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米英金融資本とナチスの緊密な関係
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2022.04.24 櫻井ジャーナル
2013年11月から14年2月にかけてアメリカのバラク・オバマ政権はウクライナでクーデターを実行、ビクトル・ヤヌコビッチ大統領を排除することに成功した。ヤヌコビッチは選挙で選ばれた大統領であり、言うまでもなくクーデターは憲法を否定する行為である。このクーデターを否定しない人物が「護憲派」を名乗ることはできない。ヤヌコビッチは2004年から05年にかけての「オレンジ革命」でも排除されたが、この「革命」を仕掛けたのはアメリカのジョージ・W・ブッシュ政権だ。
オバマ政権はクーデターを実行するため、ネオ・ナチを戦闘員の主力とする「右派セクター」を使った。この組織はドミトロ・ヤロシュとアンドリー・ビレツキーが2013年11月に組織している。
そのヤロシュは2007年にNATOの秘密部隊ネットワークに参加したと言われている。その年の5月に欧州のネオ・ナチや中東の反ロシア・ジハード主義者を統合するための会議がウクライナのテルノポリで開かれたが、その議長をヤロシュが務めている。
ウクライナのネオ・ナチはステパン・バンデラを信奉している。バンデラはOUN(ウクライナ民族主義者機構)のメンバーだったが、この組織は1938年5月に指導者のイェブヘーン・コノバーレツィがソ連の工作員に暗殺されると分裂、反ポーランド、反ロシア感情の強いメンバーはバンデラの周辺に集まった。
ウクライナをドイツが占領していた時代、OUNはドイツと結びついて「汚い仕事」を引き受けた。当時、ウクライナでは90万人のユダヤ人が行方不明になったとされているが、それもOUNが行ったと言われている。
1941年3月になるとOUNの内部対立は頂点に達し、OUN-M(メルニク派)とOUN-B(バンデラ派)に分裂、ドイツはOUN-Bへ資金を提供し、バンデラ派のミコラ・レベジはゲシュタポ(国家秘密警察)の訓練学校へ入っている。ドイツ軍がソ連へ攻め込んだバルバロッサ作戦が始まったのはこの年の6月。ドイツ軍はウクライナのリビウへ入った。
リビウを制圧したドイツ軍とウクライナ人は6月30日から7月2日にかけてユダヤ人の虐殺を開始、犠牲者は4000名から8000名だと推測されている。対象地域をウクライナ西部に地域を広げると、7月に殺されたユダヤ人の数は3万8000名から3万9000名に達するという。(Grzegorz Rossolinski-Liebe, “Stepan Bandera,” ibidem-Verlag, 2014)
8月になるとゲシュタポは暴走を始めたOUN-MとOUN-Bなどウクライナの「ナショナリスト」を摘発し始め、12月にOUN-Bは1500名のメンバーがナチスに逮捕されたと発表している。メルニクを含めて約2000人が逮捕されたともいう。(前掲書)
ドイツ軍は1941年6月にソ連への軍事侵攻を開始している。「バルバロッサ作戦」だ。西側には約90万人だけを残し、310万人を投入するという非常識なものだったが、これはアドルフ・ヒトラーの命令。西側から攻めてこないことを知っていたかのようだ。
ドイツ軍は7月にレニングラードを包囲、9月にはモスクワまで80キロメートルの地点に到達した。10月の段階でドイツだけでなくイギリスもモスクワの陥落は近いと考えていたのだが、12月にソ連軍が反撃を開始、年明け直後にドイツ軍はモスクワで敗北してしまう。ドイツ軍は1942年8月にスターリングラード市内へ突入するが、ここでもソ連軍に敗北、1943年1月に降伏。この段階でドイツの敗北は決定的になった。
1943年春になるとOUN-Bの戦闘員はUPA(ウクライナ反乱軍)として活動し始め、その年の11月には「反ボルシェビキ戦線」を設立した。ゲシュタポから摘発されていたはずのOUNやUPAの幹部だが、その半数近くはウクライナの地方警察やナチスの親衛隊、あるいはドイツを後ろ盾とする機関に雇われていたと考えられている。(前掲書)
ドイツ軍の敗北を見てアメリカとイギリスは慌てて動き出し、この年の7月に軍隊をシチリア島へ上陸させた。シチリア島を含むイタリアで支持されていたコミュニストへの対策ということもあり、アメリカの情報機関はこの時にマフィアからの協力を得ている。
アメリカやイギリスの支配層、つまりウォール街やシティの住人はナチスを手先と考えていた。ナチスの戦争犯罪を研究しているアメリカン大学のクリストファー・シンプソンによると、1920年代後半にアメリカからドイツへ融資、あるいは投資という形で多額の資金が流れている。ヨーロッパ大陸全域でアメリカの投資額が激減している中、1929年から40年の間に約48.5%増えているのだ。(Christopher Simpson, “The Splendid Blond Beast”, Common Courage, 1995)
アメリカからドイツへの投資は限られた金融機関を通して行われていた。その中心になっていたのがディロン・リードとブラウン・ブラザーズ・ハリマンだ。
ドイツへ資金を流すため、1924年にユニオン・バンキングが設立されるが、その重役にはプレスコット・ブッシュやW・アベレル・ハリマンが含まれている。ブッシュとハリマンはいずれもエール大学でスカル・アンド・ボーンズという学生の秘密結社に所属したいた。
プレスコットが結婚したドロシーの父親はウォール街の大物、ジョージ・ハーバート・ウォーカー。プレスコットは1924年、ウォーカーが社長を務める投資銀行A・ハリマンの副社長に就任、ウォール街でも名の知られた存在になる。そうしたことからウォール街の弁護士だったアレン・ダレスと親しくなる。プレスコットの息子、ジョージ・H・W・ブッシュがCIA長官に就任するのは必然だった。
こうしたウォール街人脈にとって、1932年のアメリカ大統領選挙の結果は衝撃だった。ニューディール派のフランクリン・ルーズベルトが当選したのだ。そこでJPモルガンをはじめとするウォール街の住人たちはクーデターでニューディール派を排除し、ファシズム体制を樹立しようとした。
クーデターの司令官を誰にするかについてウォール街の住人たちはパリで協議、選ばれたのはスメドリー・バトラー退役少将だった。軍の内部で圧倒的な人望があり、この人物を抱き込まないと計画を成功させられないと判断したからのようだ。
しかし、JPモルガンはバトラーがラディカルすぎると考えて嫌っていたという。この金融機関が考えていた人物は陸軍参謀長だったダグラス・マッカーサー。この軍人が結婚したのはルイス・クロムウェル・ブルックス。その母、エバ・ロバーツ・クロムウェルが再婚したエドワード・ストーテスベリーはJPモルガンの共同経営者だった。
ウォール街の住人はドイツのナチスやイタリアのファシスト党、中でもフランスの「クロワ・ド・フ(火の十字軍)」の戦術を参考にしていた。クロワ・ド・フのような50万名規模の組織を編成して政府を威圧、「スーパー長官」のようなものを新たに設置して大統領の重責を引き継ぐとしていた。こうした計画を聞き出した上でバトラーはカウンタークーデターを宣言、議会で告発している。(Public Hearings before the Special Committee on Un-American Activities, House of Representatives, 73rd Congress, 2nd Session)
バトラーはその一方、信頼していたフィラデルフィア・レコードの編集者トム・オニールに相談、オニールはポール・コムリー・フレンチを確認のために派遣する。フレンチは1934年9月にウォール街のメンバーを取材、コミュニストから国を守るためにファシスト政権をアメリカに樹立させる必要があるという話を引き出した。(Jules Archer, “The Plot to Seize the White House,” Skyhorse, 2007)
その後、ルーズベルトは1936年、40年、そしてドイツや日本の敗北が間近に迫っていることが明らかだった44年の選挙でも勝利する。戦争が終われば、ウォール街とナチスとの関係が調べられ、責任を問われることも予想されたが、45年4月12日に急死してしまった。そして始まるのが「赤狩り」、つまり「反ファシスト派狩り」だ。
第2時世界大戦の終盤、ドイツの敗北が決定的になるとアレン・ダレスたちはナチスの幹部と接触し始める。サンライズ作戦だ。その後、アメリカの軍や情報機関はナチスの幹部や協力者を逃走させ、保護、そして雇用する。つまりラットライン、ブラッドストーン作戦、ペーパークリップ作戦などだ。
ドイツでナチスが権力を握る頃からウォール街はファシストと緊密な関係にあった。その関係は大戦後も続き、ウクライナでもその人脈が生きている。
そうした実態を新聞、出版、放送、映画、最近ではインターネットを支配するハイテク企業が封印、事実と違うイメージを広めている。ナチスは人びとの抱くイメージをコントローするすため、啓蒙宣伝省を設立していた。その機関を動かしていたのがヨーゼフ・ゲッベルスだ。啓蒙宣伝省を「民営化」すると西側の有力メディアになると言えるだろう。
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