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『中央公論』7月号掲載の榊原論文を評す [現状認識編] 〈「匿名希望」氏のレス期待〉( http://www.asyura.com/2002/hasan12/msg/558.html )に対する匿名希望氏の『業務時間だが、ざーーーっと書いてしまった』( http://www.asyura.com/2002/hasan12/msg/926.html )へのレスです。
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ご多忙のなかのレス痛み入ります。
という事情を斟酌して、持論を補足するかたちのレスにしました。
>榊原氏が、デフレの主要な要因をグローバリゼーションと技術革新を基にした構造的
>なものである可能性があるとする立場を取る一方、あっしら氏は資本化されない余剰
>通貨の存在が構造的デフレの主要因だとみなす。
>この論点については、どちらにも一理もニ理もある。私の考えはこうである。そもそ
>もなぜあっしら氏の言うように、消費にも投資にも向かわない余剰通貨が増加するの
>か。さしあたり貯蓄を減らしてまで消費せねばならぬほど(富裕層の)日本国民が切羽
>詰っていないからである(消費を拡大したくなる明るい将来の見通しがない、と言っ
>ても良い)。
かたちや内容は異なるとは言え、「近代経済システム」は“グローバリズム”と“技術革新”を基礎として発展してきたと捉えている立場から、榊原氏の見方を“甘い”と評しています。(近代と不即不離のそれらを今さら持ち出しても意味がないということです)
昨今の資本化されない余剰通貨の増加は、「勝者の蹉跌」による90年以降の日本の状況を“特殊”視して脇に置けば、「近代経済システム」の行き着く先、すなわち、古典派経済学的表現での「定常状態」が近づいていることを示唆していると考えています。
(リカードの経済理論に対して押された「陰鬱な科学」という烙印が現実化すると言うことです。しかし、「定常状態」は、処し方を誤らなければ、ある特殊な人を除き、陰鬱な状態ではありません)
“技術革新”(=「労働価値」の上昇)と“余剰通貨”の資本制的=利益獲得的「はけ口」は、グローバリゼーション以外にないのです。
(【世界経済を認識する基礎】という連載の最大のテーマはこの問題です。是非とも通読していただいてご批判をいただければと思っています)
グローバリゼーション(外部国民経済との自由なる経済取引)が、経済主体に利益をもたらす条件を喪失してばいくほど、近代経済システムは「定常状態」に近づいていきます。
断言しますが、世界経済(諸国民経済の有機的連関体)は、そう遠くない時期に従来的システムでの「定常状態」に陥ります。(第一段階の「定常状態」と言っていいもので、本当の「定常状態」はその後に訪れることになります)
問題なのは、経済学者や国家統治者がそのような歴史段階にあることをほとんど自覚していないことです。
「定常状態」に向けてどうやってソフトランディングさせていくのかが、現在問われている課題なのです。
「さしあたり貯蓄を減らしてまで消費せねばならぬほど(富裕層の)日本国民が切羽詰っていないからである(消費を拡大したくなる明るい将来の見通しがない、と言っても良い)。」という点については、前者が富裕層=高額所得者に対する説明で後者が低中所得者に対する説明であれば、そうだと思います。
これらは、税制を変更し、先行きの安心感を付与することでしか解消できません。
しかし、最大の問題は、消費が次なる資本化であると同時に、貯蓄も次なる資本化のために“使われてしまう”はずのものであるのに、そうなっていないという現実です。
貯蓄が「国債サイクル」の維持以外にあまり貢献しないという経済状況が意味していることを真摯に受け止めるべきだと思っています。
>投資は最終的には消費を当てこんでなされるものゆえ、消費が伸びないと期待されれ
>ば投資も増えない。90年代から一貫して供給過剰にある中、デフレギャップを埋める
>本格的な契機はついに掴めなかった。冷戦終結後のメガ・コンペティション状況はこ
>の流れを拡大・増強するものとして理解されるべきだろう。
供給過剰は、財の供給量の過剰というより、固定資本の過剰であり、資金調達の実態から過剰債務を意味するものです。
このような捉え方をしないと、従業者の首を切ればいいと発想につながります。資本構成の高度化が進んでいる段階では、固定資本の償却をどうスムーズに行うかが最大の問題で、従業者の首を切っても生産設備は重荷として残り続けます。個別経済主体が経営的によかれと思ってやる首切りが広まっていけば、需要の減少でより多くの生産設備が重荷になっていくという悪循環に陥ります。
(この問題については、周辺にある投稿なので既にお読みなられたかも知れませんが、
『ストックとフローそして経済政策』( http://www.asyura.com/2002/hasan12/msg/869.html )を参照してください)
これから生じているデフレギャップを埋めるためには、固定資本を過剰にしない、すなわち、固定資本に転化している債務を返済できるよう、フロー(売上・収入)を増加させるしかありません。しかも、そのフローは、実質ベースではなく、名目ベースでいいのです。(厖大な不良債権を一気に抱え自己維持に狂奔する事態に陥った銀行の惨状を放置したままで、なおかつ、財政危機という状況であれば、打つ手は限られますが...)
政策的に言えば、98年に実施された「低中所得者負担増加政策」は、デフレ・ギャップをさらに拡大する完全に誤った政策です。
「デフレギャップを埋める本格的な契機はついに掴めなかった」どころか、さらに遠ざけたと言えます。
「メガ・コンペティション状況」と言っても、国際収支状況に照らせば、具体的には中国などアジア諸国との競争です。
先行した韓国でさえ、韓国製品の国内シェアは低く、製品化のためには日本からの輸入が不可欠という状況です。
中国は、外資に対する開放度が韓国より高いというだけで未だ韓国以下の経済条件です。中国製品の輸入も、ほとんどが日本企業の海外生産分です。問題視されている農産物に関しても、日本企業の開発輸入です。
中国企業は、現時点で、日本市場で自立的にマーケティングできるレベルにはありません。
日本経済が「デフレ不況」にあることで、売上ではなく利益確保のために、中国などに製造拠点を移して輸入販売していることが問題なのです。(供給を減らした市場で利益を増やそうというのは、短期的には可能でも、中長期的には不可能です)
断言しますが、現時点で、「メガ・コンペティション状況」を主導する国民経済は、日本経済以外にないのです。
(「メガ・コンペティション状況」は歓迎すべきものであり、恐れる必要はありません。「メガ・コンペティション状況」は抑制されていくかもしれないという危機感を持つ方が大事です)
デフレ・ギャップなのですから、現状の日本は、設備投資=固定資本の増加につながる投資が行われる経済条件にはありません。
だからこそ、点検やオイルは必要だとしても消費行動はしない生産設備ではなく、財や用役にお金を使う従業者にこそ追加投資(給与アップ)すべきだと考えています。
従業者の給与を増加させることも投資であり、しかも、消費の拡大につながる投資であるとの認識があまりにも欠落していると思っています。
生産設備ではなく従業者に対する投資増加は、財政支出の拡大が不如意という状況において、財の供給量を増加させないで消費を増加させる唯一の方策です。
そして、そのような経済行動を“錯綜”的なものとして忌避する企業が多いことから、「低中所得者減税」を第一段階として提案しています。
(高額所得者の増税が政治的に難しいのであれば、今話題になっている先行1兆円減税を、これに充当するほうがデフレ・ギャップの解消に貢献します。“3減5増”策であれば、安心感を付与できないのであまり貢献しないでしょうが...)
>あっしら氏の主張する「処方箋は、国家の政策で余剰通貨を資本化すること以外にな
>いのである。」という点については、全面的に賛同する。歴史的な視野に立ち概観し
>つつも、歴史のアナロジーにとらわれる榊原氏をあっしら氏がある面で凌駕している
>ことも認めて良い。19世紀末と現代の違いを明確にした点など、鮮やかな指摘であ
>る。しかし、あっしら氏の立論にも難点があることは否めない(私のあっしら理論の
>咀嚼不足から来る誤解かも知れぬが)。
どうしても自分の“慣性”的視点に陥ってしまうので、立論上の難点を思いつくままでけっこうですので、下記以外にも、時間があるときにさらにご指摘ください。
>まず、あっしら氏はセイの法則に基づき、供給が需要を生む(供給=需要)という考え
>を提示する。従って、余剰通貨が資本化され、供給(力)になれば需要は生まれると考
>えておられる(ように見える)。しかし、言うまでもなくセイの法則には価格メカニズ
>ムの暴力的調整機能がその基盤にあることを見落とせない(つまり、供給されたもの
>が売れなければ、売れるまで無限に値段が下がって行くというもの)。
セイの法則は、共通の了解になるということで持ちだしたもので、セイに依拠しているわけではありません。
持論の供給拡大は、財の物理的供給拡大ではなく、賃金の上昇というかたちでの通貨的供給拡大であることをご理解いただければ思います。
歴史的に先の話ですが、財の価格がじりじり下がっていく状況が悪いものではないというコンセンサスも得られると思っています。
>次にあっしら氏の言う「労働価値」は労働生産性と概念的に近似のものと思われる
>が、この概念のみで国際競争力についての説明を行うのは厳しい。卑近な例で言え
>ば、ドイツ車や日本車が米国市場において米国車と同じ値段で売られると前者が圧倒
>的に売れるのだ。つまり、「生産効率」に還元されない競争力があるということだ。
>それゆえ、為替レートを人為的に動かしても収支不均衡はおいそれとは縮小しないと
>いうことでもある。
最終消費財にとりわけ顕著ですが、ブランド(イメージ)が持つ競争力や価格支配力を否定しません。(経済主体や人々が必ずしも合理的な経済活動を採るものではないというより根底的な問題もあります)
しかし、経済状況の影響も受けますが、60年代・70年代の米国における日本車の販売増加を顧みてもわかるように、非合理性を乗り越えて“勝てる”価格差というのがあります。
日本は、中級・上級クラスの製品を普及ないし中級価格で供給できるところに強みがあり、その力で現在の経済水準を達成したと考えています。
同等品質のドイツ車が2万ドルで販売されているのなら、日本のメーカーは、1万8千ドルで販売できるよう「労働価値」を上昇させなければならず(賃下げではなくという意味)、それが出来る活動力を持っていると判断しています。(ドイツよりも労働条件が悪いのですから...)
家電製品では、ドイツ車と日本車の関係が、日本製と中国その他製品との関係で生じていると思っています。
ソニー製品が、他の日本製品に較べて2割高は通用しても、それを超えると通用しないというのと類似的な話です。
このような意味で、根源的には、財の価格を規定する「労働価値」が国際競争力及び国民経済内の競争力を規定すると考えています。
また、だからこそ、「デフレ不況」の長期化が、中国企業の中国製品に日本市場参入の機会を与えると思っています。(最初は、現在のように提携日本メーカーの管理下で行われ、次には、売れるものを求める商業資本の輸入販売...という流れで...)
>そして、あっしら氏によれば、貿易黒字は増加基調を維持すべし、主要民間企業は賃
>上げを行い、海外への生産移転を自粛せよ、ということになる。勿論、そうなっても
>らえれば万々歳だが、そう唱えているだけで実現するほど現実は甘くあるまい。
貿易黒字は、増加基調を求めていません。それは、日本の孤立化を招く恐れさえあります。
当面(「デフレ不況」解消まで)は、最低でも5兆円ほどの黒字基調を維持すべきだと考えています。
海外への生産移転も、日本向けではなく外国向けであれば、貿易収支とのにらみで進めるべきだと考えています。(仕向地ごとにまずはアセンブリ拠点を移していくのが望ましい)
出来るだけ理を尽くして、理解をいただければと思っています。
>こういうグランド・デザインを描く時には、今の延長線上で物事を考えてはうまく行
>かないと個人的には考えている。そこへ至るプロセスは後から考えるとして、将来の
>理想的かつ持続可能な経済像を予見しうる与件を基にして組みたててしまった方が良
>い。
その通りだと考えています。
「定常状態」をどう迎えるかという問題です。
>ごく簡単に言うと、既に日本人はGDPを拡大再生産してゆく金の使い方をできない(知
>らない)国民になってしまったということだ。だが、金を使わないと経済は直ちに縮
>小過程に入る。では誰が金を使うのか。政府である。ただ、これまでの歯止め無しの
>赤字垂流しとはワケが違う。然るべき増税により、消費意欲を全体として大きく減退
>させることなく、国が吸い上げ、国民に成り代って使ってやるのだ。公共目的に適う
>金の使い方は実は無限にある。
元々、日本人は“勤勉貯蓄”型です。
だからこそ、高度成長期に必要な設備投資がスムーズに出来たわけです。80年代後半は、ある意味で“異常現象”です。
貯蓄をしなくても(貯蓄が出来ないでも可)死ぬまで安心して生活できるシステムをつくれば、財に対してだけではなく広範囲にお金(可処分所得)を使うようになるでしょう。
誰に増税するかは重要な問題ですが、政府が主導しなければならないことが多いと思っています。
死ぬまで安心して生活できるシステムをつくることに税金を投入してください。
(身体が動く人はなにかをしなければならないという対価が必要でもかまいません)
>ただ、現状とそのような理想像には大きな段差があり、「血を見ながら」そこに至る
>ことになる可能性が極めて高い、ということだ。
価値観や経済理論の根底的な変化が必要ですから、そうなる可能性が高いと思っています。(理を尽くして理解してもらえるほど甘いものだとは思っていません)
私ごときがいくら声高に叫んでも理解は得られないでしょうからね。