広島・長崎の"種明かし"
a.水が「起爆剤」
アインシュタインとシラードが、ルーズベルトに提案します。
「大きな原爆なら作れます。 港湾で使えます。しかし、飛行機で持って、
運ぶ事は重くて不可能でしょう。」という提案です。
なぜ港湾か? 水は現地調達だからです。 …60%なんか濃縮しないですよ。
もっと低濃縮したものを持って行って、水の中にドボンと漬けるだけ。
(水が大量だったら冷やされてしまって駄目だけど、冷えない程度に水が
少なかったら)周りの水が入ってきて核分裂反応を起こし、原爆になるんです。
仁科原爆というのは濃縮度10%で作るんです。その計算をしたのが武谷です。
10%でできるちゅうわけです。60%じゃないんです。
B槌田敦講演会@甲府7.1集会1/3[↖]
b.広島も長崎も見事に港湾都市!
そう、広島も長崎も見事に港湾都市ですね! どちらの場合も、原爆は船で運んで港湾につけ、しかるべき場所に密かに運んだのでしょう。[↖]
523.「トリニティ実験」だけで「広島原爆投下」を決行するのは、無理があるのではないか? (5)
(図)【再掲】原爆は本当に「投下」されたのか
d.干潮・満潮
「中性子の遮蔽」及び「人口集中地域での起爆」を目的として、遡上可能となる「満潮時」が狙われた。
広島: 8時6分⇒満潮[↖]
1945年8月6日、広島の川の状況 : 水深・流速・川幅・橋・川岸 <論文>
長崎:11時2分⇒ほぼ満潮(長崎は1時間ほど水俣より早い)[↖]
歴史的潮位資料 水俣(MINAMATA)/気象庁
・原爆はある意味「原始爆弾」でした
日本は「核開発先進国」
a.「あの程度の爆弾は日本が既に、硫黄島で実験済みである」
これは、呉の海軍兵学校教官の発言であるが、研究者や府知事らの発言からも「驚き」の声は無く、「想定内」だったことが読み取れる。
榎本東洲の『日本製原爆完成全文』(7)
b.日本の原爆開発計画
(1)軍機関・国家機関・民間研究所【本体】
*海軍技術工廠・陸軍技術工廠・通信技術研究所
*満鉄中央試験所・満洲電々・台湾総督府研究室・朝鮮総督府研究室・東邦産業研究所
*開発指揮…仁科芳雄及び専任研究者
1940年 仁科芳雄、ウラン爆弾計画を安田武雄陸軍航空技術研究所長に進言
1943年 東条内閣は仁科研究室に無限の予算を約束
これらの研究成果は、一切非公開である。満州・北朝鮮にウランの大鉱床が
存在することを見てもこちらが本体であることは論を待たない。
A原爆投下 活(い)かされなかった極秘情報/NHK(20:10-)[↖]
(2)大学【偽装】
*二号計画(陸軍)
理化学研究所、東京帝国大学、大阪帝国大学、東北帝国大学が主体
「熱拡散法」でウラン235を濃縮
仁科芳雄、彦坂忠義
*F計画(海軍)
京都帝国大学が主体
「遠心分離法(サイクロトロン)」でウラン235を濃縮
荒勝文策、湯川秀樹
原爆は日本製で地上起爆?
これらはいずれも研究室単位での小規模活動である。予算も僅少で、「福島の中学生に手掘りでウラン鉱を取らせた」「自宅から配給の砂糖を 持ってきた。」とか、「研究員が逮捕され、留置場からリモートワークをした」などというあり様で、とても軍事研究と呼べるものでは無い。「仁科が怒鳴り散らした」などという逸話もある。
上記の関係者が"学術"目的で行ったと推測される。明らかに上記計画を隠蔽するための偽装工作である。
c.世界最初の「核爆発」は日本で起こった
1939年3月1日、大阪府枚方市の日本陸軍・禁野(きんや)火薬庫で大爆発が起こり、その爆発音は京阪一帯に響きわたった。世界3大火薬爆発とされ、「核爆発」の可能性が高い。
枚方市は、1982年に「非核」平和都市を宣言した。[↖]
524.なぜ「枚方市平和の日」は3月1日なのか?
父は子供の頃、キノコ雲を見たと言っていました。父は晩年癌で他界し、私は40歳の時、癌に罹患して臓器を3つ切除しました。
父が見たのは、1939年3月初めの枚方市禁野火薬庫の爆発だったと推察しています。
本物黒酒(水原紫織)@honest_kuroki
e.ウラン鉱石は満州産
佳木斯(チャムス)で採掘された2000tが、山口県・福岡県・京都府に輸送され、静岡県三島市の工場で濃縮加工された。[↖]
原爆は日本製で地上起爆?
北朝鮮の推定埋蔵量は全世界の半分との説もある。
g.北朝鮮興南沖原爆実験
1945年8月12日早朝、北朝鮮咸興市(ハムフン)の興南沖水域で原爆実験を行い成功させた。海上爆発特有の「きのこ雲」の発生を日本人士官が証言した。
そして、原爆の原料である天然ウランは主として北朝鮮で採掘精錬し、当時北朝鮮の興南にはアジア最大の日本の軍需工場があり、原爆製造に不可欠な日本の世界最大級の発電所があった。[↖]
しかし、満州国、朝鮮半島に侵攻したソ連軍は、8月12日の上記核爆発の数時間後に北朝鮮興南を占領し、核インフラを奪い日本の核技術者を連行した。ソ連はその成果を利用し、僅か4年後に核実験に成功した。
ロシア政府系通信社「スプートニク」は、2013年6月13日付で「1945年8月12日、日本軍は小型の船艇に核爆弾を載せ、ハムフン沖で爆破すると、直径1キロの火球が天空に燃え巨大なキノコ雲が上がった」と報じている。
ロシア政府系通信社スプートニク、「日本、北朝鮮咸興沖合で核弾頭爆破」と報道
さらに、北朝鮮の朝鮮労働党機関紙「労働新聞」も、2018年2月9日付で、「日本は敗戦直前ハンフンの興南沖水域で核爆発実験を実施した」と報じている。
また、中国政府の公式サイトは、2015年9月6日付で「日本は1939年から1940年の間に、日本で核兵器を製造した」と報じている。
中国地质调查局/寸寸河山寸寸金
「1945年8月12日 日本が原爆実験成功」説の世界史的意義
・東大・京大が"道化役"を演じ、その裏で「軍機関」がしっかりと成果を上げていた訳です