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(回答先: 五兵餅さんへのレス:「デタラメな論理」と「繰り返しの論理」は対応が異なります 投稿者 あっしら 日時 2002 年 11 月 05 日 17:08:00)
あっしらさん、こんにちは。
新規投稿には少し気が引けて横レスにて失礼します。
さて、世界は否応無しに二極化に向っていくようです。阿修羅の掲示板の中にも、それに関する危機感や覚悟や諦めや果ては捨て鉢とも云える論調が散見されます。ただし、その極限に達するまでには少なくともあと半世紀ぐらいを要するでしょうから、あっしら氏も私もそして現存する大部分の人達がどうにか遣り過ごすことはできるかも知れません。つまり、間接的にではあるけれど確実に制禦されつつある事実上の奴隷状態にある、己の実像を暫くの間は誰もが実感せずに済むことになるのでしょう。
ところで、氏の歴史認識はおそらく近年の歴史学研究会(若手の論者達は緩やかでも明らかに変節をきたしていると感じています。)の見解を相当な部分下敷きにしていると当て推量し、それならば、「生産手段の、共有にもとづく個人的所有」を中核理念とする生産関係で運営される社会ないし共同体をVisionとして抱懐されているのだろうかとも考えてみました。既にご自身なりの地盤整地(歴史認識)をほぼ完了されていると観受けられることや氏をして諸々の提起や投企を反復せしめる情念の基底に潜む諦念を推察すれば、必然的にVisionの構築へと帰結せざるを得ないだろうと思われたのです。さらに、仮に一極支配の世界、即ち世界帝国の現出を以って人類の運命と明らめ、せめてそこに至るプロセスの激烈性ないし苛酷さを可能なかぎり緩和し、限りなく時代解消論的な解決に収束すべきと嘱望しつつその過程態とは何かと自問自答するならば、必ずや前掲のVisionの辺りに人の思考は行着くのではと考えたからでもあります。そして、自身は左翼思想の洗礼を受けて未だに完全にConversionせずイデオロギッシュな体質から脱皮できないのも一因していると自戒を込めながら、今は唯一人でVision=理念+目標=共同体像を模索しているところです。 (「生産手段の共有にもとづく個人的所有」については池田信夫のドット・コミュニズムのコラム第22回『マルクスの亡霊』でも触れられています。)
私有財産制は貴族階級に対抗してブルジョアジーの財産の所有を保障させた、言わば自由主義経済のコアなるコンセプトなるが故に、獲得した生産手段の私有という権利を譲渡ないし再配分することについては世界経済支配層による相当な抵抗や妨害があるだろうと想像しています。その昔某国の共産党が考えたように一時国有化して、後に小単位(民間)に再配分するという方法もあります。私の不勉強が禍しているせいなのか不明ですが、どのように再配分されるかについても、勿論社会主義国において計画的な再配分が完全実施されたということも寡聞にして知り得ません。今日でも尚、(日本)共産党もこんなことをまともに追究しているのでしょうか。再配分案の策定などは財務省の現役官僚達ならばその優秀さを発揮して忽ちのうちに仕上げてしまうでしょうから、別に共産党の実務家の特権にはならないと思います。
何れしても、新たな革命とも云うべき変革になりますから一気呵成にという訳にはゆかないでしょう、しかも情況はますます反動に傾斜していく様相を呈し予断を許しません。生存を維持・継続していこうとする人間の当為は、(生存の)自在性を担保していくと云う「自由」の意味に限りなく収斂していきますが、その基盤である生産手段の所有は当事者の自立性の構成要件になり得るものです。「自由」獲得の投企は何も自由主義社会の専売特許ではありませんし、なかなか顕在化して来ないでしょうが共産主義社会においても本源的な課題であることに違いはないでしょう。不安定性に身を置きながら己自身で自在性を担保していこうとするか、あるいは不自由性を引き受けて国家や共同体に自在性の担保を預託していこうとするか、人間の自決権を表象する根源的な問題です。
しかしながら、そんなことは他所に一極支配の世界に限りなく近づきつつあるようです。係る事態に対して抗うべく源泉が日本的なるものにあるのではと考え、大和魂や武士道をはじめ古の日本に淵源を求めて歴史を散策したことがありましたが、あっしら氏にも同じような痕跡を見出すことができるようです。加えて、少なからぬ失望感を抱いたことまでも近似しているかも知れないと、またまた勝手な想像をしています。「生産手段の、共有にもとづく個人的所有」に関して云えば、「共有」については日本人に比較的受け容れ易い概念でしょうが、「個人的所有」が自立を意味することの認識を如何に涵養すべきか、歴史的にも決定版と称せる術が見当たらずしかし忌避し難い課題であると思います。
お上の意向を忖度し、お上の思し召しに随って身を処することに久しく馴れ勤しんできた日本人にとって、自立すること即ちVisional skillを身に付け自ら自在性を担保していく生き方を獲得するのは容易なことではありません。しかしそれには先ず、我々日本人は今のうちに、これから起こり得る未曾有の災厄を耐え忍ぶための性根の拠り処を旧き過去に求めるよりも、未来に向って試行してその蓄積を後のSolutionの糧としていかなければならぬと、そう決意することが肝要であると考えています。さらに、単なる米国かぶれや西欧かぶれに終始することなく、それに資すると考えられ得るあらゆるMethodのcriticalな導入を図るべきとも考えています。
以上は一つの投げ掛けと云えるかも知れません。しかし、単なる質問ではない以上、その人の思想性に限りなく踏み込んでしまうことになり兼ねません。それを百も承知で、今生の縁もあればサイトの奇縁もありなのかなと勝手な想定をしつつ、あっしら氏の論考に触発されて、氏の施策が実施されるような統治機構や社会体制とは如何なるものになるだろうかと、その様なことばかり考えていた結末でありました。
氏がかつて見たかも知れない景色を想い描き己の見てきた風景と少しダブらせながら当所のない想像をしたものですので、気の向くまま訂正などしてみてください、歓迎いたします。
氏の内奥に潜むおそらく能動的ニヒリスムスという間欠泉の噴出は、時にはあらぬ誹謗中傷の対象や心ならずも罵詈雑言を惹起する素にもなっているようです。しかし、それを例えば(旧)共産党やその前衛が抱いた能動的ニヒリスムスと同質のものであると見なしてはいません。何れにしても、五兵餅さんによって仕掛けられたゲームに余り深入りをされぬほうが宜しいでしょう。難癖をプロットとして展開されるQuibbleには、固より真理究明の指向性を包蔵することなど適わず、遺憾ながらロジックで対応すべきことの埒外に置くに如くはありません。あっしら氏の言説を冷静に注視しつつ、coolなheadとhotなheartによって編み出されるものの真髄に或る種の誠実さを見ているのは、きっと私だけではないと思います。しかし、それにも拘わらず、氏がつい応じてしまうのもまたそれが故なのかも知れないと、呆れてもいるのですが...。
また寄せさせていただきます。