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(回答先: 諦観と見られない事を希望しつつ 投稿者 匿名希望 日時 2002 年 8 月 22 日 05:51:52)
「匿名希望」氏さんへ
近代、特にここ100年の日本では諸外国と比べて階層間の流動化が進んだと断定はできませんが、総体的には制度上階層間の障壁が少なかったと言えると思います。つまり、相変わらず男女間の差別は存在し現在でもその残滓を完全に払拭できていませんが、社会へ参入していく際の機会均等ということでは、勿論ある程度の出自による有利不利や経済的な境遇による制約は存在しますが、階層から階層への流入は比較的穏やかに行なわれて来たと言えるでしょう。
こうした社会状況をつくり出した原動力として、当時の行政力(官僚)の役割は大きかったと感じます。それは、戦後復興のある時期まで続きますが、その後彼等は大きな錯誤に陥ることなります。つまり、知らぬまに結果の平等までを追い求めようとしたのです。かつては中核として復興を支えて来たという自負もあり、また自身の能力への過信と殆ど虚構に等しい自家撞着的な使命感が奢りを惹起させてしまっていたのだと考えられます。確かに、一方で意識性においては閉鎖系とも云える日本社会では結果の平等を追求することが可能と思考され、他方で想像以上の経済発展がその成功の半分以上に寄与して来た側面も見逃せないでしょう。しかしながら、現在の状況は結果の平等を求める過程で生じた傷跡を時代的解消論のうちに拭い去ることが出来得ぬほどに逼迫しているとはご教示の通りだと思います。
ところで、近未来のあるべき日本経済の青写真を描くことの重要性を強調しつつ、また対策となるそこそこのデザインを構築済みであると仄めかしながら、実行性について問われることを察知すると、お決りの、例えばハイエク流の歴史認識のところに忌避しようとするまさしく官僚的な習い性を抜け出して欲しいと、「匿名希望」氏にたいし願わずにはいられません。見識の審議や代替案の実効性について云々するのはそれからでしょう。
私には、氏を中心とする周辺の皆さんの労作も、結局はパワー・ポリティクスの軋みに耐えかねて、骨抜きにされ局所の保全に収斂するのではと危惧されるのです。何故なら、あっしら氏の指摘の如く政策の実施段階において米国流の技術を真似ることぐらいしか手立てがないとしたら、政策転換後の展望を何に依拠して拓いていくのか不明であるからに外なりません。何れにしても、そこへの経路を指示するのは氏の役目ではないのかも知れません。おそらく、「匿名希望」氏の諦観の在所をあるいはそんな弁えのところに求めることもできるのではと思料している次第です。
もし「匿名希望」氏が行政力の周縁を構成する方であるならば、もはや結果の平等の現出に腐心することは止めにして、如何に機会の均等を最大限実現すべきかについて専念して欲しく思うのです。なる程、これまで以上に日本人は行政が指導力を発揮して導かなければ立ち行かないところまで来てしまっているかも知れません。しかし、これを直ちに戦後教育の失敗であるとするのは早計でしょう。既に明治期から元々の付けは廻って来ていたのですから。もしや間に合わないかも知れません、しかし氏のIssueに与するならば日本人は行政の力を頼らずに自立のシミュレーションを重ねて、覚悟を決めていく必要があると思うのです。何もアングロサクソン流の手法に倣うばかりが能ではありません、そのためのあらゆるMethodの創造性に富んだ組合わせこそ、行政の府に勤しむ人達の最も得意とするところはありませんでしょう。それら成果をどしどし国の人々に提供し後は人々の研鑚と成長に委ねるべきです。そのような人達の支持を得てこそ、氏達のデザインが方手落ちに終わることなく、完全なものとして結実するのではないでしょうか。
さて、「匿名希望」氏も、あっしら氏も、多分私も、そして多くの人達が、おそらくそれぞれに世過ぎ身過ぎに心を砕きつつも自身が只中に在る、日本や日本の状況や日本の歴史を相対化して外化の手続きを経て内化に至るという作業を続けているのだと思います。
この辺で失礼いたします。