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(回答先: Re: こういう「幸せの経済学」はどうでしょ 投稿者 経済音痴 日時 2002 年 7 月 10 日 07:41:18)
「経済音痴」さん、初めまして。
ご質問の内容は、経済理論というよりは哲学に近いもので、経済を説明するよりもずっと難しいテーマだと思っています。
経済活動を単独の労働まで含めるものとして説明します。
>人間は何故、どのような目的に向けて経済活動をしているのですか?
生物学的な認識対象ではない限り、“人間”という超歴史的な存在はいないと考えています。
社会科学的な認識対象としての“人間”は、歴史社会的な存在になります。
歴史社会的な存在とは、ある歴史的経緯を基礎として人々がある関係性を持った共同体(社会)の成員として諸個人は存在しているという意味です。
このような意味で、経済活動の目的は歴史社会的に異なります。
しかし、どんな歴史社会をも貫いている普遍的な目的は共同体の存続です。
共同体とは、諸個人が家族を媒介として形成された一体感に支えられた地理的組織です。
共同体は、あるときは単独の家族であったり、村と呼ばれるような狭い地域で恒常的に接触している複数の家族であったり、現在の国家のようなものです。
そして、経済活動の目的として普遍的なものである“共同体の存続”を実現するための根源は生物として諸個人の生存の確保です。
逆説的になりますが、“共同体の存続”が第一義ですから、ある条件では特定個人の生存維持が犠牲にされることもあります。(嬰児殺し(間引き)・姥捨て・生け贄・献上・戦争など)
外部共同体との関係性が平和的で自然条件も通常のものであれば、経済活動の根源的な目的は、生物的な生存を維持することになります。
歴史社会的な変化のなかで、生物的な生存を維持できることが自然視されるようになると、共同体の規模的地理的な拡張(生存条件の効率化や強固化)・宗教やイデオロギーなど価値観の具現化のウエイトが高まっていきます。
現在の「近代経済システム」は、経済活動の目的が“お金をより多く稼ぐこと”として意識されている(そうでなければより良い生存条件が得られないようになっている)歴史社会だと考えています。
>原始時代の物々交換であれ、今日的な貨幣交換経済であれ、何のために交換という行為をするのでしょうか?
交換は、外部共同体との遭遇と共同体内での余剰生産物を条件として始まった経済行為だと考えています。
それぞれの共同体が基礎としている自然及び歴史条件が異なる共同体は、異なる余剰生産物を保有するようになります。
そして、それらを交換するほうが、経済活動の目的として普遍的なものである“共同体の存続”を実現するために効率的だと判断することで交換という経済行為が始まると考えています。
合意がないままの“交換”が、戦争を通じた略奪です。
>何らかの満足を得るためとしても、何故その満足を売るための行為をするのでしょうか?
“売る”という行為と“交換する”という行為は、通貨が媒介するかしないかの違いだと考えています。
勤労者が労働力を売らなければならないわけは、生産手段を持っていないからです。
生産手段は、田畑・実りのある林・動物が行き交う草原や森林から自動製造装置がどっかりと腰を据えた近代工場までの欲しい物を生産するための物理(自然)的な存在です。
生産手段を持っていなければ、生存を維持するための食糧も手に入れなければ、住まいも建てられません。
そういう人々が多数を占めている歴史社会では、空腹を満たすという根源的な満足を得るためであっても、それを満たしてくれる条件を提示する別の人に自身が持っている活動力(労働力)を売る必要が生じます。
活動力を買う人は、生産手段を持っている人たちです。