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第20回「長銀判決とノブレス・オブリージ(その1)」
(アローコンサルティング事務所 代表
箭内 昇氏)
最終更新日時: 2002/10/07
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アメリカの同時テロ1周年のまさにその日、滞在中のニューヨークのテレビで、長銀元頭取ら3人が粉飾決算事件で有罪判決を受けたことを知った。しかし、帰国してみると、わが国では日銀の銀行株式買い取り、柳沢金融担当相更迭と不良債権問題は一層混迷を深めている。
あれからもう4年、長銀破綻は何だったのか。長銀OBである筆者の心には、その日見たグラウンド・ゼロの巨大な空間と同様、いまだに埋め尽くせない洞のような虚ろな穴がある。
判決がダメ押しした「よき時代」の終焉
この旧長銀経営者に対する判決は、本コラムで活躍中の木村剛氏の解説を待つまでもなく(「リスク戦略の発想法」第14回参照)、わが国の金融界や経済界にとってきわめて重要だ。大きな時代の転換を象徴する判決だからである。
木村氏には同じく第13回でも、拙著「メガバンクの誤算」(中公新書)をとりあげて高く評価いただいた。木村氏は、そこで筆者が紹介した大銀行の隠蔽・カルテル体質と、氏が「粉飾答弁」(アスキー社)などで指摘されている金融庁の現実逃避、まやかしの金融行政があいまって、今日の金融危機を招いたという趣旨の主張を展開されている。思いは筆者もまったく同じだ。
しかし、破綻の当事者としては、この判決を読むと、そうした理論や道理を超えた特別な感情に打たれるのもまた事実である。
一つは、自分達としては一生懸命頑張っていたつもりのあの「よき時代」が、舞台の落とし幕のように突然終わってしまったという実感だ。当時の価値観などが全否定され、あっという間に遠い昔話となってしまったことを痛感する。
その最大のものが金融村の崩壊だろう。筆者は長銀が破綻したあと、参考人として何回か検察庁の事情聴取に応じた(本コラムの第1回参照)。検事との長時間の面談の中で衝撃を受けたのは、不良債権処理に関する会計法の規定をめぐるやりとりだった。論点は頭取たちが違法性を認識していたかという一点だ。
筆者は「経営者は当時の不良債権処理が、大蔵省通達の基準の範囲内に何とか収まると解釈していたはずで、当局も暗黙に了解していたはずだ。だから、違法性の認識はなかったのではないか」と自説を述べた。
すると検事はおもむろに六法全書を差し出し、「商法285条の4第2項は『(金銭債権の評価にあたっては)取立不能の虞あるときは取立つること能わざる見込み額を控除することを要す』とあり、大蔵省の指導がどうであれ、この規定の趣旨に反すれば立派な違法行為じゃないですか」といったのだ。商法は銀行法や証券取引法の上にたつ基本法であり、この条文もまったく当たり前の会計原則を定めた規定だ。
正直言って、筆者は長年にわたってMOF担をつとめ、銀行法や銀行局通達については精通していたが、うかつにもこの商法の規定の存在を意識したことはなかった。
銀行マンにとっては銀行法、大蔵省令、銀行局通達、行政指導など銀行局から発信されるものがすべてだったからだ。しかし、この検事は大蔵省の行政の上に法律があるという当たり前のことをずばりと指摘した。
裁判所の判決も検事と同じ結論だ。裁判長は、現実にはかなりあいまいだった当時の会計基準の実態をどの程度認識したかは別にして、長銀経営者が「健全経営を維持せよ」という法の精神に背き、策を弄して不良債権の引当を回避しようとした姿勢を厳しく断罪したのだろう。
わが国の大銀行は、80年代からあらゆる手段を使って業務純益やディーリング益のかさ上げなど巧妙な決算操作を続け、バブル崩壊後もデリバティブなどを使って不良債権隠しを拡大した。大蔵省もそれを黙認することによって癒着を深め、「よき時代」を温存してきた。
今回の判決は、こうした金融村だけに通用するルールやまやかしは、仮に表面的には合法的に見えても、国民の視点からすれば法の精神に反する行為であると断罪したのだろう。
筆者のようなMOF担経験者にとっては、全知全霊を傾けて銀行局対策に励んだ若い頃の日々を思うと、何ともいえないむなしさに襲われることもあるが、時代が変わるということはそういうことだろう。
裁判長が断罪した組織防衛
二つ目は、企業の究極の存在意義は何か、経営者が最後まで守らなければならないものは何だったのかという思いだ。
長銀の元頭取たちは、もとより個人の利益のために不良債権隠しに走ったり、違法配当をしたわけではない。銀行を守るため、4000人の従業員とその家族を守るためという一心だったはずだ。
こうしたケースは、一昔前であれば経営責任はともかく、刑事責任まで追及することはなかったであろう。しかし、今回裁判所はこの点についても斟酌することはなかった。銀行は自己の利益を追求し、従業員の生活を守る以前に、預金者・投資家の保護と金融の安定化という大きな使命を負っていることを改めて明示したのだ。
長銀は、バブルのダメージがはっきりしてきた96年ごろから、自己資本比率規制達成のため貸出金の圧縮をはじめた。取引先に対して、新規融資の謝絶から始まり、折り返し融資の拒否、そして償還期限が到来していない長期融資の回収まで一気に加速した。
業績悪化企業だけでなく、優良企業も長い付き合いの企業も手当たり次第に貸しはがしに走り、取引先との関係はずたずたになった。貸出担当者は「頭を空っぽにしてやっています」と自嘲していた。筆者が、長銀の経営者に決定的な不信感を抱き始めたのはこの頃からだ。
筆者が97年10月に新宿支店長に着任してからは、長銀の経営不安がささやかれ始めて預金解約客が急増した。北拓、山一破綻を契機とした「魔の11月」から波状的に増加し、翌年5月ごろからは怒涛のように解約客が押し寄せた。パニック寸前だ。
何時間も手続きの順番を待つ不安顔の老夫婦客、連日の深夜残業で疲労の極致にある店頭の女子行員。一方の貸出担当にも本部から従来にも増して悲鳴のような資金回収の拍車がかかる。「この資金回収を失敗すれば長銀は潰れる。君たちの生活がかかっていることを忘れるな」。もうこの頃になると資金流出が加速し、資金繰りが危機状況に陥っていたのである。
しかし、筆者の中には「実態を隠しながら、ここまで顧客に迷惑をかけ、また理性や感情を殺して行員に辛い仕事を続けさせることが社会的に許されるのか」という疑問が抑えきれないほど膨んでいた。
結局98年6月末に長銀が住友信託銀行との合併を発表し、解約の嵐が一服したところで、筆者は頭取に対し不良債権など経営実態の開示と経営陣の一新を訴えて辞職した。
長銀はその後破綻したが、そのとき経営者は何のための組織防衛だったのかという虚しさに襲われたであろうし、行員は実態が明らかになるにつれ「頭を空っぽにしてやってきたこと」に対する罪悪感にさいなまされたに違いない。
筆者も経営陣を批判して辞職といえば聞こえはよいが、うすうす感じていた不良債権の実態に切り込まなかったことへの深い自己嫌悪に陥った。長銀マンの誰もが、ビジネスで一番大事なものは何かを思い知った瞬間だった。