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(回答先: 希望はあるか? 投稿者 / 日時 2002 年 9 月 30 日 10:20:27)
/ユーさん、こんばんわ。
>マルクス主義は”経済的決定論”で自由意思の存在すら認めないわけで、選択の余地
>がないところでは原理的に”平等”は問題にならないと思います。(エラ呼吸が出来
>ないから不平等だと思う人間はいない)
マルクス主義が“経済的決定論”であることは認めますが、それが諸個人の関係性とある関係性に基づく活動力と考えているのですから、「自由意思の存在すら認めない」とは言えないと思われます。
言わんとされることはそれなりにわかるつもりですが、一般的に受容されている哲学や思想概念に拠れば、選択の余地がないところでは原理的に“自由”は問題にならないとは言えても、原理的に“平等”は問題にならないとは言い難いと考えます。
>マルクス主義国家では、むしろ統治に汲々としていたのではないかと思います。政治
>化した社会ではほっておけば、かっての全学連のウチゲバのような状態に陥るわけで
>すから。
戦時体制であったことから統治問題で汲々としていたとは思いますが、現実に国家を統治する立場になれば、かっての全学連の内ゲバのような状態に陥るわけにはいかないものだと考えています。
(新左翼の急進化や内ゲバは、リアルな統治の枠外の政治活動であったがゆえの現象だと考えています。中国の文化大革命は、最高権力者である毛沢東自身が仕掛けた大衆動員によるクーデタだと見ています。それでも周恩来という統治実力者を排除しなかったという賢明なものです。タオ小平も復活させましたしね)
資本−国民−国家という構造で国家が経済的利益に大きく関わるようになった近代においては、経済的利益の実現(拡大)がうまくいかなくなれば、政治化した状態になるというのが歴史から見える現実だと考えています。
もちろん、より理念的な共産主義国家のほうがより政治化しやすい体質であると思っています。