http://www.asyura2.com/20/reki5/msg/138.html
Tweet |
(回答先: エンデの遺言 利子ゼロの政府紙幣・地域通貨の時代が来た 投稿者 中川隆 日時 2020 年 5 月 22 日 06:09:43)
政府紙幣発行政策の誤解 経済コラムマガジン 03/5/5(第295号)
http://www.adpweb.com/eco/eco295.html
政府紙幣の意味
4月27日、日曜の日経新聞に「政府紙幣」に関するコラムが掲載されていた。執筆者は編集委員の滝田洋一氏である。タイトルは「太政官札の轍踏むな」である。この2週間ほど前にコロンビア大学のスティグリッツ教授が日経の招きで来日し、シンポジウムで意見を述べたり、講演を行った。
教授は、デフレに陥っている日本経済に処方箋をいくつか提案している。「円安誘導」「銀行システムの立直し」と言ったありきたりの政策に加え、なんと「プリンティングマネー(政府紙幣)の発行」をスティグリッツ教授は提案した。これは各方面に衝撃を与えており、今日波紋がひろがりつつある。これはまさに筆者達が以前から主張していた政策である。
ところが日本には、政府貨幣(紙幣)に関する文献は極めて少ない。一緒に政策を主張している小野盛司氏のところにも、あるテレビ局から、氏の著書である「政府貨幣発行で日本経済が蘇る」を至急送ってくれるよう依頼がきているほどである。やはりスティグリッツ発言の影響は大きかったのである。「政府紙幣とは一体何だ」というのが世間の印象である。お札といえば日銀券と思っている人がほとんどである。経済学者やエコノミストも日銀券と政府貨幣(紙幣)の区別がつかないようである。
この政府紙幣発行に対して色々の反論や解説がなされている。しかしそれらのほとんどが間違っているか、的外れである。このような反論を行っている人物達が、日銀の理事だったり、リチャード・クー氏なのだから、こちらも驚く。それほど日本においては政府貨幣(紙幣)に対する知識や情報が乏しいのである。
まず政府紙幣と日銀券の違いを簡単に説明しておく。日銀が発行する日銀券は日銀の債務勘定に計上される。つまり日銀の借金である。もちろん今日の日銀券は兌換紙幣ではないので、これを日銀に持っていっても金に換えてくれない。このような不換紙幣である日銀券が流通しているのも、日銀の信用があるからである。しかし日銀の信用と言っても、実際はバックにいる国家の信用である。
一方、政府貨幣(紙幣)も国家の信用で発行するお札である。政府貨幣の材質は政令で定めることになっており、金属でも紙でも良い。紙の場合が政府紙幣ということになる。また今日流通している10円玉や100円玉といったコインも政府貨幣である。つまり日本においては政府貨幣(紙幣)は、既に立派に流通しているのである。ただ日銀券より政府貨幣の方が、流通している金額がずっと小さいだけである。もちろん今日の法律でも高額の政府紙幣を発行することは可能である。要は政府の決断一つにかかっている。
日銀券と政府紙幣の違いは、日銀券が日銀の債務に計上されるのに対して、政府紙幣は国の借金にならないことである。今日のコインにもいえることであるが、額面からコインの製造経費を差引いた額が国の収入になる。たとえば500円硬貨を製造するのに50円かかった場合には、差額の450円が貨幣鋳造益として政府の収入に計上される。要するに500円硬貨が世の中で「500円玉」として認められれば良いのである。
スティグリッツ教授の主張は「この政府貨幣(紙幣)の発行をもっと大規模に行え」ということである。さらに重要なことはこの貨幣鋳造益や紙幣造幣益を『財政政策』に使えと提案しているのである。今日、国債の発行が巨額になり、政府は「30兆円枠」に見られるように、財政支出を削ろうと四苦八苦している。しかしこれによってさらに日本のデフレは深刻になっている。そこで教授は、国の借金を増やさなくとも良い政府紙幣を発行し、その紙幣造幣益を使って、減税や公共投資を行えば良いと提案しているのである。
幼稚な反論
しかしこれらの政府貨幣(紙幣)発行への反対論があまりにも幼稚過ぎる。一つはお札が、日銀券と政府紙幣ということになれば、世の中が混乱するというものである。しかし政府が政府紙幣(貨幣)を作成し、それを日銀に持ってゆき、日銀にある国庫(政府預金口座)に入金してもらえば、政府貨幣発行となる(「通貨の単位及び貨幣の発行等に関する法律」(昭和62年法律第42条)第4条3項)。財政支出を行う時には日銀券を使うのである。この方法を用いれば、世間に流通するお札は日銀券だけで済む。また日銀には政府紙幣(貨幣)という資産が計上されることになる。
しかしこれに対して、これは結果的に日銀券の増発に繋がるという批難が考えられる(ところが不思議なことに、心配されて当り前と思われるこのようなことが全く指摘されていないのである)。まず日銀券の増発、つまり通貨の増発はインフレの原因になる。しかしそこがまさにスティグリッツ教授が主張したいところである。今日の日本経済のようにデフレに陥った場合には、通貨増発といったインフレ政策が必要なのである。
スティグリッツ教授も、無闇やたらに政府紙幣を発行しろとは言っていないはずである。大きなデフレ・ギャップが存在する日本では、相当の額の政府紙幣を発行できると言っているだけだ。またこの政策によって、もし物価上昇率が限度額を越えるようならば、政府紙幣の発行をセーブすれば良いのである。もっとも経済がそのような状態になったことこそが、日本経済が相当上向いているを示す。つまり問題となっているデフレが克服されることを意味するのである。
もちろんこの場合には、過度の物価上昇を抑制するためインフレターゲット政策を行うことも一案である。インフレ目標政策は、英国などでうまく行っているのであるから、日本ではうまく行かないと考えることはない。むしろ物価が上昇するような経済活性策がないのに、インフレ目標政策と言っている今日の政府の方がおかしい。彼等は念力で物価を上げるというのか。また物価だけが上がれば良いという考えも根本的に間違っている。物価上昇は、遊休設備が稼動し、失業が解決し、設備投資が生まれる結果として起るべきである。むしろ小泉政権に見られるように、単に物価が上がれば良いという感覚が異常である。
もう一つの大きな誤解は、政府紙幣が発行されても、日銀券が政府紙幣に置き換わるだけであり、経済に何の影響を与えないという意見である。たしかに公務員の給料支払いを日銀券ではなく政府紙幣で行ったり、国債の買いオペを政府紙幣で行えば、そのようなことになる。もっともその分だけ国の借金は増えないが。しかしそのようなばかげたことを主張するため、わざわざスティグリッツ教授が来日し、政府紙幣に関した発言を行うはずがない。
当然、今日行われている経済政策にプラスして、政府紙幣を発行による財政政策を行えと言っているのである。今日、日本には巨額のマネーサプライ残高が存在している。しかしその大半は凍り付いている。金が動かないのである。巨額のマネーサプライが存在するのに、人によっては金不足になっている。経済がこのような状態になれば、政府が財政政策を行う他はない。財政政策によって、所得の発生を伴うマネーサプライを増やすことが肝腎である。これこそが教授の言いたいことである。
ところで政府紙幣を造幣し、それを日銀に入金し、それを財政政策に使うとなれば、先ほど述べたように、当然日銀券を増発することになる。場合によっては、日銀券の大増発である。たしかに以前ならこれは問題になった。しかし平成10年4月から施行されている改正日銀法では、旧法で課されていた日銀券発行に対する保証条件がすべて撤廃された。つまり日銀は、自由かつ無制限に日銀券を発行できるようになっているのである。まるで今日の状況を予見していたような法改正がなされていたのである。
しかし筆者は、スティグリッツ教授の提案に対して、経済の専門家からこのような初歩的で的外れの疑念や批難が続くこと自体を危惧する。このような状況では、いきなり政府紙幣発行はちょっと無理かもしれない。このように混乱している議論に対して、黒田東彦内閣官房参与(前財務省財務官)が「日銀がもっと大量に国債を購入することが現実的」と発言している。これは穏当な意見であり、筆者もこれに同感せざるを得ない。ちなみに黒田前財務省財務官は、以前からリフレ(穏やかなインフレ)政策を主張している。
政府紙幣の発行も、日銀による国債購入も実質的に国の借金にならない。そこで政府紙幣への理解が進まないようなら、まず日銀の国債購入によって積極財政政策のための資金を賄う他はない。ただ日銀による国債購入には難点がある。日銀は国債購入の限度を日銀券の発行額と一応定めているのである。これがネックとなる可能性がある。したがって日銀がどうしても限度額にたいして柔軟な姿勢を示せないなら、最後の手段として政府貨幣(紙幣)のオプションは取って置くべきである。
前段が長過ぎ、本題に入れなかった。来週号は滝田洋一氏の「太政官札の轍踏むな」へ徹底的な反論を行う。
岩田一正日銀副総裁の「日銀の独立性うんぬん」の意見は論外にして、それにしても政府紙幣に対して、経済の専門家と言われている人々の認識が低すぎる。おそらくスティグリッツ教授もあきれはてて米国に帰ったと思われる。今日の日本の経済がどのような状況にあり、このままだとどこまで落込むのか、スティグリッツ教授に食って掛かっていた人々には全く認識がないと言える。教授は真摯に日本のことを考えて、アイディアを提供しているのである。
教授も「政府紙幣発行」なんてとてもオーソドックスな政策とは考えていない(実際、教授も博士号を剥奪されるかもしれないと冗談を言っているくらい)。しかしあえてそのような政策が必要な段階まで、日本経済は窮地に追込まれている。教授に反論していた人々は、政府紙幣に関してほとんど知識がないなら、もっと謙虚になるべきである。教授は日本人に対して「単に物づくりに異常に長けているだけであり、こと経済理論や経済政策に関しては小学生」という印象を持ったはずである。経済の混迷が10年以上続いているのに、いまだ経済政策が迷走しているのを見ていると、日本はどうしようもない。
14日のシンポジウムの様子が30日の日経に掲載されていた。しかし議論は錯綜しており、日本のエコノミストはほとんどスティグリッツ教授の言っていることを理解していない。せっかくフィッシャー理論を持出して、資産デフレの悪影響に言及しているのに、これに対する反応が全くない。日本のエコノミストはあいかわらず「規制緩和」「生産性の向上」「金融政策の浸透」と言った、実現性がないだけでなく、効果もはっきりしない(効果の測定さえ困難)な政策を訴えている。教授が指摘しているように、まず必要な政策は大胆な需要政策である。これによって経済が活性化し、うまく資産デフレが止められるかがポイントである。
5月4日のサンデープロジェクトは、日本のデフレがメインテーマであった。それにしても経済学者・エコノミストそして政治家達の意見は実に悲惨であった。それにしても「徹底した規制緩和」「予算の組替えで経済が回復する」「銀行の経営者をくびにしろ」はいい加減に止めてもらいたい。何もアイディアがないのなら、テレビ出演を断わるべきだ。特に「銀行の経営者をくびにしろ」は出来の悪い若手の銀行員がよく言っていることである。彼等は上がくびになれば、自分達の出世が早くなると考えているだけである。
http://www.adpweb.com/eco/eco295.html
▲△▽▼
経済コラムマガジン 03/5/12(第296号)
http://www.adpweb.com/eco/eco296.html
滝田洋一氏への反論
•明治の政府紙幣
先週号に続き、4月27日日経新聞の滝田洋一編集委員のコラム「太政官札の轍を踏むな」を取り上げる。ところで不思議なことにどういう訳か、経済が不調になると、むしろデフレを加速させるような「おろか者」の主張が支持を受けるのである。たとえば戦前の昭和恐慌時、浜口・井上コンビのデフレ政策は、当初、大衆の大歓迎を受けたのである。最近では、橋本政権、小泉政権の「改革」という名のデフレ政策である。どうしても滝田氏の論調には、これらに通じるものがある。
最初に滝田氏のコラムで問題になるいくつかの箇所を指摘する。同時にこれらが滝田氏のコラムのポイントでもある。このコラムを読んでいない読者もいると想われるので、これらを列記する。「明治元年(1868年)から12年(1879年)まで明治政府が発行した太政官札」「お札といえど庶民からそっぽを向かれると紙切れになる」「政府と離れた中央銀行(日銀)をつくってお札の発行を任せることになったのもそうした苦労の産物」などである。つまり滝田氏のコラムの狙いは、先週号で触れたスティグリッツ教授の「政府紙幣発行政策」の提案を否定することと思われる。
まず太政官札(金札・きんさつ)が発行されたのは、明治元年と明治2年だけである。発行額の合計は4,800万両(明治4年より両という呼称は円に変更。つまり4,800万円)であった。さらに民部省札が69年から70年に750万両発行されている。これは太政官札が高額紙幣だったので、小額紙幣として発行された。当初、民部省札は太政官札との交換を予定していたが、財政難から結果的に政府紙幣の追加発行となった。
さらに明治新政府は、71,72年に大蔵省兌換証券680万両、72年開拓使兌換証券250万両を発行した。これらは二分金との兌換を約束された兌換証券であった。しかしこれは建前だけであり、事実上不換紙幣であり、現実には政府紙幣であった。
明治5年(1872年)から明治10年(1877年)の間に「新紙幣」と呼ばれる政府紙幣が1億4,679万円も発行されている。それまでの太政官札(金札)以下の政府紙幣の造作が急ごしらえで粗雑だったので、もう少し本格的な紙幣らしいものを発行したのである。これは当初、太政官札以下の政府紙幣や、当時まだ流通していた藩札との交換を目指して発行された。たしかに「新紙幣」の6割くらいは、これらに使われた。しかし残り4割は為替会社への貸付や西南の役の戦費に流用された。さらに明治14年(1881年)から明治18年(1885年)にかけて、改造紙幣と言う政府紙幣が6,440万円発行されている。これは紙幣贋造を防ぐため、印刷技術が進んでいたドイツのドンドルフ・ナウマン社に発注したものである。そして明治18年(1885年)に、初めて日銀から兌換紙幣が発行されたのである。
しかし明治初期の頃の各藩の藩札を別にして、紙幣を発行したのは政府だけではない。名前は国立銀行であるが、実体は民間銀行であったナンバー銀行も紙幣を発行した。渋沢栄一の第一銀行などである。当初、国立銀行には厳しい制限があり、発行できる紙幣も兌換紙幣だけであった。このため国立銀行は4行のみと、設立は足踏み状態であった。しかし明治9年(1876年)国立銀行条例が改正され、資本金の10分の8まで銀行券が発行できるようになった。当初、兌換紙幣発行を目的としたはずの国立銀行までが、不換紙幣を発行できるようになっていたのである。ちなみに明治15年(1882年)には143行もの国立銀行が存在していた。
このように当時は、政府だけでなく国立銀行までが不換紙幣を発行していた。しかし明治10(1877年)までは物価上昇は限定的であった。ちなみに次の表は明治初期の物価指数の推移である。
東京と大阪の物価指数((明治2年を100))
http://www.adpweb.com/eco/eco296.html
東 京 大 阪
明治1年
82 71
明治2年
100 100
明治3年
104 89
明治4年
103 66
明治5年
113 55
明治6年
114 59
明治7年
117 69
明治8年
120 66
明治9年
125 57
明治10年
112 60
これは明治の初期に大きなデフレ・ギャップが存在しており、不換紙幣の発行によって通貨が大量に発行されても、物価が上昇しなかったのである。むしろ通貨の大量流通によって明治初期の経済は活性化したと言えるのである。
•兌換紙幣と不換紙幣
局面が変わったのは、明治10年の西南の役の頃からである。一説では、この戦争の戦費は4,156万円かかっている。明治5年から発行された政府紙幣の「新紙幣」の発行額は合計で1億4,679万円であり、この約20%の2,900万円が西南の役に使われている。つまり戦費の約70%を政府紙幣で賄ったことになる。たしかにこの戦費支出がインフレの一因となっている。ちなみに物価上昇率を表す金貨や銀貨に対する紙幣平均相場は、当時、次の表の通り推移している。なお数字は、金貨・銀貨それぞれ1円に対する紙幣の価格である。
紙幣年平均価格の推移
http://www.adpweb.com/eco/eco296.html
対金貨 対銀貨
明治9年
1.01 0.99
明治10年
1.04 1.03
明治11年
1.16 1.10
明治12年
1.34 1.21
明治13年
1.57 1.48
明治14年
1.84 1.70
明治15年
1.69 1.57
明治16年
1.39 1.26
明治17年
1.20 1.09
明治18年
1.21 1.06
この表を見ても明らかなように、明治10年の西南の役以降、物価が上昇し、段々紙幣の価値が下落している。ところでこれまで筆者は、この頃のインフレの原因を西南の役の戦費と説明して来た。しかしもっと調べてみると、どうもインフレの原因はこれだけではなさそうなのである。当時、明治政府は、旧体制の解体費用の捻出(旧武士階級への秩禄処分など)や殖産興業政策を行っており、どれだけでも資金が必要だったのである。特に大隈重信大蔵大臣などが、インフレ容認政策によって日本の資本主義化を急いだため、このような物価の騰貴を生んだ可能性が強い。
たしかにここまで急激に物価が上昇すると、金利も上昇し、むしろ産業の発展の障害となって来た。この頃には、デフレ・ギャップが消滅し、反対にインフレ・ギャップが発生していたのである。そこで大隈重信は一転、増税による公債・政府紙幣の償却によるインフレの抑制や、官営工場の払下による政府財政負担の軽減などを行った。しかし大隈重信は明治14年(1881年)の政変で失脚した。表の数値のようにインフレのピークも1881年であり、インフレ対策が効果を示し始めた矢先に大隈重信は失脚したのである。
大隈重信の次の大蔵大臣が松方政義である。松方は大隈重信の政策をさらに押進め、緊縮財政と紙幣整理を強引に行った。しかし世の中は、インフレから一転し、デフレとなった。これが有名な松方デフレである。しかし大隈重信時代に既にインフレ終息のメドはたっており、松方のデフレ政策は余計であったという意見がある。表を見る限り、筆者もおそらくその意見が正しいと考える。松方が何もしなくとも、なだらかにインフレは終息していたと思われるのである。インフレ・ギャップの方もそれほど大きくなかったのである。
滝田洋一氏のコラムの話に戻る。これまでの説明のように「明治元年(1868年)から12年(1879年)まで明治政府が発行した太政官札」は話にならないくらいデタラメである。太政官札が発行されたのは、明治元年と明治2年だけである。また少なくとも明治10年までは、物価は極めて安定的に推移している。
また「お札といえど庶民からそっぽを向かれると紙切れになる」も事実無根である。たしかに当初、明治維新政府に信頼はなく、太政官札も大量に発行したため、うまく流通せず、価値は正貨の40%くらいまでに一時的に暴落した。そこで新政府は、発行額を限定し、将来政府発行の新紙幣と交換することを宣言した。これは太政官札(金札・きんさつ)の造りがあまりにもちゃち過ぎたことが、ある程度影響していると思われる。
筆者も写真で現物を見たが、これは酷い。紙幣というより、何かの証文か札(ふだ)のように見える。おそらく日本で紙幣のことをお札(さつ)と呼ぶのも、このような前時代的な紙幣の影響と思われる。まん中に「金五両」「金十両」と書いてあり、判子が押してあるだけである。しかし明治政府の一連の措置によって、明治3年の中頃には、太政官札はちゃんと時価を回復している。つまり兌換紙幣でなく、極めてちゃちな太政官札でさえ、明治3年以降は立派に額面で流通していたのである。
たしかに明治5年(1872年)以降、太政官札などは「新紙幣」に少しずつ交換されていった。明治5年(1872年)から明治10年(1877年)の間に発行された「新紙幣」は体裁をある程度整えた紙幣であった。しかしこれも金と交換できる兌換紙幣ではなく、太政官札と同様に政府紙幣であり、不換紙幣であった。しかし当時はこの「新紙幣」だけでなく、太政官札も信頼され立派に流通していたのである。このこのことは上の表の数値を見ても一目瞭然である(ちなみに明治6年の数字は、それぞれ1.00と1.04と極めて紙幣価格は安定していた)。滝田氏の「庶民からそっぽを向かれ」とは一体何の話であろう。つまり滝田氏の話は全くの「大嘘」である。
さらに「政府と離れた中央銀行(日銀)をつくってお札の発行を任せることになったのもそうした苦労の産物」と言っているが、日銀が初めて兌換紙幣を発行したのは明治18年(1885年)と随分遅い。さらに日銀の兌換紙幣発行によって、政府紙幣や銀行券が過剰に償却され(兌換紙幣ということになれば金や銀の保有量の関係で、当然通貨の発行額は制限される)、逆に一段と松方デフレが進んだ。このため農産物価格は大幅に下落し、多くの自作農家が没落し、土地を手放すはめに陥ったのである。
滝田氏のコラムは、どうも完全に読者に誤解を与えることを意図しているようである。彼は、太政官札などの政府紙幣の発行が多過ぎてインフレが起ったが、日銀が兌換紙幣を発行し、これで政府紙幣を償却したからインフレは収まったというストーリを描きたかったのであろう(全く事実無根の)。しかしインフレの方は、日銀の兌換紙幣発行の4年も前に終息に向かっていたのである(上の紙幣年 平均価格の推移を見ても歴然としている)。このように表題の「太政官札の轍を踏むな」とは一体何のことであろうか。
どうも滝田氏のコラムを読む限り、兌換紙幣が正しく、不換紙幣は邪道という印象を受ける。政府紙幣は不換紙幣である。したがってスティグリッツ教授のアイディアのような不換紙幣である政府紙幣を発行したなら、インフレになるという印象を読者に与えることが目的で、このコラムを書いたと思われる。それにしても日経新聞は「日本は管理通貨制度をやめて金本位制に復帰すべき」と本気に主張するつもりなのだろうか。
スティグリッツ教授が来日し、政府紙幣の発言が行った。このため本誌も予定を変更し、先週・今週と政府貨幣(紙幣)を取り上げた。来週号は、そのまとめとして言い残したことを述べたい。さらに世間の最近の政府貨幣に対する動きについて取り上げたい。筆者も政府貨幣発行政策がすんなりと実行されるとは考えない。しかし急速に政府貨幣に対する関心が大きくなっていることは事実である。
http://www.adpweb.com/eco/eco296.html
▲△▽▼
経済コラムマガジン 03/5/19(第297号)
政府紙幣発行の認知度
http://www.adpweb.com/eco/eco297.html
•明治の経済
先週号で、4月27日日経新聞の滝田洋一編集委員のコラム「太政官札の轍を踏むな」に反論を行った。氏の意見にどうしても反論する必要を感じたのは、このコラムが管理通貨制度の根幹に関わるからである。税制が整わず、支配地域からの年貢の徴収にも限界があり、財源に窮した明治維新政府は苦し紛れに太政官札を発行した。これは政府紙幣であり不換紙幣であった。しかし他に方法がなかったと言え、まだ兌換紙幣が主流であった世界で、一国の政府が不換紙幣を発行したことはある意味では画期的なことである。
つまり今日の世界では常識になっている不換紙幣を発行したのである。たしかに当初は、明治維新政府のこの太政官札も額面では流通しなかった。当初、打歩が打たれ交換比率は額面を下回っていた。先週号で述べたように、一時は額面の4割まで交換比率が下落したのである。しかし政府の打歩の禁止令や発行量を制限すると言った施策を行うことによって、太政官札は額面を回復する。
まさに管理通貨制度の元における通貨政策を、明治維新政府は実行していたのである。しかし太政官札が価値を回復したのは、一連の政策の効果だけではない。国民の明治維新政府への信頼感が増していたことが影響したと考える。つまり政府に信頼さえあれば、金との交換を保証しなくとも、発行する貨幣や紙幣が価値を持って流通するのである。このように明治維新政府は先進的な通貨制度を実行していたのである。
むしろ明治18年に日銀の兌換紙幣が正しいと主張する滝田洋一氏の方がおかしい。日本が金本位制に復帰した主な理由は、世界の諸国はまだ金本位制(日本は、銀本位制とのアジア諸国との関係で、この時代は銀本位制であった)が主流で、貿易の決済の際の為替変動が問題だったからである。特に明治14年までのインフレによる為替変動が貿易の障害になったことが影響していると思われる。国内の経済に関しては、全く金本位制にする必要がなかったのである。
しかしいつの世にも「裏付けのない通貨を発行してはいけない」と言った観念論者がいるものである。彼等は金や生産物の裏付けのない通貨を発行してはいけないと主張するのである。松方デフレの松方大蔵大臣もその典型的な一人であろう。つまりこのような人々は、個人の道徳と国の通貨制度と同一と見なしている。しかし物価の上昇や経済の活動レベルを勘案しながら、適正な通貨発行量を調整するのが国の本来の務めである。
明治10年以降、日本経済はインフレになった。たしかに西南の役や殖産振興のための財政支出が増え、通貨発行量が増えたことが影響している。しかしこの時代のインフレを過度に問題にすることはフェアーではない。まず当時の金融政策に関する調整技術の未熟さを考える必要がある。これを考慮せず、兌換紙幣ではなかったからインフレになったと決めつけることは、あまりにも短絡過ぎる。日銀が兌換紙幣を発行するようになって、日本は一層デフレが深刻になったことをむしろ問題にすべきである。
もう一つはこの時代の産業構造を考慮すべきである。今日と大きく違い、当時の日本は一次産品を中心にした経済である。GDPの大半が農産物などの一次産品、そして一次加工品である。ちなみに輸入品の第一位は綿製品であり、輸出品の第一位が生糸、第二位が茶であった。今日の産業構造とは全く違うのである。
一次産品の特徴は供給量の価格弾力性が極めて小さいことである。一次産品は供給量に融通性がないため(米は年に一回しか収穫できない)、需要がちょっと上回れば価格が高騰し、反対に需要が少し下回ると価格が大幅に下落する性質が強い。つまり価格の乱高下しやすいのが一次産品の特徴である。今日でもこの種の生産物の取引はあるが、GDPに占める比率は極めて小さくなっている。
たしかに過去には、日本の物価も原油価格の動向にいくらか影響を受けた時代もあった。今日では、原油代のGDPに占める比率は小さくなっており、原油代の物価に及ぼす影響は極めて小さくなっている。今日の消費物資は、電機製品や自動車に代表される組み立て加工品であり、これらは需給によって価格が乱高下することはない。さらにむしろこれらの製品は需要が増えるほど、中長期的には、逆に価格が低下する傾向が強い。またサービス消費のうち比重が大きくなっている通信費も同じ傾向にある。
滝田洋一氏は、スティグリッツ教授の提案である「政府紙幣」に対して、今日の経済には何の参考にならない初期の明治の頃のインフレをことさら引き合いに出し、根拠のない批判を行っているのである。しかも先週で説明したように、明治の政府紙幣についてもほとんど事実と違うことを言っている。反対に太政官札が明治初期の経済を活性化させたといった成果は、ほとんど無視しているのである。むしろデフレを加速させた日銀の兌換紙幣発行を評価しているのであるから驚く。
ところで滝田氏のコラムとは別に、最近、松方大蔵大臣のデフレ政策を評価する声があることに驚く。松方デフレによって食い詰めた人々が農村から都会に出たたため、これによって近代産業が発展したというのである。つまり松方デフレは構造改革だったと主張するのである。話は逆であろう。近代産業が発展し、都会に就業機会が増え、人々が都会に集まったと考えるべきである。また先週号で述べたように殖産振興したのは、松方ではなく、前の大蔵大臣の大隈重信たちであった。
このようないびつな見方をするのは、今日の改革派と呼ばれる人々である。小泉改革で建設・土木業が壊滅すれば、新しい産業が興ると言っているのと同じ発想である。そして経済政策の失敗を構造改革と呼んでいるのである(なんと浜口・井上コンビによって引き起された昭和恐慌も、彼等は構造改革と呼んでいる)。今日、小泉政権の経済政策は大失敗ということは、誰でも承知している。つまりこのようないびつな意見の持主は、小泉政権の発足時、経済改革とやらに手放しで賛成していた人々である。彼等の負け惜しみのセリフが「構造改革」である。
松方自身も、デフレ政策を構造改革なんて少しも考えていなかったはずである。たしかに明治10年以降、農産物が高くなり、自作農民は潤った。反対に都市の俸給者や旧武士階級は、米などの農産物が高くなり、生活に窮していた。そして松方は、日頃から「農民は贅沢をしており、けしからん」と言っていた。どうも松方には、農民に対して差別意識があったと思われるのである。それを松方の構造改革と呼ぶのはまさに詭弁である。
•政府紙幣と政治家
5月15日、東京・六本木で第4回の「日本経済復活の会」が開催された。4名の与野党の政治家がゲストとして出席され、スピーチをしてもらった。特に民主党の副代表の岩國哲人氏には、政府紙幣発行による財政政策に関する講演を行ってもらった。岩國議員は元々「政府紙幣」発行に前向きな政治家である。先日も、岩國議員は塩川財務大臣に「政府紙幣」の発行を検討するように話しに行かれたと聞く。
自由党の西村真悟衆議院議員が予算委員会の分科会で、塩川財務大臣に政府貨幣(紙幣)の発行を迫ったことは、前に本誌でも取り上げた。しかしこれらの方々以外にもかなりの政府紙幣発行論者が日本の政治家の中にいる。もちろん自民党にも政府紙幣発行を主張している人々がいる。今回の「日本経済復活の会」に出席してもらった、静岡県選出の衆議院議員の斉藤斗志二(としつぐ)元防衛庁長官もその一人である。
政府紙幣発行政策は、これまで奇策の一つと見なされ、あまり人前で主張しにくい政策であった。しかしこれに賛成しておられる政治家は意外と多くいて、この方々はよく勉強をされている。今日のように経済政策がどんづまり状態では、このような政策が現実味を帯びるのはたしかである。
今日の「日本経済復活の会」は、政府貨幣に関する勉強会から発足した。しかし日本経済復活の会としては、政府貨幣(紙幣)に必ずしもこだわっていない。まず政府の政策が積極財政に転換する必要があることを主張し、なるべく広く賛同者を増やすことが第一と考えている。
たしかに世の中には、積極財政を唱えるエコノミストがいるが、彼等はその財源を明らかにしない。したがって彼等の主張する財政政策の規模は5兆円とか、せいぜい10兆円といった小規模なものである。しかし筆者達は、この程度の政策では効果が限られていることを承知している。我々はもっと大きな財政政策を、しかも何年も続けることが必要と訴えているのである。
我々が考えるこのための財源はまず国債の発行である。しかし国債の発行額が増えれば、金利が上昇する。したがってこの金利の上昇を一定の範囲に収めるには、日銀の国債の買増しが必要になる。都合の良いことに、日銀による国債の購入分は、実質的に国の借金にならない。
しかしこれには、日銀の協力が必要になり日銀の対応がどうしても問題になる。ところが日銀は国債の買入れに限度額を設けている。一応、日銀券の発行残高が国債の買入れ限度という内規が存在するのである。しかしこのことはあまり知られていない。日銀がこの限度額を柔軟に考えているのなら問題はない。しかしどうしても日銀が、国債の買入れの限度にこだわるというのなら話は別である。この場合には、最後の手段として政府貨幣(紙幣)という手段を留保しておく必要があると筆者は考える。
多くの人々が政府貨幣(紙幣)に賛同してくれることが理想であるが、どうしても政府貨幣(紙幣)に抵抗を示す人がいる。このような人々の多くは、国債の発行で賄えると考え、わざわざて政府貨幣(紙幣)を発行することもないと考えている。しかしこのような人々の中には、日銀の国債の買入れ限度という内規を知らない人がいる。いずれにしても、経済政策が転換するということになれば、財源の問題は避けて通れない。筆者は、その中で良い知恵が必ず生まれてくるものと考えている。まず政策転換が第一である。
りそな銀行への公的資金投入や為替の変動など経済を巡る環境がちょっと大きく変化している。来週号は、これらを取上げるつもりである。
りそな銀行への国費投入は波紋を呼んでいる。正直いって筆者も驚いた。先週の15日、霞ヶ関の4号合同庁舎の10Fに訪ねる人があり、筆者は、日本経済復活の会の会長の小野盛司氏と一緒にエレベータに乗った。ところが間違えて、9Fまでしか行かないエレベータに乗ってしまった。そして到着した9Fがまさに話題になっている金融庁である。エレベータホールにこの時沢山の人々がいたことが印象に残っている。
この前日、同様に小野さんと二人で、自民党の経済政策のキーパーソンと言われている国会議員を訪問し、我々の主張している政策を説明した。我々の政策を大変喜んでいただき、「別の議員を集めるから、そこでまた説明してくれ」と言ってもらった。
この数日の間、これらの政治家以外にも、何人かの政治家やマスコミ人に接触する機会を持った。しかしりそな銀行の件はまったく話題にならなかった。筆者は、どうも「りそな銀行」の件に、政治はほとんど関与していないという印象を持っている。たしかに一民間銀行の問題に政治家が立入ることは問題かもしれない。しかし大丈夫と言われていた銀行に多額の公的資金が投入され、経営陣が交代するのである。
りそな銀行の件は、他のメガバンクに波及することは必至である。そしてこのよう重大なことに政治が全く関与しなくて本当に良いのか疑問である。小泉首相も事後に報告だけを受けたようである。思い出すのは拓銀や山一の破綻である。この時も政治はほとんど関与していなかった。もっとも「構造改革なくして成長なし」の政治家に、何を相談しても意味がないのはたしかである。
http://www.adpweb.com/eco/eco297.html
▲△▽▼
経済コラムマガジン 03/4/21(第294号)
http://www.adpweb.com/eco/eco294.html
ノーベル経済学賞受賞のスティグリッツ教授が、日経新聞の招きで来日し、シンポジウムで意見を述べている。デフレからの脱出には、円安や消費税減税に加え、政府紙幣(貨幣)発行による積極財政を主張している。ほとんど筆者達と同じ主張である。一気に政府紙幣(貨幣)発行が注目を集めている。本誌ではかなり以前から取上げていたが、日本では政府紙幣(貨幣)発行はほとんど知られていない政策である。世の中も変わったものである。
まだ政府紙幣(貨幣)については理解が十分になされていない。日銀のある理事は「日銀券が政府紙幣に置き換わるだけであり、問題を解決する方策とは思えない」と反論していた。これは全くの誤解である。政府紙幣を発行するとは、これを使って財政政策を行うことを意味する。つまり所得を発生させるようなマネーサプライを増やすことを意味しているのである。政府紙幣を使って銀行が持っている国債を政府が買上げるような政策は想定していない。
政府紙幣に対して、岩田一正日銀副総裁は「国債の日銀引受け同様に、日銀の独立性を脅かす」と反論している。これに対してスティグリッツ教授は「世界的に中央銀行の独立性があれば経済が回復するとの証拠はない」と反論している。さらに政府紙幣の発行量に制限を設ければ、問題はないといっている。全くその通りである。
だいたい内閣府出身の岩田一正日銀副総裁は「インフレ目標実現のため、日銀にETFやREITを買わせろ」と言っていた人物である。そのような人物が急に「日銀の独立性」といっているのであるから驚く。また中央銀行による国債買入れの方も、今週号で説明したように米国などが大々的にやって来たように、経済状況によって行われるむしろオーソドックスな政策である。日銀がETFやREITを買う方が、よほど異常な政策である(既に誰か関係者がETFを高値で買っているのであろうか)。筆者の印象では、この岩田副総裁自身が日銀でも浮いている存在のような気がする。
財務省もスティグリッツ教授を招いて講演会を行っている。これがどういう意味を持つのか、ゴールデンウィーク中考えてみるのも良いかもしれない。「感」の鈍いエコノミスト、政治家、官僚は世の中の流れがひょっとしたら大きく変わろうとしていることに、全く気がついていないのかもしれない。
政府紙幣(貨幣)に関して、本誌は以前、政府貨幣発行権を日銀に売却し、日銀振出しの小切手を受取る方法を説明した。これに関して知人が財務省と日銀に照会していた。財務省からの回答は「政府が政府紙幣(貨幣)を作成し、それを日銀に持ってゆき、日銀の口座である国庫(政府預金口座)に入金してもらえば、政府貨幣発行となる。」『「通貨の単位及び貨幣の発行等に関する法律」(昭和62年法律第42条)第4条3項』であった。どうもやはり政府紙幣(貨幣)の現物をまず作成(金額の制限はない)する必要があるみたいである。
スティグリッツ教授の主張通り、政府貨幣を発行し、これを財源に積極財政を行えば、日本もデフレ経済から脱却できる。銀行の不良債権も処理が簡単になり、失業も減る。政府紙幣は借金ではなく、もちろん財政は急速に良くなる。困るのはこれまで「規制緩和」や「構造改革」で日本経済が良くなると大嘘をついてきた連中である。これらの主張が虚言・妄言ということが証明されるのである。したがってその代表格である内閣府出身の岩田一正日銀副総裁などは、スティグリッツ教授の主張を否定するのに必死である。
http://www.adpweb.com/eco/eco294.html
▲△▽▼
経済コラムマガジン 03/3/10(第288号)
http://www.adpweb.com/eco/eco288.html
政府貨幣の理解
•由利公正と政府貨幣
先週号で述べた通り、明治の維新政府には、政権樹立当時、財源がなかった。そこで新政府の財政を担当していた由利公正(五箇条の御誓文の起草者)が中心となって、「太政官札」と言うお札を発行した。これは戌辰戦争の戦費にもなった。新政府は、この「太政官札」や「民部省札」を印刷し、これを歳出に充てていた。特に慶応3年12月から明治2年9月までの2年弱の間、なんと歳出の93.6%がこの政府紙幣の発行収入によるものであった。
この政府紙幣は、不兌換紙幣で、金との交換の保証はなかった。明治政府の信用で流通したのである。つまり今日の通貨と同じである。しかしこのような政府紙幣がどんどん発行されても、インフレは起らなかった。維新当時、社会の混乱もあり、経済は低迷していた。つまりデフレ・ギャップが存在していたのである。ちなみに次の表は明治初期の物価指数の推移である。
東京と大阪の物価指数(明治2年を100)
東京 大阪
明治1年
82 71
明治2年
100 100
明治3年
104 89
明治4年
103 66
明治5年
113 55
明治6年
114 59
むしろ政府貨幣が発行されたため、明治の初期には経済は活発化した。これも当時、世の中にデフレ・ギャップ、つまり生産余力が存在していたからである。
今日、明治維新の立て役者は西郷隆盛や木戸孝允達ということになっている。しかし筆者は、一番の功労者は由利公正だと思う。もし明治新政府が、財源を政府紙幣でなく、初めから徴税に求めていたなら、人々から反感を買い、政治の運営も難しかったと思われる。さらに当時のデフレ状態を考えれば、もし新政府の運営費を無理矢理税金で賄っておれば、デフレが一層悪化していたと考えられる。
明治政府は、世の中が落着くにつれ、税制を整備して行った。その後、西南の役の戦費が嵩んだため、政府紙幣の発行量が増え、一時インフレになった。そこで増税などによって政府紙幣を回収し、このインフレを抑えた。つまり生産力に余力がある場合には、政府紙幣の発行は優れた政策である。しかし需要大きくなり過ぎて、これが生産力をオーバーする時には、政府紙幣の発行を控えめにするか、もしくは回収する必要がある。常識と言えば常識である。
世の中には「裏付けのない通貨は発行してはならない」といった意見の人が結構いる。これは金本位制、あるいは兌換紙幣の発行の概念である。しかし筆者の知る限りでは、世界で今日兌換紙幣を発行している国は思い当たらない。金本位制では経済がうまく行かないから、管理通貨制度を採用しているのである。また「生産物があって始めて通貨は発行できる」と考える人もいる。これはマルクス経済学の労働価値説のまがいもののような考えである。このような考えでは、明治新政府は潰れていたであろう。
このように個人の道徳と、国の通貨制度を混同している人が多い。おそらく国の通貨発行を犯罪者が行うニセ札造りと同等と考えているのである。企業倒産が多発し、失業が大きいデフレ経済においては、通貨の流通量を増やすことが常識であり、反対にインフレギャップが発生するようなら、通貨を回収すれば良いのである。「裏付けのない通貨は発行してはならない」という人は、自分が今日の管理通貨制度を否定していることに気が付いていないだけである。つまりこのようなことを言って満足している人々は、自分の言っていることの意味がまるで分っていないのである。
•惜しかった話
セイニア−リッジ(seigniorage)権限(政府の貨幣発行特権)についてもう少し説明する。発音は「シーニィョアーリッジ」という方が近いようだ。これは封建時代の領主の権利を意味する。つまり昔の領主はやりたい放題で、お金も自分で造り、これを流通させていたのである。たしかに貨幣を自由に造ることができるなんて、こんなに良いことはない。しかし領主の儲を別にすれば、人々がこれの価値を認め、日々の生活や取引にこの貨幣を使うなら、金の裏付けがなくとも問題はない。さらに領主が、領民を他国からの侵略から守ってやったり、領内の治安を維持したりしているなら、儲はこのコストに見合うという考えもある。
日本でも昔から藩札が発行されており、これもセイニア−リッジの一つである。明治以降の近代社会になって「太政官札」などの政府紙幣が発行されている。ちなみに日銀が創立したのは、明治15年であり、日銀が兌換紙幣を発行したのが明治18年である。また民間銀行である渋沢栄一の第一銀行が兌換紙幣を発行したのは、日銀より早く、明治6年であった。つまり明治時代は、兌換紙幣より政府紙幣の発行の方が早かったのである。
もちろん今日の政府も政府貨幣を発行することができる。「政府貨幣」の発行は、独立国家固有の権限である。日本現行法では「通貨の単位および貨幣の発行等に関する法律」(昭和62年6月1日、法律第四二号)で定められている。同法の第四条には「貨幣の製造および発行の権能は、政府に属する」と明記されている。また同法によれば「貨幣」の素材や形式などは政令で定めることになっているのである。
今日使用されている、一円玉、100円玉などの補助貨幣もこの法律に基づいて発行されている。記念コインの発行も同様である。また「貨幣」の素材や形式などは政令で定めることになっているから、コインの形ではなく、紙幣でも一向にかまわないわけである。
さらに同法には、政府貨幣発行に関しては、発行額の制限や担保の規定はない。発行は政府の自由である。ちなみに政府貨幣の額面から製造コストを差引いた額が、貨幣鋳造益となり、政府の収入になっている。
筆者達は、政府貨幣の発行政策、あるいはそれに類する政策を実現させるため、一年以上、勉強会や色々な活動を行って来た。半年前までは、もしこのような政策が実現されるとしても、相当先の話と覚悟していた。しかし最近になって、世間も徐々にこれに注目するようになった。亀井前政調会長も「政府紙幣」に言及したりしている(本人は政府紙幣ではなく金利ゼロの国債を発行し、これの日銀引受と言っている)。
しかし最近、政府貨幣の発行について財務大臣に質問を行った国会議員が現れた。自由党の西村真悟議員である。予算委員会の分科会で塩川大臣に政府貨幣を発行することを迫っている。さらに日本経済復活の会の小野さんのシミュレーション結果を紹介し、積極的な財政政策に転換した方が財政再建に良いことを主張している。そして今日のような緊縮財政を続けることが、却って財政赤字を増やすことになることを指摘している。
この西村議員と塩川財務大臣のやり取りがインターネットで聞くことができる。URLは
http://www.shugiintv.go.jp/meta/19749-537-b-j.wvx
である。
これが大変面白く聞いてみる価値がある。ただちょっと長いので、ちょうど半分くらいの所から聞くことをお薦めする。
しかしパソコン環境によっては、このファイルを読めない人もいる。そこで簡単にやり取りの山場だけを紹介しておくことにする。西村議員の質問に対して、財務大臣は自らの戦前の経験から「何種類もの通貨を使うことが面倒で混乱した。この経験から政府紙幣を新たに発行するのは混乱の元と思われるので、発行は考えていない」と答えていた。そこで西村議員は「政府貨幣を発行し、これを日銀に売却するといった方法がある」とさらに追求したが、話はそこまでであった。
もしもう少し時間に余裕が有り、議員が、「政府貨幣の発行権を日銀に売却し、日銀振出しの小切手を受取れば、何も新紙幣を発行する必要がないこと」を説明し、財務大臣がこのことを理解してくれたなら局面が変わっていたかもしれない。戦前のような種類の違った紙幣が流通させる必要はなく、日常生活には全く影響はないことを解ってもらうのである。またこの方法なら自動販売機や券売機の読取り装置の修正は必要ない。もし塩川大臣がこのことを理解したなら、答弁の様子から案外「それなら良いかもしれない」と答えていたかもしれないのである。質議時間が限られていたといえ、実に「惜しい話」である。
たしかに予算委員会の分科会にはめったにマスコミが取材にこないので、この質議は世間にほとんど知られていない。しかし分科会と言え、政府貨幣(紙幣)について国会で質議が行われたことは画期的なことである。ちゃんと議事録もある。
ところで小野さんのシミュレーションは各方面から注目を集めており、小野さんはかなりの与野党の国会議員にも説明を行っている。筆者も何回かこれらに同席して、たまには議員さんの質問に答えることがある。特に自由党の西村真悟議員は熱心で、2回は説明会に出席しておられるはずである。ただ西村議員のシミュレーションの引用が、最近の小野さんの説明とちょっと異なる。最初の頃は、小野さんは、議員が引用したように減税だけのケースを中心にしたシミュレーション結果で説明していたが、今は主に財政支出と減税を組合わせたケースを用いている。
来週号はさらに時代を遡って、江戸時代のデフレと貨幣発行をテーマにするつもりであったが、諸般の事情でこれはもう少し延期する。来週号のテーマは今のところ未定である。今週号は丹羽春喜大阪学院大学教授の著書を参考にさせてもらった部分が多かった。教授からは、さらに別の論文を送ってもらう予定なので、この時代の経済はもう一度取上げるつもりである。
最近の株価、為替さらに国債利回りの動きが奇妙である。筆者がそう感じたのは、2月24日頃からである。ちょうど日銀の総裁・副総裁の人事が発表されてからである。国債利回りを別にして、それまでは株価・為替にはかなり力強い介入があって値を保っていた。しかし24日を境に、介入は行われているようであるが、値を維持しようと言う意志が感じられない。特に株のPKOは目立たなくなっている。日銀人事も決まり、小泉政権にはもう用はないようにも感じられる。
銀行決算における持株の評価は、三菱が月末日で、他は月中の日々の終値の平均を使っている。つまりほとんどの銀行の持株の評価は既に始まっているのである。ここで各銀行が3月の株価の推移をどれくらいに想定して、決算対策を行っているのかがポイントとなる。増資額もそれを前提にしていると思われる。
竹中大臣も「ETFを買え」と言っていたくらいだから、誰もが3月の株価はかなり戻すと思っていたはずである。しかしこの竹中発言が問題になり、さらに日興ソロモンの不祥事で、これも怪しくなった。したがって今後の株価動向によっては、株価自身や国債利回りにも影響が考えられる。もちろん銀行貸出しの回収にも影響が発生すると考えるべきである。
銀行の増資や外貨建て債権・債務の減少、さらに昨年末比で為替は円高になっており(外貨建て債権・債務がさらに圧縮される)、バランスシート上では、自己資本比率を十分維持できるものと当初考えていた。しかしどうも事情が変わって来たかもしれない。いずれにしても10日からの株価動向は注目される。
http://www.adpweb.com/eco/eco288.html
▲△▽▼
経済コラムマガジン 03/3/3(第287号)
http://www.adpweb.com/eco/eco287.html
軽視される高橋是清の偉業
•歓迎されるデフレ主義
今日、日本経済の状態を誰でもデフレと思っている。明治以来、一般にはっきりとデフレと認識されているのは「松方デフレ」と「昭和恐慌」である。ところでIMFの基準では、2年連続して物価が下落した場合をデフレと称している。前者の「松方デフレ」はこの定義にはまらない。むしろ筆者が日頃主張しているような「大きなデフレギャップが存在している状態がデフレである」の方が当て嵌まるようである。
明治の維新政府は、税制など歳入システムが未整備のままスタートした。政府支出の大部分は、太政官札などの政府紙幣の発行によって賄われていた。当初は、デフレギャップが存在していたので、物価も上昇せず、経済も順調に拡大した。しかし明治10年の西南の役の戦費がかさんだ。このための政府紙幣が大量に発行されたことが原因でインフレが起った。流通通貨の増大でインフレギャツプが生じたのである。農産物が高騰し、農村は潤ったが、都会生活者、特に恩給暮しの者達は困窮した。
そこで政府は、増税などによって政府紙幣の回収を始めた。この結果、物価動向も落着いた。しかし新たに登場した松方政権はさらに多くの政府紙幣の回収を行った。この結果、大幅に需要が減り、逆にデフレになった。農民も農産物を売り急ぐようになり、農産物価格は大幅に下落した。物価の下落は農産物にとどまらず、全ての商品に及んだ。これが有名な「松方デフレ」である。原因は過剰に政府紙幣の回収を行ったことである。どうも松方は日頃から「農産物の値上がりで、農民は贅沢をしている」と考えていたらしい。
昭和恐慌は、第一次世界大戦時の好況の反動が発端である。1914年第一次世界大戦は起ったが、日本は戦場にならず、輸出の増大で日本経済は大いに潤った。しかし大戦が終わり、列強が生産力を取戻すにつれ、日本経済は落込んだ。1920年以降、日本経済はずっと不調が続いた。特に27年には金融恐慌が起り、取り付け騒ぎや銀行の休業が到るところで見られた。
ところがこのような経済が苦境の最中の29年に発足したのが、浜口幸雄内閣であり、蔵相が元日銀総裁の井上であった。なんとこの浜口・井上コンビはデフレ下で緊縮財政を始めたのである。ところが浜口首相は「ライオン宰相」として国民から熱狂的な支持を受けていた。前の田中義一首相が、腐敗などによって国民から反感をくっていた反動と思われる。
浜口首相は「痛みを伴う改革」を訴え、「全国民に訴う」というビラを全国1,300万戸に配布した。内容は「・・・我々は国民諸君とともにこの一時の苦痛をしのいで、後日の大いなる発展をとげなければなりません」と言うものであった。実にこの首相は小泉首相と酷似している。そして国民から熱狂的に迎えられたと言う点でも両者は共通している。昔から日本ではバンバン金を使う者より「緊縮・節約」を訴え、「清貧」なイメージの指導者の方が、少なくとも当初は支持を集めるのである。最近、公共事業に反対する候補者がどんどん選挙に勝った。これもこのような日本人の心情を理解すれば納得できる。
しかし不況下でこのような逆噴射的な経済運営を行ったため、経済はさらに落込み、恐慌状態になった。当り前の話である。浜口・井上コンビは財政政策だけでなく、為替政策でも大きな間違いを犯した。「金輸出の解禁」である。
ここで為替制度をちょっと説明する。為替を変動させておけば、総合収支尻は、為替の変動によって自動的に調整される。ところが為替を固定させておくと、総合収支の決済尻をなにかで埋め合わせる必要がある。輸出が好調で総合収支が黒字の場合には問題がないが、反対に赤字の場合には国際的に価値が認められている「金」などで決済することになる。つまり「金輸出の解禁」は、変動相場制から固定相場制、そして金本位制への移行を意味する。
さらに浜口・井上コンビは固定相場に復帰する際のレートを日本の実力以上に設定した。実勢より一割も円高の水準で固定相場に復帰したのである。これは単純に以前の固定相場の時のレートを採用したからである。この二人は、蔵相や日銀総裁を経験した経済のプロと思われていた人物である。しかし頭が固い(悪い)のである。
浜口・井上コンビの狙いは、構造改革で競争力を高め、輸出を増やして、不況から脱することである。しかし設定した固定為替レートは高すぎ、逆に輸入が増えた。また貿易業者は、輸入代金を市場から外貨を調達して払うのではなく、高い円で金を買い、これを送って決済した。金はどんどん輸出され、日銀の金の保有量が減った。金本位制のもとで金の保有が減ったため、政府は財政支出を減らす必要に迫られた。これによって経済はさらに落込んだ。この結果、財政支出を削っているにもかかわらず、財政はさらに悪化したのである。
さらに29年のニュヨーク株式相場の崩壊から始まった世界恐慌の影響も日本に及んで来た。日本では街に失業者が溢れ、大幅な賃金カットが行われ、労働争議が頻発した。特に農村は、農産物の大幅な下落によって大打撃を受け、「おしん」のような娘の身売り話も増えた。
このため農村から離れる者が増えた。しかし一方、逆に街で働いていた人々が失業して、どんどん農村に帰って来た。彼等は元々農家の次男・三男達であり、帰農者と呼ばれた。帰農者は明らかに失業者である。しかし井上蔵相は「帰農者は失業者ではない」と主張している。元々彼は「失業はたいした問題ではない」と言う認識の持主である。そして失脚後の32年2月に彼は暗殺された。今日の日本政府も、失業者のほとんどは「ミスマッチ」と言っている。本当によく似ているのである。
•歴史学者のマルクス主義史観
30年の5月、浜口首相は、ロンドン軍縮会議・五カ国条約の批准に不満を持った分子に襲撃された。次の首相の若槻礼次郎首相も構造改革派であった。したがって日本経済はどん底状態になった。そしてついに31年12月に政友会に政権交代が行われ、犬養毅内閣が発足した。犬養は、以前首相も経験したことのある高橋是清に大蔵大臣就任を懇請した。
高橋は矢継ぎ早に、デフレ対策を行った。まず「金輸出の解禁」を止め、さらに平価の切下げを行った。最終的には約4割の円安になった。そして積極財政に転換し、その財源を国債で賄った。さらにこの国債を日銀に引受けさせることによって金利の上昇を抑えた。実に巧みな経済運営である。
そこでまず当時の経済成長率の推移を示す。
昭和恐慌時の実質経済成長率(%)
経済成長率
1927
3.4
1928
6.5
1929
0.5
1930
1.1
1931
0.4
1932
4.4
1933
11.4
1934
8.7
32年からの経済成長は実にすばらしい。実際、列強各国はこの時分まだ恐慌のまっただ中であり、日本だけが恐慌からの脱出に成功したのである。
1932年に国債の日銀を引受けを始めたが、物価の上昇は、年率3〜4%にとどまっている。1936年までに日銀券の発行量は40%増えたが、工業生産高は2.3倍に拡大した。そしてこの間不良債権の処理も進んだのである。
今日の日本政府の経済運営はミスの連続であるが、昔は賢明な政治家もいたものである。高橋是清は日本人の誇りである。なにしろケインズの一般理論が世の中に出たのが36年の12月であり、実にその5年前に既にケインズ理論を実践したのが高橋是清である。今日でこそカルトまがいの経済学者がよくノーベル経済学賞を受賞しているが、もっと昔からノーベル経済学賞があったら、高橋是清こそこの賞にふさわしい人物である。筆者は、昔から、くだらない経済学者より、実際に経済界で活躍し、人々に貢献した政治家や実業家にこそノーベル経済学賞は与えられるべきと考えている。
しかし高橋是清の業績は、今日あまり人々に知られていないだけでなく、時には全く違う解釈がなされている。今週号を作成するに当り何冊かの本を参考にした。特に歴史学者の評価が問題である。
学者の中には高橋是清の政策を軍需インフレ政策と指摘している者もいる。たしかに軍事費は増大したが、これも当時の国際的な緊張の高まりを考えると、簡単には否定できない。また世界恐慌の脱出のために軍事費を増やしたことは列強各国に共通している。しかし本格的に軍需支出が増えだしたのは37年以降である。むしろ経済があまりにも順調に回復したので、インフレの徴候が現れ、是清は引締め政策に転換し、軍事予算を削ろうとした。このため軍部の反発をかい36年の2.26事件で殺されたのである。つまり軍事費が本当に増えだしたのは、高橋是清の死後である。
高橋是清は、軍事予算を増やすと同時に地方での公共事業費を増やしている。学者は、これは土木業者だけが潤ったと、いつも通りのパターンの批難をする。しかしこれによって失業が減ったのは事実である。少なくとも高橋財政政策によって、有効需要が増え、設備投資も増え、都市部の勤労者は潤った。年に10%の実質成長率を達成できれば、かなりの経済問題が解決の方向に向かうのは当然である。
歴史学者は、高橋是清の政策は、インフレの目を残す政策と言っている。たしかに急速に景気が回復したため、イフンレの徴候が現れた。そこで高橋是清は一転、金融引締めに動いた。日銀が引受けた国債の90%を市中に売却し、余剰資金の回収を行ったのである。実に柔軟な経済運営である。たしかに日銀の国債引受けによる資金調達と言う手段は、軍備拡張を可能にし、インフレの種なったのは事実である。しかし先ほど申したように、軍需予算が急増したのは、高橋是清が暗殺された以降の話である。
歴史学者の中には、農村の経済が上向かなかったことを指摘する者もいる。しかし当時、農村では凶作が続いていたのであり、これを高橋是清の責任にすることはできない。どうも歴史学者は、高橋是清の政策を過少評価したり、間違った印象を与えるような記述を行いたがる。これには何か変な意図を感じるのである。
昔から歴史学者にはマルクス主義者や、これに強い影響を受けた者が多い。つまり彼等は、資本主義経済は必然的に恐慌に陥ると言う確固たる歴史観を持っている。したがってこれに対する是清が行った有効な政策に対しては、「将来にインフレの元になった」、「ダンピング輸出」そして「軍事国家への道をつけた」と言った具合にケチをつけるのである。日本の教科書も彼等の影響を受けており、高橋是清の奇跡的な偉業に対する記述がほとんどない。
とにかく日本教科書では、デフレ時にインフレ的手法を用いて経済を立直した為政者の評価が低い。逆に「わいろ」が横行したといった記述がなされたり、流通貨幣増大策を「悪貨は良貨を駆逐する」といった表現で否定する。逆にデフレ政策を押進めるような「清貧の思想」を持った政治家を持上げる傾向が強い。歴史学者は、経済がデフレに陥り、最後に民衆が立上がり、革命が起ることを期待しているのであろう。これも長い間、日本の歴史学者がマルクス主義の影響下にあったからと筆者は見ている。
来週号は、さらに時代を遡り、今週号でもちょっと触れた明治政府の政府紙幣発行を取上げる。
日本経済復活の会の活動では、小野さんが「財政政策を行ったほうが、財政再建に貢献し、失業が減る」というシミレーション結果を各方面で説明している。筆者も時々同席している。聞いている人の反応はとても良い。これまで財政再建には緊縮財政を行うのが当り前という空気が強かったが、これが間違いだということを証明したのである。
大きなデフレギャップが存在するデフレ下では、流通貨幣増大を伴う財政政策が常識の政策である。理論だけでなく、シミレーションでも確認できたのである。さらに今週号で取り上げたように、歴史的にもデフレ克服には、円安・財政政策、そして低金利政策が有効であることが証明されている。
http://www.adpweb.com/eco/eco287.html
▲△▽▼
経済コラムマガジン 02/9/9(第265号)
http://www.adpweb.com/eco/eco265.html
セイニア−リッジ政策の推進(その1)
•セイニア−リッジ政策の勉強会
さる8月29日、霞ヶ関の霞山会館で、恒例の丹羽春喜大阪学院大学教授を中心にした勉強会が開かれた。この勉強会は、単にセイニア−リッジについて勉強することに止まらず、セイニア−リッジ権限(政府の貨幣発行特権)政策を具体的に推進することが目的である。今回は、当経済コラムマガジンの読者の方にこの会合への参加を募った。これには12名と、当方の予想を大きく上回る参加希望者があり、最終的には10名の方々(学生や公務員を始め、不動産業の方や医師、そして大学の客員教授と様々)が出席された。中には鹿児島、和歌山、京都と言った遠隔地からの参加もあった。これも今日の経済が難しい状況にあることを、それだけ多くの人々が実感されているからと考えている。
新しい出席者の紹介と経過報告の後、会合は丹羽教授の話から始まった。しかし今回は、コラムマガジンの読者の参加を含め、新しいメンバーが10名以上もいたためか、ちょっと教授が張りきり、話が長くなった。このため次に発表を予定していた筆者の持ち時間が15分間になってしまった。したがって筆者の話の大半は次回への持越しとなった。実を申せば、筆者以外にさらにもう一人話をする予定であったが、これも持越しである。中には筆者の話を期待して参加された方もいたかもしれない。そのような方には、今回は大変申し訳がないと感じている。
たしかにセイニア−リッジ政策はここに来て、世間の注目を集めるようになっている。我々の働きかけもあってか、国会議員などの政治家の中にも、政策広報に「政府の貨幣発行特権」政策を訴える人がちらほら現れている。また丹羽教授も、文芸春秋社のオピニオン雑誌「諸君」の最新号(10月号)で対談を行っている。対談は丹羽教授を含め4名の経済学者の間で行われた。そのうちの一人は、最近中央公論で「政府の貨幣発行特権」による銀行の不良債権処理を主張した、榊原英資慶大教授である。4名の対談ではあったが、どうも丹羽教授VS榊原教授と言う図式が濃かったようである。これについては、是非「諸君」の10月号を読んでいただきたいが、本誌でも来週号で取上げることにしたい。
他にも丹羽教授には、セイニア−リッジ政策に関して経済雑誌からの執筆依頼が来ているようである。このようにこれまで話題にも上らなかったこの種の政策に、少しずつではあるが、確実に人々が関心を持ちはじめた兆しが見られる。もし来年の今頃に「セイニア−リッジ、あるいは政府の貨幣発行特権」と言う言葉が、人々の間で一般的になっているようなら、日本の経済政策も大きく方向が変わって行く可能性があると言うものである。
今回の会合には出席された経済コラムマガジンの読者の方の中に、銀行系のシンクタンクの方がいた。この方の話では、このシンクタンクでも最近「セイニア−リッジ」が注目されていると言うことである。そしてどうも「セイニア−リッジ」に関して入手できる文献の大半は欧米の学者のものであり、日本の学者のものはほとんどないと言う話である。そのような事情で、「セイニア−リッジ」に関して日本で唯一の専門家と言える丹羽教授の話を聴きたかったとのことである。
次回9月のこの会合は、26日(木)午後6時開催の予定である。もし読者の方で、これに出席されたい方は、aqua@adpweb.comにご連絡いただきたい。なお出席名簿作成の関係で、メールには、お名前、お住いの都道府県名、簡単なご職業名を記入していただきたい。会費は6,000円で、これは会場費と弁当代(ビール1本つき)、プラス諸経費(資料コピー代など)である。
•内部疾患の「徴候」
筆者は、このコラムを作成するにあたって、時々当コラムのバックナンバーを読むことがある。たまたま読んだ3年前の00/10/9(第180号)「財政赤字とマスコミの扇動」では、日経ビジネスの特集「日本はまた沈む」を取上げていた。驚くことにこの特集の副題はなんと「2002年、国債暴落のシナリオ」であった。2002年とはまさに今年ではないか。しかし現実は、それ以降も国債は買われ、国債価格は上昇を続けている。実際、今回の勉強会に参加者の中には短資会社系列の債券のブローカの方(この人も経済コラムマガジンの読者)がいて、「とても国債の暴落と言う状況は考えられない」と言っていた。一体、日経ビジネスは今日の国債価格の上昇をどのように弁明するのであろうか。
日経ビジネスの論調は、これだけではなく、ずっとおかしな状態が続いている。もちろん論調がおかしいのは日経ビジネスだけではない。内閣府(前の経済企画庁)の経済白書も相当おかしい。日本中がこのようなことになったのも、米国に留学し変な経済学を学んできた者や、同様の考えを持ったエリートと称される人々(新古典派の中でもニユークラシカルと言われている人々)が、あらゆる分野で主導権を握るようになったからと考える。彼等は、「痛みを堪えて構造改革を行えば、立派に日本経済は蘇る」と言った「虚言」を盲信している。そしてこれに近い政策が進められているのが、今日の日本である。しかし実態は、構造改革の名の元に「構造の破壊」が行われているだけである。
ポール・グルーグマン教授は「需要政策を伴わず、設備廃棄を進めれば(銀行の不良債権の処理も進め方によっては、設備廃棄と同じことになる)、経済はスパイラルに陥る」と警告している。筆者もこの意見に賛成である。ちなみにアルゼンチンでは観念論者の前大統領が盲目的に構造改革を進め、多くの人々が職を失った。そして失業者の多くがタクシーのドライバーになったと言う話である。しかしそのタクシードライバーのほとんどは今はどこに行ったのか分らない状態と言うことである。おもしろいのはこの観念論者の大統領は、国民総背番号制実施には異常にこだわったと言う話である。まさにどこかの国の話のようである。ところでこのアルゼンチンの経済の破綻については、そのうち取上げることにする。
以前から筆者は、今の経済政策が続く限り、絶対起らないものとして「ハイパーインフレーション」と「国債価格の暴落」であると断言してきた。まさに今日、物価は下落を続け、前述の通り国債の価格は上昇している(つまり国債利回りは低下を続け、とうとう1.2%を切る水準に来ている)。ところで日本では、物価が下がり、国債が買われていることはむしろ良いことと認識されている。これらを問題視する人はほとんどいない。しかしこのことは大きな間違いと筆者は考える。これらは経済が重症の内部疾患に冒されている「徴候」と言うのが筆者の見解である。
先進国の中でインフレターゲット政策を行っている国の一つが英国である。インフレターゲット政策と言うと、一般には金融の調整によって物価の上昇を一定に抑える政策と理解されている。しかし英国の場合には、物価上昇率の上限を設定するだけでなく、下限も決めている。過度の物価上昇だけが、悪い現象として捉えられているのではなく、物価があまり上昇しないか、あるいは下落することに警戒感を持っているのである。英国のインフレターゲットは、年率1.5%から2.5%に設定されている。つまり物価上昇率が2.5%を越えないことはもちろんのこととして、逆に1.5%を下回らないこととされている。
英国では、物価が上昇しないことをデフレのシグナルと捉えている。英国のように長い間デフレで苦しんだ国は、デフレに対して警戒心があるのであろう。このような背景もあってか、物価上昇率が1.5%を下回った場合には、金融政策の責任者である中央銀行の総裁は、政府に始末書を提出することになっている。「物価上昇率がゼロになるまで金融の緩和を続ける」と「のんきな」ことを言っている日銀とは大違いである。やはり根本的に、日銀は、いまだに物価上昇を阻止することにしか関心がないのである。
また日本では国債の利回り(長期金利)が低下を続けていることに警戒感がない。このようなことが起るのは、それだけ民間に資金需要がないからである。さらに最近では、銀行は貸付金の回収を活発化させており(かなり強引な金利の引上げ交渉が行われていると聞く)、この回収した資金の一部で国債を購入している構図ができている。そして銀行の国債保有額は今日ピークに達している。
本来なら、これまで国債利回りが3%程度で推移するくらいまで国債を発行し、その資金を財政支出に回して来れば良かったのである。しかし「財政再建派」の力が強くなり、これに「構造改革派」「供給サイド重視派」(いわゆる小さな政府論者であり、観念論者)がこれに便乗し、国債をなるべく発行しない政策を押し進めてきた。この結果、民間に資金需要がなくなり、今日のように国債価格が上昇し、利回りが異常に低下したのである。しかしこの結果、マクロ経済では、慢性的に内需が不足し、経済成長はマイナスになり、倒産や失業を増やすことになった。
おそらく国債利回りが3%程度で推移するくらいに国債を増発し、財政支出を行って来たならば、逆に国・地方の借金も今日より小さかったと思われる。日本の税体系は、所得税の累進課税に見られるように、所得が増える以上の率で税収が増えるようになっているからである。また財政支出を増やして有効需要が増えれば、国民所得も増え、経済成長も維持できたはずである。そうなれば、企業倒産ももっと少なく、新規の不良債権の発生も抑えられた。さらに株価も今日のように下落することがなく、銀行の不良債権問題も半分は解決が済んでいたはずである。「痛みを堪えて構造改革を行えば、立派に日本経済は蘇る」と言った「虚言」を発する人々によって、今日、日本経済はボロボロにされているのである。「痛み」の後には「もっと大きな痛み」しか待っていないことに、世間もそろそろ気がつくべきである。
しかし今日「国債利回りが3%程度で推移するくらいに国債を増発」する政策は採ることはもはや困難になっている。そのような国債の大量発行を行えば、国債の消化不良を起こし、国債価格は下落し、長期金利は急上昇するリスクがある。金利が上昇すれば、あらゆる分野に悪影響が及ぶ。特に銀行は大量に国債を保有しており(全てが長期国債ではないが)、国債価格が下落した場合、銀行の信用不安が一遍に増大する(もっともその場合にも日銀がどんどん国債を買上げると言う手段はあるーーこれも実質的にセイニア−リッジ政策と言えるが)。
そこで残された手段がセイニア−リッジ権限(政府の貨幣発行特権)政策である。長期金利に影響を与えることなく、資金を確保し、これを財政支出に充てるのである。これができるのも、日本には巨大なデフレギャップが存在し、このような政策を行っても、物価が簡単には上昇しないと言う確信があるからである。
来週号では、本文で述べたように丹羽教授が参加した10月号の「諸君」の対談を取上げる。
アルゼンチン経済を破綻に導いた前大統領は、「構造改革」を唱えていたせいか、経済の状態が相当悪くなっても、不思議とかなり高い支持率を維持していた。経済の調子が悪いのも「構造改革が進んでいないからだ」と必ず言い訳をする。「悪いのは改革を邪魔する抵抗勢力」と言っておれば大衆は簡単にだまされるのである。
「改革」唱えながらの経済運営では、経済は低迷する。すると必ず「改革」派の人々は、犯人捜しを始める。悪いのは「銀行の経営者」「建設・土木業者やこれらに支援を受けている政治家」「道路公団」「金融庁」「大企業の経営者」等、きりがない。しかし彼等が悪いかどうか知らないが、たとえ彼等を懲らしめたからと言って、日本経済が上向くと言うものではなかろう。
おそらく次には彼等は「精神」の問題と言い始める気がする。日本人の「精神」が悪くなり、何でも人に頼るようになったから、経済が上向かないと言うのである。日経新聞には、既にその徴候が現れている。「科学性」が否定され、「精神主義」が花盛りになる。まさに戦前と同じ構図を辿っている。
このような意味で、田中県知事が再選された長野県政は注目される。田中県知事は「長野は公共事業に頼っていたから、新しい産業が起らず、経済は低迷した」と主張しているが、これは本当のことであろうか。たしかに日本はこのような論調で溢れている。つまり公共投資などの財政支出を削れば、新しい産業が次々と生まれて来ると言うのである。
しかし筆者の聞いている範囲では、長野の経済もどんどん悪くなっている。本当に「改革」派の人々が言っていることが、正しいのかどうか、はっきり証明させるのが今後の長野経済の行方である。その意味で長野県は一つの実験台みたいなものである。したがって今後、問題を、田中県知事の性格や仕事の進め方に矮小化してもらいたくないものである。そして「改革」派の主張が、完全に間違っていることを証明される必要がある。
http://www.adpweb.com/eco/eco265.html
▲△▽▼
経済コラムマガジン 02/11/11(第273号)
http://www.adpweb.com/eco/eco273.html
セイニア−リッジ政策の推進(その2)
•基本的な考え
本誌は、ずっとセイニア−リッジ政策、つまり政府の貨幣(紙幣)発行特権の発動による、財政出動を主張している。しかし最近でも、「このようなことを行えば、ハイパーインフレーションが起ったり、円の信認が損なわれて、円の暴落が起るのではないか」と言ったご意見を読者の方からいただく。結論から申せば、今日の日本の経済状況を前提にすれば、ご心配のようなことは、よほどの通貨の大量発行を行わない限り起こり得ないと考える。
数年前のロシア危機などとは全く事情が異なるのである。ロシアの場合には、生産力が不足している状況で、通貨の大量発行(エリツェンが公務員の給料を払うために紙幣をどんどん刷った)を行った。その結果、ルーブルが暴落し、物価が急騰したのである。もっともルーブルが暴落したため、外国製品がばか高くなり、ロシア国民が「それならば自分達で農産物や工業製品を作ろう」と生産に励みだし、今日でもロシア経済は順調に成長していることは前から述べている。
歴史的にも経済成長の始まる前に、インフレを経験する場合が多い。物の値段が高騰すれば、生産意欲が上昇したり、過去の不良債権の清算が進むことが多いからであろう。日本も戦後の高度成長の前には、インフレを経験している。しかし筆者達は、むちゃな物価上昇が起っても良いとは決して考えていない。物価の上昇が起っても、数パーセント、つまり今日先進各国が経験している程度の物価の上昇率を念頭に置いている。英国を始め、各国でインフレターゲット政策が行われており、物価の上昇率を目標に収めることが実際に行われている。これが日本ではできないと言う理由はない。
むしろ今日のようなデフレ下(資金需要がなく銀行から先に資金が回らず、銀行は国債ばかり買っている状況)でインフレターゲット政策を行おうとする方が無茶である。財政出動によって銀行の先に資金が供給されて、始めて需要が喚起され、経済活動が活発化し、物価が上昇する可能性が生まれる。そして経済がこのような状況になって始めて、インフレターゲット政策と言うものが、意味を持つのである。
まず基本的な政府の貨幣(紙幣)発行特権について述べる。どの国にも政府の貨幣(紙幣)発行する特権がある。これはどの国も持っている固有の権利であり、ちょうど他国からの侵略に備える自衛権のようなものである。例えばある国が独立した場合、この国には、自動的にこの国独自の貨幣(紙幣)を発行する権利が発生する。問題はどれだけの額の貨幣(紙幣)を発行するかである。金本位制の元なら、金の保有量で自ずと発行限度額と言うものが決まってくる。しかし今日世界の中で金本位制の国は皆無である。
現在、どの国も管理通貨制度を採用している。管理通貨制度と言うことは、政府の信用で通貨を発行すると言うことである。通貨の発行量は、その国の政府が自由に決められる。政府が経済の国の規模などを基準に決めれば良いのである。少なければ、物価が下落したり、経済取引が停滞する。逆に通貨の発行量が多ければ、物価が上昇し、まさにインフレになる。また、通貨の発行量は、金利や為替に影響にも影響する。要するに、管理通貨制度の元では、政府が、経済政策の一環として適切な通貨の発行量を決めることになる。
日本でも、昔は政府が通貨(貨幣、紙幣)を発行していた。五箇条の御誓文の由利公正が中心になって発行した太政官札である。これは明治新政府が発行したお札である。ちなみに中央銀行としての日銀が設立されたのは、ずっと後のことである。明治新政府はこれを財政支出に使っていた。西南戦争の戦費もこれで賄ったのである。ところで明治新政府は太政官札を発行していたが、物価は極めて安定して推移していた。つまり政府の紙幣発行量が適切であったと言うことである。
法律上、政府の通貨(貨幣、紙幣)はもちろん現在でも発行が許されている。しかも発行量は無制限であり、担保も不要で償還する義務もない。さらにこれを発行すれば、これに伴い政府に利益が入る。実際、今日政府紙幣は発行されていないが、政府貨幣の方は発行されている(戦後まで政府紙幣が一部流通していたと言う話を最近聞いた)。10円玉や100円玉、そして記念コインなどである。厳密に言えば、政府の貨幣発行に伴う利益は、額面額から製造コストを差引いたものである(1円玉と5円玉は赤字かもしれない)。そして紙幣を発行しても一向にかまわない。もし10万円札を政府紙幣として発行し、製造コストを20円とすると、9万9,980円の利益が政府に計上されることになる。
また紙幣を実際に印刷しなくとも、政府の紙幣発行権と言うものを日銀に売却することができる。500兆円の政府の紙幣発行権を日銀に売れば、この時点で政府の累積債務問題は形式的に解決するのである。もちろんこの500兆円を、公共投資や社会保障と言った財政支出に充てることもできる。このような仕組みを一部の政治家や官僚は知っているはずであるが、どう言う訳か口に出さないのである。
したがって「2,003年に財政破綻で日本が潰れる、サバイバルグッズを買え」と騒いでいる財政学者や浅井隆氏などは、まさに大ばか者である。また国債発行の30兆円枠がなんとか言っていること自体が「ナンセンス」そのものである。しかし恐いのは、財政破綻と叫んでいる人々が、倒産や失業を引き起す政策を進めることである。つまり彼等が実際に「ハルマゲドン」を起こすことである。その時、彼等は「今日の倒産や失業は財政の赤字を放っておいたからだ」と言う真っ赤な嘘をつくのである。
•日銀の国債引受け
政府の貨幣(紙幣)発行特権の発動に似た、財源確保の方法として、国債の日銀の直接引受けがある。法律上(財政法第5条)、日銀の直接引受けは禁止されている。しかしこれには但書きがあり、国会の決議の範囲内で日銀引受けはできることになっている。本誌が主張していた政府・地方の累積債務の解決方法はこれであった。600兆円、あるいは700兆円の国債を日銀引受けにして、累積債務問題を解決したり、財政支出に充てると言うアイディアである。ちょうど政府の貨幣(紙幣)発行特権を日銀に売却するのと似ている。国は日銀に対して、国債の利息を払うが、この利息は最終的に国庫に納付されるので、実質的に国債発行の金利負担はない。
政府の貨幣(紙幣)発行特権の発動と日銀の国債の引受けの違いは、前者が政府に債務が発生しないことである。後者の場合は、政府は日銀に債務を負い、日銀は国に対して債権を持つことになる。ただし日本政府は、日銀のほとんどの株式を所有しており、日銀は政府の子会社にあたる。そして両者を連結決算で見れば、債権・債務が相殺されることになる。つまり国債のうち日銀の引受け分は実質的に、政府の借金にならないと解釈される。
戦前には、高橋是清がこの国債の日銀引受けで得た資金を財政支出に使い(この他に為替を大幅に切下げた)、日本をデフレ経済からみごとに脱却させた。世界的なデフレ経済から、高橋是清のおかげで日本は一番早く脱却することができた。これは他の先進国から「やっかみ」を買うほどの成功であった。
しかし当時の日本のデフレギャップが、他の先進諸国に比べ小さかったことも幸いしている。つまり当時の日本の生産力は小さかったのである。このため、景気回復が順調過ぎ、逆に物価上昇の兆しが見え、高橋是清は、日銀引受けにした国債を市中で売却し、通貨の回収を図った。さらに軍事予算まで削ろうとしたため、2.26事件のテロによって殺されたのである。しかし今日の日本のデフレギャップは莫大なものになっている。ちょっとやそっとの財政支出の増大ぐらいでは、物価は上昇しない。また中国などの生産力も大きくなっており、少なくとも「物」の値段は簡単には上がらない。
日銀が国債を引受ける方法として、もう一つ市中から国債を買上げる方法がある。通常、日銀は国債を買ったり売ったりして、金融の調節を行っている。所謂「買いオペ、売りオペ」である。しかしこれとは別に、毎月「買い切りオペ」と言うものを実施している。国債の発行残高が年々増えており、金利が上昇してしまうからである。日本の国債の利回りが低位に推移しているのも、銀行の国債の買増しに加え、日銀の「買い切りオペ」があるからと筆者は考えている。日銀の国債の買い切り額は、今年3月に8,000億円から、1兆円に増額され、さらに最近2,000億円程度増やされている。この結果、日銀国債の保有残高は、75兆円前後になっていると筆者は推定している。
日本ではセイニア−リッジ政策は行われていないことになっているが、この日銀の75兆円の国債保有高のうち、底溜りになっている部分については、広義のセイニア−リッジ政策に該当するものと考えられる。そしてこれは既に実施されていることであり、もちろん合法である。日銀は、一応「国債の保有額は発行通貨の範囲内と言う歯止めがある」と言っているが、「発行通貨の範囲内」と言うことが、それほど根拠のあるものではない。
筆者は、国債の利回りが一定水準に収まるよう、日銀が市中から国債を買うシステムを考えている。もちろんこれは通常の政策ではない。しかし今日の日本経済は、普通の状態ではないのであるから、政策も通常ではないものを採用せざるを得ないのである。
このようにセイニア−リッジ政策、つまり政府の貨幣(紙幣)発行特権の発動は、「通常」ではないが、決して「異常」な政策ではない。特に政府の貨幣(紙幣)発行特権の発動と国債の日銀の直接引受けは、日本で過去に実施され、良い成果が得られたものである。また日銀の国債の買い切りは、現在実際に行われていることである。さらにこれについては、政府と日銀が政策協定(アコード)を結ぶことが考えられる。実際、米国では、戦後、米国債の買入れに関して、政府と連銀の間で政策協定(アコード)を結んでいた。これについては、来週号で述べることにする。
セイニア−リッジ政策に対しては、今週号でご紹介した「ハイパーインフレ」や「円の信認」以外に危惧する声色々とある。この中で最もやっかいなのは「モラルハザードを招くと言う声」である。来週号はこれを中心に取上げることにする。
先週号で、為替は円高に動く確率が大きいと述べたが、ほぼ予想通り、円高傾向で推移している。次の注目は、先週号で述べた通り、当局の介入ポイントである。
http://www.adpweb.com/eco/eco273.html
▲△▽▼
経済コラムマガジン 02/11/18(第274号)
http://www.adpweb.com/eco/eco274.html
セイニア−リッジ政策の推進(その3)
•政策協定(アコード)
先週号でセイニア−リッジ政策の三つのパターンを提示した。一つが本来のセイニア−リッジの形である政府(貨幣、紙幣)発行権の発動であり、残り二つが広義のセイニア−リッジ政策としての日銀の国債の引受けである。そして日銀の国債の引受けには、直接引受けと市中から買上げる方法がある。まず後者についてもう少し述べることがある。
米国は、第二次大戦後、政府と連銀が政策協定(アコード)を結び、政府が発行する国債を連銀がどんどん買上げることにした。これは政府の支出が大きくなったことが大きな要因である。ライバルである共産国家ソ連の台頭は、西側先進国にも福祉社会の建設を強いた。また米国は大戦後も戦争を続け、このため軍事費が増え続けた。米国は、目立った戦争だけでも朝鮮戦争、ベトナム戦争、そしてソ連との冷戦を戦って来たのである。福祉予算に加え、この軍事予算で、米国政府は金がどれだけあっても足らない状況であった。そしてこれを税金で賄うにも限界があり、国債の連銀引受けで凌いできたのである。そのため連銀は、一時、発行されている米国国債の半分を所有していた時期もあった。つまり米国はほんの10年前まで、危機管理的な経済運営を行ってきたのである。
このような状況は、レーガン政権まで続き、冷戦終了後、急速に「小さな政府論」が現実化して来たのである。ここで注意すべき点は、米国は福祉や軍事による過剰消費の状態だっからこそ、「小さな政府論」が叫ばれたのである。ところが日本では、逆に過少消費の状態で「小さな政府論」が主張されていることである。しかしこれは貧血の人間に100mダッシュを強いるようなものだ。これは全く現実を踏まえない主張であり、極めて危険である。むしろ日本は米国が戦後行ったように、財政支出を増大させる方向に転換することが必須である。
昨年、2,001年3月現在、米国の国債の15.5%は連銀が保有しており、同時期に日銀は日本国債の10.7%を保有している。今日日銀国債の買切り額が大きくなっているので、直近のこの比率は多少大きくなっていると思われる。しかしまだ米国の数値や、ましてや米国のピーク時にはとうてい達していない。つまり米国の例からも、日銀の国債買切りを増やす余地は十分に残っていると考える。また米国政府や米国のエコノミストがよく「日本にさらなる金融緩和」を要請してくるが、彼等は「過去に米国で行われた連銀による国債買い支え」を念頭に置いている可能性がある。
筆者は、米国の政府と連銀とが実行したこの「政策協定(アコード)」方式は参考になると考えている。ところで日本でこれを行う場合には、一つ工夫を加えることも考えられる。たとえば、政府は日銀と一定の金利水準まで、日銀が国債を買支えると言う具合である。また「政策協定(アコード)」によって、逆に日銀から政府に対して要求を出すことも考えられる。たとえば政府が国債を発行して財政支出を行う時には、物価の上昇率が一定以上にならないことを要求するのである。つまり本来、日銀が行う政策を政府に委託する形になる。そして互いの要求は、経済の状況を見ながら修正して行けば良いと考える。
以上、広義のセイニア−リッジ政策を含め、3つのパターンを提示したが、どれが良いかと言う話になる。もちろん政府(貨幣、紙幣)発行権の発動が一番オーソドックスであり、最もインパクトはあると思われる。我々の主張もこれである。しかしともすれば「財政緊縮」に傾きやすい(外国と違い、緊縮財政の方が日本では人気が高い)日本で、これが本当に実行できるか注目されるところである。これが実行できる政治家が現われるとしたなら、これは大したものである。このような政治家は、向こう百年は尊敬を集めるであろう。
しかしこの政府(貨幣、紙幣)発行権の発動には有力な反対意見がある。通貨政策の二元論である。つまり流通する通貨が政府と日銀から夫々発行されることによる金融政策の混乱である。現在でも政府貨幣は発行されているが、これはあくまでも補助貨幣である。政府の貨幣発行で金融政策に影響を与えることはない。またたしかに明治新政府は、政府紙幣を発行したが、これは日銀がなかった時代の話である。
しかし今日の日本の経済の情勢は異常な状態が続いている。政府の(貨幣、紙幣)発行権の発動が通常行わない政策としても、これが大きな効果を持っていることははっきりしている。つまり通常行わない政策でも、有効ならば今日のような危機的状況においては、実施を検討するのが当然である。さらに日銀が、独立性を盾に、政府の政策に非協力的な場合には、この政策を実行することがあり得る。
また世の中には、潔癖性的に「借金」を嫌う人々がいる。「子々孫々に借金を残してはいけない」と盲目的に訴えるのである。このような人々は、周りから「責任感がある人だ」「潔癖な人だ」と言われて自己満足している。そしてこのような人々は、国債の増発に真っ向から反対する。ところが、このような人々こそが国を滅ぼすのである。
しかし経済と言うものはそのようなものではない。貯蓄と投資のバランスが崩れた場合、需要不足が発生し、政府が余分な貯蓄を国債を発行して回収し、財政支出の形で、この資金を経済の循環に戻してやる必要がある。これを行わないと、失業や倒産が増えるのである。しかしこう言う人々は、深く物事を考えている訳ではないが、意外と世の中で影響力があるケースが多い。そしてこのような人々を説得するのはなかなか困難である。このような場合には「国債がだめなら、政府紙幣発行がありますよ。これは国の借金になりませんよ。」と説得できる可能性があると思われるのである。
•カマトトの議論
セイニア−リッジ政策に反対する意見には、誤解も多い。ハイパーインフレが起るとか、円が暴落する(この政策を実行した時にはむしろ円高になることが心配)と言った類である。しかし先週号から述べて来ているように、これらはコントロールできるものと思われる。その中にあって「通貨の発行が二元的になる」と言った反論などは高等な部類である。
そして反論に困るのが「モラルハザート」が起ると言った意見である。まず何を持って「モラル」と言っているのか、不明なのである。はっきりと「財政規律」と言ってくれれば良いのである。しかし中には意識的に再反論を避けるためか、わざと曖昧な表現をとっていると思われる。
たしかに財政規律と言うものは、考慮に入れておく必要がある。税収の範囲と言ったしばりがなくなった場合、財政支出が節度を失うと言う危惧である。中には真面目にこれを心配している人もいる。我々もこのような意見には真面目に答える必要がある。実際、国や地方の財政支出が増えれば、「金」にまつわる不祥事が増えると言う指摘に対して反論することが難しい。汚職が発生しなくとも、財政支出が増大することによって、文字通り、無駄と思われる買物が増えることは考えられる。もっとも何が無駄かと言う議論になれば、人によって基準が違い、意見が別れる。また無駄かどうかと言うことは、経済効果の大きさにはほとんど関係がない。
しかしこのようなことが、セイニア−リッジ政策を葬り去るような決定的な理由にはならないと考える。また緊縮財政を行ったからと言って、汚職が減るとは考えにくい。むしろ緊縮財政によって、景気が停滞し、民間の需要が減れば、官需の奪い合いになり、政治家や役人に頼る人々が増えることも考えられる。しかしセイニア−リッジ政策が実現するとしても、こう言った不祥事が続発するようなら、政策自体への反感が強まることも考えられる。これに対しては、何らかの対策と言ったものを考えておく必要がある。これについては、筆者も腹案があり、別の機会に取上げたい。
しかし今日の財政に対する考え自体が整理されていない。矛盾に満ちたまま、皆が納得しているのだから、不思議である。国債発行の「30兆円枠」も実に奇妙な議論である。30兆円までなら健全で、31兆円なら財政の危機と騒いでいる。このような人々の主張に沿うなら、30兆円もの国債を新規発行していること自体が、立派な「モラルハザード」である。つまり国債の発行を1円でも増やすことを問題にすべきである。もっと言えば、累積債務自体が問題と主張すべきである。「30兆円枠」とかで騒いでいる人々は、まさに「カマトト」である。また最近では、「プライマリーバランス」とか適当なことを言ってごまかしている。まるでバブル期の証券会社の営業マンの営業トークである。
「モラルハザード」が起ると言う意見で一番反論に困るのは「非論理的な意見」である。前に紹介したように「今のダメな政治家に多額の自由に使える金を与えるなんてとんでもない話である」と言った議論である。まさに「酔っぱらいの論理」であるが、世間では結構受ける。しかしこのようなめちゃくちゃな事を、大新聞の論説委員が言っているから問題である。これはセイニア−リッジ政策の問題よりも、政治の問題である。しかしこのような人々は、「セイニア−リッジ政策」に暗黙のうちに反対したいため、解決不能ないちゃもんをつけていると解釈できる。それと言うのも「セイニア−リッジ政策」が実行され、経済が立ち直れば、彼等がこれまで主張していたいい加減なことが完全に「嘘」だと証明されるからである。
逆に今日のデフレ経済の進行と、緊縮財政によって様々な「モラルハザード」が起っているのである。経済の低迷と犯罪の増加には相関がある。経済苦や経営不振により、自殺者が急増している。また自己破産者がいやに増えている。暗い将来を予想しているのか、「今を面白おかしく過ごす」と言う風潮が少年の間に蔓延し、少年犯罪は急増している。教育予算も大幅にカットである。実際に今日の日本社会における「モラルハザード」は酷いものである。将来、取返しがきかないほどのモラルハザードが、この長期のデフレ経済によって生まれているのである。このデフレ経済の克服の切り札である「セイニア−リッジ政策」に対して、曖昧な「モラルハザード」を伴うと言った根拠不明な反論を主張している場合ではない。
テレビ局の発表する小泉内閣の支持率が、いつも68%とか69%と、とんでもない数字である。このような数字を見て、小泉首相はまだ国民の間では人気があると言った解説がなされている。筆者は、この数字は実態を全く反映していないと見ている。しかしこれは色々な方面に重大な誤解を与えている。実際の支持率はこの半分くらいであろう。来週号はこの支持率調査を中心に取上げる。
11月14日の日経新聞の経済教室に岩田規久男学習院大学教授が文章を寄稿している。その中でシュンペーターの「創造的破壊」についてコメントしている。世間では「自分はインテリ」と誤解している人々の多くは、解ったようなふりをして、このシュンペーターの「創造的破壊」をあたかも真実のように引用している。日本にはシュンペーターの信者が実に多いのである。つまり「不況は「創造的破壊」を誘発し、不況に伴う痛みは我慢すべき」と言う仮説である。ところが岩田教授は、米国での実証で、これが全く根拠がないことが証明されいると紹介している。
これは重大なことである。本誌でも昔から景気の回復は、全て政府の景気対策(朝鮮戦争の特需と言う例外があるが)によることを指摘してきた。「経済には自律的に回復する機能があるから、この機能の働きを阻害するケインズ的政策はむしろマイナス」と言う理論(典型的な観念論)が完全に間違っているのである。むしろ経済は一旦落ち始めると、外的な刺激がない限り、どんどん沈んで行くと考えた方が良い。このシュンペーターの理論については、近々取上げることにする。
「経済の回復には、まず不良債権の処理が必要」と言う小泉・竹中コンビの考えがおかしいと言う声が大きくなって来た。むしろその前にデフレ経済の解決が必要と言う意見が強くなった。一応、まともな方向である。しかし「経済特区」とか「先行減税」でデフレ経済が解決するとは絶対に考えない。あまりにも下らな過ぎる。デフレ経済への理解が全くないのである。そして今度は、自民党の税調の幹部や官僚がヤリ玉に上がっている。ちょっと前までは金融庁が悪役であった。このように次々に悪玉を作って行っても、何の解決にもならない。
まだ需給ギャップやデフレギャップが5%や6%と言っているが、その程度ならまさに景気は過熱状態のはずである。おそらくそのような数字なら、日本は世界の中で一番景気が良く、設備投資もバンバン行われているはずである。現実は、設備の稼働率が70%を大きく下回り、潜在的な失業者を含めれば、百万人単位ではすまない失業者が存在している。どうして需給ギャップがたった5%や6%しかないのだ。需給ギャップの計測が決定的に間違っているのである。政府の需給ギャップの計測がむちゃくちゃと言うことに気が付かなければ、正しいデフレ経済の解決方法は分らないはずである。
http://www.adpweb.com/eco/eco274.html
▲△▽▼
経済コラムマガジン 02/3/4(第243号)
http://www.adpweb.com/eco/eco243.html
セイニア−リッジ政策への準備
•セイニア−リッジ政策
本誌が主張している「国債の日銀引受け政策」を端的に説明すれば、いわゆるセイニア−リッジ権限(政府の貨幣発行特権)によって財源を確保し、それを内需拡大に使うことである。たしかにこのような経済政策は決してオーソドックスなものではない。
最近の例で、セイニア−リッジ政策が採られたのは、エリツェン大統領時代のロシアである。この時は、ロシア政府が海外からの資金調達が事実上できなくなり、公務員の給料さえ払えなかったのである。仕方が無いので、ロシア政府は多額の国債を発行し、これを中央銀行に引受けさせ、急場をしのいだのである。おそらくこの政策を行わなかったら、ロシアは大混乱に陥り、エリツェン政権は崩壊していたと思われる。しかし本誌で何度も取上げているように、このセイニア−リッジ政策のお陰で、ルーブルは暴落し、輸入品(例えば食料品)の価格が高騰した。この結果、ロシアの人々は、そんなに高い外国製品は買えないと言って、自分達で生産し始めたのである。これ以降、ロシア経済は予想外に順調に成長しているのである。
ロシアの例でも分るように、セイニア−リッジ政策を計画的に行ったような国はない。切羽詰まった形で行われるのが普通である。しかし本誌は、これを今日の日本の経済政策に取入れようと主張しているのである。日本のデフレギャツプは、異常に大きくなっており、これを解決するには、尋常の手段では無理な段階である。オーソドックスな政策は、赤字国債を発行し、これを財源に財政支出を増大させることである。しかし銀行が保有する国債が75兆円(昨年9月末)になっていることを考慮する必要がある。とりあえずこの問題については別の機会にまた取上げることにするが、これが国債の増発を困難にしていることも事実である。
したがって財源を確保すると言っても、単純に国債を発行するとはいかなくなっている。本誌が主張しているような「国債の日銀引受け」とか、先週号でご紹介した「政府紙幣の発行」と言った広義のセイニア−リッジ政策をどうしても取入れざるを得ない状況になっていると判断される。実際、最近日銀は、国債の買い切りを月額8千億円から1兆円に増額することを決めた。これは実質的に「国債の日銀引受け」である。つまりセイニア−リッジ政策を小出しに実行しているのである。
今週の本題である。本格的にセイニア−リッジ政策を行うとしたなら、前もって準備しておくことがいくつかある。今週号では、そのうちの二点だけを取上げることにする。一つ目はインフレに対する備えである。セイニア−リッジ政策に対して拒否する人々がまず指摘することは、この政策によって引き起される物価の上昇であろう。かならず「ハイパーインフレーション」が起ると騒ぐのである。しかしこれだけデフレギャップが大きい日本で、簡単に「ハイパーインフレーション」が起るとは思えない。日本はロシアや中南米と事情が全く異なるのである。さらに筆者の考えでは、ある程度(年率2〜3%)の物価上昇を容認されていることが前提である。さらに万が一これを越える場合には、需要政策をセーブし、物価上昇率を目標内に収めようと言うのである。
このような政策に反対する人々は必ず「一旦インフレが起ったら押さえようがなくなる危険な政策」と判を押したようなことを言う。しかし先進国ならこのような政策(インフレターゲット政策)はどの国も行っていることである。他の先進各国でうまくいっているこの政策が、どうして日本では無理だと決めつけるのであろうか。まさに「反対のための反対」である。
ただしどうしても日本においては考慮しておく必要な事項が一つある。それは地価の動向である。国民の間には大きな誤解がある。バブル期には全ての物価が高騰したと思っている。しかし一般の物価は不思議なくらい安定していたのである。消費者物価が一番上昇したのは90年度であるが、わずか3.3%であった。またどうしても日本の物価上昇率は大きくなる傾向があることを考慮すれば、実際のこの年度の物価の上昇率はおそらく2%台と思われる。つまりバブル期の物価の上昇率は、ピーク時でも先進国では問題にならない水準であった。バブル期に問題になったのは、一般の物価ではなく、地価の上昇である。また株価の高騰も地価の高騰に連動していた。
バブル経済の全てを悪く言う人がいるが、これは正しくはない。バブル発生は、プラザ合意以降の円高不況に対する対策であった内需拡大策の結果である。もしこの内需拡大策を行わなかったなら、今日のような失業問題が当時起っていたはずである。たしかに地価対策が後手に回ったことは事実である。また一旦上昇を始めた地価の上昇を抑え込むことが難しかったのも事実である。だいたい当局が地価の上昇を問題にし始めたのが遅すぎたのである。バブル発生は資本主義経済につきものである。しかし経済規模が大きくなり、動く資金が膨大になれば、バブルが崩壊した後始末も大変になるのである。
筆者の主張であるセイニア−リッジ政策は、もう一度内需拡大政策を行おうとするものである。ただし今回は、前もって準備を行うことによって、前回のような野方図なバブルが発生することがないようにすることが肝腎がある。
•バブルの制御
前回のバブルでは、金融を引締め、金利を高くして地価の上昇を押さえようとした。しかし年率何十%も地価が上昇しているのに、多少の金利の上昇では地価の動向には影響は及ぼさない。さらに金利は、一般の経済活動や為替にも影響を与えるのであり、このような金利政策には限度がある。次に銀行の土地融資を規制したが、住専などのノンバンクや農林系金融機関(大蔵省の管轄以外の金融機関)から、どんどん資金が土地に流れ続けた。また税制で押え込もうとして地価税を創設したが、地価税が実施された頃には、バブルは既に崩壊に向かっていたのである。
「一旦インフレが起ったら押さえようがなくなる危険な政策」と言うのは、一般の物価の話ではない。これは国民に誤解を与える表現である。しかし土地については、この危険性があると認識すべきである。土地は極めて特殊な「財」であり、一般の「財」とは違い、再生産が困難であり、在庫と言うものがない。したがって価格を決定する市場も不安定になりがちである。普通の「財」は、価格が上昇すれば、需要が減り、供給が増えることによって価格も安定に向かう。しかし土地の場合は、いつもこのような価格メカニズムが働くとは限らない。日本において土地はどうしても「投機」の対象になりやすい。こうなれば通常の価格調整メカニズムが働かないのである。むしろ一旦地価が上昇すると、人々はさらに高くなるのではないかと期待し、土地に対する需要が一段と増え、これによってさらに地価が上昇するのである。
たしかに今日では日本の「土地神話」は崩壊したと言われている。筆者も、地価の動向にそれほど神経質になる必要はないと考える。しかし今日の状態は、まさに超金融緩和である。見方によっては、列島改造論時代や前のバブル期より大きな過剰流動性が存在していると思われる。したがって条件が揃えば、また土地投機と言うものが発生する可能性を全面的に否定することはできない。
セイニア−リッジ政策と言う特別の政策を行うには、今度こそ失敗は許されないのである。どうしても地価の監視体制を整備しておき、次のバブルの発生を一定レベル内に抑え込む仕組を用意しておく必要がある(もちろん場所によっては地価が相当下がっており、銀行の不良債権処理のためにも、一定レベルまでの上昇は容認される)。これを金融政策や税制でコントロールしようとして前回は失敗したのである。前述したように、土地は特殊な「財」であるから、この価格をコントロールするにはやはり特殊な方法が必要と考える。
地価の高騰を抑えるにはもっと直接的な方法が必要である。筆者は、国土利用計画法の監視区域制度をもっと有効に使えるように改正するのが良いと考える。これは一定以上の面積の土地取引を許可制にして、適正な価格での土地取引を守らせるものである。この面積規定をより小さくしたり、あるいは特定の地域は全ての土地取引を許可制にすることが考えられる。このような政策のためにも、土地投機がおこりそうな地域の公示ポイントを大幅に増やすことが必要である。
セイニア−リッジ政策をどんどん進めれば、ある程度の一般の物価が上昇することは避けられない。そこで一般国民から不満が出ることが予想される。これに対処することが、第二番目の準備である。デフレ経済の特徴は、全ての人が同時には不幸にならないことである。企業倒産などで失業した人々や就職ができない人々に、不幸が集中する。一般の人々にデフレ経済が影響が及ぶには相当時間がかかる。ましてや日本のように、なんとなくなし崩し的な景気対策を行っている場合には、デフレ経済を問題にする「空気」はなかなか醸成されない。日本においては慢性病のようにデフレ経済が進行しているのである。むしろ逆に物価が安くなって喜んでいる人も多くいるのが現実である。
今日の状況を見ていても、デフレ経済についてマスコミが取上げていても、一般の国民がそれほど強い危機感を持っている訳ではない。今日の一般の関心はむしろ「宗男問題」なのである。企業の倒産も増えているが、人々はこれに馴れっ子になっており、以前のようには騒がなくなっている。このような状況では、逆に物価が上昇する政策に人々が抵抗を感じるはずである。
デフレギャップを埋める政策は必要である。しかしこの政策で恩恵を受ける人にも順番がある。政府の需要政策によって、職を得る人や企業倒産から免れる従業員などは真先に恩恵を受ける。しかし年金暮らしの人や当分職が見つかる可能性がない失業者にとっては、単に物価上昇(わずかであっても)に直面するだけである。このような人々から不満が出ることは容易に予想される。
そこでこのような政策を行うには、まず全ての人々に恩恵が渡る政策も同時に行う必要があると考える。例えば少なくとも最初の2年くらいは物価の上昇をゼロに近いレベルに抑えるようにするのである。これには公共料金を引下げる方法などが考えられる。電気料金の基本料金の一部をプロジェクトから支出したり、高速道路の料金を引下げることを行うのである。
このように筆者が主張するような政策には、この二点以外でも色々な準備が必要である。たとえば需要政策を大胆に進めれば、また汚職のような不愉快な事件が増える可能性が強い。実際、このような事柄が公共事業に対して人々の反感を買っているのは事実である。したがってこのような出来事の防止策も必要になる。これについて筆者も考えはあるが、それは別の機会に取上げることにする。
来週は、国債の日銀引受け政策の締め括りとして、財政の累積債務問題を取上げることにする。
2,002年度、つまり来年度の経済見通しを行ってみる。来年度は経済がかなり落込むと言う見方がある。筆者もそれに近い考えであった。しかしどうもそれほど落込むとは思えないのである。成長率は今年度と同じくらいと思われる。
一つは米国の景気動向が予想ほどには落込まないからである。同時テロ後、米国の貯蓄率が急上昇したが、アフガン問題が予想以上のスピードで解決に向かったせいか、消費は持直している。さらに円安が続いており、外需が増える可能性が強い。
小泉政権は「国債の30兆円枠」の緊縮財政言っているが、事実は違う。今年度もとても30兆円に収まらないし、来年度は絶対に無理である。原因は事実上の減税が行われているからである。
増減税は、税率の変動だけで行われるのではない。経済上の実効性では、実際に税金がどれだけ納められるかである。今年度の税収は、前年企業業績が比較的良かったせいで増収になっているはずである。一方、今年度の企業業績は大幅な減益であり、税収は相当減る。つまり今年度の増税に対して、来年度は大幅な減税である。つまり経済上は大きな減税が行われることと変わりがない(経済学で言うところの財政のスタビライザー機能の働き)。もちろん国債の発行は相当増えるはずである。おそらく日銀による国債買い切りは、またそのうち増額されると見ている。とても30兆円枠に収まるはずがないのである(本当に30兆円枠に収めるつもりならもっと予算を削る必要があったのである)。このようになし崩しの財政政策が日本では行われているのである。
あと不確定な要因が二つある。一つは「補正予算」である。本予算が成立したなら、直ぐに「補正予算」が話題になると思われる。つまり小泉構造改革と、財政政策と言う矛盾した政策がまた平行して行われる可能性が強い。ブレーキとアクセルを同時に踏みながらの、訳の分らない蛇行運転が今後も続くのである。
もう一つ分らないのが消費の動向である。本来消費性向、貯蓄性向と言うものは短期的に変動しないものである。しかし人々の不安が急激に増した時には消費性向が小さくなる可能性がある。企業倒産が劇的に増える状況では、このような事が起る可能性がある。以前、半分冗談であったが、筆者も上場100社くらい倒産したら、人々の消費マインドに影響すると述べたことがある。
ところが株式を公開している企業で破綻した数が既に現在11社(雪印食品を含め)である。これは年間60社と言うものすごいペースである。つまり身近に企業倒産を感じる人々がそれだけ多くなっているのである。今後さらに大きな倒産が続けば、消費動向にも影響が出る可能性があると考える。
たしかに消費動向の先行きが不透明と言う面があるが、筆者は、このままの経済政策なら景気の落込みはそれほど大きくならないと見ている。ただし地方と東京の経済格差は一段と拡大することは確実である(東京だけは経済の落込みは小さい)。要するに、本格的な経済危機は一年先送りされたのである。それだけに次の年に日本経済は正念場を迎えると言うことになる。
http://www.adpweb.com/eco/eco243.html
▲△▽▼
経済コラムマガジン 02/7/15(第260号)
http://www.adpweb.com/eco/eco260.html
セイニアリッジ政策への反対意見
•ハイパーインフレーションの起る可能性
先週に引続き、中央公論に掲載された榊原慶大教授の文章(論文)を取上げる(内容は先週号の筆者の要約を参照していただきたい)。まずインフレの話である。教授は、過度の金融緩和を行うことに伴う、「ハイパーインフレーション」の懸念を示している。これは金融緩和によってインフレを起こすことができると言う、一部のエコノミスト(インフレターゲット論者)の主張に対する反論である。筆者も、今日行われている金融緩和政策の延長線で、インフレが起り、デフレ経済の問題が解決するとは考えていない。この点では教授と同意見である。しかし反対に、教授の懸念しているような過去に諸外国で起ったような「ハイパーインフレ」みたいなものが、日本で起る確率も極めて小さいと考える。
金融緩和政策だけで物価が上昇しないことは、今日の超金融緩和状態と物価の関係を見れば一目瞭然である。おそらく今日の金融緩和を一歩進めても、物価への影響は限定的であろう。資金が実需に回らないからである。問題は、筆者達が主張するように、政府の貨幣発行特権(セイニアリッジ)による財政支出を行った場合の物価動向である。この場合には資金の流れに実需が伴うのである。
ところで物価上昇と言った場合には、三つ事柄を考える必要がある。「物」「サービス」そして「土地」の価格である。まず「物」の価格であるが、この急騰はほとんどないものと考える。伝統的な経済理論では、需要が増えれば、価格が上昇することが当り前になっている。たしかに消費の多くが「ダイコン」や「イワシ」と言った市場の需給関係で決まるものだった時代には、これは正しかったかもしれない。
しかし今日のように「物」の消費の大半を占める工業製品は、需要が増えても、簡単には価格が上昇しない。むしろ中長期的には、需要が増えることによって、単位当りの製造コストが減少し、価格が下落するケースが圧倒的に多い。自動車、携帯電話そして最近ではDVDなどが典型例で、需要が増えるほどこれらの価格は下落している。反対に思ったように需要が伸びず、価格が高止まりしているものもある。典型的なのはETC(高速道路用の自動料金収受システム)の車載器である。これは普及が遅れ、価格も高止まりしており、また価格が高いことで普及がまた進まないと言った悪循環に陥っている。
たしかに農産物や石油など、主に一次産品は、供給に弾力性が乏しく、短期的な需要の増加によって価格が上昇しやすい傾向にある。しかしこれも冷凍技術の進歩や石油備蓄によって、短期的な価格上昇には限度がある。特に物価全般に影響の大きい石油は、OPECの勢いも一頃に比べ減退しており、石油製品価格はかなり安定して推移している。
さらに中国などの発展途上国の製品の品質も向上しており、安易な価格の値上げは困難である。以前から本誌では、中国で失業者がいなくなるまで、物の価格は上昇と半分冗談で言ってきたが、これは実際の話になりつつある。このようにこと「物」については、どれだけ需要が増大しても、価格がどんどん上昇すると言った状況はとても考えられない。
少し複雑なのはサービスの価格である。サービスの場合、範囲は広く、あまり限定的なことは言えない。しかしまずサービスには、公共料金が含まれており、これは政府のコントロールが効くことから問題はないと考える。医療費もここに含めて良いであろう。また最近、サービスの中で比重が大きくなっているのが通信費であり、この通信費は「物」とよく似ている。需要が増えると、単位当りのコストが減り、価格が下落する傾向にある。特に通信業界は、世界的に過剰設備を抱えており、とても値上げできる環境にない。
よくわからないのは一般のサービスである。飲食店や美容・理容など実に多様なサービス業がある。そしてこれらのサービスのコストの大半を占めるのが人件費である。しかし今日の失業の状態を見れば、簡単に人件費が上昇することは考えられない。おそらく今日の失業者の数が半分にでもならない限り、サービス価格に影響を与えるような人件費の目立った上昇はないと考える。
このように「物」「サービス」については、需要が増大しても、価格の上昇は限定的であり、日本でハイパーインフレなんてとても起る状況ではない。万が一このような徴候が現れた場合には、この時こそ政府は、金融政策を駆使し、さらにそれでも価格が上昇するようなら、競争政策、具体的には「規制緩和」を強化すれば良いのである。実際、景気が過熱したと言われたバブル期において、一番物価が上昇したのは90年であったが、わずか3.3%の上昇である。
誰も気にしていないが、問題は「土地」である。「物」「サービス」の価格上昇がなくても、地価は上昇する可能性が高いと筆者は考えている。たしかに日本では一頃の「土地神話」がなくなったといわれているが、余剰資金が土地に向かうことは十分考えられる。ただしもし次にバブルが起るとしたなら、東京の一等地に限られると考える。なにしろ日本は、過去にないほどの大きな過剰流動性が存在している。おそらくGDP比で、列島改造ブームや先のバブル期よりも大きな過剰流動性があると思われる。
つまり世間で思われているようなハイパーインフレは日本では起らないが、バブル期のような一部の地価の高騰はあり得るのである。もし地価の高騰が起り、これが破裂すれば、第二のバブル崩壊と言うことになる。したがって今回は、金融政策に頼らない地価の暴騰を阻止する手段を講じておく必要がある。筆者は、02/3/4(第243号)「セイニア−リッジ政策への準備」で述べた国土利用計画法の監視区域制度の改正が有効と考える。つまりこのような地価上昇への対処を行っておけば、榊原慶大教授が想定するようなハイパーインフレは杞憂に終わると考える。
榊原教授は別にして、異常にハイパーインフレが起る懸念をやたら強調する人々がいる。「ニュークラシカル」の人々であり、日本の経済学者やエコノミストの大半はこれである。先週号で彼等は、失業者は「ミスマッチ」と言っていることを紹介したが、製造設備にも遊休と言うものがないと言うのがかれらの主張である。今稼動していない生産設備は陳腐化しており、使い物にならないから休止していると言って譲らない。したがって彼等によれば、現在の本当の設備稼働率は95%くらいと想定しているようである。筆者達にしてみれば、95%の稼働率なら日本経済はまさに好況のまっただ中いると言うことになる。我々の認識である「100兆円以上のデフレギャップの存在」と大きな開きがある。
どうしてこのような非現実的なことを考えるかと言えば、彼等は、ケインズ政策、つまり財政政策を中心とした需要政策を行っても、設備は限界にきており、物価上昇だけが起って、実質所得は増えないと言いたいのである。したがって企業には余剰の人員や余剰の設備はなく、街にも失業者はいないと想定している。彼等は口には出さないが本心で、余剰の設備や人員は使い物にならないものばかりで、社会に存在する意義もないと考えている。彼等の経済的な見方は別にして、彼等の精神はまことに屈折しているのである。
日経新聞の論調も「ニュークラシカル」の影響を受けている。特に日経のコラムの大機小機の大半の執筆者は、実にひどい。ところでその日経の7月8日の一面トップに大手製造業に対するアンケート結果が掲載されていた。その中で需要が増えた場合の増産方法を問うものがあった。回答は複数回答であり、なんと驚くことに、断トツで第一位の回答は「既存設備の活用、稼働率の引上げ」であった。76%の企業の回答がこれであり、新工場の建設はわずか16%であった。ほとんどの企業は過剰設備を持っているので、需要が増えても、ちょっと工場の稼働率を上げれば良いと答えているのである。つまりこのアンケート結果は、まさに需要が増えても、価格が上昇する可能性が薄いことを意味している。当り前と言えば当り前である。そして「ニュークラシカル」派の人々は、一体これをどのように言い訳するのであろうか。
もっとも「ニュークラシカル」の人々は、自分達が言っていることが、経済の上でどのようなことなのか理解していない可能性がある。したがって我々は、「あなた達の言っていることはこう言うことですよ」と一々解説してあげる必要がある。そして「ニュークラシカル」派が主流のはずの日経が、このような数値を公表すること自体が注目される。日頃、日経は、需要政策ではなく、経済再建には徹底した「規制緩和」と「競争政策」と言っているのである。
とにかく「ニュークラシカル」派の人々の特徴は、現実の経済を見ないことである。むしろ現実の経済を知らないことを誇りにしているようである。そして「言い訳」だけは、異常に巧みなのである。
•政府支出に関する「デマ」
今日、財政出動による景気対策は効果がなくなったと言う声が大きくなっている。これも「ニュークラシカル」派の人々である。中には「財政支出の乗数効果がなくなった」ととんでもないことを言出す者まで現れるしまつである。榊原教授は、「効果はない」とは言っていないが、効果が短期的で効果が続かないと主張している。
筆者も、財政支出の乗数効果はいくぶん小さくなっているのではないかと言う話を本誌でも述べてきた。しかしこのような考えが間違っていたのではないかと思わす、次のような表に出会った。
GDPと自生的有効需要の伸び率比較
http://www.adpweb.com/eco/eco260.html
年度 GDP 総額 民間投資+純輸出 政府支出 (うち公共投資)
70→00
2.56 2.49 2.57 2.38 (2.34)
80→00
1.66 1.66 1.83 1.51 (1.41)
80→95
1.60 1.60 1.67 1.53 (1.63)
95→00
1.04 1.04 1.10 0.96 (0.87)
この表は、丹羽春喜大阪学院大学教授が、ジャパンポストと言う雑誌の6月1日号に掲載したものである。民間投資と純輸出に政府支出と言った自生的(独立的)な需要の総額の伸び率と、GDPの伸び率の関係を示したものである。基礎データの出所は、経済企画庁の「国民経済計算年報」と内閣府のホームページである。
しかしGDPの伸び率と、自生的(独立的)な需要の総額の伸び率があまりにも一致し過ぎるため、このコラムで取上げるのも憚られるほどであった。まずこの表から解ることは、民間投資、純輸出、政府支出などの自生的(独立的)な需要の乗数効果はかなり安定していると推定されることである。つまり筆者が考えていたように、乗数効果の値がどんどん小さくなっていると言うことはなさそうである(数値の推移を見る限り、たしかに80年以降は、70年代より若干小さくなっているが、かなり安定していると推定される)。
また注意が必要なことは、表の政府支出は国と地方の財政支出の合計である。世間では、度重なる景気対策で政府支出が増大していると言った話になっているが、それらは全くの「デマ」と言うことをこの表は如実に示している。たしかに国の支出が増えていても、地方の財政支出がかなり減っていると思われる。たしかに例えば99年度の地方単独事業は、予算では19.3兆円であったが、決算ベースでは13.5兆円と6兆円もショートしていた。このように、国と地方を合計し、さらに決算ベースで見ると、政府支出の伸び率はかなりGDPの伸び率をかなり下回っているのである。
このように世間に流布している「財政による景気回復は限界にきている」と言う話は、実際の数字を確認しない人々の「たわごと」である。むしろこれ以上輸出に頼ることができず、大きな新規の設備投資の増加が期待できない今日においては、政府支出の増大しか道がないことをこの表は雄弁に物語っている。「規制緩和や投資減税で設備投資が増える」と言った「雲を掴む」ような話に賭けるわけにはいかないのである。なお、この表についてはもっと述べたいことがあり、それは後日行うことにしたい。
さらに榊原慶大教授は、政府紙幣発行によって、日本の産業構造の改革を訴えている。生産性の低い産業が、銀行の大量の不良債権の元となっている。この日本の産業の二重構造を解消するには、銀行にそのような産業の整理を迫り、その費用を政府紙幣発行によって賄おうと言う考えである。生産性の低い産業の整理は教授の持論である。しかし生産性に関しては、01/9/10(第221号)「「生産性」と「セイサンセイ」の話」で述べた通りであり、ここでは詳しくは述べないが、榊原教授の考えにはとても賛同できない。
榊原教授は、生産性の低い産業として建築・土木業を念頭を置いておられると思われる。しかし生産性、つまりこの業界の労働生産性が低いのは、単に仕事量が減ってきたからと考える。企業間の競争が激しく、受注価格が下がっているからである。反対に仕事量が増えれば、生産性は上がるはずである。さらにこの業界がコンスタントに利益を上げられるようになれば、これらの企業への貸付金も、不良資産から銀行の優良資産に変わるのである。
実際、上の表にあるように、公共投資は確実に減っている(一般の理解と全く逆である)。特に最近の減少は目立つ。ところで公共投資は減少し、この業界の整理も進んでいるのである。つまりもし榊原教授の説が正しいのなら、もう経済は上向いていても良いはずである。ところが現実は反対なのである。さらに一部の輸出企業の業績が良いのは、市場の環境に恵まれていると言うこともあることを指摘しておきたい。また産業の二重構造や三重構造と言ったものはどの国にもあるものと考えられる。これを解決しなければ、デフレ経済から脱却できないと言う考えは、筆者にはとても奇異に感じられる。
このように榊原慶大教授の考えには、賛同できる部分とそうでない部分がある。最後に、この榊原教授の文章に対する評論を一つ紹介しておく。これは6月23日の産経新聞に掲載された論説副委員長の岩崎慶市氏のものである。岩崎氏は、概ね榊原教授の考えを肯定的に評価していた(もっとも榊原教授が主張しているこの政策は、実質的に既に行われていると筆者は認識しているが)。むしろ我々が主張しているような、資金を需要サイドへ使うことには否定的である。そして通貨の信認問題は残ることを指摘している。しかし評論の最後の言葉が問題である。岩崎氏は「通貨の信認問題を質の低い政治にゆだねる危険性も大きい」と言っている。
しかし政治の質が問題で、有効な政策が遂行できないと言うのなら、世の中の大部分の問題は政治が解決することできないと言う意味になる。またどのような状態になれば、「質の高い政治」と言えるのかさっぱり分らない。特に、筆者達のように、セイニアリッジによる資金で財政支出を行おうと言う場合、これは由々しき問題となる。まず岩崎氏は、何を持って政治の質を計ろうと言うのであろうか明らかにすべきである。このように検証が困難な課題を出されては困るのである。
へたをすれば、岩崎氏の意見は、居酒屋の酔っぱらい達のセリフと同じになる。「とんでもない政治家達に巨額の金を自由にさせてなるものか」と誰か言出すと、「そうだ」「そうだ」と周りの者が賛同するのである。実際、セイニアリッジ政策を広めたり、実行する場合には、このような反論のしようのないような、非論理的な反対意見にぶつかることを覚悟しておく必要がある。これは結構手強いのである。
来週号は「為替」と中国との通商問題を取上げる。
景気低迷によって、税収は、国税で2.8兆円、地方税で0.8兆円ほど対前年度で減少する(筆者が本誌で予想した額より、減収額は1兆円ほど小さい)。税収減と言うことは、実質的に減税である。税体系には、景気が悪くなると税金が減って、景気がさらに落込まないメカニズムが組み込まれている。反対に景気が持直した場合には、税金が増え、逆に景気を冷やすことになる。これを税のスタビィライザー機能と呼ぶ。全く話題にならないが、今回もこれからこの機能が働くのである。
しかし今日議論されている「外形標準課税」の想定は8,500億円くらいである。一方、検討されている投資減税などは、数千億円の規模である。このような小規模の増税や減税が「景気にマイナス」とか「デフレ経済対策だ」とか言って、今日カンカンガクガク議論されているのである。元々減税にしても、増税にしても乗数効果は小さい。さらにたかだか数千億円規模の話である。とてもいい大人達の議論とは思えない。どうもこのような議論を行っている人々は、デフレ経済の深刻さを気にしたくないようである。
http://www.adpweb.com/eco/eco260.html
投稿コメント全ログ コメント即時配信 スレ建て依頼 削除コメント確認方法
スパムメールの中から見つけ出すためにメールのタイトルには必ず「阿修羅さんへ」と記述してください。
すべてのページの引用、転載、リンクを許可します。確認メールは不要です。引用元リンクを表示してください。