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(回答先: Re: 「地域通貨」などについて 投稿者 まさちゃん 日時 2002 年 10 月 01 日 18:32:41)
まさちゃん、こんばんわ。
>「(資本=国家=民族の揚棄には)何世紀もかかるかも」とあるように、喫緊の課題と
>の切迫感もないようです。
柄谷氏に喫緊の課題との切迫感がないとしたら、「近代経済システム」が「利潤なき経済社会」に陥るという認識がないからだと思います。
いわゆる資本主義は、従来的な価値観や政策が維持されるのであれば、世界同時的に「利潤なき経済社会」に陥り、無い利潤を求める苛烈な競争でとんでもない経済災厄をまき散らすことになります。
まもなく広く認識される「世界同時デフレ不況」は、「大恐慌」のようになんらかの過程を通じて解消できるものではなく、近代価値観を乗り越えない限り解消することができない経済事象です。
>このように、資本=国家=民族はそれぞれの欠陥を相補することによって永続するか
>のように思えます。
先進諸国は、確かに柄谷氏が言われるかたちで「欠陥を相補」して現在まで何とかしのいできました。
というより、赤字財政のツケを貧乏人にまで負わせていることでわかるように、国家が行ってきた“分配”がとんでもない代物であったことが明白になっています。
欧州の高率付加価値税でわかるように、“分配”が収奪に変わった時点で「国家=民族」の相互性は実質的に解体されたと言えます。
赤字財政は、利息を通じて金持ちにより多く分配する行為であったことを認識する必要があると思っています。
>いかにして、資本=国家=民族の“鉄のトライアングル”を乗り越えるか?
>氏によれば、この3つの内のどの1つ(あるいは2つでもいいですが)を揚棄しよう
>としても、残りのものが復元力として働くため不可能で、この3つを同時に揚棄する
>他ない、ということです。
経済決定論を避けようという柄谷氏の構えかなと思われますが、経済価値観や経済システムを変えていくことで、資本=国家=民族の“鉄のトライアングル”を乗り越えることができると考えています。
現実としての資本−国家−民族の“一体性”や“相互規定性”を認めていますが、論理的な把握としての経済=土台・政治=上部構造というマルクスの認識は妥当なものです。
>さらに、資本=国家=民族を同時に揚棄するための立脚点は、等価交換、分配、互酬
>に置くことはできません。
>そこで、この3つの交換原則(等価交換、分配、互酬)以外の第4の“場所ならざる
>場所”として、氏は協同(アソシエーション)に立脚します。
“片隅”もしくは“部分”としての協同(アソシエーション)を否定するものではありませんが、経済システム全体(資本=国家=民族)を揚棄する立脚点は、多数派の価値観変容を通じた国家権力の変質しかないと考えています。
協同(アソシエーション)活動を通じて多数派の価値観が変わっていくというストリーは認めます。
>そしてこのアソシエーショニズムを具現化するツールが、地域通貨(と代議制による
>政治権力の集中化・固定化を排除する「くじ引き制度」の導入)・・・ということのよ
>うです。
統治形態はまさちゃんが記憶されているようにおいおい自説を書きたいと思っていますが、「開かれた地域共同体」は、経済が主要なテーマとならないのと同じように、政治も現在に比べればずっと低い役割になると考えています。
>話を元に戻して、あっしらさまの議論に抜けている(<-あくまで柄谷理論に則ればと
>いう意味でですが)のは、ネーション(民族)の揚棄の方法ではないでしょうか?
>もしお考えがあればコメント頂ければ幸いです。
近代国民国家は、内在的必要性から生まれたものではなく、経済利益追求や防衛を基礎とした対外的規定性から形成されていったと考えています。
この意味で、近代資本と近代国家は一体不可分のものです。
(資本が国家を求めるという経過もあれば、国家が資本を求める経過もあるというのが近代だと見ています)
“純正な利潤”は国際交易や対外収奪を通じてしか得られないものですから、そのような活動を支え拡大していくためには強力な国家が必要です。
そして、強力な国家を維持するためには、共同体的帰属意識と近代価値観を持った近代的国民(民族)が必要です。
近代価値観をまず乗り越え、その新しい価値観に基づく国家を築き、経済システムを変えていくという流れになると考えています。
そして、新しい経済システムが根付くことで、近代価値観がそうであったように、新しい価値観が“常識”となり、近代的民族(国民)意識も崩れていくと思っています。