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オーストラリア先住民の起源
http://www.asyura2.com/20/reki5/msg/354.html
投稿者 中川隆 日時 2020 年 11 月 02 日 11:34:39: 3bF/xW6Ehzs4I koaQ7Jey
 

オーストラリア先住民の起源

雑記帳 2018年11月17日
オーストラリアへの現生人類の到達年代
https://sicambre.at.webry.info/201811/article_29.html

 取り上げるのが遅れてしまいましたが、オーストラリアへの現生人類(Homo sapiens)の到達年代に関する研究(O’Connell et al., 2018)が報道されました。オーストラリアの人類史関連の記事については、今年(2018年)4月にまとめました(関連記事)。本論文は、東アジア南部と東南アジアからニューギニアとオーストラリアにいたる広範な地域を対象に、いつ現生人類が最初に拡散してきたのか、既知の諸研究を検証しています。更新世の寒冷期には、ジャワ島・スマトラ島・ボルネオ島などはユーラシア大陸南東部と陸続きでスンダランドを形成し、オーストラリア大陸・ニューギニア島・タスマニア島は陸続きとなってサフルランドを形成していました。

 東南アジアやオーストラリア大陸への人類最初の移住年代は、現生人類の出アフリカの回数・時期・経路(関連記事)とも関わっており、たいへん注目されます。昨年(2017年)、オーストラリアにおける人類の痕跡は65000年前頃までさかのぼるとする研究(関連記事)と、スマトラ島の現生人類の歯は73000〜63000年前頃までさかのぼるとする研究(関連記事)が相次いで公表され、スンダランドとサフルランドへの現生人類の早期(5万年以上前)の拡散を想定する見解の有力な根拠とされました。

 しかし本論文は、これらの年代が、東アジア南部・スンダランド・サフルランドにおける他の確実な現生人類の痕跡と比較するとかなり早い、と指摘します。本論文はまず、オーストラリアにおける65000年以上前の人類の痕跡とされたマジェドベベ(Madjedbebe)遺跡については、石器そのものの年代ではなく、周囲の砂層が年代測定されていることに疑問を呈します。つまり、人工物が下の層に沈んでいけば、それだけ実際よりも年代が古くなる、というわけです。人工物が下の層に沈むような要因として、シロアリの穴掘りや豪雨があります。73000〜63000年前頃と推定された、スマトラ島中部のリダアジャー(Lida Ajer)洞窟遺跡で発見された現生人類の歯に関しては、その発見位置は1世紀以上前のデュボワ(Eugène Dubois)のノートに基づいており、歯の変色の欠如からも、その年代には疑問が残る、と指摘されています。東アジア南部では、中国の湖南省で12万〜8万年前頃の現生人類的な歯が発見されていますが(関連記事)、本論文は、歯と年代測定された堆積物との関係に疑問がある、と指摘しています。本論文は、東アジア南部・スンダランド・サフルランドにおいて、5万年前を大きく超える現生人類の早期拡散説を証明するような、確実な現生人類の痕跡は遺骸でも人工物でもない、と指摘します。

 本論文は、近年急速に進展した遺伝学的研究成果も取り上げています。非アフリカ系現代人は全員、ネアンデルタール人(Homo neanderthalensis)からわずかながら遺伝的影響を受けており、非アフリカ系現代人の祖先集団が各地域集団系統に分岐する前に、ネアンデルタール人と交雑した、と考えられます。非アフリカ系現代人の祖先集団とネアンデルタール人の交雑の推定年代は54000〜49000年前頃で(関連記事)、その場所は西アジアである可能性が高いでしょうから、オーストラリアの現代人の主要な祖先集団がオーストラリアへと拡散してきたのは、5万年前前後である可能性が高そうです。じっさい、ミトコンドリアDNA(mtDNA)の解析結果からは、オーストラリア先住民の祖先集団はオーストラリア北部に上陸した後、それぞれ東西の海岸沿いに急速に拡散し、49000〜45000年前までに南オーストラリアに到達して遭遇した、と推測されています(関連記事)。つまり、マジェドベベ人はその推定年代が65000年前頃だとすると、オーストラリア先住民集団の(少なくとも主要な)祖先ではない、というわけです。本論文は、現代人の(主要な)祖先集団が5万年以上前に東アジア南部・スンダランド・サフルランドに到達した確実な証拠がないことを、遺伝学の研究成果からも指摘します。

 このように現時点では、本論文が主張するように、現生人類が東アジア南部・スンダランド・サフルランドに5万年以上前に到達したことを示す確実な証拠はない、と言えるかもしれません。また、遺伝学的諸研究からも、東アジア南部・スンダランド・サフルランドの現代人の主要な祖先集団の到来は5万年前頃前後で、5万年前を大きくさかのぼることはない、と言えそうです。本論文は、オーストラリアへの植民の成功には、総計100〜400人以上の集団による筏での4〜7日程度の航海が想定され、高度な計画と技術を必要とする、と指摘しています。本論文は、ユーラシア西部でも、5万年前頃を少し過ぎたあたりで現生人類の拡散が始まり、その後に人口密度の増加と複雑な社会および文化が始まる、と指摘します。つまり、5万年前頃の前後に人類進化史において何か重要なことが起きたのではないか、というわけです。

 東アジア南部・スンダランド・サフルランドにおける5万年以上前の現生人類の痕跡(早期拡散説)は、確定的とは言えない、との本論文の見解はたいへん興味深く、注目されます。しかし、今後の研究の進展と新たな発見により、早期拡散説が証明される可能性は低くないというか、むしろ高いと私は考えています。また、5万年前頃に現生人類において何か重要なことが起きたのではないか、との指摘も注目されます。ただ、アフリカにおいて「現代的な」行動は7万年以上前に散発的に見られ(関連記事)、それらの少なくとも一部はネアンデルタール人にも見られますから(関連記事)、そうした重要な変化の基盤は遺伝的ではなく、人口密度の増加とそれに伴う接触機会の増加など、社会的なものだった可能性が高い、と私は考えています。


参考文献:
O’Connell JF. et al.(2018): When did Homo sapiens first reach Southeast Asia and Sahul? PNAS, 115, 34, 8482–8490.
https://doi.org/10.1073/pnas.1808385115


https://sicambre.at.webry.info/201811/article_29.html  

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コメント
1. 中川隆[-10283] koaQ7Jey 2020年11月02日 11:35:43 : 5KIfhlnuJY : UFhPRDFELnhqNkU=[13] 報告
雑記帳 2017年03月11日
急速に拡散した最初期のオーストラリア人(追記有)
https://sicambre.at.webry.info/201703/article_11.html


 これは3月11日分の記事として掲載しておきます。オーストラリア先住民のミトコンドリアDNA(mtDNA)を解析した研究(Tobler et al., 2017)が報道されました。この研究はオンライン版での先行公開となります。この研究は、1928年から1970年代にかけてオーストラリア先住民から集められた111点の髪からmtDNAを解析しました。注目されるのは、オーストラリア先住民社会から合意・協力を得て研究が進められ、オーストラリアにおける先住民政策にも活かされていることです。今では、こうした研究のやり方が主流になりつつあるのではないか、と思います。

 オーストラリアへの人類最初の移住については、5万年前頃までさかのぼるのではないか、と推測されています。この頃、オーストラリアとニューギニアとタスマニア島は陸続きで、サフルランドを形成していました。この研究は、111点の髪から得られたmtDNAを解析した結果、オーストラリア先住民の祖先集団はオーストラリア北部に上陸した後、それぞれ東西の海岸沿いに急速に拡散し、49000〜45000年前までに南オーストラリアに到達して遭遇した、という見解を提示しています。オーストラリア先住民集団において、各地域で特徴的なmtDNAのハプログループの分岐年代が4万年以上前までさかのぼるからです。

 さらにこの研究は、オーストラリア全体への植民後、人口構造で強い地域的パターンが発達し、後期更新世〜完新世にかけての相当な気候的・文化的変化にも関わらず、この地理的人口構造が5万年近く継続してきた、との見解を提示しています。このように、長期にわたって各地域集団が継続してきたことが、オーストラリア先住民社会における言語と表現型の多様性の要因ではないか、と指摘されています。オーストラリアは、サハラ砂漠以南のアフリカ以外では、ニューギニアなどと共に、地域的な人口構造の継続期間がたいへん長い地域となるなのでしょう。

 オーストラリア先住民のY染色体の分析では、オーストラリア先住民の祖先集団はサフルランドへ上陸した後、そのY染色体系統は急速に分岐していった、と推測されており(関連記事)、この研究と整合的と言えそうです。ただ、完新世における南アジアからオーストラリアへの遺伝子流動(関連記事)や、完新世におけるオーストラリア北東の地域集団の拡大とオーストラリア他地域への遺伝子流動(関連記事)といった可能性も提示されています。完新世におけるオーストラリア北東の地域集団の拡大は、言語学的に推定されるパマ-ニュンガン語族(Pama–Nyungan languages)の拡大とも一致しています。後期更新世〜完新世のオーストラリアにおいては、強固な地域的人口構造が継続しつつも、遺伝子流動が一定水準以上起きていたのではないか、と考えられます。以下は『ネイチャー』の日本語サイトからの引用です。


【ゲノミクス】オーストラリアの地域多様性を解明する手掛かりとなる先住民のゲノム

 100点以上のオーストラリア先住民(アボリジナル)のミトコンドリアゲノムの解析が行われ、オーストラリアでの定住は、東西両海岸に沿った一度の急速な移動によってなされ、その流れがオーストラリア南部に到達したのが早くて49,000年前頃だったことが明らかになった。この新知見は、オーストラリア先住民の集団が明確に区分された地域内で約50,000年にわたって定住を続けたことを示唆している。この研究成果を報じる論文が、今週掲載される。

 (かつてサフールという1つの陸塊だった)オーストラリアとニューギニアに初めてヒトが住みついたのは約50,000年前のことだったことが考古学的証拠に示されている。しかし、オーストラリア国内において言語と表現型の多様性が極めて大きいことの背後にある過程については解明されていない。

 今回、Alan Cooperの研究チームは、1920〜1970年代に3つのオーストラリア先住民のコミュニティー(サウスオーストラリア州の2つとクイーンズランド州の1つ)で111人から集めた毛髪試料からミトコンドリアゲノムを抽出した。Cooperたちは、このミトコンドリアゲノムを解析して、ヨーロッパ人が定住するまでのオーストラリア先住民の集団間の遺伝的関係と歴史的関係を詳細に再構築した。その結果、オーストラリア先住民がオーストラリア北部に上陸してから東西両海岸沿いに急速に移動して、約49,000〜45,000年前にオーストラリア南部で出会ったことが分かった。ミトコンドリアDNAの多様性のパターンには地域性が色濃く見られ、このことは、オーストラリア先住民が、約50,000年前の時点で、著しい文化的変化と気候変動(例えば、最終氷期極大期の広範囲にわたる乾燥化と寒冷化)があったにもかかわらず、集団ごとに明確に異なった地域で定住していたことを示している。


参考文献:
Tobler R et al.(2017): Aboriginal mitogenomes reveal 50,000 years of regionalism in Australia. Nature, 544, 7649, 180–184.
http://dx.doi.org/10.1038/nature21416


追記(2017年4月13日)
 本論文が『ネイチャー』本誌に掲載されたので、以下に『ネイチャー』の日本語サイトから引用します。


進化学:アボリジニのミトゲノムから明らかになった、オーストラリアにおける5万年間にわたる地域性

進化学:アボリジニの最初の移動経路ブックマーク

 オーストラリアのアボリジニは、現在知られている中で最も長く続いている文化複合体の1つで、考古学的証拠から、オーストラリア大陸への人類の最初の定着は約5万年前とされている。A Cooperたちは今回、過去に採取され長く保存されていたオーストラリア・アボリジニの111例の毛髪試料について、ミトコンドリアゲノムの塩基配列を解読して遺伝的解析を行い、オーストラリアに到達した人類がその後大陸内でどのように移動したかをたどった。その結果、人類はオーストラリア北部に上陸した後、東西に分かれて海岸沿いに急速に広がり、4万9000年前にはオーストラリア南部で再び出会っていたことが明らかになった。ミトコンドリアDNAの多様性に著しい地域的パターンが見られることから、移動をやめた人々はそこにとどまって文化的な根を下ろし、そうした根は5万年間にわたり、文化や気候の大規模な変化に耐えて存続してきたことが示唆された。
https://sicambre.at.webry.info/201703/article_11.html

2. 中川隆[-10282] koaQ7Jey 2020年11月02日 11:36:51 : 5KIfhlnuJY : UFhPRDFELnhqNkU=[14] 報告
雑記帳 2018年11月18日
さかのぼるオーストラリア内陸部への人類の拡散
https://sicambre.at.webry.info/201811/article_31.html


 オーストラリア内陸部の西部乾燥地帯への人類の拡散に関する研究(McDonald et al., 2018)が報道されました。オーストラリアの人類史関連の記事については、今年(2018年)4月にまとめました(関連記事)。更新世の寒冷期には、オーストラリア大陸・ニューギニア島・タスマニア島は陸続きとなってサフルランドを形成していました。サフルランドにおける現生人類(Homo sapiens)の痕跡については、昨年(2017年)、65000年前頃までさかのぼるとする研究が公表されました(関連記事)。しかしその後、この年代には疑問が呈され、・サフルランドにおいて、5万年前を大きく超える現生人類の早期拡散説を証明するような、確実な現生人類の痕跡は遺骸でも人工物でもない、と指摘されています(関連記事)。

 本論文は、オーストラリア大陸内陸部の西部砂漠に位置するカルナツクル(Karnatukul)遺跡について報告しています。カルナツクル遺跡では25000点以上の石器が発見されており、その大半は燧石製です。カルナツクル遺跡の年代は、放射性炭素年代測定法と光刺激ルミネッセンス法(OSL)とが組み合わされましたが、その上限年代は放射性炭素年代測定法の限界値である5万年前頃に近く50101〜45190年前(中央値は47830年前)となり、じゅうらいは25000年前以前と考えられていましたから、上限年代が大きく繰り上がることになります。これは現時点では、オーストラリア大陸内陸部の西部砂漠地帯では最古の人類の痕跡となります。オーストラリア大陸への人類の最初の拡散が5万年前頃だとすると、最初期のオーストラリア人は急速に、内陸部の乾燥地域も含めて広い範囲に拡散していったと推測されますが、これはミトコンドリアDNA(mtDNA)の解析結果と整合的です(関連記事)。本論文は、最初期のオーストラリア人が多様な環境に急速に適応していった、と指摘しています。

 カルナツクル遺跡は、大別すると、更新世・中期完新世・過去1000年間の3回にわたり人類の活動痕跡の増加が見られます。更新世に関しては、43000年前頃と推定されている背部のある細石刃発見されており、早期からの技術革新が窺えます。この細石刃は、オーストラリアの他の遺跡のものより15000年ほど古くなります。こうした細石刃は槍の「さかとげ」として、また木材や他の有機素材の加工のために用いられた、と推測されています。このような技術革新が、最初期のオーストラリア人の急速な拡散と多様な環境への適応に役立ったのでしょう。また、更新世の石器の場合、54.7%が燧石製で、しかも良質な燧石を選好した様子が窺えます。このような認知能力は、現生人類特有ではないかもしれませんが、新たな環境への適応に役立ったでしょう。

 カルナツクル遺跡の石器に関しては、大半が完新世でも過去1000年間のものです(78.4%)。他の遺跡の石器との比較から、オーストラリア先住民の祖先集団は環境変動や異なる環境に適応していた、と推測されます。カルナツクル遺跡では顔料を用いた芸術作品も発見されており、中期完新世までさかのぼりますが、多くは過去1000年間のもので、石器の数から推測しても、更新世・中期完新世と比較して、過去1000年間には人口が増加し、社会が複雑化していったのかもしれません。本論文により改めて、最初期オーストラリア人の柔軟性と認知能力が確認された、と言えるでしょう。最初期オーストラリア人の潜在的能力は基本的に現代人と変わらなかったのではないか、と思います。問題となるのは、そうした潜在的能力が現生人類にいつ揃ったのか、ということですが、これは遺伝子と「能力」の関係がかなりの程度解明されるまでは推測困難だと思います。


参考文献:
McDonald J, Reynen W, Petchey F, Ditchfield K, Byrne C, Vannieuwenhuyse D, et al. (2018) Karnatukul (Serpent’s Glen): A new chronology for the oldest site in Australia’s Western Desert. PLoS ONE 13(9): e0202511.
https://doi.org/10.1371/journal.pone.0202511


https://sicambre.at.webry.info/201811/article_31.html

3. 中川隆[-8129] koaQ7Jey 2021年1月19日 09:39:44 : cWliJiYr4o : Sy5qS3d1clo2aWM=[2] 報告
雑記帳 2021年01月19日
スラウェシ島の45000年以上前の洞窟壁画
https://sicambre.at.webry.info/202101/article_25.html

 スラウェシ島の45000年以上前の洞窟壁画に関する研究(Brumm et al., 2021)が報道されました。スラウェシ島はワラセアで最大の島(174000㎢)で、アジア大陸とオーストラリア大陸との間に位置するオセアニアの生物地理的に異なる区域です。スラウェシ島には長い人類の居住史があります。スラウェシ島における人類最古の痕跡は、スラウェシ島南西部の町であるマロス(Maros)北東のウァラナエ盆地(Walanae Basin)にある、中期〜後期更新世(194000〜118000年前頃)のタレプ(Talepu)遺跡です(関連記事)。タレプ遺跡の石器群の製作者は、まだ特定されていない非現生人類ホモ属(絶滅ホモ属)かもしれません。

 現生人類(Homo sapiens)がいつスラウェシ島に到来したのか、まだ確かではありません。現生人類は、アジア南東部本土(更新世寒冷期には現在のアジア南東部の多くの島々も陸続きとなって広大なスンダランドを形成していました)には73000〜63000年前頃、サフルランド(更新世の寒冷期にはオーストラリア大陸・ニューギニア島・タスマニア島は陸続きでした)には69000〜59000年前頃には拡散していた、との見解も提示されていますが、疑問も呈されています(関連記事)。サフルランドにおける初期現生人類の到来モデルの一部では、スラウェシ島がワラセア北部からスンダランド西端までの航海の最初の「停留所」と想定されています。現生人類が、オーストラリア大陸もしくはサフルランドへ69000〜59000年前頃に到来していたとすると、その頃までにスラウェシ島にも到達していたかもしれません。

 現時点で、スラウェシ島における現生人類到来の最古の代理的証拠は岩絵です(関連記事)。スラウェシ島の岩絵は、マロス・パンケプ(Maros–Pangkep)地方で最初に確認され、この地域では洞窟と岩陰で約300点の壁に描かれた絵が特定されています。洞窟壁画遺跡2ヶ所の年代から、更新世の初期様式と、その後の4000年前頃となるオーストロネシア語族農耕民到来と「新石器時代」農耕以降の2段階が特定されています。重複画像の順序が明らかでない場合、前者と後者は主題・技術・保存の点で区別できます。

 オーストロネシア語族集団よりも前の岩絵は、手形と具象的な動物の絵により特徴づけられます。ほとんどの場合、動物の絵は、筆もしくは指先を用いて単色(通常は赤もしくは紫・濃赤紫色)で描かれました。これらの絵は、輪郭表現がいくらか単純化された形式で描かれました。動物の輪郭は通常、認識可能な解剖学的詳細ではなく、不規則なパターンの線と破線で、充填は稀です。最も識別可能な動物の絵は、スラウェシ島で最大の固有の陸生哺乳類である、イノシシと小型アジアスイギュウ(アノア)です。絵ではイノシシが支配的で、73点の壁に描かれたイノシシもしくはイノシシ的な具象が特定されています。イノシシのほとんどは、特徴的な顔のイボを有する短い脚の小柄な(40〜85kg)スラウェシ島イボイノシシ(Sus celebensis)のようです。スラウェシ島イボイノシシ(以下、イボイノシシ)はスラウェシ島固有種ですが、先史時代後期に現在のインドネシア内に広く導入されました。

 マロス・パンケプ地方の5点の動物具象画は、炭酸カルシウム堆積物関連のウラン系列法では、後期更新世と推定されました。最古の絵は、リアンブルシポン4号(Leang Bulu' Sipong 4)洞窟(図1の4)に描かれ、幅4.5mで、イボイノシやアノアを狩っているように見える人物の場面が描かれています。スラウェシ島のイボイノシシの絵で最古のものは43900年前頃で、アノアの絵2点の年代は41000および40900年以上前です。リアンティンプセン(Leang Timpuseng)遺跡(図1の2)では、イノシシの具象的描写の年代は35400年以上前です。リアンバルガッヤ2(Leang Barugayya 2)遺跡では、イノシシのような動物の絵の年代は35700年以上前です。マロス・パンケプ地方のさまざまな遺跡の手形の年代は、39900〜17400年前頃です。

 マロス地区の2ヶ所の岩絵遺跡であるリアンブルベッテュー(Leang Bulu Bettue)とリアンブルング2(Leang Burung 2)では、後期更新世の顔料処理の証拠が同じ場所で明らかになりました。両遺跡ではオーカー断片が、リアンブルベッテュー遺跡ではオーカーで着色された人工物が見つかっています。リアンブルベッテュー遺跡では、24000〜16000年前頃の、具象的芸術作品や抽象的芸術作品が発見されています。ほぼ同様の古代の岩絵制作の証拠は、スラウェシ島に隣接するボルネオ島のカルスト地域で見つかっています。東カリマンタン州のルバン・ジェリジ・サレー(Lubang Jeriji Saléh)洞窟では、ウラン系列法により、ボルネオ島の野生ウシであるバンテン(Bos javanicus lowi)の具象画の年代が4万年以上前と推定されています(関連記事)。

 本論文は、スラウェシ島のマロス・パンケプ地方で最近発見された2点の後期更新世具象画の、洞窟二次生成物のウラン系列年代測定結果を報告します。これらの壁画は、リアンテドンゲ(Leang Tedongnge)とリアンバランガジア1(Leang Balangajia 1)という、2ヶ所の新たに特定された洞窟芸術遺跡で発見されました(前者が図1の1、後者が図1の6)。以下、本論文の図1です。
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●遺跡と壁画

 リアンテドンゲ洞窟とリアンバランガジア1洞窟の2点の具象的なイノシシの絵と、リアンバランガジア1洞窟で重ねて描かれた手形の上に形成されてきた、小さな珊瑚状の洞窟二次生成物のウラン系列同位体分析が行なわれました。イノシシの絵の一方(図2および図3)は、マロス・パンケプ地方のカルスト地区の境界上の人里離れた渓谷に位置するリアンテドンゲ石灰岩洞窟にあります。もう一方のイノシシの絵(図4)は、マロス地区南部のリアンバランガジア1石灰岩洞窟にあります。両洞窟で、2017年と2018年に未知の岩絵が発見されました。以下、本論文の図2です。
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 リアンテドンゲ洞窟(図2および図3)とリアンバランガジア1洞窟(図4)のイノシシの絵は、ともに赤色もしくは濃赤・濃赤紫色の鉱物顔料(オーカー)で描かれました。どちらも、イノシシの絵の描写は完全な体の輪郭で構成されており、不動または静止した位置で表されます。絵の輪郭は、線と破線の不規則なパターンです。イノシシの輪郭表現において、主要な性的特徴(生殖器や乳腺など)は明確に描写されませんでしたが、第二次性徴が描かれている可能性はあります。以下、本論文の図3です。
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 リアンテドンゲ洞窟では、年代が測定されたイノシシの絵(イノシシ1)は、洞窟の後壁に描かれています(図2)。イノシシ1は136cm×54cmで、後部の上部と近くに位置する手形と関連しています。少なくとも2もしくは3点の他のイノシシの絵(イノシシ2および3)は、同じ壁面に描かれています。比較的完全なイノシシ1とは対照的に、イノシシ2および3は、剥離のために部分的にしか見えませんが、ともに頭部は明確に見えます。動物の姿は向かい合って描かれているようです。イノシシ1はイノシシ2および3の左側に、それら2頭を見るように描かれています。絵の配置は、現代西洋的な意味での物語の構成もしくは場面かもしれない、と本論文は推測します。この一連のイノシシの絵は、少なくとも3点、あるいは4点となり、個々のイノシシ間の社会的相互作用の挿話の描写が目的だったかもしれない、と推測されます。

 リアンバランガジア1洞窟では、大きな赤いイノシシの絵が小さな側面の部屋の天井に描かれています。このイノシシの絵は、長さが187cm、高さが110cmです(図4)。この部屋の壁と天井には、おそらく少なくとも2点の他の具象的な動物の絵が描かれています。しかし、保存状態はひじょうに悪く、ほぼ不明瞭です。大きな赤いイノシシの絵の上に、4点の手形が重ねられています(図4)。以下、本論文の図4です。
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●リアンテドンゲ洞窟のウラン系列同位体年代測定

 リアンテドンゲ洞窟の完全な具象的なイノシシの絵(イノシシ1)の上の小さな珊瑚状の洞窟二次生成物の、ウラン系列同位体分析が行なわれました(図5)。イノシシ1の後ろ足の一つと関連する赤い顔料の上に、二次生成物(12 mm²)が重なっている、と観察されました(図5A〜C)。この洞窟二次生成物は小さすぎるので回転工具で除去できず、小さなノミで壁面から抉られました。回収された標本(LTed3)は、高密度で非多孔性の方解石の複数の層で構成されています。洞窟二次生成物の成分は、その外面から顔料層を通って下の岩面まで伸びています(図5D・E)。

 LTed3は、任意の地点で小さく掘削され、4点の部分標本が得られました(図5F・G)。標本の全長にわたって、絵に対応する赤い顔料層が観察されました。合計で3点のウラン系列年代測定値が得られました。これらの年代は、不確実性の範囲内で区別できないものでした。これは、ウランとトリウムの閉鎖系状況を示唆します。ウラン系列年代測定の結果、リアンテドンゲ洞窟における巨大なイノシシの絵(イノシシ1)は45500年以上前と示唆されました。以下、本論文の図5です。
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●リアンバランガジア1洞窟のウラン系列同位体年代測定

 大きな赤いイノシシの絵と手形の上にある2点の小さな珊瑚状の洞窟二次生成物(それぞれ標本LBLGJ1およびLBLGJ2)のウラン系列動態分析が行なわれました(図6)。上述のように、手形はイノシシの絵の上に重なっているので、絵の下限年代を提供します。LBLGJ1(150 mm²)およびLBLGJ2(100 mm²)では、それぞれ4点と5点の部分標本が得られました。イノシシの絵と手形の両方を覆う標本は、高密度で非多孔性の方解石の複数の層で構成されています。各標本の全長にわたって、イノシシの絵と手形に対応する顔料層が明確に観察されました。

 合計で、赤いイノシシの絵とその上の手形に関して、9点のウラン系列年代測定値が得られました。LBLGJ1は、表面で下層よりも古い年代を示しました。この表面の部分標本(LBLGJ1.1)は、風化して砕けやすい洞窟二次生成物の一部を含んでいるので、表面のウランの部分的な浸出が原因と考えられます。部分標本LBLGJ1.2と部分標本LBLGJ1.3は、わずかに逆の年代(100年程度)を示します。これは、さまざまな年代の一連の同心円状の成長層および/もしくは「堆積」に起因すると考えられます。赤いイノシシの絵の最小のウラン系列年代値は29700年前頃(LBLGJ1.2)です。最大のウラン系列年代値は82600年前頃で、部分標本LBLGJ1.4に由来します。

 標本LBLGJ2は、2000年ほど新しいLBLGJ2.3を除いて、ウランとトリウムの閉鎖系状態に典型的な特性を示します。LBLGJ2の年代異常(逆転)は、部分標本抽出戦略の副産物および珊瑚状の洞窟二次生成物形成の複雑な過程として解釈されます。断面図(図6E)で明らかにされた内部成長構造は明確により複雑で、標本抽出過程における、異なる部分標本間の異なる割合での交差成長層混合の可能性が高いことを示唆します。したがって、部分標本LBLGJ2.4による32000年前頃となるウラン系列年代値は手形の下限年代を表し、73400年前頃というこの絵の上限年代はLBLGJ2.5に由来します。大きな赤いイノシシの絵の上に手形が重ねられているので、この具象的なイノシシの絵の年代は73400〜32000年前頃となります。以下、本論文の図6です。
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●岩絵で描かれたイノシシの識別

 リアンテドンゲ洞窟とリアンバランガジア1洞窟で描かれたイノシシの絵の特徴のさまざまな識別により、これらの動物がスラウェシ島イボイノシシ(Sus celebensis)の芸術的表現と結論づけられます。目や耳や筋肉の状態や毛の模様・色や鼻や犬歯(牙)など、スラウェシ島イボイノシシ(以下、イボイノシシ)の識別可能な解剖学的詳細は明らかに描写されていません(しかし、目に関しては描かれた可能性があります)。それにも関わらず、イボイノシシの診断特性は、絵の輪郭(図2〜4)で識別可能です。それは、(1)頭頂部と背中上部の短い破線の列で表される「尖った」頭頂部と、(2)上部の鼻領域に並んで描かれた2ヶ所の目立つ角のような突起により表される眼窩前のイボが確認できるからです。

 (1)は明確に描写されており、容易に区別できます。(2)に関しては、鼻の上の隆起は表面的には耳に似ています。しかし、芸術的表現と認めるとしても、これらの形態は鼻に沿って配置されすぎており、大きすぎて耳を適切に表現できていない、と考えられます。またそれらは、犬歯(牙)の様式化された、あるいは歪んだ表現ではなさそうで、イボイノシシでは口から横方向に犬歯が突き出ています。これらの特徴は、イボイノシシの際立った形態学的特徴の一つを構成する眼窩前の顔面のイボと最も一致している、と推測されます。イボイノシシの顔面のイボは雄で最も顕著に見られ、加齢に伴って大きくなります。したがって、リアンテドンゲ洞窟とリアンバランガジア1洞窟のイノシシの絵は、成体の雄のスラウェシ島イボイノシシの描写と考えられます。イボイノシシの眼窩前のイボは、いわゆる捻じれた観点で描かれていることに注意が必要です。これは先史時代芸術における図像表現の一般的手法で、動物の単一の輪郭特性の絵を用いて、さまざまな観点から観察された時に見物人にどのように見えるのか、考慮して描写する必要があります。

 年代測定されたイノシシの絵は、スラウェシ島固有のイノシシの他の唯一の現生種であるバビルサ(Babyrousa sp.)の外部形態とは一致しません。バビルサは雄の成体では、下向きではなく、鼻の上で後方に螺旋状に成長する華麗な上顎犬歯を含む、独特な解剖学的特徴を有しています。以前には、リアンティンプセン洞窟の後期更新世のイノシシの絵は、雌のバビルサの具象的表現として解釈されました(関連記事)。しかし、この絵は、スラウェシ島イボイノシシの若い雌もしくは亜成体の雄を描いている可能性もあります。カワイノシシ族のコルポコエルス属種(Celebochoerus spp.)は、新石器時代の前にスラウェシ島に生息していた唯一の他のイノシシ族です。しかし、絶滅したこの「巨大な」イノシシ系統は、前期〜中期更新世の化石記録でのみ知られています。現生人類がこの祖先的で頑丈なイノシシとスラウェシ島で時間的に重複した、という証拠はありません。

 スラウェシ島イボイノシシとして識別されるリアンテドンゲ洞窟とリアンバランガジア1洞窟の年代測定されたイノシシの絵はどちらも、首の下部に乳頭様付属器官に似た一組のコブという、見慣れない解剖学的特徴で描かれていました。リアンバランガジア1洞窟のイノシシの絵では、その形態は毛深さもしくは剛毛のようです。したがって、外観ではそれらが飾り房のような印象を与えます。この正体不明の形態的特徴は、リアンテドンゲ洞窟の同じ岩絵壁面で描かれた他の2点のイノシシの絵でも明らかで、本論文はこれらの動物の主題を、スラウェシ島イボイノシシの明確な表現とみなしています。同様の形態は、グアウハリー(Gua Uhallie)洞窟(図1の5)の、年代測定されていない大きな不規則の輪郭のスラウェシ島イボイノシシの2点の絵でも明らかです。今後の研究では、この正体不明の特徴の考えられる説明が検討されます。


●考察

 まとめると、ウラン系列年代測定の結果は、リアンテドンゲ洞窟とリアンバランガジア1洞窟のスラウェシ島イボイノシシの絵の下限年代が、それぞれ45500年前頃と32000年前頃であることを示します。下限年代が45500年前頃であるリアンテドンゲ洞窟の絵は、スラウェシ島で最古の既知の年代測定された芸術作品のようです。またこれは、スラウェシ島、さらには恐らくより広範なワラセア地域における現生人類の存在の報告された最古の指標を表しています。リアンテドンゲ洞窟の岩絵壁面に描かれている、まだ年代測定されていないイノシシの絵の推定下限年代も同様と推測されます。上述のように、これらのイノシシの絵は、年代測定された絵とともに、単一の物語の構成もしくは場面を構成しているようで、おそらくはスラウェシ島イボイノシシ間の社会的相互作用の描写です。確認できる限りでは、リアンテドンゲ洞窟のスラウェシ島イボイノシシの厳密に年代測定された絵は、現存する動物の世界最古の描写のようです。さらに、このワラセア固有のイノシシの年代測定された描写は、考古学で知られている世界最古の具象的芸術を構成するかもしれません。

 世界最古の芸術に関しては、スペインの非具象的な岩絵が遅くとも65000年前頃にさかのぼり、ネアンデルタール人(Homo neanderthalensis)の所産との見解が提示されましたが(関連記事)、その年代をめぐって議論が続いています(関連記事)。上述のように、スラウェシ島南西部では194000〜118000年前頃の石器群が発見されています。この石器群を製作したのは現生人類ではなく、絶滅ホモ属と考えられています。現生人類がスラウェシ島やワラセアの他の場所、またはより広範な地域へ10万年以上前に拡散していた可能性に関しては議論がありますが、不可能ではありません。現生人類的な化石はアフリカ北部では30万年前頃までさかのぼります(関連記事)。アジア東部における12万〜8万年前頃の現生人類の存在を報告した研究もあります(関連記事)。スンダランドでも、同じ頃に現生人類が存在していた可能性が指摘されています。現在利用可能な証拠に基づくと、リアンテドンゲ洞窟の年代測定された岩絵の描写が、現生人類の認知能力的に「現代的な」人々の所産である、と結論づけることはできません。しかし、この初期の表象的芸術作品の洗練と、具象的表現が現時点では世界のどこでも現生人類のみの所産であるという事実を考慮すると、現生人類の所産である可能性が最も高そうです。

 もしそうならば、リアンテドンゲ洞窟の年代測定されたイノシシの絵は、最初期ではないとしても、ワラセアにおける現生人類の存在の最初の証拠の一部を提供するようです。この芸術作品の下限年代は、以前にはワラセアにおける現生人類の最古の考古学的証拠を提供していた、小スンダ列島の発掘堆積物からの現生人類の最初の確立された指標と同等です。したがって、リアンテドンゲ洞窟の絵の年代測定結果は、具象的な動物芸術や物語の場面の表現を含む表象芸術が、スンダランドからオーストラリア大陸への入口であるワラセアへと渡った最初の現生人類集団の文化的一覧の重要な一部だった、という見解を強調します。


 以上、本論文についてざっと見てきました。本論文は、スラウェシ島における具象的な動物壁画が45500年以上前であることを示しました。本論文は、これは現生人類の所産である可能性が最も高い、と指摘します。45500年以上前ならば、種区分未定のホモ属であるデニソワ人(Denisovan)がアジア南東部に存在した可能性もあります。さらに、一部の古代DNA研究において、デニソワ人がサフルランドまで拡散し、3万年前頃まで生存していた可能性も指摘されています(関連記事)。本論文はやや否定的ですが、ネアンデルタール人が現生人類よりも前、あるいは独自に具象的な動物壁画を描いた可能性は、それほど低くないように思います。その意味で、遺伝的にネアンデルタール人と近縁なデニソワ人(関連記事)が洞窟壁画を残した可能性も考えられますが、現時点での証拠からは、スラウェシ島の後期更新世の洞窟壁画を残したのは現生人類と考えてほぼ間違いないでしょう。また、これらスラウェシ島の45500年以上前の洞窟壁画を描いた人類集団と現代人との遺伝的つながりがどの程度なのか、現時点では不明です。スラウェシ島の更新世人類となるとDNA解析は難しそうですから、残念ながらこの問題を決定的に解明することはできないでしょう。


参考文献:
Brumm A. et al.(2021): Oldest cave art found in Sulawesi. Science Advances, 7, 3, eabd4648.
https://doi.org/10.1126/sciadv.abd4648


https://sicambre.at.webry.info/202101/article_25.html

4. 中川隆[-5235] koaQ7Jey 2021年5月03日 04:21:17 : VB5J2ALj5k : eXZCdXBKRnJBS0U=[1] 報告
雑記帳 2021年05月02日
オセアニアの人口史と環境適応およびデニソワ人との複数回の混合
https://sicambre.at.webry.info/202105/article_3.html


 オセアニアの人口史に関する研究(Choin et al., 2021)が公表されました。考古学的データでは、ニューギニアとビスマルク諸島とソロモン諸島含むニアオセアニア(近オセアニア)には、45000年前頃に現生人類(Homo sapiens)が居住していました(関連記事)。リモートオセアニア(遠オセアニア)として知られており、ミクロネシアとサンタクルーズとバヌアツとニューカレドニアとフィジーとポリネシアを含む太平洋の他地域は、3500年前頃まで人類は居住していませんでした。この拡散は、オーストロネシア語族およびラピタ(Lapita)文化複合の拡大と関連しており、台湾で5000年前頃に始まり、リモートオセアニアには3200〜800年前頃までに到達した、と考えられています。

 オセアニア人口集団の遺伝的研究は、オーストロネシア語族の拡大に起因するアジア東部起源の人口集団との混合を明らかにしてきましたが(関連記事1および関連記事2および関連記事3および関連記事4)、オセアニアの移住史に関しては疑問が残っています。太平洋地域への移住が島嶼環境への遺伝的適応をどのように伴ったのか、また古代型ホモ属(絶滅ホモ属)からの遺伝子移入がオセアニア個体群においてこの過程を促進したのかどうかも、不明です。オセアニア個体群は、世界で最高水準のネアンデルタール人(Homo neanderthalensis)および種区分未定のホモ属であるデニソワ人(Denisovan)の組み合わされた祖先系統を示します(関連記事1および関連記事2および関連記事3)。本論文は、全ゲノムに基づいた調査を報告します。この調査は、太平洋の人口集団の人口史および適応の歴史と関連する広範な問題に対処します。


●ゲノムデータセットと人口構造

 ニアオセアニアとリモートオセアニアの移住史に影響を与えたと考えられる地理的区域の20の人口集団から、317個体のゲノムが配列されました(図1a)。これらの高網羅率ゲノム(約36倍)は、パプアニューギニア高地人やビスマルク諸島人(関連記事1および関連記事2)や古代型ホモ属(絶滅ホモ属)を含む(関連記事1および関連記事2および関連記事3)、選択された人口集団のゲノムとともに分析されました。最終的なデータセットには、太平洋地域の355個体を含む462個体と、35870981ヶ所の一塩基多型が含まれます(図1b)。

 ADMIXTURE、主成分分析、遺伝的距離の測定(FST)を用いると、人口集団の多様性はおもに4要素により説明される、と明らかになりました。それは、(1)アジア東部および南東部個体群、(2)パプアニューギニア高地人、(3)ビスマルク諸島人とソロモン諸島人とバヌアツ人(ni-Vanuatu)、(4)ポリネシア人の外れ値(本論文ではポリネシア個体群と呼ばれます)と関連しています(図1c・d)。最大の違いはアジア東部および南東部個体群とパプアニューギニア高地人との間にあり、残りの人口集団はこの2構成要素のさまざまな割合を示し、オーストロネシア語族拡大モデルを裏づけます(関連記事)。

 ビスマルク諸島人とバヌアツ人の間では強い類似性が観察され、ラピタ文化期末におけるビスマルク諸島からリモートオセアニアへの拡大と一致します(関連記事)。ヘテロ接合性の水準はオセアニア人口集団の間で著しく異なり、個々の混合割合と相関します。最も低いヘテロ接合性と最も高い連鎖不平衡は、パプアニューギニア高地人とポリネシア個体群との間で観察され、おそらくは低い有効人口規模(Ne)を反映しています。とくにF統計は、バヌアツのエマエ(Emae)島民からポリネシア個体群のバヌアツ人において、他のバヌアツ人より高い遺伝的類似性を示し、ポリネシアからの遺伝子流動を示唆します(関連記事)。以下は本論文の図1です。
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●ニアオセアニアとリモートオセアニアの定住

 オセアニアの移住史を調べるため、いくつかの進化的仮説により駆動される一連の人口統計モデルが複合尤度法(composite likelihood method)で検討されました。まず、パプアニューギニア高地人と他の現代人および絶滅ホモ属との間の関係が決定され、以前の調査結果(関連記事)が再現されました。次に、遺伝子流動を伴う3期の人口統計が想定され、ニアオセアニア集団間の関係が調べられました。観測された部位頻度範囲は、ニアオセアニアにおける定住前の強いボトルネック(瓶首効果)により最もよく説明されました(Ne=214)。ビスマルク諸島およびソロモン諸島の人々とパプアニューギニア高地人の分離は39000年前頃までさかのぼり、ソロモン諸島人とビスマルク諸島人の分離は2万年前頃で(図2a)、これは45000〜30000年前頃となるこの地域における人類の定住の直後となります(関連記事)。以下は本論文の図2です。
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 次に、マラクラ(Malakula)島のバヌアツ人個体群に代表される、リモートオセアニア西部人口集団がモデルに組み込まれました。バヌアツ人個体群の祖先の一部はビスマルク諸島からの移民で、3000年前頃以後にバヌアツ人の遺伝子プールの31%以上に寄与したと推定され、これは以前の古代DNA研究と一致します(関連記事)。しかし、最適なモデルでは、バヌアツに3000年前頃以降に到来したパプア人関連人口集団は、他のニアオセアニア起源集団の混合だった、と明らかになりました。バヌアツ人のパプア人関連祖先はパプアニューギニア高地人と分岐し、後にソロモン諸島人関連系統から約24%の遺伝的影響を受けました。興味深いことに、台湾先住民のバヌアツ個体群への直接的寄与は3%未満と最小限で、2700年前頃までさかのぼる、と明らかになりました。これは、現代リモートオセアニア西部人口集団のアジア東部関連祖先系統が、おもに混合されたニアオセアニア個体群から継承されたことを示唆します。


●オーストロネシア語族拡大への洞察

 フィリピンとポリネシアのオーストロネシア語族話者を本論文のモデルに組み込むことにより、オセアニア人口集団におけるアジア東部祖先系統の起源が特徴づけられました。移住に伴う孤立を想定して、台湾先住民、およびフィリピンのカンカナイ人(Kankanaey)やソロモン諸島のポリネシア個体群といったマレー・ポリネシア語派話者は7300年前頃に分岐した、と推定され、これはフィリピンの人口集団に関する最近の遺伝学的研究と一致します(関連記事)。他のオーストロネシア語族話者集団をモデル化しても、同様の推定が得られました。

 これらの年代は、台湾からの拡散事象は4800年前頃に始まり、オセアニアに農耕とオーストロネシア語族言語をもたらした、と想定する出台湾モデルと一致しません。しかし、アジア北東部人口集団からオーストロネシア語族話者集団へのモデル化されていない遺伝子流動(関連記事)が、パラメータ推定に偏りをもたらしているかもしれません。そのような遺伝子流動を考慮すると、出台湾モデルにおいて予測されるよりも古い分岐年代が一貫して得られたものの、信頼区間とは重複します(8200年前頃、95%信頼区間で12000〜4800年前)。これは、オーストロネシア語族話者の祖先が台湾の新石器時代の前に分離したことを示唆しますが、パラメータ推定における不確実性を考慮すると、古代ゲノムデータを用いてのさらなる調査が必要です。

 次に、近似ベイズ計算(ABC)を用いて、さまざまな混合モデルにおける、ニアオセアニア個体群とアジア東部起源の人口集団との間の混合の年代が推定されました。その結果、2回の混合の波モデルが、ビスマルク諸島とソロモン諸島の人々の要約統計に最もよく一致しました。最古の混合の波はこの地域でラピタ文化出現後の3500年前頃に起き、ビスマルク諸島とソロモン諸島の人々についてはそれぞれ、2200年前頃と2500年前頃でした(図2c)。これにより、台湾先住民からのマレー・ポリネシアの人々の分離が、ニアオセアニア人口集団との即時で単一の混合事象の後に起きたわけではない、と明らかになり、オーストロネシア語族話者はこの拡散中に形成段階を経た、と示唆されます。


●ネアンデルタール人とデニソワ人からの遺伝的影響

 太平洋島嶼部の人々は、主成分分析やD統計やf4比統計により示唆されるように、かなりのネアンデルタール人およびデニソワ人祖先系統を有しています。ネアンデルタール人祖先系統が均一に分布しているのに対して(2.2〜2.9%)、デニソワ人祖先系統は集団間で顕著に異なり(関連記事)、パプア人関連祖先系統と強く相関しています(図3a・b・c)。注目すべき例外はフィリピンで観察されており、「ネグリート」と自認しているアイタ人(Agta)と、それよりは影響が劣るもののセブアノ人(Cebuano)で、デニソワ人祖先系統の相対的影響が高めではあるものの、パプア人関連祖先系統をほとんど有していません。

 古代型ホモ属(絶滅ホモ属)祖先系統の供給源を調べるため、信頼性の高いハプロタイプ(図3d)が推測され、クロアチアのヴィンディヤ洞窟(Vindija Cave)のネアンデルタール人(関連記事)およびシベリア南部のアルタイ山脈のデニソワ洞窟(Denisova Cave)のネアンデルタール人(関連記事)とのハプロタイプ一致率が推定されました。ネアンデルタール人の一致率は全集団において単峰型で(図3e)、ネアンデルタール人のゲノム断片は人口集団の組み合わせで有意に重複しており、単一のネアンデルタール人集団からの非アフリカ系現代人集団の祖先への1回の遺伝子移入事象と一致します。

 逆に、デニソワ人から遺伝子移入された断片では、異なる最大値が見られました(図3e)。以前に報告されたように(関連記事)、2つの最大値兆候(デニソワ人のゲノムとの一致率は、それぞれ98.6%と99.4%)がアジア東部個体群で検出されただけではなく、台湾先住民やフィリピンのセブアノ人やポリネシア個体群でも見つかりました。約99.4%一致するハプロタイプは、約98.6%一致するハプロタイプよりも有意に長く、アジア東部人口集団では、アルタイ山脈のデニソワ人と密接に関連する人口集団からの遺伝子移入が、遺伝的により遠い関係の絶滅ホモ属集団からの遺伝子移入よりも新しく起きた、と示唆されます。

 パプア人関連人口集団でもデニソワ人の2つの最大値が観察され、一致率は約98.2%と約98.6%です。近似ベイズ計算を用いると、一貫して、パプアニューギニア高地人は2回の異なる混合の波を受けている、と確認されます。約98.6%の一致率のハプロタイプは、全人口集団で類似の長さでしたが、約98.2%の一致率のハプロタイプは、パプア人関連人口集団において、他の人口集団における98.6%の一致率のハプロタイプよりも有意に長い、と示されました。

 近似ベイズ計算パラメータ推定は、最初の混合の波が222000年前頃にアルタイ山脈デニソワ人と分岐した系統から46000年前頃に起き、パプア人関連人口集団への第二の混合の波が、アルタイ山脈デニソワ人と409000年前頃に分離した系統から25000年前頃に起きた、と裏づけます。このモデルは、アルタイ山脈デニソワ人とは比較的遠い関係にあるデニソワ人系統からの混合の波が46000年前頃に起きた、と報告した以前の研究(関連記事)よりも支持されました。本論文の結果は、パプア人関連集団の祖先とデニソワ人との複数の相互作用と、遺伝子移入元の絶滅ホモ属の深い構造を示します。

 フィリピンのアイタ人についても、2つのデニソワ人関連の最大値が観察され、それぞれ一致率は98.6%と99.4%です(図3e)。99.4%の最大値の方は、おそらくアジア東部人口集団からの遺伝子流動に起因します。アイタ人における遺伝子移入されたハプロタイプは、パプア人関連人口集団のハプロタイプと有意に重複していますが、パプア人とは関係ないデニソワ人祖先系統の比較的高い割合(図3c)は、追加の交雑を示唆します。

 ルソン島におけるホモ・ルゾネンシス(Homo luzonensis)の発見(関連記事)を考慮して、ネアンデルタール人やデニソワ人以外の絶滅ホモ属からの遺伝子移入の可能性も調べられました。絶滅ホモ属の参照ゲノムを利用せずとも、現代人のゲノム配列の比較により絶滅ホモ属との混合の痕跡と思われる領域を検出する方法(関連記事)で、ネアンデルタール人とデニソワ人に由来するハプロタイプを除外すると、合計499万塩基対にまたがる59個の古代型ハプロタイプが保持され、ほとんどの集団で共通していました。アイタ人とセブアノ人に焦点を当てると、両集団に固有の遺伝子移入された約100万塩基対のハプロタイプしか保持されませんでした。これは、ホモ・ルゾネンシスが現代人の遺伝的構成に全く、あるいはほとんど寄与しなかったか、ホモ・ルゾネンシスがネアンデルタール人もしくはデニソワ人と密接に関連していたことを示唆します。以下は本論文の図3です。
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●絶滅ホモ属からの遺伝子移入の適応的性質

 絶滅ホモ属からの適応的な遺伝子移入の証拠は存在しますが(関連記事1および関連記事2)、オセアニア人口集団における役割を評価した研究はほとんどありません。本論文ではまず、適応的遺伝子移入兆候における濃縮について、5603の生物学的経路が検証されました。ネアンデルタール人とデニソワ人に由来する断片については、有意な濃縮がそれぞれ24と15の経路で観察され、そのうち9つは代謝機能と免疫機能に関連していました。

 ネアンデルタール人からの適応的遺伝子移入に焦点を当てると、OCA2やCHMP1AやLYPD6Bなどの遺伝子が複製されました(図4a)。また、免疫(CNTN5、IL10RA、TIAM1、PRSS57)、神経細胞の発達(TENM3、UNC13C、SEMA3F、MCPH1)、代謝(LIPI、ZNF444、TBC1D1、GPBP1、PASK、SVEP1、OSBPL10、HDLBP)、皮膚もしくは色素沈着表現型(LAMB3、TMEM132D、PTCH1、SLC36A1、KRT80、FANCA、DBNDD1)と関連する遺伝子の、以前には報告されていなかった兆候が特定され、ネアンデルタール人由来の多様体が、有益であろうとなかろうと、多くの現代人の表現型に影響を与えてきた、との見解(関連記事)がさらに裏づけられました。

 デニソワ人については、免疫関連(TNFAIP3、SAMSN1、ROBO2、PELI2)と代謝関連(DLEU1、WARS2、SUMF1)の遺伝子の兆候が複製されました。本論文では、自然免疫および獲得免疫の調節と関連する遺伝子(ARHGEF28、BANK1、CCR10、CD33、DCC、DDX60、EPHB2、EVI5、IGLON5、IRF4、JAK1、LRRC8C、LRRC8D、VSIG10L)における、14個の以前には報告されていない兆候が示されます。たとえば、細胞間相互作用を媒介し、免疫細胞を休止状態に保つCD33は、約3万塩基対の長さのハプロタイプを含み、オセアニア集団特有の非同義置換多様体(rs367689451-A、派生的アレル頻度は66%超)を含む、7個の高頻度の遺伝子移入された多様体を伴い、有害と予測されました。

 同様に、ウイルス感染に対するToll様受容体シグナル伝達とインターフェロン応答を調節するIRF4は、29000塩基対のハプロタイプを有しており、アイタ人では13個の高頻度多様体が含まれます(派生的アレル頻度は64%超)。これらの結果から、デニソワ人からの遺伝子移入が、病原体に対する耐性アレル(対立遺伝子)の貯蔵庫として機能することにより、現生人類の適応を促進した、と示唆されます。以下は本論文の図4です。
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●島嶼環境への遺伝的適応

 太平洋の人口集団における古典的一掃と多遺伝子性適応の兆候が調べられました。デニソワ人からの適応的遺伝子移入として識別されたTNFAIP3遺伝子(関連記事)を含む、全パプア人関連集団に共通する44個の一掃の兆候が見つかりました。最も強く的中したなかには、妊娠中に内因性プレグナノロンの抗痙攣作用を媒介するGABRPと、肥満度指数および高密度リポタンパク質コレステロールと関連するRANBP17が含まれます。最高得点は非同義置換を特定し、おそらくはGABRPの多様体(rs79997355)に損傷を与え、パプアニューギニア高地人とバヌアツ人では70%以上の頻度ですが、アジア東部および南東部人口集団では5%未満と低頻度です。人口集団特有の兆候の中で、栄養欠乏に対する細胞応答を調節し、血圧と関連するATG7は、ソロモン諸島人で高い選択得点を示しました。

 高いアジア東部祖先系統を有する人口集団間では、29個の共有される一掃兆候が特定されました。最高得点は、ALDH2など複数遺伝子を含む約100万塩基対のハプロタイプと重複します。ALDH2欠損は、アルコールに対する有害反応を起こし、日本人では生存率増加と関連しています。ALDH2の多様体rs3809276の頻度は、アジア東部人関連集団では60%以上、パプア人関連集団では15%未満です。脂質異常症および中性脂肪水準とデング熱に対する保護と関連するOSBPL10周辺で強い兆候が検出され、これはネアンデルタール人からの適応的遺伝子移入と明らかになりました。人口集団特有の兆候として、ポリネシア個体群におけるLHFPL2が含まれ、その変異は、鋭い視力に関わるひじょうに多様な特性である眼の網膜黄斑の厚さと関連しています。LHFPL2の多様体はポリネシア個体群では約80%に達しますが、データベースには存在せず、研究されていない人口集団におけるゲノム多様性を特徴づける必要性が強調されます。

 ほとんどの適応的形質は多遺伝子性と予測されるので、形質関連アレルの統合されたハプロタイプ得点を、一致する無作為の一塩基多型のそれと比較することにより、充分に研究された遺伝的構造を有する25個の複雑な形質(関連記事)の方向性選択が検証されました。対照としてヨーロッパの個体群に焦点当てると、以前の研究で報告されたように、より明るい肌や髪の色素沈着への多遺伝子性適応兆候が見つかりましたが、身長に関しては見つかりませんでした(図4b)。太平洋の人口集団では、ソロモン諸島人とバヌアツ人で、高密度リポタンパク質コレステロールのより低い水準の強い兆候が検出されました。


●人類史と健康への示唆

 オセアニアへの移住は、現生人類の島嶼環境への生息と適応の能力に関する問題を提起します。現生人類の変異率と世代間隔に関する現在の推定を用いると、ニアオセアニアの45000〜30000万年前頃の定住の後に、島嶼間の遺伝的孤立が急速に続くと明らかになり、更新世の航海は可能であったものの限定的だった、と示唆されます。さらに本論文では、アジア東部とオセアニアの人口集団間の遺伝的相互作用は、厳密な出台湾モデルで予測されていたよりも複雑だったかもしれない、と明らかになり、ラピタ文化出現後のニアオセアニアで少なくとも2回の異なる混合事象が起きた、と示唆されます。

 本論文の分析は、リモートオセアニアの定住への洞察も提供します。古代DNA研究では、パプア人関連の人々が、バヌアツへと最初の定住の直後に拡大し、在来のラピタ文化集団を置換した、と提案されています(関連記事1および関連記事2)。本論文では、現代のバヌアツ個体群におけるほとんどのアジア東部人関連祖先系統は、初期ラピタ文化定住者からよりもむしろ、混合されたニアオセアニア人口集団からの遺伝子流動の結果だった、と示唆されます。これらの結果は、ポリネシアからの「逆移住」の証拠と組み合わされて(関連記事1および関連記事2)、バヌアツにおける繰り返された人口集団の移動との想定を裏づけます。比較的限定された数のモデルの調査だったことを考慮すると、この地域の複雑な移住史の解明には、考古学と形態計測学と古ゲノム学の研究が必要です。

 本論文のデータセットにおける多様なデニソワ人から遺伝子移入されたゲノム領域の回収は、以前の研究(関連記事1および関連記事2)とともに、現生人類がさまざまなデニソワ人関連集団から複数の混合の波を受けた、と示します。第一に、アルタイ山脈デニソワ人と密接に関連するクレード(単系統群)に由来する、アジア東部固有の混合の波が21000年前頃に起きた、と推定されます。このクレードのハプロタイプの地理的分布から、その混合はおそらくアジア東部本土で起きた、と示されます。

 第二に、アルタイ山脈デニソワ人とは遺伝的に比較的と追い関係の別のクレードが、ニアオセアニア人口集団とアジア東部人口集団とフィリピンのアイタ人に、類似した長さのハプロタイプをもたらしました。本論文のモデルはニアオセアニアとアジア東部の人口集団の最近の共通起源を支持しないので、アジア東部人口集団はこれらの古代型断片を間接的に、アイタ人および/もしくはニアオセアニア人口集団の祖先的人口集団を経由して継承した、と提案されます。ニアオセアニア個体群の祖先への混合の波を仮定すると、この遺伝子移入はサフルランドへの移住の前となる46000年前頃に恐らくはアジア南東部で起きた、と推測されます。

 第三に、パプア人関連集団固有の別の混合の波は、アルタイ山脈デニソワ人とは遺伝的にもっと遠い関係にあるクレードに由来します。本論文では、この遺伝子移入は25000年前頃に起きたと推測され、スンダランドもしくはさらに東方で起きた、と示唆されます。ウォレス線の東方で見つかった絶滅ホモ属はホモ・フロレシエンシス(Homo floresiensis)(関連記事)とホモ・ルゾネンシスで、これらの系統がアルタイ山脈デニソワ人と関連していたか、デニソワ人と関連する人類もこの地域に存在していた、と示唆されます。

 アジア東部とパプアの人口集団で検出されたデニソワ人からの遺伝子移入の最近の年代から、絶滅ホモ属は25000〜21000年前頃まで生存していた可能性がある、と示唆されます。アイタ人における比較的高いデニソワ人関連祖先系統から、アイタ人の祖先が異なる独立した混合の波を経てきた、と示唆されます。まとめると、本論文の分析から、現生人類と絶滅ホモ属のひじょうに構造化された集団との間の交雑は、アジア太平洋地域では一般的現象だった、と示されます。

 本論文は、太平洋諸島住民の未記載の10万以上の頻度1%以上の遺伝的多様体を報告し、その一部は表現型の変異に影響を及ぼす、と予測されます。正の選択の候補多様体は、免疫と代謝に関連する遺伝子で観察され、太平洋諸島に特徴的な病原体および食資源への遺伝的適応を示唆します。これらの多様体の一部がデニソワ人から継承された、との知見は、現生人類への適応的変異の供給源としての絶滅ホモ属からの遺伝子移入の重要性を浮き彫りにします。

 高密度リポタンパク質コレステロールの水準と関連する多遺伝子性適応の兆候からは、脂質代謝における人口集団の違いがあり、この地域における最近の食性変化への対照的な反応を説明している可能性がある、と示唆されます。太平洋地域の大規模なゲノム研究は、過去の遺伝的適応と現在の疾患危険性との間の因果関係を理解し、研究されていない人口集団における医学的ゲノム研究の翻訳を促進するために必要です。以下は『ネイチャー』の日本語サイトからの引用です。


遺伝学:太平洋地域の人類集団の祖先を読み解く

 太平洋地域の人類集団史の詳細な分析について報告する論文が、今週、Nature に掲載される。今回のゲノム研究は、ヒトの進化、ヒト族の異種交配、そして島嶼環境での生活に応じて起こる適応に関して新たな知見をもたらした。

 太平洋地域は、パプアニューギニア、ビスマルク諸島、ソロモン諸島を含む「近オセアニア」と、ミクロネシア、サンタクルーズ、バヌアツ、ニューカレドニア、フィジー、ポリネシアを含む「遠オセアニア」に分けられる。人類は、アフリカから移動した後、約4万5000年前に近オセアニアに定住した。遠オセアニアに人類が定住したのは、それよりずっと後の約3200年前のことで、現在の台湾からの移住だった。

 この人類集団史をさらに探究するため、Lluis Quintana-Murci、Etienne Patinたちの研究チームは、太平洋地域に分布する20集団のいずれかに属する現代人317人のゲノムを解析した。その結果、近オセアニア集団の祖先の遺伝子プールが、この集団が太平洋地域に定住する前に縮小し、その後、約2万〜4万年前にこの集団が分岐したことが判明した。それからずっと後、現在の台湾から先住民族が到来した後に、近オセアニア集団の人々との混合が繰り返された。

 太平洋地域の集団に属する人々は、ネアンデルタール人とデニソワ人の両方のDNAを持っている。デニソワ人のDNAは複数回の混合によって獲得されたもので、これは、現生人類と古代ヒト族との混合が、アジア太平洋地域で一般的な現象だったことを示している。ネアンデルタール人の遺伝子は、免疫系、神経発生、代謝、皮膚色素沈着に関連した機能を備えているが、デニソワ人のDNAは主に免疫機能と関連している。そのため、デニソワ人のDNAは、太平洋地域に初めて定住した者が、その地域で蔓延していた病原体と闘うために役立つ遺伝子の供給源となり、島嶼環境の新たな居住地に適応するために役立った可能性がある。


参考文献:
Choin J. et al.(2021): Genomic insights into population history and biological adaptation in Oceania. Nature, 592, 7855, 583–589.
https://doi.org/10.1038/s41586-021-03236-5

https://sicambre.at.webry.info/202105/article_3.html

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