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ウォール街やシティと戦った共産主義者のフランクリン・ルーズベルト
http://www.asyura2.com/20/reki4/msg/1037.html
投稿者 中川隆 日時 2020 年 9 月 20 日 09:19:23: 3bF/xW6Ehzs4I koaQ7Jey
 

(回答先: 独裁者列伝 _ 昭和天皇 投稿者 中川隆 日時 2020 年 4 月 16 日 19:09:25)


ウォール街やシティと戦った共産主義者のフランクリン・ルーズベルト


2019.07.03
独立記念日を祝うアメリカ国民だが、独立宣言を忘れているようだ 《櫻井ジャーナル》
https://plaza.rakuten.co.jp/condor33/diary/201907030000/


 7月4日はアメリカの独立記念日である。1776年7月4日に独立宣言が採択されたことを記念して定められたのだ。


 ヨーロッパからの植民者がイギリスからの独立を宣言したのだが、その執筆者はトマス・ジェファソン。「すべての人間は生まれながらにして平等であり、その創造主によって、生命、自由、および幸福の追求を含む不可侵の権利を与えられている」と謳っている。


 宣言に署名した人びとが何を考えていたかはともかく、宣言にある「人間」に制限はついていない。すべての人間は人種、民族、性別、思想、信仰、身分、家柄などに関係なく平等であり、人間としての権利を持っているということだ。


 当然、生まれながらに持っている能力を発揮するために必要な環境がすべての人間に保証されなければならない。人種、民族、性別、思想、信仰、身分、家柄などによって、そうした環境に差があってはならない。安心して生活でき、教育を受けることができ、働くことができなければならない。


 こうした権利を保障しない政府を人びとは「改造または廃止し、新たな政府を樹立し、人民の安全と幸福をもたらす可能性が最も高いと思われる原理をその基盤とし、人民の安全と幸福をもたらす可能性が最も高いと思われる形の権力を組織する権利を有する」と独立宣言は主張している。


 さらに、「権力の乱用と権利の侵害が常に同じ目標に向けて長期にわたって続き、人民を絶対的な専制の下に置こうとする意図が明らかであるときには、そのような政府を捨て去り、自らの将来の安全のために新たな保障の組織を作ることが人民の権利であり義務である」ともしている。


 アメリカでは19世紀に「泥棒男爵」と呼ばれる人びとが出現した。不公正な手段で財産を手に入れ、巨万の富を築いた人たちだ。石油業界を支配することになるジョン・D・ロックフェラー、金融帝国を築いたJ・P・モルガン、鉄鋼業界のアンドリュー・カーネギー、ヘンリー・クレイ・フリック、鉄道のエドワード・ヘンリー・ハリマン、金融や石油で財をなしたアンドリュー・W・メロンなどが含まれている。


 こうした人びとの権力が強大化する切っ掛けになった出来事が1913年12月にあった。連邦準備制度が創設され、連邦準備理事会が金融政策の樹立と遂行を監督、12の連邦準備銀行が政策を実行することになったのだ。このシステムを支配するのは富豪たちだ。


 連邦準備制度を作るための秘密会議が1910年11月にジョージア州のジキル島で開かれている。会議に参加したメンバーはクーン・ローブやJPモルガンの使用人やジョン・D・ロックフェラー・ジュニアの義父、つまりロスチャイルド、モルガン、ロックフェラーの代理人たちだった。こうした人びとがアメリカの通貨を発行する特権を持つことになる。


 こうした富豪が拠点にしている場所がウォール街やシティ。そこの住人に立ち向かった大統領もかつてはいた。フランクリン・ルーズベルトやジョン・F・ケネディたちだ。


 ルーズベルトは1932年の大統領選挙で勝利したのだが、その時にライバルだったハーバート・フーバーは現職の大統領。スタンフォード大学を卒業した後、鉱山技師としてアリゾナにあるロスチャイルドの鉱山で働いていた人物。政治家になってからはウォール街から支援を受けていた。


 そのフーバーとは違い、ルーズベルトは労働者の権利を認めてファシズムに反対するニューディール派を率いていた。そのルーズベルトをウォール街は嫌った。


 本ブログでは繰り返し書いてきたが、1933年から34年にかけてウォール街の大物たちはニューディール派を排除するためにクーデターを計画する。そのため、軍の内部で大きな影響力を持っていた海兵隊のスメドリー・バトラー退役少将を抱き込もうとするのだが、失敗してしまう。計画の内容はバトラー、そしてバトラーと親しかったジャーナリストが議会で証言、記録として残っている。


 クーデターで中心的な役割を果たしたのはJPモルガンだったとされているが、その総帥であるジョン・ピアポント・モルガン・ジュニアの妻のいとこ、ジョセフ・グルーは1932年に駐日大使として来日している。


 ちなみに、JPモルガンの共同経営者だったエドワード・ストーテスベリーと結婚したエバ・ロバーツ・クロムウェルの娘の夫はダグラス・マッカーサーである。


 グルーは皇族を含む日本の支配層に強力なネットワークを持つ人物で、特に松岡洋右と親しかった。松岡の妹が結婚した佐藤松介は岸信介や佐藤栄作の叔父にあたる。


 日本軍が真珠湾を奇襲攻撃して日本とアメリカが戦争を始めてしばらくの間、グルーは日本に滞在。離日したのは1942年8月だが、その直前に彼がゴルフをした相手は岸信介だ。大戦後、日本の進む方向を決めたジャパン・ロビーの中心にもグルーはいた。グルーが親ファシスト勢力に属していたことを忘れてはならない。


 すでにアメリカでは強大な私的権力が国を上回る力を持っている。その結果、「権力の乱用と権利の侵害が常に同じ目標に向けて長期にわたって続き、人民を絶対的な専制の下に置こうとする意図が明らか」になっていると言える。


 2011年9月11日以降、アメリカでは国外での侵略戦争、国内での刑務所化が急速に進んでいる。アメリカの属国である日本もその後を追っている。そうした現状を見ながら、「それでもアメリカは民主主義国だ」とか「それでもアメリカの方がましだ」という「左翼」、「リベラル派」、「革新勢力」が日本にはいる。
https://plaza.rakuten.co.jp/condor33/diary/201907030000/


▲△▽▼

櫻井ジャーナル 2019.06.27
19世紀から中国を手に入れようとしているアングロ・サクソンにとって日本は重要
https://plaza.rakuten.co.jp/condor33/diary/201906250000/

 アメリカの支配層は自分たちの意に沿わない国、組織、人物をさまざまな手段を使い、攻撃してきた。1991年12月にソ連が消滅するまでは一応、国連を尊重していたが、それ以降は単独行動主義を打ち出している。日本では国連中心主義を主張していた細川護煕政権が潰されてしまった。1994年4月のことである。


 勿論、細川政権が成立するはるか前から日本とアメリカは軍事同盟を結んでいた。日米安保条約だ。この条約によってアメリカ軍は日本占領が認められている。アメリカが日本を占領し続けたい理由は、日本が侵略のための重要な拠点だからだ。その日本がより積極的にアメリカの戦争に加担することを求められたのである。


 細川政権が設置した諮問機関の防衛問題懇談会はその年の8月に「日本の安全保障と防衛力のあり方(樋口レポート)」というタイトルの報告書発表したが、ネオコンはこの報告書を問題視する。国連中心主義に基づいて書かれていたからだ。


 このレポートを最初に問題だと主張したのはマイケル・グリーンとパトリック・クローニン。ふたりはカート・キャンベル国防次官補(当時)を説得してジョセイフ・ナイ国防次官補(同)らに自分たちの考えを売り込む。そしてナイは1995年2月に「東アジア戦略報告(ナイ・レポート)」を発表。そこには在日米軍基地の機能を強化、その使用制限の緩和/撤廃が謳われていた。ナイ・レポートを境にして日本はアメリカの戦争マシーンへ組み込まれていく。


 そうした動きを後押しする出来事も引き起こされた。例えば1994年6月の松本サリン事件、95年3月の地下鉄サリン事件、その直後には警察庁長官だった國松孝次が狙撃されている。國松は1994年7月に城内康光から引き継いでいた。1995年8月にはアメリカ軍の準機関紙と言われるスターズ・アンド・ストライプ紙が日本航空123便に関する記事を掲載、その中で自衛隊の責任を示唆している。


 その一方、日本の支配システムを揺るがす出来事も相次ぐ。株式相場の暴落直後の証券スキャンダルでは興銀と東洋信金が関係した不正取引も明らかになった。この取り引きはマネーロンダリングだったという疑いも持たれている。1995年の大和銀行ニューヨーク支店の巨額損失発覚、98年には長銀事件だ。銀行の業務には大蔵省(現在の財務省)が深く関与、不正行為に官僚が無関係だとは言えないだろう。この推測が正しいなら、アメリカの支配層は日本の金融システムの弱みを握り、自由に操る体制ができたと言える。


 第2次世界大戦の終盤、1945年4月にアメリカのフランクリン・ルーズベルト大統領は急死、ホワイトハウスの主導権はウォール街が奪還して大統領はハリー・トルーマンになる。


 トルーマン政権は中国に国民党政権を樹立しようとするが、失敗。破壊工作機関のOPCも1949年には拠点を上海などから日本へ移動させている。その年に国鉄を舞台とした怪事件、つまり下山事件、三鷹事件、松川事件が引き起こされたのは興味深い。


 中国は19世紀にイギリスから侵略されている。1840年に勃発したアヘン戦争と56年に始まった第2次アヘン戦争だ。香港はその時にイギリスが中国から奪った場所。その後、略奪の拠点として機能する。イギリスやアメリカが香港を手放そうとしないのはそのためだ。アメリカが麻薬取引と深く関係していた蒋介石の国民党に肩入れしたのもそうした背景が影響しているのだろう。


 アヘン戦争と第2次アヘン戦争でイギリスは勝利したが、それは海戦。運輸の中心である海をイギリスに押さえられた中国は苦境に陥るが、イギリスには内陸部を支配する戦力はない。アヘン戦争に投入されたイギリス軍は5000名。7000名はインドの兵士だ。第2次アヘン戦争でイギリス軍は兵士の数を増やしたが、それでも1万3127名。フランスから7000名ほどが参加している。


 圧倒的にイギリスは戦力が不足している。そこで目をつけられたのが日本。明治維新はそうした側面から考える必要がある。ちなみに日清戦争で日本軍は24万人が投入された。明治維新以降、日本は大陸侵略の拠点であり、日本人はアングロ・サクソンの傭兵としての側面がある。


 この構図が揺らいだのはフランクリン・ルーズベルトが大統領だった1933年3月から45年4月。当時、日本を支配していたウォール街がホワイトハウスの主導権を奪われていたのだ。ただ、それでも1932年にJPモルガンの中枢にいたジェセフ・グルーが駐日大使になっている意味は小さくない。なお、大戦後に日本の進路を決めたジャパン・ロビーの中心にもグルーはいた。GHQや吉田茂は日米主従構造において脇役にすぎない。主役はウォール街と昭和天皇だ。戦争が終わった直後、ウォール街の代理人を務めていた人物がジョン・フォスター・ダレスにほかならない。


 アヘン戦争以降、アングロ・サクソンにとって東アジアで最も重要な侵略ターゲットは中国。現在、中国と同盟関係にあるロシアも重要な獲物だ。1991年12月にソ連が消滅した直後に作成されたウォルフォウィッツ・ドクトリン、アメリカが唯一の超大国になったと認識したネオコンが描いた世界制覇プランを実現するためにもアメリカは中国とロシアを屈服させる必要がある。そのプランを放棄しない限り、ドナルド・トランプがどのようなことを書き込もうと、彼らが日米安保条約を放棄することはありえない。
https://plaza.rakuten.co.jp/condor33/diary/201906260000/  

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コメント
1. 中川隆[-11292] koaQ7Jey 2020年9月20日 09:32:05 : 8yaWWvP5cQ : Mm9tOGFLcEdsOTI=[14] 報告
2015/6/21
昭和天皇はアメリカと密約していたのか!
http://blog.livedoor.jp/shiderz402-seikei/archives/8225138.html

先日から

「原爆の秘密(国外篇)----殺人兵器と狂気の錬金術」鬼塚英昭 著 成甲書房 刊
https://www.amazon.co.jp/%E5%8E%9F%E7%88%86%E3%81%AE%E7%A7%98%E5%AF%86-%E5%9B%BD%E5%A4%96%E7%B7%A8-%E6%AE%BA%E4%BA%BA%E5%85%B5%E5%99%A8%E3%81%A8%E7%8B%82%E6%B0%97%E3%81%AE%E9%8C%AC%E9%87%91%E8%A1%93-%E9%AC%BC%E5%A1%9A-%E8%8B%B1%E6%98%AD/dp/4880862320


という本をもとに記していますが今日この本を読み終え、また書きたくなったことがでてきたので書きたいと思います。それは‘昭和天皇は原爆が落とされるのを事前に知っていた’という驚愕な事実についてです。つまり昭和天皇はその事実を知っていて日本国民には知らせなかった、すなわち広島、長崎の人たちを見殺しにした、ということです。ではまずはそのことについて記させれている部分を同著から引用するところから始めたいと思います。

(引用開始)

(前略)白洲次郎は米英のための、具体的に書くならば、スティムソン、グルー、ウォーバーグたちのためのエージェントの仕事をし続けていたのである。原爆産業のエージェントであったといえよう。柴田哲孝の「下山事件 最後の証言」(2007年)に次なる記述がある。

「でも工藤さんは本当にいい人でした。確か昭和20年の春でした。灯火管制の時に、夜、工藤さんが突然すうっ・・・と入ってきたんです。そして、玄関に出ていくと、ぼそぼそっと言った。私は本所(墨田区)に住んでいたんですが、あと2〜3日したらここは空襲になるから、荷物をできるだけ持って逃げろと。それで私は○○の方へ逃げたんです。本所が9日か10日だと言っていました。そうしたら、本当にその日に東京大空襲があったんです・・・」

これも不思議な話だ。なぜ工藤孝次郎は東京大空襲の日時を知っていたのか。

もし亜細亜産業が軍部から情報を得ていたとすれば、国は東京大空襲を知っていながら市民を見殺しにしたことになる。もしくは亜細亜産業は、戦時中から米軍と何らかの繋がりがあったのか・・・。」

柴田哲孝はこの本の中で「亜細亜産業」について詳述原爆8している。下山事件との関係について書いている。戦前、この会社は闇貿易をしていた。前述した陸軍と財閥のなかから誕生した昭和通商と結ぶつきアヘン貿易に従事していた。この会社に白洲は出入りしていた。柴田哲孝の祖父が、この会社の重役であった。柴田は「我が家には白洲次郎と思われる人物が祖父や矢板玄(亜細亜産業社長)などといっしょに写った写真が残っている」と書いている。

この本や白洲次郎に関する有馬頼寧の日記を見てもわかるように、白洲次郎は、米英の諜報機関と深く繋がっていたと判断して間違いない。柴田は「もしくは亜細亜産業は、戦時中から米軍と何らかの繋がりがあったのか」との疑問を投げかけている。私は「大いにあった」と答える。次章以下で(私の注:アメリカの)陸軍参謀本部と原爆の関係を追求するなかで、その証明をすることにしよう。徳本栄一郎「英国機密ファイルの昭和天皇」(2007年)には次なる記述がある。

「1985年、彼(白洲次郎)は生涯を閉じたが、英国流ダンディズムと気骨のあるライフスタイルは、白洲ブームとも言うべき現象を起こしている。だがこの白洲次郎には、あまり知られていない、もう一つの顔がある。それは太平洋戦争直前、皇室や吉田茂の意を受け、英国政府との和平工作に奔走した‘密使’であり、戦後は日本進出を狙う英国企業の‘エージェント’としての顔だ。」

徳本栄一郎の「英国機密ファイルの昭和天皇」には、「エピローグ 皇居を見据えるユニオン・ジャック」として、白洲次郎とウォーバーグ財閥について書かれている。

クリストファーによると、晩年の白洲は、S・G・ウォーバーグから肩書きも受け取っていなかった。しかも1982年、創業者のシグモント・ウォーバーグ卿が亡くなった後も、彼はクリストファーの後見人役を続けた。

「ウォーバーグ卿と次郎の関係は、個人的な友情に基づいていました。そのウォーバーグ卿から頼まれた以上、それに応えるのは自然の事だったのでしょう。また次郎も、われわれの進出は日本のためになると信じていました」

「国際金融寡頭勢力」という言葉を私は使ってきた。この中心にいたのがロスチャイルドとウォーバーグのユダヤ財閥である。一度彼らのエージェントになった者は、死ぬまで、その任務を解かれることはない。

引用文中のクリストファーとあるのはクリストファー・パーピスで、英国系投資銀行SGウォーバーグの幹部で東京支店長を勤めた男である。創業者のシグモント・ウォーバーグは、ドイツのハンブルクに本拠を持つウォーバーグ家からイギリスに派遣され、SGウォーバーグをつくり、ロスチャイルドとともに、ヒトラーを育てたのである。

そのウォーバーグ家の一族がアメリカに渡り、ロスチャイルドの血族シフ家と結ばれる。ロスチャイルドとウォーバーグ家は一枚の系図の中に入る。FRB(連邦準備制度理事会)をつくりあげたのはポール・ウォーバーグ。その息子のジェームス・ウォーバーグはOSS(私の注:CIAの前身)の中に入り日本向けの情報担当官となる。白洲次郎はウォーバーグのエージェントとなり、国務次官グルーからの情報を、ヨハンセン・グループ(私の注:戦前の吉田茂反戦グループの略称。実際は裏で戦争を推進していた)に流していく。

白洲次郎の岳父が樺山愛輔。彼は昭和天皇の母貞明皇太后と深く結ばれている。貞明皇太后の周囲には、ヨハンセン・グループがたむろしていた。彼らのほとんどは、禎明皇太后と同じクエーカー教徒であり、ヨハンセン・グループとの間には、同じクリスチャンという共通項が厳然と存在していた。そのルートで貞明皇太后は樺山愛輔から、アメリカとイギリスのニュースを入手していた。徳本栄一郎が「それは太平洋戦争直前、皇室や吉田の意を受け・・・」とあるのはなんとも甘い表現である。「白洲次郎はシグムント・ウォーバーグの忠告を忠実に厳守し、国際金融寡頭勢力のために生涯を捧げた」と書き直すべきである。

父親からの仕送りがなくなり、貧乏のどん底に落とされた留学生白洲は、シグムント・ウォーバーグの援助にすがって生きた。そこに、永遠のエージェントとならざる状況が生じたのである。

白洲は日本水産から帝国水産に移動して何をしたのか。調査室室長であった。彼は帝国水産という会社を利用し、イギリスとアメリカの諜報機関のために日本の機密を流し、また同時に、日本へ、特に皇室、ヨハンセン・グループ、軍閥、三菱・・・に情報を伝えていたのである。

私は前著「日本のいちばん醜い日」でヨハンセン・グループについて詳述した。その中で、外務省編「終戦史録(5)」の中に掲載されている「大井篤手記---天皇制と太平洋戦争」を紹介した。もう一度ここに紹介し、この項を原爆13終わりとする。この中に、皇太后と天皇が原爆投下について知っていたことが書かれている。私は(私の注:アメリカの軍事会議の)「目標管理委員会初回会議覚書」(1945年4月27日)については詳述した。その中で、東京湾が原爆投下の目標地に入っていたことを書いた。この情報が白洲次郎のルートで日本に流されていたことは間違いのない事実である。

「彼等は、天皇は間違っていると考えました。彼等には驚くべきまでに、機微な情報が---その真実性が私には判りませんが---入手されていました。彼等の見るところでは、天皇は弱虫だから終戦をいそがれているのである。原子爆弾が怖いのだ。その弱虫をさらに皇太后が焚きつけている。皇太后は御所内に堅固な防空壕を作ってくれと軍に催促されるが、資材不足でそれが出来ずにいる。そこへ原子爆弾の話が、尾ひれをはやして皇太后の耳に入ってくる。ジッとしておられなくなって天皇に訴える。彼等はこの情報を信じておりましたし、又陸軍では一般に原子爆弾はそう恐ろしいものではないと信じられておりました。」

後述するが、原爆の情報は皇室、軍部、ヨハンセン・グループに流れ続けていたのである。しかし、原爆は広島と長崎に落とされた。その心因を追求し続けねばならない。

(引用終わり)

戦前から、引用文にあるウォーバーグ財閥のエージェントであった白洲次郎という、元々は一般人だった人物がいました。この白洲は父親が確か服の卸しの小さな会社を経営していました。この会社が倒産し、イギリスにその当時留学していた白洲次郎は貧乏のどん底に落とされます。そんな白洲に、ロスチャイルド一族であるアメリカのシフ家の血族にあたるウォーバーグ財閥に目をつけられ、広島、長崎への原爆投下計画のためのエージェントにされる。ちなみに、このシフ家のジェイコブ・シフは日露戦争において、ときの蔵相であった高橋是清に戦争資金を調達した人物になります。戦争が起こるときにはロスチャイルドが影にいる、ということを思わせます。

この白洲はヨハンセン・グループという本当は、アメリカの国務次官であったジョセフ・グルーが操っていたグループと繋がっていた。そしてアメリカやイギリスの情報を流し、逆もやっていた。建前の‘反戦’ではなく、戦争推進という目的のために。

さらに白洲は皇室とも繋がっていて、皇室に広島、長崎への原爆投下の情報を流していた。だから皇太后は原爆投下を恐れおののいていた。

だが、原爆は東京には落とされず、広島と長崎に落とされた。それはこの引用文には書いてありませんが、昭和天皇は、原爆投下計画の真の張本人と、鬼塚氏がするアメリカのスティムソン陸軍長官側と密約ができていて、アメリカ側が「無条件降伏を要求するが皇室の地位は戦後も保持させ、東京には原爆を落とさない」とされていた。だから広島と長崎に原爆が落とされた、と著者の鬼塚氏は膨大な資料の検証のもとに、推測として書いています。

ただここで‘推測として’と書きましたが上記の引用文の「大井篤手記---天皇制と太平洋戦争」は外務省編「終戦史録(5)」の中に掲載されているものです。皇室が原爆投下情報を得ていたことを示す証拠としてはこれ以上のものはないでしょう。

そしてこの「原爆の秘密(国外篇)----殺人兵器と狂気の錬金術」にはアメリカ側はアメリカ軍の消耗をできるだけ少なくしたいため、沖縄上陸後の本土陸上決戦は避けたい。だからなるべく太平洋戦争を早く終わらせたい。だがそれは「マンハッタン計画」すなわち「原爆投下計画」が遂行された後での話だった。

その原爆投下計画の遂行の本当の理由は、広島に落とされた原爆「リトルボーイ」を製造したロックフェラー=メロン財閥と、長崎へ落とされた原爆「ファットマン」を製造したデュポン=モルガン財閥が原爆産業でカネ儲けするためだった。戦後の米ソ冷戦においての原爆産業の隆盛も視野に入れて。しかもその影で暗躍していたのが先日も記した、ヴィクター・ロスチャイルドであり、ウォーバーグ財閥である、とこの著作には書いてあるのです。

先日、安倍政権が出した「憲法改正法案」には、先日も書きましたが、「天皇、摂政は憲法に拘束されない」といった条項も入っていました。安倍が以前から天皇を戦前の「元首」にしたがっていたことも以前書きました。そして戦前はその元首であった昭和天皇ヒロヒトが日本軍の頂点に立って太平洋戦争が遂行され、広島、長崎に原爆が落とされたのです。

安倍がこの「憲法改正案」や「改正安保法制」をもって日本を戦争する国にしようとしているのは火を見るように明らかです。上述した鬼塚氏の解くところをどう解釈するかは個々人の見解によるところですが、今の安倍政権は極東情勢において中国、韓国、北朝鮮の、本当はありもしない、脅威を我々に煽り、中東情勢においては、可能性がかなり低い‘イランのホルムズ海峡封鎖’の脅威も我々に煽り、「集団的自衛権の行使」の必要性をうそぶいている今の状況が非常に危険な状態にあるのは事実です。
http://blog.livedoor.jp/shiderz402-seikei/archives/8225138.html

2. 2020年10月18日 20:26:44 : WKyPV5eFRY : WDdzVVpPcGZjT1U=[26] 報告

 第2次世界大戦の終盤、CIAの前身であるOSSはドイツの科学者やエンジニア1500名以上を雇い、アメリカへ連れてきた。ペーパークリップ作戦だ。当時、OSSや軍の反ソ連勢力はフランクリン・ルーズベルト大統領を無視する形でナチスの元高官らを逃がすラットラインを作り、その元高官たちを保護、雇用している。ブラッドストーン作戦だ。

 本ブログで何度も書いたことだが、アメリカの金融資本は大戦の前からファシズムに傾倒、国務省は親ファシスト派の巣窟だった。第2次世界大戦の終盤、フランクリン・ルーズベルト大統領は各国の首脳と会談しているが、そうした会談に同行させたのは基本的に軍人。外交官を信用していなかった。同行した非軍人はルーズベルトが個人的に信頼していたハリー・ホプキンスだけだった。(Susan Butler, “Roosevelt And Stalin,” Alfred A. Knopf, 2015)
https://plaza.rakuten.co.jp/condor33/diary/202010180000/

3. 2020年11月25日 21:35:28 : Hcybxt2cKE : T3FMVEYuT2xielU=[23] 報告

2020.11.25
西側支配者のプロパガンダ機関の流すCOVID-19の話を信じる愚かしさ
https://plaza.rakuten.co.jp/condor33/diary/202011250001/

 マスコミは「言論の自由」を象徴する存在であり、「社会の木鐸」であるべきだと考える人が日本にはいるようだが、一種の妄想にすぎない。その妄想に反する現実を受け入れられず、不満を口にする人もいるが、現実世界のマスコミは昔からプロパガンダ機関としての側面があり、支配者に使われてきたことも否定できない。

 第1次世界大戦の後、戦争による好景気が終わったことに加え、戦争の舞台になったヨーロッパから多くの兵士が帰還して街は失業者であふれてストライキやデモが続発した。しかも戦争が終わる前年、1917年にはロシアの十月革命で社会主義を掲げる体制が誕生していた。そうした労働者の運動を潰すために利用されたのがニコラ・サッコとバルトロメオ・バンゼッティである。

 アメリカのマサチューセッツ州では1919年に現金輸送車の襲撃未遂事件があり、その容疑者として逮捕されたのだが、それだけでなく20年4月にマサチューセッツ州サウスブレーントリー駅近くで起こった強盗殺人事件の容疑者にもされた。

 いずれの事件でもふたりを有罪とするような証拠、証言はないうえ、1925年には別の事件で収監されていたセレスチーノ・マデイロスという男が「真犯人は自分たちだ」とする書面を提出しているが、裁判官は無視して死刑を言い渡し、ふたりは27年の8月に処刑された。

 その当時、アメリカでは庶民が貧困化する一方、投機が過熱して富裕層は金融資産を膨らませていた。そうした状況を作り出した政府は巨大資本の代理人たちで、1929年3月から33年3月まで大統領を務めたハーバート・フーバーもそのひとりだった。

 そのフーバーを1932年の大統領選挙で破ったのがニューディール派を率いていたフランクリン・ルーズベルト。ジョン・ピアポント・モルガン・ジュニアをはじめとするウォール街の大物たちはルーズベルトの排除とファシズム体制の樹立をめざし、1933年から34年にかけてクーデターを目論んだ。その司令官として白羽の矢が立ったのはスメドリー・バトラー退役少将。名誉勲章を2度授与された伝説的な軍人で、人望があつかったからだが、バトラーはクーデターに反発、計画の詳細を聞き出した上で議会においてその内容を明らかにしている。

 バトラーから情報を得た新聞記者のポール・フレンチはクーデター派を取材し、「コミュニズムから国家を守るため、ファシスト政府が必要だ」と言われたと議会で証言している。

 こうした記者もいたが、金融資本にとって新聞は自分たちの手先にすぎなかった。バトラーによると、「われわれには新聞がある。大統領の健康が悪化しているというキャンペーンを始めるつもりだ。皆、大統領を見てそのように言うことだろう。愚かなアメリカ人はすぐに騙されるはずだ。」とクーデター派は話していたという。

 第2次世界大戦の終盤、1945年4月にルーズベルトは死亡、ホワイトハウスにおけるニューディール派の影響力は急速に低下、レッドバージで反ファシスト派は粛清された。そうした中、始められたのがモッキンバードと呼ばれる情報操作プロジェクトだ。

 ジャーナリストのデボラ・デイビスによると、このプロジェクトで中心的な役割を果たしたのはアレン・ダレス、フランク・ウィズナー、リチャード・ヘルムズ、そしてフィリップ・グラハムの4名。有力メディアの経営者や幹部編集者も協力していた。

 ダレスは兄のジョン・フォスター・ダレスと同じようにウォール街の大物弁護士で、大戦中から情報機関で破壊活動を指揮し始めた人物。その側近だったウィズナーもウォール街の弁護士で、大戦後に破壊活動を実行するために組織された秘密機関OPCを指揮している。ヘルムズの母方の祖父、ゲイツ・マクガラーは国際的な銀行家で国際決済銀行の初代頭取。グラハムの義理の父親にあたるユージン・メーヤーは世界銀行の初代総裁だ。

 ダレス、ウィズナー、ヘルムズは戦時情報機関OSSのメンバーで、グラハムは空軍へ入った後、OSSの長官だったウィリアム・ドノバンの補佐官を務めている。このドノバンもウォール街の弁護士だ。

 フィリップ・グラハムが結婚した相手、つまりユージン・メーヤーの娘はウォーターゲート事件で有名になったキャサリン・グラハム。この事件の取材ではカール・バーンスタインとボブ・ウッドワードという若手記者が中心的な役割を果たしたが、ウッドワードは少し前まで海軍の情報将校で記者としては素人に近く、事実上、取材はバーンスタインが行ったと言われている。

 そのバーンスタインはニクソン大統領が辞任した3年後の1977年にワシントン・ポスト紙を辞め、「CIAとメディア」という記事をローリング・ストーン誌に書いている。

 その記事によると、20年間にCIAの任務を秘密裏に実行していたジャーナリストは400名以上に達し、そのうち200名から250名が記者や編集者など現場のジャーナリストで、残りは、出版社、業界向け出版業者、ニューズレターで働いていた。また1950年から66年にかけてニューヨーク・タイムズ紙は少なくとも10名の工作員に架空の肩書きを提供したとCIAの高官は語ったという。(Carl Bernstein, “CIA and the Media”, Rolling Stone, October 20, 1977)

 フランクフルター・アルゲマイネ・ツァイトゥング(FAZ)紙の編集者だった​ウド・ウルフコテ​は2014年2月、ドイツにおけるCIAとメディアとの関係をテーマにした本を出し、世界各国のジャーナリストがCIAに買収されていて、そうした工作が危険な状況を作り出していると告発している。ウルフコテは2017年1月、56歳の若さで心臓発作のために死亡した。

 1991年12月にソ連が消滅、唯一の超大国になったと認識したアメリカは侵略戦争を本格化させるが、有力メディアは戦争へ人びとを誘導するためのプロパガンダを展開しはじめた。この時期に広告会社の役割が重視されはじめている。

 その後、2001年9月11日の世界貿易センターやペンタゴンへの攻撃に関する疑惑を封印、03年3月にアメリカ主導軍がイラクを先制攻撃する前に広めた「大量破壊兵器」という偽情報、11年春に始めたリビアやシリアへの侵略戦争でも偽情報を西側の有力メディアは流していた。本ブログで繰り返し書いてきたことなので詳細は割愛するが、彼らはそうした存在なのだということを忘れてはならない。SARS-CoV-2(重症急性呼吸器症候群コロナウイルス2)の問題でも彼らは欧米の巨大資本のプロパガンダ機関として機能していると言えるだろう。
https://plaza.rakuten.co.jp/condor33/diary/202011250001/


4. 中川隆[-9436] koaQ7Jey 2020年12月08日 10:22:50 : lLc7YEFIro : MUlJdEVVZjhSQ2c=[7] 報告


2020.12.08
グローバルNATOに組み込まれ、中国やロシアと戦争する道を進む日本
https://plaza.rakuten.co.jp/condor33/diary/202012080001/

 日本、アメリカ、フランスは来年5月に合同軍事訓練を実施、またイギリス海軍が空母クイーン・エリザベスを中心とする空母打撃群を来年初めにも南西諸島周辺を含む西太平洋へ派遣すると伝えられている。こうした場合、日本政府は尖閣諸島の領有権問題を口実に使うが、勿論、表面的な口実にすぎない。

 本ブログではすでに書いたことだが、アメリカとその従属国はグローバルNATOなる戦略を打ち出している。その内容はNATOの事務総長を務めるイェンス・ストルテンベルグが説明した通りだろう。

 ストルテンベルグは今年6月8日、NATO2030なるプロジェクトを始めると宣言した。NATO(北大西洋条約機構)の活動範囲を太平洋へ広げ、オーストラリア、ニュージーランド、韓国、そして日本を巻き込む計画を明らかにしたのだ。

 11月17日にオーストラリアのスコット・モリソンは東京で菅義偉首相と会談、その後で両者は日本とオーストラリアが相互アクセス協定(RAA)の大筋で合意したと発表し、その日にアメリカ、オーストラリア、インド、そして日本の4カ国の海軍が北アラビア海で艦隊演習を開始した。NATO2030は始動している。

 NATOは1949年4月に創設された軍事同盟で、最初のメンバー国はアメリカ、カナダ、イギリス、フランス、イタリア、ポルトガル、デンマーク、ノルウェー、アイスランド、ベルギー、オランダ、そしてルクセンブルク。

 アメリカは1951年9月1日にオーストラリアやニュージーランドとサンフランシスコのプレシディオでANZUS条約に調印、同年9月8日には日本と同じ場所で安保条約に調印している。このふたつの軍事同盟をアメリカは一体化させようとしているのだろう。

 NATOが組織された表面的な目的はソ連軍の侵攻に備えることだが、その当時のソ連に西ヨーロッパへ攻め込む能力はなかった。ドイツとの戦いで疲弊していたからだ。

 イギリスの首相を務めていたウィンストン・チャーチルはドイツが降伏した直後、JPS(合同作戦本部)に対してソ連を奇襲攻撃するための作戦を立てるように命令、アンシンカブル作戦が作成された。

 その作戦によると、7月1日にアメリカ軍64師団、イギリス連邦軍35師団、ポーランド軍4師団、そしてドイツ軍10師団で「第3次世界大戦」を始めることになっていた。この作戦が実行されなかったのは参謀本部が拒否したからだと言われている。

 その当時、イギリスとアメリカは原子爆弾の開発が進められていた。マンハッタン計画だが、それを統括していたアメリカ陸軍のレスニー・グルーブス少将は1944年、ポーランドの物理学者ジョセフ・ロートブラットに対し、計画は最初からソ連との対決が意図されていると語ったという。(Daniel Ellsberg, “The Doomsday Machine,” Bloomsbury, 2017)

 アメリカのフランクリン・ルーズベルト大統領は反ファシズムで、反コミュニストでロスチャイルド系金融機関と関係が深いチャーチルよりソ連のヨシフ・スターリンに近かったと言われている。ルーズベルトが1945年4月に急死した際、スターリンはチャーチルに毒殺されたのではないかと疑ったとも言われている。

 アンシンカブル作戦が中止になった後、1945年7月16日にアメリカのニューメキシコ州にあったトリニティ実験場でプルトニウム原爆の爆発実験が実施されて成功、副大統領から大統領に昇格していたハリー・トルーマンは原子爆弾の投下を7月24日に許可し、広島と長崎へ投下された。これはソ連を意識した爆撃だった。

 この当時、アメリカにはチャーチルの仲間がいた。1933年から34年にかけてルーズベルトを排除してファシズム政権を樹立させるクーデターを計画したウォール街の金融機関を中心とする富豪たちだ。

 こうしたイギリスやアメリカの支配者はユーラシア大陸の周辺部を支配して内陸部を締め上げるという長期戦略を持っている。おそらく19世紀には存在していた。それをまとめ、1904年に発表したのが地政学の父と呼ばれるハルフォード・マッキンダーだ。

 マッキンダーの理論の詳細は割愛するが、ジョージ・ケナンの「封じ込め政策」やズビグネフ・ブレジンスキーの「グランド・チェスボード」もその戦略に基づいている。アメリカはその戦略を実行する軍事的な主体をグローバルNATOにしようとしているわけだ。それがNATO2030。

 こうした戦略のターゲットには中国だけでなくロシアも含まれる。ここにきてロシアは択捉島に防空システムS-400V4を配備したというが、アメリカ側の動きを考えれば当然だろう。

 ソ連が消滅した直後の1992年2月、国務次官だったネオコンのポール・ウォルフォウィッツを中心に国防総省ではDPG草案という形で世界制覇プランが作成された。いわゆるウォルフォウィッツ・ドクトリンである。

 そのドクトリンに基づき、1995年2月にジョセイフ・ナイ国防次官補は「東アジア戦略報告(ナイ・レポート)」を発表、それ以降、日本はアメリカの戦争マシーンに組み込まれてきた。そして現在、アメリカの支配者によって自衛隊は中国軍やロシア軍と対峙させられようとしている。「新型コロナウイルス」という蜃気楼に怯えていられるような状況ではないのだ。

https://plaza.rakuten.co.jp/condor33/diary/202012080001/

5. 中川隆[-9410] koaQ7Jey 2020年12月09日 08:27:56 : hL0yAobYvA : Z0UuOENibGdrenM=[11] 報告
2020.12.09
真珠湾攻撃の直前、石油を目的に始まったマレー作戦で太平洋の戦争が勃発
https://plaza.rakuten.co.jp/condor33/diary/202012090000/

 日本軍がハワイの真珠湾を奇襲攻撃したのは現地時間で1941年12月7日午前8時、マレーシア北端の港町コタバルを奇襲攻撃したのは現地時間で1941年12月8日午前1時のことだった。UTC(協定世界時)に直すとハワイは7日の18時、コタバルは7日の17時。つまり太平洋で日本軍が戦争を始めたのはコタバルが最初だということだ。

 当時の日本にとってもエネルギー資源、つまり石油の確保は重要な問題だった。戦争を始めるとなればなおさら。アメリカと戦争を始めると3年目から石油が不足すると見通されていた。

 戦争に突入していない段階でも日本に対する石油禁輸を実施すれば似た状況になることは明らか。対日石油禁輸は「日本をインドシナに駆り立てる」とアメリカのフランクリン・ルーズベルト大統領も考え、1941年8月の段階では石油禁輸に賛成していなかったという。1937年より前の日本に対する石油輸出量は維持するとしていたようだ。そうした中、アメリカの財務省が石油代金の支払い方法で日本に圧力を加えた。(岩間敏、戦争と石油(1)、石油・天然ガスレビュー、2006年3月)

 東南アジアにおける石油生産量が多かったのはボルネオ、ジャワ、スマトラといったインドネシア。ルーズベルトの判断は常識的なものだ。他国を侵略したり、その国の資源を奪うため、イギリスは様々な布石を打つ。例えばその地域を分断し、傭兵を雇うが、日本は単に軍隊を送り込んだ。大悪党と小悪党の違いと言えるだろう。

 ドイツの場合、アメリカと戦争になってもロックフェラー系のスタンダード石油から石油を買っている。同社はベネズエラにあった支社からスイス経由でドイツ占領下のフランスへ売り、そこからドイツへ運んでいたという。日本の場合も事前に推測されたような劇的な減少はなかったようだ。

 日本とアメリカが戦争を始める前、アメリカ陸軍は電子情報機関SIS(通信情報局)は日本もターゲットにしていた。日本の外務省は自分たちが使っていた暗号機B型(パープル)は解読不可能だと信じていたようだが、ドイツの外交官ハンス・トムセンはその暗号をアメリカが解読していることを気づいてヨアヒム・フォン・リッベントロップ外相へ報告、1941年12月より前に、その情報は日本側へ伝えられている。それにもかかわらず、日本の外務省はパープルを使い続けた。1942年3月には日本海軍が使っていた呂暗号(JN-25)が解読され、6月に実行されたミッドウェー諸島攻略作戦の内容をアメリカは事前につかんでいたのだ。
https://plaza.rakuten.co.jp/condor33/diary/202012090000/

6. 中川隆[-9276] koaQ7Jey 2020年12月16日 12:55:25 : 4CCrES0a6E : bXliWEQxU29sZEk=[12] 報告
帝政ロシアから大量のユダヤ移民がアメリカに逃げてきて共産主義者になっていった

ジョージ・ソロスやビル・ゲイツが資金提供する極左組織「アドバスターズ」の陰謀とは? ユダヤ系金融家の真の目的…ジェームズ斉藤が解説
2020.08.18
https://tocana.jp/2020/08/post_167074_entry.html


【連載:某国諜報機関関係者で一切の情報が国家機密扱いのジェームズ斉藤(@JamesSaito33)が斬る! 国際ニュース裏情報】


■ソロスやビル・ゲイツがバックアップする極左組織

──今、アドバスターズという極左組織がワシントンD.C.で不穏な計画を立てているということですが。

ジェームズ斉藤(以下、ジェームズ) 9月17日から大統領選投票日の11月3日までホワイトハウスを包囲するWhite House Siege戦を展開するとホームページで宣言しています。彼らは2011年にオキュパイ・ウォールストリートやオキュパイ・ワシントンD.C.を行っています。9年前の戦いをもう一度復活させるつもりでしょうね。シアトルやニューヨークのCHAZ運動はこのための地ならしだった可能性が高いです、実際CHAZもオキュパイ・シアトル、オキュパイ・NYシティホールと言ってましたから。

──アドバスターズ(ADBUSTERS)ってどんな組織なんですか? 

ジェームズ AD=広告をバスターするという無広告の極左系カルチャー雑誌で、カナダが本拠地です。創設者のカレ・ラースンは旧ソ連時代のエストニアの生まれで奥さんは日本人です。60年代には日本でマーケットリサーチの会社を経営してました。

──それって広告業界の人ってことですよね? 電通とかとも関係してるんですか?

ジェームズ 直接の取引はなかったみたいです。ただ、世界各国でテレビの広告枠を買い取って、そこで「今日は何も買わない日、無買デーにしましょう」というメッセージを流しています。反消費社会を謳う極左ですね。かなり変わった人で、自著『カルチャージャム』には、スーパーマーケットのショッピングカートのコイン投入口に曲げたコインを突っ込んで使えなくしてすっきりしたと書いています。これが都市生活を快適に生きる方法らしいです。ほかには気に入らない企業のホームページにメール爆弾を送れとか、ビルの壁に落書きしろといったことを書いています。

──面倒臭いモンスタークレーマーじゃないですか。

ジェームズ そうです。不思議なのは、そんなことしかやっていないのに、テレビの広告枠を買ったり、雑誌を作ってることです。資金の出処を調べてみたところ、お馴染みのジョージ・ソロスやビル・ゲイツらCIA左派勢力の名前が出てきました。彼らがバックアップしてます。

──単純な話、彼らがやってることって選挙妨害にならないんですか?

ジェームズ 当然なります。極左側はトランプが占拠妨害だといって軍や警察を動員し、徹底的に弾圧してくるのを待っています。米国版天安門事件にしようと画策しているんです。もちろん、トランプ側もそれはわかっているので、まずは司法省が極左勢力を国内テロ組織として正式に認定し、その後に破壊活動が制御のきかない状態になるまで待って、軍を投入するはずです。すでにアドバスターズ側にはトランプ側のスパイが浸透している可能性もあります。


■アメリカの共産主義者の実態はユダヤ移民?

──とはいってもトランプ陣営は結構追い詰められていませんか?

ジェームズ CNNやMSNBCなどの主要メディアは完全に極左なので当てになりません。実際、シアトルやポートランドなどの暴動はCNNなんかが伝えるような平和的なものではないですし、現在でも続いています。

──それにしても不思議なのは、なぜアメリカに共産主義者がこんなにいるんですか? メディアも含めて、かなりの勢力だと思うんですけど。 

ジェームズ もともとは19世紀末に、帝政ロシアから大量のユダヤ移民がアメリカに逃げ込んできたことが原因です。帝政ロシアは歴史的にユダヤ人を迫害してきているので、200万人以上のユダヤ人が国外に逃げています。彼らがアメリカに逃げてきて共産主義者になっていったんです。

──なぜ共産主義者になったんですか? 別に資本主義でもいいんじゃないんですか?

ジェームズ 逃亡ユダヤ人たちはレーニンの共産革命をユダヤ開放運動と見ていたんです。

──あっ、そうでした! マルクスもレーニンもユダヤ人でした。

ジェームズ そうです。共産主義はユダヤ人が作ったものです。実際、トロツキーもニューヨークに一時亡命してたくらいで、アメリカに逃げてきたユダヤ人は共産革命を応援していたんです。ところが、スターリンが現れてボリシェヴィキ党を乗っ取ると、再び、ユダヤ人を虐殺する大粛清を始めたので、トロツキーもニューヨークに逃げてきたんです、結局、暗殺されますけど。そこで、アメリカのユダヤ人たちはソ連を捨てて、アメリカで共産革命を起こすことを画策するんです。

──やっとわかってきました。アメリカで本物の共産革命=ユダヤ解放運動を実現させようとしているんですね。

ジェームズ そうです。ただし、彼らがやろうとしているのはマルクスレーニン主義ではありません。現在の共産主義はグラシムの文化マルクス主義に基づいています。グラシムとは1920〜30年代のイタリアの共産主義者アントニオ・グラシムのことです。彼はイタリアで共産革命を起こそうとしたのですが、イタリアはムッソリーニのファシズムを選びました。その失敗から、マルクス・レーニン主義の唯物論に限界を感じ、労働者が資本家を倒し、物質の再分配を促すのではなく、支配者側の文化や価値観を破壊することが共産革命につながると唱えました。なので、彼らはいまアメリカの文化を破壊しているのです。BLM(Black Lives Matter)やキャンセル文化がその典型です。

──キャンセル文化というと、重箱の隅をつついて否定のための否定しかない、まともな話ができない人たちですね。

ジェームズ どこの国でも極左はそんな人たちばかりです。ヒラリーとオバマはこのグラシム流革命論を研究しました。特にオバマは、文化マルクス主義を恣意的に歪ませています。寛容性を逆手に取って自分の極左的価値観を押し付けてくるのです。例えば、BLMは正しいですが、ALM(All Lives Matter)は白人のわがままだという風潮を作り出します。ALMでは黒人に対して不寛容だという主張です。それを日米の主要メディアはそのまま無批判に受け取ってしまうのです。

──反対しにくいですしね。

ジェームズ 寛容性を謳った瞬間、反対意見を言えない雰囲気を作り出すからです。議論をさせない、オバマのそのやり方は非常に汚いです。はっきり言いましてtolerance(寛容性)、kindness(親切さ)などを口にする勢力は信用しないほうがいいですね。これらの用語は極左勢力のキーワードです。日本ですと、辻元清美、福島瑞穂あたりが口にするレベルの言葉です。

──ということは、もしかして、バイデンが選んだ民主党の副大統領カマラ・ハリスはアメリカの福島瑞穂って感じで捉えるとわかりやすいんですか? 

ジェームズ いえ、アメリカ民主党全体が福島瑞穂レベルの議論しかしていません。ハリスは福島瑞穂というよりも、前法務大臣で死刑反対派だったのに大臣になった途端に死刑を実行した「民主党の死刑執行人」千葉景子に似ています。

──千葉景子(苦笑)。それはかなり最低感がありますね。

ジェームズ アメリカの政治は日本と基本的にほとんど変わりません。例えば、アンティファは日本でいうところの「しばき隊」です。ただし、資金力と動員力で決定的な差がありますが。BLMも日本で活動していますが、これは東京にあるアメリカ民主党の日本支部が裏で糸を引いています。アドバスターズも日本に支部があるようです。

──対岸の火事じゃないんですね。

ジェームズ 日本にいるアメリカ人で大学院生、教授、英会話の講師などは要注意です’(※全員ではありません)。彼らは本国でやっていけないので日本に住み着き、しかも時間をもてあましていますので、極左活動をする傾向にあります(※あくまでも傾向です)。実際、私の知っているアメリカ人大学院生は日本に留学し、極左活動をしていました。

■ユダヤ系金融家の真の目的

──再び、アドバスターズに戻りますが、彼らはオキュパイ・ウォールストリートをやってるんですよね? でも、ウォールストリートって民主党系を応援しています。つまり左派なんじゃないんですか?

ジェームズ いえ、ウォールストリートは右でも左でもありません。彼らは儲けで判断しますので、あまりイデオロギー的ではないです。イデオロギー的なのはジョージ・ソロスのような金融家です。さっきも言ったようにユダヤ系金融家の多くは歴史的に極左勢力です。また、金融の本質は売買損益で儲ける仕組みなので、常に変動を誘発する極左のほうがありがたいというのもあるんです。ただし、極左ではない、保守系ユダヤもいて、彼らはトランプ側の主要な支持層になっています。


画像は「Getty Images」より引用
──ウォールストリートと金融家は分けて考えるんですね。

ジェームズ 同じ場合もありますけど、まったく同じものではないです。ウォールストリートはただの金の亡者なので右にも左にも転ぶということです。

──ただ、ユダヤ系金融家は金融市場を維持したいわけじゃないですか? ということは、本当に共産主義になるのはゴメンのはずですよね。市場がなくなってしまいますから。つまり、極左の金融家にしても本音は共産化はイヤで、ただカオスが作りたいだけの、なんちゃって極左ですか?

ジェームズ そうです。ただし、ユダヤ系金融家はアメリカなどの主要な金融市場だけが維持できればいいのです。彼らにとっての辺境であるロシアなどが共産化するのは問題ないです。逆に積年の恨みがある土地なので、共産主義化して潰れてしまえと思っているくらいです。また、中共に関しては政治が儒教的共産主義なだけで、経済は実質資本主義ですから、中共はユダヤにとってとても都合がいいんです。

──いろいろバッググランドがわかってきました。最後に、この選挙はどうなりそうですか? こんなに暴動が起きてどちらが勝つにしてもただでは済みそうにはないんですが。

ジェームズ いまの状況はリンカーン大統領を選出した1860年の大統領選挙に似ています。この時は共和党のリンカーンが勝って第16代大統領になったのですが、これを不服とする南部州が合衆国から分離し、南北戦争にまで発展しています。今年の大統領選はすでに分離運動の暴動が起き、死者も出ています。ですから、どちらが大統領になったとしてもその後、流血騒ぎになる可能性は高いと思っています。そのぐらい今年の大統領選はカオスです。

文=ジェームズ斉藤

7. 中川隆[-8212] koaQ7Jey 2021年1月16日 15:07:42 : rerJEANHFY : aXNjZy9RLkFCLk0=[20] 報告


2021.01.16
言論統制に関する話をするツイッターCEOの映像が明らかに
https://plaza.rakuten.co.jp/condor33/diary/202101160000/


 ツイッターはドナルド・トランプ米大統領のアカウントを1月6日に閉鎖したのに続き、1月12日から「QAnon」に関係していると見なされた7万以上のアカウントの使用を停止した。こうした傾向はフェイスブック、ユーチューブ、グーグルといったシリコンバレーの巨大企業全般で見られる。

 その間、1月8日にツイッターCEOのジャック・ドーシーは多くのアカウントを長期にわたって使えなくすると内輪で語っている。その様子を内部の人間が秘密裏に撮影、それをジェームズ・オキーフの​プロジェクト・ベリタスが公開​した。

 私企業、あるいは私的権力がアメリカ大統領の情報発信を阻止する力を持ったということにほかならない。フランクリン・ルーズベルト大統領は1938年に私的権力が国を凌駕する力を持つ危険性を指摘、そうした状態をファシズムと定義したが、そうした状態になっている。

 ルーズベルトの同志であり、1945年1月まで副大統領を務めていたヘンリー・ウォーレスはアメリカがそうした方向へ向かっていると懸念していた。1944年4月にニューヨーク・タイムズ紙に載せた意見の中で、アメリカをファシズムの脅威が襲うピークは第2次世界大戦の後だと指摘、ファシストは米英を帝国主義化し、ソ連との戦争へとアメリカを向かわせると彼は見通している。

 このウォーレスは1944年7月に開かれた民主党の党大会で副大統領候補から外されてしまう。党幹部の意向が反映されたのだが、選ばれたのはルーズベルトとの関係が薄く、意見を交換することもほとんどなかったというハリー・トルーマン。この人物のスポンサーだったエイブラハム・フェインバーグはイスラエルの建国や同国の核兵器開発を支援し、ダビッド・ベングリオンから信頼されていた富豪として知られている。

 1944年11月7日に実施された大統領選挙でルーズベルトが勝利するが、翌年の4月12日に急死、トルーマンが大統領に昇格した。第2次世界大戦でドイツ軍は戦力の4分の3をソ連侵攻作戦に投入したが、スターリングラードでソ連軍に敗北、1943年1月に降伏。この時点でドイツと日本は1943年「死に体」の状態だった。ドイツと日本の降伏が正式に決まれば、アメリカ国内でファシストを支援していた勢力、つまり金融を中心とする巨大資本に対する取り調べが始まる可能性が高い。

 しかし、そうしたことは行われなかった。ルーズベルトがドイツ降伏の前月に死亡、しかも副大統領が反ファシストのウォーレスではなくトルーマンだったためだ。戦後、始まったのは「レッドパージ」という反ファシスト狩りだった。

 その間、大戦の終盤にアメリカ支配者の代理人、アレン・ダレスたちは大統領に無断でナチスの幹部らと接触、善後策を協議している。サンライズ作戦だ。ナチスの幹部や協力者を逃走させたラットラインは有名だが、逃がすだけでなく、保護、そして雇用する。ブラッドストーン作戦やペーパークリップ作戦などだ。

 大戦後もファシストの黒幕は失脚せず、影響力を強めていく。そして今、世界は私的権力が直接支配するファシズム体制に足を踏み入れた。大統領選挙におけるジョー・バイデンの「勝利」でその実態が明らかになっている。

https://plaza.rakuten.co.jp/condor33/diary/202101160000/

8. 中川隆[-7739] koaQ7Jey 2021年1月26日 18:17:13 : lIXiw6cEL6 : U1U0UVNGWWllT2M=[24] 報告
国民への現金給付、効果低く非効率…米国、低スキルの失業者にも仕事を提供、財源は国
https://biz-journal.jp/2021/01/post_204305.html
2021.01.26 05:40 文=藤和彦/経済産業研究所コンサルティングフェロー Business Journal


米ホワイトハウスのHPより

 1月20日、ジョー・バイデン氏は第46代米国大統領に就任した。就任の際の演説で「結束(unity)という言葉を連呼したように、現在の米国の分断状況は極めて深刻である。バイデン大統領の就任式を視聴した米国人は、ドナルド・トランプ前大統領の就任時に比べ約150万人多い約4000万人だった(1月21日付ニューヨークタイムズ)が、肝心のトランプ支持者には「結束」というメッセージはほとんど届いていないといわれている。

「言葉よりも行動が大事」ということで、バイデン政権は早速フル稼働し始めている。バイデン大統領は22日、低所得者向けの食料援助を増額したり、受給者を広げることができるよう、関係省庁に指示を出した。米国では14%の世帯が「食べ物が十分にない」との調査結果があり、大きな社会問題になっているからである。

 このようなバイデン政権の動きをトランプ支持者たちはどのように見ているのだろうか。トランプ支持者が忌み嫌っている言葉は「中絶」と「社会主義」だといわれている(1月20日付AERA.dot)。新型コロナウイルスのパンデミックが引き起こした大不況を乗り越えるためとはいえ、バイデン政権の貧民救済策を彼らは「極めて社会主義的」だと苦々しく思っていることだろう。

■社会主義運動の中心地だった米国

 そもそもトランプ支持者をはじめ多くの米国人は、なぜここまで「社会主義」を嫌っているのだろうか。意外なことに米国は19世紀末まで世界の社会主義運動の中心地だった(1月14日付ニュースソクラ)。1848年の欧州各国での市民革命に失敗した社会主義者たちが米国に逃れてきたことが始まりだが、米国で最初のマルクス主義政治組織が創建されたのは1857年であり、73年には第一インターナショナルの本部がロンドンからニューヨークに移転されている。南北戦争後しばらくの間、米国は世界の社会主義運動の中心地だったが、米国での社会主義運動は根付くことはなかった。

 1862年に「ホームステッド法(5年間定住して農業を営むと160エーカーの土地が与えられるという内容)」が制定されたからである。賃金労働者たちは自営農民になれるチャンスを目指して西海岸などに殺到し、所有地から金や石油が出れば一夜にして富豪になれる事例が相次いだ。「おのれの才覚と幸運だけで巨万の富を得ることかできる」というアメリカンドリームのせいで米国の社会主義運動は担い手を失ってしまい、その状況は現在まで続いているのである。

 トランプ支持者は都市部より農村部に多く、彼らにとって、神によって平等に創られた人々が、自由に競争して、その結果格差が生じてもそれは悪いものではない。「平等の実現」に政治的な意味を見いだしていないトランプ支持者だが、アメリカンドリームに幻滅を感じ始め、行き詰まりを感じているという。ホックシールド・カリフォルニア大学バークレー校名誉教授は、大学教育を受けていない白人男性をはじめとするトランプ支持者の胸の内を次のように描写している(1月23日付クーリエ・ジャポン)。

「俺は社会の下層に追いやられつつある。あいつら(民主党支持者)は俺たちの運送業や生産業をオートメーション化しやがるが、俺には新たな職につけるだけの教育もない」

■意義ある「雇用」の創出が重要

 トランプ支持者にとっての悩みは「雇用」なのである。バイデン政権は、「国民1人当たり最大1400ドルの現金給付」を目玉とする追加の経済対策を目指しているが、はたして効果はあるのだろうか。

 米国の給与所得が2020年3月から11月にかけて累計で3300億ドル減少したのに対し、失業給付の上乗せや国民向けの一時金給付などが1兆ドルにも上っている。可処分所得が結果的に6700億ドル増加したが、昨年11月時点の消費は、2月の水準を2%以上、下回っている。

 給与所得の減少の3倍もの支出増にもかかわらず、雇用の回復も止まってきており、このような財政支出は非効率的であるといわざるを得ない。雇用を増やすためには投資の増加が不可欠だが、民間企業にできる投資は限られている。政府が率先して投資主体とならない限り、雇用が拡大する状況にはないのである。

 バイデン大統領が尊敬しているルーズベルト大統領は、1930年代の大恐慌期に大規模な公共事業の実施を通じて800万人以上の雇用を創出したとされているが、筆者が注目しているのは、サンダース上院議員の経済顧問を務めるケルトン・ニューヨーク州立大学教授が提唱する「地域密着型の公共サービス雇用制度」である。

 この制度はまず最初に地域の人々自身がコミュニティーなどのケア(世話)に必要な具体的な仕事を決める。これを踏まえ、基礎自治体は仕事の案件のストックをつくり、さまざまなスキルや関心を持った失業者に対して適切な仕事(時給15ドル以上、就労形態は自由)を提供する体制を整備する。必要な財源は、中央政府(労働省)が確保するというものである。

 このようなやり方であれば、低スキルが災いして労働市場に参入できないでいるトランプ支持者に対しても意義のある仕事を提供できるのではないだろうか。バイデン大統領は就任式で「民主主義が勝利した」と力説したが、 現在の間接民主主義という制度は、あくまでも統治形態の一つにすぎない。フランス革命以降、人々が求めていたのは、理念やイデオロギーの実現ではなく、物質的な生活条件の向上であったことを忘れてはならない。民主主義の実現自体が目的だったのではなく、万人の利益を保証する全体システムの構築が本来の目的だったはずである。

 バイデン政権は、意義ある「雇用」の創出を通じてのみ、米国社会の「分断」を癒やすことができると肝に銘じるべきである。

(文=藤和彦/経済産業研究所コンサルティングフェロー)

9. 中川隆[-7737] koaQ7Jey 2021年1月26日 18:42:04 : lIXiw6cEL6 : U1U0UVNGWWllT2M=[26] 報告
【ゆっくり解説】ニューディール政策は失敗だった?


10. 中川隆[-7043] koaQ7Jey 2021年2月27日 12:08:57 : d0iBYUDfQo : UXE3bmpyektNRms=[9] 報告
衰弱したFDR(フランクリン・D・ローズヴェルト)に囁きながら背後で操っていたハリー・ホプキンス(Harry L. Hopkins)


ハリー・ホプキンス
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%8F%E3%83%AA%E3%83%BC%E3%83%BB%E3%83%9B%E3%83%97%E3%82%AD%E3%83%B3%E3%82%B9

ハリー・ロイド・ホプキンス(Harry Lloyd Hopkins、1890年8月17日 - 1946年1月29日)は、フランクリン・ルーズベルト大統領の側近で、商務長官(1938-1940年)を務めた。ニューディール政策においては、公共事業促進局を拠点に失業者の救済プログラムの作成を行った。また第二次世界大戦中は、ルーズベルトの外交顧問としてレンドリース法の策定を初め、アメリカ合衆国の戦時戦略の遂行に重要な役割を担った人物である。


アイオワ州生まれ。1912年、グリネル大学卒業。ニューヨーク市の児童福祉局、アメリカ赤十字、ニューヨーク貧困状態改善協会(the New York Association for Improving the Condition of the Poor: AICP)や結核協会(the New York Tuberculosis Association)などで社会福祉・公衆衛生政策の策定や運営に携わる。

1930年代に入り、緊急救済局(TERA)での働きが、当時ニューヨーク州知事を務めていたルーズベルトの目に留まり、ルーズベルトとの親交が深め、彼の側近としての地位を築いていった。ルーズベルトの大統領就任とともに、ワシントンD.C.政界入りし、連邦緊急救済局や公共事業促進局の長官として失業者対策を中心にニューディール政策の実施に尽力した。1938年から1940年まで商務長官を務めた。

第二次世界大戦が勃発すると、ホプキンスは、ルーズベルトの非公式な特使(その言動を議会や合衆国憲法に規制されない大統領直属の非合法工作員ともいうべき立場)として、カイロ会談、テヘラン会談、ヤルタ会談に同行し、チャーチルやスターリンら連合国首脳との調整役として活躍した。なお大戦中、ソビエト連邦要人と頻繁に接触していた(世界最大級の資本主義国家の要人でありながら、些細なスパイ嫌疑で自国民すら大量に虐殺していたソビエト政府に期待と信頼を寄せられるという不可解な立場にあった事を意味する)ため、ホプキンスに対し、いかなる経緯でこれほどまでにソ連側の信頼を得るに至ったのかという疑惑が向けられた。彼がルーズベルト時代に推し進めた外交政策の多くがソ連による共産圏の維持と拡大への支援となっていたという事実に照らして実はソ連のスパイではなかったのか、あるいは世界を資本主義と共産主義に分割して冷戦を演出しようとしていた何者かの工作員だったのではと噂されるに至っており、アメリカ陸軍のジョージ・ジョーダン少佐から「アメリカの最高機密であった原爆情報をスターリンに届けていた」と著作(From Major Jordan's diaries)の中で告発されるなど、その背後事情や真偽に関して様々な論争がある[1]。

1946年1月29日、ニューヨーク市で胃癌のため死去。

関連文献
ロバート・シャーウッド『ルーズヴェルトとホプキンズ』村上光彦訳、新版・未知谷、2015年

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%8F%E3%83%AA%E3%83%BC%E3%83%BB%E3%83%9B%E3%83%97%E3%82%AD%E3%83%B3%E3%82%B9

11. 中川隆[-6448] koaQ7Jey 2021年3月22日 08:41:45 : X81eBtetkw : cmZoNHAzcUppeHc=[13] 報告
副大統領から大統領に昇格したケースには、フランクリン・ルーズベルトが1945年4月12日に急死したことを受けて大統領になったハリー・トルーマン。
シオニストの富豪、エイブラハム・フェインバーグをスポンサーにしていた。

 実は、その年の1月まで副大統領は反ファシストで、ルーズベルトから信頼されていたヘンリー・ウォーレスだった。そのウォーレスを民主党の幹部が副大統領の座から引きずり下ろしていたのだ。

ルーズベルトが死んだ翌月にドイツが降伏。大戦後にアメリカではジョセフ・マッカーシー上院議員を中心に「赤狩り」というタグをつけた「反ファシスト狩り」が展開され、反ファシスト派は粛清されてしまう。その一方、CIAはナチスの元高官や協力者を救出、保護、さらに雇用している。

 イスラエルの核兵器開発に厳しい姿勢で臨み、ソ連との平和共存を打ち出し、インドシナからのアメリカ軍撤退を決めていたジョン・F・ケネディが1963年11月22日にテキサス州ダラスで暗殺された後、副大統領だったリンドン・ジョンソンが大統領に昇格している。ジョンソンのスポンサーもエイブラハム・フェインバーグだった。

 デタント(緊張緩和)を打ち出したリチャード・ニクソンの場合、ウォーターゲート事件で失脚、副大統領だったジェラルド・フォードが大統領に昇格する。フォード政権ではデタント派が粛清され、ネオコンが台頭してくる。

 ニクソンと大統領選挙を戦ったのはフォードでなく、スピロ・アグニューだった。このアグニューが汚職事件の捜査対象となって1973年10月に辞任、下院議員だったフォードに交代していたのだ。
https://plaza.rakuten.co.jp/condor33/diary/202103210000/

12. 中川隆[-5690] koaQ7Jey 2021年4月15日 12:56:10 : 2WCnPZKA5U : aFYyNHFXQVpEVEk=[19] 報告


2021.04.15
隠された経済苦境の先に見える「新たな関東大震災」による惨状
https://plaza.rakuten.co.jp/condor33/diary/202104150000/


 COVID-19(2019年-コロナウイルス感染症)のパンデミック騒動によって欧米を中心に社会が収容所化され、「デジタル・ワクチン・パスポート」の導入によって人びとの行動を監視する体制が整いつつある。

 その一方、生産活動や商業活動は麻痺、個人経営の店や中小企業を中心にして経営状態が悪化している。こうした事態になることは昨年1月13日に菅義偉首相が特別措置法に基づく緊急事態宣言を出した時点で見通されていただろう。

 そこで、​金融庁と日本銀行は4月16日に手形・小切手の不渡り処分を当面の間、猶予する特別措置を全国銀行協会に要請​、これを受けて同協会は翌日、新型コロナの影響を受けて資金不足で不渡りとなった手形・小切手について、不渡報告への掲載や取引停止処分を猶予するよう全国の手形交換所に通知した。

 手形や小切手の不渡りを同一手形交換所管内で6カ月以内に2回起こすと「取引停止処分」となり、その手形交換所の加盟金融機関から2年間にわたり当座取引や貸出取引ができなくなる。このルールが適用されなくなったわけだ。「不渡報告」への掲載も猶予される。

 しかし、手形や小切手の所持人に対する支払が猶予されるわけではなく、その所持人の手元に受け取れるはずの資金が入らない事実は変わらない。ルールや定義を変えても誤魔化しにすぎず、問題の解決にはならない。それでもそうした手法はとられてきた。福島第一原発の時ににも、COVID-19でも行われている。

 少なくとも一部の裁判所では申し立てを受理しても、緊急性のあるもの以外は事務処理の停止しているという。法的な手続きも含め、実態を隠すための方策であり、状況は改善されない。不渡りに関するルールは傷が全体に広がることを防ぐ方策でもあるわけで、今回の措置は副反応を伴う。アパレル大手のレナウンは先送りにすると傷口を広げると判断したのだろう。

 1923年9月1日に関東地方を襲った巨大地震によって10万5000人以上が死亡、あるいは行方不明になり、その損害総額は55億円から100億円に及んだと言われている。

 そこで政府は被災地関係の手形で震災以前に銀行割引したものを1億円限度の政府補償を条件として日本銀行が再割引した。これを利用して銀行は地震に関係のない不良貸付、不良手形をも再割引し、手形の総額は4億3000万円を上回る額に上る。その結果、1926年末でも2億円を上回る額の震災手形が残り、銀行の貸出総額の4割から7割が回収不能の状態だった。

 復興にも資金が必要な日本政府は外債の発行を決断し、責任者に選ばれた森賢吾財務官はJPモルガンと交渉を始める。このJPモルガンと最も緊密な関係にあったと言われている人物が地震直後の9月2日に大蔵大臣となった井上準之助。1920年の対中国借款交渉を通じ、JPモルガンと深く結びついていた。

 JPモルガンを指揮していたトーマス・ラモントは3億円の外債発行を引き受け、1924年に調印する。その後、JPモルガンは電力を中心に日本へ多額の融資を行い、震災から1931年までの間に融資額は累計10億円を超えている。

 日本に対する大きな影響力を手にしたラモントは日本に対して緊縮財政と金本位制への復帰を求め、その要求を浜口雄幸内閣は1930年1月に実行した。

 金解禁だが、その結果、1932年1月までに総額4億4500万円の金が日本から流出、景気は悪化して失業者が急増、農村では娘が売られるなど一般民衆には耐え難い痛みをもたらすことになる。

 そうした政策の責任者である井上は「適者生存」、強者総取り、弱者は駆逐されるべき対象だという考え方をする人物だった。現在の表現を使うならば、新自由主義の信奉者だった。失業対策には消極的で、労働争議を激化させることになる。

 JPモルガンの総帥はジョン・ピアポント・モルガン・ジュニアだったが、その妻のいとこ、ジョセフ・グルーが駐日アメリカ大使として来日する。

 グルーの人脈には松平恒雄宮内大臣、徳川家達公爵、秩父宮雍仁親王、近衛文麿公爵、樺山愛輔伯爵、吉田茂、牧野伸顕伯爵、幣原喜重郎男爵らが含まれていたが、グルーが個人的に最も親しかったひとりは松岡洋右だと言われている。松岡の妹が結婚した佐藤松介は岸信介や佐藤栄作の叔父にあたる。しかもグルーの妻、アリス・グルーは貞明皇后と親しかったと言われている。

 グルーが来日した1932年にはアメリカで大統領選挙があり、ニューディール派のフランクリン・ルーズベルトがウォール街を後ろ盾とするハーバート・フーバーを選挙で破って当選している。ウォール街にとって受け入れられない結果だった。

 大統領就任式の17日前、つまり1933年2月15日にルーズベルトはフロリダ州マイアミの演説会場で銃撃事件に巻き込まれている。銃撃犯はジュゼッペ・ザンガラ。彼が銃を構えたことに気づいた女性が腕にしがみつきながらハンドバッグで銃をはたいている。弾丸はルーズベルトの隣にいたシカゴ市長に命中、市長は死亡した。

 1934年夏、海兵隊のスメドリー・バトラー退役少将の下へ「コミュニズムの脅威」を訴える人物が訪ねてきた。その訪問者はJPモルガンと関係が深い人物で、ドイツのナチスやイタリアのファシスト党、中でもフランスのクロワ・ド・フ(火の十字軍)の戦術を参考にしてルーズベルト政権を倒そうと持ちかけた。

 彼らのシナリオによると、新聞を利用して大統領をプロパガンダで攻撃し、在郷軍人会を利用して50万名規模の組織を作って恫喝、大統領をすげ替えることにしていたという。

 指揮官になって欲しいと持ちかけられたバトラーは受諾する風を装って計画内容を聞き出し、それを信頼しているジャーナリストへ知らせ、そのジャーナリストは部下のポール・フレンチに調べさせる。フレンチはクーデター派から「コミュニズムから国家を守るため、ファシスト政府が必要だ」という発言を引き出している。

 こうした事実をバトラーとフレンチはアメリカ下院の「非米活動特別委員会」で証言し、モルガン財閥につながる人物がファシズム体制の樹立を目指すクーデターを計画していることを明らかにした。ウォール街の手先は民主党の内部にもいて、「アメリカ自由連盟」なる組織を設立している。

 ウォール街のクーデター派がバトラーに声をかけたのは、彼が名誉勲章を2度授与された伝説的な人物で軍隊内で信望が厚く、クーデターを成功させるためには引き込む必要があったからだが、この人選に反対する人もいた。憲法を遵守するべきだという考え方をする人物だったからだ。反対派が推していたのはダグラス・マッカーサーである。

 アメリカにファシズム体制を樹立しようとした巨大金融資本が関東大震災以降の日本を支配していたということにもなる。明治時代に日本へ戦費を用立てたクーン・ローブと同様、JPモルガンの背後にはロスチャイルドが存在している。

 COVID-19騒動を利用してWEF(世界経済フォーラム)のクラウス・シュワブは資本主義を大々的に「リセット」すると宣言した。西側の強大な私的権力が支配する新しい支配体制を築くということだろうが、その中核になると見られている団体が「包括的資本主義会議」。ローマ教皇庁と連携している。その中心的な存在であるリン・フォレスター・ド・ロスチャイルドはエベリン・ド・ロスチャイルドの3番目の妻だ。エベリンはロンドンを拠点とするNMロスチャイルド銀行の取り仕切ってきた人物である。

 COVID-19対策で日本経済は疲弊、今後、財政負担は国民の上にのしかかり、ウォール街やシティの金融資本に呑み込まれることになる可能性がある。日本にとってCOVID-19騒動は「新たな関東大震災」なのかもしれない。
https://plaza.rakuten.co.jp/condor33/diary/202104150000/

13. 中川隆[-5279] koaQ7Jey 2021年6月27日 06:39:20 : 09g8CAKyOE : dExIekMuL1J3cVk=[12] 報告
日露戦争で最も儲けた男〜国際金融資本による闇賭博の裏側「林千勝」
2021/06/26





【今、世界はどうなっている?】林千勝×水島総 第3回「ロスチャイルド家の手練、コロナとチャップリンのプロパガンダ戦略」[桜R3/6/19]
2021/06/19






14. 中川隆[-17597] koaQ7Jey 2021年8月01日 13:19:06 : bpJXXhrmJA : UTkxbGw4d0VLOW8=[32] 報告

2021年07月31日
ナチスを育てた米国の資本家 / 隠された西歐史
http://kurokiyorikage.doorblog.jp/archives/68866346.html


ヒトラーに資金を流した黒幕

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(左 : ドイツ兵を前にするヒトラー / 右 : ウォール街の大物 J.P.モルガン)

  西歐世界における歴史教育は非常に厄介だ。なるほど、歐米諸国では優秀な大学教授や有名な研究者が、膨大な資料に基づき様々な歴史書を出版してきたし、現在も続々と新刊本が出ている。かつてのソ連圏や支那、朝鮮で出版される歴史書なら、「こんなのは政治プロパガンダの一種だろう」と笑われてゴミ箱行になるところだが、名門大学の権威者が世に出した“学術書”となれば話は別だ。一般人は準聖書の如く扱い、謙虚な心を以て恭しくその青史を繙く。まさか、歴史の真実を隠蔽するための偽典とは思わない。なぜなら、多少、解釈や判断の違いがあっても、あからさまな捏造は無いからだ。しかし、高名な学者であっても、何らかの“不都合な事実”を葬るため、意図的に言及を避けたり、陰謀論として却下するから一般国民には注意が必要だ。

  従来の学校歴史観だと、英米はソ連を同盟国にして、極悪のドイツ、イタリア、日本を成敗したことになっている。さらに、英米の勝利は「ファシズムに対するデモクラシーの勝利」となっているから片腹痛い。なぜなら、どうして極悪の共産主義国、すなわち全体主義のソ連が同盟国となっているのに、リベラル・デモクラシーの勝利と宣言できるのか? しかも、アメリカは大虐殺を厭わない毛沢東を支援して、支那大陸の赤化を推進した張本人。朝鮮戦争だって、ディーン・アチソンやジョージ・マーシャルの不可解な言動を調べれば、米ソの「出来レース」だと判る。東アジアは米国から遠く離れた化外の地。冷たい“緊張状態”が続くことは、エスタブリッシュメントにとって必ずしも損な状態ではない。ノルマンディー上陸作戦だって甚だ怪しく、ポーランドを含めた東歐諸国をソ連に貢ぐための策略じゃないのか、と思えてくる。もし、本当に歐洲を救いたければ、フランスの海岸じゃなくバルカン半島から上陸し、北上しながら反撃すればいいじゃないか。英米の一般人は、ポーランドがヒトラーの手から解放され、スターリンの懐に入ったから嬉しいのか?

Normandy D Day 001WW II Battle-of-Stalingrad

(左 : 「ルマンディー上陸作戦」に参加したアメリカ兵 / 右 : 第二次大戦で勝利したロシア兵)

  もちろん、一般のアメリカ国民や連合軍の将兵は、米国と歐洲を救うべく、多大な犠牲を払ったと思っている。しかし、大戦が勃発する原因や経緯、戦後の経済体制や国際秩序を冷静に見つめてみれば、何となく割の合わない結果であることに気づく。普通のアメリカ人やイギリス人は絶対に口にしないけど、「どうも、腑に落ちない。日独に勝ったとはいうものの、俺達の生活は良くならないどころか、以前よりも悪くなっている。第一、ナチズムを一掃したら、今度は故郷に有色人種が増えちまった。アーリア人を殺して、アフリカ人が隣人なんて真っ平御免だぞ。これなら、ドイツと一緒に組んでユダヤ人を中東に叩き出しておけばよかった。あれだけ多くの血を流したのに、その結果がこの程度なんて・・・」と嘆いてしまう。そもそも、大戦前にブリテン帝國の崩壊と英国病を予想したイギリス人は、いったい何人いたんだ? また、南洋戦線で日本兵を撃ち殺した白人兵は、本国での人種平等、つまり黒人との混淆やユダヤ人との共生を望んでいたのか?

  第二次世界大戦の隠された目的は、独立を高めるドイツ帝國への懲罰処分にあった。我々はナチ・ドイツがヨーロッパ諸国を侵掠し、ユダヤ人を迫害したから、正義と秩序を守る英米が蹶起(けっき)した、と習っている。しかし、こんなのは子供騙しの御伽噺だ。大戦の理由は幾つかあるけど、そのうちの一つは、歐米世界を牛耳る闇組織の誤算にあった。ロスチャイルド家の指令を受けたウォーバーグ銀行が、レーニンのボルシェビキに資金を流したことはよく知られている。日本人は「ロシア革命」と思っているが、実質的には「ユダヤ人によるクーデタ」と呼んだ方がいいだろう。嘘だと思う日本人は、ボルシェビキの幹部を一人一人じっくりと眺めてみれはいい。

  ポグロムを以てユダヤ人を度々迫害してきたロマノフ朝ロシアは、ユダヤ人にとったら不倶戴天の敵であるから、一家皆殺しは当然の結果である。しかし、革命の目的はそれだけではない。ロシアの富を収奪しようとする連中にとって、買収の効かないロシア皇帝は邪魔者でしかなかった。もし、外国人勢力がロシアの天然資源を根こそぎ奪い、民衆を低賃金労働者にして搾取すれば、必ずやロマノフ王朝は介入してくる。おそらく、外国企業は国外追追放になってしまうだろう。でも、子飼いのレーニンが支配者になれば、共産党が唯一の窓口になるから、党の幹部に甘い汁を吸わせておけば、後は国際企業のやりたい放題。巨大な資金を有するオルガルヒのような悪党、つまりロシア人の“フリ”をしたユダヤ人が、ロシアの至る所で跋扈し、ロシアの石油や稀少金属を掘り出して巨万の富を得るだろう。もちろん、ボルシェビキの一般党員は「赤色革命」の輸出に夢中だ。しかし、裏から資金を流していた連中は違う野望を抱いていた。そして、世界政府の樹立を目論む大富豪は、レーニン亡き後の指導者にレフ・トロツキーを充てようと考えていたのだ。

Lenin 00321Trotsky 661Stalin 231


(左 : ウラジミール・レーニン / 中央 : レフ・トロツキー / 右 : ヨシフ・スターリン )

  ところが、グルジア人のヨシフ・スターリンが、国際金融業者の計画に大きなズレをもたらした。スターリンは巧妙な策略を用いてトロツキーを欺き、レーニンの葬儀に参列できないよう仕組んでしまう。意識朦朧のレーニンから「後継者の指名を受けた」スターリンは、独裁者として赤いロシアに君臨する。しかも、冷徹な目で現状を捕らえる大元帥は、トロツキーの永続革命論を斥け、一国社会主義で自分の土台を固めようと考えた。これはトロツキーを「操り人形」にしようと考えていた資金提供者にとっては番狂わせのパプニングだ。彼らはスターリンを甘く見ていたのかも知れない。知識人型のレーニンと違って、暴君型のスターリンは金持ちどものペットになる気は更々無かった。レーニンは資本家の足元にひれ伏したが、スターリンは彼らの尻(ケツ)を舐めるのが大嫌い。ユダヤ人のパトロンに頭を下げるくらいなら、自前で金を稼ぐ方がいいと考えた。実際、スターリンは金に困って強盗になったし、売春婦を搾取する女衒にもなっていた。やはり、革命家は暴力団の闘士でなきゃ。

  ボーダレス・エコノミーを夢見る資本家達は、「絶大な権力を手に入れたスターリンを何とか制禦しなければ !」と思い、このグルジア人を懲らしめる政敵を創ろうと考えた。そこで目に附けたのが、当時、まだ駆け出しの政治家であったアドルフ・ヒトラー。なんと、ロンドンやウォール街を牙城とする大物ビジネスマンは、現地の企業を通してヒトラーに活動資金を渡していたのだ。この経緯については、アンソニー・サットン教授が詳しく述べている。フーバー研究所に属していたサットン教授は、ウォール街とボルシェビキの関係を明らかにしたことで有名だ。彼の三部作を読めば、どんな人物がヒトラーのパトロンになっていたかが判る。

Anthony Sutton 1Emil Rathenau 002Walther Rathenau 001


(左 : アンソニー・サットン / 中央 : エミール・ラーテナウ / 右 : ヴァルター・ラーテナウ )

  ヒトラーの台頭を助けた企業として挙げられるのは、米国の有名企業である「ジェネラル・エレクトリック社(General Electric)」である。この会社はベルリンにある「ドイツ・ジェネラル・エレクトリック社(Allgemeine Electricitäts Gesellschaft / A.E.G.)」と提携し、国家社会主義者のヒトラーを支援するスポンサーになっていた。「A.E.G.」というのは、エミール・ラーテナウ(Emil Rathenau)がトマス・エジソンの特許を取得して設立した、「ドイツ・エジソン電器会社(Deutsche Edison Gesellschaft für angewandte Electricität)」が前身となっている。そして、エミールの息子というのが、ワイマール共和国で外相を務めたヴァルター・ラーテナウ(Walter Rathenau)ときている。彼は1922年に暗殺されてしまうが、元々は父親の跡を継いでA.E.G.の経営を担っていた人物だ。

  ドイツでA.E.G.をパートーナーにしていたのが、アメリカの「ジェネラル・エレクトリック(GE)」で、GEの経営陣には、日本でも有名なオーエン・ヤング(Owen D. Young)とジェラルド・スウォープ(Gerard Swope)がいた。第一次大戦後、ベルサイユ体制で痛めつけられたドイツは、不況とハイパー・インフレーションに見舞われ、賠償金の返済にも困っていた。これを憂慮したアメリカは、ドーズ案とかヤング案を用いてドイツの経済復興を助けようとした。当時のカルヴィン・クーリッジ大統領は、特別委員会を設置し、元銀行家で副大統領になったチャールズ・ドーズ(Charles Dowes)を委員長にしてドイツへ派遣する。オーエン・ヤングが議長となった委員会では、「ヤング案」という計画が作成され、これが新たな賠償方式となった。このヤング委員長はGEの会長で、復興支援を模索する傍ら、ドイツの電器産業を束ねる計画、すなわちカルテルを結成しようと目論んでいたのだ。彼は他の企業の経営にも携わっており、「Radio Corporation of America」の会長や「OSRAM」と「A.E.G.」の経営者、ニューヨークのFRB副議長も務めていた。(註 / 「オスラム : OSRAM」というのは、電球などの照明器具を製造するドイツ企業で、ここの日本法人は神奈川県にある。)

Owen D. Young 22Gerard Swope 001Charles Dowes 1


(左 : オーエン・ヤング / 中央 : ジェラルド・スウォープ / 右 : チャールズ・ドーズ )

  ジェラルド・スウォープはGEの社長で、「A.E.G.」や「OSRAM」の経営にも携わっていた。彼も様々な役職を兼ねており、RCA(ヤングが創設したラジオ局や電気機器、レコード会社を手掛ける多国籍企業)、NBC(三大ネットワークの一つ)、ニューヨークの「National City Bank」の経営陣にもなっていたが、ヤングと同じくモルガン商会の代理人であった。J.P.モルガンの手下は他にもいて、GEの経営陣に属するクラーク・ヘインズ・マイナー(Clark Haynes Minor)は、「International General Electric(I.G.E.)」の社長であった。ヴィクター・カッター(Victor M. Cutter)もGEの経営陣に加わっており、彼はボストンの「First National Bank」を任されていた。

  ドイツの経済界でカルテルを形成しようと図るGEは、大手企業のA.E.G.を傘下に納めようと画策した。1929年8月、1,400万マルク相当の株がGEの手に渡り、両者の人的関係や技術提携は濃密になった。1930年1月になると、A.E.G.の重役会議にはGEの三人衆、すなわちクラーク・マイナーとジェラルド・スウォープ、E. アーサー・ボールドウィン(E. Arthur Baldwin)が送り込まれた。(註 : ボールドウィンは「International General Electric Company」の副社長を務めていた。) GEの野望は壮大で、このアメリカ企業はドイツの大手企業である「シーメンス&ハルスケ(Siemens & Halske)社」にも食指を伸ばし、電器業界の独占を目指していたのである。しかし、GEの目論見は達成されず、シーメンス& ハルスケ社は独立を保つことができた。(このS&H社はシーメンス社の一部門で、かのシーメンス社は電気・通信技術をはじめ、発電機やロータリー・エンジンなどの開発も手掛ける大手企業。大正3年に発覚した「シーメンス事件」は有名で、帝國海軍の高官が贈賄を受けたとのスキャンダルが騒がれ、山本権兵衛内閣は総辞職に追い込まれた。)

  ウォール街からやって来た投資家や企業家は、貪欲にもドイツ企業の支配に励んでいた。GE社の「International General Electric(I.G.E.)」は、「A.E.G.」株の約30%を取得し、「Gesellschaft für Electrische Unternemungen」社の株だと全体の約25%、「Ludwig Lowe & Co.」も餌食となって、全体の約25%を占められていた。(「G.E.U」は投資会社から始まった電力供給会社で、鉄道事業も手掛けていたドイツ企業。「Ludwig Lowe」の方は、機械製造の会社で、武器弾薬の生産も行っていた。) IGEはOSRAMにも影響力を持ち、A.E.Gの経営陣を通して操っていたという。

  シーメンス社が間接的にヒトラーへ献金を行った事はあっても、直接的に渡したという証拠は無いらしい。でも、「A.E.G」や「OSRAM」からの資金提供は明らかで、「国家信託機構(Nationale Treuhand)」を介して資金を流していたそうだ。(Anthony C. Sutton, Wall Street and the Rise of Hitler, Seal Beach, California : '76 Press, 1976, p.53.) 米国のビジネス業界と連動するドイツ企業もヒトラーに資金提供をしており、染料や肥料、窒素の生産で有名な「I.G. ファーベン(Interessengemeinschaft Farbenindustrie)」も直接的に献金を行っていた。A.E.G.から数名の役員がI.G. Farbenに出向しており、A.G.Eの会長を務めるヘルマン・ブュヒャー(Hermann Bücher)とユリウス・フレッチハイム(Julius Flechtheim)、そしてヴァルター・フォン・ラス(Walter von Rath)の三名は、I.G. Farbenの重役でもあった。

  A.E.G.のウァルター・ファーレンホルスト(Walter Fahrenhorst)は、「フェニックス社(Pheonix A.G.)」や「ティッセン社(Thyssen A.G.)」、「デマグ社(Demag A.G.)」の重役を兼ねており、この三社はともにヒトラーへの献金を行っていたという。(上掲書、p.57) また、潜水艦や戦車に使われるバッテリーを製造していた「Accumulatoren Fabrik 社」もA.E.G.の重役二名、アウグスト・フェファー(August Pfeffer)とギュンター・クァント(Günther Quandt)を迎えており、2万5千ライヒス・マルクの献金をヒトラーに渡していた。ちなみに、クァントは「Accumulatoren Fabrik 社」が発行する株の75%を個人的に持っていたそうだ。A.E.G.のポール・マムロス(Paul Mamroth)とハインリッヒ・ファールス(Heinrich Pferls)は「OSRAM」の重役で、同社はヒトラーに4万ライヒス・マルクの献金を行っていた。

  鉄鋼業から始まり兵器産業へと進出した「クルップ社(Krupp)」も「I.G.E」と繋がっていた。GEは子会社の「Carbolony Company」を使ってクルップ社とカルテルを組み、「炭化タングステン(tungsten carbide)」の値段を吊り上げた。1920年代、この素材は1ポンド当たり50ドルしかしなかったのに、Carboloyが特許を用いて独占を図ると、1ポンド当たり453ドルまで高騰したという。これにより、両社は大儲け。I.G.E.と提携したクルップは、60万ライヒス・マルクの資金をヒトラーに提供していた。

  学校の教科書を疑わない日本人は、ナチスとヒトラーの話を聞けば、直ぐにホローストや侵略戦争を頭に浮かべてしまうが、「誰が伍長上がりの活動家に銭を渡したのか」を考えることはない。政治家になるには理念や情熱だけでは不充分で、必ず活動資金が必要となる。ユダヤ人の害悪を訴える退役伍長は、大企業の御曹司でもなければ、貴族の道楽息子でもない。露骨に言えば、大勢の乾分(こぶん)を抱えたルンペン親分だ。潰しの利かない武闘派の手下に飯を与えるだけでも精一杯。だから、アメリカやブリテンからやって来た怪しいビジネスマンでもOKとなる。「シドニー・ウォーバーグ(Sidney Warburg)」というペンネームで出版された『Financial Origins of National Socialism』によれば、ウォーバーグ自身が1929年から1933年にかけて、5回ほどヒトラーと会談し、このドイツ人が資金を欲していると分かったので、約2500万ドルを送金したという。

Paul Warburg 11James Paul Warburg 221max_warburg_1905Eric Warburg 11


(左 : ポール・ウォーバーグ / ジェイムズ・ポール・ウォーバーグ / マックス・M・ウォーバーグ / 右 : エリック・H・M・ウォーバーグ )

Mathilde Ludendorff 001(左 / マチルデ・ルーデンドルフ)
  もちろん、この「シドニー・ウォーバーグ」というのは実在の人物ではない。しかし、巷ではこの本がポール・ウォーバーグ(Paul Warburg)の息子であるジェイムズ・ポール・ウォーバーグ(James Paul Warburg)によって書かれたんじゃないか、という噂が流れた。なぜなら、第一次大戦で有名になったドイツ軍のエーリッヒ・ルーデンドルフ(Erich Friedrich Wilhelm Ludendorff)将軍の再婚相手で、未亡人となったマチルデ(Mathilde Friedrike Karoline Ludendorff)夫人が、ニュルンベルク裁判でジェイムズ・P・ウォーバーグがウォール街とナチスの橋渡しになっていた、と証言したからだ。しかし、マックス・M・ウォーバーグ(Max Moritz Warburg)の息子であるエリック・H・M・ウォーバーグ(Eric Hermann Max Warburg)は大激怒。マチルデ夫人の言説を「でっち上げただ!」と言い放った。この「シドニー・ウォーバーグの虚説」に対して憤慨したエリックは、これを掲載した各新聞社に抗議し、正式に取り消してもらったそうだ。(ロン・チャーナウ 『ウォーバーグ : ユダヤ財閥の興亡』 下巻、青木榮一 訳、日本経済新聞社、1998年、 pp.298-299.) 

  ちなみに、チャーナウの翻訳本は全訳ではなく、大切な「註」も省略しているので、本の価値が半減している。せっかくの労作なのに、肝心の註を省いたから台無しだ。まぁ、数頁にわたる脚注を附けると値段が高くなるから割愛したんだろうが、翻訳者の青木氏と日経新聞社はアホな事をしたものだ。

  話を戻す。「シドニー・ウォーバーグ」の本は元々、ネーデルラントのアムステルダムにある「Van Holkema & Warendorf」という老舗の出版社から刊行された書籍である。ところが、この小冊子は極めて少数しか販売されなかったので、今では稀覯本となっている。ただし、ここに隠れた価値を見出した人がいたので、スイスでドイツ語版が出版されたという。さらに、ドイツ語版を基にして英訳本が出版され、 1980年代に入って「Research Publications」が復刊した、という次第である。現在は、「Omnia Veritas社」が出版しているので、日本人でもアマゾンで購入できる。原書の『De geldbronnen van het nationaal socialisme : drie gesprekken Hitler』(Amsterdam : Van Holkema & Warendorff, 1933)が誰によって書かれたのかが不明だから、安心して信用できる資料とはならないが、もしかすると、内情に詳しい誰かがこっそりと暴露したのかも知れない。全くの素人が出鱈目を書いたとは思えないから、たとえウォーバーグ家が否定しても、幾つかの箇所は事実なのかも知れないぞ。日本の歴史学者は、こうした点に目を附けて詳しく調べるべきなのに、ユダヤ人の書いた学術書ばかりを有り難がるんだから本当に情けない。

  我々は学校で社会科の授業を受け、テレビや雑誌でも第二次世界大戦について聞いている。しかし、その歴史観、あるいは説明の枠組みを誰が作ったのか、に関しては興味が無い。生前、外務省の外政官でサウジ・アラビアやタイに赴任した岡崎久彦大使が語っていたけど、敗戦国では戦時プロパガンダが暴露され、様々な嘘が明らかにされているが、戦勝国では戦時プロパガンダがそのまま残ってしまうらしい。不正確な情報が否定ささず、修正もされないまま温存され、やがてそれが「定説」となってしまうのだ。ナチ・ドイツに関する「歴史」もその危険性があり、ナチス側の反論は悉く斥けられ、英米の学者やユダヤ人の一方的な解釈と論説で「正統な歴史書」が綴られている。

  そもそも、事後法に基づくニュルンベルク裁判自体が違法だし、検事と判事が“グル”なんて論外だ。勝者側の裁判官はドイツ側の弁護士が証拠の提出を求めても却下するし、英米側が持ち出してくる「証拠」だって、どんな「味付け」がなされているのか分からない。公式な報告書だって巧妙な捏造かも知れないし、調査官が米国側の工作員という可能性もあるのだ。日本人はユダヤ人の証言を鵜呑みにするが、科学的捜査に基づく物的証拠も無いのに、それを「真実」と思うのは間違っている。だいたい、「宣誓証言」でもない「噂話」や「感想」を「事実」と宣伝するのは異常だ。もし、米国と英国の政府がドイツと日本を裁くなら、英米の極秘ファイルも公開すべきだろう。しかし、いくら日本の弁護士が機密資料の公開を求めても米国は応じまい。つまり、英米は「疚しい過去」や「不都合な真実」を隠したまま、日独を裁いたということになる。たぶん、アメリカの弁護士や裁判官は、心の底でこうした魔女裁判を「リンチ法廷」と見なしているはずだ。でも、自分の社会的地位を守りたいから、誰もが口をつぐんで知らぬ顔。悧巧な者は無口だ。

Deborah Lipstadt 001David Irving 222

(左 : デボラ・リプシュタット / 右 : デイヴッイド・アーヴィング )

  歐米の知識人に勇気のある人は少ない。A.J.P.テイラーやパトリック・ブキャナンのように、従来の「歴史観」に刃向かったら、ユダヤ人勢力の総攻撃を食らって自滅となる。日本でもそうだけど、有名になる知識人というのは、民衆から尊敬されたいと望み、出来ることなら優雅な生活を送りたいと欲する高級種族。しかも、綺麗事を語るのが大好きな偽善者。日本学術会議にたむろってい連中をみれば判るじゃないか。リムジン・リベラルの先生達は、真実を喋って貧乏暮らしなんて真っ平御免である。英国のデイヴッイド・アーヴィング(David Irving)は、普通の大学教授が怠けて調べないドイツの一次資料を丹念に調べ、驚きの事実を数々公表したが、歐米ではネオ・ナチとか異端の歴史家扱い。ユダヤ人学者のデボラ・リプシュタット(Debora Lipstadt)から目の敵にされたアーヴィングは、「ホロコースト否定論者」との因縁をつけられ、訴訟沙汰に巻き込まれて多額の罰金を科せられた。こうした迫害を受けたアーヴィングは、憐れなことに破産状態へと陥った。こんな惨劇を見れば、普通の知識人はビビってしまうだろう。だから、ちょっと賢い歐米人は、どんなにユダヤ人が事実をねじ曲げ、勝手な歴史観をバラ撒こうが、絶対に反論しようとは思わない。日本人は自由な言論空間にいると思っているが、それは鉄壁の枠組みが透明で目に見えないからだ。しかし、勇気を持って主流の枠組みから逸脱し、「陰謀論」と馬鹿にされる世界に立ってみれば、別の景色が見えてくるかも知れないぞ。

http://kurokiyorikage.doorblog.jp/archives/68866346.html

15. 2022年6月01日 10:53:42 : DnrH8hn2zg : bnFLZzV4NEdBcUU=[6] 報告
そもそもアメリカとロシアが敵対していることがおかしい話なんです。ロシアと敵対していたのはずっとイギリスでした。アメリカ建国のスポンサー国の一つは帝政ロシアだったのですから。

第一次世界大戦と第二次世界大戦の両大戦においてもロシアとアメリカは同盟国で、特にルーズベルトは共産主義者でしたからイギリスの植民地主義をとても批判していて、逆にスターリンのことは親しみを込めてアンクル・ジョーと言っていたくらいなんです。

それがイギリスのチャーチルの謀略で第二次大戦に参戦し、戦後は冷戦が始まったのです。この冷戦のきっかけを作ったのもチャーチルです。1946年に首相ではなくなっていた彼がアメリカのウエストミンスター大学で演説し、「鉄のカーテン」と言いました。これによって東西の冷戦状態が大きくクローズアップされていったのです。

いまの米露の対立もイギリスが作ったものです。それをわかっているのでアメリカはウクライナに軍事侵攻しないのです。民間軍事会社が行くのは軍需産業が儲かるからで経済行為です。アメリカは「もうヨーロッパのことはヨーロッパがやれ」と思っているのです。

https://tocana.jp/2022/05/post_235700_entry_2.html

16. 中川隆[-12958] koaQ7Jey 2022年8月09日 16:23:19 : sQqtduSLQ2 : RmxRbXM5Q1k0WW8=[4] 報告
2022年08月08日
支那と米国は裏で繋がっているのかも?! / 戦前から続く赤い絆
http://kurokiyorikage.doorblog.jp/archives/68906171.html

米支共通の敵だった日本

John Paton Davies center & Mao & ZhouPhilip Jaffe & Owen Lattimore & Agnes Smedley
(左 : ジョン・デイヴィスと親しくなる周恩来と毛沢東 / 右 : 支那大陸に赴いたフィリップ・ヤッフェとオーエン・ラティモア)

  日本の保守派言論人というのは、目の前の事件に振り回されるばかりで、世界政治を歴史的に鳥瞰することはない。つい最近、テレビや新聞では下院議長のナンシー・ペロシが台湾を訪問したことで、ちょっとした政治騒動になっていた。だが、大局的に観れば大したことじゃないだろう。一部の政治評論家やジャーナリストは、「台湾を巡って米支の熱い対決が起こるのでは?」と心配しているが、合衆国海軍が本腰を入れる大規模な軍事衝突にはならないだろう。おそらく“プロレス”のような“喧嘩”程度じゃないのか。

  令和の小学生や中学生は知らないと思うが、1973年11月5日、「狂える虎」との異名を持つインド人レスラー、タイガー・ジェット・シンは、倍賞美津子と一緒のアントニオ猪木を新宿の伊勢丹前で発見し、猪木夫人に罵声を浴びせル暴挙に出た。猪木にライバル心を燃やすインド人レスラーは、いきなり猪木を襲撃したというが、両者の乱闘は警察沙汰にはならなかった。(良い子のみんなは、お爺ちゃんかお父さんに当時の話を訊いてね。昔は、夜9時台のテレ朝で放映されたほど大人気だった。ちなみに、報道番組のアンカーマンをしていた古舘伊知郎は、元々プロレス中継のアナウンサーであった。)

  たぶん、新宿の警察署も「ヤラセ」と判っていたのだろう。この喧嘩は無料のTV宣伝になったらしい。だいたい、街中で乱闘騒ぎを起こした「猛虎」が、宿泊先の京王プラザ・ホテルに帰ると、仔猫のように“おとなしかった”なんておかしいじゃないか。警官の方も馬鹿らしくなったと思う。そう言えば、シンは試合のリングに現れた時、いつも愛用のサーベルを持っていたけど、それを使って猪木や藤波辰巳、坂口征二を刺すことはなく、グリップの部分で叩くだけだった。試合の無い時は、猪木とシンは結構仲良しだったというから、日本のプロレスは微笑ましい。

  脱線したので話を戻す。大東亜戦争の前から、日本は既に米国の仮想敵国だった。共産主義に好意的なフランクリン・D・ローズヴェルト(FDR)大統領は、西歐列強の支那進出くらいは容認できても、東洋の異国である日本が満洲支配を握り、支那大陸での権益を拡大する事には我慢がならなかった。彼が日本人を嫌い、銭ゲバの支那人を好んだのは祖父(Warren Delano)からの伝統だろう。(尚、デラノ家の闇歴史に関しては、「James Bradley, The China Mirage, New York : Little, Brown and Company, 2015」の第1章が詳しい。)


Warren Delano 001Sara Delano & FDR 009932FDR 4432FDR & James Roosevelt & Sara
( 左 : ウォーレン・デラノ / サラ・デラノ / フランクリン・D・ローズヴェルト / 右 : 父のジェイムズと母のサラ、息子のフランクリン)

  また、以前にも紹介したように、大富豪のロックフェラー家が財団を通して支那大陸に食指を伸ばしていた。つまり、4億ないし6億の人口を擁する支那は、涎(よだれ)が出るほどの巨大市場であったから、アメリカのエスタブリッシュメントは何としても支那を独占したかったようである。(註 : FDRの母親サラ・デラノはウォーレン・デラノで、フランクリンの祖父は「Russel & Company」に雇われた密輸業者であった。彼は冒険商人のように支那大陸で阿片貿易に携わっていたという。一時は財産を失ったものの、ウォーレンは香港で財産を築き、戦争省の医薬部局に阿片を納入していたそうだ。)

  ローズヴェルト政権は真珠湾攻撃を画策して大東亜戦争を引き起こしたが、「敵の敵は味方」ということで、合衆国政府は日本軍と対峙する国民党軍を支援した。重慶の蒋介石には二人の強力な参謀が附いており、その一人が支那・ビルマ・インド・ルートの戦線で総司令官を務めていたジョセフ・スティルウェル(Joseph Warren Stilwell)大将である。もう一人は「フライング・タイガース」を率いていたことで有名な陸軍航空隊のクレア・シェノールト(Claire Lee Chennault)少将であった。共産党に敗れた蒋介石と一緒に台湾へ逃れたシェノールト少将は、戦争終結を機に軍を退き、民間航空会社を創設する。そして、1946年、彼は最初の妻であるネル・トンプソン(Nell Thompson)と離婚した。ちょっとビックリするけど、二人の間には8人の子供ができていたというから凄い。これじゃ「猛虎」はなく「種馬」みたいだ。

Joseph Stilwell 1Joseph Stilwell 2Claire Lee Chennault 111
( 左 : ジョセフ・スティルウェル / 中央 : 蒋介石と宋美齢と一緒のスティルウェル / 右 : クレア・シェノールト )

  英国系アメリカ人の妻と別れたシェノールト少将は、これまた鰥(やもめ)の中年男らしく、赴任先の支那で現地妻を娶ることにした。彼は「アンナ(Anna)」と呼ばれる陳香梅という支那人と再婚し、二人の子供をもうけた。(夫が54歳で妻は22歳。) この新妻は元々通信社に勤めるプロパガンダ記者であったが、やはり単なる平民じゃない。彼女は結構、裕福な家庭に生まれた御嬢様。「アンナ」の父親である陳應榮は外政官で、メキシコの領事をしていたらしい。上流階級の支那人は老獪で利益に目敏く、子供達には西歐の教育を授けたりする。彼も客家のように国際的であったから、娘を香港の学校に入れて英語を習わせることにした。ところが、西洋の勉強をしていた香梅は、日本軍の進撃によって香港を逃げ出す破目に。

Claire Lee Chennault 222Claire Lee Chennault 4435
( 左 : 陳香梅とシェノールト少将 / 右 : 子供をもうけたシェノールト夫妻)

  年の離れた亭主と結婚すれば、若い女房は早めの未亡人になりやすい。23歳も年上だったから、シェノールト少将は1958年に他界する。夫を亡くした陳香梅は、専業主婦で終わる気など更々無く、米国に移住してチャイナ・ロビーの活動家となった。如何にも在米の支那人らしいが、この通訳未亡人は、反共主義の共和党に目を附け、大統領候補になったバリー・ゴールドウォーターを支援すべく、彼の資金集めに奔走したそうだ。反共のユダヤ人と銭ゲバの支那人がタッグを組むなんてゾッとするが、冷戦時代には民族を超えたイデオロギーで異民族が結束することもあったし、狡猾な民族は共通の利益で悪党になることもある。

  外国での諜報活動と謀略戦ともなれば、OSS(戦略情報局)や国務省の役人が黙っちゃいない。心理戦の尖兵となれば、モスクワ本店に忠誠を誓う赤レンジャーや桃レンジャーの出番となる。丁度、その頃、米国本土から軍事顧問団の『ディキシー・ミッション(Dixie Mission / U.S. Army Observatopn Group)』が延安に派遣されたので、OSSは身内の局員を米国代表団に潜り込ませようと謀った。派遣隊長となったのは陸軍のデイヴィッド・バーレット(David Dean Barrett) 大佐で、彼のもとには数名のOSS要員が送り込まれていた。その中でも卓越していたのは、国務省から選抜された「三人のジョン」と呼ばれた役人達だ。支那通のジョン・S・サーヴィス(John Stewart Service)に、同類のジョン・P・デイヴィス(John Paton Davies, Jr.)、そして日本通のジョン・K・エマソン(John Kenneth Emmerson)という面々である。

David Barrett & Chou 2232David Barrett & Mao
(左 : デイヴィッド・バーレット大佐と若き周恩来 / 右 : バーレット大佐と若き毛沢東)

  支那研究者の間で有名なジョン・サーヴィスは、1903年に四川省の成都で生まれた。支那で育ったから当然なんだけど、彼は7歳で支那語をマスターし、上海のアメリカン・スクールに通ったそうだ。15歳になるとアメリカへ帰国し、カルフォルニア州の高校を卒業する。進学先はオハイオ州にあるオーベリン大学であった。その後、外政官の試験に受かって、雲南省の昆明にある領事館に勤めたという。

  5歳下のジョン・デイヴィスも四川省で生まれている。彼の両親はパプティスト教会の宣教師で、少年時代を支那の田舎で過ごした。アメリカ人の子供がいない僻地なら、現地語が上手になるのも当然だ。後に「チャイナ・ハンド」と呼ばれるデイヴィスは、米国のウィスコンシン大学に入るが、その途中で北京に赴き、燕京大学で1年ほど勉強したという。しかし、卒業したのは編入先のコロンゴア大学だった。まぁ、さすがに難解な漢字を使っての論文は書けまい。

John Stewart Service 222John Paton Davis 445John Kenneth Emmerson picture 01
(左 : ジョン・S・サーヴィス / 中央 : ジョン・P・デイヴィス / 右 : ジョン・K・エマソン )

  一方、日本語が達者なエマソンは、日本じゃなくコロラド州のキャノン・シテイー生まれ。学んだ大学もフランスのソルボンヌやコロラド、ニューヨークの大学だ。1932年に外政官の試験を受け、見事合格するが、不運なことに世界恐慌のせいで外政官の募集が無かった。しかし、1935年の秋、国務省から採用の知らせが届いたのでワシントンに赴くことに。だが、そこでは国内の勤務か異国での海外赴任かを迫られたそうだ。当時、国務省は東アジアの専門家を欲しがっていたので、支那語か日本語を選ぶ役人が求められていた。そこで、エマソンは日本語を選ぶ。英語とは似ても似つかない言語を選んだ動機には、ハリーという伯父の影響があったらしい。少年時代のエマソンは、伯父が持ち帰った極東の珍しい話や写真に興味を持ったそうだ。若くて希望に満ちたエマソンは、極東の日本で冒険的な生活をして見ようと思ったらしい。(ジョン・エマーソン『嵐のなかの外交官』宮地健次郎 訳、朝日新聞社、1979年、 pp.2-3.)

  ところが、エマソンは日本にやって来ると、いきなり「二・二六事件」に遭遇して当惑する。それから後に支那へと派遣され、対日工作の任務を命じられたそうだ。重慶から延安へ向かったエマソンが面会を求めたのは、「岡野進」という偽名を使っていた野坂参三である。令和の高校生だと野坂の名前を聞いても判らず、「誰それ? 吉本のお笑い藝人?」と尋ねてしまうが、この共産主義者はコミンテルン日本支部(俗に言う「日本共産党」)で第一書記となり、名誉議長にもなった大物だ。しかし、晩年になるとソ連のスパイだったことが発覚し、1992年に共産党から除名処分を受けてしまった。一部の知識人はもっと懐疑的で、「米国や支那のスパイも兼ねていたのでは?」と思われている。まぁ、野坂のような狡賢い奴なら、自分の利益を考えて二重・三重の裏切者になってももおかしくはない。

  日本の敗戦後、ジョン・エマソンは再び日本へ派遣され、ダグラス・マッカーサー元帥の政治顧問となった。エマソンは支那大陸にいた時から、既に戦後処理の方針に着手していたそうだ。彼は重慶の頼家橋(らいかきょう)にいた鹿地亘(かじ・わたる)に会いに行き、「米国に協力する意思があるのか?」と尋ねた。というのも、鹿地はプロパガンダ作戦で使えそうな「駒」であったからだ。彼は治安維持法で検挙された共産党員であった。牢獄の中で思想転向したものの、その本質には変わりがなく、釈放後に武漢へ渡り、重慶で「日本人反戦同盟」を作っていたという。ただし、彼は「籠の中の鳥」状態。一応、鹿地研究室を与えられていたが、実質的には載笠(たいりゅう)による半隔離状態に陥っていた。

  日本語を流暢に話すエマソンは、鹿地に向かって日本軍に対する宣伝工作を語り、その協力者になってはくれないか、と頼んだらしい。話を聞いた鹿地は納得したのか、「同じ目的なら協力を拒む理由はありません」と答えたそうだ。プロパガンダ作戦を担当するOSSの第三部門は、日本の文字で書かれた新聞を作りたかったようで、依頼に応じた鹿地は米国から派遣された日系人志願兵等と一緒に働いていた。しかし、米軍のキャノン機関とへ移された時、彼と米軍の相違が明らかになってきた。朝鮮戦争を迎えた米軍は、北鮮に対する後方攪乱を求めていたが、野望に燃えた鹿地は「祖国革命工作」に専念したかったようだ。(大森実『赤旗とGHQ』講談社、昭和56年、 p.47.) 後に、彼は自殺を図り、沖縄の知念に移された。晩年の鹿地は日本で執筆活動に励み、1982年に亡くなっている。

Kaji 002Kaji in ChinaNosaka 22324
(左 : 鹿地亘 / 中央 : 支那での鹿地 / 右 : 野坂参三 )

  もう一人、エマソンが協力者にしたかったのは野坂参三である。エマソンは日本の天皇制をどうしたらいいのか、野坂に意見を求めたという。「日本革命の三段階論」を説いた野坂は、意外なことに、終戦に伴う天皇制の廃止に反対した。なぜなら、日本の人民はまだ、天皇制廃止に伴う心の準備ができていないからだ。野坂曰く、急激な天皇制打倒は得策ではないという。

  しかし、野坂は無条件に天皇制を認めた訳じゃなく、標的に対するアプローチを述べていた。

 (1) 天皇に代表権を全く持たせないこと。これは連合国側の直接軍政を意味し、天皇の全権能を停止すると共に、皇族を軟禁することを意味する。天皇の主権は否定しないが、事実上の植民地化にする。
 (2) 天皇の代表権能は認めるが、天皇を軟禁状態にする。これは天皇の名を用いて軍政を進める方法だ。
 (3) 天皇や皇族を軟禁し、連合軍の軍政下における責任を天皇に課す。(上掲書、 p.38.)

  共産党の戦略を体現する野坂は、「天皇制廃絶」の方針に反対していたが、だからといって皇室を擁護したり温存する気持ちは微塵も無かった。コミュニストどもは表面上、「民衆政治と平和祈願」を口にするが、その本音は相も変わらず君主政の撲滅にある。ただ、日本国民の大多数が配線にもかかわらず天皇陛下を敬愛し、皇室の存続を熱望しているから、もし占領軍が無理矢理にでも廃絶しようとすれば、いつ何時、激昂した民衆が暴動を起こしてもおかしくはない。それなら、徐々に天皇の権能を削ぎ落とし、実権の無い「お飾り」にした方が悧巧である。野坂は「天皇制打倒」というスローガンを掲げることで、旧来の支配層を刺戟し、支配階級と庶民が再び天皇のもとで結束するんじゃないか、と恐れていた。

  かつて会田雄次先生がぼやいたように、我が国は米国によって「嬲(なぶ)り殺し」の目に遭ってしまった。しかし、対日戦争は八月の停戦で終わらず、国民精神を改造するという静かな攻撃が続いていた。日本が永続的に米国の属州になるよう工作したのは、主に深紅やピンクの左翼分子であったけど、それを裏から操っていたのは、軍服を身に纏ったニューディーラーの一団であった。これはトルーマン政権の狙いなのか、それとも単なる嫌がらせなのか、日本に派遣された法律家や行政官の多くは、アメリカでも毛嫌いされるような劣悪な人物ばかり。つまり、アメリカで拒絶される左翼思想を日本で実現させたいと望む連中であった。これなら、日本人に対するロボトミー(脳内改造)が陰湿だったのも当然だ。

  以前紹介したように、占領軍にはチャールズ・ケーディス(Charles Louis Kades)やセオドア・コーエン(Theodore Cohen)とった赤いユダヤ人に加え、ローズヴェルト大統領に共感する革新派や人権派が数多く潜んでいた。仕置き憲法の中に結婚条項をネジ込んだベアテ・シロダ・ゴードン(Beate Sirota Gordon)も、褌よりも赤い極左であった。彼女は戦前、日本に流れ込んだ根無し草のユダヤ人。これまた、ベアテの上司もゴリゴリの人権派で、ピーター・ロウスト(Pieter Kornelis Roest)中佐はネーデルラント出身の左翼リベラル派であった。

Charles Kades 3243Beate Sirota Gordon 66Pieter K Roest 99912Robert Guillain 001
( 左 : チャールズ・ケーディス / ベアテ・シロダ・ゴードン /ピーター・ロウスト / 右 : ロベール・ギラン)

  公式的には特定の思想に組みしていないと表明するエマソンも、本音ではニューディール政策の共鳴者で、米国共産党(CPUSA)に属していないが、共産主義に好意的なリベラル派であった。しかも、彼は日本国内の共産主義者達を釈放する方針に前向きなんだから、どんな人物なのか普通の国民でも解るだろう。在日フランスにも共産党に親近感を抱く左翼がいた。『ル・モンド(Le Monde)』から東京に派遣された記者、ロベール・ギラン(Robert Guillain)はエマソンよりも一足先に府中刑務所を訪れ、徳田や志賀と会っていた。ギランには後れを取ったが、エマソンも日本の悪党に興味を抱き、政治顧問となっていたジョン・サーヴィスやカナダ人外政官のハーバート・ノーマン(Egaeron Herbert Norman)を伴って府中刑務所を訪ねることにした。彼らは徳田球一や志賀義雄、そして朝鮮人の金天海と面会し、日本共産党の過去や未来について事情聴取を行ったそうだ。エマソンによれば、徳田と志賀は、訪れたコーエンを完全に「味方」だと思っていたらしい。やはり、隠れ共産主義者のユダヤ人には同類の臭いが漂っていたのだろう。

Herbert Norman 111(左 / ハーバート・ノーマン)

  ちなみに、このハーバート・ノーマンは限りなくコミュニストに近い人物であった。彼は軽井沢で生まれ、17歳くらいまで日本で過ごしていたから、日本語や日本人の生活に関して詳しかったようだ。その後はケンブリッジ大学やハーバード大学に入り、歴史学を勉強したそうだが、再び日本に戻ることになった。彼は東京にあるカナダ大使館に務めていたが、公務の傍らでちょいと東京帝國大学に立ち寄ることがあると、あの羽仁五郎を教師にして日本史を学んでいたという。しかも、その交際相手が凄い。例えば、マルキストの英文学者たる中野好夫、フランクフルト学派の政治学者になっていた丸山眞男、日本の國體を憎む憲法学者の鈴木安蔵などである。さらに、ノーマンの親友というのが、これまた凄く、左翼の巣窟たる一橋大学で経済学を教えていた都留重人。もう聞いただけで目眩がしそうになるが、ノーノマンは反共主義者のチャールズ・ウィロビー(Charles Andrew Willoughby)少将に目を附けられ、ジワジワと窮地に陥るようになった。1958年、ノーマンはソ連のスパイじゃないかと疑われ自殺を遂げる。こんな奴を持ち上げた加藤周一と工藤美代子は頭がおかしい。

  我々日本人が第二次世界大戦を学ぶ時、必ず頭に浮かぶのは「自由主義を掲げるデモクラシー陣営vs独裁政治で世界征服を目論む全体主義陣営」という図式である。しかし、これは常識的に考えれば間違いだ。むしろ、「共産主義のソ連を守る英米vs共産主義と闘う独伊」といった構図にすれば解りやすい。米国は支那大陸でも共産党の味方で、ソ連軍や八路軍と戦う日本を打ちのめした。しかも、戦後はジョージ・ケナン(George F. Kennan)の「封じ込め政策」に従って、ソ連を攻撃せず、核大国になるよう見守っていた。もちろん、米軍の正常な将兵や本国の一般人は、共産主義なんておぞましくて、とても決して容認できない。ステイルウェル将軍達は仕方なく蒋介石を支援していたが、本音では毛沢東や周恩来といった共産主義者を味方にしたかったそうだ。

George Kennan 1133Philip Jaffe 324Frederick Vanderbilt Field 1121
( 左 : ジョージ・ケナン / 中央 : フィリップ・ヤッフェ / 右 : フレデリック・ヴァンダービルト・フィールド )

  普通のアメリカ人とは違って、エマソンやサーヴィス、デイヴィスらは、毛沢東が民衆主義者に見えたようで、共産党への支援を本国の政府にそれとなく説いていた。それもそのはずで、彼らは思想的に共産主義のシンパ。特に、ジョン・サーヴィスは「アメラシア事件」でFBIに疑われた過去を持つから、この役人が国務省の赤い同志と連携していても不思議じゃない。この『アメラシア(Amerasia)』というは、ユダヤ人コミュニストのフィリップ・ヤッフェ(Philip Jacob Jaffe)とフレデリック・ヴァンダービルト・フィールド(Frederick Vanderbilt Field)が創刊した雑誌である。そして、これまたソ連贔屓のエドワード・カーター(Edward Clark Carter)が副主幹を務めており、共産主義者の巣窟となっていた。

  ちなみに、このカーターは「太平洋問題調査会(Institute of Pacific Relations / IPR)」の研究者でもあった。また、ヤッフェの相棒となっていたフィールドは、アメリカの名門財閥であるヴァンダービルト家の出身者である。日本の赤い華族と同じで、フレデリックは共産主義に惹かれる上流階級のリムジン・リベラルであった。一方、ヤッフェはロシア帝國生まれのユダヤ移民の息子だ。1915年には「米国社会党(Socialist Party of America)」に入り、図々しくも彼は1923年にアメリカ国籍を取っていた。

Andrew Roth 77342(左 / アンドリュー・ロス )

  支那贔屓のジョン・サーヴィスが、ソ連贔屓のヤッフェと知り合ったのは、元IPR研究員だったアンドリュー・ロス(Andrew Roth)の仲介によるものだった。このロスはハンガリー系ユダヤ人の両親から生まれ、左翼の牙城であるコロンビア大学で東歐史と支那語を学んでいた。卒業後、彼は合衆国海軍諜報局の極東担当者になったが、その親ソ連的な思考は拭いがたく、反共主義者のFBIのエドガー・フーヴァー長官に怪しまれ、スパイ容疑を掛けられてしまう。だが、狡猾なロスはフーヴァー長官の嫌疑を掻い潜り、英国で活動するジャーナリストに鞍替えだ。彼は世界的に有名な主流メディア、例えば「ガーディアン」紙とか「インディペンデント」紙に寄稿していた。一般の日本人は気づかないが、歐米のマスコミには正体を隠すユダヤ人がウジャウジャいる。

  戦後、OSSの局員が『アメラシア』のNY事務所をガサ入れし、編集部に連なるジョン・サーヴィスやアンドリュー・ロス、マーク・ゲインなどを検挙する快挙があった。検察側は容共色の強い『アメラシア』が、合衆国政府の内部資料や機密文書をソ連に流したんじゃないか、と疑っていたのだ。(M. Stanton Evans, Blacklisted By History : The Untold Story of Senator Joe McCarthy and His Fight Against America's Enemies, New York : Crown Forum, 2007, p. 113.) しかし、サーヴィスらは有罪とされず、起訴は証拠不充分で却下されてしまった。もし、ジョン・サーヴィスがソ連に通じる赤色スパイと判明したら、少なくとも国家機密をソ連に渡す人物ということでブラックリストに載っていたら、米国の対支那政策は違ったものになっていただろう。

Andrew Roth 8832Mark Gayn 546stanton Evans 222
( 左 : ジャーナリストに転向したアンドリュー・ロス / 中央 : マーク・ゲイン / 右 : メドフォード・スタントン・エヴァンス )

  ちなみに、『ニッポン日記』で有名なマーク・ゲイン(Mark Gayn)は、ユダヤ人の赤色ジャーナリストで、本名は「ジュリリアス・ギンズバーグ(Julius Ginsberg)」という。日本人読者層には、著者の素性に無徳着という人が多い。実際、ゲインの著書は知っていても、彼の血統を知っている者は少なかった。米国の左翼に関しては上記で紹介したメドフォード・スタントン・エヴァンス(Medford Stanton Evans)の本が詳しく、アメリカの政治思想に興味のある人は是非とも読むべきだ。

  エヴァンスの著書は日本人にとっても非常に有益なんだが、なぜか大手の出版社から和訳されず、彼の経歴すらも紹介されることはない。彼はルートヴィッヒ・フォン・ミーゼズ(Ludwig von Mises)のもとで経済学を学び、保守派雑誌の『National Review』や『Human Events』に記事を投稿する知識人であった。彼は若い頃から保守的活動に勤しみ、「自由アメリカ青年(Young Americans for Freedom / YAF)」という政治サークルに属し、1970年代には「米国保守同盟(American Conservative Union)」の会長を務めていた。YAFの集会は、よくウィリアム・バックリー(William Buckley, Jr.)の家で開かれ、この団体には若き日(1960年代)のロナルド・レーガンも属していた。

Ludwig von Mises 002William Buckley 552Ronald Reagan 213Evans Carlson 213
(左 : ルートヴィッヒ・フォン・ミーゼズ / ウィリアム・バックリー / ロナルド・レーガン / 右 : エヴァンス・カールソン)

  脱線したので話を戻す。不思議なことに、アメリカは共産主義を「敵」と見なしていたのに、なぜか政府の対支那政策では蒋介石の国民党を見限り、毛沢東の共産党に支配権を譲っていたのだ。本来なら、重慶の国民党を支援し、劣勢にあった八路軍を叩くべきだろう。ところが、重慶にいるジョセフ・スティルウェル将軍や彼のスタッフ達は、国民党よりも共産党の方が優れていると述べていた。シェノールト少将によれば、将軍の取り巻き連中は大っぴらに共産党を褒め称えていた、というのだ。確かに、スティルウェルとジョン・デイヴィスは1938年以来の友人であったし、漢口にいた海兵隊のエヴァンス・カールソン(Evans Carlson)大尉も共産主義者に好意的であった。そして、ジョセフ・マッカーシー議員によれば、スティルウェルとカールソンは極東の戦争において、共産主義者から英雄扱いされていたそうだ。(ジョセフ・マッカーシー『共産中国はアメリカがつくった』本原俊裕 訳、成甲書房、2005年、p.121.)

  確かに、合衆国政府へもたらされる支那情報というのは、支那大陸に派遣された国務省やOSSの赤色分子からの報告であったし、本国の省庁や大学にも共産主義のシンパが至る所に潜んでいた。支那やソ連の宣伝係となっていたのは、『大地の娘(Daughter of Earth)』や『支那赤軍の行進(China's Red Army Marches)』を執筆したジャーナリストのアグネス・スメドレー(Agnes Smedley)や、『支那の赤い星(Red Star Over China)』で有名になったエドガー・スノー(Edgar Snow)である。彼ら以前だと、支那で宣教活動をしていた作家のパール・バック(Pearl Buch)だ。彼女も支那人の本質を判っていながら、本国のアメリカ人を欺き、支那人に有利な偽情報を教会の仲間に送っていた。

Agnes Smedley 2324Edgar Snow 435Pearl Buch 111
(左 : アグネス・スメドレー / 中央 : エドガー・スノー / 右 : パール・バック )

  アメリカの行政機構にも多くの赤色分子が跋扈しており、有名なのは国務省のアルジャー・ヒス(Alger Hiss)で、「米国共産党」に属していたというから呆れる。彼はソ連諜報機関(GRU)のエージェントになっていた。重慶の延安派には、ジョン・サーヴィスやジョン・エマーソン・ジョン・デイヴィスらに続いて、支那学者のジョン・フェアバンク(John King Fairbank)が加わることになった。こんな連中が「専門家」となっていれば、米国の支那政策が毛沢東に傾いても当然だ。このフェアバンク博士も容共主義者で、IPRと繋がる左派の知識人であった。こんな光景を目にすれば、誰だって「アメリカのチャイナ・ハンドは共産党の応援団なのか?」と言いたくなる。

Alger Hiss 9921John King Fairbank 001Joseph McCarthy 088
( 左 : アルジャー・ヒス / 中央 : ジョン・フェアバンク / 右 : ジョセフ・マッカーシー)

  日本ではアカデミック界の大御所みたいに扱われているが、フェアバンクはマッカーシー議員からも目を附けられ、共産主義者のエージェントではないかと疑われていた。(Leonard H. D. Gordon and Sidney Chang, 'John K. Fairbank and His Critics in the Republic of China', The Journal of Asian Studies, Vol. 30, Issue 1, 1970, p.139) さらに、このフェアバンクは支那の歴史や言語に関する知識も疑われており、漢字だって300語くらいしか読めないんじゃないか、と疑われている。(上掲論文、p.146.)

  支那学の専門家として知られるオーエン・ラティモア(Owen Lattimore)も非公式の共産主義者で、これまたIPRの一味だった。国務省には他にも赤色分子がいて、ラティモアと繋がる外政官、ジョン・カーター・ヴィンセント(John Carter Vincent)も要注意人物だったが、それよりも深刻なのは、トルーマン政権で国務長官になったジョージ・マーシャル(George C. Marshall)将軍やディーン・アチソン(Dean G. Acheson)が容共主義の大御所であったことだ。特に、マッカーシー上院議員は支那を共産化したマーシャル長官を激しく批判していた。

Owen Lattimore 11John Carter Vincent 21George C Marshall 8832Dean Acheson 4
(左 : オーエン・ラティモア / ジョン・カーター・ヴィンセント / ジョージ・マーシャル / 右 : ディーン・アチソン )

  話を戻す。普通のアメリカ人なら到底信じられないが、ジョン・サーヴィスの現地報告書は明らかに“支那寄り”であった。毛沢東と会談したサーヴィスの見解を要約すると以下の通り。

 (1) 支那と米国の人民は、共に民主的で個人主義的だ。両国民とも元来、平和を愛し、非攻撃的、非帝国主義的である。それゆえ、相互理解が可能である。

 (2) 支那は経済発展を望むが、それを達成するための資金や技術を独自に調達できない。だから、アメリカには経済支援をしてもらいたいし、アメリカは支那の経済発展を助ける最も適した国家だ。将来、支那が重工業国家になっても、アメリカの競合国になることはないし、今のところ、支那は人民の生活水準を上げることに精一杯であるから、高度工業国家であるアメリカの敵になることはない。

 (3) 支那人口の4億5千万のうち3億6千万人は農民だから、支那はこれからも長期間に亙って農業国であり続けるだろう。

 (4) 国民党は人民の声を無視している。国民党は内戦の構想を持っており、それは国民党の自殺を意味する。米国は蒋介石の実態を解っていない。蒋介石は米国の力だけに頼っている。もし、アメリカがその支援を止めれば、人民からの支持が無い蒋介石は瀕死の状態隣、国民党は崩壊してしまうだろう。
(『赤旗とGHQ』pp.37-38.)

  こんな報告書はガセネタどころか、悪質な偽情報である。支那人が平和の愛好者なんて大笑いだ。もし、サーヴィスが「毒蝮は入れ歯だから危険じゃない」と言ったら、国務省のアメリカ人は彼を信じるのか? 旧約聖書の創世記ではヘビがイヴを唆したが、現実の世界では支那人がルシファー(悪魔)を手玉に取るくらいの詐欺師となっている。しかも、アメリカ人を歓迎する毛沢東は、インテリ風のマルクス・レーニン主義者ではなく、秦の始皇帝を何倍も残酷にした20世紀の独裁者でしかない。理知的な知識人に見えた周恩来だって、一皮剝けば伝統的な支那人の策士だ。周が温厚な紳士を演じていたのは、毛沢東の狂暴性を熟知していたからで、「この男だけには刃向かってはならない !」と解っていたのだろう。笑顔の毛主席が、急に冷酷な表情に変わった時の瞬間ほど恐ろしいものはない。

Mao Zedong 1111Zhou Enlai 88132Mao & Zhou 222
(左 : 支配者となった毛沢東 / 中央 : 主席の右腕となった周恩来 / 右 : 長征時代の毛と周 )

  とにかく、ジョン・サーヴィスは明らかにアグネス・スメドレーやエドガー・スノーと同じ赤いムジナである。もちろん、アメリカの一般国民や正常な軍人は、共産主義の拡大に反対していたが、ローズヴェルト路線に共感するニューディーラーや財界の大御所、CFRのようなシンクタンクの知識人などは、密かに「赤い支那」を望んでいたのだろう。それゆえ、田中角栄や竹下亘たちが、せっせと日本の税金を北京に貢いでも、これといった折檻は無かったし、「お咎め無し」という処分が罷り通っていたのだ。

  これはちょっと過去を振り返れば判るだろう。例えば、東芝はイチャモンとも思える「ココム違反」で袋叩きに遭った。本当に東芝の技術で、ソ連の潜水艦の音が消えたのか? 一方、田中派や創政会の連中は大っぴらに私腹を肥やし、加藤紘一や中曾根康弘も支那利権で幅を利かせていた。支那利権を巡っては米国でも同じで、民衆党や共和党の区別は無い。政治家のパトロンであるウォール街の旦那衆は、常に支那のマーケットを念頭に置いていた。ネルソン・ロックフェラーの子飼いであるヘンリー・キッシンジャーは毛沢東と密約を結んだし、実質的な「駐支那大使(Head of U.S. Liaison Office)」を務めていたジョージ・H・W・ブッシュも、将来性のある支那との関係を損ねないよう気を配っていた。だから、ブッシュ大統領は天安門事件の後、小姓の宮澤喜一首相を使って関係修復に努めたのだろう。徴兵逃れの宮澤が天皇陛下を江沢民に売り渡したのも、ワシントンからの「OK」サインがあったからだ。いきなりブッシュが訪問すれば、米国の世論が沸騰するから、属州の日本を使って事態の改善を図った方が「お得」という訳である。

Henry Kissinger & Zhou Enlai 223George Bush in China 111
(左 : 周恩来と ヘンリー・キッシンジャー / 右 : 支那に赴任したジョージ・H・W・ブッシュ夫妻 )

  アメリカは形式上、共産主義国の支那と対立する。だが、テーブルの下ではしっかりと脚を絡めて愛情を確かめ合っている。たとえ、台湾周辺で軍事衝突が起こっても、それがエスカレートして大規模な戦争、あるいは核攻撃にまで発展することはない。たぶん、バイデン政権は台湾海峡で波を高くして日本人の恐怖心を煽り、高価な米国産兵器を売りつける魂胆なのかも知れない。とにかく、日本の保守派知識人は人民解放軍の侵掠に騒いでいるけど、案外これは米支共同のプロレス・イベントなのかも知れないぞ。

  次回に続く。
http://kurokiyorikage.doorblog.jp/archives/68906171.html

17. 保守や右翼には馬鹿し[194] lduO54LiiUWXg4LJgs2Ubo6tgrU 2023年5月25日 09:26:20 : hkS8l6HytQ : d1R1YmlNR0lWLlE=[1] 報告
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2023.05.25XML
豪労働党は米国の核戦略に従い、原潜を環境規制法案の対象から外す法案を提出
https://plaza.rakuten.co.jp/condor33/diary/202305250000/

 ​オーストラリアの労働党は原子力潜水艦を環境保護の法的規制の対象外にするため、「国防法改訂法案」を議会に提出​したという。原子力発電所は1998年に制定された「オーストラリア放射線防護および原子力安全法」と1999年に制定された「環境保護および生物多様性保全法」の規制を受けているが、その規制から原潜を外すということだ。

 この法案はオーストラリアがアメリカやイギリスと創設した軍事同盟AUKUSと関係している。2021年9月に創設が発表された際、アメリカとイギリスはオーストラリアに原潜の艦隊を建造させるために必要な技術を提供するとも伝えられ、ジョー・バイデン米大統領はオーストラリアへ売却する3隻のバージニア級原子力潜水艦を2030年代の初めに建造すると語っている。その潜水艦を動かすためにはアメリカの軍人が乗り込む必要があり、事実上、アメリカ海軍の潜水艦になるという。

 この計画は日本とも関係している。山上信吾オーストラリア駐在大使はキャンベラのナショナル・プレス・クラブで2022年11月14日、日本がオーストラリアの原子力潜水艦を受け入れる可能性があると表明しているのだ。

 アメリカ、イギリス、オーストラリアはアングロ・サクソン系の国だが、日本は明治維新以来、アメリカやイギリスの金融資本から強い影響を受けてきた。アメリカは2018年5月に「太平洋軍」を「インド・太平洋軍」へ編成替えしたが、この新体制でも日本の軍事的な役割は重要だとされている。

 アメリカ、イギリス、オーストラリアに日本とインドを加えた5カ国で「クワド」と呼ばれる軍事同盟が作られているが、インドは腰が引けていて、ロシア製の防空システムS-400の購入を諦めていない。

 中東ほど劇的な形ではないが、東アジアでもアメリカから自立する動きがある。台湾、韓国、フィリピンの現政権はアメリカへ擦り寄っているが、日本ほど盤石ではない。そこでNATOが乗り出そうとしている。

 NATO(北大西洋条約機構)のイェンス・ストルテンベルグ事務総長は2020年6月、オーストラリア、ニュージーランド、韓国、日本をメンバーにするプロジェクト「NATO2030」を開始すると宣言した。2024年中に連絡事務所をNATOは連絡事務所を東京に設置するという。

 1949年4月にアメリカとカナダの北米2カ国、そしてイギリス、フランス、イタリア、ポルトガル、デンマーク、ノルウェー、アイスランド、ベルギー、オランダ、そしてルクセンブルクの欧州10カ国で創設されたNATOはソ連軍の侵攻に備えるとしていた。

 しかし、この主張には説得力がない。ソ連はドイツとの戦争で2000万人とも3000万人とも言われる国民が殺され、工業地帯の3分の2を含む全国土の3分の1が破壊され、惨憺たる状態で、西ヨーロッパに攻め込む余力があったとは思えない。結局、ソ連はこの痛手から立ち直ることができなかった。

 NATOの初代事務総長でウィンストン・チャーチルの側近だったヘイスティング・ライオネル・イスメイはNATOを創設した目的について、ソ連をヨーロッパから締め出し、アメリカを引き入れ、ドイツを押さえ込むことのあると公言している。アメリカがヨーロッパを支配するための仕掛けとして設立されたと考えるべきだろう。

 本ブログでは繰り返し書いてきたが、第2次世界大戦のヨーロッパ戦線は1942年8月から43年2月にかけて行われたスターリングラードの戦いで事実上、勝敗は決していた。アドルフ・ヒトラーの命令でドイツ軍は戦力の4分の3をソ連との戦いに投入、その部隊が降伏したのだ。

 それを見て慌てたイギリスとアメリカの支配層は1943年5月にワシントンDCで会談、7月にシチリア島上陸作戦を敢行した。その際、レジスタンスの主力だったコミュニストを抑え込むため、アメリカ軍はマフィアの協力を得ている。ノルマンディー上陸作戦(オーバーロード作戦)は1944年6月だ。

 その頃になるとアメリカの戦時情報機関OSSのフランク・ウィズナーを介してアレン・ダレスのグループがドイツ軍の情報将校、ラインハルト・ゲーレン准将(ドイツ陸軍参謀本部第12課の課長)らと接触している。ソ連に関する情報を持っていたゲーレンをダレスたちは同志と見なすようになり、大戦後には彼を中心に情報機関が編成された。BND(連邦情報局)だ。

 スターリングラードでドイツ軍が降伏した後、アメリカやイギリスはナチスと接触して善後策を協議。サンライズ作戦である。その後、アメリカの軍や情報機関はナチスの幹部や協力者を逃走させたり、保護したり、雇用する。ラットライン、ブラッドストーン作戦、ペーパークリップ作戦などという暗号名が付けられている。

 その一方、ソ連やレジスタンスに対抗するための手を打っている。そのひとつがシチリア島上陸作戦だが、もうひとつはゲリラ戦部隊ジェドバラの創設。1944年のことである。この部隊を組織したのはイギリスとアメリカの特殊部隊。つまりイギリスのSOEとアメリカのSO(OSSの一部門)だ。

 アメリカの大統領だったフランクリン・ルーズベルトはファシズムや植民地に反対、ソ連を敵視、植民地の維持を望んでいたイギリスのウィンストン・チャーチルとは関係が良くなかった。ルーズベルト政権が始まった1933年から34年にかけての時期、アメリカの金融資本はクーデターを計画している。ファシズム体制を樹立しようとしていることを金融資本側は隠していない。このクーデターを阻止したのが海兵隊の退役少将だったスメドリー・バトラーだ。

 アメリカの金融資本(ウォール街)を生み出したのはイギリスの金融資本(シティ)であり、チャーチルはシティにつながっている。米英の金融資本がナチスと手を組み、ソ連やコミュニストを敵視していたことはジャーナリストや研究者によって明らかにされてきた。

 例えば、アメリカのブラウン・ブラザース・ハリマンやディロン・リードといった金融機関はナチスとの関係が強かった。ブラウン・ブラザース・ハリマンの重役の中にはW・アベレル・ハリマンやプレスコット・ブッシュも含まれ、ハリマンとブッシュはドイツ企業との手形交換業務を行う名目で「ユニオン・バンキング(UBC)」を設立、ナチスへの重要な資金ルートになる。スイスで設立されたBIS(国際決済銀行)や第2次世界大戦が勃発する半年ほど前にドイツへ約2000トンの金塊を渡したと言われているイギリスのイングランド銀行もナチスとの関係が指摘されている。

 アメリカでは政府の内部にもファシストの巣窟が存在していた。国務省だ。反ファシストのルーズベルトは大統領として国際会議に出席する場合、国務省の高官を同行させていない。基本的に同行したのは軍人で、文民は個人的にルーズベルトが信頼していたハリー・ホプキンスだけだったという。(Susan Butler, “Roosevelt And Stalin,” Alfred A. Knopf, 2015)

 アメリカの国務省には「リガ・グループ」とも呼ばれる反コミュニスト、反ソ連の一派がロシア革命の直後から存在していた。ラトビアのリガ、ドイツのベルリン、そしてポーランドのワルシャワの領事館へ赴任していた外交官たちがその中心で、メンバーの中には「封じ込め政策」で有名なジョージ・ケナンや駐日大使を務めたJPモルガン人脈のジョセフ・グルーも含まれていた。そのケナンより反ロシア感情が強く、好戦的なグループがネオコンにほかならない。

 ルーズベルト大統領は大戦が終わってから金融資本とファシストとの関係を明らかにする意向だったと言われているが、1945年4月に休止してしまう。ドイツが降伏したおはその翌月。その直後にチャーチルはソ連を奇襲攻撃するための軍事作戦を作成させた。「アンシンカブル作戦」である。(Stephen Dorril, “MI6”, Fourth Estate, 2000など)

 その作戦では、1945年7月1日にアメリカ軍64師団、イギリス連邦軍35師団、ポーランド軍4師団、そしてドイツ軍10師団で「第3次世界大戦」を始めることになっていたが、イギリスの参謀本部は拒否し、実行されなかったという。

 この作戦が葬り去られる別の理由もあった。1945年7月16日、アメリカのニューメキシコ州にあったトリニティ実験場でプルトニウム原爆の爆発実験が行われ、成功したのだ。ハリー・トルーマン大統領の意向でポツダム会談が始まる前日に実行されたという。

 その実験成功を受けてトルーマン大統領は原子爆弾の投下を7月24日に許可。26日にアメリカ、イギリス、中国はポツダム宣言を発表、8月6日に広島へウラン型爆弾を投下、その3日後には長崎へプルトニウム型爆弾が落とされている。これ以降、チャーチルやアメリカの好戦派はソ連や中国への核攻撃計画を作成する。核兵器に反対することに問題はないが、ソ連が核兵器を保有しなければアメリカやイギリスが核戦争を始めたことを無視するべきではない。

 AUKUSの創設が発表された際、オーストラリアの原子力潜水艦保有計画も明らかにされた。敵国の潜水艦を攻撃することな任務になるようで、核戦争を想定している。しかも建造、維持・運用をアメリカに依存することになっているので、アメリカの核戦略の一部になる。必然的にオーストラリアはアメリカが進めている中国やロシアとの戦争に巻き込まれてしまう。

 かつてオーストラリアの労働党は自主独立の政策を進めようとしていた。1972年12月の総選挙で労働党が勝利、ゴフ・ホイットラムが首相に就任、自国の対外情報機関ASISに対し、CIAとの協力関係を断つように命令する。イギリスのジャーナリスト、デイビッド・レイによると、ウイットラムはチリにおける軍事クーデターに関する情報を入手、そこでASISがCIAのサルバドール・アジェンデ政権崩壊工作に協力していたことを知っていた。(David Leigh, "The Wilson Plot," Pantheon, 1988)

 また、オーストラリアのパイン・ギャップにはCIAの通信傍受施設があるのだが、その使用期限が迫っていた。この施設は1966年12月に結ばれた秘密協定に基づいて建設されたもので、協定の有効期限は10年。1976年までに更新しないと基地を閉鎖しなければならない。ホイットラムが更新を拒否することをアメリカ側は懸念していた。

 そこでCIAは1975年11月、イギリス女王エリザベス2世の総督であるジョン・カー卿を動かしてホイットラム首相を解任した。実際に動いたのはアメリカのCIAやイギリスのMI6だが、総督がいなければ解任できなかった。総督は名誉職だと考えられていたが、そうではなかったのである。

 アメリカのジャーナリスト、ジョナサン・ウイットニーによるとカーは第2次世界大戦中の1944年、オーストラリア政府の命令でアメリカへ派遣されてCIAの前身であるOSS(戦略事務局)と一緒に仕事をしている。大戦後もCIAと深い関係にあった。(Jonathan Kwitny, "The Crimes of Patriots," Norton, 1987)

 アメリカとイギリスを中心とする情報機関のつながりがある。アングロ・サクソン系のカナダ、オーストラリア、ニュージーランドの機関がその配下にある。事実上、米英金融資本がそうした国々を監視、管理するためのネットワークだ。すでにアメリカや韓国は米英の影響下にあるが、それをNATO2030で強化しようとしているのだろう。
https://plaza.rakuten.co.jp/condor33/diary/202305250000/

18. 2023年7月28日 03:48:15 : HigTgQHQvQ : Snp1TDVUTmhPSVU=[1] 報告
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2023年07月27日
怪しい側近に操られる大統領 / アメリカン・デモクラシーの実態
http://kurokiyorikage.doorblog.jp/archives/68934207.html

軽い神輿になる大統領

Bernard Baruch & FDR 213Bernard Baruch & Winston Churchill 8823

( 左 : フランクリン・ローズヴェルト大統領とバーナード・バルーク / 右 : ウィンストン・チャーチル首相とバルーク )

  形式上、デモクラシーでは有権者が議員を選んでいるが、必ずしもその政治家が民衆の意思を反映しているとは限らない。特に、合衆国大統領の補佐官とかアドヴァイザー、政権の支柱となる閣僚には、大統領を操ったり、別の人物から指令を受けて動く奴もいる。疑惑の選挙でホワイトハウスの主人となったジョー・バイデンはその典型で、誰が見ても“操り人形”にしか思えない。政治に詳しくない庶民でも、「いったい、ジョーは誰の命令で動いているんだ?」と言いたくなる。

  バイデンが来日し、岩国の空軍基地を訪問した時、彼は信じられない「嘘(妄想)」を口にした。バイデンはアメリカ兵の前で、「私の息子ボーは、イラクで命を失いました」と。確かに、彼の長男であるボー・バイデン(Joseph Robinette Biden)は2008年にイラクへ派遣されたが、2009年には無事にアメリカに戻っている。帰還後、ボー・バイデンはデラウエア州の司法長官になったが、2015年5月30日、脳腫瘍のためメリーランド州のベゼスダ病院で亡くなった。

Biden 21344Joe & Beau Biden 2


( 左 : 痴呆症が進んだジョー・バイデン/ 右 : 息子のボー・バイデンと一緒のジョー・バイデン )

  ところが、ボケ老人と化したジョー・バイデンは、陸軍少佐のボーはイラクで戦死したと思っている。米国大統領を迎えた日本人ばかりでなく、アメリカ国民もバイデンの痴呆症にショックを受けていた。在日米軍の将兵なら、「こんな奴が最高司令官で、ウクライナ紛争について指令を出しているのか?」と疑ってしまうだろう。それにしても、息子の死を勘違いする父親なんて、普通の日本人じゃ考えられない。

Obama 12313(左 / 青年時代のバラク・オバマ)
  日本語を知らないアメリカ人でも、「担ぐなら、軽くて、ちょっとパーがいい」という戯れ言に同意するだろう。愚劣な“神輿(みこし)”は、ホワイトハウスにも収納されている。昔、腐敗の街「シカゴ」で黒人を動員していバラク・フセイン・オバマは、まさしく赤く染まった黒いマリオネット(marionnette)。この「コミュニティー・オーガナイザー(住民をオルグする者)」は、金融、軍事、外政、科学についての知識は空っぽだ。しかし、大衆を前にした演説だけは上手かった。黒い聴衆は、オバマが語る「夢」とか「希望」に大感激。とはいっても、オバマの言葉は空手形。主流メディアはオバマの雄弁さを褒め称えたが、名演説と言っても、白人に対する恨みが十八番(おはこ)なだけ。

  唖然とするのは、何の業績も無いオバマが、いきなり世界的に有名な『ハーヴァード・ロー・リヴュー(Harvard Law Review)』誌の編集長に選ばれたことだ。オバマは80名の編集員から選ばれたというが、こんなのは「有色人種優遇政策(affirmative action)」の一環だろう。(Fox Butterfield,‘First Black Elected to Head Harvard's Law Review,’The New York Times, February 6, 1990.)ハーヴァード大学の名物法学者であったロスコー・パウンド(Roscoe Pound)が生きていたら、きっと猛反対したはずだ。たぶん、墓の中で眠るジェイムズ・マディソン(James Madison)やジョセフ・ストーリー(Joseph Story)、ジェイムズ・ケント(James Kent)、ジェイムズ・ランディス(James McCauley Landis)も目が覚めてしまうだろう。(ちなみに、東京生まれのランディスは、ハーヴァード・ロー・スクールの総長や証券取引委員会の会長を経て、ジョン・F・ケネディー大統領の法律顧問になった。)

Joseph Story 1James Kent 1Roscoe Pound 1James Landis 11


(左 : ジョセフ・ストーリー / ジェイムズ・ケント / ロスコー・パウンド / 右: ジェイムズ・ランディス )

  日本の地上波テレビは一切報道しなかったが、オバマは悪名高いテロリストのビル・エアーズ(William Ayers)の教え子だ。オバマが執筆したという自伝『Dreams From My Father』は、実質的にエアーズによる代筆だった。2009年10月のインタヴューで、エアーズ自身が暴露したので、オバマは赤っ恥をかいている。(‘Terrorist Ayers Confesses Sharing Obama's 'Dreams', Investor's Business Daily, November 26, 2013.)でも、意外と黒人からの非難は無い。おそらく、「黒人枠」でハーヴァード大学やシカゴ大学のロー・スクールに潜り込んだ、と勘ぐっているんじゃないか? だいたい、黒人の劣等生は、いくら頑張っても“感動的”な文章なんて書けない。ただし、マイク・タイソン(有名なプロ・ボクサー)やクリス・ロック(漫談師・俳優)と比べたら、ヤバマはちょっとだけ“知的”なのかも。

Robert Rubin 213Bill Ayers 382Obama 6632


(左 : ロバート・ルービン / 中央 : ビル・エアーズ / 右 : 「優秀な学生」と評されたバラク・オバマ )

  オバマが歩んだ出世街道には色々な導師がいて、有名な世話係といえばユダヤ人のロバート・ルービン(Robert Rubin)だ。そして、大統領選挙の出馬前にはズビグニュー・ブレジェンスキー(Zbigniew K. Brzezinski)に紹介され、この大御所が後見人のようになっていた。彼はオバマがズル編入したコロンビア大学で教鞭を執っていたが、カーター政権が誕生すると国家安全保障担当の補佐官になった。ちなみに、ブレジンスキーは1972年に『ひよわな花 日本』という本を出版しており、50年近く前の古本にもかかわらず、市場では高値になっている。

Cyrus Vance 724Jimmy Carter 43Zbigniew Brzezinski 001


( 左 : サイラス・ヴァンス / 中央 : ジミー・カーター / 右 : ズビグニュー・ブレジェンスキー )

  今では懐かしいが、「人権外交」という愚かな方針で馬鹿にされたジミー・カーターは、大統領選前、ワシントンのヘドロに染まっていない“クリーン”なイメージを“売り”にしていた。ところが、大統領に当選するや否や、タウンミーティングで述べた言葉を翻し、自身の政権をエスタブリッシュメントで塗り固め、民衆の期待を裏切る人事を行っていた。

  例えば、国務長官にはアヴェレル・ハリマンの部下であったサイラス・ヴァンス(Cyrus Roberts Vance, Sr.)が就任し、財務長官にはヴェルナー・マイケル・ブルーメンタール(Werner Michael Blumenthal)が選ばれた。彼はドイツから逃れてきたユダヤ人。国防長官にはユダヤ人で核物理学者のハロルド・ブラウン(Harold Brown)が任命され、エネルギー省の長官には、これまたユダヤ人が選ばれ、ニクソン政権で国防長官、フォード政権でCIA長官を務めたジェイムズ・シュレッシンジャー(James Rodney Schlesinger)が就任する。複雑怪奇な外政となればカーターの不得意分野で、三極委員会(Trilateral Commission)にお任せの状態だった。ブレジンスキーと同じく、ブルーメンタールやブラウン、ヴァンスは、デイヴィッド・ロックフェラーが牛耳るCFR(外交問題評議会)のメンバーだった。

Werner Michael Blumenthal 1Harold Brown 1James Schlesinger 1Henry Morgenthau Jr 2133


( 左 : ヴェルナー・マイケル・ブルーメンタール / ハロルド・ブラウン / ジェイムズ・シュレッシンジャー / 右 : ヘンリー・モーゲンソー・ジュニア)

Harry Dexter White 213( 左 / ハリー・デクスター・ホワイト )
  フランクリン・デラノ・ローズヴェルト(FDR)の場合も同じで、彼の周りには“いかがわしい”奴らがズラリと顔を並べていた。例えば、財務長官には恩返しということでヘンリー・モーゲンソーの倅(せがれ)であるヘンリー・モーゲンソー・ジュニア(Henry Morgenthau, Jr.)が就任し、その部下にはハリー・デクスター・ホワイト(Harry Dexter White)がいた。彼は「ジュリスト(Jurist)」なるコード・ネームを持ち、NKVD(ソ連の秘密警察)のエージェントであった。このユダヤ人は「ハル・ノート」の素案を書いた財務官僚で、日米の両国で悪名高い。

  ところが、京都産業大学の教授を務めていた須藤眞志(すどう・しんじ)は、肝心な点を見逃していた。彼は著書の中でホワイトについて解説したが、「ジュリスト」がユダヤ人であることに言及していないのだ。(須藤眞志『ハル・ノートを書いた男 日米開戦外交と「雪」作戦』文春新書、平成11年、pp.126-127.を参照。) 日本の大学教授や歴史家というのは、民族差別や人種偏見に対する非難を恐れているのか、ユダヤ人に対する批判が甘く、歐米の左翼学者が述べたことを日本語で繰り返すだけの九官鳥が多い。

  州知事や学長から成り上がったウッドロー・ウィルソン大統領には、「大佐」と呼ばれていたエドワード・マンデル・ハウス(Edward Mandell House)が影のように纏わり付いていた。ハウス大佐と似たような“調教師”がローズヴェルト大統領にも附いていて、それがルイス・マクヘンリー・ハウ(Louis McHenry Howe )というジャーナリストで、“小妖精(elfin)”と呼ばれた政治顧問だ。ルイス自身は大統領に仕える「無名の士(no-man)」と述べていたが、FDRに及ぼす影響は甚大だった。Julie M. Fenster, FDR's Shadow : Louis Howe, The Force That Shaped Franklin and Eleanor Roosevelt, New York : St. Martin's Press, 2009, p.222.) しかも、彼はエレノア夫人のアドヴァイザーにもなっていたから凄い。

Edward Mandell House 2133Louis McHenry Howe 213FDR & Eleanor 2143


(左 : エドワード・マンデル・ハウス / 中央 : ルイス・マクヘンリー・ハウ / 右 : エレノア夫人とフランクリン・ローズヴェルト大統領)

  もっとビックリするのは、選挙後、ハウが大統領の家族と一緒にNYのオルバニーからホワイトハウスに移り、二階のリンカン・ベッドルーム(Lincoln Room)に陣取っていたことだ。(Jean Edward Smith, FDR, New York : Random House, 2007, p.334.)白亜館の主人たるFDRは、朝8時頃起きると、ベッドで朝食を取り、食べながら「New York Times」や「Herald Tribune」「The Washington Post」「Chicago Tribune」といった新聞に目を通していた。そして、ルイス・ハウが用意したファイルを受け取っていたそうだ。ハウはこれを「日報ラッパ(Daily Bugle)」と呼んでいた。奇妙な関係に思えてしまうが、FDRが髭を剃ったり、着替えをしたり、タバコをふかしている時も、ハウはずっと大統領の側にいたらしい。シャーロック・ホームズとドクター・ワトソンじゃあるまいし・・・。

  FDRの影法師みたいな立場のルイス・ハウだが、その異様な人相と違い、家柄は結構よかった。

  父親のエドワード・ポーター・ハウ(Edward Porter Howe)は元陸軍の大尉で、除隊後は不動産やベンチャー・ビジネスに乗り出す冒険家であった。しかし、商人の才能は無かったようで、大尉の家族は貧乏生活に転落する。だが、「腐っても鯛」というか、失敗にめげない軍人魂は健在で、彼は友人からお金を借りて、NY州のサラトガで発刊される弱小の地元紙『Sun』を買収した。ジャーナリストで満足できないエドワードは、次第に政治への野心を抱くようになり、民衆党員としてインディアナ州の上院議員を目指すが、あえなく落選。

  それでも、政界への熱意を断念できず、スティーブン・グローバー・クリーヴランド(Stephen Grover Cleveland)を支援する。この応援が功を奏したのか、エドワードはサラトガの郵政局長という役職を得ることが出来た。しかし、人生には山あり谷ありだ。武士の商法といえばそれまでだが、「Sun」の経営は上手く行かず、最終的に売却する破目に。息子のルイスも相当な苦労をしたそうだ。

 「アメリカ貴族」とも言えるFDRと同じく、ルイス・ハウも“そこそこ”名のある家族の出身だった。父親のエドワードは血筋が良く、彼の祖先は独立戦争以前から新大陸に渡ってきたそうだ。最初はコネティカットに住んでいたが、独立戦争後にヴァーモントに移ったそうである。

  ルイス・ハウの母親、エリザ・ブレイク・レイ(Eliza Blake Ray)も名門の出身で、父親のジェイムズ・ミッチェル・レイ(James Mitchelle Ray)は、インディアナポリスにある歳入庁で副長官職を拝命していた。エリザの母、マリア・レベッカ・コー(Maria Rebecca Coe)の祖先も毛並みが良く、祖先の一人であるレベッカ・クック(Rebecca Cook)は、「メイフラワー号」で新大陸にやって来たフランシス・クック(Francis Cook)の子孫であるという。

  両親の家系から観れば、ルイス・ハウは西歐系のサラブレットに見える。しかし、その容姿はお世辞にも魅力的とは言えず、幼い頃には喘息を患う虚弱体質の児童であった。彼の顔写真を目にすると、「皮膚病の痕があるのか?」と思えてしまうが、これは彼が少年の時に“やらかした”自転車事故の“結果”だ。無謀にも、ルイスはブレーキの無い自転車に跨がり、スピードを出していい気になっていた。ところが、ひょんな事で彼は転んでしまい、顔を地面に叩きつけることに。これが原因で、ルイス少年には一生涯「顔」に残る傷が出来てしまった。第二次大戦中、ドイツ軍でコマンド部隊を率いていたオットー・スコルツェニー(Otto J. A. Skorzeny)中佐みたいに、大学時代の決闘で左頬に傷が出来たのなら自慢になるけど、自転車から転げ落ちて傷が出来たんじゃ女の子に自慢できないし、何よりも格好悪い。

Louis McHenry Howe 882(左 / 大きいカラーが特徴のルイス・ハウ)
  後に、政界で“有名人”となったルイスは、その人相と人目を引く大きなカラーで著名になった。確かに、当時のアメリカ人男性は硬いカラーの服を着ていたが、ルイスの襟カラーは特大であった。それゆえ、周囲の者は嘲笑うかのように、彼を「ルイス・ザ・ジャイアント・カラー(Louis, The Giant Collar)」と呼んでいたそうである。

  ある人々からは「中世の妖怪(mediaeval gnome)みたいだ」と評されたルイス・ハウは、その容姿も風変わりであったが、個人的な趣味も尋常ではなかった。1970年代のヒッピーじゃあるまいし、彼は自分の部屋で香を焚く事があったらしい。知人によると、彼の部屋に充満する煙とタバコの臭いは相当キツかったそうだ。一般人から見れば、ルイスは奇妙な側近に思えてしまうが、よく判らない事情でローズヴェルトの指南役(guru)となっていた。NYの五番街にある邸宅で大統領と一緒に暮らすこともあったらしい。もちろん、女房のエレノア・ローズヴェルト夫人は承知の上だ。しかし、母親のサラ・デラノ・ローズヴェルトは、息子に変な影響が及ぶのでは、と心配していたという。

Sara Delano Roosevelt 213Harry Hopkins 111Jesse Strauss 1Oscar Solomon Straus 1

(左 : サラ・デラノ・ローズヴェルト / ハリー・ホプキンス / ジェシー・I・シュトラウス / 右 : オスカー・ソロモン・シュトラウス )

  このルイス・ハウが1936年4月に亡くなると、その後釜に納まったのは、あのハリー・ホプキンス(Harold Lloyd Hopkins)だ。ホプキンスはヤルタ会談で常に大統領に付き添い、そっと耳打ちする補佐官として有名だった。それ以上に注目すべきは、ホプキンスがエレノア夫人とも親しい関係で、二人とも赤い進歩派だった点である。ホプキンスはユダヤ人ではなかったが、彼をFDRに紹介したのは、有名な百貨店「メイシーズ(Maycy's)」の社長を務めたジェシー・I・シュトラウス(Jesse Isidor Straus)であった。このユダヤ商人は、ローズヴェルト大統領と親しく、後に駐仏アメリカ大使になっている。ちなみに、彼の叔父は、ユダヤ人で初の商務長官になったオスカー・ソロモン・シュトラウス(Oscar Solomon Straus)である。1921年、オスカー・シュトラウスは進歩党から出馬してNY州知事を狙うが、やはりユダヤ人じゃ人気が出ないのか、有権者の支持を得られず失敗に終わっている。でも、米国ユダヤ歴史協会(American Jewish Historical Society)の総裁にはなれた。

FDRの背後で動くユダヤ人

Bernard Baruch 7732( 左 / バーナード・バルーク)
  ホプキンスとは違う立場で、FDRに影響を与えたのは、ウォール街の大物と評されたバーナード・バルーク(Bernard Mannes Baruch)だった。このユダヤ人の投資家は、第一次世界大戦の前から裕福で、100万ドル以上の財産があると囁かれていた。戦後はその資産が2億ドルに膨れ上がったんじゃないか、とも言われていたから凄い。彼はウィルソン大統領のアドヴァイザーになると、1918年に「戦時産業局(War Industries Board)」の局長に就任し、軍需物資のビジネスで一儲けしていた。

  1930年代になると、いつの間にか大統領の顧問に登り詰めており、ウィンストン・チャーチルが訪米すれば、真っ先に密談をする重鎮になっていた。やはり、チャーチルはユダヤ人と反りが合う。バーナード・バルークの出自を調べてみると、典型的なユダヤ移民の子孫であることが判る。自伝を出版したバルークは、自らをサウス・カロライナ生まれの“アメリカ人”と称していたが、本質的にはコスモポリタンのエイリアンだろう。

  アメリカ版のシャイロックたるバルークは、父と母の家系からもユダヤ人であることは明白だ。父親のサイモン・バルーク(Simon Baruch)は、1840年7月29日、ポーランドのシュバジェンツ(Swarzendz / Schwersenz / 当時はドイツ領)で生まれたが、彼が自身の祖先について話すことは滅多に無かったそうだ。(Bernard Mannes Baruch, Baruch : My Own Story, New York : Henry Holt and Company, 1957, p.3.) サイモンの父、つまりバーナードの祖父に当たるベルンハルト・バルーク(Bernhard Baruch)は、ラビを排出した家系で、スペインに住んでいたセファラディー系のユダヤ人であったという。孫のバーナードによると、バルーク家はポーランドとロシアの系統が融合した血筋らしい。(「バルーク」というファースト・ネームは、この祖父から由来するそだ。)

  シュバジェンツで生まれ育ったサイモン・バルークは、プロイセン軍に引っ張られるのが厭で、ドイツ領のポーランドを離れ、1855年にアメリカへ渡ってきた。彼は15歳の時、ポーゼンのギムナジウム(日本で言う高等中学校)に通っていたが、徴兵に怯えたので、遠く離れた米国に逃れた、という訳だ。当時から、アメリカはユダヤ人の「避難所」になっており、ユダヤ人は拒絶されることもあったので、「ポーランド人枠」や「オーストリア人枠」を利用して、偽装入国することもあった。ユダヤ人というのは世界各国に同胞が散らばっており、一匹狼が見知らぬ土地に流れ着いても、何らかの「手助け」を売ることができる。

  サイモンも新天地の米国で頼りになる同胞がいて、それがサウス・カロライナ州のカムデン(Camden)に住み、そこで小さな雑貨店を営むマンネス・バウム(Mannes Baum)であった。(バルークのミドル・ネームである「マンネス」は、このユダヤ商人のファースト・ネームから貰った名前である。)

  徴兵逃れのサイモンは、バウムの女房からその才能を認められ、チャールストンにある医学カレッジ(South Carolina Medical College)に進むよう勧められたという。サイモンは後にヴァージニア州リッチモンドにある医学校(Medical College of Virginia)にも通い、そこでも医学を勉強したそうだ。ところが、移住先のアメリカで南北戦争が始まると、医学を修めたサイモンは、歩兵とならず得意分野を活かしてアシスタントの軍医になった。(上掲書、p.5.)ヘンリー・キッシンジャーのように“軍歴”を持つユダヤ人は珍しくないが、勇猛果敢な戦士というより、外国語を駆使する情報収集係とか、武器や弾薬を配達する兵站係というのが多い。日本に来たチャールズ・ケーディス(Charles Louis Kades)も、激戦を経た陸軍の大佐じゃなく、軍服を着た「弁護士」上がりの役人だった。 

  プロイセンの軍隊を嫌ったサイモンは、ロバート・リー将軍が率いる南軍に属したが、戦争の事については息子にあまり喋らなかったそうである。確かに、剣じゃなくメスを握ったアシスタントじゃ華々しい功績は無いし、北軍に捕まった時の惨めな“体験”では話にならない。ただし、サイモンは1864年7月に「軍医(Surgeon)」に昇格し、ノース・カロライナ州のトマスヴィルに派遣されたという。でも、激務のせいか、チフスに罹ってしまった。高熱にうなされたサイモは、敵軍に捕まってしまい、一巻の終わりかと思いきや、あっけなく釈放された。ただし、本人が知らないうちに解放されたというから驚く。何とも情けない話だが、ユダヤ人の「軍人」には、これといった“武勇伝”が無い。

  バーナード・バルークを産んだイザベラ・ウルフ(Isabelle Wolfe Baruch)もユダヤ人で、彼女の先祖はアイザック・ロドリゲス・マルケス(Isaac Rodriguez Marques)というセファラディー系の移民であった。アイザックは1690年代に新大陸のニュー・ヨークに住み着き、ヨーロッパとアングロ・アメリカ、そしてラテン・アメリカを行き来する貿易で生計を立てる船主だった。(上掲書、p.13.)このアイザックが何処で生まれたのか判らないが、ジャマイカ生まれという推測もある。確かなのはスペインやポルトガルにいたユダヤ人という点だけである。

  独立戦争が起こる前、アメリカ大陸にはイギリス人やオランダ人の奴隷商がいた。しかし、奴隷を扱う貿易商はヨーロッパ人だけじゃなく、数は少なかったがユダヤ人にもいた。アイザックも所有する「ドルフィン号」でアフリカ黒人を輸送していたそうだ。アイザックにはアイザック・マークス(Isaac Marks)という孫がいたそうで、このアイザックにはサミュエル(Samuel)という息子が生まれていた。サミュエルにはデボラ(Deborah)という娘がいて、このデボラ・マークスはチャールストンでラビを務めるハートウィッグ・コーエン(Hartwig Cohen)と結婚した。

  デボラとハートウィッグの間には、サラ(Sarah Cohen)という娘が生まれ、彼女がバーナード・バルークの祖母となる。サラはセイリング・ウルフ(Saling Wolfe)と結婚し、子供を13人もうけるが、そのうちの三人は夭折したそうだ。バーナードの母となるイザベルは、ウルフ家の長女であった。父親のセイリングは裕福な奴隷貿易商人であったようで、孫のバーナードによると、田園地帯に住むイギリス紳士(English country squire)のように見えたそうだ。(上掲書、p.19) でも、実際はイギリス人の地方名士を真似ただけのユダヤ成金じゃないのか?

  イザベラ・ウルフは戦争から戻ってきたサイモン・バルークと結婚し、四人の息子を産んでいた。長男がハートウィッグで、次男が投資家になるバルークだ。三男がハーマンで、末っ子がセイリングという名前だった。

  「バンチ(Bunch)」というニックネームで呼ばれたバーナード少年は、南北戦争で疲弊したカムデンに住んでいたが、比較的裕福な家庭で育っていた。彼は快適な環境で暮らし、家には黒人の乳母であるミネルヴァ(Minerva)が仕えていたという。子供達は彼女になついていたらしい。ミネルヴァは結婚していない、つまり夫がいないのに、なぜか子供を5人産んでいた。彼女はバーナードの母親イザベラに、よく謝っていたそうで、「奥様、私はまた過ちを犯してしまいました」というのが口癖だった。

  黒人家庭は今も昔も複雑で、親が違う兄弟とかは珍しくない。両親・祖父母さえはっきりしない黒人も多く、風邪かと思ったら妊娠で学校を休む女子高生もいるから、日本人だと天を仰ぎたくなる。白人家庭で育った黒人の養子なんかはもっと複雑だ。精神的には「白人」となるが、鏡に映った顔を見れば「黒人」ということが厭でも判る。本当に気の毒だけど、養子の黒人は自分が何者なのかも判らないまま大きくなる。学校で「アメリカ史」を習っても、黒人にしたら「外国史」に過ぎず、“祖先”の過去を物語った歴史じゃない。カルフォルニアやニュー・ヨークでは、奴隷制の賠償金を要求する黒人がいるけど、祖先が誰なのか判らぬまま請求するなんて無茶だろう。しかも、「一人当たり120万ドルよこせ」なんて法外だ。(Cheyanne M. Daniels,‘Inside a California proposal to pay $1.2 million in reparations to Black Americans, ’The Hill, May 4, 2023.)

  脱線したので話を戻す。当時のサウス・カロライナ州や他の南部地域でも、中流の白人家庭には黒人の女中や乳母、小作人などが普通にいて、BLM運動が勃発するような雰囲気じゃなかった。黒人もちゃんと“身分”を弁えていたから、あえて白人の旦那衆と揉め事を起こそうとは思わなかった。バルーク家も当然の如く黒人の召使いを雇っていたから、リベラル・メディアを牙城とするユダヤ人は、なるべく過去に触れないよう注意している。ましてや、奴隷商人なんてNGだ。

  バーナード・バルークは自伝の中でミネルヴァから聞いた話を紹介している。当時の南部黒人で“幽霊”や“お化け”を信じている者は少なくなかった。ミネルヴァによると、黒人は「hants(森に住む怪物で、人間を拷問したり襲ったりする)」を信じており、原始的な迷信に怯えていたという。黒人は自宅にある窓ガラスを嫌っていたという。(上掲書、pp.30-31) なぜなら、窓越しに「hants」が部屋の中を覗いている、と信じていたからだ。現在の黒人は馬鹿にするけど、昔の黒人は「hags(普通の人間を装うお化け)」や「boo-daddies(魔術師の医者が受肉化した妖怪)」などを信じていた。


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( 左 / カーチス・ドール)
  ウォール街やワシントンには、得体の知れないフィクサーやユダヤ人の富豪が蠢(うごめ)いている。彼らは大恐慌の最中でも私腹を肥やすし、戦争となれば欣喜雀躍だ。元ボクサーのバーナード・バルークも、銭儲けに関しては敏感で、サメよりも速く、ハイエナよりも貪欲だった。彼はFDRの娘アンナと結婚したカーチス・ドール(Curtis B. Dall)に親切で、FDRの娘婿に銭儲けのヒントを与えたそうだ。

  このドール氏は第一次世界大戦の時、海軍航空隊に属する少尉として海外に派遣され、戦後は証券業界に入って、リーマン・ブラザーズやメリル・リンチの役員になったそうだ。(退役した時は大佐になっていた。)興味深いのはドール氏が出逢った人々で、彼は政財界の重要人物と接していたそうである。

  例えば、1927年頃、勤め先のリーマン・ブラザーズにクーン・ローブ社(Kuhn, Loeb & Co.)のフレデリック・ウォーバーグ(Feredric Marcus Warburg)が入ってきたという。後にクーン・ローブのパートナーになるフレデリックは、ドール氏の仕事を手伝ってくれたそうで、仕事の合間には社会問題や戦争の話をしたそうだ。こういう間柄になったので、ウォーバーグ家の御曹司は、同僚のドールに一族の逸話を教えてくれたという。1918年11月、フレデリックの伯父でドイツに住むマックス・ウォーバーグ(Max Warburg)は、皇帝直属のシークレット・サーヴィスで働く隊員だった。停戦後、マックスは50万ドルの金塊をドイツからロシアに運び、レオン・トロツキーに渡したそうだ。(Curtis B. Dall, FDR : My Exploited Father-In-Law, Tulsa : Christian Crusade Publications, 1967, p.29.)

  「ウォバーグ家の歴史」を一族の者から直接聞くことが出来たというのは本当に貴重なことだ。伝聞とはいえ、フレデリックの話は本当だろう。何しろ、彼の父親はフェリクス・M・ウォーバーグ(Felix M. Warburg)だし、母親はジェイコブ・シフ(Jacob Schiff)の娘であるフリーダ・シフ(Frieda Schiff)ときている。まさにユダヤ人富豪のサラブレッドといったところだ。

Frederick Warburg 1Frieda Schiff Warburg 1Felix M Warburg 1Max Warburg 2

(左 : フレデリック・ウォーバーグ / フリーダ・シフ / フェリクス・M・ウォーバーグ / 右 : マックス・ウォーバーグ)

  ドール氏は別のエピソードも紹介していた。彼がグッド・ボディー社に勤めていた頃、岳父の顧問を務めていたバーナード・バルークと面会する機会を持ったという。最初は緊張したが、段々と打ち解け合い、ドール氏は投資物件の話題を持ちかけてみた。例えば、「ナショナル・デイリー・カンパニーの株について、どう思うか?」と尋ねてみたそうだ。しかし、返ってきた答えは凡庸な意見で、これといった特ダネではなかった。バルークは素っ気なく、「素晴らしい会社だから、いい投資になるでしょう」と言うばかり。これでは何のアドヴァイスにもならない。

  ところが、落胆して沈黙するドール氏を哀れんだのか、バルークは突然「ドールさん、私は銀が好きなんです」と言い出した。最初、何を意味するのか解らなかったドール氏は、「そうなんですか?」と訊くしかなく、ただポカンとしていたそうである。バルークは彼に向かって、「事実、私は世界市場で流通する銀の16分の5を持っているんですよ(In fact, I own about 5/16ths of the world's visible supply of silver.)」と伝えていた。勘の鈍いドール氏はピンとこなかったようで、「それは大変な量ですね」としか応えなかった。バルークも「ええ、とてもたくさんの銀ですよ」と繰り返すだけだった。

  この会話は「客人が到来した」との執事の連絡で中断されてしまった。しかし、バルークの助言を真剣に考えなかったドール氏は、数ヶ月後にバルークの意味が分かるようになる。何と、米国議会は公開市場で扱われる銀の購入価格を二倍にしてもいい許可を財務省に与えたのだ。(FDR : My Exploited Father-In-Law, p.74.) この知らせを受け、支那では農民や商人が大騒ぎとなった。なぜなら、農産物や商品との交換で、米国から受け取る銀の量が半分になるからだ。物価の急激な高騰は、他の国々でも大災難をもたらした。もしも、あの時、ドール氏がバルークの“ヒント”に従って銀を購入していたら、彼はかなりの利益を手にしていたに違いない。

  「格差社会」というのは何処の国にもあって、裕福な者はその富を更に増やすことができる。なぜなら、彼は様々な人脈を使ったり、その高い地位を利用して、“上質なインサイダー情報”を得ることができるからだ。ローズヴェルト政権で隠然たる権力を誇るバルークも、内部情報を摑んで自分の富を増やしていた。

  よく「類は友を呼ぶ」というが、バルークも同類のユダヤ人と組んでいた。彼はユージン・マイヤー(Eugene Isaac Meyer)を誘って、1915年、アラスカにある「ジュノー金鉱会社(Alaska Juneau Gold Mining Company)」に投資を行っていたのである。ユージン・マイヤーは、フランス系ユダヤ人のビジネスマン、マルク・ユージン・マイヤー(Marc Eugene Meyer)の息子であった。マルクは雑貨店から金融業界の大手になった「ラザード・フレール(Lazard Frères)」の社長を務めていた。息子のユージン・ジュニアは、いかにもユダヤ人らしく、マスメディアに食指を伸ばし、経営難に陥っていた「ワシントン・ポスト」紙を買収した。彼の娘であるキャサリン・マイヤー(Katherine Meyer)は父の跡を継ぎ、ピューリッツァー賞をもらう名物オーナーになっていた。彼女はフィリップ・グラハム(Philip Graham)と結婚し、社長夫人の「キャサリン・グラハム」として新聞社に君臨する。

Eugene Meyer 111Katherine Meyer Graham 1Philip Graham 214


(左 : ユージン・マイヤー / 中央 : キャサリン・マイヤー ・グラハム / 右 : フィリップ・グラハム )

  商売上手なバルークは、以前から金の重要性に目を附けており、1933年2月まで、コツコツと金塊を買い漁っていた。彼はニュー・ヨークにある銀行の地下室(金庫)に、66本の光り輝く延べ棒を貯め込んでいたそうだ。(Jordan A. Schwarz, The Speculator : Bernard Baruch in Washington, Chapel Hill : The University of North Carolina Press, 1981, p.296.)ところが、間もなくバルークの“貯金”は停止する。なぜなら、フランクリン・ローズヴェルト大統領が1933年4月に大統領命令を発し、アメリカ国民が所有する金(ゴールド)を巻き上げることにしたからだ。

John Garner 11(左 / ジョン・N・ガーナー)
  テキサス州の下院議員からローズヴェルト政権の副大統領にまで登り詰めたジョン・N・ガーナー(John Nance Garner)は、元々テキサスの銀行家であった。しかし、バールークとは“反り”が合わず、それほど親しい関係にはならなかった。彼はインサイダー情報で儲けているバルークをからかうつもりでFDRに質問を投げかけたという。「大統領、我々の友人の中には、大量の金を保有する者がいるんですよ」と。すると、FDRは「誰なんだい?」と尋ねた。ガーナーは嬉しそうに答え、「バルークですよ! 私は彼が金塊を山のように貯め込んでいるのを知っているんです」と述べたそうだ。(上掲書、p.297.)

  後に、FDRはコーネル大学のジョージ・ウォーレン(George Warren)教授の勧めもあってか、バルークが喜びそうな方針を発表した。何と、合衆国政府が新たに採掘された金を市場価格を上回る値段で、しかも固定価格で買い取ることを明らかにしたのだ。これなら、バルークはボロ儲けとなる。事実、バルークは自伝の中で儲けたことを認めているのだ。(Baruch : My Own Story, p.230.)

Joseph Robinson 1(左 / ジョセフ・ロビンソン )
  ところが、大儲けしたユダヤ人には心配事があった。所得が増えれば税金も増える。そこで、バルークはアーカンソー州選出の上院議員、ジョセフ・ロビンソン(Joseph Taylor Robinson)を利用することにした。バルークはロビンソンに働きかけ、減税の政治キャンペーンを張ることにしたのである。日本人でも呆れてしまうが、1935年1月以降、鉱山への投資から得られた利益に対するキャピタル・ゲインズ課税を削減すべし、というのが、その内容だった。(The Speculator, p.298.)大統領の執務室に出入りする政治顧問が、自分の利益を増やすべく、特定の減税方針を画策するなんて言語道断だ。でも、アメリカの富裕層では常識なのかも知れない。

  株への投資や先物取引などは、素人が手を出す領域じゃない。株は博打だ。しがない庶民は、一攫千金の夢を抱いて株に手を出すが、所詮、情報を持たない“アマチュア”なので、相場を熟知するプロには勝てない。むしろ証券会社の“カモ”にされるだけ。株の世界では大口のお客だけが守られる。虎の子を預ける庶民は、「カス」とか「クズ」と呼ばれていた。

Martha Stewart 1(左 / マーサー・スチュアート )
  インサイダー取引で有罪となったマーサー・スチュアート(Martha Helen Stewart)は、庶民に対する貴重な教材だ。彼女は2001年12月まで、「ImClone Systems」の株を保有していたが、それが暴落するとの情報をメリル・リンチのブローカーであるピーター・バカノヴィッチ(Peter Bacanovic)から教えられ、即座に持ち株を売却してしまった。マーサは4万5千673ドルの損失を免れたが、この不正がバレて禁錮刑と罰金刑の判決を受けることに。2004年、犯罪者となったマーサは、ウェスト・ヴァージニアの刑務所で服役した。彼女料理や園芸、内装装飾などをテーマに、御洒落なライフスタイルを提案していたが、有罪判決を受けたことで、自身の冠番組をなくし、その名声も地に落ちた。しかし、刑期を終えると、以前の仕事を再開し、マーサは失った富を取り戻した。有名人は失敗を肥料にして富を増やす。一般国民だと単なる前科者で、再就職なんて無理なのに・・・。

  かつて、アメリカ人は敗戦国の日本人に「アメリカン・デモクラシー(民衆支配の統治形態)を自慢していたが、現在でも同じプライドを持っているのだろうか? 愛想がいいだけの木偶の坊が人民投票で選ばれ、資金を提供する旦那衆が「操り人形」を動かすのが、アメリカン・デモクラシーの実態だ。そう言えば、プラトンやアリストテレスは、デモクラシーを最悪の統治形態と呼んでいたよねぇ〜。

http://kurokiyorikage.doorblog.jp/archives/68934207.html

19. 中川隆[-12420] koaQ7Jey 2023年7月30日 20:41:47 : ybHnXADSkV : cXNHcTMyTldwSDY=[2] 報告
瀬島龍三、統制派、ソ連の対日参戦
2019/09/02
https://www.youtube.com/watch?v=G4aRZQTyoDs&list=PL9DmHG7OZYSauiBXcmysZuMjOSeMWY8Yc&index=5

昭和の軍部はなぜ暴走したのか?【CGS 茂木誠 超日本史 第29回】
2019/10/03
https://www.youtube.com/watch?v=RxcRfRiO20s&list=PLrhni2Vgrbr0OweawRqEJ2aAjHoyMmpak&index=29

日米戦争 破局への道 【CGS 茂木誠 超日本史 第30回】
2019/10/10
https://www.youtube.com/watch?v=TmyOlzE1wE4&list=PLrhni2Vgrbr0OweawRqEJ2aAjHoyMmpak&index=30

20. 2023年11月19日 11:59:20 : EX2CaJk6ZI : aGZTb2ZGNnFQSC4=[6] 報告
<▽44行くらい>
特番『日本よ、歴(れっき)とした独立国になれ その1 〜戦勝国史観を根底から覆す時が来た〜』ゲスト:大阪市立大学名誉教授・経済学博士 山下英次氏
2023/10/03
https://www.youtube.com/watch?v=TrcvWnEmTC8


特番『日本よ、歴(れっき)とした独立国になれ その2 〜第2次世界大戦、フランクリン・デラーノ=ルーズヴェルト大統領がおかした愚行と大罪〜』ゲスト:大阪市立大学名誉教授・経済学博士 山下英次氏
2023/10/21
https://www.youtube.com/watch?v=Hw8XuSYzP8Q&t=137s

特番『日本よ、歴(れっき)とした独立国になれ その3 〜「リメンバー・パールハーバー」とはもう言わせまい〜』ゲスト:大阪市立大学名誉教授・経済学博士 山下英次氏
2023/11/09
https://www.youtube.com/watch?v=LbYDSuRfBvY

特番『日本よ、歴(れっき)とした独立国になれ その4 〜誰が中華人民共和国の誕生を招いたのか?米軍の延安ミッションが契機〜』ゲスト:大阪市立大学名誉教授・経済学博士 山下英次氏
2023/11/16
https://www.youtube.com/watch?v=qECM5tskags&t=68s


著書『日本よ、歴(れっき)とした独立国になれ―
アメリカの戦勝国史観から脱却する時は令和(いま)』、ハート出版、2023年8月→
https://www.amazon.co.jp/%E6%97%A5%E6%9C%AC%E3%82%88%E3%80%81%E6%AD%B4%E3%81%A8%E3%81%97%E3%81%9F%E7%8B%AC%E7%AB%8B%E5%9B%BD%E3%81%AB%E3%81%AA%E3%82%8C%EF%BC%81-%E2%94%80-%E3%82%A2%E3%83%A1%E3%83%AA%E3%82%AB%E3%81%AE%E6%88%A6%E5%8B%9D%E5%9B%BD%E5%8F%B2%E8%A6%B3%E3%81%8B%E3%82%89%E8%84%B1%E5%8D%B4%E3%81%99%E3%82%8B%E6%99%82%E3%81%AF%E4%BB%A4%E5%92%8C%EF%BC%88%E3%81%84%E3%81%BE%EF%BC%89-%E5%B1%B1%E4%B8%8B-%E8%8B%B1%E6%AC%A1/dp/4802401647

【目次】
はじめに 
第1章 国家意識の重要性
第2章 日本列島全体を、「巨大な洗脳の檻」と化したGHQ
    終戦直後の日本人に罪の意識なし
第3章 GHQの対日洗脳工作における共産主義の影響 
第4章 戦勝国史観を根底から覆す時が来た
第5章 真の意味の国の独立なくして日本の蘇生なし
おわりに

21. 中川隆[-11645] koaQ7Jey 2024年2月11日 13:51:55 : n4p04CquLw : bG9tSjdBTFhRTk0=[7] 報告
戦争中の軍人が実は相手側と通じていた例は過去にもあり、例えば大戦末期の関東軍(中国大陸に出兵した日本軍)の上層部はソ連軍に対し「日本の東半分を与える」という提案をして朝鮮半島の38度線で止まるよう取り引きした

本当にその気があったのか歴史の謎だがソ連軍は真に受けて停止し、その間に米軍を先にソウルに招き入れて米軍対ソ連軍の構図を作り、以降80年近くそのラインは維持されている

また関東軍はあの毛沢東軍と連携して蒋介石の中国軍と戦い、このお蔭て毛沢東軍は世界大戦に巻き込まれず終結後に蒋介石軍を倒す事が出来た
https://www.thutmosev.com/archives/33196.html

22. 中川隆[-9451] koaQ7Jey 2024年8月15日 00:57:25 : g0k3YWxN3E : czM5OHhuYjJwa1U=[10] 報告
<■97行くらい→右の▽クリックで次のコメントにジャンプ可>
2024.08.15XML
日本が「ポツダム宣言」を受諾する前後に米国の支配層が繰り広げた暗闘
https://plaza.rakuten.co.jp/condor33/diary/202408150001/

 1945年8月15日、昭和天皇(裕仁)は「ポツダム宣言」の受諾をアメリカ、イギリス、中国、ソ連の4カ国に伝えたと「臣民」に発表した。いわゆる「終戦勅語」だ。

 この「勅語」について堀田善衛は「負けたとも降服したとも言わぬというのもそもそも不審であったが、これらの協力者(帝國ト共ニ 終始東亜ノ開放ニ協力セル諸盟邦=引用者注)に対して、遺憾ノ意ヲ表セサルヲ得ス、という、この嫌みな二重否定、それきり」で、「その薄情さ加減、エゴイズム、それが若い私の軀にこたえた」と書いている。(堀田善衛著『上海にて』筑摩書房、1959年)

 その年の4月12日、アメリカでは国の在り方を大きく変える出来事があった。ニューディール派を率いていたフランクリン・ルーズベルト大統領が急死、副大統領のハリー・トルーマンが大統領の職を引き継いだのである。トルーマンはルーズベルトと違う考え方の持ち主で、副大統領時代、大統領と会ったのは2度だけだともいう。(Oliver Stone & Peter Kuznick, “The Untold History of the United States,” Gallery Books, 2012)

 トルーマンは第1次世界大戦の頃、兵営内で日用品などを販売する酒保をオクラホマ州にあったフォート・シルで経営して成功したのだが、そこで知り合いになったジェームズ・ペンダーガストの叔父はカンザスシティ政界のボス、トーマス・ペンダーガストだった。

 当時のカンザスシティはギャンブル、バイシュン、密造酒や麻薬取引、恐喝が盛んで、そうした「ビジネス」の上に君臨していたのがトーマスに他ならない。そのトーマスの下でトルーマンは稼いでいた。(Jonathan Marshall, “Dark Quadrant,” Rowman & Littlefield, 2021)

 こうした「政治マシーン」がトルーマンを副大統領の座に付けることになるのだが、そうした彼に多額の政治資金を提供していたひとりがアブラハム・フェインバーグなるシオニストの富豪。裏ではシオニスト団体へ法律に違反して武器を提供、イスラエルの核兵器開発を資金面から支えることになる人物だ。

 ルーズベルト大統領が信頼していた文民はハリー・ホプキンスとヘンリー・ウォーレスだと言われている。ルーズベルトはファシストの巣窟と見られていた国務省を信頼せず、外交はホプキンスに頼っていた。つまり当時の国務省とルーズベルト大統領を一体化させて議論することは間違いである。そして副大統領に据えたのがウォーレスだ。

 JPモルガンをはじめとするウォール街の富豪たちがルーズベルトが初めて大統領に就任した直後、1933年から34年にかけてクーデターを目論んだことは本ブログでも繰り返し指摘してきた。そうした金融資本はトルーマンを引き上げた政治マシーンの背景でもある。

 そうした勢力にとって邪魔な存在だったウォーレスは、ドイツの降伏が見えていた1944年に行われた大統領選挙の際、民主党幹部の意向で副大統領のポストから引きずり下ろされ、商務長官にされている。ウォーレスが義理の弟で駐米スイス大使だったカール・ブルグマンへ機密情報を話し、それがドイツ側へ伝わっていたという怪しげな話が使われた。(Simon Dustan & Gerrard Williams, “Grey Wolf,” Sterling, 2011)

 ルーズベルトが急死、トルーマンが昇格という流れは1933年から34年にかけてウォール街が試みたクーデターの目的に合致する。新大統領のトルーマンは当然とことながらウォーレスを嫌い、1946年9月、商務長官を辞めるように通告してホワイトハウスから追い出した。ホプキンスは1946年1月に55歳で死亡している。ホプキンスは1939年に胃癌という診断で胃の75%を切除していた。

 その間、1945年5月上旬にドイツが降伏、その直後にイギリスのウィンストン・チャーチル首相はソ連を奇襲攻撃する作戦を立てるようJPS(合同作戦本部)に命令、5月22日に「アンシンカブル作戦」が提出された。その作戦によると、攻撃を始めるのは日本が降伏する前の1945年7月1日。アメリカ軍64師団、イギリス連邦軍35師団、ポーランド軍4師団、そしてドイツ軍10師団で「第3次世界大戦」を始める想定になっていた。この作戦は発動されなかった理由は、参謀本部が5月31日に計画を拒否したからである。(Stephen Dorril, “MI6”, Fourth Estate, 2000)

 日本が1940年9月にドイツやイタリアと三国同盟を結び、そのドイツが1941年6月にソ連へ軍事侵攻したことから日本とソ連は敵国になったのだが、ドイツ降伏後、イギリス軍は両国が手を組むことを懸念したとする見方もある。

 実は、日本が真珠湾を奇襲攻撃する前、イギリスには「日本・アングロ・ファシスト同盟」を結成しようという案があった(Anthony Cave Brown, “"C": The Secret Life of Sir Stewart Graham Menzies,” Macmillan、1988)のだが、1939年に日本軍はノモンハンでソ連軍に敗北、その後に南進、つまり東南アジアへ矛先を向けてイギリスの利権と衝突することになり、この同盟は不可能になった。イギリスの支配層は当時の日本には「反ソ連派」と「親イギリス派」がいると考えていたのかもしれない。日本・アングロ・ファシスト同盟を結成しようという案は反ファシストだったルーズベルト米大統領とも衝突する。

 1945年7月16日にアメリカではニューメキシコ州のトリニティ(三位一体)実験場でプルトニウム原爆の爆発実験に成功した。ポツダム会談が始まる前日に行いたいというトルーマンの求めで予定が早められ、この日の実験になったという。

 実験の成功を受けてトルーマン大統領は原子爆弾の投下を7月24日に許可、そして26日にアメリカ、イギリス、中国はポツダム宣言を発表、8月6日に広島へウラン型が投下された。その3日後には長崎へプルトニウム型が落とされているが、原爆投下がソ連を意識したものだったことは本ブログでも繰り返し書いてきた通り。原爆以外にもアメリカ軍は東京を含む日本の都市を焼夷弾で焼き尽くした。3月から7月にかけての沖縄戦は日本の降伏が遅れたためだ。

 第2次世界大戦後の日本のあり方を決めたのはジャパンロビーだとされている。その背景にはウォール街の富豪が存在していた。そのジャパン・ロビーの中心人物だったジョセフ・グルーはJPモルガンが1932年に日本へ駐日大使として送り込んだ人物にほかならない。彼は皇室を含む日本の支配層に強力なネットワークを持っていた。大戦後、日本に天皇制は残る。「象徴」になったと弁明されているが、天皇が東京裁判に引き摺り出されなかったのは、敗戦前の天皇は「象徴」に過ぎないとされたからだ。
https://plaza.rakuten.co.jp/condor33/diary/202408150001/

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