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(回答先: Re: ユートピア 投稿者 Gaia 日時 2002 年 9 月 10 日 12:03:36)
Gaiaさん、こんにちわ。
レス先が違うようですが、内容的に私へのレスだと判断しましたので、簡単に説明します。
オリジナルで書いた「現実の経済社会」と「利潤なき経済社会」を混同されて論議されることの危惧を少しばかり感じました。(笑)
書いた内容に至る過程も示していないこちらの責任が大なのですが...
オリジナルでは抽象的でありながら妙に具体的なことをいろいろと書きましたが、あくまでも、みなさんの思考活動にとってなんらかの触発になればというものですから、みなさんで叩いてもらって、いろいろなアイデアを出してもらえればと思っています。
>仮に、個人のフローに対してはその考えが成り立ったとしても、個人のストックに関
>してはどうなのでしょうか?
人々の活動力及びその成果物のある範囲をフローと考えていただいても問題ありません。(フローという概念は、「近代的経済システム」に即したものなので使用を避けています)
ストックは、活動力の対象や手段として使われて唯一意味のあるものだと考えており、ストックに高い経済的価値性が認められている近代価値観は倒錯的なものだと受け止めています。(現実には通貨的“富”をもたらしますが、本来、土地を所有しているだけでは何も生み出しません)
活動成果物も、活動力によって自然存在を必要なものに改変した人間的自然存在だと捉えていますから、所有にこだわる意識にはズレを感じます。要は、自分が消費できるものなのか、自分の意志で使えるものなのか(制約条件はありますが)が問題になるはずだと思っています。
人々の活動力によって生み出される物は、消費もしくは私的専有物(耐久消費財)といったフローと生産手段や社会的インフラといったストックに区分できるでしょう。
現在でも公共財になっている社会的インフラは、どのレベルの公的部門がどのような手法で行うかはとりあえずおくとして、その管理主体は公的部門であり続けると思っています。
現在は企業という私的主体が所有している生産手段については、そのままの形態でもいいし、所有から離れた経営主体が管理するようになってもいいと思っています。
(固定資本の重みに耐えるのは馬鹿馬鹿しいという経済論理から、後者が選択されることになるだろうと予測しています)
個人のストックは、通貨の非蓄蔵性(非ストック性)を書きましたので、通貨ではなく住宅や土地が考察の対象となろうかと思います。
住宅は、活動力の産物ですから、活動力の交換によって手に入れて“私物化”することができると考えています。
(住宅は大きな活動力を要す物なので、日常的な財とは異なる交換の仕組みが必要でしょうし、学生など特定期間家族から離れて生活するための施設も必要だと思われます)
土地は、埋め立てなど活動力の成果と言えるものもありますが、基本的には天与のものです。
思いをざっと書くと、現代風の“均田制”が実施されるべきだと考えています。
日本国民として生まれたら、基本食糧を生産するための田畑が供与され、将来的な住宅地の供与も保証されるという論理的形態をイメージしています。
現代風及び論理的と形容したのは、家族が対象にしろ個人が対象にしろ、あそこに何uといった具体的な田畑の分割供与は不合理な政策だと考えているからです。
現代風の“均田制”は、土地(自然)から生み出される成果物である食糧を国家(共同体=地域)が最低限保証するシステムと考えていただければと思います。
最低限必要な食糧の保証ですから、提供する活動力の量によってより豊かな食糧を入手することはできます。
必需財・利便財など財の区分を重視していますから、“自営農民”が個人(家族)の基礎的条件で、その基礎の上で、職人機能・公務員機能・アーティスト機能などとしての活動力も発揮できるという社会構造が好ましいと考えています。
(ひっそりと自給自足に近い生活もできるが、“余剰労働”という社会的負担は求められる。こういう人たちが農業生産を支えてくれることになるのかなと思っています)
別に、全員が農業を営まなければならないという仕組みではなく、「活動力の交換」という仕組みがあるわけですから、諸個人がベースとする活動力の発揮目的は、様々なものになると思っています。
>現在の格差や無力感の蔓延は、むしろストック(遺産相続.親の職業などによる家庭
>環境格差.土地持ちかどうか.など)にこそあると思いますが...
>理想社会は(先祖代代からの)ストックの議論抜きには語れないように考えます。
>ストックの有無こそが経済格差の大元になっていませんか?
活動量の基盤や対象である土地の“所有格差”が、経済格差や無力感の蔓延を生み出していると思っています。
(都区内で1千坪も土地を所有しており、そのうちの900坪を売却すれば、その家族は一生不安なしで生活できるでしょう。土地を所有していない人は、それを手に入れるために、30年ローンにもがき続けることにもなっています)
微温主義者ですから、現在の土地所有とりわけ住宅地については、相続時点で徐々に公的部門が回収し、現代風“均田制”に回していけばいいのじゃないかと思っています。
農地は、幸か不幸か、跡継ぎがいないという状況が浮かび上がっていますので、継続的な農業活動が行われるよう早急に手を打つ必要があると考えています。
>また、フローである収入にかかる累進課税等の強化は「頑張って稼ごう」「努力しよ
>う」との気持ちを萎えさせ、やる気を阻害する要因になると考えます。
>累進課税の強化は簡単ですし、世間の嫉みや嫉みに答える上で採り易い政策かも知れ
>ません。
>しかし、人間は無意識のうちに合理的な選択をしています。
>たくさん稼いでも手元に僅かな分け前しか残らないなら、少なく働こうとの選択をす
>る人が増えてもおかしくありません。
「現実の経済社会」の問題解決手法としては累進課税を打ち出していますが、活動力の交換と負担を基礎とした「利潤なき経済社会」においては、累進課税という考え方はありません。
「利潤なき経済社会」は、「少なく働こうとの選択をする人が増えてもおかしくありません」が良しとされる社会です。
財や用役をたくさん手に入れるより寝ていた方がいいと判断するのなら、欲しい物を手に入れられる量だけ活動して、あとは寝ていてもいいのです。
逆に言えば、みんなが財に執着するほうが、資源維持や生存環境の観点から言って不都合なことです。
“やる気”は、社会にとってきわめて重要な要素だと考えていますが、それはお金を稼ぐという抽象的な目的ではなく、具体的で有用な物をつくる活動や他者が求める用役(サービス)活動に向けて発揮されることになります。
“やる気”が旺盛な人は、その活動力を他の活動力と交換することで、より多くの財や便益を受けられることになります。
>仮に、国民が皆同じ年収を得る社会になったとしたら、その時こそ、ストックの多寡
>がモノを言います。
ストックについては前述しましたので省略しますが、「利潤なき経済社会」は、国民が皆同じ年収を得る社会ではありません。
発揮する活動力によって、“年収”(=受け取れる財や便益の量)が異なります。
例えば、優秀なデザイン能力があり、そのデザインが多くの人の需要対象になったら、それによって“年収”も増加するという仕組みもありだと考えています。
>万一、このような選択をする国民が9割超になったら、国の税収は減り続け、国家と
>して立ち行かなくなるのではありませんか?
>このような人が増えつづけたら、国力自体が低下すると考えます。
税金といっても、活動力を直接徴収する代わりでしかありません。
個人(家族)のためだけではなく、社会のための活動力の提供も求める「利潤なき経済社会」では、道路を造るより寝ていたほうがいいという合意をみれば、道路の整備距離が伸びないと言うだけの話です。
税金も、結局は、活動力に支出されているのです。(多額の俸給や退職金を受け取っている高級公務員が、蓄財に励んでいるのは別ですが...)
ちなみに、「利潤なき経済社会」に移行する時点で残っている公的債務は、全てチャラになると予測しています。(通貨のストック性はなくなりますし、将来に備えて通貨を貯め込む必要もなくなりますから、それで構わないでしょう)
「国力の低下」については、現在の経済システムのほうが、諸個人の活動能力をある対象に固定化・限定化していることで低下させていると考えています。
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人は、本来的に、活動欲求を強く持った生き物であり、他者との関係性を求める生き物だと思っています。
義務的労働時間が大きく短縮され、生産手段などが現在以上に開放的になれば、これまで、封じ込められていたり、抑え付けられていた活動能力が顕在化し発揮されることになりますから、国力はより高まるだろうと考えています。
あるときは田圃を耕し、あるときは家具の製作にいそしみ、あるときは新しい機械の仕組みを考え、あるときは哲学的思索に耽るといった感じで、個人に多面的な活動が認められる社会のほうが、個人の能力も高まります。
今のような固定的な分業構造は、個人の活動能力を限定的なものに抑え込んでいます。
(毎日7時間、製品を梱包する仕事を続けるといった生活で、その人の活動能力が高まるとは思えません)