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広告主である高須克弥の名前を原稿に書くなとのことでしたので、『週刊SPA!』巻頭コラムを降りることとしました。|菅野完 @noiehoie|note(ノート) https://t.co/aw99rXPYCn
— 菅野完 (@SgnTmts) May 24, 2019
広告主である高須克弥の名前を原稿に書くなとのことでしたので、『週刊SPA!』巻頭コラムを降りることとしました。
https://note.mu/noiehoie/n/n471782bfa0a6
菅野完
2019/05/24 17:40
ここ3年にわたって担当してきた、週刊SPA!の巻頭コラムの連載を、今週で降りることとしました。
理由は掲題の通り。編集部としては、「原稿のなかに、高須克弥という言葉が出てくる以上、掲載はできない」という立場だそうで、こっちとしては「書いてはいけないこと」がある連載なんてやってたくないということです。コラムで「書いてはいけないこと」なんてある方がおかしいんでね。
ことの経緯はこうです。 …と、経緯を詳らかに書こうと思いましたが、そんなことより、僕がSPA編集部に納入した原稿をそのまま読んでもらった方が早い。
まずは、先週の締め切り(5月21日実売号の締め切り)に合わせて、5月17日に納入した原稿をお読みください。
会社勤めをしていたころ「世も末だ」が口癖の上司がいた。彼には若い人の気持ちがわからぬのだという。そしてなぜ若い社員が単純なミスを犯すのか理解できぬのだという。そうしたことが起こるたびに、きまって「あーあ。世も末だよ」と彼は言うのだ。彼についたあだ名は「ロートル」。我々若い社員は、「ああはなるまい。『世も末だ』などと口にすまい」と誓い合ったものだった。”
だが、四十も半ばに差し掛かると、彼の気持ちが痛いほどわかるようになった。「世も末だ」としか言いようのない実にくだらない出来事がおこりすぎるのである。
俳優の佐藤浩市が、新作映画のインタビューで、総理大臣役を演じることについて「いわゆる体制側の立場を演じることに対する抵抗感が、まだ僕らの世代の役者には残ってるんですね」「ストレスに弱くて、すぐにおなかを下してしまうっていう設定にしてもらったんです」と答えたことが「安倍総理への揶揄だ」との批判をよんだのだという。そしてそれに対して、百田尚樹だの高須克弥だののいつもの連中がコメントし、「炎上」したのだという…
いや、これ、なんか問題なんすかね?大変申し訳ないが、佐藤浩市の発言の何がどう問題であるのかが全くわからないし、役者が総理大臣を揶揄しようが悪し様に批判しようがどこがどう問題なのか一切わからない。この騒動(いや、人為的騒動というべきだろう)で値打ちをさげたのは、自身が表現者でありながら他者の表現を看過しえず「自分の小説が映画化される際には佐藤を起用しない」と表現者らしからぬことを口走った、百田尚樹ぐらいだろうが、その百たとてウキペディアのコピペで本を書くような御仁なんだから、評判なんざハナから気にもかけてないのだろう。こんなことが話題になるなんて、もはや、世も末としかいいようがあるまい。
政治の世界に目を向ければ、菅官房長官が記者会見で「不信任案提出は時の政権が衆院解散を行う大義になるか」との質問に対し、「それは当然なるんじゃないでしょうか」と平然と答えたという大珍事が発生している。官房長官が総理の専権事項たる解散に言及するなど、前代未聞としかいいようがなかろう。小此木彦三郎の秘書上がりのサンシタ議員だった菅義偉が、偉そうに官房長官をしている時点で世も末だが、それにしてもあまりにも末世感のありすぎる発言ではある。
何が世も末って、百田尚樹だの菅義偉だの、教養の欠如した没義道な連中が、保守だの愛国だのともてはやされていることだ。先例や物事の原理原則を捻じ曲げる連中が「保守」なわけがなかろうが。
あーあ。世も末だよ。腹の底からそう思う。世も末だ。
そんな末世に、筆一本で渡世せにゃならんわけですよ。あーあやだやだ。たまにゃ愚痴のひとつも、こぼしたくなりまさぁな。
と、これが先週納入した原稿です。この原稿で高須克弥の名前が出てくるのは、
そしてそれに対して、百田尚樹だの高須克弥だののいつもの連中がコメントし、「炎上」したのだという…
という一箇所のみ。ここが週刊spa!編集長の犬飼氏の目に止まり。「高須さんからは広告をもらってるのにこんなこと載せるわけにいかない」ということになったわけです。
全くもって意味がわかりません。だって単に事実の提示をしているだけだし、どう曲解して読んでも名誉毀損にさえならない。書いたところで何がどう問題になるのかわか一切理解できない。法的な問題がない上に事実関係としても間違ってない内容を、いくらビジネス上の理由があるからとて「書かない配慮をする」なんてことは、書き屋として断じて採用できないわけで、当然、この時点(つまり5月17日の夕刻)で、「高須の名前を出せないなら、連載やめますね」とお答えしました。
担当編集の方を通じて犬飼編集長とのやりとりを重ねていくうちに、締切の刻限はどんどん迫ってきます。そうこうしてるうちに、編集長のさらに上の人から、僕の携帯に電話がありました。「連載はやめてくれるな」という慰留です。「書いてる内容はもっともだし、同意さえする。ただ、高須の名前は出してくれるな。ビジネス上の問題があるんだ。配慮してくれ。そこだけ、なんとか理解してくれ」と重ねて慰留してくるわけです。
ここで僕は大きな判断ミスを犯します。扶桑社の幹部による慰留の必死さや担当編集の疲労困憊ぶりを目にし、そして何より、刻々と迫る締切を配慮し、僕の方から
「わかった。あの原稿から高須克弥の名前を落としても、文意が曲がるわけではない。単に、固有名詞が一つ減るだけの話。要請に応じて改稿を認めましょう。ただし、そちらの改稿要請が『金』を理由にしたものである以上、こっちも『金』で納得したい。ついては、連載開始当初から据え置きの原稿料を今後は少しレイズしてもらいたい」
と、提案したのです。そしてこの提案は通り、「次週以降、原稿料値上げ」が実現し、僕は改稿に応じました。
僕としては、「大人の対応」をしたつもりでした。ここで僕が我慢をし、その我慢の代償として『金』が提示されるのであれば、誰も不幸にならない。原稿は期日通り収まり、扶桑社のメンツもたち、僕も経済的に潤う。誰も喧嘩せず穏やかな結末。実に「大人」だ。誰も大きな声を上げないし、誰も不幸にならない。ちょっと原理原則を踏み外してるけど、「大人」の世界ならよくあること。そこらへんをうまく織り込んだ見事なディールだと、その瞬間、僕は考えたのです。
ですが、そこから文字通り「寝られない日々」が始まりました。
どんなに「大人」ぶろうとも、このディールは「菅野完が金銭で筆を曲げた」「菅野完が筆を曲げるために金銭を要求した」ということに他なりません。金で筆を曲げるなんて、書き屋失格ではありませんか。約一週間、悩みに悩み続けて、「やはり、自分の判断は間違っていた」「しかもとんでもない間違いを犯していた」と気づくに至りました。そこで、今日(5月24日)の締切日に納入したのが、以下の原稿。
先週の本欄は、平たく言えば単なる「愚痴」であった。
愚痴はまだまだ続く。今週も単なる愚痴になる。
先週、本欄では、佐藤浩市の発言をめぐる騒動を「人為的騒動」と呼んだ。役者が政権批判をしようが権力者をクソミソに罵ろうが、なんら問題はない。その問題でないことをあたかも問題かのように取り上げて「報道」する連中の愚劣なことを書いた。そして、その愚劣な報道の「根拠」となった「論争」の一方の当事者が、Wikipediaのコピペで書籍を上梓してなんら恥ずることのない百田尚樹であり、百田尚樹ごときの発言をいかにも社会的に重大な発言であるかのように取り上げる姿勢を、これまた愚劣なものとして取り扱った。
以上が、先週の本欄の「読者の目に触れた」内容である。
だが、当方が編集部に納入した原稿はこのような内容ではなかった。当初の原稿は、佐藤浩市をめぐる論争の当事者として、いや、佐藤浩市の発言を問題視する愚劣な人物の事例として、百田尚樹だけでなく、高須克弥の名前も併記していたのだ。
これが編集部のチェックで弾かれたのである。高須克弥の経営するチンポの皮を切る病院の広告を、週刊SPA!がもらっているのが理由だという。そして、高須克弥のパートナーである西原理恵子と編集部の間で、近頃一悶着あったのも理由だという。つまりSPAの編集部は、「自分たちの銭儲けに差し障りがあり、自分たちの人間関係がややこしくなるから、菅野よ、筆を曲げてくれ」と頼んできたということになる。
当然私はこの申し出を断った。そんな理由で筆を曲げねばならぬのなら、連載をやめると返答した。だが、扶桑社は慰留した。
扶桑社の言い分もわからなくはない。一分一秒を争う締め切り当日に、ややこしい調整を行うことは週刊誌の編集部にとって難儀なことだろう。そこで、「自分の銭儲けの為に他人に筆を曲げろと依頼するならば、その対価として原稿料ぐらい上げろ」と再度打診した。そして扶桑社はそれを了とした。つまり今ご覧になっているこの原稿は、原稿料値上げ後初の原稿ということになる。
だが私はやはり今回で、この連載を辞めようと思う。
私は、第三者の金儲けや人間関係という、私に一切関係ないことで筆を曲げることに応じた。応じる対価として金銭を要求し、その要求が通った。
つまるところこれは、私が、高須克弥と同じ愚劣な人間に成り下がったということである。高須は金を払って筆を曲げさせ、菅野は金のために筆を曲げたのだ。
私は金で筆を曲げたのである。いくら綺麗事を言おうが、この事実は消えない。金で筆を曲げる人間など、筆をとるに値しない。故に私は、今回をもってこの連載を降りる。
以上が私の撤退宣言であり、かつて私が夢想した「あるべき言論の形」への惜別の辞である。
これを収めたのが、今日の朝。 先週の原稿にたった一言「高須克弥」と出てきただけで難色を示した編集長氏の判断は、当然のことながら、「この原稿は載せられない」というもの。こっちの要求は、「これが載せられないのなら、連載をやめる」というもの。向こうの要求とこっちの要求がまたぞろ今週も正面衝突して、担当編集を通じてのやったとったが今週も発生したわけです。
編集長は今回も慰留してきました。しかし、筆を曲げろという要求は変わりません。一方、こっちとしてはその要求を飲むわけにはいかない。今度そこで折れたら、それこそ書き屋失格です。完全廃業しなきゃいけなくなる。なので改めて、「これをこのまま載せるか、連載をやめるか、選んでください」と犬飼編集長に投げたところ、犬飼編集長が出した答えは、以前と同じく、「できれば連載を続けて欲しいが、この原稿は載せられない」というものでした。
ここに至って、「広告主の名前が出てくる原稿は一切載せられない」という編集部の方針は明らかになり、「その原則を守るためには連載陣に筆を曲げるように依頼するのが当然である」という編集部の編集風土が改めて明らかになったわけです。
なので、もはや、連載を続ける意味がなくなりました。先週の原稿を納入した時点にこっちの認識は立ち戻ったわけです。「書いてはいけない分野があるコラム」など、存在意義が一切理解できない。存在意義が理解できないものを続ける訳にはいかない。
なので、今週で週刊SPA!の連載を辞めます。
3年間、お世話になりました。読者の皆さんからいっぱいお手紙も頂戴し、励みになりました。
書き屋には書き屋の一分があります。菅野完はその一分を踏み外しそうになった愚か者ではありますが、一週間かけてその一分の尊さに改めて気づくことができました。いったん迷って誤った判断を下した上で立ち戻ってきた、書き屋の一分。今後は、それを踏み外すことなく、この商売に邁進していきたいと思います。
なお、最後になりましたが、犬飼編集長はじめ、担当編集氏を除く扶桑社各位との電話については、全て録音しておりますことを申し添えます。
2019年5月24日 菅野完
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