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黒沢清 Pulse 回路 (大映 2001年)
http://www.asyura2.com/20/reki4/msg/1062.html
投稿者 中川隆 日時 2020 年 9 月 29 日 19:36:13: 3bF/xW6Ehzs4I koaQ7Jey
 

(回答先: 中川隆 _ ホラー映画関係投稿リンク 投稿者 中川隆 日時 2020 年 2 月 23 日 13:37:40)

黒沢清 Pulse 回路 (大映 2001年)




監督 黒沢清
脚本 黒沢清
音楽 羽毛田丈史 和田亨
主題歌 Cocco
「羽根〜lay down my arms〜」
撮影 林淳一郎
製作会社 大映
公開 2001年2月10日



『回路』(かいろ)は、2001年の日本のホラー映画。キャッチコピーは「幽霊に会いたいですか?」。


2001年に、カンヌ国際映画祭で国際批評家連盟賞を受賞。DVDは同年8月24日発売。


2006年にはアメリカ・リメイク版『パルス』が公開された。『パルス』は更に、アメリカで『2』『3』と続編も作られた[2]。


あらすじ


観葉植物販売会社「サニープラント販売」で同僚の田口が自殺してからというもの、ミチの周辺では身近な人たちが次々と黒い影を残し姿を消していってしまった。


同じ頃、大学生の亮介は、“ウラヌス”というプロバイダでパソコンで噂で聞いていた「幽霊に会いたいですか」と問う奇妙なサイトにアクセスしてしまう。


次々と黒い影を残し消える人たち。不気味に変容しはじめる世界。亮介が思いを寄せていた春江も不可解な行動をとり始める。


赤いテープに囲われたアパートのドアを見つめて佇む作業員が何かをしてしまったことが始りのようだった。


親しいものたちが消えてゆき日常が崩壊していく中、ミチと亮介は出会い、共に逃避しようとするが寸前、亮介にも危険が及んでしまう。ミチはそれでも亮介を連れ、幽かな希望目指して船出するのだった。


キャスト


川島亮介:加藤晴彦
工藤ミチ:麻生久美子
唐沢春江:小雪
佐々木順子:有坂来瞳
矢部:松尾政寿
吉崎:武田真治
ミチの母親:風吹ジュン
船長:役所広司
工事現場の作業員:哀川翔
社長:菅田俊
田口:水橋研二
幽霊:塩野谷正幸
TVアナウンサー:長谷川憲司


https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%9B%9E%E8%B7%AF_(%E6%98%A0%E7%94%BB)
 

  拍手はせず、拍手一覧を見る

コメント
1. 2020年10月01日 13:16:48 : B74PUDZOsk : Qm5DT2VLQzlKcDI=[22] 報告
対談 黒沢清 × 高橋洋 (『Pulse』 / 『集積回路 黒沢世界に接続する』から)


2. 2020年10月01日 13:19:58 : B74PUDZOsk : Qm5DT2VLQzlKcDI=[23] 報告
映画「回路」をいまさら考察
のにお 2020/06/08
https://note.com/textance/n/n911c231cb14a

 DVDで、テレビの深夜映画で、CSで、アマゾンプライムで、録画したHDDで。幾度となく黒沢清監督の「回路」を鑑賞してきました。マニアではないので微細なシーンまで記録や記憶しているわけではありませんが、最近またアマゾンプライムでじっくり(スマホで)観たので、今さらながらに考察文など認めてみます。


どんな映画?
 2001年に公開された黒沢清監督の映画です。一応はホラー映画ですね。幽霊とか出てくるし、クネクネしながら近づいてくるシーンがあるので。主演は加藤晴彦(川島役)と麻生久美子(ミチ役)、と小雪(春江役)。みんな若い…とくに小雪はあの特徴的なパーツがさほど目立ちません。この後で成長したんでしょうか…。


 人間が死んだら魂があの世に行くとして、あの世の容量が限界を超えたらどうなる?という背景があって、なにかの切っ掛けで死んだ魂=幽霊が現世への通路を見つけて侵略してくる、というお話です。お話であり、中盤に武田真治のセリフでズバリの説明まであるんですが、それは土台としての要素でしかありません。映画の中では、加藤晴彦サイドと麻生久美子サイドで不気味な事件が起きていき、やがて人類は破滅に至るというヒューマンドラマです。

 幽霊が群れをなして人間を襲うシーンもなければ、幽霊を斧でぶった切るような戦闘もありません。あくまでも静かに、淡々とした侵略の中に放り込まれた若者達の死生観を描いている、と受け取っています。 

川島と春江の断絶
 終盤、川島がミチを伴って廃工場で春江と対峙するシーンがあります。川島が一緒に逃げようと提案するも、春江は首を撃ち抜いて死んでしまいます。この自殺の直前、春江は川島に対して「一緒に?」という言葉を残してトリガーを引くのですが、これまでこのセリフにあまり気を払っていませんでした。今回は音声をイヤホンで聞いていたせいか、このセリフがとても印象的でした。

 春江と共に永遠に生き延びたい(=死にたくない)川島に対して、孤独に苛まれ厭世観に身をやつしてしまった春江は、この時に川島との決定的な断絶を感じて自殺したのだ、と初めて思い知りました。これまではずっと、川島の言葉に耳を貸さず、ただ勢いで自殺したのだと思いこんでいたのです。

 一見して、川島と春江は対象的な人物として捉えられます。川島は能天気で現実を直視せず、永遠に若いまま楽しく暮らしていくことを夢想している大学生。一人暮らしの散らかった部屋で気ままに学生生活を送っているようです。対して春江は理知的で部屋は整頓されているものの無機質な面があり、家族の死によって陥った孤独から、死ぬことで"あの世"で家族と再開したいと思い込んでいます。そして、対照的だからこそ惹かれ合ったのだろう、と。

 しかし、二人は本質的に同類なのではないでしょうか。"死ぬことは考えない。いつか永遠に生きられる薬ができる"と言う川島と、"死ねば家族の元に行ける"と言う春江。方向性は違いますが、共に死と孤独に関する現実逃避傾向にあるのです。そして現実として二人共に孤独です。

 川島は劇中、家族や友人に連絡を取ったり、共に行動するシーンはありません。無駄な人間関係を映画的に省略した、という見方もできますが、川島は大学で特定の友人もなく孤立しており、その孤独から逃れるためにインターネットに接続したのではないでしょうか。ボンヤリとですが「インターネットを使って誰かと交流できる」というイメージを持っていたからこそ、ロクに使えもしないパソコンを手に入れて、インターネットに接続してみたと考えると、川島の周囲に誰もいない事に得心がいきます。

 春江は劇中、同じ講義を取っているのかゼミ生なのか、他の学生に相談されるなど、表向きの人間関係が若干あります。また、困っている川島に声をかけるなどの開けた感じも出しています。彼女は表向き健全な大学生ですが、実生活は孤独そのものです。さらに既にインターネットに触れており、それが孤独と孤独を結ぶ通路にはなっても、孤独を解消するツールではないことを知っています。そして彼女は日々、死後の世界への興味を深めています。だからこそ「幽霊」というキーワードを持った川島に食いついたのではないでしょうか。

 おそらく、春江が川島に望んでいたことは何もないのです。幽霊の侵略が本格化して表向きの人間関係も消失してしまったことで混乱し、川島と(現実からの)逃避行を一時的に図りますが、頭の中は絶望と孤独で占められています。同じく現実逃避しているだけの川島では自分を救えない、と理解しているからです。それが、電車で川島が離れた途端に帰宅した行動に表れています。

 インターネットの中も孤独で溢れ、死を迎えたとしても、最早あの世に行くどころか、既存の幽霊たちによって、この世でシミや塵として孤独に閉じ込められることを知った春江にとって、これ以上生きている理由はありませんでした。生き延びて周囲の人間がどんどんいなくなり、孤独に孤独を重ね続けるよりも、死ぬことで孤独を固定することを選んだのでしょう。そう考えると、川島の提案は孤独を何より嫌う春江にとっては、地獄より苦しい道のりでしかありません。

「俺も一緒に逝くよ。ここでふたりで孤独を分かち合おう」

とでも言われていたら、結果は同じでも、あんな (゚Д゚)ハァ? みたいな語気でセリフを残すことはなく、笑顔で引き金を引いていたかも知れません。

 しかし、忘れてはならないのは、その断絶シーンに至る少し前に春江が自宅で何かに接触したシーンです。例のサイトに映ってる連中、てっきり各々がWEBカメラで自室を中継しているんだろうとばかり思っていました。ところがそれは思い違いで、どうやらあの世から現れた幽霊たちの視覚情報(視覚あるの?)だったようです。それで、カメラを設置したわけでもなく、さらにドアが閉じていたのに春江の部屋が映ったんでしょうね。春江は視点の場所を探しますが、そこで何かと接触します。途端に表情が和らぎ、孤独ではなかったのだと漏らします。川島に対する態度とは大違いです。あれはスクリーン上は透明ですが、きっと幽霊がいたのでしょう。春江はあの時点で幽霊に見守られている、孤独ではないと実感したはずです。

 だとすると、なぜ断絶のシーンに至ったのか。あのまま部屋を出ずに幽霊サイトの中に閉じ込められたっていいじゃない、と思います。しかし、春江は銃を手に廃工場へ向かいます。なぜなのか。

 あの接触による孤独からの開放こそ、幽霊の狙いである、と心のどこかで気づいたんじゃないでしょうか。部屋には幽霊がいて、ずっと見守ってくれる。ひとりじゃない。だけど、生きた人間としてはひとりで孤独なのだ。こうして偽りの幸福感を餌に、幽霊サイトの中で永遠の孤独に閉じ込める気なのだ、と。

一番ゾッとしたのは
 初視聴からこれまではずっと、例の訃報読み上げテレビのシーンが一番ゾッとしていました。誰とも知れない、この世の放送とは思えない、死亡者を淡々と画像つきで紹介し続けるだけのアレ、とても怖いですよね。しかし今回は、ミチが矢部から「タスケテ…」という電話を受けたシーンが最もゾッとしました。スッと静かになり、矢部の声が受話器を通じて響いてくるあれ、一体どこからの電話なんでしょうね。演出の妙にハマってしまいました。

 そしてミチが倉庫に行くと、シミになった矢部の幻影を見ます。シミになった人たちにとっては恒例のやつですね。田口しかり、ラストの川島しかり。順子は塵になって飛んでいったので、幻影を見ることは叶わないんでしょうね。あのシミは何でしょうか。

 きっと、あれはこちらの言葉でいう地縛霊でしょう。シミのある場所に魂が縛られて動くことはできない。あの世から侵略してきた幽霊たちは自由に動くことができるので、同じ霊と見るには大きな違いです。では、塵になった人たちはどうなんでしょうか。浮遊しているから浮遊霊?

 むしろ、地縛霊の方がまだマシという状況なんだと思います。魂がなくなるわけでもなく、欠片が散り散りになってただ彷徨うだけの存在。幻影にさえなれず、誰に触れられることもない永遠の孤独…

 現実世界にも、ああいうシミってありますよね。昭和に建築されたような古びた団地やアパートの端々に、ああいう人間大の黒ずみを見ることがあります。きっとあの場所の近くに開かずの間の形跡があって…と想像するだけでゾッとできます。(楽しい)

あれって結局なんなの?
 まずは開かずの間について考えてみたいと思います。劇中、哀川翔(演じる工事現場監督風の男)が"なんとなく"解体前のビルの一室を赤いテープで封印することで、あの世から幽霊が進出できる場が発生しました。幽霊が自らこの場を離れることはできませんが、封印を解くことで幽霊は自由を得られます。さらに電話回線が場に含まれていれば、電話回線やインターネット回線を伝って移動することが可能になります。これが回路(=ルール)として固定されました。

 "念"という言葉があります。きっと哀川翔はあの時、遊びのつもりで次のようなルールを頭の中で作ったはずです。そして、それが念となって実現してしまった。

・赤いテープで開かずの間を作ると、そこに幽霊が現れる
・幽霊は封印の中でしか動けない
・封印がなくなれば、幽霊は自由になる

図らずも哀川翔が作った開かずの間にはインターネット回線が残っていて、陽光に晒される前に幽霊たちは広大なデジタルの海に避難したのです。

 そして幽霊はインターネットを通じて孤独な魂を見つけては時間をかけて観察し、孤独を深める間に開かずの間の情報を与え、最後には接触して"空いた席"を奪うのです。これが幽霊サイトの実態なのでしょう。作られた開かずの間には、孤独な魂を抱えた人間が引き寄せられて開封します。幽霊は開封した人間に接触して孤独に閉じ込めて、空いた席を奪います。こうして徐々に、静かに幽霊たちは現世への侵略を行っているのです。

 まさに「回路」という言葉に相応しい、システムができあがっていますね。少しずつですが確実に、指数関数的に拡がっていき、そしてある時を境に爆発的な侵攻が始まるのです。

 このシステムに気がついた人間もいるはずです。武田真治演じる吉崎は、気がついていたのだと思います。彼はシミュレーションの状態から幽霊の存在を確認し、そして好奇心から根源を探り、システムの存在までたどり着いた。侵攻が本格化した時、彼はきっと望んで席を譲ったことでしょう。あの研究室のモニタでループしている影は、どことなく吉崎のように見えます。

 では、他の気づいた人たちはどうでしょうか。幽霊は人間を殺すことなく、死と同然でありがなら、シミ(=永遠の孤独)に閉じ込める戦略を採っています。対抗策は、死ぬことだけでした。彼らの手が及ぶ前に自殺してしまえば、魂はあの世に向かうはずです。仮にあの世にスペースがなくとも、幽霊として現世に留まることができます。ところが田口や春江、劇中で飛び降りた女性は自殺したにも関わらず、シミになりました。おそらく、既に幽霊に接触された魂は、正しく死ねない状態になっていたのだと思います。そして、順子のように孤独と絶望に砕かれた魂は、シミにもなれず塵となって彷徨うことになります。

 しかし、春江が作ったと思われる開かずの間にいた幽霊は、死は永遠の孤独だったと告げます。もしかすると、接触前に自殺することに成功した気づいた人だったのかも知れませんね。いずれにしても、結局のところ人間は生きていても死んでもシミになっても孤独だということです。

 ミチと田口、矢部、順子あるいは社長
 ミチは観賞植物を販売する小さな会社に勤めていました。(初めて見た時は学生のバイトなんだと思っていましたが。)そこには同年代の田口と矢部、順子という同僚がいて、温厚そうな社長と楽しく働いていました。それが田口の無断欠勤を切っ掛けにして徐々に崩壊していきます。この映画の冒頭部分ですね。

 田口が死んだあとも、社長が失踪し、矢部がシミになり、順子は開かずの間に入っちゃって最後は塵になるという散々な目にあう会社にいながら、ミチだけは最後まで無事でした。なぜでしょうか。彼女は決して絶望せず、孤独をはねのけるメンタルの強さを持っているから、でしょうか。

 推定する材料のない田口を除く3名は総じて受け身タイプでした。田口が無断欠勤していた時、田口の家まで行ったのはミチです。幽霊に接触されて塞ぎ込むようになった矢部をフォローしたのもミチ。社長が失踪した後、方方に連絡したのもミチ。順子を救出したのもミチで、何なら川島に春江の捜索を提案し、川島を救出し、川島を看取ったのもミチです。みっちみち。社長は基本的に逃げてるし、順子は不安がるだけで何もせず、田口もシニカルに構えて何もしません。

 このように、ミチ以外の全員に幽霊が浸け込む隙があったのに対して、ミチだけは活力に溢れていました。自宅でテレビ画像が乱れる異変はあったものの、順子を助けに入った以外で開かずの間に招かれることもありませんでした。彼女は決して恵まれた環境にいるわけではありません。両親は離婚、少なくとも別居状態にあり、彼女自身も小さな自家用車を所有しているとは言え、広くはないアパート暮らしです。にも関わらず、孤独に苛まれることも死に惹かれることもない、実に健全な人間性を発揮していました。

 きっと、確たる目標もないが漠然とした無根拠な不安は持たず、孤独を苦とせず、身近な小さい出来事にも幸せを感じて生きていけるようなタイプなのだと思います。母親の件で打ちひしがれはしても、川島が現れると立ちどころに回復します。体が動く限り立ち向かっていく強靭なメンタル、という定番のヒロイン像とは違って、現実逃避はせずに身の回りでやれることをやるだけ。文字にすると実に平凡そうな人物ですが、劇中ではチョイ役の役所広司を除いてたったひとりしかいませんでした。現実世界でも、平凡そうな人ほど実は少数派なのではないか、と思わされました。

おわりに
 さて、書きたいことを書いていたらあっという間に5000字超えてしまいました。何度見ても新しい発見があったり、思い直すことがあったりして楽しいし、他の作品とのつながり妄想も楽しいです。例えば、役所広司と言えば「カリスマ」の薮池役でもありますが、どことなく回路に出てきた役所広司の雰囲気が薮池ぽいなと感じています。カリスマの世界と回路の世界が同じで、薮池があるがままに船を動かしているのだと思うと胸アツです。

 こういうことを書き始めると切りがないので、そろそろ筆を置く的なことをしたいと思います。ではまた。
https://note.com/textance/n/n911c231cb14a

3. 2020年10月01日 13:21:39 : B74PUDZOsk : Qm5DT2VLQzlKcDI=[24] 報告

2018-08-18
『回路』(2001年)枠と鏡のシステムと視線の行く先
https://stevenspielberg.hatenablog.com/entry/2018/08/18/050340

「ある日それは何気なく、こんなふうに始まったのです」

映画冒頭のミチ(麻生久美子)のモノローグ。「こんなふうに」とは、彼女の同僚田口(水橋研二)の自殺を指している。田口の家の中に、黒沢監督映画に頻出する半透明のビニールの間仕切りが確認できる。

今回見直して気になったのは、田口の家のPC机の下や、川島(加藤晴彦)の家のラグやランプシェード、ミチの家の毛布、「幽霊にあいたいですか」という文字の出るサイトに登場する黒ビニール袋を頭にかぶった男の部屋、ミチが勤める会社「サニープラント販売」の倉庫、春江(小雪)と吉崎(武田真治)の研究室、春江のマンションの廊下と部屋など、かなりの場面の小道具や床が格子模様になっていることだった。

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『回路』には、格子模様・市松模様・チェス盤のような模様が頻出する。


その他では、フロッピーディスクに入っていた田口の写真の中に映る消灯したPCモニターに、田口の後ろ姿が合わせ鏡のように映り込んでいることや、黒ビニール袋を頭にかぶった男の部屋の壁に書かれた鏡文字の「助けて」。図書館で出口が分からなくなる川島の描写と、図書館の本棚やデスクライトの奥行を持たせた無限回廊のような並びのショット。春江の部屋の布で覆われた鏡台などに見られる、隠された鏡の存在を仄めかすいくつかの描写も気になった。


そこでまず思いついたのが、格子模様に映画の場面空間を落とし込んで、その空間のどこかに見えない(映っていない)鏡を設置してみたら、『回路』に数ある不可解なショットのどれかを説明できるのではないか、ということだった。
結果としては、いくつか上手くいったので紹介しておく。
まずは、「幽霊にあいたいですか」という文字の出るサイトに登場する、黒ビニール袋を頭にかぶった男の映像から。
男の背面の壁に書かれた「助けて」という鏡文字も妙だが、他にも、この男は映像の中でおかしな動きを見せる。それは川島がこの映像を見る場面で確認できる。PCモニター越しにこちらへ迫ってくる男は、やがてモニターの右側へフレームアウトする。その直後、男はモニターの左側からフレームインするのだ。黒いビニール袋をかぶる男が、この映像内に二人いればできないことはない。編集でも可能だろう。
ただそのような仕掛けがあるのだとすると、鏡文字はまったくの別現象として考えなくてはならなくなる。男のこのおかしな動きと鏡文字には何か関係があるはず、全てが説明できるカラクリがあるはずだと、あれこれ検索してみたら、「ペッパーズ・ゴースト」がヒットした。
wikiの説明も画像もとても分かりやすいので、簡単なカラクリをまずは確認して欲しい。
ペッパーズ・ゴースト - Wikipedia
照明によって空間に明暗を作り出し、板ガラスにハーフミラー効果を生じさせる事で可能になる視覚トリックである。

f:id:stevenspielberg:20180808163615j:plain
「ペッパーズ・ゴースト」にあてはめた黒ビニール袋をかぶった男の映像図

この装置を用いれば、壁の鏡文字と男のおかしな動きの説明がまとめてつく。

その他では、フロッピーディスクに収められていた田口の写真も説明できるだろう。
その写真を見た順子(有坂来瞳)は、思わず「どうなってんのこれ」と呟く。
PC机の前に立つ田口の右下の消灯したモニターに、おなじくPC机の前に立つ田口の姿が映っている。消灯したモニターが鏡のように外界を映し込むのは見慣れた現象だが、この写真のような映り方をするには、この写真を写したと思われるカメラとほぼ同位置に大きな鏡が無くてはならない。ちょうど位置的には、半透明のビニールの間仕切りがあったあたりだろう。そして、モニターに映り込む映像に、撮影者や撮影機器の映り込みは確認できない。

だとすると、例えばあの半透明のビニールの間仕切りがハーフミラー(マジックミラー)ならどうだろうか、と思う。あの半透明のビニールがハーフミラーで、田口のいる側が鏡面なら、あの写真を撮った者(もしくは撮影機器)は田口のいる空間よりずっと暗い反対側にいて(あって)、ガラス面越しに内側(田口側)を撮っている。そもそもそんな大きなハーフミラーがあの部屋の中にあると想定するのはおかしいのだが、そのように考えないと説明がつかない写真であることは確かだ。

f:id:stevenspielberg:20180808163456j:plain
合わせ鏡の略図(田口の部屋)


鏡というよりはハーフミラー、またはガラスによるハーフミラー効果が、『回路』に数ある不可解なショットの裏には隠されている。
「こんな感じでそれは世界中に広まった」という吉崎の台詞があるが、その時、画面に映っているのは崩れた壁の破片にくっついた何のケーブルもつながっていないLANコンセントだ。田口の家を訪れた矢部は、何かはわからないが何かを探していて、その過程でつながっていないLANケーブルを発見する。PCモニターに映る自分自身を見た春江が、それを映す何かに近づいていく場面を見ても気づいたと思うが、そこには何もない。ただ虚空があるだけだった。
これらの描写から考えられるのは、そもそもインターネットは、つながっていないかもしれないということだ。或いは、物理的にインターネットがつながっているかいないかは、この映画の中に見られる様々な不可思議な現象とは関係がないのかもしれない。
そうなると、モニターに映る映像はどうやって見えているのだろうか。
黒ビニール袋を頭にかぶった男の「ペッパーズ・ゴースト」図や、合わせ鏡の略図(田口の部屋)を眺めていて思うが、四角い枠とガラスと光の明暗があれば、どうも『回路』の世界のモニターは映像を映し出すようだ。
インターネットといって、彼らが何をしているかというと、何かを見ているのである。
モニターの枠は眼差しを媒介し、モニター画面のハーフミラー効果によって生じる眼差しの方向性がインターネットでいうところの回線なのかもしれない。いうなれば眼差す装置のようなものとして、この映画ではインターネットが扱われている。このことは、登場人物が見る映像に音がついていないことからも伺えるだろう。あの箱(モニター)は、眼差しを媒介する光学器械なのかもしれない。

四角い枠とガラスと光の明暗によって、不可解な画像や映像が映し出されるわけだが、物語が進行すると、その影響はモニターの外にまで及んでいくように思われる。ただその時注意したいのが、ハーフミラー効果を引き起こす光の明暗が、場面の明暗と単純に合致しないということである。
なぜなら、目に見える明暗がひっくり返ってしまったかのような場面があるからだ。
それは、様子のおかしくなった順子を家で休ませ、ミチがコンビニに買い物に行く場面で確認できる。ハーフミラー(マジックミラー)で検索すると、身近なハーフミラーの使用例としてよく紹介されるのがコンビニの店内とバックヤードを隔てる扉の窓だ。通常、ハーフミラー越しに暗いバックヤードから明るい店内を見ると、窓はガラスのようになって店内の様子が薄暗く確認できるのだが、この場面では、カウンターの奥に不自然なほど大きな枠付きの窓があり、そこに明るい店内から見えるはずのないバックヤードの中に佇む店員の姿が薄暗く見えている。あれは誇張されたハーフミラーであり、明暗の入れ替わりを表す場面だろう。いよいよ街は暗くなり、今まで見えなかったはずの向こう側が見えてしまう。見えなかったものが見え始め、見る者と見られる者の関係の転倒が身近に(コンビニ)迫っていることが決定的になった場面である。
四角い枠とガラスと光の明暗があれば、どうも『回路』の世界のモニターは映像を映し出すようだとつい先ほど書いたが、四角い枠とガラスと光の明暗は、どこにあっても方向づけられた視線の媒体として機能するようだ。

なぜ、このような事態が引き起こされたのだろうか。
あくまで仮定としながら、吉崎が語るそもそもの事の起こり。
その語りの場面には、作業員(哀川翔)が登場する。作業員は、「何かテープないですか」と、同僚が持っていたテープを借りて部屋の窓やドアを塞ぎ、「あかずの間」を作っている。窓やドアをテープで塞がれて真っ暗になったはずの「あかずの間」に、なぜか光が射し、幽霊のようなものが現れる。その後「あかずの間」は取り壊されてしまう。
そして唐突に、それまでこの場面のどこにも出てきていない、崩れた壁の破片にくっついた何のケーブルもつながっていないLANコンセントが映り、そこに吉崎の台詞、「こんな感じでそれは世界中に広まった」が重なる。
これは、いつかわからないどこかで起こったことなのだろうか。回想のような、イメージのような抽象的な場面は、漠然としていて正直よく分からないわけだが、一番分からないのは、作業員が塞ぎきった「あかずの間」に光が射すことである。あの光は自然現象というより、ほとんど形而上的な光のように描かれている。
ただ、吉崎が語るそもそもの事の起こりが、あのように漠然としていて、形而上的な光りが射す訳については大体見当がついている。この場面は、実際にあったことであり、そういうものだと今日に伝えられているものを描写しているのだ。
この、実際にあったそういうものとは、ほとんど自然現象のような、光学器械の起源とされる「カメラ・オブスクラ」(ラテン語で「暗い部屋」の意味)である。それは、「壁や窓の小孔(ピンホール)を通して、外部の像が反対側の白い壁や幕に上下逆に映し出される仕掛け」(中川邦明著『映像の起源』1997 美術出版社)であり、その現象を初めて捉えたのは、哲学者のアリストテレス(BC384?322)だとこの本には書かれている。
「眼差しを媒介する光学器械」のそもそもの始まりを調べると、吉崎でなくとも大概の人がカメラ・オブスクラに行き着くだろう。「真っ暗になったはずの「あかずの間」に、なぜか光が射し、幽霊のようなものが現れる」現象は、人間がこの現象を発見する以前から、いつからか始まっていたことであり、気づいたらそうなっていたとしかいいようがない。だから、理由なく暗闇は作られ、なぜかわからないけどそこに光りが射し、幽霊のような像が現れる。そしてこの現象は、いつの時代のどこにでも遍在する、ほとんど自然現象である。だから、いつのどこかもわからない漠然とした回想のような、イメージのような描写で、それは描かれる他ない。
そしてこの「暗い部屋」が、私には格子模様の黒い四角に思えて仕方がない。
格子模様の黒い四角であるカメラ・オブスクラという「暗い部屋」があるのなら、白い四角に相当する「明るい部屋」と呼ばれる光学器械があったりしないのだろうかと、ふと思って調べてみたら、あった。
カメラ・ルシダと呼ばれる光学器械だ。
カメラ・ルシダ - Wikipedia
カメラ・オブスクラと対称的な関係を持つかのような名前だが、カメラ・ルシダは手元に像を投影し、かなり正確なトレースを可能にする絵画用の補助器具であり、共通するのは像を投影する機能だけである。目の前のものを手元に投影するために、この器械にはマジックミラー(ハーフミラー)や鏡やプリズムなどが組み込まれていて、サイズは違うが仕組みとしては、「ペッパーズ・ゴースト」に近い。

そもそもの事の起こりの原因は、「あかずの間」を作ることでも、その中に幽霊のような像が現れることでもない。この原初の「あかずの間」(カメラ・オブスクラ「暗い部屋」)が壊されたことがきっかけとなり、『回路』に映し出される夥しい数の四角い枠とガラス(が持つ光の明暗によるハーフミラー効果)がカメラ・ルシダの機能を果たし、ミチの家で見たニュースのように、ガラスのボトルに入れられたメッセージが水を媒介し、十年という時間と空間を経て遠くに届くように、「眼差しを媒介する光学器械」(インターネット)は動作し、「それ」らは外部に現れ出す。
原初の「あかずの間」が壊され、回路は開かれた。通常、回路とは閉じていることで作動するものだが、この回路は開くことによって作動する。

映画終盤、川島は人家の軒先に置かれたTVを見ている。TVは人物のスナップ写真を映していて、写真とともに都道府県名と名前が読み上げられている。写真が切り替わるとまた、新たな都道府県名と名前が読み上げられる。TVはそれを繰り返している。写真は複数人を写したものでも一人を写したものでも、そこに映る一人の人物の顔に四角い黒縁がつけられている。そしてこの、写真に写る顔を囲む黒縁は遺影の額縁を想起させる。黒い枠で囲われた者は、なぜかもう死んでいると思う。

死はこの世界にあるものなのに、私たちは世界の中に死そのものを見つけることができない。死があるから死体があり、死があるから葬式があり、死があるから写真に写る人の顔が黒い枠で囲われているのを見てその人を死んでいると思うわけではなく、死体や葬式や写真に写る人の顔が黒い枠で囲われているのを見て、死があることが分かるのだ。
この世界に確実にある死は、そのものとして知覚されることなく、常に間接的に知覚される。そしてもし、死者が存在する世界が死の向こうにあるとしたら、その世界は死を経た世界であり、死は過去に起こった事象として死者に記憶されているだろう。
だから、「あかずの間」に現れた「死は永遠の孤独、だった」と、過去形で死を語る者は、過去形で死を語るが故に死者なのだ。
死者の世界にもはや死は存在しないことから、生者が間接的に知覚する死という境界は、死者にとっては知覚できない透明な境界だろう。だからもし死者がいるとするならば、それはこの世界で、死の記憶を持ち、生者が間接的にしか知覚することのできない死という境界の内に存在しているということになる。あの世という別世界ではなく、この世の中の境界の中に存在しているのである。(TVの枠の中の黒枠や、オープニングタイトルの「回路」の文字の回の字の内枠が赤くなっていたことを思い出して欲しい)
この死の境界の、片方からは間接的に知覚され、片方からは知覚されないという特性は、ハーフミラーの特性に似ている。水面でもいい。基本的には、ハーフミラーを挟んだあちらとこちらの明暗が変わることによって、鏡になったり、ガラスになって向こう側が見えたりするものだが、死の境界は、生者が間接的にしか死を知覚することができないことから、生者が明るい側であることが光の明暗に関わらず固定されている。そして死者は暗いところで、知覚できない境界(ガラス)越しに、こちらを見ているのである。
この死者の佇まいは、まるでカメラ・オブスクラの内部で外部の像を見る観察者の佇まいのようだ。もし、死者が存在するならば、知覚されることなく外部を見つめる観察者として、それは存在するのだろう。
この死者を囲むハーフミラーという回路が開かれることで、それまで間接的に知覚されていた「死」が「死者」にとってかわる。死の内部に光が当たりガラス面が鏡面になることで、死ではなく、死者が間接的に知覚されるようになっていくのだ。
あの動く黒い人影がそうだ。
動く黒い人影のようなものは、一見すると、スクリーンや壁などに照射される光を遮る人の影のようだが、よく見ると肌の色が暗く見えているので影ではない。例えば、夜走る電車内から見る窓ガラスや、外から見た車の窓ガラスといった反射率の低いガラスに映る、黒っぽい鏡像が見た目としては近いものに思える。ガラスの奥が暗い時に起こるハーフミラー効果によって、ガラス面に映し出される黒い人の像の、像だけが窓から抜き出てきて歩き回っているようである。
世界にあった死の鏡は、今や死者を映し出す鏡となって図書館やゲームセンターに、その像を映し出す。彼らは「暗い部屋」にいて、その鏡像は暗く影のように見えている。川島は、死者を映し出す鏡の面に迷い出口を見失い、鏡面の冷たさに震えている。ゲームセンターでは、開かれた「あかずの間」が画面の奥に映っている。すぐそこに、いたるところにあった死のように、それはすぐそこに、いたるところに出現するのである。


そして、この死者を映し出す鏡に取り囲まれたのが春江だ。
「幽霊にあいたいですか」サイトを見ていた春江は、黒ビニール袋をかぶった男のピストル自殺を目撃する。モニターは、男のピストル自殺後に一旦消灯し、再び点灯すると、背後から春江を撮っていると思われる映像を映し出す。春江は恐る恐る背後の部屋へ入りライトを点ける。確かにこの部屋から撮っていると思われる映像がなおもモニターには映り続けているが、部屋の中に撮影機器や撮影者の姿はない。ただ、春江だけは何かを見つめていて、恍惚の表情で虚空へ向かって進んで行く。そして彼女は、「私、ひとりじゃない」と呟き、誰かを抱擁するような身振りをみせる。
まず、モニターと背後からの撮影に挟まれた春江は、合わせ鏡の中に立っていた田口とよく似た状況にある。また、春江の「私、ひとりじゃない」という呟きにより、そこにあるのは撮影機器ではなく、誰かであり、その誰かの視線が映像となってモニターに映っていることが分かる。
気になるのは、春江を見つめるこの誰かの視線だと思われるショットに入るノイズである。このノイズが『回路』に登場するのは、この場面が始めてではない。映画冒頭、ミチが田口の家へ向かう場面に挿入される、田口の家のPC机を捉えたショットにも同様のノイズが入っている。これを春江の場面と同質のものとするなら、冒頭のノイズ入りのショットも誰かの視線だろう。
このような、カメラと誰かの視線が一致したショットは、視点ショットやPOV、主観ショットと呼ばれる手法で、『回路』でも他にミチの視点ショットが何度か出てくるが、そこにノイズは入っていない。また、「あかずの間」に入った矢部や川島が、その中に現れた死者と見つめ合う時にショットが切り返されて死者の視点ショットになるが、そこにもノイズが入っていないことから、春江が見た誰かは「あかずの間」に現れた死者でもないだろう。これらのことと、合わせ鏡の中にいる春江の状況をふまえると、ノイズの入る視点ショットは、鏡に映った鏡像の視点ショットということになる。見えないハーフミラーの、見えない鏡面に映る、見えない鏡像の視点ショットというわけである。
春江はそこに自身の鏡像を見ている。そして、その鏡像も春江を見ている。そうなると、この場面の春江の呟き「私、ひとりじゃない」は、言葉通り彼女がもう一人いることを示唆している。
春江を取り囲んだ死者を映し出す鏡とは、彼女が映るモニターのガラス面であり鏡面に他ならない。ガラス面には春江に見つめられる春江が映り、鏡面には春江を見つめる春江が映し出されている。この奇妙に空間が圧縮した合わせ鏡の中に彼女は閉じ込められたのだ。
「幽霊は人を殺さない。そしたらただ幽霊が増えるだけ、そうでしょう?彼らは逆に人を永遠に生かそうとする。ひっそりと孤独の中に閉じ込めて」

水面に映し出された自身の姿に惹かれたナルキッソスのように、春江は鏡に映る自身の姿に腕を伸ばす。
「かの英国女王エリザベス一世(一五三三−一六〇三)の最晩年のことだが、鏡をめぐって奇妙に矛盾する噂が二つ伝わっている。一つはこの老女王が、廊下や広間の、彼女の目に映る鏡という鏡をとりはずさせたり、あるいは覆いをさせたということ。もう一つは、彼女の私室の奥の浴室を、四面の壁と天井とそして床までも、鏡で張らせたということである。」(川崎寿彦著『鏡の中のマニエリスム』1978 研究者出版)
著者の川崎はその理由をいくつか推測しているが、その中でも、「なにしろ彼女が造らせたのは、一面ではなく全面が鏡の浴室だったという。だとすればそれらの鏡は、老いたる女王の肉体を中心に、無限級数的な鏡像を交錯させたに違いない。そのような手段で達成されるのは、一つには、自己の模造の無限の増殖による自己同一性の極限的主張であったろうが、もう一つには、その無限の拡散による自己消尽であったのであるまいか。」という推察は、この場面と照らし合わせるととても興味深い。
「俺がいるよ」と言って寄り添った川島という他人を拒絶した春江にとって、孤独を埋める存在とは、もうひとりの自分なのだろうか。孤独を埋めるために自己増殖を繰り返し、やがて彼女は自己消尽の結果として、ナルキッソスのように自殺してしまったのだろうか。
鏡像の中の自分と見つめ合うことは、「視線を媒介する光学器械」により発生する視線の行き止まりを意味しているかのようだ。この先どこへも視線は向かわないだろう。

上記の春江の場面で見られたようなノイズの入る視点ショットは、この後、川島が「あかずの間」に入る場面にも出てくる。死者と見つめ合う川島の視点にノイズが入っている。
だとすると、「あかずの間」に入り、死者に見つめられた者は鏡像になるのだろうか。ちなみに、矢部が「あかずの間」に入り、死者と見つめ合う時の矢部の視点ショットにこのノイズは入っていない。
ただ「あかずの間」に入った者がどうなるかというと、矢部も順子も川島も死者に見つめられているのである。目と目が合ったと思われるその時、それまでぼんやりとしていた死者の姿が、実態であるといわんばかりにクリアに現れる。そして川島が死者を映す鏡の鏡面に迷い込んだ時のように、矢部も順子も寒さを訴えている。
微妙に三者の整合性がとれないが、三者に見られる共通点から、とりあえず彼らは死者の鏡像になったとしよう。それは、死の境界に映る像という実態を無くした存在であり、死んだ者でも生きている者でもなく、死んでいる者となる。まさに死の中(生者と死者を隔てる死の境界の中)に存在し、死に続けている者である。
この永遠の死が、やがて人の形をした黒いシミとなっていく様は、広島への原爆投下により現れた「死の人影」を想い起こさせる。死という停止により、順子が言うように彼らは、「ずっとこのまんま」になる。原爆の一瞬の光は引き延ばされ、永遠の日々の光となり、「ずっとこのまんま」な彼らを残して降り注ぎ、やがて彼らは人の形をした黒いシミになっていく。
(広島平和メディアセンターのHP(http://www.hiroshimapeacemedia.jp/?p=25762)によると、「死の人影」の影の部分は、付着物によって黒くなっていることが奈良国立文化財研究所埋蔵文化財センターの調査で分かったそうだ。また同HPの「死の人影」解説ページでは、1967年に強化ガラスで薄くなる影をカバーしたとの保存の記録も読むことができる。これらのことから、人の形をした黒いシミの多様な描写の一端がうかがえる。)
人の形をした黒いシミとなった彼らは、死んでいない。死に続けている。死体となったはずの、田口や飛び降り自殺をした女や春江の黒いシミは、その死の場所に取り残されている。黒いシミから発せられる「助けて」という声は、まだ死んではおらず、死の境界で死に続けている者の声なのである。

黒い四角と白い四角の格子模様は、閉ざされた死の境界が開くことで、回路の内側という、本来ならば虚ろな、便宜的に現れたただの空間、死という境界によって生じたそのような空間を、どこまでも媒介するシステムを表している。
回路が開かれ作動した「視線を媒介する光学器械」(インターネット)により構築されたシステムは、やがて見る者を見られる者へと変えていく。それは死の境界、永遠の孤独に取り囲まれることに他ならない。

『回路』を見直して気づいたことは他にもある。先にも少し触れたが、この映画にはミチの視点ショットが多い。彼女は見る者として、最後まで先を見つめ続けている。私たちは彼女とともに赤いテープを扉に貼る女や、目の前で起きる飛び降り自殺、燃え上がり落ちてくる飛行機を目撃し、彼女の視線に視線を重ね、先へ先へと進んで行く。
春江の家の窓から廃工場を見つめ、そこに春江がいるかもしれないと言うミチの視線に従って進む物語に、私たちは連れられて行く。

最後まで見る者だったミチのモノローグ「今、最後の友達と一緒にいます。私は幸せでした」の、最後の友達とは、ずっと彼女の視線とともにあった私たちのことだろう。同じものをともに見たことが、自己消尽を免れた唯一の手段だったと私たちに伝えているのだろう。だからあのモノローグは、彼女からの伝言なのだと私は思っている。

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そして私たちの視点は、遥か上空から彼女を乗せた船を見下ろす。そこに広がるのは画面いっぱいの水面であり鏡面でもある。やがて水面が遠ざかるように、画面の内側に黒い枠が現れ、水面が反射する光はみるみる収斂していき、プツリと消失する。そして訪れる一瞬の闇の中で、私たちは「あかずの間」の中にいたことに気づくだろう。私たちは外へ出るために回路を開く。同じものをともに見るために。


『回路』の劇伴が好きです。もの悲しいというかうら寂しいというか、いいですよね。
私の出来る限りで細かく見たつもりですが、黒沢監督の映画は、細かく見ても見なくても印象は変わらないです。伝達能力が高いんでしょうね。表現力なんですかね。よく分からないけど何か分かるという。

『回路』を見直してすぐに、水田恭平「暗い部屋をさまようファントム」(2006)http://www.lib.kobe-u.ac.jp/repository/00517642.pdfを読んで、『回路』の映画評はもうこれでいいじゃないか、と思ったのですが、その間を埋めるものを書かないといけないなと思って書きました。そもそも『回路』について書かれたものではないですし。

竹森修「『ジーキル博士とハイド氏』解釈」(1975)https://repository.kulib.kyoto-u.ac.jp/dspace/bitstream/2433/135083/1/ebk00033_056.pdfも読みました。途中呪文みたいになっていく難解な論文でしたが、カンで読みました。この後『ドッペルゲンガー』を書くことになったら引き続きお世話になりそうな論文です。文中でも触れましたが、川崎寿彦著『鏡の中のマニエリスム』(1978 研究者出版)にもお世話になりました。映画の中の鏡の多用に混乱を極めていたのですが、この本を読んで、混乱するのも致し方ないという諦念の境地に達することができました。面白い本です。

何というか、今回書いていてつくづく思ったのですが、第一線の映画監督の教養についていくのは本当に大変です。

https://stevenspielberg.hatenablog.com/entry/2018/08/18/050340

4. 2020年10月01日 13:23:12 : B74PUDZOsk : Qm5DT2VLQzlKcDI=[25] 報告

【映画】回路/淡々と浸食され、日常が崩れていく恐怖を描く。黒沢清監督作品。
投稿日:2016年6月18日 更新日:2018年6月18日
https://tsubuline.com/2016/06/18/kairo/

昔観た時は意味が分かりませんでしたが、今観るとそこまで難解でもありませんでした。昔のわたしの理解力……。

けっこう親切に色々と解説してくれていて、武田真治演じる役の人(大学生?)が発端から(予測)きっちり教えてくれます。親切だなー。でもわたし全然覚えてなかったわ……。記憶力にも絶望する。

インターネットの設定のシーンに時代を感じますね。

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あらすじ
連絡が取れなくなった同僚の田口を心配し、家を訪ねたミチ。田口はミチと言葉を交わした後すぐに首を吊ってしまいます。
仕事で使う資料を田口から預かっていたミチは、同僚にそのフロッピーを渡すのですが、その中には田口の部屋を撮影したと思われる不可解な映像が紛れ込んでいました。

様子がおかしくなっていく同僚を心配するミチでしたが、彼は不可解な言葉を口にするだけでどうしていいのか分かりません。

一方、大学生の川島はインターネットの接続設定の途中、意味不明なサイトへと繋がってしまいます。そこには「幽霊に会いたいですか」という文章が現れ、どこかの部屋を写した映像が流れ始めます。気味が悪くなった川島はすぐに消してしまいました。

その後大学の理工学部を訪ね、そこで出会った春江に協力してもらうようになります。春江にデータを渡し、解析を頼むのですが春江の様子がどんどんおかしくなっていってしまいます。

静かに迫ってくる恐怖が秀逸な作品。

回路

2001年 日本
監督:黒沢清
出演:加藤晴彦、麻生久美子、小雪、有坂来瞳

崩壊はいつの間にか忍び寄る
何本か黒沢監督の映画を見ていますが、毎度毎度、個性的な幽霊の描き方に驚きます。昨今ドーンと幽霊を画面上に出すのが珍しくなくなりました。それでも、今見てもやはり斬新です。実在と非実在の境目みたいな存在が、妙に存在感をもって映し出されるのには釘付けになります。

主人公たちの視野の隅にいる彼らを映し出し、見る側に違和感を与える演出は巧みで、薄暗がりな画面でも、こちらは目を凝らしてしまいます。ちょっと目を離した隙に「なにか」がそこに映るんじゃないか、という緊張感があるので、グイグイ引き込まれます。

どんどん人が減っていく世界で、画面に映る人影は果たして本当に人なのか、それとも彼らなのか、一瞬判断が付きません。そこにはっきりと存在するからこその区別のつかなさが恐怖へと繋がります。

終盤、川島が観るテレビの画面で淡々と死亡者を放送しているシーンがあります。
あれはどう考えても生きている人間が放送している物ではないと思うんですけど、そこに関しても触れられません。

増殖した死者たちが一体なにがしたいのか。それに関しても多くは語られません。誰もそれを知るはずがなく、語られることも、予測でしかありません。彼ら自身の口から明確な物を得ることはできないのだから当然なのです。

最後まで残る細かな謎がこの作品の魅力とも言えるでしょう。

良くも悪くも、普通な登場人物たちが物語のリアリティを増す
川島が好意を抱く春江はどこか死に取り憑かれている印象です。

後半川島に語る自分が子供の頃から囚われている考えを語りますが、彼女は元々それがあったからこそ、あのときコンピュータ室で「幽霊に会いたいですか」という話をしている川島に声をかけたのでしょう。

いいやつだけど、終始ずれている川島がだんだん可哀想になってきます。一生懸命で、春江のために駆け回るも、報われることもなく、意味が分からないまま翻弄されるだけ。

川島は春江に好意を抱いてますが(そりゃそうだ美人だもん)、春江の方はどうだったのでしょうか。対話という意味では春江の方からアプローチしている状況ですが、好意はあまり感じられません。どちらかと言うと、前述した春江の子どもの頃からの「死」への探究心があったからこそ、湧いた興味にも感じられます。そこに答えがあるんじゃないか、という。

だから尚更、単純に春江に好意を持っている川島が空回りしているみたいで可哀想になるんですよね。

川島もミチも生き残る確たる理由がありません。どんどん人が消えていくなか、生き残るスキルがあるとは思えません。無自覚に消えてしまった人々との違いは、異変に気付いていたこと……? それともただ単に運なのか。

川島とミチの共通点と言えば、ふたりとも根気よく人のために動いていたことでしょうか。ミチは社長から諌められるような言葉をかけられましたが、それを振り切って同僚の力になろうとしています。目の前で田口が自殺したことも関係あるでしょうが、ミチは何もせずに相手を失いたくないという気持ちは強いように感じます。

ただそれが特別強かったりするわけはないので、これが決め手!とはいえないですね。

ごく普通の、どこにでもいそうなキャラクターなんですよね。もしかすると、特別じゃない主人公たちを据えたっていうのも意図的なのかもしれません。

色々と余談
回線を通して恐怖が広がっていくのですが、古いパソコン設定とかに気をとられて困りますね。フロッピー! 懐かしい! みたいな。貞子のビデオテープ的な。時代って怖いですね。

ま、そういうところ突っ込むのもヤボなので、極力スルーしましょう。

海外リメイク版の「パルス」はさらに分かりやすくホラーとして仕上がっているのがよくわかります。電波に乗って彼らがやってくるのも、そうですし、どういう経緯で、とか、彼らを消滅させる(?)方法というのも呈示されます。

「パルス」の記事はこちら
つぶらいん
【映画】パルス/黒沢清監督の「回路」のハリウッドリメイク作品
https://tsubuline.com/2016/06/17/pulse/

分かりにくかった黒沢監督の「回路」をものすごく分かりやすくしてくれた作品です。回路は劇場公開の当初、CMが怖くてすごく楽しみにしていました。ところが、実際映画を観てみたら、若かったわたしは、意味がよ...
絶望の度合いが大きいのは邦画の方でしょうか。

ミチも川島もコンピュータに詳しいわけでもありません。あれを食い止める秘策が呈示されることもありません。
観終わった後に残る安心できないぼんやりした感情は、邦画の方でしか味わえません。

どちらもまだでしたら、わたしは邦画をおすすめします。

https://tsubuline.com/2016/06/18/kairo/

5. 2020年10月01日 13:25:56 : B74PUDZOsk : Qm5DT2VLQzlKcDI=[26] 報告

2011年01月04日
【映画】 黒沢清『回路』〜ホラーの恐怖、未知という恐怖〜

まず最初に言っておくと、僕はホラーというジャンルが大の苦手だ。なのになぜ『回路』というジャパニーズ・ホラーの作品を観たかと言えば、監督の黒沢清の映画『カリスマ』をゼミが取り上げることもあり、神戸での黒沢清の講演会に参加し、そのときに観た『回路』のワンシーンや黒沢清の発言が大変印象深かったからだ。例えば、講演中の発言で「恐怖」についてこのような発言をしている。

「小学生の頃から納得できないことがあって、幽霊が出てくるのってなんで怖いんだろうと。例えば有名な四谷怪談ってありますね。あれはお七って女の人が主人の大切にしている皿を割ったことで殺されて、それを恨んで化けて出るわけですよね。うらめしやーって。で、主人はうわーって驚いて怖がるわけですけど、幽霊が自分を恨んで殺そうとしてきても、幽霊が出た時点で『なんだ、死んでもその後の世界があるんじゃん』ってことになるわけじゃないですか。そのとき、死というものへの恐怖は無くなるはずなんですよ」

なるほどと僕は唸った。僕は恐怖の根源的要因は「未知」であると考えている。これはホラーではないのだが、タルコフスキーのSF映画『惑星ソラリス』についてゼミでレポートを書いたのでそれを引用したい。

例えばエイリアンなど、未知の生物の気配。つまり「存在の恐怖」である。何者かが確かにそこにいる。それが何かわからない。さて、その気配の張本人が目の前に現れたとしよう。エイリアン、突然変異の怪獣、ジャンルは変わるかもしれないが幽霊など、それら「未知」であったものが形として現れる。ここで「不安」は別のものになる。その存在が何であるか認識した以上、未知への恐怖は払拭される。映画を見ている観客からすれば、宇宙船に残った足跡、何者かに殺された仲間の死体、主人公の背中に浴びせられる視線などがもたらす「存在の不安」は、目の前に形として現れたときにシンプルな脅威として現れる。ホラー的な不安から、モンスターパニック的な恐怖へと移行するのである。そうなればあとはその脅威を破壊するのみである。

僕はこの論考でエイリアンや幽霊が実際に目の前に現れたとき、恐怖の種類が変わると述べている。つまり得体の知れない「未知」に対する恐怖から「死」という実際的な脅威に対する恐怖へと移行するのだと。では、なぜ「死ぬ」ことが怖いのか。それは誰も死後のことを知らないからである。つまり、死も未知に対する恐怖なのである。なので、黒沢清の「死んだ人間が幽霊として目の前に現れたら死ぬことは怖くなくなるはず」という発言は正しい。もちろん、死んだはずの人間が目の前にいるという非現実的なことにたいする恐怖は存在する。しかし、人間において最大の恐怖である死が解決されたとき、果たして恐怖は恐怖として作用するだろうか。

そこで黒沢清は幽霊による「脅威」を「死」にしなかった。霊魂の許容量が限界に達したため幽霊が出るようになったことにし、これ以上人間が幽霊になれないため、人間の死を黒い染みになり、絶対的な孤独を永遠に味わうような存在にすることにしたのである。そして、その呪いはインターネットを媒介にして世界中に拡大する。これは黒沢清の一種の予言である。幽霊を観てしまった人はパソコンに映るようになる(恐らく幽霊の視点)のだが、それがまるでパソコンに閉じ込められたように見えるのだ。これはまさしくインターネットのコミュニケーションに依存することで閉塞的な孤独に陥る人間の比喩である。この比喩と恐怖へのポリシーのため『回路』は幾分、示唆によりすぎている向きがある。特に後半になればなるほど「未知」の恐怖が失われて行き、示唆的で難解な展開になっていく。

僕はインターネットの発達と利用による弊害を感じながらも、それを手放そうとは全く思わないタイプの人間である。ネットとリアルとの兼ね合いもよく考えているつもりである。なのでその批判自体に言及はしないが、ホラーの「未知への恐怖」とインターネットという組み合わせの相性は認めざるえない。今はネットで繋いで少し検索すればすぐに多くのことがわかる。しかし、人間は全てを知ることはできない。未知はまさに『回路』の幽霊のように人間の認識する世界の背後に常に存在しているのである。そしてそこへとアクセスしすぎるゆえに、未知に埋没してしまえば『回路』の幽霊と出会ったように孤独になってしまうのである。ヒロインの名前が「ミチ」であることもそれを示唆しているようだ。加藤晴彦演じる川島は「俺は死ぬことなんて信じない。お前は幻だ!」と幽霊に言う。しかし、彼も黒い染みになってしまう。むしろ人は死(未知)と共に生きて行く他無いのである。僕はネットを使わないようになろうとは全く思わないが、未知を未知として生き、死を恐怖として生き、恐怖を恐怖として受け入れながら生きて行こうとは思う。そしてそれは同時に終わりなき未知との向かい合い、思索による生である。

http://blog.livedoor.jp/u_hagino/archives/2227297.html

6. 2020年10月01日 14:26:15 : B74PUDZOsk : Qm5DT2VLQzlKcDI=[27] 報告
2008.01.26
『回路』黒沢清監督(日本2000) (8)
https://plaza.rakuten.co.jp/karolkarol/diary/200801260000/


この映画の中の恐怖(?)というのは、パソコンに現れる映像を見て、あるいは赤いテープで封印された部屋の中に入ってしまうことで、その人が段々物思いに耽っているようになって、周囲の人ともつき合おうとしなくなって、やがて自殺(体も消滅)してしまう。そして地上からどんどん人が居なくなる。そういうものです。しかしこのホラーの面はいわば外面であって、実は幽霊でもオカルトでもない、もっと別のことを寓意的に描いているのだと思います。

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例えば昔東京から横浜に電車に乗っていこうとすると、まず出札口で「横浜2等1枚」とか言うと、ガラスの向こうの係の駅員さんが目の前の棚に並んだたくさんの切符のなかから 東京→横浜 の切符を1枚抜き取って、日付けを印字して、お金と引き換えに渡してくれた。そして改札口に行くと専用の切符切りハサミを持った係の駅員さんがいて、お客さんの流れが不均一だとに「チャランチャラン・チャラン・チャラン」と空切りで音を鳴らしてリズムを取ってたりりするのだけれど、こちらが手渡す切符を受け取るとハサミを入れ、それをまた返してくれた。単に行きずりではあるけれど、既に2人の人との関係を持ったことになる。それが今は無人の券売機で切符買って、無人の自動改札に切符を入れるだけ。人との関わりはない。人件費削減の合理化なのだけれど、券売機や自動改札という機械を作る技術がないと実現できないわけで、テクノロジーの産物だ。技術が進歩して人と人との関係性が減少する。子供たちは昔は学校や近所の友達と外で遊んだけれど、今は一人家でファミコンやプレステ。そして大人はパソコン・インターネットの世界。リアルの人間関係そっちのけでブログや自分のサイトにうつつをぬかす。それと直接の関係があるかないかはともかく、他人との関係の持ち方を知らない電車男が話題になり、引きこもりなる人々も少なくない。「一緒に遊ぼうよ!」という友達の誘いに対して「今日は家でテレビゲームするから(あるいは今日は塾だから、も)」と断ったとすれば、断られた子供にとっては断った子供が自分の前から消滅したことに他ならない。今まで買い物に来ていたお客さんがネット・ショッピングをするようになって店に来なくなれば、店員にとってはそのお客さんという人間が消えたことだ。ネットにのめり込んでリアルのつき合いが減った人の知人にとっては、その人が(部分的・一時的ではあっても)居なくなったことに他ならない。本来あるべき人間同志の関係性がなくなるということは、それぞれの人にとって他者が消えることであり、こうしてテクノロジー、とりわけインターネットによって人間性が疎外されていく現代に疑問を呈した映画なのだと思う。

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物語は、最初と最後(役所広司出演部分)が洋上の船でつながる枠構造におさめられているが、本体部分は観葉植物販売会社勤務の工藤ミチの物語と、大学生川島亮介の物語が平行して描かれ、終結部で2人の物語が統合される形式となっている。ミチの部分では職場の同僚の田口が自殺していなくなり、彼の残したフロッピーか何かに見入ってしまったもう一人の同僚矢部も消えてしまった。亮介の部分では使い始めたパソコンが不思議なサイトにつながってしまい、やがて彼の回りでも人が消えてゆく。共通するのはある種のサイトを見てしまうと、あるいは赤いテープで封印された部屋に入ってしまうと、孤独感に襲われ、やがて消えてゆくということだ。ここでパソコンというのはもろパソコン・インターネットの世界ではあるが、赤いテープの封印も四角いドアや窓の周囲に赤いテープを貼ることで赤い四角形が描かれており、パソコンのモニターを象徴するかのようである。映画の中で大学院生の吉崎は「霊界での受容容量がいっぱいになり、それがこの世界に溢れ出してきている。そしてその霊界からやってきた幽霊と出会ってしまった人は孤独感から自殺に追い込まれ消滅する。」と、また「一度このシステム、つまり " 回路 " が成立してしまうと、それが自律的に作動する。」と語る。ホラー映画仕立てだから霊界だの幽霊だのと言うが、これは人間のリアルな関係を捨ててパソコンやインターネットのバーチャルな世界に行ってしまった人、つまりは我々の前から人間の実質として消えてしまったに等しい人の暗喩であり、回路というのは社会のシステムや風潮のことだ。だから「霊界と現実世界で起こることの関係がわからない」といった良く目にする感想は映画の見方を根本から間違っていることを示しているのではないだろうか。大学生川島亮介の物語として見ると非常にわかりやすい。パソコンは持ってはいるもののまだ使ったことがなかった彼が、パソコンを使うようになり、そして霊界、すなわちバーチャルなインターネットの世界の虜になり、やがて・・・。

*3.jpg


以下は2008年5月29日加筆分です。


kairo0.jpg

この作品、最初に見たのは昨年の5月で、レビュー書いていないと思ったら既に書いていました。『叫』、『降霊』、『LOFT』、『ドッペルゲンガー』等を見たついでに記憶で書いたんですね。この作品を1年前に見たとき、DISCASのレンタルで1回見ただけだったのですが、実は良く解らないところがあった。で、もう1度見てからと思ってその時はレビュー書かなかった。で今回安価な中古ビデオがあったので買ったわけです。2度目に見たら良く解りました。最初に見て解らなかったのは、実は役者さんの顔なんですね。テレビは見ないし、昨今の日本映画もそれほど見ていないから、知っている顔は役所広司と風吹ジュンぐらいで、加藤晴彦と小雪はすぐ区別ついたのですが、麻生久美子とか有坂来瞳とか、あれ?、これあのミチだっけ?、って感じで、少々混乱して見てました。麻生久美子っていう人はこの映画では主人公なわけだけれど、女優としてのボクの印象は「平凡」って感じですが、小雪って人は、なかなか独特の味があって、フランス映画とかに出しても通用しそうですね。

kairo1.jpg

前回1月に書いたレビューを読み返して感じたのは、印象としては間違っていないのだけれど、ネットのバーチャル性の問題を中心に書いていて、この映画のもう一つのテーマである人と人とのかかわりの問題にあまり触れてないということです。もちろんこの2つのテーマは互いに関連したものではありますが。一種の倫理の問題でもあります。植物栽培会社に勤めるミチの上司が言う「人の悩みにどれだけ他者がかかわれるのか?」という問題であり、小雪の大学院の先輩の作ったプログラムにある、点と点は近付きたがるけれど、近付き過ぎると反発したり消滅したりするという問題であり、小雪(役名は春江ですか)の語るこの世の人の孤独の問題です。

kairo2.jpg

この問題は、小雪が加藤晴彦に言う「誰かとつながっていたいからインターネットをするのか?」ということで、第1のバーチャルというテーマとつながっているわけです。これはどこの国の人についても同じことなのでしょうが、特に日本社会的テーマでもある気がします。それは日本人が「和」を重んじるからです。誰かとつながっているためには同調が求められる。卑近な例で言うと、これはある友人が言っていたことなんですが、喫茶店に友人・仲間と5人ぐらいで入って、他の4人が「コーヒー」「僕もコーヒー」って先に言ってしまうと、「自分はコーラ」って言いにくい無言の圧力を感じてしまうってことです。まして「チョコレートパフェとアイスティー」とはもっと言い出しにくい。つまり自分を曲げてまで同調することを求められる。西洋社会のように「異」をもって他者と関係を持つっていうのではないんですね。一事が万事こういいう性格を持つから、他者とつながっていたいけれど、他者とつながるのはウザクもあるわけです。

kairo3.jpg

こういう同調と和を受け入れていれば、西欧社会のような孤独を感じないでオメデタク生きられるのですが、それをウザイと感じて離反したときには、たった1人の孤独(孤立)が待っている。西欧社会の人々は最初から孤独であって、だから孤独同志の求め合いの文化があるけれど、日本では単なる孤立になってしまう。余談ながらちょこちょこ書いていることだけれど、統計的に日本人はセックスの回数、特に未婚者のセックスの回数が極端に少ないらしいけれど、それはセックスが孤独同志の求め合いを癒すものだからなんですね。

kairo4.jpg

黒沢作品に描かれる「日本人」、日本的文化から見ると見えにくい面もあるのだけれど、例えば西欧的視点で見ていくと、日本人である(日本社会である)ゆえの人々の病性が見えてくる気がするのですが、みなさんはいかがでしょうか?。

https://plaza.rakuten.co.jp/karolkarol/diary/200801260000/

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