武士のルーツ 武士の出現に関しては、如何なる必然が在っていつ頃出現した事かを意外と知らない方が多い。
実は決定的な必然として、支配体制を確立し掛かっていた渡来部族に対する原日本人(縄文人/蝦夷族)のレジスタンスに対する対策として日本武士は出現した。 つまり出現時の武士に武士道の精神など微塵もない。 何故なら原日本人(縄文人/蝦夷族)は、容赦無く討ち取る蛮人扱いの相手だからである。 大体に於いて、武術(武道)の原型は山中に篭って抵抗を続ける縄文人(蝦夷族/えみしぞく)を取り締まる為に結成された初期の陰陽修験者に拠って開発された単独もしくは少数に拠る機動力が基本の為に、世界でも珍しく剣だけで盾のない武術である。 弥生期から平安期に到る日本列島黎明期の武力は、部族単位の自警団的要素が強いもので、必要に応じて召集される武力だった。
それが、原日本人(縄文人/蝦夷族)のレジスタンスと言う必要な事態が常態化して専業の武門を組織する必要が生じた。 古代に於ける治安維持に関して、大和朝廷(ヤマト王権)初期の官憲としては犬飼部が挙げられ、その後は後胤貴族である平氏や源氏が大和朝廷(ヤマト王権)から地方派遣される形でその役割を担う経緯が存在した。 この頃に成り立ったのが実は全国に存在する初期鎮守神の出現で、鎮守府将軍に表される治安維持に関して、武力組織が地方に派遣され、陰陽修験道師(山伏)の活動も在り地方の平安を司どる呪詛的要素を習合して鎮守氏神(鎮守氏上)の信仰概念が成立した。 平安時代の中期になると、奈良時代の防人制度の廃止、武力ではなく神の力で国を修める建前の為に、朝廷の武人貴族が形式化して弱体となり、地方豪族の私的で日常的な武装化が促進され、武器・武具の形状に著しい変化が現れる。 所謂(いわゆる)「武士の台頭」で、地方豪族の私的で日常的な武装化が進んだからである。 日本武士の出現が平安期とすると、それではそれ以前の武力は何だったのかと疑問をお持になるだろう。
それは、当初の大和合国家の成り立ちからして、武力ではなく「神の威光で統治する」と言う呪詛的意味で統治する初期大和朝廷(ヤマト王権)の大王(おおきみ/天皇)に武力は相応(ふさわ)しくは無く、御所の守りは兵衛(ひようえ)と呼ばれる武官職の衛士で武士ではなかった。 地方に派遣するにしても、警察権的要素の犬飼氏を除くと米大陸に於ける移民が武力専任ではない立場で武器を携えていたのと同じレベルの位置付けになるのである。 つまり八百年も後の、米大陸の開拓移民に対する原住ネイティブアメリカン(インデアン)のレジスタンス抗争に騎兵隊が編成されたがごとくに良く似た経緯を辿って日本武士の出現を促した。 そしてそうした武力と言うものは、世界の常識のごとくご他聞に漏れず、やがて独自に動き始めて統制の利かない勢力に育ち、歴史の表舞台に昇る事になる。 ◆◇◆◇◆俘囚(ふじゅう/奴婢身分・ぬひみぶん)◆◇◆◇◆◇ 渡来部族が日本列島にやって来て西日本各地に部族小国家を成立するまでは、列島の原日本人は縄文人である。 その原日本人(縄文人)を、渡来部族側は「蝦夷族(エミシぞく)」と呼び武力で制圧して隷属化(奴婢身分)して行った。 渡来部族は王族・貴族化してその蝦夷族(エミシぞく)を国家の支配下に置き、服属した降伏蝦夷族を俘囚(ふじゅう/奴婢身分・ぬひみぶん)として労働力として使役した。 その後、原日本人(縄文人)の一部は渡来部族と混血同化の道を歩んだが、一部はマツラワヌ者として抵抗し、俘囚(ふじゅう/奴婢身分・ぬひみぶん)として看視体制下に置かれた。 そしてその俘囚(ふじゅう)と言う存在は、坂東(関東)に於いて平安中期まで、奥州(東北)に於いては平安後期の後三年の役頃まで続いて、一部は奴婢身分(ぬひみぶん/非人)として残った。 坂東(関東)に於いての俘囚(ふじゅう)は、「平安群盗」と呼んだ平安期(寛平・延喜年間東国の乱)の反乱(レジスタンス)が頻発した記録が残っている。 この抵抗(レジスタンス)の取り締まりに活躍し、武門の先駆者として名を挙げたのが、藤原北家魚名流・藤原利仁(ふじわらとしひと)や藤原秀郷(ふじわらひでさと)だった。 また、奥州(東北)に於いての源頼義(みなもとよりよし)と前九年の役(ぜんくねんのえき)の蝦夷俘囚側・俘囚長(ふじゅうちょう)とされる安倍貞任(あべのさだとう)・安倍宗任(あべのむねとう)兄弟の戦乱は有名である。 どうも現代の日本人は、この辺りの歴史経過をロスト(欠落)して物を考えるから間違えるのだが、本来の原日本人(縄文人)ならともかく「全ての現代日本人」に幾許(いくばく)かの渡来人の血が流れていて当たり前である。
困った事に現代の日本人は、当たり前なのに二千年から前の事を「天皇の祖先が朝鮮半島から来たと言うのは本当か」と大騒ぎをし、名字を見て「あいつは朝鮮系だ」と愚かに騒ぐ。 そもそも渡来部族が日本列島にやって来た頃はそうした線引きは無く、朝鮮半島と日本列島には朝鮮人も日本人も居なかったし、居たのは朝鮮半島から日本列島の西半分の広域に広がる小国家群・倭の国々の人々だった。 ◆◇◆◇◆前九年の役(ぜんくねんのえき)◆◇◆◇◆◇
奥州藤原家は、源氏とは歴史的に経緯(いきさつ)が有る。 千百八十五年(千百九十二年説在るもほぼ訂正されている)に鎌倉幕府を開いた源頼朝の五代前に遡る。 村岡(平)五郎の孫・平忠常(上総介)の「長元の乱」以後関東地区で勢力を広げ、あら方の関東武士を従えていた河内源氏・源頼義が、源氏の棟梁として奥州(東北)の鎮守府将軍に朝廷より任じられて着任する。 この鎮守府将軍、かなり出世意欲が強く、奥州を平定して「自分の勢力下に置こう」と企んでいた。 それで、当時奥州で一定の勢力を持っていた豪族「安倍氏」にちょっかいを出す。 安倍氏については、蝦夷(エミシ)族長説や、土着した下級役人が時間を掛けて豪族化した説、など色々有るが、たとえ後者としても、安倍氏は蝦夷との「混血が進んだ氏族」と考えられる。 蝦夷(エミシ)については、当時、「俘囚(ふしゅう)」などと言う差別制度があり、安倍氏は、「俘囚長であった」と記述する文献も存在する。 朝敵として仕立て上げ、討伐して手柄にするには格好の相手である。 そのタイミングは、源頼義が任務を終え帰任する直前に起こった。 安倍頼時の息子・貞任(さだとう)が、部下を襲ったから「処刑するので差し出せ」と、源頼義が言い出したのだ。 明らかに言いがかりだった。 拒んだ安倍頼時に対し、それをきっかけにして安倍一族に朝廷敵の汚名を着せた頼義は源氏の白旗を掲げた大軍を差し向けるが、安倍氏(頼時一門)も良く戦う。 源頼義が兵を率いて奥州に居座り戦を継続させるこの奥州の混乱で、鎮守府将軍の後任予定者は赴任を辞退し、源頼義が再び陸奥守・鎮守府将軍に返咲き、戦闘は続く。 当初、相手を甘く見ていた源頼義は、蝦夷馬(南部馬)を良く使う安倍頼時軍に、思わぬ苦戦を強いられる。 一時は安倍側が戦況有利に成ったが、頼義は安倍氏と似た様な出自(しゅつじ・出身)の豪族「清原氏」をくどき落して味方につける事に成功し、連合して安倍氏を討ち、永い戦いの後に安倍一族を壊滅させる。 安倍氏の「反乱を平定した」として、源頼義は、朝廷の実力者・藤原氏の助力で戦功を認められ、正四位下に昇格、息子達二人も叙任される。 この叙任において破格ながら、朝廷に味方した事に成った清原家の当主「清原武則」は、従五位下・鎮守府将軍に任じられる。 この時点で、奥州の地元リーダーは安倍家から清原家(後の奥州藤原家)に代わった。 これが千五十年代に、実際には十二年かかった「前九年の役」と呼ばれる東北の戦乱である。 ◆◇◆◇◆後三年の役(ごさんねんのえき)◆◇◆◇◆◇ 前九年の役から二十年後、鎮守府将軍になった清原武則は既に亡くなり、清原家は孫の真衛(まさひら)の時代に成っていた。 この頃赴任してきた鎮守府将軍が、源頼義の息子義家である。 源義家は、愛称(当時の風習)を、「八幡(はちまん)太郎」と称し、歌を読むなど「文武に優れていた」とされ、後世には、武門のシンボル=征夷大将軍の血筋は「武家の棟梁・源氏正統」の根拠の元と成った人物である。 以後源氏の白い旗指し物に「八幡大菩薩(八万台菩薩)」が使われた。 源八幡太郎義家が鎮守府将軍に赴任して来た頃の奥州は、比較的平穏だった。 処が、清原真衛(まさひら)に子が無い事で、養子取りの祝い事の際のいざこざから弟の清衝と家衝が敵に回り、兄弟で合戦と成り奥州は乱れた。 これは身内の相続争いだが、当時の権力者の相続争いは、殺し合いに発展する。 この混乱の最中、真衛(まさひら)が病死した為、真衛方に味方していた鎮守府将軍・源義家に、清衛、家衛が投降した。 源義家は二人を許し、奥州の安定を図るべく奥州を半分に分けそれぞれに与える。 しかし家衛が不満を持ち、清衛の「暗殺を謀り」奥州全域を手に入れようとするが発覚、暗殺は失敗する。 それで、奥州は、再び戦乱に成ってしまった。 清衛側に源義家が付けば、家衛の側には「安倍氏の残党が結集する」と言った具合で、簡単には決着が付かない。 その後源義家は苦労の末、弟の義光の助けも借りて、家衛を討ち取る。 これを、「後三年の役」と言う。 しかし、朝廷はこれを「公務と認めず」、私闘と裁定された為に、源義家は恩賞を何も得られず、戦(いくさ)のやり損であった。 この朝廷の前回(前九年の役)と異なる裁定の裏には、時の中央政権の事情がある。
義家にとって不幸な事に、この時点で時の白河法皇は院政を引きつつある最中で、藤原摂関家とは一線を隔す為にあえて藤原寄りの「源義家」を見放し、摂関家の「勢力を削ぎに掛かったのである。 それだけでなく、義家は中央政権から外され左遷されて「近江の所領に隠居同然の扱い」に処置されたのである。 しかしこの事が、結果的に源義家と源家(げんけ)の名声を上げ、「武門の棟梁」と認められる事に成ったのは、皮肉である。 朝廷からは認められなかった後三年の役の乱鎮圧だったが、源義家は自分にに従った関東武士(主に関東平氏)達に酬いなければならない心情に駆られる。
源義家は、自らが左遷されると言う不遇の中で「後三年の役」での配下の活躍に報いる為、私財を投じて独自に恩賞を配る。 その義家の行為が、結果的に配下のみならず多くの武士の共感と信望を集め部門の棟梁として命を預けるに足りる「棟梁として在るべき姿」と称えられる。 つまり「後三年の役」での大和朝廷(ヤマト王権))での仕打ちが、武門の棟梁が「源家(げんけ/源氏)」と言う血統的な資格を成立させ、同時に征夷大将軍が独自に恩賞を与える実績と成った。 ◆◇◆◇◆平安群盗と原初の武士達(自衛武力)◆◇◆◇◆◇ 平安期に到って貴族武人に代わって登場を始めた「武士」と言う名の存在は、「平安群盗」と呼ばれる武装集団の発生に対抗する下級貴族の自衛武力から始まっている。 凡(おおよ)そ九世紀頃から、平安期の坂東(関東)に於いて国家の支配下に服属した降伏蝦夷族が反乱(レジスタンス)を起こした「貞観年間の俘囚(奴婢身分)の反乱」、同じく降伏蝦夷族(奴婢身分)の反乱「寛平・延喜年間東国の乱」が頻発する。 この現実は、被占領下での蝦夷族に拠る民族抵抗テロだった可能性が強いのだが、こうした弾圧の歴史はどの国に於いても隠蔽される傾向にあり、正史上は群盗に拠る騒乱である。 つまり平安期の坂東(関東)に於ける原初の武士達(自衛武力)は、文字通り鎮守府将軍と呼ぶ占領軍であり、抵抗テロ鎮圧部隊で在った。 また、この頃に僦馬の党(しゅうばのとう)と呼ばれる群盗が坂東で見られ、これは自ら武装して租税等の運輸を業とする赴任後そこに土着してしまった富豪層の一部、「僦馬の党」の集団に拠る運京途中の税の強奪と言う馬や荷を狙った群盗行為が横行し始めていた。 これらの事象についても、当時の坂東(関東)の「法秩序が乱れた」と言う見かたよりも、まだ坂東(関東)は大和朝廷支配が本格的に及び始めたばかりの「未整備の無法地帯だった」と解するべきかも知れない。 つまり平安の雅(みやび)は、その一部を先住縄文人(蝦夷/エミシ)からの搾取システムが支えていた。 この群盗の活動は九世紀を通じて活発化して行き、朝廷は群盗鎮圧の為に東国などへ軍事を得意とする貴族層を国司として派遣するとともに、従前の軍団制に代えて国衙に軍事力の運用権限を担わせる政策を採った。
これらの僦馬の党の横行を鎮圧し盗賊の取締りで名を上げたのは、平氏流・平高望(たいらのたかもち)、藤原北家魚名流・藤原利仁(ふじわらのとしひと)、藤原北家魚名流・藤原秀郷(ふじわらのひでさと)らの下級貴族らで、この軍団制政策が結実したのが九世紀末〜十世紀初頭の寛平・延喜期であり、この時期の勲功者が武士の初期原型となった。 彼らは自らもまた名田経営を請け負う富豪として、また富豪相互あるいは富豪と受領の確執の調停者として地方に勢力を扶植して行ったが、彼ら同士の対立や受領に対する不平が叛乱へ発展したのが、藤原忠平(ふじわらのただひら)執政期の九百四十年前後に発生した平将門(たいらのまさかど)と藤原純友(ふじわらのすみとも)の承平・天慶(じょうへい・てんぎょう)の乱である。 朝廷の側に立ち、反乱側に立った自らと同じ原初の武士達を倒して同乱の鎮圧に勲功の在った者の家系は、承平・天慶(じょうへい・てんぎょう)勲功者、すなわち貴族とは一線を画す正当なる武芸の家系と認識された。 当時、成立した国衙軍制に於いて、「武芸の家系」は国衙軍制を編成する軍事力として国衙に認識され、このように国衙に拠って公認された者が家業武士へと成長して行った。 ◆◇◆権門層(有力貴族・寺社)と荘園(しょうえん/私領・私営田)◇◆◇ 十世紀中葉から後期にかけての平安期、特定の家系へ世襲として官職に伴う権限義務を請け負わせる官司請負制が、中央政界でも地方政治でも著しく進展して行った。 この官職の世襲体制を担う貴族や官人の家組織の中では、子弟や外部から能力を見込んだ弟子に対し、幼少期から家業たる専門業務の英才教育をほどこして家業を担う人材を育成した。 つまり官職の世襲制体制を担う貴族や官人の家組織の中では、子弟や外部から能力を見込んだ弟子に対し、幼少期から家業たる専門業務の英才教育を施(ほどこ)して家業を担う人材を育成した。 中でも、承平・天慶(じょうへい・てんぎょう)の乱の鎮圧に勲功の在った者の家系は、その勲功者家系が貴族(公家)とは一線を画す正当なる武芸の家系と認識され、その武士の登場も、武芸の家系に軍事警察力を請け負わせる官司請負制の一形態と見なされる事になる。 地方政治に於いて国司へ大幅な行政権を委任する代わりに一定以上の租税進納を義務づける政治形態が進んだ形態で、朝廷の財政は地方からの収入に拠っていた。 この、時行政権が委任された者が、現地赴任した国司の筆頭者であり、受領と呼ばれて大きな権限を背景として富豪層からの徴税に拠って巨富を蓄え、また恣意的な地方政治を展開した。 当然ながら受領は、解由制(げゆせい)や受領考過定など監査制度の制約も受けていたが、それでもこの赴任して来た国司(受領)と郡司・田堵・負名・百姓階層などの在地勢力との間で紛争が生じ、国司苛政上訴(こくしかせいじょうそ)と呼ぶ国司(受領)の苛政・非法を中央政府(太政官)へ訴える行為が頻発した。 また官司請負制に拠る官職の世襲制体制に伴い、この十世紀前期に時代を代表する「荘園(しょうえん)」と呼ぶ権門層(有力貴族・寺社)の私領(私営田)が、従来の租税収取体系が変質した事で次第に拡大形成し、発達して行ったのもこの時期である。
権門層は、私領する荘園を国衙(こくが)に収公されないよう太政官(官省符荘)、民部省や国衙の免許(官省符荘)を獲得し運営して財を蓄え、大きな勢力に育って行った。 律令制に於ける国衙(こくが)は、国司が地方政治を遂行した役所が置かれていた公領区画範囲を指すが、国衙に勤務する官人・役人(国司)を「国衙(こくが)」と呼んだ例もある。 また、その公領区画範囲を、荘園(しょうえん/私領・私営田)に対して国衙領(こくがりょう/公領)とも呼ぶ。 十世紀後期に登場した花山天皇は、こうした動きに対し権門抑制を目的として荘園整理令などの諸政策を発布し、かなり大規模な改革を志向していたが、反発した摂関家によって数年のうちに花山天皇は退位に追い込まれている。 しかし、その後の摂関政治が必ずしも権門優遇策をとった訳ではなく、摂関政治で最大の栄華を誇った藤原道長の施策にはむしろ抑制的な面も見られる。 摂関政治の最大の課題は、負名体制と受領行政との矛盾への対処、そして権門の荘園整理にどう取り組むかと言う点に在り、その摂関政治による諸課題への取り組みに漸く成果が見られ始めたのが、十一世紀前期〜中期にかけての時期である。 この諸課題への取り組み期間、国内税率を一律固定化する公田官物率法が導入されたり、小規模な名田に並行して広く領域的な別名が公認されるようになった。 また、大規模事業の財源として一国単位で一律に課税する一国平均役が成立するなど、社会構造に変革を及ぼすような政策がとられた為、十世紀前期に始まった王朝国家体制は、依り中世的な後期王朝国家形態へ移行して行った。 ◇◆◇◆名田経営(みょうでんけいえい)と武士の台頭◆◇◆◇◆
平安時代に起こった武士台頭の背景は名田経営体制(みょうでんけいえいたいせい)である。 名田(みょうでん)または名(みよう)は、日本の平安時代中期から中世を通じて荘園公領制に於ける支配・収取(徴税)の基礎単位である。 この平安時代中期頃には、律令制の解体が進展し百姓(注・農民ではない。)の中に他から田地を借りて耕作し、田堵(たと)と呼ばれる田地経営をおこなう有力百姓層が出現して富の蓄積を始めた。 有力百姓の田堵(たと)には古来の郡司一族に出自する在地豪族や土着国司などの退官した律令官人を出自とする者が多く、彼等は蓄積した富を持って、墾田開発・田地経営などの営田活動を進めた。 この平安時代、朝廷政府は土地(公田/くでん)を収取の基礎単位とする支配体制を構築していたが、律令制を支えていた戸籍・計帳の作成や班田の実施などの人民把握システムが次第に弛緩して行き、人別的な人民支配が存続できなくなった。 そうした収取体制の弱体化を改革する為に、朝廷政府は度々荘園整理令(しょうえんせいりれい)を発し、まず国衙(こくが)の支配する公田が、名田(みょうでん)または名(みょう)と呼ばれる支配・収取単位へと再編成される。 この名田(みょうでん)を基礎とする支配・収取体制を名体制(みようたいせい)と言う。 国衙(こくが)領に於いて公田(くでん)から名田(みょうでん)への再編成が行われると、田堵が名田経営を請け負う主体に位置づけられるようになる。 律令制に於ける国衙(こくが)は、国司が地方政治を遂行した役所が置かれていた公領区画範囲を指すが、国衙に勤務する官人・役人(国司)を「国衙(こくが)」と呼んだ例もある。 また、その公領区画範囲を、荘園(しょうえん/私領・私営田)に対して国衙領(こくがりょう/公領)とも呼ぶ。 更に荘園にも名田化が波及すると、荘園内の名田経営も田堵(たと)が請け負うようになり、田堵は、荘園・公領経営に深く携わるようになって行き、荘官や名主の地位を得るに到る。 その下級貴族・百姓の多くは源氏・平氏・藤原氏・橘氏を名乗る枝の者が圧倒的に多くなり、混乱を避ける為に名田(みょうでん)の夫々(それぞれ)固有の呼び方(地名)が、名田経営者の氏名乗りである名字(みょうじ/なあざ)・苗字(みょうじ/なえあざ)となった。 田堵(たと)は荘園・公領経営に深く携わり、その経営規模に拠って大名田堵(だいみょうたと)や小名田堵(しょうみょうたと)などと呼ばれ、荘園公領制の成立に非常に大きな役割を果たした。 尚、荘園・公領経営期から名田経営者一族が力を着けて自営を始める後の守護領国制の守護大名(しゅごだいみょう)や戦国期に、半国、一国、数ヵ国を領有する大名の由来は「大名田堵(だいみょうたと)から転じた」で、たまに見かける「大いに名が轟くから大名と言う説」は怪しい解説である。 一方で「平安群盗」と呼ばれる武装集団の発生に、田堵(たと)が対抗する為の自衛武力の整備が始まっている。
その群盗の活動は九世紀を通じて活発化した為、朝廷は群盗鎮圧の為に東国などへ軍事を得意とする貴族層を国司として派遣するとともに、従前の軍団制に代えて国衙に軍事力の運用権限を担わせる政策を採った。 盗賊の取締りで名を上げた勲功者が武士の初期原型となり、彼らは自らもまた名田経営を請け負う富豪として、また富豪相互あるいは富豪と受領の確執の調停者として地方に勢力を扶植して行った。 つまり平安期に到って貴族武人に代わって登場を始めた「武士」と言う名の存在は、名田経営を行う下級貴族・百姓の私兵組織として発展し、その財力と武力の相乗効果で力を蓄え、中央の朝廷政権の制御は衰えた。 そしてこの私兵組織を保有する名田経営者一族が、その組織の維持と拡大の為に共同して武力活動を行い、俘囚(奴婢身分)の反乱や、承平・天慶(じょうへい・てんぎょう)の乱、前九年の役と後三年の役、治承(じしょう)のクーデターなどを経て主従関係が成立し、武門の政権・鎌倉幕府が成立するのである。 ◆◇◆◇◆豆まき・「鬼は内」に隠された歴史の真実◆◇◆◇◆◇
大和朝廷が最後に平定した東北地方では、節分の豆撒きに「鬼は内」の所がある。 つまり、関東以西で鬼は悪役だが東北では先祖の神様で、ここら辺りに蝦夷(エミシ/先住民)が鬼とされた経緯の「名残が在る」と見るべきである。 青森県弘前市字鬼沢の「鬼神社」の豆まきは、「鬼は内」である。 東北だけではなく群馬県鬼石町でも「福は内、鬼は内」と言い、埼玉県比企郡・武蔵嵐山の「鬼鎮神社(きじんじんじゃ)」の豆まきも「鬼は内」なのだ。 鬼鎮神社(きじんじんじゃ)の祭祀は、陸奥国地頭職・鎌倉有力御家人・畠山重忠の手に拠るもので、東北の鬼とされた「安倍氏」に対する同情心や遠慮とされている。 また、陸奥国安達郡二本松城に拠った戦国大名・二本松畠山氏(はたけやまし)は、秩父平氏・支族で、武蔵国・畠山庄に在した鎌倉有力御家人・畠山重忠にその名跡を発している。 奥州合戦の功により陸奥国葛岡郡地頭職に任官した畠山重忠は北條時政に謀られ鶴ヶ峯で戦死するも、妻(北条時政の娘)は重忠の死後、源氏系流・足利義兼の子・義純と再婚する。 足利義純は畠山氏の名跡と領地を継承して室町期から戦国初期に戦国大名とし活動、また、その子孫の一部は二本松畠山氏となり伊達氏の興隆に圧されて滅亡した。 凡(おおよ)そ九世紀頃から、平安期の坂東(関東)に於いて頻発した「貞観年間の俘囚(奴婢身分)の反乱」、同じく降伏蝦夷族(奴婢身分)の「寛平・延喜年間東国の乱」がある。
平安群盗と呼ばれ文献に残るそれらは、国家の支配下に服属した降伏蝦夷族が起こした大規模な反乱(レジスタンス)だった。 つまり平安時代中期の武将・源頼光(みなもとのよりみつ/らいこう)と酒呑童子の物語や、平安末期・源(三位)頼政が生きた時代の妖怪・鵺(ぬえ)の物語は、後の世に先住民族・蝦夷(エミシ)の存在を無い事として覆い隠す同化策の御伽話に伝えられたのではないだろうか? http://miracle-jiyoudan.com/nihonbusi.html 切捨て御免のルーツ
別名を無礼討ち(ぶれいうち)とも言う「切捨て御免」は、苗字帯刀と並ぶ江戸時代の武士(氏族)の特権である。 もっとも、「切捨御免」と言う言葉は江戸時代のリアルタイムのものではなく後の表現として広まった物で、当時の史料に於いては「手討」・「打捨」などと表現されていた。 「手討」・「打捨」などは、無礼な行為に拠って武士(氏族)の名誉が傷つけられる事を制止する為の特権的地位の正当な行為と認識されていた。 これは当時の江戸幕府の法律である「公事方御定書」の七十一条追加条に拠って明記され、武士(氏族)が平民(良民/町人・百姓)及び穢多(エタ)・非人から耐え難い「無礼」を受けた時は、「斬殺しても処罰されない」とされた。 勿論その「手討」・「打捨」が正等だったか審査は在り、実際に切捨御免を行い「正当な権利行使」と認められた事案はそれほど多くはないが、「切捨て御免」は特権階級の地位的象徴とされた。 それにしても、この随分不公平な法制度は何を根拠に成立したのだろうか? この武士(氏族)の特権思想の原点は遠く弥生時代まで遡り、当時列島に渡来した部族が日本列島に現住する縄文人(蝦夷/エミシ)を武力制圧して隷属した事に始まる。 つまり征服部族(氏族)の被征服部族・ネイティブジャパニーズ・縄文人(蝦夷/エミシ)に対する優位性が、そのまま江戸時代の武士(氏族)の特権として制度に反映したのである。 この「切捨て御免」の制度を見ても、日本人が単一民族に成るのはズット時代が下がってからで、現住する縄文人(蝦夷/エミシ)を制圧して日本列島を乗っ取った歴史が存在する証拠である。 天武帝(てんむてい)〜桓武帝(かんむてい)に到る皇統が編纂した「古事記」と「日本書紀」は、皇統に拠る統治を補完する「虚(きょ/感性)」の部分を多く含み、同時にこの後ろ暗い列島乗っ取りの歴史を覆い隠す事に在った。 http://jiyodan.exblog.jp/17336184/ ◆◇◆◇◆(国家の品格・武士道の国日本のまやかし)◆◇◆◇◆◇
近頃「日本は武士道の国だ」とやたらに強調する連中が居るが、それは本当だろうか? 正直、侍魂(さむらいたましい/武士道精神)は、維新後の明治政府が国民男子の皆兵政策を目的に喧伝した「虚」がそのまま残って今日が在る。正直、武士道とやらの清廉な精神の持ち主が武士ならば、賂(まいない/賄賂)など在る訳も無く、本気で武士道精神を忠実に守っていれば命など幾つ在っても足りない。 歴史的に観て、江戸期以前の武士は今日に考えられる精神思想などとは全く違う「武を持って支配地を広げるだけの争いの組織」だった。 武士の社会は、支配地の拡大を求めて主従関係の「合従連衡(がっしょうれんこう/結びついたり離れたりする)」や「下克上(げこくじょう/上下関係の身分秩序を侵す)」の世界だった。 つまり鎌倉幕府、室町幕府は、地方の支配地争いの結果を実行支配として認証する機関的な役割に過ぎない時期が多かった。 歴史的に観て、封建制とは近世の幕藩体制(江戸幕府)を指して用いられた歴史用語で、武士の思想が「道」と言う極みにまで達したのは、江戸期に入ってからである。
平安中期から江戸期開幕に到るまで、氏族武士の本質は領地利権の為に親兄弟でも戦で争う人種で、主君に対する下克上(げこくじょう)も当たり前だった。 そこに在った武士道は「強い者が勝つ」で、「主君に滅私奉公する」何て事は江戸期に入ってからの「幕府の統治政策」と永く続き在った「戦乱の反省」とが為した合意に過ぎない。 まぁ今の政治劇も一緒だが、勝ち馬に乗りたい連中の駆け引きは今も昔も変わらない。だから大戦(おおいくさ)と成る程、敵味方どちら付かずでギリギリまで決められない武将は幾らでも居た。 氏族社会の成立から安土桃山期に到るまでの氏族社会は、領地獲得と下克上が当たり前で、場合いによっては親子兄弟、親戚とも権力を争っていたから、鎌倉期くらいから広まりだした儒教・儒学(朱子学)の「忠孝思想」は永い事「一部の氏族の精神思想」だった。 しかし、お堅い筈の「儒教」についても実は扱い方次第である。 清廉を謳い文句に「儒教の国」と誇り高きお隣りの朝鮮半島においても、性的愛玩を含む身分階級制度は、間違い無く存在していた。 朝鮮王朝(チョソンワンジョ)の身分制度は、上から王族、両班(ヤンバン・特権貴族階級)、中人(チュンイン・科挙に合格した役人)、良民(ヤンミン・常民と呼ぶ普通の身分)で、最下級は奴婢(ヌヒ・奴隷)である。 最下級は奴婢(ヌヒ・奴隷)は、公に王朝政府が抱える賤民(せんみん)を公奴婢(くぬひ)、地方の豪族が所有し、基本的に家畜と同じ所有物扱いの私奴婢(しぬひ)と呼ばれる身分の者が定められ、被差別階級に組み入れて隷属的に支配されていた。 つまり、公奴婢(くぬひ)と私奴婢(しぬひ)は非人(奴隷)であり、家畜同然だったから儒教の精神は都合良く及ばない理屈で、公奴婢(くぬひ)の遊技の妓生(キーセン)制度は公に存在し、私奴婢(しぬひ)は抱え主の両班(ヤンバン)の愛玩要素を含む慰め者だった。 この辺りの考え方は、ご多分に漏れず国家体制を維持する為に特権階級を設けて実力者を取り込み、王朝に忠誠心を持たせる狙いであるから、奇麗事の「儒教の精神」に組しない例外扱いだったのである。 また宮廷の医女(イニョ)も身分は公奴婢であり、遊技の妓生(キーセン)同様に両班(ヤンバン)のストレス解消の為の慰め者だったのが実情で、現代で言うヘルス嬢的な愛玩要素を含んでいた。 身分を示す帽子状の被り物の形状が、医女(イニョ)と妓生(キーセン)はまったく同じで、医女の身分は「奴婢(ヌヒ)」で在った。 だから、両班(ヤンバン)に取っては逆らえない性奴隷同然の存在で、医女を妓生(キーセン・日本で言う芸者)扱いする悪弊は、李氏朝鮮の燕山君の時代に生まれ、内医院(ネイオン・宮中の医局)の風紀が乱れ、「儒教の国」の精神も多分に統治上の権力的例外が存在したのである。 支配者の血統身分である氏族(武門)の間では、その価値観である支配権の為に親子兄弟でも「討つ討たない」の抗争が珍しくない時代が千五百年以上続いた。 この「戦は武士の本分」の原点は、勝手に渡来して縄張りを広げて行った氏族の覇権主義に在ったもので、何も武士の本分は格好の良い物ではなく、切り取り強盗の親玉みたいな物である。支配権の為に、親子兄弟でも武力抗争をする氏族(武門)の精神が立派とは思えないが、それを見てくれだけの格好良さで手放しに「武士道の国」と胸を張るのはいかがなものか? その一方で庶民(民人)は生きる為に「村社会」を形成し、独特の性習慣の元に村落の団結を図って生き長らえる方策を編み出している。 つまり、支配者である氏族(武門)と被支配者である庶民(民人)は「全く違う価値観と生活習慣でそれぞれが生きる」と言う特異な二重構造が形態化していて両者に武道精神的な統一性など無かった。 そして武士道など知った事ではない被支配者である庶民(民人)は「村社会」を形成し、あらゆる意味で融通し合い助け合い、共同で安全を確保して生活している。 武士道の精神にまつわる織田信長のエピソードがあるので紹介する。 信長が吉法師と名乗った若き頃より「大虚け者(おおうつけ)」と言われたのは、彼の常識破りな考え方や行動が常人に理解されなかったからである。
信長が十歳の頃の事である。 初夏を迎えたある日、彼は庭のもみじの木の根元を熱心に見ていた。もう一刻ほどになるが、見ていたのは蟻の巣だった。 先ほどから、黒蟻が無数に集って行列を作り、数十倍も大きい蜘蛛の屍骸を運んでいた。 「非力なものでも、一度に懸かれば意外な力になる・・・」 信長の組織戦の原点である。 考える事がそんなだから、付き家老や戦術師範の教えなど信長は頭から「間違っている」と信用しない。 信長は戦国時代の武士の風習を良しとせず、当時としては新しい団体戦法を考えていたのだが、それは配下の武士達の物凄い抵抗に合っている。 例え武士と言えども、戦はしていても元々始めから「死にたい」と思って戦をして居るものは、そう多く居る訳が無い。 本音を言えば、良い思いをしたいからこそ、武士はいささか危ない思いをしても戦はする。そこまで行かなくても、行き掛かりで止むを得ずにする戦も在る。 そう言う訳だから、戦は充分根回しをした謀事で決着をつけるか、若い者達の無鉄砲な気力が役に立つくらいで、古参の武士など現代の映像で見せられるように格好の良い戦ぶりは少なく、互いに「こけ脅(おど)し」とヘッピリ腰の合戦が現実だった。 それを「武士道のフェアプレィ精神(尋常に勝負)だ」と綺麗事を喧伝する輩がいるが、命をやり取りする切り合い(殺し合い)にフェアプレィが存在するなど本来おかしな話である。 戦国時代になって特にこの傾向が顕著になったのだが、武士道に於けるフェアプレィ精神(尋常に勝負)のルーツをバラセば、実の所「恩賞の確定」と言う止むに止まれぬ事情があっての事だった。 この事は後に講談師や脚本家、果ては明治維新政府から昭和初期の戦陣訓にまで利用される武士道の精神にまで発展するので明記して置くが、旧勢力にとっては「名乗ってから切り合う」個人戦が、譲りがたい利権だったのである。 本来、戦場で自分の手柄を公に認めさせる為に始めた「名乗ってから切り合う」は当時の武士の暗黙の了解で、それが「恩賞の決め手」と言う常識なのだ。 それを、団体戦にされると手柄を雑兵に持って行かれる。 つまり織田信長の提案した団体戦は上級武士の利権がらみなのであるから、それで事の是非ではなく旧勢力は頭から抵抗する。 日本の武士道が、世間で言われて居るような精神的(君命なら切腹もする)なものに成ったのは、江戸期に入ってからで、その後の僅(わずか)二百五十年間の事である。
建前の武士道など残酷なもので、幕末期に於いて「剣の腕が立つ」など見掛け格好は良いかも知れないが、それは只の古風な侍の羨望や庶民の憧れで、役に立つのは精々人切り暗殺の類である。本当の力は知恵の方に在る事を、坂本龍馬を始めとする有意の志士達は知っていた。武市瑞山(半平太)などは「かなりの使い手」と評されているが、大抵の修羅場は逃げの一手だった。 哀れだったのは、武士道の建前を信じて暗殺の道具にされた岡田以蔵(おかだいぞう)、田中新兵衛(たなかしんべえ)らや、新撰組の近藤勇(こんどういさみ)や土方歳三(ひじかたとしぞう)達だったのでは無いだろうか? http://miracle-jiyoudan.com/busidou_.html
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