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イスラム教
http://www.asyura2.com/20/reki5/msg/439.html
投稿者 中川隆 日時 2020 年 12 月 22 日 00:47:32: 3bF/xW6Ehzs4I koaQ7Jey
 

(回答先: カルトの世界 投稿者 中川隆 日時 2020 年 12 月 22 日 00:37:36)

イスラム教


コーランとハディース(預言者ムハンマドの言行録)
http://www.asyura2.com/12/lunchbreak52/msg/907.html

日本ムスリム協会発行 「日亜対訳・注解 聖クルアーン (コーラン)」
http://www.asyura2.com/17/lunchbreak54/msg/314.html
 

▲△▽▼


幼児性愛の人格障害者で人間の屑だった自称預言者のムハンマド
http://www.asyura2.com/17/lunchbreak54/msg/315.html

(再掲)いまだ執拗にイスラムヘイトを繰り返すナチスの信奉者
http://www.asyura2.com/13/kanri21/msg/556.html

狂った宗教 イスラム教 _ 頭がおかしいのは中国人と朝鮮人だけではない
http://www.asyura2.com/13/dispute31/msg/332.html

ムスリムは悪い
http://www.asyura2.com/17/lunchbreak54/msg/106.html

ムスリムは やりたくなるとすぐに性奴隷を調達してくる
http://www.asyura2.com/17/lunchbreak54/msg/313.html


▲△▽▼


平和よりも、もっと大切なものがある
http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/339.html

異教徒は「人間」ではないので殺してもいい
http://www.asyura2.com/09/revival3/msg/798.html

内田樹 「なぜ人を殺してはいけないのか?」
20世紀の倫理−ニーチェ、オルテガ、カミュ - 内田樹の研究室
http://www.asyura2.com/17/ban7/msg/520.html  

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コメント
1. 2021年6月24日 22:23:48 : S1eRUxmNYw : aEdNRXBKTUhTcHM=[70] 報告
【ゆっくり解説】石打処刑、手足切断...残虐非道な法律『イスラム刑法』





今回は「イスラム刑法」の話です。
先進国は多様化で個々の生き方が自由に主張出来る世の中になってきましたが、一方でそれが許されない世界があるというのも知っておかないといけません。
2. 2021年8月09日 10:53:44 : Dzasa0Gixw : MExBYVlRR2FTb00=[16] 報告
【飯山陽】反米バンザイ!日本の“イスラム左翼”にご注意!【WiLL増刊号#591】
2021/08/04




【飯山陽】テロリストに味方するTBS中東支局長【WiLL増刊号#592】
2021/08/05




3. 2021年8月14日 09:11:05 : gzyd9RRqFI : Z3R2dlZPSEFCOUE=[9] 報告
雑記帳 2021年08月14日
飯山陽『イスラム教再考 18億人が信仰する世界宗教の実相』
https://sicambre.at.webry.info/202108/article_14.html

https://www.amazon.co.jp/%E3%82%A4%E3%82%B9%E3%83%A9%E3%83%A0%E6%95%99%E5%86%8D%E8%80%83-18%E5%84%84%E4%BA%BA%E3%81%8C%E4%BF%A1%E4%BB%B0%E3%81%99%E3%82%8B%E4%B8%96%E7%95%8C%E5%AE%97%E6%95%99%E3%81%AE%E5%AE%9F%E7%9B%B8-%E6%89%B6%E6%A1%91%E7%A4%BE%E6%96%B0%E6%9B%B8-%E9%A3%AF%E5%B1%B1-%E9%99%BD/dp/4594087361

 扶桑社新書の一冊として、育鵬社から2021年3月に刊行されました。電子書籍での購入です。本書は、現代日本社会におけるイスラム教認識には誤解が多く、その責任は日本のイスラム教専門家やそれを鵜呑みにするマスメディアにある、と主張し、日本におけるイスラム教認識の問題点を指摘していきます。まず、イスラム教は平和の宗教との言説については、2001年9月11日にアメリカ合衆国で起きた同時多発テロ事件以降と指摘されています。イスラム教徒への偏見を助長しないような配慮からも、そうした言説が強調された意味はあるかもしれません。しかし本書は、そうした言説の中には、イスラム教徒の多数派が平和を愛好していることを、イスラム教は平和の宗教と読み替えているものがある、と批判します。また本書は、そもそもイスラム教における「平和」は、現代日本人の多くが想定する平和とは大きく異なり、全世界がイスラム法により統治された状態のことだ、と指摘します。またこれと関連して、ジハードの本義を内面的努力とするような日本の知識人(イスラム教の専門家も非専門家も含めて)の言説が批判され、本来のジハードの義務では軍事的な意味が理解されていた、と本書は指摘します。しかし本書は、イスラム教の教義が平和的ではないからといって、イスラム教徒全員が戦争を望んでいるわけではなく、テロリストでもない、と注意を喚起します。本書はその理由を、宗教の区別による差別が不正だからと指摘します。イスラム教が人道主義に立脚していようといまいと、宗教の区別による差別は許されない、というわけです。

 現代日本社会では、イスラム教を「イスラム」もしくは「イスラーム」と表記して「教」を省くことが一定以上浸透しています。本書はその理由として、イスラームは宗教の範疇を超えて社会のあらゆる面の規律になっているからだ、とイスラム教の専門家たちが主張していることを挙げます。こうした専門家たちは、イスラム教こそ日本や欧米の現代社会の問題を解決する選択肢と考えている、と本書は批判的に指摘します。また本書は、こうした日本のイスラム教専門家が、抑圧体制のイランやその要人を称えることがあることも批判します。こうした日本のイスラム教専門家たちは、フランスの哲学者ベルナール=アンリ・レヴィが指摘する「イスラム左翼主義」で「反米教」なので、事実の客観的分析を期待できない、と本書は指摘します。本書でも言及されていますが、「イスラム国」を擁護する日本のイスラム教(もしくは中東)専門家がいることは、こうした姿勢の延長上として了解されます。さらに本書は、こうしたイスラム教(もしくは中東)専門家のイスラム教賛美を、「西洋近代」を批判するイスラム教の専門家ではない「知識人」が鵜呑みにしていることも、「反近代」という理由でイスラム教を安易に賛美する傾向がある、と批判します。

 イスラム教は平和の宗教との言説とともに現代日本社会において一定以上浸透していると思われるのが、イスラム教は異教徒に寛容な宗教との言説です。これは、キリスト教、とくに中世ヨーロッパ西部のキリスト教との対比で主張されています。しかし、イスラム教と他の宗教との共存は宗教による差別を大前提としたものであることを、本書は指摘します。また本書は、イスラム教において、キリスト教徒やユダヤ教徒のような啓典の民ではない多神教徒は犬などと同じ「不浄」に分類され、殺しても差し支えない存在とされている、と指摘します。また本書は、イスラム教が棄教や改宗を認めないことも問題視し、棄教者を自ら殺害するイスラム教徒はほとんどいないものの、棄教者は殺されて然るべきと考えているイスラム教徒は多い(2013年の調査で、エジプト人の86%、アフガニスタン人の79%、パキスタン人の76%、マレーシア人の62%)、と指摘します。

 イスラム過激派テロの原因は(貧困や疎外など)社会にある、との言説は日本に限らず広く世界に浸透しているように思いますが、本書はこれも批判します。まず本書が指摘するのは、イスラム過激派テロの原因は何よりもイスラム教の宗教イデオロギーに求められることです。本書はここで、イスラム教の教義には確かに、イスラム教による世界征服を信者に義務づけており、イスラム教徒の大多数はそれを信じていてもジハードを実行するわけではないので、イスラム主義とイスラム教を区別しなければならない、と注意を喚起します。イスラム主義は、イスラム教徒がジハードを実行しないことを咎め、イスラム教の全教義を実践しなければならない、と促すイデオロギーであることを、本書は指摘します。次に本書は、イスラム過激派戦闘員のほとんどはヨーロッパではなくイスラム諸国にいるので、イスラム教徒であるという理由で社会から疎外されたり差別されたりしているわけではない、と指摘します。イギリスの公的調査でも、イスラム教徒のテロ容疑者の2/3は中流か上流階級の出身で、90%は社交的な人物と報告されているそうです。さらに本書は、「イスラーム復興論」を主張して多額の科研費の獲得に成功したイスラム教研究者たちが、イスラームは宗教の範疇を超えて社会のあらゆる面の規律になっているから「教」をつけてはならない、と主張していたのに、イスラム過激派テロだけをイスラム教から切断することを詭弁と批判します。

 本書は、ヒジャーブ着用に関する日本のイスラム教研究者の言説も批判します。そうした言説では、ヒジャーブ着用によりイスラム教徒女性は守られており、自由が侵害されずにすむ、とされます。ヒジャーブは自由と解放の象徴である、というわけです。しかしそれは、ヒジャーブを着用しない女性の人権は守られなくても仕方ない(奴隷や売春婦とみなされ、強姦されても仕方ない、と認識されます)、ということだけではなく、男性は女性相手に理性を保てない、と言っていることにもなり、きわめて性差別的だ、と本書は批判します。ヒジャーブ着用擁護の言説は、女性が「ふしだらな」恰好をしていたから強姦されたのだ、と言って強姦した男性を擁護するような言説と通じる、と本書は指摘します。本書は、イスラム教徒女性がヒジャーブを着用してもしなくても、敬意を払うべきだ、と提言しています。女性の価値が外見によれ差別されることはあってはならない、というわけです。

 上述のように、イスラム教徒の大半は、イスラム教の教義を信じていてもジハードを実行するわけではありません。しかし本書は、イスラム過激派の支持者は看過できるほど少なくはない、とも指摘します。2015年の調査では、トルコ人のうち、9.3%が「イスラム国」をテロ組織ではないと考えており、5.4%がその行動を支持しています。同じく2015年の調査では、イラクとイエメンとヨルダンとシリアとリビアのイスラム教徒のうち15%が、「イスラム国」はテロ組織ではなく正当な抵抗運動と考えています。これらの調査結果から、「イスラム国」を支持するイスラム教徒の割合は、最低でも5.8%、最大では11.5%になる、と推定されています。さらに本書は、イスラム教徒に占めるイスラム過激派支持者の割合が10%程度だとしても、それ以外の多数派が穏健派とは必ずしも言えない、と指摘します。イスラム諸国では、イスラム法を国の法として施行することに72〜99%のイスラム教徒が賛成しています。また、イスラム教徒の70〜89%が、手首切断刑や投石による死刑など身体刑の執行に賛成しています。また、イスラム教徒の多数派は棄教を死罪に相当すると考えており、信教の自由を否定しています。さらに、イスラム教徒の9割ほどはLGBTにも否定的です。イスラム諸国では一般的に、同性愛は病気と信じられています。また、児童婚が広く行われているのもイスラム諸国の特徴です。本書は、イスラム教が全体的に、女性は男性より劣っているという大前提でさまざまな規定を設けている、と指摘します。これは、現代日本人の多くが想定する「穏健」の感覚とはかなりずれている、というわけです。

 本書の主張の根幹にあるのは、イスラム的価値観は、全ての人間に等しく自由や権利を与えるべきとする、ヨーロッパ発の近代的価値観とは大きく異なる、との認識です。次に本書が重視するのは、イスラム教は世界征服を目指す政治イデオロギーなので、そのための行動を促すイスラム主義の蔓延を許すと、亡国の危機に陥る可能性がある、ということです。本書は、イスラム教徒が移住先でもイスラム的価値観に従い続けることを擁護するリベラル勢力とその教義であるポリコレを批判します。イスラム教徒と関係を築き共存することは可能であるものの、それには法治を徹底せねばならず、ポリコレや文化相対主義を理由にイスラム教徒の違法行為を見逃したり寛大な措置をとったりしてはならない、というわけです。一方で本書は、イスラム教の教義と個人としてのイスラム教徒を同一視することを誤りと明言しています。イスラム教徒のほとんどは、イスラム教の教義の全てを実践しているわけではない、と本書は指摘します。さらに本書は、サウジアラビアやチュニジアやエジプトやアラブ首長国連邦など近年のイスラム諸国において、イスラム教と近代的価値観の矛盾に起因する問題について改善の兆しが見られることも指摘します。また本書は、最近になって進んだイスラエルとアラブ諸国との国交正常化にも、イスラム主義との決別との観点から注目します。イスラム主義者は多くの場合、イスラエルの殲滅とエルサレム支配を短期目標と定めているからです。

 本書は1章を割いて著者への批判に対する反論を提示しており、本書も多くのイスラム教や中東の専門家に酷評されることになりそうです。イスラム教の専門的な知見について、私の知見では本書の主張の方が妥当だと断定できませんが、ヨーロッパ発の近代的価値観に守られ、日本(や欧米)社会では普段それを声高に主張していながら、それと矛盾するイスラム教のさまざまな規定・慣習を擁護する専門家の姿勢には、根本的な矛盾があるとは思います。まあ、そこからさらに踏み込み、ヨーロッパ発の近代的価値観に覆われた社会のさまざまな問題はイスラム教により解消される、と考えている専門家ならば、矛盾ではなくなるわけですが。ただ、著者の「リベラル」や「左翼」、さらには「ポリコレ」への強い警戒は明らかで、その点は私も同様なだけに、そうした警戒・批判をつい全面的に受け入れてしまいたくなりますが、それだけに、私のような価値観・世界観の読者は、本書の指摘の中に誇張もあるのではないか、と慎重に考えて検証しつつ、本書を咀嚼していく必要があるとは思います。本書をよりよく理解するには、著者の『イスラム教の論理』(関連記事)と『イスラム2.0 SNSが変えた1400年の宗教観』(関連記事)を読むとよいでしょう。
https://sicambre.at.webry.info/202108/article_14.html

4. 2021年8月17日 05:25:43 : sazZhf9RME : bHZwdXZPbWZIMWs=[2] 報告
タリバンの首都奪還。アフガニスタンの女性は、なぜ焼身自殺しようと思うのか
2021.08.16
https://blackasia.net/?p=1403


2021年8月15日、タリバンは首都カブールを掌握した。そして、タリバンの指導者はカブールの住民たちに、未婚女性を戦闘員の妻として差し出すよう要求している。すでに10代前半の少女たちが強制結婚させられたとも報道が流れている。再びアフガン女性に地獄が巡ってきた。あらためてこの記事をトップにします。(鈴木傾城)


プロフィール:鈴木傾城(すずき けいせい)
作家、アルファブロガー。まぐまぐ大賞2019、2020年2連覇で『マネーボイス賞』1位。政治・経済分野に精通し、様々な事件や事象を取りあげるブログ「ダークネス」、アジアの闇をテーマにしたブログ「ブラックアジア」、投資をテーマにしたブログ「フルインベスト」を運営している。「鈴木傾城のダークネス・メルマガ編」を発行、マネーボイスにも寄稿している。(連絡先:bllackz@gmail.com)

目次
1. 女性の人権がこの国では制限されているということ
2. 閉塞感を誰にも訴えることができないアフガン女性
3. 凄まじい私刑(リンチ)を受ける女性もいる
4. アフガニスタンでは、女性の焼身自殺が多い
女性の人権がこの国では制限されているということ
アフガニスタンでは、まだ10代の女性が貧困のために無理やり父親に結婚を強要されることが当たり前に起きる。

金で若い娘を買って結婚する男がいて、貧困家庭はそれを拒めない。結婚の60%はこうした結婚であると言われている。

10代で結婚というのは、実はアフガニスタンでは珍しいケースではない。今でも花嫁の半分以上は10代であると言われている。中には10代どころか、10代に満たない少女ですらも結婚させられるケースもある。

先進国から見ればそれは人身売買であるが、アフガニスタンから見れば、それは「結婚」である。

アフガニスタンでは敵対する相手に娘を嫁に出して互いに休戦するような、昔の日本の政略結婚のようなものも残っている。こうした結婚が成り立つというのは、女性の人権がこの国では制限されているということに他ならない。

結婚する当事者の女性がどんなにその結婚を嫌がっても、それは結婚を止める理由にはならない。父親がいったん結婚させると決めれば、それは有無を言わさず従わなければならないのである。

ブラックアジアでは有料会員を募集しています。よりディープな世界へお越し下さい。

閉塞感を誰にも訴えることができないアフガン女性
絶対的な家長主義の前に、アフガニスタンの女性はもう為す術がない。男性中心の伝統社会の中で、女性は常に隷属的な立場であり、犠牲になる立場である。

こうした社会を嫌って働こうにもアフガニスタン女性には働く場がない。また社会に訴えようにも、彼女たちの90%近くは文字が読めないし、書けない。

伝統的なアフガニスタン社会では、女性は教育を受ける必要がないという立場である。

隣国パキスタンのタリバン・グループも、女性が教育を受けるのはイスラムに反していると叫んで、学校襲撃を繰り返しているが、伝統に反して勉強するというのは、女性にとって命がけの行為になる。

教育を受けるというのは、不倫や婚前交渉と同じくらい大きな罪なのだ。

そんな状況だから、アフガニスタンの女性は自分たちの閉塞感を誰にも訴えることができない。また、世界中の誰もアフガニスタンの女性に関心を持つことはない。

彼女たちは、圧倒的な伝統社会の暴力の中で、ベールの奥深くに苦悩を隠して生きている。

だから、強制結婚を親に強いられたら、それを受け入れるしかないような状況に追い込まれており、女性たちは家畜のように売られて知らない男のところに嫁いでいく。

逃げ出せばどうなるのか。

アフガニスタンでは、女性や少女が数百人単位で投獄されている。彼女たちの犯した犯罪は「モラル・クライムズ」と呼ばれている。モラル(道徳)を破ったのだ。

どんな道徳を破ったのか。

その多くは、「虐待する夫から逃げた」とか、「強制結婚から逃げた」というものだった。つまり、アフガニスタンでは夫からの暴力は受け続けなければならないものであり、強制結婚は受け入れなければならないものなのである。


アフガニスタンの女性は自分たちの閉塞感を誰にも訴えることができない。また、世界中の誰もアフガニスタンの女性に関心を持つことはない。
インターネットの闇で熱狂的に読み継がれてきたカンボジア売春地帯の闇、『ブラックアジア カンボジア編』はこちらから

凄まじい私刑(リンチ)を受ける女性もいる
アフガニスタンでは「モラル・クライムズ」で投獄される女性もいる。日本で言うと風紀紊乱罪とでもなるのだろうか。

アフガニスタン全土がタリバンに占拠されると、どんどんイスラム主義が深まっていくのは間違いない。

アフガニスタンで投獄される少女の90%、成人女性の50%は、この「モラル・クライムズ」で投獄されている。虐待する男から逃げて投獄されるとは、信じがたいがこれがアフガニスタンの現実である。

これほど女性にとって恐ろしい社会を見たことがない。社会全体が強制結婚や、虐待を容認しているのだ。

虐待と言えば、投獄されるのではなく、凄まじい私刑(リンチ)を受ける女性もいる。殴り殺されたり、鼻や耳を削がれる女性もいる。

ビビ・アイシャもそうだった。彼女は最後に見つかり、罰として自分の夫に鼻と耳を削がれた。(ブラックアジア:アフガンで女性の鼻を削ぎ取る事件とビビ・アイシャのその後)

逃げ出せばこのような目に遭うというのは、アフガニスタン女性でも知っている。ビビ・アイシャは助かっただけでもまだマシだ。実際には、目をくり抜かれ、鼻どころか唇まで削がれて殺されていく女性もいる。

そんな状況の中で、女性がひとりで反旗を翻すなど、まったく不可能だと言っても過言ではない。

アフガニスタンの少女たち。アフガニスタンでは10代の結婚が半数を占めており、さらにその多くが強制結婚であると言われている。少女たちに拒否権はない。
1999年のカンボジアの売春地帯では何があったのか。実話を元に組み立てた小説、電子書籍『スワイパー1999』はこちらから

アフガニスタンでは、女性の焼身自殺が多い
娘を売るというのは、アフガニスタンの貧困家庭にとって、最も簡単に金を得る手段である。だから、貧困家庭の父親は娘を売る機会を常に探している。

アフガニスタンで児童婚が多いのは、貧困家庭の父親が早く金を手に入れたいからであると言われている。最初から子供を売るつもりで妻に子供を産ませている男もいるのだ。

こうした文化のため、アフガニスタンでは金に困っている家庭と結婚相手を探している男を結びつけるバイヤーも存在していて、彼らが「結婚」という名の人身売買を成立させて手数料を取っている。

こうしたビジネスが成立するほど、結婚という名の人身売買はアフガニスタン社会に根付いてしまっている。

強制結婚させられたアフガニスタンの少女は、親兄弟の面会も許されず、毎晩レイプされ、昼間は奴隷のように働かされる人生が待っていることも多い。

そうでなければ僥倖だが、大抵は劣悪な環境が待っている。

しかし、それが分かっていても、抵抗する術は少女たちにはない。父親が自分を売って、母親はそれを止める力はまったくない。もう味方はいない。彼女は完全に孤立無援になったまま、一生を終えるしかなくなる。

もちろん、アフガニスタンの少女たちにも感情はある。どうしても、そんな人生は受け入れたくないと思う少女もいる。あるいは、見知らぬ男と結婚したくないという感情が勝る少女もいる。

そうした少女はどうするのか。自殺する。飛び降り自殺や入水自殺もあるが、アフガニスタンでは女性の焼身自殺が多いと言われている。

なぜ焼身自殺しようと思うのか?

生半可な死に方では、生き残ってしまえばそのまま結婚に追いやられてしまう。しかし、焼身自殺ではどうだろうか。生き残ったとしても、皮膚は溶解し、容姿は破壊されている。

そんな姿の少女と結婚したい男はいない。彼女たちは本気で死ぬつもりで焼身自殺するが、万一助かったとしても二度と結婚の話はない。

それが彼女たちの望みだったのかもしれない。


生半可な死に方では、生き残ってしまえばそのまま結婚に追いやられてしまう。しかし、焼身自殺ではどうだろうか。生き残ったとしても、皮膚は溶解し、容姿は破壊されている。そんな姿の少女と結婚したい男はいない。それが彼女たちの望みだったのかもしれない。

https://blackasia.net/?p=1403

5. 中川隆[-17085] koaQ7Jey 2021年8月19日 07:25:46 : Jm8CVpY6ro : WTZTb21hdUMvdEE=[2] 報告
原理主義に突き進んだ世界では、その宗教に属さない人間は生きていけないのだ
2021.08.19

どの宗教も狂信的にそれを信じる人たちがいて、彼らが「原理主義」に突き進んでいき、まわりと激しい軋轢を生み出して殺し合いに向かっていく。宗教の名のもとにそれは行われる。歴史はそうやって形づくられている。私はそうした事実を知るにつれ、どこの宗教には属したくないと思うようになって今に至っている。(鈴木傾城)


タイで「悪霊《ピー》が憑いている」と言われてお祓いに行く
タリバンというイスラム原理主義集団がアフガニスタンを一気に掌握したことで、世界は再び「イスラム」にフォーカスしている。欧米でも日本でもイスラムに対しては「得体が知れない宗教」という思いを持っている人も多い。

イスラムの世界は日本や欧米の世界とは人権に対する考え方も常識も社会のあり方も根底から違っていたりするので、文化的衝突は非常に大きい。多文化共生にイスラムが組み込もうとして、対立・衝突・憎悪の連鎖に巻き込まれたのが欧米である。

宗教を巡る問題はとても根深く、多文化共生みたいな甘ったるい理想で包容できるような世界ではない。宗教は信じる者と信じない者を完全に分断するのである。

ところで、私自身はどこの宗教にも所属していない。これまで私が知り合ってきた東南アジア・南アジアの女性たちは、それぞれが仏教・キリスト教・イスラム教・ヒンドゥー教などを心から信じていた。

しかし、私自身はまったく感化されることはなかった。ただし、知り合った女性はいろんな宗教に属していた関係上、いろんな経験はした。

以前、私の体調が非常に悪かったとき、彼らはどうしても私を寺院《ワット》に連れて行きたがった。私に悪霊《ピー》が憑いているので、お祓いしなければならないのだと彼らは言った。

私は長らくタイをうろうろしていたが、それまで寺院(ワット)に足を踏み入れたことは一度もなかった。用がなかったからだ。しかし、この時はじめて断り切れなくて女性に連れられて足を踏み入れている。

一緒に行った女性が熱心に拝んでいるのを横目で見ながら、私はまったく何も期待しないでただ堂内を観察していただけだった。彼らの信じている仏教の世界は別に否定はしないが、自分が所属するところではないという意識はあった。

イスラムなど一片も信じていない私にとっては豚肉の方が大切
インドネシアやバングラデシュでは、多くがイスラム教を信じている。奔放な女性たちでさえ、時にはジルバブをつけて敬虔になるのを目の当たりにして驚いたこともある。共同体から堕ちた彼女たちもイスラムを信じていた。

リアウ諸島のある島で私はひとりの女性に出会って「ふたりで暮らして子供を育てましょう」と言われたが、その時に私が思ったのは宗教のことだった。インドネシアで暮らすということは、私もまたイスラム教徒になるということなのか……。

堕落と退廃で生きてきた私がイスラム教徒になるというのは滑稽だ。別に彼女が心から信じているイスラムを頭ごなしに否定することはないし、モスクで祈ることくらいはするかもしれないが、イスラム教に属する気持ちはまったくない。

インドでは、どこのスラムに行っても、そのスラムの中の一角が祠《ほこら》のようになっている。そして、そこにはスラムに住む人たちが信じるヒンドゥーの神が奉られており、夕方になったりするとみんながそこに集まって祈りの時間になる。

そこに誘われると、私もまわりの人たちと同じように見よう見真似で聖なる煙を身体に浴びて一緒に祈る。それをすることによって、彼らは客人である私を受け入れてくれて一緒に食事ができる。

宗教歌もいろんなところで聞いた。インド女性の歌うマントラは美しくて、聞きながら涙が出た。

そう言えば、私はタイで多くの女性たちが仏陀《ブッダ》の像や祠に手を合わせるのを見て美しいと思ったり、インドネシアの女性たちのジルバブに見とれたり、インド女性のおまじないの仕草に心を奪われたりした。

しかし、それでも宗教には決して深入りしなかったし、常に一線を引いていた。注意深くそれを避けた。人々が何を信じても否定しないし、それはそれで構わないと思う。ただ、私自身はどこにも属さないように注意した。

美しいとは思っても、自分がそこに所属することは考えなかった
宗教が人々の心に定着し、それが文化になり、共同体になり、時には宗教が生み出す様式美に感銘を受けることはあった。荘厳な雰囲気に惹かれることもある。だからと言って自分がそこに属することは考えなかった。

ありとあらゆるところに宗教があり、莫大な人口がそれを信じ、共有し、それこそが社会的秩序を生み出す元になっている。それは素晴らしい共同体であると言える。

しかし、私が宗教を避けたのは、宗教が現代社会にはそぐわないということや、科学的ではないことや、合理的でもないことや、その世界の教祖や神を崇拝しなければならないことが自分に合わないと思っているからだ。

宗教は思想そのものを支配する道具になる。信者は「否定できない教え」によってコントロールされる。信じているものに疑問を抱くことすらも許されない。それが心地良い人もいるかもしれないが、私には窮屈だった。

私は堕落していても純真なので、その宗教にマインド・コントロールされて、宗教の枠の中でしか考えられない人間になってしまう可能性がある。自分で何かを考えたのではなく、宗教組織が与えた「もの」を盲目的に受け入れて、ロボットかクローンのように反応するだけになるかもしれない。

そうなったとき、何が問題なのか。

もし、信仰している宗教の教祖や親玉に当たる人間が右を見ろと言えば自動的に右を向くし、左を見ろと言えば自動的に左を見るし、誰かを殺せと教祖が言えば誰かを殺すことになる。

ヒエラルキーの上部が乗っ取られて邪悪な人間が立つと、そっくりそのまま下層部がロボットのように邪悪になる。たとえば、先代が正しい人であっても、妙な人間が教祖の地位に成り上がったらどうなるのか。おかしいと分かっていても、盲目的に従ってしまう。

自分がその宗教を支配しているのでなければ、自分が支配されているということだ。

宗教で神を盲信させ、神の名において反駁を許さない
新興宗教だろうが伝統的宗教であろうが同じだ。キリスト教には神父や牧師がいて、イスラム教にはウラマーやイマームと言った精神的指導者がいる。そして、祭事を司どったり人々を導くための組織があり、上下関係《ヒエラルキー》が存在する。

その宗教が組織になっていて執行部がいるのであれば、信者はある時に執行部の操り人形にされる。時には単なる捨て駒にされてしまう。その宗教コミュニティにとらわれたら逃げられない。

自分が世間から排斥されると、どんどん組織や教義に頼るようになる。そして、自分の思考を奪われる。上層部が間違っていてもカリスマ教祖が狂ってきても、それが正しいのだと信じてしまう。

イスラム過激派も、キリスト原理主義者も、ヒンドゥー原理主義者も、組織を持った宗教は全部そうだ。上層部が、時には下層部をロボットのように動かすのである。宗教で神を盲信させ、神の名において反駁を許さない。

両親がキリスト教を信じていて、社会が教会を中心にまわっていれば、そこで生まれた子供は生まれながらにしてキリスト教の思考を身につける。

そうすると、処女が懐妊して教祖キリストが生まれたとか、人類の罪を背負って死んだとか、そういう非合理的な話を真実と思い込んだり信じこんだりする。さらに、それを否定する人間には敵意を抱いたりする。

何でもかんでも聖書に照らし合わせて、「これは神の予言だ」とか「黙示だ」とか言い始めることもある。進化論を認めなかったり、中絶を認めなかったり、避妊を認めなかったりする。非合理と狂信に向かうのだ。これを「原理主義」と呼ぶ。


非合理と狂信の中では、詐欺師でさえも神や仏に見えてしまう
神がいるのかいないのか。いるとしたらどんな姿かたちをしているのか。それは地域によって違う。神は人々が共有する「概念《コンセプト》」だからだ。

「みんなでこういうモノがいると一緒に信じて積極的に盲信しましょう」というのが宗教の基本だ。そして、「同じものを信じているのだから、私たちは友人であり仲間であり運命共同体だ」と言って秩序を生み出しているのである。

タイに悪霊《ピー》が「存在する」のは、それをみんなで信じているからだ。そして、その社会を受け入れば「我々は仲間だ」ということなのだ。

誰でも一人ぼっちは寂しいから、仲間になる引き換えにそれを受け入れようとする。受け入れれば共同体の仲間になれて、そこで暮らしていける。

そのかわり、共同体のために自分の「思考の自由」を捨てなければならない。そうやって思考が閉ざされていき、束縛されていき、時には組織そのものを盲信し、宗教の「捨て駒」になっていく。

タリバンは「イスラム原理主義」の集団である。原理主義であるからには、原理から外れたものは絶対に許さない、徹底的に排除するという思考になる。タリバンは自分たちの規範に従わない女性を処刑し、自分たちとは異質の文化は破壊する。

アフガニスタンにあったバーミヤンの仏像もタリバンによって破壊されたが、そうした排他的な行動は「原理主義」の中ではしばしば起こり得る。

どの宗教も狂信的にそれを信じる人たちがいて、彼らが「原理主義」に突き進んでいき、まわりと激しい軋轢を生み出して殺し合いに向かっていく。宗教の名のもとにそれは行われる。歴史はそうやって形づくられている。

私はそうした事実を知るにつれ、どこの宗教には属したくないと思うようになって今に至っている。いちいち、それぞれの宗教を否定して回るようなことはないし、信じている人に向かって何か言うこともない。ただ、私はどこにも属していないし属さない。

もし、私がアフガニスタン人だったら、私はタリバンに殺されてしまうだろう。タリバンは原理主義者なので、私のような人間は価値がないと見なすからである。原理主義者に乗っ取られた国は、そこに属さない人間は生きていけない。

アフガニスタンは、とても厳しい世界になっていくのだろう。

https://blackasia.net/?p=25808

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