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(回答先: 「地域通貨」などについて 投稿者 あっしら 日時 2002 年 10 月 01 日 15:27:06)
あっしら様、レスありがとうございます。
『日本精神分析』は、タイトルからは日本文化論あるいは日本人論のように受け取られるかもしれませんが、資本=国家=民族の“鉄のトライアングル”に対する批判です。
柄谷氏によれば、人間の交換には3つの種類しかなく、それぞれ等価交換(<-事後的に等価とされるに過ぎないが)、分配、互酬(=贈与とお返し)と呼ばれます。
互酬は、家族や村落共同体に典型的に見られるような、限られたメンバー内での相互贈与のことで、その集団内にいる限りは居心地最高!なのですが、一旦排除(村八分)されると地獄です。
また、分配は、古くは暴力を用いて、最近では税金の形で平和的(?)に集団メンバーから収奪した富を再配分することを指します。収奪量を最大化するには、民衆を富ませることも必要ですから、一見、善政が行われることも珍しくありません。
さらに、等価交換では、市場における交換のように、お互いの所有する富を交換するという合意さえ両者間に成立すればよく(そしてその合意の成立が事後的に「“等価”であったから交換が成立した」との幻想を与える)、集団メンバーは匿名性を保ったままでの富の交換が可能です。
等価交換からは資本制が、分配からは国家(柄谷氏はステートと表記することもあり)が、そして互酬からは民族(柄谷氏はネーションと表記)が、それぞれの交換原則の生み出す、人間集団の存在様式の最高形態として、漸次発達していきます。
互酬的集団におけるウェットな息苦しさから、資本制は人々を解放します。しかし、資本制のもとでは一部の者は富みますが多くの人々は貧しくなって行きます。この経済的不平等を、国家による再配分が解決してくれます。しかし、国家による管理はドライで強権的になりがちです。この国家支配による民衆の渇きを、友愛を原理とする互酬的集団が潤わせます・・・。
このように、資本=国家=民族はそれぞれの欠陥を相補することによって永続するかのように思えます。
しかし、資本制による搾取はもちろんのこと、国家や民族についても、その悪い側面が今日的難問の多くの原因となっていることは誰の目にも明らかでしょう。
いかにして、資本=国家=民族の“鉄のトライアングル”を乗り越えるか?
氏によれば、この3つの内のどの1つ(あるいは2つでもいいですが)を揚棄しようとしても、残りのものが復元力として働くため不可能で、この3つを同時に揚棄する他ない、ということです。
さらに、資本=国家=民族を同時に揚棄するための立脚点は、等価交換、分配、互酬に置くことはできません。
そこで、この3つの交換原則(等価交換、分配、互酬)以外の第4の“場所ならざる場所”として、氏は協同(アソシエーション)に立脚します。
そしてこのアソシエーショニズムを具現化するツールが、地域通貨(と代議制による政治権力の集中化・固定化を排除する「くじ引き制度」の導入)・・・ということのようです。
そして、このアソシエーショニズムが広く世に行き渡った社会は、あっしら様のおっしゃる「開かれた地域共同体」と極めて似ているように私には思えます。
しかし、氏も「(地域通貨を核としたアソシエーショニズムは)資本=国家=民族を乗り越える可能性を孕んでいる」などと慎重に言葉を選んでいるように、地域通貨が近代のアポリアを解消する“決定打”とは考えていないようです。また、「(資本=国家=民族の揚棄には)何世紀もかかるかも」とあるように、喫緊の課題との切迫感もないようです。
このあたりは、如何に強靭な思索力の持ち主とは言え、柄谷氏が思想家・評論家であるための限界かな?と思わない訳ではありません。
また、経営者であるあっしら様、そして国家官僚である匿名希望氏のように、実務を通じて日常的に現実と切り結ぶ必要のある立場からの思索との違いかな?と思いもします。
さて、ここであっしら様に質問があります。
あっしら様の説では『「利潤なき経済社会」は論理法則的に「近代経済システム」が行き着く先であり、・・・』とありますが、これは『資本制“だけ”が単独で揚棄される』ことを意味するのでしょうか?
正しいとすれば、柄谷氏の説とは違いがあります。つまり、柄谷氏の説では『資本、国家、民族、この3つの内のどの1つを揚棄しようとしても、残りのものが復元力として働くため不可能で、この3つを同時に揚棄する他ない』わけです。
もちろん、あっしら様も『(「開かれた地域共同体」における)統治機構のあり方』についてもおいおい披瀝されるおつもりのようですので、近代国家(の揚棄の方法、あるいは揚棄された姿)については考察されているものと推察いたします。いずれ開陳されるときを楽しみにしております。
なお、この点については、匿名希望氏は確か「(国家の役割とは)あるべき規制を行うこと」のようにどこかのレスで述べておられたかと記憶しております。国家の完全な消滅は考慮の外のように受け取りました。“国家”官僚ですから、当然ですかね(笑)。
(注:私個人的には、物質的富の分配機能としての国家は揚棄されるかもしれませんが、正当性などの分配機能としての国家は揚棄されないし、する必要もないのではないか?と想像しています。例えば、正義を決定・実行する権利を民衆から請託されて、それを行使する(つまり分配する)司法機能など、近代的法体系の下に国家が担うべきではないでしょうか?(イスラム法国家のように、いまさら宗教的権威に司法機能をも担わせるわけにはいきますまい・・・。))
話を元に戻して、あっしらさまの議論に抜けている(<-あくまで柄谷理論に則ればという意味でですが)のは、ネーション(民族)の揚棄の方法ではないでしょうか?もしお考えがあればコメント頂ければ幸いです。
この点に関しては、匿名希望氏は愛国心や日本民族(国民)の特性に適した国家の在りようついて何回か発言されているように記憶しておりますので、一家言おありではないかと推察いたします。
・・・・・長文になったので今日はこの辺りにしておきます。結局、私は、あっしら様の言う『「利潤なき経済社会」は論理法則的に「近代経済システム」が行き着く先であり、「開かれた地域共同体」は人々が主体的に造り上げてゆくもの』の区別がついていないのだと思います。
なお、上述の柄谷理論については、手元に著作がないため記憶に頼りながらの記述で、なにより私の貧弱な咀嚼力による紹介ですから、正確には直接『日本精神分析』に当たって頂ければと思います。
では、また。