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J・F・ケネディ-はヤラセの東西冷戦体制を終わらせようとしたのでユダヤ金融資本に殺された
http://www.asyura2.com/20/reki4/msg/1102.html
投稿者 中川隆 日時 2020 年 10 月 14 日 08:52:05: 3bF/xW6Ehzs4I koaQ7Jey
 

(回答先: ウォール街やシティと戦った共産主義者のフランクリン・ルーズベルト 投稿者 中川隆 日時 2020 年 9 月 20 日 09:19:23)

J・F・ケネディ-はヤラセの東西冷戦体制を終わらせようとしたのでユダヤ金融資本に殺された
http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/126.html  

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1. 中川隆[-10862] koaQ7Jey 2020年10月14日 08:53:11 : qeoz4h8Nwg : dm1xMUg1aTVyQWc=[5] 報告
2020.10.14
巨大資本を後ろ盾とする親イスラエルで戦争に賛成する政治家のみが許される米国
https://plaza.rakuten.co.jp/condor33/diary/202010140000/

 アメリカの次期大統領を決める選挙の投票が11月3日に予定されている。現職で共和党のドナルド・トランプと民主党のジョー・バイデン前副大統領が争っている。いずれの政党とも巨大資本を後ろ盾とする親イスラエル。パレスチナでの破壊と殺戮を止める気配はない。そのようなことをすれば候補者にはなれないだろう。

 前回の大統領選挙でトランプの相手はロシアを核戦争で脅していたヒラリー・クリントン。バラク・オバマの政策を引き継いだのだが、彼女は上院議員の時代から戦争ビジネスをスポンサーにしていたことで知られている。それに対してトランプはロシアとの関係修復を訴えて勝利したのだが、1カ月ほどで方針を変えている。それを象徴する出来事がマイケル・フリン国家安全保障補佐官の解任だ。

 昨年の段階ではTPP(環太平洋連携協定)に反対し、銀行業務と証券業務を分離させて投機を抑制していたグラス・スティーガル法を復活するべきだと主張、イラクなど中東における戦争に反対していた民主党のタルシ・ガッバード下院議員のような候補者もいたが、そうした政治家は排除されるのがアメリカの仕組みだ。

 ガッバードは大学を卒業した後、2002年から04年にかけてハワイ州下院の議員を務め、04年7月から12カ月間、州兵としてイラクに派遣されている。最初は医療部隊に所属、そのあと兵站部門で働いた。2006年に帰国してからダニエル・アカカ上院議員の下で働き、13年から下院議員を務めている。イラク戦争の実態を彼女は自身の目で見ていた。

 しかし、その仕組みが崩れかかったことがある。2000年にも大統領選挙があったが、その前年に実施された世論調査では出馬の意思を示していなかったジョン・F・ケネディ・ジュニア、つまりジョン・F・ケネディ大統領の息子が共和党や民主党の候補者を5ポイントほどリードしていたのだ。

 もしケネディ・ジュニアが立候補したなら、投票数でトップになる可能性は高い。そこで選挙人が投票結果に拘束されるのかどうかという点が議論された。選挙人が別の候補者に投票することは可能なのか、不可能なのかということだ。アメリカの大統領選挙は候補者本人に投票するのではなく、選挙人を選ぶからだ。アメリカの大統領選挙が機能不全に陥る可能性すらあった。

 そうした懸念を吹き払う出来事が追ったのは1999年7月16日。ケネディ・ジュニアが操縦する単発のパイパー・サラトガが墜落したのである。目的地であるマサチューセッツ州マーサズ・ビンヤード島へあと約12キロメートルの地点でだった。本人だけでなく同乗していた妻のキャロラインとその姉、ローレン・ベッセッテも死亡している。

 いくつかの点から操縦ミスで落ちた可能性は小さい。例えば、墜落した位置から考えて、パイパー機は自動操縦で飛んでいた可能性が高いからだ。しかも墜落の3週間前にケネディは左足首をけがしていたので副操縦士を乗せていたはずだとも言われている。実際、7月上旬にカナダまで飛んだときには副操縦士を同乗させていた。

 また奇妙なことに搭載されていたボイス・レコーダー、DVR300iに何も記録されていなかった。この装置は音声に反応して動く仕掛けになっていて、直前の5分間を記録する。

 墜落現場の特定に時間がかかりすぎているとする指摘もある。緊急時に位置を通報するためにELTという装置も搭載されていたのだが、墜落から発見までに5日間を要している。日本航空123便より酷い。ともかくジョン・F・ケネディ・ジュニアは2000年の大統領選挙に出馬することはできなくなった。

 結局、大統領に選ばれたのはジョージ・W・ブッシュ。ジョン・F・ケネディ大統領の暗殺に絡み、CIAの責任者としてFBIの文書に名前が出てくるジョージ・H・W・ブッシュの息子だ。大統領に就任した年の9月11日にニューヨークの世界貿易センターとバージニア州アーリントンの国防総省本部庁舎(ペンタゴン)が攻撃され、人びとがショックを受けている間の憲法を無視する愛国者法が制定された。

 2003年にはその攻撃と関係のないイラクをアメリカ軍は従属国の軍隊を率いて先制攻撃、サダム・フセイン体制を破壊、フセイン本人は処刑されたが、多くのイラク市民も殺されている。

 例えば、2006年10月にイギリスの医学雑誌「ランセット」はジョンズ・ホプキンズ大学とアル・ムスタンシリヤ大学の共同研究による調査報告を掲載、それによると2003年3月から2006年7月までの間に65万4965名以上のイラク人が死亡、そのうち60万1027名は暴力行為(要するに戦闘)が原因だという。イギリスのORB(オピニオン・リサーチ・ビジネス)は2007年夏までに94万6000名から112万人が死亡、またNGOのジャスト・フォーリン・ポリシーは133万9000人余りが殺されたとしている。

 このイラクに対する侵略戦争を上院議員だったバイデンは熱心に支持し、ブッシュ政権の方針に賛成していた。実業の世界にいたトランプも戦争に賛成している。アメリカとイギリスは侵略戦争を正当化するために大量破壊兵器の存在と脅威を宣伝したが、作り話だったことが後に判明した。その作り話を広めるために有力メディアが果たした役割も大きい。こうした政治家やメディアはアメリカを「民主主義国家」だと主張している。

https://plaza.rakuten.co.jp/condor33/diary/202010140000/

2. 中川隆[-9919] koaQ7Jey 2020年11月16日 09:16:04 : BLz0NHzvgM : YkJpTDl1aDM1Uy4=[2] 報告

2020.11.16
57年前の11月22日にあったケネディ大統領の暗殺と今年のパンデミック宣言
https://plaza.rakuten.co.jp/condor33/diary/202011160000/


 歴史の節目になる出来事がある。1963年11月22日のジョン・F・ケネディ大統領暗殺がそうした出来事のひとつだということは間違いないだろう。あと6日でそれから57年ということになる。

 テキサス大学のジェームズ・ガルブレイス教授(経済学者ジョン・ケネス・ガルブレイスの息子)によると、アメリカの軍や情報機関の好戦派は​1963年後半にソ連を先制核攻撃する計画​を立てていた。そのタイミングでケネディ大統領は暗殺されたわけだ。

 この攻撃計画は「冷戦」が原因ではない。ソ連を殲滅したいという願望が冷戦を生み出したと言うべきだろう。

 第2次世界大戦中、アメリカのフランクリン・ルーズベルト大統領が反ファシストだったのに対し、イギリスのウィンストン・チャーチル首相はロスチャイルドをスポンサーとする反コミュニストだった。ドイツがソ連へ攻め込んでいたとき、西側が圧倒的に手薄だったドイツにイギリスが攻め込まなかったのはそのためだ。

 動き出すのはドイツ軍がスターリングラードでの戦いで敗北、1943年2月に降伏してから。その年の5月に米英の首脳は会談、7月にシチリア島上陸作戦を敢行した。その際、コミュニスト対策でマフィアと手を組んでいる。

 スターリングラードでドイツ軍の主力が降伏した段階で第2次世界大戦の帰趨は決したのだが、そのまま戦争を終えると反ファシストのルーズベルト大統領がドイツに対して厳しい姿勢に出るだけでなく、ファシストと裏で手を組んでいたウォール街(金融資本)の責任を問うことが予想された。

 勿論、そうした展開にはならなかった。金融資本の代理人、つまりウォール街の弁護士でOSSの幹部だったアレン・ダレスたちが大統領に無断でドイツ側と接触して善後策を協議、その間は戦争を継続させた。ドイツが降伏するのはルーズベルトが急死した翌月の1945年5月のことだ。

 その直後、チャーチルはJPS(合同作戦本部)に対してソ連を奇襲攻撃するための作戦を立てるように命令、7月1日にアメリカ軍64師団、イギリス連邦軍35師団、ポーランド軍4師団、そしてドイツ軍10師団で「第3次世界大戦」を始めるという内容のアンシンカブル作戦が提出されている。この作戦が実行されなかったのは参謀本部が拒否したからだと言われている。(Stephen Dorril, “MI6”, Fourth Estate, 2000)

 第2次世界大戦中、アメリカでは原子爆弾の開発が進められていた。マンハッタン計画だが、それを統括していたアメリカ陸軍のレスニー・グルーブス少将は1944年、ポーランドの物理学者ジョセフ・ロートブラットに対し、計画は最初からソ連との対決が意図されていると語ったという。(Daniel Ellsberg, “The Doomsday Machine,” Bloomsbury, 2017)

 1945年7月16日にアメリカのニューメキシコ州にあったトリニティ実験場でプルトニウム原爆の爆発実験が実施され、成功した。副大統領から大統領に昇格していたハリー・トルーマンは原子爆弾の投下を7月24日に許可し、広島と長崎へ投下されたのである。この後、対ソ連戦の軸は核攻撃へ移行する。

 1945年8月15日に天皇の声明、いわゆる「玉音放送」とか「終戦勅語」と呼ばれるものが日本人に対して発表されたが、それから半月ほど後にローリス・ノースタッド少将はグルーブス少将に対し、ソ連の中枢15都市と主要25都市への核攻撃に関する文書を提出した。9月15日付けの文書ではソ連の主要66地域を核攻撃で消滅させるには204発の原爆が必要だと推計、そのうえでソ連を破壊するためにアメリカが保有すべき原爆数は446発、最低でも123発だという数字を出した。(Lauris Norstad, “Memorandum For Major General L. R. Groves,” 15 September 1945)

 ガルブレイス教授によると、キューバ侵攻作戦に失敗した3カ月後の1961年7月、ベルリンで緊張が高まる中、軍や情報機関の幹部はNSC(国家安全保障会議)でケネディ大統領に対し、1963年後半に先制核攻撃を実施する計画について説明した。そのタイミングなら十分な数のICBMを準備でき、しかもソ連は対抗手段の準備ができていないと主張したのだが、大統領から拒否されている。(Peter Janney, “Mary’s Mosaic,” Skyhorse, 2013)

 1961年11月にケネディ大統領はキューバの体制を不安定化させる目的でマングース作戦を承認している(William Colby, “Honorable Men”, Simon & Schuster, 1978)が、そのタイミングでCIAのアレン・ダレス長官や秘密工作部門の責任者だったリチャード・ビッセル計画局長を解任、チャールズ・キャベル副長官も62年1月に辞めさせられている。

 1962年8月にCIAの偵察機U2がキューバに対空ミサイルSA2の発射施設があることを発見した。当時、国防長官を務めていたロバート・マクナマラは1998年のインタビューで、約162発の核弾頭がキューバへすでに持ち込まれていて、そのうち約90発は軍事侵略してくるアメリカ軍に対して使われる戦術核だった。

 カーチス・ルメイを中心とする軍の強硬派はケネディ大統領に対し、運び込まれたミサイルを空爆で破壊すべきだと主張するが、それを大統領は退け、10月22日にテレビでキューバにミサイルが存在する事実を公表、海上封鎖を宣言した。戦略空軍はDEFCON3(通常より高度な防衛準備態勢)へ引き上げ、24日には一段階上のDEFCON2にする一方、ソ連を空爆する準備をしている。

 ソ連軍の潜水艦が輸送船を警護していたが、アメリカ海軍の空母ランドルフを中心とする艦隊の駆逐艦ビールが10月27日にソ連の潜水艦に対して爆雷を投下した。

 攻撃を受けた潜水艦の副長は参謀へ連絡しようとするが失敗、アメリカとソ連の戦争が始まったと判断した艦長は核魚雷の発射準備に同意するようにふたりの将校に求めた。たまたま乗り合わせていた旅団参謀が発射の同意を拒否したので核魚雷は発射されなかったが、その威力は広島に落とされた原爆と同程度で、もし発射されていたなら、現場にいたアメリカの艦隊は全滅、核戦争に突入した可能性が高い。(Oliver Stone & Peter Kuznick, “The Untold History of the United States,” Gallery Books, 2012 / Daniel Ellsberg, “The Doomsday Machine,” Bloomsbury USA, 2017)

 この危機を外交的に解決したケネディ大統領は1963年6月10日にアメリカン大学の卒業式で「平和の戦略」と呼ばれる演説を行い、パックス・アメリカーナを否定した上でソ連と平和共存する道を歩き始めると宣言した。その5カ月後にケネディ大統領はテキサス州ダラスで暗殺された。

 2001年9月11日にニューヨークの世界貿易センターとバージニア州アーリントンの国防総省本部庁舎に対する攻撃も歴史の節目になった出来事。それを利用してアメリカの支配者は国内でファシズム化を進め、国外で侵略戦争を本格化させた。今年3月11日にWHOが行ったパンデミック宣言はこれに匹敵する出来事だ。

https://plaza.rakuten.co.jp/condor33/diary/202011160000/

3. 2020年11月22日 11:15:05 : H93B5zIOcQ : NUh1bTIxT0YvRmM=[28] 報告
2020年11月20日
マフィアが絡む大統領選挙 (前編)

(左 : リチャード・ニクソン / 中央 : ジョン・F・ケネディー / 右 : サム・ジアンカーナ )

  例えば、1960年に行われた大統領選挙は今でも語り草で、若きジョン・F・ケネディー上院議員が副大統領のリチャード・ニクソンを破ることができたのは、シカゴのマフィアが助けたからだ。

特筆すべきは、労働組合などを利用してJFKの得票数を増やした、あの悪名高いサム・ジアンカーナ(Samuel Mooney Giancana / 本名 : Gilormo Giangana)の関与である。

この極道モンはCIAのカストロ暗殺計画に協力したそうで、チャーチ委員会でCIAとの繋がりを尋問されるはずだった。しかし、彼の命運はここで尽きることになる。

1975年6月19日、サム・ジアンカーナは複数の兇弾に倒れ、後頭部を撃たれて蜂の巣になった。おそらく、上院の特別委員会に出席させない為の「口封じ」だったのだろう。それにしても、ケネディー暗殺に係わった者は悲惨な死を迎えるものだ。
http://kurokiyorikage.doorblog.jp/archives/68836936.html

4. 中川隆[-9728] koaQ7Jey 2020年11月22日 11:18:57 : H93B5zIOcQ : NUh1bTIxT0YvRmM=[29] 報告

2020年11月22日
クーデタが発生した米国 / 日本人は独立国家を目指せ ! (後編)
黒木 頼景
http://kurokiyorikage.doorblog.jp/archives/68836443.html

トランプを葬るネットワーク
Rudy Giuliani 002Anti Trump 0045

  今回の大統領選挙は、トランプ大統領の浄化作戦なのかも知れない。ワシントンD.C.の沼(政界)には、長年に亙ってヘドロが溜まっているので、既得権益にしがみつく議員や大富豪に飼われた官僚がウジャウジャいる。彼らは琵琶湖のブルーギルやブラックバスよりも獰猛で、駆除係の手足にも噛みつく。だから、トランプ大統領が総攻撃を受けるのも当然だ。マスコミは「早く辞めろ !」の絨毯爆撃を行い、諜報組織や司法省にも「間諜」がはびこっている。頼みの綱である裁判所にも、エスタブリッシュメントの手が伸びており、判事の背中には金色の糸が垂れ下がっているのかも知れない。まぁ、こんな汚物まみれの世界で反撃を試みているんだから、トランプ大統領は大した弾(タマ)だ。まるで、ジョージ・パットン将軍(Gen. George Smith PAtton, Jr.)みたい。ただし、トランプの方は、まだ暗殺されていないけど・・・。

Sidney Powell 2(左 / シドニー・パウエル )

  日本の主流メディアは、既にジョー・バイデンが過半数の選挙人を獲得し、敗者のトランプが“悪あがき”をしている、といった論調で報じている。NHKなんかは、慶應義塾大学教授の渡辺靖と中山俊宏を呼んで、バイデン新政権の前提で話を進めていた。招かれた両人は専門家のつもりなんだろうが、NHKの制作者は“同じ匂い”がする者、あるいは“便利な馬鹿”として採用したのだろう。とにかく、今回の選挙では大規模な不正投票があったことは明らか。しかも、それが組織的な計画であったことが徐々に暴露されている。地上波テレビでは話題にならないが、トランプ・チームの懐刀とも言えるシドニー・パウエル弁護士の存在は絶大だ。彼女は充分な情報を摑んでから公的に発言するので信頼性が高い。まだ、どのような証拠を固めたのか分からないが、裁判を有利に進めるだけのネタを仕込んでいるのは確かなようだ。

Louie Ghomert 2(左 / ルイ・ゴマート)
  もしかすると、トランプ・チームは「開票データを操作した」とされる、あの「サイトル(Scytl)社」に関する具体的な証拠、つまりフランクフルトにあったというサーバーのデータを入手したのかも知れない。数日前、テキサス州選出の連邦下院議員ルイ・ゴマート(Louie B. Gohmert, Jr.)氏が、インターネットの私的な会話で、「ドイツ駐留のアメリカ陸軍がサイトル社の支店を強襲し、サーバーを確保した」、との噂を流したため、この情報が日米で拡散した。しかし、この押収に関する情報は曖昧で、具体的な裏が取れない。ゴマート議員の情報源は、ラリー・ジョンソン(Larry Johnson)という元CIAアナリストで、この話は仲間からのリーク(内輪話)である。したがって、「米軍がサーバーを確保した」という情報を鵜呑みにするのは危険だ。ただし、強襲された会社が、サイトル社の支店じゃなく、別の企業という場合もある。例えば、CIAがこっそり作った偽装会社という場合もあるので、具体的な証拠が出てくるまで早合点してはならない。

  今回の大統領選挙では様々な不正が発覚しているけど、これは単にバイデン陣営が仕掛けた八百長選挙ではない。もっと大きなグループが巧妙に仕組んだ政権奪取だろう。露骨に言うなら、強制的にトランプ大統領を排除するためのクーデタ(coup d'état)である。俄に信じられないが、政財界を巻き込んだ組織的犯罪といっても過言ではない。なぜなら、投票結果を気づかれずに操作できる「スコアカード」が使用されたし、その開発者がCIAで、行政機関と民衆党が共同で証拠隠滅を謀っているからだ。しかも、主流メディアが示し合わせたかのように、反トランプキャンペーンを繰り広げ、バイデン親子の犯罪を追求せず、素知らぬ顔で無視を決め込んでいる。日本のマスコミは、アメリカから送られてくる左派情報の輸入商に過ぎない。

Christopher Wray 01Gina Haspel 1(左 : クリストファー・レイ / 右 : ジーナ・ハスペル )
  さらに刮目すべきは、選挙妨害や政治工作を監視・防禦するはずのFBI(連邦捜査局)やDHS(国土安全保障省)がグルになって反トランプ運動を支えていることだ。先日、国防長官のマーク・エスパーが突然解任されたけど、この馘首はまだ序の口で、FBIのクリストファー・レイ(Christopher A. Wray)長官やCIAのジーナ・ハスペル(Gina Haspel)長官も、「獅子身中の虫」である。

  レイ長官は弁護士の父を持ち、母方の祖父も法律家で、上流階級のお坊ちゃんだ。彼はマサチューセッツ州にある超名門校フィリップス・アカデミーの卒業生ときている。この寄宿学校はエリート養成機関で、ジョージ・ハーバート・ブッシュ大統領に続き、長男のジョージ・Wと弟のジェブも入学していた。国務長官を務めたヘンリー・スティムソンや同志社大学を創設した新島襄も卒業生である。ちなみに、男優のハンフリー・ボガートは学校から追放され、ジェイムズ・スペイダーは編入生で中退者。でも、スペイダーはジョン・F・ケネディーJr.と同級生だった。こうした経歴を見れば、レイ長官が幼い頃からエスタブリッシュメントの一員ということがよく分かる。もしかしたら、レイ長官は闇勢力に誘われて大統領を裏切ったのかも知れない。

Jeb Bush 22Humphrey Bogart 1940James Spader 5JFK Jr 001


(左 : ジェブ・ブッシュ / ハンフリー・ボガート / ジェイムズ・スペイダー / 右 : ジョン・F・ケネディーJr. )

  CIAのハスペル長官は諜報業界での生え抜きで、東歐やトルコ、アゼルバイジャンに派遣され、CIAの極秘作戦(black operation)に携わってきたという。有名なのは、彼女がタイに派遣され、「キャッツ・アイ(Cat's Eye)」と呼ばれる拷問部所でチーフになっていたことだ。たぶん、彼女はここで捕虜にしたテロリストの拷問を行っていたのだろう。そして、興味深いのは、オバマ政権でCIA長官を務めていたジョン・ブレナン(John Brennan)が彼女を一本釣りにし、極秘作戦部署(National Clandestine Service)のトップに抜擢したことだ。もしかすると、ハスペル長官はトランプに敵対するブレナンの子飼いなのかも知れない。この人脈を探索すれば、どうしてCIAの裏部隊が反トランプ活動をしていたのかが理解できる。いずれにせよ、トランプを権力の座から引きずり下ろそうとするのが、CIAやFBI、NSA、DHSの現職や元高官なんだから、唖然とするじゃないか。

大統領を抹殺した闇組織

  こうした「クーデタ」を聞けば、どうしてもジョン・F・ケネディー大統領の暗殺を思い出してしまう。JFKはテキサス州のダラスで狙撃されたけど、当時のダラス市長はアール・カベル(Earl Cabell)だった。多少の教養を持ち、思慮深いアメリカ人なら眉を顰めるはずだ。なぜなら、彼の兄貴はCIA副長官を務めたチャールズ・カベル(Charles P. Cabell)将軍であり、自分をクビにしたケネディー大統領を激しく憎んでいたからだ。これは勝手な推測に過ぎないが、暗殺組織は仲間の縄張りでケネディーを抹殺しようと考えたんじゃないか。市長がグルだと、色々な口封じや捜査妨害ができるから。また、当時のFBIの長官には、絶大な権力を持つJ.エドガー・フーヴァー(John Edgar Hoover)が君臨していたんだから、手抜き操作があったのも頷けよう。FBIは国内の危険分子を見張っていたのに、なぜか大統領暗殺の動きだけは察知できなかった。しかも、FBIは1959年以来、リー・H・オズワルドを見張っていたのに・・・。ホント、不思議だ。

Earle Cabell 003Charles P Cabell 001Edgar Hoover 1


(左 : アール・カベル / 中央 : チャールズ・カベル / 右 : J.エドガー・フーヴァー )

  ケネディー暗殺に何らかの関係があったと囁かれるのは、CIA長官を務めていたアレン・ダレス(Allen W. Dulles)である。彼はOSS(戦中の米国情報局)時代からの生粋諜報員で、兄貴は国務長官を務めたジョン・フォスター・ダレスだ。しかも、彼は「ウォーレン委員会」のメンバーであったから、オズワルドを「一匹狼の狙撃手」に仕立て上げることができた。(もしかしたら、AチームやBチームが用意され、別のスナイパーがいたのかも知れない。もっと勘ぐれば、イスラエルが派遣した外人狙撃手だったりしてね。) ダレスは「ピッグス湾作戦(Bay of Pigs Invasion)」で失敗した責任を取らされ、チャールズ・カベル将軍と一緒に辞任へと追い込まれた。しかし、彼らは「ケネディーの野郎が、土壇場でビビッたから失敗したんだ !」と激怒していたそうだ。何しろ、ベテランの諜報員と名誉を重んずる軍人が、素人風情のアイリッシュ野郎に解任されたのだから、面目丸つぶれだ。心の中で“殺意”が芽生えてもおかしくはない。

Allen Dulles 2John Foster Dulles 1Allen Dulles & JFK 01

(左 : アレン・ダレス / 中央 : ジョン・フォスター・ダレス / 右 : JKFとアレン・ダレス )

  ちなみに、大統領になった“ポピー(Poppy / パパ・ブッシュの渾名)”こと、ジョージ・ハーバート・W・ブッシュは、ケネディーが射殺された1963年11月22日にダラスに居たけど、何処に居たのか思い出せなかったそうである。当時、彼はザパタ石油(Zapata Offshore Company)の社長を辞め、テキサス州選出の連邦上院議員になろうとテキサス州内をウロウロしていた。だから、ヒューストンやダラスで様々な人物と会っていたという訳。彼が生涯の親友となるジェイムズ・ベイカー三世(後の国務長官)と出逢ったのはこの頃で、バーバラ夫人が「ジョージ、早く帰ってきて !」と淋しがっていた時だ。

  後に、レーガン政権の副大統領となる“ポピー”・ブッシュには裏の顔があった。それはCIAの非公式活動員という役目だ。こうした裏稼業を持っていたから、大統領になってからも、「ポピーは暗殺事件に何か関与していたのでは?」という疑惑が絶えなかった。事実、彼はフォード政権下でCIA長官となっていたから、「インサイダー」と思われても仕方がない。だいたい、11月22日の記憶が無いなんて、おかしいじゃないか ! 大抵のアメリカ人は「あの時」自分が何をしていたのかを覚えている。それを「何処に居たのか思い出せない」なんて怪しい。何か隠しているんじゃないか?

Ronald Reagan 2Ronald Reagan 4


(左 : 撃たれる前、ホテルを出た時のロナルド・レーガン大統領/ 右 : 手術後のレーガン大統領とナンシー夫人)

  ここでは詳しく説明できないけど、アメリカの裏組織は大統領をも恐喝することがある。1981年3月30日、大統領に当選したロナルド・レーガンは、ワシントンにあるヒルトン・ホテルを出たところで、ジョン・ヒンクリー(John Hinckley, Jr.)に拳銃で撃たれ、絶命寸前になったことがある。この映像は日本でも放映され、一般国民も「うぁぁ〜怖い !」と驚いていた。ここで興味深いのは、暗殺未遂事件の当日、ジョージ・ブッシュの息子であるニールとその妻シャロンが、ジョンの兄弟であるスコット・ヒンクリー(Scott Hinkley)と会う予定になっていた事だ。実は、シャロンの女友達がスコットの恋人だったので、二人がニール夫妻の自宅を訪れることになっていた。ところが、ジョンによる暗殺未遂事件が起きたので、会合は急遽中止に。

Ronald Reagan 332John Hinckley 001

(左 : 狙撃犯のヒンリクーが取り押さえられた瞬間 / 右 : ジョン・ヒンクリー )

  ブッシュ家は以前から裕福なヒンクリー家と知り合いだった。既成の歴史物語では、精神不安定のジョンが、22口径のリヴォルヴァー拳銃を手にしてレーガンを撃ったことになっている。でも、本当に彼が弾を当てたのかどうか、は今でも疑わしい。もしかしたら、別の狙撃手がいたりして。つまり、ジョン・ヒンクリーは闇組織から利用されただけの「便利な馬鹿」ということだ。もし、ヒンクリーの位置から弾道を調べてみれば、ちょっと奇妙な事実にぶち当たるかも知れないぞ。この推測は、筆者だけでなく、レーガン大統領やニクソン大統領に仕えた政治コンサルタントで、トランプ大統領と親しいロジャー・ストーン(Roger Stone)やジャーナリストのルス・ベイカー(Russ Baker)も述べていた。

  合衆国大統領は絶大な権力を持っているが、彼の周りに集う閣僚や官僚が全て忠臣という訳じゃない。トランプ大統領が君臨するホワイトハウスには、面従腹背の長官や軍人がいるけど、歴代の大統領だって同じようなものだった。例えば、リチャード・ニクソンはヘンリー・キッシンジャーを特別補佐官や国務長官にして助言者にしていたけど、用心深いデック(ニクソンの渾名)は、このユダヤ人を信頼していなかった。なぜなら、キッシンジャーは後に副大統領となるネルソン・ロックフェラーから派遣された「お庭番」であったからだ。日本では「名コンビ」と紹介されていたが、実際はロックフェラー家の命令をニクソンへ伝えるのがキッシンジャーの役目で、彼の本業は大統領の行動を監視する「お目附役」だ。

Nixon 3Harry Robbins Haldeman 2John Ehrilichman 1Henry Kissinger 3


(左 : リチャード・ニクソン / ハリー・ハデルマン / ジョン・アーリックマン / 右 : ヘンリー・キッシンジャー)

  こんな状況だったから、ニクソン大統領が心を許したのは、特別補顧問のジョン・アーリックマン(John Ehrilchman)と首席補佐官のH.R.ハデルマン(Harry Robbins Haldeman)くらい。だから、この三人はキッシンジャーをのけ者にして、彼らだけでヒソヒソ話をする事がよくあった。ウォーターゲート事件の前も、三人で密談をしていたのかも知れない。ちなみに、ニクソンはキッシンジャーを「俺のユダヤ小僧(My Jew boy)」と呼んでいたけど、アーリックマンの方はお気に入りだった。このアーリックマンは「クリスチャン・サイエンス」に転向したユダヤ人家庭の息子で、第二次大戦中は陸軍の航空士(navigator)になって従軍していたという。退役後、スタンフォード大学のロー・スクールに通って弁護士となる。しかし、ウォーターゲード事件の裁判で有罪となり、ハドルマンと同じく刑務所で“お勤め”を果たす。出所後は、有名作家のトム・クランシー(Tom Clancy)と共同で、ウォーターゲート事件のドキュメンタリー番組を作っていた。ユダヤ人ってホント、才能豊かだよねぇ〜。(トム・クランシーは「ジャック・ライアン」シリーズの映画を生み出した原作者で、ショーン・コネリーが出演した『レッド・オクトーバーを追え』とか、ハリソン・フォードが出演した『パトリオット・ゲーム』は日本でも大ヒット。)

離脱者は共和党より民衆党から

John Poulos 1(左 / ジョン・ポウロス )
  普通の日本人は「クーデタ」と聞けば、つい「まさか、そんな !」と思ってしまうが、一連の不正投票を調べてみると、大掛かりな組織犯罪なんじゃないか、と疑いたくなる。今回の不正選挙では、票を数える集計マシーンやソフトウェアが注目されたけど、これらの会社を運営する最高責任者は一体どこにいるのか? シドニー・パウエル弁護士やリン・ウッド弁護士が、ソフトウェアーによる不正操作を非難しているんだから、糾弾された社長は記者会見に応じ、公の場で疑惑を否定すべきだろう。それなのに、肝心の責任者は雲隠れ。「スマートマティック社」のアントニオ・ムヒカ(Antonio Mugica / ベネズエラ人)や「ドミニオン(Dominion)社」のジョン・ポウロス(John Poulos / ギリシア系カナダ人)、「サイトル(Scytl)社」のシルヴィア・カパロス(Silvia Caparrós)、およびその親会社の「パラゴン・グループ(Paragon Group)」を経営する会長のパトリック・クリーン(Patrick Crean)と社長のショーン・シャイン(Sean Shine)は、どこで何をしているのか? なぜ、「ドミニオン社」のジョン・ポウロスは、ジョージアの州議会に現れず、宣誓証言を拒否したのか? 公聴会で正々堂々と容疑を否認し、反論を述べればいいのに、それを避けるなんておかしい。

Silvia Caparros 001Antonio Mugica 33Patrick Crean 1


(左 : シルヴィア・カパロス / 中央 : アントニオ・ムヒカ / 右 : パトリック・クリーン)

  一方、こうした企業と関わりを持つ米国企業は、トランプ大統領が以前発した大統領命令に戦々恐々だ。2018年9月12日、トランプ大統領は「Executive Order on Imposing Certain Sanctions in the Event of Foreign Interference in a United States Election」を発令し、米国の選挙に干渉した外国企業を制裁することにした。もし、「ドミニオン」(カナダの会社)や「サイトル」(スペインの会社)、「スマートマティック」(ブリテンの会社)が“黒”となれば、そこに関連した企業は“仕置き”の対象となり、資産の凍結や金融取引の停止などの処罰に遭ってしまうだろう。仮に、報道機関やIT企業が何らかのビジネス関係を持っていたら大変だ。経営陣は顔面蒼白である。早めにヤバい連中と手を切るか、裏チャンネルでトランプ陣営に協力するしかない。もしかすると、バイデン陣営や民衆党の協力者の中からも、裏切者や離脱者が続出し、密告や告白を取引材料にして、自分の罪を減刑もしくは免責にしてもらおう、と持ちかけるかも知れない。

  そもそも、犯罪組織の下っ端連中だと、「上の“お偉方”」を信用していないから、「見捨てられる」前にボスを裏切る可能性だってある。「トカゲの尻尾切り」は米国にもあるから、いくら上層部が不正操作の痕跡を消去しても、どこかに犯罪の糸口が垂れているものだ。ゆえに、現場の不正職員は不安で眠れないだろう。確かに、主流メディアはバイデン陣営に附いて、猛烈な掩護射撃をしている。だが、この世論誘導がいつまで有効なのか分からない。連日連夜、パウエル弁護士やジュリアーニ弁護士が、不正の証拠を小出しにするので、保守派国民は不満が爆発しそうだ。温厚な民衆党員だって、これほどの不正を耳にすれば、民衆党の幹部とバイデンに不信感を抱いてしまうだろう。特に、サイバー攻撃やハッキングに詳しい将校だと、集計機械の奇妙な動きに目が止まるので、「これは何かある!」と勘ぐってしまうのだ。不正集計の証拠が次々と出てくれば、ジョー・バイデンの得票数にも疑問が湧いてくる。民衆党支持の軍人だって、ちょっと頭が良ければ、「あのバイデンが本当に7千万票も獲得できたのか?」と怪しんでしまうだろう。

  日本の保守派国民は、今回の不正選挙を目の当たりにして、トランプ大統領を“応援”する人が多いけど、我々はアメリカ国民じゃないので、日本でバイデン支持者を非難しても無駄である。ただし、日本のマスメディアを批判するのは必要だ。偏向報道の垂れ流しなんて赦せない。また、選挙前に「トランプが勝つんじゃないか」と予想していた言論人が、選挙速報を聞いた後、急に豹変して「バイデンが次期大統領だ」と言い始めた事は、記憶に留めておくべきだ。アメリカの主流メディアが流した情報に惑わされ、自分の見解を変えた奴が何人かいるので、この選挙騒動が終わった後、よ〜く検証した方がいい。だいたい、大手の主流メディアが「当確」を表明したって、そんなのは民間人の独り言じゃないか。日本人は“正式”に選挙人によって選ばれた次期大統領を受け容れればよい。もちろん、バイデン大統領になった時のために、どう対処するかを考えておくことは必要だ。

  こんなことよりも更に重要なのは、日本人が独立心を持つことである。どちらの人物が大統領に選ばれても、それはアメリカ国民の選択だから、日本人がつべこべ言うことじゃない。日本人は日本の国益を優先的に考えるべきだ。バイデンが大統領になれば、日本を支那に売り渡すことだって有り得るから、日本人は他力本願を棄てるべきだろう。そもそも、外国に自国の安全を委ねるなんて馬鹿げている。我が国には、占領憲法の廃止や国防軍の創設を「非現実的」と言って嘲笑うインテリが多いけど、自国の命運をアメリカ任せにしている方がよっぽど馬鹿らしいぞ。これだけ高学歴の国民が増えたのに、その精神が幼稚で、思考力までが麻痺しているなんて異常である。トランプが勝とうが負けようが、日本人にとったら二の次、三の次の問題だ。日本人が本当に話題とすべきは、「依存症」と「臆病風邪」が蔓延している国内の言論空間だ。

  まぁ、日本であれこれ嘆いてみても仕方ないけど、日本の政界にシドニー・パウエル弁護士みたいな議員がいたらいいのにねぇ〜。永田町を見渡すと、どいつもこいつもポンコツばかり。法律に詳しい議員といえば、枝野幸男みたいな極左弁護士ときている。翻って、テレビ業界を見ると、日本解体論者の橋下徹が法律問題のご意見番だ。あとは、ヤメ検弁護士の元衆院議員で、間抜け論評を繰り返す若狭勝くらい。これだから、もう目眩がする。

http://kurokiyorikage.doorblog.jp/archives/68836443.html

5. 中川隆[-9292] koaQ7Jey 2020年12月15日 18:39:43 : LdBpAZbBfo : eGRHN20ya3Q1VU0=[9] 報告
ジェームズ 民主党はペドやLGBTQ等、普通の人ならば本能的に拒絶反応を起こしたくなるような者ばかりで、ダボス会議のGreat Resetのミッションを託された完全グローバリスト政党に成り下がりました。普通の感覚では応援できません。一方、CIA右派の場合、愛国的で不正が発覚しても責任を取る覚悟があります。イランコントラ事件でのNorth大佐がそうでした。レーガン大統領逮捕の寸前で自らが責任を全て被り、大統領のため玉砕しました。

──愛国心があるか、ないかは大きいです。

ジェームズ バイデンたちには愛国心のかけらもありません。自分の利益のために自国の情報を中国に渡しているのですから最低です。

──トランプが勝つシナリオが浮上してくると、バイデン側の横やりが心配です。

ジェームズ 現在浮上している可能性として、ペロシ下院議長が1月6日の連邦議会の両院合同会議で民主党議員の欠席工作や上院議員の追放等で、大統領承認を妨害する可能性があります。これをされると1月20日の正午までに大統領が決まらない確率が出てきます。このカギを握っているのは他ならぬ極左のドンであるペロシですから、彼女は多分それをやってくるでしょう。そうなると最高裁の判決が出るまでペロシが臨時大統領になります。この可能性があるから、以前お話ししたネオコンによるペロシ臨時大統領擁立のシナリオがあるわけです。

 おそらくDominion関連の証拠が出ないのは、このシナリオが発動された時に最高裁に提出するためでしょう。また、究極のシナリオとしてトランプ暗殺があります。しかもそれは十分にありえます。米国史でグローバリストに刃向かった大統領はリンカーン、マッキンリー、JFKのように暗殺か、アンドリュー・ジャクソンのように暗殺未遂です。


──その懸念は前にもジェームズさんは言ってましたね。で、いまふと思ったんですが、JFKは民主党ですよね。グローバリスト派じゃないんですか?

ジェームズ 彼は民主党では珍しくディープステートを潰そうとしました。これは彼がアイルランド系カトリック出身で、ライバルのWASP弱体化を狙ったものでした。実際、JFKはWASPのダレス兄弟の謀略で暗殺されています。

──なのにJFKの娘はすっかりダボス派ですね。

ジェームズ 日本で大使を務めていた時、LGBTQパレードに参加したりと、日本に強引にグローバリストの価値観を押し付けてきた日米外交史上最低な大使でした

https://tocana.jp/2020/11/post_185836_entry_3.html

6. 中川隆[-9286] koaQ7Jey 2020年12月16日 05:48:28 : 4CCrES0a6E : bXliWEQxU29sZEk=[2] 報告
2020.12.16
ミシガン州の法廷でドミニオンの投票システムが正確に投票数を数えないと報告
https://plaza.rakuten.co.jp/condor33/diary/202012160000/


 今年のアメリカ大統領選挙で激戦州のひとつだったミシガン州の裁判所がドミニオンの投票システムを調査させたところ、​投票数を誤魔化して選挙結果に影響を与えるエラーが意図的に組み込まれているという報告​が提出された。


 ドミニオンはカナダのトロントとアメリカのデンバーに本社があるのだが、​カナダのオフィスはタイズ財団というソロス系NGOと同じビルにあった​と伝えられている。

 前にも書いたことだが、この会社はイギリスを拠点とするSGOスマートマティックという投票システムの会社と協力関係にあり、その会長を務めているのはマーク・マロック・ブラウン。この人物は世界銀行の元副頭取で、ソロス系のオープン・ソサエティ財団やクワンタム基金の役員を務めてきたが、今年の12月にオープン・ソサエティ財団の理事長に就任、ソロスの後継者だと見られている。またスマートマティックのアメリカにおける責任者、ピーター・ネッフェンジャーはバイデンの移行チームに入っていると言われている。ドミニオンとスマートマティックはライバル企業であり、関係はないとする主張もあるが、両者にはソロスという共通項があるわけで、無関係だとは言えない。

 アメリカの大統領選挙の投票で不正行為が問題になったのは今回に限らない。例えば、2000年の大統領選挙ではバタフライ型投票用紙が問題の一因になって混乱、出口調査と公式発表との差が大きかったことも疑惑を呼んだ。

 この選挙ではネオコン/シオニストに担がれた共和党のジョージ・W・ブッシュと民主党のアル・ゴアが争っていたが、ゴアへの投票を減らすために怪しげなブラック・リストや正体不明の「選挙監視員」による投票妨害があり、正当な選挙権を行使できなかった市民が少なからずいたと報告されている。集計の過程でゴアの得票が減っていると指摘する報道もあった。

 しかし、この選挙で最大の闇と呼べる出来事はジョン・F・ケネディ・ジュニア、つまり第35代大統領の息子の死だろう。選挙前の世論調査によると、ブッシュやゴアよりケネディ・ジュニアの人気が高かった。

 もしケネディ・ジュニアが立候補した場合、民主党と共和党以外の候補者が大統領になる可能性もあった。強大な資本に支配された2大政党による独裁というシステムが揺らぐことも考えられていたのだが、そうした支配階級の懸念を払拭する出来事が1999年7月16日に起こる。ケネディ・ジュニアを乗せた小型機、パイパー・サラトガが墜落し、本人と妻、その妻の姉が死亡したのだ。自動操縦で飛んでいたはずの地点での墜落だった。

 この飛行機にはボイス・レコーダーが搭載され、音声に反応して直前の5分間を記録する仕掛けになっていたが、何も記録されていない。緊急時に位置を通報するためのELTという装置も搭載していたのだが、墜落から発見までに5日間を要している。

 オハイオ州でコンピュータ・システムを使った投票操作が裁判になった際、その実態を知る立場にあり、証言が予定されていたマイク・コネルは2008年12月19日、自身が乗ったパイパー・サラトガが墜落して死亡している。生前、コネルはカール・ローブから脅されているとして保護を求めていた。

 アメリカの選挙制度で最大の問題は多額の資金が必要だということにある。この国は金権国家だと言える。必然的に富豪が政治を動かすことになるのだが、イスラエル・ロビーの存在も忘れてはならない。イスラエルは一種の濾過装置で、アメリカの公的な資金だけでなく、強大な私的権力からも資金が流れ込み、そこからアメリカの政治家の懐へ渡っている。

 金権をアメリカの司法は容認している。例えば、2010年1月にアメリカの最高裁は非営利団体だけでなく、営利団体や労働組合による政治的な支出を規制してはならないとしている。つまり、「スーパーPAC(政治活動委員会)」を利用すれば無制限に資金を集め、使えるということになった。

 この判決はジミー・カーター元米大統領でさえ批判している。「​政治システムにおいてアメリカを偉大な国にしていた本質を壊した​」というのだ。政治家の買収を容認したと言われても仕方がないだろう。

 アメリカの選挙は富豪でもある支配階級の意思が強く反映される。この国の情報機関が民主的に選ばれた政権をあらゆる手段、例えば買収、暗殺、クーデター、軍事侵略などで潰してきたのは、アメリカの富豪にとって民主主義が目障りだからだ。

https://plaza.rakuten.co.jp/condor33/diary/202012160000/

7. 2021年1月27日 22:26:21 : KVfCcwsIVw : bnlOMm8ya1JXNnM=[13] 報告
【ゆっくり解説】JFKの父親は大悪党だった!!〜でも正義の味方だった?〜





有名なアメリカ大統領であるJFL。彼の父親についてあまり知らない人が多いですが、非常に興味深い人です。
悪党としても有名でした。
8. 中川隆[-7350] koaQ7Jey 2021年2月15日 15:56:18 : JYhYYeXb2g : TDJnVUk4OGtjaHc=[21] 報告
2021.02.14
米英の対ロシア戦略におけるポーランドの役割(2/4)
https://plaza.rakuten.co.jp/condor33/diary/202102140001/

 ポーランドの一部は帝政ロシアやソ連を弱体化させるため、その内部に住む少数派を支援してきた。ユゼフ・ピウスツキが始めた「プロメテウス主義」である。ピウスツキは日露戦争が始まった1904年に来日しているが、その目的もそこにあった。

 第1次世界大戦と第2次世界大戦の間にピウスツキは別のプランを考えている。バルト海とエーゲ海で挟まれた中央ヨーロッパをカトリックで統一しようという「インターマリウム」だ。

 第2次世界大戦後、ナチスの大物や協力者を逃走させるために「ラットライン」が作られたが、その工作に参加していたカトリックのクルノスラフ・ドラゴノビッチ神父が夢想していた「現代版神聖ローマ帝国」ともインターマリウムは重なる。

 ポーランドの反ロシア運動を引き継いだのがウラジスラフ・シコルスキー将軍。1939年9月にドイツ軍がポーランドへ軍事侵攻するが、その直後にシコルスキーはパリへ脱出して亡命政権を名乗り、翌年6月にはイギリスのウィンストン・チャーチルと会談している。その際、ポーランドがイギリスと一緒に戦うことを約束、亡命政権はロンドンへ移動した。

 ドイツ軍によるポーランドへの侵攻は領土問題が関係している。第1次世界大戦後にドイツ本国と東プロイセンの間にポーランド領(ポーランド回廊)ができ、東プロイセンは飛び地になっていたのだ。

 その問題を解決するため、ドイツは住民投票を実施してドイツへ回廊を返還する意見が多ければ返還、その際にドイツはポーランドに鉄道やバルト海へ通じる高速道路を渡すという案を出した。

 その案をポーランドは受け入れ、1939年3月21日に同国のジョセフ・ベック外相がドイツの首都ベルリンを訪問することになるが、姿を現さなかった。ロンドンへ向かったのだ。その日、ロンドンではコントロール不能になったヒトラーをどうするかについて討議するため、各国の指導者が集まっていた。

 参加国はドイツに共同して対抗するかどうかを議論、フランスはすぐに同意、ソ連はフランスとポーランドが署名することを条件に同意したが、ポーランドのベック外相はドイツよりソ連が脅威だという理由で24日にそのプランを拒否した。そして26日にポーランドはドイツに対して回廊を返還しないと通告、ドイツ軍はポーランドへ軍事侵攻することになるのだが、こうした経緯はアメリカやイギリスを中心とする体制を支持する勢力にとっては広まって欲しくない話だろう。(続く)
https://plaza.rakuten.co.jp/condor33/diary/202102140001/


2021.02.14
米英の対ロシア戦略におけるポーランドの役割(3/4)
https://plaza.rakuten.co.jp/condor33/diary/202102140001/


 ウラジスラフ・シコルスキーの側近だったユセフ・レッティンゲルはヨーロッパをイエズス会の指導の下で統一したいと望んでいた。イエズス会が支配するインターマリウムを作りたかったのだろう。そのレッティンゲルは第2次世界大戦後、オランダ女王の夫であるベルンハルト殿下と「ビルダーバーグ・グループ」を創設している。

 このグループには上部機関が存在した。ヨーロッパ統合を目的として1948年に創設されたACUE(ヨーロッパ連合に関するアメリカ委員会)である。委員長を務めたのはウォール街の弁護士でOSS(CIAの前身)の長官だったウィリアム・ドノバン、副委員長はやはりウォール街の弁護士だったアレン・ダレス。委員会のスポンサーはフォード財団やロックフェラー財団などだ。NATO(北大西洋条約機構)が創設されたのはACUE設立の翌年、1949年のことだった。

 NATO創設の目的はソ連軍の侵略に対抗するためだとされているが、その当時のソ連には西ヨーロッパに攻め込む能力はない。何しろ、ドイツとの戦闘でソ連の国民は2000万人以上が殺され、工業地帯の3分の2を含む全国土の3分の1が破壊され、惨憺たる状態だったのである。実際はヨーロッパの統合、つまりヨーロッパの支配が目的だったと考えるべきだろう。

 大戦中、西ヨーロッパでドイツ軍と戦っていたのはレジスタンス。その主力はコミュニストだった。ウォール街やシティの支配者にとってコミュニストは目障りだ。

 そこで、アメリカとイギリスの情報機関は大戦の終盤、ジェドバラというゲリラ戦の組織を作った。その人脈は戦後も生き続け、アメリカでは軍の特殊部隊や情報機関の破壊工作部門になる。

 ジェドバラの人脈はヨーロッパにもネットワークを築く。1948年頃にはCCWU(西側連合秘密委員会)という組織が統括、NATOができてからはその新組織に吸収され、CPC(秘密計画委員会)が指揮することになる。その下部組織としてACC(連合軍秘密委員会)が1957年に設置され、NATOの秘密ネットワークを動かすことになった。NATOへ加盟するためには秘密の反共議定書にも署名する必要があると言われている。(Philip Willan, “Puppetmaster”, Constable, 1991)

 こうしたネットワークの中で最も知られているのはイタリアのグラディオだろう。1960年代から80年代にかけての時期、「極左」を装って爆弾テロを繰り返していた。人びとを恐怖させ、その恐怖と左翼を結びつけようとしたのだが、これは成功した。

 フランスで人気があったシャルル・ド・ゴールはコミュニストでなかったが、レジスタンスに参加していた。つまりアメリカやイギリスの支配者にとって目障りな存在だ。そのド・ゴールを敵視する秘密組織OAS(秘密軍事機構)が1961年に創設される。OASへ資金を流していたパイプのひとつ、パーミンデックスはジョン・F・ケネディ大統領暗殺でも名前が出てくる。

 フランスの内務大臣だったエドアル・ドプは1947年6月、政府を不安定化するため、右翼の秘密部隊が創設されたと語っている。その年の7月末か8月6日には米英両国の情報機関、つまりCIAとMI6と手を組んで秘密部隊はクーデターを実行する予定で、シャルル・ド・ゴールを暗殺する手はずになっていたとされた。

 OASは1961年4月にスペインのマドリッドで秘密会議を開き、アルジェリアでのクーデターについて話し合っている。アルジェリアの主要都市を制圧した後でパリを制圧するという計画で、4月22日にクーデターは実行に移される。

 CIAはクーデターを支援していたのだが、ジョン・F・ケネディ大統領はジェームズ・ガビン駐仏大使に対し、必要なあらゆる支援をする用意があるとド・ゴールへ伝えるように命じた。アルジェリアにいるクーデター軍がパリへ侵攻してきたならアメリカ軍を投入するということだ。CIAは驚愕、クーデターは4日間で崩壊した。(David Talbot, “The Devil’s Chessboard,” HarperCollins, 2015)

 その後、ド・ゴール大統領はフランスの情報機関SDECEの長官を解任、第11ショック・パラシュート大隊を解散させる。OASは1962年に休戦を宣言するが、ジャン-マリー・バスチャン-チリー大佐に率いられた一派は同年8月22日にパリで大統領の暗殺を試みたものの、失敗。暗殺計画に加わった人間は9月にパリで逮捕された。全員に死刑判決が言い渡されたが、実際に処刑されたのはバスチャン-チリー大佐だけだ。

 暗殺未遂から4年後の1966年にフランス軍はNATOの軍事機構から離脱、翌年にはSHAPE(欧州連合軍最高司令部)をパリから追い出す。フランスがNATOの軍事機構へ一部復帰すると宣言したのは1995年のこと。NATOへの完全復帰は2009年にニコラ・サルコジ政権が決めている。この段階でフランスもアメリカの属国になった。(続く)
https://plaza.rakuten.co.jp/condor33/diary/202102140001/

9. 中川隆[-7063] koaQ7Jey 2021年2月26日 11:47:06 : fc4jWQ0cBc : ejRZV2tYUkxaSU0=[27] 報告
2021.02.26
事実に追い詰められている有力メディア
https://plaza.rakuten.co.jp/condor33/diary/202102260000/

 ​ニューヨーク・タイムズ紙が2月18日に掲載したチャーリー・ウォーゼルの記事​は読者に対し、自分たち有力メディアの能力を信じろとしたうえで、「ウサギの穴」の誘惑に抵抗しろと訴えている。自分で調べ、考えようとして「陰謀論者」の話に陥らないよう、自分たちのような優秀なメディアを信じろということだろう。何かの宗教を広めようとしている伝道師のようだ。

 本ブログでは繰り返し書いてきたが、ニューヨーク・タイムズ紙を含む西側の有力メディアはCIAの影響下にあり、そのCIAは強大な金融資本、つまり私的権力によって生み出された。メディアは私的権力の洗脳装置になっているとも言える。

 情報機関や警察が登場する映画やテレビドラマは少なくないが、少なくとも最近の作品の場合、悪いことをするのは個人か一部の集団で、システム全体は健全だとされる。ドナルド・トランプの支持者もこの枠組みから抜け出せていない。

 しかし、ノンフィクションの場合、システム自体が犯罪の主体だと主張されることもある。そうしたときに浴びせられる呪文が「陰謀論」だが、その呪文が盛んに使われるようになったのは1960年代後半以降だと言える。

 1963年11月22日にジョン・F・ケネディ大統領が暗殺された後、アール・ウォーレン最高裁長官を委員長とする調査委員会が設置された。そのメンバーはウォーレンのほかリチャード・ラッセル上院議員(当時。以下同じ)、ジョン・クーバー上院議員、ヘイル・ボッグス下院議員、ジェラルド・フォード下院議員、アレン・ダレス元CIA長官、ジョン・マックロイ元世界銀行総裁がいた。主席法律顧問はリー・ランキンだ。

 ダレスがウォール街の弁護士だということは本ブログで繰り返し指摘してきた。このダレスを委員会のメンバーにするよう働きかけた人物はリチャード・ヘルムズ。国際決済銀行初代頭取の孫にあたり、OSS時代からヘルムズの下で活動、1966年6月から73年2月まではCIA長官を務めている。マックロイはウォール街の大物で、大戦の後に世界銀行の総裁を経てドイツの高等弁務官としてナチスの大物たちを守った。フォードはJ・エドガー・フーバーFBI長官に近く、ランキンはCIAとFBIにつながっていた。この委員会で専従だったのはダレスひとりだ。

 ウォーレン委員会は1964年9月24日に報告書をリンドン・ジョンソン大統領に提出したが、3週間後の10月12日にひとりの女性が散歩中に殺される。その女性とは、ケネディ大統領と親密な関係にあったマリー・ピンチョット・メイヤー。銃弾の1発目は後頭部、2発目は心臓へ至近距離から撃ち込まれていた。プロの仕業だと考えられている。

 マリーが結婚したコード・メイヤーはCIAの秘密工作部門で幹部だった人物。ふたりは1945年に結婚したが、コードは51年にアレン・ダレスの誘いでCIAに入った。その後ふたりの間に亀裂が入り、1958に離婚している。

 マリーのCIA人脈はコード以外にもあった。大学時代の友人が結婚した相手がOSS時代からアレン・ダレスの下で秘密工作に従事、ファシストやイスラエルとつながっていたジェームズ・アングルトンだったのだ。姉が結婚したベン・ブラッドリーはニューズウィーク誌やワシントン・ポスト紙の編集幹部だったが、CIAとつながっていたと言われている。

 マリーは殺されて何も話せなくなったが、少なからぬ学者やジャーナリストがケネディ大統領に関する調査は行い、リー・ハーベイ・オズワルドの単独犯行だとするウォーレン委員会の結論に異を唱えた。そうした異論は事実の裏づけがあるため、反論で墓穴を掘る可能性もあった。そこで使われるようになったのが「陰謀論」という呪文だ。権力への信仰と権力が唱える呪文で事実を封じようとしてきた。

 そうした信仰と呪文が揺らいでる。ウォーゼルの記事はそうした焦りの反映なのかもしれない。
https://plaza.rakuten.co.jp/condor33/diary/202102260000/

10. 中川隆[-5558] koaQ7Jey 2021年4月18日 09:39:46 : cVvh3vnihc : SkQ4eVFEeU43Y0U=[31] 報告

2021年04月18日
日米首脳会談、親密さや仲良しは外交と無関係
http://www.thutmosev.com/archives/85603107.html


外国首脳と友達になると、パシリやスパイとして利用される
個人的に敵対的であっても外交の不利益はない


友だちになったら外交では損をする

菅首相は2021年4月15日訪米し、バイデン米大統領と外国首脳としては初めての会談をする。

思い出すのは2016年11月、大統領就任前のトランプにはせ参じて初会談した安倍首相でした。

安倍首相はタカ派で知られるトランプが大統領に就任したので、いち早く対談して利を得ようとしたと思われる。

安倍トランプは4年間親密だったが外交上の成果はというと、あまりなかったような気がします。

むしろ前任のオバマ大統領のほうが、親密ではなかったが外交上の成果は大きかった。

オバマは鳩山や菅以来どちらかというと日本嫌いで、国連などで熱心に日本外しを指示していたとされる。


だが2014年の訪日では米大統領として初めて『尖閣諸島は日米安保に含まれる』と明言し、慰安婦問題でも日本を支持した。

退任間近の2016年にはやはり米大統領として初めて広島を訪問し、事実上米国の責任を認めた。

2011年の東日本大震災では頼まれもしないのにトモダチ作戦を実行し、民主政権で破綻していた日米関係を修復しようとした。


このオバマが安倍首相や日本人と仲が良かったかというと、鳩山の詭弁に呆れた類の話しかない。

ケネディ大統領は1961年から1963年までで、日本を好きではなかったと思うが日本の為に有利に働いた。

就任半年後の1961年に沖縄返還に調印、ベトナム戦争を引き起こして日本にとっては経済特需になった。

日米首相は敵対的なほうが良い?

1962年に米ソが核戦争の瀬戸際までいったキューバ危機で、ケネディは日本の運命を決定する演説をしていた。

10月22日にケネディはテレビ演説で「米国の同盟国への攻撃は米国への攻撃とみなし報復する」と述べている。

この演説の前は世界に展開する米軍はただの侵略軍だったが、守ってくれることになり日本もアメリカの核の傘に入った。


この頃日本政府は独自の核武装や再軍備も検討していたようだが、「アメリカが守ってくれるんなら非武装でいいや」と思った。

トルーマン大統領は1945年4月から1953年1月の人で、原爆投下や都市への絨毯爆撃を命令した人物です。


ただしルーズベルト大統領死去で急遽大統領になったので、大統領になった時にはあらゆることが既に決定されてた。

こんなトルーマンが日本の為に働いたのが1950年の朝鮮戦争で、それまで制裁されていた日本に無限大の生産注文が舞い込んで復興できた。

アメリカは終戦後、意図的に日本人を苦しめる為食糧不足を引き起こしたり、生産活動を禁止しました。

大統領とトモダチになったらパシリにされる

輸入も輸出も生産も農業すら禁止、商売も禁止し原爆被災者には治療するふりをして偽薬を与え、その様子をビデオ撮影させた。

トルーマンは心底日本人を憎み切っていた筈だが、朝鮮戦争が起きるや「日本さん、協力お願いします」と頭を下げてきた。

これで日米関係は逆転し1990年のバブル崩壊まで日本の押せ押せ時代が到来しました。


反対に親日家と言われていたのがレーガンやブッシュjrだが、ほぼろくな事をしていない。

ブッシュは2007年に安倍首相を呼びつけて、「おい、今すぐ慰安婦に謝罪しないならここから出ていけ」と怒鳴りつけ安倍首相は謝罪して帰ってきた。

ブッシュの真の目的は日米貿易交渉で、無関係な事で謝罪してしまった安倍首相はもちろん不戦敗で帰国しました。


レーガンはバブル崩壊の原因になったプラザ合意をしかけ、今も日本は後遺症に苦しんでいます。

日本の首相と米大統領がトモダチになると、「おい安倍、トモダチなら証拠を見せろ」などと言われて譲歩を迫られるケースが多い。

むしろ敵対的な関係のほうがマシなほどで、外交は友達作りとは関係ないのです

http://www.thutmosev.com/archives/85603107.html

11. 中川隆[-4752] koaQ7Jey 2021年5月16日 09:34:53 : tW8VAAkK0o : WlZtN0R3YUloTFE=[6] 報告
イスラエルの核兵器開発には欧米の富豪、例えばフランスを拠点とするエドモンド・アドルフ・ド・ロスチャイルドやアメリカのアブラハム・フェインバーグが資金を提供していたと言われている。フェインバーグはハリー・トルーマンやリンドン・ジョンソンのスポンサーとしても知られている。

 1958年にCIAの偵察機U2がネゲブ砂漠のディモナ近くで何らかの大規模な施設を建設している様子を撮影、それは秘密の原子炉ではないかという疑惑を持ち、CIAの画像情報本部の責任者だったアーサー・ランダールはドワイト・アイゼンハワー大統領に対してディモナ周辺の詳細な調査を行うように求めたのだが、それ以上の調査が実行されることはなかった。

 コラムニストのチャールズ・バートレットによると、フェインバーグは1960年の大統領選でジョン・F・ケネディに対し、中東の政策を任せてくれるなら資金を提供すると持ちかけている。その提案をケネディは呑んだとされている。(Seymour M. Hersh, “The Samson Option,” 1991, Random House)

 ところが、ケネディ大統領はイスラエルの核兵器開発には厳しい姿勢で臨んでいる。イスラエルのダビッド・ベングリオン首相と後任のレビ・エシュコル首相に対し、半年ごとの査察を要求する手紙をケネディは送りつけ、核兵器開発疑惑が解消されない場合、アメリカ政府のイスラエル支援は危機的な状況になると警告しているというのだ。(John J. Mearsheimer & Stephen M. Walt, “The Israel Lobby”, Farrar, Straus And Giroux, 2007)そのケネディは1963年11月22日に暗殺され、副大統領だったジョンソンが昇格した。

 イスラエルは欧米の巨大な私的権力が生み出した国である。パレスチナ問題に首を突っ込むということは、その私的権力の利権に触れることを意味する。

https://plaza.rakuten.co.jp/condor33/diary/202105150003/

12. 中川隆[-4751] koaQ7Jey 2021年5月16日 09:37:55 : tW8VAAkK0o : WlZtN0R3YUloTFE=[7] 報告
2021.03.31
バイデンとトランプを操る私的権力
https://plaza.rakuten.co.jp/condor33/diary/202103310000/


 ジョー・バイデン政権はロシアに対する経済戦争を強化、軍事的な緊張も高めてきた。これは昨年の大統領選挙運動中にも言われていたことだが、中国に対する経済的、そして軍事的な圧力も強め、中東でも軍事的な動きが活発化している。政権の陣容から予想されたことだが、好戦的な政策を打ち出してきた。ルビコンを渡ったということだ。

 アメリカの場合、シオニスト(親イスラエル派)系の富豪は政治家に資金を提供する際、国際面の政策、つまり外交や軍事を彼らに任せることを条件にしてきたと言われている。ジョン・F・ケネディもその条件を呑んでいた。

 しかし、ケネディの場合、大統領に就任してからイスラエルの核兵器開発に対して厳しい姿勢で臨んで対立が生じ、ジミー・カーターはイスラエル一辺倒の政策をとらず、パレスチナにも配慮する政策を打ち出して有力メディアから激しく攻撃され、1期で終えた。

 こうした背景があるため、外交や軍事に関する政策は大統領が交代しても基本的に変化しない。ドナルド・トランプやバイデンでも同じことが言えるのだが、それでもトランプは選挙期間中にソ連との関係修復を訴え、CIAやFBIとタッグを組んだ有力メディアから激しく攻撃されていた。

 トランプはCOVID-19(2019年-コロナウイルス感染症)を巡っても危機感を煽り、ワクチン接種を推進する有力メディアやその背後にいる私的権力と対立していた。最前線で旗を振ってきたのはビル・アンド・メリンダ・ゲイツ財団だが、この財団と歩調を合わせ、COVID-19騒動を利用してWEF(世界経済フォーラム)のクラウス・シュワブは資本主義を大々的に「リセット」すると宣言している。

 このリセットを実行する司令部になりそうな存在が「包括的資本主義会議」。ローマ教皇庁と連携している。その中心的な存在であるリン・フォレスター・ド・ロスチャイルドはエベリン・ド・ロスチャイルドの3番目の妻。エベリンはロンドンを拠点とするNMロスチャイルド銀行の取り仕切ってきた人物で、昨年8月で90歳になった。リン・フォレスターは66歳。

 ふたりは1998年のビルダーバーグ・グループの会議でヘンリー・キッシンジャーに紹介されて知り合い、2000年に結婚、新婚旅行の際にクリントン夫妻からホワイトハウスへ招待されている。ちなみにシュワブはハーバード大学でキッシンジャーの下で学んでいたという。

 2015年の段階で次期アメリカ大統領に内定していたと言われているヒラリー・クリントンは2016年に失速する。民主党の内部では彼女の好戦的な姿勢を好まない人びとがバーニー・サンダースを支援、共和党のトランプも浮上した。そこで民主党の幹部やヒラリー陣営はサンダースを潰した後、トランプを攻撃することになる。トランプが浮上する際に動いていたのがキッシンジャーだ。

 キッシンジャー人脈の動きを見ると、トランプは1期目の途中、私的権力から切られたように見える。軍事面でトランプの腰が引けていると判断された可能性もあるが、私的権力は2001年頃、つまりニューヨークの世界貿易センターやバージニア州アーリントンの国防総省本部庁舎(ペンタゴン)が攻撃された頃からパンデミックを想定したシナリオを考えていた。COVID-19に対するトランプの態度を私的権力が怒ったのかもしれない。

 トランプに替わって大統領になったバイデンは1972年の上院議員選挙で当選している。その当時、彼に助言していた人物は富豪のW・アベレル・ハリマン。ジョージ・W・ブッシュの祖父にあたるプレスコット・ブッシュとエール大学の同窓で、ふたりとも学生の結社「スカル・アンド・ボーンズ」のメンバーだった。ハリマン家とブッシュ家はスカル・アンド・ボーンズだらけだ。

 ウォール街の大物だったジョージ・ハーバート・ウォーカーの娘とプレスコットは1921年に結婚、24年にはウォーカーが社長を務めていた投資銀行の「A・ハリマン」の副社長になり、31年には「ブラウン・ブラザース・ハリマン」の共同経営者になる。ブラウン・ブラザース・ハリマンを設立したE・H・ハリマンはW・アベレル・ハリマンの父親だ。

 その当時、このブラウン・ブラザース・ハリマンはディロン・リードと同様、アメリカからドイツへの主要な投資ルートだった。プレスコットはW・アベレル・ハリマンらとドイツ企業との手形交換業務を行う名目で「ユニオン・バンキング」を創設するが、この投資銀行はウォール街がナチスへ資金を流す主要なパイプラインのひとつだったとされている。

 ナチスを資金面からウォール街の金融資本だけが支えていたわけではない。スイスで設立され、米英の親ファシスト派が背後にいたと言われているBIS(国際決済銀行)、あるいは第2次世界大戦が勃発する半年ほど前にドイツへ約2000トンの金塊を渡したと言われているイングランド銀行も仲間だと言えるだろう。

 ロックフェラー財団のラジブ・シャーやフォード財団のダレン・ウォーカーも含まれている包括的資本主義会議の中心グループにはイングランド銀行元総裁のマーク・カーニーもいる。カーニーはドルに替わる基軸通貨を創設しようと考えているようだ。

https://plaza.rakuten.co.jp/condor33/diary/202103310000/

13. 2021年8月31日 22:01:28 : egUkgZKmks : NWNjU1d1TmVGRVE=[9] 報告
2021.08.30
RFK暗殺犯として終身刑を言い渡されたサーハン・サーハンの仮釈放が認められた
https://plaza.rakuten.co.jp/condor33/diary/202108300000/

 1968年6月5日にロバート・ケネディ上院議員を暗殺した犯人だとされ、終身刑を言い渡されたパレスチナ出身のサーハン・サーハンの仮釈放が8月27日に認められた。RFK暗殺の2カ月前には彼の親友、マーチン・ルーサー・キング牧師が暗殺されている。

 暗殺の瞬間、サーハンはロバートの60センチ以上前を歩いていたのだが、検死をしたトーマス・ノグチによると、致命傷は右耳後方に命中した銃弾。皮膚の状態から、銃口は2.5センチ以内の距離にあったとみられている。別の2発は議員の右脇に命中していた。議員は右後方の至近距離から打たれのだ。しかも命中した銃弾はサーハンのピストルから発射されたものでない。アメリカの裁判が正常に機能していたならば、サーハンが有罪になるはずはなかった。ロバート・ケネディの遺族もサーハンが犯人だとは考えていない。

 ところで、サーハンは1966年に「バラ十字会AMORC」へ入会している。この会は17世紀から存在、アメリカでは1915年にスペンサー・ルイスなる人物が創設したという。サーハンは入会から3カ月後に馬から落ちて入院したが、サーハンの家族によると、退院後のサーハンは性格が一変して別人のようになり、笑顔を見せなくなったという。(Lisa Pease, “A Lie Too Big To Fail,” Feral House, 2018)

 ロバートが殺された1968年の11月には大統領選挙が予定され、彼が民主党の候補者になることは確実。大統領に選ばれる可能性も高く、ロバートの兄で大統領だったジョン・F・ケネディの暗殺を喜んでいた人びとにとっては嫌な状況だっただろう。

 ジョン・F・ケネディが殺されたのは1963年11月22日、1965年2月21日にはマルコムXが、また1968年4月4日にはキング牧師がそれぞれ殺されている。そしてロバート。いずれも侵略戦争に反対していた。

https://plaza.rakuten.co.jp/condor33/diary/202108300000/

14. 2021年11月25日 01:34:26 : sEqKPZ8ybM : aXRwS3RoVDZsdzY=[1] 報告
2021.11.25
JFK暗殺から58年を経ても真相は隠蔽され、世界はファシズムへ足を踏み入れた
https://plaza.rakuten.co.jp/condor33/diary/202111240000/


 今から58年前、1963年11月22日にアメリカ大統領のジョン・F・ケネディ大統領がテキサス州ダラスで暗殺された。​テキサス大学のジェームズ・ガルブレイス教授(経済学者ジョン・ケネス・ガルブレイスの息子)​によると、アメリカの軍や情報機関の好戦派は1963年後半にソ連を先制核攻撃する計画を立てていたが、ケネディはそうした軍事行動に反対している。

 上院議員時代からケネディは戦争や植民地に反対していた。インドシナへカネ、資源、そして人間を投入することは無益であり、自滅的だと主張、1957年7月にはアルジェリアの独立を潰すために戦争を始めたフランスの植民地主義に強く反対していた。

 しかし、ケネディは1958年8月に「ミサイル・ギャップ」という用語を使い、危機感を煽っている。1960年の選挙期間中にもソ連の脅威を宣伝していた。こうした主張を彼に吹き込んだ人物は元空軍省長官のスチュアート・サイミントン上院議員だという。

 1961年当時、ソ連が保有していたICBM(大陸間弾道ミサイル)の数はNIE(国家情報評価)推計によると数機。スパイ衛星によって確認されていたのは4機だけだった。(Daniel Ellsberg, “The Doomsday Machine,” Bloomsbury, 2017)

 また、ソ連軍が保有する長距離爆撃機バイソンの数はCIAが推測していた約100機の3分の1から5分の1にすぎないことも偵察機U2によってわかっていた。(William D. Hartung, “Prophets of War”, Nation Books, 2011)

 ミサイル・ギャップも爆撃機ギャップも事実に反していた。その後の言動から考えると、ケネディのソ連脅威論は選挙向けの発言だった可能性がある。実際、大統領に就任した後、ケネディは戦争の目論見をことごとく阻止する。

 それだけでなく、彼の側近たちはFBIのJ・エドガー・フーバーやCIAのアレン・ダレスを解任するべきだと主張、大統領の父親であるジョセフ・ケネディも大統領の意思を無視して勝手に動くダレス兄弟が危険だと話していたようだが、選挙結果が僅差での勝利だったことから新大統領は両者を留任させ、国務長官にはCFR(外交問題評議会)やロックフェラー基金を通じてダレス兄弟と近い関係にあったディーン・ラスクを任命する。(David Talbot, “The Devil’s Chessboard,” HarperCollins, 2015)

 しかし、好戦派の工作はドワイト・アイゼンハワー時代から始まっていた。最初に行われたのがキューバ侵攻作戦である。4月15日に4機の爆撃機がキューバの航空機部隊を空爆、3機を除いて使用できない状態にし、17日には1543名の亡命キューバ人を主体とする侵攻部隊がピッグス湾(プラヤ・ギロン)への上陸を試みる。

 侵攻部隊の主力はグアテマラの秘密基地でCIAの訓練を受けた後、戦車、大砲、対戦車砲、自動小銃数千丁などを携えて5隻の商船に乗り込んでグアテマラを出航、途中でニカラグアから来たCIAの改造上陸艦2隻と合流している。(L. Fletcher Prouty, "JFK," Citadel Press, 1996)

 この作戦に関するは事前に漏れていることは公然の秘密で、その行く手でキューバ軍が待ち受けていることは予想されていた。ルシアン・バンデンブロックがプリンストン大学で発見した記録によると、アレン・ダレスは作戦が成功する可能性が小さいと判断、アメリカ軍をキューバへ軍事侵攻させようと目論んでいた。(Lucien S. Vandenbroucke, "The 'Confessions' of Allen Dulles: New Evidence on the Bay of Pigs," Fall 1984)

 侵攻軍の敗北がが明らかになるとCIA副長官だったチャールズ・キャベルは航空母艦からアメリカ軍の戦闘機を出撃させようと大統領に進言したものの、却下されている。(L. Fletcher Prouty, "JFK," Citadel Press, 1996)

 ベルリンで緊張が高まっていた1961年7月、アメリカの軍や情報機関の幹部はケネディ大統領に対し、NSC(国家安全保障会議)で先制核攻撃計画について説明している。テキサス大学のジェームズ・ガルブレイス教授によると、1963年の後半にソ連を核攻撃するというスケジュールになっていたという。その頃になれば、先制攻撃に必要なICBMをアメリカは準備でき、ロシアは準備できていないと見通していた。(James K. Galbraith, “Did the U.S. Military Plan a Nuclear First Strike for 1963?”, The American Prospect, September 21, 1994)

 この先制攻撃計画を大統領は拒否する一方、1961年11月にアレン・ダレスCIA長官や秘密工作部門の責任者だったリチャード・ビッセル計画局長を解任、キャベル副長官も62年1月に辞めさせられている。1961年にロバート・ケネディ司法長官はフーバーFBI長官の解任を公言している。

 好戦派は軍にもいた。そのひとりがライマン・レムニッツァー統合参謀本部議長。そのレムニッツァーは1962年3月、国防長官のオフィスでキューバが爆弾テロを実行し、旅客機を撃墜したように見せかける偽旗作戦について説明している。ノースウッズ作戦だ。

 その数カ月後にレムニッツァーはキューバにアメリカ軍が軍事侵攻してもソ連は動けないと大統領に説明する。「脅せば屈する」というわけだが、これも無視された。

 アメリカの内部に先制核攻撃を目論む勢力が存在していることをソ連も知っていたはず。ICBMや長距離爆撃機で圧倒されているソ連としては中距離ミサイルで対抗するしかない。中距離ミサイルでアメリカを攻撃するにはアメリカの近くに発射基地を建設する必要がある。そこでアメリカもソ連も注目したのがキューバだ。

 ソ連がキューバへミサイルを運び込んだことをアメリカは1962年8月に察知する。U2がキューバで地対空ミサイルSA2の発射施設を発見したのだ。ハバナの埠頭に停泊していたソ連の貨物船オムスクが中距離ミサイルを下ろし始め、別の船ボルタワがSS4を運び込んでいることも判明する。(Martin Walker, "The Cold War," Fourth Estate, 1993)

 国防長官だったロバート・マクナマラは1998年のインタビューで、約162発の核弾頭がキューバへすでに持ち込まれていて、そのうち約90発は軍事侵略してくるアメリカ軍に対して使われる戦術核だったと語っている。

 レムニッツァー議長はケネディ大統領から再任を拒否され、9月30日に退任。その時にレムニッツァーへ欧州連合軍最高司令官にならないかと声をかけてきたのがイギリス女王エリザベス2世の側近として知られるハロルド・アレグザンダーだった。

 カーチス・ルメイ空軍参謀長を含む軍の好戦派が大統領に対して空爆を主張したのは10月19日のこと。空爆してもソ連は手も足も出せないはずだと主張したが、ケネディは強硬派の作戦に同意せず、10月22日にミサイルがキューバに存在することを公表、海上封鎖を宣言した。

 10月27日にキューバ上空でU2が撃墜され、シベリア上空でもU2が迎撃されている。この直後にマクナマラ国防長官はU2の飛行停止を命令したが、その後も別のU2がシベリア上空を飛行している。

 同じ日にアメリカ海軍の空母ランドルフを中心とする艦隊の駆逐艦ビールがソ連の潜水艦をカリブ海で発見、対潜爆雷を投下している。攻撃を受けて潜水艦の副長は参謀へ連絡しようとするが失敗、アメリカとソ連の戦争が始まったと判断した艦長は核魚雷の発射準備に同意するようにふたりの将校に求めた。核魚雷は発射されなかったが、これはたまたま乗り合わせていた旅団参謀が発射の同意を拒否したからだ。この核魚雷の威力は広島に落とされた原子爆弾と同程度で、もし発射されていたなら、現場にいたアメリカの艦隊は全滅していたと見られている。(Daniel Ellsberg, “The Doomsday Machine,” Bloomsbury USA, 2017)

 ルメイなど軍の強硬派は大統領に対し、ソ連を攻撃するべきだと詰め寄っていたが、拒否される。この時に好戦派はクーデターでケネディ大統領を排除し、ソ連に核戦争を仕掛けるつもりだったとも言われているが、10月28日にソ連のニキータ・フルシチョフ首相はミサイルの撤去を約束、海上封鎖は解除されて核戦争は避けられた。

 キューバへ軍事侵攻した場合、アメリカ側の戦死者数は4500名とマクナマラ国防長官は予想していたが、30年後にソ連側の態勢を知り、アメリカ人だけで10万人が死んだだろうと訂正している。アメリカは楽観的な見通しから計算違いをすることがあるが、これもその一例だ。

 ケネディ大統領の親友で最も信頼されていた側近だったケネス・P・オドンネルによると、ケネディと個人的に親しかったマリー・ピンチョット・メイヤーは危機の最中、ソ連と罵り合いに陥ってはならないと強く大統領に訴えていたという。(Peter Janney, “Mary’s Mosaic,” Skyhorse, 2013)

 そして1963年11月22日にケネディ大統領は暗殺され、その暗殺に関するウォーレン委員会の報告書がリンドン・ジョンソン大統領に提出された3週間後の64年10月12日、マリー・ピンチョット・メイヤーは散歩中に射殺された。

https://plaza.rakuten.co.jp/condor33/diary/202111240000/

15. 2022年2月20日 13:44:36 : LKJ8xLJdk2 : QjFaS0RvamZHWjY=[4] 報告
【今、世界はどうなっている?】林千勝×水島総 第11回「警世と買弁、『新世界秩序』の遣り口が記された3つの書」[桜R4/1/19]

16. 2022年7月17日 09:52:24 : qvKM870jvQ : ZkEyVUZqb01yZ0E=[4] 報告
1964年に米諜報界(軍産複合体)は、自分たちに楯突いてきたケネディ大統領を殺したが、諜報界はケネディを殺すと同時に、副大統領から昇格して次の大統領になったジョンソンを傀儡化し、冷戦の再燃やベトナム戦争の激化など、ケネディが阻止しようとしたことを思い切りやれるようにした。それがケネディ殺害の目的だった(その後ベトナム戦争は泥沼化し、米国の覇権を自滅させる隠れ多極主義の流れに入り込まれたが)。
https://tanakanews.com/220710abe.htm
17. 2022年7月31日 12:42:00 : sxbO0IOX2w : bU9kc0tRMGNXOWc=[1] 報告
一般的に暗殺組織は、標的を殺す地域のボスを抱き込む。ケネディー暗殺の時、エルム街を通るよう、急遽リムジンのルートが変更されたのも、ダラスの有力者を一味に加えたからだろう。実際、ダラスの市長はチャールズ・カベル将軍(Genral Charles Cabell)の弟であるアール・カベル(Earle Cabell)であった。ということは、暗殺組織が自分の縄張り(turf)で計画を実行したと考えてもおかしくはない。確かに、市長を仲間にしておけば、色々なトラブルが起きた時に役に立つ。市長の権能で地元の警察を動かせるし、捜査に干渉して証拠を握り潰すことも可能だ。

Allen Dulles 7732Charles Cabell elder brother 111Earle Cabell 82Gerald Ford 0021
(左 : アレン・ダレス / チャールズ・カベル / アール・カベル / 右 : ジェラルド・フォード )

  ちなみに、チャールズ・カベル将軍は元々空軍大将であったが、アレン・ダレス(Allen Dulles)長官のもとで働くCIAの副長官でもあった。しかし、ピッグス湾侵攻を実行に移した時、ケネディー大統領が空爆の要請を拒絶したから、ダレスとカベルの作戦は大失敗。面子を潰された長官と副長官は、殺したいほどケネディーを恨んでいたという。もし、この怒れる空軍大将が弟を引き込んだとすれば、暗殺計画はだいぶ楽になる。やはり、標的のカモを撃ち殺すには、自分の裏庭が最適だ。副大統領のリンドン・ジョンソンが組織に加わったのも、色々な後始末に便利であったからだろう。後に大統領となるジェラルド・フォードもアレン・ダレスと一緒に「ウォーレン委員会」のメンバーになっていたんだから、あまりにも出来すぎている。ちなみに、1963年11月29日、下院議員だったフォードをメンバーにしたのはジョンソン大統領であった。(Conversation Number K 6311.01, PNO1)

http://kurokiyorikage.doorblog.jp/archives/68905582.html

18. 2022年12月20日 08:39:51 : vircnoKtVI : RjI2YzRwWmVhNzI=[1] 報告
2022.12.20XML
今でもケネディ大統領暗殺に関する情報の公開をアメリカ支配層が恐れる理由
https://plaza.rakuten.co.jp/condor33/diary/202212200000/

 ​アメリカの国立公文書記録管理局は12月15日、ジョン・F・ケネディ大統領暗殺に関する1万3000以上のファイルを公開​した。同局が保管している関連文書の97%だというが、CIAが保管している重要文書はマイク・ポンペオ(2017年1月から18年4月までCIA長官、18年4月から21年1月まで国務長官)とジョー・バイデン大統領によって公開が阻止されたという。そもそも最高機密に属す情報は文書になっていない可能性が高く、それに準ずる文書は処分されているか別の「安全な」場所に隠されているはずだ。

 国立公文書記録管理局による文書公開は隠蔽工作の一環とも言えるのだが、その事実に​FOXニュースのタッカー・カールソン​が番組の中で切り込んだ。隠されている重要文書を見ることにできる人物は彼に対し、ケネディ大統領暗殺にCIAは関与したと思うと語ったという。

 暗殺にCIAの一部が関与していることは少なからぬ人が信じている。それほど証拠、証言、分析が存在しているのだが、アカデミーや有力メディアはそれを認めようとしない。

 ジョン・F・ケネディ大統領は1963年11月22日、テキサス州ダラスで暗殺された。

 その日の朝、大統領はフォート・ワースのカーズウェル空軍基地からダラスのラブ・フィールドへ移動、そこでパレード用のリンカーン・コンバーティブルに乗り込むが、そのリムジンは防弾仕様でなく、屋根はシークレット・サービスのウィンストン・ローソンの指示で取り外されていた。

 また、リムジンのリア・バンパーの左右には人の立てるステップがあり、手摺りもついたが、パレードのときには誰も乗っていない。大統領の指示だったという話もあるが、エージェントだったジェラルド・ベーンは大統領がそうした発言をするのを聞いていないと証言している。元エージェントのロバート・リリーによると、大統領はシークレット・サービスに協力的で警備の方法に口出しすることはなかった。

 当初、大統領が乗ったリムジンの両側に警察のオートバイを走らせる予定だったが、21日にシークレット・サービスからオートバイを後ろに下げるように警察は言われている。シークレット・サービスはそれが大統領の希望だと主張しているが、直前のヒューストンでは両脇にオートバイが配置されている。(James W. Douglass, “JFK”, Orbis, 2008)

 本来なら、ダラスでは通常より警備を厳しくしなければならない事情があった。ケネディは11月2日にシカゴを訪れる予定にだったが、そのシカゴで大統領を暗殺する計画があるとする警告が警備当局に対して2カ所からもたらされた。ひとつはFBIの情報源から、もうひとつはシカゴ警察のバークレー・モイランド警部補からだ。

 FBIが入手した情報によると、パレードの途中で4名のスナイパーが高性能ライフルで大統領を狙うことになっていた。その情報はシークレット・サービスへも伝えられた。FBIにその計画を伝えたのは「リー」と呼ばれる情報源だった。シークレット・サービスのシカゴ支部は容疑者を監視、11月1日に2名を逮捕したが、残りの2名には逃げられてしまった。

 ちなみに、ケネディ大統領を暗殺したとされているリー・ハーベイ・オズワルドはFBIの情報提供者だとする情報がある。そのコードネームはS172、またはS179だったという。

 モイランド警部補が得た情報は「ケネディ嫌いの男がいる」というもの。10月後半にシカゴのカフェテリアで食事をしていたモイランドは、そこの経営者からケネディ大統領に関して不穏当な話をする常連客がいることを知らされたのだ。そこで警部補はその男が来るのを待ち、トーマス・アーサー・ベイリーだと確認してからシークレット・サービスに連絡している。(James W. Douglass, “JFK”, Orbis, 2008)

 ベイリーは元海兵隊員で、ジョン・バーチ協会に所属。海兵隊時代にはJTAG(統合技術顧問グループ)のメンバーとして日本にいた。彼が日本で配属されていたのは滋賀県にあったキャンプ大津(現在は陸上自衛隊の大津駐屯地)だとも言われている。ちなみにオズワルドは厚木基地で偵察機U2に関する機密情報に接しうる仕事をしていた。

 エージェントがベイリーの自宅を捜索すると、M1ライフル、カービン銃、2800発の銃弾を発見、捜査は警察にバトンタッチされた。警察で担当したのはダニエル・グロスとピーター・シューラ。11月2日午前9時10分(東部時間では10時10分)にベイリーは逮捕され、その5分後にケネディ大統領のシカゴ訪問取りやめが発表された。

 そうした情況にあったため、大統領の周辺、例えばウイリアム・フルブライト上院議員たちは大統領に対し、ダラス行きを中止するようにワシントンDCで20日に忠告している。(Anthony Summers, "The Kennedy Conspiracy," Paragon House, 1989)

 大統領のパレード、しかも通常より危険な状況にあるということになれば、少なくとも沿道の建物の窓は閉めさせ、開いていれば捜査官を派遣してチェックさせるのが当然だが、そうした状況下で保安官が警備からはずされ、警察の警備体制を緩くさせたりしている。

 シークレット・サービスはパレードの当日にコースを変更している。当初、本通りを直進する予定で地元紙もそのように報道していたが、ヒューストン通りを右折、エルム通りとの交差点、オズワルドが働いていた教科書ビルの直前で左折するよう変えられた。

 エルム通りへの左折は「ヘアピンカーブ」になっていて、速度をかなり落とさなければならず、狙いやすうえに複数のスナイパーを配置できる。実際、大統領を乗せたリムジンは時速8キロメートルに減速している。

 ケネディ大統領は12時半頃に暗殺された。後ろの教科書ビルから撃たれたことになっているが、映像を見ても証言を調べても、致命傷になったであろう銃撃は前方からのものだった可能性がきわめて高い。これは本ブログでも書いてきた。銃撃の直後、ダラス警察のジョー・マーシャル・スミスは「グラッシー・ノール(草で覆われた丘)」へ駆けつけ、硝煙の臭いを嗅いでいる。

 ケネディ大統領の暗殺では、さいまざまな「有名人」の名前が挙がっている。そのひとりがハワード・ハント。1972年6月にリチャード・ニクソン大統領陣営のCREEP(大統領再選委員会)に属すメンバーがワシントンDCの民主党全国委員会本部へ侵入、逮捕された。ウォーターゲート事件だが、この事件にハントも関係していた。

 ハワード・ハントは2007年に死亡する直前、息子のセイント・ジョン・ハントへ自分がケネディ大統領暗殺に関係していたことを明らかにした。暗殺自体に関係していないが、暗殺の真相が明らかになりそうになった場合、スケープゴートにされることにあったのではないかとCIAの元高官、ビクター・マーチェッティは推測している。

 暗殺の翌年に興味深い映画が3作品、公開されている。1月にスタンリー・キューブリック監督の「博士の異常な愛情」、2月にはジョン・フランケンハイマーが監督した「5月の7日間」、そして10月になるとシドニー・ルメット監督の「フェイルセイフ」だ。

 最初の作品は空軍司令官がソ連への核攻撃を全戦略爆撃機に命令するという筋書きで、2番目は統合参謀本部議長など軍の幹部が大統領を排除するためにクーデターを計画するという内容、3番目ではコンピュータのエラーでソ連を核攻撃してしまうというプロットだった。(Russ Baker, “Family of Secrets”, Bloomsbury, 2009)

 「5月の7日間」という小説を書いたのはフレッチャー・ニーベルとチャールズ・ベイリーで、ケネディ大統領もその小説を読み、友人にありえる話だと語っている。その話をニーベルが思いついた切っ掛けはカーティス・ルメイへのインタビューだったという。(Oliver Stone & Peter Kuznick, “The Untold History of the United States,” Gallery Books, 2012)

 ルメイは広島と長崎に原爆を投下し、日本の都市に住む市民を焼夷弾で焼き殺した人物。「博士の異常な愛情」でソ連に対する核攻撃を独断で命じたジャック・リッパー空軍准将もルメイがモデルだと考えられているのだが、この人物はケネディ大統領暗殺の翌年、日本政府から「勲一等旭日章」を授与された。
https://plaza.rakuten.co.jp/condor33/diary/202212200000/

19. 2023年11月20日 05:52:55 : L3Fq6W0nIU : ZHNSbGh4U09rTGM=[1] 報告
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2023.11.20XML
JFK暗殺から60年を経た現在、オズワルドの単独犯行説は説得力を失っている
https://plaza.rakuten.co.jp/condor33/diary/202311200000/

 ジョン・F・ケネディは1963年11月22日、今から60年前にテキサス州ダラスで暗殺された。アメリカでは第2次世界大戦の終盤、1945年4月12日にフランクリン・ルーズベルト大統領が急死してウォール街を根白にするファシズム人脈が息を吹き返していたが、ケネディの大統領就任でその流れが変わる可能性があったのだ。

 ケネディ大統領に続き、マーチン・ルーサー・キング牧師が1968年4月4日に、大統領の弟で元司法長官のロバート・ケネディが同年6月6日に暗殺されて流れは変わらない。ロバート・ケネディは1968年の大統領選挙における最有力候補で、キングが副大統領になるとも言われていた。

 リンドン・ジョンソン副大統領がケネディ大統領のダラス訪問を発表したのは1963年4月のこと。ダラスに不穏な空気が漂っていたことは大統領自身も承知していたはずだが、大統領は予定を変えず、11月21日の夜にフォート・ワース入りした。

 その日から翌日の未明まで、警備を担当するシークレット・サービスのエージェントの多くが「セラー(穴蔵)」というナイトクラブへ繰り出して騒いでいた。そのナイトクラブを経営するパット・カークウッドはジャック・ルビー、つまり、オズワルドを警察署で射殺したとされている人物の友人だという。(Robert J. Groden, “The Killing Of A President”, Bloomsbury, 1993)

 大統領一行は11月22日の朝にフォート・ワースのカーズウェル空軍基地からダラスのラブ・フィールドへ移動、パレード用のリンカーン・コンバーティブルに乗り込んだ。

 このリムジンは防弾仕様でなく、屋根はシークレット・サービスのウィンストン・ローソンの指示で取り外されていた。またリムジンのリア・バンパーの左右には人の立てるステップがあり、手摺りもついているのだが、パレードのときには誰も乗っていない。大統領の指示だったという話もあるが、エージェントだったジェラルド・ベーンは大統領がそうした発言をするのを聞いていないと証言している。元エージェントのロバート・リリーに言わせると、大統領はシークレット・サービスに協力的で警備の方法に口出しすることはなかった。

 12時30分頃、ケネディ大統領は暗殺された。後ろの教科書ビルから撃たれたことになっているが、映像を見ても証言を調べても、致命傷になったであろう銃撃は前方からのものだった可能性がきわめて高い。

 銃撃が始まると、大統領を乗せたリムジンの後ろを走る自動車にいた特別エージェントのエモリー・ロバーツは部下のエージェントに対し、銃撃だと確認されるまで動くなと命令するが、これを無視してエージェントのクリント・ヒルは前のリムジンに飛び乗った。

 ヒルによると、銃撃の後に喉を押さえるケネディ大統領を見てのことで、まだステップに足がかかる前、血、脳の一部、頭骨の破片が自分に向かって飛んできて、顔、衣類、髪の毛についたとしている。ステップにヒルの足がかかった時、大統領夫人のジャクリーンもボンネットの上に乗り、大統領の頭部の一部を手に触れようとしていた。その時、大統領の頭部の中が見えたという。リムジンの前方から銃撃されたことは決定的だ。(Clint Hill with Lisa McCubin, “Mrs. Kennedy and Me”, Gallery Books, 2012)事件を調査したウォーレン委員会でジャクリーンは髪の毛を元に戻そうとしたと証言しているが、委員会の報告書からは削除された。

 銃撃の直後、ダラス警察のジョー・マーシャル・スミスはパレードの前方にあった「グラッシー・ノール(草で覆われた丘)」へ駆けつけ、硝煙の臭いを嗅いでいる。そこで近くの駐車場にいた自動車修理工のように見えた男を職務質問したところ、シークレット・サービスのエージェントだということを示されたのだが、そこにシークレット・サービスの人間は配置されていなかったことが後に判明している。

 兵士のゴードン・アーノルドは銃撃の直前、「シークレット・サービスのエージェント」をそこで見たと語っている。パレードを見やすい場所を探してグラッシー・ノールに近づいたところ、私服の男に遮られ、近づかないようにと言われたというのだ。アーノルドが抗議したところバッジを見せながらシークレット・サービスだと名乗ったという。

 銃撃が収まってから、今度はふたりの制服を着た「警察官」がアーノルドに近づいて、フィルムを渡すように命じた。アーノルドは素直に渡している。そのフィルムがどうなったかは不明だ。やはり銃撃後、グラッシー・ノールのフェンス近くを走っていたジーン・ヒルもシークレット・サービスを名乗る人物からフィルムを全て取り上げられている。ただ、エイブラハム・ザプルーダーが撮影した8ミリフィルムは後に公開されている。

 事件直後、そのフィルムに関する全ての権利を写真雑誌LIFEの編集者リチャード・ストーリーが5万ドルでザプルーダーから買い取ってシカゴの現像所へ運び、オリジナルはシカゴに保管、コピーをニューヨークへ送ったとされていた。

 ジャクソンはフィルムが外部に漏れることを警戒し、ストーリーに対して動画に関する権利も買い取るように指示。この契約でLIFEはザプルーダー側へさらに10万ドル、合計15万ドルを支払っている。後にオリジナルのほか3本のコピーが作られ、オリジナルはCIAと国防総省の共同プロジェクトとして設立されたNPIC(国家写真解析センター)へ送られたことがわかる。なお、NPICは1996年にNIMA(国家画像地図局)に組み込まれた。現在のNGA(国家地理空間情報局)だ。

 このフィルムをNPICが保管していることを知ったCIA長官のジョン・マコーンは持ってくるように指示、映像を見ている。NPICはそれをオリジナルだとしていたが、本当のところは不明。マコーンはロバート・ケネディに対し、銃撃にはふたりの人間が関係しているという映像から受けた印象を語ったという。またNPICのスタッフで事件直後に映像を見たホーマー・マクマホンによると、銃撃は約8回、少なくとも3方向から撃たれているとしている。(Peter Janney, “Mary’s Mosaic,” Skyhorse, 2013)

 ザプルーダー・フィルムは長い間、一般に公表されていない。フィルムを隠したC・D・ジャクソンはアイゼンハワー大統領のスピーチライターを務めた人物で、アレン・ダレス、フランク・ウィズナー、リチャード・ヘルムズ、フィリップ・グラハムを中心とするメディア支配プロジェクトの協力者でもあった。

 このフィルムを公開させたのがルイジアナ州ニュー・オーリンズの地方検事だったジム・ギャリソン。これがオリジナルである保証はないのだが、ともかくそれを1969年2月に法廷で映写させた。ただ、フィルムには大きな傷があり、見えない部分がある。

 その傷に関し、LIFE側は現像所の技術的なミスで損傷を与えたと説明したが、有名写真雑誌のプロがそうしたミスをするとは考えにくい。いつ、どのようにして傷つけたかを明確にするべきだが、現在に至るまで納得のできる説明はない。

 本来ならフィルムを隠したC・D・ジャクソンから事情を聞くべきなのだが、大統領が暗殺された翌年、1964年9月18日に彼は62歳で死亡している。

 ケネディ大統領の死亡が確認されたのはダラスのパークランド記念病院。死体を見た同病院のスタッフ21名は前から撃たれていたと証言、確認に立ち会ったふたりの医師、マルコム・ペリーとケンプ・クラークは大統領の喉仏直下に入射口があると記者会見で語っている。前から撃たれたということだ。

 その後、ペリーにベセズダ海軍病院から電話が執拗にかかり、記者会見での発言を撤回するように求められたという。これは同病院で手術や回復のための病室を統括していた看護師、オードリー・ベルの証言。ペリー本人から23日に聞いたというが、数カ月後にそのペリーは記者会見での発言を取り消し、喉の傷は出射口だとする。ウォーレン委員会でもそのように証言した。(Peter Janney, “Mary’s Mosaic,” Skyborse, 2013)

 大統領の死体は法律を無視してパークランド記念病院から強引に運び出され、検死解剖はワシントンDCのベセズダ海軍病院で行われた。担当した軍医のジェームズ・ヒュームスは検死に不慣れだったとも言われている。

 ケネディ大統領の暗殺を調査するため、リンドン・ジョンソン新大統領は1963年11月29日に「ケネディ大統領暗殺に関する大統領委員会」を設置、アール・ウォーレン最高裁長官を委員長に据えた。委員長の名前から「ウォーレン委員会」と呼ばれることが多い。

 委員会のメンバーはウォーレンのほか、リチャード・ラッセル上院議員(当時、以下同じ)、ジョン・クーバー上院議員、ヘイル・ボッグス下院議員、ジェラルド・フォード下院議員、アレン・ダレス元CIA長官、ジョン・マックロイ元世界銀行総裁がいた。そして主席法律顧問はリー・ランキンだ。

 ダレスはウォール街の大物弁護士で、大戦中からOSSの幹部として破壊活動を指揮、戦後CIA長官になるが、ケネディ大統領に解任させられている。マックロイはウォール街の大物で、大戦の後に世界銀行の総裁を経てドイツの高等弁務官としてナチスの大物たちを守った。フォードはJ・エドガー・フーバーFBI長官に近く、ランキンはCIAとFBIにつながっている。ダレスは委員会の中で唯一の専従だった。(David Talbot, “The Devil’s Chessboard,” HarperCollins, 2015)

 この委員会にはCIAやFBIから情報が提供されたが、1964年1月にはCIAとの連絡係としてジェームズ・アングルトンが任命された。FBIはウィリアム・サリバンが担当している。(Michael Holzman, “James Jesus Angleton,” University of Massachusetts Press Amherst, 2008)

 ウォーレン委員会が暗殺に関する報告書と出した3週間後の1964年10月12日、ケネディ大統領と親密な関係にあったマリー・ピンチョット・メイヤーが散歩中に射殺された。銃弾の1発目は後頭部、2発目は心臓へ至近距離から撃ち込まれている。プロの仕業だ。

 ケネディ大統領が暗殺された直後、マリーは友人でハーバード大学で心理学の講師をしていたティモシー・リアリーに電話し、泣きじゃくりながら「彼らは彼をもはやコントロールできなくなっていた。彼はあまりにも早く変貌を遂げていた。・・・彼らは全てを隠してしまった。」と語ったという。(Timothy F. Leary, “Flashbacks,” Tarcher, 1983)

 ウォーレン委員会の結論はリー・ハーベイ・オズワルドの単独犯行だが、この結論をヘイル・ボッグスは口頭で批判していたという。ボッグスは1966年、委員会の腐敗した状況をジム・ギャリソンに話しているという。(Joan Mellen, “A Farewell to Justice,” Potomac Books, 2007)このボッグスを乗せたセスナ310は1972年10月16日、アラスカで行方不明になった。

 ケネディ暗殺の際、CIA、シークレット・サービス、警察などに不可解な動きがあり、複数の狙撃者がいたことを示す証拠や証言が次々と明らかになる。それに対抗し、単独犯説を主張する勢力は「陰謀論」という呪文を考えつき、連呼するようになった。

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20. 中川隆[-10984] koaQ7Jey 2024年4月06日 09:45:48 : wWqu6Bp3uA : eWlzUkxaMVNZTlU=[2] 報告
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3度も離婚したマリリン·モンロー。 夫のみぞ知る秘密
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マリリン・モンロー(1926年6月1日 - 1962年8月5日)

Marilyn Monroe - Bing images
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動画
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有名女優マリリンモンローヴィンテージヌード編集ビデオ
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ヘンリー・ハサウェイ『ナイアガラ』(Niagara)1953年
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ハワード・ホークス『紳士は金髪がお好き』(Gentlemen Prefer Blondes)1953年
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オットー・プレミンジャー『帰らざる河』(River of No Return)1954年
https://www.bing.com/videos/search?q=River+of+No+Return++1954&FORM=HDRSC3

ビリー・ワイルダー『七年目の浮気』(The Seven Year Itch)1955年
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ビリー・ワイルダー『お熱いのがお好き』(Some Like It Hot)1959年
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ジョン・ヒューストン『荒馬と女』(The Misfits)1961年
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21. 中川隆[-10983] koaQ7Jey 2024年4月06日 09:50:07 : wWqu6Bp3uA : eWlzUkxaMVNZTlU=[3] 報告
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ケネディを撃ったのは、運転手とグラシノールの丘の狙撃手です。

つまり、実行犯として逮捕されたオズワルドは、一切関係なかったというわけです。

この事件は、初めから計画されていたシナリオどおりの暗殺でした。

それにしても、ケネディは、なぜ暗殺されたのでしょうか?

理由の一つは、前にも述べましたが、人種差別問題、CIAとの確執、麻薬とマフィアの撲滅、軍需産業の縮小、ベトナム戦争撤退など、彼の政策は、シークレットガバメントに逆らう行為だったからです。

また、他にも彼は米政府を支配するシークレットガバメントから、自由を取り戻そうとしたり、

連中が支配している貨幣発行権を取り戻したり、

さらには、パレードの日に、シークレットガバメントの存在を、国民の前で発表しようとしていたのです。

だから、邪魔者とされ、この世から消されたのです。

ケネディは暗殺される前に、シークレットガバメントの存在を、彼の愛人だった「マリリン・モンロー」に話しています。

それを聞いたマリリン・モンローは、知人のジャーナリストに、そのことを電話で喋ってしまいました。

電話の内容は、CIAが盗聴。

マリリン・モンローもまた、邪魔者として暗殺されたというわけです。

〈マリリン・モンロー〉


ケネディが暗殺され、マリリンモンローが暗殺され、これだけでは終わりませんでした。

実はケネディの次男も殺され、

三男は車で秘書と共に海に転落させられ、秘書が死亡・・・

以後、その恐怖で三男は政界から去ってます。

マイケル・ジャクソン、ジョン・レノン、ダイアナ妃、尾崎豊、中川昭一などは、
ケネディ同様にシークレットガバメントの命令で何者かによって暗殺された人たちです。

ファシズム国家である米国では、政府に反対する発言や行為は非常に危険で、それは警察や軍も敵に回すことになるのです。

ケネディ暗殺後、当時の副大統領だった「リンドン・ジョンソン」が中心となり、
ケネディ暗殺に関する資料や証拠物件をまとめた「ウォーレン報告書」という調査報告書が存在します。

この報告書には、事件の詳細を2万ページにも及んで記載しています。

が、その内容は未だ明らかにされていません。

〈ウォーレン報告書〉


副大統領だったリンドン・ジョンソンが、ケネディの後、大統領に就任しました。

ジョンソンは、フリーメイソンのメンバーでした。

シークレットガバメントは、彼が大統領に就任すれば、米国をコントロールするのに好都合だったのです。

だから彼をケネディの後の大統領に据えたのです。
http://sekainoura.net/oworen.html


マリリンを殺した4人の男たち
1960年代アメリカ暗殺史の系譜と符号

「1962年6月、モンローの女優としての評判は下降線を辿っていた。モンローはCIAと組織の陰謀を知っていた上、著しく精神の安定を欠いていた。7月にはボビー(ロバート・ケネディ)との関係も切れ『何もかもばらす』と脅しをかけるようになった。

彼女の電話を盗聴し逐一監視していたCIAは、復讐にかられた麻薬中毒のモンローに全てを暴露されることを恐れ、ムーニー(サム・ジアンカーナ)に彼女の始末を依頼した。

 1963年8月5日、殺し屋たちは暗くなるのを待って、午前零時前に自宅に侵入した。すでに彼女はボビーの医師が鎮静剤を打っていたおかげで、ぐったりしていた。

彼らはマリリンを裸にすると、口をテープで封じ、医師が特別に処方したペントバルビタールの座薬を注入した。

口から致死量の睡眠薬を服用させれば嘔吐しかねないが、座薬は肛門膜組織から直接血管に吸収され、胃から検出されるものは何も無い。彼らは彼女が完全に意識を失ったのを確認すると、テープをはがしマリリンの口元をきれいに拭いて、そして静かに消えて行った」
---「DOUBLE CROSS」by Sam Giancana and Chuck Giancana P370-373より抜粋


 モンローの死因を扱ったテレビ番組はこれまで何度か放映されてきたが、その決定的な真相に迫るものは何一つなかった。せいぜい死亡当日にボビーが彼女と言い争いをしていた程度に留まるもので、ためにボビー犯人説を示唆するという、無責任なものであった。

確かにボビーはモンローと会ってはいたが、司法長官という立場上からも暗殺までするとは考えられない。そのことを最も熟知し、徹底して利用したのがCIAだった。しかもCIAはFBIを使ってボビーが訪れた痕跡すら消して、その後の司法長官としてのボビーに圧力をかけるようになる。つまり恩を売ったわけだ。

しばらくは大人しくしていたボビーも、その潔癖な正義感から再び不正に挑むようになる。激怒した彼らは大統領でもあった兄を公開処刑してボビーに警鐘を鳴らす。自分たちに逆らう者はこうなるのだと・・・だが、ボビーはかえってそれを契機に発奮すると大統領選にうって出る。これこそが彼らが最も恐れていたことであった。再び闇の政府が始動する。その結果が1968年6月6日だった。
http://oriharu.net/gabana_n/zaakan/hibi0506/hibi-niisi-050607.htm


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マリリン・モンローから19歳のインターンまで、ケネディが流した浮名
2013年11月18日 13:45 発信地:ワシントンD.C./米国
http://www.afpbb.com/articles/-/3003473


【11月18日 AFP】ジョン・F・ケネディ(John F. Kennedy)大統領は多くの魅力的な女性に囲まれていた。妻のジャクリーン(ジャッキー、Jacqueline Kennedy)はもちろん、大統領就任を後押しした母親のローズ。それから映画スターに、ホワイトハウスで働く10代のインターン、マフィアと関係のある女性……。

 50年前に暗殺されたケネディが、多くの女性たちと複雑な関係にあったことに疑いの余地はない。

 彼がこうした女性たちを、大統領に上りつめ権力を維持するうえで助けになる人物として大切にしてきたのか。あるいは自分の旺盛な性欲を満たすために、彼女たちをもて遊んだだけなのだろうか。

「ケースバイケースだ」と言うのは、10月に『The Kennedy Half-Century: The Presidency, Assassination and Lasting Legacy of John F. Kennedy(ケネディ半世紀)』を上梓し、ベストセラー作家となったラリー・サバト(Larry Sabato)氏だ。

「JFKは、力や影響力のある人々に対しては上品で礼儀正しく振る舞った。だが彼の性欲は飽くことがなかった。今日で言うなら、彼は若く美しい女性を性の対象として扱っていたのだ」と、バージニア大学(University of Virginia)政治学センターのセンター長も務めるサバト氏はAFPに語った。

 ケネディの人生の中心にいたのは、妻のジャッキーだ。旧姓ジャクリーン・ブーヴィエ(Jacqueline Bouvier)は1929年7月、裕福な家庭に生まれた。彼女の洗練されたファッションスタイルには、世界中が注目した。

 ケネディがテキサス(Texas)州ダラス(Dallas)で暗殺されたとき、ジャッキーはあのオープンカーで彼の隣に座っていた。その後の数時間、彼女が夫の血が飛び散ったシャネルのピンクのスーツを着替えることを拒んだのは有名な話だ。「犯人たちがジャックに何をしたのか見せてやりたい」と、彼女は言った。

 ケネディ家は現代アメリカの恵まれた家庭を象徴するイメージを世間に与え続けたが、大統領のプライベートは愛人に囲まれた生活だった。

 最も有名なのは女優のマリリン・モンロー(Marilyn Monroe)だ。ハリウッドのセックスシンボルは、1962年の民主党の資金集めパーティーで、色気たっぷりに「ハッピーバースデー」を歌った。誕生日を祝ってもらったケネディは喜びを隠さなかった。

 今年8月に出版された『These Precious Few Days: The Final Year of Jack with Jackie(貴重な数日間:ジャックとジャッキーの最後の年)』の著者でジャーナリストのクリストファー・アンダーソン(Christopher Andersen)氏によれば、ジャッキーは2人の関係を知っていただけではなく、モンローに夫を譲ってあげると告げたという。

「あなたがホワイトハウスに入って、ファーストレディーとしての責務を負って、すべての問題を抱えればいいのよ」と、ジャッキーはモンローに語ったといわれる。モンローは1962年8月、薬物の過剰投与で亡くなった。

 ジャッキーの言う「問題」には、ジュディス・キャンベル・エクスナー(Judith Campbell Exner)のことも含まれていたかもしれない。彼女がケネディと2年間、熱い関係にあったことは、歴史家たちも認めるところだ。

 ホワイトハウスのインターンだったミミ・ビアーズリー(Mimi Beardsley)の場合は、ケネディに言い寄られたときはまだ19歳だった。彼女が言うには、男性と性的関係を持ったのはケネディが最初で、初めてのセックスはケネディ夫妻の寝室だった。その後、2人は大統領のバスタブでアヒルのおもちゃで遊ぶほど親しくなる。2人の関係は1年半続いた。

「後悔していない。私は若かったし、誘惑された。その事実は変えられない」と、彼女は2012年に出した回顧録で記している。

 ケネディがいったい何人のバイシュン婦を雇ったのかは誰にもわからない。だが護衛たちが、ソ連との核戦争前夜ともいわれた時代に、スパイ行為や脅迫を恐れるに足る人数だったことは確かだ。

「彼はときに、少し問題がある女性をそばに置こうとする傾向があった」と、ケネディの護衛を務めていたアンソニー・シャーマン(Anthony Sherman)氏は1997年にABCテレビのドキュメンタリー番組で語っている。素性が怪しい女性たちだ。

 サバト氏も、「JFKは大統領職と家族を何度も危機にさらした。外国の諜報機関が彼の問題行動について何らかの情報を得ていたのは、ほぼ確実だ」と語っている。

 母親のローズ・ケネディ(Rose Kennedy)が息子の女遊びを知っていたのは間違いない。彼女もジャッキーと同じく、夫の数々の浮気に耐えた女性だ。実業家で大使も務めたケネディの父親ジョセフ(Joseph Kennedy)は、1920年代に当時の映画スター、グロリア・スワンソン(Gloria Swanson)と3年間、愛人関係にあった。それは、まるで40年後のケネディとモンローを予兆させるような関係だった。(c)AFP/Robert MACPHERSON


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モンローの肉体を嘗めたユダヤ人 / ハリウッドに張られた蜘蛛の糸 (後編)
ゴイム(異教徒)を妻にするユダヤ人
http://kurokiyorikage.doorblog.jp/archives/68580296.html


マリリン・モンロー
http://livedoor.blogimg.jp/kurokihelion/imgs/5/b/5b3787c8.jpg
http://livedoor.blogimg.jp/kurokihelion/imgs/1/d/1d4d7383.jpg


テレビ東京が2013年頃、朝の時間帯に昔懐かしい「奥様は魔女(Bewitched)」を再放送していた。綺麗なカラー映像に修正されたコメディー番組を観た方も多いんじゃないか。

このアメリカ・ドラマは元々、昭和40年代に放送されたシットコム・コメディーで、主役のサマンサを演じたエリザベス・モンゴメリー(Elizabeth V. Montgomery)とダーリン役を演じたディック・ヨーク(Dick York)は今でも有名だ。義母のエンドラを演じたアグネス・モアヘッド(Agnes Moorehead)も意地悪の魔女が板に付いていて、とても印象に残る女優であった。米国にはこういった雰囲気を醸し出す、憎いくらい上手な演技をする脇役がいるからすごい。人気ドラマ「ダイナスティー」のジョアン・コリンズ(Joan Collins)みたいな実力派がいるから、ややもすると緩みがちな連続ドラマが引き締まる。

ちなみに、今回「奥様は魔女」を調べてみたら、日本版も制作されていたそうで、人気女優の米倉涼子がサマンサ役を演じていたそうだ。知らなかった。まさか日本人バージョンがあったなんて。観てないから何とも言えないが、おそらく駄作なんじゃないか。日本人がアメリカドラマを模倣して成功した例は少ないだろう。

ドラマじゃないけど、以前に野口五郎がサンタナのヒット曲「スムーズ(Smooth)」を拝借し、「恋はメラメラ」という題にして唄っていた。サンタナのオリジナル版では、人気歌手のロブ・トーマス(Rob Thomas)を起用して素晴らしい出来だったが、野口五郎の方は一度聴けば恥ずかしくて耳を塞ぎたくなるほどの代物である。元曲をあれほど無惨にしたカヴァー曲も珍しい。


  脇道に逸れたから話を戻すと、ドラマの中で美人妻を演じたエリザベス・モンゴメリーは、何とプロデューサーのウィリアム・アッシャー(William Asher)と結婚していたのだ。

彼はユダヤ人の父親とカトリック信徒の母親を持つユダヤ系アメリカ人だが、ユダヤ人支配のハリウッドでは一般的にユダヤ人制作者と見なされていた。

我々とってショックなのは、貞淑な妻を演じていたエリザベスが、私生活では同性愛者や妊娠中絶を支持する筋金入りの左翼活動家であったことだ。確かに、「奥様は魔女」の中にも人種差別を取り上げたエピソードがあって、黒人を対等に扱うサマンサの姿があった。今から思えば、1960年代後半から1970年代にかけて放送されていた番組だから、リベラル色が強くてもしょうがないと考えられるが、「奥様は左翼だった」じゃ笑えない。

それにしても、売れっ子女優がユダヤ人プロデューサーと結婚するなんて、いかにもハリウッドらしい現象である。もし、彼女が一般人女性のままだったら、ユダヤ人と結婚せずに普通の白人男性と結婚していたんじゃないか。

こんな異人種間結婚を見ているから、ユダヤ人に警戒心を抱く西歐系白人や、藝能界に入りたがる娘を叱る親がいるのだろう。仔羊を狼の群れに解き放つようなものだから、まともな親が反対するのも無理はない。それに、生まれてくる孫がユダヤ人の血統なんて考えただけでも恐ろしい。


左: エリザベス・モンゴメリー
http://livedoor.blogimg.jp/kurokihelion/imgs/c/a/ca119a9f.jpg

中央: ウィリアム・アッシャー
http://livedoor.blogimg.jp/kurokihelion/imgs/d/7/d7e46652.jpg

右: 「奥様は魔女」
http://livedoor.blogimg.jp/kurokihelion/imgs/6/0/603cc28b.jpg


マリリン・モンローを取り巻くユダヤ人

  ユダヤ人がうじゃうじゃいるハリウッド村は、藝能界というより匪賊や傭兵がたむろする無法地帯と考えた方が的確である。こんな蟻地獄に入って行く若者が跡を断たないんだから、エンターテイメント業界は麻薬に満ちた魔界と呼んでもいい。

米国史の中でも輝かしい1960年代、後世に名を残すこととなった人気女優マリリン・モンロー(Marilyn Monroe)も、ユダヤ人の魔の手に落ちた悲惨な一例であった。

父親は不明だが、グレイディス・パール・ベイカー(Gladys Pearl Baker)の娘として生まれた、ノーマ・ジーン・ベイカー(Norma Jean Baker)は、義父の「モンロー」姓をつけて藝能界にデビューした。

彼女はラルフ・グリーンソン(Ralph Greenson/ 本名Romeo Greenschpoon)という名うてのユダヤ人を自分の精神科医として雇っていた。このユダヤ人はモンローが自殺した時のセラピストであった。彼はマリリンの精神を安定させるために、過度な薬物治療を行っていたらしい。何かマイケル・ジャクソンに「プロポフォル(propofol)」を過剰投与したコンラッド・マレー(Conrad Murray)医師を思い出してしまう。

こんな麻酔薬(鎮静薬)を個人の邸宅で与えてしまうなんて信じられないが、アメリカという異常な国では非常識が罷り通る。たぶん、グリーンソンも自信満々の医師で、どんどん睡眠導入剤や鎮静剤をマリリンに与えていたのだろう。彼女の友人が証言していたが、マリリンはグリーンソンに会えば会うほど衰弱していったそうだ。


  マリリンの周りには矢鱈とユダヤ人が多かった。グリーンソンの妹エリザベスは、ユダヤ人ミルトン・ミッキー・ラディン(Milton “Mickey ” Rudin)と結婚しており、そのラディンは有力な人脈を持ち、エンターテイメント業界で活躍する法律家であった。そして、彼はマリリンの顧問弁護士も務めていたのである。彼女と昵懇の出版業者アーサー・ジェイコブズ(Arthur Jacobs)や、娯楽企業のMCAで彼女のエージェントを務めるジェイ・カンター(Jay Kantor)とモート・ヴィナー(Mort Viner)もユダヤ人だった。

出演作でもユダヤ人監督に重宝されており、「七年目の浮気」や「お熱いのがお好き」ではビリー・ワイルダー(Billy Wilder)が監督だったことは有名だ。「恋をしましょう」だとジョージ・クコー(George Cukor)が監督で、「帰らざる河」ではオットー・プレミンジャー(Otto Preminger)が総指揮を執っていた。マリリンの個人マネージャーのナターシャ・ライテス(Natasha Lytess)もユダヤ人で、いつも一緒にいたから、二人はレズビアンの関係か、と疑われるくらいだった。また、ユダヤ人写真家のミルトン・グリーン(Milton Greene)も、マリリンのマネージャーになって親しく付き合っていたから、彼女との仲を噂にする者もいたという。


  バイシュンの伝統が根強い韓国では、体で仕事を取る藝能人が多いそうで、悲惨な運命を辿った女性も少なくない。

我が国の藝能界でも所謂「枕営業」があるそうで、さほど人気のない女性藝人は、演技力や歌唱力よりも、有力制作者とか大御所に体を提供して、望む仕事を獲得するらしい。

マリリン・モンローも名声と幸運を摑むために、誰彼となくベッドを共にしたという。

ユダヤ人が跋扈(ばっこ)するハリウッドだから、マリリンが「春」を売った相手も当然ユダヤ人だった。ユダヤ人のテッド・ジョーダンによると、マリリンはキャリアを進展させる為なら誰とでも寝たそうだ。

(Ted Jordan, Norma Jean: My Secret Life with Marilyn Monroe, William Morris & Co., New York, 1989, p.121)

また、アンソニー・サマーズ(Anthony Summers)によれば、彼女がフォックス社と最初のコンタクトを持った時、そのキーパーソンはベン・リヨン(Ben Lyon)で、彼もマリリンと性的関係を持っていたらしい。シェイラ・グラハム(Sheila Graham)も、マリリンが未来のキャリアの為にリヨンと寝たことを述べている。

マリリンの肉体を堪能したリヨンは、キャスティング・ディレクターのソル・ウルツェル(Sol Wurtzel)を呼びつけ、「デインジャラス・イヤーズ」という1947の映画で使ってやれと命じ、マリリンはちょっとした脇役を与えられたという。何とも生々しい裏話だが、藝能界って多かれ少なかれ、こんな横槍が入ってくる。

大物プロデューサーがいきなり素人の小娘をドラマに押し込んだり、ニュース番組の「お天気お姉さん」に任命したり、とやりたい放題の横暴をはたらく。周りのスタッフは大迷惑だけど、有力者に睨まれたら自分の出世が危なくなるから、長いものに巻かれてしまうのだ。

視聴者だって、あまり人気のない女優がどこからともなく新ドラマに抜擢されるから、「どうしてこんな女優が、いきなり重要キャストに抜擢されたんだ?」と訝(いぶか)しく思うだろう。でも、「大人の事情」が絡んでいるから仕方がない。


中央: ナターシャ・ライテスとマリリン・モンロー
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  「美女と野獣」という映画があったけど、美女のマリリンに群がる野獣は本当に多かった。

被服業界の大御所たるヘンリー・ローゼンフェルド(Henry Rosenfeld)も、白くて美しい肌を嘗(な)めた薄汚いユダヤ人の一人だった。彼はアトランティック・シティーにある自宅にマリリンを招き、自分のスピード・ボートに乗せて、甘い一晩を過ごしたそうだ。

マリリンは映画業界で顔が利く、悪名高いユダヤ人ギャングのバグジー・シーゲル(Bugsy Siegel)とも寝ていたらしい。彼の伝記は映画化されたので、このシーゲルについて知っている日本人もたくさんいるんじゃないか。日本もそうだが、藝能界と暴力団は裏で繋がっているから、堅気の人間が毛嫌いするのも分かる気がする。


マリリンのセックス・ライフは10代の頃から既に始まっており、17歳の時にはテッド・ジョーダン(Ted Jordan / 本名 Edward Friedman)と交際していて、彼は後に『ノーマ・ジーン』という本を書いて、マリリンとの性生活を暴露していた。

このジョーダンにはテッド・ルイス(Ted Lewis / 本名 Theodore Leopold Friedman)というミュージシャンの叔父がいて、マリリンはこのルイスとも寝ていたというのだ。彼女が麻薬を覚えたのは、このルイスからであった。本当に腐った奴らである。

  後に有名女優となる野心家のノーマ・ジーンは、のし上がるためには何でもすると心に決めており、ジョーダンにも、誰とでもセックスをするし、その心構えもできている、と語っていたそうだ。

そこで有言実行のマリリンは、著名なゴシップ・コラムニストで、ユダヤ人のウォルター・ウィンチェル(Walter Winchell)と寝たらしい。しかし、一介のコラムニストと性交したくらいでは、ハリウッドで大女優にはなれない。

まだ無名のマリリンはコロンビア・ピクチャーズのハリー・コーン(Harry Cohn)社長に近づいた。「またユダヤ人か !」とウンザリするが、映画会社の社長や重役にはユダヤ人が多いからしょうがない。

このユダヤ人社長はマリリンを自分のヨットに乗せ、夜のクルージングに誘ったそうだ。美しい獲物を捕まえたコーンは、マリリンに向かって服を脱げ、と命じたという。彼女は言わるままに服をぬぎ始めた。すると、あろうことか、この助平ユダヤ人は、自分のペニスを握りながら彼女に近寄ってきたのだ。

大抵の女性なら、「えっぇぇ!! 何 ! 嫌だ!!!」と真っ青になって叫ぶだろう。マリリンも同じで、彼女はコーンを拒絶したそうだ。そりゃそうだろう。こんな変態ユダヤ人とセックスするなんて、どこか精神が異常じゃないとできない。

マリリンに肘鉄を食らったコーンは、とても激怒したそうで、マリリンは「あんなに怒った人を見たことがない」、と語っていたそうだ。

(Ted Jordan, Norma Jean : My Secret Life with Marilyn Monroe, William Morris & Co., New York, 1989, p.91)


左: マリリン
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  自分のペニスを握って近寄ってくるユダヤ人なんて、想像しただけでも背筋に戦慄が走る。いくら出世のためとはいえ、マリリンの眼に映る発情したコーンの姿は、余りにも酷かったのだろう。若い娘なら当然である。

しかし、権力者を怒らせたマリリンは、コーンからの報復を受けた。彼女はコロンビアの撮影所に出入りすることを禁じられたそうである。かつて、マリリンは藝能界の実情を語っていた。

  プロデューサーが女優に台本に関して話があるからオフィスに来いという時があるでしょう。でもね、それは台本の打ち合わせじゃないのよ。・・・私はプロデューサーたちと寝たわ。もし、寝ていないと言ったら嘘になるもの。

  1955年に20世紀フォックス社と大きな契約を結んだ時、彼女はようやく不動の地位を手にした女優になれた。そして、マリリンはこう呟いたという。

「私はもう二度と、あいつ等のペニスをしゃぶらないわ」、と。

マリリンは年を重ねる毎に反ユダヤ的感情が募ったようで、大御所のジョー・シェンク(Joe Schenck)のことを「あの糞ユダ公(that Jew shit)」と呼んでいたらしい。他のハリウッド・ユダヤ人に対しても、「あのユダ公 ! とか、このユダ公 !」と罵っていたようだ。しかし、彼女は後にユダヤ教に改宗するが、この反ユダヤ感情は妨げにならなかったらしい。やはり、女優の頭はどこか普通と違うのだろう。


中央と右: マリリン・モンロー
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  マリリンは性的に弄ばれていたが、政治的にも利用されていたようだ。精神科医のラルフ・グリーンソンは、彼女の指導者みたいな身分になっていたが、彼には別の顔があった。このユダヤ人は積極的な共産党員で、コミンテルンにも係わっていたという。そして、彼の妹エリザベスの証言によれば、兄のラルフは熱心なシオニストで、イスラエルとの太いパイプを持っていたそうだ。

まったく、ユダヤ人のコミュニストって本当に多いんだから嫌になる。かつて、ハリウッドの共産主義者をあぶり出す「赤狩り」が行われたけど、真っ赤なユダヤ人の映画監督や脚本家、プロデューサーなどが至る所にいたから、保守派のアメリカ人が怪しんだのも当然である。

よく知られているのは、左派が多数を占めるユダヤ人に対するチャールズ・リンドバーグ(Charles Lindbergh)の警告である。この「アメリカ第一主義」を掲げる大空の英雄はこう述べた。

  ユダヤ人は我が国にとって最大の脅威である。彼らは我々の映画界、出版界、ラジオ局で広範囲な所有権を持ち、我々の政府において絶大な影響力を行使しているのだ。
(Harold Brackman, The Attack on “Jewish Hollywood”: A Chapter in the History of Modern American Anti-Semitism, Modern Judaism, Vol. 20 , 2000,p.5.)

  ユダヤ人の害悪については、リンドバーグのみならず、他の議員も警戒心を強めていた。例えば、ミュズーリ州選出のジョン・ランキン(John Rankin)下院議員は、ユダヤ人が合衆国政府の転覆を狙った最大の陰謀の一つに責任がある、までと述べていたのである。また、彼は大胆さを以て、米国においてユダヤ人は反政府活動の温床である、と喝破していたのだ。 現在の政治家なら絶対に口に出来ぬ発言である。しかし、当時のアメリカには、まだ言論の自由が残されていた。保守派のアメリカ人が1950年代を懐かしんだのも理解できよう。

ついでに言えば、マリリンと結婚した三番目の夫アーサー・ミラー(Arthur Miller)は、ユダヤ人の劇作家であったが、これまたハリウッドのユダヤ人らしく極左活動家で、黒人に対する人種差別に反対し、労働活動にも熱心に係わっていた人物である。彼も真っ赤なユダヤ人仲間を持っていたので、反共の闘士ジョセフ・マッカーシー(Joseph McCarthy)議員に目を附けられていた。彼は下院の反アメリカ活動調査委員会に召喚されたことがあるが、仲間を裏切ることを拒否し、断じて口を割らなかったという。ユダヤ人にとったら、愛国心よりも同胞愛の方が大切だからねぇ。


  マリリンがセックスした中で最も権力を持っていた男と言えば、やはりジョン・F・ケネディー大統領だろう。

大統領と姦通したマリリンがもたらす寝物語は、グリーソソンにとって貴重な情報源となったはずだ。いくら大統領とはいえ、惚れた女とベッドを共にすれば、何てことはない雑談の中で、国家機密に繋がる重要な情報を漏らすことだってあり得る。当時は冷戦真っ只中。合衆国大統領がどんな考えなのかを直に知る絶好の機会だ。

特に、コミュニストのグリーンソンは、ソ連やキューバに対する外交方針や、イスラエルに関する大統領の考えを知りたかったはず。だから、セラピストのグリーンソンに何でも打ち明ける、警戒心が全く無いマリリンは「便利な馬鹿(useful idiot)」だった。

  大女優になっても精神的に不安を抱えるマリリンは、何でも医者に頼る癖がついていたという。当時のハリウッドでは、リー・シュトラスバーグ(Lee Strasberg)という精神分析医が非常に持て囃されていた。大物俳優といえども、人には言えぬ悩みを抱えているだろうから、誰かしら相談役になる人が必要だったのであろう。だから、こうした弱点を持つ有名人を食い物にするセラピストがいたのも当然で、こうした悪徳医は患者にとっての「神」を演じていたのである。

自分の判断一つで大女優や二枚目男優を操ることができたから嬉しくてたまらない。名優のマーロン・ブランドーには、ベラ・ミッテルマンという精神科医がついていたが、ブランドーはシュトラスバーグについても述べていた。ブランドーの評価では、シュトラスバーグは俳優が集まるスタジオに来る人々を餌食にする冷血漢であったという。しかも、相当な野心家で自分勝手ときている。

彼は自分自身を、まるで神託を告げる司祭か、新興宗教の教祖のように思っていたらしい。彼にたぶらかされた人々は、シュトラスバーグをラビ(ユダヤ教の教師)の如く崇めていたという。ところが、マリリンはこんな類いの精神科医に傾いていたのだ。

日本でもよく藝人が、怪しい霊媒師とか占い師に嵌まることがあるけど、アメリカでも似たような事が多い。マリリンはフロイトの精神分析にも興味を示したそうで、彼女は実際フロイドの娘アンナ・フロイトにロンドンで会っていた。彼女の診断でも、マリリンは相当精神を病んでいたらしい。


左: マーロン・ブランドー
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右: マリリン
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  精神的に不安定なマリリンだったから、薬の過剰摂取で死亡したのだろう。だが、彼女はある意味、主治医のハイマン・エンゲルバーグ(Hyman Engelberg)とセラピストのラルフ・グリーソンに殺されたようなものだ。グリーンソンは助手に鎮静剤の投与を指示していたのだ。しかし、投与されたバルビツール酸系薬が多すぎたため、マリリンは副作用を起こして心不全となり、若くしてこの世を去ることになった。助手からの報告を受けたグリーンソンが、彼女の部屋に駆けつけた時には、既にマリリンは死亡していたという。

後に、色々な陰謀説が囁かれたが、実際は薬物中毒による死亡である。それにしても、哀れな最期だ。おぞましい枕営業を経て、大女優への道を駆け上ったのに、その栄光を味わう精神が衰弱していたのとは。

華やかな藝能生活を送っていた人気女優が、裏では薬漬けの日々を送っていたのだ。何の苦労だったのか分からなくなる。


右: マリリンとジョー・ディマジオ
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  何はともあれ、マリリンの人生には色々な男がいた。映画界の大物やマフィアのギャングと寝ていたかと思えば、野球選手のジョー・ディマジオと再婚したり、はたまたフランク・シナトラと浮き名を流したり、と寄り添う男の幅が広い。

中でも、ジョン・F・ケネディーとロバート・ケネディーとのダブル不倫は有名だ。

英雄は色を好むと言うが、このケネディー兄弟は異常である。
世間はハーバード大卒の爽やかな紳士と評するが、一皮剝けば下半身がだらしないアイリス系移民の倅(せがれ)たちである。兄が肉体関係を結んだ女に、弟も手をつけるなんて、恥知らずというか変態に近い。

一方、マリリンにも倫理観がこれっぽっちも無かった。女房や子供を持つ男と姦通しても平気なんだから。これではユダヤ人たちがマリリンのことを「シクサ(Shiksa)」、則ち「穢れたケダモノ」と呼んでも致し方ないじゃないか。

マリリンからすれば、男を踏み台にして出世したつもりだろうが、セックス相手からすれば、精液を噴射できる共同便所に過ぎない。

ただ、ユダヤ人に蔑まれながらも、ユダヤ人のアーサー・ミラーが結婚してくれたんだから、これだけでも彼女にとって救いになる。たぶん、ミラーは本気で彼女のことを愛していたのだろう。

ただし、ミラーがマリリンのことを「トロフィー・ワイフ」と見なしていたら残念だ。仮に、そうであっても仕方がない面もある。冴えない容姿のユダヤ人作家が、世間が持て囃す金髪美女を手に入れたのだ。親戚や友人に自慢したくなるのも無理はない。三番目の旦那なんだから、マリリンだって贅沢な要求はできないだろう。


凌辱される同胞の女性

  マリリン・モンローが送った波瀾万丈の人生は、多くの事を我々に教えてくれる。

まづ、藝能界はヤクザの世界、ということだ。堅気の娘が足を踏み入れる職場ではない。

ハリウッドは賤しいユダヤ移民が築き上げた悖徳の帝國で、当初はアメリカ白人に媚びて映画界の社会的イメージを向上させたが、一旦巨大な帝國が出来上がれば、そこに飛び込んでくる白人娘を娼婦と見なした。

憧れのハリウッドに旅立つ女優の卵は、狼の群れに迷い込むひよこと同じだ。
映画での配役を獲得すべく、ユダヤ人達に“輪姦”されても、必要経費としか考えない。娘の藝能界入りを許した両親は、娘が裏で凌辱されている事に気づかないんだから、まさに「知らぬが仏」だ。

日本人の親も充分認識すべき現実である。娘がモデルとかアイドル、女優になりたいと言い出し、それを許すなら、可愛い娘を穢らわしいヤクザや下劣な朝鮮人どもへ「生け贄」として差し出した、と諦めるべきだ。


左: 桃井かおり
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右: 「エロスの甘き香り」
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  ちょっと痛ましい話になるけど、女優の桃井かおりには国際政治学者の桃井眞(ももい・まこと)がいた。1991年に起きた湾岸戦争の時、報道番組に出演していたのを覚えている方もいるだろう。桃井かおりは少女時代、英国にバレー留学していたことがあり、どうも可愛い孫娘が立派なバレリーナになるようと、バレリーナの祖母が望んだらしかった。父親の真は娘をたいそう可愛がったようで、まさしく箱入り娘として育てたらしい。しかし、白人ばかりのバレー教室に通っていたかおりは、黄色いアジア人ということで劣等感を抱き、バレリーナになる夢を断念する。

帰国したかおりは演劇を始め、親に内緒で女優になっていた。一時は勘当されたこともあったそうだ。父親が女優業に反対したのも当然であろう。とりわけ、出演した映画の中にエロ作品があったからもう大変。映画ファンならロマン・ポルノ作品の「エロスは甘き香り」や、70年代らしい「けだるさ」を表現した「もう頬づえはつかない」をご存知だろう。

大切に育てた娘が、見知らぬ男と裸でからむベッドシーンを見て、父親の桃井眞はどんな気持ちだったのか? もしかしたら、劇場へは行っていないのかも。そもそも、娘の裸を銀幕で見たいと思う父親はいないだろう。だって、相手の男優が娘の肌を嘗めたり、乳房を揉んでいるんだぞ。怒りと悲しみで胸が張り裂けてもおかしくはない。映画を観る以前に、涙がこぼれてくるじゃないか。


右: 「もう頬づえはつかない」の桃井かおり
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  若い娘を凌辱するユダヤ人はトンデモないが、それを平然と行うユダヤ人の心情とは如何なるものなのか?

一番考えられるのは、欲望剝き出しの世俗主義者という点だ。
純情な白人娘を裸にすれば、大金が儲かるからドンドン淫乱な映画を作るのは分かる。だが、その根底には、西歐社会への憎悪が漲っているのだろう。

ユダヤ人にしてみたら、アメリカ社会は西歐白人が作ったもので、彼らの祖先が築いたものではない。米国は散々ユダヤ人をイジメてきた西歐人が建てた国家であるから、彼らの倫理観や価値観、伝統文化をを守る必要性はどこにも無いのだ。

キリスト教徒が仲間の女性に求める貞操観念や立居振舞い、女性らしさ、気高さなんて、むさ苦しい生活を送ってきたユダヤ人にとって、何の意味も無いし、犬の糞みたいに踏み潰しても気にならない。むしろ、踏み潰すことに快感を覚える。

興味深いことに、ユダヤ人の監督や脚本家は、喜んでキリスト教徒の家庭を愚弄するが、ユダヤ教徒の家庭や価値観を馬鹿にすることは滅多にない。

キリスト教徒の西歐系アメリカ人であれば、「そんなに伝統的価値観を毀したいなら、まづ最初に因習的なユダヤ人社会をターゲットにしたらどうか」と提案したくなる。なぜなら、男尊女卑で人種差別の激しいユダヤ人コミュニティーには、リベラル派のユダヤ人が攻撃したくなるような材料がごまんとあるからだ。わざわざ異教徒(ゴイム)たる西歐キリスト教徒に、その矛先を向けていないで、身近な同胞のコミュニティーを批判する方が先じゃないのか。

「社会正義」をふりかざす赤いユダヤ人は、普通に黒人を「黒いケダモノ」と呼ぶユダヤ人のオバちゃんを非難しろ。


中央: ユダヤ人女性
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右: ユダヤ人男性
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  米国のユダヤ人を見れば、いかに異人種と共存することが危険であるか、が判るだろう。

現在のアメリカでは同性愛者を擁護したり、黒人を礼讃するTVドラマが着々と作られている。すでに長いこと左翼作品が日常にしっかりと組み込まれているから、一般人はもはやその異常性を不思議と感じないのだ。

日本でも藝能界やマスコミに朝鮮人や支那人が浸透し、正常な日本人の精神を歪めている。

そして、藝能界に魅せられた少女たちが、どんどん卑劣な連中に犯され、それが表面に浮き出で問題になることはない。暴露される前に握り潰されるからだ。

ヤクザ的な藝能関係者やアジア系の大物にとって、日本人娘の肉体は、どれほど侮辱しても構わない肉の塊だ。みんなで廻して凌辱すれば、「あの淫売女め !」と酒場で笑い罵ることができ、ますます酒が旨くなる。大日本帝國に支配された朝鮮人にしたら、祖国の同胞が成し遂げられなかった復讐を、個人レベルで果たしたことになるだろう。

そして、日本人の女を性的に従属させることは、被征服民にとって勝者の証となる。ユダヤ人に加え支那人、朝鮮人といったアジア人に対抗できない気弱な民族は、徹底的に打ちのめされるまで被害に気づかない。毎回言うけれど、後悔が先に立ったことはないんだぞ。
http://kurokiyorikage.doorblog.jp/archives/68580296.html

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2017.10.22
JFK暗殺に関する資料を公開する意思をトランプ大統領は示したが、重要証拠は処分済みの可能性
https://plaza.rakuten.co.jp/condor33/diary/201710210000/

1963年11月22日のジョン・F・ケネディ大統領暗殺に関する未公表の資料を10月26日までに公開する方針をドナルド・トランプ大統領は示した。1992年10月26日に発効したJFK記録法は25年のうちに公開することを求めている。

暗殺直後に設置されたウォーレン委員会はリー・ハーベイ・オズワルドの単独犯行だとしているが、この結論を信じていない人は少なくない。重要な証拠や証言が改竄、隠蔽、あるいは処分され、非論理的な説明がなされているからだ。そうした批判の声はすぐに広まり、それを押さえ込むために使われ始めた「呪文」が「謀略論」だ。支配層にとって都合の悪い事実、指摘、分析などが出てくるとこの呪文が連発される。

しかし、ケネディ大統領の公式見解に対して疑問を表明する人は後を絶たず、1991年に公開されたオリバー・ストーン監督の映画『JFK』は話題になった。この映画がJFK記録法を成立させた大きな理由だ。

この映画の主人公はニューオリンズの地方検事だったジム・ギャリソンがモデル。大統領暗殺に絡み、ギャリソンは1969年に実業家のクレイ・ショーを逮捕、起訴するが、その理由はショーが重役を務めていたパーミンデックスという会社にメスを入れたかったからだと見られている。

ウォーレン委員会が犯人だとしているオズワルドは厚木基地での任務を終えた後、カリフォルニア州のエル・トロ基地でロシア語の試験を受けて不合格になり、1959年9月に名誉除隊、イギリスを経由してフィンランドのヘルシンキにあるホテルへチェックインしているが、この間、軍用機を使ったと推測する人もいる。民間航空を利用すると、日程的に無理があるからだ。そしてフィンランドからソ連へ入る。オズワルドがヨーロッパへ渡る際のチケットを買った会社がインターナショナル・トレード・マートで、その理事にショーが含まれている。ショーはサントロ・モンディアール・コメルシアールやパーミンデックスの理事でもあった。

サントロはイタリアにおける反コミュニスト工作に協力、パーミンデックスはアルジェリアの独立に反対するフランスの軍人グループへ資金を供給していたとイタリアでは報道されている。

その軍人グループとは1961年に創設された反ド・ゴール派の秘密組織OAS(秘密軍事機構)。イタリア政府もサントロとパーミンデックスを危険な存在だと認識、1962年に国外へ追放する。両者は本部をヨハネスブルクへ移動させた。(Jim Garrison, “On The Trail Of The Assassins”, Sheridan Square Press, 1988)

パーミンデックスがスイスで設立された当時の社長兼会長、ルイス・モーティマー・ブルームフィールドはイギリスの破壊工作機関SOE(特殊作戦執行部)の出身。第2次世界大戦後、SOEは対外情報機関MI6に吸収される。MI6とSOEはアメリカの情報活動や破壊活動の師匠的な存在の機関だ。ブルームスフィールドはカナダでシオニスト運動を指導していたとも言われている。

ケネディ大統領の暗殺を調べたウォーレン委員会は委員長がアール・ウォーレン判事、そのほかのメンバーはウォール街の弁護士で大戦後には高等弁務官としてナチスの幹部を保護していたジョン・マックロイ、やはりウォール街の弁護士で大戦中から戦後にかけて破壊活動を統括、CIA長官にもなったアレン・ダレス、FBIと関係の深いジェラルド・フォードも含まれていた。暗殺直後の週末、ダレスはバージニア州にあるCIAの極秘施設、ファームに身を潜めていたという。(David Talbot, “The Devil’s Chessboard,” HarperCollins, 2015)

オズワルドの単独犯行説を支持していたのはマックロイ、ダレス、フォードの3人で、3人の議員は疑問を持っていた。そのうちのひとり、ヘイル・ボッグス下院議員はCIAと関係が深く、当初は単独犯行説を支持していたのだが、途中で見方を変えている。このボッグス議員はアラスカで飛行中、行方不明になった。

この暗殺では多くの証人や関係者が死亡しているが、そのひとりがマリー・ピンチョット・メーヤー。後にCIAの秘密工作に深く関与することになるコード・メーヤーと結婚、離婚した後にケネディ大統領と愛人関係になったことで知られている。妹はニュウーズウィークの幹部編集者だったアントワネット・ピンチョット・ブラドリーと、大学時代からの親友はアレン・ダレスの側近で破壊活動でも名前が出てくるジェームズ・アングルトンとそれぞれ結婚している。

マリーは機密情報を知りうる立場にいたのだが、ウォーレン委員会が報告書を出した3週間後の1964年10月12日に散歩中、射殺された。ハーバード大学で心理学を教えていたティモシー・リアリーによると、「彼らは彼をもはやコントロールできなくなっていた。彼はあまりにも早く変貌を遂げていた。・・・彼らは全てを隠してしまった。」とマリーは語っていたという。(Timothy F. Leary, “Flashbacks,” Tarcher, 1983)

ケネディ大統領の暗殺はシャルル・ド・ゴール暗殺未遂、マーティン・ルーサー・キング牧師やロバート・ケネディの暗殺にもつながっている可能性が高く、事実が明らかになるとひとりの暗殺に関する話では済まなくなるだろう。

当然、重要な証拠は廃棄済みで、証人も消えてしまった。マインド・コントロールを目的としたMKウルトラ、キューバへアメリカ軍が直接軍事侵攻、さらにソ連との核戦争を視野に入れていた偽旗作戦のノースウッズ、イスラエル軍がアメリカの情報収集戦リバティを攻撃して多くの死傷者を出した事件などでは証拠が廃棄されている。出てくる資料は廃棄し損なったものだけだ。ケネディ大統領暗殺も似たような状況だろうが、それでも全資料の開示は重要だ。


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ケネディ暗殺文書、全面公開せず 米情報機関が延期要請
2017年10月27日 07時56分

 【ワシントン共同】トランプ米大統領は26日、これまで非公開だった1963年のジョン・F・ケネディ大統領暗殺に関する機密文書のうち約2800件の公開を許可した。残る一部は非公開のままで、今後180日間で公開の是非を検討する。

 トランプ氏は、ケネディ暗殺関連の記録について全面公開する方針を表明していた。しかし政府当局者は中央情報局(CIA)など情報機関から公開延期の要請があり、トランプ氏が安全保障上の理由で受け入れたとしている。

22. 中川隆[-8388] koaQ7Jey 2024年11月25日 12:44:18 : EJVPzZhuvo : eTV2Rk9yUXZRMTY=[8] 報告
<■299行くらい→右の▽クリックで次のコメントにジャンプ可>
2024.11.24XML
JFK暗殺:ソ連に対する先制核攻撃を目論む勢力のクーデター
https://plaza.rakuten.co.jp/condor33/diary/202411240000/

 キューバ危機を話し合いで解決、ソ連との核戦争を回避することに成功したジョン・F・ケネディ大統領は1963年6月10日、アメリカン大学の学位授与式でソ連と平和共存する道を歩き始めると宣言した。いわゆる「平和の戦略」を打ち出したのだ。それから5カ月後の11月22日、テキサス州ダラスでケネディ大統領は暗殺された。この出来事をクーデターと考える人は少なくない。

 アメリカが軍事力で世界に押しつける「パックス・アメリカーナ(アメリカ支配による平和)」を否定することから演説は始まり、アメリカ市民は「まず内へ目を向けて、平和の可能性に対する、ソ連に対する、冷戦の経過に対する、また米国内の自由と平和に対する、自分自身の態度を検討しはじめるべき」(長谷川潔訳『英和対訳ケネディ大統領演説集』南雲堂、2007年)だと語りかけた。

 ケネディ大統領はソ連とアメリカとの間で全面戦争が起これば、いずれの国も破壊されると指摘、冷戦の段階でも「両国はともに無知と貧困と病気を克服するためにあてることができるはずの巨額のカネを、大量の兵器に投じている」と警鐘を鳴らしている。

 相手国に対して「屈辱的な退却か核戦争」を強いるのではなく、緊張の緩和を模索するべきだとしたうえで、自分たちの遠大な関心事は「全面完全軍縮」だと表明、核実験の禁止を訴え、他国がしない限りという条件付きで、アメリカは大気圏の核実験をしないと宣言している。

 第2次世界大戦後、敗戦国の日本やドイツだけでなく、戦場になったヨーロッパやロシアも疲弊していた。そうした中、アメリカは国土の大半が戦場にはならず、軍事物資の生産や金融などで大儲け、しかもドイツや日本が戦争中に略奪した財宝も手に入れていたと見られている。軍事的にも経済的にもアメリカは優位な立場にあった。

 それだけでなく、1944年7月22日にはアメリカのニュー・ハンプシャー州ブレトン・ウッズに連合国44カ国の代表が集まって会議を開いて通貨金融に関する協定を締結、戦後の国際通貨金融システムのあり方を決め、アメリカは国際通貨金融を支配できるようになる。世界を支配するための障害はソ連だけだったが、そのソ連はドイツとの戦争で疲弊していた。

 ドイツ軍は1941年6月にソ連に対する奇襲攻撃、バルバロッサ作戦を開始している。西側には約90万人だけを残し、310万人を東側へ投入するという非常識なものだが、これはアドルフ・ヒトラーの命令で実行されたという。これだけの作戦を実行するためには半年から1年は準備のために必要なはずだが、1940年9月から41年5月までの間、ドイツ軍はイギリスを空爆していた。これは陽動作戦だったと見ることもできる。

 1941年7月にドイツ軍はレニングラードを包囲、9月にはモスクワまで80キロメートルの地点に到達した。ヒトラーはソ連軍が敗北したと確信、再び立ち上がることはないと10月3日にベルリンで語っている。またウィンストン・チャーチル英首相の軍事首席補佐官でNATOの初代事務総長に就任するヘイスティングス・イスメイは3週間以内にモスクワは陥落すると推測しながら傍観していた。(Susan Butler, “Roosevelt And Stalin,” Alfred A. Knopf, 2015)

 しかし、ソ連軍の抵抗でこうした予想通りにことは進まず、ドイツ軍は1942年8月にスターリングラード市内へ突入するものの、ここでソ連軍に敗北し、1943年1月に降伏。この段階でドイツの敗北は決定的だ。

 そこでアメリカやイギリスの支配層は慌て始め、1943年1月にフランクリン・ルーズベルト米大統領とウィンストン・チャーチル英首相はフランスのシャルル・ド・ゴールらとカサブランカで会談している。この時に出てきた「無条件降伏」は戦争を長引かせ、ソ連対策を講じようとしたのだとも言われている。「ソ連勝利」の事実を隠蔽するために使われたのはハリウッド映画だ。

 その当時、アメリカでは原子爆弾の研究開発プロジェクトが進められていた。「マンハッタン計画」だが、これを主導した国はイギリスだった。1940年2月にバーミンガム大学のオットー・フリッシュとルドルフ・パイエルスのアイデアに基づいてプロジェクトが始まり、MAUD委員会なるものが設立されている。

 1943年には核兵器用のウランとプルトニウムを製造するため、テネシー州オーク・リッジに4施設が建設され、そのひとつはオーク・リッジ国立研究所へと発展した。ワシントン州に建設されたハンフォード・サイトではプルトニウムを製造するため、1944年9月にB原子炉が作られている。

 この「マンハッタン計画」を統括していたアメリカ陸軍のレスニー・グルーブス少将(当時)は1944年、同計画に参加していたポーランドの物理学者ジョセフ・ロートブラットに対し、その計画は最初からソ連との対決が意図されていると語ったという。(Daniel Ellsberg, “The Doomsday Machine,” Bloomsbury, 2017)

 ルーズベルトは1945年4月12日に急死、その翌月の上旬にドイツは降伏するが、その直後にチャーチルはソ連への奇襲攻撃を目論む。そこでJPS(合同作戦本部)に対して作戦を立案を命令し、5月22日には「アンシンカブル作戦」が提出された。

 その作戦によると、1945年7月1日にアメリカ軍64師団、イギリス連邦軍35師団、ポーランド軍4師団、そしてドイツ軍10師団で奇襲攻撃、「第3次世界大戦」を始めることになっていた。この作戦が実行されなかったのは、参謀本部が計画を拒否したからである。(Stephen Dorril, “MI6”, Fourth Estate, 2000)

 チャーチルは1945年7月26日に退陣するが、大戦後の46年3月にアメリカのフルトンで「鉄のカーテン演説」を行い、「冷戦」の幕開けを宣言した。FBIの文書によると、チャーチルは1947年にアメリカのスタイルズ・ブリッジス上院議員に対し、ソ連を核攻撃するようハリー・トルーマン大統領を説得してほしいと求めている。(Daniel Bates, “Winston Churchill’s ‘bid to nuke Russia’ to win Cold War - uncovered in secret FBI files,” Daily Mail, 8 November 2014)

 日本がポツダム宣言の受諾を通告してから約1カ月後、アメリカの統合参謀本部では必要なら先制攻撃を行うことが決められた。この決定は「ピンチャー」という暗号名で呼ばれ、1946年6月18日に発効している。(Annie Jacobsen, “Area 51”, Little, Brown, 2011)

 原爆を手にしたアメリカの支配階級はソ連を先制核攻撃する計画を立てる。1949年に出された統合参謀本部の研究報告では、ソ連の70都市へ133発の原爆を落とすという内容が盛り込まれていた。(Oliver Stone & Peter Kuznick, “The Untold History of the United States,” Gallery Books, 2012)

 アメリカは1952年11月に水爆実験を成功させ、核分裂反応を利用した原子爆弾から核融合反応を利用した水素爆弾に核兵器の主役は移っていく。勿論、核兵器を使うには運搬手段が必要。この当時、原爆の輸送手段は爆撃機で、その任務を負っていたのがSAC(戦略空軍総司令部)だ。1948年から57年にかけてSACの司令官を務めたのは日本の諸都市で市民を焼夷弾で焼き殺し、広島や長崎に原爆を落とし、朝鮮戦争では3年間に人口の20%を殺したカーティス・ルメイ中将にほかならない。

 中国を核攻撃する場合、日本や沖縄が出撃拠点になるが、その沖縄では1950年代に「銃剣とブルドーザー」で土地が強制接収され、軍事基地化が推し進められていた。1953年4月に公布/施行された布令109号「土地収用令」に基づき、武装米兵を動員した暴力的な土地接収が実施され、55年の段階で沖縄本島の面積の約13%が軍用地になっている。

 SACは1954年に600から750発の核爆弾をソ連に投下、118都市に住む住民の80%を殺すという計画を立て、57年に作成された「ドロップショット作戦」では300発の核爆弾をソ連の100都市に落とすることになっていた。

 その頃、アメリカではICBMの準備が進められ、​統合参謀本部議長のライマン・レムニッツァーや空軍参謀長だったカーティス・ルメイを含む好戦派は1963年後半までにソ連を先制核攻撃する計画をたてた​。まだソ連がICBMの準備ができていない時点で攻撃したかったのだ。その作戦の障害になっていたケネディ大統領は1963年11月22日にテキサス州ダラスで暗殺されたのだ。

 しかし、ケネディ大統領の暗殺計画はその前から動いていた。大統領は1963年11月2日にシカゴを訪れる予定になっていたが、そのシカゴで大統領を暗殺する計画があるとする警告が警備当局に対し、2カ所からもたらされている。ひとつはFBIの情報提供者「リー」から、もうひとつはシカゴ警察のバークレー・モイランド警部補からだ。

 FBIが入手した情報によると、パレードの途中で4名のスナイパーが高性能ライフルで大統領を狙うとされていた。その情報はシークレット・サービスへも伝えられている。ちなみに、ケネディ大統領暗殺の容疑者として逮捕され、警察で殺されたリー・ハーベイ・オズワルドはFBIの情報提供者だと言われている。シークレット・サービスのシカゴ支部は容疑者を監視、11月1日に2名を逮捕したが、残りの2名には逃げられてしまう。

 また、モイランド警部補の話は「ケネディ嫌いの男がいる」というもの。10月の後半にシカゴのカフェテリアで食事をしていたモイランドは、そこの経営者からケネディ大統領に関して不穏当な話をする常連客がいることを知らされたのだ。そこで警部補はその男が来るのを待ち、トーマス・アーサー・ベイリーだと確認してからシークレット・サービスに連絡している。(James W. Douglass, “JFK”, Orbis, 2008)

 ベイリーは元海兵隊員で、ジョン・バーチ協会に所属。海兵隊時代にはJTAG(統合技術顧問グループ)のメンバーとして日本にいた。オズワルドも1956年7月に日本の厚木基地の第1航空管制大隊へ配属されている。(Peter Janney, “Mary’s Mosaic,” Skyhorse, 2013)

 ケネディ大統領がシカゴのオハラ空港へ到着する予定時刻の30分前、11月2日午前9時10分(東部時間10時10分)にベイリーは逮捕され、シークレット・サービスの取り調べを受けてから収監されたのだが、シークレット・サービスのエージェントは暗殺未遂事件に関する文書を作成していないという。担当の特別エージェント、モーリス・マーティノーの命令だった。

 ケネディ大統領のシカゴ訪問が取りやめになったことは東部時間で10時15分に発表されている。少なくともその10分前に取りやめは決まっていたはずで、このケースでは10時に関係者は決定を聞いていたと言われている。つまり、大統領の訪問中止が決まった約10分後に警察はベイリーを逮捕したことになる。

 そうした情況にあったため、大統領の周辺、例えばウイリアム・フルブライト上院議員たちは大統領に対し、ダラス行きを中止するようにワシントンDCで20日に忠告しているのだが、取りやめにならなかった。(Anthony Summers, "The Kennedy Conspiracy," Paragon House, 1989

 ケネディ大統領のダラス訪問は1963年4月にリンドン・ジョンソン副大統領が発表している。ダラスに不穏な空気が漂っていたことは大統領自身も承知していたはずだが、大統領は予定を変えず、11月21日の夜にフォート・ワース入りした。

 その日から翌日の未明まで、警備を担当するシークレット・サービスのエージェントの多くが「セラー(穴蔵)」というナイトクラブへ繰り出して騒いでいた。そのナイトクラブを経営するパット・カークウッドはジャック・ルビー、つまり、オズワルドを警察署で射殺したとされている人物の友人だという。(Robert J. Groden, “The Killing Of A President”, Bloomsbury, 1993)

 大統領一行は11月22日の朝にフォート・ワースのカーズウェル空軍基地からダラスのラブ・フィールドへ移動、パレード用のリンカーン・コンバーティブルに乗り込んだ。

 このリムジンは防弾仕様でなく、屋根はシークレット・サービスのウィンストン・ローソンの指示で取り外されていた。またリムジンのリア・バンパーの左右には人の立てるステップがあり、手摺りもついているのだが、パレードのときには誰も乗っていない。大統領の指示だったという話もあるが、エージェントだったジェラルド・ベーンは大統領がそうした発言をするのを聞いていないと証言している。元エージェントのロバート・リリーに言わせると、大統領はシークレット・サービスに協力的で警備の方法に口出しすることはなかった。

 12時30分頃、ケネディ大統領は暗殺された。後ろの教科書ビルから撃たれたことになっているが、映像を見ても証言を調べても、致命傷になったであろう銃撃は前方からのものだった可能性がきわめて高い。教科書ビルの所有者はリンドン・ジョンソンの親友だったデイビッド・バード。そのビルに入っていてオズワルドが働いていたテキサス評価書倉庫なる会社のオーナーは、FBIに君臨していたJ・エドガー・フーバーの友人、ジャック・ケイソンだ。

 銃撃が始まると、大統領を乗せたリムジンの後ろを走る自動車にいた特別エージェントのエモリー・ロバーツは部下のエージェントに対し、銃撃だと確認されるまで動くなと命令するが、これを無視してエージェントのクリント・ヒルは前のリムジンに飛び乗った。

 ヒルによると、銃撃の後に喉を押さえるケネディ大統領を見てのことで、まだステップに足がかかる前、血、脳の一部、頭骨の破片が自分に向かって飛んできて、顔、衣類、髪の毛についたとしている。ステップにヒルの足がかかった時、大統領夫人のジャクリーンもボンネットの上に乗り、大統領の頭部の一部を手に触れようとしていた。その時、大統領の頭部の中が見えたという。リムジンの前方から銃撃されたことは決定的だ。(Clint Hill with Lisa McCubin, “Mrs. Kennedy and Me”, Gallery Books, 2012)事件を調査したウォーレン委員会でジャクリーンは髪の毛を元に戻そうとしたと証言しているが、委員会の報告書からは削除された。

 銃撃の直後、ダラス警察のジョー・マーシャル・スミスはパレードの前方にあった「グラッシー・ノール(草で覆われた丘)」へ駆けつけ、硝煙の臭いを嗅いでいる。そこで近くの駐車場にいた自動車修理工のように見えた男を職務質問したところ、シークレット・サービスのエージェントだということを示されたのだが、そこにシークレット・サービスの人間は配置されていなかったことが後に判明している。

 兵士のゴードン・アーノルドは銃撃の直前、「シークレット・サービスのエージェント」をそこで見たと語っている。パレードを見やすい場所を探してグラッシー・ノールに近づいたところ、私服の男に遮られ、近づかないようにと言われたというのだ。アーノルドが抗議したところバッジを見せながらシークレット・サービスだと名乗ったという。

 銃撃が収まってから、今度はふたりの制服を着た「警察官」がアーノルドに近づいて、フィルムを渡すように命じた。アーノルドは素直に渡している。そのフィルムがどうなったかは不明だ。やはり銃撃後、グラッシー・ノールのフェンス近くを走っていたジーン・ヒルもシークレット・サービスを名乗る人物からフィルムを全て取り上げられている。ただ、エイブラハム・ザプルーダーが撮影した8ミリフィルムは後に公開されている。

 事件直後、そのフィルムに関する全ての権利を写真雑誌LIFEの編集者リチャード・ストーリーが5万ドルでザプルーダーから買い取ってシカゴの現像所へ運び、オリジナルはシカゴに保管、コピーをニューヨークへ送ったとされていた。

 ジャクソンはフィルムが外部に漏れることを警戒し、ストーリーに対して動画に関する権利も買い取るように指示。この契約でLIFEはザプルーダー側へさらに10万ドル、合計15万ドルを支払っている。後にオリジナルのほか3本のコピーが作られ、オリジナルはCIAと国防総省の共同プロジェクトとして設立されたNPIC(国家写真解析センター)へ送られたことがわかる。なお、NPICは1996年にNIMA(国家画像地図局)に組み込まれた。現在のNGA(国家地理空間情報局)だ。

 このフィルムをNPICが保管していることを知ったCIA長官のジョン・マコーンは持ってくるように指示、映像を見ている。NPICはそれをオリジナルだとしていたが、本当のところは不明。マコーンはロバート・ケネディに対し、銃撃にはふたりの人間が関係しているという映像から受けた印象を語ったという。またNPICのスタッフで事件直後に映像を見たホーマー・マクマホンによると、銃撃は約8回、少なくとも3方向から撃たれているとしている。(Peter Janney, “Mary’s Mosaic,” Skyhorse, 2013)

 ザプルーダー・フィルムは長い間、一般に公表されていない。フィルムを隠したC・D・ジャクソンはアイゼンハワー大統領のスピーチライターを務めた人物で、アレン・ダレス、フランク・ウィズナー、リチャード・ヘルムズ、フィリップ・グラハムを中心とするメディア支配プロジェクトの協力者でもあった。

 このフィルムを公開させたのがルイジアナ州ニュー・オーリンズの地方検事だったジム・ギャリソン。これがオリジナルである保証はないのだが、ともかくそれを1969年2月に法廷で映写させた。ただ、フィルムには大きな傷があり、見えない部分がある。

 その傷に関し、LIFE側は現像所の技術的なミスで損傷を与えたと説明したが、有名写真雑誌のプロがそうしたミスをするとは考えにくい。いつ、どのようにして傷つけたかを明確にするべきだが、現在に至るまで納得のできる説明はない。

 本来ならフィルムを隠したC・D・ジャクソンから事情を聞くべきなのだが、大統領が暗殺された翌年、1964年9月18日に彼は62歳で死亡している。

 ケネディ大統領の死亡が確認されたのはダラスのパークランド記念病院。死体を見た同病院のスタッフ21名は前から撃たれていたと証言、確認に立ち会ったふたりの医師、マルコム・ペリーとケンプ・クラークは大統領の喉仏直下に入射口があると記者会見で語っている。前から撃たれたということだ。

 その後、ペリーにベセズダ海軍病院から電話が執拗にかかり、記者会見での発言を撤回するように求められたという。これは同病院で手術や回復のための病室を統括していた看護師、オードリー・ベルの証言。ペリー本人から23日に聞いたというが、数カ月後にそのペリーは記者会見での発言を取り消し、喉の傷は出射口だとする。ウォーレン委員会でもそのように証言した。(Peter Janney, “Mary’s Mosaic,” Skyborse, 2013)

 大統領の死体は法律を無視してパークランド記念病院から強引に運び出され、検死解剖はワシントンDCのベセズダ海軍病院で行われた。担当した軍医のジェームズ・ヒュームスは検死に不慣れだったとも言われている。

 ケネディ大統領の暗殺を調査するため、リンドン・ジョンソン新大統領は1963年11月29日に「ケネディ大統領暗殺に関する大統領委員会」を設置、アール・ウォーレン最高裁長官を委員長に据えた。委員長の名前から「ウォーレン委員会」と呼ばれることが多い。

 委員会のメンバーはウォーレンのほか、リチャード・ラッセル上院議員(当時、以下同じ)、ジョン・クーバー上院議員、ヘイル・ボッグス下院議員、ジェラルド・フォード下院議員、アレン・ダレス元CIA長官、ジョン・マックロイ元世界銀行総裁がいた。そして主席法律顧問はリー・ランキンだ。

 ダレスはウォール街の大物弁護士で、大戦中からOSSの幹部として破壊活動を指揮、戦後CIA長官になるが、ケネディ大統領に解任させられている。マックロイはウォール街の大物で、大戦の後に世界銀行の総裁を経てドイツの高等弁務官としてナチスの大物たちを守った。フォードはJ・エドガー・フーバーFBI長官に近く、ランキンはCIAとFBIにつながっている。ダレスは委員会の中で唯一の専従だった。(David Talbot, “The Devil’s Chessboard,” HarperCollins, 2015)

 この委員会にはCIAやFBIから情報が提供されたが、1964年1月にはCIAとの連絡係としてジェームズ・アングルトンが任命された。FBIはウィリアム・サリバンが担当している。(Michael Holzman, “James Jesus Angleton,” University of Massachusetts Press Amherst, 2008)

 ウォーレン委員会が暗殺に関する報告書と出した3週間後の1964年10月12日、ケネディ大統領と親密な関係にあったマリー・ピンチョット・メイヤーが散歩中に射殺された。銃弾の1発目は後頭部、2発目は心臓へ至近距離から撃ち込まれている。プロの仕業だ。

 ウォーレン委員会の結論はリー・ハーベイ・オズワルドの単独犯行だが、この結論をヘイル・ボッグスは口頭で批判していたという。ボッグスは1966年、委員会の腐敗した状況をジム・ギャリソンに話しているという。ボッグスを乗せたセスナ310は1972年10月16日、アラスカで行方不明になった。(Joan Mellen, “A Farewell to Justice,” Potomac Books, 2007)

 ケネディ暗殺の際、CIA、シークレット・サービス、警察などに不可解な動きがあり、複数の狙撃者がいたことを示す証拠や証言が次々と明らかになる。それに対抗し、単独犯説を主張する勢力は「陰謀論」という呪文を考えつき、連呼するようになった。事実を隠蔽する呪文として多用されている「陰謀論」はこの時から盛んに使われている。
https://plaza.rakuten.co.jp/condor33/diary/202411240000/

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