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(回答先: “政府紙幣”は日本の宗主国の気持ち一つで成否 投稿者 Ddog 日時 2002 年 8 月 21 日 02:06:22)
あっしら氏と私の間で、日本経済と世界経済の現状と将来に関する見立てについては大きな差異はないように見える。にもかかわらず、あっしら氏はマイルドなデフレ解消策の実施を勧め、私はデフレ深刻化覚悟の改革路線の必要性を説く。この違いはどうして生じるのだろうか。
あっしら氏の規定によると日本経済の現状は、「勝者の蹉跌」であって「敗戦」ではないという。転んだものは立ち上がれば良いというわけだ。言い方は悪いが、弥縫策がまだまだ通用する(はずだ)とのお考えと見られる。ケインズが死に、マネタリズムが扼殺された後でもまだ政策実施による日本経済の救済が可能とするお立場だ。
一方の私は、もう日本経済はそんな段階をとうの昔に突破してしまったという立場だ。迫り来る財政破綻、逼迫する企業環境、窒息しそうな地方経済、何もかもがもはや限界に近い(ただ国民の暮らしぶりという観点からは破綻がそこまで表面化していない)。だが、あるべき姿に向けた社会改革を行い始めると全国民が腹を決めたその時から、事態が打開され始める可能性がある。様々なシミュレーションを行っているが、そうなる可能性がないわけではないのだ。また、たとえそうならずデフレ・スパイラルが進行するような事態になれば、非常事態モードに突入せざるを得ないことは前にも述べたとおりである。立ち直るにしても破局を迎えるにしても、時代の針をもう少し早く進めるべきだ、ということだ。
他方、現実の政治はといえば、明確に改革路線を進められるでもなく、デフレ打開を打ち出すでもなく、グズグズと日和見的な政策に終始している。外科手術を先に延ばせば延ばすほど痛みは増すのだが、「みんなの民主主義」だから仕方ない。愚昧な政治家には10歳の子に分かるように説明する経済理論も馬耳東風だ。また、最初から「政治家の信念として」説明に耳を貸さない頑迷固陋な政治家も多い。
あっさり言い切ってしまうと、「微温的な政策群」は、今のダラダラ・ノンポリ路線と大差ない。旧体制維持の先延ばしでしかないということだ。
先の敗戦において我が国は、他国に占領された上、レジームの転換を始めとし、税制、土地所有制度など経済諸制度においてもラディカルな改造を迫られた。多くの人々は戦争によってだけでなく、戦争「後」も財産を失った。しかし同時にそこが日本経済の新たな出発点となった。
日本の現状を「敗戦」とまで見るかどうかは議論の分かれるところかも知れない。誰に(何に)対して負けたのかという議論もあろう。しかしその議論はひとまず置いても、(経済の観点から見た)先の敗戦を出発点とする一つの時代が終わったという認識は決定的に重要なのではないか。新しい時代を迎えるにあたっての脱皮は社会に激痛を与えるかも知れない。しかし、それを我々は我々の手で断行してゆかなければならない。前述した敗戦のアナロジーではないが、今度は他国に強制的に外科手術を強行されるようでは情けない。この想定を絵空事と笑わない方が良い。世界市場あっての日本であり、これだけグローバル化が進み密接化した諸国間関係にあっては、「有事」には日本の主権を制限する包囲網はすぐに整うと見るのが現実的である。