現在地 HOME > 掲示板 > 議論・雑談8 > 360.html ★阿修羅♪ |
|
20代の未熟者ですが、疑問というかなんというか、
それを投げかけつつこんな考え(あくまで現在の)
を投稿してみようかと・・・・。
−−−−−−
人間なんて殺しても殺されても、生体反応が腐敗細菌による分解反応に変化するだけで、
意識が消滅するかしないかなんていう人間が勝手に決めた節目など何の意味もない。
人の死なんて、草に火をつければ灰になるくらいの意味しかない。
だから、思想対立などの殺し合いにも意味はない。反応様式が変わるだけ。
地球を構成する一元素となってまた新たな生命が育まれたり、
環境破壊等によって生命が世から亡くなっていれば無機的反応が繰り返されるだけ。
生体反応は化学反応に基づいている。
化学反応は物理学に基づいている。
物理現象は数学的に成り立っている。
それだけ。
無神論万歳だな。
思想対立による戦争も、人という生命体が持つ物欲による戦争も、単に苦しみをもたらすだけだな。
でもまぁ生体反応を維持したいために最低限の食を得るために戦うのは、
最低限度に人が欲する人間の生命欲であるが故、仕方ないのかも知れない。
宗教は非常に優れているという見方もある。
確かに宗教は人々に幸福をもたらしているかもしれない。
でも、思想対立をもたらして人々を苦しめているのもまた宗教や思想対立によるものも多いかもしれない。
恋愛であろうと家族愛であろうと、宗教であろうと、人間感情は諸刃の剣のようなもので、
幸福と一体で苦痛というものは否応なしにつきまとう。
愛する人との別れも死別も。
宗教が非常に倫理的に優れていて、それ自体が争いを引き起こさないものであっても、
政治的なものに宗教が利用されて紛争を引き起こしてしまっていては、
結果としては宗教も不幸をもたらす一員として荷担してしまう結果になってしまっている。
信条は自由だけれども、世界支配やらそういった教義があるというのはナンセンスかもな。
もともと、宗教自体人間が創り出したものにすぎないわけだしな。
いくら論理的に組み立てられたもので壮大に体系づくられたものであっても、所詮人が創り出したもの。
根本的に、ヒトだろうがなんだろうが、人間が勝手に決めた生死という節目を超えて、
化学反応は繰り返され、自分を構成していた元素は新陳代謝やヒトの言う死
(延々と繰り返されている化学反応のうち、ヒトとしての意識が消滅する点、
生体反応から微生物による分解反応への転換点)を経て、自然界に還元されている。>
細胞は常に新陳代謝によってヒトの言う個々の細胞の「死」を迎えている。
意識だけは、電気的にある程度保存されて歳を経ていくが。
なら、生体反応を維持するための生物的欲求以外の争いは何によって引き起こされるのか。
それは「物欲」ではないだろうか。
そのために、ヒトという動物は、草が燃えて灰になるがのごとく無意味な死を、
互いに心を痛めながら供与しあっているのであろう。
最低限のメシを食う以外の思想対立、人種差別による殺し合い、これほど無意味なものは無い気がする。
肌の色による違いが、もし、クローン技術と組み換え技術の面で解決できるようになったら、
そうしてしまえば人種差別などできないであろう。
人種差別が単なる技術的問題に過ぎなくなってしまうかもしれない。
例えば、仮にだが、肌が白くないといって迫害を受けるなら、
黄色人種や黒人が、組み替えで白い肌を持った子孫を残せば良いような問題になってしまう。
それもカネの問題になるかもしれないし、
それが一般化された技術となるような時代になれば、カネの問題でもなくなってくるかもしれない。
いかに人種差別が無意味であるか。
人種による差別や対立は、サルの群同士の抗争みたいなものであろう。
ごくごく原始的動物的な。
いっそのこと、みんなアングロサクソン系になって、
全員、生化学的にグローバルスタンダードにでもしてみれば良い。
人種差別の無意味さ、それまでの草が灰になるがのごとく無意味な死を強要されてきた人々の
無念かつ無意味な死を与えたこと、そしてその無意味さ。
拝金主義というお山のてっぺんを目指して、他の者をひどく残虐に蹴落として登って、
他人より高くて眺めがいいのをウキャキャウキャキャと喜ぶ、
しかし、それより下に落ちないように恐れつつとにかくお山のてっぺんに立ちたくて、
ただそれに持続的記憶を持つことが出来るヒトとして意識を有することが出来る時間をひたすら費やして、
結局、お山のどこまで登ったか、それだけで、結局は意識の消滅した腐敗反応へと転換していくだけ、サル。
それが人間かもな。
ひたすら猿山登山の拝金主義人生。
生体反応は、緻密な有機的化学反応の集積の連鎖でしかない。
最も原始的な生物?は、ウィルスである。
最も単純なウィルスは、一本鎖のDNA又はRNAでしかない。
ただのヌクレオチドの重合体である。
この結晶化もできる単なる物質が生物に寄生してその生物の酵素を利用して増殖していくのである。
増殖能力があれば生物、なければ無生物というのであれば、
生物無生物は単なる構造上の相違、
アデニン、グアニン、シトシン、チミン、ウラシル等の化学物質の配列の違いでしかない。
そうでなければ、「味の素」に入っているデオキシリボヌクレオチドは生き物食っていることになってしまう。
学術的にどこからどこをヒトが生物として定義しているか知らんが。
自己代謝能力を持つ部分から生物としても、
全く貪食作用やその他の方法によって生命を活用することなく生命を維持できるものも存在していない。
地球の存在だって宇宙の存在に依存している。
人間も植物や動物を食わなければいきていけないような、外部環境に依存した生き物である。
どこから生物かも、所詮ヒトが決めたものにすぎない。
まぁ、くだらない戦争するのも人間の好き勝手だけどな。
ご勝手にどうぞ。
実のところ、炭疽菌や天然痘のエサになろうが、悲しもうが、自然の摂理は淡々として存在するだけでしょうね。
−−−−
おかしな考えに入っているかもしれませんけど・・・・・。
なんか反応があったらとちょっと思って書いてみました