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言論の自由についてのヴォルテールの言葉
「僕は君の意見には反対だ。しかし、君がそう主張する権利は、僕が命をかけて守る」
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2018年9月29日
◆「新潮45」休刊で失われたのは何か 9月28日 門田隆将
彼ら新潮社の後輩には、フランスの思想家であり、哲学者だったヴォルテールの以下の言葉の意味を知って欲しいと思う。
「僕は君の意見には反対だ。しかし、君がそう主張する権利は、僕が命をかけて守る」
私は杉田論文を読んで、前述のように杉田氏が、「少子化無策」に対して、あるいは、それへの支援に度が過ぎている行政や、それをアト押しするマスコミに対して激しい怒りを持っている人物だと思ったが、「LGBTへの差別主義者だ」とは思わなかった。
しかし、それは「百人いれば、百人の読み方がある」という通り、私だけの感じ方であり、人に強要するつもりも、同意を求めるつもりもない。それは、私の自由だからだ。言論と表現の自由が守られている日本では、自由闊達にLGBTのことも議論すればいいだけのことである。
だが、「これはLGBTへの差別だ」と声を上げ、その自由な言論空間を圧殺しようとする勢力に、新潮社は「白旗」を掲げてしまった。かつて、どんな圧力にも負けない毅然とした社風を誇った新潮社。その中で思いっきり仕事をさせてもらった私には、「なぜ新潮社はこうも見識を失ったのか」と思うだけである。
前回のブログでも書いたように、非難の風を真っ向から受けることを恐れない新潮社には、多くのエピソードがある。元週刊文春の名物編集長、花田紀凱氏と昨年12月に出した対談本『週刊文春と週刊新潮 闘うメディアの全内幕』(PHP新書)でも、そのうちのいくつかを紹介させてもらった。
1997年、神戸の酒鬼薔薇事件でFOCUSが犯人の少年の顔写真を掲載して新潮社が日本中からバッシングを受け、店頭からFOCUSばかりか、週刊新潮まですべて撤去されたことがある。
児童文学作家の灰谷健次郎氏をはじめ、作家が作品を新潮社から引き上げる騒動に発展し、社内でも、今回と同様、出版部の編集者を中心に「大批判が巻き起こった」ものである。
しかし、その頃の新潮社には、元週刊新潮編集長・山田彦彌氏、元FOCUS編集長・後藤章夫氏という編集出身の両常務がおり、外部の作家に動かされて安っぽい正義感を振りかざす編集者たちを二人が“一喝”して、いささかの揺らぎも外部に見せることはなかった。
言論や表現の自由は、それ自体が民主主義国家の「根本」であり、たとえ反対する人間や政治勢力が大きかろうと、それをどこまでも守らなければならないという「毅然とした姿勢」が会社に貫かれていたのである。
今回、社内で「外部に向かっての謝罪」を要求する編集者たちの突き上げを食らって、役員たちが右往左往し、ついには、「休刊」という恥ずべき手段をとったことに対して、私は、ただただ呆れるだけである。
新潮社の幹部の中には、自分で判断することもできず、外部の執筆者に相談して、「謝罪の上、新潮45を廃刊にするのが適当でしょう」とアドバイスされ、そのことをご丁寧にツイッターで「暴露」までされていた人がいた。
私が気になるのは、新潮社の社員がツイッターで、あるいは、外部のマスコミで、自らを「自分は差別主義者ではない」という安全地帯に置き、「言論・表現の自由」の重さも自覚しないまま、綺麗事(きれいごと)の発信や発言をつづけている人間がいることである。
彼ら新潮社の後輩には、フランスの思想家であり、哲学者だったヴォルテールの以下の言葉の意味を知って欲しいと思う。「僕は君の意見には反対だ。しかし、君がそう主張する権利は、僕が命をかけて守る」
言論・表現の自由がいかに大切かということの本質を、18世紀に生きたこのヴォルテールは語っている。要は、たとえ自分の意見とは違っていても、その人の言論や思想は守らなければならないということであり、それは同時に、既述のように「百人いれば、百人の読み方がある」ということを認める、ということでもある。
言論と表現の自由が守られている日本では、LGBTのことも、今後、自由闊達に議論していけばいいのに、今回の「新潮45休刊事件」は、逆に、LGBTをタブー視するような風潮をつくってしまった。
世の中に対して「超然」としていた新潮社がその矜持(きょうじ)を捨てた今、日本のジャーナリズムが、大いなる危機に立っていることを感じる。
嬉々として今回の事件を論評する新聞の社説や記事を読むと、暗澹(あんたん)とさせられる。しかし、圧力に屈しない毅然としたジャーナリズムの本来の道を、微力ではあるが、これからも進みたいし、守っていきたいと心から願う。
http://blogos.com/article/328086/?p=1
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言論の自由について - 内田樹の研究室 2018-09-25
http://blog.tatsuru.com/2018/09/25_1820.html
以前にもブログに掲載した旧稿だけれど、『新潮45』の休刊という事件を迎えて、改めて「言論の自由」についての私見を明らかにしておきたいと思って再録。
かつてマスメディアが言論の場を実効支配していた時代があった。讀賣新聞1400万部、朝日新聞800万部、「紅白歌合戦」の視聴率が80%だった時代の話である。
その頃の日本人は子どもも大人も、男も女も、知識人も労働者も、「だいたい同じような情報」を共有することができた。政治的意見にしても、朝日から産経まで、どれかの新聞の社説を「口真似する」というかたちで自分の意見を表明することができた。それらのセンテンスはほぼ同じ構文で書かれ、ほぼ同じ語彙を共有しており、ほぼ同じ論理に従い、未来予測や事実評価にずれはあっても、事実関係そのものを争うことはまずなかった。それだけ言説統制が強かったというふうにも言えるし、それだけ対話的環境が整っていたとも言える。
ものごとには良い面と悪い面がある。
ともかく、そのようにして、マスメディアが一元的に情報を独占する代償として、情報へのアクセスの平準化が担保されていた。誰でも同じような手間暇をかければ、同じようなクオリティの情報にアクセスできた。「情報のデモクラシー」の時代だった。
これはリアルタイムでその場に身を置いたものとしては、「たいへん楽しいもの」として回想される。
内田百閧ニ伊丹十三が同じ雑誌に寄稿し、広沢虎造とプレスリーが同じラジオ局から流れ、『荒野の七人』と『勝手にしやがれ』が同じ映画館で二本立てで見られたのである。
小学校高学年の頃、私は父が買ってくる『文藝春秋』と『週刊朝日』を隅から隅まで読んだ。それだけ読んでいると、テレビのクイズ番組のほとんどすべての問題に正解できた。そういう時代だった。
だが、70年代から情報の「層化」が始まる。
最初に「サブカルチャー系情報」がマスメディアから解離した。
全国紙にはまず掲載されることがない種類のトリヴィアルな情報が、そういうものを選択的に求める若者「層」に向けて発信され、それがやがてビッグビジネスになった。「異物が混在する」時代が終わり、「異物が分離する」時代になったのである。
たしかに、筒井康隆の新作を読むつもりで買った月刊誌に谷崎潤一郎の身辺雑記が掲載されていたら、「こんなのオレ読む気がないのに、その分について金出すのもったいない」と思う読者が出て来ても仕方がない。
そうして、メディアの百家争鳴百花繚乱状態が始まった。
そのときも「別に、これでいいじゃん」と私は思っていた。みんなも「これでいいのだ」と言っていた。それによって、社会集団ごとにアクセスする情報の「ソース」が分離するようになってきた。国民全員が共有できる「マス言論」という場がなくなった。
今の若い人はもう新聞を読まない。テレビも見ない。必要があれば、ニュース記事はネットで拾い読みし、動画はYou tubeで見る。
「必要があれば」というのは、当人のまわりで「それ」が話題になっているときに、キャッチアップする「必要があれば」ということである。まわりで話題にならなければ、戦争があっても、テロがあっても、政権が瓦解しても、通貨が紙くずになっても、どこかの国が水没しても、どこかの国の原発が爆発しても、そんなことは「知らない」。
マス言論というのは、いわば「自分が知っている情報」の価値を評価するためのメタ情報である。
マス言論の場に登録されていない情報を自分が知っていることがある。それはとりあえず私が知っているこの情報は「国民レベルで周知される必要のない情報」だという査定がどこかでなされたということを意味している。
「国民レベルで周知される必要のない情報」には二種類ある。
「重要性が低いので、周知される必要がない情報」(例えば、「今のオレの気分」)
もう一つは、「あまりに重大なので、それが周知されると社会秩序に壊乱的影響を及ぼす情報」(例えば、尾山台上空にUFOが飛来した)。
その二つである。
そして、私たちは長い間のマスメディア経験を通じて、「自分は現認したが、マスメディアに報じられない情報」はとりあえず「第一のカテゴリー」に入れる訓練を受けていた(ぶつぶつ文句を言いながら、ではあるが)。
それが揺らいできた。
マスメディアの「情報査定機能」が著しく減退した(少なくとも、「減退したと信じられている」からである)。
マスメディアの情報査定機能が低下すると、何が起こるか。
私たちは自分の知っている情報の価値を過大評価するようになる。
私が知っていて、メディアが報道しない情報は、「それを知られると、社会秩序が壊乱するような情報」であるという情報評価態度が一般的になる。「第二のカテゴリー」が肥大化するのである。
今のネット上の発言に見られる一般的傾向はこれである。
自分自身が送受信している情報の価値についての、無根拠な過大評価。
自分が発信する情報の価値について、「信頼性の高い第三者」を呼び出して、それに吟味と保証を依頼するという基本的なマナーが欠落している。
ここでいう「信頼性の高い第三者」というのは実在する人間や機関のことではない。そうではなくて、「言論の自由」という原理のことである。
言論が自由に行き交う場では、そこに行き交う言論の正否や価値について適正な審判が下され、価値のある情報や知見だけが生き残り、そうでないものは消え去るという「場の審判力に対する信認」のことである。情報を受信する人々の判断力は(個別的にはでこぼこがあるけれど)集合的には叡智的に機能するはずだという期待のことである。
それはさしあたりは、自分が言葉を差し出す「場」に対する敬意として示される。
根拠を示さない断定や、非論理的な推論や、内輪の隠語の濫用や、呪詛や罵倒は、それ自体に問題があるというより(問題はあるが)、それを差し出す「場」に対する敬意の欠如ゆえに退けられねばならない。
それは「言論の自由」になじまない。
なぜなら、「言論の自由」とは制度でもないし、規則でもなく、「言論が行き交う場に敬意を示すことによって、その場の威信を基礎づける」という遂行的な営みそのもののことだからである。「言論の自由」は「そこにある」ものではない。私たちが身銭を切って創り出すものである。
「日本には『言論の自由』なんかない」と言い捨てたある社会学者がいた。私はこの発言は遂行的には「言論の自由」を掘り崩し、汚すものだと思う。
「責任者出てこい。『言論の自由』を整備して、ここに持って来い」という言葉を一億人が唱和しても、それによって「言論の自由」が基礎づけられ、機能するということはない。だって、その言葉には「言論の自由」に対する敬意が少しも含まれていないからである。
「言論の自由」は「場に対する敬意」を滋養にしてしか生きることができない。
だから、挙証の手間を惜しみ、情理を尽くして語ることを怠り、罵倒や呪詛を口にする者は「言論の自由」そのものを痩せ細らせている。彼らが「言論の自由」を権原に自分の行為を正当化することはできないだろうと私は思う。それは泉水に向かってつばを吐きかけ、放尿する者が「泉水から清浄な水を汲み出す権利」を主張しているさまに似ている。彼らに向かって私たちは「権利を言い立てるより前に、まずその行為を止めなさい。君たちの行為そのものが、君たちが求めているものの入手をむずかしくしているからだ」と言うべきだろう。
情理を尽くして語ることを怠る者は、その行為そのものによって、彼らが実は「言論の行き交う場」の審判力を信じていないということをはしなくも告白している。
というのは、彼らは真理についての公共の場における検証に先だって、「自分はすでに真理性を確保している」と思っているからだ。聴き手に向かって「お前たちがオレの言うことに同意しようとしまいと、オレが正しいことに変わりはない」と言い募っている人間は言論の場に集まってきた人たちに向かって、「お前たちが存在してもしなくても、何も変わらない」と告げているのである。
それはある種の「呪い」の言葉である。人間の生きていることの意味の根源を掘り崩す言葉である。私たちは呪いの言葉を浴び続けているうちに、ゆっくり、しかし確実に生命力を失う。それゆえ、「言論の自由」には「言論の自由の場の尊厳を踏みにじる自由」「呪詛する自由」は含まれないと私は思うのである。
http://blog.tatsuru.com/2018/09/25_1820.html
ある編集者への手紙 - 内田樹の研究室 2018-09-26
http://blog.tatsuru.com/2018/09/26_1733.html
新潮社の友人たちからいろいろと内情は伺っております。
「新潮45」にも三重さんが編集長をしているころは何度か寄稿させて頂きましたので、愛着のある雑誌です。休刊ということになったのは僕も残念です。
このような事態に立ち至った責任はもちろん編集者にあります。
このような局面で、ほんらいならば公的なかたちで、その執筆意図について説明責任を果たし、批判に対して反論するなり、あるいは事実誤認について謝罪するなりして、「新潮45」とともに批判の前面に立つべきときにそれを怠って雲隠れするような人物に寄稿を依頼し、あまつさえ擁護の論陣を張ったという編集者の判断の致命的なミスの「つけ」を新潮社が払ったということだと思います。
出版の社会的使命は何か、それぞれの媒体はどのようなメッセージを、どのような文体において発信すべきか、その企図をどのような人物に託すべきかといったことの決定は編集者の権限に属することであり、それについては責任を負わなければなりません。
それがどれくらいのリスクと覚悟を伴う仕事であるかについて自覚が今回の当事者たちにはあまりにも不足していたように僕には思えました。
とりわけ、僕が気になるのは「新潮45」に掲載された文章の多くに「読者に対する敬意」が欠落していたことです。
「言論の自由について」という文章に書いた通り、出版物のクオリティを最終的に担保するのは、何よりも編集者と書き手が読者にメッセージを差し出すときの「敬意」だと僕は思っています。
できるだけ論理的に書く、ただしいデータに基づく、引用出典を明らかにする、カラフルな比喩をつかう、わかりやすい事例を引く、情理を尽くして説く、どれも「読者に対する敬意」の表現だと僕は思っています。
でも、現在の出版状況を見ると「読者に敬意を示さない」ことでビジネスが成立している場面が少なくありません。ことは出版だけに限りません。僕はテレビというものを観なくなって久しいのですが、それは「視聴者に対する敬意」というものをもうほとんど感じることができないからです。
「敬意」というのは僕の理解では「適切な距離感」のことです。
「鬼神は敬して遠ざく」というときの「敬」です。
白川静先生によると「敬」の原義は「羊頭の人の前に祝禱の器をおくかたち」だそうです。『字通』には「敬はもと神事祝禱に関する字である。それで神に仕える時の心意を敬という」とあります。
それは「親しみ」とか「なじみ」というものと隔たること遠い心意だと思います。
いまのメディアに感じる「敬意の欠如」とは、言い換えると、不適切なまでの親しみ、気持ちの悪いほどの共感(「わかるわかる。そうそうそうそうだよ。そういうことってあるよね、あるあるある」という感じ)を過剰に追及していることだと思います。
「新潮45」の末期のきわだった特徴は「読者との過剰なまでの共感と結託感」を前提に書かれていた文章が多かったことです。
僕はそれを「気持ちが悪い」と感じたのです。そして、それを「気持ちが悪い」と感じない編集者たちの感性につよい違和感を覚えたのです。
LGBTの問題では「自分とは性的指向が違う、自分とは性的アイデンティティーが違う他者」に対して、どれくらい「敬意=適切な距離感」をもつことができるかということが試されたのだと思います。
よくわからないことについては語らないというのも一つの敬意の表現だと僕は思っています。
「わからない」「よく知らないこと」について平然と断定的に語る人たちは、自分が言うことにつねに同意してくれる「自分と同じような読者」を前提にして語っているのだと思います。
「身内の語法」で語ること、それを「敬意の欠如」というふうに僕はとらえるのです。
僕はそういう人たちを表現者として評価することができません。
自分の書いたものがそこで論じられている当の人たちに読まれる可能性について想像もしていないということが「敬意を欠いた」文章の特徴です。
ネトウヨメディアの寄稿者たちの特徴は、自分の書いたものが韓国語や中国語に翻訳されて読まれる可能性についてゼロ査定している点です。
外国の読者に届くようには書かれていない。
ほんとうに彼らが真実を語っていると信じているなら、それは「身内以外」の読者たちが読んでも(韓国や中国の読者が読んでも)十分にリーダブルなものであるはずですし、せっかく書く以上、身内以外の読者が読んでも十分にリーダブルであるように書くべきだと僕は思います。
そのような配慮を僕はほとんどこれらの書き手から感じることができません。
それを僕は「敬意の欠如」と呼んでいるのです。
今のメディアが陥っているピットフォールは「読者の共感を得ること」を目的としていることだと思います。
「わかるわかる」を共有できる読者や視聴者だけに向けている、でも、そうやって「親しみ」や「なじみ」に依拠してコミュニケーションを構築しようとする限り、そのような表現を受け容れるマーケットはひたすら狭隘なものになるしかありません。
コミュニケーションを基礎づけ、それを広げてゆくのは「敬意」です。「身内の親しみ」ではありません。
そのことをこれから編集のお仕事をされる上でときどき考えてみてください。
http://blog.tatsuru.com/2018/09/26_1733.html
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