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アメリカの核兵器(櫻井ジャーナル) 
http://www.asyura2.com/18/warb22/msg/269.html
投稿者 赤かぶ 日時 2018 年 8 月 05 日 13:10:45: igsppGRN/E9PQ kNSCqYLU
 

アメリカの核兵器
https://plaza.rakuten.co.jp/condor33/diary/201808030000/
2018.08.04 櫻井ジャーナル


 アメリカは1945年8月、2発の原子爆弾を日本へ投下した。8月6日にウラニウム235を使ったリトルボーイを広島市へ、またプルトニウム239を使ったファット・マンを長崎市へ落とし、その年の末までに広島では約14万人、長崎では7万4000人程度が死亡したと言われている。晩発性の放射線障害による犠牲者を含めれば、数字はさらに膨らむ。

 少なからぬ人が指摘しているように、アメリカは原爆を投下する必要はなかった。ソ連制圧を目指していたドイツ軍の主力はスターリングラードの戦いに敗れて1943年1月に降伏、ドイツなしに連合軍と戦う力のなかった日本の敗北も時間の問題だったからである。第2次世界大戦の勝敗は1943年の初頭に決していた。これを受け、アメリカやイギリスは慌てて上陸作戦を始めたのである。

 実際にドイツが連合軍に降伏したのはフランクリン・ルーズベルト米大統領が急死した翌月の1945年5月だが、その間、ウォール街の代理人でOSS(アメリカの戦時情報機関)の幹部だったアレン・ダレスたちが大統領に無断でナチスの幹部と新たな同盟について話し合っていた。この話し合いを経てアメリカはドイツの科学者やナチス幹部たちを救出、保護、ほとぼりが冷めてから雇用している。

 ドイツが降伏して間もない5月22日にウィンストン・チャーチル首相の命令でJPS(合同作戦本部)はソ連に対する奇襲攻撃計画を作成している。アンシンカブル作戦だ。7月1日に米英軍数十師団とドイツの10師団が「第三次世界大戦」を始める想定になっていた。

 この作戦が実行されなかったのはイギリスの参謀本部が反対したからだが、理由のひとつは防衛を重視すべきだという判断、もうひとつは米英独がソ連と戦争を始めた場合、まだ降伏していない日本がソ連と軍事同盟を結ぶ可能性があると懸念したからだとも言われている。

 7月16日にアメリカがニューメキシコ州でプルトニウム原爆の爆発実験(トリニティ実験)を成功させたことも展開に影響しただろう。通常兵器による奇襲攻撃から核攻撃へ切り替えられた可能性がある。そして広島と長崎へ原爆が投下された。ソ連を意識して原爆を投下したことは間違いないだろう。

 実際、チャーチルは大戦後、ハリー・トルーマン大統領に対してソ連を核攻撃するように働きかけ、アメリカでは1948年後半までに特殊部隊の産みの親とも言われている「ロバート・マックルア将軍は、統合参謀本部に働きかけ、ソ連への核攻撃に続く全面的なゲリラ戦計画を承認させ」(クリストファー・シンプソン著、松尾弌訳『冷戦に憑かれた亡者たち』時事通信社、1994年)、1954年になると、SAC(戦略空軍総司令部)は600から750機の核爆弾をソ連に投下、2時間で破壊して118都市に住む住民の80%、つまり約6000万人を殺すという計画を作成した。この年の終わりにはヨーロッパへ核兵器を配備している。(Oliver Stone & Peter Kuznick, “The Untold History of the United States,” Gallery Books, 2012)

 その後も作戦は修正され、1957年になると軍の内部でソ連に対する先制核攻撃を準備しはじめている。(James K. Galbraith, “Did the U.S. Military Plan a Nuclear First Strike for 1963?”, The American Prospect, September 21, 1994)この年の初頭、アメリカ軍はソ連への核攻撃を想定したドロップショット作戦を作成、300発の核爆弾をソ連の100都市で使い、工業生産能力の85%を破壊する予定になっていたという。(Oliver Stone & Peter Kuznick, “The Untold History of the United States,” Gallery Books, 2012)

 テキサス大学のジェームズ・ガルブレイス教授によると、ライマン・レムニッツァーJCS議長やSAC司令官だったカーティス・ルメイを含む好戦派は1963年の終わりに奇襲攻撃を実行する予定だったという。




 

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コメント
 
1. 2018年8月05日 19:17:34 : Xxq1DnoUFB : Bx4rQ6jSNwo[59]
実験だ わざと落とそう 原爆を

2. 2018年8月05日 23:52:03 : yEQPus4f2w : MBP83M_SvZI[329]
↓この記事読んだか?73年の間隠されてきた機密だ。一読されたい。

原爆投下機の出撃傍受 元日本兵証言、報告生かされず無念
http://www.chunichi.co.jp/article/front/list/CK2018080502000089.html

 太平洋戦争末期の一九四五(昭和二十)年八月、広島と長崎に原爆を投下した米軍の部隊の動きを旧日本軍が事前に察知していたと証言する元兵士がいる。情報を軍の上層部に伝えたが、原爆は投下され、約二十一万人の命が奪われた。「せめて直前に空襲警報が出ていれば」。元兵士らは苦悩を抱えながら、戦後の七十三年を生きてきた。


3. 2018年8月10日 07:02:16 : jXbiWWJBCA : zikAgAsyVVk[1275]
原爆投下は「人類の悲劇」ではない
政府もマスコミも冷戦の歴史を直視しよう
2018.8.10(金) 池田 信夫
広島の原爆ドーム
 毎年この季節になると、広島と長崎の犠牲者を慰霊して、原爆投下を「人類の悲劇」として語る式典が行われるが、彼らは何を祈っているのだろうか。それが悲劇だったことは間違いないが、「人類」が原爆を投下することはできない。投下したのは米軍の爆撃機であり、民間人に対する無差別爆撃は国際法違反である。

 しかしアメリカ政府がその責任を認めたことはなく、もちろん謝罪したこともない。日本政府も、原爆投下の責任にはまったく言及しない。NHKが毎年放送する原爆の特集番組でもアメリカの責任は追及しない。こういう思考停止は、そろそろやめてはどうだろうか。

原爆投下はポツダム宣言の前に決まった
 この不自然な歴史解釈を生んだのは占領統治である。占領軍が原爆を正当化するのは当然で、日本政府もそれに従うしかなかった。占領軍が検閲していた時代には、マスコミも「悪いのは原爆投下ではなく戦争を起こした日本だ」と報道するしかなかったが、占領統治が終わったあとも、そういう自己欺瞞が身についてしまった。

 原爆投下は1945年秋に予想されていた本土決戦で日米に多くの犠牲が出ることを避けるためにやむなく行われた作戦であり、「原爆投下によって戦争が早期に終結し、数百万人の生命が救われた」というのが、今もアメリカ政府の公式見解である。

 それを承認したトルーマン大統領は、回顧録で「1945年7月26日にポツダム宣言を出したのは、日本人を完全な破壊から救うためだった。彼らの指導者はこの最後通牒をただちに拒否した」と、あたかもポツダム宣言を受諾しなかった日本政府に責任があるかのように書いているが、これは因果関係が逆である。

 ポツダム宣言で日本に無条件降伏を呼びかけてから、広島に原爆を落とすまで、わずか2週間足らず。日本政府が公式に回答する前に投下されている。スティムソン陸軍長官が原爆投下を決定してトルーマンが承認したのは7月25日、つまりポツダム宣言の発表される前日だった(長谷川毅『暗闘―スターリン、トルーマンと日本降伏』)。

 原爆投下の飛行計画は8月上旬と決まっていたので、それに合わせて急いでポツダム宣言を出したと考えることが合理的である。

「国体護持」で遅れた日本政府の決定
 日本政府は、ポツダム宣言を「ただちに拒否」したわけではない。鈴木貫太郎首相が宣言を「黙殺」したと報じられ、それをトルーマンは拒否と解釈したが、これは日本政府の公式回答ではなかった。宣言の内容が重大なので、コメントしなかっただけだ。

 日本政府が困惑したのは、「国体」が護持できる保障がないことだった。ポツダム宣言は「日本国国民が自由に表明した意思による平和的傾向の責任ある政府の樹立」を求めており、天皇制の維持を保障していなかったからだ。

 スティムソンの起草したポツダム宣言の原案では、政府の形態として「現在の皇室のもとでの立憲君主制を含む」という言葉があった。これは日本の早期降伏を促すものだったが、統合参謀本部がこの言葉を削除してしまった。

 日本軍にとっては「決号」作戦と呼ばれた本土決戦が既定方針だったので、それを変更するには重大な情勢の変化が必要だった。昭和天皇は6月22日の御前会議で「戦争の終結に就きても此際従来の観念に囚はるゝことなく、速に具体的研究を遂げ、之が実現に努力せむことを望む」と、政府首脳や大本営に申し渡した。

 これは本土決戦の方針を見直せということで、軍も反対しなかった。つまり実質的な「聖断」は6月に下っていたのだが、それは大きな方針転換なので、秘密裏に終戦工作が行われていた。

 原爆投下がなくても、当時すでに日本の敗戦は決定的になっており、決号作戦は物理的に実行不可能だったが、ポツダム宣言が問題を複雑にした。国体護持をめぐって不毛な論争が始まり、貴重な時間が空費された。

 こうして終戦工作に手間どって終戦の決定が8月まで遅れている間に、原爆が投下された。8月10日の御前会議における天皇の「聖断」は、数の上ではぎりぎりの多数決だったが、内容は既定方針の確認だった。その決定に際して原爆投下とともに、8月9日のソ連参戦が大きな意味をもった。

 あと半年、降伏が遅れていたら、日本は朝鮮半島のように分割されたかもしれない。日本を英米中ソで4分割する案も、アメリカ政府で検討されていた。1945年8月は日本が分割されないで戦争を終結する、ぎりぎりのタイミングだった。

周回遅れだった日本国憲法
 トルーマンがスターリンの署名なしにポツダム宣言を出したのは、ソ連参戦の前に日本を降伏させ、アメリカが占領統治の主導権を握るためだった。それを加速させる原爆投下はアメリカにとっては必要であり、それは冷戦の始まりだった。

 1945年は、国際的な座標軸が大きく転換した過渡期だった。ルーズベルト大統領はスターリンを信頼しており、米ソが敵対するとは考えていなかった。トルーマンも当初はそう考えていたが、ドイツが5月に無条件降伏した後、ソ連は東ヨーロッパをまたたく間に軍事的に制圧した。

 それに続いてソ連が日本に参戦することは(ヤルタ会談の密約で)明らかだったので、トルーマンは戦争終結を急いだ。イギリスのチャーチル首相は1946年3月に「鉄のカーテン」演説で冷戦の開始を宣告した。わずか1年足らずで、ソ連は同盟国から仮想敵国に変わったのだ。

 この大転換の最中の1946年3月にできたのが、日本国憲法である。それは冷戦の始まる直前の、米ソが平和共存できるという幻想を「凍結」したようなものだ。そのときすでに冷戦は始まっていたのだが、日本はこの周回遅れの憲法を改正できないまま現在に至っている。

 原爆投下は冷戦の序曲であり、アメリカの世界戦略の一環だった。だがトルーマンは広島と長崎の被害の大きさに驚き、1945年8月10日に「大統領の許可なく原爆を投下してはならない」という命令を出した。

 原爆投下は人類の悲劇ではなく、アメリカの戦争犯罪である。それが終戦を早めて救った命もあるが、犠牲は余りにも大きかった。今さらアメリカに謝罪を求める必要もないが、日本が反省する筋合いはないのだ。


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