激に取り残されようとしており、それが経済の衰退や日本の尊厳の低下となって現れている。

いよいよ日本の今までの社会は時代遅れになって規格に合わなくなっている。新しいタイプの日本社会を模索していかなければならない局面に来ている。

それには、日本を縛り付けている「4つのブレーキ」を大胆に取り外して、跳躍することが求められている。

幕末・明治維新の混乱期は、名もない下級武士が歴史を変えたのと同様に、新しい時代はまだ何も持っていない人間が変える。社会が激動するときは、いつも名もない人間が既存社会を打ち壊して新たな社会を作り出す。

日本の閉塞感は極まっている。いよいよ、日本を変える一群が生まれても不思議ではない。


いよいよ日本の今までの社会は時代遅れになって規格に合わなくなっている。新しいタイプの日本社会を模索していかなければならない局面に来ている。
https://darkness-tiga.blogspot.jp/2017/04/20170415T1755570900.html
http://www.asyura2.com/13/ban6/msg/761.html#c1

[政治・選挙・NHK224] 安倍への不満票が野党に向かわない理由!   赤かぶ
3. 中川隆[7782] koaQ7Jey 2017年4月15日 20:56:32 : b5JdkWvGxs : DbsSfawrpEw[8272]

日本を救った安倍先生


2009年から2012年まで小沢・鳩山と民主党が仕掛けていた異常なまでの円高によって日本の株価は低迷を余儀なくされていたが、これは安倍政権になってから是正されてやっと株価も上昇するようになり、日本は最悪期を脱した。

民主党政権が存在していなかったら異常な円高はなかったわけで、リーマン・ショックによる株価の落ち込みも早期に回復し、日本の景気も早い段階で立ち直っていたはずだ。

しかし、この小沢・鳩山と民主党政権の地獄の3年間で日本の雇用は大幅に失われ、活力も失われ、株価も回復せず、景気も落ち込んだままだった。

小沢・鳩山と民主党のせいで、中国や韓国に技術も国富も毟り取られ、国内の重要機関も乗っ取られ、日本という国の対外的な信頼も地位も失われ、日本は崩壊寸前となってしまっていた。

小沢・鳩山と民主党の「円高放置政策」が日本経済を駄目にした元凶だったのだが、売国政党である民主党がこの失策を日本国民に謝罪したことは一切ない。


日本の本来の国力以上に、円は強くなりすぎていた

ところで、円高については本来であれば1990年代のバブル崩壊時に是正されて然るべきだったが、そうならなかった。日本はバブル崩壊して国の実力が落ちたのだから、本来は円安になるべきだったのである。

にも関わらず、円だけはずっと円高を志向しており、日本の本来の国力以上に円は強くなりすぎていた。

だから、日本の輸出企業は海外で価格競争力を喪失し、中国や韓国に工場を作るしかなくなり、そのせいで雇用ばかりか技術も盗まれて、日本企業が一気に衰退するきっかけとなった。

中国・韓国の台頭は、日本企業の技術が盗み放題だった1990年代から2000年代に起きていた。

当時の日本企業は、国内に設備投資すれば円高で価格競争力に負け、国外に設備投資すれば技術を盗まれて価格競争力に負けるという状況に陥っていたのだ。

そのせいで日本の衰退は止まらなかったが、にも関わらず円高は加速していった。

円高で日本が苦しんでいると知った小沢と民主党政権は、日本破壊を成し遂げようとでも思ったのか、アクセルを踏んで円高に向かわせたのだった。

小沢・鳩山と民主党はマスコミでも円高誘導を行い、お抱えのジャーナリストには「円は50円になる」「円は10円になる」「円高で日本は復活する」と叫ばせて、日本の経営者を絶望させることさえもしていた。

日本の銀行や保険会社や郵政が、馬鹿のひとつ覚えのように日本国債を買い支えたので、それも円の下落を防いで円高を促す原因にもなった。

安倍政権によってやっと金融緩和が行われて円安になっていったが、これがなければ日本企業は完全に息の根を止められていたことになる。日本は間一髪で助かった。
http://www.asyura2.com/17/senkyo224/msg/231.html#c3

[近代史02] 調査報告/原子力発電所における秘密 中川隆
62. 中川隆[7782] koaQ7Jey 2017年4月16日 06:19:59 : b5JdkWvGxs : DbsSfawrpEw[8272]

携帯電話使用で脳腫瘍リスク増大、研究結果が公開…子供の脳、深部に電磁波が影響
http://biz-journal.jp/2017/04/post_18726.html
2017.04.16 文=水守 啓/サイエンスライター Business Journal


■隠蔽されてきた携帯電話と脳腫瘍の関連性

 3月2日、米サンフランシスコのCBSニュースは、携帯電話と脳腫瘍の関連性について詳述した秘密文書が、カリフォルニア裁判所の命によって公開された事実を報じた。2016年、カリフォルニア大学バークレー校公衆衛生大学院の家庭・地域保健センター長ジョエル・モスコウィッツ博士が、カリフォルニア公記録法を盾にして、カリフォルニア州政府に対して訴訟を起こし、「携帯電話と健康」と題された文書が公開されたのである。

 その文書の作成時期は2014年4月とされ、「草稿・非公開」と印が押されていた。だが、モスコウィッツ博士によると、元原稿は7年前に書かれ、その後、数度アップデートされながらも、決して公開されることのなかったものだという。

 番組内で訴訟に踏み切った理由を問われたモスコウィッツ博士は、次のように答えている。

「私はこの文書が日の目を見ることを望みました。なぜなら、携帯電話からの電磁波にはリスクがあるという懸念がカリフォルニア州公衆衛生省内部にはあり、そのリスクを軽減させる方法について、それはいくらかの情報をもたらしうるからです」

 その文書は、携帯電話の長期使用は脳腫瘍や他の健康問題のリスクを高める可能性があると指摘し、携帯電話の電磁波は近くの細胞と組織に影響を与えると認めていた。子供に対する警告部分では、電磁波は子供の脳に対しては大人の脳よりも深部に到達すると説明していた。さらに、携帯電話に対する電磁波ブロック商品が実際に機能する証拠はないとしていた。

 このニュースを取材したNatural Newsのマイク・アダムス氏によると、カリフォルニア州政府が少なくとも7年間、この文書を市民の目から隠してきた背景には、携帯電話からの電磁波によって損害が引き起こされる証拠を長期に及んで隠そうとしてきた、産業界のロビイストたちによる圧力があったと思われると指摘している。

■受信状況が悪いと、電磁波の影響強まる

 その文書に記されていた情報をもう少し紹介すれば、「いくらかの研究調査が見いだしたこととして、ある種の脳腫瘍は、携帯電話を10年以上使用し続けた場合に生じやすく、その部位は携帯電話を普段使用する側の側頭部とほぼ一致する」という記載もあった。

 また、携帯電話から受ける電磁波の影響度は、主に電磁波の強さ、使用頻度、使用時間、耳までの距離に依存するが、受信状況が悪い時、例えば、電車、自動車、バスの中での使用中や、基地局がスイッチする際などにも強まるということを警告していた。

 そして、リスクを軽減する最善策として、携帯電話を体からできるだけ離し、使用時間を減らすことが促されていた。具体的には、ヘッドセットを利用したり、スピーカーフォン・モードを使用して、本体を体から離すことが有効だとしていた。

 また、通話していなくとも携帯電話から電磁波が発せられているため、使用しない時は体から離しておくことや、受信状況の悪い時は、できるだけ使用しないようにすることなども記されていた。

■何十年も前から電磁波と磁気の作用は懸念されていた

 ところで、戦後、植物の成長過程をフィルムに収めていた写真家・撮影監督のジョン・ナッシュ・オット氏(1909-2000)は、光や色温度が植物に与える影響に関心を持った。そして、テレビの普及が進んだ1960年代、テレビから漏れ出る電磁波が植物の生長に甚大な影響を与えることを発見した。

 また、対象を植物からネズミに変えて行った実験では、テレビから漏れ出る電磁波を浴びたネズミは次第に攻撃的となり、その後無気力と化し、ついには動けなくなってしまうことを確認した。これは、パソコンや携帯電話を多用するようになった現代人が、切れやすく攻撃的となることや、無気力、鬱、引きこもりの傾向を示しつつある現状を予言するような結果であった。

 また、オット氏は、がん患者15人に、テレビなどの電子機器をまったく利用せず、室内照明も避けて毎日外に出て日光を浴びるように生活してもらったところ、14人の患者のがん進行が止まったという結果を得た。

 その結果と自身が過去に行ってきたさまざまな研究成果を合わせ、オット氏は、動植物や人間は、フルスペクトルの自然光を浴びることで健康を維持できると確信するに至った。オット氏の結論を評価するには今後の検証が求められるものの、当時、彼の研究は一般には注目されるに至った。だが、学者や産業界にはあまり真剣に受け止められることはなかった。

 実は、このように産業界にとって不都合な、民間人による調査報告は、繰り返し表沙汰になっては、専門家によって無視され、忘れ去られてきた。例えば、電子レンジで調理された食品を摂取し続けることで生じる健康リスクや、特定の音楽が動植物に与える健康リスクなども熱心に研究され、注目すべき結果が得られてきたのだが、それらも同様にして忘れ去られていった。

 1936年、アルバート・ロイ・デイヴィス氏(1915-84)は、永久磁石のN極とS極とでは性質が異なることを発見した。簡単にいえば、N極に曝された生物は野性的になり、S極に曝された生物は繊細で知性的になる。そして、S極に影響を受けた動物は、小さく、弱く、繊細になるものの、成長・加齢の速度を落とすため、結果的に寿命を最大50%延ばせることを発見した。

 このような研究成果は、一部の研究者らの間では有名ではあるが、現在でも一般には知られていない。共同研究者であったウォルター・C・ロールズ・Jr.氏も2009年に他界したが、生前、あることに対して精力的に警告を発していた。

 それは、N極から発生するのと同様の磁気エネルギーが、交流電源を使用したラジオ局やレーダー・アンテナばかりか、携帯電話からも発せられているという事実である。特に固定電話や携帯電話の受話器内の多くの磁石は脳のほうに向けられており、逆向きにするようにメーカーに改善を求めていたのである。

 現在、携帯電話各社がロールズ氏の警告を受け入れ、改善を行ってきているのかどうかは不明であるが、今一度、電磁波と、性質の異なる磁気の作用について、見直してみる必要があるのではなかろうか。

http://www.asyura2.com/09/reki02/msg/363.html#c62

[近代史02] 癌に効く温泉・・アトピーに効く温泉 中川隆
64. 中川隆[7783] koaQ7Jey 2017年4月16日 06:20:42 : b5JdkWvGxs : DbsSfawrpEw[8273]

携帯電話使用で脳腫瘍リスク増大、研究結果が公開…子供の脳、深部に電磁波が影響
http://biz-journal.jp/2017/04/post_18726.html
2017.04.16 文=水守 啓/サイエンスライター Business Journal


■隠蔽されてきた携帯電話と脳腫瘍の関連性

 3月2日、米サンフランシスコのCBSニュースは、携帯電話と脳腫瘍の関連性について詳述した秘密文書が、カリフォルニア裁判所の命によって公開された事実を報じた。2016年、カリフォルニア大学バークレー校公衆衛生大学院の家庭・地域保健センター長ジョエル・モスコウィッツ博士が、カリフォルニア公記録法を盾にして、カリフォルニア州政府に対して訴訟を起こし、「携帯電話と健康」と題された文書が公開されたのである。

 その文書の作成時期は2014年4月とされ、「草稿・非公開」と印が押されていた。だが、モスコウィッツ博士によると、元原稿は7年前に書かれ、その後、数度アップデートされながらも、決して公開されることのなかったものだという。

 番組内で訴訟に踏み切った理由を問われたモスコウィッツ博士は、次のように答えている。

「私はこの文書が日の目を見ることを望みました。なぜなら、携帯電話からの電磁波にはリスクがあるという懸念がカリフォルニア州公衆衛生省内部にはあり、そのリスクを軽減させる方法について、それはいくらかの情報をもたらしうるからです」

 その文書は、携帯電話の長期使用は脳腫瘍や他の健康問題のリスクを高める可能性があると指摘し、携帯電話の電磁波は近くの細胞と組織に影響を与えると認めていた。子供に対する警告部分では、電磁波は子供の脳に対しては大人の脳よりも深部に到達すると説明していた。さらに、携帯電話に対する電磁波ブロック商品が実際に機能する証拠はないとしていた。

 このニュースを取材したNatural Newsのマイク・アダムス氏によると、カリフォルニア州政府が少なくとも7年間、この文書を市民の目から隠してきた背景には、携帯電話からの電磁波によって損害が引き起こされる証拠を長期に及んで隠そうとしてきた、産業界のロビイストたちによる圧力があったと思われると指摘している。

■受信状況が悪いと、電磁波の影響強まる

 その文書に記されていた情報をもう少し紹介すれば、「いくらかの研究調査が見いだしたこととして、ある種の脳腫瘍は、携帯電話を10年以上使用し続けた場合に生じやすく、その部位は携帯電話を普段使用する側の側頭部とほぼ一致する」という記載もあった。

 また、携帯電話から受ける電磁波の影響度は、主に電磁波の強さ、使用頻度、使用時間、耳までの距離に依存するが、受信状況が悪い時、例えば、電車、自動車、バスの中での使用中や、基地局がスイッチする際などにも強まるということを警告していた。

 そして、リスクを軽減する最善策として、携帯電話を体からできるだけ離し、使用時間を減らすことが促されていた。具体的には、ヘッドセットを利用したり、スピーカーフォン・モードを使用して、本体を体から離すことが有効だとしていた。

 また、通話していなくとも携帯電話から電磁波が発せられているため、使用しない時は体から離しておくことや、受信状況の悪い時は、できるだけ使用しないようにすることなども記されていた。

■何十年も前から電磁波と磁気の作用は懸念されていた

 ところで、戦後、植物の成長過程をフィルムに収めていた写真家・撮影監督のジョン・ナッシュ・オット氏(1909-2000)は、光や色温度が植物に与える影響に関心を持った。そして、テレビの普及が進んだ1960年代、テレビから漏れ出る電磁波が植物の生長に甚大な影響を与えることを発見した。

 また、対象を植物からネズミに変えて行った実験では、テレビから漏れ出る電磁波を浴びたネズミは次第に攻撃的となり、その後無気力と化し、ついには動けなくなってしまうことを確認した。これは、パソコンや携帯電話を多用するようになった現代人が、切れやすく攻撃的となることや、無気力、鬱、引きこもりの傾向を示しつつある現状を予言するような結果であった。

 また、オット氏は、がん患者15人に、テレビなどの電子機器をまったく利用せず、室内照明も避けて毎日外に出て日光を浴びるように生活してもらったところ、14人の患者のがん進行が止まったという結果を得た。

 その結果と自身が過去に行ってきたさまざまな研究成果を合わせ、オット氏は、動植物や人間は、フルスペクトルの自然光を浴びることで健康を維持できると確信するに至った。オット氏の結論を評価するには今後の検証が求められるものの、当時、彼の研究は一般には注目されるに至った。だが、学者や産業界にはあまり真剣に受け止められることはなかった。

 実は、このように産業界にとって不都合な、民間人による調査報告は、繰り返し表沙汰になっては、専門家によって無視され、忘れ去られてきた。例えば、電子レンジで調理された食品を摂取し続けることで生じる健康リスクや、特定の音楽が動植物に与える健康リスクなども熱心に研究され、注目すべき結果が得られてきたのだが、それらも同様にして忘れ去られていった。

 1936年、アルバート・ロイ・デイヴィス氏(1915-84)は、永久磁石のN極とS極とでは性質が異なることを発見した。簡単にいえば、N極に曝された生物は野性的になり、S極に曝された生物は繊細で知性的になる。そして、S極に影響を受けた動物は、小さく、弱く、繊細になるものの、成長・加齢の速度を落とすため、結果的に寿命を最大50%延ばせることを発見した。

 このような研究成果は、一部の研究者らの間では有名ではあるが、現在でも一般には知られていない。共同研究者であったウォルター・C・ロールズ・Jr.氏も2009年に他界したが、生前、あることに対して精力的に警告を発していた。

 それは、N極から発生するのと同様の磁気エネルギーが、交流電源を使用したラジオ局やレーダー・アンテナばかりか、携帯電話からも発せられているという事実である。特に固定電話や携帯電話の受話器内の多くの磁石は脳のほうに向けられており、逆向きにするようにメーカーに改善を求めていたのである。

 現在、携帯電話各社がロールズ氏の警告を受け入れ、改善を行ってきているのかどうかは不明であるが、今一度、電磁波と、性質の異なる磁気の作用について、見直してみる必要があるのではなかろうか。

http://www.asyura2.com/09/reki02/msg/357.html#c64

[リバイバル3] 日本人は金髪美女に弱い _ 小布施からセーラ・カミングスの姿が消えた 中川隆
118. 中川隆[7783] koaQ7Jey 2017年4月16日 07:07:20 : b5JdkWvGxs : DbsSfawrpEw[8273]

April 15, 2017 at 10:42PM


YouTubeでソルフェジオとか瞑想音楽とか聞いていたら、お勧めに高野山モノがいくつも出てきたので見てみると、外人だらけ。

護摩供養の実況ビデオなんかもあるが、観客(?)は白人ばかり。しかもフラッシュ焚き放題。護摩を焚いてそれにフラッシュを焚かれ、全然平気らしい。
https://youtu.be/–A-5Dxmf74

真言宗の坊主は外人の前で醜くニヤニヤして、下手くそな英語をペラペラと喋る。ひどい発音の英語をよくそれだけしゃべくるな、という感じの坊主がいる。基本的なところがカタカナ発音なので、外人に通じるのか疑問だが、それでも傾聴してもらっているらしく、ペラペラペラペラと喋るんだ。白人ツーリズム仏教の極み。

近頃、欧米人ツーリストには京都よりも高野山が人気だという。チベット仏教人気の発展形か、ツーリズムチベット仏教があまりにインチキでお粗末なので、日本のvajrayana(金剛乗)仏教が目をつけられたようだ。オウム真理教残党の仲間になればいいのに。仏教に興味を持つ外人はesoterismが好きだが、オリエンタリズムだと思う。
https://kuantan.me/2017/04/15/april-15-2017-at-1042pm/
http://www.asyura2.com/09/revival3/msg/444.html#c118

[政治・選挙・NHK224] 偉大な首領、安倍晋三総理は、昭恵夫人とお花見を楽しまれました。万歳!  赤かぶ
1. 中川隆[7784] koaQ7Jey 2017年4月16日 07:28:24 : b5JdkWvGxs : DbsSfawrpEw[8274]

貧民窟 阿修羅の住人の嫉妬に狂った姿も おぞましいね
http://www.asyura2.com/17/senkyo224/msg/244.html#c1
[原発・フッ素47] 反原発派は知恵遅れ _ 原発再稼動で温室効果ガスが減少 再生可能エネルギーの限界 中川隆
1. 中川隆[7785] koaQ7Jey 2017年4月16日 07:46:27 : b5JdkWvGxs : DbsSfawrpEw[8275]

左翼思想の手段に原発議論を持ち込むな!![前篇]
http://000hime.blog74.fc2.com/blog-entry-440.html

http://www.nicovideo.jp/watch/sm15305377

こんにちは、京都大学の中野剛志でございます。

前回に引き続きですね。あの、今回も原発がらみのですね。脱原発だか減原発だか知りませんが、まぁ私はそのめちゃくちゃ推進っていうわけでは無いですけど、議論がおかしいのでですね。ファイトー原発ということをやってみようかと思います。すみません。今日もなんかもう、非難ごうごう億千万の、胸騒ぎの予感がしますけれども。


えー、まずですね。

今回その震災とその原発の事故が起きて、まぁその、エネルギー政策そのものを見直すといったようなですね、議論が出てきているわけです。だけども、そもそもですね、そんな議論をしていること自体がおかしいっていうのが私の立場で。

もちろん、その原子力政策にはたとえば放射性廃棄物をどうするんかっていう問題。エネルギー政策だったら再生可能エネルギーをどうするとか、電気料金がどうのとか、エネルギーの独占供給体制がいいのか悪いのかって、そりゃいろんな議論があるとは思いますが。

今回の見直すべき点っていうのは福島原発の事故をきっかけとしていて。これは大震災っていう異常事態が起きたのに対して、まずはこれ当面の問題をどう解決するかっていうことが先決なのであって。

電気料金がとか放射性廃棄物がとかそういった話は、別に震災と緊急事態がなくってもやっているべき議論であってですね。この緊急事態の時にやるべきものかどうかっていう事自体がおかしいわけですね。


たとえるならば、ちょっとあの太り気味の人がですね。運動神経が鈍くて、例えば転んで骨折をしたと。その人は骨折したので痛てぇ痛てぇということで、まずは救急車に乗せるか病院へ行くかということで脚を治すことが先決なのに、そこにわぁーっとですね。訳知り顔の知識人とか政治家とかが集まって、「そもそもあなたが転んだのはあなたの体質の問題だ」とかですね、「その体質を抜本的に改善するためにはまずはビリーズブートキャンプのビデオがいい」とかですね、こういう食品がいいとかですね、えーなんとかダイエットがいいとか、いろんな事をわぁわぁわぁわぁ言って。転んだ方は「痛てぇからまずはおれの脚を治してくれよ、それから痩せることとかいろいろ聞くからさぁ」、と言っているのに、脚は放置してわぁわぁわぁわぁ騒いでると。そういう状況に近い‥というかまさにその状況なんですね。


現に、そのエネルギー政策を見直しをするとか脱原発とか減原発とかいろいろ騒いでますけど、二次補正予算たった2兆円ですよ。この最低限しか出ていないわけですよ。や、もうはっきり言って被災地見捨ててるわけですよね。そんな程度のことしかやってなくて、で再生可能エネルギーの法案の優先順位を高くしてるわけですよね。

でもその再生可能エネルギーのあの買い取り法案は、あれは推進者ですら「すぐに原発の代わりになるものではない」とか「すぐに実用化するものではない」とか言ってるわけですよ。どうして被災地ほっておいて優先順位そっちが先になるんですか。

それはですね。はっきり言って被災地はほったらかして自分たちが好き勝手に議論してるっていう事なんですよ。


だからまずは、原発の事故の収束。それから事故の検証。検証委員会だってまだ、やり始めたくらいのところですよねぇ。それから被災地の復興、それから当面の電力供給の確保。そういった事を優先すべきであってですね。ま、そもそもの議論なんかもういいんですよ。なんでそれをほっといてやるんですかと。


もしエネルギー政策を根本的に見直さなきゃいけない、原発政策を根本的に見直さなきゃいけない契機が今回の震災にあるとしたら、それはおそらく私の考えでは1点に絞られていて。

1点っていうのは、地震や津波の多い我が国で原発が可能か否か。安全な原発てというものが合理的なコストの範囲内で可能か否か。


おそらく福島原発を巡る議論で、長期的エネルギー政策について考えなきゃいけないのは、この原発事故、福島原発の事故っていうことに限って言えばこの1点だけなんですよ。

あとはもうその、復興が8割くらい済んでから気がすむまでやりゃぁいいっていうそういう話なんですね。


さてそこで問題が、この論点を1点に絞ったこの地震が多い我が国で原発は可能か否かっていことなんですね。

これは、私自身がその工学的な専門家ではありません。従って私自身が責任を持って言う能力が無いんですが、私が所属している京都大学の原子力関係の専門家の先生はですね。今回の失敗をふまえて、充分に我が国で合理的な範囲内、コストの範囲内で原発は可能だとおっしゃる先生はおられます。

もちろんですね、それは無理だという反原発の先生もおられますので、素人的には、私はこの件に関しては今日ご覧になっている視聴者のみなさんとはほとんど同じレベルくらいの知識しかないんですけど。

私も、できるっていう専門家とできないっていう専門家両方いたら、どっちが正しいかって言ったら素人判断するしかないですが、私は、素人であるにも関わらず、客観的に見てですね。原発、我が国でも可能っていう方が正しいだろうなっと思うんですね。


その根拠をいくつか挙げますと、

ひとつは、今回の震災で、福島第1原発の1号機4号機、1号炉4号炉は危機を起こしましたが、東北電力の女川原発、あと日本原電の東海第2、これは冷温停止に成功してるんですね。津波対策ちゃんとやってたんで。

それから東電の福島第2ですらですね、何とか冷温停止に成功しているし、福島第1の中ですら、6号機などは何とかもったわけですね。


従っていくつか同じような状況に置かれた原発で無事だったものがある。っていう事は裏を返せば、そっちの原発でやっていたことと同じことを福島第1でやっていれば防げたんだなぁと。

で、これだけの規模のですね、震災津波があって。しかも福島で津波っていうのは三陸と違って滅多にないことですから。これだけでも何とかしのげた可能性があると。他の事例を見てそう判断をしたと。

2番めはですね。福島第1で今回事故を起こしたものは、30年以上前の、40年前くらいの技術なんですね。古いわけです。私がおしめしてた頃の技術なんですね。そうすると、それは古いので、しかもアメリカ製でしたっけ‥旧型なんですね。

そうすると、さっきのあの、しのいだ福島第1の6号機とかこれは新型の炉なんですね。もっと新しい炉でしたらもっと安全性は高いだろと。

したがって今回の福島第1は、その、古いものがやられたので、これをリプレイスすれば、対策を講じてリプレイスすれば耐えれたんだろうなぁというふうな想定ができると。

3番目でですね。これは世間が政府や東電の対応を散々批判して責任を追及しているわけですね。

例えば堤防が高くなかっただとか、非常用電源の位置がおかしかったとか、いろいろあのシビアアクシデントも想定してなかっただとかって、かまびすしく(やかましく)批判しているわけなんですね。


だけど考えてみればですね、その批判っていうのはそれを裏返せば、それをやっておけば無事だったのにやらなかったから批判されてるわけですよね。

ってことは、やれば大丈夫だったんだ、今後はこの反省を踏まえて丈夫で安全な原発を我が国でも可能だと。実はかまびすしく批判とか責任を追及している声っていうのは、裏をかえせば、聞けば聞くほどですね、原発このまま続けても大丈夫だと。

だから批判を追及している声と、脱原発の議論っていうのは結びつかないんですね。逆なんです。

それから4番目に。これは一般論として言えることですが。今回の事故もそうなんですけど、今回の事故をふまえてその、これを教訓にですね、更なる対策を強化するっていうことが人間にはできるわけなんですね。

今回のこの、これだけのアクシデント、これだけの不幸があったわけですけども。不幸のことを置いておけば、工学的にはですね、技術者的には学ぶべき点が山ほどあったんですね。これを生かしていくっていうのは、これは、誤解を恐れずに言えば、貴重な財産な面はあるわけですね。それを生かすというのがあるわけです。

従って、たとえば福島第1原発は、聞くところによると、あの、非常用電源2つ備えて、まぁ百万分の1の事態を想定して作られていたんですが、百万分の1の事態が起きてしまったので対策を打つと。

これがまぁ、例えば非常用電源をもう1つつけるとかですね、いろいろ位置を変えるとかですね。そういう事をやるとですね、千万分の1でも耐える。それでも不安だと言うんだったら、もっと対策をやって。億分の1にも耐えられるっていうふうにできるわけですね。


千万分の1とか、億分の1とか、千、万、億、、億千万、っていうことなんですね。


ということです。それ分の1のリスクなんだから信用できない、そこまで騒がれちゃうと、それを言っちゃぁおしまいよっていう事なんですね。


で、私は素人であるにもかかわらず、この原発を、我が国のような地震の多い国でも続けることは可能だというふうに思っているという事です。

従ってやるべきことは、長期的には原発の安全強化。あとは事故の収束とかですね、復興‥そういう事をやってですね。そもそものエネルギー政策の議論とかそういうのは後回しにしてくれと。

そういうのをほっといてエネルギー政策を対処法所から議論している人たちっていうのは、だいたいこの事故調査委員会の調査結果もまだなのにわぁわぁわぁわぁいろいろ言っているというのは、逆に無責任だなぁという風に思うわけです。

で、前回もですね。先月も申しあげましたけど。ちょっといくつか議論が酷いのがあってですね。まだ言ってる奴がいるわけですね。まぁ私の動画なんか何の影響力も無いんだろうなぁって思うんですけど。

** 参考

電力自由化,発送電分離がばかげているという話
http://000hime.blog74.fc2.com/blog-entry-429.html

**


例えば電力の自由化とかまだ言ってる奴らがいてですね。この前もテレビ見てたら、え?韓国の?電力料金が?安いとかですね。ん・・なの党のなんとかさんがですね。韓国のが電力自由化で安いんだ、日本より安いんだって騒ぎまくってんですけど。


** 参考

2204_20110823063117.jpg

**

そんな議論いまする必要ないだけではなくてですね。韓国は電力自由化で安いんではなくて、政策料金、つまり国が安く抑えてるんですよ。


従って韓国電力っていうのは2008年以降ずーっと大赤字なんですね。つまり原価割れっていうやつですよ。そういうふうに政策的に抑えてやってるわけで。はっきり言って、市場に任せる自由化の反対を、韓国はやっているんですね。


それを引き合いに電力自由化で、韓国の方が安い。韓国はエネルギー、日本と同じで輸入してますけど。韓国も電力のうちの30%以上原発だし、4割以上が石炭で。これもまぁ安いっていうのもあるんですが。そもそも、その、政策料金体系で、規制で、強引に、市場原理を無視して安くしているので。

そんな韓国を引き合いに、韓国に負けるなとか韓国を見習えとかですね。そんな事を言われると、、、そういうのを絶句ジャパンっていうんですね。そういうふうに思うわけです。


それから再生可能エネルギーの方もですね。まぁさっき申しあげたように。推進派ですらですよ。すぐに代替できない‥つまり、いまやらなきゃいけない事じゃないわけです。


そもそもですね。その再生可能エネルギーの買い取り法案っていうのは震災前に作られていたわけですよね。つまり、震災を想定していないわけですね。

何でそんなものを優先順位を高く‥しかもですね。
最近、岡田幹事長をはじめとして、マニフェスト全滅しちゃったわけですよね。で、マニフェスト全滅して率直にお詫び申しあげると。全滅した、そして率直にお詫び申しあげると、自分たちの政策立案能力は無いんですというのを言ったに等しいんですよ?でもその買い取り法案ってそのマニフェストに載ってたんじゃないんですかねぇ。

つまり我々はもう見直しますっていうマニフェストに載っていたものを、それを信用してくれって言われてもですね、そんなものはできないというふうな事なんです。


で、放射性廃棄物の問題もですね。原発に絡む問題なんですけど。それもいま論ずべき問題ではないんですが。ちょっと放射性廃棄物について、その京都大学の先生と一緒にですね、教えてもらって勉強したのでちょっと申しあげておきますと。
http://000hime.blog74.fc2.com/blog-entry-440.html

中野剛志氏 左翼思想の手段に原発議論を持ち込むな!![後篇]
http://000hime.blog74.fc2.com/blog-entry-439.html

おなじみ中野剛志さんの動画です(・∀・)

■中野剛志氏「TPPで日本が滅ぶ」
http://000hime.blog74.fc2.com/blog-entry-347.html

■中野剛志氏「電力自由化は無能無策の極地」
http://000hime.blog74.fc2.com/blog-entry-429.html

動画を見る時間がなかなか取れない方も多いと思いますので、
ざっと書き起こしです。

お時間がある時にでも読んでみてください(´艸`)

↓↓↓


脱(反)原発に なぜ左翼が多いのか


http://bit.ly/nnM7MS


こんにちは、京都大学の中野剛志と申します。


ま、その放射性廃棄物を捨てる場所が無い、トイレが無いっていう風に言われているんですけども、これはまず、問題として技術的に可能か不可能かっていう問題で言うとですね。実は技術的には可能だと。

地下深く埋設してですね、長期間、何百年何千年てのはおかしいと言われてるんですけど。300メートルのところに埋めてですね、人が入れないようにずっと管理し続けるという事は技術的にも可能だし、コスト的にもですね、可能。すでに今からそのお金を積み立ててる制度は出来ているわけですね。で、処分地を決める手続きの法律も存在しています。


で、もっと言うと、安全性っていう意味では。放射性廃棄物、高レベル放射性廃棄物っていうのは、原子力発電と違って核分裂、核反応を起こしている状態にあるわけではないので、原発よりも安全性の管理っていうのは容易なんですね。核分裂を起こしているものを、安全性を管理することよりも、起こしてないものを地下300メートルに埋めてやっていくっていう意味じゃぁ、原発よりも安全管理は容易だということなんです。

問題は、じゃぁ何でトイレが無いって言われているかというと、ま、ご承知の通り処分地の場所の決定っていうのを、民主的な問題として、そのなかなか決められない。みんなやだやだ言ったりですね、せっかくやってみようかというところが手出してもみんなで叩き潰しちゃうわけですね。だからこれは技術の問題じゃなくて政治の問題、民主主義の問題だということをまずふまえた上で、言い換えると、民主的にうまくやれば不可能ではないと。そういう問題だと。もっと言うと、これはわが国国民1人ひとり - 国民主権ですから - の、問題、我々国民の問題だということなんですよね。


放射性廃棄物の問題っていうのは、ポイントはですね、原発を廃止しようが再生可能エネルギーに移行しようが、もう出ちゃってるものが存在していて。その問題からは、反原発と言おうが再生、自然エネルギーと言おうが誰も逃れられない問題だっていうことなんですね。

じゃあ最初からそういう原発をやるなと、政策をやるなと言ってもいいですけど、言ってもせんない。特に私のようにですね、もぅおしめをしてた時には原発稼動してたような人間がもう多いわけですよね。そういった人たちにとっても、そういう国に生まれちゃったので、もう好き嫌いに関わらず、原発をすべて廃止しようが脱原発しようが何をしようが、この放射性廃棄物の問題について民主的に取り組まなきゃいけないという問題から目を背けられない。

もっと言うと、反原発、脱原発論者も、放射性廃棄物をどうするかっていう問題は自分たちで言ってくれないと問題解決しないんですよ。だから原発やめてもいいけどこの問題だけは逃げられない。


ところが、もしですね、もし反原発論者がその問題から目をそむけて、むしろ放射性廃棄物の処分をできないように運動する理由はですね。

もし原発を廃止するにしても放射性廃棄物の問題は処理しなけきゃいけない。だけどいったんそのための場所が決まっちゃったら、あとはもう民主的に可能だということが判明して、あとは技術的に、例えばもうちょっと深くすればいいとかですね。いったん場所が決まっちゃうと、トイレが無いから原発はおかしいんだという議論そのものが、つまり反原発論の論拠のひとつが崩れちゃうんですね。


したがってこれほんとにたちが悪くって。反原発の人たちは自分たちの論拠が崩れちゃうので、目の前にある問題から目をそむけて。えー‥なんかいろいろ目つきが悪い人とか、下唇出した人がいますよね。ああいった人たちがその、原発はおかしいんだとか何とかおかしいんだとか、いやあげつらってもいいんだけれども。この放射性廃棄物の問題からは逃れらんないぞっていう事はあえて言っておきたいと思います。

さてですね。


今日のこの画像が放映されるのが8月15日っていうことなので。若干それにちなんだですね、それっていうのはその、敗戦した日っていうことなんですけどね。ま、ちょっとその終戦記念日っていう言い方は私、嫌いで。んなものは終戦じゃなくて敗戦したんだし。独立を失ったことなんかに記念なんかしたくないんで。終戦記念日っていう言い方はしません。しませんが、8月15日、ま、日本が負けた日ですが‥に関して言うとですね。どうも、反原発の人たちは、昔からそうなんですけど、ま、いわゆるサヨク的な人たちが多いんですね。


私はずっとですね。原子力発電も核エネルギー、核爆発も核エネルギーということで、被爆国のアレルギーっていうのが何となくあるのかなぁっていうふうに思っていたんですけども。最近、それじゃないなっていうのは何となく思うようになってきました。その理由はですね。じゃ、何でサヨク的な人たちが、あるいはもっと言うと、別にサヨクを自称してなくても戦後日本的な人たちが脱原発っていう議論にすっと乗るのか。


で、今日冒頭からご説明しているように、今回のこれは、原発が震災でも可能かどうかっていう技術論1点に絞られるべき問題で、かつその技術論が解決したらもうこの議論は終わりなのにも関わらず、そういう議論について根拠もまだ分かっていないのにわぁわぁわぁわぁですね。脱原発っていう議論だけがみんな決まっていくっていう、戦後日本の問題っていう事だと思うんです。


で、なぜじゃぁそんなに原発が嫌なのか。核エネルギーのアレルギーではないですね。原発をなぜ推進するかっていうと、これはエネルギー安全保障、国家安全保障、国家の独立の為なんですね。その為にやるわけです。

だからその、今回のような事故の確率、リスクっていうのが、えーこれはリスクの問題ですから完全に消すことはできない。千万分の1とか億万分の1とかにはできるけれども完全に消すことはできない。で、反原発の人たちは完全に消えてないのに何でやるんだって言うんですけれども。


だけど国防っていうものは、我が国の国民のリスクが0じゃなくても、コストをかけてでもやらなきゃいけない事なんです。例えば軍隊がそうですよね。自分たちの国を守るためには、自分たちの国民が命をかけなきゃいけない局面っていうのがある。つまり必ず国防、国家の独立のためにはその為に国民自身が犠牲になるコスト、リスクっていうのは残っちゃう。これが国家安全保障っていうもんなんですね。


従って原発は何でリスクが残っているのにやるんだっていうのは、国家安全保障、国家の独立との引き換えとして必要だということです。従って原発の目的がまず国家安全保障、その国家っていうのがおそらくサヨク的な人、戦後日本の人たちはいやだ。国家の独立を自分たちの手で守るということが理解できないっていう事がひとつある。


もうひとつは。これも国家がらみなんですが。原発を安全に運用するためには。今回の事故の対応もそうですし、普段から規制の問題もそうですが。おそらく、おそらくっていうか明らかに、国家っていうものが全面に出て国家政策としてやる。原発を運用するためには国家が不可欠なんですね。

だから原発の目的も国家の為だし、原発を運用するにも国家の介入、国家権力っていうものが必要なので。要は、原子力発電っていうものにはですね、国家国家国家と。そのサヨク的な人、戦後日本的な人たちが見たくない、嫌いな反国家的な人たちが嫌なものがいっぱい‥原子力っていうものにはまとわりついてるんですね。

従って原発についていろいろ技術的な理由とか彼らは言っているし、それについて技術的に原発を支持する人たちは
工学的、技術的に反論するんですけども。向こうはですね、その、核エネルギーが怖いとか放射能が怖いとかいうことじゃなくて国家が嫌なんで。たぶんその議論って通用しないんですよ。

例えば典型的な例を挙げるとすれば、「安全に管理すれば大丈夫だ」って言っても彼らの言い草っていうのは「いやそんなものは国家は嘘をつくから」とか、「核エネルギーを平和利用する」と言っても、「プルトニウムを平和利用する」と言っても「悪用するかもしれない」とかこういう言い方をするわけですね。


これ要は、国家は悪だと言っている人たちにとっては、国家が何をやろうが何を言おうが信用できない。っていう事なんですね。従ってこの彼らの標的は核エネルギーじゃないんです。核エネルギーとか放射性放射能とかそういう事だったら、それこそ医療で使う放射線だって敵意を示さなければいけないはずなんですね。にも関わらず原子力発電にはこれほど敵意を示しているっていうのは。彼らは反原発じゃなくて反国家なんですね。その事を考える必要があります。


で、これはサヨクに限ったことではないんですね。従って今回の戦争を振り返るっていう趣旨からいくと、ますます日本全体の問題だっていう気がしてきます。

例えば戦争の反省とかいろいろ言われてますが、今回の原発もそうですが、戦争なり原発なり悲劇がおきる。この悲劇を教訓にして反省するっていうことがあるわけですね。


ところがたとえば戦争。戦争で敗戦したと。原爆を2個も落とされたとかですね、この悲劇に対する反省の方法っておおざっぱに言ってほんとは2つあるんですね。

ひとつは二度と戦争に負けないような強い軍隊を持ちましょうっていう解決策ですね。

ところがもうひとつは、ほんとは解決策にはなってないんですけど、そもそも武力自体を放棄してしまえと。国防っていうこと自体をやめてしまえばいいんだっていうこういう議論っていうのがあって。

どちらかというとこの後者の方が、強かれ弱かれ、多かれ少なかれ傾いてきたということですね。

だけど、今となってはその武力を放棄するっていう事が非現実的であり欺瞞(ぎまん,あざむくこと)であるっていうことはもぅほぼ明らかなんですね。

ところが原発の問題も同じなんですよ。原発もですね。今回の事故みたいなことがあったら解決策は2つ。

ひとつは今回のようなことを起こさないような強力な原発を作りましょう。安全な原発を作りましょう。それが技術的に可能か否かという議論をしましょう。だめだったら諦めましょう。だけどできるんだったらやりましょうっていう議論が、今回の事故への反省として起きるべきなのに、

実際に起きた事が「原発そのものをやめろ」これは武力放棄と同じ理論なんですね。

従って脱原発、反原発、減原発の人たちは武力放棄のその平和主義のお花畑と同じくらいいろんなとこで論理が破綻してるんですが。それがすごく、似ている。


だけどこれはサヨクがどうのっていう話じゃないんですよ。現に今回の原発で脱原発のほうにわぁっと世論が流れましたので、これは日本人そのものの問題なんですね。


いくつかそういう類似な証拠があるわけです。今回の原発の問題に対して「安全神話を言っていたのに政府に騙された」「東電に騙された」、安全神話が崩れたっていう言い方がずっとされてるんですね。

ほんとに安全神話なんてあってほんとに信じてたんだったら、何で人の少ないところに原発があるんだとか、何でじゃあ福島県は避難訓練やってたんだってことがあるんですが、そんなことはもうそっちのけで「安全神話に騙された」


これはですね、戦争を反省するっていう時の論理と同じなんですね。「われわれ善良な国民、善良な市民は知らなかった」当時の軍部や国家の指導者、東条ひできがどうのとかそういった人たち、おろかで悪い国家の指導者が善良な市民を騙して戦争に突入させてあんな悲劇をやった、国民には責任がない、俺たちは騙されてたんだ、国家が悪い軍部が悪いっていう議論が戦後ずーっとやってたわけですね。官僚が悪いとかですね。


それと同じなんですよ。

安全神話で、われわれは原発が安全で大丈夫だって騙されてたんだと。だから責任追及だと。ま、こういう議論です。

で、第二次世界大戦がですね。もちろん軍部が悪いとかですね、指導者があほだとも私も思いますが、だけどもアメリカに突き付けられたハルノートが典型的なように、当時合法的だった、国際法上合法的な領土も放棄せよっていうふうに責められたら、当時の常識としてもう戦争しか無いわけです。そういう風にアメリカってまぁ追い込んできたわけですよ。別にだからアメリカがどうのって言うつもりもないんですけど、要は、軍部がどうのとか当時の官僚がどうのっていう矮小(わいしょう,こじんまりしていること)の話じゃ無いわけですね。

今回の震災もそうですよ。

今回のこれだけの震災っていうのは、チェルノブイリみたいに東電がオペレーションでいい加減なことをやってたならまだしも、少なくとも外からの震災っていうことで、そのあとの対応とかが、当時の軍部とか当時の官僚みたいにうまくいかなかったこと、まずかったことは多々あれどもですね、それを全部ですね、政府が悪いとか東電が悪いと帰することはできないはずなんですが、

そういったこと、そういった議論が非常に流行ると。だけどもずーっとそういうその、軍部とか官僚とかに対する責任者探しと同じことをやってるんですが。

まさに菅首相がそれの象徴なわけですよ。それでその、薬害エイズの事件等と絡みながら保安院は信用できないとか言って中を叩くという事になっていると。

私はそういう議論っていうのはその、全部が間違ってるとは言いませんけれども、まぁその精神の問題として非常に不健全だなぁと思います。

最後にですね。そういったその、戦後のですね、欺瞞、戦後の戦争の反省っていう事についての欺瞞は戦後すぐにですね、小林秀雄が有名なせりふを吐きました。何かっていうと、戦争について語る座談会みたいなもので、みんな戦争の反省を口走るわけですね。そうすると小林秀雄っていうのはやっぱり男で、逆ギレするわけですよ。でこう言い放ったんですね。

** 参考

小林秀雄(批評家)

2201_20110822114114.jpg
http://bit.ly/rdKIrc(%E6%89%B9%E8%A9%95%E5%AE%B6)


**

「君達は利口だから、好きなだけたーんと反省なさるが良い。僕はばかだから反省なんぞはしない」

ってこう言い放ってみんなからバッシングされるんですよ。でも私はその気持ちがよく分かりますね。そういう後知恵でこざかしい事をわぁわぁわぁわか言うって話じゃないだろっていうのを、小林 秀雄は言いたかったわけですが。


まさに今、原発を巡っておきてることはそのですね、小林 秀雄が逆ギレしたようなシチュエーションに非常に近いです。従って私ははっきり言います。


「僕はばかなので脱原発なんぞはしない」
http://000hime.blog74.fc2.com/blog-entry-439.html
http://www.asyura2.com/16/genpatu47/msg/781.html#c1

[原発・フッ素47] 反原発派は知恵遅れ _ 原発再稼動で温室効果ガスが減少 再生可能エネルギーの限界 中川隆
2. 中川隆[7786] koaQ7Jey 2017年4月16日 07:49:53 : b5JdkWvGxs : DbsSfawrpEw[8276]

経済コラムマガジン 2015/4/13(840号)


反・脱原発派の陥落は近い?


•発送電分離とクズ電力

今週は、最近のテレビ番組から筆者が気になったことを二つ取上げる。まず先週号で言及した元通産(経済産業省)官僚の古賀茂明氏が報道ステーション(テレビ朝日系)で不規則言動を行ったところを偶然にも視た。筆者の認識では、この番組は思想的な偏向が酷く、また経済に関してもガセ・デマ情報を平気で流す(星とかいう朝日新聞出身の解説委員が特に酷い・・あまりにも目に余るので本誌も(09/8/10(第581号)「総選挙の国債増発」や12/4/30(第707号)「続・増税論議と文芸春秋」)で取上げたことがある)。したがっていい加減な番組と思って普段はほとんど視ないが、たまに視るとこのような場面に出くわす。


古賀茂明氏は反・脱原発の論客としてこの番組に出ていたようである。しかし古賀氏は経済産業省の改革派の一人と見られ、今週はこちらの方を取上げる。昔のことであるが、筆者は文芸春秋の「霞ヶ関コンフィデンシャル」というコーナ(官僚の人事がテーマ)で、経済産業省で改革派が一掃されたという話を読んだ。どうやら電力がらみ(おそらく発送電分離を巡って)の争いごとが省内であったようである。

当時、発送電分離を主張する改革派が負けたという話である。筆者は、古賀氏もその改革派の一人だったと見ている。改革派は、電力会社の圧力に屈したと感じたのであろう。たしかに圧力みたいなものがあっても不思議はないと筆者も思っている。


ただ発送電分離が、国民や国民経済にとって本当に正しい選択なのか判断は難しい。むしろ日本においては電力会社の主張の方が正しいのかもしれない。つまらない改革派の経済学者やエコノミストは、発送電分離によって競争が激しくなり消費者にメリットがあると主張する。しかし彼等は電気に関してほとんど素人である。

今日、政府の電力システム改革専門委員会に改革派の学者が集り、発送電分離政策を推進している。対して電力会社は、福島の原発事故で体力を失い、発送電分離の動きに抵抗を示さなくなった。しかし後ほど述べるが、筆者には、発送電分離を容認するようになった電力会社の態度の方がむしろ無気味である。


日本で送電されている電気は品質(送電量、電圧、周波数など)が安定している。対して米国などでは度々停電が起ることが示しているように不安定である(先日もワシントンで原因不明の停電が起った)。ところが先週号で述べたように古賀茂明氏などは「日本の電気は過剰品質」と妄言を吐いている。

しかし今日の日本の国民生活や産業は電気が安定供給されることで成立っている。例えばメッキ作業などは何十時間も掛け作業を行う。途中で停電が起れば、最初からやり直しになる。何日も掛けて行うスーパーコンピュータによる計算も同様である。手術などの医療行為中の停電は決定的なダメージを与える。


このように日本は、停電や電圧の変動などはないという前提でほぼ全てが動いている。たしかに今日の日本では、大きな地震や台風などの災害時を除けば停電はない(昔は停電がよくあった)。発電と送電が一つの電力会社で行っていることでこれが可能になっていると筆者は見ている。

古賀氏は「高品質の電力が必要なら停電などに備えたバックアップ体制を各自で用意しろ」と言っている。このまま発送電分離が実施されれば電力の安定供給に問題が生じる可能性が高くなると古賀氏も感じているのであろう。ところで電力会社によほどの瑕疵や過失がない限り、今日、停電が起っても損害賠償は免責されている。しかし発送電分離後、頻繁に停電などによって損害が生じるようになった場合、一体損害賠償はどうなるのか不明である。


改革派は発送電分離で電気料金が安くなると言っている。しかし安くなるのは国全体ではなく、効率的に送電が可能な大都市(もっとはっきり言えば首都圏だけ)などに限られる。これも日本の改革運動で飛出す例のインチキロジックの一つである。また彼等は発送電分離によって米国などの電気代は安いといっている。しかし米国の電気代が安いのは、タダ同然の天然ガスで主に発電を行っているからである。

電力会社が発送電分離に対抗しなくなった理由の一つは、品質が不安定なクズ電力(太陽光発電や風力発電)が増えているからではないかと筆者は推測する。クズ電力が量的に少なかったからこれまでは捨てれば良かったが、今日、捨て切れないほどに発電量が増えているのではと筆者は見ている。つまり今後、電力会社は発電に責任を持つが、送電には責任は持てないし保証もできないという話になる可能性がある。したがって電気代が高くなり、電気の品質も劣化するのなら、日本企業が海外に逃げ出したくなるのも当たり前の話である。

•反・脱原発派に「変身」

4月5日の「そこまで言って委員会(この回からたかじんの冠がなくなった)」(読売テレビ)が面白かった。特に原発を巡って、反・脱原発の武田邦彦氏(中部大学教授)と反・反原発の池田信夫氏(アゴラ研究所代表)の対決が見物であった。この企画は以前にも組まれたが、武田氏が直前にキャンセルし実現しなかった。その時には竹田恒泰氏が、急遽、武田氏の代打となって池田氏と対決した。今回、ついに武田対池田の対決が実現したのである。

結果は、池田氏の完勝、武田氏の完全な敗北であった。このような一方的な論争も珍しい。池田氏は、武田氏が書いた「2015年3月31日までに日本は放射能汚染で住めなくなる」という文章を持出し攻めた(責めた)。武田氏は「当時、皆が持って来るデータを基に計算するとそうなった」と反論にもならない話で防戦していた。

とにかく武田氏は、池田氏の攻撃に反論らしい反論を全くできなかった。途中で「国民の75%が不安に思っている原発は廃止すべき」と主張した。これに対して「不安を煽ったのはあなた方でしょう」と池田氏に叩きのめされた後は何も言えなくなった。筆者の想像では、武田氏は自分達が「嘘」をついていることを自覚しているのである。


そもそも武田邦彦氏は、反・脱原発派ではなかった。11/4/4(第656号)「本当に重大な事は何か」で述べたように、武田氏は元原子力安全委員会(内閣府)の専門委員であった。福島原発事故の当初、武田氏は委員会が「何がなんでも原発を推進する委員」と「何がなんでも反対する委員」と極端なメンバーで構成され、あまり建設的な議論がなされなかったとまともなことを言っていた。

つまり氏は原発には中立的と見られるが、事故の当初は「福島1〜4号機は廃炉にして、その敷地に安全な最新式の原発を建設すれば良い」とまで言っていた。実にまともな事を言っていたのである。筆者は、氏は中立というよりむしろ原発推進派と見ていた。


その武田氏がある日を境に、カフカのごとく反・脱原発派に「変身」したのである。これには筆者も驚いた。筆者は、日本のメディアの方向決定が関係していると思っている。

原発事故の当初は、「微弱な放射線はむしろ健康に良い」とか「原発周辺の住民は避難する必要はない」と言った今日では暴言と捉えられるような話が自由に出ていた(筆者はこれらこそ本当の話と思っている)。ところがある日から日本の大半のメディア・マスコミは、脱原発(反原発までに行かないのが微妙)に舵を切ったのである。既にメディアに登場し始めていた武田邦彦氏としては、この大きな流れに逆らうことはできなくなったと筆者は勝手に理解している。その後、武田氏がバラエティ番組にもよく登場しているところを見ると、氏にとっては方向転換が成功だったと見られる(マスコミ関係者からアドバイスがあったのではと筆者は見ている)。


ただ「そこまで言って委員会」に今回出演し池田信夫氏と対決すれば、叩きのめされることは武田氏も分かっていたはずである。敢てこの番組に出たのは、後ろめたさと一種の贖罪意識があったのではと、これも筆者は勝手に思っている。

実際、避難地区よりもっと放射線量が大きい原発で作業員は毎日働いている。作業員は特別ではなく、普通の人々である。作業員は防護服を着ていると反論があるかもしれないが、防護服は放射性物質のチリから身を護るものであり(内部被爆の防止)、放射線はシャットアウトできない。放射線をシャットアウトするには鉛製の防護服が必要である。


また宇宙飛行士は毎日1ミリシーベルトもの放射線を浴びている。これは日本安全基準(年間1ミリシーベルト・・福島の除染の目標値でもある)の実に365倍である。また今日、人類の火星への飛行計画が話題になっている。しかし長旅になるが放射線による健康被害を心配する話は全く聞かない。

それどころか14/5/19(第797号)「「美味しんぼ」騒動」他で述べたように、むしろ大量の放射線を浴びたはずの宇宙飛行士の方が、一般人より健康であるというラッキー博士の研究報告がある。これはホルミシス効果というものである。ところが反原発派はこのホルミシス効果という言葉に対し異常な反応を示し、反発ではなく徹底的な無視を決め込む。反原発派は自分達の非科学性を隠したいのであろう。それにしても古賀茂明氏の番組降板劇や武田邦彦氏の議論での完全敗北を見ていると、反・脱原発派の陥落は近いのではと筆者は感じる。


他の国で評価がはっきりしたにもかかわらず、日本では観念論者が強引に反対の事を押し進めようとする。結果はもちろん不幸なことになる。例えば欧米で移民を受入れたことで問題が発生しているにもかかわらず、日本には移民が必要と妄言を吐いている観念論者がいる。来週は、今週の続きとして、このような不様なことを取上げる。
http://www.adpweb.com/eco/eco840.html
http://www.asyura2.com/16/genpatu47/msg/781.html#c2

[原発・フッ素47] 反原発派は知恵遅れ _ 原発再稼動で温室効果ガスが減少 再生可能エネルギーの限界 中川隆
3. 中川隆[7787] koaQ7Jey 2017年4月16日 07:53:07 : b5JdkWvGxs : DbsSfawrpEw[8277]

世界のニュース トトメス5世から
http://thutmose.blog.jp/archives/62021694.html


菅、枝野、北沢が妨害しなければ原発事故は起きなかった

「炉心溶融はない」「放射能は漏れていない」「健康被害はない」と大嘘を付いていた枝野幸男
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引用:http://blogs.c.yimg.jp/res/blog-b5-6d/level4level4/folder/172944/49/29051549/img_0


福島原発の事故で、菅首相の指示で「炉心溶融」を2ヶ月間隠していたのが分かりました。

菅内閣は当時他にも、放射能漏れや、健康被害の可能性も隠していました


あの日責任者達は何をしていたのか

6月16日、2011年の福島原発事故でメルトダウン、(炉心溶融)の公表が2ヶ月遅れた問題で、調査報告書が出されました。

東京電力の依頼で調べていた弁護士らの第三者委員会が、2016年3月から調査していました。

福島第一原発は2011年3月11日の津波で冷却水用発電機が海水を被り、全電源停止に至りました。

翌3月12日には建屋が次々に、充満した水素で爆発し、冷却水の水位が下がって燃料棒が剥き出しになりました。

燃料棒は冷却水が循環する事で冷やされているが、水から露出すると高温になり、やがて自らの熱で溶け出します。

燃料棒が溶けて下に落ちる状態がメルトダウン(炉心溶融)で、原発事故で最も深刻な事態とされています。


福島原発では隔壁で仕切られた原子炉の中に溶けた燃料棒が溜まっていると考えられるが、チェルノブイリでは外部に放出されました。

この炉心溶融が事故当時秘密にされ、事故から2ヵ月後にようやく明らかにされました。

事故直後は放射能漏れも否定していて、枝野官房長官が「人体には影響が無い」と何度も強調していたのが印象的でした。


後に枝野官房長官は人体に影響があるのを知っていたと認めたが「ただちに影響がないとはとは言っていない」という名言を残しました。

枝野は炉心溶融も知っていたし、放射能漏れも知っていたが、同じような論法で言い逃れていました。

「炉心溶融は起きていない」と記者会見で何回も断言していたが、それも嘘でした。

「炉心溶融」を禁止したのは菅直人

調査報告書では事故3日後の3月14日に、記者会見中だった武藤副社長に広報担当者からメモが渡されていました。

メモには「炉心溶融」という言葉を使わないように、清水正孝社長からの手書きの指示が書かれていました。

清水社長から副社長には、炉心溶融を使ってはならないという、官邸からの指示があったと説明していました。


東京電力は「明確な定義がなく誤解を与えるので炉心溶融を使わなかった」という嘘の説明をしていました。

事故後の一部報道によると、東電の清水社長は地震の30分後に自衛隊幹部に電話を掛け「メルトダウンは避けられない」と助けを求めたとされています。

自衛隊の動きは素早く、必要な機材を大型ヘリで運んだり人員を投入する準備を始めました。


3月11日に清水社長は名古屋に居たので、東京で指示を出す為、自衛隊機に乗せて羽田に向いました。

だが枝野官房長官と北沢防衛長官の2人が「無断で自衛隊が動いているのは軍事クーデターだ」と大騒ぎして、着陸数分前に名古屋に引き返させました。

清水社長は翌日未明に陸路で東京に戻ったが、この間に貴重な10時間ほどが失われました。


枝野、北沢、菅の3人は自衛隊が東京電力と電話する事を禁止し、今後一切自衛隊は関わるなと命令しました。

自衛隊の支援を絶たれた東京電力は大混乱に陥ったが、冷却の為に海水を入れることと、水素ガスの放出が必要と判断しました。

燃料棒は水から出ると水素を放出するので、建屋に水素が充満しているのは、燃料棒が露出していると考えられました。


菅、枝野、北沢は「現場から逃げ出そうとした東電を止めた」などと大嘘をついて、全てを吉田所長のせいにした
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引用:http://livedoor.blogimg.jp/kimito39/imgs/9/4/94c1b802.jpg

「なんだ、馬鹿野郎」

ここで菅直人首相は歴史に残る名言「ボクは原発の事は良く分かっている」と口にし、水素放出と海水注入の許可を出しませんでした。

菅首相は翌3月12日朝、ヘリコプターで原発を視察する為に、水素放出を禁じたといわれています。

首相の視察が終わった後でようやく水素放出が許可されたが、この頃には圧力が上がりすぎて弁が動かず、放出が不可能になっていました。


結局建屋は次々に爆発し、福島原発の吉田所長と東電本社の珍問答が延々と続けられます。

所長は海水注入の許可を求めたが東電本社は禁止し、禁止した理由は菅首相が「海水を入れたら爆発する」と主張したからとされている。

しかも菅首相は「自分が海水注入や水素放出を指示した事にしろ」と言って東電に責任をなすりつけ、「東電が東電が」と騒いでいました。


自分が東電の清水社長を名古屋に追い返しておきながら「東電の社長は連絡もしない」などと言っていました。

自衛隊についても自分が活動を禁止したのに、「自衛隊の動きが遅い」などいかにも自分が自衛隊を急がせているように装っていた。

アメリカ軍についても、核処理部隊の協力申し出が初日に来ていたのに「米軍は地震を利用して日本占領を目論んでいる」などと言っていました。


吉田所長は東電社長や菅首相の命令を無視して、無断で海水注入し、本当の核爆発だけは防止しました。

海水注入の是非を検討する会議では所長が菅首相に「なんだ、馬鹿野郎」と言ったとされています。

嘘だらけの閣僚達

その後も菅首相は「東電の吉田所長は原発を放棄して逃げ出そうとしたが、私が止めました」などと嘘八百を繰り返しました。

菅、枝野、北沢、海江田らの閣僚は次から次に事故対策を妨害し、例えば消防には最初福島入りを禁止していました。

だが次の瞬間には直ぐに現場入りするよう指示し、現場に入ったら「指示があるまで何もするな」といって活動を禁止しました。


だがそう言った次の瞬間には「なぜ早く原子炉を冷やさないんだ、さっさとやれ」と罵倒したりもしました。

要するに「自分のお陰で危機から救われた」という演出をしたいがために、テレビの前で自分が指示したかったのでした。

こういった行動が現場を大混乱に落しいれ、例えば菅首相は「ヘリで原子炉に水を撒け」と指示しました。


空から少量の水を撒いても、水は空中に拡散するだけで、作業を妨害しただけでした。

だが次の瞬間には、「消防車で原子炉に水を入れろ」とまるで自分が思いついたように指示していた。

果たして菅、枝野、北沢そして海江田らが閣僚でなかったら、原発は爆破しなかったのか、推測はできるが仮定にすぎない。


だがもし森首相や小泉首相や安倍首相であったら、大型ヘリで発電機やポンプを原発に輸送し、自衛隊は原子炉を冷却しようとしたでしょう。

最初から水素は放出され海水注入が行われたら、おそらく単なる放射能漏れで済んだでしょう。

その上でやっぱり水素が充満して爆発した可能性もあるが、その可能性はかなり低い。

なにより緊急時に最善を尽くさず、作業の妨害ばかりしていた閣僚らが、未だに罪を裁かれていないのは納得出来ないのではないか。

http://www.asyura2.com/16/genpatu47/msg/781.html#c3

[原発・フッ素47] 反原発派は知恵遅れ _ 原発再稼動で温室効果ガスが減少 再生可能エネルギーの限界 中川隆
4. 中川隆[7788] koaQ7Jey 2017年4月16日 07:57:27 : b5JdkWvGxs : DbsSfawrpEw[8278]

2016年09月28日
電気自動車は原子力自動車になる 充電に原発50基が必要
http://www.thutmosev.com/archives/66197731.html

台数が少なければ太陽光で足りるが、台数が増えれば新たな発電所が必要になる
引用:http://b-l.jp/manager_OLD_MT_blog_image_html/2013-05-06%2015.03.18.jpg


EV転換には原発50基が必要

世界初のハイブリッド車プリウスが発売されてから20年が経ったが、ようやく時代は次に進むかも知れない。

充電が可能なPHV(プラグインハイブリッド)やEV(電気自動車)が続々と発表されようとしている。

PHVやEVは充電してから走り出すので無公害だが、発電所で発電する必要がある。



自動車が必要とする莫大な熱量を、太陽光や風力、地熱など無公害発電で生み出すのは不可能だと知る必要がある。

電力を100%自然エネルギーで発電できるとしても、(かなり無理があるが)さらに自動車向けの電力を発電は期待出来ない。

欧州環境省EEAの報告では、欧州の自動車の80%がEVになると、150ギガワットの発電能力が必要になる。


1GWは100万キロワットなので、原発150基分の発電量に相当します。

EUの人口は約7.4億人で日本の6倍なので、単純に人口比で割ると、日本では25GW=2500万キロワットが必要になります。

100万KWの原発25基分だが、日本の平均的な原発の稼働率は50%なので、自動車の80%をEVに転換するには50基の原発が必要になる。


基礎電力としても原発は必要なので、70基前後の原発を稼動させる必要が生じます。

原発が環境に優しいのかは議論があるが、電気自動車=原子力自動車だと言って良いと思います。

原発以外でEVの電力を発電する方法は、天然ガス、石油、石炭などが考えられるが、どれもCO2などの公害をゼロにはできません。

EVに必要な発電量とは

それぞれの方式のエネルギー変換効率は次のようになっています。

電気自動車のエネルギー効率は80%と役所は説明しているが、それは電気で走行するエネルギー効率のことです。

実際には天然ガスや石炭から発電する際に発電ロスが出るので、40%を超える事はない。


@ガソリン自動車 約15%
A水素自動車 約30%
B市販ハイブリッド 約30%
CプラグインHV 約35%
D電気自動車 約40%


「アクア」など従来型ハイブリッドと電気自動車の発電効率は、10%しか違わず、天然ガス等で発電すると、公害が出ないわけではない。

それほど多くの電力は必要ないという意見も存在し、例えば日本の乗用車は約7000万台、1台当たりの走行距離は約8,700kmでした。

EVの電力効率は6km/kWhなどの数字を用いて計算すると、EVの消費エネルギーは約87GWhで日本の消費電力の約10%になる。


EUの計算ではEVに150基もの原発が必要で、日本の学者の研究では、新たな発電は不要とはどういう事だろうか。

両者の言い分を比較すると、日本の学者は「充電のために必要な発電量」ではなく、年間消費電力で比較している。

例えばある連休前の金曜日、休日に使用するため7000万台の電気自動車が一斉に充電したらどうなるのか。

一斉に充電したらどうなるか

「そんな事は起こらない」というのは簡単だが、同時に1000万台や2000万台が充電されるのはありえる。

しかも急速充電では一定時間の電力消費が大きいので、急速充電が普及するほど電力負担は大きくなる。

年間の消費電力の10%だから、既存の発電所で足りる事にはならないでしょう。


HV車では一斉に給油しても何も起きないが、EVではみんなが一斉に充電すると、日本の電力システムが壊れかねません。

家庭用急速充電の消費電力は3,000Wなので、1000万台が同時に充電したら3000万KWになります。

消費電力が少なくても、充電時に必要な発電量は10%では済まないのが分かります。


日本全体の発電能力は約22600万kWで原発を抜くと約17500万kWになるそうです。

1000万台が同時に充電すると3000万kW、2000万台なら6000万kWが必要になり、エアコンのように瞬間的に消費電力が急上昇すると考えられます。

それが真夏のエアコン使用時と重なったら・・・と電力会社は想定するので、現在の3割増しの6000万kW以上は発電能力を強化する必要があります。


それだけの電力を必要な時に確保できるのは火力か原発しかなく、火力はCO2の関係でむしろ減らす必要があります。
http://www.thutmosev.com/archives/66197731.html
http://www.asyura2.com/16/genpatu47/msg/781.html#c4

[原発・フッ素47] 反原発派は知恵遅れ _ 原発再稼動で温室効果ガスが減少 再生可能エネルギーの限界 中川隆
5. 中川隆[7789] koaQ7Jey 2017年4月16日 07:59:15 : b5JdkWvGxs : DbsSfawrpEw[8279]

2017年02月26日
日本の電力消費をすべて太陽光にするとどうなるか
http://www.thutmosev.com/archives/69589222.html

ピーク時の最大消費電力に対応できないといけない
引用:http://www.nikkei.com/content/pic/20160531/96958A9F889DE2E0E3E2EAE5E4E2E3E2E2E7E0E2E3E4E2E2E2E2E2E2-DSXZZO0210882010052016000000-PN1-10.jpg

太陽光ブームが去った理由

太陽光発電のブームは去って、政府の強制買い取り価格が下げられたのもあり、新規設置は下火になっています。

政府はこれ以上太陽光発電が増えると困るとして買い取り価格を下げ、新たな認可を制限しています。

政府が買い取り制限した理由は一つには太陽光発電の価格が他の発電方法よりも高すぎるからで、差額は電気料金に転嫁されています。

   


もう一つは物理的に、過大な太陽光発電の送電によって電力設備が破損する可能性が生じる為です。

日本は島国で県境を山に隔てられているので、それぞれの電力会社や地域ごとに、独立して発電してきました。

柏崎原発の電気を東京に送電するなど例外はあるものの、外部から電力供給させる仕組みになっていません。


そこで電力買い取り制度を始めるのに、大手電力会社が費用を負担して送電設備を建設したが、考えてみればおかしな事です。

各家庭やメガソーラーが勝手に発電しておいて、送電線や変電施設などは買い取る側が全額負担する事に不満が高まった。

大手電力は2015年ごろから「買い取り拒否」するようになり、理由は送電網が破損する恐れがあるからでした。


発電した電気を送電する設備は本来、発電企業が負担すべきものですが、この費用も大手電力の電気料金に加算されています。

3.11後に東京で計画停電があったとき「他の地域から送電してもらえば良い」という議論があったが、これも設備が不十分なので困難でした。

日本中の送電網全てを、互いに送電したり無制限に太陽光電力を買い取れるようにするには、買い取り費用や発電設備を含めて、数十年間で日本のGDPに匹敵する費用がかかると言われています。

日本の電力すべてを太陽光にしたら

太陽光発電のコストがどうかという以外に、送電設備の膨大なコストが掛かるので、太陽光や風力が増えすぎたら政府は困るのでした。

だが仮にこうした設備や制度問題が解決したと仮定して、それでは日本の電力全てを太陽光発電でまかなうとどうなるでしょうか。

やはり3.11後にこうした議論がありましたが、ソーラーパネルを設置する平地が足りないとか、現実の壁にあたりました。


『日本の電力を全て賄うソーラーパネルの大きさは?』(太陽光発電は損か?得か?元が取れるか?)というブログで詳細な計算をし、必要なパネルの面積を導き出しているのを見つけました。

計算は複雑かつ長いので手短に説明すると、日本の年間電力消費量は約1兆kwhとし、この発電量を得られるソーラーパネルの面積を求めている。

計算結果は7,400平方kmで熊本県の面積7,405平方kmにほぼ等しかったので、熊本県を廃止して平らにしてソーラー発電すれば、日本の電力全てが賄えそうな気がします。


だが原発や火力なら確かに約1兆kwhを発電すると年間発電量に足りますが、太陽光発電は出力調整できないという欠点があります。

東京で消費電力が最大になるのは真夏の最高気温がピークの日の午後2時頃で、なぜか甲子園で高校野球をやっていると決まっています。

つまり年間トータルや一日の総発電量ではなく、「その瞬間」ごとに必要電力を供給し続ける必要があります。


真夏の一日の最大消費電力は6000kwhで、気温が20度を切ると消費電力も3000kwh以下に低下していきます。

暑い日は太陽光の発電量も増加しますが、必要な分を必ず確保できるという確実性がありません。

そして北海道は夏より冬の冷房期の消費電力が多いが、北海道では冬季は太陽光発電ができません。


発電できない日は電気を使わない生活にするなら問題ない
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電力消費にあわせた発電ができない

このようにピーク時の消費電力を考えると、年間消費電力を太陽光で発電しても、それでは全然足りないのが分かります。

それに日が暮れると太陽光は発電しなくなるが、人間は夜間も電力を消費しています。

仮にソーラーパネルを熊本県の10倍に増やしてもピーク電力には足りない可能性があり、天気に関係なく発電量を確保できる発電所も必要になります。


地球温暖化で火力発電所は今後増設どころか閉鎖せざるを得ないので、発電量増加が期待できるのは風力と原発だけという事になります。

風力は風任せという点で太陽光と変わらないので、仮に年間発電量を太陽光で発電しても、同じ規模の火力や原発が必要になります。

台風とか雪とか梅雨では日本中が同時に曇るので、太陽光の発電量が著しく低下した時にも備えておく必要があります。


というわけで日本の消費電力全てを太陽光で発電できても、やっぱり太陽光以外の同じ規模の発電所が必要になります。

曇りの日は電気を一切使わないなら良いですが、現代人は天気が変わっても生活スタイルを変えようとしません。

電気を溜めておければ良いのだが、電気自動車でも200キロ程度走るのが精一杯であり、曇りの日の一日分の日本の消費電力を溜める電池は、できそうもありません。


太陽光の発電量をいくら増やしても、それで電力全ては賄えないのでした。
http://www.thutmosev.com/archives/69589222.html
http://www.asyura2.com/16/genpatu47/msg/781.html#c5

[原発・フッ素47] 反原発派は知恵遅れ _ 原発再稼動で温室効果ガスが減少 再生可能エネルギーの限界 中川隆
6. 中川隆[7790] koaQ7Jey 2017年4月16日 08:01:04 : b5JdkWvGxs : DbsSfawrpEw[8280]

2017年04月03日
今後の太陽光投資はどうなる ブーム去り買取価格引下げ
http://www.thutmosev.com/archives/70288184.html

買取価格は下がるばかり
引用:http://taiyoukou-navi.info/img/clipimage_81.jpg


固定買い取り価格の引き下げ

最近は下火になったが一頃「太陽光投資」がブームになり、住宅の屋根にソーラーパネルを張るのが流行しました。

さらに空き地にソーラーパネルを設置してメガソーラーならぬプチソーラー発電をする人が多かった。

発電した電気は大手電力会社が固定価格で買い取り、国が買い取り価格を決めて強制的に買い取らせていました。

        

その結果太陽光発電のコストが電気料金に上乗せされ批判を受けるのだが、売電した人は濡れ手に粟の利益を手にしました。

固定買い取り価格は最初が最も高く、徐々に下げられていったので、最初に参入した人が最大の利益を挙げて、後から参加した人はそれほどでもなかった。

2012年7月1日に固定価格買取制度が始まった時、買い取り価格は42円または43円だったのが、2017年4月からは21円または28円(10kW未満)に引き下げられる。


将来的には経済産業省は18円に下げると発表していて、事業用買い取り価格はその後はもっと下げるでしょう。

小規模発電所と家庭用ソーラーは、大規模ソーラーより高価格が維持されるが、当初の半額以下の20円/kWh程度まで下がるのは避けられない。

2012年ごろに屋根や空き地にソーラーパネルを設置した人は、20年間買い取り価格が保証され、およそ8年で初期投資を回収し、後は利益を受け取るだけになる。


初期投資を8年間回収できないのはハイリスクに思えるが、実際には発電開始してすぐに転売すると、投資した資金の1.5倍程度で売れるそうです。

ずっと自分で発電して利益を得てもいいし、適当なところで転売して現金に換金するのも自由なのです。

買取価格が36円/kWhから21円/kWhに下がると初期投資を回収するまでの期間が8年間から14年に延び、利益を受け取れるのは6年間になります。

太陽光発電に支払う費用

買取価格がもっと下がると年間の表面利回りは10%程度になり、リスクに対して割りに合わなくなります。

買取価格が引き下げられた理由は電気料金への負担転嫁が年間2兆円、1世帯当たり年間9000円にも達するからで、このまま続けたら2万円や3万円になってしまう。

政府は再生エネルギー買取の年間総額を4兆円に抑える方針なので、既に目標の半分の買取を行っている事になる。


政府は再生エネルギーが総電力に占める比率は最大22%としいて、2016年の自然エネルギー発電実績は15%から20%未満だったと見られている。

自然エネルギーには水力発電が含まれるので、「再生エネルギー」よりも7.5%程度高い数字になるとされています。

という事は2016年の再生エネルギー発電は総発電量の10%程度であり、政府が掲げる20%以上の半分という事になります。


すると再生エネルギー発電が20%になると、買取総額は4兆円で、1世帯当たり年間2万円程度の負担になります。

原発事故前の2010年の世帯平均電気料金は月約8500円で年間10万2,000円、2015年には月約9400円で年間11万2800円でした。

年10万円だった電気料金が再生可能エネルギーの負担で2万円増えて12万円になり、かなりの不満が出てくるでしょう。

今後の実利回りは5%程度か

税金で買い取れば良いという意見もあるが、結局は同じことであり、しかも電気を節約する人ほど損をする事になる。

過去に事業認可を得ていた場合も、実態が無いと見なされて、新制度になって大量取り消しされたと見られている。

買取価格が高いうちに認可だけ受けて権利を転売しようとする事業者が多く、既に認可した発電量だけ、稼動すれば政府の目標を達成するとも言われている。


政府は太陽光発電になるべく参入させないようにして抑える政策を鮮明にしていて、もし超過すればそれだけ家庭負担が増加してしまう。

市場原理と乖離した買取価格で買い取って、電気料金の値上げとして消費者に押し付ける方法は、理解を得られそうに無い。

太陽光発電には初期投資以外に毎年のランニングコストや税金も掛かるので、机上の表面利回りの半分程度の利益しか出ません。


すると年間の実利回りは今後は5%前後のような、平凡な数値に収束していくと考えられます。

わらしべ長者のように太陽光発電で資産が増えていく時代は、終わったと言えるでしょう。
http://www.thutmosev.com/archives/70288184.html

http://www.asyura2.com/16/genpatu47/msg/781.html#c6

[原発・フッ素47] 反原発派は知恵遅れ _ 原発再稼動で温室効果ガスが減少 再生可能エネルギーの限界 中川隆
7. 中川隆[7791] koaQ7Jey 2017年4月16日 08:02:12 : b5JdkWvGxs : DbsSfawrpEw[8281]

2017年01月26日
米太陽光バブル崩壊、トランプで補助金打ち切りか

メガソーラーは補助金でできていて、業者はパネルの代金しか負担していない
引用:http://mysuperpost.com/wp-content/uploads/2014/02/Worlds-Largest-Solar-Power-Plant-California_02.jpg


トランプは環境政策転換

トランプ米新大統領はエネルギー政策の大幅な転換を実施する方針で、過剰な環境対策も撤廃するとしている。

アメリカではオバマ大統領のエネルギー政策によって、太陽光や風力発電など、自然エネルギーが急拡大してきた。

低コスト化が急速に進み、太陽光や風力発電のコストが原発や火力を下回ったという報道もされた。



だが実際にはオバマ政権が多額の補助金を交付したことで「見かけのコスト」が減少しただけだとも言われている。

例えばアメリカの太陽光や風力発電は土地は公有地を無償供与、送電設備は既存の電力会社負担、変電や送電なども既存発電に負担させ無料にしている。

しかも建設は補助金が半分出ているので、発電業者が負担しているのは太陽光パネルと設置費用の半額程度です。


これなら確かに「原発より太陽光発電のほうが安い」でしょうが、この比較は公正な数字とは言えない。

送電設備や電柱、電線、変電設備、買い取り費用まで全て原発に負担させて「原発より安い」というのは詐欺ではないだろうか?

日本のソーラー発電も同じように東京電力などに全ての費用負担を押し付けていて、最終的に電気の利用者に払わせている。


こうした「ソーラー詐欺」を槍玉に挙げているのがトランプ大統領で、補助金なんか廃止するべきだと主張している。

1月20日にトランプはオバマ政権のエネルギー政策を抜本的に転換する姿勢を示し、気候変動や環境対策を撤回すると表明した。

国内エネルギー開発を推進し、石油輸入を減らす為に、シェールオイルとガスと石炭開発を進める。

アメリカの自然エネルギー

オバマは温暖化ガス排出量を削減するため、再生可能エネルギーを促進するとして、太陽光や風力に膨大な補助金と優遇策を取っていました。

トランプはさっそく石油パイプライン建設に署名し、「環境より国内経済」優先の姿勢をはっきりと示した。

特に太陽光発電は、普及するにつれて環境に良いどころか、環境を破壊している例が次々に明るみになっている。


典型的な例が日本で行われている、森林伐採や草原、農地などを潰してメガソーラーを建設する方法で、どこら辺が「地球に優しい」のか謎である。

アメリカには広大な砂漠や荒地があるので森林伐採する必要はないが、アメリカの多くの環境保護団体は太陽光や風力が原発より環境を汚染すると主張している。

風力や太陽光は広大な敷地を必要とし、太陽光の照り返しや風車の騒音などで人や動物が住めなくなります。


ソーラーパネル製造には多くの化学物質が使用され、耐用年数は短く、施設を維持するために人間が手入れをし、石油エネルギーを消費しています。

ソーラーパネルも風車も、電力設備の多くも石油を利用していて、保守点検をする人間も石油を消費している。

つまり太陽光と風力発電は石油を消費して2次的に太陽光や風力で発電しているので、発電するほど石油を消費しています。

オバマの環境バブル崩壊か

例えばソーラーパネルを運ぶトラックは石油燃料で走るし、通勤する人も石油燃料を使い、彼らの食べ物や服装も石油を利用した物です。

これと比較すると原発は石油をあまり消費せず発電できるので、放射能漏れを起こさなければ「地球に優しい」と主張している。

地球に優しい議論は環境保護団体に任せるとして、トランプ政権が自然エネルギー優遇を見直したら、アメリカの自然エネルギーブームは終了するでしょう。


トランプはアメリカの自動車メーカー優遇も主張しているので、米メーカーが苦手としているEVやハイブリッド優遇も見直すかも知れません。

カリフォルニアやハワイなどの州ではオバマの環境政策にのって自然エネルギー発電や無公害自動車を進め、EV社のテスラが躍進しました。

だがEVブームもオバマと共に転機を迎え、優遇政策や補助金が打ち切られる可能性が高まった。
http://www.thutmosev.com/archives/68921126.html
http://www.asyura2.com/16/genpatu47/msg/781.html#c7

[原発・フッ素47] 反原発派は知恵遅れ _ 原発再稼動で温室効果ガスが減少 再生可能エネルギーの限界 中川隆
8. 中川隆[7792] koaQ7Jey 2017年4月16日 08:04:01 : b5JdkWvGxs : DbsSfawrpEw[8282]

2017年03月31日
原発仮処分は地方裁判官による「司法テロ」
http://www.thutmosev.com/archives/70233730.html

大飯原発3・4号機に続き高浜原発3・4号機停止の仮処分を下した樋口英明裁判長
引用:http://blog-imgs-64.fc2.com/k/i/m/kimito39gmailcom/fc2_2014-05-21_17-41-52-219.jpg


地方裁判官による司法テロとは

停止している高浜原発3、4号機について大阪高裁は3月28日、再稼動を認め、運転差し止め仮処分を取り消す決定を下しました。

高浜原発3、4号機は2015年2月12日に原子力規制委員会による審査に合格し、再稼動の許可を得ていました。

だが2015年4月14日に福井地裁の樋口英明裁判長が稼動停止の仮処分を決定し、12月24日に林潤裁判長が取り消した。

          


仮処分申請の審理は申請を受理してから決定まで1人の裁判長が行う慣例になっていて、裁判長の既得権とも絡んでいる。

仮処分を受理した樋口英明裁判長はその後、名古屋家庭裁判所に降格左遷人事となったが、「同一裁判長が審理する」慣例によって、裁判長ですらないのに福井地裁に出向いて仮処分決定を下した。

この事件はその後日本の司法制度の根幹を揺るがし、裁判官としては最も地位が低い地方裁判官が、事実上法の支配者になり得るのを示した。


仮処分は本来、高等裁判所や地方裁判所で判決までに時間が掛かるので、判決までの救済措置として行われる事になっている。

仮処分は上級裁判所の判例に沿ったものでなくてはならず、地方裁判官が独断で仮処分するのを想定していなかった。

だが樋口英明は反原発を主張する政治団体と結託し、仮処分制度を悪用して、上級裁判所の方針を無視して原発停止の命令を出した。


これのどこが問題かというと、1人の地方裁判官の独断によって、原発でも鉄道でも電力でも、あるいは自衛隊でも米軍基地でも、停止させる事が可能になるのです。

地裁の裁判官は1人から3人、高等裁判所では3人、最高裁では5人、最高裁大法廷は15人もの裁判官が参加し、一人の独断を許さない制度になっています。

それが仮処分審理だと一人の裁判官が最初から最後まで担当するので、独断による暴走が可能になるのです。

司法制度の欠陥を露呈

樋口英明は名古屋の家裁に飛ばされて仮処分は取り消されたが、話はこれで終わらずに悪しき前例となった。

原発の250キロ以内の住人は稼動停止の仮処分申請を起こす事ができ、同じ原発に誰でも何度でも仮処分申請を出す事が可能です。

つまり理論上は反原発団体のメンバーが、違う地方裁判所で停止の仮処分申請を連発して、裁判機能を麻痺させるのも可能です。


仮処分は停止命令が出ると相手側に金銭的損失を与える事が多いので、原告に保証金を設定するが、これも地方裁判官1人の裁量に任されている。

樋口英明は最初から原発を停止させるつもりだったので保証金を設定せず、異例のスピード審理で停止命令を出した。

樋口英明の仮処分は取り消され、高浜原発3、4号機は2016年1月29日に再稼動したが、2016年3月9日に大津地裁の山本善彦裁判長が、再び同様の手口で停止の仮処分を決定した。


突然の停止命令によって高浜原発3、4号機は2016年3月10日に停止し、現在も停止したままになっています。

2017年3月28日に大阪高裁の山下郁夫裁判長は仮処分の取り消しを決定したが、約2年間に渡って稼動と停止を繰り返し、国の原発政策は大きく躓いた。

政治団体と結託した1人の地方裁判官が、仮処分制度を悪用すればどんな物でも停止させる事ができるという事実は、最高裁判所を大きく動揺させた。


最高裁判所裁判官ですら、重要な決定では15人が合議するので15分の1の決定権しかないのに、それを仮処分では1人で決定できてしまう。

もしこれが原発団体ではなく、北朝鮮と協力して「ミサイル迎撃の停止」や「自衛隊機地の使用禁止」仮処分などであったら、それが短期間でも日本は大きな被害を受けるでしょう。

こうした仮処分申請を受理するかどうかも、1人の地方裁判官がする事になっていて、最高裁判所や総理大臣、国会であっても暴走を止める権限が無い。


地方裁判官が上級裁判所とは異なる信念を持ち、処分を覚悟で反旗を翻したら、もう誰にも制止できないのです。

処分と言ったって裁判官の地位は保証されているので、せいぜい家庭裁判所への左遷であって、減給や職務停止にすらなりません。

こうした事を法律は想定せず、性善説の立場から、裁判官は悪意を持たない事になっている。
http://www.thutmosev.com/archives/70233730.html
http://www.asyura2.com/16/genpatu47/msg/781.html#c8

[原発・フッ素47] 反原発派は知恵遅れ _ 原発再稼動で温室効果ガスが減少 再生可能エネルギーの限界 中川隆
9. 中川隆[7793] koaQ7Jey 2017年4月16日 08:06:49 : b5JdkWvGxs : DbsSfawrpEw[8283]

2017年04月12日
電力自由化1年 大都市では恩恵、地方では弊害
http://www.thutmosev.com/archives/70427001.html

新電力は儲かる場所でだけサービスし、儲からない場所は大手電力に押し付ける。
その結果大都市だけ安くなり、地方では値上げされるだろう。
引用:http://cdn-ak.f.st-hatena.com/images/fotolife/a/asiaasia/20160105/20160105231954.jpg


新電力は大都市に集中

2016年4月1日に電力小売り自由化が始まってから1年が経ち、新電力に切り替えたのは300万世帯を超えました。

全国で342万件の一般家庭が大手電力会社から新電力に切り替え、全体の5.4%になりました。

契約数2300万件の東京電力から7.8%が、契約数1000件の関西電力からは7.1%が切り替えるなど活発な動きがあった。



関東と関西以外では北海道電力からは5.9%、中部電力からは3.8%、九州電力からは3.4%のように切り替え率は低かった。

さらに東北電力からは2.2%、北陸電力からは1.6%、四国電力からは1.6%、中国電力からは1.1%などに留まった。

福島第一原発事故でイメージが悪化した東京電力は、首都圏で新規事業者の参入が多く、切り替える契約者が特に多かった。


同じく都市人口が多い関西電力でも新規参入事業者が多く、低価格プランに切り替える人が多かった。

人口が少ない地域では参入する事業者が少なく、魅力的な低価格プランも少なかったので、切り替える人は少なかった。

北陸や四国などでは参入事業者がほとんど無かったため、切り替える選択肢もあまり無かった。


通産省は自由化すれば競争原理が働いて、電気料金の低価格化が進むと説明しているが、これには異論も出ている。

先に電力自由化した国の中で、自由化前より料金が下がった例は少なく、自然エネルギーの負担と相まって大半が大きく値上がりしている。

電力は発電を集中させるほど1キロワット当たりのコストが下がり、分散させるほど上昇するので、自由化で発電施設を分散すると理論上のコストは上昇します。

新電力の誤解

日本の場合は送電施設や変電施設、電力買取費用まで全て、大手電力会社が負担しているので、今の所新電力の料金のほうが安い。

本来は別企業なのだから、電線から変電施設まで新電力会社が用意するべきだが、大手電力に負担させている。

そのうえ大手電力は原発を停止させられたうえに、停止している原発のコストも負担しているから、新電力より高コストになっている。


新電力が自己負担すべき設備投資などを大手電力に負担させていて、その分は結局大手電力の利用者に負担させている。

大手電力は全国全ての家庭に「送電義務」があるのに対し、新電力は「発電したいときだけ発電し」嫌なら発電しなくても良いので、かなりアンフェアな自由競争です。

東京電力は離島や限界集落にも送電しているが、東京ガスは「もうかりそうな場所」でだけ商売をしています。


発電事業は規模を大きくするほど効率が良くなるのだが、新電力に「おいしい場所」を取られてしまうと、大手電力会社の経営は悪化します。

その結果、離島や山間地や地方では電気料金が値上げされ、全国平均では電気料金が自由化前より高くなる可能性が高い。

こうした事は電力自由化した欧米では既に起きていることで、世界的にも自由化の成功例があまり無いのです。
http://www.thutmosev.com/archives/70427001.html
http://www.asyura2.com/16/genpatu47/msg/781.html#c9

[原発・フッ素47] 反原発派は知恵遅れ _ 原発再稼動で温室効果ガスが減少 再生可能エネルギーの限界 中川隆
10. 中川隆[7794] koaQ7Jey 2017年4月16日 08:10:21 : b5JdkWvGxs : DbsSfawrpEw[8284]

2016年12月23日
もんじゅ廃炉が決定 新規建設で核燃料サイクルは継続
http://www.thutmosev.com/archives/68173125.html

東京23区にソーラーパネルを敷き詰めても、東京で使う1割しか確保できない。
石油も使えなくなったら嫌でも原発に頼るしかなくなる。
引用:http://cdn.playbuzz.com/cdn/8d83d087-b01a-4617-8fcb-291448b8d208/c43d6e0a-36d0-4f55-8c9f-4742e868a748.jpg


高速増殖炉もんじゅ廃炉

2016年12月21日、「夢の原子炉」といわれた高速増殖炉もんじゅ廃炉が正式に決まりました。

官邸で関係閣僚が出席した原子力関係閣僚会議を開き、30年かけて廃炉にする方針で合意しました。

会議では運転再開するまでには8年の準備期間と5400億円以上が必要で、コストが増大していると報告された。



もんじゅの敷地内には新規の研究炉を建設し、研究施設として維持することが確認されました。

高速増殖炉はフランス実証炉ASTRIDの共同開発と、高速実験炉「常陽」などで続けられ、実用化を目指す方針は変わらない。

もんじゅは実験炉だったが建設するのは次の段階にあたる実証炉で、成功すればいよいよ商業用高速増殖炉が建設される。


もんじゅの解体費用は4000億円前後と見積もられていて、福島第一のように燃料が溶けたり建屋が爆発はしていないが、難航が予想されている。

もんじゅのようにナトリウムを使用する原子炉の解体は国内では初めてで、世界的にもそれほど多くない。

予想される放射性廃棄物の量は4万トンで、1500トンは高濃度に汚染されていて地中深く保管する必要があります。


高速増殖炉はプルトニウム燃料を使用して消費した以上の燃料を生み出すが、非常に高い技術を必要とする。

核燃料サイクルの計画の一環を形成し、玄海原発などのプルサーマルや、青森県六ケ所村でのMOX燃料製造などと全体で巨大なサイクルとなる。

さらに核燃料サイクルは有限な核燃料であるウランを使い切った後のエネルギーとして、国際プロジェクトとして研究されています。

核燃料サイクルとは

もんじゅの運転開始は1991年だったが1995年にナトリウム漏れ事故を起こし、以降20年間停止したままになっていました。

冷却材として使用されているナトリウムは空気中の酸素に触れただけで燃焼する危険な物質で、600kg以上が外部に流出しました。

出力上昇中に温度計が破損してナトリウムが漏れ、次々に火災が発生し1時間30分後にようやく緊急停止を行った。


原子力発電所は各電力会社が管理しているが「もんじゅ」は研究用原子炉のため、文部科学省管轄下の動燃が管理している。

この動燃が典型的な役所仕事で、事故発生時も原子炉に負担がかかるという理由で1時間半も火災を放置して緊急停止させなかった。

文部科学省による失敗は宇宙開発事業団でも発生し、H2ロケットが連続して打ち上げ失敗した後で解体され、JAXAと三菱重工が宇宙開発を行うようになった。


もんじゅは1995年の事故の後も小さな事故や不祥事、事故隠しや不具合箇所隠しを行っていて、原子力安全委員会の調査で無数の欠陥が指摘されている。

最初から不調だった原子炉を20年間停止していたので、既に腐食や整備不良で再稼動は現実的ではなくなっていました。

「もんじゅ」計画の基礎になっている核燃料サイクルは、鉱山から掘ったウランで発電し、発生するプルトニウムでもう一度発電するというものです。


使用済燃料は東海や六ヶ所の再処理施設でウラン・プルトニウム混合酸化物(MOX燃料)に加工されてプルサーマル発電に使用される。

日本の核燃料サイクルは「もんじゅ」の事故によって高速増殖炉が停止してしまい、実用化の目処が立っていない。

プルサーマル発電は順調に行われるかに見えたが、2011年3月の原発事故で多くの原発が停止してしまい、大幅に遅れている。

石油に代わるエネルギーは核燃料しかない

これほどまでに日本政府が核燃料サイクルにこだわる理由はエネルギーの自給問題にあり、話は第二次大戦前まで遡る。

日露戦争あたりまで軍艦などの動力は石炭や木炭で、これらは日本国内でも自給できたが、第二次大戦では石油の時代になり国内では自給できなかった。

日本が真珠湾攻撃やマレー侵攻をおこなったのは、つまるところ「石油を得る為」でアメリカからの経済封鎖で輸入が途絶えたからだった。


大戦後半も南方を連合軍に奪還されたため石油に苦しみ、軍艦や戦闘機があっても燃料がないという事態に陥っていました。

大戦が終わってからも中東戦争などでオイルショックが起こるたびに、日本はエネルギー問題に苦しみ、自給できる燃料を求めました。

石油に頼らない原子力発電を導入したが、ウランが輸入なので自給しないのは同じであり、それならウランを何度も再利用しようという事になった。


2010年以降は太陽光や風力発電の実用化が進んだが、理論上は大きな電力を発生しても制限が大きいので日本では実用的ではない。

例えば100万キロWの原子炉を太陽光に置き換えるには、山手線の内側すべてにソーラーパネルを敷き詰めなければならないとされています。

日本の空き地の多くは山地で、森林は水を蓄えるなどの役割があるので、禿山にしてパネルを敷き詰めると土砂崩れで東京が埋まるかも知れません。


もう一つ自然エネルギーには必要に応じて出力を変えられない欠点があり、足し算では必要量を賄えても、現実には必要な時に使えません。

地球温暖化などで石油燃料は今後使えなくなり、石油を使えない分は全て他のエネルギーで発電しなくてはならない。

例えば全ての自動車をガソリンから電気に替えると、新規の原発50基程度が必要になるとされています。


加えて自動車以外のエネルギーも原発に掛かってくると、日本全体で少なくとも100基以上の原発が必要になります。

水素エネルギーというのもあるが、水素は電気で生成するので同じことであり、太陽や風ではまったく足りないのが現実です。
http://www.thutmosev.com/archives/68173125.html
http://www.asyura2.com/16/genpatu47/msg/781.html#c10

[原発・フッ素47] 反原発派は知恵遅れ _ 原発再稼動で温室効果ガスが減少 再生可能エネルギーの限界 中川隆
11. 中川隆[7795] koaQ7Jey 2017年4月16日 08:12:26 : b5JdkWvGxs : DbsSfawrpEw[8285]

2016年11月17日
原発再稼動と最高裁と仮処分問題

左翼団体は左翼裁判官がいる裁判所を狙って、仮処分申請をする
引用:http://www.datsugenpatsu.org/bengodan/wp-content/uploads/2015/12/PB137397.jpg


裁判所の仮処分問題とは

原子力発電所の稼動許可が進んでいるが、同時に一旦稼動を許可した原発が仮処分で停止を命じられる例が相次いだ。

2016年11月現在稼働中の原発は5基で許可済みが2基、審査中が19基で未申請が18基となっています。

注目されたのは美浜3号機と高浜1、2号機の運転延長認可で、40年に達した原発の20年延長が認められました。


2016年3月9日大津地方裁判所は高浜原発3、4号機の運転差し止め仮処分命令を出し、運転を停止しました。

2015年4月14日福井地裁は高浜原発3、4号機の再稼働差し止めを認める仮処分を決定したが、12月24日に取り消していた。

原発の250キロ以内の住人は稼動停止の仮処分申請を起こす事ができ、全国の反原発派は各地の裁判所で申請を連発している。


通常の裁判は1審2審最高裁差し戻しと判決が出るまで非常に長い期間がかかるが、仮処分申請は数ヶ月で最終判断が出され即日効力を持つ。

決定に対して控訴する制度はなく、仮処分の取り消し申請をしても数ヵ月後に再審査されるまでは仮処分が有効です。

日本の裁判は最終判決が出るまで多くの裁判官が合議して担当するが、仮処分申請は地方裁判官が一人で担当し、他の裁判官と相談したりはしない。


しかも再審査にたいしても必ず同じ裁判官が担当すると決まっているので、判断が覆る可能性はまったく有りません。

2015年の高浜原発仮処分と取り消しでは、担当した裁判官を左遷した上で別の裁判官を担当させることで仮処分を取り消しました。

つまり仮処分に関しては一人の地方裁判官が独断で決定し、左遷しない限り誰もそれを解除することはできない。

裁判官は善人ではない

問題は裁判官の考えは各人ばらばらなのに、自分の考え一つで何でも停止させることができる制度で、公正さに対する配慮はどこにもない。

裁判官にも反原発や左翼思想を持つ人が居て、訴えを起こす人はそのような裁判官がいる裁判所を狙って申請している。

250キロ以内ならどこでも裁判を起こせるので、反原発団体は好きな裁判官を選んで仮処分申請をしています。


理論上は原発以外にも、米軍基地でも自衛隊機地でも新幹線でも何に対しても仮処分命令を出すことが可能です。

仮処分申請は好きなだけ何度でも出せるので、反原発派は全国で仮処分申請の波状攻撃をして一部でも認められれば勝利になる。

反原発裁判官は裁判官を解任されない限り日本のどこかで裁判官をしているので、仮処分は必ずどこかで認められる。


裁判官の中では最も格下の筈の、左遷された地方裁判官が事実上日本の原発政策を決定できるわけで、本人達は面白くてしょうがないだろう。

司法の乱用であって、これ自体が憲法違反の疑いが強く、全ての裁判所を監督する最高裁判所もこの状態はまずいと考えているらしい。

裁判所は他の役所に所属しておらず、政府や国会、総理大臣も一人の地方裁判官の違法行為を止めることが出来ません。

地方裁判官は田舎の独裁者

裁判官も人間であり私利私欲の固まりだが、法律には聖人君子として描かれていて、こういう事態を想定していません。

日本の法律では裁判官は絶対に正しいことしかしないと決められているからで、悪いことをしても止める方法はないのです。

地方裁判官の人事権は最高裁判所が握っていて、理論上は更迭や懲戒、解任も可能だが、これをやると最高裁判所も打撃を受けてしまう。


実際には明らかな犯罪以外で罷免や処罰されることは無く、減俸や指導などが行われることも無い。

人事権を持つ最高裁判所は、最高裁判所に従わない「謀反裁判官」に人事異動で冷遇するなどで見せしめにしているが、裁判官が解雇されるわけではない。

他には最高裁判所が主催する協議会での実質的な指導と警告が行われるが、左翼裁判官が決意を固めれば従わなくても公式な処分を受けることは無い。


田舎の地方裁判官なんか参加者で最も下っ端で、お茶くみでもすべき所だが、話だけ聞いておいて無視することもできる。

官僚である最高裁判官の前では小さくなっている地方裁判官も、仮処分の審理では自分が最高裁判官のように振る舞い、誰も自分をとめることができない。

政府がこれに介入したり、別な司法組織を設立することは日本国憲法で禁止されているので、違法でありながら合法なのだった。
http://www.thutmosev.com/archives/67342574.html#more
http://www.asyura2.com/16/genpatu47/msg/781.html#c11

[原発・フッ素47] 反原発派は知恵遅れ _ 原発再稼動で温室効果ガスが減少 再生可能エネルギーの限界 中川隆
12. 中川隆[7796] koaQ7Jey 2017年4月16日 08:14:12 : b5JdkWvGxs : DbsSfawrpEw[8286]

2016年10月13日
東京大停電で問われる「東電不要論」の無謀さ

電力を完全自由化したら、東京では毎日停電が当たり前になる
引用:http://pbs.twimg.com/media/CujKD0zXEAAH9Kj.jpg


東京で停電が普通になる日

東京では珍しく、10月12日午後3時半ごろに都内で58万戸が一斉停電し、午後4時25分ごろ回復しました。

福島原発事故や全原発停止でもほとんど停電は無かったので、日本人(特に東京都民)は停電しないのは当たり前と考えている。

だがこれからはもしかしたら、毎日停電するのが当たり前の時代が来るかも知れません。


諸外国では太陽光や自然エネルギー発電の普及、電力自由化などが原因で、停電が頻発するようになった国があります。

今回の東電の停電原因は埼玉県にあった地下施設の火災で、変電所から東京都内に送電する送電線のケーブルが収められていました。

ケーブルの皮膜が劣化するとショートし易くなり、火災に至る可能性があるとのことで、こうした原因が考えられています。


ケーブルを覆う絶縁体に油が使われていて、ショートした火花が油に引火して、燃え広がった可能性があります。

経済産業相は東電社長を呼びつけて「何をしているんだ!」と怒鳴りつけたと報道されているが、福島原発事故での菅直人首相と同じ態度ではないか。

菅直人首相にしても世耕経済産業相にしても、他人事と考えているから、怒鳴り散らせば解決すると考えているように見える。


事故の原因は大抵、怒鳴れば解決するようなことではなく、複合的で根深い原因がある筈です。

怒鳴られた事でもう東電は政府には相談しなくなり、より一層問題を隠したり、政府に報告しなくなるでしょう。これが人間の心理です。

世耕経済産業相は「なんで35年間も交換しなかったんだ!」と怒鳴っているが、35年間のうち5年間は福島原発の対応に追われて、それどころではなかった。

電力自由化の悪夢にうなされるドイツ人

事態をより一層悪化するかもしれないのが「電力自由化」だが、幸いな事に今のところ掛け声だけで自由化は全く進んでいません。

主要先進国の多くが電力自由化したが、成功した国は一つも無く、必ず電気料金が2倍になって停電と事故が頻発しています。

どうしてそうなるのかは、電力事業は競争原理や市場原理にそぐわないからだとしか言いようがありません。


多くの人が理想としているドイツでは、自然エネルギーと自由化によって電気料金が2倍以上に上昇しました。

それは良いとしても、自由化と脱原発が進むに連れてドイツは「停電大国」になっているのです。

この数年で1時間程度の停電が頻発するようになり、毎月毎週のように停電が起きています。


1時間ぐらい良いじゃないかと思うのは昔の人で、確かに昭和の中ごろは良く停電したし、信号が止まっていても気にしませんでした。

でも今の世の中はすべてITとか電子機器で動いていて、停電すると連鎖反応で全部止まってしまいます。

昭和の時代は一つ一つ独立した機械が停止するだけだったが、今は日本中が繋がっています。


作業中のデータが消えてしまったり、プログラムが破損したり、予想外の影響が出るかも知れません。

携帯電話の基地局は数時間は内臓電池で動くが、長時間停電だと携帯電話も使用できなくなります。

ドイツでは自由化で電力会社を民営化した結果、経営努力で「不要なコスト」を削減しました。

不要なコストってなんだ?

問題は「不要なコスト」って何だろうという部分ですが、点検や修理に当たる作業員を解雇する事でした。

1年に1回点検していたのを10年に一度にすればコストを10分の1にできるというのが、ドイツ流経営努力でした。

日本のJRも国鉄を民営化して保守要員を大量解雇し、現在事故を多発させていますが、あれと同じです。


日本の電力会社は戦前は国営だったが、民営化して各主要電力に分割されて現在に至っています。

国営から分割民営化したときも電気料金が大幅に値上がりし、ドイツやアメリカも民営化したら値上がりしました。

単純な話、国営電力会社で全国に1社しか存在しなければ、1社分だけの電力設備で事足ります。


だが2社で競争させれば2社分、3社なら3社分の無駄な設備費が必要に成るので、分割するほどコストが悪化するのです。

電力の需要なんてのは固定しているので、半額にしたら10倍売れるというような資本主義の法則は通用しません。

医療でも医療費を半額にしたからといって患者が10倍に増えたりしないが、こういう需要が固定した産業で競争主義はなじまないのです。


自由化された電力会社が売り上げを増やす唯一の方法は電気を値上げする事だけなので、市場原理に従って自由化したら電気の値段は上がります。

もっと大きな問題は東電や関電のような大手電力は最大必要量の2倍以上もの発電量を確保しているが、自由化したら合理化で余力は廃止されます。

この「無駄な余力」があったからこそ日本は福島原発が爆発しても、全原発を停止しても平気だったのです。


電力自由化だの分割民営化は、日本が自ら死を求める行為に過ぎないように思われます。
http://www.thutmosev.com/archives/66547160.html

http://www.asyura2.com/16/genpatu47/msg/781.html#c12

[原発・フッ素47] 反原発派は知恵遅れ _ 原発再稼動で温室効果ガスが減少 再生可能エネルギーの限界 中川隆
17. 中川隆[7797] koaQ7Jey 2017年4月16日 09:14:25 : b5JdkWvGxs : DbsSfawrpEw[8287]

根拠の無い妄想コメントは書かなくていいよ

これから毎日、ここに原発関係の記事を貼っていく事にしたから、これ以上の妄想コメントは不要
http://www.asyura2.com/16/genpatu47/msg/781.html#c17

[原発・フッ素47] 反原発派は知恵遅れ _ 原発再稼動で温室効果ガスが減少 再生可能エネルギーの限界 中川隆
20. 中川隆[7798] koaQ7Jey 2017年4月16日 09:52:27 : b5JdkWvGxs : DbsSfawrpEw[8288]
>>19
真実を知りたい人だけが見てくれればいいんだ

文化板にリンクを貼った僕の他の投稿と同じさ


阿修羅 文化2
http://www.asyura2.com/09/bun2/index.html
http://www.asyura2.com/16/genpatu47/msg/781.html#c20

[リバイバル3] 苗場スキー場の元高級リゾートマンションが遂に10万円になった 中川隆
403. 中川隆[7798] koaQ7Jey 2017年4月16日 10:40:13 : b5JdkWvGxs : DbsSfawrpEw[8288]

日本最悪の温泉 湯沢

客観的に判断すると


スキーをやりたいなら白馬、志賀高原、妙高かニセコ

風光明媚な所なら山中湖、軽井沢・菅平か蓼科・八ヶ岳

温泉なら草津、万座、北海道の川湯温泉かニセコ

街の雰囲気や洗練度では軽井沢か湯布院

食べ物が美味しい所なら北海道

海が見たいなら伊豆、白浜か沖縄

東京に近い温泉地なら熱海か箱根


湯沢に人気が無いのは

温泉最悪、風景全然ダメ、街並みのセンス最悪、雪質平凡、食べ物平凡

でマンション価格が安い以外には良い所が一つも無いからなのですね。

何でそんな何の取り得も無い所に高層の大型リゾートマンションを 58棟も建てまくったかというと、湯沢は川端康成の『雪国』のお蔭で有名になっていたので何か勘違いしてしまったんでしょう。

『雪国』というのは、名も無い場末の田舎町で働く訳有り田舎芸者(今のピンク・コンパニオンに相当)と川端康成との情痴関係を描いた私小説 (小説の細部もノンフィクションに近かったので関係者を激怒させた様ですね)

『雪国』の中にはそもそも湯沢という地名自体が全く出てきません。
川端康成自体、雪国が売れて儲けた金で軽井沢に別荘を建てた位ですから、湯沢はちっぽけな共同浴場が一つ有るだけの何の取り得もない場末の田舎町としか認識していなかったのですね。

当時の文学者は伊香保、水上温泉や法師温泉には良く行っていても、湯沢温泉は名前すら聞いた事がなかったのです。

詳細は

愛のゆくえ 「雪国」 - 魔界の住人・川端康成  森本穫の部屋
http://www.asyura2.com/09/revival3/msg/574.html#c29

http://www.asyura2.com/09/revival3/msg/565.html#c403

[リバイバル3] 苗場スキー場の元高級リゾートマンションが遂に10万円になった 中川隆
404. 中川隆[7799] koaQ7Jey 2017年4月16日 10:45:18 : b5JdkWvGxs : DbsSfawrpEw[8289]

映画「雪国」1957 東宝  無料動画
http://www.bilibili.com/video/av8295567/
http://freemovie.nekomoe.net/2017/0130211343.html

一夜一話 - 映画「雪国」 1957年 監督:豊田四郎 出演:岸惠子、池部良

  原作が川端康成の「雪国」だからといって、文学作品拝読の構えで観ると損をする。

  芸者・駒子を演ずる岸惠子が、思いの外に色っぽいと読み解けたら、この映画、一段と面白くなる。セックスシーンこそ無いが、島村(池部良)を前にした駒子は可愛く濡れている。

  画家の端くれと言う島村は、この雪国にスケッチのため、一人東京からやって来た。そして宿で芸者の駒子と出会う。出会ってすぐに互いの心はひとつとなった。そんなふたりの気配が部屋に満ちる様子を、酒を持ってきた宿の女中役・浪花千栄子が的確に演じてみせる。

  翌日の夜、宿の大広間の宴会は地元の芸者衆で盛り上がっていた。助っ人の駒子は酔っぱらっている。酔わないと島村の部屋に行く勇気が出ない。そんな一方的な熱い心を抱えて駒子は宴会を抜け出し島村の寝ている部屋へ入った。そこでのふたりのやり取りは、この映画で一二の見せ場だ。大胆な一方でその気持ちを自身の心の内に引きもどす駒子と、小悪魔的魅惑に翻弄されていく受け身な島村。そしてふたりは夜明けを迎えた。


そんな回想シーンを懐かしく思い返すふたりは、年の瀬迫る炬燵に入っている。そのうち島村が、「風呂に入ってくる」と、ひとり廊下を伝い脱衣所で帯を解こうとするその時、後ろから突然に駒子が、「あたしも入る」と言うやいなや帯を解き始める。驚く島村。風呂に入ってからの駒子も艶めかしい。

  初めて島村がここを訪れた時に、山で取って来たアケビを部屋の花瓶に生けるが、初対面の駒子がこのアケビの実を少し食べる。このアケビの実の隠喩・・・。またそのあと、紅が付いた盃を美しいと言い、それを厭わず口紅が付いたままの盃で駒子の酌を受ける島村、その態度にドギマギする駒子。ことほどさようにこの映画には、そんな色っぽいシーンがある。

ところが、「あんたなんか、東京へ帰っちゃいなさい」と駒子はたびたび島村に言う。年に一度の逢瀬。ふたりの愛は結ばれない。島村は東京に妻がいる。駒子の事はばれている。

  だが、「雪国」は島村と駒子の愛を描くだけではない。

  駒子と年下の葉子(八千草薫)は、それぞれ貧しい農家の子であったが、共に三味のお師匠の養女として育てられた。

  その後、駒子は芸者見習いから芸者となり、年配の旦那を持つ身となった。それは年老いてしまった養母と病を患うその息子の行男を養うため。養母と行男が住む家も、旦那の世話によるものだった。背負うものが多い駒子であった。

  幼なじみの行男は駒子のことが好きだったが、駒子はそうでもなく、むしろ密かにだが葉子の方が彼を愛していた。だから葉子は駒子を憎んでいた。島村を駒子から奪ってしまいたい、そんな邪念を葉子は抱くようになって行った。

  駒子の妊娠と旦那からの離縁、芸者としての独り立ち、行男の容体悪化、火事と葉子の火傷、そして島村と駒子の別れ。島村は最後まで駒子に対する態度が煮え切らない。

  岸惠子のぶりっ子なまでの艶めかしさ、池部良演ずる逡巡するつれない男、絶たない逃げ道。

  脇役では、宿の女中役の浪花千栄子がダントツに光る。田舎芸者を演ずる市原悦子と島村のシーンは喜劇だ。また、盲目の按摩マッサージ指圧師を演ずる千石規子が、なにやら異彩を放つのに魅かれる。最後に、音楽担当の芥川也寸志が、欧米映画音楽の弦楽をよく勉強しているのが聴ける。
  

監督:豊田四郎|1957年|133分|

原作:川端康成|脚色:八住利雄|撮影:安本淳|音楽:芥川也寸志|

出演:

島村(池部良)
駒子(岸惠子)
葉子(八千草薫)

葉子の弟・佐一郎(久保明)|師匠(三好栄子)|その息子・行男(中村彰)|宿の女中おたつ(浪花千栄子)|同じく・おりん(春江ふかみ)|同じく・おとり(水の也清美)|宿の主人(加東大介)|宿のお内儀(東郷晴子)|県会議員・伊村(森繁久彌)|駒子の母(浦辺粂子)|番頭(東野英治郎)|万吉(多々良純)|女給・花枝(中田康子)|芸者・菊勇(万代峯子)|同じく・勘平(市原悦子)|駅長(若宮忠三郎)|女按摩(千石規子)|宿の女中きみ子(加藤純子)|小千谷の番頭(桜井巨郎)|
http://odakyuensen.blog.fc2.com/blog-entry-1257.html

http://www.asyura2.com/09/revival3/msg/565.html#c404

[原発・フッ素47] 反原発派は知恵遅れ _ 原発再稼動で温室効果ガスが減少 再生可能エネルギーの限界 中川隆
29. 中川隆[7800] koaQ7Jey 2017年4月16日 17:15:55 : b5JdkWvGxs : DbsSfawrpEw[8290]
中国の工作員が反原発運動をやってるんだよ
http://www.asyura2.com/16/genpatu47/msg/781.html#c29
[リバイバル3] 湯沢町の共同湯は日本国内の温泉の中で最低最悪 中川隆
55. 中川隆[7801] koaQ7Jey 2017年4月16日 17:59:59 : b5JdkWvGxs : DbsSfawrpEw[8291]

文壇村のお手伝いさんに徹し長寿保った賢妻ー川端康成夫人秀子 2015年10月30日


「ただ妻の座にいただけって気がするわ」

あの世でこう申しているのは、ノーベル賞作家川端康成夫人の秀子さんであります。

勤務先の上司が病で転地療養のため留守宅預かっていたとき、転がり込んできた青年作家と一つ屋根の下で暮らすはめに。それが川端康成。なるようになって、一生添い遂げた。結果、文豪の妻になっちゃった。どんな一生だったか見ていくことにいたしましょう。

晩年の川端秀子
http://ameblo.jp/fumiakityan/image-12090218701-13470124518.html

「生い立ちが人生を決めるって本当ね」

川端康成の生い立ち。

2歳で父結核で死去。3歳で母親死去。両親の記憶なし。祖父母に引き取られるが、7歳で祖母死去。10歳で姉死去。15歳、中学生の時祖父死去……生まれてこの方、死に取り囲まれた人生スタート。

中学校の寄宿舎住まいの時、初恋を体験。相手は同級生(男の子)。

勉強だけは抜群にできたので親戚の支援で上京、一高入学。

高校時代に伊豆を旅行、14歳の踊り子に出会って癒され勇気をもらう。
21歳で東大入学。かねて希望の作家を目指して活動を開始。
本郷のカフェで少女に恋して婚約するが一転破談に。


http://ameblo.jp/fumiakityan/image-12090218701-13470122522.html
後の文豪をふっちゃった加藤初代。別の男と結婚した。


「本の読み過ぎは薬の飲み過ぎと同じよ」

とまあ、後の文豪はぎくしゃくした人生を歩み始めます。

一方秀子さんのほうは青森県八戸の出身。
女学校卒業後、兄を頼って東京に来ると、出来立ての文芸春秋社に就職。

上司の留守宅を預かっている時、新進作家の川端康成がその家の居候に。
19歳の若い娘と27歳の青年がひとつ屋根の下に暮らすのだから、なるようになる。

同棲生活が始まります。
川端は中学時代に図書館の本をぜんぶ読んじゃったという本好き。
この事実、作家の財産にはなったが、妻には何の益もない。
風変わりな夫のそばで秀子さんはひたすら尽くしたのであります。

「夫は自殺じゃない、事故だったと思うわ」

夫はあちこちで女に手出しまくっていたが、これも文学の肥やしとあきらめて良き妻を演じた。

そのかいあって夫の文名はとみにあがり、とうとうノーベル文学賞を受賞。

だが、受賞4年後の1972年、逗子の仕事部屋で夫はガス管加えて自殺。

でもこれは長年の睡眠薬中毒と電気毛布の多用による電磁波障害がもたらした発作的な行動。つまり事故のようなもの。

川端康成享年73歳。

ずっとお手伝いさん役に徹してきた秀子さんは夫の死後30年も長生きし、解放された人生を楽しみました。楽あれば苦あり、苦あれば楽ありってこと。


「結論、一流作家とは結婚するなってこと」

川端康成は童話作家になれば後世に残る名作を書いたかもしれません。

さて今日も元気な悪妻の皆さん。まさかあなたの夫は一流作家ではないでしょうね。
もしそうなら同じ境遇の妻たちと徒党を組んで被害者同盟でも作って人権弾圧で訴訟を起こすか、夫の秘密をばらしちゃうに限りますよ。

全員ヘンタイのはずだから。

音楽は薬になるけど、そういう文学はめったにない。
むしろ毒として作用することのほうが多い。

芥川龍之介、太宰治、三島由紀夫、川端康成……自殺作家は自家中毒者なのかもしれませんね。
http://ameblo.jp/fumiakityan/entry-12090218701.html
http://www.asyura2.com/09/revival3/msg/574.html#c55

[原発・フッ素47] 反原発派は知恵遅れ _ 原発再稼動で温室効果ガスが減少 再生可能エネルギーの限界 中川隆
40. 中川隆[7802] koaQ7Jey 2017年4月17日 03:53:41 : b5JdkWvGxs : DbsSfawrpEw[8292]
僕はコピペしてるだけだから

文句あったら引用元に直接捩じ込んでね
http://www.asyura2.com/16/genpatu47/msg/781.html#c40

[リバイバル3] 湯沢町の共同湯は日本国内の温泉の中で最低最悪 中川隆
56. 中川隆[7803] koaQ7Jey 2017年4月17日 04:18:06 : b5JdkWvGxs : DbsSfawrpEw[8293]

川端康成氏を囲んで 三島由紀夫 伊藤整 - YouTube 動画
https://www.youtube.com/results?search_query=%E5%B7%9D%E7%AB%AF%E5%BA%B7%E6%88%90%E6%B0%8F%E3%82%92%E5%9B%B2%E3%82%93%E3%81%A7+%E4%B8%89%E5%B3%B6%E7%94%B1%E7%B4%80%E5%A4%AB+%E4%BC%8A%E8%97%A4%E6%95%B4

『みずうみ』川端康成/文學ト云フ事 - YouTube
https://www.youtube.com/watch?v=MXy2tV2p3BI

『朝雲』川端康成/文學ト云フ事 - YouTube
https://www.youtube.com/watch?v=sLDJMOWE3EI
https://www.youtube.com/watch?v=iliAy85EjUY



http://www.asyura2.com/09/revival3/msg/574.html#c56

[経世済民121] 日本企業は中国人従業員を求めている、ただし…―華字メディア 赤かぶ
1. 中川隆[7804] koaQ7Jey 2017年4月17日 04:52:04 : b5JdkWvGxs : DbsSfawrpEw[8294]
中国人は日本に何十年居ても日本語の読み書きができる様にならないよ

企業のアホ担当者にはわからないだけ
http://www.asyura2.com/17/hasan121/msg/162.html#c1

[近代史02] 鈴木傾城 _ アメリカ株で儲けるほど簡単な事は無い 中川隆
13. 中川隆[7805] koaQ7Jey 2017年4月17日 05:52:31 : b5JdkWvGxs : DbsSfawrpEw[8295]

2017-04-16
長期投資家には、北朝鮮がどうなろうと知ったことではない

2001年9月11日は何気ない一日になるはずだった。ところがこの日、二機の旅客機がアメリカのワールド・トレード・センターに突入して3000人以上が一瞬にして亡くなるという大惨事が引き起こされた。

現場はウォール街の近くであり、NY株式市場もこのテロで一週間も閉鎖された。

まだ、この時の株式市場の大混乱を覚えている人もいるかもしれない。二棟の高層ビルが影も形もなく崩れ落ちたように、今度はアメリカの株式市場が崩れ落ちる番だと世界中の投資家は青ざめていた。

そのためNY株式市場は相場が立った瞬間に一瀉千里に売りが殺到し、事件の10日後には15%以上も暴落となっていた。しかし、事件から2週間もすると人々はやっと冷静になり、株価は下げた分だけ戻した。

その後のアメリカは軍事にのめり込み、アフガニスタン侵攻やイラク侵攻と歩を進めていき「ブッシュの戦争」の時代に突入していく。

投資家にダメージを与えたのは2001年ではなく2002年の方だ。2001年の前半には1万ポイントを超えていたNY株式市場は2002年の後半には8000ポイントを割って7500ポイントにまで近づいていた。1年で25%以上も下落した。

今回の北朝鮮を巡る動向でどうすればいいのか?

では2001年の高値で優良企業の株式を買って長期保有した人は大損害を受けたのだろうか。まさか。それから6年後、NY株式市場は1万4000ポイントをつけるほどの「大暴騰」に転じていたからだ。

その間、アメリカはイラク戦争に突入してベトナム戦争を彷彿とさせる泥沼に陥って戦費を無駄に消耗し、「もうアメリカは終わりだ」と言われていた。

ところが株式市場と不動産市場はどんどん上昇していき、特に2006年からはブーストがかかったかのように高値を目指していったのだった。

この頃になると、もう2001年9月11日に起きた同時多発テロの大暴落のことを覚えている人など誰もいなかった。人々は根拠なき熱狂に酔いしれていたのである。

しかし、2008年に入ってからNY株式市場は変調を来すようになった。

サブプライムローンという爆弾が破裂し、9月15日にはリーマン・ブラザースが倒産して全世界を巻き込んだ金融崩壊である「リーマン・ショック」が投資家を襲いかかった。

2007年は1万4000ポイントに届いていた株価はリーマン・ショックの泥沼から抜け出せない2009年2月には7000ポイントさえも維持できなかった。

つまり、投資家は50%以上もの市場の大崩落に巻き込まれたということだ。もっと分かりやすく言うと、資産の半分が吹き飛んだということになる。

この時期の投資家は生きた心地がしなかっただろう。金融市場は死にかけており、アナリストはすべて絶望を語り、自分の資産が半分になって平静でいられる人はどこにもいない。

では、2007年の頂点で優良企業の株式を買って長期保有した人は大損害を受けたのだろうか。まさか。NY株式市場は2013年に1万4000ポイントを一気に追い抜き、2015年には1万8000ポイントに到達していた。

結論から言うと、同時多発テロでもアフガニスタン侵攻でもイラク戦争突入でもリーマン・ショックでも、長期投資家は優良企業の株式を売る必要はまったくなかった。何もしなくてもよかった。ただ保有しているだけでよかった。

そうであれば、アメリカの優良企業に投資している長期投資家は、今回の北朝鮮を巡る動向でどうすればいいのか、答えが見えてきたはずだ。
https://darkness-tiga.blogspot.jp/2017/04/20170416T1949100900.html
http://www.asyura2.com/09/reki02/msg/895.html#c13

[リバイバル3] 湯沢町の共同湯は日本国内の温泉の中で最低最悪 中川隆
57. 中川隆[7806] koaQ7Jey 2017年4月17日 07:35:06 : b5JdkWvGxs : DbsSfawrpEw[8296]

川端康成における「魔界」思想
https://www.google.co.jp/webhp?hl=ja#hl=ja&q=%E5%B7%9D%E7%AB%AF%E5%BA%B7%E6%88%90%E3%81%AB%E3%81%8A%E3%81%91%E3%82%8B+%E3%80%8C%E9%AD%94%E7%95%8C%E3%80%8D%E6%80%9D%E6%83%B3&spf=1

1 「仏界易入 魔界難入」を手掛 かりとしてー 黒 崎 峰 孝

(1 ) 「仏 界 易 入 魔 界 難 入 」 と いう 言 葉 は 一休 の 言 葉 と さ れて いる が 、 川 端 康 成 は こ の言 葉 に非 常 な る関 心 を 持 って いた よ う で 、 いく つか の作 品 の中 にも 使 用 し て いる。 「仏 界 易 入 魔 界 難 入 」 の意 味 す る と こ ろ は 、 アイ ロ ニー とし て受 け 取 れ ば 、 一見 たや す く 理 解 出 来 そう にも 思 え る が、 一歩 深 く 考 え て み る と 、短 い言 葉 な が ら な か な か 深 い意 味 合いのあ る 言 葉 で あ る 。

一様 な ら ぬ 解 釈 が 可 能 であ り 、 一言では 片 付 け ら れ な い奥 行 を 持 った 言 葉 のよ う であ る。 本 論は 、 川 端 康 成 と こ の言 葉 の関 係 、 つま り 、 川 端 が こ の 「仏界 易 入 魔 界 難 入 」 の言 葉 を どう 理 解 し 、 ど う 受 け 止 め 、さ ら に どう 己 れ の内 面 に肉 化 し て行 った か 、 川 端 にと って 「仏 界 易 入 魔 界 難 入 」 と は 何 であ った のか を 探 る の が目的 で あ る 。 そ し て、そ の手 掛 か り とな る のが 、 「舞 姫 」、 「みつう み」、 「眠 れ る 美 女 」、「た ん ぽ ぽ」な ど の作 品 群 であ る。

こ れ ら の作 品 で の引 用 のさ れ方 、 ま た展 開 のさ れ方 を た どって ゆ く こ と に よ って 、 川端 康 成 に おけ る 「仏 界 易 入 魔 界 難 入 し が如 何 な る も の であ った か 、 かな り 明確 に浮 ぴあが って来 る と思 わ れ る。 この言 葉 が 使 用 さ れ る のは 戦 後 であ る と ころ か ら 、 戦 後 の川 端 を 理 解す る 上 に は決 し て見 落せ な いも の であ る。 そ れ ば か り か 、 こ の言 葉 と 川 端 の関 係を 究 明す る こと は 、 川 端 文 学 、 川端 康 成 と いう 人 の側 面 を理 解 す る上 て の ひ と つ の鍵 と な る こ と を 信 ず る も の で ある。


「仏 界 易 入 魔 界 難 入」 の言 葉 は 一応 思 想 を 表 現 し て い る と 考 えら れ る の で 「魔 界 し思 想 と仮 名 し 、 以 下 、 川端 康成 に おけ る 「 魔 界 」 思 想 と いう 論 題 に 沿 って、 作 品 の ひとつ ひ と つを 追 いな が ら論 じ て行 って み た い。

川 端 が作 品 の中 で こ の 「仏 界 易 人 魔 界 難 入 」 と いう 言葉 を 一番 最 初 に 用 いた の は、 昭 和 二十 五 年 十 二月 十 二 日 から 、 翌 昭 和 二十 六 年 三 月 三 十 一日 ま で 、朝 日新 聞 に 連 載 され た 新 聞 小 説 「舞 姫 」 の中 に お いて であ る。

「舞 姫」 は 、 バ レリ ー ナ であ る 波 子 と そ の 娘 品 子 、 そ して 波 子 の夫 矢 木 と 品 子 の弟 高 男 、 つま り 、 矢 木 家 を中 心 とし 、 そ こ に波 子 の昔 の恋 人 竹 原 を 加 え て スト ー り ー が 展 開さ れ る 物 語 であ る。 矢 木 家 の者 は 、 一応 家 族 を 構 成 し な がら も 温 か い心 の交 流 は 薄 く 、 品 子 は波 子 側 、 高 男 は 矢 木 側と いう よ う な 派 閥 的 分 裂 さ え 、こ の親 子 間 に は 漂 って いる。

矢 木 は妻 であ る 波 子 の 、 も と家 庭 教 師 で あ り 、臆 病 な 非 戦論 者 、逃 避 的 な 古 典 愛 好 者 であ り 、妻 に た か って生 き て来 た男 であ る。 妻 に内 緒 で 貯 金 を し た り 、 波 子 名 義 の家 を こ っそ り 自 分 の名 義 にす り換 え て し ま う よ う な 男 であ る。 そ ういう 矢 木 を も ち ろ ん 波 子 は 愛 せ よ う はず は無 く 、 竹 原 と の密 会 を 重 ね 、 竹 原 のも と へ突 っ走 ろ う と す る が 、 矢 木 の底意 地 悪 く 不 透 明 な 呪 縛 の前 に 、そ の想 いは具 現 化 さ れな い。

ま た 竹 原 も 力 つく で波 子 を 奪 い去 る こと の出 来 な. い無 力 な男 であ る。 思 え ば 竹 原 ば か り で な く 、 矢 木 も 波 子 も 、 さ らに 品 子 も 高 男 も 、 目 の前 の運 命 を 自 分 の力 では ど う す る こと も 出 来 な い、無 力 で孤 独 な 人 間 達 な ので あ る。 このよ うな 不協 和 音 を 奏 でな が ら 、そ の結 末 を 見 る こ とな く 「舞 姫 」は未 完 のま ま に終 って いる。


こ の未 完 作 品 「舞 姫 」の重 要 なテ ー マが 、 「仏 界 易 入 魔 界 難 入 」 で 、 「仏 界 と魔 界 」 と いう 独 立 し た 章 さ え 設 け られ て いる。 こ の中 で 川端 は 初 め て こ の言 葉 を 使 って いる のであ る 。
「仏 界 易 入 魔 界 難 入 」 な る 一行 物 の 掛 軸 を め ぐって、 国 文 学 者 であ る矢 木 と品 子 の会 話 の場 面 が次 のように 描 か れ て いる 。

品 子 が 父 の 部 屋 へは い つ て 行 く と 、 矢 木 は ゐ な く て 、見 な れ な い 一行 物 が 、 床 に か か つ て ゐ た 。
「仏 界 、 入 り 易 く 、 魔 界 、 入 り 難 し 。」
と 、 読 む の で あ ら う か 。
近 づ い て 、 印 を 見 る と 、 一休 で あ つた 。
「 一休 和 尚 … … ?」
品 子 は 少 し 親 し み を 感 じ て 、
「仏 界 は 入 り 易 く 、 魔 界 は 入 り 難 し 。」
と 、 こ ん ど は 、 声 を 出 し て 読 ん だ 。

禅 僧 の 言 葉 の意 味 は 、 よ く わ か ら な い が 、 仏 界 に は 、入 り や す く て 、 魔 界 に は 、 入 り 難 いと い ふ の は 、 逆 の やう だ 。 し かし 、 さ う 書 か れ た 文 字 を 見 て、 自 分 の声 で、さう 言 つて み る と 、 品 子 も な に か 、 は つと し た。

人 の ゐ な い部 屋 に 、 そ の言 葉 が ゐ る やう だ。 床 の間 から 、 一休 の大 字 が 、 生 き た 目 で に ら ん で ゐ る や う だ。

こ こ で引 用 し た 部 分 が 、 「舞 姫 」 の中 で 一番 最 初 に 【 、 仏 界 易 入 魔 界 難 入 」 の言 葉 を 用 いた部 分 であ る と 同 時 に 、川 端 が小 説 の中 で こ の言 葉 を 用 いた最 初 でも あ る。 品 子 がこ の文 字 に初 め て接 し 、 自 分 の声 で 口ず さ ん で 「は つと」し 、 「人 のゐ な い部 屋 に 、 そ の言 葉 が ゐ る や う だ 。 床 の 間か ら 、 一休 の大 字 が 、 生 き た 目 で、に ら ん で ゐ る やう だ 。」とす る 驚 き は、 川 端 が初 め て こ の言 葉 に 接 し た時 の驚 き でもあ った ろう 。

こ の 一行 物 の文 字 は 、 「は じ め の 『仏 』 とい ふ字 は 、 つ つし ん だ真 書 で書 い て あ る が、 『魔 』 の字 に来 る と 、 み だ れ た 行 書 に な つ て いて」、 ど こ とな く 「魔 」を感 じ さ せ る よ う な も のだ った。 品 子 は 父 の部 屋 を 出 て から 、 「仏 界 は 、 入 る に易 く 、 魔 界 は 、 入 る に難 し 。」 と 、 もう 一度 つ ぶや いて み る が 、 こ の言 葉 が 、 「父 の 心 と 、 な にか つな が り が あ る の」 か と いう こと も 、 ま た 言 葉 そ のも のの意 味 も 、 いろ いろ に思 え て、 た し か に は と ら え ら れ な いの だ った。

お そ ら く 川 端 は 、 「舞 姫 」執 筆 の少 し 前 に、 こ の 「仏 界 易 入 魔 界 難 入 」 の書 かれ た 一行 物 を ど こ か で手 に入 れ 、そ し て、 こ の言 葉 に強 く 惹 か れ 、 こ の言 葉 の意 味す る と ころ を テ ー マとす べく 、 小 説.「舞 姫 」 の執 筆 に取 り か か った と 、 推 測 さ れ る。 そ れ は 先 程 述 べた 、 作 品 中 の品 子 の驚 きを 描 いた 部 分 か ら察 し ても 充 分 考 え ら れ る こ と であ る。 しか し 、 こ の作 品 が未 完 に終 って いる如 く に 、 川端 は こ の言葉 を 「舞 姫 」 の中 で は ま だ 自 分 のも のと は し て いな いよ うに思 え て な ら な い。 そ の様 子 は、 次 の部 分 の矢 木 と 品 子 の会 話 か ら も窺 え る。 こ の部 分 は、 「舞 姫 」執 筆 期 に 、「仏 界 易 入 魔 界 難 入 」 を 川端 が ど う 解 釈 し て いた かを 知 る重 要な 手 掛 か り にな る と思 わ れ る の で 、少 し 長 い引 用 にな る が 、注 目 し て み た い。

「お 父 さ ま 。 そ の 一休 の 、 仏 界 、 魔 界 は 、 ど う い ふ 意 味で す の ? 」
「こ れ か … … ? お も し ろ い 言 葉 だ ね。」
と 、 矢 木 は 静 か に 、 床 の 墨 跡 を 見 た 。
「お 父 さ ま の お る す に 、 品 子 ひ と り で 、 な が め て ゐ る と 、気 味 か 悪 く な つ た わ 。」
「ふう む … … ? ど う し て ?」
「仏 界 、 入 り 易 く 、 魔 界 、 入 り 難 し 、 と 読 む ん で す の ?
魔 界 つ て 、 人 間 の 世 界 の こ と … … ? 」

「人 間 の世 界 … … ? 魔 界 が ね ? 」
矢 木 は意 外 な やう に 、聞 き か へし た が、
「さ う か も し れ ん ね。 そ れ でも い いさ 。」
「人 間 ら し く 生 き る の が 、 ど う し て 魔 界 です の ?」
「人 間 ら し く と 言 ふ が 、 人 間 な ん て、 ど こ に ゐ る ? 魔
も のば か り か も し れ な い。」
「さ う 思 つ て、 お 父 さ ま は 、 こ の墨 跡 を 見 て ら つし や るの ? 」
「ま さ か … …。 こ こ に書 いてあ る 、 魔 界 は 、 や は り 魔 界な ん だ らう 。 お そ ろ し い世 界 だ。 仏 界 よ り も 、 入 り 難 しと言 ふ ん だ か ら ね。」

「お 父 さ ま は 、 お は いり にな り た いの ? 」
「魔 界 に は いり た いか と 、 ぼく に聞 く のか ね。 ど う い ふ意 味 の お た つ ね だ。」
矢 木 は 円 満 な 顔 で 、 柔 和 に ほ ほ ゑ ん だ 。
「お 母 さ ん は 、 仏 界 に は いる と 、 品 子 が き め て ゐ る のなら 、 ぼく は 魔 界 でも い いが … … 。」
「あ ら 、 さう ち や な いん です 。」
「仏 界 、 入 り 易 く 、 魔 界 、 入 り 難 し 、 と い ふ 言 葉 は 、 善人成 仏 す 、 いは ん や悪 人 を や 、 と い ふ言 葉 を思 い出 さ せる。 し か し 、 ち が ふやう だ。 一休 の言 葉 は 、 セ ンチ メ ンタ リ ズ ムを 、 し り ぞ け た のち や な い の か。 お 母 さ ん や 品子 の や う な 人 の 、 セ ンチ メ ン タ リ ズ ム を ね … … 。 日 本 仏教 の感 傷 や 、 好 情 を ね … … 。 き び し い戦 ひ の言 葉 か も しれ な い。 (略 )

こ の 二人 の会 話 に は 、何 か禅 問 答 を 思 わ せ る も の があ る。
品 子 が 疑 問 を 持 つの は当 然 であ る が、 掛 軸 を 手 に入 れ た 張本 人 の矢 木 に も 疑 問 は ぬ ぐ い去 れ な いよう で、 確 た る解 答は 示 し て いな い。 最 後 の部 分 の、 二 休 の言 葉 は 、 セ ン チメ ンタ リズ ムを 、 し り ぞ け た のち や な い の か。 お母 さ ん や品 子 の やう な 人 の、 セ ンチ メ ンタ リズ ムを ね … … 。 日本 仏教 の感 傷 や 、 拝 情 を ね … …。 き びし い戦 ひ の言 葉 かも し れな い。

とす る 中 に 、 か ろう じ てそ の解 答 ら し き も の が 語ら れ 、そ し て そ れ は、こ の時 期 に おけ る 川 端 の 、仏 界 易 入 魔 界 難 入 」 に対 す る考 え でも あ ろ う が 、 これ と ても 心 の底か ら の確 信 あ る 言 葉 と は 受 け 取 れ な いの であ る。 む し ろ 、あ れ や これ や と思 い迷 って いる形 跡 の方 が著 しく 感 じ ら れる。 矢 木 と 品 子 の こ のよ う な 会 話 は 、 いわ ば 川端 自 身 の内面 の自 己 問 答 と言 って よ いた ろう 。

結 局 、 「舞 姫 」 に お いて は 、 矢 木 と 品 子 の 会 話 か ら . 小さ
れ る よ う に川 端 は自 己 問 答 の域 を 抜 け 切 れな か った よ う に
思 え て な ら な い。 そ し て、 そ の こと が 作 品 「舞 姫 」を 未 完
にす る 原 因 、 結 果 と な った と は断 言 出 来 な いま でも 、 か な
り 大 き く 作 用 し て いる と 私 は考 え る。も う 一歩 「 仏 界 易 入
魔 界 難 入 」 の意 味 す る と ころ が 川端 の内 面 で肉 化 さ れ 、核
心 と な って いれ ば 、 波 子 を 竹 原 と の不 倫 の 恋 に突 っ走 ら せ
る こと も 出 来 た であ ろ う し 、 矢 木 に もう 少 し 強 いキ ャラ ク
タ ー を 与 え る こ とも 可 能 であ ったよ う に思 え る の だ。 矢 木
も 波 子 も 竹 原 も 「魔 界 」 に は は いらな いま ま 終 ってし ま っ
て いる の であ る。 「仏 界 易 入 魔 界 難 入」 が 川端 の内 面 で も う 一歩 深 化 、 肉 化 さ れ る に は 、 次 の 「み つう み 」 ま で待 たな け れ ば な らな か った よ う だ。



昭 和 二十 九 年 の 一月 号 か ら 十 二月 号 ま で の 「 新 潮 』 に 発 表 さ れ た 「み つう み 」 にな る と 、 「仏 界 易 入 ,魔 界 難 入 」の 「魔 界 」 思 想 は 、 川 端 の内 部 で相 当 に 深 化 、 肉 化 さ れ た痕 跡 が 見 え 、 作 品 世 界 そ のも のが 「魔 界 」 と いう ひ と つの小 宇 宙 を 形 づく って いる よ う な 観 を 呈 し て 来 る。 前 述 の「舞 姫」 の時 のよ う に 「仏 界 易 入 魔 界 難 入 」 の八 文 字 を 引 用 し て いる 部 分 は 】箇 所 も 無 く 、 ま た 、意 味 を あ れ これ考 え て いる部 分 の記 述 も ま った く 無 い。 徹 底 さ れな い規 則や 道 徳 ほ ど や か ま し く 言 わ れ る が如 く に、 「舞 姫 」 の中 では 数 多 く 用 いら れ て いた 八 文 字 も 、 こ の 「み つう み」 に なる と 、 用 いら れ て いる のは 「魔 界 」 と いう 二 文 字 だ け で、そ れ も 次 の二 箇 所 だけ でし か 使 わ れ て いな い。

@ 銀 平 があ の女 のあ とを つけ た の に は 、あ の女 にも 銀 平 に後 を つけ ら れ る も の があ った の だ。 いは ば 一つの同 じ 魔界 の住 人 だ った のだ らう 。

A 「人 間 のな か に人 とち が った魔 族 と い ふやう な も のが ゐて 、別 の魔 界 と いふや う な も の が あ る か も し れ ま せ んわ。」

そ し て、 @ に お いて は 「 魔 界 の住 人」 と いう 言 葉 が使 われ て いる よ う に 、 こ の作 品 の主 人 公桃 井 銀 平 は 、 外 側 から 「魔 界 」 を 眺 め て いる の で はな く 、 「 魔 界 」 の 中 に は い って いる 人 間 、即 ち 「魔 界 の住 人 」 な の であ る。 「舞 姫 」 の波子 は 竹 原 と の不 倫 の恋 に 突 っ走 るま で描 か れ な か った。 だが 、 教 え 子 玉木 久 子 と の不 倫 の恋 に陥 った 「みつ う み」 の銀 平 は 、 学 校 を 追 われ る と と も に実 生 活 を も 捨 て去 った。
そ れ か ら の銀 平 は 、 翻 訳 や代 書 と いう よ う な 不安 定 な 仕 事で わず か な 糧 を 得 な が ら 、 美 し く若 い女 の後 ば か り を 追 いま わす よう にな る。も と も と銀 平 に は こう いう 奇 癖 が あ り 、玉 木 久 子 と の ことも 、 銀 平 が久 子 の後 を つけ た こと か ら 端を 発 し て いる の であ った。 し かし 、 銀 平 は女 の後 を つけ てどう か し よ う とす る の で は 無 い。 た だ後 を つけ て 、 さ 迷 い歩 く だ け な の で あ る 。 そ の理 由 ら し き も のを 、銀 平 は ト ルコ風 呂 の湯 女 に こう 語 る。

「妙 な こ とを 言 ふ やう だ が 、 ほ ん たう だ よ 。 君 は お ぼ えが な い か ね。ゆ き ず り の 人 にゆ き ず り に別 れ てし ま つて 、あ あ 惜 し いと いふ … … 。 僕 に は よ く あ る。 な ん て好 も しい人 だ らう 。 な ん てき れ いな 女 だ ちう 、 こん な に心 ひ かれ る 人 は こ の世 に 二 人 と ゐ な いだ ろ う 、 さ う い ふ人 に道です れ ち が つた り 、 劇 場 で近 く の席 に座 り 合 は せ た り 、音 楽 会 を 出 る 階 段 を な ら ん で お り た り 、 そ の ま ま別 れ るとも う 一生 に 二度 と見 か け る こ とも 出 来 な いん だ。 か と言 つ て 、 知 らな い人 を 呼 び と め る こと も 話 し か け る ことも 出 来 な い。 入 生 つて こ ん な も のか。 さ う い ふ時 、 僕 は死 ぬ ほ ど かな し く な つて 、 ぼう つと気 が遠 く な つてし まふ ん だ。 こ の世 の果 てま で 後 を つけ てゆ き た いが、 さうも 出 来 な い。 こ の 世 の果 て ま で後 を つけ る と い ふ と 、 その人 を 殺 し て し ま ふし か な いん だ か ら ね。」

こ こ で 語 ら れ て いる よ う に、銀 平 に は銀 平 の美 学 があ る。
そ し て これ は 川 端 美 学 の ひと つと 言 え よ う が、 「こ の世 の
果 て ま で 後 を つけ て ゆ き た い」 と いう 衝 動 に従 って 、 銀 平
は た だ ひ たす ら に女 の後 を つけ てゆ く。 女 の美 し さ に だけ
ひ か れ て後 を つけ てゆ く の で あ る。 思 え ば ま こと に奇 妙 な
行 動 と言 わ ざ る を 得 な い。し か し こ の行 為 そ のも の中 に は、
既 に 「魔 界 の住 人 」とし て の行 為 が含 ま れ て いる と言 え る。
行 き 着 く 先 が 、 「こ の世 の果 てま で後 を つけ る と い ふ と 、
そ の 人 を殺 し てし ま ふし か な い 一と いう のな ら そ こは さ ら
に深 い 「 魔 界 」 の 深 淵 で こそ あ れ 、決 し て 「仏 界 」 な ど で
は無 い のだ か ら。
銀 平 の足 は猿 のよう に醜 い。 そ の 「醜 悪 な 足 が美 にあ こ
が れ て 哀 泣 し 、美 女 を 追 う の は 天 の摂 理 」である か のよう に、
銀 平 の行 動 は果 て し な く 続 いて ゆ く。 時 に は溝 に 隠 れ て女
の来 る のを 待 ち ぶ せ る と いう こと ま で や って のけ る。 銀 平
は 、 恥 も 外 聞 も 、実 生 活 の幸 福 を も 捨 て て 、 「僕 は 世 の底 へ落 ち て ゆく よ。^と語 る が 如 く 、 「魔 界 」に住 み 、 「魔 界 」を歩 き 、 「魔 界 」の人 間 た ら ん とし て いる の であ る。銀 平 の このよ う な行 為 と言 葉 の中 には 、 一見 、 敗 北 者 、 現 実 逃避 者の面 影 が 漂 って いる よう にも 見 え る。 し かし 、 実 生 活 の平安 を 捨 て、進 ん で 「魔 界 の住 人 」た ら ん と す る こと は 、 「センチ メ ンタ リ ズ ム 」も 「感 傷 」 も 「仔 情 」 も 退 け な け れ ば出 来 な い こと であ り 、 単 な る弱 者 の生 き 方 と いう こ と は出来 な いだろ う 。 む し ろ 、 誰 も 望 ま な い、 誰 も 真 似 ら れな いひ と つの反 逆 的 生 き 方 と は言 え な いだ ろう か。 ひた す ら に美 を 求 め 、美 の追 求 の為 な ら 実 生 活 も 平 凡 な 幸 福 も 拠 つという 作 者 の内 に秘 め ら れ た 信 念 が こ の 銀 平 と いう フ ィ ルタ ー を 通 し て 浮 び上 って来 る の であ る。 銀 平 は 屈 折 さ れ た川 端 の化 身 であ り 、 「仏 界 易 入 魔 界 難 入 」の 「魔 界 」思 想を 川 端 は銀 平 に託 し て み ご と に 示 し た と 言 え る だ ろ う 。

「「み つ う み 』 の銀 平 は 、 『美 』 の探 求 者 川端 康 成 の最 も 深い意 識1 『魔 界 』 と いう 、 場 合 に よ って は作 家 と し て の存在そのも のを脅かすかも知れぬ危険 にみちた世界に住みつづ け よ う と す る意 識1 を そ の ま ま 分 ち も った 、 悪 魔 的な 美 を 探 索 す る 実 践 者 な の であ る 。 こ の意 味 で銀 平 は 、 それ ま で の 川端 作 品 中 、 最 も 作 者 に近 い存 在 、と いう よ り も 、川 端 康 成 自 身 な の であ る。」 (「川 端 康 成 『み つう み』 私 論 」


昭 和 4 8 ・9 『函 』)と 、森 本 穫 氏 も 銀 平 と 川 端 の重 な り合
いを 指 摘 し て いる 。 銀 平 の不 可 解 行 為 を 川 端 自 身 の視 点 に
立 って描 いた と思 わ れ る 「み つ う み 」 を みる と 、 川 端 康 成
に おけ る 「魔 界 」 思 想 は 、 「仏 界 易 入 魔 界 難 入 」 の言 葉
こそ 用 いら れ て は いな いが 、川 端 の内 面 で充 分 に肉 化 さ れ 、
か つ表 現 さ れ た と 言 え る の で はな か ろう か。
「み ず う み」 に よ っ て 深 化 、 肉 化 さ れ た 「魔 界 」 思 想 は 、 「眠 れ る 美 女 」 (昭 和 3 5 ・1 〜 3 6 ・1 1 『新 潮 』) に な る と 一層 深 ま り を 見 せ て いる 。 と いう よ り も 燗 熟 の観 が著 しく 窺
わ れ る と 言 った方 が 適 切 か も 知 れな い。 こ の作 品 も 「み つ
う み 」 と 同 じ く 、 「仏 界 易 入 魔 界 難 入 」 の 言 葉 は 一箇 所
も 使 わ れ て いな いが 、作 品 世 界 を 形 づ く って いる も のは や
は り 一種 の 「魔 界 」 と言 え る の であ る。

波 の音 が、 高 い崖 を 打 つよう に荒 く 聞 え 、 「深 紅 の び ろ
う ど のか あ て ん 」 に象 徴 さ れ る 館 は 、 老 人 達 を 「魔 界 」 へ
いざ な いゆ く 館 な の であ る。 作 品 の展 開 は こ の極 め て閉 塞
状 況 のも と にあ る館 の内 部 だ け に限 ら れ 、 眠 れ る美 女 を 弄
ぶ老 人達 は 、 訪 れ つ つあ る 死 の足 音 に耳 を 傾 け な が ら 、 一
夜 の逸 楽 に身 を 任 せ 、過 ぎ 去 り し昔 日 の思 い出 を 回 想 す る。
そ こに は も はや 何 の発 展 性 も 救 いも 無 い。 前 後 不 覚 に 眠 ら
さ れ た 眠 れ る 美 女 と の精 神 的 交 流 も 、 互 い の感 応 を 前 提 と
す る 「愛 」 の浸 潤 も 許 さ れ て は いな い。 「女 の 子 を 起 こ そ
う と な さ ら な いで 下 さ いま せよ 。 ど ん な に起 こそう と な さ
っても 、 決 し て目 を さ ま し ま せ ん か ら … …。 女 の子 は深 あ
く 眠 って いて、な ん にも 知 ら な いん です わ。」 と 、宿 の女 の
語 る と ころ のタ ブ ー が 、 こ の作 品 の官 能 に抑 制 を 与 え る 鍵
と な って いる。 江 口老 人 は 男 とし て の機 能 を 失 って いな い
に も か かわ らず 、 こ のき ま り を 最 後 ま で守 る の で あ る 。
「起 き な い の? 起 き な い の? 」 と 、娘 の肩 を ゆ さ ぶり 、
頭 を持 ち あ げ よう と 、 娘 はあ い変 ら ず 眠 り続 け 、 江 口老 人
の存 在 は み じ ん も 通 じ な い の であ る が 、 し か し ま た 、 一方
的 な交 渉 であ る が ゆ え に、 「秘 仏 と寝 る よ う だ。」 と 語 る木
賀 老 人 の言 葉 に示 さ れ る よ う な 無 気 味 な 密 室 の エ ロチ シ ズ
ム と 安 堵 感 も 逆 に存 在 す る こ と にな る。 三 島 由 紀 夫 は こ の 「眠 れ る美 女 」を 、 「形 式 的 完 成 美 を 保 ち つ つ、熟 れ す ぎ た
果 実 の腐 臭 に 似 た 芳 香 を 放 つ デ カ ダ ン ス文 学 の逸 品 で あ
る。」 (新 潮 文 庫 「眠 れ る美 女 」 解 説 )と 評 し 、 ま た 、作 品
世 界 を 「絶 対 無 救 済 の世 界 」 とし て いる が 、 親 驚 流 の解 釈
を す る と こ の絶 対 無 救 済 こそ 「救 いし な の かも 知 れ な い。
「眠 れ る美 女 」 が巣 な る 官能 小 説 に終 って いな い のは 、 官
能 の対 象 であ る娘 は ど こま でも 無 言 であ り 、 老 人 達 が 何 を
語 り か け よ う と 、 ど ん な願 いを か け よ う と 返 事 を す る こ と
の な い娘 の 「秘 仏 」的 描 か れ方 が あ った か ら とも 言 え よ う 。
こ の 一線 と 、 江 口老 人 の 一線 が破 れ る と 、 「眠 れ る美 女 」の
世 界 は 、 「熟 れす ぎ た果 実 の腐 臭 に似 た 芳 香 」 も 放 た な く
な り 、 「形 式 的 完 成 美 」も 崩 れ 、奇 妙 で珍 腐 な 作 品 と な った
こと だ ろ う 。 老 人 と眠 れ る美 女 と が 、本 質 的 には 没 交 渉 で
あ る と いう 無 救 済 こそ が 、 作 品 「眠 れ る 美 女 」 の救 いであ
り 、 「デ カダ ン ス文 学 の逸 品 」た る由 縁 と 言 え る の であ る。
先 程 も 述 べた が 、 「眠 れ る美 女 」 で は 、 「み つ う み」 の時
と 同 じ よ う に 、 「仏 界 易 入 魔 界 難 入 」 と いう 言 葉 は ま っ
た く 使 わ れ てお らず 、 「魔 界 」 と いう 言 葉 だ け が 、や は り
次 に引 用す る 二箇 所 で 用 いら れ て いる。


@ 男 を 「 魔 界 」 に いざ な ひゆ く の は女 体 のや う であ る。
A 「老 い ぼ れ の 死 は み に く い ね 。か も し れ ん が … … 。 いや い や 、落 ち て ゐ る よ 。」

ま あ 、 幸 福 な 往 生 に近 い
き つとそ の老 人 は魔 界 に
「み つう み」 の銀 平 が 、 美 し い女 の後 を つけ る よ う に 、
江 口老 人 も 美 し い眠 れ る 美 女 を 弄 ぶ。 「肉 体 の 一部 の 醜 が
美 にあ く が れ て哀 泣す る の だ らう か。 醜 悪 な 足 が美 女 を 追
ふ のは 天 の摂 理 だ らう か。」とす る 「み つ う み 」 で の 表 現
の延 長 線 ヒ に浮 ぶ の が、 @ の 「男 を 『 魔 界 』 に いざ な ひゆ
く のは 女 体 の やう であ る 。」 と いう 「眠 れ る 美 女 」 で の 表
現 であ ろ う 。 銀 平 のよ う な 足 の醜 さ は 無 い が 、 「眠 れ る 美
女 」 で は老 い の醜 さ があ る。 そ し て、 「み つ う み 」 で は 描
か な か った 「死 」 と いう も のが 、 こ の作 品 で は さ ら り と書
き 流 さ れ て いる の であ る。 ひ と つは老 人 福 良 専 務 の 死 であ
り 、 も う ひ と つは、源 氏 物 語 の夕 顔 の死 を 思 わ せ るよ う な 、
黒 い娘 の死 が そ れ であ る。 二 人 とも 他 者 の手 によ って殺 さ
れ た ので は な く 、 変 死 と 言 え る 突 然 の死 な の だ が 、 「こ の世
の果 て ま で後 を つけ る と いふ と 、 そ の人 を 殺 し て し ま ふし
かな い」と し た 、 〔み つう みL で の銀平 の言 葉 は 、 幾 分曲 折
さ れ て は いる も の の 、 「眠 れ る美 女 」 に 至 っ て は と う と う
実 現 さ れ た と言 え る だ ろ う。 こ こま で来 る と、 川端 康 成 に
お け る 「魔 界 」 思 想 も 欄 熟 を 迎 え 、 遂 に来 る所 ま で来 た と
いう 感 を 禁 じ 得 な い の であ る。 「眠 れ る 美 女 」 は 、そ の頂 点
に立 つ作 品 のよ う な 気 がす る。

成 住 壊 空 が森 羅 万 象 を 貫 く 法 則 で あ る か のよ う に 、 「舞
姫 」 に よ って導 入 さ れ 、 「み つう み」 お いて 深 化 、 肉 化 さ
れ 、 「眠 れ る 美 女 」に至 って燗 熟 の様 相 を 見 せ た 川 端 の 「魔
界 」 思 想 も 、 「た ん ぽ ぽ 」 ま で た ど り つく と 、 も は や 崩 壊
の観 を 漂 わ せ て い る。

「た ん ぽ ぽ 」 は 、 昭 和 三 十 九 年 六 月 か ら 、 昭 和 四 十 三 年
十 月 ま で 、 「新 潮 』 に断 続 掲 載 さ れ た も の であ る が 、そ れま
で の川 端 に は 見 ら れ な か った 、 延 々 と 長 い会 話 ば か り の続
く 、明 ら か に 失 敗 作 と見 ち れ る作 品 であ る。 「山 の音 」 等 に
見 ち れ る 余 情 の こも った 文 章 は ど こ にも 見 あ た らず 、 極 め
て饒 舌 とな って いる ば か り か 、何 を 言 わ ん とし て いる の か
さ え は っき り し な い。 そ し て 、 ノ ー ベ ル賞 受 賞 騒ぎ も 加 わ
って か 、 こ の作 品 も ま た未 完 に 終 って いる。
こ の作 品 は 、 人 体 欠 視 症 と いう 、 人 の身 体 か時 々見 え な
く な る 病 を 持 つ木 崎 稲 子 が 、 生 田 に あ る気 違 い病 院 に 入 院
す る。 そ し て、 稲 子 の人 院 に 同 行 し た稲 子 の母 と 、 稲 子 の
恋 人 久 野 と の、 見 送 り の帰 り道 にか わ す 会 話 か ら 、 物 語 の
発 端 が 始 ま る。 こ の 二人 の会 話 と いう も の が 、 「た ん ぽ ぽ」
の大 部 分 を 占 め 、 そ の中 で稲 子 の病 状 の こ と 、 子 供 の頃 の
こと 、 幼 く し て 死 ん だ 父 親 の こと 、 ま た 、 気 違 い病 院 で見
た 西 山 老 人 の こと な ど が語 ら れ る わ け であ る。 稲 子 の病 状
が 一番 最 初 にあ ら わ れ た の は 、高 校 二 年 の卓 球 の試合 中 で
あ った。 試 合 で の 打 ち 合 いの最 中 に 、 突 然 ピ ンポ ン球 が 見
え な く な ってし ま った の であ る。 ほ か のも の は見 え て いる
の に、 ピ ンポ ン球 だけ が 見 え な く な った の であ る。 稲 子 の
母 は 気 の せ いだ と、 稲 子 を な だ め た が 、 そ れ は や は り 人体
欠 視 症 の初 期 症 状 な ので あ った。 そ し て 、 そ の症 状 は や か
て 進 み 、 人 の身 体 が見 えな く な る と いう と ころ ま でゆ く の
であ る 。 稲 子 と 久 野 は恋 人 と な った。 そ の久 野 と の愛 の時
に 、 時 々久 野 の肩 や 口 が見 え な く な る と いう 事 態 が起 り 、
久 野 は 反 対 し た が 、 稲 子 の母 は 決 局 稲 子 を 、生 田 の気 違 い
病 院 へ いれ る こと にし た のだ った。 一た ん ぽ ぽ L の最 後 の
部 分 は 、 久 野 が 稲 子 を 見 送 り に 行 ったそ の夜 、 稲 子 の母 と
泊 り の宿 でも 長 い会 話 を か わす か 、 そ の会 話 を 終 え 、 一人
床 に 就 く と 、稲 子 が 「あ あ 、 久 野 さ ん が見 えな い。 見 え な
く な つたわ。」 と 言 った 過 去 の こと を 想 い起 し 、そ の時 の様
子 を 描 く 途 中 で中 断 さ れ て いる。
スト ー り ー の展 開 も 、 人 体 欠 視 症 な ど と いう こ の世 にあ
る の か 無 い のか わ か ら な いよう な 病 名 の設 定 も奇 妙 で 、 作
品 の 価 値 とし て はあ ま り 注 目 す る に は 及 ばな いと 思 う が 、
作 中 人物 の 一人 とし て 注 目 し た い人物 が ひ と り いる 。 そ れ
は 気 違 い病 院 に いる 西 山老 人 の存 在 であ る 。
た と へば 、 病 院 の主 のや う な 西 山老 人 は 、本 堂 の畳 に
紙 を ひろ げ て 大 き い字 を 、 よ く書 いて ゐ る。 白 い日本 紙
や 唐 紙 が、 こ の老 狂 人 の手 に さ う は いち な い の で、 古 新
聞 に書 いて ゐ る こ と が多 い。
(仏 界 易 入 魔 界 難 入 )書 く 字 は た い て い こ の 八 字 で
あ る。 西 山 老 人 自 身 は これ を 、 「仏 界 、 入 り や す く 、 魔
へ界 、 入 り が た し。」 と読 ん で ゐ る 。 老 人 は 白 内 障 で 目 が 霞 ん で ゐ る が 、 そ の書 は 力 があ る。 俗 気 、 匠 気 が な い。
し かし 、 狂 気 は あ る か。 騒 が し い字 で は な く 、 気 ち が ひ
ら し い字 でも な いが、 よ く 見 て ゐ る と 、 狂 気 あ る ひ は魔
気 が ひ そ ん で ゐ さ う に は思 へる。 西 山老 人 は人 生 のあ る
時 に 、魔 界 に は いら う と つと め て 、魔 界 に は は いり が た
か つた 、 そ の痛 恨 が 、 狂 つた老 後 の字 にも あ ら は れ る の
か も し れ な い。 西 山 老 人 の 「魔 界 」 と は ど のやう な も の
であ つた か 、 と に か く 、 人 生 のあ る時 に そ の 「魔 界 」 に
は いらう と し た ね が ひ は 、 彼 を 狂 は せ た ほ ど の痛 ま し さ
で は あ つた のだ ら う 。 西 山老 人 は 気 ち が ひ病 院 を 魔 界 だ
な ど と は考 へて ゐ な い。 魔 界 によ う は いれ な か つた 、 人
た ち の避 難 所 、休 息 所 と いふ ほど に も考 へて ゐな いだ ら
・つ 。
こ こ に描 か れ て いる 西 山老 人 も 、 「み つう み 」, の桃 井 銀
平 の時 と 同 じ よ う に 、 や は り 川端 の化 身 と 言 え る よ う であ
る 。 雑 誌 の挿 入写 真 等 に、 川端 が 「仏 界 易 入 魔 界 難 入 」
の文 字 を 揮 毫 し て いる 姿 や 、書 か れ た文 字 が 出 て いる が 、
こ の 「た ん ぽ ぽ」 を 読 ん で 、 写真 の川 端 と 照 ら し 合 せ て み
る と 、あ ま り にも 一致す る の で無 気 味 な 思 いがす る 。 白内
障 であ る と ころな ど も 非 常 に良 く似 て いる。
こ の西 山 老 人 が 、 人 生 のあ る時 に 、 一 , 魔 界 」 に は い ろ う
と つと め た が は いり が た く 、 そ の願 いは 彼 を 狂 わ せ た あ げ
く 、 気 違 い病 院 の中 で 「仏 界 易 入 魔 界 難 入 」 の文 字 ば か
り を 書 い て いる と いう 設 定 、ま た 、 「た ん ぽ ぽ 」全 編 の作 品
形 態 か ら 見 て、 川端 の 「魔 界 」 思 想 も 、 も は や こ の時 期 に
お いて は 、 終 焉 を 告 げ て いる と は考 え ら れ な いだ ろ う か。
川 端 が 「 魔 界 」 思 想 を 、 己 れ の内 部 にし っか り と 保 ち 続 け
て いる のな ら 、 こ のよう な 西 山老 人 の設 定 も 作 品 形 態 も 、
あ り 得 な か った と思 わ れ る のであ る。 次 に引 用す る 部 分 か
ら も 、 さ ら に そ の こと は裏 付 け ら れ る よ う に思 う 。
気 ち が ひ たち も 西 山 老 人 を は ば か る け は ひ が あ つて 、
話 し かけ る患 者 はす く な い。 も し 木 崎 稲 子 が老 人 に 近 づ
く と な る と 、稲 子 は 声 がき れ いだ か ら 、 老 人 を よ ろ こば せ
る だ ら う か。 し か し 、 を か し な こと か お こる か も し れ な
い。 人 体 欠 視 症 の稲 子 は 、 西 山 老 人 の か ら だ が全 く 見 え
な く て 、 た だ 、 筆 が 動 いて (仏 界 易 入 魔 界 難 入 ) と字 を
書 く のが 見 え る。 そ んな こと がな いと は か ぎ ち ぬ。 そ し
て 、 稲 子 に 老 人 の姿 が見 え な いで 、 筆 と字 と だ け が 見 え
る と 、老 人 に わ か れ ば 、あ る ひ は 西 山 老 人 は 、 今 こそ 自
分 が 魔 界 には いれ た と 、欣 喜 勇 躍 す る の では な いだ ら う
か。 いや 、 西 山老 人 の 「 魔 界 」 と は 、 そ ん な な ま や さ し
いも の で な いか も し れ な い。 し か し 、 精 神 の老 衰 に つれ
て、 西 山 老 人 の魔 界 も 老 衰 し て ゐ る か も し れな い。 若 い
娘 の稲 子 によ つて 、 た わ いな く魔 界 に み ち び か れ て ゆ く
か も し れ な い。 も う そ れ は 、 そ こ に は いり が たく て気 が
狂 ふ と いふ ほ ど の魔 界 では な い かも し れ な い。
「西 山老 人 のか ら だ が全 く 見 え な く て 、 た だ 、 筆 が 動 い
て (仏 界 易 入 魔 界 難 入 )と 字 を書 く のが 見 え る。」 と いう
表 現 な ど は 、 文 字 の み あ って内 実無 し と いう 感 がす る し 、
「精 神 の老 衰 に つれ て 、 西 山 老 人 の魔 界 も 老 衰 し てゐ る の
かも し れ な い。L とす る のは 、 偽 ら ざ る 川 端 の本音 のよう な
気 が し て な らな い のだ。 「舞 姫 」 、 「み つ う み 」、 「眠 れ る美
女 」 と 、 段 階 を 追 う ごと に深 ま りを 見 せ て来 た か に思 わ れ
る 「魔 界 」 思 想 も 、 「た ん ぽ ぽ 」 に 及 ん で は 、 そ の 形 骸 化
さ れ た 文 字 だけ が残 さ れ て、 肉 とな り 、 血 とな った部 分 は
ど こ にも 見 あ た ら な いの であ る。 「仏 界 易 入 魔 界 難 入 」
の響 き は 、 祇 園 精 舎 の鐘 の声 のよう に、 た だ空 し く響 く だ
け で あ る。
川嶋 至 氏 は 、 こ の作 品 を 通 し て 、 「『た ん ぽ ぽ』 を書 く 川
端 氏 のう ち に 、 芸 術 至 上 の 立場 に 対 す る懐 疑 が あ った の で
はな いか と いう こと であ る。 芸 術 の美 神 の前 に い っさ いを
捧 げ 、 そ の た め に現 実 か ら遊 離 す る のも ま た や む を 得 な い
とす る の が 、 川 端 氏 の つら ぬ いてき た道 で あ った。 (中 略 )
だ が そ の立 場 が 、 晩 年 にな っ てぐ ら つく よ う な こと があ っ
た のではな いか。し (「 美 神 の反 逆 『た ん ぽ ぽ 』」昭 和 4 7 ・
7 『新 潮 』) と いう こと を 述 べ て いる か、氏 の言 う 「芸 術 至
上 の立 場 に 対 す る懐 疑 」、 「ぐ ら つき 」を 、 私 は 川 端 の内 部
にお け る 「魔 界 」 思 想 の崩 壊 と 捉 え た い のだ。 戦 後 の 川端
にと って 、 「 魔 界 」 思 想 は非 常 に重 要 な 思 想 であ り 、創 作 の
原 動 力 、 核 と な って来 た と考 え ら れ る 。 し か し 、 そ の 「魔
界 」 思 想 も 、 川 端 は遂 に最 後 ま で持 ち 続 け る こと は出 来 な
か った 。 そう いう 現 わ れ か 、 「た ん ぽ ぽ 」 に お け る 西 山 老
人 のよ う な 形 と な って 表 現 さ れ たよ う に思 え る の であ る。

以 上 、作 品 に 則 し て 、 川 端 康 成 に お け る 「 魔 界 」 思 想 と
は 如 何 な る も の であ った か を 見 て来 た わ け で あ る が 、最 後
に 、 ノ ー ベ ル賞 受 賞 記 念 講 演 「 美 し い日 本 の私; ー そ の序
説 l 」 の中 で 、 「仏 界 易 入 魔 界 難 入 」 に つ い て 語 ら れ
て い る と ころ を 引 用 し て 、 そ のま と め を し て みた い。 川端
は 次 のよ う に語 って いる。

私 も 一休 の書 を 二 幅 所 蔵 し て ゐま す 。そ の 一幅 は 、 「仏
界 入 り 易 く 、 魔 界 入 り 難 し 。」 と 一行 書 き です 。私 は こ の
言 葉 に惹 か れ ます か ら 、 自 分 でも よ く こ の 言葉 を 揮 毫 し
ます 。 意 味 は いろ いろ に読 ま れ 、 ま た む ず か し く 考 へれ
ば 限 り が な い で せう が 「仏 界 入 り 易 し 」 に つづ け て 「 魔
界 入 り 難 し 」 と 言 ひ加 へた 、 そ の禅 の 一休 が 私 の胸 に来
ま す 。 究 極 は真 ・善 ・美 を 目 ざ す 芸 術 家 に も 「魔 界 入 り
難 し 」 の願 ひ 、恐 れ の 、 祈 り に通 ふ思 ひ が、 表 にあ ら は
れ 、あ る ひ は 裏 に ひ そ む の は 、運 命 の必 然 であ り ま せう 。
「魔 界」 な く し て 「仏 界 」 は あ り ま せ ん。 そ し て 「 魔 界 」 に 入 る 方 が む つ か し い の です 。 心 弱 く て でき る こと で は
あ り ま せ ん。
こ の 「美 し い 日本 の私 1 そ の序 説- ー」 に 語 ら れ る と
ころ と 、 今 ま で 見 て来 た作 品 への投 影 のさ れ 方 を 考 え合 わ
せ て み る と 、 川端 にお け る 「魔 界 」 思 想 は 、 い っそ う 明 ら
か に な る よ う に思 わ れ る。
「私 も 一休 の書 を 二 幅 所 蔵 し てゐ ま す。 そ の 一幅 は 、 『仏
界 入 り 易 く 、 魔 界 入 り 難 し 。』 と 一行書 き です 。」 と、 語 る
と ころ か ら も 推 察 さ れ る が、 川 端 は 「舞 姫 」 の執 筆 に取 り
か か る 少 し 前 に 、 一休 の印 のあ る 「仏 界 易 入 魔 界 難 入」
の書 を 、 ど こ か で手 に入 れ た のだ ろう 。 そ し て こ の言 葉 に
強 く 惹 か れ 、 創 作 の原 動 力 と し な か ら 、 川 端 の内 面 に お い
て は次 第 に深 化 し て行 った。そ れ は 、 「究 極 は真 ・善 ・美 を
目 ざ す 芸 術 家 に も 、 『 魔 界 入 り 難 し 』 の願 ひ 、恐 れ の、祈 り
に通 ふ思 ひ が 、 表 にあ ら は れ 、あ る ひ は裏 に ひ そ む の は 、
運 命 の必 然 で あ り ま せう。 『魔 界 』 な く し て 『仏 界 』 は あ
り ま せ ん。 そ し て 『 魔 界 』 に 入 る 方 がむ つ か し いの です 。
心 弱 く て でき る こと で はあ り ま せ ん。」 とす る よ う に、芸 術
家 と し て の 川端 にと って は、 創 作 信条 のよ う な も の にま で
な って いた と考 え ら れ る。 己 れ の現 世 的 な 幸 福 な ど 一切捨
て て 、芸 術 の追 求 の為 な ら地 獄 であ ろ う と魔 界 であ ろう と 、
ど こま でも の め り 込 ん で ゆく 。 魔 界 に は感 傷 も 打 情 も 救 い
も 無 いかも 知 れ な い。 し か し そ こ に は い って ゆ かな け れ ば
つか む こと の出 来 な い深 い芸 術 の境 涯 も あ ろう し 、 そ こに
は い った も の だ け し か 垣 間 見 る こ と の出 来 な い何 も の か も
存 在 し よ う 。 「仏 界 」 と いう 世 界 が、悩 み も 苦 し み も 無 い幸
福 な 世 界 であ る と す る な ら 、 「仏 界 」 ば か り を 指 向 し て い
れ ば 、人 間 の実 存 な ど つか めよ う は ず は な い。 「魔 界 」 と い
う カ オ ス の世 界 、食 碩 擬 の煩 悩 が は び こり 、 愛 欲 の火 炎 渦
巻 く 無 明 の世 界 、 そ れ を凝 視 め 、 そ こ に 入 って ゆ か な け れ
ば 、 如 何 な る 綺 麗 ご と を 言 った と ころ で 、 所 詮 そ れ は 上 べ
だ け のも の であ る。 よ り 深 く 、 よ り 本 質 的 な も のを つか む
に は 、 「仏 界 」 か ら 「 魔 界 」 を 見 て いた の で は 駄 目 な の で
あ る 。 「 魔 界 」 の深 淵 に ど っぷり つか り 、 「魔 界 の住 人 」 と
な って 、 「魔 界 」 の真 っ只 中 か ら つか み 取 っ た も の こ そ 真
実 のも の であ り 、 そ れ こそ 真 の 「仏 界 」と 言 え る。 「『魔 界 』
な く し て 「仏 界 』 は あ り ま せ ん。」 と し た 川 端 の 真 意 は そ
こ に通 じ よ う し 、 川端 に おけ る 「仏 界 易 入 魔 界 難 入 」 の
受 け 止 め 方 、 指 向 の仕 方 も 、 以 上 に述 べた よ う な も の で は
な か った だ ろ う か。 そ し て、川端 は こ の思 想 の展 開 と し て 、 「舞 姫 」 を 創 作 し 、 「み つう み」 を 創 作 し 、 「眠 れ る美 女 」
を 創 作 し た。 ま た 、 実 生 活 に お い ても 展 開 す る よ う 心 掛 け
た か も 知 れ な い。し かし 最 晩 年 に至 る ま で 、川 端 は こ の 「 魔
界 」 思 想 を 己 れ の内 部 に保 持 し 、 「魔 界 」 と の戦 い に 勝 つ
こと が 出 来 た であ ろう か。 否 であ る。 「た ん ぽ ぽ 」 と いう
作 品 形 態 、 ま た そ こ に描 か れ た 西 山老 人 の姿 か ら 想 像 し て
ヂ    も 、 否 と 言 わ ざ る を得 な いの であ る。 川 端 の 晩 年 の奇 行 、
奇 言 な ど か ら み て も 、 明 ら か に 「魔 界 し思 想 と の戦 いに敗
れ た と言 え る し 、 「魔 界 一思 想 を 保 ち 続 け る こ と は 出 来 な
か った と 言 え る の であ る。 「仏 界 易 入 魔 界 難 入 」は 、川 端
に と って 、そ の芸 術 創 作 の 原 動 力 と し て最 も 大 き く 作 用 し 、
ま た 、実 生 活 上 の底 流 と し て も作 用 を 及 ぼ し た こ と だ ろう 。
だ が 、 こ の思 想 に 徹 し 切 る こと は 、 川 端 に は 少 し 荷 が重 す
ぎ た よ う だ。や は り 「魔 界 」は 入 り 難 か った の であ ろ う か。
「仏 界易 入 魔 界難入
」と は、考 えれば考 える 程 、無 気 味 で 不思 議な力 を持 つ言葉 であ る。 川端 だけ でな く、誰 人と て、この
思 想 に徹 し 切 る ことな ど 至 難 の業 であ ろ う 。 し か し 川 端 は
こ の思 想 に挑 戦 し た。わず か 八 文 字 の中 に深 い哲 理 を 語 り 、
一人 の 芸 術 家 を 揺 り 動 か し た 一休 の凄 さ も さ る こ とな が
ら 、 敗 れ た と は 言 え、 そ の哲 理 に挑 戦 し 、 創 作 の原 動 力 と
し た 川 端 の芸術 家魂 にも 目 を 見 張 る も の が あ る。 川 端 康 成
は多 様 な 作 家 で、 戦 後 の 川端 を 語 る だ け で も 一様 に は ゆ か
な い。し か し 、少 な く と も 、戦 後 の川 端 を 語 る に あ た って 、
この 「仏 界 易 入 魔 界 難 入 」 だ け は 抜 き に し て 考 え ら れ な
いよ う に思 え る のた。 そ れ程 ま で 、 こ の言 葉 と 川 端 と の間
に は 深 い関 わ り かあ った も の と私 は 受 け 止 め て いる。


(1 ) 一休 の言 葉 であ る こと は ほ ぼ確 実 であ ろ う か 、 確 か
な 証 拠 は無 い。 「狂 雲 集 」、 「一休 骸 骨 」、 「山林風 月集」、
「自 戒 集
」等 を 散 見 し て み た が 、 「仏 界 易 入 魔 界 難 入 」 の 文 字 は見 あ たら な い。 た だ 、 「狂 雲 集 」 に は 、 「仏 界
退 身 魔 界 場 」 捌 、 「仏 界 伎 窮 魔 界 収 し 脚 、 「仏 界 休 時 魔
界 収 」 蹴 、等 の や や 近 い表 現 は 見 受 け ら れ る。


(2 )選 挙 活 動 や 、 テ レ ビ の C M 出 演 な ど 、 孤 独 を 好 む 川
端 にし て は我 々 の理 解 を 超 え た行 動 であ った、 ま た、
今 東 光 の語 る 次 のよう な エ ピ ソー ド も あ る。
「川端 の奇 異 な 行 動 の 一つと し て挙 げ ら れ る 秦 野 章 の
選 挙 戦 の 瑚 ホテ ル で按 摩 を 取 って いる時 、 突 然 、 起 き
あ が って扉 を 開 け 、
『や あ 。 日蓮 様 よ う こそ 』
と 挨 拶 し 、 そ れ が 終 る と ま た ベ ッド に戻 って 治 療 を
受 け て いる最 中 、 ま た し て も 、
『風 呂 場 で音 が し ま す 』
と ⇒ . 己いな が ら 飛 び 出 し て 行 って、
『お う 。 三 島 君。 君 も 応 援 に来 てく れ た か 』
はだえ と 話 す のを 聞 いて按 摩 は ぞ っと寒 気 が し て膚 に粟 を
生 じ 早 々と 逃 げ 帰 った のを 、 彼 は何 でも な いよう に人
人 に語 って いる のを聞 いて彼 の異 常 さ に驚 いた と いう
こ と か僕 にも 伝 え ら れ た が 、 僕 も あ の都 知 事 選 の最 後
の 日 、 川端 に頼 ま れ て 一緒 に宣 伝 車 に乗 った の で 、彼
から も に こ に こ と笑 いな が ら 、

『日 蓮 上 人 が 僕 の身 体 を 心 配 し てく れ て る ん た よ 、 佐
藤 総 理を は じ め自 民 党 の連 中 は僕 の身 体 を 案 じ て 、大
変 でし ょう と 慰 め て く れ る が、 これ は 慰 め にも な ら な
いよ。 そ れ ほ ど心 配 な ら初 め か ら選 挙 戦 み た いな も の
に引 張 り出 さ な き ゃ好 いじ ゃな いか』

と言った (本 当 の自殺 を し た 男 ‥昭 和 4 7 ・6『文 藝 春 秋』
https://www.google.co.jp/webhp?hl=ja#hl=ja&q=%E5%B7%9D%E7%AB%AF%E5%BA%B7%E6%88%90%E3%81%AB%E3%81%8A%E3%81%91%E3%82%8B+%E3%80%8C%E9%AD%94%E7%95%8C%E3%80%8D%E6%80%9D%E6%83%B3&spf=1
http://www.asyura2.com/09/revival3/msg/574.html#c57

[リバイバル3] 湯沢町の共同湯は日本国内の温泉の中で最低最悪 中川隆
58. 中川隆[7807] koaQ7Jey 2017年4月17日 08:03:33 : b5JdkWvGxs : DbsSfawrpEw[8297]


川端康成が藤圭子にセクハラをしていたことをどう考えますか

川端の自殺は私へのセクハラに関係があると言っていたそうですが・・・
https://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail/q10112817570

川端康成が藤圭子さんのファンであったことを、NHKラジオ深夜便で『川端康成と女たち』という生誕100年記念座談会である文芸評論家が言及していました。

『天授の子』(川端康成:新潮文庫)の年譜より引用:

「昭和四年(1929年)三十歳、日本最初のレビュー劇場として旗あげしたカジノ・フォーリーの文芸部員島村龍三(黒田義三郎)を訪ね、踊り子たちと知るようになる。

多量の取材ノートを取って、十二月から第二作目の新聞小説「浅草紅団」を連載したが、(後略)」

この「浅草紅団」に登場する女性が川端氏の創作した女性でしたが、デビュー当時の藤圭子さんに非常に似ていたため、川端氏が彼女の熱烈なファンになり、ゴシップになっていたそうです)
https://marugametorao.wordpress.com/2005/05/18/%E5%AE%87%E5%A4%9A%E7%94%B0%E3%83%92%E3%82%AB%E3%83%AB%E3%81%AB%E9%96%A2%E3%81%99%E3%82%8B%E3%82%AF%E3%82%A4%E3%82%BA%EF%BC%9A%E3%83%92%E3%82%AB%E3%83%81%E3%83%A5%E3%83%BC%E5%BA%A6%E5%88%A4%E5%AE%9A/

藤圭子の「母」と「川端康成」を書いた

By 牧 太郎2013年9月2日旧_編集長ヘッドライン日記

 きょう(9月2日)東京地区発売のサンダー毎日で「僕が封印した藤圭子の『母』と『川端康成』」を書いた。

 藤圭子が投身自殺して以来、「あの事」を墓場まで持って行くべきか?悩んだ。

 「高度成長と全共闘」の時代を「藤圭子の存在」を通じて描こうとした時期(1996年ごろ)、突っ込んだインタビューをして、彼女が抱えていた「意外な出来事」を知った。

 当時、これを書くには「勇気」が必要だった。

 封印しよう!と思い、当時の主筆(編集最高責任者)と相談して、連載そのものを断念した。取材をして、一定の「新事実」を掴んで「字」にしないケースは、それまでほとんどなかった。

 「藤圭子物語」は僕には荷が重かった。
 彼女が自殺して……もう一度、考えてみた。

 あの日、「連載するなら、これは書いて欲しい」と藤圭子は言っていた。

このままにして良いのか?

 考え考え、ギリギリの表現で「あの事」を記録しておくことにした。
 読んでくれ!

 どこかで、藤圭子が「心の病」に追い込まれる原因の一つに、「母」と「川端康成」との出来事があるように思うのだ。
http://www.maki-taro.net/archives/2107

藤圭子資料館

「ノーベル賞作家が自室に異例の招待 川端康成氏の熱愛に感激
藤圭子が『先生、お肩を…』」 - 週刊明星


1971/7/25 - 藤圭子の熱烈なファンというノーベル賞作家川端康成氏に請われて滞在先のホテルオークラを訪ねた時の記事。

この時彼女は氏の肩を叩き、持参した全集にサインをもらうなどして川端氏の鎌倉の自宅訪問を約束したが、翌年突然の死により、その約束は果たせぬまま終わった。
http://www008.upp.so-net.ne.jp/library/keiko_book1.htm


藤圭子について語るスレ

499 :名無しさん@お腹いっぱい。:2014/03/28(金) 01:59:57.25 ID:T06wKoxS

別のスレで見た投稿でふと思ったことを書き留めておく。


ご存知の川端康成『伊豆の踊子』は、大正時代の旅芸人の話。

繊細で、かつ感応しやすい川端にとって、自分が描いた
「もはや滅びる(忘れられる)日本人」の形態として、旅芸人たちの習俗を著した。

その思いがあったからか、生い立ちがまさにそれと思わせる阿部純子の存在は
川端には、自己の奥にある郷愁(サウダージ)にも感応して、どうにかして
純子(すでに藤圭子)に会ってみたいと思うようになった。

正史では、藤圭子と会う(予定)日の2日前に川端は自死したとなっている。

だが、身近で事情を知る人たちの証言によると(TVで紹介された)
じつは純子は何度かもうすでに川端に会っていて
おじいちゃん孝行みたいな奉仕をして(させられて?)いた、という。

ノーベル文学賞の人、その候補と言われた三島由紀夫をはじめ
五木寛之、筒井康隆、平岡正明、楳図かずお、松田政男、野沢あぐむ などなど・・・
ほんとうに多様なジャンルの有識者・文化人に、藤圭子は鮮烈な印象を与えていたのだとわかる。

カルメンマキ、浅川マキ、山口百恵、山崎ハコ、・・・・・椎名林檎、などなどよりずっと藤圭子は、深沢七郎のように、中上健次のように、インテリには衝撃的な存在だったのだと思う。

500 :名無しさん@お腹いっぱい。:2014/03/28(金) 11:40:37.08 ID:jLlW6i+W
>>499
これほど人の心に衝撃を与え眠りかけていた精神を覚醒させた歌姫は
藤圭子しかいないと思います。
ノーベル賞歌手といっても過言ではない。藤圭子を知る時代に生まれてきたことの
優越感、重厚な存在感を忘れることはありません。


501 :名無しさん@お腹いっぱい。:2014/03/28(金) 14:16:27.61 ID:xHmspCIb

川端とは対談してる雑誌あるよ。肩叩いてる写真がある。
死ぬ前にまた会いたくなったと思う。

514 :名無しさん@お腹いっぱい。:2014/04/01(火) 00:10:54.92 ID:WwcQAebD
>>499
別のブログでは、川端康成が自死する1年前に川端康成の要望により藤圭子とホテルで会っており、藤圭子は川端康成の全集を持参しサインしてもらい、川端康成からは鳥の剥製を贈られた。1年後にまた会う約束をしていたが1年後の前日に自死したとなっている。

恐らく藤圭子は川端康成の大ファンだった筈だが、気にかかるのは川端康成と会っているのにその事は口にする事は無かった様に思う。また藤圭子は川端康成を嫌っていたともいう。

しかし、後に川端康成の自死について、藤圭子は「私に対してのセクハラも関係してると思う」と言っている。

とするとやはり、1年前から何度となく会っており、 おじいちゃん孝行みたいな奉仕をさせられていたと思う。石坂まさをに指示されていたのだろうか?

セクハラの関係で自死だとしたら強姦かその未遂だろうか? 

川端康成は加賀まりこに対してもセクハラの話があり、女性とのスキャンダルで雑誌の発行停止を求めるの訴訟も川端側近からあった事もあると言う。少女に対するスケベ爺だったのだろうか?

515 :名無しさん@お腹いっぱい。:2014/04/01(火) 00:30:27.11 ID:awWpS4p9

自殺後サンデー毎日で実は川端にセクハラのよなことをされた、て書かれいたと思う。牧記者のコーナー

川端に初めて会ったのはデビュー後1、2年だと思う。


517 :名無しさん@お腹いっぱい。:2014/04/01(火) 00:54:15.15 ID:awWpS4p9

川端は自分の欲しい骨董は金に糸目をつけず必ず手に入れる、てのを読んだ記憶がある。国宝級の物を持っていた?

社会常識など無視して生きてきた男。唯美主義男だな。

519 :名無しさん@お腹いっぱい。:2014/04/02(水) 00:45:02.10 ID:KLUdMMz/
>>514
当時はまだ男尊女卑の風習が残っていたのでセクハラ等の言葉はなかったと思う。

何かで読んだが川端の方から林家三平の奥さんに藤圭子会わせてほしいと申しこまれ そのあと自殺したと聞いていた。

今だったらノーベル作家の思いあがりと大騒ぎになってたと思う。

520 :名無しさん@お腹いっぱい。:2014/04/02(水) 13:22:38.36 ID:eIyTv7SC
>>519
確かに、川端の方から林家三平の奥さんに藤圭子に会わせてほしいと申しこまれ
そのあと自殺したと言うのもある。

しかし、川端が林家三平の奥さんに藤圭子に合わせてほしいと頼んだと言うのはわからないですね。

確かに、藤圭子は何回か林家三平の家には行っている様だけど。そして、1年間、林家三平の家に住んでいたと言うのもあるけど、「流星ひとつ」「きずな 藤圭子と私」にも住んでいたとは書いてないし住んでいた事はないと思います。カムフラージュの様な気もします


521 :名無しさん@お腹いっぱい。:2014/04/02(水) 13:49:29.38 ID:pf60CHIT
>>520
519ではないですが。
昨年雑誌で、藤圭子さんの追悼として、海老名さんの書かれている文章を
読みました。

それにも、1年間、林家三平の家に住んでいたと言うのが書いてありました。
住んで居ないのに何故そんなこと言うんだろう?


522 :名無しさん@お腹いっぱい。:2014/04/02(水) 14:00:57.47 ID:CTS+zS7t

海老名は東京の母みたいなものでは?
海老名と関係が続いていたら自殺は無かったと思う。


523 :名無しさん@お腹いっぱい。:2014/04/02(水) 15:45:24.13 ID:Nhn2cuUl

西日暮里なのか林家なのかどっちなん?
海老名さんがわざわざ嘘つく意味ないしアパートの話の方が嘘っぽい。
何の切欠もなしには進まんだろうし。

524 :名無しさん@お腹いっぱい。:2014/04/02(水) 15:59:37.19 ID:eIyTv7SC
>>521
520です。石坂まさをが東芝専属だった時、担当の新コーラスグループの名前を林家三平に付けてもらった。

三平の家紋から花菱エコーズ。この時の縁でデビュー直前、石坂まさをが藤圭子を三平の家に連れて行き、 家の改築中だったが三平、妻、弟子、大工数名がいる中で藤圭子が「カスバの女」と「新宿の女」を歌った。藤圭子の宣伝も林家三平に頼んだ。

と言う事がきずなに書かれている。

どうも、川端康成の藤圭子に対するセクハラを否定するため側近が林家三平の妻に、藤圭子が1年間住んでいた事、川端康成が藤圭子に逢わせて欲しいと言う事にして欲しいと頼んだのではないか?

525 :名無しさん@お腹いっぱい。:2014/04/02(水) 19:16:39.46 ID:CTS+zS7t

藤圭子が三平の家にいたのは川端に会うはるか前では?
圭子は三郎と浅草で流しをしてたはず。
浅草のおでん屋に三郎とよく行ってたはず。

526 :名無しさん@お腹いっぱい。:2014/04/02(水) 19:31:33.48 ID:CTS+zS7t

川端はテレビで圭子(デビュー頃)を見て対談をしたいと出版社に頼んだはず。

そして雑誌で対談が実現。圭子の肩叩きの写真あり。

川端は死ぬ前に海老名にもう一度圭子に会いたいと頼んだと思う。

圭子は川端ファンてのは嘘だと思う。 これは雑誌社で作ったと思う。
圭子は中学から旭川の繁華街で流し、成積は優秀なら本を読んでいる暇ない。

東京に出てきてからも流し、レッスンと忙しく、すぐデビューだから。

527 :名無しさん@お腹いっぱい。:2014/04/02(水) 21:57:13.41 ID:eIyTv7S
>>525 >>526は、川端康成の側近の方では?

528 :名無しさん@お腹いっぱい。:2014/04/02(水) 22:36:25.89 ID:CTS+zS7t

本、サイトをまとめただけ。
圭子と川端はそんなに会っていないと思う。
雑誌対談1回だけかも。

529 :名無しさん@お腹いっぱい。:2014/04/03(木) 00:25:15.75 ID:EjtmwYv5

「ノーベル賞作家が自室に異例の招待 川端康成氏の熱愛に感激

藤圭子が『先生、お肩を…』・・週刊明星1971年

ファンサイトで発見

530 :名無しさん@お腹いっぱい。:2014/04/03(木) 00:28:01.12 ID:EjtmwYv5

「『わたしは歌手になりたかったわ。でも、スターを望んだことは一度もありません。…いまこうして売れていますけど、これが本当の芸人の道とは思いたくありません』

彼女にとって、有名になることと歌手として生きることは、まったく別問題のようだ」

…藤圭子自身と両親など関係者のインタビューを交えた6ページの記事
ポケットパンチ1970年 ファンサイトより
http://ikura.2ch.net/test/read.cgi/cafe50/1386873978/



http://www.asyura2.com/09/revival3/msg/574.html#c58

[リバイバル3] 湯沢町の共同湯は日本国内の温泉の中で最低最悪 中川隆
60. 中川隆[7809] koaQ7Jey 2017年4月17日 08:19:00 : b5JdkWvGxs : DbsSfawrpEw[8299]

次の動画のデビュー当時の藤圭子が川端康成が生涯追い求めていた女性の姿そのものなのですね


圭子の夢は夜ひらく/藤圭子 - ニコニコ動画GINZA
http://www.nicovideo.jp/watch/sm1811038?ref=search_key_video&ss_pos=1&ss_id=710a4dab-8c3e-42e9-b055-2ae6b9790c9f


http://www.asyura2.com/09/revival3/msg/574.html#c60

[文化2] FX ・ 先物取引 ・ 空売り は『ネットパチンコ』、絶対に手を出してはいけない 中川隆
21. 中川隆[7810] koaQ7Jey 2017年4月17日 09:26:53 : b5JdkWvGxs : DbsSfawrpEw[8300]

ギャンブルやFXがやめられない…それって病気?脳の前頭葉の機能が明らかに低下、自助グループのセラピーが効果的

誰にも言えない…オトコのお悩み相談室 荒川直樹=科学ライター

総合商社に勤務する42歳。学生時代から大のパチンコ、競馬好き。レースのある日は朝から気もそぞろ。勝っても負けても気持ちが熱くなり、周囲のことが目に入らなくなる。先日は家族と約束していた買い物をすっぽかして大ひんしゅくを買った。

そんなオレが最近手を出したのがFX(外国為替証拠金取引)だ。

為替がもくろみどおりに動いて利益が出たときには大興奮。24時間取引なので、つい遅くまでパソコンに向かうようになり、会社を遅刻するようにも…。妻や子供との会話もめっきり減り、家に居場所がない感じ。妻は、本気で離婚を考えているみたい。


 日本では基本的にはギャンブルが禁止されている。それに替わる娯楽として行われているのが、地方公共団体など公の機関が開催する競馬、競艇、競輪、オートレースなど、いわゆる「公営競技」だ。それに加えて全国に1万以上のパチンコ店が、ギャンブル好きな人々を引き寄せている。

 パチンコも公営競技も、国民の娯楽として健康的な範囲で楽しんでいる分には問題ない。実際、行っている人のほとんどが、「オレは楽しみでやっている」「いつでも止められる」と思っているだろう。しかし、そこに「心の病」が忍び込み、いつの間にか「止めたくても止められない」状態になってしまうケースがある。

FXにはまる人も急増中

 してはいけない状況にあることが分かっていながら、ギャンブルにはまりこんでしまう状態がギャンブル依存症だ。ギャンブルで仕事に支障を来すようになったり、家庭生活に深刻な影響を与えたり、ギャンブルによる借金がかさんだりと問題はさまざま。なかには公金を横領するなど犯罪に手を染めるケースもある。

 厚生労働省研究班が2017年に発表した調査結果によれば、国内のギャンブル依存症患者(病的ギャンブラー)はおよそ283万人(国民の2.7%)と言われている。これについて「ギャンブル依存症問題を考える会」の田中紀子代表は、「これは他の先進国の倍以上の数字。ギャンブルが禁止されているはずの日本で、これほどギャンブル依存症の患者が多いのは皮肉なこと。また、早急の対策が必要でしょう」と話す。

 ギャンブル依存症の患者が最も多いのはパチンコで、依存症患者の8〜9割が該当、次いで競馬が2割ほど」と話す。

そして、最近になって徐々に増えてきているのが FX(外国為替証拠金取引)への依存だという。

もちろん FX はギャンブルではないが、取引しているときに高揚感を感じること、短時間で取引結果が出るなどのギャンブルと類似した特徴がある。しかも、インターネットで行うことから、人目を気にせず家庭で気軽に行えるなど、潜在的な依存症患者は多いと考えられる。

 実際、2014年には、大手企業の経理担当社員が FX の損失を埋めるために数億円もの金額を会社から横領するという事件も報道されている。田中代表の元には、FXに依存してしまった者の家族からの相談も多く寄せられるようになったという。

一人の行動が増え、家庭に居場所がない

 ギャンブル依存症の傾向が見られ始めたとき、まず気づくのは家族や友人だ。田中代表は、ギャンブル依存症の初期症状として次のような症状を挙げる。


ギャンブル依存症の初期症状
http://business.nikkeibp.co.jp/atcl/skillup/16/091500010/041400013/?SS=nboimgview&FD=47620101


 もし、こんな症状が見られたら、次のリストでチェックを行ってほしい。これはギャンブル依存症の自助グループ、ギャンブラーズアノニマス(GA)が発表しているギャンブル依存症のチェックリストで、20の質問のうち7つ以上が当てはまれば「脅迫的ギャンブラー(ギャンブル依存症)の可能性が高い」と判定される。

ギャンブル依存症は脳の病気か

 ギャンブル依存症というと「どうしようもなくギャンブルが好きな人」と、なにか特別な人のように思われる。しかし田中代表は「実際には、一般の人と同じように普通にギャンブルを楽しんでいた人々」と話す。しかし、自分でも気がつかないうちに、やめたくてもやめられないギャンブル依存症という病気を発症してしまったのである。

 田中代表は「WHO(世界保健機関)では、ギャンブル依存症を『治療すべき病気』と捉えている」と話す。それに対して、一般的には「人間性の問題で、意思の力によってなんとかできるはず」と考えられがちだ。そのため周囲の人々も、本人に対して「理論的に考えれば、ギャンブルで儲けることはできない」などと諭すことが多い。

 しかし、ギャンブル依存症の患者は、こうした理屈を十分承知した上で、それでも「今度勝てば、これまでの借金を返せる」と考えてしまう。しかも、最初のうちは味わえたギャンブルをやっているときの高揚感や多幸感が失われているにもかかわらず、強迫観念によりギャンブルを止められないのである。田中代表も「非常に苦しい思いをしながらも、ギャンブルを続けている人がほとんど」という。

 なぜ、こうした行動を繰り返すのか。ギャンブル依存症の臨床研究は、まだ始まったばかりだ。しかし、最近の研究では、繰り返しギャンブルを行っていくうちに、脳にさまざまな異変が起こると考えられ始めている。

例えば、脳の働きを画像で分析するfMRI(機能的磁気共鳴映像装置)という装置を用いた研究では、ギャンブル依存症の患者は脳の前頭葉という部分の機能が明らかに低下。ギャンブル以外のことでは、脳がうまく働かない状態になっていることも明らかになっている
(京都大学医学部、鶴身孝介助教など、「依存症の新しい展開 依存症の脳科学」、月刊精神科. 2015;26(4):247-251.)。

 そして、ギャンブル依存症は慢性疾患であり一度発症すると生涯完治はない。このことを専門家は「大根をたくあんにするのは簡単だが、たくあんを大根にはできない」と表現する。早め早めにギャンブル依存症に対処し、重症にしないことが重要なのだ。

自助グループなどでのミーティングが基本

 もし、自分や家族がギャンブル依存症の可能性があると感じたとき、例えば「GAによる20の質問」で問題の見つかった人は、どこに相談すればいいのだろうか。

 最近では、各地の精神神経科などが依存症外来を設けている。まずは、そこで相談してみるといいだろう。しかし、特効薬的な薬剤があるわけではなく、医師のカウンセリングなどを主体とした認知行動療法などを行うことになり、回復までには時間がかる。田中代表は「この地道な回復過程で効果的なのがグループセラピーだ」と解説する。同じ経験を持つ人たちとのミーティングを重ねていくというもので、前述の GAもこうした自助グループの一つだ。

 回復のための最初のステップは「自分の力ではギャンブルを止められないのだ」としっかり認識することだという。「ギャンブルを止められない」という状態は、一般の人には理解しがたいものだが、それは当事者も一緒だ。止めようと思えば止められるつもりでいるので、その意識をまず改める必要がある。

 そして、同じ経験を持つ人たちとミーティングを続けるうちに、自分では止められなくなっていった状態を初めて客観的に理解できるのだ。そして、「では、どのようにして止める?」「同じ依存症のメンバーと一緒にやれることは?」と一つひとつ前向きに考え、その次の段階として回復プログラムに取り組めるのだ。

 田中代表は「これまでギャンブル依存症というと男性の病気であったが、近年は女性の患者も増える傾向にある」と話す。また、子供たちにもネット依存が広まるなど、依存症には新しい問題が登場している。パチンコ、競馬からFXまで、「依存症大国」となってしまったニッポン。ギャンブル依存症に対する正しい知識を家族で共有することが大切といえるだろう。
http://business.nikkeibp.co.jp/atcl/skillup/16/091500010/041400013/
 

http://www.asyura2.com/09/bun2/msg/844.html#c21

[リバイバル3] 湯沢町の共同湯は日本国内の温泉の中で最低最悪 中川隆
61. 中川隆[7811] koaQ7Jey 2017年4月17日 09:54:03 : b5JdkWvGxs : DbsSfawrpEw[8301]

古都  川端康成 
http://blog.livedoor.jp/sambockarie/archives/51988614.html


   美しい作品である。 一読すれば平易な作品ともおもえる。


川端康成「古都」は、昭和36年10月から翌年1月にかけ朝日新聞掲載小説として当初執筆、内容文章を修正後刊行。

作者曰く、当時睡眠薬過量内服し続けていたため

「何を書いたかもよくはおぼえていなくて」

「果たしておかしいところ、辻褄の合わぬようなところが少なくなかった。校正でだいぶ直したが」

という有様、事情であったとか、ただしお言葉通りの事情ではないだろう。

当時の日本は戦後のどさくさから高度成長期に変遷し、
京都の美に対する大衆の憧憬、渇望が募っていたのかもしれない。

同時期、両親に連れられ小学生であった私は何度か京都観光に向かった。
まだ山陽新幹線のなかったころである。特急でも6時間、退屈苦痛であった。
あちこちの寺社を巡ったが、当時の父は建築、日本庭園に魅了されるも、仏像、書画、その他には興味はなかった。

仁和寺、西芳寺、金閣、銀閣から鷹峯の光悦寺、宇治平等院まで廻った記憶がうっすらとではあるが蘇ってくる。

当時の三十三間堂、今よりもずっと薄暗くうらぶれており気味が悪かったし、仏像も修復の及んでいなかったものもあり、荒んだ印象であった。
まだアメリカ式のホテルが殆どなかった。いつも日本旅館が宿になった。

一度だけ大昔の俵屋旅館に父の友人、京都市内の歯科開業医の伝手で宿泊したことがある。
ひたすら底冷えの寒さ、炬燵の中に潜り込むが退屈してくる、天井が低く暗く狭い廊下、弟と一緒に廊下を走り回っていたら宿のおじさんに叱られてしまった。
子供のいくところではない。


久々に手にした「古都」である。 懐かしく読み進む。

なにしろ昭和30年代後半の京都が舞台であるから、懐かしさも時代がかってはくる。

春夏秋冬にちなんで桜の平安神宮、仁和寺、夕暮れの東山、清水寺であり、冬は雪の北山杉等々、華やかな祭礼の数々、盛りだくさんである。

しかし、この作品の骨格がけして情緒的、恣意的なものではなく、あらかじめ計算しつくされた設計図を基に制作された精密機械であることにやがて気づかされる。
まず古典、本歌どりのごとく散りばめられ、あらわにそれと名指しはできないものの、どこかで思い起こさせるがごとき筋立て、一見奇妙に思えるエピソードだが前後の流れを辿ると、読者の思念を様々に逍遥させる、かのごとき構造が作者によって巧妙に構築されている。

別離したまま再び巡り会う双子の姉妹、そのままの筋立てというものは少ないものの、竹取物語、伊勢物語、堤中納言物語であり、とりかえばや、源氏のどこかの巻でもあったのかもしれない。

更に最も重要な点は、古今東西の共通項、エデイプス的葛藤が中枢に鎮座している点である。

千恵子の抱く実父の死に対する罪悪感、幻想なのであるが、それは典型的ではある。

また養父太吉郎に対する複雑に交錯する感情、献身的親孝行、「絶対的服従」もその「罪滅ぼし」であろう。その古典的描画の上でしか千恵子は動かないのであるし、その行動は予め定められているのである。川端が幼少期に両親と死別した体験とも重なっていく。

かくの如き骨格が綿密に塩梅良くも見積もられた上に、この美しい物語は形作られていく。

ノスタルジックに読み進むうち、作品の中盤である。
主人公の千重子、双子の妹である苗子が意外なことを言い始める。

千重子は、観光化によって頽落していく京都を批判する。

まずやり玉に挙がったのが門跡院青蓮院である。次いで南禅寺周辺の料亭、旅館、今ではブランド化し殷賑を極めている「名店」なのであるが。

この時すでに大家の名を確立していた川端康成に名指しで批判(あくまで二十歳の町娘の言であるが)されたこれらの方々、相当な打撃であったろう。当時の有様を歴史に残るノーベル賞受賞作家の記述として掲載されるとは、思ってもみなかったであろう。

これで批判が終了ならば、よくある観光地批判で終わったろうが。

川端康成の筆はさらに意地悪く先鋭化する。
あくまで北山の山村で労働に勤しむ小娘の言としてであり、うまくアリバイ作りをしたのであろう。

純朴な娘苗子は言う。
北山杉についてである。

「人間のつくった杉どすもの。」

「この村は、まあ、切り花つくっとるもんどっしゃしゃろ・・・。」

前述の千恵子の言に戻ると、養父太吉郎の「盆栽」という言葉にこたえて言う。
「それが京都やおへんの?山でも、川でも、人でも・・・・・・。」

 川端康成、その「毒」を評したのは、三島であったろうか、私の記憶が定かではないが、どこか破滅的、毒を内包させた作家であった。

美しい日本の私、の清潔に整えられた言語世界の中にもどこかに毒が几帳面に埋伏されている。

それは日本の美、という超越者化した、読みかえれば神化した呪物である。川端における美の隠喩とは、健全な、それこそアポロン的なものではけしてなく、死を予感させつつ平安の世以前から近世、現代までに連綿と続く不死の美なのである。

その呪物が乗っかった神輿、或いは山鉾を飾り立て担ぎ続けるもの、そのもっとも端的な人々、その世を経た人々こそが京都の人々である。

この毒に冒され、全身に回りきった毒、それに恍惚とするものが数寄者に代表される人々である。その毒は京都を中心に、やがて日本の津々浦々までに拡がっていくのであるが。

川端自身、その毒を自覚しそれを諦念し果て、更に体現していた。
彼の骨董収集の情熱は名高い。

国宝となった近世画の玉堂、大雅、蕪村を所有していたし、家計は常に火の車であった。

死後の借金は大変なものであった、とか。

また京都の粋筋、東京では銀座でもよく周遊していたとか
支払いは附け、ですぐに忘れてしまったとか。

その粋筋を知り尽くした川端康成が描き出した粋人、主人公千恵子の養父太吉郎である。

この人物、なかなか興味深く描き出されている。

嵯峨野の寂れた草庵で古代ぎれを眺めつつ、新たな帯の柄を模索し、煩悶する。その姿とはよくありがちな趣味人のそれの域を出ない。

その域を出てしまうのが、チンチン電車の中で出会った美しい少女というよりも幼女、

上七軒で預かっているお茶屋の娘であったが、に強い関心、執着を示す。

これで終われば今の世でもよく耳にする変態、ロリコンおじさんで済むかもしれないが。

今の世でも不可思議な挿話が続く。

昔通いなれた上七軒のお茶屋に「しんどなった、やすませてくれ」と昼間に上がり込むのはよいが寝てしまう、

かと思うと、若い芸妓をよんでしまう、芸妓は来るが太吉郎は居眠りしかかっている、

気が乗らない中で芸妓に喋らせまくり、彼女のとっておきの話「セクハラ客の舌を血が出るほど噛んでやった」を聞き興味を抱く。

で「お前の歯を見せろ」と太吉郎が迫る超セクハラエピソード。

こんな無粋なことを昭和30年代とはいえ、お茶屋でやるのだろうか。門外漢にはうかがい知れない。

なにか川端の倒錯ごのみ、というかあまりに清らかで美麗な物語の裏打ちには汚泥こそが相応しい、という陰鬱な思いがあったのだろう。

私的には、こちらの世界のお話のほうがずっと興味深いと思うのだが。

  
写真はお花見で登場した御室仁和寺、酔っ払いが多いと太郎吉に嫌われた場所。

古い門跡時らしく、また華道の家元でもある。

豪華な宸殿と庭園、御所漉きであろうか、植木の手入れも万全であった。

火災のため宸殿は意外と新しく明治に入って。
明治、大正の職人たちの腕の冴えが窺われる。 

国宝の茶室は人だかり激しく、見るのを諦めた。
http://blog.livedoor.jp/sambockarie/archives/51988614.html
http://www.asyura2.com/09/revival3/msg/574.html#c61

[リバイバル3] 京都の「おもてなしの文化」 とは _ わかる人にはわかる日本一ハイ・センスな京都 俵屋旅館 中川隆
6. 中川隆[7812] koaQ7Jey 2017年4月17日 09:56:28 : b5JdkWvGxs : DbsSfawrpEw[8302]

古都  川端康成 
http://blog.livedoor.jp/sambockarie/archives/51988614.html


   美しい作品である。 一読すれば平易な作品ともおもえる。


川端康成「古都」は、昭和36年10月から翌年1月にかけ朝日新聞掲載小説として当初執筆、内容文章を修正後刊行。

作者曰く、当時睡眠薬過量内服し続けていたため

「何を書いたかもよくはおぼえていなくて」

「果たしておかしいところ、辻褄の合わぬようなところが少なくなかった。校正でだいぶ直したが」

という有様、事情であったとか、ただしお言葉通りの事情ではないだろう。

当時の日本は戦後のどさくさから高度成長期に変遷し、
京都の美に対する大衆の憧憬、渇望が募っていたのかもしれない。

同時期、両親に連れられ小学生であった私は何度か京都観光に向かった。
まだ山陽新幹線のなかったころである。特急でも6時間、退屈苦痛であった。
あちこちの寺社を巡ったが、当時の父は建築、日本庭園に魅了されるも、仏像、書画、その他には興味はなかった。

仁和寺、西芳寺、金閣、銀閣から鷹峯の光悦寺、宇治平等院まで廻った記憶がうっすらとではあるが蘇ってくる。

当時の三十三間堂、今よりもずっと薄暗くうらぶれており気味が悪かったし、仏像も修復の及んでいなかったものもあり、荒んだ印象であった。
まだアメリカ式のホテルが殆どなかった。いつも日本旅館が宿になった。

一度だけ大昔の俵屋旅館に父の友人、京都市内の歯科開業医の伝手で宿泊したことがある。
ひたすら底冷えの寒さ、炬燵の中に潜り込むが退屈してくる、天井が低く暗く狭い廊下、弟と一緒に廊下を走り回っていたら宿のおじさんに叱られてしまった。
子供のいくところではない。


久々に手にした「古都」である。 懐かしく読み進む。

なにしろ昭和30年代後半の京都が舞台であるから、懐かしさも時代がかってはくる。

春夏秋冬にちなんで桜の平安神宮、仁和寺、夕暮れの東山、清水寺であり、冬は雪の北山杉等々、華やかな祭礼の数々、盛りだくさんである。

しかし、この作品の骨格がけして情緒的、恣意的なものではなく、あらかじめ計算しつくされた設計図を基に制作された精密機械であることにやがて気づかされる。
まず古典、本歌どりのごとく散りばめられ、あらわにそれと名指しはできないものの、どこかで思い起こさせるがごとき筋立て、一見奇妙に思えるエピソードだが前後の流れを辿ると、読者の思念を様々に逍遥させる、かのごとき構造が作者によって巧妙に構築されている。

別離したまま再び巡り会う双子の姉妹、そのままの筋立てというものは少ないものの、竹取物語、伊勢物語、堤中納言物語であり、とりかえばや、源氏のどこかの巻でもあったのかもしれない。

更に最も重要な点は、古今東西の共通項、エデイプス的葛藤が中枢に鎮座している点である。

千恵子の抱く実父の死に対する罪悪感、幻想なのであるが、それは典型的ではある。

また養父太吉郎に対する複雑に交錯する感情、献身的親孝行、「絶対的服従」もその「罪滅ぼし」であろう。その古典的描画の上でしか千恵子は動かないのであるし、その行動は予め定められているのである。川端が幼少期に両親と死別した体験とも重なっていく。

かくの如き骨格が綿密に塩梅良くも見積もられた上に、この美しい物語は形作られていく。

ノスタルジックに読み進むうち、作品の中盤である。
主人公の千重子、双子の妹である苗子が意外なことを言い始める。

千重子は、観光化によって頽落していく京都を批判する。

まずやり玉に挙がったのが門跡院青蓮院である。次いで南禅寺周辺の料亭、旅館、今ではブランド化し殷賑を極めている「名店」なのであるが。

この時すでに大家の名を確立していた川端康成に名指しで批判(あくまで二十歳の町娘の言であるが)されたこれらの方々、相当な打撃であったろう。当時の有様を歴史に残るノーベル賞受賞作家の記述として掲載されるとは、思ってもみなかったであろう。

これで批判が終了ならば、よくある観光地批判で終わったろうが。

川端康成の筆はさらに意地悪く先鋭化する。
あくまで北山の山村で労働に勤しむ小娘の言としてであり、うまくアリバイ作りをしたのであろう。

純朴な娘苗子は言う。
北山杉についてである。

「人間のつくった杉どすもの。」

「この村は、まあ、切り花つくっとるもんどっしゃしゃろ・・・。」

前述の千恵子の言に戻ると、養父太吉郎の「盆栽」という言葉にこたえて言う。
「それが京都やおへんの?山でも、川でも、人でも・・・・・・。」

 川端康成、その「毒」を評したのは、三島であったろうか、私の記憶が定かではないが、どこか破滅的、毒を内包させた作家であった。

美しい日本の私、の清潔に整えられた言語世界の中にもどこかに毒が几帳面に埋伏されている。

それは日本の美、という超越者化した、読みかえれば神化した呪物である。川端における美の隠喩とは、健全な、それこそアポロン的なものではけしてなく、死を予感させつつ平安の世以前から近世、現代までに連綿と続く不死の美なのである。

その呪物が乗っかった神輿、或いは山鉾を飾り立て担ぎ続けるもの、そのもっとも端的な人々、その世を経た人々こそが京都の人々である。

この毒に冒され、全身に回りきった毒、それに恍惚とするものが数寄者に代表される人々である。その毒は京都を中心に、やがて日本の津々浦々までに拡がっていくのであるが。

川端自身、その毒を自覚しそれを諦念し果て、更に体現していた。
彼の骨董収集の情熱は名高い。

国宝となった近世画の玉堂、大雅、蕪村を所有していたし、家計は常に火の車であった。

死後の借金は大変なものであった、とか。

また京都の粋筋、東京では銀座でもよく周遊していたとか
支払いは附け、ですぐに忘れてしまったとか。

その粋筋を知り尽くした川端康成が描き出した粋人、主人公千恵子の養父太吉郎である。

この人物、なかなか興味深く描き出されている。

嵯峨野の寂れた草庵で古代ぎれを眺めつつ、新たな帯の柄を模索し、煩悶する。その姿とはよくありがちな趣味人のそれの域を出ない。

その域を出てしまうのが、チンチン電車の中で出会った美しい少女というよりも幼女、

上七軒で預かっているお茶屋の娘であったが、に強い関心、執着を示す。

これで終われば今の世でもよく耳にする変態、ロリコンおじさんで済むかもしれないが。

今の世でも不可思議な挿話が続く。

昔通いなれた上七軒のお茶屋に「しんどなった、やすませてくれ」と昼間に上がり込むのはよいが寝てしまう、

かと思うと、若い芸妓をよんでしまう、芸妓は来るが太吉郎は居眠りしかかっている、

気が乗らない中で芸妓に喋らせまくり、彼女のとっておきの話「セクハラ客の舌を血が出るほど噛んでやった」を聞き興味を抱く。

で「お前の歯を見せろ」と太吉郎が迫る超セクハラエピソード。

こんな無粋なことを昭和30年代とはいえ、お茶屋でやるのだろうか。門外漢にはうかがい知れない。

なにか川端の倒錯ごのみ、というかあまりに清らかで美麗な物語の裏打ちには汚泥こそが相応しい、という陰鬱な思いがあったのだろう。

私的には、こちらの世界のお話のほうがずっと興味深いと思うのだが。


  
写真はお花見で登場した御室仁和寺、酔っ払いが多いと太郎吉に嫌われた場所。

古い門跡時らしく、また華道の家元でもある。

豪華な宸殿と庭園、御所漉きであろうか、植木の手入れも万全であった。

火災のため宸殿は意外と新しく明治に入って。
明治、大正の職人たちの腕の冴えが窺われる。 

国宝の茶室は人だかり激しく、見るのを諦めた。
http://blog.livedoor.jp/sambockarie/archives/51988614.html

http://www.asyura2.com/09/revival3/msg/231.html#c6

[リバイバル3] 湯沢町の共同湯は日本国内の温泉の中で最低最悪 中川隆
62. 中川隆[7813] koaQ7Jey 2017年4月17日 10:23:03 : b5JdkWvGxs : DbsSfawrpEw[8303]

川端康成へ 太宰治

 あなたは文藝春秋九月号に私への悪口を書いて居られる。「前略。――なるほど、道化の華の方が作者の生活や文学観を一杯に盛っているが、私見によれば、作者目下の生活に厭いやな雲ありて、才能の素直に発せざる憾うらみあった。」

 おたがいに下手な嘘はつかないことにしよう。私はあなたの文章を本屋の店頭で読み、たいへん不愉快であった。これでみると、まるであなたひとりで芥川賞をきめたように思われます。これは、あなたの文章ではない。きっと誰かに書かされた文章にちがいない。しかもあなたはそれをあらわに見せつけようと努力さえしている。

「道化の華」は、三年前、私、二十四歳の夏に書いたものである。「海」という題であった。友人の今官一、伊馬鵜平うへいに読んでもらったが、それは、現在のものにくらべて、たいへん素朴な形式で、作中の「僕」という男の独白なぞは全くなかったのである。物語だけをきちんとまとめあげたものであった。そのとしの秋、ジッドのドストエフスキイ論を御近所の赤松月船氏より借りて読んで考えさせられ、私のその原始的な端正でさえあった「海」という作品をずたずたに切りきざんで、「僕」という男の顔を作中の随所に出没させ、日本にまだない小説だと友人間に威張ってまわった。友人の中村地平、久保隆一郎、それから御近所の井伏さんにも読んでもらって、評判がよい。

元気を得て、さらに手を入れ、消し去り書き加え、五回ほど清書し直して、それから大事に押入れの紙袋の中にしまって置いた。今年の正月ごろ友人の檀一雄がそれを読み、これは、君、傑作だ、どこかの雑誌社へ持ち込め、僕は川端康成氏のところへたのみに行ってみる。川端氏なら、きっとこの作品が判るにちがいない、と言った。

 そのうちに私は小説に行きづまり、謂いわば野ざらしを心に、旅に出た。それが小さい騒ぎになった。

 どんなに兄貴からののしられてもいいから、五百円だけ借りたい。そうしてもういちど、やってみよう、私は東京へかえった。友人たちの骨折りのおかげで私は兄貴から、これから二三年のあいだ、月々、五十円のお金をもらえることになった。

私はさっそく貸家を捜しまわっているうちに、盲腸炎を起し阿佐ヶ谷の篠原病院に収容された。膿うみが腹膜にこぼれていて、少し手おくれであった。入院は今年の四月四日のことである。

中谷孝雄が見舞いに来た。日本浪曼派へはいろう、そのお土産として「道化の華」を発表しよう。そんな話をした。「道化の華」は檀一雄の手許てもとにあった。檀一雄はなおも川端氏のところへ持って行ったらいいのだがなぞと主張していた。私は切開した腹部のいたみで、一寸もうごけなかった。

そのうちに私は肺をわるくした。意識不明の日がつづいた。医者は責任を持てないと、言っていたと、あとで女房が教えて呉くれた。まる一月その外科の病院に寝たきりで、頭をもたげることさえようようであった。

私は五月に世田谷区経堂の内科の病院に移された。ここに二カ月いた。七月一日、病院の組織がかわり職員も全部交代するとかで、患者もみんな追い出されるような始末であった。私は兄貴と、それから兄貴の知人である北芳四郎という洋服屋と二人で相談してきめて呉れた、千葉県船橋の土地へ移された。

終日籐椅子とういすに寝そべり、朝夕軽い散歩をする。一週間に一度ずつ東京から医者が来る。その生活が二カ月ほどつづいて、八月の末、文藝春秋を本屋の店頭で読んだところが、あなたの文章があった。「作者目下の生活に厭な雲ありて、云々。」事実、私は憤怒に燃えた。幾夜も寝苦しい思いをした。

 小鳥を飼い、舞踏を見るのがそんなに立派な生活なのか。刺す。そうも思った。大悪党だと思った。そのうちに、ふとあなたの私に対するネルリのような、ひねこびた熱い強烈な愛情をずっと奥底に感じた。ちがう。ちがうと首をふったが、その、冷く装うてはいるが、ドストエフスキイふうのはげしく錯乱したあなたの愛情が私のからだをかっかっとほてらせた。そうして、それはあなたにはなんにも気づかぬことだ。

 私はいま、あなたと智慧ちえくらべをしようとしているのではありません。私は、あなたのあの文章の中に「世間」を感じ、「金銭関係」のせつなさを嗅かいだ。私はそれを二三のひたむきな読者に知らせたいだけなのです。それは知らせなければならないことです。私たちは、もうそろそろ、にんじゅうの徳の美しさは疑いはじめているのだ。

 菊池寛氏が、「まあ、それでもよかった。無難でよかった。」とにこにこ笑いながらハンケチで額の汗を拭っている光景を思うと、私は他意なく微笑ほほえむ。ほんとによかったと思われる。芥川龍之介を少し可哀そうに思ったが、なに、これも「世間」だ。石川氏は立派な生活人だ。その点で彼は深く真正面に努めている。

 ただ私は残念なのだ。川端康成の、さりげなさそうに装って、装い切れなかった嘘が、残念でならないのだ。こんな筈ではなかった。たしかに、こんな筈ではなかったのだ。あなたは、作家というものは「間抜け」の中で生きているものだということを、もっとはっきり意識してかからなければいけない。

(「もの思う葦」新潮文庫、新潮社 )
http://www.aozora.gr.jp/cards/000035/files/1607_13766.html
http://www.asyura2.com/09/revival3/msg/574.html#c62

[リバイバル3] 湯沢町の共同湯は日本国内の温泉の中で最低最悪 中川隆
63. 中川隆[7814] koaQ7Jey 2017年4月17日 10:42:42 : b5JdkWvGxs : DbsSfawrpEw[8304]

川端康成 美しさと哀しみと 1965 松竹 無料動画
http://www.bilibili.com/video/av6298390/


監督:篠田正浩


キャスト

大木年雄:山村聰

大木文子:渡辺美佐子

大木太一郎:山本圭

坂見けい子:加賀まりこ

上野音子:八千草薫

音子の母:杉村春子

作品中の人物「坂見けい子」を加賀まりこが演じることになり、川端は原作者として加賀と初対面した。川端は加賀のリハーサルの演技を見て、

「加賀さんの熱つぽい激しさに私はおどろいた」

「私がまるで加賀まりこさんのために書いたやうな、ほかの女優は考へられないやうな、主演のまりこがそこに現はれた」

と述べ、登場人物の「けい子」というエキセントリックで妖精じみた娘に、

「演技より前の、あるひは演技の源の、加賀さんの持つて生まれた、いちじるしい個性と素質が出てゐた」

と褒めている。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%BE%8E%E3%81%97%E3%81%95%E3%81%A8%E5%93%80%E3%81%97%E3%81%BF%E3%81%A8

京都でのお正月ーーこれは30年ほど前の憧れであった。

小説≪美しさと哀しみと≫‐川端康成作。
冒頭ーーーー
除夜の鐘を聴く為に京都へ行くという男 大木の描写から始まるその小説のシーンがなぜか強烈に頭に残っていてその京都行きに憧れたからだ。

今思えばなんと少女趣味なと思ってしまうが、京都へ通うようになってその動機は忘れて、それが当たり前のようになった。

大木は除夜の鐘を聴きに行くのか、24年前に別れた女性音子に逢うためなのか
分からないまま列車に乗る。

24年前音子は16歳
大木は31歳であった。

音子に子を身ごもらせたが事情はいろいろあって音子は自殺未遂を図り破局を迎える。

その音子をモデルに書いた小説が図らずも大木の出世作となった。

京都で日本画家として著名になっている音子に24年ぶりに逢うのだが、大木はそこで音子の女弟子のけい子の妖しい魅力に魅かれてしまう。

大木との哀しい恋を知った、音子を敬慕するけい子は大木への復讐を誓うのであった。

大木を誘惑し、その息子太一郎を誘惑し、その事実を双方に分からしめ、一途な太一郎をけい子は命をかけて心中に追い込む。

というストーリーであるが、この映画でけい子に扮した加賀まりこが鮮烈な個性を見せた。

川端の文章は、抒情と、時間と、色情のロマネスクを著わすなかで得意の京都の美しい風雅をたっぷりと描いた。

その京の雰囲気を音子に紛する八千草薫が演じ、55歳になった元恋人を山村 聡が、そして、息子太一郎を当時人気絶頂の山本圭が演じた。

原作は昭和30年代に書かれ、遠からずして、鬼才篠田正浩がメガホンを取った。

小説は川端得意の男女の恋模様を書いているわけだが三文小説とはっきり違うのは
主人公達の背後に感じさせる知性、教養といったものの重みの描写であろう。

京の歴史の重みや、川端の伝統文化への憧憬、そういったものが小説に厚みを加えている。

今でこそ全国、はたまた海外旅行とこぞって出かけるがやはり昭和30年代にこういうものを読んでも京旅行など小説の世界で堪能するのがせいぜいであったはず。

こういう京旅行の味わい方もあるんだと知ったのが昭和40年代でした。
そして実行したのが昭和50年代。

京旅行の主旨も連れも小説とはかけ離れていましたが大晦日の夜の京のお散歩は一年間の垢落としと同時に新年の希望をしみじみ感じる贅沢な時間でした。

晦日の京滞在のきっかけとなった小説の映画化。


加賀さんの少女の顔のなかに宿る魔性の女の魅力と
京美人の大人の魅力の筈の八千草さんが
幾つになっても少女の面影を失わない素敵さ
それを上手く映像に溶け込ませた篠田監督。

川端文学をどこまであらわせたか、また全然違う!と感じるかは
  見た方たちそれぞれのものでしょう!
https://plaza.rakuten.co.jp/nadeshikosumika/4048/



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