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(回答先: Re: 日本はイラク攻撃に協力すべきでない 投稿者 カレラ 日時 2002 年 10 月 08 日 08:07:19)
今でもそうなんですが、日本という国では世間による集団的な圧力・迫害の社会的機
制が強力でかつ野放しになっているのです。近年でも大蔵省たたきが盛んなころは検察
の質問を受けた下級官僚の家に人が押しかけたりイヤガラセ電話がたくさんかかってき
たり、その子供が学校でいじめられたりしました。また、雑誌では逮捕もされていない
銀行員や官僚を実名入りで「こいつらが犯罪者だ」と書きたてたりもしました。
歴史的記録や証言を見ると、戦前の政治行政に携わる人々や軍人たちがいかに世論の
動向を気にし、デモや暴動を心配していたかわかります。当時は今以上に世間とか世論
というものの均質志向や社会的統制力が強く、その実力は誰にとっても恐ろしいものだ
ったのです。
当時の世間・世論はしばしば横暴な盲目的もしくは計画的な右翼や軍人の暴力とも結
びついていたのです。天皇をはじめとして政府・軍部はマスコミの無責任な報道や一
部の右翼や軍人と結びついた国民のデモ・暴動が自分たち自身や国家の秩序や現行の
体制を破壊したり、その信頼性や権威を貶めたりすることを恐れていたのです。
「(あのとき、戦争を抑えたら)内乱になったろうね。ぞれでおそらく秩父宮あたりをね、担ぐ分予ができて、皇室の一大危機になっただろうな」(「決断した男、木戸幸一の昭和」より、東条英機を首相に押した木戸幸一による、開戦を決めた御前会議の述懐)
「私がもし開戦の決定に対して『ベトー』(ラテン語のveto=君主が大権をもって拒否または拒絶すること)したとしよう。内閣は必ず大内乱となり、私の信頼する周囲の者は殺され、私の生命も保証できない、それはよいとしても結局狂暴な戦争が展開され、今次の戦争に数倍する悲惨事が行われ、果では終戦も出来かねる始末となり、日本は亡びることになったであろうと思う」(昭和天皇『独白禄』より、昭和天皇による開戦を決めた御前会議の述懐)
「『もし米内大臣・山本五十六次官の海軍がそのまま続いていたら、あくまでも三国同盟に反対し抜いたか?』と聞くと、米内さんが『むろん反対しました』そう答えてからちょっと考えて、『でも、殺されたでしょうね』と言った」(戦後、最晩年の米内光政元首相・海相へのインタビューより)
「わたしはかつて東条の用賀の家(東条がピストル自殺を図り、未遂に終わった)で、東条の娘光枝を取材したことがある。畳の部屋で行李一杯の手紙やはがきを見せられた。日本中から寄せられた一般の国民からの郵便物だった。内容は二つに大別された。『米英撃滅』、『鬼畜米英を倒せ』、『猶予は亡国、即時立て』といった戦争を強く促す内容と、『何をぐずぐずしている』、『弱虫東条』、『いくじなしはヤメロ』といった『ぐずぐずしている』東条批判である。東条が首相になってから開戦までの五〇日あまりに三〇〇〇通以上来たと言うことだ。」(田原総一郎著、『日本の戦争』より)
より直接的には、政治家・官僚・軍人の自分自身や家族の身の安全や社会的名誉、社
会生活上の人間関係全般に危険が及ぶのです。実際に英米との戦争を避けたがっていた
山本五十六の家に民衆デモがやって来て、いろいろと怒鳴りつけ家の中に石まで投げ込
んできたのです。これは家族の社会生活にもかかわる問題です。
また、あまり知られていないことですが、実際には南京陥落祝賀提灯行列は軍が南京
を陥落する前に新聞が「南京陥落」と書きたて、民衆も集団で大々的にそれを祝うとい
う形で軍に向かって「陥落させなかったら承知しないぞ」とプレッシャーをかける結果
になっていたのです。これは、民衆がマスコミに嘘によってけしかけられたという形で
すが、マスコミの方でもあとでその事実と異なる報道が民衆の側から非難され責任を追
求されることがないと分かっており、むしろそれが民衆を喜ばせ自分たちの国民的得点
になると思っているからそういうことをしたのでしょう。だから、軍にとってはマスコ
ミと民衆が結託して自分たちに圧力をかけていることになるのです。実はこうして民衆
とマスコミが世論という形で軍に戦争拡大のプレッシャーをかけるのは日中戦争初期の
特徴だったようです
。
このような当時の大衆・マスコミのあり方を、「軍事行為を海外で推し進め拡大するよ
うに(しばしば暴力的実力行為やデマ報道をもって)軍部を煽り立て脅迫した」と表
現したのです。