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(回答先: 苗字で分かってしまう昔の身分!あなたの先祖の職業は? 投稿者 中川隆 日時 2021 年 7 月 30 日 07:41:51)
これが日本本来の風俗 _ 本当は怖かった日本の農村
30年前に徳山ダム予定地で水没する運命だった徳山村に入って民俗調査したとき、飲み屋のママが「「毎晩、若い衆が「やらせろ」と忍んでくるので本当に困る」」 とこぼしていた。徳山など西日本の閉ざされた村では、後家さんが若衆の性教育をする義務があった。
女子は初潮が来れば離れに住まわせ、赤飯を配った。これが「おいで」の合図で、その晩から近所の若衆が娘の元に夜な夜な忍んでくる。これを「夜這い」と呼び、1960年代まで、西日本では、ありふれた習俗だった。
当然、子供ができるが、お腹が膨らめば、娘は忍んできた若衆のなかから一番気に入った男を夫に指名する権利があった。若衆は、これを拒否することはできなかった。もし拒否すれば、村から叩き出されるほどの指弾を浴びた。
夫指名はお腹の子の種男である必要はなかった。どうせ、生まれた子供は、村の共同体みんなで育てるのであって、誰の子でも構わないのだ。子供は村全体の財産であり、みんなで育てる義務があった。村の共同体では、困ったことは、みんなで相談して解決するのであって、一人でも飢える者を出すことは許されず、餓死するときが来れば、みんなで一緒に餓死したのである。そこには貧しくとも、孤独という苦悩は皆無であった。
やがて若衆が都会に出るようになり、都会の家畜的労働者の習俗を村に持ち帰ることによって、夜這いも廃れ、共同体も瓦解していったが、祭りなどには、そうしたフリーセックスの習慣が遅くまで残り、1980年代まで村の祭りは無礼講であり、どの人妻と寝ても良かった。
できた子供が、父親の子である必要があるのは、権力と財産を相続する必要のある名主や武家に限られいて、共同体生活をしてきた民衆には、受け継ぐべき権力も財産もなく、したがって父の子を特定する理由がなかったのである。
http://blog.livedoor.jp/hirukawamura/archives/1805329.html
「夜這い」
筆者は若い頃から民俗学が大好きで、宮本恒一の熱狂的ファンを自認し、その真似事をしながら、山登りの途中、深い山奥の里を訪ねて、その土地の人と世間話をしながら、新しい民俗的発見をすることを楽しみにしていた。
かつて、揖斐川の上流に徳山郷 という平安以前に起源を持つ古い村があって、その奥に能郷白山や冠山という奥美濃山地(両白山地)の名峰があり、このあたりの山深い雰囲気に惹かれて何度も通った。今は無意味な形骸を晒すのみの巨大なダム底に沈んだ徳山の里は、筆者の足繁く通った1970年代には、いくつかの立派な集落があり、春から秋までは渓流釣りマニアでずいぶん賑わったものだ。
そのなかに、名古屋からUターン里帰りした中年女性の経営する小さな飲食店があった。そこでよく食事をして世間話に興じながら、おばちゃんに村の事情を聞いていたが、実におもしろい話がたくさんあった。
一番凄いと思った話は、近所の農家の中学生の娘が妊娠したことがあったが、その相手は祖父だったという。しかし、当時の徳山では、この程度は全然珍しいものでなく、ありふれていると言ったことの方を凄く感じた。
夜になると近所の若者が飲みにくるが、必ず店仕舞のときまでいて「やらせろ!」としつこく強要し、うっとおしくてかなわないという話や、この村では後家女性がいれば、婿入り前の若者たちの性教育係を務めるのが村の伝統的義務とされているというような話も驚かされた。
参考までに、昔の性事情を知らない若者たちに言っておくが、戦前の日本では、とりわけ西日本における古代弥生人の末裔たちの里にあっては、国家によって定められた一夫一婦制結婚形態というのはタテマエに過ぎず、それが厳格に守られた事実は存在しない。つまり適当なものであった、というより、民衆レベルでは自由な乱交が当たりまえであって、生まれた子供が自分の子供である必要はなかった。
というと、ほとんどの若者たちが「ウソー!」と驚くに違いないが、これが真実なのだ。例えば一番典型的だった中国山陽地方の集落では、一つの集落で、結婚まで処女を保つ娘は皆無だった。初潮が始まると、親が赤飯を炊いて近所の若者宅に配る。それが「おいで」の合図となる。その日から娘は離れの座敷に寝泊まりするのである。
これは、山陽地方(西日本の古い農家といってもいい)の古い農家の作りを見れば分かる。必ず夜這いのための娘の泊まり部屋が設けられていたはずだ。古い民俗家屋展示を見るときは、昔のこうした光景を見るのだ。すべての構造に歴史の深い意味が隠されていると知ってほしい。
若者の男たち、ときには、なりすましの親父たちも、赤飯の出た家に夜這いをかけて、初々しい少女を抱いて性欲を満足させたわけで、これなら風俗性産業が必要なはずがない。昔だって男たちに強烈な性欲があった。それが、どのように処理されていたか? 考えながら、赤線・性産業の由来・必要性を考えるのだ。
夜這いの結果、もちろん子供ができてしまうわけだが、生まれた子供が誰の子であっても、事実上関係ない。子供の父親を指名する権利は娘にあった。別に実の父親である必要はなかった。夜這いをかけた誰かの内、一番好きな男を父親に指名するのである。これが、やられる側の娘の権利であった。
夜這いを拒否することは、男にとって大きな屈辱だった。そんなことをすれば後々まで男に恨まれて「八つ墓事件」のような事態が起きかねない。津山殺戮事件の裏には、こんな背景も考える必要がある。
父親を特定することが意味を持つのは、子供たちに受け継がせるべき財産・権力のある有力者に限られていて、持たざる民衆にあっては、受け継がせるべきものもなく、名もない我が子種を残す必要もなく、したがって、女房が誰の子を産もうと、どうでもよいことなのである。
生まれた子供は「みんなの子供」であった。集落全体が一つの大家族だったのだ。みんなで助け合って暮らし、みんなで子供を育てたのであって、小さな男女の家族単位など、権力が押しつけたタテマエ形式にすぎなかった。
タテマエとしての結婚家族制度は、明治国家成立以降、政権が租税・徴兵目的の戸籍制度整備のために、それを強要したのである。
それは権力・財産を作った男性の子供を特定するための制度であった。それは名主・武家・商家・有力者などの権力・財産を「自分の子供に受け継がせたい」インテリ上流階級にのみ意味のあることであり、このために女性を婚姻制度、貞操に束縛したのである。
農民をはじめ一般大衆にとっては、束縛の多い不自由な一夫一婦制など何の意味もなく、たとえ配偶者がいても、誰とでも寝るのが当然であり、生まれた子供は「みんなの子供」であって、集落全体(大家族)で慈しんで育てたのである。
このようにして、かつての日本では夜這いに見られるような自由な性風俗に満ちていた。「集落全体が大家族」という考え方で助け合い社会が成立していて、夫を失った後家は、若者たちの性教育係になり、冒頭の飲食店のオバサンも、徳山の若者たちから、そのように見られていたわけで、決して徳山の若衆が性的変態だったわけではない。
そうした自由な性風俗は1960年あたりを境にして、急速に失われていった。その後、読者が知っているように、女性に貞操観念が求められるようになった理由は、世の中全体が豊かになり、個人が財産を蓄積する時代がやってきたことによるのである。
豊かになれば財産を「自分の子供」に相続させたくなる利己主義が芽生えるのである。「自分子供」を特定するために、誰の子かはっきりさせる必要があり、女性の自由な性を抑圧し、貞操観念に閉じこめる必要があった。
http://protophilosophy.noblog.net/blog/t/10590234.html
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夜這と村落共同体
日本における夜這の事例が数多く紹介されていますが、村落共同体の実態が紹介されないで、性関係だけが取り出されていると、一対婚しか知らない現代人には違和感の方が強くなりかねません。夜這いを理解するためには、村落共同体がどんなものだったかを理解する必要がありそうです。
大きな特徴は、村落の構成員に大きな変化が少なく、長年にわたって婚姻を重ね、地縁・血縁が複雑に重なり合った共同体であることでしょうか。現代は、苗字があり家族以外は他人という強い意識がありますが、当時は苗字等もなく、村中の人たちが大きな家族のようなものだったのでしょう。
村全体で、田植えをし、水路を整備し、里山を管理し、稲刈りもしていた。年貢を納めるのも、村全体の課題だったかもしれません。子を育てるのも、家を作るのも、共同作業で家だとか個人とかいった観念は非常に稀薄であったように思えます。
みんな家族のようなものだから、誰の子種でも気にする必要は無いし、どっちみち、みんなで育てるのだから更に、誰の子でも良い。年貢もみんなで払うのであれば、相続なんて形式的なもので、どうでも良い。
このような状況では、家と言う意識が稀薄であり、家父長権は殆ど存在せず、色んなことは寄り合いでみんなで決めていた。
みんなが生まれたときから生活を共有し、気心も知れた者どうしだから、警戒心も違和感も好き嫌いもなく、支配も被支配もない。だから村人同士であたりまえのように性を満たしあう。
一対婚は私有制度を母体にした婚姻制度であり、このような血縁と地縁の双方で一体化した村落共同体には、一対婚制度こそ全く相応しくない制度だったといえそうです。
このように考えてみると、明治以降村落共同体を破壊し、夜這から一対婚に変わっていった原因に、家父長権の法制度化が存在する可能性が見えてきます。
それまでは、武士階級にしか存在しなかった家父長権が、明治憲法により農民にも拡大され、名字と一緒に一人ひとりの男に権利が与えられました。その結果、農村にも支配権力が発生し、私権意識、家意識が少しずつ浸透していき、ついに農村も私権を中心とした家が、村落共同体の紐帯を解体し始めた。
そして、村落共同体の中で貧富の差などの、身分意識が形成され、夜這制度も解体されていくという流れをたどったのではないでしょうか。
http://www.rui.jp/ruinet.html?i=200&c=400&m=83440
★娘の通経を村内へ披露する理由
遠州国曳馬村地方:女子に初めて月経が来ると、隣家では米二・三合を袋に入れて贈り、『初花が咲いてお目出とうございます』と祝詞を述べた。女子は月経の度に別に立ててある小屋に入ることとなっていた。
讃岐国小豆島:娘が十七歳になると村内の若い衆を招き、『娘も通経があるようになったから、何分ともよろしく頼む』と披露することになっていた。もし娘の家が貧しく披露の宴をひらけないときは、若衆が各自醵金して宴を張る定めであった。
八丈島:女子の初潮のときは『タビ祝い』として村内の若者が芋酒一升と里芋一籠を持ち寄って祝宴を開いた。娘が一人前の女―即ち妻となり母となる資格ができたことを村内に披露するのである。
「而して此の女子が通経を機会として、その事実のあったことを部落中へ披露―即ち若者の共有に提供することに就いては、種々なる方法と手段が存していたのである。他屋(月屋またはひま屋または汚れ屋などとも言う)と称する定められた家屋に別居することもその一つであるし、十三詣り(この事は後に述べる機会があろう)と称して神社仏閣へ参拝するのも又たその一つであった。」
★村内の娘を女にしてやる若者の権利
阿波国山城谷村:未婚の娘と寡婦は、村中の若者の自由になると考えていたから、他の村の者が娘に通じようとすれば、まず村内の若者に酒を買い黙認を受けることになっていた。守らなければ石打または殴打されるのが普通であった。
磐城国草野村付近:娘が年頃になると村の若者が集って、旧正月十五日の夜に『誰々の家の娘は、まだ女になっていぬから、あれを女にしてやろう』といって、娘達を呼び出して女にする行事が近年まで存在していた。
下野国氏家町:五人の若者を我が家に引き入れた娘に親が怒り、娘を裸にして外に立たせ、通行人に向かってこれが浮気女のよい手本ですと懲罰の意で説明したことを若衆が知り、神聖なる淑女を侮辱する不法の父母なりとして押しかけて大論判をした事件があった。
梁田村(筆者の生まれた隣の村):明治二十五六年頃、寺の娘が若者数名に悪戯され、親である寺の住職が立腹して告訴すると息巻くのを、村内の故老が調停に立ち、言った。
『昔は娘は若者持で身分の高下なく自由にして差支なかったのである。それに村の娘が他日嫁入りする際に不具者であるようなことがあれば、ただに親の恥辱ばかりでなく村の名折れになる。
それ故に嫁入りする前に娘が不具でないか否かを試験するために若者はこれを自由にする権利が与えられていたのである。
此の村の古い掟も知らずに告訴して表沙汰にするというのなら、住持は傘一本で追い出してしまう』
こうしてその住職は屈服しなければならなくなり、そのまま結末を告げた。
http://bbs.jinruisi.net/blog/2008/12/000485.html
★処女は若者の共有物たりし類例
陸奥国東通村:明治の初期までは村の娘と出戻りの婦人とは青年男子の共有物であった。
娘達は十五歳になると娘宿に泊まりに行き、村の青年達の要求には絶対に従う事になっていた。
理由なく拒絶すると、拒絶された男子は直ちにこのことを娘の父兄に知らせると同時に村中に報じる。
娘の父兄は娘を一室に二週間も監禁して村の掟を説くが、それでも従わなければ村から放逐する。
また、反対に外来者に対しては、娘達は絶対に貞操を固守せねばならず、背くと同じく放逐される。実際に、区長が娘を青年に提供しなかった為に、襲撃された事実がある。
羽後国檜木内村:妙齢の女子を持つ親達は、旧正月十五夜に、一定の場所に仮小屋を設け、青年の男女を会合して徹夜させることになっていた。
もしこの会合に娘を出さぬ親があると、大勢の青年が押しかけて砂石を飛ばし誹謗をなし、さらにその娘の嫁入の妨害まで行なった。
★娘の嫁入には若者の承諾を要件とす
羽後国秋田群の村々:「媒介者の斡旋で縁談が進むと、新郎新婦の双方とも家族や親属の承認を経ることは勿論だが、更に村内の友人(即ち若者達の意)の異議の無いということが成立の要素となっていた。
かくてこれ等の者が総て承知すれば内約を取り結び、改めて組頭へその旨を口頭で届け出で式を挙ぐることになっていた。」
こうして若者の異議の有無を確かめるということは、未婚の女子は村の若者の共有であるという習慣から導かれたもので、親達と言えども、若者の承諾を得なければ嫁入りさせる事はできなかった。
★露骨で極端なる女子共有の風俗
「越後三條南郷談」より:明治四五年までは毎年盂蘭盆になると、村の若者が盆の休日間だけの妻女を村の娘の中から籤(くじ)引きで決めた。
もし自分の気に入らない娘が当たったら、清酒一升を出せば取りかえてもらえた。
勿論、この盆くじが縁で夫婦となる者も多い。村内の男女の数に過不足があるときは、その数だけ白籤を入れ、引いたものはその年だけ妻なしで過ごす。ただし酒を出して娘を譲ってもらう事はできた。
★村の娘の結婚の許可権は若者の手に
加賀国能美群:処女は村の若者の共有である。認めぬ家があると、若者が大挙してその家の屋根をめくり、またその娘の嫁入りを妨げて婚期が遅れるようにした。また、その娘が生活に困っても、同情せぬのを常とした。
美作国勝北群:娘は若者の共有物であり、他村に嫁ぐには若者団体の承認を要した。もし若者団体が異議を唱えたら、若者と仮に配婚して、その後に他村へ嫁ぐ習俗となっていた。
丹波国志賀郷村:村内の男女同士で結婚することが慣わしであり、これを破ると両人を素っ裸にして提灯を持たせて村民がその後ろにつき、村内を囃しながら歩かせる制裁があった。
安芸国十二ヶ浦:娘が他村のものと関係することは禁じられていた。
破ると、『樽入れ』と称して、村の若者から僅かな酒肴をその娘に送る。これを受けた娘は日時を定めて氏神の社に村内の人々を招き、できるだけ手厚い酒食の饗応をせねばならず、これを『樽開き』と称した。
これに要する莫大な費用は他村の男の負担となり、この樽開きをしないとその男と結婚することはできなかった。
http://bbs.jinruisi.net/blog/2008/12/000481.html
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共同婚(乱婚とも雑婚とも称し、部落中の男女が共同的に婚姻するものをいう)
共同婚の遺俗としての嬥会(かがい)
『常陸風土記』に現れた嬥会は、共同婚の遺風として認められる。『他妻に吾も交らむ、吾妻に他も言問ひ』とある。そこに参加した女は、「嫂財」として「貞操を提供する義務が負わされた」のである。
嬥会は、国初時代に入ると、歌垣として各地で行われるようになり、この系統の結婚方法は、明治初期まで行われていた。
土佐国西豊永村:毎年七月六日の例祭には、近隣から数千の男女が集まり参詣。夜になると男女で押し問答し、女が答えられぬようになると、男の意に従うことになっている。
三河国の山中村:毎年春に未婚の男女が盛装して山行を行い、夫婦の約束をすれば、父系は必ずこれを承認せねばならない。婚約の出来なかった女は笑いものになるので、近頃では山行の前に内約させたり、他村の青年を養子として必ず婚約できるように仕向けたりしている。
美濃国東村:三日間行われる秋祭りで、村中の若者が鎮守の森に集まって輪になって踊り続け、夜が更けると村長・村会議員・青年会長なども交じって、踊りながら共鳴した男女が交わる。
「此の奇習によって生れる幾多の喜悲劇は、総て神の裁きとして解決され、且つこの踊りが縁となって結ばれた男女は、氏神の許した夫婦として、村人から羨望される」
紀伊国白崎村:「旧暦の盆踊の最中に双思の男女は婚約するのを習いとしている。此の約束が出来ると後で他家からその女を貰いに来ても、身代や身分がどうあろうとも盆踊で約束したと断り、一方、断られた者も盆踊で約束した中では言うて引き退がるのを常としている。」
この種の土俗が結婚の礼式となって存在する例を、次に挙げる。
下野国の宇都宮市を中心とした村落:「新婦の一行が乗りかけ馬で新郎の家の前まで来ると、門前に二人の男が立っていて『大勢して一体どこから来た』と問う。
新婦の方では『若者に美しい花をやるために来た』と答える。
かくて両者の間に押問答が始まるのであるが、先ず嫁方から口達者な一人の女が出て、婿方の男二人を相手に問答し合う。若し此の問答に嫁方が負けると、馬は元へ引き返してしまう。実に念の入ったものであるが今では稀にしか行なわれぬようになった。」
信州木曾山中の婚礼:花嫁が婿の家に往く道すがら、おこしを撒き散らしながら行く。媒酌人は、顔一面に墨を塗って婚礼の席に出る。
「嫁婿の座が定まると嫁は携えてきた小豆一升を入れた麻袋を取り出し、婿へ投げつけながら『わりゃ(私)、うね(郎)を頼りに来たぞ』と言うと、婿は『オウ石の土臺の腐るまで居ろよ』と答え、此の問答が済んでから盃事になるのである。」
これらは、嬥会系に属する掛け歌の形式化・単純化されたものであると推知される。
http://bbs.jinruisi.net/blog/2008/11/000477.html
★我国にも貸妻の習俗は各地に在った
阿波国澤谷村:かなりの山奥で十三戸しかない寒村であるが、宿屋がないので旅客は普通の民家に宿泊する。
旅客を迎えた家では、その夜は娘(なければ妻)を同衾させる。
もし旅客が娘に振られるようなことがあると、娘は『出戻りさんだ』と大声を発し、親や夫が出てきて夜中であろうとその旅客を追い出してしまう。一度『出戻りさん』の名を負わされると、その村では宿を得られない。
肥前天草島:他地方から旅客が来ると良家の子女が自らすすんで枕席に侍る。こうして多くの異性に接するほど、早く良縁が得られると信じていたためである。
肥前国富江村:殊の外に外来人を忌む風俗がある。それは昔から今(昭和二年の秋)に至るまで、外来人が『あの女を借りたい』と言うと、処女でも妻女でも貸さなければならぬ習慣があるためだと言われている。
他に、山陰の因幡・伯耆や越後国三面村等でも、貸妻が行なわれていた。それらは物質的な報酬を受けるのではなく、全くの好意に外ならぬのである。
http://bbs.jinruisi.net/blog/2008/12/000485.html
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ルイス・フロイスが見た日本女性の姿
日本における中・近世に到る時代をさかのぼってみましょう。当時の第一級の資料は外国人の宣教師ルイス・フロイスに求めることができます。
ルイス・フロイスはキリスト教の一派イエズス会の宣教師として来日し激動の時代を過ごしました。永禄五年(一五六二)より慶長二年(一五九七)長崎の地で没するまでの三〇数年間に多くの書簡を戦乱策謀の揺れ動く京都・堺・平戸・横瀬浦・口の津・長崎から発しております。
それには日本の政治情勢は勿論の事当時の権力者織田信長、豊臣秀吉、徳川家康そして竜造寺隆信、大村、有馬氏等耳慣れた人々の動きまで含まれております。加えて一般民衆の生活まで細かく興味深く書かれております。歴史から民俗学まで含む非常に貴重な報告書です。
ルイス・フロイスの「日欧文化比較」により当時の女性の姿に迫ってみてみましょう。ただルイス・フロイスがヨーロッパにおいては身分が高い宣教師であり、日本においても身分の高い人々の事を書いたとは思われます
日本の女性とその風貌、風習について、日欧文化比較より
一、ヨーロッパでは未婚の女性の最高の栄誉と尊さは貞操であり、またその純潔がおかされない貞潔さである。日本の女性は処女の純潔を少しも重んじない。それを欠いても名誉も失わなければ、結婚もできる。
二九、ヨーロッパでは夫が前、妻が後ろになって歩く。日本では夫が後ろ、妻が前を歩く。
三〇、ヨーロッパでは財産は夫婦の間で共有である。日本では各人が自分の分を所有している。時には妻が夫に高利で貸し付ける。
三一、ヨーロッパでは妻を離別することは最大の不名誉である。日本では意のままにいつでも離別する。妻はそのことによって、名誉も失わないし、又結婚もできる。
三二、ヨーロッパでは夫が妻を離別するのが普通である。日本ではしばしば妻が夫を離別する。
三四、ヨーロッパでは娘や処女を閉じこめておく事は極めて大事なことで厳格に行われる。日本では娘たちは両親に断りもしないで一日でも数日でも、一人で好きなところへ出かける。
三五、ヨーロッパでは妻は夫の許可がなくては、家から外へでない。日本の女性は夫に知らせず、好きなところに行く自由を持っている。
四三、ヨーロッパでは尼僧の隠棲および隔離は厳重であり、厳格である。日本では比丘尼(尼)の僧院はほとんど淫売婦の町になっている。
四四、ヨーロッパでは尼僧はその僧院から外に出ない。日本の比丘尼は何時でも遊びに出かけ、時々陣立(じんたち、軍陣の事、戦場か)に行く。
五一、ヨーロッパでは普通女性が食事を作る。日本では男性がそれを作る。そして貴人たちは料理を作る事を立派な事だと思っている。
五二、ヨーロッパでは男性が裁縫師になる。日本では女性がなる。
五三、ヨーロッパでは男性が高い食卓で女性が低い食卓で食事をする。日本では女性が高い食卓で、男性が低い食卓で食事をする。
五四、ヨーロッパでは女性が葡萄酒を飲む事は礼を失するものと考えられている。日本ではそれはごく普通の事で祭りの時にはしばしば酔っ払うまで飲む。
日本における結婚の様式
日本において古来より婚姻は婿入り婚と呼ばれる方式がとられていたようです。
男性が女性の家に通い女性に気に入られればその家に入り婿となります。
したがって結婚が成立するまでの女性は自宅で男性の来訪を待ちそれも相手は一人だけの場合は珍しく複数相手の場合の方が一般的であったようです。
一方男性も訪ねる家が一軒だけでは不安であり、数人の女性の家を回っていたと解するのは常識でしよう。このような状態、すなわち婿入り婚の様式からルイス・フロイスの見たような男女関係ができあがってゆきました。
したがって万葉集にはおおらかな恋の歌が含まれているとよく書かれておりますがそれは真っ赤な嘘で男性にすれば就職運動の歌、女性にすれば良い男を見つけだす儀式の歌と解すべきでしよう。それにしてもおおらかな日本の女性の地位を象徴しております。
中世以前より家屋敷等の財産は母から娘へと受け継がれ女性が財産の相続権、管理権があったようです。ただ男性は父の官職をそのまま世襲しますから現在とは少し違ってはいるようです。
江戸時代においても医者、儒者、大名等の系図を調べて見ましても婿入りが多い事に率直驚かされます。中・近世は婿入り婚が普通であり当然な現象でありました。
婿入り婚は優秀な男の後継ぎを見つけることができ、財産を分ける必要がなく、嫁姑の紛争もなくはぼ理想的な家庭が築けます。現在、婿入り婚が一般的になれば家族の問題、独居老人等の大部分問題が解決を見る事になります。私の故郷香川県塩飽の島々では最近まで漁師の間では婿入り婚がつづいておりました。
ルイス・フロイスが書き残した女性に関する事柄はこの婿入り婚を前提に考えればそんなに飛躍した考えをしなくても想像することができます。
それにしても中世の女の人は明るく、結婚前から夜遊びはするし、人生を謳歌し、祭りにはおおぴらに酔っ払い、男を従えて歩き、良く遊び、堂々と男を離縁していたようです。
日本における結婚の様式その二、
異端な人々の台頭ー 関東武士
ところが日本には婿入り婚ばかりではありませんでした。現在にも続く嫁入り婚の習慣を持つ勢力が台頭してきます。中世始め嫁入り婚の文化を持つ勢力が天下を握ります。鎌倉に幕府を開いた関東武士団です。
関東武士団は常に荒れる関東平野から育ち、特に京都を中心とした日本古来の文化を持ちませんでした。関東平野は季節風、洪水等自然条件が厳しく農業といっても境界争いは日常茶飯事で戦闘を職業とする武士団でなければ勤まらず、男性が家を継ぎ一夫一婦制でした。
例をあげればこの文化の違いは源頼朝とその妻政子の確執の原因となったようです。京で育った婿入り婚の文化を持ち政子以外の夫人のところを訪ねる事に疑問を持たなかった頼朝と一夫一婦制のなかで育った政子とではとかく問題になったようです。源頼朝から続く源氏の政権がいろいろな問題を起こし悲劇的な終末に終り、関東武士の流れを組む北条氏へと政権が移ったのは余りにも違いすぎる文化だった事も原因の一つでした。
この鎌倉時代と共に武士が権力を握るにつれ武士の社会が確立し、日本では異端であった嫁入り婚が徐々に広がってきます。しかし武士が人口に占める割合は少なく、京都を中心とする公家文化は従来の通り婿入り婚の様式でした。当時の公家社会及び西の文化を持つ者からみますと関東武士団は東の夷、田舎の風習、身分の低い武士の物真似などする必要もありませんでした。
中世より近世に移る時代にしてもルイス・フロイスが見た通りの社会でした。江戸幕府とともに全国的に武士の社会の結婚は先に述べた関東武士の風習が広まっていったようです。
日本における離婚の方法
結婚があれば離婚もあり、結婚と離婚とは裏表の関係にありますがルイス・フロイスは日本における離婚の方法にも驚いているようです。ルイス・フロイスの文章は日本の女性は男性に従属するような内容は読み取れません。
逆にどうみても日本の女性が上位であり逆にヨーロッパの女性が下位のように読み取れます。実際ルイス・フロイスの文章によれば日本ではしばしば妻が夫を離別すると書かれてあります。
近世における離婚にあたっては男より女性に「みくだりはん」(通常、三行と半分に書かれた。しかし例外もあり。現在の離婚証明書)を渡すことによって成立しました。この事をとらえ江戸時代は男が一方的に離婚できた根拠にしておりますが実際は相当違う様です。最近は民俗学の方面からいろいろ研究が進んでおります。それによりますと離婚にあたり男性側が「みくだりはん」を女性側に出す事は勿論ですが、男性にしても女性より「みくだりはん」の受取り証を貰わなければなりませんでした。これを「返し離縁状」もしくは「返しみくだりはん」と呼んでおりました。
男性は離縁した女性よりの受取り証なしに再婚すれば、何か事ある時に「返し離縁状」がなければ重婚罪となり「所払い」の追放刑の重罪が待っておりました。「みくだりはん」の前提としては女の持参金、嫁入り道具を全て返さねばならず一点をも欠けては「みくだりはん」は出せなかった事は勿論です。
ある地域の「みくだりはん」の調査によりますと現存する「みくだりはん」と家系図を比べて見ますとほとんどが婿入りの家であったとの報告だったと思います。後継ぎが出来ると女は男に「みくだりはん」を書かせ手切金を渡し家から追い出したのががほとんどであったとのことです。
これまたルイス・フロイスの記述どおりです。
ルイス・フロイスは中世の日本でこの報告書を執筆したおり、日本に関するこの報告書が絶対にヨーロッパにおいては絶対に信用してもらえないだろうと思って書いた事でしょう。
ルイス・フロイスによって描かれた日本を丁寧に見ますと現在の社会との違いに驚かされます。
日本的に完成された社会が一大変革を迎えたのは明治維新に求めることができます。明治維新は長く日本に続いた家族制度をも破壊しました。江戸時代に形式だけであった女性の地位も西洋の法律を丸写をした為にほとんどなくなりました。
ルイス・フロイスの描くヨーロッパの世界は男女同権の世界ではなく男尊女卑の社会であった事は間違いありません。日本における家族制度と家父長の考え方は軍国化する時代すなわち日清、日露戦争の時期に完成しました。明治維新は理念、すなわち革命目標がなかった事で有名で新しい国家を作るにあたり理想像を外国に求めた事にみられます。
明治の革命の主役薩長土肥の下級武士達は自分達の武力革命を正当化する為に江戸時代は悪い時代と盛んに学校教育の場を利用しその影響は現在にも続き教科書は勿論の事、多くの歴史書もこの影響から抜けだすことができないのは誠に残念です。
永い歴史を持つ日本史の上で女性の最大の悲劇の歴史は明治より昭和二〇年間の七五年間であった事は明らかです。
女工哀史、カラユキさん、戦争未亡人等々明治維新以後は多くの男の血と女の涙が流れました。又日清・日露の戦い・シベリヤ出兵、支那事変太平洋戦争等一〇〇〇万人を越える人々の血が流れました。その中でも昭和史は女の涙の歴史でした。
江戸時代二五〇年間は島原の乱の死者約五万人が最高で誠に平和な時代でした。日本史において戦死者が一番少なかった事は特筆に値します。今こそ現代人にとって江戸時代とは何かを真剣に考えてもいいのではないでしょうか。
http://www.fsinet.or.jp/~yukio/ishis/onnaisa.htm
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本当は怖かった日本の農村
世間には「犯罪とは都市で起こるものであり日本古来の農村地帯は牧歌的で秩序だっていて、近代の都市部とは違い平和で犯罪はなかった」という誤解があります。
しかし、そういう閉鎖された農村地帯とか地方コミュニュティーというのは実は陰鬱でおかしな犯罪の温床でもあったのです。
例えば、間引き、夜這い、村八分、村の権力者による暴行、強姦、犬神や狐憑き殺人のような迷信や因習に縛られた暴行事件、実は殺人事件であった神隠しなど犯罪行為はゴロゴロありました。
まあ村の女性がレイプ同然に暴行されてたり、村のある一家が村八分で酷い目に合わされたり、嬰児が大量に間引きで処理されても、お上には訴えられず表立った犯罪にはなりにくいということはありますけどね。
「昔は村や地元の秩序状態が犯罪にはなりにくい犯罪を誘引していた」が正解です。
ただ、夜這いについては現代では少々、誤解があり、まるで村の女性が村の男に有無を言わさずレイプされてしまうよう言われてますが、実際は
当時の独身女性には貞操観念などなく、しかもセックスは最大の楽しみであり、村の女性たちは
「村の男が私を悦ばせにやってくる」
と夜ワクワクして床についたそうです。
薩摩だったかの逸話に村の男が男色に耽り女性とのセックスをサボりだしたのに怒った女性たちが、男たちが集まって男色している所に殴りこんで乱闘になったという逸話すらあります。
「当時の村の女は夜這いによって無理矢理犯された哀れな性奴隷であった」
という現代の誤解は「女性が自分の意思でセックスを求めるわけがない」という歪んだ女性像から来ています。
第二に女性の側にちゃんと自分の体調や相手によっては拒否権があり、
もしも、それを破って強引な夜這いに及んだ男は村八分などの制裁を受けます。
つまり夜這いは「村の男女の性の捌け口であり最大の娯楽」という男女共に楽しめる平等なものでした。
しかし、これもあくまで過去の時代の話しで現代では夜這いは一般的風習にそぐわない単なる犯罪行為になってしまったのも事実です。
夜這いの習慣の名残は各地でトラブルを生みました。
例えば単なる旅行者の女性が村の若者に村の夜這いの習慣によって集団レイプされた事件とか南九州で東京から来ていた女性が地元の男に略奪婚の習慣で拉致されて、親子ともども「うちにもやっと嫁さんが来た」と泣いて喜んだ事件とか表立った騒ぎになった事件がいくつもありました。
あと名張毒ブドウ酒事件とか津山三十人殺しも動機は夜這いのもつれらしく、
陰鬱な農村型犯罪です。
他に月ヶ瀬村の殺人や殺人事件とは思いにくいですが「便層で死んだ男」事件などもそのカテゴリでしょう。
http://pandaman.iza.ne.jp/blog/entry/526459/
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