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平和な日本の言論における状況は、以下のジョージ・オーウェルが嘆息した戦時中の英国より悪いと言っていい。しかも、今度はついに日本では政府が「個人情報保護法」や「プロバイダー責任法」などで完全に言論の統制に出始めた。それはメディア界が標的というよりも(総じてメディア界は上に書いたように、戦時中の英国よりひどい状態にある)、市民がインターネットなどにより自ら「本当のこと」を探索し始めた状況が訪れたからにほかならない。
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『出版の自由』ジョージ・オーウェル から
(前略)言うまでもなく、一官庁が政府刊行物以外の本にたいしてなんらかの検閲の圧カをくわえるのは(ただし戦時中の機密漏洩は別で、これに反対するのものはいない)、感心しない。だが現在、思想と言論の自由にたいする最大の敵は、情報省のような政府機関による直接の干渉ではない。出版者や編集者がある種の問題を活字にすまいとすることがあるなら、それは告訴されるのがこわいせいではなく、一般世論、がこわいからなのである。この国の作家やジャーナリストが対決を迫られる最大の敵は、知識人の臆病心なのだ。だが、この当然論じられてしかるべき事実が、いままでのところ論じられていないのではないか。
ジャーナリズムの関係者で、公正な知性の持主なら、こんどの戦争中に「政府筋」検閲がそれほどうるさくなかったことは、誰もが認めるだろう。全体主義的「協力」を求められてもやむをえなかったのかもしれないのに、そういう目には会わずにすんでいる。出版界では多少はやむをえない被害もあるにせよ、だいたいにおいて政府の施策はりっぱで、少数意見にたいしてもおどろくほど寛容だった。英国における文章の検閲で不気昧なのは、それがたいてい自発的に行なわれるという事実である。政府による禁止令がなくても、世間で評判のわるい思想は沈黙を余儀なくされ、都合のわるい事実はかくしてしまうということが起こりうるのだ。外国で長く暮らしたことのある人なら、それ自体の重要性からいっても大見出しで扱われていいはずのセンセーショナルなニュースが、英国の新聞雑誌ではまったく扱われないことがあるのを知っているはずである。しかも、政府が干渉したからではなく、こういう事実に触れるのは「まずい」という暗黙の了解によって葬られてしまうのだ。それも、日刊新聞のばあいならよくわかる。英国の新聞は極端に少数の人間に握られていて、その社主は、大部分が、ある種の重要問題についてはどうしても正確な事実をつたえるわけにはいかない金持ちだからである。だが、この種の仮面をかぶった検閲は、演劇、映画、放送といった分野ばかりか単行本や雑誌の世界でも、まかりとおっている。
いつでもその時期の正統思想、つまり正しい考えかたをする人間なら当然すんなり受け入れるはずだということになっている思想が存在する。具体的にあれを言うなこれを言うなと禁止されるわけではないけれども、ちょうどヴィクトリア朝時代にレディの前でズボンという言葉を口にするのは「いけないこと」になっていたように、それを口に出すのは「いけないこと」なのである。世間の常識となっているこの正統思想に反抗したものは、あざやかに口を封じられてしまう。そのときの流行でない意見は、大衆誌でも高級誌でもまずまともに取り上げてはもらえないのである。
(中略)
だが、この辺で、また話をわたしの本にもどそう。これにたいする大部分の英国知識人の反応はごく単純で、「出版すべきではなかった」ということになろう。むろん人の名誉を傷つける術に通じている書評家たちは、政治的理由などは持ち出さず、文学的な理屈を並べて攻撃してくるだろう。退屈な馬鹿らしい作品で、恥ずべき紙の浪費だとでも言うにちがいない。たしかに当たっているのかもしれないが、それだけでは話が片づかないことも明らかである。くだらない本だというだけでは、「出版すべきではなかった」という理由にはならない。紙屑のような本なら毎日いくらも印刷されているのに、現に誰も文句など言わないではないか。英国の知識人、あるいはその大多数のものは、この本が彼らの崇める指導者を裏切るものだから、そして(彼らの見方では)進歩という大義名分に反するものだから、非難するのである。もしこれが逆だったら、たとえ文学的欠陥がこの十倍もはっきりしていても、何一つ文句は言わないにちがいない。たとえば「レフト・ブック・クラブ」が四、五年にわたって成功を収めたのを見ても、彼らの気に入るようなことが書いてさえあれば、どんなに下品でしまりのない文章のものでも文句が出ないことは、明白なのだ。
問題の核心はきわめて簡単なのである。つまり、いかに世間で評判の悪いものでも━それどころか、いかに愚劣なものでも━あらゆる意見に耳を貸さなければいけないものか、ということだ。こういう形で質問すれば、英国の知織人ならほとんどすべての者が「イエス」と答えなくてはなるまいと思うだろう。ところが具体的な問題にからめて、「スターリン攻撃ならどうか?やはり耳を貸してやらなくてはならないか?」と訊いてみると、答えはまず「ノー」になるだろう。このばあいは現在の正統思想への挑戦になるわけで、だから言論の自由の原理も通用しなくなるのである。だが、言論や出版の自由を要求すると言っても、絶対の自由を要求しているわけではない。組織化された社会が存続するかぎりは、ある程度の検閲はつねになければならないし、いずれにしてもなくなりはしまい。だが自由とは、ローザ・ルクセンブルグの言うように「他の同志のための自由」なのである。ヴォルテールの「わたしはきみの言うことが嫌いだ。だが、きみがそれを言う権利は死を賭しても守る」という有名な言葉にも、同じ原理がふくまれている。疑いもなく西欧文明のすぐれた特徴の一つであった知性の自由に、なんらかの意味があるとすれば、それは社会の他の人間にあきらかに危害を加えるものでないかぎり、みずから真実だと信ずることを言い、印刷できる権利が、万人に与えられなければならないという意味である。最近までは、資本主義デモクラシーも西欧社会主義も、これを当然のこととしていた。すでに指摘したとおり、英国政府は今でも多少はそれを尊重する姿勢を見せている。庶民たちは━一つには不寛容になるほど思想そのものに関心がないせいかもしれないが今でも何となく「誰にでも自分の意見を言う権利はある」と考えている。行動の面ばかりか理論の上でもこれを軽視しはじめているのは、まさに自由の守護者でなければならない文学、科学などにかかわる知識人たちだけ、とまでは言わないとしても、とにかく主にこういう人たちなのだ。
現代に独特の一つの現象は、変節した自由主義者である。今では、「ブルジョワ的自由」は幻想だというマルクシストの聞きなれた主張を圧倒するほどの勢いで、民主主義を守るには全体主義的な方法を用いるしかない、という主張が横行している。民主主義を愛する者は、いかなる手段を用いてでもその敵を粉砕しなくてはならない、ということになるのだ。ではその敵とは誰か。きまって民主主義を公然と意識的に攻撃する人びとだけでなく、誤った教条を広めることにより「客観的に」民主主義の危険を招くものをふくむ、ということになるらしい。言いかえれば、民主主義を守るためには思想の自立性をいっさい破壊してもかまわないということになる。例えばソヴィエトでの粛清を正当化するためにも、この論法が用いられた。いかに熱烈な親ソ派でも、このときの犠牲者全員が、まさか告発されたすべての罪を犯したと信じてはいまい。だがこの犠牲者たちは異端の思想を抱いた結果、体制に「客側的に」危害をおよぼしたのだから、虐殺しようと、でたらめの罪状をなすりつけようと、それで正しいというのである。スペイン内戦でのトロツキストと人民戦線側の少数党派について左翼の新聞雑誌が書きたてた嘘を正当化するのにも、これと同じ論法が用いられた。一九四三年にモズリーが釈放されたとき、人身保護令状に反対してキャンキャン喚きたてた連中の理屈もやはり同じだったのである。
[訳者注] サー・オズワルド・モズリー(一八九六〜一九八○)
英国の准男爵で国会議員。ヒットラー、ムッソリー二の崇拝者と
なって「英国ファシスト連盟」を組織。英国の黒シャツ隊長とし
て有名になった。
こういう連中には、全体主義的なやりかたを奨励したりすれば、やがてそれが自分たたちに有利な形でなく、逆に危険な形で使われる時が来るかもしれないということがわからないのだ。ファシストを裁判ぬきで投獄するような習慣をつくってしまえば、このやりかたはファシストだけにとどまらなくなる可能性もあるではないか。
(後略)