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(回答先: 実質完全敗北宣言?? 投稿者 Landscape 日時 2003 年 2 月 20 日 23:48:44)
お返事下さった方ありがとうございます。
年輩の方のご感想も混ざっているようですし、
個々のあらゆる分野について非常に真剣に物事を考察しながら学んでいらっしゃる方には、
尊敬致します。
また、貴重なご意見をありがとうございます。
「好きな女と一発!」
良い気分転換になりそうです∵ゞ(>ε<; )ぶっ
最近は陰気な思考にばかり傾いてしまいがちですけど、
たまには、おもしろおかしく、過ごしてみるかな!
若者らしく・・・。(汗
理系人間で、苦手な政治にちょっと興味を持ってまだ1年足らず。
ここは博学な方ばかりで、基礎ない者が投稿するのも恐縮ですけど・・。
未熟ながら、読書と考察にはまってきてしまってますけど。
今日も(昨日からですが)思考をなんとなしに書いてみました。
−−−
人間が生命活動を行う上で化学的に要求するもので自発的に取得しなくてはならないものは、水食物くらい。
現在の一般的日常において、人間の生命維持に必要な物理因子のうち、
変動によって生命の維持に危機をもたらす恐れが大きいのは、気温くらい。
これがあればヒトと命名されている反応系は維持できる。
これさえ得られれば、あとはその人が幸福かどうかは、専らその人が幸福であると思いこめるかどうか、
それだけにかかっている気がする。
物欲について考察してみた。。
生化学反応の維持に直接的に必要ないその他のモノの取得は、
個々人の抽象的な「幸福」と呼ばれる感覚が満たされるか満たされないか、
その抽象的な感覚を満足させるために行われる事が多い気がする。
(2次的に社会秩序の維持や発展と呼ばれるものにも貢献しているかもしれないけど)
”新たな技術の発明によってそれまでのわずらわしかった手間が省けて「うれしい」「幸せだ」”
”良質な素材、良質な家具、高級家屋を得て「幸せだ」”
しかし、化学的に生命維持のために必要とするモノ以外のモノを取得することによって
得られる「幸福感」とは、あまり持続性がない。
その感覚自体が抽象的なもので、日常化して当然のものとなると、幸福感は薄れて行くのである。
それで新たなモノを手にしたときに沸き上がった恍惚感は消え去り、元の今までと同じ心理状態に戻る。
そして今度はそれが当たり前の水準となって新たなモノを欲して、新たな幸福感を楽しみたくなる。
(そのモノというもの自体、ヒトが価値を決めているのにすぎないので、”お金をかけて材質を良いものにした”
というのは、単に違う物質を持つことにした、というだけである。あくまでヒトの自己満足である。ゴールドを奪い
合って殺し合っているのも、石ころを奪い合って殺し合っているのも、互いに生体反応が維持できる者同士の間
で行われている限りは、似たようなもので、単なる自己満足を得るために、自己満足も得られなくなる「死」のリス
クを負って殺し合っているのである。
(ただし生体反応が維持できなくなる危険を回避したいという不安心理に基づくものは除く))
再度、以前のモノを手にしたときの幸福感を楽しみたいときには、
好きな時に、それ(モノ)を手にする以前と手にした後の記憶(脳に電気的に保存されている情報)を再度掘り起こして
両者を自分の中で比較するという空想オナニー的行為によって、その幸福という抽象的な感覚を何度か楽しむことができる。
これをやると、あの頃一時出たかもしれない脳内麻薬物質でも分泌されてくるのかもしれない。
(これができるのは、例えば人力車と車を両方利用した事がある人とか。物心ついたときから車しか見てない人はこれができない)
(縄文時代や歴史的にだいぶ前の人々の暮らしを空想して人類は豊かになったと、自分は幸せになったと言い聞かせる事も出来る・・・・
ただしその時代では、人々の実現値も低かったかもしれないけど期待値も同じように低かったであろうから、
当時の人々が、いつもいつも死んでしまうほど不幸を感じていたわけではない気もする。
むしろ人間味のある村風の共同体社会の中でそれなりに幸せにやってたかもしれない、そこにいたことないので分からないですけど)
また、一度手に入れて既に色あせてしまった幸福感を再度楽しむための別の方法としては、
それをまだ手にしていない、もしくは出来ない人との格差を自分の脳の中で比較する事によっても再び何度か楽しめるのかもしれない。
さらに、なんとか努力してようやく手にしたモノでも、やっぱり幸福感は色あせてくる。
ハードなケースになると、
”人生の多くを費やして必至な努力の結果やっと手にしたもので、自分はそれでとても幸せになったんだ!”
と、苦しみを堪えてきた事への意味づけを行いたいため?に、自分自身に脅迫的に言い聞かせたくなってくる。
そのような時は、空想では収まらなくなってくる。
狂ったように他者に(自慰を)見せびらかして、
「俺はこうしてうまく努力した結果、これだけのモノを手にして幸せになったんだ!」
「おまえらも少しは頭使ってカネ儲けしろよ♪、バカ共!」
「クソ真面目にやるしか脳のないゴイム共♪」
「どうだ、うらやましいだろ、俺はカネがあるから幸せだぜ!」
(俺は幸せになったんだ、なったんだ・・・)
これをやって、あの頃一時出たかもしれない脳内麻薬物質を意識的、強制的に分泌したいのかもしれない。
物欲も行き過ぎるとこのようになってしまうのではなかろうか。
脳内麻薬物質の分泌量や抽象的意識を造り出している脳やその微弱な電流にも何らかの個体差はあるかもしれないけど。
むしろこれが起こりやすいのは、勤労や人生の目的をカネやモノに置いてしまった場合なのかな・・、
(宗教自体の善し悪し等は分からないが、ある期間を設けて断食をするという行為だけをみると、
なかなか良い自慰行為だと思う。人々の欲求に対して実現値を上げてしまえば、期待値もそれに伴って上昇し、
さらに貪欲にモノを得ないと、物欲で満たされて幸福を得ることは難しくなってしまう。
でも、一旦、我慢して実現値を下げれば、再び元の水準に戻したときに、日々の食事のありがたさを認識して、
期待値をむやみやたらと引き上げること無しに幸福感を得ることができる。究極的には断食も一種の経済政策
のような気もする。)
(先にモノを得て幸福感を味わい、後に失う苦痛を受けるか、先に禁欲して後に従来と同じ水準に戻す
事によって幸福感を味わうか。後者の場合は、前者と同じように幸福を得られるにもかかわらず、
他者に対してあまり苦痛を与える事もない)
そして、手にしたモノのうち、日常の一部にとけ込んだモノは、壊れてしまったり、手放さなければならなくなると、
今度はその得たときの心理的な程度に応じた喪失感が待っている。
その埋め合わせを求めるようになったり、忍耐が必要になる。
そして、それが行き過ぎると豊かでも他者を殺傷してモノを奪うようになる?
ちょっと貧しくなった程度で、生化学反応は何の問題もなく維持できるというのに、
心理的に終わったと思って自殺に及んだりする?
ただ、ここで問題になるのは、殺傷を行うことの合理性である。
自らの生化学反応を維持できなくなる場合には、自らの生命を失うリスクを負って殺傷又は収奪する行為は理にかなっている。
倫理や思想を敢えて除外すれば、それ相応の対価のもとにビジネスとして戦場に向かい、
家族を養う資金を得るというような軍人もある程度は理にかなっているかもしれない。
単なる自分の物欲を満たすという抽象的感覚のために戦場で死亡しては誰にとっても意味がない。
思想という抽象概念で戦死しても、当人の死によって実際に生命又は利益が守られる者にとってしか意味がない。
(それが事実として存在しない場合には誰にとっても意味がない)
戦争の意味とは・・・・おおざっぱにこういう感じに少しずつ考えてみている。
@国家の興亡と個人の幸福の間の相関性はどうか。一致していると言えるのであろうか。
・市民レベルでの経済的メリットとリスク
・社会体制の変化: 共同体社会、相互互助→グローバル資本主義社会、個人主義化
昔は社会の性質上、国益と公益はかなり一致していたと思う。
果たして今はどうなのか。
・精神的損失
・勝てば幸福か?
A戦争によって得られる国家という枠内においての経済的効果
・時代の変化による戦争のメリットの変化: 農業、牧畜の時代→商工業の時代
昔の農作物や家畜、金銀財宝が奪えた時代における公益。
それと対比して現在の株や電子マネー、企業の暴力的乗っ取りとか、どうなのか・・・。
しかも今の世で。
それが勝戦国の国民に利益や幸福をもたらすのか。
・戦時の軍需産業活性化による国家経済への効果
戦争によって持続的にカネを国内に流入させて、それを留める事はできるのだろうか・・・・。
・心理的効果:緊張時、勝戦時、敗戦時
B思想
・マインドコントロールの効果
インターネット技術等情報技術の普及(←→16世紀;活版技術の普及と聖書の大衆化、宗教改革)
情報技術の発達によって何かしら大きな社会秩序体系の変化がもたらされる可能性もある気分はする
・宗教、国家、企業、経済秩序を「人間のつくる秩序」として同列の視点で観察して、マインドコントロールについても考察してみる
企業は破綻しても他企業に吸収合併されたりして社員は生活を維持できたり、
失業しても他企業で働き口を探したりする。企業が破綻しても戦争はしない。
至って合理的に処理される。
幼少の頃から徹底した愛社教育を受けていたら暴動が起こったりするかもしれないのでは。
企業を国家という人間の秩序に置き換えると・・・。
Cおまけとして誰(大衆?特定の者?)にとって意味ある戦争であるか
これがわかったところでどうという気もない。どうでもえぇ。
全てを子細に検討したわけではないけど、今のところの結論は大体・・
戦争はしたくない。国家のM&Aが起こるかもしれなくても。
(ただマインドコントロールされた相手企業の社員が虐殺や強制労働にでも及んできたら困る。)
自分の為にならない暴力(も生物として自然かもしれないが)は自分にとって正義とはならないので
最大限避け、自然の摂理に任せたい。
でも、国家という会社の中で生きているし、国が戦争をすると言ったら、
しかたなくとも上意下達が好きな上司の下にいる部下として、私情を廃してするとは思うけど。
多少は愛着もあるし、日本には。
その場の環境の中で暴力以外の方法で出来ることだけをしてだめなら、おとなしく永眠するのもえぇかな。
(いざ死ぬか生きるかという究極の状況に追い込まれたら、実際自分も人間だからわからないけど)
人間の幸福と物欲は必ずしも一致しない。
生体反応を維持できる最低限の環境があれば、本人の思い込み次第で幸福を得る事は可能な気もする。
言っている本人自体人間なので、物欲オナニーはせいぜい控えめに適度にやる。
いざというときには、ゼロからまたがんばれば良い。
自分を客観視すると、群の違いも目くそ鼻くそ的なところがあるように見えてくる。
すると、そこで、「倫理とは何なのか・・・」なんていうところに至ってくる。
哲学の領域に至ってしまうのだけど。
人類や生物を、生化学反応を行う反応系としてなるべく同列の視点で観察してみるとおもしろい気もする。
ヒトは特別と思いたい心理はあるけども、化学的な原理はヒトを特別扱いしていない。
(ただ化学もそれだけが全てだとは断定しない。多様な人々の思想の中にも一定の真理が存在する可能性はまだ否定しない)
ボス猿が自分の身を守るために群同士の間に対立構図をつくるのも、実際そんなに難しい事なのだろうか・・。
群からちょっと離れたところに行って、一匹、キョロキョロしながら、
ガイキチガイキチ!ウキャキャウキャキャ!
と、拍手しながら眺めているサルがいても特別おかしくないと思うし・・。
はっはっはっはっは!
支配主義なんたらの、完全敗北宣言がー!!!
というのもあってもおかしくないかもしれないし。∵ゞ(>ε<; )ぶっ
全てを化学的に追求したとしたら、それは人間の行為も全てが無意味なものとなってしまうかもしれないけども、
どうせ意味無く科学法則に従っている世なら、
せっかく意識を持って物事を思考できるヒトとして存在してる事だし、
この夢想のような世を、
なるべく心理的には穏やかに豊かに過ごして行けたらなぁと希望としては思う。
(でも世の中こんな調子だしな)
あまり濃いマインドウォッシュの無いとこに生まれてよかった。
(国とかって書くと、ナショナリズムっぽいの出てしまうな・・・、思想は微妙だ。
ただ愛着もある。此がコントロールかどうなどどうでもいいけど。だとしてもマイルドなもので良かった)
原理主義になって突っ込んでいくようなとこに生まれなくて良かった。
昔に宗教作ったヒトが書いた小難しい生き方マニュアルっぽいやつなんかなくても、
自己満足して逝けるような人生であればいいわけだし。
最低限の道徳、というか、人を殺したり傷つけてはいけないというような教育は誰でも親等から受けている。
だから、「自己満足」と言っても、特別変な影響を受けていなければ、
意識的にひどい事はなるべくはしないで、自己満足して逝きたいと思う人もいると思う。
昔の本に書いてある事(又はそれを利用する人がいて・・)信じて、死に突っ込んで行くところみると、
あまり宗教にははまりたくない気もする。
やる本人にとっては天国へ行けると信じてるのだろうから、十分に満足のいく死なのかもしれないけど。
人々がこの世と認識する世界に不幸をもたらして去られてもな。
ただその原因は、それを行った個人だけにあるわけでもない気がする。
機会があれば哲学や宗教も参考としては見てみようとは思う。
哲学は、それを考察する者の視点で、人間の生態系や行動様式をその人なりに分析したものであって、
そしてその分析結果を政策として世に対して実行したものが、宗教家のつくる政治体制のような気もします。
まだ各論や具体的にあらゆる思想家や宗教を詳しく学んだわけではありませんので、
あくまで考察中の一過程で思いついた事を書き連ねてみた、未熟かつ個人的自慰のようなものですが。
これからいろいろと時間をかけて考察していこうと思います。
自慰とかやや下品になりましたが。
長々と、ヒマ人なので・・・。
最期までお読み下さった方がいたとしたら、ありがとうございます。
雑談ですから、いいんですよね?