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(回答先: 『出版の自由』ジョージ・オーウェル から 投稿者 ウォッチャー 日時 2002 年 6 月 01 日 23:38:00)
誤解のないように言っておくと、日本でメディアが本当のことを書かないのは、
『出版者や編集者がある種の問題を活字にすまい とすることがあるなら、それは告訴されるのがこわいせいではなく、一般世論、がこわいからなのである』
からではない。多くは経済的思考のためである。それはつきつめてみれば、自己保身だが。
日本の場合、今のところまだ市民の多くは真実を知りたいと考えていると思われる。それがないと世の中はよくはならない、という正しい認識があるからだ。
自己保身が悪いとは僕は言わない。しかし、それと天秤にかけて、「どうしても書く」というべきものが世の中にはあるはずだ。
それができないのであれば、ほかの職業を選ぶべきだと思う。少なくとも、そんな人間がジャーナリストをやっていられるほど、今の状況はよくないのだ。
『原発事故はなぜくりかえすのか』 高木仁三郎著 から
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公益性と普遍性
パブリック・インタレストという言葉があります。公益です。公益とは何なのかが企業や組織の枠を離れていつも個人に問われるのが、技術というものではないでしょうか。それが科学や技術が持っている本来的な普遍性ではないかと私は思います。
客観性というものを数字や実証性によって組み立てることができるからこそ、科学や技術というものが成立するのであり、科学者や技術者はその客観性ということにもっとこだわらなくてはいけない。そのことを公共性と言いかえてもよいでしょう。そういう客観性や公共性の視点から、会社のプロジェクトがどうのとかいうことと関係なく、自分で問題点を考えて組み立ててみて、問題意識をつねに持ちつづける。会社の中で生きていこうとすれば、私企業の利益と公共性との間にどのようにして折り合いをつけるのか、いつも緊張感のある努力をしていく必要があります。
実際そのようにやってきて、挫折してしまって会社を離れた人もいますし、四〇年間そういうことをやってきて定年になったあとで、やっとこの緊張感から救われてほっとしたという人もいます。けれども、そのような意識が、今はなくなってしまっているのではたいでしょうか。
そもそも日本人は、もともと西洋の科学技術を受け入れたときに、そういう意織が希薄だったように思います。科学技術の客観性ということの中に、最初から自己が抜け落ちてしまって、自己抜きの何か非常に冷たい客観性みたいたものが、あたかも公共性、公益性というように考えられ、それがそのまま企業のプロジェクトに結びついて、与えられた仕事を忠実にやっていればいいというような没個性的な人間をつくってきました。企業の側も積極的にそのように人間を教育してきました。企業にはそういう側面がありました。
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