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狩猟採集民・原始農耕民の料理
http://www.asyura2.com/20/reki5/msg/460.html
投稿者 中川隆 日時 2020 年 12 月 24 日 03:18:11: 3bF/xW6Ehzs4I koaQ7Jey
 

(回答先: 世界の料理 投稿者 中川隆 日時 2020 年 12 月 22 日 23:02:04)

狩猟採集民・原始農耕民の料理

アイヌの食文化
http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/182.html

なぜ日本食は世界で人気があるのか _ ネイティブアメリカン料理
http://www.asyura2.com/12/idletalk40/msg/487.html

「縄文時代はよかった。」で?どうやって縄文時代のいい所を取り入れるのか?
http://www.asyura2.com/0505/dispute21/msg/430.html

▲△▽▼

糖質制限食がダメな理由・・・・・古代人のミイラが語る・・・・
(古代人のミイラを全身CTすることで得られた事実です)The Lancet, 6 April 2013

対象と方法:

Thomasらは、大きく異なる4つのヒト集団(古代エジプト人、古代ペルー人、アメリカ南西部のプエブロインディアンの祖先、アラスカ・アリューシャン列島の先住民族(Unangan)のミイラ137体について、全身のCTスキャン画像による血管の石灰化の有無の解析を行った。 ミイラの死因の多くは感染症とおもわれる。


なお、4つの集団の生活様式は異なり、古代ペルー人は主にトウモロコシ、サツマイモ、ジャガイモ、バナナなどを主に食べていた民族で・・Unanganはカヤックを用いた狩猟民族で、海産物として、アザラシ、アシカ、ラッコ、クジラ、魚、ウニ、貝、鳥、鳥の卵などを食べる狩猟採集する民族。

結果:
最も動脈硬化の人(石灰化を認める人)が少なかったのは、古代ペルー人の25%(13/51)、最も動脈硬化の人が多かったのはUnanganの60%(3/5)であった。

Unanganの25-29歳と思われる女性の頸動脈にはプラークの石灰化が認められた。

<私の考察・結論>:
1) 農耕民族の古代ペルー人は炭水化物摂取主体の食文化。「糖質非制限食」

2) 一方 Unanganが住んでいたアリューシャン列島では穀物摂取が非常に厳しい環境ですので・・究極の「糖質制限食」「炭水化物制限食」状態。

3) 「糖質制限食」を子供の時から行っていたUnanganの20代の若い女性は、明らかに動脈硬化が進行していた。

結論:少なくとも穀物「糖質」主体の食生活の方が動脈硬化を来さない。

健康の優先順位第一位は「動脈硬化=プラークを溜めない」であって、体重は2の次です。プラークの状況に無頓着で・・・体重が減って喜ぶのは・・真の健康の専門家ではない。

私のプラークと食事との関係の研究結果と一致します。

古代人の食習慣と動脈硬化に関する科学的なデータとして・・・このデータに勝る論文は、現状では有り得ません。まさしく・・・現代人にも通じる・・論より証拠の論文です・・。

まだ糖質制限食をされている方は・・くれぐれもご注意下さい。
http://majimaclinic22.webmedipr.jp/kanzenyobou/column2/29.html http://www.asyura2.com/09/revival3/msg/585.html
 

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コメント
1. 中川隆[-9020] koaQ7Jey 2020年12月24日 03:24:37 : aGnHCluepw : QUpEcE1zWnhLNEk=[11] 報告
縄文時代の人骨から死亡年齢を推定する研究によると、15歳まで生きた人の平均寿命は、30歳〜35歳と推定されています(ノ_・。)。
ちなみに、現代の世界の狩猟採集民族14集団の人口統計では、15歳まで生きた人の平均寿命は41歳です。

縄文時代の人々とあまり変わらないですね。

狩猟採集をメインに生活すると寿命を縮めるのでしょうか・・・(^_^;)。


農耕をメインとする生活になっている江戸時代の農村の宗門人別帳から得たデータでは、15歳まで生きた人の平均寿命は59歳でした。

農耕が主食を担うようになると、保存ができるお米等の穀物により、毎日狩猟や採集に出かける必要がなくなり、体力の温存、危険の回避、餓死の減少、等が寿命を延ばしたと言えるかもしれません。
http://ameblo.jp/future3001/entry-10968864131.html

つまり、狩猟民みたいに肉と植物食を適度に組み合わせると 平均寿命は41歳

江戸時代みたいに一升飯で米ばかり食べると 平均寿命は 59歳


米ばかり食べているのが一番健康で長生きできる


糖尿病が増えたのは肉や植物油や化学調味料を大量に摂る様になった最近だけ

糖尿病患者数は、図1のようにこの50年間で約35倍と著明に増加している。
https://www.ntt-west.co.jp/osaka-hosp/community/letters/vol_26.html


昭和20年代に1日平均摂取量 穀類500g、脂肪18g

現在はそれぞれ280g、60g


炭水化物の摂取量が半分になっているのに糖尿病患者の数は35倍に増えている

従って糖尿病と炭水化物の摂取とは全く関係ない


要するに、肉や植物油を食べると ほんの僅かな糖分を摂っただけですぐに糖尿病になってしまうという事。
肉や植物油さえ摂らなければ毎日一升飯でも糖尿病にはならない

2. 中川隆[-9015] koaQ7Jey 2020年12月24日 03:29:26 : aGnHCluepw : QUpEcE1zWnhLNEk=[16] 報告
日本人は炭水化物を制限してはならない

アメリカでのブームを経て、ここ数年糖尿病や肥満の改善、ダイエットの目的で、「低糖質食」や「低糖質ダイエット」が注目されています。

このダイエットは、糖質とも呼ばれる炭水化物を控えて血糖値の上昇とインスリンの分泌を抑える事で、やがて体が血糖に変えて脂肪が分解されたケトンをエネルギー源にする体質になり、脂肪を燃焼しやすい体になるという仕組みのようです。

現代人が何かと食べすぎなのは間違いありませんが、日本人と欧米人の歴史的な食文化の違いや身体の働きの特徴を考慮せず、安易に飛びつくと却って糖尿病になる危険を孕んでいるようです。


『日本人は炭水化物を制限してはならない』
https://www.amazon.co.jp/%E7%B1%B3%E3%81%A8%E7%B3%96%E5%B0%BF%E7%97%85-%E6%97%A5%E6%9C%AC%E4%BA%BA%E3%81%AF%E7%82%AD%E6%B0%B4%E5%8C%96%E7%89%A9%EF%BC%88%E7%B3%96%E8%B3%AA%EF%BC%89%E3%82%92%E5%88%B6%E9%99%90%E3%81%97%E3%81%A6%E3%81%AF%E3%81%AA%E3%82%89%E3%81%AA%E3%81%84-%E4%BD%90%E8%97%A4-%E7%AB%A0%E5%A4%AB/dp/4770502052


より引用

※※※※※※※※※※※以下引用※※※※※※※※※※※※※※※※


(前略)日本人に糖尿病が増えたのは、肉・牛乳や乳製品・卵などからタンパク質や脂肪を大量に摂るようになったために、炭水化物の摂取量が少なくなってしまったことに原因がある。

炭水化物の摂取量が減ると、身体のインスリン感受性が低下する。そのため、もっとインスリンを分泌せよと、身体は膵臓のランゲルハンス島にあるβ細胞に指令をだす。インスリンは体内に脂肪を貯めこむホルモンのため、インスリンの分泌が増えると、内臓に脂肪が貯まって身体は肥満する。

内臓脂肪によってインスリンの働きはさらに悪くなる(インスリン抵抗性)。身体はさらなるインスリン分泌を要求する。β細胞はこの要求に応えようと必死に努力するが、やがて疲れ果ててダウンしてしまう。これが糖尿病である。

日本人はもともとインスリンの分泌が少ない。日本人の膵臓のランゲルハンス島は小さく、さらにその数も少ない。日本人のインスリン分泌量は欧米人の1/2〜2/3 と言われている。これは日本人が古来、インスリンをあまり必要としない穀物中心の食生活を送ってきた生理的適応の結果である。

だから、私たち日本人は,米と雑穀を中心とする食生活で生き延びて来られたのだ。「ごはん(炭水化物)をたくさん食べればインスリンがたくさん要るのではないか」と誤解している人もいるだろう。

真実はその反対で、炭水化物中心の食生活ならインスリンは少量で足りるのだ。炭水化物をたくさん食べるとインスリンの働きがよくなるからである。だからこそ、日本人は1000年以上の長きにわたって、インスリン分泌が少なくてもなんの不都合もなく過ごしてきたのだ。

肉や脂肪をたくさん食べるようになると、必然的に炭水化物の摂取量が減少してインスリンの働きが悪くなる。そのため、インスリンの必要量が増える。もともとインスリン分泌能の低い日本人が、多量の肉や脂肪を食べていると、β細胞が身体のインスリン分泌要求に応じられなくなり、インスリンが相対的に不足して、やがて糖尿病になってしまうのである。

現在の欧米人は基本的に肉食で炭水化物の摂取量が少ない。したがってインスリン分泌の要求が高い。彼らのインスリン分泌能力は高いから、膵臓ランゲルハンス島はどんどんインスリンを分泌する。

インスリンは脂肪を貯めこむ働きがあるので、インスリンが多くなると肥る。腹まわりが180cmを肥えるかと思われる男女がアメリカにたくさんいるのは彼らが肉や乳製品をたくさん食べるからだ。

お腹に脂肪が貯まるとインスリンの働きがさらに悪くなる。そこで膵臓のランゲルハンス島が頑張ってもっとインスリンを分泌するようになる。これが高インスリン血症である。こうなると、インスリンは内臓脂肪を蓄積する性質があるため、ますます肥る。欧米の糖尿病患者の多くは肥満と高インスリン血症を経験している。
ところが、インスリン分泌能の低い日本人・アジア人は、肥満と高インスリン血症を経験することなく簡単に糖尿病になってしまうのだ。


身体のメカニズムを取り上げ、効果を理論的に謳っているような健康法も、その理論の前提条件や効果の範囲を認識し、歴史的な事実も踏まえたもっと広い視野で判断する必要があります。
http://www.rui.jp/ruinet.html?i=200&c=400&m=266452

糖尿病が増えたのは肉や植物油や化学調味料を大量に摂る様になった最近だけ
糖尿病患者数は、図1のようにこの50年間で約35倍と著明に増加している。
https://www.ntt-west.co.jp/osaka-hosp/community/letters/vol_26.html


昭和20年代に1日平均摂取量 穀類500g、脂肪18g

現在はそれぞれ280g、60g


炭水化物の摂取量が半分になっているのに糖尿病患者の数は35倍に増えている

従って糖尿病と炭水化物の摂取とは全く関係ない

3. 中川隆[-9011] koaQ7Jey 2020年12月24日 03:35:40 : aGnHCluepw : QUpEcE1zWnhLNEk=[20] 報告
カロリーの大部分を炭水化物から摂取する人たちが世界で一番健康だった :
「世界で最も健康な心臓」を持つボリビアの先住民族の食事に関する5年間に渡る医学的調査が結実:2018年11月5日
https://indeep.jp/what-suggestins-of-indigenous-population-tsimane-diet/

食事の支度中のアマゾンの先住民族チマネ族

南米ボリビアに「チマネ族」という先住民族がいます。

私は今回のニュースリリースで初めて知った人たちなのですけれど、調べてみると、すでに、このチマネ族という人たちは「地球上で最も健康な体を持つ人たち」として知られているようです。

特に「心臓と血管の疾患と無縁の人々」ということで、数年前から医学関係の研究者たちの間で注目されている人たちだったようです。

そのチマネ族についての、米カリフォルニア大学サンタバーバラ校と、アメリカ保健福祉省や国立衛生研究所などとの共同プロジェクトとして、その「保険と健康に関しての調査」が行われていたのですが、数日前に、その研究の結果が大学のウェブサイトに記事として掲載されていました。

場合によっては興味深い内容かもしれないその記事をご紹介しようと思います。

研究は 5年に渡り現地で調査が続けられたもので、その最大のテーマは、

「彼らは何を食べているのか」

ということでした。

「心臓疾患や糖尿病と無縁の彼らの基礎を作る食事は何か」

ということを徹底して調べたのです。

いわゆる日本やアメリカを含めた主要国での、「健康に良い食べ物」というような概念はありますが、そのようなものと合致しているのか、ということを調べたといっていいです。

かなり長いものですので、まずは本文をご紹介しようと思いますが、結果を書いておきますと、チマネ族は栄養摂取の品目が実に少ないのですが、


「そのカロリーの大部分を、炭水化物から摂取している」

ということになっていたのでした。

ただし、この炭水化物には、精製されたコメや小麦粉などの単純な炭水化物はほとんど含まれておらず、「プランテン」というイモのようなバナナのような、熱帯では多くの地域で主食となっているものが主流です。

それでも、炭水化物は炭水化物。しかも「それを大量に食べる」ようで、カロリー摂取量はかなりのものなのです。

日本などでは、よく栄養に関して、

・たくさんの種類の品目を食べる

・野菜をたくさん食べる

などというようなことも言われますが、その逆ともいえるような生活で、これが「世界で最も健康な人たち」を作っているということになっています。

まずは、そのカリフォルニア大学サンタバーバラ校のニュースリリースをご紹介します。


Food for Thought
UC Santa Barbara 2018/11/02

食物に対しての考察

アマゾンに住む先住民族たちの食生活から、私たちは、西洋の食生活が健康や健康にどのように影響するかを垣間見ることができる。

心臓の健康という観点から見ると、ボリビアのアマゾン地域に住む先住民族であるチマネ族は理想的な人々だ。知られている限り、彼らは世界で最も心臓病になる率が低い。

彼らは、血圧も総じて低く、肥満率、コレステロールレベルも優良で、さらには、2型糖尿病の発生率も最小限のレベルだ。

そして、彼らの場合、加齢と共にこれらの数値が悪化していくということもないように見える。

今回、私たちは、チマネ族の心臓と血管の健康を、彼らの食生活の観点から考慮してみた。そして、彼らのような先住民族の社会もまた、グローバリゼーションと、市場の力にさらされるようになるにつれ、どのように影響を受けるのか。

心臓の健康と食事

このブロジェクトはもカリフォルニア大学サンタバーバラ校の人類学者、トーマス・クラフト(Thomas Kraft)教授と、マイケル・ガーヴェン(Michael Gurven)教授によって行われた。これは、アメリカ国立衛生研究所が支援するプロジェクトの一環だ。

ガーベン教授は以下のように言う。

「以前から、チマネ族が最も健康な人々であることが研究によって示されていましたが、なぜそうなのかということを理解することは大変に興味深いことでした」

この研究で明らかに最初の候補となることは、

「彼らは何を食べているのか?」

ということで、そして、

「彼らは心臓の健康に最も良いと私たちが考えているようなものをを食べているのだろうか?」

ということだ。

「チマネ族の食生活の詳細な分析を行い、現代の典型的なアメリカ人たちの食生活と比較し、そして、アメリカなどにおいて、心臓にとって健康だと主張されている食生活と比較したのです」と、ガーベン教授は言う。

これまでも、パレオや、日本の沖縄などの食生活は健康上のメリットがあるものだとして推奨されることがあったが、チマネ族の場合もそのように心臓の健康にいいものを彼らが積極的に食べているのか。

彼らはよく食べる

アメリカ疾病管理予防センター (CDC)とアメリカ保健福祉省によりおこなわれた「全国健康栄養調査」で採用されたのと同じ測定方法を用いて、過去 24時間に食べたか、あるいは飲酒したものについて、1299人のチマネ族と 229人のモセテン族に、それぞれ複数回のインタビューをした。

そして、栄養推定値とすべての品目と、その量に関して推定するさまざまな方法を用いて、彼らの 1日の食物摂取量の詳細な内訳を描き出した。

それによると、チマネ族の 1日の平均摂取カロリーは 2,433 - 2,738 キロカロリーと高カロリーであり、これは、炭水化物の摂取量が多いこと、および高タンパク、そして脂肪の摂取量が少ないことに特徴づけられた。

チマネ族のエネルギー摂取のそれぞれの割合は、

・炭水化物からのカロリー摂取が 64%

・タンパク質からのカロリー摂取が 21%

・脂質からのカロリー摂取が 15%

という内訳だった。

さらに、チマネ族は、平均的なアメリカ人と比較すると、多種多様な食品を食べて「いない」ことも特徴だ。

彼らのカロリーの約 3分の 2は炭水化物(複雑な炭水化物)、特にプランテン(熱帯やアフリカで主食として食べられているバナナのような形をした果実)とキャッサバに由来している。

他に、カロリー摂取の 16%は 40種以上の魚から、そして 6%は野生の果実や木の実からのものだった。

市場などで購入したものは 8%だけだった。

このように、チマネ族の食事は多様性は低いが、しかし、研究者たちの調査では、チマネ族には微量栄養素欠乏症などの兆候はほとんどみられなかった。

彼らには、カルシウムといくつかのビタミン(ビタミンD、ビタミンE、ビタミンK)が不足していたが、心臓血管の健康につながるカリウム、マグネシウム、セレンの摂取量は、平均的なアメリカ人の摂取レベルをはるかに上回っていた。

食物繊維の摂取量は、平均的なアメリカ人のほぼ 2倍だった。

この研究は 5年間にわたって続けられたが、その期間の中で、チマネ族の摂取する総エネルギー量と炭水化物の摂取量が特に市町村に近い場所にあるチマネ族の村では、大幅に増加するのが見出されていた。

これは、流通の発達が、アマゾンの先住民族たちんが住む地域にまで拡大していることが原因だ。

それと共に、食品添加物(ラード、油、砂糖、塩)の消費量も大幅に増加した。

数量と品質

結論 : 炭水化物を多く含む高カロリー食は、少なくとも身体活動的な生活習慣と結びついた場合は、心血管疾患のリスクの低下と関連する。

チマネ族の成人は 1日平均 1万7000歩あるく。平均的なアメリカ人が 1日に歩く数は 5,100歩だ。

しかし彼らでも、移住などにより、現在の食事のような食生活(植物繊維が豊富で、脂肪が少なく、塩分と砂糖を使用しない食生活)から離れることは重大な健康上のリスクとなる。

実際、ボリビアでの人々の栄養摂取状態の変遷は、ボリビアの人々の体脂肪および体質指数の上昇傾向と一致している。チマネ族も、そのような状態になれば、心血管疾患の低い罹患率は存続しない可能性がある。

ガーバン教授は、食事やライフスタイルを変えることのによる危険性を避けることは、チマネ族のような民族集団には不可欠なことだと言う。

彼らだけではなく、南米やアフリカ、東南アジアの他の先住民族たちも同様の状況に置かれている場合が多い。

先住民族たちの中でも、肥満、2型糖尿病、心臓病の割合は、伝統的な食事をしなくなっている先住民グループの中で高いことが見出されている。例えば、アメリカの先住民族や、オーストラリアのアボリジニなどがそうだ。

そして、チマネ族においても、そのような変化が近づいている。

クラフト教授は、こう言う。

「今は重要な時期です。昔に比べて道路が整備され、川においてもボートでの物流が頻繁となっているため、先住民族が以前のように孤立することがなくなっているのです。早いペースで彼らの食生活は変化しています」

食事に加わる砂糖と脂肪

世界で最も健康だったチマネ族だが、プロジェクトの医療チームは、チマネ族の間に糖尿病患者が発生しているのを見始めている。

これもまた、研究の期間の中で、チマネ族の生活に入り込んだ「精製された砂糖」と「脂肪」を彼らが定期的に摂取するようになり、次第にその摂取量が増加したためだと考えられている。

チマネ族が、砂糖と食用油を大量に購入する能力を持つことにより、これらの製品の消費量が 300%増加すると研究者たちは計算している。

それまでの彼らの生活にはなかった、揚げ物や、砂糖をたくさん使った食事が増加していく可能性があるのだ。

なお、現在のチマネ族の高い炭水化物の摂取は、「(心臓の健康という意味から考えて)前例のないものではない」とクラフト教授は述べている。

「たとえば、日本の沖縄は、心臓血管疾患の率が低い地域として有名ですが、彼らの食事は約 85%が炭水化物として出されます。しかし、その共通の特徴は、ほぼ全面的に複雑な炭水化物であることです。それは沖縄の食事であるサツマイモです。そして、ここチマネ族では、それがプランテンとキャッサバにあたるのです」

全体として、今回の知見は、単一の食事の方法論が健康への鍵を提供するものではないことを示唆している。それはとても複雑なものだ。「この研究は、心臓血管の健全性と両立する食事の多様性を明らかにしました」とクラフト教授は語る。


ここまでです。

なお、このクラフト教授の最後の、「この研究は、心臓血管の健全性と両立する食事の多様性を明らかにしました」という言葉は、もっとわかりやすく書くと、どのようになると思われますか?

これは実際には、

「健康に良い食事というのが何だかわからなくなってしまいました」

という意味がそこに含まれていると私は見ています。「多様性」というのは、結局は、「健康的な身体を維持している食事が、想定外だった」ということと一致しているはずです。

何しろ、彼らチマネ族の食生活の基本は、「炭水化物をカロリーたっぷり、たくさん食べる」というものなのですから。

言ってみれば、宮沢賢治さんの「雨ニモマケズ」の、

「一日に玄米四合と味噌と少しの野菜を食べ」

というような世界ですかね(一日に四合は大食いレベルの食べ過ぎですが)。

ただ、チマネ族の炭水化物は、プランテンとかキャッサバなどの、いわゆる「複雑な炭水化物」というものであり、現在の私たちが摂取している精製されたコメや小麦粉とは違います。

プランテンというのは、馴染みがないものですけれど、プランテン - Wikipedia には以下のようにあります。


熱帯地方の主食であり、主食としては世界第10位に位置する。味や食感を含めてジャガイモと同様に扱われ、未熟なものは蒸す・茹でる・揚げるといった調理法が採られる。赤道地帯のアフリカやアンデス地方では、一般的な主食である。

アフリカでは 7000万人以上の炭水化物の必要量である25%以上が、プランテンとバナナによって賄われている

プランテンの前で食事をとるボリビアの子どもたち

・telesurenglish.net

宮沢賢治さんは、玄米4合という非常識な大食いでしたが、このプランテンも 1本が 200から 300キロカロリー程度のものが主流だとすると、チマネ族の人たちも結構、本数を食べていそうで、「チマネの宮沢賢治」なら、

「一日にプランテン8本とキャッサバと少しのナマズを食べ」

というような食生活なのだと思われます。

興味深かったのは、今回の研究の「結論」の以下の部分です。


結論 : 炭水化物を多く含む高カロリー食は、少なくとも身体活動的な生活習慣と結びついた場合は、心血管疾患のリスクの低下と関連する。

これはつまり、


「体をよく動かしているのなら、高いカロリーの食事をした方が、心臓と血管の健康のためには良い」

と書かれてあるわけです。

栄養とカロリーの世界も混沌としてきている感もあります。

なお、私自身は、以前書いたこともあるかもしれないですが、グルテン不耐性というような妙なものであることに気づいた時(数カ月前のことです)から、小麦粉を完全にとらない生活が続いています。

それに加えて、理由についての詳細を記すのは避けますが、お米も今ちょっと食べていなくて、つまり、炭水化物を著しく摂取していない生活になってしまっています。

そして、このような生活の中で初めて気づくのが、

「炭水化物の偉大さ」

なのです。

糖質と植物繊維が同時に摂取できて、腹持ちも良く、エネルギー効率もいい。

私は、精製された砂糖の摂取はわりと否定しますけれど、糖質は全然否定しないどころか、糖質が人類(というより地球の生命の細胞)の根源的な栄養素だと考えていますので、炭水化物をとらない生活の中で糖質をとるというのがいかに大変かわかるのです。

炭水化物以外で、炭水化物と同様の糖質をとるのは大変なんです。

私自身は、場合によっては、ずっと炭水化物をとらない人生を送ることになってしまうのかもしれないですが、普通の健康な方々には、炭水化物を目の敵にしないでいてほしいという気持ちがあります。

ただ、今回のチマネ族の食生活の報告からわかるのは、炭水化物だとかタンパク質だとかビタミンだとかの問題よりも、単に、

「いかに加工品を食べていないか」

というところにあるようには思います。
食事や食物に関しては主義や主張も多く存在しますでしょうし、どれが良い食事の方法なのかということについては、人それぞれの確信に基づけば、それでいいのではないかとは思っています。そんなことで人と争ったりする必要はないです。

食べ物のことごときで人と争っていては、チマネ族に笑われます。
https://indeep.jp/what-suggestins-of-indigenous-population-tsimane-diet/

4. 中川隆[-9010] koaQ7Jey 2020年12月24日 03:36:21 : aGnHCluepw : QUpEcE1zWnhLNEk=[21] 報告
弥生時代の人の平均寿命

縄文人の場合は、30才くらいと考えられています。
これは、貝塚から発掘される骨から確定できるといわれます。
しかし、弥生時代の人骨は発掘されること自体大変少なく、
弥生人の骨は土に帰ってしまうといわれます。

縄文人は、貝塚の近くに骨を埋葬しました。
カルシウム分の多い土に埋葬された骨は、土に帰らず残るといわれます。
一方、弥生時代は稲作が始まっています。
貝塚のようにカルシウム分の多い土には埋葬されなかったので、
弥生人の骨は土に帰ってしまったのです。

佐賀県の吉野ヶ里遺跡は有名ですが、発掘された人骨によると、弥生人は渡来系らしい特徴を備えているといわれます。

縄文人に比べると背が高く、平均寿命は30〜40歳ぐらい。

遺物には紐のついた毛髪もあり、髪を結っていたこともわかります。
(ここでいう30歳は、15歳以上生存した人間の寿命です。)

弥生時代は、稲作が生活の基盤となり、鉄器や青銅器の使用が始まった時代といわれます。

吉野ヶ里でも農耕によって飛躍的に人口が増加し、人々を統率する王も現れました。
一般の墓地とは別に王族を祀る巨大な墳墓がそれを物語っています。

古代は幼児期の死亡率が高く、縄文時代〜弥生時代の死亡率は50〜60%という数字も見えます。

大正末期に幼児期死亡率が、15%以上あったといわれますので、大袈裟な数字ではないかと思います。

15歳以上に達した者の平均死亡年齢の時代変遷は、人口問題研究家の小林和正氏によると、

縄文時代: 男31.1歳/女31.3歳
弥生時代: 男30.0歳/女29.2歳
古墳時代: 男30.5歳/女34.5歳
室町時代: 男35.8歳/女36.7歳
江戸時代: 男43.9歳/女40.9歳
(古人骨より推定)
1891〜98年調査:男55.7歳/女57.1歳
1965〜66年調査:男70.3歳/女75.0歳
(人口統計)

ちなみに、"平均寿命"とは、

「0歳児における平均余命(後どれくらい生きられるか)」ですが、

紀元前11世紀〜1世紀「縄文時代」の日本人の寿命は、
男女とも、14.6歳。

紀元前8世紀〜3世紀「弥生時代」
3世紀〜7世紀「古墳時代」に入っても、
「縄文時代」と、ほとんど平均寿命は変わらず、

「室町時代」(1338-1573)では
15.2歳くらいと推定されています。
http://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail/q1325687448

5. 中川隆[-9009] koaQ7Jey 2020年12月24日 03:37:39 : aGnHCluepw : QUpEcE1zWnhLNEk=[22] 報告
2020年01月05日
アフリカ南部における中期石器時代の根茎の調理
https://sicambre.at.webry.info/202001/article_9.html

 アフリカ南部における中期石器時代の根茎の調理に関する研究(Wadley et al., 2020)が公表されました。日本語の解説記事もあります。植物は遺跡では残りにくいため、先史時代に関しては植物採集よりも狩猟の方が注目を集めています。しかし、過去の研究から、植物食が狩猟採集民において重要な食資源となり得たことは間違いありません。植物でも、根茎や球根などの地下植物はヒトにとって重要な炭水化物源となり、調理すると消化性が向上し、毒性が減少します。火を使用する前の地下植物の残骸はまだ確認されていません。イスラエル北部のフラ(Hula)湖畔にある、下部旧石器時代のアシューリアン(Acheulian)遺跡として有名なジスルバノトヤコブ(Gesher Benot Ya‘aqov)では、78万年前頃の根茎が発見されています(関連記事)。その他にもアフリカ南部の遺跡では地下植物が発見されています。

 本論文は、南アフリカ共和国のボーダー洞窟(Border Cave)の中期石器時代層における根茎の調理の痕跡について報告しています。この根茎は、5BS層と4WA層で発見されました。年代は、少なくとも17万年前までさかのぼります。根茎を洞窟まで運べるのはヒトだけだと考えられます。これらの根茎は炭化しており、調理が示唆されます。ボーダー洞窟の中期石器時代前期の年代は、歯のエナメル質の電子スピン共鳴法によると、5BS層は177000年前頃に始まり、その直下の4WA層は150000年前頃に始まり、99000年前頃までには終わっていた、と推定されました。

 本論文は、ボーダー洞窟の根茎をその形態から全てヒポキシス属に分類し、その中の1種(Hypoxis angustifolia Lam)である可能性が高い、と推測しています。ヒポキシス属の根茎は栄養価が高く、必須ビタミンとミネラルも含まれます。また、ヒポキシス属の根茎は生でも食べられますが、調理すると柔らかくなり、さらに食べやすくなります。ヒポキシス属はボーダー洞窟周辺も含めてさまざまな土地で繁茂し、サハラ砂漠以南のアフリカやインド洋の複数の島にも分布しています。

 ヒポキシス属の根茎は、デンプン質の栄養価が高い食料となり、広範囲に分布することから、遊動的な初期のヒトにとって信頼できる主食源になった可能性があります。30万年前頃のアフリカ東部のヒト集団は、すでに数十km以上の広い活動範囲を有していた、と推測されています(関連記事)。ヒポキシス属根茎のようなデンプン質の栄養価の高い植物は、すでに火を制御できるようになっていたであろう中期石器時代の遊動的なヒト集団にとって重要な食資源になり、その遊動性を可能にした一因になった、と考えられます。


参考文献:
Wadley L. et al.(2019): Cooked starchy rhizomes in Africa 170 thousand years ago. Science, 367, 6473, 87–91.
https://doi.org/10.1126/science.aaz5926

https://sicambre.at.webry.info/202001/article_9.html

6. 中川隆[-9007] koaQ7Jey 2020年12月24日 03:39:16 : aGnHCluepw : QUpEcE1zWnhLNEk=[24] 報告
2020年05月09日
オーストラリアにおける6万年以上前の植物性食料の利用
https://sicambre.at.webry.info/202005/article_15.html

 取り上げるのが遅れてしまいましたが、オーストラリアにおける6万年以上前の植物性食料の利用に関する研究(Florin et al., 2020)が公表されました。早期現生人類の進化と拡散における植物性食料の役割は、肉食が注目されてきたこともあり、過小評価されてきました。植物性資源の広範な利用と処理は、農耕出現直前の後期更新世〜早期完新世になって典型的になった、と考えられてきました。しかし、早期現生人類(Homo sapiens)の植物性食料の利用に関する証拠は近年蓄積されつつあり、中期石器時代のアフリカ(関連記事)や49000年前頃までさかのぼるニューギニアの事例(関連記事)などがあります。

 早期現生人類の食資源をめぐる議論は、その拡散経路とも関連しています。早期現生人類のアフリカからの拡散経路としてユーラシア南岸説が有力とされており、沿岸資源の重要性が指摘されていますが、まだ確定したとは言えない状況です。本論文は、オーストラリア北部のマジェドベベ(Madjedbebe)岩陰遺跡で発見された炭化植物化石を検証しています。マジェドベベ遺跡では多数の人工物が発見されており、その年代は65000〜53000年前頃と推定されています(関連記事)。これは、サフルランド(更新世の寒冷期にはオーストラリア大陸・ニューギニア島・タスマニア島は陸続きでした)への現生人類の拡散時期がじゅうらいの有力説よりずっとさかのぼることになるため、大きな注目を集めました。

 マジェドベベ遺跡の植物化石は大きく、果物やナッツの種皮・根と根茎・ヤシ科茎組織・他のさまざまな植物断片に4分類されます。これらの分類集団の中で、属もしくは種の水準で5分類群に区分されました。この中には、たとえばカンラン科やタコノキ属などの種が含まれます。早期現生人類の痕跡以前には炭が少ないことから、マジェドベベ遺跡の65000〜53000年前頃の早期現生人類は多様な植物を調理して食べていた、と推測されますが、果物には生食されたものもあるかもしれません。

 このように、マジェドベベ遺跡の65000〜53000年前頃の早期現生人類は植物から炭水化物・脂肪・タンパク質などさまざまな栄養素を摂取しており、果物やナッツは容易に入手できる高栄養価の植物性食資源です。ただ、ヤシや根茎など他の植物の中には、栄養摂取にさいして処理が必要なものもあります。こうした複雑な処理も含む広範な植物の食資源としての利用は、サフルランドにおける既知の確実な証拠に少なくとも23000年先行します。オーストラリアにおける6万年以上前までさかのぼる植物性食料の利用は、アジア南東部やニューギニアにおける後期更新世の事例と一致しており、これが早期現生人類の食性において基本的だったことを示唆します。ウォレス線を越えた早期現生人類は新たな動植物相に遭遇し、利用していきましたが、それらの一部には複雑な処理の必要なものもあり、それは早期現生人類の認知能力により可能になった、と本論文は指摘します。

 本論文は、このように早期現生人類による6万年以上前までさかのぼるサフルランドへの拡散と、拡散における植物性食料の重要な役割を強調します。ただ、マジェドベベ遺跡の年代に関しては、疑問も呈されています(関連記事)。また、アフリカやユーラシア南部の6万年以上前の石器群との類似性などから、本論文はマジェドベベ遺跡の人工物の製作者が早期現生人類であることを大前提としていますが、これらの遺跡群では人類遺骸がほとんど発見されていないので、その担い手をすべて早期現生人類と判断するのは時期尚早のように思います。もし、オーストラリアあるいはもっと広くサフルランドに6万年以上前に人類が拡散していたとしたら、可能性はかなり低いかもしれませんが、現時点では種区分未定のホモ属であるデニソワ人(Denisovan)も想定しておくべきではないか、と思います(関連記事)。


参考文献:
Florin SA. et al.(2020): The first Australian plant foods at Madjedbebe, 65,000–53,000 years ago. Nature Communications, 11, 924.
https://doi.org/10.1038/s41467-020-14723-0

https://sicambre.at.webry.info/202005/article_15.html

7. 中川隆[-9005] koaQ7Jey 2020年12月24日 03:42:22 : aGnHCluepw : QUpEcE1zWnhLNEk=[26] 報告
チンパンジーの食卓事情 伊藤詞子

 チンパンジーの食事はフルーツが主です。

季節ごとに色とりどりのフルーツが、豊かな森から提供されます。

スーパーで売っているようなフルーツほど甘くはないし、種と果肉の部分が簡単にはがれたりもしません。それでも、他の食物に比べれば「甘い」食べ物です。マハレのチンパンジーが食べるフルーツの種類はたくさんありますが、それぞれ実りの季節があります。植物種ごとに見れば、半年近く実がなっているものから、ほんの数ヶ月だけのものなど、様々なフルーツが、少しずつ時期をずらしながら実るため、チンパンジーは年中フルーツを食べることができます。

スーパーには熟したフルーツだけが売られていますが、森の中では熟したものから未熟なものまでいろんな段階のフルーツが実っています。もちろん甘いのは熟したフルーツで、チンパンジーは熟したものを丹念に選んで食べます。フルーツの皮は手や口をつかって器用に取り除かれます(写真1)。

おいしい部分である果肉は、種からはがれにくいため、あとで吐き出されることもありますが、種ごと呑みこまれる場合も多いようです。こうして噛み砕かれずに丸呑みされた種が、やがてうんちとともに地面に落とされ、芽を出し、成長してまたチンパンジーたちにフルーツを提供してくれることになります。

植物にとってもチンパンジーにとっても、いいことずくめです。一方で、雨が少なかったり、逆に多すぎたり、といった気候不順な年などには、植物の方もあまりフルーツを作れません。その上、フルーツが少ないとチンパンジーは種までぽりぽりと噛み砕いて食べてしまいます。破壊されてしまうと発芽できなくなるので、こんなときは植物にとってもチンパンジーにとっても少々つらい時期というわけです。


写真1:レモンの食事あと。人の仕業ではありません。チンパンジーの食事のあとです。


写真2:イロンボ Saba comorensis (Bojer) Pichonの果実。

 食事といえば、わたしたちは誰か他の人と、ということが多いのではないでしょうか。一人暮らしだと、一人で食べることもありますが、それでも誰かと食べる機会がまったくなくなるというわけではないでしょう。チンパンジーたちの食事も、一人きりというわけではなく、いろんなメンバーといろんな形でおこなわれます。

マハレのチンパンジーが最もよく食べるフルーツの一つに、現地名でイロンボと呼ばれるキョウチクトウ科のツル植物があります(写真2)。

この植物はMグループが暮らす森で最も密度が高く、1ヘクタールあたり約43本もあります。よく食べられる理由としては、広い範囲にたくさんあるということや、ソフトボールくらいの大きさという比較的食べ応えのあるサイズであることなども関係していると思われます。

同時に、何十頭ものチンパンジーたちが皆で食べながら移動するのにちょうどよい、ということも関係しているのではないかと私は疑っています。というのも、イロンボのシーズンが終わると、チンパンジーたちはもっと少人数で活動するようになります。イロンボはあちこちにあるので、このフルーツのシーズンに皆で活動する必要はないわけですから、きっと彼らなりのわけがあると思うのです。

(いとう のりこ 京都大学)
http://mahale.main.jp/chimpun/9/009_03.html


人類がアフリカを出て果物の無い世界に行ったから、火を使って根菜を食べる様になった

8. 中川隆[-9004] koaQ7Jey 2020年12月24日 03:43:07 : aGnHCluepw : QUpEcE1zWnhLNEk=[27] 報告
″エスキモー人″も長年、医学視察団の調在を受けたが、その結果、一般的には癌にかかっていないことがわかっている。

「癌は文明病か-その人類学および歴史学的考察--」の著者、ピルヒアルマー・ステファンソンの文献によると---

 エスキモー食には、B17が驚くほど豊富である。

これはトナカイや、その他の草食動物、北極のツンドラに豊白品に産するべニハナイチゴなどから摂取できる。

彼らには、ツンドラで育つ新鮮な草が一杯つまったトナカイの胃の中の成分から作ったグリーン・サラダと呼ぶものがある。
ツンドラ地帯には生えている草類のうち「アロウ草」(学名Triglochin Maritima) は一般的なものである。

アメリカ農務局の研究の結果、アロウ草は他の草類よりB17が多いと発表されている。

エスキモー人が、伝統的な食生活から西洋化した食生活に変わるとどうなるのだろうか。
その結果は、平均的なアメリカ人よりもはるかに癌が多発するようになった。

-中略-

この問題を精力的に研究したクレブス博士によると-―

 歴史的および人類学的な記録から、いろいろな北米インディアン族の摂取する「B17食品」の分析を行い、
これは有効であるとの確たる証拠を発見している。

そうである以上、「B17食品」に対する毒性観念は永久に追放すべきである。

いくつかの部族では、一日当たりのB17摂取量は8gにもなっている。

”モドック・インディアン”についての私の資料は、とくに完全なものである。
http://www1.ocn.ne.jp/~hana-ran/B17-4.htm

9. 中川隆[-9001] koaQ7Jey 2020年12月24日 03:47:57 : aGnHCluepw : QUpEcE1zWnhLNEk=[30] 報告
人間が肉食に適さないワケ


歯の形
人間の歯は動物を取ってしとめるキバはなく、草食に適した臼歯がある。


あごの形
肉食動物は食物を噛まずに飲み込むのであごは発達しておらず、臼歯もない。
人間は食物繊維を咀嚼(そしゃく)するための顎(あご)がある。
また肉食動物の顎は上下のみにしか動かないが
人間や草食動物の顎は横にも動く。
これは穀物や草をすりつぶすためにある。



人間には動物ハンティング用の殺傷能力のある爪はなく、木の実や果物を採取できるように親指を向かい合わせることができる手を持つ。これは人間が動物肉を食べるのではなく、果物や野菜を採集するのに適していることを示している。



肉食には胃酸を多く含む胃液が必要。
人類と草食動物の胃酸は、肉食動物に比べて20分の1の濃度である。



肉食には体内で毒素を作り出すので短時間で消化・排出のため、高濃度の消化器官と短い腸が必要。
肉食動物の腸は体長の約3倍であるのに対し、
人間の腸は草食動物のように長く、体長の約12倍の長さの腸をもつ。

腸の長さ

肉食動物
ライオン体長の4倍。
狼は体長の4倍。
猫は体長の4倍。
犬は体長の6倍。(雑食) 草食動物
馬 10倍(39m)
牛 20倍(60m)
ゴリラ
カバ
ゾウ
人間 12倍


欧米人は肉食中心で進化してきており、腸の長さは肉食動物並みの4mになってきています。大腸ガンや潰瘍性大腸炎になりやすく、肉食大国アメリカでは大腸ガンは死亡率2位

日本人も戦後の欧米化によって肉食中心の生活になりましたが、(日本人はもともと農耕民族・穀菜食)野菜や穀類で進化してきたため、欧米人に比べ長めの腸を持っています(7m)

ですので、日本人が肉食すると、腸は長い分だけ腐敗便を作りやすく、悪玉菌増殖の危険性、増加した動物性脂肪の影響などで大腸ガンや潰瘍性大腸炎その他の成人病を引き起こす可能性は他の民族に比べて大きいことになります。

肉食中心で進化してきた欧米人の腸の長さは1mほどなので、腐敗する前に排泄しやすい短い腸。 一方、肉を摂ると悪玉菌(腐敗細菌)の増加を促進させる。
※完全に消化されない肉類は、大腸の中で腐敗便へと変化します。 これをエサにして悪玉菌が一挙に増殖。 つまり、悪玉菌の大好物は肉だった。
(NHK TV『発掘!あるある大辞典より』)
http://saisyoku.com/talk6.htm


人類の体は肉を食べる様にはできていない:5対2対1の話

5:2:1とはいきなり何の事だろうと思われるでしょう。実はこれは人間の歯の割合で5対の臼歯、2対の門歯、1対の犬歯の事です。

臼歯と門歯はすりつぶしたり、かみ切ったりする事に使われており、犬歯は元は牙として使用されてた名残で、現在は糸を切るほかは(?)余り役に立たない歯です。

この歯の構成から、人間の本来の食は植物7、動物1という考え方があります。
完全に植物食のゴリラやほとんど植物食のチンパンジーにも立派な犬歯(牙)があることから、植物7:動物1の割合で食生活をするべき。という考え方には疑問がありますが、参考になります。

ともすれば肉食になりがちな現代の食生活。成人病と肉食の関係が切っても切れない関係がある以上、食生活を見直すことは大変に意義のあることです。

実際、新谷弘実という世界的な内視鏡の権威で25万人もの人の腸を覗いた先生によれば、 上記のバランスで食生活をすると胃相・腸相が目に見えて良くなるそうです。
http://www9.plala.or.jp/kazeya/kenkou/hanohanasi.html


人間が肉を食べると病気になる理由

先回、歯の構造から肉食の比率は1割強と書きましたが、それはあくまで犬歯が犬歯として役立っている場合で、人間の丸まった犬歯は、人類が歴史的に肉食をあまりしてこなかったことを物語ります。

人類は肉食動物?

人類に近い類人猿であるチンパンジーやゴリラはほとんど肉食をしません。
人類が猿から分かれて直立歩行をするようになったのは肉食をするようになったからだ。という説が現在は有力ですが、それならばなぜ犬歯がもっと尖っていないのでしょうか?


成人病の原因

豚、牛、鶏といった家畜の体温は人間より高くなっています。
肉に含まれている脂肪は、胃腸でいったん消化されたあと体に吸収されると、再び元の脂肪に合成されるため、 家畜の体温では油状の脂肪も人間の体温ではバターのような固体となります。

過剰の脂肪は血管に付着して、毛細血管を詰まらせたり心臓を詰まらせたりします。

いわゆるこれが成人病の原因の一つです。

犬や猫などは普通に飼っている限り成人(成犬・成猫)病にはなりません。肉食に適応した体をしているため、人間のように脂肪が悪さをしないのです。
このことからも、どうも人類は肉食に適応していない事が伺えます。


肉がおいしい訳

三つ子の魂の例があるように、後天的な食性活が好みを作りますが、それ以外に人類に潜在的に不足しがちな栄養素をおいしく感じる特徴があります。 植物食では慢性的に不足しがちな蛋白質への欲求から、肉をおいしく感じると思われます。
体にいいからおいしく感じるという事とは少し違います。

肉食の利点

栄養学の点から良質の蛋白質、ビタミンB群、鉄分や亜鉛等のミネラルの補給源として有効といわれています。

肉食の害を消す

肉は有効な成分と害がある成分を含むため、少しでも害のない食べ方をする必要があります。

一つの方法として、豚肉を食べて長寿の沖縄食でもみられるように、コトコトと煮ることで脂肪を出来るだけ取リ去って食べる方法があります。
また、野菜や果物のように繊維分を含む食品を合わせて食べることで腸内のバランスを整える方法もあります。
http://www9.plala.or.jp/kazeya/kenkou/nikusyoku.html


穀物は人間に合うが、肉は合わない

ガンの真因と栄養学の嘘 史上最大の調査「ザ・チャイナ・スタディ」2014-02-12


本シリーズではコリン・キャンベル氏の「葬られた第2のマクガバン報告」の内容を紹介していきたい。氏は40年間栄養学研究に携わってきた人物である。
この著書の元になったのが史上最大規模の栄養学調査である「ザ・チャイナ・スタディ」という研究だ。

1970年代末、中国の首相がガンだったこともあり、治療法を解明するため中国政府は1973年から1975年まで8億8千万を対象とした12種にわたるガン死亡率に関する調査を行なった。65万員の作業員が関与するという前代未聞の途方も無い大規模調査である。

この調査の最終結果は色分けされた分布図に描かれ、どの地域に特定のガンのタイプが多く、またほとんどガン患者がいない地域はどこかということを示していた
この調査によれば地域によって100倍の違いがあることが分かった。中国はほぼ漢民族単一であるため明らかに環境要因によるものであることを示す。

このデータを元にして、中国予防医学研究所、オックスフォード大、コーネル大によって、更に1983年〜1988年にかけて食習慣と病気に関する膨大な調査が行われた(共同研究)。対象は中国全土と台湾から1万6千700人を対象にして「食事と健康状態、ライフスタイル、社会的経済的特徴に関する1367項目」を調査。それが、チャイナスタディである


中国には、同じ漢民族でありがなら、実に多様な食習慣があり、ガンの発生率も地域によって100倍も開きがあったので、調査にはうってつけだった。
その結果は、驚くほど明確に、動物性食品を摂取すればするほど、病気を発症することを示していた。

しかも、比較的少量しか食べなくても動物性食品は有害な影響を及ぼしていた。一方、植物性の食べものを最も多く摂取していた人々は、健康で慢性の病気から免れる傾向がはっきりと証明された。

「人の健康には、動物性タンパク質が必要だ」という神話が、完全に崩壊してしまうような結果に、各業界が震撼した。


中国における咽頭ガンの地域分布(赤系ほど発生比率が高い)

余りにも今までの栄養学で信じられてきたことを覆すような内容だったので、このデータは多くの業界とそれに密着する政府からの圧力によって封印されていた。

以下はこの研究を指揮したコリン・キャンベル博士による。

この研究が行われた経緯は、コリン・キャンベル博士がフィリピンの子供の栄養状況を研究した際に、貧しい子供たちではなく、裕福な家庭(肉を食べる機会が多い)の子供にガンの発症が多いことを不思議に思い、ガンと動物性たんぱく質の関係を調べ始めたのがきっかけである。


まず先行してラットの研究が行なわれそこで驚くべきことが発見された。

発がん物質によってラットに肝臓がんを起こし、がん腫瘍の成長と餌の内容の関係を調べると、カロリーの20%が動物性タンパク質である餌を与えると、腫瘍は急激に拡大し、タンパク質の割合を10%以下にすると、腫瘍の拡大が停止した。更に、低レベルの発がん性物質にさらして、高タンパク(20%)の食事をしたラットと、高レベルの発がん性物質にさらして、低タンパク(5%)の食事をしたラットと比べたところ;、前者の(低発がん性物質・高タンパク)グループの方がはるかに多くの病巣を形成し、低タンパクグループは高レベルの発がん性物質にさらされているにも関わらず、ほとんど病巣を形成しなかった。実は、この実験で使われたタンパク質とは、「カゼイン」というもので、牛乳のタンパクの主成分。(日本では乳化剤としても使用されている)

後に肉や魚、卵など他の動物性タンパク質でも同様の結果がでた。

しかし驚くべきことに、植物性タンパク質では、たとえ高レベルの量を摂取しても、ガンの増殖を促進することはなかった。

低たんぱく食のラットは他のラットと比べてずっと長生きで、ラットの平均寿命である100週目を迎えてもスリムな体つきで毛並みもよかった。一方で高たんぱく食のラットは全部死亡した。低タンパク食のラットはカロリーを燃焼するのに効果的な「褐色脂肪組織」レベルが高く、実は低たんぱく食はカロリー消費を高める。

低たんぱく食のラットは、体をよく動かして(およそ2倍の運動量)実に健康的だった。

このラットの実験結果が人間にも当てはまるのかを確認するために、行われたのが「チャイナスタディ」なのである。
http://blog.sizen-kankyo.com/blog/2014/02/1452.html#more

人類の祖先は肉食で農耕の歴史はごく僅かという詭弁

糖質制限食の熱狂的な支持者の方々が糖質制限食の正しさを主張する為に、よく仰る事が以下の事。多分、皆さんも何度も聞かれた事があると思います。

「人類の歴史は400万年ですが、人類は、本来、肉食であり、農耕を始めて糖質中心の食生活になったのは僅か1万年前です。人類はそもそも肉食であり糖質を摂る食生活に適した身体ではない。」

糖質制限食を推奨する方達のブログを見ていると、ほとんどの方達がコピーしたように同じ事を書かれています。

「言わぬが花」

そう思って今まで黙っていましたが、上記の記述がドンドン拡散する現状を見て、やはり修正すべきは修正しなければと思った次第です。まあ、糖質制限食のご本尊様も同じ事を言っておられるので、その受け売りで皆さんコピペして書かれているのだろうと思います。

人類の発祥をヒト科という点で捉えると、厳密に言えば700万年前になります。別に歴史の授業ではありませんので400万年でもどちらでも結構ですが、ここから先の話はアバウトで大雑把な話とするわけにはいきません。

皆さんは大きな勘違いをしておられます。

糖質制限食を信奉されている皆さんも、そして私も、700万年前から進化し続けて今に至っているわけではありません。この700万年の間、人類は少なくとも17〜18種類以上のヒト属が生まれそして滅んでいったのです。最後の方まで残っていたのがネアンデルタール人(後に絶滅)で一部の地域で現代人に1〜5%程度の遺伝子が残っているという説もあります。

私達の祖先はアフリカで10万年前に誕生したホモサピエンス(新人)で、今も地球に存在している人類は全てホモサピエンスなのです。他のヒト属は全て絶滅していますから実質的に人類の歴史は10万年程という事になる。

ホモサピエンスとネアンデルタール人は共存していた時期があると考えられており、一部にはホモサピエンスによって滅ぼされたという推論もありますがよく分らないというのが実情です。脳の容積ではネアンデルタール人の方が大きかったという説もあるのですが、より優秀であった筈の彼らが滅び、何故ホモサピエンスが生き残ったのかは謎です。いろんな説がある事はありますけどね。

10万年前に誕生した私達の祖先の出自はアフリカですから、それが世界各地に拡散するまでには数万年を要したのではないでしょうか。そうだとすると、皆さんが指摘されている人類700万年の歴史の中で農耕は僅か1万年という考え方は大きな間違いという事になります。

そもそも180万年前までは、まだ猿人の時代です。今の人間とは似ても似つかぬ姿です。その後の原人だって同様です。誰が見ても人間とは思わない筈です。ホモサピエンス以外の絶滅したヒト属は環境に適応できなかったのでしょうねぇ。

人類の歴史の中で最初の生態が自然だという考え方は「進化」を無視している事になります。当初の食の嗜好が一番適しているのなら我々は生の獣肉や昆虫そして植物の芽を生で食べた方が良い事になる。進化というのは環境の変化に対応する事で成り立ちます。他のヒト属17〜8種類が絶滅したのはそういう事なのではないでしょうか。

因みに日常的に火を使っていた形跡が確認されているのは2万5千年前です。

件の論法であれば、火を使わずに獣の生肉を食べるのが本来の姿なのですから、そういう食べ方をした方が健康に良いという事になります。私にはとても無理ですけどね。。。

最後に、世界的に超有名なドクターであるS先生の話を聞いたら、極度の糖質制限食はあまりにも恐くて続ける気が失せます。私が友人や知人に糖質制限食だけはやめた方が良いと言うのはそういう理由もあるのですけどね。
http://diabetesmellitus.seesaa.net/article/306569791.html

10. 中川隆[-8999] koaQ7Jey 2020年12月24日 03:49:24 : aGnHCluepw : QUpEcE1zWnhLNEk=[32] 報告
肉食のアウストラロピテクスとネアンデルタール人は滅びて、穀物食のホモサピエンスだけが生き残った

タンパク質に記録された食生活:肉食率は復元できるか
米田 穣(環境研・化学)・梅崎昌裕(東大・医・人類生態)・吉永 淳(東大・新領域)

 地球上の極めて多様な環境に適応しているヒトという生物種を理解するためには、適応形態の多様性を踏まえた上で、通文化的な議論を可能とする共通の視点が必要となる。そのようなアプローチのひとつとして、背景となる自然環境を通して人類集団を理解する生態学的な視点は非常に有効であることは広く認められている。

このような研究によって、現代の人類集団に関して集団間の比較が可能であり、それと同時に分析対象を時間軸に関して拡張して時代差などの議論も可能である。すなわち、先史時代の人類集団に対しても生態学的な視点に基づいた研究は広くなされており、先史時代人の物質文化や生活を理解する上で大きな成果をあげている。しかし、先史時代の人類集団を研究対象にする場合、発掘によって実際に入手できる考古学資料は、遺跡形成時とそれに引き続く堆積中での埋蔵という二重のバイアスをうけていることに注意せねばならない。

例えば、食物の残滓の中でも骨や貝殻などの動物質食料は遺存しやすいが、植物遺存体は埋蔵条件に恵まれない限り出土しないことが一般的である。そのため、考古学遺物から当時の人々の暮らしぶりを復元するためには、断片的な食料残渣や道具の組み合わせ、あるいは遺跡の立地などから多くを推測する必要があり、具体的な議論は必ずしも容易ではない。

 これとは少し異なったアプローチとして、ヒトを生態系における物質循環の一員として考える生物地球化学的な視点がある。これは食物網(食物連鎖)というサイクルのなかで循環している物質の動きに着目して、その動態からヒトの生態系におけるポジションを考察するミクロな視点に基づく研究である。

このような視点から見ると、ヒトの体内にも食物、飲料水などを通じて、彼らの適応した地域環境の特徴が反映されるはずである。この原理を応用して、先史時代人類集団の食生活に関する分析手法が開発されている。

例えば人骨に残存するタンパク質、コラーゲンの炭素・窒素安定同位体比を測定することによって、コラーゲンを構成する元素の由来、すなわち食物の組成をある程度定量的にを復元することが可能である。特に本稿のトピックスである「肉食率」について、具体的な考古学的証拠を持って議論することは必ずしも容易ではない。一方、骨の化学成分という具体的な証拠は人類進化で肉食が果した役割を検討する上で非常に有効な情報を提供できる可能性がある。


2.方法の原理

 我々の身体を構成する全ての組織は、食べものや飲み水あるいは呼吸によって取り込まれた元素によって構成されている。また、同時に組織を構成する元素は常に入れ替わっており、我々の身体は周囲の環境と動的な平衡状態にあるといえる。この物質の流れを追跡するために目印となるものをトレーサーとよび、元素の中で少しだけ重さの違う同位体や、主要元素と同じ様な化学的特徴を持った微量元素(例えばカルシウムに含まれるストロンチウム)などがトレーサーとして有効である。例えば、生物体を構成する主要元素である炭素と窒素では、それぞれ13Cと15Nという同位体が少量存在し、植物の光合成回路の相違(C3植物とC4植物)や海生動物と陸生動物の間などで明らかに異なる傾向が示される。

この相違を利用して、体組織形成に伴う同位体の変動を差し引くことで、組織を構成する元素の由来、すなわち摂取された食物の種類をある程度の定量的に復元することが可能となる。なかでも窒素同位体15Nは動物体内に濃縮されるので、肉食の指標として有効であると期待される。

しかし、自然界では常に例外的な事例も存在しており、野生生物の研究から水不足や飢餓などによって窒素の同位体比が変動することが報告されている。また、陸上の生態系ではいわゆる食物連鎖が比較的単純であり、大型肉食動物が生息しない地域では食物連鎖で上下関係にある植物と動物の間で同位体の大きなシフトを期待することができない。そのため、雑食性の人類集団におけるタンパク質摂取で肉類がいかに重要であったかという微妙な評価は必ずしも容易ではない。

 しかし、肉食が人類進化で果たした役割は非常に重要であり、定量的な分析方法を議論することには大きな意義がある。同位体比の情報から肉食の重要性を定量的に議論することが本当に困難であるのか、それとも何らかの特徴として現れるのかを検討する必要がある。そのためには現代人類を対象とした同位体比的研究と、彼らの食生活を定量的に記録する生態人類学的調査を並行して行うことが非常に重要である。

 今回の研究では、パプアニューギニア高地人(フリ)を対象として、サツマイモを主食とする高地地方・タリ盆地居住のフリと、首都ポートモレスビーで市場に流通する食物を中心とした食生活をおくるフリから爪を分析試料として採取した(写真参照)。両地域において、家庭に出入りする食料品全点の重さを記録するという方法で食生態に関する基本的な情報が記録されている。

その結果、タリ盆地の高地人の食生態は非常に少ないタンパク質摂取量に特徴づけられることが明らかになっており、都市部とは全く異なる食生態に適応していると言うことができる。はたして低タンパク食という特殊な栄養環境において、爪の同位体における傾向がどのように変動するか、あるいは何らかの生理学的な適応が存在するのかを同位体比から議論したい。さらにその結果を踏まえて、同位体比を肉食率の指標として初期人類を含めた先史人類集団に適応することができるかを考察することが本研究の目的である。

3.化石人類へ応用例
 人類進化における「肉食」の役割という視点から議論を進める為には、化石化過程という大きな化学的変性を経た試料から生体に由来する情報を抽出する必要がある。堆積に長時間埋没していた骨試料では、続成作用と呼ばれる化学的な変化によって我々が知りたい食べ物の組成に関する情報がかき消されてしまっている可能性を常に考慮せねばならない。化石組織の化学組成が食生活の情報を保持していることを証明するのは容易ではないが、同じ遺跡から出土した食性の異なる動物骨を参照することで間接的な証拠を得られる。

例えば、骨の無機成分であるハイドロキシアパタイト結晶に含まれる微量元素ストロンチウム(Sr)と主成分のカルシウム(Ca)の濃度から、南アフリカのスワルトクランス遺跡出土のアウストラロピテクス・ロブストゥスの肉食率を推定した研究(Sillen, 1992)では、肉食動物と草食動物の骨におけるSr/Ca比を同時に測定し、両者の間で期待される種間差が認められたことから、同遺跡の堆積環境ではSr/Ca比に記録された食性のシグナルは保持されていると結論している(図1)。

草食動物および肉食動物とアウストラロピテクスについてSr/Ca比を比較することによって、この種が従来考えられていたよりも肉食率が高い食生活を有しており、草食というよりは雑食に近いという結果が示唆された。


 また、Lee-Thorpら(1994)は、同じくスワルトクランス遺跡出土のアウストラロピテクス・ロブストゥスの歯のエナメル質を分析している。この研究では、主成分であるハイドロキシアパタイトに含まれる炭酸基(CO32-)の炭素について13C/12C比が測定され、食性の推定に応用されている(Lee-Thorp et al., 1994)。この場合も動物骨との比較から続成作用の影響を評価して、その結果からアウストラロピテクス・ロブストゥスの肉食率が計算されている。

その結果、Sr/Ca比で示されたのと同じように、やはり肉食率がかなり高かった可能性が示唆されている。


 上記2つの研究は、いずれも骨や歯の無機主成分であるハイドロキシアパタイトを分析の対象としている。骨の無機質は、生体においてはカルシウムの貯蔵庫という役割があるため、一般的に結晶が未成熟で不完全である。そのため、土壌に埋没している間に周囲から元素を取り込みながら結晶を成長させる危険がある。この性質のため、骨の無機質は一般的に続成作用の影響が大きく、動物骨などから生態系全体に関する傾向を確認した上で慎重に検討する必要があり、その記録は必ずしも食性の復元に使えるとは限らない。一方、骨組織を構成する有機分画の主成分であるコラーゲンは、化学的に安定な構造を持っており、土壌中でも比較的変質しにくいという特徴があるため、過去の食性に関する研究には有効である。しかしながら、1万年よりも古い資料で状態の良いコラーゲンが残存していることは非常に希であり、初期人類を対象にした分析は困難だと考えられる。

興味深い研究例としては、中期旧石器時代のネアンデルタール人の骨から抽出したコラーゲンで炭素と窒素の同位体比を調べたところ、非常に高い肉食率を示したという結果が報告されている(図2:Bocherence et al., 1991)。

4.同位体比から見たパプアニューギニア高地人の低タンパク適応
 本研究では、パプアニューギニア中部タリ盆地に居住するフリ語を話す人々を対象としてパプアニューギニア高地人の栄養生態を研究した。パプアニューギニア高地人は、タンパク質摂取量が非常に少ないにも関わらず貧血症状などの低栄養状態が認められず、筋骨たくましい体型を保持していることで広く研究者の注目を集めてきた(奥田, 1984)。その適応モデルは発育の低下と同時にタンパク質から代謝された尿素の排出の抑制によるという説が提唱されている。

一方、窒素収支を測定し、それが大きく負となることを報告したグループは食物以外からの窒素固定、すなわち腸内細菌が大気中の窒素を固定する作用を認めたと報告している。現在では前者の説を支持する研究者が多いようであるが、人類集団では長期の栄養実験は困難であり、具体的な生理的適応を証明することは容易ではなく、そのメカニズムが明らかであるとは言い難い。

 一方、窒素代謝と同位体比の関係をみると、生態系における食物連鎖では捕食者と被捕食者の間で一定の割合で15Nが濃縮することが知られている。これは体内における窒素代謝において、尿素として排出される窒素に軽い14Nが多く含まれるのが原因と考えられている。また、野生動物の観察では、前述したように低栄養状態の草食動物で15N/14N比が高くっているのが認められ、尿素の再利用効率が上昇したことが原因であると説明されている。これと同様の現象が、イモ類を中心とした低タンパク食を日常的に摂取しているパプアニューギニア高地人でも認められるならば、彼らの窒素代謝の特徴は体組織の同位体比として記録されている可能性がある。すなわち、もしもパプアニューギニア高地人が尿素の再利用効率を高めることで低栄養状態に対応しているのであれば、彼らの体組織の窒素同位体比も高くなることが期待される。

一方、腸内細菌が大気窒素を直接的に固定しているのであれば比較的低い窒素同位体比が体組織においても観察されるはずである。また、そのような適応をした人々が都市部に移住して栄養状態が改善した場合、そのタンパク質摂取量の上昇が炭素あるいは窒素の同位体比としてどのように記録されているかを観察することが可能であり、肉食率の変化を同位体で読み解くことが出来るかどうかを検討することができるはずである。


 本研究では、著者のひとりである梅崎が1994年3月から1995年6月にわたって秤量法による食生態の調査を実施した際に、

@低タンパク食を摂取してた日本人、

Aサツマイモ中心の低タンパク食を伝統とするフリ(現地住民)から爪試料の提供を受け、それを元素分析計・安定同位体比質量分析計を用いて炭素・窒素安定同位体比を測定した。さらに、

B典型的な現代日本人の食生活で形成された日本人の爪、

C首都ポートモレスビーに移住し脂質・タンパク質を多く含む食生活をおくっているフリの人々の爪試料、


合計4種類のサンプルを比較する。


それによって、高タンパク摂取に適応した集団(日本人)と低タンパク摂取に適応した集団(フリ)において、低タンパク食(タリ盆地)と高タンパク食(日本およびポートモレスビー)という異なる食性が安定同位体というトレーサーにどのように記録されるのかを検討する。さらに、その結果に基づいて、炭素および窒素の安定同位体比という指標が過去を含めた人類集団の肉食の指標として応用することが可能であるかを議論することを最終的な目的としている。

 図3に爪試料における炭素・窒素同位体比の分析結果を示す。図中の楕円で示されたように、

低タンパク食を取っている時の日本人(グループ@:細破線)、
日本で生活している時の日本人(グループA:細実線)、
ニューギニア高地で低タンパクの食生活を送っているフリ(グループB:太破線)、そして
都市部でタンパク質や脂質を十分に摂取しているフリ(グループC:太実線)、

これらの4グループは炭素・窒素安定同位体比において互いに異なる傾向を示した。

とくに注目すべき点は、ほぼ同じ様な低タンパク食を摂取していたグループ@の日本人とグループBのフリの結果が重ならない点である。これは同じ原料を用いているにもかかわらず、両者の間で代謝が異なるため最終産物であるタンパク質の同位体比が異なることを示唆する可能性がある。しなしながら、その相違は期待された窒素同位体比の値よりもむしろ炭素同位体における相違として明確である。今回の試料は窒素同位体比の値が必ずしも安定でない傾向が認められるため、さらに詳しい検討を加える必要があるが、同位体分析の結果からもパプアニューギニア高地人における代謝レベルでの低タンパク食への適応の証拠が示されたと考えられる。

また、低タンパク適応しているが都市部においてタンパク質や脂質の豊富な食生活を送っているグループCのフリは、明らかに低タンパク食のグループBとは異なる窒素同位体比を示している。この結果からは、タンパク質摂取量の相違が体組織の窒素同位体比として記録されると考えることも可能であるが、日本人の結果をみると日本における高タンパク質の食生活からパプアニューギニア高地のサツマイモ中心の食生活に移行した影響は窒素同位体比では明らかでなく、むしろ炭素同位体比で明らかである。この相違はポートモレスビーにおけるタンパク質資源と比較して日本におけるタンパク質が海産物に由来する割合が多いことを意味するのかもしれない。これについてはさらに詳細な食事調査の結果と比較検討せねばならない。


5.結語
 今回、それぞれ高タンパク食と低タンパク食を摂取した日本人とパプアニューギニア高地人(フリ)の爪における炭素・窒素安定同位体比を比較した。

その結果、同様にタンパク質が少ない食生活をおくっていたにもかかわらず日本人とフリの間では同位体比の傾向が異なることが明らかになった。これは人類集団の間で同位体比情報に影響を与える代謝の相違が存在する可能性を示唆しており、大幅に適応環境が異なる人類集団で同位体比を比較して、その食生活やそれから推定される生業活動を比較する場合には十分な注意を要することを意味している。今後、生理学的な背景を含めてより総合的な調査を進めることによって、パプアニューギニア高地人とわれわれ日本人の間で認められた同位体比の相違が何を意味するのかをより適切に理解することが可能だと考えられる。その結果を踏まえて代謝の状態を考慮することで同位体を用いた食生態研究や、古食性復元への応用がより適切に行われるようになると期待される。そのためには分析対象をコラーゲンやケラチンといったタンパク質レベルから、さらに細かい個々のアミノ酸レベルにステップアップすることが必要である。それによって必須アミノ酸と非必須アミノ酸の比較などが可能となり、より詳細な食生態を復元することが可能となる。そのような検討を進めることで、生物地球化学的な手法はより正確で詳細に先史時代の食生活に関する復元図を提供し、考古学の成果とともに先史時代人の生活についての理解を深めるためのより強力な道具となる。
http://anthro.zool.kyoto-u.ac.jp/evo_anth/evo_anth/symp9911/yoneda/yoneda.html


要するに、ホモサピエンス以外の初期人類は確かに肉食だったが、すべて滅び、植物食のホモサピエンスだけが生き延びられたという事なのですね。

人間が体に合わない肉食をすると必ず滅びるという事かな。

11. 中川隆[-8998] koaQ7Jey 2020年12月24日 03:51:20 : aGnHCluepw : QUpEcE1zWnhLNEk=[33] 報告
肉食人種が、滅びる事は地球の人類歴史が証明!!

■肉食が癌を生み出す!

癌体質改善の必要条件は『肉、乳製品、化学添加物』を止める事です。

そしてその理由を、137億年の地球の歴史から考えます。


宇宙では、137億年前に ビッグバンが起き

そして、46億年前に地球が生まれました。

やがて、海と陸が出来、

そこに、植物、動物が多数生まれ 

そうして、600万年前に

猿から人間の先祖が生まれました。

それは、
猿人→ 原人→ 旧人→ 新人

という呼び名で変遷(滅亡と勃興)をして行きます。

時系列では

猿人は、600万年前に出現〜約250万年前に絶滅      
原人は、250万年前に出現〜約50万年前に絶滅
(火を使えるようになったのは約50万年前)
旧人は、50万年前に出現〜約5万年前に絶滅
新人(ホモ・サピエンス)=現代人は10万年前に誕生

となっていますが、

実は、

猿人→→→→
      原人→→→
           旧人→→→
                新人→→現代人

というように

急に、新人種になったのではなく
(→)の先と新種が出現するときに
それぞれ端境期(同時進行の時)があります。

その端境期には、交配があったと思われます。

そして、
生き残ったのは『雑食系』の新人です。


では、
滅亡した原人や旧人は最終的には

『何食』を選んだのかといいますと

↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓

『肉食』を選んだのです。


これらの原人や旧人の中で
肉食だけを選らんだ大多数は
最後は
体が腐って(癌になって)滅亡しました。

ここで、注目したいのは

その一方で、
原人や旧人の生き残りから生まれた新人は、

原人や旧人が『肉食』で『癌になり滅びた』のを確認したか
確認しなかったかは不明ですが

穀物類(デンプン)をアミラーゼで消化吸収
出来るようになっていたので『雑食』になれたのです。
⇒サルから受け継いだ雑食ですが、人間だけが、
アミラーゼを「唾液」で1段階目、
「すい臓」から2段階目に出し消化吸収出来る体に
なりました。

その様な時、砂漠化等で
6万年前にアフリカで食べるものがなくなり出したので、

仕方なくアフリカを出た新人は

世界に散らばり各地で暮らし
各地で独特のデンプンを食べる食生活をしながら
肉も食べ数万年かけて現在に至っています。
http://ameblo.jp/amino-san07/entry-11656278888.html


ネアンデルタール人が滅びて、ホモサピエンスだけが生き残れた理由

わずかな差が命運を分けた


 技術や社会構造、伝統文化といった、集団生活から生まれる要素は、厳しい環境の影響を和らげて、集団の生存力を高めると考えられている。ネアンデルタール人の社会は、この点でも、私たちとは異なっていたかもしれない。

 たとえば、アフリカから移動してきた現生人類の集団では、男が大型の獲物を追って狩りをし、女や子どもは小動物をつかまえ、木の実や植物を採集する分業が成立していた。アリゾナ大学のメアリー・スタイナーとスティーブン・クーンによれば、こうした効率的な狩猟採集の方法が、食生活を多様にしていたという。

 一方、ネアンデルタール人は、イスラエル南部からドイツ北部までの遺跡調査で、ウマ、シカ、ヤギュウなど、大型から中型の哺乳類をとらえる狩猟生活にほぼ完全に依存していたことがわかっている(地中海沿岸では貝も食べていた)。植物も少しは口にしたようだが、植物を加工して食べた痕跡が見つかっていないことから、スタイナーらは、ネアンデルタール人にとって植物は副食にすぎなかったとみている。

 ネアンデルタール人のがっしりした体を維持するには、高カロリーの食事が必要だった。特に高緯度地方や、気候が厳しさを増した時期には、女や子どもも狩猟に駆り出されただろう。腕や頭の骨に折れた跡が多く見られることから、狩りは「荒っぽく危険な仕事」だったと、スタイナーらは論文で述べている。

 片や、現生人類は集団内で分業が成立し、食生活が多様化していたので、リスクを分散できたはずだと、スタイナーは語る。「そのおかげで、妊婦や子どもが守られたのです」

 社会集団の規模も重要だった。古人類学者のトリンカウスによれば、ネアンデルタール人の社会単位は、3世代が集まった大家族ほどの規模だったという。それに対して、欧州で発見された初期の現生人類の遺跡の中には、「もっと大規模な集団だったことを示す遺跡が見つかっている」と、彼は話す。
http://nationalgeographic.jp/nng/magazine/0810/feature02/_07.shtml

要するに人間は肉食では生きていけないのです。

ネアンデルタール人は植物を調理して食物にしていた;肉食への偏りは大きかったが

2011-01-25 05:40:47

 20数万年前に氷河期のヨーロッパに現れ、おそらく現生人類ホモ・サピエンスとの生存競争に敗れて2.8万年前に絶滅したと考えられるネアンデルタール人は、旺盛な代謝を維持するために、これまで肉食に特化していたと考えられていた。実際、ネアンデルタール人の骨の元素同位体分析研究で、彼らの食性は肉食のオオカミやホッキョクギツネと似たものであったことが分かっている。

イラクとベルギーの化石歯の歯石から穀物調理の証拠

 しかしネアンデルタール人は、ある種の調理をして、その土地で利用できる多様な野生植物を食用にしていたことを、アマンダ・ヘンリ、アリソン・ブルックスら、アメリカ、スミソニアン自然史博物館の人類学研究チームが発見した。アメリカ国立科学アカデミー紀要(Proceedings of the National Academy of Sciences、PNAS)の昨年(2010年)の12月27日付オンライン版で報告された。

 同チームは、イラク、シャニダール洞窟(写真上)出土のシャニダール3号(写真中央=1960年代の発掘時)とベルギー、スピー洞窟(写真下)出土のスピー1号、2号の歯に残った歯石を分析し、顕微鏡観察である種の植物化石とでんぷん粒を見つけた。それらには、今日でもヒトに利用されているナツメヤシ、豆類、ムギ類の草本類種子が含まれる一方、あまり食用にされていないものも検出された。
 草の種子のでんぷん粒は、調理に特徴的な損傷も受けていた。ネアンデルタール人は、野草や穀類を、火加減を調節しながら上手に調理して食べていたと考えられるという。


肉食であったのは確かだが

 イラクという温暖な東部地中海沿岸地方でも、ベルギーという寒冷な北西ヨーロッパでも、緯度の差を超えて、ネアンデルタール人はその土地に自生する様々な食用植物を利用し、しかもそれを食べやすいように調理をしていたことが判明した。彼らの食生活は、これまで考えられていた以上に洗練されたものであったらしい。
 これまでネアンデルタール人の遺跡であるムステリアン遺跡で、植物類をひいて粉にしていたことを証明する石器類などは見つかっていない。その一方、食用にした動物の骨、動物を解体するのに用いた石器類は、例外なく見つかっており、また寒冷な氷河期のヨーロッパで簡単な毛皮1枚で過ごすのに1日4000キロカロリーもの活発な代謝を行っていたと骨格から推定されていた。

 その肉を得るために、危険な大型動物にも果敢に狩りを挑んでいたらしく、ネアンデルタール人の化石には、多数の骨折跡が観察されている。


ネアンデルタール人の植物食の科学的証拠は初めて
 上記の理由から、ネアンデルタール人肉食説は揺るがないものの、肉食一辺倒ではなく、植物食も頻繁に利用していたことが判明した。ちなみにネアンデルタール人が植物食を摂っていたことが科学的に証明されたのは、これが初めてのことである。

 なお最古の自生穀物の利用の証拠は、すでに一昨年12月18号にアメリカ科学週刊誌『サイエンス』で10万年前頃にさかのぼる証拠が報告されている(2010年1月8日付日記「ベトナム、カンボジアの旅:アンコール遺跡群K=タ・プローム、崩壊した寺院(下)と南部アフリカの10万年前の穀物利用」を参照)。アフリカ、モザンビークの洞窟で発見されたMSA(中期石器時代)石器からイネ科植物ソルガムの種子をすりつぶした跡が見いだされた例がある。
http://ameblo.jp/kawai-n1/entry-10778999721.html


12. 中川隆[-8997] koaQ7Jey 2020年12月24日 03:53:51 : aGnHCluepw : QUpEcE1zWnhLNEk=[34] 報告
人間は『肉食動物』ではない! 理論編 
■特に米が主食だった日本人には、肉類は合わない!■

ここ5000〜10000年前くらいの期間で
人間という動物を、肉食か?そうでないか?
という区分けで考えますと
↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓
解剖学(生体構造)、生理学、生化学、心理学は、
いずれも人間が肉食でないことを示しています。


★いつも言いますが、人間も、実は品種改良の産物です。

約5〜600万年前にピテカントロプス・エレクトス
北京原人=シナントロプス・ペキネンシス
(私は、中学でこう習ったが最近は、ホモ・エレクトス・ペキネンシスと呼ばれる)
明石原人=ニホノトロプス・アカシネンシス(?)
ネアンデルタール等の猿と人間に区別できるような生物が誕生しました。

そこから数々の変遷があり、

約17000年前頃に、日本列島に日本人の先祖が住みだしました。
これが、現在の日本人(我々)の先祖です。

この時、既に
サルから人間という品種に改良されていました。

そして、
★私たちの体の組織や骨の形、生理機能から、
人類を含む霊長類は、
⇒『植物性食物』を主に食べて生きる動物であるという結論が出ています。

その過程を解説しますと、例えば、
私たちに一番近い親戚であるといわれるチンパンジーは、
自然環境では『果物』を中心に食べるほぼ完全な『菜食動物』です。
そのチンパンジーは、雨が少なく果物が少ない季節には、
『種や花』や、『やわらかい茎』や『木の皮』を食べます。

そして、
上記に挙げた原人などの歯の形を見て、
『人間』という品種になった動物の祖先も、
サルから少し改良(?)されただけですから、
『やわらかい茎』や『木の皮』を食べていたことも
歯形の特徴から明らかになっています。(*01)


■■━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━■■
【*01参照】

皮は、外側の皮の内側にある「形成層」という部分を食べています。
ここは、木の根から上部に向かって水などを送る導管や、
上部から根に向かってブドウ糖などを送る師管がある場所で、
木を輪切りにした場合、生きた細胞が集中して存在する場所です。
外の皮よりも軟らかいし、他の部分よりも栄養がある部分です。
■■━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━■■

この様に
同じものを食べていたのに、サルから人間という品種が生まれ、
その後、現在に至るまで栄えた理由は?

といいますと、(★ここから肝腎!)

ご存知の方も多いと思いますが、
↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓
人間とチンパンジーのDNAは、約99%が同じです。

しかし、1%の違いの部分の中に、

なんと!
『デンプン』を消化・吸収する遺伝子を含んでいるのです。
↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓
これが、初期の人類に進化(品種改良)してきた決定要因なのです。


遺伝子検査の結果、
消化を助けるエンザイム、アミラーゼの合成に関する遺伝子のコピーの数が、
人間では、平均『6つ』あるのですが、
他の霊長類(品種改良されなかったサル達)には『2つ』しかありません。

この遺伝的な違いがあって、
唾液を比べると、人間のほうが他の霊長類より
↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓
『デンプン』の消化吸収を助けるエンザイムの量が6〜8倍多いのです。

その結果、
霊長類たちはこの『デンプン』を消化する能力が低いという欠点から
一年中果物が豊富なジャングルで暮らすしか方法が無いのです。

この『デンプンを効率よく利用することの出来る能力』を持った人類は、
アフリカから脱出するチャンスを得たので、
地球のほかの土地(果物が夏や秋だけにしか収穫出来ない土地)をも、
人間を生み育て制覇することが出来たのです。

デンプンの多く含まれる根菜や穀類は、カロリーが濃縮され
冬中食料として使える保存食料となれました。
そして、
地理的にも広範囲に存在し、安易に収穫することができます。

また、デンプンのカロリーの高さが
高いエネルギーを必要とする脳の発展に役立ち、
人類の脳を大きくしたのです。
↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓
ヒトの脳はサルの脳の3倍あります。

ですから、
デンプンは、原子人類にとっても重要な食料品でありましたから、
約2万年経過しましても『現在の人間』にとっても重要な食料源なのです。


★ここで話を、日本の人類の生物的歴史に絞りますと、

1700万年前から始まった縄文時代は、
基本的に食物採集の文化でしたので、
縄文人たちは採集した食物を食べ、
余ったものは穴や屋根裏に貯蔵して、
必要に応じて取り出したものと思われます。
貯蔵されていた食物の内訳は、
クルミ、クリ、トチ、ドングリなどの堅果類が中心でした。
このことから、
縄文人の主食はこれら堅果類であったと推測されています。
なかでもドングリ類の比重が高かったようです。

一方、
副食の中心は魚介類でした。

ということで、
洋の東西を問わず、人間は肉食ではない事、
特に日本人のDNA=遺伝=品種改良を見た場合は、
肉食中心ではないことが分かります。
http://dreamfood.blog.fc2.com/blog-entry-48.html


人間は『肉食動物』ではない! 理論編 02

■肉食で、騙されている日本人

前回は、
縄文人の主食はこれら堅果類であったと推測されています。
なかでもドングリ類の比重が高かったようです。
一方、
副食の中心は魚介類でした。

ということで、
洋の東西を問わず、人間は肉食ではない事、
特に日本人のDNA=遺伝=品種改良を見た場合は、
肉食中心ではないことが分かります。

というところで終わりましたが、

人間は、肉食中心ではないですが、
肉も仕方なく『たんぱく源』として食べていたようで、
縄文遺跡からは獣骨も出土しています。

代表的なのはシカとイノシシであり、
その他、クマやカモシカ、キツネ、タヌキ、ノウサギなどです。

そのような中、
縄文時代末期から弥生時代(約3,000年)にかけて、
┏━━━━━━━━━━━━━━━┓

  水稲の栽培が日本に伝わり、

┗━━━━━━━━━━━━━━━┛
それ以降、今日に至るまで、『米』が日本人の主食となりました!
しかし、
弥生時代においては米の生産性は低く、
米だけで主食をまかなうには不十分でした。


★今でこそ反当り10俵(40斗)以上の収穫が可能になりましたが
弥生時代にあっては、後期でも8斗前後だったようですから、
それから換算すると、
弥生時代における一人一日あたりの米の消費量は
⇒せいぜい『1合』前後だったようです。

これでは、 
(植物性の)『たんぱく源』が足りないので、
↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓
弥生時代になって畑作も発達し稲の栽培技術をもとに、
畑での植物栽培も始まり、

これで日本人は本格的な農耕時代に入りました。


その弥生時代の畑作物の代表は麦類で、
それも大麦と小麦が大部分を占めていました。
また、
ヒエやアワ、豆類なども多く栽培されたようです。

弥生人たちはこれらをドングリにかわる第二の主食として取り入れ、
米と混ぜ合わしたりして食べていたのです。
↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓
★日本人に多い『消化酵素アミラーゼ』のおかげです。


一方、
ウリ科の植物や果実類の栽培も始まり、
弥生人たちの食生活は飛躍的に豊かなものとなったのです。

『米』が日本人にとって主食としての地位を次第に高めていくのに伴い、
↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓
副食には『魚介類』の比重がますます高まって行きました。←★
こうして
日本民俗の存続のために必要な栄養の体系が形成されて来ました。

★これが約2000年前に始まった現在日本人が受け継いでいる
『日本人の品種改良の開始時期です』

ところで、同じアジアでも、
お隣の中国でも米の普及に伴い、すでに新石器時代において、
牛、豚、アヒルなどを食肉用に飼う習慣が広まっていた。
それが今日の中華料理につながる伝統を形成して来ました。
しかし、
日本では、これらの獣肉が食卓の主役にはなりませんでした。

豊かな漁業資源が、

『米』と『魚』を中心にした日本の食文化を形作っていったのである。
⇒日本人のNDAは、『米』と『魚』を継承しています。

◆日本人の平均的な米の消費量は、中世以降明治・大正時代に至るまで、約1000年間も、1日あたり4合です。
1日に4合≒600g(体積をgに変換するのは実は困難)
でしたが、平成15年で既に1日165gに激減しています。

人類の歴史は、『人類の進化=品種改良』 

ですから、

 戦後から平成で『米』の食事が急減したことで、品種改良についていけなくなった、日本人が 多数いることが分かります。

もう少し『人間の人種改良』で説明しますと、

伊勢神宮の遷宮の20年を参考に
昔の人は20歳前後で子供を産んでいたとして、
1000年間では、人間は50回の品種改良して
昭和初期の日本人のDNAになっています。

それが戦後からでも晩婚化もあり
現在の日本人は
約3回しか『人間の人種改良』をする機会しか
ありませんでした。

その上、アメリカの占領下で食生活の急変が
スタートした時代の方=『日本人の体質劣化開始世代』の方も、
現在生存しておられます。
そして、
その方も食事は主に、『米』と『魚』を摂取することを継承し、
1000年間経過した人間の品種改良品として、
昭和初期の日本人のDNAでありながら、
米の代わりに急激に、
『肉、乳製品、添加物、輸入小麦粉』等が
摂取されていますから、1/3が癌になり死んでいます。

その子らの『日本人の体質劣化第2世代』の方は、
『肉、乳製品、添加物、輸入小麦粉』等を
食べても癌にならないような品種改良が済んでいない親から
生まれていますから、当然ながら
『肉、乳製品、添加物、輸入小麦粉』等を
食べたら癌になっています。

更に、
その子は『日本人の体質劣化第2世代』より更に劣化した
『日本人の体質劣化第3世代』ですから、
アトピーも食物アレルギーもオンパレードとなっています。

よく考えて下さいね。

人間は、穀物を『生』では消化できません。
日本人もそうでしたが、
たとえ調理(加熱)しても、
穀物の複合糖質を分解するには
アミラーゼ等の多大な消化活動が必要ですから、
腸の長い日本人の品種が、
1000年間ゆっくりと品種改良しながらも、
⇒今日まで日本人は子孫を継承してきました。

その日本人のDNAに沿った食事内容を
敗戦で、
グチャグチャにされ、

テレビで「肉、乳製品、洋菓子、添加物」を
美味しいと思わせて食べさせられて
アトピーやアレルギー、癌のオンパレードになっています。

日本国民はこの事に早く気付くべきです。


人間は『肉食動物』ではない! 理論編 03

★人間が肉食でないことは、
解剖学(生体構造)、生理学、生化学、心理学でも
論じられている事は記述しましたが、

解りやすいのは、
ヒトは、歯や爪などからだの構造から見みると、
植物から必要なものを補給するように進化してきた動物である
ということは誰が見てもわかります。

ヒトは、穀物や果実や根茎など、
植物が光合成で蓄えたデンプンを利用することによって、
生命を維持するようになった哺乳類の品種改良品です。

ですから、肉食で生きるエスキモーの方も例外ではなく、
彼らが移り住んだ地が、たまたま食糧となる植物がなく、
クジラなどの海に棲む哺乳類を捕食する以外に生きる術がなく、
その食生活に耐え抜いた品種の子孫のみが生きているのです。

また、
寒い北欧に住む西洋人が、牛肉を食べ牛乳を利用するのは、
穀物や野菜・果物が十分得られず、
人間が食べて消化吸収することのできない草を食べる牛や羊を養い、
その肉やミルクを食用にしなければならなかったからで、
その風土でしか取れない食生活に耐え抜いた品種の子孫のみが
今も生きているだけのことです。

西洋の地で発達した近代栄養学
(タンパク・ビタミン・ミネラルという成分栄養学)を、
高温多湿で穀物や野菜が豊富にある日本で、
そのまま盲目的に信用、引用、運用すべきではないのです。

この西洋人の肉・牛乳の食生活も、実は1000年まえからではなく
ここ150年ぐらいですから、
乳製品を多用する国は、癌の発症率は高く
未だ品種改良の最中なのか
このまま肉や乳製品を完全に体内に取り入れられず
癌のDNAを引き継いで絶滅危惧種になるかは、
『神のみぞ知る未来の欧米人』の姿です。

⇒最近では、有名なアメリカの女優さんが、
乳がんのDNAが遺伝しており
『乳がん発生確率が87%』と判断され
手術された話は有名になりました。
そして、
既に多くの方が施術をしていたことも
同時期に公表されましたが、
驚きませんでした。

我々の常識では、
乳製品を飲食したら『乳がんになる』のは
『あたりまえ』だからです。

アメリカでも1977年に上院のマクガバンは、
生活習慣病や、がんや心臓病などの主要な死因に関係する病気と
食生活とのつながりが科学的にはっきりしてきたため、
そのような病気を予防することも主な目的で
「 米国の食事目標」として報告した。
これは マクガバン報告、マクガバンレポートとも呼ばれていますが、

その中で、最も理想的な食事は、
元禄時代以前の日本人の食事である
ことが明記されおり、
結局は、
精白しない殻類を主食とし、
季節の野菜や海草や小さな魚介類
といった内容です。

それを無視して
グルメ雑誌に出てくるような
肉食、乳製品のチーズ、バター
乳製品のお菓子、油もの
を食べていたら
『乳がんになる確率は、80%を超える』
事は、誰でも想像できます。


■まとめ■
「人間は、現状では草食動物である」
雑食性のように思われているが、実は草食性である。
なので、
「肉」は、実は人の体に適していない。

草食動物にしか見られない歯の並び方が顕著。

消化液の性質でも、肉食動物と草食動物は違って、
草食動物は、
肉食動物の様な強力な蛋白質分解酵素をもっていない。

また、
肉食動物と草食動物では、腸の長さが異なっている。
肉食動物は短く、草食動物はかなり長い。
人間は、腸が長い部類に属している。

人間の体の蛋白は、全部自分の消化器官で造っているから、
更に、肉食で蛋白質をとる必要はまったくない。
更に、本来は不要です。

★肉を食べなければ、食生活が出来ないとか、
スタミナがつかないとか、成長しないとか、
というのはどこにも根拠のない稚拙な話である。
http://dreamfood.blog.fc2.com/blog-entry-50.html


西洋人は肉食だったネアンデルタールの血が入ってるから、肉食・金髪碧眼なんだよね。 日本人が肉食を真似したら全員癌で死ぬね。

13. 中川隆[-8996] koaQ7Jey 2020年12月24日 03:56:18 : aGnHCluepw : QUpEcE1zWnhLNEk=[35] 報告
初期人類は基本的に菜食

ネアンデルタール人は野菜好き
James Owen for National Geographic News
July 23, 2012


 スペイン北部にある洞窟から、ネアンデルタール人が植物を食べ、薬草を治療に用いていたことを示唆する痕跡が見つかった。この洞窟からは以前、先史時代のヒト属であるネアンデルタール人が仲間の脳を食べていた証拠も発見されている。
 最新研究において、スペイン、アストゥリアス州にあるエル・シドロン洞窟で見つかった5体のネアンデルタール人の骨を調べたところ、歯の部分から化学物質と食物の痕跡が検出されたという。

 5万年前の歯から採取した歯石を調べた結果、植物のデンプン粒が顕微鏡で観察された。デンプン粒はひび割れており、植物が事前に加熱されていたことを示していた。さらなる化学分析の結果、木を燃やした煙に含まれる化合物も見つかった。

 歯石からデンプンおよび炭水化物が見つかったことは、ネアンデルタール人が多様な植物を食べていたことを示す。一方で、肉に由来するタンパク質や脂質の痕跡は驚くほどわずかしか検出されなかった。

 バルセロナにあるカタルーニャ高等研究所の考古学者カレン・ハーディ(Karen Hardy)氏率いる研究チームによると、絶滅したヒト属の一種であるネアンデルタール人は、ステーキよりも野菜を焼いて食べるほうを好んだだけでなく、薬草を利用した治療法も知っていたという。

 洞窟に住んでいた彼らは、セイヨウノコギリソウ(ヤロウ)とカミツレ(カモミール)も食べていたことが明らかになった。いずれも栄養的価値に乏しく、苦い味のする植物だ。同じ研究チームによる以前の調査では、エル・シドロン洞窟に住んでいたネアンデルタール人は苦味を感じる遺伝子を有していたことが判明している。

「ネアンデルタール人はこれらの植物を口にして苦いと感じたはずだ。したがって、味以外の目的で口にしていた可能性が高く」、その目的とはおそらく治療だとハーディ氏は声明の中で述べている。「これは現在の高等霊長類をはじめ、多くの生物が示す自己治療の行動パターンとも十分に合致する」。

 ネアンデルタール人がこれらの植物にどのような治療効果を求めていたのかは知る由もないが、現生人類はさまざまな病気の治療にこれらを用いているとハーディ氏は指摘する。「カミツレは神経やストレスに効き、消化不良を改善する薬草としてよく知られる」一方、セイヨウノコギリソウは風邪や発熱に効き、殺菌作用もあるという。

◆野菜好きだったネアンデルタール人

 今回の発見をはじめ、もっぱら肉食だったとされるネアンデルタール人の評価に疑問を呈する研究結果が最近増えている。彼らが肉食だったという前提はこれまで、より幅広い食物の選択肢を持つ現生人類が、張り出した眉を持つこの近縁種に比べ生存競争で優位に立てた根拠とされていた。

「われわれの研究結果によって、ネアンデルタール人が草食を行っていたことを示す証拠がまた増えた」とハーディ氏は述べている。同氏は、ヨーク大学の考古化学者スティーブン・バックリー(Stephen Buckley)氏らとともに今回の研究を行った。

 ハーディ氏によると、スペインの洞窟に住んでいたこの集団が例外的な“野菜好き”だったとは考えられないという。「彼らが特殊な存在だったと考える理由は見当たらない。それでも、さまざまな異なる環境に暮らしていたネアンデルタール人の集団にこの種の調査を実施すれば、非常に興味深いことになるだろう」。

 今回の研究結果は、7月18日付で「Naturwissenschaften」誌オンライン版に発表された。

Image by Joe McNally, National Geographic

http://www.nationalgeographic.co.jp/news/news_article.php?file_id=20120723003&expand

要するに、人類は果物が一番好き、果物がない時期は野菜や木の実を食べる

エスキモーの様に植物が手に入らない環境では仕方なく生肉で我慢する


従って、人類は糖質が一番合った食べ物

炭水化物で癌になるというのはアホの妄想という事で間違いない

14. 中川隆[-8995] koaQ7Jey 2020年12月24日 03:57:22 : aGnHCluepw : QUpEcE1zWnhLNEk=[36] 報告
初期人類が骨を食べたという話は学会では相手にされていない:

人類は骨を食べた?


 島泰三さんは、人類はかつて骨を食べていたという珍説を提案している。これがNHKを初めとするテレビでも紹介されたという。いまのどの民族でも骨を食べている人はいない。いったいそんなことがあり得るのだろうか?

骨とは

 骨は生きている組織である。体の中で、絶えず作り替えられている(*1)。体をささえたり、筋肉とともに運動にあずかるし、カルシウム代謝にも重要な役割を果たしている。とても丈夫にできていて、簡単には折れないよう、硬さとしなやかさを併せ持つ。ちょうど鉄筋コンクリートのようなものだ。骨の硬さをつくるコンクリートにあたるのがハイドロキシアパタイトであり、鉄筋にあたるのが繊維状のタンパク質であるコラーゲンである。コラーゲンがないと、骨はもろくて簡単に折れてしまう(*2)。コラーゲンはタンパク質だから、食べることができれば栄養になる。骨を煮るとゼラチンがとれる。このゼラチンがコラーゲンの分解産物である。
 島さんは骨はしゃぶっていれば柔らかくなって食べられると言うが、それは間違いだ。唾(つば)ではハイドロキシアパタイトは分解できない。だから、どんなにしゃぶっていても、柔らかくなることはない(*3)。コンクリートをいくらなめても柔らかくならないのと同じだ。これは、実験すればすぐにわかることだ。鶏肉の骨付きモモを買ってきて、骨をしゃぶってみればいい(*4)。

骨を食べる条件

 イヌは骨付きの肉を与えると、噛んで割って食べたりする。しかし、これでは骨からいくらも栄養を得られないだろう。なぜなら噛み砕くわけではないからだ。骨を噛み砕いて食べる動物は、ハイエナくらいである。われわれヒトとは、歯のできが違う。巨大な臼歯だ。この歯で、骨をすりつぶす。そのため、歯はものすごく摩耗していて、まるで臼のようにへこんでいる。その糞は、カルシウムに富んでいて、まるでセメントだ。ヒトの歯と比べると、そのサイズも摩耗の程度も、雲泥の差がある。
 骨のように硬いものを噛み砕くためには、強力な咀嚼筋(そしゃくきん)が必要になる。側頭筋(そくとうきん)や咬筋(こうきん)である。ハイエナでは顔にこれらの筋が発達しているため、その顔を見ると丸っこく鈍重な感じがする。一方、ヒトの咀嚼筋は、もっぱら菜食主義の近縁の類人猿たちと比べても、非常に発達が悪く弱々しい(*5)(*6)。つまり、ヒトの歯や咀嚼筋は、骨のように硬いものを食べるつくりになっていないのである(*7)。

「骨食説?」

 骨をしゃぶってみるという簡単な実験で棄却されるのであれば、「骨食説」は、とても科学仮説として成り立たない。島のこの珍説は、だから学会で発表されず、学術雑誌に論文が一度も掲載されない。学界では存在しないのである。つまり典型的な俗説なのだ。それにもかかわらず、マスコミがもてはやす。
 世間には、こんな俗説はゴマンとある。だから、こんな説をマスコミが取り上げるのが問題だ(*8)。ちょっと考えてもいかがわしいし、ちゃんとした専門家に聞けばたちどころに誤りがわかるのに、それをしない。NHKなどの番組制作者の知的水準は、驚くほど低いと言えるだろう(*9)。


(*1) 骨は、たえず破骨細胞によって縦穴が開けられ、骨芽細胞によってふたたびその穴に骨がつくられる。このバランスが崩れ、穴を開けるスピードが修復のスピードを上まわると、骨がすかすかに穴が開いた状態になる。それを骨粗鬆症という。

(*2) 骨のコラーゲンが少ない症例に骨形成不全症がある。ちょっところんだだけで骨折してしまう。

(*3) 骨はその周囲を体液で囲まれている。もし骨が唾液でふやけるようなら、当然体液にもふやけるはずだ。ふやけてフニャフニャになったら、骨は役に立たないではないか。

(*4) 何日も骨を煮込めば、骨がもろくなり、食べられるかも知れない(やったことがないので、わからない)。これは、骨のなかのコラーゲンが抜けるからである。しかし、何日も煮込むような料理をしていたのでは、骨を食べるメリットはないだろう。

(*5) ゴリラは、かたい木の皮やタケノコなどを食べるため、咀嚼筋(そしゃくきん)がよく発達している。側頭筋は頭蓋冠(とうがいかん)まで覆い矢状稜(しじょうりょう)についている。ゴリラの頭骨を見たとき頭蓋骨の正中線に板状の骨が出っ張っているのが、矢状稜(しじょうりょう)である。これに対し、ヒトは柔らかなものを食べているため咀嚼筋の発達が悪く、側頭筋は頭蓋冠にまで到達せず矢状稜は認められない。

(*6) 植物性の硬い物を食べるサルには、下あごに「サルの棚」と呼ばれる出っ張りがあり、あごを頑丈にしている。しかし、ヒトの下顎はこれで補強されていない。つまり、柔らかいものしか食べられないつくりになっている。

(*7) 化石人類でも、歯や咀嚼筋の着く顎や頭骨が残っていれば、その形から硬いものを食べたかどうか推定できる。骨のように硬いものを食べられる頑丈な顎をもった化石人類は、発見されていない。ただし、骨髄には脂肪があり、狩りをする人類では骨を割ってこれを食べた。もちろん骨を割るときには歯ではなく石を使った。ネアンデルタール人の食べカスの遺跡からは、割られたネアンデルタール人の骨がでてくる。これが「食人」の証拠になるのである。

(*8) 以前、ある人から著作の抜き刷りや北海道新聞の記事のコピーが送られてきた。それは、「鹿の角は木のイミテーションだ」という説を述べたものだった。動物の形は進化の過程でかたちづくられたものだ。この説では、どうにも説明がつかない。もちろん、科学専門誌に紹介されたこともない。しかし、新聞記事では大きな紙面をさいていた。俗説は、科学の世界をよそに、こうして再生産されるのである。

(*9) もし視聴率をかせごうと故意に俗説を流布しているのだとすれば、これはさらに罪深い。詐欺だ。
http://homepage2.nifty.com/anthrop/bone.htm

15. 中川隆[-8994] koaQ7Jey 2020年12月24日 03:58:25 : aGnHCluepw : QUpEcE1zWnhLNEk=[37] 報告
狩猟民族の本来の食はこういう感じ:

アイヌ人の食事

アイヌ人の食事は汁ものが主食で、その具は殆ど山菜や雑穀類。

要するに、完全菜食では味付けが難しいので、肉や魚を少しだけ入れて山菜や雑穀類を食べ易くしたという事ですね。

アイヌ人の様な狩猟民は牧畜民の欧米人の様には肉を沢山食べないのです。

アラブ人の様な遊牧民もミルク、ヨーグルトが主食で肉はハレの日にしか食べません。

従って、毎日肉を食べる欧米人や日本人は「人類本来の食生活」から大きく離れています。アメリカ人に極端な肥満が多いのはホルモン剤で育てた牛の肉を食べるからですね:

アイヌの人々は肉を食べる場合には動物の新鮮な内臓を例外として、生で食べることはあまりありませんでした。

肉を食べる場合にはほとんどの場合、汁ものに入れて煮たものや焼いたものを食べていました。

魚類を食べる場合には串に刺したものを焼いて食べたり、天日などで乾燥させたりしたものを汁ものに入れて煮たものを食べていました。獲ったサケを冬期に屋外で凍らせてそのまま食べることもありました。


ラタシケプは山菜や蔬菜、豆類などを汁気が無くなるまでしっかりと煮込んで魚脂や獣油、海水などを使って味付けを施して鳥獣肉、魚肉は使いません。

カッコウの初鳴きを合図として、一年分の山菜を採って乾燥させて収蔵し終えたところに、夏がやってきて畑仕事が始まります。昔のアイヌには稲作は行われていなかったのですがアワやヒエあるいはイナキビのような穀類と豆類、蕪などを昔から栽培していました。

山の物ではヤマブドウやクロミノウグイスカグラ(ハスカップ)のような果実は生で食べましたが、山菜類は魚や肉などと一緒に汁に入れて煮込んだり、お粥やご飯などと一緒に炊いたりして食べるものでした。

雑穀類を焚いたチサッスイェプや雑穀類を焚いて焦がして作ったスウケプ、シト(団子)などはイオマンテのように大きな儀礼の時に食べられる特別料理であって祖先や神々も一緒に食べて、楽しむとされていました。
http://www.islanddistinctiveoccasions.com/hokkaidob/

アイヌ語でオハウもしくはルルという魚や鳥獣肉、山菜などの具が沢山入った汁ものを主食としていました。

入れる材料によって多くのバリエーションをもっています。

副食として食べられていたものはアイヌ語でサヨというお粥でその種類もヒエ粥、アワ粥、ギョウジャニンニク、ウバユリの繊維質、イクラ入りの粥などのバリエーションがあったそうです。

他にはアイヌ語でラタシケプという山菜や野菜の煮込んだもの、焼き魚、穀物の団子のように多くの種類の料理があります。

調味料に使われるのは、メインは塩でしたが、寒冷地であることからカロリー補給や味を柔らかくすることを目的として油脂を多用しました。
http://www.islanddistinctiveoccasions.com/hokkaidob/hokkaidoba.html

人類はネアンデルタールの時代からずっとアイヌと同じ食生活を送ってきたんだ。

人類が雑食というのはこういう事なのさ:


2010.2.12 アイヌの伝統食をまるごと体験!オントウレプ食べてみよう 


昨年7月に手稲山でオオウバユリの根を採取し、みんなでデンプン作りをしました。
http://teinesato.blog.so-net.ne.jp/2009-11-13-5


オオウバユリのアイヌ語名を「トウレプ」といいます。デンプンをとったあとのオオウバユリの根の繊維を発酵させ、乾燥させたものを「オントゥレプ」といいます。アイヌで保存食として利用されていました。

今回も安田千夏さんに講師をお願いしました。

「昔のアイヌの冬の暮らし」についてクイズを交えてお話いただきました。つくづくアイヌは究極のサバイバル術のエキスパートだと感心するエピソードばかりでした。アイヌの男性のたくましさは素敵だなあ〜〜とうっとり・・・なかでも「クマにであったらどうするか?」の本の紹介とエピソードはびっくりでした

このドーナツ型の物体が繊維を発酵させたものです。これから乾燥させるのです。

実は乾燥させたものは3個あったのですが、(かちかちに乾燥したものはなんとも動物の糞のようないでたちなのですが)2個紛失してしまいました。これは乾燥したものを細かく削っているところです。

本当は削ったものを水に浸しておくとボウルの底にデンプンが沈殿するのです。それをスプーンなどでお粥に落とすとトゥレプサョ(ウバユリ粥)になる・・・はずでした・・

1個では少なすぎてデンプンは取れなかったので今回は急遽、イナキビ入りのお粥、アイヌの人が食べていた「魚の汁」(チェプオハウ)と「シバレイモ」(ペネコショイモ)団子をつくることになりました。

「魚の汁」(チェプオハウ)です。今回は鮭を使用した三平汁です。鱈なども内臓ごと使っていたようです。

当時、塩は交易で手に入れなければならなかったので貴重だったようです。実際食べていたものはかなりの薄味だったようです。私達は現代風にアレンジしたいただきました。ポイントはギョウジャニンニク」(プクサ)とあぶった昆布を砕いていれるところです。

調理風景です。

これが「シバレイモ」(ペネコショイモ)です。真冬に外に出しておき凍ったジャガイモを水で何度もアクだししたものです。みなさん少し凍ってしまったジャガイモを食べたことがありますか?すこしクセのある匂いがします。

あんな感じです。

砂糖を少し加えて団子状にしてホットプレートで焼きます。これはとても美味しかったです!もちもちっとしていて焼くと香ばしくほんのり甘く・・また食べてみたいです。

完成しました

いただきま〜〜す

前回のオオウバユリの採取から7ヶ月、採取→加工→調理の過程をみんなで学ぶことができました。

昔のアイヌの人たちは食べ物を粗末にすることなく最後の最後まで智恵をしぼり使い切る究極のエコの精神を持っていたんだなあ・・と尊敬します。そして食べ物になる植物の子孫が絶えることがないようにルールをつくって採取していたことも学ぶことができました。自然、食べ物、いのちに感謝する気持ちが自然にわきあがってきます。

いのちを身近に感じ、感謝し生きていきたいです。
http://teinesato.blog.so-net.ne.jp/2010-05-07

16. 中川隆[-8993] koaQ7Jey 2020年12月24日 03:59:21 : aGnHCluepw : QUpEcE1zWnhLNEk=[38] 報告
市川光雄『森の狩猟民』 ムブティと農耕民 ――

大橋:食べ物がすごくリッチですね。キャンプのいきなり隣から、より取り見取に食料がとってこれるような豊かな状態は、想像もしていなかった。

市川:植物性食物では、おそらく5,60種類を利用していて、ほんとに重要なのは10種たらずですが、利用可能な植物はその何倍もある。(略)

大橋:ムブティの食文化の大きな背景として狩りがありますね。

市川:弓矢猟とネット・ハンティングという2つのやり方があります。どちらも集団で獲物を追い出してとる。女の人はよく歌いながらついていく。獲物を運ぶのは女の人なんですね。森の中には中形以上の哺乳類が50種類以上いるが、それらを全部食べるんです。その8割がたを、12歳ぐらいまでに食べます。

市川光雄の『森の狩猟民』(1982)は、科学的な人類学の観点からの、素人にも読める「民族誌」として、おそらく満点に近いすぐれたものであろう。専門家にしか必要のない細部や見解をスッキリとカットしてあって、読みやすくしかもピグミー社会の構造が自然に浮かびあがってくるように、写真や地図・図表をふんだんにつかって記述が進められている。

なんといってもまず「森」についての、市川の専門的な調査を踏まえた記述がどういうものか、紹介したい。胸がすくような見通しの良さを感じるはずである。
市川のベース・キャンプはマワンボというところにあるのだが、雨期の最中の9月そこから西方へ向かって調査行を試みたときの記述である。「森の恵み」という小見出しがついている。

 マワンボから十数キロ進んだあたりで、10キロ近くもつづくみごとなムバウの純林の中に入った[イトゥリの森は“テンプ”、“エコ”、“ムバウ”の、いずれもジャケツイバラ亜科の3種の喬木のそれぞれが優占種となっている]。森林の第1層から最下層まで、すべての層をムバウが独占していた。歩くのに邪魔になるような下生えぱきわめて少なかった。

 ムバウの木は、手のひらをたてに2つ並べたくらいの大きな葉をつける。その葉にさえぎられて、地表にはほとんど直射日光が届かない。森のなかはまるで夕暮れ時のように暗かった。この見事な森を写真におさめたいと思ったが、F2レンズの絞りを全開にしても、シャッター速度を8分の1秒まで落とさなければならず、とてもまともにとれそうには思えなかった。真昼だというのに、森の中は肌寒いくらいの冷気に包まれており、長そでシャツで歩いても少しも暑いとは感じなかった。

 ムバウの純森のようなところが、はたして人類の居住地として適当かとうかは疑問だろう。しかしこの森には、ほとんど無尽蔵の食料源がある。森はちょうど、ムバウの実の成熟する季節だった。地表は、落下したムバウのさやと、さやからはじけ出た直径4、5センチの大きな平たい豆で埋めつくされていた。この豆を食物にすれば、1年のうちの数ヶ月は、まず食料に窮することはあるまい。

 それから1週間後に、私はビアシクのムブティのキャンプを訪れた。そのとき、実際にこのムバウの豆が食用にされるのを見ることができた。彼らはこの堅い豆を、茹でたり、すりおろして熱湯を住いで、粥のようにして食べていた。ムバウの豆が、この季節の彼らの食生活において重要な位置を占めていることは疑いなかった。

 茹でたムバウの豆は、湿った硬い石けんを咬むような歯ごたえで、美味とはいいがたかった。しかし、キャッサバなどの農作物とくらべて、格段にまずいとも思えなかった。もう少し時期が遅くなると、水辺に落ちた豆が水分を含んでふやけてくる。それを臼でついてダンゴのようにして食べるのがいちばんうまいと、ムブティは口をそろえていう。

 このとき採集したムバウの豆を日本にもち帰って、栄養分析をしてもらったところ、乾燥重量100グラム中に、353カロリーもの熱量を含むことがわかった。これは米や麦など、われわれの主食となる穀物にまさるとも劣らない栄養価である。(前掲書p31〜33)

このムバウの豆はムブティにとって重要な食料源であるが、いうまでもなくそれは農作物ではない。自然物を採集したものである。人類史上で農耕の開始は約1万年前とされるが、そのはるか以前からヒト(大型類人猿のうち二足歩行するもの)は出現しており、数百万年間もの長い間、採集−狩猟を行っていたと考えられるが、そういう人類史的な長時間の間、「ムバウの豆」は採集の対象として毎年稔り続けていたとしてよいであろう。おそらく、人類史的な時間をはるかに超えて長く、ヒト以外の多種の動物の食べ物ともなってきたのであろう。

もちろん、「ムバウの豆」はイトゥリの森の豊富な食料の1例に過ぎない。上で引用した調査行の際だけでも、「森のピーナッツ」といわれる堅果類、果肉の豊富なフルーツ類、ヤマノイモ類などを記録している。

イトゥリの森にはけっこう食物が多いことがわかる。ムブティの植物性食物を調査した丹野正氏によると、ムブティは少なくとも、11種の根茎類、18種の堅果類のほかに、18種の漿果[液果とも。ブドウ・トマトの類]、5種の葉、23種のきのこなど、合計78種の野生植物を食物としているという。今でこそ、彼らの食物の多くを農作物が占めているが、農耕民との接触以前には、、野生植物に依存して生活していたに違いない。イトゥリの森に、これだけ変化に富む植物性食物があるということは、その頃の彼らの生活が、けっして厳しいものではなかったことを示唆しているといえよう。(同前p34)

市川によると、イトゥリの森に農耕民が移入をはじめたのは3,400年前といわれているという。スーダン系のレセ族とか、バントゥー系のビラ族・ンダカ族など。ムブティらは農耕民から「農作物」や矢じり・槍・ナイフなどの「鉄器」をもらい、農耕民はムブティから蛋白源として「獣肉」や森林を開く労力などをもらった。ムブティと農耕民の「共生関係」が成立したと考えられている(p39〜41)。

現在のムブティの食物の大半は農作物である。(雨期などに)ペース・キャンプに滞在するムブティは、近くの農耕民の畑に手伝いにいって、その日の食物を得る。森のキャンプに移動して狩猟する時期には、獣肉と農作物を交換する。このように、農作物は労力あるいは獣肉などの森の産物と交換するのが原則である。(同前p41)
ムブティと農耕民の間には経済的な「共生関係」が成立したが、しかし、その民族同士の関係が“対等”な関係かというと、そうではない。農耕民はムブティに対して、儀礼や社会組織などの“上部構造”についても影響をあたえるべく「指導」を試みた。

現実的な(考え方をする)狩猟民のムブティが、彼らの生活様式に合わない社会制度や宗教になじんだかどうかは疑わしい。しかし、少なくともたてまえとしては、ある程度は受けいれざるを得なかったにちがいない。ムブティの社会組織や儀礼には、たとえば割礼などのように、農耕民から借り入れたとしか考えられないものがかなり多いのである。(p42)

「ンクムビ」(割礼をともなう少年の成人式)の始終をムブティ側にいて記録したターンブルの『森の民』には、「たてまえとして」この儀礼を受けいれて「村」の習慣に従って行う、ムブティの“面従腹背的な”心理的態度が詳細に述べられている(『森の民』第12章「村の成人式と魔術」)。

“上部構造”が農耕民の影響を受けているという点でもっとも目覚ましいことは、アフリカ各地のピグミー諸族が、例外なく彼ら固有の言語を持たずその接触する農耕民の言語を借用しているという点である。サバンナの原住民であるブッシュマンが固有言語を失っていない点と比較すると、対照的である。


動物食・植物食・雑食 

ムブティの生活 から、農耕民から受けた影響と思われるものをできるだけ取り除いていくと、《狩猟採集とは、どういうことか》という本章の課題にいくらかでも接近していけるのではないか。

定住することと農耕とはほとんど重なっている。農耕以前の生活は、移動生活をしつつ採集するということに必然的になる。採集生活は、その基本は雑食である。なにが採集できるかは、基本的には自然任せとなる。その場合、自然=環界と人類の関係は、植物性食料を採集する・動物を狩猟するという関係である。

人類はもともと雑食性(オムニボラス)だといわれる。各種の植物をはじめ、肉、卵、虫などを何でも食べた。この伝統をもっとも忠実に守っているのは狩猟採集民である。狩猟採集民は家畜の飼育や植物栽培のような自然をコントロールする術をまったくもたない。彼らの食生活は変動する自然に委ねられている。このような不安定な生活をおくる彼らは、日頃からできるだけ多様な食物を利用する習慣をつけておいた方がよいともいえる。これに対して、自らの手で食糧生産をおこなう農耕民や牧畜民の食性は、多かれ少なかれ特殊化してしまっている。(同前p110)

採集と狩猟の人類史的な前後関係を決めることはむずかしいが、植物的食物の採集のほうが容易であり、安定的な食物確保であった、と考えてよいだろう。この条件は数百万年前のヒトの発生当時から変わっていないのではないか。

市川光雄はつぎのように述べている。

 ここで、狩猟と採集の効率について比較してみよう。クン・ブッシュマンを調査したリーによると、単位時間あたりに、狩猟では1人平均約800カロリーしかうることができないが、採集だと2000カロリーを得ることができる。つまり、狩猟では採集の2分の1から3分の1程度のカロリーを得ることができるにすぎない。

 また、植物の採集は安定した収穫を期待することができる。植物の分布は定まっており、動物のように逃げだすこともない。ある時期にある場所へゆけば、必ず一定の採集品があるという信頼性をもつのが採集活動の特性である。したがって、毎日の生計を維持するという点からみれば、不安定な狩猟よりも、安定した採集の方が一般にはずっと重要である。

 狩猟採集民というように、「狩猟」の方を先にもってくるが、植物性食物を食生活のベースに置いている例の方が多い。とくに、低緯度熱帯地域の狩猟採集民のほとんどすべてが、植物食の採集により強く依存している。

たとえば、クン・ブッシュマンでは植物食対動物食の比はほぼ7:3である。東アフリカのサヴァンナの狩猟採集民ハッザ族の場合、この比は8:2である。マレー半島のネグリートであるセマン族もほぼ8:2で植物がおおきなウェイトを占める。(同前p113〜114)

植物食対動物食の比率は、環界にある植物の食料供給力と関係していることは当然で、たとえば、植物性食物のない極地のエスキモーが、肉や魚だけで生活しているのは、よく知られている。植物も動物も豊富に多様に存在している低緯度熱帯地域において、植物食のウェイトが高いということである。

ムブティの場合、市川が観察していたバンドのある月の植物食と動物食の消費量の実際は1人1日あたり、植物食0.7〜0.8s、動物食0.48sだったという。すなわち6:4であった。このときの植物食というのはほとんどが獣肉との交換で手に入れた農作物である。

ムブティはその気になれば安定したネット・ハンティングの獲物を主食として生活してゆける。それにもかかわらず、彼らは食物の6割までを農作物に依存しているのである。ムブティにそのわけをたずねると、肉ばかりでは腹がおかしくなる、という。彼らもやはり、人類は環境条件さえ許せば植物性食物をベースにするという伝統を受けついでいるのである。(同前p115)

動物食と植物食、あるいは、狩猟による食料と採集による食料という2分法がすこし雑すぎるのかも知れないが、現在も生存している狩猟採集民の食生活から、つぎのように狩猟採集時代の人類の食生活を推論することは可能であろう。

人類は狩りをするサルだなどといわれる。しかし、熱帯地方(低緯度地帯)に誕生した初期の人類の食生活の基盤は、狩りによって得た獲物ではなくて、採集によって得た植物であったにちがいない。(同前p114)
http://www.ne.jp/asahi/kibono/sumika/kibo/note/oto/oto-3.htm


つまり、初期人類から現代人までずっと 植物食 対 動物食の比は ほぼ7:3

人類は出発点からずっと肉食じゃないんだ。


要するに、初期人類もチンパンジーもゴリラもすべて果物や植物から糖質を取っていた。
肉はハレの日の食べ物で、無くても全然困らなかった。

17. 中川隆[-8992] koaQ7Jey 2020年12月24日 04:00:56 : aGnHCluepw : QUpEcE1zWnhLNEk=[39] 報告
土器は重いから定住民でないと作れないんだよね。 定期的に移動する民族はこういう食べ方:

Mumu(ムームー) ...パプアニューギニア

パプアニューギニア料理

ムームーって可愛い名前! 焚火で石を、夜見ると真っ赤になるように(昼間見ると白にしか見えない)焼き、イモ・野菜・肉をバナナの葉に挟んで(土がつかないようにする)、上下に焼き石を置き、放熱による「蒸し焼き調理」をします。

パプアニューギニアに土器文化がなかったからこそできた「土中オーブン」は、食材をふっくら柔らかくする最上の調理法です。美味しさ最高です。
http://tabisite.com/hm/shoku/w62/

人間が草食だった時代

パプア・ニューギニア人のたくましい肉体の秘密

 まずは、次ページの写真を見てください。これを見てわかるように、パプア・ニューギニア人の男性は、じつに筋骨たくましい肉体をしています。日本人なら、ボディビルにでも精を出さないと作れないような肉体美なのです。


パプア・ニューギニア人は、ほとんどイモと野草だけの食事で、この筋骨たくましい肉体をしている。

 パプア・ニューギニア高地人の体格は、この写真の人たちに限らず、日本人と比べて、身長では劣るものの体重は同じくらい。胸囲は日本人よりやや大きく、体格的には筋骨体で、たくましい闘士型をしています。

 これだけ体格が良ければ、きっと肉をしっかり食べているのだろう、と思いきや、彼らはほとんど肉や魚を食べません。

 パプア・ニューギニア北部では、主食は、サゴヤシという樹木を切り倒してとるサゴヤシデンプン。それと一緒にタロイモや、ヤムイモ、バナナなどを食べます。魚やブタの干物を入れた汁を食べることもありますが、これはごく少量です。

 さらに、これが高地になると、湿地に繁殖するサゴヤシもとれず、魚や肉もないので、いよいよ食事はイモ類一辺倒。一日一キロ以上のイモ類を食べ、肉や魚はほとんど食べません。

 イモ類はおもにデンプン質で、タンパク質の含有量はわずかです。なのに、そればかり食べている彼らが、なぜこうも筋骨たくましいのでしょうか。
 これだけ多くのイモを食べると、ヘンな話ですが、日本人ならオナラが出てしようがないでしょう。

 実際、彼らの間でしばらく住んだある日本人は、オナラが出てしようがなくて、彼らに笑われたと言っています。しかし、彼ら自身は、オナラがほとんど出ないのです。

 東大農学部の光岡知足教授によると、パプア・ニューギニア人の腸内細菌を調べてみた結果は、日本人とはかなり違った様子をしているとのことです。

 彼らの腸内細菌の種類とそのバランスは、人間よりはウシに近いというのです。教授は、その腸内細菌が、彼らの体内にタンパク質をつくり出していると見ています。

 植物は、"窒素固定菌"というものによって、空中の窒素を固定し、内に植物性タンパク質をつくり出しています。それと同じように、腸内細菌の中には、窒素固定を行なってタンパク質をつくり出すものがあるのです。

 また、別の可能性も示唆されています。体内のアンモニアを利用して、タンパク質を合成している可能性です。光岡教授は言っています。

 「ブタやウシなどは、体内の尿素から腸内細菌によってアンモニアを作り、それをさらにタンパク質へと作りかえていくのです。

 パプア・ニューギニア人の糞便を培養して、そうしたアンモニア利用能を日本人と比較してみました。

 すると、パプア・ニューギニア人は日本人の二倍くらいの高い数値を示しました。そこで、こうしたアンモニア利用によるタンパク質合成の可能性も、考えられるわけです」。

 結論として、光岡教授はこう言っています。

 「ひとつは、イモ自体からのタンパク質の摂取があるでしょう。これが五〇パーセントくらいを占めているはずです。残りを窒素固定菌によるタンパク質合成と、アンモニアの利用によるタンパク質合成とで補って、肉を食べずに筋肉質になれた」。

 パプア・ニューギニア人のあの肉体美は、これら三つの要素によってつくり出されたようです。

長年の食生活に人間の体の方が適応する

 パプア・ニューギニア人はこのように、ほとんど草食の生活をしながら、たくましい肉体を持つことができています。

 しかし、これはパプア・ニューギニア人だけに限ったことではなく、長いことそのような食生活を続ければ、誰でも、やがてそうなれるものなのです。

 人間は思いのほか、環境に対して融通がきくようです。たとえばパプア・ニューギニア人とは反対に、アラスカの極寒の地に住むエスキモーは、毎日肉ばかり食べて、野菜や果物をほとんど口にしません。

 エスキモーは一頭のアザラシを殺すと、その各部分の肉を毎日、日替わりで食べます。今日はこの部分で、明日はあの部分、というようにして、内臓のあらゆる部分に至るまで、料理方法を変えながら食べていくのです。野菜や果物はないので、ほとんど食べません。

 しかし彼らは、りっぱに健康を保っています。これは長年の食生活に、体のほうが適応しているからでしょう。

 草食であれ、肉食であれ、特定の食生活を幼少の頃から続けていれば、体がそれに適応したものとなっていくのです。

      ――参考文献――
『人体スペシャルレポート』(Quark編)講談社ブルーバックス
http://www2.biglobe.ne.jp/~remnant/059ningen.htm

18. 中川隆[-8991] koaQ7Jey 2020年12月24日 04:02:03 : aGnHCluepw : QUpEcE1zWnhLNEk=[40] 報告
縄文ハンバーグをつくる  
◆縄文遺跡の「クッキー状炭化物」

 縄文時代の遺跡の出土品の中には、縄文クッキーや縄文ハンバーグと呼ばれている「クッキー状炭化物」があり、縄文人の食の一端をうかがい知ることができる。なかでも、山形県押出遺跡から出土したものをある学者が「クリ、クルミの粉に、シカやイノシシ、野鳥の肉、イノシシの骨髄と血液、さらに野鳥の卵を混ぜ食塩で調味し、野生酵母を加えて発酵させていた」と分析したが、これには異論も多い。しかし、縄文人は、狩猟によって得た動物の肉にドングリや木の実を混ぜ、円形や楕円形に整えて火で調理し食していたことは疑いないようである。

◆縄文人が食したドングリ

  「クッキー状炭化物」が出土している縄文遺跡は、なぜか中部〜東北地方に多い。となると、用いたドングリはブナ科の中でも落葉広葉樹のもので、アク抜きの必要のないクリやブナ、あるいはアクの比較的少ないミズナラやコナラ、ナラガシワなどをまず採集したのではないかと考える。(三内丸山遺跡では、クリの栽培をしていたことがDNA分析でわかっている。)

 一方、比較的温暖な西日本や太平洋沿岸では、ブナ科の常緑樹の中でもスダジイやツブラジイ(コジイ)、マテバシイ、イチイガシといった、これまたアク抜きせず食することのできるドングリを採集していたと考えられる。実際、福岡県久留米市の正福寺遺跡では、編み籠に入った大量のイチイガシが発見されている。また、ブナ科のドングリ以外にも、オニグルミやトチの実も貴重な食料で、オニグルミは現代人にとってもとても美味しい味覚であり、トチの実は、ついこの前まで、飢饉のときの非常食としてその木が大切にされていた。

◆“縄文ハンバーグ”のレシピ

 当時の縄文人が手に入れることのできた食材で、石器やたき火を用いながら、縄文クッキーの調理再現を試みるのも1つの趣向だが、今回は、現代人の味覚や調理方法に寄り添った形で、“縄文ハンバーグ”を作ってみた。

@木の実は、ツブラジイとスダジイを斧の平らな部分を使って叩き割り、コーヒー用の手回しミルを使って粉末に。
あと、オニグルミがあったので、金槌で叩き割って実を取り出し、こちらはすり鉢で粉末に。

A肉は、「牛と豚の合挽き」を用意したが、運よくシカとイノシシの肉が友だち経由で手に入ったので、こちらは包丁で細かく刻んで2つを混ぜ「シカとイノシシの合挽き」に。

同じドングリを用いながら、かたや平成人好みの「牛と豚」の肉で、もう一方は縄文人が好んでいたであろう「シカとイノシシ」の肉でと、2種類のハンバーグを作って味比べをしようと思った。

Bまず、2種類の合挽き肉をそれぞれ塩を適量かけてよく練り、そこへドングリとオニグルミの粉末、卵を混ぜ、隠し味にはちみつを数滴たらす。
次はよく練って、小判大に形を整える。

Cあとは、フライパンで焼くだけと思ったが、この際少しは縄文人に近づこうと土器焼きならぬ、陶板焼きにした。


@斧の腹でシイの殻を叩き割る A左)シカ肉 右)イノシシ肉 左上)オニグルミ 右上)ドングリ粉


Bこちらシカとイノシシの肉を練る C赤)シカとイノシシ 白)牛と豚 シカとシシ肉のハンバーグ

 さて、肝心の味の方だが、結論から言えば、意外や意外、「シカとイノシシ」ハンバーグに軍配が上がる。双方の肉の鮮度や部位にもよるだろうが、味付けは塩だけだったので、「シカとイノシシ」のほうに肉そのものの旨みが感じられた。「牛と豚」の方は、スーパーで買った合挽き肉だったので、もともとまずかったのかも。(笑)

 また、食べ終わった後、ドングリ特有の味覚が舌に残るのだが、これが縄文人気分を感じさせてくれる。オニグルミの実を入れたのは大正解で、クルミの油脂分とサクサクとした食感が、やみつきになりそう。台所で調理したとは言え、縄文人が手に入れえた食材と加熱方法だから、縄文人もけっこう美味しいものを食べていたんだなあ
http://www.enyatotto.com/outdoor/cooking/jyoumon/jyoumon.htm


多くの植物には灰汁が含まれ、マメ科の植物や根菜にはトリプシンやシアングリコーゲンなどの有毒成分が含まれる場合がある[7]。

また、アマ、キャッサバのような植物に有害な配糖体が含まれる場合もある[12]。

そのため、火を使用する前には植物の大部分が食用にならなかった。

食用にされたのは種や花、果肉など単糖や炭水化物を含む部分のみだった[12]。

ハーバード大学のリチャード・ランガム(英語版)は、植物食の加熱調理でデンプンの糖化が進み、ヒトの摂取カロリーが上がったことで、脳の拡大が誘発された可能性があると主張している[13][14][15]。

実際、H.エレクトスの歯や歯の付着物から、加熱調理無しには食べるのが難しい硬い肉や根菜などが見つかっている
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%88%9D%E6%9C%9F%E3%81%AE%E3%83%92%E3%83%88%E5%B1%9E%E3%81%AB%E3%82%88%E3%82%8B%E7%81%AB%E3%81%AE%E5%88%A9%E7%94%A8

19. 中川隆[-8990] koaQ7Jey 2020年12月24日 04:02:50 : aGnHCluepw : QUpEcE1zWnhLNEk=[41] 報告
がんの原因「食の欧米化」


◆ 肉食が腸癌増加の原因か

1950年代〜食の欧米化(肉食、乳製品)が進むに連れて、日本人の腸がんが増加しています。

上のデータは、欧米人が腸がんにかかりやすいことを示しており、食の欧米化が腸がん増加をもたらしたといえるのではないでしょうか?
このことは、国立がんセンターも述べています。


肉を多く食べる日本人は大腸がんになるリスクが高いことが、約8万人を対象にした約10年におよぶ国立がん研究センターの追跡調査でわかった。

 岩手や長野、茨城、沖縄など9県在住の45〜74歳の男女約8万人を対象に、1995年から2006年まで追跡調査した。このうち大腸がんになった1145人(結腸がん788人、直腸がん357人)について肉類の摂取量との関連を調べたところ、摂取量と結腸がんに関係がみられた。

 男性は、肉類全体の摂取量が最も多いグループ(1日当たり約100グラム以上)のリスクが、最も少ないグループ(同約35グラム未満)の1・44倍だった。女性でも、赤肉(牛と豚肉)の摂取量最大のグループ(同約80グラム以上)が、最少グループ(同約25グラム未満)の1・48倍に上った。


◆ 牛乳の摂取が前立腺がん発症をもたらす

加えて、こんなデータもあります。
http://homepage2.nifty.com/smark/MILKbyok.htm

牛乳の消費量と、前立腺がんの発生率も相関関係があるというのです。
日本人の前立腺がんの早期化・増加は、牛乳の消費量増加が原因となっているのではないでしょうか?

以上から、「食の欧米化(肉食・乳製品)」はがんの原因だといえます。
http://blog.sizen-kankyo.com/blog/2012/10/001204.html

20. 中川隆[-8989] koaQ7Jey 2020年12月24日 04:05:09 : aGnHCluepw : QUpEcE1zWnhLNEk=[42] 報告
ゲルマン人は植物が無い北ヨーロッパに閉じ込められたから腐肉食になった:

〜12000年前頃、氷河期とホモサピエンスの拡散の軌跡

35,000か〜40,000年前頃です。古代遺伝子Y-DNA「E」は環地中海域(南欧州と北アフリカ)に展開を始め、インド亜大陸で古代遺伝子Y-DNA「F」から分化した新興遺伝子Y-DNA「I」がクロマニヨン人として欧州に、新興遺伝子Y-DNA「J」もセム種として中近東や北アフリカに展開を始めました

クロマニヨン人度・ノルマン民族度 調査 Y-DNA「I 」

Y-DNA「I」はヨーロッパの主要ハプロタイプで最も古いです、そして恐らくヨーロッパ内で小亜型に分化した唯一のハプロタイプ(非常に珍しい小亜型Y-DNA「C6」や他のハプロタイプの末端亜型等は別として)です。
  それは、40000年前〜30000年前にY-DNA「IJ」として中東からヨーロッパのどこかに到着したと思われ、およそ25000年前にY-DNA「I」へ分化しました。
  言いかえれば、クロマニヨン人は最も恐らくはY-DNA「IJ」とY-DNA「I」に属しました。

  Y-DNA「I1」小亜型は20000年前に分化したと推測され、旧石器時代後期と中石器時代のスカンジナビアで隔離されながら発展しました。
  Y-DNA「I1」は少なくとも25のユニークな変異によって定義されます、それはこの血統が重大な人口減というボトルネック(絶滅危惧の)を経験したことを示します。
  このY-DNA「I1」に属する男性はすべて、10000年前〜7000年前の間に生きていた一人の男性を先祖としています。
http://www1.parkcity.ne.jp/garapagos/


本当にマズイ? 代表的なイギリス料理一覧
不味い不味いと言われているイギリス料理。

本場イギリス人もジョークに使うほど、世界的に認められている不味さです。

その理由は、食材の味を殺してしまうような調理方法−焼き過ぎ、茹で過ぎ、揚げ過ぎや、塩やコショウだけの単調な味付けにあるとされています
http://matome.naver.jp/odai/2128805878037368601


要するに、イギリス料理は腐った肉を食べる為の騙しの技術なのです。


エリートというのは腐った肉を食べても死なない人間の事:

「肉は良質のたんぱく質を多く含み、スタミナ源になる」・・・高度経済成長期と共に生まれた肉食信仰により、現在日本人の肉類の摂取量は欧米人とほぼ変わらないレベルにまで増加しました。

確かに試験管の中で分析してみれば、肉類には動物性たんぱく質などの栄養分が豊富なのですが、残念ながらそれらが体内ですべて「良い栄養」になるとは限りません。
それどころか、人間の体内は肉が腐るのに絶好の環境であることを覚えておかなければならないのです。
特に、農耕民族である日本人は狩猟民族である欧米人より腸が長いので、摂取した肉が長時間体内に残留し、うまく消化されない分はそのまま腸内で腐ってしまうのです。

腸内で腐った肉そのものは、やがて便となり体外に排出されるものの、腐敗段階で発生する毒素は体内(血液中)に残ってしまうことがあります。日常的に肉食中心であれば、それがどんどん蓄積していることにもなります。

肉の腐敗産物には、アミン・アンモニア・硫化水素・フェノール・インドール・スカトールなどがあり、これらが腸壁から吸収されて血管内に入ると、血液を汚してからだの諸器官に異変を起こさせ、アレルギーやガンなどの原因になってしまうというわけなのです。(便秘がちな人や、便やおならの匂いが強い方は特に注意が必要です)

また、動物性脂肪を摂取しすぎると、体内にコレステロールが溜まりやすいということにも問題があります。
特に加熱したコレステロールはアントラセン系物質という発ガン物質に変わります。
赤身の肉には脂肪が少ないという定説もありますが、じつは赤身の肉にも動物性脂肪はたっぷり含まれているのです。

さらに、現代社会では食品添加物の害がさまざまに言及されていますが、食肉も例外ではありません
市場に出回っている食肉は見るからに鮮やかな色をして食欲をそそりますが、それは発色剤という添加物の仕業です。

発色剤は生肉を変色させないために使われるもので、成分には亜硝酸塩が含まれていますが、これは肉から酸素を追い出してしまう有害な物質で、体内で他の物質と結合して発ガン物質に変える性質を持っています。
なかでも前述したアミンという物質は、消化器官の中に存在する硝酸塩と反応すると、ニトロソアミンという強い発ガン性物質に変わる危険性があるため、本来アミンと硝酸塩は人間の体内で絶対に出会ってはならない仲なのです。
http://emerald-company.com/database_dangerfoods.htm

癌で死ななくても肉だけでは生きられない。

イギリスでは獲物を殺してからその肉を1週間かけて食べていたから、最後の方は工夫しないと食えなかったんだな:

イギリスではローストビーフは伝統的に日曜日の午後に食べる昼食(Sunday dinner) のメインディッシュとして扱われ、この際にはヨークシャー・プディングを添える。日本人の感覚としてはヨークシャー・プディングのような炭水化物系の食品が主食であり、ローストビーフは副食となるが、イギリスではローストビーフが主食であり、ヨークシャー・プディングは付け合わせである。

残り物の冷たいローストビーフは、翌日月曜日に チップス(フライドポテト)とサラダとともに 晩ご飯(Monday tea) に供される。

かつてのイギリス貴族は日曜日には牛をまるごと一頭屠ってローストビーフを焼くサンデーローストという習慣があり、大量の残り物で平日の食事をまかなっていた。

ローストビーフの残り肉の調理法のひとつとして、植民地インド由来のカレーを作る文化が生まれ、他国にも広まった。

その残り肉を一週間かけて食べるのであるが、残り肉の調理法のひとつとしてカリー・ライスがあった。サンデーローストの習慣が失われた現在では、家庭料理としてのカレーはほぼ廃れた状態である。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%AB%E3%83%AC%E3%83%BC

21. 中川隆[-8986] koaQ7Jey 2020年12月24日 04:08:48 : aGnHCluepw : QUpEcE1zWnhLNEk=[45] 報告
日本古来の料理の原点は、縄文時代の食文化といえそうです。

歴史の教科書では、採取生産の縄文時代は食うや食わずの貧しい時代で、稲作が伝播した弥生時代は貯蔵と計画生産が可能となった豊かで安定した時代、と紹介されます。

しかし、実際の縄文時代は、現代よりも温暖で海産物も豊富だったこともあり、さらに保存食も活用し、その食生活は味付けや調理も行われた豊かで多彩なものだったようです。

そんな縄文人にしてみれば、渡来人による稲作の伝播は、専門技術が必要で時に採集以上の重労働を伴い、また私有や格差、納税といった現象ももたらす、ありがた迷惑な存在だったのかもしれません。

以下、引用です。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

縄文人の主食は、種実類(しゅじつるい)と根菜類を中心とした植物であることが、今日では定説になっている。

その多くにはエネルギー源となるデンプンが豊かに詰まっている。しかも身近にあって量も多く、老若男女を問わず効率よく採集でき、また貯蔵がきく木の実を地中の竪穴に貯える事は全国的に普及しているが、低温多湿で粒のままの保存であるから、長期に大量に保存しうるものではなかった。

冬期でも寒冷地以外は、短期間がせいぜいである。

長期には住居の屋根裏にトチ・クルミ・ドングリなどが乾燥保存された。

長野県富士見町藤内遺跡(とうない)の九号住居址から、竪穴住居の炉上の吊り棚に貯えられたとみられる多量の栗が出土した。火棚で各種食料の乾燥と燻状貯蔵が日常的に行われていた証である。デンプンを粉にしたり、それをクッキーに加工して保存もしていた。
http://www.rui.jp/ruinet.html?i=200&c=400&t=6&k=2&m=290341


諏訪地方縄文時代 民俗学的研究

縄文時代の中期を中心に  和田峠(旧中山道)

 急峻な山道でした。
 何万年という長期にわたって黒曜石を採取し続けたのです。


縄文時代の漁法
 
 八ヶ岳西麓には数え切れないほどの湧水・沢と川が入り組み、諏訪の中筋を流れる上川と宮川の2大流域の源流となって諏訪湖に流れる。現在その源流が、観光開発と道路修繕により、復旧不能な状態で放置されたまま自然資源を喪失している。かつて岩魚などの魚影の濃い場所であった。山の猟に劣らず川の漁も重要な生業で、八ヶ岳西南麓の釜無川水系と宮川水系には、ヤマメ・イワナ・ハヤ・カジカ・サケ・マス・コイ・フナ・ウナギ・ドウジョウなどが棲んでいた。昭和初頭頃まで釜無川にはサケが遡上していた。ウナギは戦前までは周辺の中小河川で獲れた。1万年を超える年月があっても魚類の習性には変わりがないはずで、漁法の殆どが縄文時代に多種多様に工夫され今日に伝わったと思える。

 下流に石を並べて、魚の逃げ場を塞ぎ、上流から追って、その力強い躍動感に驚嘆しながら、岩魚のエラに指を衝き入れ手づかみで岸辺に掬い上げることもしていた。白樺湖ができる前の池の平では、中央を音無川の清流が蛇行して、岩魚・山女(やまめ)・鰍(かじか)などがたくさん棲息していて、地元の川干漁の絶好の場所であった。

 ムラなどで一挙に多量の川魚を獲るため、毒を流すこともした。クルミの葉を沢の岩場で、石でよく叩き潰すと赤茶色の汁が出る。これを流すとカジカが弱って岸辺に流れ寄る。ヤマイモ科のオニドコロの根茎を足で揉み出し、そのトコロ汁を流すと弱ってマス・アユ・ハヤ・ヤマメ・カジカなどが岸に寄ってくる。山椒の木の皮を焼くか乾かして砕き粉を作る。木灰を混ぜて川に流せばよくきいた。山椒の粉と木灰を等量に入れた木綿袋を水に入れて揉むと、濃い茶色の汁が沢に流れ、イワナが弱って白い腹をみせて浮き上がる。自然から採取した材料だけに毒性が弱く、一時的に神経麻痺を起こすが、ある程度時間がたつと魚は蘇生した。できるだけ水量の少ない渇水期を狙い、しかも小さな沢で行わないと効き目がなかった。

 初め川で暴れ、川魚が石や岩場の下に逃げ込む様にし、川の表面に顔を出している石に大きな石を力一杯ぶつける。衝撃で失神して浮いたところで捕まえる。また追い込んだ魚をヤスやモリで刺突もした。現代同様多様な漁法を駆使していた。というよりも1万年を優に超える縄文時代に、日本の文化の骨格となる諸技術とそれを可能にする諸道具が既に整えられていた。主に朝鮮半島を主流とす水田稲作が、西北九州から圧倒的勢いで伝播し得たのも、縄文時代に、生産性を念頭に置き栽培種を意図的に育成し活用する緻密な、農耕に近い文化が涵養されていたからである。長野県茅野市富士見町の井戸尻遺跡群出土の農具の種類は豊富で、打ち鍬・片刃の引き鍬・小鋤・草掻(くさかき)・手鍬(てぐわ)・草取鎌・刈取り用の磨製石包丁・石鎌・中型の手斧などの出土例から既に農耕が始まっていたと考えた方が正解のようだ。

 日本列島の発掘実績から見ると、漁労は川から始まり海に進出した。旧石器時代の遺跡からは、釣針は未だ出土しておらず釣漁や網漁も確認されていない。石槍を転用したヤスやモリによる刺突漁が主であったようだ。海の漁は縄文時代になってからで、釣針・ヤス・モリなどの漁労具の改良も進んでいた。特にシカの骨がそれを可能にした。シカの中手骨や中足骨が真っ直ぐで長いので縦に裂いて作った。

 長野県南佐久郡北相木村の栃原岩陰遺跡(とちばらいわかげ)は、12体の縄文時代早期の人骨が出土した事で有名であるが、八ヶ岳から流れ出た相木川泥流が堆積した崖を、相木川が長年月に亘る流力で削りとった岩陰に縄文早期の小規模な遺跡を3つ残した。そこでシカなどの足の長管骨を裂いて作った釣針が出土した。しかもサケ・マス類の脊椎骨までも伴出した。日本海の信濃川から千曲川を遡り、さらに遡上を続け、群馬県の県境、長野県の相木村にまで達していた。
 
 石槍を漁労用に展開したのがヤスで、早期には登場し、前期には鹿角製で逆鉤(あぐ)を付けたものも作られた。ヤスは東海・関東・東北地方の後・晩期に盛んに製作される。ヤスは槍先を木や竹の柄に装着して、浅水の魚をターゲットとするが、モリは槍先に穴・溝・くびれ・突起・肩などを備えて紐をつけ、投げて突き手が繰り寄せる。回遊するマグロなど大型の魚や海生哺乳類を獲物にする。北日本沿岸部では縄文中期まで石槍が多かったが、後期以降骨角製のヤスやモリが主流となる。宮城県石巻市の沼津貝塚では、多種の骨角製のモリや釣針が出土している。それら漁具と共伴した魚骨には、マグロ・スズキ・ニシン・クロダイ・マダイ・サバ・ヒラメなどがあった。

 縄文時代の漁労は、旧石器時代既に神津島・恩馳島から黒曜石材を船で運ぶぐらいであるから、外洋にまで進出していたと見るべきだ。しかも今より岸近くまで魚が回遊していたのは確かで、魚影も濃かったであろう。外洋魚としては、マグロ・カツオ・ブリ・サバ・・アジ・イワシ・サメなどがあり、岩礁地帯ではマダイ・イシダイ・ブダイ・カンダイ・カワハギなど、砂浜の延長にある浅瀬にはハモ・ヒラメ・アナゴ・ホウボウ、内湾に入るとクロダイ・スズキ・コチ・ボラ・フグ類となる。以外にフグ類の骨の遺存が多い。毒を除去し美味しい身を食する文化と技術が広く伝播していた。外洋性回遊魚のイワシ類や内湾を回遊するクロダイ・スズキなどは鹹水と淡水が混じる汽水域でも棲息する。湖水ではフナ・コイ・ギギ・ナマズ・ウナギなど、汽水域では、ウナギ・マハゼ・サヨリなど懸命にとらえていた。東北地方の寒流域でサケ・マス・ニシンなどが主体となる。サケは秋、産卵のために産まれた川を遡上(母川回帰;ぼせんかいき)し、産卵場には冬でも結氷しないような河床から湧水が出ている砂利地帯が選ばれる。産卵・受精後、力尽きたサケは母川で生涯を閉じる。サケの稚魚は、春3月から5月にかけて海に下る。

 縄文時代には、種々の気候変化があり1万年を超える文化を、端的には論評できないが、概ね暖流が現在より北上していた。東北地方晩期の亀ヶ岡文化はサケの遡上に生業の多くを依存していた。サケの捕獲は母川回帰が始まる夏からじょじょに行われ、秋にピークを迎える。堅果類の採集が秋である。冬期は通常、狩猟しかないので活発に行われるが、不確実な成果で安定した食料源にはなりえなかった。

サケや堅果類は、食料が枯渇する冬期にも、貯蔵が可能で、旧石器時代のように動物類の移動を追うことなく、特定の場所で継続的に食料を確保できる。また保存処理後の貯蔵は必然的に定住化を前提とする。さらに生産性の高い栽培種を長期間選別し、集落の内外で育てるとなれば、長期間に亘る働き掛けと、最低限度のマンパワーが必要となり、それが縄文前期以降の大集落の形成に繋がった。かつてアイヌは、サケは当座の食用以外すべて保存食に加工した。腹を割いて内臓を取り除き、戸外の物干し棚にかけて乾燥させる。屋内の囲炉裏の上に吊り下げ、燻製にする。あるいは雪の中に埋めて凍らせる。乾燥サケを食べる際は水に浸して戻し、魚油を加えて旨味を足しながら煮込んだ。凍ったサケは小刀で切り分け、ヤナギの串に刺して火にあぶり、少量の塩で味をつけて食べた。サケの骨は軟骨なので、十分焼くか煮れば、余すところなく食べられる。

北日本の縄文中期以降、サケと木の実の保存食に定住生活が保障され極盛期を迎え、高い文化を育てた。長野県千曲市の屋代遺跡群でも、採取された縄文時代の土から、千曲川を遡上したサケの骨の破片が、約570個見つかった。

 最高に恵まれた湧水地と沢、その下流域の音無川が、上川に流れ込む辺りでは、アカウオ・ヤマメ・ハヤ・アカヅなどが漁獲の対象であった。その漁労用具の骨角製のモリ・ヤス・釣針は、強度の酸性土壌下であるから、検出は不能であるが、諏訪湖底の曽根遺跡ではモリ・ヤス用の石刃・細石器が発見されている。

 釣針には、かえしの無い無逆鉤釣針、内側と外側にそれぞれ逆鉤が付いた内逆鉤釣針と外逆鉤釣針、針を左右錨形に合わせる錨形釣針、特殊なものでは仙台湾を中心に考案された軸逆鉤釣針と両逆鉤釣針など機能的に工夫が凝らされている。かえしの無い釣針は縄文早期から、内逆鉤釣針と外逆鉤釣針は前期から、軸逆鉤釣針と錨形釣針は中期から、両逆鉤釣針は後期からの出土例となる。釣針の出土が増加するのが仙台湾周辺では中期後半以降、関東地方では後期初頭から、西日本では後期中頃からとなる。

 両端が尖った針状の直鉤釣針(ちょつこう)が縄文早期から登場している。せいぜい5cmで中央に溝が掘られ、他の釣針の多くと同様、鹿角製である。幕末に鉄製になりまで近世では竹製であったが、主にウナギ用釣針であった。

 「ヤナ」・「ヤブ」・「ウケ」などは、現代でも、行われている漁法で、「ヤナ」は、河川の半分を堰き止めて、流れる流域に竹・木で簀(ス)の子を作り、そこに跳ね上がる魚を掴み獲りした。「ヤブ」は、ソダ・ヨシ等を束ねて湖や川に沈め、魚が棲家にしたところで、引き上げる。「ウケ」は、細い枝・裂いた竹・笹を蔓や縄で筒状に編み流に向け沈め、魚が入ると出られぬようにした。

諏訪地方の「ウケ」の対象は、ドジョウ・ウナギ・フナ・コイ・ハヤなどである。こうした漁法は、極めて有効で、縄文人の編み物技術からみても可能である。植物用材のためなかなか出土しないが、「ウケ」は、弥生時代期のものが出土している。「エリ」は河川や湖に、よしずや竹垣を魚道に張り立てて、魚を誘導して捕らえる定置網漁である。岩手県嵙内遺跡(しなだいいせき)では、杭が発見された。魚網錘(ぎょもうすい)とか釣り針の錘(おもり)の石錘・土錘は、諏訪湖周辺を中心に諏訪各地で出土している。釣り針は骨・角・牙製がほとんどであるが諏訪の平では未発見である。

 縄文時代早期前半、沿岸部では既に網漁が行われていて、鰯(いわし)等の小魚の骨が数多く検出されている。当時シナ布(しなふ)は織られていた。フジの皮やコウゾ、麻などで織った藤布(ふじふ)、楮布(こうぞふ)、麻布(まふ)などと共に、シナ布はわが国における古代織物(原糸織物)の一つである。布物で既に身にまとっていた。編み物の技術で魚網を作り小魚を獲る漁法、即ち追い込み漁や掬(すく)い上げ漁法・刺し網漁法などが時代経過と共に行われていた。北海道石狩市花川の紅葉山49号遺跡の縄文時代中期(約4,000年前)の河川跡から、魚をすくう際に使ったタモ網が出土している。

当時の木製の漁労施設と器などの生活用具も共伴している。漁労施設は10ヵ所も検出され、その内の8ヵ所は杭などの伐採時期や民俗例からみて、サケ漁に使用されるエリとみられている。幅5〜10mの花川の発寒川に設置してあった。川の中に4.50cm間隔で、直径5cm前後、長さ150cm前後の杭を川底に打ち込み、サケの遡上をさえぎり、定置網で一網打尽にする。杭はヤチダモやヤナギで作られ、杭だけでは魚が逃げてしまうので杭と杭の間には、柴によって埋められていたものと考えられている。

 刺し網漁は、魚が遊泳する所に網を渡し、網目に絡まった魚を獲る方法で、網の中でも構造上、最も作りやすいといわれている。現在の諏訪湖でよく見掛けるのは、四つ手漁と投網漁である。

 諏訪湖の特殊漁法に“やつか”がある。湖底に20cm前後の石を1,000個程度沈めて、石の塚を築きあげる。魚はそこで冬ごもりをする。その周囲を筌(ウケ)のある立板と簀(ス)で囲む。これを“屋塚”という。氷が張ると“3つだめ法”といって、“屋塚”の場所から3方向にそれぞれ陸に目標を設定して記帳しておく。頃合いを見て、塚石を順次、次の“屋塚”予定地に積み上げながら、魚が筌に逃げると筌ごと掬い上げる。筌に入らなければ網で掬いあげた。エビは簀に付いたものをとりあげた。
 
 諏訪湖の特殊漁法のもう1つが“たけたか”漁で、いわゆる刺し網で、諏訪湖では網をジクザクに張り、2m位の深さで沈子を錘として、網目の大きいのが“たけたか”で細かいのが“きよめ”という。“たけたか”漁はコイ・フナ・ナマズで、“きよめ”は、ワカサギ・フナ・ハヤ・ムロが対象であった。
 
 諏訪湖では、昭和10年頃まで、コイ・フナ・ドジョウ・ナマズのほか、きれいな水に生息するカワヤツメ・イワナ・ヤマメ・カワムシが漁獲され、エビ類や特にマシジミなどの2枚貝が目立っていた。 縄文時代は約1万年間もあるので年代が進むにつれ漁法・漁具は大きく進化して、 漁具の発展は刺突漁具・釣漁具・網漁具の順で発展していったとされている。次第に大掛かりになり 捕獲した魚の一部は、冬の食糧源として燻製にして保存したと考えられる。「ヤナ」などの施設を設け、漁獲も多ければ特定の場所の確保が利権となり定住を促進した。尖石では、未発見であるが、燻製炉としての連穴遺構が各地で出土している。


縄文時代の漁猟具

  魚影濃い沼・川を育む山林は、クマ・シカ・イノシシ・キツネ・タヌキなどで、昼間でも常に獣の気配がするほどになっている。平坦な岩場に獣の糞があふれかえり、山葡萄の実のなる頃には、山に分け入るシカの糞が至る所で盛り上がり散乱している。地元に住んでいても怖気て深く入れない。ウサギは、昭和の末頃に皮膚病のような伝染病により、一時的に絶滅状態になり、最近は復活しつつあるようだ。車山高原に30年近く住んでいるが、未だ野兎を見る機会が少ない。

  肉食は現代でも最高のご馳走で、栄養価も食べ応えもある。八ヶ岳西南麓で発見される石器の中心は、黒曜石製石鏃である。石鏃とは「矢の根石」とも呼ばれ、矢の先につけて用いる狩猟用小型石器のことである。世界中の新石器時代以後の遺跡にみられ、日本でも弓自体の出土例は縄文後晩期に集中するが、石鏃は縄文時代草創期、隆起線紋土器段階で既に普及しているから初頭から使われていたようだ。発掘された石鏃は、既に定形化していた。しかも瞬く間に日本列島に伝播し、縄文時代を特徴づける代表的石器になっている。時代や地域により多様な形態のものがあるが、その殆どは押圧剥離による両面加工で作られている。極めて根気のいる困難な作業で、消耗品であるのに、余りに精巧なものが多いので、特定の集団が専門的に製作していたか、この時代の男の必要不可欠の製作技術として伝承されていたとも考えられる。

 長さ約5cm重さは約5gまでのものが通常石鏃と呼ばれている。長さは2〜3cmのものも多いが、1cm未満のものや6cmを超える大型のものもある。これらは獲物の種類により大きさを区分したのだろうか。石鏃は、基部の形状によってその装着方法が異なっていた。凹基式、平基式、凸基式は矢柄の先端を割って石鏃をはさみ、有茎式は茎部を矢柄に挿し込んだとみられている。石鏃と矢柄の固定には、アスファルトや、膠・漆・木のヤニなどの樹脂が膠着材として使われた。
 
 自然に湧き出ていた石油のアスファルトが、石鏃を弓矢に装着する際の接着剤として使われているが、信州には石油の産出地がない。隣県の新潟では、柏崎・長岡がその産出地で、黒曜石製石鏃との交換ルートがあったかもしれない。ただ通常、降雨多湿列島の日本では、手近に漆の木がたくさん茂っている。それで我慢したかもしれない。

 縄文時代の狩猟の画期となったのが弓矢猟である。危険な野生動物に接近しなくとも補殺できるようになった。さらに鳥類も獲物の対象となった。弓の多くは丸木弓で、桜の樹皮を巻いた桜樺巻弓(さくらかばまきゆみ)、細い糸を巻いた糸巻弓、黒や赤の漆を塗った漆塗弓などがある。素材は西日本では、カシ・ユズリハ・カマツカなど、東日本ではイヌガヤ・カヤ・マユミなごが主流である。八ヶ岳西南麓では弾力性に富むカヤやイチイが適する。弓弦(ゆみづる)はアサやカラムシの繊維を撚り合わせ、強度を増すため松脂や漆が塗られたと想像される。大きさは150〜160p前後の長弓が多かった。射程距離は、民族例や実験例から30〜40mくらいと想定される。矢柄はできるだけ回収した。ワシ・タカ・ヤマドリの羽は簡単には入手できないし、気に入った矢柄は簡単にはできない。栓状鏃という木や骨で先端が丸い鏃が使われるのも、鳥を気絶させて捕らえ、きれいな羽を得るためであった。

 ウサギ・タヌキ・キツネ・テンなどの中小獣類は、大勢が勢子となり追い立て囲んだところで弓で射った。シカはイヌに追わせると、急斜面や崖を飛び下り、臭いを消すため川筋に逃れる。「タツマ」と呼ばれる射手が隠れて待つ場所で、待ち構え頸部を射る。巨大な縄文イノシシを殺傷するには、より至近距離に追い込まないとむりで、狩猟犬の追捕が不可欠だ。また皮と皮下脂肪が厚く、そこだけ皮が薄い頸動脈に的中しない限り、矢で射っても直ち致命傷とはならず、弱まるまで犬による追尾が必要であった。

 現在、車山に居住する漁師は、シカの補殺には猟銃は邪魔と言う。猟犬4匹がいれば、追捕し四方を囲むためナイフで仕留められる。猟犬は教えなくとも、獲物の四方を固め、正面の猟犬は威嚇するだけで、背後に廻った猟犬が尻や後足に食らい付き動きを止め、飼い主の登場を待つ。猟犬特有の本能的リスク回避である。猟師も猟犬が獲物に食らい付いた際には、猟銃を発射しないという。その衝撃で猟犬の牙を欠く恐れがあるからで、他の猟師の猟犬でも、目前で死闘が行われていれば猟銃の使用は控えるという。

 イノシシはシカの肉より脂がのって美味い。骨髄も同様なのであろう。全身の骨角が遺存する例は、ごく稀で、補殺されれば四肢・頭・顎・背骨は、髄液を飲むため解体され尽くされている。ラムラックやTボーンステーキのように肉片が付いたままよく焼き、付着する肉を食べながら、骨を割り骨髄を啜る光景が想像できる。

 イヌの骨の出土は、日本各地の縄文貝塚から学術報告されている。いずれも丁寧に埋葬されている。縄文早期前半の愛媛県上浮穴(かみうけな)郡美川村の上黒岩岩陰遺跡では、人と同様に手厚く埋葬されていた。岩陰の奥部を墓域とし、10体以上の人骨が埋葬されていた。その人骨より居住地区近くに2体の犬の埋葬骨も発見され、今から約8,000年前、我々の先祖が既に日本犬を飼っていたことがわかった。山形県東置賜郡高畠町屋代の日向洞窟(ひなたどうくつ)では、イヌの骨が縄文草創期の隆起線文土器片・爪形文土器片や石槍・石斧などと伴出し、イヌの活用を前提にした弓矢猟の出現が想定されている。他にはクマ・シカ・キツネ・カモ・ヤマドリなど多数の骨も出土した。

 縄文時代の遺跡から出土する陸上動物骨の骨の95%がシカ・イノシシでクマなどは少ない。その中型獣に対して、長さが2pにも満たない石鏃では、直ちに致命傷を与えられない。猟犬の追尾する能力に毒矢の使用が加わらなければ難しい。アイヌ民族が使っていたトリカブトの矢毒は、縄文人に遠距離からの攻撃を可能にした。イノシシ・クマなどの獲物からの反撃を回避するためにも有効であった。矢毒で狩猟した獲物は、矢毒が刺さった部分を少し大きめに取り除き、他部は加熱すれば食べられた。矢毒を付けた仕掛け弓を獣道に多数仕掛けることで猟獲を格段に向上させた。矢毒の使用は狩猟民の狩猟技術に一大革命をもたらした。その命中精度の高さと狩猟技術の向上と、それを一層、効果的にしたのが縄文早期初頭からの猟犬と矢毒の使用であった。石槍の出土例は平野部では少なくなる。あっても殆どが漁労用であった。石槍が山間部に残るのはクマ猟には有効であったからだ。弓矢とイヌを活用する集団猟により、集落内の結び付きは一層強固なものになったであろう。

 石鏃が刺さった骨に増殖がみられる検出例から、致命傷を負っていないとして矢毒の使用を否定する説もあるが、それだけでは根拠が薄い。

 北海道の陸上狩猟動物はエゾジカが主でキタキツネは少ない。イノシシの骨は僅かな出土例しかなく、本州からの交易品として運ばれようだ。大島の下高洞遺跡(しもたかぼら)では、段ボール箱で70個、点数では数千点にもなるイノシシの骨が出土した。利島・新島・三宅島にも運ばれていた。伊豆七島には食料となる中・大型の動物はいないはずであったが、200kmも離れた八丈島でも大量に出土している。それが骨付き肉で運ばれたか、生きたまま持ち込まれ、長期に飼育され太らせてから食料にしたかは定かではない。縄文人はイヌを飼育しているから、その可能性はあるが、牛馬類は縄文時代の出土例がない。

 ただ、儀式用としてイノシシの飼育が行われた可能性は高い。縄文前期後葉になると土器の縁にイノシシの獣面が現れる。中期には甲府盆地東辺や関東の遺跡から取っ手などにイノシシを造形した土器が現れる。長野県大町市八坂の中原遺跡で出土した縄文中期・約4,800年前の深鉢土器片は、鼻を突き出したイノシシの顔を象った取っ手であった。関東地方でも、中期の貝塚から、頭骨を欠くイノシシの幼獣を特別に埋葬する例がいくつかみられる。山梨県北杜市大泉町の金生遺跡では、縄文晩期、八ケ岳を背景にし巨大な配石を「祭壇」として構え、その前で祈りをささげた。この遺跡から大量のイノシシの下顎が出土した。それは径140p、深さ70pほどの竪穴に焼土と共に、焼かれた状態で118頭分が集積されていた。そのうち114頭が生後1歳未満の幼獣だったという。祭礼に供される贄としてささげられたようだ。

食用としてはもとより、贄として、幼獣が一時的に飼養されたことは確かのようだ。後晩期には、東北地方でイノシシばかりかブタを象った土偶が登場する。ヨーロッパ、西アジア、中国などでは、それぞれが独自に土着するイノシシを順化させ家畜化した。家畜化の年代は、おおよそ中国南部で10,000年前、西アジアで8,000年前頃とかなり遡る。ヨーロッパの養豚も古く、イギリス諸島で約6,000年前の骨が出土している。日本列島の縄文後晩期に登場するブタは、日本列島のイノシシを飼育し順化させたブタらしきものであったのか。弥生時代に養豚が水田稲作文化と同時期、大陸から伝来したというが、それは縄文時代から飼養されてきたイノシシだったのか。

 イノシシの巣は窪地に青萱や落ち葉などを牙で食い切り径1.5m前後、高さ50〜60p程に敷き、枯枝などで屋根のある産床(うぶどこ)を作り、通常4月〜6月頃に年1回、平均7〜8頭ほど出産する。育つのは半数位のようだ。妊娠期間は約4ヵ月、雄は単独で行動するが雌はひと腹の子と共に暮らし、定住性が高い。一週間くらい経てば幼獣は親のあとをついて歩く。縄文人はその習性を当然知り、その場所を探して捕獲したようだ。

 伊豆七島へイノシシを運んだ舟は太い大木を長く輪切にし、中を抉り抜いた丸木舟である。西日本ではクスノキやスギ、関東ではムクノキ・カヤ・クリ・ケヤキなどが材料で、北海道ではカツラが多い。丸木舟は焼石で焦がしながら石斧で抉り、多くは全長5〜7p、幅は60p位である。縄文前期の出土例が一番古いが、神津島・恩馳島の黒曜石が本州で広く分布していることから旧石器時代からあったとみられる。

 千葉県千葉市花見川区朝日ケ丘町の落合遺跡から、泥炭層から2,000年以上前のハスの実1粒が発掘され、大賀一郎博士によりその実が発芽・開花させられた。その花見川下流の湿地帯に豊富な草炭層が形成され、そこから昭和22(1947)年、長さ6.2m、幅42pある1隻の丸木舟と6本の櫂が出土した。翌年にも長さ5.9m×幅44pと長さ3.5m×幅52pの2艘、昭和26年にも別の断片が、計4艘分掘り出された。縄文時代の落合集落は川辺に突き出した緑と水辺に恵まれた台地に立地し、川漁や内海漁には絶好の基地となり常時10軒ていどの集落があったとみられる。

 京都府舞鶴市千歳の浦入遺跡(うらにゅう)は、約5,300年前の縄文前期の丸木舟の船体半ばから船尾にかけの部分、約4.6mが約50cmの深さで砂層に埋まっていた。丸木舟の全長は約8m、幅1m、舟の縁の厚さ5cmと推定される。材料は直径2m前後のスギ材を半割りしたもので、造られた時の焦げ目が遺存している事から、焼いた石を表面に置いて木材を焦がしながら、磨製石斧で抉ったものだという。その周辺からは、桟橋の杭の跡、錨とみられる大石なども発見され、当時の船着場と考えられいる。遺跡は日本海に面した舞鶴湾の外海との湾口にあたり、外洋漁業の基地だったようだ。一方、日本海側では、縄文時代、「海の道」を通じて広く交易していたことがわかっている。滋賀県近江八幡市の元水茎遺跡(もとすいけい)出土の丸木舟は琵琶湖での漁労を対象にしていた。その上、琵琶湖の内湖(ないこ)間の交易舟としても活躍していた。

 縄文時代の丸木舟は、50数例見つかっているが、素材の性質上、当然、縄文後晩期に属する丸木舟がもっとも多いが、前期に属する丸木舟も長崎県多良見町の伊木力遺跡(いきりき)や福井県若狭町の鳥浜貝塚などで数艘の出土例ある。丸木舟の舟底は丸底のため、横流れや転覆しやすい。それでも穏やかな水面の湖・内海・磯廻りなどに限定されず、浦入遺跡の幅1mの丸木舟や、南太平洋ポリネシアの原住民が、古来より用いていたカタマランのように、2艘を並べ、木を何本か渡し綱で縛る双胴舟方式(そうどうしゅう)などで外海に漕ぎ出たようだ。両手で支える木の櫂で直接漕いでいたようだ。舷側に支点を置く装備の舟が出土していないので、オール形式ではなかったようだ。

 本州・四国・九州の山間部ではニホンカモシカとツキノワグマも多い。ニホンザルも食べていた。平野部ではイノシシ・ニホンジカが殆どで、タヌキ・キツネ・アナグマ・ノウサギなどの小型動物は少ない。肉が不味いせいもある。ただ毛皮を得る目的もあったであろう。青森県の三内丸山遺跡では、シカ・イノシシが少なく、7割がウサギ・ムササビなどの小型動物であった。ガンやカモが主であるが、アビ・アホウドリ・ウ・カイツブリ・ハクチョウなど野鳥をとらえ食料としていた。その出土比率は他の縄文時代の遺跡と比較すると高い。恐らくシカ・イノシが激減し、ウサギ・ムササビでは主要な動物性タンパク源となりえず、野鳥やマダイ・コチ・ブリ・ヒラメなどの海産資源に多くを依存していたようだ。縄文時代、イヌは飢饉など余程の場合以外は食べない。埋葬されるのが通常であった。

 縄文早期前半にはイワシが漁されているので、漁網があったと断定できる。タモ網程度かもしれないが、石錘・土錘が多量に出土すれば漁網を伴うのが明らかである。北海道渡島半島の縄文早期の遺跡から多量の礫石錘が出土している。函館市の函館空港遺跡でも礫石錘が出土しているので漁網を使っているのは明らかだ。関東地方の縄文中期の貝塚からは大量の土器片錘が発掘されている。

縄文時代の植物性食料

 春、八島湿原に行く。一面、ヤマドリゼンマイとヤマウドの群生である。車山高原はワラビが豊富だ。林に分け入れば、タラの芽、マユミ・カエデ・サクラ・シラカバなどの若葉など見るもの総てが食料である。草原では、行者ニンニク・ヤマフキ・コゴミ・ツリガネニンジン・ギボウシ・アマドコロなど、灰汁(あく)抜きをしなくても、煮れば柔らかく食べられる。

下流河川から獲れるサワガニ・カタツムリ・イシガイ・オグラシジミ・オオタニシ・カワタニシなどは副食かおやつであったろうか。奇跡的にも富山県小矢部市の桜町遺跡では縄文中期の層からコゴミとヒョウタンが発見された。この遺跡は、谷の中にあったこともあり、地下水位が高く、その水にまもられていたために、通常の遺跡では残らないような建築加工材など多種な木製品や編み物類、動物や植物などの有機質遺物が、非常に良好な状態で出土した。山形県東置賜郡高畠町深沼の縄文前期の押出遺跡(おんだし)は泥炭地で湿地であったため、ここでも木製品や漆製品、編物、食料類などの遺物が多く発見された。クッキー状に焼きあげた炭化食物も52個ときのこが出土した。
 
 夏は、スグリ・ヤマグワの実が豊富に採れる。味はよくても腹持ちが悪い。しかし調理用添加材と考えると用途が広がる。山採は雪国でなければ、一年中採れる。芽・葉・花弁・地下茎・地上茎・根など、植物の利用部分は様々にある。ヤマイモ・ユリ根・シイの実など、アク抜きは不要だ。カヤの実もギンナンのように殻付きのまま炒って食べられる。ただ野生植物には、通常、自衛のためもありアクは付きものである。カタクリ・コシアブラ・ギボウシ・アマドコロ・コゴミ・シオデ・ツリガネニンジン・マユミの実などは茹でるだけで食べられる。タラの芽・ウド・セリ・ツクシ・タンポポ・フキ・ヨモギ・ニリンソウ・フキノトウなどは茹でて水に晒せばよい。アクが極めて強いアザミ・ゼンマイ・ワラビなどは、木炭の灰汁を使ってアク抜きをする。

 諏訪の地域は、夏になると夕顔の実が店頭に出回る。優に40cmを超えるものも多く、且つ太いので食べ応えはある。一般的には茹でて食べる。癖がなく、秋口まで収穫できる。夕顔は平安時代初期に中国から輸入され、殆どが干瓢として食されている。縄文人も当然、ヒョウタンなどのウリ科の植物を、住居周辺で栽培していたと考えるのが自然である。

 秋にはドングリ類だけでなく、山ブドウ・アケビ・ヤマモモ・ヤマボウシ・カジの木・マタタビ・ザクロなどがある。植物の実は、野鳥たちに種を運んでもらい種の保存を計るから、大部分の植物の実はうまいのが通常だ。ただマムシソウの実は食べると、嘔吐・腹痛、触れただけで皮膚炎を起こす人もいる。マユミの薄い桃色の実をコゲラなどが食べに通うが種自体は猛毒である。ウバユリの根も美味しい。福井県三方町の鳥浜貝塚は、三方湖に注ぐはす川とその支流の高瀬川の合流点付近にある。その縄文前期の層から丸木舟・櫂・石斧の柄や簡単に1本の木で作る丸木弓・鉢・椀など、各種の多量の木製品が出土し、その仕掛中の加工材も豊富で、この時代の木工技術を知ることができる貴重な史料となった。木製の櫛には朱や黒の漆が塗られ、すでに漆技術の普及していたことがわかる。伴出したのが栽培種のクリ・ドングリ・クルミ・ヒョウタン・リョクトウ・エゴマ・ウリ・シソ・ヒエ・ゴボウ・アサ・アブラナ類・カジノキ・ヤマグワなどで、縄文時代人が営む農耕の原初的な重要資料となっている。

 ドングリなどの堅果類の多くは、アク抜きが必要で、粒のまま煮て水にさらしてアクを抜く。そして通常、石皿や石棒で製粉し、粥状にするか、団子状にして食べたと推測される。青森・岩手・山形・福島・茨城・新潟・長野・岐阜などの遺跡では、ドングリを加工し、クッキーやハンバーグを製作していた。

 冬期の山採は、冬鳥が雪国や豪雪の山岳地帯にまで群集する光景が、鮮やかに語り掛けてくれる。ヤマボウシや山ブドウの実が瞬く間に啄ばまれ、その後大量のツルウメモドキやズミの実が補い、ナナカマドの実は、余り好みでないようで、あたかも已む無く最後に野鳥が啄ばむ様子だ。青森・岩手・山形・福島・茨城・新潟・長野・岐阜県の遺跡からクッキー状、もしくはパン状の炭化物が頻繁に出土している。山形県の押出遺跡の縄文前期、約5,500年前のクッキー状炭化物には、クリ・クルミなどの木の実に、ニホンジカ・イノシシなど獣肉と野鳥の肉などと、イノシシの骨髄と血液と野鳥の卵などが加えられ、塩で味が整えられていた。また野生酵母を加えて発酵させてもいた。タンパク質が主材料のハンバーグもあった。クッキーの栄養価は高く、タンパク質・ミネラル・ビタミンが豊富で、栄養学的には完全食に近く保存食としても優れ、狩や交易の旅には携帯食として重宝にされていただろう。押出遺跡のクッキーには、スタンプによる文様が押されていた。旅先の夫に対する思いが込められているのだろうか。

 諏訪市湖南の諏訪大社の神山・守屋山山麓に荒神山遺跡がある。縄文時代前期から平安時代までの遺物が出土している。この遺跡が全国的に有名になったのは、住居址内の石囲炉の炭化食品を灰像法による走査電子顕微鏡で鑑定した結果、「エゴマの種実」と判明したからである。その後原村の2つの遺跡、大石遺跡、前尾根遺跡の炭化物からも同一結果が出た。福井県三方町の5,500年前の鳥浜遺跡からも出土している。このことから縄文早期には、既に存在していたと推定されている。

 「エゴマ」は、インド高地から中国雲南省の高地が原産地で、当時の日本には野生化しているレモンエゴマがあったが、栽培種はシソ科の油脂性植物の「エゴマ」である。中でも常に種実の大きい方が選別され続けられ食用として栽培されていった。またエゴマは薬用のほか、油脂用・漆器用の工芸作物でもあった。しかも病虫害に強く、湿気を好むため乾燥しない土地が適地で栽培は容易、今でも全国の高冷地で作られている。 収穫は9月下旬から10月下旬で、その後5〜10日間乾燥させてから、敷物の上で、敲いて脱穀する。土器の水槽に少しずつ入れて、泥と砂を落とす。「エゴマ」は、水に浮かぶので笊ですくう。 米をとぐように4、5回洗い、表皮の汚れを落として、3、4日乾燥させて保存する。

 「エゴマ」油の採取が一般的に普及するのは平安時代の初期、山城国で始まった。調理はゴマとよく似ていて炒るなど簡単だ。葉は「エゴマ」特有の臭みがあるとして日本では、野菜として利用されてこなかった。朝鮮ではむしろそれが好まれ、香りのよい種類をよく使う。近年、日本でも韓国料理の普及で、その香りが食欲をそそるとして調理されるようになった。

  ヒエ・アワ・各種ムギを管理栽培する縄文人像が見えてきた。その後、各地の縄文遺跡から「エゴマ」のみならず、ヒョウタン・リョクトウなどの栽培種が発見されて、今後、より主食となりうる栽培植物の発見の可能性が高くなった。

 岡山県岡山市津島の津島江道遺跡(つしまえどういせき)では、縄文晩期中葉の水田が発見された。近隣の岡山市北区の津島遺跡は、弥生時代初頭から大規模に稲作を行っていた大集落である。北九州では縄文晩期後半には、本格的な水田稲作が始まっている。本州でも岡山県南部の総社市の南溝手遺跡で、縄文後期後葉、約3,500年前の籾の圧痕が残る土器が発見され、ほぼ同時期の籾痕土器は、倉敷市福田貝塚などからも出土している。同県美甘村の姫笹原遺跡では、縄文中期中葉、約4,500年前の土器の胎土中からイネのプラント・オパールが多数検出された。

ススキをはじめ、イネ、ムギ、キビ、トウモロコシなどのイネ科植物は土壌から吸い上げた水分の中の珪酸という物質を、機動細胞という細胞に蓄積する性質がある。機動細胞に溜まった珪酸は細胞内で一つに固まり、植物珪酸体ととして蓄積される。その植物が枯れてもガラス質の植物珪酸体は土壌に残る。それがプラント・オパールである。縄文時代の稲作が縄文中期に遡る事になる。これが本格的な水田稲作が、弥生時代初期に西日本に急速に広がる素地となった。縄文時代のアワ・ヒエ・シコクビエ・イネなどの焼畑栽培や原始的な農耕がなされていて、長野県諏訪郡富士見町の井戸尻遺跡群のように多種の農耕具が既に揃い、農耕的生活が営まれていたからであると言われている。

 ヒョウタンはアフリカ・熱帯アジア原産のウリ科の植物で、その乾燥した種子の保存能力もあって、かなり早くから全世界に広まっていた。海水にさらされると高い発芽率が利点となり、海流に乗って広く伝播したとみられる。縄文早期には、既に日本にも生育していて、8,000年前頃の福井県の鳥浜貝塚や滋賀県の粟津湖底遺跡からは、縄文前期・中期の果皮、種子が出土している。

 灰汁がないので、ただ煮れば食べられる。後世、実を乾かし水筒や、酒の貯蔵用に利用している。海外でも土器文化前に保存・携帯用容器として使用した例が多いようだ。  

 リョクトウ(緑豆)の原産地はインド辺りで、古来よりインドでは、重要な食糧源で、煮たり、炒ったりして食べていた。現代でも、アジアのリョクトウ栽培の70%を占めている。若莢(わかさや)は軟らかいので、まるごと調理する。種子は3〜4gと小粒で、早生種を選べば、高緯度、高冷地でも栽培は可能で、インドでは、標高2,000mの高地でも作付けされている。沖縄では、旧暦の5月5日に作る甘菓子に入れて食べる。大きくて味もよい小豆が出回ると、豆の需要としては衰退する。現代では、むしろ中国・アメリカ同様、「豆もやし」として大いに食べられている。また中国春雨の原料でもある。

 縄文時代の実りの秋 は、茸の季節でもある。古来より、林間における柴・下草刈りは、燃料・住居用材を得るための重要な作業である。後世には食料栽培の肥料を得るため、絶対不可欠な刈り採り作業となる。従って、手入れは行き届き、茸は大量に採集できたであろう。縄文人はあらゆる野生植物を口に含み、毒性の有無を確認した。ドクゼリなどの有毒山採、ドクウツギなどの有毒果実、カキシメジなどの有毒茸も経験で学んできた。林間によく見かけるマムシソウは、地下茎や種子に有毒成分があり、口にすると喉が焼けつくような刺激痛があり、しばしば痙攣・目眩を生じさせる。秋に実るカラフルなトウモロコシ状の種子は、舐めただけで舌が2〜3日変色するほどの強い作用がある。生で根茎を食すると、唇に浮腫が出来、涎が大量に流出する。それらの知識が共有されるまで、多くの犠牲者がでたであろう。

 落葉樹林内の樹陰でよく見かけるオオウバユリの鱗茎(りんけい)からは、良質のでんぷんが含まれている。花をつけるものが「雄花」、花がないものが「雌花」で、花をつけると鱗茎は萎むので、採取するのは「雌花」だけだ。北海道では、アイヌにより「トゥレプ」の名で呼ばれ、アイヌ民族が用いる植物性食料の中では穀類以上に重要視している。掘り集めるのは6月下旬から7月上旬ぐらいまでの間が良く、早すぎるとデンプンが少なく、遅すぎると色が黄ばんで硬くなる。掘り出したまま、熊笹に包んで、石皿に載せ蒸し煮にすると甘味が増し、熊笹の香りが調味料代わりとなる。アイヌ民族が主食としたのは、冬でも食いつなげる保存性にあった。オオウバユリの鱗茎を、まず細かく刻んで乾燥させ、これを臼でついて、でんぷんの粘りが出てきたものを、ドーナツ状に成形した。穴にヒモを通して、住居内で乾燥して保存食糧とした。突き固めた鱗茎を水にさらして、底に沈殿する白い上質のでんぷんを団子にして保存した。炉で焼いて食べた。

ムラの周辺では、石斧を使って栗とオニグルミを、何代にも亘って盛んに移植する。今では、林のようになっている。やがて実が大きく、美味しい木のみを育て、その種が実生で生え広がるように管理栽培をした。間引かれたクリは、ムラの建造物などの用材とされた。その外周はコナラ・ミズナラの林がほとんどである。長く厳しい冬に備えて、ドングリを拾い集める。トチの大きな実も有効である。山ブドウ・ヤマボウシ・アケビの実は甘く、そのまま生食でる。ツノハシバミの実は、テトラッポットの形をした毛の密集した苞の中に1個入っているだけだ。栗のような実をしているが、生食するとナッツの味がし、脂肪分が豊富であった。  

 グミの実も渋みと酸味の中にかすかな甘味がある。日本原産の野生の山芋・ジネンジョの実・ムカゴは炒るだけで美味しい、茸と炒めたら最高だ。採ったら目印を残す。秋の山菜を採り尽くして、季節は終わるが、自分だけの秘密の場所で、目印頼りにジネンジョ掘る。成分はデンプンが主で、たんぱく質・ミネラル・カリウムも含まれている。漢方では、乾燥したヤマイモを「山薬」と呼び、古来より滋養強壮、健胃、整腸、消炎などの薬として重用している。縄文人も1万年の歴史の中で、口伝として共有していたかもしれない。

 一般的にドングリは渋みが非常に強く、そのまま食用とするには適しない。灰汁抜きの方法としては、流水に数日さらす方法と、煮沸による方法がある。特に煮沸の場合、木灰汁を用いることもある。流水による方法は、主に西日本から広がる照葉樹林帯の地域でなされいる。煮沸方法は、東北地方や信州に広がる落葉広葉樹林帯で行われる灰汁抜き方である。渋みの少ない種では、殻煎りで、灰汁抜きができる。 北上山地の山村では、ミズナラのドングリの皮を剥き果実を粉砕して、湯、木灰汁などを用いて灰汁抜きした「シタミ粉」と呼ばれるものを作った。シタミ粉は通常湯で戻し、粥状にして食べた。熊本では、カシ類のイチイガシのドングリから採取したデンプンで、「イチゴンニャク」や「カシノキドーフ」、あるいはシイの実を用いた「シイゴンニャク」といった葛餅状の保存食が作られた。
 
 トチの木の種子は大きく栗のようで食べ応えがある。その灰汁抜きは大変で、木灰でアルカリ中和をして除去する。トチの実は、赤褐色でつやがあり、でんぷんが主成分でカリウム・タンパク質も多く含まれている。9月になると、実は3つに割れて、赤褐色の光沢のある種子が山野にたくさん落ちる。その実は、古代から広い地域で、普通「トチ餅」にして食べられていた。縄文時代には、餅米はないので、アワ・ヒエ・ムギ・ソバの利用が普通で、現代にも残る粟が入っている「粟餅」が、主であったと推測されている。

 クリ・クルミ・トチなどの堅果類とヤマイモ・ウバユリなどの塊根(かいこん)が、主原料となり縄文集落を支えてきた。三内丸山遺跡では、巨大な建造物などが、クリの大木を利用していることから、近くに選抜された優良なクリ林が育成されながらも、その食料資源を他に転用出来るほど繁茂していたようだ。三内丸山の集落ではシカ・イノシシなどが過剰な補殺で激減し、ムササビ・ノウサギのほか、カモなどや鳥類を捕食し続けた。いずれにしろ動物性タンパク質としては不足気味で、寧ろ、マダイ・コチ・ブリ・ヒラメなどで補っていたようだ。

 三内丸山遺跡では、長い年月にわたる集落の営みで、周囲の森林が、広く木材や燃料として伐採され、その集落周辺の半径10km以内のシカ・イノシシは獲り尽くされていたようだ。三内丸山は、今から約5,500年前〜4,000年前の縄文中期を中心とした集落である。当然、当時の縄文集落は狩猟資源の枯渇を恐れ、「獲り控え」を念頭に、シカ・イノシシの補殺はオスの老獣を主なターゲトとしていた。それは出土例の比較分析からも明らかである。一方、自然環境を破壊しながらも、三内丸山人は自然環境に働き掛けていた。それがクリやクルミ主体の二次林の育成であった。近年、遺跡の泥炭性堆積物を分析したところ、イヌビエのプラント・オパールが多量に含まれていた。

 イヌビエはヒエに似ているが、食用にならないことから名付けられた。しかも畑や水田、都会の道端や空き地などいたるところに生える1年草である。そのイヌビエが食料にされていた。

 ヒエはイヌビエを日本列島で栽培型改良したものだと言われている。アワやキビと違って、外来の穀物ではない。イヌビエの種子は縄文早期の遺跡から出土し始め、時代の経過に伴い次第に粒が大きくなり円みを帯びる傾向がある。野生種のイヌビエを縄文人が、食料として馴化する過程で、栽培ヒエが誕生したという考え方が有力になってる。  イヌビエは縄文人の身近に広く豊富に広がっていた。当然、それを食料とする必然があった。そこに穀物の改良栽培の手法が育ち、それを応用活用すると、急速にヒエという穀物が日本列島固有の栽培作物として成長していった。三内丸山遺跡で麦類の種子が出土したと新聞などで報じられたことがあるが、それは野生のササ類の実であったらしい。これまで注目されなかったが、イヌビエなどと共ににササの実も結構採取されていた。クマザサは、やせた稲穂のような「ササの実」をつける。これを飛騨では「野麦」と呼び、往時の人々には、この実を粉にしてダンゴを作り飢えをしのいだという。

 三内丸山遺跡ではキイチゴ・ヤマゴボウ・ヤマグワ・サルナシ・ヤマノイモなどとニワトコの種子が大量に出土した。遺跡からは、土器に大量に詰められたニワトコの果実が発見されており、酒を醸造したのではないかと推測されている。この泥炭層には、発酵する果実に集まるミツバチのサナギも大量に包含されていた。発酵酒が作られていたようだ。

 ヤマゴボウの若葉は、灰汁を抜けば食用になるという。根は多量の硝酸カリを含み有毒とされている。誤食すると脈拍が弱くなったり、血圧が異常に降下し、心臓麻痺を起こすという。若葉にしても、多食するとジンマシンや吐き気・下痢などを起こすそうだ。山牛蒡の味噌漬けなどが、観光地の土産として販売されている。その本体は、ヤマゴボウではなく、モリアザミなどの根だから安全という。


縄文時代の特異な食料

 日本列島は北東から南西に細長く、最北端の北海道稚内から、居住する最南端の島が琉球諸島の石垣島や西表島で、その距離3千kmに達する。その列島南端の東シナ海を起点とする暖流黒潮が北上する。一方、千島列島に沿い南流する冷たい親潮が、北海道から本州三陸海岸に南下する。そのため暖流対馬海流の末端域となる宗谷岬から知床岬のオホーツク海より、根室半島から襟裳岬までの道東海岸の海水温が、日本列島の海域では最寒冷の値を示す。

 その道東海岸地域の縄文前期当時の貝塚や最上部の海成沖積層から、現在の北海道には生息していないが、本州各地の内湾で通常みられるハマグリ・シオフキ・ウネナシトマヤガイなどの貝殻が出土した。北海道西岸と道南海岸までと北限があるアカガイ・アカニシ・カガミガイなども同様で、これら貝類は現在、道東海岸では生息できず、より海水温の高い陸奥湾以南の内湾が北限となっている。

 縄文早期末から前期には、暖流系貝類が北海道の全域に分布していた。それにより縄文早期末葉から前期中葉にかけて、縄文海進が最盛期となり北海道の沿岸の海水温が、最高で23℃、最低が8℃以上であったと推定されている。それ以降の黒潮暖流の後退により、縄文中期後葉から後期以降までに、その殆どが消滅する。

 縄文早期後半の約7,500年前、北海道西岸沿いに北上する対馬海流が、石狩低地まで暖流系貝類を運び込み、約7,200から7,000年前頃、対馬海流は更に北上し宗谷海峡を抜けてオホーツク海に入る宗谷暖流となり知床岬辺りまで暖流系貝類の生息域を広げた。更に宗谷暖流は一気に南東下して知床岬から根室湾を通過し根室半島に至る。やがて太平洋側に出ると当時沖合を流れていた親潮寒流により道東海岸沿いに押しやられ厚岸・釧路・白糠パシクル沼そして襟裳岬へと南下した。約7,000〜5,000年前頃、北海道東海岸に宗谷暖流が流れると、温暖な海岸環境を形成し暖流系貝類を生息させた。一方、対馬海流の支流は津軽海峡を抜け津軽暖流となり道南海岸から襟裳岬にまで達し、さらにその分流は下北半島の東岸から三陸海岸北部に達した。日本列島でも地球規模の温暖化により、縄文草創期から前期にかけて急激な海面上昇と温暖化が進行し、北海道海岸部全域に暖流系貝類を分布させた。

 縄文中期以降、対馬海流は津軽海峡を抜けて、津軽暖流となり太平洋側に出て、道南海岸に達し、一方は本州東岸沿いに南下して三陸海岸の北部にまで及んでいる。対馬海流の本流は日本海を北上し北海道西岸沿いからカラフト西岸に達している。その一部が宗谷海峡からオホーツク海に出て宗谷暖流となって知床岬へ東南下し、そこから廻り込み国後島(くなしりとう)と羅臼付近にまで至っている。対する親潮寒流は千島列島沿いに南下し、根室半島から襟裳岬にかけての道東海岸に流れ、、現在に至っては、本州三陸海岸をさらに南下し東関東の鹿島灘にまで達している。

 縄文時代の発掘貝塚は、今では全国で3千ヵ所を超えているだろう。日本列島のどこの海辺にも当り前のように貝塚が遺存するような事はなく、多出するエリア・限定的なエリア・無出土のエリアがモザイク状に展開している。最も多いのが関東地方で、日本列島全域の6割を超える出土実績がある。その中でも東京湾から奥東京湾沿岸が第一で、それに匹敵するぐらい濃密なのが、現在の霞ヶ浦の西浦・北浦から牛久沼、手賀沼、印旛沼などを包含する広大な内海を形成していた古鬼怒湾(こきぬわん)の沿岸部である。続いて多いのが福島県および茨城県を流れる久慈川と栃木県那須高原を源流にして鹿島灘に流出する那珂川の両流域である。東北地方では、6県合わせても全体の2割弱であるが、特に仙台湾から北上川下流域が突出している。次いで南部三陸海岸・八戸から小川原湖周辺・いわき周辺と太平洋側に片寄る。北海道では内浦湾と奥尻海峡沿岸部に多い。東海方面では遠州灘沿岸と伊勢湾の知多半島から渥美半島にかけて集中している。中国地方では安芸灘から播磨灘の沿岸部に片寄っている。九州では国東半島と関門海峡に突き出た企救半島(きくはんとう)や有明海沿岸部が突出している。

 太平洋側に貝塚遺跡が多出するのは、日本海側よりも貝の生息条件に優れ、それを採取するにも容易な地形的条件を備えていたためである。日本海側にもハマグリは生息している。ただ潮干狩りスポットと呼ばれる場所が極めて少ない。海岸から急に深くなる地形と満潮・干潮の差が太平洋側程大きくなく、遠浅の浜であっても干潮時に干潟が広く露出することが無いからである。

 埼玉県秩父市の橋立岩陰遺跡や高知県佐川町の不動ヵ岩屋洞窟などの縄文草創期や早期の山間部の洞窟遺跡から、海産の貝がしばしば出土する。長野県北相木村栃原岩陰遺跡でも、ハマグリ・ハイガイ・アワビ・タラガイなど発見されている。食料にしては、その量が少ない上に海辺と余りに遠く離れていることもあり、貝殻が装飾品として愛用され、土器に文様を描く用具としても重宝されていたようだ。

 海洋には魚類以外の海生哺乳類が生息している。捕獲には多くの危険が伴うが、一度獲得すれば収量があり、ムラの人々に長期間、広く行きわたる大食料源となった。イルカとクジラは全国で出土しているが、全体として日本の北辺ほど海生哺乳類の種類が増える。日本列島の南端の南西諸島には、大隅諸島・トカラ列島・奄美群島・沖縄諸島・宮古列島・八重山列島・尖閣諸島と少し離れて大東諸島などがあるが、ジュゴンが目立つ。本州と九州ではイルカ、北海道全域ではアシカ・オットセイがいる。北海道の寒流域ではトドとアザラシも加わる。これらは弓矢・石槍・大型銛などで補殺される。獰猛なシャチや巨大なクジラは海岸に漂着したものを捕えたと思われる。

 貝塚や海生哺乳類に縁遠い山国・長野県下の洞窟遺跡から多くの動物遺存体が検出される。南佐久郡北相木村の栃原岩陰遺跡では、縄文早期の押型文土器の時期、イノシシ・ニホンジカ・ネズミ類が最も多く、サル・ウサギ・オオカミ・アナグマ・タヌキと鳥類、ヘビ・カエル・魚・貝類などがあり、人類の獰猛さが認識される。この洞窟から約8千年前、天井から落ちた岩に押し潰された子供二人の骨が発見されている。火山活動や地殻変動も今日と同様多かったようだ。地震により家が倒壊し圧死することは、それほど多くはなかっただろうが、溶岩流・火砕流・土石流や山の大崩落により埋没することは、少なくなかったはずだ。

 上田市真田町長菅平十ノ原の唐沢岩陰遺跡では、クマが一番多いのが特異で、次いでイノシシとニホンジカとなるが、他にカモシカ・カワウソ・アナグマ・タヌキ・ノウサギ・サル類が検出された。茅野市北山の栃窪岩陰遺跡でウサギ・オオカミ・イヌ・タヌキ・クマ・シカ・カモシカ・サルなど、多数の骨が検出されている。鳥類の中趾骨(ちゅうしこつ)もあったが、種類は特定できなかった。イシガイ・オグラシジミ・オオタニシ・カワタニシ等の陸水産の貝と、海水のハイガイ(灰貝)・サルボウガイ(猿頬貝)の二枚貝も混じっていた。ハイガイ・サルボウガイは、おそらく貝殻状痕文の施文具として中部高原の当地まで流通して来たようだ。ヒキガエルの骨片も検出されいる。

 日本人が生業の主な対象としていたのは、イノシシとシカであった。それら動物たちが通う獣道や、その習性を熟知し、それを補殺する手法に優れ、そのための好適地を押さええた集落が縄文時代に先ず繁栄した。深い山に入り込んだ沢と谷、その出口に突き出した扇状地の扇頂、獣たちが下方の沼沢や河川に集まる光景を、日常的に見張られる場所こそ縄文人にとって絶好の集落適地であった。

 縄文人の主食は、種実類(しゅじつるい)と根菜類を中心とした植物であることが、今日では定説になっている。その多くにはエネルギー源となるデンプンが豊かに詰まっている。しかも身近にあって量も多く、老若男女を問わず効率よく採集でき、また貯蔵がきく木の実を地中の竪穴に貯える事は全国的に普及しているが、低温多湿で粒のままの保存であるから、長期に大量に保存しうるものではなかった。冬期でも寒冷地以外は、短期間がせいぜいである。長期には住居の屋根裏にトチ・クルミ・ドングリなどが乾燥保存された。長野県富士見町藤内遺跡(とうない)の九号住居址から、竪穴住居の炉上の吊り棚に貯えられたとみられる多量の栗が出土した。火棚で各種食料の乾燥と燻状貯蔵が日常的に行われていた証である。デンプンを粉にしたり、それをクッキーに加工して保存もしていた。

 日本の製塩は縄文人が発明した。製塩土器は関東地方の古鬼怒沿岸に縄文後期末に登場する。土器で海水を煮詰めるため、より煮沸効果が高い、底が薄く小さな深鉢形の製塩専用の土器が作られている。器面に文様などは施さず内側は水もれを防ぐために丁寧に磨かれている。土器に塩の入った状態で流通した。塩を取り出すときは、土器をわって取り出すため、発掘調査で出土する土器は壊れた状態で見つかる。やがて製塩土器は、宮城県東松島市の鳴瀬町里浜貝塚などから岩手・青森と北上する。備讃瀬戸沿岸部から大阪南部・和歌山に広がるのは、弥生時代の前期後半から中期に掛けてである。

 古来、人々は動物の髄や血などから塩分を自然に摂取していた。縄文時代の塩は食料の保存に使用された。カキやマキガイのむき身を海水で煮込み、水分を蒸発させてから天日干しをして大量の干し貝を作ってきた。身に塩分が濃縮され、そのままでは食用に適さないが、スープや煮込み料理などの固形出汁として極めて優れている。千葉県沿岸部の集落全体で塩分を濃縮した干し貝を生産し、内陸部との交易品としていた。ワラビ・ヤマウドなどの塩漬け保存も長野県の諏訪地方では古くから行われ今日至っている。塩味に乏しい獣肉やドングリ・クッキーと一緒に食すれば縄文時代の豊かな食文化が広がる。

 縄文時代には、既に現在まで継承されている食材の保存方法が確立されていたようだ。魚を頭まで腹開き、あるいは背開きにし、内臓を取り除いて海水で洗浄し、そのまま一晩漬けるか、半日ほど風に当てながら日干しにする。火で炙り火干にする方法などもある。イワシ・アジ・イカナゴ・エビ・アワビ・ナマコなど小形魚であれば煮てから干す煮干しと、それらを蒸してから干す蒸し干し、海水で魚を煮る塩煮、魚から抽出した魚油に漬け込むなどして保存した。煮たり焼いたり蒸したりするが、縄文時代を通して基本的には乾燥保存であった。当然、干し肉や燻製肉があり、製塩が普及すれば塩漬けも登場する。縄文時代の民族は、現在に至るまで、あらゆる生活場面で原初的存在であり続けた。

 以上が縄文人の定番となる食材で、他にも現代人同様、種々雑多なものが食べられていた。タコには骨が無く遺存しないが、イカ同様美味しい食料である。千葉県市川市堀之内の堀之内貝塚は、縄文後期前半から貝塚文化衰退期の縄文時代晩期にかけて営まれた遺跡で、今から約4,000〜2,000年前にあたる。アサリ・ハマグリ・イボキサゴ・クロダイ・スズキ・エビ類・イノシシ・ニホンジカなどを捕食していた。ここからイカの甲羅がたくさん出土した。甲羅が遺存しないコウイカ・コブイカなども食べていただろう。千葉県館山市浜田の鉈切洞窟(なたぎりどうけつ)では、アワビやサザエなどの貝類68種が出土するが、ガザミ(ワタリガニ)は、一般的な食用蟹で、晩春から初冬まで、冬以外はほぼ季節を問わず漁獲されていた。ズワイガニなどに比べるても味に遜色なく、殻もわりと薄くて食べやすい。鉈切洞窟人は体重200kg、甲長1.2mを超えるアカウミガメを、その卵を含めて食料としていた。アオウミガメは卵も含め食用になり、ウミガメの中でも、もっとも美味とされ、特に腹甲の裏に付いた腹肉(カリピー)が珍重された。味は鶏肉と遜色なく、どちらかといえば珍味の類という。

 サワガニは長野県の栃原岩陰遺跡で多い。スッポンも滋賀県大津市石山寺の石山貝塚から、縄文早期の7,000〜8,000年前のサル・イノシシ・シカなどの獣骨やコイ・フナなどの魚骨と共伴した。

 他にもバフンウニ・ムラサキウニなども食されている。現在の日本ではヘビを食べる習慣は廃れたが、近年までは、日本でもマムシやシマヘビなどをよく食べていた。江戸時代まで、偏向した仏教教義により、表向き獣肉を忌避していた世情、庶民はガマカエルの筋肉が発達した脚を食べ応えがあり、しかも極めて味覚でもあり頻繁に食べていた。ヘビやガマカエルなどは、庶民の間では貴重なタンパク源のひとつとして重宝されていた。

 日本列島のサルの主要な食料源は、意外にも昆虫を捕食することにあった。同様、人類学史研究において、イモムシ・ウジ・トンボ・セミなどの虫類が、人類の好物であったと考えられている。長野県の伊那市などの天竜川の清流域に住むクロカワムシ・カワゲラなどの水生昆虫の幼虫を餌にする昆虫を総称してザザミシと呼ぶ。伊那地方では、ザザミシ・イナゴ・ハチノコ・カイコなどを食べていた。現代でも主に佃煮や揚げ物などにして稀に食している。恐らく近世以前、下手物食いなどの表現が、庶民レベルではありえなかった風俗の名残であった。

縄文時代のトチの実料理

 トチの実は、渋味が強く、灰汁を抜くのが大変だ。それでも縄文時代から今日まで採集され続けられてきた。

 木の実の殆どが隔年毎の豊凶に左右されるが、トチの実は安定的に採集できた。その灰汁抜きに、木の灰を使うが、ワラビのように単純な作業では食しえない。そんな面倒な事までしても、日本では古代から主要な食料としていた。なぜ餅にトチの実を入れたのであろうか。それは味もさる事ながら、餅が冷めても硬くならないからである。これは、冷蔵庫・電子レンジ・保存剤がない時代、かけがえのない当座の食べ物であった。それで、これほど迄にも灰汁の強いトチの実を、苦労して加工保存する事が全国的に広まった。

 トチの木は、東北地方や北海道南部に多いが、四国・九州にも自生する。縄文時代の生業は、旧石器時代の狩猟・漁労をより進化させ、加えて土器の創造により灰汁抜き技術を向上させ、植物採集を生業の主要基盤にまで高め、長期間の定住生活を可能にした。トチやドングリなどの堅果類が安定的な食料資源として急浮上した。その成果により長期の定住生活が保障され、縄文時代の1万年を超える長年月、それを支える文字通りの原動力となった。最近、開発された古人骨の炭素・窒素同位体分析によれば、千葉県船橋市古作の古作貝塚人(こさく)は、蛋白質の約30%、カロリーの約80%を堅果類に依存していた。これは他の貝塚人にも、ほぼ当てはまる結果であった。

 三内丸山遺跡で先述したように、千年を超え、永続的にしろ、断続的にしろ、定住すれば、住居の建材・薪材・その他の道具材などの用材として、周囲の落葉広葉樹林帯や照葉樹林帯の濃密にして深い森林は伐採され消尽された。東日本に限れば、多くのブナ・ミズナラなどの極相林は伐採され、その後地にクリ・クルミ・トチなどを植生する人為的な二次林が形成された。それにより直射日光を好む陽性植物の最たるヤマウド・ワラビ・ゼンマイ・フキ・クズ・ヤマイモ・ギボウシ・アマドコロ・ツリガネニンジンなどを繁茂させた。その自然界の現象が、縄文人の知識として伝承された。自然に積極的に働き掛ける事こそ、多くの付加価値を伴う生産性の向上に繋がり、同時に管理栽培の有用性を知らされ、縄文前期からリョクトウ・ヒョウタン・エゴマが積極的に栽培され、縄文晩期にはソバ・コメなどが栽培植物として浮上してきた。

トチ餅の作り方

 1 集めたトチの実は、天日で乾かす。トチの実は、拾ってから1年間かけて十分に乾燥させて保存し、トチ餅にして食べたい時に、その必要量だけ取り出して調理するのが原則である。

 2  トチの実を水にさらし、灰汁を抜く作業は、信州では2月から行う。どういうわけか、水が冷たい時期でないとうまくアクが抜けない。その理由は現代でも分っていない。ただ水に漬ければ、アクを抜くのと同時に、厚くて堅い皮を柔らかく剥くことができる。

 3  トチの実を沸騰させない程度、90度℃位に保ちながら火にかけ、5分間ほど炊き皮を軟らかくして、皮をむく。熱い状態で、1つづつ皮を剥くのがが大変な作業となる。カシの木を2枚合わせたもので押し割る。この道具の名前を「トチオシ」とか「クジリ」と呼んぶ。当然地方各地で呼称は異なり、その方法も変わる。

 4 むいたトチの実を網に入れ、川水に5日から1週間程さらす。

 5 トチの実とたっぷりの水を土器に入れて2〜3時間煮る。

 6 水9カップに、木灰を15カップほど入れてこね、この中に5の熱いトチの実を混ぜ込み、3日間落ち着かせる。

 7 取り出したトチの実を川につけ、灰を洗い流す。

 8 米と混ぜて蒸す場合の割合は、昔はトチの実1に対し、もち米1であったが、今では1対2が多いようだ。縄文時代、粟との比率は、各住居の伝承で様々である。

 9 石皿に載せ餅状につく。そのための石棒であった。

10 石皿にトチの粟餅を敷き、そこに蒸した胡桃・栗の餡を入れる。炉で焼く。トチの実のほろ苦さと香りが食味をそそる。


 灰汁抜き後のドングリ・トチの実はすりつぶして団子状で調理した。まず木の実を、すりつぶし、団子状に練ったものを石皿にのせて焼き、できれば練る際に、鹿の骨髄液を入れた。塩味が加わり、栄養価も高くなり、格好の保存食にもなった。その「縄文クッキー」が発見された遺跡も多い。

縄文時代の「落し穴」遺構

 槍・弓矢・鉄砲と狩猟具は進化したが、狩猟の相手の習性は変わっていないようだ。従って縄文時代以降、狩の方法も変わっていない。猟に最適なのは、冬期である。雪に残された獣や山鳥の足跡で動きがつかめる。ヤマドリ・キジ・キジバトなどは、山の中腹・谷筋・沢沿いを飛び交い木の実と新芽をついばむ。そこにキビやアワを撒き、ススキ・カヤを束ねて隠れ蓑にしてじっと待機し弓矢で射る。

 通常、犬を使用する。先ずは犬を伴ない、ヤマドリが好んで生息して所へ連れて行く。犬はヤマドリの臭いを嗅ぎ分け主に教えてくれる。ヤマドリは 犬に射すくめられて、飛び立てない。準備が整い次第、犬をけしかけると、ヤマドリは慌てて、ゴトゴトと言う羽音を響かせ飛び立つ。すかさず弓矢で撃ち落す。

 紅葉の時期、諏訪湖に渡来するガン・カモが、宮川から釜無川へと飛来する。カモはドジョウを餌にして、川魚同様に釣り上げた。縄文早期以降の遺跡である長野県茅野市北山の柏原の北端・音無川右岸の栃窪岩陰遺跡の出土例によれば、殆どがシカで次いでイノシシになる。それ以外に、ニホンザル・タヌキ・ノウサギ・オオカミ・クマの骨が順であった。他にはキツネ・テン・イタチ・アナグマ・カワウソ・リス・ムササビ・ネズミ類・モグラ類が検出された。南佐久郡の北相木川のほとりにある栃原岩陰遺跡では、5m以上になる縄文早期の堆積層から大量の200km超の獣骨が出土した。圧倒的に多いのがシカで、イノシシ・ニホンザル・ノウサギ・カモシカ・ツキノワグマなどが検出された。鳥類はキジ・ヤマドリが主で、ハシボソガラス・オオコノハズク・オシドリ・カルガモ・キジバトがあり、イヌの犬歯も出土した。夏の季節、霧ケ峰・八ヶ岳を駆け巡るのは、涼しく最適で、アナグマ・シカ・イノシシ・キツネ・タヌキ・ウサギ・イタチなど、あらゆる技術と知恵を使って捕獲に努めたのであろう。 シカの捕獲には、勢子と犬の協力が必要だ。イヌに追われ急斜面や崖を下るシカは、臭いを消すため川筋に逃れる。そこで待ち構えて頸部を射る。一方、イノシシは外皮が厚く、皮下脂肪にも覆われている。皮が一番薄い頸動脈を射なければ補殺できない。そこで罠猟が工夫された。

 宮坂氏が始めて「落し穴」遺構を発掘した経緯は、昭和40年前後から日本全土で観光開発が一段と促進され、東洋観光事業(株)が、茅野市城の平に(そこはピラタス・ロープウエイと蓼科湖の間の雑木林)スポーツグランドを設営するため、表土を約1.5m削ると、火山灰地の赤土層のところどころに黒土の面が現れた。宮坂氏はその連絡を受けて、同年10月17・18の両日、黒土を排除し、結果小竪穴23ヵ所を発見した。そこには、棒の先端で掘った痕跡が見られた。

 竪穴は長径のもので最大1.8m、短径では最小0.7m、深さは地表から1.6mの長楕円形で、その穴の側壁・底面に5から2個の小孔があった。宮坂氏は、陥穽の中の小孔は、棒の先を尖らしてそこに差込み、鹿・猪が落ちた勢いで刺し貫く工夫とみた。
 
 宮坂氏は、この猪・鹿の陥穽(かんせい)遺構を23基発掘した。この三方を山に囲まれた小盆地から、集団による追い込み狩猟が行われたと考えた。考古学上、初めて「落とし穴遺構」として認識したうえでの検証であった。この発見が、「池のくるみ」から流れ、上川に注ぐ源流、桧沢川沿いのジャコパラ遺跡の陥穽遺構発掘の参考となり、その後、八ヶ岳西南麓では12ケ所の遺跡で、43基の陥穽遺構発掘の成果に繋がった。

 落とし穴遺構は、山間部でも特に人里離れた場所に設けられた。関東地方では縄文早期と前期、東北地方では中期から晩期、北海道では中期から後期に多い。それを遡り長野県諏訪市の霧ヶ峰ジャコッパラや茅野市城ノ平、静岡県の箱根と愛鷹山麓などの落し穴遺構の発見により、旧石器時代の重要な罠猟の一環と知られている。環状石器ブロック内に集落を築き居住する数家族が一集団となって、ナイフ形石器を槍の穂先に装着し動物を落とし穴に追い込む「集団による追い込み狩猟」が行われていた。赤城山麓の群馬県伊勢崎市下触町の下触牛伏遺跡の発掘などにより、大きな環状石器ブロック群内で同時に100人を超える多くの人々が集落をなし、生活を共にするムラ社会が形成されいた事が分かった。その目的がナウマンゾウ・オオツノシカなどの大型動物の「集団による追い込み狩猟」であったようだ。

 通常、落とし穴に逆茂木を立てて傷を負わせ、更に穴幅を狭くし、一度落ちれば嵌り抜け出せないようにしている。獣道を調査し、それぞれに落とし穴を設けたり、それを多数並べて、そこに犬を使い追い込む猟がなされていた。柵などを備え動物を落とし穴に誘導するなどもした。また、落とし穴が分布する周辺から、拳大の石が多数出土している。落とし穴にとらわれた獣に投擲をあびせて殺したようだ。

縄文時代の鳥の捕獲方法

 諏訪湖周辺には、原始・古代からの遺跡が多数、しかも重層的に分布している。ところが貝塚とまでいえるものが殆どない。下諏訪町の高木殿村遺跡では縄文中期の中頃の竪穴住居の脇に貝塚があった。藤森栄一は『縄文の世界』(講談社)で「大きさは2m×3m、1個のイケシンジュガイの貝殻をのぞくと、他はすべてオオタニシであった」と記す。

 長野県岡谷市川岸三沢の熊野神社境内遺跡は、諏訪湖から約1km下った扇状地の扇央付近にあり、標高は約770m、天竜川との距離200m余り、その比高20m足らずにある。その貝塚から加曾利B式土器が共伴しており、縄文後期中葉という時期が推定される。その発掘当時の一葉の写真に、土に埋もれ累々と重なるオオタニシの貝殻とその上に横たわる鹿と思われる大きな獣骨が写されてあった。

 遠浅の海岸近くの入江や浜に貝塚が最も多いが、それ以外の地域でも福井県若狭町の三方湖の鳥浜貝塚、淡水湖の琵琶湖最南端にある粟津湖底遺跡の貝塚などが特徴的であり、むしろ各種、重要な遺物の出土で有名になっている。藤森栄一は、諏訪地方に貝塚がまれなのは、シジミの好む砂地やタニシが棲む泥土が発達していなかったからという。

 素直に解すれば、八ヶ岳西南麓・諏訪湖盆地方を潤してきた狩猟・漁労・植物採集などで、十分に生業を全うする事ができたからである。特にドングリ・クルミ類の炭水化物は、極めて栄養分に富む優れたエネルギー源となった。その熱量の割に消化器への負担が軽く、生命を長く保てる効能もあった。穀物一般の炭水化物は、妊婦が過剰に摂取しても胎児に悪影響を及ぼすタンパク質が少なく、むしろ妊娠中の栄養源として極めて優良で、結果的にその出生率を向上させた。灰汁抜きしたドングリなどを粉状にし離乳食とすれば、乳幼児の健康維持に貢献し、また疾病率と死亡率を抑え、ために妊婦の負担が軽くなり、女性の受胎能力を高め、結果、出生数を増やした。より健康的な栄養源として縄文人の余命をも延ばした。

 冬期が長く、しかも厳しい八ヶ岳山麓では、鹿・猪・狸・兎・狐もそれに耐えている。この時期狩るほうも、狩られるほうも耐え忍ぶ事が多く動きは鈍いくせに、両者共、食料が不足しているため活動範囲が広く痕跡が濃密となり、獲物の足跡は雪上にくっきり残り、その種別も明らになる。
 
 通年の重要なたんぱく質源として野鳥がいる。鳥には渡り鳥と留鳥がいる。また地形により山岳から内陸部の原野に雉が、湖沼周辺には雁・鶴・白鳥などの鴨類などが、海岸部ではウミガモ類が、岩礁地帯ではヒメウ・ウミガラス・ミズナギドリなどがいる。身近な狩猟対象でありながら、縄文時代の遺跡からは出土例が少ない。当然、各種捕獲方法を工夫し補殺していたが、骨が細く柔らかいため食べ尽くされていたようだ。

 仙台平野北部は、縄文時代でもガン・カモ類の飛来ルートであった。この地方の貝塚遺跡から鳥類の骨が多量に出土している。その種類が多く豊富であるため生業の中核であったといえる。ウミガモ類は漁網にかかる場合が多く、他の鳥類は、林間に霞網を掛け捕獲していたようだ。鳥の卵は、たんぱく質・カルシウム・鉄分など、ビタミンCを除くほぼ全部の栄養素が含まれている。その殻が残らないため考古学的に論評されていないが、当然、積極的に採集していたと考えられる。

 鳥を捕獲する方法として、鳥餅(とりもち)を使う方法・網を使う方法・弓矢を使う方法などがある。網を使うと言えば、魚網と併用したか、それ用に独特の工夫をしたか定かではない。ただ網が無ければ獲りにくい小型の魚が貝塚からしばしば発見されている。多量に出土する縄文期の土錘・石錘は通常、網の錘と考えられる。その魚網の技術を、鳥の捕獲用に改良し転用していたようだ。

 網の素材はシナの木の樹皮を原料にしたのであろうか?聖高原で有名な東筑摩郡麻績村(おみむら)は、茅野市の尖石集落から見れば和田峠を越えた北側になる。その地名が「麻を紡ぐ」に因むとなれば、麻糸かもしれない。布の製作には、糸を拠る工程後に布にする加工が伴う。

 動物の腱や植物の繊維は、撚りをかけて糸にしなければ丈夫にならない。土器片や粘土製円板の中心に穴をあけた有孔円板が、繊維に撚りをかける紡錘車ではないかとみられている。諏訪郡富士見町では、井戸尻遺跡と大花北遺跡から、縄文後期に属する算盤玉の形をした紡錘車が出土している。秋田県南秋田郡五城目町上樋口の中山遺跡から出土した縄文晩期に属する布の糸は、0.5mm〜1mmと極めて細い。

 細い糸から編まれる縄類は、繊維を撚り合わせて太くし実用化するもので、細い方から紐・縄・綱と呼ばれる。縄文早期の土器の底から網代圧痕があられることから、網代は杉・檜・ヒバ・椎などの樹皮、笹類、ネマガりダケの竹類、スゲ・ガマなどの植物の茎、ブドウ・アケビ・マタタビ・フジなどの蔓を使って編まれていようだ。網代の名の由来は、川の瀬に魚を捕るため竹や木を編んで網の代りに立てられた漁法から名付けられたという。

 縦糸と横糸をからめたのが編布(あみぬの)であり、縦糸と横糸を交差させたのが織布(おりぬの)である。山形県東置賜郡高畠町の縄文前期後半の押出遺跡から出土した手網・北海道小樽市の忍路土場遺跡(おしょろどば)のたも網の枠や、青森県の三内丸山遺跡からは、縦横の糸を1本ずつ交差させて織っていく典型的な平織の布片が発見された。

   犬を使う「キジ突き網猟」がある。猟場は木立が閑散としている草原や、河川敷が好都合のようだ。長い柄の広幅が大きい手網を担ぎ猟犬と猟場に出掛ける。優れた猟犬は認定が速く、しかも素早い。ターゲットにされた雉は、逃げる間を失い、雑木のそばの草藪に射すけまれて動けなくなる。猟犬は目視せず、3m先の臭いをポイントしているので、互いにこの状態でどちらも動かない。猟犬の習性として、飼い主の指示が無ければ直接襲わない。その訓練は猟師がするのでなく、猟犬たる母親と仲間の猟犬が実地で教えるという。この状態で網手は、ターゲットに静かにゆっくり近づきながら、雉を目視する位置まで近付き、雉の頭の向きを確認すると、じわりじわり近寄り何時飛び立たれても良い構えをしながら雉の頭方向から一気に被せようとすると、犬も興奮し跳び込み、雉は頭方向から網の中に入り暴れまわる。

 今でもよく使われる「無双網(むそうあみ)」の方法を使えば、比較的簡単に鳥を捕獲できるようだ。地面に伏せておくか、地面より1m位高さに網を張り、鳥がおとりや撒き餌に誘われて地面に降りたったとき、離れたところから綱を操作することにより、鳥にかぶせて捕獲する。

 朝になると巣から餌場に飛び立ち、夕方になると餌場から巣へ帰ってくる鳥には、決まった飛行ルートがある。その一定の場所に網を張る方法の他に、両サイドに木の棒を取り付けて、上空を鳥が横切ろうとする時にタイミングを合わせて放り上げ、網で絡め獲る。古代から、竹竿に少し細工をして飛ぶ鳥をたたき落とすという捕獲法もあったようだ。

 鳥餅は、野鳥等を捕獲するには、熟達すれば極めて有用で、現在では禁止されている。野鳥がとまる枝につけ、足などにくっつき飛べなくする粘着性の物を使う。鳥餅の材料は、ヤマグルマ(山車)・モチの木から採取する。

 これらの木の樹皮を使い、樹皮を剥いで外皮を取り水につけて腐らせ、ついて砕いて水で洗うと赤褐色をしたゴム状のモチが残る。これを野鳥の止り木や、木の先につけて、鳥が来そうな所へ置いておく。  

 キジ笛を使用する方法も現在では、狩猟鳥獣を必要以上におびき寄せることになり、鳥獣の多獲につながることから禁止されている。キジ笛の利用は意外に効果的だそうだ。キジや山鳩は通常、人影を見ても直ぐ飛び立たず、ヒョコヒョコと跳ねて逃げていく場合が多い。一度、キジ笛で引寄せれば、弓矢や投げ網などの餌食になりやすいという。
 
 上川の川面には、マガモ・コサギ・カワウ・カイツブリなどの水鳥が多く、見るからに弓矢で狙いやすそうにみえる。霧ケ峰には、カッコウ・ウグイス・キツツツキ・キジ・アトリ・カシラなど種類は豊富である。その周辺の山々を歩いて気付くことは、霧ケ峰山中の野鳥達は、間近に近づくまで逃げない。なぜか何度も近くに飛び寄ってくる。野鳥達も知っている。今では、人類は自分たちにとって無害であることを!


”エゴマの灯”

 旧石器時代から火は使用している。しかし肝心な火起こしを立証できる道具が出土していなかった。北海道小樽市の忍路土場遺跡(おしょろどば)と滋賀県大津市の滋賀里遺跡で、それぞれ縄文後期と晩期の火鑚杵(ひきりぎね)とおもえる木の棒と火鑚臼として使われていた板が発見された。板に穴を開けてその上に棒の先がはまるほどのくぼみを作る。くぼみに棒の先を差し入れ、高速で回転させる回転摩擦式発火法である。1万年を超える文化であれば、両手で回す錐揉み式(きりもみ) ・紐を使う紐錐式(ひもぎり) ・小型弓を使う弓錐式(ゆみぎり) など多様な技術が活用されていただろう。

 その火口(ほぐち)には、日本古来からガマの穂が使われていた。車山・霧ヶ峰・八島ヶ原高原などでは、葉場山火口(はばやまぼくち)の葉裏にはえている白い綿毛を乾かしたものを、火打ち石から火を起こし移し取っていた。その火種は、それぞれの住居家内で食事の度ごとに、火を起こす余裕がないから、家内の炉に埋められ、炭状に焼け木杭(やけぼっくい)を保存していた。

 福井県の鳥浜貝塚からは、縄文前期の地層から「エゴマ」と大麻(おおあさ)の種実が出土した。同時に、生活財としての縄や綱も検出された。

 韓国では大麻の幹に潰した「エゴマ」の種子を塗布し、これを乾かしたものの先端に点火し、「灯」として使っていた。鳥浜貝塚から出土した「エゴマ」は種子を食用とし、また搾った油を「灯」に利用していた。

 エゴマはゴマのように食べられていた。またその実から油がとれるので、江戸時代まで瓦灯用の明かりとして使われいた。縄文時代、既に釣手土器がランプとして使われていた。一方、魚油の臭う明かりも、漁村では当り前であったが、次第に江戸期末期以降に徐々に衰退した。

 古代、日常生活のための明かりは、炉の明かりで済ましていた。ただ緊急時の明かり、神事を行うための明かり、神にささげる明かりの火種は、魚油・獣脂・松脂などの樹脂と「エゴマ」であった。

 エゴマには、もう一つ大切な使われ方があった。それは漆器を作る時に、なくてはならないウルシを溶く油であった。縄文前期には、既に漆塗の技法があり、エゴマの油もウルシ塗りのときに使われていたと考えられる。

 縄文人は、その生活環境に合わせ創意工夫を加え、自らの暮らしを豊かにしょうと、あらゆる局面で努力している。それは、青森の三内丸山遺跡、そして鳥浜貝塚の遺跡などを通して知ることができる。

 そこに麻が遺存することは、身にまとうものとして、「アカソ」の繊維とともに使われていたことと、更に「エゴマ」と同時に出土していることから、この「エゴマ」が麻とともに明かりを灯すのに使われていたと推測できる。

 中世末期に非乾性油の菜種油が普及するまでは日本で植物油と言えばエゴマ油であり、瓦灯の灯火にもこれが主に用いられていた。しかし、菜種油が普及する江戸末期には、ほとんどが菜種油を使うようになった。行燈(あんどん)は、油皿に灯芯を入れて灯した。油壺に継ぎ足し用の油を入れていた。次第にエゴマ油の利用が減少し、乾性油としての特種性を生かして油紙・合羽・番傘などの塗料用など用途が限られていった。現代でも、依然として、自然に優しい塗料の代表として、無毒無害な木部用の仕上塗料・オイルフィニッシュとして根強い支持がある。韓国では、エゴマの葉は、ナムルなどの家庭料理には欠かせない食材で、日本よりも幅広く使用されいる。

 藤森栄一は、井戸尻遺跡群の釣手土器を「神の火を灯すランプである」と評した。残念ながら灯火の燃料まで分析していなかった。
http://rarememory.justhpbs.jp/suwajyou6/suwa.htm#

22. 中川隆[-8984] koaQ7Jey 2020年12月24日 04:10:01 : aGnHCluepw : QUpEcE1zWnhLNEk=[47] 報告
食事を変えれば腸内細菌の種類はたった一日で変化する
 
有名な話だが、パンダには竹や草などに含まれる食物繊維(=セルロース)を分解できる酵素の遺伝子を持っていないことが分かっている。本来、肉食動物の腸を持つパンダが、どうして竹や笹だけを食べて生きられるのかというと、それは「腸内細菌」がセルロースを分解し、タンパク源やエネルギーをつくりだしているからだ。

それでは、当初肉食であった動物が、草食に移ることなど可能なのだろうか?
食生活と腸内細菌に関する記事があったので紹介する:


病気や免疫に関わる腸内細菌の種類は食事内容により一日でガラリと変化する:米研究


腸内細菌についてはIRORIOでも数多く紹介してきた。肉体や精神の健康は、腸内細菌と密接な関わりがあり、果てにはわれわれの思考にまで影響を及ぼすことが明らかになっている。以前、

「腸内細菌は両親から受け継がれ、生涯変わることはない」
http://irorio.jp/kondotatsuya/20130707/67934/

という研究結果をお伝えしたが、今回の実験はそれに疑問を投げかける結果となっている。

なんと肉食から菜食へ、菜食から肉食へと食事内容を変えるだけで、腸内細菌の種類は大幅に変化した。それも変化は一日という早さで起こることが確認されたのだ。

「変化は細菌の種類だけではなく、それらの活動に伴う遺伝子の発現にも変化がみられた。腸内微生物はわれわれの食事内容に大きく反応するのかもしれない。そして以前考えられていたよりもこの反応は短い時間のうちに起こる」

と、説明するのは米デューク大学ゲノムサイエンス研究所のローレンス・デーヴィッド。何兆という腸内細菌が人間の体内に住みついており、それらは消化、免疫、体重変化にも大きく関わっていることが明らかになっているが、今回の結果は
「人の健康を語るにおいて何を意味するかはまだわからない」そうだ。

実験は、21歳から33歳までの男性の被験者6人と女性の被験者4人を対象に行われた。最初の4日間は普通に食事をしてもらい、次に5日間ずつ完全肉食か完全菜食だけをしてもらい、それぞれ腸内細菌を採取した。

肉食の内容は
「朝:卵にベーコン、昼:リブやブリスケット、晩:サラミ、生ハム、チーズ、おやつには豚の皮を揚げたもの」、

菜食の内容は
「朝:グラノラ、シリアル、昼:米に玉ねぎ、トマト、ズッキーニ、にんにく、グリーンピース、レンズ豆などを調理したもの、夜:昼と似たようなメニュー、おやつにはバナナとマンゴー」だった。

結果は、肉食をした場合、22種類の細菌の増殖に拍車をかけ、菜食をした場合は3種類の細菌が増殖した。

驚くべきことは、腸内細菌の種類が一日という早さでシフトしたことだ。

これが健康にどう影響するのかは定かではないが、肉食では肝臓が脂肪を分解するのに胆汁酸を分泌するので、それに強い細菌が増殖するのは説明がつくという。逆に菜食により増殖した細菌は食物繊維を分解するのに特化したものだと考えられている。

研究者らは、高脂肪食と関連している潰瘍性大腸炎とクローン病が、腸内細菌の迅速なシフトにより説明がつくかもしれないとコメント。実際にマウスの研究では、胆汁酸の環境で増殖するBilophilaという細菌が炎症性腸疾患の原因となることが確認されている。しかし、これを断定するにはさらなる研究が必要とのこと。研究結果は『Nature』で発表されている。
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腸内細菌の種類が食事によって日々変化するとすれば、パンダの食生活が変わったのは、笹を食べたことによって腸内細菌の変化したからではないだろうか。人間も腸内細菌をコントロールすれば、食生活・食文化が変わっていくかもしれない。
http://www.rui.jp/ruinet.html?i=200&c=400&t=6&k=2&m=291278

23. 中川隆[-8983] koaQ7Jey 2020年12月24日 04:10:46 : aGnHCluepw : QUpEcE1zWnhLNEk=[48] 報告
人間の脳の大型化、果物が後押しか 研究
AFP=時事 3/28(火) 8:40配信

ドイツ・ベルリンで開かれたフルーツ見本市で展示されたフルーツ(2017年2月8日撮影、資料写真)。【翻訳編集】 AFPBB News


【AFP=時事】現在最も手軽に食べられるおやつ、果物のおかげで、人間は大きくて強力な脳を発達させることができた可能性が高いとの研究論文が27日、発表された。

【関連写真】フルーツ入りのケーキを食べるゴリラ

 果物を食べることが、植物の葉などの最も基本的な食料からの重要な進歩となり、より大型の脳を成長させるのに必要なエネルギーを提供したと、研究チームは主張している。

 論文の責任著者で、米ニューヨーク大学(New York University)の研究者のアレックス・デカーシエン(Alex Decasien)氏は、「このようにして人間は、これほど非常に巨大な脳を手に入れ」、「食物の質を大幅に拡大して今の食事につながっている」と語った。

 米科学誌「ネイチャー・エコロジー・アンド・エボリューション(Nature Ecology and Evolution)」に発表された今回の研究では、霊長類140種以上の主食を調査するとともに、霊長類の食べ物が最近の進化の間にそれほど大きく変化していないと仮定した。

 研究によると、果物を食べる霊長類は、葉を主食とする霊長類よりも約25%大きな脳を持っているという。

 より大型の脳は、複雑な社会集団の中で生存、繁殖する必要に迫られて発達したとする説が、1990年代半ばから主流となっているが、今回の結果はこの説に疑問を投げかけている。

 集団の中で生き抜くという難題は、知能を高める一助となった可能性はあるが、霊長類の社会生活の複雑さと脳の大脳皮質(灰白質)の大きさとの間には何の関連性も認められないと、デカーシエン氏は指摘した。

 脳の大きさと強く相関していたのは、果物を食べることだった。

 果物などの食物は、葉などの栄養源よりも豊富なエネルギーを含んでいるため、より大きな脳を発達させるのに必要な余剰エネルギーを生み出す。

 同時に、果物が実る植物の種類やその木が生えている場所、果実をこじ開ける方法などを記憶することが、霊長類が大型の脳を成長させる助けになった可能性がある。

 また、脳が大型なほど、脳の機能を保つのにより多量のエネルギーを必要とする。

「人間の脳は体重の2%なのに、全エネルギーの25%を消費しているというのは、周知の事実だ」と、デカーシエン氏は述べた。「脳は、非常に高くつく臓器なのだ」

24. 中川隆[-8982] koaQ7Jey 2020年12月24日 04:12:23 : aGnHCluepw : QUpEcE1zWnhLNEk=[49] 報告
チンパンジーが好きな肉は脳? 初期人類も同様か
04月16日 08:00ナショナル ジオグラフィック日本版
https://news.goo.ne.jp/article/natgeo/world/natgeo-00008fqU.html

 タンザニアのゴンベ国立公園は、1960年にジェーン・グドール博士がチンパンジーの研究を始めた場所として知られる。あるとき、この公園の森を移動していたチンパンジーの群れが、アカコロブスというサルの群れに出くわした。

 チンパンジーたちはアカコロブスの様子を観察し、やがて狩りが始まった。彼らは叫び声をあげてサルに襲いかかり、サルが木から落ちてゆく。まさにカオス状態だ。公園内に設置されていたビデオカメラが、その一部始終をとらえていた。

 研究チームを率いる米アリゾナ州立大学の人類学者イアン・ギルビー氏は、公園内のカセケラというチンパンジーの群れがどのように肉を分け合っているかを調べるために、そのメンバーを撮影していた。

 後日、録画されたビデオをチェックしていた彼は、獲物が赤ちゃんザルや子ザルなどの未成熟な個体だった場合には頭を先に食べるが、おとなのサルを頭から食べることは滅多にないことに気づいた。

栄養分としての脳

 チンパンジーはなぜ特定の部位から獲物を食べるのだろう? これはヒトの進化にも関わる問題だが、ほとんど研究されてこなかった。

 ギルビー氏は、獲物を食べる順番は栄養分によって決まると考えている。

 このほど学術誌「International Journal of Primatology」に論文を発表した彼は、「肉は肉だという見方もありますが、含まれる栄養分は部位によって違います」と言う。「死骸のすべてが貴重ですが、特に脳は貴重なのです」

 脳は脂質と長鎖脂肪酸を豊富に含んでいる。神経系の発達を促す物質だ。

 獲物が幼いサルなら、頭を噛んで頭蓋骨にヒビを入れ、脳を取り出すのは容易だが、おとなのサルでは難しい。手間取っていると、群れの仲間に獲物を奪われる恐れがある。

 だから、チンパンジーがおとなのサルを食べるときには、栄養分に富む肝臓などの臓器から食べはじめる方がよいのかもしれない。実際に、ゴンベ国立公園のチンパンジーは時々おとなのサルの胴を先に食べることがある。

 ナショナル ジオグラフィック協会のエクスプローラーで、霊長類学を専門とする米テキサス州立大学の生物人類学者ジル・プルエッツ氏は、「チンパンジーの獲物の食べ方が定量的に精査されたのは、これが初めてかもしれません」と言う。

栄養のためか、文化の継承か

 プルエッツ氏は、セネガルのフォンゴリ・サバンナ・チンパンジー・プロジェクトでチンパンジーの狩りを調べていたときに同様の行動を目撃している。ガラゴ(アフリカの森林に生息する原猿)を捕らえたチンパンジーたちは、やはり頭部を先に食べていた。

 雑食性のチンパンジーが、主食ではない肉を求めて狩りをする理由についても、研究者たちの間で意見が分かれている。

 プルエッツ氏は、チンパンジーは栄養を摂りたいのだろうという仮説を支持するものの、それだけでは各地のチンパンジーの行動の違いをすべて説明はできないと言う。

 例えば、チンパンジーには卵を食べるものと食べないものがいる。また、フォンゴリのチンパンジーがヒヒを襲撃したときには、その頭部を群れの仲間に与えるという不思議な行動が見られることがあるし、内臓は捨てられることが多い。

 プルエッツ氏は、群れの中の文化や学習の伝統が大きな影響を及ぼしているのではないかと考えている。

肉が初期人類の進化を促した?

 チンパンジーとヒトはともにヒト科の動物であり、共通の祖先をもっている。どんな理由があるにせよ、肉を食べる行動の研究は、ヒトの進化について新たな知見をもたらすはずだ。

 ギルビー氏は、初期のヒト科動物につながる種は、脂質を求めて、より多くの肉を食べるようになったのだろうと主張する。

「初期のヒト科動物を理解するために、チンパンジーをモデルにするのは良い方法です」とプルエッツ氏は言う。

「チンパンジーの狩りの鮮明な映像が得られたことで、初期のヒト科動物のふるまいを予想したり仮説を立てたりすることが可能になります」

25. 中川隆[-8978] koaQ7Jey 2020年12月24日 11:19:31 : rhTpVwqmhA : ZXRWUk1pemQvQmc=[2] 報告
縄文時代の食生活を現代岩手の実際から考察
http://www.asyura2.com/13/ban6/msg/425.html
26. 中川隆[-8977] koaQ7Jey 2020年12月24日 11:21:08 : rhTpVwqmhA : ZXRWUk1pemQvQmc=[3] 報告
味覚は毒物の摂取を避けるために発達した
http://www.asyura2.com/13/ban6/msg/422.html

古代ほとんどの欧州人は牛乳をうまく飲めなかった
http://www.asyura2.com/13/ban6/msg/617.html

27. 2020年12月28日 12:38:31 : FfxVCL44z5 : MFdUYzd3bmx1cS4=[12] 報告
同位体分析から推測される初期人類の食性
http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/996.html
28. 2021年3月15日 17:01:52 : ww05IaOXmY : czZLc3BxQU1mVkk=[14] 報告
【ゆっくり解説】時代を遡る!縄文時代の食事について




[ゆっくり実況]縄文時代の食事




チャンネル登録者数 8790人
〈縄文時代の人の顔の特徴〉
顔高が低く、丸顔である。
堀が深く、鼻が高い。
しかめっ面で、エラが張っている。
眼窩が四角で、やや目尻が下がる。
歯の噛み合わせが爪切りのよう。

〈ちょっとした蘊蓄〉
本州よりも北海道の人の方が縄文時代の人は虫歯が圧倒的に少ないみたいです。なぜかというと、北海道は木の実を付ける広葉樹が少なく、肉を主体とした食事を取っていたからです。
でんぷん質である木の実は糖になるので、それで縄文時代の人は虫歯になったみたいです。


29. 中川隆[-5796] koaQ7Jey 2021年4月12日 16:58:40 : F28bjgJ4Vg : aHFqN2tuN21FdDY=[30] 報告
[ゆっくり解説]アイヌの食事
2021/01/07




アイヌという言葉にはアイヌ語で「人間」という意味があります。

そのアイヌの人達にとってとても重要な植物に「おおうばゆり」があります。
取った球根を加工して団子などにして食べることが出来るので(他にも色々な食べ方が出来る)、アイヌの人達にとってずっと貴重なエネルギー源となる食べ物でした。
このようにアイヌの人達は自然にある物を食べ物にする知恵を持ちその技術に優れていたという民族でした。

ちなみに、そのアイヌの人達が最も怖がったのが疫病でも戦争でもなく、飢饉でした。
なぜなら飢饉には決まりがあり、必ず大規模で起こるからです。
大規模で起こるとみんなで助けようがないのです。
疫病なら防げますし、戦争からは逃げればいいのですが、飢饉から生じる飢えは防ぎようがありません。
その恐怖心もあり、絶対に飢えないようにするというのがアイヌの人達の信条であり生活スタイルでした。
そのような民族でしたので、怠け病というものを病的に嫌い、それが結婚の際の重要な決め手になりました(注、これはUP主の耳にかなり痛い話。なぜなら元々ニート気質の人間だから)。



【妖精じゃない】コロポックルの正体【ゆっくり解説】
2020/11/13


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