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アメリカ先住民の起源
http://www.asyura2.com/20/reki5/msg/353.html
投稿者 中川隆 日時 2020 年 11 月 02 日 10:50:11: 3bF/xW6Ehzs4I koaQ7Jey
 

アメリカ先住民の起源


2020年10月26日
クローヴィス文化の年代
https://sicambre.at.webry.info/202010/article_34.html

 クローヴィス(Clovis)文化の年代に関する研究(Waters et al., 2020)が報道されました。本論文はクローヴィス文化の各遺跡の信頼性が高い年代を提示していてたいへん意義深く、今後の研究で長く参照されるでしょう。長い間、アメリカ大陸における最古の文化はクローヴィスで、クローヴィス文化からその後の南北アメリカ大陸の技術が派生した、と考えられてきました(クローヴィス最古説)。クローヴィス文化は、両面石器や披針形縦溝彫り尖頭器(lanceolate fluted projectile point)や石刃石核や石刃や骨器により特徴づけられます。しかし、クローヴィス文化以前の文化が南北アメリカ大陸で見つかったため、クローヴィス最古説は今では否定されています(関連記事)。

 しかし、クローヴィス文化の年代測定は、クローヴィス文化集団と後期更新世のアメリカ大陸における人類の移動および大型動物の絶滅との関わりの解明に重要です。2007年に、クローヴィス文化は13000前頃(以下、基本的に放射性炭素年代測定法による較正年代)からわずか200年しか続かなかったかもしれない、との研究が公表され(関連記事)、議論となりました。その後の諸研究ではクローヴィス文化の年代について、たとえば13390年前頃と推定されるなど(関連記事)、始まりが繰り上がる傾向にあります。また一部の研究では、クローヴィス文化の期間が1500年以上の可能性も指摘され、そうならばクローヴィス文化が14000年以上前に出現した可能性も考えられます。

 本論文は、放射性炭素年代測定法の新たな較正曲線IntCal20(関連記事)を用いて、クローヴィス文化の諸遺跡の新たな年代を提示します。「信頼できる」標本は、地質学的に攪乱されていな状態で発見された骨・象牙・歯・枝角・木と炭と定義されました。堆積物や土壌(攪乱があるため)・貝殻(現代の地下水の影響や海洋リザーバー効果のため)・炭化有機物(標本分類の困難さや地下水の影響のため)は、短い間隔の放射性炭素年代測定には適さない、と本論文は指摘します。クローヴィス文化の正確な年代測定にはまず、遺跡がクローヴィス文化なのか、判断する必要があり、その指標はクローヴィス尖頭器とされました。信頼できる放射性炭素年代測定結果が得られたクローヴィス文化遺跡は以下の通りで、図1の赤丸となります(曖昧な年代の遺跡は青三角)。遺跡の()数字は図1と対応します。以下、本論文の図1です。

画像
https://advances.sciencemag.org/content/advances/6/43/eaaz0455/F1.large.jpg


●サウスダコタ州ランゲ・ファーガソン(Lange-Ferguson)遺跡(5)
 13095〜12990年前

●コロラド州デント(Dent)遺跡(9)
 12970〜12845年前

●オクラホマ州ドメボ(Domebo)遺跡(7)
 12905〜12820年前

●ペンシルベニア州ショーニー・ミニシンク(Shawnee-Minisink)遺跡(6)
 12885〜12770年前

●オハイオ州シェリデン洞窟(Sheriden Cave)遺跡(4)
 12830〜12770年前

●ワイオミング州ラプレレ(La Prele)遺跡(10)
 12915〜12835年前

●ワイオミング州コルビー(Colby)遺跡(3)
 12820〜12800年前

●オクラホマ州ジェイクブラフ(Jake Bluff)遺跡(1)
 12755〜12745年前

●モンタナ州アンジック(Anzick)遺跡(8)
 12905〜12840年前。以前の研究では、埋葬された男児(Anzick-1)と骨角器の年代が12900〜12725年前頃と推定されていました(関連記事)。この男児のDNAも解析されています(関連記事)。

●バージニア州サボテン丘(Cactus Hill)遺跡(2)
 12820〜12745年前。サボテン丘遺跡では、クローヴィス文化以前の人類の痕跡(20585〜18970年前頃)の可能性が指摘されています(関連記事)。


 これら10遺跡が、クローヴィス文化の信頼できる年代となります。これらの年代から、クローヴィス文化はアレレード(Allerød)期末の13050年前頃に最初に出現した、と示唆されます。テキサス州のオーブリー(Aubrey)遺跡とメキシコのエルフィンデルムンド(El Fin del Mundo)遺跡の年代からは、クローヴィス文化が13400〜13300年前に出現したと示唆されますが、地質学的および生物地球化学的問題のために、その年代は曖昧です。

 13050年前という最初のクローヴィス文化遺跡の年代は、北アメリカ大陸西部および南アメリカ大陸における非クローヴィス文化石器複合と同年代です。アメリカ合衆国山間西部では、基底部有茎を伴う披針形尖頭器により特徴づけられる西部有茎伝統が少なくとも、オレゴン州ペイズリー洞窟群(Paisley Caves)で13000年前(関連記事)、アイダホ州クーパーズフェリー(Cooper’s Ferry)遺跡で13400年前(関連記事)にさかのぼります。南アメリカ大陸の南回帰線以南では、特徴的な有茎魚尾尖頭器の年代が12900年前となります。これらのデータは、更新世末にアメリカ大陸では少なくとも三つの同年代の石器複合が存在し、クローヴィス文化はその一つだった、という証拠となります。オーブリー遺跡やエルフィンデルムンド遺跡で示唆されるように、クローヴィス文化が13400年前頃に始まったとしても、クローヴィス文化は北アメリカ大陸の有茎尖頭器と同年代となります。

 クローヴィス技術の起源は依然として明ですが、証拠からは、クローヴィス文化きょくたんな気候と生物の変化期に北アメリカ大陸の氷床の南で発達した、と示唆されます。現在の遺伝的モデルからは、後期更新世にアメリカ大陸へと単一の早期の移住があった、と示唆されます。多くの遺跡の考古学的証拠からは、16000〜15000年前頃までにアメリカ大陸には人類が存在した、と示唆されます。これは、クローヴィス文化の起源が、北アメリカ大陸における最初の遺跡群の両面石器や石刃や骨器技術にあることを示唆します。

 クローヴィス文化は12750年前頃に突然終了します。これは年代的にヤンガードライアスの寒冷事象と、古生物学的にゾウ目の絶滅と一致します。考古学的には、クローヴィス文化は、アメリカ合衆国の大平原のフォルサム(Folsom)技術および東部の縦溝彫り尖頭器伝統の出現直前に消滅します。対照的に、アメリカ合衆国西部での有茎尖頭器の製作は、クローヴィス文化終焉後も継続します。クローヴィス文化の起源とその広がりについて調べるには、さらに多くの遺跡での、厳格な基準の年代測定が必要です。


参考文献:
Waters MR, Stafford TW, and Carlson DL.(2020): The age of Clovis—13,050 to 12,750 cal yr B.P.. Science Advances, 6, 43, eaaz0455.
https://doi.org/10.1126/sciadv.aaz0455

https://sicambre.at.webry.info/202010/article_34.html  

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コメント
1. 中川隆[-8891] koaQ7Jey 2020年12月27日 10:56:31 : FRaqZnrJmP : eVhnV01CT2dEcWc=[11] 報告
2020年12月27日
先コロンブス期カリブ海における2回の大きな人類集団の移動
https://sicambre.at.webry.info/202012/article_34.html


 先コロンブス期カリブ海における2回の大きな人類集団の移動に関する研究(Fernandes et al., 2020)が報道されました。この研究はオンライン版での先行公開となります。ヨーロッパ勢力による植民地化より前(先コロンブス期)には、カリブ海は考古学的に異なる共同体のモザイク状でした。これらの共同体は、相互作用のネットワークにより接続されており、それはキューバやイスパニョーラ島やプエルトリコにおける6000年前頃となる最初の人類の定住以降のことでした。

 先コロンブス期のカリブ海の時代は考古学的に3区分されており、物質文化複合体の変化を示します。石器時代と「古代(以下、カリブ海の考古学的時代区分を指す場合は「」で括ります)」は異なる石器技術により定義され、2500〜2300年前頃に始まった土器時代は、農業経済と集約的な土器製作を特徴としていました。これらの時代にまたがる物質文化における技術と様式の変化は、接続されたカリブ海の人々による地域的発展と、アメリカ大陸からの移住を反映していますが、その地理的起源や経路や移住の波の回数に関しては、議論が続いています。

 この研究は、195人の古代個体群から174人のゲノム規模データを生成しました。45の新たな放射性炭素年代に基づいて、バハマとイスパニョーラ島とプエルトリコとキュラソーとベネズエラのこれらの個体群は、較正年代で3100〜400年前頃と推定されました。これらの個体群の標的領域の平均網羅率は2.2倍で、一塩基多型の数の中央値は700689個(20063〜977658個の範囲)です。この新たに生成されたデータは、既知の89人の個体群(関連記事)とともに分析されました。

 以下、集約的な土器使用より前の、石器を伴うか放射性炭素年代が得られている遺跡を「古代(Archaic)」、土器が優勢な時代を「土器時代(Ceramic)」と表記します。本論文では、遺伝的系統を表す場合は「-related」、考古学的帰属を表す場合は「-associated」と表記されていますが、私の見識では上手く使い分ける名案が思い浮かばなかったので、以下の記事ではともに「関連」と表記します。なお、本論文では、研究にさいしての先住民との合意が示されており、今後の古代DNA研究ではこうした倫理面への配慮が必須になるでしょう。以下、古代の各標本の場所と遺伝的構造を示した本論文の図1です。

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https://media.springernature.com/full/springer-static/image/art%3A10.1038%2Fs41586-020-03053-2/MediaObjects/41586_2020_3053_Fig1_HTML.png


●先コロンブス期カリブ海の遺伝的構造

 主成分分析が実行され、現代のアメリカ大陸先住民のゲノムデータを用いて古代の個体群が投影されました(拡張図1b)。土器時代と「古代」の個体群は別々のクラスタで投影されますが、古代のベネズエラ個体群は、カベカル(Cabécar)語のような現代のチブチャ語(Chibchan)話者と関連しています(拡張図1b・c)。キュラソーとハイチの個体群は、ほとんどが土器時代関連クラスタと重なっています。遺跡内の遺伝的均質性の例外は、ドミニカ共和国のおもに土器時代と関連した遺跡であるアンドレス(Andrés)で、そのうち1個体(I10126)は、年代(以下、基本的に較正年代です)が3140〜2950年前頃となる「古代」ですが、遺伝的には他の「古代」関連個体群と類似しています(拡張図1b・c)。その後の分析から、低網羅率(0.05倍未満)で、他の「古代」関連個体群と質的に類似している1900年前頃となるドミニカ共和国のロジャ洞窟(Cueva Roja)の「古代」関連3個体と、1親等の3組から1個体が除外されました。

 考古学的分類とは独立した遺伝的構造を研究するため、アレル(対立遺伝子)共有、および主要な「クレード(単系統群)」と次に「下位クレード」に基づいて解像度を上げる個体群が集団化されました。遺伝学を用いて定義された集団は星印(*)で示されます。これらの遺伝的集団の命名法は、クラスタの遺跡と時代区分(「古代」および土器時代)を含む地理的位置を組み合わせたものです。

 その結果、有意に分化した主要な3クレードが識別されました(図1bおよび図2)。大アンティル諸島「古代」クレード(*GreaterAntilles_Archaic、以下では*GAA)は、3200〜700年前頃となるキューバの50個体と、アンドレス遺跡の1個体(I10126)を含みます。カリブ海土器時代クレード(*Caribbean_Ceramic、以下では*CC)は、1700〜400年前頃となる土器時代関連遺跡の194個体を含みます。ベネズエラ土器時代クレード(*Venezuela_Ceramic、以下では*VC)は、2350年前頃の8個体で構成されます。2個体のハイチ土器時代クレード(*Haiti_Ceramic、以下では*HC)と5個体のキュラソー土器時代クレード(*Curacao_Ceramic、以下では*CurC)は、主要なクレードの混合として適合します。

 次に、これらクレード内の下位クレードと下位構造が特定されました。*CC内では、ドミニカ共和国南東部沿岸土器時代クレード(*SECoastDR_Ceramic、以下では*SECDRC)が、沿岸50kmの4遺跡から構成されます。この4遺跡は、西から東へ、ラカレタ(La Caleta)、アンドレス、ジュアンドリオ(Juan Dolio)、エルソコ(El Soco)となります。これらの遺跡は1400年間居住されており、土器様式の変化にまたがる遺伝的連続性を記録します。バハマとキューバの約700年にわたる全ての土器時代関連遺跡は、バハマ・キューバ土器時代(*BahamasCuba_ Ceramic、以下では*BCC)として集団化され、さらなる下位構造がそれぞれ、バハマ諸島の遺跡5ヶ所とキューバの遺跡2ヶ所に存在します。小アンティル諸島の遺跡2ヶ所は、小アンティル諸島土器時代(*LesserAntilles_Ceramic、以下では*LAC)として、残りの*CC遺跡は大アンティル諸島東部土器時代(*EasternGreaterAntilles_Ceramic、以下では*EGAC)として集団化されます。遺伝的違いの値が低い場合(Pairwise FST<0.01)は、*CC下位クレード内での顕著な均質性が示唆され(土器時代関連クレードと「古代」関連クレードとの間ではFST=0.1)、島々の間の高い移住率を反映しています。

 各下位クレード内における他と比較しての「古代」関連系統の過剰を有する*CC個体群を特定するため、f4統計が用いられました。ラカレタ遺跡の1個体(I16539)と、*HCを構成する2個体は、土器時代関連および古代関連の混合の有意な証拠を示します。以前の見解(関連記事)とは対照的に、プエルトリコのパスコデルインディオ(Paso del Indio)遺跡の1個体(PDI009)では有意な「古代」関連系統は検出されませんでした。以下、本論文の拡張図1です。

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https://media.springernature.com/full/springer-static/esm/art%3A10.1038%2Fs41586-020-03053-2/MediaObjects/41586_2020_3053_Fig4_ESM.jpg


●「古代」関連のカリブ海の人々

 *GAAクレードは、アラワク語(Arawak)、カリブ語(Cariban)、チブチャ語(Chibchan)、チョコアン語(Chocoan)、グオジバン語(Guajiboan)、マタコ・グァイクルー語(Mataco–Guaicuru)、トゥピ語(Tupian)という7語族に区分される、中央アメリカおよび南アメリカ大陸北部の先住民と最も遺伝的浮動を共有します(図2a)。他の語族と比較しての、1語族の人々との過剰なアレル共有の証拠、もしくはメソアメリカあるいは北アメリカの現代人集団と特に共有される遺伝的浮動の証拠はありません。キューバの「古代」関連個体群は、ドミニカ共和国のアンドレス遺跡の1個体(I10126)とよりも、相互に多くのアレルを共有しており、これは「古代」関連下位構造を示します(図2a・b)。一部の分析では、この1個体(I10126)はドミニカ共和国アンドレス「古代」(*Dominican_Andres_ Archaic、以下では*DAA)として分離されます。

 北アメリカ大陸の個体群との類似性を有する人々による移住も、カリブ海の「古代」の一部個体群に影響を及ぼした、との以前の主張(関連記事)は再現できませんでした。この主張は、2700〜2500年前頃となるキューバのグアヤボブランコ(Guayabo Blanco)遺跡の1個体(GUY002)と比較しての、4900年前頃となるカリフォルニア州チャンネル諸島の前期サンニコラス(Early San Nicolas)の個体群と、キューバのペリコ洞窟(Cueva del Perico)遺跡の1個体(CIP009)との間の類似性に基づいていました。

 まず、対称性検証f4(GUY002、CIP009、前期サンニコラス、バハマのタイノ人)では、偏差は有意ではありませんでした。第二に、この主張の根底にある重要な統計は、CIP009とグアヤボブランコ遺跡の3個体を含むqpWaveに基づく対称性検証に基づいていましたが、検証された標本ペアの数を補正した後には有意ではありませんでした。第三に、f4(外群、CIP009、前期サンニコラス、バハマのタイノ人)では、以前には負の値がCIP009と前期サンニコラスとの間の類似性として解釈されました。有意ではない統計も再現されましたが、外群としてムブティ人を多様なユーラシア個体群、もしくはこの研究で新たに生成された古代ゲノムデータを有するバハマのタイノ人(Taino)に置換すると正の値になりましたが、本来ならば質的に類似した結果が得られるはずです。第四に、南アメリカ大陸の古代ゲノムデータを前期サンニコラスの場所に置くと、CIP009への吸引の有意ではないZ得点は同じくらい強く、北アメリカ大陸固有の関係の証拠はない、と示されます。第五に、CIP009は、他の「古代」関連個体群と同じ結節点上の本論文のqpGraph系統樹の簡略版に最適です。したがって、アレル共有手法の解決の限界まで、全ての「古代」関連カリブ海系統は単一起源からの派生と一致します。

 qpGraphにおいて*GAAは、最古のカリブ海とベリーズとブラジルとアルゼンチンの集団と初期に分岐した系統として適合します(図2c)。混合事象を示す最尤系統樹では、*GAAは分岐するアメリカ大陸先住民集団として適合します(拡張図3)。qpAdmもしくはf4統計を用いると、大陸部集団との特定の類似性のさらなる証拠は得られませんでした。土器使用者の到来は、カリブ海のほとんどにおいて「古代」関連系統を置換しました。例外はキューバ西部で、「古代」関連系統が最小限の混合で2500年存続し、この地域は別の言語および文化的伝統を有する人々がヨーロッパ人との接触の時期まで存在した、という考古学的および歴史学的説明と整合的です。以下、本論文の図2です。

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●土器使用者の拡大

 以前の分析では、*CC(カリブ海土器時代クレード)関連の人々は、南アメリカ大陸北東部のアラワク語話者との遺伝的類似性を有する、と示されています(関連記事)。本論文の対称性f4統計では、この結論を裏づけられません。カリブ語もしくはトゥピ語話者集団よりもアラワク語話者とのより密接な関連性の有意な証拠は示されません。しかし、ADMIXTURE分析が示唆するのは、*CCの下位クレードはほぼ完全に、現代アラワク語話者では最高の割合で見つかる成分で構成されている、ということです。また、混合事象を示す最尤系統樹におけるアラワク語話者のつながりへの裏づけも見つかり、これにより全ての*CCの下位クレードはアラワク語話者のピアポコ人(Piapoco)やパリクール人(Palikur)と同じ枝に配置されます(拡張図3)。さらなる証拠は、qpAdmにおける*CCの単一起源として、ピアポコ人との適合の成功から得られます(図2c)。

 *LAC(小アンティル諸島土器時代クレード)と*DAA(ドミニカ共和国アンドレス「古代」クレード)の混合としてqpAdmで*モデル化すると、大アンティル諸島とバハマ諸島の土器時代関連の人々における「古代」関連系統は約0.5〜2.0%と推定されます。*CCの下位クレードのいずれかに*LACが由来する、という逆モデルは却下され、「古代」関連の人々が参照セットに含まれると失敗します。これらの観察の最も簡素な説明は、土器を使用していた祖先の南から北に向けてのカリブ海への移動というシナリオです。このシナリオでは、1000〜650年前頃の小アンティル諸島の個体群(おそらくは小アンティル諸島の最初の土器使用者の子孫)と類似した系統が、大アンティル諸島とバハマ諸島に拡大して先住の人々を置換し、先住の人々の系統は2.0%以下しか残らなかった、と想定されます。

 イスパニョーラ島の土器時代関連遺跡2ヶ所の3個体のみが、有意な「古代」関連混合を有する、と明らかになりました。qpAdmを用いたこの3個体の「古代」関連系統の割合は、ドミニカ共和国のラカレタ遺跡の1個体(I16539)で11.8±1.9%(ラカレタ遺跡の個体I16539)、ディエイル1(Diale 1)遺跡とハイチの各1個体で18.5±2.1%です。DATESソフトウェアを用いると、ハイチのこれら3個体の16±3世代前(約350〜500年前)に混合が起きた、と推定されます。

 ADMIXTUREおよびf統計におけるチブチャ語話者と*VC(ベネズエラ土器時代クレード)の類似性はqpAdmで確認され、*VCはカベカル語話者とのクレードとして適合します。したがって、ラスロカス(Las Locas)遺跡は、土器時代開始の頃に近い、土器関連文化とその担い手の拡大の仮定された起源地域に位置しますが、本論文の分析は、この拡大はより東方に起源がある、という証拠の重みを増加させます。キュラソーの土器使用者は、*LAC関連系統74.5±3.7%と、*VC関連系統25.5±3.7%の混合としてモデル化されます。このモデル化から、キュラソーの土器時代集団は2集団の混合に由来する、と示唆されます。一方は、土器時代の始まりにカリブ海のアンティル諸島へと拡大した集団と関連しており、もう一方はラスロカスのような遺跡をキュラソーへとつなぐダバジュロイド(Dabajuroid)土器様式と関連しています。

 頭蓋形態の研究では、1150年前頃となるベネズエラ西部からのカリブ人の移住の可能性を示唆しますが(関連記事)、そうした事象で予測されるような、この時の新たな系統の証拠はみつかりません。*VCや*LACやカリブ人の代理としての現代カリブ語話者アララ人(Arara)を用いてのシミュレーションでは、そのような集団からのわずか2〜8%の系統を検出できます。遺伝的データは別々の移住の証拠を示しませんが、シミュレーションに用いた代理よりも*CC関連の人々と遺伝的に類似するか、もしくは2%未満しか系統を寄与していないような、標本抽出されていない大陸部集団からの移住の可能性は除外できません。以下、本論文の拡張図3です。

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https://media.springernature.com/full/springer-static/esm/art%3A10.1038%2Fs41586-020-03053-2/MediaObjects/41586_2020_3053_Fig6_ESM.jpg


●社会的構造と集団規模の推定

 4cM(センチモルガン)を超えるホモ接合連続領域(ROH;両親からそれぞれ受け継いだと考えられる同じ対立遺伝子のそろった状態が連続するゲノム領域)を含む、40万以上の一塩基多型を有する本論文の共分析データセットから、202個体が検査されました。20 cM以上の長いROHが多いことは、過去数世代内の親の関連性を示唆しますが、短いROHの兆候が豊富なことは、遠い親族の関連性と制約された配偶プールを示唆します。202個体のうち2個体のみが、20 cM以上のROH領域において、 100 cM以上を有しており(約135 cMがイトコの子供の平均です)、これは近親交配が稀であることを示唆します。対照的に、48個体が少なくとも1ヶ所の20 cM以上ROHを有しており、多くの配偶がマタイトコもしくはミイトコのような近親関係の個体間で起きたことと、限定的な地域の人口規模を示唆します。

 小さな人口規模のさらなる証拠として、カリブ海全域の豊富な短〜中規模のROHが検出されました。ほぼ過去50世代以内の共有系統から生じる、4〜20 cMの全てのROHの長さ分布を用いて、有効人口規模(Ne)が推定されました。Neの推定は、じっさいの人口規模の推定に用いることができ、ヒトでは通常3倍で、最大で10倍です。土器時代と関連するカリブ海の遺跡のNe値(以前の推定値と類似した約500〜1000)は、「古代」関連遺跡のNe値(約200〜300)より大きく、農耕発展に伴う人口密度の増加を示します。これは、「古代」関連集団よりも土器時代関連集団の方で、ヘテロ接合性が高いことにも反映されています。

 ROH兆候からのNeの推定は、それが相互接続された遺伝子プールというよりもむしろ、遺跡の住民の限られた遺伝子プールを表しているので、カリブ海全域のNeの下限を表しています。したがって、男性の組み合わせのX染色体間の長い共有された断片、つまり同祖対立遺伝子(identity-by-descent、略してIBD。かつて共通祖先を有していた2個体のDNAの一部が同一であることを示し、IBD領域の長さは2個体が共通祖先を有していた期間に依存し、たとえばキョウダイよりもハトコの方が短くなります)領域も分析されました。およそ過去20世代以内の過去から共有された遺伝子プールの規模を反映する、12〜20cMの長いIBDの共有された断片に焦点を当てると、人々がより近くの人々とより多くの遺伝子を交換した場合に予想されるように、そのような断片の割合は地理的距離とともに減少する、と明らかになりました。

 しかし、島嶼部全域で少なくとも8.7 cMの断片を共有する個体群19組が依然として検出され、これは、検証対象となったカリブ海全域の人々がその数百年前に祖先を共有していた、と明らかにします。イスパニョーラ島とプエルトリコの2つの主要なクレード間の比較から、3082という推定Ne(95%信頼区間で1530〜8150)が得られます。これは、限られた移住により遺跡間での遠い親戚とIBD共有の割合が減少するので、共有されるイスパニョーラ島とプエルトリコの共同集団の最近の有効規模の上限を提供します。Neの推定を3〜10倍すると、じっさいの人口規模が得られるので、先コロンブス期の人口規模は数十万もしくは百万という、古い報告もしくはあまり文書化されていない人口調査に基づく以前の推定は多すぎる、と推測されます。

 3〜4親等程度の、密接に関連する57組の個体群も検出されました。そのほとんどはラカレタ遺跡で発見され、ラカレタ遺跡では63個体のうち37個体に1人もしくは数人の親族がいましたが、検証された組み合わせごとの割合は、他の遺跡内よりも有意に大きいわけではなく、95%信頼区間で、ラカレタ遺跡では1.5〜2.8%なのに対して、他の遺跡では1.4〜4.6%でした。相互に接続する集団のさらなる証拠として、ドミニカ共和国南部で約75km離れて埋葬された男性親族が特定されました。それは、アタジャディゾ(Atajadizo)遺跡の父子の組み合わせと、ラカレタ遺跡で発見されたその2〜3親等の親族でした。


●現代人集団における先コロンブス期の系統と古代の母系および父系

 F4(ヨーロッパ人、検証集団、キューバ「古代」人、*CC)の計算により、現代と古代のカリブ海の人々で見られる在来系統間の遺伝的類似性が検証され、プエルトリコの個体群と土器時代関連個体群との間の関連性の兆候が得られました。この結果は、完全に土器時代関連系統ではあるものの、完全には「古代」関連系統ではないことと一致します。同じ検証をキューバの15州で個別に実行し、土器時代関連系統の弱い有意な証拠を有する2州および8自治体と、「古代」関連系統のわずかに有意な証拠を有するキューバ西部のグイネス(Guines)という1自治体が明らかになりました。したがって、入手可能な古代のデータは、過去1000年にわたってキューバの一部で混合されていない「古代」関連系統の持続を示しますが、現代までに土器時代関連系統と大いに混合されていました。

 以前の報告では、父系・母系での単系統遺伝となるハプログループでは、現代のカリブ海の人々における先コロンブス期の在来系統が報告されてきました。これらの報告に基づいて、以前には報告されていなかった、ミトコンドリアDNA(mtDNA)ハプログループ(mtHg)の深い分岐となるC1dが特定されました。mtHg-C1dはカリブ海の土器時代関連下位クレード全体と、プエルトリコの現代人では約7%の頻度で存在します。これは、先住民の母方系統がカリブ海で先コロンブス期から持続してきており、アメリカ大陸からの植民地期の移動により説明できない、という直接的証拠を提供します。

 カリブ海の古代人の主要なmtHgはA2・B2・C1・D1です。「古代」関連個体群ではmtHg-D1の頻度が高く、土器時代の個体群ではより多様になる傾向があります。「古代」関連系統と土器時代関連系統との混合と推測される*HC(ハイチ土器時代クラスタ)の2個体はいずれもmtHg-D1で、同じく混合と推測される*CurC(キュラソー土器時代クラスタ)でもmtHg-D1の個体が確認されているので、mtHg-D1は「古代」関連系統個体群に由来するかもしれません。

 一方、Y染色体ハプログループ(YHg)では、本論文で新たに報告された96個体のうち87個体がYHg-Q1b1a1a(M3)で、そのうち57個体はさらにQ1b1a1a1に区分されています。*BCC(バハマ・キューバ土器時代クレード)個体群のうち2個体はYHg-Q1b1a2(M971)で、そのうち1個体はアメリカ合衆国モンタナ州西部のアンジック(Anzick)遺跡で発見された男児(関連記事)と同じ派生的変異を有します。アンジック関連系統はカリブ海にも拡散したわけです。YHg-Q1b1a2はキューバでも3個体で確認されていますが、いずれも時代区分は「古代」です。


●まとめ

 本論文は、先コロンブス期カリブ海の人々に関する複数の議論に取り組んでいます。まず、「古代」に大アンティル諸島に存在した系統は単一起源の由来と一致し、2500年に及ぶ「古代」関連系統個体群間の違いはわずかなだけです。「古代」関連系統の人々の起源集団が中央アメリカなのか南アメリカなのか、本論文では区別できませんが、北アメリカ起源の可能性は低い、と明らかになりました。ただ、北アメリカの比較遺伝データは不足しています。

 第二に、本論文のデータは、カリブ海における集約的な土器使用の導入と拡大を伴う移動と一致します。土器時代関連個体群は、現代のアラワク語話者との遺伝的類似性を示し、これは南アメリカ大陸北東部起源を説く考古学および言語学の証拠と一致します。アラワク語話者集団は、南アメリカ大陸アマゾン地域から北東へ移住した時(一部集団はさらにオリノコ川沿いに移動してアンティル諸島に達し、他の集団はベネズエラ西部海岸へと移動しました)に分岐した、という仮説と一致して、キュラソーの個体群は*LAC(小アンティル諸島土器時代クレード)の系統と関連する系統を有します。カリブ海で最初の土器時代遺跡はプエルトリコと小アンティル諸島北部に存在し、小アンティル諸島のウィンドワード諸島(Windward Islands)は1800年前頃までに定住された、という考古学的証拠はありませんが、大アンティル諸島ではなく、キュラソーと小アンティル諸島の個体群間の一部系統の共有は、カリブ海への南から北への経路を裏づけます。

 第三に、*CC(カリブ海土器時代)下位クレードと、サラドイド(Saladoid)期・オスティノイド期(Ostionoid)・メイラコイド(Meillacoid)期・チコイド(Chicoid)期といった伝統的なカリブ海の土器類型論との間の関連は見つからず、これらの土器様式伝統は新たな人々の大きな移動の結果だった、とする文化史モデルは支持されません。代わりに、ドミニカ共和国南東部沿岸などの地域における系統構成は、物質文化の様式変化にまたがって千年以上続きます。カリブ海の人々と遺伝的に類似したアメリカ大陸の集団の移住が文化的変化の一部を引き起こした可能性は除外できませんが、本論文の知見は、カリブ海内の土器使用集団間の接続が様式移行を触媒した、という証拠の重みを高めます。

 第四に、イスパニョーラ島の3個体において、「古代」関連系統と土器時代関連系統との間の混合の最初の証拠を提供します。またこの発見は、カリブ海における「古代」関連系統と土器時代関連系統との間の混合がひじょうに稀だった(本論文ではカリブ海の土器を使用する201個体のうち3個体のみ)、という以前の推論(関連記事)を確認します。

 第五に、カリブ海の一部、とくにプエルトリコとキューバの現代人は先コロンブス期在来系統を有する、と確認されました。キューバでは、「古代」関連系統がほぼヨーロッパ人勢力との接触まで持続しましたが、キューバの在来系統は現在、ほぼこの系統に由来しません。これは、先住民の植民地後の移動を反映しているかもしれませんが、その少なくとも一部は、土器時代関連系統が500年前頃のキューバ西部および中央部の個体群に存在するように、先コロンブス期の事象を反映しています。

 第六に、本論文のデータは社会構造と人口統計への洞察を提供します。本論文はROHの分析により、「古代」および土器時代の両方で親族間の配偶回避を報告し、カリブ海の大半で蓄積されたROHの大きな割合を検出しますが、これは小さな集団規模を反映します。本論文では、75km離れて埋葬された男性親族が特定され、これは別の実態として分析された遺跡間の接続ネットワークを示唆します。接続のさらなる証拠として、島嶼部全域で共有されるハプロタイプが観察されました。それは、イスパニョーラ島とプエルトリコの大きな島々の全域において、3082という推定Ne(95%信頼区間で1530〜8150)で予想される値です。これらの推定は、分析された個体群のおよそ過去20世代を表していますが、これらの大きな島々全域のじっさいの人口が、ヨーロッパ人との接触が始まった時期には数十万から百万だった、という一部の文献で示唆されている規模よりはかなり少なかったことを示唆します。本論文の人口規模推定は、歴史的記録や人口計算よりずっと小さく、せいぜい数万人程度と推定されますが、ヨーロッパ人による植民地化と先住民の搾取と体系的殺害がカリブ海集団に与えた破壊的影響は明白です。

 先コロンブス期のカリブ海の人々の系統と遺産は現在まで続いており、古代DNA研究はこれをよりよく理解するのに役立ちます。現代のカリブ海の人々は、さまざまな割合で遺伝的系統の混合を有しています。それはおもに、先コロンブス期先住民集団系統(本論文のqpAdmによる推定では、キューバでは平均約4%、ドミニカ共和国では約6%、プエルトリコでは約14%)と、コロンブス期に移住してきたヨーロッパ個体群系統(キューバでは約70%、ドミニカ共和国では約56%、プエルトリコでは約68%)と、カリブ海に大西洋奴隷貿易で連行されたアフリカ個体群系統(キューバでは約26%、ドミニカ共和国では約38%、プエルトリコでは約18%)です。これら3集団は全て、カリブ海の現代人に遺伝的に寄与し、相互接続されたカリブ海世界の遺産を形成し続けています。以下は『ネイチャー』の日本語サイトからの引用です。


遺伝学:カリブ海沿岸地域の人類集団史には2つの大きな移動の波があった

 ヨーロッパ人が到来する前のカリブ海沿岸地域での人類の定住は、2つの大きな移動の波によるものだったことを報告する論文が、今週、Nature に掲載される。今回の研究では、古代カリブ海沿岸地域の人類集団史の詳細な分析が行われ、こうした先住民の子孫がカリブ海沿岸地域に現存していることが明らかになった。

 カリブ海沿岸地域に人類が初めて定住してからヨーロッパ人の到来(今から約500年前)までの間のカリブ海沿岸地域の人類集団史に関して、解明されていることは比較的少ない。今回、David Reichたちの研究グループは、約3000年前〜400年前にカリブ海沿岸地域に住んでいた174人の古代人のゲノムを分析し、このデータや他の公開データを用いて、古代人の集団のサイズや移動を調べた。この地域には、約3000年前までに、中米または南米北部の人々が定住し、石器技術をもたらした。その後、この集団の大部分は、移民の第2波に遺伝的に取って代わられた。移民の第2波は、南米北東部から小アンティル諸島を経由して大アンティル諸島に渡り、少なくとも1700年前にカリブ海沿岸地域に到来した。この第2波により定住した人々は、陶磁器の使用と農業経済を特徴とする独自の文化をもたらした。

 以前の研究では、ヨーロッパ人による植民地化が始まるまでのカリブ海沿岸地域に数十万人から数百万人が居住していたと推定されていたが、今回の研究では、全体の集団サイズははるかに小さく、数万人だったことが示唆された。こうした先住民の遺産は存続しており、カリブ海沿岸の一部の地域の住民は、ヨーロッパ人が到来する前の先住民に由来する遺伝子塩基配列を持っているだけでなく、ヨーロッパ系移民と大西洋横断奴隷貿易が行われていた時にカリブ海沿岸地域に連れてこられたアフリカ人から受け継いだDNAも保有している。


参考文献:
Fernandes DM. et al.(2021): A genetic history of the pre-contact Caribbean. Nature.
https://doi.org/10.1038/s41586-020-03053-2

https://sicambre.at.webry.info/202012/article_34.html

2. 中川隆[-6117] koaQ7Jey 2021年4月02日 06:30:36 : Ft8UfP6Ll6 : dnpvazRXendDazY=[20] 報告
雑記帳 2021年04月02日
南アメリカ大陸先住民におけるオーストラレシア人との遺伝的類似性
https://sicambre.at.webry.info/202104/article_2.html


 南アメリカ大陸先住民におけるオーストラレシア人との遺伝的類似性に関する研究(Castro e Silva et al., 2021)が公表されました。南アメリカ大陸の現代および古代の先住民と、アジア南部の現代の先住民・オーストラリア先住民・メラネシア人との間の遺伝的類似性が、以前に報告されました(関連記事1および関連記事2)。このオーストラレシア人とアメリカ大陸先住民のつながりは、人類における最も興味深く、よく理解されていない事象の一つとして存続しています。

 議論となっているこのオーストラレシア人口集団の遺伝的構成要素は、ユピケラ(Ypikuéra)人口集団もしくは「Y人口集団」構成要素と呼ばれており、現代アマゾン人口集団でのみ特定されており(関連記事)、アマゾン地域の人々の形成につながる少なくとも2つの異なる創始者の波があった、と示唆されます。その最初の波は、ベーリンジア(ベーリング陸橋)停止人口集団の直接的子孫で構成されていると推測され、第二の波は、ベーリンジア人口集団ともっと新しくベーリンジアに到達したアジア南東部人の祖先の混合人口集団により形成された、と推測されました。これら両人口集団はアマゾン地域に定住し、混合したでしょう。

 在来遺伝子プールへの標本抽出されていない人口集団の寄与は、オーストラレシア人と共有される祖先系統の起源につながった、と考えられています(関連記事)。この意味で、Y人口集団はアメリカ大陸最初の植民集団の一部だったでしょう。南アメリカ大陸の古代標本のデータは、1万年前頃の弱いY兆候を示します(関連記事)。この証拠は、Y祖先系統が、アジア南東部から南アメリカ大陸に入ってくる第二の波というよりはむしろ、アジア北東部に居住していたアメリカ大陸先住民の共通祖先にさかのぼるかもしれない、と示唆します。

 さらに、新たな研究(Ning et al., 2021)の一連の証拠から、最初のアメリカ大陸先住民クレード(単系統群)は、ベーリンジアではなくアジア東部で分岐したと示唆されており、祖先的アジア東部人集団からのY祖先系統の遺伝子流動の可能性がさらに高まっています。しかし、現代および古代の集団間の兆候の不足は、検出の地域特有で明らかに無作為のパターンとともに、それが、アマゾン人口集団(および他の南アメリカ大陸先住民)が経てきた強い遺伝的浮動効果に起因する、偽陽性検出である可能性を高めました。しかし、逆の可能性もあります。それは、Y人口集団の兆候が一部人口集団で高い遺伝的浮動効果のために有意水準を下回った、という想定です。この問題を解明するため、南アメリカ大陸人口集団からのゲノムデータの、現時点で最も包括的な一式となるデータセットが調べられました(383個体の438443ヶ所の指標)。これらのデータは倫理的承認を経ています。

 本論文の結果は、以前にアマゾン人口集団に限定されると報告されたオーストラレシア人の遺伝的兆候が、太平洋沿岸人口集団でも特定されたことを示し、南アメリカ大陸におけるより広範なY人口集団の兆候が指摘され、これは太平洋とアマゾンの住民間の古代の接触を示唆している可能性があります。さらに、この遺伝的兆候の人口集団間および人口集団内の変異の有意な量が検出されました。

 この過剰なアレル(対立遺伝子)共有の存在を検証するために、D統計(ムブティ人、オーストラレシア人、Y、Z)が実行され、YとZは在来集団もしくは本論文のデータセットの個体群が対象とされました。ここでの「オーストラレシア人」とは、オーストラリア先住民とメラネシア人とアンダマン諸島のオンゲ人とパプア人です。集団間の検証では、兆候の検出がアマゾンのカリティアナ人(Karitiana)やスルイ人(Suruí)で再現されましたが、太平洋沿岸のモチカ人(Mochica)の子孫であるチョトゥナ人(Chotuna)や、ブラジル中央西部のグアラニ・カイオワ人(Guaraní Kaiowá)や、ブラジル高原中央部のシャヴァンテ人(Xavánte)でも観察されました。最大の無関係な個体群一式を用いると、Y人口集団の兆候はカリティアナ人とスルイ人とグアラニ・カイオワ人で有意な水準を失いました。しかし、この兆候は太平洋沿岸人口集団とブラジル中央部先住民でまだ明らかでした(図1)。以下、本論文の図1です。
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 また、一部の個体が同じ人口集団の他者よりも多数の有意な検証を示すのかどうか、検出することも目的とされました。これは、陽性人口集団内の不均一な遺伝的祖先系統を示唆しているかもしれません。じっさい本論文の分析では、一部の個体が過剰なアレル共有を示すより多くの検証を示しましたが、一部は他者との比較でこの祖先の有意な不足を示す可能性も高い、と明らかになりました(図2)。これらの結果から、完全な一式から最大限無関係な標本一式までの変化における兆候の重要性の喪失が、最初の場所で検証された標本間の関連性により引き起こされた偏りの除去というよりもむしろ、オーストラレシア人と共有しているアレルのより高い水準を有する特定の個体群の除外により起きたことは明らかです。以下、本論文の図2です。
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 これは、この兆候の有意な変動が人口集団間水準だけではなく、同じ人口集団の個体間でも存在する、という強い証拠を提供します。これらの結果は、この兆候の人口集団内の変動が稀ではなく(図2)、アパライ人(Apalai)やグアラニ・ニャンデヴァ人(Guaraní Nãndeva)やカリティアナ人やムンドゥルク人(Munduruku)やパラカナ人(Parakanã)やシャヴァンテ人といった、いくつかの集団で観察されることを示唆します。最も有意な検証では、トゥピ(Tupí)語族話者個体群でこの過剰な兆候が検出されましたが、その兆候は主要な全言語集団でも検出され、同時に、南アメリカ大陸内で広範な地理的分布を示しました(図1)。逆に、かなりの数の標本が、オーストラレシア人と共有するアレルの欠損を有している、と推測されました(図2)。一際目立つのは、パラカナ人の1個体(PAR137)で、有意な検証の極端に高い割合(31.64%)を示し、相対的な不足を示唆します。PAR137は、アメリカ大陸先住民標本の主成分分析でも、欠測率に関しても、無関係で混合されていない下部一式の標本間の対の遺伝的距離MDS(多次元尺度構成法)でも、外れ値ではありません。さらに、南アメリカ大陸の現代先住民集団間のY人口集団祖先系統分布は、民族言語的多様性もしくは地理的位置との関係を示しませんでした。

 中央および南アメリカ大陸先住民集団の祖先系統をさらに特徴づけるため、qpWaveで実行された以前の一連の検証(関連記事)が再現され、これら人口集団の形成に必要な祖先系統の波の最小限の数が調べられました。基本的に、世界の6地域(サハラ砂漠以南のアフリカ、ヨーロッパ西部、アジア東部、アジア南部、シベリアおよびアジア中央部、オセアニア)のそれぞれの4人口集団を外群として、混合されておらず無関係な3個体以上のアメリカ大陸先住民14集団が検証集団として選択されました。これらの集団はいくつかの組み合わせで検証されました。その結果、以前の検証により得られた推定値が再現され、中央および南アメリカ大陸先住民人口集団の現代の遺伝的多様性を説明するには、少なくとも2つの移住の波が必要と示唆されます。

 太平洋沿岸のチョトゥナ人も、D統計(ムブティ人、オーストラレシア人、Y、Z)により推定されるようにオーストラレシア人と共有する過剰なアレルを示したので(図1)、以前の研究(関連記事)に基づいて、セチュラ人(Sechura)とチョトゥナ人とナリフアラ人(Narihuala)という太平洋沿岸集団を追加して、混合グラフモデルが作成されました(図3A)。最適モデルでは、カリティアナ人やスルイ人でも観察されたように、太平洋沿岸は、南アメリカ大陸祖先系統と、オンゲ人との姉妹系統と関連する小さな非アメリカ大陸先住民の寄与の混合集団である、と示されました(図3C)。シャヴァンテ人が分析に含まれると、最適モデルは、太平洋沿岸におけるオーストラレシア人構成要素の直接的寄与を示し、その後、この兆候の強い浮動が続き、アマゾン集団が形成されました(図3D)。図3Dはオーストラレシア人関連祖先系統からの独立した2回の混合事象を示唆しますが、このモデルの結節点間の小さな遺伝的距離は、単一の混合事象の証拠を強固にしました。Treemix分析も、太平洋沿岸とアンデス集団がまず分岐し、続いてアンデス東部斜面人口集団が、最後にアマゾン集団と他の南アメリカ大陸東部集団が分岐した、という多様化のパターンを示しました。これらの知見から、Y人口集団の寄与はアマゾン系統の形成前にもちらされ、太平洋沿岸およびアマゾン人口集団の祖先だった可能性が高い、と示唆されます。以下、本論文の図3です。
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 南アメリカ大陸へのさまざまな移住経路が以前に提案され、証明されてきました。考古学的および遺伝学的データでは、太平洋沿岸と内陸部の両経路が最初の移民に用いられた可能性が高い、と示されました。本論文のモデルは、太平洋沿岸とアマゾンの人口集団間の古代の遺伝的類似性を指摘し、それは両地域集団のY祖先系統の存在により説明できます。さらに、この共有された祖先系統の導入は、太平洋沿岸系統とアマゾン系統の分離に先行するようで、西岸からの拡散と、ブラジルの人口集団における遺伝的浮動の連続事象が続く、と示されます。南アメリカ大陸太平洋沿岸におけるY祖先系統の遺伝的証拠から、この祖先系統は太平洋沿岸経路でこの地域に到達した可能性が高いので、これまでに研究された北および中央アメリカ大陸の人口集団におけるこの遺伝的構成要素の欠如を説明できる、と示唆されます。


 以上、本論文についてざっと見てきました。本論文は、アマゾン地域の現代先住民集団の一部と、ブラジルのラゴアサンタ(Lagoa Santa)で発見された10400年前頃の1個体で確認されていた、オーストラレシア人と密接に関係するゲノム領域(Y祖先系統)が、南アメリカ大陸太平洋沿岸にも広範に見られることを示しました。この問題はひじょうに謎めいており、以前から注目されていたので、新たな手がかりを提示した点で、本論文の意義は大きいと思います。本論文でも、このY祖先系統の正確な起源はまだ明らかになっていませんが、南アメリカ大陸で太平洋沿岸集団とアマゾン集団が分離する前にすでにもたらされていたようですから、南アメリカ大陸への(現代の南アメリカ大陸先住民集団の主要な祖先である)人類集団の初期の移住の時点で、Y祖先系統がすでに存在していた可能性は高そうです。

 最近のアジア東部における古代DNA研究の進展(関連記事)を踏まえると、Y祖先系統はユーラシア東部沿岸部祖先系統に分類されると考えられます。ユーラシア東部沿岸部祖先系統は、西遼河地域の古代農耕民や「縄文人」にも影響を与えており、とくに「縄文人」では大きな影響(44%)を有する、と推定されています。ユーラシア東部沿岸部祖先系統を有する集団が後期更新世にアジア東部沿岸を北上していき、アメリカ大陸先住民の主要な祖先集団の一部と混合し、アメリカ大陸を太平洋沿岸経路で南進して南アメリカ大陸に拡散した、と考えられます。北および中央アメリカ大陸の先住民集団でY祖先系統が確認されないのは、Y祖先系統を有する集団が北および中央アメリカ大陸にはほとんど留まらず急速に南アメリカ大陸に拡散したか、北および中央アメリカ大陸に留まったものの、後にY祖先系統を有さないアメリカ大陸先住民集団に置換されたか、ヨーロッパ勢力の侵略後の大規模な人口減少の過程で消滅した、と推測できます。もちろん、これは現時点での推測にすぎず、この問題の解明には、現代アメリカ大陸先住民のさらに広範囲なゲノム分析と、何よりも古代DNA研究のさらなる進展が必要になるでしょう。


参考文献:
Castro e Silva MA. et al.(2021): Deep genetic affinity between coastal Pacific and Amazonian natives evidenced by Australasian ancestry. PNAS, 118, 14, e2025739118.
https://doi.org/10.1073/pnas.2025739118

Ning C. et al.(2021): The genomic formation of First American ancestors in East and Northeast Asia. bioRxiv.
https://doi.org/10.1101/2020.10.12.336628


https://sicambre.at.webry.info/202104/article_2.html

3. 中川隆[-5085] koaQ7Jey 2021年4月30日 08:56:36 : 0c1RQexAfQ : bEVVWUY2RGl4NUk=[5] 報告
2021年04月30日
ヨーロッパ人侵出以前のアマゾン川流域における人口減少と森林再生
https://sicambre.at.webry.info/202104/article_32.html


 ヨーロッパ人侵出以前のアマゾン川流域における人口減少と森林再生についての研究(Bush et al., 2021)が公表されました。日本語の解説記事もあります。ヨーロッパから南アメリカ大陸への人類の侵出が始まると、病気や戦争や奴隷制度や集団虐殺などが持ち込まれ、ついにはアメリカ大陸先住民の大量死として知られる悲惨な人命損失に至りました。アマゾン川流域では1492年以降に先住民の90〜95%が死亡した、と推定されています。その結果、それまで農地だった広大な土地をはじめとして、多くの居住地が放棄されたため、アマゾン川全域で森林再生が急激に進みました。この急激な森林再生により、大気中二酸化炭素濃度の著しい減少(この異常な減少はオービス・スパイクと呼ばれます)が17世紀初頭に始まった、と考えられてきました。

 この研究は、アマゾン川流域の39ヶ所で化石花粉を採取し、過去2000年にわたる森林被覆の変化を調べた。その結果、「大量死」の期間中に森林花粉が増加した場所の数は、減少した場所の数とほぼ同じだった、と明らかになり、広範囲で同時期に起こった森林再生は大気中二酸化炭素濃度を減少させるのに充分だった、との仮説は事実上排除される、と指摘されています。データによると、多くの場所で、ヨーロッパ人到来の600〜300年前頃に土地放棄および森林再生が始まった、と示唆されます。

 この研究は、1500〜950年前頃に土地放棄を引き起こしたメカニズムは特定されていないと指摘する一方で、環境の変化、ヨーロッパ人到着以前の感染症大流行、および/もしくは社会闘争のカスケード効果が関与していた可能性を示唆しています。先コロンブス期アマゾン川流域でも、たとえば大規模な社会を築いていたモホス文化が1300年頃までには衰退していたと推測されているように(関連記事)、人口減少は珍しくなかったのでしょう。ただ、アマゾン川流域の一部地域で、ヨーロッパ人到来時すでに先住民人口が減少しつつあったとしても、ヨーロッパ人との接触が致命的な影響を及ぼし、人口減少が加速したことには変わりありません。


参考文献:
Bush MB. et al.(2021): Widespread reforestation before European influence on Amazonia. Science, 372, 6541, 484–487.
https://doi.org/10.1126/science.abf38707


https://sicambre.at.webry.info/202104/article_32.html

4. 2021年7月18日 07:35:40 : DNfUEHow9Q : Qi5Sb2VGaW5tRU0=[5] 報告
雑記帳 2021年07月18日
アメリカ大陸への人類の移住に関する総説
https://sicambre.at.webry.info/202107/article_18.html


 アメリカ大陸への人類の移住に関する総説(Willerslev, and Meltzer., 2021)が公表されました。アメリカ大陸への人類の移住に関する研究は、とくに遺伝学の分野で21世紀になって大きな進展があり、最近までの関連諸研究をまとめた本論文はたいへん有益です。ゲノミクスの登場前には、アメリカ大陸への移住の遺伝的証拠は、母系遺伝となるミトコンドリアDNA(mtDNA)と父系遺伝となるY染色体の非組換え領域の研究に依拠していました。これらの片親性遺伝標識は、アメリカ大陸への移住の大まかな概要を提供しましたが、潜在的に複雑な祖先系統(祖先系譜、ancestry)や人口構造と混合の解明には限界があり、性別の偏った文化的慣行により上書きされる可能性があり、遺伝的浮動と系統損失の影響を受けやすくなります。系統損失の問題はアメリカ大陸に関してはひどくなり、片親性遺伝標識研究の大半は現代の人口集団で行なわれ、過去の人口集団もしくは遺伝的多様性を代表していないかもしれません。それは、16世紀のヨーロッパ人による感染症の伝来や、戦争と飢饉と奴隷化と搾取の付随的な打撃後の、先住民集団の人口崩壊に起因します。

 アメリカ大陸先住民の人口史へのより広く深い洞察は、多くの独立した系統の斑状を提供するゲノム研究によりもたらされました(関連記事)。ゲノム研究は、過去の人々のゲノムを回収できるようになった時、その力が拡大しました。最初のアメリカ大陸古代人のゲノムは、12800年前頃となるアメリカ合衆国モンタナ州西部のアンジック(Anzick)遺跡で発見された男児(Anzick-1)で、2014年に公表されました(関連記事)。それ以来、南北アメリカ大陸全域の多くの古代人のゲノムが配列されており(図1)、アメリカ大陸の人口史の理解に革命をもたらしています。以下は本論文の図1です。
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 しかし、アメリカ大陸人口史についての理解は決して完全なものではない、と強調することが重要です。それはとくに、アメリカ大陸古代人のゲノムの数が比較的少なく、南アメリカ大陸よりも北アメリカ大陸の方が少なくなっているためで、その理由は、古代人遺骸に関する先住民の伝統や、遺産保護法が異なっていることに起因します(関連記事)。本論文は、今後数年でいくつかの解釈がおそらくは変わることを認識しつつ、アメリカ大陸への移住についての現時点で知られているゲノム証拠をまとめます。


●考古学的および地質学的知見

 アジア北東部における現生人類(Homo sapiens)の最初の確実な証拠は、31600年前頃のヤナRHS(Yana Rhinoceros Horn Site)までさかのぼります。これにより、更新世の最終期開始前に、アメリカ大陸への出発点からまだかなりの距離があるもの、人類がそこに近い北極圏にすでに存在していたことになります。この時までに、大陸の氷床が形成され始め、世界の海面が低下し、23000〜19000年前頃の最終氷期極大期(Last Glacial Maximum、略してLGM)で最高に達しました。

 北太平洋の相対的海面が現在より50m低下すると、ベーリング海峡地域の大陸棚は乾燥した土地となり、南北約1800kmの陸橋、つまりアジア大陸とアメリカ大陸をつなぐベーリンジアとして知られる地域の中心部が形成されました。この陸橋は、おそらく早くも3万年前頃には横断可能で、それは12000年前頃の氷期後の海面上昇まで続きました。ベーリンジアはほぼ無氷でしたが、LGMには、寒冷で過酷な条件により移動が制限されたかもしれません。

 12000年前以後、人類集団はもはやアメリカ大陸へと歩いて行けなくなり、代わりにベーリング海峡とチュクチ海を渡らねばなりませんでした。これには、極寒で頻繁に嵐が起き、季節によっては閉ざされる海を横断する技術と戦略を有する航海技術が要求されました。アメリカ大陸への移動の手段と課題のこの違いや、適応的戦略の変化は、おそらく最初の祖先的アメリカ大陸先住民集団到来の現在受け入れられている考古学的証拠(15500〜15000年前頃)と、アメリカ大陸への次の主要な人口集団移動、つまり古イヌイットのアメリカ大陸への拡散(5500年前頃)との間の間隙を説明します。

 アジア北東部の考古学的記録が限定されていることもあり、いつ人々がベーリンジアを渡ったのか、不明です。ヤナRHSにおける人類の痕跡の後、次に古い既知の遺跡はシベリアのディウクタイ洞窟(Diuktai Cave)で、16800年前頃以降となります。約15000年におよぶ人類の痕跡の証拠の欠如は、人類集団がシベリアを放棄したことに起因するかもしれません。それはある程度、小規模でひじょうに遊動的な人口集団が考古学的に検出されにくいこと、広範な地域で遺跡を探すこと、この遠隔地の考古学的調査が比較的限られていることにも起因します。

 ベーリンジア東部における人類の最初の存在は、14200年前頃となるアラスカのスワンポイント(Swan Point)遺跡にさかのぼります。しかし、これは最初の人々の到来年代ではありません。なぜならば、南北アメリカ大陸にはすでに先クローヴィス(Clovis)文化期(南アメリカ大陸にはクローヴィス文化は存在しませんが)となる15500〜15000年前頃にはすでに人類が存在していたからです(関連記事1および関連記事2および関連記事3)。

 北アメリカ大陸において最初の広範囲な人類の存在を示すクローヴィス複合と南アメリカ大陸におけるその同時代の集団は、それから約1500年後に出現します。先クローヴィスおよびクローヴィス文化人口集団が歴史的に関連する集団を表しているのかどうか、不明です。アメリカ大陸の氷床の南側ではより古い遺跡群が報告されており、LGMに先行するものも含まれますが(関連記事1および関連記事2および関連記事3)、LGMに先行する遺跡は実証されていないか、論争が続いています。

 15500年前頃までのアメリカ大陸の氷床の南側における人類の存在は、アラスカから南方への移動に人々が用いた(複数かもしれない)経路の再検討を必要とします。LGMとなる23000年前頃には、現在のカナダの大半を覆ってアメリカ合衆国北部に達していたコルディレラ(Cordilleran)氷床とローレンタイド(Laurentide)氷床とが、南方への通交を事実上妨げていました(図2)。伝統的概念は、人々がロッキー山脈の東側面に沿って氷期後に開けた無氷回廊を通って移動した、というものでした(関連記事)。この見解は、回廊が15000〜14000年前頃に完全には無氷ではなかった、と示す地質学的証拠と、化石バイソンと湖の堆積物両方からの古代DNAの証拠により、最近疑問が呈されました。それらの証拠では、狩猟採集民が約1500kmの経路において食資源として必要としただろう動植物が、13000年前頃まで回廊では利用できなかった、と示唆されました(関連記事)。したがって、この経路は、最初の人々の移動に間に合うほど早くには開けなかったでしょう。

 内陸経路の欠如から、アメリカ大陸最初の人々が太平洋沿岸を南方に移動した、と示唆されます。氷河は早くも23000年前頃にはその経路を遮断しましたが、LGM後の氷河後退に伴って17000年前頃以後には無氷となり、16000〜15000年前頃までには沿岸はほぼ開けており、移動する人類にとって必要な資源を支えました。沿岸経路により、人類は現在受け入れられている最初の考古学的存在よりもかなり前に、氷床の南側のアメリカ大陸に到達できました。クローヴィス文化集団は後に無氷回廊経由でアメリカ大陸に到来したものの、回廊地域における人類の最初の考古学的証拠はクローヴィス文化期に先行する、と提案されてきましたが、南下ではなく北上の移動を示しているようです。


●古代ゲノミクスと最初の人々

 ヤナRHSと24000年前頃のマリタ(Mal’ta)遺跡の個体群のゲノムから、シベリアには「古代北シベリア(ANS)個体群」と呼ばれる人口集団が居住していた、と示されます(関連記事)。この構造化された人口集団は、ユーラシア西部人口集団とユーラシア東部人口集団が分岐した直後となる39000年前頃(95%信頼区間で45800〜32200年前)に、ユーラシア西部人口集団と分岐しました(関連記事1および関連記事2)。ANSは最終的に別々の人口集団として消滅しましたが、その遺伝的影響は後の古代人や一部の現代人集団に残っており、とくに顕著なのはアメリカ大陸先住民集団で、シベリアの先住民集団にはさまざまな程度で見られます(関連記事1および関連記事2および関連記事3)。これが示唆するのは、後期更新世におけるANSの地理的分布は全体として、シベリアの大半とおそらくはベーリンジアにまで広がっていたに違いない、ということです。

 現在の証拠では、23000〜20000年前頃にANSとアジア東部集団との間で遺伝子流動があった、と示唆されています。関連する人口集団の既知の場所(一方はシベリア、もう一方はアジア東部)に基づいて、両者の混合はバイカル湖地域もしくはその東側か、おそらくはベーリンジア西部のさらに北方で東方の地域だった、と仮定されていました(関連記事)。これらの仮定のどれが正しいのか解決するには、追加の証拠が必要でしょう。

 ともかく、これら人口集団間の遺伝子流動は、(異なる混合割合で明らかなように)最終的に別々の機会に少なくとも2つの異なる系統を生じさせました(関連記事1および関連記事2および関連記事3)。一方は、シベリア北東部の9800年前頃となるデュヴァニヤー(Duvanny Yar)遺跡のコリマ(Kolyma)個体のゲノムに基づいて命名された「古代旧シベリア人(APS)」で、その言語が旧シベリア言語族の範疇に収まるチュクチ人(Chukchi)やコリャーク人(Koryak)やイテリメン人(Itelmen)など、シベリア北東部現代人の祖先集団を形成します。他の系統は基底部アメリカ大陸分枝となり、その子孫は最終的にアメリカ大陸に渡りました(関連記事)。

 その基底部アメリカ大陸分枝の形成時期の可能性がある代替案は、シベリア南部のアフォントヴァゴラ(Afontova Gora)遺跡の18000年前頃となる1個体(Afontova-Gora 3)が、マリタ遺跡個体よりもアメリカ大陸先住民と多くの遺伝的浮動を共有している、との観察に基づきます。この知見から、ANSとアジア東部人口集団間の混合は、マリタ遺跡個体よりもアフォントヴァゴラ3号と密接に関連した人口集団とのものなので、基底部アメリカ大陸系統の形成はLGMの前ではなく後に起きた、と示唆されます。しかし、アフォントヴァゴラ3号の人口集団とマリタ遺跡の人口集団の分岐年代に追加の制約がなければ、混合年代について確実な推定はできません。遺伝子流動は、マリタ遺跡個体に代表される人口集団がアフォントヴァゴラ3号に代表される人口集団と分岐した後に起きさえすれば、24000年前頃(マリタ遺跡個体の年代)の前に起きた可能性さえ残っています。したがって、基底部アメリカ大陸分枝がいつどこで出現したのか、正確には不明なままです。

 それにも関わらず、基底部アメリカ大陸分枝の出現は21000〜20000年前頃以前だったに違いなく(したがって、混合はLGM以前と推測されます)、それは、その後までに基底部アメリカ大陸分枝が別々の系統に分岐し始めており、APSもしくは他のアジア北東部人口集団からのその後の遺伝子流動の証拠が示されないからです。アメリカ大陸先住民個体群がANSとアジア東部の祖先系統(祖先系譜、ancestry)しか有していないことは注目に値します。シベリア北東部個体群は、さまざまな割合のANSとアジア東部祖先系統と、追加の祖先系統を有しています(関連記事1および関連記事2)。これは、基底部アメリカ大陸分枝が早期に地理的に孤立しており、その場所はおそらくベーリンジア西部(アジア北東部)もしくはさらに南方だった、と示唆します(関連記事1および関連記事2)。可能性の一つは、LGMの居住しにくい気候および環境が、集団の分離と基底部アメリカ大陸分枝の孤立と、その後の基底部アメリカ大陸分枝内の分岐につながった、ということです。これは、提案されてきたように、LGMにベーリンジアの一部が放棄された場合に起きた可能性がありますが、上述の理由で放棄の問題は議論されており、検証困難です。

 LGMの孤立は、アメリカ大陸への拡散はすぐに起きず、代わりに、おそらくはベーリンジア地域で長い休止が続いた、と提案するベーリンジア停止モデル(関連記事1および関連記事2および関連記事3および関連記事4および関連記事5)と一致しています。その孤立した人口集団から、いくつかの系統が出現しました。それは、現在ほとんど知られていない「遺伝的ゴースト」である標本抽出されていない人口集団A(UPopA)と、「古代ベーリンジア」個体群と、「祖先的アメリカ大陸(ANA)」個体群(関連記事)です(図2)。これら3人口集団は最終的に北アメリカ大陸へと移動しましたが、それら3集団間の深い分岐と限定的な遺伝子流動からは、それら3集団が別々の移動で北アメリカ大陸へと渡った、と示唆されます。

 古代ベーリンジア個体群はアラスカへと渡りましたが、明らかにそれ以上南下しませんでした。この人口集団の構成員は、アメリカ大陸氷床の南側では確認されていません。アラスカで知られている最も新しい古代ベーリンジア人であるトレイルクリーク洞窟(Trail Creek Cave)個体の年代である9000年前頃以後のある時点で、この人口集団は消滅しました。その地域の現在の先住民集団は、古代ベーリンジア人と密接には関連していません(関連記事1および関連記事2)。それにも関わらず、古代ベーリンジア個体群は他のあらゆる現在の人口集団よりも、過去および現在のアメリカ大陸先住民個体群の方と密接です。

 ANA系統内では、連続した内部分岐がありました。最初のものは21000〜16000年前頃で、「ビッグバー」系統がANA系統から分岐し(関連記事)、次に15700年前頃(95%信頼区間で17500〜14600年前)に、北アメリカ大陸先住民(NNA)人口集団と南アメリカ大陸先住民(SNA)人口集団との間の分岐が起きました(関連記事)。「ビッグバー」系統は太平洋北西部で知られていますが、アラスカでは確認されておらず、系統地理的にNNAとSNAの分岐よりも早く、ベーリンジア東部(アラスカ)から南方へ移動するにつれて分岐したに違いありません(関連記事)。これは、NNA集団とSNA集団が遺伝的に古代ベーリンジア個体群と等距離である、という事実と一致して、NNAとSNAの分岐がさらに南方で起きたことを示唆します(関連記事)。

 この証拠は、祖先的アメリカ大陸先住民個体群がベーリンジアを越え、古代ベーリンジア個体群よりも先に氷床南側の北アメリカ大陸へと到達したことを示唆します。代替的な可能性として、これら全ての人口集団が、アジア北東部もしくはベーリンジアの同じ地域に居住している間に分岐した、というものもありますが、現在は証拠のない強い長期間の人口集団構造を必要とします。あるいは、おそらく全集団が同じ人口集団の一部としてベーリンジア東部に到達し、その後でNNA集団とSNA集団が分岐し、アメリカ大陸氷床の南側に移動しました。これは、古代ベーリンジア個体群および祖先的アメリカ大陸先住民個体群がひじょうに異なる文化的分類と関連していることを考えると、可能性が低そうですが、文化的分岐は人口集団の分岐と一致しないかもしれません。これらのどれが正しいのか解決するには、追加の証拠が必要になるでしょう。

 かつてアメリカ大陸氷床の南側に位置したNNA集団とSNA集団の拡散パターンは、ひじょうに異なっていました。NNAは北アメリカ大陸に留まったようです。NNAが南アメリカ大陸に到達したかもしれない、との提案(関連記事)は支持されていません(関連記事)。完新世のある時期、おそらくは古代ベーリンジア人が消滅した後、NNA集団はさらに北方に移動したに違いなく、それは、NNA集団が現在アラスカとユーコン準州に現在存在するからです(関連記事1および関連記事2および関連記事3)。

 無氷回廊では12600年前頃に人類の考古学的証拠があり、その頃までには横断可能になっていしました。この証拠は、その物質文化がより古いクローヴィス伝統と関連して歴史的に出現する人々の、北方への拡散を示しています。それでも、クローヴィスはSNA分枝の範疇に収まり、現在のアラスカではSNA集団の証拠はありません。これは、いくつかのあり得る想定を示唆します。まず、クローヴィス文化はNNA個体群を含んでいた、ということです。次に、北極圏への複数回の帰還があり、現在その地で暮らすNNA集団は、異なる後の北方の移動の結果だった、ということです。あるいは、NNAとSNAの分岐はアメリカ大陸氷床の北側で起きました。現在の証拠では、最初の2仮説のうちどちらかを除外できません。最後の仮説が正しければ、ビッグバー系統の分岐を北方へと変えねばなりませんが、ビッグバーとNNAとSNAの密接な時期の分岐や、SNA集団の16000年前頃以後のアメリカ大陸氷床の南側での広範な分布を考えると、その可能性は低そうです(関連記事1および関連記事2)。

 NNA集団とは対照的に、SNA集団は急速に南方へと拡大し、それは同じく1万年前頃に存在したものの、数千km離れて南北アメリカ大陸に暮らしていた、古代の個体群間の密接な遺伝的つながりに明らかです(関連記事1および関連記事2)。SNA拡散の急速さは、南北アメリカ大陸の最初期の遺跡の近同時代性に基づいて長く考えられていた、初期の移動と一致します。それは、単一の放散ではなかったかもしれません。アルゼンチンとブラジルと地理の古代の個体群とアンジック遺跡個体(アンジック1号)とのさまざまな程度の類似性を考えると、南アメリカ大陸へのSNA集団の少なくとも2回の後期更新世の移動があったようです(関連記事1および関連記事2)。拡散の見かけの急速さが、おそらく居住地内および居住地間のより遅くて小規模な移動を隠している、と認識することも重要ですが、それは放射性炭素年代測定の誤差の範囲内なので、考古学的にほとんど検出できません。

 到来する人口集団の比較的小さな規模(関連記事1および関連記事2)、およびその集団と子孫による半球全体の最初の移動範囲の広大な距離は、南方への移動に連れてのSNA系統内の繰り返しの分岐(関連記事)で明らかなように、孤立と分岐の機会を増大させ、南アメリカ大陸古代人におけるかなりの祖先系統の変動をもたらしました(関連記事1および関連記事2および関連記事3)。

 アメリカ大陸への人類の移住の注目すべき推論はイヌの遺伝的歴史に見られ、イヌはおそらくシベリアもしくはベーリンジアで後期更新世に家畜化され、シベリアもしくはベーリンジアからアメリカ大陸へのmtDNA系統の分岐は、拡散する人口集団内の主要な分岐とほぼ一致しています(関連記事)。人類とイヌの分岐が相互に並行していることはとくに驚くべきではなく、それは、人類はアメリカ大陸にイヌなしで移動できたものの、イヌは人類なしではアメリカ大陸へと移動しなかったからです。人類の集団が相互に孤立するようになるにつれて、人類とともに移動したイヌも相互に孤立していきました。

 現在まで、アジア北東部人類遺骸の地域人口集団がアメリカ大陸最初の人類の重要な起源だった、というゲノム証拠はありません。ヨーロッパの後期更新世の文化であるソリュートレアン(Solutrean)と、北アメリカ大陸のクローヴィス文化との間の石器技術の表面上の類似性に基づく、アメリカ大陸最初の人々は北大西洋経由でヨーロッパから到来した、との物議を醸す主張は、祖先的アメリカ大陸先住民集団のSNA分岐の範疇に収まる、アンジック遺跡のクローヴィス文化の子供(アンジック1号)のゲノムにより突き崩されました(関連記事)。アメリカ大陸の人類の古代もしくは現代のゲノム(もしくはmtDNAもしくはY染色体)は、上部旧石器時代ヨーロッパ人口集団との直接的類似性を示しません。

 同様に却下されたのは、異なる頭蓋を有する古代およびより最近の骨格、いわゆる「古代アメリカ人」が、ヨーロッパ人やオーストラリア先住民や日本列島のアイヌやポリネシアの人口集団と関連するかもしれない異なる祖先系統を有しているので、現代アメリカ大陸先住民集団とは遠い遺伝的関係にある、との主張です。アメリカ合衆国ネバダ州の精霊洞窟(Spirit Cave)の10700年前頃の個体や、ブラジルのラゴアサンタ(Lagoa Santa)の10400年前頃の個体(関連記事)や、アメリカ合衆国ワシントン州で発見されたケネウィック人(Kennewick Man)と呼ばれる9000年前頃の個体(関連記事)も含めて、現在までに配列された全ての「古代アメリカ人」は、アメリカ大陸先住民の遺伝的多様性の範疇に収まります。じっさい、後に到来した古イヌイットやイヌイットチューレを除いて、アメリカ大陸の全ての古代人のゲノムは、世界中の他のあらゆる現代の人口集団よりも現代のアメリカ大陸先住民の方と密接な類似性を有する、と示されてきました。以下は本論文の図2です。
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●完新世の歴史

 完新世の何千年にもわたって人々の移動は継続し、完新世には開けたベーリング海とチュクチ海を横断してのアジア北東部からのものと、アメリカ大陸内との両方がありました(図3)。ベーリング海峡を横断した集団の最初の証拠は、5200年前頃の海洋考古学的伝統とともに現れ、それは一般的にゲノム記録に見える中期完新世人口集団の分岐および拡散とも一致します(関連記事)。

 北アメリカ大陸北部のアサバスカ(Athabaskan)集団はNNAの分枝で、他のNNA(もしくはNSA)集団よりもわずかに多くのアジア東部人の遺伝的祖先系統を有しています。最近、この遺伝的兆候は、グリーンランドの4000年前頃のサカク(Saqqaq)遺跡個体の祖先である「祖型古エスキモー」により、5000〜4400年前頃にアラスカで起きたと推定されるNNA集団への遺伝子流動でもたらされた、と提案されました(関連記事)。しかし、古代旧シベリア人(APS)がサカク遺跡個体と関連している人口集団よりもアサバスカ個体群の方と密接に関連していることを考えると、この解釈には問題があります(関連記事)。

 じっさいAPSは、ケット人(Ket)やコリャーク人(Koryak)など現在の旧シベリア人の主要な祖先的構成要素を表しています(関連記事)。これは、コリャーク人がアサバスカ個体群で見られる余分なアジア東部人の兆候を有する最も近い現代の人口集団であることにより、証明されています(関連記事)。したがって、アサバスカ個体群への追加のアジア東部人からの遺伝子流動を提供した供給源集団は、現代の旧シベリア人や旧イヌイットやアメリカ大陸先住民の祖先と遺伝的に近かったに違いありません。じっさい、その人口集団の要素が複数回アメリカ大陸に渡りました。

 この余分なアジア東部人の兆候が古代ベーリンジア個体群では欠けていることを考えると、この人口集団とアサバスカ人との間の接触は、アラスカからの古代ベーリンジア個体群の消滅に続いて起き、それは同じ地域における旧イヌイットの到来前だったので、9000〜5500年前頃と推測されます(関連記事1および関連記事2)。この過程でも言語要素が交換された、と仮定されています。言語学者は、アサバスカ諸語とシベリア中央部のエニセイ語族話者のケット人との間のつながりを議論してきました。言語学的根拠に関するこの仮説への批判はさておき、ケット人とアサバスカ人との間の遺伝的関係は単純ではなく、いずれにしても、言語的つながりの確証に古代DNAを用いることはできません。

 北アメリカ大陸北極圏の完新世後期の歴史は、2つの特徴的な北極圏全体の考古学的伝統により特徴づけられます。一方は最初の旧イヌイット文化で、北アメリカ大陸極北とグリーンランドで5200年前頃に考古学的記録に現れ、紀元後1500年頃に消滅しますが、その間、年代や場所や文化的区分に基づくさまざまな名称の文化があります。旧イヌイット文化は最終的に、現在のイヌイットおよびイヌピアト(Iñupiat)の祖先と一般的に考えられている、以前には新エスキモーと呼ばれていたチューレ(Thule)文化の人々に置換されました。さらに、2000年前頃となるエクヴェン人(Ekven)と現代のチュクチ人の遺伝的構成において、アメリカ大陸からシベリアへの逆移住の証拠があります(関連記事1および関連記事2)。

 古代ゲノミクスを用いての分析の前には、旧イヌイット集団が相互に、もしくは現代のイヌイットやアリューシャン列島人やシベリアの人口集団やアサバスカ個体群や他のアメリカ大陸先住民と関連していたのか、不明でした(関連記事)。上述のようにサカク遺跡個体はアメリカ大陸先住民個体群とは異なり、コリャーク人やチュクチ人のような旧シベリア人集団とより密接です。したがって旧イヌイットは、他のアメリカ大陸先住民とは完全に独立した、シベリアからアメリカ大陸へと拡散した人口集団を表しています(関連記事)。これまでにDNA解析された旧イヌイットの個体数は限定的で、同じmtDNAハプログループ(mtHg)D2a193を有しており、創始者集団が小規模だったサカク個体ゲノムからの証拠と一致します。

 チューレ文化はおそらく早くも紀元後200年頃にはアラスカのベーリング海峡と沿岸部地域で発展しましたが、紀元後1200頃に急速に東方へ拡大し、グリーンランドにほぼ同時に出現しました。遺伝的には、チューレ人は旧イヌイット関連集団とアメリカ大陸先住民の混合なので(関連記事)、チューレ人がシベリアからアメリカ大陸への独立した移住(おそらく、逆移住したアサバスカ個体群と混合しています)を表しているのかどうか、あるいはアラスカ内で出現したのかどうか、不明なままです。イヌイットにおけるアメリカ大陸先住民構成要素は、その地理的近接から予測されるように、NNA集団に由来します。

 旧イヌイットとイヌイット・チューレ人集団は数世紀にわたって重複していましたが、考古学者は、両者が同じ時代に同じ場所に存在したのかどうか、疑問視しています。遺伝的には、旧イヌイットとイヌイット・チューレ人との間の混合、およびアサバスカ個体群との混合のいくつかの証拠があります(関連記事)。しかし、それぞれの拡散を伴う遺伝的に異なるイヌでも明らかなように(関連記事)、遺伝子流動の程度はおそらく限定的でした。ともかく、旧イヌイットは最終的に考古学およびゲノム記録から消滅し、その理由はまだ不明です。

 グリーンランドのノース・ヴァイキングは、アメリカ大陸に到達した最初のヨーロッパ人で(紀元後1000年頃)、先住民の遺跡におけるノース人の製品の出現に基づくと、ノース人は旧イヌイットと遭遇したかもしれず、あるいは、年代に基づくとより可能性があるのは、イヌイット・チューレ人およびアメリカ大陸先住民との遭遇です。ヴァイキング人口集団内のかなりの混合の古代ゲノムの証拠があり、交易および襲撃のネットワークを反映していますが(関連記事)、旧イヌイットもしくはイヌイット・チューレ人との混合を示唆する証拠はありません。アメリカ大陸における先住民共同体へのノース人の遺伝子流動があったならば、その証拠は紀元後1000〜1500年頃の個体で探せるでしょう。

 完新世中期および後期においてさらに南方では、現在のメソアメリカ人の祖先が拡大し、南北両アメリカ大陸で他のSNA人口集団と相互作用していました(関連記事)。このメソアメリカ人関連の遺伝子流動は、「遺伝的ゴースト」である標本抽出されていない人口集団A(UPopA)を含み、北アメリカ大陸西部のグレートベースンにおいて明らかで、それは1900年前頃〜700年前頃のある時点でのことです(関連記事)。この下限年代は、ネバダ州のラブロック洞窟(Lovelock Cave)の2個体のゲノムデータに基づいています。

 南アメリカ大陸へのメソアメリカ人の拡大は、いくつかの現代の人口集団において明らかですが、アンデス山脈の反対側ではさまざまな割合で、長期にわたって続きました(関連記事)。第二の、「非アンジック」SNA系統の示唆的な証拠もあり、カリフォルニアのチャネル諸島の古代人との類似性を有しており、この古代人は5000年前頃となる完新世中期に南アメリカ大陸へと拡大し、アンジック個体と密接な類似性を有する人口集団の子孫を含んで、それ以前に到来していたSNA集団をほぼ置換しました(関連記事1および関連記事2)。この祖先系統がどのようにメソアメリカ人の拡大と関連しているのか、明らかではありません。

 完新世中期と後期において、カリブ海諸島への人口集団の移動の少なくとも2回の主要な事象がありました。最初のものは6000年前頃以後の「古代(Archaic)」期となり、2つの分離した南アメリカ大陸の人口集団の移動を表している、と元々考えられていました(関連記事1および関連記事2)。しかし、その後の研究では、南アメリカ大陸祖先系統の単一の波のみが検出されました(関連記事)。2500年前頃以後のある時点で、土器時代の人々が南アメリカ大陸北部から到来し、それはアマゾン集団を含む単一の起源人口集団からで、カリブ海のタイノ人(Taino)とアマゾン北部の他のアラワク語族との間の提案された関係と一致します(関連記事)。土器時代および古代の人口集団はまだ解明されていない期間重複していましたが、現時点ではひじょうに限られている混合の証拠しかありません(関連記事1および関連記事2)。

 中南米全域で後期完新世までに、人口集団は本質的に「定住し」、多くの地域では、ヨーロッパ人の到来前の数千年にわたって人口集団が継続しています。もちろん、人口集団の移動混合も継続していましたが、それ以前の期間よりはずっと小さな空間規模でした(関連記事1および関連記事2および関連記事3および関連記事4)。インカ帝国のように後に帝国が台頭した地域でさえ、広大な地域への拡大は、たとえば新石器時代やその後のユーラシアで見られるような、広範な人口集団の移動を必ずしも伴いませんでした。それでも、これらの拡大はずっと多様な遺伝的景観をもたらしました(関連記事1および関連記事2および関連記事3)。以下は本論文の図3です。
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●太平洋における接触の可能性

 イヌイットの人々がベーリング海を横断してアラスカへと渡ったのとほぼ同じ頃、ポリネシアの航海者が遠く離れた東太平洋のラパヌイ(Rapa Nui)島(イースター島)に到達しました。ポリネシア人が東方へ航海を続けて南アメリカ大陸に上陸した(不利な海流に対して約3700kmの追加の航海が必要です)のかどうか、あるいはアメリカ大陸先住民が太平洋へと西方へ航海したのかどうか、長く議論されてきました。ラパヌイの現代人の最初のゲノム研究は、低水準のアメリカ大陸先住民祖先系統を示唆し、その遺伝子流動は紀元後1280〜1425年頃に起きたと推定されましたが、それがどのように起きたのかは不明なままです。しかし、混合が起きた時期の曖昧さを考慮し、ラパヌイの古代人2個体の後の研究結果に基づくと、ラパヌイにおけるアメリカ大陸先住民祖先系統の推論は却下されました(関連記事)。

 太平洋の人々とアメリカ大陸先住民との接触の可能性は、太平洋の島々および中南米の沿岸に住む現代のアメリカ大陸先住民数百個体の最近の研究で再度提起されました。コロンビアのゼヌ人(Zenu)と最も密接に関連するアメリカ大陸先住民との混合を有するポリネシア人は、広範に散在する東太平洋の9つの島で見られます。その混合事象は紀元後13世紀に起きたと推定されており、太平洋におけるヨーロッパ人の存在と最初の定住のずっと前です(関連記事)。これは、アメリカ大陸先住民の東太平洋への拡散を表しているものの、より可能性の高い想定では、太平洋の島への定住をオセアニア航海民に結びつける豊富な考古学的証拠を考慮すると、これら太平洋の島々におけるアメリカ大陸先住民祖先系統は、太平洋の人々が南アメリカ大陸を訪れて混合したか、南アメリカ大陸の人々とともに太平洋の島々に戻って来た結果である、と提案されています。先コロンブス期におけるアメリカ大陸先住民とポリネシア人との接触の年代と性質に関する問題はおそらく、現代の太平洋諸島の人々で検出されるよりも強いアメリカ大陸先住民の遺伝的兆候を有しているかもしれない、古代ポリネシア人の分析でのみ解決できます。


●より大きなパターンと過程

 大陸規模では、古代のゲノムおよび考古学的証拠は、アメリカ大陸全域の急速な最初の拡大を示しており、これには顕著な文化的変化も伴いました。ゲノム記録も、かなりのボトルネック(瓶首効果)を経て、人口が到来後数千年で急激に増加した、と確証しており(関連記事)、これは現生人類(Homo sapiens)の人口史で最も顕著な成長事象の一つだったかもしれません(関連記事)。

 最初の放散の急速性にも関わらず、古代のゲノム記録も、拡散後に多くの地域の集団が多かれ少なかれその地域に定住した、と明らかにしています。これは人口集団の継続性をもたらし、一部地域では数千年にも及び、長く持続したものの、比較的小規模な人口集団とおそらくは相互作用と交換のより限定的な地理的範囲を反映しています(関連記事1および関連記事2および関連記事3および関連記事4および関連記事5)。

 人口集団の継続性は時として、放棄や置換につながる可能性が高いと考えられている生態学的条件下でも起きました。たとえば、北アメリカ大陸のグレートベースン西部では、中期完新世の数千年にわたる深刻な乾燥と旱魃により、人口密度が急激に低下しました。この期間の前後の考古学的記録はかなり異なっており、かつては新たな(複数)集団による在来の人々の置換を表している、と考えられていました。しかし、その数千年間の前(10700年前頃の精霊洞窟個体のゲノム)および後(2000〜700年前頃のラブロック個体群)の個体群のゲノム間には強い類似性があり、ラブロック個体群のうち新しい方でメソアメリカ人との混合さえ認められます(関連記事)。

 他の事例では、古代ゲノムは2種類の不連続性を明らかにします。まず、古代人が現代人とつながっているものの、現在その地域に居住している人々とはつながっていない場合です。つまり、地域放棄の事例です(関連記事)。具体的には旧イヌイットが当てはまり、そのDNA断片は現代のアサバスカ個体群で見られます(関連記事)。次は、古代の人口集団が完全に消滅した事例で、その人口集団に由来する現代人は存在せず、具体的には古代ベーリンジア人口集団などです(関連記事)。とはいえ、古代ベーリンジア人口集団は北極圏に1万年以上存在したので、「失敗した移住」ではありませんでした。

 古代の標本は古代の人口集団の規模および分布と比較して必然的に制限されるので、人口集団の不連続性や置換に関する記述には注意が必要です。ともかく、次のように疑う理由があります。移住過程の初期に、小さく孤立して分散した一団(バンド)が遠くの故郷もしくは親族から離れた不慣れな土地を開拓したさいに、数十もしくは数百年で消滅した可能性があり、それは、充分な人口の欠如、もしくは新たに発見された環境で確率的事象に対処できないためです。

 地理的および社会的障壁両方に起因する、孤立の証拠は明らかです。これは、アンデス山脈の一方の側の人口集団におけるゲノム(およびmtDNAとY染色体でも)の違いで見られ、アンデス山脈両側への最初の南方への拡散も反映しているかもしれず、山脈を越えての東西の移動の困難により経時的に維持された分離です(関連記事1および関連記事2)。より小さな規模では、地域的孤立のパターンがあり、たとえば低地と高地との間(関連記事)や、島々(関連記事)や、大陸のより遠い辺境部(関連記事1および関連記事2)で見られます。

 社会的孤立は、たとえばブリティッシュコロンビア沿岸の中期完新世集団のゲノムから推測され、この集団は数百km離れた内陸部の同時代の人口集団とは、フレーザー川(Fraser River)経由で両地域を比較的容易に行き来できるにも関わらず、遺伝的に異なっています(関連記事)。この地域の自然の豊かさと多様性により、人類集団はさまざまな環境条件に住むことができ、恐らくそこから、人口集団の分離を維持する境界が出現しました。

 ゲノムの連続性もしくは不連続性、孤立もしくは混合が、人口集団の生物学にのみ関連し、文化的パターンに実質的な影響を及ぼすとは限らない、と強調することは重要です。たとえば、後期更新世に存在したクローヴィス文化と西方有茎伝統(Western Stemmed Tradition、略してWST)の石器技術は、「遺伝的に分岐した創始者集団」に起因するとされるほど、充分に異なります(関連記事)。しかし、クローヴィス文化のアンジック個体(アンジック1号)と精霊洞窟のWST関連個体のゲノム間の密接な類似性が示すように、両文化は強い遺伝的類似性を有する人々の所産でした(関連記事)。文化的な継続性や不連続性や浮動や混合は、人口集団の仮定とは独立して進行する可能性があります。じっさい、人口集団と社会的動態の両方が、地域の遺伝的および文化的景観の形成において、重要で時には独立した役割を果たしました。これはとくに、後の時代と、強い領域境界が確立もしくは蹂躙された地域に当てはまります(関連記事1および関連記事2)。


●人口史を超えて

 古代ゲノミクスは、疾患史の仮説に取り組むためにも使用されてきました。たとえば、結核の原因となる結核菌(Mycobacterium tuberculosis)と関連する細菌系統は、ペルーの1000年前頃の人類に存在しました(関連記事)。したがって、結核は先コロンブス期には存在しており、以前に信じられていたようにヨーロッパ人によりアメリカ大陸にもたらされなかったかもしれません。注目すべきことに、古代の結核菌系統はアザラシやアシカで見られる結核菌(Mycobacterium pinnipedii)と最も密接に関連しており、先コロンブス期の結核が海獣を通じて人類に感染した、と示唆されます。これまでのところ、アメリカ大陸の病原体研究は限られていますが、アメリカ大陸先住民共同体が限定的か全く免疫を有していない、ヨーロッパ人によりもたらされた一連の感染症の歴史と、長期的な健康への影響とを理解するのに役立つ可能性があります。

 古代DNAの分析も、環境条件や食性の変化により起きるアレル(対立遺伝子)頻度の変化を特定できるので、たとえば、人類が最初にアメリカ大陸熱帯地域に拡散した時に受けたような、有病率に影響する遺伝的要因と環境要因との間の相互作用への新たな洞察を生みだせます。古代および現代の人口集団ゲノミクスを通じて人類の疾患の歴史に取り組む利点は、最近報告されています。古代ゲノミクスを用いて疾患の問題に取り組む研究はまだ比較的稀で、とくにアメリカ大陸先住民に関しては少ないままです(関連記事)。現代のDNAと古代DNAの機能的研究を組み合わせることにより、アメリカ大陸先住民における、進化と生活様式および代謝性疾患の根底にある遺伝的原因への新しく有益な洞察を得る、強力な手法を構成できるかもしれません。

 その可能性を実現するには、先住民と科学界の間でより協力的な関係を築くことが必要です。これは、アメリカ大陸先住民集団への非倫理的で搾取的な研究の長い歴史の結果である、アメリカ大陸先住民の間の不信の深い遺産を是正するために必要です。研究共同体は現在、人類の参加者に関する遺伝的研究のより強力な指針を有しており、先住民の利益をよりよく保護しようとしています。たとえば、文化的に有害な方法での標本の未承認の使用の禁止です。それにも関わらず、ほとんどの場合、そうした監視はおもに存命者の研究と関連しており、古代人とは関連しておらず、しばしば存命者のみが対象となります。古代DNAの使用は、人類遺骸への利用、遺骸に関する研究への同意、データの所有権と配布に関する複雑さの尺度を追加します。とくに、古代人遺骸が組織により保有され、共同体もしくは特定の部族に所属しないとみなされる場合はそうです。

 研究と先住民共同体の間で、古代ゲノム研究の最初の10年を特徴づけてきた科学的な「骨の殺到」の倫理性を問うことも含めて、古代人の研究への倫理的に健全で協調的な最良の実践を発展させるために、努力がなされています。時間と適切な協約により、より協力的な関係を確立できるでしょう。これらの研究の利害関係者間の協議と協力においてより大きな努力を払い、その方向ですでに前向きな進展があります。これらの努力は、ひじょうに意見の相違した返還の事例だった古代ゲノミクスの適用を可能にしました。たとえば、ケネウィック人はDNA標本を提供したコルビル(Colville)の連合部族の協力により解決され、精霊洞窟個体は、ファロン・パイユート・ショショーニ(Fallon Paiute–Shoshone)部族とネバダ州立博物館がゲノム分析を進めることに合意しました。


●ゲノムの過去を見据えて

 古代ゲノミクスは、アメリカ大陸の人口史に関する理解を変えてきました。それにも関わらず、まだ知られていないことが多くあります。その一つは、アメリカ大陸の氷床の南側におけるひじょうに古い(たとえば、LGM以前)遺跡(関連記事1および関連記事2)の主張が確かなのか、不明なままです。そうした主張がもし確かならば、それらの遺跡群が、祖先的アメリカ大陸先住民集団がその時点ではまだアジア北東部で特有の人口集団として出現していなかった、と推測されている現在のゲノムデータからの想定とどのように適合するのか、不明です。

 その時点でアメリカ大陸に人類が存在したならば、考古学的にも遺伝学的にも、現時点で確実な証拠はない初期人類が存在した、と示唆されます。しかし、クローヴィス文化期以前のアメリカ大陸の個体からはゲノムデータが得られていない、と強調することも重要です。したがって、先クローヴィス文化期人口集団がNNA系統とSNA系統のどちらかに相当するのか、両系統の分岐前なのか、あるいは別の集団なのか、不明です。アメリカ大陸最初期の遺跡群の骨格遺骸は欠如しており、古代環境ゲノミクスが役立つかもしれません。それは、植物や人類も含めての動物といった複雑な組織を有する生物からのDNAが古代の堆積物から得られて、人類の存在を明らかにできる可能性があるからです。

 オーストラレーシア人のゲノム兆候は、僅かではあるものの、ブラジルの比較的小さな地域の古代人1個体と現代人で報告されてきました(関連記事1および関連記事2)。南北アメリカ大陸もしくはアジア北東部では、そうした兆候を有する古代人も現代人も、他には見つかっていません。この兆候がひじょうに構造化された最初期人口集団に存在し、ブラジル以外の地域での欠如は標本抽出の偶然なのかどうか、あるいは、この兆候は祖先的アメリカ大陸先住民集団の到来前にほぼ消滅し、わずかな程度の遺伝子移入しかない、アメリカ大陸のより早期の人口集団を表しているのかどうか、もしくは、アメリカ大陸全域に人類が最初に拡大した後の完新世の移動の事例なのかどうか、判断は困難です。しかし、これまでにDNA解析された古代人の数を考えると、最後の仮説の可能性はますます低くなっているようです。

 オーストラレーシア人のゲノム兆候はさまざまな領域に散在しているので、遺伝的収束や「偽陽性」兆候の事例ではないようです。この問題を解決するための課題の一部は、先クローヴィス文化期個体群のゲノム証拠の欠如で、それが得られれば、少なくとも、オーストラレーシア人のゲノム兆候がより早期の集団とともに到来したのかどうか、解決できます。同様に、アジアからの更新世人類遺骸のゲノムデータは比較的少なく、オーストラレーシア人のゲノム兆候の起源と拡大は、もし存在するならば、アジア、とくに北東部のより多くの個体の配列を通じて調べられるべきです。最近の古代ゲノム研究で、オーストラレーシア人の遺伝的兆候が中期完新世のアジア南東部本土の狩猟採集民集団で見つかったことは、注目に値します(関連記事)。したがって、他の人口集団がアメリカ大陸先住民の祖先系統に寄与した可能性は残っており、それら人口集団の一部は、たとえばUPopAのようなゴースト的存在か、まだ検出されていない方法で関連している可能性があります。また、これまでに検出されたものよりも、祖先的アメリカ大陸先住民集団内で多くの系統分岐と移動があった可能性は高そうです。

 古代ゲノム記録は広範な拡散や長期間の継続や人口集団置換事象や遺伝子流動と混合の証拠を示してきましたが、人々が移動した(もしくは留まった)理由、異なる集団が遭遇した時に相互に何が起きたのか(混合を除いて)、一部の集団はなぜ消滅し、これらの過程は考古学的に見られる物質文化の記録と変化にどのように関連するのか、といった問題にはほぼ沈黙しています。これらの問題には、単にゲノムと文化の変化の間の相関(関連記事)に注目するだけではなく、ゲノム記録と考古学的記録を今よりもはるかに統合する必要があります。結局のところ、文化的変化は人口集団の混合とは無関係に起きる可能性があり、全ての人口集団の混合が文化的変化につながるわけではありません。

 なお、オーストラレーシア人のゲノム兆候は最近になって、現在南アメリカ大陸太平洋沿岸に住むアメリカ大陸先住民で検出されました(関連記事)。これは、オーストラレーシア人のゲノム兆候の範囲と構造が、上述した既知の知見よりも大きいことを示唆します。オーストラレーシア人のゲノム兆候は太平洋沿岸経由でアメリカ大陸に到来した人口集団によりもたらされた、と推測されますが、その地域の古代人と、北および中央アメリカ大陸の古代人および現代人からのオーストラレーシア人のゲノム兆候の欠如は、まだ説明されていません。


参考文献:
Willerslev E, and Meltzer DJ.(2021): Peopling of the Americas as inferred from ancient genomics. Nature, 594, 7863, 356–364.
https://doi.org/10.1038/s41586-021-03499-y


https://sicambre.at.webry.info/202107/article_18.html

5. 2021年10月11日 12:50:42 : A5sZu4rx0I : YlFmL2IwWFlFYjI=[16] 報告
謎だらけの「マヤ文明」に関して現在解明されている事実【ゆっくり解説】
2021/10/10


6. 中川隆[-11875] koaQ7Jey 2024年1月01日 12:37:04 : 4Cxv7r7K76 : dUROZzNhRTBDWWs=[4] 報告
<▽41行くらい>
アメリカ先住民の起源
https://a777777.bbs.fc2.com/?act=reply&tid=16833139


アメリカ先住民の起源
http://www.asyura2.com/20/reki5/msg/353.html

ゲノム革命で明らかになる人類の移動と混血の歴史(ヨーロッパ人の起源&アメリカ先住民の起源) - YouTube
https://www.youtube.com/playlist?list=PLCFG6UvfbQfmuxgnoEeSvAbii1WEnJh0F

先住民族は必ず虐殺されて少数民族になる運命にある
http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/590.html

なぜ日本食は世界で人気があるのか _ ネイティブアメリカン料理
http://www.asyura2.com/12/idletalk40/msg/487.html

実は魅力ぎっしり、過小評価されている米大陸スキーリゾート7選
http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/302.html

1-9. 多民族国家 アメリカのY-DNA遺伝子調査
http://garapagos.hotcom-cafe.com/1-9.htm

人類最初のアメリカ到達は16,000年以上前であったことが判明
http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/613.html

カリブ海諸島の3200〜400年前頃の古代ゲノムデータを報告した研究や、
https://sicambre.at.webry.info/202006/article_12.html

カリブ海諸島の古代ゲノムデータをさらに拡張した研究や、
https://sicambre.at.webry.info/202012/article_34.html

先コロンブス期カリブ海における2回の大きな人類集団の移動
https://sicambre.at.webry.info/202012/article_34.html

アメリカ・インディアンの遺伝子 _ ハプログループ Q (Y染色体)
http://www.asyura2.com/20/reki5/msg/179.html

3-10. Y-DNA「Q」   異民族の侵入者フン族の痕跡調査
http://garapagos.hotcom-cafe.com/3-10.htm


7. 中川隆[-11578] koaQ7Jey 2024年2月15日 17:11:40 : 960Uqy8Mcb : SXlRMlhwR2lSVVE=[19] 報告
アマゾン川上流域の2500年前頃にさかのぼる都市化
https://a777777.bbs.fc2.com/?act=reply&tid=16839851
8. 中川隆[-10328] koaQ7Jey 2024年6月06日 07:27:15 : 8DVNcSFDhA : N0p6aWY2NmxaWWc=[1] 報告
埋もれた古代人骨が解明する!空白の1万年の謎...!!【ゆっくり解説 】
古代史ヤバイ【ゆっくり解説】2024/06/05
https://www.youtube.com/watch?v=ERzBu0tom6A
9. 中川隆[-9989] koaQ7Jey 2024年7月01日 07:02:04 : GAQLTeJuxI : MExOdVJIM3gxRzI=[8] 報告
<■510行くらい→右の▽クリックで次のコメントにジャンプ可>
雑記帳
2024年06月30日
チチェン・イッツァの被葬者のゲノムデータ
https://sicambre.seesaa.net/article/202406article_30.html

 マヤ文化の有名な都市であるチチェン・イッツァ(Chichén Itzá)の被葬者のゲノムデータを報告した研究(Barquera et al., 2024)が報道されました。チチェン・イッツァはメキシコのユカタン半島に位置し、マヤ文化の古典期後期および末期(600〜1000年頃)における最大級の都市とされています。本論文は、チチェン・イッツァの儀式的中心地にあるサグラド・セノーテ(Sacred Cenote、陥没穴)の近くのチュルトゥン(chultún、地下貯水槽)で発見された、500〜900年頃の未成年64個体のゲノムデータを報告しています。

 この全員男性である64個体のうち、2組の一卵性双生児を含めて約25%が密接な親族関係にある、と明らかになりました。この64個体は人身供犠の対象と考えられ、遠方地域ではなく、比較的近い地域の出身者と推測されています。チチェン・イッツァの古代の住民と現代の住民との遺伝的連続性も示されましたが、片親性遺伝標識(母系のミトコンドリアDNAと父系のY染色体)のうち父系ではヨーロッパや近東からの影響が過半数を占めていることや、HLA(Human Leukocyte Antigen、ヒト白血球型抗原)などヒトの免疫に関連する特定の遺伝子座での、植民地時代にこの地域にもたらされた感染症に起因する適応の痕跡が示唆されました。


●要約

 メキシコのユカタン半島の古代都市であるチチェン・イッツァは、古典期後期および末期(600〜1000年頃)における最大級で最も影響力のあった集落の一つで、メソアメリカにおいて最も集中的に研究されている考古学的遺跡の一つであり続けています。しかし、その儀礼空間の社会的および文化的用途や、その人口集団他のメソアメリカ集団との遺伝的なつながりに関しては、多くの疑問が未解決です。本論文は、チチェン・イッツァの儀式的中心地にある陥没穴近くの地下の集団埋葬地で発見された、500〜900年頃の未成年64個体から得られたゲノム規模のデータを提示します。

 遺伝学的分析から、分析された全個体は男性で、2組の一卵性双生児を含めて、複数の個体が密接な親族関係にあった、と示されました。双生児は、マヤおよびより広くメソアメリカの神話において重要な役割を果たしており、そこでは神々や英雄たちの二元論的特性を具現化しますが、これまで古代マヤの埋葬地で発見されたことはありませんでした。この地域における現代人との遺伝学的比較は、チチェン・イッツァの古代の住民との間の遺伝的な連続性を示しますが、HLAなどヒトの免疫に関連する特定の遺伝子座は例外で、植民地時代にこの地域にもたらされた感染症に起因する適応の痕跡を示唆しています。


●研究史

 マヤの古代都市であるチチェン・イッツァはユカタン半島の北部中央に位置しており(図1a・b)、メソアメリカで最大かつ最も象徴的な考古学的遺跡ですが、その起源と歴史についてはさほど理解されていないままです。古典期後期(600〜800年頃)において初めて台頭したチチェン・イッツァは、古典期末期(800〜1000年頃)にはマヤ北部低地の有力な政治的中心地となり、この期間には南部および北部低地のほとんどの他の古典期マヤ遺跡は政治的崩壊を経ていきました。チチェン・イッツァの彫刻された記念碑に刻まれた暦年代のほとんどは850〜875年頃に収まり、チチェンとして知られる遺跡の北部の儀式中心地はほぼ900年頃以後に建設され、チチェン・イッツァ遺跡で最大の建造物である、ククルカン(Kukulkán)寺院としても知られているエル・カスティージョ(El Castillo)でした。

 サクベ(石灰岩の舗装道路)は新チチェンをサグラド・セノーテとつなぐため連接され、サグラド・セノーテとは、巨大な陥没穴で、ほぼ子供である200人以上の儀式で犠牲になった遺骸など、豊富儀式の供物が含まれます。儀式殺人の証拠はチチェン・イッツァ遺跡全体で広範にあり、擬制になった個体の遺骸と記念碑的芸術の表現の両方が含まれます。チチェン・イッツァにおけるエリートの活動は11世紀に減少し、最後の刻まれた暦年代は998年ですが、チチェン・イッツァ遺跡は植民地時代およびそれ以降において顕著な儀式と巡礼の中心地であり続けました。以下は本論文の図1です。
画像

 1967年、100個体以上の未成年を含む再利用されたチュルトゥン(地下貯水槽)がサグラド・セノーテ(陥没穴)の近くで発見されました。そうした地下洞窟と象徴を共有しています。陥没穴については、チュルトゥンは貯水や儀式活動と関連しており、洞窟と象徴性を共有しています。そうした地下の特徴は長く水や雨や子供の犠牲と関連づけられてきており、マヤの地下世界への入口と広く考えられています。小さな地下洞窟ともつながっていたチチェン・イッツァ遺跡のチュルトゥンの場所と状況を考えて、トウモロコシ農耕の周期を支えるために犠牲にされたか、マヤの雨の神であるチャク(Chaac)への供物として捧げられた子供を含んでいる、と推測されてきました。16世紀のスペイン植民地時代の記録とサグラド・セノーテの浚渫後の20世紀初期の調査から、若い女性と少女がおもにチチェン・イッツァで犠牲となった、との理解が広がりましたが、最近の骨学的分析から、男女両方の身体がサグラド・セノーテに堆積していた、と示唆されています。

 マヤ地域全体の犠牲者群の体系的調査から、男女両方が儀式的殺害の対象だった、と確証されてきましたが、古典期のマヤ遺跡ほとんどの犠牲となった個体は学童期(6〜7歳から12〜13歳頃)なので、正確な性別分布は伝統的な骨学的手法のみを用いては判断できません。16世紀のスペインの資料には、そうした子供は誘拐や購入や贈物の交換により地元で得られた、と記録されていますが、最近の同位体研究では、サグラド・セノーテ内の少なくとも一部の個体は地元出身ではなく、遠くホンジュラスもしくはメキシコ中央部出身だったかもしれない、と示唆されています。とはいえ、1世紀以上の研究にも関わらず、チチェン・イッツァにおける子供の犠牲と儀式的な集団墓地としての地下施設の儀式的使用についての多くは、分かっていないままです。

 犠牲となった子供の起源および相互やこの地域の現在の住民との制す物学的関係をより深く理解するため、本論文は生物考古学とゲノムの手法の組み合わせを用いて、サグラド・セノーテの近くのチュルトゥン内の未成年64個体(図1c)を調査し、その64個体を近隣のティシュカカルツユブ(Tixcacaltuyub)町の現在の住民68個体、およびこの地域の他の利用可能な古代人および現代人の遺伝的データと比較しました。ティシュカカルツユブ共同体は長年この研究団に協力してきており、その視点がこの原稿の作成に情報をもたらしました。古代人の遺伝的データ分析や炭素(C)と窒素(N)の骨コラーゲン安定同位体分析と放射性炭素年代測定から、チュルトゥンの未成年は男性で、密接な親族が集団埋葬に存在し、それには2組の一卵性双生児が含まれる、と示されます。

 安定同位体分析から、親族関係にある子供はより類似した食べものを消費し、全体的にチチェン・イッツァの子供の食性はマヤ低地全域の他の古典期人口集団と類似していた、と示唆されます。他の古代人および現代人との遺伝的比較はマヤ地域における長期の遺伝的連続性を示しますが、HLAクラスII遺伝子座、とくに、サルモネラ菌(Salmonella enterica)感染に対するより大きな耐性を提供する、HLA-DR4アレルの、免疫遺伝子におけるアレル(対立遺伝子)頻度変化を示唆しています。サルモネラ菌感染は、メキシコ南部のオアハカ(Oaxaca)市の植民地期の集団墓地で以前に特定された腸炎熱(腸チフス)の原因媒体で、これは1545年のココリツトリ(cocoliztli)流行病と関連していました。


●ゲノムおよび免疫遺伝子データの生成

 チチェン・イッツァのチュルトゥン埋葬(以後、YCHと呼ばれます)で発見された古代の個体群から得られた骨標本が、専用施設で古代DNA研究用に設計された実施要綱に従って、収集・処理・分析されました。全ての骨格要素を明確に単一個体に割り当てることができなかったので、1回以上の個体の標本抽出を避けるため、左側錐体骨が収集されました。放射性炭素年代測定(26点)から、このチュルトゥンは7世紀初期におけるチチェン・イッツァ遺跡の最初の開花から10世紀の最盛期を経て12世紀半ばまで、少なくとも500年間使用されていた、と示されました。

 YCHの64個体全員からの古代DNA回収に成功しました。さらに、メキシコのユカタン半島のDNAはティシュカカルツユブ(Tixcacaltuyub、略してTIX)町の現代の住民68個体の血液標本から収集され、この地域の現代および古代の住民と比較されました。抽出されたゲノム資料はウラシルDNAグリコシラーゼ(uracil-DNA-glycosylase、略してUDG)処理(YCHについて)もしくは非UDG処理ゲノムライブラリ(TIXについて)され、DNAの保存と信頼性評価のため、約500万〜1100万の読み取り深度で配列決定されました。次に、11点の一本鎖のUDG処理ライブラリが構築され、YCH個体群の部分集合で分析可能なデータがさらに増加されました。

 nf-core/Eagerパイプラインの一部として実装された二つの手法で、許容可能な汚染量(5%未満)を確保するための品質管理評価が実行されました。すべてのTIX個体およびYCHの56個体では分析に充分なヒトDNAが得られ(0.1%以上)、再調整手順後に、これらのDNAライブラリが120万の祖先系統(祖先系譜、祖先成分、祖先構成、ancestry)情報をもたらす一塩基多型(Single Nucleotide Polymorphism、略してSNP)のパネル(124万SNP)と、ミトコンドリアDNA(mtDNA)ゲノムと、免疫遺伝子のパネルのため、さらに濃縮されました(関連記事)。濃縮されたゲノムライブラリの配列決定後に、ライブラリ1点あたり約4000万の読み取りが得られ、これらのデータで、さらに品質管理が実行され、集団遺伝学的分析とHLA分類が行なわれました。


●チュルトゥンにおける遺伝的親族関係と双子

 X染色体とY染色体のSNPの網羅率比較から、YCHの全未成年個体は遺伝的に男性に分類され、TIX参加者全員の記録された性別が確証されました(関連記事)。YCH個体群の不適正塩基対率(pairwise mismatch rate、略してPMR)は、2組の一卵性双生児(YCH018–YCH019およびYCH033–YCH054)と9組の他の密接な親族の組み合わせ(YCH016–CH017、YCH017YCH018、YCH017–YCH019、YCH034–YCH041、YCH036–YCH038、YCH042–YCH049、YCH047–YCH057、YCH049–YCH057、YCH059–YCH060)の存在を裏づけます。全体的に、儀式埋葬の分析された子供のうち25%(16個体)がチュルトゥン内の他の子供と密接な親族関係にあります。


●子供の食性の同位体パターン

 骨のコラーゲンのδ¹³Cおよびδ¹⁵N測定は、−13.9‰〜−7.6‰(平均および標準偏差=−9.9‰±1.5‰)の範囲のδ¹³C値と5.9‰〜14.0‰(平均および標準偏差=9.7‰±1.5‰)の範囲のδ¹⁵N値を提供しました。全体的に、これらの値は他の古典期マヤ低地遺跡と類似しており、ユカタン半島および他の古典期マヤ遺跡の食性証拠と一致しています。より高いδ¹⁵N値の一部の個体(たとえば、YCH004、YCH008、YCH023、YCH039、YCH047、YCH061)の食性は、水産資源を含んでいたかもしれませんが、社会的地位と関連している他の食性の差異か、授乳の影響の結果を示唆しているかもしれません。

 関連する動物相からのさらなる背景情報もしくは地元の基準同位体データがなければ、個々の食性をより正確に判断することは困難なままです。それにも関わらず、本論文のデータと刊行されている結果(古典期後期および古典期末期で調べられた450個体以上)との比較から、チュルトゥンの54個体は、さまざまな量のC₃タンパク質と組み合わされた顕著な量のC₄陸生資源と淡水および/もしくは海洋資源を消費した、と示唆されます。これは、記録された古典期マヤの食性に焦点を当てた以前の考古学的調査と一致します。関連する個体の同位体値は相互の近くに位置し、食性の類似性を示唆します。


●マヤ地域における遺伝的連続性

 世界規模の人口集団とアメリカ大陸の現在の個体群(関連記事)に基づいて、主成分分析(principal component analysis、略してPCA)が実行されました(図2)。メソアメリカ人口集団について予測されるように、YCHは世界規模のPCAでは混合していないアメリカ大陸先住民人口集団と密接にクラスタ化します(まとまります)。TIXの一部の個体はヨーロッパ人の方へと動いており、遺伝的混合が示唆されます(図2)。YCHとTIX両方の個体群は、現在のアメリカ大陸北部と中央部と南部の先住民人口集団(関連記事)に投影されると、マヤの現代人とクラスタ化します(図2a)。

 アフリカとヨーロッパとオセアニアとアメリカ大陸の人口集団の部分集合を用いた教師なし混合分析(図2b・c)は、YCH個体群における混合の兆候を示さず、TIX個体群についてはヨーロッパおよびアフリカ祖先系統の小さな寄与を示し、一部の個体(18個体)は非アメリカ大陸先住民の遺伝的寄与の兆候を示しません。カリブ海地域の古代の人口集団で最大化される遺伝的構成要素がベリーズのマヤ地域古代人とYCH個体群の両方に存在するものの(関連記事1および関連記事2)、マヤ地域とTIXの現代人の遺伝的構成にほぼ存在しないのに注目するのは興味深いことです。メソアメリカ(この構成要素はまだ検出されていません)の他の人口集団との混合もしくは遺伝的浮動が、マヤ地域の現代人から消えつつあるこの構成要素を説明できるかもしれません。以下は本論文の図2です。
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 現在および古代のアメリカ大陸人口集団との遺伝的類似性を検証するため、f₃形式(外群、標的、検証対象)の外群F₃統計が、外群としてサハラ砂漠以南のアフリカ人からムブティ人を、標的としてアメリカ大陸先住民人口集団のパネルを、検証対象としてTIXもしくはYCH個体群を用いて計算されました(関連記事)。YCHおよびTIX個体群両方で検出された最高の遺伝的類似性(図2)には、アメリカ大陸中央部および南部の集団が含まれました。TIX個体群は、チチェン・イッツァ遺跡の古代の個体群と最高の浮動を共有します(図2)。検証された古代の人口集団のうち、ベリーズ南部のマヤ山脈のマヤハク・カブ・ペク(Mayahak Cab Pek、略してMHCP)遺跡の9300年前頃の1個体(関連記事)とベリーズではあるもののもっと新しい状況の他の団関された個体群は、古代チチェン・イッツァ個体群と遺伝的に最も類似しており、マヤ地域における長期の遺伝的連続性が示唆されます。

 YCHおよびTIX個体群が、最高のF₃得点のアメリカ大陸先住民人口集団の部分集合を使い、f₄形式(ムブティ人、TIX、標的、YCH)のF₄統計を用いて、他のアメリカ大陸先住民人口集団とよりも相互の方と密接なのかどうか、検証されました。その結果、検証された標的のアメリカ大陸先住民人口集団の数集団がTIX個体群とより密節に関連している、と示唆されます。これが示唆しているかもしれないのは、TIX個体群がチチェン・イッツァの古代の住民と遺伝的に関連しているとしても、チチェン・イッツァの古代の住民と遺伝的に最も近い人口集団はもはや存在しないか、まだ標本抽出されていないかもしれない、ということです。

 次に、2個体群/集団が特定の人口集団参照一式と比較して同じ祖先系統供給源から派生する尤度を評価するqpWaveが適用されました。その結果得られたP値から、YCH個体群とマヤ地域の現代人集団は同じ祖先系統を共有している、と示唆されます。TIX個体群はYCH個体群とスペイン人とヨルバ人の混合としてモデル化でき、作業モデルは、アメリカ大陸先住民構成要素92%とヨーロッパ人からの遺伝的寄与7%とアフリカ人祖先系統0.03%()の組成を示唆します。遺伝的連続性の遺伝的最尤検定を用いて、TIX個体群はYCH個体群の直接的な遺伝的子孫人口集団である、と形式的に検証されました。

 YCHの53個体とTIXの全68個体について、ミトコンドリアDNA(mtDNA)ハプログループ(mtHg)を決定でき、その頻度(AとBとCとD)は両集団【YCHとTIX】間でほぼ同一です。しかし、より高水準の遺伝的解像度を表しているハプロタイプからは、mtDNAの多様性がTIX個体群よりもYCH個体群の方で高いことは明らかです。mtHgとmtDNAのハプロタイプ系統は、古代および現在両方のマヤ地域住民で以前に報告されたものに相当します。チチェン・イッツァ個体群(51個体)から回収された全てのY染色体ハプロタイプは(アメリカ大陸先住民で多い)Qの一部ですが、TIX個体群の半分以上(19個体)はヨーロッパ(47.37%)および中東(5.26)系統で、他のラテンアメリカ人口集団で以前に説明されてきたように、植民地時代およびその後の混合過程における強い性別の偏りを反映しています。


●マヤ地域住民における代謝経路のゲノミクス

 両人口集団【YCHとTIX】で生成されたSNPデータを用いて、LSBL(locus-specific branch lengths、遺伝子座固有の枝の長さ)が計算され、YCHとTIXの両個体群のゲノム規模選択について検証されました。2通りのLSBL比較が行なわれ、第一に、YCH個体群とスペインのイベリア人および中国の漢人(ともに1000人ゲノム計画のデータ)、第二に、TIX個体群とイベリア人およびYCH個体群で、YCH個体群とイベリア人からの選択の分離が検証されました。

 注釈付けされた上位0.5%のSNPのうち、YCH個体群では脂質代謝と関わる29個の遺伝子が見つかり、以前に報告された脂肪酸不飽和化酵素(fatty acid desaturase、略してFAD)遺伝子が含まれ、TIX個体群については20個の遺伝子が見つかり、FTOαケトグルタル酸依存二原子酸素添加酵素(FTO)と転写産物因子7様2(transcription factor 7 like 2、略してTCF7L2)が含まれ、両者ともラテンアメリカおよびとくにマヤ地域の人口集団における代謝特性と関連づけられてきました。アデニル酸環化酵素族(adenylate cyclase family、略してADCY)に属するような特定の遺伝子のSNPもTIX個体群では上位0.5%に入り、これは以前の報告と一致しますが、YCH個体群ではそうではなく、植民地時代の前後での選択の相違を示しているかもしれません。

 次に、GoWindaを用いて、濃縮された遺伝子オントロジー経路が検索されました。両集団【YCHとTIX】は代謝経路と関連する濃縮された遺伝子オントロジー期間を示しますが、YCH個体群が繁殖関連の生物学的過程(卵形成やステロイドホルモンに媒介されたシグナル伝達経路や排卵周期や発情周期など)における増加を示す一方で、コレステロールおよび脂質代謝経路期間(脂質生合成過程の負の調節やコレステロール恒常性やステロール恒常性など)はTIX個体群においてより顕著に現れます。


●HLA遺伝子は免疫における変化を示します

 免疫に関連する遺伝子については、YCH個体群とTIX個体群についてそれぞれ、上位0.5%の注釈付けされたSNPのうち15ヶ所と7ヶ所のHLA領域を検出でき、正の選択の兆候を示しています(図3)。YCHおよびTIXの両個体群で共有されているSNPはなく、北アメリカ大陸の北西部沿岸の古代および現代の先住民において先行研究で選択下にあると明らかになったSNPもありませんでした。YCH個体群で見つかったSNPが、HLAのB・DRB1・DQA1・DQA2・S・X・DOA・DQB1遺伝子もしくはその近傍領域に位置しているのに対して、TIX個体群のSNPは、HLAのC・DQA1・DQA2・DQB1遺伝子もしくはその周辺で見つかります。

 宿主と病原体のアレル特有の適応的免疫を伴う共進化多遺伝子座モデルを使用して、病原体からの選択は宿主の認識遺伝子座(HLA系におけるものなど)間の関連を維持するならば、遺伝子座におけるアレル(対立遺伝子)は連鎖不平衡にあるだけではなく、重複しない関連性も示すかもしれない、と示されてきました。その理由のため、重複しない関連性のパターンが分析され(図3)、YCHおよびTIX個体群とメキシコ南部のチアパス(Chiapas)州の高地の以前に分析されたマヤ地域のラカンドン人(Lacandon)における、HLA関連での病原体駆動選択について検証されました。HLA遺伝子座のさまざまな組み合わせ間のf*adjf*adj計量(重複しない関連づけの強度の順位付けに用いられる媒介変数)が測定されました。標準偏差の単位で、本論文で観察された非重複の量と、無作為化されたアレル関連づけで観察された非重複の量との間の違いも測定されました。以下は本論文の図3です。
画像

 古代のデータと比較すると、マヤ地域現代人のデータは、より高水準の非重複を有しているようで(図3a・b・c)、それは、分析された現代の人口集団がHLA遺伝子座において病原体への曝露に起因するかもしれない選択を経てきた、と示唆しているのでしょう。YCH個体群とTIX個体群のHLAアレル頻度を比較すると、8ヶ所のアレルで統計的に有意な変化が検出され、それは、いくつかの比較の補正後の、3ヶ所のHLAクラスIアレルと、5ヶ所のHLAクラスIIアレルです。YCH個体群と比較してTIX個体群において、アレルのHLA-B*40:02(0.2447対0.0821)とHLA-DQA1*03:03(0.1277対0.0224)とHLA-DQB1*04:02(0.1809対0.0299)で頻度が減少したのに対して、HLA-A*68:03(0.0532対0.2687)とHLA-B*39:05(0.0532対0.2687)とHLA-C*07:02(0.2021対0.3955)とHLA-DQB1*03:02(0.4894対0.7015)とDRB1*04:07(0.2340対0.4627)では頻度が増加しました。TIX個体群については、HLAハプロタイプの88%がアメリカ大陸先住民人口集団で以前に報告されており、そのうち10%はおそらくヨーロッパ人起源で、2%はアフリカ人のハプロタイプを表している、と分かりました。全てのYCH個体群のHLAハプロタイプは、アメリカ大陸先住民人口集団、とくにマヤ人で見られるものと一致します。

 HLAクラスII領域は以前に、16世紀アメリカ大陸におけるヨーロッパ人との接触の前後の選択事象およびサルモネラ菌感染に対する耐性が示唆されてきました。したがって本論文は、有意な変化のあるアレルがサルモネラ菌由来のペプチドにどのように反応するのか、検証することに関心を抱きました。そのために、免疫抗原決定基データベース(Immune Epitope Database、略してIEDB)分析情報源に実装されたNetMHCIIPan 結合予測法を用いて、ヒトにおいて免疫原性の証拠があるサルモネラ菌の18個のタンパク質が選択され、YCHおよびTIX両個体群で見つかった、コンピュータで計算された(in silico)HLAクラスII分子に、それらに由来するペプチドを提示されました。

 強い結合では、結合ペプチドはそのペプチドに対して免疫応答を起こす可能性が高い、と意味するのに対して、より弱い結合では免疫応答の誘発がさほど成功しません。最も強力なHLA-DRの結合体が、HLA-DRB1*14:02とHLA-DRB1*04:07とHLA-DRB1*16:02とHLA-DRB1*04:17であるのに対して、HLA-DQの最も強い結合はHLA-DQA1*05:01/DQB1*03:01とHLA-DQA1*05:05/DQB1*03:03とHLA-DQA1*03:01/DQB1*03:03でした。全体的に、HLAクラスII分子により示される強弱いずれかのペプチドの最少数は、HLA-DRアレルのDRB1*08:02およびDRB1*04:04およびDRB1*14:06と、以前に一覧が示された同じHLA-DQ分子です。大まかには、TIX個体群において、HLA-DRB1*04:07(強い結合体)とHLA-DQB1*03:02(弱い結合体、HLA-DRB1*04:07との連鎖不平衡)の頻度が上昇するのに対して、HLA-DQA1*03:03とHLA-DQB1*04:02は低下し、弱い結合体です。


●考察

 考古遺伝学は、より伝統的な考古学的手法を用いての推測は困難かもしれない、過去のマヤ地域の期時期感光生物学的親族関係や遺伝的歴史の側面の調査機会を提供します。本論文は、チチェン・イッツァの古代都市マヤのサグラド・セノーテの近くに位置する、古典期のチュルトゥンに500年間にわたって儀式的に埋葬された未成年遺骸64個体を調べました。サグラド・セノーテのヒト遺骸とは対照的に、チュルトゥンの分析された全未成年は男性と分かり、この状況における男児の儀式的犠牲への強い選好を論証します。遺伝学的分析は、チュルトゥン内における親族関係にある個体の存在も示し、それには2組の一卵性双生児と9組の他の親族の組み合わせが含まれます。そうした双子の自然的な発生率は一般人口のわずか0.4%なので、チュルトゥンにおける一卵性双生児2組の存在は、偶然により予測されるよりずっと高くなります。

 全体的に、子供の25%は遺骸群内で密接な親族を有しており、犠牲にされた子供はその密接な生物学的親族関係のため特別に得らばれたかもしれない、と示唆されます。さらに、これはチュルトゥンにおける親族の実際の人数を過小評価しているかもしれず、それは、チュルトゥンにおいて推定された106個体のうち64個体のみで、分析に利用可能な左側側頭骨の錐体部が保存されていたからです。各一式で密接な親族関係にある子供のが、類似した食事を消費しており、同様の死亡年齢であるように見えるさらなる発見から、そうした子供たちは1組もしくは双子の犠牲として同じ儀式行事中に犠牲にされた、と示唆されます。

 双子はマヤ神話ではとくに縁起がよく、双子の犠牲は、起源がマヤ先古典期にさかのぼるかもしれない本である『ポポル・ヴフ(Popol Vuh)』と呼ばれている、神聖なキチェ人(K’iche’)の評議会書の中心的主題です。『ポポル・ヴフ』では、双子のフン・フナプ(Hun Hunapu)とヴクブ・フナフプ(Vucub Hunahpu)が球技で負けた後に、神により冥界に下され、犠牲にされます。その後、フン・フナプの頭はカラバッシュの木に吊るされ、そこで処女を受精させ、この女性は2組目の双子であるフナプとイシュバランケー(Xbalanque)を生みます。これらの双子は英雄の双子として知られており、その後、冥界の神を出し抜くため、犠牲と復活の繰り返しの周期を経ることにより、その父親とオジのための復讐を続けます。英雄の双子とその冒険は、古典期マヤ芸術において豊富に表現されており、地下構造が冥界への入口とみなされていたことを考えると、チチェン・イッツァにおけるチュルトゥン内の双子とその親族の犠牲は、英雄の双子に関わる儀式を想起させるかもしれません。

 チュルトゥンの未成年をマヤ地域の他の古代および現在の人口集団と比較すると、長期の遺伝的連続性の証拠が見つかり、それはチチェン・イッツァにおける犠牲とされた子供やキョウダイの組み合わせが近隣の古代マヤ共同体から得られたことも示唆しています。TIXの現在の個体群では、ヨーロッパ勢力との接触期以降のヨーロッパ人およびアフリカ人との混合の証拠が検出されます。非アメリカ大陸先住民供給源からの祖先系統の寄与はゲノム規模水準では低いものの、片親性遺伝標識に関してはひじょうに非対称的です。TIX個体群では、すべてのmtHgがアメリカ大陸先住民系統であるのに対して、Y染色体ハプログループ(YHg)の半分以上は非アメリカ大陸先住民系統で(ほぼヨーロッパおよび中東/地中海起源で、以前の報告と一致します)、ヨーロッパ勢力との接触期における非アメリカ大陸先住民祖先系統への強い男性の偏りが起きた、と示唆されます。

 集団遺伝学的分析(混合特性とF₃およびF₄と遺伝的連続性検証)で判断されたマヤ地域集団における遺伝的類似性により、古代(YCH個体群)と現在(TIX個体群)のマヤ地域における選択の検証のため、機能的多様体をコードするゲノム領域における変化の調査が可能となりました。本論文の調査結果は、脂質代謝と繁殖の両方がアメリカ大陸先住民では最近選択されてきた特性で、それは恐らく、植民地時代初期および定住期におけるこれらの人口集団の経てきた強いボトルネック(瓶首効果)とカロリー制約に起因する、との以前の仮説を裏づけます。

 チチェン・イッツァで分析された個体から得られたδ¹⁵N値の観察された標準偏差(1.5)は、これまでに分析された全ての古典期後期〜末期のマヤ遺跡のうち最高です。マヤ地域における古食性の再構築から得られた全体像は、おひらくトウモロコシであるC₄食料の顕著な量の消費を示しますが、地理的差異が利用可能な食料における微細環境の違いと交易網の変動性に反映されています。この変動性を説明するため、チチェン・イッツァで犠牲にされた個体のかなりの割合がわずかに異なる食事を消費していた地元ではないマヤ人だったかもしれない、と想定できます。あるいは、先行研究では、古典期マヤのエリートの食性パターンは経時的に一般人口より大きな変動性を示す、と示唆されています。この変動性は、アルトゥン・ハ(Altun Ha)やベイキング・ポッ(Baking Pot)など他の場所で観察されたδ¹³Cおよびδ¹⁵Nの標準偏差にも反映されています。したがって、分析されたチチェン・イッツァの個体群で観察されたタンパク質摂取津の違いも、社会的地位の差異を示唆しているかもしれません。

 観察されたδ¹⁵Nの変動性が母乳育児の結果であることも、必ずしも除外できず、それは、標本抽出された遺骸が3〜6歳の間と推定されている個体に由来するからです。したがって、他の背景情報がない場合には、特定の食性の差異の解釈には注意が必要です。本論文のデータから、DNAが密接な遺伝的関係を示す個体はより類似したδ¹³Cおよびδ¹⁵N値を示し、そうした個体は同様の世話と食事を提供した拡大家族網で育ったかもしれない、と示唆されます。

 遺伝的検証から得られた遺伝的浮動の値が意味するのは、TIX個体群の祖先は過去1000年間ほどのある時点で深刻な人口減少を経た、ということです。16世紀を通じて、戦争と飢饉は疫病が人口減少をもたらした、と論証されてきており、ヨーロッパ人の接触時期に現在のメキシコに暮らしていた1000万〜2000万人の先住民は16世紀すえにはわずか200万人と、最大で90%人口が減少したかもしれません。天然痘や麻疹やおたふく風邪やインフルエンザやタバルディヨ(tabardillo)もしくはマトラルザフアトル(matlalzahuatl)と呼ばれる発疹チフスや腸チフスや風疹や百日咳やガロッティッロ(garrotillo、深刻なジフテリア)や風土病性赤痢や三次熱(マラリア)や梅毒などの感染症は、植民地時代メソアメリカにおいて大規模な発生を引き起こし、人口減少に寄与し、おそらくは免疫関連遺伝子座での選択を引き起こした、と主張されてきました。

 HLAクラスII領域は以前に、アメリカ大陸の植民地期において選択事象を経てきた、と報告されました。注目すべきことに、YCH個体群をTIX個体群と比較した場合に頻度が変化したアレルのうち3ヶ所はHLAクラスIIの一部である、と分かり、これはLSBL分析で見つかったSNPによりさらに裏づけられる調査結果です。それらのアレルのうち1ヶ所(HLA-DRB1*04:07)は、南アメリカ大陸とアジア東部においてサルモネラ菌亜種により引き起こされる腸チフスへの耐性と関連している、と以前に報告されたアレル群(HLA-DR4)に属しています。最近、考古遺伝学的研究は、1545年のココリツトリ流行病と関連する集団埋葬においてサルモネラ菌パラチフスC(Salmonella enterica sp. Paratyphi C)の存在を特定しており、全ての記録されている植民地時代の流行病の最高の死亡率であるこの流行病の少なくとも一つの原因媒体だった、と示唆されます。古代のサルモネラ菌株のゲノム解析は、16世紀におけるアメリカ大陸へのその到来を強く裏づけます。

 現在のマヤ人とメキシコ人で一般的に観察されているHLA-DR4アレル群の増加は、疫病事象とその後の病原体への持続的な曝露により引き起こされた選択と一致します。HLAアレル間の非重複関連のさらなる調査は同様に、現在のマヤ地域人口集団が、病原体選択を経てきて、それがYCH個体群よりも重複の少ないHLAとの関連を促進したことと一致します。コンピュータで計算された結合予測分析も、HLA-DRB1*04:07をサルモネラ菌由来のペプチドへの強い結合体として示しますが、マヤ地域の現代人で有意に減少しているHLA-DQB1*04:02とHLA-DQB1*03:03は同じペプチドに対してより弱い結合体です。まとめて検討すると、各証拠は植民地時代における疫病事象に応答してHLA領域で起きた(複数の)選択事象を示しています。そうした選択は、1545年の強烈なココリツトリ流行病と、16世紀初頭以降のマヤ地域における疫病事象の回数の多さに直面して、予測されるでしょう。アレルの重ならない組み合わせを有するハプロタイプが偶然に非疾患関連のボトルネックを生き残ったことは除外できませんが、そうした仮定的状況はおそらく、古代の人口集団にすでに存在したアレルの頻度増加をもたらすでしょうが、それは本論文では観察されません。

 本論文は、チチェン・イッツァにおける後期〜末期古典期マヤの詳細な肖像を示しており、この地域の古代の住民のゲノムの遺産が、この古代都市の周辺地域に暮らす共同体に依然として存在する、と示唆されます。男児の儀式的な集団埋葬一卵性双生児2組や他の密接な親族の発見から、若い少年がその生物学的親族関係およびマヤ神話における双子の重要性のため犠牲に選ばれたかもしれない、と示唆されます。本論文では、ゲノム規模水準で、TIXの現在のマヤ人がかつてチチェン・イッツァに暮らしていた古代のマヤ人と遺伝的連続性を示す、と分かり、いくつかの証拠を通じて、植民地時代にヨーロッパ人によりアメリカ大陸にもたらされた感染症により引き起こされた病原体による、(複数の)選択事象におけるHLA領域の関わりが論証されます。以下は『ネイチャー』の日本語サイトからの引用です。


考古学:マヤ文明の人身供犠儀式の詳細が古代ゲノムの解析により明らかに

 マヤ文明の古代都市チチェン・イッツァで500年の間に人身供犠の対象になったとみられる64人の古代DNAの解析が行われ、マヤ文明の埋葬儀式を洞察する手掛かりが得られたことを報告する論文が、Natureに掲載される。今回の知見から、地下貯蔵庫で発見された多くの個体が近縁関係にあることが明らかになり、マヤ地域で現在まで遺伝的連続性が認められることが示された。

 メキシコのユカタン半島に位置する古代都市チチェン・イッツァは、マヤ文明の古典期終末期(西暦800〜1000年)の主要な集落の1つだった。この遺跡全体で、人身供犠儀式があったことを示す証拠が数多く見つかっており、その1つがサグラド・セノーテだ。サグラド・セノーテは、大きな陥没穴で、200体以上の遺骸が埋葬されていた。しかし、儀式の詳細については明らかになっていない。

 1967年にサグラド・セノーテの近くで発見されたチュルトゥン(地下貯水槽)に、成人間近の人々の遺骸100体以上が収容されていたことが明らかになった。今回、Rodrigo Barquera、Oana Del Castillo-Chávez、Johannes Krauseらは、そのうちの64体から古代DNAを回収し、解析した。そして、放射性炭素年代測定法によって、このチュルトゥンが紀元7世紀初頭から12世紀半ばまで使用されていたことが示された。また、遺伝的解析の結果、64個体が全て男性で、解析された個体の約25%が近縁関係にあり、2組の一卵性双生児が含まれていることも判明した。これに対して、サグラド・セノーテで発見された遺骸は、若年成人女性と男女の子どもの遺骸だった。著者らは、子どもを供犠する儀式は、作物の収穫量と降水量の確保に役立てるためだったと推測されており、マヤ神話には、双生児を供犠することが記述されていると指摘している。

 今回の研究では、チュルトゥンで発見された個体の素性が明らかになっただけでなく、この地域の現代人との遺伝的比較によって遺伝的連続性も明らかになった。この知見は、人身供犠の対象になった人々が、遠く離れた地域の出身者ではなく、マヤの近傍のコミュニティーの出身者であったことを示唆している。また、著者らは、免疫に関連する遺伝子の塩基配列の多様性を見いだした。このことは、植民地時代にこの地域に持ち込まれたパラチフスC菌などの流行性病原体による適応を示している可能性がある。

 以上の知見を考え合わせると、チュルトゥンの事例では男児の人身供犠が好まれたことが示唆され、マヤの人々の遺伝的歴史を洞察する手掛かりが得られた。


参考文献:
Barquera R. et al.(2024): Ancient genomes reveal insights into ritual life at Chichén Itzá. Nature, 630, 8018, 912–919.
https://doi.org/10.1038/s41586-024-07509-7

https://sicambre.seesaa.net/article/202406article_30.html

10. 中川隆[-9986] koaQ7Jey 2024年7月01日 07:08:33 : GAQLTeJuxI : MExOdVJIM3gxRzI=[11] 報告
マヤ文明滅亡の原因
http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/670.html

メキシコの初期植民地時代の奴隷の起源と生活史
http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/979.html

アマゾン盆地に点在する「小さな森」が1万年以上昔に農業が行われていた痕跡だと判明
http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/973.html

先コロンブス期のポリネシア人とアメリカ大陸住民との接触
http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/999.html

人類最初のアメリカ到達は16,000年以上前であったことが判明
http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/613.html

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