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『諸君!』1990年1月号
ベトナム集団焼身自殺事件
証言テープはこうして作られた
殿岡昭郎 金沢工業大学客員研究員
……
テープはカントーの事件のあったお寺の信者が録音したものである。仏教の信者の勤行がしばらく続いたあと、リーダー格と思われる男性、テイク・フエ・ピエン師の声が入っている。「南無抄本節釈迦牟尼仏。いま時は旧暦猫の年。(一九七五年、ベトナムの十二支は兎の代わりに猫を用いる)九月二十八日と二十九日の境。今日、私たちこの禅院の僧侶と尼僧は仏陀の教えを守るために自ら進んで焼身自殺をする決心をしました。ベトナムのみならず、世界中の仏教徒と僧侶・尼僧の名誉と仏教の信仰を守るために焼身自殺を決心しました。
弟子のみなさん。私たち僧尼の本分は、他人に罪やとがを負わせるのではなく、自分の義務と行いをふり返り反省することです。私たちは今日みなさんに永遠の別れに臨んで心からの挨拶をいたします」
ここにでてくる旧暦一九七五年九月二十八日は、陽暦では一九七五年十一月二日にあたるとテープには録音されている。
また、このテープの声は、仏教を弾圧する共産政権に抗議し、当時の南ベトナム共和国臨時革命政府と南ベトナム解放戦線に対して、宗教の自由を呼び掛けている。
「僧尼と愛する同胞、弟子等に対して、偉大なホー主席の遺言である『北と南はひとつ』という言葉を実行するように心から呼び掛けます。もし誰かがその精神を破るならば、彼らは偉大なホー・チ・ミンお爺さんの遺書を裏切ることになるのです。
諸仏の六つの光輪を象徴した世界仏教の旗を永遠不滅にするため、そして独立・自由・平和を永遠不滅にするため、私たち、薬師禅院の僧尼はこれから焼身自殺をいたします」
焼身自殺か無理心中か
このあと声は、テイク・フエ・ピエン師はじめ焼身自殺を果たした十二人の名前を読み上げる。そして再び、「恥の中に生きながらえるよりも、真実と名誉のために死ぬ方が喜ばしい。理想を守るため、良心を守るため、そして真理を守るため私たちは死に就きます。薬師禅院代表テイク・フエ・ピエン。南無抄本師釈迦牟尼仏」
そのあと、テープには再び勤行の音声が響く。この勤行のあと、十二人の僧と尼が抗議の焼身自殺を図ったというのである。
この事件について、本多記者はティエン・ハオ師の談話を引用してこのように書いているのである。
「カントーの郊外フンヒェプの薬師禅院というお寺が火箏になり、尼さん十人と坊さん二人が焼け死んだ。
このピエンは、解放前にバクリュウ省のホンヴァン郡にいた僧で旧サイゴン政権のスパイ活動をしていた。地元の革命政権がこれを怪しんで警告したところ、ピエンはカントーに逃げて来た。ここで合法的な仕事をすることにし、銭と灸を勉強する一方、ヤシ葉で屋根を葺いた簡単なお寺も建てた。二年前の全土解放後もそのままこの寺にいたが、思想的に堕落・退廃していたため、寺の中で多くの尼さんと関係を持つようになり、寺にいた十人の尼さんのほか、近くの修道院の尼さんたちもあわせると、合計二十六人を妻にしていた。寺の中で男の僧侶は彼の弟一人であった。このため大衆の支持を次第に失い、お布施がなくなって米も買えず、お粥を食ぺなけれぱならなくなっていた。
問題の日、ピエンら十二人は夜七時ごろから宴会を始めた。宴会は午前零時ごろまでつづき、その問麻薬と睡眠薬が使われたらしい。午前一時ごろ火事になった。近所の人が消火に集まったがすでにおそく、それにドアには鍵がかけられていた。ピエン以外の十一人は、絶望的になった彼の自殺の巻添えをくったものと見られる。
『この事件は解放のあとで外国に逃げた一部の反動的な僧侶たちによって絶好の利用価殖がありました。特にパリに多い反動分子たちは革命に恨みを抱いていますから、このような単なる色事師の無理心中事件を“集団焼身自殺事件”にでっちあげて声明を発表したのでしょう』
ティエン・ハオ師は以上のように語った。(「ベトナムはどうなっているのか?』)