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20世紀石油資源論 (関岡正弘)
投稿者 TORA 日時 2002 年 12 月 17 日 13:59:15:

テーマ 中東と石油

東京国際大学国際関係学部 後期国際資源論 関岡教授


1 エネルギ−消費構造

主要一次エネルギ−

我々が使っている主要一次エネルギ−は、石油、石炭、天然ガス、核エネルギ−および水力です。BP統計によると、2000年に世界全体で使ったエネルギ−は、BPとはBritish Petroleum(英国石油会社)のことです。石油換算で、石油が35億トン天然ガスと石炭がそれぞれ22億トンづつ核エネルギ−が7億トン、そして水力が2億トンです。本格的な石炭使用は約400年前から、石油は140年前から使われ始めました。19世紀中、石油はもっぱら照明用の灯油として使われました。20世紀に入ると自動車用ガソリンが主役となりました。並行的に電気が普及して、灯油の需要は減りました。

石油からとれる重油が産業用熱エネルギ−として本格的に使われ始めたのは第二次大戦後です。水力は、20世紀になり電力というエネルギ−消費形態が一般化した後になって、初めて有効なエネルギ−となりました。その点は核エネルギ−も同様です。天然ガスも直接都市ガスに使われる他は大部分が発電用熱エネルギ−として使われます。石油、石炭および天然ガスは、いずれも炭化水素、化石エネルギ−です。枯渇を心配しなければならないのです。

主要一次エネルギ−の中でもっとも優れているのは石油です。石油の特徴は液体という点にあります。液体であるが故に輸送や貯蔵が容易です。自動車用燃料としては石油以外使えません。電気自動車や液体天然ガスで走る自動車もありますが、例外的な存在です。石油はその他、石油化学の原料や潤滑油として使われます。潤滑油こそは機械文明を支える基本物資です。石油は、以上の特徴を持つが故に、もっとも基本的エネルギ−といえます。かって、1970年代の石油危機の時代、代替エネルギ−が問題とされましたが、液体の石油を代替するエネルギ−は一つもないことに注意する必要があります。天然ガスは石油に次いで便利なエネルギ−ですが、気体のため輸送や貯蔵が難しいという欠点があります。そのため、天然ガスの利用は天然ガス資源国に限られていました。しかし,1970年代に入り、天然ガスをLNG(液化天然ガス)としてタンカーで輸送する技術が開発されました。この分野でリーダーシップを取ったのは日本です。

国別エネルギ−使用構成

国によって、エネルギ−の使用構成には大きな違いがあります。日本は、石油が2億5000万トン石炭が7000万トン天然ガスが1億トン核エネルギ−8300万トン水力800万トンです。天然ガスは、前述のとおりLPGの形で特別のタンカーに輸入されています。日本のエネルギ−消費の特徴は、石油依存度が高いこと相対的に核エネルギ−の利用が進んでいる点にあります。アメリカは石油が9億トン天然ガスが6億トン石炭が5億6000万トン核エネルギ−が2億トン水力が2300万トンです。資源国アメリカの最大の特徴は、石油もさることながら、天然ガスや石炭の依存度が高い点にあります。ヨ−ロッパは全体として、石油が7億5000万トン天然ガスが4億1000万トン石炭が3億5000万トン核エネルギ−が2億5000万トン水力が5000万トンです。

ヨ−ロッパは、域内に北海の油田とガス田を持っています。天然ガスについては、旧ソ連時代から供給を受けていました。ヨ−ロッパの中でも、フランスのエネルギ−政策「核エネルギ−利用に非常に熱心で、石油に対する依存度よりも高い」という点は、特筆大書されるべきでしょう。中国は、石油が2億3000万トン石炭が4億8000万トン天然ガスが2200万トン核エネルギ−が400万トン水力が1900万トンです。中国の石炭依存度はたいへん高いのですが、最近は、かなりな勢いで減っています。1960年代に日本で起きたエネルギ−革命が進行していると推定しえます。ネルギ−革命とは、経済の高度化に伴う石炭から石油へのシフトです。中国は石油の大産油国ですが、1993年を契機に石油輸入国になりました。経済発展を続ける中国のエネルギ−消費が今後急増することは間違いありません。巨大な人口を抱えるだけに、世界のエネルギ−需給構造に重大なインパクトを与えると予想されます。

2 資源としての石油

石油は炭素と水素の化合物、炭化水素です。地下から掘り出された石油を原油と呼びます。原油はいろいろな炭化水素の混合物です。原油には、硫黄などの不純物が含まれているので、そのまま燃やすと嫌な臭いがします。石油の成因については有機起源説と無機起源説がありましたが、今では有機起源説の勝利に終っています。その理由は、石油の中の炭化水素が生物起源であることがアイソトープ分析で確認されたからです。

地球物理学と石油

中東の石油資源は、ジュラ紀と白亜紀の石灰岩地層に集中的に賦存しています。ジュラ紀と白亜紀は中生代に属します。過去半世紀足らずの間に、地球物理学が著しく進歩しました。昔の地質学は岩石学と鉱物学でしかありませんでした。しかし1960年代に入ると、プレ−ト・テクトニクス理論が現れました。さらに1990年代に入ると、プル−ム・テクトニクス理論へと発展しました。プレ−ト・テクトニクス理論は、地球を平面的に分析しただけでしたが、プル−ム・テクトニクス理論になると、マントルを立体的に分析できるようになったのです。

プル−ム・テクトニクス理論は、地球の歴史が、約4億年のサイクルを持つ超大陸形成・分裂の歴史であることを明らかにしました。中東の石油が賦存する地層がつくられたジュラ紀末期から白亜紀中期にかけての時期は、最後の超大陸パンゲアの分裂期に当っていました。地下から大量のマグマが噴出し、大気中の二酸化炭素の濃度が高くなり気温が上昇したと推定されています。マグマとともに、大陸の水がマントルから地表に還流したとの推定されています。浅い海に、プランクトンが猛烈に繁殖し異常なほど大量の有機物が生産されたと推定しえます。その有機物が地下に埋蔵され地温によって熟成され石油になったのです。

大陸は移動します。世界最大の石油資源をのせたアラビア・プレ−トはユ−ラシア大陸に衝突しています(ザクロス山脈はその証拠)。数千万年後にはすべてが破壊されることになります。0.2%に70%世界最大の油田はサウジアラビアのガワール油田で埋蔵量800億バレル。二位がクウェイトのブルガン油田で600億バレル。三位はサファニア・カフジ油田で300億バレル。カフジ油田は日本のアラビア石油が開発しましたが、にサファニア油田に繋がっていることが分かりました。100億バレルを超える油田は世界でせいぜい15個くらいしかありません。そのほとんどが中東湾岸に集中しているのです。資源としての石油の最大の特徴は賦存状態が偏っている点にあります。中東湾岸の100万平方キロメ−トル、つまり地球の表面積の0.2%という狭い地域に、これまで地球上で発見された石油資源の70%が埋蔵されているのです。

石油精製技術

石油を利用するためには、原油を精製する技術が完成する必要がありました。精製技術は、種々の炭化水素を沸点で分ける「分溜」と硫黄化合物など不純物を除去する「洗浄」とから成っています。洗浄には酸やアルカリが使われます。精製技術は、1840年代、まずヨーロッパで石炭やオイルシェールを乾溜して得られたタールから灯油を得る技術として発達し、やがてアメリカへ伝えられて石油に応用されました。原油を精製するためには、蒸留塔(トッピング)で熱し気体にした後、塔を上昇させます。すると温度が下がるので、沸点が低いものから順に液化していきます。それを別々に取り出すことによって、性質の違う炭化水素を分けることができます。最後まで液化せず、蒸留塔の一番上から出てくるのがプロパンとブタンです。

プロパンとブタンは圧力をかけて液化し、LPG(液化石油ガス)としてボンベ(圧力容器)に詰められて家庭用燃料として販売されています。沸点が低くなかなか液化しないが、ようやく蒸留塔のもっとも上部で液化するのがガソリンとナフサです。両者はほとんど同じ溜分です。ナフサは粗製ガソリンとも呼ばれ石油化学の原料となります。ガソリンをつくるためには、不純物の除去、オクタン価を上げるための改質などの工程が必要です。ナフサより少し重い炭化水素が灯油(ケロシン)です。灯油は家庭燃料として使われる他、ジェット燃料となります。灯油より重いのが軽油である。軽油はディーゼル機関の燃料となります。ガソリンと軽油は、いずれも内燃機関の燃料として使われます。もっとも石油らしい燃料であり、現在までのところ代替エネルギーは存在しません。ここまで述べてきた蒸留塔は常圧蒸留塔と呼ばれます。

常圧蒸留塔で最後まで気化しないで残った部分は残渣と呼ばれます。残渣にも貴重な溜分が残っているので、普通はさらに残渣を減圧蒸留塔(蒸留塔の内部の圧力を下げ常圧蒸留塔よりも蒸発しやすくします)にかけます。すると重質軽油とアスファルトに分けることができます。重質軽油は潤滑油の原料となります。すべての機械は潤滑油が無ければ一瞬たりとも動くことができません。その意味で潤滑油こそが現代文明を支えていると言っても言い過ぎではないのです。もっとも典型的な石油化学は、ナフサをスチ−ムクラッキングしてエチレンをつくり、それを重合してポリエチレンをつくる分野です。1930年代に、スタンダ−ド・オイルの石油精製技術とドイツのイーゲーファルベンの化学技術が統合されて出現した新しい産業分野です。日本へは、1960年頃から導入されました。

3 石油産業誕生とスタンダ−ド・オイル

近代石油産業は1859年に、アメリカ・ペンシルバニアのオイルクリ−クでエドウィン・ドレイクが石油掘削に成功したことによって誕生しました。だちに、オイルクリ−ク周辺ではオイルラッシュが始まりました。多数のオイルマンがアメリカ全土からやってきて井戸を掘りまくったので、石油はたちまち過剰となりました。オイルクリ−クの原油の井戸元価格は、1860年初のバレル当たり約20ドルから1年半後には、たったの10セントになってしまいました。原油の価格は、誰かが管理していないと、乱高下を繰り返す傾向があります。1860年代、原油価格は乱高下を繰り返しました。原油価格の乱高下は多くのオイルマンを破産させ、石油産業に不安定をもたらしました。そのままでは石油産業の健全な成長はありえませんでした。その傾向に終止符を打ったのがジョン・D.ロックフェラ−という巨人です。彼は友人と1870年にスタンダ−ド・オイルをクリーブランドに設立しました。

スタンダ−ド・オイルは、1870年代、次々に競争相手を合併するか、倒産させていきました。1880年代には、スタンダ−ド・オイルの市場シェアー(占有率)は80%から90%に達していました。スタンダ−ド・オイルは精製部門と鉄道やパイプライン部門を独占して、原油に対する買手独占を成し遂げたのです。ロックフェラ−のスタンダ−ド・オイルは経営的には稀に見る大成功でしたが、政治的には多くの敵を作りました。アメリカは草の根民主主義の国です。1890年には、シャーマン・アンチトラスト法が制定されました。当時は、独占の手段としてトラスト(信託)が使われました。トラスト方式が使えなくなって、代わりに模索されたのが持株会社です。

19世紀末、スタンダ−ド・オイル・グル−プは、ニュージャージー州に登記されたスタンダ−ド・オイル会社を持株会社として再編成されました。しかし1911年には、スタンダ−ド・オイルは34社に分割されたのです。世界の石油市場を支配していたスタンダ−ド・オイルが20年以上も独占禁止問題に巻込まれ、行動の自由を失っていたことが、ライバルたちに大きなチャンスを与えました。スマトラでの油田開発に成功したロイヤル・ダッチと、ロシアのバク−石油を極東へ運んで成功したシェルが頭角を現しました。両者は1907年に合併しました。一方、イランの石油利権を基盤としたアングロ・ペルシャ石油会社がイギリス政府の子会社となりました。アメリカ国内では テキサコとガルフが、テキサス州の石油開発を基礎に発展しました。

参考

 近代石油産業が誕生した頃、海上輸送革命が起きた。木造の帆船から蒸気機関で走る鋼鉄製の船へ変わり海上輸送のコストが1/10に下がった。当時の世界経済の中心地イギリスとアメリカの間の経済的距離が劇的に縮まったことになる。アメリカの穀物がイギリスに輸出されるようになった。それまでアメリカは、イギリスに綿花を輸出していたが、重量のかさむ穀物はポーランドやロシアとの競争に勝てなかった。1865年にはほとんどゼロだったアメリカの穀物の輸出は、たった15年後の1880年には年間2億ドルを稼ぐようになり、それまでの最大の輸出商品、棉花の輸出額に匹敵するようになった。アメリカでは農場開発が西へ西へと広がった。西部劇は、この時代の穀物を運ぶための鉄道建設に絡む物語である。鉄道建設に伴って鉄鋼の需要が急増した。アメリカは保護関税政策をとり、国内の鉄鋼業を保護した。19世紀から20世紀への変わり目、アメリカでは巨大株式会社時代に入った。その代表がUSスティールである。第一次大戦後、ジャ−ジ−・スタンダ−ド、ロイヤル・ダッチ・シェル、アングロ・ペルシャ、の三社が、ビッグ・スリ−として世界石油産業を支配しました。

4 1920年代の石油資源争奪戦

第一次大戦後、イラクの石油利権を巡りイギリスとアメリカの間で激しい争奪戦が起きました。アルメニア人、グルベンキアンの介入もあって難航しましたが、1928年にようやく決着し、イラク石油にアメリカの参加が認められました。その協定は赤線協定と呼ばれました。地図の上で、クウェイトを除く旧オスマントルコ領を赤線で囲み、その内部でのイラク石油の株主の単独行動を禁止していたからです。一方、1928年に赤線協定が結ばれた直後、スコットランドのアクナキャリ−城でビッグ・スリ−のトップが会談し、秘密協定が結ばれました。この協定が国際石油カルテルの憲法ともいわれたアクナキャリ−協定です。

5 石油大過剰時代と国際石油カルテル

赤線協定は、ビッグ・スリ−の行動を制約することになりました。とくに世界最大の石油会社、アメリカのジャ−ジ−・スタンダ−ドがイラク以外の中東諸国で利権を獲得する自由を制約されたことが、その後の世界石油産業に大きな影響をもたらしました。当時、中東で主流で占めていたイギリスの地質学者は油徴が存在しないペルシア湾の南岸では石油が存在しないと考えていました。いつの時代も、専門家の固定観念を打ち破るのはアマチュアリズムです。1920年代、石油には素人のホームズ大佐という人物が登場して、バーレンを初めサウジアラビアクやウェイトの利権のきっかけをつくりました。ホームズ大佐のあやふやな権利が、その後、ソ−カル(カリフォルニア州で登録されたスタンダ−ド・オイル)とテキサコの子会社、アラムコのサウジアラビアの石油利権、またガルフ・オイルのクウェイトの利権に繋がりました。クウェイトの石油利権はその後アングロ・ペルシアに半分譲渡されました。1930年代半ば過ぎ以降、中東では次々に超巨大油田が発見されました。大発見時代は1965年まで続きました。

公示価格制度

原油の価格は、乱高下を繰り返す傾向があります。それでは、石油産業は成り立たないので、 スタンダ−ド・オイルが最初の原油価格管理者となりました。スタンダ−ドは、買手独占を完成させることによって、原油価格を安定させたのです。しかし半面、スタンダ−ドの買手独占が余りにも強いものだったため、1890年頃には、原油価格が下がりすぎ、上流部門(原油生産)への投資が停滞することになりました。原油不足を心配したスタンダ−ド・オイルは、1895年、公示価格制度を始めました。原油の買手であるスタンダ−ド・オイルが一方的に購入価格を決め、その価格に応ずる生産者のみから原油を買うことにしたのです。最初の公示価格は市場価格よりかなり高い価格に設定されました。公示価格の直後、石油取引所が閉鎖されました。

石油取引所が正式に復活するのは1982年からです。中東で石油生産が始まると、今度は原油の売手が公示価格を設定しました。いずれにせよ1870年代から1980年代の半ばまで原油価格は誰かによって管理されていたのです。管理者はロックフェラ−のスタンダ−ド・オイルからビッグ・スリ−へ、さらにセブン・シスタ−ズ(メジャ−ズ)へと移り変わりました。

セブン・シスタ−ズ

第二次大戦後、ビッグ・スリ−に、ソ−カル、テキサコ 、ガルフそれに、ソコニ−(現在のモ−ビル)の4社が加わって、セブン・シスタ−ズ体制になった。 

国際石油カルテル

国際石油カルテルの存在は、第二次大戦後、アメリカ議会の調査で初めて明るみに出ました。国際石油カルテルは、世界の石油価格を統一的な体系に組み込みました。アメリカのメキシコ湾岸の石油輸出港を基準点とし、そこのFOB価格に、そこからの運賃を上乗せしたものを世界の各地の石油価格と決めたのです。この時代の石油価格はアメリカでもっとも安く、日本は世界でもっとも高い地域に属していました。

基準点の移動

第二次大戦後、1949年に基準点が中東湾岸へ移行しました。その理由は、マ−シャル・プラン実施に伴うアメリカ議会の圧力です。その結果、アメリカの石油価格がもっとも高くなり、日本は相対的に安い地域に変わりました。この事実が第二次大戦後の日本の高度成長に与えた影響は計り知れません。

物理探鉱技術

1920年代の半ばから30年代にかけて、石油を発見する技術が飛躍的に進歩しました。物理学を利用する物理探鉱技術が確立したのです。中でも、地震探鉱は大きな効果を発揮しました。油田発見率が上がり、アメリカは1930年頃から空前絶後の石油過剰時代に入りました。当然、価格の暴落が予想されました。折しもアメリカは1930年代の大不況下にありました。最大の産業である石油産業がこければ、アメリカ経済は奈落の底に沈む可能性があったため、州政府主導の行政カルテルがつくられ、原油生産が政治の力で制限されて、価格はかろうじて維持されました。アメリカの石油過剰時代は1970年頃まで続きました。

中東では、1930年代半ば過ぎ以降、次々に超巨大油田が発見されました。しかし中東の大発見時代は1965年まで続いた後、その後はぴったり止まりました。かえりみて、1930年頃から1970年頃までとくに第二次大戦後の世界は歴史的な石油過剰時代に遭遇していたことを認識しなければなりません。1970年代の石油危機は、その背景で考えなければなりません。

OPEC誕生

OPECは、1960年に誕生しました。

石油危機

1950年代、60年代と世界の石油需要は急増しました。その結果、1970年頃になると、石油産業内部では、原油不足が感じられるようになっていました。その象徴は、アメリカが石油の純輸入国になったことです。しかし、そのことが一般に認識される前に、1973年の第一次石油危機が起きたのです。長年、安くて豊富な石油に馴染んでいた人々は驚愕し、メジャ−ズあるいはOPECの陰謀説を信じました。石油危機は政治的危機とされてしまったのです。

石油危機は、実際に石油供給不安が生じた結果、起きたという図式は認識されることなく、また石油は有限であること石油危機はそれに対する警告と考えられることなどが、見逃されてしまいました。それはともかく第一次石油危機の直接のきっかけは、第四次中東戦争の最中サウジアラビアが禁輸を断行したためでした。世界的に石油が不足して価格が大暴騰したのです。1973年に第一次石油危機が起きると、世界の石油資源の大半はOPECのものとなりました。同時に、原油価格管理者の地位もOPECへ移りました。

原油価格管理体制の崩壊

OPEC時代に入って原油価格管理体制はかなり弱体化しました。OPEC13ヶ国の利害が対立したからです。1974年以降、約10年間、サウジアラビアがスイング・プロデュ−サ−を務めることによってのみ、なんとか維持されていた管理体制は、1985年末、サウジアラビアがその役割を放棄するとたちまち崩壊、原油価格は暴落しました。それ以後、原油価格は誰も管理していない状態が続いています。1982年に、誕生したNYMEX(ニュ−ヨ−ク商品取引所)に上場されているWTI原油が価格の指標となっています。WTI原油は西部テキサス州で生産される中質原油。原油価格が誰も管理していない状態などといった事態は、実に、1870年以来のことだという事実を認識する必要があります。

6 ポグロムからシオニズムへ

石油危機のきっかけとなった中東戦争の背景を考えましょう。BC1800年頃の人、アブラハムを民族の祖とするユダヤ人たちは70年にローマ軍によってマッサダ堡が陥落して以来、ディアスポラ(離散)の状態にありました。1881年にロシアでロマノフ朝の皇帝アレクサンドル二世が暗殺されました。その陰謀に一人のユダヤ人女性が加わっていたとされたことから、ロシアでポグロム(ユダヤ人虐殺)が始まりました。ユダヤ人たちは大挙して国外へ逃がれ始めます。行き先はアメリカ、そしてパレスチナでした。1890年代、東欧出身のジャ−ナリストテオドル・ヘルツェルはシオニズムを説きました。シオニズムとはユダヤ人が神から約束された土地に戻って自分たちの国家を建設しようという運動です。

第一次大戦が始まると、イギリスは、トリプルコミットメントを犯しました。まず1915年にアラブの代表ハシミテ家のフセインとマクマホン協定を結びました。マクマホンはイギリス政府のエジプト高等弁務官でした。マクマホン協定はオスマントルコに勝利をえた場合、アラブを独立させることを約束していました。次いで1916年には、イギリスはフランスとの間でサイクス・ピコ秘密協定を結びました。オスマン帝国の旧領を両国で分割する約束をしたのです。イギリスはさらに1917年、当時の外相バルフォアの名でユダヤの代表者ロスチャイルドに対しユダヤ国家建設を認めました。

第一次大戦後、パレスチナはイギリスの委任統治下に入りました。パレスチナへのユダヤ人の流入が激しくになるにつれ、パレスチナのアラブ人たちは反発を強めました。第二次大戦の混乱を経て1947年にはイギリスは委任統治権を国連に返還することにしました。国連はパレスチナをアラブ領土とユダヤ領土に分割することを決めました。国連の分割案をユダヤ側は受け入れたが、アラブ側は拒否しました。1948年5月15日0時、最後のイギリス軍が撤退しました。それを契機にユダヤ側はイスラエルの建国を宣言しましたが、アラブ側はパレスチナ国家の独立を宣言しませんでした。

当時パレスチナ人の指導者が不在だったのと、汎アラブ主義の風潮が強く、アラブの大義(アラブは団結しなければならないという主張)に反すると考えられたからです。アラブ側を代表していたのは周辺のアラブ諸国、エジプト、ヨルダン、シリア、レバノン、イラクでした。5月15日0時、5ヶ国の軍隊が一斉にパレスチナ攻め込みました。予想に反してアラブ側は惨敗を喫し、辛うじてヨルダン川西岸地区とガザ地区を維持しましたが、その他の土地はすべて失ってしまいました。

7 第二次大戦後の中東湾岸事情

1948年の第一次中東戦争における敗北は、アラブ諸国の指導者に対する不信の念を抱かせました。1952年、エジプトで革命が起きました。ナセルをリ−ダ−とする青年将校団が決起してトルコ系のファル−ク王朝を倒しました。ナセルはアスワン・ハイ・ダムを建設する計画を立て、アメリカの協力を期待したが断られ、ソ連の援助を受けました。1956年、ナセルは、イギリスとフランスの資本で運営されていたスエズ運河を国有化しました。それがきっかけとなって第二次中東戦争が起きました。

一方、1950年代末からパレスチナ人固有の政治運動が盛んになりました。アラファトを中心にファタハが結成されました。ファタハは私的な党派のようなものです。一方、アラブの盟主を目指したナセルは、1964年にシュケイリという人物を議長にPLO(パレスチナ開放機構)をつくりました。その結果、PLOとファタハの間に競合関係が生じました。そんな中、1967年に第三次中東戦争が起きました。エジプトのナセル大統領がパレスティナ奪還を狙って、旧ソ連から兵器を買い整えていましたが、イスラエルに先制攻撃をかけられたのです。エジプトとヨルダンは応戦したものの、手酷い敗北を喫しました。この戦争を境に、それまでアラブ側に残されていた西岸地区とガザ地区までもがイスラエルに占領されてしまいました。そればかりか、エジプトのシナイ半島もイスラエルに占領されました。

西岸地区を基地としてイスラエルにゲリラ攻撃をしかけていたファタハも追い出され、ヨルダンに逃げ込みました。ナセルの権威は地に落ちました。ファタハは第三次中東戦争の際、戦場に遺棄された兵器を取得して軍備を強化しました。ファタハの対イスラエル・ゲリラは激しさを増します。1969年ファタハはPLOを支配下に置きました。PLOはパレスチナ人たちにとって領土なき国家の役割を果たしています。以後、現在までファタハの議長アラファトがPLO議長の立場にあります。一方、ヨルダンにとってファタハは危険な存在となりました。ヨルダンを新しい基地としたファタハがイスラエルに攻撃をする度に、イスラエルはヨルダンに手厳しい報復をしたからです。

1970年9月、ナセルが死去しました。そのどさくさにヨルダンは武装したパレスチナ人に攻撃をしかけ、国外へ追い出しました。パレスチナ人たちはレバノンに逃げ込みました。以後、数年間、ブラック・セプテンバ−を名乗るハイジャックなどテロ行為が頻発しました。ファタハの別行動隊でした。アラブの兄弟たちに裏切られた怨み、住む土地を失った自分たちに関心を失った世界中に対する抗議だったのです。ナセルが死んだ後、エジプトの大統領に就任したサダトは戦略家でした。サダトは、イスラエルと対等の立場を回復するため、イスラエルに占領されていたシナイ半島を回復しなければなりませんでした。

1973年10月、エジプトは今回は先手を打ってシナイ半島へ攻め込みました。第四次中東戦争の勃発です。最初はエジプト側に有利に展開しました。イスラエル軍は大打撃を受け、エジプト軍はシナイ半島奥深く攻め込みました。しかしアメリカの緊急軍事援助を受けたイスラエルは急速に挽回し、逆に、カイロを脅かす情勢となったのです。その段階で、サウジアラビアのファイサル国王が、イスラエル軍のそれ以上の進軍を止めるために、石油の禁輸でアメリカに圧力をかけたのです。停戦が受け入れられエジプトは窮地を脱しました。エジプトは勝利を世界に宣伝しました。

振り返って見れば、サダトの優れた戦略性が浮かび上がってきます。第一次中東戦争はアラブの負け第二次中東戦争はアラブの勝ち第三次中東戦争はアラブの負けと見ることができます。だとすると、アラブから見て1勝2敗。アラブは面子を大事にします。イスラエルと対等に和平交渉に臨むには、どうしてももう一度戦争をして、勝つ必要があったのです。その後サダトは、1978年にアメリカのカ−タ−大統領の仲介でキャンプ・デ−ビッド合意という形でイスラエルと平和条約を結びました。アラブの盟主エジプトだけが1948年から始まった中東戦争から単独で降りてしまったのです。エジプトはアラブ連盟から除名されました。その後、サダトは暗殺されました。サダトは、ナセルが失ったシナイ半島を取り戻したのです。にもかかわらず、その葬儀は、大勢の国民が参加したナセルの時と異なり寂しものだったといわれます。第四次中東戦争後、世界に威令をとどろかせたサウジアラビアの後援もあって、PLO議長アラファトは、1974年にオリーブの小枝を持って国連で演説しました。しかし、その栄光は長続きしませんでした。

レバノン内戦

1975年、レバノンで内戦が始ります。歴史家ア−ノルド・トインビ−は、レバノンを宗教の歴史博物館と呼びました。長い歴史の中で、かっては王朝をつくったが滅びの民となり、キリスト教やイスラムの分派、異端の宗教を民族のアイデンティティとしてレバノンの山岳地帯に逃げ込んできたマイノリティ−(少数派)の存在をそう例えたのです。レバノンの憲法は、第二次大戦中実施された人口調査の人口比に基づき、マロン派キリスト教徒に大統領スンニ派イスラム教徒に首相シ−ア派イスラム教徒に国会議長の地位を保証しています。しかしその後、人口比は大きく変化しました。にもかかわらず、人口調査を実施せず、既存の秩序を維持しようとしています。大部分がスンニ派イスラム教徒からなるPLOの流入は、とくにマロン派キリスト教徒の不安を高め、1975年に内戦に突入しました。典型的な宗教戦争です。主として参加したのは、マロン派キリスト教徒とシーア派イスラム教徒です。レバノンは1982以降、シリア軍の介入で辛うじて平和が保たれる状況が続いています。

イラン革命

1978年、イラン革命をきっかけとして第二次石油危機が起きました。イランは12イマム派のシーア派イスラムを国教とする宗教色が強い国です。イマムという概念は、イスラムの正統派スンに派では単にリーダーの意味ですが、シーア派では限りなく聖なる存在です。イスラムの預言者、ムハンマドの従兄弟で、娘ファティマの夫のアリを初代イマムとします。第二代のフセインは、シーア派の招きではるばるアラビア半島からやってきたのに、今のイラクのカルバラに着いた時、フセインの敵、ウマイヤ朝の圧力に屈したシーア派の人々に裏切られて、一族もろとも惨殺されました。その後、後悔にかられたシーア派の人々は懺悔者の軍を組織して戦いましたが、結局は、ウマイヤ朝に屈します。

シーア派は、その伝統を引きずった罪の意識を共有する宗教とも言えます。祭りの日、フセインを偲んで自らの体を傷つける人々がいます。シーア派は、イスラムの聖地メッカ、メディナ、エルサレムの他イラク国内のカルバラとナジャフを追加的聖地としています。ナジャフにはアリの廟があります。1925年、パーレビ王朝が誕生しました。1951年、モサデク革命が起き石油利権の国有化に踏み切りました。しかし2年後、反革命が起きます。蘇生したパーレビ王朝に対し、ケネディ政権は民主化を要求しました。ホワイトレボルーションと呼ばれました。その主な内容は、女性に参政権と公務員採用に際する非宗教化でしたが、強硬に反対したのがホメイニでした。ホメイニは1965年に国外に追放されました。

湾岸の警察官

中東湾岸には、石油確認可採埋蔵量の70%が埋蔵されています。そこの安全保障を誰が責任を持っているかという問題の重要性は指摘するまでもありません。中東湾岸には1970年までイギリス軍が駐留していました。しかし斜陽化したイギリスは1970年にスエズ以東から軍を引き上げました。そのままでは力の真空状態が生ずる恐れがありました。当時、アメリカはヴェトナム戦争の泥沼に足を取られ、余裕がありませんでした。そこでアメリカはイランのシャーを湾岸の警察官にしたのです。具体的にはアメリカはイランにのみ最新式の兵器をどんどん売ったのです。

しかし1970年代になると、イラン国内にシャーに対する反対勢力が生まれました。ムジャヒディン・ハルクなどの若者です。シャーは容赦のない弾圧を加えました。しかし1976年に人権外交を唱えたカーターがアメリカの大統領に就任すると、シャーに圧力を加え弾圧の手を緩めさせたとされます。1978年8月、アバダンの映画館で火事が起きました。それが、シャーの秘密警察の陰謀とされたことが、イラン革命のきっかけとなりました。1979年1月にはシャーが国外へ逃げ、2月ホメイニ政権が成立しました。革命後、政権を握ったのはムジャヒディン・ハルクではなくシーア派イスラムの聖職者たちでした。その結果、イランは中東一番の親米国家から反米に 180度変わりました。

8 湾岸の警察官不在と湾岸戦争

この時点で湾岸の警察官は不在となり、力の真空状態が出現したことに注目しなければなりません。たちまち1980年9月にはイラクがイランに侵入します。イラ・イラ戦争は8年続きます。イラ・イラ戦争は油田の上で戦われる悪夢のような戦争に思われました。しかし意外にも、湾岸に奇妙な安定状態が出現したのです。湾岸の両強国が四つに組んで動けなくなったのです。イラクは戦争を止めることを望みました。しかしイランの最高指導者ホメイニはそれを許そうとはしませんでした。戦線が膠着する中、国土も人口もイランの数分の一しかないイラクは次第に形勢不利となり、イラク南部の重要都市バスラが危険に陥りました。

そんな段階になってもアメリカのレーガン政権は中東に関心を示そうとはしませんでした。イラクは1949年以来アメリカの同盟国イスラエルの敵国なのです。 先の見えない消耗戦に苦しんだイラクは、イランに来航するタンカ−や原油積出港を攻撃するようになりました。イランもそれに応じました。タンカ−攻撃は一時世界の関心をこの地域に集めました。しかしそれも僅かな期間だけでした。タンカ−は意外にもミサイル攻撃に強かったのです。ミサイルがタンカ−の側壁を破りタンクの内部で爆発しても、その衝撃は液体の原油に吸収されて全体を破壊するに至らなかったからです。世界の関心は再び薄れました。

ソ連のみはイラクに兵器と大規模な軍事顧問団を送りました。この時点になって初めて、湾岸でのソ連の影響力が大きくなることを警戒したアメリカは、ようやく重い腰を上げたのです。アメリカが腰を上げるや戦況は一変しました。イラクは、それまで南部の重要都市バスラの近郊まで攻め込まれる窮地に陥っていましたが、それが一転、たちまちイラク有利の形成がつくりだされ、さすがのホメイニも1988年7月に渋々停戦協定を受け入れたのです。イラ・イラ戦争が終わってみると、再び警察官が不在の状態に戻りました。イラ・イラ戦争の末期、旧ソ連から大量の武器を供与されたイラクの武力は無気味なほどまで膨張していました。またアメリカはイラクが核武装することを懸念していました。

1990年8月にイラクがクウェイトへ攻め来みました。湾岸戦争の勃発です。イラクはもともとクウェイトに対する領有権を主張していました。それにイラクは、OPECの場で原油価格をできるだけ引き上げたいと考えていましたが、それをクウェイトが邪魔していると不満を抱いていたのです。アメリカの反応は早いものでした。約半年かかりましたが、50万人を超える国連軍が送られクウェイトからイラク軍を追い出しました。以後、アメリカが直接警察官を務めることによってのみ中東湾岸の秩序が守られています。

湾岸戦争当時、奇っ怪な噂が流れました。アメリカのイラク駐在大使が、イラクのサダム・フセイン大統領に対し、イラクがクウェイトに侵攻してもアメリカは手を出さないとほのめかしたというのです。もちろん簡単に信じるわけにはいきません。しかし湾岸戦争が阻止した一つの悪夢のようなシナリオがあります。

イラクの現政権はバース党の政権です。バース党の綱領はアラブの大義。アラブ諸国は統一されなければならないというのです。もちろんアラブの問題に、他人が介入することは許されないでしょう。しかし、もしイラクがクウェイトのみならず湾岸のアラブ産油国を統一したとすると、実上石油を独占することとなり、世界史上でも空前絶後の権力者が生まれることになります。石油に限らず資源問題を追及していくと、どうしてもぶつからざるをえないのがパックス・アメリカ−ナという問題です。パックス・アメリカ−ナとは、アメリカの軍事力で守られた平和という意味です。

石油供給源へのアクセスは保障されていなければなりません。また、日本にすれば、中東から日本までのオイルルートは安全に守られていなければなりません。日本は、これら生存にとって欠くべからざる措置をすべてアメリカに依存しているのです。もっとも、この点は日本だけではないのですが・・・。

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