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2023年5月3日 07時04分
https://www.tokyo-np.co.jp/article/247682?rct=thatsu
東京の坂を語る時、地下鉄丸ノ内線を外すわけにはいかない。丸ノ内線が地上にひょっこり顔を出す周辺には、必ず名前がついた坂があるからだ。
区内に百十カ所以上も名前がついた坂があるという文京区小日向一丁目の「切支丹坂」という小さな坂もその一つだ。坂の頂上付近の住宅街に「東京都指定旧跡・切支丹屋敷跡」という東京都教育委員会の案内板と石碑が立つ。キリスト教が禁じられていた江戸時代に外国人宣教師や信者を収容していた施設があった。一七九二年には廃止された。
「東京名所図会・小石川区」によれば、現在、東京メトロの車両基地がある場所は、屋敷があった当時、くぼ地で「庚申坂の西、小溝(小川)に架したる橋を渡りて、両側が藪(やぶ)の間を(中略)上る坂あり、これ、真の切支丹坂なり、坂の上に往時切支丹牢(ろう)屋敷ありたり、故にこの名に呼ぶなり」とある。
付近の閑静な住宅街を歩く。すると電柱に「切支丹」と書かれた表示が一本一本に付けられているのに気づく。坂の歴史を知ると、街歩き好きにはぐっとくるアイテムだ。
切支丹坂のふもとにあたる場所の車両基地は、戦後、丸ノ内線建設に伴って造成された、いわば人工の台地だ。茗荷谷−後楽園駅間にあたる。
「東京地下鉄道丸ノ内線建設史」によれば、一九五三年一月に着工。茗荷谷の地形をいかし、くぼ地にトンネル掘削で出た土を四〜九メートル盛り土して造成した。五四年六月までに約十二万立方メートルを搬入した。建設残土に有効な使い道があったわけだ。基地を横断する既存道路は鉄筋コンクリート製の暗渠(あんきょ)で通した。
基地周辺を歩く。道路から九メートル近い高さのコンクリート製擁壁がそそり立っている場所があった。
「地下鉄の地下」に江戸時代の施設にちなんだ名前の坂道がある理由が分かったところで、なぜ、丸ノ内線は地上を走る区間があるのか知りたくなった。元東京メトロ社員で鉄道ジャーナリストの枝久保達也さん(40)はこう説明する。
「都心は武蔵野台地の切れ目と神田川、目黒川沿いなど、十〜二十メートルの起伏があるため、無理にトンネルを地下深く掘り下げるのではなく、トンネルは水平にして地形に合わせて地下、地上、高架を組み合わせた方が工事が容易です。特に丸ノ内線は戦後初の地下鉄だったので工費の削減が重要な課題でした。こうして茗荷谷付近から後楽園まで、神田川、四谷などで地上に顔を出すのです」
文・長久保宏美/写真・長久保宏美、川北真三
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