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全体主義と個人主義について
投稿者 あっしら 日時 2003 年 1 月 12 日 13:58:07:

(回答先: あっしらさんの、 投稿者 げいた 日時 2003 年 1 月 12 日 07:32:01)


げいたさん、こんにちわ。

「全体主義」という言葉そのものが、“異様なもの”で“悪”という価値観的情報操作にさらされていますが、「国家や集団の利益を第一義的に考えそれを通じて個人の利益も拡大できるというのが全体主義で、個人が自己の利益を追求することを尊重しそれを国家や集団が利害調整するというのが個人主義だと考えています」という自分の考えを前提に、全体主義という言葉を使って説明していきます。


>企業などによくみられる、集団の絶対化的な権威主義的姿勢について、どう思われま
>す?

それが全体主義をベースにして正当化されているのなら、全体(組織や機構)を個(支配層)の手段にすることが全体主義の実現だと錯覚した(悪用した)忌むべき姿勢だと考えています。
端的には、組織や機構の頂点もしくは上部に位置する人が、自分の目的(価値観)を実現するために、それ以外の成員を自分の手足の延長として利用していくものでしかなく、私が定義した全体主義の実現ではありません。

個人主義の実現がごく少数の人に限定され、その他の大多数の個人主義は、その実現を押さえ込まれるだけではなく、ごく少数の人の個人主義を実現する手段に貶められているという姿です。

統治機構や企業組織の存立基礎そのものが全体主義を実現するにふさわしい条件を持っているわけではないので、数多くの構成員は自己の価値判断とそれに基づく社会的活動を棚上げしなければならなくなるような上位者絶対的な権威主義的な傾向が、自然のものとして立ち現れます。

個人主義の権化国家と錯覚されている米国が、絶対主義的で権威主義的な全体主義であるかは9・11以降如実になっています。
さすがにスマートな米国支配層のうまさにより、それが、価値観によるものではなく、国家危機への対応というかたちで強化されてはいますが...。
米国支配層は、大多数の人が自分はごく少数の個人主義実現のために道具化されているという認識を持たないようスマートな情報操作を行っています。(国家の力でそれなりに欲求実現が維持されていると思える経済的条件に負っている部分が大きい)


全体主義がまっとうなかたちで実現されるためには、自分とその家族が最低限の生存を維持できる生活手段(生産手段)を確保している個の連合体として社会(共同体・国家)が成立している必要性があると考えています。

自分自身は生存できるための手段を保有しておらず、誰かに雇用されることを通じてしか生き延びていけない条件では、まっとうな全体主義は実現できません。

>共同体的名誉尊重意識のような場合もあるんでしょうが、集団心理で強気で好戦的に
>なって、簡単に悪事に踏み切ったりしますし。

国家や会社を見てわかるのは、共同体的名誉や防御に名を借りた、支配者(上位者)の責任逃れです。(日本に限らず、欧米諸国から発展途上国まで共通する姿です)

敗戦では、悪かったのは軍部だという雰囲気を作り、その責任者の一部を切り捨てることで、他の支配者たちは戦後も生き延びました。
官僚機構の犯罪でノンキャリアの課長補佐クラスが人身御供(自殺も含めて)になったり、企業犯罪でも最高トップは守られることが多いという現実があります。


現在のメディア状況を見ていると、戦前の日本で戦争を煽った主力はやっぱりメディアなんだろうなと思ってしまいます。
しかし、強気で好戦的になっているのは(知的)エリートを自認しているごくわずかな人々だけであり、国民多数は、気分的には引きずられる向きはあっても、そのような考えにはなっていないと思っています。
国家支配層も、一部を除くと強気で好戦的ではないのに、メディアの論調が国民多数の考えであるかのように錯覚してその方向に流れていき、発信者であるメディアまでが自縄自縛でさらに強気で好戦的な言動を強めるということになります。(戦前も、そのような状況だったはずです)

強気で好戦的になっていない国民も、国家支配層の政策で否応なく戦争に引きずりこまれます。国家政策に異を唱えると“非国民”になってしまうので、多くの人は唯々諾々と従うしかありません。
(青年や少年はメディアや学校教育の影響を受けやすいので、強気で好戦的になって志願してでも戦地に赴こうとします)


>「勝てば官軍」っていう、正当性もへったくれもない、暴力的で野蛮な発想もありま
>すしね。

>うーん、日本全体で発想がいまだ暴力的傾向が強いのかなあ。

「勝てば官軍」という表現は、日本人が持っている洞察力というか反権威的価値観の現れだと思っています。
米国流というか近代的な意味での“正義”を信じていないということです。
(「勝てば官軍」という表現は、支配層から出たものではなく、被支配層から出たものです)

なんやかんやと理屈を付けて権力の正当性を説明しているが、権力に正当性なんかもともとないというさめた見方をし、武力で勝ったから正当性を手に入れたんだという表明はすばらしい感覚だと思っています。

日本は相対的に見れば暴力的発想が弱い集団です。
(だから、“一部過激派”が煽らなければならない戦意が向上しないのでしょう)


>国家や集団の利益を第一義的に考えそれを通じて拡大できる個人の利益っていうの
>は、なにか暴力的で不当なものじゃないですか?

>そんなことないですか?

近代の戦争は、国家の利益を大義名分としているだけで、個人(支配層)の利益を拡大するための対外活動だと考えています。
もちろん、支配層の利益が拡大することで、そのほかの国民の欲求実現レベルも向上するので、国家(自分)の利益だと納得する条件はあります。
(国民多数を向上させないと支配層の拡大した経済的利益は持続しません)


>教育の際、愛国心を求める、といった話もありましたが、これなんか、まだまだ未熟
>で、十分な愛情をそそいで育成してやるような若者たちに、逆に愛情を要求するなん
>て、どういう発想?とも思うのですが、誰か暴力的で不当な利益を目論んでたりしな
>いでしょうか?

日の丸・君が代を尊重することや国家を愛する気持ちを持つことが愛国心だというレベルでの愛国心教育は、百害あって一利なしです。
(まっとうな全体主義(共同体性)は家族生活など他者関係的な現実過程のなかで身につくものであり、公教育が補填する全体主義の内容として必要なものは資本主義経済の論理です。資本主義経済の論理はそれ自体に“共同体性”(全体主義性)があります)

全体主義は、近代国家を全体とするのではなく、全体の利益のために近代国家が必要なのかというところから問い掛け直す必要があると思っています。(国家も手段でしかありません)

国民を手足として使って、暴力的で不当な利益を獲得することを目論んでいる人たちはいると思っています。


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