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私はあっしら氏との議論の中で幸せの経済学を何度も引用してきたが、私の考える幸せの経済学を少し説明したい。これは何の実利ももたらさない理論的な話ですので興味のある人のみ読んでください。
まずあっしら氏は、近代経済学を「貨幣の極大化を目的とする」と説明(正確な引用でないかもしれない)されました。幸せの経済学は人々は幸せの極大化をするために経済活動を営むというテーゼを核としています。
あっしら氏は2つの問題点を指摘されました。
1)幸せの定義ができないこと
2)幸せの数量化ができないこと
まず幸せが何かに関しては100万人いれば100万の考えがあるわけで当然その定義はできません。しかし幸せにはそれを構成する要素あるいはインフラストラクチャーがありそのインフラに関しては定義することも数値化することも可能と考えます。
東大がニュートリノに質量があることを発見しましたが、彼らはニュートリノをハカリにのせて計ったのでしょうか?もちろん違います。実際にはニュートリノの通過した痕跡を分析することで質量があるという結論に達したのです。
経済学においても同様な考えが使えると考えます。例え幸せそのものは定義することも数量化することもできなくてもそのインフラを定義し数量化し、インフラを議論することで幸せが極大化されているかどうかを確認できると考えます。
少し具体的な話をします。肉体・精神の健康は幸せのインフラです。肉体的には癌が進行し精神的には鬱病が進行している人は本人もまわりも幸せだとは思わないでしょう。
同時にまた平和も幸せのインフラです。ただ戦時下でも幸せを感じる人もあるかもしれません。それはそれでかまわないのです。なぜなら幸せの経済学は幸せを極大化しようとすることであり、出発点がどこであるかは関係ないからです。
それでは統一した学問にならないではないかと言われるかもしれませんが、従来の経済学でもシカゴ学派、サプライ・サイドなど様々な流派がありそれぞれが自分たちが最良と考える経済政策ををかってに主張してきたわけですから。
幸せの経済学は少なくとも経済はこう運営されるべきだというような押し付けがましい態度はとりません。ある人の幸せの極大化は往々にして他の人の幸せの犠牲の上になりたっているわけですから、常にお互いの考え方をチェックしあい総和としての幸せの極大化を目指すだけです。
そうするとテロなどにより不幸を作ることに自分の幸せを見出す集団とはどう折り合いをつけるのかと問われるかもしれませんが、すでにいいましたように幸せのインフラが何であるかに関して完全な合意が得られる可能性はありませんから、多くの流派の幸せの経済学が存在するでしょう。
私たちの労働は自分の幸せを最大化するための手段でしかありません。ゴッホの絵画のファンなら労働の目的は貨幣を入手することではなくゴッホの絵画をたくさん見てできれば所有してそこに幸せを見出すことです。ですから労働の報酬にゴッホの絵をもらえればこれは100万ドルより望ましい行為になります。
幸せの経済学の一番優れている点は人間の経済活動を含む全ての活動を説明し、我々はどのような方向に進んでいけばよいのか確認しながら社会あるいは国、世界を運営できることです。
例えば今は深刻な問題ではない地球温暖化も、地球環境を保存することが最終的に我々の幸せの極大化につながるという意見のすりあわせができれば、では具体的にどうしたらよいかという時点で例えば炭素税という従来の経済学にもとづく租税が検討されます。しかし目的は地球環境を保全して幸せを極大化することですから、経済学手法にのみ頼る必要はありません。例えば二酸化炭素を固定化して海底に沈める、そのための科学技術の開発も当然幸せの経済学の一部であり、その場合の二酸化炭素を固定化するための触媒理論ももちろん幸せの経済学の一部です。
幸せの経済学が成立するためには、幸せのインフラが何であるか大多数の人が合意するまで社会が進歩する必要があります。ですがこれが経済学の最終形態と私は考えています。
ご退屈さま。お後がよろしいようで。