● 第二次世界大戦後の世界
ようやく現代と同じ通貨制度を基盤にした経済システムを説明する段階に達した。
第一次世界大戦と第二次世界大戦の戦間期(正しくは休戦期間で第一次世界大戦から第二次世界大戦はつながった戦争)に国内通貨は「紙切れ通貨」に変わったが、あくまでの過渡的な混乱期であり、定着した戦後世界を対象にする。
[戦後世界の前提的説明]
★ 異質な2つの管理通貨制度
これまでも説明してきたように、近代世界の覇権を引き継いできた英国と米国は、中央銀行機能が民間銀行によって担われている。その他の国々は、戦後国有化したフランスも含め、基本的に国有の中央銀行である。
この中央銀行の性格の違いは、当然のように、金融政策の違いとなって現れる。
中央銀行が民間銀行、しかもこれまで説明してきた「ネットワーク金融家」銀行であれば、これまで説明してきた論理(拝金的価値観)で金融政策を追求する。
中央銀行が国有銀行であれば、国際経済関係を別にすれば、自国の経済発展を重視した金融政策を決定しやすい。
★ 戦後国際経済システム
「ブレトンウッズ体制」と呼ばれる戦後国際通貨システムは、1971年の“ニクソンショック”=ドル兌換停止と「変動相場制」への移行という重大な制度変更はあったが、米ドルが基軸通貨であり続けていることから、現在なおそれへの“信仰”に支えられた国際通貨システムが続いていると言えるだろう。
[戦後世界の出発点]
戦後世界は、第二次世界大戦の連合国勝利にソ連と並んで貢献したアメリカ合衆国が、“公的保有”金の過半量を保有し、GDPベースでも50%を超えるという状況を出発点とした。
米国は、広島・長崎の市民を標的として原爆を投下し、軍事的にも他を圧倒する力を誇示した。
戦後世界の国際経済政策は、民間銀行が中央銀行を所有している米国と英国が主導権を握って決定された。これは、すなわち、国際金融家が、このような現実を前提として、お金を稼ぐ方策を検討した結果が国際経済政策になるということである。
戦後世界の出発点にいる国際金融家になったつもりで、自分ならどうするか考えてみて欲しい。
ドイツに対しては、「ドイツは危険だから産業を破壊し農業国家にする」というモーゲンソーのプランもあった。(ドイツの東西分割はこの意図の一つの実現方法)
原爆を保有しているのだから、ドイツ人や日本人は皆殺しにしてしまえと“冗談”を言った人もいたかもしれない。
「ドイツや日本の植民地化」というアイデアも出されたかも知れない。
両国とも近代的な意味での資源大国ではなく近代産業国家である。(だからこそ、ドイツや日本は戦争を仕掛けたとも言える)
戦争総動員体制や空爆で産業基盤が破壊され、経済総体が疲弊している日本やドイツを植民地化するという政策は、コストがかかるだけであり、抵抗運動を抑え込むのも並大抵ではなく割が合わない。
(これが、国際金融家と大土地所有者と自営農民のために領域拡大にいそしんだローマ帝国の違いである)
国際金融家は、日本やドイツに対しては、徹底的な「思想改造」を加えることで危険性の芽を摘むとともに、万が一に備えて独立後も軍隊駐留を継続するという政治的政策を決定した。
それと同時に、日本やドイツを「世界の工場」として繁栄させる決定を行った。もちろん、繁栄させる目的は、国際金融家がより多くの利益を上げるためである。
国際金融家は、戦後日本もお世話になったように、米国民の税金を使って戦争で疲弊した諸国民に対する無償の経済的援助も行った。
それと同時に、産業復興がスムーズに進むための条件として“農地解放”やシャウプ勧告に代表されるような社会主義的統治の枠組みをつくり、産業復興のための貸し付けも厖大に行った。
(ちなみにIMFも世界銀行もBISも国際金融家のものである)
第一次世界大戦の“休戦条約”でドイツに過大な賠償金を負担させて第二次世界大戦を誘発するという政策とは違って、賠償金も穏和的なものにした。
日本人もドイツ人も、米国の暖かい施策を大歓迎した。
(マッチポンプのきらいは強いが、戦争を仕掛けたのはどう言っても日本だし、あの状況ではありがたかったことは確かである)
ソ連圏は、国際金融家の意志がスターリン政権には働かなかったのか、そこまで面倒を見る余裕がなかったのか、それとも、なんらかの合意があったのかはわからないが、軍事的な押さえ込みは行ったが経済的繁栄の対象とはならなかった。
中国は、蒋介石政権をあきらめ共産党政権に大陸支配を認め、その代わりに蒋介石グループを旧日本領の台湾に移動させた。
旧日本領の朝鮮半島も、南北分断を計って「朝鮮内戦」を誘発し、南北分断を固定化した。
米ソ冷戦・中台問題・朝鮮半島問題・北方領土問題などは、経済的発展を遂げさせることにした日本やドイツが、それらの国々に目を向け、経済関係を強化してしまうことで“自立する”のを防止するためである。
国際金融家にとっては、政治体制が独裁であるか民主であるかは敵味方の識別に関係なく、自分たちの経済的利益がきちんと追求できるかどうかだけが問題である。
それは、米国が、アジア(韓国やフィリピン)や中南米で独裁政権を支持してきたのみならず、チリのように民主政権を倒してまで独裁政権を樹立させたことでわかるはずだ。
[戦後の英国]
大英帝国として近代世界を動かしてきた英国は、戦争で疲弊し、植民地の独立運動も起こるなかで、主要産業を“国有化”する政策まで採った。
国有化は有償で行われたものであり、収益力が劣化していく英国産業資本を抱えている国際金融家を国家が税金で救済したものである。
国際金融家の活動拠点はロンドンからニューヨークに移り、英国は、そこそこの産業と資産家の資産をベースに英国民自身で維持されることになった。
この結果引き起こされた経済的沈滞がいわゆる“英国病”だが、食糧自給率100%を目指す農業政策や北海油田の開発が英国経済の基礎を支えた。ビートルズに代表される音楽文化を世界に輸出することでも外貨を稼いだ。
戦後の英国は、国際金融家に負担を強いることなく、英国民がそこそこ生活できる経済構造へと再構築されたのである。
“陽が沈まぬ大英帝国”と言われた英国も、1960年頃にはほとんどの植民地を手放すことになった。もちろん、国際金融家は、政治的にも経済的にも支配が継続できる手だてを構じた、かたちだけの権力移譲を行った。
フランスがベトナム(インドシナ)やアルジェリアの独立に軍事力で対抗したのとは好対照である。(エジプトのスエズ運河国有化宣言問題では、英国もフランスと共同軍事作戦を行った)
英国民は、あれだけの広さを誇った植民地から得られる利益が失われてしまうことを納得する一方で、国際金融家が継続的な経済支配を実現するためのコストは旧宗主国としてやむを得ないものだと考え負担している。
フランスは、恥知らずの愚挙だとはいえ、植民地に移住した自国民のために軍事力で対抗した。
繁栄の象徴であった英国ポンドも、相対的な経済的停滞のなかで、通貨危機に何度も見舞われ、数度の切り下げを行った。(日本円との関係で言えば、1ポンド=1,300円から1ポンド=130円までと10分の1まで価値を下げた。現在は180円程度)
この通貨価値の下落は、英国民にとっては苦境の要因ではあったが、北海油田の存在が苦境を和らげた。国際金融家は、ポンドがそうなることは織り込み済みだし、資産をそうなるポンドには依拠していないので痛くも痒くもない。それどころか、通貨危機のなかで為替取引を大々的に展開してボロ儲けした。
英国は、80年代に、いわゆる“サッチャリズム”による「改革」を行い、それほど豊ではない多くの英国民に負担を強いる国家に変わっていった。サッチャー首相の改革で救済されたのは、ロンドンを拠点した国際金融活動家とそのおこぼれに預かれるサービス業くらいである。
(英国のある人たちがフーリガンになる素地は、戦後のこのような変化にあるとも言える)
[戦後の米国]
戦後世界は、まさに米国の世界であったし、今なお米国の世界である。
ソ連を含む連合国への武器供給国であると同時に、自国も強力で巨大な軍事機構を構築しながら戦った米国は、社会主義的な統制経済を採っていたとはいえ、本土が攻撃の危機にさらされることもなかったので軍需以外の産業も発展を遂げていた。
戦争が終結した米国は、産業も農業も一気に過剰生産状態に陥った。
戦争参加諸国は、軍備拡張にいつまでもいそしむわけにはいかないし、疲弊した農業を立ち直らせ、民需向けの産業を復興させる政策を採らざるを得ないからである。
米国内でも、資産家や高額所得者にもある程度負担を強いる財政政策を採ってきたが、生産活動を維持するためという名目で、そのような政策を戦後もずっと続けるわけにはいかない。
(もちろん、続けられるのだが、そのような政策は、国際金融家など実質的に政権を支える人たちの意に背くものである。ある程度の負担をした資産家や高額所得者は、産業が活況を呈した戦争期も負担以上の利益をちゃんと得てきたのだが)
米国政権は、余剰農産物や加工食品を日本など戦争で疲弊し食糧事情が悪化している国への援助として活用し、民需品生産者は平和の配当に期待し、原材料や機械装置など中間財を生産する者たちは戦後復興をめざす諸外国に目を向けた。
このような世界状況で接着剤の役割を果たしたのが国際金融家である。
[戦後の日本]
認識不足で行きがかりでもあった米英との戦争も辞さないほど産業力を高めた日本は、原材料さえ手に入れれば産業を再生していくことができる条件にあった。
しかし、米国や国際商人からそれらを購入する資金はない。公的金保有も底をつき、通貨の円はボロボロで国外では誰も受け取ってくれないので、国際金融家から融資を受けるしかない。それを国家保証で実現し、重要で基礎的な産業から再生を図っていった。
近代工業の基本技術は既に蓄積しているから、借り入れであっても資金が調達でき、米国などに輸出できる条件があれば、産業が復興していく条件にあった。
対米ドルレートも、360円という数学的でかつ輸出優位(但し債務返済では不利)の条件が設定された。
戦後日本は、戦前と同じような軽工業品を中心に対米輸出の拡大を計りつつ、産業基盤を再生していった。(輸出を拡大していかなければ、新規の融資も受けられないし、返済もできない)
「朝鮮内戦」勃発による特需で離陸の基礎をつくった日本は、外国資本の直接投資を規制する“保護政策”のなかで、米国の産業レベルに追いつくことを目指した。
(低所得水準であった戦後日本は、米国の高価な家電製品や自動車を普通の人が買える状況にはなかったので、製品輸入は抑制された)
米国に追いつくとは、米国の生産システム(機械設備だけではなくQCなどのノウハウも)を購入し、1ドル=360円でさえ米国に太刀打ち(製造)できない先端工業製品の国際競争力をつけることを意味する。
繊維製品(とりわけ化学繊維)でまずそれを実現し、鉄鋼製品そして家電製品・自動車と次々と米国に追いつき、さらには米国を追い越していった。これは、世界最大の需要規模を誇る米国への輸出拡大の過程であり、日本の輸出拡大は、それに相当する米国の産業に痛手を与えていった。
自動車で米国にキャッチアップしたことで、米国が競争力を誇る分野は、軍需品・航空機・コンピュータ(どちらも軍需がベース)に限られるようになった。
1955年(昭和30年)から始まり1970年(昭和45年)で終わったと見られている「高度成長期」は、このように、国際金融資本家から米ドルを借り入れ、それで原材料や機械設備(生産システム)を購入し、それで生産した製品を米国を中心に輸出し、それで手に入れた米ドルで借り入れ金を利子付きで返済するというサイクルで進んだのである。
このような構造から、戦後日本の景気変動は、根本的には保有米ドル額に規定されるものとなった。だからこそ、今のように、誰でも円を外貨に替えて海外旅行に行けるというものではなかったし、輸入企業も、円をどんなに保有しているからといっても、それでドルが手に入るわけではなかった。
生産したら米国に輸出できるとわかっていても、原材料が輸入できなければ実現できない。そして、輸出が拡大できなければ、日本の需要も増大しないという流れである。
経済システムとしてみたときの戦後日本は、円通貨体制というより、ドル+円通貨体制(ドルに規定された円通貨体制)だったのである。
この意味で、戦後日本の金融政策は自立したものではなかった。
日本銀行は、ドルに手を縛られたかたちで金融政策を決定せざるを得なかったのである。
このような構造が、戦後日本の経済構造に様々な影響を与えた。
高度成長期の日本は、完全雇用とも言える低失業率状態にあった。中学を卒業した農村の少年が都会で引く手あまたになり、季節には就職専用列車が運行された。
これは、本来賃金上昇圧力の要因となるのだが、輸出競争力を高めるためには賃金を抑えていかなければならない。(TVの米国ドラマなどを見て、今我慢すれば将来はああいう生活ができると夢見て耐えた)
国際金融家の意向を受けたエネルギー政策の転換で進められた炭鉱業取りつぶしが続くなかでその反対運動の象徴となった三井三池炭鉱の大争議で労働者側が敗北し、以降の労働運動は労資協調路線に大きく傾いた。(石炭液化技術も今もって顧みられることなく、危険極まりない原発増設路線をひた走り、つい最近、北海道にあった最後の炭鉱も閉山した)
日本の生産性が上昇していった要因としては、賃金の抑制とともに労働力需給の逼迫を上げることができる。猫の手も借りたいほどの労働力不足が、生産効率をアップする生産システム構築へと駆り立てる大きな要因となったのである。
しかし、日本企業は、賃金を上げる余力がなかったわけではなかった。
それは、地価の上昇と株価の上昇を顧みればわかることである。
国際商品はドルがなければ買えないが、国内にある商品は買える。そして、その対象となったのが、資産価値もある土地であり株式だったのである。
端的には、企業は、ドルに転換できない余剰の円を、労働者に還元するのではなく、土地や株式への投資に回したのである。
土地は、労働者も厖大な借り入れをしながら購入したが、土地自体が利益を生むわけではない。土地は、農畜産を営んだり、工場を操業したり、商店・事務所・貸家に活用することで収益をもたらすものである。家族の住まいとして購入する土地は、なんら収益をもたらさないものである。
このようなものでありながら、土地が一貫としてインフレ率以上に値上がりしていたのは、将来も上がり続けるという信仰があったからである。まさに、高度成長期からバブル崩壊までの日本は、“土地本位制”という様相を呈していた。
たんなる住まいとして購入する労働者までが、今買っておいたほうが得だとか、なかには将来値上がり益が得られるからと、厖大な借り入れをしてまで土地を買ったのである。
確かに、上がり続けた期間が長かったので、今買ったほうが得であったとも言えるが、バブル崩壊でそれも間違いであることが告げられた。
将来も上がり続けるからという理由で自宅を買った人は愚かである。特殊な場所を除けば、上がるのは自分の土地だけではなく、すべての土地が上がるのである。買ったときよりはインフレ率を考慮しても得な価格で売れるかもしれないが、ほぼ同じ条件の別の土地を購入するとしたら、銀行・不動産会社・国家などに持って行かれた分がまるまる損なのである。
土地が労働者の所得に見合う価格以上に高騰したのは、余剰資金(円)を保有する企業が土地に投資したからである。余剰資金を労働者の給与に回していれば、その上昇に見合う程度しか地価は上昇しなかったであろう。
株価の高騰も地価に類似したものだが、かつては今以上に個人で株式を保有している比率が低かった。基本的には、企業同士が売買を繰り返すことで株価を高騰させてきたのである。
このような高度成長期以来の土地と株式に対する信仰が、今なお日本経済を苦境に引きずり込んでいるのである。
農業政策についても、農家に強い支持基盤を持つ自民党は、主食である米を戦時体制をそのまま引き継ぐかたちで高度成長期を終わってもなお国家管理商品とし続けた。
これは、生産者米価と消費者米価の逆さやというかたちでの農家保護政策であった。
産業のように生産性を上げることができない農家を“高度成長”から取り残さないという意味で優れて社会主義的な政策であり、目的はそれなりに評価できるものである。
しかし、これも農家保護政策という見掛けとは違って、実際の効果は産業保護政策なのである。
生産者米価よりも消費者米価のほうが安いという“価格異常”を税金で解決したことで、産業界は賃金上昇圧力を緩和することができる。
そして、保護政策で所得を増大させた農家は、借り入れをしてまで農機具・肥料・農薬など(工業製品)を購入し続けた。
利益を拡大していく産業界の賃金を上昇させ、上昇した賃金に見合うかたちで米価が上がっていくというシステムを築くべきだったと考えている。
このような農業政策は、結局、厖大な累積赤字を国家にもたらし破綻した。
そして、農産物輸入自由化対策を名目とした直接的な補助金政策に変更した。
食糧自給率が40%の国家が、国費を使って“減反政策”を継続しているのは愚かとしか言いようがない。
[米ドルの兌換停止と世界経済]
戦後の国際通貨体制は、唯一の兌換通貨である米ドルを国際取引の基軸通貨として位置づけるものだった。
個人が保有しているドルに対しての兌換はないが、中央銀行が保有しているドルは兌換することができた。
戦後の国際取引は、このような意味で「金本位制」で行われていたとも言える。
ところが、1971年に米国のニクソン大統領は、突然、米ドルの兌換停止を宣言した。この宣言により、世界の経済システムが「紙切れ通貨」で動くようになった。
では、なぜ、それまでは「金本位制」が続き、それ以降は「金本位制」でなくても世界経済が動いてきたのかという疑問が出てくる。
再び国際金融家の視点に戻って欲しい。
米ドルを支配しているのも彼らである。《その3》までで書いてきたように、国際金融家は自分たち以外に金が流出することを極端に嫌う。
端的に言えば、そのような恐れが少ないあいだは「金本位制」を採り続け、そのような恐れが強まったときに「金本位制」を突然放棄したのである。
日本やドイツが経済成長を続け輸出を拡大していると言っても、対外債務を背負いながらのものである。そうであれば、それらが保有している米ドルが兌換されることはない。
日本やドイツが、貿易黒字を定着させるとともに対外債務を返済し、対外債権国になろうかという時点で、「金本位制」を突然放棄したのである。
有名な話だが、フランスだけが、せっせと米ドルを金に換えた。
ニクソン大統領は、日本円などに対して米ドルを切り下げ、しばらくすると「変動相場制」に移行する政策を採った。
このようなドラスティックな政策が実行されたが、日本もドイツも国際競争力を失うどころかさらに強めていった。
対米ドルレートが80円ほどになっても、輸出が可能だったのである。
それは、より大きな利益を上げるために生産効率を追求し続けた成果でもあったが、所得を増やした消費者が増え競争も少ない国内市場では製品を高く売り、競争が激しい輸出では製品を安く売るという企業の行動を続けてきたからである。
これが、円高を促進するとともに、今なおも持たれている日本は物価が高くて当然という歪んだ価値観を育んできたのである。
そして、バブル崩壊後の不況過程で販売不振に陥ったことで徐々に国内価格も下げざるを得なくなり、デフレ状況を生んだのである。
「近代化先進諸国」は、戦後国際経済体制のなかで抜き差しならないほど近代的経済関係を強めていった。その一方で、ソ連圏との経済関係は、輸出規制などに代表されるように抑制される状態が続いた。
戦後に「世界の工場」となった日本やドイツが、金を含む厖大な天然資源を抱えるソ連と本格的な経済取引に向かっていたら、米国(国際金融家)の政策は大きく軌道修正せざるを得なかっただろう。(空爆されたかもしれないので実現は無理だっただろうが)
先進諸国の経済関係性深化と「冷戦」が、「金本位制」を放棄しても国際取引が混乱しなかった大きな要因である。
付け加えれば、国際金融家が、原油という近代産業に不可欠の国際商品の産出国をソ連以外は支配していたことも指摘しなければならない。
(世界経済の支配を目指す国際金融家は、この意味でも、中央アジア・ロシア・中東の原油を支配しようとしているのである)
米ドルがたんなる「紙切れ通貨」になっても、米国の商品も買えるし、原油も購入できるという現実を経験すれば、国際取引でも兌換紙幣にこだわる必要はない。
金そのものも、高くなったとはいえ、米ドルでも、円でも買える商品である。
こうして、戦後世界は第二世代を歩んできた。