http://www.asyura2.com/19/senkyo265/msg/714.html
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東電旧経営陣に無罪
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周囲に振り回されず前向きに行動できる「鈍感力」は、単なる鈍感とは違う。ベストセラー『鈍感力』の文庫版で、作家の渡辺淳一が書いている。例えば問題を起こしても平然としている政治家。「いうまでもなく、こうした無神経で鈍感な男は、単なる鈍感でしかない」
その定義によれば、彼らも単なる鈍感の部類か。東京電力の旧経営陣の3人である。原発事故をめぐって強制起訴された裁判で、安全に対する鈍さが目についた。
国の地震予測をもとにした15メートル以上の津波予測が、2008年の時点で東電内にはあった。防潮堤工事も提案されたが、すぐ手を打とうとはしなかった。あくまで仮定にもとづく試算だったからという。
ことが起きていない以上、すべては仮定のはずだが3人の認識は違うらしい。あるいは会社の利益を損なわないよう鈍感のふりをしたか。そんな無策ぶりが裁かれる判決が出るかと思いきや・・・・・・全然違った。
3人が無罪になった理由は「事故前の法規制は、絶対的安全の確保を前提としてはいなかった」というものだ。当局も専門家も電力会社も、原子力業界全体が安全に鈍感だったので3人だけを責められない。そんな理屈で責任者を消してしまう手際は手品のようだ。
もっとも業界には敏感な人もいた。国の地震予測を考慮に入れ、津波対策をした電力事業者もあったと裁判で証言された。3人の責任を問う根拠になりそうなのに判決では極めて軽く扱われている。裁判官に「敏感力」が欲しい。
朝日新聞天声人語 2019年9月22日
https://www.asahi.com/articles/DA3S14188607.html?iref=comtop_gnavi
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【東電3被告訴訟】 無罪は一区切りではない
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原発とは、根拠もなく安全性や経済性を強調し、想定しない過酷事故を起こしても、誰も責任を取らなくてもいい事業なのだろうか。
2011年3月の福島第1原発事故を巡り、業務上過失致死傷罪で強制起訴された東京電力の勝俣恒久元会長ら旧経営陣3被告に、東京地裁はいずれも無罪(求刑禁錮5年)を言い渡した。
他の2人は武黒一郎元副社長と武藤栄元副社長。検察官は不起訴としたが、市民で構成する検察審査会が2度にわたり起訴すべきだと判断し強制起訴された。
起訴状で3人は、巨大地震による大津波を予見できたのに、対策を怠り、事故で長期避難を余儀なくされた入院患者らを死亡させた罪に問われた。
事故の予見可能性と結果を回避できた可能性の有無は、刑事裁判では厳しく問われる。裁判所もその両立を認めず、長い法廷闘争でも否定したことになる。
ポイントとなったのは、政府の地震調査委員会が02年に公表した長期評価だ。これに基づいて計算すると、福島第1原発には最大15・7メートルの津波が押し寄せることが分かっていた。
東電も08年に長期評価を検討している。裁判で被告の3人は「長期評価には信頼性がなく、予見できなかった」と主張し、想定されていなかった規模の地震と津波で、事故は防げなかったと訴えた。
しかし、評価の信頼性を否定することと、対策を怠ることは別の問題ではないか。東日本大震災では津波の浸水で原発の全電源が喪失。水素爆発を起こした。
強大な防潮堤の建設とまではいかなくとも、電源設備を高台に移すぐらいは東電ほどの大企業ならできたはずだ。実際にそうすれば過酷事故は防げたとする民事訴訟の判決や、米科学アカデミーの指摘もある。
こうした観点から国会の事故調査委員会は12年、原発事故を自然災害ではなく、「あきらかに人災だ」と位置付けた。人災であれば、大事故を起こした当事者である東電幹部ら、個人の責任を追及する動きが出ても不思議はない。
旧ソ連のチェルノブイリ原発と並ぶ、最悪の「レベル7」の事故である。万が一にも起こしてはならない事故は、いまだに遺族の心の傷となり、事故処理の面では国民の子孫にまで影響を及ぼす。
3人の被告も東電も、今回の無罪判決を「一区切り」などと考える余裕はあるまい。
むしろ市民の厳しい目を意識し続けることだ。検察の不起訴の判断よりも、検察審査会の「起訴相当」の方が市民感覚により近いだろう。裁判所の裁判員裁判も、市民の意見を取り入れる制度だ。
原発の安全神話が崩れ、システムの核燃料サイクルも事実上、破綻している。電力会社や国は、今後も続く原発絡みの訴訟で、市民の声に真摯に耳を傾けるべきだ。
高知新聞社説 2019年09月20日
https://www.kochinews.co.jp/article/310057/
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東電旧経営陣判決 重大事故の責任不問にできぬ
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2011年3月11日の東京電力福島第1原発事故をめぐり、業務上過失致死傷罪で強制起訴された東電旧経営陣3人にたいし、東京地裁は無罪の判決を言い渡しました。避難中に人命が失われ、いまも4万人以上が故郷に帰れず、収束も見えない未曽有の被害をもたらした事故の刑事責任が不問にされたことに、「不当判決」との批判が上がっています。
公判では、事故を防ぐ機会があったにもかかわらず、手だてをとらなかった東電経営トップの姿が改めて浮き彫りになりました。この判決をもって東電は責任を免れることはできません。
国民の思いと隔たり
裁判の最大の争点は、福島第1原発の敷地を超える大津波の襲来が予見できたかどうかでした。
国の地震本部は02年、福島県沖などでマグニチュード8クラスの津波地震が30年以内に20%程度の確率で発生すると予測する「長期評価」を公表しました。
東電の依頼を受けた子会社は08年3月、「長期評価」を取り入れて、第1原発に「最大15・7メートル」の津波が到達すると算出しています。敷地の高さ10メートルを大きく超す津波の襲来を示すこの試算について、経営陣3人は08年6月から09年春にかけて担当の社員から報告を受けていたことが、公判などで示されました。
ところが判決は「大津波は予見できなかった」としました。長期評価については「客観的に信頼性、具体性があったと認めるには合理的な疑いが残る」などと否定しました。旧経営陣の主張を全面的に追認したものです。
原発被害者らが各地で提起した民事訴訟では、東電に賠償を認めた判決が相次ぎ、2017年の前橋地裁判決では、東電が巨大津波の高さを試算していたことを根拠に「東電は08年には実際に津波を予測していた」とのべるなど、予見可能性を認定しています。民事と刑事の裁判の違いはあるとはいえ、今回の判決は国民の思いとあまりにかけ離れたものといわざるをえません。
また判決は、津波という自然現象は正確な予知や予測に限界があるなどとのべ、「(津波の)あらゆる可能性を考慮して必要な措置を講じることが義務づけられるとすれば」「運転はおよそ不可能」になるが、それは困難だと断定しました。原発停止は「ライフライン」にかかわるなどという理由を持ち出して、経営優先の東電の姿勢を容認した判決は、国民の常識に反するものです。
「絶対的安全性の確保までを前提とはしていなかった」と結論づけて経営陣を免罪したことは、事故がもたらした甚大な被害を直視したものではありません。
再稼働は許されない
この裁判は、検察が旧経営陣を不起訴にしたことに対し、市民らでつくる検察審査会が2度にわたり「起訴すべき」と議決し、強制起訴によって始まったものです。公判の中では、東電のずさんで無責任な対応が次々と明らかになりました。
このような東電の体質はあらたまっていません。東電が柏崎刈羽原発(新潟県)の再稼働に向けた動きを加速させていることは重大です。再稼働は断念し、被害者への賠償と、事故の収束と廃炉に真剣に取り組むべきです。
しんぶん赤旗主張 2019年9月21日
http://www.jcp.or.jp/akahata/aik19/2019-09-21/2019092101_05_1.html
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東電事故無罪 安全軽視の判断は疑問
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東京電力福島第1原発事故を巡り、業務上過失致死傷罪で強制起訴された東電の旧経営陣3人に対し、東京地裁は無罪判決を言い渡した。厳格な立証が求められる刑事裁判ゆえの結果だろう。
判決は、巨大な津波の襲来は「想定外」とする被告の主張を認め、予測は困難だったと認定した。
事故を回避するためには原発の運転停止しかなかったと判断し、電力供給義務を負う被告にはそこまでの義務はなかったとした。
しかしながら、今もなお帰還困難区域が7市町村にまたがり、約5万人が避難生活を強いられている事故の結果の重大性を考えると、安全より運転継続に重きを置いた判断と言わざるを得ない。
民事とはいえ、全国各地で避難者が起こした損害賠償請求訴訟では東電の過失責任が認められている。刑事上の責任を問われないからといって、旧経営陣が事故の責任を免れることにはならない。
近年、「想定外」の事故や災害が増えている。最優先されるべきは生命や身体の安全だ。想定が適切か不断の検証を怠れば、安全に関わる組織を率いる責務を果たしたことにはならない。
判決は、国が2002年に公表した地震予測「長期評価」について信頼性がないと判断。被告も出席した08年の会議で地震予測の採用方針が了承されたという元幹部の供述調書の信頼性も否定した。
だが、公判では、防潮堤設置などの対策を取らなかった旧経営陣の対応について、疑問視する社員の証言もあった。
予測に基づく最大15・7メートルの津波試算結果を生かさないのであれば、何のための予測か。素朴な疑問も浮かぶ判断は、市民感覚と乖離(かいり)しているとの批判を免れまい。
納得できないのは、3被告の姿勢だ。想定外と繰り返すばかりで、社員らの証言との矛盾を丁寧に説明したとは言いがたく、甚大な被害を招いた企業の責任者としての自覚が感じられなかった。
責任の所在を明らかにしたいという被害者の願いはかなわなかった。辛苦を味わってきた犠牲者の遺族らにとって、今回の判決は到底受け入れられるものではない。
判決は、事故の可能性を限りなくゼロに近づけるよう必要な措置を講じることも、社会の選択肢として考えられなくはないとも述べている。
原発事故は、ひとたび起これば取り返しがつかない。その重篤な結果に見合った責任とは何か。考える機会とする必要がある。
北海道新聞社説 2019年09月20日
https://www.hokkaido-np.co.jp/article/346497?rct=c_editorial
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東電旧経営陣に無罪 「人災」の疑問は残る
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東京電力の旧経営陣は「無罪」?二〇一一年の福島第一原発事故で検察審査会が強制起訴した裁判だった。本当に予想外の事故だったのか疑問は残る。
事故の三年前まで時計の針を戻してみよう。国の地震予測である「長期評価」に基づく津波の試算が最大一五・七メートルにのぼるとの報告がなされた。東電社内の会合で元副社長に「『(津波想定の)水位を下げられないか』と言われた」?担当していた社員は法廷で驚くべき証言をした。元副社長は否定し、「そもそも長期評価は信頼できない」と反論した。
社員は「津波対策を検討して報告するよう指示された」とも述べた。だから、その後、防潮堤を造る場合は完成までに四年を要し、建設に数百億円かかるとの報告をしている。元副社長は「外部機関に長期評価の信頼性を検討してもらおう。『研究しよう』と言った」と法廷で応じている。
てっきり対策を進める方向と思っていた社員は「想定外の結論に力が抜けた」とまで証言した。外部機関への依頼は、対策の先送りだと感じたのだろう。実際に巨大津波の予測に何の対策も講じないまま、東電は原発事故を引き起こしたのである。
この社員は「時間稼ぎだったかもしれないと思う」「対策工事をしない方向になるとは思わなかった」とも証言している。
社員が認識した危険性がなぜ経営陣に伝わらなかったのか。あるいは対策の先送りだったのか。これはぬぐえぬ疑問である。
旧経営陣の業務上過失致死傷罪の責任を問うには(1)原発事故との因果関係(2)大津波などが予見できたかどうか(3)安全対策など結果回避義務を果たせたか?この三点がポイントになる。
東京地裁は争点の(2)は「敷地高さを超える津波来襲の予見可能性が必要」とした。(3)は「結果回避は原発の運転停止に尽きるが、原発は社会的有用性があり、運転停止だと社会に影響を与える」ため、当時の知見、社会通念などを考慮しての判断だとする。
原発ありきの発想に立った判決ではないか。「あらゆる自然現象の想定は不可能を強いる」とも述べたが、それなら災害列島に原発など無理なはずである。
宮城県に立地する東北電力女川原発との違いも指摘したい。女川原発が海抜一五メートルの高台に建てられたのは、八六九年の貞観地震を踏まえている。だから東日本大震災でも大事には至らなかった。
〇八年の地震予測「長期評価」が出たときも、東北電力は津波想定の見直しを進めていた。ところが、この動きに対し、東電は東北電力に電子メールを送り、津波対策を見直す報告書を書き換えるように圧力をかけた。両社のやりとりは公判で明らかにされた。
「危険の芽からは目をそらすな」?それは原発の事業者にとって常識であるはずだ。旧ソ連のチェルノブイリ事故が示すように、原発でいったん事故が起きれば被害は極めて甚大であり、その影響も長期に及んでしまう。
それゆえ原発の事業者は安全性の確保に極めて高度な注意義務を負う。最高裁の四国電力伊方原発訴訟判決でも「(原発の)災害が万が一にも起きないように」と確認されていることだ。
「最大一五・七メートルの大津波」という重要なサインが活(い)かされなかったことが悔やまれる。〇四年にはスマトラ沖地震の津波があり、インドの原発で非常用海水ポンプが水没し運転不能になった。〇五年の宮城県沖地震では女川原発で基準を超える地震動が発生した。
これを踏まえ、〇六年には旧経済産業省原子力安全・保安院と電力会社による勉強会があった。そのとき福島第一原発に敷地高一メートルを超える津波が来襲した場合、全電源喪失から炉心損傷に至る危険性が示されている。
勉強会が活かされたらとも悔やむ。防潮堤が間に合わなくとも電源車を高台に配備するなど過酷事故対策が考えられるからだ。福島第一原発の非常用電源は地下にあり、水没は容易に発想できた。国会事故調査委員会では「明らかな人災」と厳しく非難している。
今回の刑事裁判は検察が東電に家宅捜索さえ行わず、不起訴としたため、市民の検察審査会が二度にわたり「起訴すべきだ」と議決したことによる。三十七回の公判でさまざまな事実関係が浮かんだ意義は大きい。
安全神話が崩れた今、国の原発政策に対する国民の目は厳しい。歴史は繰り返す。地震の歴史も繰り返す。重大なサイン見落としによる過酷事故は、やはり「人災」にも等しい。繰り返してならぬ。苦い教訓である。
中日/東京新聞社説 2019年09月20日
http://www.tokyo-np.co.jp/article/column/editorial/CK2019092002000193.html
https://www.chunichi.co.jp/article/column/editorial/CK2019092002000137.html
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東電旧経営陣無罪 原子力ムラ擁護の判決だ
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原子力ムラに寄り添った判決と断じざるを得ない。
2011年3月に起きた東京電力福島第1原発事故を巡り業務上過失致死傷罪で強制起訴された東京電力の旧経営陣3被告に、東京地裁が無罪の判決を言い渡した。事故回避のために原発を止める義務を課すほどの大津波の予見可能性はなかったと判示した。
避難者が集団で国や東電に損害賠償を求めた民事訴訟では、津波を予見でき事故を回避できたとする判決が多い。
刑事裁判では過失立証のハードルが高い。そうだとしても、未曽有の被害をもたらした原発事故で誰も刑事責任を負わないのは納得し難い。
国は「絶対安全」と強調し、各地で原発の設置を推進した。万全の用意があって初めてそう言える。現実には、「絶対安全」だから最高水準の対策は不要という、倒錯した理屈がまかり通った。
原子力政策を所管する経済産業省、原発を運転する東電など、産官学から成る原子力ムラは本来、原発事故に対して連帯して責任を負わなければならない立場にある。規制等を担う国と東電は「共犯」関係にあったと言えよう。
「事故が起きないように、また起こったとしても人体や環境に悪影響をおよぼさないよう、何重にも対策が取られています」「大きな津波が遠くからおそってきたとしても、発電所の機能がそこなわれないよう設計しています」
文部科学省と経産省が10年に発行した小学生・中学生向けのエネルギー副読本「わくわく原子力ランド」「チャレンジ!原子力ワールド」に、このような記述がある。
政府は、教育現場を含め、さまざまな機会をとらえて「安全神話」を植え付けようとした。
今回の判決は、自然災害に対し、事故が絶対に起きないレベルの安全性が求められたわけではない―と指摘している。政府の主張がうそ偽りだったことを改めて浮かび上がらせた。
「あらゆる可能性を考慮して必要な措置を義務付けられれば、法令上は認められた運転が不可能になる」とも判決は断じた。事故当時、「絶対安全」を確保しつつ原発を稼働させることなどできなかったわけだ。ここでも政府の欺瞞が浮き彫りになる。
起訴状によると、3被告は大津波を予測できたのに対策を怠り、原発事故によって長時間の搬送、待機を伴う避難を余儀なくさせるなどして、44人を死亡させたとされる。
電源設備を高台に移し浸水しないように適切な対策を講じていれば、事故は回避できたはずだ。遺族、被害者の無念はいかばかりだろうか。市民感覚から懸け離れた東京地裁の判決である。
本をただせば、「絶対安全」を掲げて原発建設を推し進めた、政府の国策詐欺同然の手法にたどりつく。原子力ムラの責任を曖昧にしたままでは禍根を残す。
琉球新報社説 2019年9月21日
https://ryukyushimpo.jp/editorial/entry-993462.html
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