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解決見えないロヒンギャの現場 大流出から2年の今を見た
2019/10/24
龍神孝介 (フォトジャーナリスト)
2019年8月25日。バングラデシュの南東部にあるクトゥパロン難民キャンプ。午前9時から何かが起こるという情報を聞きつけた私はホテルを出発し現場へと向かった。世界最長の天然ビーチを持ち、新婚旅行のカップルや家族連れで賑わうバングラデシュ随一の観光地コックスバザールから車でおよそ1時間。目的地に近づくにつれ人が湧き出るように増えていく。うだるような暑さの中広場には数十万人の人が集まり異様な雰囲気で始まりを待っていた。
バングラデシュの難民キャンプでは、大流出から2年が経過しても何も変わらない状況に数十万人のロヒンギャが声を上げた(筆者撮影、以下同)
ミャンマー政府による弾圧でラカイン州から逃れたイスラム系少数民族ロヒンギャたちが弾圧による大流出から2年が経過しても、帰還の目処が立たない苛立ちと母国の改善されない人権状況に対して抗議の声を上げていた。2年前の弾圧時に軍に10歳の息子が銃殺された40代の女性は「ここは食料が不足している。早く故郷に戻りたい」と語る。また少年(13歳)は「食糧が不足しているしキャンプは汚い。一日中何もすることが無く故郷のことをいつも考えている。以前のように学校に通いたい」と訴える。
ロヒンギャの一部過激派が警察施設を襲撃したことが発端とされる軍を主体とする報復活動は、民族浄化と言っても過言ではないほどの凄惨さを極め、70万人以上のロヒンギャが隣国バングラデシュに逃れてきた。ほとんどが家族や親戚を殺されたり家を焼き討ちにされたりし、命からがら何日もかけて国境を越えて来た。また多くの女性が性的暴力やレイプされるなど非人道的な行為を受けたと報告されている。「食料もお金もいらないから武器をくれ。奴らに仕返しに行くんだ」とある青年は怒りをぶつける。
犠牲者の数は少なくとも1万人、最大で2万5千人と推測される。ただ、ミャンマー政府が海外のメディアや調査機関の受け入れを制限しているため、被害の全容は未だ掴めない。
私は2014年から毎年のようにロヒンギャ難民を記録している。「ミャンマーからやって来たロヒンギャという国籍を持たない民族が、国境沿いの難民キャンプに数十年にわたり暮らしている」。ロヒンギャを知ったきっかけは現地の友人から聞いた話だった。歴史、宗教、文化、人種、民族、言語などを起因とする衝突。ロヒンギャ難民は私たち人間が直面しているあらゆる課題を提起している。それはジャーナリストとして取り組まなければいけないテーマだと感じた。
飛行機で首都ダッカに降り立ち、夜行バスに8時間乗り、車でさらに1時間ほどかけてようやく難民キャンプに辿り着いた。悪路をけたたましくクラクションを鳴らしながら、猛スピードで走るバスに揺られ私はほとんど眠ることが出来なかった。長旅の疲れで体の芯が重くなる中、初めてキャンプに足を踏み入れた時の衝撃は今でも忘れられない。
過密な土地にゴミや汚水が散乱し、トイレや水道といったインフラは整っておらず、とても人間が住むのに適した状態とは言えなかった。そんな劣悪な環境下で数十万人が暮らしていた。現代においてこんなにも凄惨な体験をし、悲惨な暮らしを余儀なくされている人たちがいるのかと思い知らされた。それでも彼らは貧しいながらも身なりを整え、コーランを諳んじ毎日の礼拝を欠かさない。民族としてのアイデンティティに誇りを持ち、いつか故郷に帰る日を信じて気高く生きていた。
ロヒンギャ難民は、劣悪な環境での生活を余儀なくされている
「ここには仕事がない。家族はいつも空腹」
広大な農地が広がり住んでる人もまばらで木々に覆われた丘陵地帯の、アジア象を含む豊富な野生動物が暮らす自然豊かな一帯。そうしたミャンマーとの国境近くにあるキャンプには、もともと過去にミャンマーから逃れてきたおよそ30万人のロヒンギャがいる。新たに流入した70万人を加えると100万人以上が暮らしていることになる。ごく一部のロヒンギャは国連が運営する公式キャンプで暮らしているが、残りの大多数が暮らすキャンプは劣悪な環境で食糧は慢性的に不足しており、水道やトイレなどのインフラも十分ではなく常に感染症などのリスクと隣り合わせだ。
「ここには仕事が無い。家族全員がいつも空腹だ。米や油の援助はあるが鶏肉や魚は現金が無いと手に入らない。家は狭く雨が降るとすぐに壊れてしまう。故郷では広い土地と沢山の家畜を持っていたが全てを失った」と男性(42歳)は現在の生活を話す。彼らは就業が許可されておらず、現金収入は殆ど無い。違法に日雇い労働などをしてわずかな稼ぎを得る。キャンプでは人身売買やドラッグが蔓延するなど治安も安定しない。
ミャンマーとバングラデシュの両国は難民の早期帰還開始に合意し、昨年11月と今年の8月に2度の帰還計画が実行された。しかし、これに応じるロヒンギャは誰もいなかった。「目の前で家族や親戚を殺された。家も焼かれ家畜も奪われ全てを失った。たとえ帰ったとしてもまた同じ目に会うのだろう」「母国での安全の保証や基本的権利が認められない限り帰るわけにはいかない」と多くの人が口にする。帰還計画は度重なる国際社会からの非難と国連での非難決議に対するミャンマー政府の単なるパフォーマンスに過ぎないとも言われている。両国は相手国の不備や不手際が原因だと責任の擦り付け合いをしている状態で計画は頓挫したままだ。
両国政府、そして日本の取り組みは
ミャンマー政府は一貫してロヒンギャを国民として認めず、あくまでもバングラデシュからやってきた不法移民と見なし国籍を与えていない。政府は移動、就業、出生、結婚、教育、宗教の制限など様々な迫害を軍事政権発足以降数十年にわたり行ってきた。
民主化の象徴であるアウン・サン・スーチー国家顧問に状況改善への期待が高まったものの、彼女には軍をコントロールする権利が憲法で認められていない。また大多数が仏教徒のミャンマー国民の間でも反ロヒンギャ感情が根強く、ロヒンギャをバングラデシュからの不法移民と見なし、自分たちの文化や土地が奪われると考えている。
最近の調査では、大弾圧以降ロヒンギャが暮らしていた村は更地にされ、新たに軍や国境警備隊の施設、ミャンマー人のための住居が建設されたと報告されている。ミャンマー政府が本腰を入れてロヒンギャを帰還させる気があるのかは甚だ疑問である。
一方の受け入れ国であるバングラデシュ政府も我慢強くロヒンギャを支援してきたが、それも限界にきている。アジア最貧国のひとつでもある同国は決して豊かではない。地元住民を差し置いてロヒンギャを積極的に支援することは出来ず多くの援助を国連、NGO、イスラム諸国に頼っている。政府はベンガル湾に浮かぶ無人島バシャンチャールに10万人を収容できる施設を建設し、ロヒンギャの移住を検討している。しかし同島は医療や教育へのアクセスが制限され、また頻発するサイクロンにより浸水、最悪の場合水没する可能性も有り安全が懸念されている。
日本政府も河野前外務大臣がアウン・サン・スーチー国家顧問と会談し、早期の帰還に向けての協力を約束しており国連でのミャンマーへの非難決議に欧米諸国が賛成を表明する中、日本は全て棄権している。またロヒンギャという呼称も使わずあくまでラカイン州のイスラム教徒というミャンマーの立場に同調している。一方で2度にわたりロヒンギャ難民キャンプを視察しバングラデシュ政府に対し支援を強化する考えを示した。日本としては両親日国に対して独自の外交で解決への道を探り存在感をアピールしたいところだろうが、どちら側にも曖昧な日本の姿勢は決して歓迎はされているわけではない。私が出会ったあるロヒンギャの老女は「日本軍は昔、仏教徒と一緒に私たちロヒンギャをたくさん殺した。そして今でもミャンマーの味方をしている」と語った。
ロヒンギャの生活は変わらず、苛立ちは募るばかりだ
大弾圧への公正な裁き、早期の帰還や母国での基本的な人権を求め続けていても、状況は一向に変わらずロヒンギャの苛立ちは募るばかりである。国連やNGOの援助でキャンプは整備されつつあるが、彼らの暮らしは貧しいままだ。トイレや炊事場は共同で電気はほとんど通っていない。火を起こすための薪を遠くの山まで取りに行かなければならない。
またバングラデシュ政府は治安への不安から、キャンプ周辺での携帯電話のインフラを遮断した。自由に移動が出来ない彼らにとって唯一外の世界とつながる手段が絶たれたことにより疎外感や閉塞感が一層増している。行き場のないロヒンギャが過激な思想に陥ったりドラッグなどの犯罪行為に及ぶことも懸念される。
最近では新たに流入したロヒンギャと過去にバングラデシュに逃れてきたロヒンギャ、地元住民との間に軋轢が生じてきており緊迫した状況が続いている。あらたに70万人ものロヒンギャが流入したことによる治安の悪化、物価の高騰、雇用の奪い合い、環境破壊といった問題がその背景にはある。
歴史、宗教、文化、人種、国際関係など様々な要素が複雑に絡み合い、世界で最も迫害されている少数民族と言われているロヒンギャの行き先は未だ不透明である。
https://wedge.ismedia.jp/articles/-/17708
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