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篠原常一郎 ノモンハンの『真実』
http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/724.html
投稿者 中川隆 日時 2019 年 11 月 21 日 14:20:58: 3bF/xW6Ehzs4I koaQ7Jey
 

篠原常一郎 ノモンハンの『真実』



 

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コメント
1. 中川隆[-14795] koaQ7Jey 2019年11月21日 14:23:49 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[-1879] 報告

ノモンハン事件の激戦地跡を上空から撮影 旧ソ連軍の巨大基地 フイ高地





2018/08/15 に公開

国境線をめぐって日ソ両軍が衝突した1939年のノモンハン事件の激戦地跡を上空から撮影した。

モンゴル東部、中国との国境近くを流れるハルハ河沿いの草原で、76年を経た遺構の様子が明らかになった。

「フイ高地」と呼ばれる陣地跡。ノモンハンの戦闘区域で最北端に位置する。
2. 中川隆[-14794] koaQ7Jey 2019年11月21日 14:29:52 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[-1878] 報告

【ノモンハン戦役】










3. 中川隆[-14793] koaQ7Jey 2019年11月21日 14:33:43 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[-1877] 報告

【ノモンハン戦役】










4. 中川隆[-14792] koaQ7Jey 2019年11月21日 14:37:18 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[-1876] 報告

【ノモンハン戦役】







5. 中川隆[-14802] koaQ7Jey 2019年11月21日 17:17:59 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[-1885] 報告

戦争と人間










戦争と人間

第一部 運命の序曲
第二部 愛と悲しみの山河
第三部 完結篇


監督 山本薩夫

脚本
山田信夫(第一部)
山田信夫、武田敦(第二・三部)

原作 五味川純平
音楽 佐藤勝
製作会社 日活

公開
日本の旗 1970年8月14日(第一部)
日本の旗 1971年6月12日(第二部)
日本の旗 1973年8月11日(第三部)

上映時間
197分(第一部)
179分(第二部)
187分(第三部)
6. 中川隆[-15290] koaQ7Jey 2019年11月22日 21:41:47 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[-2373] 報告
宮脇淳子










7. 中川隆[-15289] koaQ7Jey 2019年11月23日 07:53:58 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[-2372] 報告

ノモンハン80年『真実』を考える学習会 前編




ノモンハン80年『真実』を考える学習会 後編 質疑応答コーナー

8. 中川隆[-15261] koaQ7Jey 2019年11月26日 22:18:36 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[-2340] 報告
人間の條件












原作 五味川純平
監督 小林正樹
脚本 松山善三 小林正樹 稲垣公一
音楽 木下忠司
撮影 宮島義勇
配給 松竹

公開
1959年1月15日(1/2部)
1959年11月20日(3/4部)
1961年1月28日(5/6部)


9. 中川隆[-15254] koaQ7Jey 2019年11月29日 13:14:14 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[-2332] 報告
日本人を捨てて逃げた皇軍

満州からの帰国者は被害者なのに加害者扱いされた


引用:http://userdisk.webry.biglobe.ne.jp/007/257/52/N000/000/011/135139922049213111794_IMG_0002_NEW_20121028134020.jpg

日本人を捨てて逃げた皇軍

最近第二次大戦終了後の満州などで行われた「接待」が問題視されています。

この問題が特異なのは事件が1945年8月15日つまり終戦後に発生し、被害者の日本人は「加害者」に仕立て上げられた点です。

順に説明すると1945年8月、敗戦を確信した関東軍(日本陸軍の満州駐留軍)は大本営の指示を受け密かに全軍を南朝鮮に移動させた。


8月9日にソ連軍は満州に侵攻したが、本格戦闘には至らず「日本軍が下がった分だけソ連軍が前進」する戦略を取った。

極東のソ連軍は弱く、満州の日本軍が本気を出せばまだまだ強敵なので、日本軍が下がるのを待ったのでした。

8月9日に関東軍は満州脱出を開始したが、「我々はソ連軍と最後の決戦に向かう」と日本人をだまして夜逃げしました。


満州国の首都新京では数十万人の日本人居留民が日の丸の旗を振って送り出したが、実は朝鮮半島まで我先に脱走したのでした。

騙された日本人居留民100万人は押し寄せる中国人やソ連兵におそわれ、30万人から50万人が現地でなくなりました。

この時残された日本人居留民は中国人やソ連兵に命乞いするために、自分の娘を差し出して「接待」をさせました。


ソ連兵に日本人の女を差し出した

ソ連兵の規律は悪く、居留民の全てを奪ったので、カメラを没収され終戦後の満州の写真も残されていません。

それでも大勢が集まっていた新京では居留民が協力して大きな被害はなかったが、農村や朝鮮半島北部は深刻でした。

関東軍は黙って逃げ去ったので日本人はどうしたら良いか分からず、38度線まで逃げれば良いのに途中でとどまった人が多かった。


38度線の南側はまだ日本軍が駐留し規律が守られていたが、北側は無政府状態になった。

やはりソ連兵に命乞いをするため、避難民の中の年頃の娘を差し出しました。

また朝鮮人もソ連兵の気に入られようと、日本人をおそって金品を奪って差し出したり、娘をさらってソ連兵に差し出したりした。


そうしてソ連のお気に入りになった人間が後に北朝鮮で要職を占めることになった。

命からがら日本まで逃げ帰った人々は、戦後GHQの方針で「侵略者」と定義され加害者扱いされることになった。


このように接待をやらされた人や日本人居留民たちは、被害者であるにもかかわらず加害者のレッテルを貼られることになった
http://www.thutmosev.com/archives/78224941.html

10. 中川隆[-15253] koaQ7Jey 2019年11月29日 13:18:49 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[-2331] 報告
日本に見殺しにされた開拓団の悲劇 2017年1月 志村英盛
http://www7b.biglobe.ne.jp/~eigonou/0809KaitakudanNoHigekii.html

2005年8月3日、NHK総合テレビから放送された
『ソ連参戦の衝撃−満州開拓民はなぜ取り残されたか』は、
「当時、中国東北部(満州)に住んでいた満州開拓移民は、
【根こそぎ動員】で夫を日本軍に現地招集され、
多くの家庭が母子老人家庭となっていた。
戦闘最前線に取り残された哀れな日本人母子老人家庭
避難民は、戦闘に巻き込まれて約3万人が死亡した。
その後、病気と飢えで約21万人が死亡した」と放送した。

この番組では放送されなかったが、
合田一道著『検証・満州1945年夏 −満蒙開拓団の終焉』(扶桑社 2000年8月発行)は、
満州各地の開拓団の日本人母子老人家庭避難民が、
ソ連軍と武装した中国人暴徒集団の両者に襲われて、
【殺害】されたり、【集団自殺】に追い込まれた悲惨な状況を詳しく述べている。

財団法人満蒙同胞援護会(会長:平島敏夫 参議院議員・満鉄元副総裁)編
『満蒙終戦史 全928頁』(河出書房新社 昭和37年(1962年)7月発行)の
第812頁〜第813頁は次のように述べている。

受難は終戦時の満州在住の日本人約195万人(関東州内25万人を含む)
すべての運命であった。

もちろん程度の差はある。しかしながら、
ソ連軍の満州進撃の日から、帰国の日まで、
不断の危機と苦難にさらされなかった日本人は、ほとんど皆無であったろう。

なかんずく、開拓農民の受難は数多くのの実例にも見られるように
悲惨深刻を極めた。

この成行きは、しかし、当然ともいうべきであろう。

敗戦とともに、旧満州国の権威は一挙に崩壊した。

ソ連軍の侵入、前満州国軍・蒙古軍の反乱、通信・交通の杜絶、
原住民の蜂起などが相次いで、
いわゆる王道楽土は恐怖と混乱の世界に急転したのであった。

特に、ソ満国境の開拓団のなかには、ラジオさえ持たず、
したがって日ソの開戦も終戦も知らず、
事実を知ったときには、
関東軍と日本人役人がいち早く退避した後で、
ひとり曠野に取り残された形となったものが少なくなかった。

しかも、それまでに、
開拓団の青年・壮年男子はことごとく徴兵され、
開拓団部落の大部分は
無力な老人・婦女子・子供のみであったことが
混乱と悲劇を一層増大したのであった。

ごく少数の男子残留者が開拓団全員を護衛して
集団南下を企図したのであったが、
この退避行の道程こそ、
ほとんどが、見るも無惨な、地獄絵図となったのである。

ソ連軍または中国人暴徒の襲撃に遭って殺害され、自殺して、
全滅した開拓団、及び
1,000名以上の自殺者を出した開拓団は、
100以上を算える。開拓団の死亡者は十数万人!

2016年8月14日午後9時から、NHKスペシャル
『村人はなぜ満州へ送られたか』が放送された。
日本敗戦の翌年に自殺した当時の長野県の或る農村村長の
膨大な日記資料を中心にした事実に基づいた放送内容に
深い感銘を受けた。

@現地・満州の事情、日米戦争での敗北状況を
 まったく無視して、一旦決めたことは変更しないという、
 今も変わらぬ日本政府の高級官僚たちの無知・無能・
 無責任を、改めて、嘆くばかりである。

A当時の関係政府機関の高級官僚たちは、現在の
 日本外務省の高級官僚の北方領土問題についての
 姿勢と同じく、ひたすら国民を騙すことに徹していた。
 それに対して、現在に至るも、なんら反省していない。


参考情報:羽田澄子監督の「嗚呼 満州開拓団」2009年8月

日本の関東軍は、開拓団の老人、婦女子、
小学生、幼乳児を、見棄て、見殺しにした

日本敗戦と同時に、これら【匪賊】(土地を奪われた中国農民)たちは、
日本人への報復のため、一斉に、開拓団の老人、婦女子、小学生、幼乳児を襲撃した。

開拓団の成年男子(18歳〜45歳)は、敗戦直前の7月10日に
日本の関東軍の【根こそぎ動員】で徴兵されていた。
(彼らは、その後、極悪非道なスターリンの極秘指令で、シベリアに拉致移送され、
奴隷として重労働を強制された。)当時、開拓団には成年男子はいなかった。

徒歩と貨車の拉致移送途上でおびただしい数の死亡者が出た。
苛酷な奴隷労働でもおびただしい数の死亡者が出た。

敗戦直前、関東軍は、高級職業軍人の家族だけはいち早く避難させた。

【根こそぎ動員】で、夫や息子を徴兵されて、頼りになる成年男子を失った
開拓団の老人、婦女子、小学生、幼乳児について、関東軍は
何らの保護を行うことなく、見棄て、見殺しにした。

ソ連軍侵攻予告はおろか、戦闘が始まっても
開戦・敗戦の事実すら知らせなかった。

関東軍に見棄てられ、見殺しにされたおびただしい数の開拓団の
老人、婦女子、小学生、幼乳児は、ソ連軍戦車の銃撃と
中国人の、鍬、棍棒などによる襲撃で殺害された。
逃げ場を失った日本人たちは集団自殺した。

日本の関東軍、中国農民の土地を強奪

日本の満州移民政策により、旧大日本帝国陸軍の関東軍は、
中国農民から、200万ヘクタール以上の農地を強奪した。
自作農地を奪われた中国農民は雇用労働者として低賃金で酷使された。

旧大日本帝国陸軍の関東軍が、
開拓用地として強奪した土地は1,000万ヘクタール以上といわれる。

土地を奪われた中国農民が匪賊となって関東軍に執拗に反抗した。

農地を関東軍に強奪され、匪賊化したり、賃金労働者として、鉱山、建設、
農作業等で、日本人企業、日本人の満州開拓団等で、奴隷的な強制労働に
服さざるを得なかった中国人農民たちの、

日本人に対する強い憎しみが、

日本敗戦後、鍬や棍棒により、開拓団の、老人、婦女子、小学生、幼乳児を
ぶっ殺すという、あまりにもの残虐な行動に駆り立てたのである。

旧大日本帝国陸軍に、
騙され、見捨てられて、
虐殺されたり、残酷死した
満蒙開拓団の老人、婦女子、小学生、幼乳児

出典:朝日新聞(朝刊)2015年11月24日12面『戦後70年』

逃避行から生き残って奉天(瀋陽)の窓や床板をはがされた
荒れ果てた学校、寺院、病院等の収容施設にたどりついた者も、

【着の身、着のまま】、中には麻袋だけで身を包み、所持金もなく、
飢え(餓死)、栄養失調(衰弱死)、伝染病(病死)、極寒(凍死)、
絶望(自殺)等でほとんどが残酷死した。

生き残った小学生・乳幼児は遺棄孤児(残留孤児)として
二重三重の苦難の人生に耐えねばならなかった。

この旧大日本帝国陸軍と関東軍の、最高指導者たちと高級参謀たちの
【人道に反する開拓団員見棄て見殺しの罪】を見逃すことはできない。

哀れな開拓団女性たちを保護することなく、ほしいままに
強姦、殺戮、暴行、略奪を行ったソ連軍兵士たちの
【人道の反する罪】を見逃すことはできない。

廣田内閣の満州移民推進政策は
筆舌に尽くせぬ悲惨な結末に終わった。


日本の政治は軍部に乗っ取られていた

満州国建国の前々年、1931年に起きた満州事変は、昭和天皇、日本政府、
陸軍大臣、陸軍参謀総長、さらには、関東軍司令官の事前承認なしに、
関東軍の高級参謀、石原莞爾、及び、板垣征四郎が指揮して行われた
不法な軍事行動であった。

この不法な軍事行動を補完するため満州国が建国された。

国際社会は、国際連盟の場において、こぞって日本の不法な軍事行動と
満州国建国を非難した。

1933年2月24日の国際連盟総会で、リットン報告書に基づいて
日本による満州国建国の是非が討議された。

日本を非とする国42か国に対して、日本支持国はゼロであった。
日本(実質的には旧大日本帝国陸軍)はこれを不服として国際連盟を脱退して、
自ら世界の孤児となる道を選んだ。

不法な軍事行動であった満州事変を指揮した石原莞爾、及び、板垣征四郎は、
陸軍刑法のせんけん(擅権)の罪で、当然、死刑に処せられるべきであった。

しかし、日本政府、陸軍大臣、陸軍参謀総長は、石原莞爾と板垣征四郎を
陸軍刑法違反で軍法会議にかけることすらできなかった。

満州事変以後、日本は、なし崩し的に、【立憲君主制・法治国家】から、
【非法治・軍部専制軍事国家】へ移行した。

明治維新によって築かれた【立憲君主制・法治国家】が崩壊した。

つまり、昭和天皇の統治権・統帥権を含む国家権力が
旧大日本帝国陸軍の高級参謀たちに簒奪された
ということである。

以後、満州事変によって、日本国を乗っ取った旧大日本帝国陸軍は、
戦争への道をためらうことなく突き進み、
筆舌に尽くせぬ惨禍を海外・国内に引き起こして破滅した。

【言論の自由】が無くなり、大手新聞は、連日、
中国侵略戦争における【皇軍の赫々たる戦果(戦禍?)】を
報道する旧大日本帝国陸軍の御用機関に成り果てた。

渡部昇一上智大学名誉教授は、
著書『昭和史 松本清張と私 大正末期〜二・二六事件』(ビジネス社 2005年12月発行)の
第454頁で、
「大正2年(1913年)廃止された軍部大臣現役武官制が
昭和11年(1936年)、廣田内閣によって復活し、
これによって日本の政治は軍部に乗っ取られることになったのです」
と述べている。

渡部名誉教授は第459頁〜第460頁で「廣田内閣が残したものは、
@【軍部大臣現役武官制】の復活(昭和11年=1936年)
A【日独防共協定】調印(昭和11年=1936年)
B軍拡方針を決めた国策の基準設定
いずれも日本の命取りになるようなことばかりでした」「この廣田内閣の
ときに日本の議会制民主主義の可能性はすべてつぶされたのです」

「廣田内閣が日本の立憲政治を葬り、
日本を軍国主義の方向に押しやったという事実は
あまりにも重いといわざるをえません」と述べている。

満州移民推進を決定

1937年、廣田内閣は旧大日本帝国陸軍の高級参謀たちに脅かされて、
7大国策(政策)の一つとして満州移民推進を決定した。

2.26事件で陸軍将校たちのテロで殺害された岡田内閣の
高橋是清蔵相(元首相)は満州移民に反対していた。

しかし、満州事変後、旧大日本帝国陸軍の高級参謀たちは、
満州移民を満州における治安政策の基礎にしようと、
廣田内閣の政策決定を受けて満州移民を強力に推進した。

100万戸、500万人移民計画が策定された。
敗戦時の45年7月には、開拓団の団数は800を超え、
移住した開拓団員の数は約27万人といわれる。

日本軍、中国農民の土地を強奪

日本の満州移民政策により、旧大日本帝国陸軍の関東軍は、
中国農民から、200万ヘクタール以上の農地を強奪した。
自作農地を奪われた中国農民は雇用労働者として低賃金で酷使された。

旧大日本帝国陸軍の関東軍が、
開拓用地として強奪した土地は1,000万ヘクタール以上といわれる。

土地を奪われた中国農民が匪賊となって関東軍に執拗に反抗した。

農地を関東軍に強奪され、匪賊化したり、賃金労働者として、鉱山、建設、
農作業等で、日本人企業、日本人の満州開拓団等で、奴隷的な強制労働に
服さざるを得なかった中国人農民たちの、

日本人に対する強い憎しみが、

日本敗戦後、鍬や棍棒により、開拓団の、老人、婦女子、小学生、幼乳児を
ぶっ殺すという、あまりにもの残虐な行動に駆り立てたのである。


軍部暴走の危険性
現在の日本は、戦争の惨禍体験者が減り
「軍隊からの安全(軍部暴走の怖ろしさ)」を
意識しない国になっている!

公開中の映画「日本のいちばん長い日」は、昭和戦争の最終期、軍部支配下の
日本統治機構の中枢部で繰り広げられた「運命の24時間」を描いた作品だ。

原作者は作家の半藤一利さん(85)。敗戦間近の東京大空襲では、自らも
命を失いかけ、敗戦後に、日本国憲法の産声を聞いた。戦後70年の今、
半藤一利さんの目に映っている「この国の現実の姿」。

問いかけ:
半藤さんのノンフィクション作品「日本のいちばん長い日」は衝撃的でした。
たとえば、連合国に降伏するという政府の方針に反対して徹底抗戦を叫んだ
軍人の存在です。一時は武力で皇居を封鎖していたのですね?

答え:
ええ、あれは、一種のクーデターでした。「ポツダム宣言を受諾して戦争を
終結させる」という、昭和天皇と日本政府の決断は間違っている。だから、
自分たちの、軍人の、思うような政府に変えて、この政策をひっくり返さないと
いけない。」そう考えた一部の軍人たちが、暴力で国家をひっくり返そうとしたの
です。軍隊は武装した組織です。どこの国でもクーデターを起こすのは、
その軍隊を支配している軍人ですよね。いま、安倍自民党は、安全保障を
考えるとき、「軍隊による安全」という視点ばかりが正面に出てきます。
軍隊の存在が抑止力になる、といった議論ですね。でも、本来は「軍隊からの
安全(軍隊暴走の怖ろしさ)」という視点も必要なはずです。日本人が、
憲法第9条を受け入れてきた背景には、もう、戦争という名の殺し合いを
したくないという思いだけではなく、軍隊からの安全(無知・無能・
無策・無責任であった昭和の軍部の危険性の除去)を求める思いも
あったのだと思います。

問いかけ:
13年前にインタビューさせていただいたときには、半藤さんご自身が、
1945年3月に体験された東京大空襲のお話が印象的でしたが?

答え:
15歳のとき、米軍機による、無差別焼夷弾攻撃に遭いました。自宅や
近所の火を消そうとしていたために逃げ遅れ、命を落としかけました。

問いかけ:
しかし、半藤さんは最近、戦争体験を語り継ぐ行為に懸念を感じ始めた、とも
お聞きしますが?

答え:
ええ。私が死にそうだったという話をすれば、「悲惨だったんだな」と
思ってくれる人々がいました。でも最近では、勇気ある少年の「物語」として
受け止められているので、この体験談は、かえって危険を招くんじゃないか
という気もしてきました。

問いかけ:
特攻隊の歴史を題材にした「永遠の0」がヒットしましたね?

答え:
特攻を作戦化し命じた立場にありながら、敗戦後も、のうのうと生きのびた
指揮官たちを、私は実際に知っています。でもそういう本質的な構造の問題より、
若い特攻隊隊員の純真さとか勇気の方に焦点を当てて特攻が語られてしまう。
歴史が物語になっていると感じました。

問いかけ:
そういう傾向は、なぜ表れているのでしょう?

答え:
時間がたち、社会の中で、戦争の悲惨さの体験者が減ったことがあるでしょう。
50年を超えてしまうと、悲惨な戦争も、聞きやすい美談に回収されやすくなる。
昭和が悪い時代のように言われ過ぎてきたので、訂正したいという民族としての
誇りが表れてきた影響もあると思います。

問いかけ:
物語に回収されてしまわないような「戦争の歴史の語り方」はないのでしょうか?

答え:
当時の日本政府が、国民に「焼夷弾はそれほど恐れるものではない」という
メッセージを出していたのはなぜか。米国は、なぜ、非人道的な、無差別
焼夷弾空襲という手段を採ったのか。空襲を指揮した、カーチス・ルメイに、
佐藤栄作内閣の日本政府は、戦後、なぜ、勲一等旭日大綬章叙勲をしたのか。
(注:昭和天皇は、この叙勲に、いたく憤激され、親授を断固、拒否された)
事件や関係した人々について、多角的・総合的に考えることで、
学習していくことはできると思っています。

問いかけ:
戦後70年の今年、岸信介の孫の安倍晋三の政権は新しい安保法制の整備に
踏み出しました。使えないとされてきた集団的自衛権を使えるようにしました。
武力行使の制約が変わりますが?

答え:
今回、安倍晋三内閣が、無理矢理成立させた安保法は、日本を危険な国に
作り替えるものだと思います。ただ、正直に言うと、国民が法案に相当に
反対をしても、安倍晋三首相からは関係ないものとして扱われるだろう、
とも予測していました。2015年4月、安倍晋三政権が、米国政府との
間で約束を交わしてしまった時からです。

問いかけ:
安倍晋三首相が、米国の議会で演説したり、日米の外務と防衛の担当閣僚が
「日米防衛協力のためのガイドライン」を改定したりしたときですね?

答え:
自衛隊は、今後は、集団的自衛権も行使しながら、極東以外の地域でも
米軍に協力します。そう約束する内容でした。憲法が骨抜きにされるだけでなく、
極東を対象にする日米安保条約も骨抜きにされたと感じました。

安保関連法案の審議が国会で始まる前に起きたことですよ。

恐るべきは、こうした日本政府のやり口です。
米国から軍事協力を求められたときに、日本政府には、断れる主体性があると
到底、思えません。

問いかけ:
日本が、米国の戦争に、どう向き合ってきたかという歴史の問題と、
いま安倍晋三首相が見せている、徹底的に米国に追従という姿勢の間には、
つながりがあると思っていますが? 先ほどの、軍隊からの安全
(軍部暴走の怖ろしさ)という視点からは、どんな問題点が挙げられるでしょうか?

答え:
懸念しているのは、共産党が明るみに出した防衛省の内部資料の問題です。
自衛隊制服組トップの統合幕僚長が、米軍幹部との間で、今後の日米両軍の
共同作戦のあり方を決めたり、統合幕僚監部が、法案成立後の、自衛隊の
運用のあり方を決めたりしていた。文官ではなく、武官が前面に出てきている
傾向が見えます。しかも、国民が知らされないところで
武官が前面に出てきている。外交防衛政策が、武官によって策定されることが
いかに国を危うくするかは、昭和戦争の悲惨さが教えるところです。

問いかけ:
今の日本は、「軍隊からの安全(軍部暴走の怖ろしさ)」に関する意識が薄いと?

答え:
「薄いのではなく、恐怖感意識はまったく無いのだと思います。
敗戦後70年たって、世代がすっかり変わっているから仕方ない面もありますが。

問いかけ:
半藤さんは保守的とされる「文芸春秋」のご出身ですが、憲法第9条については
護憲の立場であり、脱原発に賛同されています。ご自身を保守派とお考えですか?

答え:
「いいえ。私は現実主義者ですね。保守派の中でも、国家主義的な人とか、
革新派の中の党派的な人に対しては、強い違和感があります。

問いかけ:
安保法制への批判も、イデオロギーからではなく、現実主義の視点からと?

答え:
中東へ自衛隊の精鋭部隊を送ったら、日本列島の守りは薄くなります。
それをガバーするための軍事費の膨張は、経済や財政の現状に照らして
可能なのか。そういう議論をすべきだと思います。

問いかけ:
2011年に起きた「3・11東日本大震災」のあと、原発に批判的な
発言をされています。いつから、原発に対して懐疑的になったのですか?

答え:
原発が建設された当初から反対しています。1950年代に、
核の「平和利用」が言われ始めた時期から、原子力という技術は、
人間の理性で制御できるものではないと思っていました。

問いかけ:
海岸線に40基以上も原発がある。それを攻撃されたらお手上げですが?

答え:
地政学的に見ると、海岸線が長い日本は、もともと敵からの攻撃を
防ぎにくいという根本的な弱点があります。だから、近代に入って、
日本は国土の「外」で国を守る戦略を採り、朝鮮半島や中国大陸に
軍隊を送ったけれども、結果は悲惨な敗戦でした。原発が多数存在する
現在は、もっと守りにくい状況です。武力だけで守ろうとしても、
守りきれない。貿易と外交力を軸にしたほうがいい。理想主義だと
批判されますが、貿易と外交力を軸にした日本防衛策のほうが、
現実的です。貿易と外交力を軸にした日本防衛策を本気で検討すべきだ
と思います。

問いかけ:
中国が台頭してきたことで、「日本はアジアで一番の国」という近代日本の
自己イメージは揺らいでいるように見えますが? 戦時中、半藤さんも
「日本はアジアで一番の国」というイメージがありましたか?

答え:
ありましたね。近所には、台湾や朝鮮半島出身の子供がいました。
彼らを、「日本民族の方が上だ」と見下していました。戦争自体も、
「アジアのための戦争だ」と思っていました。

問いかけ:
この先、日本は、どんな「アジア一番」を目指すべきでしょうか?

答え:
「アジア一番」を目指せることは何もありません。単純に
これは、不可能でしょう。ほとんどすべての分野で、自給自足が
できない国、借金が1千兆円もある国が、「大国」になれるわけがない。
それが日本の現実です。

問いかけ:
憲法第9条を守ろう運動に取り組まれていますね?

答え:
はい。ノンフィクション作家の保阪正康君と二人で、憲法を100年
守ろうと言い合っています。100年もてば、それが、国の意思になるし、
海外の人々の戦争観にも影響を与える。今まで70年ですから、
あと30年、頑張ればいい。

問いかけ:
いつから、憲法第9条を支持するようになったのですか?

答え:
新憲法が誕生したときからですよ。こんなに良いものができたのかと、
非常に喜びました。そしたら、おやじからは「お前はバカじゃないか」と
批判されました。おやじは、「人類が始まって以来、戦争がなかった
ためしがあるか。日本も、日清戦争とか、日露戦争とか、頻繁に戦争を
やってきたじゃないか」と。おやじは、1950年に亡くなっています。
もし、会えるのなら、「あのときおやじが言ったこと、間違ってたじゃないか」
と言ってやりたいですね。

資料出所:朝日新聞(朝刊)2015年9月19日17面


  ソ連軍占領時の大連の日本人の
 悲惨な状態に大きなショック

2015年8月22日の読売新聞(朝刊)で、大きく報道された、
大連における、ソ連軍占領時の日本人の悲惨な状態に大きなショックを受けた。

筆者、満州と朝鮮の国境の町・丹東市(旧称・安東市)生まれで、敗戦の翌年の
1946年10月まで、同地で生活していた。

安東市の日本人たちは、ほとんど皆、敗戦後の悲惨な混乱期、極悪非道なソ連軍と、
規律厳正な中国共産党の八路軍(パーロー)の軍政下におかれた安東市と、
明治時代から日本人が居住してた大連市の2都市だけが、満州諸都市のなかで、
比較的、安泰であったと思っていた。

特に安東市は、ソ連軍が早々と撤退して、早い時期から、中国共産党の八路軍の
軍政下におかれた。中国共産党の八路軍は、日本軍憲兵隊の憲兵と、満州国警察の
日本人警察官と、満州国政府の日本人役人と、日本軍(関東軍)に関係する企業の
役員・幹部は、それこそ、容赦なく探しだして、容赦なくぶっ殺した。人民裁判と称する、
引き回し人殺しショ−のあと、容赦なく、すぐ、ぶっ殺して、穴のなかに抛り込んだ。

しかしながら、規律厳正な中国共産党の八路軍(パーロー)は、
極悪非道なソ連軍とは大きく異なって、
一般の日本人民間人には、一切、危害を加えなかった。

1945年8月22日、ソ連軍が大連を占領した。
日本人を恐怖に陥れたのは、見境のない、凶悪・獰猛なソ連軍兵士たちの、
強姦、略奪、暴行だった。

西岡さんの家にも、凶悪・獰猛なソ連軍兵士がやって来た。
「何かないか」と金目の品を要求された。
父親が、片言のロシア語で、腕時計や指輪などを差し出した。

西岡さんは、母親と、蚊帳の中で息を潜めていた。
「あれは誰だ」と、凶悪・獰猛なソ連軍兵士に問われ、
父親は、脅えながら、「マリチキ(幼い男の子)だ」と言った。

凶悪・獰猛なソ連軍兵士たちの略奪は、その後も、毎日続いた。
安全な場所へ引っ越すため車に詰め込んだ荷物を、車ごと、
凶悪・獰猛なソ連軍兵士たちに奪われた日本人もいた。

西岡さんは、「男装にしなさい」と父親から言われ、泣く泣く、丸坊主になった。
今回、見つかった写真の西岡さんは、頭をスカーフで巻いていた。

「でも、大連にいた私たちより、満州から避難してきた人たちの方が大変でした」と
西岡さんは語る。

家も食べ物もなく、伝染病で亡くなる人が相次いだ。
西岡さんたちの仕事は、日本人避難民の救済だった。
日本人の資産家に資金の拠出を依頼。食糧を配ったという。

日本人の悲劇には、軍人や民間人の区別はなかった。
「大連・空白の六百日」(新評論)の著者・富永孝子さん(83)は、
大連の送還収容所や引揚船の船上で多くの死にふれた。

「誰も例外なく、栄養失調や伝染病にかかっていた。
幼い子どもの遺体が、船から水葬されていた」という。

「ある日突然、父がソ連軍に連行され、そのまま戻らなかった。」
「幼い弟は小枝のように、やせ衰えて衰弱死した。火葬しようにも
燃やす物がなかった。」

公開された写真をきっかけに、初めて口を開いた大連からの
抑留被害者からも、シベリア同様の悲惨な体験が明らかになっている。

写真公表の意義

読売新聞が、2015年4月、北朝鮮や、南樺太や、大連で死亡した
ソ連軍に抑留された日本人の名簿の存在を明らかにすると、
日本政府は、調査方針を転換し、シベリア以外の死亡者名簿の公表に
踏み切った。しかし、永年にわたる日本政府の、事実の徹底隠蔽によって、
実態解明の手がかりは極めて少ない。

今回の写真公表の意義は大きい。抑留や引き揚げに関する資料を
調査・研究しているある専門家は、「今回公表された大連関係の写真は、
抑留・引き揚げの流れが体系的に分かる写真だ。専門家が多角的に
分析すれば、極悪非道なソ連軍の、満州各地と北朝鮮における、
残虐行為の一端を解明できる」と語っている。

4人家族の西岡さん一家で日本への引き揚げが認められたのは、
西岡さんと、母親と、妹の3人だけだった。ソ連軍が、満鉄工場の設備を、
「戦利品」としてソ連本国に送るため、満鉄関連会社の技術者だった父親は、
ソ連軍から、機械類の取り外しなどを命ぜられ、引き揚げが認められず、
大連に残された。

引き揚げてきた広島にある、両親の実家は、原爆投下で家が焼失していた。
父親が日本に帰還できたのは2年後だった。

お上に盲従 最大の後悔
出典:読売新聞(朝刊)2015年8月1日13面

戦前も戦争も、1日にして成らず、それが昭和ヒトケタ派の実感です。

いつの時代も情報は隠されるものです。
だからこそ、自分たちで、隠されたものを
探り当てる執念がないと、生きていけない。
戦争の教訓はそれにつきます。


出典:読売新聞(朝刊)2015年8月1日1面


戦争体験の継承というけれど、本当に痛みを体験した人は
「放っておいてくれ」と思うものです。

僕自身、8月下旬だったか、ソ連兵が家に来て、銃を突きつけ、
家財を略奪していった日のことはほとんど書いていないんですよ。

エッセーでちょっとふれたぐらいで。

翌日には、家を接収され(追い出され)、
ひと月ほど前から体調を崩して寝ていた母親をリヤカーに乗せ、
幼い妹を背負い、弟の手を引いて、雨露しのげるところを探しました。

母親は混乱の中、9月に亡くなりました。

皇道哲学者でもあった父は、愛妻を亡くし、精神的拠り所も、
教育界での立身出世の道も全部失い、 茫然自失の状態でした。

長男だった僕は、ソ連軍の宿舎に行き、片言のロシア語で、
「ラボタ。ダヴァイ(仕事ください)」と叫んだ。

まき割りや靴磨きなど雑用をこなし、パンや肉のかけらなどを
もらって生き延びました。

シラミが媒介する、発疹チフスがはやり、バタバタ人が死んでいった。
冬は零下何十度の極寒。

子供だけでも助けたいと、現地の朝鮮人に、子供を預け、
あるいは、子供を売り渡す人もいました。

日本人収容施設に、ソ連兵が来て、
「女を出せ」ということも多く、
結局、水商売風の人が押し出されるようにして連れていかれました。

一番こたえたのは、女性がポロ雑巾のようになって帰って来た時、
近くにいたある母親が、子供に、「あの人には近づくんじゃないよ。
病気を持っているかもしれない」と叱っていたのを目にしたことです。

本来ならば、土下座して感謝すべきなのでしょうが、
あの時は非常事態でしたから、みんな何を見ても無感動で、
おかしくなっていたんです。

極限状況でも人間性を失わずにいた人の手記を読むと感動するけれど、
そうではない現実もあった。

敗戦後2回目の冬は越せないと覚悟を決め、終戦翌年の秋頃だったか、
平壌を脱出し、川を渡り、38度線を越え、米軍の難民収容キャンプに
たどり着きました。

「お先にどうぞ」と言っている人は帰ってこられなかった。
トラックに最初に乗り込んだ人たちが、後から乗ろうとする人を蹴落とす
ような日常でした。

「飢えた子どもの顔は見たくない」と言いますが、
日本人難民収容所で、ジャガイモをもらい、妹と分けようと思ったら、
大人に横取りされたこともあった。「飢えた大人の顔は見たくない」。
つくづく思いましたね。

「善き者は逝く」。
だから、僕は、帰って来た自分を「悪人」だと思っている。

戦後、「さらばモスクワ愚連隊」をはじめ、エンターテインメント小説を
書くようになったのも、当時の体験が影響しているのでしょう。

自分はまともな人間ではない。

だから、古賀政男の「影を慕いて」の歌詞じゃないけれど、
せめて傷心のなぐさめに徹して、娯楽を大切に、なぐさめを大事に
してきました。

戦後70年の今、一番の反省点は、ラジオや新聞の情報、噂話を
漠然と聞きながら、上からの指示を待っていた自分の怠惰さです。

かつては、真実を知らされなかったことにムッとし、
自分たちは国に棄てられた、
という意識で、「冗談じゃない」と恨んだこともあります。

しかし、今は、真剣に、事実、真実を知ろうとする執念に
欠けていたことを反省しています。

父親は師範学校に勤めていて、官舎は空港のすぐ横にありましたから、
終戦詔書の前に、飛行場を観察すれば、高級将校らの引き揚げの動きを
察知できたはず。

当時はまだ列車が動いていましたから、体一つで脱出すれば、
あんな目に遭うこともなかった。

子供の頃から戦意高揚の歌に熱狂し、「神州不滅」を信じていたように、
戦前・戦中の教育(洗脳教育)で、お上(旧大日本帝国軍部)の言い分に
盲従する習慣にどっぷりつかっていた。

それが、「情報難民」を生みました。

終戦の満州 悪夢の始まり
無辜の民をも引きずり込んで一生を狂わせてしまう。
それが戦争なのです。


12歳で満州(現中国東北部)から引き揚げるまで、日本の地を
踏んだことがありませんでした。父は、朝鮮総督府の海軍武官
だった祖父の勧めで、鉄道技師として朝鮮総督府鉄道に入り、
私も朝鮮で生まれました。

2歳の時、父が南満州鉄道勤務になり、満州に移りました。
小2から終戦まで暮らしたのはハルビンです。軍国少年だった
私は、円谷英二さんの特撮とも知らず、映画「ハワイ・マレー沖
海戦」の飛行機の雄姿、爆発シーンに熱狂、兄2人に続き関東軍に
入って、「日本の北の防塁たらん」との使命感に燃えていたのです。

1945年8月9日夜、轟音で家族全員が跳び起きました。
ソ連の飛行機が旋回し、ハルビン駅近くに火柱が立っていました。
そして、8月15日。昭和天皇の玉音放送で敗戦を知り、五臓六腑が
えぐりとられたように、全身から力が抜けました。

日本の軍隊が武装解除した無政府状態のハルビンの街にソ連軍が
侵攻してきたのです。悪夢の始まりでした。

ソ連兵はやりたい放題でした。略奪、暴行、陵辱の限りを尽くし、
日本人は子ヤギのように脅えてていました。家に押し入られ、
こめかみに冷たい銃口を突きつけられるなんて、想像つきますか?

私は恐怖で、歯ががたがた震え、かみ合わすことができませんでした。

生きるために何でもやりました。靴磨きや、たばこ売り。
ソ連兵から黒パンの切れ端をもらうためです。
そのうち強制使役の命令が下りました。
父と中学生の三兄と私の3人が、毎日交代で、ハルビン駅のそばから
貨物列車まで石炭を運びました。

列車には、関東軍の兵隊さんたちが次々に乗せられ、北へ向かいました。

シベリア抑留のために働いたのかと思うと、辛いです。

出征した兄が乗っているかもしれないと、私はホームを歩き回りました。
その時です。ダダダダッ。見回りのソ連兵に撃たれたのです。

転げるようにして家に戻りました。右腹が熱くて仕方がありません。
血だらけでした。1日我慢したら、はれて悪化するばかり。

元軍医という人に来てもらい「緊急手術」です。
麻酔も手術道具もありません。裁ちばさみの刃を焼いて消毒し、
傷口を切り開きました。「ジョリジョリ、ザクザク」。
人の肉を切るあの音、今も耳から離れません。

出てきたのは、使用が禁止されているはずのダムダム弾。
鉛がつぶれて体内に広がる恐ろしい銃弾でした。
糸も針もないので傷口はそのままでした。

ロシアには優れた芸術家が多い。バレエも映画も音楽も素晴らしい。
でも私は観たくも聴きたくもありません。

ソ連兵が憎い、ロシアという国が憎い。すべてを否定してしまいます。

恐らく死ぬまで変わりません。記憶は焼き付き、心のアルバムに貼られ、
破ることも消すこともできない。

中国などアジアの国々には、日本に対し、私と同じ感情を抱いている人も
いるのではないでしょうか。

1946年11月、日本への引き揚げが決まりました。
最も気がかりだったのは、三兄が強制使役に行ったまま、
半年以上戻って来なかったことです。

やむなく両親と弟と私の4人で出発することになりました。
父の生家がある新潟の住所を紙に書いてホームの鉄骨に貼り、
「必ず来い」と呼びかけ文を付けました。

引き揚げ船が出るのは、南満州のコロ島。
ハルビンから列車に乗り、野を越え山を越えて、
2か月半かかりました。食べ物もなく、赤ん坊を死なせるよりはと、
途中で中国人に託す人もいました。

弟は6歳でしたが、よく頑張って付いてきたと思います。

博多港から列車を乗り継いで、新潟に着いた時はぼろぼろでした。

生活のため、母は魚の行商を始めたのですが、1947年冬のある日の午後、
母の手伝いをしていると、軍隊の外套をまとい、顔に傷のある男の人が通り、
役場の場所を聞かれました。

1時間ほどで戻って来て、何度もこっちを振り返るのです。
それが、ハルビン以来、行方不明だった三兄だっだとわかった時は
もう…抱き合って、涙、涙でした。

兄はソ連軍の兵舎で飯炊きをさせられ、やっと解放されて社宅に戻ったら
誰もいない。一人で南へ南へと歩き、密航船に乗るためお金を稼ぎ、
九州上陸後は日本海沿いに歩いてたどり着いたというのです。
15歳の少年にはあまりに過酷な体験。

自分は家族に見捨てられたという思いが消えず、しばらくして家を出ました。

私が東宝に入って、グラビアに出るようになると、
「よかったな。足しにしろ」と、300円を送ってきました。
本当は心の温かい三兄でした。63歳で亡くなったのが悲し過ぎます。
次兄は復員しましたが、長兄は戦死しました。
出典:読売新聞(朝刊)2015年8月12日

ソ連軍兵士の凄まじい婦女暴行

若槻泰雄著 『戦後引揚げの記録 新版』時事通信社 1995年10月発行

第123頁
満州に侵入したソ連軍は、8月19日には、早くも外部との一切の通信交通を
遮断した。そして世界の目から隔絶された中で、ソ連の軍隊はほとんど例外なく、
被占領国民たる日本人の上に強奪・暴行・婦女暴行をほしいままにしたのである。

程度には若干の差はあったし、侵入直後が最も激しかった地区や、逆に日を追って
悪化したというような都市もあり、数日にして一応平静に帰した所もあれば、
占領の全期間、数ヵ月にわたった例もある。

兵器をもったソ連兵は、群れをなして日本人の各家庭や会社の事務所に押し入った。
そして手当たり次第、金めのもの時計、貴重品、衣類などを強奪する。

そして撫順など極めて少数の例外はあるが、婦人とみれば、老若を問わず
婦女暴行を働いた。

抵抗するもの、あるいは、これを阻止しようとするものは容赦なく射殺する。
窓を閉じ、扉に鍵をしめ、更には入口を釘で打ちつけていても無駄である。
軍隊が本気で民家に侵入しようとするならば、そんな程度のものを
打ちこわすのはいとも簡単であろう。家屋は無残にたたきこわされるだけだ。

しかもこの行動は「夜陰に乗じて」というわけではない。ソ連兵の強奪は
「盗む」とか、「奪う」というような段階ではなく、トラックを横付けにし、
「それはまるで運送屋のように、だれはばかることなく、せっせと運んだ」
と表現している体験記や、「何年もたった後でも、夜中エンジンの音を耳に
するとぞっとすることがあったくらいだ」という記述もある。

筆者の意見:
筆者は満鮮国境・鴨緑江河口の安東市(現・丹東市)生まれで、敗戦の翌年、
1946年10月まで同市に住んでいた。安東市は満州の中で最も治安がよかった。
それでも、ソ連軍占領中は、ソ連軍兵士の略奪・暴行が絶えなかった。
若槻教授の上記記述には何らの誇張、虚偽はない。事実を正確に述べている。

日ソ戦争(ソ連の対日参戦)敗戦後65年、平和な時代の日本国民が、知りたくない、
思い出したくない、正視できないのが、1945年、満州と北朝鮮で現実に起きて
多数の日本人女性が蒙った、良心を完全に失っていた鬼畜・ソ連軍兵士たちによる
強姦(性的暴行)事件である。犠牲となった日本人女性は、無能・無策・無責任な
旧日本帝国陸軍の最高指導者たちと高級参謀たちが引き起こした満州事変と、
それに続く満蒙開拓団送り込み政策の犠牲者でもある。戦争の惨禍を引き起こさない
ために、忘れることは許されないと思う歴史事実である。

北朝鮮におけるソ連兵と北朝鮮兵の
強姦、暴行、殺戮、強奪

編集委員:細川護貞・大井篤・豊田隈雄・阿川弘之・千早正隆・鳥巣建之助 
『高松宮日記 第八巻』中央公論社1997年12月発行 第175頁〜第176頁

「北朝鮮に侵入せるソ連兵は、白昼、街道にて、通行中の婦女を犯す。
汽車の通らぬため歩いてくる途中、1日数度強姦せらる。

2人の娘を伴う老婦人は、かくして、上の娘は妊娠、下の娘は性病に罹る。

元山か清津にては(ソ連軍に)慰安婦の提供を強いられ、(引き受け者の)
人数不足せるを(補うものを)くじ引きにて決めたり、日本婦人の全部は強姦せらる。

(慰安婦を)強要せられ自殺せるものも少なからず。

奉天(現在の瀋陽)における開拓団・婦女子の悲惨な状況

米国の戦史研究家、ウィリアム・ニンモ氏は著書『検証・シベリア抑留』
(加藤隆訳 時事通信社 91年3月発行)の第46頁で次のように述べている。

「1945年8月以降、満州の日本人たちは大多数が苛酷な状況下にあった。
まず厳しい寒さ、それにインフレ、交通の悪さ、病気などで生き残ることを
困難にし、1945年〜46年冬の死亡率を高めた。

日本政府は、その冬だけで11万人の日本人が死亡したと推定していた。
翌年の冬はもっと増えるだろうと予想していた。

元満州の住民はこう語った。
「それは想像を絶するほどのひどさだった。最悪なのは、たくさんの人が
飢えと酷寒のため死んだことだ。おびただしい数の避難民がソ連との国境に
近い満州北部から流れ込んできて、奉天(=瀋陽)の学校や他の施設に
収容された。

冬の間中、毎日大勢の人が死んでいくのを見た。市内にはそれを埋める
場所もなかった。近くの、人が住んでいないあたりに、縦横6メートル、
深さ4メートルの大きな穴が掘られた。死体は低温のためすでに硬く凍って
いた。それを穴の中に投げ入れ、上から薄く土をかぶせた。」」

日本経済新聞(朝刊)2006年11月27日第39面は、旧満鉄職員の話として「終戦時、
情勢が安定していた撫順に、満州全土から数万の避難民が貨物列車でたどり着いた。

服をはぎ取られた女性は米などをいれる麻袋をまとい、幼児は餓死寸前。
感染症が流行し、一日に数十人単位で亡くなった。

学校の校庭に穴を掘って入れた。寒いうちは凍っているが、夏になると
解けるから廃油で焼く」との悲惨な話を報じている。

藤原てい著 『流れる星は生きている』
中央公論社 1984年8月発行(第210頁〜第231頁より抜粋引用)
第210頁〜第231頁より抜粋引用

苦しみ連続の逃避行

大きな山を遠く迂回している山道には大きな石が多かった。
私の裸足の足は昨日から腫れ上っている。
足の裏が破れて血が出ていることは知っていたが、
ずきんずきんする痛みをこらえて一晩寝て起きると、
今日は化膿したのかもしれない、
奥の方がうずくように痛むのだった。

石ころ道をあえぎあえぎ登りつめた峠から見下ろす眼下には、
幾条かの銀色に輝く川の流れが進路を直角にさえぎっていた。
一家四人の前には広い川が行手をさえぎっていた。

先に行く人の渡るのをじっと見ていると、一番深い処が
私の胸ぐらいであった。中心近くは水の流れが激しくて、
渡ってゆく人の姿勢が高くなり急に低くなったりする。

3人の子供を1人も失うことなく、
私はついに河を乗りきった。
途中で飲んだ水が妙に渋くて胃の中にいつまでも溜まっていた。

川で濡れても陽で乾くのは早い。
乾いた頃にはまた次の川が前に横たわっていた。
幾つ川を越えたか覚えていない。
大きい河、小さい川、深い川、浅い川。

初めは人の跡を見て渡ったが、みんなから遅れると、
渡る前にまず流れの早さと深さを測らねばならなかった。
やっとしっかりした棒を探し出すと、これだけが命と頼んで川に挑戦した。

日が西に傾くと、水面からの反射のために、川の真ん中で、
くらくらっとして安定を失いかけたことが何度もあった。

最後の川にはずっと下流に橋がかかっていた。
私はこの水勢では流されると思ったから、
随分下流まで河岸を歩いて行った。
半分腐りかけた橋であった。

いっそのこと、橋が落ちて四人が一緒に死ねるなら
その方が私たちにとって幸福かもしれない。

ぐらぐら揺れる橋を渡ると、荒れはてた畑が野原のように淋しく、
人家らしいものは全然なかった。
ただ橋の付近にむかし人家のあったしるしのいしずえだけがころていた。

日本人の群に合流すると、私は土手の上につんのめってしまった。
呼吸をするのさえ困難である。頭がしびれるように痛くて、
意識がぽうっとした。私が貧血を起して倒れていても、
誰も言葉をかけてくれるものはなかった。

胸が針に刺されたように痛いので、眼を開けると、
私の破れはてたうす緑のブラウスを通して野薔薇が乳の下を傷つけていた。

手術の苦しみ

眼を覚ました。テントからは朝日が洩れていた。
人間らしい姿になろうとして立ち上ると、
釘を踏んだように足の裏が痛かった。

D・D・Tの消毒、予防注射、
これらに立ち会うため歩く痛さは針の上を歩くようであった。

このテント村にはすばらしく完備した医療施設があった。

医療施設で、医師は私の足の裏を見て、「ううん」とうなった。
「これはひどい、よく歩いたものですね」

医師は私を手術台に寝かせて、ピンセットでまず肉の中に入っている
石の摘出を始めた。小石をピンセットにはさんでは、
金属の容器に捨てるごとにカチンカチンと音がした。

だんだん奥の方にピンセットが入っていくとね
焼火箸で刺されるように痛かった。
ベッドにしがみついて我慢していたが、
ついに痛さのために脳貧血を起こしてしまった。

私の足の裏は完全に掘り返され、
血液にどす黒く光っている発掘物が、金属容器の底にかたまっていた。

両方の足首を包帯してから
「ひどい足でしたね」と医師は汗をふいていた。
「当分歩いちゃいけませんよ」

診療所と私のテントとは100メートルも離れていた。
この道を這って毎日通うのであった。

そのみじめな自分の姿を人に見せるのが恥ずかしかった。
診療所ばかりではない。便所にも、水貰いにも、おむつの洗濯にも
這って行かねばならなかった。


隠蔽を謝罪  ウソー!

拉致移送途中においても、環境変化、精神的ショック、疲労、発病で死亡したものが
少なくなかった。
徒歩による拉致移送途中、逃亡しようとしたもの、疲労と発病のため隊列から
落伍した者は「連れて行くのが面倒だ」とする残忍なソ連兵に容赦なく射殺された。

ウラジミール・ポ・ガリツキー氏(ロシア軍事アカデミー・メンバー、法学博士、教授、
海軍大佐)は、毎日新聞社が1999年2月に発行した『毎日ムック シリーズ 
20世紀の記憶 1945年 日独全体主義の崩壊 日本の空が一番青かった頃』の
第129頁で
「日本人捕虜の大多数は満州からソ連領土までを徒歩で移動した。
ソ連国内の指定地点への移動は鉄道の貨車で行われた。
その移動の途中で、32,722人が死亡した」と述べている。

筆者は、拉致移動途中に死亡した日本人捕虜は4万人以上であったと推定している。
しかしながら拉致移動途中の死亡者数については何らの資料も残されていない。

行方不明者数にふれない日本政府のシベリア虐待抑留に関する
現在の発表数字では、シベリア虐待抑留の実態は認識・理解できない。

Re:
シベリア虐待抑留 行方不明者の記録抹殺
-拉致途上、多数の落後者、殺害され
行方不明に!
哀れな日本人捕虜行方不明者数にふれた
マスメディアはまったくない

  帰還者数  + 死亡確認数 +  逆送者数 = 抑留者総数
473,000+55,000+47,000=575,000

この数字では、日本政府は、シベリアへ拉致移送された日本人捕虜の中、
ソ連領内で行方不明になった者は1人もいないと日本国民に発表していることになる。

1981年以降、日本のマスメディアも、このデタラメ極まる日本政府の発表数字を、
シベリア虐待抑留に関する報道において、何の注釈も付けずに、そのまま引用している。
行方不明者数にふれたマスメディアはまったくない。


Re:
日本人捕虜のシベリア奴隷労働被害


Re:固く閉ざされたパンドラの箱
−シベリア虐待抑留の事実隠蔽(いんぺい)2012年3月

Re:
聞いて呆れるを通り越して
−シベリア抑留犠牲者非国民視で北方領土の軍事基地化進む

Re:日本人捕虜のシベリア奴隷労働被害


http://www7b.biglobe.ne.jp/~eigonou/0809KaitakudanNoHigekii.html

11. 中川隆[-15239] koaQ7Jey 2019年12月01日 19:45:16 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[-2310] 報告

大映 兵隊やくざ 大脱走




1966年(S41)/大映京都

監督:田中徳三
原作:有馬頼義
脚本:舟橋和郎
撮影:武田千吉郎
美術:内藤昭
音楽:鏑木創


■出演:勝新太郎、田村高廣、安田道代、成田三樹夫、南都雄二、芦屋雁之助、芦屋小雁、五味龍太郎、北城寿太郎、内田朝雄


終戦間近。ソ連軍の南下を迎えて玉砕覚悟の空気が漂うなか、おなじみの凸凹コンビがまたしても型破りな活躍を披露! 夜伽を強要される慰問団の少女の危機を救う一方、二人は将校に化けて敗走部隊にもぐりこみ、そこで意外な旧敵と再会する──。共演は安田道代、成田三樹夫ら。
12. 中川隆[-15241] koaQ7Jey 2019年12月02日 13:32:40 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[-2312] 報告
兵隊やくざ 強奪
1968年(S43)/大映京都






監督:田中徳三
原作:有馬頼義
脚本:舟橋和郎、吉田哲郎
撮影:森田富士郎
美術:内藤昭
音楽:鏑木創

出演:勝新太郎、田村高廣、佐藤友美、夏八木勲、江守徹、千波丈太郎、須賀不二男、金内吉男、伊達三郎、毛利郁子

終戦直後の混乱渦まく満州。大宮・有田の凸凹コンビはひょんなことから捨て子を拾い面倒をみるハメに。赤ん坊を背負い三人旅を続ける一行は、十万ドルの金貨をめぐって繰り広げられる大争奪戦に巻きこまれる──。「兵隊やくざ」シリーズの第八作で、大映製作としてはこれが最終作に。
13. 中川隆[-15212] koaQ7Jey 2019年12月06日 11:48:43 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[-2277] 報告
2019.12.06
日本軍の真珠湾攻撃から78年


 中国での戦争が泥沼化していた日本軍は1941年12月7日(ハワイ時間)、守りが堅いと言われていたハワイの真珠湾を奇襲攻撃した。

 その直前、アメリカ政府は日本に対する石油の輸出を禁止していたと言われているが、フランクリン・ルーズベルト大統領はその当時、日本に対する石油の禁輸は「日本をインドシナへ駆り立てる」として消極的で、1937年より前の日本に対する石油輸出量は維持するとしていた。それに対して財務省は石油代金の支払い方法で日本に圧力を加えていたという。(岩間敏「戦争と石油(1)」石油・天然ガスレビュー、2006年1月)

 そうした中、日本軍はアメリカと戦争を始めたわけだが、その直前に行われた日本側の試算によると、アメリカと戦争を始めてから3年目には石油が不足すると見通されていた。ところが、石油がそのように劇的に不足することはなかったようだ。

 その当時、全世界における石油生産量の約半分はアメリカが占めていた。1941年6月にソ連へ向かって進撃を開始したドイツの場合、アメリカのスタンダード石油から石油の供給を受けている。日本とアメリカとの間で戦争が始まったことでドイツへ石油を直接売ることが難しくなったスタンダード石油はベネズエラにあった支社からスイス経由でドイツ占領下のフランスへ売り、そこからドイツへ運んでいたという。

 ドイツの戦争は1938年10月1日にチェコスロバキアのスデーテン地方を占領したときに始まるという見方がある。9月にドイツのミュンヘンでスデーテン地方の帰属を巡る英仏伊独の首脳会談が開かれ、ドイツへの割譲が認められることになったことにともなう動きだ。その時、ポーランド軍がチェシン・シレジアへ、またハンガリー軍がカルパティア・ルテニアへ侵攻してくる。ただ、この見方を採用するとポーランドを犠牲者として描くことが難しくなる。

 それに対し、ドイツを警戒していたソ連はイギリスやフランスに対し、ドイツとの国境線まで軍隊を派遣すると提案したのだが、受け入れられなかった。そうした対応が1939年8月23日の独ソ不可侵条約につながるという考え方もある。

 その年の5月11日にノモンハン付近で満州国警備隊と外モンゴル軍が交戦した。日本側は関東軍が陸軍省と参謀本部の方針を無視して戦闘を継続、外モンゴル軍との相互援助条約に基づいて派兵されたソ連軍と衝突する。8月下旬にはソ連軍の機械化部隊が攻勢、日本軍は大敗した。その頃、ドイツとソ連が不可侵条約を締結する。そして日本軍の目は東南アジアへ向く。

 1941年6月にドイツ軍約300万人は東へ向かって進撃を開始した。西部戦線に残った戦力は約90万人と言われている。西側は手薄になった。この非常識な作戦はアドフル・ヒトラーが主導したものだ。

 ヒトラーは不可解な命令を出すことがある。例えば、1940年5月下旬から6月上旬にかけてイギリス軍とフランス軍34万人がフランスの港町ダンケルクから撤退したが、その時、ドイツ軍に対して追撃を止めている。その命令がなければイギリス軍とフランス軍は壊滅していた可能性が高い。

 1941年12月に入る頃、ルーズベルト政権は日本軍がアメリカの利権にかかわる「どこか」を攻撃すると予想、マレー半島へ日本の艦船が近づいていることに注目している。その周辺を日本軍は狙っていると考えるのが常識的な見方だったが、実際は12月7日に真珠湾を奇襲攻撃したわけである。

 アメリカ軍やイギリス軍は太平洋で日本軍と戦ったが、ソ連へ攻め込んだドイツ軍とは戦っていない。そのドイツ軍は1942年8月にスターリングラード市内へ突入する。

 その段階ではドイツ軍が優勢だったが、11月になって戦況が一変した。ソ連軍が反撃に転じ、ドイツ軍25万人はソ連軍に完全包囲されてしまうのだ。1943年1月に生き残ったドイツの将兵9万1000名は降伏する。それまでアメリカやイギリスはソ連とドイツの戦いを傍観していた。

 スターリングラードでドイツ軍が敗北した後、アメリカとイギリスは慌て、1943年5月にワシントンDCで会談、7月にアメリカ軍とイギリス軍はシチリア島に上陸した。ハスキー計画である。ハリウッド映画で有名になったノルマンディー上陸作戦(オーバーロード作戦)は1944年6月だ。この際、ドイツ軍のアーウィン・ロンメルは有効な対応策を立てたが、ヒトラーに拒否されたという。ヒトラー暗殺が試みられたのはその翌月のことだ。
https://plaza.rakuten.co.jp/condor33/diary/201912060000/

14. 中川隆[-15128] koaQ7Jey 2019年12月16日 20:18:23 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[-2177] 報告
天皇の陰謀 天皇裕仁はかく日本を対西洋戦争に導いた
ディビット・バーガミニ著 松崎元訳
https://retirementaustralia.net/old/rk_tr_emperor_02_contents.htm

天皇の戦争責任を暴いたバーガミニをアメリカが抹殺した理由は?
https://saiba.tistory.com/3133


デビッド・バーガミニ(David Bergamini 1928〜1983)は、アメリカでベストセラーになった1971年の著書『天皇の陰謀』の日本語版序文(ただし1983年発行の新書版のみ)で、「私はこの著作のせいで文筆活動を絶たれることになった」と書いている。この序文は、非常に重要だが、誰も指摘していない。バーガミニを抹殺するために、200〜500万ドルの賄賂・監視料が使われた。日本政府から出た資金ではない。エドウィン・ライシャワー駐日大使(妻は松方正義の孫・松方ハル)を中心とする米国エリート勢力だった。また、アメリカの主だった学者は、揃ってバーガミニをインチキ扱いしている(日本研究の権威だったライシャワーの影響力によるものだろう)。

バーガミニ本人は、昭和天皇・裕仁の戦争責任を暴いたつもりだった。したがって、日本から非難を受けることは想定していたが、祖国アメリカから称賛はされても、まさか攻撃を受けるとは思っていなかった。その結果、バーガミニは、愛国心を喪失したと書いている。

どうして天皇のことを暴くと、アメリカ国内の勢力から攻撃を受けるのか? それは、裕仁がイルミナティの養成したロボットであり、ザビエル以来の日本破壊の計画を完成する重要な役割を担っていたからである。裕仁は「平和を愛したが軍部に押し切られた無力な天皇」でなければならなかった。

二・二六の決起趣意書の真意は理解されているのか?

川島義之(陸軍大将)が裕仁の前で読み上げた二・二六の決起趣意書(北一輝が手を入れたという)をバーガミニは「外政上の紛争から手を引き、内政改革と日本の伝統保持に傾けるよう天皇に求めたもの」と評価している。これは妥当な解釈である。農村は困窮していた。本庄侍従武官長、陸軍中枢部も決起将校たちに同調的だった。日本の書籍やマスコミで一般的に理解されているものとは乖離がある。

今でも、官僚、政治家、企業が悪いと言われているが、基本的にはそれと同じ趣旨で、庶民の観点に立っている。決起将校たちは、天皇が庶民の味方だという根本的な勘違いしていた。庶民の味方であるわけがない裕仁は、徹底鎮圧を指示した。木戸幸一(きど・こういち、1889〜1977年。長州藩の木戸孝允=桂小五郎が大叔父)も徹底鎮圧を勧めた。

396年計画 1549.8.15-1945.8.15

こうして一般民衆を敵視し、権力者に操縦されるだけの天皇ロボットの歴史は、ザビエル来日の昔にまで遡る。ザビエルは、1549年8月15日(カトリックの聖母被昇天の祝日)に、現在の鹿児島市祇園之洲町に来着した。

日本を訪問したザビエルは、「日本人は危険な存在である、最後の一人まで抹殺しなければならない」とイエズス会の本部に報告した。鎖国を経て、ペリーがやってきて、孝明天皇が暗殺されて以来、日本は麻痺状態。それ以降の天皇・日本政府はイルミナティの檻の中の実験動物のようなもの。

イルミナティは薩摩藩、長州藩に浸透した。西郷隆盛はイルミナティの傀儡になることを拒否したため、西南戦争で抹殺された。孝明天皇の暗殺、明治天皇のすり替えを経て、大正天皇の頃には、イルミナティの宮中浸透は完成していた。大正天皇も昭和天皇も、そうした環境で育ち、日本をイギリスやアメリカのような国家にすることを夢見ていた。

明治天皇は薩長の傀儡だった。間接的にはイルミナティの傀儡とも言えるが、それでも、少年時代は日本人として育っていたため、簡単には染まらなかった。西郷を殺すことにも本心では反対していた。それで死後に西郷の名誉回復もしている。日清戦争にも反対していたが、明治天皇の意志に反して、行われた。だから、明治天皇を単なるイルミナティの傀儡、国賊と言うべきではない。

大正天皇の不発クーデタ。大正天皇は精神を病んでいたといわれるが、西園寺は自分が仕えた4代(孝明〜昭和)の中で最も知性に優れていたと語っている。大正天皇はナポレオン、アレクサンダー大王を理想として日本を改造したかった。議会は廃止して天皇独裁にしたいと思っていた。日露戦争で莫大な外債を抱えていた。議会が予算を承認しないと困る。陸軍・海軍を増強して「帝国」にしたいのに障害になる。その天皇の考えに山県有朋は衝突した。

裕仁は大正天皇が不発に終わったクーデタを実行しようとした。立花隆の『天皇と東大』によると、上杉憲法学は議会の撲滅を主張していた。議会を大政翼賛会とし、日本を破壊するための軍国主義体制を整えるように「宮中」から指示をしていたのが裕仁である。日本を戦争に導くため、戦争反対派(皇道派)を一掃する「きっかけ」として利用されたのが二・二六事件だった。

イルミナティが日本を完全に抹殺するためには、自滅の軍事力を築く必要があった。そうしてイルミナティの軍隊で占領する必要があった。遠くイギリスから軍隊を派遣することはできない。ではどうやって抹殺したのか? エージェントを養成し、西洋のような国を目指すように仕向け、大きな軍隊を作り、戦争を起こさせて、自滅させるのだ。良識ある官僚、政治家、軍人ならば、そんなことは反対する。英米、中国、ソ連と世界のすべてを敵にするような戦争をするわけがない。その反対を押し切るためのエージェントが天皇だった。英米の言いなりになるアホをトップに据える必要があった。その仕掛けが、絶対的天皇主義。それが完成したのが二・二六の後。二・二六事件までは陸軍の圧倒的多数は中国大陸での戦争に反対していた。中国に100万の軍隊を展開しながら、太平洋でアメリカと戦うのは、自滅の戦争であることが子供でもわかる状態だった。だが、それに反対するのは、天皇が許さない。そういった仕組みが二・二六で完成した。

中国への戦争に反対していた真崎大将を二・二六事件の「黒幕」だとして刑務所に閉じ込めている間に、統制派は中国との戦争に火をつけた(1937年の盧溝橋事件)。こうして最後にイルミナティの日本滅亡計画(敗戦革命)を完了させるため、アメリカを相手に戦わせたのが「太平洋戦争(Pacific War=平和の戦争)」である。近年になって公開された米国政府文書により、アメリカがわざと真珠湾攻撃に日本を誘い出したことは明かになっている。開戦時、日本側では、内大臣の木戸幸一が中国からの撤兵反対、米国との対戦を主張して、米国の謀略に合わせていた。たが、木戸というより裕仁だ。近衛はその逆だった。終戦の半年前の昭和19年2月には「近衛上奏文」(「一億玉砕」はレーニンの「敗戦革命論」のための詞)で戦争に導いてきた軍人たち(共産主義に染まっていた)の一掃を勧めているが、裕仁はこれを無視し、特攻隊、本土空襲、原爆投下をまねいている。

太平洋戦争は、1941年12月8日(カトリックでは聖母の無原罪の御宿りの祭日)の真珠湾攻撃に始まり、1945年8月15日(カトリックの聖母被昇天の祝日。ザビエルの上陸記念日)の「終戦の詔勅(玉音放送)」で終わった。

裕仁の売国奴ぶりは終戦後も続く。吉田茂は、日米講和条約が成立すれば米軍は撤退するものだと思っていた。ところが、吉田茂の知らないところで昭和天皇が裏取引し、ダレス(ロックフェラー財団の有力者)と秘密交渉、米軍が無期限に日本に駐留することにさせた。沖縄は半永久的に米国の領土として認めるといったことをダレスに言っている。

「いま日本に天皇陛下はおられるのでしょうか?」

皇道派の支持者だった山口富永(ひさなが)さんが昭和19年に陸軍に入隊するとき、真崎大将を訪ねて聞いた。「いま日本に天皇陛下はおられるのでしょうか?」

それに真崎大将は「226の将校もそれを嘆いて死んでいった」と答えている。その真崎大将も、宮中(裕仁)に抵抗することはできなかった。真崎大将の死後、その長男が裕仁の通訳を30年も務めた。この天皇の呪縛を超えない限り、日本人に未来はない。
https://saiba.tistory.com/3133

15. 中川隆[-15124] koaQ7Jey 2019年12月16日 20:40:03 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[-2173] 報告
二・二六事件 2014.02.13 by フジッコ
http://tomoakii.jugem.jp/?eid=48

真実を探すブログより引用

かなり確信に近い情報を見つけたので、メモも兼ねて紹介します。当ブログでは世界の裏事情と真実について、だれでも分かりやすいように少しずつ説明していますが、最終的には太田龍氏が述べているようなことに行き着きます。
ちなみに、彼が述べていることの大半は、それを示す資料などがあるので信憑性は高いです。もちろん、一般常識に染まっている人は無理に信じようとしなくても構いません。今は「こんな情報があるんだな」程度に思って、読んでみてください。


☆とある写真
URL http://www3.ocn.ne.jp/~sigikain/meijisyasin.html

☆太田龍 二・二六事件の真相、全面開示
URL http://www.asyura2.com/12/cult10/msg/721.html
引用:
太田龍 二・二六事件の真相、全面開示 (1/14)
http://www.youtube.com/watch?v=bxpAeRC6rvQ


太田龍 二・二六事件の真相、全面開示 (2/14)
http://www.youtube.com/watch?v=H5ctMIV__js


太田龍 二・二六事件の真相、全面開示 (3/14)
http://www.youtube.com/watch?v=dHNX0N867qk


太田龍 二・二六事件の真相、全面開示 (4/14)
http://www.youtube.com/watch?v=qU6r9R-Epk4

太田龍 二・二六事件の真相、全面開示 (5/14)
http://www.youtube.com/watch?v=Z4YkACG9v48


太田龍 二・二六事件の真相、 全面開示 (6/14)
http://www.youtube.com/watch?v=3p0VzYhU_sg


02. BRIAN ENO 2013年2月24日 21:08:42 : tZW9Ar4r/Y2EU : yhmbAsnuyo
2・26事件の全容を知り、天皇の呪縛を解こう

故太田龍氏の公開講義の録音テープを関係者の方から頂いた。太田龍氏の遺志を汲み取り、これについては自由に広めてもらってよいということなので、今回は、その中から、二・二六事件に関するものを紹介したいと思う。

これは日本人にとって超弩級に重要な内容だが、太田龍氏の話は少々聞き取りにくい上に、内容が難しいときている。それで音声だけでは伝わりにくいと思っていたが、今般、有志の方のご協力により、全部を文字起こしし、わかりやすい画像と字幕にしてYouTubeにアップすることができた。


全部で2時間15分ある。以下に講義の要約、続いて文字起こし全文を掲載する。これに関する私の解説は後日リリースする予定である。

講義のポイント

アメリカが抹殺した理由は?

デビッド・バーガミニ(David Bergamini 1928〜1983)は、アメリカでベストセラーになった1971年の著書『天皇の陰謀』の日本語版序文(ただし1983年発行の新書版のみ)で、「私はこの著作のせいで文筆活動を絶たれることになった」と書いている。この序文は、非常に重要だが、誰も指摘していない。バーガミニを抹殺するために、200〜500万ドルの賄賂・監視料が使われた。日本政府から出た資金ではない。エドウィン・ライシャワー駐日大使(妻は松方正義の孫・松方ハル)を中心とする米国エリート勢力だった。また、アメリカの主だった学者は、揃ってバーガミニをインチキ扱いしている(日本研究の権威だったライシャワーの影響力によるものだろう)。

バーガミニ本人は、昭和天皇・裕仁の戦争責任を暴いたつもりだった。したがって、日本から非難を受けることは想定していたが、祖国アメリカから称賛はされても、まさか攻撃を受けるとは思っていなかった。その結果、バーガミニは、愛国心を喪失したと書いている。

どうして天皇のことを暴くと、アメリカ国内の勢力から攻撃を受けるのか? それは、裕仁がイルミナティの養成したロボットであり、ザビエル以来の日本破壊の計画を完成する重要な役割を担っていたからである。裕仁は「平和を愛したが軍部に押し切られた無力な天皇」でなければならなかった。

二・二六の決起趣意書の真意は理解されているのか?

川島義之(陸軍大将)が裕仁の前で読み上げた二・二六の決起趣意書(北一輝が手を入れたという)をバーガミニは「外政上の紛争から手を引き、内政改革と日本の伝統保持に傾けるよう天皇に求めたもの」と評価している。これは妥当な解釈である。農村は困窮していた。本庄侍従武官長、陸軍中枢部も決起将校たちに同調的だった。日本の書籍やマスコミで一般的に理解されているものとは乖離がある。

今でも、官僚、政治家、企業が悪いと言われているが、基本的にはそれと同じ趣旨で、庶民の観点に立っている。決起将校たちは、天皇が庶民の味方だという根本的な勘違いしていた。庶民の味方であるわけがない裕仁は、徹底鎮圧を指示した。木戸幸一(きど・こういち、1889〜1977年。長州藩の木戸孝允=桂小五郎が大叔父)も徹底鎮圧を勧めた。

396年計画 1549.8.15-1945.8.15

こうして一般民衆を敵視し、権力者に操縦されるだけの天皇ロボットの歴史は、ザビエル来日の昔にまで遡る。ザビエルは、1549年8月15日(カトリックの聖母被昇天の祝日)に、現在の鹿児島市祇園之洲町に来着した。

日本を訪問したザビエルは、「日本人は危険な存在である、最後の一人まで抹殺しなければならない」とイエズス会の本部に報告した。鎖国を経て、ペリーがやってきて、孝明天皇が暗殺されて以来、日本は麻痺状態。それ以降の天皇・日本政府はイルミナティの檻の中の実験動物のようなもの。

イルミナティは薩摩藩、長州藩に浸透した。西郷隆盛はイルミナティの傀儡になることを拒否したため、西南戦争で抹殺された。孝明天皇の暗殺、明治天皇のすり替えを経て、大正天皇の頃には、イルミナティの宮中浸透は完成していた。大正天皇も昭和天皇も、そうした環境で育ち、日本をイギリスやアメリカのような国家にすることを夢見ていた。

明治天皇は薩長の傀儡だった。間接的にはイルミナティの傀儡とも言えるが、それでも、少年時代は日本人として育っていたため、簡単には染まらなかった。西郷を殺すことにも本心では反対していた。それで死後に西郷の名誉回復もしている。日清戦争にも反対していたが、明治天皇の意志に反して、行われた。だから、明治天皇を単なるイルミナティの傀儡、国賊と言うべきではない。

大正天皇の不発クーデタ。大正天皇は精神を病んでいたといわれるが、西園寺は自分が仕えた4代(孝明〜昭和)の中で最も知性に優れていたと語っている。大正天皇はナポレオン、アレクサンダー大王を理想として日本を改造したかった。議会は廃止して天皇独裁にしたいと思っていた。日露戦争で莫大な外債を抱えていた。議会が予算を承認しないと困る。陸軍・海軍を増強して「帝国」にしたいのに障害になる。その天皇の考えに山県有朋は衝突した。

裕仁は大正天皇が不発に終わったクーデタを実行しようとした。立花隆の『天皇と東大』によると、上杉憲法学は議会の撲滅を主張していた。議会を大政翼賛会とし、日本を破壊するための軍国主義体制を整えるように「宮中」から指示をしていたのが裕仁である。日本を戦争に導くため、戦争反対派(皇道派)を一掃する「きっかけ」として利用されたのが二・二六事件だった。

イルミナティが日本を完全に抹殺するためには、自滅の軍事力を築く必要があった。そうしてイルミナティの軍隊で占領する必要があった。遠くイギリスから軍隊を派遣することはできない。ではどうやって抹殺したのか? エージェントを養成し、西洋のような国を目指すように仕向け、大きな軍隊を作り、戦争を起こさせて、自滅させるのだ。良識ある官僚、政治家、軍人ならば、そんなことは反対する。英米、中国、ソ連と世界のすべてを敵にするような戦争をするわけがない。その反対を押し切るためのエージェントが天皇だった。英米の言いなりになるアホをトップに据える必要があった。その仕掛けが、絶対的天皇主義。それが完成したのが二・二六の後。二・二六事件までは陸軍の圧倒的多数は中国大陸での戦争に反対していた。中国に100万の軍隊を展開しながら、太平洋でアメリカと戦うのは、自滅の戦争であることが子供でもわかる状態だった。だが、それに反対するのは、天皇が許さない。そういった仕組みが二・二六で完成した。

中国への戦争に反対していた真崎大将を二・二六事件の「黒幕」だとして刑務所に閉じ込めている間に、統制派は中国との戦争に火をつけた(1937年の盧溝橋事件)。こうして最後にイルミナティの日本滅亡計画(敗戦革命)を完了させるため、アメリカを相手に戦わせたのが「太平洋戦争(Pacific War=平和の戦争)」である。近年になって公開された米国政府文書により、アメリカがわざと真珠湾攻撃に日本を誘い出したことは明かになっている。開戦時、日本側では、内大臣の木戸幸一が中国からの撤兵反対、米国との対戦を主張して、米国の謀略に合わせていた。たが、木戸というより裕仁だ。近衛はその逆だった。終戦の半年前の昭和19年2月には「近衛上奏文」(「一億玉砕」はレーニンの「敗戦革命論」のための詞)で戦争に導いてきた軍人たち(共産主義に染まっていた)の一掃を勧めているが、裕仁はこれを無視し、特攻隊、本土空襲、原爆投下をまねいている。

太平洋戦争は、1941年12月8日(カトリックでは聖母の無原罪の御宿りの祭日)の真珠湾攻撃に始まり、1945年8月15日(カトリックの聖母被昇天の祝日。ザビエルの上陸記念日)の「終戦の詔勅(玉音放送)」で終わった。

裕仁の売国奴ぶりは終戦後も続く。吉田茂は、日米講和条約が成立すれば米軍は撤退するものだと思っていた。ところが、吉田茂の知らないところで昭和天皇が裏取引し、ダレス(ロックフェラー財団の有力者)と秘密交渉、米軍が無期限に日本に駐留することにさせた。沖縄は半永久的に米国の領土として認めるといったことをダレスに言っている。

「いま日本に天皇陛下はおられるのでしょうか?」

皇道派の支持者だった山口富永(ひさなが)さんが昭和19年に陸軍に入隊するとき、真崎大将を訪ねて聞いた。「いま日本に天皇陛下はおられるのでしょうか?」 それに真崎大将は「226の将校もそれを嘆いて死んでいった」と答えている。その真崎大将も、宮中(裕仁)に抵抗することはできなかった。真崎大将の死後、その長男が裕仁の通訳を30年も務めた。この天皇の呪縛を超えない限り、日本人に未来はない。


以下は、この講義の全編の文字起こしである。

70年以上に亘って日本国民に対して絶対的に隠蔽され続けてきた
2・26事件の真相、全面開示

太田龍

(週刊日本新聞)

2008年1月25日 日本義塾公開講義

バーガミニ『天皇の陰謀』の「新版への序文」に埋もれていた衝撃の事実

バーガミニの『天皇の陰謀』、最初の上下2巻の版じゃなくて、1983年に出た新書版・全7巻の第一巻の巻頭にバーガミニが「新版への序文」というのを書いている。このバーガミニの新版への序文は、私の判断では大変重要なんですけど、私の知る限りバーガミニの新版への序文を読んでその重要性に気がついて、ちゃんとコメントする、意見を発表するというか、注意を喚起するというか、そういう事をした人を私は誰も知りません。多分誰もやってないんじゃないですか。すごく重要ですよ。


バーガミニの全二巻本も今はとても手に入りにくい。新書版は更に手に入りにくい。この新書版は、私がよく読んだらかなり無断で削除してます、全二巻本からね。あんまり良い本でもない、熱心に読まれないかもしれないけども、バーガミニの「新版への序文」は新書版しか載ってないです。ほとんどまともに読まれてないんじゃないかと思う。それでコピーして差し上げたんです。

今日は「二・二六事件の真相の全体開示」ということをお話しします。ここにバーガミニの後編の32頁のコピーがあるでしょう。二・二六の青年将校達の決起趣意書がそのまま載せてあります。この決起趣意書というのは、バーガミニの本に説明してありますけど、青年将校の主な人達が自分で文章を作成したんでしょう。それを北一輝のところへ持っていったら、北一輝が文章に手を入れて、メリハリの効く語呂にしたと書いてあります。決起趣意書をお読みになったことありますか?

川島陸軍大臣が昭和天皇に謁見して天皇の前で決起趣意書を、青年将校はこういう趣旨で決起したようですと読み上げるわけですよ。読み上げたら裕仁がどう考えたかという事をバーガミニが書いています。

私が決起趣意書を読み上げてみます。これはすごく難しい字を使っていて、今の日本人にはサラサラなんて読めなくなっていると思うんです。私も一か所読めない字があります。辞典を引いて来ればよかったんですけど一か所は読めない字があります。意味はわかりますけれど。読んでみますね。

謹んで惟(おもんみ)るに我が神洲たるゆえんは、万世一系たる天皇陛下御統帥の下に、挙国一体生々化育(せいせいかいく)を遂げ、ついに八紘一宇を完うするの国体に存す。この国体の尊厳秀絶は、天祖肇国神武建国より明治維新を経てますます体制を整へ、今やまさに万方に向って開顕進展を遂ぐべきの秋なり。

しかるに頃來、遂に不逞凶悪の徒、簇出(そうしゅつ)して、私心我慾を恣(ほしいまま)にし、至尊絶対の尊厳を藐視(びょうし)し僭上(せんじょう)これ働き、万民の生々化育を阻害して塗炭の疾苦を呻吟(しんぎん)せしめ、したがって外侮外患(がいぶがいかん)、日を追うて激化す。

いわゆる元老、重臣、軍閥、財閥、官僚、政党等は、この国体破壞の元凶なり、ロンドン軍縮条約ならびに教育総監更迭における統帥権干犯、至尊兵馬大権の僭竊(せんせつ)を図りたる三月事件あるいは学匪、共匪、大逆教団等の、利害あい結んで陰謀至らざるなき等は最も著しき事例にて、その滔天(とうてん)の罪悪は流血憤怒、真に譬(たと)えがたきところなり。中岡、佐郷屋、血盟団の先駆捨身、五・一五事件の噴騰、相沢中佐の閃発となる、まことに故なきにあらず。しかも幾度か頸血を濺ぎ来たって今なお、いささかも懺悔反省なく、しかも依然として私権自欲におって・・・苟且(こうしょ)(これが分かんないんですねぇ、苟も且つっていうんですね)偸安(とうあん)を事とせり。露支英米との間、一触即発して祖宗遺垂のこの神洲を一擲(いってき)破滅に堕せしむるは火を睹(み)るよりも明かなり。

内外真に重大危急、今にして国体破壊の不義不臣を誅戮(ちゅうりく)し、稜威をさえぎり、御維新を阻止し来れる奸賊を芟除(さんじょ)するに非ずして皇謨(こうぼ)を一空せん。あたかも第一師団出動の大命煥発せられ、年来御維新翼贊を誓ひ殉死捨身の奉公を期し来りし帝都衞戍(えいじゅ)の我等同志は、まさに万里征途に上らんとしてしかも顧みて内の亡状に憂心転々禁ずる能はず。

君側の奸臣、軍賊を斬所(ざんじょ)して、彼の中枢を粉碎するは、我等の任として能く爲すべし。臣子たり股肱たるの絶対道を、今にして尽くさずんば、破滅沈淪を飜すに由なし。ここに同憂同志機を一にして蹶起し、奸賊を誅滅して大義を正し、国体の擁護開顕に肝腦をつくし、もって神洲赤子の微衷を献ぜんとす。皇祖皇宗の神霊、ねがわくば照覧冥助を垂れたまわんことを。

昭和十一年二月二十六日

っていうんですね。ここにバーガミニが説明してます。裕仁は黙ったままその趣意書に耳を傾けた、その激烈な言葉と軍人精神の勇敢な見せかけの背後に裕仁は彼の好戦的な全政策への完全な否認を読み取ることができた。ベールをかけた腹話的な言い方で反乱者たちは裕仁に請うてこれ以上の外征上の紛争の危険から手を引き、彼の勢力を内政改革と日本の伝統的な大和魂の保持に傾けるように求めていた、という風にバーガミニは説明しているんです。

バーガミニは、二・二六の決起趣意書と、それを裕仁が聞いてどう考えたかという事について、このように説明しているんですけど、こういう説明は、今まで日本人は全く聞いたことはないですよ。バーガミニの評価、説明は大変妥当な、非常に当たり前の説明だと私は思うんですね。

しかし、裕仁はそういう風に考えたけど、川島陸軍大臣、本庄侍従武官長、その他陸軍の中枢将官のほとんどは、こういう青年将校の決起に完全に同調、共鳴というか同情というか支持というか、そういう風な気分だったわけですね。そのことをバーガミニは事実に即してちゃんと説明しています。しかし、日本で今まで出版されている、公表されている、あるいはテレビ、その他等で言われている説明とは甚だしくギャップがあるわけですよ。それで、問題がどこにあるかをまず明確に設定しないとダメですよ。

これはバーガミニの英語の巻の上巻です。上巻と下巻があって、全一巻本というのもあります。日本の翻訳は1973年に出た、いいだもも訳の上下二巻、約1100頁少しなりますかね。バーガミニの本は、日本語で出たものとしてはもちろん、その前の英語で出たものとしても、明治以降の日本の歴史、とりわけ大正天皇以降、大正11年に裕仁が摂政になって以降、昭和天皇が日本の国家の中枢を握ったわけです。その昭和天皇の歴史の真相について、バーガミニの本が初めてそれを明らかに光を当てたんですよ。

この本がアメリカで出たら、凄い大ベストセラーになって色々な人が非常に高く評価した書評を書いたりしてるんです。ところが! これはよく熟読してくださいね。短い文章でしょう。83年の新版、新版というのは日本語の新書版が出るのでその序文を寄せたわけです。驚くべきことが書いてあります。

「天皇の陰謀が物書きとしての私の経歴をお終いにしてしまった」と言ってるんですよ。

これはビックリしませんか? 非常に私はビックリしましたよ、それを初めて知って。

この本が出た1971年以来、大ベストセラーになったんです。良く調べると、なんとこのバーガミニという人はアメリカの大学を出た後、ローズ奨学生になってオックスフォードに入学してます。ローズ奨学生のオックスフォード卒業生ですよ。これは欧米ではとてつもないエリートです。インサイダーの候補です。そういう人が、自分は日本に非常に縁が深いので昭和天皇の歴史を中心とした日本史を書いてみようという訳で、アメリカの有力な権力層から日本の多くのインサイダーへの紹介状を貰って、インタビューしたりして、本もたくさん買って、京都に住んで、京都の学生・卒業生とかを助手にして、非常に詳しい調査をして、日本のインサイダー、元将軍、元なんとかという人たちのインタビューをしたりして書いた本ですよ。これは凄い本だということで前途洋々かと思うと、とんでもない。この本を出したおかげで、自分の物書きとしての経歴がおしまいになったって言ってるんです。

内輪に見積もっても200万〜500万ドル。今のドルではなくて1970年代だからもう少し価値があったんじゃないでしょうか。200万〜500万ドルが、私を押さえつけておく賄賂ないしは監視料として使われたって言うんですよ。奇妙奇天烈な話じゃないですか? いかなる手段によるにせよ、その勘定、つまりお金は日本政府からは出ていないって言うんです。じゃあ誰がそのお金を出したんですか?

「とりわけエドウィン・O・ライシャワーが、私を押しつぶす大きな蝿叩きを作るために手を貸した」って言うんですよ。ライシャワーは、気の赴くままに合衆国の大学に与える贈り物を持っていたし、日本での訓練期間中に彼に借りを作ったCIAの手の者達の中核の献身を受けていたって言うんです。つまり、ライシャワーを中心とする、アメリカのまさしく権力エリートが、バーガーミニを著述家として葬り去るために全力を尽くしたわけです。賄賂ないし監視料というのは、バーガーミニの著述家としての活動の全てに渡って完全に抹殺するように米国の権力が総力を挙げて襲いかかったんですよ。奇妙奇天烈な話じゃあないですか?

本を5冊書いたけどね、出版社に持って行くと、すかさずその出版社に手がまわって、その賄賂ってわけで、これだけ金をやるからバーガーミニの本は出すな、どうのこうのって訳ですよ。アメリカの日本問題専門家は全部ライシャワーの息がかかってますからね。ライシャワーが命令して「あいつはもう一切相手にするな」って言うわけです。

そんな風にして、彼はあっという間に物書きから転落していくわけですよ。そうしてね、いまの私はマイクロコンピューターを売ったり、コンピューターのプログラムを作ったりすることで身を立てておりますって言うことになっちゃった。そして、彼は「私の愛国心は幻滅に帰した」、つまり、アメリカは自分の祖国と思っていたがとんでもない、自分が1冊の本を書いたが為に、アメリカという国家は自分に襲いかかって、自分を叩き潰そうと、もう叩き潰してしまった。愛国心ってのものは無くなったと、そう言ってますよ。

これは実に驚くべき序文ですよ。バーガーミニの本は、日本の天皇を中心とする体制にとっては、絶対あってはならない本だと考えるのは当然ですよ。ところが、日本ではなく、アメリカの国家権力そのものが、バーガーミニに襲いかかった。それはこの本が、米国つまりイルミナティにとって虎の尾を踏んだ、絶対隠蔽すべきタブー、隠蔽すべき秘密を、バーガーミニが白日の下にさらけ出してしまう。そういう悪い事をした、犯罪を犯したという評価ではないかと。従って、そういう扱いを彼は受けるわけですよ。

いいだももさんが翻訳者ですけど、いいだももさんがね、このバーガーミニの新版の序文を高く評価して、何かコメントしたかどうか、私は調べてないけど、少なくとも私は知りませんよ。

それで、アイリス・チャンという人が、すごく悪名をつけられてしまったTHE RAPE OF NANKING という本、アメリカで出たら日本の天皇教狂信者達が一斉に襲いかかって、あれはとてつもない出鱈目だインチキだ悪書だって言ってすごく悪評が充満して、一般の日本人はそういう悪評だけ耳に入っていて、本物の本は全く知らないっていうことが続いて、最近10年後に日本語訳が出ましたね。その日本語訳を読んだら、そのバーガーミニの本がいろいろ引用されてます。しかし、アイリス・チャンも、アメリカでも高名な偉い学者達はみんな、バーガーミニの本を否定してるっていう風に言ってるんです。だから、普通の人は理解不可能です。


何故そうなるのか? 日本の天皇教信者と日本の国家権力とその他、それに類する御用作者・御用学者・その他が、バーガーミニを否定するのは当然でしょう。しかし、なんでアメリカの権力がバーガーミニを葬り去ろうとするのですか。この本は全くのインチキだって否定するんですか。それはまさしく、昭和天皇が単に日本的存在であるだけではなくて、イルミナティ、サタニスト世界権力によって育成された、極めて有能な重要な貴重な傀儡である、イルミナティ、サタニスト世界権力の道具として裕仁は機能したし、ずっとこの本が出た当時もそうだし、今に至るまでそうである、ということの明確な証拠であると私は思います。そう評価することで、バーガーミニの本の重要性と、今それを再評価して日本人がちゃんと勉強する、消化することを始めるべき緊急な必要性があることが証明されると思います。

裕仁は別のことを考えていた

それで、私が読み上げた「蹶起趣意書」については、侍従武官長も、陸軍大将も、他の軍事参議官(まだ予備役になっていない現役の陸軍大将の全部か一部が天皇の軍事顧問の役割を果たすよう設定された職務。軍事参議官会議とは昭和天皇の諮問に答える)も、将官クラスも、ごく少数の非常に突拍子もないへんてこりんな軍人以外の、当時の日本の軍人・将校のほとんどが、この蹶起趣意書にすごく共感したわけです。

当時の日本の人口の6〜7割は農民ですけど、その農民は、第一次大戦後の軍が入ってきて、それから昭和4年(1929年)の世界経済大恐慌の前後からずっと続いてる、日本の経済恐慌の結果、農村は生きることも、死ぬこともできない様な塗炭の苦しみを味わってるわけですよ。兵隊はそういうところから出てくるんですから、将校はそれをひしひしと感じてるわけですよ。だから、多かれ少なかれ趣意書に書かれていることは、天皇の重臣などを殺したというのは、私利私欲、私的目的の為ではなく、こういう趣旨を掲げて、何とか変えてもらいたいと決起した志を酌むべきではないか、少なくとも天皇はその志を酌んで名誉を与えてもらいたいというのが、当時の(海軍は別ですけど)陸軍の首脳層のほぼ全員一致の考えです。

それでも、裕仁は全然問題にしないわけです。全然別の考えなんです。

バーガミニは、二・二六が起きた後、裕仁は単身、厳密に言えば一人じゃないですね、裕仁のそばにいた木戸幸一は、そのころ内大臣府秘書官長だった。二・二六で内大臣の斉藤実が殺されたでしょう。そのあと(1940年から)木戸幸一が内大臣になった。しかし木戸幸一1人じゃない。裕仁(昭和天皇)の摂政時代から、「十一会」という私的な結社を主宰してるんですよ、昭和天皇の顧問団。しかし、バーガーミニは、昭和天皇は単独で自分の考えを強行突破して、あらゆる反対、異論を押し潰して、いくつもの政治決戦に最終的に勝利したと評価してます。

それは全く正当な評価です。日本人は、そんな話はいまだかつて聴いたことがないですからね。だからね、それは非常に衝撃的な評価ですけど、バーガミニの本を最初から読んでいくと、当然そうなるとわかる。

薩摩と長州の宮中掌握

二・二六事件の当事者、関係者をあげていくと11項目ぐらいになる。決起趣意書については先程お話しました。二・二六事件の主役として、表面に出てくるのは4つの勢力なんです。昭和天皇、陸軍の北進派、陸軍の南進派、決起青年将校団の4つです。しかし現象面として挙げていくと、そう言えるという事であって、その現象では物事の本質は見えてこない。本質は何か、さかのぼって突き詰めていくと、落合莞爾さんが吉薗(よしぞの)周蔵〔上原勇作陸軍元帥の私的特務をしていた人物〕の手記について、今ニューリーダーに連載していることの画期的な意味、今まで日本人が全く知らされていない、気がついていない、極めて重要な根源的な近代日本の状況を知る為の要素があります。私も落合さんの連載を読んでいて気がついたんですけど、そもそも孝明天皇を弑逆(暗殺)した主役が長州なんです。公家の一部(岩倉、三条など)が共同謀議して実行したんでしょう。ところが、薩摩が長州と共同歩調をとらないと、それはうまくいかないんですよ。薩摩が孝明天皇を弑逆して大室寅之祐を天皇にすり替えて、イルミナティの傀儡として全く偽者の天皇をでっちあげて、それを本物の天皇として日本人に見せかけて、日本人をずっと騙して、その真相を絶対に秘密にする、そういうシステムを作る上に、薩摩と長州がその二つの主役だった事を私は既に色々なところで言ってます。

しかし薩摩は西郷隆盛が主たる人物。西郷隆盛は、イルミナティのコントロール下で彼らの傀儡となって日本を支配するというような生き方には、究極的にNOと言ったんです。NOと言ったのでフリーメーソンがイルミナティに西郷隆盛の排除を命令したんです。長州と薩摩も彼らの傀儡に対して。それが西南戦争です。西郷さんと一緒に薩摩の武士の約半分は殺されました。残った半分はどうなったかというと、そのすぐ後に大久保も殺されて、その為に、薩摩の力が弱くなって長州のひとり天下のように思われるわけです。

ところが、実はそうでもないんですね。その事を落合さんがずっと調べていって、重要な事実を発見しました。薩摩は英国と戦争をやって、長州は4カ国と戦争をやって、敗北したら掌を返すようにイルミナティの家来になるわけですよ。薩摩も長州も。そして薩摩藩は有能な青年武士をフリーメーソンのグラバーの手引きで英国に留学させた。長州ファイブと英国では言うようですが、その中の一人が伊藤博文です。それから井上(馨)。伊藤と井上は明治時代ずっとペアで日本を支配する。その他、その長州ファイブが、フリーメイソンと、フリーメーソンを上回る直系の長州政権内の決定的なワンワールドの支持の元に動く。これについては加治将一という人の本に割と詳しく書いてある。ところが薩摩も長州とほとんど同時に何人かの青年武士をロンドンに留学させている。そのほうもワンワールド・フリーメーソンに会っただろうと加治って人も言ってます。

しかし、落合っていう人が言うのには、西郷軍(西郷さんの陣営)が完全に潰された後、薩摩は長州に対して弱体化したかというと、そうではないんですね。西郷、大久保、吉井友実〔よしい・ともざね、1828〜1891年。西郷、大久保と同等クラスで、薩摩藩のナンバー3。フランスに留学してワンワールド・フリーメイソンに加入し、明治初期から宮中に入っていた。西郷、大久保なき後、ワンワールドの代理人として宮中を掌握〕の3人が主要な指導的人物と言われていて、その吉井というのが明治になって留学してフリーメーソンに加盟したと落合さんは言ってる。陸軍に入るけど留学して、そして宮中に入る。つまり、ワンワールド、フリーメーソンは宮中を完全に掌握する事を重要な政治課題として設定したと私は思います。

それから、松方正義〔まつかた・まさよし、1835〜1924年。薩摩藩。金融を掌握〕は有名な財政家・金融家ですけど、これもワンワールドでロスチャイルド直系の子分だと言ってます。従って薩摩はワンワールドを通じて西郷さん一派が完全に消えた後も金融を押さえ、宮中を押さえる。そういう風にしてワンワールドは長州の陸軍、薩摩の金融・宮中の勢力が二本立て、両建てで日本をコントロールしたと、私が要約するとなります。

これは私は気がつかなかった。その後、高島鞆之助〔たかしま・とものすけ、1844〜1916年〕という長州(薩摩の言い間違え)の有望というか有能な武士が、陸軍中将になるけど、やはり宮中に入るんです。高島鞆之助もヨーロッパに留学してフリーメーソンに加盟したと言うんです。薩摩の吉井と高島が、普通の歴史には全く出てこないけど、長州の陸軍、官僚と並んで同時にワンワールド、フリーメーソンの日本支配の極めて重要な陣営として機能してる、という事なんです。

私がここで何を言いたいかと言うと、大室寅之祐を擦り替えて天皇にはした。当然、京都で継続してきた日本の朝廷、天皇の系統とはまるで別物ですけど、別物であるにも関わらず、継続した天皇家の正統であると日本人に思わせないといけません。これは非常に難しい仕事ですよ。代々ずっと続いた天皇の正統な継承者であるというふうに日本国民に思わせるように、パフォーマンスというか、フリというか、演技というか、そういう風に作ると同時に、裏のほうでは国民に全く知られないところで宮中はワンワールドの司令通り忠実に動くように演出しなければならない。これは途轍もない難しい仕事ですよ。そういう場に際したのが、吉井と高島。薩摩の非常に有力な武士団の実力者です。

という事を、上原勇作〔うえはら・ゆうさく、1856〜1933年。薩摩藩。山県有朋と同時代の陸軍大将。吉井、高島のひいきで出世。やはりワンワールド〕を調べていた落合莞爾が気がついたという訳なんですね。そういう風に見ると今問題になってる事が凄くよく解る。そうして宮中を握るでしょう。そうすると出てきた現象はどうなるかというと、皇族の男子は全員原則として軍人になるべしというような規則にするんです。軍というのは、陸軍か海軍かのどちらか。従ってバーガミニは、明治、大正、昭和と皇族の表をずっと作って、追って行くわけです。驚いた事に日本には皇族がどうなっているかについて詳しい情報は全くない。変な話だが、わざとそうしてる。そこを調べて行くと、皇族の男子の軍人というのが、陸軍軍人、海軍軍人、ものすごくたくさんいる。そんな事は孝明天皇までの日本の天皇の伝統には存在しないです。

明治天皇がそんな事を考え出して、こういう風にしようなんて事はあり得ない。ワンワールドの司令を受けた宮中を完全に支配する力を得た、吉井、高島、そういう薩摩の藩閥勢力によって宮中がそういう風に作り変えられていった訳ですよ。陸軍軍人、海軍軍人らの皇族は、当然の事ながら英国、フランス、プロシア(ドイツ)、その他ヨーロッパの王室、陸軍・海軍の軍人のシステムをそっくり同じ様なものを作るわけですよ。
:引用終了
http://tomoakii.jugem.jp/?eid=48

16. 中川隆[-15114] koaQ7Jey 2019年12月18日 17:20:25 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[-2157] 報告
2019年12月18日
終戦時満州に取り残された日本人 ソ連兵と中国人は何をしたか


開拓村のひとつ満州国弥栄村、日本軍が去った後でソ連軍が襲い掛かった

画像引用:満州国弥栄村の絵葉書が・・・・中国東北部にあった幻の村・・・ | 赤城山・赤城温泉 御宿 総本家 館主よもやま話http://souhonke.jugem.jp/?eid=6905

全人類にとって不都合な歴史

戦後ずっと中国、南北朝鮮、ロシアは自分たちが日本軍によって被害を受けたと言い続けてきました。

アメリカ、イギリス、フランスなど西側の連合国も、自分たちが正しいと言うために日本軍を批判してきた。

その一方で自分たちが日本人に行った行為は隠され、なかったかのように言いつくろっている。


安倍晋三をはじめとする歴代首相や政治家、言論人もこの事には目をつぶり、一種のタブーになっています。

終戦時に満州や半島、千島列島や樺太に居た日本人はソ連や中国に何をされたか、日本政府が口封じをして喋らないようにしていた。

終戦時に外地にいた日本人は数年後に復員や引揚げしたが、日本政府は棄民として扱い存在しないように振舞った。


日本軍が大陸から引き上げた時、満州周辺には200万人の日本人が居たが、民間人は置き去りにしました。

昭和20年8月9日、ソ連は突如日ソ不可侵条約を破棄して満州に侵攻したが、大本営は秘密裏に関東軍(大陸部隊)を日本本土に帰国させる計画を建てた。

この時200万人の日本人居住者は足手まといであり、船も食料もなく帰国させたらさらなる食糧不足を招くとして、現地に置き去りにする決定を下した。


200万人の居住者はソ連が侵攻してきたのを知らされず、移動や避難を禁止されその場に留まるよう命令された。

満州国の首都は新京だったが、8月9日にソ連の空襲(大した空襲ではない)を受けると、なんとその日のうちに全軍脱走しました。

軍の逃走を市民に隠すために主要道路を封鎖して鉄道を使用し、「ソ連軍と戦いに行くのだ」と大嘘をついて出発しました。

日本軍に騙された200万人の日本人居住者

真に受けた日本人らは本当に軍はソ連と決戦に行くのだと信じ、感動して涙を流し日の丸の旗を振って見送りました。

軍が避難するために8月10日まで鉄道は使用禁止に成り、8月11日から「軍人の家族だけ」避難指示が出ました。

8月13日ごろ満州国の公務員に避難指示が出て、一般市民(100万人以上)に避難指示が出たのは8月15日になってからでした。


8月15日の日本軍降伏と同時に、ソ連軍と中国軍、暴徒化した中国人らが日本人居住者に襲い掛かりました。

満州国の首都新京には100万人もの日本人が居たので団結して身を守ったが、地方に居た満州開拓団はされるがままでした。

満州開拓団とは日本の食糧危機を解決するため、日本軍が送り出した農村開拓団で、数十万人も居ました。


開拓団は表向き応募だったが、実際には県や村、集落単位で割り当てがあり、人数が決められていました。

長男は村に残るので開拓団に行くのは次男以下、満州で子孫を増やすため夫婦ものが選ばれたので、行く人は決まっていました。

もし満州行きを拒否したら村八分にされるので、個人の意思とは関係なく行かざるを得ませんでした。

開拓村の人口を増やすのに女性が必要なので、大勢の少女らを騙して満州に送り込んだ。

満州では内地よりずっといい暮らしができるとか、まだ判断力がない少年少女に吹き込んでいました。

実際の満州は見渡す限りの荒野だったので、現地に着いたとたん騙されたのに気づいたでしょう。


満州の開拓村とは荒れ地を手作業で開拓し、ゼロから村をつくるもので、日本からの支援はほとんどなかった。

それぞれの開拓村の人口は数十人程度で、ソ連軍に襲われたらひとたまりもなかった。

多くの村では若い女をソ連兵や中国人に差し出し、命乞いをしたという事実が記録に残っている。

ソ連や中国に酷い目にあわされ帰国したのに、祖国は彼らを犯罪者扱いした

引用:http://userdisk.webry.biglobe.ne.jp/007/257/52/N000/000/011/135139922049213111794_IMG_0002_NEW_20121028134020.jpg

被害者なのに帰国したら加害者扱い

関東軍は事前に終戦を知っていたので8月15日までに南朝鮮まで逃げ、38度線を防衛ラインとした。

日本まで逃げる船はアメリカにすべて撃沈されていたので、もしソ連軍が38度線を突破したら今度こそソ連と決戦するつもりでした。

ここで関東軍は計略をめぐらし、ソ連軍と接触して「もし自分達を助けたら東日本を差し出す」と提案したと伝えられている。


その効果があったのか関東軍は本土に帰還できたが、約束は反故にし東日本は米軍が占領した。

満州在留日本人や北朝鮮居住者には38度線の存在自体が隠され、「その場から動くな」と言って立ち去った。

せっかく北朝鮮まで逃げて来たのに38度線の存在を知らず、ソ連軍支配地域にとどまった人が多かった。


ここでまた朝鮮人は日本の女をソ連兵に差し出して、ソ連とのコネを作ったり食料を得たり、地位を得たりした。

千島列島や樺太でも同じ事が行われ、200万人居たソ連中国支配地域の日本人のうち、約50万人がなくなった。

強制的に開拓団に参加させられ散々な目に合って帰国した人々に日本政府は冷たく、軍人のような恩給も保証もなかった。


一般の日本人はGHQの宣伝によって「開拓団は中国を侵略した悪人」と思い込み、罵声を浴びせたり石をぶつけたりした。

こうして帰国した人々は開拓団や外地居住者だったのを隠すようになり、ソ連や中国からの被害もひた隠した。

連合軍だった国は自分たちの被害を訴え、日本政府すら満州ソ連居住者の被害を無視しつづけている。
http://www.thutmosev.com/archives/81755000.html

17. 中川隆[-15107] koaQ7Jey 2019年12月18日 18:50:25 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[-2150] 報告
太田龍 二・二六事件については、完全に隠蔽されているのみならず 偽情報が日本人に徹底的にすり込まれています。 『二・二六事件の真相、全面開示』

18. 中川隆[-15103] koaQ7Jey 2019年12月18日 22:10:31 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[-2146] 報告
山本五十六の真実D鬼塚英昭氏が発見した日本の秘密−2・26事件
http://www.asyura2.com/11/cult8/msg/700.html

DVD『鬼塚英昭氏が発見した日本の秘密』成甲書房より転載。


以下本文。


これからは2・26事件について語ろうと思います。2・26を追究して、いくらかでもその真実に近づけば、日本のこれからの未来のためにも役立ちます。2・26事件というのは若い将校たちが叛乱を起したと。で、その将校たちの叛乱を気に入らないというので天皇が怒り、数多くの将校たちが処刑されました。しかし、これには裏があります。今、私が秩父宮と昭和天皇は父親が違うということを喋りましたが、これは東久邇が喋ったことなんですね。


笠原和夫は広島のジャンク映画『仁義なき闘い』を初め、色々な芝居の脚本を書いて、それでなお昭和秘録というようなものに挑戦して、2・26にも挑戦します。しかし「2・26は映画になりきれなかった。書けなかった」と、彼は本の中で断念していますが、それはそうなんです。あれを追究すると映画にはなり得ないんです。なぜなら、あれは秩父宮が最初に仕掛けたクーデター劇なんです。これはもう他の人もみなさんご存知なんです。ところが真相は、秩父宮がある時点で若き将校たちを裏切るんです。それで彼らは行き場を失うわけです。


秩父宮が安藤輝三(てるぞう)という大尉に話を持ちかけます。これはまちがいない事実です。そして安藤は非常に冷静な男だったので断ります。しかし秩父宮は懐から懐中時計を出して「俺の真意を汲んでくれ」と言います。それで彼がリーダー格となり、若い将校たちを仲間に入れます。そして革命を起したときに、秩父宮は弘前に逃げます。そして安藤に言います「弘前で軍人たちを募ってやって来るから」と。それで安藤と仲間たちの将校は、秩父宮の言葉を信じて革命を起します。しかしその革命はみなさんがご存知のように失敗します。なぜ失敗したか?彼は途中で天皇の味方につくわけです。私はそう思ってます。それで失敗します。その結果どうなったのか?


結局2・26事件を起した連中は−それとその指導者たちは皇統派と呼ばれています。で、もう一つ統制派というのがあります。統制派というのあは陸軍16期生というのがありまして、陸士ですね、その中で1921年だと思いますが、10月にドイツのバーデンバーデンというところにある4人の男たちが集まります。そういう連中がドイツに集まった所に、東久邇が裏で緒を引いて、結局そこから統制派というのが生まれてくるんです。リーダーは暗殺された永田鉄山という男ですが、永田鉄山は途中で暗殺される。これが一番優秀な男だったわけでありますが、その連中が東久邇と秩父宮にそそのかされて、結局、日本をおかしな方向に持っていくわけです。で、日本はアメリカとソ連を敵対国とするんですが、統制派というのはアメリカを打倒しなければダメだという。まあこれは大体のストーリイですけど。で、皇統派というのはアメリカと戦っちゃいけないと、あくまで日本は敵を想定するならソヴィエトだということなんです。


これは大まかなストーリイですけど、そうした中で、みなさんご存知のようにゾルゲという男がいます。ソ連のスパイをやった男です。そのゾルゲを尾崎秀実(ほつみ)というのと、さっいいました西園寺八郎の息子の公一(きんかず)というのが、ゾルゲに秘密情報を流したというわけです。どんな本を読んでもそういうストーリイです。しかしこれは西園寺公一と昭和天皇が兄弟であったと私は申しました。西園寺八郎が妻に産ませたのが公一です。でその公一と昭和天皇は兄弟です。昭和天皇は木戸幸一を通すんですけど、自分の弟の公一に、ソ連のスターリンに向けて発したい情報を伝えるわけです。それを尾崎秀実という朝日新聞の記者が一緒になって、ゾルゲを却って誘惑するわけです。ゾルゲにおべらかしやインテリ女を与えて、ゾルゲを懐柔します。ゾルゲは女遊びをしてオートバイを乗り回してフザケた男ですけど、で、公安はぜんぶゾルゲをチェックしますけど、天皇一族はゾルゲを野放しにします。


ゾルゲは日本の一番重要な情報をぜんぶ手に入れて、スターリンに渡します。スターリンはそれを信じるわけです。だからスターリンは、日本がソヴィエトを攻めてこないということを知るわけです。天皇を初め統制派の連中ですね、永田鉄山が殺されましたから東条英機が首相になって、アメリカを攻めるストーリイは最初から作られたということなんです。戦争というものは必ずどこかで企みがあるものなんです。昭和天皇が、1938年12月ですから大戦が一年前、これは木戸幸一の日記に出てきます。木戸幸一にこういうことを言っています「もう世界大戦は始まる。そして最後に勝つのはソ連とアメリカで、他の国は全部潰される。日本も同じように潰される。だけど日本人は臥薪嘗胆して質実剛健を維持すれば、10年後には復活する」と。


これは見事に予言的中しているわけですよ。その一年後に第二次世界大戦が始まります。真珠湾攻撃をちょうど一年後にやります。10年後というのはちょうど講和条約の時です。だから考えようによっては、昭和天皇だけが日本のストーリイを全部知っていたんじゃないか、ということになりませんか? 僕はそう思います。で、戦争が始まる一年前に近衛が天皇に面会を申し込みます。天皇は拒否します。それで近衛が木戸に会います。これもまた木戸日記にちゃんと書いてます。近衛はどういうことを言ったかと。


「お前は天皇に言え。いいか。海軍は二年しか石油がない、戦争をすれば一年半持てばいいけど、まあ一年で終わる。陸軍は石油を一年分しか持ってない。この状態で戦争が出来るわけはない」と嘆いて木戸の許を去ります。木戸日記に書いてあります「俺もそう思う。戦争すれば負けるワイ」。これは木戸日記にはっきり書いてあります。


ところが実際は戦争は4年も5年も続いたじゃないですか。石油のない時代は、最後の一年間くらいは石油が尽きたけど、石油はあったんですよある程度。みなさんもご存知のように、ガダルカナルや何とかでいっぱい負けますけど、やっぱりあれは石油があったんですよ。なぜ石油があったか考えてみたことありますか。これはですね、戦争の時にアメリカが「日本には石油は売らない」。ところが「パナマ国籍の船ならば油を積んでいって日本に売っても、これは自分たちは攻撃できない」という理屈で、日本に石油を間接的に売るわけです。本当なんです。三菱が作った『昭和通商』という会社がそれを引き受ける。『昭和通商』と三菱は同じです。それではマズイというので『日本水産』(注 白洲次郎は取締役)という会社が代行するわけです。魚を運ぶということではなくて、魚の代わりに石油をパナマ国籍からもらって持って帰るので、戦争は長びくわけです。

◎鬼塚英昭『日本のいちばん醜い日』より該当箇所抜粋。

『多くの資料がソヴィエト連邦解体とともにクレムリンから出てきた。その資料から、野坂参三の過去がかなり暴かれた。世に言ういう二重スパイ説である。しかし、野坂参三が天皇のためのスパイであった、とする文書は闇に消えている。野坂参三が天皇のスパイ、アメリカのスパイ、クレムリンのスパイのみならず、国際金融同盟、すなわち、闇の支配勢力のスパイであったことは間違いのない事実である。』

『野坂参三は天皇のスパイから出発し、ついにクレムリン、アメリカ、そして国際金融同盟のスパイに仕上げられ、次に中国共産党の内部深くに侵入していくのである。その国際金融同盟がつくった太平洋問題調査会の第六回国際会議がアメリカのヨセミテで、1936年8月14日から29日の間に開かれている。この会議にゾルゲ機関の一味の尾崎秀実が日本側委員として出席している。』

『私は太平洋問題調査会の第六回国際会議に出席した尾崎秀実とのコネクションを野坂参三が手配していたと考える。太平洋問題調査会はロックフェラー一味、ロスチャイルド財閥、そしてソヴィエトの謀略機関であった。南進策がこの会議では討論されていない。しかし、「北進策を日本がとるべきではない」ことが討議されたのである。尾崎は帰国後、満州の軍事会社にいた日本共産党員に資料を作らせる。この背後にも間違いなく野坂参三がいたと思われる。この年の六月頃から年末にかけて野坂参三の行方は不明となる。私は尾崎と行動を共にシ、日本に帰国後、秘密裡に満州に入り、モスクワに帰った、とみる。』

◎私見では尾崎秀実を破滅に引き込んだのは吉田茂&白洲次郎である。
次郎のコネクションである牛場友彦と松本次郎が仲介役である。

『白洲次郎の幼馴染の牛場友彦(東大卒業後、オックスフォード大学入学、その後太平洋問題調査会IPRに入っていた)が近衛文麿に従い、二ヶ月のアメリカ旅行を行った。その旅には樺山愛輔(注 白洲の岳父)の国際通信社の取締役であった岩永祐吉も同行した。岩永の推挙もあったようだが、この旅で昭和12年に近衛の組閣に際して、牛場は近衛の秘書官となるのである。

牛場の証言によると、白洲次郎とは昔から”ジロー””トモ”と呼び合う仲であったが、昭和12年以降(注 白洲が日本水産の取締役になった年)その親密さは増し、白洲の近衛の政策ブレーン−後藤隆之助、西園寺公一、あるいは尾崎秀実など−との交渉も頻繁になっていった。』(青柳恵介『風の男 白洲次郎』新潮社より)

この牛場と松本重治次郎が白洲次郎の汚れ仕事の仲間である。
尾崎秀実を朝飯会に入れた牛場友彦・松本重治・白洲次郎は、
近衛文麿を排除すべく秘密工作もしている。
占領期になると三人は近衛を追い詰める工作をあれこれやる。
近衛の自殺は自殺という形の暗殺である。
前夜二人は白洲次郎に渡された青酸カリを持って近衛を訪問、
二時間余りも脅し強要して自殺させたのである。

『私は(通説とは)逆に、西園寺公一と原田熊雄たちが、天皇と木戸、近衛に踊らされていた、とみるのである。ゾルゲ・ルートで一方的に数万点の機密資料を垂れ流した天皇、木戸、近衛は、一方でソ連に日米和平の仲介を依頼すべく闇のルート(たぶん野坂参三のルート)で知らせ、その情報を讀賣新聞に流したのだろう。南進策こそはアメリカとイギリスとの戦争そのものを意味した。』

『私たち平成の世に住む人々は、あの時代の貧乏を理解できない。農村は働き手を兵隊にとられ、娘たちの多くは売春婦になっていった過去を知ろうとしない。天皇とその一族が優雅な生活を続ける一方で、日本人のほとんどは、どん底の生活に落とされていた。どん底に生きる人々を恐れている神の一族は、たえず何かを仕掛けなければ生きていけない。そこに暴力性が要求される。』

『2・26事件を私は、天皇と秩父宮が密かに練った偽装クーデターとの説をとる。秩父宮は密かに仙台から遠回りの鉄道を使い東京に出て来て、高松宮と会談し、その後で二人で天皇と会っている。この事件をいかに収拾するかについて話している。8月15日のあの事件と2・26事件は共通する。前者は三笠宮が策を練り、後者は秩父宮が策を練ったのである。天皇教はたえず暴力装置を作っては、それを策動して生きながらえてきた。どん底の人々は、大きく二つに分かれた。天皇教の側に立って共にその暴力装置に加担する一派と、その逆の立場の人々である。


統制派は天皇側について南進論を推し進めた人々である。皇統派はその暴力装置に対抗すべく日蓮宗に救いを求めた。軍人のほとんどが、軍人たちの一部(天皇教の暴力装置に組み込まれた軍人たち)を除き、アメリカと戦争する拙劣きわまりない行為を知っていた。それでも天皇とその一族は戦争を仕掛けるのである。その謎を徹底的に追究しようとして私は書いてきた。』


『ねずまさしは「天皇昭和紀(上)大日本帝国の崩壊」の中で「2月26日午前4時、第一師団の歩兵および第三連隊の営門から、部隊は堂々と市内へ出発した・・・・かくて彼らは、目ざす重臣五人を殺した、と信じて陸軍省などに引き揚げた・・・牧野は早くも旅館からのがれていたため、護衛の警察官が射殺され、旅館は焼かれた。西園寺ももちろん、ねらわれたが・・・襲撃直前になって突然中止した。」と書かれていることに注目したい。

牧野は数多くのテロの標的となってきた。しかしそのつど、直前にいつも逃亡に成功した。これは何を意味するのか。彼が背後でこれらのテロを操っていた黒幕であることを意味する。岡田啓介首相も難を逃れた。事前に彼の娘婿の迫水久常(終戦時の鈴木内閣書記官長)が岡田首相を連れ出すのである。迫水久恒は、皇統派と見られていた。実際は岡田のスパイだった。』


『このクーデターの首謀が秩父宮であることを書いた。このクーデターを、天皇、高松宮、三笠宮、牧野伸顕、岡田首相らが事前に知っていたのである。天皇は彼ら将校を「暴徒」と決めつける。天皇が最初から「暴徒」と断定しえたのは、密かに秩父宮と共同歩調を取ったからだと私は書いた。しかし、政府要人が数名殺されたり、傷を負ったから、2・26事件は本物のクーデターとして位置づけられ、誰も疑わない。ねずまさしも、である。』


『このクーデターと酷似するのが、あの8・15の「日本のいちばん醜い日」である。将校と兵隊のかわりに、将校と近衛兵を使った。リアリテイを見せるために、一人とはいえ、森近衛師団長を惨殺した。石原莞爾がいみじくも指摘した放送局を占拠するというマネまでもしたのである。この二つの偽装クーデターは、秩父宮と三笠宮の暗躍がなければ決して実行されなかったのである。真の首謀者の二人は未だに闇の中に消えているのである。』


『この事件の結果、どのように変化したのかを書いておきたい。北進策をとる皇統派の将軍・将校たちが主流からはずれ、東条一派−あのバーデンバーデンで密約した一派、東久邇宮と結ばれた一派−の統制派が軍の要職を占めるのである。統制派は南進策を主張する人々である。秩父宮は、自らが天皇になろうとしてクーデターを起させた可能性大である。笠原和夫もその説をとる。しかし、私は天皇と秩父宮が密かに結びつき、2・26事件を若手将校に起させ、南進論一本にすべく行動したのではないかと思っている。』


『この1936年が日本のターニング・ポイントになるのである。1936年、ゾルゲと西園寺公一と原田熊雄、尾崎秀実の暗躍。もう一つは日本共産党の野坂参三の動き。これらと2・26事件が糸のようにもつれあって連動したことは間違いないのである。2・26事件以降、天皇により軍紀がひきしめられる。天皇はその役を東条英機に命じ、陸軍大臣から首相に任命する。東条英機は佐藤賢了中将を軍務局の要職につけ南進策を推進させる。太平洋戦争への道である。』


『天皇は皇統派を一掃し、統制派を参謀本部に配し、ついに自らの住む御文庫の中に彼らを入れて太平洋戦争に突入するべく机上演習を始める。誰ひとり天皇に逆らえる者ない、であった。この机上演習の中から、真珠湾攻撃とシンガポール攻撃が登場してくる。そのために一番役立ったのがヴェルサイユ会議で日本に与えられた、委任統治権であった。天皇は太平洋戦争の前から、闇の権力者たちが創作した、世界のグランド・デザインをどうやら知っていたらしい。近々日本が「非常に苦心せざるべからざる環境に置かれる」とは、戦争以外のなにものでもない。大戦後に、まさしくアメリカとソ連が世界を二分する大帝国となることも知っていたらしい。それにもまして「十年を覚悟し」さえすれば、「有終の美を挙ぐる」とは、敗戦後五年で、1950年に講和条約ができ、日本は再び独立国となる、ということであろう。そのために、一年後に戦争に入るべく努力をしているのだ、と天皇は語っているように思える。』


『その裏に見え隠れするのは、「木戸よ、このようにして日本を導かなければ、天皇一族の運命が風前の灯となるのだよ。お前も協力してくれ」との天皇の哀訴である。大室寅之祐の代から天皇ニス変えた木戸孝允の孫の木戸幸一は、「天皇と一蓮托生の命である」と答えたのではないのか。天皇はあるルートから、一枚の極秘文書を渡されたと私は考える。その文書に木戸に語っていた内容が書かれていた。「有終の美を挙ぐるは困難ならず」とは、「敗北しても、天皇の命は保証され、国体は護持する」との確証を得たとのことではないのか。日本の国民の民草に天皇が思いを馳せる素振りをするのは、「終戦の詔書」の中だけである。それも見せかけ以外のなにものでもない。』


『天皇が脅されてなんかいなかったと思っている人が多いであろう。私はルーズヴェルト大統領も、チャーチル首相も、スターリンも、闇の支配者たる国際金融資本家たちのグループに脅され続けていた、と書く。天皇においておや、である。まことに日本は国際決済銀行(BIS)により、利益追求システムの中に組み込まれ、ついに必然的に戦争状態の中に入っていく。戦争は巨大なマネー・ゲームである。ヒトラーもスターリンも、それを知り尽くしていた。ルーズヴェルトとチャーチルはマネー・ゲームをさせられていたのである。天皇が仕掛けた南進策は、巨大なマネー・ゲームの創造であった。この面を考察しないから、私たちの日本史は欺瞞だらけのエセ日本史となっている。』


『天皇と祖の一族は、三井、三菱、住友らの財閥と組んでマネー・ゲームをしていたのである。それゆえ、国際決済銀行に日本銀行と横浜正金銀行が参加したわけである。ひと度、この銀行組織に加入してから天皇とその一族は、国際金融のグループ、主としてロスチャイルド財閥の手の内に落ちていったのである。ドイツのアフリカでの敗北を見こして、日本の役員たちも、スイスという黒い貴族たちの巣窟でマネー・ゲームに興じ、天皇のために金を稼ぐのである。戦争がいちんばん金のもうかるゲームであることを天皇ヒロヒトほど知り尽くした人物は日本にはいなかったし、これからも登場しないであろう。』


『第二次世界大戦はどのように仕掛けられたか。その第一はヴェルサイユ講和条約にあった。日本は統治諸島を手に入れた。ドイツの賠償金を受け取るとの名目で、国際決済銀行ができ、ドイツに秘密裡に多額のドルを貸し与えた。そしてナチス・ドイツを育てた。共産主義の恐怖を煽る一方で彼らは太平洋問題調査会をつくり、中国を共産主義にすべく動いた。日本の天皇の野坂参三を使い、共産党国家中国の援助をした。これらはすべて、マネー・ゲームの面を持っている。これらの動きに国際決済銀行がからんでいるからである。彼ら、この国際決済銀行を実質ッ的に支配する国際金融同盟は、次々と日本に甘い汁を与え続けた。青島の中国銀行の倉庫に大量のヘロインがあった。これから軍人たちはヘロインやアヘンの売買をやって大金を稼ぐ。すべては彼らユダヤの国際金融資本家たちが考えた、日本を戦争に導くための甘い汁だった。満州国建設の金は麻薬によったと認めるべき時がきているのだ。』


『1945年10月にGHQが発表した皇室財産は37億2千万円。日銀物価価格で計算すると311倍となり、7912億円。東条の10億とか15億がいかに天文学的数字であるかが分る。今の貨幣価値で数千億円の金を、東条はアヘン取引で稼いでいたことになる。これが戦争なのである。国民の大半が飢餓線上にあり、住む家も焼かれていたとき、天皇から首相に任命された男は天文学的な利益を上げていたのである。三井と三菱はペルシャから年ごとに船を出し、アヘンを仕入れ、朝鮮に送った。それをアヘンかヘロインにして中国人に売りつけた。その金の大半は天皇と三井、三菱の懐に入った。その一部で国際決済銀行を通じてアメリカから必要な軍需物資を仕入れた。戦争を長引かせるよう、国際決済銀行を実質的に支配する国際金融同盟が天皇を指導したのだ。天皇とその忠実な部下である東条英機首相は、戦争を長引かせることで天文学的は利益を上げた。麻薬を売りつけ、その上がりで軍人たちはメシを食っていたのに、何が大東亜構想なのだ。』


『木戸は警察関係の連中と三日に一回ほどの頻度で会っている。これらはすべて天皇に上奏され、また天皇から伝送される。平和運動を抑圧し、終戦工作を妨害しつづけたのは、天皇ヒロヒトその人であったことを理解しないと、戦争の本当の意味が分らない。日本人だけが、昭和天皇を「無私の人』だち思っている。真実はまったく違う人間であったことは、ほぼ間違いのない事実である。戦争がマネー・ゲームであることが理解できたであろうか。田布施のこのグループにやがて、吉田茂が一族として加わってくる。上海にいたサッスーン、ジャーデイン・マセソンというロスチャイルド財閥から援助され財をなした吉田健三は、ある長崎の女郎が生んだ子どもを養子にする。吉田茂その人である。その子が長じて東大法科に裏口入学し、牧野伸顕の娘と結婚する。満州利権を守るため、田布施村の一族と血の契りを結ぶ。のちにヨハンセン・グループを作り、天皇の承認のもとに、アメリカ大使のジョセフ・グルーに極秘情報を流し続ける。こうして、、マネー・ゲームは続くのである。』


再び鬼塚氏のDVDの続き。


そしてある時になって、「石油はやらない」という時になって、天皇は気がつくわけです「ああ。ついに終わりが来たか」と。ね。これが真相なんですよ。近衛とか木戸はその辺を知らなかったんです。天皇と一部の大本営、『御文庫』といって、天皇の宮殿内の地下深くに『御文庫』をつくり、そこに大本営を置いて、毎日毎日「今度はここ行け」「ここ行け」指図した。それを指図が出来ると、東条に渡すわけです。東条は御文庫の中に入れない。そういうシステムで戦争が進んでいる訳です。最後に天皇も「もう尽きるところまで来たな」って、天皇も終戦工作に入る。終戦工作に入るのはロシアを通して入ろうと、ロシアを通して終戦工作に入りますけど、上手く行きません。


終戦工作は白洲次郎という男が全部絡んできますけれど、これが終戦工作をやります。ヨハンセン・グループというのがやります。ヨハンセン・グループというのは、吉田反戦グループといいます。それでヨハンセンとなります。アメリカ人の暗号名です。「ヨハンセンから連絡があったか?」。ヨハンセンというのは吉田と樺山愛輔という貴族と、その中に連絡係りの白洲次郎がいます。彼らがグルーからも貰うし、別のルートからもデータを貰い、まだ御前会議で戦争を遣る最後の会議の時にも、御前会議が始まると次の日にはもう、グルーを通してアメリカの上層部に日本の最高機密が流れていくわけですよ。これが日本の現実なんです。ね。


で、白洲次郎が『カントリー・ジェントルマン』とかいって、戦争のときは鶴川の山の奥で農業をやっていたというのは全部デタラメです。これは『日本水産』の社長であった有馬というやつがいますが、これも貴族ですが、『日本水産』のトップですが、この男の日記にダーッと出ている。「また白洲が来た。とんでもないニュースを持って来た。アメリカがどうのこうの。何で彼はこんなことを知ってるんだろう」ずーっと出てきます。そういう事なんです。で、結局ですね、最初から日本は戦争をするように仕組まれていたと考えると、すべて矛盾がなく納得できるんです。だからゾルゲを使って、天皇は弟の公一に機密情報を流してソヴィエトに渡せと、で、ソヴィエトを安心させて南進策を取るわけです。で南進政策を取ッとる時に、木戸が日記に書いてますよ。「おい、火事場泥棒をしたな」「へい」と木戸が言うわけですよ。「火事場泥棒も時によってはしょうがねえなあ」と天皇が木戸に言ってんです。火事場泥棒なんです。ね。


あのおとなしいような天皇は非常に頭が良くてですね、昭和天皇はズル賢くてすべて計算してたわけです。だから日本をアメリカとの戦争に持っていくよう仕組まれたら、それに応えるよう敢えて真珠湾攻撃の大事なところで手を抜くわけなんです。だからあれは山本五十六に命じますけど、山本五十六は言ってんじゃないですか。「一年くらいは持つ。勝った勝ったと言うだろう。だけど後はもう知らん」。そしたら天皇はそれでもいいからやれというわけですよ。やらないと自分の身が危ない。スキャンダルをみなバラされて、全部失う。スイスに貯めた金も失うと。


もう一つ、石油を買うお金は何処から来たかということですが、日本は南方に攻め込みます。中国はもちろん、ビルマからタイからダーッツと行きます。あすこにある金銀財宝をカッさらいます。そして日本に持ち帰ります。それを金を溶かして丸福といいます。丸に福が書いた名前の金貨をつくり、それを持ってフィリピンとかに行って、農家の人に渡して食料を得る。アメリカ軍は自分の国から大きな船で食料を運ぶんですけど、日本はそんな余裕はないわけで、現地調達をやります。フィリピンで現地調達をするのに軍票というのが、こんなの受け入れません、フィリピンの百姓たちは。それで金貨をやります。「そんならしょうがない」って言って、米をもらったり野菜をもらったりして、何万人の兵隊たちがフィリピンの農民から肉や魚を買います。これが戦争なんです。


で、もう一つ、その金貨を黄金をインゴットにしてスイスに送ります。スイスでスイスフランかドルに換えます。そのスイスフランかドルを・・・国際決済銀行というのが出来るわけです。第一次世界大戦の後に出来ます。その決済銀行を通して、日本はアメリカにパナマ国籍で金を払い石油を貰うと。で、アメリカとその石油で戦争をします。太平洋でいっぱい戦争をしました。あれはアメリカの石油をもらって、アメリカの石油を使った軍隊と戦争ごっこをやったということですよ。ドイツも同じです。戦争するのにドイツは分るように石油は出ません。石炭は出ます。で、ドイツのヒトラーが言います。「戦争をしろというけど石油が無い」って。ロイヤル・ダッチッシェルというところのデイターデイングというユダヤ人がヒトラーに言います。「石油は渡す。やれ」って。「誰が持ってくる?」「オナシスというやつのタンカーが来る」「戦争してたら沈没したらどうするんだ?」「オナシスの船は絶対沈没しないから心配するな」。で、戦争中ずっともらいます。


じゃあヒトラーはどうしてスターリンの所に攻め込んだんだ?というと、途中で言われます。「もうやらない」って。じゃあヒトラーはどうしたらいい?スターリンのところへ行って石油を取ばいい。それでヒトラーはロシアを攻め込んで、石油基地を奪おうとして行く過程で滅ぼされます。日本も同じです。イタリヤはどうか?ムソリーニはヒトラーに言われます「一緒に戦おうよ」。ムソリーニは言います「オレは石油がない」。ヒトラー「俺はシェルからもらえるけどお前はシェルからもらえないのか?」ムソリーニ「シェルはオレにくれるといわない」。それでもヒトラーとムソリーニは協定を結んでたから、ヒトラーが戦争を始めた以上、ムソリーニもやらざるを得ません。すぐムソリーニのイタリヤは潰されます。これは石油がないからすぐ潰されます。


戦争というものの実態は「物事はすべて必然性がある」んです。大きな出来事は偶然性で発生するものは何もありません。第一次世界大戦も今いった第二次世界大戦も、ぜんぶ八百長なんです。八百長システムが見事に働けば戦争は長引くんです。戦争は長引くんです。だからノルマンデイー上陸作戦というのがあります。あれは第二次世界大戦が始まって、すぐルーズヴェルトが「勝利の計画」というのを立てます。ウエデマイヤーという優秀な男がいまして、これが計画を立てます。ウエデマイヤーは戦争が始まって一年後に、ルーズヴェルトやステイムソンやらマーシャルやらみんなを説得します。「戦争はこれで終わりです。ヒトラーを、ナチスらを、やっつけましょう」。ね、一年後ですよ。


それがなぜ延びたか?上層部の連中が「No」と言います。誰が「No」と言ったか。スターリンもチャーチルに「これで戦争は終わりやなあ」と。モロトフもチャーチルに会って確約をもらい、ルーズヴェルトに会って「戦争は終わり。終わらせないとみんな可哀そうやな」。でも最後にチャーチルがみんなに言います「戦争は継続しないといけない」。でルーズヴェルトは魂消ます「なぜだ?」って。


チャーチル「戦争は継続しないといけない。継続しないと金儲けに繋がらない。それでアフリカ作戦に切り換えよう」って。アメリカ人は分りません。そこでアイザンハワーという男が登場します。これがウダツの上がらん男です。フィリピンでマッカーサーの下でずーっと中佐であった男です。この男が呼び出されるわけです。で、ヨーロッパに派遣されて、一気に中佐、大佐、少将、中将、大将、元帥と一年足らずの間に元帥になって総指揮官になります。完全なユダヤ人です。ルーズヴェルトがヨーロッパに行った時に、アイゼンハワーに会います。アイゼンハワーの顔を初めて見たといいます。大元帥の顔をね。で、アイゼンハワーはイギリスの連中に応じます。イギリスの貴族たちが(戦争終了に)反対するわけです。


僕はこれを『20世紀のファウスト』に書いたんですけど、何と悲しいことよと。人間の命なんかどうでも良い連中が、ゴロゴロいるわけですよ。ルーズヴェルトでさえ嘆いているんですよ「戦争が終わるのになぜ終わらせないのか?」。そうこうしているうちに、まあ後で話しますけど原子爆弾ですね、原子爆弾が完成しなかったんですよ。予定通り。これが完成間際になってヒトラーも手を挙げます。で終わります。で日本は「まあ〜だだよ」とステイムソンが言うわけです。「まだガマンしとけ」。そして原爆が完成して、同時にスケジュールが出来た。と同時に何が起きたかというと、天皇は広島に第二総軍を作って、畑という男を入れます。ね。怖い話じゃないですか。


それで戦争を始めるように仕組まれてるわけですよ。僕がいちばん日本人の作家たちが書いた本を読んで情けないと思ったのは、御前会議ですけど、次の日にはもうアメリカは内容を全部知ってます、これは吉田茂が樺山愛輔に流し、樺山愛輔がグルーのところに持って行って、グルーが電報で打って全部次の日には・・・グルーも『回想十年』で書いてます。「ヨハンセン・グループにもらって全部やった」て。まあ後に翻訳されますけどね。まあ僕は昭和史を読んでて「悲しいなあ」て思ったのは、昭和天皇が御前会議の席上、戦争をやれというとき「分った」と。で、杉山元(はじめ)という参謀長に言います「勝てるか?」。「勝てるかどうかはやって見ないと分りません」。すると天皇はみんながシーンとしている時に「四方(よも)の海みな同胞(はらから)と思う世になど波風の立ち騒ぐらん」と読んだ。で、それが戦後になって昭和天皇が戦争に反対した証しだとか、昭和天皇は戦争に責任がないという一番の証拠にされるわけです。この歌を以って反戦の歴史学者もみな賛成するわけです。


井上清やら『人間の条件』を書いた五味川純平もその歌を以って、天皇はやっぱり反戦主義者であったことは認めるということになるわけです。五味川純平の書いた『御前会議』という本があります。『人間の条件』を書いた男が『御前会議』というのを書いてね、その時僕は思いました(彼らは何とダマされやすい歴史学者なんだ・・・)と。これはちょっと歴史の勉強すれば分るんですけど、この歌は戦意高揚のためにずうっと歌われてきたんです。日露戦争の時に天皇が詠んだとされて、ずうっと戦争高揚の歌でやってたのが、突然、戦後になって一部の天皇の周辺の者が「あれは天皇が反戦の意を伝えた」と言ったら、みんな(以下)同文なんです。何て情けないんだ。なぜ歴史を勉強しないのか。


この歌は井沢匡(ただし)というドラマの脚本化が書いたり小説書いたりするのがおりまして、この人は『維新・明治天皇伝』というのを書いています。この中でこの歌は、西南戦争の時に天皇が西郷隆盛を偲んで詠んだ歌だとされてんですよ。飛鳥井雅道(あすかいまさみち)という歴史学者も、井沢説と同じなんですよ。まあ一部は違いますけど。『日露戦争』というのがあるんですけど、これは西南戦争の時に「やっとこの世の中で幸せが来ると思ったのに、自分を助けてくれた西郷は死んでしまった。何と悲しいことだ」という歌なんですよ。「四方の海みな同胞」というのは、「四方の海」は四つの海で四海、「同胞(はらから)」というのは「同胞(どうほう)」なんですよ。「四海同胞(しかいどうほう)」ということなんで、「四海同胞」とは僕たちは簡単に言いますけど、これはずい分前から「同胞(どうほう)」というのは結局、部落民を指す言葉なんです。あんまり良い言葉じゃないんです。天皇のような貴きお方が喋る、歌にするような文句じゃないんです。


足利尊氏が室町幕府を作りますが、その時に負けた楠とか新田の一族が「散所(さんしょ)」「別所(べっしょ)」というんですが、閉じ込められるんですよ。一定の場所に。もう反乱を起さないように。で、それで彼らは部落民になるわけですよ。楠一族とか新田一族は部落民になるわけです。その時に四海同胞衆というのが、彼らの世界から生まれてくるわけですよ。閉じ込められた人間が解放されたと言って、で、そこから坊主になって解放される道があると言って、坊主が沢山生まれてきます。そういう意味なんです。だから明治天皇がこういう風に「俺たちは部落民としてガマンしてきた。四海同胞市民として生まれてきたけど、やっと迎えられたのに西郷は死んでしまった」という歌なんですよ。それを「日露戦争の時に明治天皇が作った」という歌にして、それはそれでいい。戦意高揚の歌だんですよ。八紘一宇の代表的な歌として、ずーっと歌われてきた。で、戦争前まではそれで筋が通ってきた。色んな人がこの歌を、子どもたちの教科書に載っている歌でさえ(戦意高揚の歌として歌ってきた)。


戦争が終わって一部の軍人たちが「反戦の歌を詠んだ」となると(今度は)ずーっとそうなるわけです。何と情けない話じゃないですか。今でも、そのさっき言いました秦とか、そういう連中はみな、この歌を以って「昭和天皇は反戦の意を唱えたけれど、軍人たちは天皇の意に反して戦争をしたんだ、軍人たちがけしからん」ということで、第二次世界大戦の総括をやっているわけですよ。で、その意に逆らう歴史家は未だにいません。私は一人だけ逆らってますけど。どうかみなさんも真実を知って、簡単に人の言うことを、権威者の言うことを信じないでください。これは大事なことなんですよ。

以上転載。

19. 中川隆[-15101] koaQ7Jey 2019年12月19日 12:48:27 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[-2143] 報告
2019.12.19 アングロ・サクソンの長期戦略


イギリスやアメリカにはユーラシア大陸の内側を沿岸部を支配することで締め上げるという長期戦略がある。

 地政学の父と言われている地理学者のハルフォード・マッキンダーが1904年に公表した彼の戦略によると、西ヨーロッパ、パレスチナ、サウジアラビア、インド、東南アジア諸国、朝鮮半島をつなぐ内部三日月帯、そしてアメリカやオーストラリアを含む外部三日月地帯を想定している。朝鮮半島の外側にある日本も外部三日月地帯の一部とされている。

 その日本では徳川体制が薩摩と長州を中心とする勢力に倒され、明治体制が始まった。1872年に琉球を併合、74年に台湾へ派兵するが、この派兵を進めたひとりが厦門のアメリカ領事だったチャールズ・リ・ジェンダー。この人物は1875年まで日本の外務省で顧問を務めた。日本を離れたのは1890年。その年から1899年まで李氏朝鮮の王、高宗の顧問を務めたという。当時、朝鮮では興宣大院君(高宗の父)と閔妃が対立していた。

 明治政府は1875年に朝鮮半島で軍事的な挑発に出る。李氏朝鮮の首都を守る要衝、江華島へ軍艦を派遣したのだ。結局、「日朝修好条規」を結ばせて清国の宗主権を否定させ、無関税特権を認めさせたうえで釜山、仁川、元山を開港させることに成功した。

 1894年に朝鮮半島で甲午農民戦争が起こり、閔氏の体制が揺らぐ。それを見た日本政府は「邦人保護」を名目にして軍隊を派遣、その一方で朝鮮政府の依頼で清も出兵して日清戦争につながった。

 この戦争に勝利した日本は1895年4月、「下関条約」に調印して大陸侵略の第一歩を記すことになる。この年に三浦梧楼公使を含む日本の官憲と「大陸浪人」が閔妃を含む女性3名を惨殺している。日本の裁判で三浦公使たちは「証拠不十分」で無罪になり、三浦は枢密院顧問や宮中顧問官という要職につく。

 その一方、中国では義和団を中心とする反帝国主義運動が広がり、これを口実にして帝政ロシアは1900年に中国東北部へ派兵、対抗するためにイギリスは1902年に日本と同盟協約を締結した。その日本は1904年2月に仁川沖と旅順港を奇襲攻撃して宣戦布告、日露戦争が始まるわけだ。

 この戦争で日本に戦費を用立てたのはクーン・ローブを経営していたジェイコブ・シッフ。その融資に絡んでシッフは日銀副総裁だった高橋是清と親しくなる。クーン・ローブはアブラハム・クーンとソロモン・ローブがニューヨークで設立、経営を任されたのがロスチャイルド家と近いジェイコブ・シッフだった。

 明治政府が始めた日本のアジア侵略はイギリスの世界戦略と密接に結びついていると考えるべきだろう。関東大震災後、日本の復興資金調達で重要や役割を果たしたJPモルガンはイギリスのロスチャイルドがアメリカでのビジネスのために設立された銀行。1933年から34年にかけてフランクリン・ルーズベルト政権を倒してファシズム体制を樹立するためにウォール街の住人はクーデターを計画したが、その中心はJPモルガンだった。

 ジョージ・ケナンやズビグネフ・ブレジンスキーの戦略も基本的にマッキンダーのそれと同じだ。

 NATOをこの戦略を実行するための主力にしようと目論んでいる人たちがいる。アメリカの世界支配システムが揺らいでいる現在、そのシステムを支える柱としてNATOを考えているのかもしれない。

 明治維新の前、イギリスは中国(清)に対して侵略戦争を仕掛けている。1840年から42年にかけてのアヘン戦争や56年から60年にかけての第2次アヘン戦争だ。イギリスは中国全土の制圧と略奪をこの時から目論んでいるが、戦力が足りない。そのイギリスの支援を受けた日本がアジア侵略を始めたわけだ。イギリスの戦略はアメリカに引き継がれた。NATOの動きはそうした歴史と重なる。
https://plaza.rakuten.co.jp/condor33/diary/201912180000/

20. 中川隆[-15094] koaQ7Jey 2019年12月19日 12:59:13 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[-2136] 報告
戦前の日本政府は欧米金融資本のエージェントだった


96:名無しさん@お腹いっぱい。:2006/10/09(月) 17:01:24 ID:CJqAHY/N0

李氏朝鮮は1895年清国冊封体制から離脱により、迎恩門での土下座の礼拝は終焉した。

その後、列強各国は利権を求め李氏朝鮮に殺到した。


1900年頃の李氏朝鮮が奪われた利権


ロシア (金鉱採掘権、石炭採掘権、森林伐採件、海関管理権、捕鯨権)

アメリカ(ソウルー仁川鉄道施設権、金鉱採掘権、電車、電燈、水道経営権)

イギリス(海関管理権、金鉱採掘権)

ドイツ (金鉱採掘権)

日本  (ソウルー釜山鉄道施設権、金鉱採掘権、漁業権) 


当時独立は風前の灯火、史実は日本による併合(植民地ではない)

列強に対して独立を保つ事は現実不可能と思える状況なんだが

いったい李氏朝鮮はどこに支配されたかったんだ。
http://2chnull.info/r/history2/1150845121/1-1001


李朝末期には森林伐採権・関税徴収権・漁業権・鉱山採掘権・鉄道敷設権などあらゆる利権を欧米に奪われてしまい, 財政が破綻し破産状態でした:


1896年
ロシアへ咸北・慶源・鐘城の金鉱採掘権
鐘城の石炭採掘権 豆満江・鴨緑江上流地域と鬱陵島の森林伐採権
アメリカには京仁鉄道敷設権
雲山金鉱(平北)採掘権
イギリスには財閥顧問の派遣と海関管理権
フランスには京義鉄道敷設権

1897年
ロシアへ財政顧問の派遣と海関管理権
軍隊の教育訓練権
ドイツに江原・金城、金鉱採掘権

1898年
アメリカにソウルの電車・電灯・水道経営権
日本へ京釜鉄道敷設権
イギリスに平南・殷山金鉱採掘権

1899年
ロシアへ東海岸における捕鯨権

1900年
ロシアへ慶南・馬山浦の栗九味租借忠北・稷山金鉱採掘権
日本に京畿道沿海の漁業権

1901年
フランスに平北・昌城金鉱採掘権
http://webcache.googleusercontent.com/search?q=cache:3EzcXDEIEAEJ:mobile2ch.net/news2/1114521477/%3Fguid%3DON+%E6%98%A5%E7%AA%AE&cd=27&hl=ja&ct=clnk&gl=jp

21. 中川隆[-15090] koaQ7Jey 2019年12月20日 14:53:00 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[-2131] 報告
ヤルタ密約 日本はソ連の参戦を知っていた!? 岡部伸 柏原竜一 秋吉聡子【チャンネルくらら】

22. 中川隆[-15085] koaQ7Jey 2019年12月20日 15:04:08 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[-2126] 報告
いわんかな#29-2【スクープ秘密文書!ヤルタ密約はソ連発案
岡部伸・堤堯・高山正之・日下公人・福島香織・塩見和子

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